二十三夜待(稗貫依)

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「何でも関東の方では」
 その細指で小さな団子を捏ねながら妻は言う。
「二十三夜待という風習があるそうでして」
 板敷には萎びかけたすすきが二振り。頭を揃えて、押入からでも引き出してきたらしい高杯の横に行儀よく並べてある。確か以前は正月に鏡餅を乗せていた物だ。身を切るような初冬の冷気に晒されて、その色味は記憶より随分白けているように見えた。
 妻は台所で雪とよく似た清さの団子を捏ねている。ふと窓の外に目をやると、鷺が一羽、中空の雲をじっと見つめたままで寒々しい剥き出しの畑に佇んでいた。
「十五夜とはまた違うのかい」
「ええ。二軒隣に居候しているおさきさん、ほら、小田原から疎開してきた学生さんですよ、あの方の言う事には、潔斎して勢至様に祈れば願いが叶うんだとか」
 勢至と聞いて、それが阿弥陀に脇侍する仏の名だと思い出すまで大分時間が掛かった。しかし何故ここで勢至になるのか噸と見当が付かない。妻の方でもそれより外に何か話し出す様子はなかった。凡そこういう行事では誰に祈ろうと大した違いもあるまい、といっそ割り切った方が良いのだろう。神風とても吹かぬ時は吹かぬ。
 私はむしろ妻にそういった近所との交流が多少なりともあった事に驚いた。兄が戦に征ってからこの方、元々の性質もそうだったのかもしれないが、婦人会の用事やらで出かける以外は殆ど家に籠もりきりで、剰え本人もそれで満足している様子だったのだ。
「それで、おさきさんの地元では正月や五月にも行うそうなのですが、一等盛大に開かれるのは十一月だと言うものですから、うちでもやってみようかと思いまして」
「なら私も手伝おう」
「いえ、結構ですからそちらに座っていて下さいな。もうこれと、少しばかりで終わってしまいますから」
 妻は嬉々とした声で真白な団子を捏ねている。こちらへと目を転ずる事もない。その様子が何処となく不満であった。竹籠に入れてあった今朝の新聞を取り寄せて開くと、GHQから政府に配給食料の貯蔵に関する指示が出た、というような内容をただ延々と書いてある。どうも東京の話ばかりに終始していて、これも中々面白くない。
「しかし手持ち無沙汰だな。何か仕事はないのか」
「なら農書でも読んでおけばいいでしょう」
「あれか。あれならついこの前にも読んだばかりだ」
「だったら静かに骨を休めておきなさいな。折角のお休みなんですから。あ、でもその前にそこな高杯を持って来て下さい」
 こちらを振り返った妻の顔に、童女の如き勝ち気な微笑が浮かんでいた。立ち上がって居間の畳から一歩踏み出すと、冷えた板敷が裸足にひどく応えた。よく見ると妻の方は両足に薄い麻の靴下を履いている。
「道理で寒いわけだ」
「寒いでしょう。霜の月ですから」
 高杯を渡してやると、妻はその上に薄紙を敷いて慣れた手つきで団子を一つずつ積み上げていく。勘定してみると丁度二十三個作ってあった。数分も経たぬ内に、高杯には丸で雪の色をした団子の小山が出来ている。
「何だ、やっぱり十五夜じゃないか」
「違いますよ。十五夜は月を見るんですけれど、二十三夜には月が昇るのを待つんです」
「結局夜を更かすんだろう」
「もう、これだから男の人は」
 団子の載った高杯に蠅帳をすっぽりと被せてしまうと、妻は勢い拗ねてしまったように私の方から顔を背けた。そこまで怒ってもいないのは今もこの場に留まっているのですぐ分かるものの、早々に何か宥めてやらねば後々尾を引くのも先例からして明らかだった。つくづく女子は分からない。心中密かに嘆息する。
「私が悪かったから」
「でも幸次郎さんはいつも誠がないもの」
「そう言われるとどうも敵わない」
「だったら証して下さいな」
 妻の視線は私と同じ方を向いたままだった。
 真直ぐに突き下ろした腕の先で、ほの赤く染めた指先が固く結ばれている。首筋にかすかな紅が注す。
「何だ、潔斎じゃなかったのか」
「証して下さいとばかり言っているんです」
 駄々を捏ねるような口吻で詰られて、ともかくすっかり弱ってしまった。冬至まで一月程とは言っても、まだ日のある頃合いで、到底そのような気分になるものでもない。勿論妻の方だってそうだろう。しかもそうする内にも妻の機嫌は損ねる一方なのだから、大いに困る外はなかった。
「潔斎だからな、仕方ない」
 足を一歩踏み出すと、微かに妻が身じろぎする。構わず後ろから両腕を回してかい抱くと、一瞬仰け反ったように妻の体が硬くなり、それが次第にくたりと解れていった。
 そのまま暫く唐木のように突っ立っていた。襷掛けにした着物の袖から妻のほの白い腕が覗く。裸足の骨に板敷からの冷気が染み入って来る。シニヨンに結った妻の頭が私の左胸に凭れかかってきた。家の外から鷺の啼く声がする。
 ふと、妻の口から温い吐息が洩れた。

