警視庁警察官 ~深夜の銃声~

「編集長。外出中に持ち込みの写真があったので、とりあえず預かっておきました。情報の裏を取って問題がなかったら買い取ることにしたいと思いますが、よろしいでしょうか」
「おお、これはもしかして昨日のキャシー張(チャン)の事件の写真? 大スクープじゃないか。どんな奴が撮ったんだ」
「事件現場の近所の学生で、戦場カメラマン志望ということです。未成年ではないので親の承諾も不要です。本人はこの写真の被写体が目をつぶっているのを気にしていましたが」
「うーん、目をつぶっているねえ。確かに。目をかっと開いているぐらいの方が写真としては迫力はあるのだが。それに、これを公開されたら被写体本人にとってもサクラダモンにとっても、うれしくないだろうな。--でも関係ない。オーケイ。裏を取ったら買い取りだ。来週号で派手に掲載して、売り上げ倍増だ」


 黒々とした樹々で覆われた公園の道を街灯の白い光が照らしている。
 私は自転車のペダルをこぎながら、ふと幼稚園に入園する前の頃のことを想い出した。近所で制服警官を見かけたら、私は急いで家に帰り<武装>をして喜んで後をついて歩いたものだった。幼い腰にガンベルトを巻いてホルスターにはおもちゃの拳銃を挿していた。私は大人になったらお巡りさんになりたいと特に考えていたわけではなかったが、いっしょに歩くと私の好きなおもちゃの銃に妙にリアリティを感じるのだった。私は今も銃雑誌をたまに買っている。
 私の記憶を呼び戻したのは、前を自転車で走る警察官の拳銃だ。ぷるっとしたお尻の女性警察官だと良いのだが、残念なことに右腰の拳銃サックに回転式拳銃を挿しているのは頑強な体躯をした四十歳前の警察官だった。真夜中でも蒸し暑さが抜け切らない中、荷台に白い金属の箱を取り付けた自転車のペダルを力強く踏んでいる。
 警察官は夏用の薄い青色の半袖シャツの上に、スラックスと同色の紺の防刃ベストを着ていた。大きな背中に縫い付けられた<警視庁>の白い文字が、犯罪を許さないという強い意思を示しているように思える。遠くで車のタイヤがパンクしたような音が小さく聞こえた。
 その警察官が右手をハンドルから離し、筋肉質の太い腕を斜め下に伸ばした。停止の合図だ。
「松沢巡査、今の音をどう思う?」標準より大きめの日焼けした顔が私の方を振り向いた。鋭い眼と頑丈そうな顎だ。「俺には銃声のように聞こえた。池の向こうだ」
 野太い声で私に確認したのは、私が勤務する<井之頭公園駅前交番>の先輩の大熊巡査長だ。二人の子供がいる大熊巡査長は迫力がある顔をしているが、愛称は熊さんだ。
「タイヤがパンクしたような音が聞こえましたが、銃声だったのでしょうか」
 私は子供の頃の事を考えて<心、ここに在らず>の状態だった。《常に警戒体制を保持し、すべての警察事象に即応する活動を行い、もって市民の日常生活の安全と平穏を確保することを任務とする》という警察学校初任科で暗誦した<地域警察運営規則>の一部が想い出された。生まれ育った市に在るハコ(交番)に配属されて、子供の頃のことを想い出して懐かしがっている場合ではない。私は新宿警察署の交通課から三鷹警察署の地域課に異動になり三ヶ月が経っている。
 この通称<井の頭(いのかしら)公園>と呼ばれる<井の頭恩賜(いのかしらおんし)公園>には、平和で楽しんでいる人々のイメージが私の頭にはあふれている。散歩している人、ジョギングしている人、ギターを弾きながら歌う人やグループ、絵を描く人、池のベンチで本を読む人、恋人達や家族連れ、それに上下を赤系統の色でそろえた服を着た有名ホラー漫画家。
 しかしよく考えてみると私が小学生の時には公園でバラバラ殺人事件があって、近所中で怖い思いをしたことがある。少し前には大事には至らなかったとはいえ公園内の稲荷神社で放火事件があった。数ヶ月前には、私の所属する三鷹警察署ではなく武蔵野警察署管内ではあるが、吉祥寺駅の方で深夜に一人歩きの女性が殺されている。
「俺も完全に自信があるわけではない。署に連絡して何もなかったらお騒がせになるだけだから、もう少し走って確認しよう」
 大熊巡査長は熊さんの愛称とはかけ離れた緊張した面持ちで私に行動指針を伝えた。巡査長はすぐに顔を前方に向けると、決然として公園の杜の小道に自転車を漕ぎ出す。
 私はこの日のために訓練を受けているのにもかかわらず、暗闇に凶悪犯が隠れているかもしれないという恐怖心に捕らえられそうになった。だが巡査長の背中にある<警視庁>の白い文字が皇居の桜田門近くに建つ堂々とした本部庁舎を想い起こさせ、私の闘争心を呼び覚ました。私は国家警察のサッチョウ(警察庁)よりも歴史が古いサクラダモン(警視庁)の警察官なのだ。
 心が戦闘態勢に切り替わった私は巡査長を追った。初回にピッチャーズマウンドに向かう時のように気分が高揚している。私は高校時代に野球のピッチャーをしていた。甲子園出場は逃したが、私は地元の期待の星だったのだ。
 巡査長の後を追って、私は<井の頭池>の南側にある樹々が豊かに覆う小道を自転車で疾走した。進行方向右側に繁茂している広葉樹の隙間から、池の水面が暗く見える。対岸では何が起きているのだろうか。
 自転車を全速力で走らせて顔と背中から汗が流れるのを感じて、不安がないわけではないことを想い出した。私は警察官を拝命してから一年目は見習いとして交番に勤務していたが、その後は管理部門の警務課と交通課を経験しただけで凶悪犯と向き合ったことは一度もない。どちらも女性警官が多い部署で若くて一八三センチの長身の私はモテモテで、自分が犯罪者と直接格闘することになろうとは考えてもいなかった。射撃も警察学校初任科での訓練を入れても三回しかやったことがない。実弾を撃った経験があまりにも少なすぎる。ピッチャーでいえばキャッチ・ボールもほとんどしたことがないのに、大試合で三振をとる必要があるかもしれない状況だ。巡査長の熊さんの聞き間違いなら、後々の笑い話で済むのだが。熊さんが聞いたのが銃声ではなくパンクか花火の音であったほしい--。
 樹々が少なくなった所で巡査長が右腕を斜め下に伸ばし、停止の合図を出した。右側には<狛江橋>がひっそりと架かっているのが見える。辺りは静まり返っている。
 巡査長は自転車から降りて、橋の前の地面に設置された車両通行制限用の鉄パイプの横を自転車を押して通り抜けた。この幅約四メートルの橋は自転車走行禁止になっている。私もその後に続いた。
