Yes!Future!

絶望の中もがき苦しむ青春時代。その青春時代の基本となっていたのが「世界は偶然に出来たのだから偶然には意味が無い。よって自分が産まれてきた意味も死ぬ意味も無い。自分の人生には意味が無い」という極論だった。
しかしある時を境に「世界は必然であり、世界には意味があり。自分には使命が与えられている。そして愛されている。愛されるために産まれてきた。」
ということを知ることとなる。真逆の考えを持った瀬上は、人生が絶望の人生から希望への人生へと革命が起きる。
虚無の虜となっている世界に訴える。
私のノンフィクションストーリーです。

Yes!Future!

はじめに
人はみな、何かを信じ、何かにすがって生きている。
自分か、名誉か、地位か、お金か、才能か、芸術か、知識か、人か……何も信じずに生きている人はいない。人は何かを信じずにはいられないのだ。
弱く儚い人間は、命が尽きるまで、何かを信じ、何かに寄り添う。
マザー・テレサ、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア、ヘレンケラー、クラーク博士、アイザック・ニュートン、ゲーテ、ジョージ・ワシントン、ケネデイ、リンカーン、ベンジャミン・フランクリン、晩年のナポレオン、新渡戸稲造、三浦綾子、野口英世、新島八重、黒田官兵衛、勝海舟、広岡浅子、瀬上良太……etc
今、名前をあげた歴史に名を彼らの信じていたものには共通点がある。それは彼らがクリスチャンでイエス・キリスト(ジーザス)を信じていたということだ。そして彼らには大きな夢と希望があり、それを語り、それを果たした。大体の名前は聞いたことがあるだろう。みんな歴史に名を刻んだ人達ばかりだ。しかし、最後の名前はおそらくほとんどの人が聞いたことがないだろう。瀬上良太。この名前は有名ではない。しかしクリスチャンで、大きな希望と夢があり、それを語り、それを果たしている最中だ。世界人口七十億人のうち、二十億人前後がジーザスを信じている。この本は著者である私が信仰を堅くもったクリスチャン達の半生を描いているノンフィクションの物語だ。今回はシリーズ第一段、この私の物語である。私はロック好きの徹底的な無神論者であり、悪魔を崇拝し、クリスチャンを目の敵にし、薬物依存で、強盗をし、前科のあるような人間である。そんなロクでもない私が、いかにしてキリストを信じるクリスチャンとなり、神を愛し、人を愛し、夢と希望に満ち溢れた者に変えられのか。そのお話をしよう。                       瀬上良太
はじめに………1

第一章・快楽の奴隷、反抗の美学   5  
・暗闇に微かな光   34
・沖縄行き   41

第二章・誰でもキリストのうちにあるなら  45
・叫びつつあゆまん   49
・イメージと程遠い教会   57
・知らぬ間のクリスチャン   62
・生まれ変わりたいやつら、生まれ変わったやつら   66
・二つに一つの真理   70
・肉体改良計画   71
・血の洗礼式   74
・ラッキョウの奇跡   76
・存在の証明   80
・キリスト者とは、挑戦することと見つけたり   82
・42・195㌔の挑戦   87
・キリストの十字架   93
・沖縄マラソン開始   98
・変えられていく僕   104
・誰かの役にたちたい    107
・罪について       109
・孤独という病気    110
第三章・摂理の中に存在する人生   112
・復興支援へ   116
・予想だにしない出来事   118
・弔いマラソン   123
・徹也先生との和解   126
・卒業   128

第四章・YES!   130
  ・挫折     134
・君は愛されている   136
・フューチャー!   145

・お知らせ、連絡先等   149~150


――そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
ヨハネの福音書8章32節

第一章・快楽の奴隷、反抗の美学

クスリ……クスリさえあれば、この絶望感、うめき声が出るほどの虚無感から抜け出せるのに。クスリが無い。クスリが。自分を解放と快楽へと導いてくれる唯一の手段。この狂った現実から逃避させてくれる唯一の方法。それが、クスリ。
絶望、絶望、ただ絶望。希望がどうのという奴には今すぐに僕のこの抱えている圧倒的な闇を、そいつの心の中に擦りこませてやりたい。そうすると、きっと誰でも押し黙るだろう。
部屋中をひっくり返してクスリを探す。なんなら世界中をひっくり返してでも欲しいぐらいだ。安定剤でも睡眠薬でも一錠でもあれば少しはマシになるかも。ゴミ箱を必死の形相で漁る。――処方箋 瀬上良太様 と書かれた白い処方箋の袋が見つかる。すぐさまぶっ裂いて、中身を確認する。中からシートが大量に出てくる。銀色のシート。ハルシオンだ。耐性が付きすぎていて1錠ぐらいじゃ何も効かないかもしれないが、1錠でも飲めば今の0・1ミリぐらいはマシなるんじゃないか。
しかし全て空だ。他のシートも念入りに確認するが全て空。
コンビに行って2,300円で酒でも買うか。いや、その金さえも既に無い。
なんだ。どうしようもないじゃないか。完全に詰んだ。
この現実から逃れるためには……死?いや、シラフで死ぬ勇気なんて無い。
友達にかたっぱしから電話をかけてみるが、誰も僕のコールを取らない。メールの返事も無い。時計を観ると深夜3時15分。当然と言えば当然の時間だ。
時間が経つのが遅い。遅すぎる。窓から外を見ると真っ暗な夜。所々に、光。しかし僕の心はまっくらだ。闇、深淵、お先まっくら。
「……クスリが無い」
と悲痛な声を出してみるが、そんなことをしても意味は無い。気は休まらないし誰も聞いちゃいない。
マザー・テレサが「人間の最大の病は孤独だ」と言っていたが、とても分かる。俺にも救いの手を差し伸べてくれよマザー。だが、マザーは日本にいない。
生命を維持する分にはなんとか問題無いが、虚無という名の化け物に、いつも僕の心は喰われてしまい、心が空っぽだ。空心状態とでも言おうか。死んだほうがマシという気持ちにさせてくれるが、やはり死ぬのは怖い。
クスリが、無い。クスリが。声を押し殺し、声にならないかすれた打ちひしがれた声で叫ぶ。どうしよう、どうしよう。ダメだ。独りだ。
悲劇を気取って自分に同情する余裕さえ無い。頭を抱え、うずくまり、ただ虚無という化け物、孤独という病魔が過ぎ去るのをひたすら待つしかない。
今は『刻一刻と時は刻まれる』というのはせめてもの救いかもしれない。
僕にはこの全ての人間が持って産まれた不治の病魔を克服する術はクスリによって現実世界から遠ざかるか、あるいは誰かとバカ騒ぎをするか、それとも女性に寄り添う以外に解決策を知らない。僕は人の何倍も孤独や虚無という存在に敏感だった。
どうして僕はこんなにもロクでもない人間なんだろう。
眠れない夜、深々と椅子に座りながら、だらんと、手足を垂らし、意味もなくパソコンのモニターを死んだ魚のような目で見つめながら、ただひたすら時が過ぎるのを待つ。
人生とはこの、いつから育ってきたのか、確実に膨らんでいく憂鬱、虚無感と孤独を埋めるための戦いなのではないだろうか。それが人生?一体生きている意味ってなんだ?どうせ死んだら終わりじゃないか。死んだらそれまで。
僕は苦しむために生きているのか?人生はあまりにも辛い。あまりにも孤独。まるで苦しむために生きているようだ。人はお互い、一生分かり合えることはないだろう。
 例えドッペルゲンガーが現れようと、それは自分と全く同じ形をした他人だ。
ということはこの世界には70億人いれば70億人の孤独があるということだろうか。恐ろしい。身の毛もよだつ出来事だ。これが人生?何故?
――何故、僕はここにいて、どうして生きている?
ここにいる意味は在るのか?何故産まれた?僕は偶然に産まれたのなら偶然に死んでいく。偶然の世界に意味など微塵も無い。意味が無いのなら何故生きる?それは死ぬのが怖いからだ。死ぬのが怖いから生きているのか?しかし、いずれ死ぬじゃないか。ならば、ひたすら楽をして気持ちの良いことを求めて生きよう。どうせ死んだら偉い人も悪い人もみんな一緒、墓の中。僕の浅はかな人生哲学だ。尽くす。快楽の限りを。そして反抗する。このつまらない意味の無い無慈悲な世界に。それが僕の使命。ここにいる意味は在るのか?何故産まれた?偶然だろう?
僕は偶然に産まれたのなら偶然に死んでいく。偶然の世界に意味など微塵も無い。意味が無いのなら何故生きる?それは死ぬのが怖いからだ。死ぬのが怖いから生きているのか?しかし、いずれ死ぬじゃないか。ならば、ひたすら楽をして気持ちの良いことを求めて生きよう。どうせ死んだら偉い人も悪い人もみんな一緒、墓の中。僕の浅はかな人生哲学だ。尽くす。快楽の限りを。そして反抗する。
このつまらない、意味の無い、無慈悲な世界に。それが僕の使命。

8歳
「なんでこんなことしたん!」
母の財布から毎日1000円足らずを抜き出して、庭のブロック塀の下に隠していた。母の怒鳴り声は鳴りやまない。
「なんでこんなことしたか聞いてんの!なんで一言も口きけへんの!」
母の怒鳴り声は続く。
なんで?何故だろう。分からない。ただ悪いことがしたかった?スリル?お金はいっぱいあったほうがいいから?バレなきゃ何をしてもいいと思っていた?
理由はたくさんあるかもしれないが、分からないし考える気も無いし、何も言う気はない。ただ僕には罪の意識なんてものがその時全く無かった気がする。
 バレなきゃ何をやっても一緒だという思いがあった。

