F908i
富士通様、docomo様の商標使用に関する許諾を投稿者はいただいておりません。
*
「あなたの肉球が好きなの」と薫は言った。
「肉球?」と僕は問い返す。
テレビ通販で購入した低反発マットレスを敷いたクイーンサイズのベッドの上で、薫も僕も裸だった。
「指の先。やわらかくって、でも独特の弾力がある。もっと触って」と薫は歌うように言った。
「肉球って」と僕は、間接照明に照らされたオレンジ色の肌をたどりながら言う。「僕は猫じゃないよ。それに肉球ってのは指先にあるもんじゃない」
「じゃ、カエルの指先のまるっこい、プニュみたいなやつ」
「吸盤?」
「みたいなやつ」
「はりつくわけ?」
「はりつかないけど、気持ちいい」と言いながら薫は僕の手をとり、その指先で自分の頬をなでる。「魔法の指だよ。指の先から絶対なんか出てる」
「へんなの」と僕はいい加減に笑う。
「へんでもいいもん」と薫は幸せそうに笑う。「気持ちいいから」
時計は五時を指している。向かいのコンビニに朝一番のパンを運ぶトラックの音。踏み荒されていない雪のような、まだ手つかずの朝に僕らはいる。幸せと呼んで嘘のない、そんな一日が始まろうとしている。
結婚を来年に控えた僕らは、ひそやかに温かく互いを抱いていた。そして僕らは絡まりながら、低反発なまどろみの底に転がり落ちてゆく。春の河原でやわらかな芝を転がるように。
そんな平和はその翌週、僕の二十八回目の誕生日まで続いて、で、突然消滅した。
*
二十八回目の誕生日は水曜日だった。秋葉原のヨドバシカメラで朝十時、僕ら二人は待ち合わせた。
「すまんすまん」と僕は詫びる。「慣れない早起きに全身がストライキしちゃって、電車に乗り遅れて遅刻しました」
薫のたれ目が僕を見る。おかめを美人にしたような顔、と僕の友達が形容する薫の顔は、怒っていてもどこかユーモラスで、その真意をつかみにくい。
「ご立腹ですか?」と僕は訊ねる。
「誕生日に免じて」と薫は笑う。「一年に一度だけ特別に許す」
そして薫は先に立って、かねてから予定の場所に向かった。
そこは、一階携帯電話売り場のdocomoブースだった。
「富士通の新しいケータイを」と薫は、近くのセールスレディに声をかけて、「見せてください」と微笑んだ。
セールスレディはニッコリ笑って、僕らを案内してくれる。
薫の微笑みは、なぜだか同性に受けがよい。マシュマロのような白い頬をやわらかくタワませて、長い睫毛をキリンのようにシバタタかせれば、どんな女性も、姉のような面倒みのよさを発揮する。僕はそれを何度も見てきた。同性ゴロシのおかめ美人。と僕は薫を呼んでいる、勿論、心の中で。
「色も私が選ぶわね」と薫は僕に宣言し、案内されたディスプレイの前で、お目当ての機種F908iを手にとる。
「ピンクは無理かも」と心配になって僕。
「青、にいたします」と薫。「サントリーニ島の丸屋根みたいな、このブルー」
そんなふうにして薫は僕のために、誕生プレゼントを選んでくれた。
「ではこちらに、ご契約者様のご住所、お名前をご記入ください」とペンを渡されて僕は、薫に振り向き確認する。「新居の住所でいいのかな?」
「いいんじゃん? 来週には引越すんだし」
入籍を待たずに僕らは一緒に住み始める。
「だよね。えっと、東京都世田谷区」と言葉に出して新住所を書き込みながら僕は、世界に新しい風が吹いているのを感じ、気持ちよく思う。
青山太郎。と名前を書いて完成だ。セールスレディの顔を見る。「オッケー?」
書類にチェックを入れながらセールスレディは確認する。「海外でのご使用は?」
「可能にしてください」と薫が応える。
「ファミリー割引は?」
「マックスで」と薫が応える。
僕らは顔を見合わせて笑う。
「お誕生日おめでとう」
「どうもありがとう」
腕時計に目をやると、かれこれ十二時だ。「やべ。そろそろ行かなきゃ」
「うん。じゃ私は太郎の部屋によって、掃除とかしてから、それから実家に帰るから」
「退職してせっかくヒマなんだから、今夜は泊まってけばいいのに」
「便器が変わると出るもの出ないのよ」
生理は軽いが重い便秘に苦しんでいる薫ならではの発言だ。
「実家でスッキリ出したらまた明日来るからさ。それに太郎、今夜もどうせ遅いんじゃん?」
「すまんなあ。慌ただしくて」と僕は謝る。「今夜も食事とか一緒にできなくて、すまん」
「いいってことよ」と薫は胸を張ってみせる。「週末また、たっぷり絡まろーぜ」
了解。と僕は思う。
「じゃ失礼」と踵をかえした僕の背中に薫が言った。「今夜ハッピーバースデーのメール送るから。生まれたの夜だったよね」
「律義だな」
「二十二時三十三分」
「細かいな」
「最初のメールは私から、だといいな」
「だね」と返して僕は出社する。
新しいケータイに最初に入ったメールは、もちろん薫からではなかった。
*
〈青山さん。
今どこですか?
表紙のあおり、
スミシャドーじゃ重いって、
編集長がご立腹です。
助けてください。
岡崎〉
てなメールを僕の新しいケータイは、通勤途中の山手線車内で受信してしまった。
編集の仕事は朝から晩まで、どころか夢の中までケータイを手放せない。出社時間も退社時間も自由だし、ヒマがあれば映画をみようが、野球観戦をしようが、誰にも文句を言われない。かわりに、夜中に呼び出されても誰にも文句は言えない。そんな仕事だ。
編集部に着くと、今日もまた新入社員の岡崎が、涙目で僕の袖を掴み、打ち合わせブースに連れてゆく。
「参っちゃいますよ。これ待ち校なんです。印刷さんが隣のブースで待ってるんです」
待ち校とは、〆切ギリギリ、印刷直前の原稿チェックを、隣に印刷さんを待たせて行なわなきゃならない状況、つまり土壇場だ。
昨日岡崎の原稿は僕が確認してデスク印を押した。なのに今日、編集長から改めて直しが入ったというわけだ。表紙カラーのあおり文句[堂々、ビビりながらも新連載!]につけた黒い影のデザインが、編集長には気に入らなかったらしい。
「何色が合うのかわからないんですよ、僕」と岡崎は憔悴している。
アンパンのようにまん丸な顔が、カマキリのような三角顔に変形していた。
「文字が青、じゃんか」と僕は先輩面して指導する。「ハッキリ文字見せたいから、黒い影つけたんじゃん? だけどそれじゃあちと重いって、カバ太郎が吠えたわけだろ? なら、もちっと明るくて、青とバッティングしない影にすりゃあいいだけだよ」
「それが、わかんないんですよ」と、また岡崎。
若くしてメタボ気味の腹をなでながら、岡崎は途方に暮れている。
「青い空には白い雲。これ、ナチュラルに仲良しじゃん。さわやかじゃん。ビビッドじゃん」
「白、でいいですか?」
「神様が決めた相性だぜ。いーに決まってんだろが」と言って僕は、岡崎の肩を叩く。
「ありがとうございます!」と岡崎は、校正紙を持ってブースを走り出た。
ハコフグのようにかわいらしい、その慌てた背中を僕は見送った。
やれやれ。と思ったところでケータイが鳴る。
「はい、青山です」
「どもっ、カメラの伊藤です」とカメラマンからの電話だ。「明日のスタジオなんですけど、バックどうします?」
「グラペいらないです。白ケントでいいです。キリヌキだから」と答えて電話を終えると、また電話。
「ぁのう?、小林っすけどぉー」とデビュー間もない漫画家から。「えっとー、今夜ジョナサンで、んと、二十三時の約束、あの、無理かもです」
打ち合わせまでにラフが上がらないのだ。
「何時なら大丈夫?」
「てっぺん越えるくらいには、えっと、たぶん」
「わかった。零時に行くから。あ、言ったと思うけど、今月ヒロインには喋らせすぎんなよ。寡黙に徹するように」
「え、カモクって?」
ああ、めんどい。と失礼ながら心は呟く。
「吹き出し、自分でいいと思った数から十減らせ。じゃ零時な」と言って電話を切る。
席に向かう途中、鉢合わせた部長に会釈すると、「おう、青山!」と呼びとめられた。
「来週の新人漫画賞授賞式な、オマエ司会やれ」
「了解っす」
「式のあとの宴会も、店おさえとけよ。あ、岡崎は脱がすなよ。新人作家が哀しむからよ」
「チンポは三次会から解禁ってことで」と曖昧に笑いながら僕は部長を振りきる。
席に着くと書類の山、原稿の山。「ミッちゃん、これコピー三セット、一枚目だけカラコで」とバイトさんに書類を渡し、ライターが書いた小学生級のキャプションネームに赤を入れながら、ポケットに常備のカロリーメイトをかじる。
「青山!」と斜め後方から編集長。「ガキのオモリ、しっかりやれよ」
「岡崎っすか」
「おう、二十四色の色鉛筆買ってやれ。カラーチャートなんて百年早い」
「了解しました?」
ったく、自分の仕事だけでパツパツなのに子守りなんてできっかよ、と心で呟く間もなく、ケータイが鳴る。「はい、青山です」
*
こんな仕事を続けて六年半、昼起きてから朝眠るまで、携帯電話は手放せない。目に見えない縦の線、横の線、斜めの線が、ときにこんがらがったり、もんどりうったりしながら、僕に繋がる。僕は点になれない。
ときどき思う。僕ってなんだろう? 僕は本当に独立した存在なんだろうか、僕とはむしろ関係性そのものなんじゃなかろうか?
僕のまわりはいつだって、ネットワークな喧騒に満ちている。僕が静かになれるのはベッドの上だけだ。薫と二人きりでいるとき、やっと僕は僕でいられる。なにものにも繋がっていない純全たる僕。裸の僕こそ本当の僕だ。
彼女と一緒にいられる時間がほとんどなくて、よくまあ寂しくないものだ、とこれは主として女性から言われる。ライターやデザイナーの女性と深夜に打ち合わせをしていたりすると、だいたいそんな話になる。つまり彼女たちが寂しいのだ。彼氏に会えず、真夜中に僕みたいな編集と二人で、脳味噌を雑巾のように絞るゲームを続けていることに、それとなく不平を漏らしているに違いない。あたかも僕の寂しさであるかのように、自分の寂しさを表現しているのだ。すまないと思う。カリフォルニアオレンジみたいな彼女たちの夜を、こんな仕事で潰してしまって申し訳ない。でも仕方ない。それがわかっていて彼女たちはこの世界に入ったのだし、それが嫌ならいつだってここをあとにすればいいだけだ。好きだという気持ち、それがなかったら、ここにいたってしょうがない。
ともあれ。僕は寂しくなんかない。と僕は思う。僕が僕を取り戻すのは薫といるときだけだ。薫のいないところに僕はない。だから存在してない僕は寂しくないし、僕が存在するときは、いつも傍らに薫がいるから、寂しくない。
僕がそう話した夜、デザイナーは言った。ロマンよねえ。そして続けた。でもカラダはまた別なんでしょ、カラダが寂しい夜とかは、ないの? とかなんとか。
あるよ。と僕は応えた。
自分でするの? とか、かなりセクシュアルなことを彼女は続けて言ったと思う。
深夜に脳を酷使していると、ときにナチュラルハイになる。男女が密室で、深夜に顔を付き合わせて、ややこしい作業を延々と続けていたりすれれば、ときにセクシーな気分にもなる。脳からおそらく、苦しみを和らげるキノコの成分みたいなものが、分泌されていたりするのだろう。
自分でするの? と問われて僕は、少なからず動揺したが、それを表には出さずにこう応えた。するよ。でもそれは僕のカラダであって、本当の僕ではない。
難しい言葉ではぐらかそうなんて試みは、そんな場面においては大抵空しい。ピリピリと張った神経に難解な刺激を与えると、かえってリビドーだかなんだかは、熱く脈打つみたいだ。嘘だと思うなら試してみてほしい。哲学書片手に女を抱けば、バイアグラなんかよりずっと顕著な効果を得るだろう。
なわけで、デザイナーは言った。そのカラダ、今夜は私のカラダで世話してあげよっか?
とかエロ小説みたいに会話が流れた。
小説みたいだが、よくある実話である。
ともあれともあれ。ヤクザな仕事を続けて六年半、エロな展開をそれ以上に進展させてしまったことは、僕の場合、一回半しかない。半というのが何であるかは、めんどいので語らない。自由に想像してやってほしい。ヤってしまった一回は、そのとき仕事が忙しくて一ヶ月も出してなかったし、それに相手があまりにとても魅力的だったから、ついフラフラと。
とはいえ。断言するけどそれは、薫と付き合う前のこと。薫と寝るようになってから僕は、仕事相手とに限らず火遊びはしていない。主として哲学的な理由から。存在してないものがセックスするなんて変なのだ。
切り離されたカラダがヤるのを、存在してない心が止めるだなんて、原理的に不可能だろうと、そんなふうに理知的に、あのときデザイナーは僕を導いたが、僕はその手を丁寧に拒み、首を振った。
離れていても彼女と僕は、一本の線で繋がっていることに気が付いたのです。と僕は説明した。彼女のカラダが遠くにあるとき、そのぶん僕の心は薄くはあるけど、ゼロではないのです。
とか、お経のように唱えながら僕は、ジーンズの左ポケットから携帯電話を取り出し、デザイナーに見せた。線はここに繋がっているのです、いつだって。と僕は語った。線とはすなわち赤い糸。糸一本分、僕の心は喧騒の中でも目覚めているのです。みたいな。
デザイナーは言ったっけ。てゆーか、それって首輪でしょ。赤い糸じゃなくって赤い首輪。飼いならされて繋がれたってことよ。
僕の言いたかったことはそれとは全く別のことだったのだけれど、話がこじれてしまってもなんなので、僕はこう言ってその話を締めくくった。以上の話を携帯電話関連のPRに仕立てて、デザインからの逆提案で、宣伝部に提出してみるのはいかがですか?
*
夜九時、新人漫画家のラフ原稿をチェックしている僕に、岡崎が声をかける。「青山さん、忙しいですか? ご飯どうですか?」
「おういいよ、行こうか」と僕は席を立ち、デスクのわきに丸めた上着を掴む。
飯を食い、軽くアルコールなんかも流し込み、気分転換をすることにしよう。と僕は思う。わざわざ誘ってくる岡崎の話も、ちゃんと聞いてやらなければならない。
そんなこんなで僕らは、街を一ブロックほど歩き、地下への階段を降り、馴染みの店、Bar BLUEのスツールに腰を落ちつけた。
「やあやあ太郎くん、お疲れさま」と馴染みのバーテンがお絞りをよこす。
「どうも太郎さん」と僕は笑ってお絞りを受け取る。
バーテンは僕と同じく太郎という名前だ。ここでは互いに太郎と呼びあっている。歳上の彼が太郎さん、歳下の僕が太郎くん。
「ねえ青山さん、例のラノベの劇場版のことですけど」と、注文したヒナノを飲みながら岡崎が言う。
「おう」とギロチンを飲みながら僕は応える。
「エンディング、やっぱり変えられちゃうみたいですよ」
僕らの雑誌は漫画を中心に据えた、少年向けの総合エンターテイメント誌だ。岡崎の言うライトノベルは、アキバ層に根強いファンを持つ作品で、来年映画になって公開される。
岡崎はその作品の情報ページを担当しているのだが、原作者の意向に反して製作委員会が、劇場版のエンディングをいじろうとしていることに、原作者ともども強い不満を感じているのだった。
「残念だが、やむを得ないだろう」と、シーザーサラダにフォークを立てながら僕は応える。「セカンドヒロインが死んで終わるような話じゃ、映画みたファンが、どんな顔して劇場出ていいのかわからんもんな」
「だって必然性があるんですよ、あのエンディングには」と岡崎は口を尖らせる。
「カタルシスがない」
「口あたりのいい終わりかたに直されたら、テーマそのものが歪んじゃいます」と、オイルサーディンに頬を膨らませながら岡崎は反論する。原作者の口調をそのまま真似てる恰好だ。
「劇場版ってのには金がかかってるからな。テキストな原作にかかるコストとは比べものにならない。それにね」と僕は太郎さんに指を立て、レッドフックを注文してから続ける。「言っちゃあなんだが、ファンはオマエや先生ほどには賢くない。原作ラノベのファンだって、先生のテーマに燃えてるわけじゃねーんだよ、残念ながら。ユイのパンツやハルカの暴力に萌えてるんだ。ユイが死んだらファンはシラケる。委員会の判断は商売として正しい」
「だったら向田先生の作品テーマは不要だってことですか?」とボヤきながら岡崎は、チーズのクアトロピザをカットする。
「そうじゃねえよ。あのテーマがあっての作品だ。あれのない作品に価値はない。でもな」と僕はピザをつまむ。「でも大衆のみなさんってのは、価値ある表現を世界に向けてリリースするための、いわばスポンサーさんだ。一部のわかってくれる受け手のためにも、大多数のわかってくれないスポンサーさんの趣味を、大切にしなくてはならない」
「堕落ではないですか?」
「ではなくて、戦略だ」
「商売重視?」
「商売の利用だ」
「でも委員会のヤツらったら偉そうなんですよ。自分たちで作ったわけでもないのに」
「ヤツらがモノ作りを甘くみるなら、それはヤツらの愚かさだ。ヤツらの商売を甘くみるなら、それはオマエの愚かさだ」
アルコールに弱い岡崎は、スズメのように頬を染め、アヒルのように口をめくると、ぷいっとトイレに立った。岡崎の丸くて小柄な背中がハリセンボンのように尖って見えた。
店に流れるアルゼンチンタンゴに僕は気がついた。
「太郎くんも大人になったね」という太郎さんの声がタンゴに被る。「最初にここに来た頃は、太郎くんがあの新人くんみたいに吠えてたよ」
「青かったっす」と僕は頬を緩める。
「そんな太郎くんも、来年には結婚か」と太郎さん。
「今度また連れてきますよ、薫。太郎さんのマッシュルームサラダが恋しいみたいだから」
太郎さんは口元に三日月を浮かべて頷いた。
「そだそだ」と、そこに戻ってきた岡崎が、戻る途中に会話を聞いていたのか、座るやいなや口を挟む。「来年早々でしたよね。盛大にパーティーやりますから」
ハリセンボンの空気はもう抜けている。
「パンツは脱ぐなよ」と僕は諫める。
「ダメですか?」と岡崎は眉を寄せる。
「薫に比べられたらヤだから」
「ちっちゃいんですか?」と眉を開いて岡崎。
「オマエのモノほど巨大ではない」
「岡崎さんの大きいの?」と太郎さん。
「見せましょうか?」とベルトに手をやる岡崎を、僕は慌てて制止する。「やめとけ。ソーセージがマズくなる」
僕らは笑った。
平和だな。と僕は感じる。そしてその平和が、僕に薫を連想させる。そうだ。今、何時だろう? 僕はジーンズのポケットからケータイを引っ張り出す。
「あれ青山さん、ケータイ変えました?」と目ざとく岡崎。
「おう。今日変えた。誕生プレゼントだったんだ、薫からの」と言いながら僕はケータイを開く。
「誕生日だったんですか?」と声を揃える岡崎と太郎さんに僕は応えず、あっと驚く。「しまった。ここ圏外じゃん。やべ。もう二十三時になる」
「零時に練馬でしょ?」
「じゃなくて」
職業がら僕は、ケータイ依存症だ。電波の通じない時間はどこにいても、なんだか不安で落ちつかない。けれども今日は、それとはまた別だ。僕の生まれた二十二時三十三分。薫は僕に、一番乗りのつもりのメールを入れたに違いない。
「ごめん。ちょっとメール、問い合わせくる」と言い残して僕は席を立つ。
「階段、気をつけて」と背中にかかる岡崎の声にヒラリと手を降って僕は思う。おまえほど安くは酔えないよ。
外に出ると三日月が、笑顔で僕を迎えてくれる。デジャヴだ。なんだか違う時間が流れている。ような気がした。酔ったかな。ま、いいか。
メールの着信を調べる。おかしいな。着信していない。かわりに電話の着信が、非通知で続けざまになんと五件。漫画家からだろうか? 留守番電話センターに問い合わせるが、用件は録音されていない。
おかしいなと思い、漫画家にコールするが、電話はよこしていないという。編集部にかけても、誰も心あたりはないらしい。
ま、いいか。とまた僕は思い、月を見上げて笑い返す。
ケータイをポケットに入れ、再び店に戻り、支払いを済ませる。
「ご馳走さまでした」と岡崎。
「オマエ、編集部戻るか?」
「はい」
「じゃ俺、このまま練馬行って直帰すっから、ボードにそう書いといて。それから俺宛てになんかあったら、ケータイに頼むわ」
了解しました。と岡崎は応える。
太郎さんにおやすみを言って店を出て、タクシーをつかまえて僕は、待ち合わせのジョナサンに向かった。
確かに時間の流れがおかしい。ような気がした。でもまあ、いいか。とやはり僕はそう思った。
タクシーの中、薫の番号をダイヤルした。留守電に繋がった。
風呂かな?