   *

 戦争の後、兄は私に二つの物を遺していった。
 かすかに焦げた短い頭髪を一束ばかり。
 骨は海南島の沖辺りに沈んだらしい。
 そして私の新しい妻を。

   *

 居間に座布団を敷いて農書を読んでいる。目新しい事は何もない。ついぞ縁もない米作の章を流し読みなどしてみて、やはり米は大変なのだろうというごく詰まらない感想を得た。何時か落ち着いても決して手は出すまい。
 書几に農書を広げたまま、向かいに座る妻の方を眺めてみると、やはり押入から引き出して来たらしい自分の真赤な半纏を繕っていた。私の見ている事には気が付かないようで、視線は一心に手元の針と縫い目ばかりを追っている。眉間にうっすらと皺があった。
「おい、結」
「なんでしょうか」
 妻の視線は上向かない。呼びかけてこそみたはいいが、特段何か話すべき事がある訳でもなかった。それなら何故呼びかけたのかと、話すべき内容と一緒に頭の中で思案してみる。そこでふとさっき外にいた鷺の事を思い出した。
「さっき畑の方に鷺が来ていたみたいだったが、あの鳥は結局畑に害なんだろうか。それとも益かな」
「私よりそこの農書に訊いた方がいいでしょう」
 響きには剣呑よりむしろ煩雑の色が濃かった。私は辟易して頭を掻き、何となく部屋の隅にある仏壇の遺影に目が留まった。兄の顔がある。兄は真新しい軍服に快活そうな表情を携えて畳敷の居間を一面に見渡している。俄然訳もなく不愉快な気分になった。
「書いていないから訊いているんじゃないか。そもそも畑で何をしているんだろう。虫でも捕っているのかな」
「羽休めじゃないんですか。見晴らしもいいし」
 妻の声は相変わらず億劫そうである。
「しかし何かあったら困るだろう」
「別に構わないでしょうよ。私の郷でも鷺は時々田圃に来ていましたけど、数が多くたって次の年が凶作にも豊作にもなる事はなかったし」
 そう言われては返す言葉もなく、私がむっと黙り込んでしまうと、ここで初めて妻は針を置いて面を上げた。艶のある目に細い光が映り込んでいる。それが瞬いた。
「幸次郎さんは心配のし過ぎなんですよ」
「そう見えるかい」
「私としては大いに心強いのですけれどね」
 妻が寂しげに破顔する。
「あの人は少し無茶が克ち過ぎたから」
 私は返事をしない。
 出来上がった半纏を持って、妻が頓に立ち上がる。襖を潜って寝室へ移り、その後で押入を開く乾いた音がした。ちらと台所の方を見れば硝子戸は開け放たれたままで、板敷の上には細いすすきの穂が二振り、行儀良く頭の先を揃えて並べられていた。飽くまで二振りきりである。三本目はない。
 あの人は、と妻は兄の事を呼ぶ。そうして自分の事を幸次郎さんと呼ぶのだ。二軒隣のさきとかいう女学生に対して、妻が自分の事を何と言っているのかは知らない。ただ恐らく、あの人は、とばかりは言っていないだろうと思う。
 襖を閉てて妻が徒手で戻ってくる。襷掛けを解いて棚の隙間に片付けると、くすんだ藤色の袖を振り撒いて無言で私の隣に座る。その口元は人をからかうのを覚えたばかりの童女の如くしなやかな弧を作り、その目元は詩句を弄ぶのを始めたばかりの女学生の如く瑞々しく潤っている。
 不意に、果たしてこの女性は本当に自分の妻なんだろうかという疑念が胸を掠めた。
「潔斎ではなかったのですか」
 耳元で鈴を転がしたような声がする。いつの間にか妻の右手を取っていた。妻はむしろ楽しそうにしている。それで却って前にも増して気味悪い不安が募っていく。
 確かに自分の方が妻より年下であった。恐らく他意などないのだろうが、妻が私をからかう素振りを見せるのは私達の間によくあることで、従前はそれで気に留めてさえもいなかったのだ。そう考えると一時に自分が妻を――この結という女を果たしてどう扱ってきたのか、最早すっかり解らなくなってしまった。
 妻は私を決して「幸次郎さん」としか呼ばない。しかし私も妻を「結」とばかり呼んではいなかったか。
 咄嗟に自分の左手を妻の拳から跳ね上げた。
「おかしな方」
 吐息で呟いて妻は書几の農書を覗き込む。米作を書いた章段であった。血の通った色の項が視界の隅にちらついている。そこに薄い痣が一つ見えた。私はその痣を知らなかった。
「ねえ、私は別に構わないんですよ」
 こちらを振り向いて妻が湿った唇を開く。
「夕餉まで時間は存分ありますし、どうせ農書など開いただけでまともにお読みでもないんでしょう」
「そんなことはない」
「目が泳いでいますのは」
 言われて考えなしに妻の目を覗き込んでしまう。こんな深い色をしていただろうかと思われる。その黒に絡め取られんばかりになるのを、危うく踏み留まった。
「そうは言っても潔斎なんだろう」
「あら、そうですか」
 私の鼻先から妻の顔が離れる。
「つまらないの」
 妻は静かに立ち上がると座布団を持ってきて、私からは半間ばかり離れた所に敷いて座った。手には今朝の新聞が握られていて、それを無造作に畳の上へと広げていった。私は書几の農書を閉じて、無言で目を瞑る。隣から新聞をめくる音がする。その音が私の耳には嫌に大きく響いて聞こえた。