10歳
「なんでこんなことしたん?」
スーパーの薄暗い別室に店員と僕を含む子供3人と先生と母がいた。
戸惑いと驚きと疑問と不安がごっちゃになったような顔で母が聴いてきた。その顔を見ると少し胸が痛んだ。
なんで?万引きはスリルがあって楽しいからだ。そしてタダで食べたいものが手に入るからだ。他にはなんだろう。分からない。とにかくスリルがあって楽しくて、バレなきゃいくらでも好きなお菓子が食べられる。僕の欲の全てを満たしてくれるからしたのだと思う。それに、なんだか寂しさが埋まる気がする。
 僕は昔から悪いことをしてバレた時に、口を貝のように閉ざす癖があった。
事が過ぎるまで一言も喋らないのだ。一言も喋らない僕に苛立って母の声が大きくなっていくのがいつものことだった。
 一言も喋らないというのから思い出すことがある。僕は全くねだらない子供だった。「あれ買って」なんて言ったことが無いかもしれない。
少しさかのぼって7歳ぐらいの頃に、食卓に並べられた料理の中で父のメニューに明太子があった。僕はその明太子が非常に美味しそうに見えた。しかし僕は
「それちょうだい」とは絶対に言わない。何がなんでも「それちょうだい」なんておねだりをしないと決めていた。何故だろう?昔から、おねだりをするのが嫌だった。子供っぽいから?断られたくないから?そうだ。たぶん断られたくないからかもしれない。そして子供らしい振る舞いをあまりしたくなかった。
今思い出せる範囲で、あの時の思いとしては「あの食べ物は大人が食べるような物だから子供がねだると滑稽に思われるかもしれない」という思いが強かったような気がする。
だから僕は明太子をジィっと見て訴える。「それが欲しいんだ」と。
父は呑気に明太子を箸でつつき、小さく切って、ひょいと口に運ぶ。気付け。気付けと念を入れていると父が明太子を睨みつけている僕に気が付いた。
「これ欲しいの?」と父は聞く。しかし僕は首を横に振る。
「欲しいの?」と聞かれて「うん」と頷くのが嫌だった。それは恥ずかしいからだろうか。子供らしいのが嫌だからだろうか。おそらくその両方だろう。
父が強引に明太子を僕の皿に入れてくれたら良い。そうしたら僕は気兼ねなく明太子を食べることが出来る。しかし、首を横に振った僕を見て父はまた呑気に食べ始めた。僕はひたすら明太子を睨みつけて訴える。これだけ睨んでいるんだから食べたいってことに気付け。そして「欲しい」と言えないことに気付いて強引に皿に入れてくれと思った。父はまた聞く。
「欲しいんでしょ?」しかし僕は頑なに首を横に振る。
なんてことがしばらく続いて、結局父は最後の一切れを自分の口の中に放り込んでしまった。失望と落胆の中、僕は泣き始める。「なんだ結局欲しかったんじゃないか。どうしてほしいんだよ」と、父と母はこんな僕に戸惑い、呆れ果てていた。
どうして万引きをしたのか。僕にもその理由が良く分からない。良く分からないから聞かないで欲しい。でも謝りはしない。僕は親に何かをしてほしかった。でも何かは分からない。ただ、もう怒られるのは嫌だから万引きはしなくなった。

十二歳
9歳ぐらいの時に父と母は離婚した。12歳の頃、劣悪な家庭環境だったかもしれない。兄も母も義理の親父も僕も、みんながみんな、どんどん不仲になっていった。この頃から兄とは全く会話をしなくなった。学校から帰ってくると、家の中には誰もいない。僕は鍵っ子だった。しかしその誰もいない、ということは険悪な雰囲気の無い家に安堵した。そして友達と遊びに行く。
帰るのが嫌だった。無言の食卓。家のことと仕事の両立は難しいのだろう。母はヒステリックになっていた。僕は家に居たくなかった。家に居る時は部屋に閉じこもり、インターネット、ゲーム、映画という架空の世界に入り浸っていた。リアルはとにかく陰鬱だった。
学校の担任の女の先生が怖かった。生徒が間違ったことをした時は怒鳴る。とても怖いが良識のある先生だった。一度怒りだすと怖くてみんな震えていた。
僕はある時何かが吹っ切れた。その先生が何かの理由でみんなの前で怒鳴っている時に一言。
「うるせぇ」
シィンとなる教室。血の気が引いていくクラスメイトの中、僕だけは高揚感があった。何故それをしたのか。ただ大人達の思い通りになりたくなかった。思い通りにさせはしない。僕には従うか、反抗するか、選ぶ自由がある。
僕はその時初めて権力に対して反旗をひるがえしたのだ。といえばかなり大袈裟だが。しかし僕にとってはそれほどの革命的なことだ。それからというもの、事あるごとに反発の声をあげていた。大抵のことは一度やってみると恐れはなくなる。
『反抗する』というのは僕にとって最高に恰好良いことのように思えた。以降、
『反抗する』というのは僕の人生における一種の美学となる。

十四歳
「世界は何処から来たの?」
この一節から始まる当時大ベストセラーとなった、哲学入門書と呼ばれている『ソフィーの世界』という小説を読み、哲学という学問の虜となった。
そしてもう一つ僕を虜とさせるものがあった。それはロックだ。このジャンルの音楽は僕のハートを鷲掴(わしづか)みにした。その中でもパンクロックが好きだった。パンクロックとは七十年代のロックの一つで、理不尽な社会の問題点を突いた反体制の歌詞が特徴の音楽である。社会に反発するという姿勢に酔いしれていく。強い者が美酒を飲み、弱い者が泥水をすする。そんな社会に反発をする。理不尽で、つまらなく、意味の無い、無慈悲な世界に対する反発。嗚呼、権力に対して反抗するというのはなんて恰好良いのだろうか。ちっぽけな自分が何者かにでもなった気分になる。それは僕にとっては正義でもある。理不尽に苦しめられる一般市民が権力を行使して圧制を虐げる権力者に対しての戦いだ。歴史というのはその戦いの繰り返しだ。
とはいっても学生運動のように何か革命的な運動をしたりするわけでもない。僕にそんな気力は無いし、人のために何かをするわけが無い。ただそういう精神をもって、自分の目の前に現れる、少しでも理不尽と感じる権力に反抗するだけである。目の前の敵を殴り飛ばす。そしてパンクロックの音楽をガンガン聴く。それが僕のちっぽけな、浅はかな反抗。

十七歳
「自分の居場所はここじゃない」
高校がわずか半年で留年が決定したので自主退学をし、バイトをしながら自分探しの旅のブームに乗っ取り、僕も自分の道なるものを探すことにした。自分探しの旅。しかしそれはただ単にたくさんの面倒臭いことから逃れるための言い訳に過ぎなかった。
朝早く学校に行き、授業を受け、宿題をし、テスト勉強をするのに苦痛を感じていただけだ。何故こんなことをしなければいけないのだろう。学校を卒業して、就職をして、サラリーマンとして生きていく、そういう平々凡々とした生き方を想像しただけでたまらなく嫌になる。虫唾が走る。敷かれたレールに何も疑問も思わずに、ただ「はい、そうですか」と歩んでいくような生き方、僕には耐えられない。
僕は他の奴らとは違う何者かになりたい。人生は確かに意味が無い。しかし、この世に産まれた限りは何かで有名になりたい。特別になりたい。何かを極めたい。何かで名を残したい。足跡を残したい。脚光を浴びたい。自分の存在を認められたい。自分が脚光を浴びるならこの孤独や虚無から抜け出せると思った。しかし何をしても続かない。僕にとって、何をしたいのかは問題ではなかった。ただ、何かで有名になりたかったのだ。認められたい。
回転寿司でバイトをしながら、ボクシングジムに通い続けた。
「プロボクサーになって世界チャンピオンになろう」
本気でそう思っていた。毎日一生懸命練習した。死ぬほど縄跳びを飛び、走り、サンドバッグを殴り続けた。
ある日、中学の時の同級生とスパーリングをすることになった。初のスパーリングだった。僕は自信があった。今まで誰よりも練習してきたのだから。しかし、パンチが僕の顔面を捕らえた時、一瞬衝撃のあまり訳が分からなくなった。
続けざまに何発か喰らい、そのままダウンしてしまった。とても屈辱的だった。
その日を境に少しずつジムから遠のいていくことになる。バイトも辛くなってきた。何が辛いかというと、人間関係だ。怒られるのが怖かった。出来ないやつと思われるのが怖かった。「ここはどうしたらいいんですか?」と聴くのだけでも怖かった。
とにかく色んなことが怖かった。そしてそのうちバックレることになる。僕の初めてのバックレ経験で、これから何十というバイトをバックレていくことになる。
その後、何かをきっかけに家出をし、ホストの寮へ入りこむが、酒が飲めない僕は毎日飲めない酒を浴びるほど飲まされ途中から嫌になってくる。当時の彼女の説得もあり、家へ帰宅。新聞配達をするようになる。大学に行くことを目指し、家庭教師を雇ってもらい勉強をするが、母に怒鳴られたことをきっかけにまた家出。
わずかな金持っていざ東京へ上京。などとヒップホップなノリで言ってみたが、思い出しても本当に恥ずかしいことばかりである。
知り合いの家にしばらく泊り、バイトを探すが「飯を食いにいこう」と言われ、外に出て歩く。途中で大きな橋を歩いていると前方から母と義理の親父が。騙された。
義経でも二人の弁慶を倒せるだろうか。などと意味不明なことを考えて現実逃避をする。そしてまた帰宅。
「このままでいいのか」「何をしても駄目だ」という劣等感と焦りと葛藤で、僕は常に苦しみ悩んだ。
「僕はきっと、他のみんなと違う何者かのはずなのに」

一八歳
映画や漫画や音楽のドラッグ・カルチャーの影響で、ドラッグは反社会的でクールで格好良いと思った。それにドラッグをやることによって、さまざまな幻覚世界に行き、酒では到底味わえないほどの快楽があるとインターネットや危ない雑誌や知人を通して知った。当時流行っていた危険ドラッグの元祖であるマジックマッシュルームに手を出す。他にも睡眠薬等でもトべると聞き、鬱と不眠を口実に(本当鬱不眠だったのだが)精神科へ通うようになる。
それを境に多種多様なドラッグに手を出すようになっていく。
常に反社会的な生き方を目指していた。そう生きるべきだと。社会のはぐれ者として生きるのが自分にとって最高にイカした生き方だと。それが僕だと。僕は、前へならえはしない。社会の歯車にはならない。
しかしこのままでいいのだろうか。何かしないと。自分の居場所を探さないと。自分の希望を。自分の人生を。ネットの広告費で稼ごうと友達とチャットや掲示板を主体としたサイトを立ち上げるが、それも断念。友達と服屋を経営しようと志を立てるがそれも断念。断念、断念、また断念。一体僕は何をやっているんだろう。
いったいぜんたい僕という男はなんなんだろう。

