ゼームス坂マンションストーリー

 大井町のゼームス坂という場所に作られたマンションが舞台となっている。多くの業者が一丸となってその建設にあたり、そこには一人一人の人生ドラマがあるわけだが、とりあえずその頃ミュージシャン志望の男が、生活のためにバイトとして面接に来た電気工事屋で、なぜか社員となり、寮に住み、生活をともにして、流されていく様を描いてみたつもりだ。

1 方南町

 地下鉄、丸ノ内線の方南町駅の階段を駆け上る20歳代の青年が、その頃の私だ。彼は面接を受けるために小田急線の百合が丘からやってきた。多分新宿で乗り換えてきたのだろう。この頃は、私鉄も地下鉄も冷房になっておらず、さぞ汗をかいていたことだろう。それを考えれば、エアコンなどなければないで生活出来るだろうが、今その恩恵を少しでも受けてしまうと、アル中患者が酒から逃れられないのと同じで、体質的に冷房に依存してしまうのは仕方がないのかもしれない。
 その頃の彼は、その年の春先まで都内の専門学校に通っていたが、学校に納める金やつまらない授業時間を惜しみ、中退してアマチュアバンドに夢を託していた。しかしそのアマチュアバンドも調子が良ければいいのだが、メンバー間の連絡も途絶えてしまい、それぞれがてんでバラバラの事を始めるようになっていて、彼とてもその例に洩れず、生活的に困窮を極めてきたので、とりあえず金になりそうなバイトをもとめてやってきたというわけだった。
 地下鉄の階段を上り終え、地上に出てくれば、少しは涼しかろうと思うが、照りつける太陽の意地の悪さは、堂に入ったものだ。しかしそこは20代なので、きっと涼やかな顔で方南町の商店街を歩いたいたに違いない。今なら即座に低料金カフェに飛び込んで一休みを決め込むところだが、その時は、それすらの小銭もなかったか、まあバイトをゲットすることに夢中だったのかもしれない。
 PS電気と書いてある看板が目に飛び込んできたのは、商店街から1本入った脇道で、なんとなく危険な匂いがしなくもなかった。1階が倉庫で、2階が事務所。倉庫にはシャッターが下りていた。手に持ったバイト雑誌を握りしめながら、緊張した面持ちで階段を上ると、ドアは色ガラス風というのか、中がうっすら見て取れる。机に厳つい感じの男が座って電話をしている。多分電話の途中で入るのもタイミング悪し、と思い、相手の電話が終わるのを待ち、ひと呼吸おいてからドアをあけた。
「失礼します」
と、相手を警戒しつつ、日本人独特の笑みを浮かべる事も忘れずに、ゆっくりと声をかけた。
 男の動きは緩慢であったが、どこか威圧する雰囲気に圧倒されそうであった。無造作な長髪はいいとして、表情の読み取れない喜怒哀楽のない顔、それに常に冷たい目をしていた。反省という言葉が頭に浮かび、逃走ということも考えたが、何も出来なかった。男の目の動きからすると、まず顔を見て、服を見て、それから手に握りしめたバイト雑誌を見たのだろう。
「ああ、アルバイトの募集ねえ」
「そ、そうなんですが……」
何を言いかけたのか、男は気にも留めずに、「今の電話が最後だったんだよなあ……」
 そう言いながら、両手を頭の後ろに回して、うーん、うーんと唸っている。いや、終わりなら、終わりで、しょうがない、こんなところに長居をせず、さっさと次のバイト探しでも始めなければ……と考えているところに、用務員のようなじいさんが現れた。
「まあ、お茶ぐらい飲んでいけばいいさあ」と言って、ソファーを勧めるので、まあいいか、と取りあえず茶をもらうこととした。
 茶をすすっている間に電話が数本かかってきて、机の男、彼が社長らしい、社長はなにやら指示を与えていた。それが終わると、また頭の後ろに両手を回して、うーん、うーんと唸ってる。
「お前よお、社員ならいいんでないか」
と社長に言ったのが、例の用務員で、用務員のくせに矍鑠として偉そうにしてると思って話を聞いていると、社長のお父様ということらしい。
 それで雇われる側の方を相手にもせず、出した答えが、社員採用ということで、用務員、いや、社長の父が一言。
「今日から来れるけ?」
「は?」
と口を開けてぽかんと社長を見ると、両手を頭の後ろに回して、
「いいから、いいから」
と笑っている。
 用務員が実は黄門様というからくりに引っかかったわけではないが、その辺から相手のペースに巻き込まれてしまったのか……。何でも朝が早いので、寮に泊まって朝、皆といっしょに現場に向かう方がいい、という話にうまくのせられてしまったようだ。そしておそらくはこの人たちに流れている純朴そうで任侠的な雰囲気に、好奇心を持ったとしか言いようがないと思うのだ。
 黄門様自ら、寮に案内していただけるという。そう、いつの間にやら夕方になっていたのだ。たしかに今日のところは、明日6時に出直すよりも、一泊した方が良いと思われた。 寮は、遠くなかった。方南町は、新宿から永福町へ向かう方南通りと環状7号線、通称環七という交通量の多い幹線の交差点付近を言うが、寮は、環七をまたいだところにあった。会社の規模からして、大手企業の社員寮等は想像しておらず、そこは住宅街であるし、アパートみたいなもんだろか、と思っていると、ある一軒家を指して、黄門が、ここじゃとのたまう。
 多分ひと家族4人くらいが住んでいると思われる2階建ての住宅1階部分に、黄門、黄門の妻の部屋と全員が会食する居間があり、黄門の次男、社員a、b、cが2階の二部屋を使って寝泊まりしていた。黄門の三男と長男の社長は、結婚しており、近所のマンションに住んでいた。
 夕飯を先にいただいている中、メンバーが現場から凱旋、思い思いに席を取り、黄門の嫁である寮母からご飯茶碗を受け取ると、テーブルの中央にあるジンギスカンごとき大量の肉、野菜めがけて箸を突っ込む。そんな中、黄門が新メンバーを紹介するも、誰一人食べる事に熱中するあまりリアクションがない。一応自分からも一言と思い、一言を発した時にやっと一人が「よろしく」と言ってくれた。 彼は、社員の一人で秋田出身のアラシで、中卒でまだ19歳だった。天然パーマでリーゼントながら近寄りがたいものを感じないのは、けっこう童顔でいい男だったからだろう。無口で縦社会を重んじる傾向があり、年下ながら頼りがいのある奴と思った。
 彼に取っての縦社会というのは年齢だったのか、先輩風を吹かすことはなく、年上の新人をたててくれるところがあった。だから分かんない事があるとたいてい彼に聞く事しきりで、この寮のしきたりはどうだ、とか、3兄弟の性格はどうだ、とか、仕事の細々したこともまあ彼なりに教えてくれたりした。
 そんなわけで、次第にこいつは使えるぞとしばらくは若干下に見ていた当時の私だった。しかし何かのきっかけで中学時代の武勇伝を聞いことがあり、所詮19歳は19歳、中卒は中卒、お前なんか知らんと、距離を置いては見るんだが、いつの間にかそばにいるような感じだった。
 多分アルコールが入った時ではないだろうか。職人には年齢制限はないのだ。彼は中学は卒業したが、ろくに授業には出てなかったという。そして悪い仲間と町に繰り出し、停まっている車の窓を割り、配線をいじってエンジンをかけ、そのまま女子高生とかナンパして、ドライブに出かける、などという楽しい毎日を送っていたようである。
 お前なんか人間の屑だ、とも言えず、
「ほほう、それは面白そうだねえ……」
などと嘯いてはみる。そして気持ちの持っていきようがないので、そうかそうか、それでもこうして、ちゃんと電気工事してまじめに働いてるんだよな、更正して良かったな、と心で呟いてみる。そうやって、私の心の中で発生したもやもやしたものが、透明になって浄化していくのである。
 そんな秋田のアラシ他、一癖も二癖もある職人の中で、アマチュアバンドマンが、数ヶ月、電気工事というまるで畑違いの分野でもまれてゆくストーリーがこれから展開されていくわけだが、取りあえず寮に一泊、朝を迎える。

