EDEN

ネット中に気を失い、レンガ質の部屋に迷い込んでしまった男。
男はそこからの脱出を図る。
その中で明かされていく「世界」の真実。
真実か愛か、男が選んだ道とは。

EDEN

【第一章】

 僕は壁を触ってみた。
 レンガ質のその壁の表面はザラザラしていてたこと、抜け道のようなものは存在しないこと、この2点を確認し、作業を終えた僕の右手には、その情報の代償である茶褐色の粉が至極当たり前に付着していた。やれやれ。ここには洗面台もない。僕はため息を漏らしながらそれをジーンズに擦り付ける。柔らかい土の匂いがしたが、僕はただただ空しさだけを噛み締めていた。

僕ハ ココカラ 出ラレナイノカ?

 高さ2メートルくらいのレンガ質の壁、15畳くらいの広さのこの部屋の中央にはチーク材で出来た大きな机があり、光を発するものはその上に置かれた古臭い洋風のスタンドだけである。この湿っぽい雰囲気は地下室のそれに似ているが、そもそもここが地下なのか地上なのかも分からない。そう、僕には何も分からない。
 僕がここに迷い込んだのは今から少し前の事である。いつものように珈琲を片手にネットを彷徨っていた僕は、偶然にこのHP「Core」に辿り着いた。どこにでもあるような普通のポエムサイトだ。つまらない。仕事でだいぶ疲れてた僕はもう寝ようかとも思ったが、管理人の奇妙な発言が目立つbbsを見て、なんとなく気になたので戯れに日記を覗いてみることにした。僕の右手がマウスを動かす。ポインタを「diary」の文字の上に合わせ、矢印が手の形に変化したのを確認してクリック。特別な意識など必要ないごく普通の作業である。クリックすると日記のページが現れるはずだ。ただそれだけである。しかし今回は何かが違ってた。何かが、違ってたんだ。僕は気を失った。

 そして気が付くとこの部屋にいた。
 レンガ質の壁の薄暗い空間、中央の机に洋風のスタンド、ここが僕の部屋でないことは容易に理解できた。しかしなぜ僕がこんなとこにいるのかは理解できない。なにより「さっきまでの珈琲、全部飲んどけばよかったな」と今更どうでもいい事を考えている自分に少し驚いた。僕は中央に置かれた机に目を向けた。誰かが座っている。とりあえず声を掛けてみることにした。

「お忙しいところ申し訳ありません。どうも道に迷ったようで助けて欲しいのですが」

 なんだか変な文だが、この状況下で日本語を発っすることが出来ただけでも良しとしよう。
 僕の声を聞いたその男は、椅子をくるりと回転させた。スタンドの光が逆光となりはっきりとは見えないが、歳にして70くらいであろうか、髭を蓄えた顔つきはどことなく知性を感じさせる容貌だ。その男はこう言った。
「やっと来ましたね。待ってましたよ」
 ヤットキマシタネ。マッテマシタヨ。
 その言葉の意味が理解できなかった僕は、何度か自分の中で復唱してみた。
 ヤット来マシタネ。待ッテマシタヨ。
 やっと来ましたね。待ってましたよ。
 待ってた?この老人は僕を待ってたというのか?やはり意味が分からない。
「待ってたってどういうことですか?あなたは僕を知ってるんですか?」
「そんな事はどうだっていいんだ。君はここに来た。それだけでいい」
「訳がわかりません。僕の質問に答えてください。あなたは誰なんですか?」
「40年だよ」
「は?」
「私は40年もここにいたんだ」
 まったく噛み合わない会話に僕は少しイライラした。
「だからなんなんですか。僕が聞きたいのはあなたが何者なのかという事です」
「長かった…幸代はまだ生きてるだろうか」
「幸代って誰ですか?」
 僕の質問に答えず、老人はパタンと本を閉じた。六法全書くらいの分厚いその本の表紙にはこう書いてある。

ー diary ー

 老人は本を僕に手渡しながら言った。
「君の番だ」
 相変わらず意味が分からないけど、どうせ聞いても答えてくれないだろう。僕は何も言わずに本を受け取り、老人の顔を見た。泣いていた。表情こそ全く変わっていなかったが、涙だけがその瞳から零れ落ちていた。次から次に、溢れるように。
「あのう…」
 僕が老人に声を掛けようとすると、彼は黙って僕の肩をポンと一回叩いた。そしてレンガ質の壁の方へ歩き、そのまま壁を突き抜けて消えた。文字通り幽霊みたいに消えてしまった。驚いた僕は壁へ歩み寄り触ってみたが、何の変哲も無いただの壁だ。抜け道もないただの壁だ。手には茶褐色の粉が付着してしまった。僕は諦めて回りを見渡してみた。何も無い。薄暗い空間の中央に、ニスの剥がれた机。それだけだ。出口がないか試しに壁に沿って歩いてみた。出口は見つからなかったが、壁の隅に白いチョークで何か書いてあるのを発見した。
「6月25日(月)」
 今日の日付だ。白いチョークで書かれた今日の日付、そして老人が手渡した「diary」という分厚い本。

 日付、diary、机、スタンド、出口のない部屋、そして僕……。

 僕は大声で笑った。可笑しくてたまらない。ひょっとしてそういう事なのか?その為に僕はここに閉じ込められたと言うのか?面白い!面白すぎる!僕は大声で笑った。笑い声が反響して僕の耳に帰ってくる。それを聞いてまた笑った。そして泣いた。いつまでも泣いた。泣き疲れて眠った。

 仕事に遅刻する夢を見て目が覚めた。現実には薄暗い部屋の隅で泣きはらした僕がいた。夢と現実が逆じゃないか。部屋は昨日と変わった様子はないが、チョークで書かれた日付だけが次の日に変わっていた。
「6月26日(火)」
 僕は体に付いたホコリを叩き、机に向かった。スタンドは点きっ放しだ。しかしよく見るとコードが無い。どうやって光を発しているのかと思い、傘の中を覗いたが、なんと電球すら無い。やれやれだ。まぁ、コードも電球もないスタンドもあっていいじゃないか。うん、不思議に思うことは何も無い。諦め気味にそう言い聞かせ、机の上の「diary」に目を向けた。分厚い。あの老人はこれに日記を綴っていたのだろう、これが40年の厚さという事か。中を覗いてみた。何も書かれてなかった。僕は思い切りその本を壁に投げつけ、机を蹴飛ばした。涙はもう出ない。

 どれくらい時間が経っただろうか、机に刻まれたチークの年輪を数えるのにも飽きた僕は、仕方なく「diary」を拾いに行く。その壁にはチョークで書かれた日付。
「6月26日(火)」
 分かってるさ。100回くらい確認した。今日は26日という火曜日、もしくは火曜日に属する26日だ。分かってる。分かってる。僕が何をするべきかも、分かってる。
僕は「diary」を開き、ペンを取った。例によってペンまで骨董品だ。どうせならいつも使ってるシャープペンシルの方がいいんだがな。万年筆はどうも使いづらい。

 僕は日記を書く。日記を書くという事が僕の存在価値を証明してくれる唯一の行為だからだ。「今日の出来事」なんて、こんな空間に閉じ込められた僕には無関係な話だが、そこは自分の想像力を膨らませてペンを走らせる。全ては僕の妄想だ。現実世界での自分を夢見つつ、妄想を膨らませて日記を書く。調子がいい時はドンドン書ける。自分には才能があるんじゃないかとさえ思える。面白い日記が書けた時には自分で何度も読んで、その出来に満足する。みんなが笑ってくれればそれでいい。みんなが笑ってくれれば。しかし僕は笑えない。笑うことさえ忘れてしまった。

 今日の日付は「7月11日(水)」
 チョークの日付がなんとも憎たらしく思える。また妄想日記を書かなければ、と思っていたのだが、どうやらその必要は無いようだ。
 意外と早くこの時が来たな。あの老人は40年もいたって言うから覚悟してたんだが。まず何をやろうか。風呂に入って身体の垢を洗い落としたいな。それから冷たいビールで乾杯だ。まぁ一人で乾杯だが、この際それでも構わない。彼女も心配してるだろうから連絡取らないとな。あ、親が先かな。仕事も長いこと無断欠勤してたからクビかな、でもそんな事心配するに足りない。笑う事を忘れた僕は、これからそれを思い出せるだろうか。いや、きっと思い出せるさ。やりたいことが山ほどある。やろうと思えば何だってできる。なんて素晴らしいんだ。枯れたはずの涙も次から次に溢れてくる。あぁこれが幸せというものか。今僕は幸せを噛み締めてる。心から笑うんだ。笑う事が出来るんだ。しかしその前にやらなければならない事が一つある。これが僕の最後の仕事だ。さぁ、受け取ってくれ。

「やっと来ましたね。待ってましたよ」


【第二章】

 僕は確かに言った「やっと来ましたね。待ってましたよ」と。日記を書きながらずっと考えていたんだ。相手が現れた時どんな言葉を最初に投げかけるべきか、そればかりを考えてた。僕はあの老人と同じように落ち着いた口調で相手を迎え、本を手渡し壁に消える。何度もシミュレーションしてきた事だ。やっとそれを実行できる。できるはずだった。僕はもう一度目の前に立っている人物を見た。僕の彼女だった。

バカゲテル

 僕は深いため息をひとつ吐き、脳のゴミ箱に溜まった「処理不可能な可能性」をひとつひとつ消去する作業へ取り掛かった。混乱が生じた時、僕はいつもこうしている。脳内のゴミ箱を整理することで気分が少しばかり落ち着くのだ。考えるのはそれからでも遅くはない。むしろ気分を落ち着かせてから考える方が効率的だ。ゴミ箱は既に溢れていて整理には幾分時間が掛かりそうだが、僕は一つ一つを拾い上げ、必要がないのを確認してから闇の中へ投げ入れる。意識の闇の中へと、葬り去る。僕が3分の2ほど整理したところで彼女が口を開いた。

「ここ、どこ?」

 至極当然な疑問である。誰もがそう思うであろう絶対的疑問、もしくはアンチテーゼ無きリアクションとでも言おうか。これからどうするべきか。考えても答えなどありそうにないが、とりあえず僕の目の前に立っている人物は僕の彼女だ。これだけは間違いない。僕は彼女に言った。
「なぜ君がここに?」
「なぜって、ずっと探してたのよ。あなたのこと。ゴメンちょっと待って、なんだか頭が混乱してるわ。少し落ち着かないと。そう落ち着くのよ、私も、そしてあなたもね」
 この状況下でまず自分を落ち着かせようと考えるのは冷静な証拠だ。彼女は昔からそうだった。僕がどんなに混乱しても彼女だけは冷静さを失う事はなかった。全てを頭の中で、しかも同時に考ることができるのだろう。こういう人はパスタを茹ですぎて失敗する事もない。状況判断に長けているのだ。僕がアルデンテが食べたいと100回言うと、100回とも完璧なアルデンテがテーブルに出されるに違いない。そしてなにより、僕自身も混乱しているという事実が彼女に悟られていることに驚いた。やれやれ、大した洞察力だ。自分ではポーカーフェイスを気取っていたんだが、どうやら無理だったようだ。

「とりあえずここに座るといい。珈琲でもと言いたいところだけど、ここには何も無くてね」
 僕は椅子を彼女に譲った。
「あぁ、ありがと」
 彼女は椅子に深く座り、なにやらブツブツ言っている。何を言ってるのかは聞き取れなかった。僕は仕方なく彼女が落ち着くのを待つことにした。スタンドの光に照らされたその横顔はやはり魅力的で、こめかみに当てられた彼女の薬指には、僕が誕生日に贈った3連リングが光っていた。彼女と最後に逢ったのはいつの事だろうか、僕がここに迷い込む前、2ヶ月ほど前か。長い間逢っていないにも関わらず、不思議と懐かしさはなかった。今椅子に座って考え事をしている彼女がいて、それを黙って見つめる僕がいる。それが全てのように思えた。ここでは時間の流れさえも止まっているのだろうか。それとも僕自身に変化が生じてるのか。まぁどっちでもいい。僕は黙って彼女を見つめる。今は、それだけでいい気がした。

「ねぇ」
 不意に彼女が口を開いた。
「なんだい?」
「聞きたい事が3つほどあるわ」
「たった3つ?」
「本当はもっと聞きたいところだけど、きっとあなたの方が混乱するでしょ。だからなんとか3つに絞ったのよ」
「なるほど、確かにそうだ」
「で、一つ目の質問ね。さっきも聞いたけど、ここどこ?」
 僕は一つ一つ説明した。いつものようにネットを彷徨っていた事、偶然「Core」というHPを見つけた事、「diary」の文字をクリックすると気を失った事、レンガ質の薄暗い部屋に迷い込んだ事、老人の事、「diary」と書かれた本を手渡された事、彼が流した涙の事、そのまま壁の中へ消えてしまった事、白いチョークの日付は自動的に更新される事、ここでは日記を書く以外に何も出来ない事、僕自身もここがどこかは分らない事、そして、ここから出る事はできないだろうという事。
 彼女は僕の言葉一つ一つを確認するかのように、真剣に耳を傾けていた。時折考え込むような仕草を見せていたが、途中から割り切ったように、僕の目だけを見て話を聞いていた。
「大体分かったわ。いや、本当は分からないけど、なんとか理解はしたと思う」
「よかった。さて、次の質問は?」
「質問する前に全部アナタが喋っちゃったじゃない。二つ目の質問はなぜあなたがここにいるのか、三つ目はどうやったら帰れるのか、だったのよ」
「そうか、ところで君も同じようにここに迷い込んだのか?」
「そうね、手がかりを探しにあなたの部屋に入って、PCを立ち上げた。履歴からあなたが最後に訪れたであろうページに行って、同じようにdiaryをクリックしてここに迷い込んだ。手がかりどころかあなたに逢う事が出来たけど、これからが問題よね」
「やれやれだな」
「あ、携帯…」
「え?」
「そうよ私携帯持ってたわ。コレで外に連絡を取れば…」
ジーンズのポケットから携帯を取り出した彼女だが、すぐに言葉を詰まらせた。
「どうしたんだ?」
「圏外」
「やっぱりそうか。なぁ多分ここは僕らが考えてるような世界じゃないんだよ。外界とは掛け離れた世界、現実と呼べるものは何ひとつなく、でも僕らにとっては紛れもない現実。ここは、僕らが考えてるような世界じゃないんだ」
 僕の言葉を無視して彼女は携帯を操作していたが、繋がらないと分かると諦めて電源を切った。
「…そのようね。ねぇあなたがここに来た時にいた老人って何者なのかしら?」
「分からない。僕の質問に答えてくれなかったからね。情報量があまりにも少なすぎる」
「その老人はどの壁を突き抜けて消えたの?」
 僕は老人が消えた場所を指差した。薄暗いレンガ質の壁、そこには僕が調べた証拠である手形がついていた。彼女はその壁へと歩み寄る。
「あ、触らない方がいいよ。茶褐色の粉が手につくから」
「分かった」

 彼女はその壁の前に立ち、黙ってそれを見つめていた。まるで映画でも見ているかのように、黙って、真剣に、ただただ壁を見つめていた。老人が消えた壁は昨日となんら変わりなくそこに存在している。あの老人はちゃんと帰れたのだろうか、幸代さんには逢えたのだろうか、そもそも本当に老人は存在していたのか、全ては僕の幻想ではないのか。やれやれだ、疑問を抱きだすと切りがない。それに僕にはそれらを確認する術など何ひとつない。レンガ質の壁に囲まれた薄暗いこの空間に存在するのはチーク材で出来た机と、古びたスタンド、チョークの日付、diary、僕、そして彼女、それだけだ。電球の無いスタンドが彼女の後姿を照らす。彼女はさっきと同じ姿勢でまだ壁を見つめている。あまりにも長いこと見つめているので心配になり、僕が声を掛けようとしたが、それより一瞬早く彼女が口を開いた。僕に背を向けたままで。

「ねぇ、いいのよ?」
「何が?」
「だから、あなた帰ってもいいのよ?いいえ帰るべきよ。元の世界に戻るべきなのよ。戻れるんでしょ?」
「……本気で言ってるのか?」
「もちろん本気よ?それにあなたが元の世界へ戻れば何かしらの策を講じる事が出来ると思うの。私はそれまでここで待つわ。日記を書いてればいいんでしょ?そんなの簡単よ。最近仕事で忙しかったから逆にありがたいわ。落ち着いて考え事もしたいし、あなたが書いた日記を読むのも面白そうだわ。私ここの雰囲気意外と気に入ってるのよ。なんて言うか、自分だけの空間みたいな、そんな感じがするわ。うん悪くない。ここは私だけの場所なのよ。そう私だけの場所なの、だからあなたはここに居てはいけない人なのよ。居るべきではないの。大丈夫、私は平気だから、あなたが戻ってくるまで待ってるから。それに…あ」
 僕は彼女を抱き締めた。それ以上何も言わせないように、両手で、力いっぱい、彼女を抱きしめた。
その選択肢は存在しない。僕は彼女を、抱きしめた。抱きしめる事しか出来なかった。彼女の温もりは僕にようやくその存在を実感させた。

 暫くの沈黙の後、彼女が口を開いた。
「音楽、聴こうよ。あなたが好きなSTINGの『SHAPE OF MY HEART』、携帯の着メロなの」
 彼女は携帯を操作し、3和音の綺麗なメロディーが流れてきた。映画「レオン」のエンディングテーマに使われた曲、僕がこの曲を気に入ると、次の日には彼女がCDを探し出し、そして僕にプレゼントしてくれた。僕らはよくこれを聴いていた。部屋の明かりを落とし、つまらない事を話しながら聴くのが僕らのスタイルだった。そして何度も愛し合ったのを思い出した。ドライブの時もこの曲をよく流した。懐かしい思い出が次々に蘇ってくる。ふたりの思い出が詰まった曲、ふたりの時間が詰まった曲、今僕らはそれをレンガ質の壁に囲まれた薄暗い部屋で聞いている。肩を寄せ合い、二人で携帯を眺めた。3和音の「SHAPE OF MY HEART」はメロディーだけだが、反響しながら美しい音色を奏でていた。彼女が口ずさむ。

 I know that the spades are swords of a soldier.
 I know that the clubs are weapons of war.
 I know that diamonds mean money for this art.
 But that's not the shape of my heart.

