ときの流れの中で・・・

ときの流れの中で・・・

第1話 突きつけられた事実

人生ってなんだろう?
それまでボクは人生なんてありきたりだって思っていた。
「人は人として生まれて人として死んでいくもの」
ボクはそれを当たり前のように受け入れ
そして男として生まれた自分は当たり前に男として死んでいくものだって思っていた。

そう、『あのとき』までは・・・。



ボクは小谷 哲(こたに てつ)。
東京の比較的のんびりとした地域にある区立若松中学に通う中学2年生
ちなみにオトコだ。

学校では友達に『哲ちゃん』と呼ばれている。
成績は中の上くらい
性格はどちらかといえばいわゆるワンパクタイプというよりは昔からわりと大人しめだった。
それでも、中学になってサッカー部に入り週の半分は泥だらけになって家に帰ってくるような
そんなごくありふれたタイプの少年だったんだ。

ただひとつ
ボクは幼い頃から顔つきが女の子っぽいと言われてきた。
女の子に間違われたことがしょっちゅうあった。
身体付きも他の同年代の男子に比べて華奢だったし、それに声変わりもまだ訪れていない。

サッカー部に入っているわりに短い髪型が嫌いで
小さい頃からずっと長めの髪型にしていたこともあってよけいそう映ってしまったのだろうか。
そういうボクにクラスの女の子たちには
「哲ちゃんってかわいいよネー」
と言われ続け
そして挙げ句の果てには「哲子ちゃん」なんて呼ばれたり・・・。


ある日
ボクはジーンズにTシャツという至極ありふれた姿でオトコ友達と道を歩いていた。
するとそこに
「あの~、ちょっと聞きたいんだがね」
道に迷ったお婆さんから声をかけられて尋ねられたことがあった。

「ああ、それだったらこの道をまっすぐ行って、それで次の角を左に曲がればすぐ見えますよ。」
ボクはこんなふうにそのおばあちゃんに説明してあげた。

するとおばあちゃんはボクにこうお礼を言ったのだ。
「ありがとう、お嬢ちゃん。こんなに丁寧に教えてくれて。アンタは優しい娘だねェ。将来きっと良いお嫁さんになれるよ」

そんな言葉に対しボクは
(またか…)
と心の中で呟く。

それでもそんなボクだって一応はオトコとして生まれたプライドがある。
「ボクはオトコだーー!」
と叫びいたいところだが、もういい加減怒り飽きた。

そしてその場にいたオトコ友達の安田や工藤はいつもの調子で腹を抱えて笑っていた。

そんなわけで、ボクは将来の自分にももう男らしいカッコよさとか逞しさとか、そういうことはほとんど諦めている。
そして、そんなボクにまるで追い打ちをかけるようにある異変が起こったのだった。
中学2年生の夏休みに入って間もなくのこと、そしてそれはあまりにも突然のことだった。


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真夜中
ボクは自分の部屋のベッドでぐっすりと眠っていた。
暑い日が続く寝苦しい夜だったが、今日は昼間一日中友達とプールに行っていたこともあって体は疲れてクタクタ
眠りにつくのも早かった。

そんなとき
ボクは突然下腹部の奥の方からシクシクと刺すような痛みが沸き起こってきたのを感じた。
それは最初はあまり気にならない程度だったが、次第に何か上から下にボクのお腹の中を垂れ降りてくるような不快感なものになって
そのうち堪らなくなってベッドから身を起こし部屋の電気をつけた。
明るくなった部屋にしばらくして目が慣れ、ボクは自分の横たわっていたベッドのシーツに目をやる。
すると、ちょうどお尻を置いていたあたりに血らしきものが付いている。

自分の着ているパジャマのズボンの股の近くに鏡を当ててを鏡に映すと
「エ、アレ!」
そこはジワッと染み出たように真っ赤になっていた。

「ど、どうしようーーーー!」
まさかお腹のどこかが破れてしまったのでは…。

そのとき
「イ、イタ・・・」
「イタタターーーーー!」
下腹部の痛みもだんだん鈍いような重いものに変わってくるように感じた。

とにかく薬でも飲まないと
そう思ってボクは部屋を出て隣にある両親の寝室へと向かうことにした。


キィーーー
両親の部屋のドアをゆっくりと開けて中の様子を伺う。
部屋の両はじに2つ置かれた奥のベッドに母親が寝ている。
暗闇の中で布団に寝ている母親の肩を揺すり
「お、お母さん…お母さん…。」
ボクは声をかけた。

「ウ、ン……。どうしたの?哲」
ぐっすりと寝入っていた母親は重そうに眼を擦りながら小さく身体を起こす。

「あのさ、お腹…、お腹が痛いんだ。」
「お腹が痛い? どうしたのかしら、何か悪いものを食べさせたつもりはないけど。」

するとその隣のベッドに寝ていた父親もうっすらと目を開けた。
「うーーーん、どうしたんだ?」

「あなた、哲がお腹が痛いって。」
「おなかぁ? それじゃ薬を飲ませてみたらどうだ?」
「そうね。腹痛の薬を持ってきましょうか。」
そう言って母親が部屋の電気をつけたとき

「おいっ!哲、パジャマの尻のとこ!」
父親がそう言って驚いたような声を出した。

「あらっ!ホント! 哲、あなたどうしたの?どっか怪我でもしたの?」
母親もそれを見て大きな声をあげる。
ボクのお尻のあたりの鮮血はさっきよりも広がっているように見えた。

「わかんないよ。起きたらこうなってたんだ。」
「おい、母さん。これは薬とかで済むもんじゃなさそうだぞ。救急車だ、救急車を呼ぼう!」
「そ、そうね。ちょっと待って!」
そう言って母親は部屋の隅にある電話機を手にとって急くように番号を押す。

救急車が来るまでの間、その間もボクの腹痛はシクシクと続いた。
それはズキズキとするような激しいものではなかったけど、何か不快感がボクの身体を支配しているようだ。
そしてしばらくすると遠くの方から救急車のサイレンの音がウチの方へと近づいてくるのを感じた。
サイレンの音がボクの家の前で止まるとすぐにインターホン越しに救急隊員の人の声が聞こえてきた。

ボクは薄手のジャンパーを羽織り母親に連れられて家の外に出た。
「じゃあ、アタシは哲と病院に行きますから。 お父さんは悟(弟)のことよろしくお願いしますね。向こうに着いたら電話しますから」
母親はそう言って、救急隊員の人に支えられて移動ベッドに寝かされたボクと一緒に救急車の中に乗り込んだ。


車内では隊員のひとりがボクの様子を尋ねながら搬送できる病院に連絡を取っている。
「搬送先が決まりましたので出発します」
ボクと母親を乗せた車は静かに動き出し25分ほど小さな振動が続く。
しばらくして救急車は家から少し離れたところにある大正大学付属病院の前で止まった。

救急車から降ろされたボクは移動ベッドごとバタバタと出てきた看護婦さんに付き添われて病院の中に入っていく。
そして病院の中のいくつかの角を曲がるとある小さな部屋へと入れられた。

それは診療室で、その中でボクは部屋の隅にある小さなベッドと身体を移される。
そして少しするとひとりの若い感じのお医者さんが部屋の中に入ってきた。

「さあ、もう大丈夫だからね。」
優しそうな感じのその男の先生は看護婦さんから杉田先生と呼ばれていた。
杉田先生は、傍らにいる母親からいままでの経緯などを聞きながら納得するとボクのパジャマのズボンを脱がせて下腹部にそっと手を置いて尋ねてきた。

先生の温かい手のひらでお腹の痛みは少しだけ和らぐような気がする。
「痛むのはこのあたり?」
そう言って杉田先生は優しくボクに声をかけて聞いてくれる。

「いえ、もう少し下の方…。」
「じゃあ・・・ここらへんかな?」
「あ、イエ、もうちょっと横の…。」
「エ、じゃあ、こっち? でもここは…。」
杉田先生は少し不思議そうな顔をした。

「よし、それじゃもう少し詳しく調べてみようか。あ、CTスキャンの準備をお願いします。」
先生はそう言って部屋の中にいる看護婦さんに指示を出す。


ウィーーーン

誰もいない小さな部屋の中に機械の小さく唸る音だけが聞こえる。

(ああ、ボクどうなっちゃうんだろう…。)
もし大きな病気だったらどうしよう。
せっかくの夏休みだっていうのに・・・。
来週から5日間はサッカー部の合宿が心配だ。
その後にはクラスの男友達の安田と工藤、そしてクラスの女のコも誘ってディズニーランドに行く約束もあった。

工藤はバスケ部に入っていて身長が高い。
ボクと逆で男らしいタイプなのでクラスの女子の中でも人気がある。
今回はその工藤が何人かの仲のいい女のコに声をかけてくれたんだ。

ボクはまだそれほど女の子に関心があるわけじゃないけど
それでもグループデートみたいなものは初めてのことで楽しみだった。
だから、もしこのまま入院なんてことになったらというのはけっこうショックだった。

(ああ、ついてないなぁ…。)
そう思うと自分のあまりのツキのなさに情けなくて泣けてくる。


いくつかの検査が終わってボクは元の診療室のベッドに戻った。
傍らには母親が付いてボクの額を優しく撫でてくれている。
フッと部屋の片隅にある時計を見るともう夜中の2時を過ぎようとしていた。
そしてそれから1時間ほど、ボクは鎮痛剤を渡されてベッドに寝かされウトウトとしていた。
隣では母親もさすがに疲れたらしく椅子に座りながらコクコクとしている。
さっきまでの下半身の鈍い痛みは、不思議なことに温めたタオルを腰のあたりに乗せてたら嘘のように楽になっていた。

それから間もなして杉田先生が部屋の中に入ってくる。
「お待たせして済みません。ようやく検査の結果がでました。」
先生はボクと母親の方を向いてそう言い、CTで撮影されたフィルムを机の前のボードに貼った。

「それでどうなのでしょう?哲の結果は。 相当悪いのでしょうか?」
母親が落ち着かない様子で先生に尋ねた。

しかしその母親の問いに
「それなんですが…。 悪いというか、悪くないというか…。」
先生はちょっと目を下に落として言い方を選ぶような曖昧な表情をする。

「あの、悪いんでしょうか?それとも大丈夫なんでしょうか?」
一層不安そうな顔で母親が再度そう尋ねる。
ボクも
「来週からサッカー部の合宿があるんですが」
先生を促すように言った。

「ウーン、気の毒だけどそれは無理だろうな」
「エエッ!そ、そんなに悪いんですか!? ああ、どうしよう…」
先生のその言葉に母親はさらにオロオロとし始めた。

「あ、いや、言い方が悪かったかもしれません。勘違いさせてしまい申し訳ない。じつは哲君は『悪性』というわけではないという意味なのです」
「あの、よく意味がわからないのですが。それでは哲は悪いところはないということなのでしょうか?」
「まあ、そうですね。『悪い』というものではない。むしろ『自然』ということでしょう。」
「それでは、哲はなにか?」

「エットですね・・・、お母さん、そして何より哲君、驚かないで私の話を聞いてください。」
そう言って杉田先生は机の前のパソコンの画面にさっきの検査の結果を映し出しひとつの画像を拡大した。

「これは先ほどCTで撮影した哲君の体内の腹部画像です。よろしいですか、この部分をご覧ください。」
そう言われてボクと母親がジッと画面を見つめる。
「はあ、これが?」
母親が尋ねると杉田先生は躊躇するような口ぶりで信じられないことを言った。
「じつは、これは、その…子宮…なんです。」

「はあああ??」
先生のその言葉に母親がとぼけたような大声を出す。

「あの…これは哲の体内の撮影なんですよね?」
「ええ、そうです。」
「あの、哲は男の子なんですけど…。他の女性の患者の方と間違っているのでは?」
「イエ、これは間違いなく哲君のものです。何度も確認しました。」
「でも、それじゃ子宮なんて写るわけが・・・」
「じつは、先ほど哲君の出血している部分の確認をしました。」

そうだった。
CTの前に杉田先生は傷口の消毒と縫合をするからと言ってパンツを脱ぎ足を開いて股の間を先生に見せた。
しかし、いくら男同士とはいえさすがにこれはさすがに恥ずかしかった。
そのとき先生は付いた血を拭き取る脱脂綿を持ちながらボクの出血部分を見ると、
「エエエッ!!」
と思わず大きな声を上げたんだ。

「そ、そんなにひどいんですか?」
心配そうな表情のボクを見て先生は
「い、いや。大丈夫。そういうわけじゃないから!」
先生は何か慌てるようにそう言ったのにボクは違和感を感じていた。


そして、杉田先生はまっすぐ母親の方を見て言った。
「じつは、哲君の出血部分には『膣』がありました。ふつうの女性のものよりも小さな開きでしたが間違いありません。陰唇もできています。」
「あ、あの…つまり、その…」
当の本人であるボクはもちろんだが、母親もどう表現していいか言葉が見つからないようだった。

「そうです。つまり哲君は女性であるということです。じつは並行して性染色体の確認検査も行いまして、その結果彼は完全なXX染色体であることは判明しました。」
「XX染色体?」
「お母さんも中学の時の授業で習われたことがあったでしょう?人は母体で受精した時に性が決定されます。卵子はXでそこにXの精子が結びつけば女性、Yが結びつけば男性として体内で成長していくことになります。クラインフェルター症候群といったケースもありますが、哲君の場合は完全なXXでした。 これは推測ですが、もしかしたら母体内での成長過程で何らかのホルモン異常があってオデキのような突起ができて、そこに尿道が通ってしまい、結果的に膣以外に外形が男性の生殖器に似たものになってしまったのではないかと。ただし、これは生殖器ではなく小水の排泄をする以外の機能はありません。哲君の場合あくまで生殖器としての膣が存在するわけですから。」
「はあ…あまり詳しくは覚えてないけど、そういうことを習った記憶はあるような…。それじゃあ・・・。」
「ええ。哲君は間違いなく女性です。したがってもし彼が女性として男性と性交をすれば妊娠し出産することができます。また男性器に似た突起部は手術によって本来の女性器の姿にすることが可能です。今回の出血は初潮ということでしょう。そして、生理が始まったので今後は胸や腰回りなど体型も急激に女性の傾向を強めてくることになると思います。」

せ、生理!?
妊娠!
出産!!
い、一体誰のことを話してるんだ?
もしかして・・・ボクのことなのか??

「もちろん、そうは言っても哲君は今まで男性として生活していたわけですから、いきなり「キミは本当は女性だ」なんて言われて「はい、わかりました」と素直に受け入れることはできないでしょう。」
先生はボクの方を向いて投げかけるように言う。

そりゃそうだ!
そんなことになればボクはホントに哲子ちゃんになってしまうじゃないか!!

ボーゼンとした表情のボクを横目でちらっと見て杉田先生は話を続ける。
「じつは、このまま男性としての生活を続けることも不可能というわけではありません。」

「そ、それは哲が男のままでいられるということでしょうか?」
頭をもたげていた 母親がぱっと顔を上げて先生に尋ねた。

「いえ、正確にはそういうことにはなりません。彼は生物学的には完全な女性ですから、男性ホルモンや整形手術などによって外見を現在のままに近い形で成長させるわけです。しかし先ほど説明したように男性器に似たものはおできのようなものであって生殖器としての機能は持ってませんから、当然男性として女性を妊娠させることはできません。あくまで外見だけです。それに今後生涯女性の肉体である彼の体に男性ホルモンを投入し続けるわけですから精神的肉体的副作用も小さくはないでしょう。」

「あああ、哲…」
その言葉を聞き母親はいよいよ目に泪を溜めだした。

そして先生はベッドに腰を降ろすボクの方を見ながら言った。
「哲君。こう言うと他人事のように聞こえてしまうが、これは君自身がよく考えて決めることだ。自分の人生で『外見だけの男性』を選ぶならそれも間違いとは思わない。ただ君は本来女性であるということは事実なんだ。」

ボクは頭の中の整理がまるでつかなかった。
何が何だかわからない。
だって、突然男か女かどっちか選べなんて、
「そんなのってホントは選ぶべきことじゃないだろーーー!!!」
って言いたいくらいだ。

「あ、あの、いつまでですか?」
ボクは絞り出すような声で杉田先生に聞いた。

「うん?」
「いつまでに・・・選ばなくちゃいけないのかってことです。これから先ボクが男として生きるか女として生きるかってこと。」
「そうだな、こんなこと言われて君自身が一番戸惑っていると思う。ただ、性急でてすまないけどせいぜい一週間っていったとこだろう。さっきも言ったけど、生理が始まったからこれから君の身体は急激に女性的になる。このままにしておけば夏休みの終わるまでには胸も膨らんでくるだろう。先伸ばしすればそれだけ肉体がアンバランスになってしまうからね。」

「エ、たった、一週間…。それでボクは自分の人生を決めなくちゃいけないの?」
先生の言葉にボクはただ頭の中が白くなっていく気がした。

第2話 決断

一通りの話が終わると時間はもう夜が明けようとする4時半近くになっていた。
ボクはとりあえずそのままこの病院に入院ということになり、看護婦さんに連れられて空いている病室へ入ることになった。

そして入院の手続きを終えた母親に看護婦さんはこう言った。
「それでは明日着替えや洗面具などをお持ちになって入院の手続きをお願いします。あ、それと…申し訳ないのですが替えの生理用のナプキンやサニタリーショーツも。 娘さんは・・・まだ決めませんがどちらにしてもとりあえず今は生理中ですので」

「娘・・・。そう、ですね・・・」
母親は何と答えていいのかわからないという複雑な表情でそう呟いた。

そうなんだ。
じつはボクはさっきこの看護婦さんにナプキンと女性の生理用ショーツを着けさせれていた。

「じゃあ、アタシは家に電話して帰るから。明日またお父さん連れて来るからね。」
「ウ、ウン。」
そして母親は少しボーッとした表情で何かを考えるように帰っていった。


「さあ、じゃあ病室に行きましょう。ごめんなさいね。今は一人部屋がなくて相部屋になっちゃうの。アナタがどちらを選ぶのかわからないけど、今は男のコとして扱うしかないから男性用の部屋になっちゃうけど。」
ちょっと済まなさそうな顔で看護婦さんがボクにそう言って病室まで案内してくれた。

小さな照明のついている廊下を通りある部屋の前に行くと中は真っ暗でみんなぐっすりと寝ているようだった。
「はい、ここよ。部屋の人への紹介は明日の朝するから。今日はぐっすり寝てね。」
看護婦さんは暗闇の中でスペースカーテンを締め小さな明かりをつけるとベッドを整えてくれた。
ボクはそのベッドに潜り込んで仰向けになり、そして暗闇の中で天井を見上る。

はぁ…。
とりあえずやっと今日が終われる。
(もしかして、これは全部夢で朝になって目を覚ましたらボクは自分の部屋にいてボクは今までどおりのボクに戻ってるんじゃないだろうか)
(そうだ、きっとそうに決まっている)
(こんな馬鹿なことがあるはずがない!)
そんなことを考えてながら、ボクのまぶたは次第に重くなっていき、激しい睡魔がボクの身体も心を占領していった。


そして次の朝

3時間ほどしか眠れなかったボクの頭は少し重かった。
身体を起こして掛け布団をめくり病院に貸してもらったパジャマのズボンを降ろしてみる。

(あああ…、やっぱり夢じゃなかった…)

ボクの腰を覆っているのはやっぱり昨夜と同じ女性用の生理用パンツ。
それを少し下にずらしてみるとそこにはしっかりとナプキンなるものが付いてて、そしてそこにはまだ少し赤黒い血が染み付いている。

それを確認したボクはドーンと気が重くなってきた。
とにかくこのままパンツを穿かないわけにもいかない。
下半身丸出しのままじゃボクは変態にされてしまう。
いや、女なら痴女か?

とにかく、ボクは不愉快な気持ちでパンツとパジャマのズボンを元に戻し再び体を横たえた。

しばらくすると昨日の看護婦さんが病室にやって来た。
「オハヨー!よく眠れた?」
そう言って彼女はボクのベッドの周りのスペースカーテンをさっと開けてニコッと微笑んだ。

「お、おはようございます。なんかまだ何かボーッとしてます」
ボクはこの優しい看護婦さんに言葉に応えるように元気を振り絞って答えた。

「フフ、少しは元気出たかな?」
看護婦さんはそう言ってボクの額に白い手を当てるとニコッと微笑んだ。
「あ、昨日はちゃんと自己紹介してなかったわネ。アタシは樋口 麻亜子。まーこさんって呼んでくれちゃっていいからネ。それと部屋のみんなにも紹介しとこうか。」

フッと見ると開かれたカーテンの隙間から他のベッドの様子が見える。
部屋の中にはボクの他に男の人が2人いるらしい。

「今このお部屋には2人いるの。こちらは坂口さんで42歳、あの有名なサニー電気のバリバリ営業課長さんよ。」
ヘェ、サニーっていったら超有名だよネ。そういえばボクの周りにあるステレオもテレビもサニー製だ。
「やあ、はじめまして。」
そう言って微笑む坂口さんはバリバリの営業課長のイメージとは違う優しそうな感じだ。

「こちらが芦田さん。今年青葉学院大学に入学したばかりの18歳。食あたりになっちゃったんだよネ。アナタ一人暮らしでまともなもの食べてなかったんじゃないの?ちゃんとしたご飯作ってくれる彼女つくらないと、また2度目の入院なんてことになっちゃうわヨー!」
「アハハ、それを言われると辛いなあ(笑) 彼女は相手あってのことだから。とにかくよろしくネ。」
こうした冗談に冗談で返す雰囲気はやはりとても優しそうでイメージが良かった。

「そしてこちらが今度入院した小谷 哲君。現在華の中学2年生です。みなさん、変なことを教えちゃダメですよー。」
まーこさんの言葉に部屋の中が温かい笑いで包まれた。


それから間もなく朝食の時間となる。
正直お腹が減った。
病院食っていうとなんか不味そうなイメージしかないけど、どこが悪いわけではないボクに運ばれてきたのは至ってふつうの朝食。
アルミのプレートの上には、お米のご飯に豆腐の味噌汁、ベーコンのついた目玉焼きにフルーツサラダが載っていて、あとは甘いお豆と漬物が盛り付けられている。
味も思ったほど薄くない。

すると向こうのベッドから
「ああ、いいなあー。」という声が聞こえてきた。
芦田さんがボクのほうを羨ましそうにじっと見ている。

「オレなんかこれさ。ほら、見てみなよ。」
そう言って指を差す芦田さんのプレートの上には、ドロドロの真っ白なお粥とこれもドロドロに煮たわけのわからない流動物体だけが乗っかっている。

「これって…なんですか?」
正体不明のその流動物体に芦田さんは
「いやー、わかんないよ。味もないし。まあ食い物だということだけは確かだね。ああ、羨ましいー!」
そう言って大げさにジタバタとした素振りをしてみせた。

「ハハハ、元気なときにはなんとも思わなかった食べ物が病院に入ってこんなにありがたく思うなんてね。芦田君もこれで懲りただろ(笑)」
ボクたちの会話にご飯をゆっくりと噛み締めるように食べていた坂口さんも参加してくる。
「エエッ、もう懲りましたともっ! ああ、早くふつうのご飯が食べたーいっ!」
こんなふうに殺風景な病室も2人の会話でパッと賑やかな雰囲気になる。

(フフフ、この2人って年齢は全然違うけどすごく波長があってるんだね。なんか漫才を聴いてるみたいだ)



朝食を終えると午後の検査までしばらくの時間はゆっくりできる。
部屋の2人はTVを見たり本を読んだりと思い思いの時間を過ごし始めた。

突然の入院で持ってきた本もないボクは少し身体がだるい以外やることもなく手持ち無沙汰になった。
かといってどこが悪いわけもないので寝る気にもなれず少しボーっとしているとそこに部屋の中に誰かが入ってくる気配がした。
フッと入口の方を見るとそこには父親が立っている。

「お父さん、こっちだヨ。」
ボクが小さな声でそう呼ぶと父親は周りの2人に小さく挨拶しながらボクのベッドの方に寄ってきた。

「よお、元気そうだな。お腹の痛みはどうだ?」
父親は少し戸惑っている顔で、それでも小さな笑みを浮かべながらベッドの横にある小さな椅子に腰を下ろした。

「ウン、今はそれほどでもないかな。お母さんは?」
「ああ、今入院の手続きに行ってる。あ、それとこれ着替えとか、あとおまえが退屈するんじゃなかって思ってな。部屋の中にあったマンガ本を何冊か勝手に持ってきた。」
そう言って父親は紙袋に入った何冊かの漫画本をボクに渡した。
紙袋を開くと中には『こちら亀有公園前派出所』が入っている。
ボクが小学校の時からこつこつ集めてきたマンガのシリーズだった。

「ああ、それと…これな。」
そう言って父親が躊躇うように出したビニール袋に入っていたのはナプキンとショーツだった。
「う、うん。ありがと・・・」
ボクはなぜか恥ずかい気持ちになり、俯くように目を下に落とすと『それ』を受け取った。

「話は…母さんに聞いたから。オレも正直いってかなりびっくりだったけどな。自分よりもお前に対して済まないなって気持ちでな。 まあ、どちらを選ぶのかはお前次第だけど、ただどちらであってもお前は俺たちの子だから。オレはおまえのためにしてやれることはできる限りしてやりたいって思ってる。」
「ウン、お父さん。サンキュー。」

「それでどうだ?どっちか決めたのか?」
「そんな、わからないよ。 まだ昨日の今日だし。」

「ハハハ、そりゃそうだな。おっと…。」
そのとき父親が脇の下に抱えていた物がボクのベッドの上にばさっと落ちた。
それは一冊の本だった。

「あれ、落ちたよ?」
そう言ってボクがさっとその本を拾い上げる。
するとその本の表紙には
『父親必見 娘との付き合い方』
と書いてある。

「お父さん、ちょっと気が早すぎじゃないの(笑)」
ボクは苦笑いしがら父親にその本を返した。
「いや、まあ、なんだ。心の準備だけでもと思ってな(笑)」
そう言いながら父親は照れているような表情で笑い返した。

そういえば悟がまだ小さい頃
ボクは父親の2人で山にキャンプに行ったことがあった。
それは父親と息子で出かけた男同士のキャンプだった。
薪に火つけて飯盒でご飯を炊いた。
炊き上がったご飯はいつも母親が炊いてくれるものより硬かったけど、それでもとても美味しかった。
テントから顔だけ出して
見上げた夜空には星が驚くくらいたくさん輝いていた。
そして寝袋に入ってボクは父親と夜遅くまでいろんなことを話ししたっけ。

それから父親は持ってきた紙袋の中からケーキの箱やブリックのジュースを取り出しそれをボクのベッドの台の上に並べた。
「食べ物は好きなものを食べさせていいって言われたんでな。オマエ、悟と一緒でチョコケーキが大好物だったろ。」
「ウン。大好き。」
そう言ってボクは父親にニコッと微笑んだ。
すると父親は
「エ・・・あ・・・」
少し驚いたような表情でボクの顔をじっと見つめた。
「エ、どうしたの?」
そんな父親にボクは不思議そうに尋ねると
「いや、一瞬オマエの表情が中学生の頃のお母さんにそっくりに見えてなあ。びっくりしたんだ」
父親は少し照れるようにそう答えた。
「そう? ボクってお母さんにそんなに似てるかな?」
「ああ。姿形が似ているっていうより・・そう、雰囲気だな。何て言うか、女の子が醸し出す柔らかい雰囲気ていうのかな」

「柔らかい雰囲気かあ・・・」
「ああ・・・こんなこと言って気を悪くしたか?」
そう言われてボクは少し考えた。
少し前だったらきっと「ああ、またか・・・」とムッとしていたことだろう。
しかし、こういう状況になった今、不思議とボクの中にそういう感情は起きなかった。

ボクは父親の持ってきてくれた箱の中からチョコエクレアをひとつ取り出しパクッとくわえた。

「そういや、お父さんとお母さんって中学のときのクラスメイトだったんだよね?」
「ああ、中2のときに初めて同じクラスになってな。 しかも隣の席だった(笑)」
「ね、どっちが最初に好きになったの?」
「ハハハ、もちろんオレの方さ。お母さんはかなりモテてたからな。ライバルがたくさんいて」
「ふぅん、でもお父さんだってそんな悪くないと思うよ。 それでどうやって付き合うようになったわけ?」
「中3のときにな、学校で模擬試験があって、テストの前に志望校を書いたんだ。オレはお母さんと同じ高校に行きたくてな。 隣の席でお母さんの志望校の番号を書いているのを盗み見して、そっくりそのまま自分も同じ番号を書いたのさ」
父親は少し照れたような顔でそう答える。

「へぇ。 それで、それで?」
「しばらくしてその模試の結果が返ってきたんだけど、後ろの席の友達がオレの結果表を勝手に見やがってな。しかも読み上げやがったのさ(笑)」
「ウン、ウン(笑)」
「そしたらオレの志望校はお母さんのとまったく同じだろ。 しかもそのときは番号写しただけでわからなかったんだけど、お母さんの第3志望の高校は女子高でな。オレの表には「男子は対象外で判定不明」とかって出ちゃって、それ聞いてお母さんもクスクス笑ってな(笑)」

「アハハ。お父さんってけっこうドジだったんだネェ」
「まあ、そう言うな(笑) あのときはとにかく必死でな。 まあ、とにかくそれでオレの気持ちがお母さんにわかっちゃったわけだ」

「それで付き合ったの?」
「付き合ったのはそれからしばらくしてからだ。 オレは必死に勉強した。 そしてお母さんは順当に、オレはかなり運に恵まれて同じ高校に受かったんだ。 発表を見に行ったとき偶然お母さんも来ていてな。
自分の番号を見つけたとき「あったー!」って2人はほとんど同時に叫んでしまった。 隣を見たらお母さんでな(笑) それから2人でその高校から家まで一緒に帰って、その途中で電車の中でオレは自分の気持ちを初めてお母さんに伝えたわけだ」

「ヘェー!それでお母さんはなんて言ったの?」
「じつはオレも驚いたんだけどな、お母さんは「今まで待ってくれてありがとう」って言ってくれてな。彼女もオレの気持ちはわかってたからな。でも、もしオレが受験の前に自分の気持ちを伝えてたら相手が気になって勉強が手につかなくなっちゃってたかもしれない。だから2人で合格して、そしたらきっとそういう機会が2人の間にできるんじゃないかって思ってたって言ったんだ。」

「なんかお母さんらしいネ(笑)」
「ああ、そうだな。そしてそういうお母さんにお前はどこか似ているってオレは思ったのさ」

ボクは自分の両親たちの馴れ初めを聞きながら不思議な思いが湧き上がってくるのを感じた。
それは2人の気持ちがつながったことがとても自然であったように感じられたこと、
偶然が重なって父親が母親に告白したのでなくて2人の出会いが何か必然なように思えたからだ。

誰かにボクが男か女かと聞かれたら、どちらかをはっきり答えるのは今のボクにはできない。
ただ、ボクが人として自分の未来をつくっていくためにはどちらかを選ばなくてはならないわけで
そしてボクは女性である自分の方が自然であるようにそのとき感じられたんだ。

「あのさ、お父さん。」
「ウン、どうした?」
「ボクさ…、決めたヨ。」
「決めたって、何を?」
「これからの人生をどっちを生きていくか。」

「オイオイ、オレのこんな昔話でそんな大切なことを簡単に決めちゃっていいのか?」
「簡単になんか決めてないよ。 上手く言えないけど・・・、自然がいいんじゃないかって思ったんだ」

「さっきの話で、お母さんはきっと『2人の運命』みたいのを待っていたんじゃないか思ったんだ。それは自然にそうなることで。 ボクは本当は女として生まれていた。だからボクがそういう運命を持ってるならそれを受け入れたほうがいいって思ったんだ。」

「そう決めたのか?」
「ウン、決めた。 男でも女でもボクはボクだから。それなら本当の自分であったほうがいいって思った」

「そうか・・・」
「でも・・・今まで男として生きてきたボクなんかが男を好きになれるかどうかはわからないけどね。そのときはずっと家にいてもいい?」
「まあ、そうだな。しかしそれは自然に任せよう。今からすべての予定を立てるなんて、人生つまらなすぎるさ。」
そう言って父親はボクの頭の上に大きくてあったかい手を乗せた。

第3話 初登校、そして新しい友達

ボクがこれからの人生を女性として生きていくことを決めてからいくつかの大切なことを経ていかなければならなかった。
そのために病院では手術のための準備や検査、そして戸籍の変更などについての手続きや環境の変化についての話し合いが行われた。

ボクの場合もともとが女性であったわけで、いわゆる性同一性障害者が受ける性転換手術と違いそれ自体は難しいものではないらしい。
簡単に言ってしまえば、男の局部に似たオデキを取るだけ。
そしてそのときそのオデキに通ってしまっている尿道を本来の位置に戻し、小さくすぼんでいる膣を広げるというものだった。

先生によれば、すでに生理が始まっているので体つきは次第に女性らしいものになっていくのだという。
法律的なことも、本当は女性であったので性の変更ではなく訂正ということになるそうだ。
じつは、これはこの病院の顧問弁護士さんがすでに裁判所の仮処分の内諾をもらっているらしい。
しかし一番の問題は環境の変化についてのことであった。

男として生活していた者がある日突然女として生活する。
ひとつは生活する場所の問題、そして中学生であるボクにとってはそれとともにこれから通う学校をどうすかという問題があった。

ボクには父方の祖母の妹で大阪にお婆ちゃんがいる。
お婆ちゃんは大きな地主で一等地にいくつもビルを持っている。
しかしこのお婆ちゃんには子供がいなかった。
旦那さんもすでに亡くなっていて今は大きなお屋敷で一人暮らしをしている。
そんなお婆ちゃんがボクを養女として引き取りたいという話もあったらしい。

誰も知らない場所で新しい人生を送る。
そういうのもありかもしれない。
いやむしろこういう場合そのほうがいいと考えるのが普通だろう。
でも、ボクはその提案にはどうしてもか心を惹かれなかった。
それはつまり逃げてしまうということで
もしいつか昔のボクのことを知る人が周りに現れたとき、ボクはまた他の場所に逃げなければなってしまうんじゃないかという気がした。
ボクは人生の中でずっと逃げ続けなきゃいけない。
そして、ボクは友達に嘘の過去を取り繕って生きていくことになるからだ。

「あの・・・、今の中学に通い続けることはできないでしょうか?」
何度目かの話し合いの席で、ボクは出席していた両親や何人かの医師の先生方、そして病院の顧問弁護士の先生に向かってそう言った。
それを聞いたそこにいるみんなは誰も驚いたような顔になった。

「いや、それは不可能ではないだろうが、それによって受ける君の苦労は相当大きくなるんだよ?」
弁護士の宮田先生はボクにそう尋ねた。

「大丈夫。 みんなに受け入れてもらえるよう頑張ります。ボクは、逃げたくないんです」
「うーーーーん……」
その場にいたみんなが唸って考え始めた。

そして、その沈黙を破ったのは男性の杉田先生に代わって新しくボクの主治医になった女医の来栖祥子先生だった。
「私は賛成です。一度逃げていまえば哲君は人生の中でずっと逃げ続けることになってしまいます。 受け入れについては私たちが学校の先生方とよく話し合いをすれば案外そちらのほうがこれからの生活の中でスムーズなのではないでしょうか」
祥子先生は力を込めてそう話してくれた。

それに対しボクの両親も納得した表情で言う。
「哲がそれを望むのなら私たちも精一杯サポートします」

するとそれまで両腕を組んで考え込んでいた議長役の外科部長の松原先生は立ち上がってこう言った。
「わかりました。それではこの件については主治医の来栖先生と弁護士の宮田先生を中心にチームを作って一度学校の先生を交えて話し合いを行っていただきましょう。必要ならば我々も協力をします」
「あ、ありがとうございます!」
みんなの温かい言葉にボクや両親はそこにいる先生方に頭を下げてお礼を言った。

松原先生は次にこう続けた。
「さて、それでは最後に弁護士の宮田先生にご尽力頂いた結果、哲君の戸籍の変更について仮処分の申請が認められました。 手術の日をもって哲君は法的にも男性から女性に訂正となります。つきましては名前についてですが、またか安直に子をつけて『哲子』とするわけにもいかんでしょう」

「たしかにそれじゃ黒柳徹子さんと似てますしね。昔ならそれでもいいかもしれないが、今の時代中学生の女の子で哲子はほとんど聞かないなあ」
「ご両親は、それについて何かお考えはありませんか?」

すると父親がカバンに入れてあった何かの古ぼけたノートを取り出して席を立ちあがった。
「じつは哲の生まれたときのアルバムを見ておりましたら本棚の隅でこのようなものを見つけまして。 これは哲が生まれる前に妻と2人で赤ちゃんの名前を考えたものを書き留めたノートなんです。小谷の家系には生まれてくる子に一文字で名前をつける習慣みたいなものがありまして、そこでいくつかの中からピックアップして付けたのが哲という名前でした」
「ホォー。それじゃもしかしてそのとき女の子の名前も考えていたわけですか?」
「ええ、そういうことです」

「それはなんという名前だったのかお聞きしてもいいですか?」
「はい、もし女の子だったらと考えていたのはやはり一文字で『凛』という名前でした」

「凛さん、か。小谷 凛。うん、いいじゃないか!響きも可愛らしいし」
弁護士の宮田先生が大きく頷いて同調する。
「ありがとうございます。私たち両親は物事をまっすぐ見つめ妥協せずに人生を歩んでいってほしいという気持ちで哲と名付けました。この名前はもし生まれる子が女であっても同じ気持ちで、凛とした姿勢でまっすぐに人生を歩んで行ける、そういう娘に育て欲しいと願って考えたものです」

「ご両親の気持ちがよく込められていてとても素敵な名前ですわ」
祥子先生が嬉しそうに言った。

「それじゃ、どうだろう、哲君。ご両親のお気持ちを尊重して凛さんという名前で君は受け入れてくれるかな?」
「あ、はい。ボクは両親がつけてくれた名前ならそれでいいです」
こうして女性であるボクの名前は小谷 凛と決まった。



その2日後
ボクはようやく空いた個室へと移されることになった。

そのときは、すでに坂口のおじさんは退院していて、病室の中はボクと芦田さんの2人だけだった。
ボクが相部屋にいる最後の日、ボクは芦田さんに自分の事情を打ち明けることにした。

一週間ほど前の夜中に起こった突然の腹痛と出血
詳しい調査の結果ボクの身体は本当は男性ではなく女性であるということがわかった。
そしてボクがこれからの人生で女性であることを選んだ気持ちをボクは芦田さんに話した。

最初は少しびっくりした表情をしていた芦田さんだったけど、黙ってボクの話を最後まで聞いてくれた。
そして、一通りの話が終わった後、芦田さんは穏やかな笑顔を浮かべてこう言った。
「そうかぁ。じつをいうとボクも初対面で君に会ったときそういう雰囲気をどこかで感じてんだよ。 君と同じ部屋にいて、どっかに不思議な違和感があったんだ。だから僕は君が女性としての人生を選んだことを間違いとは思わない。君が考えるように人は有るべき物を受け入れたほうがいいかもしれないって思うよ。自然に逆らうことには勇気がいる、しかしそれを受け入れることもまた勇気なのだからね」
そう言って芦田さんは優しく微笑んだ。

芦田さんはボクが個室に移るとき小さな紙袋をボクにくれた。
袋の中には桜の花びらを型どった小さな髪留めがひとつ入っていた。

「あ、かわいいー!」
そう言ってボクの顔に思わず小さな笑みが溢れる。
そんな言葉が自然と自分の口から出たことに、たぶんボク自身が一番驚いたと思う。
でもそれはとても不思議だけど、でもとても自然に出たものだった。
心の中から漏れたような言葉だった。

「その表情はもう女のコだね。 病院生活で外に出られないから、こんなものしかあげられないけど。君の新しいスタートへのプレゼントのつもりで下の売店で買ってきたんだ」
「あ、ありがとうございます。すごく嬉しいです。ずっと大切にしますネ!」

芦田さんはボクより五歳年上
でも、もしも、もしも女性のボクがいつか出会う男性がいるとしたら
その人は芦田さんみたいに本当に優しい、人の気持ちを大切にしてくれる人がいいな・・・
なんて思ったりしたんだ。



さて
それから一週間後
繰り返される検査が終わってボクはいよいよ手術の日を迎えた。
この手術が終わればボクは本当に女性としての人生を始めることになる。
割り切ろうとしてもボクの中にはまだいろいろな不安が頭をよぎっていた。

手術当日
ボクの身体は移動ベッドに移され付き添いの看護婦さんによって手術室までの道のりを進んでいった。
そのわずか5分ほどの時間はボクにとってとてもゆっくりとした長いもののように感じられた。

手術台の上に乗せられボクは右肩から麻酔注射を打たれた。
するとボクの意識の中でフッと記憶の糸が途切れた。


そして次に意識が戻ったときボクは自分の病室のベッドの上に横たわっていた。

まだ少しボーっとする意識の中でうっすらと目を開けるとボクのベッドの傍らに両親と、そして幼馴染の女のコ久美ちゃんの姿が映った。
「久美ちゃん・・・、来てくれたんだ」
ボクはまだ麻酔が残って感覚がない右手を無理に持ち上げようとする。
すると久美ちゃんはその手を静かに握った。
「凛、事情はおじさんとおばさんから聞いたヨ。アタシたちさ、小さい頃からずっと友達だったんだよ。そしてこれからもずっと友達なんだからネ」
そして久美ちゃんはボクのオデコを優しく撫でてくれた。

ああ、久美ちゃんはもうボクのことを凛って呼んでくれるんだ。
嬉しいな…。

ボクが彼女と出会ったのは幼稚園の頃だった。
その頃わりと内気で友達の少なかったボクに比べ活発な方だった久美ちゃんの周りにはたくさんの友達がいた。

ある日、ボクは幼稚園の砂場でひとりでお城を作っていた。
するとそこに久美ちゃんがやってきてこう尋ねた。
「哲ちゃん、久美もこのお城に一緒に住んでいいでしょ?」
ボクは嬉しくなって思わず
「ウンッ!」と大きな返事をしたんだ。

そして2人のお城作りが始まった。
「屋上に哲ちゃんと久美が2人でいっぱい泳げる大きなプールを作ろうよ。」
「うん!作ろう!」
できあがったお城はボクたちの腰くらいもある立派なものだった。
「わぁーい!できたぁー!」
2人は飛び上がって喜んだ。
でもそれも次の日の雨でぜんぶ流れちゃったけど・・・。

それからボクと久美ちゃんは仲の良い友達になった。
小学校のときもボクは週のほとんどを久美ちゃんと遊んで過ごしていた。

高学年になるとボク達は同級生の男子から「ふーふだ。」なんてからかわれたりすることもあった。
そんなとき久美ちゃんは
「なんでそんなこと言うの?アタシ、哲ちゃんと一緒にいると楽しいもん!」
なんて逆にそういう男どもに言い返してたっけ(笑)
中学に入りそれぞれに同性の友達ができるとボク達は昔ほど一緒に遊ばなくなっていった。

今までのボクと彼女は、異性の友達だった。
でも今はもう同性の友達になっちゃったんだよね。

オデコの上の久美ちゃんの温かい手がボクの心を優しく溶かしていく気がした。
そのとき突然ボクは心の底から何かわけがわからない気持ちが湧き上がってきて
涙が溢れて止まらなくなった。
「ぅ、ぅぅ・・・」
そしてボクは小さな嗚咽を漏らす。
すると
「凛、アタシたちずっと友達だヨ。」
彼女は細くて白い指で涙で濡れたボクの顔を優しく拭ってくれた。

フッと目を部屋の入口の方に向けると、そこには中学の担任の山岸先生が立っていた。
山岸先生はボクが2年生でクラス替えをしたとき初めて担任になった。
ときどき冗談を言いながらも生徒が悪いことをした時にはビシッと叱る、そういう先生だった。

山岸先生はボク達の姿を見てゆっくりベッドに近づいてきた。
「せ、先生…。」
「小谷君、ううん、もう小谷さんね。 学校でご両親や主治医の先生といろいろ話し合ったわ。アタシはアナタが「今の学校に通い続けたい、逃げたくないっ」て言ったと聞いたときとっても嬉しかった。そして、そういうアナタをこの学校から卒業させようってみんな賛成してくれたの。男だって女だって、みんなアタシの生徒たちだから。退院したら元気で学校に登校していらっしゃい」

久美ちゃんの温かい眼差し
優しい山岸先生の言葉
いまはじめてわかった気がした。
ボクはけっして一人で生きて生きたんじゃないんだってことが・・・。


それから一週間ほどしてボクはいよいよ退院の日を迎える。
医師として、いや、それ以上にボクのことをいろいろ心配してくれた主治医の祥子先生は病院の玄関まで送りに出てきてくれた。

「ああ、なんか自分の妹がいなくなっちゃうみたいで寂しいわぁ」
そう言って少し寂しそうな顔でボクの手を握る祥子先生。

「祥子先生、いろいろありがとうございました。ボク、本当に感謝してます。」
「ウン。でも凛ちゃん、もうボクじゃなくアタシでしょ。アナタはもう女のコなんだからネ(笑)」

その日、ボクは母親が買ってきてくれた薄いピンクのワンピースを身につけていた。
じつは、ボクが女性の服を着るのはこれが初めてだった。

手術が終わったあとはショーツは女の子のものをはくようになったが、スカートというものは正直けっこう抵抗があった。
上半身の服は多少のスタイルの違いはあるけど男女でそれほどの差はない。
しかし、下半身でズボンかスカートかというのは決定的な違いのように感じた。
ズボンをはいていればどんなに暴れても気にする必要はない。
でも、スカートだとめくれてしまうと下着が見えてしまうわけで
それは思ってたよりずっと恥ずかしかった。

退院の準備を終え病室で着替えているとき、部屋には母親と翔子先生だけが残った。
ボクは無意識に男の子のときはいていたズボンを探した。
しかし、それはすでに母親によって片付けられていた。
戸惑うボクに母親は用意した一着の薄いブルーのワンピースを出す。

「エ、これを着るの!?」
「当たり前じゃない。男の服なんかもうないわよ」
母親は当然のことのように言う。

仕方がなくボクはそのワンピースを手にとった。
でも、着ろと言われてもどう着たらいいのかわからない。
男の服ならズボッとかぶるかはくかしてボタンを留めるくらい
しかし女の子の服はどうもそういうわけではないようだ。

そういえば、前に翔子先生が話してくれたけど
女性がスカートをはくことにはスタイルよりもちゃんとした理由があるらしい。
女性の性器は男のものよりも湿っていて、またばい菌が入りやすいそうだ。
それで空気が通りやすいスカートをはくという文化ができたんだという。
その話を聞いたとき、男と女ってこんなにも違うんだって驚いた。

母親は、まずボクの頭からそのワンピースを被せ、そして背中にあるファスナーをあげた。
さらにスカートの裾を引き全体を整える。
そして髪の毛に丹念にブラシをかけた。

もともとわりと長めだったボクの髪はすでに1ヶ月ほどの入院でかなり伸びていて肩の先に触れるほどになっていた。
ボクはその髪に芦田さんにもらった桜の形の髪留めをつけた。
ひらひらと舞うスカートはどこか頼りな気く恥しい。

病室から出てきたときボクはちょうど廊下に上がってきた父親とすれ違う。
(あ、お父さん)
そう思ってボクは恥ずかしそうに小さく手をあげる。
しかし父親はまったくボクに気づかないようにすれ違っていった。
そして数歩歩いたとき、父親はクルッと振り返ると驚いたような表情で立ち尽くしていた。

「もしかして、哲、あ、いや、凛か・・・?」
「あ・・・ウン」
「いやあ、別人かと思った。びっくりしたな」

「変・・・かな?」
「あ、いや。とても、いや、すごく似合ってる」
そう言って父親は照れたような顔になった。

そしていよいよ病院の出口へと向かう。
父親が車を玄関の前に回して止めるとそこから弟の悟が降りてボクに近づいてきた。
悟は3歳年下でいま小学5年生。

「凛ちゃん、そっちの荷物オレが持つよ。」
彼はぶっきらぼうにそう言って、両手に抱えたバッグのうちひとつを取り上げた。
今まではボクのことを『哲ニイ』なんて呼んでいたから今度は『凛ネエ』って呼ぶのかと思ってたけど
やはり突然兄から姉に変わってしまったことに恥ずかしいようだ。

車はボクたちを乗せてゆっくりと走り出た。
振り返ると祥子先生はしばらく手を振ってボクたちの車を見送ってくれていた。


退院してから一週間
体調も次第に安定してきて、ボクはいよいよ明日から登校することになった。

夏休み前までは男のコだったボクが夏休みが終わったら女のコとして登校してくるって
きっと事情はもう伝わってるんだろうけど、みんなどう思うんだろう・・・。

女のコたちはボクを同性と認めるんだろうか・・・。
気味悪がられたりしないだろうか・・・。
男友達はボクと口をきいてくれるだろうか・・・。
そんな不安ばかりがどうしても募ってしまう。

そして
自分の部屋で明日の教科書などの用意をしているときだった。

「コンコン」
ボクの部屋のドアをノックする音が聞こえた。
するとドアを開けて母親が顔を出す。

「ちょっといいかしら?」
「ウン、なに?」

「どう? 明日の用意できた?」
「だいたいね。明日は午前中の授業で帰ってきちゃっていいんでしょ?」
学校との話し合いで明日から一週間は体調を考えて午前中授業だけとすることになっている。

「うん、そうね。 あ、それとそっちが済んだら悪いけどちょっと下に降りてきてくれないかな?」
「いいけど・・・。なに?」
「あ、ウン。ちょっと・・・ね(笑)」
母親は、なぜか少し悪戯っぽい顔でそう言うと部屋を出て行った。

教材の用意がひと段落したボクは階段を下りて母親のいる和室へと向かった。
「さっき、なんか用だった?」
「ウン、 ちょっとこっちに来てもらえる?」

母親は和室に腰を下ろし、大きな木製のお膳の上には大きな箱が積まれている。
そしてボクもその横に腰を下ろして座ろうとした。
すると
「ほら、凛!女のコがそういう座り方はないでしょう!?」
突然母親からきついお叱りの言葉が飛んだ。
「あ…。」
いつものように何気なく座ろうとしていたボクの足はあぐらの態勢
しかもスカート姿だったから前から見たらパンツ丸見え状態だった。
ボクは慌てて足を組み直した。

「まあ、今までの生活習慣をいきなり全部直せっていうのは無理かもしれないけど、女の子は身繕いくらいは意識として気をつけていかないとね。そういうところで無意識に男の人を勘違いさせちゃうと危険なことがあるから」
そう言っていつも優しい表情の母親が珍しくキッとしたように言った。

「危険って?」
「場合によっては襲われることもあるってこと、性の対象としてね。」
「襲われるーー!? ボクが?」
「当たり前じゃない。だってアナタは女のコなんだから。」

「ああ、そっか…。」
「「ああ、そっか」じゃないわヨ? 男の人をいつも警戒しろとは言わないけど、そういう意識は持っていてほしいわネ。 そして場合によってはそういうことによって望まない妊娠をしちゃう可能性もあるっていうこと」

そうか…、そうだよね。
ボクだってもしそういうことがあれば妊娠しちゃうんだ。

ああ、なんか今まで考えなくても良かったことをこれからは考えなくちゃいけない。
なんか難しいな…。
フッと割り切れないような気持ちで心の中でもやっとする気がした。

「あ、それでね。アナタを呼んだのはそういうことじゃなくってね、これを着てみてほしかったのヨ」
そう言って母親は傍らに積まれた箱をボクの前に差し出した。
「なに、これ?」
「「なに、これ?」って、アナタの制服ヨ! アナタ、まさか明日から学校に今までの男の制服で行くつもり?」
「エ、あ、そっか・・・。」

そうか
制服のことすっかり忘れてた。
っていうか、そうだよネ。
女のコのボクが男の制服で現れちゃ、みんなは「いったい何が変わったの?」って思うだろうし。
そんなことを考えるとなんか可笑しくって
ボクは自然とクスクスと笑い出してしまった。

「もぉ、何笑ってるのヨ? おかしな子ね」
母親は不思議そうな顔をしてボクを見ている。

「さあ、とにかく着てみてくれない?」
「あ、ウン」

ボクはおもむろにその箱を開いた。
中にはボクの通う若松中学の女のコたちが着ている制服と同じものが入っている。

紺のジャンパースカートとボレロ、そして白のブラウス。
ウチの中学は男子は黒の学ラン、女子はこの制服と指定されている。

「とりあえず制服とブラウスを用意しておいたから。あと靴もローファーの女子用のを3足用意したわ。一応サイズ測って買ったつもりだけど、ちょっと着てもらえる?」
「今、ここで?」
「当たり前じゃない。もし調整するところがあるんなら今日のうちにしておかなっくちゃいけないのヨ。女同士なんだから恥ずかしがってちゃこれから体育で着替えたりするのに困っちゃうじゃない」
「ウ、ウン…。」
そう言われ仕方がなくボクは着ていた服を脱ぎ下着になる。

胸のふくらみはまだ小さいのでブラジャーは着けていないが、なんとも頼りない小さなパンツとキャミソールは見まごうことなき女のコのものだ。
入院する前までボクの部屋にあった男の服や下着などは入院後家に帰ってくるとすべて姿を消し、そしてタンスの中には可愛いらしい女のコの服やランジェリーが所狭しと詰められていた。
こうしてボクは男としての自分の生活が一気に女のコ色に塗り替えられていくのをひしひしと感じていた。
そして今制服までその色に変わっていく。

用意した女子の制服を一通り身につけたボクを母親はまじまじと眺めている。
「あらぁ!いいじゃない! とってもよく似合ってるわぁ」
「そ、そうかな?」
「そうよぉ。 そっかぁ、こうやって見るとやっぱりアナタって女のコだったのネェ・・・って思うわ。男のコの制服よりしっくりくるもん(笑)」

ああ、言い返す言葉が見つからない・・・。

「ほら、鏡で自分の姿を見てご覧なさい」
そう言われてボクは部屋の隅にある大きな姿見に自分の姿を映してみる。

あっ…!
鏡の中に映っているのはまぎれもないひとりの女のコだった。

肩先まで伸びた髪の毛
小さななだらかな肩先
小さく膨らんだ胸元
スカートから伸びた細く白い足

ボクが右手を上げればその娘もそうする。
ボクが上げた手を小さく振ればやはりその娘も同じことをした。
小さくニコッと微笑んでみるとその娘も微笑み返す。

そっか、これがボクなんだ・・・。

退院して今までも何度かスカート姿の自分を鏡で見たことはあった。
それでも今の制服姿の自分にはすごく新鮮な驚きを感じた。

夏休みが始まる前までいつも教室の中で自分の周り居た女のコたちと同じ女のコが
そこに居たから・・・。


翌朝
ボクはいよいよ今日から学校へ登校を始めることになる。

しかしやはりボクの気は重かった。
普段なら8時ごろに家を出るのだが、今日は授業前に先生たちとの打ち合わせがあるので7時半に家を出ることにしていた。

支度を終えて母親と玄関に向かうがドアを開けるところでボクの身体は固まってしまう。
「どうしたの?」
「お、お母さん。なんか・・・怖い。」
ボクの足は小刻みに震えていた。

しかし母親は不思議そうな顔で尋ねる。
「怖い?なんで?」
「ドアを開けて通りに出て、もし知ってる人がいたりしたら・・・」
「いいじゃない。そうしたら「お早うございます」って言えばいいのヨ」

「だって、この前まで男だったボクが女のコになっちゃったんだヨ?」
すると母親はひょうひょうとした顔で言った。
「あら、それは間違えね。 アナタは女になったんじゃなくて元々女だったんだから。だから男だったこともないわ」

なんだろう、この母親の変わりようは?
検査の結果が出たときあれだけオロオロしてたのに、今はまるで最初からボクが女のコだったように扱ってる。

「さあ、凛、いきましょう。こんなところで止まってちゃいつまでも先に進めないわヨ。 いい?オンナはね、『その時』が来たら覚悟を決めて前に進むものヨッ!」
そう言って母親は少し勢いよく玄関のドアを開いた。

20mほどの庭を抜けて道路に出るとちょうど出勤時間のサラリーマンらしい人達が何人か歩いている。
すれ違うたびにドキドキと胸を高まらせるボクに対して彼らは誰もボクの方を振り返ろうとしない。

「ね、通りを歩く女のコ一人一人にいちいち反応するわけないでしょ。アナタってけっこう自意識過剰ヨ(笑)」
そう言いながら母親は意地悪そうな顔でボクを笑った。

(よかった・・・)
少し気が楽になったボクは足を早めて歩き出す。
いつもの通い慣れた通学路がまるで初めて歩く風景のようにさえ思えて不思議だった。
スカートから伸びる素足を風が優しく撫でていく。

そして次第に学校が近づいてくる。
最初は調子良かったボクの足取りも学校が近づくにつれてまただんだと重く感じられてきた。
しかしそんなボクの背中を母親は容赦なく押す。

とうとう正門まであと50mほどの距離。
ボクの足はピタッと止まってしまう。
「どうしたの? ほら、先生方だって待ってるんだから。」
「ウ、ウン。わかってるんだけどさ・・・」

そんなとき向こうからバタバタと駆けてくる数人の男子生徒の足音が耳に入ってくる。

(ドキーーー!!!)

「ほら、急げよ!また先輩にどやされっぞ!」
「まったくオマエがいつまでもメシ食ってるから!!」
多分別の学年の人たちだろう。
ボクも彼らもお互いに知った顔ではない。
どうも部活の朝練に遅刻したようだ。

彼らがボクの横を通り過ぎるときそのうちの一人がチラッとボクの姿に目をやる。
しかし彼らはそのまま気にせず通り過ぎていってしまった。

「凛ーーーー、行くわヨーーーー!!」
少し先に進んだ母親がボクを急かして声をかけた。



下駄箱を抜けて校舎の中に入ると廊下を数人の生徒が歩いている。
1階は職員室と1年生の教室が中心なので見知った顔には出会わない。
そしてボクたちはようやく目的の職員室にたどり着いた。

廊下からドアのガラス越しに中を伺うと数人の先生がいるのが見えた。
しかしボクの担任の山岸先生の姿が見えない。
ボクは少さくドアを開けると、そばにいる社会の戸田先生に声をかけた。

「戸田せんせぇ・・・、戸田せんせぇ・・・」
消えてしまいそうな小さな声
しかし先生は全くボクの声に気づかない。

(こっち向いてよーーーー!)
ボクは心の中でテレパシーを送る。
そんなボクの心が通じたのか、戸田先生は突然くるっとドアのほうを振り返りいきなりボクと目が合ってしまった。

「おおっ、小谷ぃ!」
そして戸田先生は奥の方にいる山岸先生を大声で呼んだ。
「山岸せんせぇーーーー!小谷が来ましたヨォォーーーーーッッ!!」

(あわわわーーーーーーーーーー!)
(そ、そんな大声でぇーーーーーー!!)

そのスピーカーみたいな声にさすがに気づいたのだろう。
奥の校長室の方から山岸先生が出てくるのが見えた。

「あらぁーーー、小谷さん。お帰りーーー。さあ、中に入って」
山岸先生は嬉しそうな顔でボクを出迎えてくれた。
そしてボクと母親は校長室へと通される。

校長室に入るとまずボクはまっすぐに立たされる。
山岸先生はボクの全身を上から下まで見回すと
「ウンッ!素敵な女のコ!」
そう言ってにこっと微笑んだ。

続いて部屋の中に入ってきたのは校長先生、教頭先生そして学年主任の工藤先生。
3人はボクの姿を見て驚いたように言う。
「おお、これは可愛らしい!」
「なるほど、小谷はやっぱり女のコだったんだなぁ」
口々にそう言われてボクの顔は真っ赤になってしまった。

「さあ、座って」
そして山岸先生が中心になって女子生徒としての校則や注意が説明される。

「女子の髪型は基本的に肩より下まで伸びている場合はゴムで結うこと。ゴムはカラーのものではなく黒のものだけです。脱色やパーマは禁止です。ただし地毛の場合は予め申し出ていれば問題ありません。小谷さんの場合髪の毛が亜麻色だわね。とても綺麗な色をしてるわ。それは染めているわけではないですよね?」
「あ、ハイ。元々の髪質です」
「だったらいいわ。あとはスカートの長さは膝のあたりという感じで。えっと、今の状態ならいいわね。あと生理のときの体育授業の扱いはこの説明書を読んでおいて頂戴。はい、じゃあ以上です。それじゃ生徒手帳の交換をします」
そう言われてボクは生徒手帳をカバンの中から取り出した。

ウチの中学では生徒手帳のカバーについて男子は青、女子は薄いピンクと決まっている。
ボクは今まで持っていた青のカバーの生徒手帳を先生に出し、そして先生は用意したピンクの生徒手帳を出しボクに渡してくれる。
真新しいピンクの手帳の開くと最後のページにあったボクの前の名前『小谷 哲』は新しい『小谷 凛』に変わっていて、性別欄も男子から女子へと変更されていた。

ここまで来ればもう引き返せない。
というか、引き返しようがない。
今になって「やっぱり男のままでいたかった」なんてわけにはいかないんだ。
まあ身体はもう完全な女だからどうしようもないんだけど。
それでも生徒手帳を手にしてそのことをあたらめて実感した。



「さあ、そろそろ時間ね」
そう言って山岸先生はソファから腰を上げた。

ウチの学校では8時20分に朝のホームルームがある。
「それじゃ、小谷さん。胸を張って行きましょう!」
「ハ、ハイ」
そう答えてボクも少し躊躇いながら席を立った。
「凛、頑張って!」
横にいる母親が右指で小さなVサインを作って励ましてくれる。
「う、うん」
ボクはそれに小さく苦笑いをしながらVサインで応えるけど、まだ気持ちは動揺していた。



1階の職員室から廊下を通って2階に階段を上がり少し歩けばそこがボクの2年B組の教室。
ここまでは事情をよくわかっている先生たちだけだったけど、教室には友達の中によく事情を理解していない人もいるかもしれない。

いきなり女子の制服を着て登校してきたボクに
「哲ちゃんがオカマになったぁーーー!」
なんて言うやつもいるかもしれない。

「オンナはね、『その時』が来たら覚悟を決めて前に進むものヨッ!」
家を出るときに言われた母親の言葉はわかるけど、やはり心の動揺は抑えられない。

いつもなら3,4分ほどの距離がとても遠く感じられる。
とても転校生みたいな気分にはなれない。
しかしそう思いながらもとうとう教室に着いてしまう。

山岸先生はボクをまず廊下に待たせて自分ひとりで教室に入っていった。
ドア越しに教室の中の音が聞こえてくる。

「きりーつ、きおつけー、礼。おはようございます。」
「はい、着席してください。」

しばらくの沈黙
そしてひと呼吸おいて山岸先生は再び話し始める。

「エー、みなさんも夏休み中にお父さんやお母さんから説明がったと思いますが、小谷さんがやっと学校に出てこれるようになりました。今、わたしが小谷君ではなく小谷さんと言ったことに気づいた人もいると思います。小谷さんは今日から男子生徒ではなく女子生徒として学校に通うことになります。戸籍の性別もすでに女性に訂正されています」

教室の中は先生の声以外聞こえてこない。

「これについてみなさんに勘違いして欲しくないのは、これは小谷さんが望んでそうしたのではないということ。
じつは彼女は本当は女児として生まれました。
しかしお母さんの体内にいるときにホルモンの影響を受けて女性器の上に男児によく似た排泄口ができてしまったの。
つまり本来女性の場合膣口と隣接した位置にできるはずの尿道が別の場所に通ってしまったわけです。
しかし小谷さんの身体はそのこと以外完全な女性のものであり、染色体もXXという女性の染色体であることが確認されました。 
そして夏休みが始まって少しした頃彼女の身体に女性の生理が訪れたのです。 
こういったことは普段男子はあまり聞かない情報だと思うけど、今はしっかり聞いていて欲しいの。 
小谷さんはとても迷いました。
ある薬剤を投与すれば今までどおり男の姿でいられないこともないけど、それはあくまで外見であって将来結婚しても女性を妊娠させることはできない。
しかもその薬剤投与は生涯続けなくてはならない。
しかし女性としてなら妊娠も出産もできる。
そして彼女は結論的に本来の自分の自然な性を選択したわけです。
先ほど言った異常部分についても今回の手術で完全に修正されて、彼女の身体は100%ほかの女性のものと変わらないものになりました。
次に彼女にとって大きな問題であったのは学校をどうするかということでした。
どこか遠くの他の学校に転校したほうがいいんじゃないか、そういう意見が大勢でした。
しかしそうすれば彼女は転校先の学校で自分の過去を取り繕う嘘をつかなければならないでしょう。
そしてそうした嘘はさらに新しい嘘を繰り返し、その結果彼女の13歳までの人生はすべて嘘になってしまうことにもなりかねません。
そこで彼女は今の学校に通い続けることを選びました。
わたしは彼女のそうした勇気をとても嬉しく、そして誇りに感じました。
英単語や漢字や年号を覚えるだけが教育じゃない。
自分が社会で生きていくための勇気と知恵を身につける、これこそが本当の教育だって先生たちは思っています。
そして先生たちはみんな彼女をこの学校で卒業させてやることを誓ったのです。
彼女は今回のことで書類上の性別が男性から女性へと性別が変更されました。
しかしそれは単に書類的なことであって、彼女は元から女性であったということ、そして性別が変わっても人間は変わっていないということをみなさんによく理解して欲しいと思います」

山岸先生の話に誰も口を開く者はいない。
先生はここまで話すと廊下にいるボクを呼んだ。
そしてボクは心臓を抑えながら教室の中に入っていく。

ガラッ!
ボクはいつもよりも小さくそしてゆっくりと教室のドアを開く。
するといきなりクラスの仲間たちの視線がボクに注がれるのを感じた。

!!!

夏休み前のボクとはまったく違うボクの姿を前に、クラスのみんなは何故か静かだった。
ボクは足がガクガクと震えだして止まらなくなった。

先生は再び教壇の前に立ち、そして後ろを振り向いて黒板に大きくボクの名前を書いた。
『小谷 凛』
「これが小谷さんの新しい名前です。『りん』さんと読みます。小谷 凛さんは今までも、そしてこれからもあなたたちの大切な友達です」

シーンと静まる室内
ただみんなのボクへの視線が突き刺さるように向けられている。


そのとき
「小谷さん、席に座ろう。」
すくっと立ち上がってそう言ったのはクラス委員の井川 楓さんだった。

ボクはその瞬間井川さんの言葉に緊張から解放されたような気持ちになる。
「あ、ありがとう」

井川さんの言葉に山岸先生はニコッと微笑む。
「ハイ、じゃあ、小谷さんも自分の席に座って頂戴」
すると別の女子が立ち上がってこう言った。
「先生、今の小谷さんの席は男子の列だから、今度席替えをやりましょうヨ!」

ボクのクラスでは男子と女子が一列ずつ交互に座っている。
夏休み前のボクは当然男子の列にいたわけで、そうなると男子の列に女子のボクが一人だけ混ざってしまうことになる。

「そうね。それじゃ近いうち席替えをしましょう。みなさん、よろしいですか?」

パチパチパチ

最初に女子が、そしてそれにつられて次第に男子も拍手で賛成の意思を示した。



「ね、『凛』でいいよね?」
1時間目の授業が終わった後に突然横の席に座ってる女のコから声をかけられて、ボクは驚いて振り向く。
彼女は藤本 美子(ふじもと よしこ)さんといって井川さんとともに学年でも1,2を争う秀才、しかも学校でも有名な美人の女のコだ。

2年生で行うクラス替え初めて同じクラスになり、それに伴って席決めをしたときボクは彼女の隣になり、男友達の安田や工藤たちは相当悔しがっていた。
まあボク自身は彼女に対し可愛い娘だなっていうくらいの感情しかなく、今まで特に親しく話したり意識したことはなかった。
その彼女が今ボクに話しかけているわけだ。

「ね、凛って呼んじゃっていいでしょ?」
彼女は再びボクに聞いてきた。
「あ、ウン。もちろん!」

すると藤本さんは真っ白な細い手をボクの方に差し出してこう言った。
「アタシのことはこれからミコって呼んじゃってネ。友達になろうヨ!」
「あ、ありがとう。こちらこそヨロシク」
そう言ってボクは彼女の差し出した手を握り返す。
こうして女としてのボクに初めての同性の友達ができた。

ミコは近くの席にいる2人の女のコを呼び寄せた。
この2人は彼女といつも一緒にいる仲のいい友達だった。
「まあ今更自己紹介してもしょうがないけどね(笑) 久保ちゃんと奈央」
「今まであまり話せなかったけどこれからヨロシクね」
「仲良くなろうねー」
2人はミコと同じようにボクにボクに手を差し出してくれる。
ボクはその温かい手を握ってホッとしたような気持ちになれたんだ。


その日
ボクは午前授業で家に帰ってきた。

家に帰ると母親は買い物に出かけたらしくダイニングテーブルの上に「冷やし中華を作って冷蔵庫に入れておくからお昼ご飯に食べていてね。」という手紙が置いてあった。
自分の部屋に行き制服を脱いでハンガーにかけ、そして普段着に着替える。
まだあまりピンと来ないスカートだけど、病院の祥子先生からは女性の服装に慣れるためにもなるべくスカートをはくように言われていた。
ボクはクローゼットからデニムのスカートとスカイブルーのカットソーのシャツを出しそれを身につけた。

そして階段を下りて再びダイニングに行き、冷蔵庫から母親が作ってくれた冷やし中華と朝ごはんの残りの野菜の煮物それとお漬物を出してテーブルに並べた。
コップに麦茶を注いで一口含みそしてご飯を食べはじめる。

食べ終わると何気なしにTVのスイッチをつけてみた。
画面にはお笑い芸人たちが楽しく話している場面が映っているけど、ボクの頭の中にはほとんど入ってこない。
ボクはボーッとしたようにただ画面を見ているだけ。
そして頭の中では朝からのことが走馬灯のように浮かんでくる。

(ハァ・・・)
なんかいろいろあった一日だな
ドキドキしたりホッとしたり

なんかこうしている自分が夢みたいで
本当はぜんぶ夢の出来事なんじゃないかとさえ思える。

でも、そう考えながらフッと下半身を見ると
そこには確かに女のコのスカートを穿いている自分がいるわけで
もしかしてボクはいま女装でもしているんじゃないかと思いそのスカートを少し上の方に上げてみると
そこには小さな可愛い女のコのパンツが見える。
それでもかつてはそこに小さくてもあった確かな膨らみは今はつるんとした丘のような形に・・・。
こうして現実をまざまざと見てしまうとボクは逃げようがない気持ちになる。

そんなことを考えているとインターホンが鳴り母親が帰ってきた。
「ご飯わかった?」
「ウン、ごちそうさま。美味しかった。」

母親はソファに座るボクの前に腰を下ろし学校でのことを尋ねる。
「今日はどうだった?」
「ウン、思ったよりずっとふつうだった。山岸先生もちゃんと説明してくれて」
「そう、よかったわネェ。まあとにかく性別が変わったってアナタはアナタなんだから、何も変わってないのヨ」

たしかに言われてみるとそうだ。
男だって女だってボクはボクで何も変わったわけじゃない。

「でも、今まで仲良かった安田や工藤は複雑そうな顔してたなあ」
「まあ、たしかに男友達が女友達になっちゃったわけだしネ(笑) でも、少し時間が経てばきっと安田君たちもまた話せるようになると思うわ」
「そうかなぁ・・・」
「お母さんはそう思うな。 そのときには昔とはアナタへの接し方が少し変わるかもしれないけど」
「接し方が変わるって、よそよそしくなるとか?」
「うーん、ちょっと違うかな。
異性としての接し方になるっていうのかな。話せることもあるし話せないこともあるし、一緒にできることもあるしできないこともあるしってこと。
ただ、それは彼らがアナタのことを友達だと思わなくなったからじゃないの。
異性のマナーみたいなもんかな。」

「異性のマナーかぁ…。」
「そう。逆に女のコだって男のコに対してマナーがあるのヨ。
幼い頃は男だって女だってなんでも同じことを一緒にできたけど、大きくなっていくと少しずつ分かれていくのねぇ。
でも、だからこそお互いを理解しようと努力する。
それが異性へのマナーなのかな。」

「なんかわかったような、わからないような・・・」
「まあ、とにかく娘は母親を見て育つって言うしね。女のコの先輩であるアタシをよーく見習うことネ」
「あれ、お母さんってまだ『コ』がつくわけ?」
「あったりまえじゃない! オンナは一生女のコなのヨッ!(笑)」
「アハハハーーーー。」



そしてその夜

ボクはお風呂から上がり洗面台の前で身体を拭きバスタオルを巻きつけ
フッと目の前の大きな鏡に映っている自分の身体に目をやる。

思い立って巻きつけているバスタオルを取ってみと、まだ小さな膨らみだけど、ボクの胸は乳首が大きくなり円錐状に突起してきているのがわかる。
クルッと後ろを振り返るとお尻の形も以前より少し丸く大きくなっているような気がする。
ほかの女のコたちもこうやって変わっていったのだろうか・・・。

パジャマを身に付けるとボクは自分の部屋に戻ってベッドの上に腰を下ろし、そしてふっと思い立って受話器を取り上げた。
かけた先は久美ちゃんだった。

「もしもし」
「あれ、凛。どうしたの? 電話くれるのって久しぶりだよネ?」
「ウン。ちょっと久美ちゃんの声が聞きたくなっちゃって。今だいじょうぶ?」
「だいじょうぶだヨー。ご飯食べ終わって自分の部屋で音楽聴いてただけだから。今日学校どうだった?」
久美ちゃんは隣のA組で今日は一日お互いに学校で見かけていない。
ボクはずいぶん長くなった髪を首を振って横に払いながら受話器を持つ手を変えた。

「ウン、思ったよりスムーズだったヨ。」
そう言ってボクは朝家を出てから学校までの道のり、そして教室に入って足の震えが止まらなかったことなんかをゆっくりと久美ちゃんに語った。
「ウン、ウン。そっかぁー。」
久美ちゃんはボクの話に楽しそうに相槌を打ってくれる。

「でね、そしたら突然ボクの隣の席の藤本さんって女のコが話しかけてくれたんだ。「友達になろうヨ!」って言ってくれて」
「ヘェー、良かったネー。 藤本さんってあの頭がよくって可愛い娘だよネ? たしかミコって呼ばれてるんだよね」
「そうそう。久美ちゃん、彼女のこと知ってるの?」

「あ、ウン。1年生のときアタシ、あの娘と同じクラスだったんだヨ」
「そうなんだ?」
「まあ、すごく仲良かったっていうんじゃないけど、会えばふつうに話すくらいかな」

「あのさ、もしかして・・・」
「ん、なに?」
「あ、ウウン。なんでもない」

「もしかして久美ちゃんがミコにボクのことを頼んでくれたの?」
ボクはそう言いかけて言葉を濁した。
そうだとしても久美ちゃんのことだから、きっと「アタシは知らないヨ」って言うと思ったから。

それから1時間ほど、ボクと久美ちゃんは夢中になっていろいろな話をした。
以前だったら安田や工藤なんかから電話があってもお互い用件だけ伝えて終わるみたいな感じだったのに、ただ話をするってことがこんなに楽しいなんてホント意外だった。

第4話 あっち側とこっち側

それから2ヶ月ほどが過ぎた。

ボクは3回目の生理を迎え、胸も円錐状から次第にお椀のように全体的な膨らみを持ち、そして身体つきは一層女性の傾向がはっきりしてきた。
それまで生理を安定させるため女性ホルモンを補助的に投与していたが、それも必要なくなって定期検査のため病院にはひと月に1回程度通えば良いようになった。

そして今日は生理2日目
こういうときの気の持ち方にも少しずつ慣れてはきたけど、それでもズーンとする腰の重さとチクチクと痛むお腹にはとどうしても気分が滅入る。
ボクは、昨日の夜母親に体育の見学届けを書いてもらい、朝のうちに女子体育の田所先生に提出することにした。

「身体の調子はどう?」
用紙を受け取った田所先生がボクにそう尋ねた。
「ハイ、少しお腹が痛むけどなるべく気にしないようにしています。」
「そうね。あんまりナーバスになっちゃうと余計気分が悪くなっちゃうから、あまり気にしないとように話をするとかしてるといいわヨ」
「はい、ありがとうございます。 じゃあ、今日の体育は見学でお願いします」

ウチの学校では体育の授業は2クラスが合同で男女に分かれてやる。
ボクのB組はD組と一緒にやることになっている。
そのため着替えはB組の教室で男子が、D組の教室で女子がそれぞれ行う。

ボクは今日の体育は見学だから着替える必要はないのだけど、まさか女子のボクがそのまま男子の着替えるB組の教室にいるわけにもいかない。
そこでボクも一応D組の教室に移動する。

体育の着替えでは最初戸惑うことも多かった。
女同士だし気にしてもしょうがないってわかってても、数ヶ月前まで男子として生活していたボクが彼女たちの裸を見てしまうこと女子は抵抗はないだろうかという心配もあった。
しかしミコたちはそんなこと全然気にしていない様子だし、それよりもむしろボクが自分の裸を恥ずかしがっていたことが多かった。
それはようやく女性として成長を始めた自分の身体を他の女のコたちと比べてしまっていたせいかもしれない。
それでも今ではもうほとんどそういう気持ちも薄れていっている。
最初の頃は円錐形の突起のようだったボクの胸も、最近は丸みを大きくして膨らみ始め、腰やお尻の形も変わっていったからだ。

教室の中ではボクの他にも何人かの女のコが生理時期らしく制服のままで着替えずに適当な椅子に座っていた。
そして着替えを済ませるとそれぞれ体育館に集合。

今日の体育は男子がバスケット、女子が跳び箱だ。
単調な跳び箱に比べてどう考えても男子の方が楽しそうだ。

「ああ、いいなぁ。アタシもあっちの方がいいヨォ。」
なんてブツブツ言ってる女子も少なくない。

ボクは体育館の隅に積まれたマットの上に腰を下ろして見学をすることにした。
すると、ボクの隣に一人の女のコが同じように腰を下ろした。
ふと横を見ると、それはボクのクラスの委員長の井川さんだった。

「一緒にいい?」
彼女はニコッと微笑み一言ボクにそういう言う。
「ウン、もちろんどうぞ」

ボクと井川さんは並んでしばらく跳び箱を順番に飛ぶ女のコたちの様子を見ている。
そのときボクはなぜか男子のほうにときどき目を移していた。

すると
「気になっちゃう?」
突然井川さんが突然ボクに話しかけてきた。

「エ、なにが?」
とぼけるようにボクは聞き返した。

「男子のほう。気になちゃうかな…って思って。」
「まあ・・・、気にならないっていうえば嘘になっちゃうかな。でも・・・」
「でも?」
「気になるっていうより何か不思議な感じがするの」
「不思議って、どういう?」

「何ていうんだろう・・・、ボクは、あ、ゴメン、アタシだった」
「フフ、まだ中々慣れないね(笑) それで?」
「えっとね、今までのアタシはあっち側(男子)のほうからこっち側(女子)のほうを見てたわけで、でも今は逆でこっち側からあっち側を見てるでしょ。なんかすごく不思議だなぁって・・・」
「そっかぁ。小谷さんの気持ちってなんとなくわかる気がする。でも小谷さんは本当は元々こっち側にいるはずの人なんだから」
「ウン、そうだネ・・・。 でもなんか不思議・・・」

「あ、そういえば藤本さんたちと仲良くなったみたいネ?」
「ウン。ミコたちにいろんなこと教えてもらっちゃってるの。この前もね、夜にミコと電話で話してたら1時間も話しちゃって(笑)」
「わぁー!すごいねー(笑)」
「ウン。 それで電話切って時計見たらもう夜の12時回っててね。次の日アタシもミコも2人で「ねむーい」って(笑)」
「アハハ。でもいい友達できてよかったネー」
「ウン。井川さんともこうやって話できるからすごく嬉しいなって思ってる」

「アタシも小谷さんと友達になりたいなぁって思ったんだヨ」
「ありがとぉー。
ホントは アタシ退院して初めて登校してきたときすごく不安だったんだ。
教室に入ったときみんなの前で足が震えちゃって。
でもそのとき井川さんが「小谷さん、座ろう。」って言ってくれてすっごく嬉しかった。 アタシでも女のコたちと友達になれるのかなって」
「小谷さんはもうみんなと友達だヨ。 小谷さんにとってまだ不安なこともあるだろうけど、スタートがほんの少し遅れただけなんだから。これから、これからだヨ」
「ウン」


ボクと井川さんがそんなふうに話していると体育館の反対側半分にいる男子のほうで突然
「わぁー!」
と女のコたちの歓声があがった。

するとボクたちのところにミコと久保ちゃんたちが駆け寄ってくる。
「凛、男子のほうで最後にクラス対抗でバスケの試合やるんだって!見に行こうヨ!」
そう言ってミコはボクの手を引いた。

「わぁー、アタシも見に行っちゃおう。小谷さん、行こう?」
井川さんもボクの背中を押してそう言う。
「ウ、ウン」

男子のコートの周りはもうたくさんの女のコが囲んでいる。
「加藤くーん!がんばってー!」
「小山内くん、ファイトー!」
女子の何人かが人気の高い男子に声援をおくっている。
ふっと見るとメンバーの中には工藤と安田もいる。

「凛、仲良かった男子に声かけてあげなヨ」
ミコがニヤニヤした顔でボクのほっぺを人差し指でつつきながら言う。

「エー、アタシなんかが声かけたらアイツらだって迷惑なんじゃ・・・」
「そんなわけないじゃん!きっと喜んで張り切っちゃうヨ。サア、早く!」

そしてミコに急かされるように安田と工藤の名前を叫ぶ。
「安田ーー、工藤ーーー、がんばれぇぇーーー!」
するとそのボクの声に2人はくるっとこっちを振り返り大きく手を挙げてガッツポーズを取った。


「それではB組VSD組の試合を行う。」

そして
ピィィィーーーーーーー!!
っと審判役の先生のホイッスルが鳴った。


ダンッ!ダンッ!ダンッ!
ボールをバウンドさせる音が体育館の中に響く。
ダンッ!
そしてジャンプして投げ出されたボールはバサっと音を立ててゴールへ。

「キャァァァーーーーー!!!」
コートの周りの女のコたちから一斉に黄色い声が飛ぶ。

すごいっ!
これが男子の試合なんだ。
やっぱり女子と迫力が全然違う。

試合は全体的に身長の高いD組有利に進んでいった。
しかしそのとき
工藤が相手のこぼしたボールを素早く取り上げ、ダンッ!ダンッ!とバンドさせたままゴールへと一直線に向かう。

工藤!
がんばれっ!
そのままいけぇぇーーー!
ボクは心の中でそう叫んだ。

そしてゴール前で工藤は大きくジャンプ!
彼の手から離れたボールはゴールのリングにひかかって上にワンバウンド、そして吸い込まれるように入っていった。

その瞬間ボクは自分でも信じられないことに
「キャァァァーーーー!! やったぁぁーーーー!!」
と声を上げてしまった。
すると工藤はボクの黄色い声にぐっと力こぶを作って応えてくれた。


ピィィィーーーーーーーーーーー!
「終了ーーーーー!!」

試合はわずかに及ばずD組の勝利だった。
でもみんな精一杯頑張ったいい顔だ。

試合が終わったあと工藤と安田がボクの顔を見てそばに寄ってきた。
「よぉ、哲・・・じゃなくて小谷さん」
工藤が汗でいっぱいになった顔をタオルで拭いながらボクに声をかける。
「俺たちどうだった?」
安田が試合の興奮で顔を真っ赤にして尋ねた。
だから、ボクは今ボクの前にいる最高に素敵なこの2人の男のコに、ボクにできる最上の笑顔でこう言ったんだ。
「ウン!2人ともすっごいカッコよかった!」
そんなボクの言葉に2人は「へへへ」という感じで照れたような顔をした。


ところで最近この2人はボクのことを『小谷さん』と呼ぶ。
ボクとこの2人との付き合いはけっこう長く中1のとき同じクラスになったことにはじまる。
とくに安田とは小学校でも5年生のときから同じクラスだった。
そしてこの2人はつい数ヶ月前まではボクのことを『哲ちゃん』と呼んで付き合ってきたわけで、そのボクが「実は女のコだった」ということになったって、いくらなんでも変わり身が早すぎじゃないの?って思ったりした。
そしてその理由はつい最近わかった。

ある日、ボクは日直当番で社会の先生に頼まれて授業の前に両手で抱えるほどの大さの地図と資料を持ち教室へと向かっていた。
そして階段の踊り場でばったりと会ったのがこの2人。
すると工藤はそんなボクにこう言った。
「小谷さん、そんな大きなの持ちながら歩いて転んだら大変だよ。」
そしてこんどは安田がこう言う。
「オレが地図を持ってあげるから。」

ボクは不思議そうな顔をして言った。
「なんか最近キミたちってアタシにすごく優しいよね? それに昔はいつも『哲ちゃん』って言ってたじゃん」
すると工藤は
「だってなぁ……。」と困ったような顔をする。
安田は
「今更女のコに『哲ちゃん』なんて呼べないし、それに……なあ、工藤?」と何やら恥ずかしそうな顔をした。
工藤も
「ああ・・・」と返事をするだけ。

「それになにヨ?」
ボクはどうしても理由が知りたくなってさらに突っ込んで聞いた。
すると工藤は観念したようにこう話してくれた。
「ほら、先々週の土曜日に五小と合同で学芸発表会があったろ?」
「ウン、あったねぇ」

そのときボクはハタっと思い出す!
ん?もしかして・・・
ああああーーーーっっ!!

そう
ボクは記憶の奥に閉じ込めようとしてきた『アレ』を思い出してしまった。


*****************************************************************************************

ボクの中学では2年に1回の割合で近所にある第五小学校と中央小と合同で学芸発表会をやる。
これは同じ学区にある小学校と中学が劇や音楽などを通じて交流するもので、毎回両校の関係者や父兄などもたくさん来ていた。
今年はウチの中学がホスト校で、体育館や教室などを使って行われた。

そのときボクとこの2人はたまたま実行委員をやっていたのだ。
間もなくお昼どきという時間になり、ボクとこの安田と工藤そして数学の木内先生(男)は先生方や来賓の人たちに出すお弁当と飲み物の準備をしていた。
体育館の隅に業者から届けてもらったお弁当を積み上げ終わるとそこに他の実行委員の生徒たちが買ってきたブリックパックの飲み物が届く。
そこにはお茶や烏龍茶やオレンジジュースなどがごちゃまぜになって詰められていた。

「やっぱりお茶を欲しがる人が多いよな?」
「まあ、お弁当が和食だからねー。」
「適当に並べて好きなのを取ってもらえばいいんじゃねーの?」
「いやいや、種類を分けて置かないと間違って嫌いなものを取っちゃう場合だってあるだろ。」

そんなことを打ち合わせていたら、五小の子らしい、4,5年生くらいのわりと可愛い感じの男のコ3人がボクのところに寄ってきた。
「ネエネエ、お姉ちゃん。」
そのうちの一人がボクのスカートを引っ張って声をかける。

「あ、ゴメンね。いまお姉ちゃんたち打合せしてるから、ちょっとだけ待っててもらっていい?」
ボクはそう言ってまた安田たちの方を振り返った。

するとそのときだった!!
3人の男のコは声を揃えて
「せーーーのっ!」というと
次に「それーーーーー!!!」という言葉とともにボクの前の視界は紺色の布で覆われた。

一瞬何が起こったのか理解できなかった。
そしてそれが自分のスカートであることがわかったときはもう手遅れだった。
このガキどもは3人がかりボクのスカートをバーーーっと上までまくりあげやがったのだ!!

「ほらーーー!オレの言ったとおりだろーーー!ピンクだ!ピンクーーー!」
「けっけっけけーーーー!オレの勝ちだねーーーー!」
「ちっくしょぉぉーーー!大人しそうな顔してたから絶対白だって思ったんだけどなぁぁーーー!」

そう言ってこの3人のクソガキは脱兎のごとくその場を逃げ出す。


そしてその瞬間
「キャァァァーーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!!」
ボクは無意識に体育館の中をつんざくような叫び声を上げてその場に座り込んでしまった。

ちっくしょおーーーー!!
このガキども、ボクのパンツの色で賭けをしてやがったのかぁぁーーー!!
あああ、男にパンツ見られたぁぁーーーーー!!!

ボクはハッと我に返って目の前を見ると、安田と工藤そして木内先生の3人はポカーーンと大口を開けたままボクを凝視している。
そしてボクは目の前にいる3人の顔をジィーーッ!と見返した。

すると3人は急に目を泳がせるようにキョロキョロとし始める。

安田は
「あ、あれ! オレさあ、最近勉強のやりすぎなのかな?最近1m先もぼやけちゃって!!」
と呂律のはっきりしない口調で言い出すし

工藤は
「あ、ああ! オ、オレもなんだヨ!! ハハハ、合わねーことはするもんじゃねーな!!」
と引きつって答える。

そして木内先生に至っては、思いついたように、そしてわざとらしく
ポンッ!
と手を鳴らすと
「お、お、おっと、先生、別の用事思い出しちゃったぞ! じゃ、そういうことであとは頼むぞーーー!!」
と逃げ出してしまった。

安田よ
オマエ、ついこのまえ
「5m先の他人の答案用紙の答えも見えるぜ!」
って豪語してたよなぁ!

ボクはそのとき
「もぉ!やだぁぁーーーーー!!!」
と叫びその場で泣き出してしまった。

それに気づいたミコと井川さんが寄ってきてくれてボクを女子トイレに連れて行ってくれるまで、
まるでボクは小さな少女のように両手で顔を抑えて泣いていたんだ。

そして
そんなボクを見て、
安田と工藤は自分たちの知っている昔の『哲ちゃん』との決別を決心したらしい。

第5話  アナタが現れて…

女のコとしての生活を始めて半年が経った。
そしてボクも3年生
いよいよ受験生だ。

最近では女のコの言葉遣いや習慣にもけっこう慣れてきて、女友達の幅も広がった。
それでもボクにとってミコは特に仲がいい、大切な友達だ。

彼女は一言で言うとオープンで気さくな性格、わりと他人のことを気にしてしまうボクとは対照的な気がするんだけど、ボクたちは実際気が合っていると思う。
ボクはミコになんでも相談できたし、ミコもボクに自分の気持ちをよく話してくれる。
そして、今では学校以外でも休みになるとボクとミコはほとんど毎週のようにお互いの家をを行き来したり、また図書館に行ったりしながら同じ時間を過ごしている。

じつは最初の頃、ミコがボクと友達になってくれた代わりに彼女のことを独り占めしてしまっているんじゃないかなんて心配したりもしたけど、以前一度そのようなことをミコに話して彼女に怒られたことがあった。
「アタシは凛と一緒にいてすごく居心地がいいんだヨ。凛もきっと同じ気持ちだって思ってたけど、そうじゃないの?」
そう言われたとき、ホントに嬉しくて涙が湧いてきた。
「ゴメンね、変なこと言っちゃって。 アタシも同じ。ミコと一緒にいれてすごく楽しいんだ」
そのときボクは、安田や工藤たち男友達と違う、自分にとってミコは何か心を分け合えるような、そんな存在に思えた。

今日もボクとミコはこうして2人で図書館に来て勉強をしている。
ボクたちの行動パターンはいつもほとんど一緒だ。
お互いに家でお昼ご飯を食べた後に1時から近所の図書館の前で待ち合わせをする。
そして夕方頃まで勉強をすると帰り道に近くのクレープ屋さんに寄ってとりとめもない話に花を咲かせる。
ボクも昔から甘いもの好きだったから勉強が終わった後のこの店の生クリープたっぷりのチョコバナナクレープは楽しみだった。

ミコと仲良くなる前は、ボクから見て彼女は学校ではそれほどガツガツと勉強する素振りがない
休み時間にはいつも女のコ同士でワイワイと話をしている
それなのにテストではほとんどの教科でトップクラスという完全無欠のタイプに見えた。

以前は男子生徒として彼女の隣の席に座っていたボクは「頭のいい人は勉強しなくても成績がいいんだな」なんて思ったりもしていた。
しかし実際のミコはすごく努力家で、自分にとても強い女のコだってことがわかった。
そんなミコに多少刺激を受けたのか、2年生の始めの頃はクラスの中でも中の上くらいをウロウロしていたボクの成績も最近けっこう上昇している。

そして今日もいつものクレープ屋さんで、
ボクはいつものチョコバナナ、ミコはやっぱりいつものストロベリーチョコを頬張っていると、ミコは突然こんなことを聞いてきた。
「ねぇ、凛はもう志望校って決まってるの?」

ボクは口の中に入っているクレープをごくんと飲み込むと少し考えて
「ウーン、まだどういう学校があるのかよくわかってないけど。でも、都立だったら白洋高校かなぁ。私立は…どうなんだろう。ミコは?」

「アタシは第一志望は青葉学院高等部!もう決めてるの。」
ミコはハッキリと言い切った。

「青葉かぁー、さすがミコだよネ。」
青葉学院高等部は渋谷にキャンパスがある青葉学院大学の付属校で、卒業するとほとんどの生徒が青葉学院大学に進学する学校だ。高等部のキャンパスも大学のキャンパスと同じところにあって、東京の高校のイメージリーダー的存在として昔から人気がとても高い。
そういえば病院で一緒だった芦田さんは青葉学院大学の学生だって言ってたっけ。

するとミコは突然ボクの方に乗り出してきてこう言った。
「ね、凛も一緒に青葉を目指そうよ!?」

「エー!アタシは無理だヨォー。 あそこって偏差値が最低でも70ないと無理じゃん。 ミコは行けると思うけどアタシなんかじゃとても無理、無理(笑)」
そんなボクの言葉にミコはちょっと口を尖らせて
「そんなことないヨォー! 凛だって今はクラスの中で10番以内に入ってるはずだヨ? 受験までまだ10ヶ月あるんだもん。これから頑張れば受かる可能性は十分あると思うな。それに凛ってすごく勘がいいし、本気になれば一気に成績伸びるって思うの!」
とミコにしては珍しく強引な主張を始めた。

「ウーーーーン・・・」
ボクは小さく唸って考える。
まあ頑張ってみることは損じゃない。
一生懸命勉強して成績が上がれば青葉は無理でも他の学校には受かる可能性が高くなるし。

「よしっ! じゃあ、アタシもダメもとで目指してみようかな!」
「わぁーい!やったぁーーーー!」
そう叫ぶとミコは両手を挙げてボクに抱きついてきた。
「頑張ろうネ! 絶対に2人で同じ高校に行こう!」
「オーーーーーッッ!!」

そんなふうに女のコとしてのボクの生活は少しずつ一本の川の流れのようなものを作っていった。
ただ、そうした女のコとしての人生という川の流れと別の川を見つめているもうひとりのボクがいるような気がするんだ。
そんな頃、ボクの周りにあるひとりの男のコが現れる。

それは3年生になったばかり
5月のある日のことだった。

その日ボクはいつも一緒に帰るミコが放課後の委員会に出席していたためひとりで帰ろうとしていた。
すると正門のところで偶然久美ちゃんの後ろ姿を見かける。
久美ちゃんは昔から見慣れたポニーテールの髪を揺らして歩いていた。

「久美ちゃーん!」
ボクは彼女の後ろ姿に声をかけた。
すると久美ちゃんはくるっと振り返って
「わぁー、凛! 久しぶりー。」
と笑顔で答えてくれた。

「今日はミコと一緒じゃないの?」
久美ちゃんがボクにそう尋ねる。
「あ、今日は委員会で遅くなるんだって」
「そうなんだぁー。 じゃあ、一緒に帰ろうか?」
「ウンッ!」
そしてボクたちはお喋りをしながら肩を並べてゆっくりと歩き始めた。

「こうやって2人で帰るのってすごく久しぶりだよネ?」
久美ちゃんが懐かしそうに言った。
「そうだよねぇ。小学校の時以来?」
「ウン、そうかも。昔はいつも一緒に帰ってたのにね(笑)」

「そう、そう。 それにまっすぐ帰らないでいつも帰り道で寄り道して遊んでさぁ。 家に帰ると「遅いっ!」って親に怒られて(笑)」 
「アハハ。そうだったねぇ。 ほら、あの赤いブランコのある小さな公園覚えてる? そこでいつも帰りに遊んでたじゃない?」
「あー、覚えてるー! そういえばあの頃ってアタシと久美ちゃんの他にももうひとりよく一緒に遊んでなかったっけ?」
「ああー、いたねー! エット、誰だったっけ? ほら、小5のとき大阪の方に転校してっちゃった男のコ」

「エットね…、なんて言ったっけ…。ワタ…ル、だっけ?」
「そう、そう! ワタル君! たしかイシカワ ワタル君だよ」
「ウン、ウン! 懐かしいなぁー。 そういえば3人で釣りに行ったりしたよね? アイツってすっごい負けず嫌いでさ、釣りでアタシに負けてすっごい悔しがってた(笑)」

「行ったねー! この3人で遊ぶ時って男のコ2人に女のコはアタシだけだったからさぁ、いつもアンタたちの意見ばっかり通っちゃって。「アタシの意見もちょっとは聞いてヨー!」って怒ったこともあったじゃん(笑)」
「アハハハ、あった、あった! でももし今だったら逆転できるんじゃない?」
「そうだねー!なんたってこっちは女のコ2人になったんだから(笑)」
「アイツって今頃何してるんだろう? 元気かなぁ」

そんな話をしながらボクたちが商店街の入口に差しかかったときだった。
すると、通りの向こうから細身の身体で背が高くて、さらさらした髪の毛の男のコが歩いてくるのが見えた。

そしてボクたちがその男のコとすれ違ったそのとき
「アレっ! 久美ちゃん? 久美ちゃんやろ?」
その男のコはボクたちの方を振り返ってそう叫んだのだ。

ボクたちは驚いたようにそこ場に止まった。
「久美ちゃんの知ってる人?」
ボクは久美ちゃんの耳に手を当てて小さな声で尋ねる。
「ウウン、ぜんぜん知らない」
久美ちゃんも同じように小さな声で答えた。

もしかして新手のナンパとか?
久美ちゃんのカバンかどこかに名前が書いてあってそれを見て声をかけたとか・・・。
ボクと久美ちゃんは訝しそうな目でその男のコを見つめる。

するとその男のコは陽気な声でこう言った。
「ボクやぁー!石川 渉やがなぁーー!」
「あああああーーーーーーーーーっっ!!」
ボクと久美ちゃんはほとんど同時にその男のコに向かってそう叫んで指をさした。

その男のコはボクの方を見て
「ん? こっちは久美ちゃんの友達の娘かいな? はじめまして、ボク、久美ちゃんの幼馴染で石川 渉いいます。 どうぞよろしゅう」
そう言ってとぺこっと挨拶する。

ボクはどう返事したらいいものかわからない。
とりあえず
「ドウモ…」とだけ言ってペコッと小さく頭を下げた。

「いやー、しかし懐かしいなぁー! 久美ちゃん、元気やったか?」
「ウン。ワタル君も元気そうだネ。でも、こんなとこでどうしたの?アナタって大阪に転校したんじゃなかったっけ? あ、もしかして家出でもしてきたとか・・・」
「そんなわけあるかいなーーーっ!(笑) ボクな、お父ちゃんの転勤でまたこっちに戻ってきたんや。それで今日は転校の手続きした後制服のボタンとか買ったん」
そう言って彼は買ってきたボタンをボクたちに見せた。

「ヘェー、そうなんだぁ。 じゃあ、そこのお店でボタン買ったってことは、もしかして若松中学とか?」
「ウン、そうや。もしかして久美ちゃんたちも若松中なんか?」
「そうだヨ。じゃあ一緒だネー」

「わぉー、そらラッキーやわ。あ、そや! ところでな・・・」
ワタルは思い出したように言った。
「ウン、なに?」
「アイツ! ホラっ、哲、小谷 哲や!どうないしてる?アイツ元気か?」

「エ、あ、哲ちゃん・・・ね」
「ウン、そうや。その哲や。転校する前に3人で釣りに行ったやろ?あのときアイツに負けてまだ雪辱戦してないねん。今度こそは絶対負けへん思ていろいろ研究もしたんや。なあ、久美ちゃん。アイツも同じ中学なんか?」
「まあ、ウン。そう・・・ね」
「なんや、はっきりしないなあ?」
久美ちゃんの返答にワタルは不思議そうに聞く。

すると久美ちゃんは返事に困ったようにボクの方をチラッと見た。
言葉を交わさず目で意思のやり取りをするボクと久美ちゃん
その間わずか1秒ほど
女のコだけが持ってるウルトラエクセレンス
スーパテレパシー(古っ!)

「どうする?凛」
「いいヨ。あとでショック受けないように今話しちゃおう」

決意を固めたボクたちはワタルの方をまっすぐ向く。
そして久美ちゃんは彼にこう言った。
「そんなに哲ちゃんに会いたい?」

「あったりまえやがなー。ボクはずっとこの日を楽しみにしてたんや。 で、今ヤツはどうしてるんや?」
「今、アナタの前に・・・」
久美ちゃんはそう言ってボクの方をちらっと見る。
「は? 今ボクの前にいるんは久美ちゃんとこのおねーちゃんの2人だけやんか?」

「そうネ。だからこの娘が・・・」
「この娘が?」

「哲ちゃんなのヨ」
「はいいい??」

「だから、この娘が哲ちゃんなのっ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれや。ボクの記憶やと、たしか哲は男だったはずやけど、この娘はどこを見ても女のコにしか見えんど?」
どうも彼の頭の中はパニックを起こしているみたいだ。
まあ、無理もないよね。

そこでボクはワタルに向かって小さな声でこう言った。
「ヨォ、ワタル。ひさびさ」

するとワタルは一瞬ポカーンとした顔をして、そしてその次にはボクの顔に自分のかをグッと寄せてこう言った。
「そ、そういえばなんとなく哲の面影が・・・。おおおおっっ!哲、オマエどうしちゃったんやぁー!?そんな姿に!もしかして最近よく聞く性同一性なんかっていうーーー」
「ちがぁぁぁーーーーうっ! 哲ちゃんをそんな変なのと一緒にしないでっっ!!」

「でも、なんで男だったはずの哲がこんな女のコに?」
「それはね、じつは哲ちゃんは本当はもともと女のコだったの」
そして久美ちゃんは今までのボクのいきさつをワタルに説明した。

「ホェェェーーーーーー!! そんなことってあるんやぁ? なんか信じられん話やけど、でも確かにこのおねーちゃんは哲やな」
「そうヨ。だからもしこれから3人で遊ぶときには前みたいにアンタの好きにはならないわヨ。なんたって今度は女のコ組はアタシと凛の2人だからアンタは少数派なんだからネッ!」
「そっか、哲は凛って名前になったんか。じゃあ、ボクもこれからは凛って呼ぶことにするわ!」
「女同士だから呼び捨てにしてるの! アンタはちゃんと凛ちゃんって呼びなさい!」
久美ちゃんがキッとしたような表情で言うと
「へーーーい!」
ワタルはおどけるようにそう返事をしたのだった。


こうしてボクはある日突然に昔の幼馴染との再会を果たしてしまった。
そしてワタルがボクたちの中学に転校してきたのはその翌週のことだった。

月曜日の朝のホームルームの時間
担任の山岸先生は教室に一人の転校生を連れてきた。

「今日からこのクラスの仲間になります石川 渉君です。 それじゃ、石川君。挨拶して」
「エー、石川 渉いいます。大阪からやってきました。でも小学校の時はこっちにいて、五小に通ってましたんでボクのこと知ってる人も何人かいると思います。 好きなスポーツはサッカーです。友達百人作れるかなって気持ちでみんなと早く仲良くなりたい思ってます。どうぞよろしゅう」

たいていの転校生は最初は大人しそうに猫をかぶってるもんだけど、ワタルは図々しいくらい堂々とした態度でそう挨拶した。
小学校時代から知っている安田などはワタルの再来に嬉しそうだ。

ボクの身長は155センチ
女のコの中でも真ん中よりちょっと後ろくらい。
それに対してワタルは175センチは超えている感じ。

小学校の時はクラスで一番小さくて『まめぞう』なんて呼ばれてたくせに、たった3年間ちょっとでなんでこんなになっちゃったんだろう・・・。
その上、なんかすっきりした感じの爽やか顔だし、さらに髪の毛はサラサラヘア。
なんかボクの記憶にある昔のワタルとあまりにかけ離れているような・・・。

アイツってこんな格好良かったかなぁ?
でもボクのことも久美ちゃんのこともちゃんと覚えてたし、釣りのことも・・・
ただし、この図々しい性格だけはボクの記憶の中のワタルとだぶっている。

(へぇ、男のコってたった3年でこんなに変わっちゃうもんなんだなぁ……)
自分がわずか数ヶ月前まで男として生活していたのになぜか感心してしまう。

そんな感じだから、クラスの女のコたちのいたるところから
「ねぇ、なんかカッコ良いくない。」
「やった!うちのクラスで久々のヒットじゃん!!」
なんて声がヒソヒソと聞こえてくる。

「えっと、じゃあ石川君はあそこの席に座ってくれる?」
そう言って山岸先生が指差したのは、女子の列の最後尾にいるミコの隣の席。

ワタルはその席に向かう途中、小学校時代同じクラスだった安田は
「よお、ワタル。また一緒に遊べるな。」
と言って握手なんかしている。

そして自分の席に着くとミコの前の席に座るボクに
「凛ちゃん、よろしゅうな。ところで久美ちゃんは同じクラスやないんか?」
と言ってきた。

「久美ちゃんは隣のA組だヨ。あとで行ってみたら?」
ボクがそう答えると、
後ろの席のミコは
「あれ、凛の知ってる人?」
と尋ねる。
「あ、ウン。アタシの小学校の時同じクラスの友達だった人なの。」
ボクがミコにそう言うとワタルは
「あれ、冷たいなぁー。今でも友達やで」
と飄々とした顔で笑った。
その姿を見てミコがクスクスと笑う。
「おおっ、ずいぶんべっぴんさんやな。石川です、よろしゅう。」
「藤本です。よろしく」

こうしてボクの周りにちょっと変わったヤツが出現したのだった。

第6話 思い出のディズニーランド

それはワタルが転校してきて2日目
英語の授業でのことだった。

「それじゃ、今日は先週予告したとおり単元テストをやります」
「あ、石川君は今回のテストの結果は評価対象にしないから、とにかく気楽に受けて頂戴。」
そう言って山岸先生は手に持ったテスト用紙を各列の一番前に座る人に渡して、一枚ずつ取っていくように指示した。

一単元ごとのテストだから範囲も決まっていて内容もそれほど難しいものではない。
ボクは最近のミコとの勉強の成果でかなりスラスラと解けていった。

終わったあとミコが
「凛、どうだった?」
と聞いてきたのでボクは小さくピースサインを出して彼女の耳に囁いた。
「ウン、けっこうできた感じ。やっぱりミコの教え方がいいのかなぁー」

フッと斜め後ろの席に座るワタルを見ると彼はシャーペンを指でクルクルと回している。
テストなんかぜんぜん気にしていない様子だ。

まあアイツって昔から勉強嫌いだったしなぁ・・・。
小学校の頃だって3人の中で久美ちゃんが一番成績が良かったけど、ボクだってそんなに悪い方じゃなかった。
でもワタルときたら予習も復習もぜんぜんやらない。
当然宿題だってほとんどといっていいほどやってきたのを見たことがなかった。

そういうとこはぜんぜん変わってないなぁ…(笑)
ボクはあの頃のワタルを思い出しながらクスクスと笑ってしまう。

しかし数日後
ボクのこの思い込みは大外れだったことがわかる。

「エー、それじゃこの前のテストを返します。」
山岸先生はそう言ってあいうえお順に名前を呼んで答案用紙を返却していった。

「エット、小谷さん。」
「ハイ!」
そう言って受け取った答案用紙を見るとなんと94点!

やったぁー!
英語は割と得意な方だけど、2年生の時の単元テストでは70点くらいをウロウロしていたボクだった。
最近は80点以上を安定して取れるようになって、そして今回はなんと94点!

「わぁー、凛。すごい上がったじゃん!」
ボクとミコはお互いの用紙を見せ合ってミコはすごく喜んでくれた。

ミコはさすがというか、100点満点。
彼女の単元テストは95点以下を見たことがない。

そしてワタルのほうをちらっと見ると、アイツは返してもらった用紙をくるくると丸めて望遠鏡みたいに周りを覗いている。
そういえばアイツは小学校の時もテストを返してもらうといつもこんなふうにイタズラをして用紙をぐちゃぐちゃにしそのまま隠して親に見せなかったりしてた。

フフフ・・・
きっとめちゃくちゃな点数だったんだな。
ボクはクスッと小さく吹き出してしまう。

全員に用紙を返し終わると山岸先生はパンパンと手を叩いた。
「ハイ、みんな静かにして! 今回はみんな割と出来が悪かったわね。ちょっと難しい問題も混ざってたけど、基礎問題がほとんどなんだから家に帰ってしっかり復習しておいて頂戴ね。 今回の平均点は58点、最高点は100点で3人います。」

満点は3人
ということは一人はミコでしょ
あとはやっぱり井川さんだろうな
それじゃあと一人は…英語の得意な佐和ちゃん?
それとも上条あたりだろうか?

「満点は藤本(ミコ)さんと井川さん・・・」
ああ、やっぱり。
じゃあ3人目は誰だろう?

「それと石川君ね。以上3人が満点でした。石川君、アナタ、すごいわね。」

エエエエエーーーーーーーッッ!!
ワタルが満点!?
クラスの中がざわっとする。

「うそぉーーー!」
「すごいネー!勉強もできちゃうんだぁ!」
女のコたちがワタルに対して一層色めき立つ。
ミコもちょっと意外そうな顔をしてワタルを見ている。

ちらっとワタルのほうを横目で見ると、アイツは飄々とした顔で照れる素振りもない。

「な、なんか悔しい。あのワタルに負けてしまった…。」
アイツの当然という表情にボクはなぜか腹が立つ。

そして授業が終わると女のコたちがワっとワタルの周りに集まってきた。
「石川君、すごいねー。」
「ねえ、今度わかんないところ教えて?」
なんとワタルはたちまちクラスの女のコの憧れの的になってしまったのだった。

ワタルの存在は瞬く間にほかのクラスにも拡散していき、そのうち
別のクラスの女のコがウチの教室までアイツを見に来るようになった。
しかも不思議なことにアイツは男子にも人気があった。
そういう転校生が現れるとふつう同性の男子には妬まれて敵意を持たれるものだけど、勉強にぜんぜん関心がないようなアイツの雰囲気で男子にも次々と友達を作っていったのだ。

休み時間が終わる頃、アイツの周りに群がっていた女のコたちがようやく離れて席に戻ってきたワタルに
「ふぅん、おモテになりますワネ?」
ボクはイヤミっぽくそう言ってやった。

すると
「凛ちゃん、もしかして妬いてるん?」
ワタルはニヤッと笑ってそう返してきた。

カチンっ!

「な、な、なーーんで、アタシが昔は同性だった男友達に妬かなくちゃなんないのっ!?」
するとワタルはやはり飄々とした顔でこう返しやがった。
「そやかて、今はもう凛ちゃんは女のコやん。 それに昔だってホントは生まれた時から女やったくせに」
「そ、それはそうだけどっ!でっ、でも・・・!!」
「でも?」
ワタルは意地悪そうな目をしてさらにボクを追い詰めようとする。
「幼馴染は対象外っ! そんな気にはなんないのっ!」
ボクがそう言うとワタルはいきなり笑い出した。
「ワハハハーーーー、なーんや、そっか!」

そして
フッと見るとミコは、なぜかボクたちの会話をクスクスと笑いながら見ていた。



その日の放課後
ボクは先生に用事を頼まれたミコを1階の下駄箱のところで待っていた。

するとそこに
「あれ、凛ちゃんやんか?」
そう言って声をかけてきたのはワタルだった。

「もしかして誰か待ってたんか?」
「ウン。ミコをね。」
「なーんや、残念(笑)ボクやなかったんか」
そう言ってワタルはクスッと小さく笑う。

「キミはかなーりモテてるご様子ですからー、一緒に帰ったりしたらほかの女子から恨まれちゃいそう」
今度はボクがにやっと意地悪そうな目でそう言うと
「ワハハハーーーー!」
アイツは誤魔化すように笑った。

「じゃあ、ボクは帰るわ」
そう言ってワタルが下駄箱のフタを開けたとき
「イテッ!!」
ビクッとして彼は手を引いた。
「ど、どうしたの?」
ボクが近寄ってワタルが抑えた方の右手を見ると、親指の先からは血の筋が流れている。

するとワタルは下駄箱の蓋の先のところを持ち上げて
「ああ、ここのところのネジが外れて先が出てしまおうてるなー。」
そう言うと彼はその血の流れる自分の親指を咥えて唾をつけた。

「こんなのなんでもないわい」
そしてクルッと振り返って出口に向かって歩きだそうとしたとき
「待って」
ボクはそう言ってワタルを呼び止た。

「キミはお勉強は得意になったみたいだけど、そそっかしいのは昔のままだネ」
そして、自分のカバンの中に入っている小さなポシェットからバンドエイドを出した。
「ハイ、こっち向いて指出して」

ワタルは少し照れたような顔で怪我をした右手の親指を前に差し出す。
「これでオッケー。 こういうのは馬鹿にしてそのままほっておくとばい菌が入っちゃうんだヨ。 家に帰ったらちゃんと消毒しておくんだヨ?」
「あ、ああ。ウン。ありがと…」
ワタルは一言そう言うと、なぜかボクの顔から目をそらした。


それから半月ほど経ったある月曜日
ボクが教室に入ると
「あ、凛。 あのさぁ、今度の日曜日って何か用事ある?」
そう言ってミコが声をかけてきた。

「日曜日? エット、多分何もないと思うヨ」
「じゃあさ、ディズニーランドに行かない?」
「ディズニーランド?」
「ウン、そう。今年は受験生じゃん?だからさ、忙しくなってくる前にみんなで思い出を作ろうよっておことになってさ。」

ディズニーランドかー。
なんかすごいひさしぶりだな。
たしかこの前行ったのは悟がまだ小学校に入ったばっかりのときだった。
父親と母親とボクと悟の4人で、ディズニーランドのすぐそばのホテルに泊まって一日中遊んだっけ。

「ウン!いいねー。誘ってくれてありがとぉ」
ボクは喜んでOKする。

するとその横でボクたちのそばでその話を聞いていた井川さんが
「わぁー、いいなぁー。アタシも誘って?」
と楽しそうな顔で言ってきた。

「あ、ウン。もちろん、楓ちゃんが一緒ならもっと楽しいから嬉しいけど。でも、いいの?」
ミコはそう井川さんに尋ねる。
「いいの、って?」
井川さんはちょっと不思議そうな顔で聞き返す。
「だって、楓ちゃん、塾を掛け持ちしてるんでしょ?」
「ああ、ウン。ぜんぜん大丈夫!ディズニーランドと聞いちゃ黙ってられないわ。それにアタシだって中学生の思い出を作りたいもんっ!」
井川さんは、そう言ってニコッと微笑んだ。

「じゃあメンバーは、女のコはアタシと凛と楓ちゃんと久保ちゃん、奈央の5人ね」
「女のコはってことは、もしかして男子も誰か誘うの?」
ボクが不思議そうにミコに尋ねると
「ウン。そうだヨ。男子はね、安田君と工藤君、安西くん久坂君、それと石川君でーす。楓ちゃんが入ってくれたからこれで5VS5になったわ」
ミコはニッコリと笑ってそう言った。

「エ、ワタルも?」
ボクは少しびっくりして言うと
「ウン、そうだよ。もう男子に声かけてあるからネ」
そう言うミコはなにやら楽しそうにだった。

そういえば
中2の夏休みのとき計画していた
そして『あの入院』で潰れてしまった
男女合同のディズニーランド
あのときは初めての女のコとの集団デートのはずだったけど
それが奇しくも今回は男のコとの集団デートとなって実現することになって
ボクは思わずクスッと笑ってしまう。



そして日曜日

ボクは朝から母親のおもちゃになってしまっている。
母親は楽しそうにボクにクリーム色の生地にイニシャルの入ったトップスそして赤地に白いドットの散らされたシフォンのミニスカートを勧め
最後にボクの唇に薄いピンクの口紅を引いた。

「せっかくの思い出だから、少しくらいオシャレしていっていいんじゃない?」
母親はそう言って肩下まで伸びたボクの髪を優しくとかし、サイドを編み込み後ろでまとめるとそれに茶のバレッタを止めた。

「さあ、ご覧なさい」
母親に言われてドレッサーの前に立つと
「ワァ・・・」
そこにはファッション雑誌から抜け出たような女のコが立っている。
思えば、ボクはこのとき初めて女のコのオシャレの楽しみというものを感じたのかもしれない。
それは鏡の中にもうひとりの自分を発見するような
そんな感覚だった。

「はい、お小遣いだけじゃ足りないでしょ?」
そう言って母親はボクに2万円のお金を渡してくれる。
「わぁー、ありがとぉ! じゃあ、行ってきます」
こうしてボクはウキウキする気持ちを抑えきれず足早に家を出た。

約束の時間は朝8時半。
待ち合わせ場所にした最寄り駅の改札前の広場に着くとすでにミコと井川さん、そして男子の何人かが来ていた。

「おはよぉー、ミコ、井川さん」
「あ、凛。おはよぉー。」
ミコがボクの方に小さく手を振る。

井川さんはボクの姿を見ると
「わぁー、小谷さん、オシャレしてきたでしょ?かわいいネー」
と褒めてくれた。

「エヘヘ、お母さんに選んでももらったんだ。ヘン…かな?」
「ウウン、すっごい似合ってるヨ。いい感じ」

そんなことを話していると
「やぁー、オハヨーさん!」
ワタルが安田とやって来た。

するとワタルはボクを見るなりいきなりボクの手を握り
「凛ちゃん、嬉しいなぁー!」
と言ってニコッとする。

「はぁ?なにが?」
ボクが不思議そうな顔で言うと
「だって、ボクのためにこんなオシャレしてきてくれたんやろ?」
呆れた…。
「キミはホンットにおめでたい頭してるんだネー。キミの頭の中にはいったい何が詰まってるのかな?」
そう言ってボクはワタルの頭を軽くコンコンと叩いた。
「ワハハハ! でもよく似合っとるで。すごく可愛ええヨ」
ワタルは真っ直ぐな視線でボクを見つめてそう言った。

ボクはすごく不思議な気持ちだった。
さっきだって井川さんに同じようなことを言われたのに、男のコに言われるとなぜだかドキドキしてしまう。

「フンッ、おせじばっかり…。」
ボクは下を向いてこう言うのがやっとだったんだ。

「さあ、これでみんな集まったネ。 そろそろ出発しよう」
ミコの合図でいよいよボクたちはディズニーランドへと向かうべく電車に乗る。

最寄駅から新宿で乗り換えてディズニーランドのある舞浜駅まで1時間ちょっと。
中央ゲートのそばまでたどり着くと、そこにはもう大勢の人たちが開門を待っていた。

ボクたちはまず一日パスを買ってその長い列の後ろに並ぶ。
少しするとそのボクたちの後ろにさらに長い列が出来ていった。

「すごい数だねー。」
「そうだねー。今日は日曜だからやっぱり混むんだろうね」

そんな話をしていると開門3分前のアナウンスが流れる。
「只今より開門します。慌てないで順番にご入場ください」

「ただいま開園です」
そのときボクは後ろからすごい勢いで突っ込んできた人たちに押されてボクは近くにいたミコたちを見失ってしまった。

ワァァーーー!
ワァァァーーーー!!

ボクは人波に流されて右往左往してしまう。
そして
ドンッ!と押されたとき
「あっ!」
ボクは足を絡ませてその場に倒れそうになった。

するとその瞬間だった。
ボクの腰を掴む手が伸びてきた。

「凛!大丈夫か!?」
その声にハッと見上げるとボクの腰を抱いているのはワタルだった。

「ハ、ハイッ!」
ボクは真剣な顔のワタルに思わずそう返事をしてしまう。
そしてカレは
「ええか、ボクの手をしっかりと握って離すなや!」
と言い、ボクはワタルの手に引かれて人波の中を少しずつ進んでいった。

フッとワタルの顔を見上げるとカレはいつもと違う真剣な表情をしていた。

ひさしぶりに会ったワタル・・・
キミはなんで今そんなに頼もしい顔をしてるのだろう?
前のボクはキミと同じ男のコのはずだったのに
今のボクははなんでキミの手に掴まって
キミの力に引かれて歩いているんだろう・・・
キミが男だから?
そしてボクが女だからだろうか?

ボクはワタルの手をギュッ握りしめて歩く。
それはほんの数十メートルの距離のはずなのに
なぜかとても長く感じていた。

ようやくその人波の中をくぐり抜けたとき、ミコと井川さんが少し離れたところで立っていた。
ボクは2人の姿を見ると握りしめていたワタルの手をパッと離す。
そして2人に向かって手を振った。


ボクが井川さんのことを知ったのは2年生で同じクラスにになったときが初めてだった。
小学校のときは井川さんやミコは中央小でボクや久美ちゃんは五小。
1年の時にはボクはC組で彼女はミコや久美ちゃんと同じA組。
ボクと井川さんはずっとすれ違いだったのだ。
そして2年生になって同じクラスになったときもすごく勉強ができる秀才タイプの女のコというイメージだったけど、けっこうオープンなミコとは反対で学校にいるときもマジメで勉強一筋という感じに見えた。

それがボクが女のコとして生活するようになって初めて登校し、みんなの前で足を震わせて立ち尽くしていたときに彼女の「小谷さん、座ろう。」という一言に救われた気持ちになった。(第3話 参照)
そして3回目の生理を迎え体育の授業を見学していたとき初めて彼女とお互いの心を通わせて話ができた。(第4話 参照)

彼女はとても優しくそして可愛いひとりの女のコだった。
そんな井川さんの新しい魅力を、ボクは今日このディズニーランドで発見することができたのだ。

じつは彼女はかなりのディズニーマニアだったのだ。
しかも『隠れミッキー』を発見しては大喜びしてそれを写メで写していく。
なんでもパソコンで作った自分のホームページにその写真を集めて掲載しているのだそうだ。
「ほらっ!小谷さん、見て!こんなとこにも隠れミッキーがいるのヨッ!」
そう言って満身の笑みを浮かべる彼女の姿はいつもの井川さんのイメージと正反対だった。

すると
少し離れたところで突然女のコたちの歓声が上がった。
ミッキーとミニーが一緒にやってきたのだ。

「わぁー!!すごいっ!ミッキーとミニーが揃って一緒に来るなんて滅多ににないのヨッ!これはレアヨッ!超レアだわっ!!」
井川さんはそう叫ぶとボクたちの手を引っ張ってそっちの方に走っていこうとする。
ミコや久保ちゃん、奈央も大喜び。
ボクもそんな彼女たちに刺激されていた。

ボクたち女のコ5人はミッキーとミニーを混ぜて写真を撮る。
当然真ん中に入るのは井川さん(笑)
そして写真を撮影するのは小学校のときからカメラオタクで、今日もなにやらすごい高級そうな大型のデジカメを持参してきた安田大先生。

「ハイ、じゃあ撮るヨー。合図をしたらにっこり笑ってー。 …ハイ、チーズ! 」
パシャっ!

安田は写した写真を再生モードにしてボクたちに見せてくれた。
「あとでメールに添付してみんなに送るから。
安田がそう言うと井川さんは大喜び、
「安田君、ありがとぉぉぉーーーー!!」
と手を握ってお礼を言った。
今まで女のコとあまり縁がなかった安田は少し赤くなって照れまくったのだった(笑)

今日は日曜日でかなり混んでいる。
ボクたちは列の短いアトラクションから順番に乗っていった。
そして『ウエスタンリバー鉄道』の列に並んでいたとき
ミコが突然こんな提案をしてきた。
「ねえ、今度はさ、男女ペアで並んで座ろうヨ!」
女のコたちもそれに賛成する。
「でもさ、どういうペアで? グーパーでもやって分かれる?」
するとミコは
「そーねー、あいうえお順っていうのはどう?」
「ウン、いいヨ」
ほかの子たちも同意。
そうなると、ボクは小谷で『コ』だから工藤とペアってことかな。
まあ工藤となら昔から友達だし、気を使わないでいいかな。

ボクがそんなことを考えていると
「あ、言い忘れたけど、苗字ののほうじゃなくて下の名前のほうであいうえお順ってことだからネ」
ミコはそう付け加えてきた。
下の名前の方で?
ってことは…
ボクは凛だからほとんど最後の方で
コイツらの中で名前がいちばんうしろの方は
『ら』段か『わ』の段…
『わ』?
あっ、ワタルの『ワ』!
うーーーーーん……。
ボクはミコのほうを見ると、彼女もボクの方をちらっと横目で見てペロッと小さく舌を出した。
ウーン、なんかミコに仕組まれたような気がする…。

「じゃあ、凛は石川君とペアね。」
ミコは名前順に男女のペアを割り振っていった。

やっぱりワタルとか!!

ワタルはボクの幼馴染の訳で、小学生のときはあれほど一緒に遊んだ仲だし、別に嫌っているわけじゃない。
でも、なんか今のワタルはカッコ良すぎてあの頃のワタルのイメージとどうもつながらないんだ。

それに、さっき
入場の混雑で倒れそうになったボクの身体を支えたワタルの胸はとても温かかった。
一瞬だったけど15センチの身長差でアイツの胸にボクの頭が押し付けられたときボクの耳にはアイツの鼓動が
トクン…トクン…って。

(なんか、恥ずかしいな・・・)

ボクは横にいるワタルの顔を気づかれないようにふっと見た。
でもアイツはそんなことはまるで忘れてしまったかのように飄々とした顔だ。

「ハイ、それじゃ。順序よく乗り込んでくださーい!」
案内のお姉さんがそうアナウンスした。
ボクたちはさっき分けたペアの順番に汽車に乗り込んでいく。

「さあ、凛ちゃん。先に乗ってや」
ワタルはそう言ってボクを先に、そして次にワタルが乗り込んで席に座った。
そして汽車はいよいよ走り出し西部開拓時代のアメリカにタイムスリップしていく。

車窓に広がる19世紀の頃のアメリカ。
ボクらがよくTVで見る現在のニューヨークなどロサンジェルスだといった大都市からはまったく想像もつかないようなどこまでも広がる大草原と深い森林。

「わぁー、昔のアメリカってホントにこんな風だったのかなぁー。」
その景色にボクははしゃいだ様にワタルにそう言った。
「そうやろな。アメリカだけやないで。日本だってそうや。昔は都は京都を中心にした関西やったからな。東京なんて江戸時代まではホントに狭い地域だけで、少し離れるとなーんにもない原野だったそうやで。ボクらの街だって江戸時代は田んぼと原っぱやったんやろうな」

「へぇー、ワタル君って詳しいんだネー。じゃあ、もっと後は?」
ボクが意外そうな顔でそう尋ねると
「東京が発達したのは明治の中頃からやろうな。都が京都から東京に移転して政府の機関がいろいろ集中するようになった。そして欧米文化の導入で経済活動が活発になってくると東京は次第にその範囲を広げて行ったんや」

「ボクらの今住んでるとこが街になったのは?」
「だいたい大正の初めに入った頃や。皇居の周りが区として整備されていって鉄道網が徐々に郊外にも伸びていった。そしてその沿線沿いに住宅がたくさん建って街ができていったってかんじやろな。昭和の初め頃にはけっこうたくさんの人が住んでたんやで」

「すごーい。ワタル君、まるでその時代に住んでたみたいによく知ってるんだネー」
「エ、あ、いや。みんな本で読んだことやけどな(笑)」
そう言って小さく笑うとワタルはどこか遠い目をするように景色を眺めた。

「あ!ほら、馬がいるヨ!」
ボクが小さな丘の上に立っている数頭の馬を指差す。
「オォー、ホンマやぁー。あれってやっぱり人形なんやろな」
「ワタル君って夢がないなぁー。それ言っちゃ現実に引き戻されちゃヨー。」
ボクは少し口を尖らせてそう言った。
「ワハハハ、スマン、スマン。」

するとそのときだった。
「ヒヒィィィーーーーーーン!」
人形だと思ってたその馬が大きな雄叫びを上げた。

「ウォォォーー!あれ本物やぁー。ホンマの馬やろーーー!」
とワタルはびっくりしたように叫んだ。
「ウン!アタシもびっくり。きっとそうだヨ!」
ボクはニコッと微笑んでワタルにそう答えた。

「はぁー、こういう景色をホントに見てみたいなぁー」
ボクがつぶやくようにそう言うと
「見に連れてってやろうか?」
ワタルが真面目そうな顔でそう言った。

「エ、どこに?」
「アメリカは広いでぇー。人の手が及んでいない場所はまだまだたくさんあるんや。そこには人の数より動物の方が多いくらいでな。地平線から朝日が昇ると起きて、そして夕日が沈むと眠る。人が自然に逆らわないで暮らしているんや」

「ヘェー、そうなんだぁ。でも、それじゃ、アタシをアメリカに連れてってくれるの?」
ボクがキョトンとした顔でそう言うと
「エ?あ、ワハハハ。いや、いつかそういうチャンスがあったらってことやがな。ワハハハハーーーー」
いつも飄々としているワタルが意外にも照れたように赤くなったのだった。

「そっか。じゃあ、いつかもしチャンスがあったら。約束・・・」
ボクがそう言って小指を差し出す。
するとワタルは照れながら自分の小指を絡ませて
「ウン、約束や」
微笑みながら言ったのだった。

「もう12時半だし、そろそろ腹が減ってこないか?」
いくつかのアトラクション乗って道を歩いているとき工藤が時計を見ながらそう言った。

「あ、そんな時間なんだ。 そういえばお腹減ったねー」
「どっかレストランに入ろうヨ」
「でも今の時間だとどこも混んでないかなぁ。」

こういうときはやっぱりディズニー博士の井川さんの出番です。
ミコは
「ねえ、楓ちゃん。どっかいいお店知らない?」
と尋ねる。

井川さんは「ウーン・・・」
少し考えると
「あ、そうだ!いいお店あるわ。 そこってワンプレートのセルフサービスのところだからけっこう回転が速いの」
と提案してくれた。

「さすが楓ちゃん!頼りになるなぁー。」
そこでボクたちは井川さんの案内でそのお店に向かうことにした。

井川さんが連れて行ってくれたお店は敷地のかなり奥まったところにある周りを木々に囲まれた大きな窓のあるレストランだった。
そのお店の入口にはすでにけっこう長い列の人が並んでいたけど、よく見ると中に動いていくスピードはほかのお店よりもずっと速いようだ。

「へぇー。アタシ、ディズニーランドにはもう7回もきてるけどこのお店は知らなかったなぁー。楓ちゃん、すごいネー!」
奈央が驚いたようにそう言った。
「このお店は目立たないけどわりと早く席に着けるの。それに周りがいい雰囲気でしょ」
井川さんが照れた顔でそう答える。

そこでボクたちも早速その列の後ろに並ぶことにした。
そしてそれから20分ほどでボクたちは10人分の長テーブルの席を確保することができた。

メニューを見てそれぞれ食べたいものを決めると正面のカウンターのところでプレートをとって注文をする方式だ。
「凛はなんにするの?」
ボクがメニューを一通り見ているとミコが覗き込んで聞いた。

「エットね、シーフードドリアと、あとオレンジジュース。あ、それとこのティラミスおいしそー。」
「あ、ホントだ。アタシもティラミス頼もうかな。」

「ね、ワタル君はどうする?」
ボクが前の席に座るワタルに声をかけるとカレはウーーンと唸って迷っている。
そして
「和食はないんかいな? 筑前煮とか里芋の煮っ転がしとか。」
と呟いた。

ボクは不思議そうに
「和食?ウーン、一応欧風レストランだし和食はないんじゃないかなぁ。キミって小学生のときはカレーとかスパゲティとか大好物だったじゃん。久美ちゃんのお母さんが作ってくれたカレーを3杯もおかわりしたことがあったし。好みが変わったの?」
そう聞くと
「あ、いや。まあ、そういうのも好きなんやけどな。最近和食食べてないなぁってな、ワハハハーーー。」
そう言いながら誤魔化すように笑った。

へんなの?
小学校のころは給食で野菜の煮物が出たらそれだけ残してよく先生に叱られたりしてたのにね。

ワタルは昔よりずっと成績が良くなって、身長もすごく伸びて、今のワタルにはあの頃の面影がほとんど感じられない。
そう、まるで人が変わったように…。


「なあ、凛ちゃん。このあとメリーゴーランドに乗らへん?」
食べ終わってお店を出ようとしたとき突然ワタルがボクにこう言ってきた。
「エ、でもみんなは?」
ボクがそう言って躊躇うと隣にいるミコが
「いいじゃない。行ってきなヨ。 ね、みんな、ここら辺で2時間くらいそれぞれ別行動で好きな乗り物に乗ってみない?」
そう提案してきた。

「あ、いいねー。人数多いと一緒に乗れなかったりするしね」
するとみんなも口々に同意する。

「じゃあ、決まりね! 3時半になったらカリブの海賊の前で集合ってことで」
ミコはそう言うとボクの耳元で
「楽しんできちゃいなヨ。」
そう囁いて小さくウインクをした。

(もう、ミコったら・・・)



ボクたちの順番が来て、ワタルはいくつかの空いているカップの中からスカイブルーの色のものを選んだ。
「凛ちゃん、これでええか?」
「あ、ウン。いいヨ。でもワタル君ってブルーが好きなんだネ?」
「アレ、なんでわかったん?」
「だって、筆箱とかノートとか青っぽいのが多いし、それに今日だってブルーのシャツだヨ?」
「そっか(笑) やっぱり女のコは見る目が鋭いんやな」
ワタルはくすっと小さく笑った。

「それでは動きますのでご注意ください」
案内の人のアナウンスのあとカップはゆっくりと回転をはじめる。

ワタルがハンドルを少し右にひねるとカップはクルンと一回転した。
「きゃっ!」
いきなりのことにボクは驚いて声を漏らしてしまった。

「ワハハ、びっくりしたかや?」
「そりゃ、びっくりするヨー。いきなりなんだもん。」
「でも凛ちゃんが今「きゃっ!」って声出したんは、やっぱり女のコになってしもうたんやな。哲はもういないってことやな。」

そうか・・・
哲だった頃のボクだったらきっと「わっ!」っとでも声を出していたんだろう。

自分でも無意識に出た声だと思うけど、やっぱり女のコの環境の中で育って変わっていったんだろうか?
そしてボクはこれからどんどん変わっていくんだろうか?
そんなことを考えると、ボクはワタルにどうしても聞いてもらいたいことがあった。

「あ、あのね・・・」
「ん、なんや? 幼馴染やからな、話したいことがあるんやったら聞くで?」
そう言ってワタルは小さく微笑んだ。
ボクはそんなワタルの優しそうな眼差しに心の中をさらけ出したい気持ちが抑えられなかった。

そしてこんなことを口走ってしまう。
「今だけ、今だけ『ボク』って言ってもいいかな?」

ワタルは一瞬キョトンとした顔をしたがまたニコッと笑いながら言った。
「ん、ええヨ。ほんなら、ボクも今だけ凛ちゃんとしてでなく哲として話を聞くわ」

そしてボクはゆっくりと話し始めた。
「ボクは・・・、ボクは、じつは変わっていく自分を受け入れられるところと変わらないままでいてほしいところがあるんだ。
ボクはホントは女として生まれてたわけで、そしてこれから女として生きていくって決めた。
だから今までと違うものをいっぱい受け入れていかなくちゃいけないって思ってる。
でも、そうしているうちにいつか今までの自分と全然違う自分になっていくんじゃなかって思ったりすると、なんか・・・」

「なんか?」
「なんか・・・怖かったりするんだ。 今までのボクは本当は存在してなかったんじゃないかって思ったりするんだ。こんなこと考えちゃうってやっぱりへん・・・かな?」
「凛ちゃんは…、あ、スマン、哲はそういう自分をへんだって思ってるんか?」

「わかんない。 でも他人から見たらやっぱりへんなのかな・・・って」
「ボクの意見を言ってもええかな?」
「ウ、ウン」

「人間っていうんは変わっていくもんやないんかな。いあ、違うな。変わっていくんやなくて成長していくって言ったほうがしっくりくるな」
「成長していく?」
「そうや。人は成長していく中で過去の自分が正しいって思ってたことも否定したりするようになることもある。それはたとえ男として生まれて男として成長してたってそういうもんやないかな」

「成長かぁ…」
「哲、オマエは男としての人生からいきなり女としての人生に変わってしもうた。だから、たしかに受け入れるものは他の人は違うことが多いかもしれん。でも、それは人生が変わるってことやなく成長するってことだと思えば、受け入れていくべきものと変えちゃいけないところの見分けがつくんやないか?」

(受け入れていくべきものと変えちゃいけないところの見分け・・・)

「ウン、なんか今のワタルの言ったことって素直に受け入れられる気がした」
ボクは素直にそう言った。

そうだよね。
外見は変わったけど、ボクはボクなんだ。
あのときそう思ったから
ボクは女として生きていくことを決めんじゃなかったんだろうか。
あまりにも目まぐるしい毎日にボクは自分自身を見失っていたのかもしれない。

「そっか。よかったな」
ワタルはにこっと微笑む。

なんか胸の中がすっきりした。
それだけじゃない。
自分でも不思議なのは、こうしてワタルと一緒にいると心の奥が温かくなっていくような気持ちになるんだ。

「ウン!」
そして無意識に、それは幼馴染としてでなく一人の異性としてのワタルに心から笑みを浮かべるボクが今ここにいた。

するとワタルは
「さあ、凛ちゃん。時間はあとすこしや!最後は派手に回すでぇーー!」
そう言っていきなりハンドルをグルグルと左右に回転させた。

「わぁぁぁーーーーーーーい!」
ボクは派手な回転に合わせて派手に叫び声をあげた。

メリーゴーランドを降りてからみんなと待ち合わせの3時半までの間、ボクとワタルはいろいろなことを話し笑い合った。
ワタルはもうボクのことを『哲』とは呼ばない。
そしてボクも話すときには『ボク』とは言わない。
なぜなら、それはボクにとって自然に受け入れていくべきものだったから。



帰りの電車の中
今日一日せいいっぱい遊び疲れて何人かはウトウトと居眠りをしていた。
向かいの座席に座っているワタルの方をちらっと見ると、カレはまだ元気そうに安田と何かを夢中になって話している。

すると隣に座っているミコがボクのほっぺを人差し指でつついて言った。
「どうだった? ワタル君とはゆっくり話せた?」
「ウン。いろんなことを話しした」
「そっかぁ。よかったネ」

ミコは何を話したのかを聞かなかった。
ボクはそんなミコに
「あのね、少しだけ、ほんの少しの間だけど、ボクの幼馴染のワタルと話せたんだ」
とつぶやいた。
「ウン。アタシはそういう凛って大好きだな」
ミコはそう言って優しく微笑んだ。

「アタシもミコのこと大好き」
そう言ってボクとミコがお互いの肩を寄り添い合うと、ミコの甘く優しい香りがボクの鼻をくすぐった。

第7話 信じていいんだよネ?

ボクは、3年生になったとき2駅離れたところにある大手の進学塾に通い始めた。
その塾からは毎年青葉学院高等部に50名位の合格者を出していて、ミコは1年生のときから通っている。
そのミコに勧めてボクも3年生のときに入塾テストを受けてみたらなんとか合格して通いだしたわけだ。

ただボクはそれまでは高校受験というものをあまり意識したこともなく、親も行ける高校に行けばいいという考えだったので進学塾というものに通ったことはなかった。
それでも2年生までは成績も悪いわけではなく、ミコ先生のマンツーマン指導のおかげもあって最近ではクラスで5番前後、学年だと30位くらいの中には入っている。

しかし難関校を受験するということになるとやっぱり実践的な点数を稼げる勉強というのが必要になってくる。
しかもそれが青葉学院高等部の女子となると学年でもトップクラスの成績でないと受かるどころか受験することすら無意味だった。

ところが、ボクが3年生になって青葉の受験のことを話すと、ふつうなら「やっとやる気になってくれた!」と喜ぶところだろうけど、
ウチの母親ときたら
「そんなに無茶しなくてもいいんじゃないの?」
と心配すらされた。

「昔から青葉はかなり難しい高校で、1年生くらいから頑張らないと無理よ。ミコちゃんだって1年生から頑張ってたんでしょ? たとえば白洋高校とかで3年間頑張って大学で青葉を受けるって手もあるんじゃない? 」
そう言って最初から諦めさせようとさえしてる。

青葉は私立なので都立高にくらべてたしかに学費は高い。
しかし、ウチは父親は都内でスーパーマーケットを10店舗、コンビニチェーンを30店舗ほど経営していて、実はけっこう裕福な方だと思う。
だからこの母親は決してお金のことを気にしているわけじゃなく、単に娘の可能性を否定しているだけなのだ。

しかも話しているうちに
「せっかくだから女子校もいいんじゃないかしら。お母さん、可愛らしい制服の高校がいいなぁー♪  あ、聖立女学院なんてどう? あそこだったら青葉と同じミッション系だし」
と言い始めた。
聖立なんていったらもうカチカチのお嬢様学校で、校則が厳しいので有名
先生や友達に「ごきげんよう」とか毎日挨拶しているっていう笑い話もじつはけっこう真実味があるらしい。

「いやっ!せっかくの高校生活なのに女のコばっかりに囲まれて過ごしたくないもんっ! 同じミッション系だって女子校はいやっ!青葉がいいの。青葉、青葉、あおばぁぁーーーーー!!」
ボクがムキになってそう叫ぶと
「あーーー、わかった、わかった! でも、やる以上は最後まで諦めずに努力することよ。できる?」
「できる! っていうか、絶対してみせる!」

「わかったわ(笑) お母さんはアナタの決心を知りたかっただけよ。 受かるかどうかは別としてチャレンジすることはいいことだと思うしね。 じゃあ、お母さんから提案なんだけど。」
「提案? どんな?」
「3年生になってあなたの成績がけっこう伸びてきているのは認めるけど、このままじゃ青葉の合格レベルにはまず届かないと思うの。上に行くほどみんなも頑張ってるしね。だから塾と並行して家庭教師の先生をお願いするっていうのはどうかしら?」

「家庭教師かぁ。」
「そう。でも大学生のアルバイトっていうんじゃなくてプロの経験豊富な人にお願いしたほうがいいわね。アナタがその気ならお母さんがお父さんにお願いして探してあげる。」
「ウン!じゃあ、お願い。1年間きっと頑張ってみせるから。」


そういうわけで、その数日は母親はさっそく有名な家庭教師会に電話をして数名の紹介をもらった。
それをボクと父親を交え3人で検討して選んだのが春日井 弓美香先生だった。
春日井先生は28歳。 有名な女子のトップ進学校櫻園高校から東京大学教育学部に進み、そして大学院まで行って卒業後プロの家庭教師になったということだ。

そしてその週の土曜日、春日井先生が初めて家にやってきた。
そしてその日2時間ほどの授業が終わったあと春日井先生は

「これは青葉に限らないのですが、難関校の入試とはいえ応用問題ばかりが出るわけではないのです。基礎問題が全体の7割程度、ただし基礎問題といっても漠然と易しい問題というのではなく基礎事項を高度に組み合わせた問題です。したがって難関校ほど基礎が完璧にできていることが前提となってきます。」

なるほどー。
プロの言うことはやっぱり違うなぁー。

「青葉の受験科目は英・数・国の3教科です。さきほど簡単なテストをやってもらいましたら凛さんは基本事項についてはけっこう理解しているようです。ただし今申し上げた基礎の組み合わせについてはまだ甘いところがありますね。だからこれからは基礎を完璧にするとともに基礎を組み合わせた問題を理解させ、最終的に応用レベルにまでんもっていきたいと思います。」

そういうわけで、ボクの受験生活がいよいよ始まった。
弓美子先生が来るのは毎週火・木・土曜日の夜7時から10時まで。
そしてミコと一緒に通っている進学塾が毎週月・金曜日の夜6時から9時まで。
ボクの生活は一気にハードになった。
それでも弓美子先生の教え方はさすがで、今まで自分にかけていた部分がはっきり理解できるようになり問題文の意図が読めるようになっていった。



3年生になって6月の1回目の模擬試験の日

試験が始まるまでの時間にワタルがボクにふと話しかけてきた。
「なあ、凛ちゃん。志望校ってもう決めたんか?」

「ウン。だいたいね」
「どこにしたん?」
「なんで?」
「いや、ボクな。大阪にいたから東京の高校ってぜんぜんわからんねん。それで凛ちゃんがどういう高校を受けるんかなって思って。」
「あー、そっかぁ。そうだよねぇ。じゃあ、とりあえずてきとーに書いておけば?」
「そんな切ないこと言わんと(笑)」
「もうっ! えっとね、とりあえず第1志望は青葉学院でこれはもう決まりかな」
「ほう、青葉かい。凛ちゃん、洒落たとこ受けるんやなぁー。それで?」
「あとは第2志望は明王高校、第3志望は実際って感じかな。」
一応母親の希望も入れて女子校も1つ入れておく。
「なるほどー。明王に実際ね。ふんふん…。」
 
そんなことを言っていると試験監督の先生が入ってくる。
「よし、それじゃテストをはじめるぞー。」


全教科が終わったときボクはかなりの手応えを感じていた。
終わったあとミコが
「ね、凛。どうだった?」
と聞いてくる。

「ウン。けっこう頑張れたみたい。」
そう言ってボクは右手で小さなVサインを出した。



そして、その模試の結果が返ってきたのはそれから2週間後だった。
担任の山岸先生から一人ずつ名前を呼ばれ前に出て解答用紙と結果表が渡される。

「小谷さん、よく頑張ってるみたいじゃない!随分上がってるわヨ。」
そう言われて渡された表を見ると

英語 92点 偏差値72
数学 85点 偏差値68
国語 88点 偏差値70
理科 84点 偏差値67
社会 88点 偏差値69

三教科 偏差値70 校内順位13位、女子順位8位
五教科 偏差値69 校内順位18位、女子順位10位

第1志望 青葉学院高等部 60% 合格有望圏
第2志望 明王高校    80% 合格安全圏
第3志望 実際女学園高校 90%以上 合格確実圏


わぁ、やったぁー!
偏差値や順位は思ってたよりも伸びている。
まだ青葉の合格水準にはちょっと届いてないけど、可能性は出てきたということはわかる。

「凛、どうだった?」
後ろの席のミコがボクの背中を軽くつついた。

「ウン、思ったよりできたみたい。ミコはどうだった?」
そしてボクとミコはお互いの結果表を交換する。

英語 95点 偏差値74
数学 94点 偏差値73
国語 94点 偏差値74
理科 91点 偏差値70
社会 93点 偏差値73

三教科 偏差値74 校内順位3位、女子順位1位
五教科 偏差値72 校内順位5位、女子順位2位

第1志望 青葉学院高等部 80% 合格安全圏
第2志望 国際基督教学園高校 90% 合格確実圏
第3志望 実際女学園高校 90%以上 合格絶対圏

すごい……。
さすがミコというか
やっぱり努力は積み重ねだなぁーと改めて実感してしまう。

「わぁー、凛、すっごい上がったじゃん!」
ミコは僕の表を見るとそう言って喜んでくれた。

「ウン。でもやっぱりミコはすごいねぇー。」
「でも、凛だってすごき頑張ったじゃん。このままいけば青葉の合格だって十分あり得ると思うヨ。」
「だといいけどなぁー(笑)」


ボクとミコがそんなことを話していると
「ホォー、凛ちゃん。やるやんかー!」
そう言ってワタルがミコの手にしているボクの表を覗き込んでいる。

「こらぁー! 人のを勝手に覗くなんて失礼じゃない! 逆にキミのを見せなさいっ!」
そう言ってボクはワタルが右手に持っていたカレの表をさっと奪い取ると
「ミコォ、一緒に見よーね♪」
と言ってミコの方を向いた。

そしてワタルの表を見た瞬間、ボクとミコは
「エッ!ウソッ!」
驚きの声を漏らしてしまう。

英語100点 偏差値77
数学 98点 偏差値75
国語 95点 偏差値76
理科 95点 偏差値73
社会 98点 偏差値75

三教科 偏差値76 校内順位2位、男子順位2位
五教科 偏差値75 校内順位2位、男子順位2位

す、すごい…
っていうか、すごすぎじゃない?

