携帯電話恐怖症シリーズ2(将倫)

※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)

妄信的の初出は2009年11月発行の静寂20号です。
辟易的と想起的の初出は2010年5月発行の静寂21号です。

妄信的携帯電話恐怖症

 私は都内の中学に通う新中学生。
 住まいは都内のマンション、その五階。
 そして、そのマンションにはとある曰くがある。


「いってきまーす」
 私は元気な声を上げると、勢いよく玄関を飛び出した。新品の制服が春の風のように軽やかに翻る。浮かれる私に、両親はやれやれといった表情で見送ってくれた。
 この春から私は中学生になる。つい先日入学式も終え、今日から授業が始まる。遅刻するような時間でもないのに、私は早く学校に行きたくてエレベーターを待つ間も落ち着きがなかった。
「いってらっしゃい」
 マンションの入り口で地面を掃いていた管理人さんが、にっこりと笑顔を浮かべて声をかけてくれた。私もそれに負けないくらいの笑顔で、いってきますの言葉を返した。

「何かやたら嬉しそうだね」
 学校に着いてあらかじめ割り振られた教室に移動した私は、よく見知った友人と談話を楽しんでいた。まだ始業までは時間があるので、心置きなく盛り上がることができる。そのような会話の中で、友人が私の浮かれっぷりを指摘してきた。
 確かに、私のテンションが高い理由の一つには今日から中学生だということが嬉しい、ということもある。しかし、もう一つ別の理由もある。私は制服の上着のポケットに手を差し入れると、見せびらかすようにそれを友人の目の前にかざした。
「ようやく買ってもらったの、携帯電話!」
 今の時代、小学生でも携帯電話を持っていることは珍しくない。私も両親に何度かお願いしたことがあったが、いつも断られていた。しかし、私が中学生になるにあたり強くその必要性を説いたら、渋々ではあるが首を縦に振ってくれたのだ。ただ、その時にはいくつか条件も出された。無料通話分を越えた通信料は自分で払うこと、夜が遅くなる時は必ず親に連絡をすること、などだ。その中でいくつか不思議な条件も出された。
「それがさあ、マンションの中では携帯電話を取り出さないこと、家の中でもマナーモードにしておくこと、とか言われたんだよね。その理由を聞いても、条件が飲めないなら買ってやらん、って言い張って。本当、よく分かんない」
 私は半ば愚痴をこぼすように友人に話していた。それでも、その程度の条件と引き替えに念願の携帯電話が手に入るのなら、お安い御用だ。ただ、学校では携帯電話の使用は禁止されているので、私が携帯電話を使う機会はかなり限られている。せめてもと思い登下校中はマナーモードを解除していたが、それ以外はほぼ常時マナーモードなので着信音の変更をする必要性もなく、未だに初期設定のままだった。

 中学の授業にも慣れ始めたある日、一日の授業が終わった私はいつも通り帰路に着いていた。帰り道が一緒の友人と、その日あったことなどを思い返しては会話に花を咲かせていた。
 やがて明日の再会の言葉を掛け合い友人とも別れ、マンションの一階でエレベーターが来るのを待っている時だった。
――ピリリリリリ
 静かなエレベーターホールに、不意に携帯電話のけたたましい着信音が鳴り響いた。自分の携帯が鳴っているのだと思うよりも先に、私は反射的に携帯電話を取り出して音が鳴るのを止めていた。
「びっくりしたぁ」
 普段ならばマンションの敷地内に入る前にマナーモードに切り替えるのだが、友人との会話に夢中になっていたために忘れてしまっていた。そこに運悪く誰かからメールが届いてしまったのだ。私はサブディスプレイで送信者の名前だけを確認すると、両親の言い付けを守りポケットにしまおうとした。
「え?」
 その時、私は背後に突き刺すような視線を感じ、背筋に悪寒が走った。その視線があまりに露骨で悪意に満ちていたため、私は驚いて振り向いた。しかし、そこには誰もいない。だというのに、未だに誰かに見られている感覚がする。どこを見回しても、エレベーターホールに人の影はない。なのに、なのに――。
 一瞬の内に全身に鳥肌が立った。私は訳が分からず気味が悪くなり、エレベーターが来るのも待てずに非常階段へ走った。五階くらいなら、一気に掛け上がることが出来る。私はただ上だけを見て階段を上った。幸いにも、階段を上っている間は先程の視線は感じなかった。
 焦って覚束ない手で鍵を開けて家に入ると、私は直ぐに鍵を閉めた。そうして逃げるようにして自分の部屋へ駆け込んだ。
「なんだったの?」
 私はベッドに飛び込むと、気持ちを落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。だが、先程の鮮烈な記憶はますます私の拍動を早めさせた。まるで、私が絶対的な悪であるかのように向けられる、冷たい鋭利な視線。きつく目を瞑っても、その視線は私を逃がしはしなかった。
 その日の晩になっても、ことある毎に刺すような視線を感じ、部屋に一人でいる時にも何度も辺りを見回した。だが、当然そこに誰がいるはずもなく、私は全身の寒気に抗いながら早々に床に就いた。