 僕もそれに続ける。

 He may play the jack of diamonds.
 He may lay the queen of spades.
 He may conceal a king in his hand.
 While the memory of it fades.
 I know that the spades are swords of a soldier.
 I know that the clubs are weapons of war.
 I know that diamonds mean money for this art.
 But that's not the shape of my heart.


 先に涙を流したのは彼女の方だった。
 静かに、深々と、彼女は泣いていた。僕はもう一度彼女を抱き寄せ、次から次に溢れ出す涙をこの胸に受け止めた。何も言わず頭を撫でてやると、そこで初めて彼女が声をあげた。肩を震わせ、僕の胸の中で、彼女は泣きじゃくっていた。泣きたい時は泣けばいい、せめてその涙を僕が受け止めてやるから。薄暗いレンガ質のこの部屋には、抱き合う二人と、3和音の「SHAPE OF MY HEART」が美しい音色で響いていた。


【第三章】

 影人は黙って日記を読んでいた。

 彼が現れたのはここ最近のことである。
 「影人」という表現をしているが、彼は明らかに人間ではない。空間に浮かぶぼやけた黒いモヤ状のもので、それが人の形をしてるのだ。だから「影人」、僕らはそう呼んでいる。彼は全身真っ黒だが、目だけはちゃんとついているようだった。黒い頭部…と思われるところにギョロっとした目がやけに目立つ。彼はいつも僕らに気付かれることなく現れる。そう、いつの間にか机の横に立っているのだ。
一度影人がどこから現れるのか確認しようとしたことがある。部屋の中央に彼女と向かい合わせで座り、壁を見張っていたのだ。こうすれば死角はないはずである。しかし僕がふと目を閉じて、そして開けると影人は既に机の横に立っていた。ちょうど「マクドナルドのポテトは冷めるとなぜ不味いのか」について彼女と議論していた時だったと思う。
 とにかく、影人は僕らに気付かれる事なく「いつの間にか」机の横に立ってるのだ。

 影人は黙って日記を読んでいた。

 彼は喋らない。ただただ黙って僕らの日記を読むのだ。読んでいるのか眺めているのかは分からないが、たまに頷いたり、逆に首を傾げたりと少しばかり意思表現をするので、やはり日記を読んでいるのだと思う。しかし彼はなぜ日記を読むのか、その目的は分からない。分かるわけがない。僕は試しに声を掛けてみた。
「おもしろいですか?」
 彼は何も答えなかった。黙って日記を読んでいた。目は日記だけに向けられ、それから外れる事はない。彼には日記以外の物は認識できないんじゃないかとさえ思える。僕は彼の世界を想像してみた。日記だけの世界だ。彼は毎日日記的に目覚め、日記的モーニング珈琲を飲み、日記的新聞を読む。ありえない、と僕は思った。「日記的目覚め」がどういうものかすら分からないじゃないか。脳が混乱してきたので僕は想像するのをやめた。そしてもう一度影人を見た。消えていた。
「やれやれ」
 いつもこうなのだ。彼は消える時も僕らに気付かれないように消える。どこから現れてどうやって消えるのか、僕らは確認出来ない。彼は「いつの間にか」机の横に立っていて、「いつの間にか」消えるのだ。いや、「日記的」に机の横に立っていて、「日記的」に消えるのかもしれない。
「日記的存在」
 僕はそう呟いた。
 彼女は「ワケが分からないわ」とだけ言ってため息を漏らした。
 そのため息はとても深く、ブラックホールのように辺り物を吸い込んでしまうのではないかと僕に心配させた。
「影人にしろ、電球がないスタンドにしろ、なにもかもが分からないわ」
僕は何も答えなかった。
「たまに思うのよ。本当に私は存在しているのかって。だってそうでしょ?私の存在を証明してくれるのはあなただけ。あなたがいなければ私も存在しないのよ。あなたの存在だってそうよ。私達はお互いがお互いの存在を証明し合ってるのよ。あなたがいなくなれば、たぶん私はおかしくなるわ。きっとそうよ。自分の存在を他人に依存しているんだもの。こんなのって考えられる?」
彼女は苛立っていた。こんな空間に閉じ込められて、そしてここには僕と彼女の二人しかいないのだからその苛立ちも当然である。
「大丈夫。きっと出口はある」
 僕はそう答えた。
「ごめんなさい。あなたに当たっても仕方ないわね。きっと疲れてるのよ。ねぇ、二人で出られるかしら?」
「出られるさ。いや、出なくちゃいけないんだよ。わかるかい?僕らは一緒にこの世界から出るんだ。どうやって出るかは問題じゃない。僕らはここから出る。それだけだ」
「もしあなた一人が元の世界に戻れたとしたら?」
「それはありえない」
「可能性はあるわよ。そしておかしくなった私は一日中携帯の着メロを聞くと思うわ。それしか出来ないんだもの。電池が切れてもなお私は着メロを聞いているのよ。頭の中で、延々と『SHAPE OF MY HEART』が流れつづける。私は携帯に存在を依存するの。携帯的存在。ねぇこれって想像できる?」
僕は「出来ない」と答えた。あるいはそう答えざるを得なかったのかもしれない。
「私も出来ないわ。いいえ違う、想像したくないのね。そうよ、想像すらしたくないわ」
「仮にそうなったとしても、僕が助けに行くよ」
「助けに?助けに来れるの?こんな場所に?」
「どうやって助けるかは問題じゃない。僕らは元の世界へ戻るんだ。二人一緒にだ。一緒じゃなきゃだめなんだよ」
 彼女は僕の顔をじっと見ていた。その瞳は僕の心の中まで覗いてるかのようだった。覗きたければ覗けばいい。僕は嘘は言ってない。二人で戻るんだ。
「あなたといると安心するわ」
 そう言って彼女は目を閉じた。僕は彼女を抱き寄せてキスをした。やわらかい唇の感触は彼女が確かに存在することを証明していた。僕らはお互いがお互いの存在を証明し合ってる。今もこうやって、キスをすることで。
「大丈夫」と僕は言った。
「ありがとう…」彼女はこう答えて、僕の胸の中で眠った。


「君達は何か勘違いをしている」


 突然誰かの声がした。驚いて顔を上げると僕の隣に影人が立っていた。
「君達は何か勘違いをしているよ」
 僕が驚きで何も言えないでいると、影人はもう一度そう繰り返した。その声は想像していたよりはるかに高く、脳に直接響くような不快感を与えた。彼は身動きひとつせずに僕を見ていた。その目は大きく見開かれ、全ての情報を視覚で補おうとしてるかのようだった。彼は日記的存在ではなかったのだ。僕の頭の中ではまだ影人の言葉が響いていた。勘違いをしているだって?脳の奥に痛みを感じた。まるで誰かが僕の頭の中を覗いているかのようだった。

「知る必要がある。君達は知る必要があるんだ。僕に付いておいで。連れて行ってあげる」

 確実に何かが変わり始めたのを、僕は感じていた。


【第四章】

「ついておいで」
 影人は高い声でそう繰り返した。その声を聞くたびに脳の奥に痛みを感じる。
彼女はまだ僕の胸の中で眠っていた。僕は彼女の肩を揺らし、起こそうとした。
「起きないよ」と影人が言った。
 僕はその言葉を無視して彼女の肩を揺らし続けた。
「だから起きないってば」
 その口調は駄々をこねる子供をなだめる時のような、優しく、しかし威圧的であった。
「どうしてあなたに分かるんですか?」
僕は少し苛立ちながら尋ねた。
「君がそれを望んでるからだよ」
 影人は電球のないスタンドの光が届かない暗闇を見つめながらそう答えた。暗闇は獲物をじっと待つ深海魚のように部屋の隅にぽっかりと口を開けていた。その暗闇の一点を見つめていると、部屋の光は食い尽くされ、全てを飲み込んだその口は徐々に大きくなり部屋全体を覆い尽くすように思えた。僕は彼が言った言葉を復唱した。僕がそれを望んでるからだって?オーケー、いいだろう。しかし仮にそうだとしても、なぜ影人がそれを知ってるんだ?それに僕が望んでるから彼女は眠ったまま?ならばガーリックトーストが食べたいと思えば僕の目の前にそれが現れるのか?僕は試しに目を閉じてガーリックトーストが運ばれてくるのを想像してみた。駅前の路地を少し入ったところにこじんまりと収まっている喫茶店の奴だ。とても古ぼけたたたずまいで、表には看板はない。ただ「Salon de Roi」と書かれた小さいプレートだけが、そこが喫茶店である事を静かに告げていた。僕らはその雰囲気が好きで、よく終電までの時間をその店で過ごしていた。僕がペペロンチーノを食べて、彼女がボンゴレのアサリと格闘していた。手元が狂い、彼女の腕がグラスを倒してしまった。僕は慌ててハンカチでテーブルを拭いた。店のマスターが駆け寄ってくる。彼女は「すみません」と謝った。「お気になさらないでください。それより奥様のお洋服が無事でよかったです。うちのボンゴレが悪戯をしたようで、大変申し訳ありませんでした。きっと旦那様を見てやきもちを焼いたのでしょう。どうか許してやってください。さぁこちらへどうぞ」マスターはにっこり笑って別のテーブルに僕らを案内してくれた。「君ってアサリにモテるんだね」僕がそう言うと、彼女は恥ずかしそうに「奥様だって」と言って笑った。しばらくするとガーリックトーストが運ばれてきた。パスタにはガーリックトーストがよく合う。僕はマスターに「ありがとう」と言った。マスターは「アサリを叱っておきましたのでもう大丈夫です」と言った。とても優しい顔だった。彼女はまた恥ずかしそうに笑っていた。僕は目を開けた。ガーリックトーストはなかった。ただ絶望的な暗闇がこの空間を包み込んでいるだけだった。
「望んだからって全てがその通りになるわけじゃないよ」
僕の心中を察しているかのように影人が言った。
「意味が分からない」と僕は答えた。
「まぁ分からないだろうね。うん。今はそれでも構わないよ」
「いったいあなたは何者なんですか?」
「そんな事は関係ない。ただの案内役みたいなものさ。うん。案内役。君の案内役だ。彼女の案内役ではない。わかるかい?」
「わからない」
「実は僕も困ってたんだ。僕は案内役ではあるけど、君の案内役だ。彼女を案内するわけにはいかないんだよ。それでずっと悩んでたんだけど、いやぁ君が彼女を眠らせてくれて助かったよ。これで僕の仕事ができるってもんさ」
「仕事?」
「そう、仕事。君を案内する仕事。たいした事じゃないよ。ただ君が進むべき道のヒントを与えるくらいさ。なんて言うかなぁ、山を通る国道沿いにポツンと立ってる看板に似てるかもしれないね。レストランとかの看板。ところで寂れたレストランってどうして意味不明な店名が付いてるんだろうね。ほら、『まかぽこ』とか、まったく意味が分からないよ。でもその看板のおかげでその店が『まかぽこ』という名である事は分かる。どうしてそういう名前なのかは分からないけど、その名前であることは分かるだろ?それだけで十分さ。それが看板の仕事だからね。それ以上のことはやっちゃいけないんだ。僕もそれと同じ。君を案内するだけ。僕の言ってる事わかるかい?」
「わからない」と僕は答えた。
 まったくわからない。「まかぽこ」という店なんか知らない。その例えが何を意味してるのかも理解できない。
「さて、そろそろ行こうか。僕も時間がないんだよ。あまりここで話をしてる暇はない。僕についておいで」
 僕は「彼女を置いては行けない」と答えた。一人で行けるわけがない。そもそもどこに連れて行こうと言うのだ。案内役だかなんだか知らないが、案内役ならもっと分かりやすく説明するべきだ。今起こってる出来事がまったく理解できない。ひとつ確かなのは、この世界は普通じゃないってことだ。僕と彼女はお互いの存在を証明し合ってる。そんな世界だ。僕らにはお互いが必要なんだ。頭が混乱する。脳の奥の痛みはひどくなる一方だ。「彼女を置いては行けない」僕はそう繰り返した。
「いいや来るね。君は僕について来る。わかってないなぁ。ほんとにわかってない。まぁだから僕が今こうやって君の前にいるんだけどね。なぁ時間がないんだよ。どっちみち君は僕と一緒に行くんだからさ、早くしてくれよ。頼むよ」
「なぜあなたにそれがわかるんですか。さっきから決め付けでモノを言ってるようですけど、あなたこそわかってない。僕は行かないと言ったんですよ。それとも僕に選択権はないと言いたいんですか?それが案内役?山道の看板とは違うようですね」
 僕は少し挑発的な態度でそう答えた。影人はまた部屋の隅の暗闇を見つめていた。そのまま暗闇に溶け込んで消えてしまえばいいのにと思った。胸の中の彼女はまだ眠ったままだ。長いストロークの呼吸は彼女が深い眠りにあることを証明していた。僕がそれを望んだから?いいや望んでないかいない。むしろ起きて欲しいと思ってる。しかしいくら彼女を揺さぶっても目を覚ましてくれないのはどういうわけだ。「わけが分からないわ」と言った彼女の言葉を思い出した。何もかもがわからない。すべてが現実とは違っていて、しかし僕らには紛れもない現実であるこの世界の何もかもがわからない。だがそれを知る岐路に、僕は今立っている。脳の奥は相変わらず痛みを発していた。それはまるで今僕が何をするべきかを知らせている警告のように思えた。「わかってるだろ」、声が聞こえたような気がした。影人はまだ暗闇を見つめている。今のは僕の声なのか?わからないよ。何もわからない。しかし知りたい。知る必要がある。
「どうやら決まったようだね」
 穏やかな口調で影人が言った。
 僕は彼女の寝顔を少し眺めてから答えた。
「確かめたい」