僕は目を閉じ暫く眠った。
*
練馬の打ち合わせを、多少胃を痛めながらもなんとかこなし、再びタクシーで帰宅したのは深夜の三時だった。
「遅かったか」と部屋に入り僕は僕に言う。
誕生日はすでに昨日に去ってしまっていた。
部屋に入って驚いたのは、部屋が幼稚園の様相を呈していたこと。折り紙で作った鎖状の飾りが、室内をカラフルに彩っていた。壁には、ミッキーにミニーがキスしているポスター。
そのポスターにピンクのポスカで書かれていたのは、こんな言葉。
Love & Love! おめでと! 愛してるるんが、るん! カオルルルル?!
ハイなメッセージだな。と僕は思う。
上着を脱ぎ冷蔵庫を開ける。好物のシメイブルーが二本。そして、真っ白にクリームを塗りたくったバースデーケーキ。
チョコで描かれた文字を読む。
おつかれさま。おめでとさん。Love!
掃除に立ち寄るなんて言ってた薫が、日中仕込んだものなのだろう。相変わらずの、過剰なまでの愛情表現。とはいえ。悪くはない。
あまり会えなくて申し訳ない。と、心の中で僕は詫びる。
時間が時間だし、明日も薫は部屋に来る。電話は控えてメールを送る。
〈遅くなってごめん。
今帰りました。
このメールは明日の朝読んでください。
リビドー全開の、温かいメッセージ嬉しいです。
週末は一緒にいよう。
明日昼に電話を入れるよ。
ありがとう。
おやすみなさい。〉
テーブルの上のカードに気がついた。カードを開ける。
やれやれ。と僕は笑う。
そこにあったのは一枚の写真と、こんなメッセージ。
[おつかれさま。シメイの栓を抜いたら、今夜は私で太郎も抜いてね(ハートマーク)]
写真は、バストアップでヌードの薫。自分を抱えるように抱き締めて、アヒルのような唇を突き出して、ウィンクしている。色気のカケラもない、おフザケ写真だ。
さすがにコレでは抜けないよ。と心の中で僕は呟き、シャワールームに向かった。
*
次の朝目覚めると、空は快晴。
朝、といっても十一時だけど。僕は熱いシャワーで完全覚醒し、メモ帳を開いてその日の予定に目を走らせ、ケータイの受信履歴がまだないことを確認してから、上着を担いで部屋を出る。
陽射しの中を歩きながら口笛を吹く。頭上の太陽を見上げ、心の中で軽く手を合わせる。僕の人生、目下まあまあの幸せだ。今夜帰ったら二本目のシメイを飲もう。
出社を待たずに開戦。ケータイが鳴る。
「あのぅ、オレですけど」と漫画家だ。「昨日のネームの直し、できたんで、ファックスしました」
「お疲れさま。今から出社だから、会社着いたらすぐ見るよ」と電話を切るとまた電話。
僕の起床時間を知っている業界関係者は、午前中の電話は一応遠慮しているようだ。昼になると、待ちかねたように連絡のラッシュ。
「今日のスタジオですけど」とカメラマン。「車、地下に入れていいっすか?」
「入れてください。満車なら新ビル前のコインパーキングに。領収書忘れずに」と言ってるうちに、キャッチホン。
カメラマンからの電話を切ると、岡崎の声。「青山さん、早く来てください。大変なんです」
オマエはいつも大変なんだな。「すぐ行くよ。待ってろ」
空には太陽。
いつもとかわらない一日が始まった。
会社に着いて、岡崎の手当を終えると十二時半。
薫に電話しとこう。そう思いついて僕は、ケータイ片手に、エレベーターで屋上に向かう。
ここでなら、恥ずかしい電話になっても大丈夫。
空が青い。僕は戦場でほんの束の間、僕自身に戻る。空に白い月を探すが見当たらない。
薫のナンバーを押す。呼び出し音が続き、留守電に繋がる。一度切ってかけ直すことにする。
自販機で缶コーヒーを買い、ぼんやりと雲を眺める。
そしてまた薫に電話する。が、再び長めの呼び出し音。やはり留守電に繋がる。
「もしもーし。太郎くんです。昨日はありがと。また電話するよ」と伝言を残す。
午後、韓国に電話する。韓国在住の韓国人漫画家の、マネージャー兼通訳を呼び出す。
韓国人作家とは面識がない。かれこれ一年の連載を続けているが、面と向かって会ってはいない。腕は確かだし、通訳を介してのコミュニケーションも密だ。日本語で送るメールには、作品の内容のみならず、互いの日常、家族関係に関わる雑談、励まし、叱咤、ときには呪い、なんて様々な思いもこめられる。韓国人作家の彼女と僕は、岡崎と僕との関係よりも、はるかに深くて濃い関係を、メールと翻訳によって築いていた。その顔は写真でしか知らず、その声は聞いたことがないのにも関わらず。情報産業のただ中にある、情報的関係。
不思議なことだ。と、ときどき思う。彼女には本当に肉体があるのだろうか? 毎月送られてくる漫画原稿は、本当に彼女の手が描いているのだろうか?
通訳は作家から僕への、誕生日を祝う伝言を伝えた。それと、来年早々に迫った僕の結婚について、漫画の参考になるかもしれないので、その詳しい状況とそれに対する僕の思いをメールで伝えてほしいと、そんな伝言も。
僕は作家のマネージャーに、先月の人気状況について伝言し、詳しくは夜のメールを訳してほしい旨伝えて電話を終えた。
夕方、ライターとの簡単な打ち合わせを終えて喫茶店を出ると、ビルの谷間を赤く染める夕日が、強烈な印象で目に飛び込んできた。
その赤が、僕に何かを思わせる。心の、どこか深いところに突き刺さるような、不穏な赤。
ケータイが鳴った。
「はい、青山です」と応えると、一拍置いてかすれたような声が聞こえる。「もしもし?」
「おう薫か」と僕は原稿袋を小脇に抱えなおして、月の声で応える。「プレゼント有難う。あのさ」
「太郎ちゃん?」
あれ、薫じゃないのかな?
「薫の母です」
なんだ、薫のママさんか。と僕は納得する。「すみません。太郎です。似てますね、薫の声に」
「太郎ちゃん」
不穏な赤を、僕は見上げる。「はい?」
「あのね、薫ね」
何かあったか? 血管に流れこむ、赤。密度を濃くしてゆく。
「薫、どうかしたんですか?」
聞きたくない。わかってた、ような気がする。今朝起きたときから。心のどこかで、問いの答えを知っていた。知らないフリして、太陽とともに運行してただけだ。
天空を見上げると、濃紺に染まりゆく空とのコントラストで、その存在を強めてゆく月。
「死んじゃった」
*
タクシーで辿り着くと薫の実家岡野家は、木枯らしに吹かれて身を縮める猫のように沈黙していた。
先週までは暖かな団欒の空間であった応接間で僕は、薫の両親の向かいに、凍えた仕草で座っている。
薫はその日僕の部屋を、幼稚園の無邪気さにアレンジしたのち、実家に帰った。
夕食の席で薫の父は、薫にドンペリニヨンを見せたとのこと。
「わたしのせいです。わたしがあんなものを出さなければ」と薫の父は泣いた。
僕と薫の、来年に迫った結婚の祝いと、そしてあの日の僕の誕生祝いを兼ねて、薫の父はドンペリニヨンなんて用意していたのだ。
なんだ、太郎くんは今日も仕事か、一緒にウチで誕生日を祝えるかと思って、祝いの酒を買っておいたのに。なんて語ったであろう父に向かって、夕食を終えると薫は言ったそうだ。これ、今から届けてくるよ。帰宅して冷蔵庫をあけたら、太郎すごく喜ぶだろうから。
ありがとうね、パパ。と、薫は父親にキスをして、愛車に乗りこんだのだという。
薫の愛車は空色のミニ。まだBMWに買収される前の、ローバー製のミニだった。
薫と僕との初めてのデートは映画館だった。その劇中でヒロインが乗っていた車を、薫はなぜだか一目で気に入った。それが空色のミニだった。その後半年をかけて薫は、中古車市場をくまなく探しまわり、そして目的の一台をやっと見つけ出したのだった。
旧式のMINI-mayfair。サスペンションはゴム製、インジェクション仕様になる前の、古き佳きキャブレター時代のオールドミニだ。すなわち小さく、すなわちボルボの対極に位置する。外装がペコペコだってこと。
想像したくなんかなかったけれど、ご両親からの話をうかがいながら、僕の頭にはビビッドな映像が、気持ちに逆らえず流れた。
薫の空色の小さなミニが、コバルトブルーのリボンをつけたドンペリを後部座席に寝かせて、夜の街を走る。
給油を終えたスタンドで、そのまま眠りこんでしまうような年老いたエンジンが、今夜ばかりはとその老体に自らムチうつ。
高原に向かう夏の中央自動車道では、暑さと坂道に耐えきれず、走行しながら気絶してしまうような要注意のエンジン。そんなエンジンを労るために薫は、真夏でも窓をあけ、クーラーはつけずにヒーターをつけた。すなわちエンジンルームを相対的に冷やすべく人間が犠牲になるわけだ。
それでもミニはときに動けなくなった。ミニが固まってしまったようなそんなとき、薫はいつもそのハンドルに、ドーナツのように手をまわし、優しく語りかけていた。
体調悪いの? 大丈夫?
しばらく愛車を休ませてから薫は、再びハンドルに手をまわし、そのセンターにキスをして問いかける。どうかな? 頑張れる?
そうしてキーを回すと、なんたることか、その老いぼれマシンはブルンと復調するのだった。
コイツ、わかってんのかな? とミニを示して僕が呆れると、薫はニンマリ笑って応えたものだ。あたり前じゃん。長い付き合いだし、私このコを愛してるもん。
気持ち一発。これが薫の口癖だった。
おそらくあの日も、薫の手綱に導かれ、空色のミニは全力で頑張ったことだろう。だが以心伝心の愛馬も、交差点を赤信号で犯す巨大なトレーラーに対しては無力であった。トレーラーに潰され、そのトラストに引き摺られ五十メートルも運ばれたミニは、クズテツ同様になって息絶えた。割れた瓶から流れ出るドンペリニヨンの香り。薫の感覚器官がとらえたこの世の最後の記憶は、僕のバースデーを祝う香りであったのかもしれない。
事故を伝える両親からの電波が、僕のケータイを目指して飛んだとき、僕のケータイは地下のバーに沈んでいた。
あの日の五件の不在着信。薫のミニが砕けた時間、僕は地下で酒を飲んでいたのだ。帰宅して僕がメルヘンな部屋に驚き、シメイの栓を抜き、エロさの足りないヌードに顔をしかめていたその頃には、すでに薫は世界から消えていた。
何も感じなかった。不思議なことだが僕は何も感じることができなかった。
全否定。事実に対する全身全霊の絶対的否定。
*
翌日僕はいつものように、太陽が天頂に到達する少し前に目覚め、歯を磨き、アレカヤシに水をやり、アカヒレの小瓶にエサをまき、ケータイをジーンズの左ポケットに突っ込んで出社した。
口笛こそ吹かなかったけど、悲しくはなかった。空は青かった。
会社では入稿マシーンとなって仕事をこなした。自分のカラダに自分がいなかった。
でも深夜、岡崎と二人で奥付の読み合わせをしているとき、岡崎に怪訝そうに指摘された。「どうして泣いてるんですか?」
「泣いてる?」
頬に手をやると、濡れていて驚いた。
僕が知らんフリをしていても僕の心は、深いところでちゃんと哀しんでいたのだ。認めてしまったのか、薫の消滅を、僕の心は。
それからだった。僕のカラダに異変が起きたのは。
読み合わせを終えた僕はケータイにせっつかれ、ジーンズの左ポケットに手をやる。ケータイを開き耳にあて、「はい」と応えようとして僕は沈黙した。
「青山さん? 来月のラフっすけどねー」と漫画家の声。懐かしいな。なんておかしなことだけど僕はそんなふうに思う。「あと二時間ほどかかっちゃうんで、えと、すんません、今夜はまだいますか? それとも自宅にファックスしましょうか?」
まだいるよ。編集部に送ってくれ。と返そうとして異変に気づいた。
「ま」
「はい?」
声が。
「青山さん?」
出ない!
声が出ない。声が出ないのだった。
そんなふうにして僕は声を失った。と書くのは正確ではない。
例えば吉野屋に入ったとする。牛丼の並を注文したい。すると。「並」と声が出た。
例えば岡崎に、どうしたんですか? と訊かれる。
「いや声がな、出なくて」って、あれ?
「出てるじゃないですか」
例えば、デスクからデザイナーに電話をかける。「もしもし、って、あれ? 出てるじゃん?」
「もしもし? どちら様ですか? 出てるって何が?」
とまあ、こんな具合。
いろいろ試してルールがわかった。ケータイを使って喋れない。でも他は大丈夫。F908iを使っての送話と受話だけ、僕は声を失うらしい。
*
精神科なんて初めて受診した。精神科の待合室は、病院というよりホテルのロビーのようだった。診察室はまるでカフェのようで、かえって僕は緊張した。診察してくれたのは、精神科医というものに、僕が根拠もなく抱いていたイメージどおりの、山羊のようなルックスの医者だった。
「仕事に携帯電話を使いますか?」と山羊は訊いた。
「非常に使います」と僕は答えた。対話するとき声は出る。
「仕事、忙しい?」
「非常に忙しいです」
「それだ」と医者は応えた。
それか? と僕は驚いた。
「そのうち自然と治ります」と山羊は言った。「携帯電話を使っての仕事は、暫く控えてください」
そんなわけでそれから僕は、日に百本ほどのメールを打つことになった。勿論パケホーダイに切り替えた。
不思議なことだが仕事の連絡でも、メールであれば拒否反応はゼロだった。
僕は女子高生よりも速打ちのサラリーマンになった。僕はまだしも、僕宛ての用件を、いちいちメールで送信しなくてはならない相手は、実に大変だったと思う。
喉を患ってしまったため暫くはメールでご連絡くださいと、その旨僕は、関係者すべてに一斉送信をした。
それでも最初の半月ほどは、かかってきた電話に沈黙で応対する日々が続いた。
が、ひと月もするとすべての関係者はメールのスキルをあげた。慣れてしまえば特に不便もない。
医者は、それでよいのです、と言った。忘れたころに声は戻ります、と笑った。
*
僕の仕事は社内にいることがほとんどない。入稿原稿を書き、校正原稿に赤を入れ、PCで伝票処理をするときを除けば外にいる。外で誰かと打ち合わせをして、飯を食い、酒を飲む。スタジオで撮影し、試写を観て、インタビューをとり、取材をする。
誰かと一緒にいても膨大な情報は、五分刻みでケータイめがけて押し寄せる。絡みつくネットワーク。情報的アイビー。
僕の身辺はいくらか静かになった。原稿書きや伝票整理は無言の作業だし、対面でうるさく打ち合わせをしていても、五分刻みでメールを読み、メールを作成する、そのときは無言だ。そのあいだ対面者も沈黙する。
受験生だったころに右手中指にあったペンダコは、気がつけばいつしか消えていたけれど、かわって今回僕の親指には、なんとキーダコができた。タイプライターのキーを壊して、しょっちゅう買い替えたという文豪の話は聞いたことがあるが、携帯電話のキーを壊すほど、ひたすらメールを書いたサラリーマンの話は聞いたことがない。
それでもF908iは、壊れずに活躍し続けた。僕が優しくキー操作をしたからだ。薫からもらったケータイを僕は、恋人のように優しく扱ったのだ。素早く、しかし優しい、流れるようなキータッチ。メールスタイルコンテスト、なんてのが、もしあったなら、間違いなく僕は優勝できる。と僕は言いたい。そんなわけで、薫が誉めてくれた肉球は、ケータイを日に何万回も愛撫した。
そのためだろう。薫の喪にふくするケナゲな僕に、おかしなストーカーが絡みつくようになったのは、おそらくは、そのためなのだ。
*
ある晴れた日曜日の夕方。
自宅マンション三十階のベランダで僕は、オレンジ色に染まる空を見ながら呆然としていた。
すると僕のポケットで、携帯電話が震えた。医者に勧められて僕は、通話もメールもこのところ、ずっとバイブで受けていたのだ。
バイブのパターンで僕は思う。メールじゃない。電話だ。いまだに電話で連絡してくるヤツがいる。
医者のみたてと違って僕は、プライベートの電話に対しても、声を出すことができなかった。
震えるF908iを、僕は苦手な人参を見るように眺めた。
不思議なことだ。液晶画面に、発信元のナンバーが表示されていない。非通知、とさえも表示されていない。無視してやろうかとも思ったが、ふと、薫の実家からの連絡ではないかと僕は思った。
薫を失った僕に、ご両親は言った。「薫のことは、どうか忘れてください」
太郎くんはまだ若いのだから、いつまでも薫への気持ちを引き摺っていてはいけない。と薫の父親は、痛々しい怪我を負った子猫を見るような目をして僕に語った。薫の亡骸はとてもお見せできるようなものではない。と薫の母は泣いた。変わり果てたカラダを、薫も見られたくはないだろうからと、葬儀は家族のみでとりおこなわれた。
仏壇の前に行くことも、墓前を訪ねることも、僕はご両親に言われて遠慮していた。太郎ちゃんには新しい人生を歩んでほしいから。とママさんに泣かれて僕も泣いた。
一年経って、二十九歳の誕生日を迎えたら、僕は薫の墓前を訪ね、不謹慎かもしれないが、薫の好きだったピンクのガーベラを供え、ドンペリをともに飲もうと思う。それまで僕は喪にふくす。そしてそのあと僕は、薫を忘れる。僕の言葉に薫の両親はさめざめと泣き、何度も何度も頭をさげた。
薫のご両親からの、薫に関する電話ではないか、と直感して僕は、ケータイを素早く耳にあてた。
でも僕は喋れない。やむを得ず、無言で相手の声を待つ。
と。
聞こえてきたのはなんと、こんな台詞。「ねえねえ、気持ちいいわねー、あなたのタッチ」
若い女の声。その声に心あたりはない。
「聞いてんの? なんか言ってよ」
「言いたくても言えねーんだよ!」と、思わず僕は声を荒らげた。失礼な電話だ。挨拶も抜きで、いきなり何を言いやがる。「まちがえてんぞ。かけなおせ!」と乱暴に言って僕は、電話を切った。
すかさずまた震えるケータイ。発信者の表示はなし。
おいおい、またかよ。と、うんざりしながら僕は電話に出る。
「あのなあ、番号よく見て……」と言いかけて、僕は気がついた。って、あれ? 声、出てるじゃん。
僕は久しぶりに、ケータイを片手に喋っていた。
「なによー」と電話は不満な声を出す。「勝手に切らないでよ。失礼ね!」
「いや、あの、いきなりのまちがい電話だったから」と僕は頓珍漢なことを言う。予告つきのまちがい電話があるものか。「だから、ちょっとイラだっちゃって、で、いや、ありがとう」
「あんたバカなの?」と電話の声は言う。「ごめんなさい、でしょ。ありがとう、じゃなくて」
「ちがうよ。そうじゃなくて。お陰で声が出るようになったから。って言ってもわかんないよね、いや、実は僕はね……」
「知ってるわよ。電話で喋れないんでしょ。なってないったらありゃしない」
なぜだ?