 翌朝になっても気分は優れず、爽やかであるはずの朝の陽射しですら私を嘲笑うかのように感じられた。昨夜はえも知れぬ怖さのために浅い眠りを繰り返し、何度目だろうと思う頃にはもう日が上っていた。
 私は重たい瞼を無理にでも開くと、のろのろとした足取りで学校へ行く準備に取り掛かった。瞼だけでなく身体も重い。制服に着替えるのも、普段以上に時間がかかった。
 始めに異変に気付いたのは、エレベーターでちょうど一階に着いた時だった。玄関を出た時点で何か違和感を覚えていたのだが、そこで私はようやく気が付いた。
 音が無いのだ。
 小鳥のさえずりや、共用廊下での奥様方の談笑、管理人さんの見送りの言葉――日常に聴こえる朝の音がまるで奪われたかのように一切聴こえなかった。実際に周囲を見渡すと、人の影すら見えない。朝の時間帯に誰もいないことの異常性くらい、私にも分かる。それがどうにも怖くなり、私は走り出した。早く日常に帰りたいという思いが、私の足を学校へと急がせた。
 学校へ向かう途中にも見知った顔を何人か見かけたが、私は足を止めることが出来なかった。ここはまだあのマンションと同じで異常なのかもしれない。そんなことを考えると、とても歩調を緩めることなど出来なかった。
 学校に着いた私はいの一番に手近な友達に駆け寄った。学校は安心出来る場所であることを確信したかった。そうして、授業が始まるまでの僅かな時間を、それこそ時が経つのを忘れる程に満喫した。これが普通なんだと、実感した。
 だが、時が経つのを忘れてしまうと、次に気が付いた時には既に下校の時間となってしまう。友人と連れ立って歩く私の気持ちは鬱ぎ込むばかりだった。街中の喧騒をこれ程に羨んだことはないだろう。
「ねえねえ、聞いてる?」
 え? と聞き返す間もなく、友人は呆れるような仕草をしてみせた。
「だから、今日これから遊びに行ってもいい?」
 遊びに行く、というのは恐らく私の家に来ることを意味しているのだろう。友人を家に招くことには二つ返事で首を縦に振りたいのだが、今の状況ではそれも躊躇われた。
「家自体は大丈夫なんでしょ?」
「う、うん……」
 私が煮え切らない態度でいると、友人は顔を輝かせて大声を張り上げた。
「じゃ、今から行こっか」
 私がそれでも断ろうかと声を出そうとした時には、もう会話は次の話題に移っていた。押し切られる形になってしまったが、まさか何もないだろうと自分を納得させ、私は友人と肩を並べて帰路を進んでいった。
 マンションの前まで来た時、私はそこが普段通りであることに胸を撫で下ろした。人もいれば、野良猫も我が物顔で歩いている。私は友人を手で招くと、中へと入っていった。いつもの癖で自分の部屋の郵便受けを覗き込んだ私は、中に何かが入っているのを確認した。暗がりでよく見えないが、それ程大きくはない。少し気の緩んでいた私はそこに何の警戒も払わず、ダイヤル式の鍵を開けると無造作に手を突っ込んだ。
 指先に冷たい感触がした。そのまま取り出してみて、それが携帯電話だと分かった。だが、切り傷や凹んだ跡など、全体的に傷だらけでボロボロだった。あまりに状態がひどく、しかも不意なことだったので思わず悲鳴を上げそうになったが、どうにか理性がそれを抑え付けてくれた。私は短く何回か呼吸をして心を落ち着かせた。嫌がらせだというのは直ぐに分かったが、私にはこれが何かを暗示しているような気がしてならなかった。
「どうしたの?」
 不意に話し掛けられて私はびくりと肩を震わせた。エレベーターホールで待っている友人がこちらを不思議そうな目で見ている。
「ううん。何でもない、直ぐに行くよ」
 悪い予感がしながら、私はその携帯電話を鞄の中に押し込んで友人の方へと小走りに向かった。朝の異様な静寂はないが、それでもまだ異常は続いている。今度は、雑音が耳に障る。
 五階に着いて家のドアが目に入った時、何か白いものが見えた。目を凝らして見るとドアに何かが貼ってある。そして、二人でドアの正面に立った時、三度悪寒が身体中を駆け巡り総毛立った。
『出てけ』
『疫病神』
『人殺し』
 そのような文言が白紙に書かれてドアに貼り付けられているのだ。しかも、その紙は乱雑に貼られているのではなく、一枚一枚隙間がないように貼られているのが余計に気持ち悪かった。
「ちょっと、何これ」
 友人はあまりに見慣れぬ光景に目を剥いていた。誰だって、こんな状況に陥れば困惑し狼狽えるだろう。
「何でもないよ。ただのイタズラだよ」
 私は気丈に振る舞い、無言で貼り紙を剥がすことしか出来なかった。友人は何か言いたげで何度か口を開きかけたが、結局何も言わずに剥がすのを手伝ってくれた。
 全ての紙を剥がし終え、ようやく私は自分の家に入ることが出来た。もしや家の中まで、とも思ったが、特に変わったところはなかったので少し安心した。友人も先程のことがあってか、気兼ねしているようにも見えた。普段に比べて明らかに口数が少ないのがその証拠だ。
「それにしても何なんだろうね、さっきの」
 私の顔色を窺うように、友人はぼそりと呟いた。それを私も知りたいのだ。昨日の夕方から起きたことを思い出す度に、恐怖と気味の悪さが私を縛り上げていく。それを振り払おうとしても、どこかで誰かに見られているような気がして一向に心は休まらない。
 折角友人が家まで遊びに来てくれているというのに、ただ気まずい空気のまま時間だけが過ぎていった。気付けば夕焼けが部屋を真っ赤に染め上げていた。
「あ、私もうそろそろ帰るね」
 腰を上げた友人は自分の荷物を手に取ると、笑みを浮かべて玄関へ向かった。その笑みが愛想笑いに過ぎないとしても、笑ってくれるだけ良かった。私が友人に向けた笑顔は、とても笑みとは呼べない程に歪んでいただろう。
「じゃあ、また明日ね」
 私は玄関口で友人を見送ると、ドアに鍵を掛けた。両親はまだもうしばらくは帰ってこない。一人でいる時間が不安で仕方なかった。そういえば、と私はふと思った。友人に、このマンションでしてはいけないことを教えるのを忘れていた。だがどうせ敷地内から出るのは直ぐなので大丈夫だろう、とドアを背に一歩踏み出した瞬間だった。
 短い悲鳴が聞こえた。
 私はその悲鳴にはっとして直ぐに家から飛び出した。左右を見ても、誰もいない。私は靴の踵を踏んだままエレベーターホールへ向かった。もしも友人に何かあったとしたら、それは間違いなく私のせいだ。だが、エレベーターホールにも人の姿はなく、では今の悲鳴はどこから聞こえたのだろうかと自分の家に戻ろうとした時、友人の姿を見つけた。五階から四階へと下りる、階段の踊り場。そこに友人は倒れていた。
 友人の名前を叫ぶことも出来ずに、私はぐったりと動かない友人の下へ走った。かんかんと階段を下りる音が赤く染まるマンションに木霊する。
 手が震える。汗が流れる。口が開かない。言葉が出ない。私が抱きかかえた友人は、頭から血を流している。そして、力無く垂れた手には、携帯電話が握られていた。
「どうして……?」
 やっと私の口から出た言葉は、乾いた涙とともに友人の顔に落ちた。吐き気がする。動悸がする。目眩がする。その時だった。
 冷たい視線が私を刺した。身を竦めさせるような黒い視線が、至るところから発せられている。その視線は、ただ一点、私のいる箇所で交わっている。私が恐る恐る顔を上げて辺りを見渡した時、私の精神は限界を迎えた。
 マンションの各階で、ドアから顔を覗かせて住民が私を見ているのだ。一人や二人どころではない。何十、何百の目が私を捉えていた。しかもその瞳が浮かべるものはどれをとっても同じだった。黒い目、鋭い目、不審の目、悪意の目、冷たい目――。人の持つ負の感情を少しも隠すことなく視線に乗せたら、このような眼差しになるのだろう。
 私の頭の中で、何かがぷつりと切れた。

