道標

艶ぼ〜いシリーズのスピンオフ作品です。シリーズを読み終えたかた向け。

Amebaゲーム艶が〜るの翔太君とはキャラ設定が違いますのでご注意ください。龍馬さんに恋をする設定になっていますので、BL系が苦手なかたはご遠慮くださいませ。

導くひと

舗装されてない土で押し固められた道の上を全速力で走り出した。砂埃が舞う中、後ろを振り返る。どよめきながら何事かとこちらを見ていた集団が、めいめい後ろから声をかけられて慌てて家の中に駆け込んで行くのが見えた。あの浪人風情の集団はこの町の人々に恐れられているということか。奏音くんは平気だろうか? 走っていてうるさいのか、不安で鼓動が速くなっているのか判らない。「お前は逃げきって助けにきてくれ、頼む。俺は斬られるより売られる可能性が高い。知ってるだろ?」奏音くんは強い。そしていつも冷静だ。だけどいつだって自分自身を顧みない癖がある。ここは何時代なんだろう。女の子だってバレて売られたらどんなヒドイことをされるだろう。僕はそんなの嫌だよ、奏音くん。

「本当に俺の夢に付き合ってくれるの?」
奏音くんが首を傾げて僕を見上げた。
「奏音くんの夢は僕の夢でもあるよ」
「他にやりたいことないのか? お前はすぐ他人の為に嘘をつくからな」
「ふふ。他人の為に嘘をつくって奏音くんには言われたくないよ」
奏音くんは薬学部に行って病院勤務薬剤師を目指す。僕は理学部に行って新薬を開発研究する職を目指す。僕たちは12歳の時に東北大震災で被災した。その時に思い知ったんだ。自分の無力さと、頼りになる大人とまったく頼りに出来ない大人との違い。
僕たちは僕たちが目指す理想の大人になると決めた。“国境なき医師団”という医者の集団がある。奏音くんはそれの薬剤師バージョンを作りたいのだと僕に話してくれた。情報も援助もなく風邪をこじらせて亡くなっていく人達の村に留まって、その土地にある植物を研究し、調合し、薬を作ってみせる、教え込む。そしてその村で薬を調合出来る人を育成したら、旅立っていく、そういう集団を作りたいのだと。同じ大学の薬学部と理学部にそれぞれ進学した僕たちは夏期休暇を利用して京都で山篭りをすることにした。京都では昔から薬膳料理が伝わっている。その道中、沢から滑落してしまった僕たちは、何処かの時代にタイムスリップしてしまったようなのだ、まだ信じ難いけども。
走り続ける合間にあたりを見回すと見知った景色が目に入る。場所は京都のようだ。けれど僕たちの時代にならあるはずのものがどんなに走っても見つからなかった。電柱や車などはまったく無く、洋服を着て走り続ける僕を仰天して見てくる人達はみんな和服姿だった。登山靴だから走りにくい。鞄の中ならタブフォンや替えのスニーカー、登山ナイフなども入ってるのに。奏音くんの鞄には手回し充電器もあったはずだ。追っ手から逃げ切れたら山に戻って2人の鞄を探しに行きたい。おそらく浪人風情の追っ手は草履履きのはずだけど、格好が目立つから振り切ったと思っても目撃証言からすぐに見つけられてしまう。
困ったな。どうしよう。少し考えてから町中ではなく川沿いの草むらを走ることにした。これなら登山靴でも走りやすいし草で格好が隠れて見られにくい。川沿いにあった無人の小屋に身を潜めた。そのまま夜を待って山に戻ろうと試みた。
「……何も見えない」
絶望をともなってつぶやきが漏れた。僕たちの時代とはまったく違う。一切の光源が無かった。一寸先は闇ってこういうことかも、そんな意味では使わなかった言葉だけど。こんな状況で山を目指したら下手すると死んでしまう。川沿いの道を走ってきたから川に落ちる危険もあった。僕が死んでしまったら奏音くんはどうなる。今もピンチかもしれないのに。仮眠を取ったら寝過ごす危険があったので徹夜で明け方を待った。早朝なら追っ手も居ないと考えたからだ。
陽が昇るとともに川沿いの小屋を抜け出す。あたりには誰も歩いてない。ほっとして眠たい瞼をこすって走り出した。一刻も早く鞄を手に入れて奏音くんを助けに行かないと。
逃げてきた道を逆に辿って山を目指した。逃げながら覚えた建物を目印に急ぐ。京都で良かった。碁盤作りの町並みと修学旅行で覚えた土地勘が役に立つ。しばらく走ると、前方に深く傘を被った侍が3人見えた。昨日の追っ手とは雰囲気が違う。浪人風情じゃなかった。傘からのぞく髪型から予想すると何処かの藩士だと思う。3人とも通りの向かいにある建物を見張っているように見えた。遠回りをするしかない。けれど迂回して覚えてない道を辿って下りてきた山を目指せるだろうか? 迷っていたら3人のうち1人がこちらを振り返って残り2人に耳打ちをした。しまった、気付かれた! 慌てて踵を返して逃げ出す。怪しんでくれと言ってるようなものだけどどっちにしろこの格好じゃ見つかった時点で一緒だった。
昨日から何も口にせず水さえ飲めてない。一睡もしてない。ずっと逃げて走り続けてきた僕は体力の限界だった。小学生からずっとバスケ部で、走るのは得意だったけどさすがに無理があった。3人に追いつかれ袋小路に追い詰められる。逃げ場は無かった。3人は一言も話さず目で合図をしあっている。手は腰にさした刀にかけられて、ジリジリと僕との距離を詰めていた。僕は殺されるんだろうか。

「ゲージンさん! 拳銃を出せばいいじゃろう! 3人なんて楽勝じゃ!」
頭上から声が届いた。見上げると屋根の上に大柄な男の人が乗っていて大股開きでカッカッカと笑っている。ゲージンさん? もしかして外人さんと言ったのかな? そうか、この3人が何も言ってこないのは外人だと思われてるから? 距離を少しずつ詰めていたのは拳銃を持っていると思われてるからなのかな?
僕は賭けに出た。「FREEEEZE!! or SHOT YOUR HEAD!!」とアメコミの悪役みたいな台詞を叫んでジーンズのポケットに手を入れたら登山自炊用に持ってきたチャッカマンが入ってた。それを拳銃を構えるようにしてカチッと火を点ける。火が点くだけだったはずなのにそのタイミングでパパパン! と音がしたので逆に僕が驚いた。侍3人が逃げ出した。火薬の匂いと煙で視界が白くなる。これ、爆竹だよね? ブワッと風を切る音がして大柄な男の人がザシュっと着地したあとコケて尻餅をついた。起き上がって尻についた埃を叩きながらまたカッカッカと笑っている。「うまく行ったのう」と振り返り、呆けている僕の顔を見て、自分の後頭部をパシンと叩いた。
「ほうか、ゲージンさんじゃき、言葉通じないんじゃった」
通じてるけどさ。今それ思うの遅くないかな?

不思議なんだよ、奏音くん。初対面なのにさ。僕、その時なんだかすごく安心してへたりこんじゃったんだ。
もしかして、奏音くんも、最初に高杉晋作さんに会った時、そうだったのかな?

想定外の出逢い

へたりこむ僕に「どうしたんじゃ、ゲージンさん? あ、あーと、なんじゃったか、はちじ8分?」と大柄な男の人が聞いてくる。もしかしてWhat's happenって言いたいのかな。なにその“掘った芋いじってんな(What time is it now?)”的な言葉。空腹と疲労からボーッとした頭でそんな事を考えながら僕は気を失った。

起きると木目の天井と黒い梁が目に入った。視点をずらすと漆喰の土壁が見える。僕は布団に寝かされていた。ドスドスという遠慮のない大きな足音がして左横の障子戸がスパーンと開かれた。
「おう! 起きちょったか、ゲージンさん!」
寝てたとしても今ので目が覚めると思う。
「運んでくれたんですか。すみません」
「おお? おまん日本語話せるんか?」
「はい」
「ほうか、髪色が赤毛じゃき、わしゃてっきりゲージンさんかと」
髪は色素の薄い茶色なのだけど地毛だ。僕も奏音くんもハーフでは無いけれどクォーターで、奏音くんのお祖母ちゃんはイギリス人で、僕のお祖母ちゃんはドイツ人だ。2人の両親がともに職場内恋愛で、研究所勤めだから周囲にも国際結婚やハーフが多い。
上半身を起こすと目眩を起こした。額に手をあてて目を瞑る。暗闇と白い光の点滅で目がチカチカした。
「無理しなくていいが、寝ちょれ。なんぞ病気かえ?」
「いえ。昨日から何も食べてないのと一睡もしてなかったので。眠れたぶん幾分具合は良くなりました。ありがとうございます」
「今、粥を作ってもらってるとこじゃ、たんと食え」
「すみません、ご迷惑をおかけして」
「なーんも、なんもじゃ、気にせんでええ!」
ニカッと口角を大きくあげて笑う。この人はどういうつもりなんだろう。ここが何時代かはまだ判らないけれど、町の人達は一様に僕たちに奇異の目を向けていたし、姿を見られただけで侍風情や浪人風情の集団に追いかけまわされたのだ。この町の人達にとって僕は怪しい存在で、こんな風に面倒を見たら厄介になりそうなのに。この人は最初からずっと何者なんだとか何処から来たのかとかの質問の類を一切しない。
障子戸が開かれて粥を乗せた盆を女の人が運んできた。「用意しましたえ」と枕元に置くと「すまんのう、女将さん」と男の人が労う。女の人が僕を見たので体が一瞬身構えた。敵意を向けられるのではと思ったから。けれど女の人は優しく微笑んで「はろう」と言った。
「女将さん、こやつはゲージンさんじゃなかったようなんじゃ」
「へ? そうなんでっか? それにしてはけったいな髪色でんなぁ」
「ほうか? わしゃ羨ましいがの。おひさまみたいにキラキラしとる。綺麗な髪色だと思わんか」
「坂本はんは異人贔屓でんなぁ。そんなん言うてるから命狙われるんとちゃうの」
「かっかっか、いつも迷惑かけて、すまん!」
クスクスと笑いながら女の人は立ち上がって退室した。ものすごく喉が乾いていた僕は盆の上に乗せられた湯呑を一気にあおる。番茶がぬるく入れられていて気遣いを感じて頬が緩んだ。
「その様子じゃと水も飲めなかったようじゃの」
「はい」
「粥を食っとれ。わしゃ茶のおかわりをもらってくる」
「ありがとうございます」
粥を匙ですくって食べ始めると、男の人がじっと僕の顔を見ていた。な、なんだろう? どうしたのかな。
「不思議な男じゃのう。ずいぶんと腹が減っちょるだろうに食べ方が上品すぎる。おまんもしかして宮家から家出してきた公家さんの子ぉかえ?」
「く、公家? う、ケホッ」
それって天皇の家系ってことかな? 面食らって咳き込むと男の人が背中を撫でてくれる。ゴツゴツとした大きな手の感触に安心する。
「すまん、すまん。なに、噂じゃ。異国の植民地にされかかっとるっちゅーのに朝廷も幕府も援軍を出してくれる気配もない。もうとっくに侵食されとるんじゃないか、宮家の女性が異人と通じて時折赤毛の赤ん坊が生まれては匿われたり捨てられたりしとるんじゃないかとな、みんな不安なんじゃ。だからおまんにも冷たい視線が向けられたじゃろう、恐かったろうな、すまんかった」
フワリと頭を撫でられた。この時代の他の人は恐がるはずの髪色の僕を。その懐の広さにちょっと感動して、助けてくれたのがこの人で良かったと思った。思ったけれど。
「おまん、名はなんという? わしは坂本龍馬じゃ」
けれど、これはちょっと想定外です。この人、坂本龍馬なの!?

どうしよう、奏音くん。僕、とんでもない人に助けられちゃったみたいだ。

手掛かり


土間に足を置いて板の間に座ると水を張った桶に足を入れて十代の女の子が洗ってくれる。なんかいかがわしい店に来ちゃったみたいで落ち着かないし、くすぐったい。けれど仕方が無いのか、裸足に草履ばきだと足の裏は土だらけになる。
ジーンズや登山靴は脱いでまとめて風呂敷に包んで持ち歩くことにした。ボクサーブリーフやТシャツは吸水性が良いので洗って干して着物の下に着ることにする。下りてきた山に戻って鞄を見つけることが出来れば替えの下着も入ってる。この町に慣れたら探しに行こう。
龍馬さんが匿ってくれた宿屋の人に草履と着物をもらったのだけれど体が大きくてつんつるてんになった。「兄さん大きいなぁ。ふふ、童子のようになってしもた」と女将さんが苦笑した。同じく体の大きな龍馬さんは着ているもの全てを自分用にしつらえてもらっているらしい。
確か坂本龍馬という人は土佐藩の下級武士だけれど実家が大きな商家で裕福だったと習った記憶がある。むしろ武士にさせてもらえるほどの力を持った商家なのだから相当金持ちなのだろう。江戸にも遊学していたはずだ。今京都に居るということは勝海舟さんに弟子入りして神戸の海軍操練所を盛り立てている頃だろうか?
龍馬さんが先にお金を置いて僕の着るものを数着しつらえてくれと呉服屋さんに頼んで出かけてしまったあと呉服屋の旦那さんに体の寸法を測られた。巻尺などではなくて布を直接あてて衣擦れの音をさせながら手際よく指を挟んで測っていくのについ見とれた。
「兄さんはおらんだの人でっか? 大きいなぁ」
「あ。えー、と。母がポルトガル人で。父は蘭学者です」
「はぁー、お父さんがお医者様なんやね」
他人に聞かれたらそういう風に答えることにしようと龍馬さんに言われたのだ。日本人だと言うのには無理がある容姿だからハーフだということにして、長崎生まれの医者の息子だと言えば警戒心を抱かれにくいという。そもそも和服を身に纏い帯刀するだけでも態度はかなり変わるそうだ。歌舞伎ものという浪人は変わった髪色や髪型を好むのが流行っているかららしい。
けど龍馬さん本人はいまだに僕に何者なのか? とかをまったく聞いてこない。いったいどういうつもりなんだろう?
浪人風情の集団に追いかけ回されて幼馴染みが捕まってしまって心配だ、助けに行きたいと最初に話したら「おっしゃ、わしに任せとけ」と力強く約束してくれた。
「そういや藍屋はんの店にも長崎出身の医者見習いが居候始めたらしいが知り合いかえ?」
「え? あの、どんな人か判りますか? 僕、はぐれてしまった幼馴染みを探してるんです」
「藍屋はんが反物を買うてくれた時に言うてはっただけやから詳しくは知らんのや。すんまへんな」
「いえ! ありがとうございます!」
何も手掛かりが無いよりずっと良かった。もしその居候が奏音くんなら浪人風情の集団に捕まったまま酷いことをされているわけじゃない。
「藍屋さんってどんな人なんですか?」
呉服屋で反物を買っていくなんてきっとお金持ちだと思う。この時代の人達はたいてい質屋で古着を買って着まわしていたはずだ。
「花街の遊郭の旦那や。楼主にしたら若いんやがやり手でっせ。器量良しを揃えとる。本人も美形やしなぁ」
クラクラと目眩がした。嘘、奏音くん本当に売られちゃったの? 居候で医者見習いというのは遊郭に預けられてから奏音くんが機転を利かせたのだとしても、売りつける前には女の子だってバレたとしか思えなかった。浪人風情集団の前で脱がされた奏音くんを想像したら泣きたくなった。もしそれが奏音くんだったら命は無事かもしれないけどやるせない。捻挫した奏音くんを背負って走って逃げれば良かったかもしれない。運が良ければ逃げ切れた可能性もある。
数日中にしつらえ終えたら宿屋に使いを出しますよってと言う呉服屋の旦那さんにお礼を言って頭を下げた。
「丁寧やなぁ。見た目とはえらい違いや」
「え?」
「派手な赤髪がはねてる大男なんて無法者に見えて怖くてしゃあない。あんさんにこれやるわ」
そう言われて木の入れ物を渡される。蓋を開けると半透明のジェルみたいな物体が入ってた。
「椿油や。髪を撫でつけて柘植で結わはるとええ。ほしたら物腰はもともと丁寧やし蘭学者に見えまっせ」
「あ、ありがとうございます」
少しだけ希望が持てる。こんなにいい人の旦那さんが褒めるんだ、きっと藍屋さんも優しい人に違いない。どうか奏音くんが元気でいますように。

僕はその時、奏音くんが捕まった時よりも藍屋さんの意地悪さに苦戦していることなんて知らないから、そんなことを思っていたよ。
うわ、奏音くんが苦笑いしてる。どんな嫌味を言われてたの? え、そんなに?

ひとりぼっち

冷たい水が流れる岩場を着物の裾をたくしあげて裸足で歩いた。季節は夏。旧暦は判らないから正確な日にちは不明だけれど周囲の話を聞くと、たぶん1863年だと思う。
奏音くんは平気かな? 哲学思想は僕の父と奏音くんのお父さんからの影響で好きだったけど歴史は詳しくはないはずだ。奏音くんは胸ポケットにタブフォンを持ってたから内臓辞典である程度は調べられると思うけどバッテリーが持たないかもしれない。その前に捕らえられた場所で持ち物を取り上げられてたらどうしよう。思想を迂闊に話すと反対勢力に殺される危険もある。でも奏音くんの場合、政治思想について聞かれたら素直に答えちゃいそうだなぁ、討論とか好きだし。居候先に疑われてないといいけど。

一度落ちた沢に戻って鞄を探そうと試みて捜索範囲の広さに絶望した。こんなの見つかるわけないよ、だいたいここに落ちたのかもはっきりしないのに。ああ未来だったら鞄の中にあるタブフォンのGPSで探せるのにと途方に暮れたあと、ふと思いついた。基地局や電波が無くてもタブフォン本体の機能とバッテリーエネルギーだけで動くものは利用できるんだ。カメラとか、内臓辞典とか。ならアラーム機能も生きてる。僕は6:30と6:45にアラーム設定していた、スヌーズをつけて。つまり止めなければ5分間隔で6:30から7:15までアラームが鳴り続ける。それを頼りに探せば見つけられる。あれから雨は降ってない。夏で助かった、梅雨の時期だったら水没してただろう。
陽が昇ってすぐに宿屋の部屋から出る。隣の部屋の襖に耳をあてると龍馬さんのいびきが聞こえた。明け方の冷たい空気の中誰も歩いていない町を通って記憶をたよりに再度、落ちた沢へと向かう。裸足になって川の浅瀬を渡り、切り立った山裾を見上げる。急斜面だ、登れるだろうか? 風呂敷包みから登山靴を出して履き替えた。龍馬さんが貸してくれた刀二本を杖がわりにして斜面を登る。今は何時なのか判らない。6:30より前だとは思いたい。京都なら僕たちが育った東北より日の出時刻は早いだろうから。斜面に刀を突き立てながら慎重に歩く。落ちないようにしなきゃ。
しばらくしてかすかにメロディー音が聴こえた。僕が設定している好きなグループのアルバム収録曲だ。キュッと胸が締め付けられた。久しぶりに未来に関連するものと触れたから。きっともう帰ることは出来ないんだろうな。哀しさに負けそうになってかぶりを振った。今は、哀しみにくれていい時じゃない。奏音くんを助ける為にも鞄は必要なんだ。未来に置いたままじゃなく鞄もこの時代に持ってこれたことを運が良かったと思おう。それに僕は独りじゃない。産まれた時から一緒に育った幼馴染みが居る。
5分間隔で一定時間鳴るメロディー音を聴いて方角を予想して歩いた。だんだんと音量が大きくなっている、近付いてる証拠だった。
「あった!」
木の枝に引っ掛かっている鞄を落ちないように気をつけながら手を伸ばしてなんとか取る。周囲を捜索すると奏音くんの鞄もあった。突き出て平たくなっていた岩場に留まって下に落ちなかったらしい。ある意味助かった。落下距離が長かったら壊れて使えなくなっていた可能性もあったから。鞄を回収してゆっくりと沢に下りたあと中身だけを予備に持ってきた風呂敷に包む。鞄は目立つので着火マンで火を付けて燃やした。草履に履き替えて宿屋へと戻る。
町には起き出した人々が歩き出していた。仕事に向かっているのだろうか。お店の前で箒を持って掃除をする男の子や女の子をよく見かける。奉公なのかな。当たり前だけど学校とか無いんだよね。
宿屋の庭で顔を洗っていた龍馬さんが「おお? 寝とるかと思っとったが。なんじゃ、散歩でも行ってたんかい?」と目を丸くした。「いえ……」何かを言おうとしたけど、言葉が続かない。鞄を見つけて奏音くんに届ける。それに必死になってて気づかないでいられた。その後は? そのあと僕は何をすればいいのかな? 未来にはきっと戻れない。奏音くんと約束した夢は叶わない。あんなに頑張って勉強したのに。
奏音くん。……奏ちゃん。君を助けようとしてたけど、なんか違ったみたいだ。僕は君に会いたい、会って話したい。僕が助けてほしいんだ。助けて、奏音くん。寂しさと哀しさでどうにかなりそうなんだ。

定まらぬ想い


夏祭りの準備中なのか屋台の骨組みをつくる人達が何人も居た。色とりどりの風車が並んでいくつも回っている。綺麗だなとは思うものの気分は高揚しなかった。
「おまんが幼馴染みに会うのはちっくと難しいかもしれん」
神社の脇にある石畳の段差に腰掛けてると龍馬さんが申し訳なさそうに切り出した。
龍馬さんはつてを頼って奏音くんの現状を調べてくれていたようだ。