【第五章】

「確かめたい」
 僕は諦めに似た感情でそう言った。
「よし、じゃあ行こう」
 影人はそう言うと壁へ歩き出した。そこはさっきまで彼が見つめていた場所であり、やはり暗闇がぽっかりと口を開けていた。僕は彼に付いて歩いた。光から取り残された絶望的な闇達が、その身を横たえる唯一の場所としてそこに存在しているように思えた。その絶望的な存在に足を進めるにつれて、ひんやりとした空気が身体を包んでいくのが分かった。闇が僕に触れた。呼吸をするたびにそれが僕の体内へ侵入してくる。それは肺を経て血液の流れに乗り全身を駆け巡る。僕の身体に闇が染み込んでいき、細胞ひとつひとつがドス黒い塊に姿を変えてしまう気がした。後ろの机には彼女が寝ているだろう、しかし僕は振り返ることが出来なかった。振り返ってはいけない気がした。僕は影人の後ろ姿だけを見ていた。その姿は闇に溶け込み、気を抜くと見失いそうだった。やがて僕の身体が完全に闇に包まれた時、影人が壁の前で足を止めた。
「どうしたんですか?」
 僕は彼…がいるであろう方向に訪ねた。
「待ってるんだ。でも大丈夫。すぐに来るさ」
 暗闇の中から声だけが届く。その声から、彼が僕の目の前に立っているであろう事はわかった。僕は自分の手を見た。何も見えない。完全な闇というものは自分自身の存在すら消してしまう。僕は不安になって手を動かしてみた。しかし感覚はあるものの、それが自分のものであるようには思えなかった。あたかも誰かが感覚というモノを直接僕の脳に放り込んでいるようだった。僕は戸惑いながら言った。
「何を待ってるんですか?」
 しかし影人は何も答えなかった。僕は不安になってもう一度尋ねた。とにかく何かを喋ってないと自分が消えてしまう気がしたのだ。
「何を待ってるんですか?」
「エレベーター」
「エレベーターだって?」思わず僕はそう聞き返した。
「そう、エレベーターだよ」
 彼はそれだけ言うとまた黙り込んだ。僕は何も言えなくなった。自分を包む闇の恐怖はあるが、こんな時にエレベーターなどと言われれば言葉を失って当然だろう。僕は自分の中で何度もエレベーターという言葉を復唱した。復唱してるうちにそれが「エレ」と「ベーター」に別れた。僕はエレが喋っているところを想像した。「やぁ僕の名前はエレ。隣にいるのが親友のベーターさ、よろしく」 次にベーターが喋りだした。「親友といってもついさっき知り会ったばかりなんだ。でも僕の持ってるカードに親友と書いてあったから彼とは親友になったんだ。彼はカードを出さなかったからね。それで決まりさ」 まったく意味が分からなかった。いろいろ想像してるうちにエレベーターが何を指す単語なのか分からなくなってしまった。僕がそれを思い出そうとしてるところで影人が口を開いた。
「どうやら来たようだよ」
 見ると暗闇の空間に針ほどの光の点が浮いていた。と思うとその光の量が増していき、次の瞬間地面に向かって一直線に光が走った。そしてその線が両側へ広がり、その間から大量に光が漏れてきた。突然の光で目が痛かったが、徐々に慣れていくと、それが扉である事がわかった。暗闇の中でエレベーターの扉が開いたのだ。
「さぁ行こう」
 影人が中へ入っていく。
 こうなったらどこへでもついて行ってやろうじゃないか。僕も彼に続いてエレベーターに乗った。

 僕が中に入ると静かに扉が閉まった。機械的な音はまったくしなかった。中はかなり狭く薄汚れており、かすかにカビの臭いがした。内観は確かにエレベーターのようであったが、ボタン類は何一つ付いていなかった。しかも今入ってきた扉の向かい側に、もうひとつ小さ目の扉がついていた。その扉はエレベーターのそれとは明らかに違い、木材で出来た一枚の扉で、ノブが付いていた。つまりどこにでもあるような普通の扉だ。どう見てもエレベーターには不釣合いな存在である。エレベーターは動いている様子がまったくなく、何の振動も伝わってこない。それどころか音すらしなかった。本当に静かな空間だった。僕は影人に言った。
「動いていないようですが?それにこの扉はなんなんですか?」
「心配しなくていい。ちゃんと動いてるよ。概念の中をね。このエレベーターは概念を移動するのさ。速度は遅いけどね」
「概念の中を?」
「エレベーターは物理的距離を移動するだけのものじゃないよ。音楽にいろんなジャンルがあるように、距離にもいろんなものがあるんだ。そのひとつが概念的距離。というか、さっきから君うるさいよ。今僕は集中しなきゃいけないから、すこし黙っててくれないかな。気が散るんだ」
「そうですか。それは大変失礼しましたね」僕は諦めてそう答えた。
 その言葉に何の反応もせず、影人は小さい方の扉を黙って見つめていた。暗闇の次は扉か、彼が見つめるといろんな事が起きるもんだな。それも普通じゃない事ばかりだ。この扉だってそうに違いない。きっと開けると壁だったりするんだろう。そして彼はこう言うのさ。「音楽にもいろんなジャンルがあるように、壁にもいろいろあるんだよ。これは概念的壁だ。だから心配ない」と。想像してると少し可笑しくなった。あまりにも理解不能な事が多すぎると、人間とは幻想的な余裕を抱かざるを得ないらしい。しかしそれは現実から目を背けてるにすぎない。僕はすぐに絶望的な空気に包まれた。

「着いたよ」と影人が言った。
 しかしエレベーターの扉は開かない。僕は黙って彼を見ていた。着いたよと言われても僕はどうする事もできない。黙って彼を見つめる事しか出来なかった。すると彼が小さい方の扉に手をかけた。
「さぁ行こう」
 そう言って彼はノブを回し扉を開けた。その音が静かなエレベーター内に響く。しかし僕にはそれが扉を開ける音には聞こえなかった。別に変わった音だったわけじゃなかったが、長い間音のない空間にいた僕にはそれが扉のものであるかどうかの判断が出来ないでいた。まぁいい。扉がガチャッと開こうとムニョッと開こうと、どちらでも構わない。そう思った。
 扉の向こうには薄暗い廊下が続いていた。窓はなく、床の絨毯にはところどころ黒いシミがついていた。五メートルおきくらいに電球がぶら下がっており、その頼りない光でこの空間がより一層寂しげに見えた。僕はエレベーターを出た。やはりカビの臭いがした。廊下は一直線に先まで伸びている。突き当たりは見えなかった。それほど長く、この古臭い廊下は続いていた。
「何をやってるんだ。行くよ」
 影人が僕を急かす。僕は彼の後ろをついて歩いた。床の絨毯は薄く、その下の木材が歩くたびにギシギシと鳴いていた。影人は音もなく歩いている。その速度は結構速く、僕は彼との距離を一定に保つために少し早歩きにならざるを得なかった。途中二つの扉を通り過ぎた。何の部屋なのかを彼に聞こうと思ったが、聞いたところで理解はできないだろうと思ってやめた。後ろを振り返ると、僕らが出てきた扉はかなり小さくなっていた。かなりの距離を歩いていた。前方に三つ目の扉が近づいてきた。その前までたどり着くと、影人が足を止めて言った。
「やっと着いた。この部屋だよ。無事に案内が出来てよかった。時間が無かったから間に合わないかと心配したよ。さぁ会ってきな。中であの人が待ってるよ」
「あの人って誰ですか?」

「DISKさんだよ。この世界の管理人さ」

 DISK?DISKだって?その名を聞いた瞬間、半年前の記憶が一気に蘇えってきた。僕はあの日、何の気なしにネットをやっていた。偶然「Core」というHPにたどり着いた。普通のポエムサイトだ。僕は「diary」の文字をクリックした。気を失った。気が付くとレンガ質の薄暗い空間にいた。あれから全てがおかしくなったんだ。そう、「Core」に出会ってから、全てが…。そしてそのHPの管理人が、DISKだった。

「DISKさんが待ってる。さぁ中に入りな」

 脳の奥に痛みを感じた。僕は深呼吸をひとつしてから、扉の取っ手に手を掛けた。確かめてやる。


【第六章】

 思ったより扉は重く、結構な力を入れないと開かなかった。
「キィ」という短い音が響く。
 僕は、扉を開けた。

 部屋の中は廊下とは違い、不自然なほど明るかった。
 広さは15畳くらいだろうか、少し広めなその部屋の中央には大きなテーブルがあり、それを囲むように皮製の黒いソファーが置いてある。テーブルの上にはガラス製の灰皿があり、その隣にタバコが入ってるであろう木の箱が申し訳なさげに存在していた。ソファーの横には帽子掛けが立てられており、壁には大きな額縁が飾られていたが中に絵は無かった。先ほどまでの雰囲気とは違い、ここは会社の応接室のように全ての家具が小奇麗に整理されていた。何一つ必要以上にその存在を主張するものは無い。そう、僕と、もう一人の男DISK以外は何一つ。
 男はテーブルから少し離れたところの机に僕に背を向けた状態で座っていた。随分と立派な椅子の、その大きな背もたれのせいで彼の頭のてっぺんくらいしか見えなかったが、肘掛から覗く二つの腕が、男が確かにそこに存在する事が分かる。僕は男に声を掛けた。
「あんたがDISKだな?聞きたいことが山ほどある」
 しかし一瞬響いた僕の声は、すぐに部屋の静寂に飲み込まれてしまった。それはまるでありもしない蜃気楼を求めて彷徨う砂漠の旅人のような不安を僕に与えた。そして男は答えた。
「やっと来ましたね。待ってましたよ」
 その声を聞いた僕は少々混乱してしまった。この言葉を聞くのは二度目だ。しかしそれだけが混乱の理由ではなかった。僕の予想が目の前で粉々に砕かれたのだ。椅子がクルリとこちら側を向く。すらっとした体系に細い腕、装飾品はほとんど付けておらず、サラリとした長い髪に清楚感が漂っていた。
「遅かったわね。ずっと待ってたのよ?」
 DISKは、女だった。

「女だったのか」僕は驚いて言った。
「女…ふぅん、あなたにはそう見えるのね」DISKは机の引出しから髪留めを取り出すと、髪を後ろに束ねながらそう答えた。
「どう見たって女じゃないか」
「男とか女とか、そういう性別の概念はあなたが住む世界のものよ。その概念で私が女に見えるのなら、そうなるわね」
 何を言ってるのかいまいち分からない。男と女の客観的区別を概念にまで広げるのはわからなくもないが、これはある程度普遍的なものの筈だ。DISKの言葉はこれを否定してるように思える。「何を言ってるのか分からない」僕はそう答えた。
「まぁいいじゃない。それにこの話をしてもたぶんあなたには理解できないわ。私は女よ。これでいいでしょ?」
 DISKはそう言いながら、今度はタバコを取り出してそれに火をつけた。彼女の清楚な雰囲気にその煙は不釣合いに見えた。
「タバコ、やめたいんだけど、やめれないのよねぇ。あなたもどう?」
「いらない。タバコは吸わない」
「羨ましいわ。禁煙中なの?それとも元々吸ってなかったのかしら?私も…」
「そんな事はどうだっていい!」僕は声を荒げて彼女の言葉を遮った。世間話をしにここに来たわけじゃない。僕は深く息を吐き、自分を落ち着かせてから続けた。
「あんたに聞きたいことがある」
「まぁ座りなさいよ。いいソファーでしょ?」
「僕はあんたを信用していない。立ったままで結構だ」
「…そう、残念ね。座り心地いいのに」
「それよりここは何処なんだ。知ってるんだろ?」
「ここは何処か…か。確かに知ってるわ」
 そう言うと彼女は細い指先でタバコを消し、椅子から立ち上がった。その動作には無駄が無く美しかった。まるで立ち上がるまでの一連の動作に残像効果でも掛かってるような、そんな美しさだった。もし、正しい椅子の立ち上がり試験というものがあるとすれば、彼女は間違いなく高い成績を収めるに違いない。それほど完璧に彼女は椅子から立ち上がった。立ち上がると結構背が高かいことが分かった。170㎝はあるんじゃないだろうか。スラリと伸びた四肢が余計にそれを強調していおり、ひょっとしたら僕よりも高いんじゃないかとさえ思える。彼女は机の横に軽く腰掛けるようにして腕を組み、僕を見て言った。
「ここは脳の中よ」
「なんだって?」
「だから、ここは脳の中なのよ」
 脳の中?今この女は脳の中と言ったのか?何を言ってるんだ。そんな事があってたまるか。
「馬鹿げてる。そんな話信じられないね。ここが僕の脳内であるはずがない」
「いいえ、脳の中よ。でもあなたの脳じゃないわ、正しくは私達の脳よ」
いよいよ意味が分からない。今度は私達の脳と言っている。僕の脳にこの女の所有権が発生したとでもいうのか。まったく可笑しな話だ。あまりに可笑しすぎるので笑い出しそうになったが、どうにか堪えた。
「つまり、この世界は僕の夢の中で、君はその登場人物だと言いたいのか?」
「それも違うわ。ここは確実に現実の世界よ。いい?よく聞いて。今からあなたでも分かるように説明してあげる」
「是非そうしてもらいたいね。ただこの世界は理解を超えている。分かり易く頼むよ」
「まず、あなたは幽霊や超能力を信じる?」
「信じないわけじゃない。中立的な立場だ」
「それはなぜ?」
「そういうのを見たわけじゃないが、絶対ないとは言い切れないじゃないか。ただ僕が知らないだけで、もしかしたら当たり前に存在している可能性もある」
「いいえ、その可能性はないわ」
 間髪入れずに答えた彼女のその言葉に、僕は少しムッとした。
「なぜ君に分かるんだ?」
「あなたがそれを見たことがないからよ」
「意味が分からない」
「いい?よく聞いて。あのね、まず世界の概念を根底から変える必要があるわ。世界はあなたの外にあるんじゃなくて、内にあるのよ。わかるかなぁ。つまり世界が存在してその中にあなたがいるんじゃなくて、まずあなたがいて世界はその中に存在しているのよ。世界を構築してるのはあなたに他ならないの。日本が今不景気なのも、冬の星空にオリオン座が輝くのも、りんごが重力によって落下するのも、雨の日に洗濯物が乾かないのも、それらは全てあなたがそうしたからよ。あなたの世界にはあなた以外は存在しなくて、全ての事象はあなたによって引き起こされるものなの。逆にあなたがいなくなれば世界は消滅するわ。あなたの世界だからね」
「じゃぁ、ソマリアの国民が飢えに苦しんでるのも、僕がいるからと言うのか?」
「あなたの世界は絶対的なものであって、目の前に起こっている事が全てなの。それ以外のこと、つまりあなたが目にした事の無いものは想像でしかなく、実態は存在しないわ。難民はおろか、アフリカ大陸すら存在しないし、例えばあなたがソマリアに行った事がないなら、ソマリアという国もソマリア国民だって本当は存在しないのよ。メディアを通じて得た情報はただの想像から生まれた架空のものでしかないの。あなたの目の前の世界だけが全世界というわけ。だからさっき言った幽霊や超能力は、あなたが見たことないのならそれは存在していないという事よ。私の言ってること分かる?分かり易く言えば、世界とはあなたが見ている夢的現実みたいなものかしら。夢じゃないんだけどね」
「ちょっと待ってくれ。訳が分からない。目の前にあるものだけが世界なら、それはどこから来るんだ?例えば今目の前に珈琲があったとして、それはグアテマラで豆を採り、加工して飛行機か船で日本に運び、それが商品となって店に並ばないと僕は飲めないはずだ。でも僕はグアテマラなんかに行ったことはない。つまり存在していないという事だろ?じゃぁ目の前の珈琲はどこから来たんだ」
「そういうのは関係ないのよ。ただ目の前に珈琲がある。それだけよ。それが全てで、珈琲はどこにも繋がってないわ。他にも物理的法則や理論や常識も関係ない。グアテマラで豆を採ってどうのこうのという情報は、そういう法則や決まりを埋め合わせるためにあなたが後から付け足しただけのものよ」
「ならこの世界はいったいどこなんだ。今までの僕の世界はどこへ行った?僕の目の前の世界が全世界だとしても、それが急に変わるなんておかしいじゃないか。それに君は誰なんだ。私達の脳ってどういう意味だ」
「ねぇ、一つの脳をどうして一人の人間のものだと考えるの?もう一人くらい人格が存在しててもおかしくないんじゃない?」
「それが君だと?」
「その通り」
「僕は二重人格と言うのか?」
「それは全然違う。二重人格というものは所詮はあなたの世界に表出するあなたの人格であって、間違いなくあなた自身のものよ。もしあなたが二重人格だったとしたらの話だけどね。でも私はそんな存在とは違。あなたがあなたの世界を持つように、私も同じ脳の違う場所で私だけの世界を持ってるのよ。つまりこの世界の事ね。で、さっきも言ったように、世界は個人が創造する絶対的なものであって、その中にはその創造主以外は存在しないはずなの。でも今は違うわ。この世界には二人の創造主がいる。私とあなたね。なぜだかは分からないけど、私の世界にあなたが迷い込んでしまったのよ。これってどういう事かわかる?つまり、私の世界とあなたの世界が衝突してる不安定な状態なの」
「僕と君とが同じ脳で違う世界を構築していたとしても、なぜ君はそれを知っているんだ」
「私の世界が存在する場所は、脳の中心部、言わばコアだからよ。つまりこの脳は私が管理してると言ってもいいわけ。あなたと私は立場が違うのよ。わかる?だからあなたの世界の事も、あなた自身の事も知ってて当然でしょ?」
 そう言いながら彼女は机の上に置いてあるメモ用紙にその脳の図を描いた。
 僕の脳は君によって管理されてて、君もまた違う世界を構築してたってことか?」
「That's right.あなたの世界には英語ってのもあったわよね。これで意味合ってるかしら?」
「合ってない事を祈るよ」
 考えれば考えるほど頭が混乱する。世界は僕が構築したものであって、さらに脳の別の場所で管理されてるなんて、そんな話聞いたこともない。僕はヨロヨロとソファーに座り込んだ。何がなんだか分からない。
「あら、私の事信用してないんじゃなかったっけ?」彼女はニコニコしながら言った。 その笑顔が妙に腹立つ。
「しばらく放っておいてくれ」
「概念に無い事を突然言われたものだから疲れたのね。しばらく落ち着いて考えるといいわ」
 そう言って彼女は水と薬をテーブルの上に置いた。僕が顔を上げると、「頭痛は身体に良くないわ」だって。僕は2錠の白い錠剤を水でやや乱暴に流し込み、ソファーに横になった。ソファーの感触は確かに良かった。しかしそれにもなぜか腹が立った。頭痛は酷くなる一方だ。僕は目を閉じてDISKの話を整理した。

