回帰
心臓を鷲掴みにされた
私の肌は悲鳴を上げたように身震いする。
息をするのが苦しい。胸を撫でて僅かに開けることができた口の端で息を吸い込む。埃っぽい空気が身体の中に入ってくる感覚を感じる。
自分の身体の色が真っ白になるような、視界が白くなっていくのを感じる。どうにかなってしまう。
息をできたのはいいものの、次は涙腺が緩んで涙が溢れてくる。
このまま目を開けていたら視界が海へと変わってしまうだろう。ギュッと目を強く閉じる。目を閉じた瞬間自分の心臓の音に意識がいく。
どっどっどっどっどっどっどっ
こんなに鼓動が驚いている。悲鳴を上げている。でも嬉しい悲鳴なのかもしれない。
涙もうれし涙で、こうなる事をはじめから待ちわびていたのかもしれない。
涙が止まらない。目を閉じると子宮が脈打つのを感じる。
あつい。あつい。あつい。
視界がぼやけ、息も苦しい。フラつく私の目の前に一つの影。
ジャジャーン 静かな空間にギターの音が響く。
その人が口を開く。愛の歌が聞こえてくる。
一体この人の体のどこからそんな声が出ているのか。
皮膚が一枚一枚はがされて、彼の言葉に浸されて細胞までしみていく感じだ。
もうだめだ。それ以上歌わないでくれ。立っていられない。
私は必死の思いで足を動かし、彼の口を塞いだ。
彼の口は塞がれた。手のひらに柔らかな唇の感触。
上唇はここなんだな、下唇はここなんだなと手のひらで分かる。
次はそれに呼応するように体の芯が悲鳴を上げる。
唇の感覚で頭がバカになってしまいそうだ。
その瞬間に彼の唇が開く。
手のひらに熱い息がかかる。私はびっくりして手を離した。
彼の目はどこにあるのかわからない。なのでその目は私を見つめているのかそうでないのかはわからない。
彼が再び歌を歌う。空気を裂いて私の喉仏に突き刺さる。
いたい。いたい。いたい。あつい。きもちいい。あつい。どうしよう。あつい。
その様子を見て彼はなんだか嬉しそうだなと思った。唇からわずかに笑みがこぼれている。
私は鼓動がおかしくなってしまいそうなので自分の胸を撫でてなんとか両足で立つ。
彼の歌は続く。何枚も何枚も重ねられたような美しい声に自然と口が開いてわたしは知らぬあいだにヨダレを垂らしていた。
その姿を見られて、彼は小さく笑った。立ち上がってさっきまでギターを弾いていた指先で私のよだれを拭う。指先は夜を思わせる。
私はもうだめだと思ってぐらりと脳内が揺れるのを感じて血しぶきのように鼻血を出した。
赤くて鉛臭い、新鮮な血を出して私は倒れた。そして意識を失った。
それからどれくらい時間が経ったのだろう。
目を覚ますと彼の姿はなかった。私の鼻には丁寧に丸められたティッシュが詰められていた。
そしてそこにはまだあたたかい彼の匂いが残っていた。
私は走り出した。
意識も戻りきっていないし、血しぶきのような鼻血を出したせいで視界もうつろだけれどもその意識よりも早く走らなければと思っていた。
思えばここはどこだろう、どこの道路なんだろう。私は今まで見たことがあるのかないのかわからないような景色を走り続けていた。
道がどこまで続いているのか、そしてどこに行けば終わりになるのかわからなくなりそうな景色だった。
でも、それよりもこんなことはもう二度とないだろう。
ラッキーな事に私はスニーカーを履いていたので思い切り走ることができた。
私は鼻を嗅いで全神経を彼の声の匂いに集中した。
低音でも、高温でも、ぬるくも熱くもない声、少しかすれて色気があり、優しくおだやかな声の匂い。
わずかに、ほんのわずかに、高架下に残っていた匂いを辿り私は走った。
夢の中なのだろうか、誰もいない真っ暗の道を進むと不安になったりもしたけれども今は匂いの記憶とだけ、あの優しい声だけを考えるようにして走った。
もういくつもの信号を超えて、足はクタクタでもつれそうで喉からは血の味がする。
また鼻血が再び出てしまいそうになった頃、路面電車の線路が前方に見えた。
そしてその向こうに彼の姿を発見した。
私は彼の名前を呼ばなければと思って声を出したけれどもなぜか喉に出かかって声にすることができなかった。[あー]とも[いー]とも出せない。
苦しさと悔しさで涙がにじむ。どんどん彼の姿は遠ざかっていくのに無情にも踏切が降りて、電車が走る。
諦めることなく、叫んではいるのだけど声は届かない。
かすれたような私の声だけが私だけに届く。
電車が通り過ぎた。もうだめだと思ったけれども線路の向こう側には彼がこちらを向いて立っていた。
こっちを向いて穏やかに微笑んでいる。
私は走って彼の前に立った。
彼は素敵な声で私に初めて話し始めた。
「走ってきてくれたんだね。」
私は相変わらず声を出すことができないので何度も何度も頷いた。
「でも僕は君とはいれないんだ。君の中にいるけど君とは話せない。」
なんでなんだろう、どうしてなんだろうと思いながら私は首を傾げた。
「君の感情が作り上げた僕は幻のようなものだから。」
彼は私の手を取り、指先を絡めた。私の指先と彼の指先は明らかに別のもので、でも繋ぐことで一つになろうとする熱と熱がぶつかる感じが背筋をくすぐったくさせてわたしは汚いいやらしい顔でニヤリと笑ってしまった。
その行為だけでも私は体中が火照り、鼓動が騒がしく、立っているのがやっとになった。
その様子を見た彼は優しく頭を撫でながら悲しそうに笑った。
「僕がこれ以上話すと‥君に触れると‥君は死んでしまうかもしれない。」
そう言った後、優しく抱きしめられた。
あたたかく、なつかしく、おだやかで胸が熱くなる感覚に涙が出そうになった。
抱きしめられているのに自分を抱きしめているような、少し悲しく尊い瞬間のように思えた。
少しでもこの時間を長く味わっていたくて私はギュッと目を閉じると、静かに風が吹いた。風は2人を柔らかく包むようにそっと髪を揺らしてまた流れて行ってしまった。
目を開けると彼は消えてしまっていた。
しかし、消えたというよりも私の中に戻ってくるような不思議な感覚だった。
目をよく、よくこらしてみる。
彼の姿がぼんやり見える。そこには穏やかに微笑んでいる彼の姿があった。
彼が手を差し出す。私はその手を取り、握り返す。
指先に力を入れると溶けてしまいそうだった。
わたしは彼に向かって話すことができそうな気がして息を吸い込んで言葉を発した。
「わたしはあなたとずっとひとつになりたかったんだと思う。」
今度は彼が声を出すことが困難なようで小さく頷いた。
私は彼の指先を確かめるように強く握った。
回帰