「ワタル君、キミってホントどーしちゃったの?」
「どーしちゃったの?って言われてもなぁー(笑)」
そう言ってワタルは苦笑い。

そういえば何日か前にミコとワタルの3人で帰ったときも、正門出たところで外人に英語で道を聞かれたことがあった。
最初はミコが話を聞いてたけど、その外人の話すスピードが早すぎてさすがのミコも聞き取りにくかったようだった。
すると横でその話を聞いていたワタルが突然英語で答えだしてびっくりした。

小学校のころは宿題すら忘れがちだったこの人がわずか3年ちょっとの間にどうしてこうなっちゃったのか想像もできない。
でもこれは現実なのだ。
ボクは無意識にワタル尊敬の眼差しを向けていた。

しかし
その眼差しは長くは続かなかった。
カレの書いた志望校欄を見てボクとミコは再度固まる。

第1志望、青葉学院 90% 合格確実圏
「あ、アタシたちと一緒だね。」
ミコがそう言う。

第2志望 明王高校 90% 合格確実圏
「あれ、これも凛と一緒だね…。」

そして第3志望…実際女学園? 判定不能(女子のみの募集です)
「ワタル君………」
「キミってホンットのアホでしょ!?」
「ワハハハハーーーーーー。」



さて、それからしばらくして、7月も終わりに近くなり、ボクたちは夏休みへと入っていった。

今までは
「やったー!さあ、遊ぶぞォーーー!」
っていう毎日の始まりだったが、今年ばかりはそういうわけにはいかない。
なんたってボクたちは受験生なのだ!

毎週火・木・土曜日の弓美香先生の家庭教師に加えて進学塾の夏期講習が月曜日から土曜日まで1日5時間を2週間ぶっ通しで入ってくる。
それに自習の時間を加えれば1日24時間のうち半分の12時間は勉強している気がする。
睡眠時間は6時間、そしてあとの6時間で食事とお風呂などすべてを済ませている計算なのだ。
だからミコと最寄り駅で待ち合わせして2駅先の塾に行くまでのわずか30分の通学はボクたちにとってとても楽しみな時間だった。

そして今日もボクとミコはそのわずかな通学タイムのおしゃべりに花を咲かせながら塾に着くと教室へと入っていった。
すると教室の中で数人の女子が固まって話をしている。
そのうちの一人はボクたちと同じ中学で久美ちゃんと同じ隣のA組の沢田 千絵ちゃんだ。

「ちーちゃん、オハヨー。」
ボクが彼女に声をかけると
「あ、凛、ミコ。オハヨー。ね、野口さんのこと聞いた?」
彼女は意外な話題をふってきた。
「エ?野口さんのこと?ミコはなんか聞いてる?」
ボクはミコの方を振り向いて尋ねると
「ウウン、アタシ知らないヨ。」
とミコも言う。

じつはこの野口さんという女のコもボクたちと同じ中学でD組の娘だけど、割とおとなしい娘でボクやミコも今までほとんど話をしたことがなかった。

「どうしたの?なんかあったの?」
ボクはちーちゃんに尋ねた。
「アタシもちょっと前に塾に来てこの娘たちに聞いたんだけどさ」
「ウン。」
「なんか、野口さん、赤ちゃんできちゃって駆け落ちしたって。」
「エッ!」
ボクとミコはびっくりして、そう叫ぶしかなかった。

「それでね……。」
ちーちゃんはさらに言葉を続ける。
「その相手が……アンタたちと同じクラスの石川君じゃないかって…。」
「そ、そんなーーーーーーー!!!」
「ちーちゃん、それって誰に聞いたの?」
言葉が震えるボクに代わってミコが尋ねた。
「ほら、アタシと同じクラスの丸山君っているじゃん? 昨日塾の帰りに駅のところで彼にバッタリ会っちゃって。何か深刻そうな顔で下向いてブツブツ言ってるから「どうしたの?」って聞いたらさ。」
「そしたら?」
「なんか言いにくそうだったけど、どうしても気になって「教えなさいっ!」ってちょっと強く言っちゃったの。そしたら、「さっき新宿で石川君と野口さんが一緒にラブホテルに入っていくのを見た」って。」

丸山はチーちゃんと同じA組の男子だ。その名前のとおりぽっちゃりした体型でわりと気にいいヤツ、ボクとは1年生のとき同じクラスで安田たちほどじゃないけどけっこう仲良く話したりしていた。自分からいい加減な噂話をばらまくようなヤツじゃないことは知っている。

「それでさ、そのことを聞いて今日塾に来たら野口さんが駆け落ちしたって言うじゃない? それじゃやっぱり相手は石川君しかありえないんじゃないかって思ったのヨ。」
そんな…ワタルがそんな…」
いつかボクのことをアメリカの草原に連れてってやるなんて言ったのは、ただからかっただけだったの?
ボクの話をあんなに一生懸命聞いてくれたのは昔の幼馴染だからかわいそうに思ってなの?
ボクは無意識に体が震えて涙がこみ上げてきた。

「ね、ちーちゃん。妊娠したっていうのは誰から聞いたの?」
ミコはボクの震える手をそっと握ってまたちーちゃんに尋ねる。
「あ、今ね、下の職員室に野口さんのお母さんがきてるのヨ。それでさっきからものすごい声で怒鳴り散らしてて、前を通ったら嫌でも聞こえちゃうの。」

するとそこに国語の柳瀬先生がやってくる。
「おい、そろそろ授業をはじめるぞ。みんな席に付け。」

教室の中はシーンとしている。
もうみんな野口さんのことを知っているわけだ。

柳瀬先生はそうした空気を察知したのかゆっくりこう話しだした。
「授業を始める前に少しだけ。 どうやらみんなもう野口のことを知ってるようだな?」
誰も返事をしない。
しかしそのことでよくわかる。

「先生はこうして塾で君たちに教えている。君たちは受験生だ。そして塾っていうのは学校とは違ってそういう君達を希望の学校に合格させてあげるために存在する。しかしな、仲間との出会いっていうのは必ずしも学校だけではないはずだ。縁あって同じ塾に通い一緒に頑張っていう仲間をどうか噂話だけで誹謗や中傷はしないで欲しい。相手の気持ちに立って考えてあげられる優しさを持って欲しい。塾の先生がこんなことを言ってしまうのは変かもしれないけど、それは人間として勉強よりも大切なものだから」
シーンとした教室の中で先生の声がボクたちの心に訴えていた。
「さあ、それじゃ授業を始めようか。 テキストを開いて。」

授業中もボクはほとんどうわの空だった。
ワタルが他の女のコを好きになって
とそういう関係になってしまった
ボクはワタルにとってただの幼馴染なんだから
ボクにワタルを責める資格なんかないんだ

ながい授業が終わったあと、帰りにお電車の中
ずっと下を向いたまま黙りこくっているボクミコがとつぜん
「ね、ちょっと学校に寄ってみようか?」
と言った。

「エ、学校に?」
「ウン。お母さんが塾に来るくらいだからもう学校にも連絡がいってるはずでしょ? だからもしかしたらちゃんとした情報がわかるかもしれないし。さっきちーちゃんも言ってたけど、丸山君はちーちゃん以外には石川君らしき人と野口さんのことを誰にも話してないっていうじゃない。ちょっと行ってみようヨ?」

「で、でもアタシはアイツが何したって…。」
「気になっちゃうんでしょ!?」
ミコが突然強い口調でボクにそう言った。
それは初めて見るミコの厳しい表情だった。

「こう言ったらちょっとキツイのかもしれないけど、このままちゃんとした事情もわからないまま凛がもやもやしちゃったら授業だってぜんぜん身に入らないし、せっかく伸びてる成績だって落ちちゃうヨ?今日の凛、ぜんぜん先生の話聞いてなかったじゃん。アタシは凛と一緒に頑張ってそして一緒に青葉に行きたいもん。だから結果がどうあれはっきりして早く気持ちを切り替えちゃったほうがいいと思うの。」

いつもまっすぐ前を向いてるミコが今は泣き出しそうな顔だった。
ボクにはそういうミコの気持ちがすごくありがたかった。
「ウン。そうだね。行ってみよう、学校へ。」

ボクとミコが学校に着くと正門のところで丸山がウロウロとしていた。
「あれ、丸山君?」
ミコが声をかけると丸山はこっちをクルッと振り返って
「あ、藤本さんと哲、あ、いや小谷さんか? どうしたの?」

「アナタがちーちゃんに言ったんでしょ?」
ミコは丸山のことをキッと睨みつけた。
「聞いたのか。でも…」

「でも、なにヨ?」
「オレ、たしかに見たんだ。だけど…沢田にそのこと話しちゃったのがどうしても気になって…。」
「ふぅん、それでキミも真相を確かめに来たってわけ?」

「まあ、ウン。そしたら!!」
「そしたらどうしたの?」
「さっき、石川と野口が学校へ入っていくのが見えてさ。」

「エエエェェ!!じゃあ、石川君たち戻ってるの?」
「まあ…そういうこと。それで先生たちが何人か出てきてさ、石川たちを見たらすごい勢いで校舎の中に…。」
「連れてっちゃったの?」
「ウン。」

ミコはボクの方を向いて
「凛、行こう!」
そう言ってボクの手を引いてズンズンと校舎に向かっていった。

「ちょっとまってヨォーー!オレも行くってーーーー!」
そう叫ぶながらボクたちの後から丸山も走ってきた。


そして職員室の前
ボクとミコはドアの前で聞き耳を立てた。
丸山は廊下の向かい側に腰を下ろしている。

「なあ、2人ともそんなことやって聞こえるの?」
「うるさいっ!キミは黙ってそこにいなさいっ!」
ミコが丸山を怒鳴りつける。

するとそのとき
「自分はちょっと身勝手すぎやせんかっ!?」
部屋の中でそうどなるワタルの声が聞こえてきた。

「ミ、ミコ。ワタル君どうしちゃったんだろ?」
「わかんないヨ。もうちょっと聞いてみようヨ。」

「キミのせいでどれだけたくさんの人が迷惑しとるかわからなんのかっ!? ボクかてそんな自分勝手なことばっかり言っとるキミは嫌いじゃーっ!!」

ひどい…。
ワタル、アンタははなんてことを言うの?
アンタが野口さんと本当に愛し合った結果ならアンタも一緒になって考えるのが当たり前じゃないの?

ボクは頭に来てそして悲しくて涙が出てきた。
僕はスクっと立ち上がった。

「り、凛?」
ミコが驚いたように声を上げる。

次の瞬間
ボクは職員室のドアを勢いよくバッと開くと、その中でツカツカ進む。

突然ドアを開けて現れたボクに唖然とする山岸先生たちとワタル
そしてボクはワタルの前で立ち止まった。

ボクの目からは涙が滝のように溢れている。

「エ、凛ちゃん? なんでここに?」
ワタルがそう言おうとしたとき

パァァァーーーーーーンッ!!

ボクの右手はワタルの左頬をジャストミートしていた。

ボーゼンと立ち尽くす先生たち
そしてワタルはキョトンとした目でボクを見る。

「あの、なんで?」
ワタルが次に口を開いた瞬間

「言い訳すんなぁぁーーーーーっ!」
パァァァーーーーーーーーンッ!!

今度はボクの左手がワタルの右頬をジャストミート

そのとき
「ちょ、ちょっと待ちなさい!小谷さん、やめなさい!」
山岸先生がボクとワタルの間に入った。

「だってっ!だって、ワタル君!!迷惑ってどういうことなのっ!?アタシはアナタが野口さんと付き合うことを責めてるんじゃない。でもアナタが野口さんと愛し合った結果なんだから女のコ一人に責任押し付けるってあまりに残酷なんじゃないのっ!?」
ボクは泣きながらそう叫ぶ。

ミコと丸山も中に入ってきて、そしてミコは泣いているボクを抱きしめる。
「そうだヨッ!石川君、アナタが誰を好きになろうと勝手だけど、身勝手なのはアナタの方じゃないのっ!?野口さんだけじゃない。凛だって…凛だって…。アンタは男のクズヨッ!」
そしてミコもシクシクと泣き出した。
そしてとうとうボクとミコは2人で肩を抱き合って泣き始めてしまった。

「おい、石川! オレはオマエのこと気に入ってたのにそんなヤツだとは思わなかったぞ!」
ボクたちの泣き合う姿に丸山が近寄ってきてワタルに怒鳴った。

するとワタルは
「そう言われても…。なあ、凛ちゃん。ちょっとボクの話も聞いてくれや。」
そう言ってボクの肩に手をかけたとき

「まだ言い訳するかぁぁーーーーー!!」
ボクは3発目のビンタを構えようとした

そのとき
「小谷さんっ!やめなさいっ!!」
そばにいた山岸先生がボクに強い口調で叫ぶ。

「違うの、違うのヨ。アナタたち何か勘違いしてるわヨ。」
「エ?」
ボクが振り上げた手を下ろすと

「あのね、野口さんの相手は石川君じゃないの。」
山岸先生の言葉にあっけに取られるボク。
「あの、そう…なんですか?」
ミコと丸山も顔を上げて山岸先生の方を見た。

「ふぅ…。」
小さくため息を着くと山岸先生はワタルの方をちらっと見て言った。
「アナタたち野口さんのことはどこで聞いたの?」

「塾で…。」
「そう。じゃあ、彼女のお母さんは塾にまで行ったのね?」
「ハイ。」

山岸先生はソファに座り顔を手で覆って泣いている野口さんを見て言った。
「野口さん。ここまで色々話が誤解されてるんだから、彼女たちにはちゃんと説明したほうがいいわね。いいでしょ?」
彼女は先生の言葉に小さくうなづく。

「本当は生徒に話すようなことじゃないんだけど、今回はアナタたちを信用して特別に話すわ。ただし絶対に他言しないこと!約束できる?」
「ハイ。約束します。」
「じゃあ、こっちに来て。」

山岸先生はボクとミコ、丸山そしてワタルと野口さんを奥の校長室に入るように言った。
「まずね、野口さんが3日前から男子生徒と家を出たって話は聞いてるわね?」
「ハイ、聞きました。」

「それでその男子生徒っていうのが石川君じゃないかってアナタたちは疑ってるわけよね?」
「まあ、…ハイ。」
「それは完全な誤解なの。相手の男子生徒は石川君じゃないの。」

「で、でも…。」
ボクとミコは丸山の方をちらっと見る。

丸山は
「でも、オレ、見たんです。昨日の夕方に新宿で石川と野口がホテルに入っていくのを。」
「ああ、たしかにそれは石川君ヨ。」

「やっぱり…。」
ボクは悲しそうな目でワタルを見つめた。

「でもそれは誤解なのヨ。」
「どういうことですか?理解できません。」
ミコが山岸先生に言う。

「エット、まず事の経緯から説明したほうがいいわね。 まず野口さんが男子生徒と2人で家を出たことは事実よ。じつは、野口さんは家で受験のこととかでご両親と意見が合わないことがあってね、喧嘩が多かったの。そんなときにね、3年生になって少しした頃に塾の公開模試で別の教室に通う男のコと知り合ったの。
色々話をしているうちに気が合って2人はお付き合いをするようになったわけ。
それでそのお付き合いの中で、まあ、…そういう関係がね。
これは男のコにはピンと来ないでしょうけど、小谷さんと藤本さんはわかるわね?」

「生理…ですか?」
ボクが先生の言葉にそう答える。
「そう。彼女は生理が2か月間ないことに気づいたの。彼女はご両親には黙ってたんだけどつい数日前にそれがご両親に知られてしまって、大騒ぎになってね。「相手を教えろ」ってお父さんとお母さんが学校に怒鳴り込んできて・・・。それで彼女はとうとうその男子生徒と一緒に家を出ちゃったの。」

「それはウチの学校の人なんですか?」
「違うわ。よその学校の生徒なの。塾でも別の教室でね、2年生までお互い全然知らなかったそうヨ。」
「でも、それがなんでワタル君と一緒にホテルに?」

「まあ慌てないで。 それでね、2人は家を出てとりあえず新宿に行って昼間はフラフラとして、夜になったらホテルで過ごしていたわけね。そしたら2日目の日の朝、野口さんが目を覚ましたらその男のコがいなくなっちゃったの。さっきその男子生徒にもようやく連絡が取れてね、確認したら「怖くなってひとりで家に帰った」ってことらしいの。」
「それってひどくないですか。信じられない!」
ミコが驚いたように叫んだ。

「まあ、そうね。たしかにひどいわよね。 それで野口さんは困っちゃってとりあえずホテルを出て新宿の街をフラフラ歩いていたの。そしたら変な男の人に声をかけられて、どこかに連れて行かれそうになったなったらしいの。それをちょうど石川君が見かけてね。彼女を助けたってこと。」
「でも、なんでワタル君が新宿なんかに?」
「石川君によると新宿の大きな本屋さんに参考書を探しに来てたそうヨ。」

すると今まで黙って横で話を聞いていたワタルは
「あ、あと前から欲しかったプラモがあってな(笑)」
と照れながら言う。
ワタルの言葉に先生は苦笑いして
「コラッ、そんなプラモ作ってる暇あるんなら勉強しなさい(笑) いくら成績良くても油断してると落ちちゃうわヨ。青葉を受けるんでしょ?」
そう言ってワタルの頭をコツンと軽く小突いた。

「エ、ワタル君、青葉を受けるの?」
「ワハハ、まあ、ボクも凛ちゃんたちと同じ学校に行けたらいいなって思てな。」

先生は話を続けた。
「それでね、彼女から話を聞いたワタル君は「とにかく家に帰ったほうがいい。自分も一緒について行ってあげるから。」って言ったの。
でも、野口さんはどうしても帰りたくないって言ってね。
そのうち夜になって、彼女をそのまま置いてもおけなかったから石川君は仕方がなくその夜を彼女をホテルで過ごしたの。それで部屋の中でゆっくりいろいろ話を聞いてあげて、朝になってホテルを出てまず学校に連絡をしてここに来たってわけ。」

「そうだったんだ。ゴメン、ホントにゴメンなさい。アタシ…。」
ボクはワタルの方を向いて大きく頭を下げた。

「まあ、納得してくれたんやからもうエエよ。それにしても色々好き放題言われたがな(笑)」
「ゴメン!石川君。ゴメ~~~~~~ン。」
ミコもペコペコとワタルに頭を下げる。
丸山も平謝りだった。

「それにしても凛ちゃんって起こると怖いねんなぁー。おー、イテェー。」
ワタルはそう言って僕の平手打ち2連発で真っ赤になっている頬を擦った。

「ゴ、ゴメンネ。ワタル君、痛くない?痛いよね?ああ、どうしようアタシこんなに真っ赤にさせちゃった。」
「ワハハ、エエヨ。今回は凛ちゃんを怒らすと怖いってことがわかっただけでもこれからの教訓になったからなぁ(笑)」
笑いながらワタルは言った。
「そうヨ。いざとなると女のコの方が怖い。いい教訓になったわね(笑)」
そう言って山岸先生も苦笑する。


「さて、これで事情もわかったところで、小谷さんと藤本さん、石川君と丸山くんは帰りなさい。後は先生たちが対応するから。」
「対応ってどうするんですか?」
「そうね、まず……。」
山岸先生がそう言いかけたとき
「あっ!」
野口さんが突然小さな声を上げた。

「どうしたの?」
ミコが不思議そうに野口さんを覗き込む。

「あの…、もしかして…。」
そう言いながら野口さんはバッと立ち上がると駆け出すように校長室を飛び出した。

「野口さん、どうしたの!?」
ボクたちはびっくりして彼女を追いかける。

廊下に飛び出した野口さんが向かったのは女子トイレだった。

「もしかして…。男の人はここで待ってて!」
ミコはそう叫んでボクと山岸先生の3人で女子トイレの中に入っていく。

少し様子を見ながら山岸先生が個室のドアをコンコンと叩く。
「野口さん? 大丈夫?」

3秒ほどの沈黙のあと小さくドアが開いた。
そして野口さんは
「あの……、誰がアレ持ってませんか?」
小さな声で恥ずかしそうに答えた。

「あらー、困ったわ。先生今日は持ってきてないのヨ。小谷さんか藤本さんは持ってるしら?」

「あ、アタシあります。ちょっと待ってて?」
そう言ってボクは再び駆け足で職員室へと戻った。

中ではワタルと丸山が所在無さげにウロウロとしている。
そして塾のカバンに入れてあった小さなポシェットを掴んだ。

すると
「あ、凛ちゃん。野口さん、どうかしたのか?」
ワタルがボクにそう声をかける。

「キミたちはそこでおとなしく待ってて! 絶対にこっち来ないでヨッ!!」
ボクはそう怒鳴るとまた駆け足で女子トイレへと向かった。

そしてボクはポシェットの中に入れてある数枚のナプキンのうちから1枚を取り出して
「ハイ、野口さん。これ使って。」
と言って小さく開かれたドアの隙間から彼女に渡す。

それからしばらくして、ジャーーっという音のあとドアはキィーっと小さな音を立てて、彼女が出てきた。
「あの…きた…みたい。」

「そ、そう。良かったーーーー。」
山岸先生はホゥーっと息をついて胸を撫で下ろした。



再び職員室に戻ったボクたち
山岸先生は疲れたように近くにある椅子に腰を下ろし
「まあ、これでひとつ安心したわ。」と呟いた。

「何が安心したん?」
ワタルが不思議そうな顔でつっこんでくる。

「しつこいっ!追求しないのっ!」
ボクはワタルにそう怒鳴る。

「とにかく、アナタたちはこれで帰りなさい。あとは先生たちでやるから。」
そして先生はワタルの方を見て
「石川君、アナタには色々迷惑をかけちゃったわね。本当にありがとう。」
と言った。

「あの、本当に…ごめんなさい。」
野口さんも小さな声で頭を下げる。

「もうエエヨ。とにかく逃げちゃダメや。頑張れや。」
そう言ってニコッと笑った。

「ハイ。ありがとう。」
野口さんは今度ははっきりした声でワタルに返事をした。


学校からの帰り道
彼女たちと分かれ、ボクとワタルは2人で歩いていた。

ボクは別にワタルの今の家を知っているわけではない。
でもワタルは転校前にボクと久美ちゃんに偶然会ったとき、昔の家のわりと近くに越してきたって言ってた。
だから多分ボクの家と方角が一緒なのだろう。
そう思ってなんの気なしに一緒に歩いていた。

駅からボクの家に向かう途中には小さな公園がある。
周りを木立に囲まれたその公園の中には丸い砂場と滑り台が1つ、そして赤いブランコが2つ。それだけしかない小さな公園だった。

「な、ちょっとだけ寄っていかへん?」
ワタルがそう言って公園の方を見た。

「ウン。いいヨ。」
2人で公園の中へと入り、空いている赤いブランコにそれぞれ腰を下ろす。

ボクと久美ちゃん、そしてワタルは小学生時代によくこの公園で遊んでいたんだ。
ボクがワタルと知り合ったのは小学4年生のクラス替えだった。
そのときボクとワタルが4年3組、久美ちゃんは1組だった。
しかしボクと久美ちゃんはその頃毎日のように一緒に遊んでいて、そこにボクと仲良くなったワタルが自然と混ざっていった。
そしていつしか3人はいつも一緒に遊ぶようになった。
ボクたちはこの小さな公園を『赤いブランコの公園』と呼んでいた。
しかしワタルはそれから5年生になった夏にお父さんの仕事の都合で大阪へと転校していったんだ。

「なあ、凛ちゃん。この公園覚えとるか?」
「ウン。アタシとキミとそして久美ちゃんの3人であの頃遊んでいた赤いブランコの公園だよネ?」
「そうや。鬼ごっこやったり缶蹴りやったり、懐かしいなぁ…」
「そうだねー」

「凛ちゃんは小4のときボクと友達になる前からこの公園で久美ちゃんと遊んでたんやろ?」
「ウン。久美ちゃんとは幼稚園のときからずっと一緒だった。あの頃は男のコと女のコだったのに、久美ちゃんと一緒にいるとそんなのは全然気にしてなかったなぁ。なんでだろう…」
「まあ、それはやっぱりお互い本能で感じてたんやろな」

「かもしれないね(笑)」
そう言ってボクはクスッと小さく笑った。
「なんや、思いだし笑いか?(笑)」
「ウウン。そういうわけじゃないけどさ。」
そう言ってボクはフッと隣りのブランコに座るワタルの横顔を見た。

ボクの往復ビンタでまだほんのり赤いワタルの頬。
「ゴメンね。アタシ、信じてあげられなかった。」
そう言ってボクはワタルの赤くなった頬を右手のひらでそっとさすった。

「あのさ…。」
「ん、なんや?」
「アタシ、何かお詫びできることってあるかな?」

「お詫び?そんなのエエって。終わったことやし。」
「そんな。何かあったら言って?アタシにできることなら…。」
「ウーン…。なら…。」

「なら?」
「お詫びって言うんじゃなくって夏休みの終わりでいいから一日だけボクと凛ちゃんの2人だけで遊んでくれへん?」
「ウン。いいけど。 どこ行く?」

「そやな。プールとか…ダメかな?」
「なんだ。プールくらい。いいじゃない、いいヨ、プール行こう。」
「わぁー、やったーーっ!」
ワタルはそう言ってブランコから勢いよく立ち上がった。

「クスクス、そんなことくらいでそんなに喜ばないでヨ(笑)」
「ワハハハーーーー」


さて、家に帰ったボクはさっきのワタルの様子を思い出しくすくすとひとり笑いをしてしまう。
「プールかぁ。久しぶりだなー。そういえば去年の夏休みはずっと入院しててプールなんて行かなかったし。」

そしてボクはクローゼットの中をゴソゴソと探し始める。
「エット、1年生の夏休みのとき安田たちと海に行くときに買った海パンがたしかあったはず…。」

しかし、そのときボクはハッと考えた。
(アレ、っていうか待てヨ…。海パンって・・・)
(まさか今のボクが海パンはくって、まさかできないよな…)
そしてあることに気づく。
「あああああーーーっっ!忘れてた!!ボクは女のコのわけだから…」

そう、今やバストもかなり膨らんでしまい、そしてお尻もまん丸
そんなボクが男の海パンなんかはいてプールに行ったら…。
あわわわーーーーーーーーーーーーーーー!!

ボクだっていつか女のコの水着を着ることを考えてなかったわけじゃない。
でもそれは、まず女のコ同士で行って、そのあと家族とか男でも父親とか弟のレベルで、それで最後に機会があったら男のコもって考えていたから。
それがホップ、ステップを通り越していきなりジャンプしろってこと!?


その夜
ボクはミコに電話をかけた。

「いいじゃん!誘ってもらえたなんてラッキーヨッ!」
ミコはそう言って電話の向こうで無邪気に喜ぶ。
「だってさぁ、アタシ、女のコ水着なんか着たことないもん」
「じゃあ初体験だネ! なんでも初体験はドキドキよねーー!」

「ミコ、なんかからかってない?」
「アハハ、わかった?」
ミコは意地悪そうな声で笑った。

「でもさぁ、アタシなんかが女のコの水着着て似合うかなぁ?」
自信なさげにそういうボク。

するとミコは
「凛もいい加減そういうのやめなヨ? 似合うとかに合わないとかじゃないでしょ? アンタはもともと女なんだし」
「ウン・・・」

「それよりさ、明日で塾の夏期講習終わりだし、アタシ帰りに水着買うの付き合ってあげようか?」
「ホントに? 嬉しいー! じゃあ、お礼にクレープ奢っちゃう。」
「わぁ、よかったぁーーーー!」
そんなわけでボクは次の日の塾の帰りにミコに付き合ってもらって女のコの水着を初購入しに行ったわけだ。


駅ビルの中にあるスポーツ用品店にはこれでもかっていうくらい色々なデザインの水着が並べられていた。

「まず決めなくちゃいけないのは、ビキニタイプかワンピースかってこと。 凛はどっちがいいの?」
「どっちがいいのって言われてもよくわかんないもん。どういうのをいうのか、そこから教えてほしいな?」
「あ、そっか。ゴメン(笑)」
そう言ってミコはハンガーにかかっている水着の中から2種類を選んでボクの前に出した。

「まずこれがビキニ。」
そう言ってミコが差し出したのはブラジャーとショーツをさらに細くしたようなもの。
「エェェーーーッ!こんなの恥ずかしいヨォーーー」
「これくらいフツーだヨ。じゃあ、こっちは?」
そう言ってミコは今度はワンピースタイプのを見せた。

それでも水泳の授業で女子がはいているスクール水着より切れ込みが深いし胸元も大胆。
「まあ…でも、これくらいなら。」
それでもこれで妥協するしかない。
それじゃなかったらビキニってことなんだろうし。
「じゃあワンピで決まりね。 エット、凛のサイズで何種類か持ってくるから選んでみて?」
そう言ってミコはまるで自分の水着を選ぶかのように楽しそうにチョイスしていく。

「ウーン、凛のイメージだとこれと、これと、あ、あとこれもいい感じー♪」
ミコはボクに「選んでみて?」って言っておきながら、実際は自分の好みでドンドン選んでいってる。

「ハイ、じゃあ試着してみて?」
そう言って3着ほどをボクの前に差し出した。
「ウ、ウン。」

試着室の中で服を脱ぎ、そして見よう見まねで水着を身に付けるボク。
「ミコォー、こんな感じでいいのかなぁ?」
するとカーテンの隙間からミコが顔を覗かせて水着を着たボクをチェックする。
「ウーン、胸をもう少し詰めてみて。あ、いいじゃん!可愛いー」

「そう?似合ってるかな?」
「ウン、似合ってるヨー。じゃあ、次こっちね」
「エ、これ似合ってるんじゃないの?」

「他のも着てみてよりいものをちゃんと選ばないとダメじゃん。」
「そ、そうなんだ?わかった。」
そしてボクは着ていたものを脱いで2着目の水着を身に付ける。

「あ、これも可愛いねー。後ろ向いてみて?」
「後ろ?なんで?」
「バカねー! 男は女のコのさりげない後ろ姿にクラっときちゃうのヨッ!」

「エ、そうなんだ?」
ミコの言葉にボクはクルッと背中を向ける。

「でもこんなんでワタルはクラってきちゃうの?」
「くるわっ!きちゃうのヨッ! ハイッ、じゃあ、そこで顔だけ振り返ってニコって笑ってみて?」
どうもミコはモードが入ってしまったらしい。
ボクは逆らわずミコの言われた通りにやってみた。

「あー、ちょっと違うわネ。もっとこう恥じらうように、ほらっ!」
(………)
なんか、秋葉原にあるその関係の店の女のコになった気分だ・・・

「ああ、迷うなぁーーーー。」
ああでもない、こうでもないと、ボクはまるで着せ替え人形のように弄られる。
そして30分かかってやっと選んだのがこの1着の水着だった。


それから数日が過ぎ
いよいよワタルとのプールの日がやってきた。
朝、駅で待ち合わせしたボクたちは電車に乗り郊外にある大きなプールへと向かった。

広大な遊園地の一角にあるこのプールには、ウオータースライダーや流れるプールなどいろいろな種類のプールがある。
夏休みも終わりに近づいたけどまだ暑い日が続き、プールにはたくさんのお客さんが来ていた。


「じゃあ、着替えてくるネ。」
「ウン。それじゃ、着替えたらこの柱の前で待ち合わせしよか。」
「ウン。じゃ、あとでね。」
そしてボクは女子更衣室、ワタルは男子の更衣室へと入っていく。

ボクはロッカーを開けると持ってきたバッグの中から昨日ミコに選んでもらった水着を取り出て着替えをはじめる。
うすいピンク地に小さな白いサクラのドットが散らしてあるワンピースの水着。
そして腰にはうすい白とピンクのストライプ模様のパレオを付ける。
髪の毛を斜め後ろでまとめてゴムで止めその上からピンクのシュシュを巻いて左肩から前に垂らした。
「これでいいのかな…。」

ボクは備え付けてある大きな姿見で最後の確認をする。
最後にミコに教わったように、後ろを振り向き首だけ回してニコッなんてしてみたり。
あ、ちょっと照れた表情するの忘れた(笑)

そして支度を済ませたボクはタオルと防水バッグを持って待ち合わせの場所へ向かった。
そこにはすでにワタルが待っていてくれていた。

「お待たせ…。」
後ろを向いていたワタルボクの声に反応して振り向く。

「あ………。」
ワタルは一言そう言ってボッとしたように固まっている。

「似合わない…かな?」
ボクは緊張で赤くなった頬を左手で覆いそう尋ねた。

「いや…すごく…。」
「すごく?」
「可愛ええ…すごく。」
ワタルはつぶやくように声を出した。

「あんまりじっと見たら恥ずかしいヨォ。」
恥ずかしくてワタルと目を合わせられずボクは下を向いてしまう。

「あ、ああ。スマン。見とれてぼーっとしてもうたわ。さあ、どっかに場所を取って泳ごうか。」
「ウン!」

そしてボクたちは運良く空いていたパラソルのテーブルに荷物を置き一緒にプールへと向かっていった。


プールの中でワァワァと騒ぐボクとワタル

いつかどこかで、ボクの遠い記憶の中でこんなことがあったような気がする。
ワタルとふざけ合って、笑い合って
それは久美ちゃんと3人で遊んだ頃の幼馴染の記憶なんだろうか…。

そしていつもどこか大人っぽい余裕を見せているワタルは、今一人の男のコとしてボクに無邪気な姿を見せている。
ということはカレの目にはボクは一人の女のコとして映っているんだろうか。



遊び疲れたボクたちは一旦プールからあがって荷物を置いたテーブルに戻った。
「ああ、楽しかったァー!」
ボクとワタルはそれぞれタオルでお互いの身体を拭う。

「そろそろお昼時やな」
ワタルがプールの隅に立っている時計塔の方に目をやりそう言った。

「ホントだね。なんか夢中で遊び過ぎちゃって時間が経つのがすごい早いみたい(笑)」
タオルを軽く押し当てて髪の水分を取りながらボクはそう言った。

「凛ちゃん、ここで待っといて? ボク何かお昼ご飯を買うてくるわ。なんか食べたいもんあるか?」
そう言ってワタルが立ち上がろうとする。

「あ、ちょっと待って。」
ボクは持ってきたバッグの中からビニールに包んだ大き目のタッパーをいくつかと水筒を取り出してテーブルの上に置いた。

「簡単なものばかりだけどお弁当作ってきたの」

ワタルは驚いたような顔をして
そして
「わぁーい、凛ちゃんの弁当や!やったぁーーー!」
と満身の笑みを浮かべて勢いよく両手を挙げた。

「そ、そんな恥ずかしいヨー(笑)」
「何作ってきてくれたん?」
「エットね、おにぎりと、あとオカズはウインナと卵焼きとベーコン巻き、あと筑前煮。ワタル君、みんなでディズニーランド行ったときレストランで食べたがってたでしょ?」
「おおおーーーーーーーーっっ!それすごいわぁぁーーー!」

ボクはそれぞれのタッパーをあけてワタルの前に差し出す。

「じゃあ、遠慮なく。」
ワタルはおにぎりをひとつ取ってパクッと加え、そして筑前煮を2,3コ口の中に入れた。
「う、うまああーーーーいっ!これ、メチャメチャうまいわ!」
「よかったぁー。昨日のうちにお母さんに教わりながら作ってみたんだけど、喜んでくれてよかったぁ。」

なんか不思議。
ボクが初めて作ったお弁当を夢中でほおばっているワタルを見ているとなんか嬉しくなってくる。

「凛ちゃんも食べんとボクぜーんぶ食べてまうでー」
ワタルが口の周りにお弁当をつけながらそう言う。

「あ、たいへーん!(笑)」
そう言ってボクもおにぎりをひとつ口にくわえた。

「はぁー、お腹いっぱいやぁー」
少し多めに作ってきたお弁当をワタルはきれいに全部食べてくれた。
ボクは空になったワタルの紙コップに水筒のアイスティーを注いで渡す。

「やあ、ありがと。ホンマにうまかったわぁー。凛ちゃん、ええ奥さんになれるで」
ワタルはそう言ってコップのアイスティをぐいっと一気に飲み干す。

「お、奥さん?」

そうかぁ
奥さんかぁ・・・
ボクも赤ちゃんを産んだりして
そして家族みんなで楽しくご飯食べて
ボクにもいつかそんなときがくるのかなぁ・・・

そんなことをぼーっと想像したときその家族のお父さんに出てきたのはなぜかワタル
じゃあ、ボクがもしも、もしもワタルと結婚したりしたら
どんなふうなんだろう?

ボクはワタルの顔をぼーっと見つめて十何年後かの姿を想像する。
「フフフ、想像できないやぁー(笑)」
そう呟いてボクは一人で勝手にクスクスと笑ってしまった。

「なんや?なんかおかしなことでもあったんかいな?」
ワタルは不思議そうにボクを見た。


そのとき
「あの、すみません。」
そう声をかけられて振り向くとそこには高校生くらいのカップルが立っていた。

「すみません。シャッターを押していただけないでしょうか?」
そう言ったカップルの男性の方がデジカメを手に持っている。

「ああ、ええですヨ。」
ニコッと笑ってワタルが立ち上がった。

「エット、じゃあ並んでください。 ハイ、撮ります!チーーーズ!」
パシャッ!

「どうもありがとう。」
「すみませんでしたー。」
カップルの2人がそれぞれワタルにお礼を言う。

「いやいや、これくらい気にせんでええです。」
ワタルがそう言うと

カップルの男性の方が
「あの、もしカメラ持ってきてたら、よかったら今度はボクが撮りましょうか?」
とボクたちに言った。

「エ、あの…。」
恥ずかしさにちょっと躊躇うボクにワタルは
「ヤッター!じゃあお願いしますわ。」
と言って自分のデジカメを男性に渡す。

「ハイ、もっと肩を寄せ合ってー。」
男性が声をかけてもワタルは照れてしまって少し遠慮がちに間隔をおいている。

せっかくの写真だもんね
ボクはそう思ってワタルの腕に自分の腕を絡ませてカレの肩に頭をもたれて微笑む。


「ハイ、じゃあ、撮るヨー。」
パシャッ

ワタルにデジカメを渡すと男性がニコッと笑ってこう言った。
「じつはね、周りにもほかにもカプルがいたんだけど、キミたちに撮ってほしいって思ったんだ。」
「エ、なんでですか?」
ボクは不思議そうにそう聞いた。

すると髪をアップにした相手の女のコの方が
「フフフ、だって、アナタたちって見ててすごく素敵なカップルに見えたんだもん」
と言って微笑んだ。


中3の夏の終わり
ボクとワタルのプールサイドの物語だった。

第8話 ミコの小さな恋

第8話 ミコの小さな恋

9月も終わりに近かづき、秋風が吹き始めた頃

「ねえ、凛。明日の放課後って何か用事ある?」
お昼休みが終わる頃ミコがボクにこんなことを聞いた。

明日は水曜日で塾も家庭教師もない一週間で唯一の自習ディ。
ミコもそのことを知っててわざわざその日にしたんだろう。
普段の息抜きにどっか寄ってくのかな、ボクはそう思て言った。
「ウウン、別になにもないヨ。どっか寄ってく?」

するとミコはニコッと笑って
「それじゃあさ、アタシに付き合ってもらっていい?」
と言った。
「ウン、いいけど。どこ行くの?」
「エヘヘ、青葉に見学に行ってみない?」

こうしてボクとミコは翌日の放課後青葉学院高等部へと向かった。
青葉学院は渋谷駅から歩いて10分ほどのところにある。
大学から幼稚園まですべてそろった一貫教育で、キリスト教のプロテスタント派のミッションスクールだ。

前日にミコがインターネットで渋谷駅から青葉キャンパスまでの地図を調べておいてくれて、ボクたちはその地図を見ながら歩いていく。
宮益坂を登っていくと通り沿いには大きな並木道が続き、そして喫茶店や画廊や本屋さんなどたくさんのお店が並んでいる。
「素敵なとこだねぇー。」
ボクが周りをキョロキョロとしながらそう言う。
「渋谷でもこっち側はけっこう落ち着いた感じだよね。あ、凛。あれ見て。」
ミコが指をさした方を見ると数人の高校生らしき女のコたちが歩いてくる。
紺のブレザーの襟元には学校のらしきバッジが光っている。
スカートはチェック柄のプリーツスカート。
「青葉学院高等部では女子のスカートの柄は自由らしいヨ。プリーツスカートだったら自分で自由に買ったのでもいいんだって。」
ミコはいろいろ調べたらしくそう教えてくれた。
「へぇー、いいよねー。それに比べてアタシらなんか…。」
そう、うちの中学の女子の制服は膝まで伸びたジャンパースカートに飾り気のないボレロと味もそっけもないんだ。
もしも受かったら、ボクもあんな制服着てこの通りを毎日歩くことになるんだろうか。
そしてミコがいて、ワタルがいて、3人でワイワイおしゃべりしながら。
なんか夢みたいだな…。

「あ、あれって青葉の校舎じゃない?」
宮益坂が青山通りと合流したところでボクが少し離れた通りの先を指すとさっきの女のコたちが着けていたバッジと同じマークのついたレンガっぽいビルが見えてきた。
「そうみたいだネ。行ってみよう!」
その建物のところにたどり着くと大きな門がある。
『青葉学院』
向かって右側の門柱にはそう書いてある。
大きな門の奥には青々とした銀杏の並木道が続いていて左右には同じデザインの古めかしい形をした校舎が建っている。
「わぁー、素敵だねー!」

キャンパスの中にはたくさんの人たちが歩いていて、校舎の中からはバンドの練習らしきドラムやギターの音も聞こえてくる。
周りの街の騒がしさと正反対にこのキャンパスの中はまるで異空間のような感じさえしている。
ボクたちはしばらく門から見えるこの光景をボーっと眺めていたが、よく見るとほとんどの人は服装が私服のようで、高校生らしからぬおじさんやおばさんもたくさん歩いている。

「ねぇ、ミコォ。ここって何かちょっと年齢層高そうじゃない?」
「そうだねぇ…。でもこの地図だとここが青葉学院ってことになってるヨ。それにこの門にもそう書いてあるし。」
「ウーン…。この中に入ればいいのかなぁ?」
2人は悩みながらそんなことを話していると、並木道の奥の方から正門の方に向かって歩いてくる男の人が一人いる。
その人はボクとすれ違った瞬間
「アレっ!?」
っと立ち止まった。
「もしかして、凛ちゃん?」
その声にボクがその男の人の方を振り返ると
「わぁっ、芦田さんだぁー!」
驚いたことに、そこにはボクが病院に入院したとき最初の頃同じ病室だった芦田さんが立っていた。

「びっくりしたぁー! あ、そっか。芦田さんってここの大学の人だったんですよネ?」
「ウン、そうだよ。キミこそどうしたの?こんなとこで会えるとは思わなかった」
「エヘヘ、じつはアタシ今年受験生なんです」

「そうかぁー、そういえばあのとき凛ちゃんは中学2年生だったよね。それにしても本当に女のコらしくなって…。」
そう言ったあと芦田さんは
「あっ!」
と小さな声を出して口を抑えた。

「大丈夫です。アタシ、今も元の中学に通ってるんです。みんなにもちゃんと事情を話して仲良くしてもらってます。」
「そうなんだ。よかったねぇ。」
芦田さんは優しそうに微笑んだ。

「あ、彼女はアタシの同じクラスの親友で藤本さんです。」
そう言ってボクは芦田さんにミコを紹介した。
「はじめまして。藤本 美子です。」
ミコはそう言ってペコンと頭を下げる。
「やあ、芦田 保(たもつ)っていいます。この大学の経済学部の2年生なんだ。」
そう言って芦田さんはミコにニコッと微笑んで挨拶した。
大学生の芦田さんは中学生を相手にしてもきちんと話してくれる。
それが芦田さんの魅力の一つだと思う。

「ところで、凛ちゃんたちは受験生ってことは、もしかしてここの高等部を受ける予定なのかな?」
「あ、ハイ。じつはそうなんです。それで見学にきたんですけど、なんかよくわからなくって。」
「ハハハ、そうか。じつはここは大学のキャンパスなんだヨ。高等部の正門はここに来る前の塀沿いに右に曲がってしばらく歩いた方にあるんだ。」
「あ、そうなんですか。同じキャンパスの中にあるのかと思ってました。」
「キャンパスは同じだよ。正門がキャンパスの中のそれぞれ違う場所にあるんだ。でもこっちからも裏手から高等部に行けるヨ。それで帰りは正門から出たら色々見れて一粒で二度おいしいんじゃないかな(笑)」
「あ、それいいですねー! じゃあ、ミコ。そうしよっか?」
アタシがそう言ってミコの方を振り返ると
ミコはなぜかモジモジとしている。

「ミコ?」
するとミコは芦田さんの方を向いて
「あ、あのっ!」
「ウン。何かな?」
芦田さんは優しくミコに聞き返す。

「アタシたち、もし青葉の高等部に入れたら将来は青葉の大学に進学したいなって思ってて。」
「そうか。じゃあ、将来は僕の後輩になるわけだネ。」
「ハ、ハイ。それでその…。」
「ウン?」

「芦田さんに、その…キャンパスの中をいろいろ教えてもらえると嬉しいなって…ダメ…ですか?」
ミコは頬を赤く染めてそう訴えた。
少しキョトンとした表情の芦田さんはまたすぐにいつもの優しそうな笑顔に戻りミコに言った。
「なんだ、そんなことか(笑) ああ、いいヨ。」

パァーっと一気に明るい表情になったミコ
「いいんですか?わぁーい!ね、凛。嬉しいねー!」
そう言ってボクに無理やり同意を求めてくる。
「ウ、ウン。そうだね。嬉しいね。アハ、アハハハ。」
「ああ。授業も終わったし、今日はアルバイトもないしね。僕でよかったら」

ミコ、アンタ、ボクをダシにしてくれちゃって…(苦笑)
もしかして一目惚れってことかな?

「じゃあ、大学の中から順番に見ていこうか。」
そう言って芦田さんを先頭にボクたちは銀杏並木の中を歩き出す。

大学キャンパスの中は右を見ても左を見ても大きな校舎が立ち並んでいる。
体育館なんかはウチの中学の3倍くらいは楽にありそうな巨大さ。
中にはバスケやバトミントン、バレーなどいろいろな練習をしててすごい活気だ。

「ものすごい大きいねー!それにいろんなクラブが練習してる。」
芦田さんの案内で大きな校舎の中に入ってみるとものすごく広いフロアで上の階に行くのはなんとエスカレーター!
そして驚くくらい長い廊下の左右にはたくさんの教室が並んでいる。

そして、こういう校舎と反対にいかにも伝統がありそうな校舎も所々に建っている。
芦田さんは銀杏並木の突き当りにあるほかの校舎に比べると割と小さいけどすごく特徴的な感じの校舎にボクたちを連れて行った。
「この建物は間澤記念館っていってずっと昔この大学の卒業生が寄付をしてくれて建てたそうだよ。」
「へぇー、なんかギリシア建築みたい!」
ボクとミコはこの校舎の前で写真を一枚パチリ。

「じゃあ、今度はミコと芦田さんが並んで?アタシ撮ってあげる。」
「エ、あ、ウン…。」
ミコは恥ずかしそうで、でも嬉しそうなてれを隠せない表情で芦田さんと並ぶ。
「あ、ミコォー。 もう少し身体を近づけないとフレームに入らないヨ。 ウン、じゃあ、撮るヨー。」
パシャッ

「さて、じゃあ最後に学食に行ってみないか? 今日の記念に僕がソフトクリームを2人にご馳走するヨ。ソフトクリームは好きかな?」
「わぁー、嬉しいー!ありがとうございます。大好きです!いつも日曜日に図書館行った帰りに2人で食べてるんですヨ。だよねネ?凛」
ミコ、それってソフトクリームじゃなくってクレープじゃないの?
心の中でそう思いながらもミコの脅迫するようにボクを見つめる目に
「そ、そうだネ!アタシもソフトクリームだーいすきっ!」
と返事してしまうボク。

芦田さんが案内してくれたのはこれもまたすごく大きな校舎で、入口がアーチ状の形になっている。
入口をくぐって中に入ると大きなフロアがあって、その奥にガラス越しに学生食堂が見えた。
「ここは第2学食なんだ。だいたい千席くらいあって外よりもずっと安い値段で食べられるんだヨ。」

学食の中に入るとボクもミコも思わず「わぁー!」っと驚きの声を上げてしまった。
大きなフロアには端が見えないくらいたくさんのテーブルが並んでいて、そこでは多くの人たちがご飯を食べたりおしゃべりをしたりしている。
「僕はあまり甘いものは食べないんだけど、女友達たちによるとウチの大学のソフトクリームはかなり美味しいらしいから。」
そう言ってボクたちはテーブル席のひとつに腰を下ろして芦田さんに奢ってもらったソフトクリームを一口ペローー。

「あ、おいしい…。」
一口舐めると口中に広がる牛乳の優しくてふわっとした香り。
甘すぎずとても柔らかい舌触りだ。

「ホント、すごく美味しいです。」
「そうか、気に入ってもらえて良かった。」
そう言って芦田さんはコーヒーを一口すする。

「ね、凛のも一口頂戴?」
「ウン、いいヨ。アタシもミコの一口。」
そう言ってボクとミコはお互いのを一口ずつ舐めあう。

ボクはいちご果肉の入ったソフト、そしてミコはキャラメル風味。
「あ、こっちも美味しいねー。」
「凛のも美味しい。アタシ、今度来たときはこっち食べてみよう。」
そんなボクたちを芦田さんは優しい眼差しで見ていた。

「じゃあ、僕はここで。高等部はそこをまっすぐ行くと裏門があって、そこから入れるから。守衛さんに言えば見学させてくれると思うヨ。」
そして芦田さんは再び大学の正門の方へと歩いて行った。


帰りの電車の中
2人並んで席に座っているとミコはフッとこんなことを呟いた。
「やっぱり5歳も違うと妹みたいにしか見られないのかなぁ…。」
「ミコ、芦田さんのこといいなって思ったの?」
「わかんない。でも…。」
「でも?」
「あの人一緒にいるとアタシすごく嬉しい気持ちになっちゃったんだぁ。なんでだろう、こういう気持ちって初めてだから、よくわかんないの。」
「そっかぁ…。あのさぁ、アタシ、思うんだけどさ」
「ウン。」
「今は5歳差って差があってすごく大人に感じちゃうけど、もう少し大人になれば5歳差の恋人同士ってけっこう普通なんじゃないかなぁ。芦田さんが23歳のときにミコは18歳でしょ。ゆっくり時間をかけてお互いを知り合ったら、そういうときがきたらきっと…。」
「そうかぁ、そうだよね。アタシたちまだまだ時間がいっぱいあるんだし。」
「そうだヨー。それで、そのためにはまず青葉に受かることからスタートだよネ。」
「そうだねー。よしっ、やる気出てきたぞォー!頑張ろう!」
「オーっ!」
そう言うとボクとミコは一日の疲れからお互い方を寄せ合ってウトウトとし始めたのだった。

第9話 聖夜のマーメイドたち

12月も終わりに近づいてきて季節はもう冬
受験生であるボクたちは最近勉強一色の毎日が続いている。

そうした中でもミコは芦田さんとメールや電話でときどき連絡を取りっているらしい。
普段はわりとクールなミコ、しかし彼女が芦田さんのことを話すときは本当に嬉しそうな表情をする。
一日の中で変わったこと、感じたことなどを夜メールしたり、また勉強のやり方や芦田さんの高校時代の思い出などをきかせてと電話をしたり
そして芦田さんはそんなミコに決して嫌な顔をせずきちんと話を聞いて自分の考えを答えようとしてくれているらしい。
男のコは恋をすると勉強に手がつかなかったりするけど、女のコはそういうとき逆に目標に向かってまっすぐ進もうとする強さを持っているようでもあった。
それは以前父親から聞いた中学卒業のとき告白をした父親に母親から聞いた答えからもわかる気がする。

教室の中でも昔は休み時間はワイワイと友達同士で話す声が響いていたものだけど、最近はシーンとした中にブツブツと英単語や漢字の読みを暗唱する声がそこかしこから聞こえてくる。
そして2学期の終業日
「もうすぐクリスマスだねぇ…」
ミコや久保ちゃん達と話しているときボクがぽつんと独り言を言った。

すると久保ちゃんが突然
「あー、毎日毎日なんかイライラしちゃうっ!」
と声をあげた。
「そうだねー。親はさ、あと少し、もう少ししたら入試が終わって高校生だから。そうすればなんでも好きなことができるさっていうけど」
奈央も久保ちゃんに同調する。
「高校に入学したら今度は大学受験で頑張れって言われて」
「そうそう!そうやって大人になるまで頑張るのかなぁ。そして大人になったら仕事をして結婚してってぜーんぶ運命が決まってるみたいな」
「つんまんないなぁー」

そんな話をしてる時ミコが突然思いついたように声を上げた。
「ねぇ、クリスマスパーティやろうヨ!」
「クリスマスパーティ? でもさ、準備とかけっこう時間かかるヨ」
久保ちゃんと奈央が難しい顔をして言った。
「カラオケボックスみたいなところで2時間だけとかってどう?それなら準備は全部お店に頼めるし」
ボクは提案してみる。
「そっか、そういうんなら息抜きにいいかも。それで他に誰を誘う?」
「そうだねー、夏にディズニーランド行った時のメンバーでどう? 多分忙しいだろうけど井川さんにも一応声をかけてみようヨ」

意外なことに、井川さんにこの計画を話してみると彼女は大喜び。
「ぜひ参加させて!」
「勉強の方、迷惑じゃない?」
「大丈夫ヨ。だって今っていうときは一度しかないんだもん」
彼女はそう答えた。

ボクは最近男女の心の違いを少しだけど感じるようになった。
男の人っていうのは、大きな目標のためにはいろいろなことを犠牲にすることをあまり気にしなかったりする気がする。それに比べて女性というのは時間の流れをしっかり受け止めて一つ一つの思い出を大切にしているという気がするんだ。

「男子も全員オッケーだって。」
奈央が安田に話、安田が男子メンバー全員に確認してくれたらしい。
「よしっ!じゃあ12月24日、3時から5時まで限定、中学最後のクリスマスパーティだヨー!」



そして当日
ボクは少しばかりのオシャレをする。
クリーム色のフワッとしたブラウスにウエストに小さなリボンのついたオレンジのプリーツスカート。そしてスカートの色に合わせたボレロを身につけた。
口には薄いピンクの口紅を引く。
髪の毛をサイドで細く編んでそれを後ろでまとめてバレッタを着け、ドレッサーで何度も確認する。

「じゃあ、行ってきまーす」
交換するプレゼントの包を入れたハンドバッグを持って玄関のところで母親に声をかけた。
「アラッ、随分念入りにオシャレしたわネ(笑) あまり遅くならないようにネ。」
「ハァーイ」

コートを着て外に出ると冷えた風がスカートから伸びた足を刺す。
雨も少しパラパラと降っていた。
「ハァーー、寒いーーーー」



待ち合わせは駅前のカラオケボックス『アリス』の入口の前。

ここは6時までなら中学生でも入れるお店だ。
カラオケ好きの工藤が予約をしてくれていた。

お店に着くとすでに女のコ数人と男子は全員揃っていた。

「わぁ、凛。オシャレしてきたでしょ?」
ミコがボクの頬を人差し指で軽くつついて言った。
「エヘヘ、ちょっとだけネ(笑) でも、そういうミコだってすっごく可愛いー」
今日のミコはフェミニンな感じの薄いイエローのワンピースを身に纏ってとても素敵だ。口にはやはり薄くピンクの口紅を引いている。

「今日はなんか冷えるなー。もう中に入ろうか」
全員が揃い予約をしてくれた工藤がみんなに声をかけた。

案内された部屋はわりと大き目のパーティルーム。
天井にはなんとミラーボールまで付いている。


「いい部屋じゃん。こういうことにかけてはさすが工藤だなー」
「「こういうことにかけては」だけは余計だろ(笑) じゃあ、適当に座って。」 
今日の司会は工藤。
彼の案内に従ってボクたちはそれぞれ適当なソファに腰を下ろした。

そして工藤は前のステージに上がってマイクを持つ。
「オレたちの中学生活最後のクリスマスの思い出を作りましょう。みんなめいっぱい楽しもうぜーーー!」

「かんぱーーーーい!」


楽しいおしゃべりと大きくて華やかなクリスマスケーキ。
みんなが思い思いに受験前の最後の楽しい時間を過ごしている。

でもそんな楽しいときが過ぎるのは本当に早い。
あと20分でシンデレラたちも舞台から降りる時間。

そのとき工藤がふたたびステージにあがった。
「エー、それじゃ、いよいよラストです。中学最後のクリスマスをこうしてみんなで過ごせたことはずっといい思い出として残るでしょう。そして最後は…」

すると静かな感じのバラードが流れてくる。
「最後はチークダンスです。 我こそは思う王子はシンデレラを誘って前に出てきてください」
しかしみんな照れてしまって中々前に出てくるカップルはいない。

そこに意外なカップルが出現した。
井川さんが安田の前にすっと立ち
「ね、安田君。踊ろう?」
と誘ったのだ。

誘われた安田は一瞬ポカーン
しかし照れた顔でニコッとすると
「へへへ、わりーな、工藤」
と言って井川さんをエスコートして前のオープンスペースにあがった。

安田・井川さんカップルに刺激されて何組かが前に出ていく。

すると
ボクの顔の前にすっと長い指をした手が伸びた。
ボクはふっと顔を上げるとそこにはワタルの優しい笑顔。
ワタルは「踊ろう」とも何も言わなかった。
でもボクはワタルが差し出した手に自分の手を静かに重ねて立ち上がった。
そしてボクたちはゆっくりと身体を重ねてリズムに乗る。

今は20センチも違うワタルとボクの身長
ボクは少しだけ背伸びをしてワタルの肩下に手を置き、そして自分の頭をカレの胸を静かに付けた。

トクン…トクン…。
静かなリズムでワタルの胸の鼓動が耳を伝わってボクの心の中に溶けていった。


「わぁーー、雪だぁーーー!」
パーティが終わりお店の外に出るとあたりはもう暗く、そしてさっきまでパラパラと降っていた雨はハラハラと舞い降りる雪へと変わっていた。

「凛と石川君は同じ方向だよネ。石川君、凛のこと送っていってあげてね」
そう言うとミコはボクに小さくウインクする。
もう、ミコったら気を使ってくれちゃって…。

ボクとワタルは舞い降りる小雪の中を肩を並べて歩き出した。
しばらく歩くとあの『赤いブランコの公園』の前を通る。

「なあ、凛ちゃん。ちょっとだけ公園に寄って話していかんか?」
ワタルがそう言った。
「ウン、いいヨ。」

ボクとワタルは誰もいない公園の中で赤いブランコに座って今日の出来事を2人で話した。
小さな公園だけど、周りは背の高い木立に囲まれて外の通りの音は遮られ、シンとした静寂に包まれている。
空から降りてくる雪はポツンポツンと所々にある公園の街灯の光に反射してまるで小さな天使が舞い降りてくるように見える。

「わぁー、綺麗だネー」
落ちてくる雪にボクは手をかざした。
するとワタルが横のブランコに座るボクの方を見てこう言ったんだ。
「ウン。綺麗や、すごく綺麗や……凛ちゃんが」
「エ……。」
そのときほんの一瞬ボクの時間が止まった。

ワタルはブランコから腰を上げるとゆっくりボクの前に立った。
「ボクの目の前にいるキミはもう素敵なひとりの女のコやな。」
そう言って、カレはボクのおでこに小さなキスをした。
「ぁ……」
「さあ、遅くならないうちに帰ろうか。凛ちゃんのお母さんが心配するさかいに」
「ウ、ウン……」

そしてボクとワタルはまた歩き出す。
ボクの手はワタルが差し出した温かい手に包まれていた。

第10話 ああ、受験ラプソディ

年を越し、そしていよいよ2月に入った。

最近教室の中は毎日チラホラと欠席が目立つようになっている。
私立高校の受験がスタートしているのだ。

ボクとミコもすでに実際女学園高校の受験を終え、2人で合格を手にしていた。
しかし本番の青葉学院の入試はこれから。
合格確実圏のミコはともかくボクは最終回の模試でなんとか合格率75%と希望の持てる可能性まで上げたけどけっして油断できない位置にいる。
一方でワタルは驚いたことに青葉学院一校でほかには都立高校さえ受けないと言っていた。
そんなときにボクとワタルは些細なことで小さな喧嘩をしてしまった。

ある日の放課後
クラスのみんなはそうそうと帰ってしまい教室にはボクとワタルとミコ、そして井川さんの4人になっていた。

そんなときボクはワタルに少ししつこく繰り返し言ってしまった。
「ねえ、万が一ってことだってあるんだし、他の高校をもうひとつくらい受けておいたら?」

するとワタルはいつも冗談ばかりで飄々としているカレに珍しく、ボクの言葉に少し拗ねたような顔をした。
「凛ちゃんは、ボクと同じ高校行きたくないんか?」
その言葉にボクはついカッとなってしまった。
「そんなわけないでしょ! アタシはキミのことが心配だからっ!」

ガタン
音を立てていきなり椅子から立ち上がるワタル
その音に参考書を読んでいたミコがチラッとボクとワタルの方を見る。
「ねえ、ワタル君! ちょっとっ!」
ワタルはそんなボクの言葉を無視するかのようにカバンを手にして教室を出て行ってしまった。

なんで?
ボクはワタルのことが心配で言ってるのに
そんなふうに言うの?
わけわかんないヨ・・・。
ボクは下を向いてうつむくと目に溜まった涙がポタっと机の上にこぼれ落ちた。

そんなボクにミコが近寄ってきて声をかける。
「凛、そろそろ塾に行く時間だよ。 帰ろう?」
「ウ、ウン・・・。」

学校からの塾へと向かう帰り道
落ち込んでいるボクにミコはこう言った。
「凛さぁ、石川君のことホントに好きになっちゃった?」
「好きかって言われても・・・彼は幼馴染だし。」
「幼馴染だと好きになれないの?」
「そういうわけじゃないけど・・・。でも、ワタルはアタシが男だったときのことを知ってるんだヨ?」

「凛、それは違うヨ!」
ミコはきっぱりとそう言い切った。
「凛、アンタには男だったときなんかないんだヨ。 たしかにアンタが生まれたとき男と間違われて、ずっと男のコとして生活してたのはわかるけど、もういい加減気持ちを切り替えないとネ」
そう言うとミコはボクにもう一度聞いた。
「凛は石川君のことが好き?」

ミコはまっすぐボクの目を見ている。
ボクはそんなミコの視線を逸らすように目を下に落としながら
ああ、もうミコにはなんでも気持ちを隠せないって思った。
「好き・・・かも」
呟くような小さな声で答えた。
「そっか。素直になったネ」
ミコはそう言ってニコッと微笑んだ。

そしてこう続けた。
「じゃあさ、今は石川君のことを信じてあげようヨ?」
「信じてあげるって?」
「ウーン、アタシにもよくわからないんだけどさ、彼はどうしても凛と同じ高校に入りたい、っていうより入らなくちゃいけない理由があるような気がするの。だからさっきみたいな些細なことにも敏感に反応しちゃう気がするんだよね」

ミコの言うことはわかる気がする。
ワタルと再会してからずっと感じていたことがあったんだ。
それは、ボクがワタルにそういう気持ちを感じるようになる前から。
気がつけばボクの近くにはいつもアイツがいた。
そしてボクのことをどこかで守ってくれているような、そんな気がしてたんだ。

「だからさ、凛は今は自分がまず絶対に受かるんだって気持ちを持たないとダメだヨ。石川君が受かってアンタが落ちちゃう可能性だってあるんだから」
「そうだね、むしろそっちのほうが大きいんだしね。」
「それにさ、アンタとアタシって、青葉がダメでもし都立も落ちちゃったら実際女学園に行くことになるんだヨ。 そうなったらあの図々しい石川君でもまさか女子校までついてこれないでしょ?(笑)」
そう言ってミコはクスクスと笑い出した。

「たしかに・・・(笑)」
ボクもミコに誘われて笑い出す。
そしていつの間にかボクとミコはゲラゲラと笑い合っていた。

それから1週間後
いよいよボクたちは本命の青葉学院高等部の受験を迎える。


試験が始まるのは朝9時30分。
そして受験生は9時15分までに教室に入らねばならない。
ボクとミコ、そしてワタルの3人は朝の8時に最寄り駅で待ち合わせをした。

「わぁ、寒いー。」
家を出るとボクは寒さに体を震わせた。
学校の制服にコートを着てもスカートから出ている素足には容赦なく冷たい風が当たってくる。

「今日は寒さが厳しいっていうからタイツをはいていったら?」
母親は朝御飯を食べているときそう言ったが、ボクはなんとなくタイツのモコモコととする感じが好きではなかった。
そう思って強がって
「いいヨォ。」
と拒絶はしてみたものの、それでも寒さを身に感じると少し後悔したりもする。
それでも
「ヨシッ!」
と気合を入れてボクは元気に歩き出した。

「オハヨー。」
早めに家を出て8時すこし前に駅に着くともうミコが待っていてくれている。
「オハヨ。いよいよだねぇー。」
「ワタル君は?」
「まだだヨ。凛は一緒じゃなかったんだ?」
「ウン。大丈夫かな?」

「大丈夫だと思うけど…、でもアタシ、石川君の家の電話番号知らないんだよね」
ミコにそう言われて、そういえば自分もワタルの連絡先を知らないことに気づく。
不思議なのことだけど、じつはボクはカレの家がどこかも正確には知らない。
まさか、今日は遅刻はなしだよ・・・。

少し心配になってきたが、もうすぐ8時になろうとしていたとき
「ヤァ、ヤァ、オハヨーさん!」
いつもの元気な姿でワタルがやって来てボクはホッと胸を撫で下ろした。
「良かったー。遅れたら置いていっちゃおうって話してたんだヨー。」
ボクはそう言って20センチの身長差のワタルの頭にボクは少し背伸びして小突くようなポーズをした。

「さぁ、じゃあいよいよ出発だネ。みんな、頑張ろうネッ!」
ミコがそう言ってスっと手を出す。
そしてボクとワタルはその手に自分の手を重ねて
「ガンバるぞ!オーーーッ!」
と勝どきを上げた。


青葉学院高等部に着いたとき、正門の前はすでに黒山の人だかりだった。
ボクたちはその後ろに並んで門が開くのを待つ。

「ねぇ、この感じってなんかアレに似てない?」
ボクはワタルの耳元にそっと囁いた。
するとワタルはニヤッとした顔をして
「覚えとるで(笑) ディズニーランドやろ? 今度は転ぶなや。」
とボクの耳に囁き返してきた。

そう
あのときはワタルに支えてもらっていた。
だけど今日は自分だけの力で頑張らなくっちゃいけないんだ。

そんなことを思っていると
「それでは開門します。列を崩さずに順番に校舎内に入ってください。」
と案内の先生の指示が出た。

校舎内に入ると、入口のところに受験会場の案内の張り紙がある。
女子は北校舎で男子は南校舎
中央の大きな校舎の中に男女別に左右に分かれて矢印が貼ってある。

「じゃあ、アタシたちはあっちだから。ワタル君、頑張って!」
ボクが最後にそう声をかけると
「おお!いいか?凛ちゃん。絶対に一緒の学校に行くんや。だからみんなでこの学校に受かろうな!」
ワタルは力を込めて言った。
「ウンッ!」
そしてボクも力を込めて大きくそしてしっかりと返事をした。


「じゃあ、アタシは2つ向こうの教室だね。凛も頑張って!」
途中でミコとも分かれてボクはいよいよ自分の受験会場の教室に入る。

中には女子の受験生が40人くらい。
すでに半分位が席について参考書などを広げて読んでいる。
ボクも自分の受験番号のついた席をみつけてそこに腰を下ろした。
周りを見回すとミコや井川さんみたいな頭のいい感じの人がたくさんいる。

まずは落ち着くこと
ボクはスゥーっと大きく息を吸いそして吐く。

しばらくすると試験監督の女性の先生1人が入ってきた。
その先生は教壇の上に立ち、大きな声でボクたち受験生に告げる。
「エー、それではこれより本年度の青葉学院高等部入学試験を開始します。」

こうしてボクたちの受験ラプソディはいよいよ本番を迎える。


1時間目の英語が終わると2時間目の数学まで30分間の休憩時間となる。
その間に試験監督の生徒数人が答案を回収して先生に渡し、先生はそれを丁寧にチェックしてから教室を出ていく。
それはほとんど機械的に、そして正確確な時間で行われていた。

しかしお昼の休憩のときにはそれがちょっと違っていた。
3時間目は最後の国語の試験で開始時間まで1時間お昼ご飯と休憩の時間がある。
ボクもカバンの中から母親が作ってくれたお弁当箱と水筒を取り出して机の上に広げた。
ふっと見るとお弁当箱のフタに小さな付箋が張り付いている。
そこには『凛、ガンバレー!』と書かれた母親のメッセージとイラストが。
お母さんもお父さんと同じ学校に行けるように頑張ったんだ。
ボクだって!

そして
受験生が各自それぞれに持ってきたお弁当を食べていると、そこに試験監督の先生は少し早目に教室にやってきた。
ボクたちはみんな試験開始時間が早くなったのかと思い、慌ててお弁当を仕舞おうとする。
するとその先生は教壇の上に立ってこう言い始めた。
「あ、そのままゆっくり食べていてください。まだ時間は十分にありますから。」
アレ、それじゃどうして教室に来たんだろう?
ボクも他の女のコたちも不思議そうな顔で先生を見た。

すると先生はいきなりこんなことを話し出す。
「エー、これも何かの縁ですので自己紹介します。先生の名前は佐藤 優実といいます。優しく実ると書いて『ゆうみ』と読みます。」
ポカンとした顔で先生の話を聞いているボクたち受験生

さらに先生は話を続ける。
「ただしヨ、実際はいつも名前通りっていうわけではないのヨー。厳しいときには厳しく、でももちろん優しいときには名前通り優しく。
一緒に思い出に残るような楽しい時間を過ごしたいって思ってます。
それと好きな音楽はなんといってもサザンオールスターズです。知ってます?
彼らってこの学校の大学の卒業生なんですヨ。なんでいきなりこんなことを話し始めたんだろう?って思ったでしょ?
 だって、アナタたちが受かってこの学校に入ったときに、もしかしたらアタシがアナタたちの担任になるかもしれないじゃない?
だから今のうち面倒な挨拶は済ましておかないとって思ったのです!(笑)」
おどけたようにそう話す佐藤先生に所々からクスクスという笑い声が漏れ始める。

そして佐藤先生は最後にこう言って締めくくった。
「アタシとアナタたちはたった1日だけ、同じ教室で同じ時間を過ごしただけの縁だけど、結果的にどの学校に行くにしても、私はアナタたちが今まで努力してきた力をすべて発揮できるよう心から祈ってます。最後の一教科、みんな後悔しないように頑張ってくださいネ!」
するとどこからともなくパチパチと拍手の音が聞こえ、そしてそれは教室全体へと広がっていった。
佐藤先生はその拍手に少し照れたような顔をしていた。


全部の科目が終わり教室を出ると、階段の前でミコが待ってくれていた。
「凛、どうだった?」
「ウン、けっこうできたんじゃないかって思う。」
「わぁー、良かったじゃん。そういえば教室の雰囲気すっごいピリピリしてたでしょー?」
「それがさぁ、なんかウチの教室の試験監督の先生がすごく楽しい感じの人だったの!あのねーーーーー。」
そんなことを話しながらボクとミコは肩を並べて歩き始めた。
そしてワタルと待ち合わせた正門へと向かう。

「おかえりー、凛ちゃん」
その日の夕方、受験が終わり家に帰るとすでに家庭教師の弓美香先生が家で待ってくれていた。
そして2人で部屋に入り、問題用紙とボクの書いた解答をもとにさっそく自己採点をする。

「フン、フン。なるほど…。あら、あらあら…。」
先生は英数国と一通りの採点を終わってペンを下ろし、今後は電卓をパチパチと打ち始める。
「どうですか?」
ドキドキを抑えられないボクに
「あらー、びっくり!」
と弓美香先生は驚いたように電卓を下ろした。

「びっくりって…やっぱりダメっぽいんですか?」
「逆ヨ。予想したよりかなりできてる感じなの」
「エ、ホントに!?」
「ウン。まあ配点はあくまで予想だけど、英語は80%は固いわね。国語は70%~75%くらい。この2教科は予想通りだったんだけど、数学が予想以上にできてるわ」
「わぁー、やったぁー!」

思わず両手をあげて喜んでしまうボクに弓美香先生は笑いながら話す。
「でしょ?(笑) 凛ちゃんの場合、合否を分けるとしたら数学だって思ってたんだけど、70%以上は取れてるみたい。ホントびっくりだわー」
「じゃあ、合格できるかもしれない?」
「そうだわネ。例年の青葉の女子の合格最低点は70%前後で、凛ちゃんは75%くらいは取れた感じだから、配点に偏りがなくて急に最低点があがらなければ多分・・・OKかな。もちろん、これはあくまで予想だけどね」

「ああ、受かるといいなぁーーー」
そう呟きながらボクの頭の中はすでに青葉生になってる自分の姿を妄想中(笑)
「そうねー。これでもし青葉がダメだったら、凛ちゃんが恐れてた女子校行きってことになるかもしれないもんね(笑)」
「先生、ミコと同じこと言ってるー」
「アハハ、でも女子校だって悪くないわヨ。先生だって女子校で楽しくやってたしね。女のコばっかりで気を使わないし」
「そうかもしれないけどさ…でも・・・」
「でも?」
「約束したの。みんなで受かって一緒に同じ高校に行こうって」
「へぇー。みんなって?」
そう言って弓美香先生はニヤっとちょっと意地悪そうな目をした。

「ミコ・・・とか」
ボクがモゴモゴと口ごもったように答えると
「ミコちゃんとか? ウーン、どっちかっていうと『とか』の方にアクセントがありそうね?(笑)」
そう言うと弓美香先生はクスクスと笑い始めた。

「………………」


そして数日後
とうとう青葉学院高等部の合格発表の日がやってきた。

受験の時同じように駅で待ち合わせをしたボクとミコ。
しかしワタルはなぜか
「あ、ボクはちょっと用事を済ませてから行くさかい。先に行っといて」
と言い別々に行くことになった。

渋谷駅に着き、そこから青葉まで10分程の道のりはボクもミコもほとんど無言だった。


正門前に着いたとき
「ああ、受かるといいなぁー。」
ボクがそう呟くと

ミコはすごく厳しい顔でこう言った。
「そうだネ。アタシ、このために3年間ずっと頑張ってきたんだ。中等部落ちたときのあの悔しさは絶対忘れてない!」
そのときのミコの表情はいつも余裕の雰囲気でクラスのトップを守ってきたミコからは想像できなかった。

そしてそこから合格番号の掲示場所までボクたちは駆けるように足を早めていく。
「ああ、神様。お願い!受からせて! 受かったら嫌いなパセリもちゃんと食べるようにします。だからお願いですぅ~~~~~~~!!」

次第にボクの目に掲示板が小さく見えてきた。

あと40m、30m、20m……

そして10mに近づく前に
ボクは、掲示板に並んだ番号を上から順番に追う必要もなく、

どーーん!という感じで

ひとつの受験番号が目の中に飛び込んできた。

「あ……。」
一瞬固まってしまった

そして次の瞬間
「きゃぁぁーーーーーっっ!!あったぁぁーーーーーーーっっ!!」
声の限りにボクは叫んだ。

もしこんなところを誰かに見られて笑われたっていい。
この喜びを邪魔する者は誰だって許さない!
そう思うくらい叫びまくった。

するとボクの隣にいるミコが
「凛、あったの!?あったんでしょ!?」
ボクの肩を掴みながらそう叫ぶ。
そしてそのときのミコの顔は笑顔で真っ赤に上気していた。

「ウン!あった!ミコも、ミコもあったんだよネ!?」
「ウン!あった!アタシもあった! やったぁぁーーーーーっっ!!」
涙でくちゃくちゃになった顔でお互いの身体を強く抱き合って喜ぶボクとミコだった。

ひとしきり喜びを噛み締め合ったボクとミコ。
ボクは思いついたように
「あ、ミコ。ちょっと待ってて?」

そう言って隣に貼られたもうひとつの掲示板の近くに行ってそこにある番号を確認した。
そしてボクとミコは再び自分たちの番号が載っている掲示板に戻りもう一度確認。
「良かったー!やっぱりある~~~~~!」
ボクがそう言うと
「アハハ、あるね~~~~~~~~。アタシのも凛のもちゃんとある~~~~!」
ミコはゲラゲラと笑いながら答えた。

こんな当たり前のことでボクとミコは笑い合ってしまう。
それくらい今ボクとミコは幸せの絶頂なのだ。


すると
そこにいつもよく聞く飄々とした声の主が現れた。

ワタルはボクたちの顔を見て
「やぁ、やぁ! お、その感じやと2人とも合格やな?」
「エヘヘーーーーー」
ボクとミコは2人で小さなVサインを出した。

そしてワタルは今までボクたちが見ていた掲示板に目をやり
「どれどれ・・・ボクの番号はっと」
そう言って近い番号を上から順番に見ていった。

ところが
「お、おおっ、おおおおーーーーーーーっっ!!」
そう叫ぶとカレはいきなりガクッと膝を地面に落としてしまった。

「あの、ワタル君?」
ボクは心配そうにワタルに近寄る。

「ボクの、ボクの番号がない・・・
ボクだけ落ちてしもたぁー!
凛ちゃんもミコちゃんも受かったんにボクだけ落ちてしもたぁぁーーーーー!!」
と叫んでしまったのだった。

「ワ、ワタル君?」
ボクはワタルの足元にしゃがんでカレの顔を見る。
彼は茫然自失の表情だった。

「あのさ・・・」
「・・・なんやぁ?」
「キミは相変わらずオッチョコチョイがぜんっぜん直ってないんだネ?」
ボクは落ち着いた表情でそう言うと
「そう・・・やな。きっとどっかで解答の記入欄間違えたりしてしもーたんやろな。ハハ、ハハハ・・・、まったくボクって相変わらずやな」
ワタルは自虐的な顔で小さな声で呟く。

「これからはもっと落ち着かないと?」
そしてボクがそう言うと
「わかっとるって。でも凛ちゃんって思ってたよりキッツイねんな。今のボクにはその言葉に耐えられんわ」
さらに
「ああ、どっか他の高校を探さにゃならんなぁ。まあ違う学校になっても友達でいてくれな?」
ワタルは次第に鳴き声になってきた。
「でも、これから毎日会えるじゃん?」
隣でその様子を見ていたミコが呆れるようにワタルにそう言うと

「ハァ・・・、そうやな。駅とかで一緒になるしな。」
ワタルの復活の様子はない。
それを見て
「ハァー」
とため息をついて顔を見合わせるボクとミコ

そしてさすがにたまらなくなりボクはワタルにこう言った。
「あのさぁ、ワタル君。 もう一度今キミが見た掲示板の一番上を見てくれない?」
ワタルは小さく顔を上げて
「なんや?そんなん何回見たって・・・」
カレは申し訳のようにその掲示板の上に書かれている字に目をやる。

「青葉学院高等部 女子合格者番号…ん?…女子合格者?」
「そうヨッ!これは女子の合格者の掲示板っっ!キミは女子かっ!?」

するとワタルは急にすくっと立ち上がった。
「ア、アハハハ!! なーんや、そうやったんかー!ならボクの番号があるはずないやん。なーんや!凛ちゃんもミコちゃんも人が悪いなぁ(笑) そうならそうと最初から言ってくれればー」
そう言いながらワタルはその隣にある男子合格者の掲示板の方に目をやった。

そして
「あったぁぁーーーーーっ!ボクも合格やぁぁーーーーっっ!!」
と大きな声で叫び全身でガッツポーズをとったのだった。

ボクたちはそれぞれ合格書類を手にして青葉学院高等部の正門を出た。
それから青山通りをわいわいと話しながらゆっくりと歩いていく。
「ああー、凛ー。これって夢じゃないんだよね?アタシたちって今ちゃんと青葉の合格書類を持ってるんだよね?」
ミコが少し赤くなっているぽーっとした顔で言う。

そこにワタルが
「ミコちゃん、夢かどうかボクが顔をひっぱたいたろうか?」
と冗談を言ってくる。
「じょーだんっ!これ以上真っ赤な顔になってたまるもんですかっ!」
ミコはそう言いながら笑い出した。

ボクは中3になってすぐの頃ミコから聞いたことがあった。
ミコは小学校のとき青葉学院の中等部を受験したらしい。
ミコはその頃にもやっぱりかなり優等生で、自分でもけっこう自信はあった。
しかしそのときの結果は不合格。
そのときミコは小学校の担任の先生の胸で思い切り泣きじゃくったそうだ。

そして今回、高等部で合格を手にした彼女は青葉の正門を出る前にボクとワタルに
「あ、ゴメン。ちょっと待ってて?」
そう言うとカバンから携帯電話を取り出してアドレス帳に載っている番号を押した。

ミコがかけた相手は彼女の卒業した小学校だった。
ミコは受付の人に担任の先生を呼び出してもらい、そしてその先生に青葉の合格を告げた。
電話の先ではその先生が大喜びで彼女にお祝いを言っている様子だった。
「ハイ、ハイ・・・。ええ。先生、本当にありがとうございます。」
ミコは少し涙混じりに話している。

電話を切った後ミコはとてもスッキリとした表情だった。
「はぁー、これでやっと小学校から続いてたアタシの受験ラプソディが終わったわぁー。」


途中のバーガーショップでハンバーガーとコーラで3人だけの合格祝い。
そしてこれから毎日通うことになるこの道に並んでいるお店のウインドウを覗いてみたり、青葉生になった自分たちを想像する。
「わぁ、素敵な喫茶店だねー。ねえ、凛。入学したらこのお店で帰りにお茶して行こうヨ」
「いいねー。アタシ、チョコケーキも食べちゃおう!」
ふっとワタルを見るとカレはプラモデルの専門店を見つけて熱心に観察中。
「おおっ、これええなぁー!入学したらこうたろー」
こうしてそれぞれが思い思いに夢を描いていた。


さて
それからしばらくして、渋谷からようやく自分たちの駅に着いたボクたちは担任の山岸先生に合格の報告に行く。

職員室の入口で
「あのー・・・」
ミコが小さくドアを開き、その場にある先生に声をかけると
「おおー、山岸先生ー!藤本たちが帰ってきましたヨー!」
と大声で山岸先生を呼ぶ。
すると奥の方にいた山岸先生が姿を現した。

「あらぁー、3人ともおめでとうー!」
すでに青葉にいるときに携帯電話で合格を連絡していたので先生は満身の笑顔でボクたちを迎えてくれた。
「3人とも合格したんだって?」
「いやー、すごいな。ひとつのクラスで青葉に3人合格は初めてでしょう?」
そう言いながら周りにいた先生たちも寄ってくる。

「でも、本当に良かったわぁー。実を言うとね、アタシは小谷さんはわりと安心してたのヨ。アナタはしっかりしてるからネ。心配はなんといっても石川君ヨ!(笑) ときどきとんでもないポカミスをするからねー」
山岸先生は笑いながらそう話す。
するとワタルはこう言って高らかに笑った。
「ワハハハ。先生ー、ボクみたいな冷静な男をつかまえて何をおっしゃりますのー。 もう、とーぜん合格してるって思うて落ち着いて番号見てましたわ!ワハハハハーーーー」
ボクはワタルにすかさず突っ込む。
「呆れたーーーーー!よく言うよねーーー。ねー、ミコ」
「そうだよネー。まったく開いた口がふさがらないわ(笑)」
ミコも大笑いして同調する。

「ね、先生。聞いてー?」
ボクは山岸先生の方を振り返って言う。
「あら、何かしら?」
「ワタル君ったらね、女子の合格者掲示板を見て、ガクって膝ついてしゃがみこんじゃってね、それで「ボクの、ボクの番号がない…、ボクだけ落ちてしもたぁー!凛ちゃんもミコちゃんも受かったんにボクだけ落ちてしもたぁぁーーーーー!!」って泣き叫んじゃったんだヨー」

それを聞いた山岸先生は大笑い
そして周りでそれを聞いていた他の先生たちも大爆笑し始める。
「ワハハハハーーーー!さすが石川ーーーー!(笑)」
「ひぃぃぃーーーーー!腹がよじれて苦しいーーーー!(笑)」
「石川ーー、オマエ青葉より吉本目指したほうが正解じゃなかったかーーー!?(笑)」

「凛ちゃん、そればらしたらアカンって言うたやないかー。」
ワタルは真っ赤な顔になって叫んだのだった。


それからしばらく先生たちと話したあと学校を後にして家路についた。
「じゃあ、アタシ、こっちだから。明日学校でね」
途中で家の方向が違うミコと分かれてボクとワタルは2人で歩き出した。

すると
途中通った『赤いブランコの公園』でワタルはフッと言った。
「なあ、凛ちゃん。少し話していかんか?」
「ウン、いいヨ」

いつもの赤いブランコに腰掛けて今までの思い出話を始めるボクとワタル。
「でもさぁ、10ヶ月前にワタル君と再開したときホントびっくりしちゃったヨ」
「ほぅ、何をびっくりしたん?」
「だって、あの頃はアタシより低かった身長はこーんなに高くなっちゃってるし、それに勉強もすごいできるようになっちゃって、それと・・・」
「それと?」
「ちょっと雰囲気が変わったっていうか、なんか優しくて逞しい感じになって・・・」
「そうか? まあ、人は成長するもんやしな(笑) でも、ボクかて驚いたで、凛ちゃんと再会したとき」
「アハハ。そりゃびっくりするよネー。今までずっと男だって思ってた幼馴染がいきなり女のコに変わちゃってたわけだし(笑)」
「いや、キミがあまりに素敵な女のコに成長してたからや」
「エ……。」
「その女のコは、あるとき下駄箱から出た釘で指を怪我してしまった男のコの血をティッシュで優しく拭いてくれて、そこに自分のバンドエイドを貼ってくれたんや。 そして男のコはその素敵な女のコに恋をしてしまったわけや」

「あ、あの・・・」
「ん?なんや?」
「それって・・・」
「そうやヨ。その娘は小谷 凛って名前の素敵な女のコなんや」
「だって、アタシは・・・」
「ボクは今ボクの目の前にいる凛ちゃんというひとりの女のコを好きになってしまった。それはいかんことか?」
ワタルはボクの目をじっと見つめてそう言った。
それはいつもの冗談っぽいカレとは明らかに違っていた。

「あの・・・」
「どうや? いかんことか?」
彼はボクから目を逸らさない。
「いけなく・・・な・い」
そんな彼にボクはやっと絞り出すような声でそう答えた。

「そうか。」
「ウン。アタシも・・・アナタが・・・すき」

そしてそう言った瞬間
ボクの顔にワタルは静かに自分の顔を近づけてきた。

「ぁ・・・」
ボクはゆっくり目を閉じる。

そして初めてのキスをする。
彼の唇はとても熱かった。
そしてボクは自分の身体がとても熱くなっているのを自覚していた。

唇を離した後、ボクはワタルの胸に自分の顔を埋めた。
トクン、トクン・・・
ワタルの鼓動がボクの耳に優しく響いていた。
それはまるで甘いラブソングを聞いているかのようだった。

第11話 卒業そして入学

第11話 卒業そして入学

3月も半ば
都立高校の入試も終わり、クラスの中はようやく落ち着きを取り戻す。

ボクとミコそしてワタルの3人は青葉学院高等部へ。
ミコと並ぶクラスのツートップ、秀才井川さんは都立でトップクラスの進学校戸川高校へ。
さらにあのクリスマスパーティ以来井川さんと急速に接近中の安田は都立白洋高校へと
それぞれが新しい自分のステージを見つけていった。


そしていよいよ今日
ボクたちはは卒業式を迎える。

思い出すと3年前の4月
真っ黒の学ランで入学式に出席したボクは、今 紺のジャンパースカートとボレロに身を包んで卒業式を迎えようとしている。
親しかった男友達とは別の立場に立つようになり、新しい女友達ができていった。
そしてときにはそれまでと違う価値観を受け入れていく必要もあったんだ。

人間っていうものは今現在の自分しか認知できないから、自分の心がどれだけ変わってしまったのかを知る方法はないという。
だから、もしかして他の人から見たら、入学の時のボクと今のボクはまったく別人って言って良いのかもしれない。
でもそれは変化じゃなく成長だと言ってくれたワタルの言葉をボクは信じている。
そしてミコという親友を持てたのは、女のコとしてのボクにとってとても幸運なことだって思っているんだ。


教室の中は朝からざわざわとした騒がしい話し声に包まれていた。
でも、山岸先生はそんなみんなをいつものように注意したりしていない。
それどころか、そうしたクラスの雰囲気を最初からずっと優しい笑顔で見守ってくれているようだ。

生徒たちにとって今日は中学生活最後の日
そしてこのクラスの仲間たちとのお別れの日だから
だから好きなだけ語り合い、そして笑い合っていさせてあげたい。
きっと先生はそう思っているんだろう。

「ねぇ、先生。いっしょに写真撮ろうヨー」
ボクたちが先生にそう声をかけると
「ハイ、ハイ。いいわヨ」
先生は優しい笑顔で応じてくれる。

カメラオタクの安田が、何やら高級そうなカメラを持ってきてクラスの専属カメラマンを引き受けていた。
山岸先生を真ん中にしてボクとミコ、井川さん、奈央、久保ちゃんの5人が周りを囲む。
「ハイ、それじゃ撮るヨー。 笑顔でー、チーズ!」

パシャツ!


しばらくすると校内放送のチャイムが鳴り
「卒業生は体育館に移動をしてください。」
と放送が流れきてきた。

先生は教壇の上に立ち、
そしていつものようにクラス中に響き渡る大きな声でボクたちに告げた。
「さあ、いよいよフィナーレです。皆さん、最後までビシッといきましょう!」


クラスごとに体育館に入場すると、中にはすでに先生方や父兄や下級生たちなどたくさんの人が集まっていてボクたちを迎えてくれている。
入場行進中、フッと気づくとその中にボクの父親と母親もいた。
ボクはニコッと微笑み小さく左手を振って応える。

そして卒業式は滞りなく進み、いよいよ卒業証書の授与

「続きまして3年B組」
クラス担任の山岸先生が最初は男子そして女子の順番に名前を読み上げていき壇上にあがる。

「それでは続きまして女子」
何人かの名前が呼ばれたあと
「小谷 凛」
「ハイ!」
ボクは大きく返事をして席からち上がり校長先生の立っている壇上へと上がっていく。

校長先生はボクの両手に卒業証書を渡しながら小さな声でこう言ってくださった。
「小谷さん、君は在学中に他の人にはない大きな決断をしました。そして君は優しく素直な心で今までとは違った多くの友人を作り、新しい人生を切り拓きましたね。これからの君が一層素敵な女性に成長していくことを先生方皆が心から期待しています」
「ありがとうございます。いろいろお世話になりました」
ボクはそう言って深く頭を下げた。


卒業式が終わりボクたちは再び教室に戻る。

「エー、それでは卒業アルバムをお渡しします。各自前の方に出てきて一冊ずつ受け取ってください。」
先生は教壇の上に何冊かに分けてアルバムを並べた。
ボクは受け取ったアルバムを席に着いて広げてみる。

フフ、懐かしいなぁー。

クラブの集合写真のページにはボクが2年の夏休みまで一緒にやっていたサッカー部の仲間たちがユニフォームを着て並んでいる。
そしてその最前列の端っこには女子の制服姿のボクがチョコンとくっついている。
女子が男子と一緒にプレイするのはさすがに危険ということで練習や試合には参加していなかったが、ときどき応援に行ったり差し入れをしたりということで最後の集合写真には混ぜてもらったわけだ。

(こうやってみるとマネージャーにしか見えないのかな・・・)

アルバムには、集合写真の他にボクたちの1年生からの3年間の日常生活の思い出をまとめたたくさんの写真が載っている。
ボクがこのアルバムの中に写っている個人写真はぜんぶで3枚。
じつはそのうち1枚は1年生のときのもの、つまりボクがまだ男子として生活していたときのものだった。

個人写真は基本的に1年から3年の各学年で1枚ずつ写っているものを使うことになっていた。
先生たちがアルバムを編集し始めた9月頃のある日、ボクは放課後山岸先生に職員室に呼ばれた。
「あのね、変な意味じゃないから気を悪くしないで聞いてね。もし、アナタが望むなら、アナタの1年生の時の写真は載せないこともできるんだけど、どうする?」
ボクはそのときの山岸先生の優しさがとても嬉しかった。
先生の気持ちはよくわかっていた。
それでもボクはあえて1年生の時の写真もアルバムに載せてほしいと先生にお願いした。
なぜならそれはボクの大切な思い出だから。
そしてそのときのボクが男の姿でも女の姿でもボクであることに変わりはないから。

それで載せられたのがこの写真。
1年生の遠足の時にボクと安田と工藤の3人で肩を組んで笑っているものだった。

山岸先生はみんながアルバムを思い思いに見ている姿をしばらく眺めてから
「エット、それぞれアルバムは手に渡ったかしら?」
と確認をする。
そしてゆっくりとしっかりした声で話し始めた。
「それでは最後のホームルームをします。
皆さん、3年間の中学生活はどうでしたか?
友達と笑い合ったり、そしてときには喧嘩もしたり、きっといろいろな思い出ができたと思います。
これからアナタ方はもうひとつ上のステージへと登っていきます。
そこには新しい出会いがあり、そしてその出会いもいつかはまた別れとなっていくでしょう。
でもね、そうした出会いと別れの繰り返しの中でもこれだけは忘れないでください。
人を愛せる人間になってください。
人を愛せる人間は人からも愛されます。
そして『人を愛するということの意味』、これをこれから先の長い人生の中でゆっくり考えていってください。
私はこれをアナタ方に出す最後の宿題にしたいと思います。
提出期限は、みんなが大人になってまた出会う場があったとき。
そのときに一人ずつ自分が考えた答えを発表してもらいましょう。」
先生はそう言うとしずかにみんなの顔を見渡していった。

「ハイ、それじゃクラス委員。お別れの挨拶です。最後までビシッといきましょう。」
先生の言葉に女子クラス委員の井川さんが大きな声で号令をかける。

「起立!」
「気をつけ!」
「ありがとうございましたー!」



3月の終わり
青葉の入学式まで1週間というある日
ボクとミコは予約していた制服が出来上がったという連絡をもらい、渋谷のデパートへと試着に行った。

「あの、制服の連絡を頂いた小谷と藤本ですが。」
ボクが近くにいる係りの女の人にそう告げると
「ハイ、いらっしゃいませ。ご入学される学校はどちらですか?」
とニッコリと微笑み聞いてきた。
「青葉学院高等部です。」
「青葉学院ですか。それはおめでとうございます。少々お待ちください」
そう言って係りの人が奥の方からいくつかの箱を抱えてくる。
係りの人はそのうちの1着を取り出して試着を勧めた。
そこでコーナーにある試着室でボクとミコはそれぞれ新しい制服に身を包んでみる。

真っ白のブラウスに紺のブレザー、そしてチェックのプリーツスカート。
ボクたちは大きな鏡に映してみる。
それはボクとミコが中3のとき青葉に初めて見学に行ったときに歩いていた女のコたちと同じ姿だった。

お互いの姿を見てはしゃいでしまうボクとミコ。
そして持ってきたデジカメでお互いを撮り合う。
「なんか夢みたい。 アタシたち、これから3年間、毎日この制服着て青葉に通うんだよねぇー」
「アタシさぁ、少し髪型変えてみようかなぁー。どんなのがいいと思う?」
こんなふうにおしゃべりが止まらない。
なんか青葉の入学式が早くくればいいのにっていう気持ちと、このわずかな準備期間をもっと楽しんでいたいっていう気持ちが混ざり合ってなんか不思議な気分だった。

そういえば、ボクはこれと似た話を前に聞いたことがあった。
それは中2の終わりごろ
一回り(12歳) 年の離れたいとこの真里子ちゃんが結婚するときのことだ。

マリちゃんはボクが小さい頃から可愛がってくれたいとこのお姉ちゃんで、ボクが本当は女性だということはわかって親が親戚たちにそう説明したときも彼女は色々と気にかけて話し相手になってくれた。
そんなマリちゃんは25歳のとき結婚をすることになったのだ。

ある日
マリちゃんからボクの家に電話があって、日曜日にウエディングドレスの衣装合わせに行くから凛も一緒に来いという。
正直言えばちょっと面倒くさいなと思ったんだけど、マリちゃんには今まで色々とお世話になっている。
それに今までは「来れば?」という感じだったのにそのときは「来なさい!」とほとんど命令口調だった。
だからボクは断るわけにもいかず渋々と出かけていった。

久しぶりに会って女のコらしさを強くしていたボクにマリちゃんはちょっと驚いているらしかった。
そして彼女はボクを連れて式場のウエディングルームへと向かった。

中に入ったマリちゃんはそこに用意してある数着のウエディングドレスを丹念に試着しサイズを確認していく。
最初はこんなこと面倒くさいとしか思っていたボクだったが、ウエディングドレスを身にまとったマリちゃんを見たとき彼女がまるで羽を持った天使のように見えたんだ。

「マリちゃん、きれいー!」
そのときボクから出たその言葉はお世辞とかそういうんじゃなく
何か『心のため息』みたいな
心の奥から自然に漏れた言葉のような気がした。

「フフフ、凛。アンタ目が輝いてくわヨ(笑)」
「ね、マリちゃん。早く結婚式が来てほしいでしょ?」
ボクがそう尋ねると彼女は笑いながら意外な答えをした。
「ウーン、その質問は難しいわネ」

「エ、待ち遠しくないの?」
不思議そうにボクは聞き返す。
「ウウン、そういうわけじゃないわ。でも結婚式の準備ってワクワクして楽しいじゃない? でも結婚式もやっぱり楽しいし。だからさ、女心ってのはダブルスタンダードもトリプルスタンダードもありってことなのヨ」
そう言ってマリちゃんはニヤッと笑った。

「ふぅん。何かよくわかんないけど・・・」
「まあ、アンタもそのうちそういう気持ちになる時がくるから(笑)」
マリちゃんはクスクスと笑ってた。
今、こうしてミコとそういう気持ちを味わっているボクは、きっとマリちゃんの予言通りになったってことなんだろうか。


青葉では女子のスカートはプリーツタイプであれば基準品以外のものでも良いことになっている。
そこで制服の試着を済ませたボクとミコは、せっかく渋谷に来たのだからと制服の上着に合わせたスカートを物色することにした。

ボクたちは、センター街からスペイン坂を上りそしてその途中にあるたくさんのお店をひとつずつ覗いていく。
「ね、ミコ。これ可愛くない?」
「あ、ホントだねー。凛に似合いそう。あ、こっちもいいなぁー。」
ボクもミコも新しいお店に入るたびに目移りしてしまってなかなか決まらない。
でも、それがよけいに2人の心をワクワクさせた。

そんなとき
「ねー、彼女たち。何してんの?」
ボクたちは突然横から2人の男に声をかけられた。

フッと見るとへんな服を着たいかにもワルそうな2人組。
ボクもミコもそんなナンパは最初から無視
返事もしないでスタスタと足を早める。

しかしそのうち
「せっかくどっちも2人だしさ、どっかでお茶でもして話しようよ。」
とそのうちのひとりがボクの腕を強引に引っ張りだした。

「やめて!」
ボクは驚いてきつい口調でその手を払った。

すると手を払われた男の目つきがいきなり豹変
「おい、誘ってやってるのにその態度はねーだろ!」
そう言ってその男はボクの肩をドンと押した。
そしてその拍子にボクは後ろに倒れてしまう。

「キャァッ!」
「ちょっとっ!なにするのヨッ! 凛、だいじょうぶ?」
男にそう叫んでミコが慌ててボクを庇おうと寄ってきた。

そのとき
「オイ、いい加減にしとけヨッ!」
そう言って近寄ってきたのは紺のブレザーを着た高校生らしい男の人だった。
彼はワタルをさらに一回り高くしたような長身で、だけどワタルより胸が厚い感じ。スポーツをやってるんだろうか。

「なんだ?テメーは」
ボクを突き飛ばした方の男がその人に寄っていって胸ぐらをつかもうとする。しかし彼はその手をサッと振り払い逆回しにして締め付けた。

「いてててーーーーーっっ!!」
苦しそうな顔でのぞけったその男
それを助けようともうひとりの男が彼に突進していくと、彼は手を掴んでいた男を突き放して突進してきた男の身体をさっとかわした。
そしてその男はそのまま勢い余って道に転んでしまう。
そのうち周りには何人もの通行人が集まってきた。

2人の男は立ち上がって彼の方を睨むと
「オメー、オレたちは国修館のもんだぞ。わかってんのか?」
と大きな声で叫ぶ。

「オメー、どこの高校だヨ?」
「青葉学院高等部のもんだが。」
彼は一言そう答えた。

エ、青葉の人なの?
そういえば、彼の着ている紺のブレザーは入試のとき校舎の中で何人か見かけた覚えがある。

「あおばぁーー? 青葉みてーなお坊ちゃん学校が何いきがってんだよ!?」
逆ギレしてそう叫ぶ男たち

すると
「おぅ、トオル。どうしたんだ?」
そこに3人の同じブレザーを着た男の人が現れた。
彼はその男の人たちの方を振り返り答えた。
「オッス! いや、何かこいつらが女のコたちナンパしてたんすけど、女のコがすげー嫌がってたもんで」

彼の知り合いらしい3人の男の人のうち一番身体の大きいひとりがその男たちをギロッと睨みつけて言う。
「オマエら、国修館だって?」
「そーだヨ!それがどーした?」
「なら空手部の清水って知ってるだろ?」
「空手部の清水って…あの副主将の清水さんのことか?」
「ああ。アイツはオレの小学校からの道場のダチだが、アイツに青葉の須藤と揉めましたって言ってみろ?」

「エッ、清水さんの友達の人なんすか?」
すると男たちの表情が青くなって急に態度が変わる。
「え、あ、いや、その…。すんません。もういいです。」
そう言って彼らはとうとうその場から逃げ出していってしまった。

わずか数分ほどの出来事
ボクとミコはその様子をあっけにとられて見ていた。

すると最初にボクたちを助けてくれた背の高い男の人が近寄ってきて、
「さあ、立って。」
そう言って道にしゃがんでしまっていたボクの腕を引き上げてくれた。

「あ、あの・・・。どうもありがとうございました。」
ボクとミコは2人で頭を下げて彼らにお礼を言った。
「ああ、いいヨ。センター街とかはいろんなのがいるからな。女のコだけであまり奥の方まで来ないほうがいいヨ」
背の高い彼は落ち着いた顔でそう言った。

「あの、青葉の方なんですか?」
ボクは彼にそう聞いた。
「ああ、そうだヨ。」
「アタシたちも4月から青葉に入学するんです!」
「ヘェー、そうなんだ?じゃあ、後輩ってわけか?」
「ハイ。よろしくお願いします。」

そして彼は最後に
「そっか。頑張れヨ」
一言そう言って去っていったのだった。


4月!
入学式!
いよいよボクたちは青葉学院高等部の入学式の日を迎えた。

じつはボクはおとといミコと美容院に行きかなり長くなった髪の先に軽いウエーブをかけてもらった。
今までは中2の夏休みが終わって女のコとして初登校するときボブカットにしてもらってからそれをときどき美容院で毛先を揃えてきただけだったので、ボクにとってははじめての冒険だった。

「エヘヘ…似合ってるかなぁ?」
美容院を出るとミコと2人お互いの変化を照れながらチェックし合う。

そしてさらに前日には
「ねぇ、お母さん。こっちの青地に白のチェックと赤地に青のチェックとどっちがいいと思う?」
「ウーン、どっちでも同じじゃない?だいたい自分が気にするほど他人は気にしてないって(笑)」
「そんなの答えになってないってぇー。アーン、どっちが似合うかなぁー」
こんな調子でどのスカートを合わせるかで、なんと1時間は悩みまくったのだった。

いよいよ入学式当日
ボクは父親と母親を連れて駅に向かう。
そしてそこでミコとミコの両親と待ち合わせて6人で青葉学院高等部に向かった。

高等部の正門に着くとすでに学校の前にはたくさんの新入生たちが集まっていた。
「ご父兄の方は左手のPM講堂にご入場してお待ちください。新入生は掲示板で自分のクラスを確認して教室に入ってください。」
マイクを持った先生らしき人が大きな声で案内を行っている。

ボクとミコはさっそくクラス分けの掲示板へと走った。
「あっ、凛。見てー!」
「ホントだぁー!わぁー、嘘みたい!」
そう!
びっくりしたことに、なんとボクとミコは同じ103HR

「よかったねー!」
「ウン、これからもよろしくね。」
手を取り合って大喜びするボクとミコ。

他のクラスも確認するとさすがにワタルまでは同じクラスとはいかず
彼は107HRだ。

すると
そこにやっと顔を出したワタル
「オハヨーさん。クラス分けはどやった?」
「もうびっくりなのー!アタシ、ミコと同じクラスだヨ。」
「ホエー、そうなんか?それじゃボクも?」
「キミは107だヨ」
「アチャー!なーんや、さすがにそこまでは無理だったか(笑)」
そう言って笑った。

ふっとワタルの横を見ると30代くらいの見知らぬ白人の男の人が立っている。
身長は180センチ以上はあるだろう。
オールドファッションの背広を上品に着こなしている。
きれな金髪をきちんと整えていてとても清潔そうな感じの人
そして青みがかったサファイア色の目が印象的だった。

「ねぇ、ワタル君。今日はご両親は?」
ボクがそう尋ねると
「ああ、今日はどっちも忙しくてな。それでお父ちゃんの友達のおっちゃんに付き合ってもらったんや。紹介するわ。イギリス人のジェームズ・ブラウンさんや。」
「こんにちわ」
ボクとミコがペコんと頭を下げると
「ハジメマシテ。ワタルガイツモセワニナッテマス。」
その男の人はたどたどしい日本語で、でも丁寧にそう言うと優しそうに微笑んだ。


「なんかドキドキするネー!」
ボクとミコは掲示板に従っていよいよ自分たちの教室へと向かった。

103HR
これがこれから1年間を過ごすボクらのクラスだ。

教室のドアを開けるとそこにはすでに20人くらいの新入生たちが集まっている。
青葉学院は幼稚園から大学までの一貫校なので下からあがって来た人たちの中には顔見知りや友達も多いみたいで、何人かはすでにグループを作って話をしている。
そして高等部から入ってきた人たちの中でも、女のコ同士はわりとすぐに話し始めたりするのに対して男のコたちは案外遠慮し合ってる様子で一人で机に座って本を読んでいる人もポツポツといるようだ。

教壇の前の黒板を見ると
「とりえず好きな席に座ってください。」
と書いてある。

そうなると不思議なもので、男子と女子がかなりはっきりと分かれて座っていくようだ。
それも窓際には男子が多く、そして廊下側には女子が陣取るという分布には何か意味があるのだろうか?
ボクとミコもとりあえず女子の固まっている廊下側で空いている2つの席に腰を下ろして話し始めた。

そのとき
ふっと横の方の席を見ると一人で席に座っていた女のコとパッタリ目が合う。

わぁー、すっごい可愛い娘!

細身の身体に栗毛色の艶々とした長い髪の毛
大きな目には長いはっきりとしたまつげ
少し赤みのさしたふっくらとした頬にすぅっと通った鼻筋
小さめの少し尖った唇
まるでフランス人形みたいなハッとする可愛い女のコだ

日本人離れしたその美貌に
ハーフなのかな?
と思ったりした。

すると
その娘はすっと立ち上がりそしてボクたちの席へと近づいてきた。
「2人は中等部から?」
その美人さんがボクに尋ねる。
「あ、ウウン。2人とも同じ中学出身なの。高等部から入学だヨ。」
ボクがそう答えると
「そうなんだぁー! よかったぁー。アタシも高等部からなんだぁ。」
そう言って彼女はスっと真っ白で細い手を差し出した。
「アタシ、佐倉 美由紀っていうの。」
ボクはその手を握り返し
「小谷 凛です。 よろしくネ。」
ミコも手を差し出し
「藤本 美子。ミコって呼んで。」
と挨拶する。

彼女はお母さんがイギリス人と日本人のハーフ、そして日本人のお父さんということなのでクォーターということになるらしい。
外見から想像できるイメージとは意外にも違って、話し始めるとけっこう、というよりもかなりくだけた感じの女のコだった。
そしてこれがボクにとってミコと共に一生の大切な親友となる、みーちゃんとの最初の出会いだった。

第12話 新しい仲間たち!

集合時間となり、教室には新しいクラスの仲間たちがぞくぞく集まってきた。

少し経ったころ、
ザワザワとした話し声の中、教室の前ドアがガラッと開きひとりの女の人が入ってくる。
そのとき教室の中の話し声がピタッとやんだ。
立っている人たちが慌てて空いている席に着く。

クラス中がその女の人を興味津々とした眼差しで見る。
その人は身長は160センチくらいだろうか、女性としてはわりと高め
スラっとした細身の身体に紺のスカートスーツをまとい
髪の毛はまっすぐで見事なレイヤーと完璧だ。

そして彼女は教壇へとツカツカと歩いていく。
「皆さん、全員揃いましたかー?」
その女の人は大きな声でクラスを見回した。

それにしても、ボクはこの人をどっかで見たような記憶がある。
それはそんなに何度も会った人ではなく
たった1日どっかで・・・

そんなことを考えていると、その女の人は
「エー、それではまず私から挨拶からしましょう。私はこのクラスの担任になる佐藤 優実といいます」
とハリのある声で挨拶を始めた。

あ、そっか!
思い出した!
ボクが受験したとき試験監督だった先生だ!

他にも何人かの女の子がそのことに気づいたようだった。
その佐藤先生が
「好きな音楽は…。」
そう言いかけたとき

「サザンオールスターズ!!」
ボクを含めて3人の女のコが揃って大きな声でそう言ったのだ。

一瞬キョトンとする佐藤先生と他のクラスメートたち
そして
「あら、それを知ってるっていうことはアナタたちは受験のときアタシの担当した教室にいた娘ね?(笑)」
そう言って先生はニヤっと笑う。

その問いにボクたち3人は
「そうでーーーす!」
とまた大きな声で返事をする。
「そっかぁー。あのとき5倍の倍率だったらしいけど、受かった人のうち3人も本当にアタシのクラスになったなんて、奇遇だネー!」
クラスの他のみんなもようやく事情がわかったようだ。

「エー、今3人の女のコたちからもご紹介があったように、アタシの好きな音楽はなんといってもサザンです。彼らはアナタたちが大学に上がったときの先輩ヨ。 そして何を申すこのアタシも中等部からと大学までを青葉学院で過ごしたアナタ方の先輩です。というわけで、これから1年間、一緒に楽しくやっていきましょう。それじゃ、みんなにも自己紹介してもらいましょうか」

先生の言葉に、適当に座っている一番前の席にいる男のコがスクッと立ち上がる。
「エー、中等部から来た三瓶 真司です。中学のときは『べーやん』って呼ばれてたんでそれでよかったらそう呼んでやってください。趣味はーーーー」

そして何人かのあとにいよいよボクの順番が来る。
順番が回ってくるまで何をしゃべろうかといろいろ考えていたんだけど、中々まとまらないまま自分の順番になってしまいかなり焦っている。
「あ、小谷 凛です。エット、区立若松中学出身です。それで趣味は、エット、…。」
しかし焦るほどさっきまで考えてたことが頭の中から抜けていく。
そしてボクはとんでもないことを口走ってしまった。
「趣味は、エット、そうっ!ワンピースとこち亀の単行本を全巻集めていることっ!これだけは誰にも負けませんっ!」
あぁぁ~~~~~~
なんてことを言ってしまったんだろぉぉぉぉ
「趣味はお菓子作りです」とかって言うつもりだったに
でも、ボクのまともに作れるお菓子ってホットケーキくらいなもんだし
あとでバレて恥かくのもなぁーーーーー。
何人かからクスクスという笑いが溢れている。

「あらぁー、いいじゃない。アタシも好きヨ。今度情報交換しましょう。」
助かったぁーーーー
佐藤先生のフォローでなんとか乗り切ったみたい。
ボクは真っ赤になって席に腰を下ろす。

「エー、藤本 美子です。小学校のときからミコって呼ばれてきました。前の席にいる小谷さんとは同じ中学の親友です。趣味は対戦ゲーム!自信のある人はぜひ私と対戦しましょう!」
何気にミコもフォローしてくれたり。
アリガトー!ミコ。


教室での簡単な挨拶が終わるといよいよ入学式。
ボクたちはPM講堂という場所に移動してそこで式が行われることになる。

「ねぇ、この講堂って普段は礼拝にも使うんだって。」
移動中みーちゃんがボクとミコにそう教えてくれる。
「礼拝ってお祈りだよね?(ミコ)」
「まあ、そうだね。ミッションスクールだし毎日授業の合間にやるらしいヨ。(みーちゃん)」
「みーちゃんちはクリスチャンとかなの? お母さんってイギリス系なんでしょ?(凛)」
「ウチの母親? まあ、イギリス系っていってもハーフで国籍は日本だしね。 それにウチの母親って江戸っ子だし、お祭り万歳!なのヨ(笑)(みーちゃん)」

そんなことを話していると途中で向こうから歩いてくるワタルを見つけた。
中学時代から気さくだったカレは新しいクラスでもさっそく友人を作った様子で3人ほどのグループでワイワイと楽しそうに話している。
ボクが左手を小さく上げて振ると
「ヨォー、凛ちゃんとミコちゃんやんか。」
ワタルはそう言ってクラスの列を離れてボクたちのほうに寄ってきた。

「もう友達作ったの?」
「ワハハハ、コイツら面白いねん。2人とも中等部から来たそうやけどな。あだ名が『ハッチ』と『グッチ』いうねんて」
「ハ、ハッチとグッチ?」
なんかすごいあだ名じゃない?
「アハハ、なんかトムとジェリーみたいでいいじゃん(笑)」
隣にいるミコも思わずボクの想像していたことと同じことを口にした。

「おーい、ハッチー、グッチー!」
ワタルが大声で2人を呼ぶ。
するとボクたちのところにそのハッチ君とグッチ君もやって来た。
「石川ぁー、オマエもうほかのクラスの女のコまでチェックしてんの?」
「ちゃうねん。こっちの2人はボクと同じ中学だったんや」
「へぇー、ヨロシク。蜂谷っていいます」
ハッチ君がボクらにそう挨拶する。

「こちらこそ、小谷です。 あ、それでハッチ君って言うんですか?」
するとボクの横に並んでいるミコは
「じゃあ、まさかこっちのグッチ君はグチヤっていうとか?」
ともうひとりに尋ねる。
「ハハハ!まさか(笑) 関口です。ヨロシク。」
「なるほどー、関口君でグッチ君、蜂谷君でハッチ君ねー!」
そう聞いてミコはウンウンと納得する。

「へぇー、そういうふうにペアで言われるなんてきっと中等部のときも仲良かったんですね?」
「まあねー。ハッチとは初等部のときからのダチでさ、部活もずっと同じなんだ」
初等部ってことは小学生のときから!?
それじゃ親友だよねー。

「だからさ、石川にもサッカー部入れヨってさっきから勧めてるんだけどね。」
「あ、いいじゃない。 ワタル君も小学校のときサッカーやってたんだし。せっかく誘われたんなら入ったら?」
ボクがそう言うと
「うーん、ボクもやりたい気持ちはあるにゃけどな。他にも色々やりたいこともあってな。あんまり時間がないねん(笑)」
そう言ってワタルはなんか誤魔化すように笑った。

「小谷さんは石川のこと昔から知ってるの?」
「小学校からの幼馴染なの。 でもカレは5年生のとき転校しちゃって、それでまた中3の初めに東京に戻ってきたんだよね」
「へぇ、でも面白いね。男と女でも幼馴染って意外と続くもんなんだな。オレなんか初等部から一緒の女のコでも下の名前呼び合う娘ってほとんどいないけど」
グッチ君がそう言うとボクはなんとなく話しすぎちゃったかなという気がしてきた。

その頃のボクはワタルと男同士の友達だ(と思って)たわけで、ただそのことを知っているのはこの学校ではミコとワタルしか知らない。
あのとき、逃げないと決めた以上別に隠す理由もないだろうけど、それでもせっかく入った学校で変な噂をされるのも嫌だった。

そのとき
「それでは新入生はクラスごとに入場します」
というアナウンスが入る。

「あ、じゃあ凛ちゃん。ボク、もう行くわ」
そう言ってワタルはハッチ君とグッチを連れて自分たちの列へと戻っていった。

ボクの横にいたミコはみーちゃんが他の方を向いていた間に
「凛、わざわざ自分から話す必要ないヨ」
と小さく耳元で囁いた。
「ウン・・・」

そのときボクは、あのときの決心に少し不安を感じるような
そして、ホントは思ってはいけないことを考えたりしちゃったんだ。
もし、過去が消せたら・・・なんて・・・。



登校3日目

クラスの中には他にも何人かの話せる友達ができた。
入学初日は中等部から来た人たちと高等部入学組にあった壁みたいのも3日目にはすっかり取り払われて
目が合えば声をかけて友達になっていくみたいにして友達の輪はドンドン広がっていった。
そして女のコ同士でいくつかのグループができあがっていく。

ボクたちのグループはボクとミコ、みーちゃん、そして中等部から来たエリちゃんや佐和の5人。
そして目下のところこのグループでの話題の中心は、どこのクラブへ入部するかだ。

中2の夏休み前までサッカー部だったボクだけど、女子サッカー部なんていうのがあるはずもなく、テニス部やバレー部など運動系の部の公開練習をいくつか覗いてみたりもしたが、これ!というものは見つかっていない。
一方で中学時代水泳部だったミコは迷うことなく水泳部の門を叩いた。ミコの話によると青葉の水泳部は都大会でベスト10に入るくらいの中々の強豪らしい。

そしてお昼休みが終わろうとするとき
「ねぇ、凛はもう部活決めたの?」
トイレで手を洗っているボクにみーちゃんがそう聞いてきた。

「ウウン。まだだヨー。せっかく付属校に入ったんだし何か熱中できるものがほしいんだけどさ。」
すると、みーちゃんはニコッと笑ってこう言った。
「ヘヘヘ、じゃあさ、アタシと一緒に入らない?」
「どこに?まさか…江戸っ子愛好会とか?」
お母さんがイギリス人とのハーフなのになぜか母娘で浅草の生まれで江戸っ子のお祭り大好きのみーちゃんだから、もしかして…。
「アラヨッ!ソレッ!お祭りだーい!ーーーってちがぁぁーーーうっ! 凛、アンタ。アタシをノセるんじゃないわヨッ!」

「エヘヘ、ゴメン(笑) でもそれじゃどこの部なの?」
「チア部ヨッ!チアリーディング部!」
「エーーーッ!チアリーディング!?」
「そう!ね、一緒に入ろうヨー?」

「だって、アタシそんなのやったことないヨ?それにチアってあれでしょ? なんかすごい短いミニスカートはいて踊るんでしょ?パンツとか見えちゃうじゃん? 恥ずかしいヨォー。」
「ユニフォームって言ってヨ。それにアンダースコートは見えて気にするようなもんじゃないんだって。アタシ、小学校から中1までずっと地元のチアチーム入ってたんだぁ。」
「サンバチームじゃなくて?」
「オーレ、オレ、オレッ!アミーゴッ! ってちがぁぁーーーうっ!アタシをノセるなって言ってんでしょーがっ!」
「アハハハ。ゴメンチョ」

「けっこー楽しいヨ。それにチアって先輩も後輩もみんな心を一つにできるから、いっぱい仲間もできちゃうし。」
「そっかぁー。そうだねぇ…。」
「よしっ!じゃあ、決まりね。今日の放課後2人でさっそく入部説明会に行こう!」


そういうわけで
ボクは半ば強引なみーちゃんのお誘いでチアリーディングなるものに入ることになったのであった。

ウーン・・・(笑)

第13話 ライバル登場

みーちゃんに引っ張られてなんとチアリーディング部に入ってしまったボク。
さらにびっくりしたのは、チア部の顧問はなんとうちのクラス担任の佐藤 優実先生だった。

みーちゃんと共に最初の説明会に出席したボクは佐藤先生にこう言われた。
「へぇ、小谷さんは文化系のイメージだったんだけど。チア部はきついわヨー。 でも受験教室もクラス分けもアタシが担任だったのはびっくりだったけど、部活まで同じとはアナタとはよっぽど縁があるのネ」

チアといえば女のコばかりの何か女子校的な感じで、TVでときどき見るミニスカートで足を上げて踊っているイメージしかなかった。
だから適当に愛想を振りまいて踊っていればいいんだろうくらいの軽い気持ちで公開練習に出たけど
実際のチアはそんな生易しいものではなかった。
まさに体力とチームワークを必要とするスポーツそのものだったのだ。

今年入部した新入生はぜんぶで10人。
例年1年経って残るのはこのうち半分程度だという。

とにかく最初は基礎トレーニングから。
毎回基礎体力をつけるばかりどでチアのチの字も感じられない。

小学校からチアをやってきた経験者のみーちゃんでもそうしたトレーニングを文句ひとつ言わず頑張っている。
本格的に演技になってくればスタンツといわれるピラミッドの体制を組むことがある。
そのとき、自分がそれを構成するベース、スポット、トップのどの役割になってもお互いを支え合う基礎が大切で、一瞬の気の緩みが自分だけでなく他の人にも大怪我をさせてしまう危険性があるからだ。

「ハイ、それじゃランニングいくヨー。じゃあキャンパス3週ー!」」
きつい柔軟運動がやっと終わると3年生の可奈子先輩の合図でランニングが始まる。
「あのー、キャンパスって高等部の中だけですかあ?」
新入部員の女のコのひとりが軽く息を切らせながら質問する。
「何言ってるの? こんな狭いとこ3周したってランニングにならないでしょ! キャンパスっていったら大学も中等部も全部ヨ。ただし初等部は大通りの向こうからカンベンしてあげとくわ」
平然とした顔で怒鳴りつける可奈子先輩
「エー!だって1周で1.5キロくらいあるヨー? それを3週って…」
新入生の女のコたちは一斉に驚きの表情
「文句言わない! さあ、いくヨー!」

ボクらはキャンパスの壁沿いに走っていく。
2周目になると足がフラフラしてきて、3周目では頭がボーっとさえしてくる。
「ハァ、ハァ、ハァーーーーーー」
新入生のほとんどは意識朦朧とした状態。
最後に正門から構内に入ったときには足が絡まって転ぶ娘までいた。

「ハイ、とうちゃーーーーーく!」
ボクらは一斉にその場に腰を下ろしてしまう。

まだ春だというのに身体からは滝のように汗が吹き出してくる。
「ハァ、ハァ…アタシ…どうしよぉ。替えの下着持ってくれば…ハァ、ハァ…よかったヨ…ハァ、ハァ…」
話をするより息を付く回数のほうが多い。
ヘタをすれば、ウウン、ヘタをしたくてもこれは中学時代のサッカー部の練習よりキツイよ。

そして10分間の休憩のあとは柔軟体操
2人ペアになって足を広げて容赦なく地面に押し付けられる。

「ウゥゥゥゥーーーーーー!!」
ボクのペアの相手はみーちゃん
経験者のみーちゃんはこれでもかというくらいぎゅぅぎゅぅと押してくる。

「み、みーちゃん…もうちょっとゆっくり…い、いたい、いたいってぇ…」
ボクがかろうじて漏らした声にもみーちゃんは
「ダメだヨー。これくらいやらないと身体が柔らかくならないって。ホラッ、凛、ガンバレっ!」

そんな練習が週に3回も続く。
そして最初は10人もいた新入部員も1人辞め、2人辞めという感じで仮入部の1ヶ月が経ったころにはなんと7人にまで減っていた。
それでも先輩たちはゲラゲラ笑っている。
「まあこんなところかな(笑) 今年は半分を切らなかったからよかったネー」
「アハハハ、去年のアタシらなんか12人いたのが6人になったもんネ」

さらにボクなんか先輩たちに口々にこう言われた。
「いやー、凛がまっさきに辞めちゃうんじゃないかって思ったんだけど、意外にねばりがあるんだもん。驚いちゃった(笑)」
「そうそう。アタシもそう思ったヨ。なんか凛って「あー、守ってあげたいっ!」ってイメージなんだよねぇ」

先輩方
なんだか喜んでいいのかからかわれてるのかよくわかんないデス……。

そしてこんなふうに先輩たちにも少しだけ認められるようになって、次第にたくさんの仲間たちに囲まれるようになっていった。
そうなってくるとボクも段々やる気が湧いてくる。

「みーちゃん!遅れるとまた先輩にどやされちゃうヨッ!」
放課後、自分の机の整理をしているみーちゃんをボクは急かす。

「わかったってぇ(笑) なんか、凛、最近スゴイね?」
みーちゃんはそう言って笑いながら体操着を取り出す。
「さあ、これでオッケーっと。凛、行こうか?」
「ウン!じゃ、ミコ。また明日ネー」
「ウン。じゃ、2人とも頑張って」
これから水泳部に向かうミコにサヨナラを言ってボクとみーちゃんは廊下を足早に歩き出した。

階段を下りて校舎を出て、隣りにある体育館まで約100m。
あの角を曲がればあと少しーーーーーーーーー

そしてボクがいつもの角を曲がろうとした
そのとき、ボクの視界に突然反対側から歩いてきた2人の男の人が入ってくる!!

「きゃぁぁぁーーーーーーっっ!!」
ぶつかるぅぅぅーーーーーーっっ!
と、そう思ったときーーー
フワッっとボクの身体が宙に浮かんだのだ!

エッ!?
そして宙に浮かんだボクがスゥッと収まったのは
その2人の男の人のうちのひとりの腕の中だった。

ア、アレ??
ボクは一瞬なにがどうなったかわからずポカンとしたまま。
そして、ボクの身体を抱いた男の人はゆっくりと下ろした。
「オイオイ、だいじょうぶか?」

まだ少しボーっとしたままのボクはハッと気づき
「あ、あの。すみません。ゴメンなさい」
そう言ってその人に頭を下げる。
「いや、オレはだいじょうぶだけど、そっちはどっか捻ったりしなかった?」
「あ、ハイ。だいじょうぶです。」
そう言って頭を上げたとき

「アレッ!?キミ、もしかして?」
そう言われて指を刺されたボクは彼の顔をしばしじっと見る。
そして
「アァァァーーーーーーーーッ!」
そう!思い出した。
彼は入学前、ミコと渋谷に青葉の制服を買いに来たときにナンパされた不良たちから助けてくれた人だったんだ。

「そっかぁ。そういえばあのとき今年青葉に入るって言ってたもんな?」
「ハイ。あのときは本当にありがとうございました」
「いや、いいヨ。そういや、お互いに名前も知らなかったな。オレは2年で空手部の笹村 透(ささむら とおる)っていうんだ」

「1年生の小谷 凛です。 チア部に入りました」
「へぇー、チア部かぁー。じゃあ、戸倉っていない?」
「あ、います。美奈子先輩ですよネ」

「そうそう。オレ、戸倉と同じクラスなんだ。 でも残念だなあ」
「エ、なにがですか?」
「いや、野球部とかサッカー部ならチア部の応援があるだろうけど、まさか空手部じゃ無理だな。アハハ(笑)」

意外だった。
あのときの彼はボクたちをナンパした男2人をすごい勢いて倒しちゃって
そのときは目が険しくってちょっと怖かったりした。
少しぶっきらぼうな感じだったし。
でも、今日はとても気さくで優しくって…なんかホント意外。

「あ、これから部活だろ?急いだ方がいいな。ここはよくゴッチンコする名所だからこれからは気をつけろヨ。じゃあ、またな」
「ハイ。ありがとうございます。また。」
そう言ってボクたちは分かれた。

「ねぇ、凛。さっきの人、知ってる人?」
再び早足で歩き出したボクにみーちゃんがそう尋ねる。
「あ、ウン。じつは入学前にミコと渋谷に来たときにナンパされて困ってたら助けてくれたの」
「へぇー、そうなんだぁ。でも、なんかカッコイイ感じの人だね?すごく優しい感じだし。」
「そ、そうかな?」

ボクはみーちゃんのその言葉になぜかわからないけど少し顔を赤くしてしまう。
あれ、なんでドキドキするんだろう?
別にただの先輩なのに…

ボクはそう考えながら、さっき笹村先の腕の中にいた自分を思い出す。
でも、笹村先輩の腕の中はとっても温かかったな…。

それがボクと笹村先輩との再会だった。
さて、こんなふうにしてクラスでも部活でも次第にたくさんの仲間が出来ていった頃
そんなときある事件が起こった。


それはある日
2時限目が終わった休み時間
ボクはミコとみーちゃんの3人でトイレに行って教室に戻ろうとしていたときだった。

フッと廊下の向こうを見るとワタルが何冊かの大きな本を抱えて歩いてくる。
「ワタルくーーーん!」
ボクはカレにそう声をかけた。

「おお、凛ちゃんたちやないか」
「どうしたの?そんな大きな本持って」
「いやな、ウチのクラスで今度グループ研究やるねん。それでボクのグループは戦争史を発表するんで、その調べもんで大学の図書館で借りてきたんや」

「へぇー、すごいねー。そういえばワタル君って歴史の勉強好きだもんね」
「でも、思ったより奥が深くってな。ボクがリーダーになったもんやさかいけっこう大変なんヨ」
「すごいじゃない。じゃあ、頑張らないとね」
「ワハハ、そやなー」

すると
そんな話をしていたボクたちの後ろから突然
「石川君、みんなまってるヨ?」
とワタルに声をかけたのはウエーブのかかった長い髪の女のコだった。

「ああ、すまん、すまん」
ワタルはその娘にそう謝る。

「このひと誰?」
その娘はボクの方を見てぶっきらぼうにそう言った。
はっきり言ってちょっとムッとしたけど、ワタルの知り合いだろうから、ボクは一応愛想よくニコっとする。
「あ、ボクの同じ中学出身でな。小谷 凛さんっていうんや。」
ワタルは彼女にそう説明した。

ボクは
「はじめまして。」
とその娘に挨拶する。
すると
なんとその娘は
「ふぅん。」
と僕を横目で見て一言。

ちょっとぉぉーーー!
それってあんまり失礼じゃない?

「ワタル君、こちらどなたかしら?」
ボクは頬が頭に来てひきつるのを我慢しながらワタルにそう尋ねる。
「あ、エット。そ、その、ボクと同じクラスの川島 弥生さんっていうんや」
ワタルはただならぬ気配を察してどもりながらもそう紹介した。
「そう、ドーモ。」
ボクはそう一言だけ。
ボクと川上 弥生はお互い横目でにらみ合うように見合った。

すると
川島 弥生は突然
「さあ、石川君。グループ学習会に遅れちゃうヨ!」
そう言ってワタルの腕を掴んだ。

エ、ちょっとっ!!
アンタ、人の彼氏になにしてんの!?
そして
ボーゼンとするボクを横目でフフンとせせら笑うように、川島 弥生はワタルの腕を抱えるように連れ去っていったのだった。

それを見ていたミコとみーちゃんは怒り心頭という表情で吐き捨てるように言う。
「なに!?あの娘。スッゴイムカツク!!」
「石川君も、なんであんな娘のいいなりになってんのヨッ!」

そこに寄ってきたのが同じクラスのエリちゃん。
「アレ、どーしたの?」
エリちゃんはボクたちの憮然とした顔を見て声をかけてきたのだった。

「ねぇ、エリ。あの娘って知ってる?」
ミコはワタルの腕を引っ張って廊下を闊歩する彼女を指差してエリちゃんにそう尋ねた。
「エ、ああ。川島 弥生でしょ。アタシ、中等部で2,3年生のとき同じクラスだったヨ。」
「そうなんだ? で、どんな娘?」
「なんかねー、あんまりいい噂は聞かない。中等部のときから男をとっかえひっかえしててさぁ、男がその気になるまではすごい強力にアプローチするんだけど、2,3回デートしたら振っちゃうって。女のコの間ではあんまり評判良くなかったねー。」
「そっかぁー。じゃあ、今度は石川君に目をつけたってことかな」


そして事件の発端が起こったのはその日のお昼休みだった。
ボクがミコやみーちゃんたちとお昼ご飯を食べていると
「ねぇ、凛。なんかアンタのこと呼んでる娘がいるヨ」
チナミがそう言って後ろからボクの肩をちょんとつついた。

「あ、アリガトー」
ボクは食べ終わったお弁当のフタを閉じて、教室のドアの方に歩いていく。
すると
そこに立っていたのはあの川島 弥生だった。

さっきの様子を思いだし頬がひきつるボク
そして
「なにかしら?」
一言そう彼女に尋ねる。

すると彼女は
「あのさぁー、ちょっと聞きたいことがあって」
いきなりぶっきらぼうな言い方でこう言ってきた。
「アナタって石川君と付き合ってるの?」

ホォー!ずいぶん直球でくるじゃない?
直球には直球で勝負せにゃ女がすたるっ!
「付き合ってるわヨ。それがなにか?」
ボクは吐き捨てるようにそう答えた。

すると川島 弥生はキッとした顔でボクを睨みつけた。
そして
「アナタのホワンってした雰囲気で石川君のことちょっと惑わせただけなんじゃないの?凛って名前なのにぜんぜん雰囲気違うもん(笑)」
とニヤッと笑って言った。

これにはさすがに我慢ができなかった。
「ちょっとっ!親が付けてくれた名前を他人のアンタにとやかく言われる覚えないわヨッ! アンタだって弥生って名前なんかよりアザミって方がずっとお似合いだと思うけど。トゲいっぱいで(笑)」
「なんですってぇーっ!」
「なにヨッ!」

2人の言い合いは廊下中に響いていた。
すると廊下の方のただならぬ雰囲気を感じたのか、ミコとみーちゃんが教室の中から出てきた。
「ねぇ、川島さん。石川君は凛の彼氏だってわかったんだから、それでもういいんじゃない?」
ミコが落ち着いた表情で石川 弥生にそう言うと、

彼女はミコにいきなり
「アンタたちは関係ないでしょ!?」
と大きな声で叫んだ。
その声に周りにいる何人かの人がボクたちの方を見た。

「アレ、弥生。どーしたの?」
そのとき廊下を歩いていた2人の女のコが彼女に声をかける。
すると石川 弥生は
「なんかさぁ、103HRの小谷さんが石川君は自分の彼氏だから話しかけないでって言うのー」
と泣きつくような表情で言い始めた。

「エー!なにそれ?石川君はウチのクラスの男子じゃん」
その女のコたちはザワザワと言い始めた。
「エ、ちょっと待ってヨ!アタシ、そんなこと言ってないじゃん!」
ボクは慌てて彼女たちにそう言い
ミコやみーちゃんも
「ちょっと川島さん、アンタ、デマばっかり言わないでヨッ!凛はそんなこと一言も言ってないじゃん!」
と川島 弥生に怒鳴る。

「ねー、こんな感じなのヨ。3人でアタシのこと攻めてきてさぁ。」
川島 弥生はフフンと鼻を鳴らしてその友達にそう言い出した。

するとそのとき
「チョットッ!弥生。アンタ、いいかげんにしなヨッ!」
とエリちゃんと佐和がボクたちの後ろから川島 弥生を怒鳴った。
そしてエリちゃんは前の方に出てくると
「アンタ、その中等部の頃からの悪い癖いい加減にやめたら?アタシも佐和もずっとアンタのそれにムカついてたんだワ!」
と川島 弥生に言い放った。
「中等部のときの話なんて関係ないでしょー!?弥生は今のことを言ってるんじゃん!」

エリちゃんと佐和が入って5人対3人と形勢が悪くなった川島 弥生側。
そのとき彼女の友達のひとりがクルッと踵を返すと、
「アタシ107HRに行って応援連れてくるからー!」
そう叫んでと走っていった。

そしてしばらくすると
ワイワイ、ガヤガヤと連れてきたのは10人くらいの女のコの集団

なに!それ?大軍でくるわけーーー!?

するとこっち側でも佐和がクルッと教室の中を振り返って
「ねぇー、女のコ集まってーーー!!」
と大声で呼ぶ。

「なに、なにー?」
「どーしたの?」
ワイワイと集まってくる我が103HRの女のコたち。

彼女たちはみーちゃんから話を聞くと
「エ、なにそれ?」
「ちょっとひどくない!?」
と怒り始める。

そしてとうとう廊下の真ん中で103HRと107HRの女のコ、それぞれ10数人ずつが睨み合いを始めたのであった。

さてその頃、
この揉め事の当の本人であるはずのワタルはというと

「やったーーー!これで5連チャンやぁーーー!」
「おおー!スゲーな、ワタル!」
呆れはてたことに、ワタルは例のハッチとグッチの3人で午後の授業をサボって渋谷のパチンコに熱狂中であったらしい。
そしてこの事件はそれだけでは収まらなかった。



青葉学院高等部では6月になると1年生の学年をあげてのバレーボール大会が実施される。
各クラスの男女がそれぞれA.Bの2チームずつを作り男女別のクラスで対抗戦を行う。

ボクは103女子Aチーム。
みーちゃんやエリちゃん、そして中等部のときはバレー部のエースで現在も高等部女子バレー部期待の星のチハルなどが同じチームの仲間。
ミコは残念にもBチームだ。
ボクたちのAチームは午前中の試合で4勝1敗と予想外の好成績を出して予選を突破し本選へと進んだ。

そして午後になって迎えた準決勝戦。
相手は因縁の107HR。しかもあの川島弥生のいるAチームだ。

ボクらのコートの周りにはすでに試合に敗れた103HR女子Bチームや107HR女子Bチームの他、試合が終わった男子も応援に取り囲んでいた。
107HRはバレー部員1名の他、テニス部、バスケ部、ソフトボール部、陸上部などの体育系部員を中心に構成されている。
それに対しウチのチームはバレー部員のチハルの他はチア部のボクとみーちゃん、剣道部のエリちゃん以外は文化部系。
技術差をチームワークで補うしかない。

ピィィーーーー!
「それではこれより試合を開始します。」
いよいよ因縁の試合は始まった。

まずは107HRからのサーブ。
低く強い弾道でボールがこちらに向かってくる。
それを美術部の咲が上手く拾い、剣道部のエリちゃんがトス、そして前衛のみーちゃんがアタック!
しかしこれは相手に拾われてしまう。
そして高く上がったトスを相手チームのバレー部員石野さんがスゴイ勢いでアタック!
あ!ボクのほうに!

「アッ!」
しかしボクにそんなボールを拾えるはずもなく、ボクの身体は弾き飛ばされるようにして後ろに倒れた。

「凛、ドンマイッ!」
周りのチームメイトがそう言って励ましてくれる。
ボクは立ち上がってまた身構えた。

そして再び相手チームのサーブ

すると
サーブされたボールはまたボクのところへ
ボクは何とかこれを拾い、トスされたボールはそのまま相手コートに流れた。
ところが
それを素早くトスしまた107HRのバレー部員石野さんがアタックしたボールはまたまたボクへと向かってきた。

「イタッ!」
ものすごい弾丸アタックは今度はボクの手をまっすぐ直撃

「ちょっとタイム!」
さすがにその様子を見かねてウチのチームのキャプテンのチハルが主審の古里先生にそう告げる。
そしてコートの中のみんなが集まってきた。
「ねぇ、なんか変じゃない?」
「でしょ!?これって絶対凛のこと狙ってきてるヨ」
するとチハルがニヤっと笑いみんなにこう耳打ちする。
「よし、次からこっちも川島弥生狙いでいくヨ。凛の周りをみーとエリが援護してやって。それでなるべく高いトスをあげてアタシがアタックするから」
「オッケー!」
みんながそう合図したところで再び主審のホイッスルが鳴り試合再開

相手のサーブしたボールはやはりボクを目がけてやってくる。
それをみーちゃんがうまくレシーブして、ミチコが高いトスを上げてチハルが強烈なアタック!
「キャァッ!」
ボールは正確に川島弥生を狙い、そして彼女の手を弾き飛ばした。

そしてサーブ権はこちらへ。
チハルの打った低い弾道の強烈なサーブはそのまま川島弥生の身体をバンっ!
と弾き飛ばす。
弾かれた彼女はしばらくコートの床に腰を落としていた。

そこにみーちゃんが
「ちょっと、ボールこっちに返してヨッ!」
とニヤっと笑い川島弥生に言った。

すると彼女は重い腰を上げると、落ちているボールを拾い上げ……
ダンッ!
キッとした目でみーちゃんの横にいるボクを睨みつけると、そのボールをボクに向かっていきなり投げつけてきたのだ。
バンッ!!
「キャァッッ!!」
5mほどの距離でそのボールはボクの肩に命中し、ボクは足をすくわれてその場に倒れてしまう。

「イタァァーー」
「ちょっとっ!アンタ、何すんのヨッ!」
みーちゃんがびっくりしてそう叫び、倒れたボクの身体を起こそうとする。
そして起き上がったボクは
「よくもやったなぁぁーーーー!」
そう叫んでそのボールを今度は川島弥生目がけて投げつけてやった。

バンッ!!
「キャァッッ!!」
今度は川島弥生が弾かれて床に足を取られ倒れた。

すると!
相手チームの後衛のひとりが
「アンタら、弥生ばっかり狙って汚いことするんじゃないヨッ!」
そう叫んで、近くにあったボールの山積みされたカゴを引っ張ってくると
その中のボールをボクらのチームに投げつけてきた。

「じょ-だんじゃないわヨッ!アンタらが先に凛を狙ってきたんでしょーーっ!」
投げつけられたボールを今度はボクらが相手チームに投げ返す。

ワァーワァー!!
キャァーキャァー!!

