Rotkaeppchen(ジータ)
※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)
第一章
~一期一会~
今日から僕の楽しみにしていた人社会の授業が始まる。他の生徒にはあまり人気のない教科だけど、僕は興味がある。何せ僕の知らないことがたくさんあるのだから。
始業の鐘が鳴り、みなが自分の席に着いて授業の開始を待った。がらりという音とともに戸が開き、担任であるユーベル先生が入ってきた。明るく優しい、女の先生である。時折見せるぼけた感じも、人気を博している。僕はわくわくしながら教科書を開いた。
最初はこの世界、エルデの成り立ちから入ったが、僕はこれにはあまり興味がない。退屈な時間は長く感じられる。そして幾程か経ってから、僕の待ち望んだ分野に入っていった。
「エルデの成り立ちを話したので、次はこのエルデの人種比率について話します」
人間である僕は、この世界のもう一つの人種に会ったことがなかった。だからこそ興味を持ち、この授業を楽しみにしていた。
「みんな知っているかもしれないけど、このエルデには大きく分けて二つの人種があります。一つはエルデの八割を占める、私たち人間。そしてもう一つが、残りの二割を――」
その瞬間、激しい爆発音とともに教室の前方、ちょうどユーベル先生がいる教卓の辺りが吹き飛んだ。教室を横に駆け抜けていった何かは、見事なまでに教室を分断した。正面には隣の教室が見えている。
「おいおい、学校の先生が嘘を教えちゃいけねえよな」
そう言う声がして、ちょうど教室が無くなった所に外套を羽織った一人の人が浮いていた。そう、浮いていたのだ。地面も何もない所で。
「俺が代わりに教えてやるよ」
そう言って、その人は僕らの方を向き、宙に浮いたまま話し始めた。その声にはすごい威圧感があるように感じられた。
「このエルデには三つの人種が存在する。一つはエルデの七割九分を占める、お前ら人間。もう一つは一割九分を占める、俺らハオベ。そして最後の一つは、一般には知られていないが、エルデの残り二分を占めるエーヴィヒと呼ばれる者達だ。ちょうどあいつみたいな奴だ」
その男は腕を上げて、煙が上がっている辺りを指差した。煙が次第に晴れてくると、中にはユーベル先生が立っていた。あれだけの爆発に巻き込まれて、まだ生きているなんて僕には信じられなかった。僕らは声を上げることも出来なかった。立ち上がったユーベル先生は声を張り上げた。
「お前は何者だ!」
男は悠然としたまま、答えた。
「よくまあ人間のふりなんかして、しかも教師とは笑わせてくれるぜ。お前らエーヴィヒが何回教科書を書き直させたことか。
お前らは存在を許されない。だから俺はお前らを排除する。ただそれだけだ。……さあどうする? 人間のふりをしていちゃあ、俺には勝てないぜ? 早く本性出せよ」
僕には何が起きているのか全く分からなかった。エーヴィヒって一体何の事を言っているんだ? ユーベル先生が存在してはいけない? ユーベル先生は教室とその男を何度か見比べた後、不意に笑い出した。
「フ、ハハハハ! まあいい、ここも中々楽しめたし、迂濶なハオベも迷い込んで来て、最高のご馳走だわ」
ユーベル先生はそう言うと、急に身を丸めた。すると見る見る身体が黒く変色し、爪が伸びて尻尾も生えてきた。第一印象は、醜い。耳は尖り、その姿はもはや人間のそれではなかった。ユーベル先生が再び口を開いたとき、その声は全く違うどすの利いた物になっていた。
「だが忘れたわけではあるまい。お前らを生み出したカプーツェを食したのは我々だということをな!」
そう言ってそのエーヴィヒは男の方へ跳躍した。凄まじい速度でその男に向かっていったが、その男が腕を上げて手を広げると、エーヴィヒは男の手前で何かに弾かれた。男はエーヴィヒの方を向くと、手を前に突き出した。
「くだらねぇ。雑魚に限って大口を叩くもんだぜ」
そう言うと、男の手から火球が飛び出した。火球は一直線にエーヴィヒのもとへと飛んでいった。エーヴィヒは避け切れず直撃したが、倒れずに余裕をかましていた。
「弱いな。こんな物で私を倒せると思ったか?」
男は手を上げると、やれやれと言ったそぶりをしてみせた。
「今のは朱雀並の攻撃だぜ? 軽い挨拶だよ」
そう言った後男は僕らの方を向いた。目元は外套の被り物のせいで隠れているが、はっきりと分かる。僕らの方を向いている。
「お前らには何がなんだか分からないだろうな。俺らハオベは、火、水、雷、光、闇の属性を持つ魔法、ヘクセライを使う。大抵が一人一属性だが、稀に二属性を持つ奴もいる。そしてそのヘクセライにも階級がある」
エーヴィヒは懲りずに向かってきたので、男は顔はこちらに向けたまま、再び手をエーヴィヒの方に出して火球を放った。エーヴィヒは今度はその火球をかわしたのだが、その男が連続で火球を放ったためその内の数発には当たってしまった。
「下から言うと、まず朱雀。これはその属性の性質を利用したものだ。例えば今俺が宙に浮いているのも朱雀だ。次に白虎。これはただ力を目一杯に使うってだけだ。その次が玄武。これは他の属性との組合わせ、属性の性質変化だ。口でいっても分かりにくいが、例えばこんな感じだ」
男がそう言うと、男の姿が二つになった。しかもはっきりと見えている。そうかと思ったら、二つとも急に姿が消え始めた。
「そして次が青龍。これは属性を実体化させる。つまり、普段手には触れない火水雷光闇が触れるようになる。ここまでが普通の階級だ」
何も見えない場所から声がし、説明している。そしてまた姿を現して説明を再開しようとした。
「そしてあともう二つある。一つは……」
男は倒れたエーヴィヒの方を向くと、一端話すのを止め、エーヴィヒの方を凝視していた。
「どうやら向こうはまだまだやる気らしいな。今日はこれまでだ」
そう言うと、男はエーヴィヒの方に移動していった。そのエーヴィヒはというと、男の方をじっと見たまま、動かないでいる。だが明らかに先程までとは雰囲気が違う。何か、さらに禍々しくなっている。
「私に本気を出させるとは、貴様は何者だ?」
「お前の知ったことか。いいぜ、さっさと終わらせてやるよ」
そう言ったと思ったら、男はその場から消えていた。そしていつの間にかエーヴィヒの真後ろに回っていた。その後再び火球を放ち、エーヴィヒはまたしても吹き飛んだ。その速さは異常なほどだった。僕は息を飲んだ。これがハオベなのだ。
「まあ、今のはちょっとした如何様だけどな」
男は指で頭をかいていた。僕は少しして理解した。ああ、これが玄武か。あの男は自分の分身を作り出した後、自分自身の姿を消してこっそり近付いていったのだ。だがそうとは思わせないほどに動きに無駄がなかった。
エーヴィヒはその場に倒れたまま動かなかった。男が地面に降りて歩いて近付いていくと、エーヴィヒは急に顔を上げた。口の先で何か黒い物が蠢いている。そしてエーヴィヒの口先から、黒い物体が尾を引いて飛び出した。それは真っ直ぐに男のところへ向かっていき、その男に直撃した。小さな爆発が起こり、辺りに煙が立ち込めた。
「油断したな、愚かなハオベめ」
エーヴィヒはむくりと立ち上がり、今度は僕らの方を向いた。先程エーヴィヒはあの男のことをご馳走だと言った。だとすればエーヴィヒはハオベを食べるのだろうか。もしそうなら、人間も食べるのだろうか。僕は恐怖を感じた。今まで食べられたことなど一度もない。一度だってあってたまるか。エーヴィヒはゆっくりとこちらに歩いてくる。
「ふぅ、今のは危なかったな。――しかし、エーヴィヒでそんな物が使えるとは、実は階級が上の奴だったのか……」
煙の中からあの男の声がした。エーヴィヒはまさかという感じで煙の中を見た。確かに人影が見える。不意に煙が晴れた。まるで煙がその男を避けるようだった。
先程の爆発のせいか、男の顔を隠していた外套が取れている。だが首元には依然として布のような物が浮いている。その赤い布は、首を守るかのようだった。と、その男の姿を見たエーヴィヒは急に動揺し始めた。
「ま、まさか貴様……。聞いたことがあるぞ。白と黒の髪を持ち、赤と青の瞳を持つハオベ……」
僕は教科書を急いでめくった。髪の色も瞳の色も左右で違うなんて、人間では有り得ない。そして僕はその事に関する記述がある頁を見付けた。ハオベの魔法は遺伝的なもので、髪の色は両親の魔法の色に、そして瞳の色はその者が持つ魔法の色に染まる。僕はそれだけを確認して顔を上げると、その男が手を前に出して何かを構えているのが見えた。
「んな事はどうでもいい。俺は不死のお前らを殺す方法を知っている。……消えろ。千紫万紅!」
男がそう言うと、突如空に赤い物が見え始めた。それは次第に近付いて来て、やがてそれが数千本の槍であることが分かった。しかも赤く、まるで炎が凝縮しているようだ。エーヴィヒはもはや諦めを見せていた。それ程に名の通った人物なのだろうか。炎の槍はエーヴィヒ目掛けて降り注ぎ、もはや命中寸前だった。エーヴィヒは脱力したまま震える声を発した。
「お前は――、赤ずきんのヴェーア・ヴォルフ!」
そして幾千もの槍がエーヴィヒを貫き、エーヴィヒの骸は一瞬にして灰と化した。
このエルデの世界には三種類の人種が存在する。一つ目は世界の七割九分を占める、力を欲し知に縋る人間。二つ目は一割九分を占める、色の着いたずきんを被り、それに応じた魔法を使うハオベ。そして三つ目は世界のわずか二分のみを占める、異形の姿で不老不死の異端な存在のエーヴィヒ。
ヴォルフは根無し草の旅を続けていた。目的はいくつかあるが、全てはある人物を見付けることから始まる。赤ずきんであるヴォルフは、黒と白の髪を持ち、赤と青の瞳を持つ。これは、教科書通りにいけば、黒ずきんと白ずきんの親を持ち、赤と青の魔法が使えるということになるが、実際の所ヴォルフは赤魔法しか使えない。
ヴォルフは仰向けに寝転がり、宙に浮いて進んでいた。魔法というのはこういうときに便利だ。魔力、ツァオバーは消費するが、浮遊は所詮朱雀なのでその量は大したことはない。
ヴォルフは先程倒したエーヴィヒの事を思い出していた。今まで何体ものエーヴィヒを倒してきたが、それらは全て初めから本来の形をしていたし、ただ運動能力が優れているにすぎなかった。だがさっきのはどうか。人の形に化け、しかも明らかに魔法を使った。種類はよく分からなかったが、恐らくは黒魔法だろう。だとすればエーヴィヒの裏で暗躍しているのは黒ずきんと考えるのが妥当だ。ヴォルフが探している人物の一人と関わっている可能性は充分にある。ヴォルフはそこで思考を止め、空を眺めた。太陽の赤と空の青が視界一杯に入ってくる。ヴォルフは手を伸ばし、届かぬ太陽に手をかざした。
「広……」
ヴォルフが寝ようと思い目を閉じようとしたとき、下で人の荒げた声が聞こえた。ヴォルフは体を回転させて地上を見た。見ると白い外套を羽織った人の周りを三人組の男が囲っている。ヴォルフはその様子を眺めるために空中で止まった。別に助けようなどという正義感をヴォルフが持ち合わせているわけではない。自分の利害に関わらなければ、それは所詮無関係な事象だ。ただ面白そうだったから見ているだけだ。
「あんた、町に手配書が貼られてた奴だろ?」
そう言って男は一歩近付いた。その顔には何故かいやらしい微笑が浮かんでいる。
「手配書? 罪人か何かか?」
ヴォルフはそう思ったのだが、どうもその人物からは悪人らしい気配が感じられなかった。そして三人に囲まれたその人は、わずかな隙から走って逃げようとした。この広大な砂漠の中を走って。急に逃走を図られた三人組は直ぐに反応して、その手を伸ばした。その手はわずかに白い外套の頭の所に触れてそれを開けさせたが、捕まえるには至らず、三人も走り出した。ヴォルフははっとした。逃げているのは女だった。しかもそれだけではない。ヴォルフは先回りして女の前に立った。白い髪に白い瞳、そして首元にある白い布。
「伏せろ!」
ヴォルフはその女に命じた。だがその女は、ヴォルフのことも追手の一人と勘違いしたのか、伏せずに方向転換をした。結果として問題ないのだが、ヴォルフは自分の行動に少し後悔を覚えた。追われている者がそう安々と人を信じるわけがない。全てが敵に見えてくる。かつてのヴォルフのように。
ヴォルフの放った火球は、女の真横を通り過ぎて男達の目前で爆発した。爆風で女は倒れ、男達の姿は煙の向こうで見えなかった。ヴォルフがもう一度手を前に出すと、煙が上の方へと上っていき、やがて晴れた。三人の内の一人は気絶し、残り二人は尻餅をついていた。若干火傷もしているようだ。ヴォルフが近付いていくと、男達はヴォルフの姿を見て急に怯え始めた。
「お、お前はヴェーア・ヴォルフ! ま、待ってくれ。俺達は人間だ。黒ずきん狩りのあんたには用はないはずだ」
いつの頃からか、ヴォルフは何故か黒ずきん狩りのヴォルフで名が通るようになっていた。身に覚えはなかった。確かに探す人物に黒ずきんはいるが、今まで黒ずきんを狙ったことはない。ただ自分の利害に従って動いてきたまでだ。その過程で黒ずきんを何人殺してきたかは覚えていない。
「ああ、そうだ。お前らには用がないから、殺したって俺には何の問題もない」
そう言って手を男の方に出し、手の先に火球を溜め始めた。男達は本気で脅え、すごい量の汗をかいていた。その様子を見たヴォルフは、ふっと手を下ろした。
「フ、ハハハハ! 別にお前らを殺しても俺には何の利益もないからな。……金目の物を置いてさっさと消えろ!」
ヴォルフは高らかに笑った後、威圧を込めた表情で男達を脅した。当然男達は直ぐに金品をその場に置いて走って逃げていった。気絶している男がいるので徒歩よりも遥かに遅かったが。男達の安否などどうでもいいヴォルフは、直ぐに男達が置いていった物を漁り始めた。
「んー? 宝石に金に――、これはアムレット? ベーゼアガイストまであるのか。あいつら一体何者だったんだか」
ヴォルフは背後に先程の女の気配を、というよりも熱を感じた。ヴォルフは気にせずに荷物を漁り続けたが、女は何か言いたそうだった。ヴォルフは荷物の中に一枚の紙を見付けると、それを持って振り向いた。ヴォルフが話すよりも早く、その女が声を発した。
「あなたのしていることは間違っています」
高い声、白い声、透き通った声。まるでこの世の善しか知らないような無垢な声だった。だがヴォルフは、その女の言葉が気にくわなかった。
「俺の行いが悪だとでも言いたいのか?」
女は頷いた。真っ直ぐな瞳で、ヴォルフに物怖じする様子もない。ヴォルフは過去の事を思いだし、腹が立った。善、そして悪。そんな言葉のどこに信用性があるのだろうか。
「じゃあお前は何故追手から逃げている? 手配書があるということは、お前は逃げるべきではないだろ。だとすれば、逃げたお前の行いは悪になるんじゃないのか?」
女ははっとして下を向いてしまった。だがヴォルフは気にすることもなく言葉を続けた。
「そもそも、何が善で何が悪なんだ? そんなもの、個々人によって感じ方が違うだろ。俺はお前みたいに善悪に囚われたりしない。自分の行いに善悪などつけたりはしない」
ヴォルフは手にした手配書を見た。そこには雑な女の絵と名前、特徴、報奨金額が記載されている。ヴォルフはこの女の事情に興味はないし、報償金を得ようとも思わなかった。ただ目的は一つだけだ。
「お前、白ずきんだよな?」
女は元気なく頷く。
「じゃあこれを解けるヘクセライを使えるか?」
ヴォルフはそう言って左腕の環を見せた。腕にはめる指輪のようなそれには、長々と文字が書いてある。女は恐る恐るヴォルフに近付いていき、腕の環を見た。
「これは――、国士無双? あなたはこんな呪いを持つのに、黒ずきん狩りとまで呼ばれているのですか?」
「ああ……、どうやら俺の方には効かないらしい」
国士無双とは、白ずきんと黒ずきんだけが使える人体魔法、麒麟に属する封印魔法である。国士無双をかけるにはそれ相応の準備等が必要であるが、一度これにかかると、ハオベとしての一切の能力を奪われてしまう。そしてこれを解く唯一の魔法が、同じく麒麟に属する天下無双だけなのである。
「残念ですが、私はまだ麒麟を使えません」
ヴォルフはそれを聞き、少し落胆した。今までにも何人もの白ずきんと黒ずきんを訪ねてきた。だが誰も解くことは出来ず、この封印魔法を知らない者すらいた。それを考えるとこの女はまだいい方だったのかもしれない。ヴォルフは女に背を向けた。
「この魔法が解けないんじゃ、お前に用はない。じゃあな……」
ヴォルフは数歩だけ前に進み、その場で浮いた。
「ま、待って下さい! あなたは私を捕まえようとはしないのですか?」
ヴォルフは振り返り、女の方を見た。女のその目には焦りのようなものが見えた。
「生憎と、今は金には困ってないからな。そんな面倒な事をする必要なんてない」
ヴォルフは再び向きを変えて、その場を後にした。女の影は次第に砂に消えていった。それにしても、とヴォルフは思った。
「三万ゲルトの白ずきん、ゼーレか……」
ゼーレという名のその女にかけられていた金は三万ゲルト。三万ゲルトもあれば一年は何もせずに暮らしていける。それほどの金を掛けられるとは、一体どんな悪人なのか、はたまたどんな重要人物なのか。いずれにしても自分には関係のないことだと、ヴォルフは忘れようとした。
『勝手に語りかけて申し訳ありません。ですが話だけでも聞いてほしいのです。』
突然ヴォルフはゼーレの声を聞いた。辺りを見回しても誰もいない。いや、そういう感じではなかった。直に語りかけられている感じだ。ヴォルフはそこで思い出した。
「くそ、拈華微笑か! やっぱヘクセライを使えんじゃねえか!」
先程男達から逃げるとき、魔法を使えば楽に逃げられたはずなのにそうしなかったので、ヴォルフはてっきり魔法を使えないものだと思っていた。だが実際には使わなかっただけだった。理由は恐らく、白ずきんだということがばれたくなかったからだろう。ヴォルフは憤った。しつこい奴は嫌いだ。
「今更何の用だ? そんなに捕まりたいのか」
だがゼーレの声は静かで落ち着いていた。まるでヴォルフをなだめるかのような言い方だ。
『いいえ。あなたに助けてほしいのです。』
ヴォルフはゼーレの言葉を聞いて鼻で嘲笑った。この期に及んでこの女は助けてほしいという。
「さっきも言ったはずだ! そんな面倒な事、する必要はない!」
ヴォルフがそう言うと、今度はゼーレが強気な口調で返してきた。
『私も言ったはずです。まだ、使えないと。ですからいつか使えるようになりますから、どうか!』
「なりますから、だぁ? お前、麒麟がどれほどの高等魔法か知ってんのか? 数多の偉大な賢者達の中でも、わずかしか成し遂げられずにいたっていうのに、自分の運命から逃げているような奴に出来るとは、絶対思えねえ!」
端から見たら、ただヴォルフが一人で騒いでいるようにしか見えない。だがここは荒野のど真ん中。幸運にもヴォルフを見ている者は誰もいない。ヴォルフがそう返すと、ゼーレは先程よりもさらに強い口調で返してきた。
『ですから、私はもう逃げたくないのです。そのためにもあなたの助力がどうしても必要なんです!』
ヴォルフはその鬼気迫る物言いに一瞬だけたじろいだ。こいつの持つ力は一体何なのか。拈華微笑を使ってるからだけではない。身体の芯にも響くような声。これに似た声をヴォルフは聞いたことがあるように思った。
「……くそっ。最初から思ってたが、お前、ただの指名手配者ってわけではなさそうだな。どういう状況にあるか、まずそれから話せ」
ヴォルフはこんなことはしたくなかった。ただ面倒なだけ、ただ邪魔なだけ。そう思っているのに、ではなぜ今話を聞いているのか、ヴォルフは自問した。はっきりとした理由は分からない。ただ先程の声が、ヴォルフに畏怖を思い出させるのだ。
『まず、あなたも知っての事とは思いますが、私の両親は二人とも白ずきんです。』
それは分かっている。両親が違う色のハオベなら、その子供のずきんの色は無作為だが、両親が同じ色なら、その子供は確実に親の色を受け継ぐ。だから髪の色が一色のハオベは、瞳やずきんの色を見なくても属性が分かるようになっている。
『父も母もターブという町で研究員をしていました。私はその町で生まれ育ったのです。』
ヴォルフはここまでの話を聞いて少し驚いていた。ターブといえば、ヴォルフが育った町でもあるのだ。しかも先程見た限りでは、ヴォルフとゼーレはそれほど年が離れていない。もしかしたらどこかで会ったことがある可能性がある。それに白ずきん、先程の声。ヴォルフはそれで思い出した。
「もしかして、お前の姓はエンゲルじゃないか?」
『え? ええ。確かに私の名前はエンゲル・ゼーレですが――どうして私の姓を? 手配書には名前しか載っていなかったはずですが』
ヴォルフが名前を思い出せたのは限りなく奇跡に近いが、生憎それはゼーレの母親の印象に過ぎない。確かに、ヴォルフが母親と共に研究所に行ったときに会った、ゼーレの母親の顔と声は覚えている。そしてその傍に少女がいたことも覚えている。だがそのときの顔は覚えていない。二人は境遇が似ていて、だから同年代の友達もいなかったので、何度か一緒に遊んだ。ヴォルフが色々な場所を連れ回し過ぎて、ゼーレの母親にこっぴどく叱られたこともあった。だから先程のゼーレの声が苦手だったのだ。
「覚えてないか? 確か七年前、俺が十歳のときに研究所で会ってるはずだ」
しばらくの沈黙の後で、小さくあっという声が聞こえた。
『だとしたら、あなたはシェプファー様の息子なのですか!』
久しぶりに聞く名前。ヴォルフは自分でも母親の名を忘れかけていた。もう五年はその名前を聞いていない。だが白ずきんの中では、シェプファーと言えば四賢人の一人として名が上がる程有名である。ヴォルフは少し恥ずかしくなった。まるで自分の事のように思ってしまう。
「ああ、そうだ。俺の話はもういいから、続けろ」
『はい。私はターブで育ったのですが、七年前、私が九歳のときに突然そのターブが壊滅したのです。――壊滅という表現が適切か分かりませんが、とにかくそのときに母も死んでしまい、父はその少し前に突然行方不明となっていたため私は独りになり、各地を放浪していました。』
ヴォルフは少し胸が締め付けられる思いがした。ターブの壊滅というその出来事は、ヴォルフを中心に起こってしまったものだ。その時にヴォルフも母親を亡くした。そして父親は行方不明となった。
『そしてしばらくして行き着いたのがフェアウアタイルングです。その町は黒ずきんと白ずきんと人間が大多数を占めていた、少し珍しい町だったのです。私もつい昨日までその町に滞在していたのですが……、』
このエルデの世界が創造され、カプーツェがハオベを創生してからというもの、事あるごとに白ずきんと黒ずきんは対立し、お互いを敵対視してきた。白と黒が相反する色だからかは分からないが、それは人間とハオベにも同じ関係だった。だから、その三つの人種が共生する町など滅多にないのである。一見すればそこは楽園だ。
『四年の間そこにいて、その間は平穏な日々を暮らしていました。ですが昨日、突然白ずきんが次々と連行されていったのです。』
今まで平和だった場所が一夜にして豹変したのだから、驚くのは当然の反応である。だがヴォルフは、白ずきんと黒ずきんと人間の全ての目的を知っているので、さして驚かなかった。むしろそうなったのは当然だと思っていた。
「まあそうだろうな。エルデが平和だと勘違いして、平和惚けしてた白ずきん達が悪い。こういう事態になることは容易に予想出来る」
ヴォルフの言葉でゼーレは少し傷付いたのか、少しの沈黙があった。だがその後直ぐに話は再開した。
『確かに私が馬鹿でした。町の人に優しくされ、ここが楽園だと思ってました。でも今思えば、私に優しくしてくれたのは全て白ずきんだけでした。そして何とか町から逃げ出すことは出来たのですが、直ぐに手配書を貼られて……。きっと町の秘密を知る者を野放しには出来なかったのでしょう。』
ヴォルフは溜め息をついた。どんな事情があるかと思えば、七割方は自業自得ではないか。それはゼーレのことではなく、ヴォルフのことである。ゼーレをフェアウアタイルングに滞在するようになったきっかけを作ったのはヴォルフ本人である。身寄りを亡くし、行く宛もない子供が、皆から優しくされる場所に辿り着いたら、そこを楽園だと思うのは当然だ。ヴォルフはその時に敢えて茨の道を選んだが、ゼーレと同じようになった可能性は大いにあったのだ。ゼーレとヴォルフが出会ったのは運命かもしれない。
ヴォルフは溜め息を吐き終わった後で、ふとある事に気が付いた。
「秘密……? お前、そのフェアウアタイルングの何か秘密を知っているのか?」
白ずきん狩りをした町にある秘密。ヴォルフの想像の及ぶ限りでは二つしか思いつかない。だがそれを行ったのが人間と黒ずきんである事を考えると、答は必然的に一つに絞られた。
『ええ。それはあなたに助けを求めた理由の一つにもなるのですが……、』
「勿体ぶるな。早くその秘密とやらを言え」
ヴォルフは気が急いていた。もしかしたら、と心の中で勝手に期待が膨らんでしまう。
『逃げるとき、横道というか、普段は隠されている道を使ったのですが、少し迷ってしまい、そして行き着いた場所が何かの研究室だったのです。そのときは既に破棄されていたようですが、つい先日まで稼働していた形跡があったのです。そこに残っていた資料から分かったことなのですが、』
ヴォルフは少し疑問に思うことがあった。資料が残っていた、ということだ。人間にしてもハオベにしても、秘密裏に行っていたことの資料を残したりするだろうか。それとも誰も来ないと本気で思っていたのだろうか。もし後者だったら問題ない。証拠を残すような奴は大した事はない。だが意図的に残したとするならば、これは明らかに罠だ。意図は見えないが、こちらの方が可能性が高いし、厄介になる。ヴォルフは頭の片隅でそれを考えながら、続けられるゼーレの話に集中した。
『どうやらそこでは人体に関する研究を行っていたようでした。その資料には何とかヴィヒとかアガイとか書いてありました』
ゼーレが見たというのはおそらく、エーヴィヒにベーゼアガイストの事だろう。この二つが何と繋がるかはまだ分からないが、ヴォルフにとって決して悪い話ではない。
「分かった。それで、お前の用件は?」
ゼーレは思い出したような声を上げた。今まで話すのに夢中になっていたのだろう。ゼーレは少し間を空けてから話し始めた。
『三つあります。一つはフェアウアタイルングの町を壊滅させてほしいという事。もう一つは、私の父とある黄ずきんを捜してほしいという事。そして最後の一つはあなたに同行させてほしいという事です。』
ヴォルフは間髪入れずに答えようと思っていたのだが、ゼーレの用件がヴォルフには理解出来なかったために答えられなかった。そうしている間に、ゼーレはさらに条件まで付けてきた。
『でも、決して人は殺さないで下さい。私も出来るだけあなたの役に立てるようしますし、天下無双も使えるよう努力します。ですから、どうか。』
ヴォルフはどう答えるか迷った。まずはその真意を聞かないことには何とも言えない。
「お前、フェアウアタイルングを破壊してもいいのか? 今までの話じゃあ、そんな事を望むようには聞こえないぜ? それに、最後の一つも意味が分からない」
『あ、言い方が悪かったです。町の破壊ではなく、研究施設の破壊を頼みたかったのです。最後のは……、今私には行く所も帰る所もありません。だから旅に同行させてほしいのです。』
ヴォルフはそこまで聞いて納得した。別にヴォルフに支障が出るわけではないし、今の所はヴォルフにはいいようにしか動かない。
「分かった。お前の依頼を受けよう。但し、俺にも条件がある。俺の補助をしろ、それと俺に干渉するな。それだけだ」
つまり、ヴォルフが怪我したら治し、ヴォルフのすることに口出しはするなという事だ。これで契約は結ばれた。残る問題は、依頼料と合流場所だ。
『ありがとうございます、ヴォルフ様! ――えと、お金は……』
ゼーレの言いようだと、あまり持っているようには聞こえない。そもそもヴォルフに金をもらう気はさらさらない。
「さっきも言ったはずだ。金には困っていない、と。そんなものはいらない」
ゼーレはその言葉を喜んで受け取り、残りの問題に話題を変えた。
『東の方にアンファングという町があるのですが、そこで合流するというのはどうですか?』
ヴォルフの視界の端には町の影が映っている。恐らくはそこがそうなのだろう。ヴォルフには何等問題はない。ヴォルフは返事をしようとして思い止まった。また次の条件が思い浮かんだからだ。
「最後に条件がある。『様』は止めろ。あと敬語もだ。それさえ守れれば構わない」
そしてヴォルフは東へとまた移動を始めた。もうじき、陽が暮れる。
第二章
~群雄割拠~
アンファングに着いたヴォルフはとりあえず町をぶらつくことにした。合流が為されていない以上、下手に宿に泊まるのは良策ではない。だが明らかにゼーレよりもヴォルフの方が早く着いているはずだし、そもそもヴォルフは複数人での行動は得意でない。待つのも嫌いとくれば、今この町をうろついているのは苦痛以外の何物でもない。そんな気を紛らわせようとも考えてうろついているのだが、どうも自己矛盾に陥ってる感が否めない。
「あぁ、くそ。何かねえのか、この町は」
見たところではそこそこ大きい町であるし、活気も十二分にある。だがヴォルフの心を沸き立たせるような物を見つけることは出来なかった。
それにしても、とヴォルフは思った。この活気は何なのだろうか。ただの町でこれだけの活気、というよりも熱気があるのは妙というものだ。
「祭でもやってんのか?」
ヴォルフはそう思ったが、これといって屋台のような物が出ているわけでもない。誰かが仮装をしているわけでも、神輿のようなものが出ている様子もない。ヴォルフにはさっぱり分からなかった。
ヴォルフは自分が空腹であることに気付き、店で食料を買うことにした。適当な物を手に取ると、店員に渡して、今抱いている疑問を投げ掛けてみた。
「この町では今祭でもやってるのか?」
店員は、ヴォルフから金を受け取って釣銭を数えながら、ヴォルフの質問に答えた。
「ああ、あんたこの町は初めてなんだね。この町ではね、三ヶ月に一遍、闘技場で選手権を行うのさ」
「選手権?」
要は公開試合というところなのだろうが、それだけでははっきりしない。
「ああ、そうさ。人間の部とハオベの部で勝ち上がりの試合をしていくのさ。優勝者にはそれぞれ五千ゲルトの賞金が与えられる。でも裏では観客同士による博打が行われていてね、噂では二万ゲルト稼いだ奴もいるって話さ」
この活気はそのためか、と納得したヴォルフは、店員からお釣りを受け取ると店を出た。どちらにしてもヴォルフには関係のない話だと、そう思っていた。ヴォルフは町のほぼ真ん中に位置する噴水の所で先程買ったものを食べた。まだ少し早い夕御飯だ。
ヴォルフは遠くを見ながら食事を口に運ぶ。この町の名物であるという、魚介類をここら辺で採れる粉を捏ねて作った生地に挟んだものも、それなりにおいしい。ヴォルフが味を楽しみながら視線を動かしていくと、茶色くて古ぼけた石作りの建造物が視界に入った。
「あれが闘技場か?」
たとえこの町にかつて来たことも、その建物を以前見たことがなくても、遠目からでもその建物が闘技場であることは分かっただろう。それ程に建築様式が珍しく、古く、そういう雰囲気を発しているのだ。ヴォルフはしばらくその建物に見とれていた。といってもヴォルフのいる場所からではあまり見えないのだが。ヴォルフはその場所に行ってみたくなった。今まで猛者達が戦ってきた場所であるなら、ヴォルフが探す人物の一人が参加したことがあるかもしれない。そう思ったのだが、実際にはただヴォルフが戦いたくてうずうずしているだけだった。ヴォルフは腰を浮かすと、歩き始めた。
「まったく、あいつはどこで何やってんだか……」
もう陽が完全に没してしばらく経つというのに、依然として人の熱は冷めなかった。まるで夜を知らないかのようだ。人混みが解消されないために、ヴォルフは思うように前に進めなかった。次第に苛立ちもたまっていく。だが目に映る闘技場の姿を見る度に、自分に我慢を言い聞かせてゆっくりと歩き続けた。そしてやがて歩みを止めた。目的地に着いたわけではない。ヴォルフの後をつけている人物がいるのだ。
これだけ人がいればヴォルフと同じ方向に行く人はいるかもしれないが、ヴォルフは最初にその存在に気付いたときからあえて遠回りな道を選んで来た。なのに、それなのにその熱源は一度もヴォルフから離れることなく、一定の距離を取って後をつけてくるのだ。ヴォルフが足を止めると、その熱源も止まった。ヴォルフは直ぐ目の前に迫った闘技場へ急いだ。こう人が多くては、捕まえることはおろか姿を見ることすら出来ない。ヴォルフが再び歩き出すと、その熱源も動き始めた。尾行の仕方についても、ある程度は様になっている。
近くで見ると、闘技場の迫力は一段と凄かった。圧巻である。ヴォルフは一瞬その姿に圧倒されたが、直ぐに今すべきことを思いだし、横道に入った。
「雲散霧消!」
ヴォルフがそう言うと、見る見る内にヴォルフの姿が消えていった。熱による光の屈折で姿を消したヴォルフは、息を潜めた。熱源はヴォルフが潜んでいることにも気付かずにどんどん近付いている。そしてヴォルフはその熱源の手を後ろに捻り、足をかけてそのまま前に押し倒した。その人は見えない相手からの突然の反撃になすすべなく俯せに倒れた。
「誰だ? 何の――」
ヴォルフはそこまで言って手の力を抜いた。その人物が断定出来たために呆れてしまったからだ。
「お前か……。一体何をしてる?」
今までヴォルフの後をつけていたのは、ゼーレだった。
「何ではありません。あなたの姿を見掛けたので声を掛けようと思ったのですが、人が混んでいたせいで中々近付けず、やっと広い所に出たと思ったらこの有様です。ヴォルフ様こそあんな遠回りなんかして何してたんですか?」
ヴォルフは溜め息をついた。結局ヴォルフの早とちりだったのだ。ヴォルフはゼーレの手を取って立たせると、再び溜め息をついた。
「前にも言ったはずだ。『様』と敬語はやめろ」
ヴォルフはそう言うと、本来の目的だった闘技場に向かった。今となっては先程までの興奮も冷めてしまっている。だがゼーレはそんなヴォルフを引き止めた。
「ヴォ……ヴォルフ。話があるの」
まだ慣れないためか、言い方がぎこちない。ヴォルフは面倒そうに振り向いた。
「何だよ?」
「さっき男の人達から奪った物を返して」
いきなり何を言い出すのかと思えば、ヴォルフの全財産を差し出せという。ヴォルフは驚きとも怒りとも見える表情をしてみせた。
「何を……。あれは今俺のものだ。お前がとやかく言う事じゃない。それに、干渉するなとも言ったはずだ」
ヴォルフはもはや呆れた顔をして、再び歩き出そうとした。こんなやりとりは面倒だ。欝陶しい以外の何物でもない。だがゼーレは依然として言葉を続けた。
「いいえ。それはあなたの物ではないわ。確かにあの男の人達も元は盗んだのかもしれないし、奪ったのかもしれない。でもだからといってそれがあなたの物になるわけではないわ」
「じゃあ一体どうしろと――」
ヴォルフはそう言いかけて後悔した。ゼーレの、母親に似た声に威圧されてつい口をついで出てしまった言葉が、ゼーレの台詞の潤滑油となることは目に見えている。案の定、ゼーレは最初とは較べ物にならないほど口の回りがよくなっていた。
「治安部に渡して、それで本当の持ち主を探してもらうのが一番いい。これはヴォルフの言う善悪の問題ではないわ。これは仁徳の問題よ。こればかりはあなたも口が出せないわよね?」
言い返そうと思えば何かは言えたかもしれない。だがヴォルフは強い口調となったゼーレの声をこれ以上聞きたくなかった。過去の心傷が蘇ってしまう。それを回避するには、ゼーレの言う通りにするしかない。どうせ金を手に入れる方法はいくらでもあるのだ。だが、とヴォルフは思い、少し考えを巡らしてから返答した。あたかもゼーレの言葉にしぶしぶ納得したかのように。
「分かったよ。ただ、これだけは俺が貰ってもいいだろ?」
そう言って、ヴォルフは男達から奪った物を入れた袋から二つの小さな石を取り出してゼーレに見せた。片方は白くもう片方は赤い、鮮やかな色の鉱石だった。これはもはや賭けだ。
「え、ええ……いいけど、ヴォルフに石集めの趣味があるなんて、意外ね」
ヴォルフは微笑を浮かべた。やはり思惑通りだ。
「まあな。こういう石は好きなんだ」
先程フェアウアタイルングの話を聞いたときに、ゼーレはエーヴィヒとベーゼアガイストのことを言っていなかった。それは単語の途中しか見ていないからなのだろうが、この二つの単語を知っていれば容易に推測出来る。つまりゼーレはエーヴィヒのこともベーゼアガイストのことも知らないのだ。ただ、これだけでは実物を見たことがあるかどうかは分からない。そういう意味での賭けだったのだ。そしてヴォルフはアムレットとベーゼアガイストを除く全財産をゼーレに渡した。
「でもお前のせいで今の俺は一文なしだぜ? どうしろっていうんだ、これから」
ヴォルフは現在直面している問題をゼーレに愚痴った。ところがゼーレは驚いたような顔をしている。
「どう、って……、これに参加するんじゃないの?」
ゼーレが指差す方向には、古の闘技場が聳えている。今度はヴォルフが驚く番だった。
「んな事言われてもなぁ、俺博打なんてしたことねえし」
お互いに全く相手の意図する事を読んでいなかった。ゼーレは少し怒った顔をしている。
「何言ってるの? 優勝賞金は五千ゲルトよ?」
ヴォルフは言葉が出なかった。そんな面倒な事に参加する気などさらさらない。それに、先程からの口振りだと、あまりいい予感はしない。
「もしかして、もう申し込んだりしてねぇだろうな?」
ヴォルフが危惧していた事を口にすると、ゼーレは手持ちの鞄から一枚の紙を取り出した。
「はい、これが大会規則と参加証。第一試合は明日だそうだから、ちゃんと読んでおいてね。危なかったのよ。あなたで参加者募集締め切りになってしまったんだから」
ヴォルフは開いた口が塞がらなかった。ゼーレがこんな自分勝手なやつだとは全く思いもしなかった。
ヴォルフとゼーレは取り敢えず安宿を取った。ヴォルフが驚いたことに、ゼーレは何故か七百ゲルトも持っていたのだ。ヴォルフの所持金が現在たったの六ゲルトしかないというのに。ヴォルフは重い足取りで宿に入ると、ゼーレから渡された大会規則を読んだ。わずか一枚の紙だが、意外と情報量が多い。
「試合は時間無制限、場所は出来るだけ闘技場内、相手を気絶させるか降参と言わせた方の勝ち、故意に敵を殺すことは認めない、ヘクセライの使用は自由、ただし他の道具の使用は不可。まあ、これといった物はないな。参加者は全部で三十二人。五回勝てば優勝か」
その他にも細かな規則などがたくさん書き並べてあった。そして一番下の方には大会とはまるで関係のないような事まで書いてあった。
「各選手には、第一試合の前に観客の勝負の予想の助けとなるような言葉をいただきます。――これは明らかに博打公認と言っているようなものだな」
ヴォルフは最後まで読み通すと、寝台に入った。もう夜は遅いのに、依然として人の波が外ではうねりをあげている。ヴォルフには硬い寝台が妙に懐かしかった。
翌日、ヴォルフが目を覚ますと、ゼーレは既に身仕度をしていた。朝なのに鳥のさえずりが微かにしか聞こえないのは、外で人のざわめきがあるからだ。この人の群れはいつ終わり、いつ始まったのか。それとも終わらなかったのか。ヴォルフにはさっぱり分からなかった。少なくとも昨晩ヴォルフが眠りについた時にはまだ騒がしかった。身体を起こしたヴォルフに、ゼーレは声を掛けてきた。
「おはよう。早いわね」
ヴォルフはゼーレの台詞をそっくりそのまま返したかった。だが朝あまり機嫌のよくないヴォルフは、無言のまま顔を洗いにいった。朝は苦手だ。無に限りなく近い夢の世界から、突然太陽という槍を突き付けられる感じがするのだ。ヴォルフは思い切り頭から水を被ると、やっと目が覚めた。朝食も済ませて、ゼーレと一緒に宿を出た。
「お前は試合の間博打でもしてるのか?」
歩きながらそう尋ねてはみたが、ある程度答えは予測出来た。
「まさか。私はヴォルフの試合をずっと見てるわ」
ヴォルフはここで少し遊び心が出てきた。もし、と思ってしまう。
「じゃあ頼みがあるんだが、この六ゲルトを俺に賭けてくれないか? 初参加の俺だったらかなり倍率は高いはずだ」
正体がばれていなければ、誰もヴォルフが強いとは思わないだろう。昨晩参加証を見た時も、登録名は「4V」となっていた。これなら誰もヴェーア・ヴォルフの名前を想像出来ないだろう。ヴォルフの提案に、ゼーレはあまり乗り気な顔をしていなかった。だが盗品とはいえ、昨日ヴォルフから全財産を取り上げてしまったことに負い目があったのかもしれない。ゼーレは渋々頷いた。一体六ゲルトがいくらになるのか、ヴォルフは今からとても楽しみだった。もうまもなく闘技場に到着する。ヴォルフは外套の羽織を被り、準備を整えた。
「ご来場の皆様。本日は晴天に恵まれ、最高の大会日和です。さあ今回も始まりました。第四十一回アンファング選手権。今大会では三十二人中初参加者がわずか四人ということで、裏で楽しむ皆様には少々つまらないかもしれません。ですが、そうであるからこそこの四人には自ずとも期待が高まるところでしょう」
大きな声で開会の宣言をした司会者は、闘技場内のまさに戦闘が行われる場所で大きく動いていた。円状になっている闘技場は満員となり、熱気が上がっている。参加者の連れということでゼーレにも席が与えられたが、あまりいい席とは言えず、中央からはやや遠かった。外が見えるように作られた控え室で待機しているヴォルフは、その光景にただ圧倒されていた。
「凄ぇな、これは」
ヴォルフは足を組み片腕を窓枠に置いて外の様子を見ていた。建物の構造上、横に長い窓は逆に縦に狭く、視界良好とは言えない。そこへ一人の青年が近付いてきた。
「君はこの大会、初めてかい?」
ヴォルフが振り向くと、そこには赤と黄の長髪でやたら背の高い男が立っていた。ずっと笑顔な上、髪が長くてずきんの色も見えないため何色かは分からなかった。ヴォルフは胡散臭そうに見ながら、とりあえず相槌を打った。
「ああ、まあな。ていうかこの町に来たの自体初めてだし、連れには金取られるし、勝手に申し込まれるし、この町にあんまいい思い出はないけどね。で、あんた誰?」
ヴォルフの悪態にその男は一瞬怪訝そうな顔をしたが、再び直ぐに笑顔に戻った。だから相変わらず色は分からず終いだ。
「ああ、僕は――登録名は3Wってしてるよ。今三連覇中なんだ。君が勝ち進めていけば四回戦目で当たることになるんだよ、君が勝ち進めばね」
笑顔で嫌味を言ってくるこの男に、ヴォルフはもう欝陶しい気持ちになっていた。こうやって初参加者に少しでも緊張と威圧を与えておこうという作戦だろうか。控え室を見渡すと、二人は肩を張っている。恐らくはこの男に似たような事を言われたのだろう。
「あんたもせいぜい頑張りなよ。俺は五千ゲルトないとこの先やばいんでね。あんたなんかに構ってる余裕はないんだよ」
3Wはヴォルフの言葉を聞くと大きな声で笑い出した。今のヴォルフの言葉は3Wには単なる強がりにしか聞こえなかったのだろう。3Wはヴォルフに背を向け、去り際に一言だけ残した。
「君みたいな人、僕は好きだよ」
その顔には先程の笑顔とは違う、仮面を剥いだ本当の顔があった。徹底的にヴォルフを潰そうという、容赦のない顔だった。
「では、一回戦第十六試合を始めます。かたや前回七位、かたや初登場という顔合わせです。それではそれぞれの選手に一言いただきましょう。ではニーチェさんから」
一回戦の最終試合ともなると、会場内の熱気もかなり高まっていた。その場に立つと、外から見たのとはまた違った雰囲気を感じる。ヴォルフの対戦相手であるニーチェは体格のがっしりした青ずきんだった。そして声を張り上げて叫んだ。
「俺の前に立ちはだかる全ての者をぶっ潰す!」
ニーチェのその言葉に合わせて、会場はさらなる盛り上がりを見せた。観客を味方につけるのも重要なことらしい。ヴォルフには全く関係のないように思われたが。
「それでは次は今大会初参加の4Vさん」
ヴォルフは昨晩考えておいた台詞を、ほぼ棒読みで言った。恐らくヴォルフの言葉は観客を敵に回すだろうと、薄々は予想していた。
「本気出すのは三回戦から。一回戦じゃヘクセライは使わずに勝つよ」
ヴォルフはあまり大きな声で言ったわけではないが、それでも観客には聞こえていたらしい。どっと笑いが起きている。呆れているのが殆どだろう。ヴォルフはニーチェの顔を一瞥した。やはりその顔は怒りに満ちている。ヴォルフは内心で笑いを堪えるのに必死だった。魔法を使われずに負けるハオベは、それこそ笑い者以外の何者でもない。
「4Vさんは自信たっぷりのようですね。それでは両者とも所定の位置について」
ヴォルフは四角い石床が敷き詰められた舞台の上の、赤く目印となっている石床の上に移動した。相手からの距離は約三十歩。
司会者が手を上げて、振り下ろした瞬間に小さな鐘の音が会場に鳴り響いた。ヴォルフはその音を聞くと直ぐに相手に向かって走り出した。三十歩の距離を縮める間に、当然敵の攻撃が迫るだろう。案の定、相手はヴォルフに向かって手を伸ばしている。手の先から水の球が高速で放たれた。ヴォルフは最小限の動きでそれらをかわすと、さらに接近していった。
「青天霹靂!」
ニーチェがそう叫ぶと、ヴォルフの視界からニーチェの姿が消えた。ヴォルフは立ち止まる事なく前に進んだ。青天霹靂は高速移動を可能にする青魔法である。だがたかがその程度でヴォルフが視界から敵を見失うはずがない。だとすれば明らかに玄武を使っている。ヴォルフはそう確信して、ニーチェが先程立っていた場所まで行って立ち止まった。魔法を使わないと口約した以上、ヴォルフには今何も出来ない。ヴォルフはゆっくりと目を瞑った。昔から五感や、所謂第六感というものはよく働いた。それに、ヴォルフは赤ずきんであるために熱にも敏感である。わずかな熱の動きと音、気配。全ての感覚を研ぎ澄ませれば、目には見えない物も見えてくる。ゆっくりと近付いてくる。正面からか、横からか、後方からか。だが今近付いてくる気配はそのどれでもない。ゆっくりと降りてくる。
「そこ!」
ヴォルフは地を蹴り、跳躍をして手を伸ばした。その手にはしっかりと何かを掴む感触があった。ヴォルフはそのまま自分の体重を利用して相手を地面に叩きつけた。ニーチェは堪らずに玄武が解け、その姿をあらわにした。ヴォルフはニーチェが立ち上がるのを待った。このまま留めを刺すのはあまり紳士でない。実際ヴォルフにはそれはどうでもよかったのだが、この場の観客を敵にするのは避けたかったし、何より後でゼーレにとやかく言われるのを避けたかった。ニーチェが鼻を押さえながら立ち上がった所で、背部に回り込んで手刀で後頭部を軽く小突いた。ニーチェはそのまま気を失い、再び前方に倒れた。
「しょ、勝者、4V!」
司会者は走ってヴォルフの方へ近付くと、その右手を高らかに上げた。会場はどっと沸き、驚きとも笑いともとれぬ声が響いていた。
少しご機嫌になって控え室に戻ったヴォルフだったが、3Wが近付いてくると直ぐに機嫌も急降下していった。その顔には相変わらず笑顔が浮かんでいる。
「とりあえずは勝ち抜きおめでとう。しかし、ハオベの部でヘクセライを使わないというのも、大胆な事をしてみせたものだな」
ヴォルフは3Wの顔をじっと見た後、嘲笑をこめて言った。
「なんなら次の試合は、『観客は俺が何もしてないのに勝ったように見える』試合にしてやるよ」
ヴォルフがそう言うと3Wは少し感心したかのような顔をした。この男が作る全ての笑顔は虚構に過ぎない、とヴォルフは思っていた。
「今頃、裏では大盛り上がりだろうな。知ってたかい? この大会の博打は、第一回戦の結果の後に行われるんだ」
それはつまり、一回戦で選手の状態や様子を観察してから誰に賭けるかを決めるという事だ。なので誰かと結託して貰える金額を上げたいのであれば、一回戦では目立たぬように戦うべきだという事になる。ヴォルフは先程の自分の戦い方が少々気に掛かった。確かに魔法を使わず、宣言通りに勝ってみせたが、果たして観客はそれをどう受け取ったのだろうか。体術は得意だが魔法が苦手な、ただ強がりを言ったハオベ。魔法を使えば楽勝だから一回戦は使わずに戦った、鷹の爪を隠したハオベ。数あるハオベの中の一人のハオベ。一番目ならヴォルフの得られる金額は相当なものになる。だが二番目ならそれも殆どない。問題となるのは、ヴォルフが初参加であるという事だ。なのでまだヴォルフの正体を知らない観客はヴォルフの実力を測り知ることが出来ない。
「へぇ、そうなんだ。まあ最初から六ゲルトしか賭けてないから、それ程期待もしてないがな」
ヴォルフは相変わらず面倒そうな態度を取った。今日やるのはあと一回の試合だけ。三回戦目以降は翌日になる。一回戦目の他の人の試合を見ても、それ程高い実力のハオベは見受けられなかった。それが本当の実力だったのか、爪を隠していたのかはヴォルフにも分からない。ヴォルフは自分に絶対の自信があったから迷うことなく自分に賭けさせたが、そうでない者はやはり誰に賭けるかを見定めるのは難しいだろう。だからこそ楽しいのだろうが。
陽はもう南中を周って少し経った頃、二回戦が始められた。二回戦は全部で八試合。ヴォルフは相変わらず最後の試合だ。それまで暇を持て余す事になるヴォルフは、他人の試合を見ているのも退屈なので闘技場内を歩き回ることにした。この会場に来てからずっと外套を羽織りっぱなしだったヴォルフは、暑さに耐え兼ねてそれを外した。首元に新鮮な空気が送り込まれる。
「へェ……。君、赤ずきんだったんダ」
突如声がしたのでヴォルフが振り返ると、そこには首の布が黄色のハオベがいた。ヴォルフはこの時一つの事しか考えられなかった。自分の正体がバレたことなど考えにも及んでいなかった。ヴォルフは動揺を隠しながらも応対した。
「誰だ、お前は?」
ヴォルフがそう問い掛けると、そのハオベはくすくすと笑い出した。
「やだなァ。人に名前を聞く時は、自分から名乗らなきャ。そう教えられなかっタ? まあいいヤ。僕は君の事を知っているからネ。僕の名前はゲルプ。見ての通り、黄ずきんサ」
ヴォルフは自分を落ち着かせようとした。ヴォルフのことを知っているから、だからどうした。白髪と黒髪、赤眼と青眼を見れば、それがヴェーア・ヴォルフだと直ぐに分かるハオベがいてもおかしくはない。何も驚くことはない。ヴォルフは自分にそう言い聞かせた。
「何の用だ? お前も参加者か?」
「違うヨ。少し興味はあるけどネ。僕はある白ずきんを探しているんダ。名前は忘れちゃったけど、年齢は君くらいで、白髪なんダ。知らないかナ?」
その特徴を聞いた時、ヴォルフの頭にゼーレが浮かんだのは当然の反応である。だがゲルプの目的が分からない以上、下手にゼーレと会わせる訳にはいかない。そうかと言って、ゲルプはヴォルフの正体を知っている。年齢が近そうという理由だけで、果たしてそんな事まで聞くだろうか。ヴォルフはゲルプの発する妙な気配に緊張して、若干汗をかきながら返答した。
「知るか。俺には関係のない話だ。お前はどうしてそいつに会いたいんだ?」
ヴォルフがそう言うと、ゲルプはまたくすくすと笑いながら、だが言葉には重い響きを持たせて返してきた。顔は笑っているが、眼は完全に敵意を剥きだしにしている。
「君には関係のない話だヨ。……まあいいヤ。じゃあ、残りの試合頑張ってね、2Wさン?」
そう言うと、ゲルプは宙に浮いてどこかへ行ってしまった。聞きたい事は山程あったが、とても跡を追う気にはなれなかった。とにかく、関わりたくないという思いが心を占めていた。
「ゲルプ……、一体何者なんだ? 近付いてきたのに全く気配を感じなかったし、2Wだと? やっぱり俺の正体に気付いてやがる……」
ヴォルフも初め、2Wと聞いた時はただの言い間違いかと思ったが、ヴォルフの登録名である4Vの由来を考えれば、的のど真ん中を射ている。ゼーレが勝手に考えたものなので確証はないが、恐らく4Vはヴォルフの名前の頭文字を取っているのだろう。つまり、W・W。それを分けていけば四つのVにも、二つのWにもなる。
「くそっ。あいつのせいで気分は最悪だ……」
ヴォルフは荒んだ気持ちのまま、控え室に戻った。そろそろヴォルフの試合が始まる時間になっているだろう。
「本日最後の試合となります。二回戦第八試合、ロンメル選手と4V選手の試合です。それでは参りましょう!」
再び相手と一定の距離を空けたヴォルフは、試合開始の鐘がなっても全く動かなかった。ロンメルの方も、一回戦と戦い方が全く違うヴォルフ相手に、様子を見ようとしている。だが突如、ロンメルの真横から火球が放たれた。どこから、誰からの攻撃かも分からない不意の攻撃だったので、ロンメルは避けられずに吹き飛んだ。ヴォルフはそれでも動こうとしなかった。観客の間にどよめきが起こった。見えない敵からの攻撃なのだ。ロンメルは立ち上がると、ヴォルフの方を睨みつけた。だがヴォルフは試合開始から一歩たりとも動いていない。と、その時ヴォルフは急に走り始めた。それを見たロンメルは赤魔法で対応した。ロンメルの攻撃をかわしていくヴォルフは、更に距離を縮めた。だがその時、今度はロンメルの後ろから火球が放たれ、そしてロンメルを吹き飛ばした。
「くそ……。一体何がどうなってる」
ロンメルは訳も分からなかったが、ヴォルフは決して足を止めなかった。距離も充分に届く範囲になっている。ヴォルフは跳び上がり、そのままロンメルを殴ろうと、腕を突き出した。ロンメルは当然回避の行動を取ろうとしたのだが、ヴォルフの拳が届くよりも前に、再び火球が真横から放たれてロンメルを吹き飛ばした。ロンメルはそのまま気絶してしまい、観客から見たら、ヴォルフは結局何もしないまま勝ってしまった。会場は動揺でいつもとは違うざわつきを見せている。司会者は急いでヴォルフの方へ駆け寄ると、その腕を上に持ち上げた。
「し、勝者、4V!」
試合が終わったというのに、会場からは拍手の一つも起こらなかった。ヴォルフは足取り重く、控え室に戻った。
「君、一体何をしたんだい?」
ヴォルフは予期していた事とはいえ、三度3Wに話し掛けられてうんざりしていた。それでなくても疲れているのだ。
「うるせえよ。試合前に変なやつに絡まれるし、それでさっきの試合だ。今は身も心も疲れてるんだよ」
「身も? 君はさっきの試合、何もしていないじゃないか」
ヴォルフはもう本当に面倒だった。そして確信を一つ持てた。それを思うと自然と少し笑みもこぼれる。
「あんた、大したことないな。――あんたとの試合、楽しみにしてるぜ」
ヴォルフはそう言って控え室を出た。今は少しでも早く休みたい。ゲルプの事はまた後で考えればいい。
ヴォルフが宿に着くと、ゼーレも同じ質問をしてきた。ヴォルフはうんざりして寝台に倒れ込んだ。まだ夕刻前だが、この体はいつでも眠りに落ちることが出来そうだ。
「ヴォルフ、ちょっと聞いてるの?」
今にも瞑りそうな目を辛うじて開けると、ヴォルフはゼーレの方を見た。その顔には今にも怒りそうな表情を浮かべている。ヴォルフは重くなった口を開いた。
「手短に言うとだな、さっきのは青龍と玄武。それだけだ」
これでゼーレが理解出来たとはヴォルフも思ってなかった。だが言葉で言えば本当にわずかこれだけなのだ。
「どういう事? 私には分からないわ」
ヴォルフは枕に顔を埋めると、急にばっと起き上がった。百聞は一見にしかず。実際に見せてやれば納得するだろう。ヴォルフは疲れを残したまま寝台から下りると、ゼーレを少し下がらせた。
「つまり、こういう事だ」
ヴォルフはそう言うと、横に一歩分動いた。だが相変わらず元いた場所にははっきりとしたヴォルフの姿がある。そう、今ゼーレの目の前にはヴォルフが二人いるのだ。そして二人の内の一人は、霧になるように姿を消し、もう一人がゼーレの方に近付いてきた。そしてゼーレの額を軽く小突いた。しかし実際にはゼーレは背後からも小突かれていた。ゼーレは後ろを振り返ったが、誰もいない。
「え? 一体どうなってるの?」
ゼーレは前後を見比べてみたが、前にヴォルフがいるだけだ。
「こういう事だ」
ヴォルフの声が自分の背後からしたかと思うと、声のした所にヴォルフの姿が現れた。そして前にいたヴォルフが消えてしまった。この現象を見て、ゼーレはますます混乱したようだった。ヴォルフはそのまま寝台に倒れ込むと、俯せになったその状態で説明を始めた。
「つまり、青龍で自分と同じ像を作りだし、玄武で自分自身を見えなくする。青龍の方を適当に動かしながら本体は適当に攻撃をする。ただそれだけの話だ……」
「でもそんな、青龍と玄武を同時に使うなんて事……」
「だから疲れてんだよ。まあ俺は短時間なら四つ全部同時に使えるけどな。もう邪魔すんなよ?」
ヴォルフはそう言って寝息を立て始めた。ゼーレは心底驚いていた。朱雀、白虎、玄武、青龍は、それぞれが全く違う性質を示しているために同時に使う事が非常に難しい。玄武までとの組合せならある程度の上級者なら出来るが、青龍と玄武を同時に使えるハオベなど、そう多くはいない。まして四つ同時に使えるハオベなどエルデにも一握りしかいないだろう。しかもヴォルフには国士無双がかけられているのだ。
「あなた、一体何者なの……?」
ゼーレの呟きがヴォルフに届くことはなかった。ゼーレはヴォルフに毛布を掛けてやると、少し外へと出掛けることにした。祭の雰囲気を味わいたい気分だった。
ヴォルフが目覚めたのはまだ辺りが薄暗い時分だった。流石に夕方から寝始めたので、もう眠気も疲れもない。普通のハオベならばまだ全身のだるさは残っているだろう。ヴォルフは手を握ったり開いたりした。
「ハ、親父様様って感じだな……」
ヴォルフは起き上がると、顔を洗いに行った。気分は悪い。ゲルプの件と、3Wの顔、そして自分の回復力。ヴォルフの気を塞ぐには充分だった。
宿から見える通りに、人の姿はなかった。出店はあるが、人がいない。一晩中休むことなく続いていると思っていた祭も、朝方には一度活気をなくすらしい。手持ち無沙汰のヴォルフは、とりあえず町の中を歩くことにした。他にする事もないが、まさかこの時間にゼーレを起こす訳にもいかないだろう。
夜が白み始めたのは、ヴォルフがちょうど町を一周した頃だった。宿に戻った時には、もうゼーレも起きていた。
「どこへ行ってたの?」
「ちょっと散歩をな。少し聞きたい事があるんだが」
ヴォルフが質問をしようとしたのを、ゼーレは制して顔を洗いに行った。本当に今起きたばかりらしい。戻ってきたゼーレは、椅子へと腰掛けた。
「それで、何を聞きたいの?」
ヴォルフは無意識にゲルプの事を思いながら質問をした。
「お前が探してる黄ずきんの事なんだが、そいつはどんな奴だ?」
ゼーレは何かを思い出すように少し天井を眺めてから、話し始めた。
「うーん、そうねぇ。年齢は私と同じ位で、黄髪ね。少し訛というか、話し方に特徴があったわ」
ヴォルフが聞きたいのはその事ではない。それだけではまだ確証が持てない。だが一つ気にかかる事は、年齢である。ゲルプはどう見てもヴォルフより下だった。五歳位は違っているだろう。それが果たしてゼーレと同じ位と言えるのだろうか。
「そいつの名前は? 覚えてるか?」
「ええと、シュテルンよ」
ヴォルフはその名前を聞いて少しほっとした。つまりゲルプの探す白ずきんがゼーレである可能性が少なくなったのだ。だがそんなヴォルフの安心を、ゼーレの次の一言が打ち崩した。
「そう言えば弟がいたわ。確か名前は――ゲルプだったかしら?」
ヴォルフは絶句した。やはり繋がってしまった。ここまで話が出来ているなら、もう最後まで聞くしかない。
「くそ……。それで、お前は何故その黄ずきんを探してるんだ?」
ゼーレはヴォルフの様子を窺いながら、少し表情を険しくして言った。
「そのシュテルンという黄ずきんは、私の父の居場所を知っているの。何故かは分からないけど、私がフェアウアタイルングから追放される数日前に私にその事を言ってきたの。こちらが名乗る前に。だからシュテルンを探し出せば、父を見つけるのが容易になるはずなの」
ヴォルフはそれを聞いて少し考え込んだ。シュテルンはゼーレの父親の居場所を知っていて、その弟のゲルプはゼーレを探している。だとすれば二人共ゼーレの父親と面識があり、何らかの関係があるはずだ。ヴォルフが色々考えていると、今度は不意にゼーレが質問をしてきた。
「ヴォルフ、さっきからあなた、少し様子が変よ? どうして急にシュテルンの事を聞いたの?」
ヴォルフは本当の事を言おうか迷ったが、やはりゼーレに嘘をついてその後の事を考えると、嘘はつけなかった。
「昨日ゲルプと名乗る黄ずきんに会ったんだ。そしてそいつはお前を探していた」
ゼーレは驚いた。シュテルンへの、果ては父親への道に一気に近付けるかもしれないのだ。
「それで、ゲルプは何て?」
ゼーレは嬉しそうにして質問を重ねてきた。ヴォルフは少し怪訝な顔をした。探している人の手掛かりを持つ者の弟に会ったと言えば、当然それを足掛かりにしようと思う。ゼーレのこの反応は目に見えていた。だからこそあまり話したくはなかったのだ。面倒な事になるのも分かっていたから。
「いや、あいつはやめた方がいい。何か、嫌な感じがするんだ」
普段滅多に聞くことのないヴォルフの弱気な発言に、ゼーレは一瞬驚いていたが、直ぐにそこをくすぐり始めた。
「あら、ヴォルフはゲルプが恐いのかしら?」
ヴォルフは憤って立ち上がったが、直ぐに冷静になった。こんな挑発に乗っては、ゼーレの掌で踊らされるのと同じだ。ヴォルフは座る代わりに、部屋の戸口へと向かった。
「お前はあいつに会ってないから分からないんだ。――俺はもう行くからな」
昨日といい今朝といい、ヴォルフの気分は荒んだままだった。この心に蓄積した苛立ちを晴らすには、今日の三回戦しかない。最初から、三回戦からは本気を出すと宣言しているのだ。試合開始早々から飛ばしても構わないだろう。そもそもがそういう規則なのだ。ヴォルフがどんな手で勝とうとも誰も文句は言えないはずだ。
とりあえず闘技場に来てみたのだが、やはり早朝なので人は殆どいない。いたとしてもそれは大会管理の人達だ。ヴォルフはまたしても暇を持て余してしまった。どうしたものかと辺りを見回しても、時間を潰せるようなものは見当たらない。ヴォルフは仕方なく、宙に浮くとそのまま横になって寝ようとした。この町にゲルプがいる以上、あまり無防備なことはしたくないのだが、他にする事もないのだから仕方のないことだ。
「俺がエーヴィヒでなかったのは幸運だな。永遠の時間なんて退屈なだけだ……」
ヴォルフが目を覚ましたのは、人のざわめきを耳にしたからだ。上体を起こして下を見ると、そこには闘技場に並ぶ長蛇の列が出来ている。既に陽は燦々と照っていて、朝だというのに汗が出る程だった。
「もうそんな時分か」
ヴォルフは地上へと降り、そして選手用の入口から闘技場内に入った。控え室には、既に他の七人全員が顔を揃えていた。その中には当然3Vの姿もあった。ヴォルフは椅子に座ると、何をするでもなく、ただぼうっとしていた。自分の試合になるまで、心を落ち着かせて、嫌な事を忘れようとした。
部屋に返ってくる者とそうでない者。そこにある差は絶対的な力、そして明確な勝敗。それだけだった。再び控え室に返ってきた者が勝者であり、次の試合に進む権利を得るのだ。ヴォルフは自分の試合の番になると、腰を持ち上げた。今控え室にいるのはヴォルフを含めて五人。その内の三人は、勝って次の試合への出場を決めている。
「午前中最後の試合となりました。三回戦第四試合、ワルター選手と4V選手の試合です」
ヴォルフはいつも通り定位置に着くと、心を鎮めた。この試合でしようとしている事は決めている。とにかく早く終わらせる事。
そして試合開始の鐘が鳴り響いた。ヴォルフは右手を前にかざすと、相手に技を出す隙を与えずに火を放った。会場の誰もが息を飲んだ。それが、今までの試合のどの攻撃よりもすごかったからだ。素人目でも、その大きさ、強さ、早さが別格であることが見て取れる。ワルターはヴォルフの攻撃を目の当たりにして、すかさず防御態勢を取ろうとした。だが時間的に充分でなく、しかも防御力的にもまるで足りず、ワルターは一瞬にして業火に包まれた。ヴォルフの火は、ワルターを飲み込むだけでは飽きたらず、勢い余って観客の方にまで向かっていった。迫る火を見て動揺する人、諦めた人、微動だにしない人など、観客の中でも反応は様々だったが、ヴォルフの火が観客に届く一寸手前で、まるで何かに弾かれるようにしてヴォルフの火は鎮火した。
「ここにはアムレットが仕込まれているのか」
ヴォルフが感心して呟いている間に、司会者がヴォルフの方に寄って来て、右腕を上に上げた。
「勝者、4V!」
観客の誰も、何の反応も示せなかった。それ程に圧倒的な力の差があったのだ。だが負けたワルターの方には、軽い火傷の痕しかない。それもまた、観客を困惑させた要因の一つだった。
控え室に戻ったヴォルフは椅子に座ると、部屋の選手を見た。皆がヴォルフの方を見ている。だが決して誰も話し掛けはしない。誰もがヴォルフの力を脅威に感じているのは明白だ。今日はあと一試合が午後にあるだけで、それまでは暇になる。司会者が部屋に入ってきて、その旨を伝えると後は自由行動となった。ヴォルフには別に何もする事がなかったが、部屋に居続けることも性格上出来ないので、外を歩くことにした。ゲルプにだけは会いたくなかった。
「あ、ヴォルフ!」
闘技場の外へ出ると、ひしめく人の中にヴォルフを呼ぶゼーレの姿を見付けた。ゼーレと行動を共にする必要性もなかったが、とりあえずゼーレの元に向かった。
「お疲れさま。お昼行きましょう?」
言葉ではヴォルフの許可を求めているが、行動では既にヴォルフの手を引いて歩き始めている。だが昼を取ると言っても今は選手権の最中、人の量は半端なものではなかった。ヴォルフはちらと上を見て、そしてそのまま浮遊した。地面を歩いているつもりのゼーレも、不意に自分の体が浮いたことに驚き、ヴォルフの方を見た。
「いくら混んでるからって、急におどかさないでよ」
ヴォルフはその言葉を聞き流し、自分の用件だけを伝えた。
「昼って言っても、どこで食べるんだ? どこも混んでて直ぐには入れないぜ?」
「大丈夫よ。今日はお弁当を作ってきたから。どこか人の少ない場所で食べましょう?」
そう言ってゼーレは笑った。ヴォルフは辺りを見回して、人気のない所を探した。空中だとそういう時にも都合がいい。というか空中で食べるという手もあるにはあるのだが。
ヴォルフはその場所を見つけると、すーっと移動して着地した。そこは緑の目立つ草原だった。ヴォルフはこの町に来るまで、砂漠しか見なかったので最初見つけた時は意外だった。
「ここならちょうどいいわね」
ゼーレの方も異論はないようだ。そしてゼーレは持参した弁当を広げた。内容はなかなかによく出来ている。見た目も分量も申し分ない。ヴォルフは一つを手に取って口に入れた。味もよかった。
「旨いな。お前、料理得意だったのか」
ゼーレは、ヴォルフに褒められたのが意外だったのか少し照れていた。
「そ、そんな事ないわよ。ただ昔お母さんに教えられた通りに作っただけよ」
昼ご飯を食べ終わると、行きと同様、二人は浮遊して戻った。先程もそうだったが、二人の他にも何人かのハオベは浮遊して移動していたので、二人が浮遊を使っていても誰も驚きはしなかった。
「それじゃあ、頑張ってね」
ヴォルフは闘技場の前でゼーレと別れた。確実に一人でいるよりも効率よく暇は潰れただろう。控え室には既に他の三人が椅子に座っている。ヴォルフが部屋に入ると、そこには午前中とはまるで違う空気が流れていた。ヴォルフは肌がちくちくするのを感じた。この場に満たされているのは敵意と緊張と、そして畏怖だった。ヴォルフはそのいずれの感情も持ち合わせていなかったので、余計に敏感に感じたのかもしれない。
第一試合が始まった。ヴォルフは相変わらず第二試合だが、流石にここまで来ると決勝で戦うことになるであろう選手の事も気に掛かる。ヴォルフは窓から試合の様子を眺めた。確かに、そこらのハオベよりは強いかもしれないが、それでもヴォルフには温く感じられた。今にして思えば、一回戦の魔法を使わずに戦ったのが一番大変だったかもしれない。
試合はしばらくして終わった。どうやら青ずきんの方が勝ったようだ。ヴォルフは立ち上がると、控え室から出ようとした。気兼ねはしない。負ける気もない。ただ相手を潰すのみ。
「準決勝第二試合。大会三連覇の3W選手と初参加の4V選手の勝負です」
ヴォルフは試合開始の鐘の音を聞くと、左腰に両手を当てて居合いの構えをとった。
「快刀乱麻」
ヴォルフはそう言うと右手を前に動かした。その動きはまるで抜刀するかのようであった。するとヴォルフの右手には、透明な鞘から引き抜かれたように、確かに刀が握られている。ヴォルフはその真紅の刀を両手で握った。
「何だい、それは? そんな物で僕を倒そうとでも?」
3Wはそういうと、右手を前に突き出した。その動きに連動するように、手先からは水の球が発射されている。
「へえ、あんた青ずきんだったんだ」
ヴォルフはそういうと、迫る水球を構えた刀で切り裂いた。そして走り出した。飛んでくる水球の全てを斬り、前へと進んだ。
「ば、バカな。赤ずきんの君がこうも簡単に僕の攻撃を退けるなんて。滄海桑田!」
3Wがそう叫んだ後に放った物は、水球ではなくて氷柱だった。だが氷柱といえどヴォルフには関係ない。ただ切り捨てるだけだ。だが次第に辺りに霧が立ち込め始めた。滄海桑田は水の状態変化を利用した魔法である。だから水は氷にも水蒸気にもなる。そうしてる内に、ヴォルフの周りは真っ白になり、自分の足下すら見えなくなった。
「――まったく、小賢しいな」
ヴォルフはそう言うと刀を横に一振りした。手元の霧は一瞬だけ晴れたが、直ぐにまた立ち込めてしまった。ヴォルフは刀の形状を変化させた。すると、今まで真っ直ぐだった刃の部分が揺らぎ始めた。その状態で、ヴォルフは再び刀を一振りした。今度は観客席が見えるまで霧は晴れ、しかもその後に霧が立ち込めることはなかった。3Wがどこにいるかを探していると、ヴォルフは辺り一面に氷柱があるのに気が付いた。その鋭く尖った先端は全てヴォルフの方を向いている。そして浮いている氷柱の一つに3Wの姿を見付けた。どうやら先程の霧は単なる時間稼ぎだったようだ。流石に数は半端ない。ヴォルフはため息をついてから、今度は左手を右腰にもっていき、引き抜く動作をした。すると左手にも真紅の刀が握られ、ヴォルフが両腕を前に出すと刀は後方にも伸び、ちょうど槍の様になった。ヴォルフはそれを構えて3Wの方へ向かっていった。空中にいる3Wを、ヴォルフは丁寧にも氷柱を踏み台にして迫っていった。
「貴……様。なめるなァ!」
3Wがそう叫ぶと、今まで宙に浮いているだけだった氷柱が一斉にヴォルフの方に迫った。ヴォルフはその動きを見ると、両腕で構えた槍を回し始めた。そして高速で動く氷柱の上を未だに駆け続けた。ヴォルフを襲う氷柱の尽くが槍の前に氷の粉と化し、闘技場内に舞い散った。ヴォルフは3Wの氷柱まで行くと、そのまま槍を交差させて3Wの首本に押し当てた。
「さあ、どうする? 抵抗すればお前の首は飛ぶぜ?」
ヴォルフがそう脅すと、3Wは脱力して膝を折った。
「く、降参だ……」
3Wのその言葉を聞き、ヴォルフは地面に下りた。くだらない。青龍すら使えないやつが大会を三連覇していたなんて、それを聞いただけで拍子抜けだ。だが次の試合に勝たなければ五千ゲルトは手に入らない。ヴォルフは足音を大きくして控え室に戻った。
控え室には一人だけがいた。青ずきんで小心そうな青年が、ただ一人で椅子に座ってじっとしている。ヴォルフも椅子に座ると、腕と足を組んで目を瞑った。考え事をする時と、何も考えない時は瞑想が一番だ。ヴォルフが少しうとうとしていると、突如隣の青ずきんが声をかけてきた。
「――あなたは『追われる恐怖』を感じたことがありますか?」
質問の意図がまるで分からなかったが、とりあえず答える事にした。かなり真剣な面持ちのようだ。
「あるよ。その時は逆に返り討ちにしてやったけど」
「そう……ですか」
その男はそれだけを言うと、ヴォルフに会釈をして部屋を出ていった。ヴォルフの方も何が何だかさっぱりだった。思い出したくもない事を思い出してしまう。
その後、そのハオベは一度も部屋に戻って来ずに試合の時分になった。ヴォルフは少し不審に思いながらも、会場に向かった。別に不戦勝でも構わない。どうせくだらない大会なのだ。
「いよいよ決勝戦です。今回はどちらも初参加という珍しい事態です。それではケーニッヒ選手と4V選手の試合を始めましょう」
そう言って所定の場所に立ったヴォルフは少し妙な事に気付いた。相手との距離が遠いから気のせいという事もあるかもしれないが、どうもケーニッヒの背が低く見える。だがヴォルフは構わず火球を放った。まずは様子見で二、三発。相手は何の動きもせず、ただ左手を肩の高さに上げただけだった。だがヴォルフの放った火球は、その左手に触れると、まるで何かに吸い取られたかのように消滅した。
「な……。これは――、お前! 何故アムレットを使ってるんだ!」
ヴォルフは怒鳴った。魔除けの石であるアムレットは、殆ど全ての魔法の効力を無効化する。そして今相手が見せたのも、限りなくそれの反応に近かった。
「嘘をついたのは君の方だヨ? 僕言ったよネ。君と同じ位の白ずきんを知らないかっテ?」
ヴォルフは既に火球を放った後ではっとした。この感じ、この言葉遣い。もはや間違いない。
「お前は――ゲルプ!」
ヴォルフの放った火球はまたしてもアムレットの前に無力化したが、その時の風圧で羽織っていた外套が開けた。そこにいたのは紛れもなくゲルプだった。
「君との試合、楽しませてもらうヨ」
ゲルプは相変わらずくすくすと笑い、そしてゆっくりと宙に浮いた。ヴォルフが眼を凝らして見ると、確かにその手にはアムレットらしき物が握られている。
「ケーニッヒはどうしたんだ!」
本来ならヴォルフと戦うはずだったケーニッヒがここにいないという事が、何を意味するかをヴォルフは分かっていた。だが何故か口が動く。
「あれェ? 君らしくないネ。本当は分かってるくせニ。まあいいヤ。教えてあげるヨ。彼は試合前に潰しといたんダ。――でも君にそんな事を気にかけてる余裕はないと思うんだけどなァ。このアムレット、僕はどこから手に入れたと思ウ?」
ヴォルフはゲルプの言葉を聞いてはっとした。この大会でアムレットを手に入れられる場所は、この闘技場内しかない。ヴォルフはゼーレがいる場所を見た。そこは周りと若干色が違っている。ヴォルフは拳を握りしめて力を込めた。
「貴様ぁ……」
「そういう事だヨ。じゃあ始めようカ」
ゲルプはその笑顔を絶やさずに右手を前に出して雷光を放った。雷の球がヴォルフに近づいてくる。ヴォルフはそれを避けると、火球を放とうとした。だがちょうどヴォルフとゲルプの延長線上にゼーレがいるのを見ると、その手を下げざるを得なかった。
「そうそう、ちゃんと考えて攻撃しないとネ」
ヴォルフの怒りはどんどん膨張するばかりだった。遠距離戦では埒が明かない。ヴォルフは考えを切り替えてゲルプに接近した。自分も浮遊して、確実に距離を縮めていく。だがゲルプは相変わらずくすくすと笑ったまま動こうとしない。
「そう来る事も予想してたヨ。それが定石だもんネ。でも、こんなのはどうかナ?」
ゲルプはそう言うと、左手を少し下の方に向けた。ヴォルフはまたしてもはっとした。手は明らかにゼーレの方に向いている。
「くっそ! 快刀乱麻!」
ヴォルフは抜刀の動きをして、ゲルプの手の真下に刀の刃を置いた。だがその直後、ヴォルフの身体に電撃が走った。ゲルプはあまった右手でヴォルフを攻撃していた。
「全て予想の通りなんだヨ」
ヴォルフはそのまま地面に落ちた。このままでは戦いようがない。ヴォルフは直ぐに立ち上がった。
「てめぇ、あんま調子に乗るんじゃねえぞ。風林火山!」
ヴォルフはそう叫ぶと一歩踏み込んだ。すると凄い加速でゲルプの間合いにまで近づいた。其の疾き事、風の如く。だがゲルプは相変わらずその笑顔を絶やさない。
「やっぱそうきたネ。でも僕も馬鹿じゃないんだよネ。光彩陸離!」
ゲルプはそう言うと、ヴォルフの方にきらびやかな雷を放った。広範囲に及ぶその雷は確実にヴォルフを射程内に捉らえ、そしてヴォルフの後方にゼーレも捉えている。ヴォルフは風林火山で自分の身を守ったが、そうなるとゼーレの方ががら空きになってしまった。ヴォルフは後ろをちらと見て、直ぐにそちらに向かった。何とか間に合って風林火山でそれを防いだ。動かざる事山の如し。
「疾風迅雷……」
ヴォルフが風林火山を解除した途端、一閃の雷光がヴォルフの身体を突き抜けた。ヴォルフの身体はびくりと痙攣して、再び地面に落ちた。
その後、何回ゲルプの攻撃を真に受けたか分からなかった。十、二十という回数ではない。ヴォルフの身体は火傷だらけで、立つのもやっとだった。この時ヴォルフにはゲルプの考えが殆ど読めていた。殺そうと思えばヴォルフを殺すことすら可能なのだ。もっと強力な魔法を使えばことも容易い。だがあえてそれをしないのは、恐らく引き出そうとしているのだ。そしてヴォルフがそれに気付いてしまった以上、絶対にそれは許されない。
「大変だねェ。足手まといを庇いながら戦うっていうのハ」
ゲルプはくすくすと笑いながら、だがどこかに苛立ちを見せながら、まだ立ち上がっていないヴォルフを攻撃し続けた。
「君には死んでもらっちゃ困るんだけど、仕方ないかナ。こうも弱いんじゃあネ。それともあれかナ? 君の天使さんを殺せば少しは本気になってくれるのかナ?」
ヴォルフは顔を上げ、再びゲルプの方に突っ込んでいった。だが勢いなく飛び込んだ所で、格好の的にされるのは明らかだった。
「あーア。やっぱ君はダメなのかナ? まあいいヤ。僕らにはもう一つの方があるからネ。それにしてもどうして君が彼女にこだわるのか理解出来ないヨ。君を助けた赤ずきんじゃあるまいシ」
ゲルプはそう言いながら攻撃を続けた。少しずつ、威力が増しているように見える。だがヴォルフはこの時痛みを感じていなかった。こいつは全てを知っている。その事がヴォルフの嫌悪感を更に増幅させる。それはヴォルフだけではない。
身体中に悪寒が走る。
身体中に憎悪が巡る。
身体中に熱いモノが広がっていく。
身体が、本能が、もう一人のヴォルフが命令を下す。
――コイツヲ殺セ!
その声を聞いた途端、ヴォルフの身体はびくんと身震いした。そしてゆっくりと立ち上がった。その身体には限界が来ているはずなのに、ゲルプの攻撃は今尚続けられているというのに。
「なッ――という事はそろそろなのかナ?」
ゲルプはくすくすと笑い、攻撃の手を緩めた。
「まだ未完成だから使いたくないんだが……」
ヴォルフはそう言うと、右手を上に、左手を下に向けた。そして何やら手の先が光り出した。
「今更何をするつもりか知らないけどね、君はもう用無しなんだヨ! 金烏玉兎!」
ゲルプは両手を前にかざすと、手の先から金色の鳥が現れた。もちろんそれは、青龍で作り出された雷そのものである。金の巨鳥は大きく羽ばたきながら一直線にヴォルフの方へ向かって行った。
「……じょ……下……」
巨鳥がヴォルフを攻撃する前にヴォルフは呟いたのだが、その声はあまりに小さく、あまりに力無かったために誰にも聞き取れなかった。だが急に地鳴りがし始め、そのわずか後に、巨鳥は左右に分断された。青龍であるその鳥が、いとも簡単にである。
「まさカ! ――でも僕が負ける道理はないんだよネ」
流石に青龍を砕かれたのには衝撃を受けたようだが、ゲルプは依然として余裕の表情を見せていた。そして右手をゼーレの方向に向けた。
「そんな事はさせない」
ゲルプが振り返ると、背後にヴォルフがいた。つい先程まで地面にいたのに。目はヴォルフの方を向けたままだったのに、ゲルプはヴォルフの動きを全く追えていなかった。そしてヴォルフはゲルプを殴り飛ばした。凄まじい加速をつけてゲルプは地面へと叩き付けられた。ゲルプは少しふらふらしながらも立ち上がり、ついにその顔から笑みが消えた。
「この死に損ないガ……。電光石火!」
ゲルプがそう言った途端、ゲルプの姿が見えなくなった。消えたわけではなく、純粋な速さのために目で捉らえられないのだ。ゲルプは何度か牽制の動きを入れながら、ヴォルフに急接近していった。ヴォルフは決して動かず、だがゲルプがヴォルフに殴りかかろうとした瞬間に消えた。
「遅いんだよ……」
ヴォルフは高速で動くゲルプの背後に回りこみ、そしてゲルプを地面へと叩き落とした。落下の衝撃で地面にはわずかにひびが入った。ヴォルフは地面に下りると、ゆっくりとゲルプの方に歩いていった。ゲルプは直ぐに立ち上がり、体勢を立て直した。
「光彩陸離!」
ゲルプの放った雷はヴォルフの元に迫ったが、ヴォルフはそれを手で振り払うといとも簡単に掻き消された。ヴォルフはどう見ても何の魔法も使っていない。そして直ぐに一歩踏み込むと、もうゲルプの真後ろについている。ヴォルフはゲルプを蹴り上げると、空中で何度も攻撃を加え、最後には再び地面に叩き付けた。ただの殴打に過ぎないはずなのに、ゲルプの身体にはそれ以上の傷が見受けられる。ヴォルフは落下に任せるままに下り、そしてゲルプに馬乗りになった。ゲルプはもうぴくりとも動いていない。死んだわけではなさそうだが、かなり損耗しているようだ。
「快刀乱麻……」
ヴォルフは右手を振り上げると、そこに真紅の刀が現れた。ヴォルフはそれを両手で構え、ゲルプの首目掛けて振り下ろした。
「ヴォルフ、ダメぇー!」
ヴォルフの耳に聞こえたのは空耳だろうか。それとも天使の囁きだろうか。ヴォルフは手を振り下ろしながら声のする方を見た。その声は空耳ではなかったし、まして天使のものでもなかった。ヴォルフの目には、今にも泣き出しそうなゼーレの姿が映っていた。ヴォルフはその瞬間、ゼーレとの約束を思い出し、振り下ろす手を止めた。真紅の刀は、その切っ先をゲルプの喉の寸前で止めた。ヴォルフはゼーレから視線が放せなかった。
「こ、孤高の戦士は、飼い主には従順なのかナ……?」
ゲルプの声を聞き、ヴォルフは視線をゲルプに戻した。だがその瞬間、ヴォルフの身体に一閃の激痛が走った。痛みのする方を見ると、ゲルプの手には青龍による金の刀が握られていて、それがヴォルフの脇腹に突き刺さっている。
「あ……」
ヴォルフは今まで溜まっていた損傷に加え、致命傷ともなる腹部への青龍の攻撃により、もう体力が限界に至っていた。ヴォルフはそのまま横に倒れた。
ゲルプはふらふらと立ち上がった。足元がおぼつかない。
「もういいヤ……。今日は帰らせてもらうヨ。これ以上は僕もつらいからネ。でも今度会う時は確実に君らを潰すヨ」
ゲルプはゆっくりと浮遊した。浮遊の仕方も少し不自然だ。観客は事の成り行きを息を飲んで見守っている。ゲルプが会場から姿を消すと、司会者がおずおずとヴォルフに近づいた。雷で出来た刀で貫かれたヴォルフは、身体が痺れて動けないでいた。もはや痛みすら感じていない。
「ええ……、ケーニッヒ選手は場外逃亡のため棄権とみなし、今回のアンファング選手権、優勝者は4V選手!」
司会者は倒れているヴォルフの手を取り、上に突き上げた。少しの間を空けて会場からは大歓声が沸き上がった。地が震える程に。
ゼーレは自分の席を飛び出すと、ヴォルフの下に向かった。ヴォルフは誰がどう見ても危険な状態である。にも関わらず誰もその緊急性に気付かずに呑気に担架を持ち出している。もはや一刻の猶予もないというのに。
「ヴォルフ!」
ヴォルフの状態を見たゼーレは、唖然としてしまった。確かに傷の状態は酷い。だが明らかに先程までの状態とは違っている。若干だが治癒し始めている。ほんの僅かな時間の間に。
「うそ……。どういう事?」
ゼーレはとりあえず白魔法をヴォルフの身体に当て続けた。元々白魔法は治癒を得意とする属性だ。使い方によっては攻撃手段にもなり得るが、本来はそういう物なのだ。技など使わなくても、ただその光だけでも回復力はぐっと上がる。ゼーレはヴォルフの脇腹の傷を塞ぐと、とりあえず安心した。これで出血を気にする必要はない。後は医療班に任せ、ゼーレは闘技場の外に出た。
そういえば、と思いゼーレはある場所を目指した。ヴォルフに頼まれた件はどうなっているだろうか。
ヴォルフが目を覚ますと、そこはどうやら闘技場内の医務室のようだった。ヴォルフは身体を起こしたが、まだ痛みと痺れが残る。
「あら、もう大丈夫なの?」
目を覚ましたヴォルフの姿を見た医務員が声を掛けてきた。ヴォルフは曖昧に頷くと、許可をもらって退室した。まだ痛みのせいで上手く歩くことが出来ず、足が地を踏む度に腹に痛みが走る。足の動きに先立って痛みに襲われる。ヴォルフはこんな感覚を抱くのは久しぶりだった。
部屋を出たはいいが、どこへ行くべきか判断しかねたヴォルフはとりあえず受付に行くことにした。ヴォルフは結局どちらが勝ったのかさえ知らない。ヴォルフがよたよたと受付に行くと、受付の人はヴォルフの顔を見るなりにっこりと笑った。そしてこちらが何も言わない内に口を開いた。
「優勝おめでとうございます。賞金の方でしたら、あちらの方で承っております」
そう言って手を向けた方向には、確かにそれらしい場所がある。一見すると換金所のようにも見える。ヴォルフは受付の人に一礼すると、またゆっくりと歩き出した。
ヴォルフは優勝賞金である五千ゲルトを受け取ると、闘技場の外に出た。そういえば、とヴォルフは思い、ゼーレを探し始めた。頼んだ件はどうなっているだろうか。
ヴォルフは少し歩いてからゼーレの姿を目にした。ゼーレは口をあんぐりと開けている。どうやら何かにひどく驚いているようだ。放心状態で歩くゼーレに近付くと、ヴォルフはゼーレの目の前で手をひらひらしてみせた。数回手を振った後にやっとヴォルフの存在に気付いたゼーレは、ここがどこかも分からないようで、辺りをキョロキョロと見回している。
「おい、何してんだ?」
ヴォルフが問い質すと、ゼーレは焦点の定まらない目でヴォルフを見て、へなへなとその場に座り込んでしまった。ヴォルフは何がなんだか全く分からなかった。どこか痛めたのだろうかと、ヴォルフは一瞬そう思ったが、直ぐにその考えを打ち消した。ゼーレは驚いているのだ。ヴォルフと違って痛みがある訳ではない。
「こ、怖いわ……」
ヴォルフはゼーレがそう呟いたのを聞き逃さなかった。ゼーレは、驚いたではなく怖いと言ったのだ。ヴォルフはますます分からなくなった。
「何が怖いっていうんだよ?」
ヴォルフは段々と腹が立ってきた。こっちは病み上がりだというのに、ゼーレは訳の分からない事を言う。だがゼーレの方も気持ちを落ち着かせようとしているらしいことは分かった。何度か深呼吸をしている。
「……化け、たわ」
驚いた様子をして、怖いと言い、その上化けたと言う。
「何が、何に化けたんだ? いい加減怒るぞ」
ヴォルフはもはや呆れ果てていた。どうせ大した事はないのだと高を括り、無関心そうに聞いた。ゼーレは何度か深呼吸した後、ようやく焦点が定まってきた目をヴォルフに向けて話し始めた。
「化けたのよ! あなたが賭けた六ゲルトが! 二万八千ゲルトに!」
ああそんな事か、とヴォルフは思ったが、ゼーレの言葉を今一度反芻してみて、事の重大さに気付いた。ヴォルフもゼーレ同様とても驚き、ゼーレと一緒に地面に座り込んだ。一体何なんだ、この町は。ヴォルフが呟く事が出来たのは一言だけだった。
「こ、怖い……」
ヴォルフとゼーレは翌日にアンファングの町を出発した。観光の旅ではないので、行った先々の町でのんびりする事は出来ない。ましてゲルプという存在にも出くわしたのだ。いつまでも一所にじっとしている事は出来ない。二人が次に向かったのは、ゼーレの最初の目的場所であるフェアウアタイルング。
罪と断罪の町、フェアウアタイルング。
第三章
~不惜身命~
アンファングを発って約三日。ようやくフェアウアタイルングがその姿を見せ始めた。ゼーレにしてみれば行って戻ってのとんぼ返りとなるのだが、やはり因縁の町でもあるので大分緊張しているようだ。
「ねえ、いくつか聞いてもいいかしら?」
「何だ?」
ゼーレが声を静かにして聞いてきた。かなり真剣なようだ。
「あなたは一体何者なの?」
「どういう意味だ?」
ゼーレの質問はあまりに突拍子もなく、ヴォルフは一瞬意味を計りかねたが、直ぐにゼーレの意図に気が付いた。誰だって気になることだろう。
「だってあなたはアンファングの大会で優勝する程のハオベなのに国士無双を掛けられている。それにゲルプとの試合では、途中から急に雰囲気が変わったわ。ヴォルフのツァオバーが急に荒々しく、禍々しくなった。それだけじゃない。その時負った傷は致命傷になってもおかしくなかったはずなのに、私が駆け寄った時には治り始めていたわ。明らかに普通じゃない。もう一度聞くわ。あなたは一体何者なの?」
ヴォルフはやれやれといった感じで嘆息をついた。はたしてどう答えたものか。ゼーレにはこちらからも条件を出しているから退ける事も出来るが、それではゼーレは納得しないだろう。だが今ヴォルフに言える事はない。
「前にも言ったはずだが、俺に干渉はするな。誰にだって人に言えない過去があるものだ。――俺の親父と関係がある話。今言えるのはそれだけだ。いずれ教えてやるよ」
ヴォルフがそう言うと、ゼーレはそれで渋々引き下がりその話題を止めた。まだいくつか質問があるはずだ。ヴォルフはそう思った。
「次の質問。私はどうやってフェアウアタイルングに入るの? 町で見付かった時点で捕まってしまうのは目に見えてるわ」
ヴォルフはこの質問に虚をつかれた。ゼーレもハオベであるのなら手の立てようはいくらでもあるだろう。
「お前、玄武は使えるか?」
とりあえず玄武が使えれば人間の目を誤魔化すことは出来る。玄武でずきんを隠し、髪の色を変え、瞳の色を変えてしまえば、大抵の人間はそれがハオベであるなどとは思わない。人なんて所詮は表面だけの付き合いにすぎない。どんなに親密にしていた所で、闇が蠢く町での信頼関係などたかがしれた物だ。容姿が変われば識別は不可能に近くなる。ヴォルフはそう思っていた。
「え、ええまあ少し位なら」
ヴォルフは少しゼーレの様子を窺った後、嘆息した。この様子ではおそらく無理だ。
「いいや。俺が何とかするよ。お前の髪と目とずきんの色を変えれば問題ない」
それで納得したようにゼーレは頷いた。ヴォルフは遠くにある町の風景を眺めた。あの町には手掛かりがある。ただそれだけがヴォルフの胸を躍らせた。先程から、進めど進めど町が近くならないのは、ヴォルフの逸る心のせいだった。もう既に町へと目が行ってしまっているヴォルフに、ゼーレは尚も話を続けた。
「最後に一つ。あなた、アルマハト教だったの? 宗教には全く興味なさそうに見えるのに」
ヴォルフはゼーレの問いに一瞬驚いた。先程から、ゼーレの質問はヴォルフを驚かせてばかりだ。確かにヴォルフは宗教には興味などないが、アルマハト教に関していえば因縁があるのもまた事実だ。だが何故それをゼーレが知っているのか。ヴォルフは直ぐに納得のいく結論を得た。アンファングでの戦いの時に、恐らく首飾りが見えたのだろう。ヴォルフは服からその飾りを取り出した。
「これの事か。まあ俺は宗教に興味ないけどな。これは母さんの形見だ」
ヴォルフの手の中では、真っ白な四角い石に十字と円が描かれたものが握られている。世界の三大宗教の一つであるアルマハト教の掲げる刻印である。
主に白ずきんと人間に信仰され、エルデにおける森羅万象は繋がりを持つとする、アルマハト教。
ハオベの殆どが信仰する、ハオベの創造主であるカプーツェを神聖化し崇める、クリストゥス教。
一般には邪教とみなされ、少数の黒ずきんと人間に信仰される、満月の夜に世の転変が起きるとする、ヤーヴェ教。
エルデでは宗教活動はそれほど活発でないため、教会や聖堂の類の建造物は数が多くない。それでもそういう建物がある所には、まるで権力を象徴しているかのような荘厳な建物が町の中央に聳えている。大概は教会を中心に町が広がっている。
「そう……だったの」
ゼーレはばつの悪そうな顔をして俯いてしまった。別にヴォルフにとっては今となってはどうでもいい事ではあった。過去を詮索され掻き回されるのは嫌いだったが、過去に触れられる事に関しては不快な感情は抱かなかった。
「無駄話もここまでだな。行くぞ」
ヴォルフはそう言うと、ゼーレの姿を見事に変えてみせた。ただ色が変わったに過ぎないのだが、誰がどこからどう見ても、もはや白ずきんには見えなかった。光の屈折、反射、散乱。それら全ての性質を巧みに利用するヴォルフの能力はやはり生半可なものではない。とはいえ、ゼーレは自分の変化を全く見ることが出来ない。辛うじてその長く伸びた髪の色を見れるくらいだ。そして二人は歩を進めた。
フェアウアタイルングに入った二人は、一先ず昼食を取ることにした。町の新参者がいきなり、網目のように広がった地下に下りるのは不審である。それよりは、ゼーレの姿がいかに不自然でないかを確認する上でも、少しの間地上で情報を収集した方がいい。
飯を啄みながら、ヴォルフは少しだが悩んでいた。ゼーレの依頼はこの町の研究所の破壊であるが、果たしてどうしたものか。この土地をよく知らないヴォルフではあったが、ゼーレが以前話した様子では、研究施設の少なくとも一部は地下にあるようだ。そこを闇雲に破壊してしまっては、地上部を巻き込んで崩壊する恐れもある。ただ破壊すればいいというわけではなかった。そしてもう一つ。この町に入ってから微かに感じる視線。ヴォルフの少し緊迫した様子に気付いたゼーレは、その事を尋ねてきた。ヴォルフは今まで考えていた事を話した。追放されたとはいえ、ある程度の期間をこの町で過ごしたゼーレの意見は参考になるだろう。ヴォルフの意見を聞いたゼーレはきょとんとした顔でヴォルフを見ていた。
「心配することないわよ。研究所は全部地上にあるのよ。私が迷い込んだのは、ちょうど研究所の真下から少し歩いた程度の距離にある部屋なの。それに既に廃棄されていたわけだし」
地上に、と言われても、ヴォルフにはぴんとこなかった。この町にそんな大規模な施設があっただろうか。殆どの建物が一、二階建ての住居だった気がする。ただ一つ、町の中央に位置する小高い丘を除いて。
「そう、その丘が施設なの。あの丘は人工的に作られた建造物なのよ」
ヴォルフは唖然とした。何故わざわざ丘を作る必要があったのか。普通の建物で充分だったのではないか。ヴォルフの抱える謎は解けないままだ。
この町が『断罪』を意味する本当の理由をヴォルフが知るまで、今しばらくかかった。そしてそれを理解した瞬間こそが、断罪と後悔の瞬間になろうとは、この時は知る由もなかった。
二人は昼食を終えると直ぐ様その丘へと向かった。町ですれ違う人たちの雰囲気がアンファングとはまるで違っていた。何か、重々しい。
そしてヴォルフがその丘の前に立った時にまず思ったことは、異様であるということだった。すごく禍々しい感じが、丘の中からも表面からもしている。それはヴォルフだけが感じることなのかもしれないが、やはり違和感がある。この丘の付近だけ、人が見当たらないのだ。他の箇所では人間と黒ずきんが堂々と歩き回っているというのに。
「おい、この丘では一体何をしてたんだ? 研究所じゃなくて、この丘で」
ヴォルフは振り返り、状況の説明をゼーレに求めた。
「何もないよ」
返ってきたゼーレの言葉は、およそ感情のこもっていないものだった。それはもはや拒絶に近い。ヴォルフは一瞬だが息を飲んだ。どうも違和感がある。ヴォルフは問い詰めることにした。
「そんなはずはないだろう? お前は白ずきん狩りに遇ったと言ったし、この丘からは血の臭いがする。それも一人や二人じゃない。十人、いや百人単位のものだ。一体この町には何があるっていうんだ?」
「だから、何もないってば」
再び感情のこもらない、凍った言葉が返ってくる。ヴォルフは憤りを覚え、ゼーレの肩を揺すった。だがゼーレの目を見たヴォルフは、その手を止めざるを得なかった。目が虚ろで、何も感じていないようである。だがそれでいて、目の奥にははっきりとした「恐怖」の感情が窺える。これこそがこの町の持つ負の一面なのだ。人を「恐怖」という鎖で縛り付け、決してその事には触れさせない。それは町を守る手段でもあり、人を縛る手段にもなる。ヴォルフは息詰まってしまった。町の案内役のゼーレがこの調子では動くに動けない。
「くそ……。戻るぞ」
ヴォルフは腹を立てながら賑わいのある方へ戻った。泊まる宿も取らなければならない。いつまでもこの場で立ち尽くすことは出来ない。
「ヴォルフ、どうだった、あの丘は?」
宿の部屋で唐突にゼーレが尋ねてきた。だがどう答えろというのか。町に植え付けられた恐怖によって、ヴォルフは何の情報も得ていないに等しい。ヴォルフは軽く鼻で笑った。
「最高だったぜ? 反吐が出るほどにな」
ヴォルフはもう何も問う気が起きなかった。既に結果が見えているからだ。結果が分かっている事を聞くのがいかに愚かしいか、ヴォルフは言わずとも知っている。ゼーレは少し困った顔をして曖昧に頷いた。
「じゃあ、俺は明日行ってくるから、お前はここにいろ。いいな? お前を連れてくと俺のツァオバーを無駄に消費してしまうからな」
ゼーレは今度ははっきりと頷いた。だが顔には元気がない。ヴォルフの役に立てないのが、足手まといになるのが悔しいのだ。二人は夕飯を適当に済ませて、早々に横になった。
夜、ヴォルフは唐突に目を覚ました。夜空は曇っていて、月明りがなく暗い。ヴォルフは自分の変化に戸惑っていた。身体に異常はない。頗る健全だ。それは心に関しても同じだ。だが何故かヴォルフの胸は高鳴っている。何か危険を知らせているのではないかと、そう考えたヴォルフだったが、では何が、という疑問がまた浮かび、まとまりを見せない。生温い汗が額を流れ、嫌な感じがする。いや、するのではなく近付いてきている。血の臭いを纏わせた、白い悪魔達が近付いてくる。
ヴォルフは隣の部屋にいるゼーレを起こそうかと思い、上体を起こした。その時、部屋の戸を叩く音が聞こえた。二、三回、コンコンと言う音が聞こえる。ヴォルフの汗は一気に冷たくなった。ただ嫌な気配だけを漂わせて近付いてくる者達。ただ殺気だけを漂わせて追ってくる者達。ヴォルフは自分の過去を思い出しかけて、また直ぐに現実に戻された。戸を叩く音が僅かに強く、そして回数も多くなったからだ。ヴォルフは心を落ち着かせた。まだゼーレの事はばれていないはずだ。追手のはずがない。ではこの気配は何なのか。何故こんな時分にしつこく戸を叩くのか。ヴォルフの頭はもはや冷静さを欠き始めていた。ヴォルフはゼーレの部屋を覗き、異常がないことを確認すると、戸口の方へ向かった。
「お前ら、誰だ?」
ヴォルフは戸を開けずに、戸越しに尋ねた。相手は沈黙を続けているが、依然としてその異様な気配を感じる。人間かハオベかすら分からない。ただ、エーヴィヒではないようだ。エーヴィヒ特有の臭いも気配もしないし、もしエーヴィヒだったら狙いはヴォルフのはずだ。もっと効率よく寝首を掻くだろう。ヴォルフはそこまで考えてはっとした。そう、狙いがヴォルフなら、わざわざ起こして戸口に誘き出す必要はない。ヴォルフを呼んだのは、狙った対象から引き離すためで、だとしたら奴らの本当の目的はゼーレという事になる。その時、ゼーレの部屋の方から大きな音がした。何かが落ちる音と何かにぶつかる音。
「くそっ! そういう事かよ!」
ヴォルフは直ぐに引き返した。ヴォルフが戸に背を向けた途端、異様な気配はふっと消えた。ヴォルフがゼーレの部屋に着くまで、わずか六歩。たったの六歩だったのだが、ヴォルフがゼーレの部屋に踏み入った時には、既に部屋には誰もおらず、窓が開け放たれて夜の温かい風が部屋に入り込んでいた。
「くっそ!」
ヴォルフは怒りの篭った拳を床目掛けて振り下ろした。もっと用心深く、もっと冷静に、もっと機敏に動けていればゼーレが掠われることもなかったはずだ。振り下ろした拳は、鈍い音を立てて床にへこみをつけた。ヴォルフの手からは僅かに血が流れていた。
ヴォルフは直ぐに宿を飛び出した。ゼーレの居場所の見当はついている。あの丘だ。ゼーレをどうするかはまだはっきりとは分からないが、いずれにせよ研究所に連れて行かれるのは目に見えている。その時、町中に突如鐘の音が聞こえた。鐘よりももっと高い、僅かに耳に障るような音が大音量で響いている。ヴォルフは辺りを窺いながら走った。この音はどこから聞こえてくるのだろうか。何か町の至る所から聞こえるような気がする。
ヴォルフは町の異様な雰囲気を感じていた。何か狂気が巡っている感じがする。そしてヴォルフがそう感じて直ぐに、町中の家々の戸が一斉に開き、中から住民が出てきた。その人達は、ゆっくりとした足取りで同じ方向へ歩き出した。その方角は、丘。そして住民の目は、丘でゼーレが見せた目と全く同じだった。まるで何かに操られているかのように、その瞳に恐怖を浮かべながら歩き続けている。
「一体何なんだよ、この町は!?」
ヴォルフは困惑のまま走り続け、ようやく丘に至った。そして驚愕した。昼とは全く違う、闇の気配が蠢いている。ヴォルフにははっきりと感じられた。この町にはエーヴィヒがいる。ヴォルフがしばらく立ち尽くしていると、続々と町の住民が集まってきた。そして丘を取り囲むようにして、町中の人が全て集まった。
「よくぞ集まってくれた。町の住民達よ。今宵、我等は町の反逆者たる白ずきんを捕縛した。よって今日の昼、太陽が真上に上った時に公開処刑をする」
突如として響いた声はそれだけを告げると、直ぐに止んでしまった。だがその声を聞いた途端に、町の住民達は拳を上げて狂喜の声を上げた。声が共鳴を繰り返し、地鳴りがするほどだった。どんなに些細な、そして世間一般では正しいとされる事でも、この町では違うのだ。この町の法に逆らう行為は、全てが断罪される。恐怖という強制力が働く限り、この血生臭い丘が聳え続ける限り。
ヴォルフはこの様子を見てゾッとした。異常という他に表現のしようがない。だが不可思議なこともある。白ずきんを捕まえるのは、実験に必要だからのはずだ。なのに、今日の昼に処刑してしまっては、その利用価値も捕まえた意味すらもなくなる。ただこの町にもう一つ恐怖を敷くだけだ。果たしてそんな事をするだろうか。もしそうでないなら、理由は一つしかない。昼までには実験が終わり、それでゼーレの利用価値がなくなるのだ。だとしたら、急がなくてはならない。
「『お前の力は何のために』か……」
ヴォルフは拳を強く握り締めた。頭の中でその言葉が反芻される。今までこの言葉が意味することを実践してきたことはない。今も忘れかけていたほどだ。だが唐突に頭の中に浮かび上がり、そして消えない。ヴォルフの意志は固まった。
「仕方ないな――一計を案ずるか」
ヴォルフはそう言うと、研究所に正面から入っていった。ヴォルフの力なら、禍根である研究所を焼き払うことも可能ではあるが、現時点ではゼーレを巻き込む可能性があるし、下手にやってしまったら住民の狂気を更に昂らせる可能性もある。あまり荒い手段には出られない。
「これはこれは、あなたはヴェーア・ヴォルフ様ではありませんか」
研究所の別室で待機するよう言われたヴォルフが待っていると、白衣を着た人間が部屋に入って来てヴォルフに歩み寄ってきた。言葉遣いと態度は歓迎を表しているが、ヴォルフは信じなかった。
「かの高名なヴェーア・ヴォルフ様がこのフェアウアタイルングに何の御用でしょうか?」
ヴォルフは腕を組み、少し間を持たせてから話し始めた。
「前にあの女の手配書を見て、捕まえたから連れてきたんだが、昨日宿に泊まってたら急に掠われてな。すごく不快なんだが」
ヴォルフは凄みを利かせてその男を睨みつけた。男は一瞬怯んだ後、言葉を選ぶように慎重に考え事をしていた。
「つまり、我々があなたの手柄を横取りした、という事ですか?」
ヴォルフは片手を上げると、その男の言葉を制止した。
「いや、懸賞金だとかはどうでもいいんだ。金は充分にあるから。だが折角捕まえたというのに、その女の処遇に関して全く蚊帳の外というのは納得いかないんだ」
男はヴォルフが何を言いたいのか分かっていないようだった。
「つまり、どうせ殺すなら俺にその女の処刑をさせてほしい。それと、その女の死体も頂きたい」
ヴォルフの言葉にその男はひどく驚いたようだった。だがしばらく考えた後、重い口を開いた。
「――その件につきましては私だけでは判断しかねますので、今しばらくお待ち頂けないでしょうか?」
そう言うと、男は部屋をそそくさと出ていった。部屋に残されたヴォルフは手持ち無沙汰だった。ただ後悔だけがヴォルフを襲う。もっと手は打てたはずだ。まずこの町に入る時点でゼーレは置いておくべきだった。丘での様子を見た時点で町から遠ざけるべきだった。そして何より自分の第六感をもっと信じるべきだった。妙な気配を感じた時点でゼーレを起こすべきだったのだ。
ヴォルフはそこまで考えたところで後悔の連鎖を食い止めた。過去を悔いても決して戻りはしない。ならばそんな事は考えるだけ無駄というものだ。ヴォルフはこの先のことを考え始めた。まずゼーレの安否を確認して、ヴォルフの計画を知らせなければならない。魔力に関しては問題ない。夜中に起こされはしたが、最近は激しい戦闘もない。あれこれと考えている内に時間は過ぎ、つい先程までの後悔はどんどん薄らいでいった。
しばらく時間が経った後、先程の男と黒ずきんが二人、部屋に入ってきた。どこか緊張感が漂うのは、ヴォルフが黒ずきん狩りとして恐れられているからだろうか。ヴォルフが話を切り出す前に、黒ずきんの方が話し始めた。
「ヴェーア・ヴォルフ殿。あなたの言い分はもっともです。自分の手掛けた事を完遂したいと思うのは至極当然な話です。なので、処刑の方法や形式をこちらの指示通りにやっていただければ、あなたの手でゼーレ・エンゲルを殺していただいて構いません。そしてその遺体も、あなたの好きにしていただいて結構です」
事があまりにすんなりいった事と、黒ずきんが話しながら見せる若干の余裕のような物、さらには初めてゼーレと会った時に彼女が口にしていた事を思い出して違和感を覚えながらも、ヴォルフは了承した。そしてヴォルフはこちらの要求を言った。
「ああ、ありがとう。それで一度、そのゼーレとやらと話をしたいんだが、大丈夫か?」
その三人は一度顔を見合わせた後、まるで示し合わせたかのように小さく頷いた。ヴォルフに向き合うと、人間の男が話し始めた。
「ええ、よろしいですとも。今その白ずきんは牢に入れております。案内いたしましょう」
そういうと、その男だけが扉の方向に歩き出した。ヴォルフは二人の黒ずきんを横目に、その男についていった。
男が階段を下がっていくのについていくと、地下に広大に広がる空間に出た。これほどの空間が地下にありながら、地上では誰も何の心配もせずに平穏だと思って生活をしている。ここが崩れたら地上もただでは済まないだろう。つまり、研究所と町は運命共同体だという事だ。
「上手く出来た構造だな、まったく」
ヴォルフの呟きは男には聞こえなかったようだ。ただ前へと進んでいる。地下に広がった空間には、空間自体は広いのだが、牢が敷き詰められていてあまり広くは見えない。むしろ狭くすら感じられる。そしてその数ある牢屋の中の一つの前で男は立ち止まった。他と全く変わらない、人一人が生きていけるだけの最低限の空間しか確保されていない牢である。ヴォルフをそこまで案内すると、男はその場を退いた。ヴォルフは牢に近付いた。中が暗くて、狭いとはいえ奥にいるのが誰か識別出来ない。
「無事か?」
ヴォルフはそう言うと、檻の中に手を延ばして火の玉を出した。牢の中はぽうっと明るくなり、奥には体を丸めて縮こまったゼーレの姿があった。その時、ヴォルフは一つの疑問を抱いた。確かに厳重に出来た牢で、力でこじ開けるのは難しそうだ。この中に閉じ込められているのが人間ならば。だがここにいるのはハオベなのだ。魔法を使えば檻の破壊などいとも容易い。
「もしかして――」
ヴォルフは檻に手を当て、そして理解した。ヴォルフはそこで考えるのを止めると、目前にいるゼーレに意識を戻した。ゼーレはヴォルフの姿を認めると、力無く近付いてきた。
「ヴォルフ。あなたどうして……」
ゼーレが何か話そうとするのを、ヴォルフは制止した。ここで無駄話をしている時間はない。必要な事を簡潔に伝えなければならない。
「いいか。お前はこの町で殺されるんだ。そういう事にしておくんだ。分かるか?」
ヴォルフは自分の言葉が足りない事は重々承知していた。案の定、ゼーレは首を傾げている。ヴォルフはゼーレの耳元で自分の計画を打ち明かした。計画自体は至って単純、かつ明瞭。しかしそれを行うのは至極困難である。ゼーレは驚きを隠しきれないでいたが、ヴォルフの言葉を信じ、しっかりとした様子で頷いた。
「お前は必ず俺が殺してやるからな」
ヴォルフは最後にそれだけ告げると、ゼーレの下を離れた。階段の辺りには先程の男が立っていた。何やら含むような顔をしている。ヴォルフはこの男達の見せる違和感を身に感じつつも、かまをかけてみた。
「ここの檻は全てアムレットでできているのか?」
魔力を抑え込む魔石でできた檻ならば、たとえハオベといえど、むしろハオベであるからこそ破るのは困難だろう。
「ご察しの通りです。ここの檻は脱獄をさせぬよう全てアムレットで出来ております」
男は平然と言い放った。だが問題なのはアムレットでできている事ではない。何よりも問題なのは、希少で貴重なアムレットをどうしたらこれだけ確保できるのか、ということだ。単位価格で言っても、今現在ベーゼアガイストと肩を並べて他よりも抜きんでている。なのに、たかが町がこれほど保有しているのは、普通に考えて妙だ。裏に何かがいるのは間違いない。それが何であるかは今のヴォルフには知りようもないが、少なくとも物騒な連中であることは間違いなさそうである。
再び地上部へと戻ったヴォルフには、研究施設内の一室を待機用兼宿泊用として与えられた。広さは中の上。一人用の部屋とすれば、ヴォルフとゼーレが泊まっていた宿よりは若干広いが、それでも格段に広いとは言い難い。ヴォルフはその部屋で、今後の展開を出来る限り様々な角度から検討し、不備がないかを検証した。問題があるとすれば、度胸であろうか。狂気に満ちたこの町で、その住人を相手に自分の計画を実践出来るか、それを為すだけの度胸があるかどうかが問題だった。ヴォルフはその事を考える内に動悸がしていた。あの時の住民の目が思い浮かぶ。恐怖に支配され、完全に操り人形と化した住民達の姿が。
どれほど時間が経ったのか分からないが、外はかなり明るくなり、気温も上がってきたように思える。そんな時、部屋の戸を叩く音がした。ヴォルフは返事をしてその者を中に入れた。先程とはまた違う男が、手に何やら携えている。
「何の用だ?」
ヴォルフは嫌疑の目を向けた。男が手にしているのは、剣と何かの衣装であった。男は少し物怖じした様子で、だがそれを表には見せないように、ゆっくりと話し始めた。
「もうまもなく処刑の時間となりますので、それに際する説明をさせていただきます。まず処刑の方法ですが、ここの真上、つまり丘の頂上部で、こちらの剣を使って斬首刑をします。そしてその後に悪しき肉体を焼却いたします。尚、その際ヴォルフ様にはこちらの装束をまとっていただきます」
男はそこまでをまくし立てると、抱えていたものをヴォルフに差し出した。真っ白な剣に、同じく真っ白な衣装。ヴォルフはそれを受け取って重さを感じた直後に理解した。あの男達が見せていた余裕の理由を。確かに、これではどんなに有能なハオベといえど無力と化すだろう。
「まさかこんな物にまでアムレットを使っているとはな……」
ヴォルフは冷静を装ったが、内心ではかなり焦燥を感じていた。ここに来てヴォルフの計画に狂いが生じたからだ。それもちょっとやそっとで修正出来るようなものではない。だが今更後戻りも出来ない。ヴォルフはアムレットでできた衣装に着替えた。真っ白なそれは、あたかも聖職につく者の衣装のようである。ヴォルフは我ながら似合っていないと思った。そもそも、視界いっぱいに入る白色は嫌いなのだ。嫌が応でも研究所を思い出してしまう。
「……ん? これは普通の剣なのか」
ヴォルフは、握った剣がアムレットで出来ていない事に少し驚いた。衣装にこれほど凝るなら、当然剣も、と思っていたのだ。だが予想は外れ、それは普通の剣であった。ヴォルフにとっては好都合な話ではある。だがやはり得心がいかない。この町には様々な策略が張り巡らされている。用心に越すことはない。
ゼーレはちょうどその頃、牢から出された。時間になったと言うのだが、こんな暗がりの中では時間の感覚などないに等しい。ゼーレはただ白衣を着た男についていった。確かにその足は上の方に向かっている。どうやら処刑台に連れ出されるのは間違いないようだ。ここまできてしまったら、余計な抵抗は無駄、かえってヴォルフの妨げにさえなる。ゼーレはヴォルフを信じて、心を落ち着かせることに努めた。とはいえ、これから自分は殺されるのだ、と考えると心が落ち着くはずはなかった。
ヴォルフは衣装を着替え終え、剣を携えると処刑台の方に移動を始めた。誰にも見られないように火の玉を出したりもしたが、やはり弱くなってしまう。ヴォルフはベーゼアガイストを持ってて良かったと思った。魔力増幅石であるベーゼアガイストを身に付けていれば、幾分楽になる。アムレットと対の魔石であるベーゼアガイストは、アムレットの効力を打ち消してくれるのだ。とはいえ、全身に施されているアムレットに較べ、ベーゼアガイストは小石程の大きさしかない。状況が厳しいことに変わりはない。
ヴォルフが丘の上に立つ頃には、全ての用意がなされていた。丘の周りを囲うようにして集まった住人。そして丘の上には、斬首台が置かれている。ヴォルフはこの時斬首台というものを初めて見た。というより、公開処刑というものに初めて立ち会った。今まで人を殺す事に関して躊躇や緊張を抱いたことはなかった。だが今ヴォルフの心を占める感情は何だろう。それは恐怖なのかもしれない。人に見られながら人を殺すことで、自分は殺人者であるという事を否応なしに自覚させられる。そしてそれが、いつか自分も殺されるかもしれない、という自己の死への恐怖に繋がるのだ。
「――よく出来た構造だよ、まったく」
ヴォルフは無意識の内に生じていた感情を一蹴した。いつの間にか汗をかいている。暑さによるものか、それ以外の要因によるものかは定かではない。陽射しがじりじりとヴォルフの肌を焦がす。全ての状況に嫌悪を感じる。
その時、ゼーレが姿を見せた。丘に立たたされたゼーレはその光景に唖然とし、そして何かに怯え始めた。これから殺される人の心境としては充分に理解出来るだろう。ゼーレはヴォルフの姿を認めた後でも、極度の緊張は解けず、身体を小刻みに震えさせていた。
「今ここにいるのは、異端なる存在、町の平和を脅かす存在、悪の根源たる存在である。我等はこれを滅ぼし、町に再び平和をもたらさなければならない」
丘の中腹に立つ男が声を張り上げて話し始めた。町の住民は、男の言葉に歓声を上げる。鈍く低い声が、空気を震わせ、大地を震わせている。ヴォルフの耳に届いたそれはもはや音ではなく、ヴォルフを内側から攻撃するものだった。音がしているのか、していないのか、それすらも分からなくなりそうだった。ヴォルフは心を落ち着かせた。集中力が乱れれば、それは魔法の乱れにもつながる。
「これより、公開処刑を執り行う」
男がそう言った途端、住民の怒号がぴたりと止んだ。その目は真っ直ぐに処刑台の方に向けられた。冷たいほどに鋭い視線に、処刑台はまるで凍ったような様相を見せた。ヴォルフは鳥肌が立つのを感じた。
「さあ、ヴォルフ殿。どうぞ」
隣にいた男に言われてヴォルフは丘の頂上へ歩き出した。だが足が思うように動いてくれない。ヴォルフは何とか処刑台に着くまでに心を落ち着かせようとした。歩いている間も、なるべく別のことを考えていた。青く広い空を眺めては明日の天気を考えたり、空を飛ぶ鳥の行き先を考えたり。
頂上まで歩いたヴォルフは、ゼーレと向き合った。ヴォルフは軽く目配せをすると、ゼーレを処刑台の方へ誘った。側で控えている者達も、神妙な目でヴォルフ達を見ている。ヴォルフの発汗量が急増した。暑さのためだけではない。
「――やはり、な」
ヴォルフは小声でそう呟いた後、ゼーレを処刑台に座らせた。手を後ろ手に縛り、膝で立たせて首を固定する。丸く切り抜かれた木の板からちょうど首の先だけが出るような恰好だ。ヴォルフは剣を引き抜くと、それを空にかざした。住民は視線を逸らさずにヴォルフを見続けている。ヴォルフは剣を両手で構え、ゼーレの首の横についた。そして腕を大きく振り上げた。この時、ヴォルフは時間がゆっくりと進んでいるように感じた。腕を振り上げるまでに大分時間がかかったように思えた。どんどん身体に疲労が蓄積されていく。そしてヴォルフは振り上げた両手を真っ直ぐに振り下ろした。一瞬剣の切っ先が何かに触れたような感覚はしたが、ほとんど抵抗もなしに剣は下まで振り下ろせた。その瞬間に、斬首台の横にごとりという音を立てて頭が落ちた。首からは赤いモノが勢いよく噴いている。住民はその光景の一部始終を冷たい目で眺め、そして少しの間を空けた後でどっと沸いた。先程までとは違う、高い歓喜の声だった。ヴォルフは息遣いを荒くしながら、地面に転がったゼーレの首を拾い上げた。目は閉じられており、汚れはない。
「本当に死んでいるか、確認してくれ」
ヴォルフは足取り重く、白衣を着た男の方に歩いていってそう言った。だが確認、といっても完全に胴とは分断されているのだ。この状態で生きているはずがない。ヴォルフはそれを確認すると、それを再び斬首台へ持って行き、そして渾身の力で火を放った。非常にか弱い炎が斬首台に着火し、その炎は乾いた空気を吸収して大きくなった。ヴォルフが肩で息をしながらその炎を見ていると、黒ずきんが近付いてきた。何かに驚いているようだ。ヴォルフにはその理由が大体分かっていた。
「ヴ、ヴォルフ殿、ありがとうございました」
ヴォルフはやや虚ろな目で黒ずきんを見ると、片手をひらひらと振った。
「ああ……。じゃあ、俺はもう行くから」
そう言ってゆっくりと歩き出したのだが、ヴォルフは何歩か歩いた後何もない所で躓き、転びそうになった。だがヴォルフは歩みを止めずに只管に歩き続けた。とにかくこの町から早く出たい。その気持ちのみがヴォルフの足を前に進めていた。
一体どれほどの時間が過ぎただろうか。ヴォルフはようやく町の外に出た。足は震え、もはや立っているのも困難なほどである。ヴォルフはその場で立ち尽くし、一歩も動けなくなってしまった。
「――ルフ、ヴォルフ! もういいわよ! このままじゃあなたが……」
ヴォルフは自分の右隣りに顔を向けた。何もない。だがヴォルフの目にははっきりと映っていた。ヴォルフは少し笑ってから、その場に倒れた。その直後、ヴォルフの隣にゼーレの姿が現れ始めた。ゼーレはヴォルフの上体を起こすと、その身にまとう白装束を脱がせて白魔法を当てた。
「本当、無茶をして……」
ゼーレは少し潤んだ瞳で魔法を当て続けた。白魔法が身体的外傷に有効なのは知っているが、魔力を消費したハオベに有効なのかは知らなかった。だが今のゼーレにはこれしか出来ない。ヴォルフはアムレットの衣装を着た状態で、青龍、玄武、白虎、朱雀、その全てを同時に使い続けていたのだ。青龍で偽のゼーレを作り上げ、玄武で本物のゼーレを隠し、アムレットをまとっているために常に白虎を使い、そしてゼーレの足跡がつかないように朱雀を使い続けた。その労力に比べたら、今ゼーレがしている事は気休めにすらならない。それだけの魔力があるなら、力でねじ伏せることも出来たはずだ。だがヴォルフがそれをしなかったのは、ゼーレとの約束を考え、フェアウアタイルングの町のことを考えたからだ。
感傷に浸っていたゼーレは、突然何かの気配に反応した。戦闘鍛練をしていないとはいえ、ゼーレは白ずきんだ。相反する色を持つ黒ずきんの魔力には敏感なのだ。ゼーレは周りを見回した。姿は見えないが、既に四方を囲まれている。数は四か五。
「どうしよう……。こんな状態じゃあヴォルフは戦えないし、私だって五人も相手にはとても無理だわ」
ヴォルフは微動だにしないが、静かに呼吸をしている。ゼーレが緊張していると、遂に黒ずきんが二人を取り囲んだ。見るからに屈強そうな黒ずきんが五人。そして刀を携えた人間が一人。とてもではないがゼーレの手に負えるような相手ではない。
「まさか、アムレットを身に付けながらあんな事をしてみせるとはな。流石だよ、ヴェーア・ヴォルフ。だが貴様はもう処分していいと、ヴァイゼー様は仰っている。貴様等にはここで死んでもらおう」
ゼーレはヴォルフを支える手に力をこめて黒ずきんをきっと睨みつけた。
「ヴァイゼー……?」
ゼーレは黒ずきんが口走った単語を頭の中で思い出そうとしていた。どこかで聞いた事がある。最近ではない。もっと昔。そう、あの事件が起きるよりも前。
「我々も、貴様が斬首台に火を放つまでは何の不信感も抱かずにいた。だがアムレットの衣服を着た者がわざわざヘクセライを使うだろうか、と思って様子を見てみたらこの有様だ。まったく自分が情けなくなる」
黒ずきん達は全員が攻撃の構えをした。腕を前に出し、今にも魔法を使いそうだ。ゼーレは目を瞑った。もう助かる見込みはない。そして黒ずきん達が魔法を使う音だけが耳に入った。
だが突然、目を瞑っているはずのゼーレの視界が明るくなり、次いでバチバチという何かが弾けるような音がした。ゼーレが恐る恐る目を開けると、雷がゼーレの周りを取り囲んでおり、それが黒ずきん達の攻撃を防いでいた。ゼーレは困惑した。黄ずきんでゼーレ達を助けるようなハオベに心当たりはない。だが次に聞こえた声で、ゼーレはそのハオベが誰かを理解した。
「まったク、噂に違わずおもしろい奴のようですネ、君は」
少し訛りのある話し方。黄色の髪に黄色の目。これが背の低いハオベなら希望ではなくて絶望を抱いただろう。だが今ゼーレの視界に映っているのは長身な男だ。
「シュテルン!」
ゼーレが呼び掛けた相手は、二人のちょうど真上に浮かんでいた。黒ずきん五人を前にしても、まったく緊張感を見せていない。その余裕はどこかヴォルフに似ている所があると、ゼーレはそう思った。
「誰だ、貴様は!?」
黒ずきんの男はシュテルンに向かって叫んだ。まさかこの状況下で助けが来るとは思うまい。それはゼーレも同じだった。
「人に名前を尋ねる時ハ、自分から名乗るべきだと僕は思いますよ。まア、君らの事なんかどうでもいいから構わないですけどね。僕の名前ハ、シュテルン。ただノ、通りすがりの黄ずきんです」
穏やかな声で丁寧な口調で話しているが、明らかに敵意を見せている。黒ずきん達の方も、別に本当に名前を知りたかったわけではない。どうせ殺そうと思っているのだから。シュテルンが話し終わるか否かという間で、黒ずきん達はシュテルンの方に向かっていった。手には黒いものが溜められている。
「どうセ、君らとはまた戦うことになるでしょうかラ、この戦いはお預けにしましょうか。その時は弱っている所を襲おうなんテ、そんな姑息な真似はしないで頂きたいですけどね」
シュテルンは両手で球を持つような構えを取り、目を瞑った。シュテルンがそうしている間にも、黒ずきん達は刻々と近付いてきている。
「我々がこの好機を逃すと思うか!」
黒ずきんは魔法を溜めた腕を前に突き出そうとした。それとほぼ同時に、シュテルンは目を見開いた。その目には、先程までの穏やかな瞳ではなく、確固たる意志と殺意の込められた瞳があった。
「光風霽月……」
シュテルンがそう呟いた瞬間、構えていた手の先が一瞬閃光を発した。黒ずきんは突然の光に目を瞑ったが、その時はただの目くらましにしか思わなかっただろう。
「それが上手くいってしまうかラ、世の中はつまらないんですよね」
シュテルンはその技を放った直後、地面に下りてゼーレらを守っていた雷の壁を解いた。
「え? あいつら、あれでいいの?」
ゼーレもただの目くらましとしか思っていなかったため、シュテルンに確認した。いくらシュテルンが加勢したと言っても、今のヴォルフはただの的だ。立ち所にやられてしまう。
「大丈夫ですよ。光風霽月は相手に幻覚を見せるヘクセライです。今ごロ、彼らは恐ろしい夢を見ているでしょう。ですかラ、今のうちに逃げましょう」
ゼーレはシュテルンにそう言われて、よく分からないまま頷いた。幻覚系の魔法や封印系の魔法は、発動に色々と付加条件があったはずだ。ゼーレはそんな事も考えたが、今はとりあえずこの場を離れるべきだと思い、シュテルンに従った。シュテルンは朱雀でヴォルフの身体を浮かせると、町とは逆の方向へ進もうとした。
「伏せて!」
だが突然シュテルンは叫び、ゼーレの頭をぐいと押した。ゼーレは何がなんだか分からず、少し怒った感じでシュテルンを見上げた。するとシュテルンは後方を、先程と同じくらいに険しい目付きで見据えている。よく見るとシュテルンの頬が僅かに切れている。
「あなタ、人間ですよね?」
ゼーレはシュテルンの向いている方を見た。そこには唯一人間である男が剣を構えている。シュテルンと剣を構えた人間との距離は、とても剣の刃が届く距離ではない。なのに人間の攻撃が、飛び道具を持たない人間の攻撃がシュテルンに届く道理などない。
「なるほド、あなたはペルレの人間のようだ」
ゼーレにもそのペルレという単語は聞き覚えがあった。確か、はるか東にある島国の名前だ。そこの人間は全て黒髪に黒眼、そしてペルレの鍛冶の技術はエルデの最高峰であるという。刀にベーゼアガイストを組み込む事で人間でも魔法を使えるように出来るのだ。だがその剣技の修得は達人でも数年を有するという。そして今ゼーレらの目の前にいるのが、その達人級の剣技を扱う人間なのだ。
「僕の攻撃をかわすとハ、少なくともそこの黒ずきん達よりは強いようですね。ですガ、先程も言ったように今はあなたの相手をしている暇はありません。ここハ、見逃してもらえないでしょうか?」
シュテルンは丁寧な口調で相手の男に頼んだ。少しの間緊迫した空気が流れたが、男は静かに構えた剣を下ろした。
「確かニ。此の状況下に於いての戦いハ、無益な物と成りそうダ。此は退かせてもらおうカ」
そう言うと、その男は未だに幻覚を見ている黒ずきん達を置いてどこかに行ってしまった。どうやら黒ずきん達とは違う思惑があるようだ。
とりあえず難から逃れた三人は、隣りの町の宿で休息を取ることにした。少なくともゼーレはヴォルフが良くならないと、身動きが出来ない。この町はある程度の活気だけがあった。こういう町を平和というのだろうか。
「あなた、どうしてフェアウアタイルングにいたの?」
ヴォルフを寝台に寝かせ、椅子に座って向き合った状態でゼーレは話し始めた。ゼーレの関心事はまずそれだった。数日前にその町を離れたばかりなのに、あまりに頃合よくゼーレ達の危機に居合わせた。恣意的だと思わせるほどに。
「実はですネ、僕はあの町が恐怖政治をしている事を知ってたんです。そしテ、そこにハイリゲ様の娘であるあなたがいることも。一回目にあの町を訪れて君に会ったのハ、ただの警告でした。ですがあの町が白ずきん狩りを始めた時ニ、ハイリゲ様に君を助けるように言われましてネ、それで駆け付けた時にはあの状態だったというわけですよ」
ゼーレは今のシュテルンの言葉を聞いて、すごく嬉しくなった。ゼーレの父が生きていて、しかもゼーレを助けるように計らったのだ。
「嘘だな……」
ゼーレとシュテルンはその言葉を聞いてはっとした。そして寝台の方を振り向いた。ヴォルフは目を開けてシュテルンの方を睨みつけている。ヴォルフは横になったまま話し続けた。
「何が嘘かは知らないが、少なくともお前の言葉には嘘がある」
先程まであんなにぐったりしていたというのに、もう普通に会話をしている。その事だけでも充分に驚きに値するのに、その上今の会話をしっかり聞いていたのだ。いつから意識があったのか、予想がつかない。
「一体何を根拠ニ、僕が嘘をついていると?」
シュテルンは少し笑みを見せながら、ヴォルフの方に向き直った。
「今の話、お前がフェアウアタイルングの実態を知っていて、尚且つこいつの父の事も知っていたのなら、何故その一回目で助けなかった? 町が狂気に化すことくらい容易に想像出来ただろうに」
ヴォルフは少し息を荒げながら、上体を起こした。ゼーレはこの状況を黙って見ている事しか出来ない。
「やれやレ、どうやら僕は信頼されてないみたいですね。それはやはリ、ゲルプのせいでしょうか?」
シュテルンの口からその名が出た時、部屋に一瞬緊張が走った。それは確かに、ヴォルフがシュテルンを信じ切れない理由の一つではある。だが今のヴォルフは、シュテルンが口にするまでゲルプの事など忘れていた。逆にシュテルンが口走った事で、余計にシュテルンへの嫌疑の念が強まった。
「そういや、そんな事もあったな。今お前に聞きたい事の二つの内の一つだ。お前とゲルプは今どういう関係にある?」
ヴォルフの質問に、シュテルンは大して嫌そうにせず、それでも呆れたように話し始めた。
「どうと言われましてモ、今も昔もゲルプとは兄弟ですよ。僕らはネ、東の方ノ、ペルレの近くの生まれなんです。そのせいもあっテ、少し訛りがあるんですけどね。たダ、六年位前の事ですガ、この辺りに家族で旅行に来ていた時ニ、僕らが滞在していた町が急に消滅してしまったんですよ。その時両親は死ニ、僕ら兄弟も離れ離れになってしまったんです。そして僕はハイリゲ様ニ、ゲルプはヴァイゼーに拾われたんです。心当たりがありますよネ、ヴェーア・ヴォルフ?」
ヴォルフは顔色を悪くして俯いていた。どういう事なのかゼーレにはさっぱりだった。町の消滅とヴォルフと一体何の関係があるのだろうか。ヴォルフが黙ったままでいると、シュテルンは短い嘆息をついた。
「別ニ、気にしないで下さい。僕は君を恨んでいるわけではありません。むしロ、恨んでいるのはその原因を作ったヴァイゼーの方です。それデ、もう一つの質問は何ですか?」
ヴォルフは直ぐに顔を上げた。今さら過去を悔いても何も変わりはしない。それに、ゲルプはともかくとしてシュテルンはヴォルフのことを許しているのだ。ヴォルフは先程と同じ調子で切り出した。
「今こいつの父親、ハイリゲはどこにいる?」
ヴォルフはゼーレの依頼を果たすためにもこの質問をした。だがその真意としては、ヴァイゼーが生きていると分かった以上、ヴァイゼーの情報も得ておきたい。そしてそれをするのに手っ取り早いのが、かつての研究仲間だったハイリゲに話を聞くことなのだ。
「――まア、別にいいですけどね。ハイリゲ様は今ヴァイゼーにその身を追われています。そして身体的にモ、幾分難を抱えています。ですかラ、接触する際もあまり人目に立たないようにしてくださいね。彼は今フライシュタートにいます」
フライシュタートと言えば、エルデの中でもかなり大きな町、ある種都市国家と化している巨大な町だ。そのような人目の多い場所に、人目を忍ぶべきハオベがいて大丈夫なのだろうか。それとも木を隠すなら森、という事なのだろうか。
シュテルンは未だにシュテルンを睨み続けているヴォルフを見ていた。少し間を空けた後、静かに椅子から立ち上がった。
「さてト、僕はあまり歓迎されないようなのデ、ここら辺でお暇させてもらいましょうかね」
シュテルンは立ち上がり、ヴォルフのもとへと近付いた。
「紫電一閃」
シュテルンはそう言って雷の剣を実体化させた後、それをヴォルフの首元に突き付けた。
「忘れないで下さいね。今の君らハ、圧倒的に弱い立場にあるという事を」
威圧を込めて放たれたその言葉で、一瞬にして部屋に緊張が走った。ゼーレはおどおどしながら二人の様子を見ていた。止めた方がいいのか、止められるのか、など様々な思考が浮かんでは消えていた。ヴォルフは一瞬口元を緩めた後、こちらも剣を実体化させて、自分の後方に刃を向けた。
「なめんなよ。俺らがあの町に入った時から、お前が俺達を監視していた事に気付いていないとでも思ってたのか? そうでもなけりゃ、あの丘で起きた事をお前が知るはずもないからな」
ヴォルフは、正面にいるシュテルンを見据えながらも、その意識は明らかに後方に向けられている。すると、今まで見えていたシュテルンの姿が消え、ヴォルフの後方に再びシュテルンが現れた。
「まったク、本当におもしろい奴ですヨ、君は」
シュテルンはそう言うと、雷の刀を納めて宿の出口へと歩いていった。
シュテルンがいなくなった後、ヴォルフは直ぐに寝台に臥した。息が大分上がっている。
「さっきまであんなに弱っていたのに、何で……」