 僕が今まで生きてきた世界は僕の脳が創り上げたのもので、僕以外には存在していない。そして脳には他の世界があり、それがDISKの世界。二つの世界は本来別々に存する筈だが、なぜか僕がDISKの世界に迷い込んでしまった。迷い込こんだ?なぜだ。彼女は僕の脳の管理人だろ?なら本来はそうならないようにするのが仕事じゃないのか?僕はここに迷い込んだ時の事を思い出した。ネットをやってて「Core」というHPに辿り着き……Core?コアだって?そしてその管理人がDISKだ。これは何かの偶然だろうか。いや、そうは思えない。僕の世界は「Core」を通じて文字通り脳内のコアと繋がってたんだ。そうとしか考えられない。しかしネットが僕の脳内、それもコアに当たる部分と繋がっているなんてどういう事だろう。考えても分からない。そもそも僕の思考で考えられる事は概念によって制約されている。概念を超越した思考は不可能だ。しかし僕は今まさに概念の外にいる。考えても答えなど出そうにない。でも考えないわけにはいかない。DISKは僕が彼女の世界に迷い込んだと言った。なら僕が今まで使っていた脳の領域はまだ存在している事になる。だとしたら、ここから脱出さえすれば、僕は元の世界へ帰れるかもしれない。断言など出来るはずはないが、可能性を信じたい。問題はここからどうやって出るかだ。それを探し出すんだ。そして僕の彼女と二人で…彼女と…彼女…。

「ちょっと待て!彼女も僕が創り上げた存在だと言うのか!?」僕は飛び上がるように身体を起こしてDISKに尋ねた。
 DISKは机に向かって書類になにやら書いていたが、ペンを止めて僕の方を見た。しかし何も答えない。
「彼女は、僕の彼女はどうなんだ…?」
 心臓の鼓動が早くなる。それが嫌と言うほど伝わってきた。DISKはうつむいている。なぜだ、なぜ答えない。部屋を包む深い静寂の中で、僕は彼女の言葉を思い出した 

―私達はお互いがお互いの存在を証明し合ってるのよ― 

 違う。そんなんじゃない。自分の存在を証明するのは自分だけだ!それを他人に頼るなんてあってたまるか!僕と君は別々の人間で、別々に育ち、別々の存在なんだ。だから僕らは出会えたんじゃないか。だから僕らは愛し合ったんじゃないか!彼女との思い出の数々が浮かんでくる。しかしその儚い記憶の水流はすぐに意識の奥底へと消えていく。僕はそれを拒否するかのように何度も何度も手ですくった。しかしどうしても指の間から零れ落ちてしまう。手に残ったほんのわずかな記憶の水溜りも、すぐに乾いてしまった。堪えきれないほどの絶望感が、今にも牙を剥いて襲いかかってきそうに思えた。僕はDISKを見た。DISKも僕を見ていた。彼女の口が開く。僕の全神経がその動きに集中する。

「彼女も、あなたが創り上げた存在よ」

 僕の中で何かが壊れた。


【第七章】

 息が切れていた。
 僕は無我夢中であの部屋を飛び出していた。一刻も早くDISKの前から姿を消したかったんだ。 そして気が付くと元の部屋に、レンガ質の薄暗い部屋に戻ってきていた。どうやって戻ってきたのかは覚えていない。とにかく、僕は彼女がいる部屋に戻っていた。最後にDISKが何か言ったような気がする。しかしその言葉が耳に届く前に、僕は部屋を飛び出していた。これ以上何も聞きたくなかった。聞くとおかしくなりそうな気がしたんだ。

-彼女も、あなたが創り上げた存在よ-

 DISKの言葉が頭をよぎった。僕は耳を塞いだ。心臓の鼓動が、血液の流れが、こもった音で耳に響いてくる。僕は息を切らせていた。深く息を吐き、鼓動を落ち着かせてから部屋を見渡した。
 薄暗いレンガ質の部屋の中央にチーク材で出来た大きな机、チョークで書かれた日付、電球の無いスタンド、ここは紛れもなくあの部屋だ。しかしその雰囲気は前のそれとは微妙に違っている事に気が付いた。白はたった一粒の黒い絵の具でその姿を灰色に変化させてしまう。この部屋の空気もまた、灰色なのだ。しかし僕にはその原因を探す作業など必要ではなかった。一粒の黒い絵の具は堂々と机の前に立ち、その姿を僕に主張していたのだから。
 その黒い絵の具は僕に言った。
「現実とは時に、残酷なものだよ」
 その言葉は僕に向けられているというよりも、自身の過去を思い返してはその状況にただ浸っているような、そんな儚さに包まれていた。彼の言葉がすぐに闇に消えていったのも、多分そのせいだと思う。僕は彼に言った。
「元の世界に戻れたんじゃなかったんですか?」
 黒い絵の具は、あの老人だった。僕が最初にこの世界に迷い込んだ時、diaryを手渡して姿を消した老人が目の前に立っているのだ。その顔はやはりスタンドの光が逆光となってはっきりとは見えなかったが、知性を感じさせる上品な顔立ちは以前のままだった。ただ、彼の表情の裏には何か大きなものを背負ってるような、そんな落ち着きを見ることが出来た。大きなものを背負っている人間というものは、ある種悟りにも似た落ち着きを備えているものなのだ。それは決して諦めではない事は彼の目を見れば分かる。彼は人の理解を超えるような大きな何かを背負い、また、背負わねばならない事情があるような気がする。それが何なのかは分からなかったが、彼のその瞳が部屋の空気を灰色に変えていたのだろう。
「君は、自分の行動に自身をもてるのか?」と老人が言った。
「え?」
「現実を知った時、君はそれでも自分を貫き通せるのか?」
 僕は何も言わなかった。言ったところで何も変わらない事は分かっていた。彼は僕の質問には答えず、独り言にも似た口調で一方的に語りかけるだけなのだ。
「この世界に長くいると全てがおかしくなる。私はあの時の自分の行動が正しかったのかどうか分からなくなってしまったよ。何もかもを失って、私には日記だけが残ったんだ」
 僕は老人の言葉を静かに聞いていた。彼の言っている事はおよそ理解できなかったが、それは何か重要なメッセージであるように思え、僕は真剣に彼の言葉に耳を傾けた。老人は自分の過去を振り返るような、何処を見ているとも取れない視線を空中に漂わせながら続けた。
「私は幸代の姿を追い求めている。彼女はこの世界のどこかで、じっと私の迎えを待っているはずだ。それが何処なのかは分からない。過去の記憶にすがっているだけなのかも知れぬ。そもそも全ては幻想だったのかも知れぬ。しかしそれでも私は彼女を捜さねばならないんだ。自分の決断を永遠に悔いながら、来るとも知れない儚い夢を後生大事に抱えながら…」
 彼の言葉が途切れた後にやってきた沈黙は、いつもより深く悲しいものだった。沈黙は時として、さらなる沈黙を創り上げるのだ。この老人の言葉にはそんな力があった。
「この先君にも…」と言って老人は言葉を詰まらせた。
「え?」
「この先君にも、決断を迫られる時が来るはずだ。その時は自分を信じて行動しなさい。自分を貫き通す事を忘れずに」
「…分かりました」と僕は答えた。
「よろしい。君がいない間、私が変わりに日記を書いておいたよ。と言っても老体に妄想は堪えるようだ。一週間に一度の間隔で書いていたが、今は無期限休止という事にしてペンを取らないでいた。そもそもこの日記は君が書くべきものだし、私が代役となっても意味がないだろう。さて、私の役目は終わりだ。また幸代を捜しに行くとするよ」
 老人は僕にdiaryを手渡した。僕はところどころ磨り減ったそのハードカバーを手で確認するようになぞりながら言った。
「もう、日記は必要無いんです。僕はもう日記を書くべきではないんですよ」
 老人は僕の目をしばらく見た後、何かを確認したように大きく数回うなずいた。「自分を貫き通すんだ」
「分かってます」
 この時僕は、老人に不思議と親近感を抱いていた。彼が何者なのか、具体的に何を意味しているのかは分からないが、DISKとの会話の中である種の免疫が出来ていたのかもしれない。僕は老人の言葉を、抵抗無く受け入れる事が出来たような気がする。今は、それだけで十分な気がしたんだ。
「深い眠りだ。一度も目を覚まさなかったよ」と僕の彼女を見つめながら老人が言った。
「君は彼女を…」老人は何かを言おうとしたが、そこで思いとどまったように言葉を切った。「さて、私はもう行くとしよう」その老人の瞳には、きっと幸代さんの姿が映っていたに違いない。僕はそう思った。
「何処へ…と聞いてもあなたは答えてくれないんでしょうね」
 僕がそう言うと、「それは私にもわからないよ」と老人は笑って見せた。
 そして壁の中へと消えていった。

「自分を…貫き通す」

 老人がいなくなった部屋で、僕は確認するように一人つぶやいた。
 僕は今まで自分を見失っていたのかもしれない。この世界に半ば安住しかけていたのかもしれない。僕はdiaryを机の上に置き、彼女を見た。よほど疲れていたのだろう、深い眠りが彼女を包んでいる。その髪に触れると、たまらなく愛しくなった。彼女の髪の感触、頬のぬくもり、静かな吐息、それらが僕の中へと伝わってくる。DISKの言葉が頭をよぎった。しかし僕はもう耳を塞がない。僕は僕で、彼女は彼女だ。振り回されるのはもう沢山だ。自分の道は自分で切り開くんだ。世界が僕が創造したものであってたまるか。
 しばらくして彼女が目を覚ました。
「私…ずっと寝てたの?」
 目を擦りながら起き上がった彼女は、まるで少女のような幼い口調でそう言った。
「随分と疲れていたようだね」
「あなたも寝てた?」
 僕は少し考えて、「あぁ、さっきまでぐっすり寝てたみたいだ」と言った。彼女が寝ている間に起こった出来事は、言わない方がいいような気がした。言うべきではない。そんな気がしたんだ。
「じゃあ、どうしてそんなに悲しい顔をしてるの?」
 その言葉が胸の真に突き刺さってきた。それは思ったより強く、そして確実に僕を締め付けた。
「僕は…」

「怖い夢でも見たの?」

 もう限界だった。僕は彼女を抱きしめた。このまま彼女の顔を見てると、一気に涙が溢れてきそうだったから、僕は彼女を思い切り抱きしめた。彼女の存在が、ぬくもりが、その顔が、僕を感情の底に押し流してしまいそうだったんだ。このまま泣いて、その涙が全てを洗い流してくれたらどんなに楽になれるだろう。しかしそれは許されない。僕は僕の中のありったけの理性をかき集めて、その感情が胸を通り過ぎるのをじっと待った。僕は目を閉じて感情から目をそらし続けた。泣くな!泣くな!僕は彼女を抱きしめた。彼女は何も言わずに僕の頭を撫でていてくれた。僕はどうしようもない気持ちをなんとか押さえ込んで言った。

「ここから出よう!」

DISKの理論を、打ち破ってやる。


【第八章】

「ここから出よう!」
「でも、どうやって?」僕の言葉を聞いた彼女は困惑気味にそう答えた。当然だ。この世界から出るヒントなど何一つ無いし、そもそもここがどこかも分からないのだから。
「分からない。でも僕らはここから出なくちゃいけないんだよ。少なくとも日記なんて書くべきではない。僕らには他にやることがあるはずだ」
「そうね、確かに日記なんて書いてるうちは出る事なんて出来ないでしょうね。でもそれは今までも分かっていたはず。どうして私達は日記を書き続けていたのかしら」
「おそらくこの世界が関係してるんだろうね。よく分からないけど、ここに長くいると全てのものがおかしくなるんだ。たぶん僕らもそれに犯されていたんだろう。とにかく、今日からはもう日記を書いちゃいけないんだ。これだけははっきりしている。僕らは考えなくちゃいけない。出る事を考えるんだ」
 そう言って僕は机の上のdiaryに目を落とした。僕らは何も考えず、ひたすらこれに日記を書いていた。日記を書くことに自分の存在意義を見出そうとしてたんだ。ばかげてる。まったくばかげてる。しかしそれも今日で終わりだ。僕らはここから出る。その前に、DISKの言葉を覆す必要がある。
「なぁ、ここに迷い込んだ時の事を覚えてるかい?」
「えぇ、あなたのPCを立ち上げて、履歴からあなたが最後に行ったHPを見つけてdiaryの文字をクリック」
「僕もdiaryの文字をクリックした瞬間気を失ったんだ。そして僕らはこの部屋で日記を書きつづけていた。何も考えずに」
「という事は…」
「そう、僕らはやっぱりネットの世界に迷い込んだんだよ。それもあるHPの、日記というコンテンツの中に。何故かは分からないけど、そうとしか考えられない」
 信じられない話なのは百も承知だが、少なくともDISKの理論よりは説得力がある。僕らはHPの中に迷い込んだ。ただそれだけだ。
「現状ではそう考えざるを得ないようね。だとしたら、ネットを通じて私達の日記を読んでる人間がいるって事よね」
「そうだよ。どうして今までそれに気付かなかったんだろう。いや、気付いていないわけじゃなかった。僕らは彼らの為に日記を書いていた。何も考えずにね。彼らの存在はそれ以上でも以下でもなかったんだ」
「それがこの世界の影響ってわけね」
「きっとこのコンテンツに僕らの意識まで吸収されてしまってたんだろう」
「日記的存在」と彼女が呟いた。
「日記的存在」と僕も繰り返した。
 その言葉で影人のことを思い出した。 -君達は知る必要がある- 何を知れと言うのだ。結局DISKの戯言を聞かされただけじゃないか。しかしそのおかげで自分がやるべき事に気が付いた。彼が僕の案内役だと言ったのは、この事だったのだろうか。日記的存在、それは僕たちの方だった。彼の事を考えると脳に痛みが走ったので僕は考えるのを止めた。
「でもちょっと待って、何か引っ掛かるわ」右斜め下に目線を送りながら彼女が言った。あまりに真剣に右斜めを見つめるものだから、僕はその方向に何かあるんじゃないかと振り返りそうになった。
「私達が日記を書いていても、外の世界の人間はそう思ってないんじゃないかしら」
出たぞ。名探偵コナンフリークの、その頭脳が炸裂しそうな雰囲気だ。僕は睡眠針を打たれて眠ったりしなくていいのだろうか。
「diary…」
「え?」
 コナンが装備している多機能びっくり腕時計の名称を思い出そうとしてるところに彼女が口を開いたので、僕は彼女の言葉を聞き逃してしまった。
「なんだって?」
「diaryに書いた事だけが日記としてネットに流れるわけよね」
「おそらくは」
「だとしたら、私達の今までのやりとりは外の人間は知らないって事になるわね」
「おそらくは」
「なら私達の日記は、ここの管理人の日記として読まれてるにすぎないわ」
 なるほど、確かにそうだ。僕らはHPのコンテンツに迷い込み、考えることも忘れてひたすら日記を書いていた。文字通り僕らはコンテンツの一部として吸収されていたんだ。外の人間がそれに気付く筈もない。でもちょっと待て、それだったら逆にこの日記を使って外の人間にメッセージを送る事が出来るんじゃないだろうか。そうだ!ほんのわずかだが、光が見えてきたぞ!
「だったら逆にこの日記で…」
「それはたぶん無駄ね」
 光は幻想だったようだ。
「よく考えてみて。あなたが管理人で、自分のHPの日記が勝手に日々更新されていたらどう思う?普通はハッキングとか太刀の悪いイタズラと思って消去するわよね。少なくとも放ってはおかないはずよ。でも、私達の身には何も起こっていない。これが意味するものは何かしら」
「管理人自身がこのHPを放棄している…」
「もしくは管理人はあらかじめこの事態を予定していたって事ね」
 恐ろしかった。彼女の頭の切れ味もさることながら、僕らを飲み込んでいるこの世界の絶望的なまでの強さが怖かった。
「あなたが言うように、このHPがすでに見放されてる廃れサイトなら、私達が日記に何を書いても誰の目にも付かず、いいえ、目に付いても2秒後には戻るボタンを押してるでしょうね。廃れサイトとはそういうものよ。私達が戻れる可能性は無に等しいわ。逆に私が言うように、管理人がこれを予定している場合は、少なくともHP上は交流がなされているはずよ。ただ私達は籠の中の鳥、日記に何を書いても編集されるのがオチね」
 自分で言ったものの、前者でない事は分かっていた。僕はここの管理人と会ったんだ。ただ、それを否定したかったのかもしれない。
「DISKだ…」
「え?」
「ここの管理人は、DISKだ」
「DISK…彼は何者なのかしら」
「男じゃない。DISKは女だよ」
「そうなの?私はてっきり男かと。どうして女だと?」
「いや、ただなんとなく、ね」
「ふぅん」
 それからしばらく二人は何も喋らなかった。電球の無いスタンドの光が弱々しく僕らを照らす。彼女にさっきまでの勢いはなく、考えあぐねては袋小路に行き詰まっている様子が見て取れる。僕は老人の言葉を思い出した。