もう試合はメチャクチャ
何がなんだかわからない状態になった。

「アタシたちも応援に行くヨーッ!」
そう叫んでBチームのミコたちがコートの中に入ってくる。
すると相手のBチームも同じように応援に参加した。

審判役の古里先生たちはその様子を見てボーゼン自失
周りいる男子は目を点にして突っ立っているだけだ。

しばらくして主審の先生はハッとして
「ちょっと!アナタたち、やめなさい!」
と声をかける。

しかし興奮したボクたちはそんなのお構いなし
「やめなさいっ!やめなさぁぁぁーーーーーっ!!」
その大きな声にようやくボクらはお互いの手を収めた

「ハァ、ハァ、ハァ……。」
それでもお互いの興奮はまだ収まっていない。

「試合は中止!103HRと107HRの女のコは全員103の教室に集まりなさいっ!わかったわねっ!」


それから20分後
103HRの教室

中では103と107の女のコたちが教室を真っ二つにして分かれて、お互い睨み合って座っている。
女のコ同士の喧嘩ということで、107担任の日下先生は遠慮してもらっていて、副担任の女性の瀬戸先生そしてウチの担任の佐藤先生、女子体育主任で主審だった古里先生の3人が教壇の前に立っている。

「さて、まずは説明してほしいわね。これはなんなの?」
古里先生の問いかけに

「だって!107が悪いんですーー!」
「ちがいます!103の女のコたちがーーーー」
ワーワーと叫びお互い何を言ってるんだかわからない。

「ちょっと待ちなさいっ!何言ってるかぜんぜんわかんないわヨ!それぞれ代表2名ずつ出てきてちょうだい」
佐藤先生がそう言うと

「凛はここで待ってて。アタシとみーで行こう」
そう言ってミコとみーちゃんが前に出る。
向こうも川島弥生に事件のきっかけになった最初に廊下で話しかけたときの2人が出てきた。

しばらくその4名の話を交互に聞いた先生たちは
「わかったわ」
そう言って4名を席に戻した。

そして佐藤先生は
「ホゥー・・・」とため息をつき
「まったくアンタらはそんな下らないことで・・・」
と嘆くように言った。

「だってぇーーー!」
ワァーワァーとまた両サイドの女のコたちが騒ぎ出す。

「わかったっ!わかったわっ!」
そう言うと佐藤先生は2人の先生を教室の隅に連れて行きコショコショと内緒話を囁き始める。
「エ、だって、そんな・・・」
「いいのヨ」
「ホントにいいんですか?」

しばらくそう囁き合うと3人の先生は再び教壇の前に上がりこう言った。
「じゃあ、お互いのクラスの感情に決着をつけましょう」

「どうするんですか?」
ウチのクラスのエリちゃんがそう尋ねる。
「この2つのクラスで最後の試合をします。今までのチームは関係なくお互いメンバーを選んでちょうだい。ただし条件が2つ。ひとつは当事者は必ず入れること。それともうひとつはバレー部員は双方1名ずつまでヨ」
「試合ーーー!?」
教室の中がザワザワとなる。
「ハイッ!それじゃ30分後に体育館に集合ヨッ!」

そういうわけでボクらは早速メンバー選出にかかる。
ボクとバレー部のチハル、そしてみーちゃんに水泳部のミコ、剣道部のエリちゃん他に体育部系のメンバーを加えて最強チームを編成する。

そして両クラスのメンバーと応援の女のコたちが体育館に集合。
男子は問題が複雑化すると面倒なので立ち入らせないこということになった。

「さて、みんな集まったわね?」
広い体育館には3人の先生と103HR、107HRの46人の女のコたち。

「それじゃメンバーは前に出てきてちょうだい」
双方のメンバー9人ずつが分かれて前に集合する。
「次にそのメンバーを5人と4人に分ける。はい、始めて」
「エ、なんでですか?」
それぞれのクラスの女のコは不思議そうに尋ねた。
「いいから!」
佐藤先生の厳しい口調にボクたちは2つずつに分ける。
ボクとミコは別々になった。

「それじゃ、次に103の4人が107の5人と合流。そして107の4人は103の5人と合流して」
「エー!それじゃ敵と同じチームじゃん!」
「なんでー!?」
「黙って言われたとおりにするっ!」

女のコたちは渋々と移動し
そしてボクたちは新しいチームを作る。
「ハイ、それじゃこれから試合を始めます。」
「ちょっと待ってください。これじゃ試合じゃないじゃないですか?」
「試合よ」
「だって敵どうし同じチームなんて・・・」

そう文句を言う女のコたちに佐藤先生は飄々と答える。
「あら、アタシはクラスで決着をつけるなんて一言も言ってないわヨ。『お互いのクラスの感情に決着を付ける』、そういったはずだけど」

「そんなー!」
「そんなもこんなもないっ!じゃあ、古里先生、主審をお願いしますね。はじめるわヨー!」


そして、どういうわけか、103HRと107HRの混成チームどうしの試合が始まってしまった。
試合は一進一退を繰り返す。
3セットマッチで最初の1セットをボクたちが取り、次のセットを相手チームが取った。

3セット目は18VS20でウチのチームはとうとう追い詰められる。
何度かラリーをしたボールだが
最後は107の女のコがトスをあげ
そして
「ハイ!藤本さん!」
そう言うと
ミコは高くジャンプしてアタック!
ボールは見事にボクらのコートの中央に突き刺さった。

ハァ、ハァ、ハァ……。
誰もが激しく息を切らしている。

「ハイ、終了!」
ピーという主審の古里先生のホイッスルに女のコたちはその場に座り込んでしまった。

「アー、疲れたぁー!」
「アハハ、もうなんかどっちでもいって感じー」
「結果は21VS18で103&107混成Bチームの勝ち!どう?すっきりした?」

「すっきりしたぁーーー!」
どっちのクラスの女のコたちもみんなが一斉にそう声を上げる。

「じゃあ、これでこれからはお互い友達同士ヨ。いつか同じクラスになるかもしれないんだから仲良くすること。女同士っていうのはいがみ合いもあるけど、いざとなったら異性以上にお互い頼りになるものヨ」
そのとき体育館の入口の方から107副担任の先生が
「佐藤先生、買ってきましたヨー!」
と声をかける。

「それじゃ、ここにいる女のコたちみんなに、今日の思い出にアタシたち3人からのおごりヨッ!」
そう言って先生が渡してくれた袋の中を見ると、青葉学院大学名物のソフトクリームが山ほど入っている。

「わぁーーーっ!」
女のコたちは大喜びでそれを手にして舐めだした。
もうどっちのクラスもない。
両方のクラスの女のコたちはごちゃごちゃに混ざり合いぺちゃくちゃとおしゃべりをしながらソフトクリームを頬張る。

そしてボクやミコの隣には川島弥生さんもいた。

第14話 夏合宿

いよいよ明日から青葉学院高等部に入って初めての夏休み

「凛、成績表どうだった?」
終業日の帰り道、ミコはそう尋ねて来た。
「ダメ~~~。あーあ、やっぱり中学みたいなわけにはいかないヨォ」
「アハハ、そりゃそうだヨ。みんなやってないように見えてけっこう補習塾とか行って頑張ってるんだから。」
「でもミコはやっぱりスゴイよねぇー。クラスで10番以内には入ってるんじゃない? アタシなんかやっと真ん中に追いついてるくらいだもん。 ねぇ、ミコは学校の先生目指してるんだから教育学科志望でしょ?」
「ウン。小学校の頃からのアタシの夢だからね。凛はどの学部志望とか決まってるの?」
「ウウン。今のところは特にないけどね。だってさぁ、今まではとにかく青葉に受かることしか考えてなかったし。でも理工学部だけはやめとく。数学嫌いだもーん(笑)」
「アハハ、凛らしいね。でも3年間って長いようで短いから、今から少しずつでも自分の目標を考ええておかないとね。」

そうなんだよね。
青葉に入っても、それから先の目標を作らないと、そこで止まっちゃう。
でも目標っていってもボクは将来何になりたいんだろう?
やっぱり女だから将来は結婚して子供を産んで…。

そのときボクの頭の中に浮かぶのはやはりワタルとの将来の姿だった。
カレは昔のボクはもう自分の中にいないって言ってくれている。
もしも、もしもボクが将来ワタルと結婚するなんてことになったら
ボクはカレの赤ちゃんを産んでそして育てていくんだろうか

そういえば…。
ボクはワタルに対してずっとどこか不思議な気持ちを持っている。
小5のときに転校する前のカレのことは色々なことを知っているのに、中3で戻ってきたカレについてボクは知らないことがたくさんあった。

たとえばボクはワタルの家が今どこにあるのかさえ知らない。
昔のカレの家には何度も遊びに行ったことがあったし、カレのお父さんともお母さんともよく話をした。
でも今カレのお父さんやお母さんはあのときと同じように元気でいるんだろうか?

学校がある間はカレと会う機会も多い。でも、夏休みとかの長い休みになってカレと連絡を取れるのはカレから一方的にボクの家か携帯に電話があったりするときだけだ。
それについてはずっと不思議に思ってきた。
カレに連絡先を聞こうと思ったときもあった。
少なくとも学校には連絡先や住所は教えてあるはずなんだし。
でもそう思うたびに何か口ごもってしまうワタルに気を使ってボクはそういう話題を避けてきたんだ。

だから…
ボクは、カレが本当にあの頃のワタルなんだろうか…という思いを今でも心のどこかで抱いてしまっている。


そんなことを考えてボーっと歩いているボクにミコが
「凛?ねぇ、凛?」
「あ、ゴメン。なんかボーッとしちゃった。」
「へんな凛(笑) そういえばさ、アンタとみー、来週からチア部の合宿でしょ?」

「ウン。っていっても、ホテルとかじゃなくて青葉の校外施設だけどね。だからチア部だけじゃなくて応援団と空手部も時期が一緒らしいヨ。」
「そうなんだー。空手部っていったら、あの人がいるんでしょ?入学前に渋谷でアタシたちのこと助けてくれた人。」
「あ、ウン。笹村先輩ね。」

「そうそう。アタシも前に校舎の中で会ってあのときのお礼言ったら「気にすんな」ってニコっと笑ってくれて。あの人ってすごく感じいい人だねー。カッコイイし。」
「そうだねー。入学してすぐくらいにアタシも偶然会ったんだけど、そのとき一緒にいたみーちゃんが同じこと言ってた(笑)」
「ワタル君もカッコイイけど、なんか彼とはタイプが違う感じだよね?」

「あ、アタシもそう思った(笑)かなりタイプ違うよね。」
「凛はそれから何度か笹村先輩に会ったりしたの?」
「エットね、3回くらいかな。部活で体育館が一緒だから。」
「あ、そっかぁー。アタシは水泳部だから体育館には縁がないなぁ(笑)」


チア部の今年の新入生12人のうち夏休み前までに残ったのは7人。
その7人の新入生にもいよいよチアユニフォームが許されて初めての合宿となるわけだ。

そしてじつは今日そのユニフォームがデパートから届くことになっている。多分家に帰ればもう届いているのかもしれない。
ボクはそのことでちょっと心がワクワクそしてドキドキとしていたのであった。

さて
家に帰ったボクが2階にある自分部屋に入ると、机の上には長方形の大きな箱が2つ置いてあった。
箱にはチアユニを頼んだデパートのマークがついている。

はやる心を抑えてボクがその箱を開けると、中には青葉学院高等部Titansのネームの入ったユニフォームが2着とアンダースコートなどがセットになっていた。

「わぁー!」
ボクはそれを箱の中から取り出して広げてみる。
さっそくそれを身につけてドレッサーに映してみると、やっぱりスコートはかなり短い。
恥ずかしい気もするけど、でもこれを着て飛び跳ねている自分の姿を想像するとなんかワクワクもしてくる。

すると
プルルルーーー
部屋の内線電話の音を鳴りだす。
そして
「凛、佐倉さんが来たわヨ。」
と母親の声が聞こえてきた。

「エ、みーちゃんが?」
ボクはチアユニのままで部屋を出て階段を下りていった。
するとリビングのソファにはすでにみーちゃんが座って待っていてくれている。

みーちゃんの横には弟の悟が座り、2人で仲良さそうに話をしている。
そういえば青葉に入学し、みーちゃんと知り合ってからすぐに彼女がウチに遊びに来たとき以来みーちゃんは悟と妙に仲がいい。
彼女はウチに来るたびに悟の大好物のチョコケーキを持って来てくれる。
悟は彼女のことを『みー姉ちゃん』と呼びとても慕っていた。

「ねぇ、なんでアンタって実の姉のアタシは凛ちゃんでミコもミコちゃんって呼ぶのに、みーちゃんだけみー姉ちゃんなの?」
ボクは悟にそう聞いたことがあった。

悟はしばらく考えたあと
「ウーン…。わかんない。みー姉ちゃんってすごく優しいし、お姉ちゃんってイメージだからじゃん?」
「アタシだって優しくしてやってるじゃん。」
ボクがちょっとムッとしたように言うと
「凛ちゃんは、優しいときもあるけど怒ったらけっこー怖いじゃん。みー姉ちゃんは怖いときぜんぜんないもん。」
と平気な顔で悟は言いやがったんだ。
まったくどっちがホントの姉弟だかわかんなくなってくる。

「アレ、凛。もう着ちゃってるんだ。」
みーちゃんがクルッと振り返ってボクの姿を見た。
「おー、凛ちゃん。スゲーミニスカート!」
みーちゃんの横にいる悟がそう言ってボクをからかう。
「ウルサイ、エッチ!あっち行け!」
ボクが悟を追い払おうとすると
「アハハ、いいじゃん。じつはアタシも持ってきてるんだ。凛と一緒に着てみたくって。」
「あ、そうなんだぁ。じゃあ、アタシの部屋に行こうヨ。 悟!アンタ来ないでヨッ!」
そう言ってボクはみーちゃんを連れて自分の部屋へと戻った。
それからボクとみーちゃんはお互いのチアユニ姿を写真に撮ったり、母親を呼んで2人並んで撮ったりとしばらくコスプレを楽んだ。


「ところでさ、アタシ、さっき学校からの帰り道で笹村さんとばったり会っちゃった。」
コスプレを一通りご満悦して母親の入れてくれた紅茶とクッキーでおしゃべりを始めたとき、みーちゃんがこんなことを言った。

「笹村先輩と? ヘェー、どこで?」
「渋谷駅の近くでね、笹村さんがスポーツ用品店から出てきたとこでバッタリ。まあ、少し話してただけだけどさ。」
「そうなんだぁ。空手部も来週から一緒に合宿だから、何か用具でも買いに来たんだろうねー。」

「だろうね。でさぁーーー」
「ウン。」
「笹村さんに凛のことを聞かれちゃってさぁ。」
「エ、アタシのことを?なんて?」

「「小谷さんは付き合ってる人っていうのかな?」って。」
「それで、みーちゃんはなんて言ったの?」
「107HRの石川君のこと言ったけど、まずかった?」

「ウウン、いいけど…。でも、なんでだろう?」
「まあ、そりゃ…ねぇ。やっぱり、凛に気があるってことじゃないの?」
「アタシにーー!?ウーン…。」

「ウーンって、その反応なんで?」
「だってさぁ、アタシなんか別に可愛くもないし、目立つわけもないんだヨ?それにあの人ってモテそうだし。」

するとみーちゃんは紅茶を一口すすってクッキーを口に加えると
「あー、凛はわかってないんだなぁー。」
そう言って首を左右に振った。

「わかってないって、なにが?」
「アタシが入学式の前に初めてアンタとミコに会ったとき、アタシはアンタのこと、わぁー、可愛い娘!って思ったんだヨ。」
「アタシがー!? それをみーちゃんに言われるとは思わなかったなぁ(笑)」
「なんて言うのかなぁ、女のコの可愛さってのは顔が整ってるとかそういうことだけじゃないんだヨ。醸し出す雰囲気っていうかなぁ。
アタシなんかさ、初めてアンタを見たとき、あー、もし自分が男だったらこの娘のこと無理やり校舎の影に連れ込んででも自分の彼女にいてただろうなぁー、って思ったんだヨ。」

「み、みーちゃん…それって怖いヨ(汗)」
「まあ、それは半分冗談だけどさ(笑)」
「じゃあ、半分は本気なの?(汗)」
「アハハ(笑)まあ、それはともかくさ、そういうことがあったってこと。アンタには石川君がいるんだし、笹村さんに気を持たせちゃうのはかわいそうじゃん。」
「そうだね。」


そして一週間後
いよいよ合宿が始まった。

湖の辺にある青葉学院の宿泊施設で、今日から5日間ボクたちチア部と空手部、そして応援団が練習を行う。
とはいっても、3つの部が合同で練習をするわけではなく、それぞれが独自のメニューをこなしていく。
街の中よりは涼しい気候とはいえ練習はいつも以上のハードさ。

朝の5キロランニングから戻ってくると体育館でいつもの柔軟体操。
そしてボクたち新入部員も混ぜていよいよスタンツの基礎訓練が行われる。
身長156センチで体重も軽めのボクにベースは難しく、かといってみーちゃんのようなチアの経験者でもないので一番危険なトップも無理。だからベースを支えるスポットのポジションがいいだろうということになっり、一方でみーちゃんは経験者だけど、身長が162センチと高いのでベースのポジションになった。

そして朝9時から12時まで3時間の午前練習をこなしたらようやくお昼ご飯。
大きな食堂には3つの部の70人以上が一堂に会して席に着いている。

今日のお昼のメニューは定番のカレーライス。
チア部の新入部員は少し早目に来て空手部や応援団の新入部員たちと一緒に食事の準備をする。
スプーンとサラダフォークをセットして、カレーをお皿に盛りサラダを添えて準備完了!
そしてちょうど準備が終わった頃次第に先輩たちが食堂に来て席に着き始める。

そしてボクやみーちゃんも自分の席に着いた。
目の前にはカレーのいい香りが鼻をくすぐる。
はっきり言ってもうお腹がペコペコだった。

「それじゃ、いただきまーす!」
応援団部長の岩崎先生の合図で食事の開始。

「あー、お・い・し・い!」
ボクはご飯を軽く盛られたカレーを軽く平らげてしまう。

ここではおかわりは自由。
しかしすでにボクら女子よりも男子が先におかわりコーナーに押し寄せていて長蛇の列。

もう一杯だけ食べようかな。

そう思ってボクが空になったお皿を持って立ち上がろうとしたとき

「よぉ!小谷さん。」
そう声をかけられて、ボクは後ろの席を振り向くと
そこには笹村先輩が座っている。

一瞬びっくりし、そして
「あ、どーも。」
ボクがそう挨拶すると

笹村先輩はお皿を手に持ったボクを見ると
「おかわり?」
と聞いてきた。

「エ、あ、イエ、その…。あー、美味しかった。ごちそうさまー…って。」
そう言ってごまかすように笑う。

それでも横目でおかわりの列を恨めしそうに見るボクの目つきはわかりやすかったみたいで

「こんなんじゃ、ぜんぜん足りないよな。なぁ、オレおかわりするから小谷さんももう少しなら食べれるだろ?」

ボクは心の中でこう叫ぶ。
ウンッ!食べれますっ!
食べれますともっ!
もう少しと言わずもう一杯とでもっ!

「もう少しだけ…なら…。」
そう言ったボクに

「じゃあ、一緒に並ぼうぜ!」
笹村先輩はそう言ってニコッと笑った。

「そんな小盛りじゃ足りないだろ?ちゃんと食べておかないと午後練習でバテちゃうぜ。」

そして先輩のおすすめで結局もう一杯丸々平らげてしまったボクだった。

毎日のハードスケジュールもいよいよ4日目

そして今日の午後練習は3部とも3時に切り上げて買い出しとパーティの準備に取り掛かる。
明日はいよいよ合宿の最終日。
そこでチア、空手、応援団三部合同で今日の夕御飯は打ち上げのキャンプファイアーが行われるからだ。

「買い出しは4人ね。応援団から2人と空手部から1人来るから。ウチからは凛にお願いするね。みーはお料理の下ごしらえ。オッケー?」
「ハイ。」

そして各部から買い出し係になった3人が玄関のところに集まる。
応援団からは1年生の池尻くんと2年生の文屋さん、
そして
「アレッ、空手部からは笹村先輩ですか?」
「ウン。1年生は薪割りとか機材運びで目一杯だからね。」

買い出し係のボクたち4人は宿泊所の自転車1台を転がして3キロ先のスーパーまで行くことになった。
「じゃあ、小谷さんが必要なものを選んでいってもらえるかな。カゴは池尻くんが持ってもらえるかな?」
買い出し班のリーダー笹村さんがそう指示を出す。
「オッス!ありがたく持たせていただきますっ!」
応援団の池尻くんは直立不動で返事をする。

結局買い集めた荷物はダンボール2箱、そしてビニールの大袋で9コと膨大な量になった。
積み上げられた箱と袋を前にして笹村先輩は
「まいったなぁー。まさかこんなにすごい量になるとは思わなかったな。自転車にダンボール2箱と前カゴにビニール袋1つ入れるとして、あと8袋をオレと文屋で持つか。」
「あの、アタシも持てますけど。」
ボクがそう言うと
「エ、だって、1袋でもけっこう重いぜ。」
笹村さんは心配そうな顔をして言った。
「大丈夫です。これでもチア部って思ってるよりずっとハードなんですヨ。両手で2つ持てます。」
ボクはそう言って片手で力こぶを作るポーズをした。
「ハハハ、そっか。じゃあ、オレと文屋で重いものを中心に3つずつ持つか。」
笹村さんは笑いながら応援団の文屋さんに言うと
「オッケー! よぅし、池尻ーーーっ!」
笹村さんに返事をすると文屋さんは池尻くんの方を振り返った。
「オーーーースッ!!」
「これからオマエに重大な任務を与えるーーーーっ!この自転車に積めるだけの荷物を積んで合宿所まで運べーーーーーっ!」
「オーーーースッ!!」
「途中誰に妨害されようとも命をかけて積荷を守りぬけーーーっ!」
「オーーーースッ!!この命に賭けてまして守り抜いてみせまーーすっ!!」
あの…、誰がこんなものを狙うっていうんですか?
命を賭けてって……。

唖然とするボク
そして横で聞いて苦笑している笹村先輩

「相変わらず応援団はスゲーな(笑)まあ、1年奴隷、2年平民、3年貴族、4年は王様ってのはよく聞くけど(笑)」
1年は奴隷…なんですか?
じゃあ、OBはもしかして神様とか?

そしてボクたちはそれぞれ手に持てるだけの荷物を持ち、来た道をテクテクと歩き出した。
合宿所に着いたのはそれから30分後。
建物の前にある広い庭にはすでにキャンプファイアが組み立てられ、並べられた長テーブルにはいくつかの料理が並んでいいる。

「さあ、最後の夜をみんなで楽しみましょう!」
組み上げられた薪には炎が点り夜の闇を明々と照らしている。
そして並べられた美味しそうな料理やお菓子の山。
どの部の人たちも混ざり合って楽しそうに語らっている。

しばらくして少し疲れを感じたボクはみんなのいる場所を離れて庭の端にあるベンチに腰掛けた。
「ふぅ…。」
小さくため息をついてふと夜空を見上げると
まるで黒いカーテンの上に無数の宝石を散りばめたように星が輝いている。

この空の向こうにいるワタルは今頃何をしてるんだろう?
カレのことだからまだ宿題に手をつけ始めているとは思えない。
毎日図書館に通って好きな歴史の本を読んでいるんだろうか。

そんなことを考えていると
「どうした?疲れちゃったかな?」
ふとそう声がして振り向くとそこには笹村先輩が優しそうな表情で立っていた。
「あ、ちょっとだけ。」
「今日は2つも重い荷物抱えて歩いたからな。」
「だって、男の人だけに荷物を持ってもらうのって不公平だって思うし。」
「ウン。オレも同感だな。でも、そう考えられる女のコは実際少ない。」
「そうですか?」
「まあね。だからそう考えられる女のコはとても魅力的じゃないかな?」
「エ、いえ、そんな…。」
「彼氏……。」
「エ?」
「あ、ウウン。小谷さんの彼氏ってさ、107の石川君っていったっけ?」
「あ、ハイ。」
「あ、ゴメンな。この前佐倉さんにばったり会ってさ、そのとき何気なく聞いちゃって。」
「ああ、それってこの前みーちゃんから聞きました。」
「どういうヤツなんだろうなってちょっと思ってさ。」
「カレですか? ウーン…、そうですねー。まずいつも飄々としててお気楽そう、何も考えてないんじゃないかって思うくらい。それにどの女のコにも気さくに話しかけるなぁ。もしかして軽い、ナンパなのかもしれない。」
「オイオイ(笑)それじゃ彼氏のことボロクソ言ってるみたいに聞こえるぜ。」
「エ、そう聞こえます?」
「まあな(笑)」
「フフフ。でもね……。」
「でも?」
「とっても温かいんです。一緒にいてアタシも温かい気持ちになれちゃう。」
「そっかぁ。そりゃ男としての魅力ってやつだよなぁ。でも、いいなぁ。」
「いいなぁって?」
「いや、人と人の出会いって不公平かもしれないなってちょっと思ったりもする。」
「そうかもしれないですね。でも、もし運命っていうものがあるとしたら、そういういくつもの出会いの繰り返しのあとで最後に出会うべき人に出会えるんじゃないかなって。」
ボクがそう言うと笹村先輩はボクの顔をじっと見つめた。
「あの……。」
「あ、ゴメン。いや、ちょっとびっくりしたんだ。」
「ゴメンなさい。アタシ、ヘンなこと言っちゃいました?」
「ウウン。ぜんぜんヘンじゃないヨ。素敵だなって思った。」
「エ……。」
笹村先輩の言葉にボクは耳まで真っ赤になってしまった。

そして笹村先輩は夜空を見上げて呟いた。
「そうだよな。出会いの繰り返しの中で出会いべき人にはいつか必ず出会うときがくる。それを待ってみるのも悪くないか…。」

第15話 そしてそのとき

第15話 そしてそのとき

夏休みもあと1週間を残そうとするある日のことだった。
ワタルからボクの携帯電話に突然連絡があった。

「ひさしぶりやなぁー。元気しとったか?」
相変わらず飄々とした感じのカレの声がボクの耳に心地よく響く。

「元気しとったかじゃないヨォ! 夏休み入ってから今まで何の連絡もしないで、どーしたの?心配してたんだからね!」
久しぶりに聞けたカレの声に自然と顔がほころんでしまう。
それでもボクはわざと少し拗ねたように言い返してやった。

「ワハハ、まあそう怒るなや(笑) ところでな、凛ちゃん。あさって暇かい?」
「あさって? ウン。特になにも予定はないけど。なんかあるの?」
「いや、もしよかったらデートしてくれへんかなって思ってな。」
「デート?」
「そうや、デートや。」

今までワタルと2人きりで会ったは何度もあった。
学校が終わったあと2人で帰ったこともたくさんある。
それでもデートという表現は今までのカレは使ったことがない。
ボクはこのとき心のどこかで何かコロンとした違和感を感じていたのかもしれない。

「あのさ、いいけど…」
「いいけど、なんや?」
「あ、ウウン。なんかあったのかなって思って。」
「いや、別になにもあらへんヨ。せっかくの夏休みに自分の彼女をどこにも連れて行ってやれない彼氏じゃしょーもないやん(笑)」

「フフフ。じゃ、ワタル君がそう言うなら甘えちゃおうっと。喜んでデートをのお誘いをお受けしますワ」
「ヤッタ!じゃ、決まりやな」
「それでどこ行くの?」
「別にどこっていうんやなく、ボク、凛ちゃんといっぱい話したいんや。夏休みにあったこととか色んなことを2人で会って話せたらって思ったんやけど、こんなんじゃダメ…かな?」

「ウウン。いいヨ。アタシもワタル君にたーくさん話したいことあるんだぁ。覚悟しててヨ?(笑)」
「エエで(笑) そんならあさっての朝10時に赤いブランコの公園でええか?」
「ウン。じゃあ楽しみにしちゃうからネ!」
そう言ってボクは電話を切った。

カレが誘ってくれたことは純粋に嬉しい。
ただ、その反対に心の奥の方で何か表現できない違和感に感じているボクだった。


そして2日後

ボクはその日朝早く起きた。
どれくらいかっていうと、なんと朝の5時!
ワタルとの約束の時間は10時なのに、そんな早く起きてどうするの?っていうと、ボクはお弁当を作ろうと思ったからだ。
じつは最近料理というものに少しずつ目覚めてきて、母親にいろいろ教えてもらったり、自分でネットで調べたレシピを試してみたりした。

ちょうど1年前
中3の夏休みの終わり頃、ワタルとプールに2人で行ったとき、ボクは簡単なお弁当を作ってカレに食べさせてあげたことがあった。
凝った手料理ではなくオカズは冷凍食品を解凍したものがほとんどだったのに、カレはそんなボクの作ったお弁当を本当に美味しそうに食べてくれた。
そのときの感覚はボクにとってすごく新鮮だった。
自分が作ってあげたものをその人が美味しそうに食べてくれる。
その嬉しさは女のコとして生活するようになったボクにとって、それ以前には絶対になかった感覚のような気がした。

そしてそれからボクはちょくちょくと簡単な料理を覚えるようにしていった。
中学生のうちは受験勉強も忙しくてなかなか時間は取れなかったけど、高校に入学していつかワタルにまた食べさせてあげたいと思っていたから。
だから今日ボクは頑張って5時に起きたというわけだ。

まだ母親も起きていない時間
お米を研いで炊飯器のスイッチをON
昨日のうちにスーパーで買った食材を冷蔵庫から出して、フライパンを温めて順番にオカズを作っていく。

ワタルの好物はいくつか知っていた。
甘い甘い卵焼き
野菜と鶏肉の筑前煮
ほうれん草の胡麻和え
きんぴらごぼう
ブリの照り焼き。

カレは年齢にしては珍しく和食党だった。
だからボクは今日はカレの好きなものをフルコースで用意してあげようって思ったんだ。

3時間の格闘の末、ボクはお弁当をやっと仕上げる。
「できたぁーーー!」
そしてお皿に並べたオカズをタッパーに綺麗に並べて詰めていく。

フフフ、ワタル、喜んでくれるかなぁー。
8時になると父親も起きてくる。
朝早くお弁当を作ることは昨日のうちに母親に言ってあった。
だからご飯もオカズも多めに作っておいたんだ。

しかしそれを知らない父親はキッチンにボクがいて朝ごはんを用意しているのにビックリ!
目をこすって
「お、おい。凛、オマエ、何してるんだ?」
父親はエプロン姿のボクに恐る恐るそう聞いた。

すると
「今日の朝ご飯は凛に任せたのヨ。まあ、朝ご飯が本当の目的じゃないみたいだけどね(笑)」
横から母親がニヤニヤした顔で言う。

テーブルに並べられた(お弁当のために作ったお余りの)料理を眺めて父親は少し固まっている様子だ。
「なんかけっこう綺麗にはできているが…食べても大丈夫なのか?」
父親はおずおずと母親にそう尋ねる。

「あ、失礼だなぁー!せっかく娘が父親に作ってえげたっていうのに。」
それを横で聞いているボクが少し膨れたように言うと
「あ、いや、スマン。じゃあ…いただきます。」
父親はお箸を取り上げて神妙な顔でボクが作ったオカズに手をつけた。

そしてきんぴらごぼうを口の中に入れると
「う、うまい…信じられん。」
驚いたようにそう呟いた。

「あら、凛は最近いろいろとお料理できるようになったのヨ。アナタはまだいない時間だけど、お夕食を作る時だってけっこう手伝ってくれてくれてるんだから。ウン、美味しく出来たじゃない!」
父親に続いて母親がお箸を付ける。

よかったぁー!
美味しく出来たって。
これでワタルも喜んでくれるかなぁ。

「それにしても、こんな美味い料理もできるようになったんじゃ、こりゃそう遠くない将来嫁に行っちまうことも覚悟しなきゃならんのかなぁ」
父親はお味噌汁をすすりながら少し寂しそうに言った。


朝ご飯が終わるとボクは自分の部屋に行き、念入りに久しぶりに丹念なオシャレをして待ち合わせの場所へ向かう。
少し早目に着いたつもりだったが、ワタルは既に来ていて赤いブランコに座って待っていてくれた。

公園の入口のところから
「ワタルくーーーん!」
とボクは大きな声でカレの名を呼んだ。

顔を上げたカレはボクの姿を見つけて
少し大げさに大きく手を振ってくれている。

「おお!なんかやけにオシャレやなぁー!」
「エヘヘ、どう…かな?」
パールピンクのキャミワンピースにホワイトのストローハット
「メチャクチャ…可愛ええヨ。」
ワタルは優しそうな笑顔でボクにそう言ってくれた。


「今日はボクが案内してええかな?」
「ウン。任せます」
「そんなら、まずお茶でも飲みに行こか?」
「どっか知ってるお店あるの?」
「ウン。ボクがときどき行く店やけどな。ええ店やから教えたるわ」
そう言ってワタルが案内してくれたのはほとんど隣町に近いところのある小さな喫茶店
そのお店は一般の家を改造した感じで大きな庭に囲まれて、そしてお店の外壁の木の板は綺麗なスカイブルーのペンキで塗られていた。

「ヘェー、ワタル君、こんな素敵なお店知ってたんだネ!」
ボクは意外そうにそう言った。
「まあな。1週間に1回くらいやけど、一人でお茶を飲みに来てマスターと話をしたりするんや。さあ、入ろうか?」

中はカンター席が10席ほどとテーブルが5つほど並んでいて、壁には何枚かの海をモチーフにした写真がかけられている。
すごく特徴のあるお店っていうんじゃないけど、その分いろいろな人にとって居心地がよさそうなそんな感じがする。

「やあ、キミか。いらっしゃい。おや、今日は一人じゃなく彼女連れってことは、もう宿題は終わったのかな?」
ボクたちにお水を持ってきてくれたこのお店のマスターらしき人はニコニコとした笑顔でワタルを見てそう言った。
「ハイ。何とかかんとか終わりましたわー(笑)」
「ワタル君、ここで宿題やってたの?」
「ときどきな(笑) ここって居心地ええやろ?」
そしてワタルはアイスコーヒーを、ボクはアイスココアを注文する。

しばらくすると、そのマスターはボクたちが注文したものと一緒にまだ少し温かいアップルパイを2つテーブルの上に置いた。
「アレ? アップルパイって注文しましたっけ?」
ワタルがそう言うとマスターは
「これはサービス。じつはボクの奥さんの手作りなんだ。アップルパイ嫌いかな?」
と優しそうな顔で言う。
「あ、いいえ。大好きです。」
ボクがそう答えると、
マスターはニコっと笑って、
「そう、良かった。じゃあ、ぜひ。」
と勧めてくれた。
「ハイ、じゃあ、いただきます。」
そう言ってボクはその美味しそうなアップルパイを一口口に入れた。

「わぁ!すっごい美味しいー!」
お世辞なんかじゃない。
本当に美味しい。
ほんのりとシナモンの香り。
市販のアップルパイなんかとは比較にならない美味しさだ。

するとマスターは優しそうに
「口に合ったみたいで良かった。じゃあ、ごゆっくり。」
そう言うとカウンターの奥へと行った。


そしてボクとワタルは美味しいお茶とケーキそして楽しいおしゃべりに花を咲かせる。
ボクは夏休みの合宿のことをワタルに聞かせてあげた。
笹村先輩とみんなで買出しに行った話も
ただ、みーちゃんが言っていた笹村先輩がもしかするとボクに好意を持ってるんじゃないかっていう話まではしなかったけど・・・。

ボクはワタルが笹村先輩のことを聞いて少し気を悪くするんじゃないかって思ったけど、不思議とカレはそういう様子はなかった。

「ホォー、じゃあ、その笹村先輩って人は中々ええ感じの人やないか。」
「ワタル君は2年で空手部の笹村先輩のことは知ってるの?」
「いや、ぜんぜん知らん人や。ほら、ボクって部活やってへんからな。そういう付き合いはぜんぜんないねん」

「あ、でもその人にはアタシには彼氏がいるってことちゃんと言ってあるヨ」
「ワハハ、そっか、そっか」

「ねぇ、夏休み中は何してたの?」
「そやなぁー、例のハッチとグッチの3人でパチンコの新装開店に行ったり…。」
「またパチンコォーーー!? 好きだねぇー(笑)」

「ワハハ。それでタバコをとってきてな。」
「あ、まさかキミってタバコ吸ってるんじゃないでしょーね!?」
「いやいや(笑)ジェームズさんにあげたんヨ。あの人、日本のタバコが好きらしいんでな」

「ヘェー、ジェームズさんって入学式のときにワタル君のご両親の代わりに来たっていうお父さんのお友達でしょ?」
「まあな。ウチのオヤジは忙しいさかいにな、ジャームズさんはオヤジみたいに色々ボクの事心配してくれて、勉強も教えてくれるねん」
「そうなんだぁー。そういう人がいてくれるっていいよね。あとは?」

「そやなぁー、あとは図書館に行って歴史の本を片っ端から読んでみたり。主に明治時代以降のもんやけどな。」
「ワタル君、歴史大好きだもんね。ミコもびくりしてたヨ。」
「ワハハ。まあ、好きなもんは一生懸命になれるんやて。でも歴史は本当に奥が深いで。教科書に載ってるのはごく一部だけで綺麗事ばっかりやな。本当の歴史は人と人の争いの繰り返しや。例えばな…」

そう言いかけるとワタルは
「あっと、せっかくのデートにこんな話したらつまらんな」
と少し口ごもる。
「ウウン、いいヨ。もっと聞かせて? アタシ、キミが何を考えているのか、歴史から何を素人しているのか、いっぱい知りたいの。」
ボクはニコッと微笑んでカレを促した。

「ほんなら…。ボクはいろいろな本を読んでみたんや。じつは本を読んだだけやなく、この夏休みのあいだに色々な人に話を聴きに行ったりもした」
「色々な人って?」
「あの戦争に実際参加した人にや」
「あの戦争っていうのは…第二次世界大戦のこと?」
「そうや。世界中が真っ二つに分かれて憎しみあったあの戦争。当時の人はもう90歳前後になってるんやけどな、ボクは色々な話を聞きに行った。日本人だけやのうて、東京に住んどるアメリカ人やドイツ人のおじいちゃんなんかもおったわ。」
「すごいねー。それで、ワタル君はどういうことを聞けたの?」

「ひとつは戦争ってものはな、突然お互いが仲違いして起こるもんやないってこと。例えば第二次大戦は大きく分けるとヨーロッパでのドイツと英米仏露の戦い。そしてアジアでの日本と英米中の戦いがあったわけや。この2つの戦いが絡み合って世界大戦に発展していったんやが、なぜドイツや日本は戦争を仕掛けたのか?凛ちゃんはどう思う?」
「ウーン、たしか、第一次大戦の敗戦国のドイツがベルサイユ条約で過酷な賠償金を課されたり領土を削られて、それでドイツ経済が超インフレになっちゃった。その中でオーストリア出身のアドルフ・ヒトラーが台頭してきて国内経済を立て直して大衆の人気を得て首相に就任したんだよね?それで対立していた共産党を弾圧して議会を掌握して大統領と首相を兼任した総統という地位を自称して、賠償金支払い責任の放棄と失った領土の奪還を目指したって感じ?」
「ええ答えやな。事実としてはその通りや。そうするとヨーロッパでの第二次大戦の原因はその前の第一次大戦ということになる。それは正解や。しかし、その第一次大戦にも原因というものがある。それをずっと遡っていくと、19世紀後期の仏普戦争、そしてこれは周辺国の王位継承権を原因としているからさらに複雑化して遡れることになる。つまりひとつの戦争は次の戦争を生む原因になってしまうというわけや。これはとても悲しいことや。せっかく戦いが終わったのに、残った感情は次の戦争の準備みたいになってしまう。これやと戦争は永遠に終わらない」

「そうだねぇ・・・。日本も同じようなパターンだったの?」
「まあ、近いところはある。ただし日本の場合ヨーロッパとはちょっと違った面があった。大きな原因としては2つ、そしてその2つはそれぞれ別個の原因ではなく、密接につながっていたんや」

「どんな原因なの?」
「ひとつは江戸幕府の崩壊と明治の始まりのいきさつやな。当時は欧米列強によるアジアの植民地支配が進んでいて中国も実質的に欧米の植民地化してしまっていたんや。それまで日本は鎖国政策をとってたから欧米の脅威をそれほど身近に感じなかったが、黒船の来襲でいよいよ我が身にも迫ってきたことを知った。それでもその当時の日本の技術は欧米よりずっと遅れたもんやったし、それに何よりも幕藩体制やったから国の統一した軍事力というもんを持ってなかったんや。もしその状態で欧米が日本に攻めてきたらひとたまりもなかったやろう。そこで日本をひとつの国として統一する、それが明治維新やったんや。さらに欧米の技術を積極的に導入して軍事力を整え国内の産業を発展させる。この時の日本が目指した方向性は必ずしも間違ったものではなかったはずや。いや、むしろそれはアジアの他の国にとってひとつの手本ともなった。」

「それが2つめの原因につながったのはどうしてなの?」
「日本はそれから3つの戦争を経験した。日清、日露、そして第一次大戦や。特に日露戦争での勝利は当時世界有数の大国だったロシアを相手に勝ったという自負心が日本人の心の中に残ったんや。実際は正面で戦って勝ったというよりも、ロシア革命による帝政ロシアの崩壊やアメリカの支援が大きかったんやけどな。まあ、そういったことがあって長期戦にならなかったから日本の国力がなんとかもったんやろう。しかし、日本人はこの3連続の勝利で完全に勘違いをするようになったんや。」
「勘違い?」
「そうや。自分たちは選ばれた民族で、自分たちこそがアジアの統一をすべき使命を負っているっていう勘違いや。つまり最初は自国の防衛のための性格がアジア統一へと変化していってしまったわけや。そして中国での戦いはとうとうアメリカとの衝突を生み太平洋戦争へと発展していく。まあ人情っていったらそうかもしれんが、一度掴んだ権利は絶対に離そうとしない、金持ちほどより金を欲しがるもんや。しかしそのときには戦争というものの性格も変わっていたんや。」

「戦争の性格って変わるものなの?戦うってことの他に性格があると思えないけど。」
「それは、第二次大戦までの戦争てのは軍隊同士が正面から戦い勝敗を決するもんやった。しかし第二次大戦では戦争というものが国民の生活まで侵入してきたんや。それまでは兵隊になって戦場に行かなければ戦争が原因で死ぬということは滅多になかった。しかし飛行機や空母というものの存在で空襲というものが起こった。ヨーロッパでは空襲の他にドイツのロケットがロンドンを襲ったりもした。それで非戦闘員つまり一般国民がたくさん死ぬという性格が出てきたんや。」
「そう言われてみると、たしかにそうだよね。そういえば…。」
「そう。凛ちゃんも今はっと気づいたやろ? その最終形が広島や長崎への原爆投下や。ボクは歴史というものを勉強しててそれが実は戦争の歴史とほとんどイコールであるということがわかった。だからひとつの戦争が次の戦争を生み出すような負の連鎖はもういい加減断ち切らねばならんって思うんや。凛ちゃん、キミやミコちゃんやみーちゃんは女のコや。女性は命を生み出す性や。だから逆にその命を奪おうとする戦争というものに安易に賛成するようにはどうかならんでくれ。」


「聞いていい? ワタル君はいま勉強している歴史を将来生かせる職業に就きたいって思ってるの?」
「そうやなぁ…。もしボクに未来があるとしたら、そういう国と国をつなげる手助けができる仕事をしたいなぁって思っとるがな。」
「あのさ、ワタル君…。」
「今アナタが言った「未来があるとしたら」って・・・?」

そう、今のワタルの何気ない一言
ボクはそのとき自分の中にあるコロンとした小さな違和感をまた感じる。
「ああ、スマン(笑)変な意味やないヨ。ほら、人間なんていつ死ぬかわからんしな。そういう一般論でや。」
ワタルはそう言って誤魔化したつもりなんだろう。
でもボクはその違和感の形が少しずつ見えてきた。
そう、カレには未来という感覚を自分についてどこか否定してしまっている気がする。
そしてその証拠なのかもしれないけど、カレはいつも時に焦っている感じがしていた。
なぜカレがそんなに時に焦るのかはわからない。
でも逆にボクはそれを知ってしまうのが怖い気もした。

「ウン。わかってる。」
ボクはそう言ってカレにニコっと微笑んだ。


喫茶店を出るともう時間はお昼を回ろうとしていた。
「そろそろお昼やな。どっかでご飯食べんか?」
そう言うワタルに
「あ、あのさ、今日アタシお弁当作ってきたんだけど。」
そう言って手に持ったバッグの中をチラッとワタルに見せる。
「わぉー!また凛ちゃんの弁当食べれるんか!?ヤッター!」
ワタルは両手を上にあげかなりオーバーなポーズでに喜んでくれた。

「エット、どうしようか?どこで食べる?」
「そやなぁー、面倒やけどまた赤いブランコの公園まで戻ってええか?そこでベンチに広げて食べへん?」
「あ、いいねー。じゃあ、行こうヨ。」

ベンチに持ってきたお弁当を広げて、おにぎりを取り出してひとつをワタルに渡す。
水筒から冷たい麦茶を注いでカレの座る横に置いた。

「ハイ、どうぞ。」
「いただきまーーーす! おお、うまーーい!このオカズってみんなボクの好物ばかりやんか。凛ちゃん、アリガトな。」
満身の笑みを浮かべて美味しそうにボクの作ったお弁当を食べるワタル。
そんなカレの姿を見ているとさっきの未来を感じないというボクの不思議な感覚は馬鹿なことのようにも思えてくる。
そしてボクはそんなカレの笑顔を見ているのがとても幸せだった。

少しい多めに作ってきたお弁当をカレは全て平らげてしまった。
「あー、もうお腹一杯やぁー。メチャクチャうまかったでぇー。」
そう言ってお腹をさする大げさなポーズをするワタル。
「フフフ。いっぱい食べてくれて嬉しいな。」
ボクはそう言って麦茶のおかわりをワタルに注いだ。

こうやって、いつかワタルと毎日を過ごせたらいいのにな
ボクが毎日カレのためにご飯を作ってあげて、そして一緒に子供を育てて
そういう未来があったらいいのにな

ボクがそんなことを考えているとき
ワタルはコップの中の麦茶を一口飲むと

「なあ、凛ちゃん。さっき言ってた笹村って人…。」
「あ、ウン。笹村先輩がどうしたの?」
「きっと、ええヤツやって思うわ。」

「ワタル君、さっきもそう言ってたよね? でもアタシその人のこと何とも思ってないよ。アタシにはアナタがいるんだもん。」
「ハハ、わかっとるって(笑)いや、変な意味やのうてな、ボクもその笹村先輩に会ってみたいなって…ちょっと思っただけや。」
「ウン、だったら学校始まったら紹介してあげる。タイプは違うみたいだけど、笹村先輩とワタル君ってきっと気が合いそうな感じするんだぁ。」
「そやな。ほんなら、楽しみにしてるわ。」


そして夕闇の迫る頃

「じゃあ、そろそろ帰らんと凛ちゃんのお母さんも心配するからな。今日はホンマに楽しかった」
「ウン。アタシも。アタシもアナタとたくさん話しできて楽しかった」
「そっか。それと凛ちゃんの料理美味かったー。びっくりしたわ」
「最近ね、お母さんに習ってるの。もっといろいろ勉強して今度はもっと美味しいの食べさせてあげるね」

「ウン。凛…。」
ワタルが珍しく凛ちゃんと呼ばずボクの名前を呼び捨てにして呼んだ。

「ハイ」
ボクがそう答えると

「本当に素敵な女性になったな。」
そう言ってカレは優しく微笑んだ。

「じゃあ、そろそろ帰らんと?」
そう言ってカレはボクを促す。
「ウン、じゃあ。またね」
そう言ってボクは公園の出口で僕を見送るワタルと分かれた。

そして
公園の前の横断歩道を渡りきったときボクは彼の立っていた場所の方に振り返って
「また来週学校で会えるんだよね?」
大声でそう叫んだ。

しかしそこにはもうカレの姿はなかった。

ミーン、ミーンーーーー
蝉の声と公園の木立のざわめきが夏の生温かい風に解けていった。



そしてそれから数日後
夏休みも開けていよいよ学校が始まった。

「オハヨーーー!」
教室に入っていくと懐かしいクラスメートたちの顔が目に入ってくる。
夏休み中に真っ黒に日焼けしている男子たち
おしゃべりに花を咲かせる女のコたち

自分の席にカバンを置くとミコが
「オハヨ、凛。けっこーひさびさだよねー。」
と話しかけてきた。

「オハヨー。だって、ミコったらずっとプール通いだったじゃん。ミコったら遊んでくれなくってアタシすっごく寂しかったわぁ!」
「そういえばそうだね!アタシも凛と会えなくって寂しかったヨォ。」

そんな風に戯れあっているボクとミコにみーちゃんが寄ってくる。
「アンタらなにレズってんのヨ(笑)」
そしてボクとミコ、そしてみーちゃんの3人は夏休みの思い出話に夢中になる。

そんなとき
「ところでさぁ、ミコ。今日、ワタル君見かけなかった?」
ボクは何気なくそう尋ねた。

すると
「誰?ワタル君って」
ミコは不思議そうな顔で言う。

「何言ってるの?石川 渉じゃん」
「エ? だからその石川 渉って誰ヨ?」

ボクは驚いてミコの顔をみつめた。
しかし彼女の表情は真面目にしか見えない。

「アタシたちと同じ若松中学出身で青葉に入った石川 渉だヨ?ミコ、アタシのことからかってるんじゃないの?」
「からかってなんかないわヨ。だって、若松中から青葉に合格したのでアタシとアンタの2人だけじゃん。」

エエエエエエーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!!
青ざめるボク

「ねぇ、みーちゃん。石川 渉知ってるでしょ?107HRの石川 渉だヨ!」
そう言ってボクはみーちゃんの肩を揺するように叫ぶと彼女は
「石川・・・君?でも、アタシ107HRに知ってる男のコ自体いないんだヨ。」
みーちゃんも真面目そうな顔をしてそう答えるだけだ。

「ウ…ソ…。みんなどうしてそんなウソをつくの!?なんで、なんでアタシのことからかうの?」
ボクは目に涙を浮かべて訴える。
しかしミコもみーちゃんも
「凛、アンタ、ホントにどうしちゃったのヨ?」
不思議そうな顔でそう答えるだけだった。


そんな…

そんな馬鹿なことが…

それじゃ、中3のときからボクはずっと夢を見てたっていうの?

「アタシ…帰る…。」
「あ、凛!ちょっとアンタ、これから授業がーーー!」
そう叫ぶミコとみーちゃんを無視してボクは自分のカバンをひったくるように掴むと教室から駆け出していた。

渋谷駅まで息を切らせながら駆け足で下り、ちょうどホームに来た電車に身体を滑り込ませる。
電車の中でようやく落ち着きを取り戻したボクは、今までのことを順番に頭の中に浮かべていった。

1週間前にボクはワタルと会ったんだ
カレにお弁当を作ってあげて
カレは喜んでそれを食べてくれて
そして公園で分かれた

クリスマスだってみんなで一緒にパーティをやって過ごした
合格発表の時だってミコも一緒にいたじゃない!
いるっ!
ワタルはいるに決まってるじゃないっ!

そんな、そんな馬鹿なことがあるはずないっ!!


ようやく地元の駅に着いたボクは飛び降りるようにして電車から降りると、改札までまた駆け足で降りていく。
そして改札を通り過ぎたとき
「あっ!」
ボクは隣の改札から出てきた女のコと身体がぶつかりそうになった。

「ゴ、ゴメンなさい。」
ボクはとっさにその娘に謝った。

すると
「アレ、凛じゃない。」
その娘の口からそう懐かしい声がする。

「く、久美ちゃん!」
それはボクの幼稚園から幼馴染の久美ちゃんだった。
彼女とは3ヶ月ぶりだろうか。
お互い高校に入ってからあまり会う機会もなかった。

「ひさしぶりだよねー。元気だった?」
「ウ、ウン。久美ちゃんも。」
「そういえばさ、夏休み中に図書館でアンタの彼氏とばったり会ったヨ。アタシはちょうど帰るとこだったからちょっとしか話しなかったけど、相変わらず飄々としてたねー(笑)」
そう言って久美ちゃんはケラケラと笑った。

エッ!
彼氏って・・・

「アレ?もしかしてワタル君と喧嘩でもしちゃった?」
久美ちゃんはちょっと心配そうな目をしてボクにそう尋ねた。

「あの…久美ちゃん。ワタル君って…。知ってるの?」
すると久美ちゃんは不思議そうな顔で
「ハァ?凛、何言ってるの?石川 渉でしょ?アンタの彼氏の。っていうか、アタシにとっても幼馴染であるわけだし。」
そう言い切った彼女
そのときボクは電車の中でずっと我慢してきた涙が再びこみ上げてきた。
そして久美ちゃんの胸にすがって
「わぁぁーーーーーーん!久美ちゃぁぁーーん!わぁぁーーーーん!」
大きな声で泣き出してしまった。

周りにいる人たちが驚いた様子でボクたちの方を振り返る。
びっくりした久美ちゃんは
「ど、どうしたのヨ?ネェ、凛。どーしちゃったの!?」
そう言ってボクの顔をあげようとした。


それから駅の近くの喫茶店に入ったボクと久美ちゃん
ようやくボクは涙でぐちゃぐちゃになった顔をあげて久美ちゃんに事情を話した。

「エー、ミコがそんなことを?」
「ウン…石川 渉なんて人は知らないって」
「ウーン、あのミコがそんなことでアンタをからかうなんて思えないけど…」
「アタシもそう思ったけど、でもホントなんだよっ!」

久美ちゃんはしばらく目をつむって考え始めた。
「よしっ、凛。これから若松中学に行ってみようヨ」
「中学に?どうして?」
「今の時間ならアンタたちの担任だった山岸先生もいるでしょ。先生から直接聞けばワタル君が存在することははっきりするじゃん。」

「そっか、そうだね。ウン、行こう」
そしてボクたちは4月に卒業した若松中学へと向かった。

「あら、まぁー!ひさしぶりぃ!」
山岸先生は職員室を訪れたボクと久美ちゃんの姿を見ると喜んで迎え入れてくれた。

「まあ、まあ。それにしても卒業してたった半年くらいなのに女のコはガラッと雰囲気が変わっちゃうわね。小谷さんも安藤さんもすっかり女性らしくなっちゃって」
「先生もお元気そうですね」
「フフフ、相変わらずヨ。それにしても今日は突然どうしたの?びっくりしちゃったわ」

「あの、じつは先生にお聞きしたいことがあって…。」
久美ちゃんはそう言って話を切り出してくれた。
「何かしら?アタシでわかることなら。」
「あの、今年アタシたちと一緒に卒業した石川君のことなんですけど…」

すると先生は怪訝そうな顔で
「石川君?どこのクラスの人?」
やはりそう聞いてきた。

やっぱりーーー!
山岸先生の言葉を直に耳にした久美ちゃんも唖然としている。
「アタシと、アタシと同じクラスだった、山岸先生が担任だった石川 渉君ですっ!」
ボクがそう言うと
「エ?小谷さんと同じクラス? そんな石川君なんて人はいなかったわヨ。ちょっと待ってて。」

そう言うと山岸先生は机の上に何冊か立ててある卒業アルバムのうち1冊を手にとって広げた。
「ほら、見てごらんなさい。」
そう言って先生が指でさしたのはボクたちのクラスの集合写真。
4月にアルバムをもらった時には安田の隣に写っていたはずのワタルの姿はどこにもない。

そんな…そんな…。
じゃあ、ワタルは最初から存在していなかったってこと?



中学の正門を出たボクたち
「信じられないわ…」
久美ちゃんが呟いた。

そう
不思議なのは、もしワタルが本当に存在しないなら、ボクの夢だけの存在なら、なんで久美ちゃんもワタルのことを覚えているのだろう。
ボクと久美ちゃんの2人が同じ記憶を持っている。
それはカレが確かに存在していたってことじゃないんだろうか。

「そうだ、今度は凛の家に行ってみよう!」
久美ちゃんは突然そう叫んだ。
「アタシの家?でも、山岸先生の記憶もないんじゃウチのお母さんたちだってもう覚えていないかもしれないヨ?」
「違うヨ。凛の部屋に自分の卒業アルバムもあるし、彼とプライベートで撮った写真だってあるでしょ?それを確認するのヨ!」
「そっか!それがあった!」
そしてボクの部屋に行きさっそく数冊のアルバムを取り出した。

しかし
「やっぱりない…」
卒業アルバムで安田の隣にいるのはワタルではなかった。
その上たしかに撮ったはずのワタルとボクのプライベートな写真も消えてしまっている。

「ふぅ…もう頭の中がわけわかんなくなっちゃってるヨ」
ボクはため息をついてアルバムを手から離した。
そのとき
「ねぇ、凛。こっちのアルバムは?」
久美ちゃんがそう言ってボクの本棚の端にある1冊を指差す。
「ああ、それは小学校のときの。ワタルが転校してきたのは中3のときだから…」
そこまで言ってボクはハッとした。

「ちょ、ちょっと待って!」
ボクはそのアルバムを取り出してパラパラとページをめくる。

すると
「あったっ!!」

それは小5のとき
ボクと久美ちゃんそしてワタルの3人で赤いブランコの公園で遊んでいるときにボクの母親が撮ってくれたものだった。

ボクと久美ちゃんはその写真をアルバムから丁寧にはがす。
そして階段を駆け下りるようにしてリビングにいる母親のところに行った。

「お母さんっ!」
「おばさんっ!」

息を切らしていきなり現れたボクたちにキョトンとした表情の母親
「ど、どうしたの?凛も久美ちゃんもそんな慌てて」

「あのさ、この写真!」

ボクの手にしたその写真を見た母親は
「あらー、懐かしい! アナタたちが小学生のときに公園で撮ったのでしょ?」
と言った。

「そうだけど、ここにいる男のコは?」
「ああ、ワタル君でしょ? この頃はアンタたち3人でいっつも一緒だったわよねぇ。」
「お母さん、カレのこと知ってるの?」
「知ってるの?って当たり前じゃない(笑)たしか小5のときどっかに転校しちゃって、今はどうしてるのかしら?元気でやってるかしらねぇ」

再び部屋に戻ったボクたちは考えた。

「いい?凛。 これではっきりしたことが2つあるわ。ひとつは小5までの彼はたしかにアタシたち以外の人の中にも存在している。しかし2つめに、中3になって戻ってきた彼はアタシたち以外の人の中に存在しないってこと」
「ウン。そうみたいだね。なんでだろう…。」
「ねぇ、凛は彼がどこに転校したか知ってる?」
「たしか大阪だってワタル君は言ってたけど、大阪のどこの学校かまでは…」
「じゃあさ、そこから調べてみようヨ。明日アタシたちの卒業した五小に行って」



次の日
学校が終わるとボクはチア部の練習を休んで久美ちゃんと駅で待ち合わせた。
「やっほぅー、凛」
「あ、久美ちゃん。おまたせー」
「ミコ、どうだった?」
「ウン。アタシも今日はもう何も聞かなかったけど、ミコがアタシのことずっと心配してくれてたみたい。「何かあったの?」って聞かれちゃった」
「そっか。そういう娘だよね、ミコってさ。1年生のときからすごく友達思いでさ」
「久美ちゃんは1年のときからミコと仲良かったの?」
「あ…、ウ、ウウン。アタシは別のグループだったから。今のは他の人から聞いた話ヨ」

そんな話をしながらボクと久美ちゃんは2人が卒業した五小に着く。
以前山岸先生から、ボクがじつは女性であることがわかって手術をしたあと、ボクの卒業した小学校の担任の先生にもそのことを連絡して説明してくれたそうだ。
山岸先生はボクが将来小学校のクラス会などに出たときにも肩身が狭くならないようにと考えてくれてそうしてくれたそうだ。

小学校の受付で説明をして当時のボクたちの担任だった工藤先生を呼んでもらう。
工藤先生は女のコ姿のボクにちょっと驚きながらも、
「ああ、やっぱり・・・って思ったわ」
と言った。

ワタルのことを尋ねると
「ああ、5年生のとき転校した石川君ね。」
とはっきりと答えてくれた。
「あの、彼はどこに転校したかわかりますか?ちょっと連絡を取りたい事情があって」
「エット、ちょっと待って。」
そう言うと工藤先生は部屋を出て戻ってきた時には1冊のファイルを持っていた。
「石川 渉君、石川君…ああ、あったわ。彼は大阪市住吉区の南台小学校に転校してるわね。その後中学でどこに行ったのかまではわからないけど、私立中学に行かなければほとんど学区で決まった中学に進学してるんじゃないかしら」


そして小学校からの帰り道
ボクと久美ちゃんは赤いブランコの公園で今までの情報をまとめる。

「いい?凛。 これで石川 渉という人間が存在することがはっきりしたわ。ただしこれがあの中3のときアタシたちと再会したワタル君とつながるのか、それが問題ってことヨ。」
「ウン。アタシもそう思う。でも、それを確かめるにはどうすればいいんだろう…。」
「そりゃ、行ってみることヨ。それしかないじゃん。」
「行ってみるってどこに?」
「大阪の彼が卒業した小学校にヨ。スタートはそこしかないんだから。」

「でも、行くっていっても新宿とか渋谷に行くわけじゃないんだから…」
「そうね。女のコ2人で大阪行くなんて言ってどっちの親も許すはずないよね。凛はさ、大阪に親戚なんていない?」
「親戚かぁー。ウーン…、あ、そうだ!ひとりいる。ウチのおばあちゃんの妹の人なんだけどね、昔からアタシのことを可愛がってくれて、それで女のコってわかったときももし転校したいなら自分の養女にならないかって言われたことがあったの」
「いいじゃん!じゃあさ、2人でそのおばあちゃんの家に遊びに行くってことにして3日間くらい大阪に行くってことにすれば」
「ウン!じゃあ、今晩ウチの親に聞いてみる」


そんなわけでボクと久美ちゃんはそれから約2週間後の祭日を含めた3連休を利用して大阪旅行に行くことになった。

最初、ボクが両親にその話をしたとき当たり前のように
「女のコ2人だけで旅行!?とーんでもないっ!」
と猛反対だった。
それでもボクは必死に抵抗
「おばあちゃんだってもう年なんだからさぁ、生きてるうちにちゃんと会っておきたいの。危ないことは絶対にしないからー!」
そう言って渋々父親に大阪のおばあちゃんの家に電話してもらった。

電話の向こうのおばあちゃんは大喜びだったそうだ。
それでもウチの父親はかなり心配をしたらしいが、おばあちゃんから
「夕方6時以降は外出させない」
という約束で了解をしたらしい。
そして新幹線に乗ったボクたちは一路にしの中心大阪へ

車内でボクと久美ちゃんは早速打ち合わせを始める。
「いい?たった3日間しかないんだから無駄にしないで効率的に探さないといけないヨ。」
そう言って久美ちゃんは用意した大阪市の地図を広げた。

「五小の工藤先生の話だと、ワタル君が転校した住吉区の南台小学校は柴崎中学校の学区域だからここに進学した可能性が高いってことね。私立中学は当時の彼の頭から考えてありえないと思うの。だからまずここを当たってみようヨ。」

安藤探偵事務所の久美子所長の推理は冴えに冴えているようだった。
そしてボクたちはいよいよワタルの本陣大阪へと乗り込んでいく。

第16話 二人のワタル

新幹線が新大阪駅に着くとボクたちはさっそくおばあちゃんに電話をする。

「着いたかい。待ってたヨー。 それじゃ、そこからタクシーに乗っておばあちゃんちまでおいで。タクシー代は着いたらおばあちゃんが払ってあげるからね」
タクシーで15分ほど走り着いたおばあちゃんの家は相変わらず大きな豪邸だった。
おばあちゃんの旦那さんは昔大阪の中心地ミナミにいくつかの土地を持っていて、それをビルにして会社を作ったらしい。
最初3棟だった小さなビルは今では12棟ものオフィスビルにもなってこの界隈でも有名な資産家になっていったそうだ。

おばあちゃんは今年72歳。
おばあちゃんには子供ができなかった。
5歳年上の旦那さんは、もう5年前に他界している。
旦那さんは一人っ子だったので家系は絶えてしまっていて、今はおばあちゃんにとって甥であるうちの父親が一番血の近い存在だった。
だからその父親の子供であるボクと悟はおばあちゃんにとっては孫のような存在で、東京に来たときには必ずウチに泊まっていく。

ボクが青葉に入学したとき、おばあちゃんの喜び方といったらすごいもので、入学前のある日ウチに来たと思ったら
「凛ちゃんの入学祝いや。なんでも好きなもん買わしてやり」
そう言って1センチほどの厚みのある封筒をウチの親に差し出した。

その封筒を見てウチの親は商品券でも入っているのかと思っていたが、封を開いてびっくり!
「こんな大金を高校になる女のコに与えられるわけないでしょー!」
と返そうとしたらしいが、それでもおばあちゃんも頑固で受け取らない。
結局、その100万円のうち10万円をボクの入学祝いに、そして残りは将来ボクがお嫁に行くときの費用の足しにということになったんだそうだ。

それでもおばあちゃんは今でも電話をかけてきたときこう言っている。
「おばあちゃんな、可愛ええ凛ちゃんに肩身の狭い思いは絶対させへんからな。アンタがお嫁に行くときは最上のウエディングドレスを着せたるんや」
まあ、こんな感じにベタ甘のわけである。

タクシーが正門の前に止まると、そこにはすでにおばあちゃんとお手伝いの女の人が待っていた。
「まあ、まあ。凛ちゃん、よう来はったなぁー!おばあちゃんな、電話もらってからアンタが来るのを指折り数えて待ってたんやでぇー」
おばあちゃんはそう言ってボクの身体を抱きしめると頬ずりをした。

ボクは横にいる久美ちゃんの方を見て
「あ、おばあちゃん。小さい頃会ったことがあるよね?アタシの幼馴染の久美ちゃんだヨ」
と紹介する。

「お久しぶりです。久美子です。この度はお世話になります」
そう言って久美ちゃんはペコンと頭を下げた。
「あらー、まあ。いいお嬢さんになったなぁー。ようこそ、待っとったでぇー」


そしてボクと久美ちゃんはおばあちゃんの大きな家に入っていく。
久美ちゃんは初めて訪れるその豪邸ぶりに驚いてキョロキョロとしていた。

「さあさ、2人ともお昼ご飯まだやろ? おばあちゃん、たーっくさんご馳走用意したんやで。食べてな。」
そう言って20畳ほどの大きな和室に入るとテーブルの上にはお寿司やらなにやらとものすごいご馳走が並んでいる。
それでも女のコ2人でそんな量を食べられるはずもなく、ずいぶんと残しながらもお腹はパンパンではちきれそうになった。

「ねぇ、おばあちゃん。アタシたちこれから昔大阪の方に転校した友達に会いに行きたいんだけど、住吉区の我孫子町ってどう行けばいいの?」
食後に入れてくれたお茶を飲みながら僕はおばあちゃんにそう尋ねた。
「我孫子町かい? ほんならJRの阪和線やな。ここから20分ほどのところや。そんでもあそこらへんはちょっと物騒なあたりやからなぁー。女のコ2人で大丈夫かいな…。なんなら、おばあちゃん一緒に行ってやろか?」

そんな!
おばあちゃん連れてって『幻の少年探し』なんて言ったら…。
「ウウン!だいじょうぶ!危ないところには近づかないから」
ボクは慌ててそう返事した。

「ほうか?ほなら出かけてもええけど、夕方6時までには必ず戻ってくるんやで。アンタのお父さんとの約束やさかいにな。おばあちゃん、お夕飯もご馳走用意して待っとるさかい」
「ウン、わかった」
「あ、それとな、あそこらへんで極東工業高校ってのがあるんやけど、そこの周りには近寄ったらあかんで」
「極東工業?」
「そうや。その界隈では通称ゴクドー工業っていうてな、大阪でも有名なワルの集まる高校なんや」

なんかすごいベタな名前の高校…
でも、まあ、いくらワタルでもそこまでは外れちゃってないでしょ。

そんなわけで、ボクたちはJR阪和線に乗り第一の目的地である柴崎中学へと向かうことにした。
南台小学校へ転校したワタルがもし通うとしたら学区域のこの中学である可能性が強いからだ。

しかし今日は土曜日
正門の前から校舎の中を覗いてみると生徒たちの影はほとんど見えない。

「ねぇ、裏のグラウンド側に行ってみない? どっかの部が練習してるかもしれないヨ。」
久美ちゃんの提案でボクたちは壁沿いに3分ほど歩き裏のグラウンドに回ってみる。

「あ、ホントだ。サッカーやってるね!」

東京の中学よりかなり広めのグラウンドではサッカー部らしき生徒たちが練習をしている。
ボクも男のコとして生活していたときはサッカー部だったから、その光景を見ているとあの頃が無性に懐かしくなってくる。

少しの間ボクは彼らの練習風景をじっと見つめていた。
「凛、懐かしい?」
久美ちゃんがボクの気持ちを察したようにそう言う。
「あ、ウン。ちょっと…ね。 あ!ほらっ、そこでヘディング決めろっ!あー、ダメだなぁー」
「フフフ、もし将来凛が男のコを生んだら絶対その子にサッカーやらせそう(笑)」
「あはは(笑)」

そんなことを話していると
ピィーーーと休憩の合図のホイッスルが鳴った。
「あ、凛。みんな戻ってくるみたいヨ」
「ウン。行ってみようか?」
ボクと久美ちゃんはグラウンドの周りにある木陰に腰を下ろしている男のコたちのひとりに声をかけてみた。

「あのー」
突然知らない女のコに声をかけられて、その子はびっくりしたように振り向きいた。
「ゴメンなさい。突然声かけたりして。ちょっと聞きたいことがあって」
「なんですやろ?」
その男のコは怪訝そうな顔でボクらを見る。

「この中学を去年卒業した人の中に石川って人いませんでしたか?」
ボクがそう尋ねると、
その男のコは隣にいた男のコの方を向き
「オマエ知っとるか?」
と尋ねた。
「さあ、知らんなぁ」
「オマエは?」
その男のコはさらに隣にいる男のコに声をかける。
「いや、知らん」

「ウーン、やっぱりワタル君ってここの中学じゃなかったのかなぁ?」
ボクと久美ちゃんは残念そうにお互いの顔を見合わせた。

「ワタル?その人ってワタルっていうんでっか?」
最初に尋ねた男のコがボクにそう聞く。
「ええ、石川 渉っていうのがフルネームなんだけど。」
「オイ、ワタルってあの人やないんか?」
その男のコはとなりの男のコにそう囁く。
「でも、あの人石川って苗字とちゃうぞ。」
「あの、ワタルって人はいたんですか?」
久美ちゃんがそう聞くと
「ハア、シバタ ワタルって人ならおりましたわ。」
「ワタルってどういう字を書くの?」
「たしか「交渉する」とかの渉(しょう)でワタルって読んだと思うけど。」
「その人ってどんな感じだった?」
「ウーン、身長はわりと低かったかな。162,3センチくらいな気がするな。髪の毛がゴワゴワで…。」
「あの、まさかと思うけどオデコにわりと目立つ傷がなかった?」
「ああ、ありましたわ。」
「ワタルだ…。」
ボクは久美ちゃんに頷いてそう言った。

それは小4のとき、ボクと久美ちゃんとワタルがあの赤いブランコの公園で遊んでいたとき、立ったまま載っていたワタルは誤ってブランコから滑り落ちて前にあった鉄の柵にオデコをぶつけてしまった。
そのとき彼は救急車が来るほどの血が流れて大騒ぎになったのだった。
「でも、シバタって、なんで?」
「わからないけど、でも身長といい、ゴワゴワの髪、そしてオデコの傷。ワタルしかいないヨ」
「それで、そのシバタって人はどこの高校に行ったか知らない?」
ボクが最初の男のコに尋ねると
その子はちょっとためらったような顔をして言った。
「たしか…極東工業…やないかな」

「ゴクドー工業!?」
ボクと久美ちゃんは声を合わせてそう叫んでしまった。

「アレ?よー知ってますなぁ。アクセントで関東の方の人みたいやけど」
「あ、ウ、ウン。ちょっとね、こっちの方の人に聞いて」
「あの人、ものすごいワルでしたからなぁー」
「ワル?彼が?」
「そうですわ。先生2人相手に大暴れしたり、他の街のワルたちと喧嘩して警察に捕まったり、そらもう有名でしたわ」

たしかに勉強はしなかったし少し乱暴なところもあった
でもあのワタルが、いつもボクらにニコニコして話していた彼が
ボクにはとても信じられなかった。
「とにかくさ、ここまで来たらそのゴクドーじゃなかった極東工業って学校に行ってみようヨ」
「そうだネ!」

しかしそのとき時間はもう5時を回ろうとしていた。
おばあちゃんとの約束は6時。
初日から門限破りをしたらもう外に出してもらえなくなるかもしれない。
そういうわけで
ボクたちはとりあえず今日はおばあちゃんの家に帰って、それで明日改めてその極東工業に行くことになった。


次の日
お昼ご飯をおばあちゃんの家で食べたボクたちはさっそく昨日教えてもらった極東工業高校へと向かった。
さすがにおばあちゃんに極東工業に行くとは言えない。
「ミナミに行って買い物をしてくるから。」

そう言うとおばあちゃんは
「ほんならこれ持っていき。何でも好きなもん買うてきなはれ」
ボクに5万円ものお小遣いを持たせてくれた。

「なんか騙しちゃってるみたいで心が痛むね?」
電車の中で久美ちゃんが苦笑いしながらそう言う。
「ほんとだね。アタシたちって悪い娘なのかなぁ」

極東工業は昨日行った我孫子台駅から2駅先にあった。
駅を降りると周りはわりと小さなビルが林立していて路地が多かった。ちらっと見ると路地の方にはなんか雰囲気の悪そうなお店が並んでいたりする。
ボクたちはなるべく広い人通りの多い通りを選んで目的地へと向かった。

「アレ?久美ちゃん。ホントこっちのいいのかなぁ?」
「ウーン…おかしいわね。地図だとこっちの方角なんだけど」

そこにひとりの背広を着たオジサンが歩いてきた。
「あ、ちょっと聞いてみようよ。あの、すみません。ちょっと道をお聞きしたいんですけど」
「ハイ、なんでっしゃろ?」
「ここら辺に極東工業という高校はないでしょうか?」

するとそのオジサンはギョッとした顔をしてこう言った。
「お嬢はんたち、あんなとこに何しに行くんや?」
「ちょっと知り合いを尋ねて行くんです」

そのオジサンはちょっと考えたあと
「あの道を右に曲がって、それで50mほど行ったところや。でもな、お嬢はん、ええか? もし何かあったらその100m先に交番があるさかいに、大声を出してそこに逃げ込むんやで」
そう言ってオジサンは去っていく。
「あ、ありがとう…ございます。」

あの…
大声出して交番に逃げ込むって…
極東工業っていったいどんなとこなんデスカ?

ボクたちはオジサンに教えられた道を進むと、しばらくしてくすんだコンクリートの塀にたどり着いた。

「あ、多分この塀の向こうが極東工業なんじゃないかな。」

その塀には
「○○参上!」
とか
「極悪非道」
とか
わけのわからない文字がびっしりと書かれている。

そのとき
「オイ、ねーちゃんら!」
道にあぐらをかいて座っている2人の高校生らしき男のコがいきなりボクたちに声をかけてきた。

振り向くと、一応学ランは着ているもののものすごい改造モノで、なんと髪の毛はまっすぐ天に向かって垂直に立っている。

「こっち行ってもなにもあらへんヨ。来た道戻ったほうがええでぇー。」
彼は咥えていたタバコを路面でスリ消して、ボクたちに凄んで見せた。

うぅぅ…
東京にはちょっといないタイプの不良だ
ある意味これぞ不良の原点みたいな
関西風に言えば『コテコテの不良』って感じ?

その姿にたじろぐボクと久美ちゃん。
しかしここで引き返しちゃなんのために大阪まできたのかわからない。

ボクは
すぅーっと一息深呼吸をすると気持ちを落ち着かせ
そしてその人に向かって
「あ、あのっ!」
と大きな声で呼びかけた。

彼は一瞬ボクの大きな声に驚いた様子だったがすぐにボクの方を睨み返して
「なんやねん!こらぁー!」
そう言って怒鳴りつけてきた。

「あ、あのっ、シバタ、シバタ ワタルって人知りませんか?」
ボクは搾り出すようにようやくそう一言声を出した。

「なんやとっ!シバターーー!?」

ひぃぃーーーー!
もしかして聞いちゃいけないこと聞いちゃったの!?

「シバタって…ねーちゃんたち、ワタル君のこと知っとんのか?」
ワタルのことを聞くとその不良の態度はどうも一変したようだ。

「友達なんです。それで彼を探してて…。」
「なーんや、ワタル君のダチかいな。そうならはよ言ってくれればよかったんに。」
「彼ってここの生徒なんですか?」
「おお、オレら1年坊のアタマ張っとるで。まあ、あの人はオレらみたくカツアゲやら強姦やらはやらんがな。でもメチャクチャ喧嘩強うてな、入学して1週間で1年全部締めてしもーたわ」

カ、カツアゲ?
ゴーカン!?
ってキミたちホントにボクらと同じ高校1年ですか?

「そ、それで彼は今学校にいるんですか?」
「いやー、朝から見てへんから、いつものサテンでも行ったんとちゃうか?」
「あの、その喫茶店ってどこにあるかわかります?」
「駅前の裏路地にある『スコーピオン』って店や」

スコーピオンって…
どこまでコテコテな名前なんだろう…

「ありがとう。行ってみます。」
ボクたちは彼にそうお礼を行ってさっそく駅の方向へと引き返した。



「『喫茶スコーピオン』…ここだね」

駅から程近い路地の奥まったところにあるその喫茶店は、喫茶店というにはあまりにおどろおどろしい。
壁にはさっきの高校の塀みたいに「○○参上!」とか暗号みたいな文字がそこかしこに書かれている。

「久美ちゃぁぁ~~~~ん。」
さっきは少しだけ強がったボクもさすがにその雰囲気に足が止まる。

しかし、こういうときの久美ちゃんは昔から強かった。
「さあ、凛。入るヨッ!」
そう言うと彼女はお店の重いドアを開けてズンズンと中に進んでいった。
そして、ボクは久美ちゃんの後から恐る恐る付いていく。

そして窓際にあるやけにくすんだ色のソファ席に座ると店内をクルッと見回した。
しかし中は薄暗くてそこにいる客たちの顔はよくわからない。

そして僕らのテーブルにぬっと近寄ってきた雰囲気の暗そーな30代くらいの男の人
彼はお水の入ったコップを置き
「ご注文は?」
そう一言だけ言った。

「あ、あの、アイスティーを」
「じゃあ、アタシも同じで」
そして、持ってきたアイスティをチューチューとすするボクと久美ちゃん。

少しずつ目が慣れてくると周りの雰囲気もわかってくる。
そこにいる人たちはさっきの極東工業での男の人のようなのばかりで、中には頭を金髪に染めてものすごいミニスカート姿の女のコも数人いた。

「久美ちゃん、だいじょうぶかな?」
「安心しなさいヨ。イザってときのために防犯ブザーを持ってきたの」
そう言って久美ちゃんは右手の中に握っているブザーをボクに見せた。

そのとき
「珍しい客やのぉー」
奥の方からそう男の人の声が聞こえてきてボクと久美ちゃんは
ドキッ!!

薄暗い中で顔はよくわからないけど、
その人はゆっくりとこっちの方に近づいてきた。

彼はサングラスをかけ背中に龍の図柄の入った黒いジャンパーに白いズボン、そしてアタマはまっキンキンのリーゼントと
なんか歌舞伎町にでもいそうな、これぞ正統派チンピラスタイル!って感じだ。

「ここはあんまりフツーの客が来るような店やないんやけどな。ねーちゃんたち、どっから来たん?」

久美ちゃんは右手に隠し持った防犯ブザーの用意をしながら
「と、東京からです」
と震える声で言った。

「ホォー、東京から?東京のどこや?」
「え、S区ですけど・・・」
「なにぃ?S区やて!?」
その人はボクたちの方にさらに近づいてくる。

ひぃぃぃーーーーーー!
ボ、ボク、またなんかいけないこと言っちゃった!?

久美ちゃんがスクッと立ち上がって彼に向かっていった。
「シバタ ワタルって人を探してるんです!昔は石川 渉って名前でした!」
彼女はそのチンピラ風の男を睨むようにはっきりと叫んだ。

すると
その男はサングラスをずらし
「なんやと?オマエら誰やねん?」
そう言ってボクたちをギロッと睨みつける。

「ア、ア、アンタこそ誰なのヨッ!人に名前を聞くんなら先に自分から名乗ったらっ!?」

「ワシがそのシバタ ワタルじゃ!こらぁー!オマエら何調べに来たんや!?」
とうとうその男はサングラスをバッと外して怒鳴った。

「アアアアアーーーーーーッッ!!ワタル君!!!」
そのときボクと久美ちゃんはほとんど同時に彼の顔を指差してそう叫んだ。

ボクたちの突然の反応にキョトンとした顔の彼
そして久美ちゃんは
「アタシ!五小で一緒だった安藤 久美子!」
と叫ぶ。

「エエエエエーーーーーッッ!!久美ちゃんかぁー!?」
「そうだヨッ!久美子だヨッ!」
「いやぁぁーーーーーー!懐かしいのぉーーー!」
そのとき彼の表情は一瞬にして穏やかな顔になった。

そしてボクと久美ちゃんのテーブルの向かい席にワタルは座った。
「それにしても、大阪までどないしたん?びっくりしたでぇ。旅行か何かか?」
すっかり穏やかな表情のワタルは、あの頃ボクと久美ちゃんが知っているワタルそのものだった。

「じつはね、もうひとりのアナタを探しに大阪まで来たの」
「もうひとりのボク? 言ってる意味がようわからんが」
ワタルは不思議そうな顔をした。

「エット、ここじゃ話しづらいわね」
久美ちゃんがそう言うと
「エエヨ。ほんなら表通りのサテンに場所を移そうや?」
ワタルはすくっと立ち上がった。


駅前の明るい雰囲気の喫茶店の中
ようやくあのおどろおどろしい雰囲気から解放されたボクたちはホッとひと心地つく。

今度はボクはアイスココアにショートケーキをつけて、久美ちゃんはアイスコーヒーにマロンケーキをそれぞれ注文する。
そしてワタルはホットコーヒーをすすっていた。

「それで、どないしたん?」
ワタルが久美ちゃんにそう尋ねる。

「エットね、まずはこの娘を見て頂戴?」
ワタルはじーっとボクの顔を見る。
「可愛いねーちゃんやな。 久美ちゃんの友達か?」
「そうね。アタシの幼馴染ヨ。そしてアナタにとってもそう」
「ヘッ? ボクにとっても幼馴染?ハテ?誰やろ?すまんな、ねちゃん、名前なんていうねん?」
ワタルはボクにそう尋ねた。

「小谷 哲」
「ハァ!?」
「そう、哲ちゃんヨ。」
「久美ちゃん、ボクをからかってどないするねん(笑)ボクの幼馴染の哲はたしか男やで?」
「そうね。アナタの知ってる哲ちゃんは男のコだったわね。でも、この娘はたしかに哲ちゃんなの」
「言ってる意味がぜんぜんわからん。だって、この娘はどう見たって女のコやん?」

久美ちゃんはボクについて今までのいきさつを話した。
そしてもうひとりのワタルのことも。

「ホエー、ってことは哲はホントは女のコやったってことかいな?ハァー、なんか信じられんけど、でもそう言われてみれば何となく面影があるような…」
「ワタルが転校する前に最後に3人で行った釣り勝負。ボクは5匹でオマエは3匹だったよな。すごく悔しがって絶対勝負付けてやるって言って」
「オオオオーーーっ!それを知ってるってことは確かに哲や!それにしても、まあ、なんて可愛くなって…」
そう言ってワタルはボクを上から下までジロジロと見回した。

「コラッ!女のコの身体をそんないやらしい目で見ないでヨッ!」
久美ちゃんのお叱りにワタルは
「ワハハハハ、スマン、スマン」
と笑って謝る。

「それにしても、そのもうひとりのワタルのことやな」
「そうなのヨ。紛らわしいから仮にアナタをワタルA、もうひとりのワタル君をワタルBとするでしょ?」
「久美ちゃん、そんな人をAとかBとか記号みたいに…(苦笑)」
ワタルはそう言って苦笑い。

「まあ、とりあえずヨ。それでね、もうひとりのワタル君、つまりワタルBっていうのは同じ名前でアナタを語っていたのに、とにかくアナタと全く正反対なのヨ」
「正反対って?どう違うねん?」
「まず身長は175センチ以上でスリムなスタイル。サラサラの髪の毛に甘いマスク。その上すごく頭がよくってね」
「そ、そんな久美ちゃん。ボクのことボロクソ言わんでも(^^;」

「まあ、それでね、今年凛と一緒に青葉学院高等部に入学したわけ」
「ホエー、哲、じゃなかった凛ちゃんは青葉に入ったんか!」
「ところが夏休みを境に姿を消し、そしてその存在は凛とアタシ以外誰も覚えていないの」

「ウーン…不思議な話やな。そういえば…」
「なに?」
「いやな、大したことやあらへんけど、中3の初め頃やったかな。ボク、1週間くらいの間ずっと不思議な夢を見てたんや」
「不思議な夢って?どんな?」
「それが、ボクが物心ついてから小学校5年に転校するまでのことが夢になって映画みたいにずっと現れてきてな。なんかそれを誰かに見られているような…」

「もしかして記憶の吸い取り…」
「なに?それ」
「つまりワタルBが石川 渉っていう存在になりすますためには記憶が必要だってことヨ」
「でもボク部屋で寝てただけやで。」

「まさか宇宙人とか?」
「そんな馬鹿な(笑)たた、とにかくこれではっきりしたってことヨ。凛、アンタにとっては残酷なことかもしれないけど、今アタシたちの目の前にいるワタル君があの頃の幼馴染のワタル君だってことがね」

それからボクたちはいろいろな思い出話をした。
ワタルはすっかりあの頃のワタルに戻った表情で、笑いながらボクと久美ちゃんの話に聞き入っていた。


別れ際、最後に彼はこう言った。
「もし、ボクがいつか東京に行く機会があったら、また2人とも会ってこうやって話ししてくれるか?」
久美ちゃんはワタルの頭をコツンと小突きながら言った。
「当たり前でしょ!来るときはアタシたちに絶対連絡することっ!黙って来たらアタシも凛もしょーちしないわヨッ!」

ワタルは少し目を潤ませながら
「ワハハ、わかったわ。昔から久美ちゃん怒らすと怖いからな(笑)絶対連絡するわ」
とあの頃の少し悪戯そうな笑顔で返事をしたのだった。


その日の夜
おばあちゃんの家の大きな和室に布団を2つ並べて寝るボクと久美ちゃん
真っ暗な部屋にポツンとオレンジ色の豆電球の光だけがついている。

「あのさ…」
久美ちゃんが天井を見つめながらポツンと呟くように話し出す。
「ウン・・・」
「昼間、喫茶店で3人で話してたとき、途中で凛がおトイレに行ってたじゃん?」
「ああ、ウン」
「そのときさ、ワタル君が苗字が変わったわけ、ちょっと話してくれたんだ。 彼、小5の時大阪に転校した理由ね、親が離婚したんだって」
「そっかぁ。そうだったんだ。でも…なんか、信じられないね。アタシたちが遊びに行くとあんなにおじさんもおばさんも優しくって仲良さそうだったのに…」
「そうだね…。 それで彼はお母さんに付いて大阪の実家に行ったらしいヨ。それで妹はお父さんが引き取ったって」
「アタシたち、そういうの知らなかったんだねぇ。あのときのワタルの気持ちってぜんぜん考えてあげられなかった」

「それとさ…もうひとつ」
「ウン、なに?」
「アタシね、彼が転校するちょっと前じつは告白されちゃったんだ」
「エ、ワタルに?」
「ウン…そう。好きだって。それでアタシはどう思ってるかって聞かれたの」
「それで、久美ちゃんはなんて答えたの?」
「哲ちゃんもワタル君も同じように好きだヨ…って」

「そっかぁ・・・」
「やっぱりショックだったのかな?そういうのって男のコにとって」
ボクは少し考えて答えた。
「………かもしれないね」

そう言ってボクが隣の布団の組ちゃんを見ると、そのときはもう久美ちゃんはすぅすぅとかわいい寝息を立てていたのだった。

第17話 銀杏並木のセレナーデ

第17話 銀杏並木のセレナーデ

いろいろあったボクと久美ちゃんの大阪旅行

わかったことはたったひとつだけ
あのワタルはボクたちの幼馴染のワタルじゃなかったってことだ。

しかし、そのたったひとつのはっきりした事実は、ボクがワタルに対してずっと抱いてきた不思議な違和感の多くを説明してくれた。


帰りの新幹線の中

「凛にとってはもっと悲しい事実になっちゃったのかな。 知らないままの方がよかった?」
久美ちゃんはボクにそう尋ねた。
ボクは少し考えて、そしてこう答える。
「ウウン。知らないままカレがいなくなったほうがずっと悲しかった。久美ちゃん、ホントにアリガトね」

すると
「ね、アタシの初恋の相手…。」
久美ちゃんが呟くように一言言った。
もしかしたら聞き逃していたくらいの小さな声でそう言った。

「エ、なに?」
「アタシの初恋の相手ってさ、知ってる?」
「ウウン、知らない。誰が好きだったの?」
「フフフーーーーー」
「なに?その意味深な笑い 教えて?ねぇ、久美ちゃん?」

「何を隠そうア・ン・タ」
「エエエッ!そ、そうだったの?」
「まあ、ーーといっても、それは小学生まで。男のコと女のコってそれくらいから少しずつ分かれてくじゃない。身体もそうだけど、雰囲気っていうか」
「ウン」

「でもアンタはなぜかあっち側の男のコたちの方に向かっていく感じがなかった。アンタの周りにはいつもアタシたちと同じ柔らかい空気が流れていて、一緒にいても異性といる気がぜんぜんしなくてさぁ。
いつのまにかアタシにとってアンタは、初恋の相手から同性の幼馴染って感じに変わっちゃったのヨ」

「だからさ、中2のとき、アンタがホントは女のコだったってわかったときも、アタシはぜんぜんびっくりしなかったな。ああ、やっぱり…って、そう思ったんだ」
「そうだったんだ? なんか…悲惨な初恋にさせちゃってゴメンっていうか、なんていうか…」

「アハハ、まあフツーの人じゃ経験できない初恋だから、今思えばそれも貴重ヨ(笑) でもさ、今まで自分のそばに居たハズの人は突然いなくなった。今の凛にとってそれはショックで悲しいことだろうけど、彼のすべてがなくなってしまったわけじゃないから。彼はアンタにたくさんのものを残してくれたんじゃないかな」
「ウン。そうだね。アタシは…あの人のことをきっと忘れないヨ」


そして、
東京に戻ったボクたちはまた日常の生活の中に身を置く。

季節はもう秋
あの大阪旅行から3ヶ月近くが経とうとしている。
青葉学院のキャンパスでは正門から続く銀杏並木が黄金色にはを染めていた。

明日は日曜日で学校は休み
そんな日の夜、ミコから電話がかかってきた。

「ねぇ、凛。アンタ、明日って何か用事ある?」
「明日?ウウン、特に何もないけど。どっか遊びに行く?」
「ウン。あのさ、青葉大の学園祭今やってるのヨ。行ってみない?」

そういえばそうだった。
高等部の校舎の中にもそんなポスターが貼ってあったっけ。
青葉大の学園祭は毎年すごい規模で行われる。
3日間に15万人もの来場者が青葉キャンパスを訪れ、キャンパスの中にはたくさんの出店や催し物が行われるらしい。

「いいヨ。アタシも行きたい!」


そんなわけで、翌日の日曜日
ボクとミコは駅で待ち合わせをして青葉キャンパスへと向かった。

さすがに最大規模の学年祭らしく
正門に着く前から人の波が始まっている。

「わぁー!スゴイ!!」
初めて目の当たりにする大学祭。
それはもう言葉にならないほどのすごい熱気だった。

銀杏並木のメインストリートにはこれでもかというくらいの数の人がいて、たくさんの屋台が並んでいる。
だからいつものように歩こうとしても中々前に進めないのだ。

「イラッシャイ!イラッシャイ!」
「見ていってーーーー!」
並べられた屋台からは大学生たちのお誘いの声が張り上げられている。

「スゴイ数の人だねぇー。まずどこから見に行こうか?」
ボクは横を歩くミコにそう尋ねた。
「エットね…ちょっと待ってて。」
そう言ってミコはさっき入口のところで1部300円で買ったパンフレットをパラパラと開き何かを調べている。
「あ、こっちみたい!」
そう言ってミコは『ある方向』に向かって進みだす。
「こっち? ってミコー、ちょっと待ってヨー。」
ボクはミコの進む方向に付いていくのはがやっとだ。

たどり着いたのは奥の方にある大きな校舎の前
そこにもいくつかのサークルが屋台を出していた。

そしてミコはそのうちのひとつで『旅の会』と看板に書かれたクレープの屋台の前で立ち止まると、クレープを焼いてる女の人に
「あの、芦田さんっていらっしゃいますか?」
と話しかけた。

ア、なーんだ(笑)
ミコ、芦田さんのお店知ってたのかぁー。
ナルホド! それで…ね(笑)

「エ、ター坊?」
そう言ってその女の人は、後ろの方背中を向けてでクレープの粉を水に溶いている男の人に声をかける。
「ター坊ーーー!なんかアンタにお客さんみたいヨーーー!」
そしてクルッと振り向いた男の人は久しぶりに会う芦田さんの優しい笑顔だった。
「やぁー、来たな。凛ちゃんもひさしぶりだね。」

「ミコォー。アンタ、最初からその予定だったんでしょ?」
ボクはニヤっと笑ってミコのホッペを指でつついた。
「エヘヘーー。ごめぇーん。」
ミコはニヤケた顔でボクに両手を合わせた。
「フフフ、いーよ(笑) あ、芦田さん。お久しぶりです。」

するとそこに男の人が2人近寄ってくる。
「ああ、疲れたー。だめだぁ~、バケモノを見るような目で見られちゃってぜんぜん売れんわー。」

その声にボクとミコがクルッと振り向くと
「!!!」

なんと大学生の男の人2人がワンピースのメイド服姿でかごを首から下げていた。
頭はヴィッグらしき長い髪なんだけど、それは女のコのヘアスタイルというよりもむしろ秋葉原あたりにいるオタクの女装のような。

「あの…あれは?」
ボクが芦田さんに恐る恐る尋ねると
「ああ、あの格好でクレープ売れば受けて買ってくれるんじゃないかって思ってやってみたんだけどね、ハァ、やっぱりダメだったかぁ~。こりゃ、赤字決定だなぁー。」
芦田さんはため息を付くように言った。

「だから奈々がやったほうが絶対売上伸びるって。」
その女装姿のうちひとりがそう言ってカゴを下ろした。
「でもクレープをちゃんと作れるのって奈々しかいないんだし、奈々が売り子に回っちゃったら作るヤツがいなくなっちゃうじゃん。木場、オマエ練習のとき何枚失敗したと思ってるんだヨ?」
「…10枚。」

すると女装姿の男の人たちがボクとミコの方を見て
「アレ、お客さん?」
と尋ねる。

「違うヨ。ター坊の知り合いの女のコたち。」
クレープを焼きながらその奈々さんという女の人が説明した。

「へぇ、2人ともすごい可愛い娘たちじゃない。芦田、知り合いってどういう知り合いだヨ?」
「2人ともオレの妹だヨ。」
「嘘つけー。オマエんちってあの憎ったらしい弟しかいねーじゃん。」

「ハハハ。じつは2年前にオレ入院したことあったろ?そのときこっちの小谷 凛ちゃんと病院で知り合ってね。 それでこっちはその友達の藤本 美子ちゃん。2人とも今年高等部に入学したんだ。」
「こんちにわ。小谷です。」
「藤本です。」
「ヘェー、2人とも高等部生かぁー。じゃあ、広い意味での青葉生ってわけだ!」

すると2人の女装姿のお兄さん達はコソコソと内緒話をはじめる。
「おお、いいじゃん!」

そして彼らはボクとミコの方を向いて
「どう、キミたち。アルバイトしない?」
と言ってきた。

「アルバイト?」
そう言われて顔を見合わせるボクとミコ

「オイオイ、オマエらまさかーーー。」
芦田さんが感づいたようにそう言う。

「そうさ!やっぱりメイドは女のコじゃなくっちゃ!」
「そうさ。芦田ぁ、クレープ屋は競争が激しいんだから、このままじゃ真っ赤っかで冬合宿のためにみんなでバイトで貯めた貯金を持ち出すことになるんだぞ。」
「ウーーン…しかしなぁ…。」
腕を抱えて悩む芦田さん

そこにミコが
「いいじゃない。凛、やろうヨ!芦田さん、アタシたち頑張ります!」
と手を挙げて答えたのだった。


そしてなぜこういうことになったのかよくわからないうちに
ボクとミコ2人のメイド娘が誕生した。

「オオーーーッ!スッゲー可愛い!!」
「ね。ねぇ、これで「ご主人様、クレープいかがですか?」って言ってみてヨ?」

エーーーイッ!
もうこうなったら乗りかかった船だぁーーー!
お世話になった芦田さんのため
何でもやってやろうじゃないのっ!

「ご主人様ぁ、クレープいかがですかぁ♪」
ボクは、少しシナをつけながらニコっと笑顔で言う。
「オォォォーーーーッッ!!ゾクゾクするくらい可愛ィィーーーッッ!!」

そして今まで女装姿だった芦田さんのお友達の木場さんと久田さんの2人は元の服に着替えて、何やら大きな紙に字を書き始めた。
『今なら3枚お買い上げで握手券
5枚お買い上げならなんとペアで写真を撮影!』
それを見た芦田さんはびっくり
「お、おい!これじゃAKB商法だろっ!」
「そうさ。ただし青葉生だからAOBって言ってほしいね!」
「芦田ぁー、オレたちの冬合宿がかかってるんだぞ? ちょっとくらい販促かけんとまたバイト生活始めにゃならんのだぞぉー。」
ミコはもうクスクスと笑っている。


AKBならぬAOB凛&ミコのステージが始まった。
「いらっしゃいませぇ~。ご主人様ぁ~。」
お店の前で甘い声で歩く人を誘うボクたち

「おっ!」
「アレ何だ?」
しばらくするとボクたちの周りにはたくさんの人たちが集まってきた。

「あ、あの娘たち可愛いー!」
と言いながら中には女のコもいる。

「ハイハイ!いらっしゃいませー。こちら3枚お買い上げー!ミコちゃん、握手ヨロシクー!」
「ハイ、こちらは5枚ですね。凛ちゃん、ペア撮影ヨロシクー!」
AOB商法はまさに大当たり状態
「オォォォーーー!大儲けじゃーー!!」
「ワハハハーーー!笑いが止まらーーーん!!」
木場さんも久田さんもウハウハ状態

そして奈々さんは必死にクレープを焼き
芦田さんはこれまた必死に粉を溶いて生地の元と生クリームを作る。

そして3時を過ぎた頃にはとうとう完売となった。

「ワハハハハ! これぞ商才!!」
「やったぞぉー! これで冬合宿はスキー三昧じゃぁー!!」

あと片付けを終わり、ボクたちも服を着替えてくる。
芦田さんは済まなそうな顔で
「いやー、ゴメン!! せっかく2人を学祭に招待しておいて、逆に働かせてしまうなんて。」
そう言って芦田さんはボクたちに両手を合わせて謝った。

「アハハ、いいんです。」
「アタシたちだって楽しかったし。ね、ミコ。」

そこにクレープを焼いていた奈々さんが近づいてきた。
「2人ともホントにありがとうね。 それで、これ少ないけどアルバイト代。」
そう言って5千円ずつをボクたちに渡そうとした。

「あ、イエ。そんないいです。」
ボクもミコも遠慮しようとする。
「でもそれじゃ申し訳ないわ。ね、受け取って?」
芦田さんも横から
「いいじゃない。受け取ってくれたらボクたちもありがたいし。」
「じゃあ、すみません。いただきます。」
そう言ってボクとミコはそれぞれ5千円ずつをいただいた。

「それにしても学祭もあと2時間で終わりか。2人ともどこにも連れて行ってやれなかったなぁー。」
芦田さんが残念そうにそう言った。
きっとミコも芦田さんと回るのを楽しみにしてたんだろうな…
そういえば横にいるミコをちらっと見るとちょっとさみしそうな表情だ。

そのとき
プルルルル!!
とボクの携帯電話が鳴った。
「ハイ、アタシです。」
電話に出てみると、それは笹村先輩からだった。
「いや、じつは今部活の練習で学校にいるんだけど、さっき菊池が大学の学食にメシを食いにいったとき途中で小谷さんがメイド服姿で何か売ってたって言ったからさ。」

そのときボクは
ピン!!!

「あの、笹村先輩。練習はもう終わりなんですか?」
「ああ、もう着替えて高等部の裏から出ようとしているとこ。」
「だったらこちらに来ませんか?」
ボクがそう言うと
笹村先輩は嬉しそうな声で
「エ、オレがいっちゃっていいのかい?」
「ハイ。お待ちしてます。」

それから5分ほどして
「ヨォー。」
と笹村先輩は現れた。

ボクは笹村先輩を芦田さんに紹介する。
「はじめまして。高等部2年の笹村です。」
「やぁ、はじめまして。経済学部3年の芦田です。」

そしてボクは芦田さんに提案した。
「ねぇ、芦田さん。あと2時間もありますヨ。せっかくだからここでペアに分かれてゆっくり過ごしませんか?」

横にいるミコは
「エ?」
という顔をする。
「ペアって?どうするの?」
芦田さんがボクにそう尋ねた。
「芦田さんとミコ、それでアタシと笹村先輩。2つのペアになりましょう!お互い別々に分かれて最後の2時間を楽しみましょう。ね、ミコもいいでしょ?」

近くでそれを聞いていた奈々さんも気がついたらしく
「あら、いいじゃない。ター坊、せっかくだからいってらっしゃいヨ。あとはアタシたちがやっとくから。」

ミコはパッと晴れた表情になって
「ウ、ウン!」
と大きな返事をした。

「エ、アレ?オレ、いいのかな?」
笹村先輩は状況がよく理解できていないみたいだけど

「さあ!笹村さん、行きましょう!」
ボクは何が何だかよくわからない様子の笹村先輩の腕に自分の手を回してを引っ張っていくのであった。

第18話 Wデートは恋の予感?

それは、その日(大学祭)の夜のことだった。

プルルルルーーーーー
ボクの部屋のインターホンが音を立てて鳴り響き、そしてボクが受話器を取り上げてみると
「凛、ミコちゃんから電話ヨ。」
と母親の声。
そしてそのすぐあとに聞こえてきたのはミコの嬉しそうにはしゃぐ声だった。

「凛、今日はアリガトーー!」
ミコはかなり興奮している様子だ。
普段はけっこう冷静というかクールな面を持っているミコには珍しかった。

「フフフ、ゆっくり楽しめた?」
ボクがそう尋ねると
「ウン!あのあとね、芦田さんに校舎の中を案内してもらったりして、それでお夕飯もご馳走になっちゃったの。」
「わぁー、よかったじゃん。じゃあ、そろそろ『付き合って?』とか言われちゃったりして?」
「ウウン。そういう雰囲気はないかなぁ…。アタシってやっぱり妹に見られてるみたいだから。」
「そっかぁー。でも、たくさん会ってお互いのことをいっぱい知っていけば芦田さんのミコへの意識だって変わってくるかもしれないヨ。」
「そうなんだなよねぇー。だから今回の学園祭なんか一歩前進って思うんだけどさ。中々キッカケがないっていうかね。」
「ウーン…じゃあさ、こういうのってどう?」

そこで思いついたのがこのWデート作戦だった。

ボクがワタルと惹かれあうようになったのも、あの中3のときのディズニーランドでの集団デートがきっかけだった。
そこで今回はそれをミコと芦田さんに置き換えてみるわけ。
ただしWデートというからには、ボクにも誰か相手がいないと始まらない。まさかミコと芦田さんのデートにボクひとりがお邪魔虫でついていくわけにもいかないだろう。

思いつくのは…
安田か工藤か、
でも安田は最近中学のときのクラス委員長だった井川さんとけっこう仲が良くなってときどき2人で会っているという話も聞く。
工藤はバスケで推薦をもらって高校に行ったからクラブ活動で忙しいらしい。
ワタルがいればなぁ…。

「あのさ…。」
ボクがそんあんことをクルクルと頭の中で考えているとミコが少し遠慮がちにこう言った。
「笹村さん…誘えないかな?」
「笹村先輩かぁ…。」

まあ、たしかにワタルがいなくなって今のボクにはお付き合いをしている彼氏というものはいないんだけど
でも、それで笹村先輩に乗り換えようなんて気持ちはない
それにそんなことをすれば笹村先輩に対して失礼だって思うし…

「あの人なら学祭のとき芦田さんとも会ったしさ、それに感じがいい人だから芦田さんとも気が合いそうじゃない?」
「そうだねぇ…。」
「凛、オネガイッ!」
「ウン、わかった。じゃあ、アタシから笹村先輩に聞いてみるヨ。」

モチロン笹村先輩は快くオッケーをしてくれた。
そんなわけでボクたちは2年ぶりにディズニーランドを舞台にしての集団デートとなったわけだ。


ボクとミコは最寄りの駅で待ち合わせして、そして新宿駅で芦田さんと笹村先輩が合流することになっている。

この日、ミコの提案でボクとミコはある趣向を凝らしていた。
「あのさ、アタシと凛、おそろいの服を着ていこうヨ。」
ボクはちょっと不思議に思った。
今回はミコと芦田さんが主役なんだから、ミコは目一杯オシャレして、ボクはちょっと地味な方がいいんじゃなかって思ったんだけど。
するとミコは
「だってそういう方が楽しそうじゃない。」
ミコはときどき突飛ない発想をしたりする。
でも言われてみれば確かに楽しそうではある。
そこでその何日か前にボクたちは家の近くのお店でお揃いの服を買ってきたというわけだ。


笹村先輩たちとの待ち合わせの場所に行くと笹村先輩と芦田さんはすでにすっかりと打ち解けた様子で話をして笑い合っていた。

「おはようございます!」
「よぉー、来たな。アレ!?」
芦田さんと笹村先輩はボクたちを見るとすぐにそのことに気づく。

「今日のミコちゃんと凛ちゃんって何か双子の姉妹みたいだな(笑)」
ブラックのウエストを絞ったジャケット
その下は白のリボン付きのブラウス
そしてラメ入りチェック柄の膝上プリーツスカート
ご丁寧にソックスまで黒のもので統一したのだ。

「なんかインパクトあるなぁー(笑)思い出に残りそうだ。」
芦田さんが笑いながらミコにそう言った。
するとそれを聞いたボクの前にミコは右手で小さなガッツポーズを作る(笑)

「さあ、じゃあ行こうか?」
こうしてWデート大作戦は始まったのであった。

中央ゲートの前に着くとそこにはすでにたくさんの人たちが並んでいる。
その様子を見てボクは中3のときみんなで行ったときのことをどうしても思い出してしまう。
あのとき、ボクは初めてワタルを自分とは違う『異性』の存在であることを意識したんだ。

カレは人並みに流されて転びそうなボクの身体をその腕に抱いた。
そしてそれは偶然のタイミングだったのか、それともワタルが意識してボクの近くにいてくれていたのか、今ではわからない。
でもあのときカレの腕に抱かれたときのカレの温かい胸の感触は今でもボクの記憶の中にはっきり残っているんだ。

そしていよいよ開門の時間になり、今回はボクらは人波に乗ってスムースに中に入ることができた。

(フフフ、同じことなんてないよね(笑))
ふとそんなことを考えたボクはハッと思った。

ボクは何を期待したんだろう…
笹村先輩はワタルとは別の人なのに

そしてボクは横で歩く笹村先輩の顔を見上げた。
「エ、なに?」
先輩はそんなボクに少し不思議そうな顔で言った。

「ウウン。なんでもない。」
ボクはそんな自分の心を誤魔化すようにニコッと微笑んだ。

するとそのときだった!!!
人波みのずっと向こうの方で
一瞬ボクの目にワタルの姿が映ったような気がした。

ウソッ!!

ボクはその方向に向かって走り出す。

「お、おい!小谷さん!どこ行くんだ!?」
笹村先輩がびっくりしたようにそう叫んだ。

しかし、そういう笹村先輩の声もボクの耳には入ってこなかった。
ワタルを見た気がしたその場所に辿り着きボクは辺りを見回す。
しかしどこを見てもカレの姿なんか見当たらない。

「どうしたの?」
ボクに追いついた笹村先輩がボクにそう尋ねた。

「あ、ウウン。なんか知っている人の姿を見たような気がして…。」
「いきなり驚いた表情で走り出すからびっくりしたヨ。その知り合いは男の人?女の人?」
「男の人…です。」
「そっか…。」
笹村先輩は何かを考えているように一言そう言った。

「どっちにしてもこの人の多さじゃ見つけるのは難しいんじゃないかな。でも、またどこかのアトラクションで見かけられるかもれないし。」
「そうですね…。」

それは1秒にも満たないほんの一瞬のことだ
果たしてそれが本当にワタルであったのかはボクにも自信がなかった

「ゴ、ゴメンなさい。勝手な行動しちゃって。」
「いや、いいヨ。さあ、芦田さんたちのところに戻ろう?」
笹村先輩は優しく微笑んで、そしてボクの前にすっと自分の手を差し出した。

不思議なことに、ボクは差し出されたその手をなんの躊躇いもなく握り返したのだった。
笹村先輩の手はあのときのワタルの手よりも厚くて硬かったけど、温かいぬくもりは一緒だった。


それからボクたちは、ボクの立てた作戦通り2つのペアに分かれて中を回ることにする。
意外だったのは、笹村先輩は高い場所が苦手らしいということだった。

ボクと笹村先輩はコースター乗り場で並んでいよいよ最上階まで上がる。
「わぁー、ここからだと下にいる人たちが豆粒みたいに見えちゃいますねー。」
ボクが楽しそうにそう言うと
「ハ、ハハ…。そ、そうかい?」
と少し顔を引きつらせながら先輩は答えた。

いよいよボクたちの順番が回ってきて座席に着き
そしてコースターが走り出すとき、ボクはチラッと隣に座る先輩を見た。
すると先輩は目をぎゅっとつむったまま前のハンドルをしっかと握り締めていた。
「あの、笹村先輩。せっかくのコースターで目を閉じてちゃ気分を味わえなくないですか?」
ボクがそう言うと
「い、いや…オレは肌で気分を味わえるから…ハ、ハハ…。」
と逞しい笹村先輩のイメージとは正反対の今にも死んでしまいそうなか細い声

そしてとうとうコースターが動き出す。
「きゃぁぁ~~~~~~~!」
ボクは回転する景色にキャァキャァと声を張り上げて喜ぶ。

ようやくコースターが終点に着いたときボクが先輩の方を見ると笹村先輩は
「ハハ、ハハハ…ああ、楽しかった。」
と言いながらも半分目が潤んでいたのだった(笑)

「あのさ…。」
一息つこうとボクと笹村先輩が入ったのは小さなカフェテリアだった。
「あ、ハイ。」

「さっき入口のところで小谷さんが見たっていう知り合いの人。」
「ああ、でもハッキリと見たわけじゃないから。 似た人だったのかもしれないし。」
「あ、ウン。 もしその人だったとしたらだけどさ、もしかして小谷さんの好きだった人とか?」

ボクはちょっと考えた。
好きだった人
たしかにそうだ
そしてそれは今でも…
でもカレは本当に存在するのかどうかもわからない人のような気がする
ボクは笹村先輩になんて説明したらいいのか迷った

「あの、こんな話するとヘンに思われるかもしれないけど…。」
「いいヨ。別にヘンなんて思うはずがない。」
「昔、中学のときアタシがちょっと好きだった男のコ…っていったらいいのかな。」

「その人は今は別の高校に?」
「…わかんないんです。突然いなくなっちゃって。」
「どこに行ったかもわからないの?」

「まあ…。」
「そっかぁ。それは不思議だな…。」
「でも、だって…居もしない人を心のどこかに持ってるなんて…アタシってやっぱり変わってるんだなって思いません?」

すると笹村先輩はコーヒーカップを持ち上げてひと啜りし、そしてこう話し始めた。
「オレさ、昔、ずっと昔、オレがまだ小学3年生だったころ不思議なヤツと出会ったことがあったんだ。」
「不思議なって?」
「ウン。ある日、オレが家の近くの公園に遊びに行くと、ひとりの男のコがポツンとブランコに座ってたんだよ。
よく見るとその子は何か途方にくれたような、そんな感じがしてね。
それでオレ「どうしたの?」って声をかけたんだ。
そうしたら、その子は親と親戚の家に来て途中ではぐれてしまったらしいんだ。
道もわからなくて、親戚の家の電話も知らない。
それで年を聞いたらオレより1学年下、そうだな小谷さんと同じ学年だったわけだ。
その子はお金もぜんぜん持ってなくて朝から何も食べていなかったらしく、オレも金を持っていなかったから困った。
そこでソイツを連れてオレは家に帰ったんだ。」

「笹村先輩の家に?知らない子を連れて?」
「そう。そしたら運悪くウチの母親は妹のピアノの発表会に付き添いで出ててね。オヤジは仕事でいなかった。
そこでオレは食堂にあった食パンに冷蔵庫にあったトマトやらキュウリやらチーズをはさんでサンドイッチを作ったのさ。ガキの作ったもんだから不格好でぐちゃぐちゃなもんだったけどな(笑)
そしてそれを2つに分けてソイツと2人で食べたんだ。
ソイツは「美味い!美味い!」って笑顔で食べてくれてな。
それからオレたちは部屋で遊んでいるうちに2人ともそのまま眠りこけちゃってさ。気がついたら会社から帰ってきた父親と母親が眠り込んでたオレたちのこと覗いてて。」

「お父さんたち、驚きませんでした?」
「そりゃそうさ(笑) 一緒にいるのはどこの子なんだ?って。でもオレは知らない子って言うしかない。それから父親が警察に電話したら、その子の母親とやっと連絡が取れてね。ソイツの家はウチとちょっと離れたところにあったらしいんだけど、母親がそいつを迎えに来るまで、ソイツはウチで晩メシ食って、オレと一緒に風呂に入って。やっと迎えに来たときは2人でまた眠りこけちゃったんだ(笑)」
「へぇ、なんか兄弟みたい。」
「ああ、そうだな。オレには妹しかいないんだけど、そのとき初めて会ったソイツがなぜか自分の弟みたいに思えてね。朝になって目が覚めたときはソイツはもういなかった。」

「それからその子はどうしたんですか?」
「ウン。何か生まれつき身体が弱かったらしくてね、入退院をを繰り返していたらしい。何度か手紙を交換したけど、そのうち返事もなくなったな。そのときの手紙もどこにいったか…。」
「たった一日だけの弟かぁ…。不思議ですね。」
「ああ、アイツ…今頃どうしてるかなぁ。」

笹村先輩っていつもクールっぽい感じしてたけど、こうやって2人でゆっくり話してみると意外にもけっこういろいろなことを話す人だったみたいだった。
しかしそれはオシャベリとかそういうのでなく、聞いてて聞き心地がいいというか、穏やかに話ができる人なんだって思う。
今までボクは高校に入ってからのこの人しか知らないわけで、彼にも子供の頃があって、そして偶然の出会いとかそういうものがあって、ボクはなぜだかわからないけど、この人の子供の頃をもっと知りたくなったんだ。

「笹村先輩って小さい頃はどんなタイプの男のコだったんですか?」
ボクがこう尋ねると先輩は少しウーンと考えるようなポーズでこう答えた。
「一言で言えばわりと内気な性格のガキだったな。友達も少なかった。」
「エー、そうだったんですか?今からは想像つかないなぁー。先輩の周りっていつも友達がいるし。」

「ハハハ、それはあるきっかけがあったんだヨ。」
「あるきっかけ…ですか?」
「ウン。さっき話した偶然知り合った男のコなんだけど、2,3回くらい手紙のやり取りをしたんだ。その中でソイツがくれた手紙に「透君は身体が元気で羨ましいな。ボクなんか小さい頃から入院ばっかりで透君みたいに強くなりたかった。」って書いてあったんだ。そのとき、オレさ、ソイツの分まで強くなりたいって何か思ってさ。そう思い立ったらあるとき空手道場の前を通って、ほとんど衝動的に入っちゃったんだ。」
「へぇー。じゃあ、それからずっと?」
「ウン。道場に通うようになって練習は辛かったけど、自分の肉体だけじゃなく気持ちも強くなっていく気がした。それでそういう苦しさとかを分け合える友達ができるようになってね。熱中するものが同じ仲間っていうのは話だけじゃなくて心で触れ合えるんだなって思ったんだ。」

笹村先輩の話はボクにとってすごく新鮮だった
中2まで男のコとして生活していたはずのボクにとって『男の気持ち』ってやつは、ミコやみーちゃんよりわかっている気になっていた。
安田や工藤みたいな仲のいい友達もいたし。
でも苦しみを分け合える友達っていうのが男のコとして生活していたときのボクにはいただろうか?
中学のときの男友達とは、楽しいから一緒にいたっていう気持ちしかないような気がする。

そういえばボクは最近ちょっと不思議に思うことがあった。
中学の頃は女のコとして生活しているボクは夢で、じつはボクは今でも男のコで女のコになった夢をみているだけなんじゃないかって思うことが多かった。
しかし最近それが逆に感じられるようになった。
男のコとして生活していたボクが夢で、じつはボクは生まれたときからずっと女のコだったんじゃないかって。

それを感じるようになったのはワタルを意識するようになってからだと思う。
少しずつボクは自分が変わっていくような気がする。

何がボクを変えていくのだろう?
それはやはり女性という自分の身体と男性という自分と対極にいる存在なのだろうか。

最初の頃は女のコの価値観を意識して吸収しようとしていたはずだけど、最近では女友達と話をしているとすごく気持ちが楽な気がする。
逆に男のコと話をしているとどこか緊張しているボクがいるような感じがする。

ただ、いまボクの目の前にいるこの男の人と話をしている自分は緊張感があるのにどこか心地いい気持ちになれるんだ。
それがすごく不思議なんだ。

ワタルが突然いなくなって3ヶ月。
それは長いのか短いのかわからないけど、ボクの日常は相変わらず続いているわけで。
ワタルのことを忘れてはいけないって思う自分と前に進まなくちゃって思っている自分がいて、いまボクはちょっと心が苦しかったりするんだ。

「あのさ…。」
「あ、ハイ?」
「オレ、キミのこと『凛ちゃん』って呼んでもいいかな?」
「エ、いいけど、どうしたんですか?急に。」
「いや、小谷さんって呼ぶのも何か他人行儀みたいでさ。キミともっといろんな話ができたらいいなって考えたら、そのほうが呼びやすいかなって思ってさ。」
「フフフ、そんなこと思ってたんですか?笹村先輩ってマジメだなぁー。」
「ウン、そうかもしれないな(笑)でも女のコを下の名前で呼ぶのって馴れ馴れしいとか思われたりしないかって男は考えちゃったりするんだぜ。男って気がちいせえよな(笑)」
「さあ、どーでしょー(笑)でも最初からそう呼ばれるより感じイイですヨ。」

(アレ、でもワタルは最初からボクのこと『凛ちゃん』って呼んでたな)

「じゃあ、オレからもうひとつ提案!」
「ハイ、笹村先輩!」
「オレはキミのことを凛ちゃんって呼ぶ。キミはオレのことをなんて呼ぶ?」

「エ…。」
「どう?なんて呼ぶ?」
「笹村…先輩?」
「それじゃ今までと同じだヨ?(笑)」

(いじわる…)

「それじゃ…笹村さん?」
「ウーン、もう一声!」
「もう一声ですか?(笑)じゃあ…。」
「じゃあ?」
「トオル先輩」

「ハハハ、まあいいか(笑)じゃあ、それでいこう」
「ハイ(笑)」
そんなわけで、小谷さんと笹村先輩だった2人の関係は、何やら凛ちゃんとトオル先輩になってしまったわけなのだ。


午後4時
ボクたちとミコたちは約束通り中央ゲートの前で集合した。

ミコはもうすごいニコニコ顔
ボクに何かを話したくてウズウズしたような表情だ。
まあ、それは後でゆっくり聞きましょう。

そしてボクたちは今日の記念にとみんなで集合写真を撮ることになった。
近くに歩いていた人に頼んで4人で写真を撮る。
前にボクとミコが中腰で並びそしてその後ろに男の人2人が立って
「パシャっ」

カメラを返してもらったボクは次にミコと芦田さんに
「2人のペア写真撮ってあげる」
と言うと、
いつもわりとクールなミコが頬を赤く染めながら芦田さんの横に立った。

「芦田さん、もう少し近くに来ないとフレームに全部入りませんヨー。」
そしてついでにミコに芦田さんの腕に手を回させて
「パシャっ」

「アリガトー、凛。お土産でフォトスタンド買ってこの写真いれようっと。」
ミコは嬉しそうにそう言った。

するとトオル先輩が
「凛ちゃん。せっかくだからさ、オレたちも撮ってもらおうヨ。」
と言った。

その言葉にミコはちょっと意外そうな顔をする。
多分ミコはトオル先輩がボクのことを凛ちゃんと下の名前で呼んだことに反応したんだろう。
それはむしろそれを「ヘェー」というような表情だった。

「いいヨ。じゃあ2人で並んで?」

ボクは手を前に組んでトオル先輩と並んだ。

「アレ、凛。それじゃフレームに全部入らないヨ?ちゃんと腕を組まないと。」
ミコはちょっと意地悪そうにニヤっと笑ってそう言う。
「エ、腕とかそんなのって関係あるの?」
「大アリヨッ!このカメラってフレームが狭いから(笑) さあ、もっとくっついて?」

ああ、ミコったら完全に遊んでるね?
しょうがなくボクはトオル先輩の腕に軽く自分の手を置く。
横にいるトオル先輩は少し緊張したように直立態勢だ。

「ウーン、2人ともちょっと固いわね。もっと自然体に!ほらっ!」
ミコに急かされてボクもとうとう諦めた。

ああ、もうどーにでもしてっ!
ボクはトオル先輩の腕に手を絡ませてニコっと笑う。
そして
「パシャっ」

あとでゆっくりミコに芦田さんとのことを聞いてやるつもりだったのに、これじゃボクの方が根掘り葉掘り聞かれちゃうそうだヨ(笑)

第19話 告白されちゃった!

告白されちゃった!
こう書くとやっぱり笹村先輩に?と思うかもしれないけど
じつは彼ではない
それは同じクラスの野村君という人にだった。

彼はわりと大人しい感じに思えたけど、なぜか彼の周りにはいつもたくさんの友達がいた。
野球部に入っているせいもあるんだろうけど、友達はみんな彼のことを信頼しているように見える。
そういうイメージではトオル先輩と近いものがあるのだろう。

そんな彼とボクのどこに接点があったのかっていうと、それは野球の試合の応援のときだった。
ボクはチア部に入っているので野球やサッカー、ラグビーなどスポーツ部の試合があると定期的に応援にいく。

青葉学院高等部の野球部はスポーツ推薦というものがない学校なので部員は全員入試や内部進学で入ってきている。
だから甲子園に出場できるほど強豪というわけではない。
それでも、みんな野球が好きで一生懸命練習をし、東京都の予選では毎回わりといいところまでいく。

小学校ではサッカーに熱中していたボクにとって野球はそれほど詳しいわけじゃないけど、彼はリトルリーグなるものに所属していて小さいときからかなり熱心に野球をやってきた人らしい。
そのわりに頭も良くて青葉の中等部入試をするりとパスしてきたわけだからまさに文武両道ってタイプなんだろう。
そんな彼だから高等部でも1年生でありながらエースではないものの控えのピッチャーを任されていた。


今年の夏の予選
青葉学院はかなり波に乗っていた。
当たった相手にも恵まれたのかもしれないけど、2回戦ではなんと一昨年の甲子園出場校帝都大高校とぶつかり学校内では
「ああ、ここまでかぁ」
という雰囲気だったんだ。
帝都大高校野球部はほぼ全員がスポーツ推薦で入ってきた人たち。
それが弱小青葉なんかに負けるわけがないと思って明らかに見下している感じがわかった。

しかし、これが意外な接戦となり、そして8回で途中降板したエースに代わって投げたのが野村君だった。

彼は頭脳プレイというか奇策を使った。
まともにぶつかれば勝てる相手じゃないことはわかっている。
彼は変化球を巧みに混ぜて内野ゴロに仕留め、ランナーも片付けていった。

相手リードで迎えた9回表の青葉の攻撃
場面は2アウトのときだった。
なんと1番の打者がピッチャーゴロだったものを相手のピッチャーが焦って処理を誤りセーフ!
さらに2番打者はセンター前のヒットで出塁し、これでランナー2、3塁となった。
沸きに沸くスタンドの応援席
超強豪の帝都相手で勝てるわけがないと応援も少ない青葉だったが、その少ない応援席が一体となって歓声をあげた。

そして3番打者が放ったライト前ヒット!
「きゃぁぁーーーー!やったぁぁーーー!」
ボクたちチア部員ももう大興奮だった。
ボクがイレジュラーバウンドしてライトが手間取っている間にランナーが2人帰り、なんと大逆転してしまったのだ。

「おい、まさか?」
「すげーヨ!帝都に勝つなんて初めてだろ!」

スタンドの中からはザワザワとした声があがる。

それでも相手は強豪帝都、そうは甘くはいかなかった。
9回裏最後の帝都の攻撃
彼らはまさに容赦なかった。
1アウトでランナー1,2塁。
1点リードされている帝都は積極的な猛攻にでてきたのだ。

「ああ、やっぱりそう上手くはいかないかぁー。」
青葉側スタンドは小さなため息が漏れ始めた。

しかしじつはその猛攻が帝都に小さな隙を作ってしまう。
これは後で野村君に聞いた話だけど、このとき青葉は意図的に帝都にランナーを出させたのだそうだ。

このとき青葉メンバーは全員がマウンドに集まって励ましあった。
まともにやって勝てる相手ではない。
青葉のメンバーの誰もがそんなことは分かっていた。
だから最後の一発勝負に出たらしい。
これで失敗しても誰の責任でもない、誰も責めない。
そしてここまで進んでこれたことを感謝しよう。
そう言う約束で行われた奇策だったそうだ。

帝都のバッターはなんと4番!
外野に運べばランナーが2人とも帰って逆転の可能性が大きい。
ワンアウトだから4番がダメでも5番が打つ可能性もある。
出塁している帝都のランナーたちはすぐに走り出せるよう少し大ぶりに構えていた。

ピッチャーの野村君はプレートから足を外して、少し気だるそうに空を仰いだ。

そのとき!
彼はいきなり、そしてものすごい素早い動きで持っていたボールを1塁に投げる。
大きくリードを取っていた1塁ランナーはびっくりして戻るがアウト。
さらにファーストはそのボールをジャンプしてセンターに投げた。
2塁にいたランナーは驚いて滑り込もうとするが一瞬の差で

アウトォー!!

スタンドにいるボクたちは何が起きたかよくわからない。

「ねぇ、もしかして?」
「おい、やったのか!?」

そして少しの沈黙のあと

ワァァーッ!!

大きな歓声が上がった。


全員がマウンドへと駆け寄ってきた
そしてお互い大喜びで抱き合う青葉のメンバーたち

その後青葉はベスト8まで進み
学校を上げての大応援団となったが、最後は去年の甲子園出場校國學園高校に大差で負けてしまう。

しかしそのときの野村君の活躍はみんなの記憶に刻まれて彼は一躍、時の人となったのであった。
1年女子の中にも彼に注目する人が多い。

その野村君に告白されるとは思わなかった。


1年生の最後の終業式の日
終業式が終わったボクは突然野村君に声をかけられる。

「小谷さん。あの、ちょっといいかな?」
ボクは一緒に話していたミコやみーちゃんと顔を見合わせた。

「じゃあ、アタシたちは先に学食に行って待ってるから。」
ミコにそう言われてボクは野村君と一緒に教室を出た。

野村君はボクを高等部のグラウンドの前にある広場に連れて行く。
そして野村君はボクにそこにあるベンチを勧めた。

「次に小谷さんと同じクラスになれるとは限らないからさ。心残りはなくしておこうと思って。」

この雰囲気が告白というものであることはボクにだってわかっていた。
もしボクがあのままオトコとして生活を送っていたなら、ボクはもしかしてこうして女のコに告白をしていたのだろうか。

ボクはベンチに座って小さくうつむいたまま野村君の話を聞いていた。

「僕はまだ1年生で控えのピッチャーだったから、試合に出たことも少なかった。でもあのとき、帝都との試合で初めて大きな責任を負わされたとき、僕はマウンドからスタンドにいるキミの姿を見たんだ。
そして、もしこの試合に勝てたらキミに自分の気持ちを言おうって決めた。僕は……入学式でキミのことを初めて見たときからずっとキミを見続けてきた。キミのことが好きだ。」

キミのことが好き
キミのことが…好き

この野村君の言葉にボクは何も言い返せなかった。
だって、何を言い返せばいいんだろう?
こんなに真剣な気持ちでボクのことを想ってくれている人に。

ボクは彼のことをあまり知らない。
野球部のチア応援で野球場で会ったとき1年生の彼はいつも下働きやボール運びをしていた。
それでも同じクラスだったからお互い挨拶をして2言3言の話はする。
ボクの知っている彼はいつも一生懸命で笑顔だったこと。
先輩に仕事を言いつけられてもそんなことにも笑顔で一生懸命頑張ってた彼の姿だった。
そんな彼だから友達はみんな彼のことを使用していたのだろう。
そしてあの帝都の試合で1年生の彼に場を任せたのもそういう彼だったからだと思う。

彼のことはどこかで尊敬したりもしていた。
ただ、
ただそれ以上の気持ちがボクの中には起きないんだ。


3月の少し暖かい風がボクのスカートの裾を撫でていく
小さく下を向いたままのボク
ボクは正直、言葉を探していたんだ。
言葉…ウウン、それはむしろ言い訳だったんだと思う。

自分が男として生活してたときの頃の気持ちを思い出せ!
あのときボクはどう言われれば救われたんだろう?
そんなことを一生懸命考えたけど、それはもう記憶の彼方になってしまった。

そしてボクがやっと見つけた言い訳はやはり彼にとって残酷なものだった気がする。

「あの…さ。アタシ、野村君ってすごいって思ってる。どんなことにも一生懸命で、笑顔で頑張って、だからみんな野村君のこと好きなんだって思う。そしてアタシもそんなアナタの姿を見てていい気持ちになてるんだ。だから友達のひとりとしてアナタのことを好き…っていうんじゃ…ダメかな?」

野村君はボクの言葉を黙って聞いていた。
そして少し考えたあと
「いや、いいヨ。それでいい。 小谷さんが僕のことを友達だって思ってくれていることがすごく嬉しいよヨ。これからもずっと仲良く話してくれる?」

「もちろんだヨ。」

ああ、野村君は大人なんだって思う。
ボクなんかよりずっと大人だ。

ボクとミコそしてみーちゃんのいつもお気に入りの場所
大学の学食の隅のソファ席
ボクが野村君と分かれてその場所に行くとミコとみーちゃんがボクのことを待っていてくれていた。

「ゴメンね。待たせちゃった。」
ボクは2人に近寄ってそう声をかける。
「ウウン。だいじょうぶ。」
「どうだった?」
「エ?」
「告白されたんでしょ?」
「ウ、ウン…。」
ボクはミコとみーちゃんにはきちんと話した。
この2人は他の人には絶対に話さない。
そういう自信があったからだ。

「そっかぁ…。あの野村君も凛のことが好きだったわけだ。」
ミコが青葉名物のソフトクリームをぺろっと一口舐めながらそう言った。
「「野村君も」ってどういう意味?アタシ自身はかなり意外だって思ってるんだけど。」
するとみーちゃんはフランス人形のようなその美しい顔でボクを睨むように言う。
「ハァー。凛、アンタは他人のことはけっこーわかってるみたいだけど、自分のことはまるでわかってないね。前に言ったでしょ?アタシがもし男に生まれていたらアンタみたいな娘を手込めにしてでも彼女にしちゃいたいって。そういうことヨ。アタシ、クラスの中で他にも何人かアンタのこと好きな男のコ知ってるヨ。そういう人たちが告白してくるたびにそうやって自分を悪者にして考えちゃうわけ?」

「まあまあ(笑)そのピュアなところが凛のいいとこでもわるわけだしね。それに、みーもそんないかにもありそうな冗談言って凛のこと怯えさせるんじゃないヨ。」
ミコが笑いながら仲裁した。
それに対してみーちゃんは
「ハハ、いかにもありそう?そうね(笑) 百合の世界も悪くないかもねぇぇ~~。」
そう言ってニヤっと笑ったのには少しゾッとしてしまった。



その日の夜
ボクは自分の部屋で今日のことを考えていた。

あのときボクは野村君に友達になろうって言った。
でもそれはきっと言い訳だったと思う。
もし自分にとって好きな人が言ってたとしたらボクはその愛情を受け入れていたんだろう。
ワタルのときのように。
それじゃ、それならボクと野村君は本当は友達にもなれない?

そしてそのときふっとボクの頭の中に浮かんだのはトオル先輩のことだった。
ボクとトオル先輩の関係ってなに?
まあ言ってみれば同じ学校の先輩と後輩
友達みたいなもんじゃないの?

もしも
もしもよ
あのとき告白されたのが野村くんじゃなくてトオル先輩だったとしたら、ボクは嬉しかったんだろうか?