ゼーレはヴォルフの元に駆け寄りながらそう聞こうとし、ヴォルフの手の中にベーゼアガイストが握られているのを見た。手はひどく汗ばんでいて、少し火傷の痕も見られる。
「俺はな……、体力の回復は早いが、ツァオバーはまた別問題なんだ」
ヴォルフはそれを言ったきり、深い眠りに落ちた。ゼーレは静かにそれを見守った。次の目的地が分かったのだ。それだけでも今は充分な成果と言えるだろう。失ったモノも確かにあったが、それ以上に得たモノもあると、ゼーレは信じていた。
次に向かうことになる町、フライシュタートまではここからだと大分距離がある。そこに行くまでにいくつか途中の町に寄ることになるだろう。今のゼーレには先の明るい希望しか目に映っていなかった。
第四章
~周章狼狽~
ヴォルフの魔力が回復するのを待ち、二日。それでも一般のハオベと比べたらかなり早い。二人は、ゼーレの父親であるハイリゲがいるというフライシュタートに向けて出発した。方角的には北西になるが、何しろ距離がある。とても一日や二日で行ける距離ではない。二人は歩きながら、この日に寄る町の話をしていた。もう二日は野宿しているので、そろそろ柔らかい寝台で眠りたい。しかも食料も確保しなければならない。
「ここからだと――そうね、チゴイネルワイゼンが近いかしら。隣りにもう一つ町があるわ」
地図を広げながらゼーレはそう言った。ヴォルフはその町の名を聞くと、少し考え事を始めた。どこかで聞いた事のある名前だ。ヴォルフはその名前から連想される嫌な感じの原因を思い出そうとしていた。ゼーレはヴォルフが真剣な顔付きになっているのに気付いた。
「どうかした? ヴォルフ?」
ゼーレがそう尋ねたので、ヴォルフは曖昧に頷いた。自分で考えるよりは二人の方が、と思ったヴォルフはゼーレに自分の求めようとしている何かを尋ねた。
「チゴイネルワイゼンって何かで有名な町か?」
ゼーレは少し空を見た後、直ぐに思い出したようにヴォルフの顔を見た。
「大聖堂があるわ。というか、大聖堂から町が出来たって感じの町よ」
ヴォルフはその事を聞いて身が強張った。記憶の奥底から一瞬にして沸き上がってくる、その町の情報、その光景。ヴォルフにはまだ確認しなければならない事がある。
「そ、その町は何教だ?」
「アルマハト教よ。ほら、あなたの形見の首飾りと同じ」
ヴォルフは動悸するのを感じた。二つの拍動がヴォルフの身体を刺激する。虞と恐怖。二つの似た感情が無意識の内にヴォルフの中で大きくなっていく。前者は抑えようと、後者は抵抗しようとしている。ヴォルフには結果が殆ど見えていた。避けねばならない、最悪の結果が。
「悪い。俺、その町に行けない。お前はチゴイネルワイゼンに泊まっていいから、俺は隣り町まで行く」
ゼーレは、ヴォルフの明らかな動揺が気に掛かった。大聖堂に何か問題があるのだろうか。この雰囲気ではその話題に触れていけないような気がして、ゼーレはヴォルフの提案に肯定することにした。
「ヴォルフがそう言うならいいけど、チゴイネルワイゼンの方が大きくて豪華よ? 隣り町もそれなりに大きいけど……」
「いいんだ」
ヴォルフは即答した。まだゼーレの言葉は終わっていない。ヴォルフはそれから急に不機嫌になってしまった。冷汗をかいている。何かに苛立っているようにも、何かを恐れているようにも見える。ゼーレは嫌な予感がした。
しばらく歩いていると、突然数人のハオベが二人を取り囲んだ。朱雀で浮きながら、かなり慣れた動きであっという間に囲まれてしまった。ゼーレはそのハオベ達を見、次いでヴォルフの顔を見た。下を向いたままで、表情が見えない。
「お前ら、ヴェーア・ヴォルフとエンゲル・ゼーレだな?」
ゼーレはその言葉にぴくりと反応した。このハオベ達が賞金を狙う狩人だとしたら、手配書にはゼーレの姓は記されていない。つまりエンゲルの名を知る術がないのだ。では一体何者なのか。ハオベは六人。赤二人、青二人、黄一人、黒一人。それぞれが一色の髪の色だ。ゼーレは身構えたが、ゼーレには戦う力は殆どない。保守するのが精一杯だ。いや、それすらも敵わない可能性がある。
「我等が組織、フォルブルートの障害となり得るものは排除する」
一人がそう言うと、六人全員が一斉に戦闘態勢をとった。ゼーレも身構えはしたが、勝ち目などないと同義だ。その時、ヴォルフが何か呟いているのに気が付いた。
「……きに……っくからな」
ゼーレにすら聞き取れない、もはや声とは言い難い音を、その男達も聞いたらしい。少しだが互いに顔を見合わせた。
「貴様、今何と言った?」
男がそう言うと、ヴォルフは顔を上げてハオベ達を睨み付けた。その瞳には殺気が満ちている。だがその殺気はゲルプとの戦いの最中に見せた殺気とは違う。あの時はただ純粋な殺気。目の前の敵の排除のみが占める殺気。だが今回は虞の混じる殺気。あの時の殺気を恐れるが故に現れる、そんな殺気。
「先に言っとくからな……。俺は今壮絶に機嫌が悪い」
ヴォルフはそう言うと、手を広げた。対峙するハオベは、その異様なまでの殺気に気圧されながらも、直ぐに攻撃を始めた。四方から、それぞれの属性の球が迫る。
「豪華絢爛」
ヴォルフがそう呟いて腕を横に振ると、きらびやかな炎がヴォルフを中心にして広がった。色の形容の仕様がない。ただ綺麗としかいいようがない。ヴォルフの炎はハオベ達の攻撃を相殺していった。
「千紫万紅」
次いでヴォルフがそう呟くと、空から赤いものが見え始めた。ハオベ達は先程の攻撃を凌ぎ、剣を実体化させた。基本的に、青龍ならば白虎の攻撃に打ち勝てる。そしてこの者達は完全に青龍を使いこなしている。少なくとも、アンファングで戦った連中よりは強いということになる。
空に見えていた赤いものは炎となって地に降り注いだ。ハオベ達はそれを懸命に振り払っていく。この時ハオベ達はおかしな事に気付いた。たしかに青龍の方が強い。事実こうしてヴォルフの攻撃を凌ぐことに成功している。なのに、剣を握る手の痺れは何なのだろうか。まるで超重量のものを剣で切り裂いているようだ。ハオベ達はこの時、自分らがヴォルフの実力を見誤っていることに気付いた。とてもフォルブルートの下の者の手に負える相手ではない。
六人の中で一番権力のある者はそう判断し、一時撤退することを決めた。それぞれに合図して、雲散霧消を使った。途端に姿が見えなくなり、気配は遠ざかっていった。
「逃げられると思うなよ……。竜驤虎視」
ヴォルフがそう言って目を見開くと、瞳孔が開き、充血しきった目をしている。今のヴォルフには、雲散霧消で姿を消しているハオベの姿がはっきりと見えている。そしてヴォルフは再び手を構えた。
「星火燎原」
淡々とそう言うと、空から数え切れないほどの数の流星が降ってきた。そして、普通の人から見たら何もない所へと降り注いでいく。しかし、一通りの流星群の後には、地面に倒れたハオベ達の姿があった。
「とんだ時間の無駄だったな……。行くぞ」
ヴォルフはそう言うと、一人ですたすたと歩き始めた。事の始終を見ていたゼーレは何も言えずに、ヴォルフのあとを追った。
「フォルブルートか……。また面倒そうな奴らが現れたな」
ヴォルフはフォルブルートという名に心当たりはなかった。命を狙われる事には慣れているが、こうも立て続けに事が起きると、そろそろ懐疑の念も働いてくる。何かが大きく動こうとしているのではないか、と。
チゴイネルワイゼンの町影が見える辺りまでやって来て、ヴォルフは自分の悪い予感が当たったことを実感した。この位置からでも、町から巨大な建造物が、大聖堂が聳え立っているのが分かる。ヴォルフの胸は激しく脈打った。風が気持ち悪い。
「じゃあ、俺は隣り町に行くからな」
ヴォルフはそう言うとゼーレと別れた。ゼーレはヴォルフが歩いていくのを不安そうな目で見送った。
チゴイネルワイゼンの町から遠ざかったというのに、未だにヴォルフの胸は高鳴ったままだ。ヴォルフは決して自分の判断が間違っていたとは思わない。命を狙われている状況でゼーレと別行動を取るのは危険を増やすだけだが、それでもあのままゼーレと一緒にチゴイネルワイゼンに行っていたら更にひどい事になっていただろう。
しばらく歩き、隣り町が見えてきた時には、流石にヴォルフも安堵した。これで何事もなく済むと。だがヴォルフの期待は大きく裏切られる事になる。ヴォルフの目に、チゴイネルワイゼンよりは遥かに小さいが、聖堂が映ったからだ。しかもその聖堂の刻印が示すものは、アルマハト教。そして当然、白ずきんの姿もある。ヴォルフの顔は一気に青ざめた。
ゼーレはチゴイネルワイゼンに向かいながらも、ヴォルフの様子がおかしかった理由を考えていた。チゴイネルワイゼンがアルマハト教であることを知ってからというもの、ヴォルフは冷汗をかき、只管にそこに行くことを拒んだ。そして言った一言。
『行けない』
行きたくない、でも、行かない、でもなく、行けない。ゼーレにはこの言葉の真意が掴めなかった。
ヴォルフは一体何を恐れていたのだろうか。ゼーレに対しても、その危険、ないしは危惧していることが起きるというのなら、ゼーレ一人でこの町に来させはしないだろう。だとすると、考えられる事はヴォルフが個人的にチゴイネルワイゼンに行けない理由があるという事だ。そしてその主な原因となっているのが、恐らくはアルマハト教。ゼーレはそこまで考えてはっとした。ヴォルフに言い忘れていた事がある。
「そうよ、あの町にも聖堂が――アルマハト教の聖堂がある……!」
ゼーレは自分でも気付かぬ内に走っていた。動悸が激しくなる。嫌な予感と恐い感じがする。ゼーレは走る速度を速めた。
ゼーレは急いだ。移動手段としてこの時初めて魔法を使った。
「烏兎惣惣!」
ゼーレの足下がふと明るくなった瞬間、ゼーレの姿は消えていた。魔法の鍛練を殆ど積んでいないゼーレでは、魔法の威力や効力はあまり望めたものではないが、それでも全速力で走るよりは大分速い。
そして直ぐに何かが見えてきた。町と呼ぶには異形な、そして自然の物と呼ぶにも異形なモノがゼーレの目に映る。
その光景を目にした瞬間、ゼーレの記憶の深い所から、一番思い出したくない記憶が唐突に思い出された。あの時の光景が脳裏に浮かび、決して離れない。
僕はあの時の出来事を決して忘れなかった。あの時学校の授業中にハオベがユーベル先生を、エーヴィヒだったユーベル先生を殺した時の事を。
あれ以来、僕の興味の対象は、ハオベよりもエーヴィヒの方に傾いていた。世界の表舞台に出てこない、存在を許されないもの。あの赤ずきんはそう言っていた。
僕は今旅行中で、家族と一緒にチゴイネルワイゼンに向かう途中の町に滞在している。もとはと言えばこの旅行も、僕がハオベの事とエーヴィヒの事をより知りたかったから両親に提案したものだ。そしてこれまでの旅でそれに見合うだけの情報を得た。
今エルデには混乱が生じ始めていて、そして混沌へと変貌しようとしている事。
その中核にいるのがヤーヴェ教の信者達だという事。
それの対抗組織としてフォルブルート達が暗躍しているという事。
エーヴィヒはヤーヴェ教信者の目的遂行の途中段階の産物に過ぎない事。
そして真の黒幕がまだいるらしいという事。
一般人がこれだけの情報を握っていれば、命を狙われかねない。だが僕はそれを覚悟で近付いた。いずれはエルデの真実をも掴みたい。
僕が町を歩いていると、見覚えのある人を見掛けた。
あの時と変わらない服装。
あの時と変わらない風貌。
あの時と変わらない雰囲気。
僕は胸が高鳴った。あのハオベがいるという事は、この町にエーヴィヒがいるという事だろうか。僕は、その白髪と黒髪のハオベに少し近付いてみて、違和感を覚えた。まだ距離があるためはっきりと見えているわけではない。だがそれは違和感というよりは異変と言った方が適当かもしれない。急に寒気がし始めたのだ。
「何……これ?」
寒気だけではない。空気がピリピリとして、肌に痛い。僕は自分の腕を見た後で、顔を上げた。あのハオベが、頭を抱え込むようにして苦しんでいる。いや、そういうよりはむしろ、何かに抵抗している。時間が経つにつれて、寒気と肌の痛みは増すばかりだ。
そして、何かが弾けた。
感覚ではない。確かに、何かが弾けたような、割れたような音が聞こえたのだ。僕は足がすくみながらも、ハオベを凝視した。様子がおかしい。もう何かに抵抗するような素振りはない。むしろ、何かから解放されたような、そんな感じだ。それでいて、辺りに発する禍々しさは生半可なものではない。そのハオベは青い空に向けて大きく咆哮した。その姿は、人と言うよりもハオベと言うよりも、獣のそれだった。
咆哮が辺りに響いたかと思うと、次には冷気が、と言うよりも寒さそのものが町を走った。その直後、僕は信じられない光景を目にした。何か結晶のようなものが、あのハオベを中心に地面から湧き上がってくるのだ。それは凄まじい速さで次第に僕の方にも迫ってきた。そして、僕の右肩を貫いた。
なぜかその時僕の頭は冷静だった。痛みは感じない。冷たさで感覚が麻痺したような、そんな微妙に心地よい感じがする。だが次第に意識が薄らいでいった。僕を貫く結晶は、僕の体温を急速に奪っていく。そして目の前が真っ暗になった。
ゼーレはその町の前で立ち尽くしていた。過去の傷に触れるような気がして、これ以上一歩も前に進めない。美しすぎる目の前のそれ。結晶で出来た宮殿。それが一番これを形容するには相応しい。ゼーレは息を呑み、やっとの思いで足を一歩進めた。だが足を一歩進める毎に胃がねじ切れそうな感覚に襲われる。数歩進んでは鳴咽を漏らす。
かなりの時間を掛けて、ゼーレはやっと町の中に――ここでは宮殿の中にと言った方がいいかもしれないが――入った。そして直ぐに惨状が目に入る。町中にそびえ立つ氷の結晶。結晶の先に刺さっている人。人だった物体。外見はあれほど美しいのに、中はこんなにも血に塗れている。だが氷の透明さと血の鮮やかな朱色は、お互いを映えさせていた。むしろこちらの方が美しい。
「どうして、こんな……」
ゼーレは胸が締め付けられる思いがした。あの時と全く同じ光景が目の前に広がる。ゼーレが心の奥底で封じていた記憶の扉を無理矢理にこじ開けてくる。
あの時にはただ絶望だけがそこに存在していた。胸、腕、首を貫かれた母の姿。今まで優しくしてくれていた母の仲間達もまた同様に、その体を血で染めていた。そして父は行方知れず。あの日あの時、ゼーレは一瞬にして全てを奪われた。
だが幸いにも今回は違った。建前に過ぎないが、この町にはゼーレの知り合いはいない。所詮は赤の他人。そしてゼーレの唯一の希望は、そこにある。
「ヴォルフ!」
ゼーレは氷の宮殿のほぼ中央で倒れているヴォルフを見つけた。ゼーレの心に微かに光が宿る。ゼーレはヴォルフのもとに駆け寄った。身体中から冷気が溢れているが、外傷は特に見受けられない。
「ヴォルフ、一体何があったの? あなたがこんなになるなんて」
ゼーレはただ声をかけ続けた。まだ目を覚まさないヴォルフに、ゼーレは嫌な予感をせざるをえなかったが、それでも光を消したくはなかった。それはヴォルフのためというよりは、自分のためだった。
しばらくの後、ようやく目を開けたヴォルフの瞳を見て、ゼーレは驚いた。普段ならば鮮やかな赤と青の眼。だが今は赤紫と青の眼。瞳の色が変わるなんてことは、普通有り得ない。ハオベにおいて瞳の色は魔法の属性を表す。有り得ない事を有り得るように考えるならば、つまりヴォルフの属性が変わったという事になる。確かにゼーレには思い当たる節がいくつかある。
「ヴォルフ、あなた一体……」
ゼーレはヴォルフの正体と言うべきか、ヴォルフの持つ秘密について考えていたが、直ぐに現状に意識が戻った。ヴォルフに外傷はないが、とても自力で動けるようには見えない。心的な傷ではなく、むしろ疲労に近い印象だ。
「と、とにかくチゴイネルワイゼンへ」
ゼーレは朱雀を使ってヴォルフを浮かした。だがその時、ヴォルフの手が力無くゼーレの腕を掴んだ。
「ダメだ……。ここでいい……」
ゼーレにはヴォルフの真意は分からなかったが、最初からチゴイネルワイゼンに行くことを拒絶していたヴォルフなので、何となく納得は出来た。だがここといっても、危険があるのは変わらない。町を一瞬にして氷の結晶へと変えてしまった何かがいるかもしれないのだ。
「でもここじゃあ危ないわ」
ゼーレはそれでもヴォルフをどこかしらに移動しようとしたが、ゼーレの腕を掴むヴォルフは力を緩めず、わずかに厳しい視線をゼーレに向けている。ゼーレはヴォルフの瞳が完全に赤と青になっているのを見て、ヴォルフの言う通りにした。もしヴォルフの容態が疲労だというのなら、治りは早いはずだ。前にヴォルフはそう言っていた。
ゼーレはとりあえず防寒具と食料を確保するために一度チゴイネルワイゼンに戻った。ヴォルフの様子が心配ではあるが、魔法は使わなかった。歩いて行って戻っても、陽が暮れるまでには戻れるはずだ。
チゴイネルワイゼンでは既に、隣り町が壊滅したという情報が入っていた。そのためかなり騒がしくなっている。ゼーレはそんな喧騒を尻目に、必要な物資を買って直ぐに戻った。救援の人が来れば、ヴォルフも発見されて確実にチゴイネルワイゼンに連れられてしまう。それは避けねばならない。
急いだ甲斐あってか、ゼーレが壊滅した町に着いても、まだ町には誰も来ていなかった。それも当然かもしれない。町を壊滅させたものの正体が分からない以上、迂濶に近づくことは出来ない。ゼーレはヴォルフに近づいて、毛布をかけてやった。ゼーレはヴォルフの隣に座り込んだ。まだ頭が混乱している。
「お前は……」
ヴォルフが何か言い始めたので、ゼーレは頭を切り替えてヴォルフの言葉に意識を集中させた。
「ん? 何?」
ヴォルフの声は頼りない程に小さく、聞き取りにくい。
「カプーツェの昔話を……知ってるか?」
唐突に現れたカプーツェという名前。だがハオベであるならその名を知らぬ者はいない。
「ハオベの創造主、偉大なる大賢人、白ずきんのカプーツェの事?」
ゼーレが聞き返すと、ヴォルフは力無く頷いた。
「そうだ。俗に『赤ずきん』の名で知られている、今では童話になってしまった話だ……」
ゼーレも赤ずきんという話なら知っている。ハオベに限らず、人間でもこの童話は幼い頃に親から聞かされる。だがゼーレは、それがカプーツェと関連があるという話は聞いたことがなかった。なのでゼーレは首を横に振った。ヴォルフがどうして今この話をするのか、その理由も知りたい。
「そうか……」
ヴォルフはそう言うと、静かに語り始めた。ほとんどの人が知らない、赤ずきんの真の姿を。
第五章
~閑話休題~
昔々、エルデの世界のある森におばあさんが住んでいました。その森は町のはずれにあり、滅多に人が入らない森でした。人が森を避ける理由の一つは、もちろん森に出る獣を恐れたからなのですが、もう一つの理由は、人々がそのおばあさんを恐れていたからです。おばあさんは魔法使いでした。エルデに存在するただ一人の魔女でした。おばあさんは人々が自分を恐れているのを知っていました。だから五十年もの間、ずっと独りで森の奥の木の小屋で細々と暮らしていました。決して淋しくないわけではありません。ただ自分の存在が人々に不安を植え付けてしまうのなら、その禍根は自分で処理しようと決めたのです。
おばあさんは編み物が得意でした。日中何もする事がない時にはいつも何かを編んでいました。そしていつの間にか、おばあさんの家には赤、青、黄、白、そして黒のずきんが揃っていました。おばあさんは出来上がったその五色のずきんを眺めて、とても物哀しくなりました。いくらずきんを編んでも、被ってくれる人がいないのです。おばあさんはこの森に独りだからと思い、そのずきんに魔法をかけました。
『私にお友達を作ってくださいな』
ずきんはぴくりとも動きません。おばあさんはさらに落ち込んでしまいました。充分に年を取ってしまったから、魔力が無くなってしまったものだと思いこみました。そしておばあさんは二度とずきんを編まなくなったのです。
少し日数が経過した頃、おばあさんの家の戸を強く叩く音がしました。おばあさんは人の来訪を珍しく思い、少し嬉しく思いながらドアを開けました。
「どなたですか? ……おや。お嬢ちゃん、どうかしたのかい?」
そこに立っていたのは、まだ八歳位の御下げをした女の子でした。手には籠を持ち、両手を顔の所に持ってきてめそめそと泣いていました。おばあさんが理由を聞こうとしても、その子は泣き止みません。おばあさんはとりあえず女の子を家の中に入れて、泣き止むのを待ちました。しかししばらく待っても、女の子は一向に泣き止みません。泣いているのを見兼ねたおばあさんは、壁に掛けておいたずきんの一つを、女の子によく似合った『赤いずきん』を被せてあげました。すると女の子は次第に泣き止んでいきました。おばあさんが改めて理由を聞くと、女の子は今度はきちんと答えてくれました。
「お母さんにおつかいを頼まれて隣町まで行ったんだけど、早く帰りたくて、通っちゃダメって言われてたこの森を通ろうとしたの。そしたら道に迷っちゃって、そうしてこの森の魔法使いのお話しを思い出したら怖くなっちゃって。泣きながら歩いてたらおばあさんの家を見つけたの」
おばあさんはその話を聞いて少し悲しくなりました。この森に暮らし始めてから、いやそれよりもずっと前、おばあさんがまだ子供の時に一回だけ使って以来、おばあさんは人前では魔法を一切使ってません。それなのに、たった一度だけ魔法を使っただけで、おばあさんは恐ろしい魔女としてこの森に封じられてしまったのです。そしてこの女の子はその恐ろしい魔女の住む家に来てしまいました。おばあさんが少し暗い顔をしているのを見た女の子は、おばあさんが何者かも知らずに、物怖じせず元気な声で話し掛けてきました。
「おばあさんはどうしてこの森に住んでいるの? この森には恐い魔女がいるって皆言ってるよ。おばあさんも早く逃げようよ」
おばあさんは答えに窮してしまいました。その恐い魔女が、おばあさん本人なのですから。この女の子に本当の事を打ち明けてもいいかどうか、おばあさんは悩みました。もし本当の事を話して女の子が怯えてしまったら、折角出会えた人との繋がりがまた途絶えてしまいます。でも、ここで嘘をついてしまっては、いつか女の子が本当の事を知った時に、この女の子を余計に怖がらせてしまうかもしれません。それに、人をずっと騙し続けるなんてことはおばあさんには出来ません。なのでおばあさんは少し遠回りな方法でも、本当の事を伝えることにしました。
「お嬢ちゃんはその魔女が怖いのかい?」
これで怖くないと言えば話せばいいし、怖いと言えば今すぐ帰せばいい。それがこの子にしてあげられる唯一の優しさだとおばあさんは思いました。ところが、この女の子は少し困ったような顔をしています。怖いか怖くないかを答えるのに、迷うことなどありません。おばあさんは少し焦りました。もしかしたら今の質問で自分が魔女だと感づいたのではないか、と思ったのです。女の子は少し迷いながら話し始めました。
「うーんとね、お母さんの話を聞くとすごく怖いって思うんだけど、私が実際に会ったわけじゃないから、よく分かんないの」
子供は汚れを知らないものです。何も書かれていない真っ白な紙を持っているから、殆どの子供は親や他人の言葉をほぼ言葉通りに飲み込みます。ですがこの女の子は、聞いた事は所詮参考に過ぎず、自分で実際に見て初めて判断をする、という考えを無意識の内に持っています。真っ直ぐな眼で、真っ直ぐ物を見て、そうして判断する心を持っています。おばあさんは困ってしまいました。仮に今ここで本当の事を言っても、女の子は判断しかねます。女の子の心に迷いを作ってしまいます。おばあさんはどうにもこうにも続きを言う事が出来なかったので、何とか女の子の質問に上手く答えられるようにしました。
「おばあさんはね、ここである人を待っているの。だから怖くてもここで待っているんだよ」
おばあさんが言った事は決して間違いではありませんでした。ですが具体性に欠けるその答えに女の子は満足しませんでした。当然女の子はさらに問い詰めてきます。おばあさんはこれに困り果て、ちらと外の様子を見ました。もう空は少しずつ赤み始めています。だからおばあさんはこれを口実に、今日は一端帰ってもらうことにしました。
「お嬢ちゃん、もう暗くなるよ。今日はもうお帰り?」
女の子は外の様子とおばあさんの顔を見比べて、少し残念そうな顔をしました。女の子はおばあさんに森の出口を教えてもらうと、別れを惜しみながら出ていきました。こうしておばあさんはまた独りきりになってしまいました。空はどんどん暗くなっていきます。おばあさんは久しぶりに胸の痛みを感じました。別れ、という人生の常に心が痛みます。おばあさんの目からは、自然と涙が零れました。明日からまた独り。おばあさんにとって、この日ほど夜が長くつらく感じた事はありませんでした。
翌日、おばあさんは鳥の鳴き声とともに目を覚ましました。つい昨日のことが、まるで十数年前のことのように感じられます。ですがいつまでもくよくよしてはいられません。おばあさんは朝食の準備を始めました。一人分の朝食を作ることはとても楽です。ですがそれを一人で食べることは決して楽ではありません。おばあさんは食事の手があまり進みません。しかし、そうこうしている間に、また家の戸を叩く音が聞こえました。おばあさんは目元を袖で拭って、立ち上がりました。
「はいはい、どなたですか? ……あら、昨日のお嬢ちゃん。また迷ったの?」
赤いずきんを被った女の子は黙って頷くと、おばあさんの脇を通って家の中に入りました。昨日とは様子が明らかに違っていたので、おばあさんは心配になりました。昨日、この森を通った事を咎められてしまったのかもしれないと思い、おばあさんは女の子にそう聞きました。
「森に入ってしまった事をお母さんに怒られちゃったの?」
ところが、女の子は首を横に振り、違うという事を示した後で、話し始めました。
「ううん、そうじゃないの。お母さんは昨日私がおばあさんと会ったって事は知らないし、話してないもの」
では、とおばあさんはその理由を聞きました。女の子の元気がないのをただ見ている事など、おばあさんには出来ません。胸が締め付けられる思いがします。女の子は決意したようにして顔を上げて話し始めました。顔を上げる勢いで、被っていたずきんが外れました。おばあさんは女の子の顔を見るや、衝撃に襲われました。胸を突く、鋭い痛みを感じたのです。
「今日、目が覚めたら、髪と眼の色が真っ赤になっちゃったの! 昨日からこのずきんも取れなくなっちゃったし……。おばあさん、どうすればいいのかなぁ?」
おばあさんは衝撃のあまり、その場で膝をついてしまいました。自分はつい最近、どんな魔法を使ったでしょうか。誰に、何に使ったでしょうか。おばあさんの頭の中であの時の光景が蘇りました。
『私にお友達を作ってくださいな』
おばあさんはずきんにそう魔法をかけました。そうです、おばあさんが魔法をかけたのはずきんにです。決して女の子にではありません。ではなぜでしょうか。その答えはおばあさん自身、既に分かっていました。おばあさんが本来願ったことは、ずきんがおばあさんの友達になることです。ですがどういうわけか、そのずきんはおばあさんの話し相手、すなわち人を呼び寄せ、そしてその人をおばあさんの友達に、すなわち魔法使いへと変えてしまったのです。おばあさんは声を上げて泣きました。この女の子にどんな言い訳と謝罪が出来ましょうか。自分の独り善がりのわがままのために、これからこの女の子は迫害を受けていくであろう事が容易に想像出来ます。
「どうしたの? おばあさん、どこか痛いの?」
女の子はおばあさんの身体を気遣ってくれました。何も知らない女の子は、ひどく可哀相に見えました。おばあさんは一切のしがらみを捨てて、全てを女の子に話すことに決めました。
「お嬢ちゃん、ごめんなさい。みんなが怖がっているその魔女は、私のことなのよ」
女の子はおばあさんの言葉を理解出来ず、ぽかんとした顔をしました。普通に考えれば、老婦人が森の中で一人で暮らすことなど考えられません。何かしらの理由があるはずだと思うのが当然です。そして森の魔女の噂を聞けば、誰でもこのおばあさんが魔女ではないかと疑うはずです。この女の子でさえも、心の片隅ではそういう考えがあったに違いありません。おばあさんは女の子の言葉を待ちました。次にどんな言葉が返ってくるだろうかと、考えるだけでも胸が痛みます。
「じゃあ……、」
――じゃあ、おばあさんが私の人生を壊したのね。
女の子の言葉よりも先に、おばあさんはそんな言葉を想像していました。下手な慰めよりも、真っ直ぐな言葉で責めてくれた方が、気持ちの整理が出来ます。ですが、女の子はどちらでもない事を言いました。
「じゃあおばあさんはどうすれば元に戻るか、分かるの?」
苦言でも慰めでも同情でもない、とても前向きな言葉が返ってきたため、おばあさんは驚いて顔を上げました。女の子の顔は明るくこそはありませんでしたが、それでもおばあさんを責めるような目はしていません。
「お嬢ちゃんは私を責めないの? 私のせいでお嬢ちゃんはこれからきっと色々辛い目に遭うのよ?」
下手な同情よりも、真っ直ぐな言葉で責めてくれた方が、気持ちが割り切れます。おばあさんには、女の子の真意がまったく分かりません。
「だって、どう見たっておばあさんがわざとやったとは思えないもん。だから、もう過ぎちゃった事はいいの。それよりもこれからどうするか考えるの」
この女の子は自分の容姿を呪うでも、自分の運命を呪うでもなく、ただ先だけを見つめています。先を見つめる事、それはおばあさんには出来ない事でした。どんなに先を見つめても、残りわずかな時間を独りで過ごすしかなく、そんな未来を見続けるなんてことはおばあさんには出来ませんでした。今を見るのがやっとでした。おばあさんはこの女の子の事を感心する一方で、それ以上に申し訳ない気持ちが現れました。
「ごめんなさい。魔法を解くことは出来ないの。一度かかってしまった魔法は、その存在が消えるまで効力を発揮し続けるわ」
女の子の顔は一瞬にして暗くなりました。それもそうでしょう。最後の期待が潰えてしまったのですから。女の子はしばらく難しそうな顔をした後で、何故か急に顔を明るくさせました。当然、おばあさんにはその理由が分かりません。
「私は魔法使いになっちゃったの?」
女の子は明るい顔でおばあさんにそう尋ねました。まだ理由が分からないおばあさんでしたが、その質問に答えることは出来ます。髪の色と瞳の色が変わってしまったのが何よりの証です。
「ええ。どんな魔法が使えるかは分からないけど、確かにあなたは魔法使いになったわ。私と同じ魔法使いにね」
女の子はもはや嬉しそうな顔で何度も頷いています。この期に及んでどんな嬉しいことがありましょうか。この女の子には明らかな未来が見えていないのではないか、とおばあさんには思えました。魔法使いが、まして子供の魔法使いが人間社会に受け入れられるはずもありません。
「ねえ! 私に魔法の使い方を教えて」
やはり、という気持ちが強かったのですが、おばあさんはそれ以上に哀しい気持ちになりました。この女の子がどんな慈善的な活動を行ったとしても、今の世の中ではその魔法は女の子を幸せにはしません。ですが、だからといっておばあさんは女の子の頼みを断れる立場にもありません。どうすべきか悩んだ挙げ句、おばあさんはまずその理由を聞くことにしました。
「お嬢ちゃんはどうして魔法が使えるようになりたいの? 人前で使ったりしたら、私みたいになってしまうよ」
おばあさんは、この女の子に何とか人間として生きて欲しいと切に願いました。それこそが女の子の幸せになると信じていました。ですが女の子の反応は、おばあさんの願いとは真逆でした。
「大丈夫よ。私は魔法を誰かの助けのためにしか使わないもの。それに、おばあさんが怖がられちゃったのは、おばあさんが怖がっちゃったからよ」
おばあさんは女の子の言葉に頓狂な顔をしました。言っていることの意味がよく分かりません。
「怖がった? 私が? 一体何を?」
確かにおばあさんは、人の迫害を怖れました。だから人里から離れたこの小屋で暮らしていました。ですがあのまま人の社会に生きていたとしても、やはり迫害は免れなかったように思えます。だとすればおばあさんが怖がったものが何か、まるで見えません。
「自分をよ。魔法を、魔法を使える自分を、人を、魔法を使えない人を、一人を、一人に怯える自分を、昼を、昼に輝く太陽を、夜を、夜を照らす月を。おばあさんは自分と人が共有出来るものを全て怖がっちゃったのよ。魔法が使えるかどうか、そのほんの小さな違いだけのために。だから人の方もおばあさんを怖がっちゃったのよ」
おばあさんは女の子の言葉に胸を突かれました。今まで心にずっと重くのしかかっていたものが、少し軽くなったような気がします。まだ小さな子供がこれほどまでに人の心を知っていようとは、誰も思いません。おばあさんはこの女の子に、どこか救われたような気がしました。そして顔を穏やかにして、女の子の目を真っ直ぐに見ました。
「……そうね。本当に怖いのは力じゃないものね。本当に怖いのは、その力を使う人の心の中にあるのよね。確かにお嬢ちゃんの言う通りだわ」
もし五十年前にこの事に気付いていたら、おばあさんの人生は大きく変わっていたでしょう。ですが過ぎてしまったものは元には戻りません。だからおばあさんは、残りの余生をこの女の子のために使うことを心に決めました。魔法はいくらでも使うことが出来たのに、今までそれをしなかった自分に、ただ後悔をするばかりでした。そしておばあさんはその後悔を女の子にはしてほしくありません。
「お嬢ちゃん。私の知る全てをあなたに教えましょう」
翌日も、翌々日も、女の子は毎日おばあさんの所へ通いました。始めの内は火の粉が出る程度だった女の子の魔法も、すっかり上達して今では薪に火を起こせる程になりました。ですがそれ以上の上達はありませんでした。どういうわけか、それ以上の魔法が使えないのです。薪に火を起こす程度の魔法では、とても人助けには使えません。状況としては暗いのですが、おばあさんと女の子の顔はとても明るくなっています。先行きの不安よりも今を精一杯に楽しんでいます。今を生き、過去に嘆かないように、二人はいつも笑っていられるように努めています。
ですが、エルデの運命を変えてしまう日は、確実に二人に迫っていました。
女の子はいつもの通り、いつもの道を通っておばあさんの小屋に向かっています。今では道となったここも、最初はただの茂みでした。女の子が毎日通うようになり、点だった足跡がやがて道となったのです。それはまさに女の子の魔法を示すようでした。最初は何もなかったものが、やがてある程度の形を成していくのに酷似しています。ですが、道がやがて道にしかならないように、女の子の魔法にも限界が来ていました。何かが劇的に変わらない限り、道は道のまま、火着けの魔法は火着けの魔法のままです。
女の子がしばらく道を歩き、道のりのおよそ半分まで来た時、女の子は道の真ん中に何かがあるのに気付きました。黒くうずくまっているそれが狼である事に気付いた時には、もうあと五歩という所まで来ていました。女の子は狼の恐ろしさを聞いていましたが、どこか具合いが悪そうだったので、さらに近づいてみる事にしました。
「大丈夫かな?」
女の子は近づいて、ぐったりしている狼に声をかけました。当然、言語が通じるはずはありません。狼は何の反応もしません。見た所、足と腹から血が出ています。女の子は手当をしようと、自分の羽織っていた布を裂き、葉っぱを患部に当ててそれを巻きつけました。女の子はこのまま狼を介抱しようかとも思いましたが、これ以上のしようもないので、とりあえずおばあさんの小屋に行き指示を仰ごうとしました。道の真ん中に怪我をしている狼を放っておくのは忍びないのですが、女の子はおばあさんの小屋を目指しました。
女の子が何か様子がおかしいのに気付いたのは、おばあさんの小屋が視界に入ってからです。それ以前にも、何かが後ろにぴったりとついていた気配はしたのですが、おばあさんの小屋を見てそれは瞭然としました。まず、家の戸が完全に開き切っています。そして家の周りには何か四本足の足跡が残っています。女の子は不安に駆られて、走っておばあさんの家に入りました。そこにいたのは、真っ赤な血の海に浮かぶおばあさんでした。
「おばあさん! どうしちゃったの!?」
血塗れになって倒れているおばあさんに駆け寄った女の子でしたが、既におばあさんは虫の息でした。傷口を塞ごうにも、あまりの出血でそれも間に合いません。身体中に引っ掻き傷や噛まれた痕が痛々しく残っています。おばあさんは辛うじて目を開けると、息も絶え絶えに話し始めました。
「お嬢ちゃん……、気を付けて。狼が……。早くここから、逃げて」
女の子はどうすればいいか分かりませんでした。逃げるにしても、このままおばあさんを置いていく事は出来ません。女の子が何も出来ずにおばあさんの手を握っていると、家の外で物音がしました。びくっとして振り向くと、開いた戸口の先で狼がいるのが見えました。牙を剥き出しにして、ひどく興奮しています。ですが、女の子にはその狼に見覚えがありました。
「あなた、あの時の……!」
そこにいたのは、確かに道中女の子が手当をした狼でした。腹と足に布を巻き着け、だがそれでも今にも襲い掛かろうとしています。女の子の中で、突発的に怒りの感情が沸き上がりました。おばあさんの手を握る手にも自然と熱が篭ります。そんな女の子の様子を見て取ったおばあさんは、力無くも手を握り、話し掛けました。
「お嬢ちゃん、ダメよ……。あなたの魔法は人を助けるためのものでしょ? それに、あの狼は……違うわ」
女の子はおばあさんの顔を見た後で、もう一度狼の方を振り向きました。今そこにいる狼が最初におばあさんを襲った狼でないのなら、この狼は何をしに来たのでしょうか。やはり瀕死のおばあさんや、女の子を食べに来たのでしょうか。どちらにしてもこの場から追い返すことが絶対に必要です。女の子はただ保身の事を思い、立ち上がりました。狼を追い払えるだけの魔法が使えるかは分かりません。それに、狼はここにいる一匹以外にもいるはずなので、常におばあさんにも気を遣いながら対処しなくてはなりません。それは女の子にとってはあまりに難しいことです。ですが今しなければならない事です。
女の子は家の外に出て戸を閉めると、狼と対峙しました。闘志を剥き出しにする狼に、恐怖があった事はたしかです。でもそれ以上におばあさんを助けたいという気持ちの方が勝っています。女の子は昂る気持ちを鎮めて集中し、腕を前に出しました。そして目をかっと開くと、腕の先から小さな火の球が出ました。大きさからしたらまだ拳程度ですが、これが今の女の子の能力の限界です。狼は自分の方に向かって来た火の球を難なく避け、女の子の方に走り出しました。女の子は本能的に逃げようとしました。自分よりも強い存在と対峙した場合、実力の差が圧倒的な場合には、戦う前から戦意を喪失してしまうことがよくあります。女の子にとっては今がまさにその状況なのです。ですが、女の子は逃げようとする足を理性で抑え付けてその場に留まりました。最小限の動きで狼の牙と爪をかわせればいいのです。頭で想像する分には容易いのですが、実戦ともなれば話は別です。狼は牙を剥いて女の子の方に跳躍しました。必要最小限の動き、と頭で考えていても、身体が無意識の内に走り出しています。恐怖のあまり振り向くことすら出来ません。狼は着地すると瞬時に方向を転換し、再び女の子の方へ走り出しました。女の子は足を止めました。足の速さでは狼に敵うはずもありません。女の子は腕を前に出して、火の球を連続で出しました。ですが腕が震えて狙いが定まりません。尽く狼にかわされてしまいます。火の球が着弾した所からは小さな火が上がり始めています。狼が目の前にまで迫った時、女の子は自分の足下に火の球を放ち、狼の目を眩ませようとしました。小さな爆発が起きたために足を止めざるを得なかった狼でしたが、煙が晴れて女の子の姿を認めると、再び追い始めました。こうなると一進一退のいたちごっことなるのですが、動物的本能で動く狼と、人間的知能で動く女の子とでは、体力の差は歴然としています。狼の方が怪我をしているためにその差は少し縮まっていますが、それでも女の子は体力も魔力も大きく消耗していました。どんなに腕を前に出しても、もう火の球は出ませんでした。
「うそ……。ここ、どこ? いつの間にこんなに遠くまで……」
狼から逃げるのに気を取られていたあまり、女の子は自分がおばあさんの家から大分離れた所にまで来てしまっていた事に気付きませんでした。気付けば森の奥にまで、ただ樹木が生い茂る場所にまで来ていました。狼が依然と追い掛けてくるこの状況下で魔法も使えなくなってしまっては、女の子にはもうなすべき事がありません。
「とにかく、おばあさんの所に戻らないと……」
女の子はおばあさんの家を目指しました。狼も疲れているのか、女の子の後を追ってくるだけで、襲い掛かろうとはしてきません。女の子は迷いながらも、重くなった足を必死に動かして前に進みました。辺りを見回してみると、所々で煙が上がっています。女の子ははっとしました。今までに自分が放ってきた火の球がこの森を焼いているのだという事に気付いたのです。何かを助けるために使おうと思っていた魔法が、何かを助けるどころか、生き物の生き場所を破壊しているのです。女の子は胸が痛みました。今になっておばあさんの気持ちが分かる気がします。どんなに人のために使おうとしても、どこかで何かを壊してしまいます。そしてそれが心の負い目となってしまいます。女の子は火が上がる方を目指しました。最初に火の球を放ったのは、おばあさんの家の前だったからです。
息を切らしながら、女の子はやっとおばあさんの家を発見しました。おばあさんの家の周りはすっかり火で囲まれてしまっています。あの狼もしっかりと後ろについてきています。女の子はふらふらになりながら、家の前に立ちました。ところが、どこか違和感を覚えます。戸が、確かに閉めたはずの戸が開いているのです。女の子は嫌な予感を胸に中に踏み込みました。その瞬間、目の前には見るに堪える、酷い状況が広がっていました。
一匹の狼が、おばあさんを食べていたのです。おばあさんの腹部はもう殆どなくなっています。女の子は足をがくがくと震えさせ、その場にへたり込んでしまいました。涙が止まりません。女の子の気配を察知した狼は、口元を真っ赤にしたまま女の子の方を向き、そしてゆっくりと歩き出しました。まるで女の子の方が美味しそうだ、と言っているようです。女の子は四つん這いになって家の外へ逃げようとしました。ですが家の外には布を巻いた狼がいます。女の子はどちらにも行けなくなり、八方塞がりとなってしまいました。女の子が恐怖と悲痛で動けずに震えている間にも、狼はどんどん近付いています。そして女の子に食い付こうとした瞬間、一発の銃声が森に木霊して、狼の腹部を撃ち抜きました。女の子が視線をずらすと、そこには猟銃を構えた男の人が立っていました。狼はふらふらした足取りでその場を去って行きました。女の子が依然として動けないでいるので、その男の人は近付いてきました。
「森の方で火が上がっていたから、気になって来てみたんだが……、大丈夫かい?」
女の子は小さく頷くと、そのまま気を失ってしまいました。男の人は慌てて女の子を揺さ振りましたが、反応はありません。男の人は女の子を抱えると、森を抜けました。
数日後、女の子は再びこの森を訪れました。あの時の火事はまもなく鎮火したそうなのですが、女の子はおばあさんの家が気掛かりでなりませんでした。あの火事は単なる自然発火による山火事という事で片付けられたそうなのですが、一部の人は魔女の仕業だと思い込んでいるようです。おばあさんは結局、人前では一度しか魔法を使わなかったのに、その一生を独りで過ごすしかなかったのです。女の子は暗い心持ちのまま歩き続け、やがておばあさんの家に着きました。外を見ても中を見ても、あの時のままです。ですがおばあさんの遺体はもう残っていませんでした。女の子は家の中をぐるりと一周して、そしてある壁の前で立ち止まりました。そこには四色のずきんが掛けられています。女の子はそれらを取ると胸に抱き、一雫の涙を流した後で家をあとにしました。
女の子の胸にはおばあさんの遺志が残っています。決しておばあさんから直接聞いたわけではありません。ですが女の子には痛い程にその気持ちが分かります。この遺志を必ず果たそうという思いが、女の子の活力になっています。その目と髪には赤い色を宿し、そして女の子は再び森の中を歩き始めました。
『私にお友達を作ってくださいな』
第六章
~合縁奇縁~
ゼーレは、ヴォルフは直ぐに回復するとばかり思っていた。これまでがそうだったように、今回も一日やそこらで治してしまうものだと思っていた。だがヴォルフが立って歩けるようになるまでに三日を要した。そこまで来ると、後の回復は異常なほど早かった。元々外傷はないので、これが一般の早さだと言われればそれまでだが、それでもゼーレは心配だった。そして不安だった。ヴォルフが急に昔話を、それも殆どの人が知らないような話をしたのは、今回の事と何か関係があるのではないか、という考えが浮かぶ。だが核心に迫れるだけの情報はなく、あれ以来ヴォルフの口数はさらに減ったため、ゼーレはその先を確かめることが出来ないでいた。
そして今はまたフライシュタートに向かう道中にある。あの町を発って以来、誰に襲撃される事もなく、順調に進んでいる。
「次の町は何て名前だ?」
ヴォルフは歩きながら、顔を向けずにゼーレに尋ねてきた。あの時から、何かぎくしゃくしているのをゼーレは感じていた。相手の姿は見えるのに、踏み越えられない壁のようなものが二人の間にあるように思える。そう思っているのはゼーレだけなのかもしれないが、禍根が生じた以上、それを拭い去らないと壁はどんどん高くなりいずれは完全に断絶されてしまう。
「え……と、アジールよ」
ヴォルフはそれを聞くとまた黙り込んでしまった。ゼーレはこの空気の重さに耐えられなかった。
「一つ聞いていいかしら? あの町を氷の結晶に変えたのはあなたなの?」
ヴォルフは少し顔色を暗くした。そしてどこか諦めたような顔をして頷いた。
「ああ、そうだ。半ば俺がやった」
ゼーレは少し衝撃を受けた。先日のがヴォルフによるものだとしたら、恐らく七年前にゼーレの母親を殺したのもヴォルフによる可能性が高い。だが今は高名なヴォルフといえど、七年も前に町一つを壊滅させる能力があったとは思えない。
「あなたは……、一体何者なの? 最初に会った時から、あなたは赤色のヘクセライしか使っていない。なのにあの時の町の惨状は、今までのあなたの戦いのどれよりも強い青色のヘクセライだったわ。それに、半ばってどういう事?」
ゼーレは問い質したが、今のヴォルフには何を聞いても無駄だという事はわかっていた。
「質問は一つのはずだ。それに、俺の事はいずれ分かる。お前の父親、ハイリゲは全てを知っている。お前は父親は行方不明になったと言ったが、七年前にはターブにいたはずだ。俺も会った事がある」
ゼーレは耳を疑った。行方不明だと思っていた父親が目と鼻の先にいるなんて、誰が想像出来よう。だがもしかしたら少なくとも母親は知っていたのかもしれない。ゼーレは一人だけ何も知らされていないことに、孤独を感じた。ヴォルフにさらに色々聞きたかったが、つい先程釘を刺されたばかりだ。ゼーレは口から出そうになる言葉を必死に飲み込んだ。ゼーレが感じているこの感情は一体何なのだろうか。無知な自分への怒り、知を与えなかった周囲への怒り。対象はどうあれ、その感情は少なくとも怒りであった。
ようやくアジールの町が見えてきた。陽はもう暮れているが、町からは明かりが見える。そしてさらに近付いてみて、その町が名前の通りに平和である事が分かった。規模も大きく、技術もかなり進歩しているようだ。今まで寄った町には見られない、かなり高い建物が至る所に聳えている。
「へぇ、すごい……」
ゼーレはその光景に圧倒され、そう言うのがやっとだった。ゼーレは次にヴォルフの方をちらと見た。感情を共有出来れば、壁はどんどん薄くなる。だが当のヴォルフは、かなり険しい顔をしていた。しかしどこか嬉しそうにも見える。その表情は完全に以前と同じものに変わっていた。
「どうかしたの? そんな怖い顔して」
この時ゼーレは何も感じていなかった。だからこそヴォルフの様子が変わった理由を聞いたのだが。ヴォルフは口元を緩めて嬉しそうに言った。
「――いるぞ」
ヴォルフはその一言を言ったきりだったので、ゼーレは質問を重ねざるをえない。
「何がいるって言うのよ?」
ゼーレから見ても、視界には何かヴォルフを喜ばせることが出来そうなものは見当たらない。
「何がアジールだ。混沌の源がウロウロしてやがる」
ゼーレはそこでやっと思い立った。
「まさか、それって……」
「気付かなかったのか? この町にはエーヴィヒがいる」
この一見平和そうな町にエーヴィヒがいる。ゼーレは瞬間寒気を感じて辺りを見回したが、不審なものは何もない。何も見当たらない。そもそもどうしてヴォルフは、という思いがゼーレの中では生まれていた。
「待って。どうしてヴォルフはエーヴィヒがいるって事が分かるの?」
二人は町の中へと進んだ。本当に、一見して平和そうな町だ。エーヴィヒがいる以上、ヴォルフは戦うだろう。そうしたら平和な町などとは言っていられなくなる。
「血が騒ぐんだよ。俺の中の青い血がな」
ヴォルフがぼそっと呟いたのを、ゼーレは聞き逃さなかった。だがそれ以上問うことはしなかった。無駄だと分かっていたし、あまり気が進まなかった。
ゼーレはエーヴィヒを見たことがない。というか、そもそもエーヴィヒが何なのかを知らない。今までは聞く機会がなかったために、それが人なのか物なのかも知らずに会話をしてきた。だがどうやらこの町でその正体を知ることが出来そうだ。ゼーレは少し楽しみにしていたが、それは大きな間違いであるという事を微塵も感じていなかった。
町で適当に夕飯を済ませた後、二人はいつも通り宿をとった。町の外見通り、宿もかなり立派なものだったが、その分金額も高かった。だがアンファングで大金を得たヴォルフらにとっては、その額ですらまだ端金と呼べる程度だった。
ヴォルフが気に掛かるのは、確かにエーヴィヒの事についてだ。町に入った時に感じた気配では、相当な数のエーヴィヒがいるようだ。だがそれだけではない。ヴォルフの中の青の血が騒ぐように、赤の血も同時にざわめいているのだ。両者の感覚は似ている。どちらも共鳴という表現が近いように思われる。前者は間違いなくエーヴィヒに反応しているものだが、後者の方はヴォルフにとって初めての経験だった。だが血が騒ぐ理由を知っているヴォルフには、後者の理由も何となく想像がつく。かなり信じ難いが、それ以外には考えられない。問題なのはどちらか、だ。
「親父の方か? それとも……」
ヴォルフはつい口が開いてしまい、慌ててゼーレの方を見遣った。運よくゼーレには聞こえてないようだった。ヴォルフの血が騒ぐ。身体中が熱を持ち、軽い興奮状態になっている。気持ちを鎮めるためにも、ヴォルフは早々に寝台に入った。当然直ぐに眠れるはずはなかった。
朝になりヴォルフは目を覚ましたが、夜に本当に眠っていたかどうかがはっきりしない。常に心が踊るような感じがしていた。夢だったのか現実だったのか、何も覚えていない。ゼーレは既に起きていて、身支度をほぼ整えている。
「この町にはどんな施設があるか知ってるか?」
ヴォルフは部屋に備えられてある水道で顔を洗いながら尋ねた。今までの宿では、水道はおろか部屋に洗面室すらなかった。それに比べれば、この町がいかに発展しているかが直ぐに分かる。そんなに発展している施設だからこそ、エーヴィヒを匿える施設、制度を設けられるのだ。
ヴォルフの質問に対して、ゼーレは地図を広げてそれを示した。いつの間にこの町の地図を仕入れたのか、ヴォルフは驚いた。だが何の事はない。ヴォルフが早々に寝た後で、宿に置いてあったものを持ってきただけだった。
アジールにある施設は、学校、病院、何かの製造工場、発電所、その他諸々だった。生憎と、何の研究をしているか分からないような研究所はなかった。ヴォルフにはどれも怪しく思えた。つい最近殺したエーヴィヒは、人間の振りをして学校で教師をしていたし、病院なら秘密裏にエーヴィヒを作り出すことも可能だし、工場もまた然り、発電所にある豊富な電気等は奴らの武器にも活力にもなり得る。
だが一番厄介なのは、そういう中心となる施設がない場合、つまり完全に住民としてエーヴィヒがこの町に蔓延っている場合だ。その場合、エーヴィヒを駆除するには片っ端から殺さねばならず、それを端から見ればただの大量虐殺にしか見えない。
ヴォルフは陽が低い内からそれぞれの場所を探った。だが余所者であるヴォルフでは、各施設の奥にまで踏み入ることは出来ず、大して情報を得ることも出来なかった。
「見付けるんじゃなく、見付けられてみるか……」
黒ずきん狩りとして名を知られているヴォルフはこれまでエーヴィヒを狩ってきたので、当然エーヴィヒにも知られている。しかも恐らくはエーヴィヒの脅威として、エーヴィヒを利用する者にとっては邪魔な存在として目を付けられているはずだ。或いは、抹殺するようにエーヴィヒ達に言い遣っているかもしれない。だとしたらそれを利用しない手はない。
ヴォルフはそれ以降、献身的に町に奉仕した。事故があれば直ぐに駆け付けてそれを助け、物を頼まれれば無償でそれを受け、まるで柄に合わない事をし続けた。その時ヴォルフが忘れなかったのは、自分の名を言うこと。そして自分の目的、エーヴィヒの殲滅を言うことだった。これを繰り返せば、町中にヴォルフの名が知れ渡り、そしてエーヴィヒ達にはかなりの威圧を与える事が出来る。
一週間もそんな事を繰り返していたある日、宿ではゼーレが唸っていた。ヴォルフは敢えて何も聞かずにいた。何か嫌な予感がしたからだ。だが先に口を開いたのはゼーレだった。どうやらヴォルフから声を掛けてくれる事を少しばかり期待していたらしい。
「もう我慢出来ないわ!」
何やら怒っているらしいという事はヴォルフにも分かったが、何に怒っているのかはさっぱりだ。ゼーレからすれば、ただいつもよりも長めに町に滞在しているに過ぎない。ヴォルフが丸い目でゼーレを見つめたまま黙っていると、ゼーレはまた話し始めた。
「人のために、しかも無償で働くなんてちっともヴォルフらしくないわ! それに、エーヴィヒとかはどうなったのよ? このままアジールに永住する気?」
ヴォルフはため息をついた。それくらいの事は察していてくれているものだと思い込んでいた。だがここでヴォルフは、ゼーレはエーヴィヒについて何も知らないという事を思い出した。それだと確かにヴォルフの行動は無意味にしか見えない。ヴォルフとしてはもう少し様子を見ておきたかったのだが、ゼーレのこの様子では今後どうなるか分かったものではない。発狂でもしそうな勢いだ。
「分かったよ。明日にはエーヴィヒを誘い出すから、そんな目くじら立てんな。言っとくが、邪魔だけはすんなよ」
運よく、明日には町で集会のようなものがある。それはかなり好都合だ。ヴォルフはそう言うと部屋をあとにしたが、背後からはまだゼーレの怒った気配が感じられる。ヴォルフはそうしてまた今日も町へと繰り出した。
「あ、ヴォルフの兄ちゃんだ!」
宿を出て直ぐにヴォルフの名前を呼ぶ声がしたので、ヴォルフは声のする方へ振り返った。この声とこの口調は、この一週間で耳にたこが出来るほどに聞いた。初日か二日目に助けた子供だ。それ以来ずっとヴォルフにくっついてくる。今日は何人か友達も連れている。
「ああ、お前か。毎日毎日ご苦労なこった。んで、今日は何か用か?」
ヴォルフは町の中心の方へ歩きながら話した。歩幅も歩調も違うため、ヴォルフが普通に歩いていても子供達は早歩きになる。その子供はヴォルフに遅れまいとしながら、自分の用件を伝えようとした。
「最近母ちゃんの様子が変なんだ。夜中になるとふらっと出ていっちゃって、帰ってくるのが昼になったりして。どこに行ってるのか聞いても、答えてくれないんだ」
ヴォルフはその子の言葉に反応した。人混みに押されて橋から落ちそうになったのを助けた時に感じたが、この子の母親はエーヴィヒであった。ヴォルフが今まで調べた限りでは、エーヴィヒに生殖能力はない。だからエーヴィヒに子供など出来るはずがない。だがこの子と母親がまるで似ていない事、そして母子家庭だという事を考えると説明もつけられる。要するに、養子をもらうか、捨て子を拾えばいいのだ。それであたかも人間の親子だと言い張れる。
「俺にそれを頼もうとしてるって事は、少なくとも母親がどこに行ってるかは突き止めたんだな?」
ヴォルフは立ち止まってその子らを見た。みなが同じ目をしている所を見ると、どうやらこの子らの親も同じらしい。そしてその内の一人が言った。
「うん。地下坑道に行くのを見たんだ」
ヴォルフはこの一週間アジールを歩き回ったが、地下坑道があることは気付かなかった。こんな発展した町で、何故そんな古めかしいものがあるか得心がいかない。だが今はそれは問題とならない。
「その地下坑道とやらに案内してくれるな?」
口調こそ依頼の体裁をとっているが、実際それは殆ど命令と同じだった。ヴォルフを完全に信じている子供達は快く引き受けてくれた。
子供達のあとについていくヴォルフだったが、歩くのがやたら遅い。子供に歩調を合わせていると、逆に疲れてしまう。だが坑道までの道筋を知らないヴォルフは黙って従うしかなかった。子供達は複雑な道を、何の躊躇いもなしに歩いていく。やはり長く同じ場所に住めば、そこは都になるし庭にもなる。
しばらく歩く内に、ヴォルフは自分が今どの辺りにいるか分からなくなっていた。町は一通り歩いたはずなのに、今歩いている場所に見覚えがない。昼なのに薄暗く、人通りが皆無に等しい。そしてさらに奥へと歩いていくと、暗い洞穴のようなものが町の中で口を広げている。坑道を目指していたヴォルフは直ぐにそれを見つけられたが、普通に歩いていたら見逃してしまいそうなほど、まるで存在感がない。
「ここだよ。中も結構複雑になっててね、でも僕らにとっては遊び場なんだ」
子供達は自慢するようにそう言うと、さっさと中に入ってしまった。ヴォルフは子供達を止めようかと思った。このまま進んでいき、もしエーヴィヒと遭遇することになったら戦闘になる可能性が高い。そうなったら子供達まで巻き込んでしまうかもしれない。ヴォルフはそこまで考えて思考を止めた。
「アホらし……。何で俺がこんなガキ共の心配をしてんだか」
ヴォルフはそう呟くと、坑道の中に入っていった。
中は想像以上に暗く、というか何も見えなかった。人の動く気配しか感じられない。ヴォルフは明かりを点そうかと思ったが、次第に目が慣れてくるとぼんやりとだが坑道の輪郭が見える。子供達はそれほどの暗さの中を、平然と歩いているのだ。ヴォルフはそれに従うことにした。
しばらく歩き通して、ようやく子供達はある場所で立ち止まった。歩くのが遅いため、ヴォルフは精神的にかなり疲れていた。そこは行き止まりとなっているようだ。前方に空気の流れが感じられない。
「は? ここは行き止まりなのか?」
「違うよ。本当にこの奥に入っていったんだってば」
ヴォルフは頭をかいた。この暗さでは、目の前にあるのが壁なのか扉なのかさえ分からない。誰かに場所を知られてしまう恐れがあるため明かりは点けたくなかったが、これではどうしようもない。なので、ヴォルフは指先に火を点した。その空間が温かい光によってぼんやりと明るくなった。
「うわぁ。すっげえ!」
ヴォルフが魔法を使ったことで、子供達はすっかり喜んでいる。この程度の魔法で、とヴォルフは思い、壁の方を向いて驚愕した。今まで坑道の天井はヴォルフの背よりも少し高い程度だったのだが、この壁の手前だけ相当高くなっている。さらに、行き止まりだと思っていた壁は実は扉で、その扉も天井とほぼ同じだけの高さがある。それだけでもヴォルフにはかなりの驚きなのだが、それだけではなかった。その観音式の扉には、ある図形が描かれていたのだ。
「こ、これは――ヤーヴェ教の刻印。やはり大正解だったようだな」
円を斜めの線が通り、その線を境に半円が少しずれている。そしてその真ん中には、獣の影が描かれている。ヴォルフはその扉に触れた。ひんやりと冷たい。ヴォルフは少し力を込めて押してみた。だが一人で開けるには扉は重すぎるようで、ヴォルフの力だけではびくともしない。
「どうしたもんかな……」
下手に魔法を使って扉を破壊しようとすれば、子供達は喜ぶかもしれない。だがこの密閉空間では間違いなく子供にもヴォルフにも危険が及ぶし、坑道自体が倒壊する可能性もある。荒っぽいことは出来ない。
「おい、お前らの親がここに入る時、何かしてなかったか? 鍵のような物を入れてたとか、何か言ってたとか、どっかを押してたとか」
これだけ重い扉なら、大の大人だって一人で開けることは不可能だし、恐らくは五人以上の力が必要になる。常に五人も誰かがいるとは思えない。現にヴォルフ達が扉の前にいても、何の反応も何の気配もない。
「あ、そういえば何か呟いていたかも。ナンジラとかチヅキとかエルデがどうとか」
子供の内の一人は思い出したように言った。かなり不完全だが、ヴォルフの頭の中の知識と混ぜ合わせれば、それも説得力のある完全なものになる。ヴォルフは巨大な扉の前に立つと、右手で扉に触れた。そして目を閉じ、口を開いた。
「汝等、望月の夜に我等が主の下に集えよ。さすれば新たなるエルデの扉は開かれん。賢なるヴォルフに栄光あれ」
ヴォルフが今言ったのは、ヤーヴェ教の聖書に記された序文であり、謳い文句でもある。ヴォルフはこの台詞が大嫌いだった。自分の名前が入っているというのもその要因の一つだが、これを聞くと父親の事を思い出す。家庭を顧みない父親が、ヴォルフを度々研究所へと連れて行き、その度にこの台詞を聞かされた。おかげで覚えてしまった。だが今はこれを言うしかない。たった一度きりだ。
ヴォルフがヤーヴェ教の序文を言うと、ヴォルフの手の先が僅かに光り、そして扉が大きな音を立てて開き始めた。誰も何も力を加えていないのに。
「なるほど……。法陣系のヘクセライが仕掛けてあるのか」
つまり、ハオベがその場にいなくとも、一定の条件を満たせば魔法が発動するようになっている陣を敷く魔法である。だがこれは、法陣自体に魔力が溜められており、魔法を発動させる度に魔力が消費されるためにいずれ使えなくなる。今のヴォルフには全く関係のない話ではあるが。
「さて、どうしたもんかね」
ヴォルフは少し悩んだ。今この場にエーヴィヒの気配はない。だが恐らくこの先にはエーヴィヒ達にとって、この町にとって重要な何かがあるはずだ。その秘密を子供達が知っていいのかどうか。
「うわー、すげー!」
だがヴォルフの心配とは裏腹に、子供達は扉の開いた様子に驚き歓喜していた。そして何の恐れも知らない好奇心の塊達は、ヴォルフを置いて中に入っていってしまった。
ヴォルフは制止しようとしたが、あっという間に子供達は中に入っていって姿も見えなくなってしまった。ヴォルフは呆れてしまった。この子共達に何があっても、ヴォルフには関係のない話なのだ。そう諦めをつけてヴォルフもゆっくりと中に入っていった。
中はやはり、相当な広さがあった。入口からでは、今の明かりだけでは全体が見えない。ヴォルフがその部屋に入ると、自然に扉が閉まった。だがどうやら内側からなら簡単に開くように出来ているらしい。ヴォルフはそれを確認すると、部屋の奥に入った。だがどうにも暗いので、ヴォルフは明かりを強くした。今のままでは自分の足下を見るのが精一杯だ。
明かりを強くして目に映ったのは、その空間に広がる異様な空気だった。目で見ても分かる程に、雰囲気がおかしい。勇んで先に入った子供達も、ヴォルフの数歩先で尻餅をついている。子供がこの場で足をすくませてしまうのも納得がいく。
「本当に、大正解だったようだな」
その空間にはいくつかの医療設備――そう見えるものが部屋の隅の方に、そして部屋の中央には、また法陣のようなものが描かれている。見覚えはあるのだが、ヴォルフの記憶にあるものとは若干違う。
「この法陣は――輪廻転生? いや、森羅万象に近いようにも見える……」
そこでヴォルフは気付いた。これがエーヴィヒを創り出す法陣なのだ。詳しくは分からないが、輪廻転生の法陣を発展させ、それに森羅万象も加える。恐らくは他にも何かが加えられているのかもしれない。とにかく、いくつもの法陣を経て、魔法をも使えるエーヴィヒが生まれるのだ。これほどの技術を考案できるのは、相当のハオベのはずだ。ヴォルフが思いつくそんな人物はこのエルデに三人しかいない。
ヴォルフは次に、何か資料がないかどうかを調べ始めた。法陣だけでは詳しい事は知り兼ねる。ヴォルフは部屋の隅の医療設備の方に歩き出し、そこらをあさり出した。確かに資料の数は膨大だった。だがそれらの多くは宗教関係のもので、エーヴィヒについてのものはあまり見つからない。そんな中でも、ヴォルフは興味深いものを見つけた。
それには人の名前、その横には月日、成功か失敗か、そして副作用のようなものが書かれている。しかも百数十人分もの数に及んでいる。
「やはりエーヴィヒはその存在を許されてはいない……」
ヴォルフが得たのは、エーヴィヒの創成には生きた人間が必要になるという確信だった。一人の人間を犠牲にして、不死のエーヴィヒ一体を創り出す。それはまさに悪魔の研究ともいえる。きっと被験者の意志など微塵も汲み取られなかったに違いない。それから、ヴォルフは使えないものがないかを探した。
その時、不意に血が騒ぐのが感じられた。ヴォルフは扉の方に意識をやった。確かに気配が感じられる。人数は多くはないが、明らかにエーヴィヒの気配だ。ヴォルフは息を潜めると、子供達を抱えて部屋の隅に移動した。
「いいか? 俺がいいと言うまで、何も口にするな」
ヴォルフは明かりを消し、子供達も含めて玄武を使い姿を消した。それとほぼ同時に、重たい音を立てて扉が開いた。ヴォルフは胸を高鳴らせた。何が見れるか期待してしまう。
中に入ってきたのは四人のエーヴィヒだった。その姿は人間のなりをしている。そしてその四人は部屋に入ると、会話を始めた。
「……魔力が若干減っているな」
ヴォルフはどきりとした。確かにヴォルフは魔力の減少など気にも留めなかったが、まさかエーヴィヒがその僅差に気付くとは思ってもみなかった。ヴォルフは自分が汗をかき始めているのに気付き、我ながら情けなくなった。仮にこの場にいる事がばれても、相手はたかが四人。瞬殺も容易だ。焦ったり心配する必要などない。
「しかもどうやらまだこの部屋内にいるようだ。出ていく時の魔力は減っていない」
そう言うと、エーヴィヒ達は部屋を見渡し始めた。一体のエーヴィヒが何やら機械をいじると、ガコンという音の後に空間内に明かりが燈り始めた。だがいくら明かりを点しても、玄武を使っているヴォルフらを肉眼で見つける事は不可能だ。
「見当たりませんね。玄武でも使ってるんでしょうか」
ヴォルフは子供達を置いて立ち上がると、扉の方へ行った。ここが開けば難なく逃げられるだろう。だが先程の音が気にかかる。明かりを点けるだけなのにあれ程の音がするだろうか。
扉の前に立つと、ヴォルフはそれを開けようと試みた。だが扉はびくともしない。先程見た限り、開ける時は軽く押すだけであとは魔法で自動的に開く仕掛けだったはずだ。だが今は違う。恐らくは魔法が切られ、そして扉にも鍵がかけられたのだろう。ヴォルフは考えよりも前に行動を起こしていた。開かないなら開けさせるまでだ。
一体のエーヴィヒに背後から近付くと、ヴォルフはその首目掛けて快刀乱麻を使った。腕先から伸びる炎の剣は、エーヴィヒの首をいとも容易く貫通し、そして切り落とした。エーヴィヒは首と胴体を寸断され、床に倒れた。
ヴォルフは風林火山で直ぐに二体目のエーヴィヒの方へ向かった。これは時間の勝負だ。一体目のエーヴィヒが誰かに殺されたのを見るや否や、部屋の内部にさっと緊張が走った。
絶えず玄武を使っていなければならないヴォルフは、魔力の消耗が激しい。だからこそ時間が鍵にもなるのだが、ヴォルフは二体目の背後にぴたりとつくと、快刀乱麻を横に振り抜いた。ここまでは順調だ。あと二体となったが、一体にはここからの出る方法を聞かなければならない。実質はあと一体。ヴォルフは再び風林火山に切り替えて三体目の背後につこうとした。だがそのエーヴィヒの様子がおかしい。身体が発光している。ヴォルフはこれを以前にも見た事がある。魔法を使おうとしている前兆だ。
「させるか!」
ヴォルフは玄武を解き、まだエーヴィヒとは距離があるのを、快刀乱麻を長くする事で強引に詰めた。快刀乱麻はエーヴィヒの胸を貫き、ヴォルフはそれを斜め上に振り上げ、そして振り下ろした。エーヴィヒの身体は三つに別れて床に落ち、そして小さく弾けて辺りに水が飛んだ。どうやら青魔法を使おうとしていたらしい。
「よくこんな所まで来れたものだな、ヴェーア・ヴォルフ」
残った最後の一体は何処か余裕を見せている。そして部屋の隅にいる子供達を見据えている。
「その子らか……。まったくいけない子だ」
ヴォルフはそんな言葉に耳を貸す気はなかった。エーヴィヒと子供の対角線上をヴォルフは走り出した。これならば、たとえエーヴィヒが子供達に向けて魔法を使ったとしても、その前には必ずヴォルフがいて、攻撃を防ぐことが出来る。ヴォルフは勢いよく間合いを詰めると、エーヴィヒの目の前に迫った。これまで目前のエーヴィヒは微動だにしない。ヴォルフはエーヴィヒを蹴りつけようとした。本来のエーヴィヒの身体能力ならば、かわすに難しい事はない。だがこのエーヴィヒは、避けようともせずにただ中途半端に防御姿勢を取るだけだ。ヴォルフの蹴りはエーヴィヒの腹部に当たり、その勢いでエーヴィヒは後ろに数歩下がった。ヴォルフはそのままエーヴィヒの後ろに回り込み、腕を後ろで捻って炎の剣を首にあてがった。
「さて、扉を開けてもらおうか。そうすりゃ命だけは助けてやるよ」
ヴォルフは耳元でそう言った。だが先程、エーヴィヒが何の抵抗もしなかったのが気にかかる。既にエーヴィヒの策略に乗せられているのだとしたら、かなり気分が悪い。そう考えていると、突然エーヴィヒが笑い出した。
「あなた方はここから出る事は出来ない。フハハハ、賢なるヴォルフに栄光あれ!!」
その直後、エーヴィヒの身体が発光し始め、そして大爆発を起こした。先程まで何もしなかったのは、この展開を予想して魔力を溜めるためだったのだ。
爆発の直前にそれに感づいて咄嗟に風林火山を使ったヴォルフは、爆煙を払いのけた。少し咳込むが、外傷はない。煤やらエーヴィヒの肉塊やらが飛び散っただけだ。
「くそ、やってくれたな」
ヴォルフは扉を開けようと機械の方に目を向けたが、今の爆発でほぼ破壊されてしまっている。つまり、ヴォルフ達はこの空間に閉じ込められたというわけだ。
壁の周囲を伝って行き、出口のような物がないかを探してみたが、そういった物は見当たらなかった。そもそも、扉を封じれば出られない、という構造にでもなっていなければ、先程のエーヴィヒは自爆などしなかっただろう。
ヴォルフは次に子供達の方へ歩き出した。目の前で人殺しを目撃した子供達は、お互いに寄り添って身体を震わしている。そして怯えるような目でヴォルフを見ている。
その目は「人殺し」と叫び、ヴォルフを怖れ、恨み、憎んでいる。だがヴォルフはもう慣れてしまった。今までさんざん黒ずきんを殺し、エーヴィヒを殺し、白ずきんを殺してきた。人間だとて障害となったものは殺してきた。今更こんな目に何も思いはしない。
「お前ら、この部屋の出口を知らないか?」
ヴォルフは今までと同じ口調で子供達に尋ねた。だが子供達は怖がっていて声も出せずにいる。ただみなが揃って首を横に振った。
八方塞がりだった。この広い空間には出る所が一箇所しかなく、その一箇所を封じられてしまったのだ。扉を破壊しようにも、これだけ大きな扉を破壊しようとすれば坑道そのものにも影響を与えてしまう。坑道が崩れでもしたら、それこそ終わりだ。このまま何の手立ても見付けられなければ、その先に待つのは死だ。
こういう時、ヴォルフは脱出とはあまり関係のないことを考える。関係がないと言っても、直接的には関係がないだけで間接的に助けとなるような場合もある。
「これ程の空間、先程のように四人程度で使用するわけでもあるまい。エーヴィヒの生成もしていたのだから、やはりかなりの人数が一度にここにいたのだろう。そうした場合、問題になるのは……」
ヴォルフは一筋の光明を見出した。可能性はまだ限りなく小さい。だが折角の光をみすみす逃すわけにはいかない。
「――空気」
ヴォルフは壁を、今度は壁の上の方を見渡した。明かりが点っているが、逆にその明かりのせいで天井付近は見えない。
「いくらこれだけ広い空間だとしても、たくさんのエーヴィヒが一晩もいたら酸素が足りなくなる。だからそのためには換気扇のようなものがあるはずだ」
ヴォルフは朱雀で宙に浮くと、天井付近を見て回った。肉眼での判別が難しいようなら触感で、それでも難しいならと、小さな火を壁に沿わせた。空気の流れがあるなら、火は揺れるはずだ。
案の定、隅の一角付近で火は揺れた。ヴォルフはそこに手をやり、それが人の入れる程の大きさである事を確認した。巧妙に隠してはあるが、網目から漏れる空気の流れを火は逃しはしない。ヴォルフは子供達をそこまで連れて行くと、子供達を先頭にして換気口を進んでいった。
陽の光が入ったのは、大分時間が経った後だった。換気口は左右に曲がりくねってはいたものの、分かれ道がなかったため迷うことなく地上まで出る事ができた。陽の光が眩しい。どうやら換気口は町の外に繋がっているようだ。直ぐ傍にアジールの町並みが見える。
「いいな? 今日の事は誰にも言うんじゃねえぞ」
ヴォルフは子供達に釘を刺した。子供達はいまだに体を震わせながら、何度も何度も頷いた。この様子ならきっと大丈夫だろう。少なくとも、明日までに露見することはなさそうだ。ヴォルフは子供達をそこに置いて、一人さっさと町の中に入っていった。
「ちょ……ヴォルフ、あなた何して来たのよ?」
煤、埃、泥、血にまみれたヴォルフの姿を見て、ゼーレは驚き呆れていた。前者三つまでなら、子供達と戯れていた、でも何とか説明がつくが、血に関してはそういうわけにもいかない。
「俺に干渉するな。明日には全て分かるはずだ。今日は大きな収穫があった事だし、俺はもう寝るからな。邪魔すんなよ?」
ヴォルフはそれだけを言うと、体を綺麗にして寝台に潜り込んだ。エーヴィヒに関する資料を入手し、いまだ興奮の冷めないヴォルフだったが、直ぐに眠りにつく事が出来た。まだ太陽は高い位置にあるというのに。これでは目を覚ますのは真夜中になるかもしれない。ヴォルフはそんな事も考えていなかった。ただ気持ちを落ち着かせるため、明日の戦いに備えるためだけでしかない。
当然の結果ともいえるが、ヴォルフは真夜中に目を覚ました。眠気は完全にない。目が冴え、頭が冴える。こんな気分の時には夜風に当たるのも悪くはない。ヴォルフはそう思い、物音を立てないように外に出た。
見かけ上平和な町は、夜は閑散としている。みなが寝静まり、町には静寂だけが存在する。ヴォルフは何の気なしに歩いていたつもりだったが、まるで何かに導かれるようにして町の広場を目指していた。そう、朝には殺戮が行われるであろう場所に。
「この感じ……、やっぱ俺の方か?」
ヴォルフは妙な感覚に捕われていた。何かが近付いているような、だが反発し合っているような、そんな感覚。原因が何かははっきりしないが、あまりいい予感はしない。ヴォルフはそのまま身を翻して宿に戻った。夜明けが近くなっている。
朝になり、町にも賑わいが戻り始めている。宿に戻ってからずっと窓の側で外を眺めていたヴォルフは、町の住民がここを通る度にヴォルフ達の方をちらと見るのに気付いた。やはり警戒されているようだ。
そうしている間にゼーレも目を覚ました。結局何も教えずにここまで来てしまったのだが、今日は一つの大きな山となるだろう。ヴォルフは今から心が高鳴っていた。
「お前は来ない方がいいかもしれない」
ヴォルフはゼーレにそう言った。人を殺すな、とは言われているが、これから殲滅しようとしている相手は人ですらない。だが端から見ればそれは凄惨な殺戮。ゼーレがそれを見て耐えられるとは思えなかった。
「どうしてよ? 今まで何も知らされなかったこっちの身にもなってよ」
何も知らないからこそ、これから何が起こるのかを知りたがる。それはもっともだ。だが知るべき事と知るべきでない事がある。今の場合は後者なのだ。だが説明なしでは、納得など出来るはずがない。ゼーレならば尚更だ。ヴォルフは仕方なく、端的に説明する事にした。
「お前が来るべきでない理由は二つ。一つは、これから俺がエーヴィヒ達を殺しにいくからだ。エーヴィヒは人ではない。だからお前との約束を破るわけではない。だが人ではないにしても、その場は地獄のように血に塗れる。お前にそれを見せたくない、というのが一つ目。二つ目は、お前に身の危険があるかもしれないからだ。戦闘になれば、俺はお前を庇ってなど戦ってられない。そうした時、流れ弾でも何でも、危険が伴うからだ」
ゼーレはヴォルフの説明を聞いて返す言葉に詰まった。ヴォルフは間違った事は言っていない。むしろゼーレの身を案じてそう言っているようにも聞こえる。実際の所は、足手まといになるから、そして後々の面倒事を回避するためなのだが。だが理解は出来ても納得出来ない事はよくある。ゼーレにとっては今回がそうだった。
「でも、私はついていく。地獄ならもう何回も見てきた。それに自分の身は自分で守るわ。それでいいんでしょ?」
ヴォルフとて、ゼーレの性格は大体分かっていたし、今回ゼーレがこういう風に返してくるのも予想出来ていた。だからヴォルフは直ぐに諦めがついた。最初に会った時から、この目になるともう自分の意見を曲げようとしないのだ。ヴォルフは部屋を出ようと、ゼーレに背を向けた。
「好きにしろ」
そしてヴォルフは広場を目指した。血が騒ぐのは昨晩からのことで、朝に近付けば近付く程それは強くなっていた。今もそれは強まる一方だ。
町の中央を目指し始めたヴォルフだったが、道に出るや否や、町中の人から視線を浴びせられた。何やら異様な程に赤くなっている目。ヴォルフはこの緊張感を楽しんだ。町の住民は惜し気もなく視線をヴォルフに注いでいる。その目に籠る感情は、敵意、そして殺意。ヴォルフはあえてゆっくりと歩を進めた。背後にも視線を感じる。どうやらヴォルフの後をつけているらしい。だがそれは尾行などというものではなく、はっきりと分かる追跡だ。ヴォルフは逃げ場を絶たれながら、誘われるようにして町の中央を目指した。
広場には既にたくさんの住民が集まっていた。皆がヴォルフの方をじろりと睨んだ。やはりエーヴィヒ達にはヴォルフの目的が分かっていたらしい。誰一人として歓迎の目をするものはいない。
「それでは朝会を始める」
広場の中央に控えている男がそう言ったが、誰も視線を逸らそうとはしない。常にヴォルフの方に向いたままだ。
「今日の議題だが、最近この町の安寧を破ろうと不穏な動きをしようとする者がいるそうだ。その輩をどうしようか」
遠回しな表現だが、その言葉の意味はこの場にいる誰もが理解出来た。
「追放してしまえ!」
どこからか声が上がった。そしてそれを皮切りに次々と声が飛び交った。
町を守るんだ!
この町に平和を!
決して許すな!
悪には制裁を!
排除してしまえ!
破壊シテシマエ!
抹殺スルノダ!
殲滅スルノダ!
殺シテシマエ!
殺シテシマエ!
殺シテシマエ!
殺シテシマエ!
殺シテシマエ!
賢ナルヴォルフニ栄光アレ!!
町中に声が響き渡り、そして共鳴していく。住民達の肌の色は次第に黒くなり、人間のそれではなくなっていく。声は肌に刺さり、ピリピリとする。そして完全にエーヴィヒへと姿を変えた住民達はヴォルフの方へ迫った。ヴォルフは下を向いて身構えると、さっと顔を上げた。
「上等!!」
ヴォルフは両手に炎の剣を握ると、それを無心に振り回した。近付いてくるエーヴィヒはことごとく斬られていく。人にとっては致命傷となっても、エーヴィヒにはそうでない場合が多い。だからエーヴィヒは尚も迫ってくる。基本的にエーヴィヒは不死の存在なのだ。そもそも、一対多人数での戦闘で青龍を使うのだとしたら、快刀乱麻などと、一対一を想定した魔法など使わない。より高度にはなるが、より有用性の高い魔法もある。だが前述の通りエーヴィヒは不死なため、息の根を確実に止める方法は、今のところ首を落とす以外にはない。
迫るエーヴィヒの鋭い爪をかい潜りながら、刃をエーヴィヒの一点に集中させて攻撃しなければならないのは、かなり厳しい。だがヴォルフは長年の戦闘経験により、このような戦いには慣れている。何も考えなくても身体が自然と動いてくれる。敵の姿を見なくても、空気の流れで見えてしまう。端から見れば、ヴォルフはまるで踊りを舞っているかのように見えるだろう。そしてヴォルフが舞う度にエーヴィヒの死体が増えていく。もう既にヴォルフの足下はエーヴィヒの死体で足場もない。エーヴィヒの方も、これ以上近付けないという程死体が積もっているため、近接戦闘を避けて遠距離から魔法を使い始めた。だが青龍を相手に、たかがエーヴィヒの魔法では太刀打ちできるはずもない。エーヴィヒの使う魔法もエーヴィヒも、ことごとく斬られていく。
やがてヴォルフの剣が誰にも届かなくなった所で、ヴォルフは舞うのを止めた。汗をかき、少し疲労している様子だが、まだかなり余裕に見える。だが残っているエーヴィヒの数も半端ない。
「さて、こっからが本気だ。千紫万紅!」
ヴォルフがそう叫ぶと、空が急に赤みを帯び始めた。見ると、幾千もの炎がアジール目掛けて降ってきている。本来は朱雀と白虎の魔法である所を、ヴォルフは自分で改良を加えて朱雀と青龍にしている。これならばエーヴィヒを殺す事も出来る。
最初の炎の槍が地に降り注いだ。エーヴィヒの急所に当たる物もあれば、そうでない物もある。エーヴィヒにすら当たらず、地面に突き刺さる物もある。だが地面に突き刺さった炎は土煙を上げ、わずかな時間エーヴィヒの視界を奪った。ヴォルフはそのわずかな時間を利用して、密集するエーヴィヒの中へと駆けていく。自分で使った魔法だから、自分に当たる事はまずない。なのでヴォルフには躊躇の必要もない。そしてエーヴィヒの首を切り落としていく。エーヴィヒの死体が宙を舞い、血飛沫が上がり、炎がきらめく。只管に黒と赤しか見えない。
千紫万紅が止む頃には、エーヴィヒの数は半分以下にまでなっていた。ヴォルフは次の攻撃に移ろうとした。だがその時、ヴォルフの視界には思いもよらないものが写っていた。
「な……!? お前ら、どうしてここに!」
昨日の子供達が広場の入口付近で事の始終を見つめている。口が塞がらず、身動きが取れないでいる。ヴォルフの意識がそちらに向くのと同時に、エーヴィヒ達の視線もそちらに向いた。そしてヴォルフを取り囲んでいたエーヴィヒの半分が子供達の方へと跳躍した。
「やめろ!」
ヴォルフは地面に突き刺さったままの炎の槍をエーヴィヒ目掛けて投げ付けた。命中はしたものの、倒せたのはわずか一体。ヴォルフもそちらに行こうとしたが、取り巻くエーヴィヒが邪魔でそれも叶わない。そして多数のエーヴィヒの爪がまさに子供達に達しようとした。
その時、ヴォルフの血が急に騒ぎ出した。その刹那、子供達の周りを透明な物が覆った。エーヴィヒはそれのために、攻撃出来ずに弾き返された。
「やはり、混沌の源はとんだ疫病神のようね」
ヴォルフもエーヴィヒも、一端動きを止めた。ヴォルフは声の方を、血が騒ぐ方を見た。宙に浮いているのは、白い髪と黒い髪、そして青の瞳のハオベ。見覚えのある顔。ヴォルフの予想は確信に変わった。
「ザンクト!」
ヴォルフにザンクトと呼ばれたハオベは、ゆっくりと地に降りた。そしてヴォルフと対峙した。ヴォルフはこんな状況にいながらも、ザンクトがどういう状況にあったかを知りながらも、嬉しかった。まさかこんな所で出逢えようとは思いもしなかった。
「久しぶりだな。七年振りか?」
「ええ、そうよ。私はこの七年、復讐のためだけに生きてきたわ。父さんを狂わせ、母さんを殺したあなたを殺すためにね!」
遠くでヴォルフの戦闘を見ていたゼーレは、この突然の介入に混乱していた。子供達を守ったという事は人間の味方ではあるらしい。だが今の言葉から、ヴォルフとは敵対しているらしい。顔見知りではあるようだが、ヴォルフとどういう関係にあるのか、ゼーレには見当がつかなかった。ただ一つ、二人はよく似ている。髪の色や顔の事を言っているのではない。雰囲気が、どこか哀しい一面を持っている様子が似ているのだ。
「それで? お前は今この場で俺を殺すのか? この状況下で?」
ヴォルフの目には少し哀しい色が見える。だが表面ではそれを悟らせないような態度を取っている。ザンクトは周囲のエーヴィヒを眺めた。
「でも、このエーヴィヒ達はあなたを狙っているんでしょ? なら私が手を下すまでもないんじゃないかしら」
ヴォルフはザンクトの言葉に反応した。ザンクトはエーヴィヒの存在を知っている。それは即ち、エルデの裏側に精通したどこかの組織か何かに属しているという事だ。ヴォルフは少し嫌な感じがした。たかが復讐のために自分の人生を棒に振ろうとしている。ヴォルフはそんな事をしてほしくはなかった。自分のせいで不幸になろうとしている人がいる。それを避けるためには、早く誤解を解かなければならない。そのためには話し合いが必要だ。力のぶつかり合いではなく。いずれにしろ、このエーヴィヒ達は邪魔な存在だ。
「どうだかな。さっきの子供達を見れば分かるだろうが、今のエーヴィヒに人を識別する能力はない。それに、お前の正体を知ればエーヴィヒもお前を脅威と思うかもしれない。なあ、ヴェーア・ヴォルフの妹――ザンクト」
ゼーレはヴォルフに妹がいたという事を知らなかった。しかもその妹がこのザンクトで、彼女はヴォルフを親の仇として復讐しようとしている。こんな哀しい兄妹関係があるなんて。ゼーレの心は、驚きの後沈んでいった。
ザンクトは小さくため息をつくと、微笑とも嘲笑とも取れる笑いを浮かべた。
「本当卑怯な人ね、兄さんは。――いいわ、エーヴィヒの殲滅は私らフォルブルートの目的の一つでもあるわ。まずはエーヴィヒの殲滅といきましょうか」
ヴォルフは愕然とした。ザンクトがフォルブルートの一員だとは。まだよくは知らないが、あまりいい響きはしない。少なくとも、ヴォルフとゼーレの命を狙っている組織だ。結局兄妹は敵対の運命にあるという事になる。
「月卿雲客」
ザンクトは水の剣を出した。抜刀の動きを見る限りでも、その魔法技術はかなり高い。ヴォルフは一瞬でザンクトの力量の高さを知った。まともに戦えば、ヴォルフといえど苦戦を強いられるであろうことは明らかだった。
「お手並み拝見といきますか」
ヴォルフも剣を構えた。そして兄妹は同時に反対方向へ走り出した。双方の剣は乱舞し、エーヴィヒの首を飛ばしていった。先程に比べて、エーヴィヒの死体が転がる早さが二倍になった。
ヴォルフは戦いながらもザンクトの動きを観察していた。どうせ敵を見なくても体は動いてくれる。ならば妹の戦いぶりを見ている方がいい。ヴォルフは動きの細部を観察した。独学で武術や剣術を修得するのは基本的に難しい。なので、大概の場合は誰かの弟子につくことになる。そうすると、必ず流派というものが身に染み付く。それは体術を極めれば極める程に、だ。そしてある程度ザンクトの戦い方を見たヴォルフは、大方その流派が分かった。柔らかい動きで相手の攻撃をいなし、そして反撃に転じる。エルデの中でも修得が難しく、そして相手にした時に戦い辛い流派だ。ヴォルフはエーヴィヒを斬りながら、徐々にザンクトに近付いていった。
「お前、その戦い方はペルレの人間に習ったのか?」
ザンクトは一瞬だけ視線をヴォルフに向けたが、直ぐにエーヴィヒの方に戻した。
「そうよ。でもどうして?」
ザンクトの今の言葉だけでは、どうして分かるのか、と聞いているのか、どうしてそんな事を聞くのか、と聞いているのか判断出来ない。つまり、ザンクトはヴォルフとの会話に集中しきれていないのだ。ヴォルフはザンクトに背を向けた。これでお互いに背を向けている事になる。二人で多人数を相手に戦う時は、基本的にこうするのが定石だ。無防備になる背中を相手に任せる事で、目の前の敵だけに集中出来る。だがそのためにはお互いの信頼が必要になる。
「お前の戦い方を見てれば分かる。それに、お前の成長ぶりを見たかったからな」
ヴォルフはそう言った。その言葉は本心だった。だがザンクトはその言葉に対して冷たい反応を示した。
「今さらそんな言葉は聞きたくないわ。私たちを引き裂いたのは兄さんでしょ?!」
ザンクトはその時冷静さを欠いていた。首を回してヴォルフの方を向いている。エーヴィヒの方にも意識を向けているが、それも中途半端なものになってしまっている。ヴォルフは少し笑った。
「確かにな。お前は強くなったが、まだまだだな」
ヴォルフはそう言うと剣を逆手に持ち替えて、横に振った。突然剣が迫ってきたので、ザンクトは反射的に身を引いた。剣の切っ先はザンクトの目の前を通り過ぎた。
ザンクトは驚いて剣の先を見た。ヴォルフが今さらザンクトに不意打ちしてくるとは思えなかった。そうして見ると、剣の先にはエーヴィヒが刺さっている。ザンクトは、自分の死角からエーヴィヒが迫っていた事に全く気付いていなかった。ヴォルフの言葉に感情的になってしまったせいで、わずかな時間ではあるが戦闘に集中出来なかった。だがそのわずかな時間が勝負を、果ては生死を決める事になるのだ。ザンクトは自分の未熟さを痛感した。
だがそれと同時に、違う疑問が浮かんだ。ザンクトにとっては死角に入っていたエーヴィヒだが、それはヴォルフにとっても死角、見えていなかったはずである。ではなぜヴォルフはその見えないエーヴィヒを的確に仕留める事が出来たのか。ザンクトはその答を導くことが出来なかった。
「どうして……?」
ザンクトはエーヴィヒとの戦闘に意識を向けたために、また言葉足らずになってしまった。これでは、どうして攻撃できたのか、という問いと、どうして助けたのか、という問いのどちらにも聞こえてしまう。ザンクトは独り言のつもりだったのだが、ヴォルフはそれをちゃんと聞いていた。つまり、今もなお意識はザンクトの方に向いているという事である。
「お前は妹だからな。それに、面倒な事に人は殺すなと言われてんだ。何も見なくても敵の位置や動きなんてのは大抵分かる。特にエーヴィヒみたいな単純な相手ならなおさらな。だから簡単なことさ」
ザンクトはそうしてヴォルフとの格の違いを思い知った。戦闘経験の差があり過ぎる。ザンクトは今まで難こそあれ、割と障害もなくフォルブルートの中核にまで押し上がってきた。だがここに来て、今までにない程の高い壁を感じた。一対一の戦闘で、とても敵うような相手ではない。
全てのエーヴィヒが肉塊に変わり果てる頃には、陽は傾き始めていた。それ程に長い戦闘だったのだ。ヴォルフにとっては稀な、そしてザンクトにとっては初めての経験だった。
「どうやら……、全部片付けたようだな」
流石のヴォルフも肩で息をしている。相当に長い間青龍を使い続けていたのだから当然だ。ザンクトの方はもはや足腰が立たない状態だ。これもまた当然の結果だ。ザンクトは息を吸い込むのに必死で、会話をする気力もない。
「おい、ちょっと来い!」
ヴォルフはゼーレを呼んだ。今までずっと戦闘を見ていたゼーレだが、これまでこんなにも長い戦闘は見たことがなかった。そして、これほどの骸も、血も。
ゼーレはヴォルフの下に駆け寄った。その死臭に鼻がねじ曲がりそうだったが、自分だけ安全な場所に居続けるのは公平ではない。ゼーレは血の匂いと腐る臭いに耐えた。ヴォルフが次に何を言おうとしているかは分かっている。ゼーレがヴォルフの方を向くと、ヴォルフは一つ頷き、ゼーレも頷き返した。
ヴォルフはそのままとぼとぼと歩き出した。ゼーレも、朱雀でザンクトを浮かせると、白魔法を当てながらヴォルフのあとをついていった。
とりあえず宿を目指すしかないヴォルフだったが、その間に町の住民から受ける視線はさすがに痛かった。人間からすればただの大量虐殺。ただの恐怖と憎悪の対象にすぎないのだ。人間にとってはそれが事実。それだけが知り得る真実なのだ。誤解の中で生きていく事に多少なりとも慣れているヴォルフは、この視線にもまだ耐性がある。だが今まで平穏な中に育ってきたゼーレには厳しかった。魔法を使いながら歩いているためもあるが、その視線によって足を震わしている。何とか手を貸そうかとも思ったヴォルフだったが、体力的疲労はヴォルフの方が大きかったのでそれも出来なかった。
やっとの事で宿に着いた頃には、陽は沈んでいた。部屋に戻ると、ゼーレはザンクトを寝台に寝かせ、引き続き白魔法を当て続けた。そしてヴォルフも寝台に身を沈めた。眠りに落ちるのに時間はかからなかった。
ヴォルフが目を覚ました時、ゼーレもザンクトもまだ眠っていた。外を眺めると、もう太陽は大分高い所にまで上っている。ゼーレは介抱の途中で寝てしまったようで、ザンクトの寝る寝台に寄り掛かるようにしている。
「まるで姉妹だな……」
ヴォルフはそう漏らすと顔を洗いに行った。実際、そういう関係だったらどんなに良かっただろう。母親を殺されたという点では相違ないが、決定的に違う事は、仇が肉親かどうかという事だ。そして肉親に味方がいるという事。ザンクトの立場からすればそういう違いがある。独りの恐怖ほど人を追い詰めるものはない。そしてその先に待つものが光という事は決してない。必ず暗いものが待つ。だがもし姉妹のような、肉親に味方がいれば、復讐などという感情も薄らいだかもしれない。
ヴォルフが戻ると、部屋には少し険悪な雰囲気が流れていた。ザンクトがゼーレの首元に月卿雲客を突き付けている。一般的な言い方をすれば、人質。
だがヴォルフは余裕を見せた表情で、椅子に座りザンクトと向き合った。ザンクトは敵意を剥き出しにしている。
「何故助けた? 私達の目的は兄さんだって知っているはずだ」
ゼーレの顔に驚きの顔はあるが、恐怖はない。そしてそれはヴォルフも同じだ。つまり、二人ともザンクトがゼーレを殺すとは思っていないのだ。
「ああ、大体知ってる。俺とそいつを殺したいんだろ? だがお前は殺さない」
ヴォルフは確信をもった様子でそう言った。当然ザンクトはその態度が気に掛かる。
「何故そう言える?」
部屋には相変わらず緊迫した空気が張り詰めているが、それはザンクトの周りだけだ。あとはいたって平常通り。
「――これが組織の意志ではないからだ。つまり、お前は私用でこの町に来た。そうでもなければ一人なはずがない。今のお前はフォルブルートの一員としてのザンクトではなく、ただの青ずきんとしてのザンクトだ。だとしたら俺ならともかく、そいつは殺さないはずだ」
ザンクトの表情を見る限り、どうやら図星らしい。ヴォルフは終始変わらぬ余裕を見せ続けた。そしてザンクトもその剣を下ろし、ゼーレを解放した。ばつの悪そうな顔でザンクトは話した。
「今回は助けてもらった借りがあるけど、次は容赦しないから」
そう言って去ろうとするザンクトをヴォルフは呼び止めた。
「ザンクト。二つ聞かせてくれ。フォルブルートの目的は何だ?」
ザンクトは立ち止まると振り返った。その眼には確固たる意志が窺える。それは同時に覚悟の表れでもある。
「私らの目的は、混沌を正すこと。そして純血をこのエルデに再び取り戻す。――それで、二つ目は?」
フォルブルートの目的が今のザンクトの言葉通りなら、ヴォルフとゼーレの命が狙われる理由は大体理解できる。確かに名が体を表している。ヴォルフは納得してまた口を開いた。
「お前は、今の生き方に満足しているのか?」
ヴォルフの問いは、問いというよりもむしろ願いだった。もし答えが否なら、ヴォルフは何とかして手を差し延べたかった。それがヴォルフの感じる責任だった。
「ええ。私が選んだ道に悔いはないわ。周りの人はみんな私の味方だもの」
ザンクトの返答に、ヴォルフは安堵の顔をした。
「そうか……。ならいい」
そう言ったヴォルフの表情を今までゼーレは見たことがなかった。人に向けられた、暖かくて優しい表情。ゼーレは胸が痛んで苦しくなった。これ程に妹を思う兄とすれ違いが生じて、挙げ句その兄を恨むことになってしまうとは。人の業というものは何と残酷な事であろうか。
ザンクトはそのまま部屋から出て行った。そうして部屋にはヴォルフとゼーレの二人が残された。しばらくはゼーレも何も言えなかった。こんな状況で何が言えようか。何かを話そうと慎重に言葉を探すが、気の利いた言葉など思いつきもしない。
「いい妹さんだったわね」
そんな陳腐な台詞を言うのがやっとだった。この言葉も、ヴォルフにはどう捉らえられるかは分からない。もしかしたら気を害したかもしれない。むしろその可能性の方が高いと、ゼーレはそう感じた。だがゼーレの言葉にヴォルフは反応しない。少し考え事をしているようにも見える。そして少し経った後、ヴォルフは椅子から立ち上がった。
「――そうだな。俺達もそろそろ行くぞ」
ヴォルフは身仕度を整え始めた。ゼーレも急いでそれに続いた。ヴォルフは不機嫌というわけではなさそうだが、いつもよりは確実に暗い。その原因は明らかだ。ゼーレはそれ以降何も話し掛けなかった。
そして直ぐに宿を、アジールの町をあとにした。目的地であるフライシュタートまで、残りわずかとなった。ヴォルフとゼーレの旅は、一先ずの終わりを見ようとしている。
第七章
~断金之契~
アジールの町からフライシュタートまではまだ距離がある。だが残りの食糧事情を与すれば、数回の野宿の末には辿り着く事が出来る。長かった旅もこれで一先ず終止符を打つ事が出来る。
「そういう事だ。ここからフライシュタートまではどの町にも寄らずに行くからな」
ヴォルフは地図を広げて見せて、一応の確認を取った。女のゼーレにとって、数日を野宿で過ごすのは苦かもしれない。だがヴォルフはたとえ拒否されても、その意見を聞き入れようとは思っていない。これはあくまで確認に過ぎないのだ。
ゼーレもそれを了承しているのか、少し嫌そうな顔をしたが頷いた。
思えばヴォルフ達は、寄る町々で何かしらの出来事に巻き込まれている。一番最初の厄介事は、アンファングでゼーレに無理矢理選手権に出場させられた事だ。それが全ての始まりだった。
何度か町を通るが、食事をする程度で長居はしない。そしてその町を出て夜は野宿をする。今まで起きてきたことを考えれば、町に長居することが得策でないことはゼーレにも理解出来る。だが、ヴォルフらを襲おうとする者達だとて、町の統治の制度として町が狂気に満ちていたフェアウアタイルングや、町の住民の殆どがエーヴィヒだったアジールのような町を除けば、町の中での戦闘は避けようとするはずだ。
「ねえ、ヴォルフはどうしてそこまで町の滞在を避けようとしているの?」
結局ゼーレでは答えまで辿り着けず、ヴォルフに尋ねた。ヴォルフは特に変わった反応をするわけでもなく、ただ淡々と答えた。
「理由は二つある。一つ目は、まあ二つ目とも密接に関係してるんだが、なるべく早くフライシュタートに着いてハイリゲに会いたいんだ」
ゼーレはこの時また新たな疑問が浮かんでしまった。ヴォルフと父親が顔見知りである事は以前の会話で何となくは分かっていたが、どうしてヴォルフが父親と会いたいと言っているのかは分からなかった。だが今それを聞いても、ヴォルフにはぐらかされそうな気がして、その疑問は口から出る前に飲み込んだ。それよりも今はもう一つの理由の方だ。
「二つ目は?」
「もう一つの理由は、俺が襲われるようになったからだ」
ゼーレにはヴォルフのその言葉だけでは分からなかった。
「どういう事? ヴォルフを襲う相手だって、町の中で本気で戦いはしないでしょ?」
ヴォルフはゼーレのその反応を見て悩んだ。上手く言葉を選ばないと、また面倒になりそうだ。ヴォルフは少し考える間を空けた後、質問に答え始めた。
「俺が狙われるようになったのは最近になっての話だ。という事は、相手にとって俺が必要になったか、それか用済みになったかのどちらかだ。どちらにしろ、相手はそこまで準備が進んでいるんだ。そして、それを阻止しようと、他の連中まで俺を狙うようになった。だからなるべく急がなければならないんだ」
やはりヴォルフの言葉だけでは、ゼーレにはその真意は掴めない。相手とは誰なのか。何の準備が進んでいるというのか。何を急がなければならないのか。
「その答えはつまり、お父さんが知っているのね?」
今ゼーレが抱くこの疑問も、父親に、ハイリゲに会えれば解消する。ゼーレはそう解釈した。
「まあ、半分近くはな。あと、お前が知りたがっている俺の正体も、ハイリゲはほぼ全部知ってる」
ゼーレは頷いた。今まで感じていた、自分だけ蚊帳の外にいるような孤独感も、怒りも払拭されようとしている。今はその確信が持てただけで満足だ。
前方に何やら揺らめく影のような物が見え始めたのは、二日の野宿の後の早朝のことだった。朝だというのに、灼熱と化している砂漠のせいで既に相当暑い。暑いというよりも、熱い。それは陽炎が出来る程だった。遠くの景色が、その姿を隠すように揺らめいている。ぼんやりとしかその姿は確認出来ないが、そこにあるのは確かだ。ようやく見えてきた。エルデの中でも確実に十本の指に数えられる程に巨大な町、フライシュタートだ。
姿は見えているが、歩いても歩いても近付いている感じがしない。実際、ゼーレが思っている以上に距離があったのだ。だがそんな距離からでも視認出来る程に巨大な町なのだ。二人がようやく町に着く頃には、もう大分陽は高くなっていた。正確には、昼がほぼ間近に迫っている。
「さて、どうしたもんかね」
これからはハイリゲを探すだけなのだが、如何せん町が広い。しかもハイリゲは身を追われている立場にある。当然身を隠しているはずだ。そんな状況でたった一人の人物を探し当てるのは、広大な砂漠に落とした一粒の麦を見つけるのよりも難しいかもしれない。とりあえず情報を得ない事には始まらない。だがそれよりも今やらなければならない事がある。
「まあ、腹が減っては戦は出来ないからな」
ヴォルフはそう言うと、適当な飯屋に入った。ゼーレは父親がいるという町に入り気が浮かれているのか、先程から辺りをきょろきょろと見回してばかりいる。しかも目線は建物の高さに合わせて上を向いているので、時々ヴォルフを見失いがちになる。今も、ヴォルフが飯屋に入ったことに気付かず、少し通り過ごしている。慌てて引き返すが、その姿は同行しているヴォルフも恥ずかしい。
「もう、ご飯にするならそう言ってよ」
「お前はさっきから浮かれすぎだ。少しは自重しろ」
ゼーレはそう言って辺りを、今度は人の目線で見回した。人々の視線はゼーレに集中している。その視線の意味が分かった途端、ゼーレの顔はかぁっと赤面した。そして下を向いて黙り込んでしまった。
二人は黙々と昼食を摂っている。流石はフライシュタートといった所か。各地の名産品が集っていて、二人にとって懐かしいような料理まである。これ程に大きな町なら、短期滞在の人も多くハオベも多い。赤ずきんと白ずきんの男女が並んで歩いても、目立ちはしない。
「絶品ね」
「ああ、そうだな」
会話は少ないが、二人ともこの町の料理には満足している。旅を続けているヴォルフにとって、こういう町はそうそうないが、たまにあると郷愁の念に駆られる。だがヴォルフにとって故郷と呼べるような土地はない。その殆ど全てが壊滅している。だからヴォルフが郷愁を覚える時は、同時に哀愁も覚えてしまう。そして襲ってくる後悔、罪悪感。
飯屋をあとにした二人だったが、この後どうするかを決めていなかった。というか決められない。町行く数人の人にハイリゲの事を尋ねてはみたものの、みな首を横に振り、場所など分からない。そんな状況では次どうするかなど決められるはずもない。
「困ったわね……」
ゼーレは困った顔をしているが、ヴォルフにはいくつか心当たりがあった。確信はないし、該当する場所も半端な数ではないが、それでも寄る辺はそれしかない。
「以前シュテルンは、ハイリゲが身体的に難を抱えていると言っていた。そして奴の口ぶりからは、会うこと自体はさして難しくはなさそうだった。――お前ならハオベを探すとき普通はどうする?」
辺りを見回しながら歩いていたゼーレは、突然話し始めるヴォルフの言葉に、驚いて振り向いた。一番初めは聞き逃したが、会話の流れと記憶から何とか補完出来た。そしてゼーレはヴォルフの質問を考え始めた。顎に手をやり、少し俯いて思考を巡らす。白ずきんとしてなら、他のハオベよりも探し方が多い。
「まず拈華微笑で話し掛けてみるかしら……」
ヴォルフはゼーレの考えを読んでいたらしく、直ぐにそれに対する言葉を放った。
「確かに、一度接触していて条件を満たしている相手なら、それも可能だ。では相手がその対象外だったら、次はどうする?」
ヴォルフはまた次の質問をゼーレに投げ掛けた。出鼻を挫かれた思いで、ゼーレは再び俯きだした。この状況下での質問であるから、人に聞くというのは無しだろう。だとしたらどうすればいいだろうか。相手はハオベだ。ハオベの持つ特性を利用して、何かいい方法はないだろうか。
「――気配かしら? 私は得意じゃないけど……」
ヴォルフはその返答も予想していたようで、また直ぐに言葉を返してきた。
「そう、気配だ。じゃあ今の二つに共通する事柄は?」
難解ななぞなぞを解かされているような気分で、ゼーレは再び俯く。ヴォルフが何を意図しているのかは分からないが、上手く誘導して何かに導こうとしている。様々な思考を巡らして、頭の中の情報を整理する。拈華微笑を使うときに意識する事、気配を頼りに探すときに意識する事。そしてゼーレは気が付いた。
「……もしかして、ツァオバー?」
ゼーレはそう言ってヴォルフの顔を見た。ヴォルフは指をパチンと鳴らして、してやったりといった顔をしている。そして頷いて話し始めた。
「そうだ。両方に共通するもの、それはハオベの象徴ともいえるこのずきんから溢れ出る力の根源、ツァオバーだ。拈華微笑を使う時も、気配で相手を探す時も、基本的にはツァオバーを頼りにしている」
ヴォルフはそこで説明を一回切った。だがそれでもゼーレにはヴォルフの意図する所が分からない。鍵となるのは魔力。それは今の会話からも明らかだ。だがそれを手掛かりに一体どうしようというのか。魔力など、ハオベが大勢いるフライシュタートには満ち満ちている。個人の魔力を特定する事などまず不可能に近い。
ゼーレが相変わらず分からない風をしているので、ヴォルフは説明を続けた。ヴォルフからしてみても、かなり突拍子のない推測だとは思っている。
「身体に難を抱えているということは、迂濶には動けないということだ。だがそれでいて誰にも見付からないようにしなければならない。そのためにはさっきも言った通り、ツァオバーをどうにかしなければならない。ここまで言えばもう分かるよな?」
ゼーレはヴォルフの言葉を手掛かりに、何とか答を出そうとした。要するに、他に魔力を感知されなければいいのだ。魔力を抑え込むことが出来ればいい。そして、そんな事が出来る物は一つしかない。
「――アムレット?」
ヴォルフは頷いた。そしてゼーレはヴォルフがどこに向かっているのかが分かった。確かに筋は通っているし、そう考えるのが妥当ではある。今ヴォルフが向かっている場所も、この推測からすれば当然の行き先だ。だがこんな事でそう簡単に見つかるのだろうか。追われている身なのに、こうもあっさり居場所の見当を付けられたら、簡単に見つけられてしまう。
「つまり、アムレットで周囲を囲まれた部屋だ。これなら中から外へ魔力が漏れるのを防ぐことが出来、かつ外から中への侵入も防ぐことが出来る」
ゼーレはこの言葉で自分の抱いていた疑問を解決出来た。アムレットは本来ハオベからの侵略に対する、防御用の魔石なのだ。仮に場所を見付けられても、アムレットで周囲を囲んでいる限りハオベは侵入することは出来ないのである。
そうしている間に、二人は目的の場所に着いていた。
「そんな家あるいは部屋なら、建てる時などに必ず噂になっているはずだ」
二人は物件仲介所、いわゆる不動産屋の前に来ていた。フライシュタートにはこの手の建物は多々あるが、大きいとはいえ一つの町の中なので、横の連携は取れているのが普通だ。だからどこか一つにでもそういう情報が入れば、自然と広がるはずだ。たとえ口止めされていても、噂を止める事は不可能だ。それは人の性なのだから。
ヴォルフとゼーレは扉を開けて中に入った。店内は閑散としていて、客も見当たらない。だがその状況は二人にとっては幸運だった。不審がられなくて済む、というのと、ハイリゲの居場所を知られずに済むからだ。
「アムレットを使った家や部屋の噂を聞いた事がないか?」
ヴォルフは真っ直ぐに店員の所へ向かって行き、そう尋ねた。店員は突然の質問に面食らったような顔をしていたが、直ぐに二人の顔を見比べて怪訝な顔をした。怪しまれるのは覚悟していたが、ここまであからさまにされるとはヴォルフも思わなかった。店員は何度も二人の顔を見比べた後、少し重々しく口を開いた。
「――失礼ですがお二方、お名前は?」
ヴォルフは店員の態度に不審感を抱きながら、どうするか迷った。この感じだと、誰かから言伝されているのかもしれない。例えば名前を聞いて、その名前次第で突き返すか否か、とか。だがその可能性を考えた所で、ヴォルフには他に名乗れる偽名もない。なので正直に答えるしかなかった。
「ヴェーア・ヴォルフとエンゲル・ゼーレだ」
店員はその名前を聞くと直ぐに紙を取り、その上に何かを書き始めた。ヴォルフはその様子を黙って見ていたが、それはどうやら地図のようだ。大雑把に地図が紙面上に描かれていく。恐らくはそういう仕組みなのだろう。ハオベとしての身体的特徴、つまり髪と瞳の色を見て、その後に名前を聞く。その両者が一致した時にこの地図を渡すように言われているのだ。だが今この店員はどちらの名前に反応したのだろうか。もしこれを指示したのがハイリゲやその従者だとしたら、ハイリゲにはヴォルフともゼーレとも接点がある。そしてフェアウアタイルングではシュテルンとも会っている。どちらにも可能性が無い訳ではない。
ヴォルフがそこまで考えた所で、店員は地図を書き終えていた。そしてその紙を指でひらひらとしながら、ヴォルフに手渡した。
「ここにあなた達の会いたがってる人がいますよ」
地図を見ると、この不動産屋の場所と割と大きな通り、そして×印が記されている。この店員の言葉を信じるならば、ここにハイリゲがいるという事になる。
通りに出た二人は、地図に従って移動を始めた。町は相変わらず人で賑わい、かなり歩きにくい。地図で見る限りは大して距離はなさそうなのに、実際に歩いてみると想像以上に時間を取られる。
地図通りに歩いて到着したそこには、普通の一戸建てが建っているだけだった。少し開けた場所に立つその家は、この町の住宅からしてみても小さい方の部類に属するだろう。ヴォルフは外壁を注意深く見たが、とてもアムレットで出来ているようには見えない。事実、中からはハオベの気配がしている。
とりあえずヴォルフは扉を軽く叩いてみた。不動産屋の店員が無駄な嘘をつくとは思えない。しかもあの店員はヴォルフらの名前に反応したのだ。関わりが無いと断言する方が無理というものだろう。
少し待ってから、扉が静かに開けられた。だが次にヴォルフの目に迫ったのは、靴だった。ヴォルフの顔を目掛けて、蹴りが迫っていた。ヴォルフは反射的に身をのけ反らせてそれをかわすと、その勢いのまま後方回転をして相手との間合いを取り、体勢を立て直した。
「誰だか知らんが、随分乱暴なご挨拶だな」
ヴォルフはそう言うと直ぐに戦闘の構えを取った。先程の攻撃は、不意打ちではあったが命を狙うような攻撃ではなかった。つまり、相手は様子を見ているのだ。
ヴォルフは相手の顔を見据えた。外衣を羽織っているために顔は見えないが、瞳の奥の赤い色は見えた。ゼーレは状況が理解出来ずにおどおどしている。
二人はしばらく睨み合っていたが、相手が何の動きもしないのでヴォルフの方から動いた。一気に間合いを詰めていく。そして拳を突き出した。だが相手は直ぐに身を引いた。相手のその動きは、戦闘が始まったにしてはあまりに不自然なため、ヴォルフは困惑した。だが直ぐに理解する。先程対峙した時、このハオベはヴォルフと同じ構えを取っていた。ヴォルフは構えを解いて胡散臭そうにそのハオベを見た。要は本人かを見極めるための番人にすぎないのだ。
そのハオベは笑いながら外衣をはずした。ヴォルフにはその顔に見覚えがあった。
「相変わらず隙がねえな、ヴォルフ」
ヴォルフは頭を掻いた。一体何年振りだろうか。こんな所で再会出来るとは思ってもみなかった。
「――ロート、こんな所で何してんだよ?」
ロートと呼ばれたハオベは、ヴォルフの方に近付くと腕をヴォルフの肩に回した。そしてそのままヴォルフを家の中に連れていこうとして、ゼーレの存在に気がついた。
「ヴォルフ、こちらのお嬢さんは誰だ?」
ゼーレは呆気に取られたままで、ロートの言葉もただ流れるだけだった。ヴォルフが少し嬉しそうに楽しそうにしているのが、いつもとは違って不思議な感じだった。
「ああ、こいつはハイリゲの娘だ。依頼を受けて一緒にいる」
ロートは納得したようで、ゼーレも中に呼び寄せた。ゼーレは扉に近付きながらも、ようやく言葉を発することが出来た。
「――ええと、展開が読めないんだけど。ヴォルフ、こちらの赤ずきんはどなた?」
ヴォルフが答えようとしたのを、ロートは手を上げて遮った。そしてゼーレに向かい直して手を差し伸べた。
「俺の名前はロート。ヴォルフとは修業時代の同輩だった。以後よろしく、ゼーレお嬢さん?」
ゼーレはロートと握手をした。ヴォルフがいつもと違って嬉しそうなのは、友人と会えたからなのだと、ゼーレは気付いた。ヴォルフとは全く逆の人に見える。明るくて社交的な人。
家の中に入ると、ロートは厳重な扉の鍵を閉めた。外装からはまるで分からないが、内装には要所々々にアムレットが見える。そしてロートは床にある隠し扉のような物を開けた。扉の先には、地下へと続く暗い階段が見える。三人はその階段を下りていった。
「それにしても久しぶりだな。何年振りになるんだ?」
「三年だろ? 俺が師匠の下を去って以来だからな」
「その後はずっとハイリゲの所にいたのか?」
「……まあな。だがあの時は後悔したよ。ヴォルフとの手合いに勝ち越せてなかったからな」
「ハ、よく言うぜ。最後に勝ち逃げしたくせに」
「ハハハ、まああれは俺への餞別ってことで」
ヴォルフとロートが親しそうに楽しそうに話しているのを、ゼーレは後ろから一人で眺めていた。この二人には繋がりが、絆がある。だがずっとフェアウアタイルングに篭っていたゼーレには無い。世界を知るヴォルフと、一つの町すら満足に知らなかったゼーレ。ゼーレは一人疎外感を胸に抱いていた。
地下に下りたヴォルフとゼーレは、その眼下に広がる光景に圧倒された。この地下に下りるまでにも、何度か厳重なアムレットの扉を通ってきたが、この光景は凄まじかった。
「何、ここ……?」
ゼーレの口からはそんな言葉が漏れるだけだった。地下に広がる広大な敷地。そしてその上下左右全てを覆うアムレット。
「凄いな……。こんな莫大な量のアムレット、一体どうやって?」
ヴォルフはロートの方に顔を向けた。ヴォルフも驚きを隠せないでいる。
「ハイリゲ様はペルレの人達と交流が深いのさ」
確かに、アムレットとベーゼアガイストの産出量は、ペルレが世界の半分以上を占めている。だがそれにしても、これだけの敷地に相応するアムレットを入手することは、普通の人には不可能だ。たとえ一生をかけたとしても。
ヴォルフはその空間に圧倒されていて気が付かなかったが、奥の方に人影が見える。ロートがその人の方に歩き出したので、二人もそれに従った。
充分に近付いた所で、その人はこちらに近付いてきた。そしてヴォルフの肩を掴んだ。
「おお、ヴォルフ君! 久しいな」
その人、黒髪と青髪の白ずきん、ハイリゲは嬉しそうにヴォルフの肩を揺さ振った。ヴォルフも抵抗はしない。ハイリゲはヴォルフの後ろにもう一つ人影があるのに気が付いた。そして視線をそちらの方、ゼーレの方に向けた。
「そちらは、誰かね?」
ヴォルフはこの時、急に言いようの知れない違和感を覚えた。それに、シュテルンが言っていた事も今になって気になり始めた。だがそれがはっきりしない今、それを悟らせないよう繕って説明を始めた。
「何言ってんだ。あんたの娘だろ?」
ハイリゲは顎に手をやり、少し中空を見つめた。本当に忘れかけているようだ。
「娘、というと――ゼーレか!!」
ハイリゲはまじまじとゼーレを見た。ゼーレの話だと、およそ七年振りとなるので、お互いにあまり覚えていないのだろう。
「まさか……生きていたとは。こんなに大きくなって」
ハイリゲは感慨にふけっていた。父親の心境からすればそうだろう。しかもゼーレがいたターブは壊滅しているのだ。その時にゼーレも死んでしまったと考えるのも自然な成り行きだ。なので再会が果たされるとは思っていなかったはずだ。
「そうかそうか……。ところでヴォルフ君。君が私を訪ねてきた目的は大方予測が立つ。だがその前に君の力を見せてくれないかね? ――ロート」
ハイリゲは急に目付きを変えた。そしてロートの方を振り向いて目配せをした。ロートは頷いて移動を始めた。どうやら既に手筈は整えていたようだ。ハイリゲもゼーレを連れて歩き出した。ヴォルフは軽くため息をついた。
「……拒否権はないんだろ?」
ヴォルフも仕方なく移動を始めた。広い空間内で、ロートとヴォルフは向き合った。急に空気が変わり、緊張が走る。ヴォルフは手や足を振って身体をほぐし始めた。ロートも同じようにしている。
「手合いではないからな、容赦なんかすんじゃねえぞ、ヴォルフ。どうせここはアムレットで出来てんだから、そうそう壊れる事はないんだから」
ゼーレはこの時、フェアウアタイルングでの事を思い出していた。あの時ヴォルフはアムレットで出来た衣装を着ていたにも関わらず、魔法を使っていた。つまりアムレットでも防ぐ事の出来る魔力には限界があるはずなのだ。だがあの時のアムレットは薄い布に仕込まれただけの物で、この空間を覆うアムレットとは量が違い過ぎる。量が多ければ当然その効力も上がる。ロートはヴォルフの実力をある程度は知っていて、それを含めて大丈夫だと言っているのだから、やはり相当量のアムレットが使われているのだろう。ゼーレは息を呑んだ。今までヴォルフが戦う姿は何度も見てきた。だが一対一でのこのような戦闘は初めてだ。
「では、始め!」
ハイリゲの掛け声と共に、二人は走り出した。お互いに赤ずきんで、しかも元同輩なので、相手が使う魔法やクセなどは知り尽くしているはずだ。なので最初の探り合いなどは全くない。豪華絢爛、風林火山などで牽制しあいながら、どんどん距離を縮めていく。
普通、ハオベが魔法を使う時に技の名前を言うのは、技に対する心象を固めるためだ。技の名前を口にすることで、その技がどのような威力、形状、特徴を持つかをはっきりと意識する事が出来る。なので、技に対する意識が無意識下ではっきりしていれば、技の名前を言う必要もないのだ。だがそれが出来るのはかなり手練のハオベだけだ。普通のハオベでも、集中力を高めればやって出来ない事はないが、とてもではないが戦闘中には出来ない。
だがヴォルフもロートもそれが出来る。大きな技、難易度の高い魔法では無理だが、殆どの魔法を名前を言う事なく使用出来る。事実、試合が開始してから、二人とも一言も言葉を発していない。
「凄い……」
ゼーレの口からはそんな言葉が自然と漏れた。目が離せない。目で追い付けるような戦いでもないのだが、視線が釘付けになってしまう。
初動ではお互いの攻撃をぶつけ合うだけで終わった。互角とはいえ威力は凄まじく、ぶつかった途端から爆発が生じる。しばらくは爆煙で視界が遮られたが、それが晴れると既に違う戦局に移っていた。お互いに快刀乱麻で斬り合っている。
お互いの斬撃を紙一重でかわしたり受け止めたりいなしたり、そして直ぐに次の攻撃に移る。全く無駄も隙もない動きは、二人とも殆ど同じだった。同じ師匠の下で教わっていたのだから、修得する流派も同じになるのは当然だ。お互い、まるで踊りを舞っているかのような動きで攻撃と防御を行っている。舞う二人に、斬撃の赤色、刀がぶつかり合う時に生じる火花。それらは戦闘中とは思えない程に鮮やかで、美しかった。見る者の目を奪うほど、美しく速く強く。
今まで一刀で戦ってきたヴォルフは、左手にも刀を出し、そして両方の刀を槍状に変形させた。これはヴォルフが最も得意とする戦い方だ。腕は二本しかないが、これだと刀は実質四本ある。そしてヴォルフはそれを振るい始める。
「――お前、こんな戦い方だったか?」
両手持ちに変えたヴォルフ相手に少し圧され始めたロートは、ヴォルフの戦い方が以前と違う事に気が付いた。以前も、ヴォルフの戦い方は攻撃的であったが、今はそれがさらに強くなり、防御面においても強くなっている。ロートがヴォルフの顔を見ていると、様子がおかしい。以前にもあったが、ヴォルフの焦点が定まっていない。ヴォルフは恍惚としていて、戦う事に意識を向けていない。ロートはヴォルフが無意識下で戦っている事に驚いた。戦いに集中しないことは普通命取りになるというのに、ヴォルフはその逆で、意識を断つことで感覚を研ぎ澄ましているのだ。
ロートが一本の刀を払っても、ヴォルフは直ぐに手首を返して逆側の刀をロートに向け、ロートがそれを屈んでかわすと今度は左右逆側から刀が迫る。それを払っても、ヴォルフは手首を返す。回避のみに集中しても、四本の刀の乱舞全てを回避するのは難しい。そんな事が何度も続き、ロートは全く手を出せなくなっていた。
防戦一方の戦いはいずれ負ける。そんな事は重々承知している。なのでロートは一度身を引いた。するとヴォルフの瞳に輝きが戻った。ロートはヴォルフと充分に距離を取ると、腕を前に出して構えた。
「本当、恐ろしいヤツだよ、お前は。臥竜鳳雛!」
ロートがそう叫ぶと、ロートの手の先が光り出した。ゼーレはこの時直感した。今ロートは技名を唱えた。つまり、高等魔法を使ったのだ。
ロートがそう叫ぶのとほぼ同時に、ヴォルフも手を前に出して構えた。手の先が赤く光り始める。だがヴォルフは何も言わない。
ロートの魔法が先に発動して、ロートの手の先から赤い竜が姿を現した。美しいまでに鮮やかな竜は、上方に向かって咆哮すると、直ぐに身を翻してヴォルフの方へと向かっていった。青龍の中でも最高位に属する臥竜鳳雛を、それ以下の魔法で防ぐ事はまず無理だ。今ヴォルフに迫っている竜は、その全てが実体化した炎なのだ。
「臥竜鳳雛!」
その竜がまさにヴォルフに襲い掛かろうとした瞬間、ヴォルフは技名を唱えた。瞬時に竜が現れて、迫り来るロートの竜を打ち破った。ゼーレには、何故同じ魔法なのにいとも簡単にロートの技が破られたかが分からなかった。
「やるじゃねえの。ヘクセライを使う時、ツァオバーが瞬間的に上がる事を利用しやがった」
ロートが言った事でゼーレは思い出した。以前学んだことがある。魔法を使用できるようになるための条件は、その魔法に対する心象と魔法の性質、そして魔力だ。まずその魔法が、朱雀や青龍などのどれに属するかによって、使う魔法の種類を決定する。そしてその魔法がどういったものなのかを、頭の中で鮮明に想像することによって使う魔法を確定する。ここで注意しなければならないのが、魔法を使う時の魔力と魔法を使うための魔力が等しくないということだ。魔法を発動させるためには、その魔法を使う時に必要とされる魔力よりも多くの魔力が瞬間的に必要となる。簡単に考えるならば、魔法を使うために魔力の山を越えなければならない、という事だ。この山の高さを下げ、使用時の魔力も下げるのがベーゼアガイストであり、その逆に山の高さを上げ、使用時の魔力も上げるのがアムレットなのである。
そして今ヴォルフは、臥竜鳳雛を使うために魔力の山を越え、一番頂きで魔力が高まっている状態の僅かな瞬間に、ロートの臥竜鳳雛にぶつけたのだ。理論上は可能だが、その瞬間を狙うのはかなり厳しい。本当に僅かな時間しかないからだ。もし出すのが少しでも遅ければ、山を越える手前なので魔法は発動せずにロートの臥竜鳳雛を食らってしまう。また、出すのが早くても、山を越え終わって魔力は互角の状態なので相打ちにしかならず、場所はヴォルフに近いので爆発に巻き込まれてしまうかもしれない。まさに山頂の状態でなければなしえない所業なのだ。
ロートの臥竜鳳雛を食い破ったヴォルフのそれは、数回躯をうねらせてからロート目掛けて突き進んだ。ロートは臥竜鳳雛をじっと見据えて微動だにしなかったが、それが間合いを計っているのだという事は直ぐに分かった。そしてまさに臥竜鳳雛が真上から迫ったその瞬間に、ロートは前面へと駆け出した。直後、臥竜鳳雛は床へと衝突した。本来ならそこから炎が放射状に広がっていくのだが、床にもアムレットが敷き詰められているために、ヴォルフの臥竜鳳雛は爆発を、魔力とは無縁の産物を起こしただけだった。それによって二次的に起きた爆煙は、回避行動を取るロートの姿をも隠した。
視界が晴れた時、ヴォルフとロートは再び快刀乱麻による接近戦を繰り広げていた。
一刀をロート目掛けて振り下ろしたヴォルフは、それを防がれると直ぐにその刀を後方に延ばす。その刹那、金属がぶつかり合う乾いた音がした。そしてそこからロートの姿が現れた。ロートは二刀の内の一本でヴォルフの攻撃を防ぎ、もう一刀でヴォルフ目掛けて刀を振り下ろした。それは確実にヴォルフの身体を捉らえ、ヴォルフを寸断した。
だがロートは直ぐにその場から跳び退いた。その直後にそこが爆発を巻き起こした。ゼーレには何が起きているのか全く分からなかった。辛うじて青龍や玄武による騙し合いが行われているのは分かるが、だがそれだけだ。激戦の最中にそんな事が行われようとは思わなかった。ゼーレはこの時ようやくヴォルフの真髄を見た気がした。
「――決着がつかねえなぁ」
爆煙が晴れると、ヴォルフとロートはいつの間にか最初と同じ位置に立っていた。今までの戦いを見ていても、二人が手を抜いて戦っているようには見えない。殺気こそ出さないものの、本気で相手を殺そうとしている。それなのに二人の表情は明るい。とても楽しそうだ。
「仕方ないな。俺のとっておきを見せてやるよ」
ロートはそう言うと再び腕を構えた。その構えはヴォルフも今までに見た事のない構えだった。そして見る見る魔力が溜まっていく。今までとは比にならない程強大な魔力が、ロートの腕先に溜まっていく。
「……そう来たか。なら俺も出し渋りは出来ないな」
そう言うとヴォルフは、右手を上に、左手を下にした。ヴォルフの手も光り、僅かに地鳴りを始めた。だがその手に溜まっていく物は魔力ではないことが、ゼーレにも分かった。ゼーレは以前もこの魔法を見た事があった。確か、アンファングでのことだ。そして、ハイリゲの様子に微妙な変化が見られたのも、ゼーレは見逃さなかった。
「後悔するなよ?」
「ロートこそな」
お互いに手の先に溜められている物がどんどん膨大に強大になっていく。これは朱雀も白虎も玄武も、もはや青龍や麒麟すら越えている。ゼーレは自分がその力を前に怖がっている事に気付いた。冷たい汗が首筋を流れるのが気持ち悪い。そして、両者の魔法はほぼ同時に溜まり切った。
「いふ……」
「てんじ……」
「それまでだ!!」
ハイリゲの声が空間内に響き、僅かに木霊した。ヴォルフもロートも、その声に驚いて魔法を解いた。そして呆然とした顔でハイリゲを眺めた。ハイリゲは二人の間に歩み寄ったので、二人とも自然とそこに集まるように歩き出した。
「君達は本当にここを壊す気かね? 鳳凰なんて使われたら、いくらアムレットで覆われているといっても防ぎきれない」
そう言われて、ヴォルフとロートは自分達の置かれている状況を思い出した。つい戦闘に集中するあまり、周りに目が行かなくなっていた。
そしてゼーレは、二人が使おうとしていた物が鳳凰だと知って納得した。魔法の最高位、修得には数十年掛かるとすら言われ、それゆえ半ば伝説化している究極的な魔法だ。その種類も、わずか数種しか確認されていない。そんな魔法を二人が使える事にゼーレは驚きを感じた。どれだけの素質が揃えばそれが可能になるのだろうか。
結局それで戦闘は終了し、四人は別室に移動を始めた。先程から注意深くハイリゲを見ていたヴォルフは、ある事にようやく確信を持つことが出来た。先程の戦闘中に竜驤虎視を使った時にハイリゲを見て気付いたのだ。
「ハイリゲ。あんた、その足本物じゃないだろ?」
そう、つまりは義足。しかも一般人がするような代物ではない。相手の魔力を見る事が出来る竜驤虎視で見た限りでは、その足は魔力で出来ていた。つまり青龍で作った物なのだ。恐らく足のない部分辺りにはベーゼアガイストが仕込まれているのだろう。
「あの戦闘中でよく気付いたな。確かに、私の右足はない。この通りだ」
ハイリゲは感心するようにそう言って右足を上げた。右足を上げた時は、足の形は衣服の上からでもはっきりと見てとれた。だがその直後、支えを失ったかのように衣服ははらりと鉛直方向に垂れ下がった。ハイリゲは足の衣服をたくし上げ、そこに足がない事を示した。驚いたのはゼーレだけだった。ロートは数年はハイリゲの下にいたのだろうし、ヴォルフは右足が無い事を言い当てたのだ。今になって驚く事はない。
「まさか、それってターブの町が壊滅した時に?」
ゼーレはそんな事しか聞けなかった。だがその質問はヴォルフにとっても興味はあった。ヴォルフの記憶にあるハイリゲには、確かに両足があった。ハイリゲの返答によっては、ヴォルフは再び良心の呵責に耐えなければならなくなる。
ヴォルフのそんな様子を悟ったのか、ハイリゲは穏やかに答えた。
「そう案ずるな。これはヴァイゼーの追手にやられたものだ。断じてターブでのものではない」
確かにハイリゲは穏やかに答えた。だがその瞳には固い意志が窺える。それはただ一言、「ヴァイゼー」という単語が出た事によるものだと、ヴォルフには直ぐに理解出来た。少し雲行きが、というかこのままではまたゼーレの質問が続くと思ったヴォルフは、話を変える事にした。
「最初からおかしいと思ってたぜ。シュテルンとやらは、ハイリゲが身体に難を抱えていると言っていたのに、当の本人はぴんぴんしてやがる。竜驤虎視を使ったら、案の定だ」
ヴォルフは一度そこで話を区切った。ハイリゲは口元を緩め、ロートは声を上げて笑っている。ヴォルフは再び口を開いた。
「おかしい事はもう一つある。俺達は不動産屋に行ってアムレットを使った家の噂を聞いた。そしてその話をした途端に、向こうはここの場所を教えた。ここまでがお前らの思惑通りなら、少なくともその一報がここにあってもいいものだ。命を狙われているのなら尚更な。なのにこの家の入口では、本気でないとはいえロートが不意に攻撃を仕掛けてきたし、ハイリゲはゼーレが来た事を知らなかった。気配はまだ感じていないが、これはつまり……、」
ヴォルフがそこまで言った所で、ハイリゲは瞳を閉じてヴォルフを制した。まるで全てを悟っているかのように、落ち着き払っている。
「流石はヴォルフ君だ。君の洞察力は素晴らしい。確かにその不動産屋は私が仕向けたものではない。恐らくは奴らの組織内でそう決めていたのだろう。奴らはほぼ毎日のようにここにやって来ている。ただ破られていないだけだ」
淡々と事情を説明するハイリゲだったが、襲撃がそれだけ続くのを尽く退けるには、ロート一人では事欠いているだろう。
「――!」
その時、ゼーレ以外の三人が一斉に何かに反応した。直ぐに三人を取り巻く雰囲気が変わり、一瞬で緊張が走った。三人とも、この手の気配には敏感だ。敵意を持った気配、殺気を持った気配、そして人ならざる者の気配。
「……なるほど、そういう事か。今回は俺も加勢させてもらうぜ」
わずかではあるが、徐々に足音も聞こえるようになっている。数は十やそこらではない。段々と気配も強くなってきている。
「だがどうやって戦うんだ? ここは町の中。これだけの数を相手にするには場所が悪いんじゃないのか?」
今までもこういう事があったというのなら、今までも戦闘をしていて、そして町を傷付けていないという事だ。だが魔法を使えば少なからず建物は破損する。どうしても現在の状況と現在の事情が矛盾しているように思われてならない。
「流石のヴォルフも、この事実には気付かなかったみたいだな。覚えているか? この建物の周囲の事を」
ヴォルフはロートにそう言われて、この家の前に立った時の事を思い出した。
