森の女(丹羽煮埴輪爾和鳥)
※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)
風の音が聴こえる、緑の美しい森だった。
一人の老婆がこの世を去ってから、その森には植物と鳥と獣と虫と水の生き物、それから一人の女しか存在しなかった。
薄暗い森にわざわざ入る人間はおらず、森の女が一人出てくるだけだった。
女は森を抜けたところにある小さな村へ、物資の買い足しに行った。
村の青年は、硬貨ではなく薬草を差し出す細い手を見て、浮世離れしているよな、と言った。
そうかもしれないとひとつ頷いて、女は森へ帰って行った。
近隣の村人が近づかない森に、ふとした拍子で迷い込む人間はいないわけでもなかった。
女は森で食べられる果実を集めていると、迷子の子どもと行きあった。女を見てへたり込んだ子どもに食べる物と傷薬を与え、森の出口まで先導した。
身なりの良い子どもは、迷いなく獣道を歩きながら時折薬草を摘む後ろ姿に、絵本で読んだ魔女さんみたいだ、と言った。
どう言えばいいのかわからず、女は黙々と足を進めた。
鬱蒼とした森に王子を助けた魔女がいるという話が宮廷に広まった。
女が森林浴をしているところに、調査に来たという偉そうな男と腰の低い若い男が現れた。偉そうな男は薬作りから森での暮らしに至るまで根掘り葉掘り聞き、研究を手伝いに宮廷へ来いと告げた。女は考える様子も見せず断り、森の出口の方向を指し示して帰した。
偉そうな男は、偏屈な女だと言い捨て、若い男を従え帰って行った。
特に思うことも無く、女は森林浴を再開した。
深く暗い森の中に風変りな魔女が引きこもっているという噂が立った。
女が湖で水浴びをしているところに、男が三人立ち尽くしていた。水の中から女が誰何すると、役場の人間と名乗った男たちは、森は若い女が文化的な生活をできるところではないと判断し、森から出て他の人間と一緒に暮らすことを勧めた。女は無表情のまま否と告げ、帰るよう言った。
役場の男たちは、森にとりつかれてでもいるのかと吐き捨て、報告に帰って行った。
無表情のまま、女は水浴びを続けた。
恐ろしい森にとりつかれた哀れな魔女の噂は、享楽的な悲劇として近くの街に広がった。
女が森で狩りをしているところに、近くの街の司祭と名乗る男が訪れた。司祭は自然の厳しさ恐ろしさを説き、その中で懸命に生きる女性を苦難から救うために来たと、森を出るよう諭した。女は司祭を睨み、森は恐ろしいものではなく自分を守る何より安全な拠り所だと答え、追い返した。
司祭は、森を恐れぬなど、恐ろしい魔女めと女を不穏な目つきで見つめ、踵を返した。
その後ろ姿を女は睨み続けた。
呪わしい森を根城とする魔女の噂は、国中に広がった。
女が小屋で食事をしていると、森に住む不審人物の調査に来たという兵士が入って来た。聴取のために詰所へ連行しようと、兵士が女を小屋の外へ引っ張り出した。小屋の周りを守るように、獣や鳥たちが倒れている光景に、女は顔色を変えた。女は兵士に薬を投げつけ、目を押さえる兵士にナイフを向けた。新たに集まって来た動物たちを見た兵士は、悪態をつきながら逃走していった。
女は、魔女になった。
兵士に襲いかかった魔女の森に、分隊一つが派遣された。
森で待ち構えていた魔女は、兵士の気配を感じると、躊躇なく射抜いた。動物と共に、弓を手に森と同化して戦う魔女の姿に、兵士たちは女一人と己に言い聞かせつつ恐怖した。昼も夜も無く森を駆ける魔女に、体力の限界を迎えた兵士たちは撤退していった。
森の魔女は、森を襲う恐ろしい外界から森を守った安心感とともに、倒れるように眠りこんだ。
森を操り人間を襲う恐ろしい魔女の森の周りに、一個中隊が展開した。
森の魔女は、森が燃える音に目を覚ました。森と生き物たちの無惨な姿に涙を流し、恐ろしい外敵へ怒りを燃やした森の魔女は、命が枯れるまで怨嗟の叫びを上げ続けた。
魔女は森とともに浄化されたと国中に伝えられたが、後の世も森の跡地に立ち入る人間はいなかった。
森の女(丹羽煮埴輪爾和鳥)
某美術展に行ったその日に、自然主義やバルビゾン派について色々と思い起こしつつ書きました。この話で「魔女」という言葉は16回、「森」という言葉は41回出てきたようです。