 我々は十数メートルの長さの<狛江橋>をゆっくり自転車を押して周りを警戒しながら渡り、ちょっとした広場に出た。そこは北西の岸から<井の頭池>の中に突き出している半島の先端のような所で、前方にあるもう一つの橋の<七井橋>を渡ると対岸に出られるようになっている。
 二人でじっと辺りの様子を伺った。左側に水生物園の入り口と右側にボート乗場がある。両施設とも昼間の賑わいとは大きく異なり、暗く静かで不気味な雰囲気だ。池の上には昼間はカップルや家族連れを乗せている何艘ものボートが一箇所に集められて休んでいる。
 その辺りには人の気配はなかった。巡査長の対岸からの音だという判断は正しいようだ。
 巡査長と私は<七井橋>の手前にある太い木の幹の陰から、約八十メートル先の対岸の様子を観察した。橋桁の外側に設置された蛍光灯の光で白く照らされ、池の水面から数十センチ上の高さで対岸へと伸びる幅約四メートルの橋。それと対照的に黒々とした杜に覆われた対岸。--その暗がりで事件が起きているのかもしれないと思うと武者震いがした。
 樹々に覆われた公園のその向こう側には吉祥寺駅に連なる街が拡がっているが、午前三時のこの時間帯には人通りはほとんど途絶えているだろう。寝静まった街で発砲音が一回しても人がすぐに起き出すのかどうか分らない。銃社会のアメリカと違って警察官の私でさえ本物の銃声をはっきりと聴き分けられるわけではない。今夜の音もタイヤのパンクした音だと思ったぐらいだ。今でも銃声だったかどうかは半信半疑だ。
「行くぞ」
 巡査長が私に声をかけた。ここからだと特異動向が発生したかどうかの判断ができない。《すべての警察事象に即応する活動を行い、もって市民の日常生活の安全と平穏を確保することを任務とする》我々警察官は、現場確認をする必要がある。実際より時間経過が長く感じられるが、巡査長が音を聞いてからまだ三分も経っていない。我々は<警察事象に即応>している。
 巡査長が自転車を押して歩く後に続いて、私も自転車を押しながら<七井橋>を渡った。巡査長の斜め後ろ左の位置で、警戒してゆっくりと行く。対岸に変化はない。
 橋を三分の一ほど渡った時に前方で怒鳴りあう声がしたかと思うと、突然バーンという音がした。二人ともあわてて身を低くして自転車を盾にする。弾除けとして無いよりましだが、バイクと違いフレームが細い自転車では隠れたという気にはなれない。でも在った方が良い。
 その時また銃声がした。その前のと少し違う音だ。さらに一発銃声。二人で撃ちあっているのか。
 巡査長が無線で署に連絡している間に、私は右腰に吊っている拳銃サックのふたを開いて拳銃を取り出した。回転式拳銃のニューナンブM60だ。一九六〇年に警察庁に制式採用されて十年以上前に生産は打ち切られているが、まだ主力拳銃として日本の警察官に多く配備されている。
 私は右手に持った銃を左手で下から支えて、銃口を斜め下に向けた。右手の親指で銃の左側に付いている<指かけ(サムピース)>を押し、銃本体に固定されたシリンダー弾倉を解除する。左手の中指と薬指でレンコンを厚切りにしたような形のシリンダー弾倉を銃の左側にそっと押し出し、弾倉の底を確認した。
 レンコンの穴のような円い五つの薬室には、.38口径スペシャル弾の薬莢の底が見えた。真鍮製の薬莢には<REM UMC 38SPL>とメーカー名と口径が縁に刻印され、鈍い金色の光を放っている。それぞれの薬莢の中央部には薄い円筒形の雷管が埋め込まれて、銀色のニッケル・メッキの滑らかな表面を見せている。雷管には撃針痕が無く、引き金(ひきがね)を引けばいつでも全弾撃発可能だ。
 交番に出勤する前に、署の警務課装備係で銃を保管庫から出してもらうときに行う<点検>で、弾薬が装填されていることは確かめてはいるが、初めての銃撃戦への恐怖で確かめずにはいられなかった。弾丸を発射しなければならない時に撃針が雷管を叩かずに、空を叩くというのは考えただけでも恐ろしいことだ。
 私は左手の親指で弾倉を銃のフレームに戻した。低くかがんで、右手に持った銃の銃口を下に向け、腰に付けた姿勢で対岸の様子を観察する。《あらかじめけん銃を取り出しておく場合には、銃を腰に付け、銃口を下方に向けるものとする》と定められた<警視庁警察官けん銃使用及び取扱規程>を私は遵守しているのだ。小学校の時から野球をしてきた私はルールには厳格に従ってきた。ルールを守るのは当然だし、そうすることによって余計な事を考えずにすむので楽だ。
「署がつかんだ情報では対岸には<ハム>がいるということだ」
 私より三メートルほど右前方で自転車の後ろでかがんでいる巡査長が、前を見たまま話しかけてきた。巡査長も同じように拳銃を取り出している。
 巡査長が今言った<ハム>というのは警察内の隠語で公安警察のことだ。公安の<公>の字を分解して<ハム>と呼ぶ。
 やっかいな事に巻き込まれてしまったのかもしれないと私は思った。公安は国家警察であるサッチョウのビ局(警察庁警備局)を頂点とした警察内の秘密組織だ。署轄の地域課を通じて交番を傘下に置く地域部や、普通の犯罪者を取り締まる刑事部や生安(生活案全部)や組対(組織犯罪対策部)のような一般の警察とは違う。警視庁本部の公安部の捜査員は、東京都の警察のトップである警視総監の指揮命令系統ではなく国家警察である警察庁警備局の指揮命令系統に属しているということだ。署の警備課も同じく署長ではなく警備局の系統に入っている。このヤマ(事件)は私のような一般の警察官が本来係るべきではない事案だろう。
「ということは、相手はヤクザではなく過激派か暴力的カルトの狂信者か何かでしょうか」
「分らない。情報を隠したがる公安だからな。対岸にいる人数もなにも分らないが、我々が最前線にいるのは確かだ。署からは《七井橋の南は死守せよ》というお達しだけだ」
 犯人が何者にせよ、北の吉祥寺駅方面より南の我々の方に逃走して来る可能性の方が高いのではないか、と私は思った。私だったらそうする。北の武蔵野警察も繁華街周辺は日頃から防備は厚くしているはずだし、南の我々の三鷹警察署も住宅街はそれほど警備を厳重にしているわけではない。