2 2トントラック

 2階に部屋が二つあって、多少広い方に3人寝る事になる。布団を敷いたらもう歩く場所はない。一組の布団の上だけが、自分だけの空間で、精々本を読むとか、ヘッドホンステレオを聴くくらいの自由しかない。こいつら、よくこんなプライベートのない空間で暮らしてるなあと思うが、それで済んでいるから凄い。
 アラシを挟んで、その隣に沖縄の、やはり暴走族上がりのナカヤマが、
「明日も早いから寝よっとねー」
など突然叫んだりするのでビックリする。奴もまたアラシ以上の強者だったりする。年も一つ上だったので、アラシのようには近づけなかった。
 朝もいつもの調子で、
「朝や、朝や、仕事いくで、仕事やで」
とやたらうるさい。最初は何事かと面食らったが、慣れていく中、それがないと物足りなくも感じるようになった。
 とにかく初日は、マイペース野郎だぜ、お前は、と言いたいところを、
「おはようございます」
と親しみの笑みを浮かべても、
「何、笑うとる、気色悪い」
と相手にもしてくれない。 
 寮母、こと黄門の妻、つまり社長の母上であるおばさんが用意した朝食を全員で囲む。朝はだいたいロールパンとハムエッグが多く、それもホットプレートなるものを使い、その上でロールパンを温めるだの、ハムやソーセージや卵を焼くだの、おばさんはそこにほぼ乗っけるのが仕事で、我々はその中から必要量自分で取るだけだった。
 黄門は事務所に、社長も直接事務所に直行するので、朝食を囲んでいるのは、アラシ、ナカヤマ、ジナン、なぜか自分のマンションがあるサンナンもいたりする。社員Cであるところのイガラシは、なんでも出張中ということで数日顔を併せる事はなかった。ということはジナンは一部屋に一人で寝た事になる。くそっ、差別だ。
 初日の朝、2トントラックで現場へ向かうのだが、ナカヤマが、
「お前、運転していくか」という。
し、しまった東京に来てから運転なんてしてねえし、確かに要免許とは書いてあったかもしれないが、まさか2トントラックだとは思わなかった。
「最初なんだから、ナカヤマが運転して、まず道に慣れてからでいいだろ」
助け舟を出してくれたのがジナンだった。この人は妻帯者の兄弟に挟まれて、なんとなくおっとりして大人しいと思っていたが、意外ともの申してくれそうで、アニキーと心の中で感謝していた。
「ほら、出発、遅れてるぞ」
そういうのはサンナンだった。
 ナカヤマは、ハンドルをきりながら、
「甘っちょろい奴ばっかしじゃ」
と誰に言うでもなく、愚痴っていた。
 方南町から大井町近くにあるゼームス坂の現場に向かうわけだが、こういう輩は普通の道路は走らない。まあ最終的には山手通りに出るわけだが、抜け道、近道を探して、ちょっとでも時間を短縮しようと考える。トラックがすれ違えないような細い道、速度制限が30キロの住宅街を普通にというか、かなり高速で突っ走る。コ、コワイが逃げるわけにはいかない。明日からは下手するとこっちの番だが、そこはそれ、ロックミュージシャン魂が受けてたつしかない、と誓いを決めていた。
 出発前に着替えと称してジナンのパンツとTシャツをあてがわれ、何やらお揃いの作業着を着せられたが、なんだかにわか作業員も悪くないかと一瞬は思った。そして現場につき、言われるがままに作業を始める中で、ちょっとでも喜んだ事をすぐに後悔した。電気工事ではなかったのかい、もっときれいな仕事じゃなかったんですかねー。
 マンションは、ほぼ屋上まで出来上がっていたが、まだ内装工事は入っておらず、仮枠大工という輩がまだ出入りしていた。彼らはコンクリを流し込む際の型を作るのが仕事で壁や床が固まったら型となった木枠を外してまわるのだった。もちろんいろんな業種が力を結集して良い仕事をしていくのが理想なのだが、どうも電気工事と仮枠大工の相性は良くないと思った。
 まあ、いずれにしても完成予定日を間近に控え関係者は焦っているように見えた。電気が通れば夜間の作業も可能になるとあって、現場監督も電気工事に多大な期待をしているように感じた。
 その日、ケーブルドラムという、巨大な糸巻きが運ばれてきた。巻いてあるのは綱引きの綱くらい太い電線であった。一般の送電線からマンションの変電室に電気を送り込むために地中を這わせるという。詳しくは覚えてないが、すでに敷地内に数カ所、人が一人ないし二人入れる縦穴が掘ってあり、穴の側方には2カ所直径5〜6センチほどの穴が開いていて、そこに電線を通そうということだった。
 今回アルバイト雑誌で雇われたメンツが5、6人集められていたが、そうか、これをやるためだったんだ、なるほど。
「みんな、こっち来て」
仕事の指示はジナンの役目だった。
手元で見る電線はさすがに太く簡単に穴を通せる感じではなかった。
 まず電線の先端に電線より細いロープを取り付け、ロープを先に穴に通していき、最初の地点で縦穴に潜り込んだものが、横の小さい穴からロープの先端が出てきたら、それをたぐり寄せ、電線の頭が出てきたところで、ロープの先端を反対の小さな穴に押し込んでいく。2番目の縦穴で待機していた者が、今度はロープの先端が届いたらそれをたぐり寄せる。1番目の穴の人はロープが吸い込まれていく穴の方に電線の頭を押し込んでいく。そんなことを数カ所で繰り返し行おうというのである。
 これが電気工事だとはまったく予想外で、まさか地面に潜って綱引きをさせられることになるなんてなあ、とまあ心の中で愚痴っていたところにナカヤマがやってきて、
「バカタレ、そんなんじゃ駄目だ」
と狭い穴に割り込んできた。
「俺が、引っ張るから、反対の穴にどんどん押し込め」
「はい、はい」
びくともしなかった電線が少しずつたぐり寄せられ、言われたようにすぐさま反対の穴に押し込み続けた。
 ナカヤマの風貌については触れなかったが、見た目は、パンチパーマで中肉中背の鼻の下に髭を蓄えた、いわゆるオッサンなんだが、年は一つしか違わなかった。うそだあ、絶対40だ。こんなオッサンと穴の中で心中は嫌だあー。とまあ心中するわけではないが、それでなくても空気も汚い場所に長居はしたくなかった。 
 アルバイトの中にものすごい腕力の持ち主がいて、社員一同が絶賛していた。そうか、必要とされていたのは、こんなタイプなんだなと一人いじけながらも、こちとらバイトとは違うんだぜ、此畜生、まあ、いいさ、俺にはロック魂がある。まあそれはとにかく、トラックの運転を覚えよう。
 実際、薄汚い労働を終え、寮に戻った時に車庫入れの練習をしてみることになったが、そもそも、住宅街の一戸建ての敷地面積などたかが知れていて、軽自動車さえ苦労するようなところにトラックが収まるわけが……あるんだ。
 そうか朝はすでに出してあったのだ。きっとナカヤマか誰かが、出しといたんだな。
「しょうがねえ、俺がまたやっとくか、明日からは頼むでえ」
思った通り、運転席から私を追いやり、ナカヤマは、多分ハンドルの切り返しを10回は行ったか、少しずつ敷地内に収まっていくトラックを見ているのは何だか心地よかった。もちろんそんな感慨に浸っているわけにはいかなかった。まあ実際それが出来るようになるには、数日かかった。その度にナカヤマに頭を下げる毎日だった。
 畜生、ロッカーは負けないぜ、でも何だか飯がうまいな、と、アラシ、ナカヤマの顔を見ながら、何だか連帯感のようなものを味わいつつ、疲労困憊した身体は、シャワーの気持ちよさも重なって、やがて眠りについた。考えてみれば、こうやって百合が丘にある独り住まいのアパートのことなど忘れていってしまったのだろう、多分。