十九歳
京橋に住んでいた親父の家に移住し、そこで新聞配達をしながら通信制の高校へ通うことにした。当時そこには兄も住んでいた。兄との仲は少し離れていたおかげか幾分かマシになっていた。たまに危険ドラッグの影響でマンションから飛び降りようとし、兄と親父の二人がかりで止められて救急車を呼ばれたりしたこともあった。
飲めない酒を飲み、酔いつぶれて、ドラッグをしながら若い娘を引っかけて、セックス・ドラッグ・ロックンロールと歌い、叫びつつ人生の暇を潰す。
しかし、果たして僕はこのままでいいのだろうか。いいわけがない。いいわけが。
約二年半、類型二十万部目ほどの新聞をポストに無造作に入れた後、感じた。
「自分の居場所はここじゃない」

二十一歳
何か技術を得て就職したいというのを口実に、神戸のコンピューターの専門学校へ入学することにした。しかし本当のところは、一人暮らしをしたかっただけである。親から離れてもっともっと好き放題したかったのだ。だが就職したいという思いは本当にあった。親に学費と生活費の全てを出してもらうという親不孝さながら、初めはまともに専門学校へ通学するが、ビジュアル的にも、考え方も趣味趣向もあまりにも他の生徒と違う僕は、学校に馴染めなかった。最初のほうは頑張って真面目に取り組み、成績も優秀なほうだったが、理系が苦手なうえに中卒以下のレベルの僕は徐々に遅れを取り始める。半年後程には自分がいかにプログラマーに向いていないのかということを思い始める。
そして最初の伝説のハッカーになりたいという情熱も消えていくことになる。

二十二歳
専門学生一年の頃は情報処理(IT)の学科にいたが、ある時にある有名な監督のダークでグロテスクかつハイオクリティでずば抜けたセンスを持つプロモーションビデオと出会い、衝撃が走り、映像作家となることを志す。そのため二年生の頃にCG学科に編入することになる。主に3DCGを制作することをメインとしているのにも関わらず、僕はビデオカメラで撮った映像を編集した芸術気取りの気味悪い作品ばかり課題の時に提出していた。もちろん評価に値しない。ただ、ある一人の先生とある一人の成績が最も優秀な学生、そして学校以外の友人は認めてくれていた。幾つかのコンテストに応募をし、受賞もした。『アート色の強い映像作品八作品』というコンテストでそのうちの一作品として受賞し、六本木の麻布十番のカフェで上映されたりもした。他にはブロードTVだかなんだかのテレビの7秒間のオープニング映像に使っていただいたこともある。僕の唯一の輝かしい実績である。
しかし、映像作品の課題を大勢の生徒と先生の前で発表した時、
「アースティック気取り。商業ではとても使えない。自己泥酔している作品」などと先生たちから酷くバッシングを受けた。打たれ弱い僕は酷く落ち込み、次第に情熱は消えていく。そして僕が夢を諦めたことにより、当時付き合っていた、夢を追っている僕を応援してくれていた彼女とも別れることになる。
自分の作品が世に出ないと生きている意味が無い。僕は僕の存在を精一杯この世界に証明したいのだ。認められないと。認められないと。そうでないと僕は消えてしまう。僕は無になる。焦燥感が押し寄せる。感じた。
「自分の居場所はここじゃない。」
専門学校を自主退学し、神戸の三ノ宮でバイトをしながら暮らすようになる。何をやっても続かずバイトを転々とし、有名になるためにという名誉を欲する思いで何かに挑戦してはすぐに挫折する。そして挫折をして、思い出す。
働かず、楽をして、快楽を得ることが自分の一番の生き方じゃないか。快楽主義。それこそがこのクソッタレの世界での僕の生き様だ。
そのうち、違法な商売に手を出しはじめる。楽をして快楽を得るとなるとやはり最終的にグレーな仕事、違法な仕事へと手を染めるところに先は行き着く。タバコを吸って、若い女性をひっかけて、飲めない酒を飲んで酔っ払い、ドラッグでラリって喧嘩をして、違法な仕事をして社会に、人に迷惑をかけて生きる。そして人の迷惑を顧みずパンクロックを爆音で聴く。それが格好良いと思っていた。最高にイカしていると。そしてそれはこの世界に対してのちっぽけな反抗でもある。
しかし、快楽の限りを尽くせば尽くすほど、えもいわれぬ絶望的な気持ちが僕の心を支配していく。虚無という化け物はいつも僕がシラフになるのを狙っている。
女と遊んでいるときはいい、酒を飲んでいるときはいい、ドラッグでラリっている時はいい。しかしいざ一人になると、いざ、酔いが覚めると、いざシラフに戻ると、いざ現実に戻ると、得体の知れない底知れぬ不安、恐れ、巨大な絶望感が僕の背後から押し寄せてくる。憂鬱などんよりとした真っ暗な何かに支配される。『それ』はただひたすら無情であり冷酷であり残酷だ。この世に悪魔がいるとするならば、まさにそれこそが悪魔。僕の背後にはいつも地獄があった。決して振り返ることは出来ない。いつも僕の心を廃墟にして砂漠化をする。そしていつか、殺される。泣いても叫んでもその状況は変わらない。
だから僕はそんな現実から逃避するように快楽を求める。僕は奥歯をガタガタさせながらドラッグを乱用し、爆音で音楽を聴き、友達とバカ笑いをしてやり過ごした。しかしそのうちに、快楽を味わっている最中にもその空虚感は押し寄せてくるようになる。女性とイチャついているその後ろに虚無という化け物が僕の肩を叩いてくる。その虚無を感じたくないがために、僕は後ろを振り返らずに、気付かないフリをして一心不乱に快楽に耽る。馬鹿騒ぎをして、その空虚感を無かったかのように振舞う。気づかないフリをひたすら決め込む。それしかなす術が無い。
しかし快楽の限りを尽くせば尽くすほど、現実に戻ったときに押し寄せてくる『それ』は激しさを増す。
僕にとって現実とは無味乾燥も良いとこ、まるで何も無い空白だった。味のしないガムをひたすら噛み続けるような苦痛だ。そんな現実が嫌で、今自分がいる場所から逃げるように全く別の自分のことを誰も知らない新しい地へといつも旅立った。
だが、それはただの現実逃避だ。現実逃避だということに僕は気付いていなかったのかもしれない。気付いていたのかもしれない。分からない。とにかく無我夢中だ。そして今回もたまらなく嫌になり、誰もいない地へと旅立った。僕はいつも自分の居場所を探していた。自分の居場所が見つかりさえすればきっとこの虚しさも無くなるはずだと思っていた。虚無という化け物も手を引くはずだと。

二三歳
「自分の居場所はここじゃない」
友達からキャッチの仕事(女性に声をかけて水商売や風俗を紹介する仕事)を紹介してもらい、そこの寮に移り住んだ。ゴキブリが我がもの顔でうろつき、トイレは和式を無理矢理改造した、改造しなかったほうが明らかに良かった様な悲惨極まりない洋式トイレ。たまにトイレの水が溢れかえり、汚物がトイレから這い上がってくるという壮絶な状況となる。隣の部屋からは外人がバカ騒ぎする。夜中に良く誰かが喧嘩をして警察沙汰となるような環境だ。僕は酔っ払い、みんなを笑かせるために半裸で近くのスーパーへ行ったりする。
そうしてしばらくミナミの歓楽街でキャッチをしながら暮らす日々を過ごす。驚くほど悲惨な寮で、完全歩合制のため最初のうちは微々たる給料で生活する日々だ。
 一日一〇〇円マックとスーパーの試食品で生活するような悲惨なライフスタイル。タバコもシケモクを吸う日々。たまに飲み会で上司に無理矢理飲まされる酒。
 泥酔している僕を見世物にする。「脱げ」と言われ全裸になる僕を上司たちはバカ笑いし、そんな僕をある者は哀れみ、ある者は蔑む。僕はピエロになるのが得意だった。ドジで心が弱い僕はすぐに笑われる。笑かすのは好きだったが、笑われるのは嫌だった。笑われる度に僕の心はナイフで刺されていた。
自分がドジをしたり、弱いのを見せて笑われる前に笑わせる。自分の心を守るための生きる術だ。
先輩にはこき使われる。殴り合いの喧嘩をし、馬鹿騒ぎをして嫌なことを忘れようとする。バカにされ、けなされ、バカにし、けなす日々。道徳の欠けらもない言動を繰り返す日常。まさに社会のアウトロー。社会の底辺。
キャッチを取り締まる刑事の目を盗んでは、女性に声を掛けて携帯番号を教えてもらう。刑事が来たらすぐに逃げる。そして嘘八百並べて女性に店を紹介する。もしくは仲良くなり、恋心を持たせて、店で働かせる。金さえ入るのならどんな手を使ってでも女性を風俗で働かせる。初めのうちはそれでも刺激があり、そこそこ楽しい。そしてアウトローで社会から外れている自分がイカしていると思っていた。
しかし、しばらくするとまた虚しさが押し寄せてくる。虚無という化け物が僕を見つけたのだ。そして傷付けあう人間関係にも疲れてくる。
騙して、騙されて、罵って、罵される。
見下して、見下されて、傷ついて、傷つける。
僕たちは殺しあって生きている。他者を蹴落として生きている。
僕は元々繊細で傷つきやすく、強がっているように見せてとても臆病なのだから無理をして、痛みに鈍感で強く振る舞う姿は痛々しいことこのうえなかった。