 気が付くと、私はベッドの上で体育座りをしていた。あの後の記憶は定かではない。友人がどうなったかも分からない。ただ、音の無い攻撃が私を蝕んでいた。壁を越えて注がれる視線に、私は身を縮こまらせて耐えるしかなかった。今は何時だろうか。いつになれば親は帰宅するのだろうか。
「ご飯出来たわよ」
 リビングから聞こえてきた母親の声に、私は驚いた。いつの間に帰ってきたのだろうか、全く気付かなかった。だが、これで私の心は拠り所を得た。私はふらふらになりながらも立ち上がり、部屋から出た。親がいること程心強いことはない。そう思っていた。
「あなた、マンション内で携帯出したでしょ?」
 私の姿を目にした母親が開口一番でそう言った。その瞳は、先程私を苛んだ幾多の視線と同じ色をしていた。味方だと思っていた母親までもが、私を責める。私を追い詰める。
 私はもう耐えられなかった。訳も分からずこのような仕打ちを受けるのはもうたくさんだ。感情は堰を切って言葉を表出させた。
「どうして! どうして携帯を出したくらいで、こんな目に合わなきゃならないの!」
 母親は大きくため息をついて頭を振った。それが失望を表していると知っても、私は構わず言葉を投げ続けた。
「何か知ってるなら教えてよ! 何も分からないのにこんな仕打ちを受けるの、耐えられない!」
 母親は変わらぬ視線を私に向けたまま、椅子に腰を掛けた。そして瞬時目を瞑ると、冷えきった声で淡々と話し始めた。全てが狂い始めた、その原因を。
 数年前、このマンションの七階に住んでいた母親が極度の携帯依存症になり、その着信音のせいで精神状態が不安定になった長男が、母親を撲殺したという。さらにその隣人もまた鳴り止まぬ着信音に狂わされ、その父親を撲殺、その後に転落死した。悲劇はこれに終わらず、この事件が取り沙汰されたせいでマンションの住民は学校や会社など至るところで冷遇を受けた。
 この事件のせいで、マンションの住民は携帯電話に対して異常なまでに過敏になっていた。だから、マンション内では携帯電話を鳴らすことはおろか、取り出すことまで出来なくなったのだ。
 私は母親の話を聞きながらも信じられなかった。まさか携帯電話が人を凶行に駆り立てるなど、誰が想像しえるだろうか。このマンションで殺人事件が起きたことすら、初耳だった。だが、先程の住民の視線を見れば、頭では信じられなくとも身体はそれを無条件で認めていた。携帯電話は人を殺すのだ。
 私は半ば放心した状態で部屋に戻った。食事など喉を通るはずがなかった。そうしてふと机の上に目を遣り、背筋が凍った。昨日までただの便利な日常の持ち物だった携帯電話が、今ではまるで別のモノのように見えてくる。これが鳴ったが最後、私は襲われてしまう。
 何に? 人に? それとも携帯に?
 私はがちがちと顎を震わせてベッドに潜り込んだ。身体から寒気が抜けない。震えが止まらない。途端、携帯電話が振動する音が耳に届いた。私はがばっと布団を除けると、携帯に飛び付いて振動を止めようとした。この音がマンションの住民に聞かれたら、今度は私が被害者になってしまう。だが、サブディスプレイには何も映し出されてはいない。ありもしない振動が、私の心を揺さぶる。私はいつまでも震えることしか出来ない。
 携帯が怖い。
 人が怖い。
 怖い。
 怖い。
 怖い。
 このままではやがて私が壊れてしまう。私の精神は今や砂上の楼閣よりも脆い。今の私は郵便受けに入っていた携帯電話と同じ程に傷付きボロボロとなっている。早く何とかしなければと、焦る心が余計に急き立てる。私は意を決し、動悸の止まないままベッドから這い出た。
 そうして、私は携帯電話を破壊した。

 数日後、学校に着いた私はあの友人との会話で盛り上がっている。幸いにも、軽い脳震盪で済み今ではこうして学校にも通えている。
「そういえば、あの後は大丈夫だったの?」
 友人が言っているのは貼り紙の嫌がらせのことだろう。私はここ数日のことを思い出してみたが、それ以降は何もおかしなことはない。至って普通の日常が穏やかに流れている。
「うん、大丈夫だよ。今度また家においでよ」
 そう言って笑う私の笑顔は、まるで何かを張り付けたかのように無味乾燥としていた。