 いつでも撃てるように拳銃の撃鉄を起こしたいと私は思った。だが、《回転式けん銃にあっては撃鉄をおこさず》と規程にある。銃声が聞こえて敵が近くにいるような時はどうなるんだ。私の持っているニューナンブM60はダブル・アクション銃なので、撃鉄を起こさなくても引き金を引くだけで弾丸を発射できる。ただそうなると、重い弾倉を回転させる動作と撃鉄を起こす二つの動作を引き金を引くことによって行わなければならない。その後撃針が雷管を叩く動作をさせるためにさらに引き金を絞ることになるので引き金が重くなる。その一連の動作を連動させている間に銃身がぶれて結局狙いがはずれることになるかもしれない。引き金を軽く引くだけの動作ですむシングル・アクションより命中率は確実に落ちる。--それはおかしい。銃を出したということはいつでも撃つという意思があるということだ。なぜ《回転式けん銃にあっては撃鉄をおこさず》なのだ。規程を作った奴らは銃オンチなのか。私は子供の頃から銃マニアなのだ。銃には詳しいのだ。--でも訓練もされていない者が撃鉄を起こして動き回ったりすると自分の足を撃ってしまうかもしれない。それなら訓練が必要だ。ではなぜ訓練をさせてくれないのだ。なぜなのだ--。
「今の無線聞こえたか。ハムと言っても、外事だと言うことだ」
「えっ。外事ですか」
 私はパニックになって、自分の頭の中のおしゃべりで忙しく無線を聞き逃した。外事は公安部の下に外事一課から外事三課まで三課が設けられている。日本の防諜部隊で国外情報の収集や日本国内に潜伏した外国のテロ犯予備軍や工作員や大使館員の動きをマークしている。
「そうだ。さらにやっかいになった。銃をぶっ放しているのはどっかの国のテロ犯か工作員かもしれない」
 最悪の事態かもしれない。銃の取り締まりに厳しい日本で外国人が銃を撃つことはあまり考えられないことだ。そのような状況でも銃を撃っているとしたら、銃を撃つことを目的として日本へ侵入した奴で、殺し屋レベルの人間に違いない。
「応援はまだですか」
「近隣の警察署と警視庁本部の公安部と捜査一課が展開中だ。SATも投入されるそうだ。あと五分間持ちこたえれば、うちの署からの応援部隊が到着する。それまでは我慢だ」
 私の悪い予感は当たっているようだ。警察の最強部隊まで投入されるのだ。SAT(特殊急襲部隊)は防弾ヘルメットと防弾ベストで身を守り、MP5機関拳銃(サブマシンガン)を装備した完全武装の特殊部隊で、日頃から激しい訓練に明け暮れている。我々は最悪の事態で最前線にいるということだ。
「大熊巡査長。撃鉄は起こしていますか」
「当たり前だ。こんなとき銃の規程なんか関係ない。何考えているんだ。生きるか死ぬかの時だぞ」巡査長は本気で怒っていた。「そうだ。隣に来い。後ろで撃鉄を起こした初心者がいたら集中できない。それに、無線ぐらいしっかり聞いておけよ」
 そうだ。今は生きるか死ぬかの時だ。この瞬間に敏感に対応できなければ、死ぬ。
 私は巡査長の左横に並んで、拳銃を持った右手を左手で包み込むようにして銃口を斜め下に向けた。左手の親指で銃の後部に露出している撃鉄の突起部(スパー)をゆっくり下方に押す。チチチッという機械音とともに、撃鉄の動きに連動してレンコン型の重い弾倉が左回転し、引き金もゆっくりと銃把(グリップ)の方に寄って来る。カチッと音がして撃鉄を起こし切った時は弾倉が五分の一回転し、次の薬室が弾倉の頂点にある発射位置に来た。用心金(ようじんがね)の真ん中にあった引き金も銃把にほとんど接触する位置に移動して来ている。これで引き金を引く力に連動させて撃鉄を起こしながら重い弾倉を回転させる必要もなくなったし、引き金を引く距離も圧倒的に短くなった。引き金を軽く引くだけのシングル・アクションで弾丸が発射可能になったのだ。だがその反面、暴発には気をつけなければならない。この拳銃に安全装置はない。
 私は規程にそむいた。だが元々その規程は私を守ってくれるものではなかった。事故が起きたときに上層部を守るためのものだったのだ。
「用心金の中に、指は入れるな。引き金に指を掛けておくと、何かを見た時とか驚いた時に反射的に指が動いてしまうことがあるからな」
 巡査長は私の手元をちらりと見て念を押した。そのことは<警視庁警察官けん銃使用及び取扱規程>にもしっかりと書かれている。これは命を守るための重要な規程だ。今この場で最も重要なことだ。
「はい人差し指を伸ばして、フレームに付けたままにしておきます」
 基本中の基本で注意されるまでもないことだと思いつつも、私は巡査長の確認に素直に応えた。あとほんの少しで応援部隊が来る。このままこれ以上何事もなければ、この姿勢で待機して人生始まって以来の危機からの脱出だ。あと少し待てばこの公園始まって以来の警察官の大集団が押し寄せて来て、どんな殺し屋でも逃げ場を失うはずだ。
 しかし眼を凝らして対岸を視ていると、橋の近くで何か動くものがあった。黒い人影だ。こちらに駆けてくる。心臓の鼓動が一気に高まった。先ほどパニックになったせいか今度は思ったより冷静でいられるような気がする。精神は冷静な気がしても肉体は戦闘態勢の鼓動を大きく打ち続けている。
「銃口はまだ上げるな」
「はい」
 巡査長も極限状態に緊張している。巡査長は左肩にある無線機で署に連絡する。
「三鷹署対策本部。こちら七井橋南逃走阻止班。人影視認。こちらに向けて走行中。どうぞ」
 バーンと銃声がした。暗い杜で小さな炎が一瞬見えた。走ってくる人影を狙った銃口炎なのか。
 その時また別の銃声がした。それに最初の銃声が応射し、その後銃声が何発か交差する。
「Help !」
 橋の上をこちらに走ってきたのは女性だった。ピンクのシャツを着て黒のスーツの上着とハンドバッグを抱えている。長い髪を揺らしながら、タイトスカートにもかかわらず快調に走って来る。長い足にはヒールも何も履いていない。白人のようだ。
 眼の前に迫る女にストップと言って止めるべきなのか。どうなのか。女は手に持った上着の下に銃を隠しているのかもしれない。
「男が出てきた。気をつけろ」
 巡査長が警告を発した。走って来る女の後方を見ると、橋の向こう岸に男が立っていた。約五十メートル離れているので男の詳細は分らない。
 女が私と巡査長の間に走りこんできた時、こちらからは小さく見える男が両手を突き出した。銃に違いない。
「危ない」
 私は思わず声を出して自分の銃を橋の通路に置くと、中腰になり女に抱きついた。両手で女の腰を抱え込んで、自分の体をクッションにして女の体を横に倒し、後頭部を通路で打たない様に首を女の方に曲げた。柔道の受身の応用だ。
 一瞬遅れて銃声がして、二人の体の上を空気を切り裂く音を立てて何かが通り過ぎた。--この距離にもかかわらず男が発砲したのだ。しかもかなりの射撃精度だ。大変な奴に遭遇してしまった。
「Thank you, officer」