二四歳
「自分の居場所はここじゃない」
悪友の栄光(しげみつ)の車で夜逃げするかのごとく、寮から布団と色々な雑貨類を盗み、その時付き合っていた彼女の家へ転がりこむ。鬼のようにコールが響く携帯を着信拒否し、責任逃れで笑いながら何事もなかったかのように振る舞う。何のことは無い。変わらずにいつもの僕だ。
当時付き合っていた悪友の栄光(しげみつ)と頻繁につるむようになる。
ちなみに、栄光は僕が更生して、大阪に戻って来て神学校へ入学し、神学生の三年の時に薬物依存症でティーンチャレンジ(僕が後々入ることになる更生施設)に入り、僕がインターンの時代に栄光は生徒だった。
当時僕の対人関係は彼女も友達もほぼ一年以内に破局していたが、唯一続いていた友達は栄光と、共に犯罪を起こした共犯者の友達と、不倫をしていた女性だった。 
今も続いているのは栄光だけで栄光とは二十二歳ぐらいからの付き合いだ。かれこれ八年間付き合っている。ちなみに栄光はクリスチャンだったのだが、教会から離れてヤク中になっていた。僕は宗教を信じる人間を寒気がするほど嫌っていたので「神なんかいるわけねーだろ。いいか、宇宙というのはだな、人間は猿から進化して……」とたまに栄光と論争をしていた。クリスチャンが世界一嫌いなのに、何故クリスチャンの栄光とだけ関係が切れなかったのかも謎だった。
ちなみに、どうして僕が人間関係において、すぐに破局をしていたのか?その理由は今から語る、一つの一日を通しての出来事を話せば十分だろう。
ある日、同棲していた彼女に「仕事を捜す」といつものように嘘を吐き、いつものように栄光の家に遊びにいった。駅で栄光と遭遇し、栄光は原付きで寄るところがあるとのことで、栄光から鍵を借り、僕はそのまま先に栄光宅に行った。仕事を捜すのに金髪だと雇ってもらえないと思い、黒染めをしようと考え、栄光の家の風呂場を勝手に借りて黒染めをしていると、当時、栄光と同棲をしていた彼女が帰ってきて、風呂場にいる僕を見て軽く悲鳴をあげ、栄光に電話越しに
「風呂場で勝手に黒染めしている人誰なの」
と怒っていたが、気にせずに黒染めを続け、風呂場から出て下卑た笑みを浮かべながら彼女に謝る。
その後、栄光宅にてドラッグでラリっていたが、中々栄光が帰ってこない。すると栄光から電話がかかってきて
「人と衝突事故を起こして警察にいるから帰るのが遅くなる」
とのことだった。馬鹿じゃないのか、あいつと思った。しばらくして栄光が帰ってきて、家の中でいつものようにドラッグパーティをする。栄光の彼女が大切にしていたタオルを勝手に僕に使われて、黒染めした後に髪の毛をそのタオルで拭いたから真っ黒になって台無しになったと怒っていたが気にせずにラリっていた。
夜中に食べ物が欲しかったのでコンビニに行くと言い、そのままコンビニに行った。しかし、一向に僕が戻ってこないから栄光はどうしたんだろう?と思ったけど、、面倒くさいからそのまま寝た。彼は彼で酷いのだ。類は友を呼ぶ。
朝、携帯の着信音で栄光は目を覚ました。電話に出るとマンションの管理会社からで
「昨日の夜中に、部屋の住人から、誰かがインターホンを押して栄光の部屋は何処ですか?と訪ねてくる人がいて困っているという苦情がたくさん来ました。そういう悪戯をされると困ります。出ていってもらいますよ」
と怒られたらしい。栄光はまさかと思い、焦って下に降りていくと、マンションのホールにあるソファーにて、ドラッグでラリったまま泥のように眠っている僕がいたらしい。僕を起こして、
「おい、何してんねん」
と栄光が僕に言うと、僕は
「お前の部屋の番号何処かわからんようなってんからしょうがないやろ」
と言ったらしい。らしいというのはこのことを僕はあまり覚えていない。
どうだろうか。こんな僕とお友達になりたいだろうか?こんな僕を愛してもらえるだろうか?愛しますだって?いや、無理だ。言うの思うのも簡単。体験してみて初めて気付くのだ。「こいつは無理だ、救いようのないクズだ」と。
いや、話を聞いただけでみんな「無理だ」と思ったかもしれない。
そんな僕だが、『楽して金を得る方法』が完全に閉ざされてしまい、仕方なく仕事を捜し始めた。捜し始めたといっても、栄光と遊んでいるだけで全く探す気力は0である。しているフリだ。しかし、そのうちとうとう金が尽きてしまい、彼女に
「どうするの。明日の食事代も無いよ」と責められる。 
どうするもこうするも、どうしても駄目だ。典型的なダメ人間。働く気も無く、お金も無く、希望も無く、全てが面倒臭くなった。彼女と一緒に派遣の仕事に登録し、しばらくすると仕事が決まった。朝早く置き、彼女に作ってもらった具無しカレーを持ち、その時は仕事に行こうと決めて外に出た。しかし行きの電車賃が二百円足らないことに気付く。僕の全財産を持ってしても電車賃が足りない現実。僕はその時に。吹っ切れた。後輩であり、一番の悪友であるにまず電話を掛ける。
「あ、りょーさんすか?クスリ無いっすよ」と笑いながら彼は言った。
「いや、ちゃうねん。俺決めた。悪いことするんやったら徹底的にしようや。一緒に強盗せえへん?でっかく悪いことして一旗あげようぜ」
僕には酷く根拠の無い自信があった。自分の立てた計画は完璧だと。悪いことは子供の頃から上手にやってきたじゃないかと。ひょっとしたらこの道のプロになれるかもしれない。映画のようなカッコいいマフィアのボスのようになれるかもしれない。
そういった恥ずかしい妄想をしていた。この強盗計画も楽をして金と名誉欲を得ていくというところから来ていた。
浅はかな計画を立て、共に強盗をしたが、ドラッグでラリっていたので、二件目で被害者に取り押さえられてすぐにお縄になることになった。何処かで聴いた言葉が僕の脳裏によぎった。
「何をやってもダメな奴は何をやってもダメ」
留置所にぶち込まれる。ド田舎にある愛知県の留置所まで、母と義理の親父は車で何時間もかけて、何度となく面会に来てくれた。彼女も何度か来てくれたがしばらくして音信不通となった。留置所と拘置所に半年ほどいた。ベテランのおじさん達には
「強盗とか強姦とか強が付いてたら執行猶予は無理やぞ。諦めや」
と言われ、刑務所での暮らし方の基礎から裏技まで色々と教えてくれた。しかし、裁判で奇跡的に執行猶予がつき、またシャバに戻る。
その後、しばらく兄に紹介してもらったコンビニでバイトをするが、ドラッグでラリったまま仕事を何度かして、奇行を繰り返し、最後は何を思ったのか商品棚にあるドリンク剤を一気飲みし、やむなくクビになった。兄とそのコンビニのオーナーはそれから関係が悪くなってしまった。僕のせいだ。僕のせいにも関わらず、兄に怒られた時に僕は
「誰も仕事を紹介してくれなんて頼んでない。殺すぞ!」
と兄に噛み付いた。救いようのないというか救いたくないほどの最低さである。
その後、薬物依存症のために精神病院に入院することになった。
人生が急降下していく。どこまでも堕ちていく。しかしそれもまた一興、などと思う。むしろ僕はそれを楽しんでいた。そして、そんな堕ちぶれていく自分に酔いしれていたりもした。あるミュージシャンが「ダメならダメなほうが良い世界もあるんだ」と言っていたが、僕はそれを目指していた。目指すも何も自然にそうなっていったのだが。
隔離病棟。初めにここに来た人は必ず一人部屋(独居房)にぶち込まれる。そこはトイレとベッド以外、何も無い四畳ほどの真っ白な部屋。無味乾燥。天井も壁もドアも冷たく白い鉄で出来た部屋。この部屋には自分が着ている衣類以外には何も持ち込めなく、内側から鍵がかかっている。部屋から出してもらえるのは週三日のシャワーの時間のみ。最初はここに三日ほど入れられて、様子を見てから共同部屋であるテレビも本もタバコも吸える大広間へと移ることが出来る。
この1人部屋の独居房に入る時、身体検査をされるのだが、狡猾で意地汚い僕はパンツの中までは調べないだろうと読み、パンツの中にタバコとライターと危険ドラッグを忍びこませた。だが、タバコと危険ドラッグの匂いが部屋に充満してしまい、わずか三十分ほどでバレてしまった。看護士の方が部屋に入ってきて、布団を剥がし、そこにあったタバコとライターと危険ドラッグを没収された時のバツの悪さは酷かった。先生は「こんなことは初めてだ」と憤る。その罰として、この一人部屋に二週間も入れられる羽目になる。
是非試しに鍵がかかった、ベッドとトイレ以外は何も無い真っ白な部屋で一日過ごしてみてほしい。特に現代人は四六時中何かをしている傾向にあると思う。何も無い部屋で何も出来ない、そして閉じ込められているという閉鎖的空間というのは想像を絶するほど精神的に苦痛を感じる拷問だ。この仕打ちは発狂寸前にまで追いつめられる。僕はこの見事なまでに何も無い部屋で何もすることが出来ない部屋に閉じ込められているのを思い返してみて、ふと分かったことがある。
シラフに戻ったときに押し寄せてくる空虚感、絶望的な虚しさはまさにこの部屋にいるときと同じだ。絶対的な無味乾燥。味の無いガムをひたすら噛み続ける。いや、まるで砂を食べているかのような感覚。
すなわち、意味が無い、何も無い、ただ苦痛なだけの感覚、生きている意味が無い。最終的にはみんな同じ『死』が待ち受けているという絶望。死があるからこそ意味が無い。どんな人生でも最後に死が待ち受けているのなら、死んだ後に何も無いなら、何をしようが同じじゃないか。結局最後が死んで無と還るのだから。この何十年という短い一生は夢幻。司馬遼太郎の徳川家康の小説の最後の締めくくりもこの世は夢、幻だということだった。何をしても同じと分かっているのに、僕はこの世で有名になって脚光を浴びたいと思っている。その事に意味が無いのを分かっていながらそれを望んでいた。それは名誉欲に突き動かされているからである。
生命は死ぬために生きている。人生のゴールは「死」すなわち、滅び。生きるとはなんと儚い、なんと虚しい、なんと愚かでなんと滑稽で、そしてなんと絶望的なのだろう。そう思っていた。思っているにも関わらず有名になりたいという欲。
無意味と分かっていながら抑えきれぬ欲が出てくる。そしてその欲は「何をやってもダメ」な奴には叶わぬ夢。叶わぬと分かっていながら欲に突き動かされる。
無意味→欲→その欲は叶わないと理解してる。
という矛盾と葛藤の中で僕は苦しんだ。精神病院では僕を含め、目が死んでいる仲間達とともに
「俺たちは狂ってなんかいない。外のやつらが狂っているのだ」
と慰めあう日々を過ごす。なるほど、確かに。全ての基準は自分なのだからそうだろう。
母と義理の親父は精神病院にも何度となく足を運んでくれた。しかしその時僕は感謝の『k』の字すら無かった。