思うと同時に声が出た。「なぜ知ってる?」
「ずっと一緒にいたんだから」と声は応える。「知らないわけないじゃん。あんたバカー?」
僕は混乱する。いったい誰だろう?
バイトの女の子。は、こんな乱暴な喋り方はしない。デザイナー。漫画家。と僕は順番に思いをめぐらせるが、思い当たる相手はいない。この声を僕は知らない。
「あの、すみません」と僕は訊ねる。「どちらさまですか?」
「って、あのねー! 今さらどちらさまはないでしょう? 毎日、毎晩、あたしをかわいがっておいて」
かわいがる?
「ごめんよ。やっぱりまちがい電話みたいだ。僕の電話番号は、ええとね……」
「あんた、なに言ってんの? あたしがあたしに、かけまちがうわけ、ないでしょが!」
私が私に?
「あの、もしもし?」
「はいはい?」
「イタズラですか?」
「あんたねー!」
そんなふうにして僕は声を取り戻し、かわりに正気を失った。
*
山羊の医者を前にして、僕は慎重に言葉を選びながら、事態の一部始終を語った。
耳をたてんばかりの注意深さで、医者は僕の話を最後まで聞き、そしてその細い目をさらにいっそう細めると、しわがれ声で確認をした。「つまりあなたは名前も知らない女性から、頻繁に電話を受けるようになったと、そういうことですか?」
「はい」と僕は応える。
医者はまるで滝が落ちるような勢いで、その肩から一気に力を抜くと、僕に向かってこう言った。「そういったことは医者じゃなくて、警察に相談したほうが……」
そうではない。
そうではなくて。と僕は、恥をしのんで、言葉を選ばず、やむを得ず、医者にありのままをそのまま語り直した。
僕が語り終えると医者は、声の消失を診たときよりも、はるかに真剣な表情で頷いた。そして訊ねた。「その女性はあなたのすべてを知っていると、そういうことですか?」
恥ずかしい。医者は完全に、壊れた人間を見る目で僕を見ている。
「いやホント、ありえないことなんですけど、でも、そうなんです。僕のすべての言動を、彼女はなぜだか知っていて」
「なぜだと思いますか?」と山羊は訊く。
「それは」と僕は、穴を掘って埋まってしまいたい心境でそれに応える。「それは、いつも一緒にいるから」
「どこに?」
「ここに」と僕はジーンズの左ポケットから、エーゲブルーの携帯電話を取り出して、医者に見せた。
忘れないだろう。僕は生涯忘れない。あのときの、医者が浮かべたあの驚愕の表情を。
僕は軽く百項目ほどの問診に応え、血を抜かれ、電子ジャーの親分みたいな機械に頭を突っ込み、年末の道路工事のような不快な音を聞かされたあげく、ついには親を呼べとまで言われた。
こんなことを、親に聞かせるわけにはいかない。息子さんは携帯電話にストーカーされる病気です、だなんて。
親はいない、と応えて僕は、慌てて病院を逃げ出した。
追いかけられて捕まって、入院させられたらどうしよう?
なんて暫くの間は不安でしょうがなかったけれど、そんな事態にはならなかった。
日常生活になんの支障もなかったからだ。
ストーカーを相手に携帯電話を使って喋れること、そして、ストーカー以外の誰とも携帯電話を使って喋れないこと、そのふたつを除けば、失恋の痛手を抱えてはいても、僕はいたってノーマルだったのだ。
声のストライキは相変わらず継続していたので、山羊の医者は怖かったけれど、僕は定期的に病院を訪れた。
山羊は首を捻っていたが、あるとき僕が薫の事故について語ると、少しだけほっとした表情になり、そして僕を叱った。「そんな大事なことを、なぜ今の今まで内緒にしていたの?」
内緒にしていたわけじゃない、プライベートなことだから話さなかっただけだ。そう言うと、医者はおかしそうに笑った。精神科医にプライバシーを晒さない患者なんて、パンツを脱がないソープランドの客みたいなもんだ。
ともあれ。医者の診断はこうだ。
死んだ恋人からのプレゼントだったその携帯電話に、患者は深く固着している。無意識のレベルにおいて。
無意識。と僕は思った。いかにも精神科医の言いそうなことだった。
プライベートそのもの、といってもいいような恋人を失って、患者はひどく傷ついている。そのため患者は、その恋人以外の他者とのコミュニケーションを、とりわけ携帯電話を使ってのコミュニケーションを、すなわち恋人との思い出に上書きされるあらゆる関係性の構築を、無意識のうちに拒絶している。
なるほど。と僕は思った。もっともらしい説明に聞こえた。
だから時がきて、亡き恋人への思いが絶たれれば、患者の声も戻るだろう。
時がきて。と僕は思った。それは実に哀しく響いた。
だが一方で、患者の若くて健康な肉体は、新たな女性との、プライベートで親密な関係を求めている。亡き恋人への誠意もあって、意識はそれを否認しているが、無意識はそれを渇望している。そんな患者の内的葛藤が、患者に幻の女性をもたらした。
つまりはこういうことだ。と僕は悟った。ケータイは震えてなんかいない。僕の耳に聞こえている声は、すなわち幻聴なのだ。
医者は僕に言った。「その電話は周りに人がいるときは、まったくかかってこないのでしょう?」
そのとおり。
「例えば今、私の診断を受けているとき、電話は決して震えない」
確かにそうだ。
「発信元も記録されない」と医者は続ける。「その謎の女性からの着信に限って、なんの表示も残らない」
確かにそうなのだ。そのことは僕も不審に思っていた。着信履歴を調べてもみても、着信の形跡は一切ない。
「携帯電話会社に問い合わせてみればすぐにわかるはずです。あなたの機械は謎の電話なんて、おそらくは一度も受信してはいないでしょう」
そのとおりだろう。だがしかし、と僕は思う。あれは幻なんかじゃない。証明はできないけれど、確かに僕は、彼女の電話を受けている。
例えば今、山羊の医者を前にして、あの電話は妄想であったと思えば、そのようにも思える。いつだってそうなのだ。会話を終えて電話を切れば、つい今しがたの出来事だって不確かに思えてくる。が。再び電話はかかってくるのだ。そして、ケータイを耳にあて、会話をしているそのときは、確信するのだ、これは妄想なんかじゃないと、現実であると。会話をしている間、その会話はとてもリアルで、妄想だなんて到底思えない。というか、リアルそのものだ。
*
僕はおかしくなってしまったのだろうか?
深夜の三時、シャワールームを出て、バスローブをはおり冷蔵庫をあけ、デリリウムを取り出して栓を抜き、ひと口飲んで僕はそう思う。
するとそのとき。
ケータイが震えた。
来た。と僕は思う。集中しろ。と自分に言い聞かせる。いいか、これは妄想だ。コーヒーテーブルの上のケータイは、震えてなんかいない。
手にした瓶から僕は、もうひと口、デリリウムをすする。そして目を閉じ、呼吸を整える。
大丈夫?
と自分で自分に確かめる。
大丈夫さ、僕は大丈夫。と僕は僕に応える。今、僕はここにいる。ここは自分の部屋だ。しっかり目覚めて、僕は今、甘く、かすかに酸っぱく、そしてオイリーに苦い、ビールのひと口を味わっている。まちがいない。
そして僕は目を開ける。
震えている。テーブルが振動している。ブーン、ブーンと感じ慣れた間隔で、携帯電話は震えている。
手を伸ばして触ってみる。掌に振動が伝わる。痺れるような感触。リアルだ。
まちがいないか?
まちがいない。確かに着信している。
無意味にあたりを見回してから僕は、確信に満ちた動作でF908iを掴む。
手にとり、開き、ボタンを押して、耳にあてる。
すると。
「あんたねー。さっさと出なさいよー」とケータイは喋った。
喋るケータイ。
「幻なのか?」と僕は呟く。
「寝ぼけてんじゃないわよ。しゃんとしなさいよ。いつまでも死んだ恋人に、すがってんじゃないわよ」と携帯電話は勇ましい。
「あのね」と僕は言う。「何度も訊くけど、キミは誰なの?」
「あたしはあたし」とF908iは応える。
「どこからかけてる?」
「ここからに決まってんでしょ! あんたバカー?」
「ここってどこさ?」
「わかるわけないでしょー!」
リアルだ。妄想だなんてとても思えない。
構うもんか、妄想だろうが、幻聴だろうが、イタズラだろうが。と僕は開き直ることにした。それに。
「ねえねえ、明日は仕事、休みでしょ? どっか行こうよ。連れてって」
それにこのケータイ、悪くない。なかなかかわいい。ツボを突いてくる。
新しい恋人は携帯電話です。って、僕はヘンタイか?
あまりのカッコ悪さに笑ってしまう。
「なにがおかしいのよー。あ、わかった」とケータイ。「あんた、なんかエッチなこと、考えたんでしょう?」
ヤバい。いけない。これではホントにヘンタイじゃないか。僕は欲求不満なのだろうか?
「なんで黙るのよー」とケータイ。「今さら恥ずかしがられると、あたしのほうが恥ずかしいじゃないのさー」
「てか、キミね」
「わかったわよ。ジャンルは?」
ジャンル?
「どんなのが感じるの? あ、でも3Pとかはダメよ。一対一。あたしとあんたの二人だけ」
3Pだって?
「人妻とかもあたしヤだからね。あたしには、夫はいないんだから」
「すまん」と僕の声がかすれている。「キミが何を言いたいのか、僕にはさっぱり……」
「あなたとあたし。二人だけのエッチなら、なんでもアリtoキリギリス、ってそういう意味よ」
キリギリス?
「あんた、はっきりしないわねー。いいわ、よさそうなのいくつか、あたしがみつくろってあげる」と言って突然、電話は切れた。
なんだなんだ? 何が始まる?
ケータイが震えた。三秒震えて沈黙した。
ケータイを開くと、メールが着信している。
誰からだろう?
ともあれ助かった。現実世界からの呼びかけを、心から歓迎したい気持ちでいっぱいだ。
僕はメールを開く。そして固まる。こんな着信だった。
〈あたしはいいのよ。
アナルだって、縛られたって(ハートマーク)。
それとも縛ってほしい?
添付ファイルあり。〉
ファイルを開くとエロ画像。挿したり挿されたり。黒髪、金髪、ブルネット。大きなおっぱい、控え目なおっぱい。若い女や、微妙な女。
なんてこった。ヘンタイの名にふさわしい、みたこともない画像や動画も混じっているじゃないか。
そしてケータイは震えた。
「どう? どれで楽しむ?」
どう応えたらいいのだろう?
欲求不満。まちがいない。僕は淫らに壊れているのだ。
僕は電話を切る。そしてケータイの電源を落として呟く。「勘弁してくれよな」
静寂を取り戻した部屋。テレビをつける。日頃は笑えないコントも、今夜ばかりはブラボーだ。アリtoキリギリスって、面白いなあ。
そして僕は二本目のデリリウムの栓を抜き、机の中から引っ張り出した薫のヌードで自分を抜いた。
*
そんなわけで。
僕はポケットに、電子的なストーカーを携帯し、日々を送った。
入稿前のある水曜日、僕はデザイナーの事務所にいた。
季節は夏、時間は深夜で、二人きり。
熱帯夜の事務所に、小型のクーラーは無力で、なのでデザイナーはタンクトップ一枚で、僕はTシャツ一枚だった。
デザイナーがレイアウト用紙にかがみこむたび、僕の目に飛び込むのは、あるいはこれみよがしな、白い谷間。
それでも僕は、秒針の音を数えたりしながら、目の前の仕事に集中しようと努力する。
僕らは今、手元のレイアウト用紙上で、タイトルバックにできた余白を埋めようとしている。
デザイナーは鉛筆で、用紙にいくつかのアイディアを描き込む。サモトラケのニケのような翼を広げてみたり、ビアグラスの中の気泡を浮かべてみたり。
今ひとつピンとこない。と感じて僕はデザイナーに告げる。「複雑なデザインはウルサいかもね。ここはシンプルにいこうか?」
「例えば?」とデザイナーは僕の目を見る。
香水の甘い匂いを僕は感じる。
僕は秒針の音を数えながら目を逸らす。そして言った。「四角か丸か、三角か、その程度の抽象的なやつを、いくつか並べてみようよ」
デザイナーは黙って、また僕の目を見た。僕はまた秒針の音を数える。
デザイナーは○を描いた。○を横に並べて、二つ描いた。のび太の眼鏡の間隔くらいで、○は並んだ。
そしてデザイナーはまた僕の目を見た。
僕は頷くと同時に唾をゴクンとのみこんだ。
それからデザイナーは、ピンクの色鉛筆を手にした。首を傾げるようにして僕を見る。
よくわからなかったが僕は頷いた。
先ほど描いた二つの○の、それぞれの中心あたりを彼女は、ピンクの色鉛筆を使って丸く着色する。
そして上目遣いでまた僕を見た。
よくわからない。と、僕は少しだけ首を傾げてみせる。
すると、二つの○から下にくだったある場所に、彼女は鉛筆でしるしをつけた。そのしるしは、アルファベットでYと読めた。
これは。と僕は思う。これは小学生が机に描くような、卑猥な絵、だったりはしないか?
目が合う。肉食獣を思わせるような鋭い瞳が、正面から僕を見ている。僕のカラダは硬直する。カラダの中心はもっと硬直している。
いつだったかは逃げられたこのステージから、今夜は逃げられそうにない。
「ねえ」と鉛筆を噛むような仕草でデザイナーは言う。「タイトルバックの選定よりも私たち、もっとほかにやるべきことがあるんじゃないの?」
やるべきこと。と僕は思う。秒針の音はもう聞こえない。ヤりたい。ずっと出してない。これは据え膳だ。手を伸ばせば食えるところに実るサクランボ。
我慢できない。と僕が思ったまさにそのとき、ジーンズの左ポケット、硬直した部分の近くで、ケータイが震えた。
ケータイからの警告だ。ということが僕にはわかった。
だからといって、今や僕の欲望は、箱根の下りでブレーキを壊した暴走車なのだから、どうにもならない。
僕はバイブを無視して、デザイナーが描いたYの字に、手にしたペンを突き立てる。
サクランボが光って笑った。
だがしかし。
バイブは振動をやめなかった。左ポケットの中で、徐々にその位置を変え、硬直した核心に肉薄する。
そしてひどいことになった。
僕はY字に激しくペンを突き立てたまま、ええと、書きたくないけど、書いちゃうと、つまり、地震によりダムは決壊したのだ……。
おかげでそのあと、トイレに駆け込んでから、ふたたび戻ってきた僕は、もう秒針の音にすがることもなく、バリバリと仕事を片付けた。
エロ小説よりもエロい緊迫の一夜は、そのようにして幕を閉じた。
そんなこんなで。
僕は自分の置かれた状況を少しずつ認知していった。すなわち僕は、彼女による四六時中の監視のもとで、日々を泳いでいかなくてはならないのだった。
想像してみてほしい。この切実なる状況を。ありえない景色を。太陽とともに、月の輝く空を。
*
ところで僕は風呂が好きだ。
女の子みたいだね、と薫に笑われたりしたが、風呂はいい。
マンションにしては広々とした浴槽に、温泉成分たっぷりの入浴剤を溶かし、手足を伸ばしてゆったり浸かると、これは極楽。
しがらみが溶けてゆくようだ。絡みついたあらゆる情報を湯に溶かし、僕は剥き出しの僕に戻ってゆく。ゴムをつけずに粘膜で交わるような気持ちよさ。
何と交わるのであるか? 固有の僕と。何にも繋がっていない自分自身と。
が、湯船に波紋が描かれて、僕は繋がってしまうのだ、彼女と。
「もしもし。ねえねえ」と携帯電話は語る。「あたし、よかったわー。防水ケータイに生まれてきて、ホント、よかったわー」
「よかったね。いつでも一緒だね」と乾いた声で僕は応える。こめた皮肉の、伝わるような相手ではない。のは、すでによく知っている。僕はこの状況を、とうの昔に諦めていた。
「あたしも嬉しいわー」とF908i。「でも少し恥ずかしいわー」
「なんだって?」
「だってお互い裸でしょ?」とケータイは照れたような声で言い、イルミネーションをピンクに染める。
ははは。と僕は笑う。笑うしかない。
「あたし、お背中、流しましょーか?」とケータイは嬉しそうに震える。
どうやって流すんだ?
なんでもいいか。どうせ妄想だ。それよりも。と僕は思う。
「背中はいいから」と僕は言う。「ニュースを見せてくれないか?」
現実との接点を僕は求める。
「いいわよ。見せたげる」とケータイは応えて、ワンセグの電波を拾う。
平和なカワウソのように湯船に寝そべり、僕はのんびりと画面を眺めた。どこかの会社がどこかの会社を買収していた。食糧難の国が援助を求めていた。気象衛星が打ち上げられた。動物園に新しい仲間がやってきた。地球はちゃんと回っていた。
ついウトウトとしてしまったらしい。
ケータイの振動音に僕はハッとする。
「バカねえ。風邪ひくわよ」とケータイに叱られた。
僕はバスコントロールパネルに手をのばし、追い炊きボタンを押す。
「ねえ」とケータイは言った。「あたし、あなたに言っときたいことがあるの」
「なんだい?」と少し鼻声で僕は応える。
「もしもね」とケータイは囁くように言う。「もしも万一ってことなんだけど、あなたがニューヨークのダウンタウンで、ギャングにボコられたとするじゃない?」
なぜ、ニューヨーク?
「そしたらあたし、すぐさまポリスを呼んだげるわ」と夢みるような声でケータイは言う。「あたしって便利でしょ?」
「そうだね。助かるよ」
「あたしGSM対応ケータイだから、アメリカだって任せてよ」
なるほどね。
「それにね」とケータイ。「もしもあなたがモルジブで、ダイビングとか楽しんでるときに、不幸にして溺れちゃったとするじゃない?」
なぜ、モルジブ?
「でも平気なの。あたし、防水携帯だから。水の中から助けを求めてあげる」
僕はケータイを装着してのダイビングについて想像をめぐらせる。「深度はどのくらいかな?」
「一メートルよ」と少し小さな音量でケータイは応えた。「ごめんね。それ以上は防水機能的に自信がないの。でもね」とイルミネーションを点滅させる。「だけど、いざってときには頑張るわ。何メートルの深さからだってあたし、やるだけやるわよ。なぜなら」
なぜなら?
「なぜならあたしは、あなたが好きだから」
好きだから。と僕は思う。ケータイに告白されただなんて男は、世界でただひとり、僕だけだろう。
「ね? あたしって、役に立つでしょう?」とこの手の中でケータイは言う。「だからね」
だから?
「だから買い替えないでね」
僕は笑ってしまう。
買い替えないよ。と僕は思う。だってキミは薫からのプレゼントだなんだから。それにね。
「あ。ヤな沈黙。また思い出してたんでしょう? 他の女のこと!」
それに薫は、気持ちを大事にしてたから。と僕は思う。機械が相手でも、気持ち一発、愛は裏切れない。
*
溺れた僕を、もしかしてアイツは、ホントに助けようとするかもしれない。と、深夜のバーで、僕はそんなふうに思う。
「面白いですねー、青山さん、その話、たぶんアリですよ」と左隣にいる岡崎は、すでにかなり酔っていて、風邪をひいたような声でそう言うと、ポンポンと僕の肩を叩いてニヤリと笑った。
僕は岡崎のアンパンのように丸く、日に焼けた顔を見る。最近は岡崎も仕事に慣れて、いくらかは自信もついてきたようだ。
にしても、面白い?
