桃子さん(13年半)

桃子さん(13年半)

桃子さん(13年半)


 僕は何年ぶりだろう、懐かしい長崎の夜の道を歩いていた。再び敗れて故郷へと帰っていた。これからどうしよう、これから何をしていこう、そう考えながら僕は懐かしい長崎の夜道を歩いていた。桃子さんは佐賀から長崎へと帰っていることを聞いていた。
高校時代のことを思い出していた。苦しかったけど、希望に燃えていた日々。元気だった自分。でも苦しかった。今より苦しかった。でも元気だった。
 僕は桃子さんが勤めているというスナックへと向かっていた。合わせる顔はないけれど、でも会いたかった。
 再び敗れて故郷へ帰る。自分はそのことを思って微笑んでいた。遠い長野での日々は淋しかった。時折、長崎へと電話していた。

『生きること、遠く長野で生きること、佐賀で生きること、長崎で生きること、生きることとは、僕は迷い始めました。
 人の心の醜さに僕は敗れ果てて再び故郷へと戻ってきたのかもしれません。人の心とは、人の心とは、僕は信じられなくなったのです。』
 カウンター越しに僕は桃子さんに語りかけていた。変わってなかった。7ヶ月会ってなかったはずだった。いや、2ヶ月前、幻のように思い出される、幻なのか、僕には解らなかった。
『生きること。みんな懸命に生きている。生きること。僕は疲れ果てました。』
 久々に飲んだ酒のためか自分はかなり酔っていた。まだ飲み始めて5分ぐらいしか経ってなかった。いつものように始めに一気にたくさん飲んだ。水割りを一気に5杯は飲んだ。 いつも始めに一気に飲んで後はスローペースで飲むのだった。自分の癖だった。自分の病気のためだった。自分の高校3年の終わり、大学入試2次試験の数日前に罹った病気のためだった。その病気を隠すためだった。対人緊張という苦しい病気を隠すためだった。
『もう何年この病気で苦しんでいることでしょう。18の頃のことだから17年、たしか17年苦しんでいます。精神科のクスリを貰って何とか凌いでいます。でも凌ぎきれないでいます。凌ぎきれなくてみんなからおかしいと思われています。
 恋にもこの病気のため敗れました。大学入試にも、大学での進級試験にも、アルバイトにも、就職にも、このために敗れてきました。
 一時、星状神経節ブロックで治りかけたことがありました。しかし、大学病院での仕事が始まり、その治療に通えなくなりました。そして自分でその星状神経節ブロックを行いました。千回は行いました。星状神経節ブロックを行うとき、いつも使う麻酔薬が手に入らなくて組織の器質化を起こしやすいクスリをよく使用しました。たぶんそのためだと思います。今では自分のノドの星状神経節のところは硬くなり、麻酔薬を注入しても余程ポイントに命中しない限り、もうあまり効かなくなっています。
 そのために新しい治療法を僕は模索しています。鍼、それも新しい鍼の方法を模索しています。足の裏反射療法も行っています。ほとんど効くと言われている治療法は次々と試しています。』
薄暗い闇の中、音楽の音、歌が鳴り響いていた。僕は一人で思い、一人で座っていた。周りに誰も居なかった。桃子さんは馴染みの客らしい年輩の4、5人ほどの相手をしていた。違う向こう側のテーブルでだった。桃子さんは明るくその常連と思われる4、5人のお客と話をしていた。
『桃子さん、15年前、16年前。いつのことだったか僕にははっきりと思い出せません。15年前、16年前、僕はあの頃まだ元気でした。桃子さんも美しかった。』
『丸山のファニーピーチで僕らは小学生のとき以来か中学生のとき以来喋りました。桃子さんは僕のおかしい喋り方を聞いて“クスッ”と笑いました。そしていつの間にか僕の傍から離れてゆきました。そして僕は暗闇の中に一人ポツンと取り残されたのでした。もう12年になるでしょう。12年を越えています。そして美しかった桃子さんが高校生だったときから15年、16年、過ぎています。』
『そして僕は気付きました。生体“気”の流れを強制的に変えてはならないということを最近気付きました。10円玉や1円玉で、生体“気”の流れを強制的に変えるという方法がありますが僕はそれを最近自分の体で実験してそしてそれは良くないことだということに気付きました。1円玉だけだったら生体の邪気というか生体表面の微弱電流を放出するのに良い面もあります。でも銅は駄目です。金や銀なら良いのかもしれません。』
『生体電流。微弱電流。鍼ならば良いのです。でも10円玉は何故か良くない。』
『10円玉は大きすぎるからかもしれません。MP針のように小さなものだったら良いようです。』
 誰も聞いてなかった。僕は一人で喋っていた。一人っきりだった。薄暗い空間の中、音楽の音が喧しいほどに鳴り渡っていた。
『自分もその病気に苦しんでいます。僕の友も、名前は思い出せませんが僕の友も苦しんでいます。救わなければ、救わなければ。』
『新しい治療法。新しい経穴。それを探求しながらも探求できないでいます。病気とは、慢性化した病気は治らないものだと最近は諦めに似た思いに捕らわれることが良くあります。』
 いつの間にか桃子さんが僕の前に来ていた。僕の一人語りを聞いていたのだろうか? しかし、僕はいつもボソボソとしか喋らないので聞こえなかったと思う。変わってなかった。桃子さんは以前より若くなって美しくなっているように思った。とても30代には見えなかった。20歳の半ばぐらいにしか見えなかった。
 今が、今が、一番美しいようにも思った。中学生の頃、小学生の頃、高校生の頃、美しかった。でも、今は成熟した美しさというものなのだろうか、美しい。
『もう12年、いえ、20年前のことになるのかもしれません。僕が小学5年生の頃か6年生の頃か、それとも中学1年生の頃のことか、はっきりと思い出せません。夏、網場プールで見た膨らんだ胸のあなたの美しさは今でも昨日のことのように思い出せます。美しかった、とても美しかった。僕の学年には居ないとても美しい女性として僕はあなたを僕の指の3番目か2番目かに位置したのでした。あなたはあのときどこかを見ているふりをしていました。僕のすぐ側であなたは僕から話しかけられるのを待っていました。でも僕は喋ったら嫌われるという悲しい病気を持っていました。それで僕は悲しく再び水の中に潜って行ったのです。』


               完

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桃子さん(13年半)

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桃子さん(13年半)

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-22

CC BY-NC
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