3 接触事故

 数日のうちにナカヤマ流運転技術を少しはマスターしたようで、行き帰りの運転はすべて任された。まあ車庫入れも最初は、
「しょうがねえな」
というナカヤマを持ち上げるしかなかったが、二、三度敷地内の塀や壁にぶつけながら練習を重ね克服していった。
 方南通りを素直に新宿に向かっていると多分30分以上はロスするだろうが、途中地下鉄の車両基地が見える手前あたりで、右折して住宅街に飛び込んでいく。それをジグザグに進んでいくといつのまにか中野通りに出てきて、笹塚の駅を過ぎたところで左折してまた住宅街をジグザグに走っていくと山手通りの代々木八幡あたりに出てくるのだ。
 あとは山手通り1本なので、これが渋滞している場合はしょうがない。ただどんなに渋滞していても、焦るのは運転手だけで、後はどいつもこいつも夢の中だ。もちろん立場が変われば逆になるんだろうけど……。
 仕事はいくつもの事が平行して行われていて、ナカヤマとアラシがだいたい組になって行動していた。サンナンは一人で作業に没頭していて、ジナンは何もしない。ジナンに言わせると、司令塔は頭で考えるのが仕事だそうだ。そんなジナンが先生役だったので、最初の薄汚い労働以降、そんなに働かなくなった。そうだよ、ロッカーが汗水流して何になるというんだ。
 ところが、この何もしないというのが苦痛で、苦痛でしょうがないので、
「ちょっと、ナカヤマ達の様子を見てきますね」
とジナンの側を時々離れた。何だか好奇心もあって、あんまり一所にじっとしているのが性に合わなかった。
「違うわい、これじゃないて」
どこからかナカヤマの声がしたかと思ったら、目の前をアラシが笑いながら駆けてゆく。アラシが出てきた角の向こうにナカヤマが脚立に乗っかって、中細の電線と格闘していた。露出用丸形ボックスというのを何か他のと間違えて持ってきたようで、アラシが急いで取りにいったというわけだ。
「ヒマそうやねえ、たいくつやろ、働いてけ」
とナカヤマがほくそ笑むが、
「別に暇してないよ。やることあるし」
と答える。答えるが、結局何かしら手伝いをしてしまう心優しきロッカーだった。それに、このナカヤマとアラシの師弟関係は漫才コンビのようなやりとりがたいへん面白い。もちろんナカヤマが突っ込む。それは「あれもってこい」とか「これをやれ」の類いで、アラシが知ってか知らずか、それを間違える。
「違うよ」
「こいのどごが間違ってらのだべが?」
「ぬーいっちょーさぬかわかいびらん」
青森の方言に沖縄の方言返しというこのやりとりは生で見ていると最高のエンターテインメントなのだ。
 ジナンが何もしてないのは誰もが暗黙で了解していた。ただ実際には建設会社の現場監督とのパイプ役になっていて、社長に替わってこの現場の責任を任されているのだった。そうはいっても、実際側にいると先生様は机でうとうと居眠りをなされたり、その辺に投げ捨てられたような漫画、週刊誌を読みあさっておられ、物足りないことしきりなのだが、兄弟で一番穏やかな性格は、側にいて安心は出来た。
 社長は、第1印象がとにかく悪く、長髪で、厳つい顔で、なおかつ冷たい目をしている。両手を頭の後ろに回して「いいから、いいから」と身体を反らせている姿が瞼の裏にこびりついている。サンナンは、と言うと、まず見た目がスナックのマスターかチンピラで、社長が親分なら間違いなく子分だ。怖いのは間違いなく社長だが、小物ほど何をするか分からない危険性を秘めているというもの。家庭があるくせに実家で朝飯を食うくらいだから、小物も小物、さわらぬ神にたたりなしだ。
 だがこのサンナン、酒が入ると涙もろくなる。人情という言葉をやたら挟んでくるあたり、やっぱりスナックのマスターか。あるいは深夜タクシーの運転手だ。3兄弟、および黄門は東北の出身だと聞いていたが、アラシほどの訛は感じなかった。
「うーん、分かる、分かるよ、あんたも苦労したんだよねえ、畜生、泣けてくるなあ」
江戸っ子のような雰囲気も感じる。
 メンバーの中じゃ、このサンナンとナカヤマが要注意人物ということになる。さわらぬ神にたたりなしじゃ。
 もう、すっかり社員らしくなって、メンバーの一人、あるいは2トントラックの運転手という立場が定着しつつあった頃、ナカヤマ流運転術で住宅街を突っ走っていた時だ。まあおかげさまで人を傷つけた事は、1度もなかったが、他車両との接触をやらかしてしまった。
 中野通りに出る直前、あるいは山手通りに出る直前か、クレーン車が作業していて、通れなくはないくらいの隙間を、なんとかなるさ、と生半可な気持ちで通り過ぎようとして、キキキキキーと金属が擦れる音が、近所にこだました。
「なんだ、なんだ」
夢の中にいたジナン、サンナン、ナカヤマ、アラシが一様に声を上げた。
「なんか、擦ったみたいで……」
とテンションの下がった足はブレーキをかけようとスローダウンしていた。
「いいよ、いいよ、いけ、いけ」
とナカヤマがいう。
「駄目だろう」
とジナン、サンナンが言う。
アラシは目を大きくあげてやり取りを見守っている。
 ナカヤマの「いいよ、いいよ」で、一瞬アクセルに移ろうとした足は、宙をさまよったあげく、結局はブレーキをかけた。
 このような経緯があったので、実際停止したのは数十メートル過ぎたあたりだったけれど、クレーン作業関係者が数人走ってきていて、停止したトラックの運転席のドアを無造作に運転手の胸蔵をつかんだ。痛くはなかったが、いやあ、冷や汗が流れていた。言い訳は出来ない、悪いのはこっちだ。さあ殴れ。
「何だよ。逃げるつもりだったのかよ」
すみません、と思った。
「逃げて済むとでも思ってるのかよ」
本当にごめんなさーい、と思っていると、
「てめえ、何暴力ふるってんだよ」
とナカヤマが作業員に噛み付いた。
「とにかく、その手を離しなよ」
はサンナンだった。
 クレーン作業員の怒りの矛先が変わって、恥ずかしながら、内心ほっとしていた。「逃げた」という作業員と「逃げてねえだろ」というナカヤマ、サンナンの答えのでない長い長い押し問答の合間にジナンが、公衆電話を見つけて社長に電話をしていたので、十数分後には社長がマイカーで駆けつけてきた。
 例の、長髪で、厳つい、冷たい目が機械のような正確な2足歩行でこっちにやってきたかと思うと、サンナンとナカミネの間に割って入り、相手に詫びを入れている。すぐさまナカヤマの頬に平手を食らわして、
「お前が付いてて、何やってんだ」
と怒鳴った。そして、ジナンに向かって、そのまま現場に向かうように指示した。
「後はやっとく。いいから、いいから」
さすがに両手を頭の後ろに組んではいなかったが、迫力を感じさせる一件だった。
 ナカヤマは、ちらっとこっちを見て、
「なんで、俺が殴られなあかん」
と不満げではある。それについてはこっちも申し訳ないと思っている。ホント、ミスはこっちなんだからね。お咎めがないのが逆に身に応える。
 現場は内装屋が出入りし始め、彼らが壁のクロス張りを始める前にコンセント等の取り付けを急がなければならなかった。電気が根幹までに流れるようになると、手軽に照明が取れるようになるので、日の落ちた時間帯でも作業が出来るようになった。それにエレベーターが稼働し始めると高層階にも移動しやすくなった。