昼間は龍馬さんと一緒にあちこちへ歩く。刺客に見つからないように一箇所には留まりたくないのだと言う。大阪や神戸へと向かうことが多く勝海舟さんへ会いに行くことも多い。僕はそのあいだは別の部屋か庭で龍馬さんの話が済むのを待っていた。龍馬さんは僕のことを尋ねられると長崎で会った蘭学者の友人で、龍馬さんが学ぶために一緒に居てもらってると答えていた。
勝海舟さんが興味深そうに僕を見て
「へえ。おまえさん専門はなんだい?」
と聞くので、思想を話さないなら平気かなと
「えっと、薬、です」
と答えた。理学と言っても伝わらないだろう。勝さんはにまりと笑って
「これは解けるかい?」
とわら半紙に書かれた図形を示した。数学の問題らしいけど問うてる日本語が崩し字で読めなかった。
「あの……長さを求めてるのか面積を求めてるのかの問題文が読めないのですが」
「この部分の長さを求めよってえ問題さ」
「それなら解けます」
「面積も解るのか?」
「はい」
「両方やってみてくれよ、おいらの前で」
ちょっと迷ったけど解くことにする。この人は勝海舟さんなんだ。革新的で、幕府の要人でありながら大政奉還、江戸城無血開城へと導いた人。佐幕派ではない。怪しまれたとしても投獄されたり殺されたりはしないと思う。筆と紙をもらって公式を書いて解いていく。両方とも答えを出すと勝さんは別な冊子を見て答えあわせをしたようだった。
「両方正解じゃねーか。てえしたもんだ。確認するが、おまえさんは数学者ではなくて、薬屋なのかい?」
「はい」
「はっはっは。坂本、おまえ蘭学はおいらじゃなくこの先生に習ったほうが良さそうだぞ」
「そんな、何をおっしゃるんじゃ、勝先生!」
慌てふためく龍馬さんをニヤニヤと眺めていた勝さんはその後、僕自身のことについては何も聞いてこなくなった。その代わり龍馬さんと一緒に訊ねるたびに帰り際に主に学問のことで質問をされた。「この問題がどうしても解けないんだがどうすりゃいい?」と。なんだか落ち着かない気分だ。怪しんで探りを入れてくる人がまるで居ないというのは僕の状況ではおかしすぎる。

「翔太たちを追っとったのは壬生浪士組じゃ」
壬生浪士組。のちの新撰組か。背筋が寒くなる。新撰組は僕たちの時代では人気があるけれど、周囲ではあまりに多くの人が死んでいたはずだ。
「まだ、良かったほうじゃな。尊王攘夷の過激派じゃったらすぐ殺されとったかもしらん」
「え?」
「日本語を話すのに異国の格好を身に纏っとったら奴らの神経を逆撫でしとるようなもんじゃ」
奏音くんもクォーターの血のぶん地毛が明るい。日本語喋っちゃったかな? 異人の振りで切り抜けただろうか?
「どうやら取り調べ中に壬生浪士組よりも偉そうな御人が現れて藍屋っちゅう遊郭の旦那に預けられたらしいんじゃが」
売られたわけじゃなかったんだ。良かった。ホッと息をつく。
「その御人が謎じゃき、わしはよう近付けん。もし佐幕派じゃったらわしは捕まるじゃろう。翔太を一人で花街に行かせるのは危険じゃ、花街は攘夷派が身を潜めてる場所でもあるしの」
「なるほど」
「おまんの幼馴染みは医者なんか?」
「いえ。奏音くんも薬が専門です」
「ほうか。実はそやつは一人で京の町をよく歩いとるそうなんじゃ。診察に回っとるらしくての」
「一人で!?」
なんでそんなことに。大丈夫なの? 奏音くん。
「医者の格好をしとるらしい。なかなか評判もええようじゃ。じゃからの、わしらが京に居るあいだにばったり会えるのを待つしかなさそうじゃ、すまんの」
「いえ」
首を振った。女の子だってバレてなくて、無事だって判っただけでも充分だった。
安堵した僕はつい口を滑らせた。
「龍馬さんは今は公武合体主義なんですか?」
龍馬さんの笑みが消える。スッと口元が引き締められて真剣な眼差しになった。“今は”“公武合体”これじゃ龍馬さんの元の主張や勝海舟さんの主張を知ってることになっちゃう。怪しすぎる。
「それがの、ようわからんのじゃ」
龍馬さんは土の上に仰向けに寝転がると持っていた風車をふーっと吹いて回した。カラカラと軽い音をたてて風車の色が揺らめく。
「攘夷、攘夷と昔は言うとったが、なーんか違う気がしての。どうも肌に合わん。勝先生のことは尊敬しとる。じゃから勝先生のために動いちょるんじゃが、自分はどういう主義かとな。人に聞かれてもわからんのじゃ。こいつのように吹かれる風に回っとるだけかもしれんのう。滑稽じゃろ?」
「あの……」
「うん?」
「聞かないんですか? なんでそんなの知ってるのかとか、そういう」
「頭のええ人はいろんなことを知っとるき。勝先生もそうじゃ。象山先生もそうじゃ。おまんもそうだというだけじゃろう」
「だって。龍馬さん命を狙われてるのに。何者かわからない僕を傍に置いていいんですか?」
「かっかっか。刀を差したこともないような学者さんを怖がる理由なんかないが」
「間者だったらどうするんです?」
「おう? それは困るのう」
起き上がって目を丸くして龍馬さんは僕から距離を取る。そのあとすぐに笑って言った。
「間者が自分からそんなこと言うかえ。ほんに変な奴じゃのう、翔太は」
朗らかに笑い続ける龍馬さんを見て僕は思った。
やりたいことは出来なくなって絶望してたけど。正直これからどうしていいのか、どうしたいのか全然決まってないけど。
僕は勝さんを手伝う龍馬さんの手伝いをしようと思った。

最初はそんな軽い気持ちだったんだ。まさかこの時代に深く関わることになるなんて思いもしなかった。奏音くんもそうだった? いつ思ったのかな。奏音くんは誰のために行動しようと思ったの?

再会


未来に居た頃から京都の夏の暑さにはけっこう挫けていたけれど、幕末も当然暑い。人口が少ないのとアスファルトからの照り返しが無いことやガラス張りのビルが無いぶんまだ耐えられるか。宿屋を出て龍馬さんと歩いていると遠くに医者の恰好をして歩いている奏音くんが見えた。
「龍馬さん、居ました! あそこに見えるの奏音くんです」
「おお? 翔太、目立つといかんから先回りせい。ここを抜けたら前方の路地裏に回れるき」
路地の隙間を指差す龍馬さんがそう言い終わるか終わらないかのうちに僕は駆け出した。「おおっ!? 速すぎるぜよ、ちょお待たんかえ、翔太」と慌てている龍馬さんを尻目に狭い路地裏を走る。井戸端で話し込んでいる長屋の奥さんたちが「ひぃ!」「なに!?」と驚くのにも構ってられなかった。路地を抜けた先に顔を出すと奏音くんが歩いてくるのが見える。僕はタブフォンに電源を入れると奏音くんの好きだった曲を再生した。思惑通りこの時代では聞き慣れない音に奏音くんが反応してこちらに顔を向ける。「奏音くん」名前を呼んで手招きすると奏音くんは一瞬呆けたあとに泣き笑いの表情になって走ってきた。
「無事だったんだな」
「うん。奏音くんも」
良かった。元気そうだ。追い付いてきた龍馬さんに奏音くんを引き合わせると、奏音くんはイタズラ心で僕のことを『ショコたん』と呼ばせるように誘導していた。龍馬さんはあっさりと真に受けて呼んでくる。ホントどんな人なんですか、貴方は。僕のことを全く疑わないだけじゃなく何でも素直に聞いちゃうんだから。つもる話もあるじゃろ、わしは周囲を見張っとるきと龍馬さんが大通りに出ている間に僕は確認する。
「女の子だって誰にもバレてない?」
「どうかな、今のところはたぶん」
「たぶん、って」
「曲者揃いなんだよ。間者かもって疑われてるしな。気付いてて言ってこないだけかもしれないのかどうか判断出来ない。あまり話さない遊女の姐さんたちには布団に誘われてるから気付かれてないだろうけど」
「えええ!?」
あっさりとすごいこと言ってるよ奏音くん。本当に布団に入ってこられたらどうするのさ!?
「一番話してる花里ちゃんにはなんとなく気付かれてる気がするな。女の感ってやつで。聡い娘(こ)なんだ」
言葉の出ない僕を見て奏音くんは半ば呆れたように笑う。
「そんな顔すんな。翔太が気にしてるようなことにはなってないよ。誰にも襲われてない」
「なら、いいけど」
「それより充電器俺がもらっていいのか? お前もタブフォン持ってるだろ?」
「平気だよ。幕末史ならほとんど暗記してる」
「お前日本史得意だったもんな」
「奏音くん記憶力いいのに」
「だって入試に必要なかったろ」
ケタケタと笑う奏音くんに安心した。良かった、変わってない。
「お前に聞きたいんだけどさ。徳川慶喜さんって佐幕派ではないのか?」
「この時期は公武合体論推しじゃないかな。いろいろ経て開国派になるはず。安政の大獄で謹慎命令受けるくらいだしね。佐幕派とは対立気味だよ、どっちかって言ったら」
「そうか。なるほどな」
口元を押さえて考え込む奏音くんに嫌な予感がする。奏音くん、まさか何かしようとしてる?
「俺がお世話になってる藍屋は置屋なんだ。揚屋と兼用じゃないから攘夷派志士や壬生浪士組や見回り組はほとんど来ない。遊女たちの宿舎みたいな感じだな。俺は1階の角部屋に住まわせてもらってる。お前のタブフォンと俺のタブフォンを時々交換しよう。それで両方に充電も出来るし情報をやりとり出来る。俺は経緯やお前への質問を日記エディタに打ち込んでおくよ。お前もそうしてくれないか」
「keyは?」
「他人の手に渡っても操作出来ないと思うけどな。一応決めとくか。アルファベット小文字masoraで」
震災で亡くなった僕の姉の名前だ。僕と奏音くんにとっての決意や強い繋がりの象徴でもある。藍屋の場所を詳しく聞いてタブフォンを何処に置くかを打ち合わせてから奏音くんと別れた。
「ショコたん。ほんにもうええがか? もう少しゆっくり話しても良かったろうに」
龍馬さんは本当にこのままショコたんって呼び続けるつもりなのかな。恥ずかしいけど、ちょっと嬉しくもあるので、顔が赤くなるのをなんとか堪えることにする。
「また会えるから平気です、それに」
「うん?」
「……いえ、やっぱり内緒です」
「おお? そんなふうに言われたら気になるじゃろうが!」
いじけた顔をする龍馬さんに笑った。本当にこの人は可愛いな。揶揄いたくなる奏音くんの気持ちも解る。
どうしていいか不安で、寂しくて、哀しかったけど。龍馬さんの手伝いをしながら奏音くんにも協力出来るようになった。

奏音くん。君が何かしようとしてるのはちょっと心配なんだけどさ。それでも僕は、やっぱり奏音くんの隣を歩けるのなら嬉しいんだ。哀しいことがたくさんあったけど、2人で居たら寂しさは半分になるんだよ。

学ぶものたち


勝海舟さんは幕府内部から煙たがられていて幽閉状態にある。佐久間象山さんのもとで一緒に学んだ吉田松陰さんが倒幕の作戦を否定せずに自分を打ち首にしろと意見を曲げずに亡くなったせいでもある。けれど勝さんは寂しそうに笑って「あいつは急ぎ過ぎたんだ。頑固な奴だ。死んだらどうにもならねぇのによ」と呟いていた。
龍馬さんの仕事は身動き出来ない勝さんの為に情報を集めることと、海軍操練所を作る為にお金を集めること、つまりスポンサーを募ることだった。
土佐藩はもともと尊王攘夷派だ。勝さんと龍馬さんは倒幕を目指しているけれど、それは遠回りだ。幕府に恨みがあるわけではなく、日本をひとつの国として外国に対抗できる強さを手に入れ、国土と国民を守ることを理想に掲げてる。諸藩を説得し、幕府も説得し、幕府と藩を同じ立場にする。つまり幕府も朝廷に仕えるひとつの藩に過ぎないのだとして日本をひとつにしようとしている。
けれどそれは身のない理想論だと理解されなかった。怪しまれていた。その思想を方々に語り歩く龍馬さんは攘夷派にとっても佐幕派にとっても敵になる。同じ土佐藩にも龍馬さんの命を狙う人が居るということだ。

壁に背中を預けて片膝を立てながら、刀を肩に置いて盃を手にした男の人が不機嫌に言い返していた。
「幕府は腰抜けだ。異国と戦うつもりがない。倒すしかねぇだろうよ。先生は正しい。俺達は先生の志を継ぐ」
「死んだら元も子もないじゃろうが。なぜおまんらは生き急ぐんじゃ」
「俺はまだ止めてるほうだ。幕府を説得する気ならそちらが急ぐことだな」
「むう」
不敵に笑って盃をクイッと空けるこの人は高杉晋作さんだ。龍馬さんが江戸遊学の時に知り合ったらしい。これは……仲良い? のかな?
行灯の淡いオレンジの光に照らされて鎖骨から胸板はおろか着物の隙間から腰骨までが陰影を作って綺麗に見える。なんであんなに胸をはだけて着物を着るのかな。ちょっと目のやり場に困る。硬そうな胸板だなぁ。触り心地良さそう、ゴツゴツして気持ちいいんだろうな。高杉さんは僕が見惚れている視線に気づいたのか顔をあげた、目が合う。切れ長の目、無骨な頬と太い首。
「なんだ。俺に何か言いたいことでも?」
「あ、いえ」
さすがに胸板を見てましたなんて言えない。
「華奢だが上背があるな。異人の血が混ざってるのか?」
「あ、はい。祖母がドイツ人です」
「ドイツ……どんな国だ?」
「え?」
強面が崩れて笑顔になる。目が輝いている気がする。まるで少年のようにわくわくした面持ち。あ、似てる。僕の父さんに。笑うとそっくりだ。
「ビールとソーセージが美味しいです。日本人に気質が似ています。細かい作業が得意で機械、ええとからくりを作るのが巧いですね、時計とか精巧なんです」
「びーるとは? そうせいじとはなんだ?」
「ビールは麦で作ったお酒で、ソーセージは小腸に肉を詰め込んで燻製したものです」
「ほう。麦の酒、か」
またこの人もか。龍馬さんを初め、勝さんにしろ、いつもお世話になってる宿屋のお登勢さんにしろ、みんなして僕の話をすぐに受け容れるのは何故なんだろう。同じ質の人が集まっているということなのかな。革新的で頭が柔らかいんだ。
「奏音という奴は祖母がイギリス人らしいな」
「奏音くんを知ってるんですか?」
「まだ会ったことはない。小五郎が頭が良くて使える奴だと褒めていた。会ったらイギリスの話も聞いてみたいものだ」
「話を聞く……」
「師の教えだ。広く見聞し世界を知る。幕府にはそれが足りぬ」
「じゃあ教えたらいいんじゃないですかね?」
「なに?」
目を丸くして高杉さんが黙った。龍馬さんがクスクスと笑っている。え? 僕、なにか変なこと言ったのかな?
「……教えたらいい、か。ハッハッハ!」
「勝先生も笑っとった」
「自ら学ばぬことは愚かだと責めてばかりだったな、俺達は」
「そうじゃな」
「そうか。学ばぬのなら教えたらいいのか」
「おう。それをわしたちはやろうとしちょる」
「できるか?」
「一緒にやってくれんか、高杉」
「ふん、まぁいいだろう。ちょうど俺は京に身を隠してるところだからな、暇してるんだ。まずは奏音とやらに会うとしよう」
「会いに行くんですか、奏音くんに?」
「イギリスの話を聞きにな」
ニヤリと笑う高杉さんに僕はにじり寄って膝に手を置いて頭を下げた。
「お願いします。奏音くんを護ってあげてください」
「護る?」
「奏音くんは頭が良くて、心は強いけど、身の護りは弱いんです」
「武術は苦手なのか?」
「はい」
「志を通したいなら強さも必要ぞ。お前も坂本に鍛えてもらうんだな、華奢過ぎる。腕など簡単に折れてしまいそうだぞ」
「はい!」
頷く僕を龍馬さんが、おや? という顔で見ていた。きっと意外だったんだろう、僕が武術を学ぼうとすることが。
敵の多い龍馬さん。宿屋には尾行が居ないか注意してから入るし、一箇所には長く留まらない。龍馬さんが勝さんの門人になるきっかけは勝さんを暗殺しに来たのが龍馬さんだったことだ。龍馬さんは強いから、自分の身は自分で護れる。僕が足手まといにならない為には僕も武術を身に付けるしかない。奏音くんは精神的には男らしいけど身体は女の子だ。だから僕が強くなって奏音くんを護れるようにもなりたい。大事な人を何人も失うのはもう嫌だ。あんな経験二度としたくない。

僕はそんな事を胸に誓っていたんだよ、奏音くん。まさか奏音くんが新撰組道場で剣術稽古することになるなんてこの時は予想もしてなかったな。いったいなんでそんなことになっちゃったの?

道よ拓け


腕の感覚がだんだんと無くなっていく。手のひらにはたくさんの豆が出来て腫れて赤くなっている。それに痒みと少しの痛みを感じた。早朝の涼しい時間だというのに身体から大量の汗が流れ落ちていく。
「おまえさん本当に武術はなんにもやってねぇのかい?」
こちらが大量の汗をかいているのに余裕の表情で僕の打ち込む竹刀を薙ぎ払っている勝さんが訊ねてくる。
「はぁ、はぁ、こんな、一度も竹刀を当てるの、出来てない、の見たら、わかる、じゃないですか」
「そう簡単にオイラが打ち込まれるわけねぇじゃねぇか。けどお前さんは学問に秀でてる割にゃあ随分体力があると思ってな」
「走るのは得意です」
「何故だい? 異国で何かやってたか?」
「小さい頃からずっとバスケットボールをしてました」
「ばすけっと? ってのは“籠”だったな確か」
少し休憩を挟もうと言われて勝さんと縁側に座る。僕は龍馬さんに北辰一刀流を習うことになった。最初の内はずっと一人で切り返しをやっていた。竹刀を使い、左右交互から面を打つというもので剣道の素振りに似ていた。いや、確か北辰一刀流が剣道のルーツになったのじゃなかったっけ。龍馬さんに関する資料で読んだ記憶がある。
もともと体力ならあった僕は切り返しはすぐに様になっていたみたいだ。筋がいいと褒めてくれて、龍馬さんは掛り稽古の相手をしてくれるようになった。龍馬さんが防戦一方で僕がとにかく竹刀を打ち込んで行くのだけど、龍馬さんにも、時折付き合ってくれる勝さんにも、すべて竹刀で受けられるか薙ぎ払われて身体には当てられたことが一度も無い。これではダメだ。龍馬さんの足手まといになってしまう。
「ばすけっとぼうるってのはどんなものなんでぇ?」
「ええ、と。区切られた面があってですね」
僕は縁側から立ち上がると地面にしゃがみ小石で図を書く。
「それぞれの陣地に籠があるんです。人の上背の2倍近くの高さにあります。5人対5人で相手側の籠に鞠のようなものを入れて点数を競うんです」
「ふうん。鞠はどうやって奪い合う? 身体にギュッと抱え込まれたらどうしたらいい? 殴るのかい?」
「いや、殴ったらファウルですよ」
「ふぁある?」
「打撃は違反です。えっと鞠をこう地面に叩きつけながら走るんですよ、走りながら味方に投げて籠を目指します。鞠を持ったまま走れるのは2歩だけで3歩あるいてしまったら相手側に鞠を渡さなきゃなりません」
「そのままだ!」
「え?」
ジェスチャーでドリブルをしたりパスをしたりするのを表現していた僕に勝さんが叫んだ。
「そのまま型をやってみろ。お前さんがやってたばすけっとってやつの動きだ」
「あ、はい」
言われたとおりに動いた。ドリブル、パス、シュート、ディフエンス、リバウンド、カウンター、フェイク。身体に染み付いた動きはコートじゃなくてもボールを持ってなくても僕を自然に動かす。キュキュッキュキュというバッシュが体育館でたてる音が聞こえた気がした。
「その低く構えた腰のまま掛り稽古してみな。持っているものは竹刀だと思うな。いつもお前さんが持ってた鞠だと思え。それをオイラにぶつけるつもりでかかってこい」
え。そんなので平気なの? と思ったけれど。そうか、北辰一刀流は構えが自由なんだっけ。僕はドリブルをするつもりで腰を低くして身体を斜めにし竹刀を持ってない腕を前に出した。竹刀を握った手は膝の横に持ってくる。ドリブルの基本。ボールはなるべく身体の近くで。跳ねさせる高さは低く素早くバウンドさせること。そうか。ドリブルで相手を交わして突破するように相手の死角に入り込めたなら、僕でも竹刀を打ち込めるかもしれない。その要領で素早く勝さんに踏込む。勝さんは防御の構えに入ったが、僕はバックステップしたあと背中を勝さんに向けて回転し横に回った。突破。そして竹刀を打ち込む。バシッと音を立てて勝さんの脇腹に竹刀が当たった。
「いてっ!」
「あ、す、すみません!」
「謝るこたぁねぇよ」
脇腹をさすりながら勝さんはニヤリと笑った。
「道は拓けたな。お前さんの型が決まった。それを磨け」
なんだか胸が熱くなる。未来を歩むことはおそらくもう出来ない。けれどこの時代で道を拓くことは可能かもしれない。もしかしたら僕は夢と生きがいをもう一度手に入れることが出来るのかも。具体的には何を目指したらいいのかなんてまだ判らないけれど。それでもトンネルは抜けた気がした。

だけど。
「先生! えらいことになっちょるぜよ!」
青ざめた顔で庭先に龍馬さんが飛び込んできた。勝さんの笑みが消える。「何があった?」据わった目で聞き返す。迫力のある低い声だった。

