ネズミ算

たぶん怖い話


 ひょんなことからねずみを飼うことになった。ハムスターではない。白くて小さな二十日鼠である。
 始まりは去年の三月だ。私の男友達から電話があった。
「なあ、ねずみ見たくね?」
「見たい」
 たしかこんな会話をした。彼はフクロウを飼っており、そのエサとしてねずみを繁殖させていたのだ。
 家に行ってみると、薄暗い部屋の天井の宿り木にとまってフクロウがうたた寝している。どうにも、いつ行っても見慣れない光景だ。
 彼の部屋には、部屋を囲むように水槽が並べられており、その中でねずみが走り回っている。においが酷いが、ねずみ自体は白くて可愛らしい。
「たくさんいるからさ、やるよ。一匹じゃかわいそうだから、二匹な」
「えー。でも、すぐ増えるでしょ」
「増えないようにメス、メスにして飼えばええよ。エサもそんなにかからないし、フンの世話だけすればいいから簡単だって。すぐ死ぬし」
 男友達はそう言って、水槽の蓋を開けてねずみを引っ張り出す。肌色のしっぽを掴み、二匹逆さずりにしてニヤリと笑うやつの顔が一瞬悪魔のように見えたが、さすがに気のせいだったのだろう。
「ふうん。じゃあ、まあ、そういうことなら」
 私は安請け合いをするのが癖なのだ。


どういうことや


 二十センチ四方くらいの小さな水槽と、床に敷くチップをもらい、私はねずみどもを家に連れて帰った。夫に見せると、動物好きの夫は相談せずに決めたことを責めつつも、彼らを歓迎した。
「小さいんやなあ」
「人間の残飯もけっこう食べるらしいよ」
「かわええなあ」
 人間の残飯も与え、ペットショップで買ったクルミも与えていたため、一週間もたったころにはねずみは丸々と太っていた。ハムスターのようにまん丸で実に可愛らしい。
 どうやらねずみは夜行性らしく、夜はがさがさとうるさい。最初は寝室においていたのだが、耐えかねて台所のすみにおいた。
 ある日の夜、私が水を飲もうと台所に行くと、何か異様な泣き声がする。普段のねずみの声ではない。はて、寒さで病気にでもなったのかと水槽をのぞくと、ソーセージのような色の『何か』が、なんだかぬるぬるしたものに包まれている。なんだこれは。フンか? 電気をつけて目をこらすと、生皮をはがれたようなピンク色の小さいねずみがうねうねと動いている。
 なんだ、こいつ!?
 一瞬で脳が状況を判断した。あの野郎メス、メスとか言いやがって、メス、オスじゃねえか! 丸々と太っていたんじゃない、妊娠していたのだ!
 数えてみると、なんと六匹もいる。子ねずみたちは軟体動物を思わせるようなねっちょりした動きで母ねずみの乳を探っている。
 あわてて夫を叩き起こして現状を見せた。
「どうしようよー」
「どうしようとちゃうやろ、お前。ひと月もせんうちに四倍になるってどういうことや」
 どういうこともこういうこともないのだ。
 母ねずみはかいがいしく乳をやり、ときおり乳からあぶれた子を気にして足で乳に近付けたりしている。畜生といえど母の心には違いないのだ。
「まあ、もうちょっと大きくなってからメス、オスとわけるしかないやろ」
 夫の提案に私もうなずいた。