しばらく歩いていると急に道が開けて、そしてこの家が視界に入って来た。そして、その周囲には何があったか。
何があったか。
何もなかったのだ。ヴォルフは直ぐにある白魔法を思い出した。ハイリゲの方を向くと、ハイリゲもヴォルフの方を向いて頷いた。
「気付いたようだな。そういう事だ。ほら、行くぞ、ヴォルフ!」
ロートはそう言ってヴォルフを外へと連れて行った。ハイリゲも、外とは違う方向に歩き出していて、ゼーレは完全に行く場を失った。どちらについていっても、恐らく何も出来ないだろう。ゼーレはとりあえずハイリゲの方についていった。
ヴォルフとロートが家の外に出ると、既にかなりの数のエーヴィヒが辺りを囲んでいた。黒く異形なそれらは、所狭しと蠢いている。アジールの時よりは少ないが、その分場所も狭い。今までロートとハイリゲがエーヴィヒを退けてきた方法は分かったが、果たしてどれほどの力を出していいのかは分からない。その時、頭に直接語りかけるようにして声が聞こえた。
『準備はいいかね? 花鳥風月!』
恐らくはゼーレ経由で拈華微笑を使ったのだろう。ハイリゲの声が聞こえたかと思った瞬間、家の周囲、エーヴィヒを完全に囲んでしまう範囲に、半透明な物が半球状に張られた。先程ハイリゲが使った魔法、花鳥風月は半透膜を辺りに張る魔法で、片側からの魔法は通すが、その逆側からの魔法は全て反射してしまうという性質を持つ。ただし反射出来る魔法の限度はそれを使用するハオベに大きく依存する。
そこまでを知っているヴォルフとロートは、明らかに余裕の表情を浮かべている。そしてどちらともなく話し始めた。
「ロート、まさかエーヴィヒと戦おうだなんて思ってないよな?」
「冗談。さっきの続きをするに決まってるだろ?」
「それじゃあまずは、開始の立ち位置を作らないとな」
ヴォルフがそう言い終わるのとほぼ同時に二人は飛び上がり、それぞれが少し距離を離してエーヴィヒの真上に飛んだ。そして、それを言うのはまさに同時だった。
「臥竜鳳雛!!」
一方別室に移動していたハイリゲとゼーレは、壁に映し出されたロートとヴォルフの映像を見ていた。二人は臥竜鳳雛でエーヴィヒの集団を蹴散らすと、一度そこに立ってから直ぐに魔法を縦横無尽に放ち始めた。それは周りのエーヴィヒに向けられたものというよりは、むしろお互いに狙い合っているように見える。お互いに向けられた魔法は、空中で衝突すると二つに分かれて、エーヴィヒの方に向かうものもあれば花鳥風月に阻まれて反射するものもあった。
「まったく、あの二人は私の事は考えてくれないのかね」
ゼーレはハイリゲがそう言うのを聞きながら、画面に集中した。確かに、花鳥風月に攻撃が当たる度に、その半透明な膜が揺らいでいるように見える。そして攻撃が当たる度に、ハイリゲの額に汗が浮かんでいた。この魔法が使った者に負担となることは確かなようだ。
先程から魔法を放っているものの、その殆どが白虎なため、完全にエーヴィヒの息の根を止める事は出来ていない。いくら丸焦げに焼いても、エーヴィヒは直ぐにむくりと起き上がってくる。その光景は凄惨そのものだ。焼き焦げる臭いと、血の臭いと、腐った臭い。辺りに立ち込める臭気は鼻がおかしくなりそうな程だった。
ヴォルフとロートは快刀乱麻を携えると、エーヴィヒの群れを掻き分けながらお互いに近付いて行った。もちろんすれ違い様にエーヴィヒを両分していく。魔法を放ってくるエーヴィヒもいたが、所詮は白虎程度。青龍の前では何の意味もなさなかった。そして二人の刀が交えられた。
つい先程とまるで変わらぬ戦いが始められた。周りにエーヴィヒが蠢いていたとしても、二人の動きに変化はない。踊りを舞うようにして戦う二人には、四方八方にまるで隙がない。二人がお互いの刀を弾いてひらりと回転する度に、近くにいるエーヴィヒの首が撥ねられていく。エーヴィヒの魔法が放たれても、一連の舞いの動きの中で相殺されていく。
「なあヴォルフ。やっぱこいつらウザくないか?」
戦いながら、踊りを舞いながらロートはそう話した。ヴォルフの目は焦点が定まっていないが、今回は意識ははっきりしているようだ。戦いの最中にも関わらず辺りを見回して、ロートに答えた。
「確かに、まだかなり数はいるからな。じゃあさっきの続きといこうじゃねえか」
ヴォルフはそう言うと一度ロートの傍から離れた。ロートもヴォルフの真意を汲み取って、一先ず周りのエーヴィヒを蹴散らした。そしてお互いにある程度の距離が空いた所で、二人とも先程と同じ構えを取った。つまり、ロートは両手を前に出し、ヴォルフは右手を上に、左手を下に向けた。先程と同様に、見る見る魔力が溜まっていく。厳密にはヴォルフの方は魔力ではないのだが。そして地鳴りが始まる。
二人がそのような隙を見せている間にも、エーヴィヒは二人に襲い掛かろうとしている。先に魔力が溜まったのはロートの方だった。
「ハイリゲ様に教えてもらった、俺の最高位のヘクセライだ。威風堂々!!」
ロートがそう叫ぶと、ロートの手元がぱっと明るくなった。その刹那、地を這う光が高速でロートの手元から放たれた。それは地に亀裂を入れ、蠢くエーヴィヒを消し去った。エーヴィヒは完全にその場から消滅したのだ。まるで浄化とでも言わんばかりの光景だった。そしてロートの放った威風堂々は、あっという間もなくヴォルフに迫って行った。
「どう出る、ヴォルフ!?」
ロートはヴォルフがどのような対抗策を取ってくるかを期待していた。魔法の最高位である鳳凰に対抗出来るのは、もはや鳳凰でしかありえない。いかな青龍を使ったとて、それは鳳凰の足下にも及ばない。それ程の差が、鳳凰との間にはあるのだ。
「やっぱ鳳凰か――。まあ空中に避けるっていう手もあるんだろうが、見た限りではそれじゃあ何の解決にもならないようだ。俺も充分に準備は出来ているからな。出し惜しみはもう必要ないだろ」
ロートの放った威風堂々は、地を這う攻撃だ。だから空中に回避行動を取れば、その第一波は防ぐ事が出来る。だが普通の魔法と違って、この威風堂々は魔力の衰えがない。制限はあるものの、半永久的にヴォルフが空中から降りてくるのを待つ事が出来るのだ。ヴォルフは息を一つ吐き、集中力を高めた。そしてエーヴィヒ、威風堂々が迫る中で、小さく、だがはっきりとその魔法を唱えた。
「天上天下!!」
ヴォルフはそう叫んだが、端からでは何も起きているようには見えない。だがヴォルフはそれ以上何もしようとせず、右手左手を上と下に構えたままだった。そしてロートの威風堂々が眼前に迫った所でヴォルフは両手を前に突き出した。それが、正面から威風堂々を受け止めようとしているということは直ぐに分かる。
ヴォルフの腕と威風堂々が接触した刹那、激しい閃光が散った。耳をつん裂くような甲高い音と眼を塞ぐような閃光の中、ヴォルフの天上天下とロートの威風堂々は拮抗していた。どちらも押さず引かず、だがどことなくヴォルフが圧しているようにも見える。
「……ま、まさか?!」
ロートは自分の最高の魔法が今まさに防がれようとしているのが信じられなかった。先程見た限りでは、ヴォルフの手には魔力すら宿っていなかったのだ。それなのにヴォルフはそれを防ぎ、そして破ろうとしている。
「やっぱ鳳凰を斬ろうなんて、少し無茶だったか」
ヴォルフはそう言いながら、力を篭めていった。地鳴りが激しくなっていく。そして遂にヴォルフの天上天下は、威風堂々を二分に斬り裂いた。
斬られた威風堂々は、二つに分かれてヴォルフの斜め後方に進んで行った。その過程でも多くのエーヴィヒを消滅させ、やがては威風堂々自身も消滅した。
だがそれでもヴォルフに迫るエーヴィヒはその数を減らしてはいなかった。減っても減ってもいつの間にか元の数に戻っている。そして数多のエーヴィヒの爪がヴォルフにかかろうとした瞬間、ヴォルフの姿が消えた。
「これで勝負ありだな」
次にヴォルフの姿を視認出来た時、ヴォルフはロートを組み伏せていた。いつの間にか地面に倒されていることに、ロートも驚きを隠せなかった。ゼーレはおろか、ロートにもその姿が見えていなかった。それ程の高速移動だったのだ。ヴォルフはロートを放すと、再び姿を消した。その直後から、エーヴィヒの首が中空に舞い始めた。ロートは竜驤虎視を使ったが、何も見る事が出来ない。だが一つだけはっきりする事があった。それは、ヴォルフが魔法を使っていない、という事だ。今のロートの眼には、ただヴォルフの手に宿る二つの光が動き回る光景しか映らなかった。
「天上天下って一体何なんだよ……」
ロートが眼の前で起きている光景に唖然として立ち尽くしている間に、全てのエーヴィヒがその息の根を絶たれていた。そしてロートの目の前に再びヴォルフが姿を現した。ヴォルフは姿を見せるや否や、地面に尻をついて肩で息をした。汗も、ありきたりな例えで言うなら、まるで滝のように流れている。
「へへ、どうよ? 今回は俺の勝ちだな」
ロートはもはや言葉も出なかった。今ロートの目の前にいるのは、修業時代のヴォルフではない。あの頃とは比べ物にならない。
二人は、全てのエーヴィヒを片付けた事を確認した。ヴォルフはロートの肩を借りながらも家の中に入った。
「二人とも、ご苦労だった」
ハイリゲは戻った二人に椅子を勧め、飲み物を与えた。崩れるようにして座り込んだヴォルフは、その飲み物を一気に飲み干した。円卓に四人が座り、二人に少し休む時間が与えられた。ヴォルフは先程よりは落ち着いたが、まだ肩で息をしている。しばらく経った後でハイリゲが話し始めた。
「では、ヴォルフ君の聞きたい事に、私の知る限りを答えよう」
ハイリゲはそう言ったが、ヴォルフはそれを断るかのように手を振ると、人差し指をゼーレの方に向けた。
「質問があるのはこいつも同じだ。俺の方は後でいい」
突然話を振られたゼーレは、きょとんとした表情をしている。まさかヴォルフが自分を優先してくれるとは思わなかったのだろう。実際には、疲労で集中出来ない事をヴォルフ自身が分かっていたからに過ぎないのだが。
「では、ゼーレが聞きたいことは?」
ハイリゲは会話の対象をゼーレに変えて話し始めた。ゼーレはあまりに質問したい事が多くて、何から聞けばいいのか迷っていた。あれこれと頭の中に質問を浮かべては、聞く順番をつけていくのだが、やがて頭が混乱し始めて、そして考えをまとめる事を諦めた。
「と、とりあえず、あのエーヴィヒって一体何なの?」
ゼーレとしてはつい先刻目の前で起きた事を聞いただけなのだが、ハイリゲらにとっては核心にも近い質問だった。いきなりその部屋に緊張が走った。ヴォルフは少し苦笑を浮かべている。
「――ゼーレのその質問に答えるためには、もっと根底から説明する必要がある。長くなるが、いいか?」
ハイリゲはゼーレを見据えた。ゼーレはその堅い視線に一瞬身を強張らせたが、自分から言い始めた手前、もう退くことは出来ず覚悟を決めて頷いた。
「では、ゼーレは『赤ずきん』の童話は知っているか?」
突然された質問は、ゼーレに理解される事を拒んだ。ゼーレは以前にもこのような状況があった事を思い出した。あれは確かチゴイネルワイゼンで、ヴォルフから聞かれた時だ。
「ええ。以前ヴォルフから聞いたわ。創造主カプーツェの昔話を」
ハイリゲはそれを聞くと、少し安堵したような表情をした。童話をする手間が省けた上、ヴォルフの語りなら正確であると思ったからだろうか。
「ならば話は早い。ゼーレ、ヴォルフ君から聞かされた話では、カプーツェはどうなった?」
まるで誘導されているかのように質問が続けられる。ゼーレは記憶の糸を手繰り寄せて、話の内容を思い出した。
「えっと、女の子を赤ずきんにした後、狼に食べられてしまったわ」
「そうだ。その女の子が、ハオベの祖とでも言うべき存在である事は誰でも分かるだろう。そして、カプーツェを食した狼もまた、ツァオバーを手に入れてしまったのだ。それ程にカプーツェのハオベとしての力は偉大だったのだ」
確かに、赤ずきんの話を聞いた時にハオベの創成の事はゼーレも直ぐに思い至ったが、まさか狼もとは思わなかった。
ハイリゲの顔は、その言葉を境に更に真剣な面持ちになり、遠くを見るようにして話を再開した。
「カプーツェを食した狼は、強大なツァオバーを手に入れ、果ては不死の身体をも手に入れた。だがそんな脅威を人がいつまでも野放しにしておくはずはなく、歴史上最初で最後の、人間とハオベが結託してその狼を封じようとする戦争が行われた。相手はわずか一匹の狼。それを封ずるのに割いた人員は二千を越えていたと言われている。その時はまだハオベが創成されて十数年しか経っていなかったため、ハオベもまだヘクセライを完全には習得していなかった。だから本来の力を発揮出来ずにいたのだが、それでも二千という数でなければならない程の脅威だったのだ。結局、狼を封じる事には成功したが、殺すには至らなかった。不可能ではなかったのだが、人の業というものは罪深い。その狼の強大な力を欲した両者が、今度は狼を巡って戦争を始めたのだ。それは凄惨な戦いだったという。血で血を拭うような、そんな果てのない戦争が何年も続いた。その結果、物量で勝る人間よりも一騎当千のハオベの方が勝利し、狼の所有権を得た。だがこの戦争は両者の心に大きな傷を与え、いつしかこの出来事自体をなかったことにしようという、同じ結論に行き着いた。そうして、カプーツェがハオベを創成してからハオベが狼の所有権を得るまでの期間が、歴史上から抹消されたのだ。この空白の歴史を矛盾なく埋めようとして作られたのが、今に伝わる『赤ずきん』という童話なのだ。狼が封印されてから長い時間、とても長い時間が流れ、人々の間でエルデの真の歴史を知る者はごくわずかとなった。そうやってエルデの安寧は保たれていた。だが欲が無くならないのが人の宿命。白ずきんと黒ずきんは、秘密裏に狼の研究をしていた。白ずきんは狼のツァオバーと生命力を医療のために、黒ずきんは軍事のために研究を始めた。
この段階では両者の研究は、理論的ではあれ空想上の事だった。だがヴァイゼーは、長い間暗黙の了解となっていた事を破り、ついに狼に手を出した。私らが気付く時にはもう遅かった。研究所の建物は同じなのにそんな事態にまで進展していた事に気付かなかった私らに罪がある。ヴァイゼーは、狼からエーヴィヒという不死の存在を創り出した。無尽蔵とまで言える狼のツァオバーを抽出し、骸に注ぎ込んだのだ。まさに悪魔の所業だ。エーヴィヒに与えられたツァオバーは心臓部分に蓄えられ、そして首を経由して頭蓋部分で行動を指示する信号に変換される。だからいくら不死身のエーヴィヒといえど、一振りで首を寸断すれば、それはエーヴィヒにとっての死を意味する。そしてツァオバーは母なるカプーツェへ、母なる大地へと帰っていく」
ここまでを言ってハイリゲは口を閉じた。これでエーヴィヒについての質問は全て答えたことになる。少しの間沈黙が流れたが、ロートが小さな声で話し始めた。円卓を囲む雰囲気は、エルデの暗黒史を見たために暗く重くなっている。
「お嬢さんはさ、ヴォルフからカプーツェの昔話を聞いた時、狼について何か感じた事はなかった?」
ロートがその事を口にした瞬間、ヴォルフとハイリゲが鋭い眼でロートを睨んだ。ロートもそれを予想していたのか、臆する事もなく堅い表情をしている。
ゼーレがあの話を聞いた時、ヴォルフは何故か息も絶え絶えで、あまり話に集中出来ていなかった。なのでまるで思い付かない。
「え、と……」
ゼーレが答えあぐねていると、横槍を入れるようにヴォルフが、つい先程その話題に触れるなと言わんばかりの視線を送ったヴォルフが口を開いた。
「――カプーツェを食した狼は、二匹いたんだ」
ゼーレは、あ、と声を上げた。確かに、あの話では女の子が助けた狼と、最初にカプーツェを食べた狼の二匹がいた。だが先程のエルデの歴史の中では、狼はまるで一匹しかいないように語られていた。ゼーレは未だに話の展開が読めなかった。隠された歴史、語られる歴史。ゼーレはまだ真実に一歩及んでいなかった。
ヴォルフがそこまで言ってしまうと、ハイリゲは観念したかのように大きくため息をつくと、再び話し始めた。
「時間的な前後関係は定かではない。女の子が助けた狼は、獣としては珍しくその女の子に恩義を感じた。というよりはそういう言い方が適切に思われるだけだ。そしてその狼は決して人と対立する場面には現れなかった。それが人間であろうとハオベであろうとな。だから狼を封印する戦争にもその姿を見せていないし、狼の所有権を巡る戦争にも、果ては歴史にも全くその姿を見せてはいない。だが実際は、人に対する恩義を利用されてか、黒ずきんに捕らえられていたのだ。恐らくは狼を封印する戦争の以前には、既に捕らえられていたと推測されている。はっきりした真偽は分からないが、結局二匹の狼は、一匹はハオベの代表として白ずきんと黒ずきんが共同管理し、もう一匹は黒ずきんが独占管理していた。だがそれでもどちらの狼も、封印されたままだった。ヴァイゼーが利用した、その瞬間までな。最初にカプーツェを食した狼は、先程言った通りエーヴィヒ創造のために使われている。そして女の子が助けた狼の方を、奴はこともあろうに人体実験に利用したのだ」
ハイリゲの言葉に、次第に怒りが込められていくのがよく分かった。ゼーレはハイリゲの言葉を反復するのが精一杯だった。
「人体……実験?」
「そうだ。ヴァイゼーは狼のツァオバーを、いや狼その物を人に移植しようとしたのだ。結果がどうなるかなど、ろくに検証もせずにな。そして、その実験台としてヴァイゼーの息子が選ばれた……」
ゼーレはその事実に驚きながらも、辛うじて残る冷静な思考でハイリゲの言葉の真意を理解した。そしてそれは再びゼーレに驚愕をもたらした。
「それって……、まさか!?」
ゼーレはヴォルフの方を見遣った。ヴォルフは腕を組み表情を変えずにいた。ゼーレは再び視線をハイリゲの方に戻した。ハイリゲは静かに頷いた。
「そうだ。その息子こそが、ヴェーア・ヴォルフだ。ヴォルフ君は今から七年前、十歳の時に狼を入れられた。だがわずか十歳の少年が、カプーツェのツァオバーを取り込んだ狼の力に対抗出来るはずもなく、ヴォルフ君は直ぐに狼に身体を乗っ取られた。狼は暴走し、ターブの町を壊滅させた。その狼は青魔法を持っていてな、ヴォルフ君の片目が青いのはそのためだ。そしてその時、狼になったヴォルフ君を止めたのが、私の妻、つまりゼーレの母親と、ヴォルフの母親シェプファーだった。二人は自らの命と引き換えに、狼の力を封印するために国士無双をヴォルフ君の身体にかけたのだ」
初めてヴォルフに会った時から聞きたかった謎がようやく全て明かされた気がした。何とも言葉が出ない。父親には実験台にされ、そして母親は自分のために死んだ。当時のヴォルフには絶望しかなかったのではないか。訳も分からぬ化け物を身体に入れられ、気付けば自分一人。町すらもない。そんな状態で、一体何を生き甲斐に出来ただろうか。
「じゃあ、ヴォルフはヴォルフのお父さんを恨んでいるの?」
憎しみ。それは全てを失ったヴォルフの目の前に転がっていた、破滅への道だ。だがヴォルフは茨の道を選びはしたが、破滅の道は選ばなかった。選べなかった。ヴォルフは死に際の母親の言葉を、辛うじて残る意識の中で聞き、そして今もどこかで父親を尊敬しているからだ。
「いや。最初は憎しみに心を囚われた事もあった。だが直ぐに気付いた。狂っていたのはヴァイゼーだけではなく、このエルデそのもの、端的に言えば全ては狼のせいだったという事を。だから俺はその禍根を取り除く」
ゼーレはヴォルフの思いを知り、黙ってしまった。だが、少し俯いていると急に新しい謎が浮かんできた。
「――待って。という事は、チゴイネルワイゼンの隣町が壊滅したのも、つまりはヴォルフの中の狼が暴走した、という事よね? 国士無双で封じられているのに、一体どうして? あの時は確かアルマハト教が関係していると思ったのだけど」
ゼーレがそう言い、ハイリゲが話し始めようとするのをヴォルフは制した。もう誰も真実を語る事を躊躇わない。ここにいる全てが真実を共有してもいいと、そういう雰囲気になっている。
「お前、かなり鋭くなったな。確かにあそこの町が壊滅したのは俺のせいだ。そうなってしまった原因は、お前の言うようにアルマハト教にある。さっきハイリゲが言ったように、俺の中の狼は母さんに、白ずきんによって封印された。だからかどうかは知らないが、俺の中の狼は白ずきんを恐れている。だから条件次第では勝手に暴走してしまう事があるんだ。それこそ俺の意志に無関係にな」
自分を封印した相手を目の前にするなら、恐れというごく当たり前の感情が働くのも理解出来る。獣のように本能で生きている生物なら、自己防衛の意識はさらに高い。脅威を目前にして黙っている事など出来ないだろう。
「条件って?」
ゼーレは更にもう一歩踏み込んだ。ここで足踏みをする理由はない。真実は近い。あとはどう掴むかだけだ。
「ヤーヴェ教の教えの一つにもある満月と、母さんらがそうだったようにアルマハト教に関わる白ずきん。または満月とアルマハト教の刻印。それかアルマハト教の刻印と白ずきん。これらの内どれかが揃う時だ。あるいは俺が瀕死の時、というか今にも死にそうな時。または狼の心の高ぶりが俺に抑えられなくなった時。その時に狼は暴走する」
チゴイネルワイゼンの隣り町が壊滅したのはつまり、白ずきんとアルマハト教の刻印という条件が揃ったために狼が暴走したからという事になる。
しばらく円卓に沈黙が流れた。何度目の沈黙になるだろう。それだけ円卓の雰囲気も重々しい。だが暗い、気の沈むような話はこれまでだった。ハイリゲが一度ゼーレに話を振ると、まるで今までの会話がなかったかのように明るい雰囲気が円卓に取り戻された。ゼーレはハイリゲの一つの質問に十の答えを返し、更に百の話を添えた。ゼーレなりの気配りだったのかもしれない。ゼーレは誰の目にも明らかに明るく、今までの旅路の事を話した。
そして再び話題はヴォルフの方に向けられた。誰もこの流れが止まるのは望んでいない。
「そういえばヴォルフ君。ザインは今元気かね?」
だがこの質問に、ヴォルフは真実で答えなければならない。それは強制的に話を暗闇へと誘っていく。そうとは知らずに質問したハイリゲやロートは明るい顔をしてヴォルフの返答を待っている。ヴォルフの表情の変化に気が付いたのはゼーレだけだったのかもしれない。
「師匠は……ザインは、殺された」
ヴォルフはそれで口をつぐんだ。当代最強と謳われ、唯一暴走した狼を単独で止めたハオベ。ヴォルフの師匠であり、ヴォルフの尊敬するハオベ。
話が一転して暗い方向へ、しかもハイリゲもロートも予期しない返答だったため、二人は驚きで声も上げられなかった。ゼーレは最初からザインという人物を知らない。
「殺されたって――まさかお前の狼が?」
ロートは直ぐにそう聞いてきた。ロートがその可能性を疑うのも無理はない。ザインは普通のハオベが敵うような相手ではないのだ。それ程に傑出したハオベが他者によって殺されたのだから、人ならざる者を疑うロートの考えは正しい。今なお信じられぬといったその顔には苦渋の表情が浮かんでいる。ヴォルフはゆっくりと首を横に振った。
「違う。確かに俺はロートが師匠のもとを去った後に一度暴走している。だがその時は師匠が自らの片腕と引き換えに俺を止めてくれた。師匠を殺したのは――シュヴァルツだ」
ヴォルフの言うシュヴァルツも、ザインの弟子の一人だった。なのでロートも知っている。だが、だからこそロートには信じられなかった。修業時代に手合いをしても、ロートはシュヴァルツを圧倒していてほとんど負けた事がなかったのだ。そのシュヴァルツがザインを殺すことが出来たのが信じられなかった。
「シュヴァルツが……、まさか」
ロートは椅子に体重を預けると天井を仰いだ。
その時、ずっと黙っていたハイリゲが静かに話し始めた。
「私とザインは古くからの親友だった。そのザインが死んだことは非常に悲しい。ヴォルフ君、彼の最期を話してくれないか?」
ハイリゲの瞳には哀しみが溢れている。ヴォルフは頷くと、静かに語り始めた。
円卓には再び重い空気が流れ始めた。
第八章
~形影相弔~
ヴォルフは歩いていた。
砂漠の中をふらふらと、今にも倒れそうになりながらも歩を進めていた。
足が重い。
手が上がらない。
身体中が痛い。
ヴォルフは今自分が何をしているのかが分からなかった。今、というのは語弊があるかもしれない。正確にはつい今さっきまで、だ。
ヴォルフが気付いた時には、ターブの町は壊滅していた。辺りを見回しても、そこに見えるのは死骸だけだった。明るかった町は、ヴォルフが目を覚ます時には氷の結晶でできた宮殿のようになっていた。
全ての温度を奪う、氷。
全ての生を奪う、氷。
そこにはただ死の宮殿が美しく聳えていた。
ヴォルフは知らず知らずの内に町の方向へ歩いていたようだ。ヴォルフがふと顔を上げると、そこには町影が見えた。場所がどの辺りかなどは分からない。ヴォルフの歩幅や体力から言っても恐らくは隣り町だろう。だがその時のヴォルフには、ただそこに町があったという事しか思わなかった。そしてヴォルフはその場に倒れた。
ヴォルフが目を覚ますと、自分が寝台の上に寝かされている事に気付き、はっと身構えた。周りに人はいないようだが、緊張が全身に走った。つい先程された事を考えれば、過ぎた警戒もやむを得ないというものだ。身辺を見回すと寝台の隣りには机があり、そこには剥きかけの果物が置いてあった。
「あら、目が覚めたの?」
部屋に入って来たのは、まだ若い女のハオベだった。髪の色は赤と黄だったが、その瞳の色は黒、つまり黒ずきんだった。ヴォルフの心臓の拍動は瞬間的に高まった。それは自分自身でも分かる程に興奮していた。だが自分自身でも分かる程に冷静だった。身体は熱く、心は冷たかった。ヴォルフは勢いよく寝台から飛び降り、冷たい声で言った。
「お前ら、一体何なんだ?! 俺をどうしようって言うんだ!?」
今まで戦闘訓練などしたことのなかったヴォルフは、適当に身構えた。自分で粋がっていながら、手が震えているのがひどく情けなかった。
「ちょ、ちょっと待って。私は何もしないわ。私の名前はルター。この町で医者をやっているただの黒ずきんよ」
その黒ずきんは両手を頭の高さまで上げると、慌てて弁明した。向こうに非などないのだが、患者が興奮している時、医者はその分落ち着かなければならないのは基本中の基本だ。何とか話が聞ける程度に心を鎮ませようとする。
だがヴォルフにしてみれば、白衣を着た黒ずきんなど信用出来るはずもない。警戒を解かないままに、上擦った声で話し始めた。
「ここはどこだ?」
「ここはウン・シュルト。大都市ターブの隣り町よ。ターブに比べたらかなり寂れているけどね。あなたはターブから来たの?」
ルターはヴォルフの質問に丁寧に答えた。そして文末には質問を加えることを忘れなかった。少しずつでも、相手の情報を知ろうとする。今の話題が場所ならば場所を、時ならば時を質問する。だがヴォルフはルターの掌で踊りはしなかった。
「お前には関係のない事だ」
ヴォルフはもはや人間不信に陥っていた。この時の「人間」には当然ハオベも含まれている。今ヴォルフの目の前にいるのは黒ずきんだ。不信感はさらに強い。
ヴォルフはのろのろと寝台から立ち上がると、その部屋を出ようとした。だがルターはそれを制した。
「ダメよ! 外は警戒態勢が敷かれているわ。あなたみたいなよそ者が出ていっても、直ぐに捕まってしまうわ。それはあなたにも都合の悪いことなんでしょう?」
ヴォルフは俯いた。よくは分からないが、そういう事なのだろう。実際、ヴォルフはこれから何をすればいいのかを考えていなかった。先程までは何の考えもなしに歩いていた。ただ、身体が無意識の内にターブの町を離れようとしていた。
急に拍子抜けしてしまったヴォルフは、寝台へと腰を下ろした。今ヴォルフに出来る事は、何もない。
「ちょっと待ってて。温かい物でも入れて来るわ。少し落ち着いたら、話でもしましょう?」
そう言うと、ルターは部屋から出ていった。ヴォルフは改めて部屋を見回してみたが、あまりに殺風景だ。生活をしている様子は見られない。あるのは最低限の家具のみ。ヴォルフはこの異様さに疑問を抱かざるを得なかった。ルターが悪意を以てヴォルフを助けた場合。考えられるのは、隔離。つまり、他者との接触を極力排除し、ここに留めておく。ここはそのための部屋であると考えらる。だが先程のルターの言葉も合わせて考えてみると、違う考えも出てくる。ルターが本当に善意でヴォルフを助けた場合。そうした場合、隔離という言葉は違う面を見せる。外では警戒態勢が敷かれているため、余所者のヴォルフは危険視、そうでなくても白い目で見られる。そうした他者の視線を浴びせないよう、そうした心配りにより余っている部屋にヴォルフを置いた。
今の状況ではどちらの可能性も否めない。だが少なくとも、ヴォルフはここに長居するべきではない。信用のおけない人と一緒にいる事はそれだけで危険が付き纏う。
ヴォルフは窓の外を見た。窓の外には青い空が昂然と広がり、視線を下ろすと欝蒼とした森が見える。ここはどうやら町の外れにあるらしい。ヴォルフはゆっくりと寝台から下りた。長居はしたくない。戸を出ようとした所で、外から人の声がした。ルターとは違う声のようだ。
「ここにヴェーア・ヴォルフというハオベがいらっしゃるようですが」
ヴォルフははっとした。そして本能的に部屋を見回し、丸い机の上にある小刃を手に取った。そして再び戸に張り付いた。
「先程も言いましたが、私はそのような人は知りません」
次に聞こえた声はルターのもののようだ。どうやら、ルターの真意がどうあれ、今会話をしている二人は協力関係にはないようだ。ヴォルフは次の展開を考えた。今の男がこれで引くならばそれでよい。だがきっとそうはならないだろう。そうした場合、高い確率で家宅を見て回ることになる。戸を挟んでも会話が聞けるほどだ。この家はそう広くない。ヴォルフのいる部屋にたどり着くのに時間は掛からないだろう。
ヴォルフがそこまで考える時には、既に戸の持ち手は回されていた。ヴォルフは一瞬にして錯乱状態に陥った。
その時、ヴォルフの心に冷たい思考が染み込むように広がってきた。僅か一瞬の事なのに、まるで時間がゆっくりと進んでいるかのようだ。そして次第にヴォルフの心は凍っていった。ヴォルフの思考が入り込む余地はもう残されていなかった。
わずかに戸が開いた瞬間、ヴォルフの頭の中に凜とした声が響き渡った。
『殺シテシマエ!!』
開いた戸から一人の男が、一人の人間が入ってきた。ヴォルフが認識出来たのはそれだけだった。何故なら、その刹那、ヴォルフの振るった小刃がその男の喉元を切り裂き、男はあっという間に血に染まってしまったからだ。その動きはまるで一体の獣を見るように機敏で野蛮で冷静だった。その男に次いで部屋に入ろうとしていたルターは、目の前の光景を理解出来ず、その場に立ち尽くすばかりだった。当然、理性を失ったヴォルフの標的は、ルターへと移った。ヴォルフは鋭い目でルターを睨み付けた。氷のように冷たい目に射抜かれたルターは、恐怖のあまりその場から動けなくなっていた。だがそれでもまだ、医者としての心は残っていたようだ。
「落ち着いて。私は何もしないから……! 私を信じて……」
そんな事を呟いていた。だが今のヴォルフに言葉は届かない。ヴォルフは数歩の内にルターとの間合いを詰めた。小刃はルター目掛けて等速直線運動を続けた。
「私を、信じて……!」
最後のこの言葉の後、ヴォルフの記憶ははっきりするようになった。
ヴォルフが構えた小刃は、既の所で止められていた。刃先がかたかたと震えている。ヴォルフは荒い息をして、その場にそのままの体勢で止まっていた。どうしても、自分の意の外で何かがされるのが許せなかった。
「……無事、か?」
ヴォルフは肩を上下させながらも、辛うじてルターに言葉を掛けた。ルターは無言のまま頷いた。ヴォルフの心臓はいまだ激しく鼓動を続けていたが、それも段々に落ち着いていった。ヴォルフの体内から冷たい物が影を潜めていき、そして違う意味で心が冷めていった。
「殺しても……いいとの仰せだ」
その言葉が背後から聞こえ、ヴォルフが振り向いた瞬間、爆発がヴォルフに襲い掛かってきた。一瞬の間に見た光景では、先程ヴォルフに切り裂かれて虫の息だった男が、自爆をした。そしてヴォルフは身動きが出来ないまま、その勢いで前へと吹き飛ばされた。ヴォルフの手には小刃が握られていて、その直ぐ前にはルターがいる。
ヴォルフが構えていた小刃は、再び加速を得て直進を始めた。それはほとんど抵抗もなくルターの腹部へと突き刺さった。そして二人はそのまま床へと倒れ込んだ。
爆煙が晴れた頃になっても、誰も立ち上がっていなかった。ヴォルフは疲労の蓄積により、そしてルターは――。
ヴォルフが頭を抱えながらようやく体を起こした時、相変わらずルターは倒れていた。ヴォルフはこの時、頭を抱えた手が赤く染まっている事に気が付いた。視線を床に下ろすと、床には血溜まりが出来ている。
「ど、どうして……?」
だが直ぐに、ルターの腹部になおも小刃が刺さっているのに気付き、それがどういう事かを理解した。途端に込み上げる鳴咽は、ヴォルフに初めての罪科を刻み込んだ。
「か、患者に信じてもらえた医者は、と、とても光栄なのよ……」
ルターが息も絶え絶えにそう呟いたため、まだ絶命していない事は直ぐに分かったが、ヴォルフには今自分に何が出来るのか分からなかった。とりあえず傷口を押さえようと、ヴォルフは寝台にある毛布を持ち出し、それを傷口に押し当てた。
「さっきの爆発で、き、きっと直ぐに人が来るわ……」
「分かった。分かったからもう喋るな!」
ヴォルフは傷口を押さえながら必死に叫んだが、ルターは話すのを止めなかった。
「だからあなたは、は、早く逃げて……」
その言葉の直後、ルターの瞳が閉じられた。死んでしまったのか、ただ気絶しただけなのかは外見だけでは分からない。脈を測ろうと、ヴォルフがルターの首筋に手を伸ばそうとした時、扉の向こうで人の足音が聞こえたため、その手を瞬時に引っ込めた。
ヴォルフは緊張し、ルターと戸口の方を何度も見比べた。自己を優先させるなら、直ぐにでも逃げるべきだ。人が来るという事は、ルターを任せられるとも言える。ならば尚更逃げた方がいい。まさに現行犯なのだ。だが、逃げると言ってもどこへ行けばいいのか。そもそも、ヴォルフは何故、そして誰から逃げているというのか。真実が、ヴォルフには届かぬ遥か遠くにあるように思えてならない。
「くそ……!」
ヴォルフは部屋の窓から勢いよく外へ飛び出した。まだ足が覚束ないところもあり、転びそうにもなったが、必死に森の中へと駆けた。
自分が何から逃げ、
自分が何処へ逃げ、
自分が一体何者で、
自分が何をすべきか。
それを知るべくして、ヴォルフは必死に駆けた。瞳から零れる液体は何も気にならなかった。初めての罪科は、あまりに不可避であっけなかった。それもまた、ヴォルフの弱さという罪であった。
それから約二年余り。ヴォルフは目的を持ちつつも、その手段を欠いていた。ただ身を隠しながら彷徨い、ただ生きるために生きていた。
日々を生き抜くために人を騙し欺く事に罪悪感を抱かなくなっていた。ヴォルフの心は荒み、瞳は濁った。少しではあるが魔法も使えるようにはなった。だがそれも、ただ人を脅し傷付けるためにしか使われなかった。
追っ手が迫った事も何度かあった。ヴォルフはこの二年で身に付けた狡猾さで、それを回避した。それらの行いの中で何人が犠牲になったかなどはもはや数えられない程の数になっている。
内なる狼が暴走した事もあった。だがそれすらも、後に残るのは空虚な心と冷静な心だけだった。自分が何に起因して暴走するのか、その理由はそれで見出した。所詮、人は何かの犠牲の上にしか生きていけないのだ。他人の糧を食し、他人を食す。いつか自分が喰われるかもと思いながら、その循環は止まらない。ヴォルフはただただその渦中にいた。本能とも言える程に利己的にこの二年を過ごした。
そして、あの出逢いが訪れた。
「もう逃げられないぜ? いい加減、観念しろ」
ヴォルフは路地裏に追い詰められていた。まだ十二歳のヴォルフは情に訴えれば食べ物は分けてもらえた。小刃をちらつかせれば容易に老人を脅せた。不意を突けば一人の大人相手に戦う事も出来た。だが結局は十二歳の子供。正面から、しかも大人三人が相手では勝ち目などない。
そうして今ヴォルフは追い詰められているのだ。この男達から掠め取った金額はわずかに二百ゲルト。一ヶ月を過ごせるかどうかの金額だ。その代価がヴォルフ自身の命となろうとしている。
「最近のガキは手癖が悪ぃな。こいつ、どうするよ?」
ヴォルフを囲む一人が、そう言いながらヴォルフの腹を蹴った。思わず鳴咽が漏れ、咳き込むが、男達は気にもせずに会話を続けた。
「適当にボコった後でどっかに高く売ればいいだろ。どうせこういう奴は孤児だろうからな」
そう言って再び蹴りを加えた。ヴォルフはきっと男達を睨み付けた。もう誰かに、何かに束縛されるのは御免だ。ヴォルフの瞳は鋭く男達を射抜いた。その眼光は一瞬だけ男達に威圧を与えた。
「な、何だよその眼は!? ――ああやめだやめだ。もう、こいつ殺っちまおうぜ? こういうガキ見てると、本当に腹が立つ」
そう言って男の一人がヴォルフに思い切り蹴りを入れると、残りの二人もそれに続いた。ヴォルフはこれで満足だった。誰かの支配下で生き長らえるよりも、今ここで殺された方が遥かに良く思えたのだ。身体の痛みはもう感じていない。麻痺しているのかどうかは分からないが、それも今のヴォルフにはどうでもいい事だった。自分の命が二百ゲルトのために失われるかと思うと、少し笑えた。
「このガキ、この期に及んで何笑ってやがる!!」
男が少し助走をつけて思い切りヴォルフを蹴ろうとした時、後ろから声が聞こえた。
「もうやめなさい……」
見ると初老の男性が立っている。朦朧としていたヴォルフには、逆光も相まってその男性の容姿はよく分からなかった。だがはっきりした事が二つあった。この男性がヴォルフを助けようとしていること。ヴォルフの命は辛うじて保たれたということ。
「誰だ、貴様は?!」
男が熱り立って声を荒げると、初老の男性は小さくため息をついた。何かを嘆いているようにも見える。
その後のことについて、ヴォルフには何が起きているのか全く分からなかった。意識が朦朧としていたというもっともらしい理由はあるが、実際はそんな普通の事ではない。完全に目が追い付かないのだ。初老の男が何かをしているのは見える。だがそれが攻撃しているのか、されているのかはさっぱりだった。そしてそれ程時間が経たない内に、ヴォルフの視界には初老の男しか映らなくなっていた。あの三人が地面に伏しているのか、それとも逃げてしまったのかは分からない。今のヴォルフにあるのは、下手な意地と警戒心だけだった。
「だ、誰も助けろなんて頼んだ覚えはない」
強がってはみたものの、その真意が隠し切れているとはヴォルフ自身も思っていなかった。一難が去って、先程までは感じていなかった激痛が腹部を襲うようになった。
腹部を押さえて悶えるヴォルフ。喉に込み上げる液体は、鉄の味がした。そしてヴォルフは吐血した。
「げほっ……ごっ……」
ヴォルフが苦しそうにしているのを見て、その男は近付いて来た。ヴォルフは霞む目で見上げた。相変わらずの逆光でよく見えない。髪の色は白。瞳は殆ど閉じられていて、季節に合わない衣服は肌の露出を極力抑えていた。おかげでその男が人間なのかハオベなのかも分からなかった。
そして、ヴォルフの意識は途絶えた。
ヴォルフが目を覚ますと、そこは薄暗い洞穴のような場所だった。ごつごつした岩肌が視界いっぱいに入り込んでくる。
ヴォルフは自分の腹に手を置いた。特別に違和感はないし、いつの間にか痛みもなくなっている。そもそも誰がヴォルフをここまで運んだのだろうか。気を失っていたヴォルフにそれを知る術はなかった。だが何となくは分かっていた。
ヴォルフは起き上がろうと、上体を起こそうとした。だが途端に激痛が甦り、ヴォルフはやむなく横にならざるを得なかった。
「目を覚ましたか……」
ヴォルフが視線を動かすと、洞穴の出口の方にあの初老の男性がいた。顔ははっきり見えない。その男はヴォルフの側まで歩いて来て地面に座った。音がよく反響する洞穴内だというのに、それまで全く音がしなかった。
ヴォルフが男をずっと睨み付けていると、その男はヴォルフの目を見てため息をついた。年相応な行動ではあるが、ヴォルフにとっては不快な事でしかなかった。
「初めはまさかと思ったが――。これがアルマハト教の輪廻という奴か……」
ヴォルフには何の事か全く分からなかった。そしてしばらく沈黙が流れた。男は初め話した以外には何も語ろうとはしなかった。ヴォルフはこの雰囲気と、男の発する覇気に耐えかねて言葉を発した。
「何故俺を助けた?」
男はすっと目を開けてヴォルフの瞳の、その奥を見た。少なくともヴォルフには、自分の内の全てが見透かされたと思った。そしてその時、この男の瞳が白いことに気付いた。つまり、白ずきんであるという事。注意して見れば、確かに首元に白い布が見える。
「私は死のうとしている人を死なせてやれる程、優しくはないんだ」
ヴォルフは男が何を言っているのか分からなかった。だが、あの時ヴォルフが生きる事を諦めていたという事が悟られていたことは分かった。
「それに、君の目には立派な焔が宿っていた。そうだろ、ヴェーア・ヴォルフ?」
ヴォルフははっとした。何故この男は自分の名前を知っているのか。ヴォルフの中では、この男に対する懐疑心が増大していった。だが今のヴォルフには戦う術がない。
「何故俺の名前を知っている?!」
ヴォルフは警戒を強め、緊張の糸を張り詰めて聞いた。動揺が表に出ないように気を遣っているが、それはもはや隠せない程に大きくなっていた。一滴の汗が、ヴォルフの頬を伝った。
「戦う術がないと言うのか? 内に眠るその力は無限の可能性を秘めているというのに」
ヴォルフは初め、この男が何を言っているのか分からなかった。だが直ぐに、自分の心が読まれている事に気付いた。ヴォルフは息をするのを忘れそうになる程動揺していた。声を張り上げる事でそれを誤魔化すことしか出来なかった。
「だから! 何故俺の名を知っている!? あんたは一体誰なんだっ!?」
ヴォルフは息を荒げていた。男はゆっくりと、ヴォルフを落ち着かせるように言った。
「私はザイン。見ての通り、ただのしがない白ずきんだ。シェプファーとは昔なじみの知り合いだった」
ヴォルフはそれでこの男、ザインへの懐疑心が大分薄らいだ。母親の知り合いであるならば、ヴォルフの事を知っていても不思議ではない。そして、ヴォルフの正体も。
ヴォルフは先程のザインの戦う様子を思い出し、少し考えてから口を開いた。
「助けてくれた事には礼を言う。それと、一つ頼みがある。俺に戦い方を教えてくれ」
ザインは、ヴォルフがそう切り出すのを待っていたかのような、それでいてそれを望まないような、何とも言い難い表情をして言った。
「ヴォルフはその力、何に使うつもりだ?」
ヴォルフは息詰まった。漠然と力が欲しいとしか思っていなかった。理由などない。正しくは、ないのではなく、考えた事がない。ヴォルフはしばらくの間考え続けた。まるで、この二年間で失ってしまった物を取り戻すかのように。そうして導き出した答えに、偽りはなかった。
「自分の無力さのせいで、今の荒んだ俺がある。今からでも間に合うと思うから、それを払拭したい。俺は二度と自分に、もう一人の自分には負けたくない」
ザインはずっと、たどたどしく言葉を探すヴォルフを見ていた。そして最後の言葉に込められた想いを感じ取った。微笑を浮かべると静かに頷いた。
「さて、この運命はシェプファーの願か、ヴァイゼーの謀か……。足踏みをする時ではないな。私もこの輪廻に加わろうか。いいだろう、ヴォルフ。君の火種、私が立派な焔にしてみせよう」
そうしてヴォルフとザインは師弟の契りを結んだ。だが今の状態ではヴォルフは何も出来ない。ザインが言う事には、ヴォルフの内臓は破裂していて、あのままでは間違いなく死んでいたそうだ。そして治療を施したとはいえ、そんな状態だったのに今意識が戻ることも異状だそうだ。それについてザインは問い質す事はなかった。ザインがヴォルフをシェプファーの息子だと認識したのは、ヴォルフの瞳を見てからだと言った。それはつまり、白髪と黒髪の赤ずきんという事を確認したかったのではなく、ヴォルフの中に狼が入っているかどうかを確認したかったという事だ。もし前者ならば、首元にあるずきんを確認すれば済む話である。間違いなく、ザインはヴォルフの秘密を知っている。
ヴォルフはとにかく身体の調子を万全にする事に専念した。ただ横になっているだけだが、それでもヴォルフの心は上を向いていた。生き甲斐を見つける事が出来た。それは今のヴォルフには光にも等しい。人が求めて止まない物。微かではあっても、それを見つける事が出来たヴォルフの気持ちが高ぶるのももっともな事だ。
翌日、ヴォルフの体調は既に良好となっていた。激しく動けば痛みを伴うが、それでも普通に動く事は出来る。
「行くぞ」
ザインはヴォルフにそう促して移動を始めた。ヴォルフはザインについていくしかないが、それでも期待は大きい。ザインという人がどれ程なのかはまだ知らないが、母親と知り合いなのだから信用は置けるだろうと、ヴォルフはそう思っていた。
昨夜を過ごした洞穴は、実は町からさほど離れていない事を知り、ヴォルフは少し驚いた。あの町にはかなり長く住んでいた。住むという表現が正しいとは思えなかったが、少なくとも長い期間あの町にいた。当然町の様子や、町の周囲の様子も探ったが、あんな洞穴の存在は知らなかった。
そして、驚きと同時に疑問も浮かんだ。何故ザインはあの町に宿泊しなかったのだろうか。何故あの町に立ち寄ったのだろうか。
「どこへ行くんだ?」
ヴォルフはそう尋ねたが、ザインは無言のままだった。元来無口な人柄であるらしいことは分かった。だがヴォルフが知りたい事は一向に分からないままだ。とりあえずヴォルフはついていくしかない。
どれ程歩いたかは分からないが、朝から移動を始め、今は陽が完全に昇り切っている事を考えるとかなりの距離を移動していることになる。そしてどうやら目的の場所に着いたらしい。何もない場所にも関わらず、人影がいくつか見える。
「ここだ」
目的地に到着した事は分かっても、ここだと言われて納得出来るような場所ではない。文字通り荒野の真ん中、果てしなく何もない。視界に映る景色は、ただ只管に乾いた地面と岩肌だけだった。
ヴォルフが唖然としていると、いくつか見えていた人影が近付いてきた。その数は三人。みなが首元にずきんを携えた、ハオベだった。
「ザイン様、遅かったですね」
一人の赤ずきんはそう言った。年齢はヴォルフの一つか二つ上位。だが身長はヴォルフよりも大分大きい。育ち盛りの年頃では、一つの年齢差でもそれなりの身長差を生むことになる。
「少し用事が出来たんでな。三人とも、きちんと鍛練はしていたのだろうな?」
ザインがそう尋ねると、三人ともが頷いた。一人は赤ずきん、もう一人は黒ずきん、そして三人目は黄と青のずきんをなびかせていた。その三人目が、ザインの影にいたヴォルフの姿に気が付いた。
「師匠。その少年は誰ですか?」
ザインは三人とヴォルフとを対面させた。ヴォルフは正面から見て分かったが、この三人もそれぞれに覇気を持っている。ザインに較べればまだまだ薄弱だが、それぞれが他とは違う独特の気を放っている。
「私の新しい弟子のヴォルフだ」
三人はあまり表情に変化を出さなかった。ただ一人、赤ずきんだけが少し嬉しそうな顔をしていた。ザインの紹介によれば、赤ずきんがロート、黒ずきんがシュヴァルツ、そして黄と青のずきんの女がヴァンナー、という事だった。二年前のあの時から、ヴォルフは対人関係が上手くない上に、三人が全く異なる性格なのでヴォルフは先行きの不安を感じた。果たして上手くやっていけるのだろうか、と。
「よ、これからはよろしく頼むぜ、ヴォルフ」
気さくそうな赤ずきん、ロートはその後直ぐに話し掛けてきた。ヴォルフはまだ曖昧に返事をすることしか出来なかった。だが聞きたい事は率直に聞くことが出来た。
「あのヴァンナーとかいうハオベは何でずきんの色が二色なんだ? 髪の色は一色なのに」
ヴォルフは、再び修業に戻ったヴァンナーを指差してそう尋ねた。ロートは少しため息をついた後で答えた。
「何だ、知らないのか? ハオベには、ごく稀に二色のヘクセライを受け継ぐ者がいるんだ。そうした者は同じ色のハオベ同士からしか生まれない。そしてその特異性のためか、絶対に子孫を残せないんだ。ハオベなら常識だと思ってたけどな」
ヴォルフはまた曖昧に頷いた。ヴォルフはてっきり、ヴォルフと同じなのかと思っていた。何かの実験により、自分以外の何かを入れられてしまったのかと。だが実際にはただ珍しいというだけ。ヴォルフとは違い、存在を許された者なのだ。
その後ロートも修業に戻っていき、ヴォルフは一人残された。辺りにザインの姿を認めると、ヴォルフは何をすべきかを尋ねた。
「さて、ヴォルフには何が必要だと思うかね? 大きく分けて三つ。身体、精神、ツァオバー。今自分に足りない物は何だと思う?」
こちらが尋ねたのに、質問で返されては会話が成り立たない。だが実際には、自分で考えろ、という事なのだ。しかもきちんと要素も教えてくれている。ヴォルフは何となく、自律が必要なことを悟った。恐らく、自分が足りない物を言えばザインはその方法を教えてくれるのだろう。そう安易に考えていた。
「全部だ。だけど今一番に必要なのは、荒んだ心を改めることだと思う……」
ヴォルフがそう言うと、ザインは感心したかのように頷いて、どこかへと歩き出した。ヴォルフは拍子抜けした。それだけなのか。ザインは師匠で、ヴォルフは弟子ではなかったのか。ヴォルフはザインに走り寄った。
「ちょっと待て。俺は一体何をすればいいんだ?」
ザインは振り返ると、微笑を浮かべた。その微笑にどのような意味が込められているのか、ヴォルフには直ぐに分かった。
「何と言われても、今ヴォルフが言った通りではないか」
まるで雲を掴むように、ヴォルフの質問はうやむやになっている。ザインが何を期待しているのか、頭では分かっていても身体は無意識に腹が立っている。
「だから、その手段が俺には分からないって言っているんだ!」
ヴォルフはそう言って、自分に足りない物に気が付いた。
今までは目的を持ちながらも手段がなかった。その手段を得ようという努力をしなかった。そういう考えにすら至らなかった。それはヴォルフの無知であり弱さであった。
ヴォルフは俯いたまま黙った。何にも頼らないことの重要さをきつく噛み締めていた。
「精神を鍛練する手段ならばいくらでもある。だが最も一般的かつ効果的だと言われているのは、恐らく瞑想だろう」
ザインはヴォルフにそう告げて一呼吸を置くと、再び口を開いた。
「一概に瞑想といっても、その方法は多様だ。座って目を閉じるのがごく一般的だが、そもそも瞑想は心を鎮めるための手法だ。目を開けながらでも出来るし、立っていても、それこそ戦闘中にすら可能だ。だが初めの内は座って目を閉じているのがいい。瞑想の仕方は知っているか?」
ザインの問いに、ヴォルフは首を横に振った。先程、ザインは瞑想は心を鎮める手段だと言った。だがヴォルフにはその心を鎮めるという事が分からなかった。それは邪念を捨てるということを意味しているのか、常に冷静であることを意味しているのか。ザインはそうして口を開いた。
「まず、目を閉じたら一切の思考を捨てることだ。心を無にする。その状態だと、その瞳に映るものはいまだ黒だ。だがある一線を越えると、次第にその色は白へと変容していく。心を解き放つ」
ザインはそう言うと、少し黙り込んだ。ヴォルフが見ると、ザインは目を閉じていた。そして目を閉じたままで再び話し出した。というよりは語り出した。
「そして真実を悟る。私も今その状態にある。そうなると、自然とエルデの意志を感じるように、いや、エルデと一体になるような感じになる。今私が話していることも、私の声ではあるが私の言葉ではない。エルデがその意志を伝えようとして私の声を媒介にしているのだ。これが所謂、無我の境地というものだ」
ザインは言い終える前に後ろを向いて歩き出していた。ヴォルフはザインの背中を見送りながら、今言われたことを反芻した。そして手頃な場所を見つけて地面に座り込んだ。ヴォルフには一抹の不安があったが、それを解消するための修業でもあるのだ。心地よい程の緊張に包まれると、ヴォルフの背筋は自然と伸びた。そしてヴォルフは目を閉じた。
最初に訪れたのは、黒というよりもむしろ闇だった。だがそれも僅か一瞬間のことに過ぎなかった。ヴォルフが意図していないというのに、瞼の裏に映像が映されてきた。
一番最近に人を殺した時の光景。
次に人間を殺した時の光景。
人から物を奪った時の光景。
人を欺き貶めた時の光景。
ヴォルフが犯した罪の数々が、ヴォルフを責め立てるように、ヴォルフを罰するようにして思い起こされる。ヴォルフはそれを止めさせようと意識の介入を計ったが、映像は止まらなかった。幾百幾千の罪がヴォルフにのしかかってくる。
そして、ヴォルフの原罪がヴォルフの胸に槍を突き刺した。
ルターの最期の顔が鮮明に思い起こされる。最期までヴォルフを信じ続けたその瞳が、今は何よりも鋭い刀となってヴォルフに斬りかかってくる。ヴォルフはその瞳を直視出来なかった。意識、つまり精神の介入を許さないヴォルフの瞑想世界から抜け出す方法は一つしかない。だがヴォルフの背負った罪と罰はそれすらも許そうとしなかった。ヴォルフが逃げ出そうとする最後の最後まで、ヴォルフに刃を向けて執拗に追い掛けてくる。そしてその切っ先が僅かにヴォルフに触れた。
「うあああぁァぁぁっ!!」
ヴォルフはようやく目を開ける事が出来た。眼前に広がるのは何もない荒野。こんな荒涼とした殺風景な景色でさえも、今のヴォルフには温かく感じられた。ヴォルフは両手を地面につくと、鳴咽を漏らした。冷たい汗をかいていることに気が付いたが、今はそんな事はどうでもよかった。ヴォルフは荒い息をして、目を見開いたままでいた。怖くて瞬きさえも出来ない。今までヴォルフはどうやって寝ていたのだろうかと、自問する程の恐怖だった。
これこそが罪。
そして罰。
ヴォルフは自分を落ち着かせると、再び目を閉じようと試みた。だが恐怖心がそれを妨げる。瞬きは出来るが、少しの間ですら目を閉じる事が出来ない。
ヴォルフは気分を変えようと、少し散歩をすることにした。何もないさら地だが、そこには同じザインの弟子達がいる。どうせならその様子を窺おうと、ヴォルフは歩き出した。
最初に目に留まったのは、ロートとヴァンナーだった。二人は魔法を使わずに組手をしていた。ヴォルフはその動きに息を飲んだ。まるで流れるような動きの中から相手への攻撃を繰り出している。そして同時に防御も兼ねている。一進一退、まさに均衡したまま戦い続けていた。
「すごい……」
ヴォルフの口からは、そんな台詞が自然と漏れた。とても同年代の子供の動きとは思えなかった。ヴォルフはその光景を見て胸を躍らせ、その場をあとにした。
次に目にしたのはシュヴァルツだった。彼は先程までのヴォルフと同様に瞑想をしていた。シュヴァルツからは充分に距離があるというのに、彼から発せられる気は禍々しいという言葉に尽きた。何か黒い、闇のような物がヴォルフに取り巻くような感じを受ける。ヴォルフは先程までとはまた違う、恐怖のような物を感じた。これもまた瞑想の極みなのだろうか。ヴォルフは近寄り難い雰囲気を一身に感じ、直ぐにその場を離れた。
結局、散歩をしようにもあまりこの土地のことを知らないし、ヴォルフ以外に人は四人しかいないため大して時間を潰せないことにヴォルフは漸く気が付いた。元の場所に戻って来ると、ヴォルフは再び地面に座り込んだ。少しとはいえ、刺激的な物を目にすることが出来た。ヴォルフは覚悟を決めた。
ここを越えないと、先は見えない。
これを越えないと、光は見えない。
「さて……、どうしているだろうか」
ヴォルフを弟子達に会わせた後、しばらく余所へ行っていたザインは十日振りに戻って来た。ザインが気にしているのはもちろんヴォルフのことだった。初日に忠告を与えてからというもの、一度も会っていない。瞑想の時に立ちはだかる最初の壁は、記憶である。たとえ本人が忘れたと思っていても、必ずどこかに蓄積されている。
それが良い事であれ、悪い事であれ。
それが幸福であれ、悲劇であれ。
普通、人はそういう時には悪い事の方を思い出す。感情では忘れたいと思い、表面的には忘れたかのように振る舞う。だが実際には忘れてはいけない事だと思い、胸に刻み付けるのだ。そして瞑想の時には、その胸に付けた刻印が、痛みとして或いは後悔として襲い掛かってくる。それは時間が経てば経つ程に深くなっていく。ザインの知る限りでも、ヴォルフは既に多くの傷を持っていた。この二年間にも多くの罪を背負ったのだろう。普通の人が瞑想の第一段階を越えられるようになるまで、約七日と言われている。なのでザインは、ヴォルフはまだ自分の罪と罰に苦しんでいるだろうと推測していた。
確かにコツという物はある。コツというよりも鍵となる物だ。罪と罰に対抗出来るものは、もはや認めと許しでしかない。自分の罪を認め、自分の罰を許す。それは自分自身というものの確立だ。過去も現在も未来も、罪罰も貢献も、それら全てを含めて自分という一個の存在があるのだということを悟ることで、精神的に一つの壁を乗り越えられるのだ。
「これは……」
ザインが目にしたのは、荒野で一人座るヴォルフの姿だった。ただそれだけならば何の事はない、ザインの予想通りに過ぎない。だがその場に張り詰めた空気は、さしずめ炎と氷。相反する二つの空気が、互いに主張し合って鋭い針のようになっている。ザインは直ぐに悟った。ヴォルフは既に第二段階をも越えているのだと。
第一段階が自己の確立だとすると、第二段階はハオベとしての自己の確立にあたる。第一段階を越えた者が発する気配は、圧倒的な存在感であり、そしてその気配を自在に操る能力を得る。第二段階を越えた者は、ハオベとしての自分の属性の完全な操作能力を得る。たとえその者が魔法の鍛練を積んでいなかったとしても、そもそもの魔法が心象の具現化である以上可能なことなのだ。ただ、本来ならば第二段階を越えただけで魔法が格別に上手くなるということはない。そこに決定的に欠ける、感覚と経験があるからだ。実訓練なしに一流のハオベにはなりえない。
とはいえ、たった十日程度でヴォルフが第二段階を越えた事は、ザインにとっては嬉しい誤算だった。
「ヴォルフ」
ザインはヴォルフに近付いて呼び掛けたが、ヴォルフは何の反応もしなかった。よく見ると、眼をうっすらと開けて恍惚としているようだった。ザインが声を掛ける程度では、決して気付きはしなかった。
「まさか……」
ザインは信じられなかった。先程までの誤算すら誤算だった。ザインはヴォルフという存在を軽く見過ぎていた。
ヴォルフは既に第三段階をも越えていたのだ。
瞑想状態の第三段階とは、ザインがヴォルフに以前語ったように、エルデと一体になることだ。これが瞑想の最終段階にあたる。
人としてもハオベとしても自己を確立した者のみが、その後エルデの真意を聞くことが出来るようになる。だがここにも大きな壁があるのは言うまでもない。
エルデを悟ることは、まずエルデの呼吸を感じることだ。どこにでも溢れているエルデの気に、自らを委ねる。そして次第に見えてくる世界の姿。エルデの真実。
口で語るのは簡単だが、それを修得するのには絶え間無い努力及び類い稀なる資質を必要とする。魔法で例えるなら、後者はベーゼアガイストのような物だ。なくても修得は可能だが、あった方が前者にかかる負担は少なくて済む。
瞑想の第三段階は、文字通りエルデに自らの精神を委ねるため、精神による介入を一切認めない。それはつまり、声を掛けただけでは瞑想状態を脱する事が出来ないことを意味する。自分で瞑想を解くか、或いは瞑想が続けられなくなる程に集中力を乱す、外的刺激を与えられるかだ。今ザインは、その後者を試みようとしている。それ程大それた事ではない。ただ身体を揺さ振ってやるだけだ。
「ヴォルフ、ヴォルフ!」
ザインが数回揺さ振ると、ヴォルフは瞬きを数回して辺りを見回した。まるで現実との区別がついていないようだ。それは最初に瞑想状態になった時によくなる症状だ。
ヴォルフは左右上下、ありとあらゆる方向を見回してから、しばらく呆然としていた。未だに頭の整理が出来ていないようだ。
「ここは……どこだ?」
そうしてヴォルフはザインの存在を認めた。今の今まで、傍に人がいることにすら気が付かなかったのだ。真の瞑想は、それ程に深い。
「ヴォルフ、今何を見ていた?」
ザインは説明を省いて直接に質問をした。ザインに肩を揺さ振られているヴォルフは、遠くを見つめて今さっきまでの事を思い出していた。
「何って――何だろ? ええと……、漠然と『全て』としか言えない。この世界の全てを感じていたような気がする。見た訳でも聞いた訳でも触った訳でもない。でも確実に俺の中にあるのを感じた」
ザインはそれで納得した。ここまで条件と符合しているのだから、よもや疑いようもない。ヴォルフは間違いなく第三段階にまで達している。まだ瞑想状態への切り替えは出来ていないようだが、わずか十日で第三段階まで来られるのは並な事ではない。当のザインですら、修得には一ヶ月を要した。今現在いる弟子でも、最速でシュヴァルツの二ヶ月だ。それに比べたら、ヴォルフの資質は頭一つ抜け出ている所ではない。群を抜いている。他の追随を決して許さない程に。
「いいだろう。ヴォルフ、これからも毎日瞑想は続けなさい。但し、まだ第三段階にまで行ってはいけない。その瀬戸際の状態を保つのだ」
ザインは第三段階という単語を口にしたが、ヴォルフには通じない。誰からも何も教わらなかったのだから。なのでザインは、今まで省略してきた説明を一度にまとめてした。ヴォルフは少し頭を痛そうにしたが、二回繰り返せばどれも理解することが出来た。どうやら、今のヴォルフはひょっこりと第三段階に到達してしまったに過ぎないらしい。つまりは、完全な会得には至っていないということだ。今後は自らの意志で第三段階に至ることが出来るようにならなければならない。
その日、ザインが説明をし終えた時には、陽は沈んでいた。
ザインがいなかった十日の間、ヴォルフは何も言われなかったが、どうやらご飯の準備は交代で行う事になっているようだった。瞑想に耽るあまり、ご飯もろくに食べていなかったのでヴォルフは気付かなかったが、確かに毎回料理を作る人が変わっている。
「今までは大目に見てたんだからな? 明日からはヴォルフも手伝えよ」
今日の当番はロートのようで、悪態をつきながら手を動かしていた。態度とは裏腹にどこか楽しそうなのが、ヴォルフには面白かった。
その晩は久しぶりに五人が揃っての夕飯だった。というか、ヴォルフが来てからは初めてだった。ヴォルフは言葉少なくも他の弟子と会話をすることが出来た。ヴォルフにとっては本当に久しぶりの、温かい食事だった。
「ヴォルフが次にしなければならない事は、身体の鍛練だ」
翌日、朝食を終えた後でザインはヴォルフにそう言った。ロートやヴァンナー、シュヴァルツも集められている。ハオベとしての修業はどうやらまだ先のようだ。考えてみれば、魔法を使うには屈強な肉体と強靭な精神とが必要になる。ほぼ零だったヴォルフが始めるには時期尚早というものかもしれない。
「――シュヴァルツ。ヘクセライを使わずに、ヴォルフと組手の相手をしなさい」
ザインはヴォルフ以外の三人を見回した後で、シュヴァルツを指名した。ヴォルフはこの時ひどく嫌な予感がしていた。先日シュヴァルツの放つ禍々しい雰囲気を見ていたし、肉体に関して鍛練を積んでいないヴォルフが形になるような組手を出来るはずもない。
ヴォルフとシュヴァルツは対峙したが、ヴォルフは何をどうすればいいか皆目見当がつかない。構え方すら知らない。ただ沈黙を通すしかなかった。
「そっちから来ないなら――行くぞ」
こちらの出方を窺っていたのか、シュヴァルツも最初は動かなかったが、そう言った後走り出した。狙いは真っ直ぐにヴォルフだった。ヴォルフはシュヴァルツの気に圧されていた。突き刺さるように、黒い気配がヴォルフの身動きを封じる。ヴォルフは瞬間的に違う人物のことを考えていた。まるでよく似た禍々しい気配。その刹那、ヴォルフは眼前に拳が迫っている事に気が付いた。ヴォルフは反射的に身を反らしたが、紙一重の差で額にその一撃をもらってしまった。重心が後ろに移動していたヴォルフはそのまま地面に倒れ込んだが、先程の回避行動が功を奏したのか、痛みは殆どない。地面も砂地であったので、こちらも痛みはない。だが次の瞬間にはシュヴァルツの攻撃が再びヴォルフに迫っていた。
倒れている状態で戦うことは困難だ。もとから戦闘経験に雲泥の差があるならば尚更だ。ヴォルフは地面を転がりながら、何とか立てないものかと思案していた。何より、この胸にわだかまっている不快感を払拭したい。自分の中の恐怖という感情が、何か扉を開けようとしている。決して開けてはならない、禁断の扉を。
「あの子も可哀相にね。シュヴァルツが相手なんて」
「まったくだ。師匠、どうしてシュヴァルツなんです?」
遠くから事の成り行きを見守っていた三人だったが、二人ともザインがシュヴァルツを相手に選んだ理由が分からなかった。確かに戦闘能力に関してはヴァンナーやロートよりは低いかもしれないが、シュヴァルツには冷酷な一面がある。どんな相手にも容赦をしない、冷たい氷のような一面が。
「いや、そうでもない。よく見てみなさい」
ザインにそう言われて視線を戻した二人だったが、先程と特に変わりないようにしか見えない。ただシュヴァルツがヴォルフを圧倒している。だがロートはザインの言わんとした事が分かった。
「――ヴォルフの奴、シュヴァルツの動きに対応している?」
確かにシュヴァルツが圧しているのは事実だ。ヴォルフもシュヴァルツの攻撃を何発ももらっている。だがその攻撃の全ては、ヴォルフの防御の上からだったり、かすめたりしているだけで、まともには食らっていない。ヴォルフは一度だってシュヴァルツに攻撃出来ていないが、その代わり、一度だって攻撃を受けていない。
ヴォルフは戦っていた。眼前にはシュヴァルツがいるのだが、実際にヴォルフが戦っているのはシュヴァルツの発する気だった。シュヴァルツが足を一歩踏み込む度に、彼の気がヴォルフに襲い来る。しかも黒ずきんとしての気だ。ヴォルフの心臓は、疲れとはまた違う意味で激しく脈打っていた。
シュヴァルツの動きは、その気からある程度は先読み出来る。だがその気への恐怖が、ヴォルフの反応を鈍らせ、中途半端な防御しか出来ない。シュヴァルツが拳を繰り出す度に、ヴォルフは精神的に傷付いていく。その後ろにある黒ずきんの影がちらつく。ヴォルフの中で血が騒ぎ始めていく。
「く、そ……」
ヴォルフがシュヴァルツ相手に善戦しているのは分かった三人だが、どうもそれとは違ってヴォルフの様子がおかしい事に気がついたのはヴァンナーだった。ヴァンナーはヴォルフの動きを注意深く観察した後、驚きにも似た声を発した。
「ヴォルフのツァオバーが上昇している?」
魔法を使ったことのないヴォルフだから、魔法を使わないように指示しておいたシュヴァルツだから、誰もその変化に気が付かずにいた。ヴァンナーにそう言われて、ザインもロートも直ぐにその種の魔法を使った。見てみれば確かに魔力がじわじわと、まるで累乗していくように上昇している。しかも、赤ではない方の魔力が。ザインはもしやと思い空を仰いだ。空には何も見えていない。だが月日の計算をざっとしたザインは、恐ろしい結果に至った。
「今日は、新月の日か……」
ザインは直ぐに視線を戻した。その視界には、シュヴァルツに攻撃され、恍惚とした状態で空を仰ぐヴォルフの姿があった。ヴォルフの視線の先には、太陽の明るさの前で姿を隠す、歪みのない月の姿がある。
「シュヴァルツ! ヴォルフから離れなさい!!」
ザインがそう叫んだ刹那、誰の目にも明らかな、いや、肌で感じる事が出来る程の魔力の上昇がその場に拡がった。全身を凍らせるような、痛い程に冷たい魔力が。
「難攻不落!! 空中楼閣!!」
ザインは咄嗟に、ほぼ反射的に二つの魔法を唱えた。そうしなければ意味がないような、そんな恐怖にも似た感覚を抱いていた。ザインが唱えたそれは、シュヴァルツとヴォルフの間に大きな壁となって立ちはだかった。その直後、何かが弾けたように、ヴォルフを中心にして氷の結晶が放射状に拡がっていった。
「なっ……!?」
目の前の現象に言葉を失うロートとヴァンナーだったが、氷の結晶が自分達の方にも近付いているのを知ると、直ぐに回避行動に移った。ザインが張った魔法も、ぎりぎりの所で氷の結晶を防いでいた。というよりも相殺していた。ザインの魔法に辛うじて守られたシュヴァルツも何とか三人と合流した。
「何なんですか師匠、アレは!? 本当にヴォルフなんですか?」
当然、目の前の事実を確かめたいロートはザインに返答を求めた。だがザインだとて聞いていたのは話だけなのだ。まさか実物を目にするとは思っていなかったし、実物がこれ程の物だとは思っていなかった。
「詳しい説明は後だ。とにかくアレを止めるぞ。殺さない程度にな」
ザインは三人にそう指示したが、相手が何なのかも知らずにでは困難極まりない。だが、ザインもよくは知らないのだ。氷の結晶の中に佇む、四つ足の獣の真の実力など。
「――簡単に言えば、あれはカプーツェのツァオバーを宿した獣だ。知性はほぼ皆無だがツァオバーは並ではない。そしてあれを止める方法は、恐らくヴォルフの体力が切れるのを待つか、それかこちらであれのツァオバーを消耗させるかしかないだろう」
ザインの説明だけでは、全てを理解する事は出来なかったが、たった一つだけ理解出来た。それは、当代最強と謳われたハオベですらも躊躇いを生むような相手であるという事だ。三人にとって、初めての実戦にしてはひどく厳し過ぎる戦いになることは想像に容易かった。
散開した四人は、とりあえずそれぞれの属性の魔法を放った。まず様子を見ない事には手の出しようがない。だがいくら白虎級の魔法を放っても、獣の周りを取り囲う氷が、まるで意志を持つかのようにしてそれらを防いだ。たとえ火を、雷を、水を、闇を、光を放てど、その獣の前では全てが無力だった。
今まで微動だにしなかったその獣は、大きく自由を噛み締めるように咆哮すると動き始めた。だが動き始めた、と言えるのは、獣の視点からのみであった。あまりに早過ぎて、目で追い付くのがやっとだった。そして、その獣はあっという間に間合いを詰めると、まずはロートにその爪を向けた。
「くっ……。風林火山!」
ロートは辛うじてその第一波を避けたが、獣の爪はロートの左肩を掠めていた。掠めただけだというのに、痺れるような冷たさと痛みを感じる。ロートの左手は、即座に感覚を失った。そして迫る第二波攻撃。風林火山で移動速度が上がったとはいえ、離脱はおろか振り切ることすらも出来ない。ロートはこの時恐怖を感じていた。逃げることも出来ず、ただ死が後ろに迫る、生命が最も恐れる恐怖を。
「疾風迅雷!」
ロートに助け舟を出したのは、ヴァンナーだった。一閃の雷が、ロートと獣の間に割って入った。獣は強引に爪でそれを引き裂こうとしたが、ヴァンナーが上手く操りそれをさせない。獣は標的をヴァンナーに変え、直ぐに迫った。回避行動すらままならない間で、ヴァンナーの懐にまで迫る。ヴァンナーが息を飲もうとした頃には、既に牙が喉元を狙っていた。
「土崩瓦解!」
次に助け舟を出したのはシュヴァルツだった。充分に距離を取って、白虎の攻撃を仕掛ける。その攻撃は地面を砕きながら進み、ヴァンナーの目前で獣に命中した。
だがその攻撃による損傷は皆無で、ただ攻撃の軌道が逸れただけだった。それでもなおヴァンナーの右肩を掠め、凍らせていく。そして、攻撃を受けて動きが鈍ったヴァンナーを、その場から離脱させたのはザインだった。烏兎惣惣により高速での移動を可能にしたザインは、負傷したロート諸共、戦線を離脱した。
「やるしかないようだな……。シュヴァルツ、少しの間時間を稼いでくれないか?」
ザインはシュヴァルツにそう頼むと、地面に何かを描き始めた。頼まれたシュヴァルツにしてみたら、いきなり化け物の相手をしろと言われても臆してしまう。だがザインが言ったのは時間稼ぎだ。正面から戦えという事ではない。シュヴァルツは集中力を高めた。獣はようやくシュヴァルツの方に向き直った。
「効くかどうかは分からないが……、夢幻泡影!」
シュヴァルツは法陣も描かずに、幻覚系の魔法を使った。獣相手に通用するのかは分からないが、時間を稼ぐにはもってこいの魔法である。
だが獣は一直線にシュヴァルツの方に向かってきた。その青い瞳に射抜かれて、シュヴァルツは一瞬動けなかった。そしてその一瞬が勝負の分け目だった。
「神出鬼没!」
姿を消して撹乱を図ろうとしたが、魔法の発動が一歩遅く、シュヴァルツもまた獣の攻撃を掠めてしまった。脇腹を負傷したシュヴァルツはその場に膝をつきうずくまった。そして獣はそのまま第二波攻撃を仕掛けようとしていた。
「疾風迅雷!!」
そんなシュヴァルツに聞こえてきたのは、ザインの声。眼前を通ったのはヴァンナーの魔法。シュヴァルツには目の前の光景が理解出来なかった。自分が助けられたのは理解出来たが、白ずきんのザインが黄魔法を使える理由が見当もつかない。
「電光石火!」
再び聞こえるザインの声、そしてヴァンナーの魔法。シュヴァルツはザインに抱えられて、そのまま戦線を離脱した。シュヴァルツが先程までザインがいた所を見ると、かなり複雑な魔法陣が描かれている。それでシュヴァルツは理解した。ザインは麒麟の森羅万象を使ったのだと。だから今や全ての属性を扱う事が出来るのだと。そしてシュヴァルツはそのまま意識を失った。
ザインは地面に倒れている三人の弟子を見つめた。今までこんな風になったことなどただの一度もなかった。ザインの中で、自分に対する怒りのような感情が膨れ上がったが、直ぐに抑え込んだ。今この状況で直情的になっても、その先に明るいものは現れない。それよりも冷静な心でこの状況を乗り切る方が先決だ。そしてその方法は既に考えてある。
「シュヴァルツの気、そして新月が起爆剤となっていたのなら、これで止まるはずだ。旱天慈雨……」
ザインがそう唱えると、今までの晴れ間に急に暗雲が立ち込め、直ぐさま雨が降り始めた。青い魔力を持つ相手に雨というものは良くないかとも思ったが、もはやこれしか方法が考えられなかった。ヴォルフが獣になった要素が二つあるなら、その二つともを消してしまおうという考えだ。つい先程ので一つの要素、つまりシュヴァルツの気という物はなくなった。残る要素は新月。なのでザインは青魔法で雨雲を出し、それを隠してしまおうと考えた。
ザインの予想が的中したのか、獣は雨空を仰いで動こうとしない。だが直ぐにザインの方を振り向いた。
「ダメか……」
ザインにはもはや打つ手がなかった。後は真っ正面からぶつかり合い、どちらかが死ぬまで戦い続けるしかない。
獣は大きく屈伸すると、その驚異的な脚力により凄まじい加速度を見せてザインに迫った。それはザインの反射神経に迫る勢いだった。ザインは回避行動を取ったが、それを察知した獣の反射神経と、それに対応する柔軟な脚力は、人間のそれを遥かに凌駕していた。そして正面に回られたザインは、もはや成す術なく、ただ獣の爪が眼前に迫るのを見ているしかなかった。
だがどうした事か、獣の動きは既の所で止められている。見ると、その爪はぴくぴくと震えている。ザインには最初何が起きているのか分からなかったが、獣の、ヴォルフの様子を見る内に理解出来た。
「う……が……」
つまり、時間が来たのだ。ヴォルフの体力が限界を迎える、その時が。それはザインにとっては出来るだけ避けたいことではあった。体力が限界を迎えたということは、もはやヴォルフ自身では身動きが出来ないということにも等しい。それは命の危険にも繋がるし、魔力の消耗とは違い、そんな状態では修業など出来はしないからだ。
だが何はともあれ、目の前で起きていた危機は回避出来たのだ。今はそれに安堵するべきであった。ザインは、目の前で倒れ込むヴォルフを抱えた。心身の極度の疲労からか、今やその姿は完全に赤ずきんのヴェーア・ヴォルフのそれになっている。この時、ザインは改めてカプーツェの偉大さ、人の業の罪深さ、己の無力さを思い知った。今の自分は、ヴォルフに何をしてやれただろうか、と。
ヴォルフが目を覚ました時、気分は非常によかった。夢見は悪かったし、今まで何が起きていたのかも覚えていないが、自分の中に一つの確信めいた物があるのは事実だった。そしてそれがヴォルフの心を晴々とさせている。
だが次にヴォルフが上体を起こそうとして、身体が全くいう事をきかなかった時、流石にヴォルフは嫌な予感がした。記憶にないことが余計に怖い。ヴォルフは眼を動かして出来る限り辺りを見回した。視界にはシュヴァルツの姿だけがあった。
「俺は、どうしたんだ?」
まだ上手く回らない口で、ヴォルフは必要最低限の言葉のみを何とか絞り出した。ヴォルフの意識が戻ったことに気が付いたシュヴァルツは、ヴォルフの傍に歩み寄った。今ではその黒い瞳に畏怖を覚えることもない。
「何も、覚えていないのか?」
ヴォルフは微かに頷いた。だが、記憶には残っていなくても、身体には微かに何かの感触が残っている。本気で目の前にあるものを抹殺しようとしていた、子供じみた狂気が。
それから、シュヴァルツは今までに起きたことを全て話した。全てと言っても、シュヴァルツが意識を保っていた間までのことだが、それでもヴォルフに与えた衝撃は大きかった。語られてはっきりと思い出した。目の前に迫る、父親によく似た気配、視界に入る真ん丸の月、そして内から溢れ出る冷たく膨大な魔力。
「くそ……っ、俺はまた……」
ヴォルフは自分の無力さ、不甲斐なさを痛感した。どんなに自らを高めていけば、内に眠る野性を抑え付けられるのだろうか。そのためにも、やはりザインの下で修業をしていかなければならない。ヴォルフの胸の中では、青い血ではなく赤い血が熱くたぎっていた。
ヴォルフが目を覚ましたという事を聞き付けて、次にザインがヴォルフの前に姿を見せた。ザインはシュヴァルツに席を外すように言うと、ヴォルフと向き直った。ヴォルフはシュヴァルツの首に掛かっていた飾りが妙に気にかかってしまった。どこかで見た事がある気がした。だがヴォルフのそんな思念は、ザインの言葉とともに掻き消された。
「調子はどうかね?」
「身体が動かない事を除いては頗るいい」
ヴォルフはザインや他の弟子とどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。ヴォルフに悪意がなくとも、ヴォルフが傷付けた事には変わりない。しかもその手には殺意までもが感触として残っている。
そんなヴォルフの様子を見て取ったのか、ザインは静かに話し始めた。
「ヴォルフ、気にすることはない。むしろヴォルフの状態をろくに考えずに手合いをさせた私にこそ非がある」
ヴォルフは何か言いたかった。謝罪でも、感謝でも、何でも。だが言葉が浮かばない。それどころか、自分自身で口を塞いでしまっているような気すらしている。
言葉を失ってからしばらくの沈黙の後、ザインは再び静かに話を始めた。
「ヴォルフ、これからは普通の修業の方法とは異なる方法を取る。それはヴォルフには退屈かもしれないし苦痛かもしれない。だが一つ忘れないでほしい。お前の力は何の為にあるのかを」
ザインはそれで言葉を締め括った。そして退出していった。ヴォルフはザインの言葉を胸で反芻させながら、自分が何の為に力を欲しているのかを考え続けた。だが今のヴォルフがその答えを得られる事は終ぞなかった。
それから一年余り、ヴォルフは己の精神と肉体とを徹底的に鍛え上げた。ザインの言う普通とは異なる修業方法も伊達ではなかった。今では、魔法を使わない組手では他の三人とほぼ同じ水準にまで達している。そして精神をも鍛えたヴォルフは、容易に瞑想状態に移れるようになった。それはあらゆる事に応用出来た。心を落ち着かせる時、真理を知る時、そして戦闘の最中。無我の境地に達したヴォルフは、それを駆使して今の自分を築き上げた。決して生易しい道ではなかったが、心が折れそうになる度にあの日のザインの言葉を思い出した。あの答えを知らないヴォルフは、答えを知るために力を欲していた。それが矛盾である事に気付きながらも、いつか答えを知るために。
そして更に一年が経過した。この一年間を、ヴォルフはハオベとしての能力を鍛え上げる事に専念した。赤ずきんであるにも関わらず、火を出す事すら出来なかったヴォルフも、今では青龍級の魔法も名前を唱えずに出せるようになっていた。流石に実戦ではまだ無理だが、それでも目を見張るような飛躍であった。組手も魔法を交えた物となり、その中でもヴォルフはヴァンナーの次、ロートとほぼ同等の実力になっていた。
この日はロートと組手をする予定になっている。互いに競い、強め合ってきた仲間であり好敵手である。いつものように全力でぶつかるのみだ。
「ヴォルフ。今までの戦績は覚えているか?」
「ああ。俺の三百八十七勝三百四十二敗十八分だろ?」
この二年間、ほぼ毎日、多い時には一日に二回以上手合いをしてきた。ヴォルフがロートに勝てるようになってから一年と少しだが、そうなってからの勝率はヴォルフの方が高い。
「悪いが今日は特別なんだ。勝たせてもらうぜ?」
ヴォルフはロートが何を言いたいのか分からなかった。だがそんな事は関係ない。勝てばいいだけだ。手加減、油断、容赦。これらは無意味な物でしかない。戦いとなったらいつでも全力でいかなければならない。それが相手への礼儀という物だ。
開始の合図とともに二人は走り出した。今までの経験上、長距離戦では持久戦にしかならない。今の二人であれば、たとえ青龍を使い続けても半日は続くだろう。それは時間も魔力も無駄遣いというものだ。しかも組手の練習にはまるでならない。だから最初から接近戦を前提に、模擬的に戦闘を頭で思い描く。そしてその通りに身体を任せる。長距離戦用の魔法は、接近戦に至るまでの前哨戦、或いは牽制にすぎない。
「快刀乱麻!」
即座に接近戦に突入した二人は、炎の剣を抜刀した。ロートは一本の剣で、ヴォルフは一本の刀でその刃を交え始めた。互いに刃の軌道を見て感じ、それに合わせるようにして身体を回転させていなしていく。その過程で蹴りを出したり拳を出したりするが、どちらも相手にかわされ防がれる。牽制で白虎を使っても、青龍の剣の前では意味を成さない。
「今までの俺とは違う所を見せてやるよ。快刀乱麻!!」
今まで両手で一刀だったロートは、片手に一刀ずつ、つまり二本の剣を使い始めた。一本同士では拮抗する力でも、どちらかに剣が増えればその均衡は崩れる。そして今やロートが優勢となっている。一本の剣を避けても、直ぐに二本目の剣が眼前に迫る。それを防いでも、次には蹴りが飛んで来て、そして再び剣が迫る。防戦一方のヴォルフは、もはやロートの剣を回避するので手一杯だった。とても攻撃に回れる隙がない。接近戦では手数の多いロートが有利だと悟ったヴォルフは、距離を開けようと後ろに退いた。
「そう来ると思ってたぜ」
ロートは、後ろに跳ぼうとするヴォルフに足をかけた。後方に体勢を崩したヴォルフが、朱雀で体勢を直そうとした瞬間には全てが決まっていた。ロートはヴォルフの身体を押さえ込み、その刃をヴォルフの首元に突き付けていた。
「俺の……勝ちだな」
ロートはそう言ってヴォルフを解放した。今日のロートは圧倒的だった。序盤は互角に見えていた戦いも、二刀流というロートの切り札のために一気に形勢が傾いた。今までとは違う戦い方の他に、今日のロートが発する覇気のようなものもまた違っていた。
ロートは、戦いに勝った割にはひどく寂しそうに、憂いを帯びた表情をしていた。それでヴォルフは何となく分かってしまった。ロートが言っていた「特別な日」の意味が。
「お疲れさま」
ヴァンナーの労いの言葉で迎えられた二人は、地面に座り込んだ。二人とも、普段組手が終わった後の表情とはまるで違う。疲れや云々よりも、何か物哀しい表情が窺える。
「今日のロートは圧倒的だったわね」
あまり抑揚のないヴァンナーの言葉は、それから始まる長い沈黙の引き金となった。
誰も何も語らず、ただその場に座り続けている。ロートを除いてあまり自分の感情を表に出さないような連中なので、ロートが何か話さなければそれこそ会話すらない。そんな状態が長々と続き、最初に折れたのはヴォルフだった。ヴォルフには分かっていた。ロートだって話し出しにくいのだ。何か契機となるものが必要なのだ。
「ロート、そろそろいいんじゃないか?」
ヴォルフがそう切り出した時、ロート自身ヴォルフが何の事を言っているのか分からなかった。だが直ぐにヴォルフの真意を汲み取り、そして決意の目で頷いた。
「――前から決めていた事があったんだが、俺はここを出ていく」
ヴォルフは、やはり、といった面持ちで、ザインもそれとほぼ同じ様子だったが、ヴァンナーとシュヴァルツは違った。驚きを隠せないでいる。そして二人は同時にほぼ同じ事を口走った。
「どうして?」
率直な感想はみな同じだろう。ヴォルフも、ロートがそうしようとする理由は知らない。そして、知りたかった。ロートは頭を掻くと少し恥ずかしそうに話し始めた。
「元々俺が師匠に弟子入りした理由は、生きる力が欲しかったからだ。俺の生まれ育った町は、ハオベと人間との争いで事実上壊滅しちまっててな。その時に両親も亡くして、俺には何も無かった。生きる気力さえも。孤児となった俺は誰にも見向きされなかった。そんな時にザイン様が手を差し伸べてくれたんだ。だから俺は生きる力を得るために弟子入りした」
ロートは大きく息を吐いた。走馬灯のように今までのことを思い出しているのか、その表情には様々な色が見受けられた。そしてロートは再び口を開いた。
「そして今俺は充分に力をつけたと信じている。今なら、誰でもない俺自身が自分を認めることが出来る。この力がどこまで通用するか、どこで役立つかを、自分の眼で、自分の力で以て確かめたい」
ロートの意気は皆に伝わった。誰もが、そんなロートを認めずにいるはずがない。だからこそ誰も何も言わず、ただロートの目の奥の焔を見つめるだけだった。
「ロートが決めた事だ。自分の意志を最後まで貫きなさい」
ザインはそう言って席を退いた。いつもの雰囲気が少しだけ戻り、まず口を開いたのはヴァンナーだった。
「私もそろそろ抜けようかしら?」
口ではそう言っているものの、その言葉が真意でないことは誰にも分かっていた。その言葉の裏に、ロートに対する羨ましさのような感情があるのもみなには伝わった。ヴァンナーにはロート以上の力がある。だがそれはあくまで戦闘力としての力である。自分の意志を貫く力ではない。だからこそその力を持っているロートを強いと思えるのだ。
ロートがザインの元を去ってから三ヶ月程が経った。一応以前と変わりなく、修業を続ける日々が続いているが、やはりロートが抜けた部分を埋めるようなものはなかった。どこかにぽっかりと穴が空いてしまったような、何とも言いようのない虚無感が残る。そしてそういう心情においては、修業も果取らないというものだ。
その晩は町の近くで野宿をしていた。月の綺麗な明るい夜だった。食料や必需品の調達のために、シュヴァルツとヴァンナーはその町へと買い出しに行っていた。ヴォルフは以前から思っていたのだが、この買い出しの金はどこから調達しているのだろうか。四人分の食料、水、衣服等々、一ヶ月を間に合わせるだけでも二千ゲルトはかかるだろう。そして自分達は各地を放浪しているに過ぎない。金が手に入る機会など滅多にないはずなのだ。
ヴォルフの疑問は解決を見ることなく、次第にそれへの興味も失せていった。ヴォルフはザインと共に夜空を仰いでいた。満月の光が目に入る度に、ヴォルフの青い血が騒いだ。何度目の身震いだろう。
「大丈夫か?」
ザインのその言葉は、ヴォルフの心持ちをいくらか楽にさせた。言葉のみであれ、自分を案じてくれる存在がある事は心強い。ヴォルフは頷くと、辺りを見回した。月明りで大分明るくはなっているものの、夜の暗さは深い。その中でも、町から届く明かりはヴォルフらを照らす程のものだった。どうやらかなりの都市のようだ。
「……!」
ヴォルフの目に入ったのは、町からやって来る白い影。それが何であるかは直ぐに分かった。何せ血が騒ぐのだ。
だがヴォルフは自身を落ち着かせる事が出来た。焦ることはない、あれはまだ、ただの白ずきんだ。確かあの町はクリストゥス教が大多数を占める町だ。アルマハト教の白ずきんがいるはずがない。しかも何の用があって夜に町から離れることがあろうか。女一人が出歩くには、夜の荒野は厳し過ぎる。
ヴォルフは目を瞑ってそう考えていた。だが目を開けた瞬間、それは事実としてヴォルフの視界に入ってきた。止めることなど決して叶わぬ、運命の歯車が。
「ヴォルフ!」
ヴォルフの様子と近付いてくる白ずきんを見て、ザインもようやくその異変に気が付いた。ザインがもう一人のヴォルフの姿を見たのは一度限りだ。だからそれが起きる条件などは僅かにしか知らない。満月の夜なので注意はしていたが、ザインが気付く頃には遅すぎた。ヴォルフの目には、満月と白ずきんとアルマハト教の刻印が確かに映ってしまったのだ。
途端に辺りの空気が凍りつき、そして氷の結晶が地に生え始めた。ザインは直ぐにその場を跳び退き、近付いてくる白ずきんもろとも遠くへと一時離脱した。満月の夜のこんな時間に白ずきんが町から歩いてくるなんてと、ザインは直感的に作為的なものを疑った。いくらなんでも都合良く働き過ぎだ。だがそのような事を考える以前に、ザインには考えるべき事があった。対峙する狼をどうするかだ。
「以前のようにヴォルフの体力が尽きるのを……というのは無理そうだな。今のヴォルフはあの時とは比べ物にならない程に成長している。しかも、こうも町が近くにあっては、ただ待つばかりでは被害が出るかもしれない。やはり力ずくで止めるしかないか……」
ザインは覚悟を決めて身構えた。前回のように森羅万象を使う事は出来ない。あの時はヴァンナーとシュヴァルツが時間を稼いでくれたが、今は一対一。今敵意を剥き出しにしている目の前の狼は、そんな時間を与えてはくれないだろう。ザインは右手を上に、左手を下に向けた。今まで弟子の誰にも見せた事のない魔法だ。ザインの手には光が宿り、そして地が唸り始めた。
狼は夜の空気を極寒に変えると、白い息を吐きながら唸った。まるでその野性に帰ったかのようだ。そして目の前にいる存在を標的に定めた。実際にはそんな理性的な感覚ではない。ただ目の前の脅威に牙を剥き殲滅するという、いかにも獣らしい本能的な感覚だ。そして大きく咆哮すると、氷の結晶を強く踏み込んだ。
両者の間合いはあっという間に詰められた。その速さはやはり以前よりも格段に速くなっている。もはや普通の人間では目が追い付かないかもしれない。そしてそれは非凡なハオベといえど同様だ。目では追えても、身体がまるで反応しないだろう。ザインは狼が充分に近付くのを確認すると、魔法を唱えた。
「天上天下!!」
ザインがそう叫んだ途端、ザインの姿が消えた。両手に光を宿したまま高速で移動を始めたのだ。
ザインは狼の第一波攻撃を避けると、後ろに回り込んで組み伏せようとした。だが完全に後ろを取り、狼に手を掛けようとしても、氷の結晶がそれを拒む。強引に結晶を砕いた瞬間には、もう狼はこちらに向き直っている。野性の反射神経と、氷の壁が絶対的な防御力を誇っている。迂濶に出した腕に、狼は牙を剥いた。ザインは咄嗟に腕を引いて、逆の手で狼を強打した。それも氷に阻まれたが、衝撃と砕けた氷は狼に襲い掛かった。
「天上天下の動きについて来るとは……」
ザインには早くも疲労の色が見え始めていた。やはり鳳凰を使うと体力の消耗が激しい。長期戦には向かなかい。
吹き飛ばされた狼は、むくりと起き上がった。疲労はまだ少ない。そして次に目に映ったものは、狼にとってはザインよりも遥かに脅威になるものだった。狼は全身の毛を逆立てた。
「しまった……!」
狼の目の前には、この事態の引き金となった白ずきんが腰を抜かして座り込んでいる。ザインは一目見て駆け出した。今までの雑念など消え飛んでいる。ただ目の前の命を救うこと。それだけがザインの意識の全てだった。だがいくら天上天下を使っていても、狼の爪の方が先に届きそうだった。
「難攻不落!!」
ザインがそう叫ぶと、ザインの足下から荘厳な盾が現れ、白ずきんの目の前に立ち塞がった。狼はそれに向けて幾数もの氷の槍を突き立てた。
本来ならば、白虎と青龍の属性を持つ難攻不落に対し、ただの白虎である氷槍が敵うはずはない。だが、カプーツェの強大な魔力を手にした狼にとっては、そのような概念は何の意味も成さなかった。ただ力でねじ伏せるのみ。いかにも獣に合った戦い方である。
何本もの氷槍を受けた難攻不落は、ついにその限界を迎えた。まるで鏡が割れるかのような音を立て、脆くも崩れた。そして一本の氷槍が白ずきんに襲い掛かった。
だがその攻撃を受けたのは、同じ白ずきんでもザインの方だった。ザインは間一髪狼と白ずきんとの間に入り、その身を以て攻撃を防いだのだった。氷の槍はザインの左腕に深々と刺さっている。
「ヴォルフ……、もういい加減にしなさい」
ザインはそう呟くと、右手を前に突き出した。すると、ザインの手先から幾重にも別れた槍が、狼に向かって延びていった。槍とは言うものの、それに鋭利な刃先はついていない。攻撃用というよりはむしろ捕縛用といった感じだ。狼は回避行動に移ろうとしたが、既に足下にも槍は伸びていて狼の動きを封じていた。そして狼は、身動き出来ないまま槍に捕われた。槍は狼の身体を捕らえるとその形状を変化させ、まるで紐のように狼の身体に巻きついた。
「これは私への罰だな……」
ザインは槍によって刺された腕を見てそう呟くと、白魔法の剣、伝家宝刀を抜き自らの腕を斬り落とした。痛みはあるが血はまったく出ない。斬ったその瞬間に白魔法により治癒しているのだ。
そしてザインは捕縛した狼に近付いていった。必死に身体を動かして青龍の檻から抜け出そうとしているが、身体の力だけで抜け出せる程ザインの魔力は弱くない。氷の盾も、ここまでされては何の効力も成さない。
「私の知るヴェーア・ヴォルフはここまで弱くはない。お前はもう表舞台から退け。これからはヴォルフらの時代だ」
ザインはそう呟くと、手刀で狼の首元を一撃した。狼はそれで気を失い、次第にヴォルフの姿へと戻っていった。
「師匠っ! どうしたんですか?!」
買い出しから帰ってきたヴァンナーは、ザインの片手がないのを見た途端に叫び声を上げていた。シュヴァルツも、声に出さないだけでその顔は驚きを隠せないでいる。二人は辺りの様子を一瞥して大方納得したようだった。周り一帯が氷の大地となっていたら、想像出来る事はわずかしかない。
「まさか……、またヴォルフが?」
ザインの傍らで死んだように寝ているヴォルフの様子も、その納得をより深いものとしていた。二人は同じ事を考えていた。ザインにここまでの負傷をさせられるのは、人ではない、と。
「ああ、そうだ。だが今回は前の時とは違う。とても作為的なものを感じた。二人は町で妙な事とかはなかったか?」
ヴォルフが狼となるきっかけであるアルマハト教の白ずきんは町からやってきたのだ。クリストゥス教の多い町から。だから町で何か動きがあった可能性は、低いとはいえ否定は出来ない。
ザインにそう尋ねられた二人だが、お互いに顔を見合わせた後に首を傾けた。どうやら心当たりはないようだ。予期していた事なので、ザインはそれ程落胆もしなかった。
その後、ヴォルフが目を覚ました時、まるで何事もなかったかのように皆がいつも通りだった。何が起きたかはうっすらと覚えているヴォルフだが、正確には覚えていないので、ザインの左腕が無くなっているのを目にした時は衝撃で驚きが隠せなかった。自分が何をしたのかは直ぐに理解が出来た。自分の弱さのせいで仲間を傷付けてしまった。後悔の念がヴォルフに襲い掛かったが、やはりあの時とは違っていた。もう二度と自分に負けはしないと、何度目かの決意をかつてよりも強く胸に秘めるのだった。
それから更に一年が過ぎてヴォルフは十五歳になった。組手では、ヴァンナーには勝てないもののシュヴァルツにはもう負ける事も殆どなくなっていた。心身共に、この三年で並のハオベ以上になった。種類の違う魔法を同時に使うことや、魔法の名前を唱えずに使うことも出来るようになった。ヴォルフには充分に自信がついていた。一年以上前にロートが持った自信を、ようやく実感出来るようになっていた。狼という恐怖が内にはあるものの、原因となるものを極力避ければ、それも恐るるに足るものではなくなった。
そして、輪廻の宿命の日がやって来た。
ヴォルフはその日、ヴァンナーと一緒に買い出しに行く日だった。町に入ると、喧騒が耳に入る。俗世間を絶つような生活をしているヴォルフらにとっては、この無秩序にも似た町の様子がどこか懐かしかった。
「どうした?」
先程から辺りをきょろきょろと見回しているヴォルフに気付いたヴァンナーは、そう尋ねた。
「いや。――何でもない」
ヴォルフにも、自分が何故辺りに注意を払っているのかが分からなかった。何か心が落ち着かない。虫の知らせなのか、ただの思い違いなのか。だが心に引っ掛かりを感じる。嫌な予感、と言えば仰々しいが、そんな不安にも似た感情がヴォルフの中で巡っていた。とはいえ、何の確信もないものだったので、ヴァンナーには誤魔化すことしか出来なかった。
買物を終えた二人は、町の中を適当にぶらついていた。直ぐに戻ってもいいのだが、折角町まで来たのだから少しの間この雰囲気に酔いしれよう、というのが二人の共通の考えだった。
町の中を歩いているだけなので、確かに雰囲気を味わうことは出来るがやはり退屈になる。ヴォルフは何か話でもしようと、頭の中で話題を探した。そして、ロートが抜けた頃から聞こうとしていた事を思い出し、これを機に聞くことにした。
「ヴァンナーは何で弟子入りをしたんだ? 俺が入った頃にはもう充分に強かったのに」
ヴォルフは聞いてから少し後悔した。いくら三年を一緒に過ごし、気の置けない間柄になったとはいえ、やはり聞かれたくないことはある。ヴォルフ自身、あまり過去の事は詮索されたくはない。
言ってしまってから失言に気付いたので、ヴォルフはその後に何も言うことが出来ず、ただヴァンナーの様子を横目で窺いながら返答を待つしか出来なかった。
「守る力が欲しかったんだ……」
しばらくの沈黙の後に放たれたその言葉は、ひどく力無く、まるで過去の悲惨な記憶を無理矢理に引っ張り出そうとしているかのようだった。
「見ての通り、私はハオベの間でも稀にみる二色の眼を持っている。ヴォルフなら分かると思うが、他人との差異は差別、迫害を生む。私も以前は町ぐるみで迫害を受けた。石を投げられ、悪魔と罵られ、そして親までもが私を見捨てた。私は独りで生きざるを得なくなった。そして放浪の最中、ザイン様に会った。私は守りたかった。自分自身の存在意義を、迫害のない暖かい場所を。だから私は弟子入りした。欲した力は、己を鍛えれば手に入るようなものではない事は重々承知していたが、それでも一歩ずつでも近付けると思ったんだ。だから、私は漠然とした何かを護るために弟子入りした」
初めは辛そうに話していたヴァンナーだったが、話し終える頃には大分穏やかになっていた。ヴォルフはやはり聞いてはいけない事を聞いてしまったようで、かなり気が引けてしまった。
「済まなかった。辛いことを思い出させて……」
「いや、いいんだ。私ももしかしたら誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。少しだけ気が楽になった。礼を言う」
二人はどちらとも言わずに町から出る方向へと歩を進めていた。ヴォルフは負けないため。ロートは生きるため。ヴァンナーは護るため。それぞれがそれぞれの意志と決意を胸にして弟子入りしているのだ。当然シュヴァルツにもそういった理由があるのだろう。知りたくはあるが、ヴォルフは二度と聞こうとはしないだろう。他人には、触れてはならない不可侵領域があるのだ。
町から離れ、ザインとシュヴァルツが待つ場所へと戻って来た二人だったが、どこか様子がおかしく感じられた。何の気配も感じられないのだ。その事に気付いた二人はさっと顔を見合わせて、早歩きになった。そしてその光景が視認出来るようになった時、二人は何も出来なかった。話すことはおろか、身一つ動かすことさえも。当然、抱えていた買物袋は地面に落ちた。
目の前には、直立し二人に背を向けているシュヴァルツと、血溜まりを作り地に倒れているザインがいた。二人は直ぐさまザインに近付いた。まだ辛うじて息がある。だがそれもどうやら時間の問題のようだった。ザインは目を開けて二人の姿を確認すると、弱々しく口を開いた。
「二人とも……。これが森羅万象を縛る運命の輪廻なのだ……」
「もう喋らないで……!」
ヴァンナーがそう叫んだ瞬間、ザインは口から血を吐いてそのまま意識を失った。赤ずきんと青黄ずきんである二人では、ザインを蘇生することは不可能だった。ザインの絶命を確認した後、当然二人の意識はシュヴァルツの方に向く。
「どういう事だ、シュヴァルツ!!」
シュヴァルツはヴォルフの声に反応して振り向いた。その顔からは何の感情も読み取れない。そして、その無感情のままの声で話し始めた。
「どうやら死んだようだな……」
シュヴァルツのその言葉に、ヴォルフは激昂した。拳を握り締めると、見る見る内に魔力が溜められていく。
「貴様ぁ……」
「ヴォルフ、待――」
ヴァンナーの制止の言葉も、今のヴォルフの耳には届いていなかった。ヴォルフは怒りに任せて豪華絢爛を放っていた。いつもよりも威力の増したそれは、一直線にシュヴァルツの方へと進んだ。だがシュヴァルツは一歩も動こうとはせず、ただその場に立っている。
そしてきらびやかな炎は、シュヴァルツを包み込んだ。だが炎が治まってもなお、シュヴァルツはその場から動かずに立っていた。普段ならこの手の事には直ぐに気付くヴォルフだが、この時ばかりは心の動揺がそれを妨げた。
「なっ……!?」
そんなヴォルフにヴァンナーは静かに近付き、ある点を指差した。
「よく見ろ、ヴォルフ。あれはシュヴァルツの幻だ」
ヴァンナーが指差したのはシュヴァルツの立っている足下で、そこには法陣が描かれている。ヴォルフはようやく、自分がどれ程心を乱していたかに気が付いた。こんな単純なことにも気が付かないなんて。つまり、ヴォルフとヴァンナーがここに着いた時には既に、シュヴァルツはいなかったのだ。
「気が済んだか? 状況は見ての通りだ。俺はこれから更なる力を身に付けて、俺の目的を遂行する。ここでの時間もそれなりに楽しかったが、馴れ合いの時間は終わりだ。俺の信じるエルデは決して優しくはない。せいぜい次会う時を楽しみにしておくといい……」
シュヴァルツの幻影は、そこまでを言うと姿を消した。唖然としたままその光景を見ていた二人だが、信じられないという驚きがいくつもあった。まず第一に、シュヴァルツにザインを殺すに足る動機があったということ。第二に、これが最も信じられないことだが、シュヴァルツにザインを殺せる程の力があったということ。そして第三に、シュヴァルツがここまでの展開を読み切っていたということ。
「信じられない。まさかシュヴァルツが、そんな……」
「確かに、俺達の中で一番勝率の低かったシュヴァルツがこんな事を仕出かすなんて……。だが今考えれば、体術の得意な俺らとは違ってシュヴァルツは精神力が飛び抜けていた。もしかしたら、そっちは俺らには及びもつかない程に強かったのかもしれない」
悲愴と絶望の間で呆然としている二人は、呟くようにそう言った。傍目には会話が成り立っているように聞こえるが、実際には二人とも相手の言葉はあまり耳に入っていない。聞こえていない訳ではないが、それはむしろ独り言に近い。
「しかもシュヴァルツは俺が怒りに任せて攻撃することまで読んでいる。実際の所、あいつはどれだけ強かったんだろうか――」
シュヴァルツが描いた法陣にも、いくつか種類がある。例えば法陣とハオベが繋がっている様な物。これだと、ハオベは別の場所にいながら法陣を敷いた場所に自らの声や姿を見せることが出来る。だがこれは、拈華微笑を使うことの出来る白ずきんだけが成せる芸当だ。他のハオベでは、姿を伝えることは辛うじて出来ても、声を伝えることは出来ない。なので白ずきん以外のハオベは、あらかじめそうするようにしておくのだ。簡単な魔法を使えば、感知器のような物は作れる。そしてそれに組み合わせて音声や姿を法陣に描けば、まるでその場にいるように錯覚させられる。だがこれは予めの作業であるので、初めから展開を読んでおかなければならない。それは法陣を描くよりも遥かに難しいことである。相手の言動や思考などを知り尽くした上で初めて前提が揃うのだ。そしてシュヴァルツはそれをやってのけた。
ザインの死体を丁重に葬った後、ヴォルフとヴァンナーは沈んだ面持ちで立ち尽くしていた。ザインが存在したという証は、もはや地に立つ十字架しかない。だがザインは確かに存在した。当代最強と謳われ、ヴォルフが唯一尊敬出来た偉大な白ずきんは、今ここに眠るのだった。
「ヴォルフはこれからどうする?」
二人はザインの簡素な墓の前に立ち、会話を始めた。恐らくはこれがザインとの最後の会話になるだろう。そしてそれは二人にとっても同じ事だろう。
「俺は狼になった時に、狼自身に教わった。諸悪の根源は狼そのものではなく、それを悪用しようとする人の心なんだ、と。狼を入れられたのが輪廻の中の一紡ぎで、それが邪心によって行われたのなら、この運命に従うまでだ。俺は狼と悪の心を断ち切る」
ヴォルフの意志はもはや揺るがなかった。相手が自分の父親になろうとも、何かを失おうとも。ヴォルフは今ようやく気が付いた。ロートも、ザインの下から離れる時にはこんな気持ちだったのだと。確固たる意志と自信を持ち合わせた者にのみ許される、離別への決意、そして目的を遂げるのだという決意。
「そうか。私は――故郷にでも帰ってみるかな。今度こそは、異端なる存在ではなく一個のハオベとして認めてもらおう。そうしたら最初の目的を果たそう。差別と迫害の世界を、温かな世界に変えてみせる」
二人はお互いに意志を確認し、ザインに語り掛けた。夕陽がその光景に陰影をつけ、その地に記憶を刻み付ける。
二人は向かい合うと、互いに手を差し出した。同時といってもいい。お互いに、それが何を意味するかは分かっているのだ。
「お別れだな。次はいつどこで会えることか」
「次……があればいいけどな」
そして二人は、ザインの墓の前で別れた。まもなく陽が暮れる。これが闇の時代の到来を意味するのか、はたまた次に来る朝の光への期待を意味するのかは、輪廻のみが知ることだった。
「ヴァイゼーという黒ずきんを知らないか?」
ヴォルフは町の暗部、町の嫌われ者が集う暗い建物の中にいた。錠で閉め切られていたとはいえ、青龍を使えるヴォルフにとっては侵入はひどく簡単だった。その場にいるほとんどが黒ずきんだ。黒ずきんの居場所を探すなら黒ずきんに聞くのが一番だとヴォルフは思っていたのだが、どうやら聞く相手を間違えたようだった。
「何だ貴様は!? どこから入って来やがった!」
一番力のありそうな黒ずきんはそう叫ぶと、宣戦布告もなしにヴォルフに攻撃を仕掛けて来た。だがそんな陳腐な攻撃も、ヴォルフの前では意味がない。まるで何事もないかのように掻き消された。ハオベとして習熟しているヴォルフにとっては温過ぎた。
「面倒臭ぇな。そっちがその気なら、俺も容赦しねえからな」
ヴォルフはそういうと戦闘体勢に入った。自分の目の前に障害があるのなら駆逐するまでだ。たとえそれが誰であろうとも。たとえ殺すことになろうとも。
大して時間は経っていない。ヴォルフは僅かな時間の内に、その場にいた十数人の黒ずきんを戦闘不能にしていた。或る者は火傷を負い、或る者は斬られ、或る者は息の根を止められている。
「お、お前は何者だ……?」
息も絶え絶えになりながら、一番力がありそうだった黒ずきんはそう尋ねた。ヴォルフは倒れているその男の方に振り返ると、冷淡に言い放った。
「俺は赤ずきんのヴェーア・ヴォルフ。ヴァイゼーに、或いは奴につてのある者に伝えておけ。ヴォルフはここにいる、とな」
それからもヴォルフはヴァイゼーを探すために各地を旅して回った。だが最初のこの一件のせいで黒ずきんには警戒され、ヴォルフが何もしない時から攻撃を仕掛けてくることが急激に増えた。ヴォルフはそういう黒ずきんを片っ端から倒していったため、いつしか黒ずきん狩りのヴォルフ、という風に呼ばれるようにすらなった。
結局ヴァイゼーの所在は掴めないままだったが、一年も経つ頃には新しい情報を入手するようになった。それがエーヴィヒという存在。狼の魔力を抽出して出来たそれは、エルデにその存在を許されていなかった。だから、ヴォルフはエルデの意志と自らの血に従って、エーヴィヒの殲滅にも従事するようになった。殺して来たエーヴィヒの数は数え切れない。だがいくらエーヴィヒを駆逐しようとも、その根源であるヴァイゼーへ到るような情報は一向に得られないままだった。
そして更に一年が過ぎた。
ヴォルフはその気配を敏感に感じ取っていた。かなり近くにエーヴィヒがいる。しかも人間と一緒の場所に。今までそのような事はなかったので、ヴォルフには若干気に掛かった。だがいずれにせよ排除するまでのことだ。ヴォルフはエーヴィヒがいる学校に近付くと、外から様子を眺めた。確かにエーヴィヒの気配を発するものが、先生として教壇の上に立っている。
「さてと、アレも排除するか」
ヴォルフは独り言を呟きながら、手の先に白虎を溜め始めた。教室からは、エーヴィヒが繰り広げる授業の様子が耳に入ってくる。
「――この世界には大きく分けて二つの人種があります。一つは世界の八割を占める、私たち人間」
ヴォルフは魔力が溜まり切った後で失笑した。この光景があまりに滑稽でならなかった。歴史を何度も改訂するきっかけとなった狼から生まれた、許されぬ存在。それが歴史を教え、自らを人間と名乗っている。
「ここまでされたら、もはや付き合いきれねぇな……」
ヴォルフは標準を定めて火球を放った。それは見事に教室を二分した。後に残るのは生徒の動揺によるざわめきだけだった。
喜劇もここまで来れば上等だった。ヴォルフは少しの間この冗談に付き合うことにした。外衣を羽織り、二分された教室へと近付いていく。
「おいおい、学校の先生が嘘を教えちゃいけねえよな」
今のヴォルフには迷いがない。たとえ狼をその身体に入れられようとも、たとえそれが父親の所業であろうとも。エルデの真実は常にそこにある。これが紡がれる輪廻の一部なのだとしたら。
一個の赤ずきんの物語は、ここから語られていく。
「俺が代わりに教えてやるよ」
第九章
~獅子奮迅~
ヴォルフの話が終わった後の円卓は、やはり雰囲気が重く暗いものとなった。ハイリゲもロートも、ゼーレでさえも言葉が出せなかった。しばらくの沈黙を破ったのはハイリゲだった。だが、それも誰かに向けて発せられたものではない。
「そうか……」
嘆息にも近いその言葉は、今の状況を変えるに足るものにはなり得なかった。そして次に言葉を発したのはロートだった。声にいつものような明るさはなく、動揺も多分に感じ取れるが、それでも今の雰囲気に耐えられないのだろう。
「で、でもよ。師匠が本当に死んだとは……と、そこはヴォルフもヴァンナーも確認したから間違いないにしても、本当にシュヴァルツがやったとは限らないだろ?!」
ロートの言いたい事はみなに伝わっている。誰もザインが殺されたことを、それを仲間の一人がやったということを認めたくないのだ。だがいくら理屈を並べた所で、起きた事こそが事実なのだ。今更それを否定することは出来ない。
「確かに俺もヴァンナーもシュヴァルツがザインを殺す所は見ていない。だがあの状況下で他に何が起こり得たっていうんだ。どんな経緯にせよ、ザインはシュヴァルツに殺された。この事実は覆らない!」
事実は受け入れなければならない。ロートもその事には充分に気付いている。ヴォルフもロートの心境は解る。だがだからこそ揺るがない事実を認識させなければならない。
この円卓を囲んでから、何度目の沈黙になるだろうか。もはやこの円卓は語り合う場所ではなく、沈黙する場所になりそうな程だ。
次に束の間の語り合いの機会を与えたのはハイリゲだった。
「ザインの話はこれ位にしよう。これ以上続けても皆が悲しくなるだけだ。――ところでヴォルフ君、君達はこれからどうするつもりかね? 私に会うという当面の目的は叶えられたのだが」
ヴォルフはゼーレと顔を見合わせた。ゼーレにはヴォルフが何を考えているのかが分からなかった。確かに、ゼーレからしてみればヴォルフとこれ以上旅を続ける必要はない。だがゼーレは何かを中途半端にやり残したような気がして、やはりヴォルフとの旅を続けたかった。
「あ、私……」
「悪いがまだ依頼の途中でな。寄らなければならない場所がある。俺が聞きたいことはそれの後でじっくりと聞かせてもらう」
依頼の途中。ゼーレはその言葉の意味を考えた。ゼーレが頼んだことの二つ目はもう果たされた。そしてヴォルフの言いようから考えて、ヴォルフがしようとする事の見当はついた。最初の用件、フェアウアタイルングの壊滅を完遂しに行くのだろう。
「ヴォルフ、私も連れて行って!」
ゼーレは思考の途中だったにも関わらず、口はそう発声するように動いていた。ヴォルフはゼーレの方を見て、かなり訝しげな顔をした。それもそのはず。前回ゼーレの依頼、フェアウアタイルングを壊滅出来なかったのは、ゼーレが捕らえられたのが原因だ。ヴォルフが嫌そうな顔をするのも道理というものだ。
「――邪魔だけはするなよ?」
ヴォルフはそう釘を刺して、とりあえずの了解をした。だがその邪険な物腰は周りにも伝わる程で、若干険悪な雰囲気を察したのか、ハイリゲが言葉を添えた。
「ロート、君もヴォルフ君について行きなさい」
その言葉を聞き、ロートだけではなくヴォルフも驚いた。ヴァイゼーにその身を狙われている状況下にいる中で、自分の身を守ってくれる要員を一人でも欠くことに利点は無い。
「必要無い。それにハイリゲ、あんた自分の立場を分かっててそんな事言ってるのか?」
「そうですよ。確かにヴォルフとの旅は楽しそうだけど、ここを離れる訳にはいきません」
ヴォルフもロートも口火を開いて反対したが、ヴォルフはロートの失言に気付き片手で頭を掻いた。この状況になったら、もうロートはヴォルフについて来るしかないだろう。
「ロート。君が今まで私の周りにいてくれて、とても助かった。だが私は君が自分の自由を封じてまで私の傍にいることを決して望んでいない。君は自分のしたい事をするんだ。そして今のロートにとって、それはヴォルフ君と旅をする事だ。違うか?」
ロートは言葉に詰まった。ハイリゲの言うことは正しい。そしてどんな言葉を用意したとしても、この先ハイリゲに言いくるめられてしまうのは目に見えている。ロートが黙っていると、それを了解の意ととったのかハイリゲは再び口を開いた。
「――シュテルンにも連絡を入れておこうか。私のことは心配いらない。このアムレットの部屋がある。それに私も一端のハオベだ。エーヴィヒ如きに負けたりはせんよ」
ヴォルフはもはや諦めていた。ハイリゲもゼーレも、一度言い出したら聞かない。もうハイリゲの言うことに従うしかない。
「そっちであれこれするのは勝手だが、俺の邪魔をするようなら誰だろうと容赦しないからな」
ヴォルフにはそう釘を刺すことしか出来なかった。ハイリゲは何回か頷き、その場の皆が了解した。
新しい旅が、今再び始まろうとしている。
フライシュタートを後にした三人は、一路フェアウアタイルングに向かった。今度こそ彼の町を断罪するために。
旅路は序盤、ひどく雰囲気が悪かった。ヴォルフの機嫌が斜めだったことがその主要な原因ではあるが、何よりロートの口が重いのだ。彼なりに何か盛り上げようとするのだが、どういう訳か直ぐにザインに関する話になり、その話題を持ち出した途端に閉口してしまう。そんな続かない会話が何遍もなされていた。
だがそんな状況も、二三日もすると平常通りに戻った。ロートは普段の快活さを取り戻し、三人にも明るさが取り戻された。
「そういえばヴォルフ、お前が使った天上天下って一体どんなヘクセライなんだよ? 俺の威風堂々を破るなんて、やっぱ鳳凰なんだろ?」
並んで歩く二人の会話を、ゼーレは後ろから聞いていた。ゼーレはこの二人についてきたものの、その旅路において足手まといになることは充分に分かっている。ゼーレにはハオベとしての戦闘鍛練が決定的に足りないのだ。
「あれはエルデから力を貰い、その莫大な力を身に宿すヘクセライなんだ。ただ、その力の大きさのあまり、ハオベにかかる負荷も大きい。いわば諸刃の剣なんだよ」
ロートはヴォルフが使っていた時のことを思い出し、納得していた。大地から魔力にも似たものを得て、自らの力とする。エルデと通じるため、完全に瞑想を自分のものとしていないと到底出来ない芸当だ。
ゼーレは、エルデから力を貰うという壮大な話を聞いて、何か分からぬ衝動に駆られた。それは恐らく羨望と憧憬。世界を知らぬゼーレが、エルデと通じることにそのような感情を抱くのは自然な話だ。
「ヴォルフ、私にも戦い方を教えて!」
ゼーレの口から漏れた言葉は自然と語尾が強くなっていた。今まで後ろにいるゼーレの事など気にしていなかったヴォルフは、突然自分の名前を呼ばれ少し驚くようにして振り向いた。
「今何て言った?」
振り向いたヴォルフは怪訝そうな顔をしている。聞き返してはいるが、ゼーレの言ったことはきちんと聞き取れているのだろう。だが聞き返されている以上、ゼーレは同じ事を繰り返し言う他ない。
「だから、私に戦い方を教えてって言ったの」
ロートもゼーレの方を振り返り、結果三人はその場に立ち止まることになった。ロートは興味津々という様子で二人のやり取りを見ている。
「万事に通ずるが、物事には因果がある。お前はどうしてそれを望む? 理由を聞かせてもらおうか」
ヴォルフは面倒そうにしながらも、自分がかつてザインにされた質問をした。この答えが中途半端な覚悟によるものだったら、というか何とか口実をつけて拒否したかった。人に戦い方を教えることは、それこそ面倒なことなのだ。
「私は今まで限られた閉鎖空間にいた。自分で殻に篭っていた。でもヴォルフと一緒に旅をしてきて、自分の無知を知り、世界を知りたいと思った。だから私は自分の殻を破るだけの強さが欲しい」
ヴォルフは困ってしまった。知りたいという短い言葉の中に、ゼーレの思いの全てが詰まっていた。ゼーレの気持ちが本物だという事は誰の目にも明らかだった。だが拒否したい気持ちは変わらない。ゼーレの思いが強ければ強い程、ヴォルフの言葉は短くなってしまう。
「断る。面倒だ。ロートにでも教えてもらえ」
ヴォルフは仏頂面でロートに話を振った。急に話を振られたロートは、呆れた顔でヴォルフを眺めていた。
「おいおい、自分が嫌だからってそういう態度は良くないだろ。ま、俺は別に構わないけどな。でも俺達のやり方は少し厳しいかもしれないから、覚悟はしといて下さいよ、ゼーレお嬢さん?」
ロートはにこやかにゼーレにそう告げた。ヴォルフは相変わらず不機嫌そうな態度のままだ。
「ええ、分かってるわ。ありがとう、ロート」
ゼーレは礼を言い、一人嬉しそうにしていた。ヴォルフはそそくさと歩き出し、二人がそれに続く形で再び旅路が開始された。
フェアウアタイルングまでの道程も、半分以上が過ぎた。旅の日々はいつもと変わりなく、ゼーレの修業も毎日行われた。町へは極力寄らず、野宿の日々を過ごしてフェアウアタイルングへと確実に歩を進めていた。
「おいヴォルフ。ちょっと組手の相手をしてやってくれ」
ある日、いつもの旅の道中、突然ロートがヴォルフにそう言ってきた。最近手合いをしていなかったヴォルフは、深く考えもせずに了承した。だがよく見ると、ヴォルフの正面に立っているのはロートではなくゼーレだった。面食らったヴォルフは、驚きとも怒りとも呆れとも取れる表情でロートに振り返った。
「……どういう事だ、ロート?」
「いやな、そろそろゼーレお嬢さんも実践というか、一度きちんと組手をした方がいいと思ってな。ほら、今までは基礎鍛練と型だけだったから」
次いでヴォルフはゼーレの方を向いた。本人はひどくやる気だ。だが、たとえロートに教えてもらったからといって、早々に体術が身に付くものではない。しかもヴォルフ相手では勝ち目など無きにも等しい。
「――くそ。分かったよ。やりゃあいいんだろ?」
ヴォルフは嫌々ながらもゼーレと対峙した。ロートの掛け声とともにゼーレはヴォルフの方に走り込んできた。走り方に関しては、それなりに様になっている。ロートの様子からいって、まだ魔法の鍛練は積んでなさそうだった。ヴォルフは直立不動のまま、ゼーレの第一攻撃を待った。本気など出さなくても、軽くあしらうことは出来る。
だがゼーレの第一攻撃はヴォルフの予想を大きく裏切っていた。顔面に向けられた拳。だが、それはその直後に控える下段への蹴りの陽動に過ぎない。ヴォルフは何の苦もなくかわしたが、驚きはあった。型しか習っていないゼーレが、いきなり陽動攻撃を掛ける事が出来るとは。だがそれが偏に、今までヴォルフの戦闘を見てきたためだとは、ヴォルフは気付いていなかった。
第二、第三と筋のいい攻撃が続き、ヴォルフはそれを尽く去なしたりかわしたりした。未だヴォルフから攻撃をしたことはない。そしてしばらく戦っている内に、ゼーレの動きが衰え始めた。
「おいおい、もう疲れたのか?」
ヴォルフは少しずつ拳を出し始めた。だが、それも軽く小突く程度のものだ。それでもゼーレは、ヴォルフに小突かれる度に体勢を崩しそうになっていた。
そしてヴォルフが打った眉間への一撃により、ゼーレはふらふらと後ろへよろめき、尻餅をついた。はなから見えていた事ではあるが、これでヴォルフの勝ちだ。
「俺に挑むにはまだ早過ぎだ」
ヴォルフはそう言うと近場の岩に腰を下ろした。ゼーレとは対照的に、ヴォルフはまるで息が上がっていない。
「や、やっぱヴォルフは強いわね……」
肩で息をしているゼーレは、それだけを言うと後は黙りこくってしまった。最後までただ傍観するだけだったロートも、この展開は読めていたらしい。顔色一つ変えずに、二人の様子を見ていた。
ゼーレが回復するのを待ってから、三人は再び歩き始めた。途中、チゴイネルワイゼンの町が見えた時にはゼーレも緊張したものだった。だがその町は遥か遠くに見えていただけだったし、何よりフェアウアタイルングが近いことを最も分かりやすい形で教えてくれたので、ゼーレはむしろ違う緊張を味わっていた。ゼーレにとっては三度目となる、狂気の町。
その視界にフェアウアタイルングの町影を捉らえた辺りで、三人は進むのを止めた。ヴォルフとゼーレは以前この町に来ているので、迂濶にはこの町に入れない。だからこそここで作戦会議をしなければならないのだ。
「――一番いいのは、やはりロートに偵察に行ってもらう事なんだがな。どうだ?」
ヴォルフがロートに尋ねると、ロートは微かに嘆息をついた。そして少し得意気な表情で返した。
「それは長い間隠遁生活をしていた俺に聞くような話じゃあないだろ。偵察は得意分野だ」
ロートは腰を上げると、二人に目配せをして町の方へと歩き始めた。ロートとて、充分な戦闘訓練を積んでいる。フェアウアタイルング壊滅にあたり、どのような情報が必要になるかは分かっている。
フェアウアタイルングの町に近付いたロートは、玄武で自らの姿を人間のそれにした。ずきんを隠し、瞳と髪の色を統一しておけば、一瞥しただけでは見破られない。そして断罪の町へと潜入する。
町に入ったロートがまず思ったことは、町の異様なまでの整然さだった。全てが綺麗に整えられている。まるで表面上の平和を繕うかのようだ。人が無機質に無感情に歩いている。表面上の活気も、ひどく虚構のように見える。むしろ、これでごまかせていると考えているのかと思うと、滑稽にすら見える。
「さてと……」
ロートは町の中程まで来て、足を止めた。何はともあれ、偵察に来た以上は情報を入手しなければならない。だが町の様子を見る限りでは、誰かに尋ねるという最も常套な手段は使えそうにない。ロートはとりあえずヴォルフが言っていた丘を目指すことにした。この町の狂気と恐怖の根源であるその丘に赴けば、あるいは何か得られるかもしれない。
そう思って来たものの、その丘には人気がまるでなく、視覚による第一印象はただの寂れた丘だった。これでは逆にロートの姿が目立ちすぎる。
だがロートがその場を動けなかったのは、嗅覚と触覚による第一印象が尋常ではなかったからだ。丘の周辺に立ち込める、数百、あるいはそれ以上の血の臭い。ロートの肌を刺激する、空気にまで浸透した町の恐怖。
「すごい町だな、ここは……」
ロートは直ぐにその場を去ろうと、体の向きをぐるりと変えて歩き出そうとした。だが振り返った先の視界に映ったものを見て、ロートの足は自然に止まった。
「お前は……」
フェアウアタイルングの町の外で待機していたヴォルフとゼーレは、退屈な時間にいた。何せする事がなく、会話もなされないのだ。
その間ヴォルフはずっと空を眺めていた。流れ行く雲が、ヴォルフの思考を軽く促す。自分はこれからどうするのだろうか。かつて胸に刻み込んだ意志は、未だ揺るがない。だがその意志を貫徹するためには、自己という存在があってはならない。ヴォルフの意志には、その根源に矛盾が生じているのだ。では、自分はこれからどうすればいいのだろうか。
一方ゼーレも、彼女は断罪の町を遠目に思考していた。自分はこれからどうするのだろうか。今までは、父親に会うという確固たる目的があってヴォルフと旅を続けて来た。だがその目的が達成された今、ゼーレがヴォルフについていく必要はない。むしろ、ヴォルフの目的を考えればゼーレは足手まといになる。それどころかゼーレ自身に危険が及ぶ可能性は大いにある。では、自分はこれからどうすればいいのだろうか。
視覚に促されて二人が同じようなことを考えていた時、突然町の方から爆発音が聞こえた。二人は瞬時に思考を切り替え、音のした方に意識を凝らした。確かに、フェアウアタイルングから黒い煙が上がっている。今の二人に、爆発について思い当たる節は一つしかない。ロートの正体がばれたか、あるいは疑われて戦闘に突入したのだろうか。
「どうしたのかしら? 様子を見に……」
立ち上がろうとしたゼーレの腕を、ヴォルフは掴んで制した。ヴォルフはフェアウアタイルングをじっと見つめたまま、動こうとしなかった。
「駄目だ。ここで俺らが行ったら、ロートの偵察が無意味になる。それに、ロートがそんなヘマをするはずがない。だからあいつとは関係ないか、それかあいつが自分で仕組んだことだ。いずれにせよ、俺らは待つだけだ」
ゼーレはヴォルフの言葉に言いくるめられてしまった。ヴォルフは完全にロートのことを信頼している。だからこそ絶対の自信があるのだ。ゼーレは煮え切らない思いのまま大人しく腰を下ろした。
少しした後でも町ではまだ騒がしい雰囲気が広がっているようだった。そのとき、ヴォルフらの視界に人影が映った。この混乱の中、統制の取れた町から人が歩いてくる。それは、その者が町とは無縁であることを端的に示している。その人はヴォルフの方に真っ直ぐに近付いて来た。肉眼で識別出来る距離になって、ようやくそれが誰か判るようになった。
「お前は……」
ロートが丘の前で見たその姿は、紛れもない野良猫だった。ロートと同じくハイリゲに仕える身でありながら、滅多にフライシュタートにはいない。だがどうもハイリゲとの連絡は取れているようで、彼に頼まれたことは確実にこなしている。
「シュテルンか、久しぶりだな。それにしてもお前、来るの早いな」
ロートの目の前にいるシュテルンは、終始笑顔を絶やさずにいた。だがロートは知っている。この笑顔は虚構に過ぎない。いや、むしろ護衛術に近い。笑顔は他人の警戒心を和らげる。自らを忌み嫌う敵を減らすにはいい手段だ。シュテルンはそれが身に染み付いてしまっている。
「えエ、実は僕も以前この町に来たことがありましてネ、その時にヴェーア・ヴォルフに会ったんです。ハイリゲ様のお嬢さんにもね。それデ、ロートは今何かご入り用ですか?」
シュテルンにそう言われ、ロートは自分の目的を思い出した。久しぶりの再会に、少し感慨深くなっていた。これでは偵察にならない。
「ああ。ハイリゲ様から聞いているとは思うが、これからこの町を潰す。そのためにシュテルンにも協力してほしい」
ロートがそう言うと、シュテルンはまるでその言葉を待っていたかのように不敵な笑みを浮かべた。
「それでしたラ、僕にいい考えがあります。少シ、耳を貸してください」
ロートはシュテルンの言葉通りに、顔を近付けた。
「まずはですネ……」
シュテルンは顔に笑みを浮かべたまま説明を始めた。ロートには、シュテルンの笑みが自信の表れのように見えて仕方なかった。
「つまり……」
シュテルンから一通りの説明を受けたヴォルフは、要点を切り取ってまとめようとした。
「つまり、この町にとって危険因子であるお前と、町にとって無害無縁なロートが戦う振りをして見掛け上お前が撤退することで、町の奴らにロートの強さを見せつける。そしてそれを見た研究所の幹部の奴らに近付いて、より詳しい町の情報を得ようと、そういう事だな?」
ヴォルフはそこまで言ってシュテルンに確認を取った。ゼーレは、今のヴォルフの説明を受けてようやくシュテルンの策略を知ることが出来た。
「そういう事です。それかラ、僕の事はきちんとシュテルンって呼んでもらえます? お前呼ばわりハ、流石にいい気持ちがしません」
ヴォルフは曖昧に頷くと、町の方をじっと見据えた。シュテルンの言葉にゼーレも共感を覚えたが、敢えて何も言うことはしなかった。それよりも、シュテルンの作戦がほぼ成功したことが嬉しかった。後はロートの帰りを待つばかりだ。ゼーレはそう思っていた。
「いや、そうはいかない。前回この町に来た時のことを考えてみろ。奴らは俺が町から離れた後も襲ってきた。だから今回も、本当にシュテルンが傷を負っているか確認しに、ないしは止めを刺しにくるはずだ。そしてそのシュテルンが、町の危険因子である俺らと一緒にいるのを見たら、ますますロートの株は上がるだろうな。そういう事だろ?」
ヴォルフは視線を町に向けたまま、シュテルンに確認をした。ゼーレはその言葉に少なからず棘が含まれているような気がした。シュテルンはヴォルフの指摘に目を見張っている。そして直ぐにいつもの笑みを顔に浮かべた。
「やはリ、侮れませんね。本当ニ、おもしろい奴ですヨ、君は。確かニ、勝手に巻き込んだのは僕も悪いと思っていますガ、忘れないで下さいね? これハ、きちんとロートにも了承を得た上での作戦だという事を。そしてロートが僕に協力を頼んだ以上ハ、ヴォルフに僕を拒むことは出来ませんから」
有無を言わさぬ物言いに、ヴォルフはその後何も言わずにただ町の方だけを見ていた。いつ来るとも知れぬ敵の姿をその眼に映して。
「何なラ、あなたはただ見ているだけでもいいですよ? 主の下に帰らずに放浪している野良猫ガ、猛る獅子に化ける様を見せてあげますよ」
この言葉はヴォルフには挑戦にしか聞こえなかった。ヴォルフはいい気はしなかったが、そこまで言うシュテルンの実力を見てみたかった。
「――ならお言葉に甘えさせてもらうことにしようか」
ゼーレは言いようのないぴりぴりとした緊張を肌に感じた。言葉の裏では、確かにお互いの敵対意識が見えているのに、なぜかゼーレにはこの二人が上手くやっていけるような気がしていた。負けず嫌いな所が、とてもよく似ているのだ。
しばらく経っても何も起きなかったが、ヴォルフはその気配に気付いていた。気配から察するに、ハオベである事は間違いない。数は恐らく十と少し。そしてそのハオベらは完全に奇襲を狙っている。ヴォルフはそこまで分かっていながら、何も言わないでいた。ここは全てをシュテルンに任せるのだ。ヴォルフは自衛行動だけしてればいい。
「土崩瓦解!」
突如地面から聞こえてきた声に、ゼーレは驚いて下を向いた。次の瞬間地面が盛り上がり、そして爆発を起こした。ゼーレは何も出来ずに爆発に飲み込まれた。
爆発に飲み込まれたはずだった。だがゼーレが塞いだ目を開けた時、ゼーレの身には何も起きていなかった。よく見ると赤と黄の障壁のようなものがゼーレの周りを護っている。辺りを見回すと、ヴォルフとシュテルンはさも何も無かったかのように平然と立っている。
