Puppets In The Belief (ツサミ)
※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)
一
西日に薄明るく浮かぶ部屋の散乱する書類を踏まないように気をつけながら、唯一書類の載っていない椅子へ腰掛ける。すると、ほどなくして扉が開く音がした。
入って来た辻井は気だるそうな顔で向かいに座ると、相変わらずだな、と文句を垂れながら書類を整理し始めた。
「他の奴らは?」
「俺が最初」
いつものことだ。辻井は黙々と山を片付けていたが、一枚の紙を手にするとため息をついた。
「それがどうかしたのか?」
「なんだお前、知らないのか」
辻井が寄越したそれは、俺も見慣れた記事の原稿だった。しかし中身には見覚えがない。
「死人が生き返る?」
その記事によると、最近いくつかの病院で死人が生き返る事態が生じているらしい。困惑する医師の写真と共にそのコメントも載せられている。
「ここらでは有名な話なんだがな」
「悪かったな、疎くてよ」
「まぁ、最近の話だしな」
「で、それがどうかしたのか?」
辻井は眉間に皺を寄せた。幼い顔立ちのためか、影のかかったその笑みが何かを企んでいるように見えて不気味である。
「それを追ってる奴が、ちょっとな」
目を遣ると、文責の名前に馴染みがあった。
「佳奈がどうしたんだ?」
「いや別に天原がっていうわけじゃないんだけど」
その続きが気になったが、辻井はそれきりだと言わんばかりに作業を再開した。次々に整然と積み上げられていく書類を眺めながら考えてみる。この事件はそれほどやっかいなものなのか。よくテレビで聞くような奇跡ではないのか。
「なぁ」
「うん?」
辻井はこちらをちらとも見ず、最後の塊に手をつけながら返事をした。
「奇跡の類は扱わないんじゃなかったのか?」
我が新聞部は奇跡と銘打って涙を誘うのを嫌っていた。正確には目の前の小柄な男が、である。辻井は編集長になるとこの方針を明確にした。曰く、奇跡は思考の停止である。その意味について尋ねたことがあった。すると、辻井は苦笑いしながらつらつらと語った。難しいことはよく分からなかったが、奇跡と聞くと俺たちはそれについて深追いしなくなる、ということらしかった。奇跡だったなら何も言えない。そこにどんな因果関係があるかなどは奇跡という言葉の前において無意味な探究だ。奇跡を眼前にさらに突き進もうとする人間はあまりいない。特に、ある前提の上に成り立つ奇跡的なストーリーに対しては。そして辻井は言った。感動物語は現実を否定するのだ、と。
「だから困ってるんじゃないか」
「嫌なら突っぱねればいいだろ」
辻井がため息をつく。
「奇跡じゃない、と言ったら?」
思わず眉間に力が入る。俺の抱いた疑問を何度も投げかけられたのだろう、辻井は厭々ながらといった風に答えた。
「そいつはどうも奇跡じゃないらしい。少なくとも天原はそう思ってる」
「人が生き返るなんて奇跡以外の何物でもないだろ」
当たりのことに、辻井は更なるため息で応じた。雑然としていたデスクはいくつかの山に分けられていた。それは平野を開拓しビルを建てるようなもの。辻井は赤ペンを握ると、無言でビルの解体に取り掛かかる。ペン先が滑る。時折小刻みに叩く音が聞こえる。校正から編集まで一人でやってのける辻井は構成員の少ない新聞部になくてはならない存在だった。俺が初めてここにやって来た時も薄暗い部室で一人赤ペンを走らせていたことを思い出す。その時と同じ楽しげな笑みを眺める。以前、その笑顔の理由を聞いたことがあった。校正と編集を一人でこなすには荷が重いだろうに、辻井は平然と、寧ろどこか驚きを込めた表情で、楽しいと答えた。あの佳奈が新聞部に留まる理由が分かった気がした。
「なにニヤニヤしてんだよ」
訝しげに尋ねられ、俺は軽く首を横に振った。辻井は納得いかないまま作業を再開したようだ。ここはいつ来ても薄暗い。かろうじて夕陽が差してはいるものの、手元は暗いだろう。手に持つコップには焦げたように黒い液体が入っている。ここに来る前に買ったそれは、安物の苦さを鼻腔に響かせた。
急に手元が明るくなる。
戸口に佳奈が立っていた。
「あんたまた来てるの?」
呆れた様子で隣の椅子に座ると、デスクに置いたばかりの紙コップを奪う。飲んだ途端にその顔が歪んだ。
「コーヒーじゃん、これ」
「なんだと思ったんだよ」
「ミルクティー」
佳奈はしかめ面で俺を見つめていたが、しばらくするとつまらなそうにデスクに向かい、鞄からノートパソコンを取り出した。
「そういえば、電気つくんだな」
辻井が山の中から顔を出す。
「え、結構前からちゃんとつきますよ?」
その後の二人のやりとりを聞いていて初めて知ったのだが、どうやらこの大学も節電の煽りを受けていたらしい。そのせいで、今まで部室の電気が止められていたようだ。一ヶ月前には復旧していたのだが、辻井は知らずに陽の光だけを頼りに仕事に励んでいたことになる。
ちまちまとした音も加わり、多少は賑やかになった。全員で何人いるかはわからないが、六つあるデスクが全て埋まったところを見たことがない。もっとも、そのデスクだけで一杯一杯の狭い部室は全員揃うことなど望んでいない。それに、新聞部はただ個々人で記事を書いてしまえばいいのであり、本来なら部室を使う必要はないのだ。だが辻井は何を気に入ったのか部室に入り浸っている。ふと隣を見ると、佳奈が真剣な表情でパソコンの液晶画面を睨んでいた。
「奇跡を追ってるんだってな」
なんの気なしに訊いたつもりだったのだが、予想以上に食いつきがよく、その目は鋭い輝きに満ちた視線を送り付けていた。
「奇跡じゃない」
「死人が生き返るなんて奇跡以外のなんだって言うんだよ」
答えを言い澱む佳奈を見かねてか、辻井がペンを止めた。
「それを調べているんだろ?」
「はい」
苦笑いで辻井の方を向き、消え入りそうな声で答えていた。
「まぁ、記事読む限り、この事件に科学的に迫るっていう内容みたいだから俺は構わないよ」
ちょいと笑うと辻井はすぐに仕事に取り掛かった。佳奈は口を一文字に結び俯いていたが、一つため息をつくと作業を再開した。デスクに置いたままだった記事を手にとる。死人が生き返るようなことはありえない。文章からはそのような主張が垣間見えた。いや、垣など無いように見える。覗き見が男の趣味だった平安の時代なら興もなにもあったものではないだろう。それがどこか彼女らしかった。ただ、そんな文章の中に気になる言葉があった。「魔女」。インタビューした医師の発言中のものだ。その医師は、奇跡でも神でもなく、魔女の仕業だと語っていた。記事はそのお伽話を、叩くような調子で処理している。
「ところでさ」
佳奈はまた睨むように俺を見る。
「なんで居るの? 新聞部でもないのに」
前の席で辻井がこっそり笑っているのが普段より猫背になっているので分かった。
「邪魔か?」
からかうように答えると、別に、と再び画面を睨み始めた。
二
翌日、俺は必死にノートをとっていた。教授は決して早口ではないが、一度しか言わないことが多く手を休める暇がない。大教室での講義形式では、その教授からの情報をいかに漏らさず留めるかが大事になる。小教室や少人数授業では、情報を引き出すことが大事になるのとは異なる。そのため、他の学部生はICレコーダーを用いている。ただ、寝ていたり、友人に録音だけ頼んでいることも多い。それで試験前には学部生総出で作成する試験対策プリントを読んで学んで臨む。教授はよく自学自習が大切だと言うが、どうやら間違って伝わっているように思える。自学自習とは、授業に出なくてもいいということではないだろう。隣の男を蹴り起こしたい衝動に毎度駆られるのだが、その時間と労力すら惜しい。ただ、この学部が退屈なのも分からないではない。殺されることを前提に「人とは何か」を考える学問もそうはないだろう。ふとあの記事を思い出す。ちょっとした雑談になった時を見計らい、端にメモをする。
「他人を生き返らせることは罪か」
授業終了後、おもむろに起きた隣の男はメモを読むと大きく欠伸をし、机に突っ伏すとその体勢のままゆったりとした口調で問いかけてくる。
「訊くけど、罪って何?」
「法益侵害」
「ん。ならさ、もし生き返らせるのが罪なら、自殺を罰することになるんじゃない?」
理解が追いつかない俺を見て、そいつは口を開いた。
「魔女、だね?」
「なんでお前がそんなこと」
「知ってるよ。有名だもの」
どうやら辻井の言っていたことは本当らしい。このような、世間から遅れて歩いているような奴にまでこの情報は伝わっているらしい。
「妹さん、入院してるんじゃなかったっけ?」
