スクブスの安逸(稗貫依)
スクブス【succubus】
睡眠中の男性の夢に現れ、交わりを持つとされる女性型の悪魔。
ラテン語の「下に横たわる」(sub-cubo > succubo)に由来する。
あなたが来る日は何となく分かるの、と少女は陰りがちな微笑みを浮かべながら呟く。夜は深く、赤々と暖炉が爆ぜていた。そこに掲げられた鉄製の瓶から温めた牛乳を注いで、卓上の蜂蜜を溶かしながら少女は鼻歌に興じている。
「寒くないかしら? そんな綺麗な薄絹だと」
「別に。これでも少しは厚着のつもりなんだけど」
「それが厚着。そうなの。ええ、あなたは夢魔だものね。私はこんなに着込んでいるのに、今にも凍えそうで堪らないんだから」
引き上げた匙の先を舐めながら、少女は恨めしそうに両の眉根を寄せる。少し着膨れしているようにも見える厚手の寝間着の上に、純白のケープを羽織った姿。それでも確かにその頬には生気がなす以上の赤みが差しているとも言えず、細い指先は僅かな温もりをこいねがうように小さく震えていた。
私は寝台に座ってその様子を眺めていた。寝具はかなり上等な物だった。室内の他の調度から推し量られる家計の状況と比べると、分不相応と言ってもよいかもしれない。ほのかに湯気の立つカップを両手に持って、少女がもの静かな足取りで歩み寄ってくる。そう して片方を無言で私に手渡すと、自分は残ったもう片方を慈しむように包み込んで、私のすぐ隣に腰を下ろした。それは丁度、互いの服が擦れ合い、髪が触れ合わぬほどの距離。
「で、ここ数日はめっきり寒くなったでしょう。あなたが来るのがこれで二週間ぶりくらい? 一体どこで何をしていたのか知らないけれど、まあそれはどうでもいいわ」
「一応この町にはいたんだけどね。人が多い町だから」
「どうでもいいって言ったじゃない。大事なのは寒くなって、もうすぐ真冬がやってくるってことよ。こんなに陰鬱な季節があるかしら。雪が積もったらちょっと出歩くだけでも一苦労だし、夜はますます長くなるし、暖炉も今よりずっと燃さないと生きてゆかれなくなるのよ。本当に陰鬱だと思わない?」
返事を待たず、少女はカップを口元に運んで一舐めした。小さな喉が上下して、いささか熱気を帯びた吐息が漏れる。
「確かに寒くなったみたいね。みんな厚着になったし」
「ええ。見たでしょう。この町の厚着っていったら、みんな揃いも揃って馬鹿みたいに野暮ったくて。鹿色、苔色、雨雲色」
「どんな色だったらいいの? 薔薇色とか?」
「さすがにそこまで子供じゃないわ。だけどそうね、せめて気分が明るくなるように空色とか山吹色とか、せめてそれくらいの外套はあってもいいと思うの」
そこでカップから視線を上げて、少女は私の胸元をまじまじと見つめた。膨らんだ琥珀の瞳が風船のように揺れる。
「例えば、今のあなたの服みたいな」
私は両手でマグカップの温度を感じようとした。
それから自分の肢体をくるむ、少女が言うところの厚着とは言えない程度の綺麗な薄絹を視覚しようとしてみる。
「ねえ、私はどんな服を着ているように見える?」
私の問いかけに、少女は怪訝そうに小首を傾げた。
というのも私の存在は夢魔というものに分類される。
夢魔には決まった容姿がない。自分を見た相手の、考えうる最も魅力的な姿としてその目に映るらしい。私にはそれを確かめる術がない。自分で自分の肢体を眺め回すことはできるし、鏡やガラスを使うことだってできる。だけどそういう場合に私は大体同じような格好をしていたし、それすら時間と共に少しずつ変わっていく。
もっとも自分の容姿について思案するのは、大半の状況において無意味で無益だった。食事のときにこちらの容姿に言及する男なんて滅多にいなかったし、いたとしても通り一遍の美辞麗句を並べて済ます連中が殆どだった。相手の最も魅力的な姿に映るのだから、これ見よがしな誘惑を謀らなくてもまず事は運ぶ。同じ男を何度も狙うのは楽と言えば楽なものの、親密に思われても面倒だし、何より教会の犬どもに露見する危険が増してしまう。
私の目の前で、鹿色の分厚い寝間着を着込んで純白のケープを羽織っているこの少女。私が自覚的に何度も会いに来る唯一の人間。なぜか私にこの上なく懐いている。もしこの存在がなければ、私が自分の容姿を気にする必要は終生なかったに違いない。
「見えるも何も、綺麗な薄絹のドレスじゃない。晴れた空の爽やかさと凪いだ湖の静けさを足し合わせたような淡い青色。ねえ、そんなにふっくらとしたスカートなんて着せてもらったことないわよ。悔しいけれど本当によく似合ってる。どこで手に入れたの?」