おぞましい


「ちょっと! あのねずみ子ども産んだで! なんでやー」
「おおー。そりゃめでたい」
「メス、メスじゃなかったんか!」
「いやあ。メスとオスわかりにくいんやよなー、ねずみって」
 男友達はそう言ってあっさり電話を切った。なんというやつだ。
 水槽を見てみると、一週間たって子ねずみには親と同じような白い毛が生えてきている。大きさは親ねずみの半分くらいか。ちょこちょこと動き、可愛い。
 ねずみたちの子育てはかなりかいがいしい。どうやらオスも育児に参加しているようである。メスが乳を飲ませると、オスが体をなめてやっていたりする。
 夫がねずみのためにプラスチックを組み立てて小さなハウスをつくった。そのあと、ペットショップで六十センチ四方くらいの大きな水槽を飼ってやり、チップをまいて、回し車までおいてやった。これでかなり快適になっただろう。
「可愛いねー」
「かわええなあ」
 メスねずみはハウスにこもって子ねずみたちの乳やりに追われているようだ。
 オスはハウスの外で、子ねずみの体をなめている。微笑ましい。
 と思ったら、なぜか子ねずみが悲鳴のような声をあげている。注意深く見ていると、なんとオスが子ねずみのケツを追っかけまわしているのだ。こんなに小さい我が子のあとを追いかけまわし、捕まえようとしている。なんというおぞましさ。
 あわててオスを捕まえ、小さいほうの水槽に入れてやった。オスは突然のことにびっくりしたのか、水槽のすみでぶるぶる震えている。
 少しかわいそうなことをしたかもしれない。二時間ほどそのままにして反省させ、また水槽に戻してやった。
 するとまた、自分の半分ほどしかない子ねずみのケツを追いかけまわし、あろうことか上にのしかかって交尾をしようとする。なんだこいつは。近親相姦のタブーがないのか。まだ目も開いていない幼児だぞ。しかもメスとオスの区別もついているようには思えない。誰でもいいんじゃないか。
 こんなおぞましい行為は許さない。私はオスねずみを摘み上げ、小さい水槽に放り込んだ。
 どうやらねずみは十日もすれば目が開き、大人と似たような感じになるらしい。乳ではなくペットショップで飼ったクルミを食べる。
 すると、開眼したオスたちがまだ開眼していない子ねずみの上に乗っかる。どうやら交尾をしようというのだ。おいおい、ついこのあいだまで乳を飲んでいたんだぞ、お前らは。
 メス子ねずみたちは悲鳴をあげて逃げようとする。そこを逃がさないように捕まえ、後ろから上に乗っかってマウントしようとするのだ。見れば二匹がかりで乗っかろうとしているやつらまでいる。
 とりあえずメスに乗ろうとしていたオス子ねずみを三匹ほど捕まえ、親オスと一緒に小さい水槽に入れてやる。キーキー鳴いていたがかまうものか。これでオスとメスが分離できてよかっただろう。
 ほっとして大きい水槽を見ると、メスが丸まると太っている。オスねずみのやつ、子どもたちをレイプするのと同時に妻を妊娠させていたのだ。本能であるとはわかっているが、なんてやつだ。