悔しさに片足を浸しながら次の授業の準備をしている手を止める。
「それに、命に関わる病気だったよね」
視線を移と、そいつは首を横に振ってため息をついた。
「そんな怖い顔しないでよ。ただ気になっただけだからさ」
教授が教壇に上がり、授業を始める。春日井とは一年の時から同じクラスだった。細身でおっとりとした雰囲気を纏っている。しかしその実、非常に頭の回転が速い。普段はその雰囲気と口調で紛れて分からないが、恐らくクラスで一番速いだろう。俺はそういった輩が苦手だった。単なる僻みなのだが、どうしても近づき難い存在なのだ。それでも、春日井とだけはよく話をするようになった。きっかけは妹だった気がするが、はっきりとは覚えていない。眠る春日井の前にICレコーダーはない。自学自習と睡眠学習を素でいくコイツはもしかしたら俺のために授業に出ているのではいかと考えてしまうが、その理由も見つからないのでそこで思考を止める。
教授はゆっくりと、医療行政について語っている。ドラッグ・ラグ。海外では承認されているのに日本では承認されていない医薬品が存在する。そのため、最先端の医療を保健適用下で受けられない人がいる、という話だ。そこから話は医療の歴史に向かう。かつて、医療は呪術師の役割であった。病にかかると、あるいは物の怪の仕業、あるいは神の祟りと様々に解釈された。その中で薬学は発達していった。そして、近代医学も魔女狩りと無関係ではない。近代医学は男の学問だった。そのため、当時町医者として頼られていた産婆は魔女と見なされ排除されたのだ。
魔女、という言葉に思わず身を強張せる。一日に三度も聞くとは。
長机が揺れる。隣を見ると春日井が重ねた手の甲に顎を乗せてぼんやりと教授を見ていた。
曇り空にうっすらと浮かび上がるようにそれは立っていた。正面口の植え込みはすでに秋の装いである。自動ドアをくぐるりエレベーターへ向かう。四階はなく、二人を五階へと運んでいく。部屋の扉は開いていたが主は不在だった。手近の椅子に腰掛ける。
「なんだって急に」
物珍しそうに部屋を見渡す春日井にため息混じりに尋ねるが特に返事はない。
あの講義の後、春日井は突然、妹の病室に案内しろと言ってきた。訳あって彼は病院の場所を知っているはずなのだが、どうやら忘れたらしい。
素っ気ない病室だ。三畳程度の個室の壁はパールホワイトに塗られ、ベッドが一つ、ブラウン管テレビに、小型のクローゼット。それから、ベッド用にコの字になっているテーブル。ベッドの頭側には酸素口やら丸い穴が空いている。しかし、それ以外は何もない。本当に質素な病室だった。
「来たくなったんだよ」
なんとなくね、と呟くように春日井は答えた。その視線はベッドの向こう側に嵌められた窓の、さらにその奥に向けられていた。そこにはただ分厚い雲があるだけだった。
カラカラという音が近くに聞こえ入口に視線を移す。薄黄一色のパジャマを着た妹がこちらを見ている。点滴棒を掴み立っているが、なんの力強さも感じなかった。あの日から、妹は気力なく動いている。向ける笑顔がつい強張ってしまうのを感じた。
「久しぶり、やよいちゃん」
春日井が口を開くと、妹はチラと視線を遣っただけですぐにベッドに腰かけた。
「元気だった?」
「元気なわけないでしょ」
春日井はそれで満足したのか、朗らかに笑いながら、そりゃそうか、と壁に背を預けた。
「で、何か用?」
肩までの長さに揃えられた黒髪が微かに動く。
「妹の見舞い行くのに理由が必要か?」
「少なくとも手土産は必要ね」
つまらなそうに右手を開いて見せてくる。すると、それを待っていたかのように春日井がその手に何かを握らせた。
「何これ?」
「記事。新聞の」
「魔女?」
手元に目を落としながら妹は尋ねる。
「こんなの、嘘だから」
「俺もそう思う」
春日井が優しげに微笑む。
「嘘であって欲しい」
その時の、春日井を見る妹の顔は印象的だった。驚愕の中で今にも泣き出しそうな、見たことのない表情だった。自らの頬の強張りを察したのか、妹は再び記事を読み始める。
「私は」
そこで口をつぐむ。唇をきゅっと締め、目は細めている。廊下では小走りに通り過ぎる足音が響き、ナースステーションでは患者についての世間話に花を咲かせている。笑い声が、節電中の廊下に響き届く。口を開こうとして、春日井に先を越された。
「まぁ、いいんじゃない」
なんの反応もなかったが、春日井は荷物を手に取り立ち上がると、またね、と言って去ろうとした。俺も帰ろうとしたが、春日井に留められた。上げかけた腰を下ろすと、椅子が軋んだ。二人きりは、初めてだった。
「ねぇ」
顔を上げると、妹は困ったような表情で俺を見ていた。
「どう思う?」
「魔女のことか?」
「うん」
「俺は、信じない」
生き返らせる魔女。それが本当なら、ソイツはきっと希代の名医だろう。ただ、生き返らせる、ということが意味すること。恐らく妹はそれを分かって訊いている。そして、それは彼女にとってどのような意味をもつのだろうか。俺の答えに、困ったように笑う、十六歳の少女には。
空は、分厚く固い雲に覆われている。
三
一週間後、俺はまた病院に居た。とは言え妹のいる病院ではない。大学の付属病院だ。柔らかいソファに腰掛けるが、落ち着かない。向かいにも同じような焦げ茶色のソファ。横幅は中背の成年男性が寝転がれる程度。そのソファの向こうは大きな一枚ガラスが青空を切り取っている。壁はアイボリー一色で、四隅には俺位の背丈をした観葉植物が置かれ、緑の葉を悠々と広げ垂らしている。そして、左隣には佳奈。
妹を見舞った翌日、俺は佳奈に頼み取材に同行させてもらうことになった。最初は嫌な顔をされたが、理由を話すとため息混じりに承諾してくれた。
「お前はいつもこんなとこで取材してんのか?」
「まぁ、大学病院ならね。町医者だと診療室だったりするけど」
恥ずかしいと言われたが、落ち着かないものは仕方ない。目の前のシックな木製テーブルを値踏みしたりしてしまう。やはり佳奈は慣れているだけあって、腕を組み脚まで組んでじっとしている。普段はキュロットやショートパンツだが、今日は黒のスラックスを穿いている。全体としてラフでもなくフォーマルでもない。受付のお姉さんに案内されて三十分くらい経ったろうか、未だにインタビュー相手は来る気配がなく、出された緑茶はとっくに空になってしまった。
「待たされるって普通なのか?」
「いや、今回はちょっと遅いなー」
「急患かね」
「多分ね」
長針がカタリと音を立てる。
「今、最悪なこと考えたでしょ」
「互いにな」
佳奈が手脚を直す。
「最悪ね」
俺の返事を遮るようにドアが開き、大柄の医者が満面の笑みで入ってきた。
「申し訳ない! 急に立て込んでしまって」
「いえ、こちらこそお忙しいところ申し訳ありません」
佳奈に釣られて立ち上がり俺も握手をする。丸く固い手は、山男を想像させた。医者はそのままの笑顔で向かいに腰掛けた。ソファが唸って聞こえた気がした。
「何かいいことでもあったんですか?」
佳奈も笑顔だが、それは見慣れないものだった。尋ねながらも、手は鞄の中からメモ帳とICレコーダーを取り出していた。
「いやね、魔女が現れてね」
はっとして佳奈を見ると、笑顔が崩れかけ口元がひくついていた。
「その話、詳しく聞かせてくれませんか」
丁寧な動作でレコーダーをセットする。医者は無精な顎髭を指先で撫でながら口を開いた。
「詳しくも何も、死んだと思ったら生き返った、それだけの話さ」
「前兆などは?」
「いや、特に何も」
「このようなことは前にも?」
「私は一度かな」
「それはいつのことでしょうか?」
「今年の四月だったと思うよ」
佳奈の眉間に皺が寄る。
「また、ですか」
医者の手が止まる。
「また、と言うと?」
「他の病院でも大体四月くらいなんです。それ以前には何もないんです」
ほぅ、と再び顎髭を撫でる。
「他に気になることはありますか?」
そうだなぁ、と口を尖らせ天井に視線を移すが、数秒して佳奈を見る。
「魔女は万能ではないみたいだよ」
「万能ではない?」
「そのまんまの意味さ。皆が皆生き返るわけじゃないってこと」
「医者だってそうじゃないですか」
思わず口を挟む。医者は小さな目を丸くしたが、すぐににやりと笑った。
「確かになぁ」
「すみません」
医者は俺の謝罪にも軽やかに笑って済ませた。気づくと、膝の上に握られた自分の拳は汗ばんでいた。
「申し訳ありません、生意気言って」
佳奈も続いて謝るが、やはり医者は笑った。
「いやいや、彼は当然のことを言っただけさ。それに、私の言い方も悪かった」
「どういうことでしょうか?」