八月十八日の政変が起こってしまったのだ。

風のように


タブフォンを操作して前方をズームした。暗がりの中動く人影がある。「こちらはダメです。引き返しましょう」「あいわかった」頷く龍馬さんは背中に怪我人を背負っている。長州藩士だ。
「大丈夫ですか。背負うの交換しますよ、龍馬さん」
「ダメじゃ。翔太は夜目が利く。道案内を頼む」
「わかりました」
八月十八日の政変が起こって以降、壬生浪士組は新選組と名前を変えて、今までよりも遥かに厳しく長州藩士を取り締まるようになった。京への出入りを禁止されたのだ。見つかるだけで追いかけ回され斬られる。手のひらに爪が食い込む。信じられない。どうして同じ日本人なのにこんな酷いことが出来るの。
勝さんは「過激派がやり過ぎたせいで帝が耐えられなくなったんだ」と言っていた。過激派の暴走は吉田松陰さんが亡くなってしまったせいだとも。憎しみが憎しみを生んで、お互いに殺しあっていく、際限なく、ずっと。身震いがした。
新選組の見回りを避けて遠回りをしながらなんとか呉服屋さんにたどり着く。僕が着物をしつらえてもらったお店だ。長州藩士の隠れ家として使っているらしい。呉服屋の旦那さんも武家の人で商人ではないそうだ。身体の寸法を測ってもらったことを思い出すと信じられない。この時代の商業のことはよく解らないけど、あれはプロの仕事って感じだった。
二階に運んで着物を脱がせた。脇腹をえぐるように斬られている。酷い傷だった。「消毒をします、染みますよ」勝さんに頼んで酒蔵で作ってもらったアルコールを綿花で皮膚に塗っていく。長州藩士は奥歯を噛み締めて痛みを堪えていた。内蔵には刀は達してないようだ。
「あんたは医者なのか?」
「いえ。薬を作るのが専門です。こういう処置も一通りは習ってます」
「そうか」
「すみませんでした。もっと早く見つけられてたら連れの人も助けられたかもしれないのに」
「……なぜあんたが謝るんだ?」
「誰のことも死なせないようにしたいんです」
長州藩士はじっと僕の処置を見ていた。
「才谷殿。この人は本当は何者だ? 名のある御方ではないのか」
“才谷”は龍馬さんの仮名だ。正体がバレないように戸外では身内でも本名で呼び合うことは避けるらしい。
「ぎゃかわす、ショコたん、ばっこんこーん、じゃったかな? 長くて覚えられん本名なんじゃ」
「はぁ?」
いや、ショコたんしか合ってないし! それも奏音くんがふざけて言った偽名だけど。なに、ばっこんこーんって!
「才谷殿、ふざけてるのか?」
「そっちが翔太の名前を尋ねたんじゃろうが」
「そういう意味ではない!」
「傷に響くから怒鳴ったらダメです!」
「お、おう、すまんな」
「結城翔太と言います」
「結城殿。この御恩は必ずお返しする」
「お礼なんて要らないですよ」
包帯を巻きながら言い返す。礼なら十分頂いた。鍛えられた上半身にペタペタ触り放題だったんだから。
「傷が癒えたら萩に戻るといいが。船なら用意しちゃるきに」
「馬鹿言え。もとより壬生の狼を殺し尽くすまでここに留まる覚悟だ」
「そんな覚悟はの。要らんのじゃ」
龍馬さんが呆れたように笑う。布団に寝ていた長州藩士が激昂して起き上がろうとする両肩を押さえつけた。「起き上がって傷が開いたら怒りますよ?」と言って聞かせる。
「おまんらは頭が固い! そして古い!」
「なっ!」
「そんなんじゃ異国に勝てんが。ほんに植民地になってしまうわい」
「異国に立ち向かってるのは我が長州藩だけぞ! 腑抜けはお前らであろう!」
「じゃかあしい! それがいかんのじゃ。何故助けを待たぬ、呼ばぬ? 長州藩だけで勝てる相手か? 説得して、味方につけようとは思わんのか、なぜ異国でなく身内を手にかける? おまんらのやっとることはむちゃくちゃじゃ、矛盾だらけじゃ」
「身内?」
「そうじゃ、日本はひとつ! 全員仲間じゃ! 異国に脅されて、仲間同士で殺しあってどうする? 異国の思うツボじゃろう?」
長州藩士は納得のいかない顔で押し黙った。たぶん伝えたいことの殆どは伝わってない。でも少しずつ、変えていかなきゃならない。奏音くんは新選組の内部から変えると書いていた。僕には長州藩士の説得を頼むと書いていた。
以前、龍馬さんは自分の事をさして「風に吹かれてゆらゆらふらつく風車のようだ」と評していたけれど。

違うと思う。

違うと信じられる。

龍馬さんは風に吹かれるんじゃなくて、龍馬さんが風そのものなんだ。人の心を動かす。局面を動かす。時代を動かす。国を動かす。

風が吹いている。僕はそれを目の前で見ていた。

想いは募る


幼い男の子に案内されて板の間を歩いた。障子戸を開けると「お茶を運んでまいりやす」と頭を下げられる。丁稚さんだろうか。中に入ると奏音くんが座っていて「平吉くん、具合良くなった?」と訊ねた。「うん。兄ちゃんあんがと、あ! へぇ。おかげさまで」と慌てて言い直しているのが可愛い。奏音くんはクスクスと笑っていた。
「桔梗屋さんの跡取り息子なんだ。風邪の診察をしてから時折部屋を貸してくれて助かってる」
「そっか。すっかり町医者って感じだね」
「動きやすいな。藍屋さんの考えた策だから裏がありそうで怖いけどな」
「藍屋さんってそんなに怖いの?」
「土方より怖いよ」
「そんなに!?」
新撰組の土方歳三に命を狙われてたけど、今は新撰組の屯所に通って剣術を習っているという経緯をタブフォンに書かれた連絡で知った時は本当に心配した。
「新撰組の中に居て平気?」
「んー、最初はちょっと怖かったけど。今は楽しんでるな。剣術稽古はなかなか面白い。むしろ休憩中に将棋の相手を何度もせがまれるのが大変だ」
「そうなんだ」
苦笑する奏音くんを見てホッとする。
「ただ、新撰組がどうこうじゃなく、この時代がちょっとキツイな。人間の命が軽すぎて、イヤになる」
「……うん」
僕も思ってた。龍馬さんのことも勝さんのことも好きだけど、違和感はある。懸念は拭えない。味方や仲間や友人や家族の命はとても大事にしてるのに、敵だと見倣すと容赦がない。今、僕の周囲には“人を殺した事が無い”男の人はほとんど居ない。
「芹沢だって根っから悪い人間では無かったみたいなんだ。今は傍若無人に暴れてて評判悪いけど、少し短気で熱い奴だってだけなんだよな。それなりに自分の中での思想を持って闘ってる。芹沢を尊敬してる若い隊士も多い」
八月十八日の政変後、1ヶ月後に芹沢は新撰組の内部メンバーによって粛清される。そういう史実だ。奏音くんはその時に遊女や平民が巻き込まれて殺されないように救出すると書いていた。
「誰も死なせたくないけど、それを叶えるのは難しいな。いろいろ考えてるけど、結局出来るだけ犠牲を少なくするくらいしか出来ないんだ」
僕たちは未来を知っている。史実を知っている。医療の知識がある。科学技術のノウハウもある。きっとこの時代の普通の人よりも出来ることは多い。多いから迷う、悩む。“誰を助けるか”助けることが出来る能力を持ったら“選ばなきゃならない”んだ。助ける人と見捨てる人を。
「俺、戦隊ヒーロー大好きだったけどさ、正義の味方ってしんどいんだな。全員は救えないんだ。神様じゃないから」
「神様は誰のことも救わないよ」
「……そっか。それもそうだな」
濁流に流されていくコロッケ屋のおじさん、車ごと流されていく同じバスケ部の仲間。僕は誰の手も掴めなかった。そんな腕力無かったかもしれないけど、そもそも屋根の上で震えていただけで手を伸ばしてすらいない。もうあんな思いをしたくない。たとえ全部は救えなくても、身の回りの人くらいは助けられる人間になりたい。
「俺の考えた作戦どう思う? 無理かな?」
中川宮を屋敷から抜け出させるように誘導して幽閉する。その間に有栖川宮が帝を説得して長州弾圧を撤回させる。薩摩藩、長州藩、土佐藩で連合を組み、勝さんの海軍操練所の軍艦全てで外国船と戦う。
「戦力的に幕府の軍艦は優秀だと思うよ。長州征伐の時に負けたのは乗ってる幕府側が戦術訓練をあまりしてなかったからだと思う」
「うん。けど、その艦隊を“高杉晋作”が使ったら?」
「勝てるね」
少数の兵力で幕府艦隊を撤退させた鬼神、高杉晋作。彼の強さは“強くてニューゲーム”並に桁違いだ。
「もともと薩摩藩と長州藩と土佐藩は、藩を越えて攘夷派志士たちは密に繋がってる。だから仲違いしたあとも薩長同盟に至ったんだ」
「うん。土方も西洋戦術に詳しいんだよな」
「五稜郭の戦い、すごいもんね」
「俺、その2人に手を組ませようと狙ってるんだけど。無謀かな」
僕は土方歳三にはまだ会っていない。けど高杉さんには会って話した。
「奏音くんは高杉さんに会ってどう思った?」
「え?」
急に話題転換した僕に奏音くんは一瞬戸惑った。けれどその後に伏し目になって笑う。あ、この顔。辛い時に自分自身を励ます時の癖だ。
「泣いちゃったんだよな。号泣。びっくりした。頭わしゃわしゃって撫でるんだよ、そんで豪快に笑う。笑うと幼く見えるんだ。ほんとに、びっくりした」
「似てるよね」
僕の父さんに。やっぱり奏音くんもそう思ったんだ。
「似てるな」
急に飛ばされてきた幕末。そんな事象、本来はありえないことだ。ありえないから、二度と起きないだろう。つまり未来には戻れない。その可能性が100%に近い。僕も奏音くんも家族には二度と会えない。
「作戦は無謀じゃないよね。あとは人の繋がりの問題だから」
「そこが難しいんだよな」
「でも、新撰組のみんなはいい人なんだよね?」
「うん。愉快なおっさんどもだ」
「長州藩士もだよ。ちょっと頭が固いけど。それに」
「うん?」
「龍馬さんなら、必ず、大勢の心を動かせる」
「そうか」
奏音くんはにっこり笑ったあとクックッと腹を抱えて笑い出した。
「龍馬さんも似てるよな」
「え?」
「俺の父さんに似てる」
「えぇっ!? に、似てないよ!」
奏音くんのお父さんは僕の理想で憧れだ。初恋の人でもある。
「似てるだろ。人の言うことなんでも信じるとことか」
「ええー?」
「俺が急に“俺”って言い始めたのに何も聞かないで受け入れるとことか、さ」
万宙(まそら)ちゃんが亡くなって塞ぎこむ僕の母親の為に僕たち2人が始めた儀式、黄泉送り。僕は万宙ちゃんの服を着て女の子の話し方をして、奏音くんは僕の格好をして僕の元々の口調を真似する。そして2人で遊びながら僕の母親のことを「お母さん」と2人で呼び続ける。姉弟が居た頃のように、母親が自力でご飯を食べられるようになるまでずっと。
その事情を聞いてもいないうちから奏音くんのお父さんは普通に奏音くんの態度を受け入れた。まるで髪型を変えてイメチェンしたくらいの感じで。
「似てないと思うけどなぁ」
言いながら、ホントは出会った時から僕もそう思ってたことは絶対に奏音くんには秘密にしようと思った。とっくにバレちゃってるかもしれないけど。

旅立ち


京に留まり新撰組や見回り組や会津藩に暗殺を仕掛けようとする長州藩の過激派の人たちを説得し、時には逃がしたり、守ったりしながら僕と龍馬さんは勝さんに頼まれて情報収集をしていた。奏音くんが新撰組屯所に通っているおかげで新撰組の夜回りのコースや動きは奏音くんからのタブフォンに書いてあったからなんとか龍馬さんの無事も確保しつつ行動できた。高杉さんは奏音くんの作戦の為に遊女の格好で夜な夜な歩く奏音くんを護衛していた。
「悪いな。俺は説得には向いていない。同じ藩でも俺を嫌う奴は多いんでね。そういうのは坂本に任せるに限る」
「はっはっは、任されたぜよ!」
「めんどくさいだけでしょう? それに奏音くんに付いてるほうが面白いとか思ってませんか?」
「よく解ったな、結城」
「開き直った! 龍馬さん、騙されてますよ!」
「おおっ!?」
中川宮を幽閉する作戦が成功して有栖川宮様の説得で長州藩の京出入り禁止が撤回されると会津藩や見回り組や新撰組の監視は弱くなった。出くわすと雰囲気は悪くなるけれど斬り合う大義名分は無い。中川宮幽閉は長州藩の過激派もやろうと試みていた作戦で、それを犠牲者を出すことなくやってみせた奏音くんは長州藩の中でちょっとした英雄になった。「相当の切れ者らしい」「あの高杉晋作さんを顎で使うらしい」「一橋慶喜公を口論で黙らせるらしい」「古高殿を財布にしているらしい」となんだか悪口ばっかりのような気がするけど、過激派が大人しくなるには効果的だった。どうやら経過を見守ってみようというスタンスにシフトチェンジしたみたいだ。

僕と龍馬さんは高杉さん、吉田さん、久坂さんや説得に応じてくれた長州藩の人たちと一緒に萩へ向かうことになった。長州藩内部を説得する為と薩摩藩と交渉する為だ。
「本当はこの軍艦全部持って行って今すぐ外国船を潰して欲しいくらいなんだがね」
港で停泊する船を眺めながら勝さんが呟いた。
「お望みならそうします。勝先生も一緒にご同行されたらいかがか」
片眼を瞑って高杉さんが笑う。高杉さんって吉田松陰さんや師匠クラスの人たち相手だとすごく丁寧な話し方をするんだな。なんだかちょっとびっくり。
「オイラはそうしたいんだが。おまえさんの弟分がそれではダメだと言うんだよ」
「なら堪えて頂きたい。こいつの望みは叶えてやりたいので」
「面倒だなぁ」
「そんなこと言わずに慶喜さんと一緒に幕府説得してくださいよ」
奏音くんが苦笑して勝さんに頼んでいた。僕たちは薩摩藩、長州藩、土佐藩の三藩同盟を目指し、慶喜さんと勝さんで幕府を説得する。幕府の下で外国船討伐を実現する為にだ。
「今まで何度も言ってきて、結果オイラは幽閉の身だぜ?」
「薩長同盟が実現すれば変わりますよ」
「だとしても遅い。なら薩長だけでやっちまやいいじゃねぇか」
「それじゃ幕府の面子が潰れます」
「潰されないとわからん連中だ」
「勝さん」
奏音くんは姿勢を正して頭を下げた。
「お願いします」
勝さんは「男があんまり気安く頭を下げるもんじゃねぇよ」と笑った。いや、奏音くんは女の子なんだけどね。ホントなんで気付かれないのかなぁ。この時代の女の子とはあまりにも違うから?
「お前さんはみんなが平等に政治をするのを目指してるんだろう? だったら幕府は出し抜いたほうがいいじゃねえか。強い権力は覆すのが大変だぞ」
「それは後で慶喜さんにやってもらいます。今じゃない。今出し抜いたら幕府だけじゃなく徳川家の面子も潰れます」
「お前さん将棋強そうだな」
「翔太のほうが強いですよ。勝ったこと無いです」
「へぇ? そいつは良いこと聞いたな」
あぁっ! 隠してたのに! それはバラさないで欲しかったよ奏音くん。ただでさえ数学や英語の問題で質問攻めにあってるのに。
「俺は一橋慶喜の部下なんで。徳川家は護ります。必ず」
「わかったよ。協力するからオイラと将棋で勝負しろい」
「あはは、どんな交換条件ですか」

甲板の上で奏音くんが拳を突き出してくる。僕はそこに拳を打ち付ける。奏音くんは小学生の時まではミニバスケットボールの同じチームメイトだった。お互いに点を取ったら交わすいつものやりとり。
「充電満タンにしといた。少しは持つよな?」
「ありがとう。気をつけて使うよ」
「薩摩藩の説得、頼む。俺は薩摩藩のことよく知らないんだ」
「西郷隆盛の関連書籍なら頭に入ってるから平気。勝さんと仲良しなんだよ。吉田松陰さんの弟子でもある」
「そうなのか」
「長州弾圧を早目に無くせたから。説得する余地はあるはずだよ」
「……お前が一緒で良かった」
涙目で奏音くんが微笑む。この表情迂闊に他の人の前で出してないといいんだけど。特に高杉さん。僕は男の人が好きだから利かないけどさ。
「奏音くん、気をつけてね?」
「平気だ。藍屋さんと慶喜さんが居るから護ってくれるし。昼間は新撰組が護ってくれるからな」
そういう意味で言ったわけじゃなかったんだ、この時は。

離れてるあいだに、奏音くんの命に危険が及ぶなんて、僕は想像もしてなかったよ。

反発を隠せない

重心をつまさきにおいて山道をくだる。傘を深く被って歩くあいだ、肩に担いだ支え棒が食い込む。ものすごく重い。中に入ってるもののことを考えたら吐きそうになった。
京都出入り禁止は撤回されたものの長州藩は一度外国船に発砲し交戦したことから武器の輸入を朝廷から止められていた。
武器を薩摩藩名義で購入し長州藩に売る。そして薩摩藩は兵糧米の不足に悩んでいた為、長州から兵糧米を薩摩に売る。
龍馬さん率いる亀山社中はそうやって薩長同盟のきっかけを作った。それが史実だ。きっと勝海舟さんのアイディアなんだろう。それと同じことを僕らは今していた。高杉さんや久坂さんもそれはいいと賛同していた。薩摩藩から武器が購入出来れば外国船に対抗出来る。倒幕ではなく、幕府と手を組み外国船と戦おうと最初から言ったのでは説得しづらいが、薩摩藩と組んで外国船を打ち倒し幕府の面目を潰してやろうと持ち掛ければ倒幕派の連中も乗るだろうと話していた。

実際、良いアイディアなんだとは思う。敵を欺くには味方からと言うし、背に腹は変えられないとも言う。正攻法だけでは巧くいかないし、狡さも必要なんだろう。

理解ってる。

頭では理解ってるんだ。

でも。

「かっかっか。巧くいったのう」
薩摩藩から仕入れた武器を長州に届けたあと宿屋で食事を摂りながら龍馬さんは機嫌良く酔っていた。龍馬さんの盃に熱燗を注ぐ。勧められたけれど断った。
「お? ショコたんは下戸かえ?」
「いえ。呑めますけど……今はちょっと」
「どうしたんじゃ? 元気が無いのう?」
首を振って笑おうとした。けど上手くいかない。また吐きそうになって口を押さえた。
「ショコたん!? 気持ち悪いんか!?」
龍馬さんが慌てて膝立ちになり背中をさすってくれる。

気持ち悪い。本当に気持ち悪い。

「僕は……人に武器を売ってしまったんですね」
「おう? それがどうかしたかえ?」
「あんなに大量に。銃をたくさん運んで、売ってしまったんです」
「……翔太?」
「……誰も死なせたくなくて、出来るだけ助けたくて、みんなが死なないように、その為に僕は薬の勉強をしたのに。人をたくさん殺してしまう道具を運んだんです」
「なんも、それは助ける為じゃ、この国を外国から護る為じゃ、気にせんでええじゃろ、仕方がないことじゃき」
「仕方がない、ですか」

何度も聞いた。

“仕方がない”

起こってしまったことは仕方がない
泣いたって仕方がない
悔やんだって仕方がない
振り向いたって仕方がない
自然災害なんだから仕方がない

言われるたびに、聞こえるたびに、何度も何度も思ったこと。

死んでない奴が言うな。目の前で親友や姉が死んだわけじゃない立場の奴がその台詞を言うな。

不幸に遭った人が自分自身を奮い立たせるため、あるいは慰めるために言うならいい。そこに居なかった人間が「仕方がない」って言わないでよ。

「仕方なく死ぬ人なんていません」
顔をあげると龍馬さんが困った顔をしていた。戸惑いと心配が混ざった顔。本当にこの人はどれほどお人好しなの。凄い人なのに、歴史の偉人なのに。僕みたいな若造にこんな事を言われてるのに、僕を責めるつもりが全然感じられない。これ以上は言わないべきなんだ。僕は我慢しなきゃならない。僕だって薩長同盟にいちはやく結びつけるにはこれが一番良いんだって知ってる。
「政(まつりごと)を行う人は、そのひとつひとつの判断が、誰かを生かして、誰かを殺すってことを肝に命じるべきです。全員を救うことは出来ないでしょう、理想論を追えとは言いません。出来るだけ少ない犠牲の選択をする。それは正しい。でも、でも、それによって殺された人間がいることを思って心で泣いて欲しい。表向きは鬼に徹したっていい、心は傷めてほしい。その気概が無い政治家が言う言葉です。“仕方が無い”って言葉は」

この時代、こんな価値観通じるとは思えなかった。奏音くんも命の価値が軽すぎて嫌になるって話してた。
それを考慮したうえで僕たちは関わらなきゃならないんだ、本当は。未来から来たのだから。世界が未熟なことを知っているのだから。うまく誘導してあげたらいい。奏音くんはそうしてる。