二十四歳後半
「自分の居場所は一体どこなのだろう」
精神病院から出ると、しばらく親に隔離されることになった。隔離されてまた隔離。いつになれば自由になれるのだろう。そもそも自由ってなんだっけ?僕は自由と呼べるような日があったのだろうか。いつも何かに怯え、何かに拘束されていると感じる。実家でしばらくオトナシクする日々となる。お金も何もかもが親に管理されることになった。なんとか親の目を盗んでドラッグを買っては現実逃避を繰り返す。しかしお金は親から貰うしかないので、ドラッグを買うための口実を色々と造るが、母親の財布の紐は固い。絶望的なシラフの時間が多くなった。お金が無いからクスリも買えない。遊びにもいけない。女性とも会えない。余計に悲惨な現実と向き合うことになる。
この時の僕の唯一の楽しみは、親から貰う小遣いをせせこましく貯めたお金で、薬局に売っている処方薬の中からモルヒネの成分が入っている風邪クスリや咳止めクスリを買い、一気飲みすること。そして病院でもらえるキつい咳止めの処方薬(モルヒネの成分が入っていて気持ち良くなる)を得るために医者を欺いてそのクスリを手に入れる。そして三日に一回溜め込んだ睡眠薬を飲むことだ。更に、その当時の東京にいた大学生の彼女にお金を貰い、東京まで遊びにいくこと。
なんと情けない、落ちぶれた恥ずかしい日々だろうか。しかし、これもまた一興。何度も言うが、僕にとって落ちぶれるということはある種の美意識である。
僕はニヒリズム(ニヒリズムあるいは虚無(きょむ)主義(しゅぎ)とは、この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場…Wikipedia参照)
というのを気取っていたナルシストである。このニヒリズムの考えがある以上、人生には意味が無いから何をしたって無駄だという態度で生きるのが僕の生き様である。そういう生き方をするのを『弱さのニヒリズム』という。どうでもいいが。そんなことは凄くどうでもいい。
睡眠薬も管理されているので、夜にいつもその日の分だけ親から処方される。
睡眠薬も僕にとって現実逃避のために、決して切っても切れない大事なパートナーなのだ。
睡眠薬を十錠ぐらい一気に飲むとそれなりにトベる。僕が求めるのは理性を飛ばすことと、快楽を得ること。
僕は毎日二~三〇錠の睡眠薬を飲んでいた。本来、不眠症なので睡眠薬は必要なのだが、一錠で十分なのだ。しかし、おびただしいほどに飲む。それは酔っぱらう感覚、昂揚感が欲しかったからだ。だが睡眠薬はその日だけしか母親から処方してもらえない。なので、僕は飲んだふりをして自分の部屋に隠し、いつも三日分溜め込んでいた。
二日目の夜が耐えられないほどに疼く。おそらく人生の中で最もこの空虚感押し寄せる無味乾燥の現実と向き合っていた時間だったと思う。胸の中が疼く。ニコチンが切れた時のあの感覚、分かるだろうか。その体の疼きを心に変えたような感覚である。心が何かを欲している。虚無の化け物に喰われてしまった心の空っぽを埋めることが出来る何かを。胸がかゆい。かゆい。何か快楽を得られるものを体が欲している。どうしようもない胸の疼きを感じる。しかし、そのどうしようもない胸の疼きは例えその時にクスリで紛らわしたとしても、どうしようもないのだ。理性をトばして気付かないようにしているだけなのだ。
僕は自分に居場所が無いといつも感じていた。
何処へいってもよそ者の感覚がある。何かこう、自分とは違う。自分はここにいるべき人間ではないと。パズルのピースが欠けていて、そのパズルのピースが見つからないようなすっきりしない感覚だ。何処へいっても虚しい。
だからそんな現実から逃れるために、ドラッグをして別の世界へと行く。しかしその世界はまがい物で、現実はこの居場所の無い砂を噛んでいるような味気の無い、不快感が募るだけの虚しい世界。
夜、不眠症の僕はこの空虚感あふれる絶望的現実と真正面からにらめっこをする。化け物は僕に囁(ささや)いてくる。
「お前どうするんだ?」   「なんでまだ生きてんの?」
「お前一体何をしている?」 「どうして生きてる?」
「生きている意味は無いぞ?」 「人生はすでに終わっているぞ?」
「いや、始まってもない。始まりもしない」
「ほら、また夢が叶わなかっただろ?」 「ほら、また同じことの繰り返し」
「ほら、どうしようもない自分がそこにいるだけ」 「いつまで意味無く苦しむ?」
ゲラゲラ、ゲラゲラと奴は酷く乾いた音で笑う。

そのとおり、そのとおりだ。否定が出来ない事実だ。

「じゃあ、どうするんだ?」

耳を塞ぎたくなる。
ドラッグのやり過ぎで夢遊病の様に過ごし、ガリガリにやせ細り、唐突に吐き気を覚える。精神的にも絶望の淵にいたが、社会的地位も絶望の淵にいた。
前科一犯、精神病院入院歴あり、薬物依存、薬物によって引き起こした鬱、不眠症、パニック障害etc…
昔セックスピストルズというバンドの『No Future』という曲を何千回とリピートして聴いていたがまさにその通りの人生である。
『未来は無い』

僕は何にも縛られたくなかった。誰よりも自由に生きたかった。そして欲の限りを尽くし、快楽を貪っていた。すると気付いたのは欲の虜になっている自分だ。誰よりも自由に生きていたと思っていたが、その反面、欲望の奴隷となり、誰よりも不自由となっていた。快楽主義の成れの果ては圧倒的な絶望だった。
「で、どうするの?」と奴は訊いてくる。分かり切った答えを促すかのように。
そう、やることは一つ。死ぬしかないだろ。死ぬしか。
だから、僕は自殺をすることにした。
何度かドラッグでラリって、衝動的な自殺未遂をして病院に運ばれたことはある。
大量のきつい睡眠薬を飲んだこともあったが、あれも「俺は自殺をするほど辛いんだ」というアピールであり、本当に死ぬ気ではなかった。だからこれ以上飲んだら死ぬんじゃないかの一歩手前でやめていた。
その都度、とても恥ずかしい思いをして、散々たる迷惑をかけた。
しかし今回は本気だ。本気で死ぬ。七月いっぱいでクビを吊って死ぬ。ロープも用意して、死に場所も決めて確実に死ぬ。僕は死ぬ。絶対に死ぬ。何度も思ったことだが、次は必ず成し遂げる。
そうは思っていても実は心の奥底では死ぬのが怖かったのだ。死にたいけど死にたくない。でも死ぬしかない。死んだように生きるのなら潔く死んだほうがいい。だが本当にそれでいいのだろうか?死ぬと何かとり返しのつかない事態になる気がする。それに死んだらおしまいだ。有名になることなく、認められることなく、死んでいくということは、歴史にも残らない。子孫もいない。この世から完全に抹消されるのと同じだ。みんなから忘れられて、僕なんて存在はやがて無かったことになる。
誰かに止めてほしかった。いや、本当のところは死にたくなんか無い。しかし誰に止められて誰に助けてもらっても、この僕は変わることは出来ない。現に今までそうだったのだから。
僕は変わることは出来ない。一生地面に這いつくばり、泥沼の泥をすする。そういう星の下に産まれてきたのだ。じゃあ、やはり死ぬしか。どうやら僕は快楽と幸せを、反抗と自由を履き違えていたようだ。快楽の行き着く先は、絶望的な虚無。反抗の行き着く先は、不自由。気付いた時には、もう遅い。死ぬしかない。
何よりも、この心にドッシリと乗っている重い何かはクスリや快楽で誤魔化すことは出来ても、決して取れることは無い。どうしてもこの重い何かは取れないんだ。
それに心の空っぽは満たすことが出来ない。
虚無の化け物が僕の心から何もかも奪い尽くし、その後、虚無の排泄物である
『憂鬱』で心が満たされる。おそらくそれが心にドッシリと乗っかっている思い何かだ。
「もう駄目だろう?」と囁く声が鳴り止まない。
昔のブログにこう書かれていた。
「そういえばもういくつ寝るとお正月ですね。
僕は喉が狭くて弱いので歳をとると、餅食って死ぬと思います。
僕は死にたいと思ったことが何度もある。
でもなんかこう、神様みたいな人が「死ぬな」
と言って止めている気がいつもするんです。」