辟易的携帯電話恐怖症

 私は都立の中学校に通う学生、二年生。
 ある事件以来、友人は極度の恐怖症。
 そして、私は助力も出来ない怖がりの臆病者。


 事の発端ははっきりとしている。近所のマンションで猟奇的とも言える事件が起きたことだ。そのマンションに住む高校生が母親を撲殺した後に自殺し、その父親を隣人の大学生が撲殺し、大学生も七階から転落死した。それはその日の内にテレビでも報道され、夜になる頃には「携帯電話」が事件の引き金になったということまで分かった。
 そして何より、一日にして全員が亡くなったその家族の隣室に住んでいたのが、私の友人だった。

「おはよう」
 翌朝、私は学校に着いた友人に声をかけたものの、返事はなかった。昨日までは明るい元気な子だったのに、ほんの一晩で友人の雰囲気は変わってしまった。見るからに憔悴している。それこそ、私の挨拶が耳に入らない程に。
 恐らくは報道陣に色々と質問攻めにあったのだろう。ただでさえ隣人という知り合いが死んだ直後で気が動転しているだろうに、そこへさらに追い討ちをかけるように事件について問い質されては、気も滅入ることだろう。私は友人に同情しながらも、自分で気持ちの整理が出来るまではそっとしておこうと思った。
 だが、そうした想いを抱いている生徒はごく少数だったようだ。友人が席に着くや否や、まるで食べ物にたかる蠅のように生徒が何人も友人の席を取り囲んでいた。そして浴びせかける質問の数々。それらは好奇心のみから出来ており、友人の心情などまったく気にかけず、言葉を選ぼうともしていない。友人からすれば、クラスメイトという近い関係にあるからこそ余計に応えるだろう。友人は終始無言で俯いたままだった。その姿はとても見ていられたものではなかった。
「ねえ、やめなよ。可哀想だよ」
 私は友人を取り囲む生徒の一人に提言した。私としても、それで彼らがおとなしく引き下がってくれるとは思えなかった。だから、これは単なる私の自己満足に過ぎないのだということを重々に承知している。そしてそんな私に向けた彼の言葉は、正に的を射ていた。
「いい子ぶんなよ。お前だって事件のこと気になってんだろ? 事件のこと知りたいんだろ?」
 そう言って再び友人にきつい言葉を浴びせる生徒を前にして、私はそれ以上何も出来なかった。その生徒は私の優しさが偽善であると言ったのだ。私の内の好奇心を見抜いていたのだ。彼の私を見る目は、まるで邪魔者を見るような、そんな冷たい目だった。それ以上何か言ったら、次は私があの輪の中心にいることになりそうだった。
 初めて見る、人を非難する視線に、私は情けなくも足をふらつかせながら席へと戻った。自分の弱さを指摘されただけで、苛む友人に対して何もしてあげられない自分がどうしようもなく憎かった。

 翌日、友人が学校に着いた時、私は昨日同様に挨拶をしようとした。だが、そう思い席を立った瞬間に、背中に鋭い視線を感じた。既に教室にある三十もの目が私の行動を監視している。私のこれからしようとする行動を糾弾している。友人は今や猟奇事件の一番近くにいる存在なのだ。事件には無関係なはずなのに、クラスは友人を事件の渦中に放り込んだ。友人もまた、携帯電話に憑かれてしまったのだと。
 私は椅子から浮き上がっていた腰を下ろした。何とか友人の力になりたいと思う気持ちがある一方で、クラスメイトの視線を怖れ、除け者にされてしまうことを怖れている。私は友人の安否よりも自らの保身を選択してしまった。それ程に、彼らの視線は好奇と悪意を訴えていた。
 授業が始まってから、私はなるべく勉強に集中して友人のことを考えないようにした。それはとりもなおさず自分のためだった。友人を気遣おうと考える度に先程の視線が思い起こされる。友人一人に詰め寄るクラスメイトが怖くてならない。いつしか、私はその気遣いが誰のためのものであるのかすら見失おうとしていた。
「――ん?」
 考えが袋小路に迷い込もうとしていた時、私はひっきりなしに続く音に気が付いた。何か、小刻みに震える低い音が、ちょうど友人の方から聴こえている。そして、私はそれが携帯電話の発する振動音であると気付くとともに、友人にいたずら電話やメールが殺到しているのだと勘付いた。間接的に携帯電話に苛まれていた友人は、ついに直接的な暴力を振るわれるようになってしまったのだ。だが、その振動音はまるで私を責めているかのように聞こえ、私は無性に胸が苦しくなった。
 事件は私には関係ない。事件を沸かすマスコミも私には関係ない。マスコミの情報に好奇の目を寄せるクラスメイトも私には関係ない。非道い言い方をすれば友人も所詮は赤の他人、私には関係ない。今、私と友人がこの教室という空間内で共有しているものは、耳障りな振動音しかない。そう、だが確かに私には友人と共有するものがあるのだ。携帯電話という便利な道具が全てを繋げている。私は、決して無関係ではあり得なかった。

 それからの友人は見ていて痛ましい程だった。クラス中から無視をされ、眠れていないのか、目の下にはくっきりとした隈が出来ている。日に日にやつれていく様子がはっきりと見てとれた。友人が身をやつしていくのと同じように、それを何もせずにただ傍観している私の心もぎりぎりと締め付けられていた。私はなぜこうも思い悩まなければならないのか。当初こそ友人か自分かという葛藤が目に見えてあったが、日を重ねる毎にその姿はぼんやりとしてしまっている。友人を見捨てた私を、級友の視線が掴んで放さなかった。今や私は理由も解らないままに自分の心を自分で蝕んでいた。
 だが、あの事件の波も徐々にではあるが引いてきている。テレビで特集が組まれることもなくなったし、クラスメイトが友人に冷たい目を向けることもなくなった。
 無責任な人々は次の話題へと移ろうとしていた。
 友人を残して。
 私を残して。
 私はどちらへ行くことも出来ずに、そこでさ迷うばかりだった。このまま自分の弱さに甘えていては、無意味に摩耗する一方だ。それは私が耐えられない。私が自分で何とかするしかない。最良の解決法は既に明示されている。それを成し遂げるのはあまりに簡単だ。あとは、私が出来るかどうか、やるかどうか、ただそれだけだった。