4 仮枠大工

 マンション各戸のブレーカーから各部屋の各コンセントに電気が行き渡っているのは、当たり前のようだが、要するに壁の中を電線が走っている事になる。それは当然コンクリートを流し込む前に事前に電気工事職人が作業しているからこその結果であり、それにはそれなりの苦労がある。
 各部屋に行き渡っているのは電気だけではない。水もあるし、ガスもあるわけで、その各業者もまたコンクリを流し込む前に仕込むわけだ。そしてコンクリを流し込むための容器、というか枠組みを作る仮枠大工というのがいる。またコンクリートに強度をもたせるため、鉄筋屋が通常木で作った仮枠の内側に鉄筋を配置していく。
 当然これら各業者が協力し合い、一つのものを作り上げていくわけである。ところがである、そううまくいかないのは、人間であるからだろうか。各業者がまず予定通り行程をこなしていくことが基本であるが、ここでも天候による順延、事故けが等による作業停止、想定外の問題発生等で狂いが生じてきたりする。物事には順番があるから、それを無視して先へは進めない、はずなのだ。
 さすがにコンクリが打ち終わると何も出来なくなるから、そこまでが勝負ということになる。当然誰もがそれまでになんとかしようと考えるので競合は避けられない。空調業者や水道業者と争った記憶はないが、多分最もたちが悪いのが、仮枠大工なのだ。また彼らもなぜか嫌われ者というレッテルを誇りに思っている節もあって、極悪非道極まりない。いや皆が皆そうではないと信じたい。
 話を少々戻すが、その日は、やはりコンクリート打ちを明日に控え、どの業者も目の色を変えて取り組んでいる、やはり30度は越えた真夏日だった。
「こいは何だかおがしっけだ……」
アラシが異変を感じて、ナカヤマを呼びにいく。見ると昨日取り付けたはずのコンセントボックスが見当たらない。そしてそこには木枠がなかったところで、まず奴らの仕業かと思われた。昨日帰り際に作業していた仮枠大工の姿が見えなかったんで、仲間と思われる奴に聞くと、
「俺はしらんぜ……」
と人をなめきった返事だ。ちょうどそこに現れたナカヤマが、それを聞いて、
「ヤーぬウヌ態度や、ちゃーさびたがくとぅさぁ〜」
と意味は分からないが、多分「なめるなよ」みたいな感じだと思うが、結構どぎつくねめつけたものだから、
「下の階にいたと思うけど、俺は知らん」
と逃げ腰で敵は白状した。
 3人で下の階に下りると、すかさずアラシが見つけた。
「あいづサ違いね」 
ナカヤマが真っ先に走りよっていって、それこそつかみ合いになって、訳の分からないただの喧嘩になりそうな雰囲気、アラシと二人加勢しようと息巻いていた、ちょうどその時に、現場監督が走ってきて間に入った。
 ナカヤマが現状を監督に訴える。それに対して、ずっとしらを切っていた犯人も観念したようだった。
「いや、こっちだって、明日まで間に合わせなきゃいかんからさあ」
それに3人そろって反論。  
「だぁやたーがって同じやっさー」
「それは誰だり同じだ」
「それは誰だって同じだよ」
ナカヤマの興奮が多少修まってきて、分かりやすい言葉になった。
「だぁやたーがって、同じやないかい。だからと言ってやど、人の仕事の邪魔をしちゃあ、あかんでしょいね」
相手の顔に何となく反省の表情が生まれて、
「すみませんでした」
と小さな声で呟いた。
「聞こえねぞ」
というアラシを制して、ナカヤマが言った。
「うん、よかよか、この人、今すいませんと謝ってくれた、もういいわい、わったーでぬーといさびら」
「えっ、最後、何て?」
「俺たちがやるしかないということだ」
そして同じ仕事の繰り返しをしているうちにその日も遅くなった。
 内装が入る頃になるともう仮枠大工も引き上げてしまい、顔を会わせる事もなくなるものだが、日々の仕事の忙しさが変わることはなかった。それに今まで、いかにコンクリ打ち前にチェックして、人的被害、あるいは自身のミス、あるいは偶然のいたずらなどを回避したとしても、それでも起こるべき事は起こるのである。
 図面を見ながら、多分この辺にコンセントを取り付けるべくコンセントボックスがあるはずなのに……ない。えーー、なぜに、ホワイ?しかし、そこは先輩達が慣れたもので、木枠にピッタリ配置したはずでも、ちょっと正面から離れてしまう場合があり、少しコンクリの表面を叩いてやると顔を出した。ひどいのになるとボックスがかなり奥だったり、横を向いていたりするのもあった。それでもまず見つかればいいし、ボックスに付いているパイプから電線が出ていれば、後はなんとかなった。