僕にはいつもこの意識があった。絶対的な何かが僕が死ぬのをいつも止めようとしている。僕は固く決意をしていた。俺は死ぬんだと心の中で繰り返しつぶやいた。
それはまるで『絶対的な何か』に訴えているかのようだった。
「助けて!」と。プライドが邪魔をして本音は言えなかったが、本当は
「俺は死ぬんだ」とは「助けて!」の意味であり、助けを請うていたのだ。
そんな中、久しぶりに親父から連絡があった。親父は僕が小学校二年生の頃に離婚している。たまに会っていた。親父はこの僕が情けない引きこもり生活をしている二年ほど前にクリスチャンとなり、クリスチャンの女性と再婚している。親父はこんな僕を見かねて、飯でも食べに来いと家に呼んでくれた。
親父と呼ぶには日本一ふさわしくない親父かもしれない。息子は親父の背中を観て育つと言うが、この親父の背中はあまり見たことがない。「小さい背中だ」ということだけは知っている。しかし一度、大きな親父の背中を見たことがある。
話は遡って8歳。母親の財布から1000円を盗んでは隠していたのがバレた時。
母にこっぴどく激しく叱られ、僕はわんわん泣いていた。
「何処に隠したの!」
と怒鳴られても僕は決して隠し場所を吐かなかった。その時に親父が二階から降りてきて僕にこう言った。
「良太、ちょっと一緒に自転車でドライブしよう」
「悪いことをしたんやからちゃんと叱らないとあかんよ!隠し場所、聞かなあかんよ!」
とマシンガンのごとく怒鳴る母を尻目に、親父は
「うんうん、分かっているよ」
と後ずさり気味に言いつつ、家に出て、自転車の後ろに乗っけてもらい、地元の夜の住宅街をドライブした。
今でもあの時の体に心地よく当たる春の風と、いつもより大きく見える親父の背中を思い出す。僕はあの時、親父のぬくもりと優しさ、愛を感じた。
今でもあの、秋に入ってほどなくした時期の夜の涼しい風と、見慣れない夜の住宅街、父の背中のぬくもりを感じることが出来る。
ドライブが終わった後に、僕は親父から何も言われていないのに、お金の隠し場所を教えた。
親父の背中を見たのはその時ぐらいだ。頼りないが、暖かく優しい背中だった。
 親父はほとんど僕と兄を放任していた。。母が兄と僕を育てくれたので、母が悪者にならないように、そう付け足しておく。
そんな親父が夕ご飯中に一つのパンフレットを渡してきた。

暗闇に微かな光
「良太、こんなんあるけどどうかな?」
『ティーンチャレンジジャパン』と言う、薬物、アルコール、ギャンブル等の依存症の人達が社会復帰を目指すリハビリ施設のパンフレットを親父は僕に手渡した。
この施設の一番の特徴は、キリスト教だということ。聖書を通して生き方を学んで更生するということだった。
「別に良太をキリスト教徒にするというわけじゃないよ。ただ、今の生活が辛そうだから、ここで一年リフレッシュしてきたらどうだろう?」
沖縄に一年間リフレッシュ。なんてジューシーな響きなんだろう。
だが携帯もテレビも禁止と書いてある。それに更生施設なんだからそこまで甘い汁は吸えないだろう。しかし沖縄に一年間リフレッシュ。
しかもパンフレットには生徒たちが満面の笑みでサーフィンをしている。素晴らしい。ビューティフル。しかし問題はキリスト教だということだ。これは僕にとっては問題。大問題もいいとこである。
というのも、僕は宗教が大嫌いで特にキリスト教というのが世界一嫌いだったのだ。聖書の神に激しく憎悪していた。
悪魔崇拝的な音楽を好み、哲学が大好きだった。哲学というのはこの世の真実を解き明かす学問である。世界は何処から来たのか、世界は一体何故あるのか。人間とは?それを突き詰める学問であり、全ての学問の始まりでもある。
その中で神学というのは避けて通れない。哲学は(基本的に)疑うことから始まり神学は信じることから始まる。同じ真理を追究する学問ではあるが、入口が真逆なのだ。太宰治、芥川龍之介、日本の有名な文学者もみんな聖書を読んでいる。聖書というのは世界一倫理観に優れている書物でもあった。ティーンチャレンジでも聖書から生き方を学ぶというのもうなずける。
そして、もしも万が一、神様というのが存在するのなら、聖書の神様だろうなという思いがいつも僕にはあった。
ここから、昔を辿りながら、いかにしてキリスト教が嫌いになり、悪魔崇拝をするようになった経緯を短く辿っていこう。
冒頭でも話したが、中学生の思春期の頃に僕は哲学に没頭した。
「世界は何処から来たのだろう?僕たちは何処へ行くのだろう?」
究極の問いである。僕もそれが知りたい。
その時、博学な親父の書斎に聖書が置いてあった。親父はその時、すでに離婚していたが結構色々な本を家に置き去りにしていた。日本共産党に属していたのでマルクスの資本論という、目がまわるほど分厚い本がたくさんあった。
その中に聖書がポツンと置いてあった。いや、ポツンといった感じではなかった。
たくさんの分厚い本に囲まれた中、威風堂々とした姿でそこにあった。かもしれない。ただ、僕の目には聖書だけ特別に映っていた。
親父はその時クリスチャンではない。むしろコテコテの無神論者(神様はいないと信じる人たち)だ。
文学やマルクス好きだったのでその影響で置いてあったのであろう。
僕は親父の書斎を何気なくボーっと観ていた時に、この聖書が目に留まった。
その時、僕の胸は高鳴った。あらゆる哲学者、文学者といった著名人がこの聖書を読んできた。芥川龍之介は服毒自殺をした時に、枕元に聖書を置いて自殺したらしい。意味深な死に方である。明治維新の立役者である勝海舟は死ぬ何週間前にクリスチャンになったと聞いている。
二千年間、あらゆる学者の論争となってきた偉大な書物。そんな聖書を今僕は手に取った。
「もしかしたら、あるいは、ひょっとしたら、この聖書にこの世の真理が載っているのかもしれない」
何故、その時にそこまで思ったのか分からないが、本当に胸が高鳴るほどにそう思ったのだ。高まる胸を押さえながら震える手で、偉大な書物である聖書をめくっていく。最初に創世記という一番初めの箇所を開いてみる。そこにはこう書かれていった。
「初めに、神が天と地を創造した」
「光よあれ。すると光があった」

僕はそこまで読むと一呼吸つき、聖書を閉じ、何事もなかったかのように本棚に戻し、夕ご飯を食べてゲームをして寝た。

世界簡単に出来すぎだろ。

僕の中で育った常識では世界は百何億年かけて宇宙がビッグバンやら何やらかんやらで、てんでばらばらにわけ分からずにでっかくでっかく広がっていき、この地球にいる生命体、および知的生命体である今の人間たちは、三十五億年前に煮えた硫化水素の中で雷とかバンバン落ちてそのエネルギーの影響かなんやかんやで単細胞が偶然生まれ、三十五億年かけて進化してきたのだ。偶然に。そして今地球は四十六億歳ぐらい。この常識を大きく覆すようなことは明らかにおとぎ話だと思った。
それ以降、聖書は開かなかった。この時は神様なんていない、聖書は人間の創作と思い、どうしてこんなおとぎ話を学者達は論争し、あらゆる著名人が読み、信じてきたのだろう?と全く理解できなかった。他の支離滅裂とした、非科学的な人の造った空想の物語で構成されている宗教となんら変わらないじゃないかと思った。
しかし哲学的なことが好きな僕は、何度も何度も色々な書物、ネット、映画、絵画を通してこの聖書の神様とご対面することになった。
そうして聖書の神を知っていく都度、僕の中でこの聖書の神を無視出来ない存在へとなっていった。そのうち僕はこの聖書の神に敵対心を抱いていた。
聖書の神というのはこの宇宙、全てを造られた神様だ。つまり宇宙一権威がある者だ。ならばどうだろう。その神様はこの理不尽で悲惨な世界を造った張本人ではないのか。(本来は人間の罪の結果がこの理不尽な世界を造ったのだということを後で理解することになるが)