そんなことを考えたらなんだか頭がごちゃごちゃになってきた。
ふっとベッドの横に立ててあるこの前ディズニーランドで買ったフォトスタンドに目をやると、そこにはあのときの4人で撮った写真が収められている。
じつはこれはミコにも内緒だったんだけど、あのときボクはもうひとつフォトスタンドを買ったんだ。
そしてそれにはボクとトオル先輩の2人で撮った写真を入れた。
でもそのフォトスタンドをボクは机の中に入れてある。

だって…まだわからないから。

第20話 meet again

第20話 meet again

それは、ボクたちが高2に進級して少し絶った5月のこと
学校からの帰り道、ボクがちょうど最寄駅に着いて電車から降りホームを歩いていたときだった。

バッグの中に入れてある携帯電話の着信音が聞こえるのに気づいたボクはそれを取り出し表示を見た。
すると、そこにはしばらく会っていない久美ちゃんの懐かしい名前

(あ、久美ちゃんだぁー)
嬉しくなったボクはさっそくその電話を耳に当てた。
「もしもし。久美ちゃん?」

「やっほぅー!凛、ひさしーねー。今話ししてだいじょうぶ?」
「ウン。いいヨ。今ちょうど駅に着いたとこだったの。」
「ナイスタイミングッ!じつはそろそろアンタが帰る頃かなって思ってさ、アタシも駅の近くにいるのヨ。」
「あ、そうなの?じゃあアタシそっちに行くから待ってて?」

そういうわけで、ボクは久美ちゃんと駅前のロータリーで待ち合わせた。

「凛、ひさしぶりー。」
そう言って相変わらずのポニーテール姿で笑顔を見せる久美ちゃん。
久美ちゃんはボクの姿を見て「あれっ」と言うような表情をする。
「凛、髪の毛短くしたでしょ?」

そうなのだ!
さすが女のコは鋭い。
2年生になってボクはどこかイメチェンをしようと考えた結果中2の頃から伸ばしてきた髪を5センチほど切った。
今は肩に付く程度の長さのボブカットにしている。

「へぇー、可愛いー。少しボーイッシュな感じがしてすごくにあってるヨ。」
「エヘヘーーー。ちょっと勇気出して短くしちゃった。」
久美ちゃんにそう言われるとなんか照れてしまう。


そしてボクたちは肩を並べてゆっくりと歩き出した。
「でも、どうしたの?急に。びっくりしちゃった。」
ボクが久美ちゃんにそう話しかけると
彼女はどことなく嬉しそうというか、笑顔の中にてれを隠している感じがする。
「フフフ、歩きながらじゃ落ち着かないから。そこの喫茶店にでも入らない?」
「あ、ウン。いいヨ。」
そしてボクらは駅の近くにある一軒の喫茶店に入り窓際のテーブルに腰を下ろした。

ウエイトレスさんが冷えたお水を持って注文を聞きに来る。
ボクはアイスティーを、久美ちゃんはオレンジジュースをそれぞれ注文した。

「で、さっきの話だけどさーーー」
そう言って久美ちゃんがようやくその話を切り出す。

「じつは、あのさ、ワタル君が帰ってくるのヨ。」
「エ、ワタルってどっちの?」
ボクは驚いてそう尋ねる。
「あ、ゴメン。大阪のワタル君。ワタルAのほうね。」
「そっか。そりゃそうだよね(笑)」

ボクたちが大阪に行って成長、というかすっかりグレちゃったワタルAと再会したのが高1の9月。
あれから8ヶ月近くが経つ。
あれ以来ボクとワタルAとのつながりは全くなかったけど、久美ちゃんは週に何度もメールをして連絡を取り合っているという話は聞いている。

「あのさ、あのときアンタにワタル君の本当の転校理由は話したじゃない?」
「あ、ウン。ご両親が離婚したんだったよね?」
「そう。それでお母さんがワタル君を、お父さんが妹さんの方を引き取ったそうなの。」
「あー、そういえば彼って妹さんいたよね。3歳年下だっけ?」
「アンタも覚えてた?昔ワタル君の家に遊びに行ったときまだ小1くらいだったんだよね。千歌ちゃんっていうの。」
「そうそう、千歌ちゃん! 久美ちゃんその娘のことけっこう可愛がってときどき一緒に遊んであげてたもんね。」
「ウン。でもね、離婚の理由っていうのはすごく些細なことだったんだって。ちょっとした喧嘩から売り言葉に買い言葉みたいな感じで。」
「エ、そんなことで離婚しちゃうんだ?」
ボクはかなり意外だった。
ウチの両親はベタベタしてる方ではないけど不思議と喧嘩というものはしたことがない。

「まあもちろんそれだけじゃなくて他にも不満が溜まってたんだろうけどさ。きっかけなんて些細な場合が多いヨ。それでさーー」
久美ちゃんは話を続ける前に一口ジュースで喉を潤した。
「それで当時のワタル君としてはものすごくショックだったのよね。彼ってその妹さんのことすごく可愛がってたしね。それで転校先の小学校では暴れだして、中学では不良仲間のボス。高校になるといつの間にか地域を束ねるワル中のワルになっちゃったって。」
「へぇー、なんかどんど出世してくみたいな感じ。」
「そうだねー(笑)」

「それがさ今から3ヶ月前のことなんだけどーーー」
「ウ、ウン。何かあったの?」
「バッタリ会ったんだって。お父さんとお母さんが。」
「どこで?」
「それがさ、すごい偶然っていうか、不思議なことだったらしいんだけど。お父さんの会社の部下の人が大阪に出張に行く予定だったんだけど、急に奥さんが産気づいちゃったらしいの。それでどうしても外せない出張で代わりに彼のお父さんが行くことになってね。その時仕事が終わって夕食を食べに入ったファミレスで偶然お母さんと隣の席になったんだって。」

「エーーー、それってすごくない? 偶然に偶然が重なったみたいな。」
「でしょー!? それでお互いその時には冷静になってたからポツンポツンって会話があって、それでそれから何度か会うようになってね。そのうちもう一度やり直そうかって話になったって。」
「へぇー、じゃ、よかったじゃない。ワタル、喜んだでしょ?」
「なんかすごく照れてた(笑)」
「フフフ、アイツらしいね(笑)素直になればいいのに。」

そんなわけで、アイツはこの街に戻ってくるんだそうだ。
高校も久美ちゃんのメールを通じての勉強指導で武蔵野工業高校への編入となった。

「それでさ、来週の日曜日なんだけど2人でお引越しの手伝いに行かない?」
久美ちゃんは嬉々としてそう言った。
「ウン。いいヨ。」
日曜日ならチア部の練習もない。
以前はワタルとよく出かけていたけど、今はときどきミコやみーちゃんと遊びに行くくらいで暇なことが多かった。


そんなわけで翌週の日曜日
ボクと久美ちゃんは揃ってワタル家のお引越しのお手伝いへと向かった。
彼の新しい家はボクらの隣の駅にある白い清潔そうなマンションだった。

久美ちゃんはあれから3回ほどワタルと会ったらしい。
聞いた話では、ワタルはあれからアルバイトを始めて、そのお金で東京まで来ていたとか。
あのときのスタイルを想像するとカツアゲしたお金とか思いそうだけど、彼はじつはそういうことは大嫌いらしい。

そして久しぶりに会ったワタルの姿にボクは目を丸くした。
「エ?ワタル…君?」

あのときまっキンキンだったリーゼントの髪の毛は小学校時代と同じ真っ黒の五分刈りに。
そして白いズボンと虎の刺繍の入った思いっきり怪しげなジャンパーは、ありきたりのジーンズと紺のセーターに変わっていた。

「カレって変わったでしょ?(笑)」
久美ちゃんがそう言うと
ワタルはって少し照れたように
「ワハハハーーーー。」
と笑った。


しばらく3人で話をしているとそこに2台の引越しトラックがやってくる。
その中に分乗して降りてきたのは、ワタルのお父さんとお母さんそしてあのときはまだ小1だった妹さんだった。
彼女も今では中2。
身長はボクや久美ちゃんとそう変わらないほど伸びていた。
ワタルは男だけどけっこう身長が低い方だけど、妹さんは背の高いお父さん似なのかもしれない。
それでも彼女は久しぶりに一緒に暮らすお母さんにぺたっとくっつくようにしていた。

あらかじめワタルからボクのことを聞いていたおじさんたちだったけど、6年ぶりに会ったボクの姿にはやっぱり驚いていたようだった。
それでもおばさんは
「ワタルから聞いたときちょっと信じられなかったけど、でもこうやって会うと、ああ、やっぱりねーって思ったわ。」
とあの頃の優しい笑顔で言った。
「なんかね、アナタってあの頃も他の男友達と雰囲気が違ってたのヨ。アタシや久美ちゃんと同じ空気みたいのがアナタの周りを包んでてね。不思議な感じの子だなって思ってたけど、今になって納得できたわ」

そしておばさんはワタルの方をチラッと見ると
「ね、ワタル。今度は2対1、ウウン。アタシと千歌を加えて4人ね。今度はアンタが女のコたちに従う番ヨッ!」
ちょっと意地悪そうな顔でおばさんはそう言ってクスクスと笑い出す。

それを見ておじさんと千歌ちゃんもケラケラと笑う。
ボクはワタルの家がもうあの頃の温かさを取り戻つつあるのを感じた。


「さあ、それじゃそろそろ始めようか。」
引越し業者さんとおじさんそしてワタルが重い荷物を持って順番に家の中に運び込んでいき、おばさんと千歌ちゃん、ボクと久美ちゃんの4人でそれを荷解きしてお皿などを棚の中に配置していく。

業者さんたちはさすが引越しのプロ
あれだけあった大量の荷物は午前中でそのほとんどが部屋の中に運び込まれていた。
そしてあとは各部屋へのタンスや本棚、机などの配置だけとなり、1時間のお昼休憩をとることになった。

すると少し前からおばさんがお昼ご飯の準備をしていたキッチンからカレーのいい匂いが漂ってくる。
「あ、あのときのカレーの匂いだ!」
そう思ってボクと久美ちゃんはお互いに顔を見合わせニコッとした。

「さあ、久美ちゃんも凛ちゃんもテーブルに座って。」
「はぁーい。」
ボクと久美ちゃんが小学生の頃ワタルの家に遊びに行くと、よくおばさんはお昼ご飯にカレーをご馳走してくれた。

「おいしい~~~~~!」
ふわ~っと甘い香りのするおばさんのカレーはボクも久美ちゃんも大好きだった。
ワタルはガツガツとカレーをほおばりそして3杯目のおかわりも平らげてしまう。
「ワタル君、もっと味わって食べれば?せっかくのおばさんのカレーなのに(笑)」
ボクが笑いながらそう言うと
「そやかて、これだけ働けばお腹ペコペコやもん。」
そしてフッと久美ちゃんを見ると、そんなワタルの姿を彼女は優しそうな目で見ている。


午後になりそれぞれの部屋に荷物を運び終えると、おじさんとおばさんは
「さあ、あとは私たちでやるから。3人は部屋でゆっくり話でもしてきなさい。」
そう言ってジュースとお菓子を用意してくれた。

ボクたちはワタルの部屋に腰を下ろし周りを見回す。
男のコの部屋だからわりと地味なカーテンで、家具も机にベッド、そして本棚が1つとこじんまりしている。
ただ10階の窓から見える景色は街中のほとんどを見渡せる気持ちのいいものだった。

「わぁー、いい風。」
ボクたちはベランダから眼下に広がる街を見渡した。
ボクの家も久美ちゃんの家も一戸建てだからこんな高い場所から眺められる景色はない。

ボクたちがそうしている間にワタルは自分の部屋に運び込まれたダンボールを開いてその中にある本などを棚に並べていった。

すると
「アレ!」
そう言ってワタルの手が止まる。

「どうしたの?」
久美ちゃんがワタルに尋ねた。
「あ、いや。懐かしいアルバム見つけたんや。ボクが小3くらいのときのやつみたいやな。」

ボクたちとワタルが遊ぶようになったのは小4のとき同じクラスになってから。
それまでのワタルとはぜんぜん付き合いがなかった。

「へぇー、見せて。」
そう言ってボクと久美ちゃんはワタルの横に集まる。
古い表紙のアルバムを開くとそこには何枚もの写真が貼られていて、その写真に写っている顔の何人かはボクも知っているヤツラだった。
「ワタルって安田とこの頃同じクラスだったんだ?」
ボクが安田とワタルが肩を並べてふざけ合っている写真を眺めて言った。
「ああ、安田とは1年生からずっと同じクラスやったからな。この頃はよく遊んどったよ。」
「へぇー。フフフ、安田も子供っぽい顔(笑)」
ボクはそのアルバムを手に取りペラペラと一枚ずつめくっていった。

しかしそのときふっとボクの手が止まる。
それはどこかの病院の病室のようだ。
その写真の中には10人くらいの男のコたちがベッドに座っているひとりの男のコを囲んで写っている。
一人ずつの顔は小さくてわかりづらいけどボクはその写真をじっと見つめた。
そしてボクの手は小さく震える。

「あ、ああ…。」
「そうしたの?凛」
ボクのその様子に久美ちゃんが尋ねて来た。

「こ、この写真…。ねぇ、ワタル君。この写真って?」
「ああ、それは小3のとき同じクラスのヤツの見舞いに男友達みんなで行ったときのや。ほれ、その真ん中でベッドに座ってるヤツや。」
「あ、あの、今その子は?」

「あ、ウン。小3の終わりくらいやったかな。死んでしもうたんや。」
「ねぇ、凛。この写真がどうしたのヨ?」
そう言って久美ちゃんはボクの見つめている写真に目をやる。

「久美…ちゃん。ほら、この子。この子見て?」
そう言ってボクはそのベッドに座っているパジャマ姿の男のコを指差した。

久美ちゃんは顔を近づけて小さく写る顔をしばらく見つめると
「アアアッッ!!」
と驚きの声をあげる。

「間違いない。これってワタル君だヨ。」
久美ちゃんは漏らすような声でそう呟いた。

「ワタルって?あの急にいなくなったワタルのことかいな?」
「そう。アタシと凛が中3のとき再会したはずのワタル君。」
「でも、こいつってボクと同じ石川って名前やないで。たしか鮎川って名前やったもん。」
「鮎川? 鮎川…なんていうの?下の名前。」
ボクがそう言うとワタルは別のダンボールの中から古くなったアドレス帳を取り出してめくり始めた。

そして
「エット、鮎川 渡(わたる)。アレ、ボクと下の名前の読みが同じやな。でも、コイツのワタルは道路を渡るのワタルやで?」
「やっぱり!!」
「じゃあ…アタシと凛が会ったワタル君は幽霊?」

ボクたちは考えた。
「でもさ、幽霊って学校に入れる? それになんでわざわざこっちのワタル君の記憶を吸い取ってなりすます必要があるの?」
久美ちゃんはそこが不思議そうだった。
「そこがわからないんだよねぇ…。何か心残りがあったとかって感じじゃなさそうだったし。ねぇ、ワタル君、その鮎川君って男のコってどういう感じの子だったの?」
ボクは写真を見ながらワタルBにそう尋ねた。
「ああ、ヤツは元々身体が弱かったんや。ボクは3年生のとき同じクラスになったんやけどな、学校も来たり来なかったりでな。それでも明るくってすごく感じがええヤツでな、それと不思議な感じやったのは、なんっていうか、アイツってボクらよりすごく大人っぽいところがあったんや。」
「大人っぽい感じ?」
「ウン。そうや。身長もわりと高かったしな。それに考え方とか、友達への接し方とか、一緒に話をしてるとまるで兄貴と話しているような気分になったり」

そのとき
久美ちゃんが何かに気づいたように
「あああっっ!!」
と大きな声を上げた。
「な、なに?久美ちゃん、どうしたの?」
その声に驚いたボクが久美ちゃんに尋ねると
「思い出したぁーーー!あの子ヨ!凛、あの子!」
興奮したように久美ちゃんはそう続けた。

「あの子?どの子?」
「ほらっ!アタシたちが小3の頃、赤いブランコの公園で遊んでたときに時々一緒に遊んでた男のコがいたじゃん!」
「エ?エエッ!あ、あの子?」
「そうだヨ。たしか同じ小学校だけど別のクラスの男のコで鮎川君って名前だった気がする。したの名前までは知らなかったけど。」
久美ちゃんにそう言われて昔の記憶をたどっていくと、たしかにそういう男のコはいた。
最初はぜんぜん知らない子で、たまたま公園で一緒にいて、それでボクたちはいつの間にか一緒に遊ぶようになった。
それでも1,2日くらい遊ぶとフッと1週間くらいいなくなって、また忘れた頃現れたり。
わりと身長が高くて、痩せてひょろっとした感じで、そして髪の毛がサラッとした優しそうな笑顔の男のコ。

「ああっ!そ、そう言われてみれば…。」
「ーーーでしょ?中3のときに会ったワタル君と特徴がそっくりじゃない?」
「ウ、ウン。たしかに…。」
「それじゃ、あの鮎川が死んだあと幽霊になってまた2人の前に現れたってわけか?」
「でも、あのとき会った彼って中3だったよね?幽霊って成長するもんなの?」
「わかんない…わかんないけど…。」

そう
たしかにあのときカレはたしかに中3の姿だった
そしてカレはボクたちに何も悪いことをしていない
それどころか、カレはボクにたくさんの優しさと愛をくれた
ボクは、ボクの心はカレのおかげでホントに女のコになれた気がするんだ

でも、とにかくこれで『あのワタル』の正体がはっきりした。
カレは石川 渉ではなく鮎川 渡というボクと久美ちゃんにとってもうひとりの幼馴染の少年だったのだ。

ワタルAからの帰り道
久美ちゃんはボクに
「ワタルAって変わったでしょ?」
と少し照れる聞いてきた。

「ウン。変わったねぇ。変わったっていうより…あの頃のアイツに戻ったって感じなのかな。」
「そうね。あの頃のカレに戻ったんだよね。あのね、アタシあれからカレといろんなことを話したんだ。いろんなことを話して、あの頃気がつかなかったカレに気づいたっていうか。ホントはマジメで優しくって、そしてアタシをいつも見守ってくれていたワタル君に気がついたんだぁー。」
そう言ってワタルのことを話す久美ちゃんの顔はどこかすごく楽しそうな感じだった。

「カレね、機械関係に興味があるらしいのヨ。それで、これから新しい高校で一生懸命勉強して整備士の資格を取りたいって。」
「へぇー、スゴイね。そっかぁ、アイツってそういうこともちゃんと考えてるんだなぁ。アタシなんか将来のことまだ何も考えてないもん。」
「アハハ、アタシもだヨ。あ、そういえばさ、鮎川君のことでさっき思い出したことがひとつあったの。」
「エ、なに?」
「あのときは、アタシ、彼が言い間違えただけだって思ってたんだけどね。今からするとすごく不思議な気がして…。」
「どんなこと?」
「あのね、あの公園でアタシたちが鮎川君と最後に遊んだときだったんだけどね。アンタがおトイレに行ってたとき、彼がアタシにこう言ったの。
「久美ちゃん、あのコとずっと仲良くしてやってね」って。そのときはあんまり気にしなかったんだけど、これってちょっと言い方がおかしくない?」
「そうだね。アタシと久美ちゃんは幼稚園からの幼馴染なんだし、それをときどき遊んでたカレがそういうことを言うのもヘンな気がする。」
「まあ、それもそうだよね。でもさ、それだけじゃなくって、彼はなんでアンタのことを『アイツ』じゃなくて『あのコ』って表現したんだろうなって思わない?アタシは女としての生活しかしてこなかったからわからないけど、男同士でそういう表現っていうのもありなのかなぁ?」

言われてみれば確かにそうだ
いくらまだ幼い頃でも『あのコ』という表現は男が男を指すときには普通使わない
女のコが男のコを指すときはときどき使うが、男同士ではありえない表現だと思う
まして小3くらいになれば男女もそれぞれの性の自覚が出てくる
男のコが使うとすれば、それを指す相手が女のコのときだろう

「ね、凛もやっぱりヘンだって思うでしょ?」
「ウン。たしかに何か違和感んじるよね。」
「そうなのヨ。違和感なのヨ。でもさ、今になってこう考えるとすごくスッキリしない?」
「どんな?」
「鮎川君が凛のことを最初から女のコだってわかってた?」
「エエッ!そんなっ!」
「そんなはずないけど、でもさ、そう考えると『あのコ』の意味がスッキリするじゃない?」

「たしかに…。」
言われてみるとそうだ
そういえば、アイツはいつもボクに男同士によくあるような乱暴な言葉使いをしたことはなかった
それはアイツの性格みたいなもんだって思ってたけど、学校の中でときどき見かけるアイツは安田とかには普通に男同士の話し方をしていた

「それとさ、これも今から思うとなんだけどさ。ワタルAがアタシのことを見守ってくれてたように、彼もどこかアンタのことを見守っていたような感じがするんだよね。」
ウーーーン……。
なんか頭がこんがらがってくる
カレはボクに何かを感じていたんだろうか?
それともボクの何かを知っていたんだろうか?
そしてその答えはその日の夜に知ることになるのだった。


昼間の引越しの手伝いでの疲れもあってボクはベッドの中でぐっすりと眠りについていた。
するとボクの夢の中に高校生の頃のワタルの姿が現れる。
ボクとワタルは宮益坂から渋谷駅までの道を肩を並べて歩いていた。
それは、ボクが途中のお店のウインドウにかかっている洋服を眺めながらワタルに何かを話しかけている。
カレはそんなボクに優しく答えている姿だった。

そのとき
「あの服着ている凛ちゃんの姿、見たかったなぁー。」
そうカレの声がはっきりとボクの耳に聞こえた。

「だって、アナタはその前にいなくなっちゃったんじゃない…。」
ボクは夢の中でカレにそう言っている。
「スマンなぁ。でももう時間切れやったんや。」
「時間切れ?」
「そうや。ボクは凛ちゃんのために使える時間をすべて使い切ってしもうたんや。」
「わけわかんないヨッ! アナタはずっとアタシのそばにいてくれるって思ってたのに。」
ボクは夢の中でそう叫んでカレの胸の中で涙を流している。
「ゴメンな…。」
ワタルはそう呟いてボクの身体を抱きしめた。


その瞬間ボクはハッと目が覚める。
そしてぼんやりした頭で目をこすり机の方を見たボクはその椅子の上にぼやっとした光が浮いていることに気づいた。
そしてその光は次第に人の形を帯びてくる。

「あ、ああ……。」
小刻みに震えるボクの身体
その光の瞬きの最終形は思うことかあのワタルだった。

「ワ、ワタル…君」
「凛ちゃん、久しぶりやな。」
「ア、アナタは…幽霊だったの?」
「いや、ちょっと違うな。ボクは『心』や。」
「心?」
「そうや。ある時間だけ実態を与えられた心。」

「バカッ!アナタはアタシとの約束を破ってどこ行ってたのヨッ!」
「ああ、スマンなぁ。ボクには時間がなかったんや。あれが最後のお別れのつもりやったんけど、ちょっと予想外のことが起きた。それを知らせに戻ってきたっていうわけや。」
「予想外のこと?それはなんなの?」
「ああ、それはあとでゆっくり説明する。スマンがこれからあの赤いブランコの公園に来てくれんか?」
「今から?ここでじゃダメなの?」

「ボクの原点はあの場所にある。もう時間が切れてしまっとるボクはあそこを離れて長い時間この実態を保てんのや。」
「わかった。行くわ。」
そう言うとボクはベッドから起き上がり、そしてクローゼットの中から薄いブルーのカットソーのシャツとデニムのスカートを取り出すとそれに着替えようとする
しかしフッと横を見るとワタルがニコニコとした笑顔でそれを眺めていることに気づく。

「コラッ!女のコの着替えをそんなまじまじ見てないでヨッ!エッチッ!」
「ワハハ!スマン、スマン。つい見入ってしもたわ(笑)」
そう言って笑うワタルはあのときのカレだった。

「じゃあ、公園で、待っとるから。」
そう言ってワタルはスゥーっと消えてしまった。

着替え終えたボクはこっそりと階段を下り、そして慎重に音を立てないように玄関のドアを開けて外に出た。

時間は夜中の2時を回ったところ。
道路には誰も歩いておらず、街灯の明かりだけが夜道を照らしている。


ボクのウチから歩いて5分ほどのところにある赤いブランコの小さな公園。
ボクはその場所で鮎川 渡君とあそび、そしてワタルと別れた。
それがまさかカレにとって原点の場所であるとは思わなかった。

しかし公園につくと木立に囲まれ道路から遮断されている公園の中には2人ほどの人影が見える。
もうこんな時間なのに
そう思って公園を照らす小さな街灯で目を凝らしてみると、それはジーンズ姿の久美ちゃんとワタルAの2人だった。

「く、久美ちゃん!どうしたの?こんなところで。」
2人はボクに気づくと近寄ってきた。
「凛、アンタもワタルBに呼ばれたんでしょ?」
「ウン。でも2人も?」
「そうヨ。彼が夢に出てきて、ここに来てくれって。まさかって思ったんだけど、とりあえず行ってみようって思って。そしたらアタシが公園に入るともうワタル君も来ててね。」

するとそのとき
2つある赤いブランコのうち右側の一つの上に小さな光が現れて、そして小さく揺れ始めた
キィー…キィー…
そしてその揺れは次第に大きな揺れになっていく

キィー…キィー…
しばらくするとその光はさっきと同じように人の姿を帯びてきて、それはワタルの姿へと変わっていった。
「あ、あああ…。」
さっきのボクと同じように久美ちゃんが言葉にならない声を出す。

「オ、オマエ、あ、鮎川かっ!?」
ワタルAが驚いたように叫んだ。
「ああ。石川、久しぶりやな。久美ちゃんも。」
「オマエ、なんで今までオレに成りすましてたんや?それにみんなの記憶を消して突然いなくなってーーー。」

「ああ、スマン。1年半の間だけオマエの代わりをしとったことは謝る。ただ今は理由は聞かんでくれ。凛ちゃんだけじゃなく久美ちゃんの記憶も残したんは、2人がボクにとって唯一の幼馴染やったからや。」
「そうか。そんなら男同士や。オマエの気持ちを考えてそれは聞かん。でも、オレたちをここに読んだ理由はなんや?」
「まず…、さっき凛ちゃんにはちょっと説明したけど、ボクは幽霊やない、『心』や。そんでボクはホンの少しだけど未来ゆうもんを見ることができるんや。そしてこれから起こるだろうあることを知った。凛ちゃん、もうすぐワタルがキミの近くに現れる。」

「ワタル君が現れるって、それはアナタが帰って来るっていうことなの?」
「いや、違う。それはボクの姿をしとるけど全くの別人や。ボクのいる世界でな、ある悪しき心がボクの姿を盗んでキミのそばに現れるんや。」
「悪しき心?」
「そうや。凛ちゃんはどうかその悪しき心に惑わされないようにしてほしいんや。ただしあまり刺激しちゃいかん。そうすれば危険なことになるかもしれんから。
その悪しき心もそれほど長い時間はその実態を持つことはできんから。1ヶ月も経てば消えてしまうやろ。時間切れになって自然にいなくなるまで適当にいなせばええ。
そして久美ちゃんと石川に頼みがあるんや。
もしも、凛ちゃんがどうしても危険になったとき、どうか2人で彼女を助けてやって欲しいんや。」

ワタルBの話を聞きながらようやく落ち着きを取り戻してきた久美ちゃんは彼に答えた。
「それはわかったわ。もし何かあったときはアタシたちが凛の力になる。ただ、ひとつ聞きたいことがあるの。」

「ウン、なにやろ?」
「アナタは凛の何なの?」
「大切な友達や。久美ちゃんもやよ。病弱なボクと遊んでくれた大切な幼馴染。」
「それじゃはっきり聞くわ。アナタは小3のアタシたちと遊んでたときから凛がじつは女のコだってことを知ってたんじゃない?」
「………。」

「どうなの?」
「知らんかったヨ。」
「ホントに?」
「ああ。」

するとそれを横で聞いていたワタルAは何かを感じたのだろう。
「久美ちゃん、今は鮎川の言葉を信じてやろうや。なあ、鮎川。また会えるときは来るんか?」
「すまんな、石川。もう会えることはない。これでホントのお別れや。」
ボクはワタルBのその言葉に身体が震えた。
「もう…もう、アナタと会えないの?どうして?」

「凛ちゃん。ボクの力ももうそろそろ限界なんや。この公園の中でさえ10分も実体を作るのがやっとや。」
「いやだっ!行っちゃいやだっっ!!」
ボクの目から涙が溢れるようにこぼれてくる。
「辛いこと言わんといてくれ。」
「だったらアタシもアナタと一緒に行く!」
ボクはカレに向かってそう叫んだ。

するとワタルBは
「アホなこというなっっ!!!」
今までカレがボクに見せたことがないほど怖い顔でボクを怒鳴りつけた。

「凛ちゃん、ええか?キミは現実の世界に生きてるんや。キミの周りにはキミのことを愛してくれるお父さんやお母さん、久美ちゃんや、ミコちゃんやみーちゃんたち友達がおる。そして…いつかキミが出会う一生をかけて本当に愛する人がな。ボクのことを想ってくれる気持ちがあるなら、これからのキミの人生を大切にしてくれ。」

ボクはその場にしゃがんで泣き崩れてしまった。
久美ちゃんはそんなボクのそばにきてボクの身体を抱いてくれている。

「石川」
「なんや?」
「久美ちゃんとめぐり逢えてよかったな。彼女はホンマにええ娘や。大切にせえよ。オマエの一生をかけて幸せにしてやってくれや。」
「鮎川……。」

「それじゃ、そろそろ行くわ。3人ともボクの大切な友達や。」
そう言うとワタルBの姿は次第にぼんやりと薄れていき
そして消えていった。

キィ…、キィ…
カレが座っていたブランコの揺れが次第に小さくなって
そして止まった

ワタルAは地面にしゃがんで泣き続けるボクの方を見て静かに言った。
「凛ちゃん、鮎川のこと、ずっと忘れんようにしようや。アイツは確かにいて、そしてキミを愛したんやから。」


ようやく気持を落ち着けたボクたちがフッと公園の時計台を見ると時間はもう2時半を回っていた。
「さあ、帰ろうや。女のコがこんな真夜中におったら危険やからな。2人ともボクが家の近くまで送ってくわ。」
ワタルがそう言ってボクらは歩き始める。
そして公園を出るとき最後にもう一度だけカレが座っていたあの赤いブランコを振り返った。

ワタル君、アタシが初めて愛した人、ワタル君
いまひとつのことを心の中で決めた
もうボクじゃない、アタシは女なんだってことを

第21話 bye bye my dearling

あれから少しだけときが流れた。

アタシは今でも頭が少しボーっとしている。
学校に行ってミコやみーちゃんと話をしていても何となく気のないような返事ばかり。
2人はしきりに心配してくれているけど、アタシは
「ゴメンね。何でもないから。」
と曖昧な返事をするばかりだった。

そんなとき
赤いブランコの公園でワタルとの最後のお別れをしてから1ヶ月ほど経った、7月のはじめ
ある日曜日の夕方、久美ちゃんから電話があった。
「今ワタル君も一緒なんだ。ちょっと公園まで出てこれない?」
久美ちゃんは落ち込んでいるアタシを気遣うように優しい声でそう言った。

正直言えば、今は何もする気がない、少し面倒くさい気持ちがあった。
それでも久美ちゃんの気持を思えばそうやって声をかけてくれることはとてもありがたかった。

「ウン。いいヨ。」
そう返事をすると夕飯前だから遅くならないうようにという母親に
「わかってる。」
と言ってジーンズにカットソーという洒落っ気のない格好で外に出た。


もうすぐ夏になろうとする風は少し生暖かい感じがする。
そういえば、ワタルがいなくなった夏の終りの夕方もこんな感じだったな。
公園を出たところで振り返ったアタシはカレに
「また学校で会おうね。」
って言った。
しかしそこにはもうカレの姿はなかった。
あとすこしすればあれから1年だ。

公園に着くとワタルが最後に実体を見せたとき座っていた赤いブランコのところには、もう久美ちゃんとワタルAがいて、アタシの姿を見つけると
久美ちゃんは
「やっほー!凛、こっち、こっち。」
と手を振っている。
彼女の隣にはワタルAが優しそうな笑顔で立っていた。
こうやって見ると、この2人ってホントいい雰囲気になっている。

「お待たせー。」
そう言ってアタシはニコッと微笑んで彼らの方に歩いていくけど、長い付き合いの久美ちゃんはまだ元気のなアタシの雰囲気を敏感に感じている様子だった。
「凛さ、まだチョット元気ないでしょ?」
「エヘヘ、ちょっとね。でも、もう少ししたらきっとまた元気になるから。」

「この前ね、ミコから電話があったの。「凛の様子がヘンみたいだけど、何かあったの?」って。」
「ミコが…。」
「あの娘、アンタのこと心配なんだヨ。あの娘にとってアンタはホントの親友だから。アンタにとってもそうだし。」
「ウン。そうだね。ミコにも心配かけちゃって、アタシってダメだな…。」
「そう思ったなら元気だしな? …といってもなんに切っ掛けもないのに元気出せって言ったって無理か。」

「アタシさ、カレがいなくなって、写真も何もなくなっちゃって、カレを思い出せるものが何もないんだ。今は自分の頭の中にカレの笑顔がまだあるけど、もしかしてそのうちその記憶まで段々薄らいでいっちゃのかな…って。」
すると久美ちゃんは
「凛、ちょっとこっちにおいで」
そう言ってボクの手を引っ張って赤いブランコの前に連れて行った。

「アンタの言うように、彼の姿はいつかおぼろいでいっちゃうかもしれないけど、彼がアンタに残していってくれた優しさは絶対に忘れることはないんだヨ。ココを見て?」
そう言って久美ちゃんはワタルが座っていた左側のブランコを指差した。

「これがどうしたの?」
アタシは少し不思議そうな顔をする。

「まあ御覧なさい。」
そう言うと久美ちゃんは赤いペンキの塗られた木で作られているその座席を裏返した。

「アアアアッッ!!」

そこにはこう書かれていた。
「キミの未来がきっとすてきなものであることを祈ってる To R from W」

「彼が最後に姿を消そうとするとき、アンタずっとしゃがみこんで泣いてたでしょ。 そのときワタル君が彼に言ってくれたの。「鮎川、何かひとつだけでいいから凛ちゃんに残してやってくれないか」って。それがこれ。」
「エ、ワタル君が?」
アタシはそう言って驚いたように久美ちゃんの横に立つワタル君を見た。

彼は少し照れくさそうにして言った。
「鮎川はあのときボクに言ったんや。「姿を残してあげることはできないけど、自分の気持だけ彼女に残したい。1ヶ月したらブランコの裏を見せてやってくれ」ってな」

「そ、そうなんだ…。」
「なあ、凛ちゃん。これは男同士の気持やから、もう今のキミにはようわからんかもしれん。アイツが姿を残さなかったのはアイツのキミに対する優しさなんやで。それをわかてやってくれや。」
「ウン、そうだね。アタシがカレの気持を大切にしなきゃね」
そう言ってカレがブランコの裏に彫った字を指でゆっくりなぞった。

それからアタシは自分にもっと強くなろうって決心した。
ミコやみーちゃんには
「凛、ちょっとだけ雰囲気変わったね。」
なんて言われたりした。

「エ、どんなふうに?」
「ウーン、なんていうのかな…すこし凛っていう名前の意味に近くなったっていうのかな。」
ミコが少し考えながらそう言うと
「あ、そうそうアタシもそう思った。」
とみーちゃんも相槌を打って同意をする。
「じゃあ、アタシって今までは名前と逆の感じだったってこと?」
「そうねぇ。前は『甘えんぼの凛ちゃん』って感じかな(笑)」
ミコがそう言ってクスクスと笑った。
「ひどーーーい!(笑)」
「アハハハ。」

ミコやみーちゃんはこんなにアタシのこと心配してくれたんだ。
こんなふうに笑い合える友達ってすごくありがたいって思う。
ふたたび優しい時間がアタシの周りを包み、こうして季節は穏やかに過ぎていった。


しかし
冬休みが終わった初日の登校日
とうとうその日がやってきたのだ。

それはワタルが最後にアタシに告げたカレと同じ姿をした『悪しき心』の出現。
その彼は何の前触れもなく突然姿を現す。

その日教室に入ると何とない違和感を感じる。
誰も何も変わった様子はないのに何かが違うような気がしてしょうがなかった。

そしてフッと窓の方を見たとき、アタシはその違和感に気がついた。
アレ? 窓際の男子の列が少し長いような……。

1,2,3……
前から順番に数えてみると休み前より1つ席が多い。

その列にはすでにほとんどの男子が座っていて話をしている。
しかしその真ん中辺りにぽっかりと空いたひとつの席
その席の前には松原君、後ろには鬼頭君が座っている。
でも、この2人の間には休み前には確か空いた席はなかったはず

「ねぇ、エリちゃん。もしかして転校生とか来るの?席がひとつ多いけど。」
アタシは近くにいるエリちゃんにそう話しかけた。
「エ?そんな話は聞いてないけど。どこの席ヨ?」
「ほら、あそこの空いてるとこ。」
そう言ってアタシはその席を指差した。

するとエリちゃんは
「やだなぁー、凛。アンタ、自分の彼氏の座ってる席忘れちゃったの?」
そう言ってエリちゃんはケラケラと笑い出した。
「アタシの彼氏?」
「だって、あそこ石川君の席じゃん。」
「エエエッッ!」

そうか……
とうとう姿を現したんだ
あのときワタルが言ってたのがホントに起こったんだ。

アタシは胸が急に高まってきた。
ドキドキする心をどうにも抑えることができない。

それはその人がどういうふうにアタシに接しようとするのかというすこし怖い気持ちと、そのと逆にたとえ別人格でもワタルの姿をまた見ることができるという気持ちの葛藤だった。
そしてそのときは来た。

ガラッ
教室のドアが開いて入って来たのはまさにあのときアタシの前から姿を消したワタルそのものだった。

「ひさしぶりやなー。元気やったか?」
彼は自分の席に向かう途中すれ違う友達にそう声をかけている。
そして彼は席にカバンを置くと、いよいよアタシの方へと歩いてきた。

「やぁ、凛ちゃん。おはよーさん。」
平然とした顔で彼はアタシにそう話しかけてきた。

「お、おは…よぉ。」

その姿はワタルそのものだった
彼の話し方も、そしてその笑顔も

アタシがマジマジと彼の顔を見ると

「ん?どないしたん?」
彼は不思議そうな顔をして、そしてニコッと微笑む。

「悪しき心を刺激しちゃあかん。ヤツの力はそれほど長い時間持たないはずやからさりげなくいなせばええんやから。」
あのときのワタルの言葉を思い出したアタシは引きつりそうになる顔を必死に平然に装った。

「あ、あのさ、休み中どっか行ったの?」
「いやー、ハッチやグッチとパチンコの新装開店めぐりしてな。15万円ももうかってもーたわ。」

ハッチやグッチって……
この人、そんな情報ももう持ってるんだ
これは油断できないぞ

「ア、アハハ。す、すごいじゃない。そんなに儲かったんだ。」
「そうや。凛ちゃん、今日何か奢ったろか?」
エ、この人2人でどっか行くってこと?
「あ、エット、すごく嬉しいんだけど、ゴメン、アタシ今日大阪からお婆ちゃんが出てくるから早く家に帰らなくちゃいけないんだ。」
「なーんや。残念。」
「ウン!すごく残念!また今度誘って?」
ああ、冷や汗が出てきそう
アタシとワタルのそういう会話をそばで聞いてて、ミコは何も言おうとしないが、みーちゃんは不思議そうな顔をした。

ワタルが離れるとみーちゃんは
「ねぇ、何かヘンにぎこちないっていうか、アンタらうまくいってるの?」
と囁いた。

「エ、ウ、ウン。ぜんぜん。うまくいってるって。」
少しどもるようにアタシはそう返事をした。

その日
アタシは家に帰ると夕方さっそく久美ちゃんに電話をした。

「エエッ!やっぱり現れちゃったの?ニセワタルが。それでどんな感じだったの?」
電話の向こうの久美ちゃんはけっこう驚いた様子で興奮気味に話をしている。

「そうなの。それがさ、もうぜんぜん見分けが付かないような。ホントにカレが戻ってきたみたいでさ。でもねどこかが違うのヨ。」
「違うってどう違うの?」
「ウーン、何ていうかなぁ。うまく説明できないけど、優しい感じの笑顔なんだけど、一緒にいて温かい気分になれないっていうのかな。」
「あー、そういうのってあるよねぇ。ホントに好きになった相手だけに感じる女のコの直感みたいな。」

「そうかもしれない。そういうのが感じられないの。だからやっぱり別人なんだなって思っちゃう。」
「でもさ、それじゃヘンな言い方だけど、良かったじゃん。」
「良かったって?」
「ウン。もしさ、その人がそういうところまで彼と一緒なら逆に辛いでしょ?同じなのに別人って。それでもしその人とワタル君が完全に重なっちゃって、アンタがその人のこと好きになっちゃったらまずいしさ。」

「アタシはもう……。」
「もうなにヨ? まさかもうずっと男の人のことは好きになりません、って言うんじゃないでしょ?」
「わかんない…。だって、あのワタル君だから好きになったんだし。」
「ウン、そうだね。でも、もし凛がいつかまた誰かを好きになったとき、その人に対する気持をワタル君のことを理由にして閉じちゃうとしたら、きっと一番悲しむのはワタル君だと思うヨ。」
「ウン。もしいつかそういう人がアタシにも現れたとしたら…ウン…そうだね。」

こうしてアタシはそれからしばらくの間奇妙な高校生活を過すことになる。


ウチの学校では2年生の終り近くに修学旅行に行く。
冬休みが終わるとみんなその話題で持ちきりになるのだけど、せっかくの修学旅行、それまでにニセワタルがいなくなってくれればって思ってたんだけど、彼の存在は予想以上に長く続いていた。

ワタルは彼のことを『悪しき心』とだけ言っていた。
アタシは彼がどういう悪いことをした人なのか聞いていない。

それまでの彼は、あの頃のワタルとまったく変わらないように振る舞い友達とも仲良さそうに話をしている。
そんな彼の姿を見ていると、何が悪しきことなのか、もしかしたらこの人はホントのワタルなんじゃないかとさえ思ってしまうこともあった。

それでも
「奴を刺激したらいかんぞ!」
ワタルが残した残したこの言葉通りアタシは努めて彼と普通に接するように気をつけている。
そしてとうとう修学旅行まで彼の存在は続いてしまったのだった。

九州と長崎へ5泊6日の旅。
彼もとても楽しそうではしゃいでいる。

「凛ちゃん、一緒に写真撮ろうや!」
「ハイハイ。」
ハッチが構えたカメラの前でアタシとワタルは2人並んで仲良さそうにパチリ

ただ不思議と彼は口では相変わらず軽口であの頃のワタルとそっくりなのに、態度ではアタシに限らず女のコというものに対してどこか臆病で遠慮しているような雰囲気を感じた。
これは『本物のワタル』と明らかな違いをみつけたところで、アタシは彼のそういうところに奇妙な可笑しさすら感じてしまった。
ワタルが言った『危険』という意味はわからないけど、今のところ危険というよりむしろ安全そのものという印象さえ受ける。
たとえばアタシと一緒に歩いていて偶然手が触れると、彼はビクッとして自分の手を引っ込めようとする。

アタシだけじゃない。
ミコやみーちゃんと話をしているときにも、彼の優しそうな笑みはあのときと同じようだったけど、よく観察すると彼の目は相手の女のコをほとんど見ていない。
そのときの彼の顔は照れているというよりも、明らかに女のコというものに慣れていない様な感じだったのだ。

普段の学校生活の中での彼はワタルのことを完全に知り尽くし、それに徹しているように見えていたけど、意外なところでの違いに正直このニセワタルという人物に対しほんの少しだけど興味を持たせられた。
そこでアタシはついあのときのワタルの言葉を忘れて、このニセワタルのことを少しだけからかってやりたくなった。
それはこのニセワタルの正体に興味があったからでもあった。


それは修学旅行2日目のことだった。

アタシたちの今日の日程は長崎の街
それぞれがめいめいのグループを組んで名物の坂を登り名所を見学していく。
彼はいつものコンビ、グッチとハッチとともにペチャクチャとしゃべりながら歩いていた。

ミコやみーちゃんと3人で歩いていたアタシは
「ゴメン、ちょっとワタル君のとこ行ってくる。」
そう言って彼女たちと別れた。

「あ、ちょっと。凛?」
そのときフッとミコが声をかけたが、その声に振り向いたアタシにミコはすぐに
「ウウン、なんでもない。じゃあ後で大浦天主堂の前で合流しよう?」
そう言って小さく手を振った。

「ウン、オッケー!」
アタシはそう言うと足を早め少し前を歩くニセワタルたちの方に向かっていく。

アタシは彼らを見つけるとタッタッタっと駆け足で彼らの前に出る。
そして
「やっほー!」と声をかけた。

「よぉ、凛ちゃん。」
ワタルはニコッと微笑んで返事をする。

「オット、ワタル。彼女の登場か。それじゃオレら先に歩いてるから。」
グッチとハッチは気を利かせてくれるようにそう言ってワタルを置いて歩いて行った。

「どないしたん?ミコちゃんたちと一緒に行動してる思ったけど。」
ワタルは足をアタシの歩くスピードに合わせながらそう尋ねた。

「だって、せっかくの修学旅行だもん!一緒の思い出も作りたいじゃない?」
「ハハ、そやな。ボクもいい思い出作りたいわ。」

アタシはワタルを装う彼に少し探りを入れようとした。
そこでまずはこう聞いてみた。
「ねぇ、覚えてる? アタシたちが初めて会ったときのこと。」

すると彼は
「どっちのことやろ?キミが哲だったときのことかな?それとも凛ちゃんになったときのことやろか?」

驚いた!
そんなことまで知ってるって。

「あのときは正直ホンマびっくりしたわ。男の幼馴染が帰ってきたら女のコに変わっとったからな。」
「でしょーね(笑)」
「ボクはそのとき哲がいなくなったような、少し寂しい気がして」

「『哲ちゃん』はいなくなってないんじゃない? ホラ、ここにいるじゃん。」
そう言ってアタシは少し意地悪そうな目をする。
するとワタルは少しマジメそうな顔をして言った。
「それはちゃうな。 哲はもうおらへんヨ。」
「だって、アタシが哲ちゃんだヨ。外見が女のコに変わったから?」
「哲はもうおらん。キミは凛ちゃんという女のコやないか。」
「エ……」

「ボクは『あのとき』に言ったやろ?下駄箱のところで怪我をしたボクの指にキミは自分でバンドエイドを貼ってくれた。ただバンドエイドをくれたんやなしに、自分で貼ってくれたやろ?そんな女のコをボクは好きになってしもうたんやって。」
知ってる……。
彼はアタシとワタルの思い出のすべてを知っているんだ。

自分でモーションを仕掛けておいて勝手かもしれないけど、そのときアタシはこのニセワタルに何か沸々と湧き上がるような不快感を感じた。
彼はワタルに成り切ることでアタシが喜ぶと思ってるのかもしれない。
たしかにワタルと同じ姿の彼を見ることであの頃を思い出せることに喜んでいる所はあったと思う。
でも、アタシにとってワタルとの2人だけの思い出は誰にも踏み込んでほしくないものだった。
それをいくら姿が似ていてもワタル以外の人に真似されたくないし、語ってもほしくもなかった。
だから、もしかしたらそのすべてを知っているニセワタルという存在にアタシは急に不快感を感じ、そしてそれまで彼が女のコに対して控え目なところに少し愛嬌を感じていた部分も嫌悪感に逆転してしまったのかもしれない。

「アナタは……。」
「ん、どないしたん?」
「アナタは、アタシとワタル君とのことをどこまで知ってるの?」
アタシは彼の目を厳しい顔で見る。
そしてアタシはとうとう言ってしまった。
すると、その言葉にニセワタルは少し考えるように黙ってしまう。

「どこまで知ってるのって聞いてるんだけど?」
「なあ、凛ちゃん。アイツ(ワタル)から聞いてると思うけど、ボクが現世でこの実体を保てるのはあと少しの間や。それまでボクにほんの少しの思い出を作らせてもらえんかな?」
そう言ったニセワタルの表情はどこか寂しげだった。

「アナタは…誰なの?」
そう尋ねるとニセワタルはフッと天を仰ぐように見てこう話し出した。

「ボクは、小さい頃から引っ込み思案な子供やった。友達もできず、まして女のコと話なんかしたこともなかった。デブっててワタルみたいにカッコよくなかったしな、女のコたちはむしろボクのことを気味悪がって避けられてたくらいや。それで中学時代は引きこもって学校にほとんど行かなくなってしもて、修学旅行も結局パスやった。
中学卒業した後も高校にも行かずそのまま引きこもりが続いてな。
それで23歳のときやった。もう何もかも嫌になって自分で自分の命を絶ってしもうたんや。」

「じ、自殺!?」
「そうや。自分の部屋で睡眠薬を大量に飲んでな。そして向こうの世界に行った。それでも、もし自分が高校に行ってたらきっと友達みたいなものもできて、修学旅行に行って、そんな生活をしてたのかもしれないって思ったらどうしても心残りやった。それでほんのちょっとの間だけワタルの姿を借りて思い出を作れればって思って…、悪いとは思いつつワタルに成りすましたんや。」
「そうなんだ…。辛い人生だったんだね。」
「まあな。そやから、今こうしてハッチやグッチたちと話してて、「ああ、友達ってこういうものやったんや」って思ってすごく楽しい。でも凛ちゃんたち女のコには正直言うと、どう接したらエエのかまだ慣れてへんのや(苦笑)」
「そんな感じしてた(笑)」

「そやけど、こうしてキミたちと話してみると女のコってあったかいいもんやなって思って、もしボクがワタルみたいにカッコよかったら好きな彼女とか作ってきっと楽しい人生やったんやないかって羨ましかったわ。」
「でもアタシはワタル君のカッコよさに惹かれたわけじゃないヨ。」
「ウン、わかっとる。アイツは優しそうやしな。なあ、凛ちゃん。お願いがあるんや。」
「お願い?」
「別に何か特別なことをしてほしいとは思わん。あと少し、あと3日だけ、キミたちの友達としてボクに接してくれんか?」
「アナタはあと3日で消えちゃうの?」

「そうや。修学旅行の最終日の夜12時。これがボクが現世で実体を持てるタイムリミットなんや。」
「………。」
「彼女としてのキミやなくてもええ。友達として、最後の思い出をボクに作らせてくれんか?」
「わかった。じゃあ、友達としてね?」
「ああ、それでええ。ワハハハ、うれしいなぁー!」
「あ、その笑い方ってワタル君そっくり(笑)」
「そらそーや。アイツのコピーみたいなもんやから(笑)」

こうして、アタシはあと3日間という約束で、このニセワタルを友達として受け入れることになったのだった。


ニセワタルはとても優しかった。
途中でお茶を飲むときには、彼はアタシを窓際の景色がよく見えるほうの席に座らせようとして、椅子を引いてくれたりする。
外のベンチに腰をかけようとすると自分のポケットからハンカチを取り出してアタシの座ろうとするところにそれをかけてくれた。

まるで女のコと付き合うためのマニュアル本をなぞるような行動をする彼に、かえって不器用さを感じてしまったりするけど、アタシのことを大切にしてくれようとするその気持はよくわかる。
だからアタシはあの頃のワタル君が今だけ戻ってきたように彼に話しかけ、そして接した。


そしてそんな楽しい日々はあっという間に過ぎて行き、いよいよ今日は修学旅行最終日となった。
昨日から博多に移動していたアタシたちは、太宰府天満宮や色々な名所を訪れながら夕方には宿舎のホテルに入った。
最終日の夕食は大きなホールでのバイキング料理
目の前には色々な料理を盛った大皿がテーブルの上にずらずらと並んでいる。

こういうときは男よりも女のコの方がずっと緻密なものだ。
自分の好みの料理を素早くチェックするのだが、それを周りに悟られないするのが女のコのすごいところ。
顔では無表情を装いながら目ではちらちらとそれぞれの料理の内容と位置をチェックして、そして最も効率的にお気に入りの料理を集められるルートを割り出す。


「それでは今日は修学旅行の最後の日です。皆で主イエスキリストにお祈りを捧げましょう。」
ウチの学校はミッションスクールなので、こうしたパーティなどの前には必ずお祈りということをする。
そして先生の言葉にみんなは目を閉じて両手を胸に組んだ。

「主、イエスキリストよ。我々は本日を持って5日間の修学旅行を無事に終えることができました。そして今夜は晩餐の会を持ち、皆で食事を分け合い楽しいひと時を持つことができましたことを深く感謝します。アーメン。」
「アーメン」
「さて、それでは楽しいひと時を過しましょう。」

先生の合図でいよいよパーティの開始、それとともに女のコたちはお目当てのさらに次々と殺到していく。
そして瞬く間に空になるお皿たち
男のコたちはやむを得ず自分の好みと関係のない皿でも空いてそうなところを選んでおずおずと料理を集め始める。

そのとき!
「あ、プチケーキきたヨッ!プチケーキ!」
「やったぁー!」
運ばれてきたその特に大きなお皿の上には、ストロベリーショート屋チョコケーキ、モンブラン、チーズケーキ、プチシューなどが山盛りに盛られて、そしてその周りをイチゴやらメロンやら巨峰やらといったフルーツが囲んでいる。

「わぁー!おいしそうー!」
「アタシ、モンブラン大好き!」
「ねぇ、エリ。そのストロベリーショート2つ取って。」
「アンタ、チョコケーキそんなに取って食べきれるの?」
「みーちゃん、ミルフィーユとそのフルーツタルト取り替えない?」
「しょーがないなぁ。じゃあ、凛、アンタのチョコエクレアも1つよこしなさいヨ。」

ワーワー!
キャーキャー!

そうした女のコたちの周りにいる男子たちはその姿をボーゼンとした顔で眺めている。

「お、おい。なんかスゲーな。まるでハイエナみたいだぜ。」
「ああ、さっき神様に食事を分け合うってお祈りしたんじゃねーのか?」
「いや…これは狩りさ。そしてヤツらは狩人なんだ。」
「オレもケーキ食いたかったんだけど、あの中に入ったら殺されそうだからやめとくヨ。」
彼らは恐れおののくような目で女のコたちを見つめている。

そこに男の先生が寄ってきてケーキ皿に群がる女のコ達を指差して、そしてこう言った。
「いいか、この姿をよーく目に焼き付けておくんだ。女はな、狙った獲物は絶対に外さない。オマエたちが将来結婚するときこの姿を思い出して、そして相手を選ぶんだぞ。これも教育のひとつなんだからな!」
「ああ、先生。忘れようたって忘れられネーヨ!今オレたちの前で戦っている誇り高い戦士たちの姿をな。」

そしてそれから間もなく女のコたちはパラパラとその大皿から離れていく。
お皿の上に残っているのは何やらわけのわからないフルーツのようなもの数切れだけ。

「刈りつくしたみたいだな…。」
「ああ、スゲーよ。ぺんぺん草も残っちゃいねーな。」
一通りおなかを満たした女のコたちは今度はジュースを片手にペチャクチャと話を始める。

そんなとき何気なくニセワタルの方を見ると、彼はいつものグッチ&ハッチコンビと楽しそうに話をしていた。
そしてフッと目が合うと彼はアタシの方にゆっくり歩いてきた。

「やぁ、凛ちゃん。」
「お料理、たくさん食べた?」
「ああ、もう腹がパンパンや。こんな美味い料理久しぶりに食ったわ。」
「そう、よかった。あの…。」
「ん、なんや?」
「あと何時間かでいなくなっちゃうんだね?」
「ああ、いよいよお別れや。」
「元気でねって言うのはヘンかもしれないけど…。」
「ハハハ、確かにちょっとヘンかもな(笑)凛ちゃんこそ元気でな。」
「ウン、アリガト。この5日間楽しかった。」

「ボクもや。なあ、凛ちゃん。」
「なあに?」
「最後の頼みがあるんやけど…。」
「エ、なに?」
「あのな、図々しいお願いかもしれんけど、最後の最後に30分だけ、形だけでええんや、ボクとデートしてくれへんかな?博多の町を2人で歩くだけでええんや。」

ウーーーーン……
アタシは考えた。
友達としてっていうことで彼を受け入れたはずだったから
それ以上のことを求められても応えるつもりはなかった。

でも、ニセワタルはこの5日間アタシに精一杯優しくしてくれた。
彼が自分が消えてしまう前に最後のよい思い出を作りたいっていう気持はわからないでもない。

「いいヨ。わかった。」
アタシがニコッと微笑んで彼にそう答えると
「わぁー!やったー!」
彼は身体すべてで喜ぶ表情をあらわした。
「フフフ、そんな大袈裟だヨ。」
「いーや、大袈裟やないでぇ。ああ、これで思い残すことはないわぁ。ほなら、9時にホテルの前の橋のたもとで待っとるから。」
そう言って彼はまたグッチ&ハッチコンビの方へと戻っていった。

彼にとって最初で最後の修学旅行、きっと満足したんだろうな。
あんなに喜んでるんなら最後のデートくらいいいよね。
アタシがそう思ったとき


プルルルルーーーーーーーーーー
ポシェットの中に入れた携帯電話が急に鳴り出した。
アタシが電話を取り出すと久美ちゃんからの着信表示が出ている。

あれ、どうしたんだろ
久美ちゃん、今日までアタシが修学旅行だってこと知ってるはずだけど
そう不思議に思ってアタシはその電話に出る。
「ハイ。」
「もしもし。あ、凛?」
「久美ちゃんだよね?どーしたの?」
「ア、アンタ今どこにいるの?」
電話の向こうの久美ちゃんはどこかひどく慌てている様子だった。
「どこって修学旅行先のホテルだけど。今ね、最終日のパーティやってるとこ。」
すると久美ちゃんは
「ホテルの名前と住所教えて!?アタシたち、今からすぐそっちに行くから!」
「エ、そっちにって、ここって博多だヨ?」
「いいから早く教えなさい!」

とにかく慌てている感じの久美ちゃんにアタシはホテルの名前や場所を教えると
「わかったわ。今アタシたちも福岡空港に着いたところなんだわ。」
と久美ちゃんは言った。
「エエエッ!なんで?アタシたちって久美ちゃんの他に誰がいるの?」
「とにかく今からーーーー。」
そして、そう言ったところで急に電話の声は途切れて切れてしまった。

一体どうしたというんだろう…
アタシは自分の腕にはめている時計を見ると8時50分になろうとしていた。

博多駅からここまで1時間はかかるだろう。
9時にニセワタルと待合わせをして30分間のデートだから9時半にはホテルに戻れる。
久美ちゃんにはココの場所を教えてあるから大丈夫だよね。
そう考えてアタシはニセワタルとの約束の場所に向かうことにした。

約束した橋のたもとではすでにニセワタルが待っていていくれていた。

「お待たせー。」
着替える時間もなく、アタシも彼も制服のまま
そしてアタシたちは肩を並べて歩き出す。

博多の街には大きなビルがたくさんあって、中心地は東京とほとんど変わらないような感じがする。
それでも面白かったのは街のそこかしこに屋台のお店が出ていていろいろなものを売っている。
名物の博多ラーメン屋、もつ焼きやお好み焼きのお店まである。
そういう雰囲気は東京の中心街にはあまり見られない。

「わぁー、こんなにたくさん屋台のお店があるなんて、話には聞いてたけど実際見るとすごいねー。」
少しウキウキするようにアタシがそう言うと

「ホンマやな。ボクも博多は来たことなかったけど、こんなところで暮らすのも楽しそうやわ。」
彼もものめずらしそうにキョロキョロと目を配らせた。

「ねぇ、アナタはどこで暮らしていたの?」
「ボクはずっと大阪や。」
「へぇー、じゃあその大阪弁って本物なんだ?」

「そうや。本物のワタルの関西弁はニセものやけどニセもののワタルのボクの関西弁はホンモノってわけや。」
「アハハ、何かややこしいね(笑)」
「確かにそうやな(笑)どっちがどっちかこんがらがってきそうやわ。」

「あの…さ、こんなこと聞いちゃっていいかな?」
「なんや?」
「アナタは…いつごろ亡くなった人なの?」

「今から3年ほど前やな。」
「じゃあ、それほど経ってないんだ?」
「まあ、そうやな。だから今回こうして現世に実体を現せる力も残っていたんやろな。強く念じてハッと気がついたらワタルの姿になっていたんや。」

「今度はきっといい人生を送れるといいね。」
「そう…やな。」

そうやって話しながら歩いているうちにアタシたちは随分ホテルから離れた辺りまで歩いて来てしまう。表通りからはずれ辺りには人通りもほとんどなかった。

「あ、なんかけっこう遠くまで来ちゃったみたい。これじゃ戻るのに大変だヨ。」
アタシがそう言って彼の方を向いたとき

今まで女のコの目を見て話そうとしなかった彼はアタシの目をじっと見てこう言った。
「なあ、凛ちゃん。こんなところで2人で暮らしたら楽しいと思わんか?」
「エ?2人で…って、どうしてアタシがアナタと?」

すると彼の表情が急に険しくなった。
そしてそれまで優しかった彼は吐き捨てるようにこう言った。
「フン、結局女なんてそうや。カッコいい男にはホイホイ靡くくせにボクみたいな顔も頭も良くない男はまるで汚い物を見るように馬鹿にする。オマエかてそこらの女とかわらへんやないか。」

急変した彼の口調にアタシはかなり戸惑った。
「ど、どうしたの?何でいきなりそんなこと言うの?」
彼はいきなり
「黙れっ!」
とアタシを怒鳴りつけた。

ビクッとして身を引こうとしたアタシの怯える目を彼はじっと見つめ続ける。
すると、アタシは身体中に強い気だるさが襲ってきて意識が急に遠のいていくような気がした。

「なあ、凛ちゃん。ここでボクと2人で暮らそうや?」
ニセワタルはもう一度撫で回すような声でそう囁いた。
「…ハイ。」
彼はアタシの身体を抱いてさらに奥の方の暗がりへと歩いていった。

そこには何軒かのラブホテルが固まって建っていた。
彼はそのうちの一軒にアタシを連れ込んだ。

部屋の中に入ると彼はアタシの目を見つめて囁く。
「凛ちゃん、長いこといなくなってゴメンな。ボクや、ワタルや。」

そう囁く彼の顔をじっと眺めるとあのとき夏の終りにワタルと赤いブランコの公園で別れたときの光景が記憶の中に蘇ってきた。

「ワタル君?…本当のワタル君なの?」
「そうや。ボクや。」
「今までどこに行ってたの?ずっと寂しかったのに。」

「スマンかったな。今日は凛ちゃんを迎えにきたんや。」
「アタシを迎えに?」
「そうや。凛ちゃんをボクの嫁さんにするためにな。」

「アタシ、アナタの…。ホントに?」
「ああ、ホンマや。2人で子供を作って一緒に暮らそう。」
「アタシたちの赤ちゃんを…。」

「そうや。だから今日ボクは凛ちゃんを抱く。ええな?」
「…ウン。」

ニセワタルがそう言うとアタシは何かに操られているかのように身に付けていた制服を脱いでいった。
上着のブレザーを、スカートを脱ぎ、そしてブラウスを脱ぐと下着だけの姿になって彼の前に立つ。

「キレイや…凛ちゃん。キレイやな。」
彼はアタシの身体を自分に引き寄せた。

「ああ…ワタル君」
アタシは彼の胸に自分の顔を沈める。



するとそのとき!
木製の部屋のドアが
ドン!ドン!ドン!
と音を立てて響く。

そして最後に
ドンッッ!
という大きな音とともにそのドアは蹴破られた。

「凛!だいじょうぶっ!?」
そう叫んで入って来たのは久美ちゃんとワタルAの2人だった。
そして久美ちゃんはニセワタルの胸に抱かれているアタシの身体を無理やり引き離しワタルAが2人の間に立ちはだかった。

「ちょっと!久美ちゃんなにするの!?せっかくワタル君が戻ってきたのに!」
アタシは久美ちゃんにつかまれた両手をジタバタとほどこうとするが彼女は強くそれを握り締めたまま

「凛!しっかりしてっ!」
と叫ぶ。
「なんで!?ワタル君!ワタル君!助けてよぉー!」
そう言って抵抗するアタシに久美ちゃんはいきなり

パン!パン!

と両頬に強烈な平手ビンタ
すると
「アレ?アタシ…なんでこんなとこに?」
それまで遠のいていたアタシの意識が急に戻ってきたのだ。
そしてハッと自分の身体を見ると服もブラも脱いでショーツだけの状態
「キャァァーーーー!!な、なんでこんな格好で!!?」
そう叫ぶアタシに久美ちゃんはベッドの上に置いてあったバスローブをかけてくれた。

「凛、アンタ、このニセワタルに催眠かけられてたのヨッ!」
「エエエッ!」

アタシはニセワタルの顔を睨んだ。
「ア、アナタ、自分が自殺して行けなかった修学旅行の思い出を作りたいだけだってアタシに言ったのに。嘘だったの!?」

ニセワタルは憎悪の表情を浮かべて何も答えようとしない。

「そんなの嘘も嘘!大嘘ヨッ!」
久美ちゃんはバスローブに包まれたアタシを抱き締めながらそう叫ぶ。

そしてニセワタルに対峙して立ちはだかるワタルAが言った。
「凛ちゃん、よく聞けや。コイツは自殺なんかで死んだんやあらへん。コイツはな死刑になって死んだヤツなんやっ!」
「し、死刑!!」
「そうや。5年前、ボクらがまだ小学生の頃大阪の方で女子高生の連続強姦殺害事件があったやろ。10人の女のコを犯して殺して大騒ぎになった事件や。その犯人がコイツで、その後コイツは逮捕されて23歳のとき死刑になったんや。」

「そんな…。じゃあ、あの話は全部嘘だったんだ。」
「コイツは小さい頃から女のコに相手にされないことで女のコに逆恨みをして犯行を続けたんや。そして死刑になった後最後の力を使って鮎川の実体を盗んで成りすまし、凛ちゃんの心を惹いてキミを妊娠させようとしたんや。」
「なんでそんなことを?」

「自分の子供ができれば自分の存在を現世に実体化させたままでいられるからヨ。子供ができればその原因となった自分の存在がなければ自然の摂理に反することになるからね。そうやってこの人は自分を生き返らせようとしたわけ。」
2人にそこまで説明されるとニセワタルは顔はゆがめて言った。
「フン、ワタルのヤツが調べたのか?」
「そうヨッ!アンタの正体はぜんぶわかってるんだからねっ!もう諦めて向こうの世界に帰りなさいっ!」

「うるさいっ!凛っ、さあ、こっちに来い!」
「いやだっ!誰がアンタなんかの子を妊娠するもんかっ!」
「オマエら女は所詮そうやって見栄えだけで男を選んでいるだけだろがっ!それか見栄えが悪けりゃ金だろがっ。そのどっちも持たないオレがそうやってどれだけ傷ついてきたか、オマエら女は何も考えようとしねー!」

「ち、ちがうっ!アタシはそんなんでワタル君を好きになったわけじゃない!」
「ちがわねーヨ。もしワタルがオレみたいな容姿だったら、それでもオマエはワタルのことを好きになったか?」
するとそれを聞いて久美ちゃんはゆっくりと言った。
「アンタは女ってものを勘違いしてるんだヨ。アンタが女のコたちに嫌われていたのは容姿なんかじゃない。その気持ち悪い勘違いだってことにいい加減気付きなさいっ!」

「なんだとーーっ!このアマーーー!」
ニセワタルはものすごい力で久美ちゃんを突き飛ばしアタシを無理やり引き寄せた。

ワタルAは倒れた久美ちゃんを庇いそして
「このガキャァァー!オレの久美子になにすんじゃあああーーー!!」
そう言って突進していくがニセワタルのものすごい力に弾き飛ばされてしまう。
そしてニセワタルは無理やりアタシの唇に自分の唇を重ねようとした。

「いやぁぁーーーー!いやだぁーーー!絶対にいやだぁぁーーー!!」
しかし必死に抵抗するアタシはニセワタルに簡単に押さえつけられてしまう。

近づいてくるニセワタルの唇

そのときアタシは脱ぎ捨てた自分の制服の上着が手に触れ、それを掴むと迫ってくるニセワタルの顔に押しつけた。

すると彼は
「ぎゃぁぁーーーーっ!!」
いきなりすごい悲鳴を上げて顔を離すとその場でのたうち回った。
そしてニセワタルが顔を上げたときアタシが制服の上着を押し付けたところにはくっきりと模様のようなものができていて、そこからはプスプスと焼け爛れたような跡ができていた。


「なんでっ!?」
ウチの学校はミッションスクールで、『信仰の盾』と呼ばれる校章を男女とも制服の上着の胸に着けることになっている。
しかしニセワタルはこの校章を着けるのをことさら嫌がって寒い日でもシャツだけでいることが多かった。
そういえばこの校章はそのひとつひとつが洗礼を受けているという話を聞いたことがあった。

「まさか…」
アタシは横でまだのた打ち回っているニセワタルの頭から自分の制服の上着をバサッと被せた。

すると
「ぎゃぁぁーーーーーっっ!!」
「熱いーーー!熱いーーーっ!!」

ニセワタルはそう叫び転げまわった。
制服をかぶった彼の頭からはぶすぶすと焼けるような煙が上がり始めた。

「主イエスキリストよ、どうか私たちをお守りください。この悪しき心を闇に葬ってください。」
アタシはそう念じた。
「いやだぁぁーーーー!オレは絶対に女をゆるさねーーー!まだまだ生きて仕返ししてやるんだぁぁぁーーーー!」
ニセワタルは断末魔の叫び声をあげ、そして最後は蒸発するようにその姿を消してしまったのだった。

「お、おわった…。」

これですべてが終わった。
そう思ったときアタシは自然と涙が溢れてきてそして久美ちゃんにすがるように泣き出した。

「ああーーーん!あああーーーん!!」
久美ちゃんはそんなアタシを抱きしめて黙って背中をさすってくれている。

しばらくして
「さあ、凛。とにかくココから出よう。服を着て。」
そう言われて脱ぎ捨てられた自分の服を集めてそれを着るとアタシたちは部屋を出た。

「とにかく気持を少し落ち着かせんとな。」
アタシたちは表通りまで行くと近くにあったファミリレストランに入る。
温かいレモンティを一口飲んだとき初めて今までのことを思い出して言葉にできない悲しさがこみ上げてきた。

「まあ、とにかくこれでぜんぶ終りヨ。」
久美ちゃんがそう言って小さな声で涙をこぼしているアタシに言った。


「ウン、そうだね。それにしても、久美ちゃんから電話をもらったときはビックリしたけど、どうしてニセワタルが今日行動に出るってわかったの?」
「ワタル君がね、鮎川君があのニセワタルのことを調べていたの。そして最後の力を使ってそれをアタシとワタル君に知らせたのヨ。」
「ワタル君が?」
「そうヨ。彼、アンタのこと最後まで心配してね、何度か生れ変ろうとするチャンスを見送って調べてくれてたらしいの。」
「それでワタル君は?」

「アタシたちにこのことを知らせて、そして今度こそ生れ変ることになるって言って消えていったわ。」
「じゃあ…もう、完全にいなくなっちゃったんだ。」
「そういうことだね。ねぇ、凛。」

「エ、なに?」
「彼の存在はなくなっちゃったけど、アタシたちはさ、彼のことずっと忘れないでいようヨ。」
「ウン。そうだね。絶対に忘れない。」

そのときフッと時計を見ると
「ああ!もう12時過ぎてる!」

「エッ!もうそんな時間?」
久美ちゃんもビックリして自分の腕時計を見た。

「凛、アンタ、宿泊先で大騒ぎになってるんじゃないの?早く戻ったほうがいいヨ。」
「ウ、ウン。でもアタシより久美ちゃんたちはどうするの?もう東京に帰れる便なんてないでしょ?」
「ああ、アタシたちは…どっかそこらへんのホテルに泊まってくから。」

「エ、だって、こんな時間で空いてるホテルなんかあるの?」
「ウーン、さっきみたいなのだったら…あるでしょ?」
「さっきみたいのって…ラブホテル!?」

「まあ、そんなとこ。アタシたち、もうさ…(笑)」
そう言って久美ちゃんは顔を緩ませながらチラッとワタルAの方を見る。

ワタルAは久美ちゃんの言葉に
「ワハハハ!まあ、心配すんなや。」
と照れまくった表情だ。

「そ、そうだったの?知らなかったー!」
「エヘヘ、じつはさ、アタシたちが20歳になったら結婚しようって、カレが言ってくれてさ。」
「ヘェー。おめでとう。ワタル君も初恋がかなったんだねぇー。」

「さあ、凛。もうホント遅くなっちゃうから。向こうに帰ったら連絡頂戴ね。」
「ウン、わかった。」
そしてアタシは久美ちゃんとワタルAにお礼を言って宿泊先のホテルへの道を急いだ。

ホテルの前に着いたのはもう12時半
当然正面玄関はもう薄暗くなっている。
正面から入れば先生に見つかるのは確実
そこでアタシは少し離れた場所からまず携帯電話でミコにかけてみることにした。

プルルルーーーーー
プルルルルーーーー

3回目のコールの後
「もしもし」
とミコの声が聞こえる。
その声は小さく潜めたようすだ。

「あ、ミコ?」
アタシがそう呼びかけると
「凛、アンタぁぁ~~~!ひとりで一体どこに行っちゃってたのヨッ!」
久しぶりに聞くミコのお怒りMAXの声
「ゴメ~~ン。怒らないでぇぇ~~。」
「とにかく今から裏手の非常口をあけるから。」
そう言って電話が切れた。

アタシが裏口に回ると少しして
カチャッ
と小さな音を立ててドアが開き、そこからミコが辺りをうかがうように顔を出す。

「ホラッ、早く入りなさい!」
「はーい。」
部屋に向かう途中、アタシとミコは先生に見つからないように抜き足差し足で薄暗い廊下を進んでいく。
そして女子6人の部屋に辿り着くと、ミコは部屋についている小さなシャワールームの中に入って、他に気付かれないよう小さな声でアタシにお叱りの言葉を浴びせかけた。
「まったく、アンタったらっ!どこ行ってたのヨッ!」

「あの、ちょっと街の中を散歩してたら道に迷っちゃって。」
「だったらすぐに電話すればいいでしょーがっ!」
「それがさ、携帯の電池が切れてて、さっき充電してやっとかけれたの。」

「ほんっとにしょーがない娘だねっ!とにかく早く着替えて、布団に入りなさい!さっき小宮山先生(男)が消灯の点呼に来たけど、アンタは生理中でトイレに行ってるって言っといたから。」
「ゴメンね。ミコ、ありがとぉ。」
「もういいから。ホラ、早く着替えちゃいな。」
「ウン。」
アタシはシャワールームの中で着ていた制服を脱ぎ、そして暗闇の中で自分のバッグを探し、そこからごそごそとパジャマを出し着替えた。

そして自分の布団に入ると今日一日のことが走馬灯のように思い出されてきた。
ワタルと初めて会った中3のときのこと
下駄箱のところで指に怪我をしたカレに巻いてあげたバンドエイド
ディズニーランドでの出来事
その年の夏の終り、2人でプールに行った初めてのデート
合格発表の後カレと一緒に歩いた宮益坂の風景
そして……
高1の夏の終りに
彼がアタシの前からいなくなったあの赤いブランコの公園

その一つ一つを思い出してアタシはカレの存在を確かめた。
そうしていると、どうしても抑えきれない感情がこみ上げてきて涙が溢れてきてしまう。

アタシは他の人に気付かれまいと布団を頭からかぶって、その中で小さな嗚咽の声を漏らした。

「ぅっ、ぅぅ、ぅぅぅ…。」

すると
それに気付いたのか、それともアタシの様子が気になったのか、隣の布団で寝ているミコが小さな声で
「凛、眠れないの?」
と囁いた。

「ミ、ミコ…ゴメンね。邪魔しちゃって。ゴメンね…。」
アタシは涙で濡れた顔を拭ってそう返事をした。
「いいヨ。」
ミコは優しい声でそう言ってアタシの髪を手で撫でた。

「ね、ひさしぶりに一緒に寝ようか?」
ミコはそう囁いて自分の布団を少し持ち上げた。
「いいの?」
「ウン。いいヨ。おいで?」

アタシはミコの布団に自分の身体をもぐりこませた。
そして自分の身体をミコに摺り寄せて彼女の胸に頭をつけた。

「フフフ、また甘えんぼの凛ちゃんに戻っちゃったね。」
そう言って彼女は小さく笑う。

そしてアタシはミコの身体の甘く優しい香りに包まれながら眠りに着いた。



次の日東京に戻ると、その日の夜にでも久美ちゃんに電話しようと思っていたが、それをする前に夕方に彼女から電話があった。
彼女の声はひどく慌てていた。

「凛、今からそっちに行くから!」
そう言って電話が切れると、すぐそばに住む彼女は20分ほどでウチに来た。
「どうしたの?そんなに慌てて。また何かあったの?」
「い、いいから。アンタ、自分の小学校の卒業アルバム出してごらん。」
久美ちゃんに急かされて本棚の奥にしまってある小学校のときの卒業アルバムを取り出し久美ちゃんに差し出す。

すると久美ちゃんはそれをひったくるようにして、そして何枚かをペラペラとめくって呟いた。
「やっぱり……。」
「やっぱりって、なにが?」
アタシは不思議そうな顔でそう尋ねた。

すると久美ちゃんはアルバムをアタシの前に置いて
「凛、この中でアンタの写っている写真探してごらん?」
と言った。

「アタシの?エット…。」
そう言ってアタシはまずクラスの集合写真のページをめくる。

その頃のアタシはまだ『小谷 哲』
集合写真は向かって左手に男子が、右手に女子が並んでいる。
哲だったアタシはたしか安田の隣に写っているはずだった。

「ア、アレ?いない。写ってないヨ。なんで…?」
「そうでしょ?アンタは安田君の隣にいたはずだよね。でも写ってない。」
「じゃ、じゃあ、アタシ、どこにいっちゃったの?まさかアタシの存在まで消されちゃったってこと?」
「ウウン。アンタは消えてなんかないヨ。ホラ、アンタはここ。」
そう言って久美ちゃんが指を差したのは左手の女子のほう、久美ちゃんの隣にいる女のコだった。
「エ?だって…。」
「よく見て?この娘。アンタでしょ?」
そう言われてアタシは久美ちゃんの隣に写っているピンクのワンピースを身に付けている女のコの顔をまじまじと見た。
「ア、アタシだ…。」
「そうでしょ?これって明らかにアンタだよね?」

「でも、この頃はまだ…。」
「そう、アンタはこの頃は小谷 哲だった。それが…。」
アタシは立ち上がると他の小さい頃の写真を探し始めた。

すると
その写真のどれもにその娘と同じ顔立ちの女のコが写っている。
そしてその顔は明らかに今のアタシにつながるだろうというものだった。
「なんで…そんな…。」
「多分想像なんだけどね、これって鮎川君がやったんじゃないかな。」
「ワタル君が?」
「ウン。アンタの過去をすべて今のアンタにつながるように摩り替えてしまった。多分おじさんやおばさんたち、みんなの記憶もね。」

「なんでそんなことを?」
「これも想像だけど、アンタが過去に縛られて心のどこかにわだかまりや引け目を持たないようにって思ってやったんじゃなかってアタシは思う。」
「そ、そうか。」
「凛、これを受け入れるかどうかはアンタの自由だけど。アタシは彼の思いは無駄にしてほしくないって思うわ。」

カレは、アタシの中に残っている哲を、ワタルは最後に消してくれたんだ。
「ウン。アタシはワタル君の思いを受け入れる。」

ワタル
ワタル
アナタは最後にアタシにこれを残していってくれたんだね。
ありがとう
アタシはもう振り返らない
アタシはきっとこれから先の自分の人生を大切に生きていくから
アナタのためにも

bye bye my dearling

第22話 一緒に歩いていきたい

第22話 一緒に歩いていきたい

2年生も終りに近づいてきた3月のある日
突然トオル先輩から電話があった。

その電話は最初は他愛もない話から始まった。

「先輩もいよいよ卒業ですねー。」
「ああ、3年間色々あったような気がするし、でも空手ばっかりで何もなかったような気もするし。」
「ひとつ打ち込めるものがあったらいいじゃないですか。アタシなんかまだ自分が何を目指したいのかわかってないし。」
「それはまだこれから時間があるから、ゆっくり見つければいいさ。」

「先輩は大学でも空手部に入るんですか?」
「ああ、そのつもりだヨ。高等部のときの先輩たちもいるしな。」

トオル先輩はアタシより1つ学年が上。
今年いよいよ高等部を卒業して青葉学院大学の国際政経学部に進むことが決まっている。
彼のお父さんはSTC(笹村トレーディングカンパニー)という大正時代から続く貿易会社の社長さんで、卒業後彼にその仕事を継いでもらいたいと願っている。
彼は昔は史学科を考えていたらしいけど、そういうこともあり色々考えて国際政経学部の国際経済学科を進学先に選んだのだそうだ。

そういえば、アタシの家は、父親がアタシが中学の頃は7軒ほどだった『ウエルマートという』スーパーマーケットをここ3年間で都内を中心に20軒、そして系列のコンビニチェーンも30軒ほどに増えて今年は株式を上場したりした。従業員も今では正社員だけでも700人以上になっているらしい。
哲だった頃はアタシにそれを継いでもらいたいらしかったけど、でもやはり今は弟の悟にそれを期待しているようだ。

それでも父親はときどき
「悟にもそれを強要をするつもりはない。凛は女のコなんだからいつか好きな人ができたら嫁に行けばいいさ。いざとなったら社員の中で優秀な者に社長を引き継げばいい。」
とも言っていた。

でもそう言われると何か父親がかわいそうでもあるような気がして、それに女である自分が最初からそういう期待をされていないことにどこか不満を感じてたりもした。

トオル先輩にそういう自分の気持ちを話すと彼はこう言った。
「男同士だから、キミのお父さんの気持はわらなくもないな。お父さんは自分のやってきた人生を継いで欲しい気持はあるけど、そのことで子供が自分の未来を自分で作っていく自由を縛りたくないんだよ。」

「先輩は?」
「オレはオレが望んだんだ。貿易会社なら世界中と接する機会があるだろ。それぞれの国にはそれぞれの文化や歴史がある。それを肌で感じたいって思ったんだ。」

すごいな…。
この人はちゃんと自分の夢を持っている。
自分の環境と自分の夢を重ね合わせようとする方法をしっかりと考えているんだな。

彼とよく話す機会ができて時々感じていた。
彼は周りの人をとても大切にする。
友達もとても大事にしているのはよくわかる。
だからあまり多くをしゃべるタイプではないけど、友達から信頼されて慕われているんだろう。
そしてきっとそういう人だから家族も大切にしているんだろうなって思う。

なんかそういうのっていいよね。
ウン、アタシも彼と一緒にいるとあったかい気持になれたりする。
お世辞とか冗談とかが上手じゃないけど、ワタルとは少しタイプの違うあったかさみたいな。


そんなことをふっと思ってたりしたとき
「ところでさ…今日電話したのはキミに伝えたいことがあったんだ。」
トオル先輩は急に遠慮がちに口ごもった。

そして電話の向こうのトオル先輩は3秒ほどの沈黙の後、ゆっくりと言った。
「じつはさ、オレ、キミのことが好きなんだ。」
「エ……。」
それは突然の告白だった。
そしてアタシは先輩のその言葉に一瞬頭の中が真っ白になった気がした。

トオル先輩は言葉を続けた。
「正直言うと、いつからこういう気持ちになったのかはわからない。でもキミが横にいてくれて、キミと一緒にいる自分がすごく幸せだって感じている。そしてキミを大切にしたいって思う。」
そう言うトオル先輩の言い方はちょっと不器用なのかもしれないけど、でも彼の気持が真剣であることはよくわかる。

ただアタシは心の片隅でためらいを感じていた。
それは、うまく言葉にできないけど
じつは彼と一緒にいるとアタシ自身も居心地がいいって感じている。
でも先輩と後輩としてでなく、彼氏と彼女になった後で甘えんぼのアタシが彼の迷惑になったりしないだろうかっていう不安も感じている。
彼はちゃんと存在しているわけだから、ワタルのようにいなくなることはありえないだろう。
それでもアタシが彼のことを本当に好きになって、彼は彼女になったアタシをずっと見ていて、ずっと好きでいてくれるだろうか。

「あの……。」
「ウン、なに?」
「それって少し考えてお返事するんじゃダメですか?」
「あ、ああ、もちろんそれでいいヨ。凛ちゃんは卒業式の日は学校に来るんだろ?」
「あ、ハイ。その日ウチのチア部でも卒業生の送別会があるから。」
「じゃあ、もしできたら、その送別会の後に会えないかな?」
「ハイ。わかりました。」
「ありがとな。突然こんなことを言って驚かしちゃったな。」
「あ、イエ。そんな…。」
「じゃあ、そのときに…。おやすみ。」
「ハイ、おやすみなさい。」
アタシがそう言うと彼は電話を切った。

「ふぅ……。」
アタシは持っていたコードレスの受話器を置くとベッドの上にごろんと身体を横たえた。

今までもトオル先輩はアタシにどこか好意を持ってくれていると感じていなかったわけではない。
個人的に2人でデートをしたりということはなかったけど、学校の中でときどき会ったりして話をしていると彼がアタシに気を配ってくれているのはわかってたし、それをうれしく感じている自分もいなかったわけじゃない。
でも正直彼が本当に告白をしてくるとは思っていなかった。
学校の中で、彼は派手に目立つタイプの存在ではなかったけど、誠実で優しくて頼りがいがあるという彼を好きな女のコが少なくないことは知っていた。
だからアタシに優しくしてくれているという好意を感じながらも、それを誤解しないようにしたほうがいいと思っていたのかもしれない。

どうしたらいいのかなぁ……。


次の日は日曜日だった。
朝食を食べると、アタシは頭の中を整理するためにどこに行くわけでもなくフラッと散歩に出かけた。

途中いつもの赤いブランコの公園の前を通りかかる。
ワタルに相談したい気にもなったけど、アタシは公園の中に入るのをやめた。
これは自分で考えることだから。
そうしないとワタルにもトオル先輩にも失礼な気がしたから。

そうやって歩いているうちに、アタシはいつの間にか隣町まで来てしまった。
「アレ? こんなとこまで来ちゃったんだ。」
そう思ってフッとそこに建っている建物を見上げると、それはワタルが最後のデートでアタシを連れて行っていくれた青いペンキの小さな喫茶店だった。

あ、ここって……。
もう1年半前にもなる。
高1の夏の終りにワタルがアタシに教えてくれた小さな喫茶店。

アタシは救いを求めるような気持でその喫茶店に入った。

カラン
ドアについている鈴が小さな音を立てて鳴った。

「いらっしゃいませ。」
あの時と同じようにお店の中にはカウンターごしに小さな髭を生やした優しい笑顔のマスターがいるだけ。
ウエイトレスさんもこの店にはいない。

今はちょうど10時
まだ朝早い時間なので他にお客さんもいなかった。

アタシは窓際の、あのときワタルと一緒に座った席を見つけ、そこに腰を下ろす。

「アレ? 初めてのお客さんですよね?」
マスターは氷の入ったお水を持ってきてくれたときアタシにそう尋ねた。
「イエ、ずっと前に一度だけ。」
「やっぱりそうかぁ。どこか見覚えがあるなって思ったんでね。その時も一人でしたっけ?2人だったような気もするけど。ウーン…よく思い出せないな。」

フフフ…
ワタルもマスターの記憶までは完全に消してなかったのかな。
思わぬところにワタルの記憶の断片を残している人がいるみたい。

「ご注文は?」
「あ、ホットココアをお願いします。」
アタシがそう言うとマスターはニコッと微笑みそしてカウンターへと戻って用意を始める。

すこしすると、ほろ苦いカカオの匂いをした湯気を立てたホットココアが出てきた。
そしてマスターはそれと一緒にアタシのテーブルにシナモンの香りのするクッキーが2枚ほど入った小さなお皿を置く。

「アレ、アタシ、クッキーも頼みましたっけ?」
「いや、これは特別サービス。シナモンクッキーは嫌いかな?」
「ウウン。大好きです。ありがとうございます。」
「どういたしまして。じつはこれ、ウチの奥さんが焼いたものなんだ。いつもなら一人のお客さんにはあまり話しかけないようにしてるんだけどね。キミはなんか懐かしい人のような気がしたもんでね。」

アタシはマスターが出してくれたクッキーを一枚手に取りそれを半分に割って口の中に入れた。
その瞬間ふわぁっとシナモンの良い香りが鼻の辺りをくすぐる。

「わぁ、すごく美味しいです。」
「ハハハ、それはよかった。じゃあ、ごゆっくりどうぞ。」
マスターはまたカウンターに戻り、手で洗い立てのコーヒーカップを布巾で拭っている。

ホットココアを一口啜ると心が甘く解けていくような気分になる。

「ねぇ、マスター。聞いてもいいですか?」
アタシは1年半前にたった1回会っただけのこのマスターにどこか親しみを感じて、自分の気持を確かめてみたくなった。
「ウン。なにかな?」
「例えばの話なんですけど、前に付き合った人とぜんぜんタイプの違う人を好きになったりするのってあるんでしょうか?」
「タイプかぁ。そうだなぁ…。タイプってなんだろうね?」
「エ、タイプって…。」
「よく好きなタイプ、嫌いなタイプっていうけど、タイプなんてのは言ってみれば第一印象みたいなものにすぎないんじゃないかなってボクは思うな。」
「第一印象? 言われてみれば、そうかもしれないですね。」
「人を好きになるっていうのは切っ掛けが大事かもしれない。そういう点でタイプっていうのはそういう切っ掛けになったりするかもね。でも、好きでい続けられるかどうかはタイプだけじゃ難しいんじゃないかなと思うね。その人の奥深い優しさとか愛情とか。そして好きになることももちろん大切だけど、好きでい続けられる相手かどうかはそういう奥深いところじゃなかなって思うね。」

ワタルはこの店でときどきマスターと色々な話をしていたらしい。
マスターの言葉はとても聞き心地がよく、ワタルがこのマスターと話をしたい理由が良くわかる気がした。

タイプはきっかけにすぎない
そういえばワタルが自分のタイプかなんて考えたこともなかった。
人にはそれぞれの魅力があってその魅力に偶然触れる縁を持ったことが大切なのかもしれないな。
そう考えるとアタシはいつものトオル先輩の笑顔を思い出していた。
タイプは違うけど、ワタルもトオル先輩も一緒にいてあったかくって心が優しい。
その共通点があればそれぞれの違いがあっていいんじゃないかって。
アタシはそう思った。

カップに残ったココアを一息に飲み干すとアタシは席を立ち上がってマスターに言った。
「ごちそうさまでした。」

「お、さっきと少し違った顔になったね。どうやらキミの心は決まったのかな?」
「まだわからないことが多いけど。」
「わからないのを手探りで進むのが人生さ。だからこそ人生は楽しい。」
「ハイ。」



それから数日後
いよいよ3年生は卒業式の日を迎えた。

アタシたちチア部の後輩たちはその間に3年生を送り出す会の準備を進める。

「凛、そっちのクロスもうちょっと引っ張って。」
「みーちゃん、お菓子とケーキの準備できたよぉ。」
「早苗ちゃん、佐藤先生、そろそろ呼んできてー!」

狭い部室の中をバタバタと駆け回り整えて、飾りつけも全部自分たちの手作りだ。

「さあ、できたぁー!」
いよいよ卒業生たちを迎える準備が整った。

そして12時
卒業式が終わってクラスでの別れを済ませた先輩たち8人がみんな一緒に部室に入ってくる。

パチパチという拍手の中を少し照れくさそうに進む先輩たち。
入部したときはきついことも言われたり厳しい練習に泣きそうになったこともあった。
でも、そういうことを先輩も後輩もみんな一緒にやってきた仲
アタシたちは今までの2年間の思い出をこの人たちに支えられて過してきたんだ。
そう思ったら彼女たちが明日からいなくなってしまうことがとても悲しくて寂しくて……。

先輩たちが全員揃って前に並んだところで、2年生を代表してアタシとみーちゃんが花束をキャプテンのチーコさんと副キャプテンの奈美さんに渡す。
この日のために用意した大きな花束を両手で抱える2人の先輩は少し涙ぐんでいた。

先輩たちの胸に飾られているピンクのバラ
それは彼女たちがこの高校での生活をいよいよ最後を迎えることをアタシ後輩に嫌でも感じさせている。

「ありがとう」
一列に並んだ8人の先輩たちから、キャプテンのチーコさんが一歩前に出て挨拶をする。

「みんな、こんなステキなお別れ会、ホントありがとね。アタシたち、チア部を最後までやってきて本当に良かったって思ってます。
エット…、少し思い出話をします。今花束をくれたみーと凛の2人が入って来たときのこと。みーは小学生のときからのチア経験者だけあってさすがにテクニックもあったし練習も上手にこなしていけど、凛は高校に入ってから始めて色々大変じゃないかってけっこう心配してました。でも2年経ってみるとそんな彼女が部の中で一番頑張り屋で仲間の雰囲気を温かくしてくれていたのは意外でした。
こんなステキな仲間たちと過せた3年間はアタシたちにとって最高の思い出です。」

目に涙を溜めながらそう話すチーコさんたちを前にしてアタシたち後輩部員はもうみんなしくしくという声をあげ始めていた。

「アタシたちが我慢してるんだから。みんなも最後まで笑顔で送り出してね。」
先輩たちは涙で顔を歪ませているアタシたちに声をかける。

みんなもう涙が止まらない。
先輩たちと一緒に過してきた2年間がまるで走馬灯のように思い出されてくる。

「凛、アンタってなんかホント自分の妹みたいで目が離せなかったのヨ。元気でね。」
そう言ってチーコさんはアタシの身体をギュッと抱きしめてくれた。

「さあ、最後なんだからみんなで歌おう!」
そう言って優実先生はギターを取り出しストラップを肩に架けて鳴らし始めた。

ポロン、ポロンーーーーー

ゆっくりしたイントロのメロディでアタシたちはそれが何の曲であるかすぐわかった。
それは優実先生が部活が終わった後ときどきギターで弾いていた曲
先生にとってはこうやって何度も自分の教え子たちを送り出してきたのだろう。

胸に残る
愛しい人よ
飲み明かしてた懐かしいとき

秋が恋を切なくすれば
一人身のキャンパス
涙のチャペル

もうあの頃のことは夢の中へ
知らぬ間に遠く years go by

みんなが肩を組んで
少し涙声を混じらせて
でも元気に
先輩たちを悲しんで送らないようにって
精一杯歌った。


フィナーレに与えられた時間はいつもよりも早く感じるかのように過ぎて行く。


「1年生は先輩たちを助けてあげて、そして新しく入ってくる後輩たちの面倒をしっかり見てあげてね。2年生のみんなは、あと1年間、精一杯キラキラ輝いてください。」

最後は後輩みんなで部室のドアから廊下の両側一列に並んで先輩たちを拍手で送り出した。
そして彼女たちが青葉学院高等部で過した時間はこのとき最後を迎えた。


「ああ、アタシたちも1年後にこうやって送り出されていくのかなあ…。」
先輩たちがいなくなった部室でみーちゃんがアタシにそう呟く。
「あと1年間かあ。青葉に入学して色んなことがあったようで、でもあっという間に過ぎていく感じするよね。」
「そうだよねー。凛と初めて会ったときのこと、アタシまだよく覚えてるもん。」
「アタシもー。みーちゃんにはじめて話しかけられたとき、「わー、お人形さんみたにきれいー」って思ったんだヨ(笑)」
「そのイメージって今でも継続してる?(笑)」
「ウーン、そうだねえ…きれいっていうのは継続中。でも…。」
「でも?」
「みーちゃんの性格って外見のイメージとぜんぜん違うんだもん(笑)」
「アハハーー。アタシはもともとこうなのさー。それまではずっと他人が期待する性格を装ってたみたいで、でもアンタやミコに会えてホントのアタシになりたんだって思う。」
「そっかあ。」

「うん、ねぇ…。」
「なあに?みーちゃん」
「あのときアタシと友達になってくれてアリガト」
「そんな。アタシも同じだヨー。みーちゃんと友達になれてよかったって思ってるヨ。これからもずっとずっと友達でいようね」
「うん。エヘヘ…」
「エヘヘ…」

そしてみーちゃんは
「アーン、凛ーーーー!」
そう叫んでアタシの身体を抱きしめた。

「アンタたちそんなとこでレズってないで後片付け手伝ってヨー。」
そんなアタシたちを見てさっちゃんが呆れたように言った。


そっか…
あと1年なんだよね
でも、もしかしたらアタシがこの2年間で自分にとってホントに大切にしたいものを見つけられた気がする。
それを今から確かめにいこう。

「あれ、凛。このあとみんなとカラオケ一緒に行かないの?」
後片付けが一通り終わって部室を出ようとしたとき、そばにいたエリちゃんがそう聞いてきた。

「あ、ウン。ゴメン。このあとチョット約束があって。」
「そうなんだー。じゃあねー。」
「ウン。またねー。」
そう言ってみんなと分かれたアタシは少し足を速めて正門を出た。

トオル先輩との約束の時間は3時
場所は高等部の正門を出て少し渋谷の方に歩いたところにある『らいむ』という喫茶店だった。

今は2時55分を過ぎようとしたところ
アタシは腕時計を見てさらに足を速め、半分駆けるようにスタスタと歩く。

そしてやっとその喫茶店に着いたのはちょうど3時を3分ほど過ぎた時間だった。

カランーーーー

お店の木でできたドアを開けると軽い鈴の音が鳴る。

「いらっしゃいませー。」
若い女性のウエイトレスさんがそう声をかけた。
アタシは中に入るなり店内をクルッと見回す。
すると奥の方の席でこっちの方を向いて座っているトオル先輩がニコッと笑って小さく手を上げた。

「すみませんー。お待たせしちゃって。少し早めに来ようって思ってたのに。」
「ああ、いいよ。オレも少し前に来たばっかりだから。」
笑顔でそう言うトオル先輩だったけど、彼の飲んでいるカップの中には底の方に少しのコーヒーが残っているだけだった。

アタシはトオル先輩の前の椅子に腰を下ろす。

「送別会はどうだった?」
トオル先輩は小さく手を上げてウエイトレスさんを呼びながらアタシにそう聞いた。

「それがね、佐藤先生がサザンのyayaをギターで歌ったんです。そしたらもうみんな涙がとまらなくなっちゃって(笑)」
「アハハ、あの人のサザン好きは有名だからなー。先生たちで酒を飲みに行くとそればっかりらしいぜ(笑)」
「エー、やっぱりそうなんですか?(笑) トオル先輩はどうでした?泣いちゃいませんでした?」
「俺たちは空手部だからなあ。野郎ばっかりだから最後までドンチャン騒ぎさ。」
「そうなんだあ。じゃあ、卒業式のときは?」
「ウーン…あんまりよく覚えてない。」
「エ、覚えてないんですか?」
「ああ、じつは『こっち』の方がずっと気になっちゃっててさ(笑)」
「アハハ、せっかくの卒業式なのにもったいないですヨー。」
アタシはそう言ってフッとあることを感じていた。

自分も昔は男として生活していたからなのだろうか
ときどき日常の色々な出来事の中で男と女の違いというものを感じることがある。
男の人は大きな目標を追うと小さなことに目が向かなくなったりするときがあるんじゃないだろうか。
それに対して女の人は日々の小さなことひとつひとつをとても大切にする気がする。
だから男と女ではどうも自分の周りにある時間の流れが少し違うような気がする。
そしていつの間にか自分自身がそういう女性の感覚になっていることにフッと驚いたりする。

「そうかもしれないな。でも、ずっと考えてたんだ。」
トオル先輩はそう言ってまっすぐアタシを見た。
「でもオレにとってはこっちの方がずっと大切だったんだ。」
「エ……。」
「キミと初めて会ったときのことをオレはよく覚えている。そしてキミが入学してきて再会したとき、そのときからオレはキミの姿をずっと追っていたんだと思う。今まで2年間好きだって気持を胸の中にしまってきた。でもそれを言わないで卒業してしまうことはできなかった。」

「トオル…先輩」
「だからキミの気持を聞くだけでいいからって思って。ただそれでキミに色んなことを考えさせちゃったかもしれない。」
そう言って彼は少し苦笑いするような顔になった。

「ね、トオル先輩。」
アタシはフッとそう言って席の横に置いたバッグの中から小さな包みを取り出す。
「これ、卒業式のお祝いです。もらっていただけますか。」
「エ、これをオレに?」
少し驚いたような顔でトオル先輩はその包みを受け取った。
アタシはニコッと笑って頷く。

「あ、ありがとう。あの、開けてみてもいいかな。」
「ハイ」

包みを開くと中には真っ白な小さなオルゴール
彼はそのオルゴールの蓋をしずかに開いた。
するとその小さな箱からはポロン、ポロンとあるメロディが流れ始める。

そのメロディをしばらく聞いていた彼は
「あれ、この曲って…。」
「『あなたと歩いていきたい』知ってます?」
「ああ、WINGの曲だろ。オレもこの曲けっこう好きなんだ。エ、でも、あれ? それってもしかして…?」
トオル先輩は少し混乱したような顔になった。

そしてアタシは
「アナタと一緒に歩いていってもいいですか?」
カレの目をまっすぐに見つめてそう言った。

「じゃあ…いいの?」
「アナタだから」

その瞬間
「やったーーーーーーっ!」
ガタンと席を立ってトオル先輩は大きなバンザイポーズをとった。

店内にいる人たちが一斉にこっちを振り返った。

普段はクールなカレのこの一瞬の行動にはアタシもけっこうびっくりした顔になる。

すると
「あ……。」
フッと我に返ったようにカレはスッと席に座り、そして照れたような顔でアタシを見て笑った。

そんなカレの顔を見たとき
アタシはこの人を本当に好きになった気がした。

「フフフ……。」
「エット…ハハ、ハハハ」

そしてアタシとカレはお互いの顔を見合わせて笑った。

第23話 トオル君とのお付き合い

こうしてお付き合いが始まったアタシとトオル君
カレは高等部を卒業した後、系列の青葉学院大学に進学したが、高等部と大学は同じキャンパスの中にあるので機会を作っては会えることも多い。

そしてカレは大学入学と同時にやはり空手部に入部した。
練習は高等部時代よりさらに厳しいらしく、日曜日を除くほとんど毎日、授業が終わると体育館で3時間ほどのハードな練習があるらしい。
アタシもチア部の練習が終わると夕方の6時くらいになることが多い。
そのためお互いの練習が終わったころ大学の学食でよく待ち合わせをしたりしているのだ。

今日もカレよりも少し早めに練習が終わったアタシは、学食の隅にあるいつもの席で本を読みながらカレが練習が終わって来るのをを待っているというわけだ。

(あ、そろそろ6時半だ)
アタシはふっと自分の腕の時計を見る。
すると少し離れた入り口のほうからカレが学食に入ってくる姿を見つけた。
アタシはニコッと微笑んでカレのほうに小さく手を振る。
その姿に気づいたカレは
「待たせちゃってゴメンな。」
そう言いながら手に持った空手部の大きなバッグを下ろしてアタシの隣の席に座った。

「ウウン。遅くまでお疲れ様。」
「そっちも今日もチア部の練習だったんだろ?」
「ウン。ね、聞いて?」
「どうした?」
「 あのね、アタシ、スタンツのパートリーダーになっちゃった。」
「ヘェー!高校から始めたのにすごいじゃないか。」
「エヘヘ、それでね、みーちゃんが副キャプテンになったんだヨ。」
「あの娘が?そっかぁ。じゃあ、2人ともこれから後輩の面倒をしっかり見なくちゃな。」

2人の間で自然とこんな会話が始まる。
でもちょっとまだぎこちない雰囲気なのは、お互いの主語がないこと。
つまりお付き合いが始まってまだ1ヶ月ほど、お互いに相手をなんて呼んだらいいのかまだはっきりしていないのだ。

お付き合いを決める前までは、アタシはカレを『トオル先輩』、カレはアタシを『凛ちゃん』って呼んでいたんだけど、お互い恋人として意識するようになって、主語で呼ぶのがなんか照れくさかったりする。
だからアタシはカレと一緒にいて「ねえ」なんて呼んでしまうし、カレはアタシに「なあ」なんて言ったり。
それでアタシはカレに提案した。

「あのさ…。」
「ん?なに?」
「アタシ、トオル君って…呼んでもいいかなぁ?」
「エ、あ、ああ、もちろん。じつはオレもちょっと考えてたんだ。付き合っててお互いなんか名前を呼びづらくなったっていか。」
「ウン、アタシも(笑)なんか照れちゃって(笑)」
「そうかもな(笑) でも、お互いちゃんと名前を言わないとって思ったし。それでオレは何て呼べばいいかな? 今までどおり凛ちゃん?」
「ウウン。できたら…もう『ちゃん』ってつけない方が…いいかなって…」
「凛…って呼び捨てでいいの?」
「ウン。親とか女友達以外でそう呼んでくれるのがトオル君でいてほしいから。」
「じゃあ、エット、・・・凛。そうしよう。」
「ハイ。トオル・・・君」

「ハハハ、慣れるまで少し時間かかりそうだな。」
「フフフ」


「なあ、凛ちゃ…あっと、凛。ハハ、まだなんか慣れないな(笑)」
「アハハ、ウン。なに?」
「凛は今度の日曜日はなんか予定ある?」
「ウウン、なにもないヨ。もしかしてどっか連れてってくれるの?」
「ああ、それでどっか行きたいとこあるかな?」
「ウーン…あるにはあるけど…」
「あるけど?」
「初デートはトオル君のエスコートに任せます(笑)」
「エ、なんで?」
「これからトオル君のこともっとたくさん知りたいから。だからトオル君の行きたいとこに連れてってほしいの。ダメ?」
「あ、いや、ダメじゃないけど。でも、オレの行くとこってそんな大したとこでもないぜ。女の子の喜びそうなとこってよくわからないし。それでもいいの?」
トオル君はアタシの言葉に照れたような、そしてそれをごまかすような表情になった。


さてそして日曜日
アタシはトオル君と待ち合わせをした新宿駅の南口改札前へと向かう。
カレは「気を使わない普段着でいいから」と言っていたので、アタシもそれらしいのを選んで、薄いブルーのシャツにストライプのパーカー、そしてデニムのひざ上タイトスカートという感じで、少し薄めのお化粧だけして出かけた。

約束は朝の10時
アタシは10分くらい早めに来たつもりだけど、カレはもうすでに来ていて目印の柱のところに立っている。

アタシはカレに気づかれないようにそっとその方向に近づき、そして柱の反対側に隠れた。後ろから背中をたたいて脅かしてやろうと思ったからだ。

身長が180センチを超えて、さすがに空手をやってきただけあって精悍な顔をしているカレは人ごみの中にいてもけっこう目立つ。
高等部のときもカレのことを好きだという女の子がかなりいたのを知っているし、その中には実際カレに告白をしたという娘もいたらしい。だから、カレがアタシに気持ちを打ち明けてくれたとき本気なのかどうかを正直少し心に引っかかったりもした。

するとそこに制服姿の2人の派手そうな感じをした高校生の女のコが近づいてきた。
エ、誰!?
カレに声をかけようとしたアタシは思わず身を引っ込めて柱の裏側でその様子をうかがう。

「あの、誰かと待ち合わせなんですか?」
その2人のうちひとりがカレにそう話しかけた。

カレは少し驚いたように顔を上げると
「あ、ああ。ちょっとね。」
と答える。

「もしかして友達とか?よかったらアタシたちも2人だから一緒にどっか行きません?」

するとカレは困ったような顔をして言った。
「ゴメン。彼女を待ってるから。」

「じゃあ、アドレス教えて? 別のときならいいでしょ?」
その娘はそこで食い下がらずそう続けてきた。

するとトオル君は優しい口調で、でもはっきりと
「いや、ゴメン。オレ、そういうことしたくないし、できないんだ。キミだってもし自分のカレが知らないところでそういうことをやってたら嫌だろ?」
とその娘に言った。
その言葉を聞いたその2人の女のコは、その言葉にようやくその場を去って行った。

正直言って安心した
っていうか、なんかすごく嬉しかった。

アタシはそれから3分ほど時間をおいて、ようやく柱の裏から身を出してカレの前に進み出た。
そのときカレは自分の腕の時計で時間を見ようとしていたところだった。

そしてアタシが
「あの……」
と声をかけると

カレは顔をあげようとしながら
「ゴメン!彼女と待ち合わせだからダメッ!」
と今度は少しきつい口調で言った。

そう言って顔を上げた瞬間
「エ、あ、、凛か。びっくりした。ア、アハハ」
そう言ってテレを隠すように笑った。

「どうしたの?アタシもびっくりしたヨ。」
「あ、いや、さっきさ、知らない女のコ2人に突然声をかけられちゃってさ。それでまた戻ってきたのかと思って。」

あ、意外…
アタシは、さっきのことはアタシの気を悪くさせないようにカレは誤魔化すのかって思ってた。
アタシもそうされてもしょうがないって思ってた。
でもカレはそういうことをいちゃんとアタシに話してくれたのは男の人というものを考えると意外だった。
それは女でも同じだと思う。
アタシが同じようなことがあったとき全部をカレに話せるのかは自信がない。
カレに誤解されたくないから逆に何も言わないかもしれない。

でも嬉しい
すごく嬉しい

身長157センチのアタシは180センチを超えるトオル君の腕の先に自分の腕を絡ませてた。
今までしたことのないアタシの行動にカレは少し驚くような顔をする。

「じゃあ、行こうか」
「ウン」
そしてアタシたちはホームのほうに向かって肩を並べて歩き出した。

「さて、トオル君。今日はどこへ連れてってくれるんでしょう?」
アタシはカレにそう尋ねる。

「今日はね、オレがときどき行くいろんな場所に凛を連れてってやろうって思ってる。」
カレは少し得意そうな顔をしてそういった。

「いろんな場所?」
「そうさ。いろんな場所。じつはさ、オレ空手のほかにもうひとつ昔からやってる趣味があるんだ。」
「へぇ、それって知らなかったなぁー。空手一筋なのかと思ってた。」
「アハハ、そりゃ空手は好きさ。でももしかしたらそれと正反対の趣味っていえるかもしれないな。」
「正反対の?なんだろう?」

「じつはさ、これなんだ。」
トオル君はそう言って自分の肩に下げた大きめのバッグからかなり高そうなカメラを取り出した。
「カメラが趣味だったの!?」
「ああ、小学校のときからずっとな。意外だろ?」
「ウン。意外ー!そんな芸術家っぽいところもあったなんて」

カメラオタクといえば中学校までずっと一緒だった安田を思い出す。
アイツもこういう大きなカメラを持ってたっけ。
ただしアイツの場合カメラ一筋だったから部活も写真部と徹底してたけど(笑)
「ハハハ、芸術家なんてカッコいいもんじゃないさ。街を歩いてて、ふっと気になった風景とか目に留まったものとかを撮ってるうちにそれが趣味になったんだ。それでな、今日は凛を被写体にしてみたくなってさ。嫌?」

「ウウン。嫌じゃないヨ。でもそれならもっとオシャレしてくればよかった。」
「それじゃダメだよ(笑)普段着の凛を撮りたいだから。」
「普段着のアタシ?」
「そう。笑った顔も怒った顔も、つんと澄ましている顔も、優しい顔も。」
「フフフ、なんか楽しそうかも(笑)」


そんなことを話しながらトオル君がまず最初に連れてってくれたのは本当に意外な場所、そこは「三ノ輪」だった。
それも日比谷線の電車を降りてそこからさらにしばらく歩く。

「三ノ輪って…何かあったっけ?」
不思議そうに尋ねるアタシにカレは
「さあ、スタート地点に着いた」
そう言って指をさしたのは都営荒川線の停留所、つまり『ちんちん電車』だった。

「凛は同じ東京でも反対側のほうだからこういうのは乗ったことないだろ?」
「ウン。初めて。話は聞いたことあるけど、昔はたくさん路線があったらしいよね。」
「そうらしいな。かなり昔は渋谷の青葉学院の正門前にも路線があったらしいぜ。でも今はこれ1つだけなんだ。さて、それじゃ今日のほんとうに大雑把なスケジュールをここで発表します。」
「ハイ、トオル君。どーぞ!」
「えっと、今日はこの電車の1日乗車券を買って乗ります。そして気まぐれに思いついたところで降りて、その街をぶらっとして、そしたらまたこの電車に乗って前に進む。ゴールは早稲田の街です。」
「へぇー、楽しそうー!予定を作らないで気まぐれっていうのがいいよね!」

「だろ? だから昼メシも腹が減ったところで偶然見つけた店に入ればいい。オッケー?」
「オッケー!」
「じゃあ出発だ」
こうしてアタシとトオル君の1日小旅行はこうして始まった。

のんびり気ままな都内の小旅行
直線にすればわずか数キロの距離なんだろうけど、その途中にはホントにたくさんの風景が溢れていた。

荒川遊園地前で降りてふらっと園内を散策
トオル君はたくさんの花畑をバックにしてアタシを何枚かの写真に収めた。

そういえばワタルにはこうやって写真を撮る趣味はなかったけど、カレと一緒に写した何枚かの写真もあった。
でもその写真もワタルが最後に行ったアタシについての周囲の記憶のすり替えでみんな消えてしまったり他の写真になったりしていて…。
結局カレが写っている写真は小学校時代のカレが亡くなる前にワタルAたちと一緒にとった1枚だけ
アタシはこの写真をワタルAからもらって、そしてワタルのために編んでいた編み掛けのマフラーと一緒に箱の中にしまってあった。

そして今アタシの横にはワタルではなくトオル君がいる。
道の両側の並木には銀杏の葉がサワサワと小さな音を立てていた。

あの中2の夏、男のコとしての人生を過ごしていたはずのアタシに思いもしない初潮というものが訪れて、そしてアタシの人生はまったく別の未来を描き始めたんだ。
そういう過去を思い出すと、ああ、こんな人生ってあるんだなぁって、ホント不思議に思えてくる。

結局『ワタル』という人物は何者だったんだろう?
カレはどこから来てどこに行ったのか
そしてカレはなぜそこまでしてアタシのためにしてくれたのか
それは今でもほとんどすべてが謎のままだった

「ーーー凛?」
そんなことを考えながら歩いているとトオル君がふっと話しかけてくる。
「どうした?なんかボーっとしちゃってたけど」
「あ、ウウン。ゴメンね。なんか初めてトオル君と出会ったときのこと思い出しちゃった。それで今こうやって一緒に歩いているのがちょっと不思議だなって思って」
「そうだよなあ。あれからもう3年経ったのか。」
「ね、トオル君は初めてアタシと会ったときどんな印象だった?」
アタシは唐突にこんな質問をした。

「ウーン…そうだなあ。偶然っていうか、今から思えば逆に言えば運命っぽい感じだった気がするな。」
「運命っぽいって?」
「ウン。じつはさ、あのときオレあの道を通るつもりじゃなかったんだ。」
「そうなの?」
「ああ。センター街を歩いてたんだけどさ、そしたらその先のほうで知り合いを見かけたような気がしてさ。そいつを追いかけてスペイン坂のほうに走っていったんだよ。」

「知り合いって友達?」
「友達っていうか、ほら、前にディズニーランドで少し話したろ?ガキのころ家の近くの公園で偶然会ったヤツ。もちろんお互い成長しているからすれ違ったってわかるはずないのに、でもそのときなぜだかわからないけど「コイツだ!」って直感したんだ。それでそいつを追いかけていった。そしたら凛とミコちゃんたちがナンパに絡まれているとこに出くわしたっていう感じだった」
「そうなんだあ。ホント、そう言われるとなんか運命っぽいかもしれない。それでその人はその後見つかったの?」
「いや、見つからなかった。っていうか、もともとそいつが本当にそのときのヤツだったかさえわかんないし、だいたい小3のときに1回しか会ったことなかったのに高校生になったヤツをわかるはずないんだよな。でも、そのときはただ直感だけで、考えるより先に足が動いちゃったような感じだったし。ひとつ確かなことはそれがきっかけで凛に出会えたってことかな」

「そっかぁ。 ね、トオル君の記憶に残ってるその男のコってどういう感じの子だったのかなあ?」
「うーん、もううっすらしか記憶しかないけど、痩せててひょろっとした感じのヤツだった気がするな。ただニカッて笑うとなんか気持ちがいいっていうか、もしオレに弟がいたらこういうのかなって思った」
「あ、そっか。トオル君って長男で妹さんだけだもんね。」

「ああ。なんて名前だったかなあ…。たしか浅田とか浅川とか…『あ』で始まる名前だと思ったけど、いや、違うな、綾野だったっけ?もう思い出せないな(笑)そのとき2回ほど手紙をもらったんだけど、それも今ではどこにいったかわらないんだ。確かオレの1学年下だったから凛と同じ高3のはずだな。」
「へぇー、アタシも会ってみたかったなあ。なんか幻の少年って感じだよね?」
「あ、凛。それ、うまい表現だな(笑)そう、まさにアイツは幻の少年だったのかもしれないな。」

緑に囲まれた並木道で、アタシとトオル君はそんなことを話しながらゆっくり歩いていた。
横を見ると男のコと女のコのカップルが芝生の上にシートを敷いてお弁当を広げている。
2人とも顔を後ろに向けていてよくわからないけど、その女のコは男のコに水筒のお茶をついで渡してあげたりしながらいろいろと世話を焼いているみたいだ。

フフフーーー
いいなあ、ああいうのって

そういえば前にアタシもワタルにお弁当を作ってあげたっけ
それなりに上手にできたつもりだったけど、中には焼きすぎで焦げてしまった玉子焼きなんかもあったし、ワタルの好物の筑前煮はちょっと味が濃すぎたかもしれない。
いつか、トオル君に作ってあげる機会があったら今度はもっと上手になっていたいなあ。

そんなことを考えながら、アタシたちがそのカップルの横を通り過ぎようとしたとき
「ほら、悟。これも悟の好物でしょ。みー姉ちゃん、頑張って作ってみたんだヨー。」
と、そんな声が聞こえてきて、アタシはハッと足を止めて、その2人の方を振り返った。

すると
「み、みーちゃん!……と悟」
そしてアタシの声にその2人はくるっとこっちを振り返る。

「あ、あーーー!凛ーーー!」
みーちゃんはびっくりした顔でそう叫んだ。
「どうしたの?2人で。びっくりしたあーー!」

しかし悟はとくにばつの悪そうな顔もせず
「ああ、みー姉ちゃんにお弁当作ってあげるからピクニックに行こうって言われてさ。」
そう言いながら、彼はみーちゃんの作ったお弁当をパクついている。

一方でみーちゃんはけっこう動揺した表情で
「あ、ほ、ほら、さ、悟は、中3で毎日受験勉強ばっかりみたいだから、ちょっと息抜きさせてあげたいなって…アハハ(笑)」
としどろもどろだ。

あらあら……
みーちゃんが悟のことを自分の弟みたいにべたっかわいがりしてるのは知ってたけど、まさかここまでとはね(笑)

「凛の弟さん?」
トオル君が悟のほうを見てアタシに尋ねた。
「あ、ウン。今年中3なの。」
「そっか。やあ、はじめまして。笹村透っていいます。ヨロシク。」
ニコッと笑ってトオル君は悟にそう挨拶した。

すると悟は口にくわえていたみーちゃんお手製のサンドイッチをゴクッと飲み込んで
「もしかして、凛ちゃんの彼氏?」
ぶっきらぼうにトオル君にそう聞いてきた。
「え、ああ、まあ。」
トオル君は答えに困ったような顔で少し照れながらそう答える。
「悟!アンタ、ちゃんと挨拶してヨッ!」
アタシは悟にちょっと怖い顔で睨みながらそう言うと
悟はすくっとシートから立ち上がって
「小谷 悟です。凛ちゃんって甘えんぼなとこあるけど、可愛がってやってね。」
そう言ってぺこっと頭を下げた。
「さ、さとるぅぅ~~~~、アンタ、可愛がってやってねって…。」
もうアタシは顔が真っ赤

「エ……。」
一瞬答えに詰まったようなトオル君は0.5秒ほどの間を置いて大きな声で笑い始めた。
「アハ・・・アハハハ!わかった、ウン。ちゃんと可愛がるから。」
「さとるぅぅぅ~~~~~………。」
もうアタシは返す言葉が見つからない。
その横ではみーちゃんもクスクスと笑い始めてしまった。

「とにかく、凛たちも座らない?」
みーちゃんがお弁当を脇に寄せて場所を空けてくれた。
アタシとトオル君はそのシートにお邪魔して座ると、みーちゃんはバッグの中から紙コップを2つ取り出し、そこに持ってきたジュースを注いでアタシとトオル君に渡してくれる。

「さっき、佐倉さんのことを『みー姉ちゃん』って呼んでたけど。」
トオル君が悟にそう尋ねた。

「ああ、ウン。そうだヨ。」
悟は平気な顔でそう答える。

「もうね、みーちゃん、悟にベタ甘だから。アタシのことは凛ちゃんでミコのこともミコちゃんなのに、みーちゃんだけみー姉ちゃんって呼ぶの。不思議でしょ?」
アタシはほぅっとため息をついてそう言った。

「だって、凛ちゃんって怒ると怖いんだもん。みー姉ちゃんはいつも優しいんだぜ。」
悟は悪びれのない顔でそう言うと
「ハハハハハ!!そうかあ。本当のお姉ちゃんは怒るとそんなに怖いんだ?」
トオル君は面白がって悟にそう尋ねた。
「そうさー!この前なんかねーーー」
「ウンウン!」
そしてアタシは次の瞬間悟の口を手でばっと覆った。
「ムグムグーーーー」
「アハハハ、いいじゃないか。」
トオル君はさらにゲラゲラと笑い始める。
「ぷはぁー!ほらね、ときどきだけど怒るとメチャクチャ怖いんだ。」
ああ、もうアタシのトオル君へのイメージぐちゃぐちゃ……
まったく!この弟はっっ!!

するとトオル君は
「いや、いいんだ。オレはそんなところも全部含めてキミのお姉さんのことを好きになったんだ。」
と優しい顔でそう言った。

思わずアタシの顔は真っ赤になる。

でもうれしい…

トオル君
意外な場所で聞けたトオル君の気持ち

「羨ましいなあ、凛。」
みーちゃんがそう言ってアタシの脇を軽く小突く。


そして
「あ、よかったら凛たちも食べて?」
みーちゃんはそう言ってお弁当をアタシたちにも勧めた。

するとトオル君は
「ありがとう。でもせっかく2人で来たんだから、悟君にいっぱい食べさせてあげなよ。オレたちもそろそろ行かなくちゃ。」
そう言ってすくっと立ち上がった。

「エ、もう?」
アタシがちょっと不思議そうにそう言うとトオル君は

「あ、ウン。じつはふらっと気ままな旅のつもりだけど、昼メシ食う場所はちょっと考えてあるんだ。」
そう言ってニコッと微笑むトオル君だった。


そしてアタシたちは2人と分かれてまた都電に乗る。

電車の中で
「ねぇ、あの2人もしかして付き合ってるのかな?」
アタシがトオル君にそう尋ねると

「さあ。でも、佐倉さんは凛の弟さんのことが可愛くてしょうがないって感じではあったな。」
「そうだねー。そういえば前にね、みーちゃんにちょっと聞いたことがあったの。みーちゃんにも昔弟さんがいて、でも事故で亡くなっちゃったんだって。その子がちょうど悟と同じ年だったって。」
「そっかあ。でもきっかけはカップルそれぞれだからな。オレが凛と出会ったのだってあのときアイツが……。」
そこまで言ってトオル君は突然ふっと考え込んだ。

「どうしたの?」
アタシが尋ねると
「いや、アイツがさ、今思い出した!」
「何を思い出したの?」

「アイツはやっぱりあのときのアイツだったんだ。」
「もしかしてその人の名前を思い出したとか?」
「いや、名前は思い出せない。でも、あのとき、オレはセンター街からスペイン坂の方に向かう角に立っていたアイツを見かけたんだ。そしてオレはアイツを追って行った。」
「ウン。」
「そのとき、すごい人並みの中でなんで突然アイツの姿が目に入ったかってずっと思い出せなかったんだ。でも今思い出せた。アイツはオレのほうに向かって確かに「トオル君!」と言って微笑んだんだ。」

「でも、人がたくさんいたんでしょ? それにそのときトオル君とその人ってけっこう離れてたって。」
「ああ、50mくらいは離れていた。でも確かに聞こえたんだ。「トオル君!」って、アイツの声が。でも不思議だな…そんなに叫ぶような声じゃなかったはずだ。それなのになんでそれだけ離れてて聞こえたんだろう?」
トオル君はそう言うと少し考え込んでしまう。
「あ、いや、ゴメン。せっかくのデートなのにこんな話ばっかりになっちゃつまらないよな。」
「ウウン。いいヨ。だって、たとえ偶然だって、その人がアタシとトオル君をつないでくれたんじゃない。」
「ああ、そうだな。そうなんだよな。アイツ元気でやってるかなあ。オレさ、もし、もしいつかアイツと会えるようなことがあったら凛を紹介したいって思ってるんだ。オマエのおかげで彼女とめぐり合えたんだって。」
「ウン。アタシもその人に会ってみたいな。」


そんなことを話していると都電は停留所に近づこうとしている。
「まもなく面影橋~~~、面影橋です。」
電車のアナウンスが流れた。

「さあ、ここだ。ここで降りよう。」
そう言ってトオル君は座席から立ち上がった。

そこはこの都電の最終停留所の早稲川のひとつ手前の駅だった。
駅から降りた町並みは神田川沿いのビルの間に低い民家があったり、そして路地の奥に突然喫茶店があったりとアタシの住んでいる街の雰囲気とはかなり違った感じだ。
でもそれが何か不思議な空間で、人の生活の匂いがする。

アタシはトオル君に連れられてそんな町並みの中を数百メートルほど歩く。
そしてカレが案内してくれたのは小さなビルに囲まれて、ふっと見逃してしまいそうなそんな小さなお好み焼きのお店だった。

「じつはこの前早稲川大学との交流試合があってさ。そのとき知り合った早稲田の人に連れてきてもらった店なんだ。」
「へぇー。教えてくれればアタシ応援に行ったのに。」
「ハハハ。オレは1年だし、まだ試合になんか出してもらえないよ。まあほとんど先輩たちの世話だな。でも、別の大学でも仲良くなったら自分の後輩みたいに可愛がってくれたり、大学って高校よりずっと世界が広いんだよな。ここは早稲川の空手部の人がよく行くらしいんだけど、そのときある早稲川空手部の3年生の人が店のおばちゃんに「もしコイツが来ることがあったらサービスしてやってよ」って言ってくれたんだ。だから、凛のこと連れてきてやりたくってさ。」
「そうなんだあ。フフフ、なんか嬉しいな。」

自分がいいなって思ったものをアタシにも教えてくれる。
そうやって2人でいいなって思うものを共有できるってすごく嬉しい。

アタシは、女として生活し始めてもう3年が経とうとしている。
ミコがときどき芦田さんのことをアタシに話すとき、彼女は「カレがいいと思うものをたくさん知りたいの」ってよく言ってた。
その感覚は男として生活していたときの自分には多分ないものだったと思う。
最初はそういうミコの言葉を少し不思議に感じたりもしていたけど、ワタルとのお付き合いの中でその感情は次第に自分も共有できる者だと感じ始めた。
そして、今こうしてトオル君と同じ気持ちを分け合いたいって思っている自分は、もう『あの頃の自分』とは別の自分なのかもしれないとも感じていた。


ガラガラーーーーー

トオル君がそのお店の引き戸を開けて中に入っていく
その中は30畳ほどで、店内には鉄板のついたテーブルが7卓ほどがある素朴な感じで、そのうち2卓にはすでにお客さんが座ってお好み焼きを焼いている。

そこからはソースの焦げたいい香り漂ってくる。

「いらっしゃいませーーー!」
そして、奥のほうから年配の感じの女の人の声が威勢良く聞こえてきた。
出てきたのは50歳ほどに見える感じのショートカットの温かそうなおばさんだった。

「はい、いらっしゃい。あら、アナタもしかしてこの早稲川の前田口君たちと来た青葉大の人?」
「あ、はい。青葉大の笹村です。あのときはどうも。」
「まあ、まあーー。さっそくまた来てくれたのね。ありがとう。さあ、こっちの席にどうぞ。」
おばさんにそう言われてアタシとトオル君は奥のほうの席に着く。

「あら、今日はお嬢さんと一緒なのね。もしかして笹村さんの?」
「あ、はい。ボクの付き合ってる彼女です。」
アタシは席から少し腰を浮かせて
「はじめまして。小谷といいます。」
と挨拶をした。

「あらー、可愛らしいお嬢さんじゃない!笹村さんモテそうだって思ったけどやっぱりね(笑)」
おばさんはそう言ってケラケラと笑い、アタシもトオル君も真っ赤になってしまう。

とにかく2人も席について、トオル君は広島焼きお好み焼きの大盛りを注文する。
すると、しばらくするとやってきたのは、すごい大きなどんぶりに並々と入っているお好み焼きの元と卵が2つそして生焼きそばだった。

「わぁー、すごい量じゃない!2人で食べきれるかなあー!」
アタシがその量にビックリしてそう言うと

「アハハ、ここは早稲川の学生さんの溜まり場みたいな店だからねぇ。みんないつも腹を減らせて来るからそれくらい軽く平らげちゃうんだヨ。」
おばさんはそう言って笑う。

「ああ、大丈夫さ。今日は俺がいつも作る特製のお好み焼きを凛にご馳走してやる。」
「わぁ、楽しみー。アタシ、家で作るといつもひっくり返すとき失敗しちゃうの。」
そしてトオル君はおもむろに熱くなった鉄板にサラダ油を薄く。

「いいか。油はビチャビチャにしちゃいけないんだ。薄く引いてきじの香ばしさを出す。少し焦げてるくらいがパリッとしてうまいんだ。」
次にその大きなどんぶりの中の元をその鉄板の上に一気に空けた。

ジュゥゥゥーーーーーーーー

鉄板からふわぁっとした香りがあがってくる。
それをトオル君は2つのヘラで上手に円形にまとめていった。

するとトオル君はさらにそのお好み焼きを焼く鉄板の空いたスペースで今度は焼きそばを炒め始め、胡椒とソースで軽く味を付けていく。

「へぇー、そうやって別々に作っていくんだ?でもトオル君広島風のお好み焼きの作り方まで知ってるなんてすごいねー。」
「ああ、これは大学の空手部の先輩から教わったんだ。ここみたく青葉大の近くにも溜まり場の店があってさ。そこで先輩が作ってくれて、そうやって青葉空手部代々受け継いでいってるんだってさ。」

アタシの家は昔からの東京人
それでも広島風のお好み焼きはお祭りとかで食べたこともあったけど、こんな豪快な作り方だとは思わなかった。

そしてトオル君の表情は少し緊張したようになる。
「さあ、ここからがいよいよ勝負だ。」
「勝負?」
アタシがそう尋ねると、トオル君は焼きあがった焼きそばを半生のお好み焼きの生地の上に乗せ、そして卵2つを割って鉄板の上に落す。

そして
「さあ、いくぞ!」
そう掛け声をかけると
一気にその上にその丸いお好み焼きをひっくり返しながら乗せた。

ジュゥゥゥゥーーーーーーー!!

辺りが卵や生地の水分の焼けて出る水蒸気に包まれる。
そしてその厚さはたっぷりと入った具のキャベツで優に3センチある。

「すごい厚いんだねぇ。ボリュームありそう(笑)」
アタシが驚いたように言うと

「いや、ここからが大切なんだ。見てろ。」
そう言うとトオル君はヘラをその分厚いお好み焼きにぎゅぅーっと押し付けて体重をかけた。

すると3センチほどもあったお好み焼きはその半分ほどの暑さに圧縮されてしまう。

そして仕上げにソース、マヨネーズ、青のり、鰹節をかけていった。

ん~~~~~、もうたまらないいい香り

ソースの焦げる香りでアタシのおなかはぎゅぅっと小さな音を立てそうになる。

「さあ、できた!凛、皿を出して。」
「ハイ。」
トオル君はそれを上手に8等分して、その一切れをアタシのお皿に乗せてくれた。

「さあ、凛。食べてみてくれ。」
満足した仕上がりのようで、得意げな顔でそういうトオル君
「ウン。じゃあ、いただきまぁーす。」

パクッ
じゅわぁ~~っとソースの絡まったキャベツと焼きそばの甘い汁が口の中に広がった。

「どうだい?」
「う~~~~ん。お・い・し・い。トオル君お好み焼きの天才だヨー!」
アタシがニコッと微笑みながらそう言うとトオル君は満足したように今度は自分もほおばった。


ああ、なんかすごく幸せな気持だな。
今、自分が感じている幸せはきっと男として生活していた頃にはわからないものだろうなって思う。
でも、アタシは今の自分がすごく幸せな気持ちでいることをはっきり確信できる。

こんなふうに2人で同じものを分け合って食べられることがすごく嬉しい。
オシャレなお店でオシャレな服を着て高級なものを食べるんじゃなくても、2人でいればこんなに楽しくてステキな時間を過せるんだ。
それはワタルと過した時間とはまた違う、アタシとトオル君の時間のような気がしたのだった。

アタシはこの人のことをきっともっと好きになっていくだろう
そのときアタシは心の中ではっきりとそう確信することができた。

第24話 シンデレラ☆デビュー

それは6月も半ばを過ぎようとしたある日のこと
教室のドアがガラッと勢いよく開けられると、みーちゃんが飛び込んでくるように入ってきて、そしてアタシとミコが座りながら話しているところにめがけてダダッと駆けるようにやって来た。

「あ、オハヨー、みーちゃん」
アタシはそんなみーちゃんに小さく手を振り挨拶をすると
「大変ヨッ!大変ッ!」
みーちゃんはハァハァと小さく息を切らせている。

「なにヨ?大変って、アンタまた何かしでかしたの?」
ミコが少し呆れるようにそう言うと
「違うって!まあこれを見てヨッ!」
そう言って彼女がアタシたちに差し出したのは1冊の本
それはCandyという高校生の女のコたちがよく読んでいる週間雑誌だった。

「ああ、新しいの買ったんだ。アタシ、これまだ読んでないんだよね。」
そう言ってミコがその雑誌をパラパラとめくって読み出すと
「違うってー!そこじゃないの。ココ、見て!」
みーちゃんは、ミコの眺めているその雑誌をひったくるようにして取り上げ、そしてその中の1枚のページを指差した。
「キャンパス…トライアングル? なに?これ」
不思議そうな顔でその記事を眺めるアタシとミコ
するとみーちゃんは
「あのね、仲のいい高校生の女のコたち3人1組でディズニーランドのCMに出ませんかってものらしいのヨ。しかも全国ネットのCMらしいよ!」
興奮したようにそう説明を始めた。

「へぇー、どれどれ…。」
そう言ってミコがその記事を細かく読み始める。
そして少しするとミコはパタンとその雑誌を机の上に降ろしてこう言った。
「あー、みー、これダメだヨォ。だって、申し込めば出れるっていうんじゃなくって選抜のコンテストがあるらしいじゃん。」
「そりゃそうヨ。そういうのがあれば出たい娘たちが一杯いるに決まってるじゃん。」
「でしょ?アタシもこういうのってよくわからないけど、けっこーものすごい人数が来るらしいヨ。しかも、ココに書いてあるけど、そのうち出られるグループってたった5組みたいじゃん。アタシらが出れるわけないヨ。」
いつも冷静なミコがいつものように冷静にそう言うと
「それはやってみないとわからないでしょー!? 何でもチャレンジする気持が大切なのヨッ! ガールズ・ビー・アンビシャスなのヨー!」
そう言っていつも熱いみーちゃんはいつものように熱く語り、その雑誌を右手に持ってその手を高々と上に上げて叫んだ。

そして今度はアタシの方に目を向け
「ね、凛。凛だってせっかくの高校生活でこういう経験だってしたいって思うでしょ?」
と、どこか脅迫気味にそう言った。
「え、あ、う、うん…そうだねぇ…。」
アタシが曖昧な返事をすると
「じゃあ、決まりー!アタシが申し込んでおくから。アンタら、後は心配しないでね。」
みーちゃんは勝手に一人でそう言って納得してしまったのだった。

こうしてみーちゃんをリーダーとしてアタシとミコは、ディズニーランドとスターダストという芸能事務所が共催で行う『キャンパストライアングル☆仲良し3人女子高生CM出演コンテスト』なるものに応募することになってしまったのだった。


その日の放課後
今日は3人とも部活の日ではないため、アタシたちは教室の中でさっそく打合せを行うことになる。
リーダーのみーちゃんは雑誌の記事をじっくり読み、そして言い始める。
「まず、応募には3人が一緒に撮った写真が必要みたいね。しかもそれは自分の学校の中で撮ったものに限るって書いてあるよ。」
「写真かあ。写真なら自動シャッターで撮ればいいんじゃない?」
ミコがそう返すと
「エー、ダメだよぉー。自動シャッターなんて、アタシたちの本当の魅力を引き出せないじゃん。」
みーちゃんはそう主張する。
「アンタ、アタシたちの魅力を引き出すって…。」
ミコが少し呆れたようにそう言うと
「ああ、誰か上手に写真撮ってくれる人いないかなぁ…。」
みーちゃんが呟くように言った。

写真の上手な人かあ……
まあ、いないこともないけど
中学時代の安田に頼めば多分引受けてくれるだろう
でも、そうすると安田を直に知ってるアタシとミコがそういうコンテストに応募したっていうのを知られるわけで、安田が工藤とかに話せば元クラスメイトみんなに知られちゃったりするかも
それで選ばれればいいけど、そんな可能性はほとんど期待できないからなあ…

そう考えながらアタシは頭の中で数人の人を思い浮かべてみたけど、なかなか思いつかない。
そしてあと10分ほどでHRが始まろうとするため、カバンの中の教科書類を机の下の収納ポケットに移そうとしたときフッと見つけたのは以前の都電のデートのときトオル君が撮ってくれた写真だった。

「あれ、凛。アルバム?」
それをみつけたミコがアタシにそう尋ねる。
「あ、ウン。前にね、トオル君がアタシのことを撮ってくれた写真をくれたの。」
「へぇー。ね、ちょっと見てもいい?」
「ウン。いいヨ。」
そう言ってアタシは写真が数枚貼られているその小さなアルバムをミコに渡す。

「わぁー、よく撮れてるじゃん。凛、現物より良く映ってるヨ。」
「ソレってどーいう意味じゃ?(笑)」
「アハハ、でもすごいいい表情してる。なんか笹村さんの凛への気持ちが良く現れている感じだよね。」
「エヘヘーーーー。」
ミコにそう言われて悪い気はしない。
アタシは思わず頬を緩ませて照れてしまう。

すると
その写真の前にぐいっと顔を差し出したみーちゃんは、突然大きな声でこう叫ぶ。
「これヨッ!これだワッ!」
みーちゃんのこの突然の雄たけびにキョトンとしてアタシとミコは顔を見合わせてしまう。
「はぁ?なにが『これ』なのヨ?」
ミコがいぶかしげにみーちゃんにそう尋ねると

「この表情を引き出せる腕、笹村さんのカメラテクは大したもんじゃない!」
「それで?」
「だからさ、笹村さんに撮ってもらおうヨ。アタシたちの応募写真。」
「エー、トオル君に?」
「そうヨ。やっぱりさ、写真って撮る人のテクとか気持ちで一番いい表情を引き出せると思うの。ただ上手に撮るだけじゃ何千人も応募してき中で埋もれちゃうじゃん。」
「エ、そんな何千にも応募してくるの?」
「かもしれないってことヨ。とにかくさ、ねえ、凛。笹村さんに頼んでくれないかなあ?いいでしょ?」
「ウ、ウン。まあ…いいけど。」
アタシは頼みというよりはほとんど強制に近いみーちゃんの言葉に少し戸惑いながら答えた。

ウーーーン……
どうせ書類審査で落ちるって思ってたから、安易に応募のOKしちゃったけど
トオル君に撮ってもらうってことはカレもそれを知るわけで
なんか恥ずかしいなあ…

「じゃあさ、今晩笹村さんに電話してお願いしてね?それで笹村さんの都合がよければ今週の土曜日にでも撮影ってことで。」
みーちゃんはまだカレから返事をもらっていないうちからドンドン予定を決めていってしまう。
「う、ん。じゃあ、とりあえず電話して聞いてみるから。」



その日の夜
晩御飯を終えたアタシは自分の部屋からトオル君に電話をかける。
内容を聞いたカレは意外にもそれを面白がって二つ返事で引き受けてくれた。

「まあ、受かってもダメでもいいじゃないか。そういうチャンスって滅多にないことだし、凛たちにとって高校時代のいい思い出になるんじゃないか。」
「ゴメンね、トオル君。せっかくの土曜日に。空手部の練習だってあるんでしょ?」
「ああ、午前中だけな。だから午後からでいいかな?どんな感じがいいか少し打ち合わせをして、それで撮影って感じにしたらどうかな?」
「ウン。ありがとぉ。じゃあ、アタシ明日みーちゃんたちにそのこと伝えておくね。」


そしてその週の土曜日
アタシとミコ、そしてみーちゃんの3人は大学キャンパスの中にあるチャペルの前でトオル君を待つ。
その日午前中に空手部の練習があったトオル君は12時半ごろ姿を見せた。

「やあ、おまたせー。」
そう言ってミコとみーちゃんにも挨拶をするトオル君はいつもの空手部の胴着の入ったバッグのほかにもうひとつ肩から大きなバッグを下げている。

トオル君と付き合い始めてから知ったカレのひそかなカメラ趣味
そこにはそうしたかなり本格的な機材が詰められているらしい。

「無理言っちゃってすみません。」
ミコがトオル君に申し訳なさそうにそう言う。
「いや、ぜんぜん気にしなくていいよ。こっちもオレの昔からの趣味だし。こういう腕を試すチャンスって中々ないしね(笑)」
そう言ってトオル君は笑って答えた。
「まったく、この娘はわがまま娘なんだらっ!」
ミコはそう言って「メッ!」という顔をしてみーちゃんの頭を軽くコツンとするふりをすると
「いやーん。わがままじゃないもーん。笹村さんの腕を見込んで頼んだのヨッ。」
みーちゃんはそう言ってぺろっと舌を出すポーズをした。

「トオル君。練習終わったばっかりなんだから、無理しないで一休みしたらでいいからね。」
そう言ってアタシは途中の自販機で買った冷えた缶コーヒーを1本トオル君に渡すと
「凛、やさしーねー。笹村さん、幸せでしょ?(笑)」
そう言ってみーちゃんとミコは冷やかす
「そ、そんなんじゃないってぇー!」
アタシは少し顔が赤くなるのを誤魔化すようにそう抵抗するけど、彼女たちには通用しないみたい。
「まあ、まあ(笑)さあ、とにかく日が高いうちに撮影をしてしまおうよ。みんな制服で撮るんだろ?」
「あ、そうだった。ほら、ミコ、みーちゃん。早く着替えに行かないと!」
アタシが急かすように彼女たちにそう言うと
みーちゃんは
「ハイ、ハイ(笑)わかってるって。」
と言いながらもまだニヤニヤとしている。

そしてアタシたちは女子トイレでそれぞれ学校の制服に着替える。
応募の規定では『制服で学校の中で撮影した写真を提出』とある。
ただウチの学校の女子の制服はわりと自由度があり、スカートはプリーツスカートであることを最低条件に色や柄にはっきりした規定がなかった。
そこでアタシたち3人はそれぞれ、赤、黄、青の3色をベースにしたチェックのスカートを用意した。

そして高等部の広場、間沢記念館の前、チャペルの前など何箇所かを移動して何枚もの写真をトオル君に撮ってもらう。
「ハイ、いくよー!」
パシャツ

トオル君の持ってきた機材はかなり本格的なものだった。
しかも小さい頃からのカメラマニアだけあって腕も信用できそうな感じ。
カレは3人の配置や構図などを綿密に計算してアタシたちに細かい指示を出してくれた。

一通りの撮影が終わった後
「あの、この写真って今見ることができますか?」
みーちゃんがトオル君にそう尋ねる。

「ああ、そう言われるだろうと思ってね。ノートパソコンを持ってきてあるんだ。画像をこれに落としてみんなで見てみよう。」
さすがトオル君!
っていうか、こういうときの男の人の準備の良さってすごいよね。
いろんなことを予想してそれに対応できるようにしているって、女にはあんまり思いつかないことだって思う。

アタシたち4人はさっそく大学の校舎の中のあるラウンジに移動する。
トオル君は、手際よくカメラからパソコンにデータを落としてそれをパソコンの中で整理する。

「さあ、じゃあ、順番に映すぞ。」
そう言われてアタシたち3人はパソコンの画面を覗き込んだ。

「わぁー、すごいキレイに撮れてるねー。」
「なんか、雑誌から抜け出したみたい。」
3人とも映される写真に思わず感嘆の声をあげてしまう。

どれも上手に撮れているだけでなく3人それぞれの表情がすごいいきいきしている。
きっとこういうのっていうのはカメラが本当に好きな人じゃないとできないことなんだろう。

「よし。じゃあ、これをディスクに移してあげるから。後は3人でどの写真にするかを相談して決めたら?」
「ハイ。ありがとうございます。」

そしてトオル君はフッと自分の右腕につけている時計を見た。
「おっと、もうこんな時間か。」
アタシはトオル君のその言葉に自分の時計を覗くと、時間はもう2時を過ぎようとしていた。
「そろそろ腹も減ってきたな。どう?よかったら学食で昼メシでも食って行かないか?オレ、奢るヨ。」
トオル君がそう言うとアタシたち3人は目を合わせてニコッとする。
「あ、ウウン。今日はね、アタシたちがトオル君をおもてなししようと思って。アタシたち3人が今日のお礼にトオル君の何でも好きなもの学食で奢っちゃう。」
アタシがそう言うと
「おおっ、そりゃうれしいな。ちなみにご飯は大盛りでもいいかな?」
トオル君はうれしそうな顔でそう答える。
「もちろん!大盛りと言わずお代わりでもなんでも」

さて、こうして写真も揃い、とうとうアタシたち3人はキャンパス☆トライアングルへの申し込みとなったのであった。
そして、この応募はその後のアタシたち3人に意外な運命を持たせることになる。


それからしばらくして
高校生活最後の学年もあと1か月ほどで夏休みに入ろうとしている。
アタシもミコもコンテスト応募のことはほとんど頭から消えかかっていた。

ときどき思い出したように
「そういえば、『アレ』ってどうなったんだろうね?」
そんなことが3人の間で話題に出ても
「ああ、もうほとんど忘れてた(笑)」
そんな反応で終わってしまう
わざわざトオル君にカメラマンまでお願いして応募写真を撮ったけど、それ自体が高校生活の思い出だったのかなあって。

そんなある日
バタバターーーーーーー
教室の中まで聞こえてくる廊下をすご勢いで走ってくる音がする

そしてこれまたものすごい勢いでガラーーーーッッ!
教室のドアをまるで破壊するかのようなけたたましい破壊音を立てて飛び込むように入ってきたのは、やはりみーちゃんだった。

「アンタ、この前優実先生に注意されたばっかりでしょ? 外見だけでもいいからチョットは女らしくしなヨ。」
息をハァハァと切らせるみーちゃんにミコは呆れたようにそう言う。

ハァハァーーーー
ハァハァーーーーー

みーちゃんはアタシとミコの前で腰を前にかがめて息を切らせる。
アタシはそんなみーちゃんの背中を何回かさすってあげたりする。

そして1分ほどしてようやく息を整えてきた彼女はいきなりアタシとミコにこう叫んだのだった。
「やったっ!やったのヨッ!」
「ハァ? みー、アンタ、また何かやらかしたの? そういえば、この前アンタが当番で職員室の奥の応接室を掃除した後に来客用のお菓子が忽然と半分くらいなくなったらしいけど。優実先生けっこう怒ってるみたいヨ。」
「ああ、あれはあまりに美味しそうだったんでチョットつまんだら止まらなくなっちゃってさあ。気が付いたら…エヘヘ(笑)」
「エヘヘじゃないわヨー。まったくアンタったら意地汚いんだから。」
「そ、そんなことないもんっ!そんなのはどーでもいいのっ!それよりさ、大変なのヨッ!」
「他にもあるの? もう洗いざらい白状しちゃいな。」
「ちがいのヨッ!来たのヨッ!来たのっ!」
「来たってなんがヨ?」
「アレヨ!ディズニーランドのCM出演コンテスト!」

一瞬キョトンとした表情になったアタシとミコ
「へぇー! もうすっかり忘れてた。アレってとっくに落選したんだって思ってたけど。じゃあ、合格ってわけ?」
「そういうこと。ホラ、これ見て?」
そう言ってみーちゃんはアタシたちに封筒を渡す。
ミコがそれを受け取ってアタシがその横から眺めた。

ミコは封筒を開き、その中に入っている通知書を読み上げる。
「どれどれ……。 「今回はご応募ありがとうございます。貴方たちのグループは今回のコンテストの応募者8528組のうちの100組に選ばれ予選を通過されましたのご報告させていただきます。」
「へぇー、アレって8千組以上応募してたんだ?」
アタシはびっくりした声を出してしまった。

「そうみたいヨ。そしてアタシたちはその中の100組に選ばれちゃったってこと。」
みーちゃんはウンウンと頷くようにそう答えた。
「ちょっと待って。まだ先があるから。」
ミコが同封してあるもう1枚の紙を広げて読み始めた。

「エット、それで1週間後の日曜日に本選があるのでご出場の手続きをお願いしますだって。」
「そっか、本選があるんだ。そりゃそうだよね。これで終わるはずないし。それで、ミコ。最終的に何組が合格になるの?」
アタシがミコにそう尋ねると
「エット、…5組みたい。」
「エー、じゃあ、100組のうちのたった5組?」
「まあ、そういうことだね。しかも本選の内容ってのが3段階選抜で、一次が面接、二次がデュエット曲、三次は…エ?水着審査だってーっ!」

「水着ーーー!?エーー!恥ずかしいよねー。」
「まあ、まあそこまで行くとは思えないけど」
「アハハ、こりゃ、無理だねー(笑)」
ミコとアタシは顔を見合わせてコロコロと笑う。

すると
「……やるワ!」
その横で突然そう呟いたのはみーちゃんだった。

「エ?」
「やるワッ!絶対にやってみせるっ!アタシたちは、受かって最後の5組の中に入ってみせるのっ!」
みーちゃんは突然右手に握り拳を作ってその手を高々と上にあげて叫んだ。

「だって、みーちゃん。100組のうちのたった5組だヨー?しかもみんな選ばれた人ばっかりだし。」
アタシが盛り上がりまくっているみーちゃんを宥めるようにそう言うと

「凛、アンタは最初から諦めムードだからダメなのヨッ!為せば成る、為さねばならぬ、何事も!」
みーちゃんの高揚はさらにヒートアップしてくる気配だ。
「エ、だって、みーちゃん…。」

そして彼女は
「さあ、本選まであと1週間しかないのヨッ!今日から特訓だからねーーっっ!」
そう言ってみーちゃんは力強い雄叫びをあげたのだった。

そしてその日の放課後
アタシとミコ、みーちゃんの3人が向かったのはカラオケボックスだった。

「いい?まず本選を勝ち抜くにはまず一次の面接だから。そこでアタシたちのキュートさを目いっぱい表現するの。」
「キュートさって…アンタ…」
「ほらっ!ミコ、アンタそんな足おっぴろげて座ってるんじゃないわヨッ!いくら女同士だってスカートの中のパンツが丸見えじゃん!凜はそんなズーズー音を立ててジュース飲むんじゃないのっ!女らしさヨッ!女らしさ!!」
みーちゃんは鬼監督のようになっていく。

それじゃ、まずデュエット曲を突破することから始めるわヨ。そのためには選曲が重要だと思うの。」
「デュエットかぁ…。3人で歌える曲っていったらAKBかモー娘あたり?」
「そうだねぇ。でも、そこら辺って他のグループも同じのを選ぶ可能性が高くない?」

「そうなんだよネェ…。問題はそこなのヨ。他のグループと差別化できる曲で、審査員にインパクトを強く与えられるものが必要だね。」
みーちゃんは考え込むように右手を自分の顎につけるポーズをする。
「インパクトだったら別に今のアイドルに限定しなくってもいいんじゃない?」
「まあ、そうだね。かえって古いアイドルのほうが今の女子高生が歌ったときアンバランス感があってインパクトあるかも。」
「古い曲かぁ…。どれくらい古い曲がいんだろう。」
そう言いながらミコがテーブルの上に備え付けてある曲を選択する画面を何気なく操作し始めた。

ピッピッピッ…
ミコが何回か選択ボタンを押すと「懐かしのアイドル」というジャンルが画面に映された。

そのとき
「キャンディーズ…かぁ。」
アタシはふと目についたグループの名前を何気なく呟く。

「キャンディーズ?凛、知ってるの?」
ミコがアタシにそう尋ねると
「ウーン、よくは知らないけど…、ホラ、よくTVで懐かしの曲とかやってるじゃない?アレで時々見たりしたから。」
「ああー、そっか。アタシも見たことあるな。そういえばあのグループも3人構成だったよね。」

こんなアタシとミコの会話がみーちゃんのインスピレーションにピタッと止まったみたいだ。
「キャンディーズっっ!!」
すくっと立ち上がったみーちゃんはいきなりそう叫んだ。

「わっ!びっくりしたー!」
横にいるアタシは急に立ち上がって叫ぶみーちゃんにビクッとしてしまう。

「キャンディーズヨッッ!」
みーちゃんは再び確かめるようにそう言った。

「ハァー、またみーのいつものが始まったヨ(笑)」
ミコが呆れるような顔で言うと

「キュートなイメージで古いのにどこか廃れない。これはほかのグループには思いつかない選択だって思うの。よしっ、キャンディーズでいこうっ!」
みーちゃんは一人ですでにそう決定してしまったみたいだ。

「はいはい、みーがリーダーなんだからなんでもいいわヨ。」
ミコはもうあえて反論しようとしない。というより、する気もないようだ。

キャンデーズは1970年代に活躍したアイドル3人のデュエットグループ
3人それぞれに音声パートの特徴があって、またセクシーというイメージよりはキュートな感じの曲が多かった。

そしてアタシたちはミコの持っているアイフォンでキャンディーズのいくつかの曲を聴いてみていろいろ考えた結果ある1曲を選んだ。
その曲は『年下の男の子』だった。

真赤なリンゴをほおばる
ネイビーブルーのTシャツ
あいつは あいつはかわいい
年下の男の子
淋しがりやで 生意気で
にくらしいけど 好きなの
LOVE 投げキッス
私の事好きかしら はっきりきかせて
ボタンのとれてるポケット
汚れてまるめたハンカチ
あいつは あいつはかわいい
年下の男の子

それは年頃の女の子の少し年下の男の子に対する、ちょっと背伸びした感情を表現した、どこかキュンとする感じの曲だった。

「へぇ、なんか不思議な感じの曲。でも、こういう恋愛って意外にありだよね。」
この曲を聴いた3人の感想はほぼ一致していた。
「エット、それじゃまずパートを決めなくちゃね。メインボーカルやってる真ん中の人を誰がやるかだね」
ミコがそう言うと
みーちゃんは涎をたらしそうな顔で目をキラキラとさせて訴えている。
「ああ、わかったわヨ(笑)みー、アンタがメインパートやんなさい。」
するとみーちゃんは
「エ、アタシ?あ、あはは。しょーがないわねぇー。」
白々しい顔であっさりそれを引き受けたのだった。

「さあ、それじゃこれから当日まで1週間。この曲を徹底的にマスターするわヨー!」
そしてみーちゃんの雄叫びで鬼の特訓がとうとう始まった。

アタシは向かって左側の人、ミコが右側の人のパートでさっそく曲に合わせてキーの調整をしながら歌を合わせていく。
何度も何度も繰り返し、みーちゃんの厳しいチェックが入り、そしてその日アタシとミコが解放されたのはなんと夜の7時すぎだった。

さて、それから1週間後の日曜日
いよいよキャンパス☆トライアングル本選はやってきた。


当日の会場は渋谷駅から少し歩いたところにある大きなホールだった。
一次選抜は3人とスターダストという芸能プロダクションとディズニーランドの広報担当者との個別に面接
そしてその後に大ホールの大勢のお客の前でで各自持ち歌を1曲披露して表現力を見るらしい。

その日その会場のホール前に集合したのは
アタシとミコ、みーちゃん
そして応援団としてトオル君と芦田さん、アタシの弟の悟、幼馴染の久美ちゃんとワタルAのカップル、さらに中学のときの井川さんと安田のカップルも来てくれた。

少し前に聞いた話だけど、秀才の井川さんとカメラオタクの安田はあの中3の時のクリスマスパーティ以来少しずつ接近して、高校はそれぞれ別のところだけどよく2人で会って遊びに行ったりということをしていて高2のときにはとうとうお付き合いということになったらしい。
そして今日はそのカメラオタクの安田がアタシたちの晴れの姿を記念に撮ってくれようとものすごい専門機材を持参して応援に来てくれたわけだ。

早めに集まったせいで受付時間まであと1時間ほど時間がある。
アタシたち10人は会場の近くにあるファミレスで作戦を確認することになった。


長いテーブルに10人が座る。
奥の端からアタシとミコとみーちゃんの3人が並んで座り、そしてトオル君と芦田さんが隣合わせて、その向かい側に久美ちゃんとワタルAカップル、そして安田と井川さんという順番で座っている。

「さて、それじゃ作戦を確認するわヨ。」
各自注文が終わるとリーダーのみーちゃんがそう切り出す。

「エット、まず第一関門は面接だよね。これについては、アタシが質問想定集を作って来たから。」
そう言ってみーちゃんはバッグの中から1冊のノートを取り出した。
「みー、アンタってこういうことだけはやけにマメだよねー。普段の勉強もこうなら感心するんだけど。」
ミコがそう言ってチャチャを入れると
「だまらっしゃいっ!興味のあることには一生懸命になれる。これが人間の本能なのヨッ!」
みーちゃんはそう言ってミコに切り返す。

そしてそれからみーちゃんは今度はアタシのほうに振り返った。
「それじゃ、凛。質問そのいち、いくわヨ。エット、「まず今回の応募のきっかけを教えてください」」

ウエイトレスさんが持ってきてくれたチョコパフェを頬張りながら、アタシはいきなり振られた質問に戸惑いながら
「アタシが答えるの?」
とみーちゃんに尋ねた。

「そーヨ。言ってみなさい。」
「今回の応募のきっかけ? ウーン、やっぱりみーちゃんが出たい出たいってしつっこく言うからしょーがなくって感じかなあ?」
アタシがそう答えるとミコもウンウンと頷く。
すると
「ダメーーー!ダメ!ダメ!ぜんぜんちがああーーーーうっ!!」
みーちゃんはそう叫びながらブンブンと頭を横に振った。
「あれ?違ったっけ?」
「それじゃアタシがただの出たがりの目立ちたがり女みたいに思われちゃうでしょーーがっ!」
「アハハ!そのとーりじゃん!(爆笑)」
横にいるミコがそう言ってげらげらと笑いだすと、みーちゃんはミコをギロッと睨み付ける。
「やぁーん、こわーい」
ミコが首をすくめるようにお道化て小さく舌を出した。

「あのね、いい? それはもし仮にそうであったとしても、それを言っちゃおしまいでしょ。その時点でアウト!」
「じゃあ、何て言えばいいの?」
「そうね、たとえば、アタシたちが知らないうちに友達が応募しちゃったんですぅーーーーとかね。それを少し戸惑ってるみたいな、困っちゃう感じの顔で言うのヨ。」
「ふぅん」
「そういう奥ゆかしさの表現みたいのが大切なのヨ。」
「奥ゆかしさかぁ、なんか難しいんだねぇ。」

そんなアタシとみーちゃんの会話にミコが
「まあさ、100組のうちのたった5組でしょ。どうせ最終合格できるわけないんだしこれもいい経験だって思えば。」
とアタシに笑いながら話す。

「アハハ、そうだねー。そういえばさ、ミコ。こらへんにクレープがすっごく美味しいお店があるらしいヨ。帰りに行ってみない?」
「あ、いいねぇ。アタシ、ストロベリークレープにしようかな。生クリームたっぷり乗せて。」
「わぁ、美味しそうー。アタシはね、チョコバナナにしようかな。みーちゃんは?」
「エットね、アタシはフルーツ山盛りに生クリームはてんこ盛りで…って、ちがぁぁぁーーーうっ!!」
みーちゃんのいつもにも増した力強い雄叫びにポカンとするアタシとミコ。

「まったく!アンタらったら女の意地ってもんはないのっ!?」
みーちゃんは腕を組んでアタシとミコを見据えるようにそう言う。
「でもさあ、こればっかりは入試みたいなわけにいかないんだし、頑張れば受かるっていうものでもないんじゃない?」
「たしかに努力だけで受かるとはアタシも思ってないけど、でもさ、せっかくのチャンスなんだし、一生懸命頑張って自分たちをアピールすればもしかしたらって思うじゃない。」
「そうだねー。なんたってこっちには装うだけなら超一流のみーちゃんがいるんだしーーー」
アタシがそう言いかけると
「アタシは装うだけの女かああーーーー!」
みーちゃんのボルテージはMAXに達しつつあった。


「ク、ククク……」
そんなアタシたちの漫才みたいな会話を横で聞いているトオル君と芦田さんの2人はもう笑いをこらえるのに必死の様子だ
「さ、笹村君、わ、笑っちゃ悪いってーーーク、ククク……」
「そ、そんなぁ、ククク…あ、芦田さんのほうこそ、ククク…」
2人して顔を見合わせながら口に手を当てて下のほうを向き肩まで震わせ始めた。
その一方でワタルAと安田、悟は3人でパソコンの話題で盛り上がっているようで、こっちの会話にはほとんど関心を示していない。


そこにさすが中学時代のわがクラスの委員長、井川さんがこう言って助け舟を出した。
「でもアタシも佐倉さんの言うことは大切だと思うな。それぞれが自分の魅力を目いっぱい表現すればきっと審査員の人たちもきっと関心を示すと思うし。」

「そうヨッ!アタシの言いたかったのはまさにそれなのヨッ!井川さん、アナタとはこれからいい友達になれそうだわっ!」
みーちゃんは井川さんのアシストに調子に乗って大きく頷いた。

「ア、アハハ。そ、そうね。」
井川さんは何とも困ったような顔をして苦笑い。

するとミコが
「そうね。楓ちゃん(井川さん)がそう言うなら信用できるわね!」
そう相槌を打つと

「アタシが言うと嘘っぽいのかあああーーーーー!!」
すかさずみーちゃんが雄叫びを挙げたのだった。



そして1時間後
会場に入り受付を済ませたアタシたちは、椅子がたくさん並ぶ大きな控室に案内された。

中に入るとそこにはすでに何百人もの女のコたちが集まっていて、各グループごとにヒソヒソと事前打ち合わせをしたり、歌のキーを合わせたりと余念がない様子。

女のコ同士のこうした場ではまず相手をチェックすることから始まる。
控室のドアが開くたびに各グループの娘たちはさりげなく相手をチェックしているのだ。

「フフン、大したことないじゃん。」
「よくあんなんで応募してきたよねー。」

かなり辛辣な言葉が小声で飛び交っている。

そしてアタシたち3人が入ったとき、案の定鋭いチェックの目が突き刺さってくるのを感じた。


こうして女同士の戦いの火ぶたは切って落とされたのである。

待合室となった一室の中は150人もの女のコたちの熱気で溢れている。
普段は何かの会議室にでも使っているのだろうか。
カーペットの敷かれた部屋の中央にいつもはあるのだろうテーブルはなく、部屋の四隅に会議用のチェアがたくさん並べられている。

入ったときは割と広い部屋に感じたけど、その中の至るところで打ち合わせや事前の練習が行われているせいだろう、それぞれのグループの火花がバチバチと飛び交っていた。

聞いた話では書類選抜された100組に対して全国でこうした会場が3か所設けられて、東京会場ではそのうち50組が集められている。
そのうち最終的に合格するののは全国でたった5組、東京からはせいぜい3組の予定らしい。

アタシたちはとにかく空いている席を見つけて荷物を置き腰を下ろす。
一息ついてフッと周りを見回すと、まさに色とりどりの制服姿の女のコたち。
この日の審査は日常の制服で来るようにと書類選考の合格書類にあったので皆その通り普段の格好で来ているわけだ。

「あれって慶洋女子じゃない?」
「実際女子の娘もいるみたい」
小声でみーちゃんとミコが囁く。

見ると青葉の初等部のすぐ近くにある実際女学園の制服を着ているグループが2グループ離れた席に座っている。
普段学校同士の交流はないけど、近いので同じ渋谷駅を利用しているためよく見かける制服だ。
しかもアタシとミコは高校受験のとき実際女学園も受験したのでピンとくる。

アタシはその実際女子のグループのうちの一人とフッと目が合う。
するとその娘はスッと席を立ちあがってこっちのほうに歩いてきた。

「あの、青葉学院の方たちですよね?」
その娘は目が合ったアタシにそう話しかけてきた。

スゥッとした目鼻立ちに162、3センチくらいはありそうな女のコにしては割と高めの身長
見た感じは何となくみーちゃんに似てお人形のような綺麗な感じの娘だけど、イギリス系のクオーターのみーちゃんに対してこの娘はオリエンタルな感じの美少女だ。


「エ、あ、ハイ」
突然話しかけられたアタシは戸惑うような返事をしてしまった。
「アタシたち、実際女学園のグループなんです。「あ、青葉の制服だぁ!」って思ってつい話しかけちゃいました(笑)」
話してみると少し照れるようなその雰囲気気がとてもかわいい、気さくな感じの娘だ。
「あ、やっぱり? じつは今アタシたちも実際の人だよねって言ってたの(笑)」
そんなふうにして偶然ご近所同士の2つの学校のグループは混ざり合い親しく話し始めた。

アタシに話しかけてきた娘は工藤美果ちゃんといって実際女子高校の2年生、アタシたちよりも1つ下の学年らしい
そして実際女子のグループ3人はなんと演劇部の仲間らしい。
「へぇー!じゃあ、やっぱりこういうのって得意なんだよね?」
ミコが工藤美果ちゃんにそう尋ねる。
「ウウン。そんなことないですヨー。それに変にそういうのを出しちゃうと相手はプロだから見抜かれちゃうし(笑) かえって普段通りの自分をアピールしたほうがいいみたいですヨ。それに、アナタたちのほうがこの部屋に入ってきたとき目立ってたみたいだし。」
「エー、アタシたちが? なんかそんな実感ないなぁー(笑)」
アタシがそう答えると
「ウウン。ホントです。だって、3人が入ってきたとき周りの女のコたちの雰囲気がちょっと違ってたもん。」
「そうかなあ(笑)アタシたちは逆にみんなに圧倒されちゃった感じ。」
ミコも笑いながらそう言う。

すると工藤美果ちゃんは小声でこんなことを話し始めた。
「あの、このオーディションって何が目的だか知ってます?」
「エ? ディズニーランドのCM出演じゃないの?」
美果ちゃんのその質問に不思議そうにミコが尋ねた。
「まあ、それはそうなんですけど。それは建前みたいなので、ホントは新人のアイドル発掘のためじゃないかって話を聞いたんです。」
「アイドル発掘?」
「ええ。応募要領で最終的に5組が選ばれてCMに出演することになるってありましたよね。でもそのうちの何組、ウウン、もしかしたら何人かがその後にそういう打診を受けるんじゃないかって。」
「そうそう。だからスターダストっていう芸能事務所が一緒に共催でやってるって、そういう話があるんです。」
美果ちゃんの横にいる実際女子のもうひとりの娘もそう相槌を打って言った。
「じゃあ、ここにいる人たちの中にもそういう目的で来てる人もいるの?」
「っていうか、そっちのほうが多いかもしれませんね。」
「美果ちゃんもそういう希望があるの?」
アタシはそう彼女に尋ねる。
「ウン。じつは今回の応募もアタシが2人を強引に誘っちゃったみたいな感じなんです。昔から芸能界に興味があったんだけど、できたら将来女優になれたらいいなって思って、それで演劇部にも入部したんです。」
そう話す美果ちゃんの表情はとても真剣そうだった。
「すごいなぁー。アタシたちなんかほとんど遊びみたいな気持ちで応募しちゃったし。それにアタシたちなんかチアリーディング部2人とアタシなんか水泳部だもんね(笑)」
ミコが感心するようにそう言った。
すると
フッとアタシが横にいるみーちゃんのほうを見ると、彼女はなぜかとても真剣な表情で美果ちゃんの話を聞いている。
いつもはこういう話の輪では中心的存在になるみーちゃんはこのとき不思議と大人しかった。


アタシたちがこんな話で盛り上がっていると、係の人らしき男の人が2人部屋の中に入ってきて、大きな声でこう告げた。
「エー、それでは審査を始めます。受付のところで皆さんそれぞれにエントリーナンバーの記してあるプラカードをお渡ししましたが、それを着けてください。最初は面接審査ですので、1番~16番、17番~33番というように3つの部屋に分けてその番号順にお呼びします。」

アタシたちはさっきもらったプラカードをバッグの中から取り出してそれぞれの胸のあたりに着けた。
アタシたちのエントリーナンバーは48番で番最後のほうの番号、美果ちゃんたちの実際女子グループは11番。
これでも美果ちゃんたち真剣組との差が出ているのだろうか。


「それでは1番、17番、34番のグループの方は面接室にご案内しますので私に付いてきてください。」
そう言われてまず3組のグループの女のコたちが立ち上がって歩き出す。
ピリピリとした空気があたりを張りつめていき、アタシたちみたいな遊び雰囲気の応募組に対してでも緊張感は否応なく襲ってきた。


そして、しばらくしてその娘たちが部屋に戻ってくると、いつもなら「どんな質問をされたの?」なんていうふうに女のコは初対面同士でもわりと気さくに聞き合ったりするもんだけど、このときはお互いがライバル同士。だから情報をあげて相手を少しでも有利にさせるつもりはない、というふうに前のグループも寡黙そうになる。

そんな中で美果ちゃんたち実際女子のグループはアタシたちより一足先に面接が終わって戻ってくると、小声でこんなことを話してくれた。

「あのね、けっこう意外でしたヨ。もっといろいろ聞かれるのかなって思ってたんですけど、普段の生活とかそういうことばっかり。」
「あ、そうなんだ? じゃあ、アタシたちでも面接くらいはなんとかなるかも(笑)」


そんなふうにして時間はいつもよりゆっくりした感じで過ぎていく。
そして面接開始から1時間ほどして、いよいよアタシたちの順番が来た。

「エントリーナンバー48番のグループはお願いします。」
そう告げられてアタシたちが案内されたのは控室を出た廊下を30mほど歩いたところにある割と小さな会議室だった。

面接なんて青葉学院高等部の受験の時以来だ。
緊張するぅぅぅ~~~~~~~~!!