-自分を貫き通せ-

「戦うんだ」
「え?」
「戦うんだよ。ここの管理人と」
まずはDISKの理論を打ち破る必要がある。全てはそれからだ。
「どうやって?」
日記というコンテンツに閉じ込められているなら、同じコンテンツで勝負するのは不利だ。相手に手の内を見せるわけにはいかない。
「HPのコンテンツは日記だけじゃないよ」僕はそう言ってdiaryのページを一枚破いた。「掲示板だ」
「ケイジバン」彼女は、お前はカーナビかと突っ込みたくなるような単調な声で僕の言葉を繰り返した。「掲示板って、あの掲示板のこと?BBS?」
「僕がここで駅の掲示板を作るとでも?xyzという書き込みでもあれば面白いが、残念ながら僕はシティーハンターにはなれないよ。これはBBSさ。これで外の人間とコンタクトを取るんだ」
「本気デスカ?」彼女は少し笑いながらそう答えた。
「…なんで語尾がカタカナなんだよ。君は今の状況を分かってるのか?僕は真剣なんだ。茶化すのはよせ」僕は彼女の言葉に少しムッとした。僕は必死なんだ。例え馬鹿げていると思われても、可能性を信じたいんだ。それくらいの状況なんだ。
「そんなあなたが好きよ」
「それはありがとう」唐突な彼女の言葉に、僕は少し照れながらそう答えた。「さて、その掲示板に何て書き込むかだな」
「そうね、いきなり本当の事を話しても相手は混乱するだけだろうし…難しいわね」
 確かにそうだ。僕らでさえ今の状況を把握できていないのに、これが外の人間に理解できるはずがない。いったいどうすれば…。僕は少し考えて、ペンを取った。


ー 私はこのHPに閉じ込められています。本当です。何故かは分かりません。出口を探していますが見つかりません。そこでワラにもすがる思いでこの掲示板を作りました。力を貸して下さい。と言っても信じられない話でしょうし、何を書き込めばいいのかも分からないでしょう。無理もありません。でも何か一つだけでも…お願いします。ー

「…思いっきり本当のことじゃない」僕の書き込みを読んだ彼女は半ば呆れた様子でそう言った。
「まわりくどいのは嫌いなんでね」
「まぁいいわ。ところで投稿者が私の名前なのは?」
「ハイウェイで車が故障した時、僕だったら油まみれで車の下に潜り込まなきゃいけないところだが、綺麗な女はボンネットに寄りかかって髪をなびかせているだけで自然と車が直る」
「どうして?」
「世の中ってのは困ってる女に弱いのさ」
「でもそれってネカマ…」
「うるさいな。さっきも言ったろ、状況が状況なんだ。助かるんだったらネカマでもオカマでもなってやるよ!」
「同義並列文よ。ネカマとオカマはほとんど同じだからこの二つを並べるのは文脈上適当じゃないわ」
「…君は、僕にケンカでも売ってるのか?」
「でも、そんなあなたが好きよ」
「…」
「さて、あとはこの掲示板が機能するかどうかよね」彼女はクスクス笑いながら言った。「強引なあなたのことだから、掲示板の文字のお尻に『cgi』とでも書き込むのかしら?」
 彼女の対応に半ば複雑な感情を抱きながら、僕は掲示板のページを手に取った。彼女の言う通り、これが機能しなかったら何の意味も持たないただのメモ用紙になってしまう。だがどうやったらいいのかなんて分かる筈もない。かと言って諦めるわけにもいかない。僕は壁に歩み寄った。
「サーバーにアップ!」僕は掲示板を壁に貼り付けた。
「ほほう、そう来ましたか」
「壁じゃなくて天井の方が良かったかい?」
「あなたのミラクル頭脳ってほんと素敵ね」クスクス笑いながら彼女は言った。「そんなあなたが好きよ」
「それはありがとう」僕はまた少し照れながらそう答えた。
 絶望的な状況の中で、二人の笑いが部屋を包む。しかしこの試みは彼女が考えている以上の意味があった。これに書き込みがあれば、僕は救われる。


【第九章】

 僕らは何も言えなかった。
 覚悟というのはなんて儚いものなんだろう。僕はそう思った。あいるいは僕らはただ覚悟してる振りをしていただけなのかもしれない。ただ、それから目を背けていただけなのかもしれない。僕は掲示板に再び目を落とした。

ー 投稿者:cipher
HPに閉じ込められているというあなたは、人間ですか?
AIなどの電脳の産物なのですか? ー

 当然の疑問だ。HPの観覧者にとって、ネット世界に閉じ込められているという話をそう簡単に信じるはずがない。しかしこの書き込みは僕らに問い掛けをしている。これは僕らの存在を仮にでも認めた証拠だろう。認めないのであれば全否定するはずだ。それがないだけでもこれは大きな前進である。それにこの書き込みの事実が、DISKの理論を打ち破る証拠となる。
 DISKは、僕という創造者主がいなくなれば世界は消滅すると言った。それが正しいなら、元の世界は今現在存在していないはずである。という事は、僕らが掲示板を作ってもそれに書き込む人間は存在しないという事になる。しかし実際に書き込みはあった。これこそが元の世界が今なお存在してる証拠であり、世界は僕が創造したものではなく、僕の外に存するという何よりの証拠だ。やはりDISKの理論は戯言だったことがはっきりした。知子は、僕が創り上げた存在なんかじゃないのだ。これは、僕にとって大きな前進のはずである。ところが、この書き込みの問い掛けが僕らを沈黙の中へと引きずり込んだんだ。

ー あなたは、人間ですか? ー

 僕らは何も言えなかった。
 僕らは人間なのか?電脳の産物ではないと言う事ができるのか?分かってる。分かってるからこそ、僕らは何も言えないんだ。僕らは分からないという事が分かってるんだ。あるいは分からない事しか分かってないんだ。…なんて分かりにくい表現なんだ。
「私達は…」先に口を開いたのは彼女の方だった。
「大丈夫」僕は彼女の言葉を遮った。「書き込みがあったんだ。それだけで今の僕らには十分だよ」本当はもっと気の利いたセリフで彼女を安心させたいところだが、残念ながら今の僕には、今のこの世界の状況ではこう言うのがやっとだった。
「…そうね。これでこの掲示板が機能しているって証明されたんだもんね」
「そうさ、言ったろ?やってみなきゃ分かんないって。壁にページを貼り付けただけでちゃんと掲示板になるのさ。何故だかは当然分からないけどね」
 本来なら飛び上がって喜んでもいい事実である。しかしそれが出来ない。この言葉が重く圧し掛かってくるんだ。

ー あなたは、人間ですか? ー

 僕はペンを取った。ペンを取るしかなかった。

ー そこまで現代科学が進歩していない事を信じています。会話ができるロボットなどは現代科学の結晶ですが、所詮はロボット、自我を持つまでには至ってません。私は、ネットといういわゆる電脳世界に閉じ込められていますが、その中で何度も泣き、また時に笑い、怒る事もありました。その感情の事実こそが、私が人間である証拠だと信じています。私は人間です。 cipherさん、書き込みありがとうございます。あなたの存在が謎を解く鍵になる事と思います。私にとってはこれは大きな前進です。本当にありがう。そして最後に、あなたにお聞きしたい。あなたも、人間ですよね? ー

「cipherって人、何者なのかしら」と彼女が言った。
「分からない。でも少なくとも僕らのメッセージに反応を示してくれたんだ。彼、もしくは彼女に感謝しようじゃないか」
 人間かどうかの問いにはふたりとも何も言わなかった。いいんだ。何も言わなくていい。今は書き込みがあった事を感謝するんだ。そう自分に言い聞かせた。しかし次の書き込みが僕らをその問題へと引き戻した。

ー 投稿者:cipher
私は有であり無でもあるもの。
時として、人で在らざるものに自覚はないものです。
喜怒哀楽もプログラムだという可能性は、無視できませんね。
人間もしくは生物だったら、摂取と排泄が行われるはずです。
あなたはいったいどのくらいの間、閉じ込められているのですか? ー

「なんでこんなに挑戦的なんだよ!」僕は苛立って声を上げた。「有であり無であるものってどういう意味だ!質問の答えになってないじゃないか!」
 しかしそんな事はどうでもよかった。この苛立ちの原因は他にある事は分かっていたんだ。
「摂取と排泄…」と彼女が呟いた。
 そう、僕らはここに閉じ込められている間、一切これらの行為を行っていないのだ。しかし僕らは生命を維持できている。この事実が、僕を苛立たせていた。僕らにはこの問い掛けに対する明確な答えを何一つ持っていない。最初から分かってたんだ。それを認めるのが怖かったんだ。
「このスタンドは電球がない。でも光を発してる」と彼女が言った。
「え?」突然の彼女の言葉に僕はその意味が理解できなかった。
「この世界は常識では計り得ない場所にあるってことよ。あなたがここに迷い込んだのはいつ?」
「確か、去年の6月25日だと思うけど」
「オーケー」そう言って彼女はペンを取った。
「今度は私がレスをするわ」

ー 私がここに迷い込んだのは去年の6月25日の事でした。それからは日付を壁のチョークの文字で確認しています。何故かはわかりませんが、この壁に書かれた日付は自動更新されるようです。この時間の流れがそちらの世界と同じだと仮定すると、私はここに約一年閉じ込められている事になります。
 そしてあなたが疑問視されてる通り、私はその期間中摂取及び排泄を一切行っておりません。また、その生理的欲求すら感じる事はありません。さらに感情がプログラムである可能性を否定する材料も何一つ持ち得ないでいます。これらのことからすると、私は明らかに人間ではない事になります。私が単なるプログラムという存在なら、それでも構いません。また、これが夢なら、こんな嬉しい事はありません。ただ、「人間か否か」という問はその答えを自己の意思に由来しています。その中で、私は自分の事を人間だと思っています。今はその意志のみが自己を確立する唯一の理由です。cipherさん、私は今常識を遥かに超えた世界にいます。もちろんそんな抽象的な理由では納得していただけないでしょう。私があなたの立場でも同じように疑問を抱くと思います。そして私自身なぜこの世界に閉じ込められているのか、なぜ摂取も排泄もせずに生命を維持できているのか、まったく分かりません。しかし私は現にこの世界に存在し、自己の存在を人間とし、元の世界へ想いを馳せている。残念ながら、私に言えることはこれだけです。私も、答えを探しているんです。 ー

「今はこれが精一杯ね」彼女はペンを置いた。
「君は強いんだな」僕がそう言うと、彼女は「あら、私は人間じゃないのかしらってワンワン泣いたほうがよろしくって?」と言って笑って見せた。そして「今は信じるしかないわ」と小さく付け加えた。
「そうだな。それにcipherさんもまだ喰らい付いてるしな」
「そうよ。肝心なのはこれから。リールをゆっくりと巻き上げるのよ」
「逃がした魚は大きいって事にならなきゃいいが」
「…あなた、私にケンカ売ってる?」
「でも、そんな君が好きだよ」と僕はクスクスと笑った。
「それはありがとう」照れ臭そうにやはり彼女も笑った。「それにしても今のところ書き込みはcipherさんただ一人ね」
「あぁ、このHPは人気無いのかな?」
「DISKって人、管理人ならもっとがんばるべきだわ」
「同感だ。僕だったらヤフーに登録して観覧者を増やすね」
「それはたぶん無理でしょ。審査厳しいわよ?」そう言って彼女はまた笑って見せた。
僕らは、冗談を言う事でお互いを慰めていた。今はそれしか出来ない。

 次の書き込みもまたcipherさんだった。このHPの訪問者はこの人ただ一人なんじゃないだろうかと僕は本気で思ったが、書き込みがあるだけでもマシだ。僕らは彼、もしくは彼女の書き込みを注意深く読んだ。

ー 投稿者:cipher
 この世界には証明不可能な様々な事象が数多くあり、あなたのこともそのひとつとして納得しましょう。
 あなたのいる世界からの脱出がどういう結果をもたらすのか非常に興味深いのですが、私にはそれを導くだけの力はありません。あなたが望むようになるのを祈るだけです。掲示板を作り出せる力があること。ここに何らかのキーワードがあるようにも思えるのですが・・・。あなたに幸あらんことを。ー

「魚ゲットだ!」思わず僕は叫んだ。今までの挑戦的な態度と違い、今回は明らかにそれを軟化させている。多少疑問は感じているようだが、とにかく納得はしてくれたようだ。しかもキーワードの存在まで匂わせている。この人ならやれるかもしれない、僕はそう思った。光が見えてきたんだ。
「魚だなんて言ったら失礼よ」彼女は掲示板の文字を目で追いながらそう言った。「それにまだゲットしたわけじゃないわ」
 確かにそうだ。僕らはここから出るヒントを得るためにこの掲示板を作った。実際外の人間とコンタクトを取る事には成功したが、出口を見つけたわけじゃない。ましてや外の人間にそれが分かる筈もない。僕らを飲み込んだこの世界はなおもその口を固く閉ざしたままだ。いったいどうすれば…。

ドーン

 突然重い音と共に部屋が大きく揺れた。天井からは砂のようなものがパラパラと降ってくる。揺れは震度4くらいであろうか、そんなに大きなものではなかったが、この世界での初めての現象に僕の思考は一瞬停止した。たぶんそれは彼女も同じだろう。突然の出来事は自己の思考を停止させるものだ。
「地震??」彼女が机に捉まりながら言った。
「…そのようだね」僕は降ってきた砂を手で掃いながら答えた。彼女はまだ机に捉まっている。おそらく、彼女の思考はまだ停止したままだろう。彼女は、地震が苦手なのだ。
「僕らが閉じ込められているHPのサーバーに不具合でも生じたのかな?」僕はあえて軽く振舞った。「それに、地震が起こったって事はここは地球上かもしれないぜ?」
「でも…」彼女は怯えていた。
「大丈夫。きっと大丈夫さ」僕は彼女の手を握った。「僕がついてる」
「ありがとう」彼女はやっと机から手を離した。
 僕は彼女を抱いた。なぜか脳に痛みを感じた。僕は何も考えない事にした。

 しばらくの沈黙の後、彼女がペンを取った。

ー あなただけが頼りです。出口を探してください。何処かにあるはずなんです。力を、貸して下さい。ー

「リールはゆっくり巻くんじゃなかったのか?」僕はこのあまりのストレートな書き込みに驚いて彼女に言った。
「まわりくどいのは嫌いなの」彼女はそう言いながら掲示板を壁に戻した。「それはあなたも同じでしょ?」
「まぁ…そうだけど」彼女らしからぬこの大胆な行動は、おそらくさっきの地震の影響だろう。明らかに彼女は焦っている。よりによってこんな時に地震なんて…。とにかく、cipherさんの書き込みを待とう。今はそれしか出来ない。
脳はまだ痛みを感じていた。


【第十章】

 信じられない事が起こった。
 僕は興奮気味にもう一度掲示板の書き込みを確認した。


ー 投稿者:cipher
やっと見つけました。出口は机の下にあるようです。あなた達が無事に出られる事を祈っています。ー

 はっきり言って答えなど期待してはいなかった。ただ、何かの手がかりさえ得る事が出来れば、それだけで十分だった。それが、出口は机の下にあるとはっきり書いてあるではないか。なんてことだ。
「でも奇妙だわ。どうして外の人間に出口が分かったのかしら」
彼女はこの書き込みに疑問を感じているようだ。ストレートに質問したのは自分のくせに。まぁ無理も無い。普通に考えれば外の人間には出口どころか、この部屋の構造すらわからないはずなのだ。この書き込みはあまりにも具体的すぎる。まるで僕らをおびき寄せるための甘い罠のように。しかしそれは普通に考えればの話である。
「このスタンドには電球が無い。でも光を発してるじゃないか」
「…そうね、この世界にはおよそ普通という概念は存在していなかったわね」
「きっとソースでも覗いたんだろう」