僕の生き方は理不尽な社会、全ての者はいつか死ぬという宇宙の悲惨な法則に対しての反抗だ。ならば理不尽な世界を造った神様に反抗するのは自然な流れである。
(今ではこの悲惨な宇宙の法則を引き起こしてしまった原因は人間にあると理解している)
そして聖書にはこの絶対的権力に反抗した者がいる。それが悪魔(サタン)である。僕はこのサタンに非常に憧れていた。サタンのファンといっていいだろう。恋い慕っていたのだ。絶対的権力に対する反抗。そのことに僕の美意識が敏感に反応した。
僕の生き方はまさしく悪魔に魂を売った生き方だったといえる。(それなのに悪魔は僕に全然いい思いをさせてくれなかったが)
アメリカの有名な悪魔崇拝的ロックバンドがある。そのバンドは陰鬱で悪魔を匂わせるような衣装を着て、グロテスクな世界観を醸(かも)し出し、ライブ中に講壇の様なところから聖書をビリビリにぶっ裂くのだ。
そのパフォーマンスに僕の心は震えた。絶対的な神に対しての反抗、これぞ究極の反抗の美学。
どうだろう?こんな僕がキリスト教の施設に行くことになるなんて、もはやギャグじゃないか。友達に笑いの種にされるだろう。
「あの良太がキリスト教の更生施設に行ったんだって」
という一言だけで一晩中笑いが取れるほどだろう。まぁ、笑いの種になって人様を笑わせてストレスを軽減させることが出来るのなら、そうやって人の役に少しでも立てるのなら光栄かもしれない。なんてことは思わない。人に笑われるのは嫌だ。
面白いことに僕はキリスト教が世界一嫌いで悪魔崇拝していたのと、親父がクリスチャンになったのは全く関連性がないし、僕がこの更生施設に導かれたのも全く関連性がない。関連性が無いのにも関わらず不思議なことに全てが繋がっている。
このクリスチャン人口が先進国の中で最も少ないと言われている日本で親父がクリスチャンになる確率も凄いと思う。さらにその僕がキリスト教の更生施設に行くことになるとはなんとも面白いことだ。何かの必然性を感じた。
帰りに親父の家から、駅に向かっている途中に
「こんなところ行くわけねーだろ、ボケが」
と小声で罵った。しかし電車に揺られながら少し考えた。
今、実家では母親と義理の親父も俺に頭を抱えている。出て行ってほしいみたいだし、他に行くところもないし、俺も出ていきたいし。
それに沖縄なんて楽しそうじゃないか。親父もリフレッシュするつもりでいっておいでと言っていたし、どうせ一年だ。行ってみようか。
そして、どうだろうか。ちょうど自殺しようと考えていたところだ。この経った一年間で自分がもしこの汚物の掃き溜めのようなドブに浸かりヘドロをすするような人生から抜け出せるのなら、自殺しなくてもいいかもしれない。
まぁ、クリスチャンには死んでもならないけど。
人の固定観念は面白い。沖縄=楽しいというイメージが定着している。
沖縄=あの綺麗な海で泳げる可能性は高い。高いっていうか絶対泳げるだろ。これでもし一年間泳げなかったら拷問以外の何ものでもない。起訴出来るレベルだ。
それに父も「一年間ゆっくり休んで遊んだらいいよ」という。なまけ者根性が染み付いている僕にとって、それは願ったり叶ったりのことだ。
しかしやはり、更生施設なのだからそんな甘くもないだろうなぁとも思う。
というより、そこに行くお金を援助出来るのは母しかいない。父にはお金の余裕が無い。母の承諾がなければ全ては水に流れる。母は父が仕事を紹介してくれるとばかり思っていたので、更生施設を紹介されて落胆していた。しかし母は一日考えた末、義理の親父と相談したうえで、良太が仕事をしても続くとは思えない。それなら更生施設へ行って、まともになってから仕事につくべきじゃないかという考えになった。
 もしこの僕が一年間でまともになれるなら、死ななくても良い。
地面に這いつくばってゾンビのような死んだ人生ではなくて、しっかりと地に足をつけ、希望のある、生きた人生を送れるのでは。と一筋の光が見えた。
とはいえ僕は行くのをかなりしぶっていた。その施設では、まずタバコが吸えない。タバコはどうにか隠れて吸えるかもと思っていたが、ドラッグはさすがに出来ないなと感じていた。
「1年間ドラッグがないのはきつい!」
驚くべきことにこの期におよんでまだドラッグをやめる気がなかったのだ。
どうかしている。どうしようもないうえにどうかしている。
合法の軽めのドラッグならいいだろうとか、控えめにしていたらいいだろうと考えていた。なんという煮え切らない男だろう。しかし、父からも母からも家族みんなからも行け、すぐに行け。と声をそろえて迫ってくる。
沖縄行き
僕はもう行くしかなかった。何処にも行く場所がないのだから。それにこのままではキリがない。このまま死ぬか、死んだように生きるゾンビ道しかないのだから。
 死の場所から抜け出したい。その思いで行くことを決心した。八月二日に行くということで段取りが決まった。飛行機のチケットも予約されていた。知らぬ間に。いつの間に。しかしちょっと待て。もし行くのなら、今の東京の彼女と別れなければならないではないか。いや、別れるのは嫌だ。待ってもらおう。
僕は早速電話を掛ける。ダルそうな彼女の声。どうしてそんなにダルそうなのだい、ハニーと思う。
「俺、このままジャンキー生活続けてたら死んでまうから、沖縄の更生施設に行くことになってんやんか。だから一年間待ってくれへん?一年後にまた遊ぼうや」
と軽く言う僕。
「えー。やだ。待てない」
と即答する彼女。なんだこの女、ふざけんな。こんなに冷酷無比な女だったなんて知らなかった。いや知ってたけど。そこがクールで好きだったんだけど。
しかし良く考えてみると、デート代やら交遊費やら他の全ての金を毎回毎回出してもらっている僕に反論の余地は無い。こんな僕を待てないのは当たり前だ。僕を待って得することなんて何一つ無い。もし僕なら僕を待たない。こんなロクデナシじゃなくて、もっとお金を持っているナイスガイと付き合う。
この二人に恋愛感情なんて初めからあまり無かったのかもしれない。二人ともただ性的欲求の解消と寂しさを紛らわすため付き合っていたといっても過言では無い。
過言ではないというか、僕が今まで付き合う目的はその二つ以外にあり得ない。
しかし、僕は本当の愛が欲しかった。本当の愛とは、例え僕が事故で顔がグチャグチャになって、首から下が不随になって頭もおかしくなったとしても、もしくは例え僕がクスリをしてはDVをして(僕は決して女性に手をあげないが)例え僕が浮気をしまくって、無職だったとしても、あるいは例え僕が誠実で、尽くして、浮気も一切せず、年収も5000万ぐらいあったとしても、僕の状態がどうであれ、僕の存在自体を全く変わらない愛で愛してくれる、そんな愛が欲しかったのだ。
相当わがままなことを言っているかもしれないが、それこそが本当の愛だと感じるのだ。自分が極悪非道な男でも、自分が誠実で人格者な男であっても変わらない愛で愛してくれる存在が欲しかったのだ。だから僕はたまに女性を試していた。
「こんな俺でも愛してくれるのか?」と。
もちろん言うまでもなくフられるわけだが。
僕は行く前にあと何度か彼女に会いたかった。その理由は最後にセックスがしたいというそれだけだ。一年間セックスが出来ないのだからセックスをしておかないと。僕は人として大切な何かが完全にマヒしていた。
母に施設に行くのを「十月にしてもらえないか?」と交渉するが酷く怒られた。正直なところ、早く家から出ていってほしかったのだろう。数ヶ月も引きこもって、ブラブラとしながらドラッグをして、その前からとんでもない迷惑をかけてきたのだから。母親は一時期僕に悩まされすぎて頭痛が取れなかったほどだ。
それなのに、まだ僕の更生のためにお金を出してくれるなんて僕はどれだけ親に甘えて、どれだけ親不孝なのかと思い知らされる。
母は気丈な人だった。だからこそ精神的に持ちこたえることが出来た。もしも自分が自分の母だったら、精神的におかしくなっているか、自殺しているかもしれない。母はつよしという。こんな救いようのない僕を見捨てずに最後まで面倒を見てくれていたのだ。母だけではなく、義理の親父も僕を見捨てずになんとか社会復帰させようと頑張ってくれたのだ。僕は相当恵まれていたと言って良いだろう。普通ならここまでのロクデナシは例え息子でも見限りたいはずだ。僕なら十七歳の時に既に自分を追い出してしまっていただろう。
しかしこの時、僕はそんな感謝なんて感情はあまり無い。否、全く無い。親不孝だとは思うが、自分が悪いともあまり思っていない。むしろ全ての責任を親や社会や先生のせいにしていたのだ。自分がこんな風になったのは親のせいだ。社会のせいだと。責任転嫁をしていた。
沖縄に行く前に、東大阪市の瓢箪山駅の近くにあるアドラムキリスト教会という教会の牧師先生であって、ティーンチャレンジジャパンの理事をしている牧師と面談をすることになった。ファーストフード店で待ち合わせをして、面談をしてもらった。この牧師は昔、東大阪でかなり名の知れた暴走族の幹部クラスであり、とても恐れられていた人だ。しかしその面影はもう無いようだ。身長が一八七㎝、体重九〇~キロの 巨漢ではあるが、とても優しく穏やかな目をしている。
小さい椅子にやたら図体の大きい野田先生が座っていたのが少し滑稽に思えた。
「よう来たな。来てくれるか心配やったで。俺も昔どうしようもなかった時に親戚のおっちゃんに飯誘われたけど断っててなぁ。だからめんどくさいという気持ち分かるから。ははは」
と野田先生。
「はぃ…ソデスカ…」とうつむき加減に消え入りそうな声で答える僕。
うつむくと前髪がだらしなく目にかかる。僕はその前髪を払いのける変わりに首を左右に振る。僕の昔の癖だった。僕はいつも前髪を伸ばして目を隠していた。
自信の無さがそうさせていたのかもしれない。
野田先生は話を弾ませようとするが、いかんせん僕が生気を吸い取られたような顔付きで半分死んでいて完全に無関心だったので、野田先生は沈黙の中で気まずそうだった。
野田先生は僕が大阪に帰ってきた時に仕えている教会の牧師先生であるが
「当時の良太はまるで死人で、世捨て人のようだった。というかたぶん、死んでいた」
と語る。実際そうだった。たぶんあの時僕は死んでいたのだ。
ちなみに野田先生は、いのちのことば社から
『私を代わりに刑務所に入れてください』という本を出版している。とても良く売れているみたいでここでも宣伝させていただく。そしてこの本の最後の方に僕のことが少し書かれている。ちなみに僕のことが書かれているから宣伝したわけではない。
そして、彼女に見事なまで振られた僕は八月二日、いよいよ沖縄へ旅立つことになる。母と義理の親父が見送ってくれる。見送ってくれるのは何度目だ?ゲートを通り後ろを振り返ると、母が心配そうな顔をしてこっちを見ている。
彼らの心配そうな顔は何度目だ?見慣れた表情だ。僕の唯一の親孝行は薬物をしないまともな人間になることだろう。日本屈指の親不孝者だったと言っていい。
さぁプロローグは終わった。そう、僕の26年間はプロローグに過ぎない