 朝、私は普段よりも少しだけ早く学校に着いた。教室にはもう何人かの生徒がいて、各々好き勝手な話題で盛り上がっている。その話題に、あの事件は含まれていない。やはり、彼らが欲しかったのは一時の興だったのだ。私は震える心を抑えながら、席に着いて友人が来るのを祈るように待った。
 まもなく、友人が教室に入ってきた。クラスメイトの誰も、彼女に振り向くことはない。それは決して悪意のある無視などではなく、普通の光景であると、私は理解している。友人が席に着いたのを見て、私は椅子から立ち上がった。それもまた普通の光景で、私を見る目はない。そう分かってはいても、私はありもしない視線を感じ戦慄いた。最初の一歩を踏み出すことにどれだけの勇気がいることか。
 凍り付いたかのように硬くなった身体を動かして、ようやく友人の席までやって来た。あとは声を掛けるだけだ。なのに、私の口はぱくぱくと無駄な動きを繰り返すだけで、声がなかなか出せなかった。私はもう弱いままでいたくはない。
「おはよう」
 緊張で表情を硬くさせながら、ようやくその一言が言えた。本当に言いたかった言葉。震えてか細くなった声は、だが確かに友人に伝わった。数瞬の後に驚いたように上げた友人の顔は、今にも泣き出しそうで、それでもとても嬉しそうだった。
「……おはよう」
 久し振りに聞いた友人の声は、すっと私の胸にまで響いた。それまでずっと私を押さえつけていた重みが急に軽くなったようだった。
 私は、友人の手をとった。

想起的携帯電話恐怖症

 私は都内の中学に通う一年生。
 友人の住まいは近所のマンション、その五階。
 そして、私は軽度の記憶障害。


 私が目を開けた時、そこには見知らぬ白い天井があった。どうやら病室のようだ。だが、私には病院にお世話になるようなことをした記憶がない。私は記憶を呼び戻そうとした。確か、友人の家に遊びに行って、家のドアに貼り紙がしてあって、それから、それから――。
「あれ?」
 どうにもその後のことが思い出せなかった。医者の話によれば、友人のマンションの階段で過って転び頭を打ったとのことだ。軽い脳震盪らしいので簡単な検査をして異常がなければ直ぐにでも退院していいようだ。一時的な記憶の欠如については、脳への衝撃があるような事故ではよくあることらしい。私が忘れた記憶はわずか数十分にも満たないため、全然気にはならなかった。
 そして、私はまもなく退院した。

「そういえば、あの後は大丈夫だったの?」
 数日が経ち、久し振りに友人と朝の会話を繰り広げる中、私はふと思い立ってそう尋ねた。友人は視線を宙でさ迷わせわずかに逡巡してから、笑顔で答えた。
「うん、大丈夫だよ。今度また家においでよ」
 言葉の上では「笑顔」を浮かべているが、私にはそれが作り物のような、何かを張り付けたように見えて仕方なかった。そう、ちょうど私が記憶を失くした頃から、友人の様子は変わってしまった。
 変わったと言っても、見た目が大きく変わったわけでも中身が劇的に変わったわけでもない。ただ、細かなところで違和感を覚えるのだ。例えば、今のように笑顔に感情が乗っていないように思える。
「いいね。いつ行こうか?」
 次に、先日までとても嬉しそうにいじっていたのに、全く携帯電話を取り出さなくなった。今では学校に携帯電話を持ってきているのかどうかも怪しい。気になって何度か電話したことはあったが、いつも機械的な口調で話す女性に対応されるだけだった。
「金曜日から休みだから、その時においでよ」
 そして、ある「単語」が話題の中に出てくると、身体をびくりと震わせて急に口数が少なくなってしまうのだ。その変化も小さなものなので、気付きにくいものではある。
「分かった。――そういえば最近さ、携帯に電話しても繋がらないんだけど、どうかしたの?」
 私が話題を転換するや、友人は表情を固まらせて黙り込んでしまった。感情の乗らない笑顔のまま固まる友人は、些か気味が悪かった。友人は「携帯電話」という言葉に対して、拒否反応に近いものを示していた。
 果たして、私の記憶障害と友人の変化、そして携帯電話、これらは互いに関係しているのだろうか。私は友人の心配をしつつも、持ち前の好奇心が勝ってしまっていた。金曜日までこの興味の行き着く場所まで行ってやろうと思った。
 とは言ったものの、これからどうすればいいのか、まるで方針は定まっていなかった。私の発言により白けてしまった会話も、始業のチャイムが助けてくれた。だが、私はその恩を仇で返し、授業中もずっとその事について考えていた。そして、一つの結論に至った。
 私が知る限りの手掛かりは、やはりあの「貼り紙」だ。
 何に起因するものかは知らないが、あれはどう見ても嫌がらせだろう。だとすれば、友人が原因である可能性はある。そして、私の持つ情報で考えられる原因はただ一つ、携帯電話だ。あの日を境にして友人は携帯電話を持たないようになった。あるいは、持っているのを隠すようになった。嫌がらせの原因が携帯電話にあると考えるのは自然な流れだろう。
 だが、私の思考はそこで詰まってしまった。いつの間にか授業も終わってしまっている。私は帰り支度をすると、友人とともに帰路に着いた。
 並んで歩く私たちの間には、明るい会話が飛び交っている。しかし、楽しそうにしている友人の笑顔はどこかよそよそしい。よもや友人に聞くわけにもいくまい。友人のマンションの前で別れると、私は一人でまた歩き出した。頭の中を巡るのは友人と携帯電話のことばかりだった。
「あっ、そうだ」
 携帯電話に関する友人の記憶を遡る内に、私は一番初めのことを思い出した。最初に友人が私に携帯電話を見せびらかした時に言っていた、親に課せられたよく分からない制約。
『マンションの中では携帯電話を取り出さないこと、家の中でもマナーモードにしておくこと』
 これで、友人と携帯電話という繋がりから、マンションと携帯電話という関係が浮かび上がってきた。マンション内で携帯電話を鳴らすこと、取り出すことが禁忌とされているのだろう。そして、恐らく友人はそれを破ってしまった。だから、マンション全体からの嫌がらせを受けたのだろう。そう考えれば、とりあえず辻褄は合う。
「うーん」
 とは言え、辻褄を合わせただけではまだ納得しきれなかった。そもそも、なぜマンション内での携帯電話の使用を禁止するのだろう。マナーの問題、という理由にしては友人の変化は大きすぎるように思える。何かが、それこそ携帯電話を忌み嫌うようになる何かがあったのだろう。私の興味はますます膨れ上がった。その何かが大事になったのなら、ずっとこの町に住んでいる親は知っているかもしれない。私は帰る足を早めた。