ドーン

 また部屋が揺れた。あれから何度となく地震が起こっているのだ。そしてその揺れは徐々に大きくなり、逆にその間隔は小さくなってきている。一体この世界に何が起こっているんだ。僕は天井から降ってきた砂のような埃をはらい、倒れたスタンドを元に戻した。
「どうやら僕らにはあまり時間が無いようだ。このまま地震が続けばこの部屋もいつまで持つか…急ごう」
「まったく、この世界にもタイムリミットが存在するとは思わなかったわ。まるで3流アメリカ映画ね。さしずめ私は主人公を手助けするヒロインってとこかしら」
「すると僕がその主人公ってわけかい?アメリカ映画は嫌いだが、今だったらその主人公になりたい気分だよ。3流映画はいつだってハッピーエンドだ」
「だといいけど。私達無事に戻れたら、3流映画どころかコメディードラマでも涙を流して感動するでしょうね」
「いいね、僕らのラストはそれで決まりだ。戻ったらフルハウスをハンカチ片手に観るとしよう」
 冗談口調でお互い笑いあったが、心は真剣だった。フルハウスでもなんでもいい。とにかく、無事に帰るんだ。僕は机の下を覗き込んだ。思った通り、足を入れる空間の床には出口らしいものは一切認められなかった。あるとすれば、サイドの引き出し部分の床だろう。しかしその部分と床の間にはほとんど隙間が無く、這いつくばってもそこがどうなっているのか確認する事は出来なかった。
「やっぱり、机を動かすしかなさそうだね」
僕が諦め気味にそう言うと、「そう簡単に見つかるようじゃ、3流映画が4流に格落ちしちゃうわ」と言って彼女は机の端に手を掛けた。僕は3流も4流もほとんど違いが無いのでないかと思ったが、あえて何も言わず彼女の反対側へ回った。心臓の鼓動が早くなるのが分かった。それはきっと彼女も同じだろう。お互い、文字通り必死だった。
 僕の掛け声でお互いの呼吸を合わせ、一気に力を入れた。しかしなかなか机は動く気配を見せない。アンティークな机というのは得てして重いものだ。これが通信販売のカタログにあるような、安い合板の机ならどんなに良かっただろう。4流映画に格下げだろうが、少なくとも僕らはずっと助かる。再び呼吸を合わせて力を入れた。

ドーン

 今までで一番大きな揺れだった。天井から激しく砂のようなものが降り注いた。机の上のスタンドはあっけななくまた倒れてしまった。僕は右足をすばやく後ろに引いて重心を支えたため倒れずに済んだ。彼女も無事だ。
「いよいよクライマックスが近いのかな?」僕は、彼女が切り返しやすいようにこう言ったが、彼女は何も答えなかった。いや、答えることが出来なかったのだ。彼女は震えていた。本人は、おそらくは必死にそれを隠してるつもりだろう。しかしその瞳には明らかに怯えの感情が見て取れた。この状況下で、今まで良くがんばったと思う。彼女はいつもそうやって僕を支えていてくれた。3流映画の冗談も、きっと僕の為だろう。こんな時、映画の主人公ならどんな言葉を掛けるのだろうか。そっと抱き締め、優しい言葉の一つでも掛けてあげるのだろうか。僕が彼女のところへ歩み寄ると、彼女が顔を上げた。その瞳からは今にも涙がこぼれ落ちそうだ。その雫が溢れ出すより少し早く、僕は彼女の頬をひっぱたいた。
「しっかりしろ知子!出口はすぐそこだ!二人でここから出るんだよ!今涙を流す事がどんな意味を持つのか、お前も分かってるだろ!」
 僕は声を上げて彼女に言い聞かせた。僕は彼女の事を、少なからず分かっているつもりだ。右の手の平に痺れを感じた。彼女の頬は赤く染まっている。彼女はそれに手をあてがう事もなく、しばらくうつむいていたが、顔を上げるとこう言った。
「痛いわねぇ…。男が手を上げるなんて、映画だったら客席からブーイングの嵐よ。5流転落決定ね」その顔には笑顔が戻っていた。
「すると僕は降板かい?」
「馬鹿言いなさい。それを引き立てるのがヒロインの役目よ。仕事を台無しにされちゃたまんないわ」
「僕には勿体無いくらいのヒロインだ」
「最悪の主人公には、最高のヒロインが付くものなのよ」
 僕らは目でお互いの意思を確認しあった後、再び机に手を掛けた。呼吸を合わせ、力を入れる。この下に出口がある筈だ。もう少しなんだ。僕は呼吸を止めて全神経を筋肉に集中させた。今まで微動だにしなかった机がかすかに音を立てる。いける!動かせるぞ!その音を聞いて、僕は備わっているであろう全ての筋力に、彼女をひっぱたいた分の力を加えて一気に畳み掛けた。机の脚がほんの少し浮いたのが分かると、摩擦力を失ったそれに僕と彼女の合力が働き、机はベクトルを描きながら床の上を見事に流れた。やった!僕らは肩で息をしながら新たに表出した床に目をやった。
 そこにはだいぶ埃が積もっていたが、手で払いのけると床の一部に四角い枠のようなものが現れた。それは台所に付いてるような床下の収納扉に似ていた。恐らく取っ手を引っ張り出して開けるタイプだろう。
「出口…」
 鳥肌が立った。僕らの目の前に、元の世界へ通じる扉があるんだ。僕は取っ手の部分を引き上げてみた。それはステンレス風の金属で出来ていたおかげで腐ってはおらず、ちゃんと機能してくれた。僕は彼女を見た。彼女は慎重に、とでも言うように静かに頷いた。僕はさらに力を加え、その取っ手をゆっくり上に引き上げた。扉と床の接触面が擦れ、不快な音を立てる。僕が取っ手が扉の接合部から外れてしまわないように、力加減を読み取るようにしてなおも力を加えつづけると、やがてその口が僕らの前に姿を現した。
「開いた…開いたわ!」彼女が興奮気味に言った。
「あぁ、やっと出られるんだ!」僕も興奮していた。
 床に開いたその暗い穴を覗き込むと、小さ目の梯子が下に向かって続いているのが見えた。きっとこの梯子を降りると僕らは元の世界に戻れるに違いない。僕がその時少し目を細めたのは、きっとその穴の向こうに希望の光を見たせいだと思う。僕は彼女を見て言った。
「さぁ行こう!」

ドーン

 部屋が激しく揺れた。僕は体勢を崩しながらも、一度あけた扉が反動で閉まってしまわないようにしっかりと手で押さえた。大きな揺れのその後に、なおも余震にも似た揺れが続いていた。彼女は片手で机に捉まり、もう片方の手でスタンドを支えていた。天井からの砂が目に入るせいで僕は片方の目を閉じて彼女の無事を確認するのがやっとだ。「私は大丈夫!それよりしっかり扉を押さえていて!」彼女の声が飛ぶ。「わかった!」僕はせめて彼女の足元を目で捕らえながら、扉を支えて余震が静まるのを待った。いよいよここも危なくなってきたな。思ったより猶予は無さそうだ。急がないと。余震が収まると、僕は顔を上げて言った。
「今だ!急いで梯子を降り…」しかし彼女の向こう側に立っている人影が、僕の言葉を詰まらせた。

 DISKだった。

「随分と苦労しているようねぇ…」

僕は凍りついた。


【第十一章】

「え?誰…?」彼女は突然現れたDISKの姿に混乱した様子で呟いた。
「…DISKだ。このHPの管理人さ」
僕が立ち上がると、今度は知子が代わりに扉を支えた。DISKは僕らと少し離れた場所に、腕を組みながらその様子を見ていた。さっきまでの揺れの影響を微塵も感じさせないほど、その姿は落ち着き払っていた。
「初めまして知子さん。私の世界へようそこ」
「近づくな!!」DISKが知子へ近づく素振りを見せたので、僕は声を上げてそれを制止した。この僕とDISKの唯ならぬ様子は、状況を把握出来ていない知子にも少なからず伝わったようで彼女は困惑気味にキョロキョロと僕らの顔を見比べていた。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない。別に邪魔しに来たわけじゃないんだから。知子さんが怯えてるわよ?まるで子ウサギみたい」そう言ってDISKはクスクスと笑って見せた。
「僕は外の人間とコンタクトを取った」DISKの言葉を無視して僕は言った。この言葉が何を意味するのか、彼女には分かる筈だ。
「えぇ、知ってるわ。まさか日記を放棄して掲示板を作るとは、驚いた」
「あんたはきっと、あの書き込みは僕が創り上げた幻想とでも言いたいんじゃないか?」
「いいえ、あの書き込みは間違いなく外の人間によるものよ」
その言葉を聞いて、僕はここぞとばかりに攻撃を開始した。
「とうとう認めたな!だとしたら世界が僕によって創造されたものであるはずがない!創造主を失った世界は消滅してしまうとあんたは言った。でもそんなことはなかった。僕が外の世界とコンタクトを取ったという事が何よりの証拠だ!つまり、世界は僕の外にあるんだ」
 さぁこれにどうでるDISK。これでもまだあの戯言を続けるつもりか。知子はいよいよ訳が分からないという顔をしている。無理も無いだろう。しかし後少しだ。後少しで僕の、いや、僕らの存在を証明できるんだ。DISKはそんな知子を見つめながら言った。
「知子さん、あなたは可愛い子ね。さすが彼が創り上げた…」
「どうなんだ!答えろ!」僕はDISKの言葉を遮った。
「そんなに怯える事はないわ。言ったでしょ?邪魔しに来たわけじゃないって。ただ、一つ教えてあげようと思ってね」DISKはそう言うとまたクスクスと笑って見せたが、すぐに真顔に戻って続けた。「脳が、暴走を始めたのよ」
「何だって?」
「前にも言ったように、あなたがいなくなれば世界は創造主を失って消滅するはずなのよ。それは本当よ?でも今回は何かが違ってた。どうしてかは分からないけど、あなたがこの世界に迷い込んでからも、元の世界は消滅する事無く存在し続けていたのよ。それだけじゃないわ。今まであなたの目の前だけが全世界で、その他の情報は全て架空のものだったんだけど、あなたという創造主を失った世界は抑止力を失い、暴走を始めてしまったのよ。その結果、最小単位に抑えられていた世界が急激に拡張を開始し、今や全世界が本当に存在するようになってしまったの。つまり地球上の全ての地域が実際に存在し、また70億人全ての人間が自我を持ち、自分の考えで自ら行動しているのよ。ちょうどコンピューターが自我に目覚めるみたいにね。これってどういう事か分かる?」
「結構じゃないか。それこそ僕が考えてる正常な世界だ」
「あなたにとっては正常でも、脳にとっては異常よ。それも危機的異常ね。いい?本来脳の中に作り出される世界というのは限界があるのよ。だからこそ目の前だけの事象を全世界とし、その他のものは全て架空のものとして処理してるんじゃない。限界を超えないように、常に調整がなされるべきなのよ。でも今回はその機能が完全に失われてしまったわ。拡張した世界は、脳にとっては完全な容量オーバーよ。既に限界を超えているわ。それはあなたも身をもって体感してるはずよ?」

ドーン

 大きく部屋が揺れ、天井から砂がこぼれ落ちてきた。知子は必死に扉を支えている。僕は倒れないように重心を低くとった。地震…地震が起こり始めたのは、ちょうど外の人間とコンタクトを取り始めた頃…まさか。
「ね?限界でしょ?危機的異常なのよ」DISKはやはり揺れの影響を受けていないようで、冷静な口調でそう言った。
「なら僕が…コンタクトを取った人間は…」
「暴走した脳が創り上げた、一時的な自我を持つ異常な存在ってことね」
 そんな馬鹿な…。「この暴走をこのまま放置すればどうなる?」僕は搾り出すように言った。
「それよ。容量の限界を超えた世界はなおも脳に負担を与え続け、これを放置すればやがては脳はオーバーヒート、完全にその機能を停止してしまうでしょうね。あなたの世界はもとより、この世界だって消滅してしまうわ。もちろん私もね。脳自体が破壊されてしまうんだもの。限界を超えた風船みたいに、パーンってね。それじゃ元も子もないのよ。言ったでしょ?危機的異常だって」
「それを止める為に、あんたがここに来たんだろ?」
「そう、その通り。この脳の異常を解消するために、あなたには一刻も早く元の世界に戻ってもらいたいのよ」
「なんだって?」
「あなたが戻れば、創造主を得た世界はその抑止力を取り戻し、世界は急速に元の状態に縮小を開始するはずよ。調整ね。今一時的に自我を持ち、自ら行動してる人間達もこれで消えてくれるわ。かわいそうな気もするけど、仕方ないわね。目の前の事象以外は全て架空の情報、そう、脳に負担を与える事の無い安全で正常な世界に戻るのよ。その為には時間がないわ。あなたには早く戻ってもらわないと」
「ちょっと待ってくれ。つまりもとの世界へ戻ると言う目的は、僕もあんたも共通してるというわけだよな?」
「その通り」
「だったら、たったら今あんたがダラダラと戯言を喋って時間を浪費しているその本当の目的は一体何なんだよっ!」僕は怒りのあまり声を荒げてぶちまけた。「邪魔しに来たわけじゃないだと?冗談じゃない。出口を目の前にして、思い切り僕らのことを引っかき回してるじゃないか!言いたい事があるなら早く言えよ!」

 DISKは、興奮する僕をしばらく眺めた後、静かな口調でこう言った。
「元の世界へ戻れるのは、あなた一人よ」


【第十二章】

「ふざけるな!」僕はもうおかしくなりそうだった。
「いい?よく聞いて。彼女は…」
「これ以上何も聞く事は無い!!」
 僕は老人の言葉を思い出した。

ー 自分を、貫き通せ ー

 そうだ、僕はDISKの言葉に惑わされちゃいけないんだ。僕は僕の信念に基づいて行動するべきだ。老人が言っていた事はおそらくこの事だったのだろう。僕は僕を、貫き通すんだ。

ドーン

 再び地震が部屋を襲った。縦波と横波が混ざり合ったような複雑な揺れはかなり大きく、レンガ質の壁には亀裂が走った。僕は床に膝をつき、彼女と一緒に扉を支えなければならなかった。余震もかなりの強さだ。きっと長く続くに違いない。もう限界だった。僕は彼女に叫ぶようにして言った。
「行こう!」
「待ちなさい!」DISKがそれを制止する。「あなたが聞きたくないのならそれでもいいけど、きっとこれが必要になるわ」そう言ってDISKは何かを投げてよこした。
僕がそれをキャッチすると、何かの鍵である事が分かった。
「行きなさい。もう時間が無いわ」
しばらくDISKの様子を窺っていたが、結局僕は何も答えず、鍵をポケットにしまい込むと、床の上のスタンドを素早く掴んだ。僕は片手で扉を支え、もう片方の手でスタンドを中に差し込んだ。「さぁ行くんだ!」僕は彼女に言った。彼女は恐る恐る足を梯子に掛け、身体半分ほど下に降りたが、そこでほんの少しだけDISKに目をやった。
「知子さん…」知子と目があった時、DISKがこう呟いたような気がした。
 余震はなおも続き、その勢いを増している。既に深い亀裂は壁のあちこちを走っていた。
「早く!急ぐんだ!」僕は知子を急かした。
 彼女が降りて行くのを確認すると、続いて僕も梯子に足を掛けた。そしてやはり、DISKの方に目をやった。DISKは激しい揺れにも関わらず、まったく姿勢を崩す事無く静かに僕を見ていた。その様子を確認し、僕は梯子を降りた。

 15段くらいだろうか、梯子自体はそんなに長くはなく、僕はすぐに地面に足を付けることが出来た。そこには彼女が僕を心配そうに待っていた。「大丈夫」僕はそう言うと、手に持ったスタンドで辺りを照らしてみた。幅は1メートルそこらだろうか、かなり狭く、一人通るのがやっとだ。壁の造りは上の部屋とは違い、岩石をそのまま砕いて造った地下道のようで、岩肌が剥き出しになりゴツゴツしていた。この地下道は5メートルほど直線に続き、そこから階段となってさらに地下に潜っているのが分かった。彼女を見ると、かなり怯えた様子だ。余震が続く中、いつ崩れるとも知れない地下道に入ろうと言うんだから、その不安も当然だろう。さらにここだと、余震の揺れだけでなく激しい地響きが岩壁を伝って反響している。僕は彼女の手を取った。「大丈夫。僕を信じて、ついておいで」
 僕らは階段を一歩一歩下りていった。
 その階段は結構急な角度で出来ていて、僕らは足を踏み外さないようにスタンドで足元を照らしながら注意深く降りていかなければならなかった。そして深くなるにつれ、天井から頻繁に砂が降ってくるようになった。余震はなおも続いている。多分、この余震はもはや余震ではないのかもしれない。揺れは少しずつ大きくなっているような気がした。途中天井の岩が階段を塞ぐように崩れている個所があったが、なんとか人ひとり通れる隙間があったので、僕らはそこも注意深くくぐり抜けた。