少女は栗色の髪に包まれた頬をかすかに紅潮させて、これまでになく早口になって答える。私の顔に苦笑が漏れた。
「どこで手に入れた、という訳ではないのよね」
「つまり魔法みたいなもの? 頭の中で自分の着たい服を思い描いて、昔の言葉で何かの呪文を唱えたら服が変わる、みたいな」
「そうでもないの。特に呪文の類は必要じゃなくて。私自身にも、まあよく分かってはいないのだけれど」
願えば願った通りに変わる、というのはその通りだった。領主の城に出入りする娘たちのように煌びやかな衣装を纏うこともできれば、職人連中の入り浸る酒場を切り盛りしている女将のように質素な服を着込むこともできた。以前に南方の都市で何度か見た異域の夫人を模して、肌の色、髪の色まで変えることも難しくはない。
それがどういう理屈なのかは分からないし、知ることができるとも思わない。ただそうして姿形を定めないのも落ち着かないので、普段は多少の意趣返しも込めて旅の修道女風の身なりをすることにしている。勿論、自分にはそう見えるというだけの話だ。
「でも自分で好きな服が着られるんでしょう? 見るも素敵な騎士様や王子様との恋物語も思いのままだし。よくよく考えると、夢魔って結構おいしい立ち位置じゃない?」
果たしてそうだろうか、と自問する。そういう高貴な連中を狙うときだって、別に恋文の往復や闇夜の逢瀬を重ねて愛を育む訳でもない。私の前にあるのは所詮、恋物語なんていう甘美な代物からはかけ離れた、ある意味で純粋な欲望の噴出と衝突に過ぎなかった。
「あなたが思っている程、いい商売でもないわ」
「嘘でしょう。少なくとも私の毎日と比べたらよっぽどましなはずよ。何の取り柄もない普通の町娘。明日も朝からお店の手伝いだの花嫁修業だのに勤しんで」
興奮気味にまくし立て始めた少女は、ふと言いさして虚を衝かれたような表情をした。暫く視線を泳がせてから怪訝そうに口を引き結び、カップを持った右手に膝の上で軽く左手を添える。
「ええ、私は何の取り柄もない普通の町娘。実は片親が高貴なお方のご落胤だとも、自分が何か、例えば魔法が使えるとか、そういう特別な存在だとも聞いたことがない。だというのに一体どうして、あなたは何度も私のところに来てくれるの?」
暖炉の火が爆ぜている。窓の外は暗い。机の上、鉄瓶の横に置かれたランプが部屋をほの明るく照らしている。ベッドに並んで座った少女は、軽くたわんだ糸のような沈黙でもって私の返答をさして気負わず待ち望んでいる。
私はカップの牛乳に口を付けた。かすかに甘い。冷め切ってはいなくて、舌先で、喉の奥で、体になじんでいく温度。
「ここは何となく、落ち着くの」
カップを持ったままで少女の方に振り向く。
「仕事のことを考えなくていい。自分の存在を取り繕う必要もないし、それで受け入れてくれる相手がいる」
言葉の途中から少女がわずかに頬を緩めていくのが見えた。その変化に私は敢えて反応しない。
「あなたこそ、どうして私を拒まないのかしらね? 曲りなりにも夢魔の一人、恋する乙女に仇なす存在のはずなのに」
意地悪かもしれないと思いつつ問う。こう問うても許されるだろうという確信はあった。案の定、少女は問いを受けて開いた左手を頬に当てこそしたものの、こちらを咎めるような素振りは全く見せない。やがて少女は躊躇いがちに口を開く。
「ええと、あなたを見ているとね、何だか私に生き別れの姉さんがいて、その人と一緒にいるような気がするの。落ち着く、というのとは違うんだけれど、安心するというか、だけどもっと知りたいというか。とにかく悪い気は全くしないのよ」
まだ中身の残っているカップを、私はベッドの棚に置いた。
体が離れているのに体温が伝わるような錯覚。それはとても幸福なものなのだと思えた。そうして心の底から微笑みを浮かべる。
「それは不思議なことね」
「あら、そうでもないと思うわ」
不意に少女は身を乗り出すと、左手をゆっくり差し伸ばして私の横顔に触れようとした。その動きは私の髪が彼女の無礼を容れようと道を譲ったところで止まり、かわって彼女はその丸く澄んだ両の瞳で正面から私を覗き込んだのだった。
「だってほら、あなたのこの栗色の髪も、琥珀色の瞳も」
薄桃色の唇をゆらめかしながら、少女は言葉を紡ぐ。
「本当に、私とそっくり」
スクブスの安逸(稗貫依)
「何事にも理由はあるのです。例えそれが優しさであっても、愛情であっても」