「お母さん、あそこのマンションって昔何かあった?」
 帰宅して早々に、私は夕飯の支度をしている母親に尋ねた。料理に手一杯なのか、母親の反応は薄く、私は同じ質問を繰り返した。
「だから、あのマンションで携帯電話に関連した事件が起きなかった?」
 質問の内容がより具体的になったためか、母親は動かしていた手を止めてじっと私の方を見た。だが、私がきょとんとした顔をしていると直ぐにまた視線を手元に落とした。
「あんまり興味本位でそういう事を聞くもんじゃないわよ」
 確かな手応えがあった。私の好奇心はあっという間に沸点に達した。
「やっぱり何かあったんだ! ねえ、教えてよ」
 私があまりに活き活きと聞いたので、母親は少し嫌そうな顔をしながらも話してくれた。それこそ、夕飯時にするような話じゃないと言外に訴えるような話し方で。
 曰く、数年前にあのマンションで四人が亡くなる殺人事件があり、その原因が携帯電話依存症であったということだ。
 母親の話はかなり簡略化されていたが、事実はちゃんと伝わった。数年前ならば私もまだ幼いと言える。いくら近所とはいえ、それを覚えていないのも無理はなかった。そこで抱いた感想は、口にした方が早かった。
「ふーん」
 そう、私はさしたる感慨も抱かなかった。どういった事かはよく分かったが、言伝てのためなのか、何というか現実感が希薄なのだ。それを理由にして携帯電話の使用を禁ずることが想像出来なかった。だから、その時の私はそれで一応の納得をしてしまった。そういう事もあるのだな、と。
 そして迎えた金曜日、私は晴れた空の下、友人のマンションへと向かっていた。久し振りに友人の家を訪れることになるが、帰り道では毎日のように通っているので、全然久し振りという感じはしなかった。そして玄関ホールへと足を踏み入れた時、私はあることを思い出した。
「そういえばマンションに入る前に家に電話するように言われてたっけ」
 私は友人の言い付けを守らず、その場で携帯電話を取り出した。そして、それを耳に当てた瞬間、突き刺すような視線を感じた。私はその視線を以前にも感じたことがあり、一瞬にして総毛立つとともに、全ての記憶を取り戻した。まるであの日を再現しているかのように、状況は酷似していた。
 あの日、友人の家を出た私はこれから帰る旨を自宅に電話しようとした。そして、携帯電話を耳に当てたところでマンションの至るところから視線を感じたのだ。見れば、小さくドアを開けて覗いている無数の瞳があった。悪意や不審のこめられた視線が私に注がれ、私を射竦めた。突然のことに恐怖と気味の悪さで身動きも出来ず身体を震わせている内に、誰かに階段から突き落とされたのだ。
 私はその時の光景をまざまざと思い出した。それと同時に、全身ががくがくと震えた。あの時と全く同じ視線が私を貫いている。
 これから私はどうすればいいのだろうか。
 これから私はどうなるのだろうか。

 静かな玄関ホールに、携帯電話の落ちる音が響いた。

根源的携帯電話恐怖症

 俺は都内の大学に通う学生、二年生。
 住まいは都内のマンション、その十三階。
 そして、俺は極度の携帯依存症。


 事の発端はあってないようなものかもしれない。都内の大学に通う俺は当然のように携帯電話を持っていたし、大学の授業にも飽きてサボりがちになっていた。二年にもなるとサークル活動も熱心に行わなくなり、家にいる時間は自然と増えた。親は共働きで日中は家を空けていたから、家には俺一人きり。特に趣味もない俺が携帯電話を手放さなくなるのは、至極当然の成り行きと言えた。
 サークルに勤しんでいないとはいえ、入った当初は没頭していたから知り合いは多くいた。自室のベッドに寝転がりながらメールや電話をするのは、そうした相手だ。彼らも彼らで大学にはあまり行かない典型的な大学生なので、暇を持て余しているのだろう。返信はいつも早かった。
 内容などはほぼ無いに等しい。近況やテレビ番組のことや受けなくてはならない講義のこと、時には悩み事の相談などだ。メールや電話でのやり取りがなくなっても、別段困るほど重要なことではない。いや、大学に関する情報は一年が懸かっていたりするので必須ではあったが。
 それでも、言葉の応酬が絶えることはなく、気付けば夜も遅い時間まで携帯は着信音を響かせ続け、結果翌日起きたらもう昼だったなんてこともしばしばだ。俺は自分でも気付かぬ内に、携帯依存症になっていた。
 だから、初めての自覚症状は――おかしな話ではあるが――外から指摘されてのことだった。親が帰って来てからの夕飯時、いつものように携帯はメールの着信を告げる音を鳴らした。俺は箸の動きを止めることなく、空いているもう片方の手で携帯を開いた。それは、珍しくメールマガジンだった。俺はさっと流し読みをすると、直ぐに携帯を閉じた。やはり、食事中に携帯の画面に食い入るのは行儀が悪いという認識はある。だから、出来るだけ短く済ませたつもりだった。
「食事中にはしたないわよ」
 だが、母親からすれば携帯を取り出すこと自体が無作法だったようだ。そう指摘され、俺は心の中で舌打ちをしながらも小さく頷いた。こんなところで無駄な軋轢など生みたくはない。
「最近、あなた携帯ばかりしてるじゃない。大学にはちゃんと行ってるの?」
 俺は上手く収めたつもりだったのだが、母親は追及の手を止めることはなかった。痛い所を突かれた俺は、胸の内に煩わしさを感じずにはいられなかった。毎日大学に行っているわけではないが、単位は取れている。今学期も、落としそうな科目はそもそも取っていない。だから親にも迷惑は掛けていないのだ。なのに、ただ携帯をいじる時間が多いだけでどうしてこう悪く言われなければならないのか。そう考えている内に、胸に巣食った煩わしさは苛立ちへと変わっていった。
「ちゃんと行ってるよ」
 つっけんどんに言い返すのと同じタイミングで、再び俺の携帯が鳴った。同じ過ちは繰り返しても面倒なだけだ。今度は携帯を取らないようにしたのだが、そうするとそれはそれで甲高い着信音が耳障りでならない。母親はまたしても小言を言い始める。着信音に勝るとも劣らない程に、母親の声は不快だった。
「うるさいな」
 気付いたら、先程は抑えられた舌打ちが口から漏れていた。それでも母親はぶつぶつと不満を言うことを止めはしない。俺はご飯を掻き込むと、さっさと食卓をあとにして自室へと籠った。
 その日、ようやく俺は自分が携帯にひどく依存していることを自覚した。もはや生活の一部となっている携帯は、今の今まで俺にそのことを悟らせようともしなかった。知らず知らず、携帯を手にする時間が増えていく。当人はそのことに気が付きもしない。依存症とは恐ろしいものだと、俺は楽観的に考えていた。