「魔女は確かに人を生き返らせることができる。ただ、そこにはルールがあるように見えるんだよ」
「初耳ですね」
「ルールってのは、たくさんの具体例の積み重ねで見えてくるものなんだよ。大病院だから分かることもある」
医者がチラと俺を見る。その視線はどこか暖かい。
「それで、ルールとは?」
「まだ明確なルールはわからない。けど、最近やけに多いんだよ、孤独死がね」
「孤独な人は見捨てている、と?」
「まぁ、そんなところかな」
自分の想像だけどね、と付け足し、医者は思案げな顔で天井を見遣った。
「最後に一つ、よろしいですか?」
医者は俺の伺いに快諾した。
「もし、そういったルールがあったとして、あなたは魔女をどう思いますか?」
そうだなぁ、と腕を組み考え込む。佳奈も目を細め何かを考えている様子だった。
「私としては、許せない、かな」
「どうしてですか?」
「医者の性だよ。医者は、目の前の患者を選ばない。孤独だからとか、関係ない。とにかく命を優先する。だから、もしそんなルールがあるなら、私は抗わないといけないんだ」
いたって穏やかに、それでも奥から沸き上がる激しさを帯びていた。その熱意は素晴らしいと思う。ただ、現代ではその野太い声は弱々しく聞こえる。目の前の医者もそれが分かっているのだろうか。握り締めた拳を直し顎に触れると、下手な笑みを浮かべた。
「まぁ、魔女がいるかも分からないんだけど」
「先生は信じますか?」
そう尋ねる佳奈の横顔は凜としていた。
「君達はどうだい?」
「私は、信じません」
「俺は、よく分からないです」
俺の答を聞くと、そうだねぇ、と呟きながらソファに巨体を預けた。
「私としては、生き返るという現象自体は、悪いとは思わない、かな」
佳奈は何かをメモ帳に書き記すと、礼を述べICレコーダーの電源を落とした。
「患者さんの話、聞いてみるかい?」
それは、二人して礼を述べて立ち去ろうと背を向けた時だった。医者は立ち上がりにこやかな顔でそう言ったのだ。目を輝かせる佳奈とは逆に、俺は躊躇っていた。生き返った患者にかける言葉が分からなかった。佳奈が医者に連れられていく。その背を追う選択肢を結局は選ぶ。
ホワイトの廊下に明るい陽が差し込み、先行く二人を淡く染めていた。
案内された病室も白く輝いていた。妹の病室と同じくらいの広さだが、その男性患者は満面の笑みで俺達を迎えてくれた。佳奈が取材の可否を尋ねると、二つ返事で承諾した。
患者が入院したのは最近のこと。交通事故で脳を損傷し、植物状態だったらしい。彼の家族は毎日のように見舞いに訪れ、日々弱っていく彼を見ても尊厳死という選択肢は選ばなかった。今日の午前中に心肺が停止し、山男の医者が死亡を確認した。あっという間だった。知らせを受け家族が駆け付けた時には既に亡くなっていたらしい。ところが、である。俺達が取材に訪れる少し前、つまり亡くなって一時間後に、彼は生き返った。その場に居合わせたのは、病室の整理をしていた看護婦であった。看護婦の話では、普通に睡眠から目覚めるように目を開いたということだ。
死亡後も二十四時間以内なら心肺が回復する可能性もある、という話を聞いたことがあるが、この患者の場合は全ての身体機能が回復していた。見た目に痩せてはいるものの、取材中に受けた検査ではなんの異常もなく、脳も完全に回復しているらしい。生き返るだけではなく、ゲームの魔法のように完全回復する。実に魔女の仕業らしかった。
「目覚めた時、どのような感じでしたか?」
ベッド脇の椅子に腰掛け、佳奈は質問を続けた。患者はベッドから半身を上げて答えている。
「いや、特に。普通に夢から覚めるような感じですよ」
「夢は見ましたか?」
「はい、もちろん」
「どのような?」
「山間の村でした」
「知ってる村ですか?」
「いいえ、知らない所です」
「その村であなたは生活を?」
「はい」
彼の笑みは、白い光を浴びていた。不自由など、身体を持ち上げた時に、その白い肌から全て滑り落ちてしまったかのような、綺麗な笑顔だった。
「村の人達はとても親切でした。私は村外の旅人といったところでしょうか。そんな私に彼らは食寝を与えてくれました。私は礼に彼らを手伝いました」
「そこにはどれくらい滞在を?」
「一ヶ月くらいでしょうか?」
「随分と長居したんですね」
佳奈が小さく笑うと、彼は照れた風に頭を掻いた。
「いやぁ、不思議と外に出ようと感じませんで。とにかく居心地の良い場所だったんです」
「では、唐突に目覚めた、という感じなのでしょうか」
「今思うと前兆はあったのかもしれません」
「前兆?」
「はい」
彼はそこで初めて難しい顔をして腕組みをした。
「村にはある女性がいました。よく覚えていないのですが、その人に何か言われた日、寝て目が覚めると病室でした」
「変な話ですね。その人についてだけあまり覚えてないというのは」
佳奈は彼よりも深い皺を眉間に寄せていた。彼の次の言葉を予想したからだろう。
「もしかしたら、あなた方の言う魔女、なのかもしれませんね」
「そうかもしれませんね」
佳奈は礼を言ってレコーダーの電源を切った。
病室の扉を開けると、女性が一人立っていた。見た目からして俺達より少し年上だろうその人は、入れ替わりに病室に入って行った。背後で聞こえる歓声を遮るように、俺は力を込めてそっと扉を閉めた。
佳奈が部室に帰ると言うので付き合う。部室に入るなり、佳奈はパソコンと向かい合った。いつものように隣に座る。
「もう記事にするのか?」
「原稿はまだ後。ちょっとまとめてるの」
キーボードタッチはまだ拙いが、新聞部に入った頃よりは大分ましになった。一浪して入った佳奈は、先に入学していた俺を新歓に連れ回した。当時どこにも所属してなかった俺のためでもあると言いながらも、俺が決める前に新聞部に入っていた。腐れ縁とは案外自ら切り難いものらしく、いつの間にか俺も新聞部に入り浸るようになっていた。
手持ち無沙汰に携帯電話をいじる。
「あんたも記事書けば?」
「俺は部員じゃない」
そっか、と佳奈は再びキーボードを叩き始めた。それから少しして辻井が入って来たが、画面を睨む佳奈を見て微笑み言った。
「何か進展したのか?」
佳奈がインタビュー内容を話すと、辻井も昨日の佳奈と同じように難しい顔をした。
「魔女がいるかもしれない、か」
「まぁ、夢でしかないんですけど」
「けどいやにリアリティがある」
佳奈が小さく頷くと、辻井はパイプイスに背をもたれて天井を仰いだ。
「もし、魔女がいたとしたら。いたとしたら、それはそれで一つの事実じゃないかな」
それが辻井の結論だった。それは、奇跡を扱わない彼の、最上級の譲歩だったのだろう。その言葉に、佳奈の顔にやる気が漲っていくように見えた。ただ、それでもキーボード捌きは拙いままだが。
「お前も調べるの?」
「まぁ、気になるし」
本棚から冊子を取り出す。新聞部の記事を月ごとにまとめたもの。今年の四月。もしかしたら何かあるかもしれない。
「患者に話を聞いたのは初めてか?」
「こっちからお願いできるわけないでしょ」
「じゃあ、聞きに行かないか」
「アポ取っておくわ」
もし魔女が実在するのだとしたら、生き返った患者は魔女に会っているだろう。今はまだ推測にすぎないが、彼らの夢が共通している可能性は高い。ただ、魔女が実在すると分かったら。俺はその仮定を振り払い、冊子を本棚に戻し部室を出た。
その窓から見える空はいつも雲っていた。俺が来る時は陽が差すことはなく、妹の白い肌は陶器のようだ。ベッドから半身起こし、瞳を来客に向ける妹の手にはハガキサイズの白い紙袋が握られていた。
「それ、どうしたんだ?」
ベッド脇の椅子に腰掛ける。
「貰った。春日井さんに」
「あいつ、来たのか」
「今日はどういう風の吹き回し?」
「用が無く来ちゃ悪いか?」
「悪いって言ったら、来ないの?」
用はあるが、それを果たすべきかどうかここに来てまだ迷っていた。
「春日井はなんだって」
妹が顔を背ける。少しの沈黙を経て口を開いた。
「別に。これを渡しに来ただけ」
そう言って紙袋を指先で撫でる。
「何が入ってるんだ?」
「チケット」
妹が取り出したのは、音楽ライブのチケットだった。確か春日井も気に入っているアーティストのものだ。日付を見ると、十二月の半ば。それにしても、春日井だって妹の状態は知っているはずだ。
「退院できたら、一緒に行こうって」
鈍い音に、自分が奥歯を噛み締めていることに気づく。妹が窺うような顔で俺を見ていた。
「そか。行けるといいな」
その時、上手く笑えたかどうかは分からない。妹は自分の病気を知らない。知らないが、もう高校生だ。薄々真実を感じていてもおかしくはない。だから、俺は迷っていた。