 抱き合ったままの格好で、私の体の上で女が感謝の言葉を荒い息と共に吐き出した。三十歳前後で自立した大人のセクシーさが感じられる女だ。顔に熱い息がかかる。顔や腕に髪が降りかかり、良い香りがする。真正面から見たグレイの瞳が神秘的で、こんな時にも係らず心が吸い込まれるそうになる。不思議なことだが、どこかで見たことがあるような顔だ。
 女はアジア人と白人のハーフなのかもしれない。顔の作りが少しソフトで、私の体の上に乗った体重も重くない。一安心した顔だが、意志がしっかりしていて気が強そうにも見える。この女が工作員なら私も巡査長もとっくに死んでいる。
「男が来るぞ」
 巡査長がしゃがんだ姿勢で警告した。銃口を下に向けてはいるが、いつでも撃てる状態だ。
 我に返った私は女と見つめ合った眼を離して、警戒態勢に戻った。橋の向こうに男はまだ立っていた。この暑いのにダークスーツをきっちり着込んでいるように見える。
 男は左手で上着のポケットに何かを入れて、右わき腹の方から取り出した物を右手の下の方に持っていった。半自動拳銃の銃把に新しい弾倉を装填したようだ。こちらに歩いて来る。
「止まれ」
 巡査長が大声で警告した。銃口を橋の向こうの男に向けた。
「ストップ」
 私も大声を出した。銃口は男の足元を狙う。巡査長は無線で緊急報告を入れている。男との距離は約四十五メートル。
 男は止まらない。距離があるのではっきりしないが、笑ったような気がした。
 相手の銃の腕を考えると、このままでは我々に勝ち目はない。私と巡査長が持っている回転式拳銃ニューナンブM60は有効射程が五十メートルということになってはいるが、我々の腕ではその距離にいる標的に命中させることはできない。しかも固定の標的ではなく動いているし、それに動物ではなく相手はいつでも我々を殺せる銃まで持っている。
 私は昔読んだニューヨーク市警察のレポートのことを想い出した。ドラマや映画と違って実際の銃撃戦は短い距離で行われている。銃撃戦の八十八パーセントは六.三メートル以内の距離だ。殺人事件が圧倒的に多く訓練が行き届いているニューヨーク市の警察官でも、百八十センチ以内の距離で命中率が三十八パーセントしかない。二十二.五メートルも離れるとわずか四パーセントしか命中していないということだ。相手が動くことや、命がかかっていることの恐怖と焦りで当たらないのだろう。
 犯罪大国かつ銃大国のアメリカの警察官でもほんの数メートルという近距離での銃撃戦が普通だ。殉職した警察官の九十六.四パーセントは七.五メートル以内の距離で撃たれている。今こちらに迫る数十メートルの銃撃戦でも平気らしい男には、ニューヨークの警察官でも勝てるかどうか分らない。銃の訓練をほとんどしていない我々の場合は戦闘能力の差がありすぎて、勝つ見込みは限りなくゼロに近い。
 それにチャンスがあったとしても、私は人を殺せるだろうか。そんな覚悟をしたことは一度もない。私は幼い頃より銃が好きだったが、殺し合いが好きだったわけではない。私が好きだったのはこんな危険な銃ではなかった。弾が顔にでも当たったら目玉が飛び出してぐちゃぐちゃになってしまう。--絶望的だ。
 男は巡査長のさらなる警告にも止まる気配を見せない。黒っぽいスーツを着込んでネクタイも締めた大柄なアジア人だ。日本の警察は銃を撃たないと思っているのだろうか。少なくとも我々がほとんど銃の訓練をしていないのを知っているのにちがいない。動きに全く動揺がないように見える。それどころかこの状況を楽しんでいるようだ。
 私には男が怪物に見えた。日本警察の威信など投げ捨てて、戦わずに逃げるのがこの場合最良なのではないか。我々には外国人の女性を守るという義務がある。彼女を守って我々は撤退すべきではないのか。彼女も何か早口で喋っている。逃げるとすれば今しかない--。
 男の銃口が炎で一瞬白く光ったかと思うと、銃声が大きく響き渡った。私の頭のすぐ右上で火花が散り金属のこすれる鈍い音がした。見てみると、自転車の荷台に取り付けた白い金属製の箱のこちら側がぎざぎざになっている。銃弾が貫通したのだ。警察用の自転車で一番盾になりそうな部分が簡単に破られている。--その後ろにいた女は無事か。
 私の右横に女はいなかった。振り向くと私の後ろに隠れていた。スマホを耳に当てて驚いた様子だが、バッグからコンパクト・カメラを出して荷台の写真を撮った。男の写真も撮ろうとしている。下手に走って逃げようとして撃たれるよりも良いが、こんな時になにしているんだ。男は我々を殺す気なんだぞ。銃を持った警官が二人もいるから安心しているのか。
「松沢、撃て」
 巡査長が叫んだ。
 右横で巡査長の銃が吼えた。自転車の後ろで低く座ったままの姿勢からの射撃だ。警告も威嚇射撃をする段階もとっくに過ぎている。男との距離は約三十メートル。
 巡査長の銃弾に期待したが、男は相変わらずゆっくりと迫って来る。この距離で我々の放つ弾が当たるとは最初から考えていないようだ。巡査長の弾丸はどこに飛んだのか分らない。
 巡査長がまた発砲した。
 私は自転車の後ろに座り込んで、膝射(しっしゃ)で男を狙っていた。銃を握った右手を左手で包み込むようにがっしりと握り込んで、立てた左足の膝の前で交差する。背中を後ろに倒し、上半身の体重を両手首と膝で受け止めるようにしてバランスをとった。さらに伸ばした右足で左足の靴の甲を押さえて安定させる。銃身も自転車のフレームにぴたりと接触させてブレをさらに抑えた。
 こんな撃ち方は警察では教えない。銃雑誌にあった写真を見て自室でエアーガンで練習をしたことがあるのだ。私は一時期シャドー・シューティングを繰り返していた。この撃ち方は後ろや横からも狙われるかもしれない動きのある銃撃戦には不向きだが、じっくりと狙うのには銃身が安定して訓練不足を補えるはずだ。
 銃口の真上にある凸型の照星(フロントサイト)の出っ張り部分を男の胸に合わせ左右方向の狙いを確定し、その出っ張り部分を撃鉄のすぐ上にある凹型の照門(リアサイト)の高さと一致するように銃の角度を合わせて上下方向の狙いを確定する。標的と照星と照門が一直線に並んだ。男との距離は二十五メートル。
「早く撃て」
 隣で巡査長が必死で叫んだ。俺には家族がいる--こんな所で死ぬわけにはいかないんだという思いが私の胸に突き刺さる。巡査長の弾薬はあと三発だ。日本の警察官は予備の弾薬など携帯してはいない。命を守るのは、銃の中に装填した限られた数の弾薬だけだ。