でも僕は無理だよ、奏音くん。耐えられないよ、悲しくて辛い。僕、あんなに大嫌いだった武器商人になっちゃった。

仮想敵国


坊主頭の恰幅のいい男の人が上座に居る。太い眉毛、見覚えのある顔。きっと奏音くんがこの場に居たら「翔太、柴犬さがしてこようぜ。隣に並べるんだ」とか耳打ちしてくるんだろうな、笑いながら。西郷隆盛さんだ。僕たちは彼の屋敷に来ていた。
勝海舟さんが紹介状を書いてくれていたから会うことはすんなり出来た。龍馬さんの貿易のおかげで薩摩藩と長州藩の対立は穏やかになった。それに僕たちが学んだ歴史とは既に変わっていて朝廷からの長州弾圧は無くなっていたし京への出入り禁止も解除されていたから、長州藩からの薩摩藩への反発は薄くなっている。中川宮が幽閉され朝廷での権力を失っている薩摩藩は長州藩に対して意地はあっても強気に出れる要素は無い。そこを威圧的に出るのでは無く、長州藩から下手に出て和解を申し込む形にすれば薩摩藩の威厳が保てるし上手く行くだろうというのが勝海舟さんの策だ。
桂小五郎さんは何故我らが頭を下げねばならんのだと憤慨していたけれど、高杉晋作さん、久坂玄瑞さん、吉田稔麿さんの長州3秀に説得されると渋々納得してくれた。
隣に座る龍馬さんをチラリと見た。本来の歴史で龍馬さんが桂小五郎さんを説得した時はもっと酷い状況だったんだよな。久坂さんも吉田さんも池田屋事件、続く禁門の変で亡くなったあとに説得したんだ、この人は。
「幕府の元で戦うとはどういうことでごわすか。話が違う」
長州藩の過激派を説得する時も、桂小五郎さんを味方につける時も、勝海舟さんから西郷隆盛さんに宛てた文の中でも、薩摩藩、長州藩、土佐藩で同盟を組み、朝廷からの許可を得て外国船を打ち倒そうという内容で話を漕ぎ着けた。だから吉田さんが説明した作戦に西郷さんだけじゃなく桂さんも目をひんむいて怒っていた。
「幕府の艦隊が必要なんだ。我等の兵力だけでは勝てぬ。それはもう身に染みただろう、そちらも我々も。兵力の差は歴然だ、諸藩が固まったとて挑むのは無謀である」
「じゃっとん、倒幕の想いは長州とて同じであろう?」
「確かに幕府の老中どもは腑抜けだ。だが勝先生はそうではない。それは貴公もよく存じ上げてるのでは?」
薄く笑みをたたえながら高杉さんが西郷さんを説得していた。桂さんは歯噛みしてそれに耐えている。長州藩からの幕府、ことさら会津藩への恨みは強い。お互い様だろうけど、何人も盟友を殺されていただろうから。
「なら勝先生だけを味方にしてはどうか」
「それでは先生の立場を危うくするであろう。また松陰先生の時と同じ轍を踏む気か?」
高杉さんが桂さんを睨みつけて言った。僕はそれを複雑な気持ちで聞いていた。

「本当は俺だってこんなやり方は嫌だよ」
京から萩に出立する前の日、河原の土手に座って奏音くんと話した。
「アメリカや中国がよく使ってた手法だよな。外敵を意図的に作り民衆を洗脳して愛国心を変なふうに煽る。嫌いなやり方だ。そんなんで自国の繁栄と平和を保って対岸は火事でもいいなんて傲慢にも程がある」
奏音くんは土手の草を指に絡めながら言いにくそうに僕を見上げた。
「お前の気持ちは解る。本当の平和は文化交流と教育で築くものだ。それが理想だ。共通の敵を作って共闘するのは手っ取り早くまとめるにはいいけど脆い。でも幕末の人達にその価値観を浸透させるのは難しい。ものすごく時間がかかるし、俺たち2人じゃ出来ないよ」
「うん。解ってる。ごめんね、ワガママ言って」
「ばーか」
ニシシと笑って奏音くんが僕の頬を包む。そのままぐにゃぐにゃと揉む。
「いひゃいよ、奏音くん」
「お前がくだらないこと気にするからだ。全然ワガママじゃない。そんなのワガママって言わない。だいたい、お前はワガママとか泣き言を言わな過ぎなんだよ、俺にくらい甘えろ」
なんか奏音くんがどんどん高杉さんに似てきた気がする。でもそうか。もともと奏音くんの男言葉の真似って僕の真似じゃなくて。僕のお父さんの真似なんだ。何故なら僕は小さい頃から女の子が好むようなものが好きだったから。それを周囲に気付かれたくなくて、わざとお父さんの口調に似るように意識して喋っていたから。

異国を打ち倒そう、日本はその為にひとつにならなきゃいけない。解りやすいキャッチフレーズ。選挙の時にも良く聞いた台詞だ。僕はそれが大嫌いだった。奏音くんはどちらかと言うとそれを支持する側だった。「とりあえず強くなってから分け与えるでもいいだろ。俺は資本主義のそういう部分は嫌いじゃない。共産主義のほうが嫌だな、怠ける奴が得をするし、結局戦争を一番してるのは共産主義だし、人も大勢死ぬ。どんな体制にもデメリットはあるなら犠牲は少ない方がいい」うん。僕も資本主義側がそういう風に自己反省を持ってる人全員だったら納得する。でも半分はただの利己主義な人達に見えるんだよ、それが嫌なんだ、すごく。理想主義とか机上の空論とか叩かれても、共産主義の真髄はもっと評価されていい。目先だけで現実主義のほうが持ち上げられる風潮は怖いんだ。

未来を引き寄せる心


「清に渡った時に思い知ったことがある。欧米が俺たちをどんな風に見ているか。家畜以下だ。男は殺されるか奴隷にされる。女子供は売られて慰みものにされ使い捨てられる。連中が下手に出てきてるのはこの国に金や銀が採れる山があるからだ。西郷殿、貴公に確認したい。倒幕を思い描いた時に、何を持ってそれを選んだか? 俺は幕府に呆れたからだが、呆れた理由はこうだ。“最早以前の幕府ではない”その前は心酔していた。違うか? 敬意を払っていた。信頼していた。なのに裏切られた。だから打ち倒そうと決意した。恨みはある。わだかまりもある。納得のいかない部分もある。だが侮蔑は無い。自分と違い劣った種族などと思ったことは決して無い!」
高杉さんの叫びに久坂さんと吉田さんが頷く。
「欧米人から日本人に対してはその侮蔑がある」
「ならば倒すべきは異国ぞ。幕府ではなかろう」
「異国が我が国を植民地にしようと内戦を起こさせようとしているのだ、我々はそれに踊らされてはならぬ」
長州3秀が畳み掛けるように西郷さんに言葉を継ぐ。西郷さんは黙っていたが頷いていた。事態は思惑通りに動いていた。僕だけがそれに気持ち悪さと怖さを感じていた。けれど諦めなきゃならない。奏音くんの言う通りだ。幕末の維新志士たちに僕たち未来人の価値観を理解してもらうのはどうしたって無理が生じる。だけど、

「なーんか、違うのう」

その場の緊張感にそぐわない間延びした声で龍馬さんがつぶやく。鼻をほじっていた、こんな時に。
高杉さんが片眉をあげて「あん?」と龍馬さんを睨んだ。怖いよ、ほんとこの人は真剣な時や目上の人には丁寧なのに身内や歳下には容赦がない。奏音くんには優しいけれど。気づいてるのかもしれないな、女の子だってこと。
「異人は怖い、日本をバカにしとる、打ち倒そう、幕府と手を組もう、か。ちぃっとも進歩が無いのう」
「坂本殿、どういうおつもりだ」
長州藩士にしては冷静な吉田さんが訊ねる。喧嘩っぱやい久坂さんを桂小五郎さんが羽交い絞めにして立ち上がろうとするのを止めていた。高杉さんは黙って胡座を崩さなかったけど顔がめっちゃくちゃ怖い、睨まれてるだけで殺されそうな気分だ。龍馬さんの隣に座ってる分、その鬼のような覇気を僕も浴びせられている。ワンピースで覇気にあてられたモブキャラってきっとこんな感じだったんだ。当の龍馬さんは欠伸をしそうな表情でゆったりと構えていた。この人は大物なのか、ただの鈍感なのか時々判らなくなる。
「おまんらは言うてて気付かんのかえ? 男は殺されるか奴隷にされる、女子供は売られて慰みものにされる、家畜以下じゃと。内戦を起こさせる、金や銀を狙っとる、と言うてて気付かんのかえ? 何が違うんじゃ? 今までのわしらと。士族が平民に対してずーっと行ってきたことじゃろ?」
鳥肌が立った。ずっとあった違和感。拭えない反発。それでも諦めるしかないと思ってた。なのに。
「のう、高杉。久坂殿、吉田殿、桂殿。おまんらは奏音とよく話したんじゃないのかえ? 奏音を見てもなんも思わなかったんかえ? あやつの話す言葉を聞き、あやつの行動を見ても、まだそこに居るんかえ? 古いのう。浅はかじゃ。なんも学んどらん。わしはのう。奏音とは、よお話しとらん。けど翔太とずっと一緒におったき、学んだんじゃ。翔太も奏音もな。人を選ばんのじゃ。大人とか子どもとか、農民とか武士とか商人とか、金持ちだとか貧乏だとかな、関係ないんじゃ。病気してたら助けるんじゃ、怪我してたら治すんじゃ、すぐに駆けつける。ひとつも迷わずに。おまんらはそれを見てきて、なにひとつ考えんかったんかえ? これまで、おのれが殺した人間の数を」
龍馬さんが立ち上がる。どすどすと大股で座敷を横切り、障子戸をスパーン! と開けて裸足で庭に降り立つ。ジャリリと庭石が音をたてた。
「未来を見据えて、時代を読んで、己の行動を決めろ! 松陰先生のお言葉じゃろう? おまんらいつまでそこに居る? 異国に支配されない為に幕府と手を組む? そうではないが。民が苦しまないように、みなが幸せになるように、常に最善の策をこうじる。異国を追い払うのはええが戦争が長引いたら同じことじゃ、民が大勢死ぬ。恨みや意地で動いてはならん! 時には異国と交渉もする。人が死なない世の中にするんじゃ。そうでなくてはいかんぜよ!」
泣きそうだ。嬉しいのか切ないのか感動なのか判らないよ。でも心が震える。この人は本当に凄い。どうしてこんな価値観を持てるの。僕や奏音くんに少し関わっただけなのに。そこから自分で考え、内省し、新しい道を自分で切り開く。それだけじゃなくて皆を誘導し、その気にさせる。

天才だと思った。人の心を動かす天才だ。日本の夜明けは来る。この人が居るのだから。

月夜の告白


軽やかな音楽が鳴っている。高杉さんが三味線を奏でているのを久坂さんたちや薩摩藩士が聴いている。西郷さんのおもてなしで膳が用意されて歓談しながら食べたあと酒盛りが始まったのだ。龍馬さんが高杉さんにお酒を注ごうとしていたが断られていた。
「高杉の奴、酒は呑まないことにしたんじゃと。つまらんのう」
「今日は僕が付き合いますよ」
タイムスリップで飛ばされてから幕末で誕生日を迎えて20歳になった。まぁ成人前から飲んではいたんだけど。
「口に合うかえ? この国の酒はあんまり飲んどらんのじゃろ?」
「日本酒はあまり……う、ダメかも」
すごく強い気がする。変な味はしない。きっと西郷さんが高価なお酒を用意してくれたのだと思う。この時代、一般的な人達が飲めるお酒はかなりいろいろと薄められていたはずだ。
咳き込む僕に、龍馬さんは慌てて庭に降りると井戸から水を汲んでいた。ガラガラと音をさせて綱を引きながら「ショコたん、水を飲むといいが!」と手招きする。すごいな、片手で軽々と水を汲んでるよ、この人は。咳払いしながら草履を履いて庭に降りる。地面が明るい。見上げると満月だった。ひしゃくを差し出されて水を飲む。「ありがとうございます」とひしゃくを返すと龍馬さんも空を見上げていた。
「まんまるお月さんじゃ」
「綺麗ですね」
「月に模様があるじゃろ? あれはなんが?」
「クレーターっていう穴です。隕石がぶつかって出来たんでしょうね」
「いんせき?」
「星が破裂するときに飛び散る石ですよ」
「星は破裂するんかえ?」
「はい」
「ほぉ~、ほんにショコたんは何でも知っとるのう」
「龍馬さんが何でも信じ過ぎなんですよ。どうして怪しまないんですか」
「おまんは嘘をついとらんからの。信じるに決まっとるが」
月から視線を外す。龍馬さんの横顔を見つめる。白い光に照らされて陰影がくっきりと際立つ。大きな顎と喉仏が強調されて眺めているとドキドキした。吸いつきたい。
「奏音は幼馴染みじゃと言うたな。それ以外、おまんは自分の事はなんも話さん。異国のこと、学問のことはスラスラと答えるが、家族の話はせんのう。聞きたくはなかったんじゃ。二度と会えぬと答えが返ってくると思うたき」
「……なんで、わかったんですか?」
「いつも寂しそうにしとったからの」
空を見あげ続けながら龍馬さんが僕のほうに手を伸ばす。髪の毛をフワリフワリと撫でてくれた。そうなんだ? 龍馬さんが僕に何者かって聞かなかったのってそれが理由だったんだ? 僕が寂しそうだったから“家族と離れ離れになりました”って言わせない為になんにも聞かなかったってこと? お人好し過ぎるよ、龍馬さん。
「方法は無いんかえ?」
「え?」
「家族に会う方法じゃ。わしに出来ることならなんでも手伝うぜよ」
「……龍馬さん。僕、未来から来たんです」
龍馬さんが僕の顔を見てくる。目を丸くして驚いていたけど、疑ってはいない。
「僕も、奏音くんも2018年の日本から来ました。お祖母ちゃんはドイツ人なんですけど僕は日本で生まれた日本人です。奏音くんはカナタ=パミュパミュじゃなくて樋渡奏音って本名なんですよ」
「ほうか、未来から」
「はい」
「それでいろんなことをいっぱい知っとるんか、おまんらは」
「ふふ、本当にすぐ信じますね、龍馬さん」
「いや、ひとつ学んだき。ショコたんは嘘をつかんが奏音は嘘つきじゃと学んだ! あやつはイタズラっ子か!」
「そうですね、基本的に人を揶揄って面白がるのが好きなんですよ。気をつけたほうがいいですよ」
「うむ。高杉と一緒じゃな」
「アハハ」
笑った。笑って笑って、泣くのを堪えた。龍馬さんがくれる優しさと高杉さんが見せる賑やかさ。そこに奏音くんが混じると。

小さい頃の記憶。僕の父さんと奏音くんのお父さん、僕と奏音くんの4人で遊んだ事を鮮やかに思い出す。

「翔太、未来の話をするのは辛くなるかえ?」
「聞きたいんですよね?」
「おう、そら聞きたいがー、しかしのう、翔太が寂しくなるんじゃったらのう」
「僕の父さんは宇宙エレベーターの開発研究チーム所属なんです」
「うちゅう?」
僕は空を指さした。
「月や星があるところです。月に行けるんですよ、船で。僕の名前は宇宙飛行士になった時にカッコイイからって理由で父さんが付けたんですよ」
「翔ぶんか? 空まで!」
「翔べます。空の向こう側まで」
「すごいのう! ほんにすごいのう!」
目を輝かせて龍馬さんが笑う。可愛くて抱きしめたくなって、でもそれは我慢して。寂しさがどんどん小さくなっていくのが判った。
龍馬さんの名前の由来も「翔ぶが如く」っていう躍進の願いを込めたものだったはずだ。翔ばせてあげようと思った。この龍を空に翔けさせよう。父さんが付けてくれた僕の名前に誓って。

けれどその時、座敷が急に騒がしくなった。酔った誰かが暴れだしたとかそういう類じゃない。不安な空気を作るざわめき。嫌な予感がする。高杉さんが青い顔をして僕たちのほうに歩いてきた。手には文を持っている。それを龍馬さんに手渡した。僕は崩し字は読めない。
「日本語は話せても読むのは無理か?」
高杉さんが聞くのに頷く。
「古高殿が反幕の罪で新撰組に捕縛。拷問を受けている。奏音にも捕縛命令が出ている。藍屋殿からの文だ」
なんで? なんで奏音くんが? 慶喜さんの密偵なのに。
「奏音は古高殿を必ず助け出すと言って消えたらしい。それを助けてやってほしいと藍屋殿が書いてきた」
無茶だよ、奏音くん。どうして女の子なのにそんな無茶ばっかり。そう思いながら、僕は奏音くんが無茶をする理由を知っている。痛いほど知っている。

“手を伸ばさずに大事な人を死なせるのはもうイヤダ”

「京に行くぞ。すぐ支度しろ」
高杉さんの言葉に僕も龍馬さんも頷いて走り出した。いつも自信たっぷりの高杉さんの声が少し震えていたことに僕は不安を掻き立てられて泣きたくなった。

遊撃戦


腰を低く構え、短刀を2本構える。勝さんの提案でバスケットボールの動きを応用して戦う型に決めた僕に龍馬さんが作ってくれたのだ。長刀で戦うには不向きな動きだ。ステップとフェイントを駆使してパワーよりもスピードで相手を攪乱させて不意をつく。ならば二刀流のほうがいい。刀を落とさないように柄の部分は輪っかにしてもらってる。刃は両刃だ。でも斬らない、誰のことも絶対に。
ドリブルをしながら陣地に踏み込むように体を回転させ、二刀流で相手に刀を細かくぶつけていく。相手が防戦一方になったところでバックステップで下がって隙を見せる。相手が踏み込んで斬りかかってきたら交わしてすり抜けて背後に回る。ワンツーのステップで高く翔ぶ。振り向いた相手にダンクシュートするように刀2本を撃ち込む。ガキン! と音がして刀身で受けられるが跳躍と落下の勢いに相手が尻餅をつく。
1本の短刀を相手の首に当て、もう1本を相手の鼻先に突き付けた。表情が絶望に変わる。そうやって思い知ればいい。斬り合いに負けた時の虚しさと、意地を張ることのくだらなさを。本当に大事なことはこんなことじゃないってことを。
この時代の強者は弱者をかえりみない。なら自分の意見を通したいなら相手より強くなるしかないんだ、悔しいけど。
「僕は斬りません。誰のことも殺さない」
顔に疑問を浮かべた相手に背を向けて走り出した。その人の仲間と思われる部隊が5~6人角を曲がってこちらに走って来たのを振り返って確認する。尻餅をついた仲間に声をかけたようだけど、全員僕を追ってきた。仲間を助け起こしてその場に残る人間は居なかった。やるせなさが過(よ)ぎる。でも耐えなきゃ。急には無理だ。ゆっくりでもいい。少しずつでもいいから拡げるんだ、僕はそれが不可能ではないことを今は信じられる。龍馬さんが見せてくれたから。
この時代でも僕らの価値観は通じる。解ってくれる人は居るんだ。追ってくる部隊を振り切ってしまわないように加減して走る。可能な限り多く屯所から引き離すんだ、古高さんを救出に向かった奏音くんの為に。

3日前、僕と龍馬さんは高杉さんたちと一緒に京に着いた。僕は置屋に寄って奏音くんのタブフォンを探したけど持って動き回っているらしく無かった。軒下に何色の吹流しが下がってるか見て来いと高杉さんに言われて赤色だったと伝えると南の隠れ家に向かうから情報収集を頼むと言われて潜伏しながら指示を待っていた。
奏音くんと作戦の打ち合わせをして落ち合った高杉さんに説明を受けた。屯所から古高さんを助け出すのは奏音くんと長州藩が新撰組内に忍ばせた間者さん。僕らは屯所から新撰組のメンバーを出来るだけ多く出動させないとならなかった。そして古高さん救出が目的ではなく、別な目的だと思わせなきゃならない。それを長州弾圧が撤回されて起こるはずのなくなってた禁門の変にしようというのが奏音くんの考えた作戦だ。長州藩の大群が京都御所に押し入って帝を誘拐するという噂を流して、信じてもらわなきゃならなかった。長州藩の出入り禁止は無くなったのだからその噂を信じて動いてくれるかは本当なら賭けだろう。でも大丈夫。奏音くんの上司は、京都守護職、一橋慶喜さんなんだから。
慶喜さんと藍屋さんが情報を捜査し、京内に潜伏する不穏分子を一掃せよと命令を出してくれたおかげで新撰組も見回り組も京内を駆けずり回ってる。きっと屯所内は手薄なはずだ。史実と違い池田屋事件は起こってないから、古高さんが居るのは地下牢じゃない。屯所の土壁なら奏音くんの持ってる万能サバイバルナイフを使って数十秒で穴を開けられるだろう。

新撰組や見回り組に見つかったら相手が一人なら応戦して、数人なら走って逃げ回るのを繰り返していた。顔なじみの長州藩士さんに話しかけられたのは作戦決行から2時間ほど経過した頃だ。
「結城殿、古高様の救出に成功した。薩摩藩邸に急ぎ手当てをお願いしたい」
頷いて薩摩藩邸に向かう。奏音くんは無事だろうか?

薩摩藩邸に入って、座敷に寝かされた古高さんを触診する。目眩がした。無数の打撲痕と切傷。骨折が酷い、幸い内臓破裂は無いようだけど放っておいたら死んでしまう。研修で病院のインターンに行った時に救命措置は習ったけれど、こんな重症患者を手当てした経験はない。僕に出来るだろうか? 奏音くんにも手伝ってほしい。
「奏音くんは何処に居ますか?」
訊ねる僕に龍馬さんが口ごもる。
「す、すまん。止めたんじゃが古高殿を置いて行かれて後を追えんかった。行かなきゃならんとこがあるというて行ってしもうたんじゃ」
奏音くんが古高さんを置いていったのは僕が居ると知ってたからだろう。仕方ない、ここは一人で頑張ろう、そう思った。けれど。
「高杉が血相を変えて奏音を探しに行ったき、大丈夫だとは思うんじゃが……」

……顔色を変えた? いつも飄々としてる高杉さんが?