「面白くなんかねーよ」と僕は応える。「オマエは当事者じゃねーから、んな気楽なコトが言えんだよ」
「当事者っすか」と岡崎は考える。「そうでした。キャラクターになりきらなきゃ、ですもんね?」
コノヤロめ、僕の話した身の上話を、漫画のネタだと思ってやがる。
「若い作家に読み切りで、コンテをきらせてみましょうよ」と岡崎。
漫画ネタか。と思って僕は苦笑する。そうだな、まさしく漫画だな。
「それにしても恋人を携帯するだなんて、よく考えましたね。ポケモンみたいですね?」と岡崎は、細いつり目を、バッタの触覚のようにはねあげる。
ポケモン? いやいや、もっとピッタンコな例として、平面ガエルの話があるじゃねーか。と僕は思い、心の中で岡崎に呟く。オマエが生まれる以前にも、名作は山ほどあったんだぜ。ちゃんと勉強しろよ?
「ぼく、見えましたよ、その読み切りのエンディング」と、酔いにまかせて岡崎は、細い目を、なんとかドングリにして語りはじめる。「舞台は南の島です。ダイビングを楽しんでいた主人公は、突然の急流に襲われます。目の前には、ボートから垂れてるロープがあるんだけど、彼はパニックをおこしていて、それをうまくつかまえることができない」
そこまで語って岡崎は、眉をあげるようにして僕を見る。
僕は黙って頷き、続きを促す。
「主人公は流されてゆきます。沈んでゆきます。でも、その直前に彼は、最後の力を振り絞って、大事なケータイのストラップを、ロープのコブにひっかける。ケータイだけでも救おうとするわけです」と岡崎は、そこでまた言葉を区切ってジントニックをすする。そして酒に酔い、自分の言葉に酔い、語り続ける。「でもケータイは、自らブルルとバイブして、ロープのコブからダイブする。主人公の後を追うようにして沈んでゆく。ケータイは主人公を助けたかったんです。海流に流された彼が最後に辿り着く地点を、内蔵のGPSで検索、その位置情報をSOS通信として発信しようと、そう思ったんですよ。防水携帯の潜水能力を超えてケータイは頑張ります。青から闇に変わるような深海で、点滅しているのはケータイのイルミネーション。うーん。いいかも?」
「で、どうなる?」と僕は、意識を半分ほかに漂わせながらも、岡崎に訊ねる。「SОSは発信されます」と目を閉じたまま岡崎は応える。「主人公は救助される」
「ケータイは?」
「そうですねえ」と岡崎は腕を組む。「青いケータイは青い海に溶けて、そして、そう、イルカになる」
イルカになる?
「どうでしょう?」と岡崎の、土偶のような目が僕を見る。
青い海に溶ける?
なんてエンディングだ。と僕は思う。
「つまらん」と僕は一蹴する。「カタルシスがない。ケータイがかわいそうだ」
「かわいそう」と岡崎は呟き、そして頷く。「さすが青山さん、完全に主人公の視点ですね?」
いや僕は実際、その主人公なんだけど。なんて思いながら僕は言う。「てか、それって漫画に向かない」
「どうしてですか?」
「ビジュアルがケータイじゃ、キツイだろ。絵になったとこ、想像してみろよ?」
岡崎は手にしたグラスに視線を落として考える。
「どうだ?」と僕は訊く。
岡崎は曖昧に首を振る。
「せめてカエルなり、ネズミのバケモンなり、みたいなカラダがなくっちゃ、あまりにシュールじゃん?」と僕は説明する。シュールな僕の現状については、秘密にしようと決めながら。
「なるほど」と岡崎はグラスを掴む。「確かにそうですね。機械なんかに読者は、うん、感情移入なんて、できっこないや」
いや、機械なんかにって、岡崎くん、それはケータイに失礼でしょ。と僕は思う。ま、正論ではあるが。
「あ、そろそろだ」と岡崎は、腕時計に目をやりそう呟くと、グラスを飲み干し立ち上がる。「ぼく、このあと、打ち合わせがあるんで」
「おう」と僕は片手をあげて応える。「俺このまま、も少し飲んでくから。誰かが俺をが探してたら、ブルーにいるからって言って、この店に電話、かけさせて」
「了解です」と応えると岡崎は、僕とバーテンの太郎さんに、ごちそうさまでしたと軽く会釈をして、ゆらゆらと店を出ていった。
「岡崎くん、かなり酔ってたね」とカウンターの向こうから太郎さん。「打ち合わせ、大丈夫かな?」
「平気平気」と僕は応える。「少しくらい酔ってて、ジャストなカタさのアタマですから、アイツ」
太郎さんは肩をすくめて笑う。
「シメイの青」と僕は注文する「もうひとつください」
校了あけだ。今夜はゆっくりすることにしよう。カウンターを照らすスポットライトの丸さを目でたどりながら、僕はそう思う。
「さっきの話だけど」とシメイの瓶を、グラスに傾けながら太郎さんは言う。「実話でしょ?」
シメイを味わい、僕は頷く。
「太郎くんの実話?」と太郎さんは訊く。
「そです」と僕は応える。「僕の実話、アタマの壊れたヘンタイの、切実なる実話」
太郎さんは、探るような目で僕を見てから、話題を変える。「オフのとき、ここに何度か連れてきてたよね、彼女。薫さん、っていったっけ?」
「薫です」
「綺麗なコだったね」
「本音でどうぞ」
「愛くるしいコだった」と太郎さんは笑って訂正する。「色白で、やらわかそうな雰囲気で、花のように笑ってた」
「マンボウをピンボケさせたような顔だと、自分で言ってました」
「事故から三ヶ月、くらいかな?」と太郎さんは目を伏せたまま訊ねる。「もうふっきれた?」
ふっきれた? なわけ、ないでしょう。と僕は思う。ついさっき、岡崎の話を聞きながらだって僕は、ずっと薫のことを考えていたのに。
薫と行ったプーケットでのこと。南の島のストーリーを聞きながら、僕はそれを思い出していた。
僕らはシュノーケリングを楽しんでいた。海面に浮かんで薫が言った。いた! タロちゃんの魚だ!
嬉しそうにそう言うと薫は、すぐさまV字にカラダを折りたたみ、慌てたように潜行していった。
僕もそのあとを追った。
見ると、薫が追いかけているのは、青いカラダに黄色いシッポのついた熱帯魚。それには見覚えがあった。その日の朝ショップで僕は、その魚の木彫りを見て、ひと目で気に入り、購入していたのだった。薫はそれを覚えていたのだ。
使い捨ての水中カメラを片手に、薫は夢中になって魚を追いかけた。
おいおい、大丈夫か? と僕は心配になった。僕の魚をカメラにおさめたいその一心で、薫はさらに深く潜ろうとしていた。
もしも薫が溺れていたら。と、岡崎のストーリーを聞きながら僕は、半分そんなことを考えていた。もしもあのとき薫が溺れていたら、たとえホオジロザメが接近していようとも、僕は迷わず薫のあとを追ったにちがいない。プーケットにホオジロザメがいるのかどうかは知らないけれど。
岡崎の話を聞きながら僕が考えていたのは、そんなストーリー。僕と薫の物語。
「喋るケータイのことだけど」と太郎さんは、何を思ったのか、急に話題を戻す。薫の話よりはケータイの話のほうが、僕にはまだライトであろうと、太郎さんのことだから、敏感にそう察知したのかもしれない。
「見ますか?」と僕は、ジーンズのポケットから僕の平面ガエルをひっぱりだして、カウンターに置く。
ライトの光を反射して輝くエーゲブルー。
「このケータイ?」と太郎さんは、カウンターのF908iを見る。「ホントに喋るの?」
「僕にはそう思えます」と僕は応える。
太郎さんは少し目玉に力を入れるようにして頷く。
「でもね、コイツってば、意外にシャイなのか」と僕は笑う。「知らない人の前ではちっとも喋りません。フツーの機械のフリしてる」
太郎さんも緊張を解いて笑う。
「いいかな?」と太郎さんはケータイを指さす。
「どうぞ」と僕は笑う。「噛みつく機能はないはずです」
ケータイを手にとり太郎さんは、シゲシゲと観察してから僕に言う。「普通のケータイに見えるね?」
「はい」
「でも喋るんだね?」
「メールも送ってきます」
太郎さんは目を丸くする。そして訊ねる。「そのメールは?」
「消えちゃうんです、少し経つと。履歴もまったく残りません」と僕は笑う。信じてもらえる自信はない。「消える前のメールにリターンをすれば、ちゃんと返信もできます。そしてその僕の返信に対してケータイが、また返信してきたりもします。メアドは不明。何も残りません。僕の送信もすぐに消えます。送受信ともに、証拠は何も残らない」
太郎さんは短く沈黙してから訊く。「幻想だと思うかい?」
「医者はそう言います。でも」と僕は応える。「僕にはそうは思えない」
深夜のバー。他に客はいない。ここはまるで深海みたいだ。と、いつも僕はそう思う。
ウェーブのかかった長い髪を後ろで束ね、尖った鼻にスタイリッシュな眼鏡をひっかけた、そんな太郎さんの見た目は、男も女も思わせず、限りなく中性だ。個性的だけど、なのになんだか実体がない。ように僕には思える。
太郎さんは、客に応じて、話題に応じて、違った種類の顔を使い分けているのかもしれない。なんて思ったこともある。他の客と話している太郎さんを、珍しく目撃した夜、僕はそう思った。
僕と二人でいるとき、例えば今、太郎さんは僕に似ている。ような気がする。でも他の誰かといるときは、あるいは他の誰かに似ているのかもしれない。なんて僕は、太郎さんについて想像する。
ケータイの電波も届かないほど深く潜って、情報的アイビーから自由になって、鏡のようなバーテンを相手に僕は、アルコールの闇を漂っている。
「それが何だか、わかるかい?」と太郎さんに問われてハッとして、僕は無意識の闇から浮上する。
「それ」と復誦しながら僕は、意識のピントを調整する。
「太郎くんに語りかけてくる、それ」
ケータイのことだ。
「さあ?」と僕は応える。「最初はイタズラかな、と思ったけれど、今は、わかりません。太郎さんには、わかりますか?」
太郎さんは僕の目を見る。僕も太郎さんの目を見る。ライトの光を反射したのか、太郎さんの眼鏡が白く光った。
そして僕は聞いた。地の底から響いてくるような声を。「選択肢は二つ。それは非存在であるか、または」
「または?」と僕は声に問い返す。
「存在だ」と声は応える。
「存在?」
僕に語りかけてくるものは、非存在であるか、または、存在だ。と僕は反芻して考える。
「そうだよ」と言いながら太郎さんは、カウンターの奥に引っ込む。そしてカウンターの奥から呼びかける。「なにかつまむかい?」
キツネにつままれたような気分で僕は、カウンターの奥に応える。「キツネうどんとか、ありますか?」
カウンターの奥で、太郎さんの笑い声が響いた。
「ないよ」と応えながら太郎さんは、新しい皿を片手に戻ってくる。
「キツネうどんのないバーなんて、今どき流行りませんよ?」と僕は冗談を言う。
「ごめんよ」とふざけながら太郎さんは、カウンターにサルサチップスの皿を置いた。「お詫びにこれはサービスだよ」
長い夜になりそうだった。
*
「ねえ太郎くん」と太郎さんは、眼鏡の向こうから僕を見て言う。「存在って、なんだと思う?」
サルサチップスをかじりながら僕は思う。存在とは何か?
答えられるわけがない。僕はサルトルじゃないのだ。
「なんですか?」と、しかたがないのでそのまま僕は問い返す。
「太郎くんという存在」と太郎さんは具体的に問い直す。「これは何かな?」
二枚目のサルサに手をのばしながら僕は考える。僕とは何か?
「人間です」と僕は応える。「一応人間の仲間です」
「人間とは?」と太郎さん。
「霊長類ヒト科の生き物」と事典を棒読みするように僕は応える。
「うん」と頷いてから、太郎さんはまた問う。「それは何でできている?」
三枚目のサルサを喉につまらせながら僕は思う。コイツは難しい質問だぞ。人は何でできているのか?
ビールでサルサを胃に送りこんでから、僕は応える。「詳しくないけどおそらくは、細胞とか?」
「その細胞は」と太郎さんは、容赦なく僕を追い詰める。「それは何でできている?」
小学生だった頃。と僕は昔を振り返る。音楽の先生に残されて、ピアノの特訓を受けたことがあったっけ。とか思い出しながら僕は、サルサチップスに手をのばす。あのときも僕はお菓子でつられたのだった。先生ってやつは生徒を、いつだってお菓子で誘惑するものなのだ。サルサを食べちゃったんだし。と僕は思う。最後までおつきあいするよりほかはない。
僕は考える。細胞は何でできているのか?
「分子とか、原子とか、そういった物質」と口に出しながら、さらに僕は考える。「あ、そうか、最近じゃそれをもっと細かく分けると、シュタインとかハイゼルベルクとか、そんな名前の人が関係している、ええと、なんだっけ?」
「量子?」と太郎さん。
「あ、それ」と僕は曖昧に頷く。「量子力学とか、聞いたことがあります」
「うん、量子力学」と太郎さんは頷き返す。「ではその量子力学によれば、量子ってのは、なんだっけ?」
量子の正体。と僕は思う。ええと確か。と僕はアタマの中のヒキダシを順番にあける。新入社員だった頃、漫画のネタを拾うために調べたことがあったような。
「うろ覚えですけど」と僕は応える。「確か正体は、光だったか、波だったか」
うんうん。と太郎さんは頷いて、続きを促すように僕を見る。
「単なる物質じゃなかったような」などと語っていると、記憶の紐が曖昧ながらも解けてくる。「あ、そうだ、観測者の視点によってそのあり方が変わる、とかなんとか」
「つまり量子は?」と太郎さん。
「物質じゃない?」と僕。
太郎さんは眉を八の字にして笑う。
タマネギの皮を剥いて剥いて剥きまくったら、結局そこにはなんにもなかった。と、そんなふうに僕は思う。
「物質は」と太郎さんは呟く。「〈存在〉の根拠たり得ない。つまりカラダについていえばそういうこと」
物質は存在の根拠になり得ない。と僕は反芻する。逆にいえば、カラダという物質を前提としないで存在するものもある。ということか?
太郎さんは僕を見て確認する。「で、いいかな?」
名前が同じだから、なわけでもないだろうけど、太郎さんとの対話はなんというか、まるでそう、独り言だ。と僕は思う。太郎さんの言葉はときに僕の内側から響いてくる。ように感じられる。
そのことに思いあたって、僕はかつて訊ねたことがある。(太郎さん、あなたは誰ですか?)
(僕かい?)と太郎さんは応えて、言った。(僕は君の無意識だよ)
そして太郎さんの姿が揺れた。と僕は記憶している。
(世界はその姿を変える)と太郎さんは、僕の底で呟いた。(太郎くんの認識にしたがって)
(つまり)と僕は自問した。(世界は僕の鏡であると?)
そんなふうにして僕は、ときに太郎さんを見失う。溶け合って何も見えなくなるのだ。
「では次に」と、どこからか太郎さんの声が聞こえる。「意識について考えてみようか?」
意識について。と僕は思う。
「意識はどこにある?」と声は訊ねる。
「脳」と短く僕は応える。
「太郎くんの意識ってやつは」と声は言う。「脳とそのままイコールかい?」
「ってか脳は」と考えながら、その考えを考えたとおりに僕は喋る。「なんていうかコンピューターみたいなもんで、つまりは情報処理器官だから」
「だから?」
「意識っていうのは脳そのものではなくて、その働き、ですかね?」
「そうだね」と声は応える。「意識とは物質ではなくて、機能なわけだ」
「そのようですね」と僕は呟く。
「ではその機能が」と声は問う。「処理するソフトはどこにある?」
ソフト。と僕は思う。機能を働かせる要因。と僕は考える。それは脳に入力され、そして出力される情報だ。
「たぶんそれは」と僕は応える。「アチコチにあります」
「アチコチ?」
そう、アチコチ。と僕は思う。そして、わかったような気がした。
例えば。と僕はまた思う。今こうしてコムズカシイ理屈をコネくりまわしているこの意識にしたって、僕のクレイジーな身の上話から量子力学に関する著書の知識に至るまで、前提としてのそんなモロモロの情報がもしなかったら、そもそも生まれてはいないだろう。量子力学だって、それ以前に例えば相対性理論というような前提がなかったら、あるいは成立していなかったかもしれない。
「情報は」と、思索の闇から浮上して僕は、目の前の太郎さんに向かって言葉を投げる。「情報はアチコチにあり、絡み合い、絶えず形を変えながら漂っています」
「つまり?」と太郎さん。
「つまり」と言いながら僕は、シメイのグラスをあける。そして続ける。「つまり〈存在〉を〈存在〉たらしめるその構成要素とは、すなわち〈情報〉である。というわけですね?」
「そうかもしれない」と太郎さん。「突き詰めれば、ね?」
「情報は特定の場所を持たない」と僕は確認する。「ですよね?」
「そう」と僕の影は頷く。「偏在している」
僕はカウンターのF908iを手にとる。
僕の中で何かが変わった。ように思えた。
バーは今、世界の中心を成していた。
最後の質問だよ。と太郎さんが言った。
僕は太郎さんを見た。
「偏在する情報どうしを繋げるもの」と太郎さんは言った。「それは何か?」
繋げる?
情報どうしを結びつけるもの。と僕は考えた。
「なんですか?」と僕は訊ねた。
「宿題にしておくよ」と太郎さんは笑った。「正解者には、レッドフックをおごります」と言いながら太郎さんは、カウンターの下からシアトル産のエールビールを一本取り出して栓を抜いた。
「正解を知っているので、お先に失礼」と言うと彼は瓶を傾けて、実にうまそうにそれを飲んだ。
*
不思議な対話とビールに酔って、僕は僕でないような気分で店を出た。
夢からの浮上。と僕は思う。
階段を上りきると、そこには夜が広がっていた。ふぅ。と僕はため息をつき、かわりに外気を吸いこんだ。
見上げると三日月が笑っていた。ここは世界だ。と僕は思った。
ジーンズの左ポケットが振動していた。ケータイからの着信だ。
ケータイをひっぱり出して耳にあて、寝ぼけたような声で応える。「もしもし?」
すると。
「ジャジャン!」といきなりケータイは、元気よく叫んだ。「突然ですが、クイズです!」
クイズ?
「あたしの一番キライな動物は、さて、なんでしょう?」
なんのこっちゃ?
たいして興味もわかなかったけれど、とりあえず僕は答えてみる。「ゴキブリ?」
「ブー」とケータイはブザーを鳴らしてから言う。「てかゴキブリってそれ、動物じゃないじゃん?」
「じゃ、わからない」と僕は応える。
「いいわよ、昆虫もアリtoキリギリス」とケータイ。「だとしたら、あのね、ゴキブリはあたしね、三番目にキライ」
そうですか。と僕は思う。
「ヒント、欲しい?」
「欲しくない」
テツガク的な問題を処理している脳に、くだらない問題を入力するんじゃないよ。
「ヒントあげるわ!」と勝手にケータイ。「私の二番目にキライなヤツ。それはね、オ・ケ・ラ」
オケラ?
「そうよ。イメージできた? オケラ。ちっちゃなシャベルの生き物よ」
喋るケータイはシャベルな昆虫がキライ。ふうん、そうなんだ。なんて僕はつまらないことを思いながら、走ってきたタクシーを捕まえようと、車道に向かって一歩踏み出す。
「ダメよ。ストップ!」とケータイがそれを制止する。「も少し二人で話しましょ?」
「なんだよ?」
「あ、優しくない!」
「答えはなんだよ?」
「あら、もう降参なの?」と言ってケータイはフフンと鼻を鳴らす。「答えはですね」
鼻を鳴らすケータイ。と思いながら僕は、答えを待つ。
「モグラです」とケータイは答えた。
モグラ?