 私は呼吸を止めて、引き金をゆっくりと絞込んだ。撃鉄が勢いよくバチンと前に倒れ、撃針が弾倉の中の雷管を叩く。パンという少し高めの音と共に銃口が跳ね上がり、両手首が上に跳ね上げられるのと連動して左膝が少し動いた。伸ばした右足を左の靴の甲に重ねているので衝撃は足で全て吸収されて両肩まで来ることはない。射撃訓練とは全く違うが、銃を撃つ感触が少し蘇って来た。
 私の放った弾丸は男の右下前に着弾して、橋のコンクリートの通路をわずかに削っただけだった。男は平然として立っている。私の撃った.38口径スペシャル弾など全く意に介していない。この距離では絶対に命中しないと思っているのにちがいない。
 だが男は反撃にあって前進を止め、我々のように身を低くする。今の着弾から<跳弾>を警戒することにしたのだろう。銃弾が直撃できなかった場合に、コンクリートの通路に当たった弾丸が跳ねて男の体に当たるかもしれないという私の微かな願いが閉ざされた。
 巡査長がまた発砲したが、男の左手にある橋の手すりで火花を散らしただけだった。男を今の位置に釘付けにしておく作戦だ。もうほんの少し待てば応援が来るはずだ。男が突撃して来たら三人とも簡単に殺されてしまうだろう。
 突然、暗い杜の中で動きがあった。一本のサーチライトの白い光が樹々を抜けて空に舞った。それに続いて数本の光が杜の中からこちらに抜けてくる。少し遠くの方でヘリコプターのエンジン音も聞こえる。
「こちらは武蔵野警察署だ。武器を捨てておとなしく投降しなさい」
 対岸から拡声器の声が響いた。訓練が行き届いた滑舌のよい響きだ。助かった。応援部隊の到着だ。私の心に安堵感が広がった。
 男は後ろをさっと振り返る。
 男が橋の真ん中で銃を捨てたら巡査長と二人で駆けつけて、男にワッパ(手錠)をかけてやると私は思った。我々は銃弾の中で外国人女性の保護を行い、命がけで男の逃亡を阻止した。我々には現行犯逮捕の権利がある。武蔵野警察署は救援に来てくれたし近隣の警察署として協力関係にあるとはいえ、我々の管内で他の警察署に逮捕させてはならない。我々には現行犯逮捕の権利がある。我々が逮捕して署長と署の皆が喜ぶ姿が私の目に浮かぶ。地域部長賞どころか警視総監賞の受賞は間違いないだろう。
「ドロップ ユア ガン」
 日本語で投降を呼びかけた同じ声が、英語で銃を捨てろという呼びかけを行なった。日本語発音の滑舌の良さそのままで英語を発音するので、完全にカタカナ英語になっている。dropの子音pの後に存在しない母音uを付けて<プ>と発音しないで、<ドロッピュア ガン>と<ユア>に滑らかにつなげると自然な英語となるのに残念だ。ガンの<ン>もnでもmでもない中途半端な発音だ。私は学生時代に留学生の女の子と付き合っていたことがあるので、英語の発音には少々うるさい。
 へたな英語だから投降しないということではないと思うが、男に投降する様子は見られなかった。男がこちらに早足で歩き始めたのだ。吉祥寺駅方面から警察部隊が来たのは良いが、男は我々の方に来てしまうということなのか。普通は警察に前後を封鎖されたら投降するだろう。なぜ投降しない--。私の心臓は再び激しく鼓動を打ち始めた。奴はこちら側から突破して逃げようというのだ。もちろん我々全員を射殺して。
「武器を捨てなさい。こちらは三鷹警察署だ」
 先ほどの対岸よりも音量の大きな拡声器の音声が我々の後ろから聞こえた。「ドロップ ユア ガン」と<英語>も続いた。我々の署からの応援部隊が到着したのだ。
 男が銃を発射した。一段と大きな銃声に聞こえる。男には投降する気はないのだ。戦って死ぬつもりなのか。我々の誰かを人質に取るつもりなのか。
 私の隣で巡査長の自転車が音を立てて男の方に倒れた。後ろに隠れていた巡査長の巨体が前のめりに倒れる。血が出ている。巡査長が撃たれた。うつ伏せになった巡査長の体の下から大量の血液がゆっくりと橋に拡がってゆく。巡査長に見せてもらったことがある家族四人の写真が目に浮かぶ。
 前を見ると男はもう二十メートル以内に迫っていた。対岸からも我々の後ろからも援護射撃は無い。味方に命中することを恐れているのだ。銃の訓練不足の警察官達が一斉に撃ったら、生き残った私と女も被弾するだろう。
 照準のために立ち止まった男が私にぴたりと銃口を向けた。--撃たれる。
 男が撃とうとした瞬間、急に眼の前が白い光で満たされた。警察の投光器の光が両岸から一斉に向けられ、男の射撃を邪魔したのだ。バーンという轟音の後、私の頭のすぐ左横を不気味な音が通り過ぎるのが分った。
「Drop your gun」
 見事な英語の発音が聞こえたかと思うと、すぐ近くで銃声がした。女が巡査長の銃を奪って男に発砲したのだ。巡査長のいた位置より一歩踏み込んで銃を構えている。
 男は一瞬よろめいたが、倒れない。女はもう一発撃った。だが同じだ。
 男は防弾ベストを着ているのだ。暑いのにスーツを着込んでいるのは防弾ベストを目立たせないようにしていたのだ。
 女がさらに引き金を絞ったが銃声はしなかった。さらに引き金を引くが、燃え尽きた雷管を撃針が空しくカチと叩く音がするだけだ。巡査長が三発撃って、女には弾薬が二発しか残されていなかったのだ。
 男は内ポケットからサングラスを取り出すと、にやりとして改めて私に銃口を向けた。がっしりと両手で銃を持って狙いを定める。死の穴が暗い入り口を開けているのが見えた。
 間一髪、私は引き金を引いた。先ほどの第一弾と全く同じ安定した膝射で撃った。
 弾丸は男に命中した。男は右横腹を撃たれて少しよろけた。だが倒れない。.38口径スペシャル弾では貫通できないレベルの防弾ベストだということだ。
 男が私に向けて引き金を引こうとした時女が動いた。銃を男の顔に向けて投げつけたのだ。そのまま後方に逃走する。
 男はちらりと私を見たが、女に銃口を向け直した。真の標的は女だからだ。理由は分らないが、女をこの公園で殺そうとして外事課から邪魔が入り、我々に遭遇したのだ。この男は任務に命を賭けているので、投降する気も逃げる気もないのだ。
 ヘリコプターのエンジン音が聞こえる中、私の銃身は安定していた。銃を両手で握り込み輪のようにして、立てた左膝に固定し、自転車のフレームにも銃身をぴたりと付けている。銃口の真上にある凸型の照星の出っ張り部分は男の頭部にぴたりと合い、両手のすぐ上にある凹型の照門と高さも一致している。ピッチャーが自分の狙った所にボールを投げ込めるようになるには、フォームを安定させる必要がある。繰り返し繰り返し投げ続けてフォームを体に浸み込ませるのだ。弾道を安定させるのも同じはずだ。