阿鼻叫喚


「ボコボコ、ボコボコ子ども産むし。もうオスとメスわけようと思ったけど無理やー!」
「二十日鼠って、ほんまに二十日で子ども産むからなー。あははは」
 男友達はまったくあてにならない。
 あれからメスねずみはまた六匹子どもを産んだ。これで総勢十四匹である。
「このままやと、二か月もしたらこの水槽がねずみでびっしりになるんと違うか」
 夫の一言である。私は水槽がねずみで埋め尽くされているところを想像した。臭そうだ。今でもフンの片付けが大変なのに。
 しかもおぞましいことに、産まれて二カ月弱にしかならない子ねずみたちが何匹か妊娠しているようである。父親は兄弟だ。ついこのあいだまでピンク色でぴーぴー鳴いていたくせに、もう親になるのだ。
 何匹かオスねずみたちを小さい水槽のほうに移したが、どうやら一匹メスが混じっていたようで、父親か兄弟の子どもを身ごもることになってしまった。
 大きくなったらメスとオスをわけよう、と言ったが、見事に失敗。というよりも、大きくなると同時に妊娠するのだからわけようがない。
 二十日後。夜中に水槽を見ると目を疑うような光景が広がっていた。メスねずみたちが一斉に子どもを産んだのである。床を埋め尽くすピンク色の生き物。数えるのもうんざりしたが、数えてみるとなんと十七匹。メスねずみは一回で四?六匹産むのだ。
 もはや親でさえ誰がどこの子がわからないようである。分け隔てなく乳をやり、世話をしている。
 夫はもう「可愛い」とは言わなくなった。辛いのは臭いである。フンとねずみの臭さは強力で、とても台所にはおいておけない。仕方なく洗面所においたが、異様な臭いが家中に漂い、服や髪にまで染み込んでくる始末。
 一日でもチップの交換をさぼるとおびただしい量のフンが水槽を覆い尽くすことになる。ねずみの体にも糞尿がこびりついて不衛生極まりない。何かの病気に感染しそうだ。毎日チップをかえるのは大変な労力である。
 エサも大変だ。食パンを一枚水槽の中におとすと、わらわらとねずみがよってきてものの一分できれいになくなってしまう。まるで牛に群がるピラニアのようである。
「ねずみの水槽をガムテープで縛って、井戸川に沈める」
 夫のコメントである。真夜中にガサガサ、ゴソゴソ。眠れない。臭いも異様。いつもにこやかな夫も我慢の限界にきているようだ。
 井戸川に沈めるのはなんとか思いとどまってもらって、現在わかっている限りでオスとメスを分離させた。すると、必ずオスのほうに一匹はメスが混じっていて妊娠してしまう。
 大きいほうの水槽では、休むことなく兄妹たちがぼこぼこと交尾している。どうやらオスのほうが成長が早いらしく、まだ幼いメス子ねずみを襲って妊娠させているのだ。
 しかもねずみにはタイプというものがないらしく、身近にいるメスなら誰かれかまわず乗っかって腰をふりだす。交尾を始めると、より大きなオスがやってきて、メスを引っ張って奪う。するとまたより大きなオスがやってくる。
「まわしまわされまるで風車?」
私は歌いながら水槽の前に座った。キーキー鳴いているメスが哀れで、不届きなオスを追っ払ってやろうとしたところ、手を噛まれた。
 痛みで思わず手を振り払うと、オスは水槽に叩きつけられて気絶してしまった。いい気味である。
 気絶したオスねずみを持ち上げて、ベランダにおき、上から京極夏彦の本を落とした。ぐちゅっと妙な音がして、ねずみが潰れた。本を持ち上げてみると、ねずみの白い毛に血がつき、腹から赤いものが見えている。肋骨が腹を突き破ったのだ。目が飛びだしそうなほど前にせり出し、体全体が平べったくなっている。
 自分の中にこんな残虐な部分があったとは。もともと私はこんな小さな生き物をいじめて喜ぶたちだったのだろうか? 今までは理性でそれを抑圧していただけだったのか。
 ねずみを殺したことに後悔も罪悪感も何も感じない。ねずみのしっぽを持ち、大きい水槽に投げ入れてみると、わらわらとねずみが寄ってくる。食っているのだ。中には親であるメスねずみもいる。あんなにかいがいしく乳をやったというのに、死んでしまえばただの肉なのか?
 妊娠している子たちは、他の子ねずみたちを押しのけて肉を貪る。内臓を引きずり出して食べ始める。耳をかじり、その固い前歯で骨まで食べるのである。まさに阿鼻叫喚の極み。やつらには本能だけで、モラルというものがないらしい。


ブチ切れ


 普段温厚な人間がキレたときほど怖いものはない。
「もう無理や。あいつらの増殖はとどまることを知らない。今何匹いるか数えたことあるか?」
「さあ……私はもう、日々の世話でいっぱいいっぱいで」
「三十匹や! 三十匹! ネズミ算式とはこのことや! このままやとお前、地球がねずみでいっぱいになるぞ!」
「いや、それは……」
「この前なんかお前、あいつら産まれたばっかりの子どもを食っとったんやぞ。共食いや」
 どうやらエサが足りていないらしい。ペットショップのクルミを、やつらは一日で一袋食ってしまうのである。人間の残飯も食べさせてはいるが、我が家は夫婦二人だけなのでなかなか残飯が出ないのだ。
 それにしても、ねずみを飼っていくにしたがって自分が残酷になっていく。小さな水槽にいる、小さな生物を掌握している気になってくる。これが人間の持つ残虐性というやつなのか。まるで神にでもなったような、一種の征服欲である。
「あ、こいつ! また孕んでる!」
 夫が悲鳴をあげた。手のひらサイズの小さなねずみ。だがその腹はぱんぱんに膨らみ、中のさらに小さな生き物がぽこぽこと動いているのが見える。もはや可愛いとは思わない。所せましと並んだねずみ、ねずみ、ねずみ。最初は全員真っ白だったのに、今では茶色や灰色など、カラフルになってきた。
 夫は台所にいくと、空のビール瓶を持ってきた。水槽の蓋を開け、狙いを定めると、妊娠している子をビール瓶の底で叩き始めた。
 あまり血が出ないのは小さいからだろう。五回も殴るとねずみは動かなくなった。眼球がはみ出してつぶれ、頭がい骨が割れて灰色っぽい脳が見えている。他のねずみたちは水槽のすみにへばりついてぶるぶる震えている。
ねずみが殺されるところを見てもかわいそうとは一切思わない。ただ興奮するだけだ。
腹をつついてみると、腹の中の胎児はまだ動いている。震えていたねずみたちがおそるおそる寄ってきて、猛烈な勢いで撲殺されたねずみの体を貪り始めた。腹を破り、中から胎児を引きずり出して頭から食べ始める。血を吸ったチップが妙にてかてかしているのが気になる。
ふと、エサをやるのを一切やめてやろうかと思う。ねずみたちはお互い食いあって、最後に残った一匹が蠱毒として呪術に用いられるのだ。