そしてリーダーのみーちゃんがコンコンとその部屋のドアをノックすると
「どうぞ」
と中から声がかかる。

ガチャっ

ドアを開けるとアタシたちの視線に飛び込んできたのは会議用の長いテーブルに並んで座っている2人の男性人と1人の若い女性だった。
2人の男性はひとりが30代くらいの若い感じの人、もう一人は50代くらいの感じのそれでもとても清潔そうな雰囲気の人だった。

「エントリーナンバー48番、青葉学院高等部の佐倉 美由紀です。」
「藤本 美子です。」
「小谷 凜です。」

アタシたちは事前に教えられたとおりみーちゃんを中心に自己紹介をする。

すると
「それでは、どうぞお掛けください。」
3人のうちの一番年長の人からそう声をかけられて、アタシたちは長テーブルの前に並べられている椅子に腰を下ろした。

「今回のコンテストに応募したきっかけは?」
「将来どういうことを目指していますか?」
みーちゃんが事前に作ってくれた想定問答集を思い出して、頭の中でそのための答えの準備をする。

しかし実際に聞かれた質問はこうしたものとはかなり違っていた。

「それでは3人に質問させていただきます。貴女がたがそれぞれ今までの人生の中で一番大切にしたいと思うことを話してください。」
意外な質問にアタシたちは一瞬答えに窮してしまう。
「エット、あの…」
かなり戸惑っているみーちゃん
それでも彼女は少し考えた後こう答えた。
「友達です。私にとって今横にいる2人は高校に入って初めてできた友達なんです。そしてこの2人がいるおかげで私の高校生活はとても楽しいんです。だから2人は私にとってとても大切なものなんです。」

するとその答えを聞いた一番年輩の男の人はニコッとした笑顔でこう答えた。
「ウン。それはとても素晴らしいことですね。貴女はとても良い出会いができたのです。良い出会いというのはすべての人にできることではない。その意味で貴女はとても運が良かったといえるでしょう。この気持ちはずっと大切にして、これからも友達を大切にしてください。」

ミコは小学校時代素晴らしい先生と出会って自分も将来教師を目指そうと思ったことへの気持ちを説明した。
その年配の男性はミコの答えにやはり同じようにやさしく微笑み、そして
「ぜひその夢を実現するよう頑張ってください。私も応援しています。」
と言ってくれた。

「さて、それでは最後に小谷さん、貴女はどうですか?」
「私は…」
アタシは少し答えに躊躇った。
アタシにはミコみたいな具体的な夢はない。
そのときフッとアタシの中に湧きあがったのは、中学を卒業するとき担任の山岸先生がアタシたちに贈ってくれた『最後の宿題』だった。
「私は…、中学の卒業の時担任の先生がクラスのみんなに最後の宿題を出してくださいました。」
すると
「ほう、どういう宿題ですか?」
その年配の男性は興味深そうに少し身を乗り出した。
「はい。それは、「人を愛せる人間になってください。人を愛せる人間は、人からも愛されます。そして人を愛するということの意味、これをこれから先の長い人生の中でゆっくり考えていってください。」というものです。私はまだ色んなことを勉強していかなければならないと思っています。その中で先生の出してくださったこの宿題をいつも心の中で大切にして、いつか自分なりの答えを出したいって、そう思ってます。」
その男性は私の話を目を閉じて聞いていた。
「なるほど。それは一生をかけて考えるべき宿題ですね。貴女も藤本さんと同じようにとても大切な先生と出会った。このことは佐倉さんの答えもそうですが、『出会い』というものに通じると思います。先生があなたたちに出してくれた宿題の答えはあなたたちがこれから先もきっと経験する多くの出会いの中にある気が私にはします。どうか、その先生の宿題をいつか必ず達成できるよう、一つ一つの出会いを大切にしていってください。」

そして最後にその男性は
「3人の答えはそれぞれでしたが、どこかでひとつの大切な気持ちにつながっているように感じました。私は貴女方3人がなぜ友達になったのか、その理由が偶然ではなく必然であったように思います。これから先も3人ずっと仲良く、良い友人であり続けていってほしいと思います。」
というものだった。



面接室を出たアタシたちはどこか不思議な気持ちだった。
これは面接だったんだろうか?
あの年配の男性の言葉は、面接というよりはアタシたちをどこか温かい気持ちにしてくれる優しい諭みたいな気がした。
「なんかさ、あの人に話すときってすごく自分が素直な気持ちになれる気がしたよね。」
ミコやみーちゃんもどこかでアタシと同じような印象を持ったみたいだった。


朝9時に始まったコンテストは、面接審査とデュエット曲で一次審査を行う。
すべてのグループの面接が終わったのは10時半を過ぎようとしたころだった。
そして11時から行われるデュエット曲の審査と合わせて一次の選抜結果が発表される。

1グループあたり事前に届けた選曲の一番だけを振り付で歌うことになっていて、建物のなかには観客が200人くらい入れるホールが3つあり、50グループがさっきの面接審査のようにこの3つの会場に分かるのだ。
アタシたち第3組17グループは案内されたホールに入っていきなり驚いた。
舞台側から見ると、そこにはかなりの数の観客が入っている。
かなりというよりけっこうすごい人数だ。
そしてその中にはトオル君や芦田さん、久美ちゃん、井川さんたちといったアタシたちの応援団もいて、ワタルAなんかはきっと朝持ってた大きなバッグに仕込んでいたのだろう太鼓とメガホンまで準備してるし…。

そしてそれから間もなくして
「それではデュエット曲の審査を始めます。」
という係の人の言葉があり、出場するアタシたち全17グループは舞台の上に上がって並び、順番に紹介されると客席からパチパチと拍手が上がった。それぞれのグループの応援らしい。

そして最後のほうになってアタシたちの名前が呼ばれる。
すると

「ウオォォォーーー!凜ちゃん、ミコちゃん、みーちゃん!ゴーゴー!凜ちゃん、リン!リン!リーーーン!」
ワタルがマイ太鼓をドンドンと叩きながらメガホンで叫ぶ。
会場の中にはどっと大きな笑いが上がった。
ワ、ワタルめぇぇ~~~~~~~!!
ああ、あまりに恥ずかしすぎるーーーーー

アタシは真っ赤になって下を向いてしまった。
ミコは苦笑してるし
一方でみーちゃんは会場に投げキッスなんかしてる(笑)

そして審査員が最前列に着席する。
今度は5人の審査員でその中にはさっきの面接のときにいたあの優しそうな微笑みをしていた年配の男の人もいた。

そしてデュエット曲審査が始まった。
やはり選曲はAKBとかモーニング娘なんかが多い。安室奈美恵や3人グループということでパフュームを歌うグループもあった。
最後から3組目のアタシたちが歌ったキャンディーズはかなり客席には予想外のものだったらしく、知らない人もけっこういるみたいで
「キャンディーズって?」
「さあ、知らない」
選曲紹介ではこんな声が聞こえてくる。


「真っ赤なリンゴを頬張る ネイビーブルーのTシャツ♪
あいつは、あいつはカワイイ年下の男の子♪」

しかし曲が始まると客席の反応は意外にも良かったみたいで
「へぇ、なんかカワイイ感じ」
「けっこう乗っちゃう感じしない?」
なんてなったりもした。

それでも、カラオケルームで付け焼刃で練習しただけのアタシたちに比べて他の出演者たちの歌やダンスは完成度が高い。
実際女子の美果ちゃんたちなんかはさすが演劇部だけあって声の張りとかダンスの切れとかプロ並みと言ってもいいくらいだ。

それに対してアタシとみーちゃんはチア部ってことでダンスが全然関係ないわけじゃないけど、まさか制服のスカートでいつもみたいに足を挙げて踊るわけもいかない。ミコなんかは水泳部だから練習していた時も振付にはかなり苦労していたみたいだった。

それでもなんとか歌い切ったアタシたちだった。

「はぁー、やっと終わったねー。」
「まあ何とか歌い切れたし悔いなしだヨ。」
アタシとミコはこんな話を囁きながらホッとしている。
それに対してミーちゃんの目はギラギラと輝き、
「何言ってんのヨッ!絶対合格するわヨッ!」
といつもの雄叫びをあげている。


出場者はふたたびまた最初の控室に戻って集合する。
しばらくするとそこに2人の係の男の人がやってきた。

「それではこれから一次審査の結果を発表します。合格者は10組です。番号を呼ばれたグループはそのままこの会場に残ってください。」
そう言って封筒を開けると若い順に番号を読み上げていく。

「8番都立北高校チーム、11番実際女子高校チーム……」
やはり美果ちゃんたちの実際女子チームは合格だ。

そして番号は続けて読み上げられていく。

「40番ハリス女学院チーム」
これで8組目だ。
あとは2チームだけ。

「47番櫻園女子高チーム」
アタシたちの前のグループが合格だ。

「ああ、あと1組。やっぱり厳しかったみたい。」
「まあ、これもいい経験じゃん。」
「そうだねー。ミコ、帰りにクレープ行こうね。」
「うん、行こう、行こう。」

アタシとミコはそんなことを言い合い、そしていつも学校の礼拝の時間には居眠りばっかりのみーちゃんはこんなときだけは目をつぶって手を合わせてお祈り状態だ。

そんなとき

「最後の10組目は48番青葉学院高等部チームです。」
「ほら、最後は青葉学院高等部だって。」
「青葉学院かあ。あれ?」
「エッ!!青葉学院!?アタシたちじゃん?」

その声にみーちゃんはいきなりパッと目を開けて、
「やったぁぁーーーー!」
思わずガッツポーズをとった。
アタシとミコは意外な結果にしばらくキョトンとしているのだった。

さて、思いもがけず一次選考を突破してしまったアタシたち
ここまで来ると「もしかして」という期待も少しだけ湧いてくる。


そして最終選考まで1時間の休憩タイム
アタシたち3人とその応援団たちはお昼ご飯を兼ねて再び集まり作戦を練ることになった。


「まさかとは思ったけど、本当に最終選考まで来ちゃうとは我ながらびっくりしたヨ。」
ミコはそう言いながら目の前に置かれているラザニアにパクつく。

「我ながらびっくりじゃないわヨ。ミコ、アンタってホント自覚ないなー!アタシたちは選ばれるべくして選ばれたのヨ。」
そう言いながらたらこスパゲティーをほおばるトコトン強気なみーちゃん

そしてアタシといえば
「わぁー、CM出演料が1グループで50万円だって!! まず、みんなでパーティやるでしょ。それでもまだたくさん残るよね。そしたらアタシ、トオル君に何かプレゼント買っちゃおうかなー。」
もう気分はほとんどアッチの世界に行っちゃってる。

それを聞いたトオル君
「おおっ、そんなこと言ったらホントに期待しちゃうぜー(笑)」

もしかしたらトオル君は新しいカメラの機材でも考えているんだろう。
じつはアタシはひとつ考えているものがあって、それは2人のお揃いの腕時計がほしいなって思ってる。

トオル君がアタシにきちんと気持ちを伝えてくれたあの喫茶店で
カレはアタシに「2人で同じ時間を歩いていきたい」って言ってくれた。
その言葉がずっとアタシの心の中に残っていて、それを何かの形にしたいなってずっと思っていた。

同じ腕時計を2人でつけて、そして2人で手をつないで歩くとか
最近そんなことを想像してる。

「ミコ、最終選考ってどんな感じなの?」
久美ちゃんがミコに尋ねた。
「それがさあ……。」
ミコは久美ちゃんの言葉に躊躇う表情をした。
すると
「水着審査ヨッ!」
そんなミコの躊躇いをバッサリ切り捨てるかのようにみーちゃんはスパッと言い放った。

「エー、水着!!ホントに?」
普段は冷静沈着な井川さんが大きな声を出して言った。
「ホントヨ。まさか最終選考まで進めるって思ってなかったから、今まではあんまり気にしなかったけど。」
ミコは「ハァ~」と小さくため息をついてそう言う。
「3人で水着?」
トオル君がアタシの方を向いてそう尋ねる。
「ウン」

トオル君は何やらちょっと複雑な表情
そういえばアタシってトオル君に水着姿を見せたことってなかったな。
っていうか、カレと付き合い始めたのが2年生の終わり
そして今年の初めて2人での夏を迎えるわけで

アタシが女としての人生を始めてから男の人に水着姿を見せたのは唯一ワタルだけだった。
中3のときの夏休み
アタシはワタルと2人だけでプールに行った
それがアタシとワタルとの初めてのデートだった

中2の夏休み、それまで自分を男だと思って男としての人生を送っていたこの身体に突然訪れた初潮という現実
そしてそれから1年後、その頃にはアタシの身体は胸はしっかりとした膨らみを示し、お尻は丸みを帯びて腰との境目がはっきりとしてきた。
洋服を着ているときは胸の膨らみも腰つきもそれほど目立たない感じだったけど、水着になると自分の身体がはっきりと女性であることを自覚してしまう。
思えばあのときに『ボク』は『アタシ』に変わったのだろう。


「ーーー凜?」
そんな過ぎ去ってしまった懐かしい記憶に浸ってチョットボーっとしているアタシにみーちゃんが声をかけた。
「エ、あ、ゴメン。なに?」
「なにボーっとしちゃってんのヨ? アノネ、ここで気を緩めちゃダメって言ってるの。最後の最後まで全力で立ち向かわなきゃ。」
「あ、ウン。そうだよね。ウン、がんばろー!」
そう言ってアタシは少し焦ったように小さくVサインを出したが、みーちゃんは呆れた顔をしてアタシを見ている。

記憶を消されていない久美ちゃんはきっとアタシのそんな気持ちを察したのだろう。
みーちゃんがアタシの方から目を離すとアタシに小さくニコッと微笑んでくれた。
その一方でミコは黙ってオレンジジュースをストローで啜っている。

そんなことを話していると、そろそろ時間は最終選考開始の1時半まであと30分となっていた。

そしてみーちゃんは立ち上がり
「さあ、最後までがんばろー!」
と雄叫びをあげる。
「オーーー!!」



「それでは続きまして青葉学院高等部チームです。」

ここは最終選考会場、今度は正面客席にお客さんが数百人いる大きなホールでの水着審査。
目立ちたがりのみーちゃんはともかくアタシやミコはさすがに恥ずかしい気持ちの方が先だってしまう。
アタシたち3人は赤(ミコ)、青(みーちゃん)、白(凛)のワンピース水着を身につけ軽快な音楽に合わせて小刻みなダンスステップでなんとか檀上に歩き出した。

壇上の中央まで来るとそこでストップ
そして3人並んで改めて客席を見ると

(うわぁ! ものすごい数じゃんっ!)
(あ、わわわ・・・。アタシたちって、もしかしてとんでもないとこに来ちゃったんじゃ・・・)

そんなときでも慢心の笑みを浮かべる心臓の図太いみーちゃんだったが、アタシは小刻みに自分の足が震え始めるのを感じた。
審査委員の中には一次予選のときに面接相手だったあのおじさんまでいる。

(あ、やだ・・・頭がボーっとしてきちゃった)

「えー、それでは3人にひとつ質問をさせていただきます。今日こうして応募してきた3人の応募理由をお聞きします。」

(へ?お、応募理由・・・、えと、なんだったっけ?)
急な質問にアタシの思考回路は完全ショート。

そしてそんな中、赤の水着のミコは少し躊躇いのしぐさを見せると
「高校生活のいい思い出になればと思って。」
とさすがに無難な答えをする。

(あ、えと、そうだったっけ?)

青の水着のみーちゃんは
「えへへ~、じつは友達がアタシたちのこと勝手に応募しちゃいましてぇ~。」
と打ち合わせのときの自分で勝手に作ってきた想定回答を図々しく。

(あれ?そうだったっけ?)

アタシの顔はもう真っ赤、とても正面なんて見れやしない。頭は水蒸気が上がってきそうな勢いだ。

「それでは最後に小谷さん、どうですか?」
質問者がアタシを促す。

「え、えと、その、あの・・・」
「はい?どうですか?」

(えと、なんだっけ?応募理由・・・)

そして頭の回路が完全ショートしたアタシが口走ったのは
「そ、それは、み、み、み・・・」

「み?みんなで相談して?」

「いえ、あの、その、み、みーちゃんが出たい出たいってしっつっこく言うからしょーがなく、あっ!しまった!」

思いもかけない回答に審査員も会場のお客さんたちも大爆笑
そしてアタシの隣ではみーちゃんが鬼のような顔で睨んでいる。

「り~~~ん~~~~~っっ!!あんたはぁぁーーーーーーっっ!!!」
「ごっ、ごめんっ!みーちゃん、言っちゃった!」
「言っちゃったじゃないわよぉぉぉーーーーーーっっ!!まったくこの娘はっ!!」

ミコは頭をポリポリかいてお手上げ状態のポーズをしてる。

そんな大失態を演じてしまったからもうアタシたちは完全に諦めムードになってしまったわけだ。
水着審査が終わって出場者が待機場の会議室ではみーちゃんがさっきからずっとブツブツと文句を言っている。
「ごめんね、みーちゃん。ホントゴメン!」
アタシはもうとにかくさっきから平謝りでみーちゃんに謝っているわけだ。
「みーももういい加減凜のこと許してあげなヨ。」
そんなときミコが救いの手を差し伸べてくれるけど
「わかってるわヨ、でもさ、アタシだって一次突破できたから、もしかしたらって思うじゃない?期待しちゃうじゃない?」
そう言いながらまたブツブツモードに逆戻りしてしまう。
「凜も言っちゃったものはもうしょーがないんだから。あんま気にするんじゃないヨ。」

ああ、こういうときミコのありがたさがホントよくわかる。
やっぱりミコはアタシよりずっと大人なんだって思う。


そんなとき背広を着た男の人2人が会議室の中に入ってきた。
その姿を見た会場のみんなはピタッとおしゃべりをやめ、部屋の中は一気にシンとした。

その男の人2人は会場の一番前に並ぶと
「エー、それではこれから最終合格者の発表を行います。」
とアタシたちに告げる。

完全諦めモードのみーちゃんは
「へーへー、そーですか、発表しやすか。」
と拗ねたような顔で小さく捨て台詞を吐いている。

「みー、まだダメだって決まったわけじゃないんだヨ。最後まで希望は捨てないでおかないと。ね、最後までちゃんと聞いてようよ。」
ミコは冷静にそう言ってみーちゃんを励ますと

「わかってるわヨッ!アタシだってホントはもう凛のこと許してるもんっ!」
そう言ってぷいっと口を膨らませて拗ねたように横を向いた。

「まったくこの娘は素直じゃないんだから(笑)」
そう言ってミコは
「いい子、いい子」
と言ってみーちゃんの頭をなでている。

「それでは発表いたします。合格者合計で3組です。」
ゆっくりした口調でその男の人は手に持っている封筒を開けようと自分の背広のポケットからはさみを取り出そうと手を入れた。

そこにいるすべての女のコたちが自分の番号を聞き漏らすまいと静まり返っている。

コチコチ、コチコチ・・・

あまりに静かな部屋の中で時計の秒針を打つ音まで聞こえてきた。

白い封筒のはさみが入れられ、そしてサクッと音を立てて封が切られた。

その男の人は中に入っている一枚の紙を取り出しそれを開く。
「それでは発表します。」


「エントリーナンバー8番、横浜親栄女子学園チーム。」

「きゃぁぁーーーっ!!やったぁーーーっっ!!!」
会場の前の方で女のコたちの喜びの叫び声が聞こえた。

「2組目です。エントリーナンバー47番。実際女子学園チーム。」

(あ、実際だっ!)
アタシたちのそばに座るさっきの実際の女のコたちはびっくりしたような顔で、そしてその後
「きゃぁぁーーーーっっ!!」
と声をあげて手を取り合って喜びだした。

「よかったね、オメデトー。」
アタシが実際の女のコたちにそう言うと、3人ともホントに嬉しそうな顔で
「うんっ、ありがとぉー!」
と涙を流し始めた。

さて、ここまで来ると
「ああ、やっぱり番号の若い順に発表してるんだね。」
と女のコたちは察知してここにいる全10組のうち47番より若い番号のほとんどのグループはドーンと一気にトーンが下がってしまい
「さ、帰ろっかあ?」
と身支度を始めてしまう。

「それでは最後の3組目です。・・・あ、ちょっと待っててください。」
そのとき合格者を読み上げている男の人に関係者らしき女性が寄ってきて小さな声で何かを囁いている。
そして2人は会場の隅に寄って相談を始めた。

すると
「フフッ・・・フハハハハッ!」
アタシの横で小さな笑い声が聞こえた!
それはまるで悪魔が地底深くから復活するような、不気味な笑い声。
そう、その悪魔の声の主はやはりあのみーちゃんだったのだ。

「フハハハハッ!なーんと、これで45組が落ちたわっ!そして47番より後ろの番号はあとたった3組、そしてアタシたちは48番。これはもしかするともしかするわヨォォーーーー!!」
みーちゃんはここまでの流れから自分たちに望みが出てきたことを察知して復活を始めたのだ。

「あ、大変失礼をしました。」
1分ほどして男の人は再び中央に戻ってくる。
そのときアタシは彼が女性から何か別の封筒らしきものを受け取ったのを見た気がした。

「それでは最後の3組目です。」
35番より前の女のコたちは完全な諦めムード、そして47番以降の女のコたちはものすごい期待感ムードで会場の中は異様な雰囲気。

「エントリーナンバー11番、都立城東高校チーム。」

(えっ!!あれ??)

会場全体が天地をひっくり返したような感じになった。
言われた11番の女のコたち自身呆気にとられている。
そして
「きゃぁぁぁーーーーーーーっっ!!!」
さっきの2組よりもさらに大きな奇声があがった後飛び上がって喜び始めた。

(ああ、アタシまでちょっと期待しちゃった(笑))

あまりの意外さにみんなはもうボー然自失状態。
そしてフッと横を見ると

ドーーーーンッ!!!

と落ち込んでしまっているみーちゃん。

「ううっ・・・期待させるんじゃないわよぉぉー。」
半分鳴き声みたいな小さな声を絞り出している。

「ああ、そっちに戻るかあ(笑)」
ミコはそう言ってケラケラと笑い始めた。

「びっくりしたねぇ。アタシもチョット期待しちゃった(笑)」
アタシまで釣られて笑い始めてしまう。

「うう、アタシなんて完全復活モードに入ってたのよぉぉーーー!」
みーちゃんは引き寄せた一本の細い糸をサクッと断ち切られたように一気に落ち込みモードに戻ってしまった。

「みーもここまで夢見れたんだからいいじゃん(笑)帰りになんか美味しい物でも食べてこうよ?アタシ、奢っちゃうからさぁ。」
ミコはそう言って笑いながらみーちゃんを慰めている。

「うう、奢ってくれるんならクレープ・・・クレープがいい。」
みーちゃんは泣きながら絞り出すようにそう言った。

「クレープ、いいわヨ。アンタの大好きなチョコバナナに生クリーム山盛りのクレープね?」
「山盛りじゃないわヨッ!てんこ盛り!てんこ盛りじゃなきゃ許さないからねっ!!」
「わかった、わかった(笑)生クリームてんこ盛りのクレープね。」
「トッピングも付けていいかなぁ?(泣)」
「アハハ、いいわヨ。トッピングもてんこ盛りね(笑)」

「さあ、じゃあ発表も終わったし。そろそろ帰ろうか。」
ミコがそう言ってアタシたちがバッグを持って立ち上がろうとしたとき

「あ、ちょっと待ってください。」
そう言って合格発表を読み上げた男の人が帰ろうとする女のコたちを止めた。

「じつはさきほど追加のお知らせがありまして、正規の合格者は先ほどの3組なんですが、今回審査員特別賞ということでもう1組合格者をあげてくれということでした。」

その言葉に会場の雰囲気は一気に様相を変えた。
しかしみーちゃんはもう完全にどん底モードに入っているのでそんな言葉には動じない。

「ハハハ、どうせアタシたちじゃないわヨ。」
そう言って半分やけになっている。

そのとき
「審査員特別賞はエントリーナンバー48番、青葉学院高等部チームです。」
男の人はサラッとその内容を読み上げた。

「ほーらね、青葉学院高等部だって!いったいどこのチームなの?顔だけでも拝見してやるわっ!」
みーちゃんはそう言って両手をあげてお手上げのポーズを取った。

「え、あ、あの、みーちゃん?」
「なにヨッ!」
「青葉学院って・・・アタシたちなんですけど・・・。」
「え?あれ?」

みーちゃんはしばらく頭を抱え込んで悩む。

そして
「やったぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっ!!!」
その手をそのまま高々と上にあげてさっきの3組よりもさらに大きな奇声を発したのだった。
まさにそれは戦いに勝利したマウンテンゴリラのような雄々しいものだった。


こうしてアタシたちは正規の合格者ではなかったが、思いもかけず繰り上がった補欠合格という形でCM出場という切符を手にしたのであった。

「アタシは絶対アナタたちは受かるって思ってました。」
発表が終わったあと実際女学園の美果ちゃんにそう言われたのは不思議だった。

「そうかなあ?アタシはまだ信じられないけど(笑)」
ミコはそう言って笑ってるけどみーちゃんはさっきからマウンテンゴリラの雄叫びをあげたままだ。

「これでこの4組の中から最終的に誰が選ばれるかですよね。」
美果ちゃんはそんなみーちゃんに苦笑しながらもそんなことを呟いた。

「あ、さっき言ってたことだよね? でも、アタシたちは補欠合格みたいなものだから。やっぱりふつうに考えて正規の3組の合格者の中から選ばれるんじゃないのかなあ?」
アタシはそう言ったが奈々ちゃんは
「エー、それはわかりませんよぉ。もしかしてある日突然デビューしないかなんて言われたり。」
真剣な顔でそう言う。

「もしそうなったら小谷さんはどうします?」
美果ちゃんはアタシにそんなことを聞いてきた。

「うーん、そう言われても今はわからないけど・・・でも、アタシはCMに出れるだけでもう夢みたいだなぁ。」
そう答えると

「そうかなあ。小谷さん、それってもったいないって思うけど。」
「アハハ、アタシなんかじゃアイドルなんてとても無理(笑)さっきみたいな失敗やっちゃいそうだし。」



そんなこんなでディズニーランドのCMに出ることになったアタシたち3人、7月末から始まった夏休みの始めにさっそくCM撮りが行われ、撮られたCMは合格者4組が毎週1組ずつ8月から9月にかけて全国放映の番組の中で流されることになっている。

そして出演料としてもらった50万円のうち10万円を使って応援に来てくれた人たちと大パーティを残ったお金を3等分して分けた。
アタシはもしかして合格したらと淡い期待で予定していたお揃いの時計2つを買ってトオル君にプレゼントしたのであった。



そして季節は8月も半ばになろうとする頃
突然の思いもかけない電話でアタシたち3人はスターダストプロから呼び出されたのであった。

スターダストプロは青葉学院から歩いて15分ほどの距離にある広尾に事務所がある。
それは思ったよりもずっと大きなビルで、入口のところの表示にはこの15階建てのビルの3フロアを使って事務所があるのがわかった。
エレベーターを上がり事務所の受付のところに行くとそこには2人の女の人がきちんと制服姿で座っている。

こういう場ではどう言ったらいいのかさえわからない。
少し離れたところで3人でこそこそと相談をして、まずみーちゃんがその受付におずおずと近づく。
「あ、あの、私たち呼ばれて来たんですけど・・・」

「いらっしゃいませ。ご連絡させていただいたのは誰でしょうか?」
そのお姉さんはきびきびとした姿勢でそう聞いてきた。

「えっと、前田さん・・・いらっしゃいますか?」
「承知いたしました。少々お待ちください。」

そしてお姉さんは内線電話で何やら話をして切ると
「ただいま参りますのでこちらにお出でください。」
ニコッと微笑んでアタシたちにそう言った。

そのお姉さんに案内されてアタシたちは6畳ほどの大きさの応接室に通される。そこにはふかふかのじゅうたんに大きな立派なソファとテーブルが備え付けられ、そして壁にはなんだかわけのわからないけど高そうな絵もかけられ、さらにその横を見るとアタシたちがよくTVとかで見る芸能人たちの写真が何枚もかけられている。

「うわ、なんかすごい部屋だねー!」
みーちゃんが落ち着かないような顔であたりを見回して言った。

「あ、ほら、あれって紺野沙紀じゃない?」
「あ、ホントだ。あ、あれって清水雄介だよね?ここの事務所だったんだあ。」
そんなことを女3人寄ればかしましいとばかりに、しゃべりだすともう止まらなくなる。
ペチャクチャーーーペチャクチャーーー

そんなとき
カチャッ
小さなドアノブの音がして入って来たのは2人の男の人だった。

そのうち一人は
「あ、あのもしかしてあのときの?」
そう、コンテストでアタシたちの面接をしたあの男の人だった。
その人はあの時と同じように夏の今でもキチンとスーツを着てネクタイを付けている。
年は50歳をちょっとすぎた感じだろうか。
それでもその年の男の人にしては若い感じの熱気みたいなものを感じて、そしてとても清潔そうだ。

「やあ、お久しぶりですね。」
その男の人はアタシたちにそう挨拶するとスッとソファに腰を下ろし、その横にもう一人の30代後半くらいの感じの男の人が座った。

「今日は事務所までお呼び立てしてしまい申し訳ありませんでした。私は前田と申します。」
前田さんは、アタシたちみたいな自分の娘のような女子高生に対してもきちんとした敬語で話す。それがとても好印象だった。

「あ、いえ。でも、すごいんですねー。あの人もこの人もみんなこの事務所だったなんてびっくりしました!」
みーちゃんが少し大げさにそう言うが

「ハハハ。ここにはいろいろな部門がありますからね。演劇を中心とした俳優女優のマネジメント部門、アイドル部門、フォークやロック歌手のマネジメントもしてるんですよ。」
と丁寧に説明をしてくれる。

それを聞いたみーちゃんは
「へえー!すごーい!でも、あの、マネジメントって何をしてるんですか?」
こんな質問をしてしまった。

「みーちゃん、失礼だよぉ」
アタシはソファの横に座るみーちゃんのスカートのすそを小さく引っ張って小声でそう言うが

「いいじゃん。せっかくだからそういうのも勉強なんだし」
みーちゃんは全然気にしない様子でそう言い返す。

すると
「ハハハ、いや、構いませんよ。確かに高校生の皆さんには新鮮な世界ですよね。」
と前田さんはさらに丁寧に説明を続けてくれる。

「貴女方がいつも映画やTV、コンサートなどで見る俳優や歌手たちはそれぞれがみんな素晴らしい才能を持っています。でも、彼らがそういう才能を発揮する場がなければいけませんよね?だからそれを私たちが用意する。そして彼らがそういう才能を発揮しやすい環境を作ってやる。それがマネジメントの全体像でしょう。だから私たちは誇りを持って仕事をしています。いつもTVの中に映っているのは彼らだけど、彼らが評価されることで私たちも評価を受ける。逆に彼らが評価されないときは、それは彼らだけの責任ではない、いうなれば私たちにも責任があるわけです。その意味で両者はお互いがパートナーの関係であるわけです」
そう話す前田さんの表情には本当に誇りをもって仕事をしている男の人の顔を感じる。
みーちゃんはその前田さんの話を真剣な顔でじっと聞いていた。

そしてしばらくの間こんな色々な話をした後に前田さんは
「ところで」
と話を切り出した。

「今日お出でいただいたのは、実はお伺いしたいことがありまして」

ごくっ

「まず貴女方は、本来の合格者ではなく審査員特別賞の自分たちが呼ばれたことをなぜ呼ばれたのかと不思議に思いませんでしたか?」
ニコッと微笑んで前田さんは聞いてきた。

「思いました。アタシたちは補欠みたいなもんなのに。だからなんで呼ばれたんだろう?って」
「ちょっと警戒心を持ったんじゃないですか?」
「え、ええ・・・ごめんなさい」

「ハハハ、いや、いいですよ。当然です。ちなみに貴女方は補欠なんかじゃない。それどころか、実は貴女方こそがあのコンテストの優勝なんですよ」
「アタシたちが優勝!?」
「そうです。貴女方が優勝なんです」

「あの、でも、それじゃなんで合格者の中に入らなかったんですか?」
「それは最初からそのつもりだったからです。優勝者は別枠にする予定だったのです」

そして前田さんはこんな話をしてくれた。
「どうも噂に出てしまったようですが、このコンテストが実は単なるCM出演のためのものではなく、新人発掘のため行ったものであるということを貴女方はご存知でしたか?」

「あ、はい。たまたま会場で知り合った他の学校の女のコたちがそんなことを言っているのは聞きました」
「ええ、それは本当の話です。」
「じゃあ、それで私たちを?」

前田さんは目の前にあるコーヒーをゆっくり一飲みして、そしてこう言われた。
「どうです? 貴女方もこの写真に映っている人達の後を追ってみませんか?」

「後を?それはアタシたちにデビューをしてみないかっていうことですか?」
ミコはまっすぐ前田さんを見ながらそう言う。

「ええ、そうです。3人グループでアイドルとして活動を始めるのもいいし、また一人ずつ活動をするのもいい。私はあの面接のときの貴女方に大きな夢を感じてしまったのです。」
「夢・・・ですか?」
「そうです。貴女方の答えはあのとき私の気持ちを優しく温かくさせてくれました。その優しさと温かさを多くの人たちにも与えてあげてほしいのです。どうでしょうか?」

前田さんのアタシたちを見つめる瞳は真剣だった。
一目見ただけですごく穏やかそうな前田さんが、少し腰を浮かせ、アタシたち3人の目を一人ずつまっすぐ見ながら訴えている。

そしてそんな前田さんの言葉に、アタシたち3人は適切な言葉も見つからず戸惑いを感じながらお互い目を合わせている。

静まり返った部屋の中
前田さんの突然の話にどう返事をしたらいいのか、アタシたち3人の誰もわからなかった。

そんな沈黙を破ったのはミコだった。
「あの、すみません。せっかくのお話なんですけど、アタシはご遠慮させてください。」
そう言ってミコはペコンと前田さんに頭を下げた。

「やはりダメ・・・ですか?」
「はい、ごめんなさい。でもアタシ、ずっと描いてきた夢があるんです。」
「あのときお話されていた学校の先生になりたいという夢、ですか?」
「はい。そのために今までずっと努力をしてきました。変な言い方しちゃってごめんなさい、アタシは人からもらった夢じゃなくて自分で作った夢を叶えたいんです。だから・・・。」

「貴女は強い女性ですね。うん、正直びっくりしました。」
ミコのはっきりした言葉に前田さんは微笑みを浮かべながらそう言った。

「アタシが・・・強い、んですか?」
「ええ、でも他人に対してではないですよ、貴女は自分に対しての強さを持った素晴らしい女性だと思います。」

「そ、そうかなあ・・・」
ミコは前田さんの言葉に照れながら顔を真っ赤にしている。

「わかりました。貴女のその夢、是非とも叶えられるよう私も応援しております。これから仕事を離れてでももし参考になるようなことがあればいつでも相談に来てください。私でできることであれば協力させていただきますから。」
「え、あ、はい。ありがとうございます」


そして前田さんは今度はアタシの方を見て言う。
「小谷さん、貴女はどうでしょう?貴女のお気持ちを聞かせてください。」

アタシは少し考えた。
じつは気持ちは最初から決まっていた。
でも、それをどう表現したらいいのか・・・。

そしてアタシは心の中に浮かんだ言葉を紡ぎながらこう言った。
「アタシも・・・ミコ、いえ藤本さんと同じように辞退させてください。あ、お気持ちはとても嬉しかったです」

アタシの言葉に前田さんは咎めるような表情はしてない。
むしろ打ち明けたアタシの気持ちを受け止めるような優しい表情で尋ねる。
「貴女も藤本さんと同じように何か夢を持ってらっしゃるのでしょうか?」

「いえ、アタシは・・・彼女みたいにはっきりした夢とか・・・持ってません。でも・・・」
「でも?」
「実はアタシ、春からお付き合いしている男の人がいます。同じ学校の先輩で今は大学生です。知り合ったのはずっと前で、アタシが高校に入学する少し前なんですけど、お付き合いを始めたのは今年の春になってからです」

「貴女方はたしか青葉学院でしたよね? それではその方は青葉学院大学へ?」
「はい。内部進学で進みました。アタシは・・・彼の存在を大切にしたいんです。いつかどうなるか、なんていうのは今はまだわかりません。でも、今は彼のそばにいられる自分をとても嬉しく思ってます。だから・・・・すみません。」

「そうですか。貴女は、あのとき中学の先生からいただいた宿題のことをお話しされましたよね?」
「え、覚えてたんですか?」
「ええ。人を愛せる人間になりなさい、人に愛される人間は人からも愛されます。その意味を一生をかけて考えていってください。たしかそういう言葉でしたよね?」

「え、ええ、そうです。びっくりしました。何十組も面接している中でアタシの言ったことを覚えているなんて」
「ハハハ、覚えてますよ。しっかり、とね。そう、ですか。貴女もダメ・・・ですか?」
「・・・ごめんなさい」

「いや、しょうがないでしょう。まあ、貴女のことは特に記憶にあったものでちょっと残念な気持ちはありましたが(笑)」
「す、すみません。」

前田さんの言葉はとても暖かかった。
そんな前田さんの期待に応えられないことで少し胸がチクチクと痛む気もする。
それでも
「ごめんなさい」
と言うしかない。

そのときだった。
「あの!アタシ・・・」
そう言って突然声をあげたのはみーちゃんだった。
「はい、君は佐倉さんでしたよね。君にも聞きたいですね。どうでしょう?」

「アタシ、やらせてください。」

「み、みーちゃん!」
「みー、アンタ!」

「前田さん、アタシ、ずっと夢を見つけてきました。でも、今まで見つけられなかった。だからずっと2人が羨ましいなぁなんて、思ったりもしました。これは、藤本さんの言うように人から与えられた夢かもしれないけど、でも、自分が一生懸命になれるものがほしいんです。」
そう言うみーちゃんの瞳からは本当に真剣な気持ちを感じられる。
でも、正直いってアタシにはすごく意外だった。
人から与えられる夢っていうものを一番嫌いなのはみーちゃんだって思ったから。

「お呼びした私がこんなことを言うのも変かもしれませんが、貴女の覚悟を知りたいのです。今までの私の話の中で誤解させてしまっている部分もあるかもしれませんが、貴女方高校生にとって芸能界というとまるでバラ色の世界のようなイメージもあると思います。しかし実際のこの世界はきっと貴女が思っているよりもずっと厳しいものであることは間違いないでしょう。それでもこの世界でやる覚悟はありますか?」
そう言って今まで優しい印象だった前田さんは急に厳しい表情へと変わった。

みーちゃんはいきなり厳しくなった前田さんの表情に少し戸惑いの瞳を浮かべながら、それでも
「はい、あります。アタシ、やりたいんです」
はっきりとそう答えた。

「わかりました。それでは1週間もう一度よく考えてください。ご両親にもお話してください。そのうえで貴女の気持ちが自分自身ではっきとしたらご連絡ください。もしご両親が難色を示されるのならそれもちゃんと仰ってください。私がお宅にお伺いしてよくお話をさせていただきましょう。」



事務所を出たアタシたち3人は来た道を再び歩き出す。
アタシたちはしばらく誰も何も話そうとしなかった。

そしてその途中ミコが話したのはようやく駅に着こうとするときだった。
「ねぇ、みー。アンタ、本気なの?」

「ダメ・・・かなぁ?」
みーちゃんは、なぜかアタシたちの許しを求めるような、頼りなげな言葉を返す。

「ダメっていうわけじゃないけど、それはみーが決める問題だから、アタシたちがどうこういう権利はないしね。でも実際芸能界って前田さんが言ってたようにけっこう、ううん、かなり大変だと思うヨ」
「うん、アタシもそう持った。前田さん、すごく正直な人みたいだから、みーちゃんの気持ちをかなり確かめてたしね」
「わかってる。でもアタシやってみたいんだ。頑張ってみたい。自分の夢を持ちたいの」

「そっかぁ。」
「うん」
「わかった。じゃあ、アタシと凜で応援する。みーがやりたいなら。」
「だよね。みーちゃん、アタシも応援するから。」

そして、それから1週間ほどして、みーちゃんは正式にスターダストプロと契約をすることになったと話してくれた。

みーちゃんは、あれから家に帰ってこのことをまず両親に話したそうだ。
これは前田さんとの約束でもあった。
ところが、ある程度の予想はしていたらしいが、みーちゃんの両親はこの話を聞いてびっくりして猛反対、普段は冗談の多いお父さんがスターダストプロに電話をして断ると言ったらしい。
それでその日は彼女は両親と大喧嘩になり、彼女はその日お風呂も入らずそのままふて寝となった。
翌日、みーちゃんは再度両親の説得に。
たまたま日曜日でもあり、お父さんもその日は家にいたので10時間にも及ぶ説得の上やっと前田さんの話を聞いてもらえることになったらしい。
しかし、それでもみーちゃんの両親は前田さんに来てもらってその場できちんと断ろうと思ってたそうだが、前田さんの誠実な人柄に感心し条件付きということで彼女の芸能界入りを認めたのだそうだ。
その条件とは、高校在学中は大学進学を前提としてできる範囲での芸能活動に限定すること。


こうして、みーちゃんは思いもかけず芸能界に入ることなった。
しかしこれがその後の彼女の生活をあまりに大きく変えることになるとはこのときアタシたちの誰もが気づかなかった。

第25話 みーちゃん、危うし!

9月
新学期が始まった。

みーちゃんは、新学期とともにいよいよデビューの準備に入る。
スターダストに提示されたいろいろな分野のうち彼女は女優という分野を選んだ。
ただし初めは知名度を上げるために何でもする。
映画のお仕事というものはそうそういきなり来るものではないらしい。
新人は機会を作って名前を売って、そしてオーディションにチャレンジする。
毎年たくさんの人がデビューする中で、こうしたチャンスをつかめるのは才能だけでなく運や人間関係に恵まれているごくわずかな人たちだけらしい。

3年生になってアタシたちの担任は再び1年の時の担任だった佐藤優実先生になっていた。
優実先生はみーちゃんから届け出があったときあまりいい顔はしなかったらしい。
じつは優実先生はみーちゃんのことが心配だったのだ。
そしてその予感は的中した。

この学期はアタシたち内部進学者にとってとても大切な時期だ。
青葉学院高等部では卒業後ほとんどの生徒が青葉学院大学に進学する。
しかしこの内部進学は必ずしも無条件で受けられるものではない。

まず自分の進学したい学部と学科を決めるのだけど、自分の成績が基準に足りていなければ他の学部を考えなければならない場合もある。
また出席日数や定期テストの成績も内部進学の条件になっている。
だから出席日数が足りなかったり定期テストで赤点があれば推薦どころか留年だってありえるわけだ。

みーちゃんは、初めは土日などの休日を利用し学校には今まで通り通ってきていたが、1週間もすると急に学校に来る回数が減ってきた。
それでも最初は週のうち2日程度の休みだったのが、翌週にはそれが週のうち半分以上はお休み、そしてさらに翌週にはほとんど来なくなってしまう。とうとう定期テストまで欠席してしまったのだ。


そして9月も終わりの方に差し掛かったある日の放課後、アタシとミコが廊下を歩いていて優実先生とすれ違ったときのことだ。
「小谷さんと藤本さん。ちょっといいかしら?」
優実先生はアタシたちに声をかけた。
そしてアタシとミコは職員室の奥にある応接室に通される。

「実は佐倉さんのことなんだけど・・・」
「みーちゃんの?」
「ええ。芸能プロダクションからスカウトされてそういうお仕事をするっていう届け出は彼女からもらったわ。ただ、いくら掛け持ちとはいえ急にこれだけお休みが続くとねぇ・・・。いくらお仕事とはいえやっぱり彼女にとって学生が本業なわけだしね」

そして優実先生はため息をついて言った。
「このままじゃ、推薦だって危ないかも、ううん、このまま学校に来ないようなら最悪留年だって考えられるのよ。」

「エエッ!留年!?」
「そう、留年よ。アナタたちだって何も努力せず大学行けるとは思ってないでしょ?」
「そりゃ、まあ・・・はい」

「それでね、アナタたちにお願いがあるの。佐倉さんにそのことをよく話してキチンと学校に来るように言ってあげてほしいのよ。実はアタシも何回か彼女の家に電話をしたんだけど、いつもいないのよ。お母さんの話だと毎日相当遅い時間に帰って来るらしくって、お母さんもちゃんと会話できる機会がないらしくって、かなり心配していらっしゃるみたいなの」
「そう、なんですか!?」
「ええ、それで1年生のときからずっと仲が良かったアナタたちならそういう機会もあるんじゃないかって思ってね」
「そうですね。わかりました。とにかくみーと話します。」


アタシたちはとにかくみーちゃんの家に電話してみた。
案の定、彼女は家にはいない。
彼女の携帯電話にも電話してみたけどずっと通じない状態になっている。
そういうのが3日ほど続いた。

そして4日目
終業のホームルームが終わると優実先生はアタシとミコに声をかけた。

「2人ともちょっといいかしら?」


ここは放課後の会議室

「じつはね、佐倉さんのことなんだけど・・・」
「みーちゃんに何かあったんですか?」
「え、ええ・・・。実はね、昨日彼女から転校願いが出されたのよ」

「エエエーーーッッ!!転校願い!?ど、どうして??」
「理由は、『家庭の都合』としか言わないわ。もちろんそんなのをまともに信じるわけにはいかないからすぐにご両親に電話したの。」
「そしたら?」
「お母さんはもう泣き声でね、「もうあの娘の好きなようにさせてあげてください」って」

「そ、そんなあ!!」
「そうよね。そんなわけにいかないわ。アナタたちもあの娘のみんなアタシの可愛い教え子ですもの。せっかくこの学校に入ってきて3年生の最後になって退学じゃこっちが納得できないわよっっ!!」
それまで冷静だった優実先生はいきなり語気を荒げてそう言った。
それは初めて見る優実先生の本当に怒った姿だった。

「彼女の転校願いの理由だけど、それが芸能活動の影響によるものであることは間違いないわ。 ね、小谷さん。そこのところ、あの娘はその芸能事務所とどういう話になっているか知ってる?」
「みーちゃんは、ご両親との約束で高校生のうちは学校に支障がない範囲で芸能活動をする約束をして事務所も納得してるって聞いていますけど」
「そう。それはそうよね。彼女はまだ高校生なんだから、大人として当然のことよ。 なら、彼女を芸能界に誘った相手が契約を守らなかった、騙しているってことになるわね」
「で、でも、あの前田さんがそんな・・・」

そう
アタシもミコも前田さんの人柄をよく知っている。
あの前田さんがそんな、みーちゃんを騙して働かせているなんてとても信じられない。

「その芸能事務所の名前は何て言ったっけ?」
優実先生はミコに尋ねた。
「スターダストプロモーションっていいますけど」

「スターダストプロ、かなり有名な事務所よね」
そして優実先生は少し考え込んでこう言った。
「ね、2人とも。今日、これからそのスターダストプロにアタシを連れて行ってもらえないかしら?」
「エエッ!優実先生を?」
「そうよ。大人として、そして教師として自分の教え子をこのまま「はい、そうですか」って手渡すなんて絶対にできない!もしまだ望みが残っているなら、最後まで何とか考えてあげたいじゃない。」
そう言う優実先生の顔はいつもの冗談の多い先生のものではなかった。
そしてアタシとミコ、そして優実先生は学校から程近いスターダストプロの事務所へと向かうことになったのである。


事務所の入っているビルの近くまで行くと優実先生は足を止めてそのビルを見上げる。
「はあ、なんか立派なビルねぇ!」
「でしょ?中で人がいっぱい仕事してるんですヨ」
「まあしっかりした会社であることはわかったけど。でも、だからって高校生を学校無視で芸能活動させていいってことにはならないわよ!さあ、行くわヨッ!」
そう言って優実先生はズンズンと進みだした。

そしてビルの真下まで来たとき、フッと入口のところを見ると、大きくて立派な黒の車から男の人が出てくるのが見えた。
その人をよく見ると
「あ、前田さん!」
思わずそう声を出したアタシにその男の人はくるっと振り返る。
「おお、これは小谷さんではないですか。藤本さんもご一緒でしたか」
そう言ってあの時と同じ優しそうな笑顔で微笑んだ。

そのとき
「あの、失礼します。スターダストプロモーションの方でいらっしゃいますか?」
そう言って優実先生が前田さんに声をかけた。
「はじめまして。私、青葉学院高等部でこの娘たちの担任をしております佐藤優実と申します」

そう言われた前田さんは少し驚いたような顔で、姿勢を整えて優実先生に丁寧に頭を下げて挨拶をした。
「これは先生でいらっしゃいましたか。はじめてお目にかかります。私、スターダストプロの前田と申します」

「これで、挨拶は終わりましたわね・・・」
そう言って前田さんの前に立った優実先生の方は怒りで小さく震えているのはわかった。

「アナタ、大人としてこんな真似をして許されると思ってるんですか!?」
「こんな真似・・・と申しますと?」
前田さんは少し不思議そうな顔でそう尋ねる。
「佐倉さんのことですヨッ!」
「佐倉さんの、と申されますと? 申し訳ありませんが、私は彼女にはしばらく会っておりません。彼女に何か不都合でもあったのでしょうか?」
「な、なんて無責任なっ!!自分で誘っておいてっ!!」
「あの、とにかく中にお入りになりませんか?私も彼女のことは気にかけております。何かあったのでしたらぜひともお話をお伺いしたいのです」

前田さんの言葉にミコは優実先生にこう言った。
「ねえ、先生。とにかく前田さんに話してみようよ」
優実先生は少し考えると興奮を抑え
「そ、そうね。わかったわ。どこへでも連れて行ってください!」
そう言って前田さんに怒鳴った。
「は、はあ・・・」
前田さんはこのとき狐につままれたようにわけのわからないような顔をして答えた。


そして事務所の中の応接室
前田さんはアタシたちの話を黙って聞いていた。
一通り聞き終わった後、室内にある内線電話の受話器を取りあげて誰かを呼び出す。

10秒ほどしてコンコンとノックの音が聞こえ、かっこいいスーツ姿の女の人が部屋の中に入ってきた。
「前田常務。お呼びでしょうか?」

「じょ、常務って!エッ、前田さんってそんな偉い人だったんですかっ!?」
アタシはびっくりして声をあげた。

前田さんはアタシの驚いた声に小さくニコッとして、そしてその女の人にこう告げた。
「すみませんが、マネジメント五課の水谷君を呼んでもらえますか。至急です」
するとその女の人は
「承知いたしました」
そう言ってアタシたちに一礼し部屋を出ていった。

前田さんはコーヒーを一口啜るとアタシたちの方を向き、そしてゆっくりとした口調で話し始める。
「まず、私は先生と小谷さん、藤本さんに心からお詫びをしなくてはいけません。ご心配をおかけしてしまって本当に申し訳ございません」
そう言って前田さんはアタシたちに深々と頭を下げた。

アタシとミコは突然の前田さんの姿にびっくりした。
優実先生はともかく、こんな大きな会社の、しかも常務さんの立場にある人が自分の娘のような年齢のアタシたち女子高生に深く頭を下げている。

「あ、あの・・・どういうことでしょうか?」
優実先生も驚いた顔で前田さんに尋ねた。
「お話をお伺いして正直驚いております。実は今回のことは私も承知しておりませんでした。しかし、だからといって私に責任がないということでは済まされません。先ほど、先生は大人としての責任を仰いましたが、まさにその通りです。深く反省をしております」
そして前田さんはさらに深く頭を下げた。

するとそのとき
コンコン
とドアをノックする音がする。
「入ってください」
前田さんがそう言うと、カチャッと小さな音がしてドアが開き、そして40代くらいの男の人が一人部屋の中に入ってきた。

「前田常務、お呼びでしょうか?」

前田さんはその人にソファに座ることを許さず、立たせたままでこう尋ねた。
「水谷君、私は君に佐倉さんのマネジメントをお願いしましたね?」
その声は静かだったけど、隠せない怒りを含んでいるように感じられた。

「は、はい。たしかに承りましたが、それが・・・何か?」
「私は君にこう言いませんでしたか?佐倉さんは現在付属校に通っていて、3年生という大切な時期だから、学業の方を十分に考慮して支障がない範囲で仕事を入れるように、と」

するとその男の人は急に落ち着かない様子になった。
「は、はい。 ですので、そのように・・はい」

「では聞きます。君は佐倉さんが芸能活動を始めてからほとんど学校に行っていないこと、そしてとうとう学校に転校願いが出されたことを承知していますか?」
そう尋ねる前田さんの目は怒りに震えている。

「え、あ、いえ、あの・・・」
「承知していないというのですか?」
「いえ、承知しております」

「承知しているならなぜそんなことを了承したのですか?」
「じょ、常務!聞いてください!」
「聞きましょう。話してください」
「常務、彼女はたしかに高校3年生ですが、逆にいえばもう高校3年生です。女子高生として売れる時期はあと残り少ないのです。ここで知名度を高めておけば卒業後大きな仕事が来る可能性が高いのです。会社のために彼女の少々の犠牲はやむを得ないと判断したのです」

そのときだった。
「君は恥ずかしいと思わんのかぁぁーーーーっっ!!」
前田さんは突然席を立ち上がって、その男の人に大声でそう怒鳴った。

あまりの突然の声にアタシたちも優実先生もびっくりだった。
そして前田さんはさらにこう続けた。
「私はただ金儲けをするために彼女たちをマネジメントしているのではないっ!彼女たちの夢を具体化し、そして一緒に育てるためのパートナーとして仕事をしているのだっ!!」
「し、しかし、常務、それはやはり綺麗ごとです。儲けなければ意味がないでしょう?」
「それでは儲けられればそれで満足なのかねっ!?誇りを持てない仕事に君はやりがいを求められるのか?いいかね、彼女はまだ子供です。そして我々は大人です。親でなくても大人は子供を育てる義務を持っているのです。それを学校を行かせず仕事をさせて、挙句の果てに仕事のしやすい高校に転校しろなど、決して大人のすることではないっっ!!」

そう怒鳴ると前田さんはハァハァと息をつく。
そしてその男の人にこう告げた。
「君を佐倉さんのマネジメントから外します。追って処分があるまで謹慎していなさい。いいですね!」
「は、はい・・・」
いつも温厚な表情の前田さんに鬼のような形相で怒られその男の人はすごすごと部屋から出ていった。

そして前田さんは優実先生の方に向き直って言う。
「先生、このたびのことはすべて私の責任です。今後彼女にはわが社の責任において家庭教師をつけみっちりと勉強をさせることにします。もちろん学校にも毎日行かせます。彼女が行きたくないと言ったら私が引っ張ってでも行かせます。どうか、もう一度彼女にチャンスをいただけませんでしょうか?」
そう言って頭を下げた。

「前田さん、わかりました。学校には私の方からお願いしてみます。佐倉さんは先日の定期テストを受けなかったので、その分の評価については規定に従い前回のテストの7割となりますが、これから行われる内部進学テストで取り戻せる可能性も十分にあります。今回のことで私は芸能界という業界に不信感を抱きましたが、あなたの誠実な姿勢を拝見して改めます。どうか彼女のことをよろしくお願いします」
そして今度は優実先生が前田さんに頭を下げたのだった。


そして数日後みーちゃんは再び学校へと元気に登校してくるようになった。
遅れた分の勉強については、家庭教師が見つかるまでの間はなんと前田さんが自らみーちゃんの家に夕方から行き、6時から9時までの3時間みっちりと教えることになったと聞いてアタシたちはびっくりした。
みーちゃんによると前田さんは東大卒、、おまけに教師の資格まで持ってるそうだ。

「もー、すごいんだからっ!」
みーちゃんの話では『前田先生』はものすごい厳しいらしく、彼女が少しでも怠けようものなら容赦なく叱るそうだ。
お母さんがお茶を入れて「少し休憩でも」と言っても、「いえ、結構です」とピシャッと断り、ここで彼女を甘やかしてはいけません!とばかりに、しごくんだとか(笑)

「とにかくさ、今回のことはホントアンタたち感謝するわ」
みーちゃんは以前のような笑顔でアタシたちにそう言った。

「エヘヘ、じつはアタシ、正直言うとチョット怖くなったんだ」
「怖くなった?」
「そう。マネージャーの水谷さんにいろいろなところに連れてかれて、最初は刺激が多かったけどね。でも、そのうち学校まで行けなくなって、アタシが「学校に行かせてほしい」って言ったら「君は嫌になったら安易に辞めればいいと思ってるかもしれないけど、そうなったらどれだけ多くの人が君に関係した仕事をなくすかわかってるのか?」なんて言われてね。どうしよう・・・って思ったの。」

「そんなこと言われたんだ?」
「うん。それで、そのうち転校してもっと芸能活動がしやすい学校に転校したほうがいいなんて言われ始めて、アタシは「一生懸命勉強してせっかく入れた学校なのにっ!」って言ったんだけど、そしたら「芸能界を選んだのは自分自身だろう?」って。そしたら言い返す言葉までなくなっちゃってさ・・・。ああ、アタシこのままどうなっちゃうんだろう、って怖かったの」

「でもね、アタシ、マネージャーだった水谷さんの言うこともわからないでもなかったの。たしかにアタシが仕事を辞めればたくさんの人が迷惑するんだもんね。これは間違っていないって思った。だから、アタシ、前田さんに水谷さんの処分を軽くしてもらえるようお願いしてみた」
「みー、アンタって娘は・・・」
「前田さんは考えておくとしか言わなかったけど。それでまた「勉強始め!」ヨッ(笑)」
「アハハ!(笑)」

最近ではみーちゃんは次第に雑誌やTV番組などに出るようになり、そのフランス人形のような美貌と”一見すると”お淑やかそうな雰囲気に騙され、お嫁さんにしたい若手女優の上位にあがってきたらしい。


そして今日も今日とてみーちゃんの元気な声が青葉学院高等部の校舎に鳴り響く。
授業終了のチャイムと同時にみーちゃんは教室から駆け出す。
「凛、ミコ!遅れるとなくなっちゃうヨォーーーーッ!!」
廊下を駆け抜け、階段を駆け下りてみーちゃんは目指す場所に向かって一直線に走る。
彼女はなんでこんなに急いでいるかいうと、最近高等部の生徒食堂では、大学食堂で青葉大の女子大生に大人気の1個180円のミニパフェが毎日限定10個で入ったのだ。
これは高等部の女のコたちが大学食堂で見つけたもので、何度も先生たちにお願いをし大学食堂から分けてもらえることになったもので、多くの高等部の女のコが狙っている。
そしてみーちゃんはこれを手に入れるため、授業終わり近くになると既にそわそわし始め、そしてチャイムとともに駆け出すわけだ。

案の定、一番乗りのみーちゃんはデザート売り場のところにあるミニパフェの中でもとくに人気の高いストロベリーを手にする。
「おばさんっ!これちょーだい!」

チャイムが鳴ってわずか3分、ハアハアと息を切らせて信じられないような
スピードで食堂に現れたみーちゃんにおばさんは呆れたような顔で言う。
「おや、またみーちゃんが一番乗りかい?アンタ、そんなんでちゃんと勉強できてるのかい?」

「おばさん、食欲は人間の基本的欲求ヨッ!」
「アンタの場合食欲ばっかりに見えるけどねぇ・・・」

そして、みーちゃんは手に入れたミニパフェを高々と上にあげ
「やったっ☆ ストロベリー、GETだぜーーっっ!!ハー、ハハハッ!!」
と獲物を捕まえたマウンテンゴリラのように野生の雄叫びをあげた。

その雄々しい姿に遅れて到着したアタシとミコは
「ハァ・・・、これで男子憧れのアイドルとはね(笑)」
と呆れて両手をあげるのであった。

第26話 危険な香り

第26話 危険な香り

10月
夏が終わりつつも少し生暖かい風の香りが残っている季節

学校を辞める辞めないとさんざんドタバタ劇を演じたみーちゃんもようやく落ち着きを取り戻し、最近では土日の芸能活動も次第に板についてきて週末芸能人として活躍の幅を広げてきた。
TVでもドラマだけでなくCMでもみーちゃんの姿を頻繁に見るようになり、その知名度は高まっている。

彼女の外面の良さは天下一品だ。
学校の中ではサバンナを闊歩するマウンテンゴリラのように雄々しく駆け回っているが、一歩外に出ればお淑やかなお嬢様を演じ、イギリス系のクオーターでお人形のような容姿もあって最近では「お嫁さんにしたい若手女優のベスト3にまで入っているらしいというから驚きだ。

事務所が彼女に付けたキャッチフレーズが、なんと『天使の微笑み☆佐倉 美由紀』だとか。
彼女の真の姿を知るアタシたちからすれば『悪魔の雄叫び』じゃないの?と疑いたくなる(笑)

そんなみーちゃんがある土曜日に電話をかけてきた。
「あ、凛?じつはちょっとしたお願いがあるんだけどなぁ」
この前置きだけですでにアタシは不気味な気配を感じてしまう。

「エ、お願い? な、なにかなぁ?」
「そんな警戒しないでヨ(笑)」
「だってさ、みーちゃんからそんな改まって言われると、また何かしでかしたんじゃないかって思って…」
「アハハ、まあアンタらにはさんざん迷惑かけたからそう思うのは無理ないけどさ(笑)」

(よくわかっていらっしゃる)

「でも今回はそうじゃないのヨ」

(『今回は』っていう時点ですでに警戒水域だヨ)

「あのさ、じつは来週の日曜日と祭日の月曜日に湘南でTVの撮影をやるんだけど、一緒に出演予定だったエキストラの女のコ2人が急に来れなくなっちゃってさ、それでアンタとミコにお願いできないかなって思ってね」
「エキストラ?それってアタシたちもTVに出るってこと?」
「そういうこと。もちろんメインはアタシと日向咲ちゃんと水谷麻子ちゃんの3人なんだけど、ビーチバレーをするシーンがあるの。それでそこに女のコ3人混ざってもらう予定だったんだけどね、2人が来れなくなっちゃったわけ」

あとの2人はアタシもよくTVで見る知った名前だ。
みーちゃんよりも前にデビューし、すでにかなり有名な若手女優とアイドルタレントとして活躍している。

「10月にビーチバレー!?」
「まあ、そういうことヨ。もちろん事務所からアルバイト代も出るから」
「ウーーーーーン・・・」
「ね、お願い」

まあ、TVの仕事っていうのもそれなりに興味あるんだけど・・・。
聞くとすでにミコの方にも電話をして了承をもらったという。
スケジュールとしては土曜日にトオル君と会うことになっているけど、日月は何も予定はなかった。

「そうだねぇ・・・。まあ、ミコが一緒なら・・・」
アタシがそこまで言いかけると
「ああ、よかった!じゃあ、日曜日の朝にうちの事務所前に集合ね。よろしくーーー!」
と言って勝手にガチャっと切ってしまった。


そして日曜日の朝
アタシとミコは渋谷にあるスターダストプロの事務所へと向かった。

「やあ、久しぶりですね」
そこには前田さんの姿もある。
前田さんはいつものように優しい笑顔でアタシたちを迎えてくれた。

「このたびは急なお願いをしてしまって申し訳ありませんね」
前田さんはアタシとミコに丁寧に詫びた。

「あ、いえ。アタシたちもいい経験させてもらってすみません」
さすが大人のミコはそんなふうに言葉を返すと

アタシたちの横でみーちゃんが
「そう、何事も経験だよネッ!」
とケタケタと笑う。

そんなみーちゃんにミコは
「まったくアンタはっ!」
と脇を肘で小突いて「メッ!」という顔をするがノー天気なみーちゃんは動じない。

そうしているうちに日向咲ちゃんと水谷麻子ちゃんもやって来て前田さんの紹介でお互い挨拶をした。
2人は芸能人という外見に似合わず気さくで、アタシたちにもごく普通に話してくれとても好印象だ。

「TVでよく見てますヨ」
アタシが日向さんにそう言うと

「わぁ、ありがとぉ。嬉しいなぁー」
と言ってニコッと微笑んでくれた。
さすが芸能人!
その微笑みは同性のアタシたちでさえクラッとさせてしまう。

「フフフ、でもじつはアタシもアナタたちのこと知ってるんだヨ」
日向さんは微笑みながらそう言った。

「エ、なんでですか?あ、みーちゃんが話したとか?」
「ウウン。ほら、ディズニーランドのCMで。佐倉さんと一緒に出てたでしょ?」
「あー、そっかぁ(笑)」

「でも意外だったなぁ」
アタシの方を見ながら日向さんはフッとそう呟いた。
「意外って、何がですか?」
「アタシ、アナタも佐倉さんと一緒にデビューするって思ったから。 断ったんでしょ?前田さんのお誘い」

「エ、エエ・・・」
「もったいないなぁ(笑)前田さん、がっかりしたでしょ?」
「どうかなぁ(笑)」

「フフフ、じつはあのCMで事務所に問い合わせがかなりあったらしいヨ」
「問い合わせですか?」
「ウン。そしたら、アナタが出演した女のコの中で一番問い合わせが多かったって」

「エエー!信じられないなぁ(笑)」
「そうかな?アタシはわかるような気がするけどな」

「そんな・・・アタシなんて・・・」
「アタシなんて?どうしてそんなふうに思っちゃうのかなあ?」

何て返事したらいいか戸惑うアタシに彼女はさらにこう続けた。
「アタシは自分に自信を持つのは悪いことじゃないって思うな。そうすれば自分の世界がもっと広がるかもしれないわヨ。少なくともアタシたち芸能人はそうでないとやっていけないしね(笑)」
そう言って彼女はニコッと笑った。

「さあ、そろそろ出発しましょう!」
全員揃ったのを確認して前田さんが合図の掛け声をした。
そしてアタシたち女のコ5人と前田さんをはじめとしたスターダストプロのメンバーは3台の車に便乗し目的地湘南海岸へと向かうのであった。



夏が終わった湘南海岸は人影はまばらだ。
それでもこの海岸が他の海岸と違うのは夏を過ぎても少しだけ、ずっと夏の頃の空気をいつも漂わせているところ。
ふわっっとした潮の香りが鼻をくすぐり、そして何組かのカップルやサーフィンを楽しむ人たちが砂浜に腰を下ろし楽しそうに話をしている。
10月とはいえ今日は特に天気が良く少し暑さを感じるくらい太陽が照りつけている。

「わぁー、なんか貸し切り状態みたい!」
アタシとミコは上にある駐車場に車を止めるとさっそく車を降りて砂浜に降りてみる。
「ねー、みーちゃんたちも車を出てみたら?気持ちいいヨー」
アタシは車に戻って中にいる3人にそう言っても、3人はなぜか降りてくる気配はない。

「出たいのはやまやまなんだけどさ。アタシたちがいきなり現れちゃうと大騒ぎになっちゃうでしょ?」
みーちゃんはそう言って「ほぅっ」とため息をつく。

(ああ、そっか)
よく考えてみればそうだよね。
みーちゃんたち3人はすでにTVなどでかなり知名度が高くなっている人気アイドル。
そんなのがいきなり海岸に出現したらそりゃ周りにいる人たちはびっくりして大騒ぎになる。

「ハハハ、小谷さん、もう少し待っててください。今から準備をしますので」
前田さんが笑いながらアタシにそう言う。

「準備、ですか?」
「ええ。すでに警察には撮影のための海岸使用の許可はもらってあるので、これから使用する一帯に柵を作って関係者以外入ってこないようにするんです。それからガードマンの方たちも今到着したので配置に着いてもらいます」
「へぇー、TVの撮影ってそんな準備があるんだあー!」
アタシもミコも普段は見たこともない世界に興味津々になっている。

前田さんの指示で事務所とTV局の関係者20人くらいが一気に動き出す。
まず砂浜に杭を打ちそこにロープを張って告知板を数か所立てた。
次にその中に大きなテントを2つほど張る。ここはきっと関係者の休息所なのだろう。
そしてビーチバレー用のネットを立て、ポイントに数台のTVカメラの機材がセットされていく。

あれよあれよという間に立派なセットが出来上がっていった。
アタシとミコはその手際の良さに見とれている。
アタシたちが学校で文化祭の準備をしているようなイメージだけど、スピードと正確さはさすが本職という感じだ。
しばらくして一通りの準備が終わり、そして要所要所に5人ほどのガードマンが立った。

この様子を見ていた周りの人たちは「なんだ、なんだ?」tばかりに次第に集まってきた。

そして前田さんはそうした人たちにマイクを使って挨拶を行う。
「お騒がせして申し訳ございません。ただいまより約4時間、柵で囲った場所をTV撮影に使用させていただきます。何卒ご協力のほどお願いいたします」

「へぇー、TV撮影だってさ!」
「誰が来るんだろう?」
「楽しみー!」
観衆は観衆を呼び、そしてわずか15分ほどの間に柵を取り囲む人たちは数百人にもなってしまった。

「す、すごい人数・・・」
アタシとミコは予想外のこの事態にびっくりだ。

「あの、前田さん。たしかビーチバレーは20分だってみーちゃんが言ってましたけど」
ミコが不思議そうに前田さんに尋ねると
「ええ、そうです。君たちはこの世界に入りませんでしたが、これはいい経験です。良く知っておいてくださいね。我々はわずか20分の番組を制作するのに4時間をかけるのです。そうやって何度もリハーサルをやって20分の内容に煮詰めていくんですよ。」
前田さんはアタシたちにそう丁寧に説明してくれた。

そして、すべての準備が整うといよいよみーちゃんたち主役の登場だ。
3人はマネージャーや関係者に囲まれてゆっくりと車から出てきた。

「おい、あれって佐倉 美由紀じゃねーの!?」
「ほんとだっ!日向咲と水谷麻子もいるぜ!」
周りから一気に「わぁー!」っと歓声が上がる。

みーちゃんたち3人は大勢のファンに取り囲まれてもみくちゃにされながら、それを早足で抜けると柵の中にあるテントへと身を滑り込ませる。

「わぁ、みーちゃん、かわいいー!」
「みーちゃぁーん!」
そこかしこからそんな声が上がり、みーちゃんは少し照れたようにニコッと微笑み、小さく手を振ってそれに応えている。
その姿はアタシたちの知っている普段のみーちゃんとはまったく別の、芸能人佐倉美由紀だった。

アタシとミコはその姿にただただ見とれているだけ。
「すごい人気だねぇ、みーちゃん」
「ウン、アタシもびっくり。普段マウンテンゴリラみたいに雄叫びあげているあの娘がこんなふうに変わっちゃうんだねー」

「さあ、それじゃ君たちも隣のテントに入ってください」
前田さんがアタシとミコに声をかける。

そしてそれから間もなく再び周囲の大きな歓声があがる。
それは今日のビーチバレーの試合の相手である最近売り出し中の男性お笑いタレントの『ブレーメン』の3人組が到着したときだった。

テントで、みーちゃんたちアイドルと一緒にアタシとミコも3人を紹介され挨拶をする。
「こちらは小谷凜さんと藤本美子さん。佐倉さんの学校の友達で、今日は無理にお願いして出演してもらっているんです」
前田さんがそう言ってアタシとミコを紹介してくれると
「そうでっかあ。ボクは高木健太いいます。今日はよろしゅう。」
3人のうち一番背が高い、良く日焼けをした男の人がニコッと微笑んでそう挨拶した。

(あれ、なんかこの人って・・・ワタルに感じが似てるな)
大阪弁、見上げるような身長、そして笑った時の感じ、その人はどこかワタルを思い出させるような雰囲気だった。

「さあ、それじゃあ皆さん、準備をしてください」
そしてアタシたちはテントの奥に作られた幕の中で水着に着替える。
みーちゃんたちアイドル3人はわりと大胆なビキニタイプ、そしてアタシとミコは薄いピンクのワンピースの水着が用意されていた。

そしていよいよ番組が始まった。
司会役のTV局の女性アナウンサーがみーちゃんたちアイドル3人にインタビューが行われる。

「えー、今日はここ湘南海岸で大人気女性アイドルの3人とお笑いトリオブレーメンをお迎えしてビーチバレーの試合が行われます。それではインタビューをしてみましょう」
アナウンサーはまず初めにみーちゃんにマイクを向けた。
「それではまず、佐倉美由紀さんです。」
「こんにちわー。」
みーちゃんはここ一番の営業スマイルでニコッと微笑み周囲の男どもを虜にしてしまう。

「佐倉さんは学校でチアリーディング部に入っていらっしゃるそうですが、バレーもさぞや得意なのではないですか?」
「あ、いえ(笑)アタシ、バレー、ホント苦手なんですヨー。玉がくるときゃぁって逃げ回っちゃう感じで(笑)」
そう言ってみーちゃんは照れ笑いをする。

「よーく言うわ(笑)みーったらバレーボール大会の時は弾丸サーブの女王って恐れられてたくせに」
ミコはそう言って首をすくめて囁く。
「ア、アハハ。まあ、今は芸能人みーちゃんだから」
そう言ってアタシは苦笑い。


そうこういっている間にインタビューも終わり、ピィィィーーーーーー!というホイッスルの合図でいよいよ試合が始まった。

試合は女性アイドル3人とアタシとミコを入れたエキストラ3人の6人に対し、相手はブレーメンの3人に男性エキストラ3人を加えた6人。
一応ハンディとして男性側はアタックのときは左手で打つことになっている。1セットマッチで先に15点を取ったほうが勝ちだ。

わぁ、わぁきゃぁ、きゃぁと歓声が上がる中試合は進みむ。
装う必要のないアタシとミコはけっこう真剣だ。
そして最後は、飛んできたボールをアタシがすくい、それをミコがトスしてみーちゃんがつい本気を出してアタック!

パシッ!

鋭い音とともにはじかれたボールは綺麗に相手コートの左端に決まった。

「よっしゃー!」
とついてマウンテンポーズをとってしまうみーちゃん
しかしその後すぐに
「あら、いやだ。アタシったら(笑)」
とまた装いモードに入ってしまうとこがみーちゃんらしい(笑)

試合が終わるとアタシたちはみんなけこう汗びっしょり。
そこに身体を撫でる少し冷たい秋の風がとても気持ちいい。

アタシが汗の浸る身体にタオルを当てていると、そこにさっき挨拶したブレーメンの高木さんが寄ってきて
「いい汗かいたわあー。」
と笑顔で声をかけてきた。

「ホントですねー。アタシもこんな気持ちいいのって久しぶりです」
「凛ちゃんたちは佐倉さんの友達なんやて?」

初めて会う男の人、しかもいつもTVの中で見ている有名人にいきなりファーストネームで呼ばれてなんかこそばゆい(笑)

「あ、ハイ。1年生のときからアタシとミコとみーちゃんの3人でいつも一緒だったんですヨ」
「そうなんやあ。女同士の友達てもっとあっさりした感じかて思っとった」
「そういうのもあるかもしれないけど、ホントに大切な友達はやっぱりずっと仲がいいんじゃないかなあ」
「そっか(笑)ほんなら、そういう大切な友達に出会えたことはホンマラッキーやったな」

そう言って見せた優しそうな高木さんの笑顔にアタシもなぜか素直な気持ちになって
「ウン!」
と返事をしてしまう。
すると高木さんは
「おおっっ!」
とちょっと驚いたような顔をした。

「え、なんですか?」
「あ、いや。あんな、今の凜ちゃんの笑顔がすごく眩しかったもんで、つい引き込まれそうになったわ(笑)」

その言葉にアタシは顔を真っ赤にしてしまう。
「や、やだなぁー!芸能人の人はホント言葉が上手いですね(笑)」
しかしそう言って誤魔化そうとすればするほどアタシの顔は上気していく。
アタシはこのときまるで魔法にでもかかったかのように、不思議な気持ちになっていた。

そんなとき少し離れたところににいるミコを方をフッと見ると彼女はなぜか怪訝そうな顔でアタシの方を見ている。
たしかにミコは時々固いところもあるけど、いつものミコならアタシが芸能人と話をしたくらいで不快な顔をしたりはしない。
アタシは、なぜだかわからないけど、どこかやましいような気持ちが湧き上がってきて、ついミコから視線をそらしてしまった。


「さあ、後片づけが終わったぞー!」
スタッフの人たちが現場の整理を終わり、そしてようやく撮影終了となった。
フッと時計を見ると時間はもう4時だ。
そういえばお昼ご飯に車の中でサンドイッチを食べたきり、しかもビーチバレーをやっていたせいでお腹がぺこぺこだった。


「それじゃ、旅館に向かいましょう。」

明日は日陰茶屋での撮影が予定されていて、今日はみんなで近くの旅館にお泊りの予定。

こうして総勢20人の一行のうちみーちゃんたち女性アイドル3人とブレーメンの3人は2台の車に分かれ、そしてアタシとミコ、スタッフは用意されたバスに便乗して目的地へと向かった。



葉山マリーナからほど近い趣のある一軒の日本旅館、そこが今日の宿泊場所だ。

中は純日本風で大きなお風呂まであった。
アイドル3人とアタシとミコ、そして今回唯一の女性スタッフでみーちゃんのマネージャー若木さんの6人はさっそくその大浴場で汗を流すことにした。

「わぁー、檜のお風呂なんて初めてー!」
「すごいねー。いい匂いがする」
窓の向こうには海が見える素晴らしい景色だ。

そんなとき
「凜ちゃんって着やせして見えるけどけっこう胸大きいのねー!」
と話しかけてきたのはみーちゃんのマネージャーの若木さんだった。

彼女は、以前の男のマネージャーの水谷さんから例の一件で交代してみーちゃんのマネージャーになった。
現在25歳、わりと年齢が近いこともあってみーちゃんとは上手くやっているらしい。
みーちゃんは仕事以外でも彼女に色々な相談をしている。
そしてアタシやミコもみーちゃんに彼女を紹介されて以来けっこう仲良くさせてもらっていて、アタシたちにとって良いお姉さんという存在だ。

「えへへー、そうかなあ」
若木さんの言葉に照れながら自分の胸に手を当てる。

中2の夏に初潮を迎えてから次第に女としての特徴を示し始めたアタシの身体。
高校に入るとお尻はまん丸と膨らみがはっきりし、胸は徐々にブラをサイズを変えていく。
そして今ではCカップまでに成長してしまったのである。

「凛ちゃんは、彼氏がいるんだっけ?」
「あ、ハイ。同じ高校の先輩だった人です」
「そっかあ、じゃあ、彼氏さんもけっこう我慢してるんじゃない?(笑)」

「我慢って?」
「正常な男子ならいつも考えている・こ・と(笑)」
彼女はそう言ってアタシの乳首の先を指で軽くつつく。
「あ・・・」

そっか
考えてみればそうなのかもしれない
ううん、きっとそうなんだろう。

付き合いはじめてちょうど7か月が経った。
アタシとトオル君は3か月ほど前にはじめてキスをした。

アタシはキスをするときカレに抱きしめられている感じがとても好きだ。
温かくって、そしてカレの胸に自分の頭を埋めているとトクトクと小さな鼓動が聞こえる。
その鼓動を聞いているとまるで音楽を聞いているように身体がフワフワとした気分になれる。

しかし、男の人はきっとそれだけじゃ済まないだろうとも思っていた。
ただ乏しい性についての知識の中で、流されてしまう自分が怖かったりもしていた。

「あの、若木さんは・・・」
アタシは適切な言葉が見つからずに口ごもってしまう。

「アタシは、なにかしら?」
「若木さんは・・・付き合ってる人っているんですか?」
「ああ、ウン。いるわヨ。若干1名ね(笑)」

「その人とは・・・その・・・」
そこから先がさらに適切な言葉が見つからない。
すると彼女はズバッとこう答えた。
「セックス?」

「え、あ、エット・・・」
「アハハ。だよね?」
「まあ、ウン・・・」

「ウン、してるヨ。モチロン」
「やっぱり?そう、ですよね」
「そりゃ、アタシだって健康な女性だしね。してほしいって思うし」

「してほしいって・・・若木さんが思ったりするの?」
アタシは高まる胸の鼓動を押えながら意外な展開になった若木さんの話に聞き入ってしまう。

「ウン、思うわね。これはアナタたちにとってもそう遠い話じゃないと思うな。ただ・・・」
「ただ?」
「自分自身がそうなりたいって思うまで、そうしないほうがいいってアタシは思う」

「女のコから?」
「ウン、そうね。女のコが、この人とならそうなりたいって思うまで。それまでゆっくりと時間をかけてでも相手の気持ちを見ておくことをお勧めるわ」

「そっかあ・・・」
「女のコの場合、どんなに注意したとしても妊娠っていうリスクもあるわけだしね。本当に好きだって思える人とそうなったなら後悔しないでしょ?」
「そう、ですね・・・」

今までこんな話はミコやみーちゃんともほとんどしたことはなかった。
多分アタシたちの中でそういう経験がすでにあるのは久美ちゃんくらいだろう。
その久美ちゃんとでもめったにこういう話はない。
それでも、いつかアタシにも『そういうとき』が来るのだろう。
そのときアタシはどう思ってそのための一歩を踏み出すのだろうか。


お風呂をあがるとアタシたちは旅館の浴衣に着替えて大広間に集合する。
そしてこれから今日の仕事の打ち上げを兼ねた夕食が始まるのだ。

総勢26人の関係者が一堂に集まってテーブルの前に座った。
お刺身やサザエのつぼ焼き、色とりどりのお料理が並べられている。
ただし未成年のアタシやミコ、みーちゃんの3人はアルコール類は禁止、特にみーちゃんは調子に乗りやすいので前田さんから厳命されていて、もし一滴でも飲んだらまた自分がつきっきりの家庭教師を復活させると脅かされている。
その代わりにアタシたちにはジュースやコーラが用意されていた。

前田さんの挨拶の後宴会は始まり、場は次第に盛り上がっていく。
そこにはビーチバレーの対戦相手だったブレーメンの3人も座り、わいわいと賑やかに語らっていた。

アタシもTVという普段自分とは全く縁がない世界の人たちと話ができて、その世界は思っていた以上にいろいろな刺激があふれていることを知り少し興奮をしていた。

そんなときブレーメンのメンバーの一人、高木さんがアタシの横にスッと腰を下ろし話しかけてくる。
「凜ちゃん、今日はお疲れやったな」

高木さんは、聞いたところでは年齢は27歳らしい。
それにしては少年っぽいいたずらな目をしていて、関西弁のせいもあってニコッと笑うとどことなくワタルに似た感じがする。

「どうやった?こういう世界は」
「あ、とっても楽しかったです。それにとても意外だったのが」
「ウン」
「たった20分の番組を作るのにすごい時間をかけてるってこと。びっくりしました」

「ああ、そやなあ。凜ちゃんたちがTVで見てるのは1時間の番組でも、その何倍もの手間をかけてるんや」
「そうですねー。それにスタッフのみんなが全員で協力して作ってる感じがよくわかっていい勉強になりました」

「そういうとこをわかってくれるのはうれしいな。凛ちゃんみたいに素直な娘ってボクはじめてや」
そう言って高木さんはまた優しく微笑んだ。

TVの中ではわりと毒舌というイメージがある高木さんだったけど、こうして実際に会って話すと彼はすごく感じのいい人だった。


アタシは不思議と彼に10歳の年齢差をほとんど感じなかった。
話してみると、高木さんは同じ年だったワタルとは少し違う、きっと自分に兄がいたらこういう感じなのかなと思う。

そんなとき
「なあ、凜ちゃん。ここら辺ってよく知っとるんか?」
と高木さんが聞いてきた。
「あ、いえ。葉山は何度か親に連れてきてもらったことはあるんですけど、ここは知りませんでした」

「そなんやあ。知っとるか?ここから歩いて少し行ったところに海が一望できるメチャクチャ眺めのいい喫茶店があるんやで」
「え、そうなんですか? わぁ、今度ミコと一緒に行ってみよう!どこにあるんですか?」

すると高木さんは内緒話をするようにアタシの耳に自分の手を当てるとこう言った。
「な、これからちょっと行ってみんか?」

「え、・・・でも、もうすぐ9時ですよ?明日も早いから今日はなるべく早く寝るようにって前田さんも言ってたし」
アタシはこのときその喫茶店への興味とともに、高木さんともう少し話をしてみたいという気持ちが正直言ってあった。
しかし今日初めて会った、しかも男の人と2人だけで夜に出歩くことへの抵抗感もなかったわけじゃない。
でも、きっと何か言い訳を探していたのかもしれない。

だからその後高木さんが
「ウン、そやからちょっとだけ、な。一杯だけお茶してすぐに帰ってくれば10時までには寝れるし」
と言うと
「ウーン・・・」
と考えるようなポーズを見せながらも
「そこな、紅茶とレモンケーキがすごく美味いって女のコに有名な店やていうし。せっかくここまで来てどこにも行かんと帰るんはもったいないやろ?」
という言葉につい乗ってしまった。
そして
「そう、ですねえ・・・じゃあ・・・ちょっとだけなら」
とOKの返事をしてしまう。
「よっしゃ!ほんなら1時間だけな。行って帰る時間を除くと30分くらいお茶できるしな」

そんなわけで、せっかくの葉山の思い出にと、アタシは高木さんと夜の海岸へと出かけることになったのだった。

時間は夜9時になろうとしている。
夕食を兼ねた宴会は終わり、メンバーはそれぞれの部屋へと戻っていく。

アタシはこの後高木さんと旅館の玄関から少し離れた場所で待ち合わせをすることになっていた。
そして席を立ち大広間を出ようとしたとき
「あれ、凛。どこ行くの?」
とミコに呼び止められた。

「エ、あ、あの、ちょっと、コンビニに行ってこようと思って」
「コンビニ?何か買いに行くの?」
そう聞いてミコは少し怪訝そうな顔でアタシを見る。
「あ、ウ、ウン。眠るまで雑誌でも読もうと思って」
「雑誌?そっか。じゃあ、アタシも一緒に行こうかな。何かアイスでも食べたくなっちゃったし」

ミコにそう言われてアタシは焦ってしまう。
「エ、あ、じゃ、じゃあアタシ買ってきてあげるヨ。」
「そう?」
「ウ、ウン。どんなのがいいの?」
「そうねぇ、じゃあ、イチゴのカキ氷」
「ウン!わかった。イチゴのカキ氷ね!」

「あのさ、ホントに一人で大丈夫?」
「大丈夫!大丈夫!アハハ、じゃあ、行ってくるね」
そう言ってアタシはミコの視線から逃げるようにしてその場を後にしたのであった。



待ち合わせの場所に行くともう高木さんは先に来て待っていてくれている。
「凛ちゃん、大丈夫やったか?」
「あ、ハイ。出るときミコに声かけられて、コンビニに行ってくるって言っちゃった」
「そっか。ほんなら行こうか?」
そしてアタシたちは真っ暗な海岸を一緒に歩き出した。


東京都心から車でほんの1時間半
通勤や通学で通ってくる人もいるくらいの距離にある葉山海岸
それでもここはやっぱり東京の夜の街の中とはぜんぜん違う
海岸線にぽつんぽつんと所々小さな明かりと、そして真っ黒いじゅうたんを敷いたような夜空にはそこから漏れ出した光のような星がある以外すべてが闇の中
しんと静まり返った浜辺にはザアーザアーと波の音だけしか聞こえない。

女のコとして生活するようになって、両親はアタシに昔より明らかに口やかましくなった気がする。
男として生活していたときはきっと言われなかっただろうことも折に触れて注意される。

高校生になっても門限は夜8時。
遅くなる時は必ず電話をしろと言われている。
今回の撮影お泊りだってミコが一緒でそして前田さんというウチの両親が全面的に信頼している人がいてやっと許されたわけだし。
だから、こうしてこんな遅い時間に普段とぜんぜん違う場所を歩いているだけでアタシにはけっこう刺激だった。

「ああ、なんかこういうのって久しぶりー」
そう言って腕をあげて大きく伸びをする。

「そうなんか?」
「ウン。普段は夜遅くまで外にいるとお母さんがけっこううるさいんです(笑)」
「ハハハ。凜ちゃん、いいとこのお嬢さんって感じやしな(笑)」

「あ、そんなんじゃないんですけどね。でも、やっぱり色々うるさいんです」
「まあ、親なんてそんなもんや。まして凜ちゃんは女のコやし心配して当然やな」
そう言って高木さんは楽しそうに笑う。

そんな高木さんにアタシはちょっと意地悪そうな顔で
「高木さんは男だからご両親はそんなにうるさくなかったんじゃないんですか?いいなぁー」
と言った。

すると高木さんは
「ああ、ボクの場合おとーちゃんが子供のとき死んでしもたからな。中学の頃からボクもバイトでけっこう遅かったし」
気にしない口調でそう答えたのだった。

「エ、そ、そうだったんですか?あの、ごめんなさい」
「ああ、ええよ。小さかったからほとんどおとーちゃんの記憶ないし。ぜんぜん気にしとらん」
そう言って彼は少し後ろを歩くアタシの方をくるっと振り返ると、ニコッと笑う。

「さあ、着いたで。あそこや、あそこ」
彼の指さした先には海岸道路沿いに小さな明かりが見える。

近くまで寄るとその明かりの元には白いペンキの壁に、海側に面してテラスのある小さな喫茶店があった。

「わぁ、可愛いお店ですねー」
さっそくお店の中に入ると、そこは外見から想像した以上に明るく清潔な店内だった。
お店の中にはこんな時間でも数組のカップルがお茶をしている。
高木さんはアタシを海に面したテラスの席に案内してくれる。
そこには3組ほどの木のテーブルと椅子があって、各席ごとにテーブルの上に小さなランプが備えられていて、ぼんやりした明かりを灯している。
それはとても幻想的だった。

「エット、ボクが頼んでもええかな?」
「あ、ハイ。お任せします」

高木さんはテーブルの上にある小さなベルをチリンと鳴らしウエイターさんを呼ぶと、レモンケーキとオレンジペコの紅茶のセットを2つ頼んだ。
「じつはボクもけっこう甘党やねん(笑)」
そう言って高木さんはニヤッと笑う。

しばらくしてアタシの前に置かれたレモンケーキは予想以上に美味しかった。
シフォンケーキの上にたっぷりとかかったレモンソースのケーキは口の中にふわっと溶けて、そしてオレンジペコの紅茶がそれにとてもよく合う。

「すっごく美味しいです!」
「ハハハ、凜ちゃんに気に入ってもらえて良かったわ」

そして美味しいケーキと紅茶に合わせておしゃべりは弾む。
TVの中で面白いことをぺらぺらと喋っているイメージと逆に、高木さんはむしろアタシの話をよく聞いてくれる聞き上手な人だった。
アタシは普段の自分の生活、学校での出来事などをいつも以上に良く話している。
そんなアタシの話をまるでお兄さんのように、ニコニコと笑顔で聞いてくれた。

そしてフッと気が付くと
「あ、もうこんな時間!」
アタシの左手の腕度計の針はもう11時になろうとしている。

「あ、ホンマやな。すまん、ボクが注意せなんかったから」
「ウウン、アタシも楽しくって時間が経つのわからなかったから」
「とにかくそろそろ店を出て戻ろうか」
「ハイ」

そしてアタシたちは再び来た道をテクテクと歩き出した。
行きに見た星はさっきより夜空の天井に登っている。
そして潮の香りの混じった夜風はアタシのスカートから出た素足を優しく撫でて気持ちよかった。

そんなとき
「あ、凛ちゃん。ちょっと」
そう言って少し前を歩く高木さんがアタシを止めた。

「エ?」
「ほら、そこに大きな溝があって水が溜まっとる。ちょっと待っててや」
高木さんはそう言うとピョンとジャンプしてその溝を飛び越え、そしてアタシに右手を差し出した。

「あ、ありがとぉ」
アタシはその右手を取りそしてエイッとジャンプをしてそれを飛び越える。

すると
高木さんはアタシの手をそのまま離さず再び歩き出した。
正直言ってアタシは少し戸惑っていた。
彼氏がいるのに別の男の人と手をつなぎながら歩いている自分に少し後ろめたい気持ちがあったからだ。

でも、
きっと自分に兄がいたとしたらこんな感じなんだろうな・・・

あの頃
弟の悟には兄がいて、それは自分だった
それがあるとき
じつはそれが兄ではなく本当は姉だったとわかり
そのとき悟はどんな気持ちだったんだろうか

アタシはそんなことをフッと考えた。
そして、今だけ自分のお兄ちゃんのつもりで、高木さんのその大きな手をそっと握り返した。
そしてアタシたちはまた歩き始める。

「なあ、凜ちゃん。ボクな、初めて挨拶されたとき、凜ちゃんの笑顔がすごく眩しかったわあ。ああ、この娘はきっと両親の愛情をいっぱい受けて育ったんやろな、だからこんなにまっすぐで透明な心を持っとるんやろな、って思ったんや」
「エー、そんなアタシなんてそんな大したもんじゃないです」

すると
「なあ、ボク好きになってもええか?」
高木さんは小さな声でそう呟いた。

「エ?」
アタシはその意味が分からずとっさに聞き返す。

そのときだった
アタシの身体は高木さんの太い腕にグイッと引き寄せされて
そしてアタシの顔のすぐ前には高木さんの顔が

「エ、やだな、高木さん、ふざけてる?(笑)」
アタシは笑って誤魔化そうとした。

しかし高木さんはその手を緩めてくれない。
「ふざけてなんかないわ、ボク、初めて凜ちゃんに会ったときキミのこと好きになってもうたんや」

「ダメですヨ。アタシ、彼氏だっているんですヨ」
「ええやんか。今だけ彼氏のこと忘れてしまえば」

そう言って高木さんはアタシの身体を強く抱きしめてキスをしようとした。

「やだ、ちょっと!ホントにやだぁぁーーーー!」
そう叫ぶが彼の力は強かった。
そして彼の唇がアタシの唇の先に触れようとしたときだった。

「オマエは何をしとるんだぁぁぁーーーーーーーっっ!!」
すぐ横からそう怒鳴る声が聞こえたかと思うと、その声の主はすごい力で彼の身体をアタシから引き離し投げ飛ばしてしまった。

一瞬のことにアタシはボー然とし、その場にヘナヘナと座り込んでしまう。
ハッとして上を見上げるとそこには前田さんが鬼のような形相で立っていた。

「ウチの事務所関連の仕事ではこういうことは絶対ご法度だと何度も言っておいたはずだ!!オマエは私の預かった娘に何をしてるんだっっ!?」

投げ飛ばされた高木さんは唖然とした表情だった。
そしてすぐにガクガクと震えだす。

みーちゃんに以前聞いたことがある。
スターダストプロはかなりの大手プロダクションでもあるけど、この業界で前田さんの評判はすごく高く信頼があった。
前田さんは滅多なことで怒る人ではないけど、本当に前田さんを怒らせて芸能界を追放された人もいたらしい。
まして、いくら今人気があるとはいえ、TVに出だしてそれほど経っていないお笑いタレントにとって前田さんを怒らせるということがどんなに怖いことか、きっとわかっているはずだ。

「あ、あの・・・その・・・す、すみません」
高木さんは完全に狼狽していた。

そしてその高木さんに前田さんは落ち着いた口調でこう言う。
「君は東京に帰りたまえ。ブレーメンのあとの2人にはこのことは黙っておいてやる。二度とこんな真似したら私は君を芸能界から追放してやる」

その静かだけど怒りのこもった前田さんの言葉に高木さんは腰を上げるとトボトボと一人で歩いて行ってしまった。

そして腰を落としたままのアタシは前田さんの手に支えられて身を起こしたそのときだった。

パンッ!

前田さんの右手がアタシの頬を叩いた。
乾いた音が静かな海岸に響く。

「あ・・・」
「女の子が軽はずみに初めて会ったような男に付いていくんじゃない!君もしっかり反省しなさいっ!」
前田さんは厳しい目でアタシを見つめながらそう言った。

「ご、ごめんなさい。前田さん、ごめんなさい」
そう言いながらアタシの目には次第に涙が込み上げてきた。
それは前田さんやみんなに迷惑をかけてしまった自分のふがいなさ、そしてトオル君のことをたとえひと時でも忘れていた自分自身への怒りに対してだった。

「前田さん、ホントごめんなさい!」
アタシはそう叫んで前田さんの大きな胸に涙でくちゃくちゃになった顔を埋めた。

「わかったらもういい。さあ、旅館に帰ろう」
前田さんはそう言ってアタシの肩に自分の着ていたブレザーの上着をかけてくれるとゆっくりと歩き出した。


そしてしばらく歩くと遠くに旅館の明かりが見えてくる。
少し近づくとその玄関のところに白い人影が立っているのが見えた。
それはミコの姿だった。

「ミ、ミコ・・・」

「君が高木君と2人で出かけたらしいと知らせてくれたのは彼女なんだ。彼女は君のことが心配でずっとここで立って待っていてくれたんだよ」
前田さんはアタシにそう言うと、ミコに寄って行き、そして
「じゃあ、後は君に任せます」
と言って旅館の中に入っていった。


ミコは寂しそうな目でアタシを見つめていた。
「みーたちはもう寝ちゃってるよ。ね、凛。少し、歩こうか?」
ミコは静かにアタシに言った。

ミコはアタシを連れて旅館から歩いて50mほどのところにある葉山マリーナに行き、そしてそこにあるベンチに2人は腰を掛けた。

そして彼女はアタシの少し赤くなった右頬に静かに自分の右手をあてさする。
「前田さんにひっぱたかれたの?」
「あ、・・・ウン」
「赤く、なっちゃったね」
「いいの、アタシは悪いんだから」

「まったくこの娘は・・・しょうがない娘ねっ。アタシに心配ばっかりかけて・・・」
「ごめんね、ミコ、ごめんね・・・」
そしてアタシの目にはまた涙が浮かんでくる。

そのとき
「そんなんじゃアンタのワタル君だって悲しんじゃうよ?」
ミコが小さな声でつぶやいた一言にアタシはびっくりして彼女の顔を見つめた。

「ア、アンタのワタル君って・・・ミコ、それって・・・」
「そうヨ、凛のワタル君。アタシたちが中3から高1までを一緒に過ごした石川渉君、でも本当の名前は鮎川渡君、だよね?」

「ミコ、・・・どうしてそれを?」
「アタシの記憶が戻ったと思った?」
「ウ、ウン」

「残念ながら、それは違うの。アタシはワタル君についての記憶をなくしちゃいなかったのよ」
「じゃあ、なくした振りをしてたってこと?」
「まあ、そうね。」

「どうして!?」
「ワタル君に頼まれたからよ。このままずっと黙っていようとも思ったけど、アンタにとってそれは良いことじゃないみたいだから、そろそろ話したほうがいいかなって思ったの」

「ワタル君が、ミコにアタシのことを?」
「そうだよ。彼はずっとアンタのことを心配して、そして夏休みの終わり、アンタと最後に会った後にアタシのところに最後の実体を現したの。いい?凛 、アンタは生まれた時から女だったんだから。そしてワタル君に愛されて、笹村さんに愛されて今のアンタがいるんだから」

「ウン、ごめんね。アタシ、ホント、いい気になってたって思う。ワタル君にもトオル君にも。そしてミコにこんなに心配させちゃった。ごめんね」

「それとアンタにもうひとつ話しておこうと思うの」
「な、なに?」

「アンタと友達になってしばらくしたころ、アンタ、アタシに聞いたじゃん? 自分と友達になってくれって久美子に頼まれたのか?って」
「あ、ウン。あったね」

「あのとき、アタシはそんなこと頼まれてないヨって、アンタに言ったけどあれってホントは嘘だったの。アンタが入院してるとき久美子がうちに来てね、アンタと友達になってくれって頼まれたのよ」
「そう、なんだ?」

「ウン。だからアタシはアンタに友達になろうよって声をかけた。でもね、そんなスタート、今ではどうでもいいことなのよ。アタシはアンタと友達になってそして大好きになっていった。今はお互い本当に楽しい時間を共有できる大切な存在になれたって思ってる。アンタはアタシにとってかけがえのない親友なんだから。それが大切なんじゃないかってアタシは思ってる」
「ウン、アタシも、アタシもミコのこと一番大切な友達だから、大好きだから」

「だったら、アタシのこともっと頼んなさいよぉ・・・アタシもアンタのこと頼っちゃうから」
「ううう、ウン、ミコ、ありがとう、ミコ、大好き」
「ううう、アタシも凜のこと大好き、大好き」
そしてアタシとミコは星空の下でお互いを抱きしめあって泣き続けたのだった。


次の日の朝
アタシの目は寝不足と泣きすぎで真っ赤だった。
帰りのバスの中でみーちゃんが不思議そうにその理由を尋ねてくる。

アタシは話をそらすために
「そ、そういえばさ、前田さんって何かスポーツとかやってたのかな?」
と聞いた。

「前田さん?なんで?」
みーちゃんはそう突っ込んでくる。

「あ、ウウン。なんか健康そうだし、アハハ。なんかやってたのかなあって思っただけヨ」
「ああ、なんかね、家庭教師やってくれてたとき教えてもらったんだけど、大学時代柔道と空手やってて、両方とも三段らしいよ」

「エ、柔道も空手も三段・・・」
「ウン、大学時代新宿のやくざを三人くらい半殺しにしたことあったって」

ぞ、ぞぉぉぉ~~~~~~~~~~~~~!!!

アタシ、下手したら半殺しじゃ済まなかった?
ああ、前田さんの言うことは大人しく聞こう。
みーちゃんの話に背筋が凍ったアタシだった。

第27話 彼氏の家

12月
3年生はこの時期高等部生活の最後の山場を乗り越える。
先月に行われた最後の学力テストの結果を踏まえて内部進学する大学での学部が決定されることになる。

ミコは余裕をもって最初からの希望通り教育人間科学部教育学科に推薦を決め、みーちゃんは例の一件で期末試験を受けなかったため、前回テストの7割評価となってしまい職員会議でかなり揉めたそうだけど、その後の学習態度も参考になんとか希望していた総合文化政策学部に潜り込むことができた。
そして、かくいうアタシはというと、これからの自分に何ができるかをいろいろ考えた結果国際政経学部の国際コミュニケーション学科を志望し、それがなんとか認められた。

こうしてそれぞれの進路が決まってくるこの時期、みんなは自動車学校に通い始めたり卒業旅行の計画を立てたりと思い思いの時間を過ごすようになる。


そしてそんなある日

「あのさ、実は頼みがあるんだけどな・・・今週の土曜日って暇かな?」
トオル君は電話でなぜか遠慮がちにそんなことを言う。

「土曜は特に何も予定ないけど、頼みってなに?」
「あ、いや。そんな大したことじゃないんだけどさ・・・」
「ウン?」

「・・・・」
「どうしたの?」
「あ、いや・・・」
トオル君はけっしておしゃべりなタイプではないけど、言いたいことはいつもキチンと言う。
今日のトオル君はどうも様子がヘンだ。

するとトオル君は
「あ、嫌だったらもちろんいいんだ」
と突然あわてたように言い出す。

「そんな、まだ何も聞いてないのに嫌とかわかんないヨ?ね、ちゃんと言って?」
アタシはそう言いながらも頭の中で勝手な想像をしてしまう。

(もしかして、一緒にどこかに泊りで行こうとか・・・)
(もしそういうことなら、何もないってことはやっぱり・・・ないよね)
そんな一人勝手な妄想が頭の中を巡る。

「実はさ・・・一緒に来てほしいんだ」
トオル君はぼそっとそう呟いた。

(や、やっぱりぃぃーーー!)
ドキッ!ドキッ!ドキッ!
アタシの鼓動の音が急激に高まっていく。

「あ、あの、トオル君・・・その・・・わかっていうと思うけど、アタシ・・・初めて・・・なんだけど・・・」

(ああ、言葉が上手く出ないーーーっ!)
焦って呂律の回らない言葉でアタシはトオル君にそう尋ねる。

「ああ、わかってる。だからオレも上手く言えないだけど・・・」
トオル君は真剣そうな声でそう言う。

電話の向こうとこっち
お互いの言葉のやり取りが交錯する。

(なんでいきなり? どうしよう・・・)
正直決心がつかなかった。

だって
女として生活するようになって4年が過ぎ、その間にはワタルとのファーストキス、そしてトオル君とのセカンドキスもあった。
でも、それだって最初はけっこう勇気が必要だった。
13歳まで自分のことを男だと思い込み生活してきた自分が男とキスするなんて、何度か想像はしたことはあったけど、想像の中では正直あまり気持ちがいいと思えなかった。
それが、ワタルと初めてのキスのとき、それがあまりに自然なものだったから自分自身びっくりした。
でも、今度は男の人を自分の中に受け入れてしまうなんて・・・。

「じゃ、じゃあ、あの、アレ・・・買って・・・。え、どうしよう・・・」
「あ、いや。そんな気を遣う必要ないよ」
「そ、そんなっ!!だって・・・もし、できちゃったら!」

「できちゃったらって、何が?」
「それは・・・その・・・」

「じゃあ、そんなに気を使ってくれるんなら、クッキーでいいんじゃないか?あ、ウチの父親はなんでも食っちゃうから」
「へ?クッキー?」

もしかしてアタシの勘違いデスカ?
勝手な妄想ダッタ?
アタシは受話器を抑えながら顔から火が噴き出そうになった。

「ああ、よく家でひとりでもしゃもしゃと食ってる(笑)」
「そ、それじゃあ?」
「ウチに遊びに来ないかってことだけど・・・違うのか?」

「あ、ウウン!そうヨ!そういうこと!ア、アハハ!!」
アタシは完全に明後日の方向に行ってしまっている話をなんとかこじつけようと必死だ。
「そっかあ、トオル君のお父さんって甘党なんだあ。じゃあ。あ、じゃあ、アタシすっごく美味しいものお選んじゃおう!」
というように、最後は無理やり話のつじつまを合わせたのだった。

「じゃあ、いいのかな?」
「ウン。もちろん!」

「よかった(笑)もしかしたら迷惑かなって、ちょっと心配だったんだ」
「迷惑なわけないじゃん(笑)トオル君、アタシに気を遣いすぎだヨ?」
「そうかもしれないけど、でも親に会うってやっぱり緊張するじゃないか」
「そうかもしれないけど、でもアタシはトオル君のお父さんやお母さんに会ってみたいな。トオル君とお付き合いしてること知ってほしいし。今度アタシの家にも遊びに来てね?」
「ウン、もちろん。凛、サンキュ」

トオル君とのお付き合いを始めて少しした頃、母親にはカレの存在をきちんと話しておいた。
母親は中学生のときの自分を思い出したのだろう
「そっかぁ、いい人そうね。大切に育てていくのヨ」
とニコッと微笑んでそう言った。

その一方で、その後母親からそのことを聞かされた父親の表情は少し複雑そうだった。
アタシが洗面所で父親とすれ違ったとき父は
「あ、凛」
とアタシを呼び止めた。

「あ、ウン。なに?」
「え、あ、いや。そのだな・・・」
モジモジとはっきりしない父親の目は完全に泳いでいた。

「その、ほ、ほらっ!」
「ほら?」
「し、式場はもう決めたのか?」
「はああーーーー!?お父さん何言ってんのっ!?」

4年前、アタシが初めて女生徒として中学に登校したとき、一緒についてきた母親はこう言った。
「女は一度決めたら前に進むものヨ!」

やっぱりいざとなったときには男より女の方が度胸があるんだろうか。
アタシはフッとそんなことを考えながら、それでも父親のそういう姿をなぜか『かわいい』などと思ってしまったのである。

初めて行く彼氏の家だからやっぱり服装にも気を遣う。
「あんまりキッチリした感じだとヘンだよね?」
「そうねぇ。ほどほどでいいんじゃないかしら。ほら、これなんかどう?」
そうやって、アタシは母親と相談をし、薄茶の落ち着いた感じのワンピースにクリーム色のボレロを着ていくことにした。


そして次の土曜日
アタシはトオル君と待ち合わせた新宿駅に向かう。
待ち合わせの時間は朝10時だったけど、アタシは30分ほど早めに到着しデパートでユーハイムのハウムクーヘンとクッキーの詰め合わせを買った。
ふわぁ~っとした甘いバターの香りが漏れてきそうな箱を抱えてアタシはカレとの待ち合わせ場所に行く。

トオル君の家は新宿駅から西武線に乗って10分ほど行った閑静な住宅街にあった。
かなり大きな家の前には明るい庭が広がっていて、そこには周囲に花壇が作られていて色とりどりの花が咲いている。
きっとトオル君のお母さんが世話をしているのだろう。

ピンポォォォ~~~~ン

インターホンを鳴らししばらくすると
「はぁーーい」
と女のコの声が聞こえる。
そして出てきたのは方に着くくらいのセミロングの髪をした笑顔のステキな女のコ、そしてその後ろにはとても優しそうな感じの、きっとトオル君のお母さんなのだろう女の人が立っていた。

アタシは緊張しながらもペコンと頭を下げて挨拶する。
「はじめまして。小谷と申します」
「いらっしゃい。透の母です。お待ちしてましたよ」

「あ、こいつは、オレの妹。若葉っていって、今年高校に入学したんだ」
「こいつはないでしょー! あ、はじめまして 若葉です」
そしてアタシは応接間とダイニングがつながった大きな部屋に通された。

そしてそのソファにはトオル君のお父さんらしい男の人が一人座っている。
「さあ、どうぞ。座ってちょうだい」
お母さんはアタシにそう声をかけてくれたが、アタシは立ったままでその男の人に挨拶をした。
「あ、あの、はじめまして。小谷 凛と申します」
その男の人は広げている新聞の隙間からアタシの方をチラッと見ると
「ああ、そうですか。まあ、どうぞ」
とぶっきらぼうに席を勧めた。
「あ、はい。失礼します」

(もしかして、アタシ嫌われちゃってるんだろうか・・・)

トオル君自身があまりお喋りな方ではないので、そのお父さんが寡黙だとしたらそれは分かる気がする。
でもどうもそういう感じではない気がする。

(アタシ、やっぱり来なかった方が良かったのかなぁ・・・)
ズーンといきなり気が沈んでしまう。

するとアタシの隣にスッと腰を下ろした妹の若葉ちゃんが
「あ、気にしないで。お父さん、初めて会う息子の彼女に照れちゃってるだけなんだから(笑)」
とアタシの耳に手を当てて囁いた。

「照れ、てるの?」
アタシも若葉ちゃんに囁き返す。

「そうなの(笑) でも大丈夫ヨ。そういうときは簡単。こうすればいいの」
そう言って若葉ちゃんは「コホン」と小さく咳払いするといきなりこう歌いだした。

「われらが母校~♪」

するとそのとき新聞を広げて読んでいるお父さんの口からこんな声が漏れてくる。
「青葉大~♪」

そしてお父さんは読んでいた新聞紙を突然バサッと下ろすとブンブンと手を振りながら大声で歌い始めてしまう。

「紫匂う 西郊の森 夢覚めやらぬ緑が岡の~♪
霞にそびゆ我が白亜城 春光麗に日は差し染めて
常盤木の色 映ゆる~♪
われらが母校 青葉大~♪」

「あれ、これって!」
びっくりするアタシに
「フフフ、凛さんの学校の大学の校歌でしょ?」
若葉ちゃんは笑って答える。
すると
それを聞いたお父さんは
「若葉、校歌じゃないぞ!カレッジソングだ!」
と注意する。

「ハイハイ。校歌じゃなくてカレッジソングね(笑)」
若葉ちゃんは呆れるように笑ってお手上げのポーズをした。

「エ、でも、どうしてお父さんがこの歌を?」
「フフフン、それは青葉学院大学はわが母校だからさっ!」

「お父さんも青葉だったんですか?」
「ああ、そうさ。しかもっ!第53代青葉学院大学応援団長なのだっ」
そう言ってお父さんはエッヘンと胸を張った。

「すごーい!じゃあ、トオルさんの先輩ってことですね」
「ああ、そういうことだな。君も大学はそのまま青葉大に進むんだろ?」
「ハイ、そのつもりです」
「じゃあ、君も僕の後輩ってことになるな」
「先輩、よろしくお願いします」
「「ハハハ、まかしとけっ!」
「フフフ」

最初は気難しそうに見えたトオル君のお父さんは、じつはちょっと照れ屋さん、そしてとても優しい人であることがわかった。

「お父さんは大学時代の思い出がすごくありそうですね」
「ああ、楽しかったなぁー。本当に楽しい4年間だった」
「どんな思い出だか聞いてもいいですか?」

「ああ、いいよ。僕らのころは今みたいに携帯電話もなければパソコンなんていうのもなかった。ただ大学に行けばそこには必ず友達がいた」
「ウンウン」
「いうなればアナログの時代だったけど、だからこそ友達同士の思い出は多かったんだ」

「うちの親は学費だけ出して男ならあとはなんとかしろって主義だったからね。でも応援団やってたからバイトをする時間も多くは取れなくていつもピーピーしてた」
「お小遣いをくれなかったんですか?」
「ああ、そうさ。自宅通いだったから、衣食住は困らなかったけど、金がないときはよく昼メシ抜いてたな(笑)」

「エ!お昼ご飯をですか?」
「ああ。それでOBが来ると哀れに思って奢ってくれたりね。 それと、大学の横に青葉会館って施設があるだろ?」
「あ、ハイ、ありますねぇ」

「あそこの当時の社長が応援団出身でね。 結婚式が終わったあとの残飯を恵んでくれたり。あのときは豪華な残飯にみんな発狂しながら食ったっけ(笑)」
「す、すごい生活送ってたんですねー!」

「たしかに、今から思えばすごい生活だったかもね。ああ、そういえば・・・」
「エ、なんですか?」
「こんな話をしてたらフッとあるヤツを思い出したんだ。退屈かもしれないけど聞いてみるかい?」
「ぜひ!」

「当時僕は大学3年生でね。大学の団同士の交流で池袋にある聖教大学応援団のヤツラと付き合いがあったんだ。それで聖教の2つ下の学年にアー坊ってのがいてね」
「アー坊・・・さん、ですか?」
「ああ。ちゃんとした名前はなんていったけなあ。もう30年も前のことだから、あいざわ、あいだ・・・うーん、違うな。とにかく、みんなアー坊って呼んでたからね(笑)」

「フフフ。それで?」
「うん。そのアー坊ってやつとあるとき知り合ったんだけど、妙に馬があってね、僕が卒業するまでの1年ちょっとの間だったけど、ときどき2人で遊んだりしたんだ」
「へぇー。大学を超えたお付き合いだったんですねぇ」

「うん、そうだな。アイツも違う大学なのに僕のことを笹村先輩って呼んで慕ってくれてね、2人で夜遅くまでアイツのアパートで色んなことを話したっけ」
「アー坊さんはアパートで一人暮らしだったんですか?」
「うん。アイツは関西の方の出身でね。大学で東京に出てきてたんだよ。それがさ・・・(笑)」

「エ、どうしたんですか?」
「あ、いや、思い出したらつい笑っちゃってね(笑) ここからが愉快なんだ」
「わくわく(笑)」

「アー坊は、多摩川沿いのおんぼろアパートに住んでたんだけど、親からは仕送りが全くなくてね」
「エ、仕送り全然貰わないで? じゃあ、アー坊さんの家は貧乏だったんですか?」
「いや、ヤツの家もたしか親が会社を経営してるって言ってたからわりと裕福だったんじゃないかな。ただ、同じように親がわざと金を与えなかったらしい。だからいつも金がなくてピーピーだった」

「それでアイツの家に行くと2人とも金がないからね。 酒を飲んでもつまみに食うものがなくってよく困ったよ(笑) あるときなんか、2人の金を合わせても100円しかない。そこでスーパーに行って特売キャベツをまるごと1つ買ってきてそれを炒めてつまりにするんだ。 ただし、キャベツは芯までぜんぶ使う」
「芯も食べちゃうんですか?」
「そうだ。ふつう君が料理するときには芯は捨てちゃうだろ?」

「ええ、固くて食べられないし」
「そこを工夫して食べるんだ。芯は包丁で薄く切って炒める。味付けは塩と醤油だけ、胡椒なんて気の利いたものはない これがじつに美味いんだ!」
「わぁ、なんか想像したら美味しそうな感じがしてきました」

「それでもキャベツが買えるときはまだいい。 それすらも買えないときは」
「どうするんですか?」
「いよいよのときは野草を採って食うんだ」

「野草・・・ですか? でも東京に野草なんてあるんですか?」
「ハハハ、野草っていたって山菜とかそんなたいそうなもんじゃない。多摩川の土手に生えているヨモギとかツクシなんかを刈るんだよ」
「エエッ!ヨモギとかツクシ・・・ですか?」

「ああ。これが炒めて醤油で味をつけると美味いんだ。ところがあるときっ!」
「ど、どうしたんですか?」
「こういことがあったんだ」

**********************************************************************************************************
それは僕が大学3年の終わり頃だった。
じつはツクシというのはけっこう見つけるのが大変でね。
量をたくさん集めるとなると一苦労なんだが、僕らは土手のある場所にたくさんツクシが生えている場所を見つけて、そこによく摘みに行ってたんだ。
あるとき、親父から輸入もののウイスキーを丸々ひと瓶もらってね。
せっかくだからアー坊と一緒に飲もうと思ってやつのアパートに行ったんだ。
しかしツマミを買う金まではない。
夕暮れどき、僕とアー坊はいつものように土手に酒のつまみのツクシ狩りに出かけたんだ。


「笹村先輩、あの苅場が見つかってラッキーでしたな」
「ああ。しかしそれにしても、他の場所は点々としか生えていないのに、なんであそこだけあんなに密集してるんだろうな?」
「そうですなー。そういわれてみると・・・。まあ、何か理由があってあそこら辺だけ土が肥沃なんでっしゃろな」

「あ、アー坊。あそこだ!今日もたっぷり生えているぞおー!」
「ウヒヒ!これで今日のツマミも手に入って久しぶりの高級ウイスキーで乾杯やあー!」

そして僕らが今日のツマミを摘み始めようとしたそのとき
すると、そこに向こうの方からテケテケテケと3匹ばかりのダックスフンド犬が飼い主を引っ張ってやってきてね。

「ワン!ワン!」「ワン!ワン!」
彼ら三匹は僕とアー坊に向かってやおら吠えだしたんだ。

「なんだ?俺たち犬に吠えられるような怪しい人物に見えるのかな?」
「さあー?厳つい笹村先輩はともかく、僕はソフトなイメージで有名なんですがなあ」
「ったく、アー坊はよく言うぜ(笑)」

すると、その3匹の犬の手綱を持った品の良さそうなおばあさん
「すみませんねえ。ちょっとよろしいですか?」
彼女はそう言ってちょうど僕らのツマミの苅場のあたりに犬を連れて行ったんだ。

そしてその三匹は辺りを
「クン、クン、クン」
と匂いを嗅ぐ。

「なんでっしゃろなあ?」
「さあ?」
「まさか、今日の僕らのツマミがこいつらに食ってしまわれるんやないですか?」
「まさか(笑) 犬がツクシを食うなんて聞いたことがねーよ」

僕とアー坊がそう話しているそのときだった!!

三匹の犬がすぅっと後ろの片足を上げたかと思うと
「シャアアーーーーーーー・・・・・・」
と三匹揃っておしっこしやがったんだ。

そしてその飼い主の品の良さそうなおばあさんはニコニコとした顔でその犬たちを見て
「オホホホ。まったくこの子たちはこの場所じゃないとおしっこしたがらないんだから困っちゃうわあ」

僕とアー坊はその姿を見て真っ青さ。
「ま、まさか・・・この場所だけやけにツクシの育ちがいいのは・・・・」
「て、天然肥料・・・・」

「ウゲエエエーーーーーーー!!!」

僕もアー坊も今までそこのツクシの炒め物をたっぷり食ってきたからね。
それで、それを思い出しちゃってね。しばらくは2人とも野菜が食べられなかったんだよ(笑)

*****************************************************************************************************

「クスクスクスーーーー」
アタシはその話に口を押さえて笑った。
そのときのお父さんとアー坊さんの姿を思い浮かべるとしばらくその笑いが収まりそうもなかった。

「アハハ。それでも楽しかったなぁー。本当に毎日がキラキラとしていた」
「そうやって話しているお父さんの顔って今もキラキラしていますヨ」
「ハハハ、じゃあ自信持っていいんだな。いいかい?どんなにお金があっても買えないもの、それは時間だ。 君たちは今その時間を一番贅沢使えるときだ。だからこそ一瞬一瞬を大切にしてほしい。いろんな経験をして、自分と違う意見をたくさん聞いて。そうすれば大人になったときもきっと輝ける」
「ハイ!」

すると、そのとき今まで黙って話を聞いていた妹の若葉ちゃんが
「へぇー、珍しいんだあ」
「そう言ってニヤッと笑った。

「なにがだ?」
お父さんがそう尋ねる。

「だって、お父さんって初めて会う女の子にはいつもムスっとしてるのに(笑) 凛さんにはなにかシンパシーを感じちゃったのかなあ?」
「ウーン、なんて言うんだろうな。彼女は人の話をとても真剣に聞いてくれる。だから話すほうも聞いて欲しいと思ってくる。そういうことじゃないかな」

第一印象は厳しそうな感じのトオル君のお父さん
でも、じつはとても優しい人だってわかった。
そして、お父さんにもアタシたちと同じように、お父さんの青春時代があったんだって。

「そういえば、凛ちゃんのおうちはスーパーマーケットを経営してるんだって?」
お父さんが目の前にある紅茶を一口飲んでアタシにそう尋ねた。

「あ、ハイ。サトーヨーカドとかマイエーみたいにたくさんはないですけど」
「なんていうお店だい?」
「ウエルマートっていうチェーン店なんです。 でも首都圏に20店舗くらいしかないからきっとご存知ないと思います」

「いや、知ってるよ。そうか、ウエルマートさんかあ」
「父をご存知なんですか?」
「いや、直接は知らないよ。 うちの会社は輸入食品も扱っているからね。ウエルマートは、とても堅実で消費者の立場を考えた経営で業界でも注目されている。そうかあ、あの小谷さんの娘さんかあ!」
意外なところに繋がりというものがあるもんだ。

「さあ、さあ。そろそろお昼ご飯にしましょう」
キッチンにいたトオル君のお母さんがそう言って出てきた。
「あ、すみません!アタシ、なんのお手伝いもしなくて」
「いいのよ。凛さんはお客様なんだから。今日はゆっくりお父さんの話し相手でもしてあげて」

「ね、凛さん。今日のお昼はお庭でバーベキューだヨ」
そう言って妹の若葉ちゃんがお皿を運ぶ。
とりあえずアタシも食器の用意をする手伝いをして綺麗な花壇のある庭に出た。

「わぁ、広いお庭ですねー」
トオル君の家は門を潜って玄関までの間がかなり広い庭になっている。
アタシ家は正面の庭の他に家の裏手に本庭があるがこれほどの大きさはない。
庭のところどころに手作りと思われる花壇が作られていて、そこには色とりどりの花が咲いている。
どの花もよく手入れされている感じで、きっとトオル君のお母さんが大切に育てているのだろう。

その庭の奥の方にレンガが積み上げられたバーベキューコンロがある。
お父さんとトオル君はその横に木製の折りたたみテーブルを出して椅子を並べた。

「すごい!お家でよくバーベキューされるんですか?」
アタシが、テーブルを組み立てているお父さんにそう聞くと
「ああ、昔はよくやったなあ。今は透も若葉も大きくなったから久しぶりだけど」
と嬉しそうに答えた。

そしてコンロの中の木炭に火がつけられ、その上の金網に串に刺したお肉や野菜が並べられた。
お肉から滴り落ちる油がジュゥジュゥと美味しそうな音を立てる。


そういえば、アタシがまだ哲だったころ
まだ悟が小さかった小学生のとき、ときどき父親とキャンプに行ったことがあった。

2人で薪に火をつけて、そこに飯盒や釣ってきた鮎を並べてご飯を作った。
大学時代は山岳部だった父親は、自分の息子ができたら一緒にこうやってキャンプに行くのが夢だったらしい。

ウチは元々戦前は金物屋をやっていたらしい。
アタシの曾お祖父さんに当たる人は戦争中の空襲で亡くなったが、その息子にあたる(つまりアタシのお祖父さん)が戦後焼け野原になった土地のいくつかを買ってそこで食品雑貨店を開く。
そのお店は次第に大きくなり、まだ土地の値段がとても安かった頃大きな敷地を買いそこに移転してアメリカ式のスーパーマーケットのハシリみたいなものを始める。
それがウエルマートのスタート。
そしてその後それほどの拡大経営をしなかったため大手スーパーのようにお店の数は多くはならなかったが、堅実な経営で地元の人に支持されて、大手スーパーが進出した時もお客はそれほど逃げず逆にその大手スーパーのほうが程なくして撤退してしまったそうだ。
お祖父さんの代には5店舗ほどだったウエルマートは、今から10年ほど前に父親が社長になると次第に店舗を拡大していて現在はスーパー20店舗、そしてコンビニチェーン30店舗で従業員も700名以上になっていた。
そのため3歳年下の悟がちょうど小学校にあがった頃、父親は社長としてかなり忙しく動くようになり、悟とそういう機会をもてなかったことが心残りだと話していた。

美味しいお肉をほおばりながら楽しい昼食は進んでいった。
お父さんとトオル君はビールを美味しそうに飲んでいる。
そしてアタシが空になったお父さんのコップに
「あ、おつぎします」
と言ってビールを注ぎ入れたとき
「凛さんもビール飲んでみるかい?」
お父さんがちょっと悪戯そうな顔でそう言った。
「ダメですよ。凛さんはまだ高校生なんですから」
お母さんがそう嗜めると、お父さんは笑いながら
「そうか。そうだったなあ」
と言う。

じつはアタシもお酒というものは飲んだことがないわけではない。
まだアタシが哲として生活していた頃、ウチの父親にふざけて一口飲ませられたことがあった。
正直言ってそのときの感想は
「にがぁぁ~~~~~~~!」
こんなものを父が美味しそうに飲むのが信じられなかった。

「あの、ビールって・・・美味しいですか?」
アタシはお父さんにそう尋ねた。
「ああ、美味い」
「でも、苦いでしょ?」
「ハハハ、この苦さが美味いのさ」
そう言ってアタシの注いだコップの中のビールを一気に飲み干すと
「ああ、最高だ!」
と言って目を細めた。

するとそのとき
「あれ、そういえば・・・」
フッとお父さんはそう言葉を漏らす。

「なあ、前にもこんなことってなかったか?」
お父さんはアタシの隣に座っているトオル君にそう尋ねる。

「エ、こんなこと?前にってどれくらい?」
トオル君はちょっと不思議そうな顔で聞き返した。

「ああ、エット、かなり前だな。オマエが小学生の頃だよ」
そしてちょっと考えるように顎に指を当てると
「ああ、思い出した!」
そう言ってポンと手を打つ。
「ほら、あの子が来たときだ。オマエが公園で見つけた迷子の男の子」
そう言うとトオル君も
「ああ、そういえば!アイツのときもこうやって夕飯でバーベキューやったっけ」
と思い出したように言った。

「あの子って?」
アタシがトオル君にそう尋ねる。

「ほら、凛にも話したろ?オレが小3のとき公園で偶然会った男の子のころ」
「ああ!あの『幻の少年』?」
「そうそう」

「そうだ。思い出したぞ。あの日、透があの子と家で食パン食って寝ていて、それで帰ったら見知らぬ子がいてみんなびっくりしたんだっけ。それで警察に電話してその子の母親が引き取りに来るまでウチで夕飯食べたりお風呂入ったりしたんだ」
お父さんは懐かしむようにそう話し始めた。

「なあ、親父。その子の名前って何ていったっけ?」
トオル君がお父さんにそう聞いたが
お父さんも
「ああ、なんて言ったっけなあ・・・」
とよく覚えていない。

そのとき若葉ちゃんが
「あれ? お兄ちゃん。その子から何回か手紙来てたじゃん」
と言ってきた。
「いや、だからその手紙が見つからなくなっちゃったんだよ」

「エ、でもアタシこの前見たヨ」
「見たって、それどこで?」
「えッとね、お兄ちゃんが隠してる秘蔵の本の間で」

すると
若葉ちゃんがそう言うとトオル君は急に慌てたように吃りだした。
「オッ、オマエッ!それっ!隠しておいたのにっ!」

アタシは若葉ちゃんに尋ねた。
「ね、若葉ちゃん。秘蔵の本って?」
若葉ちゃんはニヤッと笑って答える。
「お兄ちゃん秘蔵のエ・ロ・ホ・ン(笑)」

それを聞きアタシは一瞬ポカーンとした後笑い出してしまった。
「プ、プププーーー!そ、それは確かに秘蔵の本だね!」
トオル君は隣でバツの悪そうな顔をしている。

へぇ、トオル君もやっぱりそういうの読むんだぁ
そりゃ、まあそうだよね
男の子なんだし

でも・・・秘蔵のエロ本って・・・爆笑
クスクスーークスクスーーー

アタシはつい下を向いて笑いが止まらくなる。
トオル君はそんなアタシにかける言葉が見つからずチラチラと見ていた。

「ね、ねぇ、トオル君」
「ん?なに?」
アタシが声をかけるとちょっと拗ねたように答えるカレ

「その幻の少年からきた手紙、どんなことが書いてあったの?」
「ああ、そういやそうだな。ちょっと持ってくるから」
そう言ってカレは足早に家の中に入っていった。

「お兄ちゃん、逃げたな(笑) ね、ああやって自分が拙くなると逃げちゃう時あるんだから。凛さん、気をつけて」
そう言って若葉ちゃんが笑い出す。
「アハハ、ウン、気をつけるわ」
それにしてもアタシと若葉ちゃん
けっこう気が合う。

可愛い感じの素敵な笑顔の中にちょっと悪戯っぽい目
気さくな性格
でも、アタシより1つ年下だけど、しっかりした感じでどこかお姉さんっぽい雰囲気を持っている
玄関で初めて彼女を見たとき、誰かに似ているって思ってたけど
今わかった!
そう、彼女はどこか久美ちゃんに感じが似ている気がするのだ。
アタシには弟しかいないけど、姉妹がいたらこういう娘ならきっといいだろうな
そういう感じの娘なのだ。

そんなことを考えていたとき、バタバタと歩く音がして家の中からトオル君が戻ってくる。
ちょっと慌てた様子
多分、自分がいないうちに好き勝手言われないように焦って手紙を見つけて戻ってきたのだろう(笑)

すると
トオル君はアタシの顔を見るなり
「いやあー、びっくりしたよ!」
と言ってきた。
「フフフ、アタシたち何も言ってないヨ」
「あ、いや。違うんだ。この手紙の住所見てびっくりしたんだ」
「エ、その子の住所?どこだったの?」
「それがさ、多分凛の家のすぐ近くだと思うんだ」
「エ!そうなの?」
「ああ。ほら、これってそうだろ?」
そう言ってトオル君はかなり古くなりちょっと黄ばんだ封筒をアタシに渡してくれた。

住所を見ると、なるほど・・・
すぐ近くというよりも同じ町内だろう
そしてアタシはその横に書かれた名前を見てもっと驚く
そこには小学校2年生のたどたどしい字であったが、たしかに
『鮎川 渡』
と書かれていたのだ。

エエエーーーーーーーーッッ!!