「ねぇ、DISKが言ってた事…」その岩を抜けたところで彼女がこう口にした。「私…DISKが言ってた事…」
「奴の言葉なんか気にするな。いいかい、僕らは僕らを貫き通すんだよ。心配ない。大丈夫さ」僕はそう言って彼女を安心させた。
 大丈夫。きっと大丈夫。そう自分にも言い聞かせていた。
 階段はなおも続き、まだ出口は見えなかったが、下から吹いてくる風が僕を少しだけ安心させた。通り風が吹いてるという事は必ず出口があるって事だ。大丈夫。僕はまた自分にそう言い聞かせ、足を踏み外さないように注意深く階段を降りていった。
 どれくらい階段を下っただろうか。地震の恐怖を感じながらだったので、それはかなり長く感じた。しかしようやく出口らしきものが見えてきた。
「出口だ!後少しだがんばれ!」僕は叫んだ。
「うん!」彼女は精一杯の大きな声でそれに答えた。その手はしっかりと僕の手を握りしめている。そうだ。がんばれ、がんばるんだ。

 そして僕らは出口を抜けた。
 抜けた瞬間突風が僕らを襲った。その風に流されながらも、なんとか身をかがめて踏ん張った。「大丈夫か!?」
「えぇ、大丈夫よ!」
 僕はスタンドで辺りを照らしてみた。すると僕らがいる場所は、断崖絶壁に張り出している10メートル四方の平らな岩盤の上だという事が分かった。さらに突風に流されたせいで、あと少しのところで谷底に転落するところだった。果てしなくそそり立つ岩壁には僕らが今出てきた出口がぽっかりと口をあけているだけで、その上方は全く光が届かない暗闇が続いていた。ここがどれくらいの高さに位置するのか分からないが、この強風からするにかなりの高さであるように思える。岩盤の端には手すりすらない。僕はここから落ちてしまわないように、とりあえず中央に移動した。
 すると僕らが出てきた出口からちょうど真正面の岩盤の向こうの空中に、何か大きな物体が浮いているのが見えた。僕は注意深くその物体に近づいた。強風に吹かれ空中で大きく揺れている。光を当ててみると、それはロープウェイのゴンドラである事が分かった。
「なんでロープウェイが…」
 ゴンドラを吊るしているケーブルは、向かって右側の下方から延びており、ゴンドラを通じて左上方へと消えている。光は届かない。目の前で大きく揺れているゴンドラは塗装は施されておらず ―あるいはそれすら判断できないほど表面が腐食してるのかもしれない― 車体は錆び、窓は埃が積もり曇っていた。これが正常に稼動するのか甚だ疑問だが、状況から見ておそらく僕らはこれに乗る事になるんだろう。僕は覚悟を決めた。
 しかし電力が供給されているようには見えない。僕はもう一度辺りを見渡した。何処かにこのゴンドラのコントロールパネルがある筈だ。再び僕らが出てきた方へ光を向けると、岩盤の端に何かがあるのが見えた。きっとあれに違いない。僕が近づくと、ビンゴ。それはゴンドラのコントロールパネルだった。
「これ、動くのかしら?」
「分からない。でも試してみるしか無さそうだ」
 僕はパネルに積もった土の埃を手で掃った。しかしながら僕は今までゴンドラの操作なんてやった事がない。パネルには幾つもボタン類が付いており、そのどれもが怪しく見えた。文字は風化して読めそうに無い。運を天に任せて無作為に押す事だけは避けたい。僕らに失敗は許されないんだ。僕は何とかパネルの文字を解読しようと試みたが、日本語かどうかの判断すら出来なかった。

ドーン

 地震だ。僕らはバランスを崩さないように、そして強風に流されないように目の前のコントロールパネルにしがみついた。時間が無い。急がないと。その時彼女が何かを発見した。
「ねぇ!これを見て!」
 彼女が指差すパネルを見ると、そこには鍵穴らしきものがあった。鍵式の動力源スイッチのようだ。鍵…そうだ、DISKに渡された鍵、あれはきっとこれの鍵だろう。僕はポケットからその鍵を取り出し、鍵穴に差し込んでみた。中には砂が入り込み、なかなか入ってくれない。僕は一度鍵を抜き、思い切り息を吹いて砂を飛ばした。そしてもう一度鍵を差し込んでみる。頼む、入ってくれ。少なからずジャリジャリとした感触がその鍵から伝わってきたが、なんとかそれは鍵穴に収まってくれた。
 鍵を回す角度に3つほど記しが刻んであったが、砂を飛ばしたおかげでスタートという片仮名で書かれてある記しをなんとか見つけることが出来た。僕はその記しの角度まで鍵をひねった。するとその横の大きな宝石みたいな形をしたランプが赤く点灯すると同時に、ドゥンドゥンドゥンと3回ほどスターターのようなものが駆動する音が響き、続いてそれが連続的な稼動音へと切り替わった。コントロールパネルのボタン類も全て点灯している。点灯するとそのバックライトに照らされて文字が浮かび上がってきた。よし、これならなんとか…。ボタンは上段と下段に4つづつペアの状態で並んでおり、上段のボタンはそのうち3つが緑色のライトで点灯し、下段は1つだけが赤色で点灯していた。おそらく上段の緑色のライトがON、もしくは正常を示し、下のライトがOFF、または異常を示しているんだろう。
 僕は緑色のライトの文字を一つ一つ読んでみた。油圧、電力、駆動部、と表記されている。どうやらONというよりも正常を示しているようだ。残る赤いライトのボタンを見た。制止、と表記されてある。ということは、これがゴンドラを動かす直接的なボタンだろう。きっとその上のボタンを押せば緑色に切り替わり、稼動と表記されるに違いない。コントロールパネルには他にもメーター類が付いていたが、それらは速度などを示す間接的なもののように思えた。下手にいじらない方がいいだろう。これでおおよその見当はついた…と思う。きっと稼動ボタンを押せばゴンドラが動き出すに違いない。というか、そう信じたい。しかしここで問題が一つ出てきた。
 誰がこのボタンを押すのか、という事だ。
 DISKの言葉が頭をよぎった。

― 戻れるのは、あなた一人よ ―

 そうか、DISKはこの事を言ってたんだ。しかし残念だったな。僕は諦めの悪い男なんだ。さしずめダイハードの主人公ってとこだろうか。役者の名前は忘れてしまったがね…。スタンドの代わりにジッポライター使ってもいいさ。なんてね。

ドーン

 また激しい揺れが僕らを襲った。僕らはボタン類に触れないように注意しながら、しかし確実にコントロールパネルにしがみついた。ダイハードの主人公ならこんな時「ちきしょーちきしょー」と愚痴をこぼしながらもナイスアイデアを搾り出すんだろうな。揺れはなおも続いている。上方からいつ岩の塊が降ってくるかも分からない。考えてる時間は無さそうだ。僕はゴンドラに目を向けた。スイッチを入れたせいだろう、内部の蛍光灯が点灯し、暗闇に光を漂わせながら揺れている。その前方の岩盤の余裕は約5メートル…。僕は彼女を見た。彼女は怯えた目で僕を見ていた。僕は覚悟を決めた。
「知子、君は先にゴンドラに乗るんだ」
「え?だってそれじゃ」
「僕はこの稼動ボタンを押して、すぐにゴンドラに走り乗る。大丈夫!前方には5メートルも余裕があるんだ。それにいいかい?ゴンドラってのはすぐには動き出さないものなんだよ。何かの本にそう書いてあった。君はゴンドラの扉を開けたまま待機していてくれ。うん、僕らはツイてるぞ!二人で帰るんだ!」
 もちろんゴンドラがすぐに動き出さないと書いてある本など読んだ事も無い。それどころか想像を越えるスピードで発進する可能性もないわけではなかった。それは僕が実際このボタンを押すまでは、まったく分からないのだ。しかし今はこう言うしかない。 ゴンドラはすぐには発進しないんだ。僕は自分にも言い聞かせた。
 余震は徐々にその強さを増してきている。もう時間が無い。
 僕は怯える彼女の手を取り、スタンドで足元を照らしながらゴンドラの扉の前まで連れて行った。大きく揺れている車体に身体を持っていかれないように注意しながら僕は扉に手を掛けた。しかし錆びていてなかなか開こうとしない。危うくゴンドラと岩盤の間に足を滑らせてしまいそうになった。僕は一度扉から手を離し、少し距離を置いてから思い切り扉を蹴った。ドムという鈍い音と共にドアと車体との接触部からサビがバラバラと落ちていった。その衝撃で車体自体も大きく揺れ、そのまま落下してしまうのではないかと心配したが、どうやら大丈夫なようだ。僕は再び扉に手を掛け、力を込めた。今度はさっきまでの錆び付きが嘘のようにスッと扉は開いた。力はほとんど必要なかったため、僕は反対側へよろめきそうになった。
 とにかく、僕はこうやって扉を開けることに成功したんだ。中はひどく薄汚れており、3本の蛍光灯のうち1本は切れていた。僕が試しに中へ乗り込む。腰を上下に動かしゴンドラに負担を掛けてみた。落下の心配は、無いようだ。よし、これでうまくいく!僕はゴンドラを降りて彼女に言った。
「大丈夫!ゴンドラに乗るんだ!これが僕らの最後の仕事だ!さぁ帰ろう!」
 僕の胸はこの緊張感の中で少なからず高鳴っていた。帰ってハンカチ片手にフルハウスを観るんだ。しかし次の彼女の言葉に、僕は耳を疑った。

「私、ここに残るわ」

 予想もしないこの彼女の言葉に、僕は何も口にする事が出来なかった。いくら探しても対応する言葉が見つからないでいたんだ。下方からの風が僕らの間を駆け抜ける。僕の両足が揺れを感じた。しかしそれが余震のせいなのか、僕自身が震えているのか分からなかった。僕は動揺していた。
「な…何を言って…」
「私は元の世界に戻っちゃいけないのよ!もう戻れないの!DISKが言ったように、あなた一人が戻るべきだわ!」
「馬鹿を言うな!あんな奴の言葉を今更信じると言うのか!今までがんばってきたじゃないか!これで僕らはやっと元の世界へ戻れるんじゃないか!」
「私が戻ると、きっと世界はおかしくなるわ。あの世界はあなたの世界、私が戻るべきではないの!」
「何の根拠があってそんな事を言うんだ!いいか、僕は僕で、君は君…」
「私には分かるのよ!感じるの!」彼女は僕の言葉を遮った。「私はこの世界に長く存在しすぎたの。今まで私はあなたによって創り出された存在だったけど、今は違う!ここに長くいた事で、私の中にDISKの世界が混ざりこんでしまったのよ!だから分かるの!私は今、純粋にあなたの存在ではなくなってしまったのよ!」
 彼女はおよそ、僕が教えてない事まで口走っている。世界の構造、ましてや僕と彼女が創造主と被創造者というDISKの説は一度も口にしていないはずだ。先ほどの僕とDISKの会話を聞いたとしても、これほどまでに筋の通った言葉を言えるとは思えない。彼女は…。
「私なら大丈夫よ。あなたがいなくなってもこの世界で生きていけると思うの。既に半分はDISKの世界の存在になってるんだもの。それに、あなたは元の世界で、元の私を創造すれば済む事でしょ?あなたは世界の創造主なんだから、やろうと思えば出来るはずよ。でも今の私は、あなたが知っている私ではないのよ。だから、私はあなたと一緒には行けないわ。私なら平気。気にしないで。現に今、私は悲しくともなんともないんだもの」
 彼女はおよそ落ち着いた口調で僕にそう語った。世界…これまで信じてきた世界というものが、今僕の前でその姿を消そうとしている。この世界は彼女まで変えてしまったのか。僕から何もかもを奪い去ってゆくのか。それを目の前にして、僕は結局無力でしかないのか。だとしたら僕がここに存在する理由は何だ。この世界で全てを失わねばならない理由は何なんだ。僕という存在は、いったい何なんだ。しかし信じてる、その理由は僕の内にあると。僕は最後まで自分を信じてる。そして彼女を信じてる。僕は彼女の顔を見た。
「…じゃぁ、どうして泣いてるんだい?」
「あ…」
 彼女は慌てて涙を拭い、その顔を隠すようにうつむいた。僕は彼女を、そっと抱き寄せた。
「いいかい?僕にとっての君は、今この腕の中にいる君だけだ。これまでも、そしてこれからもずっとだ。僕は僕で、君は君だ。世界の創造なんて関係ないじゃないか。それでも君が行かないと言うんなら、僕は元の世界に魅力なんて感じないよ。そんな世界は無くなった方がいい。僕らは抱き合いながらこの世界を終わらせようじゃないか。僕も、ここに残るよ。こんなエンディングも素敵だろ?」
 僕は彼女にキスをした。彼女の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちてくるのが分かった。彼女も僕を強く抱き締めていた。そうだ。それでいい。髪の感触、頬を伝う涙、細い腕、温かい背中、そして僕らの思い出、その一つ一つを確認するように、僕は彼女を抱き締めキスをした。地震の揺れはいよいよ激しくなっていた。地響きが体中に響いてくる。何処かで岩が崩れる音がした。もうそろそろ、この脳も限界だろう。後は機能を停止し、何もかもが無に還るのも待つだけだ。元の世界も、この世界も、DISKも、そして僕と彼女も、全てが無に還るんだ。僕らは後悔しない。これでいいんだ。これで全てが終わるんだ。これはきっと、ハッピーエンドなんだ。
「君は、僕には勿体無いくらいのヒロインだよ。それに引き換え、僕は最悪の主人公だったね」僕がそう言うと、彼女は涙を拭いながらこう言った。
「いいえ、最悪の主人公とは、ラストには最高の存在になってるものよ」彼女は僕の顔を見てにっこりと笑って見せた。「あなたは最高の主人公だわ」そして次の瞬間、彼女は僕を突き飛ばした。

 僕の身体はその衝撃で後ろにバランスを崩し、気が付いた時、僕の頭上には2つの蛍光灯が見えた。それはゴンドラの中だった。
「なっ!まさかっ!」
 僕が駆け降りるより一瞬早く、彼女が扉を閉めていた。
「何をするんだ!ここを開けろ!開けるんだ!」僕は必死で扉に力を加えたが、ゴンドラは内部からは開かない構造になっている。彼女は外から完全にロックしていた。
「あなたは元の世界に戻るべきなのよ!私の為に、全てを捨てちゃダメよ!あなたはあなたの人生を生きてっ!私の事は忘れて!」彼女は涙で顔をくしゃくしゃにしながらそう叫び、コントロールパネルへ走っていった。
「そんな!なんで!なんで!」僕は無我夢中で扉を蹴った。しかしそれはびくともしない。「クソッ!クソッ!」
 曇った窓の外にはパネルを操作しようとする彼女の姿が映っている。その肩は震えている。彼女は泣きじゃくりながら、稼動ボタンに手を掛けた。
「待て!待ってくれ!」僕は必死で叫んだ。しかしゴンドラは動き出してしまった。「そんな!君がいない世界なんて意味が無い!二人で戻ると約束したじゃないか!ハンカチを片手にフルハウスを観るんだろ!こんなことって!これじゃ、君との約束が守れないじゃないか!」僕は必死で叫んだ。頼む!止めてくれ!僕はこぼれ落ちる涙を拭うこともせず、窓の外の彼女を見た。彼女の口が、振るえながら何かを言っている。

―ア・リ・ガ・ト・ウ―

 彼女は地面に崩れ落ちた。それでもなお、肩を震わせ僕を見ている。「なんで!なんで!」ゴンドラは岩盤を離れ、徐々に彼女との距離を伸ばしている。彼女の姿が小さくなる。僕は窓に顔をへばりつけながらそれを見ていた。「なんで!いったいなんで!」僕の拳からは血が流れていた。しかし痛みなど感じない。僕は彼女の姿だけを見ていた。本当に小さくなった、彼女のその姿だけを目で追っていた。ゴンドラの周りを白い光が包み出した。「待って!待ってくれ!」僕は何度も叫んだ。それでも光は徐々に明るさを増し、完全にゴンドラを包み込んだ。目の前が真っ白になる。僕はその中で、なお窓に顔をへばりつけながら、何度も何度も呟いていた。