嫌な予感がする。ザワザワと胸のあたりが気持ち悪い。龍馬さんや薩摩藩邸の人達に手当てに必要なものの準備を頼みながら、身体の震えが止められなかった。

奏音くん。

イヤだよ、もう、イヤだ。神様、これ以上僕から家族を奪わないでください。

命の数

出来るだけたくさんの氷を用意してもらい、古高さんの骨折から来る熱を氷水で濡らした布をあてて冷やす。腕や足は骨が変なくっつきかたをしないように板とさらし布を使って簡易ギプスを作った。薩摩藩邸に居る藩医にも手伝ってもらって切傷は消毒して軟膏を塗ったけれど、古高さんの顔に脂汗が浮いている。痛みが酷いのだろう、意識はあるが話すことがまったく出来ていない。息はか細く、今にも死んでしまいそうだ。僕は鎮痛剤は持っていなかった。剣術修行に明け暮れて調剤をあまりしていなかった。痛みを取って、ご飯が食べられるようにならないと回復しないのだ、点滴なんて無いのだから。
トタトタという軽い足音が聴こえて顔をあげる。障子戸が開くと、やっぱり奏音くんだった。
「悪い、遅くなった」
「無事ならいいよ、でも無茶しすぎだよ」
「ごめん」
奏音くんは座って古高さんの顔を覗きこみ訊ねる。
「古高さん、もの飲み込めそうですか?」
「奏、音はん、が飲ましてくれはる、ん、やっ、たら」
え、喋ったよ!? どれだけ根性あるの、この人!? ほとんど全身骨折してるのに!
「翔太、鎮痛剤はないよね?」
「ごめん。作れてない」
「俺も無い。調剤道具は全部古高さんの店に置いてあったからな、見張りが居て戻れなかったんだ」
「追われてるのに戻ったらダメでしょ」
「古高さん、栄養剤です。苦いけど全部飲んでね?」
奏音くんは着物の袂から薬瓶を取り出すと口に含んで古高さんに口移しで飲ませた。古高さんは瞼が腫れていて目が半分しか開かないし、頬は傷が沢山あるし、痣だらけだ。きっと歯も何本か折れてる。口の中は切れているだろう、凄く沁みて痛いはず。なのに呻き声ひとつあげずに喉を鳴らして薬を飲みきった。どれほど強靭な精神の持ち主なんだろうか。
ドスドス、ドンドンという二組の足音がして龍馬さんと高杉さんが入ってきた。荷物をたくさん抱えている。
「奏音、慶喜殿が枡屋の店から押収した道具だ。密偵連中が運んできた」
「荷物運んじゃダメじゃないですか! 傷開きますよ?」
「平気だ。さっきだって開かなかっただろう?」
ニマリと笑う高杉さんに奏音くんが顔を赤らめた。こんな時にイチャつくのは止めて欲しい。
「傷? 高杉が負傷とは珍しいのう。相手はよほどの手練じゃったか」
「沖田総司だ。背中を斬られた」
「背中? おまんが敵に背を向けたんかえ?」
龍馬さんが目を丸くして驚く。僕は奏音くんと調剤道具を組み立てながら2人のやりとりを聞いていた。
「新撰組は敵では無いのだろう? 坂本、お前がそう言ったんじゃないか。奏音を見ろ、結城を見ろ、己が奪った命を数えてみろとな」
奏音くんが僕を見る。ゴリゴリと薬草をすりこぎながら、くすぐったそうに穏やかに笑う。
「あいにく俺は己が奪った命の数など覚えちゃいない。だから別なものを数えた。12人と2匹だ。京に来るまでの旅路で結城が薬を与えて治した病人と怪我人と怪我犬と怪我狸の数。結城にとって奏音は幼馴染みでもあり兄弟のようでもあり家族といってもいいほど繋がりが深いだろう。奏音を見ていたら判るし、奏音の命が危険だと知った時の結城を見たら判る。こいつは狼狽していたし、先へ先へと急いでいた。心配でたまらなかっただろう。それでもこいつは歩み寄ってた。道行くあいまに倒れてる人間や犬を見つけるたびに。坂本、お前の言いたかったことが俺は知れた。まぁお前に気づかされるってのは気に食わないがな」
高杉さんが片目をつむって面白くなさそうに苦笑いすると「かっかっか、酷いやっちゃのう」と龍馬さんが笑う。
「沖田総司は奏音だけではなく、俺の事も斬れなくなったようだぞ。背中を向けて歩いたがな、追ってこなかった」
「ほうかい」
「気に食わんな、その顔。まるでこうなることを知ってたみたいだぞ」
「そんなことはないがよ」
にこにこと龍馬さんが笑っている。

知ってたわけじゃない。この人は信じてるんだ。

日本の夜明けを。平和な未来を。誰とも斬り合わない世の中を。心の底から信じてる。だから引き寄せられる。未来も、周囲の人間の心も。

「よし、出来たっ」
奏音くんが出来上がった鎮痛剤を古高さんに飲ませようとすると高杉さんが後ろから羽交い絞めにして止めた。
「おい。口移しで飲ませる気だろ? やめろ」
「ちょっ、仕方ないでしょう、緊急事態なんだから!」
「駄目だ。おい、結城、お前が飲ませろ」
「ええっ!? い、嫌ですよ!」
「お前はそっちだろう、ならいいだろう?」
なんで気づかれちゃってるの! そりゃ手当てしてる時に裸全部見れたのは役得だなーって、ほんのちょっと思ってたけど、今は龍馬さんが居るから嫌だよ!

3人で揉めていたら龍馬さんが首を傾げて「おまんらなにしとるんじゃ、痛み止めなら早く飲ませてやらんと」と言って奏音くんの手から湯呑を取ると古高さんに覆い被さった。
僕は見たくなくて目をつむった。高杉さんは腹を抱えて笑い出した。古高さんは気絶した。
目を覚まして「あれが一番ひどい拷問やった」とつぶやくのは数日後のこと。

素晴らしい世界


吹きすさぶ冷たい風の中、切り立った崖に立つ。前方の海に手を振る。龍馬さんの乗っている船だ。神戸海軍操練所を作るべく勝海舟さんに弟子入りしていた龍馬さんは海洋実習を受けていて操舵技術に長けている。潮の流れから大陸棚の位置を予測し、高杉さんたちが作った海図を修正していく作業をしている。正確な海図を手に入れたら鬼神と呼ばれた高杉晋作さんには鬼に金棒だ。列強4国を相手にしても幕府艦隊を従えれば勝てる。
奏音くんは神戸に残り、勝さんと一緒に幕府艦隊の出航準備をしながら作戦に必要な人力飛行機を作っている。薩摩藩、長州藩、土佐藩での三藩同盟は結ばれた。朝廷への外国船討伐許可は求めなかった。それは幕府側から行ってほしいという嘆願書を慶喜さんの手で将軍に届けてもらった。慶喜さんが懸命に幕府を説得している。
今は1863年の冬。列強4国が長州に攻めて来るのは半年後の夏だ。それまでに備えなきゃならない。僕と奏音くんがタイムスリップしてから半年が過ぎたんだ。
奏音くんは「これからはお前のほうが必要になる」と手回し充電器を僕に持たせた。「人力飛行機作るんでしょ? 奏音くんのほうが必要なんじゃない?」と訊いたら「図面は模写した。計算式と寸法は全部暗記したから平気だ」と返ってくる。相変わらず凄い記憶力だ。奏音くんは少し変則的な絶対記憶を持っていて図や写真や色や音楽は人並みの記憶力なのに文字に関してだけは一度読んだら忘れない。
僕はタブフォンを操作して高杉さんたちが作った海図と未来の海図を照らし合わせた。龍馬さんの乗る船が遠くに見える入江と直線の位置に来たら大きな旗で合図をしてもらうことになっている。そこから測量して海図のズレを修正していく。
「そんなに間違っているのか」
高杉さんが僕の後ろから海図を覗き込み悔しそうに漏らす。
「何言ってるんですか。むしろよくここまで正確な海図を作りましたね」
「だがズレているのだろう?」
「三角測量には限界がありますよ。地球は円いんですから」
「お前の方法はその円さも計算に入ってるのか」
「はい」
「そうか」
「結城殿ー! これでよろしいか?」
桂小五郎さんが手招きをするので高杉さんと一緒に向かった。刀鍛冶職人さんに製法を教えてガラスの筒を作ってもらったのだ。手にとってその綺麗な仕上がりに溜息をつく。
「完璧です。日本の職人は本当にすごいですね」
「……やはり似ているな」
「え?」
「結城殿は奏音殿に似ている」
優しそうな笑みでしみじみと呟かれるとなんだか照れ臭い、というかこんな優しそうないい人っぽいカンジなのに高杉晋作さんと仲良しなのがちょっと信じられない。
「お前、今、俺の悪口を言っただろう」
「口には出してませんよ!」
「語るに落ちてるぞ」
睨みつけてくる高杉さんを無視してガラス製の太い筒に用意していた色水を入れる。もう高杉さんのことは恐くない。奏音くんが大事にしてる人には強く出られないって解ったから。
色水に今度は細いストロー状のガラス管を差し込み麻布で密閉した。
「氷水を下さい」
桶の中に氷水が張られてるものを桂さんが地面に置く。そこにガラス筒を入れた。色水の位置に紐を結ぶ。
「この位置が零℃です」
そのあとに沸騰したお湯を入れて運んできた桶に人差し指を入れた。熱い。まだ60℃はある。氷を入れて掻き混ぜ温度を下げていく。体感で人肌より少し熱いくらいになるまで。ちょうどいい具合になったらガラスの筒を入れた。
「おお!」
色水がガラス管に吸い上げられていくのを見て桂さんが声をあげた。色水が止まったところに紐を結ぶ。
「この位置が40℃です」
あとは目盛りを分割していけばいい、簡易温度計の出来上がりだ。
「これで毎日気温を測ります。天候と風向きも記録しましょう」
「それをすると、まさか天候が予測できるのか?」
「はい。ある程度は」
「すさまじい技術だな。お前たちの居た異世界は」
奏音くんは高杉さんたちに“自分は異世界から来た”と説明したらしい。その方がいいだろう、歴史を知っているなんて本来は言うべきじゃない。龍馬さんには話してしまったけれど、それを受け止められる龍馬さんが大物過ぎるんだ。
「素晴らしい世界ですね」
目を輝かせて頬を上気させる桂さんに返す言葉をなくした。素晴らしいなんて僕には思えなかったから。

京都から出航するまえに勝さんにどうしてもとせがまれて将棋の相手をした。龍馬さんや高杉さんたちが見守る中、絶対に手加減するなと念をおされた僕は勝さんに圧勝してしまった。
「結城先生と呼んでもいいかい?」
「ええっ!? か、勘弁してくださいよ!」
焦る僕に龍馬さんはおろおろと心配してくれたけど、高杉さんは勝さんの手前我慢しながら口を押さえてニヤニヤと笑っていた。船での旅路のあいま問われるままに吉田さんと久坂さんに数学と英語と化学を教えていたら、2人は「やめてください」と僕が何度お願いしても僕を「先生!」と呼ぶようになってしまった。正直本当に照れ臭いのだけど。

でも。

目を輝かせて、嬉しそうに、どんなことでも興味を持って“学びたい”と願う人の表情はなんて美しいんだろうと思った。

「花里ちゃんたち置屋の女の子もそうなんだ。知らないことを教えてもらうのが楽しくて仕方ないって顔をする。俺はそれがすごく嬉しくて、嬉しいんだけど情けなくなる。この時代、自分たちの国を“どうでもいい”って言う人は居ないんだな。学びは尊いもので、学べることを幸せだって思ってる人がほとんどなんだな。それってさ。いいよな」

震災から数年くらいはどうでもいいって言葉を口にする人はずいぶん減っていた。
けれど数年経過するとまた言い出す人が増えた。“関係ない”“どうでもいい”“興味がない”

奏音くんは共産主義より資本主義のほうが人の命が犠牲になる数がまだ少ないからデメリットはあっても支持するって言ってたけど。

僕も奏音くんも思想は違っても思ってる共通のことがある。

一番、人を大量に殺すのは“無関心”だ。

陽の差すほうへ

手がかじかんで力が入らない。指先が赤くなっている。
「ショコたん。これかえ? これであっちょる?」
龍馬さんが誇らしげな顔で僕に手のなかにあるものを見せてくる。どんぐりたくさん拾えたよと自慢してくる小さな男の子みたいだ、すごく可愛い。
「はい。これです。これをたくさん欲しいんです」
「おう、任された!」
毎日決まった場所で決まった時間に風向きと風力と気温を測ることを高杉さんたちに任せた。龍馬さんの操舵技術のおかげで海図の修正はもう終わってる。僕は高杉さんたちが調べてきてくれた情報を元に気象予報アプリにデータを入力して一週間の天気予報をはじき出す。その予報が当たる確率はなかなかだった。細かくは当たらなくても大雨や強風は予測できる。高杉さんたちが真面目に出来るだけ正確に数値を出してくれている証だった。
外国船と戦う時は海が荒れてるほうがいいと高杉さんが言っていた。その方が地の利を生かせるからと。戦闘が終了したら晴れてくれないと困る。人力飛行機が飛ばせない。奏音くんとたてた作戦決行には気象予報は重要だ。
「その黒い本はどうやって天気を当てているのですか?」と吉田さんと久坂さんに聞かれたので、高気圧と低気圧の仕組みや天気図などの基本的なことを教えてあげたら、また目を輝かせて「先生! いえ、師匠!」と呼び始めようとしたので「いや、師匠だけはホント勘弁してください!」と断った。高杉さんだけが“結城”と呼び捨てにしてくれるのがありがたい。むしろ龍馬さんが“ショコたん”と呼ぶことすら、師匠よりは恥ずかしくない気がしてきた。
冬が終わり春が来て奏音くんから文が届く。文は暗号解読されると困るのでローマ字で書かれていた。これならこの時代の日本人にも外国人にも意味を読み取れないからだ。英語より暗号に向いている。
幕府側から共に外国船討伐する案を受諾すると意向が示されたらしい。次は朝廷からの許可を得るだけだ。幕府艦隊と武器と人員と物資、薬品の調達も進んでいて初夏にはこっちに向かって出航出来ると書いてあった。本来の歴史で起こるはずの池田屋事件はもう起きない。長州が列強4国に攻めてこられるのは今年の8月。だが歴史は既に変わっている。その時まで攻めて来ないとは限らない。間に合うだろうか?
僕は龍馬さんと一緒に高山に登って薬草採取に明け暮れていた。可能な限り、薬を調合しておくんだ、僕の得意分野はそれなのだから。
不意に手首を掴まれて地面から視線をあげる。
「ショコたん。そろそろ下山しよう。手が荒れとる」
「いえ。まだ陽は高いですからもう少しだけ。天気なら今日は持ちます」
「しかしのう、わしの太い指じゃったらなんともないがの。ショコたんの指には辛そうじゃ、この作業は」
高山の薬草は雪が溶けた頃に芽を出す。芽が出たばかりの植物は栄養価が高く薬効も強い。だから僕たちは雪の中や固い地面から芽を探して摘んでいた。龍馬さんは僕の指先にはぁっと温かい息をかけ両手でさすさすと優しく撫でてくれた。
龍馬さんには江戸で出会った婚約者さんが居る。遊郭に贔屓の遊女も居る。「異国に渡ったら赤毛の美女とらんでぶーしてみたいのう」とも言っていた。つまり、女好きだ。でも、なんか、この状況って。
「龍馬さん? たとえ僕の指が荒れても男なんだから構わないでしょう?」
「……お、おぉぉ?」
目を丸くして龍馬さんがどもる。もしかして僕のこと男だって忘れてた? とか。まさかね。パッと掴んでいた僕の指を離すと龍馬さんは顔を赤くして言い訳を始めた。
「いや、すまん。おまんを見下してるわけじゃないが。ショコたんはほんに優秀じゃ、最近は剣術も立派になってきたしのう、わしは尊敬しちょる! その、でも、時々なんじゃが」
「時々?」
「ショコたんの髪は綺麗じゃろう。わしや高杉らと違ってゴワゴワしてないし、太くなくて、こう、さらーっとしとっての。おしさま(お日様)に当たるときらっきら輝いての。は、肌もなんじゃ白くて綺麗じゃしの、その、」
「時々、僕が女の人に見えるってことですか?」
「す、すまん! 怒らんとってくれ!」
頭を下げる龍馬さんに頬が緩むのを堪えて「酷いなぁ」と僕は言った。なるほど。そっちならアリなのか。正直、僕は龍馬さんに触れるならどっちでもいい。それに龍馬さんは知らないだろうけど、僕の女装はけっこうクオリティーが高い。年季入ってるしね。それを使って堕とせるのかもしれないのか、良いことを知れた。
「もう少しだけ薬草を採りましょう」
「おう! 探すぜよ」
僕に怒られないとわかった龍馬さんは満面の笑みで作業を再開した。
「しかし、奏音も薬を調合しちょるんじゃろう? ショコたんもけっこう作ったように思うんじゃが、まだまだ足りないんかえ?」
「奏音くんに高杉さんの薬も頼まれてますからね。それに異人の分も作ってますから」
「誰も死なせない為、かえ?」
龍馬さんが僕に微笑む。
「はい」
「ほんに、未来人はすごいが」
「そんなことないですよ」
薬草を採取しながら僕は話した。日本人の“おもてなしの心”が高く海外に評価されてること、それは昔からずっとずっと引き継がれてきた日本人の伝統だってこと。
「日本人は昔からずっと日本人です。僕はここに来てそれを思い知りました。龍馬さんや高杉さんたちの子孫で良かった。誇りです。貴方たちは僕たち未来人にとって誇りなんです」
「なんや照れるのう。でもほうか。じゃからショコたんは久坂殿たちに先生言われるのが嫌なんじゃな?」
「はい。僕が持ってる知識はこの時代の久坂さんたちみたいな先導者が居たからこそ得られたものなんです。だからなにか狡い気がして、後ろめたいんですよね」
「そうだとしても、わしはおまんを尊敬する気持ちは変わらんがの。きっと未来のことを話しても久坂殿たちの態度も変わらん。むしろますますおまんに享受を請うじゃろう」
「あぁー、そうかもしれませんね」
鶏が先か卵が先かという話になるかもしれない。けど知識を得て目標を達成する意気込みは共通してる。未来人の僕らと先導者が同じ場所に立った時、目指すところは何処なのか、それは判らないけど。
龍馬さんの大きな背中を眺める。出会った時から思ってた。太陽みたいな人だなって。この人が照らしてくれる道なら怖くない。前に進もう、ずっと一緒に。

船底での焦燥


揺れに倒れそうになりながらなんとか足を踏ん張る。腰に縄を縛り付け船底で皆と一緒に引いている。「それは水夫に任せて、お前は甲板に居ればいいだろう」と高杉さんに言われたけど聞かなかった。
「僕は戦法には詳しくないですし、力ならけっこう付きましたよ」
「……そういうつもりで言ったわけじゃないんだがな。まあ、いい」
どんなつもりで言ったかなんて知っている。でも解りたくはない。僕は身分の差なんて認めない。たとえそれがこの時代の人達には受け入れられない思想だとしても、僕自身が差別する側、搾取する側、酷使する側には絶対に立たない。

未来に居た頃、大学内の食堂で奏音くんに言われたことがある。
「お前にプロレタリアって似合うよなー」
「なにそれ」
口を尖らせる僕に奏音くんは苦笑いする。
「怒るなよ、悪い意味で言ったわけじゃないって」
「そうかなぁ?」
「なんか、清廉潔白って感じ? 複雑で高尚だけど、清らかで、汚れてなくて、強い」
「僕は奏音くんのほうが強いと思うけどなぁ」
「なに言ってんだか。ほとんどのことで俺にあっさり勝つくせに」
そりゃ力とか速さとかは男女の差異だから仕方ないじゃない。奏音くんは本当に時々、自分が女の子だってことを忘れる癖がある。大丈夫かな。また無茶してないといいんだけど。
船底に大量の水が流れ込んできて身体にザパーと波が当たって痛い。動力部の船底にはたくさんの水夫さんが居る。僕はそこに混じって働いていた。砲弾の飛び交う音と人々の叫びが上から聞こえてきて吐きそうになる。解ってる、これは必要な戦いだってこと。そして遂行しているのは、誰も死なせない為に奏音くんと僕で考えた作戦だ。それでも砲弾が直接当たった人が居たら死んでしまうかもしれないんだ。僕は今、大嫌いな戦争行動に荷担している。
船を動かしているだけだ。そうやって思考を摩り替え、誤魔化しながら、とにかく懸命に働いた。確かに、今の状況って蟹工船の場面に近いものがあるよ、奏音くん。現場に身を置いて、肉体労働に勤しむ。そうしなければ見えないものはきっとたくさんある。僕は本当にそう思ってる。

どれだけの長い時間がたっただろう。上からの声が少しずつ小さくなっていることに不安になった。作戦は失敗だろうか? ガクガクと腕が震えた。それが恐怖からなのか筋肉の酷使によるものなのか定かじゃない。もし失敗だったら全滅だ。それだけじゃない。外国船に敵対した報復を受けて、そのまま植民地になってしまったら、僕たちは変えたかった歴史よりも酷い現実を迎えることになる。

船上で歓声が上がった。船底に久坂さんが降りてくる。
「結城先生! 船が沈んでいきます、作戦は成功しました!」
ほーっと息をつく僕の横で「先生?」と初老の背の小さな男性が大きな目をぎょろりと回した。
「先生、船は停泊しますので怪我人の手当をお願いしたい」
僕は顔についた海藻と泥をはらって「いま行きます」と答えた。隣の男性が僕の腰から縄をほどいてくれる。
「すみません、ありがとうございます」
「あんた、お医者様なんですかい?」
「いいえ」
首をふって笑った。
「ただの日本人です。あなたたちと同じです」
何を言ってるのかわからないという呆けた顔で周囲の人達が僕を見つめた。
けど諦めない。いつかは伝わる。僕は龍馬さんの隣で、その奇跡を何度も見てきた。
重くなった足を引きずるように船上へ登る。甲板にはかがり火が焚かれていた。健闘を讃えあいながら合間に聞こえるうめき声。限界まで酷使された身体は辛いけど、気分は明るい。