「そうそウ、ヴォルフは専守防衛していて下さい。ゼーレさんの事モ、あなたに任せますからね。それにしてモ、いきなり地面から攻撃してくるなんテ、やはり姑息な事しか出来ないんですかね」
シュテルンの言葉を聞いてか、地面から続々と黒ずきんが姿を現した。その数は十ちょうどだった。今回は前回と違い、ペルレの人間は混ざっていない。シュテルンは少しだけ落胆した。あの中で一番骨のある人物がその人だったからだ。これでは退屈な戦闘にしかならない。
「我等十人分の攻撃を防いだだと?! 馬鹿な。こいつら一体何者なんだ?」
黒ずきんの一人は驚愕の目でそう言った。他のハオベも同じような表情をしている。シュテルンは溜め息をついた。やはりこれでは話にならない。
「青龍を使えバ、これくらい訳ないですよ。茶番はそろそろにしテ、今度はこちらからいきますよ?」
シュテルンは紫電一閃を使い抜刀すると、それを片手で逆手に持って身構えた。ヴォルフはそれを見ながら、ある事を思い出した。これを言っておかないと後々面倒なことになる。
「シュテルンに忠告を一つ。いくらあいつらが弱いからって殺すなよ? 後でこいつがうるさいから」
ヴォルフは親指でゼーレの方を指しながら、シュテルンに言った。シュテルンは振り向いて失笑した。
「大丈夫ですよ。それ位なラ、僕も手加減出来ます」
そしてシュテルンは走り出した。ただ刀のみを携えて。猛る獅子には、爪と牙さえあれば充分なのだ。
シュテルンが攻撃に移ったのを見て、黒ずきん達の間ではもう統制が取れなくなっていた。各人が恐れを抱き、身動きが出来なくなっている。
「動かない的なんテ、誰にでも討ち落とせますよ?」
シュテルンはまず一人目の目前に迫り、刀を握らない方の手で拳を作った。だがこのまま決着がつくのでは面白みの欠片もない。シュテルンは拳をかざした。その状況になって、ようやく黒ずきんは防御の姿勢を取ろうとして両腕を胸の前で交差させた。
だが次の瞬間、黒ずきんの目に映ったものは、残像を創りながら高速で移動するシュテルンの姿だった。まるで地上を滑るかのようになめらかな動きで、シュテルンは黒ずきんの後方に回り込んだ。萎縮してまともに動けない黒ずきんには、何の反応もしようがなかった。後ろに回り込んだシュテルンは、回し蹴りを黒ずきんの脇腹にねじ込んだ。何かが凹むような音が辺りに響いて、黒ずきんは吹き飛んだ。緊張のせいで身体が強張っていたのが逆に良かったのか、吹き飛ばされた距離の割に損傷は少なそうだった。
シュテルンはその後も同じように黒ずきんを蹴散らしていった。だが誰一人に対しても紫電一閃を使うことはなく、皆を同様に地面へと叩き付けていった。ヴォルフはその光景を感心しながら見ていた。やはり伊達ではなかった。体術からすればヴォルフには敵わないかもしれないが、それでもヴォルフに勝るものがある。
「さテ、そろそろ本気になっていただけますよね? 今のデ、身体は言うことを聞くようになったはずですよ?」
腹を強打されてわずかに呻きながら立ち上がった黒ずきんに、以前のような恐れはなかった。今あるのは目の前の敵を排除しようという黒い意志のみ。
黒ずきんの一人が指で何か合図をすると、他の黒ずきんは一斉にシュテルンを包囲する配置についた。その動きの機敏さから言っても、素人でないことは明らかだ。その内の何人かはヴォルフの方にもやって来た。黒ずきんにとっての敵は、ゼーレも含めて三人だ。いくらヴォルフが守りに徹するからといって、全ての人員をシュテルンにだけかけるわけにはいかない。確かにその考えはもっともではあるが、結果は変わらない。
「でハ、第二幕を始めましょうか」
シュテルンはそう言うと、踏み込むこともなく高速で移動を始めた。異常な速度の原因が、黄魔法の電光石火であることは黒ずきんらにも理解出来る。だがそれを踏み込むこともなく使える理由が解らなかった。だから、最初からこれは戦闘ではなかった。シュテルンが足を使わず、残像を創って移動する度に黒ずきんはその姿に魅せられていた。これ程までに美しく動く生命を彼等は見たことがなかった。そして彼等が気付く頃にはシュテルンは目前に迫っていて、彼等を斬り伏せていた。
時間にして数える程も経ってはいないだろう。瞬殺という表現が半分は正しい。その半分の間違いは、シュテルンが誰一人として殺していないことだ。全員が戦闘不能、行動不能に陥ってはいるが、息の根を断たれた者はいない。最後に残ったのは、ヴォルフらを見張る黒ずきんだけとなってしまっていた。
「さテ、どうしますかね。やはリ、一人位は町にその危機を知らせる者が必要になります」
シュテルンはそう言いながらも最後の黒ずきんに近付いていく。その黒ずきんは、圧倒的な力を目前にして何も出来なかった。動くことはおろか、喋ることも、あまつさえ呼吸すらも封じられたかのような錯覚に陥っている。
シュテルンはさらに近付き、黒ずきんの前に立った。黒ずきんは息を呑んだ。彼にとって、それは久しぶりに起こした、自らの意志には関係のない動物的行動だった。
「あなたは運がいい。僅かの間ながらモ、生き長らえる事が出来るのだから。さア、早々に町へ戻りみんなに伝えてください。僕達ハ、これからフェアウアタイルングを滅ぼしに行きます」
シュテルンの顔は笑みを浮かべ口調は丁寧であるが、その声には有無を言わさぬ威圧が込められている。黒ずきんはもう一度息を呑むと、一目散に町の方角へと走り出した。ここであの男を町に返せば、直ちに町にその事が知られるだろう。だがその方が、潰すべき敵をまとめて相手に出来る。戦いはその分大変になるかもしれないが、かける手間は大きく削減出来る。
「さてト、後はロートが戻るのを待つばかりですね」
戦闘を終えても息一つ上がっていないシュテルンは、嘆息をつきながらそう呟いた。先程の戦闘が余程つまらなかったのだろう。落胆しているようにも見える。
倒した黒ずきんをそのままにして、三人は地面に座り込んだ。全く、興醒めとしか言いようがない。ヴォルフは先程の戦闘で気が付いた事を口にした。
「さっきのを見て思ったが、シュテルンはツァオバーの使い方が上手いな」
ゼーレにはヴォルフの言っている事がよく分からなかった。ヴォルフの言い方からして、ただ強いと言っている訳ではなさそうだ。ゼーレはそれを尋ねた。
「気付かなかったか? 例えば最初にシュテルンが黒ずきんに蹴りを入れていった時だ。端から見れば、紫電一閃を使いながら電光石火を使っているように見えた。だが実際は、電光石火を使うその一瞬だけ紫電一閃は青龍じゃなくなっていた。ただその形状を保っていただけだ。あれならば朱雀か、せいぜい白虎がいいところだ。青龍と朱雀を組合せるよりもよっぽどツァオバーの効率がいい。それの切り替えがすごく滑らかだった」
ゼーレは大体を理解してシュテルンの実力を知ると同時に、ヴォルフがここまで言うシュテルンの実力に驚いた。見た目からではハオベの実力は計り知れない。ゼーレは改めて思い知った。するとシュテルンは照れる様子もなく少し笑いながら答えた。
「君からそう言われるとは思いませんでした。僕はあまり体が丈夫ではなク、体力にも自信がないんデ、ああいう戦い方をするしかないんですよ」
会話はそれで終わりになり、後はただ待つばかりとなった。ゼーレもシュテルンもロート本人の帰りを信じているようだが、ヴォルフには確信が持てなかった。果たしてロートは戻って来ることが出来るのだろうか。
「何やら外が騒がしくないか?」
客室に招待され、豪勢な食事を食べていたロートは、シュテルンの計画通りに振る舞った。先程の猿芝居のおかげで、今やロートは町の英雄とまで思われている。それでこの贅沢な食事だ。
ロートの側に居たハオベは、部屋の外に様子を聞きに行き、そして直ぐに戻ってきた。少し顔色が悪いのが窺える。様子から察するに、シュテルンがヴォルフと合流した所に鉢合わせたのだろうか。ロートはそんな予測を立てながら、食事を堪能していた。
「先程フェアウアタイルングを襲った黄ずきんと、ヴェーア・ヴォルフが一緒になってこの町を滅ぼす、と言ったそうです」
ロートは思わず口の中の物を吹き出しそうになった。自分の予想が当たったのもその理由の一つだが、まさか自分らの計画をばらすとは思わなかった。こんな事を平然と言うのはヴォルフだろうか、こんな事を考えるのはシュテルンだろうか。
ロートは自分の行動が大袈裟過ぎたかとも思ったが、どうやら逆に効果があったようだ。
「ヴェーア・ヴォルフって、あの黒ずきん狩りのか?」
こういう態度をとっておけば、別段疑われることもない。ロートは笑いを堪えるので必死だった。だがそれとは別に疑問も浮かぶ。何故この研究施設の上層部の者が顔を見せないのだろうか。そして先程から感じる、見張られているような感覚。近くに控えている者達からのものではない。もっと鋭いものだ。
ロートの質問に答えるハオベは、懇願するかのような表情をしている。ロートとしては、ここまで順調に事が進めばもう充分だと思った。まだ情報については心許ない部分もあるが、これが相手方の罠だと考えればここら辺が引き際のように思えた。
「俺にも戦えって言うのか?」
ハオベは頷いてみせたが、ロートはそれを鼻で笑った。自分も随分演技派になったものだ。
「ハ、冗談。一対一ならこちらにも分があるかもしれないが、流石に二対一では厳しい。しかも相手はあのヴェーア・ヴォルフだって? 俺の手には負えないよ」
ロートはそう言うと席から立ち上がった。後はさっさと立ち去るのみだ。だがロートが腰を上げた瞬間、急に空気が殺気立つのを感じた。ロートは反射的に身構えて辺りの様子を窺った。
「それは困ります」
声とともに入って来たのは、白衣を着た人間だった。だが先程から殺気を放っているのはこの男ではない。男はあまりに貧弱そうに見える。
「あなたにはまだやって頂かねばならない事があります」
ロートは数を数えた。――三、四、五。相手としては戦えない数ではない。だがそれでは作戦を立てた意味が無い。今は何とか外のヴォルフ達と連絡を取るのが先決だ。
「ようやくお偉い方が現れなさったな。それで? 俺に戦えとでもおっしゃるつもりで?」
ロートは正面を向きながら、意識は部屋全体に及んでいた。四方を囲まれている。どの方向に逃げ出そうとも、直ぐに二人以上での対応が可能な敷陣だ。だが殺気こそ放っているが、それ以上動こうとはしない。
「それも結構。だがあなたには何もしないで頂きたい。ここでのんびり食事でも摂っておられるのがよかろう」
ロートはこの男の真意が掴めなかった。ロートの正体を疑わないのならば、戦力となるロートは貴重なはずだ。何もしないでほしいはずがない。逆にロートを疑っているのなら、人質にでもしてしまえばいい。わざわざ野放しにする必要はない。或いは連絡手段を絶ち、こちらの戦力を二分するのが目的か。だがそれにしても人質にした方が良い。
いずれにせよ、ロートは外との直接的な接触が不可能になってしまった。このままではヴォルフらはフェアウアタイルングに攻め入ることが出来ない。何としても連絡をとる必要がある。
男が部屋から去った後、ロートは部屋の中を見回した。扉が二つ。そしてそれぞれからハオベの気配がする。窓も二つ。こちらからもハオベの気配がする。ロート自身が強引に外に出ようとすれば、温和には事は済まないだろう。やはり間接的な手段を用いて外と連絡を取るしかない。生憎、この部屋には物を書くためのものが揃っている。
「まったく、こんな事になるなんてな……」
ロートは相手を過小評価していた自分の失敗に呆れながらも、筆具を手に取った。紙に筆具を走らせ、今伝えるべき事を書き連ねた。
ロートはそれを書き終えると、椅子から立ち上がり窓際に向かった。それと同時に、ロートの動きに合わせるかのようにしてハオベの気配も少し移動している。ロートはその状況を楽しむかのようにほくそ笑んだ。そして窓を開けた。
ロートが窓を開けると同時に、ハオベの気配は敵意へと変わった。ハオベはもはや完全に一つの窓へと集結している。そしてロートが明からさまに魔力を溜め始めると、敵意は殺気へと変わった。ハオベも何かの攻撃の準備を始める。
「さぁ……、これでどうだっ!?」
そしてロートは青龍を使った。次の瞬間、攻撃をしようとしたハオベの手が止まった。その光景を見たら止めざるを得なかった。
一方、ロートの帰りを待ちわびる三人は、この状況に飽き始めていた。先程のハオベに告げさせた宣戦布告を、ロートへの合図だと考えていたシュテルンとヴォルフには余計に焦れて感じられた。時が経つのが異様に長く感じられる。陽が、痛い。
「やはりロートの奴は町から出られない状況にあると考えるのが妥当だろう。あいつに限って捕らえられたという事は有り得ないが、今回の計画の事を考えれば、穏便な方法で済ませようとしてるんだろう」
「そうだとしてモ、ロートなら何らかの手段を用いて連絡を入れてくるとは思いますけどね」
半ば独り言のようにして放たれたヴォルフの言葉だったが、意外にもシュテルンが言葉を次いだ。二人とも退屈なのだろう。だが彼等の会話も、それだけで途絶えてしまった。再び苦痛な時間が始まろうとしていた。
「――何かしら、あれ?」
先程から、ヴォルフとシュテルンの会話に興味を示そうともせずにただ空ばかりを眺めていたゼーレが、何かに気付いた。
二人はゼーレの視線の先を追うようにして振り向いた。町から無数の何かが飛び立っている。翼を羽ばたかせた無数のそれは、真っ直ぐにヴォルフらの方に向かっている。
「――どうやラ、取り越し苦労だったようですね」
「ロートの奴、古風な事しやがって」
ヴォルフとシュテルンはあの赤い鳥達が何なのか瞬時に理解したが、ゼーレには依然分からなかった。鳥が飛んで来ていい事などあるのだろうか、と思うばかりだった。
ヴォルフの下に舞い降りた鳥達は、地面に足をつけると同時にその姿を消した。無数の鳥が一瞬にして消えていく様子は、見ていて絢爛だった。水中の泡沫、蒼穹の雷霆、例えようはいくらでもある。ただ総じて、美しい。見る者を唸らせるものがある。
鳥が消えた後、地面には丸められただけの紙が残された。ヴォルフはそれを手に取ると、中身を一読してシュテルンに手渡した。紙の内容を見たヴォルフの顔には笑みが浮かんでいた。
「ちょっと、ヴォルフ。説明を頂戴。これは一体どういう事なの?」
目の前で起きたことに息を呑むばかりのゼーレには、何が何だか分からなかった。
「ああつまり、シュテルンの言ったようにこれがロートの考えた『何らかの手段』って事だ。恐らく、今奴は周りをハオベに囲まれているんだろう。見張りという形を取ってな。そしてロートは自分からの連絡がなければ作戦が始動しない事を知っている。だから何とか俺らと連絡を取るために、青龍で無数の鳥を創ってその一羽に手紙を託した。もちろん、フェアウアタイルングのハオベの目を誤魔化すためにな」
ゼーレはヴォルフの説明を聞いてようやく理解した。ロートが今身動きが出来ないという事を。そして今こそフェアウアタイルングを滅ぼす時だという事を。
ロートの書いた物を見ていたシュテルンも、その顔には笑みが浮かんでいた。いつもと変わりないが、確かに笑っている。そんなに内容が面白いのだろうか。
「ちょっと、私にも見せて」
ゼーレはシュテルンから手紙を受け取ると、その中身を凝視した。だが、ゼーレにはそれが何て書いてあるか全く分からない。見たこともない文字なのだ。当然、ゼーレは二人に聞く他ない。
「……ねぇ、これ何て書いてあるの?」
「分からない」
「はい?」
ヴォルフの即答に、ゼーレも即問するしかなかった。ヴォルフの言っている意味が分からない。ならば何故手紙を見て、さも了解したかのように満足気に笑っていたのか。シュテルンは二人のやり取りを見てさらに笑っている。
「あのな。エルデでは言語統一はされてはいるが、それはあくまで話し言葉でのことだ。書き言葉は地域によって異なる。だから生まれた地が違えば言葉も異なる。まあもっとも、これは言葉ですらないがな」
ヴォルフの言い分は分かるものの、とてもではないがゼーレは納得出来ない。しかも最後にヴォルフはまた意味深なことを言った。
「じゃあこれは一体何なのよ!? ヴォルフもシュテルンも、何で嬉しそうに笑っているのよ!?」
ヴォルフとゼーレの会話を見ているシュテルンは、もはや腹をも抱えそうな勢いだ。ヴォルフの方も今にも声を上げそうな程だ。そんな二人を見ていると、自分の無知さが馬鹿にされているようでゼーレは余計に腹が立った。
「分からないから面白いんだよ。いいか? これに書かれているのは文字じゃない。――何て言ったらいいかな、特殊暗号化した魔法陣というのが一番しっくりくるかな。要するにこれは魔法陣なんだ。ロートも馬鹿じゃない。書き言葉で勘違いが起きる可能性を重々承知している。だから敢えて言葉に頼らない、魔法陣という形を取った。もっとも、この手も大分古めかしいがな。今でもこの手段を取る者がいる事を知ったら、老人共は泣いて喜ぶだろうぜ。三十年前かそこらはこれが主流だったからな。で、これを発動させるには――」
ヴォルフはそう言ってゼーレから手紙を取り上げると、掌の上であっという間にそれに火を着けた。赤魔法に触れたその紙は、見る見る灰になっていき、最後には風により跡形もなく吹き飛ばされた。ここに残る物は何もない。
「ちょっと、ヴォ……」
ゼーレが怒鳴ろうとした時、不意に地面から円のような物が浮かんできた。疑いようもない。今度は紛れもない魔法陣だった。その魔法陣が魔法を形成している間に、ヴォルフは補足説明を始めた。
「ロートがこの手段を取った理由は三つ。まず一つ目。この手紙が手紙にしか見えない事だ。しかも書かれていることは書いた本人にしか分からないから、途中で奴らに見つかっても疑われようがない。二つ目。これは俺の推測の域を出ないが、恐らくフェアウアタイルングに赤ずきんはいない。少なくともロートの周りにはいない。何故なら、この手の魔法陣の発動条件が、魔法陣を敷いたハオベと同じ色のツァオバーを注ぐことだからだ。いくら古いとはいえ、かつては主流だった方法だ。発動方法を知っている奴がいても不思議ではない。だがその肝心のツァオバーが無ければ、どんな魔法陣が敷かれているかは分からない。ここまではお互いの秘密保持のためだ。そして三つ目。誤解を無くすためだ。俺とロートはかつての同輩だから書き言葉が通じるが、お前ら二人は分からない。特にシュテルンは東の方の生まれだから尚更だ。だから書き言葉という遠回りな方法を避け、話し言葉という方法を取った。まあ、三つ目も俺の推測だったが、この様子だとどうやら当たりのようだな」
ヴォルフの説明が終わるのとほぼ同時に、何かを形成していた魔法陣がその役割を終えていた。そこにはヴォルフの言った通り、ロートが立っていた。シュテルンは手紙を見た時から気付いていたし、ゼーレもヴォルフの説明を受けていたので、唐突に現れたロートの像に驚きはしなかった。ロートはいつもと変わらぬ口調で話し出した。
「みんな、悪ぃな。想像に洩れず、今身動きが取れない状況にある。だから俺抜きで攻め入ってくれ。混乱に乗じて直ぐに俺も加わるから」
ロートは最低限の事のみを伝えると、早々にその姿を消していった。後に残るのは、ヴォルフらの期待をある意味で裏切ったことに対するわずかな落胆だけだった。
ヴォルフは一つため息をついた。そうしてシュテルンとゼーレに目配せをした。それだけでヴォルフの言わんとする事が分かった二人は、ヴォルフとほぼ同時に歩き出した。向かう先は勿論、断罪の町フェアウアタイルング。
段々にフェアウアタイルングの町が近くなっていく。だが町からは何の気配もしない。ヴォルフは若干の違和感を覚えていた。シュテルンの一件、それに先程の一件から考えて、町に非常態勢が敷かれていると考えてよい。外部からの侵攻だと分かっているはずなのに、外部への警戒心や敵意が感じられないのが腑に落ちない。ヴォルフがそのような事を考えていたその時だった。
「……!!」
ヴォルフは一瞬にして身の毛がよだつのを感じた。冷たい、そんな表現では済まないようなモノが背筋を上っていく。全身でこの禍々しい気配を感じる事が出来る。これは敵意でも殺意でもない。そんな生易しいモノではない。あえて言うなら、殲意という表現が正しいだろうか。視界に映る全ての生体を殺そうという、絶対的な殺意。ヴォルフは今までこんな気を感じた事がなかった。どう対応していいのかも分からない。ヴォルフは普段通りに身構えてみたものの、とても自分の体術や魔法が通用するとは思えなかった。ヴォルフがここまで相手に畏れを抱くのは初めてだった。
いつの間にかヴォルフを追い越していた二人は、ヴォルフの様子が異常なのに気が付いた。
「ちょっと、ヴォルフ。どうしたのよ? 汗ぐっしょりじゃない」
ヴォルフの様子を見て心配をするゼーレと、ヴォルフの異常を察して周りに気を配るシュテルン。だがそのどちらも、何がおかしいのかが分からなかった。二人は何の気配も感じていなかった。
「ええト、僕達は何も感じないんですガ、どうしたんですか?」
ヴォルフの耳には、二人の声が遥か遠くで発せられているように聞こえた。というよりは、ヴォルフが自分で殲意に向ける意識を最大限にしていると言った方がいい。
「くそ……。何なんだ、この気配は! それに、お前らは何も感じないのか? こんな、身を焼く程に熱く突き刺さるようだっていうのに」
ヴォルフはそう尋ねたが、二人は首を横に振った。この時点でヴォルフは一つの可能性を疑ったが、それは直ぐに自分の中で打ち消した。それを口にしたのはシュテルンだった。
「ヴォルフにだけ感じられる気ということはつまリ、狼の気配ということではないのですか? 或いは肉親の方とか」
ヴォルフは身を焼く程の緊張を感じながら、自分の気配の感じ方を探ってみた。だがどうやら、先程瞬間的に考えたのと同じ結果だった。
「いや、それはない。エーヴィヒであれザンクトであれ、もしそうだったら先に血の方が騒ぐはずだ。こんな全身で感じるような、気配じゃ……ない?」
二人は、再びヴォルフの様子が変わったのを感じた。何かが抜けてしまったように、ヴォルフは惚けたような表情をしている。
「今度はどうしたのよ?」
ゼーレがそう尋ねると、ヴォルフは周囲を二度三度見回した。
「気配が――消えた」
ヴォルフを瞬間縛っていた殲意は、跡形もなく消え去っていた。ヴォルフには訳が分からなかった。自分だけが感じた気配。そしてあっという間に消えた気配。両者に因果を与える物が、ヴォルフにはまるで分からなかった。
「気のせイ、という訳ではありませんよね?」
「当たり前だ。あんなはっきりとした気配だったのに、気のせいなもんか」
ヴォルフは相変わらず周囲を見回していたが、それ以降先程の気配を感じることはなかった。ヴォルフはこの後どう動くべきか迷った。先程の気配の主がどこにいるかは分からないが、フェアウアタイルングにいる可能性は高い。気配だけでヴォルフを圧倒出来るような奴がいる場所に行くのは、かなり危険だ。だがそれを考えた所で、そうでない可能性もあるし、ロートの事もある。結局ヴォルフらは前に進むしかないのだ。
「……行くぞ。さっさと片付けてやる」
ヴォルフは少し重い足取りで歩き出した。シュテルンとゼーレも、心配そうな顔をしながら歩き出した。不安要素は尽きないが、これでようやく雪辱を果たすことが出来る。
町に入った三人だったが、その光景には唖然とせざるを得なかった。この状況もある意味で異様だ。三人は、町に入った第一歩でその足を止めてしまった。
「ちっ」
ヴォルフはこれが意味する事を即座に理解して、不快感をあらわに舌打ちをした。シュテルンも怪訝そうに町の様子に気を配っている。
「これは……一体どういう事なの?!」
ゼーレは未だに目の前の状況に驚愕しているだけだった。やはり戦闘生活で培うべき思考回路のないゼーレには、目の前の光景を理解する事はできなかった。
「全く、してやられたよ」
「ヴォルフ、どういう事よ? どうして町に誰もいないのよ?」
頭が混乱しているゼーレは必死に説明を求めた。そう、フェアウアタイルングには今、人影が全くないのだ。町中の人がどこかに姿をくらましてしまった。ゼーレの声に応えたのはシュテルンだった。
「僕がこの町にいた時ハ、まだみんな外を出歩いてましたシ、ロートが町の外を知ることが出来た時なラ、その異様さから必ずこちらに連絡をしてきます。つまリ、この町の人はロートが来たから姿を消したんです」
シュテルンに丁寧にそう言われたが、ゼーレの頭には疑問符が浮かぶだけだった。ロートが来て、丁重にもてなしをされた後に人が消える事にどんな意味があるのだろうか。町の静けさがゼーレの心を掻き立てた。
「だから、どういう事?」
ヴォルフもシュテルンも、辺りに気を配りながら歩き出した。二人の向かう方角は全く同じだった。それはつまり、二人とも同じ考えの下に行動しているということだ。ゼーレは何も分からないまま、二人についていくしかなかった。こんな場所で一人残されるのは御免だ。
「つまり、だ。俺達は以前ここに来たことがあって、奴らは俺達の目的を知っている。そして俺達が潰そうとしている場所に町の住民を集めた。ロートに見張りをつけたのも時間稼ぎだろう。ここまで言えばお前にも分かるだろう? つまりこれは、体のいい――」
「人質……」
歩きながら話すヴォルフの言葉を聞いて、ゼーレはようやく理解出来た。フェアウアタイルングの研究員達が、ヴォルフらが人を殺さない事を知っているのかは分からない。だが住民を盾に取れば、幾分かの妨害にはなる。今それはヴォルフらの前に大きな障害となって立ち塞がっているのだ。
「何て非道な……」
ゼーレの呟きを背後で聞いたヴォルフだったが、あえてそれに答えることにした。事後説明は色々と面倒であることは今までで身に沁みている。
「そうとも限らない。何も知らないまま地上を歩いていて巻き込まれるよりは、向こうが手を出せないのを見越して、一致団結してじっとしている方がいい。まあここでの一致団結は強制ではあるけどな。――だからこそそこに勝機がある」
一つを理解すれば一つの疑問が生じ、ゼーレには果てのない螺旋階段のように感じられた。もう何でもいいから、早く答えが知りたかった。
「どうすればいいのよ?」
ヴォルフはシュテルンの方をちらと見、ゼーレの方をちらと見ると、再び話し始めた。この頃にはゼーレにも、二人が今どこに向かっているのか察しがついた。だが相変わらずその意図は見えてこない。
「じゃあ今度はこっちから質問だ。フェアウアタイルングの人間は何故強制されている?」
突然質問されたゼーレは答えに詰まった。何故強制などという、人の自由を奪うようなことが許されるのだろうか。普通に考えたら許されるはずがない。だがこの町ではそれが罷り通っている。
「恐怖政治という事かしら?」
「そうだ。罪を犯したら処刑。納税しなかったら処刑。逆らったら処刑。つまり、死への恐怖が死をも凌駕しているんだ。こうなったが最後、町の住民は目前に死が迫っていても、死への恐怖の方が強く働き、町に背くようなことは何も出来ない。しかも今の状況ではそれにさらに集団心理まで働いてやがる。常々、全くよく出来た構造だよ」
ヴォルフの言うことは理解出来るが、ゼーレには今の話を聞く限りではとても悪い方向にしか聞こえない。これのどこに打開策があるというのだろうか。
「それで? 今の話を聞く限り、諦めろとしか聞こえないんだけど」
ヴォルフは少し頭を抱えた。ここまで小出しに情報を与えてもゼーレは答えに行き着かない。他にどんな情報を与えれば自力で答えを見出すのだろうか。ヴォルフはそう考えていたが、ゼーレがかつていた状況と以前のゼーレとのやりとりで、その理由が解った。俄然無理な話なのだ。ゼーレもまた、ここの恐怖政治に囚われていた一人だったのだから。
「お前も以前はそうだったが、ではこの町の住民は何に怯え何に畏れ戦いている?」
ゼーレにこの質問をしても、無駄であるかもしれないということはヴォルフにもよく分かっていた。元来、恐怖というものは顕在化してはいけないのだ。人は目に見えないものにこそ恐怖という幻影を抱く。だがゼーレはフェアウアタイルングを離れてしばらく経っている。それが、ヴォルフがゼーレに期待する僅かばかりの光だった。これに答えられないのなら、ゼーレは未だにフェアウアタイルングに囚われたままという事だ。
「公開処刑……。という事はつまり、あの丘」
ヴォルフは口から笑みが零れた。見れば、シュテルンも微かに笑っている。いつもの通りといえばそうだが、ヴォルフには何となく自分と同じ心境なのだという感じがした。
「そう、恐怖は言うなれば象徴だ。象徴する物があってこそ、人々はそれにありもしない畏怖を抱く。だからその恐怖の象徴を破壊してやれば、人はこの断罪の町から解放される」
人を恐怖から解放する方法は、大きく分けて三つある。今ヴォルフが言った、恐怖の象徴の除去はその内の一つだ。もう一つは、恐怖を克服する事。これは内側から自らを変える必要があるために時間がかかる。そしてもう一つが、世界を知る事。自分を縛る恐怖がどういう物なのかを客観的に捉らえ、世界との差異をそこに見出し、それがいかに理不尽、不自然であるかを知る。ゼーレが今フェアウアタイルングに恐怖を感じないのは、世界の在り方に触れたからだ。そこではフェアウアタイルングなどほんの些末なものでしかない。
丘に到着した三人はそこで足を止めた。ゼーレにはまだ分からないことがある。恐怖の象徴といっても、この丘こそがこの町の核なのだ。相手もみすみす破壊されることは許さないだろう。だとしたら、当然ここの防備は厳重になるはずだ。
「でも、ここを破壊でもしたら、中にいる人達が……」
ゼーレの言葉は、ヴォルフが指を立てたために遮られた。ヴォルフとシュテルンは互いに目配せをして頷くと、逆方向に歩き出した。ゼーレは返答を求めてヴォルフの方についていく。
「よく考えてもみろ。確かに奴らにとってはこの丘が一番重要だ。それこそ、住民の命よりもな。だが、だからこそそんな場所に住民が入るのを許すと思うか? ――竜驤虎視」
ヴォルフはある地点まで歩くと魔法を使った。ゼーレは、今のヴォルフの言葉から何をしようとしているのかが分かった。シュテルンと別れたのもそのためだろう。ヴォルフは今、竜驤虎視で丘の内部の様子を探っているのだ。人が中にいるかどうかを確かめるために。
「案の定だ。中にはハオベが四人いるだけだ」
ヴォルフはそう告げると、先程の場所に戻り始めた。ゼーレもそのあとについていく。
ヴォルフが丘の入口に着いた時、ちょうどシュテルンも到着した。
「やはリ、予想通りでしたね」
シュテルンとヴォルフは互いに頷くと、腕を丘の方に向けて魔力を溜め始めた。
「この町の特性を考えるとアムレットが使われている可能性も否めないが、竜驤虎視で見えたことから、あったとしても大した量ではないだろう」
ゼーレはただその様子を見ていた。ロートに修業をつけてもらっているとはいえ、まだ体術の段階だ。ハオベとしての修業はまるで行っていない。なので当然、丘を破壊出来るような魔法は使えない。そもそも白魔法は治療が主な目的だ。物理的な破壊魔法はそう多くない。
「臥竜鳳雛!!」
「金烏玉兎!!」
二人の放った青龍最大の魔法は、一直線に丘の中腹を目指した。ヴォルフの放った紅い龍と鳳凰、そしてシュテルンの放った金色の太陽と月は、見ている者の心を掴んで放さなかった。ゼーレもその神々しさに魅せられ、言葉を失って呆然と見とれている。
青龍最大の魔法であるが故に、その破壊力は桁違いだった。それらは丘を飲み込むようにして破壊していき、そして最後には跡形もなく消失させた。後に残ったのは、ぽっかり口を開けた地下への入口と、気絶して倒れている瀕死のハオベ四人だけだった。
「まア、こんなものでしょうかね」
「ああ、そうだな。さて、第二段階に移るか」
ゼーレを放心状態にまでさせた二人は、何事もなかったかのように穴とは別方向に歩き始めた。
ゼーレがふと正気を取り戻すと、辺りにヴォルフとシュテルンの姿はなく、遠くに人影が見えるだけだった。
二人に走り寄りながらも、ゼーレにはやはり何も分からないままだった。研究所はあそこが全てではないはずだ。なのに、二人の足は町の中心部からどんどん離れていっている。
「どこへ行くの? まだ施設の破壊は済んでないでしょう?」
走り寄るゼーレに立ち止まって振り返った二人は、二人だけで納得したような表情をしている。実際には二人は会話などしていないが、長い戦闘経験は二人に同じことを考えさせるのだ。
「物事には順序ってものがあるんだよ。今ので必ずこの町のハオベ達があの丘に様子を見に来る。その隙にロートを迎えに行く。奴の事だから一人で脱出するのは容易だが、やはり早めに合流しておきたい。ここまでが第二段階だ」
シュテルンはヴォルフの説明を横で聞いて頷いている。ゼーレも頷いた。だが、この作戦は一体第何段階まであるのだろうかと、ゼーレは気になって仕方なかった。
「貴様。今何をした!?」
ロートの周りを見張っていた黒ずきんは、ロートの奇怪な行動を見て、その質問の答えを知りつつも尋ねずにはいられなかった。知りたいのは答えではなく、真意だった。
「何って、見てたなら分かるだろ? 赤い鳥を放ったんだよ。エルデに平和を! ってな。……そんな事より、お前らは俺に姿を見せちゃまずいんじゃないのか?」
ロートは笑みを浮かべながら黒ずきんに問い掛けた。黒ずきんは完全に不意を衝かれ、もはやその姿を隠そうともしなかった。てっきりロートが逃げ出すのかと思い、完全にロートの思考を見誤ったのだ。
「貴様、あの鳥で何をする気だ?!」
自分達の失敗に腹を立てたのか、それとも焦りでもあるのか、黒ずきんの口調は自然と強くなっていた。ロートにはもはや喜劇の中にいるようにしか感じられなかった。だから笑いも漏れるし、余裕も生まれる。
「何って、お前らに何て言えば満足するんだ? 平和の象徴か? 反撃の狼煙か? それとも、外部との連絡、か?」
ロートの口調には挑発と余裕と笑みと、立場的に有利に立つ者が持つものを含んでいた。黒ずきんはもう何も言い返せなかった。ロートは決して言われたことに反したわけではない。これ以上追求しようとしても、上手く煙に巻かれるのは目に見えている。強硬策に出ようとしても、ロートの実力はある程度知っているので、それが容易でないのも火を見るより明らかだ。
黒ずきんは大人しく各持ち場に戻った。ロートもこれ以上の厄介は面倒なだけなので、部屋の中央に戻った。
「あとはヴォルフとシュテルンを待つだけだ」
そうして心地よい椅子に座っている内に、ロートの瞼は閉じられていった。あまりの心地よさに、単なる生理現象として眠ってしまった。
ロートが目を覚ましたのは、激しい閃光と爆発音に気付いた時だった。突如、町のほぼ中央辺りから赤と黄の光が見えた。ロートにはそれが何であるかが直ぐに分かった。上手く外と連絡が取れ、反撃の狼煙を受けた二人が町の平和を取り戻すために立ち上がったのだ。
「さあて、それじゃあこんな所はさっさと脱出して、ヴォルフ達と合流しようかね」
ロートはまだ眠い目を擦りながら椅子から立ち上がった。今の爆発で周囲もかなり慌ただしくなっている。だがそれでも、ロートを見張る黒ずきんの気配に動揺は見られない。ロートが立ち上がるのとほぼ同時に、気配にも動きが見られた。
「うーん……。やっぱここからじゃあヴォルフらの位置は分からないか」
ロートは窓辺に立ち気配に意識を凝らしたが、ヴォルフやシュテルンの気配は分からなかった。まだ距離があるのだろう。
合流地点が分からない以上、無闇にここを脱出してもあまり得はない。町を彷徨っている内に黒ずきんに会ってしまうのが落ちだ。だが、合流地点が決まっていないのなら、こちらで作ってしまえばいい。
「じゃ、行きますか」
ロートは右手を窓の外に向けると魔力を溜め始めた。この時、瞬間的に部屋の温度が下がるのをロートは感じた。黒ずきん達が一斉に殺気を放ち始めたのだ。しかも先程よりも強く、確信をもって。
「千紫万紅!」
ロートがそう叫ぶと、空が紅く染まり始め、炎が槍の形状を成して降り注いだ。しかもその目指す地点は一箇所だけ。それも今ロートがいる場所ではない。
ロートは魔法を使った直後、窓を破って外へと出た。案の定、黒ずきん達の追撃があったが、ロートはそれを無視して走った。目指す場所は決まっている。今すべき事は早く合流することなのだ。
「二人とも! あれって、ロートよね?」
先を歩く二人を呼び止めて、ゼーレは空を指差した。そこには空から炎が降っていて、その先は町へと繋がっている。それは丁度ヴォルフらの左後方に位置していた。
「じゃああそこにロートがいるのね?」
ゼーレは喜び走り出した。ヴォルフとシュテルンも、一瞬顔を見合わせた後走り出した。あっという間にゼーレに追い付くと、シュテルンが口を開いた。
「残念ながラ、少し違います」
「え? だって……」
「確かニ、おおよそ七割は当たっていますガ、ロートがあそこにいるのなラ、わざわざあれ程のヘクセライを使う必要はありません。何か煙等を上げるだけで充分です。それニ、ロートは誰かに見張られていテ、温和な方法では身動きが出来ないはずです。だかラ、もしロートがあそこにいるのなラ、その見張りのハオベ達と戦闘になっていてもおかしくありません。むしロ、起きていると考えた方がいいはずです。ですガ、今あそこからは戦闘が起きているような様子はありません。つまリ、ロートは僕達との合流地点としてあの場所を指しているんでしょう」
シュテルンがゼーレに説明をしている間にも、ロートの放った千紫万紅が降り注ぐ地点に到着していた。確かに、シュテルンの言う通り誰もいない。
「――まったく。ロートの奴、面倒なものを連れてきやがった」
ゼーレはヴォルフの向いている方を見たが、まだ何も見えない。だが爆発音や建物が破壊される音とともに、ゼーレの視界にもそれがはっきりと見えてきた。数人のハオベに追われる、赤ずきん。
「おぉ、やっぱお前らの方が早かったか。合流完了っと」
ロートは三人に合流すると、ロートの跡を追ってきた黒ずきん達に向き直った。ロートを見張っていた五人は、町の反逆者四人の姿を見るや否や表情を変えた。素人目で見ても、それが動揺や怯えといったものである事は一目瞭然だった。
「さてト、この方達はどうしますか?」
「面倒だ。さっさと終わらせるぞ」
ヴォルフのその声を皮切りに、ゼーレを除いた三人は黒ずきんに向かっていった。相手はたかだか五人。それも今は完全に動揺しきっている。倒すのに僅かな時間しかかからなかったのは、もはや言うまでもない事だった。
「で、ヴォルフ。何かは知らないけど、そろそろ次の段階に移行してもいいんじゃない?」
黒ずきんらを倒して戻って来たヴォルフらに、ゼーレはそう言った。ヴォルフは一度頷いたが、その顔はロートの方に向いていて、ロートの方に説明を始めた。その内容はこの町の今の状況など、今更といった感じのものばかりだった。だが、思えばロートはこの町の状況について何も知らない。歓迎されたかと思えばそれは体のいい軟禁で、外部の様子を知ることなど適わなかったのだ。
「ふーん、なるほどな。向こうもそれなりに考えてるんだな。それで次の第三段階ってわけか」
ヴォルフの説明を受けたロートは全てを理解していたが、今の話を聞く限りロートは第三段階についても理解したようだった。ゼーレも説明を一緒に聞いていたが、次の段階についての説明など一切していなかった。つまりロートは今までの状況を聞いただけで、次に何をすべきかが分かったということだ。
「ごめん。多分私だけなんだけど、次の段階では一体何をするの?」
経験の差とはいえ、ゼーレは自信を失くしそうになった。自分だけが除け者、周りと息を合わせられていない。それがゼーレの自信を奪い、疎外感を味わわせている。
「じゃあゼーレお嬢さん、今俺らは恐怖の象徴を破壊しました。そして真の目的である施設の破壊には、この町の住民が邪魔です。さて、ここで問題。俺達は次に何をする?」
ロートの口調はとても丁寧であったが、ゼーレは馬鹿にされているような気がした。だがロートに悪意があるわけではないのは何となく分かった。ただ状況を楽しんでいるだけなのだ。ゼーレはそんな事よりも、ロートの質問に思考を巡らした。ロートの誘導が上手いのか、ゼーレにも直ぐにその答えが分かった。
「ええと、つまり、住民を縛りつけるものはもう何も無いわけで、それで住民を施設の外に出したいんだから、――外に出るよう説得とか誘導とかすればいいのかしら?」
ゼーレは少し自信なさ気に答えた。途中までの考え方には自信があるのだが、その詰めをどうすればいいのかに自信が持てなかった。これではあまりに安直すぎる気がした。上手くいく確信が持てないのだ。そんな様子を見てとったのか、シュテルンが少し笑いながらそれに答えた。
「えエ、八割九割は当たってます。僕もそれで充分だとは思うのですガ、ヴォルフにはまだもう一捻り策があるのでしょう?」
先程から、ヴォルフとシュテルンの間には何か意見を交換し合うような会話はされていない。それにも関わらず、シュテルンはヴォルフの考えを読んでいる。どれだけの努力を重ねれば、これ程の洞察力を修得できるのだろうか。ゼーレには、ロートも含めた三人がまだまだ遠い所にいるように思えてならなかった。
シュテルンの振りに、ヴォルフはさも当然そうに答えた。恐らくはヴォルフの意見が全体の行動として決定されるのだろう。ゼーレはヴォルフの答えを聞く前からそう思っていた。
「ああ、まあな。そもそも、ただ言葉だけで住民が素直に従うと思うか? 町の敵である俺達の言葉を信じると思うか? 確かに、丘が無いことを見せれば心が変わる者もいるかもしれないが、半々がいいところだ。そんなのに期待は出来ない。だから、こっちも恐怖政治を使う」
ゼーレは、ヴォルフの言わんとする事を何となく理解した。確かにヴォルフのやり方は筋が通っている。目には目を、ということだ。町による恐怖政治で縛られていた住民を解放し、そしてその住民を動かすために新しい恐怖を生み出そうというのだ。だがそれは住民にとってはかなり酷な話ではある。一時的とはいえ、解放されたと思った恐怖を再び植え付けられるのだ。その精神的苦痛たるや、想像もつかない。だがこの状況下ではそれが最善の方法だと言われれば、否定出来ないのも事実だ。
「それで、具体的にはどうするの?」
ヴォルフは再び町の中央部に向けて歩き出した。三人はヴォルフのあとに続いた。ゼーレ自身ヴォルフの案は理解したし、賛成してもいいのだが、作戦の要となる部分が分からない以上、それを知りたいと思うのは当然だ。恐らくはロートとシュテルンもそこまでは予想出来ていないのだろう。ゼーレの質問に、今までとは違う顔付きをしている。
「方法はいくつかあるけど、ここはやはり、お前にもう一度死んでもらうのがいいかな」
ヴォルフは真面目な顔付きでゼーレに向かってそのような事を言った。シュテルンはその言葉を聞くや失笑を始め、ゼーレも「もう一度」という言葉で理解した。本当に目には目を、だ。この状況で理解出来ていないのは、あの時の事を知らないロートだけだった。
「あ? お前ら何の話をしてんだ?」
今度はゼーレも笑いながら、ロートに説明をした。あの時はアムレットでできた衣装を着ていたから、あわや、という所までいったが、今は何も制約されるものはないし、何より仲間がいる。失敗する道理がなかった。
「ああ、鳴る程。つまり、ゼーレお嬢さんを殺す振りをして、住民を動かそうってわけか」
ゼーレの説明が終わる頃には、四人は再び町の中央部に戻って来ていた。もうそこに火の気はなく、騒がしい様子もない。四人は堂々と地下へと続く穴へと入っていった。
「役割分担をしておかないとな。まず、殺される役はお前で決定な。体格的に一番楽だ」
ヴォルフは歩きながら、ゼーレを指差した。そこには特に異論はない。
穴の中は思った以上に暗く、足下も覚束ない。だが三人は難なく前に進んでいく。難があるのはゼーレだけだった。何度も躓き、その度に遅れそうになるので少し小走りになる。だが小走りになったせいで足下の注意は散漫になり、再び躓いて遅れる。そんな事の繰り返しだった。
「住民に逃げるよう喚起する役はシュテルン。ロートと俺で殺す振りの役を担う」
誰にも文句はない。青龍等を使って人を殺す振りをするのは、流石に一人では厳しい。以前ヴォルフがやったから不可能ではないにしろ、無駄な魔力の消費はしても得がない。
「――そろそろだな。それじゃあ各自、やる事は分かっているな? 喜劇の幕を開けようか」
地下道に入って直ぐに、ヴォルフらは足を止めた。ゼーレにも微かに人の気配を感じられた。そうして、シュテルンだけが更に先へと足を進めた。これでヴォルフらは地下道の入口、シュテルンは地下道のさらに奥にいることになる。そしてヴォルフらはシュテルンの合図が来るまでは待機だ。
シュテルンがその視界に人間の影を捉らえたのは、ヴォルフらと別れてからまもなくだった。町の住民が多いせいなのか、それともあまり奥まで連れられなかったのかは分からない。どちらにしろ、シュテルンの役割は既に決まっている。そうしたら自然とする事も決まる。
「みなさん。あなた方はもウ、恐れる必要はありません。あの丘は破壊されました。それよりモ、ここにいるとハオベ達の襲撃があります。早く町の外へ逃げて下さい」
シュテルンは声を大にして言ったが、誰一人として動こうとはしなかった。それもそうだろう。言葉が通じるのなら、初めから恐怖政治など有り得ない。信じられるのは恐怖のみ、恐怖に従って行動をしていれば害はないという状況だったのだ。急に町の外部の者に何を言われようと、それが変わるわけではない。少なくとも最初の誰か一人が動かないと、集団という性質上、不動の山と大差ない。
「キャハハ、あんた、一体何者? この町の人間じゃ――ていうかあんた黄ずきんだもんね。この町には黒ずきん以外のハオベなんていないし」
突如声をかけられたかと思い、シュテルンは視線を落とした。みなが座り込んでいる中でも、その影は一段と低かった。暗がりで顔はよく見えないが、声の様子に違わず若い。
シュテルンはだが、その容姿を見て息を飲んだ。その瞳の冷たさが、空気を通してシュテルンに伝わる。果たして人間でこんな気配を持つ者にシュテルンは会ったことがなかった。
「あなたこソ、この町の人間ではありませんよね? あなたの瞳ハ、住民のそれとは違う。濁っていない」
シュテルンは額にうっすらと汗が滲むのを感じながらそれだけを言うと、住民の方に向き直った。この、少女とも言える程に幼そうな女が何者であるかは知らないが、こんな所で無駄な時間は取られたくない。
「キャハハハ、正解。私は、ヘレ。これからはよろしくね――シュテルン」
シュテルンは驚き振り返った。この町に来て今まで、一体誰に自分の名前を教えただろうか。否、誰にも、会話すらしていない。なのにこのヘレという女はいつ、どこでシュテルンの名前を知ったのだろうか。
色々厄介事が増えたことは間違いなかった。この女には聞きたい事もいくつかあった。だが、今はそれよりも重要な役割がある。野良猫も、統制されている時だけは従順であるものだ。
「――あなたに聞きたい事が出来ましたガ、それよりも今は早くこの町から逃げて下さい」
シュテルンはヘレを促した。ヘレは周囲の人間を見回すと、動こうともせずに再び口を開いた。
「あぁ、あんたらの計画はそんな生温いのね。アッハハハ、どうせならみんな殺しちゃえばいいのに。まぁ今は従おうかしら。アハハハハッ!」
ヘレは気味悪い程の高笑いをしながら、シュテルンの言葉通りに腰を持ち上げた。シュテルンはこの時初めて人間を恐ろしいと思った。声に抑揚があるのは笑う時だけ。ヘレの「殺す」という言葉には、いくばくかの感情すら篭っていなかった。まるで虫でも殺すかのような言い草だった。
だがそんなヘレの行動が起爆剤となったのか、少し躊躇いながらではあるが地下道を歩き始める者達が現れ始めた。それに続くようにして続々と町の住民は移動を始めた。そんな彼等の様子を見て、シュテルンは指をぱちんと鳴らした。この音は光となって直ぐにヴォルフ達の所に届く。
入口付近で待機していたヴォルフ達は、シュテルンの合図の直後に人間達が来るのを視認した。そうして人間達もまたヴォルフの事を視認すると、その足を止めた。行く手にハオベが立ち塞がっているのだから、恐怖に駆られた彼等が立ち止まるのも当然だった。
ヴォルフは快刀乱麻で抜刀すると、それをゼーレに、青龍でゼーレの形に造った人形の首に宛った。
「お前らを縛る物はなくなった。さっさとこの町から立ち去れ! さもないと……」
ヴォルフは言葉を遮るようにしてその太刀を振り下ろした。ゼーレの首が飛び、血飛沫が噴き上がった。もちろんロートがこしらえた偽物だが、この暗がりの中、ましてや人間に分かるはずもなかった。そう思っていた。
確かに、町の住民は悲鳴を上げて逃げるようにして走り出した。だが一人、別段慌てる様子もなくヴォルフに近付いてくる女がいた。
「お前もさっさと――」
「へぇ? あんたがヴェーア・ヴォルフか……」
ヴォルフは息を飲んだ。いや、何もヴォルフの事を知っていたから驚いたわけではない。ヴォルフの名は広く知れ渡っている。人間でヴォルフの事を知っている者がいても、それ程不思議ではない。それよりも、その瞳に宿る冷たさが、ヴォルフの背筋を這い上がったのだ。それ以前に、何か、身体が本能から警告を発している。この女は危険であると。ヴォルフとて様々な人間を見てきたし、殺しもした。だがこのような人間など会ったこともないし、しかも危険だと分かるのに殺せる気がしない。
「貴様、何者だ?」
ヴォルフは額に汗をかきながら尋ねた。この町の住民でないことは直ぐに分かる。
その女はしばらく何かを考えているようだったが、不意に顔を明るくさせて笑い始めた。
「こう言えば分かるかしら?」
そして、答えた。
「やだなぁ。人に名前を聞く時は、自分から名乗らなきゃ。――まあいいや。僕は君の事を知っているからね。キャハハハ、私の名前はヘレ。キャッハハハハ!!」
ヘレはそう言うと笑いながら人の中へと姿を消していった。いつの間にか住民の殆どが穴の外へと移っていた。
ヴォルフは激しい悪寒を感じた。頭の中で嫌な記憶が思い出される。有り得ない。あの時もう一人いたなんて、考えられない。だがあの口調は間違いなかった。ヴォルフはこの時、初めて人間に恐怖を感じた。
「どうしたの、ヴォルフ?」
ヴォルフを心配して話し掛けてきたゼーレにすら、一瞬驚いてしまう。自分がこれ程に動揺するのは久しぶりだ。少なくとも、人間相手には初めてだ。
ゼーレもロートも、ヴォルフが何故緊張しているのか皆目見当もつかなかった。端から見る限り、あのヘレという女に些かの不審も感じない。ただ外部の、肝の座った女としか見えない。
「……いや、何でもない」
ヴォルフの額から一滴の汗が地面に滴った時、ようやく住民全てが穴から外へと出ていった。そして穴の奥からはあまり顔色の優れないシュテルンが現れた。
シュテルンは少しの間黙っていた。まるで自分を落ち着かせようとしているかのようだった。そうして、三人に尋ねた。
「ええト、僕らよりも小さくテ、この町の者ではない少女を見ませんでしたか? 名前はヘレと言っていました」
ヴォルフはその名前を聞いた途端、シュテルンの胸倉に掴みかかった。シュテルンもそうだが、ゼーレとロートも驚いていた。これ程に取り乱しているヴォルフとシュテルンなど見たことがない。ヴォルフは口から出るがままに叫んでいた。
「お前はやはりあいつの事を知っているのか!? 一体誰なんだ!?」
虚を衝かれて驚いていたシュテルンだったが、ヴォルフとは対照的に、ヴォルフが熱さを増せば増すほどシュテルンの頭は落ち着きを取り戻していった。いつも通りの状態に戻ったシュテルンは、瞬時に思考を巡らして回答した。
「という事ハ、ヴォルフもですか。僕もあのヘレという人間の事は何も分かりませんガ……、どうやらゲルプと関係がありそうですね。そうですよね?」
シュテルンは、ヴォルフが言った「やはり」から推測してそう言った。
ヴォルフはシュテルンの言葉に不意を衝かれ、急激に熱いものが冷めていった。動揺が思考を奪うことは何度も経験してきたはずだった。だが何度経験してもそれが改善されることはなかった。ヴォルフは無味とした脱力感に襲われた。
「……ああそうだ。ヘレは、俺とゲルプがアンファングでかわした会話の内容をそっくりそのまま復唱しやがった。あの時他に気配なんて感じなかった。だからヘレがゲルプと繋がりがあると考えた。確証はないがな」
ヴォルフがそう答えると、シュテルンは何かを考え始めた。だが先程シュテルンはヘレについては知らないと言っていた。ヴォルフがいくらそう言ったからといって、新しい事実が浮かぶわけではない。ヴォルフはそう思った。シュテルンが言える事は、せいぜいヴォルフが考えていることと同じだ。それはゼーレとロートへの説明に等しい。
「僕に接触したヘレという人間ハ、僕がまだ明かしていないのに僕の名前を知っていました。ヴォルフの話と合わせてモ、考えられる可能性はわずかです。まズ、全くの第三者という可能性です。ヴォルフとゲルプの会話ヲ、偶然か故意カ、とにかく立ち聞いていた。そして僕の名前もどこかで知っていた。ですがこれは僕の中で腑に落ちません。その後今になってわざわザ、僕らに接触する必要性が感じられません。第二の可能性としテ、ゲルプの友人知人である可能性です。この場合なラ、僕やヴォルフの事を知っていても不思議ではありません。ですがこれモ、ゲルプの兄である僕ならともかク、初めて会うヴォルフに話し掛ける必要がありません」
そう、可能性を提示する前から、何が真実であるかなど目に見えているのだ。ヴォルフは、掌の上で踊らされている気がして、無性に腹が立った。怒りのやり場に困り、強く握った拳を壁に叩きつけた。
「……くそっ」
「どういう事?」
未だに状況を把握していないゼーレは困惑した顔で尋ねた。ロートの方はもう大方を理解したようで、顔付きが厳しくなっている。
「つまリ、僕やヴォルフヤ、さらにはゲルプとも繋がりがあリ、今この場で挨拶カ、或いは牽制をしておく必要がある人です。そんな人物は一人しかいません。それハ――」
「ヴァイゼーだ」
シュテルンの言葉を引き継いでヴォルフは断言した。あのヘレという人間がどういう存在かは分からないが、少なくともヴァイゼーの手駒の一つである事は間違いない。だとしたら当然、ヘレは人間ではない。ただの人間に、ヴァイゼーが利用価値を見出だすとは思えない。
思わぬ所で時間と気を取られた四人だったが、その後に訪れた沈黙により本来の目的を思い出した。フェアウアタイルングでする事は、ヴァイゼーの配下との対峙ではない。この町の破壊だ。
「……後は俺とシュテルンがやる。お前らは下がっていてくれ」
ヴォルフはシュテルンに目配せをしながらロートにそう言った。ロートもヴォルフの意向を察し、ゼーレを連れて中空へと飛び立った。
「お前もこんな屈辱はそうないだろ?」
ヴォルフはシュテルンにそう言った。二人共外には見せていないが、内心ではふつふつと沸き上がるものがある。人間に怖れを感じた苛立ちや、ヴァイゼーの介入などがその原因だ。シュテルンも頷いた。
「ええ。取るに足りない相手でモ、憂さを晴らしたい気分です。……隠れていないデ、出て来たらどうですか?」
シュテルンの呼びかけに答えるようにして、次々とハオベの気配が増えていった。数は二十を越えている。ヴォルフとシュテルンは既に戦闘体勢を取り、その身体からは闘志が溢れ出している。そして、瞳には刃のように鋭い殺気が満ちていた。
「ヴォルフ。確認しますけド、手加減は要りますか?」
「要らん。全てぶち壊して構わない」
そして、ヴォルフとシュテルンは前方の敵目掛けて駆け出した。二人の走る様はまるで、二頭の獣のようだった。
「何で私達も一緒に戦わないの?」
穴の真上で浮いていたロートとゼーレは、ただその眼下に広がる俯瞰風景を眺めていた。ゼーレの問い掛けに耳を貸しながらも、ロートの意識は穴の、さらに奥に向いていた。
「ヴォルフはともかく、シュテルンがあそこまで怒っているのを見たのは初めてです。ここはあいつらに任せとかないと、俺らまで巻き添えを食らいそうでしたからね。それに、こっちはこっちでやらなきゃいけない事があります」
ゼーレにはロートの言葉が信じられなかった。ゼーレの目から見てもシュテルンはとても怒っているようには見えなかったからだ。ただいつもと変わりなく笑っていただけだ。少なくともゼーレの目にはそう映った。
「シュテルンって、怒ると怖いの?」
ロートは意識を穴とは別の方向に向けながらも、ゼーレの質問に答えた。
「おぉ、きっと怖いですよ。まだ怒らせた事はないけど、シュテルンみたいに何でも内に抱えようとする奴は、それを外へ発散する時は凄くなるものです。だから、ゼーレお嬢さんも気を付けた方がいいですよ」
ロートが話している間、ゼーレにも一瞬だけ気配を感じることが出来た。ゼーレがロートの方を見ると、ロートは一つ頷いてみせた。意識を凝らせば、確かに複数のハオベの気配が近付いて来ている。
「隠れるなら、もっと上手く気配を消せよ」
ロートは何も見えない空に視線と言葉を向けた。今ならゼーレにもはっきりと分かる。そこには黒ずきんがいる。数は、恐らくは十と少し。
ロートの呼びかけに答えるようにして、黒ずきん達は姿を現した。数は十三。その全てが既に戦闘体勢を取り、殺気を放っていた。ロートは溜め息をついて快刀乱麻で抜刀した。どう考えても、地下での戦闘の方が楽しみがいがありそうだった。ロートは一歩分ゼーレの前面に出た。
「ゼーレお嬢さんは少し下がっ――」
ロートがその言葉を止めざるを得なかったのは、ロートが一歩前に出るのと同時にゼーレも足を前に出していたからだ。ロートがゼーレの方を見ると、その瞳には既に闘志が溢れていた。
「私も闘うわ」
ロートはゼーレの思わぬ行動に目を見張った。確かに鍛練は積んだが、所詮は付焼刃に過ぎない。魔法の鍛練も積んでいる根っからの戦闘集団に対して、勝ち目など塵ほどもあるはずがない。
「ちょっ……。戦いたい気持ちは分かるけど、いくらなんでも時期尚早です」
ロートは何とか説得しようと試みたが、ヴォルフの言葉を思い出して早くも諦めようかと思った。確かにハイリゲの娘であるなら、一度心に決めた以上ロートの言葉に聞く耳など持たないだろう。そして案の定、ゼーレはロートに話し出した。
「大丈夫よ。並のハオベは、一度に二種類以上のツァオバーは使えないんでしょう?」
ロートは、ゼーレのその質問で彼女の意図を読んだ。確かに、今空中にいる以上皆が朱雀を使っている。だから普通のハオベなら朱雀しか使えないはずだ。ある程度のハオベでも、白虎がせいぜいなものだ。だとすれば、当然戦闘は接近戦になる。それならば、肉体的な鍛練しか積んでいないゼーレにも充分勝機があるはずだ。
「ロートの眼から見て、あのハオベ達は大した事ないんでしょう?」
「――まあな。良くても白虎止まりです。それに、仮に玄武が使えた所でそれ以上のヘクセライは使えない。別の攻撃をする時には玄武は必ず解かれる。ゼーレお嬢さんに不利な点があるとすれば、その白虎なんだけど」
ロートはそう言ったが、実際にはもう一つ不安要素があった。空中で朱雀を解けば、当然落下する。だがその落下の間はどんな魔法も使えるのだ。とはいえ、間の取り方が非常に難しいため、下手をしたらそのまま地上へと墜ちてしまう。だからそれ程の技量を持っているなら朱雀との同時使用などわけもないはずなのだ。ロートはそう考えてその可能性を提示しなかった。先程見た限りでは、それほどの腕を持つハオベは見受けられなかった。
ゼーレはロートのそんな考えなどを余所に、自信気に言い放った。
「大丈夫よ。私も烏兎惣惣は使えるから、白虎なんて避けられるわ」
ロートは一度にヴォルフの気苦労を理解した。これ程に身勝手、ではなく、行動的だとはロートも想像していなかった。
「分かりました。でも、いざとなっても助けには行けないかもしれませんからね?」
ロートはそう言うと、目の前のハオベ達に向き合った。ゼーレが戦うとなった以上、ロートがしなければならない事は決まっていた。出来る限りゼーレへの負担を減らすことだ。そのためにも、速攻で倒さなければならない。
「ヴォルフ……。お前に同情するよ!」
ロートはそう叫ぶと、快刀乱麻を携えて黒ずきんの方へ駆け出した。意を決し鋭い眼光をしたロートの姿は、まるで羅刹のようであった。
ロートが凄まじい勢いで相手に向かっていく姿を見て、ゼーレも身構えた。ちょうど、ゼーレの正面には一人の黒ずきんがいる。
ゼーレは間合いを計った。相手もゼーレの方を見たまま動かないでいる。ゼーレとしては、中長距離の魔法は使えないのでいずれ接近するしかないのだが、相手は当然それが使える。なので出鼻を挫かれるような事があると厄介だ。いかに早く間合いを詰めるかが問題だった。
「土崩瓦解!」
「烏兎惣惣!」
焦れて先に折れた黒ずきんが攻撃してから、ゼーレは魔法を発動した。ゼーレは相手の攻撃を辛うじてかわしながら瞬時に黒ずきんの懐まで移動した。まだ魔法の使い方に慣れていないため、ゼーレ自身ぎこちなさを感じる。だが何とか接近戦が出来る距離まで縮めることが出来たのだ。あとは修業の成果を発揮すればいい。
「うっ……」
修業の通りにすればいい。そう思っていたゼーレだったのだが、今受けた腹部への一撃でどこかおかしいことに気が付いた。調子が悪いわけでも、緊張で身体が強張っているわけでもない。なのに、ゼーレの身体は自分が思うようには動かなかった。
「……何、で?」
ゼーレは鈍い痛みに顔をしかめながら一度距離を取ってから自問した。こういう時こそ冷静に分析しなければ勝ちは見えてこない。ゼーレは朱雀で中空に浮きながら必死で思考を巡らした。普段と今との相違を考えていく。
だがゼーレの思考を遮るようにして、黒ずきんは距離を詰めてくる。そして拳を繰り出してきた。ゼーレは考えながら対処しているため、防戦一方となっていた。だが不思議な事に、先程よりも滑らかに身体は動いた。
「――どうしてよ」
ゼーレは必死に考えた。鍛練の成果か、身体はあまり考えなくても動いてくれるようになってきていたので、その分を分析に回すことが出来た。
そうして考えてみると、相違点はいくつかあった。まず、相手が殺気を持っているという事。次に、防御の時は身体に違和感を覚えないという事だ。そしてゼーレははっとして周りを見回した。そこに広がるのは目の高さの風景ではない。遥かな俯瞰風景なのだ。
「そういう事ね」
ゼーレは納得すると、攻撃に転じた。自分が陥っていた状況さえ理解してしまえば、それを考慮に入れた戦い方が出来る。つまり、克服出来るのだ。
ゼーレは拳を繰り出し、刹那回し蹴りを入れようとした。黒ずきんはそれに対処しようと、守りを固める。ゼーレの拳を受け、蹴りをかわすと、がら空きになったゼーレの身体に蹴りを加えようとした。だが次の瞬間、黒ずきんは後頭部に激しい衝撃を感じた。
「がっ……」
地上では有り得ない攻撃。回し蹴りの直後に踵落としを出すことなど出来るはずがない。だがここは空の中。彼等は浮いているのだ。ゼーレは逆にその事を利用した。
通常、地上で戦う場合は拳よりも足を多用する。手数、隙などでは拳に劣るものの、その間合いや威力からいっても足の方が優位だからだ。だがこれはあくまで地上の場合だ。地上では片足を軸にして蹴りを繰り出す。この時、片足は地についているので安定、かつ高威力の蹴りが出せる。だが中空の場合、踏ん張る地面が無い。それは不安定かつ低威力を意味する。上手く朱雀が使えればその心配はないが、ゼーレの場合中空での戦闘は初めてなのだ。体勢を保つので精一杯だ。なので先程までは、身体の重心がずれて隙だらけになっていたのだ。
「私の勝ちね」
ゼーレはそう言って、黒ずきんの顎に膝をお見舞いした。
ゼーレは空中での自分の不利に気付いたからこそ、弱点となっていた部分を陽動に使った。そしてその企みは見事に成功した。軸を必要とする回し蹴りに比べ、踵落としは単なる鉛直方向の運動だ。そこには重力と脚力しか作用しない。だから威力を減らすことなく決めることが出来る。隙の出来たゼーレに迫る黒ずきんに、それを決めることは容易い。相手の動きが分かること程、戦闘で優位を作るものはない。
ゼーレの渾身の一撃を食らった黒ずきんは、気絶してそのまま地面に墜ちていった。
ゼーレがようやく一人目を倒した時、周りに他の黒ずきんの姿は既になかった。そして直ぐにロートが近付いて来た。
「初陣にしては上出来かな?」
ロートの言葉に、ゼーレは満面の笑みで応えた。自分でも充分に満足のいく内容だった。
二人が一息をついた時、町のあちこちから火柱と雷柱が上がった。それは一本や二本ではない。数十本の赤と黄の柱が、まるで町を包むかのようにしてその頂点を天空へと突き出している。
ロートはその光景を目にしながら、頭を掻いた。ゼーレも、その様子に目を丸くしている。
「これって――」
「あいつら……、加減ってものを知らないのかね。それにしても、やはり相当ご立腹だったみたいだな」
ロートは失笑を浮かべた。ゼーレには笑う余裕もなかった。魔法の威力云々もそうだが、今柱が上がっているという事はつまり、そこには研究施設があるということだ。だが、今柱は町全体から上がっている。これでは、町の地下全てにまで研究施設があるという事を意味する。ゼーレは驚愕の色を隠せなかった。
「こんな……」
「まったく、よく出来た構造だよ」
ロートとゼーレが中空に浮いたまま待っていると、しばらくしてヴォルフとシュテルンの姿が見えてきた。二人ともこちらに向かって浮いて来ている。これで事実上フェアウアタイルングは滅びたことになる。ヴォルフにとってはようやく雪辱を果たすことが出来たのだ。だがそれでも全員の顔色は優れない。
四人の視線は、真っ直ぐに別の場所に向いていた。
第十章
~秋霜烈日~
フェアウアタイルングの上空で佇む四人は、地上で燃え盛る町の様子をただ黙って見下ろしていた。町の外では、町の住民達がただ黙って町の様子を見上げている。
「ねえ、これからどうするの?」
ふとゼーレはヴォルフに問い掛けた。ヴォルフはゆっくりと顔を上げると、それから考え出した。
「――一応俺の目的は済んだから、まず一番はヴァイゼーを捜すことなんだが」
「そうじゃなくて!」
ヴォルフは、ゼーレが急に声を上げたことと自分の答えがゼーレに否定されたことに驚いた。シュテルンもロートも、ゼーレはその事を聞いていたのだと思っていたのか、少し目を丸くしている。ゼーレが視線を下げたのを見て、ヴォルフはたまらずに尋ねた。
「じゃあ何だよ?」
「そうじゃなくて、この町の人はこれからどうなるのよ?」
ゼーレの質問に、三人は顔を見合わせた。ゼーレの言葉はかなり暗い。恐らく、ゼーレもこの町の住人であったがために同情してしまう所があるのだろう。ヴォルフは一つ嘆息をつくと答えた。
「お前は命の危険に迫られたから自分でこの町を抜け出した。過程はどうであれ、この町の住民もこの町から抜け出せたんだ。人間、死に物狂いになればなんだって出来る。世界への扉は開かれてるんだ。後はこいつら次第だ。俺達の関与することではない」
ゼーレは曖昧に頷いた。頭では理解できても、割り切ることは出来ないのだ。それが人の感情というものである。
雰囲気が少し重くなっているのを察したロートは、咄嗟に話題を変えた。こういう時のロートの気の配り方は上手い。元々の性格もあるだろうが、やはり頼りになる。
「それで、俺らはこれからどうするんだ?」
ヴォルフはロートの言葉に素直に返した。
「さっきも言った通り、ヴァイゼーを捜したいんだが、俺には情報が殆ど無いからな。また宛もなく放浪するしかないだろ」
ヴォルフはそう答えたが、シュテルンとロートは顔を見合わせて首を傾げた。その様子はヴォルフにもはっきりと伝わった。
「まさかお前ら――」
「ヴァイゼーの居場所なら多分、ハイリゲ様は知っていると思うぜ」
ヴォルフは一瞬にして動悸するのを感じた。これまで散々その影を捕まえようとして叶わなかったのに、それをハイリゲは知っていると言う。ヴォルフは驚きで声も上げられなかった。その様子を見たロートは、笑い声を上げながら言った。
「決まりだな。もう一度フライシュタートに戻るか」
四人はそれを決めると、早速地上へと降りた。地上では、フェアウアタイルングの人々が様々な目で四人を眺めていた。その瞳に罪悪感を感じるのは、ゼーレただ一人だった。
歩き出そうとしたヴォルフを、シュテルンは止めるようにして尋ねた。
「少シ、聞きたいことがあります。ヴォルフハ、ヴァイゼーに会ってどうするつもりですか?」
四人は歩みを止め、ヴォルフの返答を待った。ヴォルフは少しも考える素振りをせず、ただ振り返る時間だけを空けて返答した。
「さあ? 俺にも分からない。謝罪を求めるか、制裁を与えるか、それとも返り討ちに遭うか。俺はただこの血と、エルデの意志に従って行動してるだけだ。その時になれば、自然と身体は次にすべき事を教えてくれるさ」
シュテルンはその返答を聞くと、顔色を暗くして声も抑えるようにして尋ねた。風が少し冷たく感じた。
「でハ、あなたの自由はどこにあるのですか?」
ヴォルフは核心を衝かれたような気がした。今まで微かに感じていた疑問が、はっきりと提示されたのだ。確かに、ヴォルフのこれまでの行動は全て、血とエルデの意志に基づくものだ。ヴォルフ自身の意志による自由は、無い。ヴォルフは返答に窮した。だが直ぐに答えを見つけた。答えではなく、問いに対する答えを、ではあるが。
「さあな。全てが終わった後にでも探してみるかな……」
ヴォルフは両手をひらひらと振ると再び歩き出した。シュテルンもとりあえず納得したようで、三人共にヴォルフに続いて歩き出した。
歩き出して直ぐに、ロートはヴォルフの横にやって来て口を開いた。
「なぁヴォルフ。折角の旅も同じ経路で行ったり来たりは飽きるだろ? 今度は真っ直ぐ北西じゃなくて西に行った後で北上しようぜ?」
ヴォルフは横目でロートを見ると、後ろに振り返り、そのまま歩きながら話し出した。
「……というロートの提案だが、多数決といこうか。ロートの案に賛成の奴は?」
尋ねるまでもなく、全会一致で可決された。ヴォルフは再び前を向くと、何事もなかったかのようにまた歩き出した。
長く旅をしているヴォルフだったが、これからの経路は今まで通ったことがなかった。いつも地図などを持たないヴォルフにとって、それは少し楽しみなことではあった。
「ここから西にハ、ロートの行きたい町でもあるのですか?」
シュテルンはやけに嬉しそうにしているロートを見てそう尋ねた。初めに西回りで行くことを提案したのはロートだ。シュテルンはそれに何か意図があると思ったのだ。ロートは相変わらず嬉しそうにしながら答えた。
「まあな。この先にはホーホブルクっていう町があるんだ。そこは大規模な人間の軍隊が常備されている、要塞都市なんだ」
ロートはそう言っているが、それだけでは理由になっていない。要塞都市だと、何故ロートはそこに行きたがるのか。ヴォルフは少しだけ心当たりがあった。心当たりというよりは限りなく勘に近い。
「おい、まさか……ヴァンナーか?」
ある町を楽しみにしている時、その理由はいくつかある。
まず町自体を楽しみにしている場合。例えばそれは風景であったり町の制度であったりする。だがロートの場合、たかが軍隊の、しかも人間の軍隊を楽しみにしているとは思えない。これまでハイリゲと二人で、あくまで個人で戦ってきたロートには軍など考える必要がない。
次に町に何かある場合。例えば、決まった間隔で外部から誰か何かが訪れる場合などだ。だがこれも、ずっとフライシュタートにいたロートには考え辛い。何かが訪れるその瞬間を狙ってそこに行くことは難しいからだ。
そしてヴォルフが考えたのが、町に誰かがいた場合だ。これはつまり、町に特定の人か物がいるという情報だけを掴んだということだ。これならば、旅の途中で寄ることさえ出来れば目的が果たせる。今のロートに当て嵌まるのはこれしかないようにヴォルフには思えた。そしてそんなロートが捜すものは、ヴォルフにはかつての同輩のヴァンナーしか思い付かなかった。
「ああそうさ。ハイリゲ様と一緒にいるとな、様々な情報が各地から入ってくるんだ。そしてその中に、ホーホブルクで赤い髪と青と黄の瞳のハオベの目撃情報があったんだ。二色の瞳をもつハオベなんてそうそういるもんじゃない」
ロートはそう言ったが、ヴォルフには得心いかなかった。ヴァンナーの目的は差別の無い世界を作ることだ。そこに軍が介入してくるとは思えない。軍隊は、自衛が目的の場合もあるが大抵は侵略が目的だ。侵略は対立を生み、当然それは差別を生む。ヴァンナーがそれを望むとは到底思えなかった。だからヴォルフは、ヴァンナーはただ町に寄っただけだと考えた。もしそうだとしたら、今尚ホーホブルクに滞在しているとは考え辛い。だが今のヴォルフにロートの期待を崩すようなことは出来なかった。
「ああ。そうだな……」
ヴォルフは曖昧に頷くと、そのまま沈黙した。
「ヴォルフ。ちょっと手合いの相手してくれ」
何日か歩き続け、とある岩場で休憩を入れていた時、ロートはヴォルフにそう言った。ヴォルフは二つ返事をしそうになって、ふと口を閉ざした。以前にもこれと似たことがあった気がする。そしてヴォルフは思い出した。
「――まさかまたこいつの相手をしろとでも言うんじゃねえだろうな?」
ヴォルフはゼーレを指差しながらそう尋ねた。相変わらずゼーレはやる気満々だ。
「当たり前だろ。それに今回は少しヘクセライを混ぜてもいいからさ」
ヴォルフは嫌そうな顔をしたが、実際には少しだけ楽しみでもあった。ロートが再びヴォルフに手合いを頼んだということは、少なくとも前回よりも何かを得ているということだ。前回の手合いで既にゼーレの筋の良さを知っているヴォルフは、その成長を見てみたかった。
「分かったよ」
ヴォルフはゼーレの正面に立つと、ゼーレが動くのを待った。ゼーレは既に戦闘体勢を取っている。
だが少し経ってもゼーレは全く動かなかった。いくら魔法を使ってもいいといった所で、ゼーレの使える魔法などたかが知れている。これが手合いである以上、結局は接近戦になるはずだった。そこでヴォルフはある可能性に気が付いた。接近戦において有効な魔法は、青龍以外にもう一つある。
「まさか……!」
ヴォルフは直ぐに朱雀で空中へ移動した。その直後、ヴォルフの足下で何かが空を切る音がした。
「そういう事かよ。やってくれるじゃねえか」
ヴォルフが空中へ逃げた後、ゼーレがいた場所にいるゼーレは消え始め、それと同時にヴォルフの足下からゼーレが姿を現した。
つまり、ゼーレは雲散霧消という玄武の魔法を使って第一攻撃を仕掛けてきたのだ。相手がゼーレということで油断していたために、ヴォルフの回避の初動は遅れてしまった。しかも今のゼーレの玄武は、とても肉眼で見切れるようなものではなかった。それはつまり魔法の精度の高さを意味する。その上ゼーレは今魔法を口にしていない。短期間でここまでを習得するのは生半可なことではない。
「ここまで成長してるとはな」
ヴォルフはゼーレから少し距離を取って着地した。短期間であの精度の玄武を使えるようになっている理由は二つ考えられる。まず、ロートがそれだけを徹底して教え込んだ場合だ。次に、ゼーレにそれに足る潜在的な能力が備わっていた場合だ。
だがそれは後でロートに聞けばいい話だ。ヴォルフはとりあえずこの戦いに集中することにした。もし後者ならば少し面倒になる。他にも魔法を習得している可能性があるし、ヴォルフもそれに応じて手加減しなければならないからだ。だが前者の場合、事はかなり楽になる。玄武に徹底したということは、二回目以降もそれを切り札として使うことになるからだ。そうであるなら、ヴォルフは竜驤虎視を使って普通に格闘戦をすればいいだけだ。
ヴォルフは技名を口にせずに竜驤虎視を使い、ただ立っていた。するとやはり、ゼーレは雲散霧消を使ってヴォルフに近付いてきた。だが傍目から見れば、お互いに動いていない、所謂膠着状態という風に見える。
ヴォルフが手を上げるとその手が弾かれ、ヴォルフが身を引くとそこには風が起きる。相変わらずゼーレの姿はヴォルフの正面から動いていないが、今二人は接近戦を繰り広げているのだ。
この時ヴォルフはこれ以上何をするつもりもなかった。何もしなくてもゼーレは自滅していく。不意打ちとして有効な玄武は、一度見切られるとそれ以降の効果はあまり期待出来ない。玄武を見破るような魔法は白虎であるため、魔力の効率からいっても不利なのだ。そうなったが最後、自ら玄武を解かない限りただ魔力の無駄遣いになってしまう。未だに玄武を使い続けている所を見ると、そこまでは教わっていなかったようだ。
そして魔力を消費し続けると、それは次第に疲労として身体に蓄積されていく。現にゼーレの動きは初めよりもかなり鈍くなっている。どことなく身体が重そうだ。
ヴォルフは疲労したゼーレに少しずつ攻撃をし始めた。攻撃と言っても、前回と同じように軽く額を小突くだけだ。だがこれも前回と同じように、ゼーレは小突かれただけで体勢を崩しかけた。
前回とまるで同じ展開になり、そして終幕も全く同じだった。額を小突かれたゼーレは、体勢を立て直すことが出来ずに、そのまま地面に尻餅をついた。それと同時にゼーレの玄武は解け、ヴォルフの目の前にはっきりとその姿を現した。
「前回は体力不足で、今回はツァオバー不足か……。あまり成長してねぇな」
ヴォルフはゼーレを見下ろしてそう言った。ゼーレは肩で荒い息をしていて、まだ喋ることは出来なさそうだった。
「技術的な点では充分だが、やはり経験が不足している。ロート! 次からはもっと実践的なことを教えてやれよ」
シュテルンとロートは二人とも似た表情をしている。やはり展開は読めていたようだ。二人としては最初の一撃に期待していたのだろう。
「ヴォルフこそ、あと少しでゼーレお嬢さんの渾身の蹴りを食らう所だったじゃないか。不意打ちは立派な作戦だぜ?」
ロートの憎まれ口に、ヴォルフは反論出来なかった。確かにあと少しでも気付くのが遅かったらまともに食らっていただろう。
ゼーレの回復を待ってから、四人は再び西へと歩き始めた。魔力の回復にはかなりの時間がかかるが、魔力の使い過ぎで動けなくなることはない。なのにそれが起こるのは、魔法と体力が結び付いているというだけだ。簡単に考えるなら、それは脳と身体との関係に似ているかもしれない。頭を使い過ぎるとだるくなり身体も動かせなくなるが、少し休めば身体は言うことを聞くようになる。だからといって頭が完全に休まったわけではない。
「最初の一撃はいい感じだったのに……」
ゼーレはまだ少し息を荒くしながら、ヴォルフの後ろでそう呟いた。ヴォルフはそれが自分に向けられたかのような気がして、少し呆れながら答えた。
「あのな、お前は少し頭を使え。玄武の特性を考えれば、ずっと使っていようなんて思う奴はいないはずだ」
平常時に頭を使いそれを考えることは出来る。だが戦闘中となると、それは意識の問題ではなくなる。慣れというものが絶対条件として付加される。だが当然、ゼーレにはその経験が足りない。ヴォルフはその事に気付きながら、慣れにも意識は必要だと考えてそう言った。
数日の間ひたすらに西へ歩き続け、四人はようやくその荘厳な建築物の姿を視界に認めることが出来た。
そう、一言で表すならば荘厳。その無機質な町からは、並外れた威圧感が感じられる。
「これが――ホーホブルク?」
ゼーレはそれを目前にして驚きを隠せないでいた。ヴォルフもこの町は初めて見るが、ヴォルフの想像を遥かに越えていた。まさに要塞都市の名を冠するに相応しい。町全体が巨大な壁に囲まれ、そして覆われているのだ。外から入る方法は、門番が目を光らせる複数の正門からしかない。
「これハ、本当に凄いですね。この中ニ、陽の光は入っているのでしょうか?」
シュテルンの問いに答えられる者はいなかった。何せ、みな初めて目にするのだ。
「ま、入れば分かるだろ」
ロートはそう言いながら入口の方へと歩き出した。
だが、とヴォルフは思う。ここまでの武装をするのが人間である以上、人間が警戒するのは当然ハオベのはずだ。目的も知れない人を、しかも四人ものハオベを町が安々と入れさせるようなことがあるだろうか。少なくとも検査のようなものはあるだろうとヴォルフは思った。
門の正面に回った四人は、直ぐに妙なことに気が付いた。門は閉められているというのに、門番の姿がどこにも見えないのだ。
「ん? 何か様子が変だな……」
ロートは辺りを見渡した後、門を叩いてみた。だが重厚な音が響くだけで、誰かが応対するような様子はなかった。
その時、ゼーレを除く三人は咄嗟に門に耳を押し当てた。経験が豊富な三人だからこそ、この異常事態と、中から聞こえる微かな音にも反応出来る。ゼーレも三人に倣って門に耳を押し当てて、中からする音に耳を凝らした。
「――爆発音?」
経験が充分でないゼーレが聞いても、そこで何か戦闘が行われていることは容易に想像出来た。中で何かしらの戦闘が展開していて非常事態であるのならば、要塞都市であるこの町に今門番がいないことにも納得のいく説明がつく。
「幸運だな。さっさと中に入るぞ」
ヴォルフはそう言ったが、問題はまだある。それを口にしたのはシュテルンだった。
「えエ、もちろんです。ですガ、この門はどうしたら開きますかね?」
ヴォルフは力を入れて門を押してみたが、流石に一人の力ではびくともしなかった。この町は人間に統治されているため、魔法陣が敷かれていることは考え辛い。とすれば、どこかに物理的な仕掛けがあるはずである。そう思って三人は門を調べ始めたのだが、一向にそれらしい物は見付からなかった。
「面倒だな。かといってぶっ壊す訳にもいかないしな」
もしもここで門を破壊するような魔法を使えば、必ずや中の人間も気付く。ただでさえ戦闘が行われていて緊張が走っている所に、そのような方法で中に入ったら確実に敵と認識されてしまう。人間相手なら戦っても負けることはないだろうが、やはり面倒だ。
「ではここハ、こっそりと壊しますか?」
シュテルンの言葉にヴォルフとロートは頷き、示し合わせたかのように門の前に立った。ゼーレは彼等の意図が掴めない以上、黙って見ているしか出来なかった。
三人は青龍で抜刀すると、それを門に突き立てた。すると彼等の青龍は、音も無くまるで吸い込まれるかのように門に刺さっていった。そして三人はそのままそれを動かし始めた。三人の軌跡を重ね合わせると、それはちょうど人一人が通れる程の長方形の形を描いている。
「くそ。意外とこの門厚いな」
「そうであっての要塞都市だろ?」
「さア、もう一息ですよ」
苦言を漏らしながら腕を動かすヴォルフだったが、既に過程の半分以上を終えている。そして遂に門は長方形に切り取られた。ロートが先頭に立ち、もはや門を成していないその塊を押すと、見る見るそれは奥へと動いていき、要塞都市ホーホブルクの内側がその姿を見せた。ゼーレはごくりと息を飲んだ。三人は平然と行っているが、これは明らかな不法侵入だ。法が厳しい所なら、即刻処刑になるかもしれない。だが三人は法とは無縁なハオベだ。ロートはゆっくりとその一歩を進め始めた。
「さぁ、いよいよ入るぜ」
門の内側に入った四人はまず、その音の大きさに驚いた。中で轟く爆発音は、まさに耳を劈かん程のものだった。それと同時に驚くのは、この要塞都市の防音性の高さであった。これ程の音だというのに、壁を一枚挟んだだけでそれはほぼ無音となっていたのだ。
ゼーレはこの時ふと、気になっていた上空を仰いだ。外から見ると天井は完全に覆われていたというのに、明るさは外と大差なかった。見れば、天井はあるのに太陽の光も見えている。ゼーレには一体どういう仕掛けか見当もつかなかった。
「まったく、要塞都市ってのも考えものだな。外敵を排除出来る代わりに、中で起きている事も簡単には外には漏れない。一度侵入を許せば、後は壊滅を待つのみだ」
ロートは辺りを見渡しながらそう言った。
「それデ、僕達はこれからどうしますか?君達の言ウ、ヴァンナーというハオベを捜しますか?」
シュテルンも少し辺りを見渡しながらそう言った。だがヴォルフはある一点だけを見つめていた。その先では今尚激しい戦闘が繰り広げられていて絶えず火の手が上がっている。
「ヴォルフ? どうしたの?」
「いるぞ。俺の中の赤い血と青い血が両方騒いでやがる」
ヴォルフは拳を強く握り締めていた。その額にはうっすらと汗を掻いている。ゼーレは今までの経験から、それが何を意味しているのかおおよそ理解出来たが、それでも頭の中を整理し切れずにいた。
「え? それって……」
「今あそこで戦闘をしているのは、エーヴィヒと、恐らくフォルブルートだ。ここは事が落ち着くまで様子を見といた方が良さそうだな」
ヴォルフの言葉を聞いたロートとシュテルンは互いに頷き合い、そして四人は物影へと移動を始めた。
しばらく壁に身を寄せながら進み、町のほぼ中央に位置する広場まで来たヴォルフらの目に映ったのは、大量のエーヴィヒと戦闘を繰り広げている集団だった。ゼーレはその中に、ザンクトの姿を見付けた。
「あ……、ヴォルフの妹さん」
ゼーレが見たままに口に出した言葉に、ロートもシュテルンも目を丸くしていた。ゼーレが見ているハオベと同じハオベを捜そうと、広場の方に視線を向けた。そして何度かヴォルフの方も見ながらロートは口を開いた。
「ヴォルフ。お前、妹なんていたのか?」
「別に俺に妹が居てもいいだろ。名前はザンクト、俺達を殺そうとしているフォルブルートの一員だ」
ヴォルフは呆れたような顔で答えた。ヴォルフの返答を聞いたロートは、最後の一言を聞いてやや複雑そうな顔をしていた。そして頭を掻きながらさらに質問を重ねた。
「おいおい、妹に命を狙われるって、お前何したんだよ?」
先程から口を挟んでいないシュテルンだが、その顔は明らかにこの状況を楽しんでいた。やはりヴォルフの妹ということで、興味はあるようだ。
「ザンクトの父親を狂わせ、母親を殺したそうだ」
「そうだ、って――ヴォルフの妹の親はお前にとっても親だろ? それにその話、前にお前から聞いた話と尽く矛盾してるぞ?」
尚も続けられている激戦を余所に、こちらでは普段と変わりない会話がなされている。ヴォルフは一つため息をつくと、予め用意していたかのように滑らかに言葉を紡いだ。
「ザンクトの中ではそういう話になってるんだ。あいつがフォルブルートの中で生き甲斐を見付けられているのなら、俺が口出ししてまで真実を知らせる必要はない」
「だがそれだって、フォルブルートとやらがお前の妹を騙しているのかもしれないだろ? 本気でこのままで良いと思ってるのか?」
ヴォルフはロートの方に振り返ると、親指を立てて広場の方を指した。その顔には僅かに笑みが浮かんでいる。
「かもな。俺の情報を引き出すために騙されてる可能性は大いにある。だから、それを確かめるいい機会だと思わないか?」
もしかしたら、とゼーレは思った。先程からの一連の会話は、全てヴォルフの思惑通りだったのではないだろうか。ロートの人の良さを見越した上で、会話を誘導したように見える。上手く誘導に乗せられたロートは、それ以上口を開くことが出来なかった。
しばらく時間が経ち、ヴォルフらが静かに見守っている間にも決着はついたようだった。視認出来る限りでも、フォルブルートの人数は十数人いる。その人数でエーヴィヒと戦ったためか、各人の顔に疲れの表情はあまり見られない。エーヴィヒの数とて半端なものではなかったため、今の状況を見ただけでもフォルブルートという組織の強さが窺える。
「さてと、これからどうしたものかな……」
ヴォルフはザンクトの方をじっと見つめながらそう呟いた。今更顔を出すのも躊躇われる。
ザンクトの顔を見つめていたヴォルフは、ザンクトが首を動かすのに気付いた。まるで何かの気配を感じ取っているようだ。ヴォルフはもしや、と思ったが、もしばれてもそれならそれでいい気もしていた。こちらから顔を出し辛いのであれば、向こうから気が付いてくれた方がいい。そう思ってザンクトを見ていると、ザンクトは首を動かすのを止めていた。
「陰からこそこそ覗いてるなんて趣味が悪いんじゃないかしら、ヴェーア・ヴォルフ?」
ザンクトはそう言って、鋭い瞳でヴォルフらの方を睨みつけた。やはり先程のヴォルフの予想は当たっていたようだ。フォルブルートの他のハオベも、少し驚いたようにして辺りを見回している。
ヴォルフを除く三人も、事の成り行きをヴォルフに委ねながら、少し心配そうな目をしている。ヴォルフはその顔に少し笑みを浮かべると、堂々とフォルブルートの前にその姿をさらした。
「少し気付くのが遅いんじゃないか? ――まあ他の奴らが気付いてない所を見ると、これも血の繋がりか」
ヴォルフが物影から出て行ったので、ロート、シュテルン、ゼーレも続いて姿を現した。そしてフォルブルートのハオベらも、相手がヴェーア・ヴォルフだと分かると、ザンクトを中心にして一箇所に集まった。
緊張がホーホブルクの中を走る中、初めに口を開いたのはザンクトだった。その風格は、周りのフォルブルートと比べてもまるで遜色がない。
「今日は何をしにこんな人間の都市に来たのかしら?」
お互いに緊張状態であるのに、ヴォルフとザンクトの顔にはそれとは違ったものが浮かんでいる。ザンクトとしては多勢に無勢、ヴォルフとしては無勢も多勢という様子で、余裕の表情を浮かべている。
「お前らの知った事ではない。どうやらこちらの宛ははずれたようだ。それじゃあな」
ヴォルフはザンクトらに背を向けると、手を振って町の出口へと歩き出した。ロートらはこの展開が読めずにまだ動けないでいた。
戦闘体勢を取りながらも誰も動けないでいるフォルブルートの中に、ただ一人歩み始めた者がいた。ヴォルフはその背後に気配を感じながら、あえて無視してどんどん進んだ。
「待ちたまえ」
その男から放たれた言葉は、心の奥底にまで響くような荘厳な声だった。ヴォルフはこの時瞬間的に理解した。この男こそがフォルブルートの長であると。
ヴォルフは立ち止まり振り向いた。瞳に映ったその姿は、黒髪黒眼の長身なハオベだった。
「我々フォルブルートが君を見逃すと思っているのか?」
「あんたがいなけりゃそうなる所だったけどな」
ヴォルフは鼻で笑いながらそう返した。この男からは敵意や殺意は感じられない。純粋な威圧感が辺りに広がるだけだ。並の人間やハオベなら、この気配だけで呑まれてしまうだろう。事実、ゼーレの足はがくがくと音をたてて震えている。
「我々の目的はこのエルデに純血を取り戻すことだ。混沌の原因である君は、許される存在ではない」
ヴォルフは頭を掻きながらため息をついた。もう聞き飽きた言葉だ。ヴォルフはフォルブルートの連中を見回して、さらにため息をついた。どうにもロートの言っていた事は正しいようだ。
「純血、ねぇ……」
ここにいるフォルブルートのハオベはみな単色の髪をしている。それはつまり両親が同じ色のハオベだという事だ。ただ一人、ザンクトを除いて。
「お前らの言う純血ってのは、単色の髪を持つ人の事を言ってんのか? ならば何故白と黒の髪を持ち、青の瞳をしているザンクトがいるんだ?」
この状況だけを見れば、フォルブルートの掲げる純血はただ一通りにしか意味が取れない。そしてその中では、ザンクトは明らかに異端な存在だ。ヴォルフは相手の返答を待った。恐らく今ヴォルフがした質問は、過去にザンクトも通過したはずだ。自己の存在をフォルブルートという組織の中で確立するために。
そして男は話し始めた。
「純血。確かに言葉の意味する所は、ただ一つの血を持つ、という事だ。だが我々が掲げる純血は単純に種族という意味しか成さない。つまり、人間、そしてハオベ。単色のハオベが多いのはあくまで確率的な話に過ぎない。だがエーヴィヒと君は別だ。このエルデには不必要な、異端な存在だ」
ヴォルフは怒りを通り越して呆れて笑いだしそうになった。この男が話している事は全て詭弁だ。根拠も無ければ説得力も無い。つまり、この男といくら話しても無駄という事だ。
「ハ、笑わせてくれるぜ。――いい加減名前ぐらい名乗ったらどうだ?」
「フ……いいだろう。私の名前はゲレヒト。フォルブルートを束ねる存在だ」
フォルブルートを束ねるこの黒ずきんには、確かにその地位に着くだけの風格があった。とはいえ、ヴォルフからすればそれは上辺だけの姿だ。中身など無いに等しい。なので当然意見は食い違い対立を生む。今それは目に見える形で、それこそ目という媒介を使ってなされている。お互いが黙ったまま相手を見据えている。
「ゲレヒトか……。大層な名前だな。ま、せいぜい名前負けしないようにするんだな」
ヴォルフはそう告げると、再び背を向けて町の出口へと向かおうとした。緊迫した空気の中、未だ誰も動けないでいる。動けるのは唯一ヴォルフとゲレヒトだけだ。
「君は二度同じことを言わせる気か?」
ゲレヒトは感情の起伏を全く見せずにそう言った。声に抑揚が無いのに、その言葉の背後には確かに抑圧という印象が窺える。己が正義を信じ、相手に有無を言わさぬ物言い。その声に逆らえる者はそう多くないだろう。それ程に含みがあるように聞こえるのだ。
ヴォルフは振り向こうともせずに、立ち止まって口を開いた。
「お前らには二つ選択肢がある。一つは黙って俺達が去るのを見ている事。もう一つは今ここでフォルブルートが壊滅する事。さあ、どちらを選ぶ?」
ヴォルフが挙げた選択肢の裏には、ヴォルフの絶対の自信があった。たとえ数で劣っていても、負けることはないという自信。そしてその自信は、明らかに先程までヴォルフが発していた気とは違う気を辺りに放っていた。ゲレヒトは両勢力を較べ見た。この緊張状態の中、平常心を保っているハオベはいない。それはヴォルフやゲレヒトとて例外ではない。だがいざ戦闘に入れば、よりいつも通りに動くことが出来るのはヴォルフらの方だろう。フォルブルートの方では、ゲレヒトを含めてもせいぜい四人が限度だ。いくら手練れとはいえ、ヴォルフらを相手に勝つことは難しい。
ゲレヒトは瞬時にそう判断すると、口元に微笑を浮かべた。
「フ……、いいだろう。今は君の言う通りにしようじゃないか。だが忘れるな。我々は今君らよりもヴァイゼーに近い所にいるという事を」
ヴォルフはゲレヒトの言葉を聞くと、まるで思い出したかのようにふっと笑みを漏らした。
「あ、そうそう。その事なんだけどな、お前の言う近い所ってどれ程のものなんだ? 俺らはもうヴァイゼーの居場所まで掴んでいるんだけどな」
流石に今のヴォルフの言葉は、ゲレヒトを含めたフォルブルートの連中に衝撃を与えた。いくら実の息子といえども、組織で動いているフォルブルートが掴めずにいるヴァイゼーの居場所を個人が掴んでいるのだ。
ゲレヒトは一瞬見せた動揺を抑えると、ヴォルフの方をきっと睨み付けた。だが今の段階でゲレヒトに言える言葉はない。今優位に立っているのは、より貴重な情報を持っているヴォルフの方なのだ。
「――今の反応を見る限り、どうやらそっちはヴァイゼーの居場所は掴めていないようだな。ここで一つ提案だ。現段階で、俺らとフォルブルートは、ヴァイゼーをどうにかするという事で目的を同じにしている。だから、とりあえずヴァイゼーの事が解決するまでは休戦しないか?」
ヴォルフはゲレヒトの瞳を見据えてそう言い放った。恐らくは今までの会話で一番の威圧感を放っているだろう。そして、多少気にかかる事はあるにせよ、フォルブルートにこれを断る理由はない。
「つまり、君達と行動を共にしろと?」
理由がなくとも、双方には矜恃があれば意地もある。敵対していた相手からの提案をすんなりと受けることはそう易々とは出来ない。当然ヴォルフもそれは重々承知している。
「いや、そんな事お互いに望んでいないだろ。だから自分達のやり方で己が正義を貫けばいい」
ヴォルフの言い分はもっともだ。だがそれでは話が進まない、というよりも繋がっていない。ゲレヒトもヴォルフの言いたい事が理解出来ず、少し苛立ち気味に再度質問をした。
「では君は何を以て休戦と言うのだね? まさかこのままお互いの均衡状態を保つだけ、と言うわけでもあるまい」
ヴォルフはわざとらしく間を空け、そして一つ息をつくときっぱりと言い放った。
「情報の共有だ。これが今俺らが出来る最善の共闘のはずだ」
辺りに沈黙が流れた。ロートからすれば、今までのヴォルフの言葉ははったりに過ぎない。何せ、ヴォルフ自身はヴァイゼーの居場所を掴んでいないのだから。ただその可能性を得ただけだ。それでここまでそれらしく話を持っていっているのだから、ロートは呆れながらも感心せざるを得なかった。だが話が核心に迫れば迫るほど、首が絞まるのはヴォルフの方だ。実際に貴重な情報を掴んでいるのはフォルブルートの方なのだから。
そして、ロートの懸念していた事をゲレヒトは話し始めた。
「では、君の言う『共闘』をしようじゃないか。今我々が持っているヴァイゼーに関する情報は……」
ゲレヒトが口を開こうとするのをヴォルフは手で制し、そのまま話し始めた。
「おっと、ちょっと待った。共闘とは言ったものの、実の所俺はまだ情報を掴んでいない。これから聞きに行く所なんだ」
ヴォルフの顔には微かに笑みが浮かんでいた。さしずめ、自分の思うような展開になった事が面白いのだろう。ゲレヒトは寸時呆気に取られた顔をした後に、直ぐに落ち着いた調子で言葉を発した。
「では何か? 今の君の話は全て嘘だということかね?」
ゲレヒトの言葉の裏にははっきりと怒りが見える。ヴォルフは手をひらひらさせると、一層顔に笑みを浮かべて答えた。
「まさか。だから俺らはこれからそれを確認しに行くから、またどこかで落ち合えばいいだろ。それはこちらの都合だ。場所はそっちで決めていいぜ?」
ヴォルフの提案に、ゲレヒトは腕を組んで考え始めた。今フォルブルートに与えられた状況なら、約束を反故にすることも容易い。つまり、フォルブルートに有利な場所を提示し、ヴォルフらから情報を聞き出した直後に殺してしまえばいいのだ。準備期間も充分にあるのだから、いくら個々ではヴォルフらの方が強いとしても決して不可能ではない。
とはいえ、それはフォルブルートのする事ではない。純血を掲げ、自らの正義と矜恃を貫こうとする組織が、そのような事をするはずがない。ヴォルフはそこまでを見越して、あえてゲレヒトに決定権を委ねた。そしてそれはゲレヒトにも伝わっている。
ゲレヒトはそう大して間を空けずに、恐らくは最も適当な場所を提示した。
「では、シュヴェーベンで『共闘』しようではないか。日時はいつ頃がいいかね?」
ヴォルフはシュヴェーベンという町の名前にわずかに反応した。まだ訪れたことはないが、その町はエルデの中でもかなり珍しく知名度も高い町だろう。
ヴォルフは一瞬そのような事を考えた後で日時についての思案をした。よく考えてみれば、日時を教えることは場所を教えることにも等しい。その日数の間に徒歩で行ける距離を計算すれば、あとは楕円を書く時と同じだ。ホーホブルクとシュヴェーベンまでの距離の和を描いていけばいい。その曲線上にある町が、ヴァイゼーの所在を掴んでいる者が滞在している町ということになる。
ヴォルフは警戒深くそこまで考えたが、ハイリゲの家にはアムレットが敷き詰められていてハオベではそう易々と侵入出来るものではない。ならば心配も無用のものかもしれない。とはいえ、用心に越したことはない。結局、ヴォルフはそう結論付けた。
「そうだな。とりあえず一ヶ月を見といてくれ。ただ、その期間で着くとも限らない。早くなるかもしれないし、逆もあり得る」
ヴォルフの考えは、当然ゲレヒトにも読めているだろう。だから、ヴォルフの曖昧な言い方にも何も口を出さなかった。ただ、その口元に笑みを浮かべただけだった。
「フ……、では楽しみにしているよ」
ゲレヒトはそう言い残すと、フォルブルートを率いてまるで何事もなかったかのように町を去っていった。去り際に残したザンクトの一瞥が、ヴォルフには印象深く残った。
「おいおい、凄いことを勝手に決めてくれたな」
フォルブルートの後ろ姿を見つめながら、ロートはそう言って近付いてきた。ゼーレやシュテルンも緊張が解けて安堵した顔を見せる一方で、今後の展開に心配をしているようだ。そして、ゼーレの関心はもう一つのことに向いていた。
「それで、シュヴェーベンってどんな町なの? ヴォルフ、その町の名前を聞いた時少し反応していたようだけど」
ヴォルフはこの時、少しではあるが驚きを隠せなかった。確かにシュヴェーベンの名前に反応はしたが、それは極些細なものだ。あの緊張状態の中でゼーレがそれに気付いていたことは意外だった。それだけ物を見る目が鍛えられているのかと思うと、ヴォルフは少し嬉しくもあった。
「まあ、色々な事で有名な町だ。もう少し近付いたら教えてやるよ」
ヴォルフは町の様子をぐるりと見回した。町の損壊もそれ程に深刻なものではない。次にヴォルフは三人の顔を見回した。各々が、しっかりとした面持ちをしている。
「じゃあ、出発するか」
四人はフライシュタートへ向けて、ホーホブルクの町を後にした。
第十一章
~有為転変~
一先ずヴァイゼーの居所を聞き出すために、ハイリゲのいるフライシュタートを目指してヴォルフら四人は北上していた。地理的に言えばホーホブルクから真っ直ぐ北へ行けばフライシュタートへと到達する。そしてフォルブルートとの約束の地であるシュヴェーベンを目指すには、今度はそこから真っ直ぐ西へ向かえばいい。
フォルブルート、エーヴィヒによる襲撃は何度かあったものの、それらを尽く撃退したヴォルフらは、何の苦もなくフライシュタートの近郊にたどり着いていた。
もうまもなくフライシュタートの町影も見えてこようかという頃、道中でゼーレはふと疑問に思っていた事を誰となく尋ねた。
「エーヴィヒはともかくとして、今まで襲ってきたハオベは本当にフォルブルートだったのかしら?」
ゼーレの口から漏れるようにして発せられた言葉は、聞きづらさと、他の三人にとっては意味の分からなさとで、彼等の頭に二重に疑問符を浮かべさせた。
「だって私達はホーホブルクで事実上休戦宣言をしたじゃない。なのにどうして攻撃してくるのよ?」
ゼーレの考えていることを理解した三人は、お互いに顔を見合わせた。そして、ヴォルフはため息をつき、ロートは手を上げて苦笑いをし、シュテルンは相変わらずの笑顔を浮かべていた。三人それぞれが違う反応を見せたものの、考えていることは同じように見えたゼーレは、ますます意味が分からずに膨れっ面をしてみせた。ゼーレの疑問に答えたのはシュテルンだった。
「でハ、分かりやすく説明しますね。確かニ、僕らはホーホブルクで休戦の約束を結びました。とはいエ、恐らくフォルブルートはかなり大きな組織のはずです。ですかラ、各地に組織の一員が散在している可能性は大いにあります。あそこで起きた出来事ヲ、即座に全フォルブルートに伝えることは不可能でしょう。伝言を頼んだとしてモ、それが伝わるには時間が掛かります。或いハ、僕らの実力を考えて伝言すら頼んでないことも考えられますガ、現時点での最終的な目標がヴァイゼーの討伐である以上ハ、自分の組織の戦力を無駄に減らすようなことはしないでしょう。つまリ、今まで僕らを攻撃してきたハオベハ、フォルブルートではあるけれども時間的に事情を知らされていない者達ということです」
シュテルンの説明を受けたゼーレは、少し沈んだ様子を見せた。ここまで旅を共にしてきたこともあってか、その様子でヴォルフにはその理由が何となく分かってしまった。恐らくは次にゼーレが発するであろう言葉を待ちながら、ヴォルフは軽く頭を抱えた。
「じゃあ彼等は本来争わなくてもいい私達に戦いを仕掛けてきて、それで理由もなく倒されたというの?」
ヴォルフは一つ大きなため息をついた。まさにヴォルフの予想通りの事を言ってきたのだ。ロートとシュテルンが顔を見合わせているのを見たヴォルフは、再び今度は小さくため息をついた。そして少し間を空けてから話し出した。
「あのな。俺らだって戦わなくてもいい相手と真剣に戦ってやるほど暇じゃないんだよ。お前は気付いていないかもしれないが、手は抜いて戦ってる。ホーホブルクを発って以来、ひどい怪我を負わせるような戦いはしていない」
ヴォルフの言葉を聞いたゼーレは直ぐに納得したようで、いつも通りの明るさを取り戻し三人に先立って足取り軽く歩き出した。ゼーレの歩く後ろ姿を見ていたヴォルフは、側に寄ってきたロートに脇腹を軽く肘で小突かれた。ヴォルフには、ロートの顔を見ないように無視することしか出来なかった。
やはりゼーレは気付かなかったようだが、ヴォルフの言ったことははったりなのだ。手を抜き、相手に大怪我を負わせないように戦うこと程面倒なことはない。
「ヴォルフ、お前変わったな。前はあんな嘘なんてつけなかったのにな」
ヴォルフがロートの方を見ると、やはりその顔には満面の笑みが浮かんでいた。ヴォルフはロートの顔を見たことを後悔しながら歩き出した。ロートとシュテルンも足を動かし始め、三人はゼーレの後を追うように歩き出す。
「誉め言葉として受け取っておくよ」
ようやく到着したフライシュタートへと入った四人がまず驚いたことは、町に立ち込めるエーヴィヒの気配が尋常ではなかったことだ。ヴォルフ、ロート、シュテルンはともかくとして、ゼーレですらその異常さに気付いた程なのだから、やはり尋常なことではない。そして四人がまず心配したのは、ハイリゲの安否だった。フライシュタートにエーヴィヒが攻め入る理由など、ヴォルフらにはハイリゲ以外に考えられなかった。前々から襲撃は何度もあったが、今この町に立ち込める気配は以前のそれとはまるで比較にならない程だ。
「……ハイリゲ様が心配だ! 急ごう!」
ロートは即座に走り出し、他の三人もそれに続いた。走りながらも、ヴォルフには何か腑に落ちない所があった。
まず、気配のしている方向が違うのだ。町の入り口からの感じでは、どうもハイリゲの隠れ家への方向とはずれているようなのだ。次に、膨大なエーヴィヒの気配の中に、ハイリゲとは違う気配がする。それはハオベとも違う。だが今の段階では判断のしようも無い。ヴォルフからすればハイリゲが無事であればそれで構わないのだが、エーヴィヒと戦闘になる存在というのに少し引っ掛かりを覚えるのだった。
方角は合っているはずだった。それは、ロートが先頭になっているからまず間違いない。だから、今ヴォルフらが立っている場所は、確かにハイリゲの隠れ家があった場所なのだ。だが、今この場所には何も無い。目の高さからの景色では、ただの更地だ。
「うそ……。ここ、お父さんの家があった場所よね? どうして何も無いのよ?!」
ゼーレにはこの状況がまるで理解出来ていなかった。あるべき場所に何も無いという事が、何を意味するのか。普通に考えれば、家が破壊されたという事。更に言えば、その建物に住んでいた者が殺された可能性が高いという事。だがそれはあくまで普通の場合だ。ここに住んでいた者は、以前から命を狙われていて、そしてそれの対策を充分に施していた者だ。
ロートは、混乱しているゼーレを宥めるように肩を優しく叩くと、微笑を浮かべながら諭した。
「大丈夫さ。ここに建っていた家は、敵の目を欺くための表向きの建物だ。本陣は地下にある。もしも地下が破壊されるようなことがあれば、このフライシュタート自体が壊滅する。構造的にはフェアウアタイルングの町と同じなんだ。だからハイリゲ様はきっとご無事だ。いざという時の抜け道も相当数あるしな」
ロートはそう言うと、家が建っていたまさにその場所に立ち、地面を調べ始めた。そう、それはヴォルフとゼーレが初めてここに来た時に地下に下りた場所だ。あの時は、隠し扉のような物があった。
ロートは地面を手で撫でると、立ち上がって三人に向き直った。
「……ここの入り口は封鎖されている。やっぱり誰かの襲撃はあったんだ」
ロートは腕を組むと何かを考え始めた。
「それで、ここがだめならどうやって入るんだよ?」
ヴォルフはロートに尋ねたが、ロートは考えるのに集中していてまるでヴォルフの声が聞こえていなかった。ヴォルフが頭を掻きながらため息をついた所で、シュテルンがヴォルフの問いに答えた。
「先程ニ、ロートが言った通りです。ロートはあの調子なのデ、僕が抜け道を案内しますよ」
シュテルンはそう言うと、ロートを置いて歩き出した。シュテルンも長年ハイリゲの下にいたのだ。この町の地下構造は熟知していて当然だった。ヴォルフは躊躇いもせずにシュテルンについていき、ゼーレはロートのことを気にかけながらも、やはりシュテルンの後についていった。
一度町から出るような道順を通り、その途中で細い路地に折れていくと、確かに一目では気付かないような抜け道があった。しかもその道の前には浮浪者を装った見張りもいたのだから手が込んでいる。このような抜け道が町中にあるかと思うと、ハイリゲの凄さが違った意味で見えてくる。
「さっきの見張りも、かなり手練れのハオベみたいだったな」
ヴォルフは誰となく呟いた。見た目には完全に人間にしか見えなかったのだ。玄武で自分がハオベであることを隠せるというだけでも、かなり魔法に熟達している。
「えエ、彼らもフォルブルートとは充分に渡り合えるでしょう。元々ハ、どこかの賞金首の方が多いみたいです」
シュテルンは笑いながらそう言った。今ヴォルフらが歩いている道は、正確には道とは言い難い。むしろ坑道といった方が適切かもしれない。そう言える程に、狭くて暗い。数歩先のシュテルンの背中さえ見失いそうになる。
三人がしばらく進んでいる内に、いつの間にかロートも合流していた。というよりも何故かロートの方が先で待っていたのだ。その事実からだけでも、この地下道の複雑さが窺える。何も知らない者が入り込んだら、たちどころに迷ってしまうだろう。
そうして先を歩く二人が立ち止まった時、目の前には何も無かった。何も無かったというよりは、何も見えなかった。だが二人が同時に立ち止まったのだから、ここが目的の場所で間違いないのだろう。いくら気配には敏感なヴォルフでも、こうも暗闇を歩かされた挙げ句に、ハイリゲのいる部屋がアムレットで覆われているのでは自分の位置も何も分かったものではなかった。
「さあ、到着だ。入るぜ」
ロートはそう言うと、シュテルンと一緒に壁の前に立って手を翳した。この時点でヴォルフには二人が何をしようとしているのか大体察しがついた。
ヴォルフとゼーレが見守る中、二人は翳した手を介して壁に魔法を使った。次の瞬間に、壁だった場所は立派な扉に変わり、そして音も無く開かれた。
「え? どういうこと?」
ハオベとしての知識が少ないゼーレには、目の前で起きたことが理解出来なかった。
「つまりだな、この壁には法陣が敷かれていたってことだ。それも、ロートとシュテルンのツァオバーにのみ反応する感知系の法陣がな。この抜け道を使うのは非常時のみと決めておき、その時には二人が同時にツァオバーを注がないと反応しないようにしておけば、かなり高い確率で外敵の排除が行える」
何重にも張られた偽装を掻い潜ってハイリゲの本陣に乗り込むのは、事実上不可能といっていいかもしれない。ヴォルフから見てもそれ程に厳重なのだ。ただそうだとすると、今ここまでの警戒体制を敷かせる程の脅威とは一体何なのだろうか。
扉が開き切ったのを確認した四人は、そこが以前ロートとヴォルフが戦った広い空間であることを認めてそこへ入っていった。
端からこの場所にいる人物は一人しかいないのだが、以前にも増して閑散としているような感じがした。だがそれは単に外との対比にすぎないのかもしれない。兎に角、その空間内にハイリゲは佇んでいた。その姿を見た途端に、四人はそれぞれが様々な理由で安気した。
「良かったぁ……」
「ハイリゲ様、ご無事で何よりです」
「ハイリゲ、あんたに色々と聞きたい事がある」
「外でハ、一体何が起きているのですか?」
四人はそれぞれ勝手に話をしたが、聞いているハイリゲは一人だけだ。一度に応答出来るはずがない。とりあえずハイリゲは一番答えやすいものから答えることにした。
「外にいるエーヴィヒは、最初は確かに私が目的だったようだ。だが私が籠城している内に、どうやら違う相手と戦闘を始めたようだ」
ハイリゲの答えから察するに、ハイリゲ自身もエーヴィヒと争っている相手のことまでは把握していないようだった。だがヴォルフらは、ハイリゲに聞くしかない。
「外でエーヴィヒと戦っているのはどういう奴らなんだ?」
ハイリゲはヴォルフの問いに答えるまでに少しの間を空けた。まるで、答えるのを渋っているかのようだ。
「分からない。……ただ、今戦闘をしている者達はハオベですら無いようだ」
ハイリゲの返答は、ヴォルフの中では既に分かっていたことだ。だが、それが意味する所と、ハイリゲが答えを渋っていたことを考えて、ヴォルフは一つの可能性に思い至った。
「まさか……ペルレの人間か?」
ヴォルフがそう言うと、ハイリゲは項垂れた。ハオベではない存在、つまり人間でありながらエーヴィヒと対等以上に戦える民族は、ペルレの者達以外には考えられなかった。だがそれならそれでまた疑問も上がってくる。何故、ペルレの人間がこのフライシュタートにいて、そしてエーヴィヒと戦っているのか。元々ペルレの人間はそれ程攻撃的な民族ではない。しかも、ペルレはこのフライシュタートから遥か東に位置している。この二点はどうしても腑に落ちない。
「分からない。何故彼等が此の地にいて、エーヴィヒと争っているのか。ただ、私からすればすごく悲しいことだ」
今までペルレの者達と親交が深かったハイリゲにしてみれば、彼等が戦いへの道へと歩き出したことには心が痛むだろう。
「……くそ。考えていても分からねぇ。ハイリゲ、あんたにもう一つ聞きたいことがある。ヴァイゼーは今どこにいる?」
しばらくの沈黙を破って、ヴォルフは単刀直入に聞いた。どちらかと言えば、今必要な情報はむしろこちらだ。ハイリゲはじっとヴォルフを見据えると、何かを察したように頷いた。だからこそ、ヴォルフは回りくどい言い方を避けたのだ。ヴォルフが何も言わなくても、ハイリゲなら理解してくれると信じて。
「これからの時代は君達が紡いでいくのだ。負の遺産を創ってしまった私達は大人しく幕を引こう。だがその中でヴァイゼーが立ちはだかるというのなら、それは物事を変えるに足る意志が君達にあるかどうかの試練だ」
ヴォルフはハイリゲの言葉を聞いてザインのことを思い出していた。以前にも、ザインに同じようなことを言われた気がする。
ハイリゲはそうして話を続けた。
「……ヴァイゼーは今、ライヒにいる。ヴォルフ君、ライヒの事は知っているね?」
ヴォルフはその事実については何の感慨も抱かずに頷いた。ハイリゲが身を隠していたのとは対照的に、ヴァイゼーは自らその身を曝している。
ヴォルフやロート、シュテルンは知っていても、まだ見聞の狭いゼーレはその事について知らなかった。
「ヴォルフ、ライヒってどういう所なの?」
ヴォルフは変わらず深刻な顔をゼーレに向けると、説明を始めた。
「ライヒはここから北東の方角に位置する巨大都市だ。このフライシュタートが共和制を取っているのに対し、ライヒでは完全な独裁体制が敷かれている。つまり、ライヒの住人はその権利の全てを統治者に握られているんだ。ヴァイゼーが今もエーヴィヒの研究を続けていることを考えると、それなりの地位にあるはずだ」
ヴォルフはそれで言い切り、ゼーレも納得して頷いた。これでヴォルフの第一の懸念は取り除かれたわけだが、まだもう一つ気にかかることがある。ヴォルフが気を散らしているのを見て察したロートは、ふと提案した。
「ヴォルフ、外の様子を見てみるか?」
エーヴィヒと争っている以上、今のところヴォルフらに害は無いが、その理由が分からなければいつ飛び火するか分からない。早めにその理由を掴んでいた方が、後々の厄介も減らすことが出来る。
ヴォルフは小さく頷くと、ロートの後について走り出した。シュテルンもゼーレもそれに続いた。
入り組んだ地下道を抜けて地上に出た時、ヴォルフらの視界には何が映っただろうか。そこに広がっていた光景は、ただ半壊状態の町並みだけだった。エーヴィヒもペルレの人間も、そこには居なかったのだ。
「どういうこと? 私達が地下にいた短時間の間にあんなにいたエーヴィヒ全てを掃討したっていうの?」
ゼーレは目の前の光景から、信じられないといった風に推測したが、まさにゼーレの言う通りだった。アムレットで囲まれた空間にいたため、ヴォルフですらその動向には気付かなかった。だが驚くべきことは、たかが人間に過ぎないペルレの者達が短時間でエーヴィヒを掃討したという事実だ。いくら戦闘に長けていると言っても、先程までいたエーヴィヒは数が半端ではなかった。かなり熟達したハオベでも、為し遂げるのは困難な所業だ。
目の前に映る光景を見ただけでも、ペルレの者達がいかに戦闘に長けているかが窺い知れる。それは、四人の誰の想像をも凌駕していた。
「マジかよ……」
「くそ――、結局ペルレの人間の目的は分からないままか」
ロートとヴォルフは口々にそう呟いた。その言葉には驚きと焦りの両方が含まれている。
「いエ、そうとも限りませんよ」
シュテルンの言葉に二人は振り向いた。見ると、シュテルンだけではなくゼーレも理解している顔をしている。分からないのは、ヴォルフとロートだけだ。シュテルンは落ち着いた様子で説明を始めた。
「ヴォルフはその血かラ、ロートはハイリゲ様の側近としテ、エーヴィヒのごく近い所にいましたから仕方の無いことかもしれません。ですガ、実際は簡単な話です。ペルレはここかラ、遥か東にあります。当然こちらの方の情報ハ、得ようとしなければ手に入りません。つまリ、誰がエーヴィヒの事をペルレの人間に教えたかということです」
ヴォルフもロートも、シュテルンに言われてようやく気が付いた。ヴォルフにしてみれば、以前ザンクトと対峙した時にも同じ疑問を抱いていたはずだった。
「つまり、黒幕がいるってことか?」
ロートはシュテルンの説明にさらに言葉を重ねた。そしてそれをさらにシュテルンが補足した。ここまでくれば、もはや三人の考えていることは殆ど同じだ。
「ええ。エーヴィヒと争っていた所を見るト、その黒幕がヴァイゼーである可能性は低そうですがね。たダ、ペルレの人間は攻撃的でない代わりニ、容姿が異なる者達にはかなり排他的な民族です。そのペルレの人間を動かせるとなるト、同じペルレの人間カ、或いは同じ容姿である黒髪黒瞳の人ということになります」
シュテルンが話し終わったのとほぼ同時に、ヴォルフにはある可能性が頭を過っていた。可能性は、低いながらも零ではない。だがやはりその目的が分からない。ヴォルフはどうにかその疑問を早めに払拭しておきたかった。
「ペルレの人間がエーヴィヒを討伐しているということは、黒幕の存在があるとはいえ、その利害は一致しているはずだ。ペルレの者達にとってエーヴィヒを討つに足る理由って何だ?」
こういう事は、旅の中で手に入れた知識を基にするヴォルフよりも、実際にペルレの人間と親交のあったハイリゲの側にいる者に聞いた方がより詳しい情報を掴んでいる可能性は高い。
ヴォルフに問われたシュテルンは、ロートの方を向いた。ハイリゲと一緒にいた時間ならばロートの方が遥かに長い。
「ロートハ、何か知っていますか?」
「いや、全くだ」
結局誰に聞いても分からず終いだった。今の段階では、ペルレの人間がエーヴィヒと争っていて、その背後には黒幕がいるという事しか分かりようがなかった。
「とにかく、俺達はシュヴェーベンに行こう。ペルレの人間のことも気にはかかるが、奴らがエーヴィヒと争っている以上、いずれ相見えることもあるだろう」
三人はヴォルフの言葉に頷き、そうして四人はフライシュタートを後にした。
フライシュタートを発った四人は、かなりゆっくりとその道中を進んだ。単純に一日に歩ける距離とシュヴェーベンまでの距離を計算すると、到着は約束の日時よりも大分早くなるからだ。今さらハイリゲの所在がどうという話でもないが、町で数日の暇を見る位ならこの旅を楽しむ方が有意義に思える。だが実際には、ゼーレの特訓がその大半を占めていた。しかも今回ロートは何故か特訓の様子を見せようとしないため、ヴォルフやシュテルンからすれば楽しいも何もあったものではない。
そうしてゼーレとロートからすれば充実した、他の二人からすれば退屈な旅はその半分を終えようとしていた。そしてヴォルフはそろそろかと思ってロートが口を開くのを待っていた。前回の様子から、ゼーレがというよりはむしろ、ロートがヴォルフを負かしたいらしい。
「ヴォルフ、ちょっといいか?」
ちょうどそのような頃に、まるで計ったようにロートはヴォルフに話し掛けてきた。ヴォルフはあらかじめ予想していたので、特に何を思うことなく答えた。
「またこいつの相手をしろってか?」
ヴォルフはそう言うと、ロートの背後にいるゼーレを指差した。ゼーレは相変わらずやる気に満ちた顔をしていたし、ロートはさも当然という顔をしていた。
「ああ。今回は全てのヘクセライを使っていいぜ? あ、もちろんヴォルフは手加減しろよな」
ロートがどのような条件を提示してきても、ヴォルフは結局手加減をしなければならないため、あまり意味のないことだった。むしろ、ゼーレがそれ位に上達したのだという、漠然とした確認にしかなっていない。
少し距離を取って向かい合った二人は、静かにロートの開始の合図を待った。ヴォルフは頭の中で、ゼーレが取ってくるであろう戦略を考えた。
「じゃあ、始め!」
ロートはさっと手を上げた。ゼーレはそれを見ると、ロートに教わった通りに動いた。前回は玄武を使った不意打ちを狙った。当然、今回ヴォルフはまずそれを警戒するはずだ。ゼーレはあえて玄武で自分の像をその場に残し、本体である自身の姿を消すとヴォルフの方へと突っ込んでいった。これは、言うなれば伏線だ。上手くヴォルフを罠にかけることが出来れば、その時点でゼーレの勝利はほぼ確実なものとなる。ヴォルフは前回と同様、依然その場に立ち尽くしている。だが恐らくヴォルフの瞳には、近付いてくるゼーレの姿がはっきりと映っているだろう。
ゼーレは拳の届く間合いまで近付くと、拳を繰り出すと同時に玄武を解いた。同じ轍を二度踏むようなことはしてはならない。ヴォルフはゼーレの出す拳を難なく避けると、今度はヴォルフの方が拳を突き出した。ゼーレは僅かに不意を衝かれたが、何とかかわすと今度は蹴りを出す。それも避けられたゼーレは、一度身を退いた。これで端から見れば様子見に退いたように見えるはずだ。
ゼーレはヴォルフから少し距離を取ると、手を前に翳した。
「はっ!!」
ゼーレの手の先から光の球がヴォルフの方に飛んでいった。白魔法は医療用に使われることが多いため、本来攻撃魔法の数が少ない。だから今ゼーレがした攻撃も、単なる白虎に過ぎない。
ゼーレの攻撃が迫ってきたので、ヴォルフは朱雀で僅かに空中に浮きながら避けていった。移動があまりに低空のため、ヴォルフの爪先は地面と触れて砂煙を上げていた。
ゼーレは攻撃を繰り返した。当てる必要はない。ただ、白虎が今回の切り札だと思わせられればいい。罠は多重に仕掛けてこそより高い効果を発揮することが出来る。
ゼーレが次の動作に動こうとした時、不意にヴォルフが手を前に出した。その様子は、先程のゼーレとよく似ている。
「鏡花水月!」
そうしてヴォルフの手の先から放たれたのは、ただの火球だった。ゼーレはそれをかわすと、再び光の球を放った。今度の狙いはヴォルフではない。ヴォルフの足下だ。
ゼーレの放った光球は、狙い通りにヴォルフの足下へと着弾し、砂煙を巻き上げた。これでヴォルフとゼーレの間には、視界を遮る砂の壁が出来たことになる。そう、これこそがゼーレの待ち望んでいた状況だった。
ゼーレは今まで握っていた拳を解いた。手の中には、法陣が描かれた紙がある。ゼーレはその紙を地面に置くと、上に手を宛がった。
「華胥之国!!」
ゼーレが叫ぶのと同時に、紙に描かれていた法陣が地面に写し出され、そして発光を始めた。ゼーレはこの時完全に勝利を確信していた。今ゼーレが唱えた魔法は、相手に幻覚を見せる魔法だ。これに一度かかると、そこから抜け出すのは非常に困難だ。強力な魔法である一方、それを発動させる条件も厳しくなる。大抵は、エルデと繋がっているものへ法陣を描かなければならない。シュテルンのように法陣を描かなくても魔法を発動させることも出来るが、それには相当な集中力が必要になる。
ゼーレは砂煙が治まるのを待ち、ヴォルフの方を見据えた。ヴォルフはその場から全く動くことなく立ち呆けている。これから先はゼーレの思う通りのことをヴォルフに見せることが出来る。
幻覚を使う際の主な目的は、相手への精神的な攻撃だが、ただ相手の目を潰すためだけにも使える。ゼーレは今回後者を使うつもりで、ヴォルフへと一直線に突き進んだ。あとは強烈な物理攻撃を仕掛けるだけでいい。
ゼーレはその間合いにヴォルフを捉えると、頭部目掛けて渾身の蹴りを繰り出した。美しい弧を描いて伸びたゼーレの足は、確実にヴォルフの側頭部へ命中し、ヴォルフはそのまま横へと吹き飛んだ。
「やった! 勝っ……?!」
ゼーレがその言葉の先を発しようとした時、ゼーレは自身に起きている異変に気が付いた。ゼーレは今ヴォルフを蹴り倒したはずなのに、ゼーレの瞳には傾いていく周囲の光景が映っていたのだ。まるで、ゼーレが倒れているかのように。
そうしてようやく、ゼーレは自分が地面に倒れていることに気が付いた。ゼーレには何が起きたのかが全く分からなかった。ゼーレの視線の先には、何の外傷もなくゼーレを見下ろしているヴォルフの姿があった。
「……どうして?」
ゼーレは側頭部に痛みを覚えながらヴォルフにそう問わずにはいられなかった。ゼーレの視点から言えば、今の手合いは完全にゼーレが制していたのだから。
ゼーレの言葉を聞いたヴォルフは、小さくため息をつくと恐らくはロートの方を向いて声を上げた。
「おい、ロート! 幻覚系、法陣系のヘクセライを覚えさせるのはいいが、少し戦略が単純過ぎるだろ」
ヴォルフにそう言われたロートは頭を掻きながらわざとらしく言った。
「やっぱ気付いてたか……。ヴォルフなら或いはいけるかと思ったんだけどな」
「当たり前だろ。いくら俺が幻覚系のヘクセライが苦手だからって、使えないわけじゃない。相手の出方が読めてれば、幻覚系のヘクセライでその裏をかくことは出来る」
ゼーレは未だに横たわったまま二人の会話を聞いていたが、その内容はまるで理解出来なかった。だから、同じ言葉を繰り返しざるを得なかった。
「どうして?」
ゼーレの呟きに、ヴォルフはようやく視線を移した。そうして静かに話し始めた。
「俺とお前が正面からぶつかり合ったとして、お前に勝ち目が無いことは誰にだって分かる。当然、ロートにもな。だから、何とか一撃で勝敗を決めれるように不意を衝こうとするのは、言ってみれば常套策だ。前回は玄武を使ったから、お前らの予想通り、俺はまず玄武を警戒する。そうすると、今回は玄武という選択肢が消える。元々攻撃用のヘクセライが少ない白ずきんが取れる選択肢は少ない。だから次に幻覚系のヘクセライで来ることは容易に推測が出来る」
そう、ヴォルフの言ったことは、まさにロートから教わったことと同じだった。だからゼーレも納得してそう行動したのに、何故ゼーレの方が幻覚にかかっていたのか。
ようやく身体を起こしたゼーレは、未だに理解出来ない様子で言葉を発した。
「だったら、どうして私の方が幻覚にかかってたのよ? ロートの話じゃあヴォルフは幻覚系のヘクセライが苦手だっていうのに、あの戦闘のどこに法陣を描く時間があったっていうの?」
ゼーレは先程の戦闘の様子を頭の中で思い返した。ゼーレの動きに、相手に隙を与えさせるようなものはなかった。だとしたらその合間を縫ってということしか考えられないが、それにしてもゼーレにはそれがいつだったかが判然としなかった。
「いい加減気付け。いくら手加減してるからって、俺が白虎を放つ時にその名前を唱えると思うか?」
ヴォルフの言葉で、ゼーレはようやく気が付いた。確かにあの時、少し違和感はあった。わざわざ魔法名を唱えた割りに、使ったのはただの白虎。だがあの時のゼーレにはその奥を考えている余裕はなかった。それ程に高揚していた。それに、気が付いたところでヴォルフが魔法名を唱えた時点でゼーレは幻覚にかかっていたのだから、どちらにしてもゼーレはヴォルフの掌の中だったということだ。
そこまでは気が付くことが出来たゼーレだったが、まだ謎は残っていた。ヴォルフが一体いつどこに法陣を描いたかということだ。ヴォルフが魔法名を唱えた前後にした動きといえば、ゼーレの攻撃をかわして白虎を放っただけだ。
そうしてゼーレははっとした。ヴォルフは攻撃を避けながら移動していたのだ。砂煙を巻き上げる程に低空で。
「……まさか、私の攻撃をかわしている時に、足で?」
ゼーレにはそれでも分からない。仮に攻撃を避ける振りをしながら足で法陣が描けたとしても、砂地に描いただけではゼーレの放った白虎で直ぐに掻き消されてしまう。
ゼーレがそこまで気付いた所で、ヴォルフは種明かしを始めた。
「そこまでは正解だ。後は、どうやって消えない法陣を描いたか、だな」
ヴォルフはそう言って足を上げると、そのまま思い切り砂地を蹴り上げた。当然、手合いの時と同じように砂煙が舞った。
そうして砂煙が止んだ後、そこにはヴォルフが蹴りで砂を削った軌道が、そのまま赤い色をして残っていた。
「つまり、砂地を蹴るのと同時にそこに自分のツァオバーを残していったんだ。こうすることで、俺の描いた法陣は消えることなくその場に残る。後は白虎を撃つ振りでもして名前を言えばいい。まあ、法陣が完成した時点で俺の勝ちは決まったも同然だったがな、お前には少し夢を見させてやろうと思ってな」
ゼーレは開いた口が塞がらなかった。ゼーレも試しに砂を蹴り上げ、その瞬間に自分の魔力を注ぎ込んだ。少し斑はあるものの、ゼーレの蹴りの軌道には確かにゼーレの魔力が注がれ、発光していた。これを使えば確かに地面に直に法陣を描くことも不可能ではない。だがやはりそのためには相当な技術が必要になる。ゼーレは驚きの目でヴォルフを見つめることしか出来なかった。ゼーレがどんなに努力を積んでも、ヴォルフとゼーレの間にある差が縮まらない。
「まあ、戦い方次第ってことだな」
ヴォルフはそれだけを告げると、目的地である西へと歩き始め、そして直ぐに立ち止まった。
「そういえばまだ話してなかったな。シュヴェーベンがどんな町か」
未だ正常に思考が働かないゼーレは、唐突に話し掛けられて一瞬その言葉の意味が理解出来なかった。ゼーレは周囲を何度か見回してようやく、自分が今いる状況を把握することが出来た。
妙な間が空いたためにヴォルフもいつ話し始めていいか分からず、しばらく沈黙が続いた。
「……それで、シュヴェーベンってどんな町なの?」
ゼーレが先に切り出し、そしてヴォルフも説明を始めた。いつの間にかシュテルンやロートも二人の側にやって来ている。
「シュヴェーベンは、たった一人の人間が築き上げた都市だ」
「たった一人の――人間?」
「そうだ。有史以来、このエルデで唯一、人間でありながらヘクセライが使えた存在がいたんだ」
ヴォルフの説明を聞き、ゼーレもその噂に関してどこかで聞いた覚えがあった。だがその記憶はひどく朧気で、詳しいことまでは思い出せなかった。ただ、今ゼーレが感じていることは驚きのみだった。
「人間がヘクセライを? そんな……、それってハオベではないの?」
「ああ。記録には、歴とした人間であったと記されている。その人物の名前はシュネー。その異端さのために迫害を受け、その迫害から逃れるために都市を作った。ハオベと人間との間で決して争いが起きないような都市をな。その偉大な功績から、今の人々からは敬意を表されてシュネーヴィッチェンと呼ばれている」
ゼーレは息を飲んだ。争いの無い都市とは、どのようにすれば実現出来るのだろうか。ゼーレにはまだその町の全容を想像だに出来なかった。
「争いが決して起きない都市なんてこと、可能なの?」
「可能か不可能かでいえば決して可能とは言い切れないが、少なくともシュヴェーベンができてからは一度も大きな争いは起きていない。まあ、それに関しては実際にシュヴェーベンを見てから説明してやるよ」
そうして四人は再び西を目指した。ハオベとの争いが無いのであれば、人間にとっては、弱者にとっては楽園に違いないだろう。ゼーレはまだそのような都市の存在に半信半疑であったが、心の奥底には憧憬があった。フェアウアタイルングとは違う、完全な楽園の存在に。ゼーレもまた、自覚はないものの弱者の一人であった。
そうして数日が経ち、ゼーレの特訓を続けながら進んでいた一行はいまだに歩き続けていた。
いくら特訓を受けているとはいえ、ゼーレは代わり映えのない周囲の景色に飽きを覚え始めていた。
「ねえロート、シュヴェーベンにはまだ着かないの?」
シュヴェーベンの地理的な場所を把握していないゼーレは、今自分達がどこにいるのかが全く分かっていない。