 男が引き金を絞る一瞬前に私は引き金を絞った。男の胸の真ん中に命中する。男は大きくよろめく。防弾ベストを着ていても銃弾の衝撃は体で受け止めるしかない。サッカーのゴール・ネットのように弾丸の衝撃を分散できるが衝撃そのものが無くなったわけではない。
 私は銃の握りはそのままで左の親指で素早く撃鉄を起こして、銃の位置を微調整する。男との距離は約十五メートル。マウンドからキャッチャーまでの距離よりやや短い。訓練は終わった。殺るのは俺だ。
 男が私の方を向いた。素早く両腕を突き出して銃口を私の顔に向ける。
 上空にやって来たヘリコプターのローター・ブレードの回転音とターボシャフト・エンジンの音がはっきり分離して聞こえた。風圧も大きくなってくる。真上にいる。SATの到着だ。
 強烈な投光器の光が上から投げかけられる。私は静かに引き金を絞り込んだ。二つの銃声が交差する。強烈な爆発音もすぐ近くで起きた。眩しさで眼を閉じたのと引き金を絞ったのがどちらか先か分らなかった。
 無音の世界で倒れこんでいる私の頬に、女が熱いキスをした。私は手早く担架に乗せられた。


 三階の国際線出発ロビーは夏休みの旅行客で賑わっていたが、報道陣は見当たらなかった。中年の警部補はついほくそ笑んでしまった。香港の女性ジャーナリストの出入りを警視庁本部周辺で見張っていた報道各社を完全に出し抜いたからだ。
 <井の頭公園銃撃事件>に香港の女性ジャーナリスト、キャシー張(チャン)が関係していることはあっというまに拡がってしまった。彼女の知り合いがツイッターで銃撃事件の情報を流したからだ。ツイッターの文面には、彼女の帰りが遅いので心配して電話をしたところ緊急事態だとあわてている彼女の電話から銃声が聞こえたと書かれている。元々キャシーは来日した時から美人ジャーナリストということで一部のメディアに取り上げられ、テレビにも今回の来日で二度出演していて熱狂的なファンもいる。事件後全メディアあげての取材合戦が始まったが、どの社も事件後はインタビューも写真撮影もできていない状態だ。警視庁本部での公式記者会見では<外国人ジャーナリスト>と発表があっただけで、国籍も性別も年齢にも触れらていなかった。
 事件から三日経っても報道が下火になるどころかますます過熱しているのは、警部補も納得するところだった。有名人が絡んでいて、正体不明の外国人が警察官一名を死亡させ二名を重症にさせる犯罪史上まれにみる凶悪事件だからだ。中国との外交問題にまで発展する可能性もあると伝える報道メディアもあるし、一般の犯罪ではなく公安がらみの犯罪だということも社会の注目をさらに集めることになっているのだろう。三鷹警察署に設置された特別捜査本部の周辺は報道陣で埋め尽くされて、近所から苦情が出ていると聞いている。
 今朝も報道陣は桜田通りの通用口と警視庁本部の正面玄関付近で競って張り込んでいた。警部補はキャシーを警視庁本部の出入り口から出さずに、警視庁本部とは地下通路でつながっている警察総合庁舎に案内した。警部補とその部下は地下駐車場でキャシーをワンボックスカーに隠し、内堀通りに面する出入り口から車を出して成田まで護送して来たのだった。黒塗りのワンボックスカーの前後には目立たないように、警備部警護課のSPの車が二台付き従っていた。
 軽く別れの挨拶をした後、キャシー張は空港のセキュリティ・チェックへと消えて行った。警護課のSP達が同行する彼女の背中を見送った警部補は複雑な気持ちだった。だがコウソウ(公安部総務課)の秘匿部隊に属する警部補の任務はそこまでだ。その後は警護第四係のSP一個班が航空機に乗り込むまで警護を継続し、フライト中はイギリス大使館の要員がロンドン・ヒースロー空港まで無事に保護してくれるだろう。キャシーは母親の実家に一時身を寄せるということだ。母方はロンドン郊外の裕福な一族らしい。
 ブリティッシュ・エアウェイズのBA6便が三十分遅れで11:20に出発する前に、警部補は部下の運転する車で成田空港第2ターミナル・ビルを出た。警部補は井の頭公園の事件後この三日間、通訳兼世話係としてキャシー張と過ごした。キャシーは事情聴取に素直に応じたが、事件の解明には至らなかった。
 警部補の捜査で分ったのはキャシーが銃撃犯の男とは元麻布の中国大使館で会い、二等書記官に男が上海の雑誌社のオーナーであると紹介されたということだけだった。キャシーが日本での取材を終えて三鷹市の知り合いの家で深夜までパーティーを開いているところに男から電話があり、党に関する極秘情報を渡せるのは今しかないと言われて井の頭恩賜公園に出かけたということだ。二等書記官が紹介した男なので危険性は考えなかったらしい。その二等書記官は外交特権により事情聴取に応じることなく、<人事異動のため>という口実で事件翌日に出国している。
 犯人が死亡したので捜査は難航している。外事は大使館に出入りしていた銃撃犯の男を事件前から密かに尾行していたので、男が宿泊していたホテルは特定されていた。事件後ホテルの部屋からパスポートと所持品を押収したので国籍等の情報は分っているが、事件を解明するのには情報が少なすぎる。警察庁経由でICPO(国際刑事警察機構)を通じて中国公安部に問い合わせをしているが回答はまだ来ていない。
 この事件は海外でも報道されている。警部補もネットで海外の新聞記事を読み漁った。イギリスではフィナンシャル・タイムズやガーディアン等の新聞がアメリカのワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズよりかなり詳細な報道を行っている。香港のメディアでも大きく取り上げられたが、その後突っ込んだ報道はされていない。
 中国では国営の新華社通信が簡単に報道しただけで、他のメディアは新華社通信の記事の引用を報じているだけだった。警部補としては中国国内から漏れ出てくる情報がほしいところだが、中国での報道は<共産党中央宣伝部>という巨大機関が制御できる構造になっている。<共産党中央宣伝部>は通達に従わない新聞や雑誌の幹部の更迭や廃刊をすることもできる強大な権力機関だ。ネットの方も党・軍・政府の各下部機関が厳しい監視と検閲を続けているので期待はできない。
 警視庁公安部のカウンターパートであるアメリカCIAの情報から、銃撃犯が中国人民解放軍総政治部の元軍人で上海在住であったことは分っているが、詳しい情報はつかめていない。外務省の上海日本総領事館の調べで、男がオーナーをしているということになっていた雑誌社は存在しないことが分った。