「なんだって?」
なんのことだか一瞬わからない。
「だからぁ」とケータイは声を尖らせる。「モグラだって言ってんでしょ! あんたバカぁ?」
「なんでモグラなのですか?」と僕は、ケータイの剣幕に押されて礼儀正しく訊ねる。
すると。
「潜るからよっ!」とケータイはさらにその音量を上げた。「地下に、電波の届かない場所に、カタコンベのように陰鬱なバーとかに、三時間も、あたしを眠らせておいて。昔の女のこととか、どーせそんなことばっかり喋ってたりするんでしょーねー。あー、ヤダヤダ、あんたもモグラも、大っキライ!」と、そう言って電話は切れた。
タクシーの中で僕は思う。
カタコンベだって?
ヤクザな口をきくわりにはモノ知りじゃないか、F908i。
でもまあそりゃそうか。と僕は先日のことを思い出す。ケータイはバラエティーに富むエロ画像をピックして、それを僕に送りつけてきたのだ。ネットを漂うあらゆる情報に瞬時にアクセスして、かつ瞬時にそれを分類する、つまりはそれだけの力があるってことだ。モノ知りでないわけがない。
「さすがだな、最新ケータイ」と思わず声に出して呟いてしまう。
「え? なんですか?」とミラーの中から運転手。
「いや、なんでもない」と僕は応える。
そんなふうにして人知れず、密やかに続いていくわけだ、僕と僕のケータイとの秘密の関係は。いけない人妻との情事のごとく。なんだかなあ。
*
帰ってシャワーを浴びていると、シャワーバーにぶらさげていたケータイが震える。
「はいはい」と僕は電話に出る。
「あたしよ」とケータイ。
わかってるよ。と僕は思う。
「さっきはごめんなさいね、勝手に切っちゃて」とケータイはシオらしい。「あたしね、ちょっと淋しかったから」
かわいいじゃないか。と僕は思う。なかなかよろしい。
入浴タイムはリラックスタイム。僕は満月の優しさでケータイに応える。「いいさいいさ。気にすることなんかないよ」
「そのかわり今夜はいっぱい触ってね、へへ」
へへって、おい。触ってね?
「触ってってキミ、あのね」
「私のボタンに、たくさんたくさんタッチしてね」
Touch me. と僕は頭の中で綴ってみる。
「あんたのタッチは最高よ」とケータイ。「言われたことない?」
言われたことある。と僕は思う。薫に言われた。指先の肉球。
なんて考えているとケータイが騒ぐ。「あー、サイテー、サイテー!」
「なんだよ?」
「彼女と二人でいるときに他の女のコト考えてる!」
うーむ。と僕は思う。オマエが〈彼女〉だって? 薫が〈他の女〉だって?
「ふん」と鼻を鳴らしてからケータイは、耳を塞ぎたいようなノイズを奏でた。
「わかった、悪かった」と僕は謝る。「キミの言いたいことはよくわかったよ。ところで」と僕は話題を変える。太郎さんとの会話を思い出したのだ。「今度は僕からの質問だよ?」
「なにかしら?」とワクワクしたような声でケータイは言い、ピンクのイルミネーションを点滅させる。
「いつだったかキミは、エッチな画像を送ってきたよね?」
「もっと欲しいの?」
「ではなくて」と僕は、気さくな口調で問い直す。「どうしてそんなことができるんだい? ああいった情報はどうやって入手するの?」
「ネットからに決まってんでしょ。フルブラウザであたし、ネットに接続できるもん」
いや、そうじゃなくて。と思いながら僕は言う。「僕はね、キミのスピードに驚いたんだよ。あんなに瞬時に接続して、検索して、分類して、送信する、なんてさ?」と僕は核心に向けてケータイを誘導する。騙すみたいでゴメンよ、F908i。
「褒めないでよ、照れるわね」とピンクに染まってケータイは応える。「そんなの簡単よ。ここには時間なんて流れてないし」
時間が流れていない?
「ここってどこ?」
「わかんない」
わからないのか。と僕は思う。
「もうひとつ、立ち入ったことを訊くようだけど、いいかな?」と僕。「答えたくなければ答えなくても構わないけど」
「あんた何よ、水くさいわねー、なんでも聞きなさいよ、恋人どうしじゃないの!」
恋人どうし?
「じゃ訊くよ。キミはどうして喋れるの?」
「通話は電話の基本的性能よ」
ではなくて。
「キミはメールも送信してくるよね? あの言葉はいったい誰が打ってるの?」
あたしがに決まってるでしょ、という答えを予想しながら僕は訊ねる。が、ケータイは意外な答えを返した。
「いろんな人が、よ」
いろんな人? と僕が考えていると、ケータイは説明してくれた。「ケータイってのは電波で情報のやりとりをしてるの。わかる?」
はい、わかります。
「世界のあらゆる情報は、電波にのって飛び交ってるわけ。ネットの正体だってつまりはこれよ。わかる?」
なんとなく。
「で、あたしはその漂ってる情報の中から、自分の意図にあった言葉や音声を拾って、で、繋げるの。それだけ」
なんと。と僕は思う。
「声だってあたし、時々変えてたよ。あんたは気がつかなかったみたいだけど」
そういえばそうかな。と僕は考える。
「それが乙女の気持ちをどれだけ傷つけるコトか」とケータイはそこまでをいつもの声で言い、「わかってんのか! コノヤロウ!」と、携帯組系指定暴力団体的な男の声で締めくくった。
なんと、なんと。と僕は驚く。
「前髪を切ったのに、なーんにも言ってくんない彼氏なんて、超サイテー!」とケータイ。
なるほど。
湯船にアゴまで沈んで、僕はケータイの言葉を、アタマではなく心を使って反芻した。と同時に、浴室のカウンターにあるモノを僕は見るともなしに眺めた。薫と一緒に買って帰ったバリ島みやげの石鹸置き。帰国する夜、閉まる直前の市場に駆け込んで、手持ちの小銭のその金額に、薫が値切って買ったものだ。その横に並んだ、それとおそろいの石でできたカエルの彫刻が、僕を神様のような目で見つめている。村の露店で一目見て、運命を感じたと薫は言った。カエルの名前は岡野カエルだ。薫がその場でそう名付けた。目を転じると、シャワーバーにからみついたイミテーションの蔦。浴室環境にも耐えられる強いコだからと、薫はそう言ってそれを百円ショップで選んだ。蔦の葉の一枚一枚に今、水道水の玉がイキイキと輝いている。
なんということだ。と僕は思う。僕のお気に入りのバスルーム、そこに見える物質的光景、それにはすべて由縁があった。その由縁も含めて、それらの光景は成り立っていた。薫がいなければカエルも蔦もここにはなかったはずなのだ。世界は確かに絡み合う情報たちにより構成されていた。
世界の、目には見えないその成り立ちを、僕は見た。
そうしてまた僕は思索の海に沈んだ。混沌とした海を僕はぼんやりと泳ぐ。
物質。と僕は思った。何かがひっかかる。場所。と僕はまた思った。そうか。と何かがひらめいた。物質は場所を特定される。例えば僕という存在も、脳を含めた僕のカラダに特定されているじゃないか。僕が情報の結び目に過ぎないとしても、僕という情報や、薫と買って帰ったカエルの置物、という情報には、すなわち番地があるじゃないか。
カラダ。と僕は思う。そして自分のカラダを眺めた。服を脱ぎすて、社会的な役割を脱ぎすて、僕は今、裸の自分でいる。僕はさらに思った。では服を脱ぐように、もしもカラダを脱ぎすてたら、そしたらそこには何がある?
「根掘り葉掘り訊いて悪いんだけど」と僕はケータイに声をかける。「いいかな?」
「あんた、もしかして」とケータイは応える。「あたしの浮気を心配してんの?」
ケータイの浮気?
「安心しなさいよ」とケータイは妙に優しく、ちょっぴり高いところから僕に言う。「あたし、あんただけだから」
だろうな。と僕は思う。こんな怪談がアチコチにあったら、とうの昔に報道されてるだろうよ。
ともあれ、今はインタビューに集中するときだ。
「じゃ、訊くよ」と改めて僕。「キミはどこにいるの?」
「だから、わかんないわよ」
「ケータイにいるんじゃないの?」
F908i、製品番号十四桁という番地にいるんじゃないのか。と僕は思う。それともケータイはキミの器官に過ぎないのか。ならば、ケータイの機能を働かせている、その主体はなんだ? どこにいる?
僕は続けて問う。「キミはなんだ?」
キミはなんだ? と台詞を反芻して僕は思う。失礼な質問だね、ごめんよ、F908i。
「あんたは、じゃ、何よ?」
え?
「僕は」と考えながら僕は応える。「青山太郎」
「それは単なる名前でしょ? いいのよ、あたしに名前をつけてくれたって。薫、以外の名前なら、キャシーだって、アンジェラだって、なんだって」
ケータイの言葉をうつろに聞きながしながら僕は思う。僕は、なんだ?
「僕は人間だ」と言ってみる。
「考える葦ってわけね?」
考える葦?
「それは機能でしょ。その機能を使って考えたり、感じたりしている、あなたはいったいなんなのよ?」
全世界の全情報に瞬時にアクセスできる、そんな彼女はとことん賢い。降参だ。
「教えてくれ。キミはなんだ? 僕はなんだ?」
アタマが血を吹きそうだ。血。それもまた僕本体ではない。
「あのね、あたしはね」とケータイ。
なんだ?
「気持ちよ」
気持ち?
「あんたを好きだって気持ち」
気持ち。と僕は思う。好きだという気持ち。キミの意思は、すべての出どころにいるのは、つまりそれか?
「わかった?」とケータイ。「女の子から言わせるなんて、あんたやっぱりサイテーよ。でもね」と続けてケータイ。「そこも好き」
よく考えなくてはいけない。と僕は思った。だけど僕にはカラダがあった。そういつまでも風呂に浸かっていてはノボせてしまう。
「最後の質問だ」と僕は言った。「キミはなぜ、僕のケータイに宿っている?」
「なんていうんだろう?」とケータイは言葉を探した。「つまりね、あたしは鳥で、このケータイは島なのよ」
島? と僕は思った。
「あたしはね、どこだか知らないところを漂っていたわ」とケータイは、少しだけ大人びた声で語りはじめる。「でも島が見えたの。濃い霧の中をあてもなく飛んでたら、下に一ヶ所だけ晴れ間が見えて、そこに島が見えたってわけ。空から見るとそれは、一面の青い海の中、珊瑚礁の滲んだようなグリーンに守られた白い花びらみたいに見えたわ。それはあたしのための場所みたいに見えた。だからあたし、そこで翼を休めようって思ったわけ。したら、この島、すごいじゃないの! コミュニケーション機能満載なわけよ!」
なるほど。とまた僕は思う。
「あたしだって不安なのよ。あたしがどこから来たのかわからないし、どこに行くのかもわからないし、どこにいるのかだってわからない。そもそもあたしはなんなのか。それすらよくは、わからない。でもね」とケータイは、奇妙に静かな声で言う。「あんただって、それは同じでしょう?」
僕は応えられずに沈黙する。
よくよく考えてみなくてはならない。と僕は思う。
だけどカラダは限界だった。これ以上ノボせては壊れてしまう。
僕はひとまず対話を終えて、ケータイを閉じると、ふらふらと浴室を後にした。
僕は飛べない鳥なのだ。ペンギンのような。
*
「レッドフックを」と僕は太郎さんに注文する。そして付け加える。「このぶんのお金は払いません」
「おやおや」と言いながら眼鏡の雇われ店長は、レッドフックの栓を抜く。「答えは出たのかい?」
「情報どうしを繋げているもの、それは」と勿体をつけて僕は言う。
「それは?」
「気持ち、です」
好きだという気持ち。
「やれやれ」と言いながら太郎さんは、レッドフックをカウンターに置く。「クイズはもうやめよう。商売あがったり、だよ」
深夜のバーに今夜も僕は潜っている。飛べない鳥は潜るのだ。
潜水時間は二時間まで。それがケータイと僕との約束だ。
二時間の圏外活動をケータイに許してもらうのも、これはなかなかに大変だった。
だってあんた、仕事中はいつだって四六時中、メール打つためあたしに触ってるし、オフで二人きりのときは、そりゃもう気兼ねなく電話で散々イチャついてるし。とケータイは主張した。あんたが寝ていてあたしが充電してる、それ以外はいつだってあたしはあんたを感じてる。なのに潜られたら途端に寂しくなるじゃないの、そんなのヤだもん。てなわけだ。
圏外三分。というのが最初にケータイの出した条件だった。ウルトラマンだって三分あれば用事を片付けるのよ。とかなんとか。
無理を言うなよ。って感じ。僕はウルトラマンじゃないし、ウルトラマンはサラリーマンじゃない。
粘り強い交渉の末、僕の潜水可能時間は二時間、というところに落ち着いた。
僕はチラリと腕の時計を見る。まだ大丈夫。エアは十分残っている。
「僕のケータイ、モグラが嫌いなんですって」と僕は太郎さんに言う。
「ほほう」と太郎さんはアゴをこする。「モグラに伝えておくよ」
太郎さんは雇われ店長。でもそれは彼の現実的属性に過ぎない。現実的存在として太郎さんは店の売上を気にしつつ、それより深い存在として僕との対話を楽しんでいる。と僕にはそう感じられる。
好きだという気持ち。僕はこの空間が好きで、太郎さんが好きなのだ。僕がここにいる根拠。
「ねえ太郎さん」とまるで母親に話しかける幼児のように、僕は言う。「人間ってなんですかね? 僕が認知してるこの世界ってなんですかね?」
太郎さんは店のマッチでジタンに火をつけ、それを吸い、独特の香りとともに煙を漂わせると、口の端で笑った。そして。
「DEADMAN DREAMING」と言った。
「デッドマン、ドリーミング?」と僕は訊ねる。
「ネットで検索してごらん。そういうサイトがある」
ネットのサイト?
「サイトの入口に掲示してある一文を、太郎くんの大事なケータイに教えてもらいなさい」
太郎さんは知ってるんだな。と僕は思う。世界を飛ぶ鳥を。僕の島を。そこに見える光景を。
「誰のサイトですか?」
「インナーダイバー。とかなんとか名乗る連中のページだよ」と太郎さんは静かに笑う。
インナーダイバー? 内的潜水者。内側へ潜る者。
なんとなくわかるかも。僕にはもうわかる。ような気がする。世界の底に沈んだ大陸と、その意味するものが。
そして僕はここにいる。と自信に満ちて僕は思う。でも、ここってどこだろ? と、たちまち不安に襲われるけど。
ともあれ。ともあれ僕はここにいる。僕が何であるかはわからなくても、それでも僕はここにいる。
そして。と僕は思う。だから彼女もここにいるのだ。まちがいない。
【人生とは、すなわち死人の見る夢である】
彼女が後日、僕に送信してきたメールには、果たしてその一文があった。
*
僕が薫を失ったのは、青やピンクの紫陽花を、やわらかな雨が包み込むそんな季節だった。
そして気がつけば、季節はいつしか夏を過ぎ、秋になり、街にはニットに身を包む人の姿が目立つようになっていた。
日曜日の二十一時、渋谷の某宣伝会社で僕は、同行のデザイナーとともに劇場版アニメーション作品のパンフレットについて、先方の宣伝担当者と打ち合わせをしていた。
「このサブタイトル部分の、マド内シロヌキの地マドの色ですけど」と若い担当者は言った。「もう少し濃くできませんかね? ママだとちょっと、シロヌキ文字が弱いと思うんですけど?」
確かにそうだ。と僕も思った。マドの色は今、微妙なオレンジ、アプリコットなオレンジといっていいような色になっているが、シロヌキの文字を立たせるなら、ここはもっと強い色にして、カッチリ締めたほうがいい。かもしれない。
「でも」とデザイナーは主張した。「メインタイトルが、KPキアカの文字で、キベタ×アカ50%のフチ、じゃないですか?」
翻訳すれば、メインタイトルの文字は蛍光ピンクをかけ合わせた発色のいい赤で、その文字をニンジン的なオレンジが縁取っている、ということ。
「だから」とデザイナー。「現状キ60%×KPベタのサブタイマドのYを、おっしゃるとおりベタまであげて濃くしてもいいのだけど、でもそれがメインとそろうと、ほら、なんだかチャラチャラしちゃって下品になると思うんですよ?」
明るいアプリコットなオレンジをエルメス調の鮮やかなオレンジに変えるとこの場合、メインタイトルとバッティングしちゃうだろうとそういうこと。
「じゃ、マドの色、そもそもオレンジはやめて」と担当者。「別の色にしたらどうですか。いっそスミベタとか、アイベタ×アカ50%とか」
担当者は、黒いマドに白い文字、ないしは濃紺のマドに白い文字、なんかがよいのではと質問しているわけだ。
「じゃ私、降ります」とデザイナーは言ってしまった。「自社のデザイナーさんに依頼されたらどうですか?」
「おい待てよ」と、それまで黙って聞いていた僕は慌てて口を挟む。「今からデザイナー変えるだなんて、無理を言うなよ」とデザイナーを諌め、担当者に向かって僕は続ける。「すみません。彼女、腕は確かなんですけど、ちょっとエッジが鋭いキャラなので」
「どうせ私はトンガってますよ」
と、これだからクリエイターってやつは。
「マドを黒くしちゃ、なぜいけないの?」と、これもイマイチなセンスの若い担当者は眼鏡を光らせる。
デザイナーの周囲で空気が凍った。のを僕は、はっきりと感じた。
「あなた、お葬式にしたいっての?」とついに彼女は破裂した。「紺マドだってありえない。メインとのバランスがメチャメチャじゃないの。あなた何年この仕事やってんの? 統一感ってわかる? わかんないわよね。だからそのスーツにそのタイ、その靴、なんだもんね?」
もうダメだ。と僕は観念する。この仕事はなくなった。ところが。
「これはパンフです。宣伝物なんです」と、意外や意外、若い担当者は冷静だった。「デザイナーさんの自己表現なら、ほかでやってください。読める文字で伝える。これはマストです」
ご立派。と僕は思う。お陰で僕が言うことはなくなった。
僕はデザイナーの顔を見る。
「わかりました」とデザイナーは、声を震わせながらも妥協した。「黒い湖に白鳥を浮かべてみることに、では、いたしましょう。他を調整することでバランスをとって」
よしよし偉いぞ、大人だぞ。と僕は思った。大人が偉いってわけでもないけれど。
ともあれ。
突き返されたデザインを鞄にしまい、僕らは宣伝会社のビルを後にした。
道玄坂をくだりながら、僕はデザイナーを慰める。「キミのセンスはピカイチだよ。僕はそれをよく知っている」
春からの付き合いだ。口調もフランクになってきた。
編集者とデザイナーなのでもともと立場は対等なのだが、最初のうち僕は彼女にベタな敬語で接していた。彼女が少し怖かったから。はっきりとモノを言うし。
年齢は僕と同じなのに、彼女にはどこか、こちらが見上げてしまうような雰囲気がある。背も高いほうで、並んで歩くと彼女の肩は僕の肩とほぼ同じ高さにある。
大きなつり目と高い鼻。色は白いが、その表情は多分に男性的だ。かわいいコックさんの絵描き歌みたいな口元が、造型のうち唯一やわらかさを漂わせている。でもそれが怒ると火を吹くサクランボであることを、火傷を何度も繰り返し僕はイヤというほど知っている。
「ありがとう」とデザイナーは短く応える。そして「近頃すっかり寒くなったわね」と話題を変える。そんなところが僕は好きだ。
「ねえ」と歩きながら彼女は言う。「このあと社に戻らなきゃ、な感じ?」
デスクに残した原稿を一瞬思い浮かべてから僕は、眉を開いて彼女に応える。「いや大丈夫だよ、日曜日だし。よかったら軽く飲んでく? 一応ケータイの通じるとこで」
今日の彼女は偉かったし。と僕は思う。ついでに来月のグラビアページの打ち合わせも済ませてしまおう。
「ケータイ通じれば、どこでも平気? 飲むところ」とデザイナーが訊く。
「お任せしますよ」と僕は応える。「今夜のキミには借りがあるし、地獄の果てまでだってお供して、キッチリお勘定させていただきます」
「じゃ、今夜は借りるわね、そのカラダ」と彼女。「そこ、曲がりましょう」と先に立って歩む。
道玄坂から小道に入る。休日の渋谷。行き交うカップルの姿がイヤというほど目につく。薫と歩く秋の街を僕は自然と想像してしまう。
するとテレパシーのようにデザイナーが言った。「薫さん、だったっけ?」
「うん?」と僕は応じる。
「どのくらいになるのかしら。不幸があってから」
「六月十一日。事故があったのがその日、僕の誕生日だったから」と僕は計算する。「かれこれ四ヶ月になるのかな」
「まだ喪中?」
「まあね」と僕は下を向く。
「夏は?」
「夏?」
「夏はどうやって乗り切ったの?」
「クーラーで」
「じゃなくて。新しい彼女とか、なしで過ごしたわけ?」
新しい彼女?