手紙を持った右手がカタカタと小さく震え始める。
アタシの様子に周りのトオル君もみんなも不思議そうな顔をした。

「どうしたんだ?凛」
「ア、アタシ・・・アタシ・・・この子のこと・・・知ってる」
「エエッ!!」

「凛さんの知り合いかね?」
お父さんはアタシに尋ねた。
「知り合いっていうか・・・小さい頃、アタシがまだ小2くらいのころクラスメートで何回か遊んだことがったんです」
「ほぅ、よかったら、詳しく聞いてもいいかな?」
「ええ」

アタシは幼馴染の久美ちゃんと家の近所の公園で遊んでいたとき偶然出会ったこと
そして彼がじつは自分たちと同じクラスの一員だったが、病気がちでほとんど学校に来ず、みんなから忘れられていた存在であったこと
などを話した。
しかし、さすがに彼の本当の姿、つまりその後中3になってアタシの前に現われた彼については話せない。

話の一部始終を聞いたお父さんは興味深そうに頷いた。
「そうかあ。まさかそんな繋がりがあったとは・・・奇遇というか。それで、その鮎川君は今も君の家の近所に住んでるのかな?」
「あ、いえ・・・」

「どっかに引っ越しちゃったのか?」
トオル君がそう尋ねた。
「彼はね・・・亡くなったの。小3のときに」
「エッッ!!そ、そうだったのか・・・」

「ウン・・・。元々身体が弱かったらしくてね。ご両親も本人も長くは生きられないってことがわかってたみたいで・・・」
「そう、かあ・・・。アイツ・・・」

「ねぇ、アタシ、その手紙読んでもいい?」
「ああ、いいよ」
トオル君が渡してくれた手紙を手に取り、アタシは2年ぶりにワタルの温もりに触れた。


ワタルの好きだった色
薄いブルーに当時男の子の間で流行していたアニメの絵が端に書かれたその便箋にはこう書かれていた。


とおるくん
あのときはぼくのことを助けてくれて本当にありがとう
ぼくはとおるくんと遊べてとてもうれしかったです。
ぼくは体が弱くてあまり外で遊べないから
あんなに遊べたことはとてもいい思い出になりました。
とおるくんは元気でうらやましいな。
じつはこの前ぼくにも友だちが2人できました。
2人とも女の子です。
とてもやさしくてかわいいので
もしこんどとおるくんに会えたらそのとききっとしょうかいするね。
おじさんとおばさんとわかばちゃんにもぼくがありがとうって言ってたって言っておいてください。
それじゃあまたね。

鮎川 渡


あれ・・・
アタシはその手紙を読んでいる途中ひとつのことに気づいた。
友だちが2人できたっていうのは、間違いなくアタシと久美ちゃんのことだ。
でも、「2人とも女の子」って・・・
どうして?
だって、あの頃アタシはまだ哲だったはずなのに

ハッ!!
そのときアタシは久美ちゃんが前に言った言葉をフッと思い出した。
「彼はなんでアンタのことを『アイツ』じゃなくて『あのコ』って表現したんだろうなって思わない?」
「鮎川君が凛のことを最初から女のコだってわかってた?」

まさか・・・
だって・・・
でもこの手紙の内容はそうとしか考えられなかった。
じゃあ、彼は・・本当にアタシの未来を・・・

「なあ、もしかして、手紙の中に出てくる2人の女の子って・・・」
「ウン、多分・・・アタシと久美ちゃんのことだと思う」

すると
それまでじっと話を聞いていたお父さんがぽつんとこんなことを話し始めた。
「そういえば・・・」

「あのとき、こうやってこの場所でバーベキューをやってたんだ」
「え、ええ」
「渡君はあのときも、自分の身体が弱いことを言っていた。そして自分がもっと強かったらよかったって僕に話したんだ」
「彼がそんなことを?」

「ああ。僕は彼に言ったんだ。身体を強くすることも大切だけど、一番大切なのは心を強くすることだよってね。心の強い人間が本当は一番強いんだよって。小2には難しい話だったのかもしれないけど、彼は僕の話をじっと聞いてたな。そして聞いてきたんだ」
「なんて聞いたんですか?」
「おじさん、心を強くするにはどうすればいいの?ってね」

「それで僕は答えた。君が世の中で一番大切だと思うことについて勉強しなさい。どんなことでもいい。ひとつだけでもいい。好きなことを一生懸命勉強しなさい、って」
「そうかあ、それで・・・」

2度目に石川 渉としてこの世に現れたとき、ワタルはきっとお父さんのその言葉を覚えていたのだろう。
それで彼は歴史を一生懸命勉強していたのかもしれない。

「でもさ、俺はもしかしたら本当にヤツに凛を紹介してもらったのかもしれないな」
トオル君はフッとそう呟いた。

そう
そうかもしれない
アタシとトオル君は彼に導かれたのかもしれない

ねえ、ワタル・・・
君は一体誰なの?

第28話 カレと一緒に超える壁

アタシがトオル君と初めてキスをしたのは付き合い始めて3ヶ月ほどのこと
それはアタシにとってワタルとのファーストキス以来2回目のキスだ。

トオル君のキスは温かくてアタシを包み込むものだった。
そしてそのとき、アタシは自分の中で何かとても不思議な感情を呼び起こすような感じがしていた。

思い出せば、アタシは中2の夏休みの『あのとき』まで、自分が男だと思って生きてきた。
他の男子より華奢な身体つき、女性らしい顔で何度も女の子と勘違いされてきた。
まあその勘違いもじつは自分自身のほうが勘違いだったんだけど。

それでもそれまでは一応自分なりに男としての誇りがあったわけで、まさか自分がいつか男を相手にキスするなんて想像したこともなかった。
中学生という年頃そして周りの男友達たちとの会話の中で、多少は性に対する関心もなかったわけじゃない。
ただ、不思議と女性を対象としたセックスへの欲望はあまり感じなかった。

とくに仲の良い女友達はいなかったけど、幼馴染の久美ちゃんとは中学になってからも以前ほどではないけど会えば話す関係だった。
小学校の頃までは毎日のように遊んでいた2人だったけど、中学になってお互い同性の友達と遊ぶ機会の方が多くなった。
久美ちゃんはミコや奈央や久保ちゃんと、そしてアタシはその時まで同性だと思っていた安田や工藤と。

それでも、久美ちゃんもアタシも別にお互いを避けようと思っていたわけではなかった。
2人はきっと他の男女よりも近くて、お互いを理解していたんだって思う。

じつは、アタシと久美ちゃんは一度だけそういう雰囲気になりそうになったことがあった。
そう、それは中1になって1ヶ月が経とうとしたある日曜日のことだった
ある日、アタシはサッカー部の休日練習が終わった帰り道に久美ちゃんは道でバッタリ会った。

「あ、哲ちゃーん!」
久美ちゃんはそう言って手を振ってきた。

「アタシたちって、中学生になってあんまり話したことなかったよね?」
「そうだね。久美ちゃんはもう友達できた?」
「あ、ウン。クラスの中で何人か仲のいい女のコができたヨ。哲ちゃんは?」
「ボクは、ほら、安田とか」
「ああ、安田君かあ。そういえば6年生の時、哲ちゃんと仲良かったもんね。その代わりアタシは遊んでもらえなくなっちゃったけど(笑)」

「そ、そんなことは・・・ごめん」
「アハハ、いいヨ。でも、ホントはちょっと寂しかったかな」

そのとき、久しぶりに話す久美ちゃんは自分にとってとても新鮮なものに思えた。
そして2人は昔を懐かしむように話が止まらなかった。

ひとしきり話したあと久美ちゃんはアタシにこう尋ねてきた。
「ねえ、哲ちゃんは今日はなんか予定あるの?」
「ウウン。特に何もないけど」
そう答えると久美ちゃんはニコッと微笑みそしてこう言った。
「じゃあさ、久しぶりに2人でデートしない?」
「デ、デート!?」

「ウン、そうだヨ。いつも安田君たちと一緒だから声かけると悪いかなって思ってたの。でも、たまにはアタシが哲ちゃんを取り返したっていいんじゃない?」
そう言って久美ちゃんはアタシの手に自分の手を絡ませて少し意地悪そうな笑顔で笑った。
そんな久美ちゃんに満更悪い気はしなかった。


そしてアタシと久美ちゃんは久しぶりに2人だけの時間を楽しむことになった。
久しぶりの2人だけの時間はとても楽しかった。
気がつくと日は暮れかかっている。

「ああ、もう夕方かあ。楽しかったね」
「ウン。楽しかったー」
「ね、哲ちゃん。帰る前にちょっとだけ、あの頃よく遊んだ公園に行ってみない?」
「赤いブランコの公園?」
「ウン、そう」

そこは2人が幼稚園の頃からいつも遊んでいた場所だった。
そしてアタシとワタルが最後に別れた場所でもあったあの小さな公園だった。

夕日が遠くのビルの隙間に隠れようとしている。
アタシと久美ちゃんは2つ並んだ赤いブランコに腰をかけてキィキィと小さく揺らした。
2人はしばらくの無言
そしてフッと久美ちゃんはこう尋ねてきた。
「ねぇ、聞いてもいい?」
「何を?」
「哲ちゃんは・・・誰か好きな娘っているの?」
「好きな娘? そ、そんなのいないよ」

「じゃあさ・・・アタシのことは?」
「エ、久美ちゃんのこと?」
「ウン。哲ちゃんはアタシのこと好き?」

そのときアタシはかなり戸惑っていた。
きっと彼女が聞いているのは異性としての感情なのだろう。
でも、今まで久美ちゃんを自分とは異なる存在として意識したことはなかった。

アタシはチラッと久美ちゃんの顔を見てそしてこう答えた。
「す、好きだよ。だって・・・」
アタシはその後にこう続けるつもりだったんだ。
「久美ちゃんは大切な友達だから」
でもその一言を何故か上手く口から出すことができなかった。

すると久美ちゃんはニコッと微笑んで言った。
「アタシも哲ちゃんのこと好き」
そして彼女はスゥっと目を閉じると自分の顔をアタシの顔に近づけてきたのだ。

「エ、あ、その・・・」
男は女に恥をかかせちゃいけない。
幼いながら父親にそう言われていたことを思い出した。
そしてアタシはフルフルと小さく肩を震わせながら自分の顔を久美ちゃんの顔に近づけようとしたとき

チュッ!

久美ちゃんはアタシの顔をすっと横によけ、そしてアタシの頬に小さなキスをした。
「フフフ」
そして悪戯っぽく笑う彼女
やっぱり彼女のほうが一枚も二枚も上手だった。

こうしてアタシのファーストキスはレズの味となる危機を結果的に避けられたのだった。

その後アタシは中2の夏休みに自分が本当は女であることを知り生活を変えることになった。
そして久美ちゃんは本物の石川 渉(ワタルA)とのお付き合いを始めることになる。
そのとき、じつはアタシはちょっと複雑な気持ちだった。

それが、かつては異性であったと思ってた久美ちゃんという存在を他人に盗られた気持ちからなのか、
それとも自分の大切な幼馴染に恋人ができたという気持ちからなのか、
それは今でもはっきりしない。
ただ、それはミコに芦田さんという恋人ができたときとは何か違う
複雑な気持ちだった。


そして中3の終わり
初めてのファーストキス
ワタルとのキスは、アタシにとって衝撃であったよりカレに吸い込まれてそうなったという感じだった。
まるで風がすり抜けるような久美ちゃんとのキスとはぜんぜん違う。

お互いが向き合って磁石のように自然に引かれあって、気がついたときは唇を重ねていた。
そして包み込まれるような・・・温かさ
キスをしていた時間はほんの数秒だったかもしれない。
でも、それはアタシにとってとても長い時間だったような気がする。


最近では、デートのたびにアタシとトオル君はキスをする。
キスの味というのは不思議なもので、最初は心を締め付けるような刺激的なものから次第に安心感へと変わっていった。

「ホゥ・・・」
カレの熱い唇がアタシからようやく離れ
そして、アタシはカレの胸に自分の頭を埋める。
すると
「トク・・・トク・・・トク・・・」
カレの鼓動がアタシの頭の中に優しく響いてくるのを感じる。
そしてカレの大きな腕がアタシの身体を優しく包み込む。
そんなときアタシはとても幸せで優しい気持ちになれる。

こんなふうに男の人を受け入れる自分は一体いつからそう変わっていったのだろうか
それは自分自身の女としての自覚なのだろうか
最近、アタシはそんなことをフッと考える。

カレはアタシのことを抱きしめているときとき
ときどき、スっと手をアタシの胸に置いたりもする。
そのとき、アタシはビリっとまるで電流が流れたように痺れる感覚がする。

「ぁ・・・」
小さな吐息がアタシの口から漏れる。

そして
カレはそれ以上を求めるときがもうすぐ来るような気が、アタシはしていた。



クリスマス
この日、アタシは一つの決心をしていた。
それはアタシがカレと、トオル君と一緒にひとつの壁を越えること。

それによって、きっと二人は今よりももっと近い関係になれるんじゃないかって思いがあったんだけど、
その反面で不安なこともあった。
それは、カレがアタシとのセックスをお付き合いの中心に置いてしまうことだ。

でも、カレがもしそういう人だったならそれはアタシの責任でもあると思う。
だから、アタシはカレを信じることにした。


「じゃあ、今晩は遅くなると思うから」
アタシは母親にそう言って家を出た。

アタシたちは5時に渋谷駅前の宮益坂入口で待ち合わせをしていた。
駅を出ると、交差点の向こうには渋谷の街のネオンと色とりどりの電飾でライトアップされた宮益坂のケヤキ並木が見える。
そしてそこには少し所在なさげに立っているトオル君の姿があった。

いつも冷静そうなカレはこのとき少し落ち着かないように辺りをキョロキョロしている。
きっとアタシの姿を見落とすまいと注意を払ってくれているのだろう。
アタシはそんなカレの姿を見てつい可笑しく思えて笑えてしまう。

そして交差点の信号が青になる。
アタシはそんなカレの待つ場所へと少し足早に歩き出した。

「トオル君、お待たせー!」
横を向く彼にアタシは近づきながらそう声をかけた。
そしてクルッと振り返ったカレはアタシの姿を見てニコッと微笑む。

トオル君が予約をしてくれたレストランはそこから歩いて15分ほどの距離にある。
その15分ほどの道のりをアタシとトオル君はゆっくり時間をかけて歩いた。
途中にお店があるとショーウインドウを覗いたり、
そして青葉大のキャンパスがある。
ミッションスクールである青葉大ではこの時期大きなクリスマスツリーが飾られ、正門を開けて一般の人にも開放をしている。

青葉通り沿いの正門から続く銀杏並木の奥に見えるキラキラと輝くクリスマスのツリー
今までもミコやみーちゃんと一緒に何度かこのツリーを見たことはあったけど、
今夜はトオル君と一緒に迎える初めてのクリスマス
2人で手をつなぎ仰ぎ見るキラキラと光るこのツリーの灯りをアタシはきっと忘れることはないだろう。

するとそのときだ
「あの、すみません」
正門を出ようとしたとき
アタシたちはそこに立っていたおじいさんとおばあさんにフッと声をかけられた。

「申し訳ないけど、シャッターを押してもらえませんでしょうか」
おじいさんはアタシたちにそう尋ねてきた。
見ると手にはデジタルカメラを持っている。

「ああ、いいですよ」
トオル君はそのカメラを受け取ると
クリスマスツリーと銀杏並木をバックにして構図を整え
「それじゃ、撮ります」と声をかけると
パシャツ!
とシャッターを切った。

「やあ、ありがとう。ホウ、これは綺麗に撮れている。カメラを撮るのが上手いですな」
デジカメを再生モードにして画像を確認するとおじいさんは感心するように言った。
「いえ、それほどでも(笑)」
じつはカメラ好きのトオル君はおじいさんの褒め言葉に少し照れている。

「君たちは青葉大の学生さんですか?」
「あ、僕は青葉大の1年生です。彼女は今高等部の3年生です」
トオル君がそう言うとアタシは2人にペコっと頭を下げる。

「あら、そうなのー。じゃあ、貴女も来年は青葉大に?」
「ハイ。その予定です」

「そうかあ。じゃあ、2人とも私たちの後輩だ」
そう言っておじいさんとおばあさんはニコッと微笑んだ。
「お二人は青葉大の卒業生なんですか?」
「ええ、じつはそうなの。といっても、50年以上も前の卒業なんだけどね」

「私とこのおじいさんは当時青葉大の学生でね。カレが私のひとつ先輩だったのよ。カレは当時空手部に入っていて、私はその部のマネージャーをやっててね」
「エッ!空手部だったんですか?じつは俺もなんです」
「そ、そうかあ!いやあ、びっくりしたなあ。じゃあ、君は僕の空手部の後輩でもあるわけだ」
トオル君が驚いたようにそう言うと
「そうかあ!いやあ、これは奇遇だ」
おじいさんもかなりびっくりした表情で喜ぶ。

「いやあ、それじゃお二人共大先輩ですねー」
「本当に偶然ねえ。これも神様のお導きかしら」

そしておばあさんは、トオル君がおじいさんと話している間にアタシの耳元にそっとこう囁いた。
「じつはね、私たちもう30分くらい前からシャッターを押してくれる人を探していたのよ」
「エ、30分も前からですか? あの、ほかの人に断ったり・・・されたとか?」

「ううん、違うの。私たちが声をかけなかっただけなのよ」
「でも、こんな寒い中で30分も探していたなんて」
「フフフ、それはね、今日このキャンパスの中で見かけるカップルのうち一番幸せそうな2人を探してたの。そしてあなたたちを見つけたってわけなの」

「アタシたちを・・・ですか?」
「ええ、とても素敵なカップルだったんですもの。あなたの彼を見る笑顔がとっても輝いて見えたのよ。だから、ぜひあなたたちに今日の写真を撮ってもらいたかったの」
アタシはおばあさんの言葉につい頬を染めてしまう。

「神様はあなたにとてもいいご縁をお与えくださったのよ。これからもお二人で支えあって、大切に育んでいってくださいね」
「ハイ。ありがとうございます」

聖夜の偶然の出会い
それは聖夜の小さな小さなプレゼントだったのかもしれない
アタシにはそう思えたのだった。



そしてアタシたちは学校を後にして肩を寄せ合い再び歩き出す。
「あ、ほら。凛、あそこの店だよ」
そう言ってトオル君が指をさしたお店は青葉通りから少し脇道に入ったところにある小さな赤レンガの壁のある『レモンハート』というお店だった。

トオル君がそのお店の木製のドアを開けるとカランと小さな鈴の音が鳴る。
中に入ると正面から見た感じより奥は深く、カウンターの他に20卓くらいのテーブル席が設けられている。

すると
「いらっしゃいませ」
アタシたちの前にスっと現れ、そしてスマートにお辞儀をしたのは黒いスーツと蝶ネクタイを着こなす30代くらいのとても感じの良い男の人だった。

トオル君が予約をした自分の名前を告げると
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
そう言って案内してくれたのは、そのお店の一番奥にある角の小さなテーブル
あたりには大きな照明器具はなく、所々に小さなランプが置かれている。
そして、木製のテーブルには真っ白なクロスが掛かっていて、その上には薄いピンクのキャンドルの灯りがゆらゆらと幻想的に揺れていた。

「トオル君、ありがとう」
アタシが小さく微笑んでそう言う。

「え、何が?」
「こんな素敵なお店を探してくれたこと」
「あ、いや、気に入ってくれて良かった」
そう言ってカレは少し照れたように赤くなった。

今アタシは、カレがアタシにしてくれるひとつひとつのことに素直に感謝できる、そういう気持ちでいっぱいだった。
そして、カレはそんなアタシを受け止めてくれる。
それがアタシの心をとても幸せな気持ちにしてくれている。
今日、これからカレと越える壁をアタシはきっと後悔することはない。
アタシはそう決心した。

素敵な食事が済み、そしてデザートが運ばれてきた頃
カレはアタシの前にスっと小さな箱を差し出した。
「メリークリスマス。これ、俺からのクリスマスプレゼントなんだ」
薄いブルーの包み紙でラッピングされている小箱
「わあ、ありがとぉ。あ、開けてもいい?」
「ウン」

包を開くとそこには小さなダイヤのついたプラチナのドルフィンリング
「あ・・・素敵・・・」
アタシは思わずそう呟く。
指輪をキャンドルの灯りにかざすと、先の方にあるドルフィンにキラキラと光が反射する。
「気に入ってもらえた」
「すごく、すごく嬉しい・・・こんな素敵な・・・なんか、嘘みたい」

「ね、トオル君。着けてくれる?」
そう言うとカレは
「いいよ」
アタシからその指輪を受け取った。
「コホン・・・なんか、照れるな(笑)」
「フフフ。じつはアタシも(笑)」
そして、トオル君はアタシの右手を取り、その薬指にゆっくりと指輪を通してくれる。
「わぁ、可愛い・・・」
思わず溜息が出そう。
指輪をキャンドルの灯りにかざすと、先の方にあるドルフィンにキラキラと光が反射していた。


そして
アタシはその指輪をしたままで、今度は自分のカバンから少し大きな袋を取り出し、トオル君に差し出した。
「メリークリスマス!今度はアタシからのプレゼントです」
「おおっ、マフラーだっ!あれ、俺のイニシアルも入ってる。これって、もしかして・・・」
「あ、ウン。一応手作り・・なんだ。あまり上手じゃないけど」
「いや、すげー嬉しい。俺のほうこそ、こんなのもらえるなんて夢みたいだ!」
そう言ってトオル君はとても喜んでくれた。

じつはアタシがマフラーを編んだのは二度目
一つ目はワタルにあげようとしたものだった。
高1の夏休みから少しずつ編み始めて寒くなったらあげるつもりだった。
しかしその前にカレはアタシの前からいなくなった。
編みかけのマフラーは今でも家のアタシの机の引き出しの中に仕舞われたままだ。
だから編んだのは二度目だけど、完全に編み上げてあげたのはトオル君が初めてということになる。
「こんなふうに、来年も再来年もずっとトオル君と一緒にクリスマスを迎えられるといいなあ」
「ずっと、ずっと一緒だよ。二人で叶えられる夢を一緒に見つけていこうな」
「ウン」


辺りに行き交う人はすべてカップルだけ
アタシとトオル君は今そういう場所にいる。
「ここで・・・いいかな?」
トオル君は瞬くネオンのついた建物の並びの一軒をちらっと見るとアタシの肩を小さく押す。
「ウ、ウン・・・いいヨ」
アタシは、下を俯きながら肩に置かれたトオル君の手をキュッと握って答えた。

狭く外から見えないような塀を抜けると、そこには20畳ほどのロビーがある。
その隅にフロントらしきものがあって、壁面には30ほどの部屋の写真が載ったボードがかかっていて、そのうちいくつかの写真は明るく点滅している。

「明るい写真の部屋が空いてるってことかな?」
トオル君は小声でアタシに尋ねる。
「わかんないけど・・・多分・・・」

そのとき
「いらっしゃいませ」

ドキッとして声のしてきた方向を見ると、フロントらしきところにある小窓から年配の女性が顔を出した。
「あ、あの・・・」
「ランプのついている中からご希望のお部屋を選んでボタンを押してください」
その女性はそう事務的に答える。
その声はちょっと冷たい感じもするが、事務的に言うことでお客さんは逆に気にならないのかもしれない。

「凛、どれがいい?」
「アタシはどれでも・・・いい。トオル君、早く選んで?」
「ウ、ウン」

そして、トオル君が明るい雰囲気の一室の写真のボタンを押すと
ガタン!
いさな音を立ててキーらしきものが落ちてきた。

「これが・・・部屋のキーか」
そのキーには301号室と部屋番号が書いてある。
横に書いてある案内板を見ると301号室は3階の1号室という意味らしい。

「ハ、ハハ・・・なんか大学の教室番号みたいだな」
「フフフ、面白いね」

そしてアタシたちはエレベーターに乗り3階のボタンを押す。
不思議・・・
アタシには、このエレベーターがいつも乗る他のエレベーターよりゆっくりしている気がする。
多分エレベーターなんてどれも同じだからスピードなんて変わらないだろう。
だから今、アタシにとっての時間のスピードがとてもゆっくり進んでいるように思えた。
しかし一方で、なぜかそれに反して
トクトクトク・・・
アタシの胸の鼓動はとても早い。

そして3階
カタン
小さな音を立ててエレベーターは止まりスゥーっとドアが開く
そのときだった

ドキッ!!
開いたドアの向こう側には、ひと組のカップルが立っていた。

2人は多分アタシたちと同じくらいの年齢だろう。
ドアが開いたとき立っていた位置が偶然男VS男、女VS女だったことで、瞬間的にアタシもその女のコもお互いの彼氏の胸に自分の顔を埋めた。

派手な感じの娘ではない。
艶のある黒い髪の小柄な女のコで、白いブラウスに黒のサスペンダースカートをおしゃれに着こなしている。
彼氏はその娘の顔を優しく抱きしめてくれている。

そして2組は互いに身を避けながらすれ違う。



「ああ、ここだ」
アタシとトオル君はいよいよ部屋の前
キーを差し入れキィーっとドアを開けると細い廊下に比べて部屋の中は思ったより広い空間だ。
そこには大きめのベッドがひとつとその横に小さなソファとテーブルが並んでいる。

「す、座ろうか?」
そう言ってトオル君はアタシにソファを勧めてくれる。
「ウ、ウン。あ、トオル君、上着かけておかないとシワになっちゃうヨ。かして?」
「あ、ああ、ありがと」

すべてが初めての経験
とにかくぎこちない2人で
お互いなんて話したらいいかわからない。

そして、しばらくの沈黙の後フッと口を開いたのはトオル君だった。
「あ、あのさ・・・」
「ウン・・・」
「俺・・・こういうのって初めてだから・・・上手く言えないけど・・・」
「・・・」
「これからもずっと凛のこと大切にしたいって思ってる。だから今日が2人にとっていい思い出になればいいなって思う・・・」

そのとき
アタシは、トオル君の言葉に心の奥がほわんと温かくなっていく気がした。
絞り出すような声で一生懸命アタシに語りかけてくれるカレがとても愛おしく、そして可愛く思えたんだ。
アタシは決心した。
「ウン。アタシも・・・トオル君のことずっと大切にしたいヨ」

トオル君の顔がゆっくりアタシの顔に近づいてきてキスをする。
そして、アタシはカレの厚い胸にしがみついて顔を埋めた。



すべてが終わったあと
アタシとカレはベッドの上に身体を横たえてお互いを抱きしめ合う。
シーツには所々にアタシの血の染みがあった。
それをぼーっとした頭で眺めているアタシがいる。

(ああ、何か信じられないなあ・・・)

中2のときまで自分が男だと思って生きてきたのに、こんなふうになっちゃうなんて
もしかして、中2のときまでのアタシは夢だったんじゃないだろうか・・・
それとも、今こうしているのが夢だったりして・・・

第29話 新しいスタート

季節は春
アタシたちがいよいよ青葉学院高等部を卒業する時期がきた。


3年前
アタシとミコそしてワタルはこの青葉学院に入学した。
みーちゃんと友達になりそして、ワタルがいなくなった。
でもワタルはアタシにたくさんの優しさと思い出を残してくれた。
ワタルがアタシに残してくれたものを心にしまいながら、今アタシはトオル君と一緒に同じ時間を歩いている。
そして今日アタシたちは卒業の時を迎える。


みーちゃんは、なんと現在『彼女と彼氏の恋愛パターン』というTVドラマで本格的女優デビューを果たしている。
このドラマは放映開始以来当初の予想を大きく超える人気を博し中高生の間では『カレカノ』と呼ばれ、
みーちゃんはその中で主人公の友人小春の役を演じて注目されていた。
驚いたことに、放映以来の1か月でみーちゃんについての問い合わせが殺到し、なんと現在ファンクラブの創設まで検討されているとか。

このことをみーちゃんから聞き「何かクラブのいい名称ないかな?」と尋ねられた時ミコは大笑いで言ったっけ(笑)
「アハハ、マウンテンゴリラ☆ファンクラブでいいじゃん!」
まあ、とにかく彼女も自分が目指すべき道をはっきりとさせたわけだ。

3人は内部進学も何とか乗り切り、アタシは国際政経学部の国際コミュニケーション学科に、教師志望のミコは教育人間科学部の教育学科に、そしてみーちゃんは総合文化政策学部へと進学が決まった。
そして今日はいよいよ卒業式なのだ。

式の始まるまでの時間
アタシは高等部と大学が隣接する広場のベンチに座っていた。

ここにはいろいろな思い出があった。
まだワタルがいたとき、ワタルと一緒にここに座っていろんな話をしたっけ。

ワタルは歴史が大好きだった。
カレは、人間が辿ってきた歴史は戦争の歴史だといって、自分で調べたことを熱心にアタシに話してくれた。
「最後の大戦が終わってから約70年、70年という期間は人類の生い立ちから見てほんの一瞬の瞬きに過ぎない、けど人間の歴史の中で70年間も平和な時代を保てたっていうのは本当に少ないんや。江戸時代、日本は260年間の平和な時間を得ることができた。しかし、それは鎖国という外国と交わらないことの要素が強かった。明治以降外国との交わりの中で戦争を避けてこれだけ平和な時間を持てたことは日本人が誇りにするべきことやとボクは思ってる」
夕焼けどきのこの場所でワタルはアタシにそんなことをよく聞かせてくれた。

だからアタシは国際コミュニケーション学科を選んだ。
それは、カレのそういう想いをアタシが少しでも引き継いであげたいって思ったからだ。

(ワタル君、キミは今何をしているのかな? もしかしてもう生まれ変わって、別の誰かになって、アタシと同じ世界にいるのかな?)
そんなことを考えたら、フッと目から涙が一つ、ぽろっと筋を立てて落ちていく。

そしてアタシはトオル君と出会った。
それは偶然なのか、それとも必然だったのかは今はまだわからない。
でも、それは何時か分かるような気がアタシにはする。


そのとき
「あ、いた!凛~~~~~~~!!」
そう言って高等部校舎の入口からミコとみーちゃんが姿が見え、2人はこっちに歩いてくる。


「こんなとこにいたんだ? そろそろ卒業式が始まるよ。行こう?」
そしてアタシたち3人は再び高等部の校舎へと向かう。

「ねえ、3人で手をつないでいかない?」
ミコはこんな提案をした。
「手を?うん、いいね。」
アタシはお互いに手をつなぎ小走りに歩き出した。
明日からの新しいスタートに向かって。



そして4月、入学式
アタシたちもいよいよ大学生となる。

入学式の会場となる青葉学院記念館は青葉通りに面したとても大きな体育館兼講堂だ。
アタシとミコも高等部時代バレーボール大会などでここを使用したことがあった。
そしてこの大きな講堂には今たくさんの新入生たちで溢れかえっていた。

大きな会場の中にはこれでもかというくらい数千の数のパイプ椅子が果てしなく並んでいて、その端っこにアタシとミコは腰を下ろす。

そしていよいよ式が始まって新入生を迎えるカレッジソング唱和となったとき、フッと客席の方から聞こえる張りのある声の方を見ると
「ああっ!お、お父さんっ!」
なんと青葉学院大応援団OBのトオル君のお父さんが両手でエールを振りながら誇りだかくカレッジソングを歌っていたのにはびっくりした。
でもカッコよかったぁー♪


入学式を終えたキャンパスには溢れるほどの新入生たちの笑顔が輝いている。
青葉学院記念館から出てきたアタシとミコは学食でお昼ご飯を食べるため歩き出した。

今日から5日間、キャンパスでは色々なクラブやサークルの新歓活動が行われる。
あちらこちらに入部案内のチラシを配ったり、クラブの紹介をする上級生たちの姿があった。

記念館から学食へと向かう短い道のりの間にもそうしたチラシを配る人が大勢いてアタシとミコは両手いっぱいにいろいろなサークルのチラシを抱えることになった(笑)

そして学食の近くに来たとき、そこから50mほど先の中央広場の方をフッと見ると
「あれっ!」
なんとそこでは空手部の部活紹介の準備が行われているところだった。
空手着を着た数人が大きなビニールシートを広げてスピーカーなどの機材をセットしている。

(もしかして、トオル君もいたりして・・・)
そんなことを思ってその集団を注意深く見ると
(あ、本当にいた!(笑))
今年2年生、新入部生が入るまでは最下級生のトオル君は、何やら先輩の支持を受けて「オッス!オッス!」と答え、熱心に準備をしている。

「ね、ミコ。ほら、アレ見て」
そう言ってアタシはその集団に向かって指をさした。

「あれ、あ!ホントだ、笹村さん、いるねー(笑)」
そう言ってミコはくすっと笑う。
「ね、ちょっと行ってみない?」
そう言ってアタシとミコはその空手部の場所に目立たないように近よって行った。


一通りの準備を終えた空手の皆さんはいよいよ本番
先輩らしき人が前に立ち、そしてその後ろにトオル君を含む後輩たち10人ほどが一列に並んだ。
「なんだ、なんだ?」
と次第に新入生たちがその周りに集まってきて、アタシとミコはその波の端っこに隠れるように立つ。

「オーーーーーッスッッ!!!」
先頭の先輩が大声でそう言うと
「オーーーーーーーースッッ!!!」
後ろのトオル君たち後輩がそれに答えて叫ぶ。

「我々はー、青葉学院大学ー、空手部です! わが空手部はかの渡瀬哲夫先輩も輩出した長い歴史と伝統を持つ部ですー!空手部というと何か怖いイメージがあるかもしれません。しかしー、先輩と後輩の間は極めてアットホーム。 みんな仲良くやっております!オーーースッッ!」
「オーーースッッ!!!」

「今日はその一例をお見せしましょー!」

そして
「昨年度新入生 笹村ー!一歩、前へ出ろー!」
そう言われたトオル君は
「オーーーースッッ!!」
と叫んで足を踏み出す。

「あ、トオル君だ!」
アタシがそうミコに囁く。

すると
「あ、あの人カッコいい!」
「ほんとだねー、カッコいい。どこの学部の人だろ?」
そう言ってアタシの周りで女のコたちの囁く声が聞こえる。

(ダメっ!アタシの彼氏だぞー!)
と言いたい気持ちを抑えて
アタシは再び演技の方に向き直る。

「彼は昨年度の新入生の笹村透君です!」

「よぉぉぉーーーーしっっ!!笹村ぁぁーーーーっっ!!」
「オーーースッッ!!!」

「空手部はどーーだぁ!?先輩は優しいかぁぁーーー!?」
「オーーーースッッ!!とても優しいでーーーすっっ!!!」

「どんなところが優しいーーー!?」
「オーーーーースッ!!!この前もーーーー、ラーメン奢ってやるから付いてこいって言われて行ったっす!!でも、ラーメン食った後財布忘れたから払っておけって言われて行くんじゃなかったって後悔してるっすーーーっっ!!」

「そういうことは早く忘れろーーーーーっっ!!」
「オーーーースッッ!!失礼しましたーーーーっっ!!!」

トオル君たちはこんな漫才を披露し、そしてとうとう踊りだす。

「こんな楽しい空手部~♪
先輩、後輩、みんな仲間さぁ~♪
みんなおいでよ、空手部へ~♪
ぼくらの楽しい空手部~♪」


筋肉モリモリの男たちがくねくねと奇妙なダンスで手足を曲げて踊るその姿は不気味以外の何物でもなかった(笑)
周りで見ている新入生たちは大爆笑
アタシとミコは普段冷静でクールなトオル君の姿を想像し涙を流しながらお腹をかけて笑ってしまう。

そして一回目の公演?が終わってトオル君たちは後片づけを始めた。
そこにアタシとミコはゆっくりと近づいて行き
「ト・オ・ル・君」
と声をかける。

すると
しゃがみこんで後片付けをしているカレはフッと顔をあげ
「わ、わわわっっ!! り、凛ー!あ、あああ、ミコちゃんまで・・・」
そう叫んで顔を真っ赤にした。

「もしかして・・・見てた?」
「うん! しっかり♪」
「あああ、こんなとこを見られちまうとはっっ!だから、嫌だって言ったのにぃぃ~~~~!」
「フフフーー。笹村さん、すごく楽しませていただきましたわ」
ミコも微笑みながらトオル君に言う。
「まいったなあ(笑)」
そう言ってトオル君は頭をかきながら照れている。
アタシは意外なトオル君のひょうきんな一面を見てしまったのであった。

「あ、そういえばトオル君のお父さんが入学式に来ていたよ。」
「ああ、そう言えば大学から招待されているって言ってたな。」
「応援団の振りをつけてカレッジソング歌って、すごくカッコよかったぁ♪」
「エ、あのオヤジそんなことしてたの?しょーがねーなあ(笑)」
「ううん、とってもカッコよかったヨ♪」
「ハハハ、じゃあ、凜がそう言ってたってオヤジに伝えとくよ」

こうして思いもかけないトオル君たちの公演を堪能したアタシとミコは再び学食へと向かったのだった。


大きな学食にも関わらず中は人で溢れかえっている。
空いている席をようやく見つけ荷物を下ろすと、アタシたちはやっと一息つくことができた。

「あれ、そういえばこの席って・・・」
思いついたようにミコがそう呟く。
「どうしたの?」
「あ、ウウン。この席ってさ、アタシと凜が初めて青葉のキャンパスに来た時に芦田さんに連れてきてもらった席じゃなかったっけ?」
「あ、ああっ!そういえばそうだね!」

そういえばアタシも記憶がある。
中3のときアタシとミコは青葉のキャンパスを見学で訪れ間違って大学の正門から入ってしまった。そのとき、偶然アタシは当時青葉大の2年生だった芦田さんと再会し、そしてアタシとミコは芦田さんに無理やりお願いしてキャンパスを案内してもらった。
その後芦田さんに学食に連れてきてもらってソフトクリームまでごちそうになっちゃった。
そしてミコは5歳年上の優しい芦田さんに一目ぼれしてしまったわけだ。
それから彼女と芦田さんは長い時をかけて少しずつ距離を縮めていった。

「そういえば、芦田さんは元気?」
アタシがミコにそう尋ねると
ミコはニコッと微笑み
「ウン、すごく元気だヨ。カレも今年から大学院の2年生なの」
と答えた。
その少し照れたようなミコの微笑みにアタシはピンと来た。
「カレって・・・あ、もしかして?」

アタシがそう言うとミコの顔はさらに真っ赤になっていく。
「今日凜にも言おうって思ってたんだけどね。おととい、芦田さんが付きあわないかって言ってくれて」
「そうなんだー!ミコ、おめでとう」
「エヘヘ、ありがとぉ」
いつもは冷静でアタシたちのお姉さん役の彼女はこのときだけは本当に女のコそのものだった。

アタシたちがテーブルで食事をしながらそんな話をしていると
「あの、ごめんなさい」
そう言って同じテーブルの対面席に座っている女の人2人がアタシたちに声をかけた。

「あ、ハイ。何でしょう?」
見ず知らずの2人にアタシがそう言うと

「あの、アナタたちもしかして今年の新入生?」
「ハイ、そうですけど・・・」
「アタシたち、2年生なの。ところで、サークルか部活ってもう決めた?」
「いえ、まだです。いろいろ勧誘のチラシはもらったんですけど、いっぱいあって目移りしちゃって(笑)」
「あ、そうだよねー。もしよかったらなんだけど、アタシたちのサークルどうかなって思って声をかけたの。テニスサークルなんだけどね」

「テニス、ですか?アタシやったことないなあ」
「アタシもだヨ」
アタシとミコは突然のテニスサークルのお誘いに顔を見合わせる。
「あん、やったことなかったらこれから始めればいいじゃない。アタシたちも含めて初心者が多いし。」
そう言って一人がアタシとミコにバッグに入っているサークルのチラシを渡した。

「硬式テニス愛好会シュガー、ですか」
「そうよ。部員は2年生から4年生で現在約40名。そのうち女のコは12人かしら」
「ね、入るかどうかは別として話だけでも聞いてみない?」
そう言って2人はアタシたちを誘う。

アタシとミコは
「どうする?」
とお互い顔を見合わせ小声で相談する。
そして
「じゃあ、お話だけでも聞かせていただいていいですか?」
ということになった。


「よかったぁ!じゃあ、ちょっと移動しようか」
そう言って2人がアタシたちを連れて行ったのは別の校舎にある第一学食だった。

青葉大のキャンパスの中には合計で4つほどの学食がある。
そのうち第一、第二の学食は大きくて席がたくさんあり、あとの2つはカフェテリアのような感じだ。
それらはいずれも高等部時代アタシもミコも行ったことがあったが、だいたい頻繁に訪れたのは最初にアタシたちがいた第二学食だった。

第一学食は学生会館の地下にあって座席数は2千席と一番大きくて古い学食だ。
2人はアタシたちをそこに連れていく途中お互いの名前を教え挨拶してくれた。

「アタシは工藤美紗で教育学科の2年生、もうひとりは松田絵里、仏文科の2年生ヨ。それじゃ、アナタは2人とも高等部出身なんだ?」
「はい、そうです。工藤さんは教育学科なんですか。アタシも教育なんです」
そう言ってミコが嬉しそうに答える。
「エー、そうなんだぁ!じゃあ、授業のこと色々教えてあげるわ」
「ホントですか!やった!ラッキー!」

「いきなり声かけられてちょっと驚きました(笑)」
「カワイかったからね。2人とも目立ってて他のサークルに盗られないうちについ声をかけちゃったわ(笑)」
「アタシたちが目立って?エエッ、そうかなあ?」

「そうだヨ。周りにいた男のコたちけっこうアナタたちのこと見てるの気づかなかった?」
「ぜんぜんっ!」

第一学食の片隅、そこは大学用語で『サークル席』というらしい、いわゆるサークル仲間の溜り場に着くと、そこには10人ほどの上級生らしき人たちが座って思い思いに話している。

「あれ、美弥子と美和、探したのにいなかったけど、どこ行ってたんだよ?」
「あ、ごめぇん。別の学食でお昼食べてたのヨ。それでさ、すごくカワイイ女のコ2人GETしちゃってさ」
「おいおい、女が女をナンパかよ?おぶねーな(笑)」
「そうね、こんなカワイイ娘ならそれもありかもね」
美紗さんはまるでみーちゃんのような冗談を言って脅かしながら、そして横に座っているサークルの部長を紹介してくれた。

「やあ、はじめまして。キャプテンをやってる野本っていいます」
野本さんは割と背が高い、落ち着いた感じの人で、そう言ってニコッと微笑んだ時の印象はどこか少年っぽさの残る感じよい人だった。
「小谷 凛です」
「藤本美子です」

するとそのとき
「あれ、びっくり!小谷さん?」
という声が野本さんの座る席の隣からした。
フッと見ると、それはなんと高等部のとき1学年上だった柴田さんだった。

「やあ、久しぶり」
彼はそうアタシに声をかける。
「びっくりしました。柴田さん、応援団じゃなかったんですか?」
そう、柴田さんは高等部時代は応援団で、そのためチア部だったアタシは部同士のお付き合いで互いけっこう話したこともあったのだ。

「アハハ、誘われたんだけどさ、逃げてきちゃった(笑)大学に入ったら色々な友達がほしいって思ったから。小谷さんもチア部は?」
「うーん、大学はいいかなあって思ってます。練習かなりハードだし、色々な友達がほしいなって思ってるから」

すると野本さんが
「なんだ、2人とも高等部だったのか。それなら、このサークルにも高等部卒が何人かいるからいいんじゃないか。どうだい?」
と言ってくれる。

「そうだよ、凛ちゃんも美子ちゃんもこのサークルで一緒に楽しもうよー。大歓迎だよ」
美紗さんたちもそう言ってアタシたちの入部を促した。

「どうする?ミコ」
「そうだねー、アタシはいいと思うな。みんなすごく仲好さそうだし温かそうだし」
「ウン、アタシもそう思った。じゃあ入っちゃおっか?」

そしてアタシとミコは野本さんの方を向き直り、
「それじゃあ、お願いしてもいいですか?」
と入部のお願いをした。

「よかったぁー!大歓迎ヨ」
周りの人たちもそう言ってアタシたちを歓迎してくれる。

こうして思わぬ出会いから、アタシとミコはシュガー硬式テニス愛好会に入部することになったのある。

そしてアタシたちは席に座り野本さんから活動の色々な説明を受ける。
そのときだった

プルルルルルーーーーーー
プルルルルルーーーーーー

アタシの携帯電話が小刻みな音を立てて震えた。
画面を見るとそこにはみーちゃんからの着信表示が出ていた。


「あ、すません」
そう言ってアタシが電話に出ると

「やっほぅー!凛?」
「ウン、みーちゃん、どこから?」
「今正門のところヨ。アタシ、ちょっと遅れて入学式の会場に入ってね、その後次の仕事まで2時間くらい空きができたからブラブラしてるのヨ。凜は今何をしてるの?」

「あ、今ミコと一緒なんだけど、テニスのサークルに勧誘されてね、それで第一学食のところにいるの」
「そっかぁ、そうなんだ。いいなぁー」
そう言ったみーちゃんの声は本当にアタシたちが羨ましそうだった。

芸能界という自分の夢をみつけたみーちゃんだったけど、大学と芸能界の掛け持ちはけっこうハードで犠牲にするものも多いらしい。
高等部の時の一件があって、前田さんの絶対命令で学業との両立が徹底されたけど、この仕事を選んだのはみーちゃん自身でもあるわけで、それに甘えきることはできない。
仕事も土日以外に授業のない日は積極的に入れるようにすることにしたらしい。
そのため最近ではミーちゃんの姿をTVや雑誌などで見ることがかなり増えた。
ただ、そういうことでアタシたちに経験できることができないみーちゃんにはやはり割り切れない寂しさもあった。

その寂しそうなみーちゃんの声にアタシは
「あのさっ!」
と突然叫んだ。

「ウン、なあに?」
「みーちゃんも一緒にこのサークルに入らない?」
みーちゃんはアタシのこの提案に少し考えたような間隔をおいて言った。
「でもさ、アタシなんかが入ったってほとんど活動に参加できないじゃん。そしたら他の人たちだけじゃなくアンタやミコにも迷惑かけちゃう。アタシ、アンタらにこれ以上迷惑かけたくないもん・・・」
「そんなことないって!出られる日だけ出ればいいじゃん。アタシ、部長さんにお願いするから、ね」

するとアタシの横にいるミコが
「それってみーから?」
と聞いてアタシと電話を代わった。
「みー、アタシだよ。アタシからも頼んであげるから。一緒にやろうヨ。アタシらは何があってもずっと友達じゃん」
そう言ってみーちゃんを励ました。

それから電話を替わったアタシは、受話器の向こうでみーちゃんの小さくすすり泣く声を聴く。
いつも勝気な彼女が泣くなんてことはめったにない。
そして彼女はこう言った。
「ウン、アリガト。アタシ、アンタたちと友達になれてホントよかったあ。」

そしてアタシは電話を切ると部長の野本さんの方を向き、お願いをすることにした。
「あの、お願いがあるんです。女のコをもうひとり入部させてもらえませんでしょうか」
アタシがそう言うと野本さんは気さくそうに
「なんだ、そんなことか。もちろんいいよ。うちは来る者拒まずだからね」
と言ってくれた。

「じつはその娘は大学に通いながらお仕事もするんです」
しかしアタシがそう言うと急に野本さんの顔が曇る。
「エ、大学行きながら?でも、それじゃ活動にほとんど参加できなくなるんじゃないかな?他のやつとも打ち解けにくいだろうし・・・」

「そ、それはアタシたちがちゃんとフォローします。いろいろな人話せる機会を作って彼女も頑張ります。すごく努力家なんです。」
アタシとミコは力を込めて言う。

すると横にいた高等部応援団出身の柴田さんはアタシたちの会話にピンと来たらしく
「あの、野本さん、俺からもお願いします。多分、その娘って俺も知ってる娘だと思うんですけど、気取りがなくてすごくいい娘なんです」
と応援してくれる。
その言葉に野本さんは
「わかった。じゃあ、俺からもフォローはするよ。近くにいるんでしょ?とりあえず連れてきてよ」
と言ってくれたのだった。

「あ、ありがとうございます!あの、それで・・・」
「ウン、なに?」
「あの、会って驚かないでほしいんですけど・・・」
アタシのその言葉に野本さんは不思議そうな顔で
「驚く?まさか身長2mの巨大な女のコとか?(笑)まあ、いいや、とにかく連れてきてヨ」
と言って笑った。

その言葉に安心をしたアタシとミコはさっそく正門にいるみーちゃんの所に向かう。
みーちゃんは変装ルックで正門のところでぽつんと立っていた。
彼女の姿は、いつものつややかな栗毛色の髪の毛をひっつめ髪に編み、そして度の入っていない伊達眼鏡をかけ、地味なダボっとしたワンピースのブラウス。
「ああ、アタシ、大学に入ったら色々なおしゃれできるって期待してたんだけどなあ」
アタシたちに会った彼女はそう嘆く。
その言葉にミコは
「贅沢言うな(笑)アンタがそのまんまの格好でキャンパスの中歩いてたらみんなびっくりなんだから」
とコツンと頭を叩いたのだった。

「でも、ホントにアタシなんかが迷惑じゃない?」
みーちゃんは遠慮がちにそう繰り返すと
「迷惑なわけないじゃん!みー、アンタ、アタシらに気を遣いすぎっ!」
ミコはそう言ってみーちゃんの頭を軽く小突いた。


アタシたちがサークルのみんなの待つ学食の席へと戻ると、
キャプテンの野本さんは、さっき少し難しいような顔をしていたのをおくびにも出さず
「やあ、はじめまして。シュガーのみんなが君を歓迎しますよ」
と言ってくれた。
その言葉にみーちゃんは少し頬を染めとても嬉しそうな顔で
「あ、あの、アタシ、早くみなさんと仲良くなれるように一生懸命頑張ります。どうぞよろしくお願いします」
と言って深々と頭を下げた。
みーちゃんの謙虚な態度に周りのみんなは好印象
「こちらこそよろしくー」
「仲良くなろうねー」
と暖かく迎えてくれアタシとミコは一安心したのであった。

そのときサークルのメンバーのひとりが
「そういえば、君ってどっかで見たことあるような・・・気のせいかなあ?」
とみーちゃんに近寄ってまじまじと眺めた。
他の人たちの中からも
「ああ、そういえば君ってどことなく、あの佐倉 美由紀に雰囲気が似てるんじゃない?」
という声が上がる。

「佐倉 美由紀ってあの人気女優の?」
「ああ、たしかに似てるなあ」
「そういえば、彼女って高等部出身で青葉大にあがったって聞いたけど、まさか・・・ね(笑)」
「アハハ、まさかだよ(笑)いくらなんでもそんなすごいアイドルが俺たちの前に現れるわけないじゃん。そういう人っていうのは滅多に大学に来ないんもんだよ。ましてサークルなんか・・・」

すると、みーちゃんはニコッと笑って突然すくっと席から立ち上がる。
そして、彼女はやおらひっつめた髪をスルスルと解き、まん丸の伊達メガネを外し、ふわっと一回その綺麗な栗毛色の髪を靡かせた。

そして素の姿に戻った彼女を見てみんなはびっくり仰天!
「え、あ、あ・・・!!!」
「う、うそぉぉぉーーーー!?」
キャプテンの野本さんにいたっては食べていたピザを口にくわえたまま固まってしまっている。

「ハーイ、その佐倉 美由紀デース!」
そしてみーちゃんはパチっとウインクして
「皆さん、これからよろしくー!」
と言ったのであった。


さて、それからみーちゃんはどうかといえば
天性の人懐っこさと気さくさもあって、彼女はすっかりサークルの中に打ち解けてしまっている。
彼女のサークルの参加日は毎月一回の月末の土曜日
この日のためにみーちゃんは仕事を日々一生懸命こなし、一方で学校の授業にもかなりしっかりと出席しているらしい。
たまにみーちゃんがお昼どきにサークルのたまり場に顔を出すと、彼女は積極的に話しかけて友達になる。
彼女は基本的にキャンパスの中では変装ルックなので、話している相手も苗字だけ聞いてもまさか彼女があの女優の佐倉 美由紀とは夢にも思っていない。
そしてそれを知ったとき驚いて腰を抜かすというパターンだった。
あるときはアタシとミコがたまり場に顔を出すとみーちゃんは既に来ていてまだ見知らぬ先輩らしき人と楽しそうに話している。
「あ、凛、ミコ。こちら2年生の松本さん。今友達になったの。あのね、キリスト教概論の去年の必勝ノート持ってて貸してくれるんだって!ラッキーしちゃった。アンタたちにも回してあげるからね」
そう言ってはしゃぐみーちゃんの姿はとても楽しそうだった。

そして彼女はたちまちのうちにサークルのみんなに「みーちゃん」「みーこ」などと呼ばれ愛されるようになったのである。

第30話 出現!なんて図々しい男

大学生活が始まって3週間が経とうとしている。
授業はガイダンスが終わり本番に入ってきた。
そしてサークルでも次第にメンバーの顔を覚えてきて新しい仲間ができていった。

「ね、凛。今日は来るでしょ?」
授業が終わったあと、サークルの溜まり場になっている学食の片隅で2年生の愛理さんがアタシに尋ねた。

「あ、ハイ。そのつもりです。でも、何人くらいくるんですか?」
「ウーン、そうだねぇ・・・、2年生から4年生が48人、1年の新入生が男子12人で女子が7人だから全員で67人」
「そんなにたくさん!?」

「アハハ、まあ4年生は就活もあるから全員ってわけじゃないと思うけど。でもだいたい来ると思うよ」
「新入生は男子のほうが多いんですね」
「まあ、毎年そうだね。うちの大学はテニスサークルは多いから、女子の勧誘は引っ張り合いなのヨ。でも男のコもけっこう面白そうな人が入ってるみたい」

「面白そうな?どんな人だろ?」
「フフフ、それは凛が現物を見たらわかるんじゃない?」


そんなわけで、今晩はサークルのほぼ全員が集まって渋谷で新歓コンパが行われるわけだ。
渋谷の街は青葉大の正門を出て歩いて10分ほどの距離にある。
スペイン坂を登ったところにある、会場となっているカフェレストラン「cecil」の前にはすでにけっこうな数の人たちが集まっている。

「あ、凛、ミコ。よかったー」
アタシとミコがお店に歩いていくと周りをフリルでデコレイトした可愛いデニムのスカートをはいたボブカットの女のコが声を声をかけてくる。
彼女は宮下亜似ちゃん。
アタシたちと同じサークルの新メンバーで総合文化政策学部の1年生だ。

総合文化政策学部といえばみーちゃんと同じ。
今日のコンパは以前から楽しみにしていてぜひ出たいと言っていた。
しかし、一昨日の晩アタシの家に彼女から電話があり、その声は今にも泣きそうなものだった。

「あーん、凛~~~!アタシ、ずっと楽しみにしてたんだよぉー!」
彼女は電話の向こうでそう叫んで次第にクスンクスンと小さく鳴き声を漏らし始めた。

「ど、どうしたの?みーちゃん」
「明後日の新歓コンパよぉー!アタシ、ずっと楽しみにしててさ、絶対その日は予定を入れないでってお願いしてたのに」
「お仕事が入っちゃったの?」
「そうなのっ!それ聞いたときアタシ「なんでぇー!?」って叫んじゃってさ・・・」

話を聞くと、彼女はその日急なオーディションが入ったのだという。
高3のときデビューして以来TVドラマの準主役やいくつかのCMに主演しかなりの知名度をあげていたが、大学に入って自由な時間も増えたことから事務所は今年の秋から放映される新しいTVドラマでみーちゃんにいよいよ主役を狙わせたいらしい。

「すごいじゃない!」
「まあ、受かればの話だけどねー」
「大丈夫!みーちゃんなら、絶対だヨ。アタシが保証する」

「アハハ、相手の審査員が凛だったらいいのにね」
「アタシ、審査員よりみーちゃんの主役で監督やりたいなあー」
「ウン、凛はアタシの人生のドラマを彩ってくれた監督だもんね」
「どうかなあ」
「フフフ」


「そっかあ。佐倉さん、来れないんだあ」
そう言って亜似ちゃんは少し残念そうな顔をする。
みーちゃんはときどきサークルの溜まり場にも顔を出してメンバーのみんなと仲良くなっているが、語学のクラスも違うので亜似ちゃんとはまだ会ったことがない。
女優佐倉美由紀がこのサークルに入部したということはすでにかなり有名になってはいたが、今日は友達になれたらと期待していたらしい。

「じゃあ、今度みーちゃんのオフのときアタシの家に遊びにおいでよ。みーちゃん呼んでおくから」
「わぁ、ホント? やったー!」


そのときだ。
「オマエ、凛いうんか?」
そう声をかけてきたのは髪の毛を赤茶色く染めてっぺんを逆立てダークスーツを着た、まるでホストのような雰囲気の派手な男だった。

「はぁ?」
突然ぶっきらぼうに言われてアタシもミコも、そして亜似ちゃんも唖然とした顔でその男を見る。

「誰?凛の知ってる人?」
「ウウン、ぜんぜん!」
「だったら何でいきなり人の名前呼び捨てで呼ぶのよね!失礼だよね!」

ここらへんは渋谷の街の中でも特に飲食系のお店が多い。
もしかしたら、どっかのホストクラブの人がたまたま聞きつけた名前で呼んで引っかけようとしているのかもしれない。
アタシたちはそう思ってその男を警戒の目で見た。

「なあ、オマエ凛いうんやろ?」
その男は関西弁らしき言葉で再びそう尋ねてくる。

「そうだけど・・・アナタ、どなたですか?」
アタシは訝しげにその男に聞き返す。

すると
「オマエ、シュガーの同じ新入りやろ? ボクは会津 敏いうんや」
その男は悪びれる素振りもなく答えてニヤッと笑った。

同じ新入生!?
いきなりなんて失礼なヤツだろう!!

「じゃあ、会津くん。あのさ、2つ聞きたいことがあるんだけど!?」
「はあ。なんや?」
「ひとつは間違ったら謝るけど、アタシとアナタって初対面だよね?」

「もうひとつは?」
「もしそうだとしたら、なんでいきなり初対面のアナタに下の名前を呼び捨てにされなきゃいけないのかな?」

すると、その男は少し考えてこう答える。
「まず最初の答えは、もちろん初めてや」
「2つめは?」
「そら、簡単や。凛っていう下の名前しか聞こえなかったからや」

「だったら、オマエとか言わないほうがいいし、相手は女のコなんだから、「凛ちゃんっていうの?」とか聞くのが礼儀なんじゃないかな?」
横に居たミコがキッと見据えるように言うと
「めんどくさいのぉー」
会津くんはつまらなそうに少し拗ねたような表情をした。
「めんどくさくても、最初はちゃんとしたほうが印象いいヨ」
おっとりした感じの亜似ちゃんが珍しくはっきり言った。

「わーかった!わかったがな(笑) ほなら、ボクからも質問してええか?」
「どうぞ」
「ほなら、凛ちゃんの名前ちゃんと教えてくれんか?」

「ウン。小谷 凛です。 どーぞよろしく」
「小谷・・・凛か、ええ名前や」
「お褒めいただき嬉しいですわ(笑)」

「学部はどこや?」
「国際政経学部の国際コミュニケーション学科だヨ。会津くんは?」
「ボクは経営学部のマーケティング学科や。えっと、次の質問」

「まだあるの?(笑)」
「ええやんか。そしたらバスト・ウエスト・ヒップ、それと体重も教えてんか?」
「はぁー?それを知ってどうするの?」

「いや、参考にな」
「すべてシークレットです!」



そんな会話をしていると
「青葉学院大シュガーの人たちは会場に入ってくださーい!」
とすでに顔見知りであった2年生の男の先輩から掛け声がかかる。
そして、アタシたちはこの会津君なる図々しい男と離れていそいそと中に入っていった。

「わぁ、大学のサークルってこんなに大勢の人がいるんだねー!」
亜似ちゃんが驚いたように声をあげる。
かなり広い感じの会場の中には見た感じでも60人を軽く超える人数が入っていて、真ん中にはちょっとしたステージが設けられている。
その会場を隅を囲むように白いクロスのかかった長テーブルが置かれ、その上には色とりどりの料理が並んでいた。

そして会場に流れていたBGMが静かにフェイドアウトするとマイクを持った男の人が真ん中のステージにあがる。
いよいよ新歓コンパの始まりである。


「皆さん、こんばんわー!」
司会者が周りを囲む人たちに声をかけると
「こんばんわー!」
と60人を超えるメンバーが一斉に声を返す。

「そろそろ時間となり皆さんも揃ったようですので、今年度の青葉学院大学硬式テニス愛好会シュガーの新歓パーティを始めたいと思います。それでは野本キャプテンの挨拶から」

そう言うとステージにあがったキャプテンの野本さんにマイクが渡された。
「シュガー第38代キャプテンの野本です。えー、今年の新入部員は全員で19人が入ってくれました。内訳は男子が12人で女子は7人です。それでは順番にステージにあがってもらいましょう」

そしてアタシたち新入部員は男子と女子に分かれてそれぞれステージの左右に並んだ。
フッと見ると男子の列の中にはあの会津くんもいる。
1年生はみんな割とラフな格好で来ているので、彼のホストっぽい身なりはかなり目立つ。

女子は、アタシとミコ、亜似ちゃんの他は最近サークルの溜まり場に顔を出し始め、アタシも何度か話をした小原さん、あとの2人は今日初めて会う。
そしてこの6人に今日欠席のみーちゃんを加え7人というわけだ。
そうなると、今日みーちゃんが来れなかったのは本当に残念だ。

そのとき
会場の入口のほうからザワっとした声が聞こえた。
「エッ!嘘!?」
「なんでこんなところに!?」
「わっ!まじかわいいー!」
「禁断の世界でもいいっ!アタシのお嫁さんになってほしー!www」
そんな声がしてその一角に人が集まる。
そしてその人ごみをかき分けての中から出てきたのは、なんとみーちゃんだったのだ。

「遅れちゃってすいませーん!あとひとりここにいまーす!」
彼女はそう叫ぶとステージの方に向かって小走りに歩き出た。

「みーちゃん!」
「みー!」

「あ、凛、ミコ。遅くなっちゃってゴメンねー」
そう言って彼女はペロッと舌を出してアタシの隣に並んだ。

「みーちゃん、今日来れなかったんじゃないの?」
「ヘヘ、オーディションが早めに終わったから、マネージャーに無理言ってここまで送ってもらったの」
「そうなんだあ。よかったねー。でもびっくりしちゃった」


キャプテンの野本さんは会場のざわついた雰囲気が落ち着くとこう言葉を続けた。
「えー、今びっくりした人が多かったと思いますが、新入部員として佐倉 美由紀さんが入部しました。ご存知のように彼女は有名な芸能人です。でも、このサークルの中ではそんなのはぜんぜん関係なく、一人の部員であって、それ以上でも以下でもありません。だからみんなもそのつもりで一切の特別扱いや色眼鏡はしないようお願いします。それじゃ、一人ずつ挨拶してもらおうかな」

並んでいる13人の男子新入部員から順番に挨拶していく。
そして何人目かに挨拶したのはあの会津君
「会津 敏いいます。出身は大阪八尾市で高校までテニスやってました。大学では友達百人作れるかなって期待してます。どーぞよろしゅう」
そう言ってペコッと頭を下げた。

あれっ
友達百人作れるかなって、たしかワタルが転校してきたときもそんなこと言ってたよね
そういえば会津君ってワタルと同じ大阪弁だし、どっか雰囲気が似てる・・・
アタシは、フッとそんなことを思いながらワタルを思い出して、ちょっと切ない気持ちになってしまった。

「それじゃあ、次は女子。向かって左端の佐倉さんからね」

「ハイ!」
みーちゃんは先生に指名された生徒のように元気よく手を挙げて一歩前に出る。
「エー、総合文化政策学部1年、佐倉 美由紀といいます。出身校は青葉学院高等部で、隣にいる2人はアタシの高校時代からの大親友!2人からはみーちゃんとかみーって呼ばれてますが、サークルの中ではみーこって呼んでくれる先輩もいます。どーぞお好きなようにあだ名をつけてやってください(笑)」
そう言ってペコンと頭を下げた。
パチパチという拍手が起きみーちゃんは少し顔を赤くして照れる。


挨拶が終わり歓談になると、みーちゃんはさっそく料理にパクつく。
バイキング形式でテーブルの上に並ぶ料理を手当たり次第に集めて来てお皿の上はまさにてんこ盛り。
それを彼女は美味しそうにぱくついている。

時折色々な人がみーちゃんに話しかけたり、またみーちゃんも自分から積極的に話しかけたり、誰もみーちゃんに「サインして」なんていう人はいない。
さっきの野本キャプテンの言葉もあり、みんな芸能人佐倉 美由紀ではなく一人の女のコとして彼女と話してくれている。
そしてみーちゃんもそういう新しい友達との出会いをとても楽しんでいる様子だ。

「でもオーディションが早く終わってよかったねー」
アタシがみーちゃんにそう言うと彼女はちょっと恥ずかしそうな顔でこう答えた。
「ホントはね、ちょっと遅刻になるけど途中からならなんとか来れそうだったの」
「そうなの?だったら最初から遅刻して来るって言ってくれればよかったのに」
「んー、でもさ、アタシが途中から来てパーティの雰囲気壊しちゃったら悪いかなって思ってね。それでさ・・・(笑)」

「そんな・・・、気にしなくていいのに」
「それ、野本さんにも言われた」
「野本さんに?」

「ウン。最初の新歓パーティから来ないのって悪いじゃない?だから、一応野本さんにお詫びの電話したの。そしたらね、「遅れてもいいから、気にしないで来い」って。それで「せっかくの大学生活なんだから、みんなと仲良くなっていっぱい楽しめ。自分がちゃんとフォローするから」って言ってくれたの」
「へぇー、野本さんって優しいんだねぇ」
「ホントに優しいよね。何か頼れるお兄さんみたいでさ(笑) アタシ、このサークルに入れてよかったって思ってる。凛やミコに誘ってもらって嬉しかったんだあ」
そう言って彼女は
「エヘヘ」と照れたように微笑んだ。


そのとき
「佐倉さん」
そう言って声をかけたのは、あの会津君だった。

「あ、ハイ」
みーちゃんはクルット振り返り、話しかけてきた会津くんの方を振り向く。

「ボク、同じ1年の会津 敏いいますねん。どーぞ、よろしゅう」
そう言って彼はスっと手を差し出し
みーちゃんは
「こちらこそ。仲良くなろうね」
とその手を素直に握った。

「あれっ!随分アタシのときと違うじゃなーい?」
そう言ってアタシはキッと会津君を睨みつける。

すると彼は
「いやー、そんなことあらへんで。ボクは女のコには誰でも優しからな。もちろん凛ちゃんにも」
飄々とした顔でそう言ってニヤッと笑ったのだった。

第31話 カレーライス

「はっきり言って、会津君はかなりわかりやすいね」

授業が終わった後に2人で学食でお茶をしていたときにこの前の新歓パーティの話になり、ミコはフッとそんなことを言った。

「エ、そう?」
「ウン。彼は凛に気があるんだヨ」
「エー!?そうかなあ?」

「ほら、男のコって好きな女のコには他の女のコと違う態度とるじゃない?」
「でもさあ、好きな女のコっていたって、アタシたち、この前初めて会ったんだヨ?」
「一目惚れってことじゃない?」
「ちょっと、やめてヨォ~~~(笑)」

会ったその日に恋の花咲くこともあるというけど
それはお互いがそうなった場合でアタシにその気はまったくない。
でも、教育学科のミコがそう言うと妙に真実味も感じたりするから怖い。

「男のコってそういうところは成長遅いからね(笑) まあ、凛もそう気にすることないヨ。男友達の一人として付き合ってればそのうち向こうも変わるでしょ」
残りのカップに入ったコーヒーを一気に飲み干しそして、
「さあ、5限目は教育原論だわ。そろそろ行かなくちゃ。じゃ、凛。また明日ね」
そう言ってミコは席を立ち上がった。


「さて、アタシも図書館行かなくちゃ」
そう思いアタシも席を立とうとする。
来週の授業に提出するレポートを書くのに必要な資料を借りなくてはいけないのだ。

するとそのとき
「おーい、凛」
学食の入口からそう言って歩いてきたのは久しぶりに会うトオル君の姿だった。
入学式での勧誘以来新入部員のお世話に忙しくてここ3週間ほど会えなかった。

「今晩電話しようと思ってたんだけど、会えてよかったよ」
いつものアタシを包み込むようなトオル君の笑顔
「アタシも。トオル君に話したいこといっぱいあるんだぁ」



図書館に寄った後、アタシとトオル君は肩を並べて正門まで続く銀杏並木のメインストリートを歩き始めた。
青葉学院の名前の通り、この時期青々とした銀杏の葉が風に靡いてサワサワと小さな音を立てる。

この風景を初めて見たのは、中3のときミコと2人で青葉学院を訪れたときだった。
メインストリートには溢れんばかりの大学生に紛れて高等部の生徒たちも歩いていて、誰もが誇らしくそして楽しそうに見えた。
そしてミコと一緒に青葉学院高等部に合格したとき、自分たちもこれから彼らと同じようにこの道を歩くのだとということがとても嬉しかったんだ。

あのときにアタシの隣にはワタルがいた。
アタシは毎日この道をカレと肩を並べて一緒に歩いていた。

そしてときは流れ・・・
今、アタシの横にはトオル君がいる。

なぜ今の自分がいるのだろう?
アタシはときどきこんなことを考えるときがある。

中2の夏休みにいきなり、そしてあまりにも突然に告げられた『女』という自分の本当の姿
そして再会したワタルという存在

カレはアタシにとても多くのモノを与えてくれた
女として男性を愛することの喜び
愛されることの幸せ
振り返って思い出してみれば、アタシはどこかでワタルに導かれていたようにも感じる。


そんなことを考えているとき
「・・・・・にでも行ってみるか?」
トオル君に突然話を振られてビクッとした。

「エ、あ、ゴメン。聞き逃しちゃった。どこに行くって言ったの?」
トオル君は少し呆れたような顔をして
「どうしたんだ?考え事してたみたいだけど」
とアタシに尋ねる。

「あ、ウン。」
「なに?」
「この道を歩いてて、フッとアタシが初めて青葉のキャンパスに来た時のことを思い出しちゃって」

「ああ、たしか中3のときミコちゃんと下見に来たんだっけ?」
「ウン、そう。懐かしいなって思って」
「中3のときの凛かあー、どんな感じの女のコだったんだろうなぁ」

「フフフ、さあ、どーでしょう(笑) でもさ」
「ウン?」
「そのときトオル君は青葉高等部の1年生だったわけだし、もしかしたらこの道のどっかでアタシとミコとすれ違っていたかもしれないヨ?(笑)」
「あ、そっか!そういえばそうだな(笑)」
「フフフ、高1のトオル君はどんな男のコだったんだろうね?」


こんな話をしながら青葉通りを渋谷駅方面に向かって歩いていたときだった。

「あれ、凛ちゃんやないかあー!」
向こうから歩いて来た人から突然そう声をかけられる。
フッと振り向くとそれはあの同じサークルの会津君であった。

「あ、こんにちわあ」
この前のこともあったが、ミコのアドバイスもあり、アタシはサークルの一友達としての努めて笑顔で挨拶する。

「どこ行くん?」
「あ、どこっていうんじゃないけど、お茶でもしに行こうかって思って。会津くんは渋谷の方から来たみたいだけど?」
「ああ、ボクはバイトの帰りや。これから学食で夕メシのラーメンでも食おう思ってな」
そう話しながら会津君はトオル君の方をちらっと見るとアタシに尋ねた。
「凛ちゃんの友達かい?」

アタシは一瞬少し恥ずかしがりながらも
「あ、エット、アタシの・・・彼氏なの」
と紹介した。

「やあ、はじめまして。国際政経学部2年の笹村っていいます。」
トオル君は会津君に丁寧に挨拶する。

すると
アタシには初対面でやけにぶっきらぼうだったはずの会津君は、
「凛ちゃんの彼氏でっかあ。あ、ボク、凛ちゃんと同じサークルで経営学部1年の会津いいます。よろしゅう」
そう言って礼儀正しくペコっと頭を下げた。

正直、アタシはちょっと心配ではあったんだ。
もし、ミコの言うように彼がアタシに気があるんだとしたら、アタシの彼氏であるトオル君に失礼な態度をとるんじゃないかって。
でも、会津君はアタシが思っていたよりもずっと大人だったみたいだ。

ところで
最初は気付かなかったが、挨拶が終わってよくよく会津君の姿を見ると、ヨレヨレのTシャツにボロボロのジーンズという、この前のパーティでのホストスタイルとはかなりかけ離れた格好だ。

「バイトってここらへんでやってるの?」
「ああ、今日のは渋谷の道玄坂のレストランや」
「今日のはって・・・他にもやってるの?」

「月水金が今日の店のウエイター兼皿洗いで、火木が夜の警備員のバイト、そんで土日はサークルとかやな」
「そ、そんなに!?キミってちゃんと授業出てるの?」
「まあ、最低限はな。 それに勉強も大事やけど、まず働かんと先に飢え死んでしまうからなー(笑)」

もしかして、アタシ悪いこと聞いちゃったのかな・・・
じつは彼の家は貧しくて、無理して東京の私立大学に来て苦労をしているんじゃないだろうか
そう思っていると

「なあ、会津君。よかったら俺たちと一緒にメシ食いに行かないか?」
黙って横で話を聞いていたトオル君が突然会津君を誘ったのだ。

「え、でも、トオル君ーーー」
アタシは正直ちょっと戸惑った。
だって、久しぶりにトオル君と会えたんだし
せっかく2人でいるのにっ!

そう思ってアタシは会津君に
「断れええぇぇ~~~~~~!」
とテレパシーを送る。

そして会津君もきっとアタシのただならぬ気配を察していてくれたのか
「いやあ、でも・・・」
そう言って遠慮する様子になった。

なんだ、この人ってけっこう女のコの気持ち察してくれるデリケートなとこあるじゃん。
「そっかあ、そうだよね!アハハ。ほら、トオル君。会津君も忙しいみたいだしさあ。無理に誘っちゃ悪いんじゃない?」
アタシが安心してそう言う。

すると会津君は
「いや、べつに忙しくはあらへんで。ただ外食するような金がないだけや」
と平然と言い放った。
それに対しトオル君が
「なんだ。そんなことだったら気にするなよ。俺が誘ったんだから今日は俺が奢るから」
そう言ってニコッと笑って胸を叩くポーズをすると
「エ、ホンマでっか?ほなら、ご馳走になったろかな」
トオル君の言葉に会津君の顔はぱあっと晴れた。

会津めえぇぇ~~~~~!
ちょっとでも期待したアタシがバカだったあぁぁ~~~~!
アタシは恨めしそうな表情を会津君に向けたが彼はそんなことなんかお構いなしにニコニコとしている。

そんなわけで、久しぶりのデートなのに、
なぜか会津君というコブ付きで食事に行く羽目になったのである。



ここは宮益坂からちょっと脇道に入ったとあるラーメン屋さん
トオル君いわくこのお店は安くて美味しいのに加え量が多いことで有名らしい。
トオル君の所属する空手部御用達だそうだ。

「さあ、会津君。ここなら気にせず何でも食ってくれ」
トオル君の言葉に嬉々とする会津君。
「やったぁー!これで一食浮いたわぁ。笹村さん、ご馳走になります」
そう言って大盛り味噌ラーメンにチャーハン大盛りを頼む。
「あ、あと餃子もええでっか?」

「ちょ、ちょっと!会津君、キミ、そんなに食べきれるの?」
「こんなんチョロイもんや。食えるときに食っとかんと」
まったく・・・この人には遠慮ってものがないのだろうか?

「アハハ、いいよ。食えるならどんどん頼んで。あ、俺は大盛りの味噌チャーシューとギョーザね。凛は?」
「あ、ウン。じゃあ、チャーハンを、もちろん普通盛りで、お願いします」

ガツガツ
むしゃむしゃ

注文した料理が揃うと会津君は脇目も逸れずガツガツと貪りつく。
その姿はまるで生クリームてんこ盛りパフェを抱えてがぶり付くみーちゃんのようだ。

「ふぅ~、美味かったぁー!」
ようやく満足してお箸を下ろすと会津君のショックはどれもまるで舐めたように綺麗になっていた。

「す、すごいねぇー!キミひとりで全部食べちゃった・・・」
「そやかて、こんな豪華なメシは久しぶりなんやもん」
そう言って会津君は楊枝を一本取り歯に挟む。

「豪華って、ラーメンやチャーハンが?」
「ウン」
「キミって普段どんなものを食べてるの?」

「青葉の学食ではラーメン、そば、カレー。この3種類しか食べたことないなあ。夕メシはバイト先の賄いが出るときはわりと豪華やけど、朝メシは基本的に食パン」
「朝ごはん、食パンだけなの?」
「いや、食パンの耳や。近所のパン屋でただでくれるさかいにな(笑)」
「耳・・・だけ!?はぁ~~~~、なんかすごい食生活だねぇー」

すると
アタシと会津君の会話を聞いていたトオル君は彼に対し興味深そうな顔をして言った。
「でも、会津君。君はすごく自由に暮らしているよな?」

「そう!そうなんですねんっ!」
そう言って会津君は突然席を立ち上がり、そして目をキラキラとさせてトオル君の手を握った。
「いやあ、やっぱり笹村さんは男同士!わかってくれまっか。限られた4年間の大学生活やもん。ボク、いつも自由でいたいんです」

「わかるよ。ウン、わかる。きっと金よりも大切なものがある。どんな金を持ってても過ぎ去った時間を取り戻せないからな」
「そうかなあ・・・」
アタシは2人の話にちょっと複雑そうな顔をする。
「まあ、凛は女のコだから。女には女の価値観があるんだよ」

あ、そっかあ・・・
アタシの男としての時間は中2で終わっちゃったから
もし、あのまま男として生きていたとしたら、この2人の言うことに同感してたんだろうか

それから、トオル君と会津君は堰を切ったように語り始めた。
わりとクールなイメージで大人っぽいトオル君に対して、会津君はどこか少年っぽさを持ち軽い感じがするけど
この2人ってじつはどこかで似た部分を持っているのかもしれない。

「じゃあ、ここで失礼します。笹村さん、今日はごちそうさまでした。ホンマに楽しかったですわ」
「ああ、俺もすごく楽しかったよ。今度、よかったらまた遊びに行こうぜ」
「ハイ、ぜひ。ほんじゃ、凛ちゃんもさいなら~」
そう言って彼は夜のバイトへと向かうためまた雑踏の中に消えていったのだった。


そして、その週の日曜日
トオル君は大会が近く部活の特訓
ミコは芦田さんとデートらしい
何も予定がないアタシは少し寝坊して9時頃のそのそと起きて遅い朝食を食べていた。

すると
「ねぇ、凛。今日暇ならちょっと頼まれごとしてくれないかなあ?」
そう言ってキッチンで洗い物をしている母親に声をかけられる。

「エ、なあに?」
「ウン。あのね、松戸のちーちゃんのとこに届け物をしてほしいのよ」
「ちーちゃんに?ウン、いいヨ」

ちーちゃんというのは、じつはちづるさんといってうちの母親の妹
つまりアタシにとっては叔母さんということだ。
彼女は、3人姉妹の末っ子で今はまだ32歳
昔からアタシのことを色々と気にかけてくれ、2年前に松戸に住む大学の先生に嫁いだ。

うちから松戸は電車に乗って東京をほぼ縦断して行くので結構時間がかかる。
それでも気さくで優しいちーちゃんに会いにいくのは昔から楽しみであった。


「あ、凛~!よく来たねえ。さあ、あがって」
1年ぶりに会ったちーちゃんは今ちょうど妊娠中で、お腹の赤ちゃんの新米お母さんだ。
笑顔でお腹を抱えながら出てきたちーちゃんはとても幸せそうな感じだった。

「わぁ、ちーちゃん。お腹大きくなったねー」
「フフフ、凛もいつかお母さんになるんだから順番だヨ(笑)」
「アタシもかあ。いつかそうなるのかなあ?」

リビングのソファに座ってお腹を優しくさするちーちゃんの姿はすでに母親そのものだ。
そんな彼女を見ていて、アタシは昔あったあることを思い出した。

それはまだアタシが女性としての手術が終わり1ヶ月ほどの間定期検査のため病院に通ってたときのこと
主治医だった祥子先生は検査が終わるとときどきアタシを病院の喫茶室に誘ってケーキやパフェをご馳走してくれた。
そのとき祥子先生はいろいろな話をしてくれたが、あるときフッとこんなことを話してくれた。

「ねぇ、凛ちゃん。男と女の違いってどういうところだと思う」
「ウーン、そうだなあ・・・、やっぱり女性は赤ちゃんを産むってことかなあ」
「そうね。女性は男性と結ばれることによって赤ちゃんを授かる。結果的に産むかどうかは別として女性はそういう能力を持った存在ってことだよね。そして、そのために女の身体は男とは色々なところで異なっているのヨ」

「たとえば?」
「そうね、たとえば女性は男性より身体付きがぽちゃぽちゃして腕や足の腿が柔らかいでしょ?それは女性が赤ちゃんを抱いたとき温かく優しくすっぽりと包んであげるため。授乳するときちょうど乳房の位置に赤ちゃんの頭が来るようにできているの」
「へぇー、知らなかったぁ。うまくできてるよね」

「それに、顔つきね。男と女の顔つきっていうのはけっこう違うでしょ?女性っぽい顔の男性とかもいるけど、やっぱり表情がどっか違う。何故かというと、にじみ出てくるものが違うの」
「にじみ出てくるもの?」
「そう。男は男にしかなれないし女もそう。だから内面からにじみ出てくるものをいくら真似をしても絶対にできないの。凛ちゃんは本当は女のコとして生まれていた。だから女を選んだんじゃなく、じつは女以外のものを選ぶことはできなかったってアタシは思ってる。そしてね、大切なのはこのにじみ出てくる表情だと思うの。なぜ女は女らしい顔つきをしているかっていうと、それは赤ちゃんが母親の優しい笑顔に包まれて安心して眠るためなの。そして男はそういう女と子供を外敵から守っていくために精悍で逞しい身体をしている。それぞれにちゃんと神様から与えられた役割があって、それを変えるということは絶対にできないのヨ」

今自分の目の前にいるちーちゃんはまさに母親だった。
そしてアタシもいつか彼女の後を追っていくのだろう。



「じゃあ、凛。気をつけて帰るのヨ。菜摘お姉ちゃん(お母さん)によろしくね」
「ウン。じゃあ、またねー」
お茶をご馳走になり、アタシは11時ごろチーちゃんの家を後にした。

じつは、ちーちゃんには「お昼ご飯を食べていきなヨ」と何度も勧められたのだったが、アタシそれを遠慮してきた。
なぜかというと、松戸には以前ちーちゃんや母親やと何度か来たとても美味しいスパゲティ屋さんがあって、それを楽しみにして来たからだ。

そのお店は繁華街の方ではなく住宅街の一角にある。
「えっと、こっちのほうだっけ・・・」
もうかなり前にきたことのあるお店だったので、道も多少うろ覚えだった。
アタシは見覚えのある目印を探してお店を探していた。

そのとき通りの向こうの方から歩いてくる工事作業用の服を着た男の人とすれ違った。
すると「あれっ!」
すれ違いざまにその人から突然声をかけられた。
「エ?」
その声にアタシが振り返ると、なんとそれは会津君だった。

「びっくり!こんなところでどうしたの?」
「ボクこそびっくりやわ(笑) ボクん家、ここら辺やもん。深夜バイトの帰りで今帰ってきたところやねん。凛ちゃんこそ、なんでこないなところにおるん?」
「親に頼まれて親戚の家に届け物に来たの。今までずっとアルバイトしてたの?」
「ああ、水道工事のバイトや。ハードだけど給料ええさかいにな」
「そうなんだあ。大変だねー。そういえば、ちゃんとご飯食べてる?」

「ワハハ、今日はまだ」
「呆れた! 本当に身体壊しちゃうヨ?」
「まあ、とりあえず米だけはあるから帰ったらお茶漬けでも食おう思ってるから」

アタシはこれから美味しいスパゲティを食べるつもりでここまで来たんだけど、会津君がお茶漬けのお昼ご飯と聞いてはどうも心がチクチク痛む。
ウーーーーン・・・・・・「じゃあね」とこのまま去りがたい

「ね、アタシ、栄養のつくもの何か奢ってあげようか?」
「それは悪いからええよ」
「なんで?この前はトオル君に喜んで奢ってもたってたじゃん?」
「女のコに奢られるのはボクのプライドが許さへんもん」
「まったく意地っ張りだネ キミは(笑)」

そこでちょっと考えてアタシはこう言った。
「じゃあ、カレー作ってあげようか?」
「エ、凛ちゃんが作ってくれるんか?」
「ウン。それなら材料費で500円もあればできるから。アタシも一緒に食べるから半分出すヨ。それならいいでしょ? 」
「やったぁー!」


「ここがボクのアパートや」
そう言って会津君に案内されたのは『東海第四荘』という、ものすごいおんぼろのアパートだった。

「なんか・・・倒壊しそうって・・・読める」
「ワハハ、凛ちゃんおもろいことろ言うな。まあ、入ってや」
彼は笑い飛ばしていたけど、階段を上るとギシギシと妙な音がする。

彼の部屋はそのアパートの2階の一番奥にある部屋だった。
部屋の中に入ると、玄関からすぐに小さな台所があって、その奥はに6畳ほどの和室になっている。
端に本棚がひとつと真ん中に小さなテーブルがあって、それ以外の家具は何もない。
ただ、窓は明るく隣の家の庭に面していて光がいっぱいに入っている。

「まあ、座ってんか。何もない部屋やろお」
「ホント・・何もないんだねー」
「ハハ、はっきり言うなあ(笑)」

「とりあえず何か飲むかい?コーヒー、といってもインスタントやけど、それかお茶のどっちがいい?」
「あ、じゃあ、アタシが入れるヨ。会津君は座ってて」
そう言ってアタシは玄関口にある小さな台所に立ってお湯を沸かしインスタントコーヒーを1つ入れて彼に出した。
男の部屋にしては台所は洗い物の残りもなくきれいに整理されている。

「さてっと・・・」
アタシは、さっき会津君と近くのスーパーに行って買ってきた豚肉と玉ねぎ2つと人参1本、じゃがいも2つそれに特売のカレー粉を取り出す。
棚の中にある調味料を確認してカレーの作成にかかった。
野菜を煮込んでいる間にお米を研ぎ、炊飯器を早炊きにしてスイッチオン
そして40分ほどしてカレーライスができあがった。

「ハイ、どーぞ」
会津君の分は特大盛りにしたカレーライスをテーブルの上に置くと彼は
「ああ、ええ匂いやあー」
と言いクンクンと匂いを嗅ぐ。
そしてスプーンで一口すくってそれを口に放り込んだ。
「う、うまああぁぁーーーーーーいっっ!!」
かなり大げさなポーズで叫んだ。

「そんな大げさな(笑)」
「いや、ホンマ美味いで!こんな美味いカレーライスなんて久々やもん」
「急いで作ったからちょっと大雑把になっちゃったけど」

「そんなことないでえ。味に深みがあるわ」
「あ、それはインスタントコーヒーを隠し味に使ってるの。そうするとコクがでるんだヨ。あとご飯が汁を吸っちゃうから少し固めに炊いて」
「ほえー、さすが女のコやなあ。男が作る料理とはちょっと違うわ」

結局彼は大盛り3杯をおかわりし満足した様子だった。
「はぁー、美味かったわぁー。もう食えん」
「そりゃそうでしょ(笑) 炊飯器で炊いた4合ぜんぶなくなっちゃったんだもん」
アタシは笑いながらそう言って彼にお茶を出した。

「あ、ありがとさん。」
「残ったカレーは2つのタッパーに分けて冷凍庫に入れておいたから。けっこう持つと思うから、解凍して食べてね」
「そんなことまで?なんかびっくりや」
「びっくりって?」
「いや、よう気づくんやなあって思ってな。凛ちゃんはええ奥さんになりそうやな。笹村さんがホンマに羨ましいわ」

「そんなことないのヨ。アタシだって母親に教えてもらいながらそうなったんだし」
「凛ちゃんのお母さんってきっと素敵な人なんやろなあ。凛ちゃん見てるとようわかるわ」

そんなことを話しているとき
フッと本棚を見るとアルバムが目に入った。
「あれ、これって会津君の昔の写真?」
「ああ、そうや。昔、いうてもだいたい高校時代のもんやけどな」
「見てもいい?」
「ああ、ええよ」
アタシは数冊あるアルバムの一冊を取り出し広げた。

「あれ、会津君って高校時代からテニスやってたんだ?」
「ああ。中1のとき始めてな。これでも高2のとき国体までもうちょっと行きそうになったんやで」
「エッ、それってすごいじゃない。だったら、サークルよりちゃんと体育会のテニス部に入った方がよかったんじゃない?」
「いや、それはええよ。体育会の部活やと練習も大変でバイトできんし、先輩もうるさいしな。ボクは自由にテニスができたほうがええんや(笑)」

「そういえばこの前もそんなこと言ってたよね。でも、バイトばっかりやって大変じゃない?」
「まあな。でも働かな食っていけんもん」
「それなら東京の私立大学より地元の国立大学のほうが家の負担も少なくない?」

「東京の私大とくに青葉に行けいうたんは親父やし。それにボクんち親父が会社経営しとるからホンマは貧しいわけやないねん」
「エ、そうだったの?」
「そうや。ただ単に親が金をくれへんだけで家に金がないわけやないねん。」

そう言って会津君は実家のことを話し始めた。
「親からの仕送りは学費とこのアパートの家賃の3万円だけ。あとは男なら自分で稼げがうちの親父のセリフなんや。ときどきお母ちゃんが心配して米とか味噌とかは送ってくるけど」
「じゃあ、生活費は全部アルバイトで?」
「そうや。高校のときかておとーちゃんの会社の配送センターでバイトして稼いでどったんや」

「へぇー、厳しいお父さんなんだねー」
「その上、うちのおとーちゃんは大学時代応援団やっとってな。筋のまがったことが大嫌いやねん。高1のころ、ボクちょっといい気になっとったときがあって、一方的に好かれとった女のコのことちょっと弄んでしもたんや」
「あ、悪いんだあ!反省しなさいっ!」

「ハハ、ちゃんと反省しとるって(笑) なんたってやくざみたいのに締められたからな」

「やくざみたいの?相手の女のコの身内が?」
「いや、おとーちゃんたちや。 おとーちゃん、全国から大学時代の応援団の仲間だったおっちゃんたちを集めてな。そんでボクのこと袋叩きや」
「エエっ!?」
「家のそばの原っぱに呼び出されて、気がついたら20人くらいのガタイのいいおっちゃんに囲まれとったん。それでその真ん中におとーちゃんがおってな。「これからオマエの根性を鍛え直したる!」言うて、もう、殴るわ、蹴るわ、めちゃくちゃやった。そんでボクのこと締め終わったあと看病するのかと思ったら、そのまま原っぱに置き去りにして自分たちは酒飲みに行ってもうたんや」
「プ、ププーーーーー!! なんか、すごいね(笑)」
「笑い事やあらへんでぇ。 あのことは今でもトラウマになっとるわ(笑)」

「なんかすごいお父さんみたいだけど、でも・・・キミはそういうお父さんのこと嫌いじゃない気がするヨ?」
アタシはニコッと笑ってそう言う。
すると会津君はちょっと照れたような顔になった。
「ウン、そうやな(笑)そうかもしれん」

(あ・・・)

それを見たときアタシはどきっとした
正直言えば心が揺れた気がしたのだ。
なぜなら
そのときの彼の表情がとてもワタルに似ていたから。

第32話 行き先のむこうにあるもの(前編)

それから1ヶ月ほどが経った。
トオル君は相変わらず空手部の大会に向けて強化練習の真っ最中で会う機会が中々ない。

そういえば、最近ミコが芦田さんとよく一緒にいるのを見かける。
芦田さんは学部を卒業したあと青葉の大学院に進学した。
ミコが大学に入学後まもなくして2人が付き合い始めたという話をミコから聞いている。

肩を並べて歩き、優しくミコに微笑む芦田さん
そんな2人の姿を見るとときどき羨ましくてフッと寂しくなったりする。


「凛、どうしたの? ボーッとしちゃって」
銀杏並木の下のベンチに座っていたアタシはポンと肩を叩かれる。
フッと顔を上げると変装ルックのみーちゃんがニコッと笑って立っていた。

「あ、みーちゃん。久しぶり」
最近芸能界での仕事がかなり忙しいらしく、TVを見るとほとんど毎日どこかのチャンネルでみーちゃんの姿を見るが、彼女はそれでもしっかり大学の授業に参加している。
サークルにもなるべく工夫して時間を空けてできる限りみんなに溶け込もうと努力しているのがわかる。
高等部のときの事件がそうとう堪えたのだろうけど、それでも彼女の努力は大したものだと感心する。

「どうしたの?考え事?」
「ウン、まあ」
「アタシでよかったら話してみない? 答えがでなくても話すだけで楽になることだってあるヨ?」
そう言って微笑むみーちゃんの少し青みがかった澄んだ瞳にアタシは吸い込まれそう。

「あのさ、好きな人と一緒にいられないって寂しいなって・・・ちょっとそんなこと考えちゃってさ」

みーちゃんは目を閉じて少し考えると話し始めた。
「そう、だね。好きな人と一緒にいられれば女のコって安心できるんだよね」
彼女の言葉はアタシの心を丸裸にしたように真ん中を貫いた。
「そう、そうなの!」

「でもさ・・・」
みーちゃんはゆっくりと言葉を続ける。
「いつも一緒にいられるわけじゃないよね?一緒にいられないときは不安になるって、男の人にとっては別の意味で寂しいんじゃないかな」
「別の意味って?」
「女のコにとっては、一緒にいられないことが不安で寂しくなる。 男の人にとっては、女のコがそういう不安を感じてしまうことで自分は信用されてないんじゃないかっていう寂しさ、みたいな」

「そ、そういわれてみれば・・・」
「2人でいるときの笹村さんを凛はいつも信用してるんでしょ?」
「ウ、ウン」
「なら一緒にいないときも彼を安心させてあげられれば、彼はきっと喜んでくれるんじゃないかな」

「ねぇ、あのさ・・・聞いてもいい?」
「ウン。なあに?」
「みーちゃんはさ、誰か好きな人が・・・いるの?」

「アタシ?・・・ウン、いるヨ。すごく好きな人」
「だれ?」
「今は誰にも言ってないの。相手の人にも」

「じゃあ、みーちゃんの片想い?」
「まあ、そうかもね。でも・・・」
「でも?」
「もし、もしいつかアタシの想いが通じる、そういうときが来たら、アンタとミコには一番最初に言うヨ」


次の日
アタシは3限の授業に出たあといつものように図書館で調べ物をするとサークルの溜まり場に寄っていこうと思っていた。
すると向こうの方から会津君が歩いてくる。
よく見ると、彼は見た感じ四十代くらいの男の人と女の人を連れているように見える。
目の前に来たときアタシは
軽く手を挙げて「こんにちわ」と言った。

「やあ、凛ちゃん。授業終わりか?」
「ウン。これからサークルの溜まり場に行ってみようかと思って。会津君はどうするの?」
「ああ、ボクは今日はちょっと行けんわ。連れがおるんでな」
彼がそう言うと一緒にいる女の人がアタシにペコッと会釈をして
「いつも敏がお世話になってます。敏の父と母です」
と言った。
「あ、会津君のお父さんとお母さんですか。ア、アタシこそ会津君にいつも仲良くしてもらってます。小谷 凛と申します」
と少しドキドキしながら挨拶をした。

「凛ちゃんはサークルの友達や」
会津君はご両親にそう説明する。
「まあ、凛さんっていわはるのね。とても可愛らしい名前やわぁー」
お母さんがそう言ってニコッと微笑む。
会津君は多分お母さん似なのだろう。
お母さんは、どことなく彼に似た表情をしたとても温かそうな人だ。

すると
「あ、あの凛さん」
お母さんはちょっと落ち着かない様子で声をかけてきた。

「ハイ。なんでしょう?」
「学校の中におトイレってありますかしら?」
「あ、ハイ。いろいろなところにありますけど、ここから一番近いのは・・・。アタシ、ご案内します。じゃあ、会津君。ちょっと行ってくるから。お父さんと学食で待っててくれないかな?」

「エ、あ、ええんか?」
「ウン。ぜんぜん大丈夫だヨ」
そう言うとアタシはお母さんを連れて一番近い9号館の女子トイレへと向かった。


「すみませんなあ。何から何までお世話になってもうて。お父ちゃんと敏が居たから言い出しにくうて(笑) 凛さんがおらはってよかったわぁー」
どうも、お母さんは急に生理がきてしまったようだ。
もう少し後かと思ってナプキンの準備をしてこなかったが、アタシがポーチの中に何枚か入れておいたのが幸いだった。

「いえ、お気になさらないでください」
「凛さんは、敏とは同じサークルのご友人だとか?」
「あ、ハイ」
「ええ友達ができてよかったわぁー。これからもぜひあの子と仲良うしてやってくださいね」
そう言って深々と頭を下げられてしまったのだった。



そしてその日の夜
プルルルルーーーーーーー
お風呂を上がり自分の部屋で髪を乾かしていると突然携帯電話の着信音
表示を見ると「会津 敏」と出ている。
彼とは前に携帯番号の交換をしたことはあったけど、かかってきたのはこれが初めてだ。

アタシは充電器から携帯電話を外しボタンを押した。

「はい。小谷です」
「もしもし、凛ちゃんかあ?」
「ウン、そうだヨ。電話かけてくるなんて珍しいね」
「ああ、ウン。夜にすまんな」
いつも図々しい会津君が珍しくどこか遠慮しているような雰囲気だ。

「あ、ウウン、いいけど。どうしたの?」
「あんな、明日・・・凛ちゃん暇かいな?」

明日は土曜日
トオル君に会う予定もなく他に約束もない。

「別に予定はないけど、どうしたの?」
「じつは凛ちゃんが今日会ったお父ちゃんとお母ちゃんなにんやけど・・・」
「ウン」
「今日ボクのアパートに泊まっていくんや。明日帰るんやて」
「あ、そうなんだあ。じゃあ、ちゃんと親孝行しないとね(笑)」

「まあ、そうやな(笑) そんでな、お母ちゃんが凛ちゃんに今日のお礼をしたい言うてんねん」
「お礼? そんな大したことしてないけど・・・」
「あ、ウン。そんで、渋谷で食事をご馳走したい言うんや」

「お食事を?アタシに?そんな・・・」
「まあ、ボクもそんなことしたら凛ちゃんかてよけい気にしてしまうからええんやないか?って言うたんやけどな」
「ウン」
「そやけど、ぜひって」
「そっかぁ・・・」
「な、凛ちゃん。予定あるって断ってしまってええで。突然こんなこと言い出してホンマ困った親やさかい」

アタシはちょっと考えた。
いつも図々しい会津君が珍しく遠慮しているように話している。
ご両親からしたら、男のコとはいえ自分の子供を初めて手放して東京で一人暮らしさせているわけで
大学でちゃんとやれているか、友達はできたのか、とか気になることだろう。
もし、アタシが断れば不安に思い大阪に帰ることになるかもしれない。

「わかった。ウン、いいヨ」
「エ、ええんか?」
「ウン。アタシもお母さんとお話してみたいし、「お誘いありがとうございます」ってお礼言っておいてくれる?」
「ああ、ウン、わかった!でも無理してへんか?」
「無理なんかしてないって(笑)」

そういうわけで、アタシは明日の土曜日
ひょんなことから会津君と彼のご両親に食事をご馳走してもらうことになったのである。



次の日の朝
駅に行く途中ケーキ屋さんに寄って荷物にならない大きさのレモンパウンドケーキを買った。
ここは地元で有名な美味しいお店で、甘すぎず爽やかな酸味が評判のケーキだ。

約束の時間は11時
アタシは渋谷駅で降りると、10分ほど前に待ち合わせのハチ公前に着いた。

「あ、おはようございます」
一足先に行って待っていようと思ったのだけど、彼らは既にその場所にいて待っていてくれている。

「おや、凛さん。おはようさん」
お母さんはそう言って優しそうに微笑む。
「今日はここまでお呼びしてしまって申し訳ないですなあ」
お父さんもそう言って丁寧に頭を下げ、かえってアタシの方が恐縮してしまう。

会津君のご両親に案内されたのはかなり高そうなフレンチレストラン。
薄いブルーのワンピースに白いニットのボレロ風のカーディガンを羽織るという格好で来たアタシ
(ああ、こんなとこに来るって分かってればもうちょっとフォーマルな服を着てくればよかった)

「凛さんはフランス料理はあまり好きでないかな?食が進んでないようだけど」
お父さんがちょっと心配そうにアタシの顔を覗き込む。
「あ、いえ。そんなことないです。フランス料理大好きです!」
少しオーバーなポーズでアタシが言うと
「そうでっか。それならよかった」
そしてお父さんはニコッと笑った。

そして
一通りのコースが終わり食後のコーヒーを飲んでいるとき
「ところで」
お父さんはコーヒーカップを口から離しアタシに尋ねる。
「あ、ハイ」
「凛さんのおうちはお父さんがスーパーを経営してはるとか聞きましたが」
「ハイ。そんな大きなチェーンではないですけど」
「何という名前のスーパーかお聞きしてもええやろか?」
「あ、ウエルマートっていう名前のスーパーです」

するとお父さんはちょっと驚いたように言った。
「おお、やはり!ではやはり小谷さんの娘さんでしたか?」

「え、ええ。父をご存知なんですか?」
「はいな。2度ほどお会いしたことがありますわ。東京と大阪の企業経営者の集いでな。あまり長くはお話できまへんでしたけど、しっかりした経営方針を持った方だと感心しましたわ」
「そうなんですかあ?」
「いや、これはまた奇遇でんなあ。あの小谷さんの娘さんとは」

すると今度は横に居たお母さんが話し始める。
「じつは昨晩は敏のアパートに泊まったんですけどな」
「あ、そうらしいですね。会津君から電話で伺いました」

「夕飯をどこか食べに行こうかと言うと、この子がカレーをご馳走してやる言うんですわ。それで冷蔵庫から取り出して温めてくれたんですけど」
「ええ(あ、多分、アタシが作ったのだ・・・)
「一口食べてびっくり!とっても美味しかったんです。それで、「こんな美味しいの自分で作れたんか?」って聞いたら、この子が「凛ちゃんに作ってもろた」って言うんでまたびっくりしましたんや」
「え、・・・ええ」

「お母ちゃんっ!そないなことこんなとこで言わんでもええやんかっ!」
会津君は小声でお母さんにそう囁くが
「ええやんか。それに今お母ちゃんは凛さんと話してるんや。アンタはちょっと黙ったりいな」
お母さんはそう言って会津君を睨みつけた。

「聞いたら、なんか隠し味にインスタントコーヒーを使ったって。へぇー、大したもんやわぁって思いましてな。しかも材料費がたった500円だって聞いて、よくそないなお金であんな美味しいカレーを作りはったってな」
「そ、そんな。母が家で作ったりするのをちょっと覚えていただけで。そんな大したもんじゃないです」
「いや、女のコっていうんは、母親を見て育つ言いますからな。凛さんを見てるとお母さんがきちんと育ててはるのがよくわかります」

・・・・・・・・・・・・・・・・
アタシはどう返事をしたらいいのかわからない。

すると、アタシとお母さんの話を聞いていたお父さんがすぅっと一口コーヒーを口に含んで話し始めた。
「それでじつはお願い・・・というか、お話があるんですわ」
「え、何でしょう?」

「昨日、今日とお会いして私ら凛さんのことすっかり気に入ってしまいましたんや」
「あ、ありがとうございます」

「それで、どうでっしゃろ?息子と将来を前提にお付き合いしていただけませんやろか?」
「え、ええっ!?」
「お、おとーちゃんっ!!なんてこと言い出すんやぁっ!!」

「敏はちょっと黙ったりや!」
「あんなあ!凛ちゃんにはーーー!!」
「黙りっ!!」
「むぐむぐむぐ・・・・」

「昨晩カレーを食べながら敏は凛さんのことをとっても楽しそうに話してくれましてなあ。この子、あんさんに惚れているようやけど、実際今日も会ってお話してうちらまであんさんのこと惚れてしまいましたわ」
「どないやろ?学生結婚いうんは難しいやろから、もし、凛さんがよければ、私の方から凛さんのお父さんに話をしてとりあえず大学卒業までは婚約いうことにさせてもろて」

は?、え?、なに?
アタシは頭が混乱していた。

「ちょ、ちょっと待ってください」
「凛さんには弟さんがおりはるとか。ウエルマートさんの方はその弟さんが継がれるでしょうから。わしも一応はそれなりの会社を経営しておるんですが、将来は敏に継がせるつもりですから、凛さんに不自由はさせないつもりです」
「あ、いえ、あの、そういうことではなく・・・」
「まあ、大学入ったばかりで可愛ええ娘をいきなり嫁にっていうのもお父さんが寂しがりますからな。それは追々の話として、とりあえずご両親に会って話だけでも」

「あのっ!ちょっ、ちょっと待ってください!」
「はあ、なんでっしゃろ?」

やっと途切れた2人の話しにアタシはフゥっと一息つきそしてこう続けた。
「あの、すみません。アタシ、話してませんでしたけど、お付き合いしている人がいるんです」

「お付き合い?それは敏とは別の方でっか?」
「ええ。アタシの高校時代の1つ先輩です。高3の初めにお付き合いを始めて、もう1年ちょっとお付き合いをしています」

するとお父さんはこう言った。
「そ、そうやったんですかあ・・・あ、いや、それでもその人と必ず将来結婚するって決まったわけでもおまへんやろ?敏とその人の両方付き合って敏がええと思えばーーーー」

しかし、アタシはその言葉にお父さんの目をまっすぐ見てはっきり答えた。
「アタシ、そんなことできません!そんなことをしたらその人だけじゃなく会津君にまで失礼です」

「いや、それは・・・・」

そのとき
「お父ちゃん、もうやめっ!」
お母さんがキッとした目でお父さんを制した。

「これ以上凛さんを困らせたらあかん!」
「そやかて、オマエ」
「凛さんの言わはる通りや。お父ちゃん。2人の男と同時に付き合えなんて、これは女に対する侮辱やで。私も凛さんが敏の嫁はんになってくれたら思うけど、でも、それは凛さんが望んでくれたらの話しや」
「・・・・・・・・・・」

「ごめんなあ。おばさん、凛さんに好きな人がいらはるの知らなくってな。アンタがとってもええ娘やったから、敏とそうなってくれたら・・・って願望でつい無理言ってしもたんや」
「あ、いえ、あの、すみません。アタシもキツいこと言っちゃったみたいで・・・」
「ウウン、アンタは女として当たり前のことを言っただけや。うちらこそ、堪忍やで」
「あのもう・・・」

「ええ、この話はもうやめにしまひょ。お父ちゃんもええな!?」
「あ、・・・ハイ」


レストランを出たアタシはその後新幹線の出る東京駅まで2人を送っていく。
そして東京駅

「まあまあ、凛さん。こんなところまでホンマにありがとうな」
「いえ。でもアタシもお母さんやお父さんとお話できて楽しかったです」
「アタシもや。フフ、なあ、凛さん」
「あ、ハイ」

「変な言い方やけど気分悪うせんといてな。アタシ、最初に大学でアンタに会ったときの第一印象な、ふわふわした感じでとっても可愛らしい娘やなあ。男が好きになりそうなタイプやなって思ったんや」
「え、ええ・・・」
「でも、アンタと話しているうちに、この娘は男が本気で好きになる娘やって思ったわ」
「本気で・・・好きになる?」
「そうや。アンタはしっかり前を向いて生きている。名前の通り、まさに凛として生きている娘やって思ったんや」
「そ、そんな・・・」

「だからアンタを好きになる男はきっと本気でアンタに惚れるんや。さっき話してた彼氏さんもな」
そう言ってお母さんは小さくウインクしたのだった。


新大阪行き、まもなく発車です
アナウンスが流れる。

「じゃ、お母ちゃんたち、行くさかいに。敏もしっかり頑張って勉強するんやで」
「ああ、わかっとるがな」
「凛さん、それじゃ色々ありがとね」
「こちらこそ、アタシ、お母さんとお会いできてよかったです」
「またこっち来たとき暇があったら話してちょうだいね」
「ハイ、ぜひ!」

プシュゥゥーーーーーー
ドアが閉まり、
そしてアタシと会津君はその電車が去っていくまで手を振り続けた。


「ああ、いっちゃったねぇ・・・」
アタシは呟くようにそう言った。
「なんか、色々すまんかったな」
「ぜんぜん気にしてないヨっ!だって、ホントに楽しかったもん(笑)」

「ボクな・・・」
「ウン」
「こう言ったらあれやけど、高校のころ、わりと女のコにモテてたんや」

「自慢?(笑)」
「そうやないって!」
「アハハ、それで?」
「国体後一歩やったり、勉強もわりとできる方やったし。それで、女のコから告白とかされて何度も付き合ったり」
「まあ、そういう感じではありそうだね」

「そやから、ほら、サークルの新歓パーティのとき、会場の前で凛ちゃんに初めて声かけたやろ?」
「ウン」
「そのとき、可愛ええ娘やな。この娘って、そうやってボクが声かけたらどないな反応するんやろって、そう思ったんや」

「それで、どうだった?」
「内緒(笑)」
「内緒ってキミねーー!」

「(笑)」
「さ、帰ろか」
「ウン!」

第33話 行き先の向こうにあるもの(後編)

そして日曜日の夜
今週の土曜日はいよいよ全国大学空手大会だ。
昨年は1年生で補欠だったけど、今年はとうとうメンバーの中に入れ出場することになっている。
そして、前からの約束でその日はアタシも応援に行くことになっているのだ。

お風呂から出て髪を乾かすと時間はそろそろ11時になろうとしている。
「あ、もうこんな時間!」
アタシは充電器に架けてある携帯電話を外すとトオル君にメールを打った。
「トオル君、毎日がんばってますか?いよいよ大会だね。アタシ、何時に会場に行ったらいいかな?」

そして送信ボタンを
ポチッ!

メールが送信されました

それからアタシはしばらく待つ。
冷蔵庫から持ってきたオレンジジュースを一口飲み、そして読みかけの文庫本を開いた。

30分が過ぎる。
しかし、トオル君からの返信はない。

どうしたんだろう?
しかし時計を見ると時間はもう11時半を過ぎている。
こんな時間に電話をかけるわけにはいかない。

(疲れて早く寝ちゃったのかな・・・)
(明日、学校で電話をしてみよう)
そう思って、アタシはダイヤルを回しかけた携帯電話を充電器に戻した。



次の日
3限の授業が終わるとアタシは学食に行った。
学食の隅にあるサークルの溜まり場にはいつものように10人ほどのメンバーが集まって楽しそうに話している。

「やっほぅ、ミコ」
アタシはその中にミコの姿を見つけて声をかけた。
すると、
「あ、凛!ちょ、ちょっとーーー」
彼女は顔を曇らせてそう言と、アタシの手を引っ張ってそこから離れた別の席に座らせた。

「ど、そうしたの?」
「アンタ、先々週会津君のアパートに行ったんだって?」
「エ、あ、ウン。よく知ってるね?」
「あのね、変な噂が出ちゃってるヨ」
ミコはかなり深刻そうな顔でそう言った。

「変な噂?どんな?」
「アンタが会津君と付き合ってるって」
「エエエッ!!」

それから、ミコはその噂の内容を詳しく話してくれた。
「アンタが笹村さんと付き合ってるっていうのはサークルの中であまり知られてないけど、女のコの何人かには話したことあったでしょ?」
「ウン。女子会のときに」
「それで、アンタが会津君のアパートに行ってカレーを作ってあげたって噂があるんだけど、本当なの?」
「あ、それは本当だヨ。でも」
「でも、なにヨ?」

「それはアタシが彼とと付き合っててしたことじゃなくて、先々週の日曜日にたまたま松戸の親戚の家に届け物に行ったら帰り道に偶然彼と会ったの」
「なんで彼が松戸にいたの?」
「彼も松戸に住んでるんだヨ。それで外食するお金なくてろくなもの食べてないみたいだから、じゃあカレーでも作ってあげようかってアタシが言って。それで彼のアパートに行っただけ」

「そっかぁ・・・」
ミコは安心したようにそう呟いた。

「でも、それがどうやってあんな話になっちゃったんだろう・・・」
「どんな話になってるの?」
「アンタが、笹村さんと会津君を両天秤にかけてるって」
「エェェーーーーッ!!!」
「もちろん、アタシはアンタがそんなことするはずないからわかってる。でも、男子の間でけっこう大きな話になっちゃってびっくりしたわヨ」

「あ、あの、会津君は?」
「ここ何日か見ないね」
「そっかぁ・・・」

正直、アタシ自身がびっくりしている。
確かに会津君はあまり考えて行動する正確には見えない。
それでも、こういうことを飛躍して言いふらすとはとても思えないからだ。

「でも、凛も軽率だヨ。女のコがひとりで一人暮らしの男の家に行けば、そういう想像されたって文句言えないんだヨ?」
「ウ、ウン。ゴメン」
「アタシに謝ったってしょうがないヨ。それより、まさかこの噂が笹村さんのとこまで行ってないでしょうね?」

そのとき、アタシが思い出したのは昨日のメールのことだった。
いつもはよほどのことがない限りすぐに返事をくれていたトオル君が昨日はなかった。
今日になればメールの着信を見て返信をくれるはずだと思ったけど、それもまだない。

「笹村さんの耳に届くまでにもっと変な話に変わってるかもしれないし、ちゃんと話しておいた方がいいんじゃない?」
ミコは心配そうな顔でそう言ってくれた。



アタシは携帯電話をバッグから取り出しトオルくんの携帯番号にかけた。
プルルルーーーーーーー
プルルルーーーーーーー
2回ほどのコールがして
カチャッと音がした。

しかし
「あ、もしもしトオル君?」
少し焦った声でそう話しかけると
「この電話は携帯の電源が入っていないか電波が届かない場所にいます」
というアナウンスが流れる。

(おかしいな・・・授業中でも部活でもない時間だし)
(こんなこと一度もなかったのに・・・)

不安な気持ちに襲われ、アタシは次第に居ても立ってもいられない気持ちになってくる。

「ミコ・・・アタシ、どうしよう・・・」
奥から湧き上がってきた不安はそのうちアタシの心の中を支配していき、そして抑えていた涙が目に溜まってポロポロと落ちてきた。

「り、凛・・・」

そのとき
「よお、凛ちゃんじゃないか!」
そう言って後ろで声がして、アタシはとっさに涙を手で拭って振り返った。
するとそこにはトオル君の空手部の仲間の石水さんが立っていた。
何度か空手部の練習を見に行ったとき会っており、彼はアタシがトオル君の彼女であることも知っていた。

「どうしたの?そんな赤い目しちゃって」
「い、いえ。何でも・・・。あ、あの、それより・・・」
「なに?」

「あの、トオル君、知りませんか?」
「笹村?ああ、あいつは今日は学校に来てないはずだよ」
「エ、そうなんですか?でも、毎週月曜日は授業があるって言ってたけど」

「ああ、そうなんだけど。でも、アイツ土曜日の練習で吐いて倒れちゃったんだよ。それで俺たちがアイツの家に送っていってさ」
「エエエエーーーーーーーッッッ!!!た、倒れた!?そ、そんなことアタシぜんぜん知らない・・・」
「まあ、大したことないって言ってたからそんなに心配する必要はーーー」

アタシは石水さんが話し終わるのも待たずにバッグを掴んでその場から駆け出していた。
正門から宮益坂を早足で下る。
高等部のときからもう4年間も通っているこの道。
いつもなら歩きながらショーウインドウを覗いてみたり、アタシにとってゆっくり過ぎていく大切な時間だけど、
今は一刻も早くトオル君に会いたい。
それなのに、渋谷駅までほんの10分ほどの距離がとても遠く感じられる。
そしてハァハァと息を切らせてようやく渋谷駅に着くと階段を駆け足で上がってちょうど着いた電車に飛び乗った。

そして新宿駅で乗り換えてようやくトオル君の家の最寄駅にたどり着く。

アタシは駅に出ると携帯電話を取り出してカレの家の番号を押した。
プルルルルーーーーーーーーーー
プルルルルーーーーーーーーーー
何回かのコールの後
ガチャッ
と音がして
「ハイ、笹村でございます」
という女のコの声が聞こえる。
きっと妹の若葉ちゃんだろう。

「あ、もしもし。小谷と申します」
アタシがそう言うと
「あ、凛さん。お久しぶりー!」
と若葉ちゃんの元気な声が聞こえてきた。

「あ、あのさ、お兄さん、いる?」
「ウン。いるヨー。ちょっと待っててね」
そう言って電話は保留の音楽に変わった。

これでやっとトオル君の声が聞こえる。
アタシはそう思ってホッとする。

そして保留音が途切れた。
「トオル君!?」

すると
「あ、もしもし」
聞こえてきたのは、また若葉ちゃんの声だった。

「あ、あの・・・」
「凛さん、ごめんね。声かけたんだけど、なんか、お兄ちゃん、具合が悪くて起きられないみたいで」
若葉ちゃんは申し訳なさそうにそう言った。

「ねぇ、若葉ちゃん。トオル君、土曜日に大学で吐いて倒れたって聞いたけど」
「あ、ウン。そうなの。それで空手部の人が車を出してくれて、何人かで家まで運んでくれたんだけどね」
「お医者様には診てもらったの?」
「ウン。土曜日の夜に来てもらってね。ただの風邪だろうから薬を飲んで安静にしてなさいって」
「そっかあ、よかった」

すると若葉ちゃんはちょっと躊躇うようにこんなことを言った。
「あのさ・・・」
「あ、ウン。どうしたの?」
「凛さん、お兄ちゃんともしかして喧嘩した?」
「エ・・・なんで?」
「ゴメン。じつはお兄ちゃんさ、もう起きれるくらいになっててさ」
「ウン」
「それで、椅子に座ってボーッとしてたとき声かかけたんだ。「凛さんから電話だよ」って」
「ウン、そしたら?」
「そしたら、お兄ちゃん・・・会いたくない・・って」
「・・・・・・・・・・・・」
アタシは若葉ちゃんの言葉に電話を耳から離し立ち尽くした。

ああ、きっと、噂がトオル君の耳に入っちゃったんだ。
どうしよう・・・・・・。
アタシ、どうすればいいんだろう・・・・・。

「もしもし?凛さん、聞いてる?」
離した電話から若葉ちゃんの声がかすかに聞こえた。

アタシは再び電話を耳につけると
「あの・・・トオル君に・・・「軽率なことしてごめんなさい。でも、誤解だから」って言っておいて」
溢れてくる涙を左手で拭いながら、アタシはそう言うのがやっとだった。

電話を切ったあとアタシはその場にしゃがんでしまう。
そして
エッ、エッ、エッ・・・・・・・
小さな嗚咽を漏らして泣き出してしまった。

その場を通りかかったOL風の若い女の人が
「アナタ、どうしたの?どこか痛いの?」
と声をかけてくれるが
「いえ、すみません。何でもないです」
アタシはそう言ってトボトボとその場から歩き出した。


駅からトオル君の家の方角に向かって歩く。
でも、きっとカレはアタシを受け入れてはくれないだろう。

(アタシ、なんで、なんでこんな考えなしなことしちゃったんだろう)
(もし、アタシが逆にそうされたらきっとショックだった)
(トオル君だって、きっとショックだったんだ)
(ごめんなさい・・・ごめんなさい、トオル君・・・)

アタシはトボトボ、トボトボと当てもなく歩いた。
トオル君の家に初めて来てから、駅からカレの家までの風景はアタシにとって大好きなものとなっていった。
それから何度かトオル君の家を訪れる度に、カレはその風景をひとつひとつ説明してくれたんだ。

「ここが俺の通っていた小学校なんだ」
「へぇー。校庭広いんだねー」
「ああ、あそこに太い樫の木があるだろ?俺、小2のとき仲間で一番早くあそこに登れたんだぜ」
「そうなんだぁ。すごいねー」

カレは自分の今まで生きてきた場所をアタシにひとつひとつ教えてくれた。
そして、アタシはそれを聞くたびにまだアタシの知らない頃のカレを見ているようでとても嬉しかった。

(もう・・・そういう話も聞けなくなっちゃうのかな・・・)

そんなことを考えながら顔を上げると駅から随分歩いてきてしまっている。
フッと横を見るとそこは小さな公園の前だった。

(ああ、この公園って・・・)
初めてトオル君の家に遊びに来て、この前を通りかかったときカレは懐かしむように教えてくれた。
小学生のときひょんなことから出会った不思議な男のコ
その子と出会ったのがこの公園だそうだ。

そしてよく見るとこの公園はアタシの家の近くにあるあの赤いブランコの公園にどこか似ている。
通りに面して深い緑に囲まれているが、実際中に入ると思ったよりも小さい。
その小さな敷地の中にはブランコと砂場とジャングルジムがあって・・・。

もう夕方の7時を過ぎてすっかり日も暮れている。
中には誰もいない。
アタシはその公園に入ってみた。
そしてそこにある小さなブランコに腰を下ろした。
キィキィ
と音を立てブランコは小さく揺れる。


(はぁ・・・、これからどうしようか)
そう思ってたとき

「あれ、凛ちゃんかい?」
ブランコが見える通りからそう男の人の声が聞こえた。

「お、お父さん!」
声の方向を見ると、そこにいたのはトオル君のお父さんだった。

「こんなところで何をしてるんだい?家に来れば?トオルもいるはずだし」
「あの、アタシ・・・」
「ん?どうしたんだい?」
そう言ってお父さんは優しそうに微笑んだ。


「まあ、飲まないかい?」
そう言ってお父さんは手に提げていたビニールの包から缶コーヒーを2本取り出して、その1本をアタシに渡してくれた。
手に持つとヒヤッと冷たい。
「ボクも、ときどき仕事に煮詰まったりしたとき缶コーヒーを飲みながら一人でボーッとしたりしてるんだ(笑)」
缶コーヒーを一口コクっと飲むと冷たい苦みと甘みがスゥーと喉を伝わって落ちていった。

アタシは事の顛末をお父さんに話した。
「そうかあ。そういうわけだったんだね」
お父さんはそう言ってゆっくりと話し始めた。

「じつはね、初めて・・・」
「エ?」
「トオルが初めて君を連れてくるって言ったとき、ボクは君に会うのがとても楽しみだったんだ」
「そう、だったんですか?」
「ああ。トオルはアレでもけっこう奥手でね。空手なんかやってるもんだから、女の子からそれなりにアプローチはあったみたいなんだ。だけど、アイツはいつも不思議と自分からその娘たちに何かをしようとはしなかった」

「それが、君を連れてくる一週間ほど前だったかな。急に「じつは付き合っている女の子がいるんだ」って言い出してね。まあ、そんなの日頃の様子を見てりゃこっちだってわかってるんだが(笑)」
「やっぱり?」
「ああ(笑) だから、こいつからそんなこと言うなんて珍しいなって思ってね。それで、どんな娘が来るんだろう?って思ったんだよ」

「そしてヤツが初めて君を家に連れてきたとき、正直言うとボクはちょっと意外な気がしたんだ」
「期待はずれ・・・でした?」
「いや。なんて言うんだろう、それまで想像してたアイツのタイプと違ってた気がしたんでね」

「あの、どんなタイプが?」
「ウーン、ボクは勝手に、気が強いタイプの娘が好きなんじゃないかって思ってたんだけど。アイツの好きな芸能人の趣味からね。でも、そういうことじゃなかったんだなあ」
「そういうことじゃないって?」
「アイツは気が強いタイプの娘が好きなんじゃなかったんだ。アイツが求めていたのはまっすぐに前を向いて歩いている、そういう女の子が好きだったみたいなんだ」

「そして、君に会って話してみて思った。 ああ、この娘はまさにアイツが好きになる娘なんだって」
「あ、ありがとう・・・ございます」

「人と人が一緒にいればいろいろあるさ。誤解もあるし、理解しがたいところだってできる。まして男と女はね。でも、そのひとつひとつを2人で時間をかけてゆっくり埋めていけば、いつか2人でひとつの人生を重ね合わせられるんじゃないかって、ボクはそう思ってる」
「ハ、ハイ」

お父さんは残りのコーヒーを一気にクイッと飲み干すと、
「ちょっとここで待っていなさい」
そう言って公園の入口の方に歩いて行った。

どこかに電話しているような感じだ。
何を話しているのかはわからないけど、最後に
「死んでもいいから来いって言っておけ!」
お父さんは少し強い口調でそう言って電話を切った。
そして戻ってくると
「これから先のことはボクが勝手にやったことだ。あとは2人で考えなさい」
そう言ってお父さんはアタシから少し離れたところに歩いて行った。

「あ、あの・・・」
アタシがそう言ったとき
「ハァ、ハァ、ハァ!」
小さな公園の入口から息を切らした男の人の声が聞こえてきた。

そして
「り、凛ーーーーーっっ!!」
そう叫んだ方を見るとそこには真っ赤な顔をしたトオル君が今にも倒れそうな姿でよろめきながら立っていた。

「ト、トオル君!!」
アタシはカレに向かって叫ぶ。

「オ、オレ、オレ・・・愛している」
「エ・・・」
「オレ、オマエのことを愛している!オマエじゃなきゃ嫌だ!!」

アタシはカレの元に駆け寄った。
「アタシも・・・アタシも、アナタじゃなきゃ嫌。好き!大好き!愛してる!!」
そう叫んでアタシはカレの胸を抱きしめた。

トオル君の顔がアタシの顔に重なっていく。
そしてカレの火照った唇がアタシの唇と重なった。

そのアタシたちのお父さんが見ている。
それでもアタシは構わなかった。
もうカレと絶対に離れたくなかった。

その姿を見てお父さんは小さく呟く。
「ボクは舞台を用意しただけ。演じるのは君たち2人だから」


しばらくしてお父さんはアタシたちのところに歩いてきた。
そして落ち着いたトオル君に今までの経緯を話してくれた。
「そっかあ。そうだったのか」
トオル君は話を聞きながらアタシの手をずっと握ってくれている。

「凛、ごめんな。オレ・・・人から聞いた話で勝手にオマエのこと誤解しちゃって・・・」
「ウウン。アタシのほうこそ・・・。軽率だってミコからも怒られちゃった」

「お互い誤解が溶ければもっと強くなれるさ」
お父さんはそう言ってアタシたちに自分の手を重ねた。

そのときだった。
「あれ、凛ちゃん?」
公園の入口の方からまた別の男の人の声がした。

ふっと振り返ると、そこにはなんと会津君と彼のお父さんが2人で並んで立っている。

「あ、会津君!」
アタシは驚いて声をあげてしまった。
するとトオル君のお父さんがすっと立ち上がって
「そうか、アイツが・・・」
そう言って2人の方に近づいていった。

「エ、あ、あの・・・」
まさか・・喧嘩・・とか

トオル君のお父さんは青葉学院大学の元応援団長、しかも柔道二段!
そして、あのとき聞いた話では、会津君のお父さんも同じように元大学の応援団長で空手二段らしい!

「ちょ、ちょっと、あの・・・」
まさか血の雨が降る!?
アタシはどうしていいか分からずオロオロとしてしまう。

「おい、オマエ・・・」
「なんや、アンタ・・・」
トオル君のお父さんと会津君のお父さんは向かい合ってバチバチとガンを飛ばしあっている。

「ど、どうしよぉぉーーーーー!!ねえ!トオル君、止めて!」
「いやあ、そんなこと言っても。うちの親父、大学時代に渋谷のやくざを3人ボコボコにしてやったって言ってるし。ああなったら、もう・・・」
「そ、そんなあ!!ね、ちょっと2人とも落ち着いてください!どうか、冷静になって!!」
アタシがそう言ったときだった。

「オマエ・・・もしかして・・・アー坊か?」
トオル君のお父さんがそう呟く。
するとそれを聞いた会津君のお父さんは
「そういうアンタは、まさか・・・笹村先輩?」

そして人はいきなりガシッと抱き合った。
「アー坊っっ!!」
「笹村先輩っっ!!」
その様子をボーゼンと眺めているアタシたち3人だった。
そう
なんと会津君のお父さんはトオル君のお父さんが学生時代の一時期いつも一緒にいたあの「アー坊」その人だったのだ。


ここはトオル君の家のリビング

「いやー、まさか、こんなところで笹村先輩に会えるとは!!」
「まったくなあ!アー坊、オマエ大阪に帰ったって聞いてたけど、なんでこんなとこに?」
「じつは、この近くにうちの新しい配送センター作る予定なんですわ。それで今日は息子とその下見に行って来た帰りですわ」
2人はさっきからお酒を酌み交わしすっかり出来上がってしまっている。
アタシはトオル君のお母さんと若葉ちゃんの3人でキッチンに立ち、そんなお父さんたちのおつまみを作っている。

「それにしても、情けないのはこの2人だな」
「まったくですわ!女の子をこないに追い詰めて心配させてからに」
そして2人のお父さんたちはギロっトオル君と会津くんを睨む。

「笹村先輩、こうなったら・・・」
「ああ、そうだな。青葉学院大と聖教大の応援団を結集してこいつらをボコボコに締めてやらきゃいかんかもしれん」

それを聞いた2人は真っ青
「お、おとーちゃん!それだけはカンベンしてーな!」
「そ、そうだよ!親父!これこの通り!」
そう言って2人してアタシの方にペコペコと頭を下げ始めたのだった。

「フフフ・・・」
まるで怒られている小さな子供みたい。

「いいか?男はどんなことがあっても女を守ってやる。それができなきゃ女を好きになるな!」
そう言ってお父さんたちは2人を一喝した。

「ハ、ハイ!わかりましたあーーーー!」
2人は声を揃えてそう叫んだのであった。


後で聞いた話によると、じつはこの噂はこうして発生して広がったらしい。
あれから数日後、会津君のアパートにサークルの男の先輩の一人が遊びに来たらしい。
そのとき、会津君はアタシが作り置きしておいたカレーを夕食に振舞った。
そのカレーを食べたその人は、
「こんな美味いカレーをオマエが作れるわけがない。誰か女の子に作ってもらったんじゃないか?」
と尋ねたそうだ。
そこで会津君はアタシがアパートに来て作ってくれたと話したところ、その先輩は勝手にアタシが会津君と付き合っていると誤解し、そしてある授業で席に座りながら別の先輩にそれを話していた。
そして、それをたまたま傍で聞いていた空手部の人が、さらにその話をオーバーにトオル君に伝えてしまったとか。

「ごめんな。オレ勝手に変な噂を・・・」
おつまみをテーブルに乗せたアタシにトオル君は深々と頭を下げた。
「ウウン。もういいの。アタシだってちゃんと話をすればこんな誤解にならなかったんだし。ごめんね」
そう言ってアタシとカレはお互い見つめ合う。

すると横に居た会津君が
「あー、なんかアッツイなあ!笹村さんのお母さん、春やのにこの部屋なんか暖房効きすぎとちゃいまっかあ?」
そう言ってニヤニヤと笑った。

真っ赤になったアタシとトオル君
部屋の中には大きな笑い声が響くのであった。

第34話 ~fin

年月は流れる

1学年上のトオル君は卒業後お父さんの経営するSTC(笹村・トレーディング・カンパニー)に入社した。
そしてアタシはその翌年大学を卒業する。

アタシは、青葉学院大の正門の前にある国連大学に就職を決めた。
それは、ワタルの目指していた想いをアタシが少しでも叶えてあげたいという気持ちからだった。
アタシはそこでいろいろな国の留学生のお世話をする仕事をしている。

国連大学はいわゆる普通の大学とは違って学生というものはほとんどおらず、いろいろな国から研究者が集まって多彩な研究をしている大学だ。
ここでは白人も黒人もアジア人も、みんなごっちゃ。

そこでアタシはロシア出身のニコライ教授の研究を時々手伝っている。
ニコライ先生はあるとき執筆途中のペンを止め流暢な英語でアタシにこう言った。
「ミス凛。世界にはいろいろな民族があって、いろいろな価値観がある。自分と異なった価値観だから認めようとしないのは、逆に言えば自分も相手に認められないのはやむを得ないことだ。確かに国家には戦わなくてはいけないときがある。理不尽に攻めて来る相手に黙って屈することはできない。でもね、いいかい?ミス凛。大切なのはぎりぎりまで、いや、そうして戦っている時でも相手を理解する心を持つこと。そしてそのための努力をすることだ。その方法は自分で見つけないといけない。私は研究者として政治学を研究している。だから政治学を通して理解しようと努力している。君は君の視点を見つけなさい」

「ハイ、プロフェッサー」


そして、アタシが25歳になったとき、
トオル君はアタシにプロポーズしてくれた。
トオル君に告白されて、カレの卒業式の日2人が初めて付き合い始めた青葉大の西門前にあるあの喫茶店で
仕事が終わって待ち合わせをしたカレはアタシの目をまっすぐ見て言った。
「これから先もずっとずっと一緒に歩いて行こう。結婚、してくれ」・・・と。

アタシはカレの手にそっと自分の手を重ね合わせ、そして言った。
「ハイ。アナタとずっと歩いていきます」


そのことをミコに話したときだいぶ冷やかされたっけ(笑)
教育学科に進んだ彼女は大学時代学科でもトップクラスの優秀な成績だった。
そして彼女は区立小学校の教員採用試験にも合格したが、ゼミの教授から強い推薦を受けて卒業後は青葉学院初等部の教員になった。
そのため職場が目と鼻の先のアタシとミコはよく待ち合わせて一緒に帰ったりした。

「そっかあ。とうとう凛が人妻さんになっちゃうわけだー」
彼女はニヤニヤしながらそう言う。
「そんな艶かしい言い方しないでヨー(笑)」

「アハハ。でもさ、あれ(中2)からもう11年経っちゃったんだよねー」
「ほんとだね。なんか、ずいぶんいろんなことがあったようで、でも振り返ってみると早かったような気もするし」

「凛はもう哲ちゃんだったときの思い出もなくなっちゃった?」
「ウーン、どうだろう? でも、アタシはアタシで本当は何も変わってないような気がする」
「そうだね。アンタはアンタ。外見がちょっと変わっただけで、何も変わってないんだよね」
そう言ってアタシとミコは顔を見合わせてくすくすと笑った。



結婚式の一週間ほど前
アタシは、ミコ、幼馴染の久美ちゃんそして今は久美ちゃんの旦那様となったワタルAと4人で鮎川渡君のお墓にお参りに行った。
そう、このメンバーは鮎川渡君であるワタルがアタシの昔の記憶を消さなかった人たちだ。

最初、このことを思いついたとき、色々と彼のお墓を探したがどうしても見つからない。
そこで、昔の記憶や小学校時代の先生を尋ねて彼のお父さんの職場を見つけることができた。
アタシが電話するとお父さんは昔を懐かしむように歓迎してくれ
「ありがとう。君たちが訪ねてくれれば渡もきっと喜ぶよ」
と優しく言って教えてくれたのだった。

そして訪ねた彼のお墓は、多摩の高台にあるとても見晴らしのよいところだった。
お墓の横には大きな木がどっしりと根を下ろして立っている。
アタシたち4人は彼のお墓の前でそっと手を合わせた。

「鮎川 渡君。お久しぶりです。じつは、アタシ結婚することになりました。相手はアナタと同じようにとても心が温かい人です。アナタがアタシのそばにいたとき、アタシ、「もしかしてこの人といつか・・・」なんて思ったりしたこともあったけど、結局他の人と結ばれちゃいます。でも、アタシはアナタと過ごした日々をずっと忘れないから、絶対に」

「ねえ、下に良さそうな喫茶店があったからお茶飲んでいかない?」
「あ、いいねー」

「それにしてもさ、甘えん坊の凛が涙見せなかったんだもん。意外だったなあ」
ミコがニヤッとしてそんなことを言った。
「フフフー」
アタシはその質問に同じようにニヤッと返す。
「あ、意味深な笑いだなあ(笑) なんかあったの?凛」
横に居た久美ちゃんがちょっと意地悪っぽい顔で尋ねてきた。

「でもさあ、ワタル君、もしかしたら、今頃はもう生まれ変わって、それで可愛いガールフレンドでもいたりするかもよ?(笑)」
「あー、それってあるかもね! あの人って、そういうところは早そうだし!(笑)そしたら凛も一安心でしょ?」

アタシは
「ウーン・・・」とちょっと考えるポーズをした後答える。
「ちょっと・・・複雑な気持ち(笑)」
「アハハハーーーー」



そして
今日はいよいよアタシとトオル君の結婚式の日だ。

アタシの家もトオル君の家も会社を経営していることから、招待客が相当な数になることを予想していた。
そのため、披露宴は大きなホテルの会場をとった方がいいのではという意見もあったけど、アタシとトオル君はあえて青葉学院の附属施設である青葉会館を会場に選んだ。
それはこの青葉学院がアタシとトオル君にとってとても大切な場所だから・・・。
高等部時代の担任の佐藤先生は青葉会館の知り合いに無理を言って一番大きな部屋をとってくれ、式は青葉学院のチャペルで行うことになった。
このチャペルは青葉学院の本部校舎の右側に敷設されているわりと小さなもので、青葉学院の卒業生に限ってここで式をあげることを許されている。

アタシはお式が始まる3時間も前に青葉会館に入り、そして髪のセットやらお化粧やらとたっぷりと時間をかけて仕上げ、今まさにお人形さん状態だ。
そして両親や親戚、友人の集まる新婦控え室に移り、式まであと30分ほどとなったとき
入口からスラっとした美貌の女性が一人入ってくる。
彼女が入ってきたとき、アタシの親戚たちはみんな一斉に振り返って彼女を見つめた。
そして彼女は部屋の中央で小さな椅子に座るアタシの方に歩いてくる。

「凛、おめでとうー」
「あ、みーちゃん。来てくれたんだね。ありがとう」
「当たり前じゃない。アンタの結婚式だもん。アタシ、3ヶ月も前からその日には絶対に仕事を入れないでってマネージャーに何度も言ったわよ」
そう言ってみーちゃんは笑った。

「凛。綺麗だヨ。すっごく素敵」
「エヘヘ、なんか照れちゃうね」
「照れちゃダメヨ。今日のアンタは舞台の主役なんだから。最後までしっかり演じきるのヨッ!」
「はぁーい」

「あ、あの・・・」
するとそんな彼女にアタシの従姉妹の麻耶ちゃんがおずおずと近づいてきて尋ねた。
「もしかして・・・女優の佐倉 美由紀さん・・・ですか?」
「ハイ、そうです」
みーちゃんは平然とそう答える。
麻耶ちゃんはびっくりした表情で
「あー、やっぱり!エー、でも、なんで?凛ちゃんの知り合いなの?」
と不思議そうに尋ねる。
すると、みーちゃんはバスト82以上はゆうにありそうな胸をクッと張って答えた。
「知り合い?そんなもんじゃないわ。アタシと凛は人生最高の大親友なんだからっ!」

「わぁ、凛ちゃん、すごいねー。こんな有名な人と親友だなんて。あの、後でサインもらっていいですか?」
「ええ、どうぞ、どうぞ!なんだったら、今着ているそのドレスにサインいたしましょうか?」
「エ、エエッ!このドレスはいいですっ!」
慌てたような麻耶ちゃんの声に周りからどっと笑い声があがったのだった。

そこに弟の悟が近づいてきた。
悟はつい数日前までアメリカのビジネススクールに留学していた。
そこで最先端のスーパー経営を学び、そしてめでたく修了することができて日本に帰ってきたのだ。
「凛ちゃん、大阪のばーちゃんが後で一緒に写真撮ろうってさ」
「あ、ウン。わかったって言っておいて」

すると悟はアタシの横にいるみーちゃんに向かって
「じゃあ、みー姉ちゃん。オレ、先に行ってるから」
とぶっきらぼうに声をかけた。
みーちゃんは、そういう悟に当たり前のように
「ウン。わかったぁ」
と笑顔で返事をする。

(あれ、この2人・・・)
(なんか雰囲気が変わってない?)
初めて出会った10年前からずっと擬似姉弟だったこの2人の間に流れる空気が微妙に変化しているような気がした。



「それでは、準備が整いましたので、新郎新婦様は式場に移動をお願いします」
会場の案内係の人が来てそう告げ、アタシはミコとみーちゃん、久美ちゃん、そして井川さんの4人にドレスを支えてもらいゆっくりと立ち上がった。

昭和の初めに作られたこの古い教会
入口の重い木製のドアが静かに開き、そしてアタシは父親に手を取られゆっくりとバージンロードを進む。

中に入るとステンドグラスを通して色とりどりの温かい光が差し込み、そして最前の古い木製の祭壇には十字架が据えられている。
祭壇の前でアタシは父親からカレの手に渡され、2人は牧師様の前に並んだ。
そして
2人は永遠の愛を誓う。


お式が終わると青葉会館の披露宴会場に移動
そこではさらに多くの人がアタシたちを迎えてくれた。

中学時代の担任の山岸先生、高等部のときの佐藤優実先生、大学時代のサークルのみんな。
芦田さん、今は井川さんの彼氏となった安田の姿もある。
そして、アタシとトオル君の共通の友人として会津君も来てくれている。

「それでは、新郎新婦のご入場です!」
司会の合図で会場に続く大きなドアが開かれアタシとトオル君は温かい拍手と眩い光のカーテンの中をゆっくりと進んでいく。
「わぁー、凛、きれー!」
「素敵すぎるぅー!なんか、涙出てきちゃった」

パチパチと焚かれるフラッシュの中を歩いていく。
そしてアタシとトオル君は一番前の席に腰を下ろした。


披露宴は滞りなく進む。
それぞれの友人が挨拶をしてくれたり芸能披露してくれたり、優実先生はアコースティックギター持参でサザンの『yaya』を歌ってくれた。

中でも盛り上がったのは、トオル君の所属していた青葉学院大学空手部の仲間たちが演じる『新歓芸』だ。
このときにはトオル君も混ざって、空手部OB総勢30人が二列に並ぶ姿はまさに壮観!