「ところで、魔女がいるかもしれないって言ったら、どうする?」
翌月の頭から、俺と佳奈は患者へのインタビューを始めた。生き返るという臨死体験をした人達のはずだが、彼らは大抵こちらの申し出を快く受けてくれた。相当数拒否されることを予想して多くの病院に申し出をしたので、仕方なく二手に分かれインタビューすることにした。
一週間で十八人。平均一日一人超だが、同じ病院にいる人達には同時にインタビューさせてもらう。中には、既に退院している人もおり、家族総出で温かくもてなされた。こうして二人して得られた情報を統合すると、やはり魔女は実在するとしか思えなかった。生き返った人達は皆同じような夢を見る。同じ村で同じように歓迎され、寝食を共にする。泊まることなく目を覚ました人も半数以上いたが、最後は一緒だった。とにかくある女性がいる。しかし、その女性については記憶が曖昧である。その女性が何か言ったが記憶にない。
「その村って一体どこなんだろ」
部室のデスクに俯せになりながら佳奈がぼやいた。魔女は実在する。それを証明するためには魔女に直接インタビューしなければならない。そうでなければ、お告げをする神や夢枕に立つという幽霊となんら変わりない。しかし、魔女がいるであろう村の所在が一向に分からなかった。家屋の様子などからかろうじて日本国内であることは分かったが、山間の村などいくらでもある。関東圏を虱潰しに探すだけでも手間であるし、それで見つかる保証もないのだから、佳奈がぼやくのも分かる。
「もしかしたら、四月に何かあるかもしれないぞ」
辻井が笑いながら言った。
「前に見たが魔女なんて単語なかったぞ」
「状況が違えば見えるものも違うさ」
佳奈が素早く冊子を手にとり、食い入るように見ている。大学生の紹介写真を見て、大きくても仕方ない、と呟くのが聞こえるのは気のせいだろう。佳奈のパソコンで今まで出来上がった記事を眺めていると、突如として歓声が上がった。
「これ、当たりじゃない?」
佳奈が指差す先には、幽霊騒動の記事があった。読んでみると、四月中旬から幽霊らしきものが山林に入る姿が頻繁に目撃されたらしい。
「あぁ、それか」
辻井が懐かしそうに言った。
「こんな記事を許したのか?」
「春日井って奴が追ってたんだ」
「春日井が?」
「知り合いか?」
頷くと、辻井は話を続けた。
「それも不思議な出来事だった。誰しも眉唾ものだと言ってたが、春日井だけは事実だと信じて追っていた」
天原みたいにね、と笑うと佳奈は小さく頷いた。
「それで、真相は?」
「さぁ。その前に彼は辞めたから」
「でもさ、その人に聞けばその山林の場所はわかるはずだよね?」
「もしかしたら、その山林に村がある、と」
佳奈の目は生き生きとしていた。気づいていないようだが、そんな佳奈を見て辻井は呆れたように微笑んでいた。善は急げと言われ、その場で春日井に電話をかける。話を切り出した最初はさすがの春日井も驚いた様子だったが、案外すんなりと道案内を引き受けてくれた。
「明日、案内してくれるってよ」
電話を切り報告する。佳奈はパイプイスに背をもたれぼんやりとしていた。少ししたら寝てしまいそうだ。
「帰るのか?」
鞄を持った俺に辻井が訪ねる。
「まぁ、もうすることないし」
邪魔だしな、という言葉は出さずに扉を開くと、二人を背に部屋を出た。
四
そこは何かの入口とは言えないような場所だった。午後になり、春日井に連れられたのは、郊外の某所。大学から電車を三回乗り換えた場所。一時間半ほどの道のりだった。そこは単なる森の始まりであり、獣道すら存在しなかった。排水路を隔てたアスファルト舗装の道路に立ち、俺と佳奈は思わず見上げる。都内にこんな高い樹木があったのか。木々の間は真っ暗で、先を見通すことはできない。
「俺の見た幽霊はみんなここから入って行ったよ」
春日井の口調はこの場の空気に溶けていくようだった。
「じゃあ、俺は帰るから」
「ん? この先は?」
「その先は俺も分からない」
「幽霊について行ったんじゃないのか?」
「さぁ、どうだったろう」
「どうだったろうって、お前」
とにかく、と俺の言葉は遮られた。
「どちらにしろ、この後用事があるから」
「そっか」
去っていく背を眺めていると、佳奈が何か呟いたが、振り返ると善は急げと急かされた。
その森は案外明るかった。木漏れ日と言うには赤みがかっているが、足元は十分見える。
「妙に静かだね」
言われて耳を澄ますが、確かに足音しか聞こえない。風もなく、葉擦れの音もない。いかにも。無意識に唾を飲んでいた。足場は悪くはない。獣道はないが、とりたてて根が邪魔するわけでもない。むしろ葉が敷き詰められて柔らかく歩きやすい。俺達は当て処なく、ひたすら真っすぐ進んだ。その間植物以外の生物に会うことはなかった。四方を見渡しても人工物の気配はなく、携帯電話も圏外だった。一時間ほど歩いただろうか、空気が黒みを増してきていた。
「もう六時か」
佳奈が呟く。
「だな」
「見える?」
「うっすらと」
視界の先には明かりがあった。無言のまま早足に変わる。鈍い鼓動が耳の奥から聞こえる。額の汗が目尻に伝わる。光が大きくなるにつれ煩わしさを増す吐息。後数十メートル。駆け出す小さな背を追う。
「村だぁ!」
そんな当たり前なことを口に出してしまう気持ちも分かった。目の前にあるのは村だ。ロールプレイングゲームにありそうな村だ。近世のまま取り残されてしまったような村。患者の話から浮かび上がってくる村の様子そのままだった。
「ここに魔女がいるのね!」
「私に何か用?」
振り返ると、山菜を盛った竹笊を手にした女性が微笑んでいた。綺麗なブロンドの髪は恐らく腰の辺りまであるだろう。細い顔に白い肌。スッと伸びた鼻。切れ長の目の奥にある瞳は、夕焼けの中でもはっきりと碧く光っていた。
「あなたが、魔女?」
「黒いローブでもしていた方がよかったかしら?」
服装だけは今時の日本女性であり、渋谷帰りだと言われれば納得しかけるが、手に持つ竹笊が奇妙だった。
「あの、早速なんですが!」
「ついてらっしゃい」
佳奈の力みを受け流し、するりと俺達の間を抜けて村へ歩き出した。佳奈は戸惑いながらもその後を追い、その背に俺も連なる。
案内されたのはやはり近世風の民家。の、はずだったのだが、ここは一体どこなのだろう。薄い引き戸を開けると、そこは現代だった。
「驚いた?」
先に上がっていた魔女が、目を細めてくすくすと笑っていた。その足元はフローリング。その背後にはガラスが嵌められたドア。そのガラスの向こうには絨毯とソファ、さらには薄型テレビが見える。それに、見間違いではないならその脇にPS3がある。佳奈へ顔を向けると、視線が合った。大きな目をさらに大きくしている。
「まぁ、雪が降っている以上のギャップかもしれないわね」
家の中に雪が降っていたらもっとびっくりするだろう。俺のことを見ていた魔女がまた一つ吹き出して笑い、それが収まると俺達を中に入れた。流石に玄関から真っすぐ伸びる廊下の先、正面のドアが居間、右手にあるドアがトイレ、左手にあるドアは寝室やバスルームに繋がるらしい。階段は無く、概観通り一階建てではあるようだ。居間にはキッチンが併設されており、一人にしては広すぎやしないかと思う。
「あとは、地下があったりするけど」
「地下には何が?」
ティーセットを木製の盆に載せて、魔女がソファに座る俺達のもとへとやってきた。
「それは色々よ」
滑らかな動作で紅茶を注いでいく。佳奈は、茶菓子として出されたクッキーを一口食べてから言った。
「色々って?」
どうも魔女の見た目が俺達の年齢に近いからか、さきほどから佳奈は取材口調ではなくなっている。
「これは教えるわけにいかないわ。魔女の嗜みとして、ね」
出会った時も思ったが、魔女の微笑みは異様に綺麗だった。もっとも、それが今では怖く感じる。
「それに、仲間もいるから寂しくはないわね」
魔女、謎の地下室、仲間。クッキーへ伸びた佳奈の手が一瞬止まり、行儀良く膝の上に収まった。すると、魔女はくすりと笑う。
「冗談よ、冗談」
「まぁ、分かってましたが」
佳奈を見ると、つまらなそうにクッキーを食べていた。
「ほら、取材しないのか?」
肘で小突くと、文句を垂れつつICレコーダーを取り出した。
「取材いい?」
「ええ、もちろん」
魔女は紅茶を含んでから答えた。
「生き返らせているのはあなた?」
「生き返らせる?」
細い目が僅かに開かれる。
「最近、私達の周りで生き返る人達が増えてるの。それが魔女の仕業だってもっぱらの噂で」
「それで私を」
佳奈が頷くと、魔女は俺の方を見て首を傾げた。その澄んだ碧い瞳に見つめられると胸の辺りがむず痒くなった。