ゼーレに尋ねられたロートは、前を歩くヴォルフを見ながら口に微笑を浮かべて答えた。
「――まあまあ、ゼーレお嬢さん。もう少しだから」
ロートにそう宥められるも、ゼーレにはロートは何かを知っているとしか思えなかった。ゼーレは今度はシュテルンに尋ねようと思い彼の方を向いたが、シュテルンはゼーレと目が合うと態とらしく笑って視線を逸らすのだった。誰に尋ねることも出来なくなったゼーレは、黙ってヴォルフの後について歩くことしか出来なかった。
そうしてゼーレがあからさまに不満気な表情で歩いている内に、ヴォルフを含めたゼーレ以外の三人は急に歩くのを止めた。
「ここら辺だな」
前の三人が唐突に止まったために、前のめりになりながらも立ち止まったゼーレは周囲を見回した。だが、彼等の足を止めさせるようなものは何もない。
「どういう事? ここに何があるっていうの?」
ゼーレには三人がゼーレをからかっているとしか思えなかった。実際、何も無いのだから。ただ、何かで翳っている荒野が視界いっぱいに広がるだけだ。何かで翳っている荒野が。
「あれを見てみろよ」
ヴォルフは人差し指で真上を差しながらそう言った。ヴォルフの姿は、何かの影になっていてとても暗く見える。
ゼーレはヴォルフに言われた通りに真上を見上げた。そこに見えたのは、巨大な構造物。
「まさか、これって……」
そこに見えたのは、遥かな蒼穹に浮かぶ、空中都市だった。
「そのまさかだ。これがエルデに唯一存在する空中都市、シュヴェーベンだ」
ゼーレはその後に続ける言葉が出なかった。シュヴェーベンの真下に来るまでどうして気が付かなかったのかと思える程にそれは巨大で荘厳だった。だがゼーレのその疑問はあっさりとシュテルンが答えた。
「あア、それに関してハ、ロートとヴォルフが玄武であなたの視界から隠していたからです」
またもやゼーレは唖然として言葉が出なかった。そのような事をするまともな理由が見当たらない。そして、この都市が悠然と空中に浮遊している道理もまるで分からなかった。
「それは、それなりの演出があった方が盛り上がるからですよ」
「この都市の仕組みは、かなり巧みで複雑なんだ。シュヴェーベンに入ってからじっくり教えてやるよ。今はとにかく中に入るぞ」
ヴォルフは中に入ると言ったが、ぱっと見た限りでは入り口らしきものが見当たらない。そもそも、都市は空中に浮いているのだから、ハオベでなければ入れないように思える。人間のための楽園が人間の入所を許さなければ、その存在に価値は無い。
ゼーレが辺りを見回していると、その疑問を汲み取ったかのようにシュテルンが話し掛けてきた。
「少し前倒しにはなりますガ、ゼーレさんはこの都市がどうやって空中に浮いているのだと思いますか?」
ゼーレはその問いに、大して考えもせずに直感的に答えた。
「え? それは、ハオベが朱雀を使っているんじゃないの? こんな大質量の物を浮かせられるかは分からないけど」
「つまリ、そういう事です」
シュテルンはゼーレの答えに対しても、いつも通りの笑みで返した。
ゼーレが相変わらず小首を傾げていると、シュヴェーベンから何かが降りてきた。四角い板のような物の上に、人の姿が見える。ゼーレの位置からでは、それが人間であるのかハオベであるのかの識別は出来なかったが、その降りてくるものが何であるかは昔読んだ本で見たことがあった。
「あれは――昇降機?」
本に書いてある程度で、実在しているのは数機にすぎないという代物。それが魔法で動く自動昇降機である。その数が少ない理由の一つに、昇降機の使用に魔法を使うということがある。つまり、ハオベがいなければ作動しないのだ。だがハオベであれば自力で飛ぶことが出来る。わざわざ人間のためだけに昇降機を作る必要性はないのだ。だからこそ、人間が統治し、ハオベと人間が共存しているシュヴェーベンには存在しているのだ。
昇降機がヴォルフらのいる地面まで降りてきた時、昇降機に乗っていた人物は何かを手に持っていた。
「旅のお方々、シュヴェーベンは初めてでしょうか?」
ヴォルフはもちろんのこと、シュヴェーベンの仕組みを知っているロートとシュテルンもこの台詞に色々なものを見出だしていた。
「へぇ……」
まず、一目しただけでヴォルフらが外来の者だと見抜いたことだ。これは、外から来る人物は全員余所者である、と考えることも出来るが、それよりはむしろシュヴェーベンに居住している者達を全て把握していると考えられるだろう。
「ああ、来るのは初めてだが、どうすればいいかは知っている。その腕輪を嵌めればいいんだろ?」
ヴォルフはそう言って男の持っている腕輪を指差した。これが二つ目だ。シュヴェーベンに住んでいる者には、人間であれハオベであれ着用が義務付けられているのだろう。そして、それはシュヴェーベンを訪れる全ての者にも該当する。シュヴェーベンの内側にいる間は着けてもらうようにしているのだ。
「恐縮でございます。お手数ではございますが、お願いします」
そうして男から渡された腕輪を四人がきちんと嵌めたのを確認した男は、そこで初めて四人を昇降機の方へ案内した。
勝手がよく分からないゼーレも、周囲に合わせて腕輪を嵌めた。その瞬間、身体から力が抜けていくような感じがした。脱力した感じはあるのだが、実際身体には何の変化もなかった。こうなると、思い当たる物は一つしかなかった。
四人は昇降機に乗り、そうしてそれは浮上を始めた。見る見る内に俯瞰の風景が広がっていく様は、朱雀で浮いた時には感じられない感慨をゼーレに与えた。そして、ゼーレは先程感じた違和感を晴らすためにも、自分で疑問に思っていたことを口にした。
「ねえ、この腕輪って、もしかしてアムレット?」
ゼーレがそう言うと、昇降機の上にある四つの視線が一斉にゼーレに向けられた。そして少しの沈黙の後、ヴォルフはおもむろに語り出した。
「概ね正解だが、これは少し特殊なんだ」
ヴォルフはちらと男を一瞥した後再び視線をゼーレに戻して話し始めた。
「この腕輪を作る技術はシュヴェーベンにしかなくてな、どこが特殊かって言うと、それはこの都市が浮遊していることにも大きく関わっている」
昇降機は既にシュヴェーベンまでの高さの半分程まで上がっていた。降りてくる時に感じたよりも遥かに早く上昇しているようだ。そして、その巨大さのために気付かなかったが、シュヴェーベン自体もかなりの高度にあるようだ。男は特に表情を変えずに四人の会話を聞いていたが、内心はあまり穏やかではないだろう。
「この腕輪の原材料は確かにアムレットだが、この腕輪にはまた違う機能も付加されている」
「違う機能?」
ゼーレが聞き直すと、ヴォルフの説明を継いでシュテルンが話し始めた。
「えエ、そうです。ここで質問ですガ、シュヴェーベンほどの巨大な都市を浮かせる程のツァオバーハ、一体誰が提供しているのでしょうか? もちろン、一人のハオベのツァオバーでは到底足りません」
シュテルンの言葉は、質問の形を取っているが、ほぼ答えへと誘導している。ここまで丁寧に説明されて分からないわけがない。
「つまり、この腕輪がハオベのツァオバーを吸収しているの?」
「そういうこと。機構は俺達にも分からないが、こうすることでハオベがヘクセライを使うことをほぼ完全に封印し、そして使わないツァオバーを効率よく回収してどこかに貯えているってわけです」
最後に締めたのはロートだった。
「回収したツァオバーの使い道は朱雀への転用だけではないがな」
ヴォルフがさらりと呟いたのをゼーレは聞き逃さなかった。当然、ゼーレにはそのもう一つの使い道が分からなかった。
「他にも使い道があるの? これだけの大質量を浮遊させるだけでも相当のツァオバーを消費しそうだけど」
ゼーレが全てを言い終わる前に、視界が一瞬真っ暗になった。五人を乗せた昇降機が、ちょうどシュヴェーベンの足場の部分を通過したのだ。視界に再び光が差した時、ゼーレの疑問は自然と解消された。
「これが、もう一つの使い道……」
ゼーレを含めた皆の視界には、四方に広がる都市の風景と、都市全体を包むようにして広がる半透膜のようなものが映っていた。
「そう、外からの相手のヘクセライを無効化できる麒麟のヘクセライ、空中楼閣だ。これがこの都市を護っているんだ。朱雀で浮かせるよりも、こっちの方が遥かにツァオバーを使うからな。実際、都市を浮かせるだけなら十数人のハオベが集まれば可能だ」
ゼーレは唖然として言葉が出なかった。いかに楽園が宙に浮いていようとも、空を飛べるハオベなら上空から攻め入ることは可能だ。それでは真の意味での楽園ではないし、これまで争いが起きていないことも腑に落ちなかった。そう思っていたゼーレだったのだが、この二重三重に巡らされた仕掛けを目にすることで自然と納得することが出来た。地上から攻める人間に対しては都市自体を浮かせることで、そして空からも攻めることが出来るハオベに対しては空中楼閣を張ることで、その侵攻から都市を護ってきたのだ。そして、内からの反乱に関しては、人間ならば武器の所持を禁止するだけで、ハオベならば魔力を吸収する腕輪を嵌めさせることで、両者の力を完全に封じているのだ。
これ程の仕組みがあれば、確かに今まで争いが起きなかったのも頷ける。
シュヴェーベンの町に入った四人は、そこから更に念入りな身体検査を受けてようやく自由に行動出来るようになった。手間といえば手間だが、これ位やらなければ到底楽園とは呼ばれ得ないだろう。
四人はざっと町を一周してみて、フォルブルートが既に町に来ているかを確かめた。持っている情報から、立場的に優位なヴォルフらがこれをする必要はないし、フォルブルートは組織で行動しているのだから先に着いているなら町の入り口付近に見張りの一人でも配置しているのであろうが、ヴォルフはとりあえず町の様子を見ておきたかったのだ。フェアウアタイルングという前例もある。表面的なだけの楽園という可能性も皆無ではなかったが、どうやらそれもヴォルフの考えすぎだったようで、町には本当に活気が溢れていた。これが虚構であるとは思えなかった。
「さて、まだフォルブルートも到着していないようだし、町も見ての通りの治安の良さだ」
「んじゃ、自由行動ってことでいいな?」
「ああ。泊まる宿だけ決めておこう」
そして決めることを決めた四人は、その場で一旦解散した。仮に一人の時にフォルブルートとかち合ったとしても、その場で危害を加えられるようなことは無いはずだ。それはこの町の治安の良さ、ヴォルフらの立場的優位、そしてフォルブルートの理念からも間違いない。
ヴォルフはぶらぶらと町を歩きながら、道沿いに軒並み連ねる店々の様子を見て回った。そして少し歩いたところでふと立ち止まった。
「――おい。何でついてくるんだ? 自由行動と言ったはずだろ」
ヴォルフが振り向いた視線の先には、ゼーレの姿があった。きまりの悪そうな顔をしたゼーレは、口ごもりながらも答えた。
「だって、この町のことよく知らないもの……」
ヴォルフは軽く頭を押さえながら考えた。確かゼーレは初めて訪れたはずのアンファングでは、一人で動き回っていたはずだ。どうしてあの町よりも遥かに安全なシュヴェーベンでは自由行動が出来ないのかが、まるで理解出来なかった。だがそうかといってここでゼーレを突き放しては、後で何かと面倒になりそうである。ヴォルフは諦めた様子でゼーレに尋ねた。
「で、お前はどこに行きたいんだ?」
それから数日が経過し、そろそろシュヴェーベンで回る場所も無くなって来た頃になっても、未だにフォルブルートは現れなかった。この頃になると、流石のヴォルフも少し不審に思うようになった。いくらなんでも遅すぎる。ホーホブルクから真っ直ぐにシュヴェーベンを目指せば、途中でフライシュタートに寄ったヴォルフらよりも必ず早く着くはずだ。
「なあロート、この状況をどう思う?」
ヴォルフは朝食の席でロートに不意にそう尋ねてみた。質問の意図を汲んだロートは、食べ物を口に運ぼうとしていた手を一瞬止めて、そして直ぐに口の中へ入れた。口に入れた食べ物を飲み込んだロートは、真剣な顔付きで答えた。
「どうだろうな。情報を欲しがってるのはあいつらの方だ。フォルブルートの方から故意に遅らせる理由もないだろ。そうすると、真っ直ぐ進んでもなお時間が掛かってるってことだ。あれ程大きな組織が足止めを食うような要因って言ったら、」
「エーヴィヒでしょうね」
やはりロートとシュテルンも同じことを考えていたようだった。ヴォルフは腕を組むと、食べるのを忘れて考え始めた。フォルブルートにエーヴィヒが襲いかかるのはこれといって不思議なことではない。だが、それにしては頻度が多すぎる。
「――何か嫌な予感がする。作為的な物を感じる」
「考えすぎじゃないか?」
「ここで判断するのハ、少し難しいですね。ヴァイゼーの企みだとしテ、その目的は何でしょうか。フォルブルートの足止めなんテ、所詮は一時的なものに過ぎません。僕達との接触を防ぐ確実な方法にはなりえません」
二人が言うことも確かに尤もなことだ。ヴォルフとて、自身の深読みであった方が遥かにいい。だが、時間だけを遅らせることが目的である場合、その最終的な目的にヴォルフはたった一つだけ心当たりがあるのだ。それには、後三日の猶予がある。
とりあえず考えても何も始まらない上、ヴォルフらだけでは何も始められないので、結局シュヴェーベンで待っていることしか出来なかった。
とはいえ、この町は一通り回ってしまったため、特別にすることもない。実に暇な時間が流れ行くばかりだ。
「全く、退屈だな」
ヴォルフは町を歩きながら空を見上げて呟いた。そこには燦々と照る太陽があるばかりだ。シュヴェーベンに着いてからの数日間、ずっと変化がない。
「何も無いことはこの町が平和だからでしょう? 今はそれでいいじゃない」
ゼーレがヴォルフの後ろを歩くのも、この数日変わりない。
「この町には、何か闘技場というか、道場みたいな施設は無いのか?」
ヴォルフは自分でした質問の答えを知りながらもそう尋ねた。この町を何周も練り歩いても見付からなかったのだから、今さら聞いても結果は知れている。
「地図を見る限り無さそうね」
ヴォルフは小さくため息をついた。そういう施設があればゼーレの特訓も出来るのだが、ここまで治安が良く統制が徹底していると、空き地などを見付けてもそのような物騒なことは出来なかった。
それから更に二日が経った日の暮れ方、宿で暇を持て余していたヴォルフは僅かに血が騒ぐのを感じた。自身の身体に問えば直ぐに分かる。このざわつきは、赤い方の血だ。
「ようやく来たか」
ヴォルフは直ぐ様他の三人を呼び集めて、町の入り口へ向かった。その場で、ということはないだろうが、それならばそれで場所等を取り決めておかねばならない。
ヴォルフの第六感を知っている三人は、何の疑いも持たずにヴォルフについていった。疑いを持っているのは別のところだ。入り口に近付くにつれて、緊張も少しずつ高まっていった。
「周囲に殺気は無いようだが……、エーヴィヒの気配はどうだ?」
ロートは鋭い視線で周囲を見渡しながらヴォルフに尋ねた。殺気や敵意といった気配になら、ロートもシュテルンもヴォルフに並ぶ感性を持っている。ただ、エーヴィヒに対するそれはヴォルフに特有だ。
「いや、少なくともこの町の周囲にはいないな」
そうして町の入り口に辿り着いた四人は、下から昇降機が上がって来るのを待った。フォルブルートが何人を率いてこの町に来たのかは知れないが、昇降機に乗れる人数には限りがある。多く見積もっても、一回の昇降で乗せられる人数は十人がいいところだ。
恐らくは、最初にザンクトとゲレヒトは上がってくるだろう。ザンクトならばヴォルフの気配を感知出来るし、フォルブルートの長が二番目以降であるはずがない。最初に上がってくるのがフォルブルートの第一隊である可能性は高い。
「来た」
ヴォルフは赤い血のざわつきがどんどん大きくなるのを感じていた。
そして間もなく、フォルブルートの第一陣がシュヴェーベンに入門した。
ヴォルフらが入り口付近で待っていることは、ザンクトがいることからフォルブルートにも知られていたようで、ゲレヒトを含め最初に上がってきた八人は毅然とした態度でヴォルフらを見据えていた。
「わざわざ出迎えてくれるとは光栄だな、ヴェーア・ヴォルフ」
心にもないことを平然と言われたヴォルフは、軽く鼻で笑ってから答えた。
「勘違いすんなよ。色々取り決める前に一つ聞かせろ。まだ約束の一ヶ月までには少し猶予があるが、何故ここまで時間が掛かった?」
ヴォルフは敢えて敵意を交えた視線で、八人を見回した。だがヴォルフが思っていた割りに、力を持つものが自然と身に付ける覇気というものを放つハオベは、四人しかいなかった。
「エーヴィヒの襲撃がいつもよりも激しかっただけだ。そのせいで、今回シュヴェーベンに来ることが出来た者はあともう一隊だけだ」
ヴォルフはその答えを聞くと頭を抱えた。いくら予想していたこととはいえ、それが事実であると分かると、先に待ち受ける展開が心配になる。
だがそれは今悩み考えることではない。回避する努力を精一杯すればいいだけだ。
「……情報の共有はいつする? そっちは今からでも大丈夫なのか?」
「いや、今は無理だ。我々の中に負傷している者がいる。今はその者を早く横にさせたい。――そうなると、明日ということになる」
ヴォルフはゲレヒトの言葉を黙って聞いていた。どちらかといえば、こういう事を決める権利はフォルブルートの方にある。
「場所は、そうだな。立ち話で済ませられるような話ではないから……」
ヴォルフは黙ってゲレヒトの提案を了承した。そうして場所と日時を決めると、ヴォルフは早々にフォルブルートに背を向けて歩き出した。
宿に戻ったヴォルフは、回避する方法を独りでしばらく考え込んでいたのだが、流石にというべきか、どうにも解決策を見いだすことが出来なかった。なのでロートだけを部屋に呼び寄せた。
「どうしたよ、ヴォルフ? まさかフォルブルート相手に何か対抗策を練ろうとかじゃねえだろうな」
軽い調子で部屋に入ってきたロートの言葉も、ヴォルフには何の冗談にも聞こえなかった。ロートの言っていることは大方事実なのだから。
ヴォルフは部屋にロートと二人きりであることを確認すると、神妙な顔で話を切り出した。
「ロート、お前はこれの意味が分かるか?」
ヴォルフはそう言って窓の外を指差した。ロートはヴォルフの指す先をじっと見つめていたが、次第に顔に浮かんでいた笑いが消えていった。以前共に修行を積んだ二人であるからこそ、言葉にしなくてもヴォルフの指した物を見るだけで伝わる。
「おいおい……、まさかこれが目的なのか?」
「多分な。最終的な目的がこれだとしてもその理由はまだ分からないがな」
「これのためにエーヴィヒを放ってフォルブルートの到着を遅らせ、この町で会わせようって寸法か」
ヴォルフはロートの言葉を聞いてふと思い付いた。そう、単に目的を果たすだけならば、どこでも出来るのだ。それを、フォルブルートと衝突させてまで遅らせる理由には、一つの要素しか当てはまらない。
「まさか……、シュヴェーベン自体に、奴らにとって都合の悪い何かがあるっていうのか?」
それから、二人はヴァイゼーの真の目的を探ろうと考え込んだが、ヴァイゼーのしていることに関する情報はむしろフォルブルートの方が持っている。結局、明日情報を得るしかないのだ。それ以上のことは二人には思い浮かばなかった。
「それで、ヴォルフはどうするんだ?」
「ここまで手の込んだことをして来ている以上、恐らくはヴァイゼーの計画通りの展開になるんだろう。だからと言って、ここで俺が逃げたら一生掛かってもヴァイゼーには辿り着けない」
「ま、聞くまでもなかったな。もしもの時は、俺もシュテルンも全力で止めてやる」
「ああ、頼む」
二人は軽く腕をぶつけ合い、そしてロートは自分の部屋へと戻っていった。
部屋に残ったヴォルフは、その後も回避策を考え続けた。ヴァイゼーが目的を果たすためには、必要な要素がいくつかあるはずだ。その内の一つは既にあるため、あと一つか二つ必要になる。それさえどうにか出来れば、最悪の事態は防げる。
翌日、ヴォルフら四人はフォルブルートとの共闘の場所にいた。その空間には既にフォルブルートの一員が集まっていた。何せ、その場所はフォルブルートが宿泊している宿なのだから。
今再び相対した両勢だったが、フォルブルートの方は四人しか席についていない。
「人数が大分少ないようですガ、何かあったのでしょうか?」
「ヴァイゼーに関する情報は、我が組織内でも一部の者にしか知らせていない。その理由は――君達になら分かるだろう」
「ま、別にいいけどな」
ロートは何食わぬ顔で円卓の一席に着いた。円卓は、元々は席に座る者達の間に優劣がないことを意味している。そのような事を考えながら、ヴォルフもおもむろに席に着き、そして全員が着席した。そうして最初に口を開いたのは、フォルブルートの長であるゲレヒトだった。やはり人を率いることに関してはこの席に着く誰よりも慣れているようだ。どうやらその適性も十分にある。
「では『共闘』を始めようか。まず、我々が掴んでいるヴァイゼーに関する情報から話そう。――ザンクト」
「はい」
突然話を振ったゲレヒトは、ザンクトに続きを言うように促した。こういう配慮や牽制も実に巧みだ。各組織員に自らの立場を与え、そして最初にザンクトにそれをすることで、ザンクトがフォルブルートの一員であることを改めてヴォルフに見せつけているのだ。
「ヴァイゼーの目的、それは古に封印された狼を、完全な形で今に復活させることです。ヴェーア・ヴォルフやエーヴィヒの例を考え合わせると、最終的には誰かに狼の強大なツァオバーを入れる可能性が高いです」
ザンクトはそこで言い切った。そして粛々と黙り込んだ。まさかこれだけではあるまいとヴォルフが思った矢先に、再びゲレヒトが口を開いた。
「では、ヴァイス」
「はい」
ゲレヒトにヴァイスと呼ばれて返事をしたハオベは、白髪白眼の白ずきんだった。ヴァイスの放つ気は、ゲレヒトのそれに似ていて威圧感が並々ではなかった。そして、よく通る腹の底まで響くような声で話し始めた。
「次に、ヴァイゼーに属する勢力についてです。エーヴィヒの数は計り知れませんが、現段階で確認されているハオベは、一人だけです。そのハオベの名前はゲルプ、黄ずきんです」
ヴァイスはそれで言い切った。ヴォルフはちらとシュテルンの方を見たが、ゲルプのことに対する表情の変化はなかった。むしろ、ヴォルフもシュテルンも、そしてもちろんロートも別のことで気にかかることがあった。
それは、ヴァイゼーの勢力に人が一人しか含まれていなかったことだ。二度目にフェアウアタイルングを訪れた時に出会った人間の少女、ヘレのことには一言も触れていない。ここで情報を隠すことに何の得も無いことは両者とも分かっているので、単にその情報を得ていないと考えるのが適当かもしれない。そして、今のヴォルフにヘレのことをフォルブルートに教える気はなかった。
ここでヴォルフはつい先程のザンクトの言葉を思い出していた。ザンクトが言うには、ヴァイゼーは狼の魔力を誰かに入れようとしている。ならば、その誰かというのがヘレである可能性は多分にある。何せ、ヘレはただの人間なのだ。ヴァイゼーが役にも立たない存在をその配下とするなど、考えにくい。もしそうだとしたら、人間でしかないヘレがヴォルフに畏怖を覚えさせるほどの気配を放っていたのも頷ける。狼のものであれば、それは人に太刀打ち出来る物ではない。
「……成る程な」
ヴォルフは小さな声で呟いた。シュテルンもどうやら同じ結論に達したようで、小さくため息をついていた。
「では次に……」
そうしてゲレヒトは次の人物を指名して説明を続けさせた。だがこの後に続く情報は、有用なものが少なくヴォルフらが既に知っているものが多かった。
「これでこちらの持つヴァイゼーに関する情報は全てだ」
ゲレヒトは厳かにそう言うと、視線を真っ直ぐにヴォルフの方に向けた。円卓にしばしの沈黙が置かれた。ヴォルフは腕組みをしたままその間を味わうようにした後、口を開いた。
「そう怖い顔しなくても、そっちが欲しがっている情報は提供してやるさ。現在のヴァイゼーの居所は、ライヒだ」
フォルブルートの四人は、ライヒという単語を聞いた途端に表情を変えた。みな一様に驚きの表情を含んでいる。そして堪り兼ねたヴァイスが声を荒げて叫んだ。
「馬鹿な!ライヒには我々も赴いたことがあるが、とてもヴァイゼーやエーヴィヒがいるとは思えなかったぞ!」
ヴォルフは一つため息をつくと、ロートの方に視線を向けた。ロートはヴォルフの視線に気が付くと、呆れたような顔をした後、直ぐに了解したような顔をしてみせた。
「まあまあ落ち着いて。少し考えれば分かることだ。ライヒは独裁制が敷かれている都市だ。ヴァイゼーが今尚その研究を続けているのだとしたら、それなりの地位に着いているはずだ。そして、公には狼の研究は禁止されている。まあ暗黙の了解だがな。いくら独裁体制とはいえ、他の都市から睨まれるような行動は謹むはずだ。だとしたらライヒを統べる者がヴァイゼーの存在をひた隠しにしている可能性は大いに考えられる。だろ?」
「だが……、」
ロートの言葉ではまだ納得しきれていない様子のヴァイスは、尚も反論しようとした。だがそれをシュテルンが遮った。
「それニ、あなた方がライヒを訪れた時にハ、まだヴァイゼーの所在を掴めていなかったはずです。在るかも分からないものを捜すのト、そこに在ると分かっているものを捜すのとでハ、それこそ天と地ほどの差があります」
シュテルンの言葉に反論しようとしたヴァイスだったが、ゲレヒトが手でそれを制した。流石に熱くなりすぎだと判断したのだろう。
「分かった。今更互いを疑うのは無意味なことだ。君たちの情報源を信じよう。では、これで『共闘』は終わりでいいかな?」
ゲレヒトの言葉は、問いというよりもむしろ確認だった。ゲレヒトにはこれ以上ヴォルフらと席を共にするつもりはなかった。それはヴォルフにもはっきりと伝わっている。
「ああ。最後に一つだけ聞かせてくれ。この後お前らはどうする予定なんだ? 直ぐにこの町を出るのか、それとも数日滞在するのか」
ヴォルフにとって、この質問はかなり重要だった。この答え如何によって何がどう変わるかは分からないが、フォルブルートの対応には大いに変化が生じるだろう。
ゲレヒトは少し思案した後、それがフォルブルートの決定であるというような口調で返答した。
「今、我々が最も欲していた情報が手に入った。ならば充分な準備の後にヴァイゼーに決戦を仕掛けるまでだ。相手に時間を許せば、こちらが不利になるのは明らかだ。直ぐに各地に散らばるフォルブルートの者達に召集をかける」
つまりは、一刻も早くこの町を出るということだ。ヴォルフはその答えを聞くと、席を立った。他の三人もヴォルフに続くようにして席を立ち、四人はその場を後にした。
「そういえバ、先程の席にフェアウアタイルングで会ったペルレの人間がいましたね。名前の発音ガ、僕にはよく聞き取れなかったのですが」
シュテルンはそう言って三人の様子を見回した。その時はっきりとその姿を確認しているのはシュテルンとゼーレだけなのだが、ヴォルフも何となくの見覚えはあった。そして、唯一その人物の事をまるで知らないロートは、直ぐに話題を変えてきた。
「それよりもヴォルフ。良かったのか? 協力をしてもらった方がいくらか事も楽になったんじゃないか?」
帰り道、ロートにそう尋ねられたヴォルフだったが、実際の所どうすればよかったのかは分からなかった。何も、矜恃が働いてフォルブルートと手を組みたくないという意地が生まれたわけではない。確かに、フォルブルートの戦力が加わればこの後に起こるであろう事はいくらか容易くはなるだろう。
「さあ、何でだろうな」
ヴォルフは適当に言葉をぼかしたが、その一番の理由はヴォルフ自身が一番よく分かっていた。ザンクトがいるからだ。実の妹に、これから起こるであろう惨状を見せたくなかったのだ。
たとえ惨劇が避けられなくても、ヴォルフはそれを回避するためにあらゆることをしようと決意した。限られた方法のその全てがヴァイゼーの計画の内に含まれているとしても。
そして時間が経過し、辺りは大分暗くなっていた。僅かに残る太陽の光が、この都市を血の色に染め上げている。
予想していたことではあるが、まだヴァイゼーの刺客と思われるような者は現れていない。ヴォルフは考えられる可能性を模索し続け、ある一つの結論に達した。
「やはり俺はこれが最良だと思う」
ヴォルフはロートに対してそう言いながら、自分の眼を布で覆った。ヴァイゼーが仕掛けてくるであろう事の殆どは、視覚を通して訴えてくるものだ。だから目隠しをしてしまえば、目から入ってくる情報は遮断できる。しかも、ヴォルフは気配には敏感だ。いくら目隠しをしていても、エーヴィヒや敵の気配を察することは出来るし、その状態でも充分に戦える。
「そうだろうな。援護は俺達に任せとけ。――問題があるとすれば、気配だけでどこまで反応しちまうかだな」
ヴォルフもそれは重々承知だった。だが他に考えた対策の中では、これに勝るものは思い浮かばなかった。
「ちょっとヴォルフ、何やってるの?」
事の重大さに気が付いていないゼーレは、目隠しをしているヴォルフを見て頭に疑問符を浮かべていた。ここで気が付いたのだが、ヴォルフらは一つ忘れていたことがある。ゼーレをどうするかである。これから降りかかるであろう火の粉は、ゼーレにはあまりに危険だ。一人では自分の身すら満足に守れないかもしれない。
「忘れていたんだが……ゼーレお嬢さんはどうする?」
ロートはため息を一つつきながら誰となく尋ねた。
「それならバ、僕に任せてください。ゼーレさんハ、僕が守りましょう」
シュテルンは自ら名乗りを上げて引き受けた。ヴォルフとしては、数少ない貴重な戦力を割きたくはないのだが、如何せんまだゼーレが弱すぎるので仕方がない。
「――頼む」
事の次第を何も理解していないゼーレは、三人の顔を順々に見回しながら首を傾げるばかりだった。
ちょうどその時、三人は一瞬にして膨れ上がった殺気を感じ取っていた。そして、ヴォルフの青い血が騒ぎ始めた。
「おいでなすったか」
「しかシ、随分な数ですね。人間に化けることが出来るエーヴィヒガ、ここまでシュヴェーベンに潜入していたとは」
確かにシュテルンの言う通り、数が半端ではない。恐らくはアジールの時と同程度、或いはそれ以上のエーヴィヒがいるだろう。
三人の反応、そしてロートとシュテルンの言葉を聞いてようやく異常事態に気が付いたゼーレは、再び三人の顔を見回しながら、平静さを乱していた。
「え? え? エーヴィヒがこの町にいるの? だってこの町ではヘクセライは使えないんじゃなかったの?」
ゼーレの疑問も尤もではあったが、この四人の中でするには些か間が抜けている。そんなゼーレにも、シュテルンは少し急ぎながらも丁寧に説明をした。
「エーヴィヒという存在ハ、本来ヘクセライを使えません。その身に宿していたのハ、異形の容貌と並外れた身体能力だけでした。ですかラ、初めに人間に化けてさえいれバ、町に入り込むこと自体は可能なのです。そしテ、普通の人間ではエーヴィヒには決して敵いません。ただ町を落とすだけならバ、物量に任せた作戦で充分可能なんです。尤モ、シュヴェーベンにもそれ相応の対応策はあるのでしょうが」
シュテルンは周囲の気配に気を使いながら、ロートやヴォルフと目配せをした。三人の意見は概ね一致している。
「じゃあ、俺とシュテルンはエーヴィヒの迎撃に向かうから、ヴォルフはここでじっとしてろよ。それと……、ゼーレお嬢さんはどうする?」
ロートは一瞬ゼーレの方に視線を向けた後、直ぐにその視線をヴォルフに向けた。ヴォルフは瞬時に頭の中で仮想し、答えを導き出した。
「連れて行った方がいいだろ。奴らの目的が俺である以上、俺の傍にいればいずれ危険が身に迫る。それなら、二人いるシュテルンとロートの近くにいた方がまだ安全だ。最終的にどうなるかは分からないがな」
「だな。てな訳で、ゼーレお嬢さん、俺たちと一緒に来てください」
ロートはゼーレにそう言った後、シュテルンと互いに小さく頷いた。そうしてヴォルフもまた頷いたのを確認した後、三人は外へと駆け出していった。
部屋に独り残されたヴォルフの動悸は、既にかなり激しくなっていた。血はまだざわついている程度だというのに、嫌な汗までかいている。これ程までに緊張を強いられたこともないかもしれない。原因ははっきりしている。相手がヴァイゼーであること、揃えようと思えば鍵が全て揃えられること、そして最悪の結果がほぼ確定的であることだ。ヴォルフは、最善と思われる策を講じながらも、ヴァイゼーの計画を狂わせることが出来るとは思えなかった。
「くそ……。ここまで動悸がするのはあの時以来かもな……」
ロートについて走り出したゼーレだったが、これからどうするか、どうなるかが分かっていなかった。今のゼーレ達は、ただの人間と同じなのだ。
「ねぇ、これから私達はどうするの? ヘクセライも使わずにエーヴィヒに勝てるの?」
走りながらゼーレの方を振り向いたロートは、少し小首を傾げながら答えた。
「うーん、勝てるには勝てるんだが、相手の量が多すぎることが問題かなぁ」
「覚えてますか? フェアウアタイルングでハ、ヴォルフはアムレットの衣装を着たまマ、青龍まで使っていましたよね? ですかラ、短時間であれバ、ヴォルフのようにツァオバーが多くない僕らでも戦うことは出来るんですよ。一対一ならバ、肉弾戦でも勝てるでしょうが。もちろン、平常時ならば即座に治安組織が駆けつけてくるでしょうガ、今は非常時です。問題となるのは恐らク、相手の物量のみでしょう」
シュテルンが説明を終え、ゼーレがそれを理解する頃には、既に目の前には異形の容貌のエーヴィヒの大群が見えていた。だが目を凝らして見ると、夜の闇と同化しそうなそのどす黒い肉体にはアムレットの腕輪は嵌められていなかった。
それを確認したシュテルンとロートは、直ぐに建物の陰に隠れた。ゼーレもそれに従い、彼らが考えているであろうことを口にした。
「どういうこと? エーヴィヒにアムレットの腕輪が付いていないわよ?」
「困りましたね。これでハ、接近戦しか出来ないこちらが圧倒的に不利です」
「だからと言って、後々のことを考えるとこっちも無理にアムレットを通してヘクセライを使うことも出来ないしな」
「このアムレット、何とか外せないのかしら?」
ゼーレはかちゃかちゃと音を立てながらアムレットをいじり始めた。そんなゼーレの様子を見ながら、ロートとシュテルンは互いに顔を見合わせて頷いた。
「やるっきゃねえか」
「……一度造形されたアムレットヲ、人の手で変形や破壊することは不可能です。アムレットの原石が鉱物であるならバ、加工されたそれの硬度は金属と同じです」
「つまり、無理矢理に壊そうとするならば、ヘクセライを、それも青龍を使わなければならないってわけだ」
ゼーレにもその程度のことは分かっている。だから、その意味ではロート達の言っていることは理解できる。だが、その裏で何を言おうとしているかは、分からなかった。
「アムレットやベーゼアガイストの硬度ハ、金属の内でも高いですからね。かなり精度を高めないト、難しいですよ」
「分かってる!」
そう言うと、ロートは深呼吸をした後に手を順手に構えた。まるで、刀を握っているような構えだった。
「快刀乱麻!!」
ロートがそう叫んだ刹那、ロートの手先からじりじりと炎の刃が姿を見せ始めた。普段見せる真紅の刀とは違う、透けるような紺碧の刀だった。だが、その刃は刀程は長くない。せいぜい果物を切る時に使う小刀程度だった。
この時ロートは既に息を乱し汗を掻いていた。それがどういう事を意味しているのかは、ゼーレにも直ぐに分かった。アムレットを通して魔法を使うことはこれ程に肉体に負荷をかけるのだ。それを考えると、フェアウアタイルングでヴォルフがしたことはとんでもない事だったのだ。ロートですらただ青龍を使うだけでここまで疲労してしまうというのに、ヴォルフは四種類全ての魔法を長時間に渡り同時に使ったのだ。
「さっさと済ませるぞ」
ロートがそう言うと、シュテルンはアムレットの嵌められた腕を差し出した。ロートは炎の刃をアムレットに押し付けると、ゆっくりと動かして腕輪だけを切断した。だが輪となっている以上、片側だけを切っても腕からは外れない。ロートは迅速に腕輪の反対側も切断した。
そうして、カラン、という音を立ててシュテルンの腕に付いていた腕輪は地面に落ちた。その音とほぼ同時に、ロートが出していた炎の刀はその形を失い、そしてロートも地面に尻餅をついた。全身に汗を掻き肩で息をしているロートは、見ているだけでもその疲労の程が窺える。
「お疲れ様でした」
シュテルンは短くそう言うと、今度は軽々と青龍の刀を成形した。これも、普段見せる黄色の刃とは違い、透き通った淡い肌色という色が表現として近い。シュテルンは手際よくロートの腕輪を切断し、そしてゼーレの腕輪も切断した。
「さテ、これで状況はほぼ互角です。二人とモ、よろしいですか?」
シュテルンの問いにゼーレは力強く頷いた。ロートも多少疲労の色を残しながらも静かに頷いた。
「でハ、参りますか!」
そうして三人は一斉に建物の陰から飛び出していき、エーヴィヒの大群へと身を投じた。
ヴォルフの緊張は、いつまで経っても解けなかった。他の三人の魔力の気配が急に増大し、アムレットが外れたことを確認しても、安堵のような感情すら湧かなかった。
「へェ? 君は戦おうとはしないんダ……」
突如したその声に、ヴォルフは背筋に悪寒が走るのを感じた。その声の主は言われなくても分かる。声質、訛りからもゲルプであることは疑いようもない。だが、周囲に意識を凝らしていたヴォルフですら、ゲルプが声が聞こえる程に接近していたことに気が付かなかった。いや、声が聞こえている今この瞬間ですら、ヴォルフはゲルプの気配を感じることが出来なかった。魔力の気配も、人が必ず持つ熱も、何も。
「……ま、まさか、お前が直接来るとは思っていなかったぜ」
ヴォルフは無性に目隠しを外したい衝動に襲われていた。何らかの形で目の前に誰かがいるという確証を得たかった。無論、聴覚はゲルプの声を知覚はしている。だが、それ以外の気配がしないのだ。
ヴォルフは激しく動揺しながらも、思考を巡らし始めた。ここで狼狽えでもしたら、それこそヴァイゼーの思う壺だ。
「僕もそのつもりはなかったんだけどネ。ヴァイゼー様の仰せだかラ。動揺でもしているのかイ?」
ヴォルフはゲルプの声を聞きながらも、今は無視した。それよりも、思考することで冷静さを取り戻す方が先決だ。まず考えられる可能性として、目の前にゲルプなどいない場合だ。そうした場合に考えられるのは法陣の類いだ。先の展開まで予測して、予め声だけを吹き込んでいる場合。だがこれは有り得ないように思われた。もしも魔法でこの状況を作り出しているのなら、法陣と魔力が絶対的に必要になる。つまり、誰か人が必要になるのだ。いくらアムレットを嵌められているとはいえ、ヴォルフならば人の存在には気付ける。次に、魔力まで内蔵した法陣である場合だ。これはとどのつまり、魔力を動力とする人形であるということだ。内蔵型であればアムレットの影響は受けないし、法陣も発動することが出来る。そして何より、ヴォルフが感知出来る熱源を持たない。
法陣内蔵型人形である可能性が高いのだが、今のヴォルフには確認が出来ない。ただの気休めにしかならない。だが、気休めにはなった。次のゲルプの声を聞くまでは。
「あレ? 無視してくれるのかナ? ――でも、いくら君でもこれは無視出来ないんじゃないかナ?」
ゲルプがそう言った瞬間、ヴォルフは二度目にフェアウアタイルングの町に潜入する前に感じた、身を凍らす気配を感じた。全身が震え上がる、絶対的な恐怖。この恐怖の正体は大方見当がついている。恐らくは、ヘレに入れられた狼の発する威圧感だ。だが今問題なのは、その威圧感ではない。距離は分からないが、直ぐ近くにヘレがいるという事なのだ。いくら法陣でも、気配などという曖昧な物までは演出出来ない。
ヴォルフの緊張は極限まで高まっていた。ヴォルフの中の青い血が激しくざわめいている。そして、ヴォルフが最も畏れているその声が聞こえた。ヴォルフの、狼の耳に届いてしまった。
「そろそろ目を覚ましたらどうだ? 我が息子よ……」
聞こえたのは間違いなくヴァイゼーの声だ。だが相変わらずその気配は感じられない。ヴォルフには、もはや冷静で正常な思考は残されていなかった。ヴォルフの内に眠る狼が、必死にもがきヴォルフの思考を掻き乱していた。そうしてヴォルフはついに堪えられなくなり、目隠しを外した。
まず目に映ったのは、ゲルプとヴァイゼーの姿だった。ヴォルフ自身は、これが良くできた人形であることは瞬時に理解出来た。だが胸の高鳴りはヴォルフの思考を妨げ、逃げるようにしてヴォルフを部屋の外へと誘った。
そうして外へと誘い出されたヴォルフの眼前には、全ての鍵が揃っていた。
全て人形ではあるが、無数の白ずきん、そして先頭にはヴォルフの内に宿る狼を封じ込めた、ヴォルフの母親であるシェプファーとゼーレの母親の姿がある。みなの首元にはアルマハト教の紋章が刻まれた首飾りが見える。
「や、めろ……」
ヴォルフの意識はこの時朦朧とし始めていた。内からの激しい抵抗に、ヴォルフはもはや耐えることが出来なかった。そうして仰いだ空には、煌々と輝く満月がその姿を見せていた。
刹那、ヴォルフの身体はびくんと痙攣し、ヴォルフの身に耐え難い衝動が襲った。
「うわあああぁぁぁぁぁっ!!」
ヴォルフの身体は徐々に、だが急速にその形を変容させていった。全身に体毛が生え、鋭い爪と牙が伸び、そして姿勢は四つ足となった。そこには、雄々しい一匹の狼の姿があった。
薄れ行く意識の中で、ヴォルフの内にはあの時の記憶が走馬灯のように流れていた。
第十二章
~虎狼之国~
「……ルフ、ヴォルフ」
どこからか声が聞こえる。優しくて、暖かい声。
「ヴォルフ、起きなさい」
ヴォルフがゆっくりと目を開けた時、そこにはヴォルフの母親であるシェプファーが優しく微笑んでいた。
ヴォルフはゆっくりと身体を起こすと、眠たい目を擦りながら辺りを見回した。綺麗に掃除された部屋に、ヴォルフとシェプファーの二人だけがいる。
「……母さん、お父さんは?」
まだ十歳と幼いヴォルフだったが、この時には既に自分の質問に対する答えを知っていた。ヴォルフの父親であるヴァイゼーは、ヴォルフの物心がつく前から根っからの研究者だった。それはシェプファーもまた然りであった。だが流石に、二人が何の研究をしているかは分かるはずもなかった。
「お父さんはもう研究所にいるわ。母さんもそろそろ出掛けるところよ」
シェプファーはそう言いながらヴォルフの頭を優しく撫でた。ヴォルフはシェプファーのこの暖かい手が好きだった。いや、手ばかりではない。母親の全てが好きだった。
「さ、ヴォルフも起きて支度なさい。今日はあなたに紹介したい人がいるの。きっと喜んでくれるはずよ」
ヴォルフはシェプファーの言葉に胸を踊らせた。眠気は直ぐに覚め、ヴォルフは寝台から起き上がった。
ヴォルフの両親は高名な研究者だ。だから、家族は研究所の所有する施設内に住んでいた。当然、周りにいるのは白衣を着た大人ばかりで、ヴォルフと年頃を同じにする者はいなかった。もちろん、友人と呼べるような相手はいたが、ヴォルフと一緒に遊べるような年ではなかった。だからシェプファーのこの言い方がヴォルフに大きな期待を抱かせていた。
身支度を済ませたヴォルフは、シェプファーの後について研究所内を歩いている。数年住み慣れた場所なので、今さら目新しい物はない。ただ、ヴォルフの胸に期待があるばかりだ。
そして、やはり見慣れた研究室にヴォルフは通された。そこにいたのは、白髪白眼の女性のハオベだった。
「ヴォルフ、この人はね、母さんの古くからの友人なの。旦那さんも高名な研究者なのよ? ハイリゲさんって紹介したことなかったかしら?」
ヴォルフには、シェプファーの言葉が後半から耳に入ってこなかった。ヴォルフは落胆の色が隠せなかった。これでは今までと何ら変わりない。
「あなたがヴォルフ君? 話はシェプファーからよく聞いているわ。よろしくね」
前屈みになって視線を合わせてきた目の前の女性に対して、ヴォルフは視線を逸らして細やかな抵抗をすることしか出来なかった。求められた握手も、その感触が分からない程短い時間しか交わさなかった。
「――ほら、ゼーレもきちんと挨拶しなさい」
ヴォルフは、逸らしていた視線の端で何かが動くのを認めた。その言葉の意味に気付いて直ぐに視線を戻すと、そこには母親の背後から恥ずかしそうに姿を見せた女の子がいた。年の程はヴォルフよりも少し下くらいだろう。異性など関係なく、ヴォルフは初めて同年代の友人が出来ることが嬉しかった。
「ヴォルフ、ゼーレちゃんと仲良くするのよ?」
ヴォルフは、シェプファーの言葉を最後まで聞くよりも前に、目の前の女の子の手を掴んで駆け出していた。
「遊びに行こうぜ!」
研究所内はあらかた歩き回っていたヴォルフは、研究所の外へと足を向けた。そして不意に足を止めると、振り向いて溌剌とした声で話しかけた。
「俺はヴォルフ。お前は?」
ヴォルフの勢いに少し怯みながら、その少女は間を空けて恐る恐る口を開いた。
「私は……、ゼーレ」
か細い声はヴォルフの耳の中で何度も反芻された。ヴォルフはしっかりと目の前の少女の顔と名前を記憶した。何せ、初めて出来た友達だ。一生忘れることはないだろう。
「じゃあゼーレ、何して遊ぶ?」
ヴォルフは早速ゼーレにそう尋ねた。だが突然外に連れ出されて、いきなり何をして遊ぶかと問われても、ただでさえ人見知りなゼーレが答えられるはずがなかった。ゼーレは何かを言いかけて口を噤み、そして顔を赤らめて俯いてしまう。何度か同じようなことを繰り返した後、ゼーレはようやく言葉を発した。
「わ、私、この町にやって来たばかりなの。だ、だから……、」
「じゃあ、まずは町案内からだな! ターブの町はそんなに広くないから、今日中に終わるよ」
ゼーレが言い終える前に、ヴォルフは自分なりに解釈して即答した。ゼーレはヴォルフの勢いに圧倒されるばかりで、今も目を丸くして言葉を失っている。
「早速行くぞ、ゼーレ!」
ヴォルフは再びゼーレの手を握ると、足早に歩き始めた。ゼーレはもうヴォルフの成すがままだった。だが、ヴォルフと同様今まで同年代の友達がいなかったゼーレは、ヴォルフのこの強引さも新鮮で嬉しかった。これが友達というものなのだと。
「うん……!」
小さく頷いたゼーレの言葉は、軽快に駆け出した二人の足音に直ぐに掻き消されていった。
「今何時だと思ってるの!? 外はもう真っ暗じゃない!」
そうして遊んでいる内に辺りは暗くなり、研究所に帰った時にはゼーレの母親の大目玉が待っていたというわけだ。
「二人ともこんなに泥だらけになって。一体何をしていたのよ?」
一日で回りきれると思っていたヴォルフだったのだが、何せまだ好奇心旺盛な年頃だ。行く先々で色々な物に興味を引かれ、結果がこの有り様だ。シェプファーも半ば呆れた様子で、笑いながら怒られる二人の様子を見ていた。
「だって、一日あればターブの町を回れると思ったんだ」
口を尖らせて反抗してみせるヴォルフだったが、その後に飛んでくる怒鳴り声に、直ぐにそれも虚勢へと変わった。ヴォルフには返す言葉もなかった。
「シェプファー! あなたからもきちんと言ってください」
シェプファーは急に矛先が自分に向けられて目を丸くしていたが、直ぐに解した顔をした。
「――分かっていますよ」
そう言うと、シェプファーはヴォルフではなくゼーレの方へと歩み寄り、ゼーレの目線に合わせるようにして身を屈めた。そして母親の怒った様子を見て身体を震わせているゼーレの手を取った。
「ゼーレちゃん、今日はヴォルフと何をして遊んで来たのかしら?」
シェプファーの口調は、まるで怒った雰囲気でもなく問い質す風でもなかった。ただ、優しく微笑んで話し掛けるだけ。
シェプファーの、負の感情を浄化するかのようなこの微笑みと、相手を諭すような口調を目にする度に、シェプファーはまさに四賢人に足る器であるとヴォルフは思ってしまうのだった。それはシェプファーがヴォルフの母親だから、特別視しているということではない。誰が見ても賢人であると断言出来るような雰囲気を、シェプファーが自然と醸し出しているのだ。
「わ、私がこの町に慣れていないからって、今日はヴォルフ君が私にこの町を案内してくれたの……」
シェプファーの雰囲気に包まれたゼーレは、今まで怯えていたことが嘘のようにすらすらと話した。シェプファーはその様子を見ると再び微笑み、ゼーレとの会話を続けた。
「それで、どうしてここまで遅くまでなってしまったのかしら?」
ゼーレは、シェプファーの目だけをしっかりと見つめて、そして答えた。今のゼーレにもう怯えは無かった。
「私が色んな所に行きたいって言うのを、ヴォルフ君が連れていってくれたの。だから、ヴォルフ君は悪くないの」
シェプファーはゼーレの言葉を最後まで聞き遂げると、微笑んでゼーレの頭を優しく撫でた後、視線をゼーレの母親に向けた。まるで同意を求めているかのような、そんな瞳だった。
「これでいいかしら? 確かに、年上のヴォルフがしっかりとしなければならなかったけど、万物には因果があるのよ。それがアルマハト教の教えじゃなくて?」
シェプファーはそう言うと、胸に提げた首飾りを翳してみせた。ゼーレの母親も、小さなため息をついた後で表情を緩めた。
「……あなたにはかなわないわね、シェプファー。私も少し熱く成りすぎたようだわ」
そうして結局は、シェプファーがこの場を一人で治めてしまった。夜も更けて、各々が各々の還る場所へと戻っていった。
自分の部屋へと戻ったヴォルフとシェプファーは、早々に寝る準備にとりかかった。窓から射る月光が、夜更けの部屋を明るく灯している。ヴォルフが寝台に入りいざ寝ようとした時、シェプファーはヴォルフに話し掛けてきた。
「――まだ起きているかしら、ヴォルフ?」
「うん」
「今日の事は、あなたもきちんと反省するのですよ?」
「うん……」
ヴォルフはそう短く答えた。シェプファーは、そんなヴォルフの額に手を置くと、優しく撫でた。ヴォルフは急に眠気に襲われ、微睡みの中へ落ちていった。
それからというもの、ヴォルフは毎日のようにゼーレを連れて遊びに出掛けた。研究所内を探索する時も、職員は二人の存在をよく知っていたので何も言われず、むしろ遊び相手になってくれることもあった。ヴォルフらは言うまでもなく、職員にとってもいい気分転換になっていた。今までの生活に退屈を覚え始めていたヴォルフは、ゼーレというたった一人の友達が出来ることで毎日が楽しくてしかたなかった。
ある朝ヴォルフが目を覚ました時、ヴォルフの視界にはシェプファーではなくヴァイゼーの姿が映っていた。ヴォルフはいつもと違うその光景に一瞬身を固くしたが、直ぐに平静さを取り戻した。
「おはよう、お父さん」
声を掛けたヴォルフは、ヴァイゼーの瞳を見て再び身を固くしてしまった。その瞳にかつての父親の持っていた色はなく、とても冷たいものになっていた。
ヴァイゼーは首だけを動かして視線をヴォルフに向けると、まるで息子に向けるとは思えない口調で言い放った。
「ヴォルフ、身支度を整えろ。今日は連れていく場所がある」
ヴォルフは小さく頷くと直ぐに準備を始めた。これ程に冷たい視線を向ける父親に、一体どんな言葉が返せただろうか。シェプファーもいない今、ヴォルフは黙ってヴァイゼーの言葉に従うしかなかった。
ヴァイゼーに連れられてヴォルフが着いた場所は、研究室の一つだった。いつも立ち入り禁止の札が掛かっていて、今まで研究所内を回ってきたヴォルフですら入ったことのない部屋だ。ヴォルフはその部屋を前にしたとき、一瞬だが心が踊った。だがそれも、緊張の前では直ぐに小さく霞んでいった。
部屋に入ると、そこにはヴォルフではその用途が分からないような様々な機器があった。用途は分からないが、部屋の前で感じた緊張を喚起させるような、ヴォルフを不安にさせるような物は何一つ無かった。ただ、ヴァイゼーの存在だけがヴォルフの心をひどく乱した。
「その台の上に横になりなさい」
常に命令口調のヴァイゼーの冷たい言葉は、一言一言がヴォルフの耳に突き刺さるように入ってきた。ヴォルフはもはやヴァイゼーの人形と化して、素直に台の上に横になった。その台は、以前ものの本で見たことがある、手術をする台に似ていた。ヴォルフには、これから自分が何をされるのか見当もつかなかった。或いは自分はこれから手術をされるのではないかという考えも浮かびはしたが、それは考えたくなかった。本の中では、手術の時には腹を切られていたからだ。そんな痛い思いはしたくなかった。だから、今のこの状況はヴォルフに更なる緊張を強いた。
「こ、これから一体何をするの?」
ヴォルフの声は、あまりの緊張に上擦っていた。ヴァイゼーはちらと視線を向けると、吐き捨てるように、まるで予め答えを用意していたかのように返答した。
「ヴォルフの身体に悪いところが無いかどうか検査するんだ。お前は余計なことは考えなくていい」
抑揚の無い低い声でそう言われてしまっては、ヴォルフに抵抗することはもはや叶わなかった。
その後ヴォルフは、ヴァイゼーの言う「検査」を受けた。身長や体重に始まり、採血や聴診、果ては円筒形の機械に身体を通したりと、あまりの数の多さにヴォルフは肉体的よりも精神的に疲労してしまった。検査なのだから自分のためなのだと割り切ろうとしても、シェプファーにも何も言わずにされているのだから、無論納得出来るはずもなかった。ヴォルフは検査を受けている間、自ら心を閉ざすことで精神的な疲労を少しでも軽減しようとした。
「ヴォルフ、もういいぞ。部屋に戻りなさい」
それからどれだけの時間が経過したのだろうか、ヴァイゼーは始めと変わりない口調でヴォルフにそう命令した。
「はい……」
ヴォルフは焦点の定まらない眼のまま寝台から起き上がると、服を着て研究室をあとにした。
重たく開いた扉から入ってくる空気が、ヴォルフの肺を一杯に満たした。それで息苦しさから解放され、ついで身体の硬さがほぐれていった。だが、先程までの事が身体に残した恐怖だけは拭われることはなかった。今のヴォルフにはそれが恐怖であることすら知る由もなかった。
ヴォルフは研究室を背にすると、拳を固く握りしめて不意に走り出した。こうでもしなければ、また直ぐにでも身体が硬くなりそうだった。ヴォルフは自分がどこへ向かっているかも分からず、ただひたすらに走り続けた。そうして辿り着いたのは、不思議と自分の部屋の目の前であった。
部屋に戻ったヴォルフは、外がまだ完全に暗くなっていないにも関わらず、夕食も済ませていないにも関わらず、寝台に飛び込むとそのまま瞳を閉じた。早くこの日が終わってほしかった。明日になれば、また楽しい日々が戻ってくる。ヴォルフにとって、眠れぬ夜がこれ程に長いものだとは知らなかった。暗闇と静寂がヴォルフの神経を過敏にし、昼間のことを思い起こしては身体を震わせた。
その日の晩、ようやく浅い眠りにつくことが出来たヴォルフだったが、何かの音で目を覚ました。或いは空腹がヴォルフを起こしたのかもしれない。
ヴォルフは寝台から立ち上がると、腫れぼったい目を擦りながら、部屋の戸をそっと開けた。戸の隙間からは仄かな灯りが漏れ、その先にはシェプファーとヴァイゼーがいた。
「あなた、今日ヴォルフに何をしましたか? 一体何の研究をしているのですか?」
口調は穏やかであったが、ヴォルフにはシェプファーがかなり怒っていることが分かった。今まであれ程に一方的に詰め寄るシェプファーを、ヴォルフは見たことがなかった。
「お前には関係の無いことだ」
ヴァイゼーはさも当然のように、シェプファーの問いを一蹴した。
「これ以上、あなたの研究にヴォルフを巻き込まないでください! ヴォルフは、あの子はあなたの研究材料ではないのですよ!」
ヴォルフはシェプファーの言葉に背筋が凍るような気がした。「研究材料」という言葉が、ヴォルフの胸に抜けることの無い楔を打ち込んだ。ヴォルフは思い切り胸を押さえると、そのままのろのろと寝台へと戻っていった。二人の会話の内容を聞きたいという気持ちもあるが、だがこれ以上ヴァイゼーの言葉を聞いたら本当に胸が押し潰されてしまいそうだった。
寝台へと倒れ込んだヴォルフはきつく目を瞑った。隣の部屋からは相変わらず二人の会話が微かに聞こえてくるが、ヴォルフは片方の手を胸に、もう片方を耳に当てることで、何も聞こえないようにした。
浅い眠りを数回繰り返している内に、辺りは次第に朝の明るさを取り戻していった。ヴォルフの望んだ明日は、いつだって今日と繋がっている。
「ヴォルフ、ヴォルフ……?」
心配そうにするシェプファーの声がヴォルフの耳に届いた。その声を聞いたのは大分前からだったが、はっきりと意識できるようになるまでヴォルフは微睡みの渦に落ち込んでいた。
「ん……母さん」
ヴォルフはうっすらと隈のできた目を擦りながら身体を起こして周囲を見渡した。そこにヴァイゼーの姿はない。この時ヴォルフは不思議にも安堵していた。今まで研究に没頭していてヴァイゼーが朝部屋にいなかったことは多々あり、その時ある種の寂しさを感じたことはあったが、安堵を感じたことはなかった。
ヴォルフの目に映ったシェプファーの表情は、とても悲しげに見えた。シェプファーはヴォルフの頬を撫でながら、ヴォルフを優しく抱き締めて言った。
「昨日はごめんなさい。ヴォルフには辛い思いをさせてしまいましたね」
「ううん。母さんは何も悪くないよ」
ヴォルフも気付かない内に、瞳からは涙が一筋零れていた。ヴォルフにはその理由すらよく分からなかった。シェプファーの優しさが身に沁みたのか、それとも今になって昨日の恐怖を実感したのか、はたまたそのどちらもか。とにかく、ヴォルフはシェプファーのこの温かさに、心身共に癒されるのだった。
「母さんは悪くないよ……」
シェプファーはヴォルフから離れると、いつもの笑顔に戻った。シェプファーには、悲しげな顔よりも優しい笑顔でいてほしい。ヴォルフは切にそう願った。
「ありがとう、ヴォルフ。今日はゼーレちゃんが来てくれていますよ?」
ヴォルフはシェプファーの言葉を聞くと寝台から飛び起きた。今まではヴォルフがほぼ一方的に遊びに誘っていたが、初めてゼーレからヴォルフのもとへやって来たのだ。
ヴォルフは顔を洗うために鏡の前に立った時、自分の目の下に深々と隈が出来ているのに気が付いた。昨夜の不眠が祟ったのは明らかだった。ヴォルフはそれを見て気が沈むのを防ごうと、ばしゃばしゃと音を立てて水を顔にぶつけた。ひんやりと冷たい水が、肌に心地よかった。
「ヴォルフ君が遅かったから、今日は私の方から来たの」
ヴォルフがゼーレと対面した時、早々にゼーレはそう言った。その顔には満面の笑みが浮かんでいる。その表情を見たヴォルフもまた、弾けんばかりの笑みを浮かべて答えた。
「そうか。じゃあ今日は何して遊ぶ?」
「うーんとね――鬼ごっこ!」
悩んだ末にゼーレの出した答えは、ひどく突飛なものだった。
「二人で鬼ごっこかよ?」
ヴォルフの疑問も当然といえば当然のものであった。一人の鬼と一人の子しかいない鬼ごっこは、ただの競走に過ぎない。互いに全力で走り、そして疲れ果てるだけだ。
「もっと二人で楽しめるのにしようぜ?」
ヴォルフは欠伸をしながら違う提案を求めた。ゼーレはヴォルフが大きく口を開けるのを眺めながら、その瞳に写ったことをそのまま言葉にした。
「ヴォルフ君、くまができてるよ? 疲れてるの?」
ヴォルフはゼーレの言葉にはっとして、つい表情を硬くしてしまった。昨日の事が不意に思い出され、明るい気持ちも急に萎えてしまった。だがゼーレにそれを悟らせないようにと、気丈に振る舞ってみせた。
「まあな。昨日は少し夜が遅かったんだ」
「ふうん、そうなんだ」
ヴォルフの微妙な変化に気が付かなかったのか、ゼーレはさして気にする様子もなく再び思案し始めた。そして、何かいい案を思い付いたのかぱっと顔を明るくさせた。
「じゃあ、いい所があるからついてきて! 昨日ね、お母さんに教えてもらったの!」
ヴォルフは素直に頷いた。今日は、初めて自分から来てくれたゼーレの好きにさせてあげようと思った。だが、ターブの町はかなりの回数を練り歩いている。今さらいい所と言われても、ヴォルフにはそこがどこであるのか見当もつかなかった。
ヴォルフの了解の返答を確認したゼーレは、直ぐに駆け出した。不眠で身体が重いヴォルフも、遅れないようにゼーレのあとについていった。
そうして走り出した二人だったのだが、ゼーレは一向に研究所の外に出ようとはしなかった。ただ少し走っては立ち止まって場所を確認し、それの繰り返しだった。研究所のことはほぼ熟知しているヴォルフからすれば、ゼーレの行動はひどく退屈に見えてしかたなかった。
「どこに向かってるんだ?」
「うーんとね、内緒! 着いてからのお楽しみ!」
ヴォルフが行き先をいくら尋ねても、ゼーレの答えは同じだった。ゼーレの返答の具合から、迷っているわけではなさそうだった。
しばらくヴォルフの前方を走っていたゼーレは、とある扉の前で立ち止まった。いつも立ち入り禁止の札がかかっていて、ヴォルフも入ったことのない部屋だった。だが、今日という日に限って、その札は架かっていなかった。この部屋のことを知らないヴォルフは、ゼーレが何故この場所へ連れてきたのか分からなかった。
ゼーレはおもむろに扉に手をかけると、ぐっと力を込めて押した。扉はわずかに軋む音を立てただけで、あとは滑らかに開いた。
そうしてヴォルフの視界に入ってきた景色は、それこそ視界を一杯にしてしまう程綺麗に咲き誇っている大量の花であった。ヴォルフは思わず言葉を失い、ただただその景色に心奪われているだけだった。
「こ、これは……」
ヴォルフの反応に満足しているのか、ヴォルフの瞳に輝きが戻ったのが嬉しいのか、ゼーレは満面の笑みを浮かべて答えた。
「この花はね、お母さんが研究しているザルバイっていう花なの。花言葉は――感謝」
ヴォルフははっとしてゼーレの方を見た。少なくともヴォルフにはゼーレの言わんとしている事が伝わっていた。だがゼーレの想いは、ヴォルフが汲み取ったものよりもさらに深かった。
「ヴォルフ君にはとっても感謝してるの。――でも、今日のヴォルフ君はすごく元気がないように見えたから、だからこの花を見れば元気になってくれるんじゃないかって思ったの!」
ヴォルフには何の言葉も言うことが出来なかった。ゼーレはヴォルフの空元気を最初から見抜いていたのだ。今何かを言おうとすれば、立ち処に涙が溢れてきそうだった。だからヴォルフはただ笑って、一言だけゼーレに向けて言った。
「ありがとな……」
その後ヴォルフとゼーレはその花園に腰を下ろし、何をするわけでもなくただザルバイの花を眺めていた。花を包み込むようにしている鮮やかな緑色の葉は、小さく咲く花をより一層際立たせていた。特別に派手な花でも、綺麗な花でもない。どちらかといえば地味な部類に入る花だろう。だがそれでも、全てを優しく包み込んでくれそうなその花の形は、今のヴォルフに大きな安心感を与えるのだった。まるで、この花がヴォルフの居場所を作ってくれているように感じられた。
どれ程の時間をその場所で過ごしていたかは定かではない。この花園には時計のようなものはないし、人工的に作られた明かりは絶えず一様な光量を花々に注いでいる。時間の感覚が鈍るのもひどく当然な話だった。ただ、ヴォルフもゼーレも空腹を感じていた。それだけの時間が経過していたことは確かだった。
ヴォルフはおもむろに立ち上がると、ゼーレに手を差し出した。
「そろそろ帰ろうぜ?」
ゼーレは変わらぬ笑顔のまま頷くと、ヴォルフの手を取って立ち上がった。この一日が、ヴォルフに与えた安らぎは大きい。ヴォルフはゼーレと時を過ごしている内に、ゼーレに自分の妹の姿を重ねていた。最後に会ったのはかなり前だが、こんな兄妹でありたいと思っていた。
部屋に戻ったヴォルフは、一つ伸びをすると今日あったことを目を輝かせてシェプファーに話した。身を乗り出して上機嫌でヴォルフが話すのを、シェプファーは微笑みながら聞くのであった。だがこの時ヴォルフは言い様の知れない不安を感じていた。シェプファーの微笑みはいつもと変わらないのだが、妙な胸の騒ぎを感じていた。以前感じたことがある、二度と感じたくないような、そんな感じだった。
ヴォルフはそう感じながらも、それを払拭しようと声を張り上げて話し続けた。今日あった出来事も、新しく現れた不安の前にはその輝きを鈍らせていった。
そして明けた次の日のこと、ヴォルフはいつものように朝起きると、身支度を済ませてゼーレの下へと向かった。今朝起きてからのシェプファーの元気の無い様子が気掛かりだったが、明るい一日を望むヴォルフはそれを出来るだけ忘れようとしていた。
そうしてゼーレの住まう部屋の前まで来た時、ヴォルフは様子が変わっているのを感じた。普段ならば部屋の扉にはそこに済む者の代表者の名前札が掛けられているのだが、今日に限ってそれが無い。
「ゼーレ? 遊びに行こうぜ?」
試しに扉をこんこんと叩いてみるが、まるで反応が無い。ヴォルフはいけないと分かりながらも、扉に掛けた手に力を込めた。何故か鍵は掛かっておらず、扉はわずかに軋む音を立ててすっと開いた。
ゼーレの母親に見つかって怒られるのではないかと内心びくつきながらも、ヴォルフは開いた扉の隙間から中の様子を窺った。だが中は真っ暗で、人の気配が無い。ヴォルフは心を決めて中に入った。外から覗いていただけでは、全てを知ることは出来ない。
そう思って入ったヴォルフだったが、直ぐに後悔の念に襲われた。中には、人がいないばかりでなく、家財道具一式がなかったのだ。まるで、始めから誰も住んでいなかったかのように感じられる。ヴォルフには何がなんだか理解出来なかった。突然消えてしまったゼーレとその家族。ヴォルフは脱力してへなへなとその場に座り込んだ。
「何で、誰もいないんだよ……?」
ヴォルフの意識がしっかりとした頃、既に時刻は昼過ぎを指しており、ヴォルフはいつの間にかザルバイの花園に座り込んでいた。何をしていたのかもいつ移動したのかもヴォルフの記憶からは欠落していた。今のヴォルフにはそれはどうでもいい事だった。
「また、俺は独りだ……」
まだヴォルフが幼い時に妹のザンクトも急にその姿を消し、そして今度はゼーレだ。ヴォルフにはこの別れというものが怖くてならなかった。ヴォルフの知らない所で親しい人がヴォルフの前から姿を消していく。
ヴォルフの眼は虚ろに遠くの景色を映していた。だから、ヴォルフの正面に人が立っていても、今のヴォルフには気付くことすら出来なかった。
その人影も、しばらくの間ヴォルフのことを見下ろしていたが、やがて口を開いた。
「君が――ヴォルフ君か」
ヴォルフはようやくその人影に気が付き、ゆっくりと面を上げた。だが相変わらず焦点は定まっておらず、相対する相手の顔もきちんと認識できないでいた。
「私の名はハイリゲ。ゼーレの父親だ」
「ハイ、リゲ……?」
ヴォルフはゆっくりと時間をかけてその男、ハイリゲの言葉を理解していった。そして理解に至った時、ヴォルフは堰を切ったように声をあげた。
「ゼーレは?! ゼーレは一体どこに行ったんだ!」
ヴォルフの瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。ハイリゲはヴォルフを見下ろしたまま口を開いた。ヴォルフには、その顔にどこか哀しげな様子が見えたような気がした。
「本当は誰にも言ってはいけないのだが、ヴォルフ君は当事者であると同時に被害者でもある。何より、まだ幼い君にはこの運命は残酷すぎる」
ハイリゲは一つ畏まり、小さくため息をついた。ヴォルフは身を乗り出してハイリゲの言葉に耳を傾けた。
「まず、事の経緯から話さなければなるまい。この研究所内で禁忌の研究をしている者がいる。それに気付いた私たち白ずきんがそれを食い止めようとしている」
ヴォルフは気が急いていた。そんな大人の事情は、ヴォルフの知ったことではない。大人の間で解決すればいい。ヴォルフの焦りはそのまま言葉となって怒鳴っていた。
「そんな事はどうでもいい!! ゼーレは今どこにいるんだ!?」
「いいから聞きなさい!」
ヴォルフはハイリゲの威圧の込められた声に怯み、そのまま黙りこくってしまった。
一度は表情を厳しくしたハイリゲも、直ぐに先程までの表情に戻り、説明を再開した。
「その者の研究がこの研究所にどのような影響を与えるかがまるで分からないため、君の妹であるザンクト君やゼーレは町の安全な場所に逃げてもらっている」
ヴォルフはその説明を聞いても、疑問符が浮かぶばかりだった。確かにザンクトやゼーレについては頷ける。だが、ではヴォルフはどうなのだろうか。ヴォルフだとて、性別の違いこそあれ、まだ若干十歳の子供だ。
ヴォルフの表情を読み取ったハイリゲは、再び小さなため息をつくと静かな声で話し始めた。
「ヴォルフ君の疑問は分かる。何故自分は保護される対象ではないのか、とな。だがそれこそ、先程私が言った通りなのだ。君は今回の出来事の中心にいる当事者なのだ。一方的に巻き込まれた被害者でもあるが」
ヴォルフはハイリゲの言葉の真意が薄々と解り始めていた。だが、どうしてもその事実を受け入れたくなかった。ヴォルフがその事実に目を背ければ背くほど、いつかのシェプファーの言葉が脳裏に思い起こされた。
『ヴォルフは、あなたの研究材料ではないのですよ!』
ヴォルフの膝は、がくがくと音を立てて震えていた。
「お父さん……」
「そうだ。君の父親、ヴァイゼーこそが禁忌の研究をしているハオベなのだ」
ハイリゲの言葉は、鋭利な刃となってヴォルフの耳に突き刺さった。受け入れたくない事実が、真っ直ぐな言葉でヴォルフに告げられた。
「相手がヴァイゼーであるからこそ、彼がその研究対象としている息子のヴォルフ君や、妻のシェプファーは保護の対象から外れているのだ」
ヴォルフは愕然とした。シェプファーが保護されないのは何となく理由が分かる。それは大人達がよく使う責任というものだろう。配偶者としての責任から、シェプファーはここに残っているのだ。だがまだ子供であるヴォルフには責任など取りようもない。だとしたらヴォルフが保護されない理由は一つしか考えられない。ハイリゲを含めた白ずきん達は、ヴォルフを囮として使っているのだ。ヴォルフを囮にヴァイゼーを自由に泳がせて、決定的な証拠が挙がったところでヴァイゼーを叩くつもりなのだ。
ヴォルフは込み上げるモノを抑えるのに必死だった。ハイリゲ達の企てが失敗すれば、ヴォルフはむざむざヴァイゼーの研究材料とされてしまうのだ。だがそれが分かってしまうと、ヴォルフはもはや全てがどうでも良くなってきた。他人のために蔑ろにされる自己という存在。自分のために生きられないのであれば、その生に意味などない。ならば、自己の意味を失わないために、今ヴォルフが出来る最大限のことをするまでだ。
ヴォルフは少しの間思案し、そして口を開いた。先程まで抱いていた絶望のような感情はもうない。
「……俺は、何をすればいい?」
ヴォルフの問いに、ハイリゲはその真意を汲み取ったようだった。微かに驚いたような表情をしている。
「――流石だ。その聡明さはシェプファーに、その行動力はヴァイゼーに似たのか」
部屋の中のザルバイの花が風に揺れている。人工的に作られた風、人工的に作られた陽射し。このザルバイの花は虚構の中で咲き誇っている。ならば、今虚構に身を投じようとしているヴォルフは、このザルバイの花のように凛と咲き誇ることが出来るだろうか。
「ヴォルフ君。残酷に聞こえるかもしれないが、今の君は言うなれば囮だ。ヴァイゼーを押さえるための楔なのだ。つまり、ヴォルフ君の方から何かをするという必要はない。私たちが君をずっと見守っている。君に危害が及びそうになれば最優先して君を助けよう」
ハイリゲは口調は厳しく、だがそれでいて優しく言った。ヴォルフは固く頷いた。たとえ実の父親に研究材料にされようとも、まだ絶望には早い。まだヴォルフには信じられる人がいる。
ハイリゲが去った後も、ヴォルフはしばらくの間花園で佇んでいた。明日からはまた独りの日々が続く。そして、ヴォルフにとっての戦いも始まる。ザルバイの花を見ながら黄昏ていられるのも今日限りだろう。ならば、ゼーレとの思い出の場所を目に焼き付けようと、ヴォルフはそう思った。
その後夕刻になり部屋に戻ったヴォルフは、ふとあることを考えていた。ハイリゲは何故ヴォルフにその事を教えたのだろうか。敵を欺くにはまず味方から、という言葉もあるし、何よりヴォルフはまだ子供だ。作戦を理解できたとしても、下手に意識して都合が悪くなる可能性は高い。
「――俺に何を見出だしたんだろう?」
或いは、独りとなってしまったヴォルフがあまりに不憫だったのかもしれない。子を持つ親として、ヴォルフのことを見るに耐えかねたのかもしれない。だとしたら、ハイリゲの冒した危険はヴォルフにはとても嬉しく頼もしいものである。
その後シェプファーが帰ってきた時、二人とも何も言わなかった。何も言えなかった。ヴォルフはハイリゲとの約束のため、シェプファーは己が責任のため。この時心情的に辛かったのは、恐らくシェプファーの方だろう。ヴォルフにはシェプファーを含めて心の支えがあったからだ。
それからの数日は、何の変化もなく過ぎていった。ヴォルフはゼーレがいなくなり独りとなりながらも、以前と同じように研究所内を探検していた。溌剌としているヴォルフとは対照的に、シェプファーの方はみるみる窶れていった。その変化はヴォルフにも直ぐ分かる程に顕著だった。精神的な負荷は誰が思うよりも重くシェプファーにのし掛かっていた。
そして、運命の日が訪れた。
ある朝ヴォルフが起きると、いつかの日のように部屋にシェプファーはおらず、いつかの日のようにヴァイゼーがいた。その眼光はあの日のまま、冷酷にヴォルフのことを射抜いていた。いくら心の支えが出来たヴォルフといえども、ヴァイゼーと二人きりの今の状況では身がすくんでしまいどうしようもなかった。
「ついてきなさい、ヴォルフ」
ヴァイゼーの低く威圧の込められた声に、ヴォルフは一瞬びくりと身を震わせた。あの日の恐怖が蘇ってくる。
「はい……」
身体では恐怖を感じていながら、ヴォルフには抵抗する術がなかった。研究熱心ではあったが尊敬に値する父親であったヴァイゼーをここまで変えてしまったものとは一体何なのだろうか。ヴォルフの頭の片隅ではその疑問が宙を彷徨っていた。そうしている間にも、ヴォルフはヴァイゼーのあとについてある研究室の前にまで来ていた。
その研究室は、あの日に訪れた研究室の直ぐ隣にあった。真っ白な扉はさながら、いやまさに手術室のそれだった。扉が開き白い部屋の中に姿を現したのは、二台の寝台や様々な器具だった。それらの用途を量るにはヴォルフはまだ無知すぎた。その部屋の中には白衣を着た数人の黒ずきんの姿もあった。この研究所内を散策したヴォルフですら一度も出会ったことのない人達だった。
「そこの寝台に横になりなさい」
ヴァイゼーにそう言われ、ヴォルフはがくがくと震える足を動かした。寝台の上に仰向けになったヴォルフは、天井を見上げながら早くハイリゲが来ることを切に願った。今まさにヴォルフに危害が加えられようとしているのだ。ヴォルフにとってはこれ以上の証拠は考えられなかった。
「では、始めようか。――望月の日に起こる世の変革の、その礎を」
ヴァイゼーが隣にいた黒ずきんに顎で指図すると、一人はヴォルフに拘束具を取り付け、違う一人はもう一台の寝台をヴォルフの横たわる寝台の横に近付けた。そして、上に被せられていた覆いを勢いよく外した。ヴォルフは隣に視線を動かし、寝台の上に乗っているモノを見た。
「これは……」
ヴォルフは息を飲んだ。真っ黒なソレは、ヴォルフのように拘束具に捕らわれながらも、その眼光は身を凍らせるほどに鋭く、ヴォルフは全身で恐怖を感じざるを得なかった。ヴォルフの思考は今や恐怖の前に完全に停止していた。それが狼であることもはっきりとは認識出来ていなかった。
「コレはな、我等黒ずきんが長い年月をかけて研究し続けてきた、ハオベの創造主カプーツェを食し、使いようによってはエルデを変えられる程のツァオバーをその体内に宿した狼だ」
ヴァイゼーはそう説明したが、今のヴォルフには単なる音としてしか耳に入らなかった。その意味など理解出来る状態ではなかった。
その時、扉が強く叩かれる音がした。ドンドンという音とともに、人の怒鳴り声もヴォルフの耳に入った。あくまで、音としての声に過ぎないが。
「ヴァイゼー!! ヴォルフ君を解放しろ! お前の研究はエルデを歪ませる!」
「ハイリゲよ、今さら何を喚こうがもう遅い。我等は世を変えうる術を手に入れたのだ」
ハイリゲがいくら扉を叩いたところで、アムレットでできた扉の前には何もかもが無意味だった。ヴァイゼーはハイリゲを鼻で笑いながら、部屋にある器具の一つを手に取りそれをヴォルフの方へと向けた。
「やめ……やめてくれ」
「汝等、望月の夜に我等が主の下に集えよ。さすれば新たなるエルデの扉は開かれん――」
ヴァイゼーと黒ずきん達は、口を揃えてそう唱えた。ヤーヴェ教の謳い文句が、ヴォルフの耳に嫌に残る。
ヴォルフの身体はもはやまるで言うことを利かず、だがそれでもヴォルフの意識とは無関係にがちがちと震えていた。身に迫る恐怖がヴォルフの身体を締め上げていた。
「賢なるヴォルフに栄光あれ!」
「うわあああぁぁぁぁっ!!」
そして、ヴォルフの目の前は真っ暗になった。
第十三章
~月満則虧~
あの町で両親と右腕を失った僕は、このシュヴェーベンで療養をしていた。この町ならば、何の心配も争いもないものだと思っていた。だが、既にエルデには歪みが生じている。今さら安息の地などどこにもない。現に、今僕の目の前には多数のエーヴィヒが視界一杯に蠢いている。遥か視界の果てには、一件の宿を囲む白ずきん達が見えている。
そして、いつかと同じように全身に寒さを感じた。ちょうど、白ずきん達が囲んでいる宿の辺りからだ。
僕がそう考えている間にも、氷の柱は勢いよく拡がっていた。かつてよりも早く大きな氷柱は直ぐに僕の下にも迫り、そして、僕を貫いた。
三人が無数のエーヴィヒを相手に奮闘していたその時、三人は町の雰囲気ががらりと変わるのを感じた。強大な殺気と寒気が急速に町中に広まった。その殺気たるや、常人ならば簡単に膝を折ってしまうだろう。
「な、何なの――この殺気は?」
ゼーレは、震える足を叱咤しながらも何とか自立出来ていた。それだけ心と体が強くなったということだ。ロートやシュテルンは言うまでもなく立っているが、それでも額には冷や汗を浮かべている。
「この感じハ、まさか」
「くそ。結局こうなっちまうのか」
三人は身を凍らせる程の殺気を感じながら、それが何を意味しているのかをおおよそ察した。今や三人もエーヴィヒもその動きを止めてしまっている。異端の存在であるエーヴィヒでさえも、その殺気に恐れ戦いているのだ。
そして次の瞬間、三人の視界には物凄い速さで迫る氷柱が映った。地面から何百という数の氷柱が突き出し、それが迫っているのだ。
「難攻不落!」
シュテルンは地面に手をつき、巨大な盾を出そうとした。だがシュテルンのその行動を、ロートは声を張り上げて制した。
「ダメだ! そんなものじゃこれは防げない!! とにかく避けるんだ!」
シュテルンはロートの声にはっとしながらも途中で魔法を出すのを止めて回避行動に移った。ゼーレもロートの言葉で目が覚め、固まっていた足も思い通りに動かせた。
「風林火山!」
「電光石火!」
「烏兎惣惣!」
三人はほぼ同時に高速移動の魔法を使い、迫る氷柱の隙間を何とか掻い潜った。先程シュテルンが出しかけた難攻不落は、一本の氷柱を受け止めはしたが、その後も続く怒涛の氷尖の前に脆くも崩れさった。
「まさカ、難攻不落がこうも簡単に破壊されるとは……」
狼の力を見たことのないシュテルンは、その攻撃に驚きを隠せなかった。油断があった訳ではない。何せ、白と青の難攻不落は防御系の魔法の中では一二を争うものだからだ。それが、たかが氷の柱に数秒と持たずに壊されるなど、もはやハオベの常識を完全に逸脱している。
ロートも、久し振りとはいえ一度は目にしたことのある力だったが、記憶にあるものを遥かに上回る力だった。あの時は四人がかりでもやっとだった。だが今は三人しかいない。しかもその内の一人は戦力としてはあまり期待出来ない。あの頃からヴォルフも成長している。状況としてはかなり望みが薄いことは目に見えて分かる。
「――これを止めろってんだから、無理言うぜ」
ロートは嘆息を漏らした。だがその顔に絶望の色はない。むしろ、ロートはこの状況を少し楽しく思っていた。ロートの中の闘志がみるみる沸き上がってくる。楽しそうなロートを見たシュテルンもまた、その顔に笑みを浮かべた。
「それでモ、戦うんでしょう?」
「当然!」
そうして三人は氷の柱が拡がってきた方向へと目を向けた。今となってはエーヴィヒなど相手にしていられない。そもそも、先程の氷柱の波状攻撃で半分以上のエーヴィヒは既に息絶えているか行動不能になっている。残ったもう半分も、狼の発する気に圧されてろくに動けないでいる。
三人が向けた視線の先では、氷塵が舞う氷の宮殿の中で一つの影が揺らめいている。まだかなりの距離があるが、その影から殺気が放たれているのは歴然としていて、それが即ち狼となったヴォルフであることも明白だった。氷塵からゆっくりと姿を現したその姿は、まさに狼としか言い様がない。漆黒の体躯に強靭な四肢、鋭利な牙爪に妖艶な耳眼。歴史の闇に葬られた獣が、今表舞台へとその身を顕にした。
「すごい、あれが狼……」
ゼーレの口からは感嘆の言葉が漏れていた。氷を纏い悠然と立つその姿が、何故か非常に神秘的だったのだ。
「すごいなんてもんじゃないですよ、ゼーレお嬢さん。今の狼は完全に解放されている。止めるのは限りなく不可能に近い」
三人の視線が集中する中で、不意に狼は行動を始めた。大きく屈伸した狼は、目にも留まらぬ速さで三人の方へと迫った。
「なっ!?」
完全に虚を衝かれた三人が動こうとした時には、狼は既に三人の真横を通り過ぎていた。そしてその最初の標的とされたのは、狼から創成されたエーヴィヒだった。
数で圧倒的に上回るエーヴィヒではあったが、狼のあまりの身体能力を前にしては、それらは単なる動く的にしかならなかった。次々とエーヴィヒの首が宙を舞っていく。
そのあまりに異常な光景にゼーレが目を奪われていると、後ろからぐいと襟元を引っ張られた。
「今の内に作戦会議をしましょう」
ロートに引っ張られるがままに建物の上に移動したゼーレは、ふと足下を見下ろした。そこには民家が林立している。シュヴェーベンも都市である以上、そこには一般人が住んでいるのだ。
「早くみんなを避難させないと!」
ゼーレはつい興奮して声を荒げてしまった。そんなゼーレを、シュテルンにしては珍しく厳しい言葉で諭した。
「えエ、そうです。ですガ、どうやって? この町は既ニ、氷柱で覆われています。さらニ、シュヴェーベンは空中都市です。それヲ、どうやって避難させるんです?」
「えっ、それは……」
ゼーレは返す言葉もなく言い澱んでしまった。自分はいつも他人に危害がないようにと考えていながら、その実自分ではまるで動いていなかった。ゼーレは久しく感じていなかった無力感を味わった。
「まあまあ、シュテルンもそんな風に言わなくってもいいだろうに。そのための作戦会議なんだから」
明らかに言葉が過ぎたシュテルンと、それにより落ち込んでしまったゼーレとの仲立ちをしたのはロートだった。そして、ロートの言葉にシュテルンは微かに笑んだ。
「シュヴェーベン側モ、そう考えているはずです」
「どういうこと?」
ゼーレはシュテルンの言葉が理解できずに直ぐに聞き返した。だが言葉を発した後で、自分でも考えようとした。いい加減、ゼーレを守ってくれる人達に頼りきりではいけない。自分でも戦おうとしなければならない。
だが状況が状況なだけに、ゼーレの決意も虚しくロートはシュテルンに替わって答えを言ってしまった。
「いくらシュヴェーベンが宙に浮いていて、都市全体を空中楼閣が覆っていたとしても、それだけでは抑止力には為り得ないということです。つまり、この都市にはこれら以外にも都市を守る仕組みが備わっている、ということです」
「――つまり今のこの状況こそが都市を守るべき時?」
ゼーレはロートの言葉を聞きながらそこから得られる情報に考えを巡らし、自分なりの解答を言った。それに対してロートとシュテルンは固く頷いた。
「その通りです。ですかラ、こちらとしても時間稼ぎになってくれます。もっとモ、ヴァイゼーがこの都市を狙う理由モ、その『町を守る仕組み』にあるとは思いますけどね」
シュテルンはちらと狼の方へ視線を向けた。その先では、もう殆ど残っていないエーヴィヒが圧倒的な力を前に最期の抵抗を続けていた。だがそれも狼にしてみれば数歩余計に動くだけのものでしかない。
シュテルンは直ぐに視線をロートの方に戻すと、少し早口になって話し始めた。
「エーヴィヒのあの様子でハ、もうあまり時間がありません。手短かにアレが何なのカ、説明してください」
シュテルンに問われて、ロートは真剣な眼差しで頷いた。初めて相対する相手に勝つために相手の実力を知ることは必須だ。
「歴史的なことから言えば、あれは負傷していた所をある赤ずきんに助けられ、後にカプーツェを食したとされる狼だ。ヴォルフの身体に入れられた後には、二人の賢人の白ずきんに国士無双をかけられてヴォルフの身体に封印されていた。いくつかの条件下でのみ狼がヴォルフの身体を乗っ取ってしまうらしい。見ての通り、理性は皆無で身体能力、ツァオバー共に常識を越えている。ただ、ヘクセライを使いこなせるわけではなく、ただ氷柱を手当たり次第に突き出しているだけだ。尤も、さっきの難攻不落を見れば分かるだろうけど、ただの氷柱でもその威力は青龍並だ」
シュテルンは笑みを浮かべながらも苦い表情をしていた。いつも余裕を見せていたシュテルンのこんな表情を、ゼーレは未だ見たことがなかった。シュテルンはしばし閉口した後、再び口を開いた。
「それでハ、あの狼を止める方法はありますか?」
シュテルンは発想を変えて再びロートに質問をした。強大な相手を前に、何も力で倒す必要はないのだ。ただ、止めることさえ出来ればそれでいい。それですらも非常に困難なことではあるが。
ロートは少し考えるような、思い出すような素振りをしてから返答した。
「経験則と推測でしかないが、方法は四つある。まず、ヴォルフの体力が狼の体力に追い付かず限界に来た場合。次に、ヴォルフの身体を乗っ取っている狼の意識が失われた場合。次からのは推測に過ぎないが、狼が感情を昂らせる要因となったものを取り除く場合。最後に、一時的なツァオバーの増大によって解けてしまった国士無双をもう一度かけ直す場合。俺が知っているのはこれで全部だ。だが――」
ロートは自分で方法を提示しながら、歯切れが悪かった。ゼーレもその理由は分かっていた。この四つしか方法が無いのであれば、消去法で取れる選択肢は一つに絞られる。ゼーレは思考を巡らしながら、今考えていたことを口にした。
「ヴォルフの体力の限界を待っている間にもこの町は破壊されてしまうし、体力の限界を迎えたヴォルフがどうなるかも予測不能。要因を取り除こうにも、エーヴィヒの気配が蔓延しているこの状況ではほぼ不可能。国士無双をかけ直すことの出来るハオベもこの町にいるか分からない。いたとしてもその準備には多大な時間が掛かる……」
ぼそぼそと呟いているゼーレを、ロートとシュテルンは驚いた表情で見ていた。今まで戦闘に関して考えが回っていなかったのに、今は完全に二人に追い付いている。二人は顔を見合わせた後微かに笑った。
「だかラ、僕らはあの狼を気絶させなければならないというわけですか。ですガ、空中楼閣は麒麟のヘクセライです。つまリ、麒麟を使える白ずきんがこの町にもいるはずです。その白ずきんならバ、もしかしたら国士無双を使えるかもしれません。どちらにしてモ、狼の動きを止める時間稼ぎが必要になるわけですガ、幻覚系のヘクセライはどうでしょう?」
シュテルンはロートの方へ向きながらそう尋ねたが、あまり答えに期待はしていなさそうだった。
「無駄だ。理性の無い相手に幻覚系のヘクセライは意味を成さない」
予想していた答えではあったが、シュテルンは腕を組んで悩み始めた。
「となるト、本当に力ずくしかありませんね」
シュテルンの少し弱気な態度に、ロートは笑いながら言った。言う前から答えの見えている言葉を。
「それでも戦うんだろう?」
「当然です」
ゼーレはヴォルフの、今となってはただの獣でしかない狼の方を見た。見ると、既にそこは地獄の様相を成していた。生きているエーヴィヒは皆無で、辺りには骸が無造作に転がっている。そんな悲惨な状況だというのに、その光景が感情に及ぼすものは嫌悪でも恐怖でもなかった。
透明な氷柱、飛散した真紅の血飛沫、漆黒の骸。その三つの物はお互いの色を映えさせ、言うに及ばない視覚効果を見る者に与えていた。その様子を見て息を飲んだゼーレが言えた言葉は、表現としては在り来たりでありながらそれ以上相応しい言葉はなかった。
「綺麗……」
ゼーレ自身、不謹慎であることは分かっている。ゼーレにしてみればこの光景は三回目なのだが、それでも過去の物の何れにも及ばない程に美しかったのだ。
そしてその刹那、ゼーレは狼とぴたりと視線が合った。射竦められるような眼光にゼーレは鳥肌が立つのを感じ、身動きが取れなくなった。あらゆる束縛から解放された、狼の純粋な殺意がその視線に込められている。
今や第一の標的であるエーヴィヒを葬り去った狼は、次なる標的を探している。そして、ゼーレと目が合ってしまった。猛る獣にとって標的を定める理由などそれだけで十分だ。狼はゆっくりとした足取りで、ゼーレの方へと歩み始めた。
「遂ニ、来ますか」
「腹括らないとな」
ゼーレの両隣では、ロートとシュテルンが既に戦闘体勢を取っている。ゼーレは覚悟を決めた。恐怖だなどと弱気なことを言っていられる場合ではないのだ。
狼が一つ屈伸して、三人に向けて跳躍しようとしたその時、何かが三人と狼との間に入った。しかもその数は複数だ。それらは、迫る狼に対して魔法を使って応戦した。不意の介入とその威力により、狼は大きく吹き飛ばされて建物の外壁に叩きつけられた。
「あれは……?」
ゼーレは突然現れた七つの影に困惑していた。フォルブルートがこの町にもういない以上、狼を吹き飛ばす程の力を持つ者に心当たりなどあるはずがない。だが他の二人はどうも納得した表情をしていた。
「遂に現れましたか。いヤ、あれが『町を守る仕組み』とハ、思いもよりませんでした」
「なるほど。七人の小人とはよく言ったもんだぜ。あの大きさ、何が小人だ」
ゼーレはロートの言葉ではっとした。その物語ならば、ゼーレも子供の頃に聞かされたことがある。ある姫を助けた七人の小人と、その姫の命を狙う魔女の話。ゼーレはそれを単なる童話としか思っていなかった。だが赤ずきんの時も然り、童話は実話を基にしているのだ。
「シュヴェーベンという白雪姫を助けるための、七人の小人?」
「七割は合ってますガ、少し違います」
ゼーレの出した解答は、直ぐにシュテルンによって訂正された。
「シュヴェーベン自体ガ、シュネーヴィッチェンなのです」
だがシュテルンの言うことは、ゼーレにはまるで理解出来なかった。ゼーレはあくまで比喩として白雪姫とこの都市とを繋げた。だがシュテルンの言葉からは、白雪姫であるシュネーヴィッチェンがこの都市そのものであるかのように聞こえる。
「いずレ、分かるはずです」
シュテルンはいつもの笑みを浮かべながらそう言うと、小人の方に目を向けた。小人とは言うものの、その大きさは人間の倍近くはある。童話がなければ、とても小人とは呼べないだろう。そして何より、今狼と戦っている小人は、人ではないのだ。魔動人形とでも言うべきものだ。
「つまり、この都市に来るハオベのツァオバーは、この都市を浮かせるため、空中楼閣を張るため、そしてあの小人達に蓄えるために集められていたわけだ」
ゼーレはこのシュヴェーベンの背後にそれほどに大きな仕組みがあることに驚いていた。幾百の時を数え蓄えられてきた魔力は、今や如何程になっているのだろうか。ゼーレはあまりの話の大きさに、恍惚となっていた。
「――ヴォルフの言葉を借りるなら、全くよく出来た構造、ね」
そうして三人は視線を小人と狼へ向けた。あの小人達に手を貸せば一対十となり非常に有利とはなるが、実際に小人達がゼーレ達を味方と認識するかは分からない。敵と認識されてしまうと、場は入り乱れて非常に混戦し、狼どころではなくなってしまう。融通が利かないのは人形の不便な点だと言えよう。だから今はただ戦いを見守っていることしか出来ない。
「ゼーレお嬢さん、この戦いはよく見ておいた方がいいですよ。ハオベの到達出来ない領域での戦いになるはずです」
ロートに言われるまでもなく、ゼーレは固く頷いた。
まず最初に動いたのは小人の方だった。七人の内の三人が真っ直ぐに狼のもとへと駆けていった。人の倍の背丈がありながら、その速さは既に視覚で追うのが難しい程だった。
三点から迫る小人に対して、狼はその身軽さを生かしてあっという間に一人の背中に乗った。そうしてその小人に牙を剥こうとしたのだが、後ろで控える四人の小人の魔法により、攻撃を中断せざるを得なかった。そうして地面に着地した狼を、三人の小人は再び殴りかかろうとした。応戦する狼は、怒涛の攻撃を避けながら氷柱を繰り出し、攻撃と防御を同時に行っていた。
文字に起こせばこのようにはなるが、この一連の動きがなされているのはほんの一瞬の出来事に過ぎず、直ぐに次の動作へと移ってしまう。簡単に言ってしまえば、戦いは均衡状態ということだ。七人の小人を相手にしても、まるで引けを取らないばかりか、狼の方がいくらか圧しているようにすら見える。
「な、なんて戦いなの……」
ゼーレは目の前で繰り広げられる激戦を前に自分の足が震えているのを感じた。決して恐いわけではない。だが距離があるにも関わらず身体の芯にまで響くような地鳴りと爆音に、ゼーレの心は昂っていた。武者震いという表現が近いかもしれない。とにかく、今ゼーレは人智を越えた戦いを目にしているのだ。そしてそれはロートとシュテルンも同じだった。二人とも無意識の内に拳を少し強く握り締めていた。
均衡が崩れたのは、一人の小人が倒れた時だった。
狼の出した氷柱は、真っ直ぐにある小人の方へと延びていたのだが、いざ当たろうという所で急に左右に分かれた。そして、その氷柱を砕こうと放たれていた後衛の小人の魔法は、氷柱が突然方向を変えたために外れ、その軌道の先にはもう一人の小人が控えていた。余りある魔力により放たれた魔法は、小人に当たると大爆発を起こしあたりの氷も一瞬にして塵と化した。
いくら魔力を蓄えられ防御力も高くなっている小人といえども、今の一撃を喰らって平然としていられるわけがない。その小人は寸時動きを止めた。機能が停止したわけではなさそうだが、衝撃で少し狂いが生じたようだ。そして、そんな無防備な姿を獣の前で晒せば、その結果は目に見えている。狼が氷塵舞う中で大きく咆哮すると、幾十もの氷柱が動きを止めた小人のもとへと突き進んでいった。それを食い止めようと小人が援護するも、地面から直接生える氷柱の進撃を食い止めることは不可能であり、氷柱は全て小人を貫いた。
一人目の小人は全身が脱力したようにゆっくりと倒れ、何かが割れるように散った。
「保たれていた均衡ガ、」
「崩れる!」
ロートもシュテルンも、驚きを隠せない様子で叫んだ。釣り合っていた天秤が一度傾いてしまえば、それをまた元の状態に、さらには逆側に傾けることはほぼ不可能だ。均衡というものは、それ程までに脆い。
だがゼーレにしてみれば、七人が六人に減ったとしても未だ多勢なのは小人の方だ、と思っていた。だから、これから起こることはゼーレの予想の範疇を越えていた。それと同時に、戦闘が如何に些細な事象をも加味するものだということを悟った。
六対一になった戦況は、その後も少しの間は均衡を保っているかのように見えた。一人減った小人達は、その戦陣を三人ずつに分けて同じように戦っていた。だが援護する小人が一人減ったことで、小人達の防御はいささか弱くなっていた。それを本能的に悟った狼は、前衛から少し距離を取り、魔法を中心に戦い始めた。その足が一つ地を踏む度に幾本の氷柱が、その喉が一つ咆哮を上げる度に幾十の氷柱が、小人達を襲った。回避行動を取ったり魔法で防ごうとするも、岩をも砕く小人の魔法では、大地を削ぐ狼の魔法の前では無力に等しかった。致命的な損傷を与えるには及ばないまでも、力の差は徐々にはっきりと見えるようになっていた。
「――まずいな」
ゼーレの隣ではロートがそう呟いていた。状況が悪い方向に動いていることはゼーレにも分かる。だがロートの考えていることはゼーレが思っていることとは違うように思えた。
「どうしたの?」
ゼーレは自分の無知を認めてロートに尋ねた。
「俺が以前戦った時とは違って、今のあの狼は少なくとも戦闘に関しては『頭が回って』いる。ただ氷柱を出すだけではなくて、戦況を判断して戦っているんです」
「つまリ、本能で戦う獣が知能で戦う『人』になろうとしていると?」
シュテルンが口を挟んだが、ロートは首を横に振った。ゼーレにもその意味が何となくだが解った。
「違う。あれは、今や両者を越えようとしている。もし本能と知能を駆使して戦うことが出来たら、ましてあの身体能力とツァオバーだ。太刀打ちできる奴なんて、このエルデにはいなくなるぞ」
シュテルンはロートの考えを聞くと、腕を組んで少し俯いてからおもむろに口を開いた。
「一つだケ、ありますよ。もう一匹いるはずノ、カプーツェを食した狼です」
ロートはそれに頷きこそすれ、決して表情を明るくはしなかった。何せ、その狼も今はヴァイゼーの手の中にあるからだ。
その時、ゼーレはふとあることを思い立った。狼という存在と、カプーツェの昔話、そして七年前の出来事。ゼーレは自分でも知らぬ内に言葉を発していた。何か、エルデから言葉を受け取ったような気がした。
「……もう一つあるわ」
ゼーレの呟きに、二人はきょとんとした顔をした。それもそうだろう。人の力を越えた存在に対抗出来るのは、同じく人の力を越えた存在だけだ。だがロートもシュテルンも失念している。狼が今何を媒介として活動しているのかを。
「ヴォルフよ。元々あの身体はヴォルフのものだもの。ヴォルフが内から抗えない道理はないわ。それに、真っ向からぶつかるのならともかく、内からの、精神的なことに関して言えばそこにツァオバーは関与しないはずよ」
ゼーレの言い分はもっともだった。だが今尚狼が暴れている以上それは成し遂げられておらず、しかも三人には手の打ち様がない。だがゼーレの言いたいことは二人にもはっきりと伝わったようで、二人は少し表情を柔らかくした。
「そうだな……」
「えエ、ヴォルフを信じるしかないですね」
ゼーレ達が驚いて視線を小人達の方に戻したのは、激しい爆発音がしたからだ。爆発というのには語弊があるかもしれない。それは、何かが弾けたような音だったからだ。
視線を移したその先では、狼の氷柱により二人の小人が串刺しとなっていた。身体をびくびくと痙攣させながら、次第に力を失っていったその二人の小人は、先程と同じように散った。これで戦況は四対一。とてもではないが、互角とは言い難い。先程までの七対一ならば互角と言えたかもしれない。だが今や、両者を乗せた天秤は完全に狼の方に傾倒している。小人が倒されるのももはや時間の問題だ。
「もう無理よ! 私達も加勢しましょう!」
ゼーレは状況を理解して勢い勇んで飛び出そうとするが、シュテルンに阻まれてしまった。理由は言われなくても分かる。ゼーレが飛び込んだ所で足手まといとなるのは明白だ。余計に小人を不利に追いやるのは目に見えている。
「無駄です。彼ら小人ハ、シュネーヴィッチェンを呼び起こすための鍵のはずです。彼らが滅びるのハ、もはや止めるべきではありません」
ゼーレはシュテルンの言っていることが皆目理解できなかった。シュテルンは、この町の秘密をまだ何か知っている。ゼーレは逸る心を抑えて踏み止まった。自分が無力であることは十分過ぎる程に知っている。今自分に出来ることは、無闇に飛び込んで戦況をかき回すことではない。ただ、見守ることしか出来ない。
四人にまで数を減らした小人は、大きくその戦陣を変えた。それは戦陣とは言えないかもしれない。二人の小人が、残った一人ずつを喰らったのだ。傍目から見ていては何が起きたのかまるで見当がつかない。魔動人形である以上、仲間割れであることはあり得ない。だとしたら考えられる可能性は一つに絞られる。つまり、魔力の吸収だ。小人を食すことで、その小人の魔力を我が物とするのだ。それはまるで、カプーツェを食した狼と同じようだった。
「まじかよ……。人形だからってここまでするのか」
ロートは小人の作戦に驚きの表情を見せた。と同時に僅かに疑問の色も見せた。苦肉の策だとしても、実際に同じ小人を喰らい魔力を吸収している以上、四対一よりも二対一の方が勝算があるということだ。だとしたら何故始めからそうしなかったのか。七人の小人に魔力を分散させれば、当然一人一人の力は弱くなる。
ロートは少し考えを巡らし、やがては答えに行き着いた。結局、長い歴史から考えて、七人が一番都合が良かったということだ。
「そうか。まさかたった一体の獣が相手だとは予期していなかったのか――」
ロートの独り言は、だがしかしゼーレにも聞こえていた。そしてその内容から、ロートの考えていたことは大方想像できた。
今までこの町で反逆が起きたとしても、それは人が起こしたもので規模がある程度大きかったはずだ。圧倒的な力を持つ小人といえども、たくさんの人を相手に一人では骨が折れる。負けることはないとしても、長い間町が紛争状態にあれば町自体が疲弊する。それを防ぐためにも、ある程度の数の小人が必要で、それが七人だったにすぎない。
二人となった小人は、狼に対峙すると両手を前に構えて魔法を放った。四本の腕から放たれた魔法は、色とりどりに輝き、狼の元へ着弾すると爆発を起こした。煙が晴れた後、そこには氷の壁で守られた無傷の狼が鋭い眼光で前方を睨み付けていた。だがそこには既に小人の姿はなかった。狼は横へと跳躍しそして再びもといた場所へと跳んだ。
狼が着地したのは先程の場所ではなく、つい一瞬前に振り下ろされた小人の腕の上だった。振り下ろされた拳により、地面には亀裂が走っている。
小人の腕に着地した狼は、直ぐに小人目掛けて牙を剥いた。今の小人の能力ならば、避けることも可能だったはずだ。だが小人は迫る牙を真っ向から受け止め、その牙は深々と小人の肩に食い込んだ。そのまま噛み切ろうとした狼だったが、不意に迫る小人の片腕により、身動きを封じられてしまった。端から片腕をくれるつもりで、小人はこの瞬間を狙っていたのだ。大きな小人の手に捕まった狼は、ぎりぎりと締め付けられる中、何とかその束縛から脱しようともがいていた。だが強靭な小人の腕力は、決してそれを許さなかった。
こうなっては殺られてしまうのは時間の問題のように思われた。だが狼は、自らが身動き出来ないのと同様に小人も身動き出来ないことを理解していた。今ならばどの攻撃も当てることが出来る、と。そうして地面から無数の氷柱が小人の腕目掛けて突き出してきた。
避ける術の無い小人だが、そもそも避けるつもりなどなかったかのように、突き出る氷柱に無抵抗だった。幾本もの氷柱が突き刺さってもなお、小人の腕は狼を捕らえて放さなかった。その企みは、まさに肉を切らせて骨を断つがごとし。途端に小人の身体から目映い光がこぼれ始めた。ここまで来れば誰にでも、小人が狼を道連れに自爆しようとしていることは理解出来る。狼もそれを察して氷柱を繰り出したり牙や爪でもがくが、小人の腕から逃れることは叶わなかった。
そして、小人の体躯は目を覆いたくなる程の光を放ち、大爆発を起こした。
岩を砕き鉱石を割る程の魔力を持つ小人が自らの命と引き換えに起こした最期の爆発は、シュヴェーベンの町に甚大な被害を与えた。爆心地は大きく削られ、周囲にあった建物は跡形もなく損壊し、そこに町があったことすら思わせない景色になってしまった。
その爆発の余波は、小人から少し離れて戦いを見ていた三人にも襲いかかった。各自がそれぞれの方法で身を守るも、その衝撃は凄まじく、少しでも気を許せば直ぐに吹き飛ばされてしまいそうなほどだった。
「くそ、何て威力だ」
「これが――白雪姫を守るための、最期の力……」
「これデ、残る小人は一人ですね」
爆発によって巻き上がった粉塵により、未だに視界は見通せないままで、狼がどうなったのか、残る小人がどうなったのかはまるで分からなかった。ただ三人とも、これで決着がついたとは思っていなかった。
そうして三人が巻き上がる粉塵に目を凝らしていると、不意に粉塵の中から二つの影が飛び出した。物凄い速度で肉弾戦を繰り広げながら、建物を足場にして町を駆け巡っている。一人となった小人は、それが人形であることを示すかのように、獣に対してまるで臆することなく淡々と戦闘を続けている。たとえ腕の一本を引き千切られ、腹部を喰い抉られたとしても、何の感情もなくその身が朽ちるまで戦い続けていた。小人にもはや勝ち目がないことは火を見るより明らかだった。
「限界、だな……」
「ですガ、戦果としては上々です」
ゼーレは二人の言葉を聞いて狼の方に目を凝らした。辛うじて合わせた焦点では、狼が肩で息をしているのが目に映った。圧倒的なまでの戦闘力を持つ狼でさえも、長時間の戦闘に疲労の色を見せている。
「この状態ならバ、あるいは四人でなら何とかなるかもしれません」
ゼーレはシュテルンの言葉に頷きかけて小首を傾げた。今この場にいるのはゼーレ、ロート、シュテルンの三人だけだ。小人と狼との戦闘への介入を許さなかったシュテルンが、今さら小人を四人目に含めるとは思えなかった。
「シュテルン、それってどういう――」
ゼーレが質問をみなまで言い終える前に、何かが砕けるような音が辺りに木霊した。ゼーレがシュテルンに向けていた視線を音のする方へ向け直すと、そこには幾本もの氷の槍に貫かれた小人の姿があった。先程とは違い、打算的なことなど何も無い、ただぶつかり合って小人が敗れただけだ。
びくびくと細かく痙攣する小人の前で狼が高らかに咆哮すると、それに合わせるかのようにして小人の身体は氷共々砕けた。残酷ながらも見ていて心奪われるような、この場の状況にひどく不釣り合いな美しい光景だった。
狼が最後の小人を倒したのとほぼ同時に、シュヴェーベンの町を大きな振動が襲った。がくんという、何か歯車の一つがずれたような音とともに、身体が一瞬浮いたような感覚がした。
ゼーレは身体の均衡を保ちながら、何が起きたのかを把握しようと周囲を見回した。するとどうだろう、ロートもシュテルンも、果ては狼も同じ方向を向いている。
「二人とも、どうしたの?」
二人に倣ってゼーレも同じ方向に、白い巨塔が聳える方向に意識を凝らした。その瞬間、ゼーレにも何故みなが一様な方向を向いているのか理解した。狼のものとは違う、肌を凍らせる程の冷気を放ちながらも温かさに満ちた気配が、塔の方から放たれている。
「な、何、この気配は……?」
ゼーレは確かに青色の魔力を感じていたが、魔力と呼ぶには明らかに異質だった。そして巨塔の方を仰ぐ内に視界に大きな変化が起きているのに気付いた。空が、蒼穹に浮かぶ雲が遠ざかっていくのだ。確かに雲は風に運ばれて移動するが、上下に移動することなどない。そしてゼーレはこの現象を理解した。
「シュヴェーベンが、墜ちている?!」
空中都市の落下、それこそがゼーレが導き出したものだった。小人の全滅、異質な魔力、空中都市の落下。三つの現象がほぼ同時に起こり、ゼーレの頭の中は混乱を来していた。
「やっぱ生きていたか、シュネーヴィッチェンは……」
ロートの呟きを聞いたゼーレは、その意味を知りたかった。この都市で一体何が起きているのかを。
「二人とも、どういうこと?」
シュテルンは意識こそ狼と塔に向けながらも、いつものように丁寧に教えてくれた。
「この町の仕組みハ、本当によく出来ています。アムレットの腕輪をみなに嵌めさせることデ、ハオベの力を奪い住民を統制しています。次いデ、そのツァオバーを以てシュヴェーベンを空中に浮かシ、空中楼閣を張ることで内部からも外部からも敵の襲撃を防いでいます」
ゼーレもそこまでのことは先日耳にしているので、既知の事実だ。だが今目の前で起きていることはその何れとも違う。
「シュヴェーベンの優れている点ハ、これの他にも更に防衛線を張っていることです。前二項が破られたとしてモ、町を護る小人がこれを迎撃するようになっています。ですガ、この小人達も破られた最悪の事態をもシュネーヴィッチェンは考慮しました。もしもそうなった場合にハ、確実に自分の力が必要になると。だからこソ、シュネーヴィッチェンは死ぬ訳にはいかなかったのです。この都市を最後の最後まで護るために」
ゼーレはそこまでの説明を受けて大方を理解した。理論自体は何かの本で読んだことがあったが、その時はとても信じられなかった。だが目の前の事実を見ればそれは確信に変わる。
「シュネーヴィッチェンは、自らを仮死状態にして生き長らえていた……?」
「えエ、今となってはそれは疑いようもないでしょう。そしテ、今シュヴェーベンが落ちていることを考えるト、シュネーヴィッチェンの意識がある内は浮遊のヘクセライは作動しないようです。もしかしたラ、この都市が地に墜ちる前に事態が収拾しなけれバ、都市もろともシュネーヴィッチェンは滅びようとしているのかもしれません」
鉄壁の仕組みがあるシュヴェーベンを落とせる程の脅威を、このエルデに放置しておくわけにはいかない。シュネーヴィッチェンはそう考えたのかもしれない。
シュテルンの言葉を受けてロートは大きくため息をついた。だがそのため息に落胆の色はなく、ただ状況を嘆いているかのようなため息だった。
「まったく、皮肉なもんだよな。白雪姫を起こすはずの王子様が、その白雪姫を滅ぼす者になろうとしているんだからな」
ロートの言うことも尤もだった。しかもその王子様は人ですらない。
ゼーレが驚愕で言葉を失っていると、今まで視線を向けていた巨塔が一瞬にして凍り付いた。それと同時に、肌をちくちくと刺激する冷気が町全体に広がった。
そして遂に、白雪姫がその姿を幾百年ぶりに現した。氷の巨塔の前に、宙に浮かぶ人影が見える。悠然と美しく宙に浮くその人は、ゆっくりと自らの創った町に降り立った。
「綺麗……」
舞い散る氷塵に浮かぶその姿に、ゼーレは感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。
だがゼーレがその美しさに心奪われているのとは異なり、ロートとシュテルンはその存在感に息を飲んでいた。
「ゼーレお嬢さん、そんな生易しいことを言ってる場合じゃないですよ」
ロートの声が僅かに上擦っているのがゼーレには理解出来なかった。狼や小人とは違い、人間であるシュネーヴィッチェンには言葉が通じる。ならばこちらが敵でないことは直ぐにでも分かってもらえるはずなのだ。
「確かニ、それについてはゼーレさんの言う通りなんですけどね」
シュテルンもまた煮え切らない様子でゼーレにそう言った。ゼーレは尚も首を傾げているので、ロートは緊張した声で尋ねた。
「解りませんか? このツァオバーの異常さが」
ゼーレもそれには気が付いていたが、それは敵であった場合に問題となるだけだ。ゼーレは今の心配事ではないと思っていた。なので当然話が食い違ってしまう。どうやら、ゼーレと二人の間には問題の捉え方に大きな溝があるようだった。
「人間にしテ、唯一ツァオバーを手にした存在。これが一体何を意味するのか。エルデの歴史上でモ、そのような人は一人しかいませんでした。シュネーヴィッチェンという人間ハ、人間しかいなかったかつての世界デ、唯一ツァオバーを有していたカプーツェと同じなんですよ」
シュテルンのその言葉を聞いた途端、ゼーレの頭の中で散在していた欠片が音を立てて組み上がっていった。シュテルンの言いたいことが瞬間的に理解出来た。カプーツェが成した偉業は、もはや誰に出来るものではない。ただ一人、シュネーヴィッチェンを除いて。
「ま、まさか、シュネーヴィッチェンもまたハオベを創造出来る存在だというの?」
可能性の話に過ぎないが、それだけの人物が今目の前にいるのだ。これでようやく、ゼーレにも二人が極度の緊張を強いられている理由が分かった。そしてその理由が分かってしまったために、ゼーレもまた身体が強張ってしまった。
「も、もしもシュネーヴィッチェンと狼とが戦ったら、一体どうなるの?」
両者の持つ魔力は、お互いに歴史を変える程のものだ。その両者がぶつかり合ったら、果たして世界すらも変わってしまうかもしれない。
「両者のツァオバーが仮に等しいとして、シュネーヴィッチェンと狼との違いは二つです。まず狼が人ではなく獣だということ。二つ目は、狼の持つツァオバーが元はカプーツェの物であるということです」
肉弾戦になれば当然人間よりも獣の方が強いし、魔力が模造のものであれば当然原物よりも劣る。前者の違いは狼に優位をもたらし、後者の違いはシュネーヴィッチェンに優位をもたらす。身体的には狼が強く、魔力的にはシュネーヴィッチェンが強いのだ。これではまるで見当が付かない。だが、それは仮に両者が万全な状態の話だ。今とは状況が違う。
「そう、狼は小人との連戦で疲労を来しているし、そもそもが自分の身体ではない。シュネーヴィッチェンの方も今仮死状態から目覚めたばかりだし、永くヘクセライを使っていなかった」
両者ともどこかで万全とは言えない状態にあり、とどのつまり勝負の行く末はまるで見当がつかないということだ。とはいえ、それは狼とシュネーヴィッチェンが一対一で正面からぶつかり合った場合だ。
シュテルンは謀ったような笑みを浮かべてぼんやりと呟いた。
「ですかラ、僕らとシュネーヴィッチェンが手を組めば充分に勝機があるということです」
問題なのは、今三人が立っている位置がシュネーヴィッチェンから距離があり、狼の方が近いということだ。
その時、狼が大きく咆哮して強靭な脚力でシュネーヴィッチェンの下へと跳躍した。その咆哮が、戦闘の第二幕の始まりを告げる鐘となった。
疲労のために若干速度を落としている狼だったが、それでも目で追うのがやっとだった。それ程の速度でシュネーヴィッチェンへと迫る狼は、鋭く尖った爪をシュネーヴィッチェンへと突き出した。その爪の先からは、狼の爪を象った氷の爪が伸びている。強大な魔力に速度を乗せて放たれたその攻撃は、累乗の効果をもつ絶対の攻撃だった。
シュネーヴィッチェンは狼の姿を完全に見据えながら、身動き一つ取ろうともせずに待ち構えていた。これではただの的だ。もうシュネーヴィッチェンの目と鼻の先には狼の爪が迫っている。
「危ない!」
手の届かない場所での戦闘に息を飲むしかないロートとシュテルン、そしてゼーレが叫んだその瞬間、シュネーヴィッチェンの目の前の空気が急に凍り付き、そこに氷の障壁を作り出した。それはまるで氷の結晶のような形をした、あまりに頼りないものだった。
だが狼の爪がそれに触れた瞬間、最強の矛と最強の盾は一瞬にして散った。
「――無駄です。貴方の攻撃では、私には敵わない」
シュネーヴィッチェンは狼の瞳を見つめてそう言った。まるで赤子を諭すかのように。だが口調とは裏腹に、その言葉に一切の感情は込められていなかった。完全に狼を敵として排除するつもりであるのは、遠くにいる三人にも即座に分かった。
「これが、カプーツェにも等しき存在……」
ゼーレは自分の足が震えているのを感じた。あまりの魔力に畏怖の念さえも感じる。シュネーヴィッチェンは先程、何も口にせずにあれ程の魔法を使ったのだ。
「ゼーレお嬢さん、悠長なことを言ってる場合じゃありませんよ。このままじゃあ、ヴォルフの奴殺されちまう」
ロートの言葉を聞きゼーレが二人に目を遣ると、二人は既にシュネーヴィッチェンの方へと駆けていた。ゼーレも慌てて震える足を鼓舞して後に続いた。
「一つ説明を加えておきますガ、シュネーヴィッチェンがヘクセライの名前を言わないのハ、偏に彼女がハオベではないからです。ですから人間の彼女にとってハ、先程のはヘクセライですらないんです」
頭では理解しながらも、ゼーレにはそれを納得することが出来なかった。いくら魔法とは異なるとはいえ、それは確実に魔力を使ったものだ。ハオベのゼーレにはそれをヘクセライと言わずして何と言うのか理解し難かった。
三人が距離を詰めていく間にも、シュネーヴィッチェンと狼は戦闘を繰り広げていた。だがそれは、単に狼の出す攻撃をシュネーヴィッチェンがあしらっているものに過ぎなかった。狼の出す全ての攻撃は、シュネーヴィッチェンの氷の障壁によって阻まれてしまう。
「退屈なだけです。次はこちらから参ります」
今まで防戦一方だったシュネーヴィッチェンはそう言うと攻撃に転じた。シュネーヴィッチェンが片手を上げて振り払うような仕草をすると、空中から氷の杭が現れて高速で狼へと迫った。
俊敏な動きで杭を避けたり、氷の壁で杭を防いだりする狼だったが、そのほとんどがぎりぎりのものだった。杭は狼の足を掠め、氷の壁を砕いた。力の差は歴然だった。
「待ってくれ!」
尚も攻撃の姿勢を見せようとするシュネーヴィッチェンに、ようやく声が届く距離まで近付いたロートは呼び掛けた。だがシュネーヴィッチェンは三人を一瞥すると、直ぐに視線を狼の方へと戻して攻撃を再開した。
「話を聞いて、シュネーヴィッチェン!」
ゼーレの言葉も、耳には届いているはずなのにシュネーヴィッチェンは反応を見せない。人間ならば、と過信していたゼーレは腹の奥底でふつふつと煮えたぎるものを感じた。力でのみ押さえ付けることしか出来ないのならば、そこに平和など存在しない。シュヴェーベンはただ恐怖政治を行っていたのと同じだ。
「確かにあの狼は暴れてはいるけれど、今のあなたがしていることは力を力で抑止する独裁者と同じよ!」
ゼーレは流石に言葉が過ぎたと思いながらも、ここまで言わないとまともに取り合ってもらえないとも思った。ロートもシュテルンもゼーレの言葉に目を丸くし、黙って事の成り行きを見ていた。
ゼーレの予想通りとも言えるが、シュネーヴィッチェンはゼーレの言葉にぴくりと反応し、鋭い眼光でゼーレを見据えた。攻撃の手も止まっている。
「あの狼に悪意はないの」
「獣ならばそのような高度な感情は持ち得ないでしょうね」
シュネーヴィッチェンの冷たい言葉は、開こうとしたゼーレの口を塞いだ。
事実上ゼーレと会話をしているシュネーヴィッチェンに、その時再び狼の攻撃が迫った。だがシュネーヴィッチェンが何をしなくても、氷の障壁はそれを完全に防いだ。
「あの狼は元はハオベで、私たちの仲間なの」
ゼーレは諦めずに言葉を続けた。口で言って直ぐに理解出来るものとは到底思えないが、それでも伝えるしかない。伝えるものが言葉でなくても、気持ちさえ伝えられればいい。
「ではあの狼を殺さずに、貴方達は首輪を繋いで連れ帰れるのですか?」
冷ややかな皮肉とともに返ってきた言葉は、シュネーヴィッチェンが一歩も譲る気がないことをはっきりと示していた。だが、そう、殺す必要はないのだ。ゼーレはそこを突いた。
「殺す必要はないわ! ただ捕らえて気絶させれば、あの狼はヴォルフに戻る」
シュネーヴィッチェンの眉がぴくりと動いた。
「ですが、シュヴェーベンをここまで追い詰める脅威を、野放しには出来ません。貴方達がいくらその彼を大切に思おうとも、現に彼は今暴走しているのです」
シュネーヴィッチェンの言うことはもっともだった。今のヴォルフは、完全にエルデにとって害にしかならない。
「ヴォルフじゃないわ!」
ゼーレはその時何も考えずに叫んでいた。自分の意志ではなかった。口がエルデを通じて独りでに言葉を紡いでいた。
「ヴォルフを利用してこのシュヴェーベンを、あなたを堕とそうとする者がいるの。ヴォルフはそれと戦っている……」
だがシュネーヴィッチェンはまるで嘲るようにふっと笑い、ただ一言吐き捨てた。
「ならばその者達も私が亡き者にするまでです」
ゼーレは、この議論がもはや無駄なものだと分かっていた。いくら説き伏せようとした所で、シュネーヴィッチェンには絶対的な力がある。だから、それを過信して振りかざすシュネーヴィッチェンがゼーレはたまらなく許せなかった。
「シュネーヴィッチェン! あなたという人は……」
ゼーレがそう言いかけた時、ゼーレの目の前にロートの腕が伸ばされた。ゼーレはそれで口を閉じざるを得ず、話を中断させたロートに苦言を言おうとした。だがロートの表情を見て、その言葉をも失った。
「ゼーレお嬢さん、もういいです。荒っぽくなりますが、ヴォルフは俺たちだけで守りましょう」
その瞳にはゼーレと同じく怒りがこもっていた。だがどこか哀しげでもある。そしてシュテルンと目を合わせて小さく頷いた。
「ゼーレお嬢さんは少し下がっていてください」
ゼーレはその言葉に一瞬言葉を失った。俺たちだけで、と言った矢先に戦線から離れろと、そう言うのだ。だがその口調は普段とは違い、有無を言わせない響きが込められていた。とはいえ、ゼーレは反論せずにはいられなかった。
「私も戦うわ! 私だって……」
その先を言おうとして、シュテルンの言葉にぴしゃりと制された。
「悪いですガ、はっきり言います。今のあなたでハ、足手まといにしかなりません。ロートの気持ちも考えテ、少し大人しくしていて下さい」
ゼーレはそう言われると返す言葉もなかった。自分が無力なのは身に沁みている。だから、というのも変だが、ヴォルフを守りたいという気持ちでは誰に負ける気もない。だが、気持ちだけでは何も守れはしないのだ。今のゼーレは、ただ二人を見守ることしか出来ない。ゼーレの身には、重量の増した無力感が襲い掛かった。
「ロートなラ、当然分かっていますよね?」
「ああ。シュネーヴィッチェンは敵じゃない。ただの障害物だ」
無力感に苛まされていたためもあったが、ゼーレは二人の会話の意味が瞬時には分からなかった。狼を攻撃しているシュネーヴィッチェンは明らかに三人とは敵対関係にある。だが、そもそもこの出来事が起きた原因を考えると、その理由も直ぐに理解できた。
事の根幹、それはヴァイゼーがヴォルフの中の狼を利用してこのシュヴェーベンを落とそうとしたことにある。そう、ヴァイゼーの狙いは端からシュネーヴィッチェンだったのだ。だとしたら、今ここでシュネーヴィッチェンと敵対することは、正にヴァイゼーの思う壺なのだ。ヴォルフが暴走してしまった今、それだけはあってはならない。
ロートとシュテルンは、狼とシュネーヴィッチェンとの間に割り込み互いの注意を逸らそうとした。だが、これでは背中合わせで一対一に持ち込んだだけだ。肉弾戦でこの両者に勝てるとは、二人とも思っていなかった。だからこそ、二人はシュネーヴィッチェンの側につくことで敵対関係を協力関係に変えようとした。幸い、暴走する狼を止めるという点ではシュネーヴィッチェンと目的を同じにしている。殺すか、抑えるかという違いはあるが、その時はその時で対立すればいい。
ロートとシュテルンは牽制の攻撃をすると直ぐにシュネーヴィッチェンの傍に移動した。これには流石のシュネーヴィッチェンも理解出来なかったのか、少し驚いたような表情をしている。
「どういうつもりですか? 私とは協力しないつもりではなかったのですか?」
「情けない話だがな、俺たちだけじゃあの狼は止められそうにない。だから今はシュネーヴィッチェンの側に着くしかないのさ。これならあんたも文句はないだろ?」
ロートは自嘲気味にそう言うと、先程の攻撃で巻き上がる砂塵に目を凝らした。
「私を利用しようというのですか。面白い」
シュネーヴィッチェンもまた口元に僅かに笑みを浮かべると、砂塵に目を凝らした。
「利用なんテ、人聞きが悪いですね。僕たちハ、協力しようと言っているのですよ」
シュテルンもまた状況を楽しむかのように微笑むと、目の前の砂塵に目を凝らした。
三人がそれぞれ違う感情で笑いながら、その視線は一点に集中していた。砂塵の中で揺らめく黒い影。三人は確実に狼の姿を捉えていた。そしてその影が急に消えたのも見逃さなかった。
「豪華絢爛!」
ロートは細く絞ったきらびやかな炎を左前方に向けて放った。真っ直ぐ延びていった炎の柱だったが、途中でまるで何かにぶつかるようにして蒸気へと変わった。
「今度ハ、そこですか。疾風迅雷!」
シュテルンは火柱が何かとぶつかった少し先に鋭い一閃の雷を放った。一瞬にしてその場所に到達した雷も、先程と同じように何かにぶつかるようにして弾けた。
「私が言うのも何ですが、厄介な物ですね、氷の盾というのは」
「ああ、まるで意志を持っているかのようにあの狼を守ってやがる」
「しかモ、その狼は自らの作り出す氷を足場にしテ、あの速度で空中を縦横無尽に走り回っています」
氷の足場を強靭な脚力で駆ける狼の動きを先読みしてそこに攻撃を仕掛けても、氷の壁に阻まれて狼には到達しない。野性のままに宙を疾走する狼は、まるでエルデその物が狼を生かそうとしているかのようにも見えた。
「――私が動きを止めます。あなた方は援護の方をお願いします」
シュネーヴィッチェンの言葉に、ロートとシュテルンは驚いて振り返った。今までの態度とは打って変わって、明らかな協力態勢を取っている。先程の様子を見る限りでは狼と一対一で戦っても引けは取らなさそうなのに。
「もしかして――」
ロートはある事に気付きそれを尋ねようとしたが、言いかけて口を閉じた。シュネーヴィッチェンが自ら言わないことに、ロートが茶々を入れるべきではない。今は三人で狼を止めることに専念するべきだ。
「危ない!」
シュテルンの声にはっとしたロートの目の前には、既に狼の爪が迫っていた。回避するにはもう間が詰まり過ぎている。戦いに専念しようとしていた矢先にこの様では、幸先が思いやられる。ロートは高速で迫り来る爪の軌道を先読みすると、魔力を溜めた腕で狼の腕を弾き、顔を逸らして何とか攻撃をかわした。だが、やはり全てを見切れたわけではなく、ロートの顔には狼の爪の痕が残っていた。軽傷という程度の傷だが、狼にはまだまだ戦う余力が残っているということを端的に示していた。
「接近戦では勝ち目がなさそうだから警戒してたのにな……」
ロートは自分の油断を叱咤しながら、狼から距離を置いた。その動作の最中、ロートは腕を大きく振るった。
「星火燎原!」
次の瞬間、幾百もの炎を帯びた流星が一気に狼のもとへと飛んでいった。だが狼は、その流星すらも足場にしてロートの攻撃をかわしていった。攻撃を避けられたロートの顔には、笑みが浮かんでいる。
「甘いな」
「光彩陸離!」
ロートから目配せを受けていたシュテルンは、その意図を汲み取り攻撃を重ねた。きらびやかな雷が、広範囲に向けて放たれた。その狙いは、狼だけではない。
シュテルンの放った雷はロートの放った流星に直撃すると、その流星を砕いた。砕かれた流星は、更に数個に数を増やしながらも勢いを失わずに辺りに拡散した。もはや、空中に逃げ場はない。
炎を纏った数多の礫は、狼の逃げ場を完全に奪いながら狼に迫った。回避は不可能であることを感覚的に理解した狼は、その意志と寸分違わぬ氷の障壁を前面に展開した。狼の張った氷の盾は何の苦もなく砕けた流星を全弾防いだが、ロートやシュテルンからすればこれも全て思惑の内だった。
「やはリ、退路を断つと動きが簡単に読めますね。相手が獣ならバ、尚のこと簡単です」
前方の炎の礫に気を取られていた狼は、後方に迫るシュネーヴィッチェンの氷の魔手に気付くのが遅れた。直ぐそこまで迫る氷は、狼を捕らえようと口を大きく開けている。前方には炎の礫が、後方には氷の手が迫っている。もはや狼にはどこにも逃げ場がなかった。
だが、狼は空中で身動きが取れないまま、その場で耳をつんざくような大きな咆哮を上げた。その瞬間、狼を爆心として何かが爆発するようにして一斉に氷が辺り一面に拡がった。四方に延びる氷の槍は、炎の礫と氷の手とを破るだけに止まらず、そのまま戦場にいる四人に襲いかかった。
「シュテルン! ゼーレお嬢さんを頼む!」
不安要素の拭えないロートは、シュテルンにそれだけを告げると直ぐにシュネーヴィッチェンの下へ駆け寄った。氷の槍が高速で迫る中で、ロートの杞憂であればいいのだが、気にかかる点はいくつかあった。
シュテルンは電光石火でゼーレの下まで近付くと、前面に難攻不落を出した。一人であればこの程度の攻撃ならば避けるのが最善なのだが、如何せんゼーレにそれを期待するのは尚早だ。以前、狼の攻撃は難攻不落をも打ち破ったが、シュテルンはあえてそれを承知で難攻不落を出した。これはある種の賭けだ。これで防げるようならば、狼はかなり疲労がたまっていることになる。
そして狼の氷の槍とシュテルンの難攻不落は正面からぶつかり合った。ぎりぎりという音を立てた後、両者はほぼ同時に砕け散った。シュテルンは自分達の勝利をほぼ確信して顔に笑みを浮かべた。だがそのような笑みも、次の瞬間目にしたものにより直ぐに凍り付いた。
シュネーヴィッチェンの下へ駆け寄ったロートは、難攻不落を直ぐに出せるようにしながらも自らは風林火山で氷を避ける備えをした。
杞憂であればいい。そう思っていたロートだったが、その心配は見事に的中してしまった。迫る氷の槍に対して同じく氷の盾で対抗しようとしたシュネーヴィッチェンが、突然胸を押さえて浮きながらその場で身動きを取らなくなってしまったのだ。
「くそ、やっぱりか! 難攻不落!!」
ロートはシュネーヴィッチェンの正面に移動すると、直ぐに難攻不落を張った。以前狼と対峙した時には難攻不落はいとも簡単に破られてしまったため、これで防げるとは思っていなかった。先程のシュテルンの例もある。狼に疲労があるとはいえ、ロートがどうにか出来る相手だとは思えなかった。
氷の槍と魔法による最大の盾が正面からぶつかり合った。互いに火の粉と氷塵を散らしながら拮抗していた槍と盾は、両者とも突然音を立てて砕け散った。ロートは目の前の光景に驚きを隠せなかったが、直ぐにまた緊張を張り巡らした。だが、視界のさらに先で起きている光景を目にした瞬間、息が止まり心臓が凍り付く思いがした。
氷の槍を防いだシュテルンの目の前には、既に狼の爪が高速で迫っていた。その間合いは、既にシュテルンに回避行動をさせるのをひどく困難にさせていた。しかも、狼とシュテルンを繋ぐ線分を延ばすとその先にはゼーレがいる。シュテルンは瞬間的にそれを理解すると、回避行動を諦めた。最初から回避行動をしたところで完全に避けられる可能性は高くない。ならば、とシュテルンは覚悟を決めた。
「すみませン、ロート……」
そして、シュテルンの脇腹を狼の爪が大きく抉った。一瞬鮮やかな朱い血飛沫が飛んだが、魔力の籠った狼の爪は傷口も含めて全てを凍り付かせた。切り裂かれ、そして即座に傷口を塞がれたシュテルンはそのまま意識を失い地へと墜ちていった。
シュテルンを切り裂いた狼は勢いを失っていなかったため、そのまま進めばゼーレをもその爪で捉えることが出来るはずだった。だが、シュテルンは狼に切られる瞬間に狼に拳を突き出してその軌道を強引にずらしていた。シュテルンの身を挺した行動により、狼の爪はゼーレを切り裂くことなく空を切った。目の前でシュテルンが落とされたのを見たゼーレは身動きすることも出来ずに、ただ狼が横を通過するのを身を硬くして待っているしか出来なかった。
「シュテルン!!」
ただ物理法則に従って落下するシュテルンを見て、ロートはそれ以上の言葉を発することが出来なかった。状況は今や限りなく絶望的だ。ゼーレは戦力としてそもそも期待出来ないし、シュネーヴィッチェンは永い仮死状態のために体力が激減し、そしてシュテルンは狼に切り裂かれて戦闘はもはや不可能となってしまった。実質、これからはロート一人で狼を止めなければならないことになる。
「くっそ……」
いくら狼も疲労し、その攻撃を青龍で防げるとしても、青龍でなければ防ぐことは出来ず、しかも相打ちが精一杯なのだ。人でしかないロートには、今の状況に光明など見出だせるはずもなかった。
「ゼーレお嬢さん! とりあえずシュテルンの治療を!」
ロートはゼーレにそう指示を出したが、ゼーレは何故か動こうとはしなかった。その時ロートの視界には、じっとゼーレを見据える狼の姿が映った。
ロートは一度振り返るとシュネーヴィッチェンの状態を確認した。空中に蹲ってはいるが、命に別状はなさそうだし時間が経てば援護くらいは出来そうだ。
「シュネーヴィッチェン、あなたはここでしばらく体力を回復していて下さい」
ロートはシュネーヴィッチェンにそう告げるとゆっくりと瞳を閉じた。視界に映らなくとも、シュネーヴィッチェンが頷いているのが解る。そしてロートは覚悟を決めると瞳を見開いた。確固たる意志がその眼には満ちていた。その全ての力は、生きるために。