 詳しくは分からないし、教わらなかったから知らないのだが、ボックスがあっても電線がないとか、ボックスが見つからない時は、どうするんだろうねえ。実際合ったようなんだが、ロックミュージシャンには、関係がないねえ、とそこは軽く流す事にした。
 マンションは9階建てだが、その頃だと結構見晴らしが良いと思った。それはコンセントの取り付け等に追われて高層階にいる時に感じた。9月に入っていたので、夕方になると涼しく、屋上に上って、仕事の合間にぼーっと遠くを眺めていると気持ちよかった。
「何さぼっとるね」
ナカヤマが邪魔をしにきたかと思ったが、
「いい眺めやなあ」
と言って、懐からタバコを出して火をつけた。作業現場では喫煙禁止、なんていうものは、建前だったか。まあ、お裾分けで1本もらって、煙を吐いた。最高に気持ちよかった。
 PS電気は、他にも現場を持っていて、会った事のない社員もいた。11月完成予定のゼームス坂もたいへんだというのに、他の現場に応援に行く事もあった。まあそこで作業をするわけではなく、ゼームス坂で余った資材や時に夜食の弁当等をそこへ運んだりということだった。そこでは出張にいっていたという社員Cと初めて名前を聞いた社員Dがいた。このCとDが後にクーデターを起こすとは、その時は知る由もなかった。
 締め切り間際の攻防で、24時間態勢で仕事に臨みようになった。もう、労働基準法もへったくれもなかった。ただ会社も金だけは有ったのか、粋な計らいで、全員でサウナに行ったり、そこで宴会みたいに騒いだり、しながらご機嫌を取っているつもりだったのだろうが、実際はへとへとだった。
 その日も夜10時を回っていて、どの部屋で仮眠を取ってやろうか、考えているとアラシがやってきて、社長が皆を集めろと言っているらしい。
「歌舞伎町に知ってる店がある」
と、サンナンがいうので、いきなり皆のモチベーションが上がった。
「普通の飲み屋だぜ」
というが、歌舞伎町という言葉に、皆各々の想像を膨らませているようだった。日頃から女性が通り過ぎていくたびに、
「なんぼ!」
と声を上げるナカヤマが運転を買って出た。「ナカヤマさん、よろしく」
「まかしとき」
とアクセルを踏み出す。やっぱり本家は違うわなあ。ナカヤマ式運転術、ここにあり。
 サンナンのいう店は、どうも違う店に変わっていて、普通の飲み屋で済まない類いの危ない店だった。かといってどこへ行っても、大所帯がすぐに飲めるようなところは、ただの居酒屋で、そんな店は歌舞伎町に限らず、どこでもいいわけで、期待が大きかったせいか、皆無口になって沈んでしまった。
 トラックは靖国通りを新宿のガード下へ向かっていた。左右に見える色とりどりのネオンが虚しく点滅していた。まあ取りあえず、何か口に運ぼうじゃないか、と社長以下ジナナン、サンナンが話をまとめようとした時に突然トラックは1回転、横に回った。ちょうど信号で止まりかける瞬間だった。待機のタクシーは無数にいたが、たまたま周りにいなかった。
「何やってんだよ」
と社長は、責めるでもなく笑っている。えっ、この状況で笑うあなたもあなただけど、ナ、ナカヤマー、脅かすんじゃないよ。こんな大通りでスピンかけるなんて……。やっぱり、すごいよ、本物だよ、見上げたものだよ……と段々尊敬の念に変わった。
 これも確かアルコールの席のナカヤマの武勇伝だが、中学生の頃、電信柱に上って勝手に電線を1本川に引っ張ってきて、川の魚を感電させて大量の収穫をあげた、という話だ。アラシとはまた違う怖さを感じながら、この人間の屑!と声には出さず、これまた心のもやもやを解消すべく、でも今や仕事のできる電気工事士だ。更正したよなあ、それに先輩だ、そうやって自分なりに納得していた。
 そんな彼らと一緒にいると何だか自分も感化されるところも有って、職人気質とでもいうのか、細かい事に気にせず、思った事を口にすればいいのだ、と思うと、他の業種の人と気軽に話す事も出来るようになった。ロックミュージシャンのくせに、実は人間嫌いなところもあって、人と話す事に躊躇したり、自分の主張を引っ込めて、遠慮したりという弱い性格が影を潜めていった。