「あなたは、他にあるのね」
「いえ、俺はこいつの付き添いで」
そう、などと魔女は呟くと紅茶を口に含む。
「私はただ、ここに来る人を迎え入れているだけですよ」
「では、生き返りとあなたは無関係?」
「生き返る方法を知っていたら、私が教えてもらいたいものね」
ただ、と付け足す。
「全く無関係、というわけでもないのでしょうね」
「どういうこと?」
「私は別に生き返らせようとしているわけじゃないっていうことかしら」
佳奈があからさまに顔をしかめるのを見てか、魔女は続けた。
「私は彼らを受け入れる。ただ、その中にはここに居るべきではない人もいるの」
陶器の当たる音が響く。魔女の俯く横顔は流れるような美しさを持っていた。
「孤独な人は残しておくのですね」
俺の言葉に、魔女は顔を上げ頷く。その笑みがどことなく痛々しかった。
「どうしてこんなことしてるの?」
「さぁ、私にも分からないわ」
その答を聞いたが早いか、佳奈は静かにICレコーダーの電源を切った。
「あら、もういいの?」
「ええ、魔女もいたし事件は無事解決。あとは、写真を一枚撮らしてもらえればいいや」
達成感からか立ち上がり胸を張る佳奈を見て魔女が小さく笑う。馬鹿ね、と呟くのが聞こえたのは気のせいではないだろう。
「本当にあれだけでよかったのか?」
舗装された道路の上、最寄り駅まで歩きながら尋ねた。不思議なことに帰りは早く、あの村から森に入り十五分くらいすると道路に出た。それに、空は未だ綺麗な茜色である。魔女への取材は短くも達成した。それなのに佳奈はずっと浮かない顔をしている。
「いいんだよ。魔女が居たっていう記事は書けるんだし」
「でもさ」
「いいんだって」
「いや、でも」
「終わったんだよ、これで」
そう言って佳奈は笑った。夕陽に照らされた笑顔に、それ以上追及する気にはなれなかった。
五
それから一ヶ月間、俺は魔女の元に何度か赴いた。取材ではない。かと言って他の目的があったわけでもない。気づくと自然に足が向かっていた。初めこそどう関わればいいか分からず、ただ紅茶を啜っていただけだが、いつの間にか様々な手伝いをさせられるようになった。その中で、魔女のことを知る機会も増えた。中学から日本で暮らし、歳は俺よりも一つ上。今は一人で暮らしているらしい。ただ、俺のことを訊いてくることはなかった。
他方で、一ヶ月経っても魔女の記事は載らなかった。それどころか、部室で佳奈を見かけることもなくなった。辻井に尋ねても分からないと言う。他の部員も知らないようだ。
ところが今日の放課後、図書館前の階段に座る佳奈を見つけたのだ。思わず早足で近づくと、佳奈は力無く顔を上げた。その瞳は黒く、辺りに溶け込んでしまいそうだった。その場で手を取りカフェに連れて行くが何も言わない。向かいの佳奈はまだどこか余所余所しかった。
「とんと顔見なかったが、どうしたんだ?」
反応はなく、俺は続けた。
「辻井もみんなも心配してたぞ」
微かに口が開く兆しが見えたが、結実することはなかった。
「それに、魔女の記事はいいのかよ」
責めるような口調になってしまったのを悔いたのは、佳奈が俯き震えたからだった。慌てて謝るもただ首を振られた。これ以上は悪化するだけだと、運ばれてきたコーヒーを飲む。店内は静かな雰囲気に包まれ、馬鹿騒ぎする客はおらずめいめいイヤホンを着け自身の世界に興じていた。
「したくないの、記事に」
そう言って顔を上げた佳奈は目を細め笑っていた。
「どうして?」
「私には才能無いから、笑われる」
「そんなことない」
「気休め」
「違う」
「気休め」
「紅茶、冷めるぞ」
佳奈が紅茶を口にするのを見てから、俺もコーヒーを飲む。家で飲むものより濃く酸味があった。軽く乾いた音が鳴り、佳奈は再び俯き黙る。何も入れられていない紅茶の表面は、静かに波立つ。季節にはまだ早い黒のニット帽も灰色のコートも着たまま。
「あの記事は終わらせちゃいけないんだよ」
突如呟かれた言葉を、危うく拾い損ねそうになる。
「どうして?」
「私には、あれしかないから」
詰まる喉を必死に抑えるように話す佳奈に対して俺は、瞼を閉じ胸に溜まった息を吐いた。新聞部に入ると言った時の佳奈の笑顔が鮮明に浮かぶ。あの時から新聞部に通ったのは、今の佳奈を見るためだったのか、それとも。
「新しいネタ探せばいいだろ」
「分かってる。そんなの分かってる。分かってるけど、どうしてもダメなんだよ。部室に行こうとしても足がすくんで動けないんだ」
向けられた笑みに心が歪む。今すぐここから立ち去りたい。息苦しい。口は力むばかりで開こうとしない。あらゆる言葉がせき止められる。佳奈は一度俯くと、思い切り深呼吸し明るく言った。
「ごめん」
「いや」
「じゃあ、私帰るから」
そのまま帰ろうとする佳奈を引き止める。
「代金払って行け」
「傷心の女の子に払わせるの?」
頷く前に佳奈は外へ出て行く。客の何人かが去り行く彼女の顔を見ていたが俺には関係のないことだ。飲みかけのティーカップを見ながらコーヒーを含む。やはり、家のものより苦く酸味があった。
その日からも佳奈が部室に現れることはなく、当然魔女が記事になることもなかった。
「記事はまだ?」
魔女が中腰で山菜を採りながら尋ねてきた。
「佳奈がやる気なくて」
傍らに立つ俺は丈笊を両手に持ちながら答える。すると魔女は作業を止めて俺の方へ瞳を向けた。不意に目が合う形となる。
「彼女、大丈夫なの?」
「さぁ」
「なるほど」
何を納得したのか頷くと、背を向け歩き出しついて来いと言う。訝りながらも後を追う。入り口に向かう道とは異なり木々の根が縦横無尽に飛び出し巡る道をなんの苦もなく進む様は、根が魔女を避けているようだ。魔女は一度も振り返ることなく歩き、森を抜け開けた場所に着くと足を止めた。そこにあったのは小さな川だった。数メートル離れたここからでもその底が見える。魔女はその小川を一足で跳び渡っていった。
「その川を覗いてみて」
言われた通り、短い雑草の上、小川に近づく。何が起こるのかと内心不安だったが、一向に魔法生物が出る気配もトラップが発動する気配もない。ただただ、水面が揺れるだけである。覗いても何も起きない。川底が見えるだけだ。
「おかしいところに気づかない?」
「いや、特に」
「水面に、あなたが映ってるかしら?」
はっとして再び水面に顔を向ける。確かに映っていなかった。空や木々は映っているのに俺だけは映っていない。様々な角度から試しても同じことだった。
「どういうことだ」
独り言のように呟くと、すぐ頭上で魔女の声がした。その姿もやはり映らない。
「私の家には鏡が無いのよ」
そういえば、佳奈がそんなことを言っていた気がする。
「映らないようにしてるの、私がね」
「どうして」
「魔法で」
そうじゃなくて、と口を開こうとして魔女に先を越される。
「と私が言ったら、理由を尋ねてるのだとあなたは言い返す」
振り返り仰ぐと魔女は不気味に微笑んでいた。俺がどんな表情をしているのかは分からない。だが、自分の目がいつもより開かれていることだけは分かった。今のは簡単な推測だ。それをあたかも言い当てたかのように喋っているだけだ。
「トリックの無いマジックもあるのよ?」
表情一つ変えず魔女は言った。その笑顔がどことなく寒かった。
「魔女を見る目って大体同じで見飽きたわ」
背を向け黒いブーツが離れていく。立ち上がりその背に問い質す。雑草のしなりが止まる。
「黙っていて、ごめんなさい」
「なんで今更」
魔女は置いてあった竹笊を拾い上げると、彼岸にある腰の高さほどの岩に腰掛け、両の脚を振った。白い肌が交互に煌めく。
「覗かれる気分はどう?」
「聞かなくても分かるんじゃないのか?」
無風流ね、などと言ってため息をつく。彼岸の地べたに座る。魔女は見下ろし微笑んでいる。それほどの距離はないのだが、妙に遠くに感じた。
ここも風が吹かないのだと思った。魔女の背景には青空が広がっていた。辺りをよく見渡すと、意図されたように樹木がなく、陽光に満ちている。地面に着いた手の平には柔らかい感触が伝わる。空気は冷たく鼻腔に響く。
「映ってる自分と差があった時、がっかりすることって、ない?」
徐に話し始めた魔女。俺は黙って続きを促した。
「嘘。誰にでもあると思うわ。自分で考えていた自分が否定される瞬間が、何度でも」
「そんなに美人なのに?」
少し驚いた表情を見せる。
「急に素直になったのね」
「お見通しじゃあな」
確かに今更ね、と魔女はいたずらっぽく笑った。
「でもそうね。そういう、他人に映る私も嫌だわ。だから、映らないようにしたの」