 それから間もなく、俺は二台目の携帯電話を購入した。
 理由は単純明快で、一台では足りなくなったからだ。当然ながら電話の最中にはメールが出来ない。逆もまた然り。それが不便で仕方なかった。だから、一台を電話用に、もう一台をメール用にした。電話もメールも引っ切り無しで、俺の部屋は着信音がBGMになっていた。
「あははは、ああ、それ見たよ。本当に下らなかったよなー」
 俺は片方の携帯を耳に宛がいながら、もう一方の携帯を片手で操作した。
『明日って必修授業あるか?』
 文面を大して確認することもなく、俺は送信ボタンを押した。
 他愛のない電話をしながら、メールでのやり取りをする。電話が終わらない間に次のメールが来る。電話が終わりいくつかのメールを送信していると、次の電話が鳴る。二台あれば同時平行も可能で、そのサイクルに終わりはなかった。時間帯など一切関係なく、携帯は下手な二重奏で大音量を撒き散らした。

 次に状況の変化があったのは、夕食を終えてリビングで寛いでいる時のことだった。母親は食器を片付けており、父親はテレビを見ている。俺は父親の隣で携帯をいじる。ここ最近と何ら変わることのない風景だ。
 耳に障る不愉快なテレビの音の中、不意にけたたましい着信音がリビングを席巻した。俺はその音が途切れるまで楽しむように待ってから、携帯を開いた。その様子を横目に見ていた父親がふと口を開いた。
「お前、最近携帯やりすぎじゃないか?」
 その言葉を聞いただけで、反発心が沸く。普段はこうしたことで文句を言わない父親の態度から察するに、どうやら父親自身も内々で不満を募らせていたらしい。あるいは、顔にあまり覇気が見られないので疲れているのかもしれない。いずれにせよ、俺が何をしていようと親には関係ないはずだ。だから、親が何を言おうと俺には関係ない。俺は曖昧に頷くだけであとは無視を決め込んだ。
 すると、突然俺の指先から携帯の感触が消えた。どういう事態なのかを理解するのにも、わずかに時間を必要とするほど予想外の出来事だった。視線を上げると、そこには久し振りに見る怒りの形相を湛えた父親が、俺の携帯を手に見下ろしている。
「こんな物ばかりやってるから!」
 父親の手元を見、携帯が乱暴に握られているのを見ている内に、俺は自分自身が暴力を振るわれたかのような気がしてきた。理不尽な暴力には自分もなりふり構ってなどいられない。俺の内で怒気が激しく突沸した。
「何すんだよ! 返せ!」
 俺は力任せに父親の肩をど突いた。思いがけない反抗に、父親はバランスを崩し、無様に尻餅をついた。その拍子に携帯は父親の手からするりとこぼれ落ち、か細い音をたてて床に転がった。俺はそれを割れ物を扱うように優しく手に取った。そして、驚愕の表情でこちらを見返す父親に一瞥をくれた。
「俺に逆らうからこうなるんだよ」
 俺は憤怒と侮蔑を込めた視線を向けながらそう吐き捨てた。その時、二台の携帯が着信を告げる。その音は、俺に歓声をあげているように聞こえた。俺はそれ以上何も言わずに自室に引き返した。去り際に見えた、何も出来ずにいる父親の表情がひどく間抜けに映った。
 自分の部屋に戻ってからも、俺の憤りは止まなかった。無性に腹が立つ。理由なんてないのかもしれない。今はただ、親の存在が疎ましくてならない。その日は、メールも電話も楽しいものには思えなかった。俺は鳴り止まぬ携帯を無視して、早々に床に就いた。
 翌日も、俺の生活にさしたる変化はなかった。昨夜のこともあり、多少気分が晴れないものの、友人達はそんなことはお構い無しに電話をかけてきたし、メールを寄越してきた。それらに応じている内に、次第に俺の心も軽やかになっていった。
 夕方頃になって、一つの電話がかかってきた。電話自体は毎日何十回としているので、何の気負いもなく通話ボタンを押した。電話の相手は、これまた普段と同じサークルの仲間だった。一つ変わったところがあるとすれば、いささか興奮しているようで、声が少し上擦っている。
「おい、テレビ見たか? すげえな、そこお前のマンションだろ?」
 何のことを言っているのかさっぱり要領を得ないが、どうやらテレビでマンションのことが報道されているらしい。俺はテレビを着けると、適当にチャンネルを回した。すると、ある番組に確かに俺が住んでいるマンションの外観が映っており、幾人もの野次馬や報道関係者が詰めかけている。カメラが左右に振れると、警察関係者の姿も見える。
 それを見て外の気配に注意してみると、確かに普段以上のざわめきが感じられる。ただ、それだけでは何が起きているのかははっきりしない。リポーターも興奮しているのか、中々何が起きたかを告げようとはしない。焦れた俺は手っ取り早く電話の相手にその答えを求めた。
「一体何があったんだ?」
「おいおい、呑気だな。殺人だよ、さ、つ、じ、ん」
「は? 殺人?」
 あまりの非日常的な出来事に俺は素頓狂な声を上げてしまった。このマンションで殺人事件が起きるなど、想像にも及ばなかった。
「そ。しかも、死体が四つも出て来たって話だ。転落死に撲殺二つに自殺」
 自分がおよそ不謹慎な話をしていることにも気付かないで、友人は嬉々として語っている。俺は友人の話を聞きながら、共用廊下に出た。他の居住者も、俺と同じように廊下で様子を見ている。マンションの様子を見渡すと、六階か七階くらいのところに警察が大勢集まっている。どうやら現場はそこらしい。俺はそれだけ確認すると部屋に戻った。
「本当だ。何か警察がたくさんいるよ。すごいな」
 気付かぬ内に俺も興奮していた。こんなあり得ないことが身近であり得たら、誰だってどきどきするだろう。俺はその後もしばらく友人とその話題で盛り上がった。