   *

 兄が戦へと征ったあの日。
 妻は――結は、兄嫁は呆とした表情をしていた。
 式から一月も経っていなかったと思う。
 兄の頭髪と遺書が郵送されてきたあの日。
 妻は――結は、兄嫁は呆とした表情をしていた。
 そうして私を見て、こくりと頷いた。

   *

 月待と言っても何の事はない。元より酒は配給の遅延で払底している。湯呑みの中には煎茶が入っていた。高杯の団子を縁側に飾って、お役御免の徳利に入れた二振りの枯れすすきを添えてある。夕餉は普段通り具材の少ない雑炊を作って、後は小鉢に糠漬けが出ていただけだった。
 妻と二人して縁側に半纏を着込んで座布団を敷き、ただ月の出て来るのを待っている。時折に煎茶を啜りながら、何か言わねばならぬ事があるような気ばかりしていた。
「二十三夜とは言うけれども」
 呟くと妻が顔を向ける。
「陽暦の二十三日でいいものなのかな。二十三夜なら弓張だろう。陰暦じゃないと験がないんじゃなかろうか」
「そう言われてみれば」
 はたと妻が思案顔になる。自分としては単に話を継ぐという意図しかなかったから心外ではあったものの、面白そうなのでそのまま放っておくことにした。妻の視線は暫く空を彷徨い、やがて私の目へと射かけて留まる。
「まあ別にいいじゃありませんか。そう精魂込めて勢至様まで祈る事柄もないでしょう」
「それならそれで構わないんだが」
「ほら、でしたら何も考えないで月でも待っていましょうよ。きっと奇麗ですよ。冬場は空も冴えているから」
 そう言って妻は再び東の暗闇へと目を向ける。味気ないからと居間の電灯を消してしまった今、高杯の前に置いてあるカンテラだけが夜の頼りであった。そのため妻の表情はよく見えない。きっと童女か女学生の如き表情をしているのだろうとばかり思われる。
 自分の妻だろうか、という疑念が再び兆してくる。亡き兄の妻では最早あるまい。そうしてこの家の人間ではあろう。家にいるのは私と妻だけであった。義姉のような感もしないではない。しかし兄の妻では最早あるまい。紙の上では自分の妻に相違ないのだ。
 縁側は居間の前である。居間には兄の遺影がある。闇の中からその双眸が私と妻へ注がれているような気がした。それが何の色をしているかは解らない。
「お茶が切れましたね」
 急須を傾けながら妻が言う。
「今に淹れてきます」
 立ち上がって、高杯の前にあるカンテラを手に取った。そのまま足音が台所の方に離れていく。喉の底から勝手に溜息が洩れた。月はまだ昇らない。
 ひとり縁側に座っている。身じろぎをすると衣の擦れる音がした。庭の常盤木に風が当たる。台所で魔法瓶の蓋が開けられたのが解る。急須に湯が注がれる。
 自分は不満なのだろうかと考える。不満とは満たないということである。足りないということである。世間一般の夫婦にあって、自分と妻にはないものがあるということになる。そんな気分が急に起こってきた。