得意げなその表情に胸がざわつく。笑顔が気持ち悪いと思ったのは初めてだった。その笑顔こそ嘘のように思えた。能面のような、のっぺりとして、写真にいつ収めてもどれも変わらないような血の気のない笑顔。
「そうか」
それしか言えない。何か言ったところでどうなるだろう。魔女にとっての理想がある。もう理想に達していると周りがいくら言ったところでどうなる。魔女を苦しめるだけではないか。俺はただ、傍観するしかない。それでも、焦燥感に似た、丸めた紙屑みたいな感情が燻っている。
「何かを信じるっていうのは、怖いことなのよ。知ることと信じることの間に大きな川が流れている。残念ながら、私はカナヅチなの」
「なら練習すればいい」
「ビート板も浮輪もすぐに流されてしまうわ」
噛み合っていると思うのは、魔女が何歩か先を行っていると分かっているからだろう。
「信じるっていうのは大変なのよ。向こう側にたどり着いても、風邪をひくかもしれない。焚き火がなかったら。焚き火があっても、身を焼かれるかもしれない」
だから、と魔女は続けた。
「彼女、気をつけてあげて」
「佳奈を?」
そうよ、と魔女は岩からひょいと降りた。
「彼女は、優しさを信じてしまったから」
そのまま帰ろうとする背に問う。
「別に悪いことじゃないだろ」
「一番信じちゃいけないものよ、それは」
見返り微笑むそれと、佳奈の笑顔が重なる。佳奈は何を信じたのだろうか。もし佳奈の心まで読んでいたなら、魔女には全てが分かっているのだろう。いや、俺も既に分かっているのかもしれない。佳奈が新聞部にいた理由。それを思い浮かべる。人の良い顔。だがそれは信じて良いもののように思える。
「なぁ」
森に入りかけた足が止まった。
「そんなに、信じちゃいけないものか?」
「何を?」
振り向いて見つめ合うか合わないかの刹那、はっとした表情を見せる。妙な反応だと思い、分かってるだろと問うが、魔女はそれもそうねと、歯切れ悪そうに答えただけだった。
「当の本人は彼女のためを考えてるんでしょうけどね」
「なら良いじゃないか」
「そういうのが一番厄介なのよ。なかなか戻って来ようと思えなくなるから。激流を再び渡るくらいならってね。河の水は冷たいから」
じっと見つめてくる。少しして口が開きかけるがため息と共に閉ざされる。不意に近寄り竹笊を渡してくると、背を向け歩き出す。いきなりのことに声をかけようとして先を越された。
「大切なのは、便利かどうかよ」
あなたも気をつけなさい、と忠告することは優しさではないのか。思わず吹き出しそうになるが気づかれると何を言われるか分からないので堪える。だが、魔女には分かるだろう。いや、と内心で否定する。恐らく、魔女は気づいていないだろう。そして俺は、森に飲まれていく華奢な背を、慌てて追いかける。その時俺は、小川を自然と跨いでいた。
六
「最近魔女にご執心だね」
「そんなことないが」
「嘘は要らないよ」
春日井はカレーを頬張る。にしても、毎度カレーで飽きないのか。確か前尋ねた時には、食堂ではこれが一番マシと言っていた。それはさすがに言い過ぎだろうと思うが、以前にも他の学生がそう言っているのを聞いたことがあるのでそこそこ共感される意見なのかもしれない。
「で、君は金髪碧眼美人のどこが良いんだい?」
「そういうんじゃないって」
魔女の容姿を伝えた時、春日井はイメージが違うとぼやいた。彼の中では魔女と言ったらキキだそうだが、それはそれで少しズレている気がする。
「嘘は要らないよ」
「いや、違うから」
つまらないなどとため息をつかれても、俺自身としては詰まるような思いをしなかったのだから仕方ないと思う。なら、そのような思いをできるようにしてくれと言いたい。
「まぁ、でも気をつけなよ。アイツは魔女なんだから。生き返らせてたのはアイツだったんでしょ?」
「まぁな」
とは言え、魔女が死人を生き返らせたところを見たことはない。それ以上に、魔法を使うところも見たことはない。人並み外れた洞察力を持った人間としても説明はできた。水面に映らなかったのだって、彼女自身が魔女という決定的な証拠にはならない。もしかしたら別に魔法を使える奴がいるのかもしれない。最後の一口。それをなんの感慨もなく飲み込むと、春日井が尋ねてくる。
「そう言えば、まだ記事になってないようだけど」
「記者が休業中でな」
「辻井って奴はね」
脈絡が無い、とは言えないが、急な話題に戸惑い睨む。しかし、春日井は聞けとでも言うように話し続けた。
「優し過ぎるんだよ」
「いいことじゃないか」
「馬鹿だね」
指先でスプーンを摘み上げ、皿を数度叩く。それが春日井の癖であることは分かっているが、どんな時の癖なのかは分からない。
「優し過ぎるっていうのは優しくないのと同義なんだよ」
眉間に皺が寄っているのを見てか、春日井は続けた。
「それはその実相手のことを考えてない。相手のためだと思いながら、相手のことなんて自分の心に無い。有るのは自分勝手な判断基準だけ」
いつの間にかスプーンは力強く握られていた。春日井の言うことは分かる気がした。だが、それと辻井、そして佳奈がどう関係するというのか。
「辻井には誰も見えちゃいないんだよ。アイツの心には誰も映らない」
その時、ようやく納得した。春日井は全て知っていたのだ。どうしてそれを知っているかは分からないが、恐らく新聞部の旧友から噂でも聞いたのだろう。そして、俺の中で魔女に言われたことと繋がった。
「なるほどな」
「君も気をつけなよ」
「それ、魔女にも言われた」
「よっぽど好きなんだね、彼女」
クスクスと笑う春日井に嫌気がさし、席を立つ。いやらしく笑いながらも付いて来る春日井を無視して食堂を出たのは言うまでもない。
ベッドの主は相変わらず無表情で俺を見ていた。以前はもっと可愛いげがあった。こんな風になったのは入院してからだったと思う。
「お母さんは?」
「仕事で忙しいとさ」
そ、と淡泊に答え手元のポテトチップスに手を付けた。妹のジャンクフード好きは変わっていない。医者からも特に禁止されてはいないのだが、体に悪いという意識はあるのか、菓子を食べる時は廊下から見えないようにしている。俺はと言えば、ゼミの課題として出された論文を読んでいた。数行読んでまた戻ることを繰り返し、ようやく半分読み終わった時だった。
「私が生き返ったら、どう思う?」
「何言ってんだ」
魔女を発見してから、妹には何度か魔女について話してやった。正確には、妹が訪れる度に話してくれとせがんできた。ただ、魔女を魔女らしく話したことはなかった。なるべく、普通の人間らしく話していた。怖かったのだ。話している俺を見つめる時の、黒光りする妹の瞳が、どうしようもなく怖かったのだ。
「聞いてるのだけど」
「死なないんだから生き返るわけないだろ」
笑えなかった。表情が固まるのを感じた。鋭い視線。鋭く、俺を問い詰める視線。初めて見た、妹の視線。
「もう、分かってるから」
「何が」
「まだ隠すの?」
「だから」
「いい加減にしてよ!」
その瞳は潤みながら俺を映していた。
「私は死ぬ! 治らない! そうなんでしょう?」
苦しげに涙が流れるが、悲しげには見えなかった。ただ、妹の言葉は俺を水底から掬うようにえぐっていく。扉が開き、看護婦が心配そうにこちらを見ていた。大丈夫だと言って扉を閉める。ベッドの上にはポテトチップスの袋が置いてあったが見咎められることはなかった。妹もそのことに気づかない様子で、ただ背中をベッドにもたれうなだれていた。
「俺は、嫌だから」
なんの反応もない。
「死ぬなんて、言うな」
妹はゆっくりと顔を上げた。頬は微かに赤らみ、涙の筋はまだくっきりと残っていた。
「今さら信じろって言うの?」
そして、静かに微笑んだ。ショートヘアに、それは歪に浮かび上がった。兄として言うべきことはたった一つなのかもしれない。それでも、口が開かなかった。
「今まで散々嘘ついてきて、今さら何を信じろっていうのさ。どうせ私のためとか思ってたんでしょ? 私がいつ頼んだ、そんなこと。信じろ信じろ言って、結局信じてなかったのはそっちでしょ? 私が受け入れられない弱虫だと思ってたんでしょ?」
ただ、首を振った。妹を直視することも出来ずにいた。惨めだった。妹の言う通りかもしれない。
「それでも、死ぬなんて嫌だ」
「もういいよ」
「よくない」
「私は生き返る。自分のために」
どうして魔女の話だけは信じるのか分からないが、そこには強い意思を感じた。妹はそれを告げると布団に潜った。
しばらく椅子に座っていたが一向に身体を起すそぶりもないので荷物を持ち、また来るからと病室を後にした。
廊下で待つ意外な人物に、取っ手を握ったまま動けなくなった。
「どうして分かった?」