だってここから先は、人を助けることだけに集中できるんだから。

想いは曲げない


目を開けると布団に寝かされていた。額の上に冷えた手ぬぐいが乗っている。体を起こそうとして、痛みでそれが出来ないことに気づいた。首だけを動かして横を見ると龍馬さんがぱっと顔を明るくする。
「お。起きたか、ショコたん」
「すみません、僕、どうして?」
なんで寝かされているのかの記憶が無かった。
「おまんも奏音も倒れたんじゃ。熱があるき冷やしちょった」
「か、奏音くん、は」
「寝とる。熱があるのはおまんだけじゃ」
ホッとして息を吐いた。
外国船が次々と渦に沈んで行くなか、海に飛び込んだ外国人を救助して、陸に戻ると戦闘で負傷した怪我人の治療にあたっていた。明け方近くに僕も奏音くんも倒れたらしい。
「おまんはいっつも他人の心配ばかりしとるが。ちぃっとは自分のことも考えんかえ」
手ぬぐいを桶にはった水で冷やしながら龍馬さんがつぶやく。
「ずっとそうやって冷やしてたんですか? 龍馬さんも寝てないんじゃないですか?」
「わしは治療できんからの。せめておまんの役に立ちたいぜよ」
「戦闘のあいだずっと舟を動かしてたじゃないですか。龍馬さんだって疲れてるのに。無理しないでくださいよ」
びしゃ、と絞ってない手ぬぐいを額に押し付けられて僕は目をつむった。
「翔太。一人で何もかもしようとするんはダメじゃろ」
頭をわしゃわしゃと撫でられる。いつもみたく髪をふわりふわりとされる優しさではなくて。男として、同志として話しているのだと判った。
「高杉から聞いたぜよ。おまん、水夫に混じって船底で働いとったそうじゃの」
龍馬さんは高杉さんと同じ船に乗っていて戦闘の中心に居た。敵船を攪乱し渦の方へ誘導する重要な役割だった。
「僕は戦闘では役に立てませんから。自分の出来ることをしていただけです」
「嘘じゃな。おまんのは意地じゃ」
「意地?」
「奏音は待機しとった。自分の出番が来るまでは耐えて待つ、それも立派な仕事じゃと思わんかえ。今回は全員治療したあと倒れたが、まだ怪我人が残っちょったらどうするが。怪我人や病人を治せる人間は少ないんじゃ。他の人間が出来ることは任せちょったらええじゃろ。おまんにはおまんにしか出来ないことがあるんじゃき」
適材適所だと言いたいんだろう。その意見も解る。でも僕はそれに従いたくない。
「船底での仕事は危険じゃ。もしおまんの利き腕が折れたらどうするが」
「……僕以外の人の腕は折れてもいいんですか?」
「そんなことは言うとらんじゃろ」
「いいえ。結果が同じなら変わりません。その経過に罪の意識があっても、殺人で人が亡くなる事実は変わらないのと同じです。それは“強者の言い分”で、酷使される側の人間にとっては、どちらも同じことでしょう、違いますか?」
「おまん以外の人間の怪我はおまんが治せるが。おまんの怪我は誰が治すんじゃってことを考えろとわしは言うちょる」
体が痙攣して思うように動かせない。それでも僕は肘を使い、ガクガクと震える腕に渾身の力を込めて上半身を起こした。
額からべしゃっと手ぬぐいが落ちて布団に黒い染みを作っていく。
「新しい技術を研究して、なるべく沢山の患者を治療して、未来に救える人間の数を増やす。小さな犠牲には目をつむる。僕の勉強してた分野にも、そういう価値観はありました。でも、僕は嫌だ。犠牲に小さいも大きいもありません。助けられる人間が多いほうが良くて、少ない犠牲のほうが幸せなんかであっていいわけがない。どちらも尊い犠牲です。なら、僕は、今、目の前に居る人間を助けたい」
「どっちも尊い犠牲なら、犠牲は少ない方がいいとは思えんか」
「そういう価値観の人が居ることは認めます。でも僕は違います。曲げません。変えません。僕はこの意思を必ず貫きます」
「ほうかい」
はあーと龍馬さんが溜息をつき、自分の頭を掻いていた。
「参ったのう。高杉に説得を頼まれたんじゃが。ちいーっとも引かんの、ショコたんは」
「高杉さんが?」
「おまんは奏音以上に無茶をし過ぎると言うとったき。こうも伝えろと言われたぜよ。“奏音から家族を奪うな”じゃと」
「無茶し過ぎとか、高杉さんにだけは言われたくないですよ」
「かっかっか、その通りじゃの」
龍馬さんが大声で笑う。それから僕の髪をフワフワと撫でた。
「引かないならしゃあないの。ショコたんはわしが守るき、信ずる道を進むといいが」
「龍馬さん……」
「必ず守っちゃる。また倒れたら運んじゃる。ずっと傍におるが」
胸がきゅーっと締まる。

龍馬さん。

龍馬さん、僕も、ずっと傍に居たいよ。でもダメみたいなんです。傍に居れなくなりそうなんです。
数日前から僕の左胸は透けている。消えかかってるんだ。そのタイムリミットがいつなのかはまったく判らない。

郷愁


コポコポと水泡が鳴る。芳ばしい匂いがする。ダイニングテーブルに肘をついて、コーヒーメーカーを眺めながら母さんと奏ちゃんのお母さんがキッチンに立って話し込むのを聞くことが僕は好きだった。
「まー(万宙)ちゃんはまだ学校?」
「そうなのよ。吹奏楽部に入ってから遅いのよね」
「へぇー吹奏楽部? あのまーちゃんが?」
それは僕も意外だった。お姉ちゃんは中学3年間、陸上部でひたすら走っていた。小麦色の肌でショートカットのお姉ちゃんが突然フルートを始めるなんて驚きだよ。
「ふふ。女は恋すると変わるんだよ」
「あら、奏ちゃん。おかえり」
「ただいまー碧(あおい)さん」
僕の家だけど、奏ちゃんが帰宅してきて、僕のお母さんがおかえりと言う。
「恋ってまーちゃん? なんか知ってるの? カナ」
「まーちゃんは吹奏楽部の部長に一目惚れしたらしいよ」
ニマニマと笑ってそう言うと、母さんたちが作っていた夕飯をつまみ食いして、奏ちゃんはリビング階段から2階へと上がっていく。2階では僕の父さんと奏ちゃんのお父さんが将棋をしている。それを見に行くのだろう。吹き抜けから見える踊り場を奏ちゃんの頭がピョコピョコと跳ねながら通っていく。父さんの書斎のドアを奏ちゃんが開けた時「あぁっ!? そんな手ありかっ!」という父さんの絶望的な声が聞こえた。
「今日も負けてるみたいね」
「でも楽しそうね」
クスクスと母さんたちが笑った。

……遠くの方で大勢の人の話し声が聞こえた。琴や三味線の音色も聞こえる。わっという歓声のあと複数の笑い声が上がった。布団からゆっくりと抜け出して着物に袖を通す。袂から胸元を見るとやっぱり透けていた。思い違いや夢では無いらしい。頬に違和感があって指先で触ると人差し指と中指の腹が湿った。夢を見ながら泣いていたのだと知る。
懐かしい記憶だ。小学校6年生のあたりだろうか、その頃の夢を見ていた。たぶん座敷から聞こえてきた賑やかさが見せた夢かもしれなかった。もう2度と戻れない未来。帰れない世界。
タイムスリップで幕末に飛ばされてから1年が経った。色々なことがあって、様々な人に出会って、たくさんのことを考えた。龍馬さんに出会って惹かれて、その強さや優しさに憧れて、この人の為に生きよう、この人の夢を叶えよう、この人を護れる人間になろう。この時代で生きていこうと覚悟した矢先にこれだ、僕はこの時代から弾かれる。そりゃ僕はこの時代の人間では無いし異物なのだから道理なんだろうけどさ。勝手に連れてきておいて要らないって酷いよ、神様。
板の間の廊下を歩いて座敷のほうへと近づいたけれど、それ以上歩みを進めることが出来なくなった。歓迎はしてくれるだろう。みんな笑ってくれるし、讃えてくれる。でも今の心理状態でそんなことされて、どういう表情を作ったらいいのか僕には判らなかった。
日中の暑い空気がまだ少し残っていて湿気を帯びている。庭の玉砂利が白く光っていて月や星が明るいことに気付く。雲一つ無い満天の星空。万宙ちゃんの名前の由来だ。女の子のすすり泣く声が聞こえた。聞き覚えのある声、でも久しく聞いてなかった泣き声。奏音くんが井戸の近くで膝をついて肩を震わせて泣いていた。あんな風に泣く奏音くんを見たのは震災の時の避難所で奏音くんの親友の女の子が分断された道路のせいで餓死してしまったと聞かされた時以来だ。あのあとしばらくして奏ちゃんは奏音くんになった。奏ちゃんは居なくなった。でも今は奏ちゃんかもしれない。
「奏音くん」
あえて僕はそう呼んだ。奏音くんは泣いていたけど、やっぱり奏音くんの顔で振り向いた。泣いているのに、気丈に“たとえ消えても歴史は変えよう”と僕に言う。
奏音くんは“奏ちゃん”は消えてなくて、消されたのは“翔太”だと言ったけれど、僕は今のほうが素なんだけどね。そっか。もしかしたら奏ちゃんも、奏音くんのほうが“素”なのかもしれないね。
でも僕は、昔、父さんの口調を真似てた頃の僕や女の子の言葉遣いをしてた奏ちゃんのことも好きだよ。

思い出すと切ないけど幸せな空間だった。奏ちゃんと僕と、万宙ちゃんと、お互いの両親と賑やかに過ごしてた日常生活。

これからどうしたらいいのかな。時間は足りない。タイムリミットはいつか定かじゃない。けど改革には時間と手間がかかる。急いては事を仕損じる。慎重さは必要だ。考えなきゃならないことは山積みだったけど、今は無理だ。

僕たちはしばらくのあいだ、お互いの悲しさを抱き締めてた。

拡散


静寂が場を支配していた。誰も言葉を発せなかった。昨夜のお祭り騒ぎが嘘のように、その場に居る全員が眉間に皺を寄せ拳を握りしめている。
やっぱり無理なのかな。僕は奏音くんと顔を見合わせ、やめる? と口を動かした。たたみ3畳あいだに挟んで斜め向かいに座っていた奏音くんが首をかすかに傾げて少し哀しそうに笑った。無理かもな、と口が動いた。

外国船を撤退させることに成功した僕たちは宴で盛り上がった翌日、藍屋の女性たちが片付けや掃除をしている座敷とは別な部屋に集まって奏音くんから今後の展望を聞いた。冬から夏までに準備を進めるなか、僕と奏音くんが何度も交わした文のやりとりで一緒に考えたことだ。
帝に歌舞伎を披露する。その演目の中で偽勅が起こす混乱と、帝から会津藩への過剰な期待が招いた会津藩の不幸、そもそも帝は神と同義なのだから依怙贔屓や一つの藩への弾圧を推奨したらダメだろうという風刺を表現する。戦争は何故起こるのか、起こさない為にはどうしたらいいかなども盛り込む。そういうことを展開も含め、どんな物語にするのかを奏音くんが語った。

僕たちは未来人だ。孝明天皇が伊藤博文さんと一緒に皇室改革をして明治政府の皇族を立て直した人だと知っている。皇族の腐敗を疎い改革派の頭の柔らかい人なのだと知っている。だからこの計画にも自信がある。けれどこの時代の藩士たちにとっては朝廷は雲の上の天上人なのだ、逆らうどころか、意見をひとつあげるだけでも命懸けの行為。それを風刺するなんて畏れ多いにも程があるんだろう。

普段だったら喧々諤々の勢いで皆が反論したと思う。そんなことは絶対に出来ない、あってはならないことだと奏音くんを諭しただろう。けれど昨日、外国船に乗っていた侵略者たちに奏音くんが啖呵をきったのをここに居る全員が見ている。僕たちは得体の知れない不審者ではなく、この国の救世主のような扱いになった。だから皆、反論を口に出せない。けれど賛同も出来ない。それが静寂を生む。
「……やはり、無理、ですかね」
奏音くんが呟いた。何人かが顔をあげたけど、残りのほとんどは俯いたままだ。
「すみません。何か違う作戦を考えます。翔太、いいかな? 2人でまた話そう、今度は直接話せる。文のやりとりよりもっと早く案が浮かぶかも」
「うん、そうだね」
笑って僕も頷き返したけど内心は焦っていた。僕も奏音くんもいつ消されてしまうか判らない。はたして間に合うだろうか? その時、押し黙った塊から声を上げた人が出だした。
「私は結城先生にいろいろなことを教わりました」
久坂さんが口を開いたのだ。
「気温の測り方、天候の予測のたてかた、天文学、地質学、数学、語学。人体の仕組み。訊ねればどんなことでも応えが返ってくる。知識に留まることを知らないかのようでした。奏音殿のこと、奏音殿から学ばれた御方らはどう感じていたかお尋ねしてよろしいか」
「……天の使いやと言うてはった人はおましたな」
久坂さんに応じた藍屋さんの言葉に奏音くんが苦笑した。
「妖しと言われていたよ、俺の部下には」
慶喜さんが鼻の頭を人差し指で触りながら照れくさそうにポソっと言う。
「敵だと思ってました」
沖田総司さんが真っ直ぐ前を見据え、子どもみたいな無邪気な表情で言葉を継いだ。
「でも今は私の指針です。奏音さんの進む道の先を歩いて障害を斬ります」
「斬るのかよ」
「だって私にはそれしか出来ません」
呆れて笑う土方さんに口を尖らせて言い返していた。土方さんは奏音くんの方を見て言う。
「じゃあ、しんがりは俺が守ってやるよ。高杉殿から承諾も得たからな」
高杉さんがニヤリと笑って「隣を歩くのは俺だがな」と言うと何人かが「はいはい」という雰囲気になる。
「正直、帝に意見をする行為は恐ろしいです。でも、私は」
吉田さんが両膝を手のひらで掴みながら言った。腕が小刻みに震えている。怯えではない、畏怖だ。この時代の藩士たちにはそれが根強い。
「結城先生と奏音殿がお二人で考えた作戦なら、きっとそれはあらゆる可能性を考慮しての最善の策なのだろうと思うのです。我々には予想もつかないような遥か先まで見通す力があると信じています」
「怖いです」
「私も同じく怖いです」
「ですが」
「しかし」
「じゃっとん」
皆が口々に怖い、でも、と呟きだす。俯いていた、震えていた、泣き出しそうな人も居た。
「のう、おまんら」
龍馬さんが、いつものように間延びした場にそぐわないゆったりとした口調で声をかける。そして立ち上がって手をパン! と打った。
「こういうことでええんかの? 帝に物申すのは畏れ多い。じゃが」
龍馬さんが僕のもとにドスドスと歩いてくる。え? え? 何するつもりなのかな?
「翔太」
手を差し出されたのでよく解らずに手を預けると手首をつかまれグイっと引っ張られた。
「うわっ!?」
僕を立ち上がらせ、腰を鷲掴みにした龍馬さんが僕をそのまま肩車する。ちょっ、なにこれ?
「ちょっ、高杉さん、くすぐったい、あ、アハハ」
奏音くんも高杉さんに無理やり肩車されてた。龍馬さんと高杉さんが上座に歩いていくと、その場に居た藩士たちが輪を作って座っていたのに真っ直ぐに上座に向かって整列する。うわぁ、これ、見たことあるよ、将軍様に謁見する時の列じゃないか。
「おまんらに今一度訊くがよ。帝は畏れ多い。この作戦は命懸けじゃ。じゃがなんとする?」
低く、強く、龍馬さんが怒鳴る。久坂さんが負けないくらいの声量で叫んだ。
「我々の命、お二人に預けます!」
ザザザ! と衣擦れの音がして、全員が一斉に頭を下げた。
「なんで肩車する必要があるんですかっ!?」
恥ずかしくて龍馬さんの髪の毛をグイグイ引くと「いっ、痛た、ショコたん、髪の毛を引っ張るのはやめちょーて」と龍馬さんが泣きそうな声を出して、みんながドッと笑った。
「高座が無いからな。頭を高くしてみたんだ」
と高杉さんが言って奏音くんが高杉さんの後頭部に抱きついて笑ってた。そこの2人イチャつき過ぎだから。

もう、龍馬さんだけじゃないんだ。僕にも奏音くんにも味方になってくれる人がたくさん出来て、僕たちを信頼して命を預けてくれる人がこんなに居る。それは嬉しくて、作戦を絶対に成功させなきゃ、という決意に力を与えてくれた。でも。

でも、嬉しくて、嬉しくて、その分だけ、寂しくて辛かった。

道標


空が高い。天高く馬こゆる秋とはよく言ったものだ。雲が少なく透き通った蒼、涼しい風が吹き、鳶がくるくると回っているのが遥か遠くに見える。秋の空は本当に“高く”思える。畦道をギュッギュッと草鞋を鳴らして歩く両隣には黄金色の稲穂が並ぶ。黄金の国ジパングだ、意味も意図も違うけれど、こっちの“金”のほうが僕は好きだ。

奏音くんは慶喜さんと一緒に江戸に向かった。藍屋さんは京都に戻り、藍屋百貨店を軌道に乗せる為に商売に奔走している。
高杉さんたちはおもに中国地方を歩き回っていて西郷隆盛さんたちは九州地方担当だ。僕と龍馬さんは四国地方を回っている。龍馬さんの出身地だ。
江戸では奏音くんがアドバイスをしながら慶喜さんと勝海舟さん、伊藤博文さんの名義で瓦版を発行している。その瓦版は飛脚の人達によって全国に届けられているのだけど内容がぶっ飛んでたり、革新的過ぎて理解されないかもしれなかった。幕府が解体され、幕閣を構成する藩が各国にある藩のように“ひとつの藩”扱いに戻り、帝の下に集って新政府を作りましょう。と。
“新将軍の徳川慶喜がそう言ってますよ”なんて驚愕の内容過ぎて、みな半信半疑だった。
だから外国船を追い払った戦いに参加していた当事者たちが直接全国を足でまわって各藩の代表者に会いに行くのだ。龍馬さんはまず実家に戻って資金を調達し、土佐藩の殿様に経緯を説明して土佐藩からの署名を正式にもらった。
すべての藩主から合意の署名を貰って“大政奉還”する。それが今の僕たちの第一目標だ。みんな自分たちの所属する藩主からの合意署名を足掛かりにして、藩主と仲の良かった藩主、その藩主からの紹介、といった形でコネクションを駆使している。「俺たちは運がいいな。時代の窮児たちとたまたま知り合えた」と奏音くんは笑っていた。
つまり時代を動かしていた人達は相対して争いながら、関わって話し合いの出来る立場にお互い居たということだ。近くに居ながら相容れず殺し合うことをせずに、手を取合えばこんなにすごいことが出来るっていうのに。そういうポジションを得ていた人達だったのに。もったいないな。僕たちが変える前の歴史が頭をよぎってそんな風に考えた。

畦道が終わって町に入り道が広くなった頃にはすっかり夜が更けていた。着火マンで提灯に火を灯す。「早いのう。ほんに便利じゃわい」火打ち石とは違う素早さに龍馬さんが感心する。にわかに殺気を感じて僕も龍馬さんも足を止めた。
「坂本龍馬殿とお見受けいたす」
「如何にも」
ニッと笑って龍馬さんが答えると相手は刀を抜いて構えた。「下がっちょれ、ショコたん」相手は1人だった。けど雰囲気から半端な強さじゃないと判る。「加勢します」と懇願するが止められた。
「おまんの戦いかたは1対2の加勢には向いちょらん」
怒鳴って、ドンと足を鳴らして龍馬さんが相手に踏み込んだ。ガキン! と刀を受けられる。
「おう! おまんは何故わしを斬ろうとするがじゃ」
「とある方からの命令です。私に貴方への恨みなどはありません」
刺客だ。僕と奏音くんが一番恐れているタイプ。感情を殺していて説得がきかない。迷わずにこちらを殺しに向かってくる。
相手の腕前は龍馬さんより少し劣っているように思えた。けれど龍馬さんは刀を受けたり薙ぎ払ったりするだけで相手に斬りかかろうとしない。そのチャンスが幾度となくあったにも関わらずだ。
「……手加減しておられますね。噂通り甘い御方だ。その甘さは命取りになりますよ」
「カッカッカ、バレたか。のう。見逃してもらうっちゅーわけにはいかんかの?」
「ご冗談を」
フッと冷たい笑みをたたえて刺客が振りかぶった剣を受けながら龍馬さんがドスと片膝をついた。
「龍馬さんっ!」
「ショコたん。平気じゃき心配せんで」
「でもっ!」
「わしはもう人は斬らん」
……身震いがした。どんな悪人でも僕は斬らない、たとえ自分の命が危険でも絶対に斬らない。確かに僕はそう言った、龍馬さんに何度も何度も。人の死に“あっていい死”なんて無い。人の命に優劣をつけること自体が争いを生むんだと語った。

けれど、それは自分の身を賭した契りだ。龍馬さんの命は賭けてない。
「龍馬さん! その人は刺客です、説得は通じません! 僕の考えは通じない、だから手加減しちゃダメですよ!」
「何を言うがじゃ、ショコたん。さっきから“日本語”が通じとるじゃろ。のう。おまんは瓦版は見んかったかえ? この国はひとつになるき、敵味方は無くなるんじゃ。殺し合いはせん。話し合いで世の中は動く。そういう風になろうとしちょる。おまんも見とうないか、この国の夜明けを」
「龍馬さんっ、無理ですって!」
「じゃかあしい! おまんが諦めてどうするが!」
叫ぶ僕に刀を打ち付けあいながら龍馬さんが怒鳴り返す。
「前に言うちょったこと覚えとるか? 風車のように回っちょる、勝さんのもとで動いちょるが、我が想いは定まらんとわしは言うた。けんど今は違う」
龍馬さんが相手の肘に峰打ちすると相手の刀を持つ手が緩んだ。すかさず小手を狙い刀を振り落とす。地面に落ちた刀を足で払う。ガリガリと土の道を削って刀が僕のほうに滑ってくる。僕はそれを受け取った。
「誰も殺さない世の中にする。目指すのは翔太、おまんじゃ。おまんの見てきた世界をわしも見とうなった。のう? 翔太。死んでいい人なんておらんのじゃろ? おまんがそう言うたぜよ。例外はあるじゃろう、人を傷つけることを生きがいにしとるような悪人ならわしはおまんが何を言うても斬るが。けんど刺客は“例外”かえ? 人の命令を聞くように小さい頃から仕向けられた刺客は悪人かえ? 斬ってもいい例外かえ? “死んでいい人”かえ?」
刀を落とした刺客の腕に峰打ちをして怯んだところを刀の柄を使い鳩尾を打って相手を気絶させた。ハァハァと息を乱して龍馬さんが僕のほうに歩いてくる。
龍馬さんは、へたりこんでしまっていた僕に目線を合わせるように土の上に胡座をかいた。乱れた息を整えるように何度も唾を飲み込んでから言葉を継ぐ。
「おまんと同じ目線に立って並んで歩く。おまんの進む道にわしも進む。何処に行ったらええんか、何をしたらええんか判っちょらんかった。ずっとじゃ。翔太。おまんがわしに道を示してくれたぜよ」
飛びつく僕に「おおっ!?」と龍馬さんは驚いて。でもすぐに大きなゴツゴツとした手で背中をさすってくれた。最初に会った日と同じように。