「なんで…なんで…」


【第十三章】

 遮光カーテンの隙間からは太陽の光が差し込んでいた。
 天文学的可能性によって不幸にもこの部屋に迷い込んでしまった光で、部屋全体が淡い悲しさに覆われている。それはベッドの横に置かれた時計とて例外ではなかった。
 AM 09:14
 その数字がいつもより少しだけ暗く見えたのも、きっとこの部屋の光たちが自己の身を嘆いていたからだと思う。光は時として、暗さをも植え付けるものだ。僕はそれを拒否するかのようにカーテンを開けた。強い光が一気に流れ込んでくる。太陽が発するその中で、僕の部屋に迷い込むのとは本当に運がないと思ったが、僕の心はいくぶん明るくなった。微妙な光というのがいけない。やはり全身で浴びてこそのものだ。僕の細胞はまるで光合成を行っているかのように活力を取り戻す。古来から人は太陽のリズムと共に生活してきた。その歴史に逆行する遮光カーテンなんか処分した方がよさそうだ。僕はそう思った。
 テーブルには2cmほど飲み残した珈琲が置いてある。僕はそれを飲むべきか少し考えたが、飲まないことにした。カップはあたかもそこが自分のサンクチュアリであることを主張しているかのように、至極当たり前に存在している。試しにカップのサンクチュアリはテーブルではなくて、キッチンに置かれた戸棚の中ではないかという疑問を投げかけてみた。

「戸棚の中だろ?」

 僕は自分の声が脳に響いただけなのを確認してバスルームに向かった。こういう事には慣れている。熱いシャワーはとても気持ちのいいものだった。僕はいつも決めているように右腕から洗い、胴体を経て左腕、それから最後に足の裏を洗った。鏡の曇りを手でこすりながら髭も丹念に剃った。剃り終えた自分の顔を眺めてみた。
 いつもと変わらない。
 変わるわけがない。
 僕はバスルームを出た。
 ドライヤーをかけ、髪をセットし、クローゼットの中から適当な服を引っ張り出した。ふとテーブルに目をやると、さっきのコーヒーカップがまだ自分のサンクチュアリを主張していた。

「戸棚の中だろ?」

 僕はカップを流し台に移動させて部屋を出た。

 空は太陽と同盟を結んだかのような強気な姿勢で僕に直射日光を降り注いだ。今日はいろんなものがいろんな主張をしてるんだな。街はそれを素直に受け入れてるのか、それとも諦めてるのか、何も言わずにただ存在してた。国道までの道は人気もなく、酒造工場が鼻に付く匂いを放出していた。僕はその道を抜け国道に出ると、適当なファミリーレストランに入った。外とは違い、レストランの中の空気は灰色だった。
「イラッシャイマセ オタバコハオスイニナラレマスカ?」
 僕は答えた。
「イイエ」
 そして案内された席に座るとさっそく料理を注文した。
「ヒラメのムニエル赤ワインソース仕立てを」
 店員は怪訝な顔をしている。それを確認してさらに続けた。
「知らない?鍋にバターをひいて、玉ねぎのみじん切りをよく炒めるんだ。それにローリエ、ヒラメのあら、スープ、赤ワインを入れて、弱火で10分ほど煮る。これを網で…」
「当店では取り扱っておりませんが」
「それじゃ、ペペロンチーノを」
「かしこまりました」
 怪訝な顔をした店員は伝票に走り書きをして去っていった。きっとその文字も怪訝書体に違いない。店内に客は少なく、隣の席には唯一の家族連れが子供のいたずらをまったく放置してランチセットを食べていた。向かいの窓際では眼鏡をかけたサラリーマンが英字新聞を逆さに読んでいる。入り口に近い席の男は飲み干したコーヒーカップになにやらぶつぶつと呟いていた。
 全てがこの店の一部品のように、およそ機械的にその役目を間違った方向で遂行していた。ひょっとしたら彼らの体内では錆びたギアがギーギーと音を立てて回っているのかもしれない。あるいは人間で、しかし頭のネジが2、3個飛んでるのだろうか。どっちにしても整備不良だ。機械的整備不良と精神的整備不良。この二つに不等号を付けるとしたらどっちだろうと僕は考えたが、すぐにどうでもよくなった。ヒラメのムニエル赤ワインソース仕立て…僕も彼らと同類かもしれない。ちょっとした冗談のつもりだったんだが。しかし冗談と言うのは相手の理解を得る事が出来なければまったく無意味だ。いや、無意味どころか事態を悪い方向へと導く事も少なくない。ちょうど今僕が精神的整備不良かもしれないという疑念を頭の中で必死に否定しているように。そもそも情報の伝達という観点で冗談の役割を検証したところ、それの持つ意義はおよそ社会的コミュニケーションに…とそこで店員がペペロンチーノを運んできたので僕は考えるのをやめた。
「ごゆっくり」
 そう言って彼女は注文を取ったときと同じように、灰色の空気を漂わせながら去っていった。テーブルの伝票入れに入った伝票は、無理やり押し込められたのか妙な形に折れ曲がっている。どこにどれくらいの力を加えるとこんな妙な皺ができるのか、もしくはこれは彼女の意図した形であり、これが正しい伝票の入れ方なのか、僕はいろいろな方向から伝票につけられた皺について考察を始めた。

「大脳新皮質と伝票の皺」

 僕はずっと伝票を眺めながらパスタを食べた。おかげでパスタの味はよく分からずに済んだ。支払いの時さっきの店員がレジに立ったので、あの伝票の皺について聞こうと思ったがやめた。これ以上精神的整備不良の疑惑を受けるのは得策じゃない。この店では冗談なんて通じないんだ。

 店を出た僕は辺りを適当に歩き回り、公園のベンチに座って鳩に餌をやってるおじいさんを眺めた。おじいさんは無表情で鳩を眺めていた。どうして鳩に餌をやってる人というのは決まって無表情なんだろう。およそ動物に接している態度には見えない。言ってみれば嫌々ながら餌をやっているようにも見える。
 ひょっとしたら僕の知らないところで鳩愛護委員会とかいう行政組織が出来上がってて、無作為に選出した国民に鳩に餌をやる義務を課しているのかもしれない。きっとそれに反すれば3年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処されるのだ。おじいさんは運が無かった。いきなり掛かってきた電話で自分にその義務が課せられる事を知らされたのだから。もしくは職員が直接おじいさん宅にやってきたのかもしれない。そしてこう言うんだ。「鳩愛護法第4条第2項に則る適正な手続きによってあなたが選出されました。よってこれから一日二回の餌付与義務が課せられます」と。こう考えればおじいさんのこの無表情な理由も納得できる。日本政府は憲法において平和主義を尊ぶあまり、平和の象徴としての鳩までをも保護しようとしているのだ。恐るべし平和主義的イデオロギー。
餌付与義務を追行しているおじいさんは相変わらず無表情だ。きっと国家のあり方に疑問を抱いているのかもしれない。あるいは行政訴訟でも起こそうと考えているのだろうか。僕はそのおじいさんを眺めながら、ただただ自分が選出されなかった事の偶然に胸を撫で下ろすばかりだ。
おじいさんが義務を無事完了したところで、僕は公園を出て部屋に戻った。

珈琲を煎れている間にさっきのカップを軽く洗う。
珈琲が出来ると、僕はそれを飲みながら新聞を読んだ。
それから部屋を掃除した。
オーディオの上にホコリが積もっていたので丹念に拭き取った。
時計の位置がずれていたので元の位置に戻した。
支払いの領収書が束になっていたので全て捨てた。
賞味期限が切れたミルクも処分した。
部屋が綺麗な状態になったのを確認して、僕はパソコンの電源を入れた。
立ち上がると、僕はあのサイトに繋いでみた。


ーーーーーーーーーー

  6月22日
  地震は止んだ。
  部屋は相変わらず薄暗い。
  私みたいだ。

  6月23日
  あの人は今どうしてるだろうか。
  チョークは今日も日付を刻み続ける。
  そして私は日記を綴り続ける。

  6月24日
  変化なんて何もない。
  ただ一日、携帯を眺める。
  ボタンを押すとあの曲が流れた。
  涙も流れた。

  6月25日
  昨日からずっと着メロを聴いている。
  ずっと昔の事を思い出す。
  その記憶が私の存在を証明してくれる。
  私は、携帯的存在。

  6月26日
  携帯のバッテリーはとっくに切れてる。
  でも聴こえる。
  あの曲は流れ続ける。
  私の頭の中で。

  6月27日
  流れる。
  流れる。
  曲。
  shape of my heart
  が、流れる。
  私の心?
  どこにあるの?
  私はただの、携帯的存在。
  自分の存在を携帯に依存する。
  携帯的存在。
  私は自分の存在を携帯に依存する。
  携帯的存在。
  携帯的存在。
  私は自分の存在を携帯に依存する。携帯的存在。
  私は自分の存在を携帯に依存する。携帯的存在。
  私は自分の存在を携帯に依存する。携帯的存在。
  私は自分の存在を携帯に依存する。携帯的存在。
  私は自分の存在を携帯に依存する。携帯的存在。
  私は自分の存在を携帯に依存する。携帯的存在。
  私は自分の存在を携帯に依存する。携帯的存在。
  私は自分の存在を携帯に依存する。携帯的存在。

ーーーーーーーーーー

 夢じゃなかった。


【第十四章】

 静かだった。
 ベッドの上で独り天井を見つめる僕にとっては、全ての音が脳に届く前に改ざんされ、無意味なものとして血中に溶け込んだ不純物のように静かだった。
 冷蔵庫の音も、窓の外の風の音も、時折響く車の発信音や排気音も、誰かが何処かのドアを開ける音も、空に浮かぶ雲の対流も、光や影も、全てのものが音として大気を振動させる事を拒否してるかのようだった。
 僕が眺める天井は無機質にそこに存在していたが、その姿は幾分ぼやけて見えた。それは涙のせいではない。このとき既に涙は枯れ果てていた。僕は眼球の筋肉を収縮させ、焦点を天井に合わせようとした。しかし何度あわせてもすぐにまたぼやけてしまう。僕はまた筋肉を収縮させてみたが結果は同じだった。僕は何度かこの作業を繰り返した後、その原因に気が付いた。
 僕が見つめているのは天井ではなく、その向こうに浮いている自分自身の心なのだ。
 僕は僕の心を見つめていた。天井の向こうに浮いているそれはとても頼りなく、今にも空気やら天井裏の木材やらに溶け込んでしまいそうに見えた。目を離すと、あるいは風船のようにゆらゆらと飛んでいってしまいそうだ。僕はそれが空気に溶け込んでしまわないように、または上空に飛んでいってしまわないように、ジッと見つめ続けなければならなかった。少しでも目を離すと取り返しのつかないことになりそうで怖かったのだ。心はある時は真っ黒に、またある時は真っ白にその姿を変化させている。そのたびに僕はとても切ない気持ちになった。その絶望的な空気はやがて僕を包み込み、僕の存在までも取り込もうとしているように思えた。絶望的な空気は新しく絶望を生み出し、その絶望がさらにまた絶望を作り出す。その終わる事の無い連鎖反応が全ての音までも飲み込んでしまう。

 静かだった。

 怒りが込み上げてきた。それは何に対しての怒りなのかは分からない。自分自身に対してなのか、ぼやけた天井に対してなのか、もしくは大脳の神経が偶然に作用し、この感情を作り上げてしまっただけかもしれない。そもそもこれは怒りではないのかもしれない。今の僕にはそれが怒りなのか、それとも他の感情なのか判断する事は出来なかった。それさえも、僕には出来ないのだ。ただそれは確実に僕の胸を締め付けていた。息苦しいまでの力で僕に覆い被さってくるのだ。僕はそれに目を瞑って耐えた。ただひたすらにそれが通り過ぎてくれるのを待った。目を閉じていると、いろんな人がいろんな事を僕に語りかけているような気がした。しかし僕は彼らが何を言っているのか聞き取る事は出来なかった。あまりにも早く、しかも同時に多くの言葉を投げかけられ、そのひとつひとつを拾い出すことが出来なかったのだ。だが僕は、その言葉の向こうにたった一つだけ意味を見出す事が出来た。ようやく胸の締め付けが去り、僕は目を開けた。そしてベッドから身を起こして呟いた。

 助けに行こう。

 そうだ。助けに行くんだ。どうやって助けるかは問題じゃない。僕は知子を助けに行く。それだけだ。やるべき事は、決まってる。
 僕は服を着て、外に出た。
 外は相変わらずいい天気だった。太陽の日差しが降り注ぎ、影はその存在をより一層確立させる。木々はめいいっぱい広げた葉で光を受け、サラリーマンは上着を脱いで額の汗をハンカチで拭う。熱せられた大地が上昇気流を起こし、空には入道雲がそびえている。7月が、僕らの隅々まで染み込んでいた。
 信号待ちをしている車からカーラジオが流れてきた。ラジオではパーソナリティーが真面目な口調でヘッドラインニュースをおよそ機械的に読み上げている。何処かの住宅街で引ったくり事件が起こったとか、なんとかという芸能人が誰それと離婚したとか。そういう詰まらない話題ばかりだった。僕には何の関係もない。信号が青に変わると、その車は詰まらない話題を乗せたまま何処かへ走り去っていった。世の中には詰まらない話題が多すぎる。そしてまた、僕は歩き始めた。

 扉には鍵は掛かっていなかった。僕はそれを開けた。
 そこには高架水槽が設置してある以外に目立つものは何も無かった。扉の横の蛇口は長い間使われていないようで、そのステンレスの金属に白っぽい粉を付着させている。時折貯水槽のモーターが稼動し、タンク内へ水を供給する音が響いたが、それが終わると風の音だけが僕を包んだ。
「どうして空は、こんなにも青いんだろう」僕は空を見上げてそう呟いた。そしてクスリと、ほんの少しだけ微笑んだ。空は青い…か。僕は一段高くなっている縁に足を掛けた。
 この屋上から見える都会の景色はビルばかりで、その空気は車の排気ガスやらでかすんでいたが、広がる世界のひとつひとつに生活を、人々の生命を感じる事が出来た。遠くの空を名前も知らない鳥が飛んでいた。その下の高速道路には車が列をなしている。ひときわ大きい金融業者の看板がその存在を主張し、その向こうに鉄道が走っているのがかすかに見える。全てのものが各々に存在し、僕と無関係に世界を構築しているように思えた。僕はもう一度空を見上げた。
「青だ…」
 貯水槽のモーターが再び稼動する音が聞こえた。大量の水が乱暴にタンク内へ流し込まれている。ビルの屋上でも水の音は聞けるんだな、と僕は思った。モーターはしばらく稼動していたが、タンクが水でいっぱいになると、再び沈黙に帰っていった。そしてまた、風の音だけが僕を包んだ。僕はあの曲を口ずさんでいた。

 He may play the jack of diamonds.
 He may lay the queen of spades.
 He may conceal a king in his hand.
 While the memory of it fades.
 I know that the spades are swords of a soldier.
 I know that the clubs are weapons of war.
 I know that diamonds mean money for this art.
 But that's not the shape of my heart.

「SHAPE OF MY HEART…僕の心は、一体どんな形なんだろう」

 僕は
 足を宙に
 踏み出した。

 僕の身体はすさまじい風を受けながら重力に従い落下していった。恐怖は感じない。ただ全身で風を受けた。落下のスピードは加速度的に速まっていく。しかし逆に時間の流れは遅くなっていった。地面がゆっくりと近づいてくる。僕はそれを目を閉じる事も無く見つめ続けていた。後少しで、全てが終わる。僕は知子の事を想った。

―ここ、どこ?―
―私達はお互いがお互いの存在を証明し合ってるのよ―
―携帯的存在―
―ねぇ、私達ここから出られるかしら―
―あなたといると安心するわ―
―私…ずっと寝てたの?―
―そんなあなたが好きよ―
―さしずめ私は主人公を助けるヒロインってとこかしら―
―痛いわねぇ―
―開いた!開いたわ!―
―私、DISKが言ってた事…―
―分かるの!私はもどっちゃいけない存在なのよ!―
―あなたは最高の主人公だわ―
―あなたはあなたの人生を生きて!―



―ア・リ・ガ・ト・ウ―



「知子…今助けに行く」

 今終わりを迎えようとしているこの世界の中で、
 僕の心は、7月の空のように澄みわたっていた。

EDEN

EDEN

ネット中に気を失い、レンガ質の部屋に迷い込んでしまった男。 男はそこからの脱出を図る。 その中で明かされていく「世界」の真実。 真実か愛か、男が選んだ道とは。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 冒険
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-18

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