「春日井君に聞いたから」
佳奈はしおらしく、薄暗い廊下に霧散してしまいそうなほど儚げだった。
「何かあったのか?」
俺を見るだけで、答えなかった。微動だにせず、答える気配すらないようだった。仕方なくエレベーターのスイッチを押しに行くと黙って付いて来る。その様子は病院の外に出ても変わらなかった。
「あの人は空っぽだった」
ようやく口を開いたのは、病院から少し歩いた時だった。空は雲が横たわり、からっ風が焦げ茶色の葉を運んでいた。それに乗せるように、佳奈は喋り出したのだった。
「そうらしいな」
「うん」
俺の後ろを歩いているため表情は分からない。だが、その声は冬の空気に融け込むようだった。
「人を見る目ないのかな、私」
「さぁ」
「ないんだよね、きっと」
「まぁ、あいつの方がないんじゃないか」
「何それ、口説いてるの」
「そう思うなら聞く耳がないんだろうな」
「そうかもね」
淡々とした会話が続く。気づくと佳奈は隣を歩いていた。佳奈が歩を速めたのか、俺が緩めたのか。
「戻るのは難しいか?」
「まぁね」
駅前の横断歩道に着く。信号は赤い。午後もまだ三時で辺りはまだ明るい。大きな駅ではないため、それほど人は多くない。車も大して見かけない。
「お前は、電車で帰るんだろ?」
「うん」
「俺は、歩いて帰るから」
「うん」
なんとなく、信号を待つ。隣の佳奈は、ぼんやりと前を見据えている。遠く鳩の鳴き声が聞こえ、耳を撫でるように冷たい風が吹く。電車がゆっくりと発進し、入れ代わるように、スピードを緩めた車両が入ってくる。黄色が点く。車が停まる。全てが止まる。
不意に青が点灯し、佳奈が歩き出した。
「風邪、ひくなよ」
分厚いコートを纏った背中が立ち止まる。長い髪が静かに揺れる。
その姿が改札の向こうに消えるのを見て、俺は家路についた。
七
妹が意識不明となったのはその日の夜だった。
家で親の帰りを待っていたところに病院から電話があり、飛び出した。携帯電話で両親に電話して伝える。二人とも妙に落ち着いていたのは、俺があまりにも混乱していたからだろう。妹の死は覚悟していたはずだった。だが、知らせを受けた時、足が震えた。心臓は未だにでたらめな鼓動を続けている。
自転車を飛ばして病院に着いたのはその二十分後だった。待合室には顔見知りの看護婦がいて、妹が既に救急治療室にいることが告げられた。待合室にはソファ下の明かりと非常灯しか点いてない。受付はとうに終わっていて、カーテンからぼんやりした明かりが漏れている。俺はそのまま、看護婦の横を通り過ぎ、エレベーターのボタンを押した。後ろから咎めるような声が聞こえる。何を勘違いしているのか。
扉はいつものように開いていた。中にはまだ慌ただしさが残っているのが目に見えて明らかだった。ベッドごと運ばれていったのだろう。奇妙な黒い機械が中央に鎮座していた。椅子に腰掛ける。空は綺麗に晴れ、星がくっきりと瞬いていた。そうだ、明かりを点けていない。そう思い立ち上がろうとしてバランスを崩した。脚に力が入らなかった。気づくと俺は、寝そべってその機械と対面していた。視界に白い物が映る。その態勢のまま手を伸ばし引き寄せると、それはかつて春日井が妹に贈った封筒だった。中にはまだコンサートのチケットが入っている。何かの拍子に落ちたのだろう。そう言い聞かせながら、それをポケットにねじ込んだ。そこから立ち上がり、もう一度部屋を見渡してから待合室に向かった。
ソファに座っていると、少しして母親、次いで父親がやって来た。二人とも俺に何やら語りかけるがよく分からない。三人でうなだれたように座っていると、医者がやって来た。その医者に両親が詰め寄る。医者は落ち着いた様子で事の内容を語った。
妹の様子がおかしいことに気づいたのは、見回りをしていた看護婦だという。ナースコールも何も無かった。ただ、扉が開いているのを不審に思った看護婦が様子を見たらしい。すると妹は息絶え絶えにベッドに横たわっていたのだという。医者の見立てによると、妹の病気によるものではないらしい。ではなんなのだ、と父親が問うと、医者はなんらかの急性中毒だと答えた。
それが意味することは一つしか考えられなかった。医療過誤という可能性も大いにあったが、俺には別の答しか正しくないように思えた。だから、ソファから立ち上がった。玄関に向かう俺を、両親が咎める。何を勘違いしているのか。早くしないと電車がなくなってしまう。俺は掴まれる腕を振り払い目的地へ向かった。
ここも夜になるのだな。たどり着いた時に思ったのが間抜けなことにこれだった。考えてみたら日が昇っている内にしか訪ねたことはなかった。家に向かおうとして、背後から声をかけられる。
「こんばんは」
今回はこちらから向かう必要はないようだ。振り向くと魔女は沈鬱な表情で俺を見ていた。今日は魔女らしい黒いローブに見を包んでおり、背後の森がその不気味さを演出していた。
「何しに来たのかしら」
「分かってるんだろ」
「分かっているから尋ねたのだけど」
「妹、来てるだろ?」
「今夜はお客さんが多いのね」
俺の問いに答えることなく、魔女が横を通り過ぎて行く。そこにいつものしなやかさはなく、毅然とした雰囲気を漂わせていた。
「どうしたの、会いたいのでしょう?」
その瞳は、月明かりの下で鈍く輝いており、思わず唾を飲み込む。魔女は返事を待たず再び歩き出した。
魔女の家。いつもの居間のソファ。そこに、妹が座っていた。妹は俺に気づくと、すぐに目を逸らし俯いた。俺もただ立ち尽くしていた。妹を追って来たはいいが、他に何も考えていなかった。かける言葉も今もって見つからなかった。
「あら、何も考えてなかったの」
傍らの魔女が呆れたように言った。
「ここに来るのが精一杯で」
「だそうよ」
すると妹は顔を上げ無表情なまま口を開いた。
「なんのために来たの」
自分でもよく分からなかった。ただ、焦っていた。妹に会えなくなることは覚悟していた。それはさっきも確認した。それでも、ここに来たのはなぜか。問われても答えることはできなかった。
「あなたは分かっているのでしょう?」
魔女が妹の隣に座る。その表情からしてこの状況を楽しんでいるようだ。タチが悪いな、と敢えて内心で呟くが、妹を見つめる魔女は反応を示さなかった。
「なんのことでしょう」
「嘘。私には全部お見通しなのよ?」
「そう言えば大体は向こうから答を言ってくれます」
魔女はつまらなそうに、立ち上がりキッチンへ向かった。恐る恐る、妹とは別のソファ、魔女の特等席に座った。
「俺は、お前を連れ戻しに来た」
「無意味だね」
「無意味なんかじゃない」
腹から唸るように込み上げる何かが、開いた口から出て行った。その何かに、妹は一瞬目を丸くしていたが、静かに答えた。
「私は生き返るんだよ? 連れ戻しても病身のまま。迷惑なだけじゃない」
「迷惑なんかじゃなかった!」
居間に響いているのは俺の声なのか。延々と鳴るそれに現実感が湧かなかった。
「お前が生きていたから良かった。病室に行く度に顔が見れて良かった。話せて良かった。居るだけで良かった!」
湿った喉が痛い。喉だけじゃない。全身の至るところが痛かった。いつの間にか涙が頬を伝っていた。妹はただ俺を見ていた。その眉間に皺が出来ているように見える。それは泣いているのか笑っているのか。とにかく妹は、冷たく言い放ったのだ。
「私はもう、騙されませんから」
その言葉が届き、新たな言葉が口から出て行こうとした時、魔女が紅茶を持って現れた。
「それはダメよ」
それを、魔女は俺に向かって言った。出かかった言葉を喉奥に退ける。それを見て魔女は微笑んだ。
「紅茶はいかが。お菓子もあるのよ」
手際良く並べる。なぜか俺にはコーヒーが出されていたことに、カップを近づけて気づく。ミルクが入ったそれは普段出されるものより苦く穏やかだった。魔女は俺と妹の間に座り、ただ紅茶を楽しんでいた。妹も、一口飲んでからは、クッキーにも手をつけ、肩の力が解けているように見える。
なぜ自分はここに来たのだったか。なぜ妹はここに来たのだったか。なぜ生き返ることを望んだのだったか。それらの答は見つからないような気がした。それに、見つからなくても良い気がする。
一度こちらに来てしまえば戻るのは難しい。ここに居る人達というのは、なんらかの理由で、向こうからやって来て居座ることを望んだ人達。なら、帰る人達というのは、その理由というのが無い人達なのだろう。元よりこちらへ渡るつもりなどない人達なのだ。きっと魔女は理由なくここに留まることを強いられ苦しむだろう人々を解放しているのだろう。そして、俺が引っ込めた言葉は、妹にその理由を作らせるに足りるものだったに違いない。今はもう、コーヒーと共に腹の中に消えてしまった。