5 新人登場

 1ヶ月以上留守にしてしまった川崎は百合が丘のアパートに顔を出して、家賃を払うついでに引越の話をした。2年住んで6月に更新したばかりだったが、黄門が約束を守って方南町にアパートを借りてくれたのだ、あまりにも寮は狭かったので、相談しておいたのがやっとかなった。
 百合が丘は6畳、水道、トイレ付きで2万7千円、方南町の桜荘というアパートは、玄関、トイレ共用、4畳半水道付きで2万円ちょうどだった。レベルダウンもいいとこだが、寝に帰ってくるようなところだし、寮に比べれば、プライベートもあった。考えてみれば、20歳代の男性なら必須のHなメディアからも1ヶ月以上遠ざかっていたわけで、それは少しずつ軌道を回復しながら、アラシにもお裾分けしてやろうと思っていたものだ。
 ゼームス坂で比較的早めに仕事が終わっていた、24時間態勢になる少し前、トラックに乗り込んだメンバーに頭を下げた。
「これから、引越するんだけど、いいかなあ」
「誰の」 
「誰って、俺、寮出てアパートに……」
ジナンには言っておいたんだが、他の皆は、ブーイングしながら、それでもしょうがないなと、嫌々ながら賛同してくれた。
 百合が丘のアパートは結構奥まったところにあって、部屋の近くまでトラックは行けないのだが、人数も人数だし、力仕事のプロばっかりだたので、予想以上に早く荷物を詰め込む事が出来た。まあ積み方に問題がなかったわけではないのだが、気にしなかった。特に高級家具と言われるものもなかったし、オーディオ関係が心配ではあったが、先に一度一人で来た時にそれだけは大事に梱包しておいたのだ。桜荘についてからも、大人数で運び入れたので、速やかに片付けが出来た。
 24時間体制でも飽き足らず、新人が2名追加された。タカハタはなんと16歳で、まだ小学生と言えるくらいあどけない、まさに少年で、ナカヤマが一時変な目で見ていた。多分彼にも、人間の屑!、と言わせるような武勇伝があるのだろうが、それを聞く事はなかった。ただこいつ、アラシと違って、年上だろうが、容赦ない。少しの隙あらば、優位に立とうとするところがあって、彼の前では常に自信たっぷりに接しなければならなかった。
 もう一人の新人は、もうベテラン中のベテランだった。年も10歳ほど上で、ニタニと言った。ニタニの腕は本物で、何をさせても卒なくこなす、職人中の職人だった。タカハタと違い即戦力だった。彼こそ武勇伝にふさわしい人物で、酒が入ると誰も制御出来なくなるのだ。多分その関係で会社を渡り歩いているのだと思った。ナカヤマもサンナンも彼に一目置きながら一定の距離以上は近づかなかった。
 仕方ないので、ニタニを飲みに誘う時に声をかける役目を負ってしまった。
「ニタニさん、どうですか、一杯!」
「おうっ、ありがたいね、飲みたい気分だね」となるし、酔ってくると、
「飲み足らねえなあ、もう1軒行くぞ!」
となり、誰も行かないので、付き合ったりする。方南通りでタクシーを停め、
「にいさん、西荻行ってくれ」
と運転手をにいさんと呼び、
「にいさん、生まれはどこだい」
「東京ですよ」
「東京のどこだい」
「下町ですよ、江戸川なんです」
「いいところだねえ」
などと止めどなく会話を続ける。
 到着して、札を取り出すや、
「釣りはいらねえよ」
と、もうその時点で目が据わっている。
「行きつけの店があるんだよ、ささっ、」
と言って、場末のクラブだかスナックのドアを開けると多分店のママらしい人が、一瞬顔を曇らせたのが見えた。
「よおっ、ママ、久しぶり!」
と手刀を切る。
 カウンターに座って、タバコに火をつけようとすると、ママが歩み寄ってきて、ライターを差し出す。
「何日ぶり、いや何ヶ月ぶりかな、ママ」
「そうねえ、ずっと幸福な日々が続いていたのにね、来ちゃったのね」
「そんな言い方するなよお、今日はお客さん連れてきたんだから」
と、話をこっちに振ってきたので、ママにすいませんねえ、という目配せをしながら、頭を下げた。何だか居心地が悪かった。
「ママ、裕次郎」
つまり、カラオケで石原裕次郎を入れてくれということだった。そう、ニタニはこの世界の人だった。石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎らが活躍した日活の黄金時代にどっぷり浸かっていた。
 当時のカラオケは今みたいに、洋楽とかJーPOPとかは入っておらず、精々沢田研二が数曲あるくらいで、しょうがないので「そして神戸」「氷雨」「時の過ぎ行くままに」などを歌いながら、ニタニの相手をしている。 ニタニが、トイレに行ったとき、ママが声をかけてくれた。
「悪い人じゃないんだけど、結構問題起こすのよねえ。同じ会社なのよね。明日も仕事あるんでしょ」
そこにニタニが戻り、
「ママ、おかわり!」
ママが言わんとするように引き上げ時かもしれなかった。
「ニタニさん、これ飲んだら帰りましょう」「何言ってやんでえ、これからだろ」
じゃあ、しょうがねえ。言ってみましたけど……これこの通りですよ、とママの顔を見た。笑ってはいたが、困ってるようにも見えた。 ニタニは次第に呂律が回らなくなったが、それでもしゃべった。日活アクションスターのつもりのようだった。そして、他の客がカラオケを始めると、勝手に批評を始め、絡むようになっていった。赤の他人も気を使い、合わせてくれていたが、数分後に彼らは店を後にした。
 さすがにママの堪忍袋の緒が切れた。「ニタニ!うちも客商売なんだよ。あんただけの店と違うんだからね。邪魔しないでおくれ!」
ニタニはにやにやしながら、
「おうっ!よく言った。たいした女だぜ。帰ろ!」
と、言ってスパッと立ち上がった、と思ったら、よろけた。手を貸そうとすると
「触るんじゃねえ」
とまだスター気取りだ。ハイハイ、手は貸しません。どうぞお一人で……。と思ったが、またよろけた。結局肩を貸しながら外に出て行ってタクシーを拾った。あっ、ママ勘定は?
「いいのよ」
あ、ありがとうございます。どういう関係なんだか……。
 帰りのタクシーでも酔っぱらっているくせに運転手に会話を仕掛けようとする。
「ニイサン、出身は?」
「東京ですよ」
「……」
聞いたまま、寝るな。
「ああ、運転手さん、気にしないで、酔っぱらいだから」
「誰が酔ってますか、って」
何だよ、起きてるんなら、会話してやれよ。と顔を見ると寝ていた。
彼も黄門からアパートをあてがわれていた。桜荘と違ってちゃんと部屋にトイレがあったが、少し離れた場所にあった。その彼のアパートの近くで、タクシーを降りた。
「鍵持ってますよね」
「あるよー」
と言いながらも半分眠っている。
「部屋の前ですよ。起きてください」
というと、うっすら目を開けて、
「おっ、悪かったな、おやすみ」
「帰りますよ」
と角を曲がったところで、少し見ていると、2、3分かかって部屋に入り込んだので、そそくさと帰った。こっちだって眠いんじゃい。