「こうなりゃ短期決戦だ。背水之陣!!」
ロートがそう叫ぶと、ロートの身体の周りを何か赤いものが漂い始めた。自らの身体を自分の属性で包み込むこの魔法は、攻撃力、防御力に一定の威力を付加することが出来る。だが、絶えず朱雀を使うことになるので、幾分体力、魔力の消耗が激しい。文字通り、自らを背水の陣に置く魔法なのだ。
「風林火山!」
ロートは背水之陣を使った状態で風林火山を使い、更なる加速をつけて狼の方へと突き進んだ。狼とゼーレは未だに視線を交えたままで動こうとはしない。ロートにはこの状況が些か疑問に感じられた。ゼーレが動かないのは分かる。狼の視線に射竦められて動けないのだ。だが狼が動かない理由が思い付かない。疲労がある狼は早々に戦闘を終わらせたいはずだし、今の狼でもゼーレが相手ならば一瞬で片は付くはずだ。では、一体狼はゼーレの瞳に何を見ているのだろうか。
「星火燎原!!」
そこまで考えていたロートだったが、どのような答えが出せたところで結局ロートがやる事は一緒なのだということに気付いた。そして今や、ロートと狼との間合いは大分縮まっている。
短期決戦を決めたロートがそう叫びながら腕を前に出すと、その腕の先から先程出した物より遥かに強力な流星が凄まじい速度で狼に迫っていった。
ゼーレにのみ気を取られていた狼は僅かに反応が遅れたが、氷の足場を巧みに使い何の苦もなくロートの攻撃をかわしていった。
狼が視線を逸らしたために我に返ったゼーレは、ようやくシュテルンのもとへと下りていった。ゼーレが下りていく間にも、ロートは攻撃の手を緩めることなく怒涛の攻撃を続けていた。
「おい、ヴォルフ。もういい加減いいんじゃないのか?」
ゼーレが完全にシュテルンの所に着いたのを確認すると、ロートは攻撃の手を止めて狼に話し掛けた。通じているとは思っていないが、ロートはこれ以上ヴォルフが誰かを傷付けるのを見ていられなかった。何より、ヴォルフ自身のことを思うと胸が無性に痛くなってくるのだった。
ロートが話し掛けても、狼はただロートを鋭い眼光で睨み付けて唸るだけだった。そこには仲間としての感情などはなく、ただ敵意だけが剥き出しとなっていた。
ロートはぎりぎりと音が出る程に奥歯を噛み締めた。言葉が通じなければ、力で押さえ付けるしかない。
「俺はもう手を抜くつもりはないからな。――威風堂々!!」
ロートは両手を前に構えた。見る見る内に腕の先に膨大な魔力が溜まっていくのが狼にも分かったのか、狼は毛を逆立てるとそれを阻止しようと動き出した。
一つの咆哮で氷の槍を突き出し、二つの跳躍であっという間もなく間合いを詰めた。そして、牙と両爪との三つの攻撃を繰り出そうとした。
「……甘えよ。以前の俺だと思ったら大間違いだぜ!」
ロートは魔力の溜まった両腕を、迫る狼にではなく足元に向けて放った。目映い光がロートの足元でしたかと思った瞬間、その場からロートの姿が消えた。無論、狼の攻撃は虚しく空を切った。
ロートは攻撃魔法であるはずの威風堂々の上に乗り、そして高速で移動していた。だが生身のままで乗れば、当然その莫大な魔力により身は寸刻ともたずに砕けてしまうだろう。ロートはその魔力を、背水之陣を使うことで上手く相殺していた。
だが本来、威風堂々は地上でしか使うことの出来ない魔法だ。現に、今ロートは地上を縦横無尽に移動している。それに対して狼は氷を足場にして空中にいる。ロートの威風堂々が狼に当たらない以上、状況でいえば何も動いてはいない。むしろ、鳳凰という大技を使った分ロートが不利になったということすら出来る。
「だから甘いんだよ! 鳳凰の使い方は何も攻撃だけじゃない!」
空中からロートを見下ろして動かない狼に対して、ロートは口に笑みを浮かべながらそう言った。そして、威風堂々の上に乗り目にも留まらぬ速さで移動を始めた。その速さたるや、もはや疲労を来した狼の比ではなかった。
「豪華絢爛!!」
ロートは両手を目一杯に広げると、きらびやかな炎をその腕全体で揺らめかせた。狼を狙う攻撃でないことは明らかだった。
この時、感覚が鋭敏な狼ですら周囲で変化が起きていることに全く気付いていなかった。だが、それもロートの計った通りで、ロートは狼の真下を円の中心として威風堂々で高速で回っていたのだ。陽炎という、目に見える形でその変化が分かるようになって初めて、狼もその異常さに気が付いた。だが、気が付いた時には時既に遅く、狼の周囲には高熱の壁が出来ていた。
「……分かるか? 熱は上昇気流に乗り遥か空高くにまで昇り詰めていく。そこに回転を加えることで、更なる熱気と加速を与える。今やお前の周囲は高熱の竜巻が巻き起こっているんだ」
ロートは尚も回転を続けながら、両腕の炎を解いた。そして、威風堂々をも解いた。狼は周囲を見渡しながら、もはや逃げ場がないことを悟るとその身体を氷の盾で包み始めた。
「……今のお前の最強の氷の盾は、青龍で相殺出来る。だが、俺の攻撃は青龍でありながらその破壊力は青龍を凌駕する」
ロートは狼の真下に着くと、両手を前に出して魔力を溜め始めた。ロートとて、アムレットを着けたまま青龍を使い、鳳凰を使い並行して朱雀と白虎を使っていたので、体力的にも魔力的にも限界に近かった。既に肩で息をし、構えた腕は上下していた。
「臥竜鳳雛!!」
そして放たれた青龍最強の魔法は、ロートの腕を離れるとまるで意志を持つがごとくある一点を目指した。その目指す先は、ロートが作った熱風の壁だった。
「さあ、熱を喰らい育て!」
炎の竜が熱風の壁に触れた瞬間、それまで赤い色だった竜は途端にその色を青白いものへと変え、強さと速さと大きさを得て蜷局を巻きながら熱風の壁を登っていった。言葉で書くととても悠長なものになっているが、実際にはそんな生易しいものではなかった。遠目で見たら、まさに竜巻なのだ。それも瞬間的に出来た、青い龍の。
急な加速を付けて天へと登る青き竜は、その過程にある全てのものを飲み込んでいった。氷の壁に包まれた狼も、例外ではなかった。瞬く間もない内に、狼を守る氷は青い竜の中へとその姿を消した。
シュテルンを治療していたゼーレは、天空へと駆けていく竜を見て身の毛が弥立つのを感じた。ちりちりと身を焦がす程の熱気がゼーレに襲い掛かっているというのに、この時ゼーレが感じていたものは寒さだった。今まで身を守るため、目的を果たすために必死に求めていた魔法が、急に怖いものに感じられた。魔法というものは、これ程に全てを破壊する力を持っているのだということを、身を以て理解した。
「これが、カプーツェの遺そうとしたものなの……?」
肩で息をしながら真上を見上げるロートの目には、ただ青白い炎だけが映っていた。炎の真下にいるために熱さは殆ど感じていない。
ロートは炎を見つめながら何とも説明のつき難い思いを抱いていた。先程は高揚していたし、狼のあまりの存在感に思考も冷静さを失っていたが、果たして本気で青龍を使って良かったのだろうか。平常時の狼ならば、あの程度の攻撃はほぼ難なく防いでしまうだろう。だが、あの時の狼は少なからず疲弊していた。現に、狼の攻撃を青龍で相殺することが出来た。そんな狼に対して、青龍を越える大技を使い狼は無事でいられるだろうか。だがそう不安に思う一方で、ではもしもあの攻撃を防がれていたらこの先どうなるのか、とも考えてしまうのだ。今のロートでは、あの攻撃はもとより普通に戦うことも儘ならないだろう。もしもそうなったら、こちらが壊滅するのは目に見えている。
「あの狼は――どうなりましたか?」
あまりに物思いに耽っていたため、シュネーヴィッチェンが声を掛けてきて初めて、彼女が直ぐ隣にまで近付いてきているのに気が付いた。シュネーヴィッチェンもやはり全快したわけではないようで、少し辛そうにしている。時を越えるための代償は予想以上に大きいようだ。
「多分――、大丈夫だ」
それは、答えというよりはむしろロートの願望であった。狼が、ではなくヴォルフが、という意味で無意識の内に口を衝いて出ていた。
やがて、青白い炎は赤い炎へとその色を変え、そして何事も無かったかのように蒼穹へと消えていった。炎が消えても、その場所に狼の姿はなかった。
「おいおい、マジかよ」
まさか跡形もなく燃え尽きてしまうなど、ロートは想像だにしていなかった。シュネーヴィッチェンからすればこれで外敵の排除は叶ったのだろうが、ロート達からすればこれではまるで意味がない。
その時、空高くから何かがロート達の視線の先に落下した。落下の衝撃で地面が窪み、砂煙を巻き上げた。
「まさか――」
ロートは僅かな希望を胸にその落下物へと近付いた。仮に生身のままで落下したのだとしたら、命の保証は出来ない。
砂煙が晴れ、ロートとシュネーヴィッチェンがその落下物に充分に近付いてようやくそれが何であるかを認識出来た。
「くそ……」
ロートの期待は半分は当たり半分は外れていた。二人の目の前には、ひどく傷付いた狼が横たわっていた。かなり弱ってはいるが、まだ息はある。だが、それがロートの心配を増長させた。
「こんなに傷付いても、まだヴォルフには戻らないのかよ!?」
このままの状態では、ヴォルフの生命の危険にも繋がる。姿を元に戻すのは後回しにしてでも、今は治療を急ぐ必要がある。
ロートは辺りを少し見回し、ゼーレを見付けると声を張り上げた。
「ゼーレお嬢さん! こっちに来て狼の治療をお願いします!」
ロートの声を聞いたゼーレは一瞬シュテルンとロートとを見比べてから、立ち上がりロートの方へと駆けてきた。両者の距離は百歩とない。これからこの百歩の間に起きることを、一体誰が想像し得ただろうか。少なくとも、ロートとゼーレ、それにシュネーヴィッチェンには出来なかった。
突如、がくん、という音がして、次いで大きな衝撃が三人を襲った。狼と戦うことに集中していた三人は、今もなおシュヴェーベンが落下していることを失念していた。今この町がどの程度の高度にあるのかは分からないが、今の音からして更に落下速度が増したのは間違いない。急がねば、シュヴェーベンの数百年の浮遊の歴史が潰えてしまう。
そして、ゼーレがあと五十歩というところまで近付いた時に、それは起きた。
ロートは突然全身に寒気を感じた。この事態の最初に起きた冷たさには遠く及ばないが、それでもその感覚は同じだった。ゼーレの方を向いていたロートが狼を確認しようと身体を回した瞬間、ふっとロートの左腕の感覚が消えた。次いで襲う激痛に、ロートは声を抑えずにはいられなかった。
「ぐっ……ぁぁぁっ!」
ロートは一瞬何が起きたのか理解出来なかった。ロートの声にならない声が静かな町に虚しく木霊した。ロートは目の前で鮮やかな赤い液体が飛沫を上げているのを見て直ぐに理解した。自分は今、左腕を切り落とされたのだということを。
ロートは出血を防ごうと左肩を締め付けた。痛みが引いたわけではないが、耐えることは出来る。そして冷静さを取り戻したロートは、次に自分が血飛沫を上げていたことに思い至った。つまり狼は魔法を使わずに、いや、使えずに攻撃したのだ。魔法が使えない程に、狼は疲弊している。恐らく最後の足掻きになるだろう。だが、だからこそその最後の足掻きで誰かが犠牲になることがあってはならない。
「シュネーヴィッチェン、狼を捕らえることは出来るか?」
ロートはシュネーヴィッチェンの方に振り返りながらそう尋ねたが、シュネーヴィッチェンの先に映ったものを見るや否や、冷静な思考も直ぐに安直な行動になってしまった。今、狼は鋭い爪を構えて真っ直ぐにゼーレのもとへと駆けていたのだ。
「くっそ! 風林火山!!」
ロートは何も考えずに狼の方へと駆け出した。今の狼の移動速度は、ただの獣のそれと同じ程に遅くなっている。人の足では追い付けなくても、魔法を使えばその速度を上回ることは容易かった。問題なのは、間に合うかどうか、ただそれだけだ。
狼との距離は見る見る間に縮まっていったが、それと同じようにゼーレとの距離も詰まっていた。シュネーヴィッチェンも、狼を食い止めようと氷の槍を地面から突き出してはいるが、同じ氷の魔法を使うために冷気に敏感なのか、狼はその尽くを避けて進んでいた。
ゼーレは鬼気迫る様子で近付く狼を前に、腰が抜けて動けないでいた。これではただの的だ。攻撃を当てるだけならば、魔法を使うことよりも遥かに簡単だ。
そして遂に狼はその間合いにゼーレを捉え、そして強靭な前足で鋭い爪をゼーレに向けて突き立てた。もはやゼーレにかわす術は無かった。ゼーレは死を覚悟して、目を硬く瞑った。
だが、狼の攻撃がゼーレに届くことはなかった。間一髪で間に合ったロートが、その攻撃を食い止めていたのだ。しかし、ゼーレがその瞳を開けた時に目にした光景は、とても即座に理解出来るものではなかった。――ロートの背中から、狼の腕が生えていたのだ。
「え……?」
寸刻を置いてゼーレはようやくその状況を理解した。ロートは狼からゼーレを守るためにその生命を擲ち、自らの身で以て狼の攻撃を防いだのだ。
「こ、の――馬鹿野郎!」
ロートは狼の腕に胸を貫かれたまま、右の拳を硬く握り締めた。胸からは、じわりと赤いものが染み出している。
狼はロートの身体を貫いたことで逆に身動きを封じられたことに気付くと、直ぐにロートから離れようとした。だが、ロートが身体を張って作ったその僅かな時間さえあれば、シュネーヴィッチェンには充分だった。一瞬でも動きを止めてしまった狼の四肢は、シュネーヴィッチェンの氷によりがっちりと捕まっていた。これでは、もはや逃げることも叶わない。
「……いい加減、目を、覚ましやがれ――ヴェーア・ヴォルフ!!」
ロートは大量の血を吐きながらそう叫ぶと、きつく握った拳を振り上げ狼の側頭部を力一杯に殴り付けた。
風がさあっとシュヴェーベンの町を駆けていき、舞い散った氷塵が音を立てて割れた。その一陣の風が吹くのとほぼ同時に、町中に立ち込めていた冷気が、まるで急な春の訪れを告げるかのようにして消えた。駆け抜ける風はシュヴェーベンに温かな空気を送り込んだ。
ロートに殴られた狼は遂に体力の限界を迎え、殴られた頭部はぴくぴくと細かく痙攣していた。やがて狼の身体に異変が生じ始めた。伸びていた体毛や爪、牙は見る見る短くなり、容姿は人のそれに成っていった。
危機が去ったことを悟ったシュネーヴィッチェンは、狼を拘束していた氷を解いた。今や完全に元の姿に戻ったヴォルフは、支えを失うとその場に倒れた。その右腕は未だロートの胸を貫いたままで。
「ロート!! しっかり!」
ヴォルフが元に戻ったことを確認すると、ロートはもはや立っていることが出来ずに膝を折った。その衝撃でヴォルフの腕が胸から抜けると、真っ赤な鮮血が勢いよく噴いた。ゼーレは必死に白魔法を当てるものの、止血が間に合わずまるで意味を為さなかった。
「ロート! 死んじゃだめだからね!」
ロートの胸に翳していたゼーレの手を、ロートは震える手で掴んだ。そして、息も絶え絶えに口を開いた。
「悪ぃ。……俺、多分もう――無理みたいです。先に退場させて、もらいます」
「分かったから。もう喋らないでいいから!」
ロートが言葉を発する毎に、胸からは噴水のごとく血が噴き出した。ゼーレも、もはや手遅れでどうしようもないことは分かっていた。それでも、白魔法を当てることを止めなかった。他にどうしようもなかった。
「ゼーレお嬢さん――ヴォルフのこと……、頼みます」
ロートは口から大量に吐血し、その血はゼーレにも飛び散った。次第にロートの目は虚ろになり、瞳の輝きも失われ始めていた。ゼーレはぼろぼろと涙を溢しながら、それでも魔法を当て続け、声を掛け続けた。
「ロート! お願いだから! 死なないで!!」
だがやがて、ゼーレの腕を握っていたロートの手から力が抜け、それはゆっくりと地面に落ちた。それは、一つの生命が母なるエルデに還ったことを意味した。
ロートが目の前で死んだのを見届けながらも、ゼーレはその場から動くことも出来ず、ただ泣くことしか出来なかった。
「ヴォルフを頼むって言われたって……。だって、ロートがいなくなったら、誰が私の特訓の相手をしてくれるのよ? ロートがいなくなったら、誰が食事の時の会話を盛り上げてくれるのよ? ロートがいなくなったら、誰が、誰が……」
まるで走馬灯のように、今までのロートとの思い出が思い起こされた。ロートの容姿、性格、態度。その全てがゼーレやヴォルフ、シュテルンには必要なのだ。ロートの替わりは、どこの誰にも出来はしない。人の生命は、このエルデに二つとない、唯一無二のものなのだ。
「ロートッ!!」
ゼーレの悲痛な叫びは、応える者もなくただただ静かな町に木霊した。
第十四章
~飛花落葉~
「――はぁ」
ゼーレは大きなため息をついた。目の前の二台の寝台にはシュテルンと、そしてまるで死んだかのように深い眠りにいるヴォルフが横になっている。ゼーレの後ろには、人一人なら入れる程の大きさの箱がある。ゼーレは昨日起きたことが未だに信じられずにいた。
「――はぁ」
ゼーレは昨日のことを思い出しながら、再び大きなため息をついた。
「大丈夫ですか?」
悲愴に暮れるゼーレの下に、シュネーヴィッチェンは息を荒く肩を上下させながら近付いてきた。
辺りは、先程までの出来事がまるで嘘のように静寂に包まれている。その静寂の中、先程のロートの攻撃により生じた上昇気流は雨雲を作り出し、傷付いたシュヴェーベンの町に雨を降らせていた。
「ロート……」
目の前でロートを、しかもヴォルフによって殺されたその衝撃は、ゼーレの心に大きな穴を穿った。何も考えることが出来ず、ただ涙を流して状況を嘆くことしか出来なかった。
「ロート、ロート……」
まるで壊れた人形のように同じ言葉を繰り返すゼーレを、シュネーヴィッチェンは哀しみとともに怒りにも似た色を浮かべた瞳で見詰めていた。
「貴方に話があります」
シュネーヴィッチェンは無駄と知りつつもゼーレに話し掛けた。そしてシュネーヴィッチェンの思った通り、今のゼーレの耳には如何なる音も入っていなかった。降り頻る雨が肌を打つのも、ゼーレには分かっていなかった。
シュネーヴィッチェンはぎりりという音を立てる程に奥歯に力をこめた。そして、ゼーレの頬を思い切り平手で叩いた。
「いい加減にしなさい」
突然平手打ちを喰らったゼーレは、一瞬何が起きたのか理解出来ずにいた。数瞬の後に自らの頬に手を当て、驚きの表情でシュネーヴィッチェンの方を向いた。
「貴方が今すべき事は悲しみに暮れることではありません。私の話を聞いてください」
ゼーレはシュネーヴィッチェンのその凛とした態度を前に畏縮し、ただ小さく頷いた。
シュネーヴィッチェンは小さく息を吐くと、真っ直ぐな目をゼーレに向けて話し始めた。
「貴方もご存知の通り、今このシュヴェーベンの町は落下しています。時間の経過から、完全に地に墜ちるまでそう時間は残されていません。これを阻止するには、私が再び永い眠りにつくしかありません」
ゼーレは目の前の事実から目を逸らしたい一心で、シュネーヴィッチェンの言葉にのみ意識を集中させた。聞けば、もう時間が無いという。その話を今ゼーレにしたということは、つまり後の事はゼーレに任せるということを暗に言っているのだろう。未だに思考が麻痺しているゼーレでも、それくらいのことは理解出来た。
「私は、何をすればいいの?」
ゼーレがそう言ったのを聞くと、シュネーヴィッチェンは表情を軟らかくしてふっと微笑んだ。その笑顔には、全てを包み込む優しいもので溢れていた。
「ありがとう。町の人には、私から全てを話しておきます。安心してください。狼になっていた貴方達のお仲間のことは、町の人には上手く言い繕っておきます。休める場所も用意しますから、今はその傷付いた心と体をどうか癒してください」
ゼーレは最初、シュネーヴィッチェンの言葉が信じられなかった。狼となったヴォルフのことをつい先程まで本気で排除しようとしていたシュネーヴィッチェンとは、明らかに様子が違っていた。
だが、ゼーレには何となくシュネーヴィッチェンの気持ちが理解出来るような気がした。何か大切な物を護るためならば感情を捨てる覚悟もあるが、その災厄が去れば全てのものの幸福を願おうとする。力の無いゼーレには到底出来ないことでも、シュネーヴィッチェンには出来るのだ。
「……ありがとう」
ゼーレは自然と頭を下げていた。その行為に込められた思いは、感謝だけではなかった。
「貴方のご友人のことは、とても残念でなりません。ですが、どうか忘れないでください、彼の遺志を。貴方は強く生きなければなりません」
シュネーヴィッチェンの言葉は、ゼーレの心の奥にしっかりと届いていた。ゼーレはロートの亡骸を前にして、大きなものを失うのと同時に何かを得たような気がした。
ゼーレはすっくと立ち上がった。まもなく昼食の時分だ。シュネーヴィッチェンに招待されたこの宮殿のような建物は、格式ばっていてゼーレには少し居心地が悪かった。とはいえ、折角の好意に甘えているのは事実なので、ゼーレは文句を言える立場ではなかった。
町が復興のために喧騒に包まれているというのに、この宮殿内はまるで別世界で、そこには静寂しか無かった。行き交う人はみな白い正装を着こなしていて、ゼーレはどうにも身が竦んでしまった。
ロートが死にシュネーヴィッチェンが再び永い眠りにつき、ヴォルフとシュテルンが深い眠りにある今、ゼーレはたった一人きりだった。豪勢に振る舞われる昼食も、今のゼーレの舌には何の味わいも残さなかった。
そうして無気力なまま部屋に戻ったゼーレに出来ることは、ただ昏々と眠る二人を黙って見守ることだけだった。
「――はぁ」
先程から何度目かになる深いため息も、今は誰の耳にも届いていなかった。
シュテルンが目を覚ましたのは、その翌日のことだった。
受けた傷は深かったが、言ってしまえばそれだけだったシュテルンは意識も割とはっきりしていた。まだ身体を動かすのは辛そうだったが、シュテルンの気に掛ける事柄はただ一つだった。
「狼ハ、ヴォルフはどうなりましたか?」
ゼーレは答えに詰まり、どう返せばいいものかと黙りこくってしまった。
ゼーレの沈黙を、ヴォルフの身に何かあったものと受け取ったシュテルンは、重たい身体を無理矢理にでも起こそうとしながらゼーレを問い詰めた。
「まさカ、シュネーヴィッチェンがヴォルフを?」
現時点でシュテルンが考えられる最悪の状況は、シュネーヴィッチェンがヴォルフを殺してしまうことだった。だが現状では、違う意味での最悪の状況が待ち受けている。ゼーレはそれをシュテルンにどう説明すべきかが分からなかった。
「ううん。ヴォルフもシュネーヴィッチェンも無事よ。ただ……」
ゼーレには、どうしてもその先が言えなかった。だが、遅かれ早かれシュテルンには言わなければならない。ゼーレは首をぶんぶんと横に振ると、目の前の現実から目を背けるのを止めた。強く生きなさい、というシュネーヴィッチェンの言葉がゼーレの耳に今も聞こえてくる。
「あのね、シュテルン、最後までちゃんと聞いて欲しいの。シュテルンが気を失った後に何があったのかを」
そうして意を決したゼーレは、静かに語り始めた。言葉を慎重に選びながら、途中で何度もつっかえながらも、あの時に起きた全てのことを包み隠さずにシュテルンに話した。
「そんナ、まさカ……」
ゼーレの話を最後まで聞いたシュテルンでも、ロートの死を信じられずにいた。だが、ゼーレの後方にある箱はそれを事実としてシュテルンに突き付けている。あの棺の中にはロートの遺体が眠っているのだ。寝台の上で上体を起こしているシュテルンは両手で頭を抱えた。その表情にはいつも浮かべる笑みなどはなく、悲哀の表情が浮かんでいた。もしかしたら、これこそが初めて見せる本当のシュテルンの素顔だったのかもしれない。
「――ゼーレさん。僕にハ、一つ聞きたいことがあります」
しばらく俯いていたシュテルンは、そう言うと面を上げてゼーレの方を向いた。
ゼーレはシュテルンのその瞳を見た瞬間、全身が凍る程の寒さを感じた。シュテルンの瞳には、鳥肌が立つ程の殺気が籠められていた。それはまさに、猛る獅子の持つ瞳と同じだった。
「ロートを殺したのハ、僕らが倒さなければならない相手ハ、一体誰ですか?」
ゼーレはシュテルンの問いに息を呑んだ。ロートを殺したのは、直接的には狼だ。だがその肉体がヴォルフのものである以上、ヴォルフが殺したとも言える。しかしシュテルンはその様なことは一切聞いていない。シュヴェーベンで起きた全ての出来事を謀った人物のことを聞いているのだ。
ゼーレは拳をぐっと握り締めると、怒りに満ちた声を抑えて言った。今改めて意識する、エルデに歪みをもたらした人物。
「――ヴァイゼーよ」
ヴォルフが目覚めたのは、ロートの死から四日後のことだった。
元々外傷のあったわけではないヴォルフは、寝台から上体を起こすと部屋をぐるりと見回した。心なしか目が虚ろに見える。
「ヴォルフ! 目が覚めたのね!」
この四日間ずっとヴォルフのことを介抱していたゼーレの目の下にはくっきりと隈が出来ており、気疲れのためか少し窶れているようにも見える。
「良かったわ、ヴォルフが目覚めてくれて。あなた、四日間も眠ったままだったのよ?」
今はヴォルフの意識が目覚めたことを喜ぼうとするゼーレの気丈な態度が、逆に哀しかった。もう普通に動けるようになったシュテルンは、壁に寄り掛かってただヴォルフのことを見詰めていた。
右腕を上げたヴォルフは、焦点をそこに定めてじっと自分の腕を眺めていた。
部屋の雰囲気に、ゼーレもこれ以上言葉を続けることは出来ずに黙ってしまった。色の無い静寂が部屋の温度を奪っていく。
「ロート、すまない……」
不意に呻くような声で、ヴォルフは確かにそう言った。ゼーレもシュテルンも、ロートが死んだことはまだヴォルフに話していない。それにも関わらず、ヴォルフは既にその事実を知っていた。
「ヴォルフ、――どうして知っているの?」
ゼーレの疑問は、シュテルンにも同じだった。もしもロートを殺したという記憶があるのならば、それは即ちヴォルフに意識があったということだ。そうなると、みなが向けるべき怒りの対象は幾分揺らいでしまう。
ヴォルフは自らの右腕を抱えながら、苦渋に満ちた表情で静かに話し始めた。
「分からない。俺は覚えていないが、俺の身体は確かに覚えているんだ。本気でお前達を殺そうとしていた事を。そして――、この右腕がロートを貫いた事も」
ヴォルフの言葉は、何かを耐えているように聞こえた。遣り切れない思いがあるのは、その言葉だけでも充分に二人にも伝わった。だが、シュテルンは笑みを浮かべることもなく厳しい目をしたままでヴォルフの正面に立った。
「僕ハ、ヴォルフのことを責めたりはしません。ですガ、如何なる事情があったにせヨ、ロートを殺したのはあなたです。その事実だけハ、変わりません」
シュテルンの言葉は、今のヴォルフにはどんな矛よりも深く胸に突き刺さった。だが、真っ直ぐな言葉で身を裂かれた方が、温い慰めよりかは遥かに気が楽だ。
ヴォルフは顔を上げることもなく、ただシュテルンの言葉を身に刻み込むように聞き入っていた。
「ちょっとシュテルン! いくらなんでもそれは……」
「分かってる。俺が、ロートを殺したんだ。俺の弱さがこの状況を生み出したんだ。ならば、これは俺の罪であり与えらるべくして与えられた罰なんだ」
ヴォルフを気遣おうとするゼーレの言葉も、ヴォルフには何の気休めにもならなかった。だが、ヴォルフとてゼーレの性格を知っているからこそ、その厚意には気付いている。ヴォルフは全ての罰を自らの背に負う覚悟を決めていた。
「二人とも――、悪いが少し独りにしてくれないか」
今まで旅を続けてきたゼーレでも、ここまでヴォルフが沈み込んでいるのを見るのは初めてだった。それ程に、親友を失った痛みは、しかも自分の手で親友の命を奪った絶望感は深いのだろう。ヴォルフの心中を察するのならば、今は何も言わずに部屋を去るのが一番だ。二人はヴォルフの気持ちを思い、黙ったまま部屋から出ていった。二人が部屋を出る間際、シュテルンはまるで言葉をその場に置いていくようにそっと言った。
「ですガ、ヴォルフ。僕らハ、あなたを信じています」
廊下を歩き始めた二人の背後では、悲痛な声を上げる嗚咽が漏れ聞こえていた。
お互いに何も話すことなく並んで歩いていたゼーレとシュテルンだったが、特にどこを目指しているわけではなかった。ただ、二人とも心にぽっかりと大きな穴が空いてしまったように、焦点をどこに合わせることもなく足だけを動かしていた。
「――ねぇシュテルン。これから、どうするの?」
ゼーレはただ漠然とした質問を呟いた。ゼーレとしては、会話でもすることで何かに意識を向けたかったのかもしれない。正確な理由ですら、今のゼーレには断言出来なかった。
「そうですネ、僕ら三人がはっきりとした敵を定めることが出来た以上ハ、ヴァイゼーの討伐に向けてライヒに行くべきでしょうね」
シュテルンはそこで一息ついた。話の流れからすると、だがそれを出来ない理由があるように聞こえる。
「ですガ、今の僕らハ、肉体的にはともかくとしても精神的に非常に疲弊しています。ロートを失ったことによる戦力の激減モ、大きな痛手です。そして何よリ、ロートのことを埋葬してあげねばなりません。いずれにせヨ、もうしばらくはシュヴェーベンに滞在せざるを得ないでしょう」
シュテルンの言うことはどうして冷静で論理的だった。精神的に疲弊していると言ってはいたが、シュテルンにはもう冷静な思考力は戻っているのだ。
「そうね……」
他の要因はともかく、ゼーレもロートのことを丁重に弔ってあげたかった。
目的もなく歩いている内に、二人は宮殿内を一周して元の部屋の前に戻っていた。あれからどれ程の時が経ったのかは判然としない。当然、ヴォルフがどうなったかも二人には分からない。
「もう、大丈夫かしら?」
ゼーレはシュテルンにそう尋ねてみたものの、シュテルンは手を振って首を傾げた。シュテルンにも分かるわけがないのだ。
ゼーレはもう少し待つべきかを悩んだ後で、やはりヴォルフの様子が気になるので部屋に入ることを決めた。ゼーレは扉を数回叩くが、中からの返答はなかった。時間を空けて何回か扉を叩いても、ヴォルフの声がすることはなかった。
「妙ですね。中からハ、ヴォルフの気配がしません」
シュテルンがそう呟くのを背後に聞いたゼーレは、もはや迷うことなく取っ手に手をかけた。
「ヴォルフ、入るわよ」
ゼーレはそう一言だけ告げると、取っ手を回した。滑らかに回ったことから、鍵が掛かっていないことは直ぐに分かる。ゼーレはそのまま扉を押し開けた。
もぬけの殻とはまさにこの事を言うのだろう。部屋の中には、ヴォルフはおろかロートの遺体が入った棺すら無かった。
呆然と部屋の状況を見ていた二人だったが、直ぐに現状を理解してお互いに顔を見合わせた。
「早く探さないと!」
「今のヴォルフの心境ならバ、早まったことをしないとも限りません」
そう言うや、二人は同時に部屋の扉の方向へと走り出していた。まさかヴォルフがとは思うが、今のヴォルフの精神状態は非常に不安定だ。万が一ということも有り得る。
とはいえ、ヴォルフは目が覚めてから一度としてあの部屋を出たことがない。当然、今自分がどこにいるのかの見当はついてもこの宮殿の構造までを知っているはずはない。だとすれば、二人がヴォルフを探す場所はかなり限られてくる。
「この宮殿を知らないヴォルフなら、まず最初に広い場所か、或いは外へ出ようとするはずよ」
部屋を出た二人は廊下で二手に分かれた。ゼーレは頭の中に宮殿の地図を描き、自分の推理を呟きながら走った。
意識は走ることに向いていながら、ゼーレの思考は何か靄がかかったようにはっきりとしなかった。恍惚とも違う、何とも不思議な感覚だった。どこからか、声が聞こえているような気がした。ゼーレの足は、知らず知らずの内に当初の目的の場所から逸れた場所へ向かっていた。
「――見付けた」
息を切らしながらもゼーレが辿り着いた場所は、ゼーレが最初に推測した、広い場所でも宮殿の外でもなかった。一体何がゼーレをここまで導いたのか、ゼーレ自身分からなかった。ただ、何かに先導されるようにして足を運ばせたら、宮殿の頂上、シュヴェーベンを一望出来るこの場所に辿り着いた。ゼーレの視線の先には、棺の横で踞っているヴォルフの姿があった。
「もう、散々探したんだから」
気丈に振る舞うゼーレだったが、ヴォルフの小さくなった背中を見ると、その後に続けられる言葉など思い付かなかった。今のヴォルフが一体何を思い何を考えているのかなど、ゼーレには思いもよらなかった。
しばらく二人の間に沈黙が流れ、やがて陽が傾き始めた。世界を血の色に染める夕陽は、今の二人にはただただ絶望の象徴のように見えて仕方がなかった。
無意識に手を下ろしていたゼーレは、自分の手に何かが触れているのに気が付き、直ぐにそれが何であるのかを理解した。そして、ゼーレはおもむろにそれをヴォルフに差し出した。
「ヴォルフ、これ憶えている?」
ゼーレの言葉に、ヴォルフはようやく顔を動かしてゼーレの掌の上に乗ったものを見詰めた。その表情には、一瞬だが驚きに似たものが浮かんでいた。
「これは……」
久し振りに聞いたヴォルフの声は、まるで人が変わってしまったように弱々しかった。
「そう、ザルバイよ。昔、私がヴォルフを励まそうとして見せた花よ。ザルバイの花言葉は」
「感謝……」
ヴォルフがザルバイの花言葉をも覚えていたことにゼーレは少し嬉しさを感じた。だが、今この花に籠められた皆の想いは、感謝ではなかった。
「確かにそれもあるけど、ザルバイにはもう一つ花言葉があるの。それは――希望」
その言葉を聞いた瞬間、ザルバイの花を見ていたヴォルフの視線はゼーレへと向いた。何となくではあるが、ゼーレの言いたいことはヴォルフにも伝わった。
「私にはあなたが今何を想っているかを知ることは出来ない。でも、誰もヴォルフを責めたりはしないわ。ヴォルフが居なかったら、私はいつまでもフェアウアタイルングに捕らわれたままだった。ヴォルフは私に希望をくれた」
ヴォルフはだが、直ぐに視線を戻すと再び俯いてしまった。悩みなどは主観の問題だ。他人でしかないゼーレがどうこう出来る問題ではないのだ。
「お前は知っているか? ロートがザインの下で修行をしていた理由を」
しばらく沈黙していたヴォルフは、消え入るようなか細い声でゼーレにそう尋ねた。
「いいえ、知らないわ」
ヴォルフやロートがザインという白ずきんの下で修行をしていたという事実は以前ヴォルフから聞いたことがある。だが、その時はザインの末路に主眼が置かれていたので、他のことはそれ程詳しくは教えてもらっていなかった。
「――『生きるため』だ。そして、俺は『負けないため』だった。分かるか? 俺は一番負けたくないヴァイゼーや狼に『負け』、挙げ句『生きよう』とするロートを殺したんだ!」
ヴォルフは声を荒げてそう叫んだかと思うと、また直ぐに勢いを無くして黙りこくってしまった。
ゼーレもまた、ヴォルフの言うことが的を射ているので言葉を失ってしまった。だが、このままヴォルフを落ち込ませたままには出来ない。ゼーレはしばし瞳を閉じると、何か上手い言葉はないものかと思案し始めた。ヴォルフの意識を変えさせるには、心の奥底に眠る後悔の念を取り除かなければならない。
そしてゼーレはある事を思い付いた。これでヴォルフを説得出来るかは分からない。だが、ありとあらゆる可能性は試してみなければ成功には至らない。
「ヴォルフ、あなたは確か宗教には興味が無かったのよね? じゃあロートもそうだったのかしら?」
ゼーレは息を呑んでヴォルフの返答を待った。ヴォルフの答えはある程度予測がついているし、この応答によってゼーレの出方が変わるというわけではないが、何故か緊張してしまう。
「――知らない。だが、ロートの口から宗教の話を聞いたことはない」
やはり、その答えはゼーレの予想通りのものだった。ゼーレは少し間を空けて一息つくと、再び話し始めた。
「そう、ならば私達はヴォルフと私のお母さんの遺志に従いましょう? それが因果というものよ。――ロートをもう一度輪廻の中に戻すのよ。今のままでは、ロートの魂は肉体に縛られたまま、死んだままだわ。ロートに再び『生き』てもらうためには、魂を解放する必要があるわ」
ヴォルフは黙ったままだった。ヴォルフとて、何も未だにロートの死を受け入れられないわけではないだろう。もう一度ロートが生きられるのならば、それに抗う必要はないのだ。
そして、今のヴォルフには取り除かなければならない禍根がもう一つある。
「ヴォルフ、いつまでそうして沈み込んでいるの? これではあなたは負けたままよ。あなたのために尽くしてくれた人達の意思を蔑ろにはしないで。もう、自分の足で立ち上がりなさい」
ゼーレは優しく諭すようにそう言った。ゼーレが使える切り札は全て切った。後はヴォルフ次第だ。ゼーレはヴォルフの隣に腰かけると、あとは何も言わずにヴォルフの応えを待った。
またどれだけの時間が流れたことか、空は完全な暗闇へと変わり町の家屋には煌々と明かりが灯っている。それはまるで、数多の星が瞬いているかのようだった。
ゼーレがその光景に見とれていると、隣に座っていたヴォルフは不意に立ち上がった。
「――悪かった。そうだ、俺はこんな所で立ち止まっている場合ではないんだ」
その声にはやはりまだ元気がなかったが、ゼーレを見るその瞳には確かに強い意志が籠められていた。
ヴォルフが立ち上がったのでゼーレも立ち上がると、ヴォルフは棺へと視線を移して少し困った顔をした。
「お前はアルマハト教のやり方に従うと言ったが、俺は埋葬の仕方までは知らない」
「大丈夫よ。私、フェアウアタイルングにいた頃、何かの救いが欲しくて一通り宗教の事については学んだから」
ゼーレはにこりと笑うと、その方法をヴォルフに詳しく教えた。ロートを弔うのは、ヴォルフでなければならない。
一通りの説明を終えたのだが、それでもヴォルフはまだ少し困惑したような表情を浮かべている。
「どうしたの?」
自分の説明に不備があったのかと不安に思ったゼーレは、ヴォルフに尋ねた。
「ああ、シュテルンを探さないとな」
そう、今までロートと長い付き合いがあったシュテルンもまた、この場に立ち会わなければならない。二人は顔を見合わせて一つ頷くと、シュテルンを探すために扉の方へと振り向こうとした。
「大丈夫でス、それには及びませんよ」
突然聞こえてきた声の方向――つまりは扉の方なのだが、そちらに二人が視線を向けると、そこにはシュテルンが笑みを浮かべながら壁に寄り掛かって立っていた。
「二人とモ、全く探しましたよ。どうやラ、事は済んだようですね」
シュテルンはつかつかと足音を立てながら二人に近付いてきた。ヴォルフはシュテルンの足下を見ながら、近付いてくるシュテルンに対していつもの調子で話しかけた。
「――何が探した、だよ。シュテルン、お前こいつが来るよりも先にこの場所に着いてただろ」
ヴォルフはゼーレを指差しながら少し笑って言った。
「え?! そうなの?」
ゼーレはヴォルフとシュテルンの顔を見比べながら驚いていた。ゼーレがこの場所に来た時には、扉の付近には誰もいなかったのだから当然といえば当然だ。
シュテルンもまた、少し驚いて目を丸くしている。だが直ぐに顔に笑みを戻した。
「――どこデ、気が付きましたか?」
「足音だ。俺がこの場所にいた時、一回だけ足音が聞こえてな。その音は近付くだけで遠ざかる音はしなかったんだ。その時はそんなこと気にも留めていなかったんだが、今シュテルンの足音を聞いて思い出した」
ゼーレもシュテルンも、ヴォルフのことを信じられないという目で見ていた。二人とも、目の前でヴォルフが沈み込んでいる様子を見ているのだ。あの状態で足音を聞き分けることが出来るとは、二人とも俄には信じられなかった。
不意にシュテルンは手をぱちぱちと叩いた。
「いやはヤ、流石です。やはリ、ヴォルフは侮れませんね」
それから、シュテルンは少し間を空けてから言葉を続けた。
「ヴォルフもこの通りですシ、それでハ、そろそろ始めますか?」
シュテルンの言わんとする事は二人には直ぐに伝わった。今しなければならない事は談話に浸ることではない。
そうして、三人はロートへと向き直った。ヴォルフはゼーレの説明を反芻しながら、今までの想いを胸に込めた。見る見る内に、胸の前に出した拳が赤く灯り始めた。そして、ヴォルフは詠唱を始めた。
「小さきエルデの子らよ、今こそ汝の御魂を輪廻の渦へと還さん。再び森羅万象の一へと生まれ変わらんことを」
ヴォルフは握っていた拳をゆっくりと開いた。掌では小さな焔が、だがしっかりと力強く燃えていた。
ヴォルフは一歩踏み出して、その生命の火をロートへと移した。
一瞬にして広がった焔は、力強くではあるが優しくロートの身体を包んだ。夜の帳に燃ゆその焔は、さながらシュヴェーベンに灯る松明のようであった。人々の行く先を照らす、希望の光。
ゆっくりと燃え行く光景を目にし、三人ともが胸に同じ感情を抱いていた。それは喪失による悲愴ではない。もっと、心の奥を照らすような明るいものだった。ゼーレの瞳からは一滴の涙が零れて頬を伝った。
ロートの遺体が完全に灰へと変わると、三人はめいめいその灰を両手で掬った。その灰を胸の前に翳すと、お互いに顔を見遣り頷いた。
「再び森羅万象の一へと生まれ変わらんことを……」
そして、三人はその灰を宙へと放ち母なるエルデへと還した。さらさらと両の手から零れた灰は、風に乗り、町の明かりをきらきらと反射しながら蒼穹へと散っていった。
「さてト、これからどうしますか?」
シュテルンは一つ息をついてからヴォルフに向かってそう尋ねた。
「まだ俺達の旅は終わっていない」
ヴォルフはそこで間を置くと、固い瞳を見開いた。
「ヴァイゼーを叩く」
二人は大きく頷いた。だがこの時、ゼーレは言い様の知れない一抹の不安を感じていた。その不安の原因が何にあるのか、この時のゼーレには皆目見当がつかなかった。
ともすれ、三人は近い内にシュヴェーベンの町をあとにすることになる。恐らくこの町はこの先も空に在り続けるだろう。ロートの遺志を乗せて、遥かなる蒼穹を。
第十五章
~転迷開悟~
「これからどうする?」
三人はシュヴェーベンの宮殿内の、ある部屋で机を囲んでいた。議題は今後の方向性についてだ。ヴァイゼーの討伐を第一目標に据えた時点で、行き先はライヒに決定している。問題となるのは、その経路だ。
ライヒはフライシュタートの北東にあり、今三人がいるシュヴェーベンはフライシュタートの西に位置している。なので、直接向かうには少し距離がありすぎる。そうなると、どこかに経由地点を設けることになるのだが、今はそれを決めようとしているのだ。
「何か意見があるか? ここに寄りたい、でも何でもいい」
ヴォルフは大して期待もせずに二人の顔を見比べながら尋ねた。シュテルンは相変わらずの笑顔で手をひらひら振っているが、ゼーレの方は何か真剣な面持ちで考えている。
「私、ここから北にあるボーテという町に寄ってみたいわ」
ゼーレの主張は、ヴォルフとシュテルンの目を丸くさせるには充分なほどの意外性を秘めていた。何故なら、ゼーレがその手の発言をしたこともそうだが、はっきり言ってボーテには何も無いからだ。ボーテという町は、特筆することが無いようなごく小さなありふれた町なのだ。
二人が抱いた疑問を口にしたのはシュテルンの方だった。
「ええト、ゼーレさんはその町に何か用があるのですか?」
答えは分かりきっている。否だ。フェアウアタイルングにずっといたゼーレが、ボーテなどという小さな町に気を惹かれるとは思えないし、ヴォルフと旅を始めてからそのような素振りを見せたためしもない。
ゼーレは少し間を空けてからかぶりを振って答えた。
「いいえ。ただ、このままフライシュタート経由でライヒへ向かうよりは、少しでも多くの町を見てみたいと思ったからよ」
二人ともゼーレのその言葉を聞いて納得した。ゼーレが旅を続ける理由は、まさに「知るため」だからだ。
「確かにな。町に寄らずに最短経路で行くならば、ここから東北東へ真っ直ぐ行けばいい。だが食料事情を加味するならば最低一度は町に寄る必要がある。それも鑑みると、東のフライシュタートか北のボーテ、或いは北北西のラプンツェルくらいか。まあ、どのみち何も案が無ければ北経由で行こうと思っていたからな、それでいいだろ」
ヴォルフはゼーレとシュテルンの顔を交互に見回し、二人が頷くのを確認すると立ち上がった。
「なら早速出発するか」
ゼーレもシュテルンも異論は無かった。これ以上シュヴェーベンに留まると、ロートのことが思い出されて心が痛む。それは決して忘れてはいけない痛みだが、今はその痛みから遠ざかりたいという気持ちが三人の胸を占めていた。
ゼーレとシュテルンはヴォルフに続いて立ち上がると、それぞれが出発の仕度を始めた。
そして三人は、あの一件以来始めて宮殿の外へと出た。あれから数日しか経っていないというのに、まるであの出来事が夢か幻だったかのように町は再興を遂げていた。小人や狼が破壊した町並みは、物の見事に修復されていた。あの惨事を思わせる要因は、ただ今なお町に残る血の臭いだけだった。
シュネーヴィッチェンの言伝てがある三人がシュヴェーベンの入り口まで行くと、既に承知済みであるかのように、人間の一人は何の確認もせずに自動昇降機を作動させた。そして手で招くような動作をして三人を昇降機へと誘った。促されるがままに三人が昇降機に乗ったのを確認すると、その人間は昇降機を動かして下降させた。
「この町ともお別れね」
ゼーレは少し感慨に耽りそう呟いていた。がこん、という音とともに昇降機は静かに下降を始めた。目の前のシュヴェーベンの町並みは一瞬にして見えなくなり、その後直ぐに空が見えた。
下りる時の光景は、上ってくる時とはまた違う感慨を三人に与えた。俯瞰の風景が次第に目線の高さに迫ってくるのだ。シュヴェーベンにいた時間はそれ程長くはないが、やはりエルデの大地が恋しく思えてくる。
やがて昇降機は地面に着き、三人は大地へと降り立った。昇降機は再び機械的な音を立てると、遥かな蒼穹に浮くシュヴェーベンへと向けて上昇を始めた。
三人は昇降機が上っていくのを、それが空に浮かぶ大地へと消えていくまでただ黙って見詰めていた。
そして三人は北へ、ボーテを目指して歩き始めた。右手に太陽を見ながら歩く三人の口は、だが重かった。ヴォルフは元々無口だし、シュテルンの方から何か話題を振るということもあまりない。ゼーレもまた、三人の間の雰囲気が気まずいのに気付きながらも、上げられる話題が無かった。結果、必然的に三人の間で会話が為されることは無かった。こういう時、ロートがいれば少なからず会話に花が咲いていただろう。そういうことも考えてしまい、三人の口はただ重くなるばかりだった。
「ねぇヴォルフ。少し組手の相手をしてくれないかしら?」
無言でいることに耐えかねたのか、ボーテを目指して数日が経った頃、不意にゼーレはそう言った。今までならば、その役はロートが担っていたものだ。
ヴォルフは嫌そうな顔はしていないものの、少し困惑した顔をして答えを渋っていた。
「どうかしたの?」
ゼーレはヴォルフが答えない理由が分からず、そう問い質した。だがヴォルフは相変わらず曖昧にはぐらかしまるで答えようとしない。
二人のやり取りを見ていたシュテルンは、直ぐに何かを察したように一瞬だけ鋭い目をした。それからいつもの表情に戻り二人の会話に口を挟んできた。
「――ゼーレさん。どうやラ、ヴォルフは乗り気ではないようですのデ、僕が相手になりますよ」
「そ、そう? ならお願い」
ゼーレはそう言うと、ヴォルフの方に少し疑問の目を向けながらも、歩き出すシュテルンの後をついていった。
二人が組手を始めるのを、ヴォルフは少し距離を離して惚っと眺めていた。正直言って、先程のシュテルンの助け船にはとても助けられた。仮にシュテルンが口を挟まずにそのままヴォルフが組手の相手をしても、いつも通りヴォルフが勝つ形で終わっただろう。だが、その場合確実にゼーレのためにはならなかった。
「どうしたもんかな……」
ため息とともに発せられたヴォルフの呟きは、エルデに届くことなく媒介する空気の中へと消えていった。
その後、当然ながらシュテルンの勝ちで組手が終わり、三人は再び北を目指して歩き始めた。先程組手をしたせいでいくらか緊張がほどけたのか、ゼーレは少し饒舌に口を動かしていた。三人しかいないので、誰かがその相手をすれば必然的に会話は盛り上がった。だが、そんな中でもやはりヴォルフだけは少し元気が無いように見えた。
それから何日か歩き通して、ようやくボーテの町が見えてきた。やはり町の規模が小さいのか、町の様子が見えたのはかなり近くになってからだった。なので、三人がその気配に気付く方が遥かに先だった。
「ヴォルフ! この気配って」
「ああ、ここまで近付けば確実だ。ボーテにエーヴィヒがいるぞ! しかも数が半端じゃない」
三人の間に一瞬にして緊張が走った。エーヴィヒの数もその異様なまでの緊張の要因の一つではあるが、やはりロートの欠員が最大の要因といっても過言ではなかった。だが如何な状況にあろうとも、目の前にエーヴィヒがいる以上ヴォルフは戦わなければならなかった。今もなお血の運命に従うというのならば。
ボーテの町はもはや見るに耐えないものになっていた。元から小さい町に、並々ならぬ数のエーヴィヒが蠢いているのだ。町はもはや黒い物体で埋め尽くされていた。この惨状にあっては、生存者など望めるはずもなかった。
「くそ。こんな小さい町まで狙いやがって、ヴァイゼーの目的は一体何なんだ!?」
ヴォルフは憤りながらもそう口にしていた。答えなど、殆ど目に見えているというのに。ロートが欠けた今、戦力的に弱さのあるヴォルフらを、ボーテで待ち伏せして始末しようとしているのだ。或いは、ヴァイゼーはヴォルフの今の状態すら見極めているのかもしれない。
シュテルンはボーテへと駆けるヴォルフを横目に見ながら、誰と言わず尋ねていた。
「きちんト、戦えますか?」
その問いが誰に向けられたものであるかは明白だった。だから、ゼーレは誰も答えないことに驚き、自分に向けられたのではなかったかと少し戸惑った様子をしている。
一方、質問を向けられた当のヴォルフは、シュテルンの問いにさして何の感情も抱かなかった。その事ならばヴォルフが一番良く分かっている。だからこそ、その質問の答えは自分に言い聞かせるような口調で、そういう内容にならざるを得なかった。
「ああ、大丈夫だ!」
シュテルンにしてみれば、今のヴォルフの状態は狼から戻った時よりもひどく不安なものだった。今のままでも戦えないわけではない。だが、今のままではヴォルフは独りきりだ。導かれるものが何も無い。
自分の杞憂であればいいと、そう願いたいシュテルンの表情はしかし、依然硬くなったままだった。
町の入り口まで来ると、そこはもう戦線となっていた。一体どこからこれ程のエーヴィヒが湧いて来たのか考えられない程に、町は黒く蠢いていた。
ヴォルフとシュテルンは躊躇いもせずに快刀乱麻と紫電一閃で抜刀した。そしていざ行こうと駆け出した所で、背後からの声に気が付いた。
「伝家宝刀!!」
二人が驚いて振り向くと、そこではゼーレが抜刀の構えから白魔法の刀を取り出していた。まだ出来た刀に斑はあるが、それは立派な青龍の刀だった。
「お前、いつの間に青龍なんか……」
ゼーレの成長を見てきたのならば、今青龍が使えることもそれほど驚くべきことではない。だがそれにしても、ゼーレの成長速度は尋常ではなかった。しかもロートが亡くなってからは誰もゼーレの鍛練に付き合ってはいない。それもまた二人の驚きの原因となっていた。
「ゼーレさんの成長ぶりにハ、舌を巻くばかりですね」
ゼーレは一つ深い息を吐くと、二人に力強い瞳を向けて言い放った。
「私も戦うわ!」
その言葉が出ることは、ゼーレが青龍を出した時点で二人とも分かっていた。ヴォルフの口元はわずかに緩んでいた。
「分かってるな? エーヴィヒを殺すには、その首を両断するんだ」
ヴォルフの言葉にゼーレは大きく頷いた。人外の存在との正真正銘の殺し合いはゼーレにとっては初めてだ。いくらロートとの修練があったとしても、そう易々とこなせるものではない。だが、ヴォルフがゼーレに期待をかけていることもまた確かだった。
「足手まといにはなるなよ?」
ヴォルフのその言葉を皮切りに、三人は一斉に走り出した。それとほぼ同時に、町に蠢くエーヴィヒは三人の存在に気が付いた。
炎の刀を振るうヴォルフは、ちらちらとゼーレの様子を見ていた。いざという時のためになるべくゼーレから距離を離さないようにしてはいるが、今のヴォルフではそれも難しかった。常に目の前のエーヴィヒに意識を凝らしていなければならないのだ。相手を見なくても戦うことは出来る。だが意識は凝らさなければならない。この相反する状態を保つことは、ヴォルフにとっては初めてのこともありひどく困難だった。なので自然と視線と意識の両方をエーヴィヒに向けなければならなかった。
ゼーレもまた、初めての実戦のために目の前の相手を殺すことで精一杯だった。何せ数が半端ない。目の前のエーヴィヒを倒したと思っても直ぐに四方八方を囲まれている。それに加えて、エーヴィヒは首を断たねば死ぬことはない。殺し損ねることもままあり、一向にその数は減ることがなかった。
青龍を長時間使うことにもまだ全然慣れていないゼーレは、次第にその動きが衰え始めた。そして青龍の質も下がり始めていた。一振りではエーヴィヒの首を落とせないことも増えてきた。つまり、体力的に限界を迎えようとしているということだった。
一方、一番早い調子でエーヴィヒの首をはねているシュテルンではあるが、目の前の敵には集中出来ないでいた。何せ、不安要素が二つあり、そちらにも気を回さなければならないからだ。瞑想状態を維持していれば、敵の姿を見なくても戦うことは出来る。だが瞑想状態とはつまり意識をエルデに委ねることであり、そうすると他のことには一切意識を向けられなくなる。だから仕方無しに自らの感覚と戦闘経験のみで相手をしていくことになる。いつ起きてもおかしくはないその時を、シュテルンは不安な面持ちで待っていた。
そしてエーヴィヒの数をようやく三分の一ほどまで減らした頃に、それは前触れもなく訪れた。
肩で息をし始め、その光の刀ももはや白虎か青龍か区別がつかなくなっているゼーレの一振りが、エーヴィヒの首筋に当たった。だがその一閃は甲高い音を立てて弾かれた。全身に疲労を来たし始めていたゼーレは、弾かれた刀に身体の均衡をしばし奪われてしまった。ただそれだけならば、直ぐに体勢を立て直すことは可能だった。だがゼーレにとっての不運は、その一閃がエーヴィヒの首を半分程まで切断していたことだった。
エーヴィヒにとって動力ともなっている魔力は、胸部に蓄えられ、頭部で指令を下している。当然、その魔力は頭部にも回っている。その回路でもある首を中途半端に切断してしまうと、行き場を失くした魔力は外へと向けて放たれる。ゼーレの目の前では、まさにそれが起きていた。
突如として起きた大爆発は、未だ姿勢を崩し防御の構えすら取ることの出来ないゼーレを容赦なく巻き込んだ。
「ゼーレさん!」
「くっ!」
ヴォルフとシュテルンは、ほぼ同時に爆心地へと向けて駆け出していた。距離的にいえばヴォルフの方が近い。爆発の規模はかなり大きく、巻き起こった爆煙からは一つの影が飛び出した。それがゼーレであることは明らかであったが、問題なのは吹き飛ばされた方向だった。ヴォルフからの距離はある程度近かったが、シュテルンからは遠く、それでいて蠢くエーヴィヒの群れのど真ん中にゼーレはその身体を落とした。
意識は辛うじてあるものの、爆発の衝撃と落下の衝撃とでゼーレは身一つ動かせずにいた。そして、エーヴィヒは格好の餌が舞い込んできたかのように、一斉にゼーレに向けて襲いかかった。
「「難攻不落!!」」
ヴォルフとシュテルンはほぼ同時に同じ魔法を唱え、ヴォルフはゼーレのいる方向に駆け出していた。二人とも、この状況下でゼーレの身を守るための最良の方法を一瞬の内に思考し、そして迷うことなくそれを実行に移した。
だが如何せん距離が空きすぎていた。魔法が発動するまでの時間にもエーヴィヒは距離を詰め、そして難攻不落が現れた時にはその内側には既に何体ものエーヴィヒがその鋭い爪を持つ強靭な腕を振り上げていた。
この時にはヴォルフも何とか難攻不落の内部に入り込めていたが、それが限界だった。どんな魔法を使ったとしても、今からでは振り下ろされるエーヴィヒの腕を止めることは出来なかった。
「疾風迅雷!」
その時、凛とした声がボーテの町に響いた。次いで、一閃の雷光が真上からエーヴィヒを貫いた。そして、さらに数多の雷光がゼーレを取り囲むエーヴィヒの動きを止めていった。
ヴォルフは突然のことに反射的に視線を真上に向けた。太陽が眩しくて何も見えはしなかったが、それでも何が起きたのかは理解出来た。太陽の光の中に浮かんだ黒い点は、どんどん大きくなっていく。そして、それはヴォルフの目の前のエーヴィヒの上に落ちた。
「何を遊んでいる、ヴォルフ?」
彼女は月卿雲客で出した水の剣を真下に向けて、的確にエーヴィヒの首を貫いていた。鋭い視線、硬い意志、それに伴う強さ。彼女を形容する言葉のどれもに強さが秘められている。
「ヴァンナー!」
ヴォルフの目の前にいる女性は、ヴォルフが決して敵わなかったかつての同輩だった。エルデにおいて異端ともいえる、二色のずきんを有する者。そしてその異端を異端でなくすために強さを求めた者。
ヴァンナーはエーヴィヒの首から月卿雲客を抜くと、その刃の切っ先をヴォルフに向けた。ヴォルフはヴァンナーの放つ気があまりに鋭かったので少し身を引いた。
「もう一度言う。ヴォルフ、何を遊んでいる?」
ヴォルフは答えに窮した。何も質問が難解なわけではない。ただ、ヴァンナーの雰囲気が以前にもまして刺々しく感じられてしまうのだ。
「遊んでいたわけじゃない。不可抗力だ」
ヴォルフがそう答えても、ヴァンナーは表情一つ変えずにヴォルフの瞳の、その奥を見据えていた。そして背中を向けて言った。
「後で話がある。このエーヴィヒ達を片付けるまで死ぬなよ?」
「なっ、誰が!」
ヴォルフが言葉を終えるよりも先に、ヴァンナーはエーヴィヒの下へと駆け出していた。ヴォルフもまた快刀乱麻で刀を出すと、ヴァンナーの後について駆け出した。
突然の攻撃により動きを封じられたエーヴィヒだったが、それでもエーヴィヒにとってはせいぜい少し痺れたくらいでしかない。直ぐに身体の自由を取り戻すと、再びゼーレに向けて腕を振り上げた。だが次の瞬間、エーヴィヒが振り上げたその腕の先が見事に消えていた。知能の殆どないエーヴィヒといえど、本能的に自らの腕が切断されたのだということには気が付いた。だがエーヴィヒがその結論に至る時には、エーヴィヒの首は二人のハオベによって切り落とされているのだった。
ヴォルフはエーヴィヒの首を無心に切り落としながらも、ヴァンナーの動きを観察していた。以前よりも遥かに動きに無駄がなく、それでいて動きが鋭い。ヴォルフは今の自分の姿を重ね合わせると、音が立つ程に奥歯を強く噛み締めた。
戦闘が終わる頃には、もう陽の光は赤みを帯びていて、ボーテの町を血の色に染め上げていた。人数が三人に増えたものの、エーヴィヒの数も多かったため、戦闘時間でいえばアジールの時よりもいくらか長い位だった。ずっと腰が抜けていたゼーレを除き、ずっと戦闘を続けていたヴォルフ、ヴァンナー、シュテルンは肩で息をし、立っているのもやっとだった。
エーヴィヒの首に突き立てていた紫電一閃を引き抜いたシュテルンは、ふらふらになりながらもヴォルフの傍へと近付いてきた。これで四人はかなりの至近距離に集まったことになる。
「こちらの方ガ、ホーホブルクにおいテ、ヴォルフが言っていたヴァンナーさんですか?」
ヴォルフは確かにと頷いた。ゼーレもシュテルンも、話は聞いているがヴァンナーと直接会うのは初めてだ。
息を落ち着かせたヴァンナーは、ヴォルフの方に鋭い視線を向けると、さらにヴォルフとの距離を詰めた。
「ヴォルフ、私と手合いをしろ」
ヴァンナーは突然ヴォルフに向けてそう言った。凄みを利かせてそう言われては、ヴォルフに断ることなど出来なかった。だがそうかと言って、ヴォルフにはヴァンナーが何を企んでいるのかがおおよそ分かっている。尻込みをしてしまうのも無理のないことではあった。
「何故そんな必要がある?」
虚勢を張ってはみるものの、ヴォルフは自分で自分が情けなく感じられた。自分の弱さが招いた今の状況を、何とか誤魔化そうとしている自分がひどく見苦しく思えた。
「ならば、ヴォルフは何故断る必要がある?」
ヴァンナーは一向に表情を変えず口調を変えず、硬い表情のまま抑圧的な口調のままだった。
始めから断り切れないことが分かっていたヴォルフは、早々に折れた。それもまたいいかもしれない。ヴォルフはヴァンナーの目を見据えたまま少し間を空けてから言った。
「分かったよ」
そうして二人は未だ疲れの残る身体のままで互いに距離を空けた。その中間にはシュテルンが立ち、審判役を買って出た。
シュテルンはおもむろに片手を挙げると、寸刻の後にそれをさっと下に振り下ろした。それが手合いの始まりの合図となった。
ヴォルフは軽く瞳を閉じてから、かっと見開いて走り出した。どうせ勝負が接近戦になることは経験的に分かっている。ならば距離を詰めることに躊躇う必要はない。
「金烏玉兎!」
だが一方のヴァンナーは、青龍最大の攻撃で遠距離から攻撃を仕掛けてきた。疲労を来している身体でそのような大きな魔法を使うことに、はっきり言って利点はない。
「気でも違えたか、ヴァンナー!?」
ヴォルフはヴァンナーの繰り出す金色の太陽をしかと見た。軌道と間合いさえ掴めれば、かわすことは出来るし、同じ青龍を宛がえば軌道を逸らせることも出来る。
ヴォルフはそのまま風林火山を使って斜め前方へと疾駆した。わざわざ青龍同士で相打ちに持ち込むよりも、避けた方が労力は遥かに少ない。
ヴァンナーの金烏玉兎は地面に衝突すると、辺りに放電してからやがて消滅した。やはり先程の戦闘の疲れが祟っているのか、威力は低くなっているようだった。
「画竜点睛!」
今かわした後方にちらと視線を向けていたヴォルフは、前方からするヴァンナーの声に直ぐに意識をそちらに移した。見ると、ヴァンナーは両手を前に構えていた。
画竜点睛は赤魔法でいうところの臥竜鳳雛だ。つまり青龍により水の竜を作り出す魔法だ。先程ヴァンナーが使った金烏玉兎と同系列の魔法といえる。
そのような大技を二回も続けて使うとなると、いよいよヴァンナーは戦い方を忘れてしまったのではないかと思えてくる。いずれにせよ、ヴォルフはそれをかわして間合いを詰めるまでだ。
大きく躯をくねらせて近付いてくる水の竜は、一直線にヴォルフ目掛けて飛翔した。ヴォルフは水の竜の攻撃を掻い潜れるごく僅かな地点を見極め、そこへと疾走した。恐らくはヴァンナーの次の攻撃もそこに照準を合わせてくるであろう。だが長時間の戦闘の後に青龍最大級の攻撃を二発も放ったヴァンナーに、ヴォルフを一撃の元に平伏させることの出来る余力が残っているとは思えなかった。
ヴォルフが見極めたその地点に辿り着いた時には、ヴァンナーは既にそこで月卿雲客を構えていた。
「ここまではお互い予想の通りだろう?」
ヴァンナーが視線を交えることなくそう言った。ヴォルフは大きく跳躍すると快刀乱麻を振りかぶった。
「ああ、最初のお前の奇行以外はな!」
そしてヴォルフがその刃を振り下ろしたのと同時に、先程ヴァンナーが放った画竜点睛も地面に衝突して辺りに雨を降らせた。
二人が互いに剣を交えたのはごくわずかな時間のみで、後はひたすらに剣の乱舞を繰り出したりかわしたりの繰り返しだった。この時にはヴォルフはまだ気が付いていなかった。既に勝負が決していることに。
何となくではあるが、ヴォルフはヴァンナーの握る剣に込められる力が弱くなっているのを感じた。それは微細という程微々たるものではなく、少し気を付ければ直ぐに気が付く程ではあった。
「どうした? 疲れてきたか?」
それをヴァンナーの疲れのためだと考えたヴォルフは、挑発もこめてそう言った。だがそのヴォルフの言葉に返ってきた台詞は、思いも寄らぬものだった。
「この馬鹿が……」
それは思いも寄らぬ方向から聞こえてきた。背後からの声にヴォルフがはっとして振り向くよりも早く、ヴォルフの手は捻り上げられ、次いで足を掛けられて転ばされ、最後に首筋に刃を突き付けられた。最後に聞いたヴァンナーの声には、どこか哀れみが含まれているように感じられた。
目の前でヴォルフを見下ろしているヴァンナーは、刀を仕舞うと表情を変えずに立ち上がった。解放されたヴォルフは、だが上体を起こすことしか出来ずにただ呆然としていた。
「何が起きたか分からないか?」
ヴァンナーは答えを知りつつもヴォルフにそう尋ねていた。
「いや、そんなんじゃない……」
そして返ってきた答えは確かにヴァンナーの予想通りのものであった。
そう、ヴォルフはヴァンナーが何をして、自分の身に何が起きたのかを全て理解している。一言で済ませるのならば、玄武に騙された、ということだけだ。だがその過程には巧みにその企てを隠そうとする工夫が為されている。しかしヴォルフが驚いているのはそんな事ではなかった。
順を追って説明するなら、まずヴァンナーが放った金烏玉兎。これはヴォルフの慢心を誘うという意味もあるが、一番は何と言っても後の画竜点睛に意味を持たせないように思わせることだ。そしてその画竜点睛だが、これの目的はただ一つ。辺りに水を撒き散らすことである。雨を降らせる魔法ならば他にもあるが、あえてこの魔法を使ったのは、この画竜点睛のみが周りに水を放ち、かつ攻撃用としても申し分無かったからだ。
では、何故ヴァンナーは辺りに水を撒き散らす必要があったのか。言わずもがな、玄武をより巧みに使うためだ。ヴァンナーは自らの身体を水に溶かす玄武、明鏡止水を使ってヴォルフの前から姿を消した。もちろん、青龍と玄武で自らの分身を拵えて。水を撒き散らした方が、空気中の水分は増えてより溶け込み易くなるし、何より温度の変化が少なくなるためヴォルフの目を誤魔化せることが出来る。
そう、理解するのはこれ程に容易い。だからこそヴォルフは驚いて声も上げられずにいるのだ。今の自分が、如何に戦力として心許ないかを痛感してしまったから。その原因はただ一つだけだった。
「ヴォルフ」
ヴァンナーの呼び掛けには鋭さが込められていた。ヴォルフは今まさにそれが指摘されるのだということを直感していた。
「ヴォルフは今、エルデと繋がっていないな?」
ヴォルフは顔を上げることも出来なかった。エルデと繋がるということは、エルデと一体となるということ。それは則ち、瞑想状態の第三段階に値する。エルデと繋がってさえいれば、ヴァンナーが水に溶けているのだということも、エルデそのものが教えてくれる。ヴァンナーは端からそれを知るためだけに明鏡止水という魔法を使った。ヴォルフの現状の弱さを端的に知らしめるために。
「何を立ち止まっているんだ? その程度で何かを達せられると思っているのか? 笑わせるな」
ヴァンナーの言葉はヴォルフの胸に深く刻み込まれた。瞑想状態になれないだけで、戦局は大きく傾く。今のヴォルフは、少し腕のたつ者が相手ならば容易く負けてしまうだろう。それ程に、エルデと通じていることは力となるのだ。
ヴォルフとエルデとの繋がりが断たれてしまったのは、偏にヴォルフに迷いがあったからだ。その迷いの根源はただ一つ、ロートを殺してしまったことによる呵責だった。自分で振り切ったつもりではいても、ロートのことを考えると後悔の念を覚えずにはいられない。
「……じゃあヴァンナーは迷わずにいられるのか?」
ヴォルフは顔を上げると、シュヴェーベンで起きた顛末の全てを子細に話した。ヴァイゼーに仕組まれてヴォルフが狼になったこと。それを止めるためにシュネーヴィッチェンが永きに渡る眠りから目覚めたこと。だがその力を以てしても狼を止めることは出来ずに、挙げ句の果てにロートを殺めてしまったこと。
ヴァンナーは口を挟むことなく最後まで静かに聞き通した。終始変わらぬ表情からは、ヴァンナーが何を考えているのかを量り知ることは出来なかった。
ヴォルフが語り終えてしばらく沈黙していると、ヴァンナーはヴォルフをじっと見据えた後にふっと口元を緩めた。
「下らない。ヴォルフはそんなことで迷っていたのか?」
ヴォルフは一瞬ヴァンナーが何を言っているのか理解出来なかった。だが直ぐに腹の奥で何かが突沸するのを感じた。
「そんなことだと! ヴァンナー、ロートの死を愚弄する気か?!」
「いい加減にしろ」
ヴォルフの激しい怒りは、ヴァンナーのぴしゃりと言い放たれた言葉によって直ぐに勢いを失った。ヴァンナーは相変わらず厳しい口調で言を重ねた。
「ヴォルフ、いつまでも自分の価値観に閉じ籠るな。ロートの死を愚弄した? それこそヴォルフの独り善がりな考えだ。ロートがいつ自分の死を後悔した? そんなものヴォルフに分かる訳がない。勿論私にもな。そうだ、他人の気持ちなんて分かる訳がないんだ。だからヴォルフ……」
その時、ヴァンナーの雰囲気がふっと変わるのをヴォルフは感じた。突然口調が柔らかく、優しくなった。心なしか目付きも、表情の全てが優しくなったように思えた。
「ヴォルフは自分のやりたいことをやればいい。それが血の運命だろうが何だろうが、ヴォルフの信じるようにすればいいんだ。誰にも文句を言う資格はないのだから」
ヴァンナーの言葉を聞いた瞬間、ヴォルフの頭は一瞬真っ白になり、一陣の風が吹いたような気がした。今までの後悔を明日への希望に変える、温かい風が。
ヴォルフは何の言葉も出せなかった。これまでこれ程に単純で、それでいてこれ程に重みのある言葉を掛けてくれた人が他にいただろうか。
様々な記憶が脳裏を過り、色々な感情が頭の中を駆け巡った。生まれるものは明るい感情、消えていくのは暗い感情。そして行き着いた先は、母なるエルデ、全ての生ある者を優しく包み込む温かなエルデだった。
今まさに、ヴォルフの心を縛り付けていた全てのしがらみが解き放たれた。
しばらく沈黙を通していたヴォルフは、立ち上がるとヴァンナーの瞳をじっと見据えた。ヴァンナーは何も言わずに、ただヴォルフを待っていた。
「ヴァンナー、ありがとう」
ヴォルフがそう言うと、ヴァンナーは表情を昔のままの、少し不機嫌なものに戻してヴォルフに背を向けた。
「何のことかしらね」
そう言いながらも、ヴァンナーの手はヴォルフに向けてひらひらと振られていた。
ヴォルフにはもう何の迷いもなかった。全ては己が信じるもののため、自分の心に従うだけだ。
「ところで、ヴァンナーはどうしてボーテに来たんだ?」
ヴォルフはふと思った疑問をヴァンナーに投げ掛けていた。ヴァンナーの目的は温かな世界を守ることだったはずだ。そのためにエーヴィヒを駆逐することは理に叶っているとしても、わざわざボーテに至る理由はない。
「ヴォルフには言ってなかったかもしれないが、私の故郷はここより北にある。そこに一度戻ってから、私が求める町の形をしているかもしれないシュヴェーベンとフライシュタートを見に行こうとしたんだ。その途中でこのボーテに寄った」
だが、とヴァンナーはその後も言葉を続けた。そう、今はシュヴェーベンもフライシュタートもエーヴィヒの襲撃により疲弊していて、とても理想郷の体裁を成してはいない。
「だが、ヴォルフの話を聞く限りでは今は行く意味はなさそうだな」
それともう一つ、ヴォルフには疑問に思うことがあったのでヴァンナーに尋ねた。
「ヴァンナーはエーヴィヒの事についてどこまで知っている? このエルデに生じている歪みを知っているのか?」
ヴァンナーはヴォルフを見、次いで後方にいるゼーレとシュテルンにも視線を向けた。心の奥底まで見透かされそうな鋭い視線に、ゼーレは思わず身を竦めた。
「――エーヴィヒはその話を聞くくらいだ。だが、今日初めて会った私にも分かる。あれは存在を許されたものではない」
エルデに深く通じる者ならば、一目見ただけでその事実を直感的に理解出来る。全身がエーヴィヒという存在を拒絶するのだ。
ヴォルフはそれを聞くと深く頷いた。ヴァンナーもそれに気が付いているのならば、当面の目的は合致している。
「なら話は早い。ヴァンナー、一緒に来てくれ」
エーヴィヒという存在はエルデに歪みをもたらしている。そして、それは今や端的にエルデの表面に顕れている。ヴァンナーの求める世界も、エーヴィヒがいては到底叶うはずもない。ならばエーヴィヒは徹底的に駆逐するべきであり、それを生み出したヴァイゼーを討つべきなのだ。こう考えを繋げていけば、多少強引ではあるが目的の一致を見ることが出来る。
決断を渋るヴァンナーに、ヴォルフは事の次第を全て説明した。説明を続けていく内に、ヴァンナーの瞳に鋭さが宿るのをヴォルフは見逃さなかった。
全ての説明を終えた時、ヴァンナーは瞳を閉じて大きく息を吐いた。しばらく沈黙を続けているヴァンナーは何かを深く思案しているように見えたが、ヴォルフにはもう答えは決しているように見えた。エルデが何かを強いるようなことをするはずがない。最終的に決めるのはヴァンナー自身だ。そして、ヴァンナーはゆっくりと瞳を開けるとしっかりとした口調で口を開いた。
「私の求める世界にエーヴィヒはいらない。いてはならない。ヴォルフ、手を貸そう」
ヴォルフは頷いた。
ヴァンナーとヴォルフらとの出逢いにより、ヴォルフは深い迷いを打ち払い、ヴァンナーは真の敵を見出だすことが出来た。ヴァンナーもまた、輪廻の中に身を投じたのだった。いや、全ては最初にヴォルフに出逢った時から回り始めていた歯車なのかもしれない。ただ、再びヴァンナーという歯車がその歯を噛み合わせ始めただけなのかもしれない。
四人はヴァイゼーの居城するライヒに向かうべく、一路東へと歩を進め始めた。
第十六章
~三者鼎立~
「あの、ヴァンナーさんはヴォルフよりも強いんですか?」
東へと歩き始めた四人だったが、その道中はどうにも空気の重たいものだった。シュテルンとゼーレはヴァンナーと会うのは初めてだったので彼女の事は殆ど知らなかったし、ヴァンナーはヴァンナーで無口を通していたため沈黙が続くしかなかった。
そんな状況に耐えられなくなったゼーレは恐る恐るヴァンナーに声を掛けた。話の内容はなんでも良かったのだが、先程のヴォルフとのやりとりからヴァンナーに厳格そうな印象を抱いていたゼーレは、自分でも気付かぬ内に身を硬くしていた。
ゼーレよりも先を歩いていたヴァンナーは、ゼーレに呼ばれたのに気付いて振り返ると、ゼーレの様子を凝視していた。それがまたゼーレの身を強張らせた。
「修行時代の組手の戦績でいえば、確かに私の方が勝率は高かった。だが、『力』だけが強さの全てではない。それに……」
ヴァンナーはそこで一度言葉を区切った。そして、ふっと表情を柔らかくさせた。続けられた言葉には、優しさと温かさが込められていた。
「ゼーレ、といったか? そんなに緊張する必要はないよ。私の事をさん付けする必要も、敬語を使う必要もない。あなたもだ、シュテルン、で合ってたか? これからはよろしく頼む」
ヴァンナーの口調は少しきつくはあったが、内面はまた別なのだということを二人は瞬時に察した。
「え、ええ!」
「こちらこソ、よろしくお願いします」
二人とも笑顔を浮かべて応えた。ヴォルフもまた、その光景を見て口元を緩めていた。仲間の結束はある意味で最も重要で、それでいて難しいことだ。だがこの四人では、それに苦労する心配はなさそうだった。ヴォルフはそれが分かりいくらか安気した。
ライヒまでの距離はまだ相当ある。途中で一度町に寄る必要がある。だがその町、シュルスは町の規模こそあれ何かで有名というわけでもない。とはいえ、町が大きくなるための条件として経済的に潤っていることが挙げられることは言うまでもないので、シュルスもそれ相応に豊かな町であることは間違いないだろう。
町が見えてきた時、四人はそれが町であることに気が付くのに僅かながら時間を要してしまった。その町の外観が、まるで小高い丘のように見えたからだ。町の中心に向かうにつれて建物の高さが少しずつ高くなっている。それは地形的な問題ではなく、実際に建物の高さが上へと延びているのだ。
四人はシュルスを目前にして息を飲んだ。
「へぇ……。こいつは面白いな」
ヴォルフは歩を止めることなくそう呟いた。
「確かニ、珍しいですね。やはリ、その目的は監視でしょうか」
シュテルンの疑問は、今やゼーレも考えていたことだった。四人の考えは今完全に一致している。
「でも、監視にしては中央の建物の高さが低すぎない?」
ゼーレの疑問は最もだった。町を一望出来て、監視出来る程の高さの建物があるのならば、シュルスの第一印象は丘とはならない。つまり、その程度の高さでしかないのだ。とても監視出来るとは思えない。そして当然、他の三人はそれも承知済みだった。
「シュテルン、お前性格悪いな」
「何のことですか?」
ヴォルフの嫌味にも、シュテルンは楽しそうに笑いながら惚けてみせた。シュテルンだとて、この町の構造が監視のためではないことは端から分かっているのだ。ただゼーレに疑問を持たせるために、そのようなことを言ったまでに過ぎない。
「お前はこの町の構造をどう見る?」
ヴォルフはシュルスを指差しながらゼーレに尋ねた。恐らく答えには辿り着かないだろうとは思いながらも、こういう地道なことからでも戦闘鍛練というものは出来る。要は、観察力なのだ。
「――ええと」
ゼーレは顎に手を遣り、目を瞑って深慮している。ゼーレが持つ知識と目の前の状況の類似点を模索しているのだろう。
ヴォルフは軽くため息をつくと、ゼーレの頭を軽く小突いた。ゼーレは驚いて目を開けてヴォルフの方を見ていた。
「じゃあまず、あのシュルスの町に見られる特徴を挙げてみろ」
「町の外観が丘みたい?」
「それ以外」
ゼーレがあまりにも当たり前のことを言うので、ヴォルフは少し苛立ちながら次の答えを急かした。町から離れているこの場所で分かることは、確かに視覚的な情報でしかない。だがそれも一つの情報だ。当然そこから導き出されるものもある。
ゼーレは町の様子を眺めながらずっと首を傾げているので、ヴォルフは再び軽いため息をつくと口を開いた。
「家が全て町の外を向いている」
「あっ」
ゼーレははっとして息を飲んだ。言われてみれば確かにそうだ。そして、その事実は他の場所ではそうそう見られるものではない、シュルスの町の特徴だろう。
普通、家というものは日当たりの関係上南を向いていることが多い。だが、東へ向かってこの地に着いたヴォルフらの方にも家が向いていることから、少なくとも正面に見える家は全て西向きということになる。西向きの家には夕日しか差さず、それでは洗濯物などをすることが難しい。ヴォルフらの視界で見える限りでは、家は全て町の外を向いている。
「でハ、町の家々が外を向いているとしテ、その目的は何でしょう?」
シュテルンはヴォルフの言を繋いで質問を続けた。鍵となるのは、家々が町の外を向いていることではない。町の中央に背を向けていることの方なのだ。
ゼーレはうんうんと唸りながら眉間に皺を寄せていた。確かに、この二つの要素から真実を導き出すのは難しいだろう。だが、町の規模も三つ目の要素に含めれば、いくらか難易度も下がる。
「あの中央の建物からなら、監視は無理でも家の屋根くらいは見える」
ヴァンナーはヴォルフとシュテルンの計らいを知ると、ぼそりと呟いた。今のヴァンナーの言葉はかなりの助け船となるものだった。
ゼーレの瞳は呆然としたかのように見開かれ、それが答えに迫っているのだということを他の三人に端的に知らしめた。
「……もしかして、全ての建物が町の外を向いているのって、中央の建物から町の全ての家の屋根を見せるため?」
ヴォルフとシュテルンは互いに顔を見合わせた。
「それで? どうしてそうする必要がある?」
ヴォルフは続きを促した。
「有名なものが特に何もないシュルスの町の規模を保つには、それに見合う収益が必要になる。もしそうだとすれば、中央に屋根を向けていることこそがその収益に繋がるということよね。ということは――観光業?」
ヴォルフはぱちりと指を鳴らした。シュテルンとヴァンナーも口元を緩めている。
「その通りだ。俺らもその屋根に何があるのかは見たことがないが、恐らくは何か模様のようなものが描かれているのだろう。それを観光業にすることでシュルスは町を支えているんだろう」
この謎解きが終わる頃には、四人はシュルスの町に到着していた。そして真っ先に登った中央の高い建物は、なるほど確かに観光業と呼べるものだった。まず中央の建物に入るのに、良心的な価格とはいえ金を取るのだ。そして頂上に至るまでに様々な店が所狭しと軒並みを連ねている。
果たして四人が頂上に着いた時、そこは展望台のような様相を成していた。周囲一面に窓がついていてどの方角にも外が見渡せるようになっている。
「わぁ……綺麗」
ゼーレの眼に写ったものは、幾百の屋根に描かれた一面の花畑だった。まるで実際にそこに花があるかのように、屋根の上には活き活きとした花が描かれていた。
ゼーレの感嘆の声はその美しい景色の中に吸い込まれていき、後に続く者はいなかった。確かに、これだけの絶景があれば町は潤いを保ち栄えることが出来るだろう。
三人は興奮も冷めやらぬ内にその場をあとにした。
だが、宿に戻り机を囲んだ四人の表情は硬かった。それは偏に、その話題の重さによるものだった。ライヒを目指して進む一行は、最終目的を見据えながらもそれで全ての解決に至るのか、確信が持てないでいた。
「ヴァイゼーの討伐は、いわばエルデの歪みを広げないようにするためだ。だが、果たしてヴァイゼーを討つだけでその歪みが癒えるのか、俺には分からない」
ヴォルフは三人にそう語りかけた。エルデに平穏が戻らなければ、ヴァイゼーを断ったとしても何の解決にもなりはしない。シュテルンは珍しく小難しい表情を浮かべたかと思うと、また直ぐにいつもの笑顔に戻った。
「ですガ、仮にヴァイゼーを断って状況が変わらないのだとしてモ、僕達のこれからの行動に変化はないのでしょう?」
シュテルンの言うことも尤もだった。今さらヴォルフらは立ち止まることは出来ない。一番困るのは、エーヴィヒがいわば自然増殖していて、それを止める術をヴァイゼーのみが握っているという場合だ。この際、ヴァイゼーを断っても、次にはエーヴィヒの増殖を止める術を求めて奔走する羽目になる。
その事を指摘したのはヴァンナーだった。
「その場合はどうなる?」
ヴォルフは一呼吸置くと、記憶を遡るように天を仰ぎながら、やがて視線を元の高さに戻した。
「これは推測と経験則でしかないが、恐らくエーヴィヒは自然増殖することは出来ない。アジールで実際にエーヴィヒを生成している場所、更にはその法陣も見たが、あれは輪廻転生や森羅万象などの法陣が幾重にも組み合わされたもので、明らかに人の手によるものだった。そもそも、カプーツェを食してそのツァオバーを吸収した狼から、ツァオバーを抽出して器に入れたものがエーヴィヒだ。自然増殖など有り得ないし、動力の根元でもあるツァオバーを有する狼さえ断ってしまえば、エーヴィヒはそれ以上増えることはない」
ヴォルフが断言したことは、半分以上はゼーレも共に見てきたものだ。始めはエーヴィヒがどういうものか分からなかったゼーレだが、今のヴォルフの考えは全て理解出来るし納得も出来る。
その上で、ゼーレは口を開いた。ゼーレがすべきことかどうかは分からないが、士気を高めることは必要だ。
「じゃあ、ヴァイゼーを討って狼を断てば、後のエーヴィヒは時間の問題ね」
ゼーレは自分で言いながら頭の片隅に違和感を覚えた。何かが、違う。結果としては同じかもしれないが、過程が二つあることに無性に不安を覚えてしまう。だがむしろ、過程は二つあった方が遥かに良い。
「間に合えば、の話だけどな」
ヴォルフの一言で、ゼーレはヘレの存在を完全に失念していたことに気付いた。ヴァイゼーは人間を基にして狼の魔力を注ぎ込もうとしている。だとしたら、その行き着く先にはハオベに魔力を入れることも視野に入れているだろう。もしも狼を完全に一人のハオベの中に入れることが出来たなら、状況は最悪になる。ヴォルフのように不完全ではない、完全にカプーツェの魔力を宿したハオベが生まれることになるのだ。
ゼーレは自分が考えたことのあまりの恐ろしさに言葉を失った。そして、その状況が間近に迫っていることにさらに戦々恐々とした。冷たい汗がゼーレの首筋を伝う。
「まア、それは今考えることではありませんよ。僕たちハ、変な考えを持たずニ、ただヴァイゼーを討つことだけを考えればいいんです」
シュテルンの言葉で動揺を抑えつつも、ゼーレはしばらくその考えに囚われて抜け出せなかった。
夜が更けていく。シュルスの町を覆う夜は、月の明かりもなくただひたすらに闇に包まれていた。
翌日、各自で必要なものを買い揃えた四人は、再び宿に集結していた。唯一ともいえる観光名所を見た以上、シュルスの町に長居をする必要性はない。
「距離的に考えるなら、これ以上どこかの町に寄らずにライヒに行くことは出来るな」
ヴォルフは自分に言うかのように呟いた。まるで平然に見えるヴォルフだが、先程から妙に気が落ち着かなかった。普段ならばその原因は直ぐにでも分かるのだが、今回ばかりは様々なものが混濁していて特定出来ないでいた。そんなヴォルフに近付いて小声で話し出したのはヴァンナーだった。
「ヴォルフ、気付いているか?」
ヴァンナーのその一言だけで、ヴォルフは自分が何に対して反応しているのかを察した。以前感じたことのある気配が二つ。一つは透き通るように澄んだ気配。そしてもう一つは相手に畏怖を植え付ける強力な気配。
ヴォルフはヴァンナーの方をちらと見た後でゼーレの方も見遣った。だが当のゼーレはきょとんとした様子で目を丸くしている。
「さて、どっちが先なんだろうな」
ヴォルフの独り言はまるで全員に聞かせるように通った。そして三人が三人とも一様に首を傾げた。ヴォルフ以外、両者に接点を持つ者などいないのだ。
ヴォルフは一つ息を吐くと、眼差しを鋭くして話し出した。
「そう、ヴァンナーの言う通りだ。多分だが、シュヴァルツがこの町に近付いている。しかも、奴は分かりやすい程の殺気を放っている」
ゼーレとシュテルンはヴォルフの話の中でしか知らないが、それでもシュヴァルツの気配がヴァイゼーに似ているということを知っている。そのシュヴァルツが殺気を放っていることの意味も重々に承知している。どう考えてもヴォルフらに良い方向に転ぶとは思えない。
三人が言葉を失っているところに、ヴォルフは更に追い討ちをかけるように言葉を重ねた。
「もう一つ。俺の赤い血がシュルスに入ってから騒いでいる。――フォルブルートも近付いてきている」
ヴォルフの言葉に、今度は三者三様の反応を見せた。ゼーレは信じられない、といった表情をし、シュテルンはまるで分かっていたかのようにため息をつき、ヴァンナーは少し眉を潜めて首を傾げている。
「――ヴォルフ、フォルブルートとは何だ? 初めて聞く名前だ」
ヴァンナーを除く三人は一同にヴァンナーの方を向いた。今までは経験を共有してきたので三人の間では当然のように会話が成り立っていたが、普通に生活を送っていればフォルブルートと関わり合うことなどまずない。ヴァンナーが知らないことの方が、当然と言えば当然なのだ。
あまりに意外だったために誰も口を開かずにいたが、最初に表情を崩したのはシュテルンだった。シュテルンは笑いながら話し始めた。
「ヴァンナーさんハ、フォルブルートのことを知らないのですね。普通ならバ、そうなのかもしれません。フォルブルートという組織ハ――」
それからシュテルンは大雑把にフォルブルートのことについて説明をした。フォルブルートが純血を守ろうとしていること、そのために何度かヴォルフらとは対峙していること、そしてヴォルフの妹がフォルブルートの一員であること。フォルブルートのことについてはシュテルンもあまり多くを知っているわけではないので、大雑把にといってもそれが殆ど全てであった。
全ての説明を聞き終えたヴァンナーの開口一番の台詞は、果たしてかつてのロートと同じであった。
「ヴォルフに妹がいたのか」
ヴォルフは何か言いたいのをぐっと堪えて涼しい顔で現状を話し出した。
「問題なのは、俺ら、フォルブルート、シュヴァルツ、この三者が協力関係にないことだ。フォルブルートとは共闘という形を取ったが、その直後にシュヴェーベンでの一件があった。それのせいで奴らが手のひらを返してくる可能性は十二分に考えられる。そしてシュヴァルツに関してはその目的すら見えてこない。二年前から一向にな。だが殺気を隠すつもりもなく放ってるあたり、誰かへの宣戦布告と見ていいだろう。その対象が俺である可能性も低くはない」
もしもこのシュルスで三者が激突すれば、町は間違いなく壊滅状態に陥るだろう。シュヴェーベンを半壊にまでしてしまったヴォルフにとっては、それだけは避けたかった。
ヴォルフのそのような心情を察したのか、ヴァンナーはそのことを質してきた。
「ならばどうする? 早々にでもこの町を去るか?」
「ああ、それがいいだろう」
ヴォルフは即答をした。既に必要なものを揃えた三人に異論はなかった。
「ならバ、善は急げです。今にでモ、出発しましょう」
シュテルンは席から立ち上がりながらそう言った。この町での目的は既に終えている。残りの三人も続々とそれに従った。
荷物をまとめた四人は、まだ陽も高い内にシュルスの町を出た。ただライヒに向かうだけの四人の進路に変わりはない。ただ東へと進むだけだ。
だが町を出てからそれ程時間も経たない内に、ヴォルフはふと足を止めた。
「どうも間に合わなかったらしいな」
ヴォルフが足を止めるのとほぼ同時に他の三人の足も止まっていた。視線を向ける対象はみな同じだった。四人の目の前にはフォルブルートの一団が待ち構えていた。
どちらからともなく歩き出した両者は、会話が出来るほどの距離にまで近付いていた。ヴォルフらの背後には、シュルスの町がただ静かに事の成り行きを見守っていた。
「久方振りだ、ヴェーア・ヴォルフ」
「ライヒに向かったはずのフォルブルートが何故こっちの方向に進んでいるんだ?」
フォルブルートの長、ゲレヒトの鋭い視線を真っ向から受けながら、ヴォルフは言葉を刺々しくして質問した。今のフォルブルートには、協力の姿勢など微塵も見られない。
「――我々はやはり君らと共に闘うことは出来ない。聞いたぞ、我々が去った直後にシュヴェーベンで起きたことを」
ゲレヒトの言葉には明らかな怒気がこめられていた。だがそれもフォルブルートからすれば当然だ。共闘を誓った直後に、狼となって町を半壊させたのだ。事の子細を知らずに町の有り様だけを聞けば、自然と怒りも沸いてくるだろう。
ヴォルフは小さくため息をつくと、頭を掻きながら視線を中空に漂わせた。
「――箝口令が敷かれてたはずなんだがな。まあ、事実で言えばお前らが聞いた通りだろう。確かに、シュヴェーベンの町は俺が壊しかけた」
詫びる様子もなく平然とそういうヴォルフに、フォルブルートら一団が怒りを露にしたのは勿論だが、シュテルンら三人もまた驚いていた。どうしてヴォルフはこうも事をややこしい方向に持っていこうとするのだろうか。だが、ヴァンナーにはその理由が薄々分かるような気がした。
ヴォルフは漂わせていた視線をゲレヒトの視線と合わせた。その眼光は先程までとは比べ物にならない程に威圧感を放っている。
「それで? その事実を知ったフォルブルートはこれからどうする?」
口元に笑みを浮かべながら挑発するように言うヴォルフは、端から見ても明らかに楽しそうだった。それでシュテルンもゼーレもヴォルフの意図が読めてしまった。その背後にどのような思いがあるのかは分からないが、つまりヴォルフはフォルブルートの実力を知りたいのだ。
ゲレヒトは怒りで大になる声を抑えつつも、きっぱりと言い放った。
「今、ここで、君達を葬る」
ゲレヒトの声を皮切りに、瞬時に辺りにさっと殺気が立ち込めた。
人数の差は歴然としている。ヴォルフ達は僅か四人なのに対して、フォルブルートはこの場にいるだけでも四十人はいる。単純に見積もって十倍の戦力差は、多勢に無勢の様相をありありと表している。いくらフォルブルートの多くの実力がそれ程でなく、ヴォルフらが一騎当千の力を有しているとはいえ、フォルブルートには円卓を囲んだ四人もいる。
だがそれもヴォルフらにとっては単に戦い方を変えるだけのことだ。大局的に見たら何も変わりはしない。
「この戦力差、簡単に覆せるとは思わないことだ……」
ゲレヒトの威圧の籠められた声は、まるで号令のようにしてフォルブルート全員に戦闘体勢を取らせた。
ヴォルフはゲレヒトの言葉を聞いていないかのように、シュテルンの方へ振り向いた。視線の合ったシュテルンは、ヴォルフの考えていることを察すると、一つ頷いて両手を構え瞳を閉じた。その構えは、何か球のようなものを持っているようだった。
シュテルンが準備に取り掛かったのを見ると、ヴォルフは視線をゲレヒトへと戻した。今にも戦闘が始まりそうな空気だというのに、ヴォルフはまるで余裕をかましたまま悠長に話し始めた。
「一ついいことを教えてやろう。確かに戦力差は歴然としている。雑魚だけが相手なら、時間は掛かるが青龍でも振り回してれば掃討も簡単だろう。だがそっちには円卓を囲んだ四人がいる。ツァオバーを消費した状態で戦うのは骨が折れるだろう。ならばこちらはどうするか、分かるか? 要は無駄なツァオバーを消費しなければいいんだ」
ヴォルフの話が進む内に、ゲレヒトの表情は疑問のためにさらに硬くなった。だが、ヴォルフが言葉を言い切りシュテルンの方を再び振り向いた瞬間、つまり、ゲレヒトの目にシュテルンが瞳を開けるのが写った瞬間、ゲレヒトはヴォルフの意図に気付き目をかっと見開いた。
「皆! 散開しろ!!」
「光風霽月!」
ゲレヒトが言うが早いか、シュテルンの手の先で一瞬閃光が発せられた。ヴォルフとゼーレはその状況に立ち会ったことがあるが、その他の者にはまるで何が起きているのか理解出来なかっただろう。そして、その閃光を目にした瞬間が、勝負の別れ目だった。
しばらくの沈黙を破ったのは、フォルブルートの者達の悲鳴だった。苦痛から声を上げる者、恐怖から声を引きつらせる者など、それぞれが見る幻はそれこそ十人十色だった。
そしてフォルブルートの者達は次々にくずおれていき、最終的に平常状態を保っていられたのは、ヴォルフの予想通り円卓を囲んだ四人だけだった。
ヴォルフは勝ち誇ったように笑いながら余裕を見せて口を開いた。
「これで数的な戦力差は零だ。雑魚を相手にするのに何も青龍を使う必要もないってことだ。玄武で相手に幻でも見せれば相手は勝手に自滅してくれる」
「玄武をかけたのハ、僕ですけどね。今彼らハ、深層意識にある恐怖を見ています。余程の精神力がなけれバ、抜け出すことは出来ないでしょう」
シュテルンもまた笑いながらゲレヒトをじっと見据えた。
ヴォルフらとフォルブルートと、この場に立つ八人の間には緊張した空気が流れたまま膠着状態が続いていた。今各々が考えていることはみな遠からず同じで、一体誰を相手にするかということだった。魔法の色、体術の流派などから相性の良し悪しはある。そして意地や矜恃から戦いたい相手というものもある。ヴォルフ程の強さを持つ者は大抵、前者のことなどは問題にならない。だから当然、相手を決める要因はその心情的なものによる。
そしてその相手は自ずと決まっていった。
「やっぱ大将戦ってのは無くちゃな」
「フォルブルートの名にかけて君を討つ」
ヴォルフとゲレヒトが向かい合った。この組み合わせはヴォルフらとフォルブルートが相対した時点でほぼ確定的なことではあった。
「あなたとハ、フェアウアタイルングの時以来ですね。楽しみにしてましたよ」
「此処に於いての戦いこそガ、我が待ち望んだ事ダ」
フェアウアタイルングで因縁のあるシュテルンとペルレの者は、ようやく戦える場を得た。
「あなたとは戦いたくはなかったわ……」
「私もよ。でも、私はフォルブルートの誇りを守るために戦うわ」
兄妹の事情を知るゼーレと、ゼーレに他の者とは違う何かを感じているザンクトは、お互いに苦い表情を浮かべている。
「私の相手は貴様か」
「誰であろうと、我らフォルブルートの前に立ちはだかる者は駆逐するまでだ」
ヴァンナーとヴァイスには何の因縁もないが、他の六人にそれがある以上、余った二人が戦うことになるのは自然の成り行きだった。
そして、互いの信念をぶつけ合う戦いが今始まった。
一番最初に動き出したのはシュテルンだった。表情は笑いながらも、その瞳はまるで全力で獲物を狩ろうとする猛る獣のようであった。
「紫電一閃!」
シュテルンは雷の刀を抜きながら、同時に電光石火を使い高速で相手に接近していった。ペルレの人間がいくら魔法を使えると言っても、それは所詮一太刀に魔法の属性を付加させるだけに過ぎない。シュテルンはそう思っていたからこそ、人間では到底追い付くことの出来ない電光石火を使ったのだ。
瞬時に間合いを詰めたシュテルンは、ペルレの人間の目の前で一端止まると、滑るような動きで相手の背後に回り込んだ。ただの人間であれば、この動きだけで簡単に倒せるはずだ。そう、ただの人間であれば。
シュテルンが勝利を確信して振った刀は、しかし何かを斬った手応えもなくただ空を切った。
「我を唯の人間だと思ウ、其の慢心が敗北の要因となル」
シュテルンは驚きのあまり声を上げることすら出来なかった。何せ、斬ったと思ったその相手が、今振った刀の上に立っているのだから。だがシュテルンの腕に、人一人の体重を支える程の負荷はかかっていない。これはまさしく朱雀だった。
「あなタ、本当に人間ですか?」
シュテルンはさっと身を退いて相手との距離を空けると、そう尋ねずにはいられなかった。ハオベでもないただの人間が朱雀を使うなど、考えられなかった。
「幾多の戦闘経験を持つ貴方でモ、流石にペルレの技術の全ては知らないようダ」
シュテルンは動揺した心を落ち着かせながら、眼光炯炯を使って相手の全身を観察した。するとどうだろう。ペルレの者の身体のあちこちに魔力の反応が見られる。彼の持つ刀だけではなく、肩や腕、足などほぼ全身を覆い尽くすように魔力が散在している。恐らくは、身に付けている防具の各所にベーゼアガイストが仕込まれているのだろう。これならば、足裏のベーゼアガイストに作用させて朱雀を使うことも出来る。だが、根本的な問題が一つある。ベーゼアガイストは、いわば触媒的な役割を持つ。つまり、ベーゼアガイストだけでは魔力の増幅は出来ても魔力を生み出すことは出来ないのだ。シュテルンはどうしてもそこだけが得心いかなかった。
「ツァオバーを持たないあなたがいくらベーゼアガイストを使ったところデ、その効果は得られないはずです」
シュテルンの動揺は治まっていたが、それでも頭に浮かんだ疑問は口を衝いて出た。
ペルレの者は表情を変えずに、ただ淡々とその問いに応じた。
「譬えハオベではなくとモ、人間もハオベもツァオバーとは異なる気という物を持ツ。我々ペルレの者ハ、其れを用いているのダ」
シュテルンはだがしかし、それでも完全に納得は出来なかった。今の説明では、まるで気と魔力が対になっているように聞こえる。シュテルンには、それが偉大なる創造主カプーツェが生み出した物とは思えなかった。
だが、今は戦闘中だ。これ以上の雑念は戦闘に差し障る。シュテルンは軽く目を瞑ると、頭の中から今の会話をまるまる取り除いた。
「――まア、いいでしょう。どちらにしてモ、僕の戦いには関係ありません」
シュテルンは再び刀を構えた。先程のような慢心はもうない。相手が手練れのハオベだと思えば済む話だ。
「行きますよ」
シュテルンは再び高速でペルレの者との距離を詰めた。
今度は、ペルレの者もまた魔力を使って加速度をつけて距離を詰めてきた。速さでいえばシュテルンよりも劣るものの、明らかに人間のそれを越えていた。
青龍を使えば、普通の鉄の刀では直ぐに切断されてしまう。だが今二人が互いに刀を交えているということは、やはりペルレの者の刀が魔力を纏っているということに他ならない。しかもそれは青龍と同等の魔力なのだ。
「やはリ、ペルレの人間の戦い方ハ、相手にし辛いですね」
シュテルンは、柔軟な戦い方をする相手にも劣らぬ戦いをしていた。会話をするあたり、まだ余裕があるということだ。
「其の流派ヲ、我は見た事が無イ。何れの者より習っタ?」
ペルレの者もまたシュテルンとの会話が出来る程度には余裕があった。そして、自らの戦い方が相手に通用していないことに疑問を抱いていた。相手がシュテルンであれ、それ程にペルレの流派は戦闘に秀でている。
「僕ニ、流派なんてものはありませんよ。僕ハ、ただ見よう見真似で戦っているだけです」
そう言いながら、シュテルンは構えた刃を僅かに傾けた。
その瞬間、ペルレの者は全身に悪寒を感じた。そして、本能的に防御の姿勢を取った。
「――もし流派があるとするならバ、それは獅子の戦い方ですよ」
その刹那、シュテルンはペルレの者の眼前から姿を消した。
ペルレの者が背後にシュテルンの存在を確認した時、彼は脇腹に激痛を感じていた。そこに手をあてると、手には生温かい血糊がべっとりと付いた。傷口からして斬られたことは確かなのだが、斬られた覚えがまるでない。
「賢明な判断でしたね」
ペルレの者は背後でシュテルンの声を聞き、驚き振り向いた。ペルレの者にはどうしても自分の身に何が起きたのか理解出来ないでいた。
「貴公ハ、今何を為しタ?」
シュテルンはゆっくりとペルレの者に振り返ると、これまで以上に楽しそうな笑みを浮かべながら応えた。
「僕ハ、ただあなたを斬っただけです。大袈裟に言うなれバ、天上天下の劣化版です」
シュテルンはそう言うや否や、再び姿を消した。
それが純粋な速さであることを理解したペルレの者でも、反応するのが精一杯だった。直線的に迫るシュテルンを前に、刀で攻撃をいなそうとしても軌道が見えずに押し切られてしまう。それは最早目で追える速さではなかった。
斬撃の音がした後、ペルレの者は今度は肩に痛みを覚えた。先程よりも大分浅くなっているものの、覚えのない斬られた痕があった。
「あなたの敗因ハ、単にあなたがハオベではないことです」
シュテルンはそう言うと、三度姿を消した。そして、見事にペルレの者の腕に斬り傷を残した。
この時には、ペルレの者もシュテルンの異様なまでの速さの原因に気が付いていた。天上天下という魔法のことは知らなかったが、シュテルンが魔法名を唱えていないことからそれ程に高度な魔法は使っていないことが分かる。
恐らくは、脚部の足裏にでも魔力を集中させて圧縮し、それの膨張しようとする力を利用して爆発的な推進力を得ているのだろう。ペルレの者はそう推測した。それが証に、シュテルンはこの三回、直線的な移動しかしていない。そしてその事実は、ペルレの者にとって優位に立てる絶好の機会だった。
「そろそロ、終わらせますよ」
シュテルンはそう言うと、今までの三回と同じように刀の刃を僅かに傾けると、その姿を消した。
だが次の瞬間、激しい閃光とともに雷の刀が宙を舞った。それは一瞬物理法則を忘れたかのようにひらひらと空中で弧を描き、やがて地面に突き刺さり実体を失った。
シュテルンは瞬時にペルレの者の方へ振り向いた。手には激しい痺れが残っていた。そして振り向いたシュテルンの視界には、およそ人間とは思えぬ速度で近付いてくるペルレの者の姿が写った。
「っ!」
慌てて回避行動を取ったシュテルンだったが、それよりも早くペルレの者は斬撃を繰り出していた。回避行動の遅れたシュテルンは、まともに左肩を斬られた。
吹き出る血を、魔法を宛がうことで無理矢理に止めると、シュテルンは少しだけ苦い顔をしただけで口元には笑みを浮かべていた。
「やはリ、流石はペルレの人間ですね。三回であれを見破リ、斬撃を正確にいなすとは」
先程のペルレの者の行ったことを文字に表すのは至極簡単だ。シュテルンの攻撃が直線的な動きしかしないことを見抜いたペルレの者は、その刀の太刀筋を正確に見極め、自らの刀でいなしながら払い上げた。だがそれを為すのは生半可なことではない。斬撃の軌道を見極めるといっても、それが出来るのはごく一瞬しかない。そしていざ軌道を見切り斬撃をいなそうとしても、斬撃の速度はほぼ目で追うことは出来ない。その速度で近付いてくる刀と同じ速さで自分の刀を引きながら、相手の力を利用して払い上げるのだ。如何に剣術を極めたものでも、たった一度で成功させることは難しいだろう。
「ペルレの体術を極めた者で有るのならバ、雑作でも無い」
ペルレの者はそう言い放つと再び刀を構えた。これで状況としてはほぼ互角だ。互いに手負いとなった今、勝負を決するのはまさにその技術の勝る者の方だ。
「これデ、仕切り直しですね」
シュテルンもまた重心を下げて再び雷の刀を出して構えた。
二人の間には依然として凛と張り詰めた空気が満ち満ちている。そして二人は同時に駆け出した。携えるのはただ己の持つ刀のみ。激しい斬撃が交差した。
互いに向き合ったゼーレとザンクトだったが、どちらも動こうとはしなかった。ゼーレは事の成り行きとはいえ、ヴォルフの妹であるザンクトと戦うことに躊躇いがあった。一方のザンクトもあからさまにゼーレに敵意を向けているものの、それ以上の行動はしなかった。両者の間に躊躇いがあるのは明らかだった。
しばらくの沈黙の後、静寂を破り口を開いたのはザンクトだった。
「あなたは何故戦うの? 兄さんの側についてまで戦う理由は一体何なの?」
ザンクトは哀しげな表情でゼーレにそう尋ねた。
その問いに対して、ゼーレは確固たる答えを持っていた。今のザンクトはゼーレと対等に会話をすることが出来る。ならば、今こそが兄妹の誤解を解くまたとない好機だ。
「私が戦う理由は、知るためよ。ヴォルフと一緒に旅を続けてきて私は色々なことを知った。そして、このフォルブルートとの戦いが不可避であることも知った。でもそれは、決して両者にとって必要なものではないわ。エルデの示す意志を知るための戦いなのよ」
ゼーレはそこで一度言葉を区切りゆっくりと息を吸った。ザンクトは表情を崩さずに変わらず真剣な様子でゼーレの言葉に耳を傾けている。
「そして、あなたはまだ自分の戦う意味を知らないでいるわ」
ザンクトはゼーレの言葉に眉を顰めた。今のゼーレの言葉には大いに反感を覚える。それ程に個人的な部分に関わることを、ではゼーレは如何程に知っているのだろうか。
「じゃああなたは私の何を知っているというの?」
最早ザンクトは聞く耳も持たないつもりでいたが、それでもゼーレの言うことには興味があった。少なくともゼーレに対して悪い感情を抱くことは出来なかった。
「あなたの、いえヴォルフの過去を知っているわ。あなたが憎しみを抱くまでに勘違いしている事実をね」
その言葉に今度はザンクトは特に何の感情を抱くことはなかった。それどころか、少しだけ口元が緩んでしまう。何が可笑しいのか、ザンクト自身分かっていなかった。あるいは、自らが滑稽だったのかもしれない。
急に微笑を浮かべたザンクトにわずかな疑問を抱いたゼーレだったが、今はそれに構わずに言葉を続けた。
「ヴォルフには決して罪は無いわ。ヴォルフは、ヴァイゼーに利用されただけなのよ」
ザンクトは目を瞑った。やはり、ゼーレの言うことはザンクトの予想通りだった。
「――知ってるわ」
「え?」
「私もね、フォルブルートに入ってから自分で色々調べたのよ。七年前にターブの町で一体何があったのか。私は今でも、どこかで兄さんのことを信じていたかったから。そうしたら、ゲレヒトさんに聞かされたのとはまるで違う事実ばかりが出てきたわ。お父さんが狼を悪用していたのだという事実がね」
ザンクトの語ることはゼーレに驚きを与えるには充分だった。ならば兄妹で戦わなければならない理由など、端から無いことになる。ではどうしてザンクトは今も尚フォルブルートに所属しているのだろうか。
「じゃああなたは何でフォルブルートにいるの? ヴォルフを恨む理由なんて無いってことは分かっているはずなのに。あなたに虚偽の情報を与えていたフォルブルートに、どうして?」
フォルブルートに入りさえしなければ、ザンクトは歪んだエルデの中でも平穏に暮らせていたはずだ。そしてそれは、ヴォルフが一番に望んでいたことなのだ。
ザンクトは少しの間下を向いていた。何かを考えているわけではなく、ただどう言葉に表現したらいいのかを悩んでいるようだった。
「……どうしてかしらね。気付いたら、私はここにいるの。ここにいることが、私にとってはとても心地良いの。――そう、フォルブルートは私の居場所になっていた。私がフォルブルートにいる理由なんて、それだけで充分だわ。そうでしょう?」
ゼーレはザンクトの言葉に共感を覚えた。自らの居場所を失った者は、その拠り所を求めようとする。ターブの町と共に家族を失ったザンクトはフォルブルートに、同じくゼーレはそれをヴォルフと一緒に旅をすることに求めた。
「だから私は迷わない。フォルブルートの意思が私の意志」
ザンクトはそう言い切ると月卿雲客で水の刀を取り出して構えた。その構えは、ペルレの者のそれに同じだった。
「私はあなたとは戦いたくないわ」
戦いに迷いを見出だしたのはゼーレの方だった。ザンクトはふっと笑うと、諭すように言った。
「私もよ。でも、この戦いはエルデの示す意志を知るための戦い。あなたが言ったことよ、ゼーレ」
ザンクトの言葉はゼーレの深層にまで届いた。この戦いはエルデが示した物、その輪廻の一部なのだ。ゼーレやザンクトの意志はそこには全く関与していない。
ゼーレは覚悟を決めると、戦闘体勢を取った。
「――そうね。私が間違っていたみたいね。私ももう迷わずにあなたと戦うわ、ザンクト」
二人の意志は、まるでエルデに導かれるようにして合致した。
何かを合図にしたわけでもなく、二人は同時に距離を詰めていた。意志が完全に一致したために出来たことなのかもしれない。
月卿雲客を構えているザンクトに対して、ゼーレはいわば丸腰だった。だがこれも、ゼーレが自ら考え出した自分に合わせた戦い方だった。ある程度の魔法を使えるようになったゼーレだったが、どうしても克服出来ないものがあった。それは体力、及び魔力である。技術の習得自体はコツさえ掴めば短期間での習得も不可能ではない。現にゼーレはそれをやってのけている。だがこと体力と魔力に関しては話は別だ。両者ともに時間をかけて向上させていくものだ。まだ戦闘鍛練を一年と積んでいないゼーレは、それに関してはまだまだ時間が必要だ。だが、体力は旅を続けていく内にある程度はついている。足りない魔力を補うためにも、ゼーレはハオベでありながら肉弾戦をすることを決めたのだった。
ザンクトはゼーレのその構えを訝しんだが、今さら戦いを止めるつもりも、手加減をするつもりもない。
「どういうつもりか知らないけど!」
ザンクトはそう言うや、大きく踏み込んで剣を振りかぶった。
ザンクトの動きを見たゼーレは、一瞬にして力の差を知った。太刀筋に歪みがまるでなく、あらゆる硬質な物を斬れそうでありながら、逆に紙すら斬れなそうであった。柔と剛の両方が、その一太刀から見て取れた。
青龍による剣は、鉄の剣とは違い生身では触れることすら出来ない。触れた瞬間に、高度に圧縮された魔力に身を砕かれてしまう。だから、生身のゼーレに今出来ることは、ただ回避することだけだった。
剣の軌道を瞬時に読むと、ゼーレは真横に跳んだ。そしてザンクトの剣が虚しく地を打つのを見ると、ザンクト目掛けて蹴りを放った。だがザンクトとてフォルブルートで遊んでいたわけではない。苦もなくゼーレの蹴りをかわすと、次の攻撃を繰り出すべく、今度は剣を小さく振りかぶった。
ゼーレに懸念すべきことがあるとすれば、それは攻撃が全て後手になってしまうことだった。防御すら出来ない状態では、相手の攻撃の隙をついて攻撃するしかない。
そして、ザンクトは今の一撃だけで直ぐにそれを見破っていた。
「後手に回るだけの戦い方じゃあ、勝てないわよ」
ザンクトは剣を小さく振り、攻撃力を犠牲にするかわりに手数を増やした。もとより、生身の相手ならば青龍を使う以上は攻撃力など必要ない。
ゼーレはここでも実力の差を実感した。ゼーレにはまだここまでの観察力は備わっていない。そして、防戦一方になってしまったゼーレはかわすことに精一杯で最早攻撃を繰り出すことは叶わなかった。こうなってしまっては、体力的に劣るゼーレが多分に不利だ。
そう判断したゼーレは、一度体勢を立て直そうと後方に跳躍した。だがその行動をも読んでいたザンクトは、距離を空けることなくゼーレの動きについてきた。跳躍のために重心が後ろに寄っているゼーレに向けて、鋭い一太刀を放った。
ゼーレの目の前には剣が迫っていた。この状況では避けることも不可能だった。ゼーレは本能的に防御体勢を取ろうと腕を目の前で交差させていた。だがいくら腕を重ねたところで、これでは普通の剣ですら防げない。
その刹那、ゼーレは何かに命ぜられるようにして叫んでいた。
「伝家宝刀!!」
それは無意識の為したことだった。ゼーレの腕に沿うようにして光の刃が形成され、それはザンクトの一閃を受け止めた。
両の足が浮いていたゼーレは、一度片足を地に着けると再び跳躍した。それは回避のためではなかった。体重を預けて攻撃してきているザンクトは、全く同じ距離を保ったままゼーレの動きについてきている。
ゼーレは跳躍の勢いを利用してもう片方の足でザンクトを蹴り上げた。見事に溝落ちに入ったゼーレの蹴りは、その勢いも相俟ってザンクトの身体をそのまま後方にまで飛ばしていた。
吹き飛ばされたザンクトは、だがしかしゼーレが期待していた程に損傷を受けたわけではなかった。自分の攻撃が予想だにしない方法で防がれたことに動揺こそすれ、戦闘の最中に動揺を引き摺るほどザンクトは弱くはなかった。次の瞬間には、攻撃が来ることを予期して、防ぐことは不可能だと分かりながらもその損傷を最小限のものにするだけの体勢を取っていた。
ザンクトは片手を地面につけながら着地した。今の攻撃で受けた損傷はごく僅かなものでしかないが、ザンクトはゼーレに対する印象を改めざるを得なかった。今の動作は、どう見ても咄嗟のものであった。つまり、ゼーレは戦闘の最中にも成長をしているということだ。ザンクトはゆっくりと立ち上がると、さっと水の剣を一振りした。
「流石に今のは驚いたわ」
一方のゼーレも、自分の行動に驚いていた。意識せずにあの発想をして、しかもその直後に防がれたとはいえ攻撃に繋げることが出来たのだ。そして、このことはゼーレに攻撃の機会を与える結果になった。
「――こうすればいいのね」
ゼーレは腕に這わせていた光の刃を、両足へと移動した。一見、二本の刃を出している分ザンクトよりも魔力の消耗が激しいように見える。だが、ゼーレの光の刃は常に身体と接触していて、青龍を形作るのがザンクトよりも簡単なのだ。なので、消費魔力という点では二人ともほぼ互角だ。
「今度はこっちから行くわよ!」
ゼーレは姿勢を低くすると勢いをつけてザンクトとの距離を詰めた。そしてザンクトをその間合いに捉えるとザンクト目掛けて蹴りを放った。
通常、人は手の力よりも足の力の方が強い。それは刀を携えた時でも同じだ。つまり、攻撃力という点においてはゼーレが秀でているということになる。
ゼーレが放った蹴りは、その威力のためにある種不意を衝かれたザンクトの月卿雲客を弾いた。ザンクトがそのまま体勢を崩したのをゼーレは見逃さなかった。ゼーレは蹴りの勢いを殺さないように、身体を一回転させて再び蹴りを放った。
「っ!」
体勢を崩しながらもそれを受け止めたザンクトは、片足で踏ん張るとゼーレの上段目掛けて剣を振るった。片足を上げているゼーレに、最早ザンクトの攻撃を回避する術はなかった。だが次の瞬間、ザンクトの予想に反することが起きた。
ゼーレはそれを、腕で受け止めたのだ。
ザンクトは一瞬意味が分からなかった。青龍であるはずの月卿雲客が生身の腕に防がれるわけがない。だがそう思ったからこそ、ゼーレが何をしたのかが分かった。ゼーレは先程と同様に、今度は腕に沿わせて光の剣を形成したのだ。
一瞬だが動揺して反応が遅れたザンクトは、再び回転を加えて放たれたゼーレの蹴りに反応し切れなかった。ザンクトはまともにゼーレの蹴りを食らってしまった。
そう、剣一本のザンクトに対して、ゼーレは四肢の全てを攻撃手段として使える。つまり、手数という点においてもゼーレが秀でているということだ。
蹴りを食らい地面に倒れていたザンクトは、ゆっくりと起き上がると口許に付いた血を手で拭った。だが状況に反してその顔に焦りや不安のようなものはない。
「本当、驚いたわ。前にアジールで出逢った時にはただのお嬢様かと思ってたけど、まさかそんなに強かったなんて。――でも、弱点があるようね」
ゼーレはザンクトの言葉に驚嘆符とともに疑問符を浮かべずにはいられなかった。ザンクトは今の一連の動きだけで、ゼーレの弱点を見破ることが出来た。未だにゼーレは気付いていないというのに。
「まず一つ、ゼーレは私に攻撃をする時、その部位に青龍を用いていなかった。兄さんと一緒に旅を続けてきたのなら、必ず死を伴う戦闘を見てきたはずよ。つまり、如何なる戦闘でも一瞬の油断が死を招く。この事から、あなたはまだ完全に青龍を使いこなせていない」
ザンクトはそう区切ると、即座に間合いを詰めて剣を振った。
ゼーレは足でそれを受けると、跳躍してもう片足でザンクトに向けて蹴りを放った。ザンクトはそれを腕で受けた。ゼーレにはそう見えていた。だが次の瞬間にはゼーレの身体は宙を舞っていた。
地面に落ちたゼーレの瞳には、剣を立ててゼーレに向けて剣を振り下ろすザンクトの姿が写った。
ゼーレは直ぐに身体を転がして剣から逃れると、直ぐに起き上がって体勢を整えた。
「二つ目、私の体術がペルレのものであること。押すことしか出来ないゼーレの戦い方は、攻撃をいなすことに長けるペルレの体術の前では無意味だわ。片腕さえ使えればその程度の攻撃をいなすのは容易いことよ」
ゼーレは肩で息をしていた。まだ体力的にも魔力的にも余裕がある。なのに、何故か身体中が火が着いたように熱いのだ。
ゼーレの様子を見ながら、まだ息が整っているザンクトは軽く腕を振った。振られたその腕から、ちょうど拳ほどの大きさの水球が放たれた。
ゼーレはそれがただの水であることを見極めると、直ぐに後ろに跳んでかわそうとした。だが、着地したゼーレの足はまるで言うことを聞かず、ゼーレは二、三歩よろめいてしまった。思えば足だけではなく、その両腕にも極度の疲労があり、今や腕を上げるのがやっとの状態だった。
「三つ目、青龍を直に肌に触れさせるのは、いくら自分のツァオバーとはいえ非常に危険なのよ。白ずきんだからまだ良いようだけど、それでも疲労の色は隠せないみたいね」
ザンクトはそう言いながらも、次々に水球を放つ。当たってもさして痛手にはならないだろうが、ゼーレは覚束ない足でそれを避けていった。
だが、幾十の水球を避けた末についに足が縺れてしまい、ゼーレはその場で尻餅をついてしまった。
「最後、この戦いにおいて私が圧倒的に有利な理由。それは、攻撃の到達範囲よ」
ザンクトはその場を動こうとはせず、ゼーレの蹴りなど到底届かない距離を保っていた。するとザンクトは構えている月卿雲客を真上に振り翳した。
「足に青龍を沿わせる場合、攻撃範囲はその足の長さ分だけ。でも普通に青龍を使えば、その範囲は腕の長さと青龍自体の長さの和になる。つまり、こうして中距離以上で戦っていれば、ゼーレは防御しか出来ないのよ!」
ザンクトはそう言って剣を振り下ろした。今ザンクトの持つそれは、十分にゼーレを攻撃範囲に含める程に延長されている。ゼーレはどうにも足が言うことを聞かないので、身動き出来ずただ瞳を瞑るしかなかった。
この時、ゼーレはどこかで同じような経験をしたように感じていた。いつの頃だったかは直ぐには思い出せない。だが、ゼーレが死を覚悟して目を瞑った直後に、弾けるような音とともに何かが現れたのを、ゼーレはよく覚えている。
そして、今この瞬間、ゼーレの身にまさに同じことが起きていた。バチバチと爆ぜるような音にゼーレが瞳を開けると、そこには雷の刀を携えたハオベが立っていた。
ゼーレはそこでようやく思い出した。あれはフェアウアタイルングでの出来事で、その時はシュテルンが助けてくれたのだ。だが今回ゼーレの目の前にいる人物はシュテルンではない。長く伸びた赤い髪が、まるで彼女の強い意志を体現しているかのようだった。
「ヴァンナー……」
「ゼーレ。その戦い方、悪くはないがまだ時期尚早だ」
ヴァンナーはザンクトの剣を受けながら、顔は完全にゼーレの方を向けていた。
「あなたは――、ヴァイスさんが相手だったはずよ!?」
突然の乱入者に、ザンクトはわずかばかり声を荒げた。だがザンクトが動揺を来している真の理由は、何も介入を受けたことばかりではなかった。今、この時機に戦いに介入出来るということが何を意味しているのかをザンクトも分かっているのだ。つまり、あの僅かな時間でヴァイスを討ち倒したということだ。
ヴァンナーはゼーレの方に向けていた顔をゆっくりとザンクトの方に向け直した。
「ザンクト、といったか? ヴォルフの妹だそうだな」
ザンクトは頷くこともせずに鋭い視線をヴァンナーに向けたままでいる。
「生憎と、相手がヴォルフの妹だからといって手加減出来る程、私は優しくないのでな」
「余計なお心遣いは結構。私も、行く手を遮る者には容赦はしないわ。それが兄さんの仲間だとしてもね」
ザンクトはそう言うと、せめぎ合っていた剣を引き一度後退した。
ヴァンナーはゼーレを引き起こすと、下がるように指示した。足元の覚束ないゼーレは、ふらふらとしながらもヴァンナーから離れていった。
ゼーレが完全に戦線から離れたことを確認すると、ヴァンナーは再び視線をザンクトへ向けた。そしてふっと笑みを浮かべた。
「何がおかしいの?」
それを怪訝に思ったザンクトは、そう尋ねずにはいられなかった。既に月卿雲客を携えて戦闘体勢の取れているザンクトとは違い、ヴァンナーはただそこに立っているだけだ。
「いや、どうやらザンクトは先程のヴァイスとやらよりは強いようだ。これでようやく試せる」
ヴァンナーから答えを聞いても、また新たな疑問が浮かぶ。だが、この間を幾ばくかの休憩に使っているザンクトは、このまどろっこしさにもさして苛立ちを覚えなかった。
「試す? 何を?」
「フォルブルートという組織は、ペルレの体術を使う者が多いようだな。私はそのペルレの体術に対する戦い方を身に付けたかった」
そう言った後、ヴァンナーは自嘲気味に笑みを漏らした。
「どうも私は、まだ戦いに憑りつかれたままのようだ。ペルレの体術を使う者と戦えるということが、楽しい」
ヴァンナーは懐に手を入れると、棒状の物を取り出した。幾重かに折り曲げられたそれを手早く組み立てると、ヴァンナーはそれを何回か回してさっとザンクトの方へ向けた。棒の長さはヴァンナーの身長程はあるだろう。ヴァンナーはそれを軽々と持っている。
ザンクトは、答えてくれると信じて質問をした。この確信がどこから来るものなのかは分からない。だが、戦いを楽しむ者が公平さを求めることはよくある。それと同じことなのかもしれなかった。
「それは何かしら?」
「ただの棒だ。少し細工はしてあるがな」
ヴァンナーはそう応えた後、棒を握る拳に力を込めた。そして、棒に刃を這わせた。
ザンクトはその武器を目にした瞬間に息を呑んだ。武器としてその形状を見たことなど、未だなかったからだ。だが、武器としての有用性は十分とも言えるものだった。
「行くぞ」
ヴァンナーはそう言うや、ザンクトとの距離を詰めるべく疾駆した。その様相はまるで死神のようであった。
ヴァンナーは最初、月卿雲客で相手の様子を窺っていた。ヴォルフの話から、フォルブルートの組織内にペルレの人間がいて、その体術を習得しているものもいるそうだ。体術では最強の民族と称されるペルレの人間との戦いを前々から望んでいたヴァンナーにとっては、またとない好機だった。
そして今、話にしか聞いたことのないペルレの体術を有する者と戦っているのだ。初めはどのような体術なのかを観察することが肝要だ。なのでヴァンナーはそれを行っているのだが、どうも勝手が違う気がしてならなかった。
「貴様、その戦い方は何だ?」
いっそヴァンナーは相手に尋ねた。ペルレの体術は、受け身から転じた攻撃を得意とする、と聞いている。なのに、今相手にしているヴァイスというハオベは、確かに手練れと言えるがその体術はどうしてもペルレのそれと合致しなかった。
戦闘中に急に尋ねられたヴァイスは、一瞬驚いた表情をヴァンナーに向けてから一度距離を離した。
「何だ、とは何が言いたいんだ?」
先程のヴァンナーの質問の意味が理解しきれていないヴァイスは尋ね直した。
「貴様のその戦い方、ペルレの流派ではないな?」
ヴァンナーが改めてそう聞くと、ようやく得心したのから少し誇るような表情をしてみせた。
「ああ、自分なりに様々な流派を研究して改良した体術だ」
その表情から察するに、どうやらヴァイスはヴァンナーのことを圧していると思っているようだ。ヴァンナーは深くため息をついた。期待外れもいいところだ。ヴァンナーは月卿雲客をしまって拳を構えた。
「――何のつもりだ?」
誇らしげな表情から一転、ヴァンナーの挙動にヴァイスは表情を曇らせた。それもそうだろう。ハオベを相手に魔法も使わずに丸腰で戦うなど、気違い沙汰だ。
「私が戦いの厳しさというものを身を以て教えてやる」
そう言って、ヴァンナーは人差し指を立てて挑発してみせた。それを見たヴァイスは、表情には出さないものの相当に頭にきたことだろう。それを示すかのように、伝家宝刀を構えたヴァイスはヴァンナー目掛けて刃を振りかざした。
動きに隙が出来たその攻撃を避けるのに、大した苦はなかった。難なくかわしたヴァンナーは、がら空きになったヴァイスの脇腹に軽く拳を捩じ込んだ。
「一発……」
刃を返して横に振るヴァイスの一閃を、ヴァンナーは身を後方に仰け反らせることで避け、その勢いを殺さないままに後方回転をした。当然、回転に合わせてヴァイスの鳩尾に蹴りを入れた。
「二発……」
ヴァイスとの間に距離が空くと、今度はヴァンナーの方からそれを詰めた。
ヴァイスは真っ直ぐに剣を構えて、ヴァンナーの動きを先読みしようとしている。だが、いや、だからこそヴァンナーはそのまま直進を続けてヴァイスの刃に突っ込む形にした。ヴァイスも剣を微動だにさせず、じっとヴァンナーの動きを注視していた。
先に動いたのは、当然ヴァンナーの方だった。ヴァンナーは大きく身を屈めると、剣の真下に潜り込んだ。それに反応してヴァイスが剣を降り下ろす頃には、ヴァンナーは横に跳躍して空いた胸に目掛けて蹴りを入れていた。
「三発……」
ヴァンナーの攻撃はこれで三発入ったことになるが、不思議とヴァイスにはそれ程の痛みがなかった。とはいえ、決して痛みが無いわけではなく、男女の違いによるものだとも思える程度のものだった。
だがここまで虚仮にされる戦いは初めてだった。ヴァイスはヴァンナーから距離を空けると一つ深呼吸をして気を鎮めた。本来ならば、三発攻撃が入ったということは三回死んだことと同じだ。ヴァイスは、その三度救われた命を捨てる覚悟で、ヴァンナーに向かっていった。相手に回避をさせないためには、単純に手数を増やせばいい。ヴァイスの手には、もう一本の伝家宝刀が握られていた。
単純に二倍の手数になったヴァイスの攻撃を全て回避するのは、流石にヴァンナーでも困難を極めた。避けた瞬間にはもう次の攻撃が迫っているのだ。ただ回避に専念するヴァンナーは、まるで踊りを舞っているかのようだった。
「四発……」
ヴァンナーの拳がヴァイスの腹を捉えた瞬間、ヴァンナーの目付きが変わるのをヴァイスは見逃さなかった。そして四発目を入れたヴァンナーは、ヴァイスから距離を空けると戦う構えすら解いた。もうただ立ってヴァイスの方に鋭い視線を向けているだけだ。全てを射抜くようなその視線に触発されたかのように、ヴァイスはヴァンナーの方へと駆け出した。大きく振りかぶった剣は、もはや戦闘のそれではなかった。そして、攻撃範囲にヴァンナーを捉えたヴァイスは、躊躇うことなく一心にそれを振り下ろした。
何かに当たる手応えはあった。だが、何かを斬った手応えは全くなかった。ヴァイスの手には、青龍が受け止められたという感覚しかなかった。ヴァンナーは生身であるはずなのに。
ヴァイスが自分の青龍に目を向けるよりも早く、ヴァンナーが懐に入り込んできた。
「この馬鹿が……」
そして先程までとはまるで違う、鉛のように重たい拳がヴァイスの鳩尾を捉えた。ヴァイスの腹を抉るようにして食い込む拳に、ヴァイスの息は止まった。鋭い痛みとともに鈍い痛みが身体を駆け巡り、それがあまりにも痛烈なために声を上げることすら出来なかった。
「これで五発だ」
ヴァイスを見下しながら、ヴァンナーは拳を握り締めてそう言った。
「貴様の敗因は三つ。まず、私が女だからと、少なからず油断があったこと。次に、私が丸腰だと思い込んだこと。最後、ハオベとしての格の違いだ」
ヴァンナーはそう言うとヴァイスに背を向けて歩き出していた。
ヴァイスは薄れゆく意識の中でヴァンナーの言葉を理解していた。確かに、女のヴァンナーを相手に油断していたことはあるかもしれない。少なくとも、最初に数回剣をかわした時に自分よりも実力が下だと誤認してしまった。そしてヴァンナーが生身だと思ってしまったのもまた事実だ。生死を懸けた戦いで、そのようなことをするなど考えられないはずなのに。しかも仮にそうだったとしても、白虎で応じるなどの別の戦い方も出来たはずなのに、ヴァイスは青龍に固執してしまっていた。そして最後、ヴァイスの振り下ろした伝家宝刀は、ヴァンナーの腕に這わせた青龍によって防がれてしまったのだ。
ヴァイスは、ヴァンナーの最後の言葉を自らの弱さとして身に刻み付けながら、やがて気を失った。
刀を交え始めたヴォルフとゲレヒトは、互いに譲らない戦いを繰り広げていた。
踊りを舞うようにして攻撃と防御を同時に行うヴォルフと、相手の攻撃をいなして反撃に転じるペルレ流の戦い方をするゲレヒトとでは、はっきり言って互いに相性が良くない。どちらかと言えば防御に重きを置いている両者の戦い方には、隙と呼べる隙が存在しないのだ。
何度か刀を交えた段階でそれを理解した二人は、どちらともなく一旦距離を空けた。
「今のままじゃ埒が明かないな」
青龍による近接戦闘を避けるのならば、次に行うべきは青龍か白虎の遠距離戦闘、或いは玄武を使った騙し合いだ。だが幻覚系の魔法があまり得意でないヴォルフからすれば、遠距離戦闘の方が有利に戦いを進めることが出来る。
だからこそ、ヴォルフは後者の戦いを選んだ。
「千紫万紅!」
ヴォルフがそう叫んだ刹那、ゲレヒトの真上が赤く染まり始めた。そして空からは幾千もの槍状の炎がゲレヒト目掛けて降り注いだ。
「神出鬼没……」
ゲレヒトは余裕を見せた表情で、眼鏡を中指で直しながらそう呟くように言った。次の瞬間には、炎の槍がゲレヒトのいる地点に突き刺さった。だが、その時には既にゲレヒトの姿はそこにはなかった。ゲレヒトは少し距離を置いたところからすっと姿を現した。次の炎の槍が襲う瞬間には、また姿を消して違うところから現れた。
「君の考えていることは分かる。この千紫万紅で攻撃する振りをして、地面に法陣を描こうという算段だろう。巧みに隠そうとはしているが、微妙に歪みのある千紫万紅がそう物語っている」
ヴォルフはゆっくりと息を呑んだ。上手くいくと思っていたわけではないが、まさか千紫万紅の軌道からそれを看破されるとは思いもよらなかった。流石はフォルブルートを統べる立場にいるだけのことはある。
だが、そうは言っても着々と幻覚系の法陣は描かれつつある。それをどう破るかも、ヴォルフからすれば見ものだった。まさか法陣を消すためだけに魔法を使うとは思えなかった。
「死屍累々……」
ゲレヒトは千紫万紅をかわしながら、地面に軽く手をついた。次の瞬間、地面がもぞもぞと動き始めた。黒ずきん狩りと称されていたヴォルフには、これがどのような魔法かは瞬時に理解出来た。直ぐに後退し、両手を前に構えた。
「面倒臭いことをしてくれる」
ヴォルフが悪態をついた直後、地面から無数の手が伸びた。そのどれもがどす黒く、地面にしっかりと手をつくと身体を持ち上げるような動作をした。地面からは無数の黒い人の形をした物体が湧いて出てきていた。
死屍累々は、傍目に見れば死者を召還する青龍の魔法だ。だがそれは所詮青龍で拵えた人形でしかない。他の色の、例えば赤魔法の臥竜鳳雛との違いは、同じ青龍ではあるが死屍累々は威力が低いという点にある。だがその分一体の人形にかかる魔力は低く、余剰した魔力を数に宛がうことが出来るのだ。
それが証拠に、ヴォルフの目の前には百を越えようとする数の黒い死者が蠢いている。この無数の屍のおかげで、ヴォルフが描いていた法陣はもう意味を成していなかった。ヴォルフは軽く舌打ちをした。
