ヌスットカギョウ(かもめあき)
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箱をこじ開けたら物語が始まりました。行きつく先はわかりません。(不定期連載を予定)
ぱちり。
小気味いい、掛け金の外れる音がした。しめた。愛用のピックを握りしめて、ミルシャは快哉を叫ぶ。
黒檀造りの堅牢な宝箱はかび臭く古めかしい代物だったが、手になじむずっしりとした重量と、油のようなてらてらとした光沢には胸を高鳴らせるものがあった。両手をこすり合わせて汗をぬぐう仕草は、獲物を前に舌なめずりする猟犬のようだ。実際、箱のしつらえからしてもよだれの出そうな獲物に違いなかった。ミルシャは蓋に手をかけ、焦らすように揺さぶりながら、ゆっくりと持ち上げる。
「ちいっくしょう!」
中を見るなり悪態をついて、箱の蓋を思いっきり叩き付けた。がちん、と大きな音がして掛け金が曲がるも、箱そのものはびくともせず、蚊でもとまったのかと言いそうな顔をしていた。
「何もねぇなら何もねぇで、そうやって書いとけっての、この野郎! 期待させやがって!」
『それはそれは申し訳ないねぇ。でも、あいにく僕には手ってものがないからさあ』
呑気な箱を、ミルシャはぎろりとにらんだ。
「ぺらぺらしゃべりやがって、うるせぇんだよ。その口、二度と開かないようにしてやろうか」
『脅迫? やだなあ。僕の気持ちにもなってみなよ。長いこと鍵をかけられて、しゃべりたくてもしゃべれないからさあ、ここのところずっとふさいでいたんだよ。なんちゃって。どう? 面白い?』
「最高にウザい」
力任せにけっとばすと、箱はごろごろ転がって煉瓦の壁に激突した。
『ひどいことするなあ。君が落ち込んでいるみたいだから元気づけようと思って、練りに練った冗談を披露してあげたのに。だいたい、僕の口を開けたのは君自身じゃないか。僕と話したかったんじゃないのかい?』
「誰がてめーなんかに用がある。あたしが欲しいのは中身だ。な・か・み。宝石とか、貴金属とか、首飾りとか、とびきり高く売れるやつだ。てめーはそんなこともわかんねぇのか」
『そりゃあまあ、ずっとこんな狭い部屋で一人っきりなんだから、世間知らずなのもしょうがないよね。うん、まったく寂しい人生さ。いや、人生って言い方はどうなんだろうなあ。でも、箱生っていうのも言いにくいよね』
「どうでもいい」
つま先をさすりながら、ミルシャは盛大に顔をしかめていた。ぬき足さし足しのび足で来るために、靴をはかずに厚手の布をまいただけだったので、堅い箱に八つ当たりをするのは無茶だったらしい。あまりの痛さにちょっと泣きそうだ。
「宝がないなら用はねぇ。あばよ」
『ええっ、帰っちゃうのお? そんなあ。久々に話し相手ができたのにさあ』
「うるせぇって言ってんだろ! 人がせっかく開けてやったんだから、せいぜい他に話相手でも見つけるんだな」
もう一回けっとばしたい衝動にかられたが、そんなことをしても痛い目を見るのは自分なので、やめた。
『そりゃあないよ。こないだも開けてくれる人がいたけど、話のわからない人でさあ。あ、話のわからないっていうのは話の内容じゃなくて、そもそも僕の声が聞こえないってそういう意味でね。僕のお腹のものを抜きとったら、さっさと帰っちゃうの。つまんないったらつまんないったら』
「くそったれ、またかよ」
ぎりりと歯ぎしりして、ミルシャは虚空をにらんだ。
『また? またってどういうことさ』
「このあたしでも、たまーに出しぬかれるってことだよ。先客がいやがった」
『ふーん、大変なんだねえ。その先客って人だけど、僕に紙きれを食べさせていったよ』
「なんだって?」
細い眉をぴょこんと上げて、横目で箱を見る。口と目つきは悪いが、ミルシャは目鼻立ちがくっきりして、そこそこ見られる顔をしていた。自分で適当にはさみを入れたざんばら髪さえ整えれば、まあ多少は可愛げも出るかもしれない。
壁際に逆さになった箱をよっこらせっとひっくり返し、荒々しく蓋をはね上げると、さっきは見逃したらしいが、確かに一枚の紙片がぽつんと居座っていた。
裏から字の透けない、厚手のしっかりした紙だった。高級品だ。裏返して見ると、整った字で一言書きつけてある。
『隠者の鎖』はいただいた。 ティリオ
舌打ちして、ぐしゃりと握りつぶす。ティリオ。その名前を見るのは一度や二度ではない。箱には強がってみたが、実を言うとこのところ先を越されてばかりで、空の箱には今のように書置きがしてあるのだった。盗んだ品と名を記して。気障な野郎だ。
『ねーえー。本当に行っちゃうの? つまらないよ、とってもつまらない』
「黙れ!」
もともとしゃべる箱は好かないのだが、今回のは輪をかけてうっとうしい。これだから年寄りは嫌いだ。火でもつけてやろうかと思ったが、火打石なんて持ってないし、部屋に燃え移れば侵入したのをわざわざ知らせることになる。代わりに憤怒の視線を投げて、真っ黒な外套のすそをひるがえし、目深にフードを被った。
『何も持たずに帰るのかい? わざわざこんなところまで来て、逃げ帰るんだ』
露骨な挑発に、ぴくりと肩が震えた。たたみかけるように箱が言い募る。
『あのさあ、僕を持ってってよ。ね? 積もる話も一杯あるからさ、きっと面白いと思うよ』
「誰が持ってくか!」
と言いつつ、ミルシャは思い直したようだった。
「確かに、何もしないで帰るのも野暮ってもんだな」
ミルシャは懐から布切れを取り出した。紙なんて洒落たものを持ち歩く癖などない。書くものを探してあちこちまさぐってもそれらしいものがないので、仕方なしに、布切れを適当に結んで箱の中に放り込んだ。
『書き置きの代わりかい? ずいぶんみすぼらしいけど』
「ほっとけ」
結果的に、ただのゴミを置いていくだけになってしまった。気がせいせいするかと思ったら大間違いで、苛立ちが増すばかりだった。
(……あたしはなんで奴の真似なんかしているんだ)
ティリオ。いつも自分の先を行き、人を小馬鹿にしたような台詞を残していく。いったいぜんたい何者なのか。
『おーい、置いてかないでよー! 聞こえてないの』
「いつまでも、してやられたままでたまるか。今度こそ先回りしてやる」
ぼそぼそと独り言をつぶやきながら、ミルシャは部屋を出る。箱の声は全く耳に入っていなかった。しょうがないなあ。箱も最後は諦めて、それきり口を閉ざしてしまったのだった。
ヌスットカギョウ(かもめあき)