6 立入検査

 24時間労働体制は過酷であったが、各自疲れた時点で適当なスペースを見つけては仮眠を取っていた。9月も後半になれば快適な気候で、雨風さえ凌げればどんなところでも眠れた。ましてマンションだから部屋には困らなかった。
 夜中にどこにいるか分からないメンバーを捜し出して、夜食で買ってきた牛丼を配ったりしたこともあった。夜中だとエレベーターが使えなくて、階段を上ったりした事もあった。
「タカハタ、これ8階まで持っていけや」
「なんで俺なんですか」
と口をへの字に曲げるが、彼の言い分は、そっちで持っていけということだ。なめんなよー。
「お前しかいないんだよ」
と強気で押しやると、仕方なさそうに牛丼の入ったビニール袋を持ち上げた。
 こいつには一度酒の肴の買い出しにいった時に悪し様にされたことがあったので、いつか復讐してやろうと思っていたのだ。事務所でいきなり宴会が始まって、缶ビールは冷蔵庫にあったが、肴がないということで、こいつと二人、コンビニに走らされた。いつもなら、アラシ、タカハタなんだが、アラシが不在だったのだ。人がせっかくどれを買おうか吟味していたというのに、
「酒の肴なんて、何でもいいんですよ」
と次から次にカゴに運んで、勝手にレジに持っていって、
「会計ですよ!」
と、年上の先輩に非礼にも命令口調であしらう大罪を犯したのだ。この恨み晴らさで……。それにしても16歳のくせに……というか、世の16歳も決して馬鹿に出来ぬなあ。気をつけるに越した事はない、と思った。
 労働基準局もビックリするような過酷な労働の成果が試される日がやってきた。それは電力会社の立入検査で、各戸の各部屋にある各コンセントの通電確認だった。130戸はあるし、部屋の数かけるコンセントの数といったら、そりゃあもう大騒ぎ。
 先にも書いた通り、コンセントの内側、コンセントボックスに至るまでの電線がなぜかなかったりして、ただ間に合わせるために、コンセントが格好だけ付けてあるようなところがあると、噂では聞いていた。しかしそれではこの立入検査がただで済むとは思えなかった。
 不安がよぎったが、ナカヤマは涼しい顔をしていた。
「大丈夫、大丈夫」
話を聞くと、電力会社からやってくる査察官は1名で、彼が検査をするのではなく、ナカヤマとアラシが協力して検査するということだった。
 その日は、彼らとジナンを残し、残ったメンバーは新しい現場に向かう事になった。そこは東村山で、方南町を挟んでまるで反対側だった。そこは基礎工事がまだ終わる前で、かなり工程の初めの段階で建設に関わる事が出来た。
 新しい先生は日活のニタニであったが、この人は仕事をしている時は本当にプロの職人で、専門用語をコンスタントに飛ばしてくる。その頃は金属製の電線管、塩化ビニル製のパイプが主に使われていたと思うのだけど、塩ビのパイプだと熱で温めて曲げたり、金属製のものだと配管用ベンダーという道具を使っていたと思う。またパイプの太さも何種類かあって、よく「インチをもってこい」などと指示されていたように思う。
 ゼームス坂とはまた違う工程を辿っているので、知らない事に直面しては、
「そんなことも知らないの」
とニタニ先生に呆れられたが、元々運転要員なんだし、本来はロックミュージシャンなんだよ、俺は、と内心思っていた。
 新しい現場に何となく心も身体も疲れていたが、ゼームス坂の過酷さからみれば、気持ちのいいものであった。どちらの現場もその日は早々に引き上げ、珍しく寮で夕飯をいただくことになった。
 ナカヤマ達からは、立ち入り検査の報告があって、無事に通過したということだった。「楽勝、楽勝」
というナカヤマに、アラシが突っ込む。
「楽勝だばねーじゃし、冷や汗かいてますたー」
通電の有無を測るテスターはアラシが操作し、メーターが振れたかどうかの結果とその報告はナカヤマだという。
「針が振れねどごがあってー」
それをナカヤマが見て、顔色一つ変えずに、「オーケー!」と言ったらしい。
「えっ、査察官は何してるの?」
と誰もが思ったろう。
査察官は測定する場所を指定し、ナカヤマの報告結果を聞いて用紙に記入するだけだそうだ。それも○か×か。
それも全部じゃなく、抜粋でやったらしく、思ったほどの時間もかからなかったという。
「ええっ、嘘だろ、本当にそれでいいのか、そんなことでいいのか」
とその時は思った。
 まあ、実際不通だったその箇所はこれから数日のうちに何とかするとは言うけど、最終的にどうなったかは分からないまま、僕は職場を後にしていくのである。
 ゼームス坂にはジナン一人だけ詰めれば済むようになった頃、PS電気は、東村山を始めとして、小さな現場を複数受け持つ事になって、少人数で行動するようになっていた。東村山班はニタニとタカハタで、彼らをそこまで乗せていくのと手伝いをすることが当面の仕事となった。
 タカハタは16歳のくせに電気工事屋を渡り歩いていて、予想以上に仕事ができた。ニタニ先生も出来の悪い生徒よりもまだ16歳で、未知の可能性を秘めた彼の事を買っていたような気がする。