「いつ見ても黒ずきんは趣味が悪ぃぜ。臥竜鳳雛!」
ヴォルフが構えた手の先からは、赤い鳳凰がきらめく翼を広げて飛翔を始めた。優雅に舞うその鳳凰は、翼を羽ばたかせる度に、湧き出る死者達を灰へと変えた。
だが、いくら不死の鳥といえど、青龍でできた死者を蹴散らしていく内に、その羽ばたきはか弱いものとなっていく。そして、ゲレヒトの目の前にいる一体の死者を灰塵へ帰すのと同時にぱっと炎の粉となって散った。ヴォルフの視線の先では、手を合わせているゲレヒトの姿があった。
「やば……」
「破戒無慙」
ゲレヒトが今まさに魔法を唱えようとしたところで、耳を劈くような爆発音がした。ただの爆発音ならば、二人ともさして気にせずに戦闘を続けていただろう。だが、音の大きさと、その音がした方向、大まかな距離を瞬時に聞き分けた二人は、それに反応せざるを得なかった。その爆発音は、もっと端的に言ってその爆発は、シュルスで起きていたのだ。
「なっ!?」
「シュルスが!」
攻撃の手を止めた二人は一度顔を見合わせた後、直ぐにシュルスへと駆け出していた。戦いに集中していたとはいえ、もしエーヴィヒの仕業だとしたらヴォルフがそれに気付かないわけがない。つまり、シュルスで起きた爆発の原因はエーヴィヒでは、もっと言ってヴァイゼーの謀略ではないということだ。
「なら一体誰が――」
ヴォルフはそう呟きながら、一つの可能性を思い付いていた。今までは直接関わることはなかったが、もしヴォルフの推測通りなら、今回ばかりは避けることが出来ないだろう。ヴォルフが走りながら周りを見渡すと、つい先程まで戦っていた者はみなシュルスへと足を向けていた。
煙を上げるシュルスの町が近付くにつれて、それが発する気配はどんどん強くなっていった。まるで淀みも濁りもない、純粋な気配が無数にある。その中に、一つだけ明らかに「殺気」と呼べるものを放つ者がいる。しかもその殺気の強さは生半可なものではない。それは、今この場にいる者全てに共通して感じられることだった。
シュルスの町を目の前にして、一同は言葉を失った。幾本もの煙を上げているシュルスにある建物は、多くが瓦解し、もはや町の体裁を保てていなかった。町の中央に聳える建物は、理不尽な力によって為す術もなく散っていく花の様子を、ただ黙って見守っていた。
「あれハ――」
その時シュテルンは、町を飛び交ういくつもの影を目にした。つい先程まで戦っていたシュテルンだからこそ、その影が何であるのか分かることが出来た。エーヴィヒでもなければ、ハオベでもない。その黒髪黒眼の人間は、刀を片手に全てを破壊しようとしていた。
「あれハ、ペルレの人間ですね」
シュテルンの言葉に、みなの視線はフォルブルートのペルレの人間に集中した。ペルレの者は、そのような視線にたじろぐこともなく平然とした調子で言った。
「其の様ダ」
「どういうことだ!? なぜペルレの者がシュルスを……」
目の前の事実を理解しきれずにいるゲレヒトは、声を荒げてペルレの者に詰問しようとした。だがそのようなゲレヒトを、ヴォルフは手で制した。
「ちょっと待て。確かに実行犯はペルレの者だが、裏で糸を引いている者がいるはずだ」
そう、ヴォルフらは一度町を襲撃するペルレの人間について考察したことがある。ゲレヒトは瞬時に考えを巡らして、納得したように落ち着いた表情に戻った。
「だが、では一体誰が?」
「今もみな強大な殺気を感じているはずだ。恐らく、その殺気を放っている奴だ」
ヴォルフはちらとヴァンナーに一瞥をくれると、シュルスの町の方を向いた。
次に言葉を続けたのはヴァンナーだった。
「どうする? この期に及んで私たちと戦うというのなら、相手になるぞ」
ゲレヒトはフォルブルートの面子を順に見て回った。ヴァイスが倒れて、残りは三人。次いでゲレヒトはヴォルフの方に目を向けた。ゼーレを除いて戦闘要員は三人だが、ゼーレは白ずきんである。回復が出来ることの差は大きい。
ゲレヒトは現状を正しく把握し、ヴァンナーの意図も汲み取ると、それでもなお毅然とした態度で応じた。
「分かった。今はシュルスの町を救うという目的のために『共闘』しようではないか」
ヴォルフは口許に微かに笑みを浮かべた。
その瞬間、ヴォルフは目の前に先程からの殺気を感じていた。視線を落としていたヴォルフの視界には、一つの影があった。
ヴォルフはゆっくりと視線を上に向けていく。他の者は、その姿を目の当たりにし、またも言葉を失っていた。
そうしてヴォルフが認めたその姿は、よく見知った顔だった。
「まさかとは思っていたが、やはり貴様か……」
ヴォルフの拳には自然と力が入った。そして相対したその黒髪黒眼のハオベは、静かに口を開いた。
「ようやくまみえたな、ヴォルフ……」
「シュヴァルツ!!」
今このシュルスには、三つの勢力が、三つの意思が鼎立していた。
第十七章
~臥薪嘗胆~
相対した三者は、互いに鋭い視線を向けていた。誰一人として言葉を発する者はいなかったが、その内にある考えは同じだった。互いに、打破すべき相手なのだ。
しばらくの沈黙を最初に破ったのはゲレヒトだった。
「君がシュルス襲撃の首謀者か?」
シュヴァルツは今までヴォルフに向けていた視線をゲレヒトの方に向けた。その瞳は依然として相手を射竦めるだけの鋭さを放っている。
「ああ、その通りだ。貴様らがフォルブルートか。下卑た思想を掲げたつまらぬ集団だということは知っている」
シュヴァルツは感情の籠らない冷たい口調で吐き捨てるように言った。ゲレヒトはその視線に瞬時怯んだ後、その言葉に憤りを覚えた。だが努めて冷静に会話を続けようとした。そうして次に発せられたゲレヒトの疑問は、ヴォルフの発した疑問と同時だった。
「君は何故シュルスの町を襲撃している?」
「二年前、どうしてザインを殺した?」
二人の疑問は多分に棘を含んでいた。三人の間に張り詰めた空気が漂う。たった一つの些細な出来事でさえ、この空気を壊しかねない程に危うい均衡だった。
そのような空気の中、シュヴァルツはふっと口許を緩めた後、右手をさっと挙げた。次の瞬間、シュヴァルツの背後に続々とペルレの者達が集まった。その数は五十人は下らないだろう。みなが澄んだ気を発し、純粋な敵意をヴォルフらに向けている。
「――これは俺達にとっての聖戦だ」
シュヴァルツは真っ直ぐな瞳をヴォルフに向けていた。その言葉を聞いた瞬間、ヴォルフの脳裏に様々な記憶が浮かんできた。修行時代にヴォルフが狼となった時のこと、シュヴァルツがザインを屠った時のこと。そしてヴォルフは、シュヴァルツの目的に気が付いた。その行動原理を突き止めた。
「成る程な――。つまり、お前らはクリストゥス教の信者ってことか」
ヴォルフの言葉を聞いて他の者は目を見開いた。唯一、フォルブルートのペルレの者だけが小さく嘆息をついた。
ヴォルフを除き唯一シュヴァルツとの親交があったヴァンナーは、怪訝な顔でヴォルフに尋ねた。
「どういうことだ? なぜシュヴァルツがクリストゥス教だと言える?」
ヴォルフはシュヴァルツの方に視線を向けたまま、そうと言える理由を答えた。
「鍵となるのは三つ。先程ゲレヒトに言った言葉。シュヴァルツの言った聖戦という言葉。そして修行時代に俺が狼になった時の状況。この三点から、シュヴァルツがクリストゥス教だということは簡単に導かれる。その上、クリストゥス教の理念はペルレの人間のそれと違わない」
ヴォルフの提示したその鍵だけで、周囲の者はほとんど理解した。ただやはり、ゼーレだけが小首を傾げていた。
そのようなゼーレを見て、シュテルンは自分の理解するところを口に出した。
「純血を掲げるフォルブルートの思想ヲ、下卑たと言い表したことかラ、彼の目的が純血ではないことが分かります。なのニ、していることはエーヴィヒの掃討です。つまりこれハ、彼らはカプーツェのために行動していると言い換えることが出来ます。この時点でハ、まだかなり弱い推測に過ぎませんが」
言葉を次いだのは、ゲレヒトだった。彼もまた、呟くようにして言った。
「自分たちの行いを聖戦と表現したことから、彼らが宗教的な信仰を基に活動していることが窺える」
宗教、そしてカプーツェ。この二つを結び付けるものは、ハオベの創造主たるカプーツェを神聖化し崇めるクリストゥス教以外には考えられない。
さらに決定的なことが一つ。それを指摘したのはヴァンナーだった。
「修行時代にヴォルフが狼になった時、その鍵となったのは白ずきんとアルマハト教の刻印だった。白ずきんで、アルマハト教の刻印を持っていれば良かったんだ。たとえその白ずきんがクリストゥス教であったとしても」
そう、あの時の状況はひどく不自然だった。クリストゥス教信者の多い町からやって来たのは、アルマハト教の刻印を持つ白ずきんだった。だが、その白ずきんがアルマハト教信者であることを裏付ける物は何も無い。その白ずきんはただアルマハト教の刻印を身に付けていただけなのだから。だから、何者かが、ヴォルフの内なる狼を目覚めさせるためにクリストゥス教の刺客を放ったのだとしても、無理は生じない。むしろ、あの間で白ずきんが来たことを考えるならばそうである方が遥かに自然だ。
おおよそ皆がその考えを理解したところで、シュヴァルツは口を開いた。
「そういう事だ。俺がシュルスを破壊するのも、ザインを殺したのも、全ては創造主たるカプーツェのためだ」
だが、カプーツェのためと言ったところで、シュルスを破壊することもザインを殺したこともその理由にはなっていない。飛躍の程が過ぎている。
「お前の論には無理がある。クリストゥス教であることと、お前の行動には繋がりが無い」
だが、ヴォルフは自分でそう言いながらも薄々と気付いていた。シュルスはともかくとしても、他の町にあったこと、そしてザインがしたこと。
シュヴァルツは嘲りを籠めたような、それでいて感情の見られない笑みを僅かに浮かべた。口許だけで笑うその様子は、果たして人の笑みには見えなかった。
「まさかヴォルフが気付いていないはずがないだろう? ――全てはヴォルフとヴァイゼーを駆逐するためだ。ザインは狼が内に眠っていると知りながら、いずれエルデに歪みを残すと知りながら、ヴォルフ、お前を生かした。それがザインの業だ」
シュヴァルツはそう言ってその先を言おうとはしなかった。だが今となっては町を襲撃して回った理由の見当はつく。つまり、エーヴィヒの気配のするところ、狼の通った軌跡の全てをエルデから排除しようとしているのだ。
ヴォルフは自嘲気味に笑った。どうにも怒りを通り越して呆れてしまう。全ては自らが撒いた種なのだ。自嘲の理由はそれである。だが呆れてしまう理由は、シュヴァルツの思想があまりに極端に走っているからだ。だがだからといって、シュヴァルツの思想に口出しする程ヴォルフも愚かではない。ただ、はっきりとしていることもある。
「どうやら、和解の道は無いみたいだな」
「ああ、端からな」
そう言うや、場の空気が一瞬にして凍り付いた。互いに放つ殺気が衝突する毎に、周囲の温度を奪っていく。もう既に、戦闘体勢は取れている。
「今こそエルデの禍根を断つ」
シュヴァルツがそう言った刹那、シュヴァルツの背後に控えていたペルレの人間がフォルブルートとヴォルフらの方へ向けて跳んだ。五十余人と七人との戦闘では、相手が純粋なハオベではないにしても不利は明らかだった。
「シュテルン、ヴァンナー、ペルレの者は任せるぞ」
ヴォルフはそう言うと、返答も待たずにシュヴァルツとの間合いを詰めた。
「快刀乱麻!!」
ヴォルフは炎の刀をシュヴァルツ目掛けて振りかぶった。
「鬼哭啾啾……」
ヴォルフが二人からの返答を聞いたのは、シュヴァルツと刀を交えた後だった。
「僕は手負いなんですけどネ、任されますよ」
「構わん。ようやく純粋なペルレの者と戦える」
戦闘は一気に乱戦の様相を成した。その中で、ただシュヴァルツとヴォルフだけは、相手をしかと定めて戦いを始めた。
ゲレヒトはその時どうすべきかを悩んでいた。ペルレの者を止めるか、ヴォルフを先に討つか。打算的な考えをするならば、シュヴァルツと呼ばれたハオベとヴォルフが相討ちになるか、あるいはどちらかが弱るのを待ってから叩くというのが効率が良い。だから、行動に移すのに大した時間は掛からなかった。ゲレヒトは直ぐに、襲い来るペルレの者達の迎撃に意識を集中させた。人間が相手だからといって、手加減するようでは一つの組織をまとめることなど出来ない。ゲレヒトは鬼哭啾啾で闇の刀を抜くと、ペルレの者と刀を交え始めた。同じペルレの流派を身に付けた者同士、相手の出方は分かっている。だがフォルブルートに優位なことがあるのは、ペルレの者とは違いきちんと対ペルレの流派を想定していることである。同族意識の強いペルレの者は、同じ流派の者同士で戦うことなど思いもよらないだろう。ゲレヒトにはそういった意味でも自信があり、刀に迷いなどあるはずもなかった。
だが、心の片隅に決して消えない燻りがあるのも事実だった。その原因は自分の中でもはっきりとしていた。ゲレヒトはヴォルフという存在を認めつつあるのだ。己の信念の基では確実に排除しなくてはならない存在である一方、果たしてヴォルフが本当に全ての混沌の元凶であるかどうかの判断がつかないでいた。
「――私はヴェーア・ヴォルフを信じようとしているのか?」
ゲレヒトのその一瞬の迷いが、決定的な結果を生み出した。
ゲレヒトの目の前には、ペルレの人間が鋭い目を向けて刃を振りかぶっていた。この一撃をしのぐくらいなら、間合い的にも充分可能だった。だが、ゲレヒトの視界の端には、ペルレの人間がもう一人動いていた。その動きは、確実にゲレヒトに狙いを定めている。仮に目の前の攻撃を弾いても、横から迫るもう一つの攻撃は防げないだろう。ゲレヒトの思考は一瞬にしてそう結論付けた。
ゲレヒトが初撃を防いだ時には、案の定直ぐ横に刃が迫っていた。この間合いでは如何なる回避行動も徒労に終わってしまうだろう。
ゲレヒトは静かに瞳を閉じた。
ゲレヒトの耳には、刃が空を切り迫る音が届いていた。だがその刹那、刃と刃が激しくぶつかり合う音を聞いた。
「何を諦めて居るのダ。我が認めタ、フォルブルートの長為る者ガ」
その声に反応してゲレヒトが目を開けると、そこにはゲレヒトが信頼を置く数少ない人間の一人が、苦渋に満ちた表情で同族の刀を受け止めていた。見れば、彼の身体中には切り傷が見受けられる。それも、到底浅い傷とは言い難い。ゲレヒトはペルレの者の覚悟をすぐに見て取った。
「そうだな……。己が信ずる正義のままに行動すればいいのだな」
ゲレヒトはそう呟くと、一瞬で仲間とせめぎ合うペルレの者を切り倒した。今のゲレヒトに、最早迷いはなかった。魂がヴォルフを信じろと言うのならば、ゲレヒトはそれに従うまでだった。
「行くぞ」
心の奥底にまで響くゲレヒトの重い声に、ペルレの者は黙って頷いた。
ザンクトとの戦闘で激しく疲労していたゼーレの下にも、ペルレの人間は刀を携えて迫っていた。立つこともままならないゼーレには抵抗のしようもなかった。だが、ゼーレとペルレの人間との間に割って入る存在があった。ゼーレはその光景にある種の恐怖を覚えた。どこかで同じ光景を目にしたことがあったからだ。
「ゼーレさんのことハ、ロートに頼まれていますからね」
シュテルンはペルレの者と刀を交え笑顔でそう言いながらも、額には汗が滲んでいた。
ゼーレはシュテルンの足元に赤い雫が落ちるのを見た。それが先程のフォルブルートとの戦闘の最中につけられた傷から滴る血だということは直ぐに分かった。ゼーレは苦い表情でシュテルンの背中を見つめていた。
すると、シュテルンは振り返ることもしないままに、言葉に痛みを乗せてゼーレに話しかけた。
「ゼーレさン、すみませんガ、傷の治癒をお願い出来ますか?」
ゼーレはシュテルンの言葉を聞いて息を呑んだ。あの時も、ゼーレに出来たことは負傷したシュテルンに白魔法を宛てることだけだったからだ。シュテルンに伸ばしかけたゼーレの手は、何かを掴むことなくただわなわなと震えていた。
「――っ」
ゼーレはいつの間にか額に大量の汗をかいていた。瞳を固く閉じて、過去の痛ましい記憶と懸命に戦っていた。何も出来なかった自分の無力さが、恐怖という名の剣を持ってゼーレに襲いかかっていた。
「ゼーレさんハ、僕と初めて会った時に比べて強くなりました。ですガ、もっと強くなれはずです。どうカ、自分を認めるだけの勇気を」
ゼーレは拳を力強く握ると、ゼーレを苛んで放さない重い鎖の一端を断ち切った。ゼーレが今すべきことは、シュテルンの傷を癒すことだ。白ずきんの自分にしか出来ないことを、ゼーレは心の支えにした。
ゼーレはシュテルンの背中に手を置くと、そっと白魔法を当てた。
「ありがとうございます」
シュテルンはそう言うと、せめぎ合っていた刀を強引に押し返した。ペルレの者は無理に逆らおうとはせずに、シュテルンと一度距離を空けた。
「先程の戦闘デ、あまり長期戦にするのは得策でないことが分かりましたからね。短期決戦を覚悟デ、少し無茶をします」
シュテルンは誰に言うでもなく呟くと、左手を添えながら右手を前に構えた。そうすると、シュテルンの掌から放射状に雷の刃が拡がった。金色に伸びるその刃は、まるで獅子の持つ鬣のようであった。
「それでハ――、先程の続きといきますか」
そう言った直後、シュテルンの姿は消え、ペルレの者の後方に現れた。ペルレの者は後方にいるシュテルンの方へ振り向くことも出来なかった。何故なら、今の一撃で致命的な傷を負ってしまったからだ。
「え……?」
間近で見ていたゼーレにも何が起きたのか理解出来なかった。それが朱雀の圧縮と膨張による単なる移動に過ぎないことに気付く頃には、シュテルンの周りには何人ものペルレの人間が地面に倒れていた。
ザンクトは強い焦燥感に駆られていた。先程、ヴァンナーにあのような物を見せつけられた後では、気がはやるのも仕方のないことなのかもしれない。だがそれと同時に、ザンクトは自分で思うよりも遥かに疲労していることも失念していた。そのせいで動きに切れがないし、振るう太刀筋にもぶれがあった。当然、戦闘能力に長けるペルレの者にはそのような中途半端な力は通用しなかった。
ザンクトの刀はいとも簡単にいなされ、そして弾かれた。無防備になったザンクトの胴目掛けてペルレの者の振るう刀が迫った。ペルレの流派の最も得意とする攻撃方法だった。ザンクトは、まさか自分がそれをされるとは思いもよらなかった。そんな呑気なことを考えている間にも、ペルレの者の刀はまさにザンクトの胴を二分しようとしていた。
その時、金属と金属のぶつかり合うような、甲高い音が辺りに響き渡った。ザンクトの目には、つい先程見た細長い棒がペルレの者の刀を受け止めている光景が映っていた。背後に振り返ると、さも嬉しそうな表情をしたヴァンナーがその棒を構えていた。
「戦いの途中で勝手に退場することなど、認めないぞザンクト」
ヴァンナーはするりとザンクトとペルレの者の間に入り込み、ペルレの者を押し返した。ザンクトは言うべき言葉も思い浮かばないまま、ただヴァンナーの背中を眺めていた。
ヴァンナーはザンクトに一瞥をくれた後、再びペルレの者に向き合い、口許に笑みを浮かべて言った。
「今日という日は運がいい。ペルレの流派を身に付けた者と相見えたと思ったら、今度は本当のペルレの人間だ。私の刃も存分に振るえる」
そう言ってヴァンナーが棒を握る手に力を込めると、先程と同様に棒から刃が現れた。それを見た瞬間、ザンクトは背筋に悪寒が走るのを感じた。先程少ししか戦闘をしていないのに、刃を見るだけで恐怖にも似た感情を抱いてしまう。それ程にその武器は禍々しく、その武器を振るうヴァンナーは鬼気迫っていた。
だが、今ヴァンナーと対峙しているのはザンクトではない。そのためか、ザンクトには幾分心に余裕を持つことが出来た。だから、抱いていた質問をヴァンナーに投げ掛けることも出来た。
「その武器は、一体何なの?」
ヴァンナーは今度は完全にザンクトの方を振り返り、手に持つ武器をちらと見て言った。
「柄にアムレットとベーゼアガイストを仕込み、刃を青龍で形作った――鎌だ」
そう、ヴァンナーの手に持つ物は、確かに鎌の形状をしている。だが、ザンクトは鎌という物を草刈りの時などでしか見たことがない。刃のついたその形状から殺傷能力は充分であることは見てとれても、それを武器にしようと考える人がいるとは想像だにしなかった。武器にするには、そのままの鎌では小さい上に、刃は内側を向いているので攻撃がしづらいのだ。だが、ヴァンナーの持つそれはその両方の欠点を補っている。大きさは身の背丈ほどもあるし、刃は青龍で出来ているために外側内側という概念が無い。そして何より、鎌を振るう姿は相手に畏怖の念を抱かせる。
その時、ヴァンナーの背後にいたペルレの者が、ヴァンナーに向かって猛然と走り出した。もとからそれ程距離が空いていなかったため、間合いは直ぐに詰まった。だがヴァンナーは相変わらずザンクトの方を向いたままだった。
ザンクトは何を言うつもりもなかった。ヴァンナーならばその気配には気付いているはずだし、先程の戦闘で戦い方は分かっている。心配する必要が無いことは身に沁みて分かっているのだ。
ザンクトがヴァンナーを見据えて黙っていると、ヴァンナーは口許にふっと笑みを浮かべた。
「せっかちな奴だ……」
そう言うや、ヴァンナーは左手に持った鎌を思い切り背後に向けて振るった。刃は空に弧を描き、その切っ先は正確にペルレの者に向けられていた。
遠心力も相俟って威力の増したヴァンナーの一閃をペルレの者は刀で受けようとしたが、直ぐに回避行動に切り替えた。
「――その判断、正解だ」
いなすことに長けたペルレの流派にもいなせない攻撃というものはある。それは、点による攻撃だ。次元の無い点に何か外部からの干渉を与えても、それは線にしかならず止めることは出来ないのだ。ヴァンナーの鎌は垂直に振るうことでまさに点による攻撃を可能としている。だが、鎌による攻撃も、刀による突きも、見方を変えれば線の攻撃になる。だから、いなすことも決して不可能ではないのだ。だが遠心力も相俟ったヴァンナーの攻撃をいなすことは至難だ。そこまでを思考してペルレの者は回避行動を取った。
ヴァンナーは回した鎌の勢いを殺さずにそのまま身体を回転させ、二撃目を突きへと派生させた。その矛先は充分にペルレの者を攻撃圏内に捉えていた。
「まさか!」
ザンクトは思わず声を上げていた。つい先程まで鎌だったヴァンナーの武器は、今や槍と化していた。身体を回転させるほんの僅かな時間で、刃の形状を変化させたのだ。ザンクトは、その歪みの無い刃を一瞬にして形成したヴァンナーの技術に喫驚するばかりだった。ヴォルフと戦った時にも感じた、格の違いというものをザンクトは再び目の前で痛感させられた。
ヴァンナーは攻撃の手を一切緩めることなく、槍による点の攻撃を続けた。ペルレの者はいなすことも出来ず、ただ攻撃を弾いたり回避するので精一杯だった。今や完全にヴァンナーが優位に立っていた。
「……成る程な」
ヴァンナーは自分の武器がペルレの者相手に十二分に戦えることを確かめると、一度身を退いた。そして、両手で構えていた槍を片手に持ち替えた。
「これ以上は時間の無駄だ」
そして、一気に間合いを詰めると片手ながらに高速で突きを放った。ペルレの者はもはや弾こうとする動きも見せずに、一心に回避行動を取っている。これだけ高速で、しかも片手であれば、そこに出来る隙も大きい。
ペルレの者はそこを見切ると、ヴァンナーの懐に潜り込もうとした。だが、ペルレの者がヴァンナーの口許に微笑を確認するのと同時に、側頭部に激痛を感じ、そのまま気を失った。
ヴァンナーは槍を数回回した後、地面に突き立てた。ヴァンナーにとっては、全てが予定通りだった。
「考えが甘かったな」
そう、突きに出来る隙は、ヴァンナーもそうだがその真横を移動するペルレの者にも言えたことなのだ。だから、ヴァンナーは槍の柄に対して無防備に移動するペルレの者の側頭部にその柄をぶつけてやったのだ。もちろん、槍を両手で構えてても可能なことだったが、ペルレの者に、さもヴァンナーに隙があるように見せるには片手で構える方が都合が良い。
ヴァンナーはザンクトの方に目をやると、静かに、そして短く言い放った。
「もう戦えるな?」
ザンクトは小さく頷いた。既に二人の周りはペルレの者が取り囲んでいる。だが、今の二人にはその状況すら温く感じてしまう程に気が昂っていた。
「どうしてザインを殺した?」
シュヴァルツと相対したヴォルフは、先程尋ねたのと同じ質問をした。今の二人の会話を聞く者は誰もいない。ペルレの者も、二人への干渉を避けて飛び交っている。全てはシュヴァルツによってお膳立てされているようだ。
シュヴァルツは嘲笑にも似た笑みをヴォルフに向けた。
「先程言った通りだ。ザインは世界の歪みたるお前を生かした。だから、殺した」
シュヴァルツが先程と同じ答えを返すと、今度はヴォルフが嘲笑にも似た笑みを口許に浮かべた。
「違うな。まさか俺が気付いていないとでも思っていたのか?」
ヴォルフの挑発じみた口調に、シュヴァルツはぴくりと反応を示した。だが言葉は発さずに沈黙を通すシュヴァルツに、ヴォルフは構わず続けた。
「ザインの弟子三人の中で最も勝率の低かったお前が、どうやってザインを殺した? 得意の幻覚系のヘクセライか? だが、いくら片手を失ったとしてもザインがそれに掛かるはずがない。つまり、シュヴァルツがザインを殺すことなんて、仮に不意を衝いたとしても実力的に無理なんだよ。それに、ザインを無傷で殺せる程の実力があるのなら、あの時点で俺を殺せたはずだ。狼にもなっていない俺ならな」
シュヴァルツはヴォルフの言葉を聞きながら僅かに俯いた。そのせいで前髪がシュヴァルツの瞳を隠した。今のシュヴァルツがどのような目をしているのか、ヴォルフの位置からは判別出来なかった。だが、その口許は確かに笑っていた。
「俺を止めることが出来たら教えてやるよ……」
シュヴァルツはそう言うと、伏せていた顔を上げた。その瞳にはどす黒いものが漂っている。その瞬間、ヴォルフの周囲から一切の景色が消え失せた。ヴォルフはシュヴァルツがどういう戦術をとるか、大方予想出来ていた。だが、だからこそその術中に陥ることを許した。
今、ヴォルフの周囲には完全に光が失われている。その無限の闇にあるのは、ヴォルフとシュヴァルツのみ。
「やはり流石だな。幻覚系のヘクセライを、法陣を描かないばかりか、名前すら唱えずに使えるとはな」
玄武の得意なシュヴァルツは、夢幻泡影をその魔法名すら言わずに発動させた。法陣を描かないだけでも発動させるのは難しいというのに、シュヴァルツの集中力はもはや他の追随を許さなかった。シュヴァルツの前では、シュテルンはおろか如何な幻覚系ヘクセライも意味を成さないだろう。
「何となくそう来るとは思っていたが、何故わざと俺の夢幻泡影にかかった?」
常闇の中、シュヴァルツの言葉はヴォルフの頭に直接鳴り響く。
「これは――、俺が越えなければならない壁だからだ」
ヴォルフは静かにそう言うと、快刀乱麻を抜刀した。シュヴァルツの思考がそのまま現実となるこの空間で戦うことは、言うまでもなく無謀だ。
シュヴァルツは黒い笑みを浮かべると、居合いの構えをとった。
「――鬼哭啾啾!」
シュヴァルツの踏み込んだ一歩は二人の距離を無にする絶対の速度だった。目で追える速度を越えて、シュヴァルツはヴォルフの下にまで到達した。そして居合い抜きでヴォルフを袈裟懸けに斬ろうとした。
しかし、反応すら許さない速度域の剣技を、ヴォルフは寸でのところで受け止めた。反応ではない以上、それは勘と言わざるを得ない。シュヴァルツは、ヴォルフの視線が交点を結んでいないことに気が付いた。それは、瞬間的に瞑想の第三段階に移行したことを端的に表している。恍惚としたヴォルフは、意志を介さずに戦うことが出来るのだ。
「そうこなくてはな」
シュヴァルツの嬉しそうな呟きの後、彼の腕が背中からもう二本生えた。それぞれの腕に闇の刀を携えたシュヴァルツは、四本の刃でもってヴォルフに襲いかかった。
ヴォルフは何も考えず、ただ身体が動くに任せた。そしてその身体は両手に刀を持つと槍状に変化させた。それはヴォルフの最も得意とする戦い方だ。四本の刃に対して実質四本の刃で対抗する、まさに目には目を歯には歯をの戦術だった。
刀の本数が同じである以上、その勝敗を決するのは剣技の腕だ。ヴォルフとシュヴァルツとでそれを比べた場合、優位は圧倒的にヴォルフの方にある。だが、今二人がいるのはシュヴァルツの作り出した幻覚の中だ。その事実を加味すれば、優位は覆りシュヴァルツの方につく。
一度後ろに跳んで距離を空けたシュヴァルツは両手を前に翳した。その構えはどの色のハオベも同じ、次に来るのは青龍の技だ。
「魑魅魍魎」
シュヴァルツがそう唱えた刹那、腕の先から人型の物体が現れた。だが、断じてそれを人と形容することは出来なかった。強いて言うならば、それはエーヴィヒの容姿に酷似していた。
「その程度!」
ヴォルフは片腕を引き、もう片方の腕で闇でできた青龍に狙いを定めた。ヴォルフの手の中にある刀の長さは、極端に短い。小刀程の刀を構え、ヴォルフは闇の青龍のただ一点を凝視していた。そして、魑魅魍魎が動き出すのとほぼ同時に、ヴォルフも跳躍した。小刀の切っ先は、無駄な動きをせずに一直線に魑魅魍魎へと迫った。
刃の先端が魑魅魍魎を捉えたとヴォルフが思った直後、まるで霧が晴れるかのようにして魑魅魍魎の姿がふっと消えた。
「なっ?!」
ヴォルフが驚くのも無理はなかった。いくら青龍が自在に操作可能な魔力の塊であったとしても、その魔力が瞬間的に消えることなどあり得ないのだ。
ヴォルフは直ぐに辺りに気を配った。青龍が消えたのは、ひとえにここがシュヴァルツの作り出した空間だからだ。防御に徹してさえいれば、いずれヴォルフに勝機が回ってくる。
「ヴォルフ。いいことを教えてやろう」
いつの間にかヴォルフの視界から姿を消していたシュヴァルツの、その低く威圧感のある声がヴォルフの脳に響いた。ヴォルフがいくら竜驤虎視で辺りを見ても、シュヴァルツの姿はどこにもなかった。
「俺のツァオバー切れを待っているのだろうが、それが起こることは万に一つもない。俺はこの空間では、極微量のツァオバーでも青龍を出せるからだ。そして、ヴォルフに勝機が訪れることもない」
シュヴァルツの言葉が切れた直後、ヴォルフは背後からの攻撃を受けた。周囲の気配に細心の注意を払っていたというのに、その攻撃が迫ることにすら気付かなかった。
ヴォルフは地面に倒れたまま、状況を整理しようとした。身体の状態から、今の攻撃は青龍によるものではない。あるいはこの空間では青龍を使えないのかもしれないが、つまるところ、シュヴァルツはヴォルフを嬲り殺しにしようとしているのだ。
「どうした、ヴォルフ。立て」
ヴォルフが横に目をやると、シュヴァルツが冷徹な目を向けて見下ろしていた。ヴォルフは瞬時に腕を横に振るい、快刀乱麻をシュヴァルツの身体に突き刺した。手応えは確かにあるのに、その身体は青龍の刃で貫かれているというのに、シュヴァルツは平然とした様子でヴォルフの脇腹を蹴りつけた。
「その程度か?」
一般的に、幻覚系の魔法に囚われた時そこから抜け出す方法はごくわずかしかない。幻覚系の魔法に対して幻覚系の魔法で返すか、相手の魔力切れを待つか、相手に直接攻撃を加えるか、等だ。だがそのいずれも困難なのは言うまでもない。その強力さゆえに、幻覚系の魔法は他の魔法以上に素質や集中力を要し、魔法陣を必要とする。
「くっそ……。このままじゃあ、手の出しようが無いな」
その後も幾度の攻撃を受けたヴォルフは、呟きながらふらふらと立ち上がった。いくら闇雲に攻撃したところで、シュヴァルツを捉えることは出来なかった。だからこそ、ヴォルフはエルデに直に尋ねることにした。単に瞑想状態になるよりも、さらに深くエルデと繋がることが出来る魔法を使うことによって。
「天上天上!」
ヴォルフが右手を上へ左手を下にして鳳凰の名を叫んだ刹那、シュヴァルツの作り出したはずの空間が震動を始めた。そして見る見る内にヴォルフの手は目映く神々しく光り出した。
「やはりザインから受け継いだか。――だが!」
シュヴァルツの姿は闇に紛れて全く見えなかったが、その口調は心做しか楽しそうであった。そしてシュヴァルツの声が聞こえたと思うや否や、ヴォルフの周囲の闇が突然意志を持ったかのようにして盛り上がりヴォルフをそのまま呑み込んでしまった。しばらく、ヴォルフを喰らうようにその闇は上下左右に動いていた。だが、耳を劈くような甲高い音が聞こえるのと同時に、その闇は切り裂かれて辺りに飛び散った。
闇が晴れた場所には、既に何も無かった。
「そこか!」
次にヴォルフが姿を見せた場所は、先程の地点からは遥か遠くだった。何も無い場所目掛けて腕を振り上げたヴォルフの心には、確かにシュヴァルツのいる場所が分かっていた。
「甘い……」
ヴォルフはエルデの導くがままに腕を振るった。人の反応域を越えた早さで振られた腕は、だがしかし何の手応えもなく空を切った。
「神出鬼没か……」
ヴォルフはそう呟くと闇の中のある一点を凝視した。そして、そこ目掛けて移動しようとした時、ヴォルフの足に何かが纏わりついていることに気付いた。
「この空間で俺に勝てると思うな」
シュヴァルツの呟きが聞こえた直後、ヴォルフの身体は抵抗することを許さない程強靭な力で宙に放られた。そしてヴォルフが回避行動をするよりも早く、幾重もの闇の矛がヴォルフを突いた。
その後ヴォルフがいくらシュヴァルツの居場所を捉えて攻撃しようとしても、シュヴァルツはその攻撃を巧みにかわして反撃の手を加えていった。
ヴォルフは傷だらけになりながらも、昔のことを思い出していた。どうにも手を出すことが出来ず、ただやられるだけだったことが過去に、いやつい最近にもあった。今、その時と状況はかなり似ている。
ヴォルフはふらふらと立ち上がると、口許に笑みを浮かべて呟いた。
「はは……。あの時と状況は同じだな」
シュヴァルツはヴォルフの様子が変わったことに直ぐに気が付いた。一番最初にヴォルフと対峙した時と雰囲気が似ている。だが、ただ似ているに過ぎないということも充分に分かっていた。
「まだ未完成だから使いたくないんだが――」
ヴォルフはそう言うと、震える手を先程と同様に上下に向けた。その構えは天上天下と同じだった。ヴォルフの手が発光を始めた。エルデそのものの光が、ヴォルフの腕に集約していく。
「そのヘクセライはこの空間では無意味だ」
「ゆ……く……!」
ヴォルフの声は、震える大地の音に掻き消されて誰の耳にも届くことはなかった。ただ視覚のみが、その場で起きたことを知覚していた。
ヴォルフは上下に向けていた手をさっと自分の身体の前方で合わせた。
そう、シュヴァルツが知覚出来た情報はわずかにこれだけだった。ヴォルフが手を合わせた直後、目を覆うほど眩しい光が辺りを照らした。そして、シュヴァルツの身体を信じられない程に強い衝撃が襲った。
シュヴァルツが目を開けた時には、ヴォルフの快刀乱麻がシュヴァルツの喉元に突き付けられていた。シュヴァルツにはもはや抵抗のしようがなかった。それ以前に、身体が全く言うことを聞かない程に疲弊していた。
「ヴォルフ、お前今何をした?」
シュヴァルツは顔に余裕を見せたままそう尋ねた。
「ただの……、鳳凰だ」
余裕が無いのはむしろヴォルフの方だった。肩で息をしているヴォルフは、立っているのもやっとといった風だった。だがその眼差しには、人を射竦めるには充分過ぎる鋭さがこもっていた。
「話してもらおうか。ザインが死んだ時、一体何があったのかを」
シュヴァルツは寸時黙っていたかと思うと、たどたどしく右腕を上げ、そしてぱちりと指を鳴らした。すると、今までみなと交戦していたペルレの者達の動きがふと止まった。ペルレの者達は周囲をきょろきょろと見回しながら、状況がよく理解出来ていないようだった。
ヴォルフはその光景にも構わず、ただシュヴァルツが語り出すのを待っていた。多少の同調はあったにしろ、あれだけの人数を操っていたのだから、やはりシュヴァルツの力は半端なものではない。
「――何から話せばいいか。そうだな、あの日、ヴォルフとヴァンナーが買い出しに行った時から話そう」
そうしてシュヴァルツは語り始めた。エルデの歯車に軋みを生み出してしまった、不可避の出来事を。あるいは、それを運命と呼ぶのかもしれない。
「どうした、シュヴァルツ?」
ヴォルフとヴァンナーが買い出しに出掛けた直後、シュヴァルツはザインの目の前で立ち尽くしていた。
ザインの言葉は多分に優しい口調から放たれていたが、その身体には一寸の隙もなかった。警戒というよりはむしろ、それが彼の自然体であった。
「師匠。一つ聞きたいことがあります」
「何かね?」
「ヴォルフは、あれは何なのですか? 本当に創造主カプーツェを食した狼なのですか?」
シュヴァルツはザインの瞳を直視した。だが、まるで突き刺さるような眼差しに、シュヴァルツの視線は直ぐに足元へと逃れていった。
「――そうか。やはりシュヴァルツだったか。シュヴァルツはクリストゥス教信者だったな」
答えを渋るようなザインの態度に、シュヴァルツは苛立ちつい声を大きくしてしまった。
「そのような事は聞いていません! ヴォルフは、異端なる存在なのですか?」
相変わらずシュヴァルツの目から視線を逸らそうとしないザインは、シュヴァルツの真剣な様子を見て小さく嘆息をついた。
「決してヴォルフが異端なのではない。それだけは断じて違う。だが、ヴォルフの中に異端なる存在が宿っているのもまた事実だ。ヴォルフの中には、創造主カプーツェを食した、歴史には出てきていない方の狼が入れられている」
「……そう、ですか」
シュヴァルツは俯いてそう呟くと、拳を固く握り締めて踵を返した。向かうは、ヴォルフがいる町の方向だった。
「どうするつもりだ?」
シュヴァルツの答えを知りながら、ザインは尋ねた。カプーツェを信仰するクリストゥス教の信者にとって、カプーツェを屠った狼は最も憎い相手だ。そして今ここには、クリストゥス教のシュヴァルツがいて狼を宿したヴォルフがいる。この組み合わせが何をもたらすのかは、火を見るよりも明らかだ。
「ヴォルフを殺す」
振り向き様にそう言ったシュヴァルツは殺気以上のものを放っていた。口調は冷たさを越え、眼差しは刃よりも鋭い。その視線に一瞬だが怯んでしまったザインは、だが毅然とした口調で言った。ここで二つの大事な歯車を欠くわけにはいかない。
「待ちなさい。ヴォルフを死なすわけにはいかない」
依然として殲気とも言える気配を放ちながら、シュヴァルツはザインを見据えていた。そして重たく威圧感のある口調で吐き捨てるように言った。最早その言葉に師弟の関係をうかがわせるものは何一つ無かった。
「邪魔をするというのなら、あなたも殺す」
刹那、シュヴァルツは鬼哭啾啾で抜刀しザインに斬りかかった。展開を予期していたザインは同じく伝家宝刀でシュヴァルツの刀を受け止めた。
「聞きなさい、シュヴァルツ。ヴォルフには何の罪も無いのだ。全ての罪はヴォルフの父親、ヴァイゼーにある」
「ならば、そのヴァイゼーを父にもったことがヴォルフの罪だ! そして、エルデの歪みたる狼を宿したヴォルフを生かそうとする、貴様も同罪だ!」
シュヴァルツは強引に交わしていた刃を押し返した。片腕しかないザインには、それを押し止めることは出来なかった。シュヴァルツは尚も攻撃の手を緩めようとはしなかった。
「死屍累々!」
シュヴァルツは地面に手をつけ、数多の死者を呼び起こした。
「――仕方ない。少し荒っぽくなるが」
ザインは片腕を胸の前にかざした。ザインがそうしている間にも、地面から湧いて出てきた青龍の死者たちはザインの下に群がってきている。
「百鬼夜行!」
ザインがそう叫ぶと、今度は地面から光の巨人が現れた。辺りの死屍累々を巻き込んで立ち上がったそれは、あっという間もなく闇の青龍たちを一掃した。そして百鬼夜行の肩に乗っていたザインは、百鬼夜行の立ち上がる勢いを利用して一気にシュヴァルツとの間合いを詰めた。
「変幻自在!」
そうして、次の瞬間にはザインの姿は消えていた。シュヴァルツははっとしたが、その時には既に遅く、ザインはがっしりとシュヴァルツの頭を掴んでいた。単純な玄武による撹乱も、技を磨けば充分に相手の隙をつくことが出来る。
ザインはシュヴァルツの頭を掴む腕に力をこめた。今のシュヴァルツが怒りに我を忘れているのは明らかだ。それが、このシュヴァルツらしくない戦い方に端的に表れている。
「元のシュヴァルツに戻りなさい。――勧善懲悪」
ぱっと目映い光がザインの腕から放たれたかと思うと、その光はシュヴァルツを包み込んだ。温かく、優しい光に包まれたシュヴァルツは、まるで力が抜けたようにその場に膝をついた。
「な、何を……」
ザインはシュヴァルツの頭から手を話すと、ゆっくりとシュヴァルツの前方へと回り込んだ。シュヴァルツは今も我が身に何が起きたのかを理解できずに放心していた。だが、今までその心を占めていたどす黒い感情はまるで無くなっていた。
ザインが使った魔法は、相手の悪心を払拭する、魔法の中でも類を見ないものだった。攻撃でも防御でも治癒でもない、特殊な魔法だ。だからこそ、それは麒麟という高等魔法に分類されている。
「シュヴァルツ、信仰を持つ者としてお前の気持ちは解るつもりだ。だが、怒りに我を忘れて大切な友人を失うようなことはしないでほしい」
シュヴァルツは俯いたまま、ザインの言葉に耳を傾けていた。確かに、同じ時間を共有した、仲間とも言える存在を大切だと思う気持ちはシュヴァルツにもある。だが同時に、クリストゥス教を絶対的に信仰しているシュヴァルツにとって狼を葬りたいと思う気持ちも強い。その葛藤の間で足掻くシュヴァルツは、自分がどうすればいいのか分からなかった。激昂した感情に任せれば、均衡をなくした天秤は容易に傾くために身体は自然と動いてくれる。だが、それを成した後に訪れたであろう後悔の念は、想像しただけでも恐ろしかった。それ程に、シュヴァルツは自分が人であることを自覚した。
「事の始まりから話そう。全ての元凶はヴァイゼーにあると言っても過言ではない」
それから、ザインは狼とヴォルフについて自分の知り得る限りをシュヴァルツに伝えた。全ての事実を、エルデの導くがままに。
時間の経過はひどくゆっくりであるように感じられた。エルデに生じた歪みを説明するにはかなりの時間が掛かるはずなのに、買い出しに行っているヴォルフとヴァンナーは未だに帰ってきていない。もしかしたら、久しぶりの町の喧騒に酔い道草をくっているのかもしれない。
ザインは全てを話し終え、二人の間には沈黙が流れた。シュヴァルツはザインの話を聞く内に、確かにヴォルフに罪が無いことを知った。
「だが、それでも俺は創造主カプーツェを食した狼を許すわけにはいかない」
ザインの言葉を聞いてなおシュヴァルツの決意が揺るがないことを悟ると、ザインは静かに口を開いた。
「ならば、私の命と引き換えにヴォルフの命を長らえさせてはくれまいか」
ザインの言葉にシュヴァルツは目を剥いて驚いた。一瞬、何を言っているのかが理解出来なかった。ザインは元から冗談を言うような人ではないが、それでも悪い冗談のように聞こえてならなかった。
「今、何と……?」
「私の命と引き換えに、ヴォルフに猶予を与えてほしいと言ったのだ。エルデの歪みを身に宿すヴォルフを生かしたいと思うのは、アルマハト教に固執する私の利己心の表れだ。だから、シュヴァルツの当面の目的をヴァイゼー討伐に変えてほしい。その準備が整った段階で、ヴォルフの力を見極めてほしい。それでシュヴァルツが認められないのならば、所詮はヴォルフもその程度、それも輪廻の一部だと受け入れよう」
シュヴァルツは言葉を失ってしまった。当代最強とまで謳われたハオベがここまでして生かそうとするヴォルフは、一体如何なる輪廻を内包しているというのか。
それが嫉妬だったのか焦燥だったのかは判然としなかったが、沈黙の気まずさに耐えかねて口を開いたシュヴァルツの言葉はひどく矛盾に満ちていた。
「……だが、俺にはザインを殺す理由が無い」
「先程言ったであろう。エルデの歪みたる狼を宿すヴォルフを生かしたことが、私の罪であると」
「だが! それは――」
感情が昂っていたとはいえ、何と理不尽なことを口にしたのかと、シュヴァルツは後悔した。自分の言った言葉にすら、反論出来ないのがひどく情けなかった。
そんなシュヴァルツの様子を見て取ったのか、ザインは優しい微笑を浮かべた。
「構わぬ。私は私に出来ることを全うしたつもりだ。良い弟子にも恵まれた。シュヴァルツには汚れ役を押し付けてしまうようで申し訳ないが、ヴォルフのことを頼む」
ザインはそう言って低頭した。もはや、シュヴァルツに迷いは残っていなかった。その瞳は、真っ直ぐに未来だけを見つめていた。
「分かった。俺はこれから、一切の感情を凍結させてヴァイゼー討伐のための戦力を整えよう。俺の凍った感情をヴォルフが融かしてくれることを信じて。俺は全ての歪みを『正すために』戦う」
シュヴァルツはゆっくりとザインの直ぐ傍まで近付くと、鬼哭啾啾を出しその切っ先を真っ直ぐにザインの胸へと向けた。
「ザインの遺志は俺が継ぐ。ザイン――、ありがとう」
シュヴァルツはそう言うと、大きく一歩を踏み込んだ。その一歩により、シュヴァルツは二つのものを殺した。一つは、心の底から敬愛する師匠を。もう一つは、シュヴァルツ自身の心を。
死に際のザインの表情は、まるで死ぬことを感じさせないような穏やかなものだった。そして、シュヴァルツの頬には一滴の涙が伝っていた。
「――その話に偽りは無いのか」
ヴォルフは信じられない様子でシュヴァルツが語るのを聞いていた。
「ああ。これが、俺が看取ったザインの最期だ」
シュヴァルツはそう言ってしかと頷いたが、ヴォルフにはまだ信じきれなかった。
「じゃあ、ザインはお前に殺されたわけじゃないというのか」
「直接的に殺したのは間違いなく俺だ。その俺が言えたことではないが、あれは自殺だったのかもしれない」
ヴォルフは拳を強く固く握りしめた。あまりに力を入れすぎて、爪が肉に食い込み血が滴った。だが、ヴォルフはそれに構うことはなかった。このやり場の無い怒りはどこへと向ければいいのだろうか。
「くそ……!」
ヴォルフはそう言ってから、握っていた拳を解き空を仰いだ。深呼吸をすると、澄んだ空気がヴォルフの肺を充たした。
「それで?」
顔をシュヴァルツに向けたヴォルフは、さもばつの悪そうな表情でシュヴァルツに問い掛けた。
「俺はシュヴァルツのお眼鏡に叶ったのかよ?」
それに対するシュヴァルツの返事は即答だった。その表情はヴォルフが今までに見たことがない程に晴れやかで清々しかった。
「ああ。ヴォルフは俺の凍り付いた心を融かしてくれた」
シュヴァルツが恥ずかしげもなくそう言うものだから、むしろヴォルフの方が気まずくなってしまった。ヴォルフは大きな嘆息をついた。これも全ては森羅万象が紡ぐ輪廻の一部なのだ。
「俺はヴォルフの内にある狼を許しはしない。だが、目的の順番を決めることは出来る。今更で虫のいい話と思うかもしれないが、ヴァイゼー討伐のために共に戦うことは出来ないか?」
確かに、とヴォルフは思った。確かに虫が良すぎる。今まで、ザインの遺志であったとはいえヴォルフらを欺いてきて、そして命までも狙おうとしてきたシュヴァルツが、共に戦おうと言う。その言葉を信用出来る根拠はザインの遺志しかない。
だが、ヴォルフとて私情で状況を判断するような愚行はしない。戦況を考えるならば、エーヴィヒというほぼ無限の戦力を有するヴァイゼーに対抗するには、一時的とはいえ味方となってくれる者は多いに越したことはない。事実、シュヴァルツとペルレの者たちが加われば大幅な戦力の増加に繋がる。
ヴォルフはそこまで打算的な考えを巡らした後で、その考えの全てを白紙に戻した。昔の仲間を信じるのに、計算など必要ない。
ヴォルフはシュヴァルツに手を差し伸べた。
「その力、きっとエルデのために」
シュヴァルツはしっかりとヴォルフの手を握り返した。三つの勢力は、鼎立から連立になろうとしていた。
第十八章
~舳艫千里~
シュルスにおける戦いは決着を迎えた。今や誰一人として剣を握る者はいない。だが、それが和解の道を示すものだとは限らなかった。
「我々は認めないぞ。君たちと共に戦うなど。シュヴェーベンを半壊させたヴェーア・ヴォルフと、町を回っては破壊していたシュヴァルツとペルレの者。我々の純血にそぐわない」
ゲレヒトは興奮気味に声を大きくして言った。確かにフォルブルートの理念には反するだろう。だが今はそのような小さなことにこだわっている時ではないのだ。
「少し詭弁を語るが、お前らもっと計算高くなれ。フォルブルートの戦力だけで、俺らやシュヴァルツ、果てはヴァイゼーの戦力に勝てると思っているのか?」
ゲレヒトは返す言葉に詰まった。ヴォルフの言は誰もが承知の事実だ。仮に今この場にいる三つの勢力を合わせたところで、ヴァイゼーに勝てる確率は五分にも達しないかもしれない。
「俺たちは何も仲間になろうと言っている訳ではない。最も強大な敵であるヴァイゼーを討つ、そのためだけに力を合わせようと言っているんだ」
理解は出来ても、納得の出来ないことはままある。明らかに敵と分類される者たちと肩を並べて戦うということが、生理的に嫌悪感を生むのだ。だが、今回に限ってはそう思うフォルブルートは少なかった。
「まあ、構わないさ。どうせフォルブルートの行き先はライヒなんだろ? ゆっくり考えればいい」
そう言うとヴォルフはゲレヒトに、フォルブルートに背を向けて東へと歩き始めた。
今、戦力を単純に数で表すと、フォルブルート側が四十人余り、ヴォルフ、シュヴァルツ側が五十人余りとなっている。両勢力合わせて百人を越える大所帯は、端から見ても目立つ。これ以降中継する町は無いが、ライヒに入る時には一度に入ることは出来ないだろう。
フォルブルートも、ゲレヒトを先頭にヴォルフらの後に続く形になった。先程は答えを渋ったが、ゲレヒト自身は共闘することに対してそれ程抵抗感を抱いているわけではなかった。
「私は、兄さんの案に異存はありません。戦力差を考えたなら、寧ろ合わせても足りないくらいです」
ゲレヒトの横を歩くザンクトは、自分の考えを口にした。ゲレヒトの心が変な傾きで止まってしまっているのを、ザンクトはとうに気付いていた。
「分かっている」
ゲレヒトは小さく息を吐くと、空を見上げた。
「我が魂の命ずるままに、か……」
ゲレヒトの呟きは、澄みきった蒼穹の中に吸い込まれ霧散していった。迷いを抱えたまま戦えば、自分が気付く間もなく命を落とすことになるだろう。少なくとも、幾つかの事を経たゲレヒトの心に、もう迷いは無かった。魂の命ずるまま、全てはエルデのために。
百人の大所帯の足が止まったのは、ようやくライヒの町影が見えてきた頃だった。陽はまだ高い位置で燦々と輝いていたが、ライヒの都市の上空には非視覚的な暗さが立ち込めていた。その場にいる者全員が、その異様さに気付いていた。
「ねえ、ヴォルフ。あの空って」
「――一体何の冗談だ?」
ゼーレは最初、自分の言葉が否定されたのだと思いしゅんとしてしまった。だが、ヴォルフの横顔がこの上なく硬くなっているのを見て、自分の感覚がおかしいのではないことに気が付いた。そう、おかしいのはライヒという都市そのものだった。
「何て数のエーヴィヒだよ……?」
エーヴィヒの気配を明確に悟ることが出来るのは、狼を身の内に宿したヴォルフだけだ。だからこそ、ヴォルフは他の者以上にその都市の惨状に気が付いていた。今までエーヴィヒに侵されてきたどの町よりもエーヴィヒの気配が多い。逆に言えば、だからこそ他の者でもこの距離で異常に気付けるのだ。
「用心に越したことはない。ここで作戦会議をしよう」
ヴォルフは足を止めてみなに振り返ると、そう言った。ライヒの状況を目の当たりにした後に、ヴォルフに異論を唱える者はいなかった。そうして主要な者、合わせて九人が円を囲んで話し合いを始めた。
「それデ、具体的に作戦とは?」
シュテルンは言い始めのヴォルフに言を促した。
「とりあえず、都市の詳しい状況を確認したい。だから、偵察も兼ねて先行隊をライヒに向かわせたいと思う」
ヴォルフの案に、反対する者はいなかった。確かに、正面からぶつかり合うだけでは数で劣る分不利は明らかだ。相手の情報を得てから、奇襲をかけるなりした方が余計な魔力も使わずに済む。
「それでその先行隊なんだが、多くても五人までにしたい。フォルブルートをまとめるゲレヒトと、ペルレの者を束ねるシュヴァルツには悪いがここに残ってもらう。異論は無いな?」
ヴォルフはゲレヒトとシュヴァルツに確認を取った。何かあった時に、数で戦力を動かすことの出来る二人には、待機してもらう方が効率が良い。そして、その采配はさも当然と言わん具合に、二人は頷いた。
「ああ、俺は構わない」
「私も異存はないが、一つ条件がある。その先行隊にフォルブルートの内から少なくとも誰か一人を入れさせてもらう」
ヴォルフはゲレヒトの条件を飲んだ。端からそのつもりだったのだ。別に一人と言わず二人でも問題は無かった。
「それで、エーヴィヒの気配に敏感な俺は先行隊に入らせてもらう。残りの、最大で四人は正直誰でもいいんだが、誰か名乗り出るやつはいるか?」
ヴォルフは円を囲む面子の顔を見回した。誰も彼もが真剣な顔付きで、自分に出来ることを思案していた。
最初に挙手したのはザンクトだった。
「私が行きます」
ザンクトの挙手に、一瞬ゲレヒトが怪訝な顔をしたのをヴォルフは見逃さなかった。確かに、兄妹関係にありながら敵対する組織に属しているザンクトをヴォルフと共に行動させるのに躊躇が生まれるのは自然だ。だが、ゲレヒトとて人の意志を抑圧しようと思うほど横柄ではなかったし、それをするだけの合理的な理由も見つからなかった。
ザンクトが手を挙げたのを見て次に手を挙げたのはゼーレだった。
「私も行きたいわ」
今度怪訝な顔をしたのはヴォルフの方だった。恐らく、ゼーレの戦闘経験ではまだ充分な戦力になるとは言えないだろう。少なくとも、青龍を使った長期戦に耐えることは不可能だ。そうなると、必然的にゼーレの役割は白ずきんの特性を活かした治癒ということになる。本来ならば最前線で偵察を行うような立場ではない。
ヴォルフは小さくため息をついた。経験を積ませるには偵察はいいかもしれないが、この状況下ではその判断も下しがたかった。
ヴォルフがゼーレの申し出を断ろうと口を開きかけた時、さっと手を挙げた人物がもう一人いた。
「――でハ、僕も先行隊に加わります」
微笑を浮かべながらそう言ったシュテルンの表情は、どこか憂いを帯びていた。シュテルンは落ち着いた口調で言葉を続けた。
「ゼーレさんのことハ、ロートに頼まれています。それニ、ヴァイゼーの勢力にはゲルプもいるはずです。僕ハ、ゲルプの真意を確かめたいです」
シュテルンの提案にヴォルフは頷いた。任務に私情を挟むのは本来よくないのだが、それを言うならばヴォルフも同じだ。ヴォルフに断ることは出来なかった。
「じゃあ、先行隊は俺を含めた四人で決まりだな。こっちにはザンクトがいてそっちにはヴァンナーがいるから、伝達方法は幸運の青い鳥でいいか?」
ヴォルフはそう言って周囲を見回した。ゼーレはその言葉を聞いて、フェアウアタイルングでの光景を思い出していた。無数の鳥たちに乗せた、同じ色の魔力が起動の鍵となる法陣での伝達。確か、あの時ヴォルフは三十年以上前の主流の方法だと言っていた。わざわざこの方法をとる必要性があるとは思えなかった。
「私は構わない」
唯一法陣を起動させることの出来るヴァンナーは承諾した。他の者にも異論を挟む者はいなかった。そうして話が次に進もうとしたところで、流れを遮ったのはゼーレだった。
「ちょっと待って。ヴォルフは前、この方法は古風だと言ったわよね。どうしてこの方法にこだわるの?」
ゼーレはたまらずにヴォルフに尋ねた。異論を挟むつもりはなかったが、その理由を聞きたかった。
ヴォルフは特に感情を交えずにさらりと答えた。
「個人で出来る方法としては、古風ながらも最も優れているからだ。最近の主流になっている方法は、効率化を計ったり機密性を高めるために殆どが何かしらの機器を必要とする。それに対して幸運の鳥では必要になるものは紙と法陣だけだ。それでいて、鍵になるツァオバーは五種類あって一度きりしか試せない。機密性も申し分無いんだ。三十年経っても、これに勝る方法は未だに考案されていない。――とはいえ、ある程度の技術はいるし面倒なことも多いからあまり使われてはいないがな」
ゼーレは成る程と思い納得した。確かに法陣を書くことに加えて、鳥を飛ばすために魔力も必要になる。かなり高度な技術を要することは想像に容易かった。
ゼーレが納得したのを見て取ったヴォルフはさっと顔を上げた。その表情は、今から敵地に潜り込むのだとは思えない程に明るかった。
「もう時間を無駄には出来ない。早速行くぞ」
先行してライヒへと向かった四人に残された偵察の時間は一日だった。
夜に幸運の青い鳥で定時報告をする。もしもそれが無い場合には、明日の正午まで待ち一斉にライヒへと侵攻を開始する。そういう段取りになっていた。
ライヒに近付くにつれて、四人の動悸は激しくなるばかりだった。都市から溢れる禍々しい気配が、ぴりぴりと肌を打ち付ける。加えて、ライヒにはエーヴィヒやヴァイゼー、ゲルプがいる。それぞれに因縁のある三人がそれに無意識の内に反応してしまうのは無理のないことだった。
「それで、どこから調べるの?」
あまりの居心地の悪さに、最初に口を割ったのはザンクトだった。偵察行動とはいえ、目的もなく漠然と都市を回っていては時間などあっという間に過ぎてしまう。
「それなんだが、ヴァイゼーを倒すよりもまず第一に、これ以上エーヴィヒが増殖するのを食い止めたい。だから、研究所のような建物を重点的に当たっていきたい。とはいえ、ライヒは大都市だ。二手に分かれての行動の方が効率がいい」
ヴォルフの提案はだがしかし、危険を伴うものだった。人数を分けて少なくすれば、有事の時の危険性が増してしまう。だが、今行っているのは奇襲作戦ではなく偵察なのだ。いざとなれば戦わずに逃げることだけを考えても、それはそれで全く問題無い。それでも、シュテルンは怪訝な顔をして言った。
「僕ハ、あまり賛同出来ませんね。言っては悪いですガ、ゼーレさんはまだ実戦慣れしていません。ゼーレさんを戦力から外して分けるト、実質一人になってしまう人がいます。いくら偵察といえどモ、危険過ぎます」
シュテルンの論には理があった。もしも二人ずつで分けるのならば、力関係から考えてヴォルフとゼーレの組になるだろう。だが、ヴァイゼーが狙うとしたら狼を宿しているヴォルフの方だ。攻撃の集中するであろう方にゼーレを置いては、やはり危険になる。それに、もしも合流出来なかった時、青ずきんが一人ずつしかいないのでそれを伝達する手段がない。万全を期すのならば、四人が共に行動した方が確実だ。
「私も兄さんの案には同意しかねるわ。数で劣るこちら側は最後の戦いまで戦力を温存しておきたいのだから、効率よりも安全を取るべきだと思うわ」
ヴォルフはため息をついた。四人の内二人から反対意見が出ては、もうヴォルフの案は通らないだろう。まだ賛成も反対もしていないゼーレは、立場上発言力は小さい。ヴォルフは二度目のため息をつくと三人の顔を見回した。
「――分かった。ライヒでは四人で行動する。だが四人だからって油断はするなよ。周囲の気配に最大限の注意を払うんだ。とはいえ、エーヴィヒのせいでそれもままならないかもしれないがな」
ヴォルフの言葉に三人は頷いた。これから敵の本拠地に偵察に入るのだ。油断など毛頭あるはずもない。
これからの行動の確認をしている内に、四人は帝国都市ライヒに到着していた。
「行くぞ」
厳然と佇むその都市の様相は、むしろ城と表現するのが相応しかった。中央に聳える天にも延びる建造物は、圧倒的な存在感を以てヴォルフらを見下ろしていた。まるで権力を誇示するかのようなその建造物を中心にして、周囲に主要な構造物や民家が並んでいる。
都市を歩く住民は、フェアウアタイルングのような虚構は帯びていなかったが、違和感ならば端からあった。それを確かなものとして感じていたのはヴォルフだけだった。
「ふざけんな。何なんだ、この都市は」
ヴォルフは自分の手が震えるのが抑えられなかった。
そんなヴォルフの様子は、他の三人にも異様に移った。
「どうしたの、ヴォルフ?」
ゼーレに尋ねられたヴォルフは、苛立ちのために鋭い視線をゼーレに向けてしまった。ゼーレが身じろぎしたことに直ぐに気付いたヴォルフは、それでも不快感を抑えきれずに質問に質問で返した。
「じゃあザンクト。大雑把でもいい、お前はこの都市の人口比はどれくらいだと思う?」
一般に人口比といえば、人間とハオベの人数の比を表す。ヴォルフに問われたザンクトは、周囲を見渡しておおよその数字を見積もった。
「そうね――。人間が七のハオベが三くらいかしら?」
だがヴォルフは、相変わらず怪訝な表情を浮かべて小さく嘲笑してみせた。それはザンクトに向けたものではなく、この都市全体に向けたものであることは誰の目にも明らかだった。
「違う。ハオベが三の、エーヴィヒが七なんだよ。この都市に人間なんていやしない。いるのは黒ずきんとエーヴィヒだけだ」
そう、今ライヒの都市を笑顔で歩く親子も、腕を組んで歩く男女も、人間のなりをしているもの全てがエーヴィヒなのだ。黒ずきんがどういう立場にあるかは分からないが、少なくとも都市の七割が殲滅すべき敵なのだ。
だが、その事実はさして四人を驚かせなかった。むしろ、都市から溢れ出る気配から考えればそうでないと腑に落ちなかった。それでもこれからする事に大きな暗雲が立ち込めたのは事実だ。四人はほぼ同時に息を飲んだ。
ライヒの大きな通りを真っ直ぐ進んでいた四人は、やがて広場へと出た。都市の中央の塔の周りに広がるその空間には、どういうわけか人だかりが出来ていた。それも身動きが取れなくなる程の人の多さだった。実際にこの場にいる人は全てエーヴィヒなのだが。
「何かあるのかしら?」
ゼーレは烏合の衆の中央に視線を向けようと背伸びを繰り返していた。最初に人混みの中央にその人物を見つけたのはシュテルンだった。
「あれハ、ゲオルクですね」
四人の視線は一斉にその人物へと向けられた。エルデに住む者ならばほぼ全員が知る人物だ。僅か二代でエルデ随一の帝国都市を築き上げた、人間だ。
そのゲオルクが大衆に向けて演説を行っている。内容は絶対統制の正当性をそれらしく誘導しているに過ぎない。だがその鞭撻は、確かに人々を統べるに足る資質をうかがわせた。
「ふざけやがって」
ヴォルフは拳を固く握り締めていた。ライヒを統治するのが人間だという時点で疑ってはいたが、まさかそれが当たってしまうとは、ヴォルフの憤りは募るばかりだった。
「どうしたの、兄さん?」
ヴォルフの怒りを顕にする様子に、ザンクトは怪訝な表情で尋ねた。
「あのゲオルクも――エーヴィヒだ」
ヴォルフの言葉にゼーレとザンクトは目を剥いて驚いていた。ただシュテルンだけはその可能性も考えていたようで、表情に大きな変化は見られなかった。
「シュテルン、お前はどう見る? どっちが先だと思う?」
「恐らク、統治が先だと思います。或いハ、ゲオルク自身が望んだことかもしれません」
シュテルンは考える時間もほぼ無しにそう答えた。ヴォルフもやはりと言った表情で頷いた。
つまり、エーヴィヒになってから政治体制を確立したか、確立した後にエーヴィヒになったかということだ。だがシュテルンもヴォルフも前者の可能性を否定した。その理由は明白で、政治体制を確立したのはゲオルクだが、その根幹を築いたのはゲオルクの父親だからだ。そうだとすると、ヴァイゼーの年齢と計算が合わなくなる。だから、ゲオルクは今の地位を確固たるものにしてからエーヴィヒとなったと考えるのが妥当なのだ。ヴォルフとシュテルンは、短い言葉の中でそれだけの会話をしていた。
「何で、わざわざそんなことを……」
ゼーレにはゲオルクがエーヴィヒになることを望んだ理由が分からなかった。まだそうだという確信があるわけではないが、動機から考えてもその可能性は極めて高かった。
ゼーレの問い掛けに答えたのは、事態を理解したザンクトだった。
「エーヴィヒとなれば、永遠の命を得られるからよ」
そう、人が遥か昔から思い描いてきた夢を掴む機会が訪れたのだ。権力の全てを手中に納めたゲオルクは、それを手に入れようと手を伸ばしヴァイゼーと組んだ。その想像に到るのは容易いことだった。
「そうして、万事がヴァイゼーの計画通りに進んでいったんだな」
エーヴィヒとなったゲオルクは、もはやヴァイゼーの傀儡人形だ。都市の統治者を懐柔したヴァイゼーは、堂々と研究を進めることが出来る。
威厳のある風貌で演説を行っていたゲオルクの視線が、その時ヴォルフらの方に向けられた。黒く鋭い視線を送るゲオルクは、はっきりとヴォルフら四人を捉えていた。
「急げ。行くぞ」
ヴォルフは踵を返すと早々にその場を立ち去ろうとした。ゲオルクはこのライヒの統治者なのだ。彼の命令一つで、都市は如何様にも動く。ゲオルクが一言声を上げれば、今この場にいるエーヴィヒ全員がヴォルフらに襲い掛かってくるだろう。四人しかいない状況でライヒの都市を相手に戦うのは、無謀というものだ。だからここは素直に退くに限る。ヴォルフはそう判断して早足に歩き出した。他の三人も直ぐに気付くと、背後に注意を配りながらヴォルフのあとに続いた。
そうして注意を向けていると、広場にいるエーヴィヒ全ての視線がヴォルフら四人の背中を射抜いているのが肌で感じられた。赤く光る目が、敵意を剥き出しにして四人を睨み付けていた。そして次の瞬間には、ゆっくりとした足取りではあるがエーヴィヒはヴォルフらのあとをつけ始めた。数は百を優に越えて二百をも越えようというところだった。
「まずいな……」
ヴォルフは後方に注意を凝らし前方に視線を向けながらそう呟いた。地の利の無いヴォルフには逃げようにもどこに逃げればいいのか分からない。横路に逸れようとも考えたが、いつ袋小路になるとも分からないのでそれも出来ずにいた。そうかといっていつまでも大通りを歩いていては逃げ切れるわけもない。ヴォルフは選択を迫られていた。
端から見たら何もおかしいことは起きていない。ただヴォルフらが早歩きしているだけだ。他の人は普通に歩いている。だから、ライヒにいるハオベが異常に気付くことなどない。そもそも、都市にいるハオベも全員ヴァイゼーに与しているのかもしれないのだ。選択の以前に、ヴォルフらは袋小路に追い詰められていた。
その時、通り過ぎようとしていた横路から不意に腕が伸びてきて、がっしりとヴォルフの腕を掴んだ。
「こっちよ!」
ヴォルフは引っ張られるがままに横路に引き摺りこまれた。か細いその腕には、見た目からは信じられない程の力が込められていた。
突然の出来事に、他の三人も唖然として驚いていた。
「何っ?!」
そうして三人はヴォルフが引っ張られた横路へと入っていった。
ヴォルフの手を引いたまま薄暗い横路を進んでいくその女性は、黒ずきんだった。赤と黄色の短髪にヴォルフは見覚えがあった。記憶にある彼女の最期の顔が浮かび、ヴォルフの胸を締め付けるのと同時に、目の前の現実を信じられずに動悸していた。
その女性は入り組んだ横路を何回も曲がった後、ある一件の小さな家に四人を招き入れた。小さな家に五人のハオベが集った時、ようやくその女性はヴォルフに振り向いた。
「久し振りね」
何年か振りに聞いたその声は、以前と変わらず人を落ち着かせる柔らかさがあった。彼女の身長はこれ程に小さかっただろうか。ヴォルフはそう思ってから、何のことはない、自分が成長しただけなのだと気が付いた。彼女と過ごした時間は半日も無かったが、ヴォルフの胸には様々な想いが広がっていた。
「生きて、いたのか――ルター」
四人の目の前にいるのは、かつてヴォルフが自分で殺したと思っていた人物だった。彼女を殺したことがヴォルフの原罪であり、またヴォルフを成長へと導いたとも言える。そのルターが生きていることは、ヴォルフが自らを事実によって赦すことである。二度と会えないと思っていた人物に会えたことで、ヴォルフは今までに感じたことのない温かいものを胸の奥底で感じていた。
「ルター、生きていてくれてありがとう」
この時、ヴォルフにはルターを疑うという思考は湧いてこなかった。状況を考えれば、ライヒに信じるに足るハオベなどいるはずもないのだが、ヴォルフにはいつかルターの言った「信じて」という言葉を疑うことが出来なかった。
「兄さん、誰なの? 兄さんの知り合い?」
怪訝な表情でルターを見詰めていたザンクトはヴォルフに尋ねた。ゼーレもシュテルンも、ルターの存在は知らないので同様の反応を示していた。ヴォルフとて、誰にも言うつもりなどなかった。
「彼女はルター。俺の――恩人だ」
よろしく、と言ってルターは小さく頭を下げた。ザンクトもそれに倣って会釈をしたが、それでもまだルターが信じられるのかどうかの判断はつかずにいた。
いくらヴォルフが信じていたとしても、自分が納得出来ていない以上、ザンクトは胡散臭さを拭えずにいた。
「あなた、ヴェーア・ヴォルフでいいのよね? あの時は名前も聞けずにいたから」
ヴォルフはルターのその言葉ではっとした。そうだ、確かにあの時にはヴォルフは自身の名前を名乗っていなかった。だが思い当たる節もあった。あの時ルターの家を訪れた人間はヴォルフの名前を出してルターに尋ねたのだ。あの時の状況を考えれば、ヴォルフがそれだと勘付くのも不思議ではない。だが、そうかといってそれだけでヴォルフの名前を言い当てるというのも疑わしくはある。あれからもう何年も経っているのだ。一度しか、しかもろくに応対もしていない少年のことなど、覚えていられるものだろうか。
一瞬でそう考えたヴォルフは、然り気無くルターに探りを入れてみることにした。
「ああ、そうだ。ところでルターはどうしてライヒにいるんだ?」
ヴォルフの質問に、ルターはそれまでの明るい表情をさっと真剣なものへと変えた。そして、周囲に気を配るように声の調子を落として話し始めた。
「あなたと会ってから、私も疑問に思ってたのよ。ターブの町が壊滅したことと、その直後に現れたヴォルフに一体何の関係があるのか、ってね。ヴォルフを追っている人達もいたし。それで私はそのことを調べてみることにしたの。医者という職業上、色々な人に話を聞くことは出来たから。あの時の人間が言っていたヴェーア・ヴォルフとターブの町で有名な研究者とを合わせたら直ぐにヴァイゼーという名前が出てきたわ。しばらくヴァイゼーは行方不明だったから私も諦めざるを得なかったんだけど、数年経ってライヒに現れたっていう話を聞いてこっちに移ったってわけ」
ルターの話には特に矛盾は無かった。疑わしい箇所はあるが、それも度が過ぎているわけではないので判断の材料にはなりえない。とりあえずヴォルフはルターを利用しようと考えた。胸は痛むが、いつ如何なる時でも対処出来るように予防線は張るに越したことはない。
「なら俺らの目的も大部分は分かっているはずだな?」
「ええ。ライヒの構造と、ヴァイゼーの居場所ね?」
ルターは頷くと戸棚の一つから本のようなものを取り出した。他の三人は事の成り行きをヴォルフに任せて、ただ二人のやり取りを見ていた。
そうしてルターは机の上にライヒの構造が記載された地図を広げた。シュルスの町と同じように中央には巨大な建造物が聳え、そこを中心にして主要な施設が取り囲むように配置されている。あとは扇状に区画が分けられて、階級毎の生活区になっていた。その様子は地図上からもはっきりとうかがえた。富裕層と貧困層との間では明らかに建物の高さが違うし、店などの数も極端に違っている。ルターの住居はどちらかといえば貧困層の側に位置していた。
「ヴァイゼーの居場所は、ここよ」
ルターは地図上の一点を指差して言った。そこはほぼ都市の中央に位置している、ライヒで最も大きな研究施設だった。やはり、ヴァイゼーは誰に憚ることなく堂々と研究を続けていた。
「これまでヴァイゼーが表に立つことは殆ど無かったわ。でも居場所の大方の目安がつけば、特定することも出来た」
ルターはそう言った後で地図を畳んでヴォルフに手渡した。彼女の持っている情報はそれで全てなのだろう。少なくとも、ヴォルフに有用な情報は全て提供したのだろう。ルターはそれきり何も言わなかった。
「ルター、早く余所の町へ逃げろ」
ヴォルフはふと呟いていた。仮にルターがヴァイゼーの側のハオベだとしても、死んでほしくなかった。戦いに巻き込みたくはなかった。それはヴォルフの心が訴える偽りのない本当の想いだった。
だがそれに対し、ルターはゆっくりと首を横に振った。
「ありがとう。でも私はライヒを離れるわけにはいかないのよ。ここには私の患者達がいる。それがたとえエーヴィヒでもヴァイゼーの手の者でも、私は医者として患者を見捨てるわけにはいかないのよ。これからここが戦場になるというのなら尚更、ね」
ヴォルフは胸がきつく締まるのを感じながら、だがルターの想いを受け取った。ルターはあの時から何一つ変わっていない、誠実なハオベだ。
「分かった。だがくれぐれも気を付けてくれ」
ヴォルフはそれだけを告げると、ルターの家をあとにした。ヴォルフらを見送るルターの表情は、晴れ晴れとして一切迷いがなかった。ルターは強い人だと、ヴォルフは改めて思った。
「やはり数で劣る以上、短期決戦で決めるしかないと思う」
ゲレヒトやシュヴァルツの待つ場所まで戻ったヴォルフらは早速会議を始め、作戦を練り始めた。ヴォルフがとんとんと叩いて指差す場所は、先程ルターに教えてもらったヴァイゼーの居場所だった。この情報の信憑性は実際には高くない。相変わらずルターがどちらの側についているかは判断がついていないし、ヴァイゼーがここにいるという確固たる証拠が示されたわけではない。ただルターによって証言されただけだ。だが先程戻る途中で確認した限りでは、地図の方は信頼が出来た。その地図から判断しても、ヴァイゼーがそこにいる可能性は高いと言えた。
「だろうな。狙いはヴァイゼーだけだ。エーヴィヒについては無視、ペルレの者たちに任せよう」
シュヴァルツは冷たい口調で言い、ペルレの者たちを振り返った。シュヴァルツのかけた魔法は既に解けているというのに、不思議とシュヴァルツから離れようとするペルレの人間はいなかった。本来排他的な民族であるからこそ、その事実は信じがたかった。それ程にシュヴァルツには人を引き付けるものがあるということなのだろう。
「我々もエーヴィヒ掃討に手を貸そう」
次いで口を開いたのはゲレヒトだった。彼もまた組織を統べる者として威厳のある存在だ。フォルブルートの構成員の眼は迷いなく輝いている。
「数で押すエーヴィヒに対抗するには、こちらも出来るだけ多くの戦力で応じる他あるまい」
ヴォルフとしては最初から考えていたことではあったが、二人の申し出により作戦の骨子が固まった。
フォルブルートとペルレの人間、この両者が障害となるエーヴィヒを掃討して道を切り開き、そこから主戦力となるヴォルフらが一気にヴァイゼーの居城を叩く、というものだ。あまりに単純で直線的だが、地の利もないライヒという場所では、時間も空間も限られてくる。そのような状況で、たった一つの目標を討つのに複雑な作戦は必要ない。ただでさえ即興で出来た戦力だ。複雑な作戦が充分に機能するとも思えなかった。
「分かった。その作戦でいこう」
ヴォルフは円陣を組む者達を見回した。みな反応は一様で、しかと頷いていた。
偵察が思いの外早く済んだために、辺りはようやく赤みを帯び始めたころだ。奇襲をかけるには昼間よりも夜間の方がいい。だが時間的にライヒの都市構造を充分に把握していない現状では、それも危険性が高まりかねない。何より、ヴォルフらは既にゲオルクに姿を見られている。ともすればヴォルフらの目的などとうに知れているだろう。ならば、今さら奇襲も何もあったものではない。
「作戦決行は明日の朝一番で行う。いいな?」
全会一致で全ての作戦が決定した。ライヒに入った後の詳しい采配は何一つ決めていない。混戦になった時にはもう各自の判断に任せるようにしている。それ程に、ここにいる者達はお互いの実力を認め合っている。
作戦会議を終えた後、ヴォルフは地面に座り一人暗くなる空に浮かぶ月を眺めていた。満月にも新月にも遠い今ならば、ヴァイゼーの策略があろうと狼にならずに戦うことが出来るはずだ。
「兄さん……」
ヴォルフは後ろからする声に気付き振り向いた。声をかけられる前から何となく分かっていたが、そこにいたのはやはりザンクトだった。
ヴォルフの隣に腰を下ろしたザンクトは、何かを言いたそうにしながらも言葉を出せずにいた。
「ザンクトはいいのか? フォルブルートであるお前は俺をエルデから排除したいんだろう?」
結局先に口を開いたのはヴォルフだった。一陣の涼しい夜風が二人の間を通り抜けていく。ザンクトは再び何かを言いたそうにして、言葉を選ぶようにしばらく思考を続けていた。そしてようやく、ザンクトは口を開いた。
「兄さんを、じゃないわ。兄さんの中の狼を、よ」
ザンクトはその後も言葉を続けようとしたが、だが遂に言葉が口から発せられることはなく、ザンクトは再び沈黙した。二人の間の時間がまるでゆっくりになったかのように、その沈黙は長く続いた。この沈黙を破ったのは、またしてもヴォルフだった。ヴォルフは意図せぬ内に饒舌になっていた。
「本当に久し振りだな、こうやって二人で会話するのは」
そうね、とだけザンクトは言ってしばし口を閉ざしていたが、やがて意を決したかのようにヴォルフを真正面から見据えて言った。
「兄さんは、お父さんを討つことに抵抗はないの?」
ザンクトの質問はごく当然のものだった。それは兄妹だからこそ共通に感じる疑問だった。実の父親を討つことが果たして正しいのかどうか。
だがヴォルフは間を置くことなく即答した。
「俺は、俺の身体に狼を入れた親父を憎んでいる。だがそれと同時に、高名な研究者である親父を心のどこかで尊敬している。エルデを歪めてしまった親父も、きっとどこかに歪みを抱えてしまったんだ。俺は親父から、エルデから歪みを取り除きたい。そのためならば、親父を討つことにも躊躇いはない。俺は生じてしまった巨大な歪みには絶対に『負けない』」
ヴォルフの意志は硬く、言葉を重ねる内にヴォルフの拳には知らず知らず力が籠っていた。
ヴォルフの言葉を聞いたザンクトは小さなため息をついた。そのため息には安堵が込められているようにヴォルフには感じられた。現に、ザンクトの表情には曇りがなくとても穏やかだった。そうして、ザンクトも静かに語り出した。
「兄さんの言葉を聞いて安心したわ。フォルブルートに入って私はたくさんの経験をした。その中でも感じたことは、エルデは決して一つの事象だけではここまで歪みを生むことはない、ということだった。お父さんだけを討って全てが解決するとは思わない。でも、最初の一歩として確実に必要なことだわ。私はお父さんを覚めない悪夢から解放してあげたい。それが私の利己心だとしても、私は魂の命ずるままに動くわ」
ザンクトもまた、握る拳に力が加わっていた。兄妹の意志は、確実に同じ一つの目的をもって合致していた。
夜が更ける。それぞれが様々な想いをエルデに抱きながら、それぞれが異なる勢力に属しながら、目的は違うことなく同じだった。
第十九章
~死生有命~
空が白み始める前、百人を越える多様な勢力は真っ直ぐに帝国都市ライヒを見つめていた。目標はたった一つだけだ。その視線の先には必ずヴァイゼーがいる。
「行くぞ」
ヴォルフの声を合図に、一同はライヒへと足を向けた。相変わらずエーヴィヒの気配しかしないライヒは、嘲笑するようにヴォルフらを見下している。
今、最後の戦いが静かに始まろうとしていた。
ライヒ進攻を始めた彼らを最初に待ち構えていたのは、真っ黒に蠢く都市の入り口だった。都市から出ようとはしていないが、餌がやって来るのを腕を伸ばして待っている。その様は今までのどの町よりも異様で禍々しかった。何人かはその光景を見ただけで嗚咽を漏らしていた。
「分かっているだろうが、エーヴィヒを駆逐する方法は首を断つことだけだ。青龍による攻撃しか奴らには効かない」
ヴォルフは一団に振り向きながらそう言った。その事を知りながらも、全員が強い意志を込めて頷いた。ペルレの者もフォルブルートも恐らくは相当の場数を踏んでいる。ヴォルフが心配する程やわな連中ではないだろうが、どうやら士気は充分に高まったようだ。
そして誰が合図をするでもなく、一団は敵の居城に向けて駆け出した。
「道を開ける! 千紫万紅!!」
先陣を切ったヴォルフがそう叫んだ直後、改良を加えられ青龍となった炎の槍が幾千本とエーヴィヒ目掛けて降り注いだ。それらは半分近くが的確にエーヴィヒの首を貫いた。そうして出来た一本の道に、一団は速度を緩めることなく入っていった。
それは、まるで絶望の中を突き進むようなものだった。視界を覆うのは色のない暗黒だけ。先の見えない、道とも呼べない道をひたすらに進んでいくのだ。視界いっぱいに蠢くエーヴィヒの群れを割って進むことは、それだけで精神状態に悪影響を与える。
「これハ、中々にきついですね」
普段は表情の変化をほとんど見せることのないシュテルンでさえも、顔を僅かに歪めながら足を前に向けていた。主戦力となる九人の周りはペルレの者とフォルブルートが固めてはいるが、それにしてもこのエーヴィヒの数は異常だった。この数のエーヴィヒがいるならば、ライヒの都市上空が暗く見えてしまうのも納得がいった。
ヴォルフは頭の中にライヒの地図を思い描き、自分が今何歩走ったのかを数えることでおおよその位置の見当をつけていた。恐らくは入り口からヴァイゼーの居城までの半分程の道程を過ぎた頃だろう。エーヴィヒの凶刃に倒れた者も少ないながらも何人かいる。ヴォルフはなるべくその事は考えないようにしていたが、やはりどうにも胸が痛んだ。それと同時に、解決を見ない疑問も浮かんだ。
「くそ、親父は何でこんな事を……」
その答えはヴァイゼーのみぞ知ることだ。ヴォルフはただただ目の前に聳える建物を見据えて走り続けた。
ヴォルフらが目指す、ヴァイゼーのいる建物の手前には広場がある。一団がそこに辿り着いた時、その広場にはエーヴィヒの姿は見えなかった。とはいえ、エーヴィヒは広場の周囲をぐるりと取り囲んでいる。まるで闘技場のように誂えられたその空間に迷いこんだ一団は足を止めざるを得なかった。何より、エーヴィヒしかいないはずのその闘技場の中央に二人の人影があることが異様だった。しかもその二人の背丈から、まだ子供であることも一団には動揺を与えた。
「ゲルプ……」
「ヘレか……」
シュテルンとヴォルフの呟きは、エーヴィヒ達の呻き声の中に埋もれていった。
このような状況下でも、無邪気な笑みを浮かべる二人がさらに異様でもあり、逆に場の異様さには相応しかった。
「兄さン。どうしてこんな所にいるノ?」
ゲルプの言葉は笑顔とともに発せられたが、その内には敵意が見え隠れしている。
「ゲルプヲ、解放するためですよ。どうしテ、ヴァイゼーの側にいるのですか?」
そう尋ねたシュテルンの言葉に、ゲルプは僅かに眉を動かした。シュテルンとて、ゲルプがヴァイゼー側にいる過程は知っている。だがその理由は知らなかった。
「どうしてか、っテ? 兄さんが一番知ってるじゃないカ。僕たちが旅行に行った町が壊滅しタ。その時に僕はヴァイゼー様に、兄さんはハイリゲに拾われタ。だから僕はヴァイゼー様に誓いを立てタ。兄さんこそ、どうして僕ら家族を滅茶苦茶にしたヴェーア・ヴォルフとともに行動してるのサ?」
「僕ハ、ハイリゲ様の側に長い間いる内ニ、気付いたんですよ。このエルデにハ、大きな流れがあることに。そしテ、確かにヴォルフは僕ら家族を引き裂いた仇ではあるガ、それも悪しき流れに乗せられていただけだということに。ゲルプハ、気付かないのですか? その流れを作り出したのガ、ヴァイゼーであることに」
シュテルンの答えは質問を予想してのものではなかった。だがゲルプに伝えるべき言葉が自然と口を衝いて出ていた。
シュテルンはこの時、ゲルプとの間に埋めることの出来ない深い溝があるのを感じた。シュテルンが言葉を重ねる毎に、ゲルプの表情は険しくなっていた。
「――ヴァイゼー様の悪口を言うナ」
ゲルプの拳に力が籠められ、魔力が籠められていく。今にも戦闘を開始しそうな形相で睨み付けるゲルプだったが、その出鼻を挫く場違いな笑いが辺りに響いた。
「キャハハハハ! また会ったね、シュテルンにヴォルフ!」
それはヘレだった。恐らく、シュテルンとゲルプの会話が退屈だったのだろう。今ヴォルフらの目の前にいるヘレは、少なくともそういう思考で行動している。
「黙れ。今から貴様ら全員ぶっ潰すから覚悟しとけ」
以前にもまして楽しそうに笑うヘレに対して、ヴォルフは冷たくあしらった。
その言葉にヘレは一瞬目を丸くさせたが、また直ぐに耳に障る高笑いを始めた。
「アハハハハッ! そうこなくっちゃね。その言葉、信じるからね? キャハハハハ!」
空を仰ぎ笑うヘレの声が細く消えていき、ヘレが顔を戻した瞬間、その場の空気が一気に変わった。それはまさにフェアウアタイルングでヴォルフが感じた、殲気だった。ヘレの瞳は光を失い、獣のそれに変わっていた。
殺気を越えたその気配に、一同は完全に身動きを取れなくなっていた。二度もその気に晒されたことのあるヴォルフでさえも、肌をちくちくと刺激するその気配には慣れることがなかった。生半可な者ならば、立ち処に卒倒してしまうだろう。だが動揺こそすれ一団の誰もが膝を折っていないところを見るに、やはり流石だと言うべきなのだろう。
その殲気に一瞬は怯んだものの直ぐに普段の冷静さを取り戻したゲレヒトは、眼鏡を直しながらも努めて平静に言った。
「君らが何者かは知らないが、この人数を相手にたった二人で勝て――」
ゲレヒトの言葉は最後まで続かなかった。ゲレヒトから数十歩も離れていたはずのヘレが、いつの間にかゲレヒトの背後に回り込んで腕を振りかぶっていたからだ。その腕は既に人外のものとなっていて、鋭い爪が鈍く光っていた。
ゲレヒトは振り向き様に鬼哭啾啾を振るった。それは何かを考えた上での行動ではなく、今まさに自らの身に危険が迫っていることを感じての本能的防衛だった。
ヘレのか細い腕とゲレヒトの青龍の刀が交じった瞬間、激しい閃光が飛び散った。ヘレの腕により振るわれた斬撃は、とても年端もいかない少女から放たれたとは思えないほどの威力を持っていた。刀を片手で構えていたゲレヒトは弾かれないようにするのが精一杯だった。
「く……、何なんだ、この力は」
ゲレヒトは咄嗟に身を退くと、額に噴いた冷たい汗を乱暴に拭った。
「キャッハハハハ! 中々やるねぇ、お兄さん。私の中にはね、カプーツェを食した狼が入っているの。さあさあ、もっと私を楽しませてよ。アハハハハッ!」
ヘレは心底楽しそうな表情を浮かべて笑った。その無邪気な笑みに、その場にいる多くの者が気味悪さを感じていた。先程のヘレの動きに目を覚まし、もう誰もが戦闘体勢を取っている。
シュテルンも同様に雷の刃を携えており、一切の隙も見せない体勢でヴォルフに向けて言った。
「ヴォルフ! ここハ、僕たちで何とかします。ヴォルフハ、ヴァイゼーの下へ!」
シュテルンはそう言うとゲルプとの間合いを詰めた。ヴォルフもシュテルンの直ぐ後について走り始めた。
そうしてシュテルンとゲルプが刀を交える時には、ヴォルフは悠々とゲルプの横を通り抜けることが出来た。だが、横目に映るゲルプの顔に意味深な笑みが浮かんでいたのが、ヴォルフの心に僅かなわだかまりを生んでいた。
「私も行くわ!」
少し遅れて駆け出したのはザンクトとゼーレだった。ゲルプはまだシュテルンにより足止めされているから、今ならば苦もなくヴォルフの後についていくことが出来ると踏んだのだ。それに、ザンクトとて父親の真意を知りたいと同時に止めたいと思っている。
ゲルプの横を通り抜けた二人は、ヴァイゼーの居城へ乗り込もうとした。
「キャッハハハハ! この先に行っていいのはヴォルフだけなんだよ? 残りは全員殺しちゃっていいの!」
だが二人は失念していた。ヘレの動きを止める者が誰一人としていないことを。
ヘレの強靭な腕は、容赦という言葉を知らないが如く、不意を突かれて防御の姿勢すら取ることの出来ない二人に向けて振られていた。
二人は目を瞑ることも出来なかった。だがそのおかげで目前で起きたことの全てを把握することが出来た。
眼前に迫るヘレの腕、視界の端から伸ばされる雷の刃。知覚での把握は出来ても思考で理解するには僅かな時間差があった。その時間差の間にも、二つの力は均衡を取るべく距離を空けていた。その時になってようやく、二人はその雷の刃が誰による物なのかを理解した。
「ヴァンナー!」
二人が声を上げたのは同時だった。ヴァンナーは二人とヘレとの間に割って入り、ゼーレとザンクトに迫る強靭な腕を防いだのだ。
「何をしている!」
真っ直ぐにヘレを見据えているヴァンナーだったが、その台詞は二人に対して向けられていた。何を言われているのか分からない二人は、ただヴァンナーの次の言葉を待たざるを得なかった。
だが、ヴァンナーは先程よりも口調を強くして再び叫んだ。
「早くヴォルフの後を追え! ここは私が引き受ける」
ヴァンナーはその言葉とともにヘレの下へと駆け出していた。ヴァンナーの言葉にはっとした二人もまた、ヴォルフのあとを追って走り出した。ヴォルフは既に広場の先にある建物の中に姿を消していた。
一方のヘレは余裕の表情で、まるでヴァンナーを見下しているかのような目をしていた。
「さっき言ったよね? ヴォルフ以外は殺していいって。アッハハハハハ!」
そう言った刹那、ヘレはその場から姿を消した。目で追えない程の速度で移動した。
次にヘレが姿を現した場所はヴァンナーの真後ろだった。ヴァンナーはその気配に気付き振り向こうとしたが、ヘレが振るう腕はそれよりも遥かに早かった。
だがどうしたことか、途中まで振られたヘレの腕は突然勢いを失いその場に静止した。
「ど、どうして!?」
ヘレは思いもよらないことに動揺を見せたが、自らの四肢に視線を送り自分の置かれている状況を理解した。
「滄海桑田だ」
目の前からの声に顔を上げたヘレの視界には、悠々とした面持ちでヘレを見下しているヴァンナーの姿が映った。
ヘレの四肢は氷によって固められ、身動きが取れなくなっていた。
「貴様の行動を読むことなど簡単だ。私とザンクトとゼーレを殺そうとする。そこに罠を仕掛けているとも知らずに、ただ突っ込んでくるだけとはな」
ヘレは味わわされた屈辱に顔を歪めた。出てくる言葉には、最早先程のような余裕はなかった。
「この程度で私を殺せるとでも思ってる?」
ヘレが力を籠めると、ぱりんという音とともに手足を縛っていた氷が砕けた。
「思わないさ。だが、時間稼ぎにはなった」
対するヴァンナーは肩をすくめると中央の建物を指差した。ザンクトとゼーレは既に建物の中へと進んでいた。
その時、ぎりりという音が広場に響いた。
「殺す、殺してやる……」
それはヘレが怒りのあまりに奥歯を硬く噛み締める音だった。殲気が辺り一帯を包み込み、いつ琴線が切れてもおかしくなかった。
最後の戦いは、もう直ぐそこまで迫っている。
「ヴォルフ、ちょっと待って」
ヴォルフのあとを追った二人は、ヴォルフの背中を視認しながらも中々追い付くことが出来ないでいた。建物内は外見よりも大分広く、上へと続く螺旋階段も大きな半径でとぐろを巻いている。
ゼーレの声に気付いたヴォルフは、振り返ると驚いた表情を二人に向けていた。
「お前ら、どうしてついてきた」
責めるでもなく、むしろ心配するような目をするヴォルフを見れば、その言葉に籠められた気持ちも自ずと分かるものだ。
「私にだって、お父さんと対峙する権利があるわ」
ザンクトは毅然とした表情で言った。確かにヴァイゼーと血縁関係にあるザンクトに対して、ヴォルフは返す言葉を持っていない。ヴォルフは矛先を変えてゼーレに向き直った。ゼーレには、その理由どころか対峙する実力すらない。ただ無駄にその身を危険に晒すだけだ。
「お前はなぜついてきた?」
ゼーレは一瞬答えに詰まったが、それは急に話を振られたからだった。きょとんとした顔は直ぐに真剣な表情へと変わった。
「ヴォルフの内に狼を封じ込めたのは私のお母さんよ。お父さんだって、ヴァイゼーとは懇意にしていた。私だって輪廻の中にいるわ」
どうせゼーレにどのような言葉をかけたところでゼーレの意志は覆らないだろう。だがそうかといって、このまま連れていっても危険なだけだ。ヴォルフが掛けることの出来る言葉は、僅かしかなかった。
「――死ぬなよ」
ヴォルフはゼーレが頷くのを確認すると再び走り出した。ヴォルフの内の赤い血と青い血の両方が騒ぐ。ヴァイゼーのいる場所はかなり近い。
広場に残った六人は、ヘレとゲルプと正面から向き合っていた。フォルブルートの組織員やペルレの者達は既に広場の外周に蠢くエーヴィヒと戦闘を開始している。空はますます暗く赤く染まっている。
「すみませんガ、ゲルプとは僕だけで戦わせてください」
ゲルプと刃を交えてから一度距離を離したシュテルンは、他の者に了承を得ようとした。だが仮に反対されたとしても、シュテルンには譲る気など毛頭なかった。ヴォルフやゼーレならばシュテルンのそうした性格も分かっただろうが、今この場にいる者にはシュテルンの性格など分かりようもない。だが誰もが現在の状況を正しく理解出来ているので、シュテルンの案に異論を唱える者は一人もいなかった。つまり、明らかに人外なヘレに人員を割いた方がいいだろう、ということだ。
「ありがとうございます」
シュテルンは笑顔を浮かべながらそう言うと、その視線をゲルプの方に向けた。
変わらず敵意を剥き出しにしてシュテルンを睨み続けるゲルプは、どう見ても我を忘れている。勝負を着けるならば、ゲルプの感情の昂りが治まる前の方が与しやすい。シュテルンは紫電一閃を抜刀して、再びゲルプとの間合いを詰めた。
「ヴァイゼー様のためニ! 必ず兄さんを殺ス!」
シュテルンの案に相違せず、ゲルプの攻撃は大振りで闇雲に振り回しているようにしか見えなかった。
同じ黄ずきんで、しかも兄弟であるからにして、相手の出方はほとんど分かり切っている。なので、相手の行動をどれだけ先読み出来るかが勝敗を決すると言っても過言ではない。その点で言うならば、利はシュテルンにあった。
「暗雲低迷」
感情に任せたゲルプの攻撃をかわしながら、シュテルンは左手の上に雷雲を発生させた。本来はもっと大規模な雲を生み出すことも出来るのだが、シュテルンはあえて掌の上に乗るような大きさの暗雲を出した。正確には、その大きさにまで圧縮した。
「そんなものデ!」
相変わらず自分が冷静さを失っていることにも気付かずに刀を振るうゲルプは、到底当たりもしない雷の刀をシュテルンに向けて振り回していた。
「少シ、冷静になった方がいいですよ。疾風迅雷!」
シュテルンは左手の上に浮かぶ雷雲目掛けて、一閃の雷光を放った。その雷光が雲に触れた瞬間、ばちばちという音とともに一筋だった雷が幾本にも増えて拡散した。それは優にゲルプの全身を覆い逃げ場を与えない範囲にまで及んでいた。
「ッ!!」
不意の広範囲攻撃に、ゲルプは反応しきれていなかった。仮に反応が十分だったとしてもとても防げるような攻撃ではないのだが。
ゲルプはシュテルンの攻撃をまともに受け、地面に倒れた。シュテルンは追撃をすることもなく、ただゲルプを見下ろしていた。
「くくくくッ」
突如聞こえてきた忍び笑いにシュテルンは眉を顰めた。まさか目の前で倒れている弟がその声を発しているとは思いもしなかった。
だが起き上がったゲルプの表情を目にした瞬間、シュテルンの背筋を冷たいものが駆け上がった。ゲルプの浮かべる笑みは、それ程の冷たさを放っていた。
「あ~ア。今のでとどめを刺しておけば楽だったものヲ」
ゆっくりと起き上がったゲルプは、上体をゆらゆらと揺らしていた。それだけでも、先程のシュテルンの攻撃が効いていることは明らかだ。だが今のゲルプには余裕すら垣間見える。
シュテルンは無意識の内に一歩後退っていた。シュテルンの目の前にいるものが何か分からない。確かに自分の弟であるはずなのに、身体がそれを拒み思考すら抗おうとしていた。
「ヴァイゼー様は何も出来なかった僕に力をくれたんダ。兄さんなら分かるよネ? 力を欲する心ヲ。その力が何であるかヲ」
ゲルプはそう言うと、紫電一閃を抜刀してみせた。その刃の色は、黄色を通り越して白色に近かった。それを見るだけでも相当の魔力がそこに圧縮されているのが分かる。
シュテルンの思考は瞬時に最悪の事態を想定した。ヘレの中に狼を入れることの出来たヴァイゼーならば、ゲルプの中に入れることだとて容易だろう。
「ということハ、ゲルプの中には狼が……?」
「半分正解だ、ヨ!」
ゲルプの最後の一字はシュテルンの背後から聞こえていた。一瞬で背後に回り込まれたシュテルンは、本能的に紫電一閃を後ろに振りかざしながら身を大きく屈めた。もしもゲルプの攻撃が縦斬りだとしたら、間違いなくシュテルンの身体は分断されていただろう。
だが運良く、斬られたのは紫電一閃だけだった。そう、同じ青龍であるはずの紫電一閃がまるで紙切れのように斬れたのだ。
シュテルンは直ぐに後方に退いた。青龍すらあっさり破られるようでは、もはや回避以外にゲルプの攻撃を止める術はない。シュテルンは眼光炯炯を使いゲルプの魔力の流れを読もうとした。肉体がハオベであるゲルプのものである以上、先程の動きは魔力の圧縮を利用したものだ。シュテルン自身たまに使うことがある技術なだけに、どこに魔力を集中させた時にどういう動きをするかは熟知している。動きを先読みしなければ、ただのハオベでしかないシュテルンに回避することは出来ない。
だが、ゲルプは次の攻撃を仕掛けるでもなく、悠然と立ったまま紫電一閃をしまった。それを見たシュテルンは、先程のゲルプの言葉から一つの仮説を導きだした。
「もしかしテ、ゲルプの体内にあるのハ、狼ではなく狼のツァオバーですか?」
シュテルンがそう言うと、ゲルプはわずかに眉をひそめた。その反応から、シュテルンの仮説が正しいことが窺えた。
「そうだヨ。でもどうして分かったのかナ?」
シュテルンは一つ息をつくと、真っ直ぐにゲルプの目を見据えた。ゲルプの無垢な瞳からは何を考えているかがまるで読めない。こういうところでも、兄弟は似るものなのだな、とシュテルンは場違いな考えを巡らしてふと笑みを漏らした。
「実際に狼を体内に入れられたヴォルフを見る限りでハ、狼のツァオバーを使うには狼の身体になる必要があります。ヴォルフに国士無双がかけられているためとも考えられますガ、根拠の一つはこれです」
「へェ。で、他にハ?」
「狼が身体に入っているのだとすれバ、ツァオバーは無尽蔵なはずです。だかラ、先程のように攻撃の手を緩めて紫電一閃をしまイ、ツァオバーを節約する必要などないのです」
シュテルンはそこまでを言い切り唾を飲み込んだ。まだ釈然としない事はあるが、ここまでの論に矛盾はないはずだ。
シュテルンの言葉を聞いたゲルプは、突然高らかに笑い出した。シュテルンはさっと身構えた。力の差は歴然としている。ここまでに圧倒的な差を見たのでは、いくらシュテルンといえど緊張するなと言う方が無理というものだ。
「八割正解だヨ。でも納得出来ないところもまだあるはずだよネ?」
ゲルプがその先を促すということは、シュテルンの抱く疑問に答えてくれる可能性が高いということだ。ならば、その誘いに乗らない手はない。
「ええ。ヴォルフの中にある狼ハ、青いヘクセライを使えました。確カ、もう一匹の狼ハ、黒いヘクセライのはずです。黄ずきんであるゲルプガ、その狼のツァオバーを黄色のまま使えるのは何故ですか?」
黒魔法を使う狼の魔力を体内に入れたのであれば、その者が使える魔法も黒色であるはずだ。だが先程の戦闘を見る限り、ゲルプは狼の強大な魔力を黄色のまま使っている。その点が、シュテルンには腑に落ちなかった。
そしてシュテルンの予想に違わず、ゲルプはくすくすと笑いながら答えた。
「兄さんは初耳なのかなァ? ヘクセライに属性があるのは、ずきんに色があるのと同じように着色されているからなんだヨ。つまり、ツァオバーの本質はどのハオベも同じなんダ。ヴァイゼー様は色の着いたツァオバーを元の純粋なものに、それこそ脱色する方法を発明したんダ。だから僕はその本質的なツァオバーを使い黄ずきんのまま戦えるんだヨ」
シュテルンはなるほど確かに、と感心したが、それ以上のことは何も思わなかった。シュテルンにも勝機があることが分かっただけで充分だ。
シュテルンは手を前に出し、球体を触るように構えた。当然、同じ黄ずきんであるゲルプにはそれが何の魔法であるかは分かる。
「無駄だヨ」
ゲルプは目にも留まらぬ速さでシュテルンとの間合いを詰めると、背後に回り込んで手刀を振るった。シュテルンは手を構えたまま、反応することすら出来ていない。
そこまでの余裕を感じて、ゲルプはようやく目の前の違和感に気が付いた。ゲルプの一撃を払ったシュテルンが、この展開を予測出来ないはずがない。つまり、対応出来るか否かは別にして、反応出来ないはずがないのだ。
事実、捉えたと思い振るわれたゲルプの手刀は、シュテルンの身体に触れたはずなのに何の質量も感じさせずに横へと抜けていった。そこにいたはずのシュテルンの像は、まるで陽炎のように揺らめき、形を失っていった。
つまり、ゲルプは既にシュテルンの光風霽月に掛かっているということだ。
「ま、まさカ?!」
ゲルプが驚くのも無理はなかった。そもそも幻覚系の魔法は法陣を使うというのが常識であり、それ程に魔法に対する心象を固めることが難しい。幻覚系の魔法はあまりに漠然としているのだ。だから、法陣を使わずに幻覚系が使えるハオベでも、魔法名を言わずに発動することの出来るハオベは皆無と言っていいほどに少ない。シュテルンはその稀有なハオベの一人なのだ。
「使うのは初めてだったのですガ、上手く発動してくれたようですね」
ゲルプの周囲では反響するようにシュテルンの声が聞こえている。幻覚系の魔法にかかった時によくある現象だ。深層意識を揺さぶられている状態では、外部からの音としての情報は脳に異常に知覚される。脳自身が揺さぶられるという感覚が近いだろう。
だから慣れない者はその声を聞いただけで激しい混乱に陥ることがある。だが当然、ゲルプは冷静だった。
「兄さン。ダメだなァ。自分で未完成だなんて言っちゃア」
ゲルプはむしろ余裕すら窺える表情でくすくすと笑った。シュテルンの勝機を近付けるのは、この冷静さだった。
ゲルプは一度周囲に目を遣ると、その瞳を閉じた。集中力を高めるには、外部からの一切の情報を遮断することが有効だ。だが、現在ゲルプの深層意識はシュテルンに掌握されている。シュテルンはゲルプがしようとしていることを完全には妨害しない程度に干渉した。意識下で幻覚を見せたり幻聴を聞かせたり、集中しきれずに無駄な魔力を使うように。
「この程度デ!」
ゲルプが再び目を見開いた瞬間、辺りに目映い閃光が輝いた。それが魔力の爆発とでも言うものなのは直ぐに分かる。
種類にも依るが、本来、幻覚系の魔法は相手を特殊な魔力で包み込むことで発動する。その魔力を操ることで様々な幻を相手に見せることが出来るのだ。つまり、その魔力さえ破ることが出来れば、物理的に幻覚から抜け出せることが出来る。ただ、深層意識に干渉されながら外部に魔力を集中させることは難しい。余程の集中力か、相当の魔力が必要になる。
シュテルンは、その後者を期待していた。狼の魔力を少しでも消費させて持久戦に持ち込めば、いずれゲルプの体内にある狼の魔力は底を尽く。そうすれば、後は単に二人のハオベによる戦闘だ。分は充分にある。
激しい閃光と、次いで起こった放電を伴う爆発。ゲルプはあっさりとシュテルンの幻覚から抜け出してみせた。
そしてシュテルンの視界には、猛然と迫るゲルプの姿が映った。先程と同じ戦法だが速度は違った。ゲルプは、今度は自らの魔力を圧縮して用いていた。だが相変わらずその速度は人の目で追うのがやっとだ。そしてゲルプの携える刀は、白い狼の魔力を使ったものだった。
今シュテルンの置かれている状況は、回避不可能、青龍による防御も不可能というものだ。シュテルンは迫る刀を前にして、無意識に自分も刀で防ごうとした。そして、無意識に魔力を操っていた。
「ッ!」
ゲルプは目の前の状況が信じられなかった。先程はあっさりと破ったはずなのに、ゲルプの降り下ろした紫電一閃はシュテルンの紫電一閃に止められていたのだ。
シュテルンは無意識に行ったこととはいえ、直ぐに意識を戦闘にのみ集中させると、刀をいなして回避した。元の魔力が違うので長時間せめぎ合うことは出来ない。
「今、何をしたノ?」
呆然としたまま、ゲルプはシュテルンに向かって尋ねた。まさか狼の魔力と拮抗する程の魔力をシュテルンが持っているとは、ゲルプも思っていないだろう。
だが、シュテルンはそれに答えるつもりはなかった。いくらゲルプの攻撃を防げたとはいえ、これはシュテルンにとっても弱点になる。
「秘密ハ、力ですよ?」
シュテルンは笑みを絶やさず、そう答えた。やはり、これ以上戦いを続けてもシュテルンが勝つ見込みは薄いままだし、何よりゲルプとずっと道を違えたままになってしまう。
「少シ、話をしませんカ、ゲルプ?」
シュテルンは目の前にいるゲルプに話し掛けたつもりだった。だがゲルプは既にシュテルンの視界から消えていた。眼光炯炯でずっとゲルプの動きを見ていたシュテルンからすれば、ゲルプが次にどこから現れるかを予測することは出来る。だが、ゲルプの振るう刀は青龍を斬るものだ。そこにも集中しなければならないので、俄然シュテルンの魔力消費は激しくなる。
「誰ガ!」
ゲルプはシュテルンの左後方に現れると紫電一閃を振るった。
シュテルンはそれを再び紫電一閃で防ぐと、直ぐに弾いてゲルプの腹に蹴りを喰らわせた。未だにこのからくりが分からないゲルプは、シュテルンの蹴りをまともに受けて尻餅をついた。
「ゲルプ。僕ラ、家族を引き裂いたのハ、一体誰ですか?」
ゲルプはむくりと立ち上がった。俯いていてその表情を見ることは出来ないが、きっと怒りや焦りの色が浮かんでいるのだろう。
「ヴェーア・ヴォルフだヨ!!」
ゲルプは今度は真っ直ぐにシュテルンの方へ疾駆した。魔力の圧縮は使っていない。ゲルプの脚力から生み出されるものだ。
そしてシュテルンをその間合いに捉えるや、ゲルプは刀を振るった。白く光るその刀が弧を描く度にシュテルンはそれを間一髪でかわした。
「えエ、そうです。ヴォルフの中の狼ガ、暴走した結果です。でハ、ヴォルフに狼を入れたのハ、誰です?」
シュテルンがそう問うた途端、ゲルプの目付きが変わり斬撃はより一層激しくなった。シュテルンはとうとう避けきれずに、紫電一閃でそれを防いだ。毎回一点で受けなければならないシュテルンは消耗する防戦一方だった。
攻撃の手を一切緩めないゲルプは、まるで感情に任せるかのように言葉を散らした。
「ああそうサ。ヴァイゼー様だヨ。僕だって分かっているサ」
その時、シュテルンは自分の頬に水滴が付いたのを感じた。始め、自分かゲルプの汗だと思っていたシュテルンだったが、刀に向けていた視線をふと上げてそれが何なのかを知った。
ゲルプは涙を溢していた。
そしてゲルプのその様子に一瞬虚を衝かれたシュテルンは、次の瞬間激痛を感じた。ゲルプの一太刀が、気を緩めたシュテルンの紫電一閃を斬り裂き、シュテルンの体を袈裟斬りにしたのだ。運良く間合いが少し離れていたので両断されることはなかった。強力な魔力を圧縮しているため、傷は開いた瞬間に塞がれ出血は一切していないが、傷口は決して浅いものではなかった。
シュテルンはあまりの熱さに膝を折った。ゲルプはそんなシュテルンに追撃を加えることはしなかった。ただ、涙を流したままシュテルンを見下すのみだった。だが、その顔には感情というものが欠落しているように見えた。
「そういう事カ。兄さんは紫電一閃のある一点にのみツァオバーを集中させていたんダ。そうして一瞬でも僕の紫電一閃と張り合えるようにしていたんだネ」
ゲルプは紫電一閃をシュテルンの方へ向けた。シュテルンはそれに動じることなく、ゲルプの瞳を真っ直ぐに見つめていた。ゲルプの紫電一閃と相対するために必要とした魔力は、既にシュテルンの持つ魔力をかなり食い尽くしている。シュテルンにこれ以上戦う魔力はあまり残されていなかった。
だが、沈黙は二人から言葉のみならず行動すら奪った。シュテルンは膝を折ったままゲルプを見つめ、ゲルプは涙を流したままシュテルンに刃を向けている。
「僕は」
沈黙を破り口を開いたゲルプの言葉は微かに震えていた。そしてゲルプは紫電一閃を真上に向けた。
「僕は家族を裂いた存在を恨んダ。憎んダ。それがヴァイゼー様だって知った時は、どうすればいいか分からなくなっタ。命の恩人であるヴァイゼー様を恨むことも出来ず、だからといって家族の仇を許すことも出来ズ」
刃の先端に白く輝く魔力が集まっていく。その光の球はみるみる内に大きくなっていき、やがてある大きさを以てその成長を止めた。ゲルプが肩で息をしているところを見るに、あれがゲルプの体内にある狼の魔力の全てなのだろうと、シュテルンは思った。
「そんな僕に残された道なんて、無かったんだヨ。こうやって、何も考えずに無邪気な子供でい続ける以外にハ!」
ゲルプがより一層の涙で頬を濡らして叫んだ直後、ゲルプの上空で輝いていた球体は、まるで何かを狙うように一方向に向けて弾け散った。
神々しいまでに目映い光景を前に、シュテルンは目を覆った。そしてシュテルンが目を開けた時、そこには頬を濡らしたまま迷いのない目で紫電一閃を構えるゲルプの姿があった。
「さあ兄さン。僕はヴァイゼー様に仕える一人のハオベとして兄さんと戦ウ。これで最後ダ。――僕を解放してヨ」
シュテルンもまた戦闘体勢を取った。魔力の消耗量ではシュテルンの方が遥かに上だ。紫電一閃同士の打ち合いでは、シュテルンの分が悪い。いかに魔力を節約して戦うかが、シュテルンの勝敗を分けると言える。
「えエ、きっと解放してみせますよ。そうしたラ、二人で故郷にでも帰りましょう」
先に踏み込んだのはシュテルンだった。青龍を出すことすら出来ないような状態にも拘わらず、シュテルンはゲルプの懐に潜り込んだ。当然、紫電一閃の間合いに転がり込んできた獲物を見逃すはずもなく、ゲルプは武器を持たないシュテルンに向けて太刀を振るった。
「素手で勝てるとでも思っタ?」
「電光石火……」
ゲルプの振るう刀を高速で移動することでかわしたシュテルンは、ゲルプの背後に回り込んだ。
「青龍相手でモ、勝つ方法はあるんですよ。暗雲低迷……」
ゲルプがシュテルンの方に振り向いたのを確認すると、シュテルンはその場に雷雲を残して再び移動した。
魔力の少なくなったシュテルンが一度に出せる暗雲低迷は小さい。ならば、それを助けるのは数だ。シュテルンは次々にゲルプの周囲を移動すると、辺り一体を雷雲で覆い尽くした。
「まさかそれで攻撃を封じたつもりなのかナ?」
ゲルプはシュテルンの謀略を見抜くと紫電一閃をしまった。雷雲に囲まれた状況では、少しでも電気を帯びたものが触れた瞬間に雷を誘発してしまう。それは自然界における絶対的な力だ。
この状況なら、黄ずきんの場合普通は一切の技を使えなくなる。雷雲の外側から雷を与えなければ、自分も巻き込まれてしまうからだ。そして、今戦っているのは二人とも黄ずきんだ。必然的に戦闘は肉弾戦になるはずだった。
「まさカ、そんなわけありませんよ。これハ、僕の攻撃です」
シュテルンはしっかりとゲルプがいた方向だけを見た。今も同じ場所に留まっている保証はないが、朱雀すら使えない状況では大した移動は出来ないはずだ。少なくともそう見せ掛けるだけの技量はあるはずだと、シュテルンは思った。
そうしてシュテルンは指をぱちりと鳴らして小さな静電気を生じさせた。
その瞬間、一帯の雷雲からごろごろという轟音が鳴り響き、ついで激しい閃光を放った。雷雲の中に雷が駆け巡り、内にある全てのものを貫いた。
その雷雲の中、シュテルンは眼光炯炯でゲルプの姿を探した。恐らくは、ゲルプも同じ方法でシュテルンの姿を見付けているはずだ。シュテルンは、この時決してどちらも被害を受けていないことを確信していた。現に、今まさにシュテルンの目の前に現れたゲルプは平然とした様子で紫電一閃を構えていた。
「やはリ、見切っていましたか」
雷鳴轟く暗雲の中にいながら、シュテルンもゲルプもその雷に打たれることはなかった。二人の周りには黄色い雷の網が張られていた。ゲルプはくすくすと笑いながら刃をシュテルンに向けた。
「静電遮蔽って言うんだっケ? 導体に囲まれていれば、中に電気は通らないんだよネ? 兄さんのことだから、そんな事だろうと思っていたヨ」
シュテルンはゲルプの言葉に耳を貸す気はなかった。暗雲が晴れ始めている今、時機的にはもう猶予はない。シュテルンは瞬時に足の底に魔力を圧縮させ、一気に解放した。
驚異的な加速をつけて迫るシュテルンを前に、不意を突かれたゲルプは反応しきれなかった。直線運動しか出来ないシュテルンの移動の軌道の先にはゲルプの構える紫電一閃がある。反応が出来なくとも、ゲルプにとっては問題が無かった。
そしてそのまま、シュテルンの脇腹を紫電一閃が貫いた。
「どういうこト?」
シュテルンの行動の意図が読めないゲルプは、その勢いのままゲルプの後方にまで行ったシュテルンを振り返った。そうしてゲルプの瞳に映ったものは、敗北だった。仰向けに倒れ痛みに顔を歪めながらゲルプの方を向くシュテルンの腕は、まるで球体を持つかのようだった。
「これガ……、僕の最後のツァオバーです。光風霽月……!」
シュテルンが叫ぶや、今まさにシュテルンの移動した軌跡が淡く光り出した。シュテルンが電光石火で移動しながら暗雲低迷を使ったのも、全てはこの光風霽月の法陣を描き、かつそれを悟らせないためだった。魔力を消耗した状態では、いくらシュテルンといえど法陣を描かずには幻覚系の魔法を使うことは出来なかった。ゲルプが暗雲低迷の雷を回避するのも、そこを狙ってシュテルンが攻撃を仕掛けるだろうと推測していたことも、全てシュテルンの計画通りだった。
シュテルンの光風霽月にかかったゲルプは、まるでがくりという音が聞こえるように膝を折った。その瞳からは一筋の雫が溢れていた。
「――ゲルプ。約束通リ、解放してあげましたよ」
シュテルンは脇腹を押さえて足元を覚束なくさせながらも、ゲルプの側まで寄るとその頭を優しく撫でた。そして、感情をそのまま表した笑顔を浮かべたまま、その場に倒れた。
隣で始まったシュテルンとゲルプの戦闘を横目にしても、誰もその場を動くことは出来なかった。ヘレの圧倒的なまでの殲気を前に、身動ぐことすら躊躇われた。いや、それすら出来ないのだ。ヘレとの力の差はそれ程までに大きかった。
「アハハハ。どうしたの? 早く殺し合おうよ」
ヘレは極寒の瞳で嬉しそうに笑った。ヘレが足下の砂利を踏み鳴らす度に、絶対的な気配が肌を刺激した。
確かに個々の力の差は埋めようもない程に大きい。だが現在の状況では、数ではヴァンナー等の側に分がある。この場にいる五人が上手く力を合わせて相乗的な効果を得られれば、戦況は五分まで持っていけるかもしれない。とはいえ、この場に集まる者は即席の集団だ。急に連携を取れと言ったところで機能するとはとても思えなかった。ヴァンナーは小さく舌打ちをした。たった一人を相手に五人でも勝てないと思ってしまう自分が情けなかった。
「シュヴァルツ。何か作戦はあるか?」
ヴァンナーは隣で険しい顔をしているシュヴァルツに向けて尋ねた。その様子からヴァンナーと同じことを考えているのかもしれないが、シュヴァルツは修行時代からよく頭が回る上に先見性もあった。あるいは打開策を練っているのかもしれない。
「――いや。この即席の集団では連携を取るような作戦はまず無理だ。むしろその場その場の判断で動いた方がいい」
シュヴァルツの言うことは尤もだった。混戦となることがほぼ明らかで、かつ戦力ではある程度以上の実力があるので、状況に応じて対応出来る無策の方がいい。
「つまり、こういうことだ」
シュヴァルツはふっと微笑を漏らすと、一直線に走り出した。その先には、当然ヘレが無邪気な顔で立っている。
「土崩瓦解!」
そう、今この場に必要なのは、張り詰めた均衡を破るきっかけだった。何か一つの要因さえあれば、均衡は崩れてあとは自然と戦闘が開始される。シュヴァルツは、最初の標的にされる危険の伴うその役を自ら買って出た。
シュヴァルツの放つ攻撃は真っ直ぐにヘレの下へと向かっていった。だがヘレは何の苦もなく回避し、案の定最初の標的をシュヴァルツに定めた。鋭い視線を向けられたシュヴァルツは、だが臆することもなくその黒い瞳で視線を返した。
「キャハハハハハ! そうこなくっちゃあね」
次の瞬間、ヘレは一同の視界から姿を消した。次に現れる場所が分かってはいても、対象を視覚で追えないことは相当の恐怖を与える。
そしてシュヴァルツが横を向いた時には、既に回避のしようがない程にヘレは接近していた。
「疾風迅雷!」
今まさに上げた腕を振り下ろそうとしていたヘレの攻撃を食い止めたのは、ヴァンナーだった。ヘレは攻撃を中断すると一度身を退いた。
一難を乗り越えたシュヴァルツはヴァンナーの方に振り返ると一つ頷いた。ヴァンナーもまたほぼ同時に頷いてみせた。二人の意思は完全に疎通していた。
そしてその意思は残りの三人にも伝播した。
「なるほどな。互いに互いで補い合うというわけか。それも作戦の一つだろう」
ゲレヒトは五人の顔を見回すと、ついでその視線をヘレに向けた。作戦が決まれば、あとは共に戦う者を信じるのみだ。現在の状況においてこの作戦が有効なのは、完全に信頼を置くことの出来る者がいるからだ。
五人の意志が定まった瞬間、蜘蛛の子を散らすようにさっと散開した。ヘレは一度だけ視線をぐるりと巡らせた後、最初と同じようにシュヴァルツに狙いを定めてそのあとを追った。
「アハハハ! 一人ずつ殺していけばいいだけでしょ!」
ヘレは鋭い爪を構えてシュヴァルツに飛び掛かった。シュヴァルツにそれを回避する余裕はない。だが、シュヴァルツがこの一撃で殺られることは決してない。ヘレは分かっていないのだ。数の利を活かした戦い方というものを。
「土崩瓦解!」
ヘレの行く手を遮ったものは黒魔法、ゲレヒトの放つ魔法だった。そして、回避のために体勢を崩したヘレに向かって、ペルレの者が刃を引っ提げて切りかかった。刃を直にその鋭い爪で受け止めたヘレは、その刀を利用して跳躍した。だがその着地点には既に伝家宝刀を携えたヴァイスが待ち構えている。
「ああ、もううざったいな!」
明らかにいらいらした様子でヘレはそれも受け止めた。そしてヴァイスの刀も力で強引に押し切った。
この時、じっとヘレの様子を観察していたシュヴァルツはある事に気が付いた。先程から、ヘレは一切魔法を使っていない。青龍を受け切っているので、その身体に魔力は帯びているのだろうが、それを使いこなしている感はない。シュヴァルツはある可能性を試してみることにした。そのためには、色々と準備が必要だ。シュヴァルツはその二人を見遣ると、躊躇せずに叫んだ。この五人の間では既に信頼は得ている。
「ヴァンナー! 少し時間を稼いでくれ。それから、ゲレヒト。協力しろ」
ヴァンナーは一度シュヴァルツの方を向くと、確かに頷いて直ぐにヘレに向けて疾駆した。その背中には、無言で語る「信頼」という言葉がありありと見てとれた。
命令調で言われたゲレヒトも、嫌な顔をすることもなくシュヴァルツの下へと近寄った。協力を必要とするということは、それに足る作戦があるということだ。ただでさえ力の差がある状況では、それを打開する作戦ほど大事なものはない。そう判断したからこそ、ゲレヒトはシュヴァルツの言葉に従うのだ。
シュヴァルツはゲレヒトに作戦を耳打ちした。黒ずきんが二人いるからこそ、シュヴァルツはこの策を試そうと思い至ったのだ。一人では、シュヴァルツとてそれが叶うとは思えなかった。それは経験が教える絶対的な恐怖に基づくものだ。
「それは本当か? ――いや、だが確かに試してみる価値はありそうだ」
ゲレヒトは一瞬信じられないといった顔をしたが、その合理性と何よりシュヴァルツの自信に満ちた顔を見てしかと頷いた。意を決したゲレヒトは直ぐにシュヴァルツから離れた。ヴァンナーが時間を稼いでくれている間に、準備しなければならないことがある。
「月卿雲客!」
ヴァンナーは懐から魔石で加工された棒を取り出し、一瞬で組み立てるや直ぐに刃を這わせた。その姿形はまさに鎌。人外の力を持つ者に対抗するのに、死神の鎌はまさに打ってつけの武器と言える。ヴァンナーはその間合いにヘレを捉える所まで近付くと、一度身体を回転させてその力の勢いを鎌に上乗せさせた。
ヘレは少ししゃがむと難なくそれをかわして、回転で無防備になっているヴァンナーの背中に爪を立てようとした。
「滄海桑田!」
回転しながら身を屈めていたヴァンナーは、ちょうどヘレに背を向けたところで左手を地面についた。その瞬間、地面から氷柱が突き出してきてヴァンナーの身体を宙に浮かせた。ヘレの爪はヴァンナーを捉えることなく、紙を切るかのように氷の柱を砕いただけだった。
一瞬宙に浮いたヴァンナーは、勢いのついたままの横の回転を縦の回転に変え、さらに重力も作用させて強大になった一撃をヘレ目掛けて繰り出した。だが、人には回避不可能なその攻撃も、人でないヘレには容易なことだった。ヘレはすぐさま横に跳んでかわすと、無邪気にも残酷な笑みをたんまりと浮かべていた。
「明鏡止水!」
ヘレに回避されることなど充分に心得ているヴァンナーは、既に次の手を打っていた。端から、目的はヘレを倒すことではない。シュヴァルツのために時間を稼ぐことだ。
ヴァンナーが振り下ろした水の刃は、地面に当たった瞬間に形を失い、文字通り水となって辺りに散った。そして、着地したヴァンナーもまるで地面に吸い込まれるようにして足先から水に溶けていった。突然目の前で目標を失ったヘレは、状況も飲み込めずに闇雲に腕を振るい、水を、水の中のヴァンナーを切り裂こうとした。
「二色持ちのハオベの利点はな、こういうことが出来るところだ。光彩陸離!」
水の中から聞こえるヴァンナーの声にヘレはぎょっとして身を硬くした。次の瞬間には、ただの水溜まりからきらびやかな雷光が広範囲に向けられて放たれた。完全に虚を突かれたヘレは回避することも忘れて一身に攻撃を受けた。
本来であれば、ただでさえ攻撃魔法の少ない青魔法では明鏡止水を使っている間に他の攻撃をすることは出来ない。明鏡止水は自らを水に溶かす魔法だ。その水を使っていては、いずれ溶媒である水が不足してしまう。明鏡止水を蓑隠れに使っているはずなのに、これでは本末転倒だ。だが、黄魔法ならばそれは水とは関係なく使用することが出来る。基本的に魔法の色に優劣の無い中、二色持ちの有用性はこういう魔法の複合という点にある。
ヴァンナーの攻撃を受けて倒れていたヘレだったが、やがてのろのろと起き上がった。その幼い身体からは、身を焼くほどにちりちりと熱い殲気が放たれている。感情が気に顕れやすいのは、戦う側としては余裕を持つことが出来ると同時に恐怖も植え付けられてしまう。
「殺す……」
顔から完全に笑みを消したヘレは、真っ直ぐにヴァンナーのいる水溜まりのみを眼中に捉えていた。左右からペルレの者とヴァイスが迫っているのも、まるで見えていないようだった。だが、獣の感覚は視覚に頼らなくとも情報を得ることが出来る。ヘレが左右に振るった腕は、見事に二本の刀の合間を縫って二人を切り裂いた。
その場で膝を折った二人に目をくれることもなく、ヘレは真っ直ぐにヴァンナーの方へ駆け出した。間合いを一瞬で詰めるヘレに対して、ヴァンナーはこれ以上の時間稼ぎは無理と判断した。あとはシュヴァルツとゲレヒトが何とかしてくれるという信頼が、ヴァンナーの即断に繋がる。
「難攻不落!」
ヴァンナーは明鏡止水を解くと、目の前に巨大な盾を出した。シュテルンに聞いた話だと、弱った状態の狼は難攻不落を相殺させるのが精一杯だという。充分に弱らせたというつもりはないが、それでも難攻不落は狼の力を知るための一種の判断基準となる。
突然目の前に現れた巨大な盾を以てしても、ヘレの行動に変化を与えるには程遠かった。ヘレは一つ腕を振りかぶると、難攻不落に構わず突っ込んでいった。その瞳には、激情とともにヴァンナーの影しか見えていない。そうして振るわれたヘレの腕は、いとも容易く難攻不落を切り裂き、その先にいるヴァンナーをも切り裂いた。少なくともヘレはそのつもりだった。だが、崩れた難攻不落の先には何者もおらず、ヘレはつい足を止めてしまった。
「夢幻泡影!」
二方向から聞こえるその声に反応してヘレが視線を向ける時には、ヘレは既に二人の黒ずきんの策に落ちていた。ヘレの視界は一瞬の内に暗闇へと切り替わった。
「よし。とりあえず成功だな」
ゲレヒトの言葉に、シュヴァルツは小さく頷いた。
完全に姿を獣に変えたヴォルフには、幻覚系の魔法は通用しなかった。だが、ヘレの場合は変わらず人間の姿のまま戦闘をしている。つまり、人間相手ならば幻覚系の魔法も効果を発揮して優位に立てるのではないかと、シュヴァルツは考えたのだ。魔法を使いこなせていないのにあの脚力を生み出しているということは、ヘレの中にあるのは狼の魔力と筋組織だろう。だが、だからこそシュヴァルツには懸念事もあった。狼の魔力もヘレの身体には注ぎ込まれているのだ。幻覚系の魔法を打ち破る方法は多くはない。多大な魔力を消費するために常人には無理な方法だが、瞬間的に魔力を爆発させて幻覚空間そのものを破壊するという方法もあるのだ。狼の魔力を得たヘレには充分可能な方法であり、もしもそれが為されると、ヘレが魔法を使いこなせるようになったということと同義だ。身体能力的にただでさえ互角を保つのが精一杯な状況なのに、その上ヘレに魔法という武器を与えたら最早勝ち目は無きに等しい。
「油断は禁物だ。さっさと終わらせるぞ」
シュヴァルツは冷たい視線をヘレに向けると、さっと腕を上げた。ヘレの覚醒を待つ道理は無い。とにかく一気に叩くのみだ。
シュヴァルツとゲレヒトの幻覚空間に閉じ込められたヘレは、自分の置かれている状況が理解出来ていながら、対処する方法が分かっていなかった。なので、何も見えない闇の中でただ無闇に爪を振るうばかりだった。
「ここから出してよ! 正面から殺し合おうよ! アッハハハ!」
口では笑いながら、ヘレの中には焦りと苛立ちがどんどん募っていた。常闇の中に放置されれば、常人ならばいずれ気が狂う。ヘレの場合は、それが怒りへと変換されているだけだ。
その時、ヘレの真後ろに巨大な手が現れ、ヘレを押し潰そうと迫った。突如現れたそれに対してヘレは少しも動じることなく、腕を一振りさせた。自らの力を信じるヘレはそれで巨大な手を切り裂いたと思った。事実、ヘレを押し潰そうとした手は中指と薬指の間から、見事に縦に分断されている。だが、ここは如何なる物理法則も歪ませる幻覚空間なのだ。ヘレが今まさに切り裂いた手は、分かれたまま再び手の形を作り、二つの手となってヘレに襲い掛かった。
「何なのよ、これは!」
ヘレがいくら襲い来る手を切り裂いても、切断面からまた新しい手が生えてくる。いくら闇雲に抵抗しても、ただ手を増やすだけだった。流石のヘレであっても、幾十の手が同時に迫ればそれに対応するのは難しいようで、次第にヘレの身体には傷が出来始めていた。
「ただ腕を振り回しているだけでは私たちを殺すことなど出来はしない」
ゲレヒトは嘲笑を込めてそう言った。だがその言葉はヘレの琴線に触れてしまった。今まで発散することの出来なかったヘレの怒りの矛先は、その一点にのみ集中した。
「殺す……、殺す……」
シュヴァルツはこの時瞬間的に最悪の事態に陥ることを確信した。ヘレの行動に変化を与える感情は怒りだ。それを溜めに溜め込んだ今のヘレは、魔力の状態と酷似している。何かを引き金にして、爆発する。
「みんな! 散開しろ!」
シュヴァルツの言葉が僅かに先だった。
「殺すっ!!」
次いで辺りに響いたヘレの怒号は、まず殲気とともに拡散した。流石にそれで膝を折る者はいなかったが、次の瞬間、闇が全てを覆った。
それは魔力の爆発としか言い様のない光景だった。ヘレを中心として、黒い塊が尖塔の形をして放射状に拡がっていく。それは一向に止まる様子を見せずに五人にも迫った。
「くそっ。これが狼のツァオバーか!」
ヴァンナーはただ回避に専念するのが精一杯だった。以前ヴォルフが狼になった時とまるで同じだ。長らく記憶の端に追いやられていた恐怖が、さっとヴァンナーの脳裏を掠めた。状況で言えば、あの時よりはましかもしれない。戦力になるのは三人であの時よりも少ないが、何より対峙している狼自体が偽物だ。
「月卿雲客!」
闇の結晶が拡散を止めるや否や、ヴァンナーは立ち止まり水を実体化させた。だが、その形は刀ではない。むしろ槍に近いが、槍にしては短い。そう、それは矢だ。ヴァンナーは水の矢を形成すると、同じ要領で弓をも作った。
「ヴァンナー、何を?」
シュヴァルツが疑問符を浮かべて尋ねてくるのも無視して、ヴァンナーは矢を弓に番えた。そして闇の結晶の中心に狙いを定めると、ぎりぎりという音を立てて弦を引き絞った。
「疾風迅雷! 光彩陸離!」
ヴァンナーは立て続けに黄魔法を唱えた。この状況では成す術のないシュヴァルツもゲレヒトも、黙ってそれを見守るしかなかった。
ヴァンナーは一閃の雷を水の矢の真ん中に通した。ついで引き絞る矢にきらびやかな雷を沿わせ、一対の軌条を形成した。
「電気の力で以て発射される私の矢は、音速を優に越える!」
ヴァンナーはそう言うと一気に矢を放った。ばちばちという音を立てているのはヴァンナーの手元の弓だけだった。ヴァンナーが矢から手を放した瞬間に、それは視界から姿を消した。とても目では追えない速度で、それこそ一瞬の内に闇の結晶に到達したのだ。
「なっ!?」
ゲレヒトが声を上げるのも無理からぬことであった。知覚出来ない程の攻撃など、玄武以外には知らない者がほとんどなのだ。それはゲレヒト程のハオベとてそうなのだ。
「ちっ。魔力の圧縮が足りないだと?」
舌打ちをしたヴァンナーの言に、二人は闇の結晶へと目を凝らした。そこには、確かに少し傷付いてはいるがまだまだ壊れる様子もなく結晶が健在している。
ヴァンナーは両手で何かを包み込むようにすると、瞳を閉じた。音速を越える威力を持つ青龍ですら破れない原因は、矢の強度にある。それ程に狼の魔力は強大なのだ。
「月卿雲客!」
ヴァンナーはかっと目を見開き、両手を左右にずらした。そこには、矢尻だけが形成されていた。だが、色が明らかに違う。急激に魔力を圧縮されたそれは、青色を越えて吸い込まれるような藍色をしていた。
ヴァンナーは、ふぅ、と一息つくと、今度は普通の月卿雲客で矢柄を作り、ついで弓を作って矢を番えた。流れるような作業に、一切の無駄は見られなかった。
「疾風迅雷! 光彩陸離!」
これまた先程と同様に、矢の芯に雷を通し軌条も敷いた。これで音速を越える矢をいつでも放てる。ヴァンナーはぎりぎりと音を立てながら弦を引き絞り、狙いを定めた。先程以上の威力が込められた矢は、ヴァンナーの手から解き放たれるのを今か今かと待ちわびているようですらあった。
「今度こそ!」
ヴァンナーが矢を放つのと同時に、視界の先で闇の結晶が美しくも激しく散った。ついで、ぱりん、という儚い音が三人の耳に届いた。第二撃目は見事にヘレの作る闇の結晶を貫き、打ち砕いた。ぱらぱらと、飛散した闇の結晶がまるで雪のように宙を舞っている。その中心部分は立ち上る土煙のために未だに視界が判然としない。
「やった、か?」
ゲレヒトは虚心坦懐で土煙の中を見通した。距離があるためにはっきりと見えているわけではないが、確かに全く動かない人影がそこにはあった。しかも、その人影には矢が突き立っている。
ゲレヒトが、ヘレを仕留めたと思うのも当然といえば当然だった。単なる身体の動きだけならともかく、魔力の流れすらも感じられないのだ。それに加えて、矢は確実にヘレの胸元にある。普通に判断すれば、ヴァンナーの放った矢がヘレの胸を射抜いたと思う。だが、当のヴァンナーの反応はあからさまだった。誰に憚ろうともせずに舌打ちをしてみせた。
「……これでもダメか」
その言葉からははっきりと焦りが窺えた。威力だけでいえば優に青龍を越えているというのに、それすらも狼の魔力の前では効かないのだ。そう、考えてみれば、音速すら越える矢がヘレを貫いたとして、それが突き立つわけがない。貫通するはずなのだ。ヘレの胸元で止まっているということは、ヘレが止めたということに他ならない。
もうもうと起こる土煙がようやく晴れた頃、そこで起きた全てが明らかになった。