矛盾を越えて


風に乗って潮の香りが鼻腔をかすっていく。いつもなら高揚した気分になるはずのその香りが、なんだかねっとりと湿った嫌な空気に思えた。カラカラと背後で戸の開く音がして哲(さとる)さんがベランダに出てきた。哲さんは奏ちゃんのお父さんで、僕の父さんには「テツ」って呼ばれてた。
「珍しいね。翔太が一人で帰ってくるなんて。奏はどうしたの? 友達と遊んでるのかな?」
穏やかな口調で問いかけてくる。本当はきっと理由を知ってるはずなのにあえて聞いてこない。哲さんはそんな人だった。
僕は答えることが出来ないまま曖昧に頷いてベランダから見える夕焼けに視線を戻す。哲さんは僕の横に並んで手摺に肘をつくと黙ったまま夕焼けを一緒に眺め始めた。
「……俺、喧嘩したんだ、奏ちゃんと」
その頃、僕は自分の性癖になんとなく気付いていたけれど、開き直ることは出来なくて、なんだか罪悪感があって、懸命に父さんと同じ口調を意識して話してた。
「へぇ。君らが喧嘩するなんて意外だな」
哲さんは頬杖をついて僕の方を見て応える。
「どんなことで喧嘩になったの?」
「社会の授業で刑法の勉強をして。その事で放課後に奏ちゃんと話してたら、死刑制度はあるべきか無くすべきかで意見が真っ二つに分かれて言い争ってるうちに奏ちゃんも俺も怒り出して」
「お互い引っ込みがつかなくなった?」
「……うん。奏ちゃんは自転車で海の方に行っちゃって、俺だけ帰ってきた」
「なるほど。まったく子どもらしくない理由の喧嘩に僕はいまびっくりしてるよ」
「子どもらしい理由では喧嘩になることないから。お互い譲り合うし」
「そうだねぇ。おやつも仲良く分けるもんねぇ、小さい頃から。まぁ仕方が無いか。君らが大人びちゃったのは僕らのせいだしね」
哲さんは申し訳なさそうに微笑んだ。奏ちゃんの両親と僕の両親は4人とも同じ職場に勤める研究者だ。職場の仲良し集団から2組の夫婦が出て隣同士に家を建てた。僕と奏ちゃんは産まれる前から幼馴染みだった。
職業柄4人とも忙しく子育てはお互いに協力して手の空いてる人が手伝っていた。それでも間に合わないときは研究所の後輩たちが面倒を見てくれて、小学校にあがって手がかからなくなってからは僕たちは学校が終わったあと真っ直ぐ研究所に向かって仕事帰りの父さんたちと帰るようになった。その間研究所に所属するいろいろな大人たちと会話してきた僕たち2人は自然と周囲の子どもより大人びた子どもに成長してしまった。
「研究所通いは楽しいから。そんなに寂しくもなかったし」
「寂しくなかったって断言されちゃうと碧(あおい)さんが泣くよ?」
「う。母さんには言わないで」
「わかった」
クスクスと哲さんが笑う。
「哲さんは、父さんと喧嘩にならないの? いつも意見が分かれてる気がするんだけど」
「そうだねぇ。登吾(とうご)君とは全く意見が合わないね」
「哲さんが譲ってるのかな? 父さん我が強いし」
「いや? 僕も融通きかないよ?」
「そうかなぁ?」
「お互いに譲れないことはたくさんあるし、簡単に譲る気もないし、折れる気もないね。そんな簡単に迎合出来るなら、最初から意見なんて言わないべきだ。烏合の衆になればいい」
穏やかそうに見えて実は気が強いのか、哲さんは。そんな風に思って目を丸くする僕にフフと哲さんは笑った。
「でも僕はどんなに譲れない意見よりも登吾君を優先する」
「……え?」
「迎合しない、譲らない、折れる気もない。でも登吾君を優先する。矛盾だと思うだろう? でもね、翔太。覚えておいて。矛盾を越えて相手の存在を大切にしたいと思うことが何より大事なんだってこと。理屈じゃない、法律でもない、知識でもない。理路整然としていて解りやすい価値観なんて努力で簡単に手に入れられる。人が大切にしなきゃいけないものは、愛や夢や友情といった“曖昧なもの”だよ。壊れやすく、得難い。だからこそ大切にしなきゃいけない宝物だ。奏と翔太は色が違う。向いているベクトルも違う。この先も意見が食い違うことはたくさんあるだろう。でもお互いに相手を失うことだけはあってはならない。どんなに努力したって手に入れられるものじゃない家族のような親友。絶対に離れたらダメだよ」
僕はなんて答えただろう。それは覚えていないけれど。僕はすぐに奏ちゃんを探しに自転車に飛び乗って。それから僕と奏ちゃんは意見をぶつけあうことはあっても喧嘩はしなくなったんだ。

僕はどんな理由があっても、どんな悪人でも殺してはいけないと思ってるし、死刑制度は断固反対だ。だから「悪人を殺さなきゃ新たな悪が蔓延るだけだ。死刑制度は必要だ。人が人を犯罪で殺せるのが可能な限りは、人は司法で裁いて悪人を殺せるのが可能じゃなきゃならない」っていう奏ちゃんの意見に真っ向から対立して喧嘩になった。
でも龍馬さんが刺客に襲われた時は龍馬さんに刺客を斬って欲しいと願った。龍馬さんには絶対に死んでほしくなかったんだ。人の生死に差別があってはならないという僕の主義に反する感情だ、矛盾してる。けれどいいんだ。主義よりも大切なものは“矛盾を越えていく想い”だから。

今頃、父さんや母さんや哲さんや悠里(ゆうり)さんはどうしてるだろう、僕たちが居なくなった世界はどうなっているのかな。僕と奏音くんの体が消えかけているのなら、元いた世界も消えていくんだろうか。新しく出来た世界には僕と奏音くんは居るのかな。もしかしたら父さんたちも生まれてなくて存在してないのかもしれない。
僕たちが消えてしまったあとの父さんや母さんたちのことを考えると辛くなった。万宙ちゃんを亡くして、僕たちまで消えてしまったら、どんな気持ちで泣いているんだろうか。

急に飛ばされてきたからそれは確かめずに済んだ。どうなってるのかなんて考えても確認できる術はない。

けれど今度は知らされる。見てしまう。聞こえてしまう。僕たちが消えると知った時、今の大切な仲間たちはどんな表情をするんだろう。僕にはそれに耐えられる覚悟がまだ出来ていなかった。

別れの挨拶


鋼を加工してつくられた黒い飾り窓を撫でながら奏音くんがかすかに笑みを浮かべていた。窓枠に座ってしばらくの間そうしているのを僕は邪魔しなかった。僕たちに残された時間は少ないだろうし、それがいつ来るのか判らなかったけれど生き急ぐのは意味が無い。改革はじっくりと腰を据えてやるものだし、僕たちの意志や魂はすでに龍馬さんたちが引き継いでくれているから。歴史の偉人たちに引き継いでもらうってのもなんだか贅沢な話だよね、と少し可笑しくなる。
奏音くんも僕も今日は洋装だ。今日集まる人は全員そうなのだけれど。藍屋百貨店でしつらえたスーツを着ている。江戸城敷地内に建てられた西洋風の建物内の会議室で“第1回内閣会議”が行われようとしている。みんなが集まる部屋とは別室で僕と奏音くんは2人で居た。奏音くんに「お前にだけ話がある」と言われて呼び出されたのだけど、奏音くんはなかなか話を切り出せずにいた。僕はそれを待っている。急かせることなく、ゆったりと。
「こういうの作ってくださいって言ったらホントに作れちゃうからスゴイよな」
「うん。だね」
僕たちには知識はあるけれど技術は無い。未来にある道具の使い方は知っているけれど作り方は知らない。けれどこの国の職人たちは使用方法やだいたいの材質やイメージを伝えるだけで、似たような材料のものを自分たちで考え、試行錯誤を繰り返し、僕たちが使っていたものとほぼ変わらない代替え品を作ってみせる。奏音くんがイメージしていた西洋風建物にあるステンレスやアルミサッシの飾り窓も鋼だけで作ってみせた。凄まじい技術力だ。

半年をかけて諸国大名たちを説得しきった僕らは全国すべての藩主を揃えて年末の縁起の良い日に大政奉還を行った。帝に対して“不敬”ではないかと恐れていた歌舞伎の演目を帝の御前で披露したあと、帝からの言葉を待っていると御簾が上がって帝が直接言葉をかけてくれたらしい。僕と奏音くんには身分がないから、その場には同席出来なかった。「どんなに合理的なシステムを作っても怨恨ってのはなかなか消えない。長州藩と会津藩の確執を消せるとしたら帝だけだと思う」という奏音くんの意見から僕たち2人で考えた作戦。それはとても上手く行ったようだ。「まぁ。徳川慶喜が王将だからな。これで勝てなきゃ俺には将棋差しの才能が無い」と奏音くんは笑ってた。
それからまた瓦版を流布し、僕たちも諸国を巡って、新体制をどんなものにするのかを話して回った。龍馬さんは生き生きとした表情で未来を語る。町人に、農民に、行商人に、宿屋の女将さんや、町を走る幼子に。網を引いている漁村の人や、カンナをかけてる大工さんに「旦那! こっちは仕事中なんだ、うるせーな! 日本の夜明け? お天道様なら毎日ちゃーんと上がってるだろうが、沈んだままの日なんてオイラが生きてるあいだは来たことがねーよ」と怒られながら「違うんじゃ、そういう意味ではないがよ!」と声を張り上げて説明していた。満面の笑みで。
奏音くんは江戸城で諸国藩主や武士たちや集められた知識人たちにこれからどういう体制を作っていくのか、列強にどうやって対抗していくのか、教育システムや、法律の整備など覚えて欲しいことを次々と説明していた。もともと武士とは文武両道が義務付けられている。勤勉なやる気のある人に教えるのは楽しいだろう。僕も毎日が楽しかった。龍馬さんや高杉さんや久坂さんたちに英語を教え込む日々。
そうして色々な準備を進め、春になって頼んでいた建物が完成し、今日、内閣会議を開くことになったのだ。
「俺が震災のあとに、お前に言ったこと覚えてる?」
「いろいろ話したけど、どれのこと?」
「俺が間違ってた、ごめんってやつ」
「あぁ。それか」
僕と奏音くんが真っ向から対立してた意見だ。第二次世界大戦があったから日本は強くなって発展したから今があるっていう奏音くんの意見。僕は常々言ってた。戦争と引換に得る技術力なんて要らないって。
震災のあとに瓦礫の山になった故郷を茫然自失で眺めていた奏音くんに言われたのだ。「こんなこと、誰にも経験させていいわけがない。無い方がいい。あって良かったなんて絶対に無い。ごめん、翔太、アタシが間違ってた」ボタボタと涙を流して奏ちゃんは僕に謝ってた。
「今も、あの時の気持ちは変ってないんだ」
「うん」
「戦争は絶対に無いほうがいいし、お前が戦争行動を憎むほど嫌いなのも知ってる」
「うん」
「でも……」
言いたいことは解ってた。僕だって本当は知ってるんだ。現実問題、戦争行動に加担しないように、巻き込まれないようにするためには矛盾してたって“軍”は要る。無かったら支配され搾取されるだけだ。残念だけど異国を尊敬出来ずに攻めることしか考えてない国は多数派だから。この時代も、未来も。奏音くんの改革案に“国防軍の強化”が入ってることは知ってた。でも僕たちはお互いにその話はしなかった。
「俺が作りたい未来とお前が作りたい未来は最終的には同じかもしれないけどルートが違う。お前にはお前のやりたい方法があるんだろうなって思う。だけどそれは時間がかかるし、俺たちは消える。それを伝えることは難しい。だから大勢の人に解るやり方で進めたいんだ。俺は国防軍を作ろうと思ってる。お前がそれを嫌なのも知ってる。だけど。でも……俺は、お前と、離れたくない。一緒に居たい」
“大切なのは矛盾を越える想いだよ”奏音くんのお父さん、哲さんと話したことを僕は奏音くんには教えてない。けれど奏音くんも僕と同じ結論を選んでくれた。譲れない信念はあっても、それを曲げてでも一緒に居たいって願ってくれた。
思い起こす。脳内に表情をイメージする。片眉をあげ、口角を挑戦的にあげて、ニヤリと笑う仕草。高杉晋作さんの癖であり、僕の父さんの笑い方。奏音くんが惚れた男たちの表情。僕が真似していた父さんの口調で。

「ばーか。お前と離れてまで通したい信念なんかあるわけねーだろーが」

奏音くんの頭をぐりぐりと撫でてそう言う。奏音くんは目を丸くして絶句したあと、顔を真っ赤にして怒り出した。
「おまっ、ふざけんなよ、ずるいぞ!」
「なにが?」
「頼むから、それ、やめて。お前がやるとシャレにならないんだって。似てんだかんな! 声も、顔も、登吾さんに!」
「ふふ、わかった。もうやらない」
「あーあ。お前が女好きならお前と結婚出来たのにな」
「僕も奏音くんが身体も男の子だったら惚れてたなぁ」
「アハハ、息子同士に愛し合われたら母さんたちが泣くぞ」
そう言って奏音くんが少し沈黙する。何かを言いかけてやめた。うん。言われなくても判ってる。寂しくなるから言わないことにしよう。
「行くか」
「うん」
「たぶん俺、号泣すると思うけど勘弁してくれ」
「いいんじゃない? 女の子なんだから泣いたって」
「お前はホントに泣かないよなぁ。いいなぁ。強くて」
「一応、男だからね」
「アハハ」
笑う奏音くんに拳を突き出す。奏音くんもニッと笑って拳を打ち付けてきた。

さぁ。最後のお別れの挨拶をしにいこう。大切で大好きなあの人たちに。

ずっと一緒に


コの字型に並べられた机と椅子にそれぞれスーツを着て、藩主だったり将軍だったり貴族だったりした人達が“一議員”として座っていた。隣にはそれぞれ秘書を座らせている。僕は龍馬さんの秘書として参加していた。大政奉還のあと僕たちが全国を巡って新しい体制の宣伝をしている間に奏音くんは憲法草案を文に書いていたのだ。なんか字が上手くなってる気がする。藍屋さんに鍛えられたのかな。1年半前に藍屋さんのことを「土方より怖い」と評して泣きそうな顔をして項垂れていた奏音くんを思い出してちょっと笑いそうになった。そっか。タイムスリップしてきてから1年と9ヶ月経ったんだ。すごく長かったような、あっという間だったような。
慶喜さんの秘書として参加していた奏音くんが「みなさんが慣れるまでは俺が議長をやりますね」と言って憲法草案の中身を説明していく。議員から質問がいくつか出たけれど、その応答は高杉さんや藍屋さんや慶喜さんや土方さんが代わりにしたりしている。奏音くんが半年間教えこんだのだろう。みんな驚くほど近代政治学に詳しくなっていた。
草案をあらかた説明し終わると初代内閣総理大臣を誰にするのかという話になって奏音くんが「俺は坂本龍馬さんがいいと思ってます」と言うと、隣で龍馬さんが飲んでいたお茶を吹き出して咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
背中をさすっていると龍馬さんが途切れ途切れに「さ、3倍返しが、来た、ぜよ」と呟いている。3倍って? なんのことだろう。
「坂本殿でも異存は無いが、初代はお前がやったらいいんじゃないのか?」
と高杉さんが奏音くんに総理大臣になったらいいと提案すると、藍屋さんや慶喜さんや久坂さんたちも次々と賛同する。奏音くんは一瞬唾を飲み込むような仕草をして、僕の方を見る。僕は頷く。大丈夫だよ。奏音くんと“離れない”僕はずっと君と同じ夢を見てる。
ゆっくりと深呼吸をして、奏音くんが説明を始めた。何故、自分は初代内閣総理大臣を担えないのかの理由。奏音くんと僕は2018年の日本からこの時代に飛ばされてきたこと。本来の歴史を僕たちが変えてしまったこと。それが理由かは定かじゃないけど体が透けて消えかかっていること。そのタイムリミットがいつなのか自分でも判らないこと。
「おまんも透けちゅうがか?」
龍馬さんが目を赤くして唇をわなわなと震わせた。
「はい。奏音くんと同じ時期から透けています。最初は小さかったんですけど、だんだんと薄い箇所が大きくなってるんです」
「なんで言うてくれんがじゃ!」
「……どうやって消えないで済むか、どんなに考えても思いつかなかったから」
「ほいでも、のう! 知っちょったら、知っちょったら……もっと美味いもん食わしちゃり、優しゅうしたり、のう……いろいろ、いろいろ!」
手の甲で鼻をこすってズズッズズッと鼻を啜りながら涙をこらえて龍馬さんが言う。僕は伝える。
「……優しさなら、最初から、ずっと。充分過ぎるほど、もらえてました。拾ってくれた人が龍馬さんで本当に良かった。今までありがとうございました」
「そんなお別れみたいなこと言わんちょって」
「いつ消えるか判らないので。伝えておきたいんです」
奏音くんが消えるかどうかは判らない、消えないかもしれない、と話したあとに追加する。
僕たち2人が叶えたい夢。第2次世界大戦に参戦しない未来を創ること。それがもし叶えば僕たち2人は間違いなく消えるだろうという予感の話。何もお前たち2人が消えることは無いだろうと皆が止めても、奏音くんは譲らなかった。
想いを越えて、矛盾を受け入れて、信念を曲げてでも一緒に居たい相手は居る。それは知っている。
だけど“一緒に居る”ということは物理的に隣接していることじゃない。この1年と9ヶ月。幕末の世界で、僕と奏音くんは殆どを離れて過ごしていた。でもずっと一緒に居た。片時もお互いを忘れたことはない。
「のう、翔太。奏音を止めてくれんか。奏音は頑固じゃき一度決めたら動かんが、おまんが消えとうない言うたら考えなおすじゃろう? わしは翔太と離れとうない。消えんでくれ、頼む」
龍馬さんが僕の肩を掴んで懇願する。龍馬さん、知っているくせに。僕が奏音くんに負けないくらい頑固なんだってこと。
「ごめんなさい。僕も奏音くんと同じ考えなんです」
「なんと!?」
「龍馬さんに会ったから。龍馬さんと過ごしたから。龍馬さんの理想を一緒に追いかけたから。だから、僕もあの戦争を無くしたい。龍馬さんが目指した理想の日本を創りたいんです。奏音くんと一緒に」

たとえ消えても。龍馬さんの記憶から僕の存在が失われたとしても。史実通り、龍馬さんが暗殺されていたのだとしても。
僕は龍馬さんと“一緒に居た”でしょう? 諸国を巡り、老若男女に話しかけ、日本をひとつにしようと夢を語って。信念を語って、意見をぶつけあって、お互いに腹を割ってこんこんと話して。
夢を見て、夢を信じて、夢を語って、夢を叶える。“一緒に居る”ってそういうことでしょう?