 親が帰って来ても、やはり話題はそれで持ちきりだった。テレビでは特番を組んで事件の内容を報道している。夕飯を食べ終えた俺はテレビに食い付いてその事件を追った。もちろん、頻繁に携帯も鳴る。何せ、事件が起きたマンションに住んでいるのだ。着信の数は普段よりも多かった。そうして二つのことに集中していたので、親が俺に話し掛けていることに最初は気付かなかった。
「少し話がある」
 そう言われてようやく顔を上げた俺だったが、果たして親の表情はいつになく真剣だった。俺は鬱陶しく感じながらも、話って何? と先を促した。
「お前の携帯を解約する」
 流すように聞いていたその言葉を理解した瞬間、銅鑼を鳴らされたようにぐわんという音が脳内に響いた。大学生になったといっても、俺はまだ未成年だ。携帯の契約には親の承諾がいる。そして、今それが断ち切られそうになっている。直ぐに激しい怒りが沸き上がってきた。
「どういうつもりだよ! 何でそんなことするんだよ!」
 俺が必死に抗議しても、親は冷静さを保ったまま静かに声を発した。
「お前が携帯ばかりで、他のことを疎かにしているからだ」
 そう言われても、俺には意味が分からなかった。何を疎かにしているだって? 俺はやるべきことはきちんとしている。何も知らないのは親の方じゃないか。
 俺は怒りが暴力衝動に変換されるのを内に感じていた。だが、それを抑えようとは思わなかった。痛い目に見せないと分からないのなら、そうするまでのことだ。俺は上気して拳を固く握り締めた。
 今にも均衡が破られかねない沈黙の中、テレビの音がその沈黙を切り裂いた。
『周囲の住民の話によりますと、事件が起きた切っ掛けは携帯電話だということです。』
 何となしに耳に入ったその報道に、俺は思わず振り返った。あっという間に頭に上っていた血が下がっていく。今、何と言った? 携帯電話が原因? 俺は事態が掴めずにテレビに居直った。
 報道によれば、被害者の一人である母親が携帯電話に依存し、それにより精神が不安定になった息子が母親を撲殺して自らも命を絶った。また、隣室の大学生もそれに悩まされており、帰宅した父親を撲殺の後、ベランダから転落死したらしい。
 俺は事件の全容を聞きながらも、頭が混乱してならなかった。いや、混乱というよりも動揺の方が正しい。そして、その動揺にははっきりと恐怖心も含まれていた。何せ、今日起きたこの事件の構図は、丸々自分にも当てはまるのだから。俺は携帯が鳴らす音を気にしたこともなかった。むしろ心地いいとさえ感じていた。だが、それが俺だけだとしたら。思えば、先日から親が少し窶れてはいなかっただろうか。自分では気付かないで、他人を追い詰めていたのではないか。最近の様子を思い出せば出すほど、自らの首を自分で絞めていたような気がしてならない。
 今や俺の顔には全く血の気がさしておらず、顔面は蒼白となっていた。テレビ画面を見つめたまま、開いた口も塞がらない。
 俺はがくがくと震える手で携帯を取り出した。今まではコミュニケーションのツールでしかなかった携帯が別の物に見えてくる。携帯電話が原因で殺人事件が起きた。携帯電話が人を殺した。そして、人を四人も殺した携帯は、次に俺の命を狙っている。
 携帯になど殺されたくない。
 携帯が怖い。
 怖い。
 怖い。
 その時、俺の握る携帯が唸りを上げた。驚いた俺は、ひっ、と情けない声を上げて携帯を放り投げた。なおも鳴り続ける音は、嘲笑のようにも聴こえたし、次はお前の番だと呼ぶ声にも聴こえた。
 このまま携帯を手に取れば、近い内に俺が殺される。携帯に殺される。頭が真っ白になった俺は、もう何も考えることが出来なかった。
 そうして、俺は自分の携帯を破壊した。

携帯電話恐怖症シリーズ2(将倫)

辟易的は間接的の、想起的は妄信的のサイドストーリー的な位置付けです。
根源的は慢性的の対、あるいは相似です。個人的にはコミカルかつシニカルな内容だと思っています。

携帯電話恐怖症シリーズ2(将倫)

携帯電話恐怖症となった者の近くにいる人たちの物語。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-30

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 妄信的携帯電話恐怖症
  2. 辟易的携帯電話恐怖症
  3. 想起的携帯電話恐怖症
  4. 根源的携帯電話恐怖症