のど飴


 阿鼻叫喚の惨状を男友達に写メで送りつけてやると、やつは「減らしてやるから水槽を持って遊びにきーやー」とのんきに言った。
 とりあえずオスしか入っていない小さな水槽を持って男友達のところへ行く。男友達の実家は、農協に勤めているお父さんが副業で猟師をしているので、猟犬が十匹くらいいる。私が通りかかるたびに一斉に吠えてくる憎いやつらだ。
「増えたねー」
 男友達はにやにやしながら水槽をのぞきこんだ。
「言っとくけど、こいつらはオスだけだからね」
 オスだけでも十匹以上いる。それを小さな水槽に押し込めているものだから、ストレスが半端じゃないらしい。本当は十五匹くらいいたのに、日ごとに数が減っていくのだ。共食いしているのである。
「よっしゃよっしゃ」
 男友達はよくわからない掛け声をあげながら、尻尾をつかんでねずみを持ち上げ、猟犬たちにむかって放り投げた。
「ちょ! あんた何してんのよ!?」
 犬たちは駆け寄ってきて、バクっと一口でねずみを食べてしまった。まるでゴミを吸い取る掃除機のように、たった一息である。
「ほーれもう一匹」
 再びねずみの尻尾を掴み、放り投げる。犬はそこから動きもせず、ただ顔だけをあげて口を開き丸呑みして終了。なんという手早さ。
「あいつらは野鶏を捕まえたり、イノシシを追い回したりしてるんさ。ねずみなんかおやつにもならんわ。のど飴みたいなもんやな」
 ケラケラ笑って言う男友達を見て思い出した。こいつは、小さいころカエルのケツに息を吹き込んで爆発させたり、冬眠中のヘビを引きずり出して目を潰して遊んだりしていた変質者なのだ。こんな変なやつとつるんでいたのが間違いだった。
「カエルを爆発させたのはお前のアイデアやんけー」
「だいたい、フクロウのエサにするんやないの? なんで犬のエサにしてんのよ」
 興奮気味に問い詰めると、男友達はしれっとした顔で
「フクロウは逃げようとして窓に激突して、瀕死の重傷になったから、羽と足を折って犬のエサにした」
 と、鳥類愛護団体の人に聞かれたら射殺されそうなこと言う。
 私は水槽を抱えたまま男友達の家をあとにした。門をくぐろうとすると、犬どもが一斉に吠えた。


余談


 私の家では鶏を何羽か飼っていた。うちの田舎ではスキヤキに鶏肉を使うことがままあったのだ。私が中学生のとき、当時高校生だった夫が遊びにきた。私の祖父は夫を見ると、今夜スキヤキをするから一緒に食べないかと誘った。
「スキヤキ好きですわー。ご一緒します」
「あんやー、ええわあ。ほんなら一羽絞めてえやー。夕方までにな」
 祖父はそう言って家の中に入っていった。私たちはしばらく唖然としていたと思う。おそらく祖父は、男なんだから鶏の一羽くらい絞められるべきだと思ったのだろう。私たちはしばらく見つめ合い、とりあえず首を絞めようとしたが、二人がかりで何度絞めてもまったく死ぬ気配がない。むしろ蹴られまくって人間のほうが傷だらけになっていく。
 結局どうしようもなくなって、父に釣り糸をもらい、首に何十にも巻きつけて時間をかけて窒息死させた。当時は罪悪感も何もなく、ただ早く終わらせたいという一心であった。
 その夜に食べたスキヤキはいつにもましてうまかった。