最初は何をしてくれるのかと不思議に思っていたが、
そう!アタシの大学入学式のとき目にしてしまった『アレ』だった。
全員が空手の道着に着替え、そしてトオル君はタキシードの上から道着を羽織るという本格的スタイル
そしていよいよ始まる。

「オーーーーーッスッッ!!!」
前列の中心にいる人が大声でそう言うと
「オーーーーーーーースッッ!!!」
全員がそれに答えて叫ぶ。

「我々はー、青葉学院大学ー、空手部です! わが空手部はかの渡瀬哲夫先輩も輩出した長い歴史と伝統を持つ部です!空手部というと何か怖いイメージがあるかもしれません。しかーし! 先輩と後輩の間は極めてアットホーム。 みんな仲良くやっております!」
「オーーースッッ!!!」

「今日はその一例をお見せしましょー!」

そして
「笹村ー!一歩、前へ出ろー!」
そう言われたトオル君は
「オーーーースッッ!!」
と叫んで足を踏み出す。

「彼は昨年度の新入生の笹村透君です!」
「よぉぉぉーーーーしっっ!!笹村ぁぁーーーーっっ!!」
「オーーースッッ!!!」
「空手部はどーーだぁ!?先輩は優しいかぁぁーーー!?」
「オーーーースッッ!!とても優しいでーーーすっっ!!!」
「どんなところが優しいーーー!?」
「オーーーーースッ!!!この前もーーーー、ラーメン奢ってやるから付いてこいって言われて行ったっす!!でも、ラーメン食った後財布忘れたから払っておけって言われて行くんじゃなかったって後悔してるっすーーーっっ!!」
「そういうことは早く忘れろーーーーーっっ!!」
「オーーーースッッ!!失礼しましたーーーーっっ!!!」

トオル君たちはこんな漫才を披露し、そしてとうとう踊りだす。

「こんな楽しい空手部~♪
先輩、後輩、みんな仲間さぁ~♪
みんなおいでよ、空手部へ~♪
ぼくらの楽しい空手部~♪」

筋肉モリモリの男たちがくねくねと奇妙なダンスで手足を曲げて踊るその姿に会場は大爆笑!
ミコやみーちゃんやシュガーの女のコたちから
「笹村先輩、かっこいいー!」
と一斉に声をかけられてトオル君は顔が真っ赤になった。


披露宴は終盤になる。

「さて、それでは続きまして新婦凛さんのご友人のお二人にとお歌の披露をいただきます。お一人は凛さんの中学時代からの親友でいらっしゃる藤本美子様、そしてもうお一人は高等部入学後すぐにお友達になられたという、皆様もご存知の女優の佐倉 美由紀様です」
ミコとみーちゃんは前に出てくる。
それまでは、300人の招待客に紛れていたみーちゃんに会場の中から
「あ、本当だ。佐倉 美由紀だ!」
という声が所々であがる。

そして2人はマイクの前に立った。
(ミコ)「エー、本日は透さん、凛さん、そしてご両家の皆様、本当におめでとうございます。私と凛が出会ったのはもう11年も前で中2のときです。2人が同じクラスになったのがきっかけでした。それから次第に話すようになって、気がついたときには、お互いとても大切な一生の友人になっていました」
(みーちゃん)「本日は本当におめでとうございます。私は凛と知り合ったのは入学した高校で同じクラスになったときです。そのときの凛は本当に今日みたいに、キラキラと輝いている女のコでした」
(ミコ)「アタシたち3人はそれぞれが違う環境で育ったけど、きっと運命の交差点で重なったんだって思ってます。だからアタシたちはそれぞれがとても大切な存在になれたのです。 そしてそんな私たちの凛を、今日はこの場で透さんにお渡ししたいと思います。その引渡しの記念に私たちにとって最高の思い出の曲を歌います」
(みーちゃん))「さあ、凛ー、アンタも一緒に歌おう!前においでー!」
(アタシ)「エ、アタシも?」
(みーちゃん)「そうだヨ。この歌は3人一緒じゃなくちゃダメなのさー!」
(司会)「さあ、それではお歌を披露していただきましょう。3人にとって思い出の曲。キャンディーズの『年下の男の子』です。それではお願いします!」

アタシは、ドレスを支えられてステージに上がり、2人に促されみーちゃん・アタシ・ミコの順番に並んだ。
そして会場に軽快な音楽が流れる。

真赤なリンゴをほおばる
ネイビーブルーのTシャツ
あいつは あいつはかわいい
年上のトオル君♫
淋しがりやで 生意気で
にくらしいけど 好きなの
LOVE 投げキッス
私の事好きかしら はっきりきかせて
ボタンのとれてるポケット
汚れてまるめたハンカチ
あいつは あいつはかわいい
年上のトオル君♫

歌っているうちに高校時代の3人が思い出され、涙がポロっとこぼれてくる。
ミコ、みーちゃん
こんな素敵な親友を持てたなんて、アタシはなんて幸せなんだろう。

曲が終わるとミコがマイクを持ってアタシに尋ねた。
「さて、それでは、凛?」
「ハーイ、ミコ!」
アタシは手を挙げてそれに応える。
「今の気持ちを言ってみて?」
「気持ちかぁ・・・ウーン・・・それじゃ」

「エット、山岸先生。いらっしゃいますでしょうか?」
突然アタシにびっくりして呼びかけられ山岸先生は驚いたように席を立つ。
「エー、私とミコが中学のときの担任をしていただいた山岸先生です」
会場の中から
パチパチ
と拍手が上がり先生は少し照れたような顔をする。

「じつは中学の卒業式の日、先生が私たちに出してくださった最後の宿題というのがあります」
「ええ、覚えているわよ。「人を愛せる人間になってください。人を愛せる人間は、人からも愛されます。そして『人を愛するということの意味』、これをこれから先の長い人生の中でゆっくり考えていってください」というものだったわね」
「ハイ。それでアタシ、今その答えを提出させていただいてもいいですか?」
「受け付けましょう!それでは、小谷凛さん。アナタの答えを聞きます」
「人を愛するということの意味、それは相手を理解しようとする努力だと私は思いました。みんなそれぞれ色々な価値観や過去を持っていて、自分が相手に成り代わることはできないけど、でも、相手を理解しようと努力することが大切だと思います」

山岸先生はアタシの方を向いてじっとその答えを聞いている。
そして
「小谷さん」
「ハイ」
「この宿題の答えは百人いたら百通りの答えがあります。大切なのは頭で考えるのではなく、心で考えること。そして、今聞いたアナタの答えは私の心の奥に深く響きました。とても素晴らしい答えですね。でも、これで止まることなく、これからも透さんと一緒に歩む長い人生の中で考え続けていってください。じつはね、この宿題は私が私の小学校の先生からもらったものなの。そして私もそれからこの宿題を胸に置きずっと考え続けているのです。いつか、アナタの2回目の提出を楽しみにしてますよ」
透き通る山岸先生の声が会場の中にいるひとりひとりの胸に響いていた。
そして、先生の話が終わったとき、会場は大きな拍手に包まれたのであった。


そしていよいよこの披露宴も終わりのときを迎える。
「それでは、新郎新婦のお二人にご両親に感謝の想いを込めて、花束の贈呈を行います」
アタシとトオル君はステージの上に歩み出て、それぞれの母親に大きな花束を渡し、
そしてアタシは父親の胸ポケットに一本の赤いバラを刺す。
アタシはバラの花を手に持ち、父親の前に立った。

今日の父親はいつもよりもずっと陽気ではしゃいでいる。
披露宴の間ずっと会場を回っていろいろな人とお酒を飲み交わしていた。

じつは今日の朝、悟はなぜか一人で車で出かけてしまい、私は父親と母親の3人で独身最後の朝食を摂った。
母親は昨日の夜から時間をかけていろいろなものを用意してくれていた。
「いつか、アナタに子供が出来て、その子が結婚して送り出すとき同じように祝ってあげてね」
そう言って母親が並べてくれたのは、鮎の甘露煮、卵の袋煮など、どれも手間のかかるものばかりだった。
そして、父親はそうした料理をほおばりながら
「こんな美味いものが食えるんだから結婚式はたまらんな!これで披露宴になったらさらにご馳走にありつけるんだから楽しみだ」
なんて言ってた。
そんなはしゃいで言われると
「なんか、やっぱり女のコって生まれた時からいつか家を出ていっちゃうって思われてるのかな」
なんて少し寂しくなったりする。

しかし、それはアタシの間違いだった。
アタシは父親の胸に手に持ったバラを刺し
そして
「お父さん、今まで育ててくれてありがとう」
と小さく父親の耳元で囁いた。

そのときだった。
それまではしゃいでいた父親は急に小さく肩を震わせ
そして下を向いてしまった。
「お父さん?」
アタシは小さな声で話しかける。
すると父親は
「ぅぅ、ぅぅぅ・・・」
目にいっぱいの涙を溜めていた。
「泣かない、今日は絶対に泣かないって・・・決めてたのに・・・ぅぅぅ、ちくしょう・・・ぅぅぅ・・・」

「小谷さん・・・」
横にいるトオル君のお父さんがそっと父親の肩に手を置いた。

そうか、
そうだったんだね・・・
お父さん、ずっと我慢してたんだ

ごめんね
そして
ありがとう

アタシ、お父さんの子供に生まれて本当によかったよ。

アタシはこのとき自分を育ててくれた両親から巣立つことを改めて実感した。



それから3年が過ぎ、アタシは28歳になる。

去年、アタシの両親に実家の近くにある100坪ほどの敷地を今のうちに譲りたいと言われ
トオル君のご両親が資金を援助してくれアタシたちはそこに家を建てた。
小さな家だから庭の方が広いくらいだけど、アタシはこの家をとても気に入っている。
だって、アタシとトオル君2人の家だから。

そして、アタシたちには現在2歳になるひとり娘がいる。
彼女の名前は笑(えみ)
女のコながらに中々のワンパクで、毎日庭をきゃあきゃあと駆け回り、最近飼い始めたポメラニアン犬ナナを子分に従えている。

その笑がさっきから庭の隅にある小さな砂場で熱心に何かを作っている。
この砂場はトオル君がお休みの日に作ってくれたもので、笑とナナのお気入りの場所だ。

「ママァー、できたヨー!」
アタシが庭に置いた小さなベンチに腰掛けていると、笑がそう言って手を振った。
アタシはベンチから腰を上げ砂場に近寄ってみた。
「あらぁー、すごいお城!」
そう、笑が熱心に作っていたのは彼女の身体の高さの半分ほどもある砂の城だったのである。

「素敵なお城だねー」
「エヘヘ、いいでしょー」
「いいなあ。こんなお城住んでみたいなあ。パパとママも一緒に住んでいい?」
「ダメだヨー!パパとママにはこのおうちがあるでしょ。ここはね、笑とコーちゃんが住むの」
そう言って笑はちょっと照れている。
コーちゃんというのは近所に住む笑と同じ年の男のコ。
来年からは同じ幼稚園に通うことになっている。

「あーん、いいなあ。羨ましいー!」
そんな風にアタシが娘とじゃれあっていると

「ただいまあー!」
表の玄関の方からトオル君の声が聞こえた。

「あ、アナタ。おかえりなさーい」
「パパァー、おかえりー」
アタシと笑はトオル君を出迎えに家の中に入った。

「あ、途中でみんなと会ったからそのまま家に来てもらったんだ」
トオル君がそう言って玄関のドアを広げると、その後からミコ&芦田さん夫妻、久美ちゃん&ワタルA夫妻、そして数ヶ月前に結婚した井川さん&安田夫妻が次々に入ってくる。
じつは、今日はあの『笑っていいとも』にみーちゃんが出演することになっている。
彼女の姿は映画だけでなくTVでもよく見るけど、先週突然電話があって、今日出演する番組をぜひ見て欲しいと言われていた。
そこで、こうして仲間が全員集まってきたわけである。

ミコは笑を見ると
「やっほー、笑ちゃん」
と言って頬を合わせた。
久美ちゃんは一緒に長女の詩織ちゃんを連れてきている。
「笑ちゃん、遊ぼうー」
そう言って詩織ちゃんと笑は手をつなぎながらおもちゃ箱へと走っていった。

みーちゃんは、昨年公開された映画で主役を演じこれが大きな評価を受け主演女優賞を受賞しベテラン女優の仲間入りをした。
彼女の人気はとても高い。だけど、不思議とこれまでみーちゃんにスキャンダルの話はでていなかった。
それが最近になって突然彼女の結婚の話題が持ち上がったのである。
しかし、その相手が誰なのか、それはアタシもミコも知らない。
彼女からときどき電話がかかってきたとき尋ねると
「今はまだ内緒にしててくれって事務所から言われているから。でも、話せるようになったら一番最初にアンタとミコに必ず言うから」
彼女はそう言っていた。

「みーも水臭いなあー」
ミコが不満そうにそう言うとみーちゃんは
「本当にゴメン。もうちょっと待ってて」
すまなそうにそう言う。

大きめのテーブルの上にお菓子とジュースを並べ、集まったみんなが席についた。
いよいよ番組が始まる。

そしてみーちゃんが出演予定のテレフォンショッキングのコーナー
「さて、それでは本日のお客様は日向咲さんからのご紹介、女優の佐倉美由紀さんです!」
司会のタモリさんがそう言うとみーちゃんが登場してきた。

「あ、みーちゃんだぁー!」
笑が画面を見てそう叫んだ。
彼女はこの家に何度も遊びに来て、笑とも仲良し。
みーちゃんは笑のことをとても可愛がってくれている。

「いらっしゃいませ。いやー、相変わらずお美しいですねー」
「イエイエ、そんなことは(笑)」
「ところで、ご結婚されるとか?」
「ええ、こんなアタシでももらってくれる方がやっと見つかりまして」
「ご謙遜を。佐倉 美由紀さんといえば今やお嫁さんにしたい芸能人NO1ですから相手は選り取りみどりなのでは?」
「いえー!そんなことないですよー(笑)」
「それで、お相手の方ですが、まだ発表されてませんよね?」
「ええ。相手は一般の方なので」
「あ、そうなんですかー」
「はい。だから先方にも迷惑がかかると思って・・・」
「それで、先方のご両親にはもうご挨拶はされたんですか?」
「あ、はい。先月お伺いして。ただ・・・」
「ただ?」
「その方のお姉さまにはまだ・・・」
「もしかして、反対されているとか?」
「いえ。そういうんじゃないんですけど・・・勇気がなくて・・・」

「お姉さんに反対されてるって?みーのどこが気に入らないっていうのよねー!」
いつも冷静なミコが珍しくちょっと無気になってそう言った。
「アタシたちでそのお姉さんに説得に行くとかしてあげようか?」
アタシがそう言うと
「あ、それもいいかもね。ちゃんと話せばみーのこと絶対気に入るはずだヨ」
ミコはウンウンと頷いた。

「それで、お願いがあるんですけど・・・」
「何でも仰ってください!私も佐倉美由紀のファンのひとりですからっ!」
「その方のお姉さんにここから電話でお話させていただくわけにいかないでしょうか?」

タモリさんはみーちゃんの言葉にちょっと考えるが
「いいでしょう!ほかの誰が反対しての私が認めます!」
ときっぱり言った。
「おい、電話を持ってきて!」
タモリさんはそばにいるスタッフの一人にそう言うとすぐにみーちゃんの座るテーブルの前に電話が用意された。

「それでは・・・」
みーちゃんはワイヤレス電話の受話器を取り上げゆっくりと局番のボタンを押す。

そのとき
プルルルルーーーーー
プルルルルーーーーー
ちょうど突然うちの電話も鳴り出した。

「誰だろう?こんなときに」
アタシは席を立ち上がって部屋の隅に置かれた受話器を取り上げた。
すると
「もしもし、凛?」
受話器の向こうの声の主はなんと今TVに出ているはずのみーちゃん!!

「エ、みーちゃん!?」
アタシはそう話しかけながらTVの画面を見た。
するとアタシの声が同じようにTVからも流れている。

「アタシ、アタシ、悟のこと、最初は死んだ自分の弟みたいに思ってたのかもしれない。でも、カレと一緒にいて段々異性として本当に好きになっちゃって。アタシ、アンタとずっと友達でいたいって思ってるから。ああ、どうしよう・・・自分で何言ってるかわかんないヨ・・・」

みーちゃんは下を向いてポロポロと涙を落としながら話している。
いつも勝気なあのみーちゃんが、まるで子猫のように・・・。

そうか
やっぱり、そうだったんだ。
結婚式のとき感じた2人の間の空気がどこか変わったような感じ
みーちゃん、ずっとアタシに気を使って悩んでたんだね。

そして
みーちゃんは涙でくしゃくしゃになった顔をあげて電話に向かってこう話しかけた。
「アタシさあ・・・アタシさあ・・・」
「ウン」
「アンタの妹になっても・・いいかなぁ?」

アタシはみんなの方を向いて小さな声で囁き
みんなは電話の周りに集まってきた。
電話の先に聞こえないようにぼそぼそと相談する。

そして

「ダメ・・・かなぁ?」
みーちゃんが今にも消えそうな細い声で呟くように言ったそのとき

久美ちゃんが
「いっせーのっ!」
と掛け声をかけ
そしてアタシたちはみんなで声をそろえて叫ぶ。

「いいともぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
それを聞き、TVには声を出して泣いているみーちゃんの姿が映った。
彼女は顔を手で覆ってワンワンと泣いている。
そして横にいるタモリもトレードマークのサングラスを上にずらして目をハンカチで拭っていた。


そうだヨ、みーちゃん。
何も心配なんかしなくていいんだ。
だって、アタシたちは永遠のベストフレンドなんだから。


~All fin

スピンオフ1「永遠のメリーゴーランド(ミコと芦田さんの場合)」

それは中学2年生の夏休みも半ばを過ぎようとした頃だった。


「美子(よしこ)ー、安藤さんから電話ーーーー!」

その日
アタシが部屋で夏休みの宿題をしていると、ドアの向こうで兄の茂が声をかけてきた。

「ウン、こっちにまわしてー。」
アタシは兄に電話を部屋の子機にまわしてもらうようお願いすると、ほどなくその子機がプルルル----と音を立てた。

「ハイ、アタシです。」
「あ、ミコ?」
「久美子ー、ひさしーネ。元気でやってる?」

アタシは藤本 美子、友達からは美をミと読んでミコと呼ばれることが多い。
そして今電話をかけてきたのは安藤(あんどう) 久美子(くみこ)といって、アタシが中1のときとても仲の良かった女の子の一人だ。

「じつはさぁ、ミコにチョットお願いがあるんだわぁー。 これからアンタんちに行ってもいいかな?」

いつもは小さいことをあまり気にしない久美子がそのときはやけに真剣そうな口調だった。

「あ、ウン。いいヨ。アタシんちでいいの?どっかで待合わせしてもいいけど?」

「ウウン。アンタんちのほうが都合がいいから。 じゃあ、30分くらいでそっちに行くから。」
そう言って久美子からの電話は切れた。


そして30分後
ほとんど正確に久美子はアタシんちを訪れてくる。

「ミコ、ひさしぶりー。新しいクラスはもう慣れた?」
「ウン。まあ、1年のとき一緒だった久保ちゃんと奈央も一緒だしさぁ。あと、ほら、同じクラスだった井川さんも一緒なんだヨ。」
「あ、そうなんだぁー。アタシ、井川さんってほとんど話したことなかったけど、あの娘ってミコとツートップのすっごい秀才だったもんネ?」
「アハハ。アタシのほうが下だヨー。 あの人って将来医者をめざしてるらしいから、やっぱ頭いいわ。」

そんな挨拶から始まって久美子は途中で買ってきたらしい缶ジュースを1本アタシに渡してお菓子の袋を開いた。

「あ、サンキュー!」
アタシはプシュッと缶ジュースのプルトップを開け、そして一口喉を潤す。

「で? さっき電話でなんか深刻そうな感じだったけど、アタシに頼みって言ってたよネ?」
「ウン。じつはミコだから頼めることなんだけどね…。」
「まあ、とにかく言ってみてヨ? 久美子の頼みだったらなんとかしてあげたいって思うし。」

「じつはさぁ…。 ミコのクラスに小谷 哲君っているでしょ?」
「ああ、ウン。いるネェ。なんか女の子みたくキレイな顔した人でしょ? 今アタシの席の隣に座ってるヨ。」
「ウン、そうそう。あの子ってアタシの幼稚園からの幼馴染なんだわ。」

「あ、そうなんだぁー。 それで、その子がどうしたの? もしかしてアタシに愛のキューピット役でもお願いしたいとか?(笑)」
「そんなんじゃないわヨ。 アタシってそういう趣味ないし。」
「そういう趣味ってどんな趣味ヨ?(笑) アンタって前から中性的なビジュアル系のバンドとか大好きできゃぁきゃぁ言ってたじゃん?」

「ウーン、そういう中性ビジュアル系ならいいだけどね、あの子の場合は本物だから…。」
「本物ってなにが?」

すると久美子はアタシの前にずいっと顔を近づけてきた。
「ミコ、とにかく驚かないでアタシの話をよく聞いてネ?」

「い、いいヨ…。どうしたの?そんな緊迫した顔しちゃって。」
「じつはさ、小谷君ね、あの子…じつは本物の女の子なんだわ。」
「ハァァァーーーーーー!?」

アタシはとぼけたような声を上げてさらにこう続けた。
「なんか言ってることがよくわかんないけど、女の子っぽいのは同感だけど、女の子そのものってこと?」

「ウン、そういうこと。」
「あ、もしかして、よく聞く性同一性なんとかっていう? 身体が男だけど心が女って言ってるひとたちのこと?」
「ウウン、そういうんじゃないヨ。 ホントの女の子ってこと。アタシたちと同じ。」

そして久美子は小谷君が1週間ほど前の夜中に急な腹痛で病院に運ばれたこと、それは女性の生理であり、検査の結果彼の身体には子宮があって染色体も女性のXXであったことがわかったということなどをアタシに話した。

「エ、ってことは、つまり小谷君は今まで男の子として育てられてきたけど、それは間違いでじつは女の子だったってこと?」
「まあ、ストレートに言えばそういうことだネ。」

「びっくりしたぁー!へぇー、そういうことってあるんだネェ。 まあ、でもそう言われてみればたしかにあの人の雰囲気って異性っていうより同性っぽい感じするしねー。」
「ウン。アタシも彼は幼稚園からずっと知ってたしね。 哲ちゃんって話し方も態度もちゃんと男の子なんだけど、どっか女の子のオーラみたいのをずっと感じたたんだよね。」

「そっかぁ。じゃあ、小谷君は女の子として生活するようになるわけ?」
「ウン。そういうことで決めたらしいヨ。」
「でもさぁ、学校とかってどうするの? まさか今の学校にそのまま通い続けるってわけにはいかないでしょ?」
「ウウン。哲ちゃんは今の学校に通って卒業したいって。」
「エェェーーーッ! でもそれじゃ周りの人たちきっとすごい驚くんじゃない?」

「だろうネ。 それでさ、ミコにお願いがあるんだ。」
「なにヨ?」
「彼…っていうか彼女の友達になってやってくれないかなぁ?」

「エーッ! アタシが?」
「ウン。ダメ?」
「ダメ…っていうんじゃないけど…。」
「もしアタシが同じクラスだったら良かったんだけどさ。でも哲ちゃんと同じクラスでこんなこと頼めるのってミコしかいないんだヨー。」

久美子はウルウルとした目でアタシのことを見る。

(ウーン…、たしかにあの人って嫌な人とはぜんぜん思わないけど、アタシって、席が隣なのにほとんど話とかしたことってなかったよなぁ…。)

でもこんなに真剣な久美子って今までほとんど見たことなかった。
中1のときはアタシらって冗談ばっかり言い合って、気を使わないで付き合ってきたし。

まあ、アタシが友達になって、それから女同士の輪みたいのに入れてやれば…。


「ウン。わかった! じゃあ、アタシ、彼、じゃなかった彼女の友達になってみるヨ。」
そしてアタシは久美子にそう返事をしたのだった。

夏休みが終わって数日後

いよいよ今日小谷君、あ、違った!小谷さんが女の子として登校してくる。
クラスはそのことでとにかくざわついていた。

どちらかというと、女の子は意外と冷静にその事実を受け止め始めている様子。
しかし男の子たちは今まで彼女を『哲ちゃん』と呼び一緒に遊んできたわけで、どこか割り切れていない雰囲気を感じる。
とくに彼女と仲が良かった安田君や工藤君なんかは朝からずっと落ち着かない雰囲気だった。

朝のHR開始時間になってもまだ担任の山岸先生は教室に現れない。
そして5分ほど遅れてガラッと教室の扉が開き山岸先生は入って来た。

教室の中はシーンと静まり返る。

先生の隣にいるのはアタシたちと同じ女子の制服を身に付け、ショートボブの髪形をして目のクリッとした可愛らしい感じの女の子。

(エ、あれ…小谷君?)
どこからどう見ても女の子にしか見えない。
彼女は下を向いて顔を真っ赤にし、スカートから覗く細く白い足は小刻みに震えていた。


先生はクルッと黒板の方に向きを変え白いチョークを摘んで大きな字で『小谷 凛』と書き
「これが新しい小谷さんの名前です。 『りん』さんと読みます。」と言い、そしてアタシたちに今までの経緯を簡単に説明した。

「小谷さんは生物学的に本当は女性です。みんなにはこのことを理解してほしいの。」

最後に先生がそう言ったとき、クラス委員の井川さんがスッと立ち上がって
「小谷さん、席に座ろう?」
と声をかける。
そして、小谷さんはその言葉にホッとしたような表情を浮かべてアタシの隣にある自分の席に腰を下ろした。



それから、そのまま1時間目の山岸先生の英語の授業が始まる。
授業中アタシは隣の席に座る彼女の横顔にフッと目をやった。

紺のジャンパースカートの上に着たボレロから見える肩は小さくて優しい曲線を描き
そして少し茶色っぽい亜麻色の髪の毛
ふっくらしたピンク色の頬とプクンとして柔らかそうな小さ目の唇
つるんとした形の良いおでこ
女の子らしい優しい目元。

きっと基本的には夏休み前に小谷君だったときの身体なんだろうけど、こうして女の子として意識してしまうともう男の子として生活していたときの面影はあまり感じないように思える。

(なんか、すごく可愛いんですけど…。)

それにしても、こうして今まで男の子だって思っていた人がある日突然女の子の制服を着て自分の隣に座っているのはすごく不思議な感覚だった。
みんなが座っている席を前から見ていくと女子の列の隣に男子の列、そしてその隣はまた女子の列というようになっていて、だから横列は男と女が必ず隣り合わせて座っている。
その中で男子の一列に紅一点で座っている彼女の姿はやっぱり違和感を感じてしまう。


英語の授業が終り2時間目の社会の授業が始まるまでの10分休み

アタシは隣に座る彼女に意を決してこう話しかけた。
「ね、『凛』でいいよね?」

彼女はアタシに
「うん、もちろん!」
と言ってニコッと微笑む。

(わぁ、ホント可愛いやぁー!)

アタシの差し出した手を握り返してくれた。
そして、白くてとても柔らかい彼女の手を握ったとき、アタシは心の中で何かビビッとくるものを感じてしまったのだった。



しばらくの間、彼女は女の子の言葉遣いにまだ戸惑っている様子だった。
簡単なところでは主語の「アタシ」か「わたし」。
注意しててもときどきは「ボク」という単語がでてきてしまう。

ただアタシは
「そんなに意識しすぎてもしょうがないヨ。」
と凛にアドバイスしたりした。
「まあオレはさすがにまずいけど、女の子でボクってけっこう可愛かったりするじゃん(笑)
女の子たちの中にいればきっとそのうち無意識で女言葉になっちゃうんじゃないかな。」

凛はそんなアタシのアドバイスを謙虚に受け入れていたようだった。


女の子として学校に通学を始めて半月ほどが経ち、身体の状態も安定してきたことから彼女も体育の授業に参加するようになった。後で凛に聞いたことだけど、これは初め学校にとっても彼女自身にとっても少し心配をしていた点だったらしい。

体育の授業は体操着でやるわけで、当然男女別々に分かれてそのための着替えをすることになる。
今まで男子として意識していた人が女の子として他の女子たちに混ざって同じ部屋で着替えをする。
そのときの周りの女子の反応、そして何より凛自身の気持が最初は少し複雑なものがあったような気がする。
それでもアタシの周りの女の子たちに、凛に対して意識して自分の身体を隠そうとする娘は一人もいなかったように思う。どちらかというと凛のほうが、恥かしがって隠してしまう。

「女同士なんだから別に見たってかまわないヨ。」
アタシは凛にこんなことを言った。
すると彼女は意外にも他の娘たちの裸を見ることに大した気持はない。逆に自分の身体を見られるほうが恥ずかしいということを言っていた。
それはもしかしたら、遅ればせながら女性の人生を歩むことになった彼女が、他の女子の身体の発育状況と自分のそれとの間に多少のギャップを感じていたせいかもしれないと思った。

それでも彼女はそのうち彼女自身そういう感情をあまり意識しなくなっていた。
それは彼女に3回目の生理がきた頃からだったらしい。
アタシは、それはやっぱりアタシたちと彼女との間の絶対的な共通点である女性の生理という存在が、彼女にとって自分が周りと同じ女の身体であるということを否応なく意識させてしまったのだろうって思った。



2年生の終わりごろ
男女に分かれて「心と身体の教育」というのが行われたことがあった。
当然凛もアタシたち女子の中に混ざって話を聞いていた。

その授業の講師として来たのは、大正大学産婦人科の女医の先生。
その先生はアタシたちにこんな話をしてくれた。

「もし世の中が男性だけ、もしくは女性だけで子孫を残せるとしたらどうなっていたと思いますか?」

この問に対する女の子たちの反応はそれぞれだったが
「同じ女だけだったら戦争とかなくてきっとすごく繁栄した世の中だったんじゃないかって思います。」
という答えが何人かいた。

それに対しその先生はこう言った。
「もしかしたら、そうかもしれないわネ。 でもアタシは多分人間は成長する前に滅んでいたんじゃないかって思うの。なぜかっていうと、価値観が同じものだけであることは成長を生み出す刺激がないから。人間っていうのは考えながら、悩みながら成長していくものだから。男と女はやっぱり根底にある価値観が違うでしょ? だからお互い理解し合おうとする。そしてその理解し合おうとする気持が愛じゃないかってアタシは思うの。だからアナタたち女の子には、男の子という存在を遠ざけようとするんじゃなく理解しようとする努力を是非して欲しいと思います。」

その先生は男性と女性の価値観の違いを積極的に認めること、そしてそれを理解する努力をアタシたちに話してくれた。

そのときフッと、アタシの横にいる凛の表情を見ると、彼女はとても真剣そうな顔でその先生の話を聞いていた。
それはきっと、ある日突然価値観の変更を迫られた彼女にとってこれから先の人生を歩いていくために一番大切なことだって思ったのかもしれない。


女の子の付き合いは気の合ったグループ単位で行動することが多い。
アタシは、クラスの中で久保ちゃんや奈央といった1年のとき仲が良かった娘たちと2年になってもそのままグループを作っていた。
そしてそこに凛が混ざった。

最初はわりと遠慮がちだった彼女は、次第に自分からも積極的にアタシたちに話題を振ってくるようになった。それは彼女が女の子のことを無理に勉強してきたものではなく、どちらかっていうと男女の枠を超えて素直に感じたものを表現しているように思えた。このときアタシは久美子に頼まれたからではなく、一人の人間としての凛に興味を持ったような気がする。

アタシは凛の考えることというのは、すごくピュアで透明感のあるように思えた。
そう、彼女は人間としてすごく純粋でまっすぐな気持を持っているように感じたんだ。

アタシは次第にお互い話をしていなくても、たとえ別々のことをしていても、自分の横に彼女がいることが心地良いような気持になっていった。

そしてアタシは自然と凛と一緒にいる時間が増えていった。


中3になりアタシと凛はさらに仲が良くなっていく。


日頃は、それまで同じグループで仲が良かった久保ちゃんや奈央も含めて行動していたけど、アタシと凛はそのうち休みの日も一緒に時間を過すことが多くなった。

今年はいよいよ受験生、そのため日曜日には2人で一緒に図書館で勉強をして帰りにはお気に入りのクレープ屋さんで生クリームたっぷりのクレープを頬張っておしゃべりに花を咲かせていた。



そして3年生になって少し経った頃、
凛にとって運命的な一人の男の子が現れる。

彼は石川 渉君といって関西から転校してきた人だった。
凛は次第にこの彼に心を惹かれていった。

彼は女心をくすぐるような、どこか小学生の少年っぽさを残した男の子だった。
一見すると暖簾に腕押しのようなひょうひょうとした性格で、まっすぐでピュアな凛の性格を上手く操ってしまう。だから凛も彼に対してどう対応したらいいのか、最初は戸惑っている気持があったらしい。
そしてこのワタル君と凛の心は3年生のはじめにみんなで行ったディズニーランドでお互い重なり合っていく。

凛は女性として生活をするようになって、それまで異性であったはずの女の子を同性として意識するよう努力してきた。
しかしワタル君を異性であると意識するようになるのには不思議とそういう努力をする必要はなかったみたいだった。きっと凛はそのとき本能的に自分の中の女性を受け入れていったんじゃないだろうか。
そして2人は自然に惹かれあっていったんだと思う。



3年生の夏休みが終りに近づく頃
凛とワタル君は初めて2人きりの初デートをすることになった。

場所は都内のプール
凛はこのとき初めて女の子としての水着デビューを果たすことになった。
ただ彼女はこの水着デビューをするにあたっては最初自分なりに計画があるらしかった。
初めに女の子同士でその後慣れてきたら男の子も混ざって、なんてことを彼女は考えていたらしい。
ところがこのワタル君とのプールデートの約束でそうしたホップ・ステップを通り越していっきに最大加速のジャンプをすることになってしまった。

「どーしようぉぉぉーーー!」
彼女はかなり戸惑っていた。

そしてそのデートの日の数日前
彼女はアタシに電話をかけてきて、アタシはこんな相談を受けた。

「ねぇ、ミコォ。アタシさぁ、水着なんか着てもヘンじゃないかなぁ?」
「ヘンって? なんか凛の言ってることの意味がよくわかんないけど。」

彼女は少し躊躇ってこう言った。
「だからさぁ、似合わないっていうか…。」

「ウーン、似合うか似合わないかっていうのは人それぞれの感じ方があるからよくわかんないけど、でもさぁ。」
「でも?」
「男の子ってさ、女の子の水着姿とか見たらやっぱりどうしてもエッチな想像とかしちゃうじゃん?」
「まあ…だろうネ。」
「だから石川君も凛の水着姿見たらきっとそういうのは想像しちゃうんじゃないかな。」
「エ、そうなのかなぁ?」
「アタシはそう思うヨ。 だって、それは彼は男で凛は女なんだもん。アンタはそういうとこで自信をちゃんと持ったほうがいいヨ。 それにせっかく水着姿になって男の子に何も意識されないんじゃなんか寂しいじゃん。」
「そうだネー。」

そして結局アタシは凛の水着選びにも付き合うことになった。

この頃では体育の着替えのときなどお互い何の意識もなく裸を見合っていたけど、可愛い水着を身に付けた凛の身体は思ってたよりもずっと女性らしい体型になっていた。

彼女は3年生になった頃には生理の時期も安定し、そしてそれまで多少中性的な体つきもこの時期から急に女性らしく柔らかな丸みを帯びていく。
中3の初めにはブラジャーもつけるようになり、腰のラインもくびれと丸みがハッキリしてきた。
そんな身体の急激な変化に彼女自身も少し戸惑いを感じているようではあったけど、そうした身体の変化は心の変化にも少しずつ影響を与えていったように見える。


そんなアタシと凛は高校受験で同じ目標を持つことになった。

彼女をけしかけたのはアタシだった。
アタシは小さい頃から青葉学院にずっと憧れを持っていて、じつは中学受験で青葉学院の中等部を受験したけどあっけなく不合格。それで高校受験ではなんとしてもこの学校に合格つもりで1年生のときから一生懸命勉強してきた。

哲君だった頃の凛はけっして成績は悪いほうではなかった。
クラスで10番くらい、学年だと50番くらいだろうか。
ただ青葉の合格レベルはかなり高く、特に女子では偏差値70以上が最低の可能性だった。

アタシは、安易に凛に同じ学校の受験を勧めてしまって最初少し後悔した気持もあったけど、まっすぐな凛の性格を見ていると彼女にとって必ずしも無理な希望ではないような気がしていた。
実際目標を持って本気で勉強を始めた彼女の成績はみるみるうちに上昇をし始めた。
そして2学期には彼女の偏差値は70ラインを超え合格の光が見え始めてきた。



そして

この頃、アタシはある一人の男性に小さな恋心を抱き始めてた。
カレの名前は芦田さんといって、凛が中2のとき初めての生理で病院に入院したとき同室だった人だった。

アタシたちの初めての出会いは、中3になってすぐの頃アタシと凛が青葉学院のキャンパスをはじめて見学で訪れたときだった。
高等部の正門がわからず青葉通りに面した大学の大きな正門のところでウロウロとしていたアタシと凛。
そこにたまたまキャンパスから出てきた当時青葉大1年生のカレとすれ違った。

アタシにとってのカレの初印象は、ドキッ!という気持ち。
これを他の言葉で表現することはできそうにない。

凛と一緒にいるアタシに
「はじめまして。芦田っていいます。」と言ってニコッと微笑んだあの笑顔。

5歳も年上の大学生のカレだったけど
素直な気持で
(カ、カワイイー!)
って思っちゃったんだ。

何がカワイイのかって言われると説明しようがないけど、14年間の人生の中で初めて胸が本当に締め付けられるみたいな。キューンって(笑)

そしてアタシは半分無理にお願いしちゃってカレにキャンパスの中を案内してもらった。
そのときカレに奢ってもらった学食のソフトクリーム。
これはもう絶対に忘れらない美味しさ!

舐めると少なくなっていくクリームを見ながら
ああ、このままずっと減らなければいいのにーってさえ思った。

そして帰りの電車の中ではつい凛に
「大学生から見たら…中学生なんて問題外なのかなぁ?」
なんて呟いてしまったアタシ…。

だって5歳差っていったら、アタシが高校生のときカレは大学生。
そしてアタシが大学生になるとカレは卒業しちゃうし。
どこでもどうやっても重ならないから…。

でも凛は意外にあっさりこう応えてくれた。
「でもさぁ、アタシたちが大学1年で18歳になったら23歳じゃん? それくらいの年の差で恋人同士ってけっこういると思うよ。」

そうか!
中学生と大学生って考えるからすごく離れているように思っちゃうけど、でも
年齢が上にあがっていけば5歳差ってけっこうありなんだよネ!
ものは考えようかもしれない。

そして凛はそんなアタシの心の中に芽生えたかすかな恋心を知ってか知らずか
アタシの肩を枕代わりにしてコクコクとうたた寝を始めたのであった。


中3
秋風が吹き、その中に冬の香りが少し混じり始めた頃

アタシと凛は、青葉学院大学の学園祭に出かけた。
もし青葉学院高等部に入学できたらやっぱり将来は青菜学院大学に進学したい。
勉強へのファイトを少しでも掻き立てるため、でもアタシにとってはそれは半分口実みたいなもんで、じつは後の半分は青葉大にいる芦田さんに会いたかったからだった。

その頃、アタシは芦田さんと携帯電話の番号を交換してときどき電話で話をするようになっていた。
とはいっても、ほとんどかけるのはアタシの方からで、そのたびに口実を練っていた。

「英語の問題のここがわからないの。」
「芦田さんが高校受験したときどういう勉強してたの?」
「青葉学院大学のこと聞かせて?」

そんな口実も何回も繰り返すうちに段々ネタ切れにもなってくる。
それでも、カレはアタシからの電話に時間をかけて丁寧にゆっくり応えてくれた。

そしてある日の電話でカレは
「そういえば、もうすぐウチの大学も学園祭のシーズンだなぁ。」
と話してくれた。

「大学の学園祭ってその大学の学生じゃない人も来ていいんですか?」
「もちろんさ。 むしろ外部の人の方がずっと多いくらいだヨ。」
「大学生じゃない人も?」
「ああ、青葉大を目指す高校生とか、あと中学生だってたくさん来てるヨ。」

(ああ、なんてチャンスッ!)

気がついたらアタシは受話器に向かってこう叫んでいた。
「ア、アタシも行きたいーーー。」

すると
芦田さんは優しい声で
「来るかい?」と言ってくれた。

「いいんですか?」
「もちろん。よかったら凛ちゃんも誘っておいでヨ。」

(あ、やっぱり凛も一緒なのね…。)

少し寂しい気持になったけど
でも、久しぶりに生芦田さんに会えるチャンスなんだもん!

「あの…。」
「ウン、なにかな?」
「もしアタシたちが行ったら芦田さん一緒に案内してくれますか?」

ダメ…かなぁ。
なんて返事されるか心臓がドキンドキン…。

「ああ、オレでよかったらいいヨ。」
「わぁーーい!」


そして当日
1ヶ月ぶりに会った芦田さんの姿


「やあ、ひさしぶり。」
カレは
少し跳ねている頭の後ろの癖ッ毛
そしてかなり穿き古している感じのジーンズと茶色のセーター
(やぁん、カワイイーー!)


「じつはオレの入ってる『旅の会』も店を出しているんだヨ。 まずそこから行ってみるよう。」

そう言うと芦田さんは正門から続く銀杏並木をまっすぐ歩いて突き当たりのロータリーに並んでいる一軒の屋台に連れてってくれた。

「よぉ、売上どうだ?」
「まあまあだな。 アレ? 芦田の妹さん? でもオマエって妹いたっけ?」

屋台でお好み焼きを焼いている芦田さんの友達の男の人がアタシと凛を見てそう言った。

「いや、オレのガールフレンドたち。」
「エ、まじ!? でもすごく若そうに見えるけど…。」
「そうさ、だって中3だもん。」
「オイオイ、それって危なくねーか?(笑)」

「アハハハ。 じつは前に入院したとき病院で知り合った娘とその友達なんだヨ(笑)」
「あ、そうなんだー。 やぁ、はじめまして。コイツのサークル仲間で木下っていいます。」
「こんにちわ。藤本 美子です。」
「小谷 凛です。」

「2人も今度青葉の高等部を受けるんだ。」
「そうなんだー! じゃあ、将来は青葉大に進学?」
「あ、ハイ。できたら。」
「じゃあ、そのときはぜひこの『旅の会』に入ってマスコットガールに!」
「アハハハ。」

すると
そのとき女の人が2人アタシたちのところに寄ってきた。

「あら、高坊。 今日は当番だったっけ?」
そのうちの一人
髪の長い、赤いルージュを唇に引いたとてもキレイな女の人が芦田さんに話しかけてきた。

「いや、今日はみんなに任せるヨ。 今日は知り合いの女の子の案内役で来たんだ。」
「わぁ、カワイイ娘たちー。 こんにちわー。」

そう言ってそのキレイな女の人はアタシたちの方を向いて挨拶した。

何か仲良さそう…。
芦田さんと同じ学年の人かな。

いいな…。いつも一緒にいれて。
なんかすごくキレイな人だし…。
薄いブルーのブラウスに黒のタイトスカートが大人っぽいな。

ああ、何かアタシちょっとジェラシーかも。
嫌な顔になってないかな…。



その後いろいろなお店を回り、ときどき校舎の中に入っては音楽サークルのライブとかも覗いていみる。
どれを見てもやっぱり大学の学園祭は中学の文化祭なんかぜんぜん比較にならないくらいスゴイパワー!

お昼が近くなりアタシたちは学食へ行ってみた。
お昼ごはんは学食で芦田さんがご馳走してくれた。

「さあ、何でも好きなものを選んでいいヨ。 とはいっても学食だからどれも安いけど(笑)」
「わぁー、メニューがこんなにたくさんー。」
「あ、ミコ。コレ美味しそう! でも、これもいいな…。 ああ、迷っちゃうなぁー。」

いろいろ迷った結果、アタシはハンバーグランチ、凛はかにクリームコロッケ、そして芦田さんは青葉物語を選んだ。

「おいしー! 学食のご飯ってもっと大雑把な味なのかって思ったら、お店のみたいに美味しいー。」
アタシも凛も大きな大学の学食に大はしゃぎしながらご飯を食べた。


ご飯が終わると、凛が急にキャンパスの中に建っている間澤記念館の前で写真を撮りたいと言い出した。
いつもはあまり強引な主張をしない凛にしてはやけに熱心そうにそこに行きたがるのが少し不思議だった。

「よし、じゃあ行ってみよう!」
そして芦田さんの鶴の一声で3人でそこに行くことを決定。

間澤記念館は青葉学院の象徴的な建物で、学校案内などの記事でもこの建物の写真がよく載っている。
古いギリシア風の円柱が特徴的で、初めて青葉キャンパスに来たときアタシもとてもステキな建物だと思っていた。

そしてアタシたちがその建物の入口で写真を撮ろうとしたとき
「あれ! 凛ちゃん? おおっ、藤本さんもおるやないか! どないしたん?」

アタシたちがその声の方向を向くと
びっくりしたことにそこには同じクラスの石川ワタル君がいたのだった。

「ワタル君、どーしたの!? びっくり!」
その姿にアタシが驚いて声をあげると

彼は
「びっくりはこっちも同じやで。ボクは青葉の見学に来たんや。 ボクもここの高等部受験するやしな。」

そのときアタシはピーンときた。
(そっか…。凛めぇ、仕組んだなー。)

すると凛は
「エー! でもワタル君も来てるなんてホントびっくりしたよぉ!」
といかにも偶然の出会いのような言い方。

(うわっ、しらじらしぃー!(笑))

そして彼女はこう続けた。
「あ、 ネェ!せっかくだしさぁ、大勢で動くより2人ずつに分かれて行動しない? アタシ、ワタル君と見ていくから、ミコは芦田さんと2人で。 ネ、芦田さん。いいでしょ?」

「エ、ボクはいいけど…。ミコちゃんはせっかく凛ちゃんと来たのに、いいの?」

(ハイ! モチロン! やったー!芦田さんとツーショットだぁーい!)
しかしさすがに声に出しては言えず
アタシは必死に目でその気持を訴えた。

「ウン。じゃあ、そうしようか。」
芦田さんは笑顔でそう答えた。

「じゃあ、決まりネ! それで後はフリータイムってことで。 芦田さん、ミコのことヨロシクお願いします。」
「ウン、オッケー。 じゃあ、もしなんかあったら携帯にかけて?」
そう言って2組のカップルはそれぞれ別行動となったのであった。


凛、アリガトー!
ああ、なんてハッピーディ!
2人の学園祭、ブラボー!


4月

アタシと凛そして石川ワタル君の3人は晴れて青葉学院高等部に入学することができた。
そしてアタシと凛はなんとまた同じクラスになることになった!

この頃凛とワタル君はお互いの気持を確かめ合いお付き合いを始めたようだった。

そしてアタシたちは、同じクラスの中で知り合った佐倉 美由紀ちゃんという新しい仲間を加えて行動を共にしていく。

みーちゃんこと美由紀ちゃんは、お母さんがイギリス人と日本人のハーフ、つまり本人はクオーターということになるらしい。
そのためか、少し目の色が茶色で髪の色も茶色がかっていて、肌の色は白くまるで人形のように美しい娘だった。

入学式の日の教室ではじめて会ったときは、教室の中で何人もの男の子たちが振り返って彼女を見ていた。

ただし
彼女の性格はその外見とはかけ離れていて、かなり破天荒であけっぴろげ(笑)
そのためアタシと凛は彼女とすぐに仲良くなっていった。



そして
高等部1年の夏休みの終り
アタシは凛の彼氏であるワタル君についての秘密を知ることになる。

それはちょうど夏休みが終わる前日のことだった。

アタシは明日からの始業に備えていつもより少し早くベッドに入った。
しかし夏休みのくせがついてしまい目を閉じても中々眠ることはできない。
そしてようやくウトウトし始めたのは12時を過ぎた頃だった。

そんなとき

「ミコちゃん…ミコちゃん…。」
アタシの夢の中に現れたのは、なぜかワタル君だった。

「ミコちゃんには今までホンマに世話になったなぁー。」
いつも元気そうな彼が懐かしむようにアタシにそう言っている。

「エ、キミ、どこかに行っちゃうの。」
アタシがそう尋ねると彼は

「ウン。もうみんなに会えへんのや。」
「そのことを凛は知ってるの?」
「いや、知らへん。 だからキミだけには言っておきたくてなぁ。」
「なんでアタシに?」
「それは………。」

そこでアタシはハッと目が覚めた。

(ああ、夢かぁ。 あ…なんか汗かいちゃってる。」
そう思ってベッドの横にかけてあるハンドタオルを手にとって額を拭うと

「エッッ!」

アタシの勉強机の椅子の上にボーっとした影が浮いていた。

(ウ…ソ…。 まさか幽霊?)
でもアタシの身体はこうして自由に動いている。
幽霊が出たときよく聞く金縛りのようにはなっていないようだった。

するとその影は次第にワタル君の姿へとまとまっていった。

きゃぁぁぁーーーーーーーっっ!
っと叫ぼうとするけど驚きで声にならない。

「あ、あああ、あああああ、、、。」
声にならない声を絞り出しながらアタシは身体中から汗がドッと滲み出るのを感じた。

「すまんな。 驚かないでくれ。」

(こ、声出したーーーーーっ!)

「女の子の寝ているところに突然現れたのは謝る。 でも、どうか落ち着いてほしい。」
ハッキリとした姿になったワタル君は請うようにアタシに言った。

ゴクッ
アタシは唾を飲み、彼の姿を凝視した。

「ア、アナタ…ワタル君なの?」
「ウン、そうや。」
「な、なんでそんな…そんな…。」

彼は椅子に腰をかけて足を組み小さく微笑みながらこう言った。
「キミにさよならを言いに来たんや。」

「さよならって?」
「ボクは今日でキミたちの前から姿を消すんや。」
「あの、言ってる意味がよくわからないヨ。」

「じつは、ボクはキミたちのように本当に生きている存在ではないんや。」
「じゃ、じゃあ、アナタは幽霊…だったの?」
「チョット違う。 ボクは『心』や。」

そして彼は自分が本当は石川 渉ではなく、小4のときに亡くなった鮎川 渡という人物であること。
凛や久美子が小さい頃ときどき遊んだ幼馴染であること
中2のときに哲であった凛に女性としての象徴が起こり、女性としての人生を歩むことになった彼女がその後の人生の中で男性として生活していたときの呪縛によって不幸な人生を歩む未来を知ってしまい、それを矯正するために時間を与えられ、自分が生まれ変わりの機会を伸ばして彼女の前に現れたことなどを話してくれた。

「そしてそのボクの役目もようやく終わったようやし。 そろそろボクに与えられた時間はタイムアウトになるわけや。」
「それで、アナタはどうなるの?」
「次の生まれ変わりの順番を待つことになるなぁ。 そして、キミたちと一緒に過していた石川 渉というボクの存在は消させてもらう。」

「じゃ、じゃあアナタは存在しないことになっちゃうの?」

「まあ、そういうことやな。 ただ凛ちゃんと久美ちゃんそしてキミ、この3人の記憶は残して置こうって思っている。この3人だけにはボクが存在したことを忘れないで欲しいから。 そしてキミにお願いがあるんや。 ボクは凛ちゃんに女性として男を愛しそして命を繋げることの感情を身に付けてもらうためにこの2年間を注いできた。しかし彼女にはまだ消化しきれていないところも多い。 だからもし彼女がふらつきそうになったとき、キミが一言でエエからアドバイスしてやって欲しいんや。」

「でも、アナタがいなくなれば凛は悲しむヨ?」

「それが…凛ちゃんのためや。」
ワタル君は悲しそうな微笑でそう答えた。



「ひとつ…聞きたいことがあるワ。アタシにはそれを聞く権利があると思うの。」
「なんやろ?」
「アナタがそこまで凛にしてあげようとする理由を教えて欲しい。 いくら小さい頃の幼馴染といったって自分の生まれ変わるチャンスを伸ばしてまでそうしてあげたのはなぜなの? もしアタシなら…いくら友達でもきっとできないって思う。」

「………。」
「アナタは、凛の何なの!?」
「ハハハ、さすが鋭いなぁ。 ホンマ、ミコちゃん、キミは鋭い女の子や。」

「教えて欲しいの!」
「…ふぅ。 まあ、エエやろ。 エエか?これはキミとボクの2人だけの秘密や。 誰にも話さないで欲しい。たとえ凛にでもな。」
「…わかったワ。 でも、今はアナタは凛と呼んだよネ。 そこにどんな意味があるの?」

「前世、これを信じるかどうかはキミ次第やけど。 前世でボクと凛は兄妹やった。」
「エ、アナタと凛が兄妹!?」
「…そうや。」

「ボクらが前世で生きていた時代は昭和のはじめ。 ボクは昭和10年生まれで凛は昭和12年生まれの兄妹やった。 2歳年下の凛はいつもボクに纏わりついててな、「ワタル兄ちゃん、ワタル兄ちゃん」言ってな、そら可愛かったわぁ。
その頃の日本は今みたいに豊かな時代ではなかったけど、ボクらの家族はいつも笑いが絶えん明るい家やったんや。ちょうど凛が生まれた年に盧溝橋事件ゆうのがあってな、これを切っ掛けにして日本は中国との戦争に突入していくんや。」

「1937年に起こった事件よネ。 たしか夜の暗闇の中で日本軍と中国軍のどっちからか銃声が起こって、それがきっかけになったって。でもそのどっちが最初に発砲したかは未だに謎だって。」

「おおーっ! さすが秀才のミコちゃんやな(笑) まあそういうことや。 それでもその頃は戦争は中国大陸での局地戦やったからな、日本の国内にいる国民はそれほど実感はなかった。 しかし1941年、昭和16年の12月7日に日本がとうとうアメリカに攻撃を仕掛けてしまったんや。」

「真珠奇襲、そして太平洋戦争のはじまりよネ。」

「そうやな。 そのときボクは6歳で国民学校の1年生、凛はまだ家で母親と遊んどった。」

「国民学校?」

「まあ、今でいう小学校やな。 しかし日本人かて満更馬鹿やなかったからな、ボクら小さい子供はともかく大人たちは本音ではアメリカ相手にホンマに勝てるんかいなと思っとったみたいやな。 でも、日本はそれまでに第一大戦、日清、日露と3つの大きな戦争に勝利してしもうたからな。日本人の間にも少なからず驕りみたいのはあったんや。」

「でも、第一次大戦ではアメリカが日本の同盟国だったし、日清も日露もそれまでの政権が倒れそうで内部崩壊していた状態だったから勝てたんでしょ?」

「うはっ! さすがやなー! ただ、これで日本は大国意識が芽生えてしまった。 そのため独善的になってしまったんやろな。 最初は日本軍が国外のいたるところで勝利を収めていった。 まあ、これはある意味当たり前で、アメリカやイギリスなどの連合軍はそれまでドイツ相手の欧州戦争に戦力を向けていたから、太平洋方面はどうしても手薄になってしまって大きな力を発揮できなかったんや。しかし翌年昭和17年のミッドウエー海戦でアメリカが勝利するとそこからは日本は転げ落ちるような負け戦を続けてしまうんや。 運不運もあるやろうけど、それ以前にそのときのアメリカと日本の情報力は格段の差があったからな。よく精神力が物量に負けたなんていうけど、それよりもそういう意識の差があったんやないかって思うわ。 そしてノルマンディー上陸とかでドイツの敗戦が決定的になってくると、アメリカは今度は戦力を太平洋に向け始めた。 それまでは戦争いうても国外の戦がほとんどで国民はあんまりピンと来てなかったんやけど、昭和19年頃になると日本の本土への空襲なんかが本格化してきて、みんながそういう実感を感じ始めたんや。」

「ワタル君、よく勉強したネー! それってどうやってそこまで調べたの?」

「ワハハハーーーー。 まあ、その話は後や。 そんでな、ボクらの住んでた東京もそういう空襲がたびたびあってな、夜中に「ウーーーーーー!」なんてサイレンが突然鳴ってな、そのたびに飛び起きて防空壕に逃げ込んどった。 食べるものも少のうなって、毎日わけのわからん葉っぱと小さな小麦粉の玉しか入っとらん水みたいな水団、ときどきサツマイモとか。それかて腹いっぱい食えるわけやない。 そのとき凛はよく「お腹すいたヨー!」言うて涙こぼしてな。 それでも、この戦争が終わればまたお腹一杯食べられる言うて頑張ったわ。 そして戦争があと少しで終わるゆう昭和20年3月10日…。」

「東京…大空襲…。」

「そうや。 真夜中に空を見上げるとものすごい音がしてな。 そのうちヒューンって音がして焼夷弾が降って来たんや。 あっちこっちで家や建物から火が上がって、たちまちそこら中火の海やった。 ウチは隅田川の近くでな、逃げていた人が水に飛び込んだりしたけど、その水の上にもものすごい火柱が立って、泳いでいた人はみんな丸焦げや。 そしてボクの家はお父ちゃんとお母ちゃんが家の下敷きになってしもうて、ボクと凛はその直前にお父ちゃんたちにすごい勢いで投げ出されてな。そのときは何とか外に出れたんや。 そのとき凛はその場に座り込んでしもうて、家の中で柱の下敷きになっているお母ちゃんたちに「嫌だー! 凛もここにいるー!」言うて大泣きして、どうしてもその場を離れようとせん…。」

「ウ、ウン…。」

「そしたら柱に挟まれながらお母ちゃんがボクらに「あっち行けー!」って気が狂ったみたいに叫ぶんや。それでボクは座り込んでいた凛を無理やり担いで逃げたんや。 凛は「離してー! 凛はお母ちゃんたちと一緒にいるんだー!」って叫びまくっとったがな。」


「ボクと凛は何とか近くの防空壕に入ることができたんや。 近所に住んどった金物屋のおっちゃんがボクらの歩いているを見つけてくれな。防空坊に引きずり込んでくれたんや。 防空壕の中で凛は「ワタル兄ちゃん、怖いヨォー。」言うてな、近所のお姉ちゃんにもらった小さな熊のぬいぐるみを握り締めとってな…。」

「じゃあ、それで2人は助かったの?」

「いや。 しばらくして飛行機の爆音が遠くなったからな。なんとか助かったかって思ったら、外の方で遠くからゴォォォーーーーっていうすごい音が聞こえてきてな。ボクが外を見たらそれはまるで火の津波みたいやった。 それでその津波はすごい勢いでその防空壕の中にも入ってきて…。そこにいたみんなは全員丸焦げや。」

「アナタも凛も…?」

「そうや。一瞬のことやった。 アッと思ったら…。」

「そうなんだ…。 ご、ごめん、何か涙が止まらない…。」

「そしてフッと気がつくとボクの周りには誰もおらへんで、一人で薄暗い森の中におった。 ああ、これが死後の世界なんかな…って思っとったら、そこに一人のおっちゃんがボクに向かって歩いてきたんや。 それで鏡を一枚渡された。 ボクがその鏡を見ると、ボクのそれまでの人生が映ったんや。 ボクは凛のことが心配でな。 そのことを心に念じたら今度は凛の姿が映った。そしてその鏡は生まれ変わった凛の姿も映し始めたんや。 そのうちこの鏡は心に念じた人のある一定の未来も映せることに気付いた。それでボクは凛の生まれ変わりの誕生から未来までを念じて映したんや。」

「そしたら…凛の不幸な姿が?」

「そうや。そのおっちゃんは「キミももうすぐ生まれ変われる。今度は平和で戦争のない時代だ。」と言った。 でもボクは妹の凛が不幸になってしまう未来にどうしても我慢できなかった。そこでそのおっちゃんにお願いしたんや。 「ボクの自我を消さないで凛と同じときに生まれ変わらせてくれ。」ってな。そうすればボクが凛のそばにいて助けてやれるって思ったんや。 でも、そのおっちゃっんは「人間は生まれ変わるとき必ず前世の記憶を消される。 前世の記憶を持ったまま生まれ変わってしまうことは自分自身にとって必ず良い結果にはならないからだ。」って言うんや。 それでもボクはお願いした。 そしたら、そのおっちゃんは「それではキミが前の人生で生きた10年間だけ、前世の記憶を持ったまま生きさせてあげよう。」って言うたんや。」

「それでアナタはまた死んだ…。」

「そうや。そのとき一時期、凛や久美ちゃんたちと交わって遊ぶことができた。 しかしそれだけじゃどうにもならんかった。 小学生のボクは身体も弱く無力やったからな。 それで2回目に死んだ後生まれ変わりの順番を遅らせてもいいから、成長したボクと凛を交わらせてくれとな、またそのおっちゃんに頼んだんや。」

「そういう…ことだったんだ。 でも、久美子は? なんであの娘の記憶までも消そうとしないの?」

「さっき話した凛にぬいぐるみをくれた近所のお姉ちゃんな、あれが久美ちゃんの前世や。」

「エ、そ、そうなんだ? じゃあ、久美子もあのときに?」

「まあ、そうやろな。 人の生まれ変わるタイミングって大体決まっとるらしいから、久美ちゃんもあのときあたりに亡くなったんやろう。」

「そう…なんだ? あ、それとあとひとつ。アナタも凛も前世の名前と今の名前が同じだよネ?」

「人が幼くして死ぬときは、次の人生で同じ名前を引きずるもんらしいわ。 新しい親は自分で考えてその名前を付けたように思うけど、それはほとんど直感的に思い浮かびそこに後付で理由を見つけるみたいなもんや。」

「そっかぁ…。」

「ボクはあの戦争を経験して思った。 戦争は人間を狂わせるもんやってな。 人はキレイなものをキレイと感じ、哀れみの心を持つ。しかし戦争というのはそういう人間の感情を麻痺させて獣にしてしまう。だからボクはそういう戦争というものの正体が知りたくてな、2年間の与えられた時間のうち凛と交わる時間以外の時間をそのための勉強に費やした。 いろいろな人の話を聞きにいったりな。 外国人のじーちゃんたちとも話したわ。青葉学院の近くは外国人がたくさん住んでいるさかいにな。
あるアメリカ人の92歳のじーちゃんの話を聞いたときは、そのじーちゃんはな、ノルマンディー上陸作戦に参加したそうや。 それで上陸用舟艇が海岸の近くまで連れてってくれるんやけど、200mくらい手前で降ろされて、後はそこから自分で海の中を歩いていかなならんかったそうや。そしたら陸の方からドイツの兵隊が機関銃ですごい勢いで弾を撃ってきて、たった10m進む間に100人のアメリカ兵が撃たれて海の中で死んだらしいわ。 そのじ-ちゃんも肩を撃たれて足を滑らせて海の中に潜ってしもたらしいが、そのとき自分の顔の数センチのところを弾が走ってったって言うとった。 戦争いうんは、勝ったほうも負けたほうも死んだ人は戻ってこん。本当は戦争に勝ち負けなんてないんや。
そういや、みーちゃんのお婆さんはイギリス人やろ?」

「ウン。そうらしいネ。」

「彼女のお婆さんのお父さん、つまりみーちゃんの曾お爺さんやな、その人は東京大空襲でアメリカ兵に混ざってB29で出撃したイギリスのパイロットやった。 それでもボクは彼女のことを何も恨んでおらん。みーちゃんはみーちゃんやしな。」

「そう…なんだ?」

「エエか、ミコちゃん。キミは先生を目指しているんやろ? よく聞いてくれや。 子供を生かすも殺すも教育や。 ボクが話をしたあるじーちゃんは戦前小学校の先生をしとってな。 そのじーちゃんは自分が子供たちを戦場に駆り出してしまったことの責任を今でも忘れておらんそうや。どうかキミは子供たちに美しいものを美しいと感じ、人を心から愛せる人間に育ててやって欲しい。 ボクからのお願いや。」

「ウン、わかった。 約束するヨ。」

「ウン、アリガトな。 ほなら、ボクはそろそろ行くわ。」

「もう、会えないの?」

「ウン、会えん。 少なくともワタルとしてはな。」

「別の誰かとして?」

「そうやな。いつの時代か、ときの流れの中の誰かとして…。」


そして彼は消えていった。


次の日
新学期の初日

朝、教室に入って来た凛は少し怪訝そうな顔をしてアタシにこう聞いた。
「ねえ、ミコ。今日ワタル君見た?」

アタシはそんな凛の問に心の中を涙で一杯にして、しかし無表情でこう答えた。
「だから石川 渉なんて知らないわヨ。 それにだいたい若松中学から青葉学院受かったのってアタシと凛の2人だけだったじゃん。」


アタシが大学に進学したとき、アタシと芦田さんは正式に男女としての交際を始めた。
そのときカレは青葉学院大の大学院博士課程3年生のときだった。
カレは大学の先生になることが小さい頃からの夢だったそうだ。


カレがアタシのことを女性として意識し始めたのはアタシが高3の頃だったらしい。
カレは大学の教師、そしてアタシは小学校の先生という分野の違いはあったけど、アタシたちはこの頃会うたびにお互いの夢を語り合った。


アタシが小学校の先生になりたいという夢を持った切っ掛けは、小学校5年生の頃だったと思う。
そのときのアタシのクラスの担任だった大原先生は生徒にけっこう厳しい先生だった。
だから大原先生は他のクラスの生徒にはあまり人気がなかった。
しかしウチのクラスの生徒は誰もが大原先生のことを信頼して慕っていた。
それは大原先生がすべての生徒に厳しかったからだって思う。

アタシが小6にあがったとき、将来の夢を書くという宿題がでたことがあった。
アタシは「大原先生のような小学校の先生になりたいです。」と書いて提出した。
お世辞を書いたつもりはなかった。アタシは真剣にそうなりたいって思ったんだ。

そしてそれからしばらくしてノートがあたしの手元に返されたとき、そのノートには先生の文字がびっしりと書かれていた。

「生徒の望むことをしてあげれば生徒は喜ぶ、しかし世の中は必ずしも望む通りにはならない場合がある。そのときにその生徒がどれだけ自分に強くなれるか、負けずに苦難に立ち向かえるか、それを身に付けさせるのが教師の役目だと先生は思っています。君はとても感受性が強く、そして自分に対してとても強い女の子である気がします。もし君が将来教師というものを目指すなら、生徒と同じ目線に立たず、教師としての強さを生徒に示せる、そんな教師になってくれたらと望んでいます。」


中学受験で青葉学院中等部を落ちてしまったとき、アタシははじめて涙を流してしまった。大粒の涙をとめどなく流して、大原先生の胸にしがみ付いて大泣きしてしまった。

そのとき先生はアタシにこう言った。
「運不運はあるだろう。しかし自分が夢をかなえるためにしてきた努力よりも他の合格した人がしてきた努力の方が上回っていたと今は考えなさい。そして高校受験で君が中学の3年間で誰にも負けない努力ができたことの結果を示すんだ。そうすればそれは君にとって一生の自信になるから。」

先生は泣きじゃくるアタシの頭を何度も優しく撫でながらそう言ってくれた。


アタシはこの大原先生の話を芦田さんにしたとき、カレは何度も頷いて納得をしてくれた。

「大原先生は生徒たちに厳しくすることで愛情を示していたんだヨ。それがたとえそのとき生徒に理解されなくても、いつか自分の教えてきたことがその生徒のためになるって信じてたんだとボクは思う。」

こうしてアタシと芦田さんは、けっして縮まらない年齢差と反対に心の距離を縮めていった。
そしてカレはアタシが大学に進学する少し前に交際を申し込んでくれた。

「もっと早く言ってくれてもよかったのに…。」
アタシがこう言うと

カレは
「やっぱり年齢差を気にしていたのかもしれない。 高校生のキミを恋愛に縛りたくなかったから。」
カレは素直に心の中を明かしてくれた。
そしてそれがアタシにとってはよけい嬉しかった。

「バカ…アタシはずっとずっとアナタの言葉を待ってたのヨ(笑)」


女にとって本当に好きな相手の年齢は多分それほど気にならないってアタシは思う。
それよりも、そういう本当に好きになれる人と出会えた幸せのほうが大切じゃないだろうか。
年上だからと年下の女の子にいつも格好を良くしたいって思う人より、相手に自分の心をちゃんと開いてくれる人なら、それはきっとお互いの信頼になっていくって思うんだ。



その後
アタシは大学を卒業し青葉学院初等部に教師として職を得て、そして同じ年にカレは大学院博士課程を終えて青葉大の助手となった。


それから2年程が過ぎたとき

大親友の凛は青葉大の正門前にある国連大学の事務員として勤めているので、学校帰りにはしょっちゅう待合わせをして一緒に帰っている。

「あのさ…。」
一緒に歩いていた凛が何となくモジモジとしながら話し出した。

「どうしたの? やけにハッキリしない言い方じゃん?」
「アタシさ、プロポーズ…されちゃった。」
「エ! 笹村さんから?」
「当たり前じゃん(笑)」
「それで? 受けたんでしょ?」
「ウ、ウン。まあ…。(ニヤニヤ)」
「凛、顔が緩みっぱなしー。」
「アハハ、そうかなー?(デレ)」

「まあ、でもこれでワタル君もやっと安心だネ。」
「アハハ、そうかも(笑) でも今頃はカレも生まれ変わっていてどこか他の女の子と出会ってるのかなぁ…。」
「かもしれないネー。あの人って女の子の気持を掴むの上手だし(笑)」
「そっかぁー。そうかもしれないネェ…。」

「ちょっと複雑な気持?」
「ウーン、かもしれない(笑) でもカレがいたからアタシはトオル君と出会ったわけだし。」
「そうかもしれないネー。 きっとワタル君はすごく喜んでくれていると思うヨ。」


そして凛の結婚式の少し前
アタシは芦田さんからプロポーズをされた。

カレのプロポーズはあまり気が利いていない言葉だった。
「オレと結婚してくれないか?」

ストレートで何の飾り気もなくて
でも、アタシはそんなストレートで飾り気のないカレの言葉をずっと待っていた気がする。

「ハイ。お受けします。」
アタシはカレと同じようにそのままの気持を伝えた。

「なんかアタシたちって映画みたいにいかないネ(笑)」
あたしが涙交じりの笑顔で笑いながらそう言うと

カレは
「でも、こんなオレたちって最高のカップルだろ?(笑)」

その言葉に2人で顔を見合わせて笑い合ってしまった。


ある日
凛の結婚を前に、アタシと凛そして久美子の3人で鮎川ワタル君のお墓にお参りに行った。

お参りを済ませて、3人で近くの喫茶店に向かおうとするとき

「あ、ゴメン。 アタシ、お墓のところに忘れ物しちゃった! 先に喫茶店行ってて?」
アタシはそう言ってワタル君のお墓に戻っていった。

そして再びワタル君のお墓に戻っていったアタシは、彼の前に立ちこう言う。

「ワタル君、アナタの妹さんの凛はとってもステキな女性に成長しましたヨ。 アナタが2回のときの流れに跨って彼女にしてあげた優しさを彼女はずっとずっと忘れないって思います。 どうか安心してください。 次にアナタがこの世界に生まれ変わってきたときには、多分お互い見ず知らずの他人同士。 でもアタシたちは石川 渉という人がいたことをずっと忘れないでしょう。」

そしてアタシは彼にニコッと微笑んでそのお墓を後にした。


それから数年が経ち

アタシ、凛、久美子、そしてみーにもそれぞれ子供ができて慌しい中に幸せを感じられる生活を送っている。
それぞれが別々の人生を歩みながら、ときどき顔を会わせては昔を懐かしめる。
そんなのが幸せだって感じられるアタシたちはきっと本当に幸せなのだろう。

~fin

スピンオフ2「弟以上恋人未満(みーちゃんと悟の場合)

アタシは佐倉 美由紀。
この春、ずっと憧れていた青葉学院高等部に入学することができた。

中学時代はなぜか勉強ができてしまったからクラス委員なんてものを何回も押し付けられたりしていた。
じつはウチの母親は日本人とイギリス人のハーフなんで、アタシはクオーター(1/4)ってことになる。
そしてウチの母親の母親、つまりアタシの母方のおばあちゃんというのがイギリス人なんだけど、彼女はお父さんが日本の大学の先生だったもんで小さいときからずっと日本で育ち、近所の男の子たちと街中を駆け回って遊び狂い、そのため英語というものをほとんど忘れてしまったらしい。

しかも住んでいたのは浅草なもんだからもう完全なベランメエの江戸っ子気質。女の子なのに祭と花火が生きがいだったそうだ。そんなおばあちゃんに育てられたアタシの母親も完全な江戸っ子になってしまい、笑えない話だけど、ウチの母親は学生時代は英語が大の苦手で英語を話している外人を見ると同じような顔をしている自分に話しかけられないようにすーっと避けて通っていたらしい。大学入学は推薦だったらしいけど、英語の成績の悪さを国語と数学でカバーしていたっていうんだから大したもんだ。そして何を考えているのかわかんないけど、私の母親は白人を見るとすべてアメリカ人だと思い込んでいる。
中学校の半ばまで英語の英がイギリスを意味しているということを知らず、アメリカ発祥の言語だと思い込んでいたというから呆れてものも言えない。

しかし、さすがにアタシが生まれたとき、イギリスにいるおばあちゃんの親戚たちもこれではまずいと思ったのか、来日したときはアタシに英語で話しかけるなどをしていたらしい。
そのためかアタシは幸いにも英語に拒絶心をもつことがなくあくまで勉強としてだけど小学生の時には日常会話くらいは話せるようになった。

そんなアタシに周りの人たちは、勉強ができてクオーターなんて先入観があるとやっかいな幻想を抱く。そしてその幻想はアタシにとってかなり迷惑なものだった。

「みーちゃんってお人形さんみたいなキレイな顔してるねー。」
「頭もいいし非の打ち所がない娘だ。」
「いつもニコニコと明るくてキミはクラスの華だヨ。」

そんなことを1年生のときからずっと言われ続けてきたけど、そんなのちっとも嬉しくない。
アタシはもっともっと何でも話せてバカやれる友達がほしかったんだヨ!

でもイメージっていうのはホントに恐ろしいもんで、一度作られちゃったら簡単には壊してはくれない。
そのおかげでアタシの周りにいるのは参考書をマンガのように楽しく読める奇人変人ばっかり。

だから中学を卒業とき、高校に入学したら絶対アタシのイメージを変えてやるーっ!
ホントのアタシの正直な気持で付き合える友達に囲まれて面白おかしい高校生活送ってやるぞーっ!
って思ってた。

そして入学式の日にであったのがこの2人だった。


入学式の日
ウチの中学から青葉学院に受験したのは3人だったけど合格したのはアタシ一人だった。
これはアタシにとってじつにラッキーなことで、中学時代のイメージ破壊には絶好のチャンスだ。

「さぁー、友達百人作るぞー!」
そう思って初めての教室に飛び込んだアタシだったが、周りをみると当然知らない人ばかりで話す切っ掛けもみつからない。

中には附属の中等部から内部進学してきている人たちも何人かいるらしく、そういう人たちはすでにまとまって楽しそうに話をしている。

そのとき少し離れた向こう側でアタシの方に手を振ってくれる女の子を発見!

(あ、あの娘、友達になってくれるかも。)

アタシは手を振ってそれに応え、そしてウキウキと小走りでその娘の方に近づいていくと

すっ--------

とその娘はアタシを通り越して反対側へ

「あー、優ちゃん。同じクラスになれたんだねー!」
と後ろの方で別の娘がその娘と抱き合って喜ぶ姿を見てしまう。

「ちっ、なんでー。 やっぱり中等部組かぁー。」
そんなことを心の中で呟きながら、とにかく空いている席に腰を降ろした。

フッと隣の席を見ると女の子が2人、やっぱり楽しそうに話をしている。

(あーあ、どうせこの娘たちも内部組なんだろうな…。) 

一人はセミロングにふんわりとした感じの軽いナチュラルウエーブをかけた髪、笑っている感じがすごくフェミニンで可愛い娘だった。もう一人は少し長めのボブカットにハッキリした目鼻をしていて美形タイプの女の子。

小さい頃から「お人形さんみたい」なんて言われてきたアタシだけど、お人形さんなんてもんは結局心がないものだからいくらキレイでも魅力なんかあるわけじゃないのさ。

ああ、この娘たちってなんかすごくキラキラして可愛いなぁ…。
アタシがもし男に生まれていたら、きっとこういう娘と付き合いたいって思うんだろうなぁ。

もしアタシが男で、高校入学の日にこの娘と運命的な出会いをしたとする。
そしていつの間にか惹かれあってしまう2人…。
放課後
アタシはあのウエーブの髪の娘と偶然帰り道が一緒で
「送るよ。」
「ア…アリガト。」
フッと気がついたらその娘とアタシは夕暮れのキャンパスの隅で肩を寄せながら…。

わぁーーーっ!
違うつーーーーのっ!
アタシは女じゃん!
そんな気ないよぉぉーーー!

そんな妄想を頭にめぐらしていると、そのうちの一人のふんわりした感じの娘とパッチリ目が合ってしまった。

(ど、どうしよう…。目を逸らそうか。 いや、ダメ!美由紀、これがチャンスだと思って声をかけちゃえ! とにかく誰かと友達になって取っ掛かり作らないと!)

「は、はじめまして。」
アタシはドキドキする鼓動を抑えながらなんとか声を絞り出した。

「あ、はじめまして」

(やったー! 初めて会話が成立したー!)

「なんか仲良さそうに話してたけど、2人は中等部から?」
「ううん。2人も同じ中学出身なの。」

(そ、そうだったんだ。じゃあ、アタシと同じ外部組じゃん。 やったっ!やっと狙った獲物をみつけたぞぉー!)

お互いの自己紹介をすると
ふんわりした感じのフェミニンガールが小谷 凛ちゃん。
そしてハッキリタイプの美人さんが藤本 美子ちゃんというらしい。

「アタシは藤本 美子です。でも中学のときまでずっとミコって呼ばれてたから。」
「ヨロシクね。 あたしはみーって呼ばれてた。」
「じゃあ、ミコと凛とみーちゃんでいいよネ?」

やったぞぉー!
その日のうちにあだ名で呼び合える友達をゲット!

こうしてできた高校生活最初の友達がこれからのアタシの人生を大きく左右することになるとはこのとき微塵も考えられなかった。



彼女たちとの付き合いが始まってみると、この2人の関係っていうのがじつに面白いっていうか興味深いものだった。2人ともぜんぜんタイプが違うのに、よくこんなに仲がよく付き合えるものだと不思議に感じる。凛はどっちかというと自分の感情に素直なまっすぐタイプ。それに対してミコは緻密に物事を考えて行動する作戦タイプの娘に思えた。

そしてそんな彼女たちに混ざっていると、そこには飾らない姿で楽しんでしまえるアタシがいた。

入学式が終わって1ヶ月ほどしたある日の土曜日

「ねぇ、みーちゃん。今日よかったらウチに遊びに来ない? ミコも一緒だヨ。」
フェミニンタイプの凛からそう誘われた。

中学時代に友達の家にいくことはあっても、みんなガリ勉ちゃんばっかりだったので、家ですることといえば勉強だけ。遊びに行くんじゃなく勉強するだけなのだ。
勉強の合間に話しかけても迷惑そうな顔されるだけ。

「だったら誘うんじゃねーヨ!」
と言いたくなってしまう。
ようはお互いどれだけ日頃勉強してるか偵察ついでに一緒に勉強しようってことなんだろう。
ところがこの2人といると勉強のべの字も会話に出てこない。
そうなるとアタシも段々と本性が出てきてしまうってもんだ。


まあ、いくら友達の家といっても初めて行くわけなんで、アタシは途中のケーキ屋でケーキを6つばかり適当に見繕って買った。

彼女の家は想像したよりもかなり大きく、話を聞くとお父さんがスーパーマーケットやコンビニを経営している社長さんらしい。そういえば凛はやっぱりお嬢様タイプにみえる。

「あら、まあ。お人形さんみたいに可愛い人ねぇ!」
凛のお母さんはアタシを見てやっぱりこう言った。

フッフッフ…。
お人形さんの外見なんて楽しい高校生活の前には無関係ヨ!
そのうちこのお母さんもアタシの真の姿を知ることになるだろう。

そして家に入るとダイニングでお母さんがお茶を入れて、アタシの買ってきたケーキをお皿に分けて出してくれた。

そのとき

「あーーー!ケーキだ! いいなぁー!」
と言って顔を覗かせた男の子。

「悟、お姉ちゃんの友達来てるんだからアッチ行ってて!」
凛はその男の子にそう言って追い払おうとする。

しかしその男の子はそんな凛の言葉なんかお構いなしにこっちに寄ってきた。

「あ、ミコちゃん。ひさしぶり。」
「悟、元気だった?」

この男の子はどうもミコのことを良く知っているらしい。
あ、そっか…。
考えて見れば凛とミコは中学からの友達なんだもんね。

でも…。
この子ってかわいい…。
なんかこの子を見てるとすごく切なくなるような。

「弟さん?」
「ウン。悟っていって今年中1になったの。」

あ、そっか。
アタシたちより3歳年下なんだ。
ってことは…
もし小学校のとき死んじゃったアタシの弟の修が生きてればおない年なんだ…。

そんなことを考えていたとき

「あ、凛ちゃん。チョコケーキだぁー! いいなぁー!」
と悟君が凛の前に置かれたチョコケーキを指差して叫んだ。

「悟君、チョコケーキ好きなの?」
アタシは彼に尋ねた。

「ウン、大好き。チョコがいっぱいかかってるのが一番好きなんだ。」

アタシは凛の前に置かれたそのチョコケーキのお皿をさっと取り上げて

「ハイ、悟君。ドーゾ。」と差し出した。

凛は「エ!?」という顔をする。

「アンタ、お姉ちゃんなんだから我慢しなさい!」
アタシは凛に向かってこう言った。

「あーーん、アタシのチョコケーキー! アタシもすきなのにー(泣)」
こう言って凛は物欲しそうな顔をするがそんなのお構いなし!
ミコはそれを見てゲラゲラと笑っている。

「これ、ボクがもらっちゃっていいの?」
悟君は嬉しそうな顔でアタシに尋ねる。

「もっちろん!悟君のために買ってきたんだからー。」
あたしがそう言うと

「うっそだー。みーちゃん、今初めて悟と会ったんじゃん!」
凛があくまで抵抗するけど、そんなのアタシはぜんぜん無視!無視!


じつはそのときアタシは悟君のそんな嬉しそうな笑顔に吸い込まれてしまう自分を感じていたんだ。


その日
アタシは家に帰ると、頭の中に思い浮かんでくるのはなぜか凛の弟の悟君のことばかりだった。

(3歳も年下の子だヨ。)

なんていうんだろう…。
なんかカレと話していると心の中を触られているような。
それは『かわいい』って感情なんだろうか。
それとも…。

そんなことを考えながら、さっきから自分の部屋の机に向かって座ってボーっとしている。

すると

コンコン

部屋のドアをノックする音

「みーちゃん、お父さんがケーキをお土産に買ってきてくれたけどどうする?」
母親がドアの向こうからアタシにそう尋ねた。

「あ、ウン。今、下に降りてくから。」

階段を降りてダイニングに入ると、ちょうど父親がスーツの上着を脱いでネクタイを外しているところだった。

「あ、お父さん。おかえりなさい。」

「おー、キャサリン! ただいまー。」
父親はアタシの顔を見るなり大袈裟なポーズでそう応えた。

「お父さん、そのキャサリンっていうのやめてヨ。 第一アタシはクオーターで純日本国籍なんだから、ミドルネームなんか持ってないんだヨ!」

「いいじゃないか? オマエ、それで青のカラーコンタクトでもすれば立派にイギリス人で通るぞ。」

「アタシはコッテコテの日本人! キャサリンなんて名前じゃなくて美由紀だって何度言えばわかるのヨ!」

じつはウチの父親は外務省に勤めてるんだけど、母親と真逆でとにかく欧米かぶれだった。
そのためアタシに元々ありもしない勝手なミドルネームをつけて呼んだりする。
ただし出身は埼玉県の所沢で父方の家は代々造り酒屋。
欧米なんかウチの父親の出自には縁もゆかりもない。

しかもこの父親、ときどきとんでもない発想を持ってしまい、母親がアタシを産むときアメリカの病院に行かせようとしたらしい。
アメリカは出生地主義なので、日本人と日本人の間に生まれた子でもアメリカ国内で生まれればアメリカの市民権を持つことができる。
それでアタシにキャサリンなんていう奇妙なミドルネームをつけようと企んだらしい。
しかし江戸っ子万歳の母親はこれに強硬に抵抗した。

日本人とイギリス人のハーフの母親は純日本人の父親に
「せっかく日本人に生まれたのにアメリカの市民権なんていらーーーん!」
と一喝したそうだ。

そんなわけで、アタシはハーフのくせに江戸っ子気質の母親と埼玉出身なのに西洋かぶれの父親というチョット変わった環境の中で生まれたわけだ。


アタシには以前弟がいた。
修(しゅう)といって、アタシの三歳年下。
少し年は離れていたけど、アタシたちはいつも一緒によく遊んでいた。

それがアタシが小4のときのある日、
修は友達と近所の公園で遊んだ帰り道に信号無視をして突っ込んできた車に轢かれて亡くなった。
しかもその犯人は修を轢いた後そのまま逃げてしまった。
ただ夕方の出来事で目撃者が何人もいたのと、そのうちの何人かがナンバーを覚えていたことから犯人は数日後あっさりと掴まった。

驚いたことに犯人はまだ21歳の大学生だった。
彼はその日デートの帰り道で、自分の彼女を家まで送ったあと近道をするために公園の前を通る細い道路に入って来た。
そして運転中疲れていたときちょうど修のところの信号が黄色信号から赤に変わったが、ついアクセルを踏んでスピードを上げそれを突っ切ろうとしたらしい。

もっと驚いたのはその彼が逮捕されたあとの態度だった。
彼は修の方が信号を無視して渡ってきたと主張した。
しかしこれは周りに居た複数の目撃者の人たちの一致した主張で彼の信号無視は明らかだった。
するとその彼は今度は「すでに企業への就職が決まっているからどうか見逃してほしい。」と言い始めた。しかもそれを彼だけでなく彼の両親も言っていたそうだ。

ウチの両親はそのあまりの身勝手さに絶句したらしい。
結局その大学生は大学を4年生のときに除籍処分になって刑務所へと入ったそうだ。
ただウチの両親はその彼の将来のことも考えて、民事の賠償金についてはかなり減額してあげたらしい。そしてそれを一度に払わなくてもいいから、彼が出所後キチンとした仕事に就いたら毎月その中から8万円を送付すること。これを定年になるまで続けて欲しいと言った。
8万円というのは微妙な金額で、20代にとってはけっこう大きなお金だけど、40代くらいになれば節約すればある程度は削れる金額だ。
アタシの両親はそうすることによって自分の犯した罪を一生忘れないでいて欲しい、そしてもう二度とこのような過ちを犯さないようになって欲しいとの願いからだった。

それから6年
その彼も今は出所してちゃんとお勤めをしているらしい。
ウチの両親の温情はそれまで身勝手だった彼の心にも相当響いたらしく、毎月お給料日から3日以内に銀行振り込みではなく現金書留で送ってくる。
そしてその封筒の中には必ず
今の自分の気持とかを書いた手紙が添えられていた。

じつはその彼には内緒にしているらしいが、ウチの父親は彼の勤める会社の社長に彼を色眼鏡で見ず公平に扱ってあげて欲しいとお願いしているらしい。

説明が長くなったけど、そんなわけで今この家ではアタシは長女でしかも一人っ子のわけだ。


そういえば、修もチョコケーキが好きだったなぁ…。
小さい頃アタシがあの子の誕生日にお小遣いを貯めてチョコがたくさんかかったプチデコレーションケーキ買ってきてやったことがあったけど、あの子ものすごい喜んでそれを頬張ってたっけ。


そして
アタシはそれからけっこう頻繁に凛の家に遊びに行くようになった。

彼女の家に行くときはいつも家の近くの評判の店でケーキを6つ買っていく。
そのうちのひとつは悟君のためのチョコクリームがたっぷりっかかった生チョコケーキ。

しかし、3回目に彼女の家に遊びに行ったときには、彼女のお母さんはアタシにこう言った。
「みーちゃん。ウチに遊びに来るのにそんなに気を使わなくっていいのヨ。高校生なんだからお小遣いだってそんなにあるわけじゃないんだから。手ぶらで遊びに来てくれればアタシだって嬉しいからネ。」

(ああ、凛のお母さんってすごく優しいんだな)
って思った。

でもアタシは悟君が喜ぶ顔をどうしても見たいわけで。
だからアタシはカレの分だけを買って行き、凛にこっそり渡して冷蔵庫に入れておいてもらったりした。

ただ、悟君ももう中1のわけで、異性というのを意識できる年齢だろう。
しかも3歳も年上のアタシがこうしてしまうことがカレの気持の中で迷惑になっていないだろうかという心配はいつもあった。
だからアタシがあげているケーキを本当に悟君が喜んで食べてくれているのか、それを凛に聞きたくてもさすがに聞けない。

ある日
チア部の連絡事項を伝えるために凛の家に電話したとき、たまたま悟君がその電話を取った。
そのとき
「みーちゃん、この前買ってきてくれたケーキすごく美味かったー。アリガトね。」
とカレが素直に喜んでくれている言葉を聞いたときはアタシ本当に嬉しかったんだぁ。

「よかったぁー。じゃあ、みーちゃん今度はもっと美味しいチョコケーキ買ってきてあげる。」
「わぁーい! ホント!?」
「ウン! ホントさぁー。 新宿にね、すごく有名なお店があるの。 今度遊びに行くときはそれを悟君に買っていってあげるから。」
「やったぁー! みーちゃん、だいすき!」
「ホント? うれしいー! アタシも悟君だーいすき!」


アタシは何のために電話したのかも忘れて、カレの嬉しそうな声にこんなにはしゃいでしまうんだ。


アタシが高校2年になったころには、アタシはカレを悟と呼び、そしてカレはアタシをみー姉ちゃんと呼ぶようになっていた。


凛は
「なんでホント姉のアタシが凛ちゃんでミコがミコちゃんなのにみーちゃんだけみー姉ちゃんって呼ぶの?」
なんて悟に言ったらしいけど、悟にもよくわからないらしい。
でも悟がアタシのことを頼りにしてくれるのはすごく嬉しい。

それでもアタシがカレと会えるのは、凛の家に遊びに行ったときだけ。
それも凛やミコが一緒にいるわけだからカレとばかり話すわけにもいかない。



そんなわけで、なんと友達の弟に強烈なブラコンを持ってしまったアタシなんだけど、そんなアタシも男の人から告白をされたりしたことがあった。

それはちょうど高2の終わりごろのことだった。
相手は同じクラスの田所君。
彼はバスケ部に入ってて身長が高くけっこう女子に人気がある人だった。
アタシはそれまで彼を意識したことはぜんぜんなかったんだけど、その年の文化祭でたまたま同じ実行委員になって放課後の行動を一緒にすることが多くなった。
そして実行委員の打ち合わせがかなり遅くなったときには渋谷駅まで一緒に帰ったりしたこともあった。

そうしたある日
やはり委員会で遅くなって田所君と一緒に渋谷駅に向かって歩いていたとき彼はアタシにこんなことを聞いてきた。

「ネェ、佐倉さん…。」
「ウン、なぁに?」
「今度の日曜日って何か予定あったりする?」
「今のところはないけど。」
「じゃあさ、もし良かったら一緒に映画見に行かない? じつはずっと楽しみにした映画があるんだけど、一人で行くのも面白くないしさ。」

これがいわゆるデートのお誘いだっていうことくらいは、いくら彼氏いない歴=実際年齢のアタシにだってわかる。でもアタシは今まで彼がアタシにそんな誘いをするなんて考えたこともなかった。
そして何か心にひっかかるものがある気がしてしょうがない。

「ウーーーーン…。」
悩む、悩むアタシ。

「そんなに…悩むほどのことかな?」
田所君はチョット寂しそうにそう言った。
「もし迷惑なら断ってくれていいんだし、ただ一緒に遊びに行けたらって思っただけだから。」

そうか。
アタシって考えすぎなのかも。
別に付き合ってくれって言われてるわけじゃない。
ただ一緒に遊びに行こうって言われてるだけなんだから。
もっと気軽に考えていいんだよネ。

「ゴメン。いいヨ。映画一緒に行こう。」
アタシはニコッと笑って彼にそう言った。



そして田所君との約束の日の前日の土曜日の夜
アタシが自分の部屋で本を読んでいると

ピロロロロ---------。
とアタシの携帯電話が鳴る音が

(誰だろう?)
ベッドの横に置いた携帯を取り上げ着信表示を見ると

『SATORU』
(あ、悟からだぁー♪)

「もしもし悟?」
「あ、みー姉ちゃん? オレ。」
「ウン。どうしたの? ちょっとビックリしたー。」
「あのさぁ、明日ってみー姉ちゃん何か用事ある?」
「エ、明日?」
「ウン、そう。」
「ゴメーン。明日はアタシちょっと…。」
「そっかぁ…。」
「悟、何かあったの?」
「ウウン…。じゃあ、いいや。 夜遅くゴメンね。」
「エ、あ…。」
アタシから尋ねる間もなく、そう言って悟はそのまま電話を切ってしまった。

(なんだろう…。)
(せっかく悟が電話をくれたのに。)

そして次の日

約束の時間の少し前
アタシは田所君と待ち合わせした渋谷センター街の入口に向かうとすでに彼はその場所に来て待っていてくれた。

(へぇ、時間にしっかりしているんだ。)

こういうことは好印象だ。
たとえ相手が男でも女同士であっても、約束した時間に平気で遅れてきて、しかも悪びれたそぶりも見せない人を見るとホントにムカツク。

たとえば、もし、もしもヨ?
アタシと彼が付き合うようなことになったとして、いつも男の人の方が先に来ていなくてもいいと思うんだ。お互い早く顔を見たいって気持が出てくればアタシも彼より早く来てしまうかもしれないし。

そんなことを考えながらアタシは彼に近づいていく。
彼はアタシに気付くとニコッと笑い手をあげた。

「オハヨー。」
「オハヨー。ゴメンね。待った?」
「いや、オレ早く来すぎちゃったんだ。」
「どれくらい前から待ってくれてたの?」
「エット、30分くらい前…かな。」

「エ! 30分も前から!?」
アタシは思わず噴出してしまった。

「クスクスクス------。」
そして、そんなアタシを見て彼は照れくさそうに笑っている。

そのとき思った正直な印象は
「へぇ、男の人ってこんなふうにも笑うんだ?」
ってこと。

だって、彼氏いない歴=実際年齢のアタシにとってこんなふうに笑う男の人の顔を見たのは初めてだったもん。

「じゃあ、少し早いけど行こうか?」
「ウン!」

アタシたちはセンター街からほどない距離にあるシネマホールに向かった。
映画館の前に着くと、そこにはすでにけっこう長蛇の列ができていた。

「わぁ、すごい人気だねぇ!」
アタシが驚いたような声をあげると

「ホントだなー。あ、チョット待ってて?」
と彼は言って券売コーナーのほうへ小走りに走っていった。

少しして戻ってくると小さく息を切らせて
「ゴメン。この回の指定席券はもう売れきれちゃったそうなんだ。でもこれじゃ座れてもかなり後ろのほうの席になっちゃいうそうだな。」

「いいヨ。後ろの席だって、もし座れなかったら立って見たっていいんだし。」
「エ、でもそれじゃ佐倉さん疲れちゃうだろ?」
「それだけ面白そうな映画だってことなんだから少しくらい疲れたって気にならないヨ。 ネ?」
「そっか。ならよかったー。」
「田所君、アタシに気を使いすぎだヨ(笑)」
「あ、そっかナ?(笑)」

ホールに入るとやっぱり後ろのほうだったけどアタシたちは上手く席に座ることができた。

「席とれてよかったネー。」
アタシはそう言いながら自分のバッグからメガネを取り出した。

「あれ、佐倉さんってメガネしてたっけ?」
「あ、普段はかけてないの。遠いところ見るときだけ少しぼやけるから。」
「そっか、だからかな。」
「エ、なにが?」
「ときどきメガネかける人って目がキレイだっていうから。」

「そ、そうかな…。」
男の人にそんなこと言われたのは初めてだった。

もちろんそんな風に言われればぜんぜん悪い気はそいないけど
でも、なんていい返したらいいのかわからない。
照れてしまう。

「あ、映画はじまるヨ。」
アタシは誤魔化すようにそう言って前を向く。


映画はけっこう面白かった。
TVでもかなり前から評判になっていたアメリカの有名俳優が演じるアクション物で、その結末はハラハラドキドキ最後まで目が離せなかった。

「あー、おもしろかったネー!」
見終わってもまだドキドキ感が少し残る。

「まだ時間も早いしさ。どっか喫茶店でも寄っていかない?」
彼がアタシにそう誘った。

「あ、ウン。いいヨー。」
そう言ってアタシたちが劇場を出ると、同じホールの隣の劇場では今大人気でヒットしている『映画怪物くん』の上映をしているらしかった。

(あ、そういえばこれって悟が前に話してたなぁ。)

そのときちょうどこの劇場でも上映が終わったらしく、中から次々とお客さんたちが出てきた。

すると

その中に

びっくりした!

悟の姿が

カレは友達らしき男の子と2人で劇場の中から出てきた。


「悟ー!」
カレはアタシの驚いた声にクルッと振り向く。

「エ、あー!みー姉ちゃん!」
「悟ー。びっくりしたぁー。こんなとこで会えるなんて思わなかったヨー。」
「ウン。友達と映画見に見たんだ。」
「そっかぁ。悟、前にこの映画のこと話してたもんね。」
「みー姉ちゃんは?」

「あ、アタシはこっちのほうの映画。」
そう言ってアタシは今まで見ていた映画のパネルを指差した。

「そうなんだ? 凛ちゃんとかと一緒に?」

「あ、エット…。」
アタシはなんて言ったらいいか躊躇った。

すると横にいた田所君は
「知り合いの子?」
とアタシに尋ねてきた。

「あ、ウン。凛の弟さんなの。」
「凛って、同じクラスの小谷さん?」
「ウン、そう。」

「そうなんだ。やあ、はじめまして。田所っていいます。」
彼はそう言って悟に挨拶をした。

悟ははじめ少しキョトンとした顔をして、そしてその後急にムスッとした表情に変わって、田所君に何も言わずペコンと頭だけ下げた。

「みー姉ちゃんの彼氏?」
悟は不機嫌そうな表情でアタシにそう尋ねる。

「エ、ち、ちが…。」
”ちがうヨ!”
アタシはそう否定しようとしたとき

急に横にいた田所君が
「まだ、わかんない。 そうなるかもしれないな。」
と悟るに言ってしまった。

「チョ、チョット!」
アタシは怒ったように田所君の方を向く。

「ふぅん、そう…。」
「エ、あの、悟…。」

「じゃあ、ボクこの後友達と用事があるから。」
そしてプイッとした顔をした悟はその友達とスタスタと出口の方に歩いていってしまった。

「チョ、待って? 悟ー。」
アタシはそう声を声をかけたけどカレはアタシの声に振り返ろうとはしなかった。



「オレ、なんかまずいこと言っちゃったかな…。」

「そんなことはないけど…。」
せっかく誘ってくれた田所君には悪いけど、アタシの気持は一気にドーンと落ち込んでしまった。

「ねえ、さっきの子は小谷さんの弟さんだって言ってたけど。」
「ウン、そうだヨ。」
「今何歳くらいなんだろ?」
「アタシたちより3学年下だから今中2。」

「あ、3歳も下なんだ。 でも、お姉さんの小谷さんにならわかるけど、佐倉さんはあくまでお姉さんの友達なんだから…。」

「ウン…。」

そして
周りに人が少なくなったとき田所君はアタシの方を向いてこう言った。
「あのさ、もし嫌じゃなかったら、今度オレと会うときから友達としてじゃなく彼氏として会ってくれないかな?」

「エ…。」
「ずっと君のことが好きだったんだ。 文化祭の同じ実行委員になったのもキミがいたからなんだ。」
「あ、あの…。」
「今返事をくれとは言わないから、考えて返事してくれれば。」
「ウ、ウン…。」


そして
その日、田所君はアタシをそのまま渋谷駅まで送っていってくれて分かれた。



家に帰っても今日あったことがアタシの頭の中をグルグルと渦を巻くようにまわっている。
田所君とは今までそれほど仲良く話すような関係じゃなかった。
でも今日一緒にいてしっかりとした感じの良い人だっていうことはよくわかった。
だからもしお付き合いをしたとしたらアタシは彼のことを好きになってしまう可能性はあるかもしれない。

じゃあ悟は?
悟は友達である凛の弟。
しかも3歳も年下だ。
アタシが大学生になってもカレは高校生。
アタシが大学を卒業してもカレはまだ大学生。
それにいつかカレにも同じ年齢の彼女ができるかもしれない。
そうなったとき、アタシはやっぱりあくまでお姉さんの友達にすぎない。

こういうことを考えてしまうのはもしかしたら女のズルさなのかもしれないけど。

でも悟と話しているとき、アタシはホントに心の中が温かくなるのを感じられる。
アタシはいつもカレに何かをしてあげたいという気持でいっぱいの自分をわかっている。


アタシは思い立って凛の携帯に電話をかけてみた。

「もしもし、凛?」
「みーちゃん? どうしたの?」
「あ、今電話しててもだいじょうぶ?」
「ウン。 今部屋で本読んでいただけだから、いいヨ。」

「あのさぁ、今日たまたま渋谷行ったら、悟に偶然会ったんだけど…。」

「エ、あー、そっかぁ。」
凛は何か思い当たるような声をあげた。

「そっかぁって? なんかあったの?」
「あ、ウン。 じつはあの子昨日の晩に父親から映画の招待券2枚もらってさ。」
「エ、もしかしてその招待券って怪物くんの映画の?」
「ウン。 良く知ってるねー。 それでいつもみーちゃんにご馳走してもらってばっかりだから明日みーちゃんを映画に連れてってあげようかなって言ってたんだヨ。」

「エェェッ! そ、そうなの?」
「ウン。でも、電話したらみーちゃんなんか用事あるみたいだからって残念そうな顔してたの。 じゃあ、その後多分友達誘って行ったんだろうねー。」


(そ、そうだったんだ…。)
(ゴメン、悟。 せっかく誘ってくれようとしてくれたのに、アタシ…。)



アタシは
アタシにとって悟が友達の弟のままでもいい!
悟が、アタシが他の男の人と付き合うことを不愉快に感じるなら
アタシは悟の笑顔をこのままずっと見られているほうがいい。

決めた!



そしてアタシは次の日の放課後、
大学キャンパスの隅にあるベンチで田所君と待ち合わせをした。

アタシは彼に、お付き合いという気持ちはあまり起きないことを正直に伝えた。

「もしかして昨日の小谷さんの弟さんとのこと?」

そう聞かれるだろうことはアタシも当然予想していた。
でもそこまでアタシの気持を話してしまうと、凛にも迷惑がかかってしまうかもしれないと思った。

「ウウン。あの子はあくまで友達の弟だから。 可愛いとは思うけど、それ以上の感情はないヨ。」

きっと男の子とだったらこういうときにウソはつけないんだろう。
でも女はこういうときは平気でウソがつけてしまうんだ。

「じつはアタシ、ずっと好きな人がいて…。」
「その人に佐倉さんの気持は伝えないの?」
「あ、その人はずっと付き合ってる彼女がいるから…。」
「そっかぁ…。」

ゴメンね、田所君。
こんないかにも少女マンガにありそうなウソついちゃって。
さすがにアタシの心も少しチクチクする。



田所君と分かれアタシは、すぐに悟にメールを送る。

「悟、ゴメンね。 怪物くんの映画、最初みー姉ちゃんのこと誘ってくれようとしたんだってね。昨日一緒にいた人は彼氏じゃありません。付き合う予定もありません。今度また悟の見たい映画があったらみー姉ちゃんのこと誘ってくださいネ。」


するとそれから10分もせずに悟から返信メールが来た。

(あ、悟からだぁー♪)

「じゃあ、今度ボクが誘ったときは一番優先してくれる?」

(アハ、かっわいいんだー♪)

「ウン!凛やミコに誘われても悟の約束を一番にするヨ。」
そう書いてアタシはまたメールを送る。

「ウン。じゃあ、絶対だヨ?」

ゼッタイさぁー!



高3のとき、アタシがなぜ芸能界に入ろうって思ったか。
じつをいえば、それはアタシ自身でもよくかっていない。

あのとき
スターダスト事務所の前田さんがアタシたち3人に芸能界を勧めたとき
凛とミコはその場でそれをスッパリと断った。
そしてアタシだけがその申し出を受け入れた。

それは今から思えばほとんど衝動的ともいえる返事の仕方だったと思う。
もしかしたら、前田さんもそれを感じていたのかもしれない。
前田さんはその後もう一度アタシの意思を確認するため、今度はアタシだけを事務所に呼んだ。

「まず君は現在高校生であること。これはとても大切なことだ。なぜなら高校生はまだ子供であり、我々はたとえ芸能プロダクションであっても大人という立場であること。だからまだ子供である君の人生を芸能活動に切り売りさせるようなことは絶対にしたくない。 わかるね?」

「ハ、ハイ。」

「できうる限り、芸能活動をすることによって君自身の人生が豊かになれるようにしたい。ただし、ここからが大切だ。時間というものはすべての人に平等に与えられているものだから、同じだけ与えられた時間の中で何かを得ようとすればそれによって犠牲になることも当然でてくる。例えば友人と遊び時間とか、一人でゆっくりする時間とか。 私はそういうものは享受できる時期に享受しておかないと人生としてとてももったいないとも考えている。 それでも君はそういうものを犠牲にして芸能活動をやる意志があるかということだ。」

前田さんはまっすぐアタシの方を向いて、そう確認した。

「あの、こんなのが応えになるかどうかわかりませんけど、アタシは今まで自分のハッキリした夢って持ったことがなかったんです。小谷さんも藤本さんもそれぞれ夢があって、それがとても羨ましかった。だからもし芸能界がアタシの夢になるなら、チャレンジしてみたいって…。」

「…なるほど。 それじゃ、頑張れる意思はあるかな?」

「やります!絶対に頑張ります!」

こうしてアタシの芸能界入りは決まった。

このことを悟に話したとき、カレは正直あまりピンとはきていない様子だった。
ただ今まで身近な存在だったアタシが少し遠くへ行ってしまうかもということは感じていたようだ。

そのことでカレは少しばかり不機嫌な顔をしていた。

アタシはデビュー前に凛の家に遊びに行ったとき、悟の部屋に行きカレと少し時間をとってそのことを話すことができた。

「芸能人になったら、みー姉ちゃんきっとこうやってウチにいつも遊びに来れなくなっちゃうね。」
カレはアタシの顔から目を逸らしてそう言った。

「ウーン、少し減っちゃうかもしれないけど…。でも、アタシはずっと悟のお姉ちゃんの友達だし。悟にとってアタシはこれからもずっとみー姉ちゃんだから。」

「でも、芸能人ってたくさんファンがいて、そういう人たちみんなのものにならなくちゃいけないんでしょ?」

「そうだけど、でも、アタシにだってプライベートってあるんだから。だからアタシのプライベートはみんな悟にあげちゃう。」

「ホント?」

「ウン、ホントのホントさぁー。 だからこれからもみー姉ちゃんのこと慕ってくれる?」

「ウン!」

傍から見れば、本当の姉弟でもないのにこんな会話ってチョットヘンなのかもしれない。
でも、アタシにとって悟は何よりも大切な存在になってしまっていた。
ただそれがどう大切なのかはわからない。
男と女としてなのか、それとも死んでしまった修の面影だったのか。
でも、不思議とアタシ自身の気持では悟と修がダブることはなかった。



芸能活動が忙しくなってきたアタシが段々学校に通えなくなってきたとき、アタシは真剣に転校を考えざるをえなくなっていた。

そのときマネージャーだった男の人はアタシにハッキリこう言った。
「高校生だからって甘えられちゃ困る。 オレたちはこれで生活しているんだ。 君が自分で決めて芸能界に入った以上しっかり責任を果たしてもらいたい。」

アタシはそういう言葉にドンドン追い詰められていった。
青葉学院は大学までの一貫校だったから、普通にやっていれば系列の大学に進学することは難しいことではない。
ただ、それはあくまで高等部をちゃんと卒業できることが大前提であって、今のまま週に2回程度しか授業にでれないようじゃ推薦どころか高等部の卒業だって危ういのはアタシにだってわかった。

「あの、授業にはちゃんと出たいんですけど…。」
そういうことをマネージャーに言ったこともあった。
しかし彼は
「君も高3だろ? 女子高生としてのブランドで売れる期間も少しなんだから、我慢してもらえないかな!」
そして最後には「青葉みたいな勉強に厳しい学校じゃなくってもっと仕事に融通の効く学校に転校をすべきだ。」と言い始めた。

「一生懸命勉強してせっかく入れた学校なのに!」
そう言って抵抗しても
「芸能活動を希望したのは君自身だろ? もし君が芸能界を途中退場することになったらどれだけ多くの人たちが迷惑するかを良く考えろ。 君は元の普通の高校生に戻って何食わぬ顔で過せばいいんだろうけど、今まで君に投資した資金は全部無駄になり、そして君に関わって仕事をしている人たちはもしかすると仕事をなくしてしまうかもしれないんだよ!」

だからアタシは正直いって少し怖くなってしまった。
そういう人たちの生活がアタシの肩にかかってしまっているなんて、それまで思ってもいないことだったから。

そしてそんなアタシを救ってくれたのは凛とミコという大切な友達だった。
彼女たちは担任の佐藤優実先生を動かして、事務所の重役である前田さんと話をしてくれた。
そのときはじめてわかったのだが、それは前田さんも寝耳に水の話だった。
前田さんは高校生としてのアタシの立場を尊重するようにマネージャーに指示していたのだけど、マネージャーは独断でアタシの予定を埋めていってしまっていたらしかった。
そして前田さんからマネージャー部長にそのことについて改めて厳しい指示とアタシの担当マネージャーの交代が行われた。

そんなわけでアタシもなんとか卒業と大学推薦に向けての勉強を続けることができた。
そしてアタシたちが大学に進学した年、悟も高校受験で念願の都立戸川高校に入学した。

悟は合格発表から戻ってきてすぐにアタシにそのことをメールで知らせてくれた。
そのときアタシはTVドラマの撮影の真っ最中。
ロケ先で本番前の合間に悟からのメールを見て、アタシはその場で思いっきり飛び上がりたい気持だった。

そのときは撮影でちょうどアタシが大喜びして友達役の女の子に抱きつくシーン。
ただアタシはそれまでどうも上手く感情移入ができずに何回かのNGを出していた。
そして少しの休憩をもらい、これが3回目の本番撮影。


ハイ、本番!

そして

「わぁーーーーーい!!よかったねー!」
アタシは慢心の笑みを浮かべて彼女の首に抱きつく。

ハイ、カットォー!
「いいじゃない! みーちゃん、どうしちゃったの急に?」
監督さんの驚いた表情にアタシはただ照れ笑いをするしかなかったんだ(笑)


そして4年後
アタシは大学を卒業し、悟は慶洋大学の2年生に進級する。
この頃からアタシはドラマの仕事だけでなくCMや映画などでもかなりお仕事が来るようになって、芸能活動もかなり忙しくなっていった。

凛の家に遊びに行ける機会もほとんどなくなり、悟とも電話やメールで時々話すくらい。
月に2回ほどあるオフの日には疲れて家でグダグダとしてしまう日々だった。

(あーあ、疲れたなぁ。 そういえば悟の声も今月は一回も聞いてないや…。)

カレも今はもう大学2年生。
音楽系のサークルに入ってギターを担当しているなんて話をしていたけど、そういうところじゃ女の子もたくさんいるんだろうし、もしかしたらもう彼女なんかできてたりして…。

凛は大学卒業後国連大学に勤め、そしてミコは初等部の先生になった。
国連大学は青葉の正門前にあるので、2人でときどき一緒に帰ったりもしているらしい。

(なんか、アタシだけ取り残されちゃってるみたい…。)

そんなことを考えながら
ベッドに身体を横たえてボーっと天井を見上げていたそのとき


ピロロロロ--------------。

机の上に置いたアタシの携帯電話のメールの着信音が

(んーーー、誰だろ?)

なんか起き上がってみるのも面倒くさい。
それでもモソモソとベッドから降りて
どうせ仕事の連絡だろうくらいに思って着信表示を見ると

『SATORU』の文字

(あ、悟からだぁー!)
アタシは滅入った気持が一気に吹き飛ぶような気持になった。

「みー姉ちゃん、今日オフだよネ? 今ひとりだったら電話ちょーだい。」

アタシは喜び勇んで悟の携帯に電話をした。

「やっほー。悟、ひさしぶりぃー!」
「あ、みー姉ちゃん? 今だいじょうぶなの?」
「ウン。今自分の部屋に一人でいるところだから。悟はどこから?」
「じつはさぁ、オレ今みー姉ちゃんの家の傍からなんだ。 今から出てこれない?」
「エ、今から?」

アタシは部屋のカーテンの隙間から外を眺める。
最近アタシの周りにも芸能関係の記者がいるという噂を聞いていた。
見た感じではそういう気配はなさそうだ。

「オッケー! じゃあ駅前のAngelって喫茶店で待ってて?」

アタシはそれからさっそく変装の準備を始める。
よれたジーンズと薄いブルーのシャツに着替え、そして髪の毛はひっつめて後ろで1つに束ねた。
さらに念には念を、黒の伊達メガネをかけてこれで変装完成!

そして注意しながら裏門から自転車で家を出る。

待ち合わせの喫茶店ではすでに悟が奥の方の席に座ってコーヒーを飲んでいた。
手にはタバコを持って煙を燻らせている。


アタシは後ろから近寄り悟の肩に手を置いてこう言った。
「こらぁー、キミはまだ20歳前だろー!?」

悟は持っていたタバコを灰皿で消しておどけたようにこう応える。
「ゴメンなさい! 見逃してくれたらご馳走しますから!」

「よーし。じゃあ、特別に見逃してあげよう!」
「アハハ、みー姉ちゃん。ひさしぶり。」
「ウン。悟、元気そうー。」

「急にメールくれるんだもん。びっくりしちゃった(笑)」
「あ、ウン…。」
「どうしたの? 何かあった?」

すると悟は戸惑ったような表情でいる。
「みー姉ちゃんに言いたいことがあって来たんでしょ? アタシ、悟のためならできる限りのことするから、言ってみて?」
「ウウン。じつはさ、オレ、みー姉ちゃんとしばらく会えなくなっちゃうかも。」
「エェェッーーー!」


「じつはオレ、この前アメリカの大学の留学生試験に合格してさ。」

悟の話を聞くと
凛と悟のお父さんはウエルマートというスーパーマーケットを経営しているわけだが、以前は都内の20箇所ほどに店舗を持つ地元のチェーン店だったのだが、その後は次第に規模を拡大していき今では首都圏に50店舗を展開する中堅クラスになっていた。
そのため去年は二部上場も果たすことができたらしい。

凛は将来笹村さんとの結婚が頭にあって、笹村さんは長男でお父さんが貿易会社を経営しているため将来はその会社を継ぐことを期待されている。
だからそうなると凛の家はやはり長男である弟の悟が継ぐということになる。

順調に成長をしているように見えるスーパー業界も、実際は競争が激しく衰退していく企業も少なくないらしい。そうした中でこれからのウエルマートの将来を考えると、後を継ぐ悟がそうした業界の本場であるアメリカでしっかり勉強してきてほしいのだそうだ。

「留学の期間は2年間で帰ってくるのは大学4年の6月ごろ。 そしてその間にとった単位はこっちの大学でも認められるからそのまま卒業できるんだ。」
悟はそう言った。

「じゃあ、2年も悟と会えなくなっちゃうんだねぇ…。」
アタシは下を俯いて呟いた。



「でも、ときどきは日本に戻ってくるんでしょ?」
「いや、その大学でオレの入るコースは長期の休暇中は向こうの大きなスーパーで働いて実務を勉強するから…。多分修了まではいきっぱなしになると思う。」

「そ、そうなんだ…。」

2年もいなくなったら、きっと悟はアタシのことなんか忘れちゃうんだろうな。
ああ、なんだろう…。
すごく悲しいヨ…。

泣いちゃいけないって思ってるのに。
泣いたら悟の重荷になっちゃうかな…。
でも、下を向けば涙はポタポタとこぼれてきちゃう。


すると悟はそんなアタシにこう言った。
「それでさ、みー姉ちゃんにお願いがあるんだ。」

アタシはポタポタとこぼれる涙を手で拭って
「なぁに? アタシ悟のためなら何でも…うっく…何でも…。」

「オレが向こうに行ってる間さ、みー姉ちゃんは恋愛禁止ネ。」

「エェェッ!」

さらに悟はこう続けた。
「いい? オレがいなくても他の誰とも付き合っちゃダメ! 彼氏を作っちゃダメ! デートもしちゃダメだヨ!」

「ア、アンタ。アタシのこと一生独身にさせておきたいの?」
「みー姉ちゃん、昔自分のプライベートは全部オレにくれるって言ったじゃん。」
「それは言ったけど…。」
「じゃあ、オレの願い聞いてくれるでしょ?」
「モー、バカ! 好きになさい(笑)」


それからカレはその1ヵ月後アメリカへと発った。

カレからは1週間に1回
土曜日の夜12時に必ずメールが来た。
そのメールにはその週に勉強したことやあったこと、そして知り合った友人たちのことが細かく書かれていた。
そしていつの間にか、アタシは土曜日の12時にはほとんど仕事を入れないようにしていた。
それは読んだ後の気持をすぐに悟に返信して伝えたいから。



何回ものメールがアタシたちの間を往復して
アタシが悟と再会したのは、それから2年後の凛と笹村さんとの結婚式だった。
悟は帰国の1ヶ月前にアメリカの大学の学位がとれたことをアタシに知らせてくれた。

それから1ヶ月間がアタシにとって待ち遠しくって仕方がなかった。
悟は凛の結婚式の1週間前に日本に帰国。
しかし数日間は慶洋大学への復学の手続などに追われていたようだった。


そして凛の結婚式当日の朝早く
悟はアタシを家に迎えに来てくれた。
このときアタシはまだ実家に住んではいたが、じつは普段の日は他に都内に事務所名義のマンションを借りていて、「工藤 祥子」という名前でそっちで生活をしていた。
そこは事務所の中の限られた人以外では凛とミコそして悟にしか連絡先を教えていなかった。

ピンポーン!
玄関のチャイムの音が鳴り、アタシははやる気持を抑えてドアをゆっくりと開く。

ああ、このドアの向こうに悟がいるんだ。

そして…。


朝6時に車に乗ってやってきた悟は、アタシの部屋に来るなり
「みー姉ちゃん。オレ、腹減ったヨー!」
と言う。

「おかえりなさい。 あら、家で朝ごはん食べてこなかったの?」
「ウン。オヤジとお袋と凛ちゃんだけにしてやろうかと思ってさ。」
「お姉ちゃんと一緒の最後の朝ごはんなのに、もったいなーい。」
「いいんだヨ。 オレはみー姉ちゃんに朝ごはん食わせてもらうんだから。」
「フフフ、チョット待ってて。」

アタシはキッチンでお米を研いでご飯のジャーのスイッチを入れ、その間にお豆腐のお味噌汁と卵焼き、そしてほうれん草の胡麻和えなどを作り、お漬物と味海苔をテーブルに並べた。

アタシが作った朝ご飯を悟が美味しそうに食べている姿。
なんか夢みたいだな…。

3杯目のお代わりを平らげた後、カレはようやく満足そうに箸を下ろす。

「ハイ、お茶。ドーゾ。」
「あ、サンキュー。」
横目で新聞を読みながらお茶を啜る悟を見ていると、思わず一人笑いしてしまう。

「フフフ…。」

そんなアタシを見て悟るは
「なんだヨ? みー姉ちゃん、一人で笑って。」
と不思議そうな顔をした。

そしてアタシは
「なんでもないヨー(笑)」
と応える。



凛の結婚式の開始は11時の予定。
アタシたちは10時まで家の中でノンビリと過し、そして悟の車で式場へと向かった。


式場に着くと悟はお父さんたちのところへ、そしてアタシは凛のいる新婦控え室へと向かう。

そこには真っ白のウエディングドレスに身を包んだ凛が部屋の中央辺りに座っていた。

「わぁー!凛、すっごくキレイだヨー! おめでとう。」

そのときの凛はまるで羽をもつ天使のようで、この世で一番美しい女性だった。


「エヘヘ、アリガトー。 なんか照れちゃうネ(笑)」
「花嫁は主役なんだから照れちゃダメ(笑) 最後まで演じきるのヨッ!」
「ハァァーーーーイ(笑)」


披露宴では凛とミコの中学のときの担任の先生が登場。
凛はその先生が中学卒業のときにみんなに課した宿題の答えを読み上げる。
その凛の答えに温かい採点をする山岸先生。
こういう先生と巡りあえた彼女たちが本当に羨ましい。


とてもステキな披露宴もいよいよお開きとなり、
その日は悟も含めてアタシたちは二次会へと参加する。
その二次会が終わったのが夜の8時。
そして凛とミコ、久美ちゃん、井川さんそしてアタシの5人で最後に近くの喫茶店で30分ほどお茶を
した。

その日、悟はアタシに何か相談があるらしく、先にマンションに行っててくれてもいいよと言ったのだけど、アタシたちがお茶をする間笹村さんたちと話をしてずっと待っていてくれたようだった。

「ゴメンねー。遅くなっちゃった。」
アタシは凛たちと分かれた後、喫茶店から少し離れた通りで悟が待つ車に乗り込む。

悟はこの日は車を運転するためずっとお酒を控えてくれていたらしい。
そして夜9時半ごろ、アタシたちはマンションの部屋へと戻ってきた。

アタシは隣の部屋でドレスから普段着へと着替え、そしてキッチンでお湯を沸かしてコーヒーを入れた。

「ハイ、悟ー。コーヒー入れたヨー。」
そう言ってアタシはダイニング中央に置かれた小さなガラステーブルの上にそれを置く。

「あ、サンキュー。」

アタシも悟の横に腰を下ろした。

悟はコーヒーを啜り、ふぅっと小さなため息をつく。

「凛、とうとうお嫁に行っちゃったネー。」
「あ、ウン。」
「チョット寂しい?(笑)」
「いんやー、ぜんぜん。」
「無理してない?」
「してないヨー。だって、凛ちゃんは凛ちゃんだしね。」
「そう?」
「ウン。そして…。」
「そして?」

「オレはオレだもん。」
悟はそう言ってまっすぐアタシのほうを見た。

「みー姉ちゃん、2年間ちゃんとオレの言ったこと守った?」
「守ったヨー。だって、そうしないとまた悟ったら拗ねちゃうもん(笑)」
「ウン。」

「まったくアンタは、アタシをずっと自分のお姉ちゃんのままにしておきたいんでしょ?(笑)」
アタシはそう言って笑おうとした。

すると悟は
「違うヨ。」

「エ?」

「美由紀はオレのものだもん。」

「ェ…。」
悟がアタシのことを美由紀って…呼んだ。
初めて
アタシのことを。

お互い目と目がまっすぐとつながって
そしてアタシたちはほとんど無意識に、
それは吸い寄せられるように
お互いの唇を重ねあったんだ。

そして
カレはそれだけでは終わらせようとしなかった。

カレはキスをした舌先をアタシの首筋に這わせてきた。

「チョ、チョット…さと…る…。まって…。」
「なんで?」

「だって、アンタはアタシの友達の弟なんだ…ヨ。」
「それは単なるきっかけじゃん。凛ちゃんは凛ちゃん、オレはオレってさっき言ったでしょ?」

「だ、だって、ぁぁ、アタシ、アンタより3歳も年上…ぁぁ…。」
「学年なんて人間が勝手に決めたことだからあんまり意味ない。」

そしてカレはアタシのシャツを上に捲り上げてしまう。
そのとき下にキャミソールをつけていないアタシは即ブラジャーの状態。
悟はそのブラすら背中のホックをパチンと外してしまう。

「さ、悟~。みー姉ちゃん、恥ずかしいヨォー。」
「フフフー、もうみー姉ちゃんじゃないの。 美由紀はオレの女だもん。」

「悟~。」

わぁぁぁーーーーー。
悟がアタシの胸を舐めてるぅぅーーーー。
あの可愛かった悟がアタシのおっぱい吸ってるヨォォーーー。

ときどき上の方に這い上がってきては、カレはアタシの唇に自分の唇を重ね合わせる。
そうするとアタシの胸の奥の方で何かが締め付けられるような、すごく切ない気持が湧き上がってくる。

「はぁ、はぁ、ぁぁ、悟、悟ーーーーー。」

そして、カレの手はいよいよアタシのスカートのホックにも手をかけてしまう。
ショーツを脱がされたとき、アタシはホントに恥かしくて涙が湧いてきた。

「美由紀ははじめて?」
悟がアタシにそう聞いてきた。

「当たり前じゃん! だって、アンタがアタシに他の男を近寄らせなかったんでしょ?」
「そっか。ならお互い初めて同士だね?」
「エ、そうなの?」

「ウン、だってオレ昔からずっと美由紀だって決めてたもん。」
そう言って悟はあたしの目をまっすぐ見る。

ああ、もうダメだぁー。
アタシ、もう何をやっても悟には逆らえないー。

観念したアタシは身体の力を抜いてくたっとなってしまう。
悟はそんなアタシを抱いてベッドの上に降ろし、そしてギュッと抱きしめて覆いかぶさってきた。

(いっっ、いたぁぁーーーーーーーーっ!)

ぐりぐりと中に押し入ってくる悟のアレ。

「さと…る。ゆっくり…、もっとゆっくり…。」
しかしどうもアタシのそんな悲痛な叫び声はカレの耳にはあまり入っていない様子で

ああ、でも下は痛いけど
悟に抱かれて肌を合わせている感じはなんか心地良い。

それでも
ボーっとする頭の中で何かを忘れている気がする…。

(エ、あ…そ、そうだ。 この子、今アレつけてない…)

悟がベッドでアタシの身体を降ろしてそういうものを着けた様子はなかった。
また今から着けるにしても、処女のアタシがそんなものを用意しているはずもない。

「さ、悟。あの…。」

「エ、なに?今、オレ忙しいんだけど。」
悟はそう言ってアタシの身体にしがみ付いて腰を前後に動かし続けている。

(エット、この前アレ来たのいつだったっけ?)
(あれから、エット、エット…12足して、エット…。)
(あー、もう考えられない!)

そうしている間に悟の息が段々荒くなってきた。
「み、美由紀。 オレ、もう、もう…。」

(このままがいい。悟のをアタシの中に受け入れたい。)
アタシは悟の身体にしがみ付いて言った。
「いいヨォ。 悟、おいで。 アタシの中においでぇぇぇーーーー!」

そしてカレはアタシの中で果てた。

終わった後、カレはアタシの身体の上にくたっと乗っかったままじっとしている。
アタシはそんなカレの身体の重さがすごく心地良かった。


それからしばらくアタシはドキドキしながらときを過した。

(もしも妊娠しちゃったら…。)
(悟はまだ大学4年生、結婚なんてとても考えられる年齢じゃない。)
(でも、もし赤ちゃんができたとしたら、アタシは…悟の子をおろすことなんて絶対にできない。)


そんなことを思いながらアタシは10日間を過した。
次の予定日にちゃんと生理が来たときはアタシはホッと胸を撫で下ろした。

しかしそれからの悟はけっこう頻繁にアタシのことを求めてきた。
それもアタシと会うまでの間は男の人のそういう我慢をしてくるので、会えば一気にそれを爆発させてしまい、2回、3回は当たり前状態(笑)
月に2回のオフの日には、必ず悟はアタシのマンションへとやって来て、そしてアタシは彼に抱かれる。

ただし、さすがに自分でも考えたのか、その後はしっかりアレを買ってきてアタシの家に備え置いていた。

マンションでセックスをして、そして悟はアタシが作ったお夕飯を食べて家に帰っていく。
カレがいる間はすごく幸せ。
でも、カレが帰った後の部屋の中は寒くってとても寂しい。


そんなことが半年ほど続き、悟はいよいよ大学を卒業する。
悟は卒業後にそのままお父さんの経営するウエルマートに入社した。
ただしカレのお父さんはそんな悟に対しても特別扱いはしない。
カレは入社後は都内にある店舗の平社員としてスタートを始めた。


アタシは何度かカレが働いているところを見に行ったことがあった。

カレは朝早くから出社して、そして店舗前の掃除から始める。
そしてアルバイトに混じって商品の陳列を行い、レジの手が足りないときには積極的にレジ打ち入り、夜になってから売上の集計をして、その後明日の特売予定の確認。
仕事が終わるのは毎日8時を過ぎたころだった。

そして悟がウエルマートに入社して1年が過ぎようとしたとき
カレはいつものようにオフ日の前夜にアタシのマンションに泊まりに来た。

アタシはなるべくカレの疲れが溜まらない様にと、予め夕飯の用意をしてそしてお風呂の準備をしておく。そして、一緒に夕飯を済ませ、アタシがいつもベッドの横の引き出しに入っている避妊のためのアレを確認しようとするとちょうど切れてしまっていた。

「あれ、もうなくなっちゃってる。 どうしよう…。」
アタシがそう呟くと悟は

「あ、今日はいいんだ。 それよりチョット外に出ないか?」
「いいけど…。もう10時ヨ? どこ行くの?」
「渋谷。」
悟は渋谷のどこに行くとも言わずアタシに外へ出る支度を急かせた。

アタシたちは悟の車で夜の渋谷の街へと向かった。

「さあ、着いたヨ。」
そこは昔アタシが高校生のときに同級生の田所君と映画に行ったとき、悟とバッタリ会ったシネマホールの隣にある喫茶店だった。

「あれ、ここの映画館って。」
「そう、覚えてる?」
「ウン。でもなんで?」
「オレさぁ、あのとき美由紀と怪物くんの映画観た後、この喫茶店に連れてきてやる予定だったんだ。」
「そうだったんだ?」
「ウン、とりあえず入ろう。」

お店の前の看板を見ると、その喫茶店は深夜の12時まで営業をしているらしい。
アタシたちは窓際の席に着くと、悟はウエイトレスさんの持ってきたメニューを手に取る。

「ここはケーキが美味いらしいんだ。 美由紀の分もケーキはオレが選んでいい?」
「あ、ウン。いいけど…。」

悟はウエイトレスさんにケーキの名前を口出さず、メニューの中から指を指して
「これを2つ。それとホットコーヒー。」
とだけ言った。

そしてしばらくしてそのウエイトレスさんが持ってきてくれたのは
チョコがたっぷりとかかった生チョコケーキ。

「悟、これ…。」
「美由紀がいつもオレのために買ってきてくれただろ? だからオレも美由紀にこれをご馳走してやりたかったんだ。」
「悟ぅぅ…。」

嬉しい…。
あのときの悟の気持をアタシにちゃんと言ってくれるなんて。

アタシは悟がアタシのために選んでくれたチョコケーキを一口頬張る。
「わぁ、すごく美味しいー!」

すると悟はつぎにアタシの前に小さな箱を取り出してこう言った。
「あのときはケーキだけだったけど、今日はもうひとつある。」

「エ、なんだろ?」
アタシは悟が取り出した小さな箱を開けると
そこには可愛いプチダイヤのついた指輪が入っていた。

「さ、悟、これ…。」
「まだ新入社員だからな。大したものはあげられないけど、一応プロポーズのつもりなんだ…。」
「いいの? アタシ、これもらっちゃって…。」
「当たり前だろ。 オレ、あのときからずっと美由紀にいつかこれをあげるつもりだったんだぜ。」
「嬉しい、嬉しいヨォ…。悟、嬉しいヨォーーーーーー。」

ああ、涙が溢れてきて止まらない。
アタシ、きっと初めて会ったときからずっと、ずっと悟にこう言ってもらえるのを待ってたんだって、いまやっとわかったヨ。



それからアタシたちは色々なことを話し合った。
悟はアタシがしばらく芸能界を続けることに反対はしなかったが、それでもアタシは最終的には自分で引退を決断した。

アタシが芸能界に入るときに事務所の前田さんは、何かを得る代わりに何かを失う覚悟を話してくれた。ならば、アタシはカレに愛情を尽くすことを選びたい。そのために失うものがあってもカレとの生活のほうがアタシにはずっと大切だからだ。
だから前田さんはアタシに自分で本当に大切だと思うほうを選びなさいと言ってくれたんだ。


アタシはそれから3日後にその決心を前田さんに伝えた。
前田さんは多くを言わず、アタシの気持をそのまま受け入れてくれた。
ただし、今すぐ結婚というのは難しい、あと1年待ってほしいことも言われた。
このときアタシはCM3本、そして主演ドラマを1本とレギュラー番組ももっていた他、2ヵ月後に大きな役での映画撮影の仕事も予定に入っていた。
だから、そうした予定がすべて終わってからの結婚という約束になった。


それからまずアタシと悟はそれぞれの家に結婚の承諾をもらいに行く。

凛のお母さんは、うすうすアタシたちのことを気付いていたらしかった。
芸能人という存在であるアタシよりも娘の友達として家にしょっちゅう来ていたアタシを見てくれて、お母さんもお父さんも心から祝福してくれた。

一方でウチの家のほうがアタシには心配ではあったのだけど、これはかなり意外な結果になった。
アタシのウチは弟が小さいときに亡くなってしまったので、アタシが一人っ子ということになり家を継ぐ者がいなくなってしまう。それをアタシは心配していた。
ところがウチの両親は
「まあ、ウチは元から分家だしな。そんな家を継ぐとかどうとかあんまり気にしてないから。」
「家のことは気にしないで好きな人と一緒になりなさい。」


こうしてお互いの家のことも問題なくなり、アタシはあとは残った仕事をしっかり終わらせることを頑張ることとなった。


その後、事務所からアタシの結婚について正式な発表が行われた。
ただし、結婚相手が芸能界とは関係のない一般人のため、その相手の素性については当面控えさせてほしいということになった。



そして2ヵ月後
アタシにとっていよいよ芸能界最後となる映画撮影がクランクインした。

この映画は戦前から戦後にかけて女子教育に一生をささげた女性の物語で、アタシはかつてその教師の教え子で卒業後その学校の女教師となるという役だった。

アタシはこのとき26歳。
そしてそのアタシの勤める学校で事務職員を勤める女性の役に22歳の神林うなという女の子が選ばれた。
彼女は20歳のときにグラビアタレントとしてデビュー、その後はわりとズケズケと物事を言うイメージを生かしてバラエティを中心に活躍し始めた娘だった。
ただあまり周りの人の気持に気を使わないところがあって、番組の中での衝突も少なくないという話も聞いたことがあった。

あるとき
撮影の合間の休憩時間

彼女はアタシにこんなことを言ってきた。
「ねぇ、佐倉さん、エンゲージリングってどんなのをもらったんですかー?」

「エー、どんなのって言われても…(笑)」

すると彼女は
「みたーい! ねぇ、今度持ってきて見せてくださいヨー。」
とアタシにねだった。


じつはアタシは悟からもらった指輪は、いつも自分のそばに置いておきたいバッグの中にしまってあった。そしてそれをときどき取り出しては指にはめてニヤニヤとしてしまう。

「ウーン、見てみたい?」
アタシは彼女にそう尋ねると

「あ、今持ってきてるんですか? だったら、見せてくださいヨー。」

そこでアタシはバッグからその指輪の箱を取り出して彼女の前で蓋を開けて見せた。

すると彼女は
「エ、これってホントにエンゲージリングですか? なんかこのダイヤすごく小さくないですか? もっと大きなのが付いたのをもらえばよかったのにぃー。」


そのとき
アタシは
プチーーーーンと
キレた。

さすがに


「ア、アンタ! こ、この指輪はね、カレが朝早くから夜遅くまで一生懸命働いたお金でアタシに買ってくれたものなんだッ! アタシにとっては一億円のダイヤなんかよりずっとずっと価値があるものなんだー!」
と叫んだ。

周りにいる人たちが一斉にアタシたちの方に振り向く。

するとその娘は
「エ、なんでそんなに熱くなっちゃってるの? なんかつまんなーい。」
とその場から逃げていってしまった。


シーン…。
沈黙がその場を支配してしまった。


本番を前にして周りの空気が一気に重くなってしまった。
これは映画に関わる者として絶対にしてはいけないことのはずだった。

「あああ…。」

アタシはその場でしゃがみ込む。
アタシの大切な指輪を馬鹿にされた悔しさから涙がどうしても止まらない。

そのとき
主役の教師役を務める京橋桐子さんがアタシに近づいてきた。
彼女は芸能界でも一にを争う名女優で大先輩。
アタシみたいな10年程度のキャリアなんか比較にならない存在の人だ。

京橋さんはしゃがみこんでいるアタシの前で足を止めた。

(お、怒られるー。)
アタシは一瞬目を閉じて身体を竦めた。

すると京橋さんはアタシの肩に手を置きこう言った。
「佐倉さん、アタシにもその指輪見てもらっていいかな?」

アタシは恐る恐る指輪を差し出す。

彼女はアタシの指輪を大切そうに手にとって眺め、
「ウン、これはとてもステキな指輪ネー。 この指輪を見るとカレのアナタに対する愛情がよくわかるわ。 アナタ、きっと幸せになれるわヨ!」
と言ってくれた。

京橋さんのその言葉にその場の雰囲気が一気に明るく変わってしまった。
スゴイ! やっぱり大女優の持つ魅力なんだろうか。

そして近くにいた先輩女優の西野理恵子さんも寄ってきて
「みーちゃん、アタシにも見せてー。」と声をかけてくれる。

「わぁ、可愛い指輪だネー。彼氏さんは、きっとみーちゃんのために一生懸命この指輪を選んでくれたんだヨ。」

するとそこに渋さが大人気の先輩俳優大森正二さんがやってきて茶々を入れてくる。
「理恵子もこういう指輪を贈ってくれる人に早く出会わないとなー!」

「よけーなお世話ヨー(笑)アタシの心配する気があるんなら誰かいい人紹介してチョーダイ!」
「アハハハハーーー!」



そしてそれからおよそ半年後
アタシにとって人生最後の芸能活動となった『愛の絆』は無事クランクアップすることとなった。

この映画での最後のお仕事である舞台挨拶のときには客席の方から多くの人が
「みーちゃん、お幸せにネー。」と声をかけてくれて、アタシは思わずうれし涙を流してしまった。

アタシは27歳
17歳で芸能界に入り、そしていろいろあった10年間だった。
凛やミコ、佐藤優実先生、前田さん、そして多くの人達に支えられてなんとかやってこれた。
きっとアタシだけの力じゃないって思ってる。


そして迎えた悟るとアタシの結婚式

披露宴では、凛とミコがアタシをステージの上にあげてまた3人であの曲『年下の男の子』を歌った。
この曲はアタシたち3人にとって一生忘れられない思い出。
だから3人の結婚式でそれぞれ歌おうって決めたんだ。

お式には中学のときの友達も3人だけ呼んだけど、お祝いの言葉をしてくれた青葉学院高等部でアタシたちの担任だった佐藤優実先生は
「まあ、みーちゃんは高校時代とにかく手がかかる娘でしてー。」と笑いながら言うと中学時代の優等生で品行方正な学級委員のアタシのイメージしかないその3人はかなり意外そうな顔をしていたっけ(笑)
高校に入学して、そして凛やミコと出会えて、きっとアタシは本当のアタシに出会えたような気がする。
そしてそんなアタシだからきっと悟は愛してくれたんだって思う。


この結婚式から1年を待たずして、アタシたちは男の赤ちゃんを授かった。
なぜそんなに早かったかっていうと、それはハネムーンベイビーちゃんだから(笑)

それまで一応は避妊に注意してくれていた悟は、新婚旅行先のハワイに着くなりアレの箱をゴミ箱にポイッと投げ捨ててニヤリと腹黒そうに笑いながらアタシにこう言った。
「フッフッフ…。 さー、今日からは容赦ないぞー!」
「ヒエェェーーーッ!」

アタシたちはその男の子に『哲』と名前をつけることにした。
なんでこの名前をつけたかっていうと、アタシたちが結婚する少し前に前にお義父さんにこういう話を聞いたことがあった。
「凛が生まれるときに、じつは男の名前と女の名前をそれぞれ考えたんだ。それで女の子だったから凛ってつけたんだけどね。」
「じゃあ、もし男の子だったらなんてつけてたんですか?」
お義父さんはエヘンと軽く咳払いしてこう言った。
「哲、小谷 哲さ!」

それでアタシはこの話がそれからずっと頭に残っていて、男の子が生まれたとき悟にお願いしてこの名前をつけてもたらったわけ。


でも…。
アタシの出産が終わって病院にお見舞いに来てくれた凛とミコと久美ちゃんの3人はその名前を聞いて
「エッ!」という顔ですごく驚いてたけど…。

それってどうしてなんだろう?



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『ときの流れの中で…』のスピン・オフ小説、「弟以上恋人未満(みーちゃんと悟の場合)」いかがでしたでしょうか。

みーちゃんは悟君のお姉さんの親友、しかも3歳年上。
でも年齢や学年なんてしょせん人間が作り出したものだから。
お互いを想う気持があれば、きっと愛は成立するって思うんです。

みーちゃんが処女を失ったとき、痛みに喘ぐ彼女が悟君に避妊スキンのことを尋ねようとしてカレが言った台詞

「さ、悟。あの…。」

「エ、なに?今、オレ忙しいんだけど。」
悟はそう言ってアタシの身体にしがみ付いて腰を前後に動かし続けている。

きっとカレも初体験で一生懸命だったんでしょう(笑)
でももしこんな風に言われちゃったら、女の子はもう何もいえなくなっちゃうかも…。

そして最後はみーちゃんもカレのものを自分の体内に受け入れてしまった。

ただ女の子ってその場の雰囲気に流されてしまうというより、実際そうなるときは女の子自身それを望んでしまうんじゃないかって思うんです。



とにかくこれでみーちゃんも結ばれて安心♫

スピンオフ3「29歳のガールズトーク」

(凛)
「ネェ、久美ちゃんの旦那さん元気?」
(久美子)
「もう、あいかわらずヨー! 最近じゃ娘の詩織にべったりでさぁ。 男って娘ができるとああなるもんかなー!?」
(ミコ)
「凛のところはどーなの? 笹村さんってクールだし、娘にもやっぱりクールそうだけど。」
(凛)
「とーーーんでもないっ! 会社から帰ってくるとさ、『笑ちゅわんー。パパちゃんでちゅヨー!』とか言っちゃってさぁ(笑) もー、ベタ甘ヨ!」
(久美子)
「ヘェー、笹村さんのイメージ破壊だねぇ(笑) その点、ミコのところは男の子だし、芦田さんは友君を厳しく育ててそうじゃない?」
(ミコ)
「まあ、女の子とは少しは違うけど、でもやっぱりネー(笑)」
(凛)
「やっぱりネーって?」
(ミコ)
「あのさ、ウチの子ってまだ3歳じゃん? それなのに、旦那さん、この前野球のグローブとボール、その次の週にはサッカーボールまで買ってきちゃったのヨ。」
(久美子)
「エー、それはさすがに早すぎだよネ(笑) でも、やっぱり大きくなったら一緒にキャッチボールとか期待しちゃってるんだろーネェ。」
(ミコ)
「だろうねネー(笑) もう可笑しくって。 早く帰ってきたときはお風呂も入れてくれるんだけどさ、ほら…男の子のあそこ…あるじゃん?」
(凛・久美子)
「ウンウン!」
(ミコ)
「じーっと見てさぁ、『これは立派になるぞー!』なんて言ったり! もー、こっちが恥かしくなっちゃうわヨ(笑)」
(凛・久美子)
「きゃぁぁぁ~~~~~~~~!(喜)」
(ミコ)
「そういえば、凛のとこの笑ちゃんと久美子のとこの詩織ちゃん、幼稚園同じとこ行ってるんでしょ?」
(凛)
「ウン、そうだヨ。 それに耕作くんも一緒なんだよネ。」
(久美子)
「ソウソウ。」
(ミコ)
「耕作君って、あの笑ちゃんと詩織ちゃんがどっちも好きだっていう男の子?」
(凛)
「そう、その『こーちゃん』。もう最近じゃライバル意識むき出しでさぁ(笑)」
(久美子)
「あー、そうだネェ! 幼稚園でもこーちゃんが笑ちゃんと一緒にいると詩織がそこに割って入ったりして(笑)この前なんか2人で『詩織と笑ちゃんのどっちを将来お嫁さんにしてくれるの?』って耕作君に迫ってた。」
(ミコ)
「それは…耕作君も困っちゃうよネー(笑)」
(凛)
「エー、アタシそれ知らない。 それでこーちゃんは何て返事たの?(笑)」
(久美子)
「それがさぁ、笑っちゃうのヨ!(笑)」
(凛・ミコ)
「ナニナニ!?」
(久美子)
「『ボクのことを自由にさせてくれる方をお嫁さんにしてあげる』だって!(笑)」
(凛・ミコ)
「!!!(大爆笑) それは男の本心を言ってるわ!」



さてさて
本日は3人が久しぶりに凛ちゃんの家に集まってガールズトークに花を咲かせています。
子供たちはみんな幼稚園のお泊り会。そして旦那さんはそれぞれ遊びに行って。
今年29歳の女の子たちはチョコやクッキーやケーキなどを所狭しと並べてワイワイガヤガヤ…
旦那さんたちがいないと思って、みんなもう言いたい放題のご様子ですね。
そこに

ピンポォォォォーーーーーン

(凛)
「あ、きた、きた。」

遅れてやってきたのはみーちゃん。

(みーちゃん)
「やっほー、遅れちゃってゴメンねー。」
(ミコ)
「みー、遅いぞー。」
(みーちゃん)
「ゴメン、ゴメン。 出かけに哲におっぱい飲ませるの手間取っちゃって。」
(久美子)
「哲ちゃん、元気そうだネー。」
(みーちゃん)
「もー、スゴイ元気ヨー! 毎日おっぱいチューチュー吸ってさぁ、離さないのヨ。 それで悟が『ホントはオレのおっぱいなのにぃー!』ってプンプンしちゃって(笑)」
(凛・ミコ・久美子)
「!!!(大爆笑)」
(凛)
「悟はずっとみー姉ちゃんのこと独占してきたからネェ。」
(ミコ)
「子供ができて独占できなくなっちゃったから拗ねてるんだ?(笑)」
(みーちゃん)
「でも夜はちゃんと独占させてやってるんだヨー。 もうほとんど毎日…(笑)」
(久美子)
「あらあら…(笑)それじゃ2人目も早そうだネー。」
(ミコ)
「あれ、そういえば、凛って前にダイエットしてたのに今日はやけに食べてるわネ?」
(凛)
「エ、そ、そうかな?」
(久美子)
「まさか…?」
(凛)
「エヘヘー。 発表しまーす! 2人目、できちゃいましたぁー!」
(ミコ・久美子・みーちゃん)
「やっぱりぃぃーーーー!」
(ミコ)
「そっかぁ。あの甘えん坊の凛が2人の子供のママさんになるんだもんなぁー。アタシらも歳取るわけだわ(笑)」
(凛)
「エー、アタシそんな甘えん坊じゃないもーん。」
(久美子)
「ネ、今度は男の子と女の子とどっちがいい?」
(凛)
「ウーン、アタシは今度は男の子かなぁ…って。 女の子も可愛いけど、男の子って母親にとってなんか特別みたいな感じするんだよネェ。」
(ミコ)
「あー、それわかるわぁ! なんかさぁ、自分の中から異性が生まれてくるっていうのがスッゴク不思議でさぁ。だからよけい愛おしいっていうか。」
(みーちゃん)
「ソウソウ! わかるわぁー。」


それから1時間

(みーちゃん)
「あら…。」
(ミコ)
「ん? みー、どうしたの?」
(みーちゃん)
「んー、なんかおっぱいがまた張ってきちゃった。 チョットお乳をあげに帰ってくるわ。 また戻ってくるからさ。」
(凛・ミコ・久美子)
「オッケー。 またあとでネー。」

そしてみーちゃんは、哲ちゃんにおっぱいをあげるため、凛ちゃんの家から歩いて10分ほどのところにある自分ちに戻っていきます。
じつはみーちゃんと悟君は悟君の家、つまり凛ちゃんの実家に同居しているわけでして。

(ミコ)
「そういえばさぁ、凛に聞きたかったんだわぁー。」
(凛)
「ウン、何?」
(ミコ)
「アンタ、ワタルBとどこまでいってたのかって。」
(凛)
「エェェェーーーッ!」
(久美子)
「あー、アタシもそれ聞きたかった。なんか彼氏と彼女とかっていってたけど、どうだったの?」
(凛)
「ウーン、キス…くらい。」
(久美子)
「キスっていっても色々あるでしょが!? 言ってみなさい!」
(凛)
「最初の方はね、チュッ…って。」
(久美子)
「その後は?」
(凛)
「…舌が…にゅる…って。」
(久美子)
「うわぁー!ディープキスですかっ!?」
(ミコ)
(近親…相姦w)
(久美子)
「ミコ、何ニヤニヤしてんのヨ?」
(ミコ)
「いえ、別に!」
(凛)
「ヘンなミコ。」
(久美子)
「じゃあ、処女は?」
(凛)
「エー、そこまではいってないヨー。」
(久美子)
「じゃあ、笹村さんがはじめて?」
(凛)
「ウン、そうだヨー。」
(ミコ)
「いつ?」
(凛)
「エ、いつって?」
(ミコ)
「アンタの処女ソーシツヨッ! 決まってんでしょ。」
(凛)
「高3の…クリスマスです。」
(ミコ・久美子)
「アハハ! アお決まりのパターン!!!」
(凛)
「いいじゃん!」

スピンオフ4「29歳のガールズトーク2(ベルサイユの凛)」

(久美子)
「そういえばさぁ、凛って女の子として生活始めたとき何の違和感もなかったの?」
(凛)
「ウーン、なかったわけじゃないヨ。 たとえば女の子の服とか言葉遣いとか、最初は戸惑うことばっかりだったし。」
(ミコ)
「そうだったネェ。 凛は3ヶ月くらいは一人称が『ボク』だったし(笑) あ、服っていえばさぁ…。」
(凛)
「あー! ウンウン!」
(久美子)
「エー、なになに?」
(ミコ)
「アハハ、思い出すネェ(笑)」
(凛)
「あのときは焦ったー(笑)」
(久美子)
「2人でなに納得しあってるのヨ。 アタシにもちゃんと話しなさいヨー。」
(凛)
「ウーン、じゃあ(笑) じつはこんなことがあったのヨ。」

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それはアタシが中3になった4月のある日のことだった。

朝、目が覚めると
「わぁぁーーー! もう7時50分じゃん! どーしよー、遅刻だぁー!」

ミコと一緒に青葉学院高等部を目指すことを決心し、アタシはその日から勉強勉強の毎日を繰り返していた。その日の前日も夜中の2時半まで勉強をしていて、前夜にかけておいた目覚ましのけたたましい音もなんのその!
朝起きたらなんといつもより30分も大寝坊してしまった。

しかも寝ぼけ眼の上に今週初めから生理が始まって頭はフラフラ状態。
アタシは重い身体を無理に引きずって、とにかく歯磨きと洗顔を済ませて、部屋のハンガーにかかっている制服をばさばさと着こみ髪をとかす。

「ああ、つら~~~い…。」
机の横にあるカバンを手に持って1階にあるダイニングキッチンに降りていった。

テーブルの上にはすでにトーストとハムエッグ、そしてオレンジジュースが置いてあり、母親はキッチンで忙しそうにしている。

「凛ー、早く食べちゃいなさい。 遅刻するわヨー。」
「わかってるー。 ああ、もうホントに間に合わなくなっちゃう。」

アタシは、目玉焼きを素早くおなかに流し込み、そして残ったハムをトーストの上においてトーストを半分に折ると、それを口にくわえてバタバタと玄関に急いだ。

するとキッチンの奥の方から忙しそうにしている母親はこっちの方を向かないまま
「あ、今日はお母さん、午前中松戸のちーちゃんの家に行ってくるからネー。」
と大声で声をかける。

アタシは
「わかったー。じゃあ、行ってくるからー。」
と焦って家を飛び出した。

(ああ、もうあと12分かぁ。 間に合うかなぁ…。)

家から学校までは普段歩いて15分はかかる。
アタシは息を切らせながら早歩きでスタスタと歩いた。

その途中、何人かの人にすれ違った。
誰も見知らぬ人ばかりなのに、男の人も女の人もなぜかすれ違うたびにアタシの方をチラッと見ている。

(なんだろう? 口に目玉焼きの残りでも付いたままになっているんだろうか。)
しかし口元に手をやって拭っても手にそういうものは付いてこない。
少し不思議に思いながらも、とにかくアタシは学校への道程を急いだ。

(ああ、あと3分!)
やっと正門が見えてきた。
もう他の生徒たちは校舎の中に入ってしまっている様子。

そしてチャイムが鳴る8時15分
なんとかアタシは校舎のところに辿り着いた。

階段は2段飛びでピョンピョンと上がって行き、やっと教室の前。

そして
アタシはガラッと扉を開けて教室の中に入っていく。

ラッキー!