 板敷が僅かに軋み、カンテラが戻ってくる。急須が盆に置かれて、妻は再び座布団に落ち着いた。
「月はまだかな」
「気長に待てばいいじゃないですか。元々零時までの予定だったんだから。それとも明日はお仕事でしたか」
「そういう訳でもないけれど」
「なら構わないでしょう。ねえ、それより何か話しませんか。折角こんなゆっくりできるんだから」
 妻がこちらに体を寄せてくる気配がした。
「しかし、そう急に言われても種がない」
「何でもいいんですよ。例えば、そうだ、昼間に米作りのところを読んでいたでしょう、あそこの農書で」
 鷺の話をする少し前だったな、と思い出す。
「米作りか。これが落ち着いたら少し手を広げた方がいいかと思って眺めていたんだけれど、あれはどうもきつそうだ。新しい野菜にした方が上策かもしれん」
 落ち着いたらとは言ってみたものの、何時になるのか全く見当が付かなかった。あの放送からもう四半年経って、配給は未だに巧く回らないのだ。恐らく遠い先になるだろう。
「そうですね。私も野菜の方がいいだろうと思いますけれど、でも米作りだって言う程きつくはないんですよ」
「まるで作ったことがあるみたいだな」
 軽口を叩いたつもりでいると、途端、妻の目がくいと見開かれる。その奥に童女の物とも女学生の物とも、どうも様子の違うよく澄んだ瞳があった。その瞳の色を私は知らない。
「当たり前ですよ。実家は米でしたもの」
「何だ、そうだったのか」
「そうですとも。前に言いませんでしたか」
 妻は不服そうに唇を尖らせた。確かに聞いたような気もしないではない。しかし覚えていなかった。考えてみれば、自分は妻の幼時など訊かれても碌に答えられそうもない。その事に自分でも酷く驚いた。
 ただ、そうなると無性に知りたいと思う。
「さて聞いたかな」
「だったら今に言いましょうか」
 カンテラに照らされた妻の顔を見た。抗議の色はない。これから話し始めることに心が逸っているようでもある。無論、私の方でも素直に耳を傾けるつもりだった。
 きっと次には私の話す番が来るだろう。妻は静かに聞き入りながら、時折茶々を入れるに違いない。二人していつもと同じように、丸で二人だけがあるかのように。 
「高水寺といって、水のきれいな場所だったんです」
 そうして月が昇るのを待つ。

二十三夜待(稗貫依)

稗貫です。前出「流れる澱」とほぼ同時期に書いた作品。過ぎし日を振り返ると悲しくなる。
普段の生活で月は眺めるものというより、気が付いたらそこにあるものという印象が最近は強いです。

二十三夜待(稗貫依)

二十三夜の月待をしよう、と妻は言った。とある夫婦のお話。初出は部誌『Noise 39』(2012年2月発行)。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-08

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