 キャシー自身には何も怪しいことがない上に部長からの聴取中止命令が出たので、本日キャシー張は出国することになった。警察上層部だけの意思決定だけでなく、裏で政治家の動きがあったのは間違いない。
 悔しいことだが、公安部の捜査員とはいえ一警部補の身分では意思決定に関する真相を知らされることはない。個人レベルの犯罪だった可能性もあるし、何らかの組織の犯行だった可能性もあるが、事件は闇の中に葬られた。
 それでも、警部補は誇らしかった。我々は犠牲者を出してしまったが、日本警察の威信を守ったのだ。正体不明の外国人に数人の捜査員と自由が保障されるべき外国人のジャーナリストを殺害されたとあっては、日本国の信用問題にもなりかねないところだった。二人の所轄の警察官達は自分達の命をかけて、日本の国家の威信を守り抜いたのだ。
 それにしても一民間人のキャシー張に大使館員が付き添うというのも怪しいと警部補は思った。母方が裕福な一族だとしてもイギリス外務省がフライト中の警護に動くものだろうか。警部補は、キャシーがイギリス外務省のSIS(秘密情報部)に関係しているのではないかという未確認情報を想い出した。事件の最中にキャシーが警察官の銃で反撃したというのも、SISで軍事訓練を受けていたとすれば納得できる。--女性版007。警部補の頭にふとその言葉が浮かんで、自嘲した。


「二階級特進おめでとう。但し、これはまだ正式決定ではなく予定だがな。俺もおまけで一階級上がれる予定だ」
 熊さんから電話でそう言われた時に、皮肉が混じった祝福がおかしく思わず笑ってしまった。死んではいないと署長から聞かされていたので安心してはいたが、大熊巡査長が思ったより元気そうなので驚いた。巡査長のことを怖い先輩と思ってきたが、いっしょに死線を越えた後は身内のように感じられるのが面白い。電話から巡査長の笑い声も聞こえてきた。<二階級特進>というのは普通死んだ場合に与えられる特別昇任だ。
 巡査長が二階級特と言ったのは巡査長から見れば私は巡査からいきなり巡査部長になり、自分は巡査長から巡査部長への昇任だからだ。私が二階級上がったように見えるが、巡査長という階級は警察法上の正式な階級ではないのでしかたがない。巡査長というのは職歴六年以上で勤務成績優良で実務経験豊富な巡査が充てられる階級か、または巡査部長昇任試験合格者が巡査部長の定員が詰まっているときの空き待ち時に充てられる仮の階級だ。
「それに二人とも警視総監賞どころではなく、警察庁長官から<警察功労章>が授与されるらしいぞ。但しメディアには発表されない」
 巡査長が重症を負ってしまったのは非常に悲しいことだが、必死の警察活動に対して大きな評価が与えられたのはすばらしいことだ。<警察功労章>というのは警察官の最高の栄誉である<警察勲功章>に次ぐもので、オリンピックでメダルでも取らない限りめったに授与されるものではない。それにしても、ベテラン警察官達の情報網が組織内部に深く浸透していて、正式発表前の情報もいち早く把握しているのに驚く。
 情報統制の一貫で事件関係者間の連絡は禁止されていたので、私は電話があるまで巡査長の入院先が中野区にある東京警察病院だということも知らなかった。署内でも事件に関する話題は厳禁だということだ。事件後三日になるが、私の自宅待機命令は解けていない。
 大熊巡査長は左肩を撃たれて重症だが、被弾したのが軍用の銃弾で貫通銃創になったので銃弾の全エネルギーを体内で受けることを避けられた。リハビリ後に現役復帰も可能だそうだ。
 巡査長と少し話した後、電話は巡査長の奥さんに代わって終わった。架かってきた電話は奥さんのスマホだったのだ。巡査長によれば奥さんが私にどうしてもお礼を言いたいということなので、私の電話番号を奥さんに教えただけだということだ。巡査長は奥さんが架けたお礼の電話のついでに電話に出ただけで、関係者との連絡禁止の命令に我々は背いていないのだよ、と私に確認した。さすが臨機応変なベテラン警察官だ。巡査長の奥さんも交通課の元女性警察官ということで息の合ったプレーだ。
 奥さんが私にお礼を言った時、私も巡査長がそばにいなかったらパニックになってあっさり撃たれていたと思う、と形式ではなく正直な気持ちでお礼を返した。奥さんの「うちの人が二階級特進にならなくて、本当に良かった」という言葉はまだ耳に残っている。向こう岸にいた外事警察の一人は死亡して二階級特進になったということだ。もう一人の重傷者も復帰は不可能で退職するらしい。


 巡査長から電話があった次の日、私は自宅の自分の部屋をそっと抜け出し、<井の頭恩賜公園>の中を通り吉祥寺駅ビルを抜けて駅前広場に来ていた。私は駅前広場から真っ直ぐにサンロード商店街に入らないで横の路地に入り、尾行点検を二度行なった。私の後を追って来る者はいないようだ。
 私は公安警察の真似をして遊んでいるわけではない。自宅待機を命じられているのに街に出ているからだ。事件後報道が過熱して上層部が関係者を世間から隠そうとしているので、誰にも見つかるわけにはいかない。私が犯人を射殺した時に手際よく担架で運ばれて、怪我をしていないのに救急車に乗せられたのも関係者隠しの一貫だろう。公安部の指令を受けた署の警備課の捜査員達が動いたのだ。
 その後私は仮眠を取った後、男を射殺したことで捜査一課の取調べを受けた。敵を殲滅するのが目的の軍人と違い、警察官はどういう状況であろうと犯人を殺した場合は一旦容疑者扱いとなる。私の場合は目撃者も多く状況がよく知られていたので、事件が起きる少し前からの行動報告を行うような取調べとなった。--その報告書を小説にすると面白いかもしれない。現役の警察官で小説を書いている人はいるのだろうか。
 取調べの後は心理カウンセラーのセラピーを受診した。セラピーは定期的に受けることが義務付けられた。
 意外にも私は強靭な精神を持っているらしい。あのときは殺すしかなかったのだという強い思いがあり、今のところトラウマにはなっていない。光が眩しくて目を閉じたままの射撃だったので、直接男の顔が吹き飛ぶところは見ていないせいもあるかもしれない。自宅待機命令のため外に出れないのはうれしくないが、久しぶりのまとまった休みを私は満喫している。
 そういう状況にもかかわらず、私には密かに外出する重要な用件が発生した。今日の朝刊に掲載されていた雑誌の広告が原因だ。写真週刊誌<フラッシュ・ショット>の特集記事が『井の頭公園銃撃事件』であるのは当然だと思ったが、<これが犯人射殺の瞬間だ。衝撃の写真を緊急入手>と書かれていたのだ。