僕は龍馬さんと、ずっと一緒に居たいです。だから消えることを選びます。奏音くんと同じです。貴方達が命を賭けて護ったこの国を僕も護りたい。

「嫌じゃ!」
背中に爪が食い込むほどに龍馬さんが強く僕を抱きしめる。奏音くんも同じように高杉さんに抱きしめられていた。お互いの父親に似た面影の人に幕末に飛ばされても出会えるって結構すごい奇跡だよね。

その場に居た殆どの人が泣いていた。まさか高杉さんまで泣くとは思わなかったな。僕、父さんが泣いたところなんて見たことがないよ。奏音くんは僕に「お前はホントに泣かないよな」「翔太ってぜんぜん泣かないね」って小さい頃から言ってきたけど、父さんの影響なのかもしれない。父親が涙脆いと息子も涙脆くなるって昔めざましテレビでやってた気がするよ。

ざわめきが大きくなって、奏音くんの腕が光っているのが見えた。僕のワイシャツも光っていて胸を押さえる。龍馬さんが絶望を顔に浮かべて「消えんでくれ、たのむ、たのむ」と何度も言う、泣き声で、かすれている。嫌だな、龍馬さんにこんな顔させたくなかったんだ。いつもいつも太陽みたいに笑っていて欲しかった。

白い光に視界が包まれていく。みんなの声が遠くなる。龍馬さんの逞しい腕の感覚が背中から無くなっていく。自分の体温を感じ取れなくなる。やがて光さえ弱まって暗闇が増えていき、その黒さも僕は認識出来なくなった。

夢の続き


パタパタとスリッパの音が聞こえる。カチャリとドアが開いて「翔(かける)起きなよ。今日、奏(そう)と一緒に役場に行くんでしょ?」と姉が言ってドアを開けたままトントンと階下に降りていく。光がさしこんできて僕は目を覚ました。遮光カーテンをロールアップすると太陽が思ったよりも高い。しまった寝過ぎたか。
着替えて階段を降りていくと洗濯機が回る音がした。脱衣所で顔を洗おうとして違和感。あれ? なんで僕、泣いてるんだろう。洗濯機がカチャン、ピーピーと鳴るとキッチンから母さんが歩いてきて洗濯物を干し出す。
「翔? どうしたの、鏡なんてじっと見て。ヒゲでも生えてきた?」
「小4ってヒゲ生えるの?」
「奏太(そうた)くんは生えたみたいよ?」
「嘘ぉー!?」
隣に住む幼馴染みの奏太くんは僕よりちょっと背が高いけど、まさかヒゲまでもう生えてるなんて。お、大人だ! と僕はビビる。
「あら、翔、泣いてたの?」
「うん。なんだろ。僕もわかんなくって」
「怖い夢でも見てたのかしら?」
「……夢」
怖い夢? いや、怖くはなかった。楽しかった。楽しくて、楽しくて、お別れが寂しくて、だから泣いてた。目を覚ましたくなくて。
……母さんに“夢”と言われた一瞬にザザとノイズが入ったように誰かの意識が入り込んだような気がした。僕はつい今しがた何かを考えたはずなのにそれを覚えていない。なんだろ。今の。変だな。でも怖くはない。誰かに入り込まれた気がするのに気持ち悪くはなかった。むしろ焦燥に駆られる。思い出さなきゃ。思い出してあげなきゃいけない、そんなふうに。
玄関ドアがガチャリと開いた。チャイムを鳴らさずに開けるのは奏太くんだけだ。
「翔ー、もう行けるー?」
「今、行くー!」
走ってドアに向かう。今日は奏太くんと役場に行く約束をしていた。夏休みの自由研究に僕たちは自分の家の家系図を作ることにした。父さんたちの研究所にいる研究員に教えてもらったからだ。お祖父ちゃんの戸籍謄本を取って、そのお祖父ちゃんのお祖父ちゃんの戸籍謄本を取る、というのを繰り返してゆく。明治初期から日本は戸籍を作り始めたから、明治時代に入って生きていた自分たちの先祖を調べれば、その父親と母親までは氏名が判る。つまり江戸時代後期に生きていた先祖の名前までは調べられるというのだ。
役場の駐輪場に自転車を止めると、籠に入れていたカバンの紐が引っかかって僕はもたついた。奏太くんが足早に役場建物に向かう。その背中に僕は声をかけた。
「待ってよ、奏音(かなた)くん」
奏太くんが足を止める。僕は追いつく。奏太くんは顎に手をあてて考え事をしていた。あ、この癖は変わってないんだ。ん? 変わってないってなに?
「翔太(しょうた)」
「なに?」
「……やっぱお前もか」
「え?」
「いま、俺、お前のこと翔太って呼んだよな?」
「うん。だって僕の名前、翔太、だ、し……あ、あれ?」
「お前の名前は翔(かける)だ。お前もさっき俺を呼んだ。奏音(かなた)くんって」
さっきまで忘れていた夢が洪水のように脳に流れ込んでくる。夢? あれは本当に夢だった? あんなにリアルなのに? もしかしてこっちが夢なのかな?
だとしたら、此処は何処なんだろう?
「俺が変だと思ってたんだ。なんで俺はあんな夢を何度も見るんだろう。戦争があった世界、平和じゃなかった過去。そんなこと“無かったのに”なんで作ってるんだ? 戦争が“あったことに”してるんだ? 退屈な日常を壊したいのか? 俺はそんなくだらないことであんな酷いことを夢想しているのか。だとしたらとんでもない破壊衝動だし、狂ってる。だから言えなかった、誰にも」
「……僕も、だ。お姉ちゃんと喧嘩したあとに最初の夢を見た。すごい地震で津波が来て、お姉ちゃんが死んじゃう夢。僕は自分が気持ち悪くなった。そんな酷い夢、なんで見たのって、それで」
「今まで、忘れてたんだな?」
「うん」
「思い出せ。確かめに行こう、夢の続きを。もしかしたら、夢じゃないかもしれない」
2人で役場に向かう。住民課窓口で最後の戸籍謄本を手続きして受け取った。この謄本で江戸時代後期の先祖の名前が判る。僕たちはそれを見なきゃならない。役場内にある子ども図書館に入りテーブルの上でA4封筒を開封する。戸籍謄本を広げる。僕の江戸時代後期の先祖の名前が書いてある場所、そこに。
「樋渡奏音。英国より来日。俺の夢の中に出てくる女だ」
「英国ってイギリス? そこから来て樋渡奏音って……」
「江戸時代後期じゃありえないな」
「それってさ、それって」
「もう一つの世界の俺たちが江戸時代後期にタイムスリップした。そこで歴史を変えた。だからこの世界が生まれた、俺たちが今居る場所だ」
「じゃあ、夢じゃなく、て」
「もう一つの現実、かもな」
ニヤリと奏太くんが笑う。その話し方、笑い方、ぜんぜん変わってない。っていうか奏音くん、男の子似合い過ぎだよ。

トンネルの中を抜けたような轟音がした。耳鳴りがしばらく続く。視界にもやがかかっている。僕を呼ぶ声がする。大切な、大好きな人の声。
「翔太! 翔太!」
髪をわしゃわしゃと撫でられる。龍馬さんが泣いている。その場は混乱していた。奏音くんが叫んでる。「わかりません」って。腕が消えてない、透けてないって皆が言ってる。それってさ、それってつまり。
「奏音くん! すごい! すごいよ! 未来が変わってる!」
僕が声をかけると奏音くんが頭をおさえた。一瞬だけど意識が飛んでいるのが判る。きっといまの瞬間に奏音くんも僕と同じようにもう一つの世界にリンクしたんだ。
「翔太、わしにも判るように説明しちょくれ。消えなくて済むんかえ?」
「はい。ずっと、ここに居れます」
ギュッと力強く龍馬さんが抱きしめてくれた。気持ちいいな。硬くて大きくて広くて温かい。
そのあとにイタズラ好きの奏音くんのせいで僕は酷い目に合うのだけど。

それでも幸せで楽しくてたまらない。

これからはずっと一緒に夢を見ていける。大切で大好きな貴方達と一緒に。叶えたい夢の為に同じ道を歩いて行けるんだ。

世界を創る


スーツを纏った議員たちが赤絨毯のひかれた階段に並んでいる。龍馬さんは中央の一番前に立っている。初代内閣総理大臣だからだ。緊張で頬が歪んでいる。可愛いな。僕と奏音くんは内閣には入らないから離れた場所に立ってそれを眺めていた。
「いい眺めだな」
「うん」
徳川慶喜さんも高杉晋作さんも会津公も組閣された内閣。これから理想の国を創っていく為にはすごく良いメンバーだ。
「俺たちが1度消えかけたということはさ。神様は歴史を1本にしようとしたってことだよな」
「そうだね」
戦争のあった僕たちの世界を無くして、僕たちは未来から“来なかった”ことにして、徳川慶喜さんや高杉晋作さんたちこの時代の人達が選んだ未来が今の流れになるようにしようとしていたように思う。そう感じていた。
「けどもうひと組の俺たちが居た、俺たちはここに残っている。あの世界の俺たちは別人だ」
「奏音くん、男の子になってたもんね」
「な? びっくりした。面白かったけど」
「アハハ、うん。面白かったね。似合い過ぎだし」
「まぁ。無理が生じすぎるからだろうな。1本にするよりは俺たちの世界は残したまま戦争が無くなった新たな世界を枝分かれして創るほうにシフトチェンジしたってとこか」
「僕たちの居た世界は僕たちがタイムスリップした時点で止めたのかな」
「そうじゃないか? 同時に管理するのは大変だろ。最初は1本化しようとしてたくらいだし。わかんないけどな。からくりなんて」
「僕たちの居た世界の戦争を無くせたわけじゃないんだね……」
「うん。たぶん、な」
複雑な気分だ。戦争を無くす為に懸命に動いていたのに。僕たちが消えないということは僕たちの居た世界は僕たちが居た時点まではあることになる。
「大きな不幸があったから“無くしたい”って願いが強くなったと思うしかないのかもな」
「……そうだね」
もうひとつの世界では無くせた。それは“変えたい”と強く願うきっかけがあったから。哀しいけれど、確かにそうなのかもしれない。
「震災のときさ」
「うん」
奏音くんが、空を見上げる。桜が舞っていた。
「神様なんて絶対いないと思った。居るわけないって。なんでこんなヒドイことすんだよって」
「うん。僕も思った」
「でもさ。俺、考えたんだ。創った奴ってさ、細かいことに手出せないんだよな。コンピュータのプログラミングがそうだろ? 仮想世界のゲームを創るじゃん。けどバグが出るよな、不具合も出る。自分の創ったプログラミングなのにウイルスにやられたり壊されたりするんだ。それは技術が進歩して複雑なものを創れるようになるのに比例して顕著になってく。科学技術が発達して、昔だったら考えられないものを創れるようになった。生命すら。知的生命体みたいなアンドロイドさえそのうち創るようになる、人間は。神の領域に近づいて、知れたような気がしないか。神様は創った世界にもしかしたら手出しできないんじゃないのか? ってさ」
「手を加えたり改良したり、どこかを修繕することは出来ても」
「変えたいのに変えられないものはあるのかもしれない」
「本当は戦争も無くしたいのかな、完全に」
「それで試行錯誤してんのかもな」
「未来人をタイムスリップさせてみたり?」
「ははっ、うん。実験してんだ。坂本龍馬が殺されないようにしてみたらどうなるかな? って。で、何度目かのトライで成功した。俺たちで」
想像する。神様が地球を眺めながら理想の世界を創る夢を見る。いろいろなプログラミングを何度も組んで組み直して修正して自分の理想に近づけようとしてる。そうして世界を“再生”してる。
「悲劇は新たな悲劇を作る。戦争は新しい戦争を生み出す。俺たちは元居た世界の戦争は無くせなかったかもしれないけど、枝分かれで戦争の無い未来を作れたなら、そのまた未来に生み出される戦争の数は減らせたよな? 少しずつ無くしていったら、いつか無くなるかな?」
「無くしたいね」
「翔太。俺たち喜んじゃダメかな?」
「喜ぶ?」
「消えなかったこと。まだみんなと生きて行けること。それと」
奏音くんがポタポタと涙を落とす。泣き虫だなぁ。女の子だからいいけどさ。
「俺たちの居た世界が止まったのなら。父さんと母さんたちは万宙ちゃんを亡くしたあとに俺たちまで失った未来は歩まなくて済む。そして新しい世界に居る別な俺たちと歳を重ねて長く生きて行ける。世界が止まって哀しむ人も居るかもしれないのに。俺、それが嬉しくて。喜んじゃいそうになるんだよ」
奏音くんに言われるまで、僕はそのことに思い至ってなかった。龍馬さんたちとお別れになるかもしれない、消えるかもしれないって時に何度も考えてた。僕たちが居なくなったあと、父さんと母さんたちはどうなってるだろうって。母さん、またご飯食べられなくなったらどうしようって。
「俺たちは、もう家族には会えないけど。父さんと母さんたちは新しい世界で、もう一人の俺たちと笑って生きて行ける。俺、それが嬉しくてどうしようもないんだ。傲慢だよな、ヒドイよな。自分勝手にもほどがあるだろ。でも、喜んじゃいそうになるんだよ」
自分の頬を涙がつたっていくのが判った。奏音くんが泣きながら僕の瞼にふれて笑う。
「お前が泣くの見たの幼稚園の時以来だ」
「……奏音くん」
「うん?」
「どうしよう。僕も、僕も嬉しい。そっか。良かった。父さんと母さん、た、ち、は、ふっ、う、うぅぅ」
「ははっ、久々なのに号泣かよ」
「だっ、て、だっ、てさ」
「共犯だな。喜んでゴメンって世界に謝らなきゃ」
奏音くんが僕の頭を抱き寄せて髪を撫でてくれた。僕は奏音くんの背中をギュッとして泣き続けた。
写真を撮り終わったあとこっちに走ってきた高杉晋作さんに後頭部を殴られるまで、ずっと。

星に願いを


大理石の床がヒールの音でコツコツ、カツンカツンと鳴らされた。クラッシック音楽が蓄音機で流され、スーツ姿の議員たちがホール内のそこかしこに散らばって談笑している。外国から要人を招き入れ社交パーティーをする為に新たに建築された建物だ。そこで僕たちは社交パーティの予行練習をしている。
藍屋さんが頬をヒクヒクと強ばらせ、腕も足もギクシャクと不自然に動かしているのを遠目に見つつ横でおかしくてたまらないという顔で今にも吹き出しそうになってるのを我慢している慶喜さんが居る。
「秋斉にも、苦手なも、のがあったん、フフ、だねぇ、ぷ、ククク」
「楽しそうなわりには笑うの堪えてるんですね」
「秋斉はあんな状態でもこっちの様子は見てるからね。指さして笑ってたなんて知られたらあとで何されるかわかったもんじゃないよ」
どんな状態であれ指さして笑われたら、普通、人は怒ると思う。藍屋さんが意地悪いのは慶喜さんがふざけ過ぎてるのにも原因があるんじゃないのかな、と僕はこっそり思った。
「奏音はん。お願いやから、もう堪忍して」
藍屋さんが困り果てて懇願するのを奏音くんは厳しい表情でたしなめた。
「ダメです。議員は社交界に慣れなきゃいけないんですよ。藍屋さんは舞踊も琴も達者でしょう。リズム感や音感はあるんだから社交ダンスが出来ないわけないんです」
「……なんつう鈍いお人や」
うん。奏音くんはちょっと無自覚なところありますね。心中お察しします。
僕たちが作り替えた日本は海上防衛を強化する為、鎖国は続けていくことになっているが、貿易や外交は行うし、手続きをきちんと踏めば外国人の入国も受け入れるようにしている。その為に議員の人達には、奏音くんと僕と伊藤博文さんで手分けして英語を教え込んでいる。その他にテーブルマナーや海外情勢なども教えていて、社交ダンスもその一環だ。外国から要人を迎え入れた時にレディーファーストやエスコートなども覚えておいてもらわないとならない。藍屋さんは英語やテーブルマナーなんかはもともと学問に秀でていたのもあってすぐに覚えたが、社交ダンスだけは苦戦していた。それは奏音くんが練習相手で奏音くんが本番さながらにコルセットをつけて胸元のがっつりあいたイブニングドレスを着て「もっと腰をちゃんと抱いて密着させてください」とかひどいことを言うからなんだけど、奏音くんはそれに全く気づいていない。
おそらく奏音くんは、まさか遊郭を経営していた楼主の藍屋さんが“肌の露出”に弱いなんて予想もしてない。藍屋さんはそういう弱味を人に言えないし、ずっと感情を表情に出さない訓練をしてきた人だから赤面もしないしオタオタもしない。ただギクシャクしてるので、知らない人にはダンスが苦手なだけなように見えるのだ。
「高杉はん、替わってくれまへんか」
奏音くんの腰を抱かれるのが嫌で「古高殿の相手だけはするな! あいつにくっつくと子どもが宿る」と怒鳴って古高さんに苦笑いされていた高杉さんに藍屋さんは助けを求めた。
高杉さんは壁際に背中を預け、チーズを物珍しそうに眺めてから、フッと笑って食べていたところだった。声をかけられると奏音くんと同じように厳しく対応する。
「断る。藍屋殿、なんだそのへっぴり腰は。それでは異国のレディーに失礼であろう。日本の為に頑張ることだな」
真顔で説教たれてるけど、絶対この人、内心で大爆笑してるよ。意地悪いなぁと思っていると「いいなぁ。俺もあのくらい顔に出さずに秋斉をイジメられるようになりたいなぁ」と慶喜さんが羨望の眼差しを向けていた。
「結城はん。もっかいステップ教えたってー」
奏音くんと一番仲良しな藍屋の元遊女、花里ちゃんが僕の元へ小走りしてくる。
「花里ちゃん、その前にそれは下駄の時の歩き方だし、ドレスで走っちゃダメ」
「あー、せやった。奏音はんにもよう言われるんよ。慣れへんなぁ」
他の議員たちの練習相手として藍屋百貨店のデパートガールたちがドレスを着て参加してくれている。奥のほうのテーブルでワイングラスを片手に古高さんが立っていた。もうすっかり普通に歩けるようになって顔の傷もほとんど取れている古高さんは沢山の藍屋の女性たちに囲まれてダンスの練習相手をせがまれていた。なんか欧州の王子様みたいに様になってるなぁ。
一番簡単なステップ、というか僕も奏音くんも社交ダンスは体育の授業で一度習っただけだからそれしか知らないのだけど、を教えているとホール入口のほうから土方さんと沖田総司さんが並んで歩いてきた。
「近藤はんは来ぉへんの?」
花里ちゃんを見つけて満面の笑顔で近づいてきた沖田さんに花里ちゃんは開口一番でそう聞いて、沖田さんがふにゃっと顔を歪ませた。土方さんが呆れたようにそれを睨んでいる。僕は少し嬉しくなる。女性が強いのはいいことだ。それはその国が民主的で平和な証だから。
「まぁええわ。沖田はん、わてと踊ろう?」
「え。お、踊る!? 私、そんなのしたことないですよ!?」
赤面してブンブンと手のひらも顔も横に振る。藍屋さんもこれの半分くらい照れを表面に出せたら少なくとも奏音くんは察して対応策を考えてくれるんだろうけど。
「わてが教えたるさかい、はよしい」
花里ちゃんが沖田さんの腕を取って「ここに手おいて」と腰を抱かせると「うわぁぁぁっ!?」と泣きそうな声を出してたけど抵抗は出来てなかった。男の本能なんてそんなものだ。
「俺たちは国防軍の軍人なんだから覚える必要ないんじゃねーのか?」
土方さんが腕を組んで眉間に皺を寄せて僕に聞いてくる。代わりに高杉さんが応えた。
「そうでもない。軍関係の要人には自軍の高官を対応させるのが通例らしいからな。下官には必要無いが、貴君らには社交スキルも必要だ」
「そうですか。外務大臣様がおっしゃるなら勉強しなくてはなりませんね」
「……その言葉遣いやめてくれないか、痒くなる」
「いえ。立場が違いますので。崩せません」
「……土方くん、真面目過ぎでしょ」
「お言葉ですが、慶喜様が不真面目過ぎるのだと思います」
「なんか、俺にだけ態度違くないっ!?」
抗議する慶喜さんからふいっと目を反らす土方さんを見て高杉さんがクックッと笑っている。すごいな。こんな光景が見れる日が来るなんて思ってなかった。
僕はその場から外れてホール内を歩いた。立食パーティーの形式で、内閣会議の時とは違い、それぞれ思い思いの色やデザインの洒落たスーツ姿の議員や秘書たちが歓談したり食べたり飲んだり踊ったりしている。龍馬さんは何処に居るんだろう?

なんとなくそこに居るような気がして、テラスへと向かう。アーチ型に作られたテラスの白い柵に肘を置いて龍馬さんは夜空を眺めていた。
「龍馬さんは空を見るのが好きなんですか?」
よく空を見上げていたなぁと思い出してそう声をかける。
「いんや。お天道様を見るのが好きじゃった。己の道に迷うた時はお天道様を眺めて鼓舞してたぜよ。星をよく見るようになったんはおまんに会ってからじゃな」
「僕に? ですか」
星と僕に何の関係があるのかな? 疑問に思いながら隣に並んで僕も空を見る。
「おまんは優秀じゃ。ならばおまんの父様も優秀じゃろう。きっと未来に居たままならおまんも奏音も宇宙にだって翔べたんじゃろうな。わしはお天道様を見てるとき毎度のように願っとったんよ。どうか導きをと。どうしたら日本はよくなるか教えてたもれと。慶喜さんは奏音を天からの使いと喩えて笑われちょったがわしは可笑しいとは思わんのじゃ。おまんら2人はほんに天からの使いじゃとわしも思う。わしらが願って、おまんらを呼び寄せてしまったんじゃないかとの。おまんらを故郷から引き離してしまったんじゃないかとの。そう思っとる」
「龍馬さん、あれ。流れ星ですよ」
「お? おー、まっこと綺麗じゃの」
「流れ星に3回願い事を唱えると叶うって言われてるんですよ」
「あの星は何処に行くんかの?」
「地球に降りてきます」
「なんと!? だ、大丈夫なんか? 星は遠くにある太陽なんじゃろ!?」
「落ちてくるあいだにすごく小さくなりますから大丈夫です。それでも拳大くらいはありますから頭に直撃したら危ないですけど。当たる可能性はものすごく低いです」
「ほうか」
龍馬さんが僕の頭に手を伸ばしてくる。フワリフワリと髪を撫でた。
「まるで翔太のようじゃ。キラキラ輝いてフワーっと線を引いて。空から降ってきて。わしの願い事をたくさん叶えてくれた。わしにとっては良いことづくめじゃ。けんど、おまんには。おまんにとっては」
「僕は何も後悔してません。此処に飛ばされてきたこと。龍馬さんに会えたこと。家族や友人と離れたことは寂しいです。でも龍馬さんに会えたのは嬉しい。すごく嬉しいんです。だから龍馬さんが後悔しないでほしい。僕に会えたこと、龍馬さんもそのまま喜んでくれませんか? それに」
頭に置かれた龍馬さんの手に自分の手を重ねる。
「これからも貴方の願いなら全力で叶えます」
龍馬さんが顔をくしゃっとさせて泣き出す。まったく。奏音くんといい龍馬さんといい僕の母さんといい、どうして僕の大事な人は泣き虫なんだろうね。
泣かないで。僕が護るから。頑張るから。龍馬さん、貴方が僕を星に喩えるなら、僕が貴方に願うことは。

どうか、星に願いを。

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続きのBLシーンの入った後日譚を「濡ぼ〜い」で書いています。BLが平気な方はそちらもご覧になってください。

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Amebaゲーム艶が〜るのパラレル設定小説の更にスピンオフで三次創作的な作品です。翔太くん×龍馬さんな内容になっています。

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-12

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. 導くひと
  2. 想定外の出逢い
  3. 手掛かり
  4. ひとりぼっち
  5. 定まらぬ想い
  6. 再会
  7. 学ぶものたち
  8. 道よ拓け
  9. 風のように
  10. 想いは募る
  11. 旅立ち
  12. 反発を隠せない
  13. 仮想敵国
  14. 未来を引き寄せる心
  15. 月夜の告白
  16. 遊撃戦
  17. 命の数
  18. 素晴らしい世界
  19. 陽の差すほうへ
  20. 船底での焦燥
  21. 想いは曲げない
  22. 郷愁
  23. 拡散
  24. 道標
  25. 矛盾を越えて
  26. 別れの挨拶
  27. ずっと一緒に
  28. 夢の続き
  29. 世界を創る
  30. 星に願いを