担任の山岸先生はまだ来ていない。
教室の中ではミコが久保ちゃんや奈央と席の近くに集まって談笑している。

そこにアタシは
「オハヨー!」と彼女たちに声をかけた。

すると
振り返ったミコたち3人はアタシのことを見てなぜかポカーンと口を開けて見ている。

「エ、なに? ミコ、どーしたのヨ?」
アタシはハアハアと小さく息を切らせながらそう尋ねると

「凛…、アンタ…。」
「?」
「ど、どーしちゃったのヨ!? その格好! アハハハハ!!!」

ミコも久保ちゃんも奈央も、いきなり大きな声で笑い始めた。

「エ、なんで? なんで笑ってるの?」
「ア、アンタ、その制服!!!」
「…制服?」

そしてアタシは頭を下げて自分の首から下を見下ろしてみた。

「ああああああーーーーーーーーーーーーっっ!!!」

な、なんと! アタシは遅刻に焦って慌てていたため、いつもの制服の隣にかけてあった昔の『男子の制服』を着込んで家を出て着てしまったのだった。

「ア、アンタ、アハハハ!どーしたの!? 女の子やめちゃったの!?」

周りの子たちもミコの派手な大爆笑にこっちを振り向く。
すると教室中がワァーーー!と大騒ぎになった。

「凛、どーしたの? きゃぁ♪ なんかすごいカワイイー!」
女の子たちが一斉にアタシの周りに集まってくる。

教室の隅にある大きな鏡に自分の姿を映すと
すでに肩まで伸びた長めのボブカットにふっくらした女の子の顔。
それが男子の真っ黒な学ランを着込んでいるんだから違和感MAXだ。
しかもこの頃では体型が急激に女性的に変化してきて、男子の制服は上着がダボっとしているため腰つきはそれほど目立たないけど、胸の膨らみはやはり目立ってわかる。

「あわわわーーーーーーーーーー。」
(ど、どーしよー! 間違って男の制服着てきちゃった!)
(そっかぁ、だから朝すれ違った人がみんなチラチラボクの方を見てたんだぁー。)

じつはこの頃アタシは昔着ていた男子の制服を、中々捨てがたくって、思い出のつもりで女子の制服の横にかけていた。どうも慌ててそれを着てきてしまったらしい。

「なんかすごくアンバランスなんだけど、そのアンバランスさがよけい艶かしいっていうか…。」
男子たちまでそんなことを言い始める。

「あああああ、困ったぁーーーー!」

とはいっても体操着は昨日の体育の授業のあと家に持って帰ってしまっている。
他の女の子もそのようだった。
男子の中にはそのまま個人ロッカーに入れっぱなしの人もいるらしいけど、そんな男の汗臭い体操着なんか絶対に嫌!


それにしても久しぶりに切る男子の学ランはズシンと重かった。
そのせいか肩が凝ってしょうがない。
アタシはせめて上着だけでも脱ごうとすると、Yシャツからはブラジャーの後がハッキリと透けてしまい、男子はなんとも目のやり場がなさそう。

男子はチラチラとアタシのYシャツに目を配らせている。
ジーッとは見ないけど、チラチラと目を逸らしながら見るからよけいゾクゾクしてくる。

(そ、そんな目つきでみるなぁぁーーーー!)
仕方がなくアタシはまたその上着を着るしかなかった。

そんなアタシを弄くるかのようにミコは
「まあまあ、とにかくもう先生来ちゃうし、席に着こうヨ。 それにしても…ウプププ…。」

「ウン、小谷さん。とってもステキヨ。それにしても…ウプププ…。」
いつも冷静沈着な井川さんまでが笑いを堪えきれず、アタシにそう声をかけた後は後ろを向いて噴出している。

アタシは仕方がなく真っ赤になったまま自分の席に腰を降ろした。

するとそのとき
ガラッと扉が開き担任の山岸先生が入って来て、みんなはバタバタと自分の席に着く。

先生はそのまま教壇に登り
そこにクラス委員の井川さんが挨拶の号令をかける。

そして
先生が「皆さん、おはようございます」と言って顔を上げたとき、アタシとバッチリ目があってしまう。

山岸先生はボーゼンとした顔でアタシを見ている。

「あ、あの…その…。」
なんて言い訳すればいいのかわからず口ごもっているアタシに先生は

「小谷さん! ど、どーしたの? その制服はっ!」

「じつは…。」
アタシは真っ赤になった顔で朝のときの事情を先生に話した。

「なるほどネー。 まあ、それじゃしょーがないけど…。 それにしても…プププ…カワイイ…。」

(あーーーーーーーん!先生までーーーーー。)

「とにかく、そのままってわけにもいかないわネ。 アタシがお母さんに連絡を取ってアナタの制服を持ってきてもらうように言うわ。」
そう言って、山岸先生は自分の携帯電話を取り出してウチの家に電話をかけた。

プルルルルルーーーーーーーーーーーーー。
「あら、おかしいわね…。誰も出ないわヨ。」

「あ、そう言えばウチの母、朝キッチンから今日は午前中松戸の親戚の家に行くって言ってました。」
「あらぁー、それじゃお母さんの携帯電話の番号教えて?」

そして今度は母親の携帯へとかけてみると
「おかけになった番号は、電波の届かないところにいるか電源が入っておりません。」
というアナウンスが流れる。

「多分、もうお母さん、電車に乗ってらっしゃるのヨ。 後でまたかけてみるから、とりあえずそれまではその格好でいるしかないわネ。 それにしても…ウプププ…イエ、ゴメンなさい。 でも、プププ…。」


あー、なんて恥かしいことにーーーー。
中2の2学期のはじまりから女性として生活を始めたアタシ。
女子の制服だとスカートなので、腰から下は開放感があるけど、久しぶりの男子のズボンはなんか窮屈。
普段着としてジーンズやパンツを穿いたりもするけど、なんか制服のズボンとは違う気がするんだ。

アタシはもう一度教室の隅に置かれている大きな鏡を覗く。
すると、そこにいるのはかつて男子の制服を毎日堂々と着て学校に来ていた小谷 哲の姿とは明らかに違う、一人の女の子が男子の制服を着ている姿だった。
体型とか髪型とかそういうものだけではなく、それはきっと女性としての雰囲気なのかもしれない。



トホホホ…。
仕方がなくアタシは自分の席に再び腰を降ろした。

そして
それから多分この話は先生が職員室に戻って瞬く間に広がったのだろう。
他の先生が授業で教室に来るたびにアタシの方を見て必死に笑いをこらえている。
まるで地獄のような時間はゆっくりゆっくりと過ぎていく。

休み時間には他の女の子たちが
「ネー、凛。写真撮ろうヨー。」とアタシを囲んで携帯の写メをパチパチとやる始末。

「やぁーん、凛、カワイすぎるー!」
「今度はアタシとー。」
まるでアイドルタレントのように引っ張りまわされる。 


さて
しかし困ったのはトイレだった。
その日アタシはちょうど生理の真っ最中。
ナプキンを取り替えるためにトイレに行かない訳にはいかなかった。

そこでミコや久保ちゃんたちがアタシの付き添いで一緒に女子トイレに入る。
ところが中に入ると、そこにいる女の子たちは男子の学ランを着ているアタシに一瞬

「きゃぁー!」と声をあげるが、しげしげとその制服を着ているアタシの顔を見ると
「ど、どーしちゃったのー!?凛、その格好!」と言って驚き
そして、「カワイイーー!」と囲い込んだ。

それから山岸先生がウチの母親とやっと連絡がついたのは10時を過ぎてから。
母親が女子の制服を入れたバッグを持って学校に来たのは給食の時間になってからだった。

トイレでやっと女性の制服に着替えて教室に戻ったアタシに他の女の子たちはしきりに
「もったいなぁぁーーーい!」
「もっと着ててほしかったのにぃぃーーーーー!」
と残念がる。

(アンタら、アタシで遊んでるネ…。)

そして
それからしばらくの間、アタシは他の女の子たちに『オスカル』と呼ばれていたのだった。

スピンオフ5「ワタルのキモチ」

ボクがまだ幼い頃、日本と中国との間に戦争が起こった。

この戦争はずいぶん長い間続いている。
そしてとうとう昭和16年にはアメリカまで敵にしてしまった。

最初の頃は日本が勝っている威勢のいい話を良く聞いていたけど、そのうちどうも様子がおかしいことを感じてきた。
毎日ラジオから流れてくるニュースでは、アメリカの軍艦を何隻沈めたとかそういうことを言ってるけど、そのわりにはアメリカの飛行機が日本本土にまでやってきてたびたび空襲がある。

怖い憲兵たちがいるからみんな何も言わないけど、うちのお父ちゃんやお母ちゃんや近所の金物屋のおじちゃんたちは「もうそろそろ危ないかも…。」なんて話をしている。

ボクは小倉(おぐら) 渡(わたる)。
渡という名前は両親が世界の国の人たちと心が渡り合える人間になって欲しいと付けたそうだ。

そしてボクには7つ年下の妹がいる。
凛という名前で、女の子にしては少しヤンチャだけど、心が優しくて可愛くて、ボクにとってはかけがえのない大切な妹だ。

日本人にしては少し茶色がかった亜麻色の髪の毛。
そしてクリッとした少し悪戯そうな大きな目。

彼女はボクが学校から帰ってくると
「ワタル兄ちゃん、遊ぼう!」
と言って待ち構えている。

「よし、じゃあ米突き100回ずつやったらカルタしようか?」
「ウン!」

この頃には日本の食糧事情はとても悪くなっていて、お店に行っても物がない時代になっていた。
日常の食料のほとんどは配給制で、最初の頃はそれなりに食べられていたけど、そのうちさつま芋ではなくその茎だったり、砂糖がサッカリンという代用品に代わったり。
たまに米の配給があっても量はほんの少しでしかも玄米のまま。
だからそれぞれの家では、この玄米をお酒の一升瓶に入れて突き精米する。

そして、こうして精米した米もそのまま炊くわけではなく、そのうちのほんの少しを鍋に入れて他の野菜でカサを増やし雑炊にして食べることになる。
ボクはともかく育ち盛りの凛にとってはとても辛いものだろうと思う。

1945年(昭和20年)が明けた頃。
巷ではある噂が流れ始めていた。

「どうも、そろそろ戦争が終わるらしい」

どこが出元かわからない根拠のない噂だったけど、それはどことなく不思議な信憑性を感じる話だった。

「もう海軍にはまともに戦える軍艦はないしなぁ…」
その姿を本当に見たことがあるわけではないけど、特攻隊と呼ばれる人たちがいて飛行機に乗ったまま爆弾を抱えて敵の軍艦に体当たりする人がいるらしい。
自分が必ず死ぬことがわかって出撃する。
なんて悲しいことだろう…。

ただ、大人たちはこんな話をするけど、子供たちは日本には大和というものすごい戦艦がまだ残っているから絶対に負けないと信じきっていた。


それにしても最近は空襲が本当に多い。

前はたびたびやってくるくらいで、それでも工場とかが狙われることがほとんどだったけど、最近では街の中にまで爆弾を落としてくる。
先月の終りには、うちから500mほど離れたところに爆弾が落ちて、20人くらいの人たちが亡くなったらしい。
そのため、ボクの家でも夜寝るときにはすぐに逃げられるように普段着を着たまま、防空頭巾とバッグを枕元に置いていた。



そして運命の3月10日はやってきた。

3月9日
いつものように、ボクと凛は同じ部屋で枕を並べて眠りについていた。

今日は珍しくサイレンの音もならない。
街の中はシーンと静まり返り久しぶりの静かな夜だった。
真っ暗な部屋の中で眠くなるまでの間ボクと凛はしばらくこそこそと話をしていた。

「ネェ、ワタル兄ちゃんは戦争が終わったら何をしたい?」
「ウーン、そうだなぁ…。 もし、できたら中学校に行けたらいいな。それで野球部に入るんだ」
「そっかぁ。ワタル兄ちゃん、野球上手だもんネ」

戦前の日本でも野球はかなりメジャーなスポーツだった。
プロの野球チームも組織されて、沢村栄治とアメリカのベーブ・ルースとの試合は少年たちの野球への憧れを掻き立てた。
ただ戦争が激しくなってくると、元々アメリカから伝わってきた野球は敵性スポーツと見なされてしまい、子供たちもおおっぴらにキャッチボールすらできなくなってくる。

「凛は何をしたい?」
「凛はねぇ、お料理を習いたいの」
「料理?」
「ウン。それでね、いっぱーい美味しいお料理を作ってワタル兄ちゃんやお父さんやお母さんにご馳走してあげるの」

「へぇー。じゃあ、兄ちゃん、凛の作ってくれる料理の材料いっぱい買ってこなくちゃな」
「ウン! エットね、まず餡子でしょ、あとカステラとか…」
「オイオイ、みんな甘いもんばっかりじゃないか?(笑)」
「エヘヘーーー」

そんなとりとめのない話をしているうちにボクも凛も次第にウツラウツラとまぶたが重くなってくる。


そして
2人がすっかり夢の中の住人になってしまっていると


ウゥゥゥーーーーーーーーー!
ウゥゥゥーーーーーーーーー!


「空襲ーーーーーー! 空襲ーーーーーー!」

けたたましいサイレン音と外の方で誰かが叫んでいる声が聞こえてきて、ボクはバッと飛び起きた。

「凛、起きろー。凛ーー!」
ボクは隣に寝る凛の身体を大きく揺すった。

「ウ…ン。どう…したのぉ?」
「空襲だ!目を覚ませー!」

窓から外を見るとすでに周りが炎で赤々と燃えているのがわかった。

するとそこに隣の部屋で寝ていたお母ちゃんが飛び込んできた。
「ワタル!凛! 準備できてるかい!?」

「ま、まって。凛のくまちゃんもーーー」
凛はいつも枕元に置いて一緒に寝ている手のひらほどのくまのぬいぐるみを探す。

「凛、早く!」
「ない、くまちゃん、どこいっちゃったの? あ、あったーーー!」

「さあ、早く! お父ちゃん、2人とも準備いいわヨー!」
「ヨシッ! じゃあ逃げるぞー。」


そのときだった

パーーーン!!!

家の真上に大きな衝撃音を感じたと思ったら


ドーーーーン!!!

いきなり家の天井がボクらの真上に落ちてきた。

そのときちょうどすでに開けてあった玄関に出る寸前まで来ていたボクと凛をお父ちゃんとお母ちゃんは勢いよく突き飛ばした。
そのためボクと凛は家の外に転がるように弾き飛ばされた。

その瞬間
ボクらの家はグシャッと押しつぶされてしまった。

さらに潰れた家のそこかしこからすごい勢いで火の柱が吹き上がってくる。
そしてその炎の柱の間に家の壁に押しつぶされている母親の姿が見えた。

「お、お母ちゃん!!!」
ボクと凛は母親の方に行こうとするが、火の勢いが強すぎて近寄れない。

「お母ちゃーーーーん!!! お母ちゃーーーーん!!!」
凛が泣き叫ぶ。

「ワタルーーーー! 凛を頼むヨーーーー! アンタが凛を守ってあげるんだヨーーーー!!!」
母親は泣き叫んでボクにそう言った。

火は次第にボクらのほうにも近づいてきてあたり一面が紅蓮の炎に包まれていった。

「お母ちゃん!!!お母ちゃん!!!」
「凛、近寄ったらダメだ!!!」
「いやだーーー!!! 凛はお母ちゃんと一緒にいるんだーーーーー!!!」

そんな凛を見て母親は
「あっち行けーーーっっ!! あっち行けーーーっっ!!!」
と狂ったように叫ぶ。

ボクは泣き叫ぶ凛を無理やり抱えて走った。

「離してぇーーー!!! 凛はここにいるーーーーっっ!!!」


そして
随分走り息が切れてきた頃

「オイッ! 小倉さんとこのワタルじゃないか!」
フッと振り返るとそこには近所の金物屋のおじさんの姿があった。

「小谷のおじさん!!」
ボクはおじさんを見てそう叫ぶ。
おじさんは凛を抱えたボクの姿を見るなり
「こっち来い!」
と言ってボクの手をひっぱり、そして近所の広場に作られた防空壕の中に飛び込んだ。

「はぁ、はぁ…」
ボクらは飛び込んだ壕の中にはすでに5人ほどの人がいた。
あまり見たこともない人たちだった。

「ずいぶんすごい空襲ですな」
そのうちの一人の40代くらいの男の人が金物屋のおじさんに話しかけた。

「まったくだ。一体どうなってるのか…。」
「アメリカがかなり近くまで来ているという噂を聞いてます」
「ここだけじゃない。 どうも今回は東京中がやられているらしい」

「それじゃ戦争に勝つとかそういう問題じゃない! このままでは日本が滅びるぞ!」
「シッ!! 滅多なことを言いなさんな。 どこで誰が聞いてるともわからない」

「ワタル兄ちゃん…。怖いヨォ…」
凛は熊のぬいぐるみを胸に当てながらボクに寄り添っている。
凛の持っている熊のぬいぐるみは、近所に住む久美子ちゃんというお姉ちゃんが作ってくれたものだった。彼女は渋谷の実際女学校に通う女子学生で、勤労奉仕でたまにお菓子などが手に入ると自分で食べずに凛に持ってきてくれたりと凛のことをとても可愛がってくれていた。


「大丈夫。 もうすぐアメリカの飛行機は行っちゃうから」
ボクは凛の身体を抱きしめてそう言った。

そのとき金物屋のおじさんが呟いた。
「何か息苦しいな。」

「あたり一面火の海ですからね。 火が酸素を奪ってるんでしょう」

そういう会話をしていると上空を飛ぶ爆撃機の音が遠ざかっていくのを感じた。
「どうやら去っていったようだな。」

ボクは
「チョット外の様子を見てきます」
と言って立ち上がった。

「ワタル兄ちゃん、行っちゃいやだー。 ここに居て」
凛がボクの腕を掴んでくる。

「チョット見るだけだから。 ここで待っててな?」

そしてボクは防空壕の中から恐る恐る頭を覗かせて地面の様子をうかがおうとした

そのとき

ゴォォォォーーーーーーーーーーーーー!!!

火の竜巻が防空壕のある広場一面を覆い

そしてその火の竜巻はボクらのいる壕にも襲い掛かった。

「アッッ!!!」
その瞬間ボクの目の前からすべてが消え去った。


*****************************************************

フッと気がつくと、ボクは薄暗い森らしき場所に立っていた。

「アレ…。ここは? た、助かったのか? でも…。」
周りを見回すと今まで一緒に居たはずの人たちは誰も居ない。

「凛ーーーーー! 凛ーーーーー!」
ボクは凛の名前を大声で叫んだが何の反応もなかった。

シーンとした闇の中にはときどきカサカサという木の葉が風に擦れあう音が聞こえる。

するとどこか遠くの方で何やらボーっとした明かりが見えてきた。
そこはどうやら森の奥の方で、時々暗くなったり、また明るくなったりと不安定な光のようだった。

ボクはとにかくその光を目指して歩き始めた。

随分長い間歩いたように感じた。
やっとその光の近くまで寄ったとき、それは一軒の古い日本家屋であることがわかった。

その家の玄関のところに辿り着くと、ボクは扉をドンドンと叩いた。
「すみません。誰かいませんか? すみませーーーん!!!」

誰も出てこない。
ボクは意を決してその家の中に入っていった。

すると
家の中には少し暗いながらもハッキリとした明かりが灯っていて、
そして
玄関から一番近い部屋に入ると、その部屋の中央にあるお膳の上には真っ白い山盛りのご飯、温かそうな湯気のたった味噌汁、野菜と肉の筑前煮、魚の煮付けなどが並べられていた。

「な、なんだ?これ…」

こんなご馳走を見たのはいつ以来だろう。
きっと戦争が始まる前。
まだ日本が平和で、人々の暮らしに笑いが溢れていたとき。

(ダメだ。もう我慢できない!!!)

ボクは真っ白いご飯の入ったどんぶりを抱きしめるように抱えこんだ。

ああ、うまい!!!
なんてうまいんだ!!!

こんな美味いものを凛にも食べさせてやりたかったな。
そうだ! 半分残して凛を探して食べさせてやろう。
きっと喜ぶぞーーーー。

そう思いながらパクパクと食べていく。
さあ、これだけ食べたんだから残りは凛に…。

そう思ってお皿を見ると
「アレッ!!!」
不思議なことにどのお皿の中もぜんぜん量が減っていない。
ボクがあれだけ食べたのに、食べる前と変わらない山盛り状態なのだ。

「なんで…。」
ボクはカチャッと箸を置いた。

そのとき
「もうお腹いっぱいになったかな?」
部屋の入口からいきなり男の人の声が聞こえた。

「エッッ!」
驚いて振り返ると、そこには中年風の随分高級そうな背広を身に付けメガネをかけた男の人が立っていた。

「あ、あ、あの…。 すみません。勝手に…。」
ボクは勝手に入り込んでご飯を食べてしまったことを謝ろうとすると

その男の人はまったく気にしない様子で
「ハハハ、いいんだよ。キミのために用意したものだしね。」
と答えた。

「ボクのために用意? エ、なんで?」
「キミがここに来ることはわかっていたからさ」
「わかってたって? あの、ここってどこなんですか?」

するとその男の人は部屋の中に入ってきて、そしてボクの座るお膳の前に腰を降ろした。

「ここは…生れ変りの森さ」
「生れ変りって!!! じゃあ、ボクは死んだんですか?」
「まあ、そういうことだね」
「そしてこの家は生れ変りのときまでキミが過す家。だからキミはこの家ものを何でも自由に使える」

「あ、あの凛は? 妹がいたんですけど」
「ああ、いたね」
「凛はどうなったんですか? ここに居ないってことは助かったんですか?」
「いや、キミと同じときに彼女も死んだ」

「で、でも、じゃあどこに?」
「彼女は『女の森』にいる」
「女の森?」
「そうさ。そしてキミが今いるのは『男の森』だ」

「それじゃ、ボクも凛もこれから生れ変るんですか?」
「そうだ。それぞれ別々の人間にね。今度キミたちが生れ変る世界は戦争のない平和な時代だよ」
「そ、そうですかー!」
「キミたちはしばらくの間それぞれの家で暮らし今までの人生を見つめなおす。そして『そのとき』がきたら忘却の風呂に入り今までの記憶をすべて洗い流し新しい人として生れ変るんだ」

「エ、じゃ、じゃあ、凛のことも忘れてしまうってことですか?」
「まあ、そういうことだね」
「ボクは死んだお母ちゃんから凛のことを頼まれたんです」
「しかしね、人というのは生れ変るとき前世の記憶を引きずってしまうことは許されないんだ。どんな前世であってもそれを次ぎの来世で引きずってしまうと必ず不幸になってしまうからね。まあ、とにかくここはキミの家だ。時間はたっぷり、いや時間という観念はここにはないな。あるのは心だけだ。ゆっくり色々なことを考えたまえ」

そう言ってその男の人は部屋を出て行った。


お腹はふくれた。
しかし部屋の中を見回しても何もない。

本もなければラジオもない。
だからやることが何もない。

そんなときフッと目に留まったのは部屋の片隅に置かれた大きな鏡台だった。


ボクはその鏡台に近づくとそこに映る自分の姿をじっと眺めた。
そういえばうちにもこんな鏡台があったな。
お母ちゃんがお嫁に来たときに持ってきたって言ってた。
よく凛がその鏡台でお母ちゃんが化粧するときの真似をしてたっけ。
凛のやつ、お母ちゃんの口紅を勝手につけてお化けみたいな顔になって、すごく怒られたっけ(笑)

そんなことを考えてクスッと笑いが漏れてしまった。

するとそのとき

その鏡の表面がボーっと歪み
今まで映っていた自分の顔が消えて、何かの画像らしきものが浮かび上がってきた。

(エ、なんだ?)

その画像は次第に輪郭を整え、そしてハッキリしたものになっていく。
まるで映画を見ているかのようだった。

それは凛の姿だった。
凛は大きなお風呂の中に身体を沈め、そして湯船の中で数回身体を転がせているうちに彼女は次第に人間の姿から丸い球体のような光に変わっていった。
そしてその球体はその風呂場から飛び出してどこかへ飛んでいった。

そのとき
ボクの後ろの方で
「彼女は生れ変ったんだヨ。これで安心したろ?」
という声がした。

さっきの背広姿の男の人だった。

「日本は戦争に負けた。しかし日本人は勇気を持ってそこから新しいスタートを切った。その結果この国は世界でも非常に豊かで平和な国を築くことができた。彼女はそういう時代に生れ変るんだ」
「そうですか。よかった。本当によかった」
「キミも同じ時代に生れ変るはずだ。美しいものを素直に美しいと感じ、正しいと思うことをはっきり口に出して正しいといえる時代だ。よかったな」

「ハイ、ありがとうございます。 じゃあ、凛はこの時代で幸せになっていくんですね?」
「キミはきっと幸せになれるよ」
「そうですか。それで、凛は?」
「生れ変った以上キミと彼女はもう赤の他人だ。 キミがそれを気にする必要はない」

「ボクは凛のことを聞いてくんです! ちゃんと答えてください!」
「………。」
「何か…あるんですね?」

「何かあるとしてもそれは彼女の問題だ。 生れ変ったキミにはすでに関係がない」
「嫌だ!!! ボクはお母ちゃんと約束したんだ。 凛の未来を教えてください」

すると、その背広の男は小さくため息をついてこう言った。
「ふぅ…。 どうなるものでもないのに。 それじゃ、その鏡を見て、そして念じてみなさい」

「念じる?」
「彼女の未来を見たいと念じるのだよ。目を閉じて心から念じ、そしてゆっくり目を開くんだ」

ボクは言われたとおり目を閉じて念じた。
そして恐る恐る目を開けると

凛は平成24年という時代の東京に小谷家の第一子として生を受ける。
鏡には凛が生まれたときの病院の様子が映し出された。

「オギャァー! オギャァー!」
「おおー、なんて元気そうな子じゃないか!」

ベッドの上には新しいお母さんらしき人が横たわり、優しい顔でその赤ちゃんの顔を眺めている。
そして周りには新しいお父さんらしき人やおじいさん、おばあさんがその赤ちゃんの寝る小さなベッドを取り囲んでいる。

(よかった)
(凛はこんな優しそうな人たちの子に生まれたんだ)

「名前はどうしようかしら?」
お母さんがお父さんにそう尋ねた。

すると、お父さんは手に持ったカバンの中から一冊のノートを乗り出した。
「フフフ、じつは色々考えたんだ」

「あらあら、そんな専用のノートまで作っちゃって?(笑)」
お母さんは笑って言った。

「男の子と女の子の名前をそれぞれ考えたんだ。1週間考え抜いたんだぞー」
「ハイハイ(笑)」
「それじゃあ、発表します! ジャジャーーン!この子の名前は『小谷 哲』、哲学の哲って書くんだ」
そう言ってお父さんは名前の書いた紙を広げた。


(エ、哲って? 男の名前? なんで?)

ボクは背広の男に尋ねた。
「あの、凛は男に生れ変ったんですか?」

するとその男は少し戸惑うようなそぶりで応えた。
「いや、そういうわけではない…」

「じゃあ、なんで? 哲ってどう考えても女の子の名前じゃないですよネ?」
「まあ、もう少し先を見てみなさい」

ボクは再び鏡の様子を見る。

凛の生れ変りの哲はその後すくすくと育っていく。
そして中学2年のとき、『そのとき』が来た。
彼にある日女性の生理が起こり、病院での検査で哲はじつは女性であることが判明する。

(そうか、そういうことなんだ)
(それで女の子として幸せになていくんだな)

そう思っていると画面はその先に進む。

哲は凛と名前を変えて、女性として生活をするようになった。
しかし、彼女はそれから次第に身体が女性の特徴を示すのに反して心がどうしても付いていけなかった。

ミコちゃんなどのせっかくできた女友達とも次第に違和感を持ち離れていく。
凛の両親はそんな彼女に女子の中で生活すればきっと自然に女性としての自分を受け入れていくだろうと考え高校で女子校に入れる。
その中で彼女もかなり強引な努力をして自分を女の環境に合わせていった。

高校を卒業した後、彼女は附属の女子大に入学する。
そしてそこを卒業した後24歳のとき親の勧めるお見合いである男性と結婚をする。
しかし心と身体の葛藤を続けていた彼女は女性としての結婚を自分の中で受け入れられなかった。

そうした中で彼女は妊娠をして女児を出産する。
しかしそこでとうとう彼女の心は壊れてしまう。
男として生まれたはずの自分が実は女で、そして男と結婚して子供を産んでしまった。
流されようと努力したつもりが反対に彼女の心の中で消化されず溜まってしまった。

そして彼女は25歳のとき、自らで自らの命を絶つ。



(そ、そんな…)
ボクは絶句した。

そんなボクの心を見透かすかのようにその男は
「つまり彼女は女性として生を受けるんだが、生まれたとき身体の局部が変形してしまい男性器と見間違われたため男児として育てられてしまうわけだ。彼女が悪いわけではない。しかしそれは運命であって仕方がない」

ボクは立ち上がってその男に詰め寄った。
「仕方がないだって!? ふざけるな! ボクの妹を、ボクの妹を…」

「もうキミの妹ではない。赤の他人だ」
男は淡々とそう応える。

「たとえ生れ変って他人になったって、凛はずっとボクの大切な妹だーーー!」
「困ったな…。」
「お願いします! 凛を生まれたときからちゃんと女としてーーー」
「それは無理だ。我々は現世での出来事に対し物理的な力を行使することは一切できない」

「そんな…そんな…」
ボクはその場にしゃがみこんで泣き出してしまった。
「それじゃ、凛は生まれ変わってもまた地獄を味わわなくちゃいけないっていうのか!」
「あいつがいったい何をしたっていうんだっ!」
ボクはその場に崩れ落ちてそう喚いた。

すると
「物理的な力を行使することはできない。 が…しかし…」
男は少し躊躇うように言った。

「しかし? しかし、なんですか?」
「精神的な影響力を与えることはできなくはないが・・・」

ボクはすくっと立ち上がった。
「そ、それはどういうことですか!?」

「つまりだ、彼女がそういう方向に向かわないように、女性としての心を呼び覚ましてやるというのかな」
「そのためにはどうすればいいのですか?」
「ひとつだけ方法があるが…」
「教えてください! なんでもしますから!」

「しかしな、これはキミにとってまさに修羅の道となる。せっかく生れ変るキミにとって」
「いいです!」

その男は少し考えた後おもむろに口を開いた。
「それじゃあ…。つまりキミが彼女の中の女性を覚醒させる役割を果たすってことだ」

「どうやって?」
「キミは前世で12歳まで生きた。 もしキミがこの役目を果たすなら彼女と同じ学年で12年間キミに前世の記憶と自我を持ったまま命をあげよう。 ただし彼女の生理が起こるのは14歳のときだから、キミは10歳で一度死に、そして15歳から16歳の終りまでの2年間は特別の実態を与える。それぞれの期間にできうることをやって彼女の心を矯正していくというわけだ」
「それでお願いします!」

「しかしだ…」
「なんですか?」
「キミはこれによって生れ変りの順番を逃すことになる。 こう言ってはなんだけど、今度キミが生れ変る予定の家庭はとても良い家庭で両親も素晴らしい心を持っている。家も裕福だし、それにキミ自身も容姿も頭脳もかなり恵まれている。それを他の生れ変りの順番待ちに譲ることになるが」

「いいです。譲ります」
「本当にいいのか?」
「凛は大切なボクの妹です」
ボクは男の目をじっと見つめてそう言った。



そしてボクは特別に前世での記憶を持ったまま生まれ変わっていった。
鮎川 渡として。 

ボクが生まれたのは鮎川家といって、大手の出版社に勤める父親と専業主婦の母親、そしてボクの3人家族だった。

父親は温厚な人で、仕事が忙しい中体調を見てボクを遊びに連れて行ってくれた。
母親もとても優しい人で、生まれつき体が弱いボクのために毎日体力のつく食事を作ってくれた。
タイプは少し違うけど、前世の家族とどこか共通したものを感じるそんな温かい家庭だった。

だから正直いえば何度か

(こんな優しい家族ならこのままずっと…)

そういう気持ちがフッと心をよぎったこともあった。


ただボクは生まれつき心臓が弱かった。
そのため幼稚園には行かず病院に通い、そして小学校に入学してもよく休みがちな生活だった。

そんなボクがようやく哲(凛)と交わることができたのは小学校2年生のとき
ボクは哲として生活していた凛と同じクラスになった。

驚いたことに哲(凛)は、前世で凛のことをよく可愛がってくれた近所の久美子ちゃんの生まれ変わり
と仲の良い幼馴染でいた。


小学校1年生のときは1週間のうち3日は病院通いで学校を休みがちなボクには2年生に上がっても仲の良い友達は誰もいなかった。
当然同じクラスといっても哲(凛)や久美ちゃんと話したり仲良くすることはない。
いつも一人ぼっち。

でもボクは遠くからでも凛の生まれ変わりの哲を見守っていくつもりだった。



しかしある日
ボクは偶然にも哲(凛)そして久美ちゃんと親しくなるきっかけを持った。

ボクらを繋いだのは、ボク達の家の近所にある小さな公園

そう、この公園はじつはボクらが死んだ『あの防空壕があった広場だった場所』。
戦後はこの一帯も少しずつ復興し、次第にまた多くの家々が建ち並び、そして広場だったこの場所は公園になった。


ボクは体の調子の良い時はしばしばこの公園を訪れては一人静かにブランコに座って漕いでいた。
ボクの記憶ではちょうどこのブランコの下に防空壕があったんだ。

1メートルほどの幅の入口で穴が5メートルほど下斜めに掘られて、あのときはそこに7人くらいの人がギューギューに肩を寄せ合って座っていた。
暑苦しくって、土の匂いとホコリだらけ
そんな場所でボクたちは全員竜火に焼かれて一瞬で死んでしまったんだ。



2年生の初め頃のある日曜日の午後
ボクはいつものようにこの公園にやって来た。

2つ並んだブランコのうちボクが乗るのはいつも決まって右側。


キィーーーー
キィーーーー


足を小さく揺らすと前後に揺れる赤いブランコ

でも、あの時代の面影はもう何もない。
今は誰にも傷つけられることのない平和な時代。
毎日空襲の心配をせずゆっくり寝られて、お腹いっぱい美味しい食べ物を食べられる。


家の下敷きになって死んでいった僕と凛のお父ちゃんとお母ちゃん。
2人ももしかしたらこの平和な時代のどこかに生まれ変わっているんだろうか。


お父ちゃん…。
お母ちゃん…。


今世の自分の両親は鮎川の父と母なのに
2人ともとても優しい親でボクのことを愛してくれているのに

前世の両親を思い出すとなぜか涙が自然に溢れてしまう。

「前世の記憶を持ったまま生まれ変わることは自分のために良いことではない」
そう言ったあの死の森で出会った背広姿の男の言った言葉が思い出された。



するとそのとき

「ネェ?」

下を向いていたボクは突然かけられたその声にフッと顔を上げた。
ボクの前には哲(凛)と久美ちゃんの2人が立っていた。

(り、凛!!! 久美ちゃん!)

高まる心臓の鼓動を抑えながら
「エ、あの、なに?」
とボクは返事をした。


「あのさ、ブランコの順番待ってるんだけど」
哲(凛)はぼっきらぼうにそう言った。

「え、あ、ああ、ゴメン」
気がついたらボクは30分以上もここに座ってしまっていた。

ボクはブランコを降りて2人に譲る。

2人は仲良さそうに並んでそのブランコに座りキャッキャと漕ぎ始めた。

「あ、あの…」
ボクは意を決して哲(凛)に声をかけた。

「なに?」
哲(凛)は漕いでいたブランドを足で止めて、怪訝そうに僕の方を向いて応える。

「あの、小谷君と安藤さん…だよネ?」
「ウン、そうだけど。キミは誰だっけ?」
「あ、同じクラスの鮎川、鮎川 渡っていうんだ」

すると哲(凛)と久美ちゃんはお互い顔を見合わせる。
「同じクラスに? いたっけ?」

「あ、ボク、病気でよく学校休むから」

「もしかしてアタシの席の2つ後ろの席にいる人?」
久美ちゃんがボクにそう尋ねる。

「ウン、そうだよ」
「そうなんだー。2年生になっていつもその席空いてるから誰かいるのかなぁって思ってた」

「なんだー。じゃあ、同じクラスじゃん!一緒に遊ぼうヨ」
哲(凛)はボクにそう言ってくれた。

「い、いいの?」
「当たり前じゃん。ね?久美ちゃん」
「ウン!一緒に遊ぼう」

こうしてボクら3人はその日を一緒に過ごすことになった。



哲に生まれ変わった凛は言葉遣いや態度は男の子そのものだった。
ただ、体格は同年齢の男の子に比べて華奢で、身長も体型も久美ちゃんと同じくらい。
顔つきは男の子としては柔らかく中性的な感じで、あの時代と同じクリッとした悪戯そうな大きな目に亜麻色の髪の毛をしていた。
またこの頃から女の子特有の少し甘い体臭を出していた。

そしてその日からボクら3人は時々この公園で会って遊ぶようになった。
特に約束をして集まるわけではない。
ボクが2人が来るのをここで待っているのだ。
そして偶然に会ったように声をかけた。

ボクらのそんな関係は半年ほど続く。

ボクは死後の世界で、今の自我を持ったままもう一度だけ現世に生まれ変わることを許されていた。

与えられた時間は2年間。
この2年間をどう使って凛の人生の悲しい方向性を変えられるか、
ボクは悩みに悩んだ。

女として生まれたはずの凛は、母体内にいるときのちょっとしたホルモンバランスの影響で局部に男性のような変化をもったまま生まれてきてしまう。
ところが身体そのものは女性のわけで、当然のようにそのときがきて彼女は女性としての生理を迎えることになる。

女性としての身体、それに対して14年間男として過ごした心
この2つが正面からぶつかり合ってしまい
そして凛は自らで自ら崩壊していく
自分が産んだ子供を残して。

ボクはこのような凛の運命を何としてでも、絶対に、変えなくちゃならない。


ボクは、あの死後の世界の番人らしきおっちゃんからもらった人生を映す鏡を使って、凛のその後の人生を何度も繰り返して見た。

凛は中2の夏休みに女性として生活を変えるまでの間に何人かの人と出会っている。
このつながりの中に何か凛の心に変化というか刺激を与えられるような、そういうものはないだろうか。

そして
その中でひとりボクの目にとまったのが石川 渉という男の子だった。

彼は小4のとき凛や久美ちゃんと同じクラスになり、そして鮎川 渡のときのボクと同じようにあの公園で2人と偶然の出会いをして仲良く遊ぶようになった。

しかし彼はその後小5のときに両親の離婚が離婚し、そして母親に連れられて大阪へ転校してしまっていた。

「こいつは使えるな…」

ボクは鏡を使ってこいつのことを調べてみた。

「ウハ! なんかとんでもないヤツだな」

調べてみると、彼はその後グレてしまい大阪でとんでもない不良に変身。
喧嘩上等、警察に補導された回数は数知れず。
中学では入学早々不良グループのリーダー格にまでなってしまうようなワルだった。

ただ、不思議なことに、喧嘩はしても万引きやカツアゲなどには手を出していない。
女の子の絡んでいる事件もない。

「ヨシ…」

ボクはある決心をして彼の夢の中に入り込んだ。
そして彼の頭の中にある記憶をゆっくり吸い取っていく。

彼が眠りに着いてから
毎日少しずつ、ゆっくりと


そして彼の記憶をすべてコピーしてしまう。



それにしても、コイツの頭ん中すごいキョーレツな関西弁やな。

アレ!アホか!
関西弁まで完全に移ってもーたワ!(笑)


そしてそれから数日後
ここは凛たちの通う若松中の近くの商店街

ほら、凛と久美ちゃんが並んで向こうから歩いてくる。

凛は、長めのボブカットの髪のかかったなめらかな肩を揺らし
紺色のジャンパースカートにボレロ姿で
スカートから出ている白い足がまぶしい。

(ああ、凛、綺麗になったなぁ)
(もうすっかり女の子らしくなって…)

(あのヤンチャだった凛が)
(あのとき死なずにもし成長できたら、きっとこんな素敵な女の子になってたんやろなあ)


久美ちゃんは長めの髪をポニーテールにまとめて、あのときと同じように可愛らしい。


(ヨシッ!)

ボクは彼女たちの方に向かって歩き始める。
できるだけ自然に。

商店街のアーケードの道をお互い反対側から歩いて
そしてボクは2人とすれ違う


「あれ!?違ったらゴメンな。もしかして…久美ちゃんか?」

クルッと振り返る凛と久美ちゃん

「久美ちゃんやろ? 違ったか?」
「イエ、そうですけど…」
「そうやろぉ!いやー、すごい偶然やなぁ!」

そしてボクたちの『ときの流れ』は再び始まった。


こうしてボクは凛の通う若松中学へ、石川 渉として転校してきた。


さて、こうしてボクは戦争によって死んだ後2度目の生まれ変わりをしたわけだ。
しかし前回、鮎川 渡として生まれた時には、ボクにはちゃんと父も母もいて、そして家庭があった。
今回は生まれ変わったといっても、ただ実体を与えられただけ。
ボクには両親もなく、そして帰る家もない。

生まれ変わりの森で出会ったおっちゃんはボクにその代わりになる場所を与えてくれた。
それがあの『赤いブランコのある小さな公園』だった。
ここは戦争中ボクらが死んだ防空壕のあった場所、戦後そこは小さな公園となって、そして鮎川 渡として生きていたときボクは凛や久美ちゃんとここで友達となり遊んでいた。

ちょうど赤いブランコのある場所の真下に防空壕があった。
学校が終わり凛たちと別れると、ボクはこの公園に戻ってきてこの赤いブランコに座る。
そして、キー、キーと何回か漕いでいるうちにスーっと辺りの景色が代わり、ボクはあの生まれ変わりの森の中にある自分に与えられた住処に戻れるわけだ。


その住処の中には、六畳間ほどの広さの部屋が3つほどあって、そのほかにはトイレと洗面所と台所があった。
現世にある普通の家と何も変わるところはなかった。

そして、多分その森の案内人なのだろう、ボクを初めてここに連れてきてくれたあのおっちゃんはときどき前触れもなくこの家を訪れることがあった。

ボクは最初この家に来たときわけがわからなかったが、鮎川 渡としての人生を終えて再びこの家に来て、この家はひとつの世界というか次元であって、生まれ変わりを待つ者ひとりひとりにこうした家が与えられるものだと理解していた。
次元が違うから他の生まれ変わりを待つ人と触れ合うことは一切ない。

何度か家の周りを歩いてもみたけど、他の家を見つけることは出来なかった。
歩いても歩いても薄暗い夕暮れのような中にうっそうとした茂みと大木の木々が続く。

(寂しいなぁ…)


そう思ったことも一度や二度じゃない。
ただボクがここにいるのもそう長くはない。
ボクは2年間という与えられた時間が終われば、今度こそ今までの記憶を消されて新しい生まれ変わりをしなければならない。
そう考えると、今は凛の運命をどう変えるかで頭がいっぱいだった。


そして現世の時間では中3になった6月ごろ。
ボクは学校が終わって、あの小さな公園のブランコに座り精神を集中して何回か漕いで森の住処に戻ってくる。
いつも食事をする部屋でカバンを放り出し大の字になって寝っ転がっていると、いつものように何の前触れもなく森の案内人のおっちゃんがやってきた。

「やあ、どうだい? 妹さんとは出会うことができたかい?」
おっちゃんは穏やかな声でボクにそう尋ねた。

「ええ、石川 渉ゆう名前でびっくりしてましたわ」

「ハハハ、キミが彼(石川 渉)に目をつけた時はちょっとびっくりしたけど、そうか、うまく入り込めたか・・・」

「アイツ、なんかあったんでっか?」

「いや、彼と妹さんのつながりの方じゃなくってね。久美子ちゃん…だっけ? その娘の方なんだけどね」

「久美ちゃんの?なんでっか?」

「いや、まだキミは知らないほうがいいだろう。 それよりも…」

「はい?」

「実は今日はキミに紹介したい人がいてここに来んだ。連れてきている」

「エッ! この世界に他に人がいるんでっか?」

「キミの想像しているように、本当は他の人と触れ合わず、ひとりにひとつずつ家を割り当てられるんだけどね。これはキミとその人の次の人生のためになることだと思ったんでね。 さあ、入ってきてくれ」

おっちゃんは玄関の方に向かって声をかけると、入ってきたのは年の頃が30代はじめくらい、身長が180センチ以上はありそうな背の高いガッチリした感じの白人の男だった。

「紹介しよう。彼はジェームス・ブラウンといってイギリス人だ」

イギリス人じゃ日本語は通じないか。
ボクは英語の成績はいいつもりだけど、本物の英会話となるとそうはうまくいくまい。

(どうせ言葉が通じ合わないのになんでわざわざ外国人を…)

ボクは心の中でそう思っていると、その男はボクに向かってこう話しかけてきた。

「キミは日本人か?」

「エエッ、日本語わかるんでっか?」
ボクが驚いたようにこう言うと、横にいた森の管理人のおっちゃんは小さく笑ってこう答えた。
「いや、彼に日本語はわからないよ。 しかしここは日本でもイギリスでもない現世とは違う世界だからね。言葉の違いなどというものはない。お互いが話したいと思えばキミにとっては日本語として通じることになる。逆にジェームズにとってはキミの話したことは英語として理解できるのだよ」

「ヘェー、そうなんでっかー。こら便利やわ。 現世でもこんなふうだったらお互いちゃんと理解し合えるのになぁ」

「そうだな。まさにキミの言ったとおりだ。お互いがちゃんと理解し合えれば戦争なんて悲しい手段に訴えることもなくなるだろうに…」
ボクは森の管理人のおっちゃんが言ったその言葉にズキンと心を突かれてしまった。

「なあ、キミは日本人なのか?」
ジェームズさんはボクに向かってもう一度聞き直した。

「ハ、ハイ。日本人で今は石川 渉いいます。よろしゅう」

お互い戦争中は敵になっていた相手だ。
最初からあまり良い感情を持っているとは思えない。

「オレはジェームズ・ブラウン。イギリス海軍の大尉だった」

「じゃあ、軍人…でっか?」

「そうだ、悪いか?」

「いや、悪いことはないけど…」

するとジェームズさんは突然目の前にあるお膳を
ドンッ!!!
と叩きうつ伏すようにしてこう叫んだ。

「ちくしょうっ! オレには妻も子供もいたんだ。あともうちょっとで戦争が終わるってのに、あのとき日本軍の『カミカゼ』にやられなければっっ!!!」


いつの間には森の管理人のおっちゃんは姿を消し、そしてその部屋にはボクとジェームズさんの2人になっていた。

「ハッ、こんなことを子供のキミに言ったってしょうがねーよな。 むしろキミ達子供こそがオレたち大人が始めた戦争の犠牲者だもんな。」

「イ、イエ、あのそんな…。それにもう戦争は終わったんやし。 それより良かったらジェームズさんのこと教えてくれますか?」

すると
ジェームズさんは顔を上げ、そしてボクの方をまっすぐ見て話し始めた。

「オレは海軍の爆撃機のパイロットで空母乗りさ。 故郷はイギリスのケンブリッジ郊外にあるグランチェスターっていう小さな町なんだ。 まあ大して遊ぶところもねえ、なんにもねえ小さな町だったけど、みんな陽気で気さくな住人ばっかりでな。 でも若い頃のオレはそんな環境に面白くなくってな、たまたま学校の成績は良かったもんでロンドンの大学に奨学金で行けて、そして卒業後もロンドンに住んだ。」

「ホエー、そうなんでっか。 じゃあ、大学卒業してパイロットに?」

「いや、違う。 じつは大学を卒業した後はハイスクールの教師になってね」

「先生、でっか!?」

「そうさ、数学を教えていた。 ワルガキもいたけど生徒たちが本当に可愛かったー」

「それが何でパイロットに?」

「戦時徴兵さ。 キミの国もそうだったろ? 25歳のときに結婚して、その翌年に初めての子供ナンシーが生まれたんだ。そしてその2年後28歳のときに中尉で徴兵されたってわけさ。ドイツとの戦争でもなんとか生き残った。今度は日本が相手ってことになって。日本の降伏まであと3ヶ月ほどってときにな。ああ、オレの可愛いナンシーを残して…ちっくしょー!」

「さっきカミカゼって言ってはりましたけど…」

「ああ、そうだ。オレはカミカゼにやられたんだよ。オレたちイギリス海軍のパイロットはアメリカの空母に同乗させてもらって沖縄沖に停泊していた。 それが夕方頃いきなりアラートが鳴って、「カミカゼだー!」ってな。 オレたちパイロットは急いで自分の機を発進させようとしたけど、そこに一機のカミカゼが突っ込んできてな。 パーーーンッ!!!って周りがすごい光で包まれて、そして気がついたらこの薄暗い森の中だったってわけさ」

ボクはジェームズさんに聞かれてボクの事情も話をした。

「そうか…。キミもずいぶんと辛いを思いをしたんだな。イギリスの子供も日本の子供もねえ、オレたち大人が身勝手に始めちまった戦争でどの国の子供もみんな傷つけちまった。本当に…すまねえ。」



その日からボクとジェームズさんの不思議な共同生活が始まった。

学校が終わり家に帰るとジェームズさんは寝転がって本を読んていたり、そして時々は『あの鏡』見て娘のナンシーさんのその後の人生を覗いたりもしていた。

「おお、ワタル。おかえり」

「鏡見てはいまったんでっか?」

「ああ、ちょっとだけな。 妻のスザンナはその後30歳のときに再婚をしたようだ。 相手はなんとメソジストの牧師さんときたもんだ! まあ今度はオレみたいな軍人だけは選ばねーわな!(笑)」

「娘さんは?」

「それがな、おかしいんだ! その牧師はその後日本の教会に赴任になってな。 スザンナとナンシーも一緒に日本に住んでるんだよ」

「ホエー、日本にでっか。 そりゃあ奇遇というかなんというか…」

「だよなー!(笑) それで、その後がもっとおかしいんだ。 その後ナンシーは日本人と結婚してな。 けっこう幸せな人生を送ったみたいだった」

「そうでっか。よかったですなー」

「ああ、本当によかった。 運命の鏡はナンシーの生きている間までしか見れなかったけど、どうも最後のほうでナンシーの孫っていうのが出てきたんだ。ナンシーの娘も日本人と結婚したみたいで、だからその子はクオーターってことになるな」

「じゃあ、ジェームズさんにとってはひ孫やないですか」

「そういうことになるなー。 それがスッゲー可愛い子なんだぜ。 本当に人形みたいな顔をしてさあ。たしかナンシーは『みゆき』って呼んでたな」

「ホウホウ、みゆきちゃんでっかー。可愛らしい名前ですなー」

「そうなのか?オレは日本語はわからんからなんとも言えんが、それなら良かったよ」

「ハハハ」


「おお、そうだ。ワタル、今日はオレが夕飯を作ったんだ」

「エーッ、ジェームズさんが作ってくれたんでっか? 大丈夫かいな?ちゃんと食えるものなんですやろな?(笑)」

「ワハハー、安心しろ!こう見えてもイギリスの男は料理上手なんだぞ。 よく妻のスザンナが作ってくれたアイリッシュシチューなんだ」

そう言ってジェームズさんは日本式の台所に立ち、そしてすでに煮込み上がったシチューを皿に取り分けてお膳の上に置いた。

「おおおーーっ!美味そうやあーーー!」

「ウチのシチューはうめーぞー。さあ、腹一杯食え」

「じゃあ、いただきまーす。 おっ、美味い、ホンマ美味いですわー」

「だろー、ハハハハ」

こうして、家族を持たないボクにとってジェームズさんはまるで自分の父親のような存在にも感じられるようになっていった。


それからしばらくの時が流れ


中3の終わり頃、凛はボクに対して淡い恋心を抱くようになっていった。

中3の12月の終り、クリスマスの日にクラスの何人かが集まってパーティをすることになった。
その最後に凛と踊ったチークダンス、彼女の身体はもう完全に女性のそれになっていて、ボクの胸に手を回しお互いの身体を寄せ合うと彼女の胸のふくらみははっきりとわかり、その彼女の身体からは甘い女の子の香りが漂ってきた。

そしてあの小さな公園の赤いブランコでボクが凛のおでこにした小さなキス

「もう、キミはステキな女の子や…」

「ぇ…」

もしかしたら、あのときボクは妹としての凛の存在を超えてしまったのかもしれない。


「本気で…ワタルは凛ちゃんのことを好きになってしまったのかな?」
あるとき、辛そうな顔をするボクにジェームズさんはそう聞いてきた。

「そんな…彼女は…妹やし」

「前の人生ではな。 でも、兄妹なんてものは遺伝的なつながりがあるから禁断なんであって、そういうものを別にすれば本当に好きになっても不思議じゃない」

「それでも、今のボクは本当に現世に存在する人間やないから。いつかは別れなあかんときがくるんですわ。」

「そうか、辛いな…ワタル」
ジェームズさんはボクの肩に大きな手を優しく乗せてそう言った。


そうは言っても女性である凛にどんどん惹かれていく気持ちはボク自身でもわかっていた。

凛が潤んだ目でボクを見つめるとき、ついフラフラとそれに身を任せてしまいそうになったことはなんどもあった。
彼女の小さな肩を引き寄せて、そして強く抱きしめたい気持ちにもなった。

ジェームズさんは「ワタルだって男だからな。女を前にしてそういう感情が起きなきゃ嘘さ。」と笑いながら言う。


いよいよ高校受験期を迎え、ボクも勉強に必死だった。

じつは勉強については、元々旧制中学を目指していたくらいなのでそう悪いほうではないと思っていた。しかし現世の勉強は思ったよりもずっと進んでいて、それにボクが記憶を吸い取った石川 渉という人物の頭の中は勉強のべの字も入っていない。
それがなんで転校早々こんなに成績が良かったかというと、じつはこのジェームズさんのマンツーマンの家庭教師によるところが大きかった。

世界有数の名門ロンドン大学出身で元々ハイスクールの数学教師だったジェームズ先生の教え方はびっくりするほど理解しやすく、そして面白かった。

彼はボクの受験勉強を毎日つきっきりで見てくれた。
専門の数学はもちろん、英語、社会、理科まで。
さすがに国語は日本語なのでそういうわけにはいかない。
しかし文章読解という点においては国語も英語も同じで、彼の指導はじつに的確だった。

学校のテストは家に帰るとちゃんとジェームズさんに見せる。
模擬試験の成績を見せた時は
「ホー!たいしたもんじゃないか! オレにはこの偏差値っていうのはよくわかんねーけど、オマエの成績が学校でトップクラスなのはよくわかる。」
と大喜びで褒めてくれた。

「で、ワタルはどこの学校を受けるんだ?」

「はあ、凛と同じ青葉学院という学校にしようと思ってます。ただ、ここで過ごせる時間はあと6ヶ月なんですわ。 ボクはちょうど夏休みが終わった時点で姿を消すことになる…」

「そうか、辛いな…。凛ちゃんに最後の仕上げってことになるわけか」

「まあ、そうですな。 彼女のボクへの愛情を誰に引き継いでもらうか。 凛を任せられる男がいればいいんですがね」

「それにしてもオマエ良く頑張ったよな! で、その青葉学院っていうのはどういう学校なんだい?」

「それが奇遇なんですけど、メソジストのミッションスクールなんですんや。130年くらい前にアメリカの宣教師が作った小さな学校だったらしいんですがな。 それが今では幼稚園から大学院まである大きな学校になって。 戦前でもわりと有名なとこでしたが、戦後は欧米の文化が一気に開放されましたから」

「へぇ、メソジストのミッションスクールか。 そりゃ、もしかしたらオレのひ孫の『みゆき』も受けてたりしてな(笑) 現世の年齢でみゆきは凛ちゃんと同じ歳みたいだし」

「ワハハ、もしそないやったらおもろいでんなー! やったら、入学してもしみゆきちゃんがいたらジェームズさんに報告しますわ」

「おおっ、楽しみにしてるぜー」



そしてボクはなんとかこの関門をくぐり抜けることができた。

合格発表の日
凛の家まで送っていく道、僕と凛はあの小さな公園のところで本当のキスをする。

ボクが家に帰ると、驚いたことにジェームズさんは台所でケーキとごちそうを作ってくれていた。

「ワタル、その顔じゃ『合格』だな?」

「はい、なんとか受かりました。ジェームズさん、ホンマに今までありがとうございます」

「ハハハ、いいさ。もうオマエはオレにとって息子みたいなもんだからな。もし『あのとき』死ななかったら、ナンシーの次にはオマエみたいな息子ができていたかもな」

「ワハハハ、 ジェームズさんがボクのおとーちゃんやったら楽しいでんなー」

「さあ、今日はワタルの合格祝いだ。 食おうぜー!」

「ハイッ!!!」


ジェームズさんの手作りケーキは最高だった。
ちょっと甘すぎの生クリームもボクの心を優しく溶かしていくようだった。


「おい、ところでどうだった?」
ごちそうを一通り食べ終わると、ミルクティーを飲みながらジェームズさんは悪戯っぽくボクに尋ねてきた。

「どうだったって?」

「とぼけるんじゃねーよ(笑) オマエ、凛ちゃんと何かあったろ?」

「エ、いや、別に…」

「いや、あったな。 オマエは顔見ればすぐわかる。 オレはオマエの父親だぞ。 ちゃんと白状しろ」

「ジェームズさんには隠せませんなー(笑)」

「やっぱりな(ニヤニヤ) で、何があった?」

「キス…してもーた」

「キスって前に言ってたおでこじゃなくって今度は本物のか? 彼女の唇にってことか?」

「ウ、ウン…」

「で、どうだった?」

「どうだったって…。なんか、あったかくて、柔らかくって、甘いっていうか、…」

「ホー、そうかあー! やったじゃねーか」

「でも自分の妹やのに…」

「関係ねーよ。 遺伝の問題がなければ妹だって女さ。 オマエは女を好きになった。 その事実は後悔するようなことじゃねーぜ」

「そうなんかなあ…」

「そうさ。まあ、とにかくハイスクール1年の8月までがオマエの現世でのタイムリミットだし、凛ちゃんだけじゃなくオマエ自身もいい思い出をひとつでも作っておくこった。ただ切ないのは、オマエはその娘を一生自分の手で守ってやれないことだな。『そのとき』の覚悟はしておかなくちゃならないな」

「そうですなあ…」



青葉学院高等部に入学するとボクは凛とは別のクラスになった。

本当は、同じクラスになろうと思えばそうすることもできた。
でもあえてボクは凛との距離を少し置くために違うクラスになるように、先生の心理を少し弄らせてもらった。そしてその代わりミコちゃんには凛と同じクラスになってもらった。

なぜボクが凛と少し距離おこうと思ったかというと、ボクがいなくなった後に凛の心にボクの存在が残りすぎてしまい、他の男を受け入れることができなくなってしまうことを考えて。
それともうひとつの理由は、この現世で存在できる最後の6ヶ月を使ってボクは自分なりに戦争と人間の心というものを考えてみたかったからだ。

あるときジェームズさんはボクにこう言った。

「オレは大学で少しばかりだけど国際社会の勉強もした。日本のことも本で読んだことがあるんだぜ。それでわかったんだけどな、戦争ってやつは第一次大戦前のものとそれ以降のものじゃかなり違うもんになってるんだよ」

「お互いを殺し合うっていうのが戦争とちゃいますのんか?」

「まあ、その意味では一緒なんだけどな、昔の戦争っていうのはいうなれば相手の戦力をより上回ればそれで勝ち、負けた方はいさぎよく引き上げていくわけだ。だからまともに戦わずに勝敗が決まったなんてことも少なくなかった。勝つ方負ける方だってどっちも正面からぶつかり合えば大勢の死者が出るだろ?そうなれば今度は自分がより強い相手に攻められたとき戦えなくなっちまうからな。だから、戦争は戦闘するよりはむしろ駆け引きみたいな部分が強かったらしいんだ」

「ふんふん。興味深いでんな」

「それが第一次大戦のときに兵器の飛躍的進歩があってな、機関銃や飛行機もこの時代からまともな兵器として使われるようになって、それで戦いによって大量に死者が出るようになったのさ。それが第二次大戦になるとさらに進む。飛行機の進歩で数千キロも離れた相手の国にまで攻めて行くことができるようになって、それまで戦場でしか戦いがなかったのに戦場と市民生活との区別がなくなってしまった。ワタルが亡くなった空襲ってやつがそれだよな。オレの国じゃドイツからロケットが飛んできやがったんだぜ。飛行機なら避難することもできるかもしれんが、何の前触れもなくヒューーーって音がして街の中でドッカーン!さ。そして人間はとうとう核兵器というパンドラの箱を開いてしまった」

「広島や長崎では1発の核爆弾で数万人の人が亡くなったらしいですな」

「そうだ。しかもそれは軍人でもなんでもねー。亡くなった人のほとんどは一般市民だ。中には女や子供も大勢いたらしい。たしかに戦争状態であればお互いの国民が敵同士、一般市民にも戦争に対する責任がまったくなかったとはいわない。それでも、勝つための戦争から相手を滅ぼすための戦争に変わってしまった。これはもう戦争なんていえるもんじゃねー。ただの殺し合いだ。オマエにはこのことをよくわかってほしい。それでな、オマエに残されたあと6ヶ月なんだが…」

「ハイ、なんでっしゃろ?」

「実際に戦争に参加した、また兵士でなくても戦争というものを体験したいろいろな人たちの話を直に聞いてみちゃどうだろう? 日本人の年寄りに聞くのもいいだろうけど、外国人、オレみたいなイギリス人やアメリカ人とか、あの戦争で日本と反対の立場にいた人たちの話を聞くのもありだって思うんだ。現世では今の日本はとても民主的で豊かな国だ。そのため沢山の外国人も住んでいる。オマエの学校の周りにはそういう材料がいっぱいあるだろ」

そうだ。ボクはジェームズさんのこの言葉にハッとした。
ボクと凛を殺した戦争という悪魔。
それは一体なんなのかわからないまま最後のその時を迎えるのはあまりに心残りだ。

「ジェームズさん、ありがとうございます。 じつは、ボクも最後の時間を使って何かを残したいって思ってたんですわ。ジェームズさんがボクにくれた宿題、ボク挑戦してみますわ」

「そうか、頑張れよ」

「あ、それはそうと…」

「なんだ?なにかあったか?」

「ボクも今日はジェームズさんをびっくりさせる報告があったんですわ」

「ホー、なんだろうな? もしかしてまたパチンコとかいうやつで大勝しましたっていうんじゃねーだろうな?(笑) ガキのうちから賭博の癖つけるのはあんまりよくねーぞ。 まあ、あの時はタバコいっぱい取ってきてくれてオレも大喜びしたけどな(笑)」

「いやいや、そんなことちゃいまんがな(笑) じつはですなー、ジェームズさんの言ってたひ孫のみゆきちゃん、本当に青葉に入ってたみたいなんですわ」

「な、なんだってーーっっ! そりゃ本当かい!?」

「ハイ、多分間違いないって思います」

「もっと詳しく話を聞かせてくれねーかい!」

「じつは―――」

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ボクが青葉学院に入学してちょうど1月が経った頃、ある日廊下で凛を見かけた。

「あ、ワタル君ー」
目が合うとそう言って向こうからボクに声をかけて寄ってきた。

彼女はチアリーディング部に入ったと言ってたのだが、そのときちょうどチアのユニフォームでこれから部活へ行こうとしていたときらしかった。

そして凛の隣には、同じようにチアのユニフォームを身につけた女の子がひとり。

「あ、彼女ね、アタシと同じクラスの友達なの。彼女に誘われてチア部に入ったんだヨ」
凛がそう言うとその彼女も
「こんにちわ。佐倉っていいます。」とボクに挨拶をしてくれた。

(ヘェ、随分と綺麗な、お人形みたいな顔した娘やな)

「あ、じゃあ部活始まっちゃうから」

「そうやな。急いだほうがええで」

「ウン、先輩、時間に厳しいんだー(笑) また電話するね」
そう言って凛はペロッと小さく舌を出して、その友達の娘と早足で去っていった。

彼女たちが廊下を歩いている途中、しばらく2人の会話が聞こえた。
「ネ、もしかして凛の彼氏?」
「ウン!」
「エー、格好いい人じゃん」
「エヘヘー、そうかなぁ」

「きゃあきゃあ」と女の子同士の会話が弾んでいるようだった。


そしてそれから少しして今日の学校の帰り道
渋谷駅に向かう途中のことだった。

「あれ、この前の凛ちゃんの友達の?」

「あー、こんにちわー。 あ、凛はまだ学校にいるんですよ。委員会の用事らしくって」

「そうなんやー、佐倉さんはもう帰り?」

「ウン」

そうしてボクと佐倉さんは渋谷駅までの10分ほどの道のりを一緒に歩き始めた。

「改めて自己紹介しときますわ。石川 渉いいますねん。凛ちゃんやミコちゃんとは同じ若松中のクラスメイトやったん」

「そうなんですかー。じゃあ、アタシも改めて自己紹介しちゃいます。 佐倉美由紀っていいます」

「…みゆき…ちゃん?」

「ハイ」

「あの、佐倉さんってどっか日本人っぽくない感じやけど…」

「あー、祖母が外国人なんですヨ」

「ヘ…エ…。どこの国の人やったん聞いてええ?」

「イギリス人です。それでお母さんはハーフ、だからアタシはクオーターってこと」

「変な質問やけど、佐倉さんのお婆ちゃんのお父さんは?」

「同じイギリス人だったらしいですよ。なんか教会の牧師さんで日本の教会に勤めてたとか。 ただお婆ちゃんの本当のお父さんは戦争中パイロットで死んじゃって、その人とは再婚だったらしいですけど」

(こ、この娘やあーーーー!!!)

「あ、変なこと聞いちゃってすまんな。 これからも凛と仲良くしてやってな」


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「そうか…。そりゃあ運命かもしんねーなあ。 で、みゆきは幸せそうだったかい?」

「へえ、お父さんもお母さんもしっかりしていい家庭らしく、彼女自身とっても明るくて性格もいい感じでしたわ」

「そうかー、そりゃあよかった。 ナンシーもいい孫を持って幸せになりやがってよかった。 これでもう思い残すことはなにもねー。安心して生まれ変わりの時を迎えられるってわけだ」
そう言ったときのジェームズさんの表情はとても優しく、そして穏やかだった。


「石川君、彼女が呼んでるヨ。」

授業が終わった後、教科書をバッグにしまっていたボクにクラスの女の子がそう声をかけた。
目を向けると、凛が少し照れたように小さく微笑み手を振っている。

一通りしまい終わってバッグをカチャッと締めると、ボクは凛の待っている教室の入口の方に歩いた。

「やあ、凛ちゃん。どないしたん?」

すると
「エヘヘ、たまには一緒に帰りたいなって思って」
そう言うと彼女は上目遣いにボクの顔をチラッと見上げた。

「ウン、そうやな。じゃあ、ちょっとだけ用事を済ませるさかい、大学のチャペルのとこで待っとってくれるか?」

「用事って?」

「ウン、まあな。大したことやないけど、ちょっとな」

曖昧なボクの答えに凛は少し不思議そうな顔をするが
「ウン、わかった。じゃあ、待ってるネ」

凛はそう言って廊下を歩いて行った。



ボクは図書室に向い予約しておいた1冊の本を借り出した。

  『太平洋戦争の真実~あのとき日本はなぜ引き返せなかったのか』

そして少し厚みのあるその本を手にとってボクは凛の待つ大学チャペルへと向かった。

少し遠くから凛がボクに気づいて小さく手を振っている。
青葉学院の制服に包まれた彼女の雰囲気にはもう男として生活をしていた時の面影は欠片も感じられない。肩より下まで伸びている少しくせのあるつややかな亜麻色の髪の毛、細く柔らかい曲線の肩、スカートから伸びた細く白い足、形の良い丸いおでこ、くりっとした大きな瞳、そしてボクが中3のおわりに初めて口づけした…あの小さな唇。

(あのとき、死なんかったらきっとこんな素敵な女の子に成長したんやろなあ)



凛はボクにニコっと微笑みかける。

「やあ、待たせてゴメンな」
ボクがそう言うと

「ウウン。気にしなくっていいヨ。どっか行ってたの?」
と尋ねてきた。

「ああ、チョット図書室に借りたい本があってな。それ取ってきたん」

「へぇ、どんな本?」

「ウーン、きっと凛ちゃんには興味はないと思うで?」

「ワタル君が興味がある本だからどんなのか知りたいなって」

「そうか?じゃあ…」
ボクはバッグの中からさっき借りてきたその本を取り出して凛に渡した。

「太平洋戦争の…真実? 戦争のこと書いてある本?」

「まあ、そうやな。戦争のことといっても戦争だけを書いてあるんやないよ。戦争には必ず理由と原因があるやん? なんであの戦争が起こったのか、それを止めようとする考えはなかったのか、そういうことを戦争前にまで遡って考えて行くっていう内容みたいなんや」

「なんか難しそうだネェ・・・」

「まあ難しいかもしれん。 でもこういうことって時間が経っても忘れたらあかんって思うんや」

ボクがそう言うと凛は、少し不思議そうな顔でボクをじっと見た。

「ん?どないしたん? ボクの顔、なんか付いとるか?」

「あ、ウウン。だって、今までいっつも飄々としてお気楽そうなキミが突然そんなこと言うんだもん。ちょっと意外だった」

「うわー、言うやんかあ! ボクかてマジメなときもあるやぞー!(笑)」
そう言ってボクは凛の頭をポンと軽く叩く。

「アハハ、ゴメーン(笑) でも、ワタル君が難しそうな顔してるとこ想像するとやっぱりチョット意外かも(笑)」

「ボクっていっつもどれだけアホそうやねん!?(笑)」


そのとき一緒に肩を並べて歩いていた凛が身体をクルッと振り返ってこう言った。
「ね? ワタル君がいろいろ考えていること、勉強してきたこと、アタシにも教えて?」

「ああ、ええヨ」


ボクと凛は大学キャンパスの木陰にあるベンチに腰を下ろし、近くにある自販機でジュースを買ってきてそのうち1本を彼女に渡した。

「あ、ありがとぉ」

「エット、まず頭の整理をつけてっと(笑) 少し時間かかるけどええか?」

「ウン、今日は何も用はないから」



「そうやなあー、まず太平洋戦争というものを考えたとき、これは太平洋戦争に限ったことやないんやけどな、すべての戦争は急にそういう状態になるということはないということや。 日本とアメリカとの戦争についてもずっと遡っていけば江戸時代の終わり頃まで考えなくちゃならん」

「江戸時代? でも、江戸時代と太平洋戦争の頃はかなり間が離れているよ」

「そうやな。でも、原因というのは直接原因よりもむしろ遡って起こった遠因の方が重要だったりするもんや。あのヒットラーを生んだ原因は第一大戦のドイツの敗北であまりに過酷な賠償を負ったこと、その第一次大戦だって遡れば仏普戦争まで感情的要因があるんや。直接的原因はむしろその引き金に過ぎなかったりする」

「ウン、ウン」

「江戸時代の終わり頃、ペリーの黒船が日本に来て、日本人は初めて異国というものを意識するようになった。これは教科書でもよく載ってることや。 ただそれ以前にも、いや、もっとずっと昔の織田・豊臣の時代だって外国人は日本に来ていて日本人はそういう人たちと接触も持っていた。貿易もあったしな。しかし、そういうのはいうなれば国家の支配層だけに限定されたようなもんで、一般の民衆にとっては外国人はまだ宇宙人みたいなもんやったんや。それが黒船という存在で一般の人たちもそういう宇宙人の存在を認めるようになった。そしてこれをきっかけにして日本は明治維新が起こった。 さて、ここで凛ちゃんに質問や。 なんで明治維新というものが起こったか? 別に徳川幕府のままでもいいやないか。武士の世の中っちゅうたかて一般の人もそれなりに幸せやったし、それでも良かったんと違う?」

「ウーン、言われてみると確かにそうだよネ。 なんでだろう…。外国の進んだ文明に刺激されてみんな平等な社会を作りたいって思ったから?」

「そうやな、それもあったかもしれん。ただ国を支配する人たちっていうのは本当に平等な社会なんか作るつもりはないんヨ。それは日本に限らずどこの国でもな」

「じゃあ、明治維新で四民平等になったのは?」

「それは戦争に関係のない一般民衆を兵隊にするためや。そして明治維新は西欧文明の導入によって人々の生活を豊かにするという理由よりも、それを導入して軍備を強化し日本が列強の諸外国の植民地にされないための手段だったんや。 
それまで藩という地方分権になっていた社会を統一された国家にして、そして兵隊という資源を日本中から効率的にまんべんなく集められるようにする。そのためには士農工商という身分制度は邪魔だったんや。
それができなかった国はことごとく欧米諸国の植民地にされてしまった。日本は明治維新で国家の統一をすることによって奇跡的に植民地にされることを免れたんやな。 そして、ここまでは良かった。 日本が自分の身を守るためのこの時の理念を持ち続けていれば、日本ももしかしたら違った歴史を歩んでいたかもしれんな」

「違った歴史って、どんな歴史?」

「ほら、凛ちゃんもお父さんやお母さんによく言われるやろ? 自分がされて嫌なことは人にもするなって」

「あ、ウン。そうだネ」

「日本はその後第一次大戦、日清日露戦争などでいずれも勝者の側に立った。このことで日本はおごりを持ってしまったんやと思う。 そして支配される恐怖を受ける側から支配する恐怖を与える側に変わってしまった。大東亜共栄圏っていう耳障りのいい言葉だけど、その本質は支配する側(日本)と支配される側(その他のアジア)って構図やった。 そして、とうとうそうした利権のぶつかり合いが日本とアメリカの間で起こった。 もちろん日本だけやなく、アメリカも利権が目的やったはずや。 どっちもどっちや。 そしてそういう国の支配層のエゴや見栄のために実際に死んでいくのはどっちの国でも一般民衆なんやな。
凛ちゃん、ここは渋谷って地名やけど、谷なんてわかるか?」

「まあ、宮益坂とかあるからそういう感じかなあって思うけど、でも周りってビルだらけだしあんまりよくわからないよネ」

「そうやな、今は見上げるようなビルが立ち並んでよくわからへん。でも、あの戦争のとき渋谷の街も空襲に遭ったんや。そして、終戦後すぐに青葉学院の正門から渋谷の街を見下ろすと、そこにはビルも家もほとんどのうなって、まさに渋谷は谷だったってはっきりわかったらしいで」

「空襲?」

「そうや、空襲や!」
ボクはつい力を込めてその言葉を発してしまう。

「空襲…」
凛はぼそっとつぶやくようにその言葉を繰り返した。

そしてボクは次に凛が小さく発した言葉に一瞬ドキっとした。
「空襲…、おかあ…ちゃん。」


小さく呟くように発したその凛の言葉

エッ!!!まさか思い出したんじゃ!!!)

しかしその後すぐに凛はハッとしたようにボクの方を向いて
「エ、アタシ今なんか言った?」
と尋ねた。

「あ、い、いや。何も言うてへんよ」

「そう? ゴメン、なんか少しボンヤリしちゃった」

「いや、エエヨ」

「それで、その話の続きは?」

まずいな。
あんまり深く考えさせるといらんことまで記憶の深層から湧き上がってくるのかもしれん。

「まあ、とりあえず今はここまでや」
ボクはその本をパタンと閉じてそう言った。

「エー、なんで? 最後まで聞かせてほしいなあ」

「あ、アハハ。すまんな。 ボクもここまでしかまだ勉強しておらんねん」

「じゃあ、もっと勉強したら最後まで教えてくれる?」

「ああ、もちろん。そのときまで気長に待っててや」


あと1ヶ月ちょっと
ボクに残された時間
ボクはまた凛とこうやって真剣に語り合える時間を持てるのだろうか。



その日、ボクと凛は原宿まで歩いてゆっくりとした時間を過ごした。
彼女はミコちゃんやみーちゃんとよく行くと言っていたクレープの店にボクを連れて行き、そして2人で生クリームのたっぷり乗ったクレープをほおばる。

「ここのお店、アタシとミコとみーちゃんの3人で原宿歩いていたとき偶然見つけたの。 それでね、お店の人がみーちゃんに「生クリームは普通と大盛りのどっちにしますか?」って聞いたとき、みーちゃんったら「てんこ盛りにしてチョーダイっ!」って(笑)お店のひと、キョトンってしちゃって(笑)」

「アハハ、あの娘らしいなあー」

凛はそう言って友達との毎日の生活を楽しそうに話す。
ボクはそんな凛にあの時代「戦争が終わったらお料理を習うんだあー。」と寝床の布団の中で楽しそうにボクに話した時の面影を見たような気がした。


その日ボクたちは夕闇に包まれるまで同じ時間を分け合い、電車に乗って家の最寄りの駅まで行き、そしてあの小さな公園の前で別れる。

「ああ、今日はすごく楽しかったあー。」

「そうか、ならよかったで。 ボクも高校入って凛ちゃんとこんなにゆっくり過ごせたのって久しぶりやった」

「ネェ…」

「ウン?なんや?」

「少しの間でいいから、ギュッてして…」
凛はそう言ってボクの胸に顔を埋めた。

ボクは黙って凛の身体を強く寄せる。
柔らかくて、そしてふわっといい匂いのする彼女の身体を抱きしめていると、ボクはなぜかわからないけど涙がこぼれてきた。
ボクはその涙を彼女に悟られないように制服の右手で拭う。

「さあ、あんまり遅くなるとご両親が心配するさかい」
そう言ってボクはゆっくり凛の身体を離す。


もうすぐ夏休みが始まる。
そしてボクは『そのとき』を迎える準備をはじめよう。



「ただいまー」

生まれ変わりの森の家に帰ると、ボクは玄関をはいってすぐの和室にいつも寝ころべって本を読んだり、カードをしているジェームズさんにふすまごしに声をかけた。

いつもなら
「おお、おかえりー。」
と応えるジェームズさんの声は聞こえてこない。

(どっか行ってるのかいな…。)

そしてボクがそのふすまを開けて見ると、その奥の方の台所にジェームズさんの姿はあった。

「おお、気がつかなかったぜ。ワタル、おかえり。」

「あ、ただいま。 ジェームズさん、どないしたんでっか?」

食事はいつも当番でボクとジェームズさんの交代でやっている。
今日はボクの当番のはずだった。

「いやな、今ごちそうを作ってるんだ。もうちょっとだから楽しみにまってろよ!」

「あれ、今日はボクの番やなかったですか?」

「ハハハ、そんなこまけーこと気にすんな(笑) まあ座ってろって」


しばらくするとフワッと野菜を煮込むいい匂いがしてきた。

「ジェームズさん、なにを作ってるんでっか?」

「ビーフストロガノフさ。それとシーザーズサラダ、シーフードマリネ、とどめはデザートにアップルパイときたもんだ!」

「ホエー、ごちそうやないですか。 なんかいい事でもあったんでっか?」

「いや…、いいこと…ってわけじゃないけどな」
そう言ってジェームズさんは言葉を止め、考えるのをやめるように料理に没頭していた。



しばらくして

「さあ、できたぜー! 食おう!」

「ヤッホー! 美味しそうやあー」

そしてボク達2人だけのパーティのようなものが始まった。

ジェームズさんはいつもよりずっとおしゃべりで、そしてボクを笑わせてばかりいた。
その話はボクとジェームズさんが初めて会ってからの思い出話がほとんどだった。

「ほら、あのときワタルが俺の当番とき作ったピクルスを顔を歪めながら食っててさあ!」

「アハハ、それやったらジェームズさんかて、ボクの作った漬物を鼻をつまんで食っとったやないですかあ!」

「ワハハ!!! あの匂いにゃ未だに慣れねーヨ! ワタルがポリポリ美味そうに食ってるの見て不思議でしょうがなかった」



こうして話題の尽きないボクとジェームズさんの話がある瞬間ふっと途絶えた。
そしてボクは彼にこう尋ねる。


「『そのとき』が…きたんでっか?」

ジェームズさんはアップルパイをほおばる手をぱたっと止め
そして静かに
「ああ…」とだけ応えた。


ジェームズさんは、ボクがパチンコでとってきてジェームズさんにあげたマイルドセブンのタバコを箱から一本抜き、そして火をつけてホゥっと吸った。

「さっき、案内人がこの家に来てな。 明日の朝…、旅立ちだそうだ」

「そうでっか。 ボク、今までジェームズさんには本当にいろんなこと教えてもろて‥・ありがとうございました」
ボクはそう言って涙をこらえながら小さく頭を下げる。

「なあ、ワタル。オレな、オマエにひとつ黙ってたことがあるんだ。でもずっと黙ってようと思ったんだ。オレはずるい男さ」

「なん…でっか? ボクは何を聞いてもジェームズさんがずるい人なんて絶対思わへんです」

「そっか、ありがとうな。 オレとオマエは国は違うけど、本当に息子みてーな気持ちだった。 いいか、よく聞いてくれよ。 耳を背けないでな。 オレは、オマエ達が死んだあの東京大空襲に参加したパイロットの一人なんだ」

「ええっ!! そ、そうなんでっか!?」

「ああ、そうだ。 あの時の空襲の計画がアメリカ軍で立てられたとき、アメリカでもパイロットの数がどうしても不足していたそうだ。オマエはよくわからんだろうが、飛行機なんてものはいくらでも大量生産できる。しかしパイロットっていうものは一人前に育てるまでかなりの時間が必要だ。まともなパイロットにするまで最低でも5年くらいはかかるな。 それで、アメリカ軍からイギリス軍にパイロットを参加させて欲しいという打診があったんだ。 オレはそれまでドイツとの戦争ばかりで戦ってきたからな、別に日本になんの恨みがあったわけじゃねえ。第一日本人ってものを見たのはワタルに会ったときがはじめてっつーくらいだ。それでも軍の命令だからな。 なんの恨みもねーのにオレはほとんど無感情でオマエらに爆弾を落としていたんだよ。 いや、感情がなかったわけじゃねー。でもそれを無理やり否定して押し込めていた。オレが一発の爆弾を落とすたびにその下にいる人間たちがどれくらい死んでいくかわかっていながら…。す、すまねえーーー!!!本当にすまねえーーー!!!」

ジェームズさんはボロボロと涙を流しながら、何かに向かって叫ぶようにそう話していた。

「ジェームズさん、もうええんですよ。 ジェームズさんがボクたちを殺したんやない。戦争が、戦争がボクらを殺したんだって思います。ボクはアナタを本当の親父みたいに思ってます。あの時代のボクの親父は日本人やったけど、ジェームズさんとどっか似てるっていうか。 

ジェームズさん、ホンマに今までありがとうございました」

「ワ、ワタル」



ボクとジェームズさんはその夜、布団を並べて寝た。
ときどきどちらともなく語りかけては応え。

そして次の朝
ボクが目を覚ましたときに、ジェームズさんの姿はもうここにはなかった。

きちんとたたまれた布団の上には一通の手紙が置いてあった。
そこにはこう一言だけ

「ワタル。またいつの時代か、時の流れの中でオマエと逢えるのを楽しみにしてるぜ」


ジェームズさんがいなくなった家の中はとても広く感じられた。


ボクは学校が終わると、その寂しさを紛らわすように直接家には帰らずに必ず寄り道をするようになった。
そんなある日、ボクは帰りの電車の中で偶然ミコちゃんと一緒になったんだ。


彼女も同じように学校からの帰り道
ボクと彼女は同じ学校だったが今まで一緒に帰る機会がなかった。
しかしその日は何も部活をしていないボクは、その日たまたま部活が休みだった彼女と同じ電車の中で出くわした。

それは、もうすぐ夏休みになろうとしていた7月の初旬
暑さが増して来たある日

ボクはその日の学校の帰り道、借りていた戦争についての資料を返すために図書館に寄るつもりだった。

電車の中はクーラーがよく効いていて、汗でしっとりと濡れたボクの身体は周りの冷たい空気に触れて一気に汗がひっこむような感じがした。


午後3時
電車の中はまだ帰宅ラッシュ前で割と空いている。
ボクはひとつ空いていた座席に腰を下ろし

そして

「ふぅーーーーーー」

と一回小さな息を吐いた。

すると

「あれ、ワタル君!?」

ボクの目の前に立つ女の子が突然驚いたように声をかけた。

そしてボクがフッと顔を上げるとそこにミコちゃんが立っていたんだ。

「おお、ミコちゃんやないかーーーー! 偶然やな。今日は水泳部はあらへんの?」

「ウン、今日はプールの清掃でお休みになったんだぁ。凛とみーはいつもの通り部活だけどネ」

「そうなんやぁーーー。 あ、ココ座らへん?」


そう言ってボクは座っていた席を立とうとした。

すると彼女は
「あ、いい、いい。アタシに気を使わないで座ってなよぉ」
笑顔でそう言う。

「エ、でもーーー」

すると、そのとき次の駅で停車したホームからひとりの二十代くらいの感じの女性が乗ってきた。
フッと気づくと、その女性は少し重い足つきで歩き、柔らかい生地で上からかぶるような感じのワンピースのスカートはお腹のあたりは膨らんでいる。

「あの、よかったらどうぞ」
ボクはそう言ってその女性に声をかけた。

「あ、どうもすみません。それじゃ遠慮なく…」
その女性はニコっと笑顔でボクにそう言ってその席に腰を下ろした。


「フフフ、ワタル君、優しいんだぁーーーー。きっとキミのそういうとこを凛は好きになったのかなぁ?」

「からかうなやぁーーー(笑) これくらい当たり前のことやないか」


ボクとミコちゃんは並んでつり革のところに立つ。

「まあ当たり前のことって思えるのがキミのステキなとこだヨ、ウン、ウン」
ミコちゃんはボクのことを少しからかうようにそう言って勝手にうなづいている。


「そういえばワタル君も帰り道?」

「あ、ボクはちょっと借りた本を返しに図書館に寄って行こうか思ってな」

「そうなんだ? あ、そういえば凛から聞いたヨ」

「エ、なにをや? また2人でボクのことからかってたやろ?(笑)」

「アハハハ、ちがうヨーーー。 あのネ、こないだ凛が、『ワタル君ってすっごく難しい本読んでるんだヨーーー。それで、色んなこと知っててビックリしちゃった!』って」

「ああ、この前のことかいな(笑) そんなんやないって。 ただチョット興味があるっていうかな…」

「そっかぁ。 でも凛はちょっと意外そうな感じだったみたいだけど、アタシはけっこー不思議な気はしなかった」

「そうなんか?」

「ウン」


ミコちゃんは人一倍感受性が強い娘だ。
それは中学時代、凛たちのいる学校に転校し彼女に初めて会ったときから感じていることだった。

ボクは少し茶化すようにこう言った。
「ウン、ウン! キミはボクのことようわかってくれてるなぁーーー。そうなんや、ボクってホンマはマジメやし勉強家やしーーー」

「アハハハ! でも少し褒めちゃうとすーーぐ調子に乗っちゃう! これも凛が言ってたことだったな(笑)」
ミコちゃんはそう言って15センチくらい身長差があるボクの脇を笑って軽く小突いた。

「ワハハーーー。やっぱりよう見られとるわーーーー」


「ウーン、なんていうのかな…。 表現するの難しいんだけど、キミって中学の時からちょっと何かに焦ってたっていうか…。試験前でもテスト勉強ほっておいてもそういうことに没頭しちゃってたり。まあ、それでも青葉にちゃんと受かっちゃったんだからやっぱり頭がいい人なんだろうなぁーって思ってた」

「頭がいいのはミコちゃんのほうやろ(笑) ボクっていい加減やし」

「アタシは努力できただけだヨ(笑) でもキミは…」
そう言って彼女は言葉を躊躇った。

「ボクは?」

「こんな言い方しちゃってゴメンネ。 キミって前からチョット不思議な感じのする人だなぁ…って思ってたの」

「そっかぁ…」

二人のあいだに少し静かな空気が流れた。



「なあ、ミコちゃん。 この後なんか用事とかあるん?」

突然話の流れを変えるようなボクの言葉に彼女は少し驚いたように
「エ? あ、ウウン。何もないけど」

「じゃあ少し付き合わへん? 図書館に一緒に行かへん?」

彼女は少し考えるような顔をした。
それはきっと親友の彼氏であるボクと2人の時間を持つことへの躊躇いだったと思う。

「凛ちゃんにはあとでボクからちゃんと話しとくで?」
ボクがそう言うと

「あ、ウン。じゃあ、いいヨ」
彼女はニコッと笑顔でそう言った。


ボクとミコちゃんの2人は、家の最寄駅の一つ前にある小さな駅で電車を降りて図書館に向かった。

駅から歩いて10分ほど。
図書館に着くとまず借りていた本を返して、そしてその後別の階の『あるコーナー』に行く。

「アレ、戦争関係の本のあるコーナーじゃないの?」
ミコちゃんは意外そうな顔をしてボクを見る。

「凛と…、あ、いや、凛ちゃんと同じ話をしてもおもろないやろ? ミコちゃんに案内したいんはこっちや。あ、あった、これやな」
そう言ってボクはそのコーナーの本棚に整然と並べられた中から一冊の本を選んで彼女に渡した。

『人を育てるということ』
その本の表紙にはそう書かれている。

「教育…関係の本?」
ミコちゃんはその本のタイトルに不思議そうな顔をしてボクに尋ねた。

「まあ、そうやな。 ただこの本の中にはいろいろな時代の教育のことが書かれているんや。古くは江戸時代の寺小屋から今の学校制度まで、日本の教育の歴史やその時代背景とか。たしかミコちゃんは大学で教育関係の学部に行きたいんやったよな?」

「ウン、できたら。 アタシの小学校からの夢だったの」

「これよかったら読んでみてくれへん? 1週間したらボクがちゃんと返すさかいに」

「あ、ウン。アタシも興味あるから読んでみたいし」

「じゃあ、借りてくるわ。 図書館の中であんまり会話できひんしな。とりあえず借りて、別の場所でゆっくり話ししよか?」

「ウン、いいヨ」


ボクはその本を持って受付のところに行き貸出の手続きを済ませて、そして2人で図書館を出た。

時間は4時を少し過ぎていたが、夏場の陽はまだ高い。

「ああ、まだ暑いなぁーーー。 あ、そこの喫茶店入らへん? ボク、奢るさかい」
ボクらは図書館の近くにある一軒の小さな喫茶店に入った。


カランーーーーー 
ボクがその喫茶店の木製のドアを開けると入口のところについていたベルが一回音をたてて鳴った。
そして僕の後からミコちゃんが入ってくる。


中には小さな丸いテーブルの席が7つほど。
それとカウンターに10人ほど座れるスペースがある小さな喫茶店。

「あ、ここでええか」
そう言ってボクらは窓際の隅にある丸テーブルの席に腰を下ろす。

お水を持ってきれくれたウエイトレスさんにそれぞれ注文をして、まずはひと心地。

ミコちゃんは氷の入っている冷たい水を一口ふくんで
「あー、おいしいー!」
と少しオーバーなアクションをつけて、そしてこう言葉を続けた。

「ネエ、聞いていいかな?」

「ウン、なんやろ?」

「ワタル君は中3のはじめにウチの学校に転校してきて、女の子の凛と初めて会ったんだったよネ?」

「まあ、そうやな。そのとき凛ちゃんは久美ちゃんと一緒に商店街を歩いとってな」

「久美子も? じゃあ最初わからなかったでしょ?」

「そらそうやぁーー。久美ちゃんは何となく面影があったからな、もしかして…と思ってすれ違ったとき彼女に声をかけたんや」

「じゃあ凛のことは誰だかわからなかった?」

「そうやなーーー。そんで途中で久美ちゃんが突然『この娘が哲ちゃんだよ』って教えてくれてな」

「エエエエッッーーーー!!!って感じ?」

「ワハハハハーーーー。まあ、そんな感じやったな。」

「じゃあ、久美子に言われてもとても信じられなかった?」

「ウーーーン…。そうでもなかったなぁ」

「あ、やっぱり…。」
そう言ってミコちゃんは小さく笑った。

「やっぱりって?」
ボクがそう尋ねると

「エットね、その言葉の通り。 アタシは中2の夏休みが終わって少しして凛が女の子として登校してきたとき『エ、ウソ!?』っていう気持ちより、何でかわからないけど『やっぱり』って気持ちが強かったの。」

「ミコちゃんはびっくりせーへんかったん?」

「まあ、その前にじつは久美子に小谷くんのこと、あ、男の子のときの凛のことね、聞いていたから。あ、これは凛には内緒にしててネ?」

「あ、ウン。もちろん。 それで?」

「最初に久美子にそのことを聞いたときは『エエエッ!!』って気持ちもあったけど、『やっぱり』って気持ちが不思議とあった」

「ヘェ、意外やなあ。 凛ちゃんって哲だったときから女の子っぽかったんか?ボクにはそういう記憶なかったけど」

「ウウン、ぜーーーんぜん。 言動はフツーの男の子。まあ、顔とか体型とか、外見は女の子みたいにキレイな人だなぁ、って感じあったけどネ。でも、そういうのとは別に同性の雰囲気っていうのかな、そういうので『やっぱり』ってね、思った。女の子の制服姿になった凛ってすごく自然だった」

「そうなんやぁ? きっとそういうのって女同士で感じてしまうもんなんやろなぁ」

「多分ネ。 だから、アタシはきっと久美子にお願いされなくても、きっと凛と気持ちが重なって友達になってたんじゃなかって思ってるの」

「ウン。 なあ、ミコちゃん、これからもずっと凛ちゃんの友達でいてやってくれな?」

「もちろんっ! でもさ、キミもだヨ? ずっと凛の彼氏でいたいんでしょ?」

「そう…やな」



夏休みもあと一週間ほどで終わろうとするある日
ボクが『森の家』で学校の宿題に必死になっていたとき、突然森の番人のおっちゃんがやってきた。

「やあ、ワタル君。ひさしぶりだね」

「ああ、久しぶりです。今日はどないかしましたんか?」

「いや…、どうしてるかなって思ってね。ジェームズ氏もいなくなったし。」
そう言っておっちゃんは和室のテーブルに広げられているボクの英語の宿題にチラッと目を配らせた。

「おや、学校の宿題をやってたのかい?」

「あ、はい。もう夏休みも終わりですさかいにな。終わらせとかんとまた学校で先生に絞られますからな(笑)」

「ハハハ、学校は楽しいかい?」

「まあ、そうですな。 ええ友達もぎょーさんできましたし」

「そうか、それは良かった。 そうか、友達がたくさんできたか…」


(ハッ!!!)

そのとき、ボクは持っていたシャーペンをテーブルの上にコトンと置いて、そして高鳴る胸の鼓動を必死に抑えて、今思い当たるたったひとつのことをおっちゃんに尋ねた。

「『そのとき』が…来たんでっか?」

「まあ…そういうことだ」
おっちゃんはボクから目を逸らすようにして一言そう答えた。

「ハ、ハハ、ハハハ…。なーんや、せっかくあとちょっとで宿題終わるとこやったんに、無駄になってもーたわ。ハハ、ハハハ。ボク、バカみたいやな…」

「ワタル君…」

そしてボクはおっちゃんの方をまっすぐ見ながら尋ねた。
「いつですか?」

「…3日後だ。」

「じゃあ、あと2日で宿題をぜんぶ終わらせられますな。それで最後の1日で凛にお別れをできます」

「宿題って、し、しかし…。それならば最後の3日間を凛ちゃんとゆっくり過ごせば…」

「わかってます、終わらせたって意味がないことは。でも、ボクは終わらせたいんです、最後までちゃんと。そやないと、ボクが存在していたこと自体が嘘になってしまう気がして…。凛には最後の日に会います」

「…スマン。 そうだな、キミの言うとおりだな。その宿題、最後までしっかり終わらせなさい。今日から3日間、私はこの家に身を置く。わからないところは聞きなさい。私が教えてあげよう」

「エ、でも高校生の宿題でっせ? おっちゃん、だいじょうぶでっか?」
ボクはちょっとおどけるようにそう言うと

「ハハハ、心配するな。これでも私は現世で生きていたときには大学の教師だったんだ」

「エエエエッッ!おっちゃん、現世で生きてたときあったんでっか?」
ボクはその事実に正直かなり驚いた。

「ああ、あったさ。キミと同じように、私も人としての人生を歩んできた。」

「あの、それじゃ、おっちゃんはなんで生まれ変わらないでっか?」

「私はね…生まれ変わることをやめたのさ」

「やめたって、どうしてでっか?」

「私はね、人として一代で贖えない罪を犯してしまったからさ。だから、私には生まれ変わる資格がないんだ」

「す、すみません。ボク、聞いちゃ悪いこと聞いちゃったみたいで…」

「いや、いいさ」
おっちゃんは小さく笑い
「ふぅ…。」
と天井を見上げてため息を漏らすとテーブルの前に腰を下ろした。

「これから生まれ変わるキミが、新しい人生の中できっとこんな愚かな過ちを犯さないよう、馬鹿なひとりの男の話を聞いてみるかね?」

「ボクなんかが聞いちゃってもええんでっか?」

「ああ、こんな話をするのは先にもあとにもキミがはじめてだ。 じつは私は自分の教え子を犯してしまった、そしてそれによって彼女を自殺に追い込んでしまったのだよ」



それからおっちゃんはゆっくりと自分の人生を語り始めた。

おっちゃんは、前の人生である私立大学の教師をやっていたそうだ。

比較的早い年齢で准教授になり、大学の中では教授への道に最も近かった。
優しい奥さんがいて、そして子供を2人授かり幸せな人生を歩んでいた。

あるとき、ゼミのコンパがあってそのゼミの指導教員だったおっちゃんもそれに参加してかなりお酒が入っていたそうだ。
そしてその帰り道、たまたま帰宅方向が一緒だったゼミの女子学生一人とタクシーに乗り合わせて一緒にいたとき、その娘が相当お酒を飲んだらしく酩酊してしまっていた。

そのときおっちゃんの心の中に起こってはいけない気持ちが湧き上がってしまった。
おっちゃんはタクシーの運転手に指示してほとんど意識のない彼女を連れて一軒のホテルに入ってしまう。
そしてその部屋の中で彼女を無理矢理犯してしまったのだそうだった。

彼女はその事実を訴えたが、おっちゃんは「彼女に誘惑された」と言ってしまった。
大学は将来を期待されたおっちゃんの言葉を優先して、逆にその女子学生が非難されることになってしまった。そして彼女は自分の身の潔白を訴え自らで自らの命を絶ってしまった。

私はこのとき初めて自分の罪に気づいたのだよ。

しかし私は自らで自分の過ちを正す勇気がどうしても持てなかったんだ。
そしてそんな私にも寿命が終わる時がきて、私は72歳のとき胃癌で人生を終えたんだ。

結局私は彼女に対し人生の中で詫びられる勇気を持てなかった。
そんな私に新しい人生を歩む資格なんかないのさ。


でもね、ワタル君
私はそれで彼女への罪滅ぼしが出来ているとは思っていない。

ただ私はこうして新しく生まれ変わる者たちの世話をすることで、いつか私にできる罪滅ぼしが見つかるんじゃなかって、そう思ってるんだ。

だから、それが見つかるまで…。


そしてそれから2日間
ボクは残りの宿題を一生懸命終わらせた。

おっちゃんはさすがに大学教授だけあって、相当難しい質問にもじつに的確なヒントをくれた。
しかしおっちゃんはボクに解答をそのまま教えるようなことはしなかった。


「いいかい? 日本語と同じように英語の文章にも作者の意図というものが必ず込められている。文章は生きているんだ。だから文章は理屈で読むよりも心で読む。それができないで答えを導き出しても全く意味がないんだよ」

生まれ変われば今までのすべての記憶が失われるはずなのに、宿題を終わらせることに意味があるのではない、一つ一つを考えて解けとおっちゃんは言う。
考えれば笑ってしまうことかもしれないけど、ボクはこういうおっちゃんは、ボクに「残りの時間を使って戦争というものをじっくり調べてみたら」と課題を与えてくれたジェームズさんとどこか似ている気がした。


「はぁ、おわっ…た」
最後の問題を終わり、ボクはその答案をおっちゃんに差し出した。

おっちゃんはそれを丁寧に確認していき
そしてその最後のページに赤いボールペンで

「石川渉君の宿題、確かに受領しました。 青葉学院大学文学部英米文学科 准教授 長谷川 聖」
と大きくサインした。

「お、おっちゃん! おっちゃんって青葉大の先生やったん!?」

「そうさ。キミが通っていた青葉学院高等部の系列のね」

「そうやったんでっかぁー。 びっくりしたわぁ、もうっ!」

「ハハハ、私はキミの本当の担任ではないが、キミの夏休みの宿題は確かに青葉学院の教師のひとりである私が受け取った。2日間よく頑張ったな!合格だ」

「は、はい。ありがとうございます。」

「さあ、最後の一日だ。 明日は凛ちゃんとゆっくり過ごしてきなさい。」

「はい!」



今週でいよいよ夏休みが終わるという最後の土曜日
朝10時

ボクは最寄の駅のロータリー前で凛と待ち合わせをした。

彼女は薄いブルーのワンピースに白いサマーカーディガン。
肩まで伸びた艷やかな亜麻色の髪のサイドは綺麗に編んであり後ろでまとめられている。
そしてその頭には横に青のリボンの付いた麦わらのカンカン帽。
唇には薄いピンクのリップまで引いていた。

その姿に見蕩れポケーーーとしているボクに、少し恥じらうように照れた笑顔を浮かべるキミ…。

ああ、当たり前のことだけど
中2の夏休みまでは男の子として生活していたキミは、今こんなにも愛らしい女の子としてボクの目の前に立っている。

きっと、あの戦争でボク達が死ななかったとしたら、きっとキミはこんな素敵な女性として成長していたんだろうな。

もう、思い残すことはない。


ボクの可愛い妹、凛。

そう
キミは本当は生まれた時からちゃんと女の子だったんだよ。

ときの流れの中で、いつか本当に愛する人と出会い
愛する人の子供を産み
そして育てていく。


キミはそれができる女性なんだ。


トオル君
そう、トオル君
キミに凛を任せるよ。

キミならきっと凛を幸せにしてくれるからね。

だからボクは、ボクの愛した凛をキミに任せたいんだ。

ボクが鮎川 渡であったとき、小2のときキミに出会ってからずっとそう思ってきたから…。


そして
ボクが凛と過ごす最後の時間は夕暮れの生暖かい風が吹いてくる頃終わりを告げる。


「ああ、楽しかったー。久しぶりに2人だけでこんなにゆっくりした時間を過ごせたね」
凛はボクの顔を見上げて無邪気な笑顔を見せた。

「ホンマ楽しかったな。 なあ、凛ちゃん?」

「ウン、なあに?」

「前に話した、ボクが戦争のことを調べているのな」

「あ、ウン」

「あのとき結論を言ってなかったな? まあ、結論っていってもボクなりの結論なんやけどな」

「ウンウン。聞かせて?」

「これは戦争だけやないことや。これから先のキミの人生の中でもし誰かに対し憎しみの感情が起こったとしたら、その憎しみの先にあるものを考えてみてな。きっと憎しみの先には何もないから。でも愛することの先にはきっと、いや必ず、凛ちゃんにとってたくさんの幸せがあるはずだから」

「ワタル君…」
凛はボクのその言葉に少し不安そうな顔をした。

「ん?どうしたんや?」

「アタシたち、夏休みが終わったらまた会えるんだよネ?」

「あ…、あったり前やんかぁーーー!(笑) そうや!凛ちゃん。ちゃんと夏休みの宿題終わったかー? ボクはぜーーんぶしっかり終わらせたで。 特に英語! 英語の小出先生はこわいからなーー!(笑)」

女の子の勘…ってやつかな。
鋭いな。

「あ、ウン。アタシもちゃんと終わったヨ」

「そっか。じゃあ、夏休みが終わったら学校で答え合わせしよか?」

「そう言って答えが抜けてるとこアタシのを写すつもりでしょーーー!?」

「ワハハハ! ばれたかぁぁーーーー!(笑)」

「アハハハ」



そしてそんなことを話しながら2人で歩く道もとうとうあの公園の前に辿り着いてしまう。
ここで終点だ。


「さあ、じゃあここでな。 夏は日が高いけど、もう7時近いからな。早う帰らんと凛ちゃんのお母さんが心配するから」
ボクは凛のおでこに小さなキスをしてそう言った。

「そっかあ・・・」
凛は少し寂しそうな表情になる。

そして
「じゃあ、月曜日学校でネ。」
少し歩き出した凛がふっと振り返ってそういう前に、ボクの姿は夏の夕暮れどきの甘い風の中にすぅっと溶けていく。



生まれ変わりの森の家に戻ったボクは
玄関をくぐり、そしていつもの和室に入りテーブルの前に腰を下ろす。

「はあ、すべてが終わったな…。」

そう
ボクがやるべきことは全て終わった。
もう何も思い残すことはない。

戦争によって断ち切られたボクと凛の命。
アメリカやイギリスを憎んだこともあった。
でもジェームズさんと出会って戦争は一方だけに不幸を強いるものではないということがわかった。

そのままパタンと畳に身体を横たえじっと天井を見つめる。
そしてボクは、石川渉として生まれ変わり中3のとき哲から凛となった彼女と再会したときからのことをゆっくりと思い出していった。

凛はそのとき女性として生活を始めて半年ほど。
それでも既に彼女の身体は女性としての柔らかさを示し始め、
少し恥じらうように笑う笑顔は男のボクの心をくすぐり
そして亜麻色の髪の毛は優しく小さな肩で揺れていた。

正直、凛とキスをしていたとき彼女を抱きたい、セックスをしたいと思ったことは一度や二度ではなかった。

兄妹であったのは前世でのこと
今は男と女として愛し合えるんじゃないか。
そう思ったら凛の心も肉体もボクのものにできるんじゃないかなんて気持ちがどうにも抑えきれなくなって。

でもボクはそのとき考えた。
ボクに与えられた命はたった1年半。
もしボクが凛の心を掴んでしまったら、ボクがいなくなったとききっと凛はその悲しみに耐えられなくなって壊れてしまうだろう。

凛にはミコちゃんやみーちゃんといういい友達ができた。
幼馴染の久美ちゃんもきっとこれからも凛のことを助けてくれるだろう。
そしてそう遠くない未来、凛はトオル君と出会う。
凛は彼女を愛してくれるたくさんの人たちに囲まれて生きていける。

そんな凛の未来をボクが壊すなんてことは絶対にしちゃいけない!

(凛…凛…)
(好きだ!愛している!)
(ボクが本当に生きている肉体だったらどうなによかっただろう…)
(ボクがオマエのことを幸せにできてたらどんなによかっただろう…)


ボクは家に帰ると、ときどき自分の部屋で少しの間だけ涙を落とす時間を作った。
きっとジェームズさんはそんなボクをときどき見ていたのだろう。

「辛いな…ワタル」
ジェームズさんがあのとき呟いた一言が今のボクの心の中ではっきり響く。

「ホンマ…辛いわ、ジェームズさん」

仰向けになって天井を見つめるボクの顔にはいくつも涙の筋ができていた。



「なあ、ワタル。 どんなに時代は変わっても男と女は愛し合うために生きるものさ。 そしてセックスをして子供をつくり育てていく。 それが人間ってもんなんだ。 男は好きな女に自分の子供を産んでもらう。 そうやって男は自分の命をつないでいくんだ」
ジェームズさんは僕にそう言ったことがあった。

人間がなんで男と女に分かれているのか。
種を残すだけなら2つに分かれていなくてもいいはずだ。
そこにどんな意味があるのか?
ボクは心のどこかでずっと考えてきた。
その答えは、今やっとわかった気がする。

「ハハハ、人間ってなんて単純な生き物なんやろ」
涙を流しながら、なぜ笑いがこみ上げてきた。


そんなことを考えながら
ふっと部屋の入り口の方に目をやると
そこには森の番人のおっちゃんが立っていた。

「ああ、おっちゃんか。」

するとおっちゃんは、畳に寝転んでいるボクの横に静かに腰を下ろした。
「なあ、ワタル君…」

「うん…」

「私は君に2つの選択をあげようと思う」

「選択? ボクに何を選ばせてくれんの?」

「ひとつは今までの記憶をすべて消去し、新しい命として生まれ変わるという選択だ」

「もうひとつは?」

「君に『実体』を与えてもいい」

ボクはおっちゃんのその言葉に寝ていた身体をバッと起こして叫んだ。
「実体って? ボクを、石川渉としてずっと生きさせてくれるってことか?」

「いや、それはできない。実際、石川渉という人物は現世において存在しているわけだしな。そんなことをすれば矛盾が生じてしまう」

「じゃあ、どうするん? 実体ってどういうことですんや?」

「まず凛ちゃんの記憶の中に新しい幼馴染の存在を作る。 そして君はその人物として実態の身体を持つ。 君はある日青葉学院に転校し、そこで彼女と再会をする」


ボクが新しい存在として凛と出会う?
ひとりの男と女として。


「しかしおっちゃん、そんなことしたってボクには家族もおらへん。帰る家だってないやんか?」

「そんなことは簡単さ。 君に両親を作ればいい。 どこかの家庭の記憶に君の存在をすり替えればいいのさ。 そうすれば君はその両親の子供としての人生を送れるわけだ」

「ボクに家族をくれるってことか?」

「まあ、簡潔に言えばそういうことだ。 凛ちゃんはきっと新しく現れた君の存在を意識するようになるだろう。 そして君を愛するようになる。 男と女としてね。」


ひとりの男としてボクが凛を愛することができる?
ボクが凛を守ってあげられる。
凛をボクのものにして…。

「そして、いつの日か2人は結婚をし、2人の子供を作ればいい。 君と凛ちゃんの子をね」

ああ、それはボクが心のどこかでずっと夢見てきたこと。
トオル君に任せなくてもボクが凛を幸せにしてあげられる。
ボクが…ボクが…。

「ありがとう、おっちゃん」

「そうか、それじゃ…」

「いや、それはやめとくわ」

「ほう、なんでだい? 君にとって悪い話じゃないと思うんだがね」

「そうやな。悪い話やない。 それをすればボクは凛を自分のもにできるかもしれへん。 でも…」

「でも?」

「もうボクはウソをつきながら生きていくのはいやなんや。 そうしてしまうとボクは凛に生涯ウソをつきながら生きることになってしまう」

「……」

「それは本当に凛を愛することにはならないって思うんや。 だからそれをしてしまったらボクはずっと後悔することになってしまう気がして…」

「そうか」

「でも、おっちゃんの気持ちは嬉しかったで。 ありがと」

「いや。君は立派だな」

「そんな立派なんかあらへんよ」

「ハハハ、まあいいさ。 じゃあ、行こうか?」


そしてボクはおっちゃんに連れられていよいよこの家を出る時が来た。
薄暗い森の中の中を2人で歩き、そしておっちゃんがボクを案内した場所は大きな泉だった。

その泉の水はキラキラと不思議な光を放っている。


「さあ、ワタル君。服を脱いで、そしてゆっくり泉の中に入りなさい」

ボクは着ていた服を脱ぎ、そして足の先を泉の中に入れた。
泉の水は不思議と冷たさはなく、かといって温かくもない。
しかしボクの身体をなめらかに包み、何とも言えない心地よさだった。

「さようなら。ワタル君。 幸せになるんだぞー!」
泉の淵のほうからおっちゃんの声が聞こえる。
しかしその声もボクの身体が泉の中に浸かっていくにしたがって次第に薄れていった。


そして全身が泉の水に浸かったとき
ボクの記憶は完全に消滅した。


おぎゃー!おぎゃー!

「生まれました!生まれましたよー!」

「ハァ、ハァ、ハァーーーーーー。」
赤ちゃんを無事体内から出した母親が荒い息を吐いている。

「さあ、あなたの赤ちゃんですヨ。立派な男の子ですヨーーー!」
まだ目が開いていない生まれたばかりのボクは誰かの温かい腕の中に抱かれている。

柔らかい腕
そして暖かい乳房がボクの頬に優しく摺り寄せられている。

「あなたの新しい人生に、おめでとう。」
ボクを抱くその女の人のとても温かく優しい声が聞こえた。

そして
しばらくすると何人かの人が部屋の中に入ってくる気配を感じた。

「美由紀ーーー、がんばったな。男の子だぞーー」
若い感じの男の人の声が聞こえる。

「ああ、悟ーーーー。2人の赤ちゃんだヨーーーーー」
その女の人は少し涙の混ざった声でそう言い
そしてボクの頬を自分の頬にすり寄せた。


そしてその若い男の人は母親に抱かれたボクを覗きこみ、とても嬉しそうにこう言ったんだ。
「よし、男の子だから予定していた名前をつけよう。いいか、お前の名前は哲、『小谷 哲』っていうんだ。わかったかーーー!」


(fin)

スピンオフ6 「アタシの哲ちゃん(久美子のココロ)」

それは、中2の夏休みもあと一週間ほどで終わろうとしていたある日のことだった。
アタシは、中1のとき同じクラスで仲が良かったミコや奈央たちと行った近くの区営プールから帰ってきて髪を乾かしていた。
そのとき母親が部屋のドアをノックして
「久美子ーー、学校の先生から電話よーーー」
と声をかける。
「ウン、わかったあ。こっちで取るから」
アタシは、部屋の隅に置かれている電話を取りあげ
「もしもし、安藤です」
と返事をした。

「あ、安藤さん?」
そう言った電話の相手は、アタシの担任の飯田先生だった。
「はい、そうです」

すると電話の向こうの飯田先生は何か少し落ち着かない様子でこう言った。
「夏休み中にごめんなさいね。じつは、ちょっと安藤さんにお話したいことがあって電話をしたの」

「あの、何でしょうか?」
「あ、ちょっと・・・詳しいことは電話じゃ話せないことなの。それで、悪いだけど明日学校まで来てもらえるかしら?」
「ええ・・・いいですけど」
アタシがそう言うと
「それじゃ、明日1時に職員室で待ってるから」
そう言って電話は切れた。

(何だろう・・・)
こう言ってはなんだけど、アタシはそれほど問題になるような生徒ではないはずだ。
成績は、まあ・・・すごくいいとは決して言えないけど・・・でも、先生を困らせるほど悪くもないはずだし
何かしでかしたような記憶もない。
いくつかの思い当たることを考えながらも、とにかくアタシは明日学校へと向うことにした。


翌日
「あの、安藤ですけど」
職員室のドアを少し開いて声をかけると、夏休み中にも関わらずそこには10人ほどの先生たちが集っている。

「ああ、安藤さんか。わざわざ申し訳ないね。奥の校長室に入ってもらえるかな」
アタシは職員室の中に入って奥にある校長室のドアをノックする。

「はい、どうぞ」
中から校長先生らしき声が聞こえた。
そしてアタシが中に入ると

「あれ!?」
10畳ほどの校長室の真ん中に置かれたソファには、校長先生と担任の飯田先生のほかに何故か隣のクラスの山岸先生、そしてびっくりしたのはアタシの幼稚園以来の幼馴染である哲ちゃんのお父さんとお母さんまでいるではないか。

「おじさんとおばさん!どうしたんですか!?」
アタシは驚いたような声を上げた。

「あ、まあ、安藤さん。まずはこちらに座ってください」
校長先生はそう言ってアタシにソファの席を勧める。
アタシはおずおずとその席に腰を下ろした。

「さて・・・」
校長先生はそう言って話を切り出そうとする。
「ご両親のどちらからお話しますか?」

「では、私から話しましょうか」
そう言ったのは哲ちゃんのお父さん
しかし
「いえ、アタシから話させてください。女同士のほうが聞きやすいと思うから」
そう言ってお父さんの隣に座る哲ちゃんのお母さんが周りに同意を求めた。
「そうだな。わかった」
お母さんの言葉にお父さんは大人しく退く。

そして
アタシの前の席に座るお母さんはちょっと身体を乗り出すようにして話し始めた。
「久美ちゃん、今日はせっかくの夏休み中にごめんなさいね」
「あ、いえ。大丈夫です」
「じつは、アナタは哲の昔からのお友達だから、お話しておきたいことがあって・・・」

「10日前なんだけど、じつは哲が夜中に救急車で運ばれたの」
お母さんのその言葉に
「エッ!あれって哲ちゃんだったんですか!」
アタシはガタっと音を立てて席を立ち上がった。

アタシの家と哲ちゃんの家とは100mほどの距離
そして、10日ほど前だったか、確かに夜中に救急車がサイレンを鳴らして家の前を通り過ぎ近所で止まる音がしたのを覚えている。
しかし、それがまさか哲ちゃんの家だとは思わなかった。

「そ、それで・・・哲ちゃんは?」
「あ、ウン。それでどあの子は大学病院に運ばれて、そのまま入院ってことになったんだけどね」
「エエエッ!!アタシの哲ちゃんが入院っっ!」
アタシはびっくりしてついそんなことを口走ってしまう。

「アタシの哲ちゃん?」
みんなが不思議そうな顔でアタシの顔を見た。
「エ、あ、いえ。なんでもないです!」
アタシはブンブンと首を振って誤魔化す。

「あの、それで、哲ちゃん、入院したってどこが悪いんですか?ま、まさか・・・」
「あ、いえ、悪いっていうんじゃないの」
「だって、入院したって」

するとお母さんは
「フゥ・・・」
と小さく息を吐き、そしてこう続けた。
「あのね、久美ちゃん。今から言うことにびっくりしないでほしいの・・・って言っても無理か」

「じつは、あの子が入院した理由なんだけど、あることがわかったの?」
「あること・・・ですか?」
「ええ・・・」

「あの子なんだけど、じつは・・・女の子だったのよ」

ポカーン!!
頭をバットで殴られるような、とはよく聞くが、まさか自分がそうなるとは思わなかった。
しかし、そのときアタシはまさにそういう感覚だった。

そして3秒ほど固まったアタシは
「ハァ???」
お母さんの突然のその言葉にすっとんきょうな声をあげてしまう。

「あの、すみません。おばさんの言ってる意味がよくわからなくて・・・。哲ちゃんの顔が女の子っぽいっていうのは、昔から思ってましたけど、でも女の子っぽいのと女の子だっていうのとは全然違うんですよ」
「ええ、・・・確かにそうね」
「こう言ってはなんですけど、アタシ、3歳のときから哲ちゃんとは友達で、小さい頃はお風呂だってよく一緒に入ってたんです。それで、あの、その・・・哲ちゃんの・・・『アレ』だって、いつも見てたんですよ。彼は確かに男の子です!」

「わかってるわ。2人が大の幼馴染だってこと。だから、アナタには一番最初に知ってほしいって思ったの」
「だったら!」
「ええ、でもね、あの子の『アレ』はじつは男の子の『アレ』じゃなかったのよ」
「哲ちゃんの『アレ』が『アレ』じゃなかったって!?」

すると
『アレ』、『アレ』と繰り返すアタシとお母さんの会話にお父さんが
「プッーーーー」
と吹き出すように笑ってしまう。

「お父さん!なんですか?こんな話をしているときに!」
お母さんはお隣に座るお父さんをキッと睨んで叱った。

そしてお母さんは再びアタシの方を向き直ると順を追って説明を始めた。
哲ちゃんがお母さんの体内で出来たおできに尿道が通ってしまい本来の女性の膣がそれに隠れてしまったこと。
そのため両親は彼が男の子だと思って育ててしまったこと。
そして、10日ほど前の夜中に彼に突然初潮が訪れたことを。

「そ、そんな・・・信じられない」
アタシは食い入るような目でお母さんを見つめてそう呟く。
「そうよね。アタシだってまだ信じられないわ。でも、本当なのよ。きちんと検査して染色体も女性のものだってわかったの」

「じゃあ、哲ちゃんは本当は・・・女の子?」
アタシは絶句した。

「それでね・・・久美ちゃんにお願いがあるの」
お母さんは、彼(彼女)がこの中学に通って最後まで卒業をしたいと言っており、そしてできたら哲ちゃんと今までどおり仲がいい友達でいてほしい、とアタシに言った。

「そ、それはもちろん!でも、哲ちゃんはこれからは女の子として生活していくんですよね」
「そうなの。だから、問題はたくさんあるんだけどね」
「一番大きな問題は何ですか?」
「そう・・・ね、やっぱり一番大きいのは友達のことかしら。あの子が女の子としてみんなに受け入れられるか。男友達とはしては戸惑うところでしょうけど、問題は女の子たちよね」
お母さんは
「フゥ・・・」
とため息をついた。

言われればアタシもそう思う。
たしかに哲ちゃんが生物学的に女の子なのだろう。
しかし、今まで異性だと思ってた人をいきなりじつは同性だと言われても戸惑いは否定できない。
とくに女の子の場合体育の着替えとかトイレとか生理的な感情は男子よりもずっと大きいだろう。

アタシは少し考えた。
そして目の前にいるみんなに言った。
「女の子のこと、アタシに任せていただけませんか。ちょっと考えがあるんです」



アタシは家に帰ると今までの話を思い出してため息をついた。
だって、いきなり男友達がじつは女友達だって言われても困ってしまう。
実際の話、正直言えば頭の中はまだ消化しきれずに混乱したままだ。

アタシが哲ちゃんと出会ったのはお互いの近所にある『くるみ幼稚園』に入園して間もなくの3歳
その当時彼はわりと内気で大人しめの子だった。
ときどき砂場で一人で遊んでいる彼の姿を見てて何かを話しかけたいという気持ちはあった。
しかしきっかけがない。
ところがある日そういう彼がいつも以上に必死に砂場で何かを作っている。
見ると、それは彼の背丈くらいありそうな砂のお城
アタシはびっくりして近寄って行った。
そして彼に初めて話しかけた。

それからアタシと彼は一気に仲良くなっていった。
幼稚園で一緒に遊び、家に帰って着替えると一目散に100m離れた彼の家に直行
夕方まで2人で近くにある赤いブランコの公園で遊ぶ日々だった。

同じ友達とそんなに四六時中一緒にいて飽きないのかと言われると何故だかまったく飽きなかった。
飽きる飽きないというより、一緒にいて居心地がいいのだ。
何かを思いついて言葉にするとすぐ隣にいつも哲ちゃんがいて、そしてそれに応えてくれる。
そんな哲ちゃんはアタシにとってとても大切な友達だった。

そういうアタシと哲ちゃんの関係は小学校に入ってからも続く。
もちろん、同性の女友達だってたくさんいたけど、哲ちゃんはやっぱり特別だった。

そんな彼を異性として意識したのは、多分小4のころ
8月10日は哲ちゃんの誕生日
アタシたちは毎年お互いの誕生日には2人だけのパーティをしていた。
そしてその年の彼の誕生日に、アタシはお母さんに手伝ってもらいながら初めてクッキーを焼いた。
それを丁寧にラッピングして誕生プレゼントとして彼に食べてもらうつもりでいたのだ。

「やったぁー!できたぁー!」
「あら、思ったよりきれいにできたじゃない」
バターの効いた香ばしい香りが鼻をくすぐり
ひとつを味見にと口に入れると甘い味が口いっぱいに広がってふわっと溶けた。
「ウン!美味しいー!」
アタシは哲ちゃんが喜んでそれを食べる姿を想像して顔を綻ばせたのだった。

ところが
そのプレゼントを持って彼の家に行くと、いつものパーティ会場となっているリビングからは何故か
「わいわい」
「がやがや」
とダミ声がする。
部屋に入ってびっくり!
なんと、アタシと哲ちゃん2人のパーティ会場には
男の子数人が集まっているではないかっ!!

「あ、久美ちゃん!」
哲ちゃんがニコニコとした顔でアタシに声をかける。
アタシは持ってきたクッキーをテーブルに置き、そしてピクピクと口元を引きつらせながら哲ちゃんに小さい声で尋ねた。
「ねぇ、こいつらって何ヨ?」
「え、ああ。ボクのクラスの友達なんだ。今日誕生パーティやるって言ったら来たいって言い出して」

するとそのときだった!
「おおーっ!コレけっこーうめーじゃん!」
そう叫ぶ声が聞こえてアタシがテーブルの方を振り返ると

「あああっっ!!」
な、なんと!その男どもの一人が、アタシが哲ちゃんのために初めて焼いたクッキーを貪り食っているではないかっ!!

「ちょ、ちょっとっ!それ、アタシが哲ちゃんのために焼いてきたのにぃー!」
アタシはその男の子に向かって言うと

「ハッハッハーー!いただいてまーーす!」
そいつはゲラゲラと笑ってそう減らず口を叩いた。

チックショォォォーーーーーー!!!
アタシは怒りが頂点に達しつつあった。

そのとき
「おい、石川ぁ。哲ちゃんの奥さんが怒ってるぞぉ」
そう言ったのはアタシもよく知ってる哲ちゃんの男友達の安田君。
そう!この図々しい男がなんと将来アタシの旦那になる石川 渉その人だった。


そんなわけで散々だった小4の誕生パーティ
そしてアタシにとっての初恋だった哲ちゃんとの間にそれ以来この石川渉なる男の子はアタシと哲ちゃんの関係に強引に入り込んでくることになる。

そういう昔を思い浮かべながら、アタシは
あの初恋があっけなく、しかも完璧にぶち壊れてしまったことを自覚するしかなかった。
しかも、そのぶち壊れ方がなんとも悲惨!
アタシの初恋はじつはレズになってしまったのだ(泣)

(ああ、悲しいぜっ!)
(アタシって何て不幸なんだろうっ!ううう・・・・)

しかし、考えてみれば今一番戸惑っているのはほかでもない哲ちゃん自身であることは間違いない。
アタシが彼、いや彼女を助けずして誰が助けるっていうのっ!?
そう思い、アタシは10年間に及ぶ想いを断ち切ることにしたのである。



さて、
「アタシに任せてくれ」
と言ったものの、どうすればいいのかだ。
最近は性同一性障害とかいう病気をときどき新聞などで聞く。
そのほとんどは女に憧れる男らしいのだけど、実際考えてみれば男がいくらどうやったって女になれるわけでもなく、気味悪いというのが正直なキモチ。
中には学校で自分がそういう病気だと告白し、女装だけでなく着替えやトイレも女の子と同じものを使わせろと無理を言う人もいるらしい。

だけど、哲ちゃんの場合はこういうのとは違う。
彼が望んでそうなったわけではなく、じつは彼は生まれた時から女の子であったわけで
それを女の子の間でどう受け入れてもらえるようにするかが問題なわけだ。

アタシが同じクラスであれば、そういうふうに手助けしてやることもできるけど、アタシたちは今は別のクラス
誰かアタシの代わりになって哲ちゃんを助けてくれる人・・・・。
アタシは考えた。
そしてフッと思いついたのはミコだった。

ミコは本名が藤本美子といい、アタシとは中1のとき同じクラスだった。
彼女はアタシたちとは別の小学校出身で、中1で同じクラスになるまで知らない存在だった。
しかし彼女はとても可愛く、入学式のからかなり目立っていた。
しかも授業が始まってわかったけど、彼女は相当頭がいい勉強のできる女の子だった。

アタシもそういうミコを最初は近寄り難い存在だと思っていた。
しかし、1学期の半ば頃、たまたま同じ委員会の用事で遅くなって2人で一緒に帰ったとき
アタシは自分のミコに対する印象が本当はまったく正反対であることがわかった。

「安藤さんっていつもみんなに囲まれてるからさ、中々話す機会なかったんだよね」
「じつはアタシは藤本さんのこと誤解してたの。ゴメン」
「でも、これでアタシらって友達だよネ」
「ウン!お互い気軽に行こうヨ」

よく話をしてみると、彼女はとても気さくで女の子としてはサバサバしていて、そして自分の容姿や勉強ができることなどまったく自慢しない。
むしろ友達同士にそんなことは無関係とさえ考えていた。
そしてアタシとミコはそれ以来とても仲良くなっていった。

そんなミコだから、ちゃんと話せばきっと力になってくれる
アタシはそう考え、さっそく彼女に電話をすることにしたのだ。


そしてここはミコの部屋

アタシは彼女に事の顛末を話した。
ミコは信じられないという表情でアタシの話を聞いていたが、アタシの表情で真剣さが伝わったのかもしれない。
とにかく哲ちゃんのことは信じてくれたようだった。

「それでさ、ミコにお願いがあるんだ。」
「なにヨ?」
「彼…っていうか彼女の友達になってやってくれないかなぁ?」
アタシはストレートにそう切り出した。

「エーッ! アタシが?」
「ウン。ダメ?」
「ダメ…っていうんじゃないけど…。」
彼女は躊躇いの表情を顔に浮かべた。

そりゃそうだろう。
いくら友達の頼みっていっても、
夏休みが始まる前までは異性だった人が夏休みが終わると同性になってでてくるわけだ。
そして、その娘と友達になってくれっていきなりお願いされても、困ってしまって当然だ。

しかし、ミコはやはりミコだった。
彼女は友達になることに躊躇っているのではなく、どう友達になればいいかを考えていた。
そして彼女はニコッと笑ってこう言った。
「ウン。わかった! じゃあ、アタシ、彼、じゃなかった彼女の友達になってみるヨ」


そして翌日はいよいよ哲ちゃんの手術の日
アタシは手術の終わった哲ちゃんの病室を訪れた。

彼、いや、もう彼女なのだろう
彼女は手術が終わりまだ麻酔が効いており、個室のベッドの上で寝ていた。

そっと近づいてベッドの横まで行くと、
スゥスゥ
と彼女の小さな寝息が聞こえる。

そこで見た寝顔は、アタシの知っているいつもの幼馴染の哲ちゃんだった。
しかし、彼、いや彼女はもう哲ちゃんではない。
彼女は凛ちゃん、小谷 凛として新しい人生を始めるのだ。

哲ちゃんは、昔から女の子のような顔だと言われ続けてきた。
形の良い滑らかな額
卵型の輪郭にスっとした顎
ぷくんとした頬に小さな口

(改めてよく見れば、たしかに男のコの顔じゃないよなあ・・・)
彼は彼女になったのではなく、元々彼女だった。
アタシは改めてそれを実感した。

「小谷・・・凛ちゃん・・・か」
アタシはそう呟いて、彼女のオデコに掛かった髪の毛をそっと上げた。

すると
彼女は薄く目を開け
「ああ…、久美ちゃん。来てくれたんだ。」
と小さく答えてくれた。
「凛、事情はおじさんとおばさんから聞いたヨ。アタシたちさ、小さい頃からずっと友達だったんだよ。そしてこれからもずっと友達なんだからネ。」
アタシがそう言うと、
「ぅぅぅ・・・久美・・ちゃん・・」
彼女は小さな肩を震わせてただ泣いていたのだった。



そして、それからしばらくして凛は退院することができ、
夏休みが終わって数日遅れていよいよ登校することになった。

隣のクラスのアタシはこのときミコが彼女にどう接してくれたかを知らない。
でも、その日の夜、凛はアタシの家に電話をかけてその時の様子をきちんと話してくれた。

「でね、そしたら突然ボクの隣の席の藤本さんって女のコが話しかけてくれたんだ。「友達になろうヨ!」って言ってくれて。」
凛は、ミコという新しい女友達の存在を本当に嬉しそうに話していた。

アタシたちは夢中になっていろいろなことを話す。
ふっと気が付いたらもう1時間近くも話し続けていた。
さすがに、まだ一人称が『ボク』となっている癖はまだ抜けていない様だ。
それでも、アタシがまさか哲ちゃんとこんなふうにガールズトークをするとは夢にも思わなかった(笑)


それから半年ほどの月日が流れる。
初めは女友達の中に入るきっかけになればと思っていた凛とミコの関係はその後も続き、意外にも2人は友達の絆を強く深めていった。

凛とミコ
この2人は傍目から見てかなりタイプや性格が違うように見える。
しかし、2人はお互いの違いをむしろ尊重し合っているようだった。
そして高校受験の志望校まで同じ青葉学院高等部を目指すようになった。

そんなある日、
いつも凛と一緒に帰っているミコが委員会のため凛は一人で家路に着き、たまたま歩いていたアタシとバッタリ会う。
アタシと凛は本当に久しぶりに一緒に帰った。

2人で肩を並べて歩くと、哲ちゃんだったときから男子の中でも身長が低かった凛とアタシはほとんど変わらない。
そして、アタシたちは昔話に花が咲いた。

そんなとき偶然に出会ったのが、その昔アタシと哲ちゃんの間に突然割り込んで入ってきたあの石川 渉だったのである。
あの頃、彼は針のように尖った硬い髪にアタシや哲ちゃんよりも低かった身長のワンパク坊主だったのに、
5年ぶりに会った彼はちょっと赤っぽいサラサラの髪に見上げるほどの身長の爽やかボーイに劇的変化を遂げていた。

彼は小5のとき、親の転勤のため転校をしてアタシたちの前から去っていった。
それがまたこちらに戻ってきただそうで、なんとあたしたちと同じ若松中学に転校する予定だという。

アタシたちはその彼と商店街ですれ違う。
「アレっ! 久美ちゃん? 久美ちゃんやろ?」
彼は歩いているアタシと凛の2人にそう声をかけてきた。
そりゃ、当然だろう。
凛があの哲ちゃんとは、さすがの彼もわかるはずがない。
そして、哲ちゃんのことを説明するとあまりに変わってしまった昔の男友達の姿に驚くのであった。

しかし久しぶりに会ったとはいえ今は異性(本当は元々異性だったんだけど)
そんな2人が昔の関係に戻れるはずもなく、そして2人は次第にお互い惹かれ合っていく。

アタシは哲ちゃんのことを誰よりも知っているつもりだ。
男の子として生活していたときの哲ちゃんは外見は女のコっぽさを持っていても、その行動やしぐさは至って普通の男のコであった。
それが、彼と出会ってからの凛はまさに女のコ!
恋は女を変えるというが、まさにその通りだった。

この頃、彼女は身体は生理が安定してきて胸もかなり膨らんでいく。
腰つきはクビレが目立ち始め、お尻は丸い形に整っていった。
もう他の女子と何ら変わらない一人の女のコになっていたのだ。
そして、それは身体だけでなく、彼女の心も男から女へと次第に変化していく。
つまり、石川君と凛は一人の男と女として向き合ったのだった。

そのときアタシは実感した。
(ああ、アタシの哲ちゃんはもうどこにもいなくなっちゃったんだ・・・)
てね。

変な話だけどさ、アタシは女のコになっちゃった哲ちゃんでもいいんじゃないかって思ったりしたこともあったんだ。
彼女が女のコになりきれなくって、お嫁に行かないままいたなら、アタシと2人で仲良く暮らしていけるんじゃないかって。
それって思いっきりレズだろっ!
って言われると、そりゃそうかもしれないけど・・・
アタシ、自分でそんな趣味があるなんて思ってないけど
それでも、アタシと哲ちゃんならきっとうまくやっていけるんじゃないかって思ったり・・・ね。

でも、彼が現れてどんどん女のコになっていく凛を見てると
ああ、やっぱりこの娘は女のコだったんだなあ・・って思った。
だって、石川君と一緒にいるときの凛の表情ってホント女のコなんだもん。
だから、アタシはアタシの哲ちゃんだった凛を彼に譲ることにしたんだ。

しかし、そんな彼が凛の前から突然消えてしまう。
じつは彼はこの世に生きている人間じゃなかったんだ。
彼は石川 渉という人間の記憶を借りていた『心』だった。
そのときの凛の姿はホントに胸が張り裂けそうだった。
そしてアタシたちは、彼が転校していった大阪に、本物の石川 渉を探す旅に出る。

そこで出会った本物の石川君は凛の好きになった彼とはあまりに別人!
容貌はアタシや凛の知っているあの頃の石川 渉を想像通り成長させたみたいな感じ
しかし、それだけじゃなかった。
凛が好きになった石川 渉とは似ても似つかないヤンキー不良少年!
それも、不良の本場、大阪の中でも一二を争うワルの学校極東工業の中でもさらに一二を争うワルという頂点に上り詰めた
つまり彼はエリート中のエリートのワル、KING OF KINGSのワルだったのだ。

そんな彼だったけど、アタシたちと出会ったときの彼の眼差しはあの頃に戻っていた。

じつはアタシは彼の存在を最初少なからず疎ましく感じていた。
だって、そうでしょ!?
アタシが愛しい哲ちゃんのためにせっかく焼いた初めてのクッキー
それをアイツは勝手に横取りして貪るように食いやがったんだ!

ああ、そんなバクバクムシャムシャって・・・
食べるんだったら、ちょっとは味わうように食べなさいヨッ!

そしてそれ以降アイツはアタシと哲ちゃんの間にズケズケと割り込んできた。
哲ちゃんも人がいいもんだからそんなアイツのことをニコニコと受け入れちゃう。
学校が終わって、哲ちゃんといつも待ち合わせの『赤いブランコの公園』に行くともうアイツが来て待ってるしっ!!

「ねぇ、あの人ってなんとかならないの?」
アタシは何度か哲ちゃんにそう言ったことがあった。
しかし、哲ちゃんは楽しそうな顔で
「エ、なんで?そういえば、ワタルさ、久美ちゃんのこと楽しい娘だねって言ってたヨ」
と言う。

楽しい娘ってどーいう意味ヨッ!?
そう思ったけど、さすがのアタシでもそんなことは口に出せなかった。
ただ最初はアタシにとってちょっと迷惑な彼だったけど、そのうち3人で頻繁に遊ぶようになって少しずつ大切な友達になっていった。

そして小5のとき彼が転校すると聞いたときは、不思議と心のどこかに穴が開いたような
そんな気持ちになった。

そんな彼は転校する日の前日、突然アタシの家に電話をかけてきた。
「久美ちゃん、悪いけど今からちょっと出てこれない?」
いつもとちょっと違う彼の様子にアタシは
「あ、いいけど」
と返事をする。

そして
「じゃあ、哲ちゃんも誘って行くから」
とアタシが言うと
「あ、いや。久美ちゃんだけで・・・来てほしいんだ」
と彼は少し焦るように言った。
「まあ・・・いいけど・・・」

待ち合わせはいつもの赤いブランコの公園
30分後にアタシが行くと、彼はすでにその場所で待っていてくれていた。

「大阪に転校しちゃうんだってね?」
「あ、うん。そうなんだ」
「いつか戻ってくるの?」
「多分・・・もう、戻ってこないと思う」
「そっかあ・・・」

そしてアタシたちはしばらくの沈黙

すると
彼はスっと顔を上げてアタシの方を見て、言った。
「俺、俺さ・・・」
「ウン」
「久美ちゃんのこと好きなんだ」

「エ、そ、そうなの?」
「ウン。久美ちゃんは俺のこと・・・どう思ってる?」
「アタシは、アタシは・・・哲ちゃんもワタル君も同じように好きだヨ」

「そ、そうか。そうだよな。あ、ウン。よかった。ハハ、嫌われてなくって嬉しいよ」
そう言って彼はニコッと笑ったのだった。


そんな彼と5年ぶりに再会し
別れ際に、彼がアタシにニコッと微笑んだとき
アタシは『あのとき』のことを思い出した。
そして不思議にもこんなことを思ってしまった。
(へぇ、男のコって・・・こんな優しい笑顔になれるんだ)
きっとあのときもこんなふうに優しい笑顔だったんだろう。
ただ、あのときのアタシにはそれが気付かなかったんだ。
そしてアタシはそのとき、あのときのアタシの心の中のぽっかりと空いた穴にカレという存在が埋まったのを感じた。

その後少ししてカレは突然アタシたちの街に戻ってくることになった。
じつは、些細な喧嘩で離婚してしまったカレの両親
そしてカレはお母さんに連れられてお母さんの実家のある大阪に転校していったのだ。
それがどういうわけかアタシたちがカレと再会して間もなくして、お母さんはまたお父さんと寄りを戻すことになった。
それにはこんなことがあったそうだ。

お父さんが会社の出張で、突然事情があって行けなくなった部下の代わりに急遽大阪に来たとき
仕事が終わってたまたま夕食に入ったファミレス
そこで隣の席に座っていたのがお母さんだった。
そして、偶然出会ったお父さんとお母さんは少しずつ会話をしていく。
あのときあまりに感情的にカッとなってしまったお互いに反省する余裕ができたのだという。

あまりにも偶然な、ものすごい、ドラマみたいな・・・

でも、アタシは後になってこの事をフッと振り返って考えたとき
(もしかして、そこにはワタルBの何かの力が働いているんじゃないか)
なんて思ったりした。
それが正しいか正しくないかは今では確かめる術はない。
でも、とにかくまた家族が一緒に暮らせるようになったことでカレは昔の笑顔を取り戻していった。

そしてアタシと本物の石川 渉君はしばらくして付き合いだした。
その4年後
お互いが20歳になった年にアタシたちは結ばれる。

それは、決して同情なんかじゃない。
アタシはきっと自分の気持ちに気づいたんだって思う。

カレからプロポーズを受けたときアタシは思った。
(カレだったらきっとアタシを幸せにしてくれる。そして、アタシだったらきっとカレを幸せにしてあげられる)
ってね。


それから数年が経ち
凛が同じ学校の先輩だった笹村さんと、ミコは5歳年上の芦田さんと結婚し、
そして凛やミコの学校の友達であったみーちゃんはせっかくの芸能界を引退してまで凛の弟の悟君と結ばれた。

アタシにとって初恋の人だった哲ちゃんは人妻となり、とうとうアタシが絶対に手の届かない場所に行ってしまったわけだ。
でも、これでいいんじゃない?(笑)
だって、アタシにはカレがいて、2人の子供がいて、毎日楽しく暮らしてるんだもん。

平均寿命で考えると、女のほうが男より7歳くらい長生きするらしい。
もし、お互いの旦那さんが先に天国に行っちゃったら、そのときは2人で暮らそうか?
ね、哲ちゃん。

ときの流れの中で・・・

ときの流れの中で・・・

中学でサッカー部に所属する小谷 哲は可愛らしい顔をしてるけどれっきとした男のコ・・・だと思っていた。ところが、中2の夏休み中そんな彼に突然女のコの生理が訪れる! そして彼はやむを得ず男から女へと生活を変えることになった。こうして彼(彼女)は凛と名前を変え、いろいろな人達の協力もあってミコちゃんをはじめとした女友達も増えていく。 そこにあるとき現れた不思議な男のコワタル君、凛ちゃんは次第にこの不思議な少年に心を惹かれていく。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-11-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第1話 突きつけられた事実
  2. 第2話 決断
  3. 第3話 初登校、そして新しい友達
  4. 第4話 あっち側とこっち側
  5. 第5話  アナタが現れて…
  6. 第6話 思い出のディズニーランド
  7. 第7話 信じていいんだよネ?
  8. 第8話 ミコの小さな恋
  9. 第9話 聖夜のマーメイドたち
  10. 第10話 ああ、受験ラプソディ
  11. 第11話 卒業そして入学
  12. 第12話 新しい仲間たち!
  13. 第13話 ライバル登場
  14. 第14話 夏合宿
  15. 第15話 そしてそのとき
  16. 第16話 二人のワタル
  17. 第17話 銀杏並木のセレナーデ
  18. 第18話 Wデートは恋の予感?
  19. 第19話 告白されちゃった!
  20. 第20話 meet again
  21. 第21話 bye bye my dearling
  22. 第22話 一緒に歩いていきたい
  23. 第23話 トオル君とのお付き合い
  24. 第24話 シンデレラ☆デビュー
  25. 第25話 みーちゃん、危うし!
  26. 第26話 危険な香り
  27. 第27話 彼氏の家
  28. 第28話 カレと一緒に超える壁
  29. 第29話 新しいスタート
  30. 第30話 出現!なんて図々しい男
  31. 第31話 カレーライス
  32. 第32話 行き先のむこうにあるもの(前編)
  33. 第33話 行き先の向こうにあるもの(後編)
  34. 第34話 ~fin
  35. スピンオフ1「永遠のメリーゴーランド(ミコと芦田さんの場合)」
  36. スピンオフ2「弟以上恋人未満(みーちゃんと悟の場合)
  37. スピンオフ3「29歳のガールズトーク」
  38. スピンオフ4「29歳のガールズトーク2(ベルサイユの凛)」
  39. スピンオフ5「ワタルのキモチ」
  40. スピンオフ6 「アタシの哲ちゃん(久美子のココロ)」