 それには驚かされた。あれを撮った奴がいるのだ。少なくともキャシーの撮った写真ではないはずだ。彼女は公安部で連日事情聴取されているはずで出版社に行く時間はないはずだし、カメラは最初に証拠品として押収されたはずだ。
 誰が撮ったにせよ、どんな写真か是非とも確かめずにはいられない。あの時に写真を撮られたのだとすると二点問題がある。一つ目は犯人射殺時に目をつぶってしまったことだ。投光器の光が眩しかったので仕方がなかったのだが、まぐれ当たりと評価されないか心配だ。私はあの時しっかりと標的を捉えて銃身を固定していた。二つ目はキャシー張とのキスだ。事件での《多大な功労による》巡査部長への一階級特進が内定しているのに、取り消されないか不安だ。それが著しいスキャンダルで警察の威信に傷をつけたと判断される恐れもなくはない。
 あの時私はSAT(特殊急襲部隊)のヘリコプターからの発砲で生じる跳弾に備えて体を横に倒した。そこに音響手榴弾が投げ入れられ耳が麻痺してしまう状況は考えていなかったので驚いた。しかしキャシーが私にキスをしたのはもっと驚いた。今でも生々しく覚えている。男が私の銃弾で倒れたのを知って感激と感謝の表れだと思うが、私には心のこもった熱いキスで何か官能的なものも感じられた。昨日夜のニュースで、公安部の参事官がキャシーの日本出国を発表をする映像が流れていた。もう一度会いたいのに残念だ。
 <情報>が世の中に出てから数時間だが、私は用心深くなっていた。どこに<敵>が潜んでいるか分らない。私はサングラスをして眼を隠していたが、一八三センチというのは日本では少し目立つ身長でこれは隠せない。
 私はアーケード商店街のサンロードに直ぐに出ないで、路地の出口で左右を確認した。右側の吉祥寺駅方面のサンロードの入り口をまず見て、左側の商店街奥も確認した。怪しい人物はいない。休日は買い物客であふれる商店街も、平日の昼前の中途半端な時刻では人はあまり多くない。
 私はメンズカジュアル店の横の路地から出て、左斜め前にある書店に素早く潜り込んだ。眼だけを動かして店内の人を確認しながら、中央の雑誌売り場に向かう。中学生の頃から来ている店だから店内の様子はよく分っている。
 目指す写真週刊誌<フラッシュ・ショット>が高く平積みされていた。いつもの二倍ぐらいの高さに思える。人の弱みにつけ込んで大量に販売する気だ。そんな出版社の雑誌なんか買いたくないが買わずにはいられないのが悲しい。
 私は上から三冊目をさっと取り、目次を見る。新聞で宣伝していた文字が目に入り、間違いないことを確認する。どんな写真なのか確認したいが、この店に長居は無用だ。店で写真を確認する姿を撮られるようなことがあったら、ダブルプレーというよりトリプルプレーで即チェンジになってしまうような気がする。<噂の三鷹署警察官が自分が掲載された写真誌を密かに確認した瞬間>とかネットに投稿されでもしたら大変だ。
 店員が私に関心を示していないかサングラスの奥から確認しながらカウンターでお金を払う。この店には知り合いがいないことは分っているが、それでも気にかかる。近所のコンビニでも買える雑誌だが、昔酒屋だった店で私の同級生かまたその親父が必ず店番をしているので買えない。子供の頃からの顔見知りの彼らでさえ、今の私には<敵>である可能性がある。私は必要以上に神経質になっているのかもしれない。
 私は雑誌を鞄に入れて店を出るとすぐ右方向に行き、そこをさらに右に曲がり店の横にある路地に入る。途中で写真を確認したいが今は帰ることが最重要だ。怪しい奴はいない。
 写真を確認したいという欲望と戦いながら家に帰って来た時に母親に見つかったが、あいまいな返事をして二階の自室にこもった。
 私はどきどきしながら写真週刊誌<フラッシュ・ショット>を広げた。慌ててめくった該当頁を見て、心にどっと安堵感が押し寄せてきた。キャシーとのキスは彼女のしゃがんだ後ろ姿が撮られているだけで、その角度だと私は隠れているのでキャシーが何をしているのか分らない。私の犯人射殺場面はしっかり撮られているが、顔にボカシが入っているので目をつぶっているかどうかの判断はつかない。どちらも望遠レンズで撮られた写真で、対岸のずっと右よりから撮ったものだった。
 まあ考えてみれば、職務中の警察官の写真をそのまま掲載するほどの度胸が出版社にはないはずだ。それに私は公人ではないので肖像権侵害でも問題になることは、プロである雑誌社が知らないはずがない。但し、元の写真では私の顔が写っているので、それが外部に流出するかもしれないことを考えると、犯人の背後関係が不明なので不気味ではある。それにしても、あれだけ警察官が大量に動員された中で撮影するとはあっぱれな奴だ。先ほどまでは、<フラッシュ・ショット>以外の他の雑誌やテレビも私を追い始めたかもしれないと尾行に注意していたが、完全に思い過ごしで一人芝居だったのが笑える。
「You've got mail」
 スマホに署の警務課からのメールが入った。明日は署で勤務して、来週からは警察学校へ行けということだ。巡査部長に昇任したか昇任予定の警察官は、警察学校の巡査部長任用科に通うことになっているのだ。
 その後は、憧れの警視庁本部勤務が待っている。--巡査長が独り言だと言いながら、昨日の電話でもらしてくれた<情報>だ。

警視庁警察官 ~深夜の銃声~

警視庁警察官 ~深夜の銃声~

深夜の<井の頭公園>で一発の銃声が響く。パトロール中の若い警察官が巡査長と共に駆けつけると、美女を追って正体不明の殺し屋が池の対岸より現れる。対岸では外事課の二人の捜査員が死傷--。 立場上逃げることが許されない主人公の揺れ動く心を軸に物語が展開していきます。銃の訓練がほとんどないまま<戦場>に放り出され、逃げ出したいと思う生存本能と警察官の義務感の間を彷徨い、覚悟が育ってゆくところをお楽しみ下さい。銃や射撃での複雑な描写も省略することなく全力で挑戦してみました。銃に詳しい方からほとんど知らない方まで、ストーリーの邪魔にならないように配慮したつもりです。

  • 小説
  • 短編
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-09

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