「そだよ」と僕は応える。
「へえ、意外。青山さん、女きらしたことないって噂だったのに」
うーむ。と僕は心の中で唸る。
と、ジーンズの左ポケットがブルルと震えた。
「青山さん、モテるのにね?」
ブルル。
「カラダに毒よ、いつまでも一人でいたら」
ブルル。ブルル。
「いつだったかの夜も感じたけど、青山さん、ちょっと欲求不満なんじゃない?」
ブルルルルル。
「おい」ヤバいっす。ケータイよ、静まってくれ。バレちゃうよ、ヘンタイ的な関係が。「人けのないとこで」と思わず僕は思いを声に出してしまう。「ゆっくり話し合おう」とケータイに向かって言ったのだ。
「そうね」とデザイナーは言った。そして立ち止まった。ソレイユという看板の下。カップル用のホテルの前だった。
ソレイユ。太陽。と僕は思う。象徴的だ。
デザイナーは先に立ってゲートをくぐる。ゲートの周辺は、早くもクリスマスの装いで彩られていた。
「ちょっと」と僕はうろたえる。「あのさ」
「とっとと入ってよ」とデザイナーは言う。「ガキじゃあるまいし」
ガキじゃないからこそ、困るんだよ。と僕は思う。
そのときだった。なんと雨が降ってきた。まさに背中を押されるような、そんなタイミングの雨だった。頬にあたる雨粒を数える間もなく雨は本降りになった。
「突っ立ってないで」と、エントランスに駆け込みながらデザイナーは言う。「迷うなら中で迷いなさい」
十分に迷いながら僕は彼女のあとを追った。
パネルの前で部屋を物色する彼女の背中に、僕はナイショ話のような声で言う。「まずいよ、これは」
「奢ってくれるんでしょ?」と彼女は平気な声で言う。「これがいい。ミストサウナ付きにするわ」
雨に降られたカップルが、僕らのあとから二組もやってきていた。ここで押し問答するのはなんとも具合が悪かった。
考え方の問題だ。と僕のアタマはとっさに屁理屈を組み立てた。そうだよ、何も慌てることはない。部屋でビールでも飲みながら、話せばなんとかなるもんさ。女の子とホテルに入ったからって、ナニかしなきゃならないなんて決まりはないんだ。ケータイと二人で、湯船に浸かって話をつけよう。トイレでメール会議、だって構わない。ケータイとまずは二人で話さなくっちゃ。
てなわけで愚かな僕は、ソレイユ504号室のドアをくぐった。
504号室。コマルヨ、ホント。なんちゃって。
*
ケータイは振動を止めていた。この沈黙が怖い。まずはケータイと二人っきりにならなくちゃ。と僕は思った。
「せっかくだから風呂でも入って、サッパリしてから飲もうかな?」などと言いながら僕は浴室に向かった。
バスタブの湯張りスイッチを押してから部屋に戻ると、デザイナーはジャケットを脱ぎ、冷蔵庫からスーパードライの缶を取り出し、そのプルリングを引いていた。
話すことがない。こちらもまた気まずい沈黙。
なので僕も、彼女にならってビールを取り出し、プルリングをむしる。「乾杯」と僕は言ってみた。
いったい何に乾杯だ?
彼女は無言だ。
怖い。と僕は思った。
そのとき浴室から、お湯張り完了のチャイムが響いた。
救われた。と僕は思った。
「じゃ、すまないけど、先にサッパリさせてもらうね?」と、不自然だとは思いながらも、僕はそう言って立ち上がる。まずはケータイと話し合おう。と、またそれを思う。ケータイがブチ切れて、なにやら喋り出すその前に。
デザイナーは何も言わず、こちらも見ずに、片手を上げてバイバイと手を振った。いや、バイバイというよりも、どちらかといえばシッシッかも。
巣穴を飛び出すリスのようなアクションで、僕はチョロリと浴室に逃れる。
覗かれたりはしないだろうけど、一応用心にミストをオンにする。BGMもオン。これでケータイとのやりとりが外に漏れる心配もない。
カラダを流すのもそこそこに僕は湯船に浸かって、ケータイを脇に置くとその着信を待った。
浴室に流れているのは、ビートルズのイン・マイ・ライフをハワイアンにアレンジしたバージョンだった。
イン・マイ・ライフ。と僕は思う。僕の人生。なんだかなあ。
ケータイは沈黙したままピクリともしない。
こちらから連絡する手段がないってのはフェアじゃない。かかってきたら、まずはそれを言おう。機先を制するのだ。なんて僕は思う。マ?イライフ。なんてハミングしながら。
「お背中、お流ししましょうかー?」と言われて、僕はハミングをやめる。
これはケータイの言葉じゃない。デザイナーの言葉だ。彼女が浴室のドアを開けたのだ。
陽気な声でそう言われて、何が起こったのか一瞬わからなかった。
初めて見るデザイナーのカラダ。ミストサウナがその輪郭をぼかしてはいても、下着をつけていないのは一目でわかる。
「私も好きよ、この曲」なんてのんびり語りながらデザイナーは、恥じらう様子もなくシャワーを浴びる。
これはなんというか大変に困った事態であるな。などと、まるで他人ごとのように僕は思う。
バスルームは都心のワンルームくらいに広い。バスタブからシャワーまでは目算で数メートルの距離がある。ミストもその濃度を増している。まだ距離がある。裸であってもまだ切り抜ける余地はある。考えろ。と僕は自分に命じる。
ケータイは変わらず沈黙の構えだ。そして逃げ場はない。ならば落ち着きたまえよ、この僕。そう、こんなときこそ慌てず騒がず、当たり前のように、フレンドリーに、決して相手の立場を損ねることなく、一線を提示してやればそれでいい。穏やかに、誰をも傷つけず、ユーモアを発揮して。なんとかやれる。大丈夫。
「ジャグジーにしないの?」と、カラダを洗い終えたデザイナーはバスタブに歩みよりそう言う。
「あ、そうだね。ボタンはええと」と僕はバスタブの縁を探る。
ここよ、と言いながら彼女はそのボタンを押し、タオルを胸から外すと、なかなかに豊かなバストを一瞬あらわにしたのち、泡立ちはじめた湯船にカラダを沈めた。
ジャクジーのバイブレーションがケータイバイブの百倍くらいの勢いでカラダに伝わる。浴室の照明は落ち、かわって浴槽の照明が点灯し、それは七色に変化してカラダを照らした。
彼女の入れた液体石鹸がやがて元気に泡立ち、僕らはアゴまで泡に埋もれる。そして泡はさらに成長し、季節外れの入道雲が、互いの視線を遮るように、モクモクと視界に沸き上がる。
雲間から僕はチラリとケータイを見る。が、動きはない。
「なんというか」と僕は泡の向こうのデザイナーに言う。「ウソみたいだね、さっきまで仕事で這いずりまわっていたのが」
「そうね」
「くつろぐなあ」などと僕は見当違いなことを言う。「風呂って大好きだよ」
「あなた、忙し過ぎよ」とデザイナーの声。「いつも蜜蜂みたいにブンブンいってる」
Honey Bee.と僕は思う。ハニーと呼ぶほど、甘くはないよマイライフ。
「ブンブン」と言って僕は笑う、曖昧に。
「情報産業ってなんていうか非人間的ね、人間を扱うくせに」
「医者の不養生」と受けて僕はまた笑う、曖昧に。
「ね」とデザイナー。「情報って何かしら?」
情報?
話の風向きはマジメよりの風、なかなか望ましい展開となるでしょう。との予報が僕の内に流れた。なので僕は話にのる。
「情報とはすなわち」と僕は応える。「インフォメーションである」
「インフォメーション?」と彼女。
「ラテン語のインフォメア、だったかが語源だっけ? インは中に、フォームは形づくる。内側に形づくるのがインフォメーションだったと思う」と僕は応える。
「そうなんだ」とデザイナー。「私、フォーマルとかインフォーマルとかっていうときの、正式略式を思い浮かべてたわ。インフォメーションは略式な情報。あなたたちって、だからいつでもジーンズにスニーカーなんだなって」
「そりゃ笑えるね」と僕は少しだけテンションを緩めて笑う。よしよし、いい感じ。
「調べてみようか?」と僕はケータイを手にとる。開いてチラリとディスプレイに目を走らせるが、ケータイ自身からの着信はなさそうだ。
インターネットに接続する。
「ええとWikipediaによれば、情報とは」とページを開いて僕は読む。「人の判断・意思を左右・決定させるすべての事象である。言語、貨幣、法律、環境中の光や音、神経の発火やホルモンなどの生体シグナルを始め、あらゆるものを『情報』とみなすことができる。たとえば、〈私〉の意識にのぼるあらゆるものは、〈私〉にとって意味があるものであり、〈私〉にとっての『情報』であると言える。だってさ」
「そうなんだ」と、泡の向こうから感心したようなデザイナーの声。「情報って私、単純にお知らせのことかと思ってたわ」
バスルームにはミストがたちこめ、バスタブにはバブルが満ちている。今僕に届いているデザイナーの『情報』とは、すなわち彼女の『声』である。姿は見えない。が、僕の心が彼女のカラダを『意識』したら、それはそれですでに、立派に意味を成す情報であるというわけだ、Wikipediaによれば。と僕は思う。
なんて油断をしたのがいけなかったのだろうか?
「そう考えると青山さん、あなたが情報屋さんであるってコトにも、なんとなく頷けるみたい」というデザイナーの声を追うようにして、バブルな壁の向こうから、彼女の手が、そして顔が、近づいてきた。視覚的情報は性欲に結びつきやすい。だから男はエッチな本やビデオで興奮するのだ。なんて悠長に分析している場合じゃなかった。
ちょっとこれは。と僕は慌てる。よくないかも。
僕はケータイをバスタブの縁に戻して身構える。
「字面からすると『情報』って、なんだか違う意味みたいね?」とデザイナー。
グラペンを握るあのスティックチーズのような指が、僕の頬にやわらかく届く。「情に報いるのが、あなたの仕事なのかなって、私そう思ってた」
デザイナーの顔が間近にあった。
展開が早すぎる。彼女の瞬発力を計算できていなかった。
エクリプスだ。と僕は思った。エクリプス。日食。さっきまで照っていたはずの太陽を、月が隠した。公私が重なる瞬間。理性が眠る瞬間。月の吸引力。
と、視野の隅が捉えたのは青い光だった。エーゲブルーの照り返し。ケータイは沈黙しながらも、ただそこにいることで、その色で、その存在に関する情報を僕に届けた。
色も私が選ぶわね。声が蘇る。薫の声。
僕はハッとして操縦レバーを引く。失速し、墜落しかけていた意識は、危機一髪でその機首を上げる。
「ちょっと」と僕はデザイナーを制する。「ちょっとおやめになって。嫁入り前のカラダですから」とおどけてみせる。
デザイナーは笑わない。
ミサイルは外れたのだ。それでもどうにか彼女の指は僕の頬を離れる。
「ねえ」とデザイナーは言う。「何もそんなに難しく考えないでいいのよ。ヤりたくないの?」
おいおい、直球ですか。ど真ん中ですか。と僕は思う。
「薫さんに義理立てしてるなら、そんなのもう終りにしなさいよ。いつまでも一人エッチじゃアタマおかしくなるわよ?」
なるほど。と僕は思ってみる。それでアタマがおかしくなったのかな。それで携帯電話を相手に一人芝居を続けていたりするのかな。
「たまってるんでしょう?」とデザイナーの声は熱をおびながらもハスキーに乾く。「知ってるんだから。この夏、あの夜、うちの事務所であなた、感じてたでしょう?」
そう。あのときもニアミス。あのときはケータイがポケットで、元気に暴れてくれたのだった。
でも今夜、ケータイは沈黙したままでいる。
「いくら薫さんが好きだったからって、ずっと女を抱かないなんて、そんなのナンセンスよ」とデザイナー。「薫さんにはないんだから。もうカラダはないんだから」と呟くように言いながら、デザイナーの指は僕のカラダを掴む。「私たちは欲望を持つ肉体なんだから」
電流が走る。一ヶ所に集まってゆく血液。膨張し、たちまち硬くなる。気をつけの姿勢。
「やっぱりね」と声が言う。「ほら、こんなにかわいそうなくらいに、カラダはカラダを求めていたのよ、わかる?」
デザイナーの指がきつく僕を握る。デザイナーの瞳は僕の目を覗きこむ。
「知ってるんだから」とデザイナーは僕に唇を寄せる。
駄目だ、抵抗できない。と僕は思う。カラダが絶対的に求めている。渇望している。彼女の舌を求めて僕の口はヒヨドリのようにあえいでいる。
「知ってるんだから」と、長いキスを終えたデザイナーの口はまた、僕の耳に直接言葉を流し込む。「あのときあなた、出しちゃったでしょう?」
さらに硬直する。
「駄目よ、まだ」と彼女は言う。「ってか出しても、何度でもまた励ましてあげるけど」
そんなわけで。
そんなわけで朝までに、バスルームで一回、ベッドで二回、僕のカラダは彼女に導かれ痙攣した。
朝になり、彼女は言った。「今後もいつでも使ってくれていいのよ、私のカラダ。でも新しい彼女はそれとは別に、早いとこ見つけたほうがいいわよ。繋がってない状態ってのは不健康だわ、カラダもそうだけど、ココロもね?」
繋がる? 新しい彼女?
僕のアタマは取り返しのつかないほどバカになってしまったのかもしれない。何も考えられない。ひどく眠かった。
「それじゃね。パンフのデザイン、てっぺんまでには直してPDFで送るわ」と彼女は太陽の顔で笑う。月は通り過ぎたのだ。「来月のグラビアラフ、早めに頂戴ね。月末から私、彼氏とフィジーだから」
彼氏とフィジー。と僕は思う。彼女の月は日付変更線上で輝くのだろう。
足の間にぶら下げたフクロは、お陰ですっきりカラッポになったけれど、なんだか僕の脳味噌までもが、すっかりカラッポになってしまったみたいだった。
カラッポな気持ちで僕は、一足先にゲートをくぐる彼女を見送り、三十秒カウントしたのち、自分もまたゲートをくぐり、そのままその足で出社するため、JRのホームを目指して陽射しの中を歩き出す。
渋谷の朝は、渋谷の夜とガラリ違っていて不思議だ。
白々しいほどカラスの似合う繁華街。生まれたてのヒヨコみたいに無垢なマクドナルド。
夜のうちに、よく似ているけれど根本的に違う、そんなパラレルワールドに流されたみたいだ。月のシフトから太陽のシフトへ。
ともあれ。つまり結局は、太陽は昇るってことなんだ、眠たかろうが、混乱していようが、容赦なく。と僕は悟る。新しい情報世界がまた回転を始めるのだ、月の気持ちなんて思いもせずに。
*
気持ちを思いもせずに。と僕は思った。
深夜、というか早朝。一日ぶんの仕事を終えて帰宅して、これから眠りにつこうとするベッドの上で、僕は独り考えこんでいる。なぜだ?
なぜケータイは震えない?
今朝ホテルを出てからケータイは何度も震えた。だがそれはケータイ自身の意思ではなくて、仕事の連絡。それだけだった。
今、昨夜の揺らぎを夢のように感じながら、僕はベッドに正座している。バルコニーの向こうからカラスの嘲う声。阿呆。阿呆。阿呆。
ケータイは沈黙している。昨夜ホテルのエレベーターに乗ったその瞬間から、ケータイは一貫して無言だった。
冷えきっている。と僕は感じた。部屋は昭和基地のように冷えきっていた。極地。薔薇の割れる世界。エーゲブルーもひどく冷たく凍っている。揺らがない。
ケータイからの連絡がない。なんてこれまでなかったことだ。
怒っているのだ。F908iは怒っているのにちがいない。
そりゃそうだ。
気持ちを思いもせずに。とまた僕は思う。
F908iは僕を好きだと言ってくれた。なのに僕は他の女に抱かれた。浮気だ。しかも。
さらに残酷なことにF908iは、ずっとその現場にいたのだ。好きな男が他の女に抱かれているのを、じっと黙って耐え忍んでいたといえる。
気持ち。好きだという気持ち。そんな気持ち一発で、F908iは僕に繋がっていたのに。
僕が壊してしまったのだろう、その気持ちを。
ケータイは怒ってなんかいないのだ。と僕は思った。きっともう怒ってさえいないのだ。無惨に傷つき諦めて、去ってしまったに違いない。
僕は取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
冷たく沈黙するケータイを僕は、充電用のクレードルにそっと横たえた。そして頭を下げた。ごめんよ。
歯を磨きに洗面所に行く。鏡に僕が映っている。いやらしいヤツだ。と僕は思う。鏡を殴る気力もなく、僕は弱々しくしかし執拗に、長いこと時間をかけて歯を磨いた。
洗面所を出てリビングに戻ると、冷蔵庫を開けて僕は、ベルギービールを取り出した。ギロチンという名のビールだった。ギロチン台の絵が描かれたその瓶を、僕は殊勝な気持ちで眺めた。その昔、絞首台に送られる死刑囚に最期の情けでふるまわれたというアルコール。それを銅のグラスに注いだ。グラスを片手にソファに沈んだ。百年経っても自分を許せないような気がした。
銅のグラスを傾けようとしたそのとき、ベッドルームから音がした。
鎮静剤のグラスを脇に置き僕は、処刑台から転がり落ちて、膝をつき、這うようにしてベッドルームに向かう。
震えていた。クレイドルの上でケータイは、震えながらそのイルミネーションを瞬かせていた。
「もしもし?」と言う自分の声を、僕はまるで他人の声のように聞いた。 もしもし?
「あたしよ」とケータイは言った。
「ごめんよ」と僕は謝った。「ほんとにごめん」
「いいのよ」とケータイは応えた。「だってあたしにはカラダ、ないし」とケータイは続けた。
カラダないし。だって? と僕は驚く。そうか、そんなふうに思っていたのか。
「いくらあんたのがちっちゃいからって、あたしのイヤホンジャックにつっこむわけにもいかないじゃない?」
イヤホンジャック?
「あの女の言うとおりよ。あんただっていつまでもマスターベーションばっかしてるわけにはいかないもんね」
なんと。
「あたしだってヤなのよね。あんたが薫の写真見ながらするとこ、見せつけられるのはウンザリなのよ」
なんですと!
「だからって、あたし見ながらヤってみて、って言ってもあんた、できないでしょ?」
当たり前だ。と僕は思う。ケータイのフォルムに欲情できるほど僕は残念ながらヘンタイではない。
「だからね。あたし考えたんだけど」とケータイは言う。「いいわよ、あの女とヤっても」
おいおい。
「なかなかいいカラダだったんでしょ?」
いいカラダ。
「ためこまないで、ときどき彼女のカラダで出してもらいなさいよ」
出してもらいなさい?