「妹さんにも伝わったみたいだし、帰る?」
三人のカップが空になり少しして魔女が尋ねると、妹はただ小さく頷いた。
「では、二人並んで床に座って」
俺達が指示通りにすると、魔女は前に立ち屈んだ。
「私の目を見て」
見慣れた碧い瞳。そう言えば、何かを忘れている。
「何も考えないで」
魔女の注意も聞き入れられない。大切なことだった。患者の経験談。彼らは最後どうなった。そうだ。そのせいで捜すのに苦労したじゃないか。
「考えないで」
そのまま俺の瞼は閉ざされた。閉じる瞬間、俺を映す瞳が潤んでいたように見えた。
目を覚ますと、俺は待合室のソファで横になっていた。入口からは薄い陽射しが差し込んでいる。誰がかけてくれたのか、毛布が温かい。身体を起こして見渡す。受付の看護婦が気づいて俺の元へやって来た。
「妹さん、目を覚まされましたよ」
ゆったりとした温かい笑顔だった。その人の話によると、俺は玄関先で気を失って倒れていたところを通り掛かりの女性に助けてもらったらしい。その人は早々に去って行ったため名前等は聞くことができなかったようだ。ただ、深夜のこの季節だったのになぜか俺の身体は温かいままだったという。両親は、俺が出て行った後も病院に残っていたが、妹が目を覚ますと少し話をして既に帰宅したらしい。
「それにしても不思議ね」
「なぜですか?」
「妹さん、元気なのよ」
「どういうことですか?」
「完治、してるのよね」
まだ寝てると思うけどと言いつつも、看護婦は病室に行くことを勧めた。再び毛布の礼を言い、それに従う。
扉をそっと開ける。雲間から漏れた薄明かりが部屋を包み込んでいた。起こさないように妹の顔を見る。無表情に慣れているからか、微かに笑っているように見える。妹が生きている。しかも、もう苦しまなくていい。自然と手がその頬に触れていた。温かい。温かいものだったのだな。
突然、その手を掴まれ、瞼が静かに開かれる。この状況の言い訳が見つからず、ただ妹の言葉を待った。
「おはよう、お兄ちゃん」
返事をしようとした時には、既に寝息を立てていた。まだ離れない手の温もりを感じながら、俺はただむせび泣いていた。
その嗚咽は二人きりの病室に、ひっそりと響き渡っていた。
エピローグ
三日後、俺は学校で春日井を呼び出した。本当ならあの日の内に話をしたかったのだが、妹の検査やら警察の事情聴取やらで拘束されてしまっていた。
噴水のあるくつろぎスペース。噴水を中心に、コロッセウムのように階段が囲む。昼時は学生が男女問わずたむろしているが、さすがに三限を過ぎると片手で数えるほどしかいなかった。
「急にどうしたの?」
春日井の様子は普段と変わらなかった。そのことに余計に腹が立った。
「三日前、妹が意識不明になった」
「えっ、こんなとこに居ていいの?」
どうしてこうもわざとらしく振る舞えるのだろうか。
「医者は何かの急性中毒だと言っていた」
春日井が俺の腕を掴み、階段を駆け上がる。俺は転ばないようにしながら、続けた。
「だが、俺は自殺だったんじゃないかって思ってる」
のぼりきると、春日井は軽く息を整えた。
「どうして自殺なんか」
「しらを切るのもいい加減にしろよ」
春日井はため息をつき桜の木に体を預けた。
「どうしてこんなこと」
「メモしてたよね。生き返らせることは罪かって」
話を逸らしているわけではないことは、その目を見れば明らかだった。
「それは罪にならない。なぜなら、生きているというのは何にも代えがたい価値を持つから」
ただし、と繋げる。
「それは、皆が生きたいと思うだろうっていうフィクションの上に成り立っているんだよ」
「だからどうした?」
「世の中には、死ぬことが価値を持つこともあるってこと」
春日井の言っていることが正しいのかは分からない。ただ、死によって自らの願いが叶うこともあるにはある。誰かが死ぬことで他の人が幸せになるなら、それはそれで価値があることかもしれない。
「だから、妹に?」
「あの子は死にたいと思ってた。だから、手を貸した。それだけ」
「立派な罪じゃないか」
自殺を手助けすることも罪になる。ただ、春日井にとってはそれは罪にならないのだろう。生き返らせることが罪ではないのと同じように。
「望むようにしただけだよ」
「家族に、俺に黙って」
「君たちも勝手にしてたろ?」
それを言われると、何も言い返せない。
「まぁ、その様子だと自殺未遂だったみたいだね」
木から背を離すと、大切な約束があるからと背を向け去って行く。
「妹の願いは生き返ることだぞ?」
春日井は立ち止まり、少し考える素振りを見せた。
「僕の分も礼を、言っておいてよ」
振り返り笑う春日井に、俺は苦笑いで返し見送ってやった。春日井も春日井なりに悩んだのだろう。その行為は明らかに犯罪なのだが、久しぶりに着飾った妹に頼まれた手前許してやるしかなかった。
さて、と独りごち、春日井とは反対側にある駅へと足を向けた。
深く薄暗い森を抜けると、そこは村だった。小さな畑はあるし、向こうには裸の田も見える。家々は藁葺きの屋根をかむり、電線の一本も通ってはいなかった。
「はじめまして」
声をかけられ振り向くと、いかにも外人らしい女性が俺を見上げていた。ノルディック柄のセーターに赤いマフラーを巻く姿は、十二月も後半に入り寒さに磨きがかかっている冬らしい。だが、ショートパンツを穿くくらいなら、もう少し薄着を出来たのではないだろうか。
「というわけではなさそうね」
魔女はあからさまに呆れた顔をみせた。生き返った人達は魔女のことをあまり覚えていなかった。最初はあまり関わらないようにしていたのだろうと思っていたが、よく思い起こせば出迎えるのは常に魔女であり、妹の時も魔女が保護していた。魔女は、彼らの記憶を曖昧にして生き返らせていたのだ。
「お蔭様で」
「本当なら記憶が消えているはずなのだけど」
恐らく、その魔法は生きた人間には効かないのだろう。魔女もそれを知っていたから、佳奈の記憶には手を出さなかった。では、なぜ俺には手を出したのか。その答を聞きに来たのだった。
「ついて来て」
言われるがままたどり着いたのは小川流れるあの場所だった。魔女と共にその小川を渡る。
「気づいた時、私はここにいたわ」
岩に腰掛けながら魔女は話し始めたので、俺は前と同じように地べたに座った。
「まだ子供だった。子供だったけど、両親と弟を亡くした」
交互に動く脚が止まる。
「それが魔女狩りと呼ばれることを、後で知ったわ。こっちの学校に入ってから」
「それじゃあ」
「そ、あなたの考えている通り」
今笑われたのは、一瞬でもアニメのタイムマシンを思い浮かべてしまったからだろう。
「それから私は普通に暮らした。養ってくれる家族もいた。あの時代とは大違い。誰も何もが明るく輝いていて、目が眩みそうだった」
そう語る魔女は恍惚としていた。しかしすぐに、けれど、と呟く。
「やっぱり人間は人間だから」
「心が読めるのだろう?」
「読めるからこそ信じることもなくなる。知ることはあっても信じることはないのよ」
「そんなものか」
「そんなものよ」
そう言って魔女は岩から降り小川に向かった。そこでしゃがみ込む。気になって隣に行くと、魔女は右手を小川に浸していた。だが、その手も小川は映してはいない。
「あなたの記憶を消そうとしたのは、怖かったからよ」
しゃがんで小川を見るも、やはり俺は映らなかった。
「今度もまた、あなたが映ってしまいそうで」
魔女が俺を見る。その瞳にぼんやりと人影が見えた。
「私は心をそのまま読めるのではないの。その人の心に映るものを、その目を通して読めるだけ。ほとんどは私の推測よ。あなたも気づいているようだけど」
その人影が徐々にはっきりとしてくる。
「映るのが他人ならそれは、その人を信じたということ」
それはどこか見覚えがある人物だった。
「その中に私が入っていることも、私を怖がらせた」
「なぜ?」
魔女が急に俯く。何かまずいことを言ったのかと思い声をかけるも魔女はただ首を振った。コートを着ていてもその肩が震えているのが分かった。
「え、おい大丈夫か?」
「馬鹿ね」
瞬間、勢いよく顔を上げて魔女は言い放った。
「そんなこと、今のあなたに会ったら忘れてしまったわ!」
一筋の風が、彼女の髪を舞い上げた。宙を舞う髪一本一本が輝き、辺りを照らす。
目の前にある満面の笑みは今までで見た中で最も醜くかったが、降り注ぐ陽の光に照らされ、今までになく力強い美しさを誇っていた。
Puppets In The Belief (ツサミ)
本作では「知る」ことと「信じる」こととの隔たりを意識し、そのモチーフをいくつか描いています。