確かに、ヴァンナーの矢の先は微かにヘレの胸を抉っていた。だが、ヘレは自身を貫く寸分の差で、矢を横から掴み止めていた。音速を越える矢を、素手でだ。人間の常識をいとも簡単に飛び越えてみせたヘレは、それでも動くことはせずにただ視線だけを三人に向けていた。
「殺す」
魔力と相俟って凄まじい殲気に晒された三人は、半歩退いた。無意識の内にも身体が思考を上回ってその恐怖から逃れようとしている。だが、それを踏み留めるのはやはり精神力だ。三人は拳を固く握りしめてその場に留まった。
その時、額に冷たい汗を浮かべながらシュヴァルツが呟いた。
「人の悪意はこれ程までに禍々しくなるのか――」
この殲気を放っているのはヘレだ。確かにヘレには狼の魔力と筋力が入れられているが、言ってしまえばそれだけだ。圧倒的な殺意を抱いているのはヘレ本人、つまり人なのだ。
「殺す!!」
次にヘレが叫んだ瞬間、殲気に乗せられて強大な魔力が三人へと迫った。これは攻撃ですらない。単に戦闘の開始を宣告しただけだ。だというのに、三人がようやく回避出来るという程なのだ。しかもその魔力に打たれた地面は、破壊の域を越えて消滅している。
「シュヴァルツ、どうする?!」
この調子では、闇雲に攻撃したところで意味など成さないだろう。だからといって守備に徹していてもいずれは押し切られるのが目に見えている。いや、それどころかヘレが接近戦へと転じた途端に、その速度域に追い付かずに秒殺されてしまうことだろう。
ヴァンナーに問われたシュヴァルツは、必死に頭を巡らせた。だが浮かぶ作戦は、ことごとくヘレの力を前に、砂で築かれた城のようにあっさりと瓦解してしまう。
「恐らく、ヘレがあのままの状態で時間を稼ぐことが出来れば、ヘレの身体に限界が来るだろう。だが――」
シュヴァルツの言いたいことは二人にもよく分かっていた。ヘレの肉体に限界がくるのは一体いつなのか。そもそも、時間を稼ぐことなど可能なのだろうか。
「さっきまでの勢いはどうしたの? そっちから来ないなら、こっちから行くよ。アッハハハハッ!!」
三人が為す術もなく茫然と立ち尽くしている中、ヘレはゆらゆらと揺れ始めた。ヘレの行動を先読みすることは出来る。だが、ヘレの速度はその追随を決して許さないのだ。
背後に回られたと知覚するよりも早く、三人は身を屈めてヘレから離れようとした。ヘレが次にどういう行動に出るか、三人は身体で感じて動いている。だから思考や知覚に頼らずとも攻撃を回避出来る。そう、これが普通の人が相手ならば。だがヘレの振るう腕には、内に抑えきれずに溢れた黒い魔力が纏っている。それは単純に攻撃範囲を拡大していた。
最初にそれに捕まったのはシュヴァルツだった。何回目かの攻撃の時、三人とも同じように回避したのだが、不規則に変化するヘレの魔力は始めからシュヴァルツを狙っていたかのようにシュヴァルツの足を食らった。攻撃自体はかすった程度だが、それでも魔力の触れた箇所はごっそりと消滅していた。
「ぐ、ああぁっ!」
激痛に耐えきれずに呻くシュヴァルツに、ヘレは容赦なく追撃を加えようとした。ヘレは唇を吊り上げて残酷な笑みを浮かべた。そして踞るシュヴァルツに向けて悠々と歩き出した。
「土崩瓦解!」
ヘレの攻撃をシュヴァルツから逸らせようとしたゲレヒトだったが、ヘレの魔力はまるでゲレヒトの魔法を食らうように全てを飲み込んだ。当然、ヘレには届くはずもない。白虎程度では無意味どころか逆効果なのだ。
「金烏玉兎!!」
続けざまに助け船を出したのはヴァンナーだった。ゲレヒトの攻撃が効かないのを見るや、ヴァンナーは青龍にしてヘレの勢いを止めようとした。
一直線に迫る金色の月を横目にしても、ヘレに焦る様子はなかった。ただ、腕にぐっと力を籠めたかと思うと、それを埃を軽く払うように振った。次の瞬間には、ヴァンナーの金烏玉兎は紙切れのように裁断されて散ってしまった。青龍ですら、今のヘレの前では何の障害にもならない。そうして、ヘレはシュヴァルツの前に立った。全ての生命を見下す、黒い瞳を向けながら。
「キャハハハハ! 最初はあんたからだ!」
ヘレが魔力の籠った腕を振り上げ、その鋭利な爪をシュヴァルツに向けて振り下ろそうとした瞬間、不意に辺りを目映い光が照らし出した。その光は振り上げたヘレの腕を避雷針として落下した。そう、その光の正体は雷だった。視界を完全に覆ってしまうほどの輝きを放つ雷に、一同は目を細め手をかざした。
たとえ人智を越える身体能力を持つヘレであっても、流石に光速のものを回避することは出来なかった。視界に光を感じた瞬間に、既に雷はヘレの身体を貫いていた。
「一体、これは?」
ばちばちという音を立てて雷がヘレの身体を駆け巡るのを、三人は呆気にとられて眺めていた。空を見ても、雲間などない。それに、普通の雷であるならヘレの強大な魔力を以てすれば防ぐことも可能だ。それが出来ていないということはつまり、ヘレを襲った雷光もまた狼の魔力と同等の威力があるということだ。
「なら――」
ヴァンナーは期待の籠った目でもう一つの戦闘が行われている、シュテルンの方を向いた。あれだけの魔力、放てば相当の消費になる。つまり、シュテルンが圧しているとヴァンナーは踏んだ。だが、実際にはゲルプはまだまだ戦う余裕はありそうで、むしろシュテルンの方が疲弊しているように見えた。
ヴァンナーは視線をヘレの方へと戻した。どちらにせよ、シュテルンはまだ戦っているし、この雷光は大きな助けとなった。これを好機に変えなければ、ヴァンナーらに勝ち目は二度と訪れないだろう。ヴァンナーはそう確信した。
「ゲレヒト。これで決めるぞ」
ヴァンナーは声に一層の重みを込めて言った。今までとは違う初めて聞く声に、ゲレヒトは一瞬驚いたようにヴァンナーに振り返った。だが事態を充分に理解しているのなら、それは当然と言える。
そして、エルデと通じる二人の意図は、ぴたりと一致していた。現に、二人が魔法を唱えたのは同時だった。
「魑魅魍魎!!」
「月卿雲客!!」
ゲレヒトは巨大な闇の妖を、ヴァンナーは巨大な水の矢を青龍で作り出した。ヴァンナーは引き続き、月卿雲客で巨大な水の弓を拵えた。その弓と矢はあまりに大きく、とてもヴァンナーが持てるような大きさではなかった。だが、魑魅魍魎ならばそれも可能だった。ゲレヒトの出した魑魅魍魎は、ヴァンナーの生成した弓を持ち上げると、矢をそれに宛がった。
「疾風迅雷! 光彩陸離!」
先程からと同じ要領で、ヴァンナーは矢に電気を流し、雷の軌道を敷く。魑魅魍魎はその巨体に似合わず素早い動作で弦を引き絞った。ぎりぎりという音とばちばちという音が周囲に響いた。片方は弦を引き絞る音、片方は魑魅魍魎と月卿雲客が反発し合う音だった。そもそもが違うハオベの青龍なので、やがては互いの魔力を相殺して対消滅してしまう。時間の猶予は大して残されていない。
ゲレヒトは集中力を研ぎ澄ませて狙いをヘレに定めた。寸分の誤差でもあれば、ヘレを射止め仕留めることは出来ないだろう。恐らくはこれが最後にして最大の攻撃になる。ゲレヒトの喉は緊張のあまりごくりと音を鳴らした。
「ここだ!」
ゲレヒトは揺れる矢先がヘレの心臓を捉えた瞬間、矢を放った。辺りに雷鳴を轟かせながら、矢は瞬間的にヘレの胸元まで到達した。未だに雷に打たれ続けていたヘレだったが、咄嗟に迫る矢を掴んだ。だが、先程受け止めたものとは魔力の差が甚だ大きい。耳に障る音を放ちながら、ヘレの手を侵していった。
二つの魔力に攻撃を受けながら、ヘレはそれでも立て直そうとしていた。意志の働かない魔力は、上手く逸らすことが出来れば負担もぐっと減る。ヘレがそこまで考えているのかは分からないが、雷は押し返されようとしていたし、矢も完全に受け止めていた。後は消耗戦だった。その時――。
「鬼哭啾啾!!」
ヘレの眼前で踞っていたシュヴァルツが、闇の刀を構えてヘレの首に斬りかかったのだ。シュヴァルツの握る刀の刀身は澄んだ黒色をしており、魔力が圧縮されているのが窺えた。もう体力も殆ど残っていないシュヴァルツが最後の力を振り絞ってヘレの首を獲ろうとしているのだ。魔力がぶつかり合う音は耳を劈く程だった。
シュヴァルツの覚悟を行動から見て取ったゲレヒトとヴァンナーは、はっとして直ぐに駆け出した。まだ戦いは終わっていない。これで終わらせなければならない。
「鬼哭啾啾!!」
「月卿雲客!!」
二人は魔力を圧縮させて抜刀すると、ヘレの首目掛けて思い切り刃を振るった。
「殺す……殺す……」
今や五つもの攻撃を受けているヘレは、憎しみを乗せてそう呟いている。
「殺す!!」
ヘレが叫び魔力を爆発させた瞬間、全てが終わった。三人の刃に刎ねられたヘレの首は、高々と宙に舞った。そして、行き場を失った狼の魔力は、三人を巻き込んで辺り一帯を根刮ぎ破壊した。
目を開けた時に三人が感じたことは同じだった。地獄は埃臭い、ということだ。だが、視界の先にはどんよりと重たい空が浮かんでいるし、何より周囲がやたら静かだ。三人は、まだ自分らが生きていることを理解した。しかし、勿論合点がいかない。至近距離であの爆発に巻き込まれ、無事であるはずがない。
そうして三人がほぼ同時に上体を起こした時、全てが明らかとなった。三人の周囲には半透明な膜が張られ、強固な盾が爆発の威力を弱めていたのだ。これは難攻不落、そして空中楼閣だった。
「一体誰が……」
ゲレヒトは首を傾げた。難攻不落はともかく、空中楼閣は麒麟だ。白ずきんにしか使えない。なので、ヴァイスかとも思ったが、ヴァイスがこれまで麒麟を使ったところを見たことがない。ゲレヒトはその考えを否定した。そしてふと視線を上げると、そこには悠然と立つ男がいた。その男を見るや、ゲレヒトは得心がいった。
「お前は誰だ?」
ヴァンナーとシュヴァルツはその男を睨み付けた。既に疲労困憊の二人に戦う力は残っていないが、警戒は怠らない。
「ハイリゲ……」
ゲレヒトが彼の名を呟くと、ハイリゲは静かに頷いた。
「君らが新たな時代を生きるものか」
ハイリゲは三人の顔付きをじっと見ると深く頷いた。その顔に、確かにヴォルフやシュテルンと同じものを見たのだ。ハイリゲは一番重傷を負っているシュヴァルツの下に寄ると、優しく白魔法を当てた。そうすると、シュヴァルツの傷口からの出血はぴたりと止まった。
「お前は、誰だ?」
自分の傷がみるみる治っていくのを驚くシュヴァルツが再び同じ質問をすると、ハイリゲは微笑を浮かべながら答えた。
「私の名はハイリゲ。過去に犯した自分の過ちに決着をつけにきた。輪廻の赴くままにな」
ハイリゲはそう言うとゆっくりと中央の建物へと歩き出した。疲弊していたということもあるが、誰も止めることが出来なかった。優しい瞳の奥に、決して折れない意志が窺えた。
ヴォルフは一直線に螺旋階段を上がっていた。建物の中は驚く程に静かで、怖い程に音がない。外での戦闘の音など一切耳に入ってこない。エルデの命運を分かつ戦いには、相応しいといえばそうも思える。
ヴォルフの後方にはゼーレとザンクトがついてきている。正直に言えば、ヴォルフは心配でならなかった。これから行われる戦闘は、恐らく人智を越えたものになる。エーヴィヒとの戦闘を経験しているとはいえ、実力が拮抗しているとは思えなかった。
ヴォルフが打ち払えない考えを巡らせている内に、三人は建物の最上階に到達した。外観からは想像出来ない程、その空間は広かった。そして魔力の流れからはっきりと分かることがある。この場所の外周にはアムレットが敷き詰めてある。
そのようなある種異質な空間の中心で、一人たたずむ姿があった。黒い外衣を羽織った、黒髪の黒ずきん。こちらを鋭く見詰める瞳には、エルデの歪みがはっきりと映っている。
「ヴァイゼー」
ヴォルフは感情が出ないように声を抑えて言った。ザンクトとゼーレも対峙するや否や戦闘体勢を取った。
「あの日以来だな、ヴォルフ」
その声はヴァイゼーの言うあの日から全く変わっていなかった。七年が経っても、低く黒く冷たい声はヴォルフに恐怖を思い出させる。ヴォルフは一つ呼吸をすると自身を落ち着かせた。精神的に不利に立たされていては話にならない。
「俺はこの旅の中で事ある毎に親父の影を見続けてきたけどな」
ヴァイゼーは一向に表情を変えない。ヴォルフにはその肉体がただの器であるように見えて仕方なかった。二人の緊迫した雰囲気を壊して会話に割って入ってきたのはザンクトだった。
「お父さん、理由を聞かせて。どうしてお父さんは狼を利用してエルデに歪みを作ってしまったの?」
ザンクトの問い掛けに、ヴァイゼーは頬をわずかに動かした。ようやく見せた表情の変化は、だが嘲笑的な意味合いを見せている。
「理由、歪み。ザンクト、お前は勘違いをしている。お前らが歪みだと思うことは真ではない。それは人の正義の偏りの果てにエルデに広く普及してしまった考えの一つに過ぎない。絶対的な正義など存在しない。ただ一人一人の中に信じるものがあるだけだ。私はこれまで自分の信じる道を進んできた」
ヴォルフはヴァイゼーの言葉を聞く内に、次にヴァイゼーが言うであろうことが分かった。つまり、人が世界だと信じてきたものはそういう事なのだ。
「――エルデの導くがままにな」
「嘘よ! エルデが自ら歪みを生ませるはずがないわ!」
思わず口を挟んだのはゼーレだった。世界を知ろうとしているゼーレにすれば、ヴァイゼーの言に反発してしまうのも無理はないだろう。だが、それも無知ゆえの驕りに過ぎない。ヴォルフはゼーレを手で制した。
「確かに、親父の言う通りだ。人がエルデだと信じていたものは、自分の中の正義だったんだ。エルデは母なる大地であり、父なる意志だ」
つまり、瞑想の第三段階においてエルデと繋がるということは、自分の正義のみを信じることなのだ。人はエルデに生まれた。その正義にエルデの意志が介在するのは当然の帰結だ。だから、誰の内にも正義があり、それは如何なるものであれ正しいことなのだ。
「つまり、」
ヴォルフは目を瞑ると快刀乱麻で二本の刀を抜いた。その瞳にはヴォルフの信じる正義が宿っている。
「俺と親父は戦わなければならないということだ」
ヴォルフはいつでも戦闘に入れるようにした。瞑想の第三段階にも直ぐにでも入れる。今のヴォルフは自分を強く信じている。
そのような一触即発の状況下でも、ヴァイゼーは何ら変化を見せなかった。その顔には再び嘲笑にも似た表情が浮かんでいる。
「そういうことだ。だが、お前らが相手にするのは私ではない」
ヴァイゼーはそう言うと一歩前に踏み出した。その足が床に着くや、一瞬にして床に黒い線が走り法陣を形成した。ヴォルフは思わず息を呑んだ。以前、ヴォルフも地面に法陣を描くということをしたが、その時は足先でなぞって描いた。そうした方が正確であるし、魔力の消費を多少なりとも抑えられるからだ。しかし、ヴァイゼーは直接青龍を制御して床に描いている。これの示すことは単純にハオベとしての格の違いだった。しかも、ヴァイゼーがしていることはそれだけではない。
「しかも三つ同時に、だと?」
一見すると描かれている法陣は一つだが、目を凝らして見るとそれは三つの法陣が重なって描かれている。その形から、使っているのは同じ魔法だとは分かるが、それでも複数個を同時に発動させるなど、ヴォルフは見たことがなかった。
「輪廻転生……」
ヴァイゼーが魔法を唱えるや、黒かった法陣の軌跡が紅く光り出し、各々回転を始めた。ゆっくりと法陣は浮き上がり、徐々に人の形を成していった。
「だが、こんなもの!」
ヴォルフはまだ出来上がっていないその人影に向かい走り出した。その人影が誰になるかはおおよそ見当がつく。ヴォルフが頭に思い描いた数も三つと一致している。気になることといえば、どうやってということだが、それは今は必要ない。要するに、形が出来上がる前にその人影を倒してしまえばいいのだ。
ヴォルフは快刀乱麻を振りかぶった。正面には一つの人影があり、それは下から完全な人の姿を取りつつある。背格好から言って女性だ。やはり、と思いヴォルフは刃をその人の首目掛けて振り下ろした。だが、刀の切っ先が首筋を捉えるよりも先に、その人の全身がヴォルフの目の前に現れた。
「なっ!」
その瞬間、ヴォルフの腕は止まった。当然、快刀乱麻は首を刎ねることなく中空に留まっていた。ヴォルフには目の前の存在が信じられなかった。ヴォルフの想像を越えてしまっていた。
「ルター……」
輪廻転生は、僅かな間死者に生を与える麒麟の魔法だ。その者は短い間ながらも再び現世に肉体を得ることが出来る。人格や記憶はそのままだが、意志は魔法を唱えたハオベに縛られてしまう。つまり、死せる操り人形なのだ。そう、先日ライヒで再会したはずのルターは、既に死んでいる。
「何で、ルターが」
ヴォルフはもう二つの人影にも目を遣った。そちらは、ヴォルフの予想通りザインとロートであった。二人とも始めは状況が掴めない表情を浮かべていたが、その場にいる者の顔を見ると直ぐに戦闘体勢を取った。
だが、ヴォルフには快刀乱麻をルターに向けることは出来なかった。再びあの時の原罪が蘇ろうとしていた。だから、ヴォルフは尋ねずにはいられなかった。
「ルター、答えてくれ。お前は一体いつ死んだんだ?」
ルターはつい先日と変わらず優しい瞳をヴォルフに向けていた。輪廻転生により現れたということは、ルターはもう生ある者ではなく、そしてヴォルフの敵であるということだ。
「やはり俺が、俺が殺してしまったのか?」
「違うわ」
恐る恐る聞いたヴォルフの言葉をルターははっきりと否定した。続く言葉にはヴォルフを包み込むような温かさがあった。
「ライヒに来たまでの経緯は話した通りよ。ただ、ヴァイゼーの影を掴んだ時に、私は魔手に捕まってしまった」
だが、そういうルターに悲愴の色は見えなかった。ただ事実を事実として受け止めている。ヴォルフは何度逢っても思ってしまう。ルターは、強い。
「頼む。退いてくれ。お前を殺したくない」
嘆くように言葉を漏らすヴォルフに、ルターは首を横に振った。
「ダメよ。今の私の意志はヴァイゼーにあるの。私は、あなたの敵よ。それに、私はもう死んでいるわ」
ヴォルフは奥歯をぎりぎりと噛み締めた。これ程にやり切れない想いをするのは何度目だろうか。
だが、こんなにも強いルターを前にして、ヴォルフは彼女の意志を蔑ろにすることは出来なかった。ヴォルフも強くならなくてはならない。胸を打ち付ける痛みが、ヴォルフを強くする。
ヴォルフは下ろしていた快刀乱麻を再び構えた。ルターは長年医者をしていたのだから、戦闘に関して言えばゼーレに劣るはずだ。ヴァイゼーは、ただヴォルフの精神に攻撃するためだけにルターを利用したのだ。ルターを殺したのだ。
「なら、俺は一切の加減をしない。俺はもう『負けない』」
ヴォルフはルターに向けて走り出した。あの時と変わらぬ真っ直ぐな瞳に見つめられても、ヴォルフには一寸の迷いもなかった。ルターは抵抗の意志も見せずに、ヴォルフの刃に貫かれた。だが、ヴォルフに不思議と罪の意識はなかった。事実を事実として認識する。ルターの言葉はヴォルフの胸に深く刻まれた。
「こんなことしか……出来ないのかよ?」
そして今、ヴォルフの鋭い視線は真っ直ぐにヴァイゼーに向けられている。怒りはなく、ただ自らの意志に全てを委ねていた。ヴァイゼーは相変わらずの表情で、感情のこもらない声を発した。
「残りの二人はいいのか?」
ヴァイゼーの言う二人とはロートとザインのことだろう。確かに二人ともルターとは比べ物にならない程に強い。恐らくはザンクトやゼーレよりも強いだろう。だが、それは二人に生ある場合だ。今を生きる者が既に死んだ者に負けるはずがない。ヴォルフはそう信じていた。
「親父が思うほど、二人は弱くない」
「そうか……。ならば、」
ヴォルフの言葉を嘲笑うように口角を僅かに上げたヴァイゼーは、指で空中に何かを描き始めた。その軌跡は、先程と同様に青龍で象られていた。
「怪力乱神……」
ヴァイゼーが魔法を唱えるや否や、法陣は紅く発光を始めた。ヴォルフはきっと睨み付けた。どこまで命を弄べば気が済むのだろうか。ヴォルフは一途に駆け出した。
ゼーレの前には、もう二度と会えないと思っていたかつての仲間がいた。ロートは手足をぶらぶらと振りながら、ゼーレの顔を見ると生前と変わらぬ飄々とした態度で声をかけてきた。
「お久し振りですね、ゼーレお嬢さん?」
ゼーレはしばらくの間驚きで声が出せなかった。
「ロートが……、どうして? あの時死んだはずでしょう? あなたのことは三人で埋葬したわ」
輪廻転生を知らないゼーレからすれば、目の前で死人が甦れば驚くのも無理はない。そして、ゼーレの知らないことを説明するのは、大概ロートの役割だった。
「ええ、俺はシュヴェーベンで死にました。輪廻転生という麒麟のヘクセライは、死者に数刻の間命を与えるのです。今俺はヴァイゼーの味方であり、ゼーレお嬢さんとは戦わなくてはなりません。この意志は既に死者の俺には覆せません。決定権は生きている者にのみあります」
ロートはひとしきり説明を終えると、快刀乱麻を引き抜きゼーレの記憶のままの構えをした。シュヴェーベンでの戦いで片腕を失ったロートは慣れないように少し身をよじったが、それも直ぐに落ち着いた。ゼーレはひどく動揺しながらも、頭だけは回転させていた。そして今自分の置かれている状況を理解すると、奥歯をぎりぎりと噛み締めた。
「なら、決定するのは私よ。私はロートに勝つ」
ゼーレはそう言うと両の拳を握り、戦闘の構えを取った。ロートに教わりヴァンナーに鍛えてもらった戦い方だ。ロートと生死を懸けた戦いをするのは嫌でたまらないが、ロートに自分の成長を見てもらえることは嬉しかった。状況を回避出来ないのならば、ゼーレは後者の考えで頭を満たそうとした。どうせ戦闘が始まれば意識は焦点を結ばないのだから。
「では、行きます!」
ロートは一瞬の内にゼーレとの間合いを詰めると鋭い一太刀を振るった。ゼーレはそれを最小限の動きでかわすと、拳を突き出した。ロートもそれを難なくかわし、一度ゼーレから距離を置いた。最初の小手調べはこれで終了だ。ゼーレは思考を深く沈めていった。
体力もなければ魔力もない。そのようなゼーレには考えることしか出来ない。身体能力で戦闘に望むのではなく、思考で身体的不利を補うのだ。今のゼーレの最良の戦い方はそれだった。そして、思考に身体を預けようとすると、ゼーレはいつも妙な感覚に襲われていた。思考を深く深く行おうとしているにも関わらず、思考が均一な濃度で表面に拡がるのだ。身体を思考が覆っているという表現が一番近いかもしれない。その時のゼーレの意識は、決まってぼんやりと遠いところに漂っていた。ゼーレには温かく包まれるこの感触がとても居心地よく感じられた。
「ゼーレお嬢さん、まさか――」
ロートはゼーレの様子が変わったのを見て即座にそれの示す意味を理解した。ゼーレは瞑想の第三段階に達していた。ヴォルフの瞑想とは勝手が違うが、これもまた一つの瞑想だ。
ロートは快刀乱麻を握り直すと、口許に笑みを浮かべた。ロート自身、ゼーレの成長を直に見られるのが嬉しいのだ。
「では、あらためて!」
ロートは大きく踏み込み、一太刀を浴びせようとした。しかし相変わらずゼーレは僅かな動きでそれをかわし、蹴りを繰り出した。ロートはそれを避けると、とても回避が追い付けないような攻撃を始めた。剣の形状を槍に変え、実質二本に増やして攻撃回数を倍とした。とても片腕で戦っているようには見えない。始めの内は何とか回避に成功していたゼーレだったが、ロートの怒涛の攻撃を前にやがて回避だけでは追い付かなくなっていた。
「ここで、どう出ますか?」
息を弾ませて問うロートは心底楽しそうだった。そして、回避不可能な間合いでロートの太刀がゼーレに襲い掛かった。
「伝家宝刀!」
ゼーレはそう叫び右腕でそれを受け止めた。ロートには、一瞬何が起きたのか理解出来なかった。ゼーレが腕に青龍を沿わせたのだろうということは解る。だが、ゼーレの腕には白い魔力など見えないのである。いや、とロートは丸くしていた目を細めた。よく見ると、ごく小さな面積に白魔法の青龍が見える。つまり、魔力の面でも圧倒的に劣るゼーレは、消費する魔力を最小限に抑えた上で確実にロートの攻撃を受け止めているのだ。少しでも受ける場所を間違えれば、そのか細い腕はひとたまりもなく斬り落とされてしまう。それを行うだけの勇気と覚悟と自信は、既に並々ならない。
ロートの動きが一瞬止まったのを見たゼーレは、反撃に転じた。ロートの刀を受け止めたまま、もう片方の腕を横から振るった。ロートは一瞬それを腕で受け止めようとした。だが、直ぐにそれは誤りだと気付き快刀乱麻で受けた。互いの魔力がぶつかり合う音がした。ゼーレは振るう腕にも伝家宝刀を沿わせていた。しかも一見すると何も無いような面積で。ロートは自分の判断が間違っていなかったことに安堵するとともに、改めて感心した。短期間の内にゼーレにこれ程の技術を与えるのは決して簡単なことではない。ロートはゼーレから一度距離を置いた。口を開こうとしたロートよりも先に、ゼーレの言葉が二人の間の空気を震わせた。
「一度腕で防ごうとしたのを咄嗟に変えるなんて、流石ロートね」
「そういうゼーレお嬢さんこそ、少し見ぬ間に随分強くなりましたね。その戦い方、鍛えたのはヴァンナーですか?」
ゼーレはこくりと頷いた。それならばロートも得心がつく。ヴォルフにはこういう小手先での戦い方は似合わない。ロートの記憶にある限り、眼前のゼーレの戦い方に重なるのはヴァンナーだけだった。
「じゃあこういうのはどうしますか? 豪華絢爛!」
ロートがさっと右腕を振るうと、そこからきらびやかな炎が現れてゼーレの全身を覆うように襲い掛かった。巨大な炎が迫っているにも関わらず、ゼーレの顔には笑顔が絶えなかった。
「こうするのよ。伝家宝刀!」
右腕を真っ直ぐに炎の方に向けると、光の刀を出した。だがその長さは短く、小刃ほどしかない。ゼーレは間合いを見計らうべく目を細めた。そして豪華絢爛が刃先に触れるか触れないかの瞬間に、小刃を握る手にぐっと力を込めた。すると伝家宝刀はぱっと弾け、そして炎も掻き消されるようにして晴れてしまった。
「なるほど、ツァオバーの圧縮と膨張を利用したんですね」
そう言うロートの身体は既に刃の届くに充分な距離まで近付いていた。ゼーレは思考を絶やさずに冷静にそれに対処した。白虎を退けた程度で、ロートが再び隙を見せるなどという慢心は抱かない。これも次の攻撃への伏線だと考えるのだ。現に、ロートは豪華絢爛で自らの身を隠してゼーレに接近している。
「変幻自在!」
目には目をと思い、ゼーレは玄武を使い自らの姿を消した。この程度でロートがゼーレを見失うとも思えないが、撹乱することさえ出来ればそれで構わない。
ゼーレはロートに自分の位置を知られる度に、少し姿を見せてはまた姿を消した。ロートの方が行動が早く、攻撃を受けそうになることもあったが、それでも受け切ることが出来た。そうして場所を変えつつ、ゼーレは虚を突いた攻撃を何度も繰り返した。
「いつまでも玄武に頼っていては、いずれいつかのように消耗してしまいますよ?」
ロートは余裕の表情を見せた。確かに、今のロートからすればゼーレの魔力が尽きるのを待つだけでも勝てるだろう。そう、あの時のように。ロートは覚えているだろうか。ゼーレとヴォルフが何度か組手をした、その全てを。ゼーレはその組手で多くを学んだ。その時に敗因となった愚は二度と犯さない。そして、ヴォルフの勝因となった賢もまた二度と忘れはしない。
魔力の消費を抑えていたのも、肉弾戦に徹底しているのも、全ては引いた線を伏せるためだ。なるほど、伏線とはよく言ったものだ。ゼーレはロートの前にさっと姿を現すと、両手を構えた。それを見たロートの表情は一瞬にして翳り、自らの敗けを悟った。
「華胥之国!」
変幻自在で姿を隠しながら魔力で法陣を描いていたゼーレは、見事にロートをはめることに成功した。ゼーレ自身、ここまで上手くいくとは思わなかった。今やロートは動くこともせずに、ただ放心状態で突っ立っている。この後どうするかはゼーレ次第だ。もう勝敗は決した。
ゼーレはふとヴォルフの方に視線を遣った。見れば、ヴォルフとヴァイゼーは何かを話しているが、ヴォルフの表情がいやに険しい。次にヴァイゼーに視線を移した時、その口が何かを呟くのを見た。ゼーレは、自然にその口の動きを真似していた。
「かいりょく、らんしん……?」
そうしてゼーレがその言葉の意味を理解するのが先か、突如ロートの周りをどす黒い靄が覆った。そして、ぱっと霧が晴れるようにして白い光が辺りに散った。それはゼーレのかけた華胥之国が強制的に解かれたことを意味していた。
「ゼーレ、お嬢さん……。すみませんが、理性を保つのは、そろそろ限界です。――後は、お願いします」
その言葉を最後に、ロートは空に向けて雄叫びを上げた。もはやその声はロートのものではなく、しがらみから解放された獣のそれだった。怪力乱神とは、人の心の喪失と引き換えに鬼神にも匹敵する力を得ることの出来る麒麟の魔法だ。心の喪失は死にも等しい。今、ロートは人として二度目の死を迎えた。
「そんな……、こんなひどいこと」
ゼーレはそれ以上言葉に出来ず、口元を手で覆った。魔法が人の尊厳を奪っていく。いつかに感じた魔法に対する畏怖が、再びふつふつと沸き上がってきた。魔法はこのような事をするためにあるものでは、決してない。ゼーレは覚悟を決めた。
「ロートに頼まれたというだけではないわ。私はヘクセライのあるべき姿を『知る』ためにあなたを倒す」
ゼーレは緊張状態を維持して集中力を極限まで高めた。戦闘準備は万全だ。怪力乱神がどの程度力を底上げするのか知らない以上、用心に越したことはない。もしかしたら狼と同程度にまでなるかもしれない。そうしたら、ゼーレには勝ち目などない。だが、それでもゼーレに退く気はなかった。
咆哮を終えたロートはゼーレと視線を交差させた。目は血走り、黒と赤を混ぜたようにどろどろとしている。それでいて、奥底には真っ直ぐにこちらを射竦める鋭い視線が見えている。まるで人の持つ眼とは思えなかった。
そして、ゼーレの目の前からロートは消えた。
魔力がぶつかり合う音が一瞬したが、ゼーレが攻撃を受け切ったと思った時にはゼーレの身体は飛ばされていた。確かに動きを先読みして攻撃を受けることは出来た。だが、それまでだった。強靭な腕力を前にして、ゼーレは為す術もなかった。骨は折れてこそいないが、軋み激痛が走る。何度も受けていたらあっという間に粉砕してしまうだろう。
「こんな……」
ゼーレは痛む腕を抑えながらロートの方を見て呟いた。諦める気は毛頭ない。だが、まるで絶望しか見えない。攻撃を先読み出来たとしても、それを受けることすら出来ないのだ。回避するというのも、攻撃に回れないという点で現実的でない。
「考えろ考えろ」
ゼーレはゆっくりと立ち上がりながら思考を目一杯に巡らせた。いつロートが次の攻撃を仕掛けてくるか分からない。その僅かな間に打開策を見付けなければ、ゼーレの敗けは決まる。今のロートの状態、自分の使える魔法、残っている体力と魔力、その全てを要素として方程式に組み込んでいく。ゼーレの頭はいつになく冷静で冴えていた。
「雲散霧散」
可能性の一つとしてゼーレが選択した方法は、博打と呼べるものだったかもしれない。可能性はあるが、かなり低い。だが、他のどの方法よりかは可能性が高い。ゼーレはそう結論付け、玄武で自分の姿を増やした。
「空即是色」
次にゼーレが使った魔法は、相手の魔力の流れを見ることの出来る魔法だった。赤魔法で言うところの竜驤虎視と同じだ。玄武で翻弄しながらロートの攻撃をかわし続け、輪廻転生の時間が来るのを待とうとゼーレは考えた。第一の条件としてロートが玄武に惑わされることが前提にある上、玄武と白虎を同時に使うために魔力の消耗は大きい。だから、ゼーレの魔力が尽きるのが先か、ロートの時間制限が先か、まさに賭けだった。
ロートの足が微かに前に出る。それに伴って魔力に微妙な流れが生まれる。ゼーレはそれを見るや、即座に横に飛び退いた。それと同時に雲散霧散で自分の姿を逆方向へ飛ばした。普通に見れば、ゼーレが二人になりそれぞれ左右に飛んでいるように見えているはずだ。ここでロートがどういう反応を見せるかによって、この後のゼーレの動きも変わってくる。
動きを先読みされ、誰もいない地点に着地したロートは、そこで正面を向いたまま下を向いていた。次の瞬間には、ロートの周りにどす黒い炎が放射状に拡がった。
「く! 伝家宝刀!」
その炎は、名前には相応しくないが間違いなく豪華絢爛であった。普通のそれとは違ってきらびやかさの欠片もない。ゼーレはロートの行動が予想外であったが、何とか思考の下に動くことが出来た。今度はきちんと刀の形状をした伝家宝刀で、迫る炎を切り裂いた。白虎対青龍ならば圧倒的に青龍の方が優位なはずなのに、ロートの攻撃を受けるゼーレの腕はびりびりと痺れていた。何と重い炎なのだろうか。
そして、伝家宝刀を使ったために雲散霧散も空即是色も解かざるを得なかったゼーレには、ロートの次の行動を先読みすることは出来なかった。そんな余裕は微塵もなかった。
炎を裂いたのはゼーレだけではなかった。ロートもまた、自らが放った炎を切り裂くようにしてゼーレの懐まで入り込んできた。明らかに回避は不可能な距離。ロートの拳はゼーレの腹に見事に決まった。
弾けるように飛ばされたゼーレはしばらく息が出来なかった。恐らくは肋骨を何本も持っていかれただろう。だが、ゼーレはまだ生きている。拳が入る直前に伝家宝刀を腹部付近に集中させたし、僅かながら身体も後ろに退いた。それが功を奏したのだろう。だが、そうしてなおこれ程の威力をもってゼーレの身に襲い来るのだ。
ゼーレの内にある絶望は、恐怖を糧にどんどん肥大化していった。勝てる気がしない。時間を稼げる気がしない。生き残れる気がしない。
「どうすればいいのよ、ロート」
ゼーレは助けを請うような瞳でロートに視線を送った。だがロートにそれを受け取る理性は残されていない。ゼーレは足を覚束なくさせながらも、ようやく立ち上がった。絶望が見せる諦念に魅せられながらも、それでもゼーレの頭は思考することを止めはしなかった。
「考えろ。今ので学べ。お前は戦いの中でまだ成長する」
ゼーレは以前ヴァンナーに言われた言葉を口に出して自分に言い聞かせた。先程の一手、ロートは雲散霧散を見抜けなかったから広範囲攻撃に及んだのだろうか。いや、あれだけでは確信にはなり得ない。確かめるならばもう一度試す必要がある。だが、再び豪華絢爛を使われたら二の舞だ。次に同じ攻撃を喰らったら今度は内臓をやられる。ならば、それを防げばいい。その方法は――。
ゼーレは考えられる全ての可能性を模索した。豪華絢爛を防ぐだけでは意味がない。防いでいる間のロートの動きも見るようにしなければならない。回避という手段も好ましくない。単純に速さを比べるならば圧倒的にロートの方が上なのだから。
「――一か八かね」
ゼーレはロートが次の動きを見せるのを待った。直ぐにロートの足は微かに動いた。それを見たゼーレは、先程と全く同じように横に飛び退きその場を離れた。雲散霧散を使うのも忘れない。ここでのロートの動きが全てだ。ゼーレは全神経を使うつもりで、ロートの様子を凝視した。
着地したロートは直ぐにゼーレの方に迫った。だが、ゼーレはこれ以上の絶望を抱く必要はなかった。ゼーレの目には、一瞬ではあるがロートの足に迷いが生じていたのが見えていたのだ。理性を失ったロートは玄武に惑わされていると確信が持てた。現に、今ロートが標的に捉えて向かっているのは確かにゼーレが飛び退いた方向ではある。だが、今そこにあるのは雲散霧散で作り出した幻だ。ゼーレ自身は雲散霧消でその姿を隠している。
そして、ロートがそれを偽物だと気付いた時に取るであろう行動も、ゼーレは予想していた。だから、ゼーレはロートから少し距離が離れた場所で息を落ち着かせて立っていた。ロートの腕が虚しく空を切った瞬間、豪華絢爛が辺り一帯を呑み込もうとした。
「伝家宝刀!」
ゼーレは抜刀すると、それを自分の目の前の床に突き刺した。こうすれば、豪華絢爛は防げるしロートの動きも見ることが出来る。何より、回避行動が取れる。
案の定、ロートは先程と同様に炎を切り裂いてゼーレの懐に潜り込んできた。だが、準備万端なゼーレは既に雲散霧散で複数の自分の幻影を作り出している。ロートの足はついに止まった。回避に回避を重ねるという方法は見事に成功した。ゼーレは嬉しさが込み上げてくるのを感じるとともに、不安が広がるのも感じていた。気は抜けないものの、このまま翻弄し続けていれば攻撃を回避することは出来る。だが、一度の回避行動に必要な魔力が多すぎる。青龍と玄武を充分に使わなければならないのだ。ゼーレは、自分の魔力の底が見え始めているのを実感していた。
息切れとともに、身体が重くなって力が入らない。ゼーレは極度に魔力を消費し、もはや足は言うことを聞いていなかった。ロートの攻撃は今のところ受けていない。時間にしてどれくらいかは判然としないが、少なくとも時間稼ぎにはなった。だが、もう限界だ。ゼーレがいくら力を振り絞ろうとしても、これ以上魔力が残っているとは思えなかった。
「そろそろ、限界ね……」
ゼーレは今にも折れそうになる足を叱咤してその場に踏み留まりながら、ロートの方を見遣った。ゼーレの視界は霞み始め、動きを先読みすることはおろか、まともに直視することすら出来ていない。だが、辛うじて見える様子からしても、向こうはまだまだ戦いを充分に続けられそうだ。ゼーレは遂に膝を折りくずおれた。最後にロートの方を見た瞬間、そこに見えていた影は姿を消していた。
「難攻不落!」
視界は定かでなくとも、聴覚はまだ生きている。ゼーレが知覚したのは懐かしい聞き覚えのある声だった。次いで、何かが激しくぶつかる音。ゼーレは鉛のように重たくなった瞼を開けると、声のした方を向いた。
「ゼーレ、よく頑張った。後は私が引き受けよう」
三度も同じ状況に合う自分の弱さに心を痛くしながらも、ゼーレは優しい父の声に絶対の安心感を抱き、そして気を失った。
「ロート、死してなおも戦いを強いられるのは苦しいだろう。まして、相手がゼーレともなれば。ヴァイゼーを止められなかった私の過ちがこの状況を生み出しているのだ。前時代の幕引きは私に課せられた役目だ。ロート、今解放してやろう」
ハイリゲはゼーレの前に立ちロートに対面した。もちろん、理性を失ったロートにハイリゲを認識することは出来ない。
ハイリゲは懐から紙を取り出すとそれを広げた。その紙にはびっしりと法陣が描かれている。
「ヴァイゼーが怪力乱神を使うことは予測出来た。――勧善懲悪」
ハイリゲは法陣の描かれた紙を地面に置いた。すると、紙の上の法陣が地面に転写され、それは地面一帯を包むほどに大きくなった。階の全てを円の中に含むと、白く温かい光で辺りを照らした。その光に抱かれた途端、ロートは硬直して動きを止めた。
本来、勧善懲悪に法陣は必要ない。対象が一つならば、ある程度至近距離にまで近付けば魔法は発動する。だが、対象が二つ以上ともなるとそうはいかない。複数の対象を一ヶ所に留めるというのがひどく困難になるからだ。そこで、ハイリゲは法陣を使うことによって勧善懲悪の効果範囲を拡大した。
「ハイリゲ、様……」
正気を取り戻したロートは、動きを止めたまま呆然と目の前にいる人物の名を呼んだ。そして直ぐに現在の状況を理解した。
「ゼーレ、お嬢さん、は?」
心身に掛かる負荷が大きかったのか、口が上手く回っていなかった。
「大丈夫だ。体力、魔力の消耗は激しいが、大きな怪我は負っていない」
ハイリゲの言葉を聞くや、ロートは安堵の表情を浮かべた。意はヴァイゼーに取られてはいても、感情はロートのものだ。
ハイリゲは静かにロートに近付くと、音も立てずに伝家宝刀を引き抜いた。滑らかな刀身は白く輝いていた。
「ロート、すまない」
ハイリゲは迷いのない太刀筋でロートの胸を貫いた。ロートには抵抗する時間すらなかったが、その表情は穏やかに笑っていた。そうして、ロートの肉体は砂が零れるようにさらさらと崩れていった。
ザンクトは神妙な面持ちで相手と対面していた。抱える心情は複雑なものだが、胸は速く強く脈打っている。自分が奮えているのだということがよく分かる。
「君がヴォルフの妹、ザンクトか」
「ええ、そうよ」
ザンクトが対峙しているのは、当代最強と謳われたハオベであり、ヴォルフのかつての師匠でもあるザインだった。隻腕の彼からはそのような障害など窺えない程に隙がなかった。どの間合いで攻め込んでも、全ていなされ返されてしまうということが目に見えるようだ。ザンクトは自分の指先がぷるぷると震えているのを、拳を強く握りしめることで押さえ込んだ。武者震いとはこれを言うのだろうか。ザンクトは初めて感じる緊張に、少しばかり酔っていた。
実力を測るように、じっとザンクトから視線を外さないザインは、やがて微笑を浮かべて口を開いた。
「ザンクト、君もまたヴォルフと同じ強い意志を身に宿しているようだ。――六根清浄」
ザインがそう呟くと、ザインの周囲に光の粉のようなものが舞い、ザインの身体を包み込んだ。ザンクトはその魔法の事は知っている。魔法により掛けられた呪いを解くことの出来る白魔法だ。だが、それがこの状況でどういう意味を持つのかまでは分からなかった。
「肉体の存在はヴァイゼーに握られているが、意志は私の下へと還った。これで私はザンクトと戦うことも出来るし、戦わないことも出来る」
ザインは残された右腕で伝家宝刀を抜き、試すような視線をザンクトに向けた。
あまりにザインの求める応えが明白過ぎるので、ザンクトはつい笑ってしまった。そのような茶番劇を演じなくとも、ザンクトの答えは端から決まっている。ザンクトもまた月卿雲客を引き抜いた。
「私も、あなたとは戦ってみたかったのよ。最強のハオベであるザインと、兄さんの師匠であるザインと」
緊迫した空気が二人の間に流れた。次の瞬間には、二人は自らの意志を乗せた刃を交えていた。互いの刀がぶつかり合い、寸時せめぎ合った後に弾かれるようにして距離を空けた。
ザンクトはこの一撃だけでも充分にザインの力量の高さを知ることが出来た。刀を振り下ろす挙動が、とても直線運動に見えないのだ。まるでしなる鞭を振るうかのように、刀は重く間が微かにずれている。それに合わせるように受けてしまった時点で、戦いの流れはザインの側にある。相手が隻腕だと油断も慢心もしていたわけではない。出来るはずもない。
「――流石、ね」
ザンクトは言葉を漏らした。口を開くでもしないと、心を落ち着かせることも出来なかった。ザンクトは呼気を長い時間を掛けて吐き出して焦燥を打ち消した。ザンクトには、まだ自分を優位に立たせることの出来る要素を持っている。
再び踏み出したザインに対して、ザンクトは月卿雲客を水平になるようにしてザインに向けた。隻腕であるのならば、身体の姿勢を保つことも常人に比べれば難しいだろう。そこを上手く突けば、ザンクトの優位は揺るぎないものになるはずだ。
二人の距離が刀を交えるに充分な程になった時、ザンクトはザインの構えが変わるのを見た。変わると言っても、そこから繰り出される攻撃は同じだろう。だが、その些末とも呼べる変化を見過ごせるほどザンクトは楽天家ではなかったし、場数もきちんと踏んでいる。ザインの構えに合わせるように、僅かに刀を下げた。
ザインがザンクトに向けて刀を降り下ろした時、ザンクトはそっとその刃に自分の刃を沿わせた。わざわざ力で勝負をする必要はない。相手の力をそのまま利用してしまえばいい。ザンクトは刀を回転させるようにして払い上げた。これでザインは丸腰になるはずだった。
だが、気付けば丸腰になっていたのはザンクトの方だった。払い上げたはずのザインの刀はその手にしっかりと握られ、ザンクトの刀ははるか後方の床に突き刺さった。
「え?」
ザンクトには何が起きたのか全く理解できなかった。ペルレ流の戦い方において、いなした相手にいなされることなど経験したことがなかった。ザンクトはこれまでの戦い方を否定されたような気がして、恍惚としたまましばし身動きが取れなかった。ザンクトが視線の焦点を結んだのは、鋭い音とともに伝家宝刀が迫り、首筋でぴたりと止まった時だった。
「自身の戦法に自信を持つあまりに一度の失敗で生を投げ出すのはあまりに愚かだ」
ザインは刃と同じほどに鋭い視線でザンクトを睨み付けていた。ザンクトは、はっとして一歩飛び退いた。普通ならば、放心してしまった時点でザンクトの首は飛んでいた。だが、ザインは機会をくれたのだ。しかもザンクトに有利な状況を与えた上で、だ。ザンクトには、ザインの考えていることが分かるような気がした。これがザインの遺志なのだと。
「さあ、私の手の内は見せた。次はザンクトがその力を示す時だ」
ザインは先程と同じ構えをした。ここで間違えてはいけない。ザンクトは小さく息を吐くと思考を巡らせた。ザインはペルレの戦い方をそっくりそのまま返すことが出来る。そう考えて良いだろう。では、ザンクトはそれを見越した上で攻撃と防御をしなければならない。ザインがどのようにしていなした攻撃をいなしたのかは分からないが、二度目があってはならない。ザンクトは大きく構えを変えた。
「全く、親切なことね」
ザンクトは腰の高さで刀を握り、その刃先を床に向けた。通常であれば、それは休みの構えであり決して相手を前にして取るような構えではない。ザインもそれに気付き僅かに眉を動かした。それでもザインの取った行動は先程と一切変わりなかった。ザンクトに向けて踏み込むザインが刀を振ると、ザンクトはさっと身を翻してかわした。その間際、ザンクトは自分の刀の刃先を僅かにザインの刀に当てた。きん、と高い音が響くが、それだけ。
だが、次の瞬間にはザンクトの身体は宙に浮いていた。ザインが刀をザンクトに向ける度、ザンクトはその刃を巧みにかわしながら自らの刃を軽くザインのそれに打ち付けた。その都度、ザンクトの身体はあらぬ方向へと放り出されるような軌道を描いた。きん、きん、と小気味の良い金属音が連続して響いた。
ザンクトが地に足を付けた時、その表情には余裕すら窺えた。だが、それと同時に呆れのような色も浮かんでいる。
「全く、とんだ如何様ね」
対面するザインの顔も、決して表情を顕にしているわけではないが満足を表しているようだった。
「では、ザンクトの答えを聞こうか」
ザインの言葉に、ザンクトは小さくため息をついた。ザインというハオベは、この局面においてもなおザンクトの実力を試しているのだ。試されていることに、試すことの出来る余裕と力量に、ザンクトはため息をつかざるを得なかった。
「あなたのその刀、伝家宝刀ではない。花鳥風月を改良したものでしょう?」
ザンクトの答えに、ザインは頷くこともせずにじっとザンクトの目を見つめていた。ザンクトはその返事を受け取ると、言葉を続けた。お互いに了解していることを言葉にすること程虚しくなることもない。
「要するに、私の攻撃はいなされていたのではなく、単に弾かれていただけ。白虎でしかない花鳥風月を、青龍にすら対応出来るようにしたのでしょう?」
「して、ザンクトはこの後どうする?」
ザインから言葉を引き出したということは、第一関門は突破したというところだろうか。ザンクトは頭の中で今後の展開を組み立てていった。
「そうね。弾かれるというのなら、花鳥風月に垂直に力を加えれば強引に突破出来る可能性はある。でも、ザインがそれを許すはずがない」
ザンクトはすっと息を吸うと直ぐに一歩踏み出した。
「なら私は、自分が青ずきんであることを最大限活用する!」
直ぐに間合いを詰めたザンクトは月卿雲客を大きく振りかぶった。
「そうだ、強くなる最善の方法は、力を過信せず、自分を信じることだ」
振り下ろされた青龍の刀を、ザインは先程と変わらぬ構えで受けた。このままであればザンクトの刀は弾かれてしまう。だが、刀が触れ合う一瞬、ザンクトは月卿雲客を元の水に戻した。花鳥風月に触れた部分はもちろん跳ね返される。しかしそれは青龍ではなくただの水。刀は中間部分のみ形を失うも、流体らしくするりと花鳥風月をすり抜けた。そして次の瞬間には、再び形を取り戻し青龍へと戻った。
「これで!」
ザインの刀に触れぬよう気を付けながらザンクトは思い切り刀を振るった。弾かれた水は未だ宙を舞っている。ザンクトは勝利を確信するほどには慢心していなかった。案の定、ザンクトの月卿雲客はザインの片腕にしっかりと防がれている。もう何度も見てきたように、腕に青龍を沿わせているのだろう。だが、これでザインの腕を封じることが出来た。
「そうそう簡単にはいかないわよね」
そう言うザンクトの周りには、氷の礫が今にもザイン目掛けて飛び出そうとしていた。ザンクトは滄海桑田を用いることにより、花鳥風月で弾かれた水をも利用していた。
そして、ザインに受け止められた月卿雲客も状態を変化させて、氷の鎖となりザインの片腕をしっかりと捕まえていた。そして、氷の礫はザイン目掛けて一斉に放たれた。
ザンクトは油断はしていなかった。勝ちを確信していたわけでもない。ただ、これを防ぐのは不可能だろうとは思っていた。だから、氷の礫が何かにぶつかり、砕けてはらはらと目の前を舞った時、何が起きたのか分からなかった。ただ、身体は無意識の内にザインから距離を置いていた。戦いがまだ続くという警鐘が身体を動かしていた。
「なかなか面白い戦い方だった。あれが滄海桑田ではなく青龍だったら私の敗けだっただろう」
ザンクトははっとした。ザインの姿を網膜に映したからではない。その言葉こそが真実を明言していた。ザインの右腕には刀が握られていたのだ。花鳥風月によって象られた刀が。
青龍をも防ぐ花鳥風月を形成するには、余程の集中力が必要であろうし、その効果の及ぶ範囲は限られていただろう。それこそ、刀の大きさ程度に。だが、そもそも花鳥風月は白虎程度の魔法は跳ね返すことが出来るのだ。だから、ザインは片手に握る花鳥風月を、本来の花鳥風月に戻して、白虎と玄武である滄海桑田を跳ね返した。これならば多方向からの攻撃にも対処することが出来る。
「――流石にあの状況で青龍が使える程、私は器用ではないわ」
ザンクトはため息を漏らさずにはいられなかった。ザインが試していたのも分かっている。ここまでの展開を組み立てることも出来た。だが、ここから先の展開を思い描くことはどうしても出来なかった。
二人の間に静寂が訪れ、ザンクトのこめかみに汗が一粒流れたその時、沈黙を破る威圧のこめられた声が静かに木霊した。
「怪力乱神……」
ザンクトは、だがその声に気を取られることはなかった。今相手をしているのはザインであるし、他にザンクトに向けられている敵意も感じられなかったからだ。かといって、ザインからも敵意を向けられているわけではないが。しかし、対峙している二人には関係のないその声に反応を示したのは、ザインの方であった。
「ヴァイゼー、やはり変わっておらぬな」
ザインは視線をヴァイゼーの方に向けていた。その瞳には憂いの色がありありと浮かんでいる。
再びザンクトに視線を戻した時、瞳の色は哀しみに満ちていた。
「ザンクト、私は形だけでもヴァイゼーの策略に乗らせてもらう。悪く思わないでくれ」
ザインはそう言うと、何かを描くように空中を指でなぞり始めた。
「開物成務……」
ザインの指が止まると、先程の六根清浄よりも遥かに輝かしい光がザインを包み始めた。その様は見ていて息を飲むほどに美しかった。だが、それが美しければ美しい程に、ザンクトの顔からは血の気が引いていった。
ザンクトはもちろん怪力乱神のことも開物成務のことも知っている。ただでさえ力の差を見せつけられたばかりだというのに、さらにザインが強くなってしまっては勝ち目などもはや夢見ることも出来ない。
「そんな――」
それでも、ザンクトの身体は無意識の内にもザインに向かっていた。力の均衡を保つのならば、開物成務が完全に発動する前に決着をつけないとならない。力の差を身に沁みて感じるザンクトにはそうする他なかった。
光に包まれて微動だにしないザインに向けて月卿雲客を振るったザンクトだったが、その刀が斬ったものは空だけだった。外したというのはその手応えから否が応にも分かる。だが、かわされたという事実を理解することが出来なかった。ザンクトにはザインが動いているということを知覚することすら出来なかったのだ。
「ヘクセライが発動する前に攻撃を加えようと考えるのは正しい」
ザンクトは背後からの気配に反応して月卿雲客を振るった。声の遠さからして充分に攻撃範囲内には捉えているはずだ。振り向き様、ザンクトの目には一瞬だがザインの姿が映った。光を纏い鋭い視線を放つザインは神々しくも見えた。だが、次の瞬間には再び姿を消していた。
「だが、その身体には僅かに迷いがある。その迷いを打ち払わねば、一瞬の戦いで勝つことは出来ない」
次に声が聞こえたのはザンクトの真横からだった。ザンクトは焦り逸る身体をどうにか理性で抑え込み一度身を退いた。ここで冷静さを欠いては自滅の道を辿ることになってしまう。そのような不様な負け方だけはしたくない。
ザインから距離を空けてなお、ザンクトの動悸は治まる兆しを見せなかった。知覚すらさせてもらえない相手に対してどう戦っていけばいいと言うのか。だが、勝ち目が見えなければ見えない程に、ザンクトには諦念とともにそれに裏打ちされた確固たる決意が沸いてきた。
一度その事を自覚してしまうと、ザンクトには笑いを抑えることが出来なかった。忍び笑いは、やがて声を立てる程の笑いになっていた。端から見れば、頭がおかしくなったと捉えられてもおかしくない程だった。
「まだ未完成だからあまり使いたくなかったのよ……」
ザンクトはそう言うと、青天霹靂で移動を始めた。今のザインからすれば止まって見える程度の速度かもしれないが、ザンクトはそのようなことに構うことはなかった。ザインがザンクトを試しているということは分かっているのだ。ならば、決定的な差を見せ付けてなお諦めないザンクトの行動を無下に扱うはずもない。少なくともそれが何であるか分かるまでは、ザンクトは法陣を描き続けることが出来るはずだ。ただ、無償でその恩恵に浴せると思える程にはザンクトは堕ちていない。
ザンクトは最初に大きな円を描きながら移動すると、その後は縦横無尽に円内を動いて回った。法陣を描かせてもらえるという確信にも似たものはあるのだが、擬装はしておくのが吉だ。時折ザインに向けて当てるつもりもない魔法を放ちながら、ザンクトは足に魔力を集中させてどんどん法陣を描いていった。
「その足で描いているのは滄海遺珠だな?」
ザインがそう指摘した時、ザンクトは嫌な予感がした。法陣は八割以上は既に描き終えている。滄海遺珠を見破られたのは別に痛いことではない。ただ、ザインの言葉が全てを物語っているような気がしたのだ。ザンクトの心に焦燥という二文字が急に肥大化し、それがザンクトの足を急がせた。
「そして、その腕で描いている法陣は唯一無二だな?」
ザインが真実を語った時、ザンクトの足は止まった。最初から全てを見切られていたことにはっとしたというのもあるし、法陣を描き終えたというのもある。少なくとも、ザンクトにはまだ自分がザインを打ち負かすという未来図は思い描けていなかった。
「――いつから、気付いていた?」
「ほぼ最初からだ。滄海遺珠にしては法陣が大きいし、その程度のヘクセライであればザンクトならば簡略化した法陣でも発動可能なはずだ。だとしたら、これは別の法陣の擬装だと」
そして腕に注目すれば、それが唯一無二の法陣であることも自ずと知れるというものだ。だが、だとしても腑に落ちない点はある。ザンクト自身そう確信していたにも関わらず。
「だったらどうして途中で止めなかったのかしら? 唯一無二がどういうヘクセライかは当然知っているでしょう?」
「逆転を計るザンクトが次にどのような一手を繰り出すか、興味があったからだ」
ザインはそう言うと携えていた伝家宝刀をしまった。実際に見たことなどなくとも、唯一無二を知っているハオベは多い。それこそ、エルデに二つと無い唯一つの魔法なのだ。伝家宝刀など、それを前にしては全く意味をなさない。
「それに、私も唯一無二は見たことがなかったからな」
ザンクトは奥歯を強く噛み締めた。ヴァイゼーの支配を逃れたといっても、ザンクトとザインは敵同士なのだ。こうまで余裕を見せるザインの心理が理解出来なかった。そして、余裕を見せられている自分が許せなかった。
「なら見せてあげるわ! 最上位のヘクセライ、鳳凰の真価を! 唯一無二!」
ザンクトは腕を組み合わせて唯一無二を発動させた。すると、ザンクトの足元の法陣ではなく、腰の高さ辺りで淡い水色の光が浮き上がってきた。それは実に複雑で均整の取れた美しい法陣だった。そして、向かい合う二人を強い光が包み込んだ。
唯一無二は魔法の階位の中でも最上位の鳳凰に属する魔法だ。唯一無二の発動している間は一切の魔法が使えなくなる。正確に言えば、魔力の流れが止められてしまうのだ。いくら法陣を描こうとも心象を固めようとも、力の源である魔力が無ければ何の意味もない。それはもちろん唯一無二を使用したハオベも例外ではない。だから、戦闘は全て肉弾戦になる。
「ヘクセライによって力の差が広がったのなら、そのヘクセライを止めてしまえばいいのよ」
ザンクトは口元を緩めた。だが、それは笑みというには程遠かった。ザンクト自身、肉弾戦に持ち込んだからといってザインに勝てるかどうか自信がなかった。たとえザンクトがペルレの戦い方を究めていても。たとえザインが隻腕であるとしても。
「なるほど確かに、その考え方は正しい。しかも私は今隻腕であるから、身体的にも有利である、か。――では、あらためて」
ザインの悠然とした構えはどこかで見たことがあった。そう、それはヴォルフの構えに酷似している。ザンクトは自らも戦闘体勢を取りながら、ふっと笑みを漏らした。なんだ、兄と戦うのだと考えればいいのか、と。
ザンクトの、ペルレの戦い方が柔らかい動きでいなすことにあるとするならば、ヴォルフの、ザインの戦い方は踊りを舞うようにかわし弾き反撃することにある。防御において特化されているという点では似ているが、ペルレの戦術はさらに防御に特化し、一方ザインの戦術は攻撃の面にも優れている。
戦法でいえば甲乙付けがたくとも、腕が二本あるか否かの差は大きいはずだ。手数や姿勢制御という点で攻撃と防御、ともに劣ってしまう。ザンクトもそう考えていたからこそ、未完成ながらも勝算の見込める唯一無二を使ったのだ。だが、実際目の前にしている現実はどうだろうか。攻撃の回数こそ少ないものの、ザンクトの攻撃はことごとく受け切っている。ペルレの戦い方が攻撃に向いていないというのも一因だが、それにしてもザインは体勢を崩すことなく見事に舞っている。そう、それは戦闘ではなかった。ヴォルフの戦いを見た時にも思ったことではあったが、ザインは踊りを舞っている。そこにザンクトが加わろうとなかろうと、ザインは自分の調子を変えることはなかった。
「こ、こんな……」
ザンクトはもはや手の出しようがなかった。攻撃を食らうようなことはないが、これ以上戦闘が進展するとも思えなかった。
そう考えていた時、ザンクトは自分が思い違いをしていることに気付いた。相対しているザインは、既に生者ではない。輪廻転生により僅かな間生きた身体を与えられた存在なのだ。このまま時間を稼いでいれば、いずれ消えてしまう。
「戦いにおいて考えることは、時間を稼ぐことではない」
ザインの声が聞こえたかと思った瞬間、ザンクトは胸に衝撃を受けて息が詰まった。思考はしていたが油断した覚えはない。なのに、ザンクトはザインの正拳を受けていた。
何度か咽びながら、ザンクトは一切合切の思考を切り捨てた。今必要なのは、ザインのこの狂わない舞いを、いかにしてザンクトの調子に持ち込むかだ。そのためには、ザンクトも共に舞わなければならない。ザンクトは再びザインの踊りに加わった。
一瞬の隙さえ作れればいい。勝敗を決するのはいつも瞬間だ。だが、ザインがそう易々と攻撃の余地などを与えるはずもない。しかも、ザインの戦い方が先程と比べていささか変化している節がある。片手でありながら、攻撃の回数が増しているのだ。それに合わせてザンクトはいなし反撃に転じるのだが、それすらも利用してザンクトの隙を作ろうとしている。ザンクトは今までにも似たような感覚を味わったことがある。戦いの中においてでも成長する者。それは、ゼーレと戦った時に感じた感覚だった。
「戦いの中で自分の戦型を変化させている?」
相手の動きを見て戦法を変えるのは、言うなれば普通のことであり、それが出来ないとあらゆる戦況には対処しきれない。だが、ザインは明らかに「型」を変えてきている。長年に渡る戦闘で身体に染み付いているはずの型を変えることは、意識してもそうそう出来ることではない。
ザンクトは眼前のザインの認識を改めざるを得なかった。格が違うどころではない。次元の差すら感じさせられる。もしもザインが本気で戦っていたら、ザンクトは間もなく地に伏せられていただろう。その光景が容易に想像出来た。
数回の攻防の内にも、ザインは確実にザンクトの身に拳を入れてきた。一撃で沈む程の威力はないものの、時間を掛ければじり貧になるのは目に見えていた。手数の増えたザインを抑えるべく、ザンクトは繰り出された拳をいなしながらも、その裾を掴みきつく握り締めた。ザインの手足を押さえても、ザンクトにはまだ攻撃に回せる手か足が残る。
ザインの勢いを利用して、ザンクトはそのままザインの身体を跳ね上げた。宙に浮いたザインの身体はそれでも美しい弧を描き、ザンクトを中心に対称の場所に降り立とうとしていた。しかし、すんでのところでザインは急に身体を折ると、予想よりも遥かにザンクトに近い側に落下を始めた。しかも、気付く頃にはザインの片足はザンクトの腕の上、もう片足は下に入っていた。誰が見てもこの状況はまずかった。ザンクトがザインの腕を掴んでいる以上、ザンクトの腕もまた拘束されている。このままザインが自然落下を利用して力をこめたら、容易くザンクトの腕は折れてしまうだろう。
ザンクトはまだ間に合う内にザインの腕を解放し、自らの腕をザインの足の間から引き抜いた。直後、ザンクトの身体は体勢を崩した。ザインに足を掛けられたと気付く頃には、既に組み伏せられて馬乗り状態となっていた。
「許せ、ザンクトよ」
両足でザンクトの自由を完全に奪ったザインは、手刀を振りかざした。戦いに厳格である者ならば、確実に息の根を止めてくる。ザインは間違いなくそちらの人だ。ザンクトはザインとの絶対的な力の差を知った。だからこそ、自らの死を直視すべく、ザインから視線は反らさなかった。そして、眼前に鋭い刃が迫った。
だが、その手刀はザンクトの首を寸断するには至らなかった。何かに縛られたように、急にザインの身体が動かなくなったのだ。
「時間のようだ。エルデがザンクトを生かしたのも、また輪廻の内か」
ザインはうっすらと笑いながら呟いた。刹那、ザインの身体は砂のようにぼろぼろと崩れ始めた。僅かな間再び得た生命が尽き果てようとしている。ザンクトは声も出せずに見ているしか出来なかった。命が消えていく。それは儚く、美しいとまで言えた。
そうしてザインの身体が完全に消えた時、辺りには光の粉が舞っていた。ザンクトは今までも数多の死は見てきたが、これ程までに美しい死はなかった。
ヴォルフは快刀乱麻を両手に持ち、ヴァイゼーに猛然と刀の乱舞を当て続けた。対するヴァイゼーは、刀の軌道を先読みしているかのように無駄な動きなく避けていた。
「怒りに溺れるか、ヴォルフ?」
ヴォルフを見下すような黒い瞳で、ヴァイゼーはヴォルフの動きを捉えている。二刀対徒手空拳だというのに、ヴォルフの攻撃は全く当たらない。その事に苛立ちは覚えるが、ヴォルフの心は今の事態とは対照的に晴れやかだった。世界であると思っていたエルデが自分の意志でもあるということが、ヴォルフに新たな境地を与えた。自分の意志で世界は変えられるのだと。それを教えてくれたのは、皮肉にもヴァイゼーだった。
「怒り? 俺は親父を憎んではいない。ただ――、」
ヴォルフはかわされた刀を持つ手を返した。その瞬間に、刃は形状を刀から槍へと変えた。不意を突かれたヴァイゼーは咄嗟に鬼哭啾啾でそれを防いだ。これで均衡は崩れた。ヴォルフの手数はさらに増えたのだ。
「ただ、親父に俺の正義を見せ付けるだけだ!」
四本の刃を得たヴォルフは先程とほぼ同様の動きをしながらに手数を二倍に増やした。これ以上かわすことは叶わないと思ったのか、ヴァイゼーも今では完全に受けに回っていた。だが、ヴァイゼーのその挙動にヴォルフは違和感を抱いた。ヴァイゼー程のハオベが、ただ攻撃を受けるに徹しているのは腑に落ちない。何より、ヴァイゼー自身が狼より魔力を得ている可能性は非常に高いのだ。それを使わない理由が分からなかった。
ヴォルフは瞑想しながらヴァイゼーの様子を窺った。目に映るものがそのまま事実として頭に入ってくるので、色々と感じ取れることは多い。だが、ヴォルフがヴァイゼーの瞳を見た瞬間、それこそ本能的に何かを悟ってしまった。身体に電撃が走り、ヴォルフは思わず身を退いた。今、ヴァイゼーの瞳に何を見たか。
「何を畏れる?」
ヴァイゼーは両手を広げながらゆっくりとヴォルフの方へと近付いた。ヴォルフの額からは冷たい汗が流れた。
「私を畏れるか?」
なおも近付いてくるヴァイゼーに、ヴォルフも思わず一歩退いた。違う。ヴァイゼーを畏れているわけではない。あの瞳の中には――。
「自身を畏れるか?」
ある一定の距離になったところでヴァイゼーは歩みを止め、中空に何かの法陣を描き始めた。
「力を畏れるか?」
ヴォルフはその言葉を聞いた途端にはっとした。ヴァイゼーの瞳の中で蠢いていたものは何だったか。自分のものとはまるきり異なるヴァイゼーの正義が、ヴァイゼーだけのエルデが巨大な力を携えていたのだ。
「攻撃の手を休め、距離を空けたのは大きな間違いだ」
世界が自分に襲い掛かってくると錯覚してしまったからこそ、ヴォルフは動揺してしまったのだ。だが、絡繰が分かってしまえば畏れることなどない。誰の心にもエルデはあるのだから。
そうして、ヴァイゼーの描く法陣をようやく注視したヴォルフは愕然としてしまった。初めて実物を目にした法陣は、あまりに幾何学的で美しかった。
「烟霞痼疾……」
ヴァイゼーが魔法名を唱えるや、床から三つの属性が青龍となって現れた。まるで生きているかのようにゆらゆらと艶かしい動きを見せている。それらは標的であるヴォルフを見付けるや、鎌首をもたげて一心にヴォルフに迫った。
ヴォルフは快刀乱麻でそれらを弾いていった。だが、異なる色の魔法を受け続けるのは非常に疲労がたまってしまう。快刀乱麻も悲鳴を上げているように聴こえた。
「くっ!」
止むことのない怒涛の攻撃に痺れを切らしたヴォルフは、大元をたたくことにした。いつまでも烟霞痼疾の相手をしていたらこちらが消耗しきってしまう。
「千紫万紅!」
ヴォルフの声とともに数多の炎がヴァイゼー目掛けて降り注いでいく。余裕を見せたまま一向に動こうとしないヴァイゼーを灼熱の炎が呑み込もうとした瞬間、今までヴォルフに牙を剥いていた赤魔法の青龍が逆にそれらの炎を呑み込んでしまった。まるでヴァイゼーを守るかのように。
残された青魔法と黄魔法は変わらずヴォルフに襲い掛かろうとしたので、ヴォルフは快刀乱麻でそれを受ける構えをした。だが、それらはヴォルフの手前で突然方向を変え、互いにぶつかり甲高い音を発した。
「水は電気分解され、酸素と水素へと成る」
ヴァイゼーの言葉を理解した時には、ヴォルフの目の前には赤い青龍が迫っていた。
「やば……」
ヴォルフが何をする暇なく、周囲に充満した爆発性の気体に火が着いた。ついで起こる大爆発。ヴォルフはその渦中でまともに巻き込まれた。辺りに朦朦と爆煙が立ち込める中、烟霞痼疾は未だに獲物を求めていた。次の瞬間には、今度は赤と青の青龍が互いの体をぶつけ合っていた。
「火により水蒸気と化した水は上昇気流に乗り雷雲を形成する」
その暗雲目掛けて、黄の青龍が体躯をしならせて駆け上がっていく。そして雲の片隅に触れた瞬間、大きな音が激しい閃光とともに鳴り響いた。煙で覆われた場所へ降り注いだ雷霆は、あらゆるものを切り裂いた。煙すらも切り裂くそれには、だが切れないものが確かに存在した。煙が晴れ始めて視界が確保されつつあると、ヴォルフはしっかりとそこに立っていた。
「当然だな」
「いきなり鳳凰を使いやがって。流石にひやひやしたぞ、今のは」
冷たい視線を向けるヴァイゼーにも、ヴォルフは臆することがなかった。むしろその顔にはいかにも楽しげな表情が浮かんでいた。
烟霞痼疾は鳳凰に属する超高等魔法だ。使用するハオベが何色であるかは関係なしに、赤、青、黄の魔法が青龍となって現れる。烟霞痼疾の最大の特徴は、それら三つの魔法がそれぞれ意思を持っているということだ。魔法を使ったハオベに忠義を尽くすように、自らの意思で敵と認識した相手に襲い掛かる。
ヴァイゼーはそれぞれの色の特徴をよく理解して攻撃に組み込み、ヴォルフは一瞬の判断の内に一色の青龍で守備に徹した。ただそれだけのことなのだ。いくら意思を持っていると言っても、青龍であれば防ぐことが出来る。
「だが――、」
ヴァイゼーが静かに目を瞑りそう呟いた時、ヴォルフは周囲の状況を把握した。あるいは、ヴァイゼーの前から烟霞痼疾が消えているのを見た時点で気付くべきだったのかもしれない。完全に煙が晴れて初めてそれらは姿を露にした。
「なっ……!?」
ヴォルフの周囲には十数個の法陣が半球を形成するかのように浮かんでいた。そこに表された紋様はみな同じで、同一の魔法によるものであることを示している。ヴォルフはさっとそれらに目を遣り、それがいかなる魔法であるのかを理解し、同時に全ての法陣の位置を把握した。
「くそっ! 天上天下!」
すかさず右手を上に左手を下に向けて、ヴォルフも自身の持つ鳳凰を発動させようとした。直ぐに手の先に目映い光が宿り始めるが、時は既に遅かった。
「それを使わせないための布石だ。電光朝露」
ヴァイゼーがゆっくりと目を開けた刹那、ヴォルフの周囲に浮かぶ幾多の法陣が光を放ち回転を始めた。次の瞬間には、その法陣からヴォルフを目掛けて光弾が放出された。
四方八方からの突然の攻撃に、ヴォルフは回避の術を持たなかった。そもそも回避を不可能にする魔法であるし、不意を突かれたというのもある。数発をかわすことには成功したものの、見えないところからの攻撃に体勢を崩し、そこを狙い打ちにされてはたとえヴォルフといえどそれ以上の回避は不可能だった。
電光朝露も、烟霞痼疾と同じく鳳凰に属する魔法だ。幾つもの法陣を半球状に配置して一切の回避の隙間を無くし、そこから一斉に攻撃を放つ。放たれる攻撃は青龍には及ばないものの、その手数、方向性から圧倒的な火力を誇る。まさに不可避の攻撃と言える。
ヴォルフが床にうずくまってからも攻撃の手が止まることはなく、ヴォルフの動きが完全に止まると同時に電光朝露も姿を消した。ヴァイゼーはゆっくりとヴォルフに歩み寄ると、その手を取った。ぐいと引き上げると、ヴォルフに顔を近付けた。
「ヴォルフ、お前の中の狼、返してもらうぞ。お前には使いこなせない力だ」
ヴァイゼーはそう言うと、さらさらと法陣を描き始めた。まるで迷うこともなく、複雑な紋様を中空に描き上げていく。ヴォルフはぐったりとしたまま、身動きすることはなかった。
ヴァイゼーは法陣を描き終えると、それをヴォルフの左腕に近付けた。国士無双のかけられた、その腕輪に向けて。呼応するかのように腕輪と法陣は距離を詰め、やがて接したところでヴァイゼーは重たい言葉を放った。
「天下無双……」
接点から目映い光が放たれるのと同時に、ヴォルフの身体が一度びくんと痙攣した。ヴォルフの左腕に嵌められた腕輪はぴしぴしという音を立て、そこに書かれた文字が高速で動き始めた。そして直ぐに、ぱりんという高い音を発して割れた。欠片が細かい音とともに床に散らばる。
ヴォルフは声にもならない大きな音を発しながら身悶え始めた。咆哮とも悲鳴とも異なる、ただただ口から音が溢れるばかりだった。内に押さえきれない強大な力が、ヴォルフの小さな器から飛び出そうとしている。
「がっ、あああぁぁ!」
辺りに冷気が漂い始めた。魔力を使うことなく、その身が放つ気配だけで周囲の温度を奪っていく。ヴォルフの中から出ようとしているのは、そういう存在なのだ。カプーツェの魔力がどうこうではなく、カプーツェを食した狼の持つ気配、それが冷気の原因の全てだ。
ヴォルフの身体は抗う力さえなく、ただ内なる狼が暴れるがままにのたうち回った。痛みからのものではなく、内から出ようという意志が発する声は次第に大きくなっている。その様子を、ヴァイゼーはただ冷たい目で見下していた。ヴァイゼーの瞳に映るのは、自らの実子であり、研究の対象であり、かつての同族であり、自らとは志の異なる敵だった。
そして、ついにあらゆる束縛から解放された青い狼が、ヴォルフの身体から飛び出した。自らの四肢で床に足をつけた狼は、低い唸り声を上げた。伸びとともに解放を味わうように身体を震わせると、大きく咆哮した。地を鳴らすようなその声は音だけでなく青魔法をも辺りに放った。鋭く尖った氷晶が狼を中心に同心円状に拡がっていく。今まで何度か狼が外に現れた時の、どれよりも速く鋭かった。
「遂に現れたか、絶対的な力を持つ臆病な狼よ」
ヴァイゼーはとん、と足で床を鳴らした。その瞬間、目前に迫った氷晶は粉々に砕け、氷塵が光を乱反射させた。ヴァイゼーの瞳は、ただただ狼の魔力だけを見詰めていた。
「その力も私が頂く」
ヴァイゼーはそう言って狼との距離を詰めた。屋内での広さなど高が知れている。ヴァイゼーは人あらざる速度で狼の目前にまで迫った。そして振りかぶった腕は、だが狼を捉えることはなく、狼を守るように突き立った氷柱を砕いただけだった。当の狼は空中に作った氷の足場に佇み、見定めをするような瞳でヴァイゼーを見下ろしていた。
「お前はいつもそうだ。自分から戦うことをせず、ただ保身ばかり。お前には過ぎた力だ」
ヴァイゼーは腕を振るった。すると、腕の先から黒い、いや黒に紫が混じったような色の結晶が狼に延びていった。魔法ですらない青龍の攻撃。それは狼がする攻撃方法と全く同じだった。
猛然と迫るそれに対して、狼は真っ向から向かっていった。もはやヴァイゼーを完全に敵と見做している。氷を盾としてヴァイゼーの攻撃を防ぐと、鋭い牙を剥いた。ヴァイゼーもまた、それに応ずるように腕を振りかぶった。
「――ルフ君。ヴォルフ君!」
ヴォルフが意識を取り戻した時、耳許で誰かが自分の名を叫ぶのが聞こえた。状況を把握しようと上体を持ち上げようとしたところで、ヴォルフの全身に激痛が走った。
「っ!」
思わず身体を硬直させたヴォルフだったが、ようやく視界の端でヴォルフの名を呼ぶ者の存在を認めた。
「ハイリゲ、か」
「まだ身体を動かさない方がいい。今の君は満身創痍もいいところだ」
ハイリゲに支えてもらいながら、ヴォルフはゆっくりと再びその身を床に横たえた。視界にはハイリゲの姿しか映っていないが、耳には激しい戦闘の音が痛いくらいに届いている。しかも、それは魔法と呼ぶにはあまりに荒々しい音だった。
「今の、状況は?」
口が上手く回らない程の疲労に驚きながら、ヴォルフは冷静に尋ねた。ヴァイゼーの鳳凰により完膚なきまでに打ちのめされたところまでの記憶はある。そして、その後にヴァイゼーが何をしたのかの予測も立っている。
「ヴァイゼーは天下無双を使いヴォルフ君の中の狼の封印を解いた。今はそれをも手中に治めようと、狼と戦っている」
ハイリゲの話してくれたことは、大方ヴォルフの予想通りだった。結局、ヴォルフはまた負けてしまったのだ。ヴォルフは天井を見上げながら、まだ戦いは終わっていないのだということを意識した。その時になって、ヴォルフは自身の身体の異変に気が付いた。単にヴァイゼーに受けた攻撃以上の疲労がある。それは今までに感じたことのない、異質なものだった。
「あれ……? ハイリゲ、何か、身体の調子がおかしい」
ヴォルフは腕を動かしてみた。痛みはない。おそらく、ずっとハイリゲが白魔法を当て続けてくれていたおかげだろう。だが、そうした痛みとはまた違う痛みが身体中にあった。痛みと表現していいものかもよく分からない、身体の重さ。まるで魂を抜かれたように力が込められなかった。
「恐らく――、」
ハイリゲは一度言葉を切ってから、深刻な顔をして再び話し始めた。ヴォルフの胸が一際高鳴ったのは、その口から発せられる内容を推測してのことだったか。
「恐らく、今までヴォルフ君の身体の中にあった狼の肉体とツァオバーが抜けたからだろう。特にツァオバーの方だ。狼のそれはハオベとは比べ物にならないほどに強大だったろう。それが一個の人の器からぽっかりと抜け落ちてしまったのだ。今のヴォルフ君の身体は深刻なツァオバー不足に陥ったのだと錯覚しているのだと思う」
だから、ヴォルフには何か空虚に満ちた痛みがあり、身体に力が入らないのだとハイリゲは言う。科学者には似つかわしくない程に根拠の薄い憶測だったが、常識から外れている存在を相手にそこまで分析出来ているのだ。ヴォルフはかの日と同じように、ハイリゲを信じることにした。
「ハイリゲ、俺の身体を無理にでも動かせるようにしてくれ。俺には、まだやらなければならないことがある」
ヴォルフは真っ直ぐにハイリゲを見つめた。まだ何も出来ない子供だったあの日とは違う。ヴォルフは自分の意志で、自分に出来ることをする。その瞳からはそのような想いがありありと窺えた。ハイリゲは強く成長したヴォルフに頷き返した。過去の精算をするのは自分だと思っていたが、その考えを改めざるを得なかった。新しい幕を開けるためには、一度下ろす必要がある。ならば、それも開ける者が為すのが自然なのだろう。それに足る意志の強さが、ヴォルフには確かにある。
「いいだろう。ヴォルフ君の今の状況は一過的なものだ。戦闘を始めれば直ぐにでも身体は感覚を取り戻す。それまでの繋ぎをするくらいならば、既に舞台から下りた私にも出来るだろう」
そういうと、ハイリゲは紙を取り出してその上を指でなぞり始めた。その動きには迷いがなく、一切無駄な軌跡も描かなかった。ハイリゲとて科学者であると同時に遥かに優れたハオベでもあるのだ。ハイリゲが指の動きを止める頃には、ヴォルフの身体は徐々に事態に順応しつつあるようで、だいぶ動かせるようになっていた。
「ハイリゲ、それともう一つ、頼みがある」
ヴォルフはそれに続けてハイリゲにその内容を伝えた。自分の実力を鑑みた上で最良と思われる事の収拾法。それを為すにはハイリゲの協力が絶対に必要だった。
「――分かった」
短い言葉で伝えられたヴォルフの頼みに対し、ハイリゲはそれ以上の詮索をすることなく静かに頷いた。そして、先程まで法陣を描いていた紙をヴォルフに持たせた。
「開物成務」
ハイリゲがそう言うや、ヴォルフの身体は静かに、しかし目映く輝き出した。優しい光がヴォルフをそっと包んでいった。
目覚めた狼とヴァイゼーの戦いは、必ずしも拮抗しているわけではなかった。徐々にもう一匹の狼の力を見せ始めるヴァイゼーは、超絶的な魔力と圧倒的な知力を以て滾る狼を圧していた。人間的な知能で攻めるヴァイゼーに対して、狼は動物的な本能で避けるばかりであった。
ヴァイゼーの繰り出す黒い結晶を、狼はかわして今度はこちらが氷柱で攻撃をする。だが、狼がかわそうとした先には既に黒い結晶がその矛先を狼へと向けていた。已む無く攻撃の手段を防御に回す狼だったが、今度はその逆側から同じように黒晶が尖端を延ばす。回避も間に合わない狼は、自らの意志を持つかのように動く氷柱に防御を任せるしかなかった。ヴァイゼーは完全に狼の動きを読み切っている。行動の先を支配されたら、勝ち目など無きに等しい。特に、知力を持たない狼にはそれは不可能だ。ヴォルフの身体から離れたことで、逆に狼は窮地へと立たされてしまっていた。
二方向からの攻撃を防いだ狼の周りには、きらきらと舞う氷塵と黒晶、それよりも細かい塵が視界を奪っていた。そのような状況においても、戦闘は激しく続けられる。ヴァイゼーは狼の四方から黒晶を突き刺し、見えない攻撃を続けた。瞬間的に反射神経でそれらをかわし防ぐ狼は、だがヴァイゼーの居所が分からず無闇に攻撃するしかなかった。土埃の臭いでヴァイゼーの臭いを辿ることが出来ないのだ。気配にしても、狭い空間の中では巨大な気配を一点に絞ることは出来ない。一方のヴァイゼーは、虚心坦懐で魔力の流れを読むことで簡単に狼の位置を把握していた。この塵が視界を塞ぐ限り、ヴァイゼーの、ハオベの優位は覆らない。
やがて、一本の黒晶が狼の死角へと入り込み、氷の絶対の防御をも打ち砕いた。そこに狼を守るものはもう無い。黒晶は逸るようにその一点に集中し、無防備な狼へと凶刃を向けた。逃げ場のない絶対の攻撃。狼は回避出来ないその攻撃を、自らを貫くその攻撃を真っ直ぐに見つめていた。
狼に何か予感があったわけではないだろう。だが、突如として狼の視界は塞がれてしまった。魔法のためでも、まして狼の命が絶たれたわけでもない。狼と黒晶との間に割って入るものがあったのだ。その何かは狼に迫る黒晶を炎の剣によって弾いた。
「ハイリゲか。要らぬことをする」
ヴァイゼーの瞳は突然の乱入者を冷ややかに映していた。
「親父、俺の戦いはまだ終われないんだ」
ヴォルフは長年自身を苦しめていた狼を庇い、再びヴァイゼーに相対した。強大な魔力の喪失に身体の自由を奪われつつも、ハイリゲの開物成務で身体を騙しながらその場に立っていた。
「ヴォルフ、お前にはもう用はない」
おとなしく退けと、ヴァイゼーは目で語っていた。だが、ヴォルフに退くという選択肢などなかった。渦中にいる輪廻に『負けないため』には、ここでヴァイゼーを越えなければならない。それはもう他の誰かのためなどではなかった。ただ自分の矜恃のため、ヴォルフは一度敗れた身でありながら再び立ち上がった。
ヴォルフは狼の方に振り向くと、静かにその眼を見詰めた。何度も身体を乗っ取られていたからこそ分かることがある。この狼は自衛のためにしか牙を剥いていない。そしてそれはヴォルフを守ることに等しい。だからこそ、ヴォルフはこの場を自分に任せて欲しかった。童話で狼が赤ずきんの女の子に助けられた時に感じていたのと同じものを、ヴォルフも感じていたからだ。奇しくも、狼は赤ずきんに助けられ、時を越えて赤ずきんは狼に助けられた。
「安心しろ。ハイリゲがお前のツァオバーを封印してくれる。お前はもう普通に森に還ってもいいんだ」
ヴォルフの言葉を、いや、言葉ではなく気持ちを理解したのだろう。狼は今まで剥き出しだった敵意を収め、一人立つ白ずきんの下へと歩き始めた。人と獣でさえ、解り合うことは出来る。
「それを決めるのは私だ」
ヴァイゼーは機を逃がすまいと、黒晶を狼目掛けて放った。地から幾本も突き出した黒晶は真っ直ぐに狼の背を追っていた。それに当然気付いている狼は、だが歩調を変えようとはしなかった。その背を守る役目を負っているのは今は狼ではない。
ヴォルフは再び狼と黒晶との間に入り、ヴァイゼーの攻撃を防いだ。その動きはもはや常人のそれではない。一瞬で距離を詰め、最低限の挙動で攻撃を防いだ。ハイリゲの開物成務がヴォルフの身体能力を向上させていた。
「親父の中の狼も、俺が解放してやる」
ヴォルフはそう言うや、右手を上に、左手を下に向けた。自分の正義を貫くための、ヴォルフだけの力。ヴォルフの手先は目映い光に包まれていった。
「構わん。あれはもうただの器に過ぎない。――電光朝露」
狼がハイリゲへと辿り着いたのを見て、ヴァイゼーは小さなため息を吐いた。仮に国士無双で魔力を封印されたとしても、ヴァイゼーならばまた解くことが出来る。それならば、自身の進む道を阻害する者を始末してしまう方が先決だ。そう判断したヴァイゼーの周囲からは、幾十もの法陣が宙を舞いヴォルフの周りを取り囲んでいった。
そして、その法陣が回転を始めたかと思った瞬間には、それらはヴォルフ目掛けて光弾を放っていた。
「天上天下!」
ヴォルフが叫んだのが先か、光弾が着弾したのが先か、その周囲には砂煙が舞い上がった。と、不意にヴァイゼーがその場から一歩退いた。直後、ヴァイゼーのいた場所に大きな窪みが出来た。そこにヴォルフの姿は見えず、ただ二つの光源があるばかりだ。だが、それこそ天上天下が発動した証であり、ヴォルフが直撃を免れた確かな証だった。
続くヴォルフの攻撃にも、ヴァイゼーは必要最小限の動きだけでかわしていった。難なく、という風ではないが、今のままではヴォルフの攻撃は当たりそうもなかった。だが、ヴァイゼーが天上天下の速さについてこれていることは、ヴォルフに驚きを与えることではなかった。今までの記憶と、先程のヴァイゼーの言葉とで何となく分かったことがある。今のヴォルフとヴァイゼーは、かつての狼と赤ずきんとの戦いを準えているのだ。
「ヴォルフ、その力に疑問を抱いたことはないか?」
ヴァイゼーはヴォルフの攻撃をかわしながら、そう問い掛けた。
「ああ。だが、俺の中で答えは出ている」
ヴォルフは次第に身体が軋み始めるのを感じていた。天上天下は身体への負荷が大きい。今はハイリゲの開物成務がそれを担ってくれているが、それも時間の問題になる。
「そうだ。天上天下、それはエルデから力を得るヘクセライだとされている。では、その力とは何か。ハオベのツァオバーとは何が違うのか」
ヴァイゼーはひらりとヴォルフの攻撃をかわすと、転じて攻撃に回った。その腕には狼の持つ魔力が纏っている。瞬きする間もなく攻守が入れ替わるが、ヴォルフも余裕でヴァイゼーの動きに対応した。
「鍵を握るのはいつだってカプーツェだ。今も生き続ける彼女の意志だ」
そして二人の戦闘は均衡を保ってしまった。片方が攻撃すれば片方がそれを受け、次には攻守を入れ替えて同じことが繰り返される。まるで、この問答のために用意されたかのようだった。
「そう、天上天下が語るエルデの力を持った人こそが、ハオベという存在だ。私たちがツァオバーと呼ぶものなど、始めは存在していなかった。それは遍在していたのだから」
エルデ中に在る漠然とした「力」を、最初に身に宿した人間こそがカプーツェという大賢人だった。だからこそ、カプーツェの魔力はエルデの力に似ていた。そして、カプーツェから分けられずきんに託された「力」は、人に馴染む魔力となった。
「答えは出ていると言ったはずだ。もっと端的に言えばどうだ? 親父が言いたいのは要するに――、」
「天上天下の言う力は、カプーツェを食した狼も当然持っているということだ」
ヴォルフの攻撃はあっさりとかわされた。そればかりではなく、それまで以上の速さでヴォルフの背後に回り込んだ。それはエルデの力を身に宿し、なおかつ狼の力すらも掌握したヴァイゼーにしか到達し得ない速度だった。そして、ヴァイゼーの腕は振り向くことも出来ないヴォルフに向けて振り下ろされた。
だが、その腕がヴォルフに届くことはなかった。ヴォルフとヴァイゼーの間には堅牢な赤い盾が立ち塞がっていた。攻撃を阻まれたヴァイゼーはようやく表情を変えた。だが、ヴァイゼーが驚いたのはそれが防がれたという事実にではない。ヴォルフが真実に到達していたという事実にだった。
「答えは出ている、と言ったはずだぜ? 俺は知っているはずがないのに、なぜかこの状況に懐かしさを覚える。エルデが俺に語り掛けてくるんだ。これはあの日の再現だとな」
ヴォルフは一度ヴァイゼーと距離を空けた。しかし、ヴァイゼーから追撃を行うことはなかった。ヴォルフは肩で息をしながらも話を続けた。身体の疲労は問題ではない。
「今、俺と親父は互いにエルデの力を宿している。そして、奇しくも俺は赤ずきんで、親父の内には狼がいる。だから俺は鳳凰に重ねて、他のヘクセライも使えるんだ。あの日、赤ずきんが拙いヘクセライを使ったようにな!」
ヴォルフはそう言うと腕を振るった。そこから、燃え盛るきらびやかな炎が広域に渡りヴァイゼーへと襲いかかった。それは明らかに豪華絢爛だった。母なるエルデの持つ力とは比べ物にならない程にひ弱だが、人が自らの目的を果たすために手に入れた確かな力だった。
ヴァイゼーは迫る炎を強引にかき消した。ヴァイゼーとて、それが攻撃手段として用いられたわけではないことくらい分かっている。
「目眩ましなど、無意味だ」
炎により一瞬失われたヴァイゼーの視界には既にヴォルフはいなかった。だが、動物的な本能をも得たヴァイゼーには、ヴォルフがどこにいるのかが手に取るように分かった。
「風林火山!」
ヴォルフの声が響いた時には、既に一度目の衝突は終わっていた。凄まじい勢いで攻撃を重ねるヴォルフに、ヴァイゼーは冷静に対応している。埒が明かないのは先程と同じだった。
「竜驤虎視!」
ヴォルフが使ったのは相手の魔力の流れを読む魔法。速度で互角な以上、相手の隙を突く以外には自分から優位を掴む方法はない。ヴォルフはヴァイゼーの周りを高速で駆け回りながら、攻撃を加え続け機会を窺った。だが、今のヴァイゼーは感覚で戦うことさえ可能なのだ。隙を見せたとしても、それを本能で回避されてしまう。
ヴォルフは最後の一歩まで達したところで、片手を床についた。
「鏡花水月!」
「お前に幻覚系は扱えない。則天去私……」
ヴォルフが攻撃の度に足で描きつけていった法陣は、発動するやヴァイゼーによって無効化されてしまった。既に何度か使っている戦法ではあるし、常套手段であるとも言える。ヴァイゼーが気付かないはずもなかった。
「千紫万紅!」
だが、ヴォルフが攻撃の手を止めることはなかった。その疾風怒濤の攻撃は、まるでヴォルフが何かに取り憑かれてしまっているかのようだった。この頃になると、ヴァイゼーも些かヴォルフの真意が見えなかった。狂ったようにただ魔法を使うヴォルフの鬼気迫る様子は、狼を宿すヴァイゼーですら気圧されそうになる。それに、気にかかることはもう一つあった。
ヴォルフがヴァイゼーの周囲を一周する間に、ヴォルフの軌跡から炎の槍が現れヴァイゼーへと突き立った。ヴァイゼーは鬼哭啾啾を爪に見立てると、それで全ての炎の槍を打ち落とした。それは言うほど簡単なことでもなければ、見ていて安気するものでもない。凄まじい速度で炎の槍を捕捉していき、それと同等以上の速度で寸分の狂いなく腕を振るっていくのだ。叩き落とされた炎の塊は床に落ちると爆煙を巻き上げた。
ヴァイゼーは視界から消えたヴォルフを探したが、どこにもその気配はなかった。あるのは、ただ熱気だけ。身を焦がす熱さがヴァイゼーの周囲を包み、あらゆる感覚を狂わせていた。
「星火燎原!」
ヴォルフの声はヴァイゼーの後方から聞こえた。だが、そこにヴォルフの気配は見られない。と、思うや、煙が一瞬の内に晴れ、ヴァイゼー目掛けて幾十もの流星が降り注いだ。
「目障りだ。魑魅魍魎」
突如床から這い上がるようにして現れた黒き異形の者は、全身で流星を受け止めた。いくつもの炎の流星を身体に受けても、魑魅魍魎は消えることはなかった。そして、その巨大な体躯の隙間を縫い、一つの流星がヴァイゼーを捉えた。
「鬼哭啾啾」
ヴァイゼーは抜刀すると、唯一迫る流星を鋭い太刀筋で両断した。だが、高速でヴァイゼーに迫っていたのは星火燎原だけではなかった。
「快刀乱麻!」
二分された星火燎原の陰から不意にヴォルフが姿を現し、炎の刀を携えてヴァイゼーに斬りかかった。死角からの攻撃に、ヴァイゼーは完全に虚を衝かれた。
ヴォルフは降り注ぐ流星の一つに乗り、まさに真上からの攻撃を敢行したのだ。しかし、それでもヴァイゼーは無理に身体を捩りヴォルフの刃を弾いた。ヴァイゼーが初めて見せた焦りの表情を、ヴォルフはその目に焼き付けた。
「臥竜鳳雛!」
しかも、ヴォルフはそれで攻撃を終わらせなかった。僅かに距離を空けるや、両腕を前方にかざして青龍による炎の鳳凰を放った。大きな翼を羽ばたかせて、巨鳥はヴァイゼーを飲み込もうとした。
ヴァイゼーは鬼哭啾啾を両手で握ると、それを振り上げた。だが、刀を振り上げた時に、上方からも迫るものが視界に入った。それはもう一つの臥竜鳳雛、青龍の龍だった。先程からの怒涛の攻撃は、天井に法陣を描くための陽動だった。たとえ青龍といえど、そこに必要な情報や魔力を詰めておけば遠距離からでも発動することが出来る。そして、二点から挟まれたヴァイゼーに、もはや回避可能な隙間は残されていなかった。
「か……」
二体の幻獣に呑み込まれる直前、ヴァイゼーは何かを発したが、爆発音に掻き消されヴォルフには届かなかった。片方を鬼哭啾啾で防いだとしても、もう片方は防げない。ヴォルフは半ば勝ちを確信して天上天下を解いた。どっと疲労感と劇痛が身体に走った。肩でしか呼吸が出来ず、思わず膝を折った。だが、視線は狂うようにのたうつ炎へと注がれていた。嫌な胸騒ぎが治まらない。目の前の炎は何をもがいているのだろうか。
その時、背筋を冷たいものが走り、総毛立った。この感覚は紛れもなく――殲気だった。獣の放つ絶対的な殺意が辺りを支配していた。次の瞬間には、ヴォルフは本能的に快刀乱麻を後ろに向けて振っていた。それがどういう事かを体感的に理解するヴォルフはさらに気味の悪さを感じた。今、ヴォルフは一個の生ある存在として自らの身の危険を察したのだ。
一瞬の甲高い音とともに、ヴォルフはその身体ごと吹き飛ばされた。疲労が蓄積しているからといって、ここまでの威力を真に受けるとはヴォルフとて思ってもみなかった。そして、ヴォルフを追い掛けるようにして殲気が纏わりつき、それは事実、ヴォルフにぴったりとくっついていた。体勢を立て直す余裕もなく、ヴォルフは自分の感覚のみを信じて快刀乱麻を構えた。直後、物凄い衝撃が再びヴォルフを襲った。
「くそ。まさか」
ヴォルフは全身の神経を鋭敏にして次に来る攻撃に備えた。今まで、ヴァイゼーの姿は視界に映っていない。いや、捉えられていない。爆発の直前に聞いたヴァイゼーの言葉と殲気とを鑑みると、そこに求まる答えはあまりに明快だった。
「この状況でどうしろってんだ。どこにいるかも分からないんじゃ……」
ヴォルフが独り言を言い終える前に首筋がひやりとしたかと思った瞬間、左腕を何かに切り裂かれた。とても反応出来る速度ではなかった。ヴァイゼーが過ぎ去った方向は分かっても、振り返ろうとした時には次の攻撃がヴォルフを捉えていた。為す術なく、ヴォルフは身体中を血にまみれさせていった。
だがヴォルフは膝をつくことはなく、しかも頭は次第に冷静になっていった。獣に打ち勝つのに力は必要ない。必要なのは知恵、戦術だ。ヴァイゼーがヴォルフだけを狙うなら、そこに罠を仕掛ければいい。おそらく、ヴァイゼーは自らに怪力乱神を使い、今ヴァイゼーの心は狼が支配しているのだろう。先程からの殲気がその証拠だ。つまり、今のヴァイゼーには人間としての理性が働いていない。ならば、単純な罠にも引っ掛かるはずなのだ。少なくとも、そう信じないとヴォルフには勝ち目などない。
もう何度か視覚に捉えられないヴァイゼーの攻撃を受けた時、ようやくヴォルフはその姿を捉えた。罠など必要なかったのだ。ヴォルフは赤ずきんなのだから。ヴァイゼーが本能で知覚範囲を広げるのならば、ヴォルフは赤ずきんとしての特長で知覚範囲を広げるだけだ。それは即ち、熱である。
「難攻不落!!」
身体中から出血しているヴォルフが叫んだ直後、ヴォルフの胸は大きく切り裂かれた。傷の深さは今までのそれよりも深く、血も噴き出したが、ヴォルフは倒れなかった。そして、床から突き出し現れた難攻不落の壁が、しっかりとヴァイゼーを捕まえていた。
「捕まえた。――ハイリゲ!!」
下から突き上げられ、不意を衝かれたヴァイゼーは一瞬動きを止めた。青龍による攻撃は効いていないが、その衝撃からはヴァイゼーとて逃げられなかった。ヴォルフの視界にようやくヴァイゼーの全身が映し出された。ヴァイゼーの身体は今や人の形を成していなかった。その姿は、まるでエーヴィヒ。人の悪意が産み出した異形の者そのものだった。
「華胥之国――!」
ハイリゲの声が部屋に響いたと思った時には、天井と床に巨大な法陣が現れ、回転しながら発光を始めた。高速で回転を始めた法陣は、やがて一様な幾何模様を描いた。そして、上下の円で包まれた範囲――当然ヴォルフとヴァイゼーも含まれている――は目映い光で包まれた。ちょうど、円柱を覆い被せたような格好となった。
「ようやく捕まえたぜ」
ハイリゲの幻覚空間に捕らわれたヴォルフは、口許に笑みを浮かべながら同じ台詞を口にした。エーヴィヒの姿となったヴァイゼーは、難攻不落から離れて佇んでいる。先程までヴォルフが一心不乱に攻撃を続けていた理由の一つは、ハイリゲが法陣を描いているのを悟らせないためだった。だからこそ、一瞬の隙も与えないように派手な攻撃を繰り返していた。
だが、状況は好転したとは言いづらい。これがヴォルフの作り出した幻覚空間ならばまだしも、作ったのは第三者であるハイリゲだ。これでは戦闘の舞台が変わったにすぎない。それでも、ヴォルフには余裕が生まれるだけの転換であった。その理由は、ここが通常の場所とは断絶された空間であるからだ。
「これで最後だ。お互いにな」
ヴォルフはそう言うと、右手を上に、左手を下に向けた。ヴァイゼーは直ぐに身体をぴくりと震わせ反応を示したが、動き出すことは叶わなかった。その体躯は、ハイリゲの産み出した幻想によりがっしりと捕まっていた。幻覚空間で見せる幻想は、その場にいる者全てが共通して同じものを見る。なので、ヴォルフの体躯もまた気味の悪いぬるりとした白い腕に捕まっていたが、ヴォルフはそもそも動く必要がない。両の手に光が宿るまでの時間が稼げればいいのだ。
だが、狼の力に加えて怪力乱神までも使ったヴァイゼーにとって、その枷を解くのは造作もないことだった。首輪の外れた狼のように、ヴァイゼーは大きく吠えると遮二無二駆け出した。目指すはただ一点、ヴォルフだけだ。
ヴァイゼーの動きを食い止めようと、無数の腕がヴァイゼーとヴォルフに絡み付いていく。だが、天上天下は未だ発動するには至らないし、ヴァイゼーの動きも僅かに遅らせる程度にしかなっていない。
「くそ……。ここまで疲労がたまっているとは思わなかったぜ」
ヴォルフは足をがくがくと震わせ、時折ぶれる焦点を必死に定めながら、心をエルデと一にするために集中した。出血のためか中々気を鎮めることが出来ず、腕先の光もか細いままだ。ハイリゲの作る幻想は感じることがなかった。今、この場にいるのはヴォルフだけだ。
「ははっ。修行の時を思い出すな」
ヴォルフは過去の記憶を思い起こし、笑みを漏らした。最初に瞑想に至った時のことを。そして、頭を駆け巡る走馬灯を余所に、その日の自分へと精神を繋げた。
エルデと繋がるには――。
あの時の自分は、無意識にそれを行っていた。だが、今はそれが何か意識的に形にすることが出来る。それはヴォルフがこれまでの旅で得た一番大きなものの一つだ。ヴォルフの中の正義。幾度もの絶望を経て自らの礎となったものは、「負けない」ことだった。理不尽から、逆境から、輪廻から、父親から、そして自分から。そう想うことがヴォルフを今もこの場に立たせている。
瞬く間に、それまで弱々しく光っていたヴォルフの両手が輝き始めた。だが、ヴァイゼーとの距離ももう大分近付いている。身体中に巻き付く腕を振り払いながらヴァイゼーは猛り迫っている。
そしてようやく、その腕にヴォルフの正義を映す光が宿った。
「天上天下!」
ヴォルフが叫んだ直後、辺りに嫌な音が響いた。何かを強引に貫くずぶずぶという音。その残響とともに、滴が垂れ落ちる音もその空間を走った。
ヴォルフもヴァイゼーも動かなかった。お互いがお互いを捕らえて拘束していたからだ。ヴォルフはこの時、亡き親友のことを思い出していた。ロートもまたこういう感じだったのだな、と。
ヴォルフは激しい鈍痛を感じ、その箇所へ視線を動かした。見ると、ヴァイゼーの腕がヴォルフの脇腹を貫通している。ヴォルフに絡み付いた白い腕を全て切り裂き、ヴォルフの腹へと穴を空けていた。そこから滲むように出てくる血液が、一定の間隔で床へと落ち音を鳴らしている。
「輪廻とやらは、やたら俺を好いているらしいな」
ヴォルフは口から血を吐きながらも自嘲気味の笑みを浮かべていた。この戦いが様々なものの再現を成しているのだ。これを輪廻のいたずらとせずに、何と言うのだろうか。
「今度こそ、捕まえた」
そして視線をヴァイゼーと合わせたヴォルフの瞳は、殲気を浮かべるヴァイゼーをも射竦めた。ヴォルフはゆっくりと両手を動かした。
ヴォルフが先程まで派手な攻撃をしていた最大の理由。それはある魔法の発動に欠かせないものだった。自分のハオベとしての力をエルデに見せることで、自らの正義を認めることが出来る。天上天下のその先を、見ることが出来る。
ヴォルフは両の腕を自分の前方、ヴァイゼーの眼前で合わせた。
「唯我独尊!!」
ヴォルフの言葉とともに、合わせた手から影をも包むほどに強い閃光が放たれた。目を閉じていても瞼の裏に感じられる程の輝きが、辺りを瞬時に照らした。光に追いやられるように、ヴァイゼーから黒い影が三つ抜けて出ていった。
それは、全ての戦いの終わりを告げる祝福の光だった。
第二十章
~天壌無窮~
ヴォルフが薄れ行く意識の中で最後に見た光景は、ヴォルフの腹に腕を突き立てたまま気を失っているヴァイゼーと、その背後に倒れる黒い物体、そしてヴォルフに駆け寄ってくるハイリゲの姿だった。ヴォルフは満足気な顔を浮かべると、膝を折った。もう何も考えることは出来なかった。そのまま床に倒れ込み、暗く深い微睡みへと落ちていった。
次にヴォルフが目を覚ました時、辺りは白色で覆われていた。最後にある記憶の場所とはかけ離れていたため、ヴォルフは自分は死んだものと思った。今やヴォルフの中には狼もいないので、尋常ならぬ治癒力もない。あれだけの出血と傷を負っていれば死んで当然、そう考えていた。
「あ、ヴォルフ! 目を覚ましたのね!」
だから、聞き覚えのある声が耳元でした時、てっきりゼーレも死んだのだと思い、心苦しくなった。結局、ゼーレを守ることも出来なかったのだと。
「死んだ……のか」
ヴォルフは視界を巡らし、死後の世界をよく眺めた。だが、そうして見ると、不自然なものがいくつもあった。まず、寝台に寝かされているということ。次にそこがどうやら病室のようであるということ。そして何より、ハイリゲの姿があることだった。最後の戦いではハイリゲは支援に徹底していたはずで、ヴォルフの記憶にある限りでは生きている。ヴォルフの脳内に浮かび上がった疑問は渦を巻いていたが、次に聞こえた言葉で全ての解決を得た。
「ヴォルフは生きてるわよ。私も、お父さんもね」
ようやく動き始める思考は、その言葉の意味をゆっくりと咀嚼した。そうしてヴォルフが抱いた感慨は、自分は運が良いな、ということだった。痛みで身体はほとんど動かないが、あれだけの致命傷を受けてまだ生きていられるなんて。それとも輪廻の為すいたずらか、ともヴォルフは考えたが、それは自ずと否定した。
「それで、ヴァイゼーはどうなった?」
ヴォルフは痛む腹を押さえながら声を発した。次にヴォルフが気にかかったのは、実の父親のことだった。天上天下唯我独尊を受けた者がどうなるかは、実際に使ったヴォルフが一番よく知っている。まして、ヴァイゼーから三つの影が取り払われるのを目にしている。ヴァイゼーに大事が無いはずがなかった。
問われたゼーレも、少し困惑した顔をしている。
「今は気を失っているけど、生きてるわよ。どういうわけか、狼とも分離しているわ。狼の方も今は気を失っているみたい」
ヴォルフは小さく息を吐いた。ヴォルフが聞きたいのはそれではない。ゼーレはそれから、少し言い淀みながらも続きを口にした。
「あと――、ヴァイゼーの首元からずきんが無くなっているの」
ヴォルフはそれを聞くと再び息を吐いた。だが、今度のそれは安堵のため息だった。だとすれば、ヴァイゼーから解離した三つ目の黒いものもエルデに還ったのだろう。
ヴォルフは一つ安心すると、動かせる範囲で視線を巡らした。先程よりも視野が広がり、そこが個室ではなく大部屋であることに気付いた。そこにはゼーレやハイリゲだけでなく、先の戦いに参加していた者の多くがいた。重傷の者は寝台に横になっており、比較的軽傷な者は他の者の手当てをしている。だが、よく見ると寝台を使用している者の方が遥かに少ない。あれだけ激しい戦闘を経た割りには人数比がおかしい。ヴォルフは疑問に思い、ずっと側についているゼーレに尋ねた。
「もしかして、戦いが終わってからもう何日か経っているのか?」
「ええ。私も半日くらいは意識を失っていたから、どういう風に収拾したのかは分からないけど、私たちがライヒで戦いを始めてから今日で三日目よ。今はもう夕方だから、ヴォルフは丸二日は寝ていたことになるわ」
痛み以外に感じる気だるさはそのためか、と納得したヴォルフは、それでもよく二日寝ただけで目を覚ましたものだと、改めて思った。にこやかに笑うゼーレを見ても、ヴォルフが早く目を覚ましたことは嬉しいのだろう。だが、決して良いことばかりではないはずだ。やはり聞かなくてはならないことがある。ヴォルフは苦い思いで尋ねた。
「それで、こちら側の被害は?」
ゼーレの表情はとたんに強張り、思わず息を呑んでいる。それから、身を硬くして口を噤んでしまった。その反応を見ただけでも、被害が小さくはないことが窺える。ゼーレに対してそれを聞くのはやはり酷であった。
気まずい沈黙が二人の間に流れたが、助け船を出したのはハイリゲだった。ゼーレの背後から近付いたハイリゲは、彼女の肩にそっと手を置いた。そしてハイリゲの知る限りの情報をヴォルフに与えた。
「あの階層での戦いが終わった後でも、地上でのエーヴィヒとの戦いは空が暗くなるまでしばらく続いた。その結果、ライヒにいるエーヴィヒは全て駆逐したと言える。エーヴィヒを創成していた装置も停止を確認したから、今後エーヴィヒが増えることもない」
ハイリゲはそこで一息を入れた。だが、ヴォルフからすればそれは二の次でいいことだ。結果を先送りにするなど、ハイリゲらしくもない。ヴォルフが口を挟もうとしたところで、ハイリゲは厳かに言った。
「こちらの被害は四十七人。フォルブルート側が二十一人、シュヴァルツの率いるペルレの者たちに二十六人だ。重傷者はおそらくほとんどがそうだろう。骨折は普通、と言える程にみな深い傷を負っている」
想像していたこととはいえ、ヴォルフは閉口してしまう。四十七人といえば、ライヒに入った者の半数にも近い。それだけの命を失ってしまったかと思うと、この戦いで得られたものと釣り合うかを考えてしまう。だが、母なるエルデが生んだ命に、等価なものなどあるはずもない。ヴォルフは自分の考えが傲慢なことに気付き、それを恥じた。命は絶対的なものであるということを痛感した。
深く項垂れるヴォルフに、ハイリゲは初めて会った時と同じように厳しくも優しい口調で語り掛けた。
「ヴォルフ君の考えていることは大体推察出来る。多くの犠牲を払ったことを悔やんでいるのだろう」
正確にはそれは少しずれている。だが、今のヴォルフの気持ちの根幹となる事柄には変わりない。ヴォルフは無言のまま小さく頷いた。ハイリゲは続けてヴォルフに言葉を投げ掛けた。それはむしろ問い掛けといえた。
「ヴォルフ君、この戦いで命を落とした気高き魂を持つ同士はどこに還る?」
「――母なるエルデに」
「彼らが為し遂げようした強い想いはどこに還る?」
「――父なるエルデに」
「では、今君はどこにいる?」
ヴォルフは最後の問い掛けを聞いた瞬間、ハイリゲの意図を悟った。同時に、ヴォルフの心に強い風が吹くかのように、心に立ち込めていた靄がさっと晴れた。失われた多くの命は、もう返ってくることはない。だが、ヴォルフは彼らと繋がっている。全てを優しく包み込むエルデを通して、繋がっている。
「エルデはいつも俺らと共にある」
ヴォルフは真っ直ぐにハイリゲを見詰め、真っ直ぐな言葉を返した。様々なものを失いながら、だが何一つ失うことなく、人々は前に進んでいくのだ。
ハイリゲは瞳を閉じてゆっくりと頷いた。だが、目を開け再びヴォルフを見詰めたハイリゲの眼差しは、問い質すように鋭くなっていた。その変化に気付いたヴォルフは、やはりハイリゲは厳しい人だと、安気した。
「今度は私から聞こう」
「待ってくれ。あと一つ聞きたいことがある」
ハイリゲのしようとしている質問は想像出来るし、ハイリゲ自身返答にある程度の推測は立っているだろう。だが、ヴォルフが聞きたいことへの返答は想像がしづらい。だからこそ、今のうちに聞いておきたいのだ。
「何かね?」
「狼は――俺の中にいた方の狼はどうなった?」
ハイリゲは鋭い視線を向けたまましばらく沈黙した。二人の間に流れる静寂が時を止めてしまったかのように、どちらも何の動きもしようとはしなかった。だが、問われた以上答えを返さねばならないのはハイリゲの側であり、ヴォルフは粛々と待ち続けた。ハイリゲの瞳は既に答える意を湛えている。
「一言で言えば、無事だ。狼の中のツァオバーも国士無双で封印されている」
ようやく口を開き告げられたハイリゲの答えは、渋るような内容ではなかった。不審に思ったヴォルフは、ではハイリゲが聞かれたくないことは何かと思案を巡らした。そうすると答えは直ぐに分かった。ヴォルフが狼の安否を尋ねてしようとしていることを、ハイリゲはされたくないのだ。ヴォルフは婉曲な質問はせず、その一点だけを聞いた。
「狼は今どこにいる?」
ヴォルフの質問にハイリゲは表情をわずかに動かした。ヴォルフはあの時、森に還れ、と言った。だがハイリゲの反応から察するに、おそらく森にはいないのだろう。だとすれば、まだライヒの中と考えるのが妥当なところだ。ヴォルフはハイリゲの無言の回答に納得して小さく息を吐いた。
「聞きたいことは一つのはずだ」
「ああ、そうだったな」
ハイリゲは自分の意思がヴォルフに通じていると知りながらも、そうはぐらかした。ヴォルフも、答えが知れた以上はもうどうでも良かった。起き上がれる頃になれば狼に会いに行けばいいのだ。
「それで? ハイリゲの質問は?」
ヴォルフは話題を転換した。先に問おうとしていたのはハイリゲだ。それに、ハイリゲもまた輪廻の渦中にいた存在だ。真実を知る権利はあるし、ヴォルフにはそれに答える義務がある。
「唯我独尊とは、何かね?」
やはり、とヴォルフは聞こえない程の大きさで舌打ちをした。幻覚空間だったのであるいは聞こえていなかったか、とも期待していたが、ハイリゲはヴォルフが最後に使った魔法を知覚している。
ヴォルフは今度は大きく息を吐くと、視線をハイリゲの瞳へと合わせた。これはヴォルフが語ることではない。誰も彼もが持っているはずの力なのだ。
「ハイリゲはその唯我独尊について、どこまでを知覚した?」
「ヴォルフ君が天上天下を使い両手を身体の前方に合わせた直後、目を覆っても防ぎきれない程に明るい光が一面を照らしたところまでだ。そこで、私の華胥之国も強制的に無に帰された」
ハイリゲの答えに対して、ヴォルフは大いに満足した。やはり、ヴォルフの予想通りの回答が返ってきた。ヴォルフは遠い場所を見るようにしつつも、ハイリゲの瞳だけを見詰めた。
「唯我独尊というヘクセライは存在しない。天上天下というヘクセライもな」
語り出したヴォルフにハイリゲは怪訝な表情をした。それはそうだろう。ヴォルフははっきりと魔法名を唱えていたのだから、それを存在しないと言われても理解出来るはずもない。ヴォルフの口は滑らかに続きを語っていく。
「正しくは、天上天下唯我独尊というヘクセライだ。俺が今まで使っていた天上天下は、言うなれば中途半端に発動したヘクセライに過ぎない」
ハイリゲは先程からの表情とは一変して目を円くしている。理解には及ぶが、その事実が信じられないのだろう。天上天下でも、鳳凰に対抗することは出来ている。それを中途半端だと断ずるのだ。それでは、果たして天上天下唯我独尊とはどれだけ高等な魔法だと言うのだろうか。
「有史以来、おそらく天上天下唯我独尊を使ったハオベは存在しないはずだ。もし使っていたら、エルデの様相が今のようなものであるはずがない」
もはやハイリゲは言葉を発することすら出来ないでいた。ザインが天上天下を使えることはハイリゲも知っている。だが、そのザインから唯我独尊という言葉を耳にした覚えはない。つまり、ヴォルフは師でさえ辿り着けなかった極みに到達したのだ。その高みには、一体何があったのだろうか。ハイリゲはようやく絞るようにして声を出した。
「して、それはどういうヘクセライなのだ?」
ずっとハイリゲの瞳に視線を合わしていたヴォルフは、一度目を閉じた。ゆっくりと、これまでのことを思い返しているようにも見えた。
「一言で言えば、天上天下唯我独尊は全てをエルデに還すヘクセライだ」
瞑る時と同じくらいにゆっくりと目を開けながら、ヴォルフは落ち着いた声でそう言った。再びハイリゲに向けられた視線は、ヴォルフのものではなかった。その色は、エルデを感じさせる柔らかさと強さを湛えていた。
「全てを、エルデに還す……?」
思わず問い返してしまったハイリゲに、ヴォルフは全てを悟ったような面持ちで悠然と答えた。
「そうだ。ツァオバーも肉体も精神も、エルデに育まれたありとあらゆるものを再びエルデに還すことが出来る」
まさに輪廻を思わせるような魔法。ハイリゲは思わず息を呑んだ。だが、それでは納得がいかない。ヴォルフは天上天下唯我独尊を使った。ならば、なぜエルデの上にはこれだけの命があるのだろうか。
「だが、私の肉体も精神も、未だこのエルデの上に私を介して留まっている。これは今のヴォルフ君の言には矛盾しないかね?」
「理由は二つある。一つには、俺が天上天下唯我独尊を使ったのが幻覚空間であったということだ。今までに使った二回ともな。幻覚空間は言うなればエルデとは隔絶されている。だから、全てをエルデに還したとしても、エルデには影響を与えないんだ」
ハイリゲは唸るように頷いた。理屈は理解出来ても、どうにも納得まで至ることが出来ない。この差が、どれだけエルデと深く通じているかということなのだろうか。ハイリゲにはこの事実がいたく歯痒く感じられた。
「二つ目。これは技術的な問題だ。天上天下唯我独尊を使うハオベは、エルデに還す対象を自ら選択出来る」
ヴォルフの口から告げられる真実は、何度ハイリゲを驚かせただろうか。この事実も例外ではなかった。だが、そうだとしたら、なぜヴォルフは幻覚空間などという場所を選んだのだろうか。他人の手を借りねば構築出来ない空間を使う理由がそもそも見当たらない。ハイリゲの表情はそのまま疑問となりヴォルフにも伝わった。ハイリゲにしては珍しく、無意識の内に感情と表情が一致していた。それ程に、驚愕の事実が次から次へと告げられているのだ。
「ただでさえ超高等なヘクセライだ。必要な集中力は尋常じゃない。それを戦闘中に、しかも取捨選択をして使うなんてことは、俺には到底無理だということは承知している。だから、幻覚空間という独立した場所で使用せざるを得なかったんだ。まだ、全てをエルデに還すわけにはいかないからな」
ヴォルフは長い説明を終えて深く息を吐いた。焦点が目前で結ばれていく。話している間は気付かなかったが、こうして一息入れると自分がまだかなり疲労していることが分かる。腹がまた鈍く痛み出している。
半ば呆然としたままのハイリゲは、納得した声で呟くようにヴォルフに尋ねた。
「では、ヴォルフ君はヴァイゼーの何をエルデに還したのかね?」
ハイリゲも恐らくいくつかの見当はついているだろう。ヴォルフが意図してエルデに還したものは三つだった。
「一つは、ヴァイゼーの体内にあった狼だ。正しくは狼との繋がり、だけどな」
それはハイリゲにも見て取れた。現に、ヴァイゼーと狼は分離している。ヴォルフは続けて言う。
「もう一つは、狼が得たカプーツェのツァオバーだ。ただ、ヴァイゼーが狼を宿していたせいで、ハオベとして必要なツァオバーもエルデに還ってしまった」
ヴォルフとの会話においては、もはや驚きが普通の感情となってしまっている。ハイリゲは大きく息を吐いた。自分でも、どのような反応がこの場に相応しいのかが分からなくなってしまっている。ただ言えることは、エルデの深さそればかりだった。
「つまり、ヴァイゼーを人間に還したと、そういうことかね?」
「ああ」
「そのようなことまで可能なのか、ヘクセライというものは……」
ハイリゲの吐息は嘆息というのが最も正しいだろう。ハイリゲはこれまでエルデの深いところまで理解していたつもりだった。だが、ハイリゲですら知らないエルデの深奥がまだ存在している。ハイリゲは自らの無知と無力を痛感した。その事実は、もはや認める外ない。
「では、最後の一つは?」
嘆きにも近い声色でハイリゲは尋ねた。自分が何も知らないことは解っている。だから、これからヴォルフが口にすることは全て受け入れるつもりだった。だが、ヴォルフはしばらく答えずに思案を続けていた。
「三つ目は」
ようやく口を開いたヴォルフは、だが途中で続く言葉を飲み込んだ。ふっ、とヴォルフの表情は穏やかなものになった。ハイリゲにはその表情の変化が何を示しているのか理解出来なかった。
「――そうだな、これはいずれ解ることだ。俺の口から言うのは止めよう。ヴァイゼーの記憶は残っているはずだし、今はもうただの人間だ。直接的な害はもうないだろう」
ヴォルフはそれきり口を噤んだ。ハイリゲは納得しないだろうが、ヴォルフはそれでも言うつもりはなかった。エルデに必要なのは経験を積んだ賢人と、それに学ぶ若き人々だ。逆が成り立ってはいけない。ハイリゲもそれ以上詮索することはなく、何かを悟ったような表情のままヴォルフの下を去って行った。
そうして残ったのは、先程から口を挟むことなくずっと二人の会話を聞いていたゼーレだけとなった。ヴォルフは改めてゼーレの様子を見た。外見からでは、別段大きな怪我をしているようには見えない。
「大事ないみたいだな」
ヴォルフの言葉に、ゼーレは少し笑いながら頭をかいた。
「ええ。途中までは善戦していたんだけど、ツァオバーと体力が底を突いちゃって。お父さんが来てくれなかったら、私は多分こうしてヴォルフと話をすることは出来なかったと思うわ」
「無事で何よりだ」
ヴォルフもまた穏やかに笑いながら言った。だが、不意にゼーレの表情に翳りが差した。
「ロートにね、会ったの」
ヴァイゼーの使用した輪廻転生により幾ばくかの生を得たのは、確かにロートだった。だが、立場は真逆。かつてはゼーレの戦闘鍛練も見ていたロートが、今回では敵となって目の前に現れた。懐かしい面と敵として対面することは、ゼーレにとって衝撃だったはずだ。
「またね、後は頼むって言われたの……」
ゼーレは涙を浮かべながらも、笑っていた。今にも壊れてしまいそうな程に、脆い笑顔だった。死した者は二度と帰らない。だからこそ、再び相目見えたことが嬉しかったのと同時に、本当に最後の邂逅が敵同士であったことが哀しいのだ。色々なことを知ったからこそ、今のゼーレの涙がある。
「強くなったことを誇りに思え。ロートにも、自分にも」
ゼーレの成長を一番近くで見てきたのはヴォルフだ。ヴォルフは嘘偽りの無い言葉で、優しくそう言った。
ゼーレは双眸に涙を湛え、しかし顔には笑みを浮かべたまま、小さく頷いた。
ヴォルフが起き上がれるようになるまで回復したのは、それからさらに二日経ってからだった。その頃には、余程の重傷でない限りほとんどの者は寝台とは無縁になっていた。だが、完治したといえる者でも、このライヒから離れる者はいなかった。集団に属している以上、個人での行動は許されていないのだろう。あるいは、そうでなくてもこれまでを共に戦ってきた同士から離れることは心苦しいのかもしれない。
「さて、と」
寝台から降りたヴォルフは、多少足元を覚束なくさせながらも外へと出た。改めて自分がいた場所を振り返ると、そこは病院と言って差し支えない施設だった。規模こそ小さいし、設備も完全では無かったが、傷を癒すためには充分だろう。周囲は高さの低い建物が軒を連ねている。地図で確認したようにここは貧困層の居住区だ。おそらく、ここでルターは様々な患者を診ていたのだろう。ヴォルフの胸はちくりと痛んだ。
感傷に浸ろうとする心を払おうと、ヴォルフは空を仰いだ。雲一つなく青い空が広がっている。頬を撫でる風は涼しく澄んでいて、ほんの数日前までエーヴィヒが占拠していたことなど微塵も感じさせなかった。
ヴォルフは歩き始めた。どこへ向かえばいいのかは分からなかったが、身体は自然とある方向に足を向けている。ヴォルフはそれに身を任せた。自分と分離してはいても、エルデを通して確実にヴォルフと繋がっている。それを信じていれば、方角など知る必要はない。
果たして、ヴォルフはライヒの端まで辿り着いた。そこには何かをずっと待ち続けているかのように佇むものがいた。人でないそれは、ヴォルフの姿を認めてもまるで反応を示さなかった。少なくとも、獣がするように毛を逆立てることはしなかった。
「やっぱりここだったか」
ヴォルフは変わらずゆっくりとした足取りで、七年間自分の身体の中にいた狼のもとへと歩み寄った。当然だが狼から敵意は感じられない。充分に近付いたヴォルフは腰を落として目の高さを狼のそれに合わせた。
「森へ還れと言ったんだけどな」
ヴォルフはそっと手を差し出し、狼の頭を優しく撫でた。狼は身動ぎせずにヴォルフの手の動きを感じていた。ヴォルフはこの狼に散々振り回されていたが、狼に抱く感情は憤怒でも怨恨でもなかった。狼自身は何もしていないのだから。むしろ、ヴォルフの治癒力を上げたり、本当に危うい時には狼の姿となりヴォルフの身を守ってくれた。楽天的で都合の良い考えかもしれないが、ヴォルフにはそう感じることしか出来ない。何より、身体を共有していたのだ。その想いはひしひしと伝わってきていた。
「――今まで俺のことを守ってきてくれたことに、本当に感謝する」
狼が何を考えているのかは分からないが、その瞳はどこまでも純粋な色を浮かべている。喉を鳴らすような声を発した狼にも、ヴォルフの想いは伝わっていると信じたい。
「これは、俺からの感謝の気持ちだ」
ヴォルフはそう言うと、右手を上に、左手を下に向けた。狼がカプーツェを食したのは本能からだ。狼に罪はないし、カプーツェにもない。だが、カプーツェのツァオバーを身に宿してしまったことで、狼は必要のない厄介事に巻き込まれ続けてきた。長い時の中で、狼は何を思ってきたのだろうか。そう考えること自体が傲慢なのかもしれないが、ヴォルフがしてやれることはこれくらいしか考え付かなかった。
ヴォルフの手に光が宿り始めるのと同時に、大地が震え始めた。讃美歌を歌うように、エルデが声を上げている。
「天上天下唯我独尊」
ヴォルフはあらゆる想いを光に乗せて、両手を狼の目の前で合わせた。すると、温かい光が辺りを照らし、狼の中から青い球体を押し出した。その球体は光に包まれると、弾けるように方々へと散っていき、エルデへと還っていった。
光が収まった時、そこには変わらずヴォルフと狼だけがいた。しかし一つ違ったことは、狼の首の辺りにあった国士無双を刻んだ環が消えていたことだった。
「これで、お前は全ての呪縛から解放された。これからは、お前だけの命を生きるんだ」
ヴォルフはもう一度狼の頭を優しく撫でた。ツァオバーを抜かれた狼は今やただの獣になった。それでもヴォルフは狼との絆を感じている。お互いが輪廻に翻弄され、それでも助け合い、そして今に至っている。
ヴォルフはゆっくりと立ち上がった。狼も、気持ち良さそうに身震いをした。
「じゃあな」
声を掛けたのはヴォルフだったが、行動を起こしたのはどちらが先だったのだろうか。ヴォルフが踵を返すのとほぼ同時に、狼もまた町の外へと向いていた。その気配だけを感じると、後ろ髪を引かれることなくヴォルフは元来た道を引き返し始めた。ヴォルフはもう独りではない。帰る場所がある。
その時、ヴォルフの後方で遠吠えが聞こえた。力強いとは程遠いそれは、普通の人ならば別れを惜しむような寂寥感が籠められているように聴こえるだろう。だが、ヴォルフにはそのようには聴こえなかった。別れを祝うような歓喜、あるいはお互いを激励するような鳴き声に聴こえた。ヴォルフは笑顔を浮かべながら、それでも振り返ることはしなかった。エルデが導くのなら、また会うこともあるだろう。それもまた、輪廻の一紡ぎだ。
遠吠えはやがて、晴れ渡る蒼穹へと吸い込まれていった。
これ以上ライヒに留まる必要もないほどに、全員の傷が治癒したのは戦いから八日目だった。骨折したものや傷から出る熱に浮かされていたもの、あるいは昏々と眠り続けていた者も、もう自力で起き上がれる程にはなっていた。ただし例外はあった。ヴァイゼーと黒い狼だけは今もなお寝台の上で瞼を閉じたままだ。まるで、エルデに戻ることを頑なに拒んでいるかのようだった。
「私はヴァイゼーの意識が戻るまではここに残ろう。ライヒの復旧にも尽力せねばな」
共闘を果たした三勢力の重鎮が集う中で、ハイリゲは自らの意志を明らかにした。戦いに参加したみなが、ライヒの出入口にいる。始めよりも大幅に人数を減らしつつも、みなの顔は晴れ晴れとしていた。
「ペルレの者たちも手伝ってくれるそうなのでな」
ハイリゲはにこやかな笑みをペルレの者たちに向けた。シュヴァルツに追従してきた彼らの目的は果たされた。その上で、ハイリゲに助力しようという。元よりハイリゲはペルレの人間との親好が深い。あるいは、自らが戦いにより壊してしまった町を復興しようという、ペルレの者の律儀さの表れなのかもしれない。
「我々は――そうだな。一度態勢を立て直す必要があるだろう。そうしたら、まだエルデに残るエーヴィヒを今度こそ掃討しよう。エルデに純血を取り戻すために」
ゲレヒトは自らの決意を立てた。ヴァイスとペルレの者もゲレヒトの側に立ち、自分の長に従う意志を見せた。だが、ザンクトだけは躊躇を見せ、首肯することはしなかった。それを見たゲレヒトは、普段の威厳に満ちた表情を崩し、穏やかな顔付きになった。ザンクトはゲレヒトのそうした表情を初めて見た。
「ザンクト、君は自分の好きにするが良い。一時フォルブルートから離れたとしても、ザンクトの居場所はなくなりはしない。いつでも好きな時に帰ってくればいい」
ザンクトは硬い表情のままゲレヒトの言葉を聞いていた。その表情は堰を切って溢れ出ようとしている自分の感情を抑えているようにも見える。ザンクトは深く頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
しばらくそのままだったザンクトが頭を上げた時、その瞳は力強く輝いていた。自らの意志を貫くこと。ザンクトがこれまでの旅で手に入れた力は、大きな味方となった。
「兄さんと別れてから私はずっと独りだった。そんな私に手を差し伸べてくれたフォルブルートは確かに私の居場所です。でも、色んな人と関わり、私は独りではなくなりました。人との関わりの数だけ、私には居場所があると信じています。だから、私は一度ターブの町に行きます。私にとっては、そこが全ての始まりだから。そこで起きたことを直視して、自分がそこにいることを胸に刻みます」
出来れば母さんのお墓も立てたい、と言い加えてザンクトは口を結んだ。ザンクトの想いは誰の胸にも響いた。
ゲレヒトはザンクトの意志を確かめると、ヴァイスやペルレの人間を始めとしたフォルブルートの部下一同を引き連れてライヒの町をあとにした。ヴォルフの中に狼がいなくなった以上、両者が敵対する理由はもうない。今や、彼らも目的を同じとした仲間である。
一団の後ろ姿を見送りながら、ザンクトもフォルブルートとは違う方向へと歩き出した。去り際、ヴォルフとゼーレの方を振り返ったザンクトの顔には満面の笑みがあった。全てのわだかまりを払い、新たな一歩を踏み出す者に相応しい笑顔で、ザンクトは口を開いた。
「兄さん、ゼーレ。またどこかで会いましょう」
頷くヴォルフと大きく手を振るゼーレに背中を押されるように、ザンクトの足取りは軽かった。ザンクトの歩く姿はどんどん小さくなっていき、やがて見えなくなっていった。
「さテ、では僕たちも行きましょうかね」
次に口を開いたのはシュテルンだった。傍らにはゲルプの姿もある。
「とりあえズ、僕の目的は果たされました。僕たちモ、一度故郷に帰ろうと思います。そしテ、これまで過ごせなかっタ、兄弟での時間を取り戻していきます」
シュテルンは終始笑顔を絶やさずにそう告げた。だが、それとは対照的にゲルプの顔は硬かった。その口から放たれた言葉は、これまでとは違い重さがあった。
「みんナ。これまではごめんなさイ。ヴァイゼー様に助けられたからといって、僕は多くの過ちを犯してきタ。これからはその罪を償いたイ」
子供らしさがほとんど感じられない程に、自分のしてきたことを理解している。低頭していたゲルプはゆっくりと頭を上げると、おずおずとした様子で周りの面々を見た。そして安堵の息を漏らした。誰の目にも、敵意や憎悪といった色は浮かんでいない。ゲルプが自分で贖罪を決めたのだ。もはや誰かが罰することではない。
シュテルンとゲルプは連れ立って歩き始めた。兄弟の絆は六年の時を経て再び強く結ばれた。二人の歩調はまるで狂うことなく同じ調子を刻んでいる。
「私はペルレに行こうと思う」
兄弟の後ろ姿を羨ましそうに眺めながら、ヴァンナーは呟くように言った。それでも、その意志を聞き逃す者はいなかった。
「護るために必要なのは力だけではないと知りながら、これまで私は何も掴めないでいた。ペルレが排他的な民族だと言われるのは民族内での繋がりが強いからだ。もしも私がその繋がりの一つになれるのならば、その在り方は私の理想と合致するかもしれない。充分に行ってみる価値はある」
それに、と言ってヴァンナーは続けた。
「本場のペルレの流派にも興味がある」
そう言ってヴァンナーは静かに笑った。戦いを求め、温かい世界を求め、そしてヴァンナーが行き着いた一つの可能性だ。そこには何かしら得るものがあるだろう。
ヴァンナーは凜とした態度で歩を東へと向けた。燃えるように赤く長い髪を左右に揺らして行くヴァンナーの背中には、彼女の持つ様々な強さが見てとれた。
「俺は自分の意志を変えるつもりはない」
シュヴァルツの低く通る声は、これまで自分の意志を明かしてきた者たちにも負けず劣らずの強い想いを湛えていた。シュヴァルツに託された想いは、シュヴァルツこそが背負っていかねばならぬものだ。それには責任感と罪悪感、そして使命感が伴い、シュヴァルツを支えると同時に急き立てる。
「俺はエルデに生じた歪みを正そうとして、新たな歪みを生み出してしまった。歪みの大小は問題ではない。改めて、俺はエルデにある全ての歪みを正すために戦おう」
それは自分との戦いでもある。過去の自分と未来の自分と戦おうとするシュヴァルツは、かつてとは違うが硬く冷たい目をしていた。シュヴァルツはそれから、何も言わず歩き始めた。ただ一つ自分の意志を貫き続けたシュヴァルツの足並みは、迷うことなく真っ直ぐだった。
「さて、と」
全員の旅立つ姿を見送り、ここに残っているのはヴォルフとゼーレだけとなった。ヴォルフはさして深慮するでもなく、軽い口調で言った。
「俺はまた旅に出るかな。どこかに居着くよりも、流浪している方が性に合うのが分かったしな」
ヴォルフは視線をゼーレに合わせた。その瞳が訴えるのは、ヴォルフがゼーレに戦う理由を尋ねた時と同じだった。ゼーレに、これからの覚悟を問うているのだ。
唐突に無言の質問をされたゼーレは、これまでの旅を思い出し、これからの自分について考えた。だが、いくら未来について考えたところで、結局はゼーレが何をしたいかにしか依らないことに気付いた。ならば、答えるべき回答は自ずと決まる。
「私は確かにこれまでの旅で多くの知識を得たわ。フェアウアタイルングに閉じ籠っていた時よりもずっと強くなったって確信出来る。でも、私はまだ旅を止めたくはない。私の知らないエルデがまだまだあるはずだから」
ゼーレはそこで口を閉ざしてしまった。次の一言が一番言いたいのに、出てこない。恥ずかしさと詫びと感謝とが舌を縺れさせた。自分の気持ちも伝えられない悔しさに、ゼーレは俯いてしまった。
ゼーレが何も言わないでいるので、ヴォルフはやがて一歩二歩と足を動かし始めた。その音に気付いたゼーレはもう何も考えずに顔を上げ声を発した。見ると、ヴォルフはゼーレの数歩先で立ち止まりこちらに振り返っている。
「だから、私は――」
「ほら、ゼーレ。早く行くぞ」
ゼーレの言葉を遮り、ヴォルフは七年前と同じ顔でゼーレに声を掛けた。ヴォルフの言葉にゼーレは思わず破顔して、直ぐに数歩駆けてヴォルフの隣に並び立った。ゼーレが追い付いたのを見てヴォルフは再び歩き出し、ゼーレも歩調を合わせて歩き始めた。
太陽は二人の行く先を導くように煌々と照らしている。
空は二人の無事を祈るように全てを覆っている。
風は二人の背中を押すように飄々と吹いている。
大地は二人の足が止まらないように宏漠と広がっている。
エルデはいつでもどこでも二人を見守っている。
二人の新しい旅が始まった。
Rotkaeppchen(ジータ)
とにかく長いです。
この作品が第二外国語の選択理由です。