「それがいいと思うわ」
「なんで?」と僕はどうにか、かすれた声を出す。「なんでそんなコト言うんだ?」。
だってキミは。
「だってあたしは」とケータイが被せる。「あんたが好きだから」
え? と僕は絶句する。好きだからって、あれ? で、いいのか?
「だってあたし、あんたを愛してるんだもん」とケータイ。「だからね、だからカラダに悪いから、ときどきカラダを抱きなさい。あたしの電源落とすか、あたしにわからないような圏外で、あんた、そうしなさいよ」
これには驚いた。ケータイは昨夜からずっと、そのコトについて考えこんでいたのだろう。
「カラダがすべてじゃないけれど」とケータイ。「肉体が大事だってことも、あたし、わかるわ。あんたを慰められるカラダ、あたしにあればよかったなあ」
言葉が出ない。
「ホントのコトいうと、あたし、あんたがちょっとかわいそうだったのよ。死んだ女で自分を慰める男の背中なんて、痛々しくって見てられなかったわ。あたしがピックしてあげたエロ画像には、あんたピクリとも反応してくれないし」とケータイはため息をつく。「カラダっていったって、結局それだって情報なわけで、なのにカラダ一つ満足させてやれないだなんて、あたし情報社会を生きるケータイとして恥ずかしいわ。最強のコミュニケーションツールだ、なんておだてられていい気になって、それでいて乾いた男と女の一組も繋げてやれないなんて、あたし携帯電話失格だった。だからね」とケータイは泣き笑いのような声を出す。「だからあたし、あんたの幸せを考えることにしたの」
なんということだ。と僕は思う。
「あたしね、どこにでも繋がることができるから、知識はこれでも無尽蔵なわけよ。博識なの。でも自分じゃモノを考えないじゃない?」と話すその声はだんだん細くなっている。「だからバカなわけ。バカのくせして珍しく考えこんだら、すごく気持ち悪くなっちゃった。あんた、明日の火曜日、仕事入った?」
「いや」と僕は応える。「明日は休みだ。日曜日の代休とるって言っただろ。出社の予定はないよ」
「そう、よかったわ。だったら今日は、昼まで少し休ませてもらっていいかしら?」
「え? あ、いいよ勿論」と僕は言う。「ゆっくり休んでくれ、いつもすまない」
「すまない、なんて水くさいコト言わないでよ。あたし、あんたが好きなんだから。じゃ、あたし充電するわね。キーを触りたくなったら遠慮なく触ってね。いつでも起こしていいからね」と言いながら、ケータイはそのイルミネーションを淡くしてゆく。「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」と僕は言い、慌てて付け加える。「また明日」
「うん。また明日」とケータイは応えた。
電池切れしたそのカラダを、僕は大切にクレイドルに寝かせた。
携帯電話のために僕ができることはなんだろう? と僕は考えた。ケータイは、何を一番喜んでくれるだろう?
ケータイが喜ぶような何かをしてやりたかった。ピンクの瞬きを見たかった。感動に震える様子を見たかった。
考えながら僕は眠ってしまった。そして夢を見た。夢の中を飛行しながら僕は考え続けた。彼女を喜ばせることができるものを、僕は探し、求めた。
深い霧の中を宛てもなく飛ぶ僕の眼下に島が見えた。雲の合間にそれが見えた。彼女のような青い海に、珊瑚礁の緑が滲んでいた。それは宝石のように美しく、奇跡のようにビビッドだった。
これだ。と僕は思った。
*
ケータイが震えていた。
手を伸ばし、ベッドサイドのケータイをピックする。「もしもし?」
「あたしよ、おはよう」とさわやかな声が言う。「十一月十一日正午現在、都心の気温は十九度、無風、快晴。素敵な休日よ」
「やあ、おはよう」と僕は応える。「よく眠れたかい?」
「お陰さまでフル充電よ。あんたの仕事もないし、こんなゆっくりな休日、久しぶりね」とケータイは笑う。
確かに。と思い僕は、ベッドに横になったまま白い天井を眺める。その天井の向こうに広がる青い空を想像してみる。
そうだ。と思って僕は身を起こす。「そうだ。キミにプレゼントがあるんだ」と僕は言った。
「あたしに?」とケータイ。「何かしら? 誕生日でもないのに?」
僕はケータイを耳にあてたままベッドを下りて、カーテンを開く。ケータイの言うとおりそこには、秋晴れの空があった。
「誕生日って、いつなのさ?」と僕は訊く。
「わからないわ」と一拍置いてケータイは応える。「あたしがいつからいるのか、いつまでいるのか、ここがどこなのか、あたしが誰なのか」
そんなコトはどうでもいい。と僕は思う。「そんなコトどうだっていいさ。キミが僕を好きだという気持ち、それだけ確かであればそれでいい」
いい感じだ。いいムード。いい天気だし。いい気分。
「そうね。ありがと」とケータイは言う。
「さて」と僕はケータイに言う。「一度通話を終えるから、ネットに接続して検索してごらん。キミへのプレゼントだよ。いいかい? 記憶してくれ。検索ワードは」と僕は声を弾ませる。
「ちょっと待って」とケータイも嬉しそうだ。僕も嬉しい。「いいわよ。言って」
「タヒチ」と僕は言う。「ボラボラ島沖」と続ける。そして三つ目のキーワードを付け加える。「ツパイ島」
一度通話を切り、閉じたケータイは、待つほどの間もなく差出人不明のメールを受信した。そこにあったのは一枚の添付写真と、こんな文面だった。
〈太郎!
見てきた!
ありがと!
きれいな島ね!
ツパイ島。
ここにあたしを、
連れてってくれるの?〉
添付された写真を開くと、そこには、いつだか雑誌で見たことのある、そしてさっき夢で見たばかりの、あの島があった。ツパイ島。エーゲブルーな環礁を優しげに抱くハート型の島。それを空から捉えた写真。
これだよ、これ。この景色を一緒に見よう。空から見よう。と僕は思った。
なので。
〈これだよ。
この景色を見に行こう。
今から手配すれば、
正月休みになんとか間に合うだろう。
気にいったかい?〉
と僕は、ケータイからのメールが消えないうちにと、素早くそれに返信をした。
〈素敵ね。
嬉しい。
仕事中にも、
何度も何度も触ってもらえて、
仕事のないときはいつも二人でお喋りできて、
お風呂も一緒に入れて、
枕を並べて眠れる。
それだけでも、
どんな彼女よりも恵まれてるのに、
こんな素敵なプレゼントまでもらえて、
あたし幸せものだわー。
ありがとね、太郎!
あんまり嬉しくって、
興奮しすぎたのか、
なんだかあたし、
また疲れちゃったみたい。
また少し充電してもいい?〉
勿論さ。と僕は思い、そっとケータイを閉じ、クレードルに寝かせた。
さてと。と僕は思い伸びをした。
シャワーを浴びた。イン・マイ・ライフをハミングした。
カルボナーラとミルクコーヒーを作ってブランチにした。
午後三時。南西からの明るい陽射しが、フローリングに光の紋様を描き踊っている。
幼少の頃に戻ったような平穏を僕は感じた。
クレードルで眠るケータイを眺めながら僕は考える。思えば毎日よく働いてくれてるもんな。そりゃ疲れるさ。充電池も新しくしてやろう。
そうだ。と僕は思う。今日は気持ちのよいドライブ日和だ。どこかに連れ出してやろう。と窓の外を眺めて考える。どこに行こうか。
向かいのビルの屋上に、名前の知らない鳥が二羽、寄り添ってとまっているのが見えた。
ともあれ出かけよう。と僕は思った。
クレードルからそっとケータイをピックして、いつものようにジーンズの左ポケットに差し込むと、僕は車のキーリングを指にかけ、晴れやかな気分で部屋を出た。
地下の立体駐車場からエーゲブルーのプジョーを呼び出す。
そうか。車もケータイも似たような青であったか。と今更ながら僕は思う。薫のヤツめ、さてはケータイの色を車の色に合わせて選んだな。と僕は思った。思えば薫は、プジョーのことも愛してくれていた。プジョーを猫にみたてて、青猫のヌイグルミを作ってくれたりも、うん、してたっけ。
プジョーのシガーソケットにケータイを繋ぎ、ハンズフリーの通話を可能にしたあと、僕はアクセルを踏み込んだ。秋の休日へ。
途中でケータイが目覚めて言う。「どこ行くの?」
「横浜」と僕は上機嫌で応える。「みなとみらいの近くに天然温泉があるんだ。そこで僕らは骨休みをするわけ。どうよ?」
「わーい」とケータイは喜んだ。「温泉、温泉。あたし、よかったわー。お風呂ケータイに生まれてきて、ホント、よかったわー」
斜めからの太陽がプジョーの影を、路面に長く描いていた。
そんな休日。
*
「なんでかな?」と僕はスパランドの係員に質問する。「なんでケータイは、浴室持ち込み禁止なの? お風呂ケータイだよ?」
「皆さん、裸ですし」と係員。「他のお客様のご迷惑になるような行為は……」
「盗撮なんてしない。オトコの裸に興味はない」と僕は抗議をしたが、判定は覆らず、しかたなく僕とケータイは脱衣所をあとにする。
「太郎、あんた一人で入っておいで。あたし、ロッカーん中で待ってるよ」とケータイ。
「いや。キミの慰安で来てるんだから」と言いかけて僕は、目の前の、エレベーターサイドの掲示に気がつき、こう続ける。「よし、屋上だ。屋上に行こう!」
「遊園地?」
「ここはデパートじゃないし、キミだっておそらくは子供じゃないだろ?」と僕は言う。「成人向けの画像にだってアクセスしてるし」
「いったい何よ?」
「あれだよ、足湯」と僕は掲示を指さす。「足湯なら、誰にも文句は言われないよ?」
それに。と、実際屋上に出てから僕は思った。誰もいないし。寒いもんな。
「わーい」と、でもケータイは喜んだ。「二人きりだね。貸し切りだー」
そう喜ばれれば寒くなんかない。寒さなんて気のせいだ。
事実ヒザまで湯に浸かると、カラダもかなり温まった。悪くない。と僕は満足した。
「湯気がホヤホヤで癒されるわー」とケータイ。
「そだね」と僕。「キミも並のケータイの十倍くらい、よく働いてくれてるもんな。今日はのんびりしよう」
足湯の正面には大きな観覧車があった。
暮れゆく空を背景に、巨大な観覧車が回転している。それは非常に何か象徴的な光景だった。
「回る小部屋のてっぺんに、のぼってみたいと思うけど」と、いつになく、らしくない、静かな口調でケータイが呟く。「てっぺんに、ずうっと、いられるわけもなし」
「急に詩人だね?」と僕は茶化した。
「あそこに今」とケータイは、しかし真面目な口調で続けた。「二十四の小部屋が回転してるでしょ?」
何を言い出すのだろう。とケータイの調子をいぶかりながらも、僕は観覧車の小部屋を数えた。「うん。二十四の部屋が回転している」
「あの観覧車は例えば」とケータイ。「あなたよ」
「僕?」
「そう」とケータイは少し小さな音量で語る。「あの全体があなたという存在」
僕は大きな円環を眺める。
「人が乗ってる小部屋も、乗ってない小部屋もあるけれど」とケータイ。見れば確かに平日のこの時間、客はマバラなようだった。「例えばあの十二号車に乗ってたわけよ、薫さん」
薫が?
「十二号車?」と僕は訊ねる。
「例えばよ」とケータイは言う。「あなたにとっての十二号車は、例えばそういう小部屋なわけ。そして今十二号車には、たぶんあたしが乗ってるの」
ふうん。と思って僕は、改めて観覧車を眺める。あれが僕。十二号車に薫が乗っていた。
「そしてあなたは」とケータイは続ける。「例えば二十四号車に乗ってたりするわけ。そこがあなたの指定席」
「ちょっと待って」と僕は言う。「僕はあの観覧車の全体だって、さっきキミはそう言ったよ?」
「それは大きなあなた。小さなあなたは、例えば二十四号車に乗ってるの」
ふうん。と僕はまた思う。よくわからないけど、まあいいや。
「岡崎くんは六号車。バーテンの太郎さんは十六号車。デザイナーの彼女は十八号車に乗ってたりするの」
「へえ。みんな僕の小部屋に乗ってるんだ?」
「そうよ」とケータイは言う。「そして一周して、また人は入れ替わるの」
「寂しいな」と僕。「僕から去ってしまうの?」
「あなたを降りるのよ」
「降りる?」
「一周で降りない人も、中にはいるかもしれない。太郎さんなんかあんたの小部屋に、生涯居座ることになるかもね」とケータイは笑う。「でもね、たいていは降りる。だって同じとこグルグル回ってたって、それじゃつまらないでしょ?」
確かに。と僕は思い、考えようとする。
そのときだった。
観覧車が光った。蛍光のイルミネーションが放射状に炸裂して、回転し、消灯し、そしてまた開花した。
小部屋の一つから、中心に向かってビームが伸び、また別の小部屋から、中心に向かって違った色のビームが伸びた。アチコチの小部屋から、様々な色のビームが伸びる。消える。残像。そして観覧車は回転し続けている。
おそらくは乱数によるものなのだろう。光のパターンが読めない。この日この時の、この空を背景に、ランダムに出現する一期一会の形が描かれた。万華鏡のようだな。と僕は思った。
「きれいねー。花火みたい」とケータイは喜んだ。「あたし、写真とるわー。太郎とのデートの記念に、この花火撮るわー」
ケータイはシャッターを押した。
僕らはしばし、デジタル花火を楽しんだ。
「たーまやー!」とケータイは、はしゃいでいた。花火に合わせて、自分のカラダも光らせてみせた。イルミネーションの共演。
「綺麗だね」と僕は言った。
「あらやだ」とケータイはピンクに染まる。「初めてね、キレイだなんて言ってくれたの」
その様子があまりにかわいかったので、おかしなヤツだと自分で自分を嘲いながらも、僕はケータイのディスプレイにキスをした。
でも考えてみれば、そんなにおかしなコトでもないのかもしれない。と僕は思った。薫だってちょくちょくミニにキスしてたじゃないか。
気持ち一発。と僕も言いたい。モノにだって愛は宿るし愛は伝わる。彼女は僕の小部屋にいる。F908i、確かにキミは、サイコーのコミュニケーションツールだよ、まちがいない。と僕は思って、ケータイのディスプレイに、愛をこめて、もう一度やさしくキスをした。
「ねえ」と僕はケータイに言う。「キミもいつかは、僕の十二番を降りてしまうのかな? 薫がいなくなっちゃったみたいに」
「たぶんね」とケータイは応える。
「それは寂しいな」
「でもね、小部屋がなくなるわけじゃないから」とケータイ。「誰かがまた十二番に乗ることになるわ。しばらくは空き部屋だったとしても、小部屋がある限り、薫さんに似た、薫さん的な誰かが、またそこに乗ってくるのよ」
薫的な何か。とは何か。と考えながら僕は、観覧車を眺めた。
ふと気がつくと、元気に光っていたケータイのイルミネーションが消えている。心なしか、ディスプレイも暗くなっているようだ。
「どうした?」と僕は訊ねる。「はしゃぎすぎて疲れたかい?」
「風邪かしら?」とケータイは応える。
僕は笑ってしまう。風邪をひくケータイ。と僕は思う。
「少し熱っぽいわ」とまたケータイ。
熱っぽい?
手にとると、なんとしたことだろう、この寒空に、確かにケータイのボディは熱かった。熱をおびている。
僕は驚く。「どうしたんだい? 具合でも悪いのかい?」
ケータイは黙っている。
「湯あたりしたのかな。もう帰ろう。帰って充電しよう」と、電池残量の急激な減りをいぶかりながら僕は言う。
思えば昼間からおかしかった。一晩ぶんの充電を終えたはずのに、すぐにまたケータイは充電を欲したのだ。
「悪いニュースよ」とケータイは音量最小で呟いた。
*
「悪いニュースってのは、つまり」と太郎さんは、氷をピックで削りながら僕に言った。「そのことだったんだ?」
「ええ」と応えながら僕は、カウンターの奥に並ぶ強い酒を指さした。スコーピオン。蠍の沈んだ瓶から注がれる刺激的なウォッカだ。
「携帯電話のリコールだなんて初めて聞いたな」と言いながら太郎さんは、削りあがった氷をグラスに落とし、そこに透明なウォッカを注いだ。
氷がキシキシと音をたてた。
「彼女は、って、あ、F908iのことですけど」と僕は説明した。「彼女はネットのヘッドラインで、いち早くそのコトを知ったみたいなんです」
ケータイは知った。自分と同型機種にリコールがかかったことを。
F908i型機種は、バイブの際にモーターがパーツに接触、そのまま使用を続けていると蓄電能力に異常をきたし発熱、最悪の場合には発火に至る恐れのあること、ならびに、この不具合のために全品の回収が決定したことをニュースは伝えていた。
「で、どうしたの?」と太郎さん。
「電池の消耗が激しいし、彼女を労る意味でも、仕事で使うケータイは今、別にしています。そしたら」
「新しいケータイ、買ったの?」と太郎さんは、僕の言葉を途中で奪って質問する。
「いえいえ。そんなことしたら、彼女、窓口で取り上げられちゃいますよ。強制回収なんですから。窓口に顔を出した途端に捕まります。今度のことには、返金または、同グレードの他機種への変更で対応するみたいなんです。電話で確認したら、修理には応じられない、の一点張りで。指名手配の犯人よろしく、回収の電話から逃げまわってます。だから」と僕はスコーピオンをなめる。ロックで飲むと胃が焼けそうだ。「だから会社のケータイを使ってるんですけど、したらですよ、なんと」と僕はまた一口スコーピオンをすする。飲めば飲むほど乾くのだ。僕は強いアルコールに少しむせながら続ける。「そしたらなんと、声が出るんです。戻ったんですよ、僕の声。メールによるやりとりからは完全に解放されました」
「なるほど」と太郎さんはジタンに火を点ける。「それはよかったね」
まあその点はよかったのだけど。
「僕はどうしたらいいんでしょう? 彼女、別のケータイにノリうつれないのかな?」
「ノリうつる、ってのは、いいね」と太郎さんは笑う。「でも難しいんじゃないかな。太郎くんの話を総合するに、たぶん薫さんからプレゼントされたあのケータイこそが、いわば彼女の島だったんだよ。モノに宿る気持ちに、気持ちが反応したんだと思う。でなきゃ、彼女は他のあらゆる家電にとりつくことができる、ってことになる。それはちょっと考えられないだろう?」と言って太郎さんは煙をふかす。
Bar BLUEを漂う紫煙。
煙がやがてどこかへ消えてしまうように、彼女は漂い、そしてどこかへ消えてしまうのだろうか? そのあと僕の十二号車には、また新たな、別の誰かが乗ることになるのだろうか。それは嫌だった。
「彼女の様子は?」と太郎さん。「元気ないの?」
「電池の消耗が激しいことと、時々発熱することを除けば、まあ元気です。もともと元気なコだから」
「とにかく」と太郎さんは煙草の火を消す。そして「大事にすることだよ」と、この世のものとは思えないほどの優しい笑みを浮かべて僕に言った。「彼女の気持ちをね」
*
街はクリスマスの装いで、半月も早く華やいでいた。
僕は彼女へのプレゼント用に、ケータイ用デコシールを買った。クリスマスには彼女の青いボディに白い巻き貝を添えてやろう。と考えたのだった。
日に日に衰弱してゆくようなケータイのために、僕ができることは何だろう?