モラル


 あのときの鶏を思い出す。生物は他の生物のエサとなって役立つのが普通であり、狭い水槽で共食いなど不自然なことなのだろう。
「なーんでさっさと川に流せへんの?」
 遊びにきた男友達は、異臭漂う家に入るなりそう言った。
 まあ彼の疑問もわかる。さっさと山に逃がすなり、川に沈めるなりすればいいのだ。
 しかし私はまだそれをしていない。
「俺さー、フクロウいなくなったからねずみ処分するねん。山のほうにおる野良猫にでもくれてやろうかと思うんやけど、一緒に行く?」
「行く」
 そういうことになり、夫と一緒に水槽を運んだ。車の中で数えてみると、二十匹ほどしかいない。たしか三十匹まで増えていたはずだ。あと十匹はどうなったのか? 食われたのだ。運んでいる最中にも、親ねずみが産んだばかりの子どもを頭から食っていく。その上にオスねずみ(言うまでもなく、親か兄弟だ)が乗っかって交尾をする。なんというインモラル。生き物のこんなおぞましい部分など始めて見た。
 ありえない状況をもっと眺めていたいと思う。こいつらが殺されて食われていくところが見たい。狭いケースで飼われている小動物は、他の仲間を殺すと聞いたことがある。ありえないのはねずみではなく私たちの飼い方ということだ。チップを掃除しているとき、崩れた内臓の一部が見えたりすると興奮する。残虐なのはねずみではなく私のほうかもしれない。
 道端に車をとめ、水槽を運び出すと、目前に山が広がる。なるほど獣がねずみをきれいに掃除してくれそうである。
 男友達も車から水槽を持ってくる。せーのでひっくり返して山のほうに追い立てようということになり、夫と一緒に水槽の縁を持って「せーの」という掛け声で水槽をひっくり返した。
 そのとたん、ねずみたちは山のほうではなく道路にむかって走り出した。
 あ、そっちと違う、と思った瞬間にトラックがきて、道路を横切ろうとしたねずみを踏みつぶした。一瞬のことだった。もはやねずみだとは信じがたい赤い塊が点々と道路を汚している。それでも十匹くらいは生き残ったのだが、それも次々と続く車にひかれ、無事に渡れたのは五匹くらいだった。
 足元には走ることができないピンク色の幼児が固まっている。このまま放っておけば、餓死するかカラスに殺されるか。少なくとも生き残りはしないだろう。
「まあ、何匹かは生き残るで」
 男友達はそう言った。
「そうかな。全員死ぬ気がするな」
 そう答えたのは、私だったか夫だったが、いまいち覚えていない。


もしかすると怖い話


 用なしになった水槽を洗おうとしたら、水槽のすみに一匹のねずみがへばりついていた。どうやら糞尿で固まったチップにしがみついていたらしい。子ねずみだったので、チップに隠れて見えなかった。
「まだ一匹おるよ」
 夫に言うと、夫は憤怒の表情を浮かべてねずみを掴んで持ち上げた。
 優しい夫。いつもにこにこして、たまに野良猫と遊んでいるくらい動物好きの夫が、わずか数カ月でここまでかわってしまうものなのか。恐怖というよりは興味深さのほうが先にたつ。
 夫はねずみを掴んだままベランダの戸を開いた。手を振り上げ、思い切りベランダの床に叩きつける。特有の興奮が私の脳を包む。もう何度も体験した、手足の血が沸き立つような快感である。

 やっちまえ!

 子ねずみは脳漿を巻き散らして死んだ。手足が折れ曲がり、肋骨が腹を破って突き出ている。その肋骨に巻きつくようにして内臓が飛びだし、薄汚い茶色い毛が赤く染まっていた。
 その子ねずみは、ベランダにそのまま残すことにした。掃除が面倒だからだ。それでも翌日見てみると、野良猫が持ち去ったのかきれいになくなっていた。
 ちょうどその夜からだっただろうか、真夜中に目が覚めたとき屋根裏からがさごそと何かが走り回っているような音が聞こえるときがあった。ときおりチューチューという鳴き声まで聞こえる。しかも普通の鳴き声ではなく、明らかに恨みがこもったというか、こちらを非難しているような鳴き声である。
 真夜中に夫を起こして聞かせてみても「俺は何も聞こえん」と言っていたので、私だけが聞こえる声なのだろう。
 しかし今年の六月になって男友達から猫を一匹もらったところ、その声もぴたりとやんだ。
 ま、ねずみの恨みなどこんなものである。
 たたりの害といえば、私たち夫婦が「近親相姦」や「共食い」という言葉を聞くとやたら興奮するようになったことだろう。しかも悪いことに、それらはどうやってもセックスの場に持ち込むことはできないのだ。

ネズミ算

ネズミ算

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-09-02

Copyrighted
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