7 ストーリーその後

 あれから20年以上の時が流れて、ロックミュージシャンの夢は叶わず、平凡なサラリーマンとして通勤でJR大井町を通過する度に、この近くに確かゼームス坂というところがあって、そこで20代の前半に過酷な労働をした、いや過酷だったかどうかは覚えておらず、ただ懐かしいという想い出だけが去来するのであった。
 インターネットのおかげで、MAPで場所を確認したり、現場となったであろうマンションの情報を得たり、あるいは最近の外観でさえもカメラが捉えていたりして、想い出が少し身近に感じられるようになった気がする。それは動画サイトなどで、2度と見る事が出来ないだろうと思っていたテレビ等の懐かしい映像を垣間見たり出来るようになったことに似ている。

 「ゼームス坂マンションストーリー」は以上で終了である。
 ただその貴重なひと時を一緒に過ごしたメンバーのことを思い出しつつ、私がそこを辞めるまでを補足……。
 ストーリーの途中でも触れていた事だが、社員CとDは前々から独立を考えていて、Cはきちんと電気工事士の資格を取得し、Dは社長にくっつきながら仕事を見つけてくるマネジメント的な事を身につけていき、そしてもう一人、ナカヤマに声をかけたのだった。ナカヤマも誰に相談するでもなく、彼らと行動をともにした。いつも一緒にいたアラシやタカハタも知らなかった。
 ミーティングで3兄弟から、クーデターの報告を受けて、アラシもタカハタも目を丸くしていた。ベテラン、ニヒルなニタニでさえも彼なりにはショックを受けたようだった。
 もちろん私とてショックではあったのだが、私自身がその時にもう辞めるつもりでいたのだった。もちろんロックミュージシャンが本業だから……と言いたかったが、その頃随分体調を壊していて、この仕事を長期でしていることは命を縮めるのではないかと思われたからだ。
 最初にバイトで訪れた1階が倉庫の2階の事務所で、ミーティングが行われていた。相変わらず厳つい顔の長髪店長が、さすがにこの時ばかりは沈んで見えた。ジナンもサンナンも元気がなく、下を向いていた。
 社長は3人の独立の話をしている時も、我々に目を向けることもなく、視線はどこか遠くをさまよっているようだった。
「ええっ、そういうわけなんで……こまったな、はは、うーん、他にも辞めたい奴は辞めていいぞ」
と自暴自棄になっていた。
 そのタイミングで言える私も、まだ若かったのだと思う。
「そうですか。じゃあ辞めます」
言った途端、3兄弟がそろって顔を上げた。サンナンの顔が瞬時にスナックのマスターを通り越して、本物のヤクザの顔になったかと思うと大声で叫んだ。
「何だ、この野郎、世話になっておいて」
飛び出さんばかりの彼を制したのは、ジナンだった。
「いいよ、いいよ、彼にも自分のやりたいことがあるんだろう」
と言ってくれた。彼には本当に良くしてもらったのに、申し訳なかった。その時になってやっと熱いものがこみ上げてきた。そのやり取りを見ていた社長が、両手を頭の後ろで組み、身体を反らせて「いいから、いいから」と言った。  

以上

ゼームス坂マンションストーリー

1980年台のお話である。
まあどこが事実でどこが嘘なのか、作者もまた記憶が混乱していて思い出せなかったりする。想像にお任せしようと思う。

ゼームス坂マンションストーリー

ロックミュージシャン志望の青年が、ひょんなことから電気工事を。それも短期アルバイトのはずが、なんだか煙に巻かれて社員登用、その日のうちに寮に入ってみれば、6畳に3人が寝る一般住宅。秋田や沖縄の暴走族が更正して電気工事を。労働基準法無視の24時間労働。といいながら楽しかったなあという想い出話である。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1 方南町
  2. 2 2トントラック
  3. 3 接触事故
  4. 4 仮枠大工
  5. 5 新人登場
  6. 6 立入検査
  7. 7 ストーリーその後