サンタに祈りたかった。彼女に新しい貝殻をください。そして彼女が楽しみにしているハートの島を、彼女に見せてやれますように。
余命を知らせる手紙がポストに入ったのは、クリスマスへ向けてのカウントダウンが進行する、そんな十二月上旬のことだった。
【不良商品回収に関する最終のご案内】
お客様ご契約のFOMA端末機種は、今回のリコールに伴う、回収対象としてリストアップされております。
直ちに使用を中止し、各店舗窓口または、別紙記載の弊社リコール相談センター宛てに、製品をご提出くださいますよう、ご協力をお願い申し上げます。
期日までにご提出をいただけない場合は、大変恐縮ではございますが、ご利用くださいます皆様の安全のため、ご契約者様との当該機種に関する通話等サービス契約を、一時解除させていただきますので、その旨何卒ご了承ください。
契約解除の翌日より、お客様のFOMA端末機種は、通話、パケット通信他、すべての機能を失います。
ご不便をおかけいたしまして大変申し訳ございません。
代替機種を幅広くご用意して、ご来店を切にお待ち申し上げております。
今回のリコールによりお客様が被られた実質的損害は、弊社損害賠償規定に従って賠償させていただきます。
ご利用の皆様には、多大なるご迷惑をおかけいたしますことを、深くお詫び申し上げます。
今後このような不良製品を、生産、販売いたしますことのないよう、全社従業員一体となって、生産およびサービスの向上に、より一層の熱意をもって取り組んで参りたいと存じます。
今後も弊社のサービスを是非ともご利用いただきたく、重ね重ねのお詫びとともに、回収に関するご協力のお願いとご連絡を送らせていただく次第でございます。
末筆となりましたが、皆様のご健康とご多幸を、心よりお祈り申し上げます。
なお不良製品のご提出期限は、本年十二月末日とさせていただきます。
不良品。という表現に僕はカチンときた。健康を祈るだの、ご多幸を祈るだの、そういった紋切り型の文言にもムカついた。彼女の島を沈めるくせに。と思ったのだ。
連中は考えたこともないのだろう、自分たちの製品に気持ちが宿るだなんて。と僕は思った。薫からのプレゼントを、唯一無二の温かさを、不良品として回収、廃棄し、実質的損害とやらを金銭に見積もり賠償しようとしているのだから。
連中は機械以上に機械なのだ。と、そのような激しい怒りに僕の心は震えた。震度7クラスの激震だった。
でも考えてみればそれは、言い掛かりというものだった。彼らは薫を知らないし、F908iが薫からのプレゼントであることも当然知らない。ましてやケータイが喋るだなんて、想像したことがなくって当然だった。
冷静になると、激しい揺れはおさまった。
でもかわりに、おくれて津波がやってきた。それは哀しみだった。圧倒的な哀しみだった。哀しみは容赦なく僕をのみこんだ。
余命宣告。と僕は思った。まさにそれだった。あと半月の命です。と、そう宣告されたようなものだった。いやだ。いやだ。いやだ。認めない。断固として認めない。拒否。絶対的拒否。そんなのやだよう、と僕は、ジダンダ踏んで泣きたかった。
十二月末日が期限。正月休みのタヒチ旅行に間に合わないじゃないか。と僕は思った。ハートの島を見せてやれないじゃないか。と悲しくなった。それはいやだった。あんなに楽しみにしてるのに。いやだ。いやだ。いやだ。
そんな日々が続いた。どうにもできない、カウントダウンの日々だった。
もがいても、もがいても脱出できない、暗黒のスパイラルのただ中で、僕は完全に無力だった。
クリスマスへ向けての浮かれたカウントダウンが進行する街を、僕は独り、影のように歩んだ。昼は太陽を避けるように下を向き、夜はアゴを上げて月を睨んだ。効果はなかった。太陽はそれでも運行したし、地球も自転をやめなかった。
日めくりカレンダーは文字どおり、日一日とその身を細らせていった。
絶望は日々積み重なることによりその説得力を増す。
F908iと僕との物語は、人知れず、ひっそりと、このまま幕を閉じてしまう、かと思われた。ところが。
サンタのソリが今年のプレゼントを積みこんで極地を出発したころ、事態は思いがけない展開を迎えた。
それはまるで、絶望に向かってひた走る列車の横っパラに、宇宙船がつっこんできたような衝撃だった。
*
その日は朝から晴れていた。僕はケータイの傍らにいた。そして渦潮を睨んでいた。
「ねえ」とケータイが言った。音量は小さかった。
僕は彼女を強く耳に押しあてながら訊ねた。「気分はどうだい?」
「お陰さまで上々よ」とケータイは、小さいけれども明るい声でそう言った。「最近あたし、仕事も休んでるし、電波がなまっちゃうわー」
「どっか、出かけようか?」と僕は誘ってみた。
遊びに出かける気分じゃなかったけれど、じっとしているとアタマがおかしくなりそうだった。
少し考えてからケータイは、呟くようにポツリと言った。「信濃町」
信濃町?
「信濃町に行きましょう」
なぜ、信濃町?
僕が考えていると、ケータイはまた言った。「あたしね、知ってるんだわー」
知ってる?
「新年の記念写真は、撮ってあげらんないんだわー」
僕は愕然とする。知っていたのか。
そりゃそうだ。と、でもまたすぐに僕は思う。彼女はあらゆる情報にアクセスできるのだ。回収期限の告知にだって、とっくに気づいていたのだろう。
「キミは渡さないよ」と僕は宣言する。「僕のそばにいるんだ、ずっとね」
「契約が解除されたら、でも、もう話せないわ。メールだって送れなくなる」とケータイ。「いくらあたしがあんたを思っていても、その思いは伝えられなくなる」
静寂。を僕はイメージする。言語の剥奪。コミュニケーションの終焉。
「だからね」とケータイは、小さいけれどもハッキリとした声で言う。「だからあたし、散々迷ったんだけど、やっぱりあんたに伝えておこうと思うの。まだあたしが、こうして話せるうちに」
なんてことだ。まるで遺言みたいじゃないか。ちくしょう。と僕は思った。
涙をこらえて僕は訊く。「なんだい?」
「信濃町、慶應大学病院に行って」とF908i。
そして、そのあとに続いた言葉に僕は言葉を失った。「そこに入院してるわ、薫さん」
*
薫が生きていた?
太陽が西から昇ったようなショックだった。
ケータイの説明によればこうだ。薫の場合、事故による外傷は奇跡のごとく軽微であったが、一方脳の一部に、外からはわからない致命的なダメージを負っていた。薫は脳死に近い状態で病院のベッドにいる。
薫の両親は話し合い、その事実を僕に伏せることに決めたという。回復の希望がなくても、薫のカラダがそこにあれば、僕の思いは薫から離れることができないであろう。薫はそれを望まないであろう。僕には新しい人生を送ってほしいと、きっとそう願うだろう。と、ご両親はそのように考えて、娘は死んだと告げたのだった。
以上の話をケータイは、薫の母による薫の父への、または薫の弟への、通話やメールを傍受して知ったのだという。
「あたし、内緒にしとこうと思ったのよ。ご両親はあんたに知られたくないみたいだったし、それにね」とケータイの声は小さくなる。「それにあたし、薫さんにあんたを、とられたくなかったから」
僕が黙っているとケータイは、また小さな声で言った。「ごめんね」
渦潮から突如として出現したドラゴンに、どう立ち向かっていいものか、僕には見当もつかなかった。
薫が生きている?
僕の頭はフリーズしたままだったが、僕のカラダはそれとは別に、機敏に、オートマチックに反応した。すぐさま慶應大学病院に電話を入れ僕は、薫の入院を確認、面会時間を尋ね、会社に連絡を入れ取材を一つキャンセルし、タクシーを捕まえ、運転手に信濃町と告げた。五分かそこらで僕は車上の人となっていた。
受付で岡野薫の名前と、僕がその婚約者である旨を伝えると、拍子抜けするほどあっさりと、直ちに面会の許可がおりた。
来年の六月十一日、僕の二十九回目の誕生日に、僕は薫の墓前に参ろうと、そう考えていたのだった。想像もしてなかった。薫が生きていたなんて。
白い廊下を僕は、白昼の幽霊のように歩く。カラダがまるで、僕のカラダに感じられない。
エレベーターの階数表示を見上げる。天国につづくエレベーター。なんて妄想する。
薫に会えるのか?
薫に会えるのだ!
エレベーターを降りて数メートル歩けば、薫の顔を見られるのだ。マシュマロのようなほっぺを、長い睫毛を、尖った鼻筋を、アヒルのような口元を。
これは良いニュースなのだろうか。それともパンドラの箱なのか。いや箱であるならその箱は、すでに開いてしまっていた。選択の余地なんてなかった。
僕はエレベーターを十二階で降りて、リノリウムの廊下を歩き、案内された病室の前に立つ。
目の前に一枚のドア。
このドアの向こうに薫がいる!
僕は自分の考えを、誰か他の人の考えのように感じて、あたりを意味なく見回した。が、廊下に人影はない。
消毒液の匂い。それがなければこの階は、まるで図書館か、裁判所のようだった。静かだった。
スパイラルの静かな中心に、置き去りにされたような心細さで、僕はいた。
そのとき、ポケットの中でケータイが震えた。胸の内に広がる波紋のような、感情を揺さぶる振動。
「院内で電源落とさないなんて、あんたも常識ないわねー」とケータイ。「あたし、今から眠るから、薫さんと水いらずで、せいぜいよろしくやんなさいよー。じゃ、またあとでねー」と言って電話は切れた。
そうかそうか。と僕は思った。ケータイの電源は落とすべきであったか。病院内でのマナーの点でも、そして携帯電話へのマナーの点でも。僕の脳味噌は豆腐のように白い。
ともあれ。と僕は息を吸い込んだ。面会だ。本当に久しぶりに、薫と面会だ。
ドアのハンドルを握る。その冷たさが僕に、中心点に落ちる水滴を思わせた。
*
個室だった。窓は広かった。窓の向こうは冬だった。残りわずかな枯葉が、老いた大樹にしがみついている。寂しい。けれどもその寂しさを、柔らかな陽射しが中和していた。窓から射し込む冬の陽は穏やかで、病室内にあるすべてのものを、タオルケットの優しさでくるんでいた。
枕元にはケースに入って、空色のミニのプラモデルがあった。ナンバープレートにはちゃんと薫の愛車のナンバーが並んでいた。よく見るとサイドミラーやホイールの形状も、キットにあとから手を加え、薫のミニの仕様を忠実に再現していた。模型作りが趣味だという薫の弟くんが作ったものに違いない。
薫の愛車、空色のミニ。その最期の活躍をケータイは、家族間の通話をキャッチして知ったのだという。ケータイが教えてくれたその情報によれば、あの年老いたミニの最期は、実に実に勇ましいものだった。
その顔は、まるで紙のようにクシャクシャだったという。その腹からは灼熱のエンジンが、グロテスクなまでに飛び出していたという。それでもミニは、薫のカラダに傷一つ、つけることはなかった。薫のいる空間を最期まで大事に抱えて息絶えた。
愛されたミニは愛する薫を守ったのだ。
そして薫はここにいる!
薫はベッドの上で、機械の助けを借りることもなく、自ら自然な呼吸を奏でていた。血色もよく、肌は明るく薔薇色で、眠っているように見えた。というか眠っているのだ。眠り続けている!
「薫」とそっと呼びかけてみた。応えはない。頬に触れてみた。温かい。しかし反応はない。
約半年間、薫は眠っていたのだ。この病室で夏を過ごし、秋を過ごし、冬を迎えたのだ。
面会申請のとき聞いた話によれば、薫の入院は、いわば特例扱いなのだそうだ。回復の見込みのない患者を、同じ病室に長く置くということを、病院は通常は、しないらしい。薫の症例が非常に興味深いものであったため、医者が薫を手元に置きたがったのだと、窓口の担当者はそのように教えてくれた。
興味深い症例。と思いながら僕は薫を見る。
少し痩せていた。でも他は以前と少しも変わらなかった。にも関わらず、このまま目覚めることがない。それは確かに残酷なことだった。
気丈で負けず嫌いな一方で、薫にはひどく寂しがりやの一面もあった。なのに思えば僕は、連日深夜帰りだった。土日も半数以上は出社していた。デートの最中だって、常時ケータイへの連絡に晒されていた。薫は寂しかったに違いない。少しでも長く一緒にいること、それが私の目標だと、薫はいつも語っていた。
寂しかっただろう? 夏も秋もずっと病室で。と僕は薫に、心の中で語りかけた。僕はちっとも知らなかったんだよ。薫は天国に行ったとばかり思っていたんだ。見舞いにこれなくてごめん。これからは毎日くるよ。出社の前に必ずここに顔を出すよ。
あたりをチラリとうかがってから僕は、薫のパジャマのボタンを外した。バストを開いた。ピンク色の乳首は健康そのものだ。僕は手を伸ばす。肉球。と薫は言っていた。魔法の指先。とも言っていた。もっと触って。と薫は歌うように言っていた。
薫の大好きだったその指で僕は、やわかな乳首に触れた。
カラダの確かな存在を僕は感じた。
ボタンを戻して僕は、薫の唇にも、そっと触れてから、半年ぶりのキスをした。
そのときだった。
ポケットの中でケータイが震えた。
おいおい、寝たフリなんかしてたのか。と僕はケータイを取り出し、耳にあてる。
すると。
「わーわー、太郎、わー、太郎!」とケータイ。音量こそ小さいが、声の興奮は十分に伝わってくる。「あのね、太郎、あたしね、太郎」
「大丈夫か?」と僕は訊ねる。
ケータイの声が、少し遠いように感じられた。
「あのね、あの島よ!」とケータイは言った。「ハートのアイランドよ!」
島? ハートのアイランド?
「見えるのよ。見えたのよ」とケータイは語る。「こんなに近くにあったのね。知らなかった。嬉しいわー。よかったわー」
幻覚。と僕は思う。ケータイはかわいそうに、憧れのあの島の、幻覚か何かを見ているのだろうか?
「落ち着いて」と僕は言う。「落ち着いて僕の話を聞いて、そして……」
「話を聞くのはあんたのほうよ」と、僕の言葉に被せてケータイは言う。「あのね、あたしね、あの島に降りるから、今から降りるから」
「ま、待てよ」と僕は慌てる。「島に降りるって、どういうこと?」
このケータイからキミは?
「時間がないのよ。この島もうすぐ沈むんだもん。あともうちょっとで海に呑まれちゃうとこだったのよ。あー、あたし、よかったわー」
そんなのないよ。と僕は思う。神様に強く抗議したい。こんな終わり方はひどすぎる。
「おい、しっかりしてくれ!」と僕は叫ぶ。「まだ行かないでくれ、僕を置いていかないでくれ!」
「だーいじょぶよ、太郎」とケータイは応える。「あたし、わかったんだから。やっと思い出してきたんだから。あたしがどこからきたのか、あたしがなんなのか、ここにきてやっと、いろんなことがはっきりしてきたわー」
思い出した?
「だからね、太郎、言っておくわ、あたしが、まだあたしであるうちに。楽しかったわ。ステキだったわ。あんたと過ごせてよかったわ。ありがとね。大好きよ」
そんな。と僕は思う。まだまだ伝えきれていないのだ。僕はまだキミに伝えたいことがある。こんなに急に別れがくるなら、もっと、僕はもっと。
「じゃあね、太郎、あんたのタッチは最高だったよ」
「待てよ」と僕。「まだ行かないでくれ」
「だから大丈夫なんだってば」とケータイは泣き笑いのような声で言う。「あたしは、あたしに帰るだけ。あたしはあたしの島に帰るのよ。そしてね、太郎、だからあんた、喜びなさいよ、これからずっと、うんとたっぷり抱いたげる」
そう言ってケータイは沈黙した。ツー ツー。と音が聞こえた。
その直後。
「ありがとう」と薫の唇が語った。「ずっとそばにいてくれて」
*
あれから二年。
行き交う年もまた旅人なり。と言ったのは昔の人だが、二年の年月は僕を、僕らを、僕の小部屋の住人たちを、それぞれの場所に運んだ。
各人の旅路は様々なれど、そしてどの旅もまだそれは途上にあるわけだけれど、ともあれ僕の知る限り、誰もがそれぞれにふさわしい、佳き旅の途上にいる。ので報告しよう。
まずは岡崎。ヤツもめでたく、今は先輩となった。新入社員から連日袖を掴まれるのは、今や彼の仕事だ。自慢のデカブツのお陰か、なかなかに艶っぽい年上の彼女もできたようで、時間のやりくりに苦しんでいる。ヒット作にはまだ縁遠いが、送りバント程度の作品には恵まれ、本人いわく、この仕事ぼく好きっすよ、とのこと。好きだという気持ち。それさえあれば大丈夫。ヤツの観覧車もまた、様々な関係に照射され、元気に回り続けることだろう。
韓国人作家は、作品のアニメ化が決定して来日。僕も初めて対面したが、メールの文面からイメージしていたとおりの、ステキな女性だった。ステキな島には、ステキな気持ちが宿るのかもしれない。来年からは日本に住所を移すらしい。日本の映画監督との結婚が決まったのだそうだ。彼女の作品を大スクリーンで鑑賞できる日も、そう遠くはあるまい。
練馬の漫画家は、弊社主催の漫画賞を受賞。練馬を引き払い、代々木にスタジオを構えるのだそうだ。今はアシスタント探しに奔走している。深夜のジョナサンで愚痴ることも、もうなくなっちゃうのかな。と思うと、ちょっと寂しい。ともあれ、おめでとう。と言いたい。
サクランボな唇を持つデザイナーからは、先日こんな絵葉書が届いた。
[桐箱入りのお嬢であったワタクシも、ふと気がつけば、ダンボール箱に入れられて、電柱脇にいたわけで、ならばそろそろ観念するかと、この度現地の筋肉マンと、やむなく結婚の運びとなりました。フィジーの子供を子宮の中で、着々とデザインしています。めでたしめでたし(星マーク)]
奔放な彼女らしい、パワフルな旅路だ。彼女は一番新しい太陽のもとで、明るく逞しい島の子を、たくさん作ることだろう。彼女のカラダは、とってもタフな島だもん。僕は心から彼女に伝えたい。いろいろとありがとう。赤ちゃんをつれたママの写真が届く日を、とても楽しみにしています。
太郎さんはといえば、相変わらず潜っている。雇われ店長のまま出世することもなく、しかしそれに満足して、ダイブしてくる魂たちをアルコールで慰め続けている。毎年太郎さんからはクリスマスカードが届く。去年のカードにあったのは、こんな言葉。
【好きだという気持ち。それが、存在の根拠】
今年のカードには。
【関係性が紡ぐ万華鏡。それが、僕らだ】
Bar BLUEがある限り、僕は道に迷っても、自分に迷うことはない。そこを中心点にして、これからも様々な関係性が繋がれてゆくことだろう。これからもよろしくね、太郎さん。
そして僕らは。
「ちょっと、あんたー」と薫は声を尖らせる。「ちゃんと見ててよねー。愛留がまたなんか、口に入れてるよー」
「ほいほい」と僕は生まれて間もない娘の口から、アヒルのヌイグルミを救出する。
世田谷のテラスハウスに、休日の陽光はシャワーのように降り注ぎ、その中で僕らの愛留は、太陽そのもののように笑っている。
薫の気持ちと僕の気持ちは、気持ち一発結びつき、今はこの小さな島に宿っている。いつかこのコも好きだという気持ちに目覚め、いろんな対象と関わり、結びつき、その中で大好きな島を見つけることだろう。
気持ち一発。好きだという気持ちがあれば、僕らはここにいて、混ざり合い、失われることはない。と今の僕はそう思う。
机の上には写真立て。新婚旅行のセスナ機から撮影した、ハートのアイランド。
あの奇跡のような病室で、薫が見つけたあのアイランド。
その写真の横には、貝殻のように、エーゲブルーの携帯電話、F908i。
さらにその傍らにもう一枚の写真がある。
彼女が撮影した観覧車。あの日の関係性が、そこに記録されている。
あとがき
なあ岡崎、エンディングってのは、かくあるべきなんだぜ、わかるかい?
了
F908i