第二章・誰でもキリストのうちにあるなら、
      「自分の居場所はここにあるかも」

飛行機で隣の若いカップルがいちゃつきながら沖縄旅行の計画を立てている。
しかも美男美女。嫉妬の波が押し寄せる。屈辱的だ。なめやがって。俺が今から何処へ行くか知らずに。知るわけがないが。知ってほしくないし。と思いつつ勝手に腹を立てる。人知れず恨まれるカップル。災難だ。
昔から何もかも捨てて、ほぼ無一文で知らない地に行って生活するようなことが良くあったのでそれに比べると衣食住が揃っているから心配は全く無い。
一番の心配は安定剤と睡眠薬がないことだ。そしてタバコが無いこと、ネットが無いこと、女がいないこと、ロックが聴けないこと。全て僕が依存していたものだ。
 僕は一七の頃から安定剤と睡眠薬を約一〇年間手放したことがないのだ。
 クスリに限らずネットも女もタバコもロックも。それは全て毎日繰り返して行われていた快楽の宴のようなものだ。こんなにも不安なことはない。一年間クスリもない。女も抱けない。ロックンロールも出来ない。
この三つは僕の三種の神器で僕の生きる理由だったのに。良く考えるとこの施設での生活はとんでもない生活じゃないか。どうしよう。騙された。
などと思いながらも飛行機は刻一刻と沖縄に近づいていく。
『沖縄』と言うのが唯一の救いだ。沖縄というだけで幾分か精神的にマシになる。
沖縄。いい響きだ。常夏の島。
トロピカルなイメージしか沸いてこない。よし、大丈夫だ。
しかしそれは浅はかな考えで大丈夫ではなかった。
二五歳
「自分の居場所はここにあるかも」
とてもユニークなことがある。僕は八月一日に自殺しようと思っていたのだ。
それが八月二日にティーンチャレンジジャパンに行くこととなった。
まるで一度死んだかのような気分である。
飛行機の中で色々と思い巡らす。そのうちに何故か無意識のうちにこんなことを考えている。
(一年間クスリは出来ないか。一年後は何のクスリをしようか。クスリを得るルートを確保しておかないと)
更生する気無しである。一体何しに行くんだ。
しかしそれでも生き方を変えたいと願っていた。変わりたいと願っていながらも、そんなことをふと考えてしまう。そういうことを考えるのが癖になっているのだ。
習慣とは恐ろしい。
しばらく飛んでいると(飛行機で)、沖縄の青い、独特に綺麗な海が見えてくる。
中学生の頃、修学旅行で一度沖縄へ行った。
あの時は三日間どんよりとした曇り空で、たまに雨がパラパラと降っていた。
ホテルで生徒の誰かが部屋の冷蔵庫にあったビールを飲み、みんなの前で「そこまでしやんでもよろしいやないですか」と思うほど先生にボコンボコンに殴られていた。
沖縄はその思い出しかないし、それ以外思い出せない。生徒の泣きそうな顔と先生の鬼の顔。ギャラリーの焦っている顔。他に思い出せない。困った。不安が頭をよぎる。今回の沖縄の空はどうだろうか。窓から空を見る。
またどんよりとした曇だ。色んな意味で雲行きが怪しい。気分が沈む。
なんだかんだで、空港に着いた。めんそーれと書かれた垂れ幕が見える。少し嬉しくなる。迎えに来てくれる人も「めんそーれ!」とか笑顔で言ってくれるのだろうか。などと思いながら迎えに来てくれる人を捜し始めてかれこれ一時間が経った。
なんと迎えが見当たらない。大分焦る。しかしこのまま沖縄でホームレスも良いかもしれない。それならタバコも吸えるし、ドラッグも出来るし……などと早速頭の中で逃避しだしていると、後ろから「良太君?」と訛りのある声が聞こえた。
「そうです」
とすかさず答えた。すると背中を相当な強さで叩かれた。痛い。何やねん。
沖縄式の挨拶はめんそーれではなくて背中をおもいっきり叩くことだったとは。油断してたぜ。そういうのもあるんだ。裏メニューか。
 「良かったー。なかなか会えないから心配したさ」
と人相が良いとはあまり言えない人が、僕の目の前に居た。顔が、怖い。なんだこの人。
それがセンターの局長である山城テモテ先生だった。
クリスチャンの顔のイメージとは大きくかけ離れている。
しかし喋っていると優しくて気さくな感じで温かい雰囲気を持っている人で安心した。センターに向かう途中にハンバーガーを買って貰い、小声で「ありがとっす」と言い、ハンバーガーに食らいついていると、テモテ先生が色々と質問をしてきたが何を話したのかほとんど覚えていない。ただテモテ先生が音楽は何が好きなの?と言われた時に言っても分かるのか?と思いながら、
「パンクロック。特にセックスピストルズ」と答えた。
するとテモテ先生は大きな声で笑っていた。
気持ち良い笑い方をする人だと思った。
セックスピストルズとは六〇~七〇年代大流行したイギリスのパンクバンドだ。
彼らはイギリスで社会現象となった。徹底的な社会に対しての批判、攻撃、当時の大不況のイギリスで夢が無い、希望の無い若者たちの間でムーブメントとなった。
後から聞いたことだが、実はこの山城テモテ先生もセックスピストルズが大好きだったのだ。そしてテモテ先生も悪魔崇拝的な音楽、アンチクライスト的な音楽を好んで聴いていて、沖縄のハーフギャングのチームに入り、強盗や傷害で何度も刑務所へ入っている。13年間ほど毎日覚せい剤を体に打っていたという札付きのワルであり、相当なクレイジーだったらしい。
今のところ僕が知り合ったクリスチャンは、元暴走族の幹部の野田先生、ハーフギャングに入り、13年間覚せい剤を打ち続けていたテモテ先生の二人。
ロクでもない過去を持つ人ばかりじゃないか。僕が言えた立場じゃないが。
テモテ先生はハワイのティーンチャレンジに行き、クリスチャンとなり更生して、沖縄に帰ってくるとしばらく就職して社会人になり某大企業に就職し、立派に働いて更生していた。その後に日本でティーンチャレンジジャパンの働きをする機会が訪れ、そして今こうしてティーンチャレンジの働きをしているとのこと。
過去の話を聞くとこの人は更生不可能だ。どう考えても無理だ、絶対。極悪。良くニュースで事件を起こいた人に対して「まさかあの人が」みたいなインタビューを聴くけどそれの逆バージョン。良いバージョンを目の当たりにしている。
――誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたもの。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。
コリント人への手紙第二5章17節
聖書のある箇所の一節だが、これはティーンチャレンジジャパンのキャッチフレーズでもある。ティーンチャレンジというのは世界中に施設があり、日本支部は出来たばかりでまだ無名だが、世界的にはとても有名な更生施設らしい。更生率が八十五%と驚異的な数字をキープしていると聞いた。それは『ティーンチャレンジのうちにあるなら』、ではなくて『キリストのうちにあるなら』というのに好感が持てた。というのも組織の力を誇示していないからだ。二千年前の実在の人物のイエスキリストを強調するなら、誰の虚栄も名誉欲もそこには無いので、僕はそれで安心するのだ。

叫びつつあゆまん
車で一時間ほどして、沖縄の南城市というド田舎にあるセンターへと辿り着いた。センターは普通の民家だった。周りは民家と山と畑とか。ほとんどが畑だ。
海は見えない。海が見えない?どういうことだろう。沖縄ならどこからでも海が見えると思ったが。思わず僕は聞いた。
「海は何処ですか?」
と僕。
「海?海は遠いよ」
とテモテ先生。なんてこった。海が見えない沖縄なんて沖縄の名を借りた、ただの田舎じゃないか。一体俺は何しにきたんだ。何が常夏の島だよふざけんな。
コンビニまで徒歩二十分。他に店らしきものは何一つ無い。畑が一面に広がっている。
「入って」
と言われるがまま、センターの中へ入っていく。
玄関を開けると『強くあれ、雄々しくあれ!!ヨシュア記』と大きく書写で書かれた張り紙が真正面に見えた。何故わざわざ書写で書く。クソー。なんかムカつく。
一人のスラっとした長身の男が話かけてきた。
「ヘイ!良太君?ティーンチャレンジの先生をしている才門と言います。よろしくね」
と満面の笑みで握手をしてきた。やたらフレンドリーで、しかもやたらと握手が激しい。手が痛い。やめろや。なんやこいつ。何がヘイ!だ。
「信吾!たかし!あいさつしなさい」
と才門先生。二十代の肌が真っ黒に焼けた青年と四十代のおじさんが僕の目の前に立ちはだかる。真っ黒でやたらガタイが良い青年が話しかけてくる。
「生徒リーダーの大富信吾です。よろしくお願いします!」
またなんかウザいキャラが現れた。ガタイ、声のトーンがいかにも『私は体育会です』と主張しているようなやつが僕の前に立ちはだかる。
なるほど、この施設がどういうところか良く分かった。『強くあれ、雄々しくあれ』と大きく書かれた張り紙。この信吾と言うやつの体格と、暑苦しいあいさつのノリ。
どっからどう見ても。どっからどう考えてもここは体育会系だ。
クリスチャンのイメージと違う。クリスチャンのイメージとは、いつも微笑を浮かべて何を言っても怒らずに、ほそぼそと喋るイメージなのに。
沖縄と言うとトロピカルなジューシー気分が味わえるフレッシュな常夏の水着ギャルのはずなのに、このティーンチャレンジはむさ苦しいことこのうえない。
それは沖縄的なトロピカルな暑さとは程遠い。沖縄のイメージしていた暑さは、精神的に解放されるようなすっきりした暑さだ。楽しめる暑さ。しかしここで体験するのはただむさ苦しい。暑苦しいだけなのだ。精神的に圧迫される暑さだ。漢塾だろここ。フレッシュではなくムレッシュといった感じだ。常夏の島じゃなくて漢夏の島の間違いだろ。全然楽しくない。どんどんアテが外れていく。
まず、体験としてこのティーンチャレンジで一日過ごすことになった。ちょうど昼食時だったので、昼ご飯を食べる。ここでは生徒達で朝食、昼食、夕食を準備する。昼食に何を食べたか覚えていないが「食べられない」といって何も食べなかった記憶がある。夕食もほとんど食べずに心配された。 当時の僕を観た人達は
「こいつは駄目だ。すぐ帰るだろう」
「あの人はヤバいよ。訓練受けている最中に死ぬよ」
「彼には間違いなく悪霊がとり憑いている」
と噂になっていたらしい。
二日目からとうとう始まるこの漢塾の生活。朝は七時までに起床だ。そして七時からみんなでディボーションとやらを始める。まず、才門先生が何かお祈りをしていた。その後みんなで賛美『歌いつつあゆまん』とやらを歌いだす。
「主にぃぃぃすがあぁぁるわぁぁれにぃぃぃ!!悩みはぁぁぁ無しぃぃぃ!!十字架ぁぁぁのみもぉぉぉとにぃぃぃ荷をぉぉぉぉおろぉぉぉせぶぁぁぁぁぁ!!!」
うわあ、なんか始まった。
朝の静寂が切り裂かれ、馬鹿でかい音の外れた歌が響き渡る。ティーンチャレンジでは歌の上手い下手は関係無い。いかに大きな声で賛美をするかが問われる。この『歌いつつあゆまん』はこれから一年間、毎日歌うことになった。否、叫ぶこととなったといったほうが良いかもしれない。歌とは一体なんだったのか。僕には分からなくなった。歌と叫びの中間辺りだろうか。
賛美って全部こんなんなのか(※違います)
朝からこの賛美をあらん限り力いっぱい、声を張り上げて歌う。いや、叫ぶ。
歌いつつあゆまん?叫びつつあゆまんの間違いではないだろうか。僕はこの毎朝の叫びつつあゆまんのおかげで相当声の張りが良くなった。なんでも朝から大きい声を出すのは脳が活発化するらしい。クスリでぼんやりとした僕の脳を覚ますには効果てきめんだった。そしてハキハキと喋れるようになる。僕は喋る時、いつもボソボソと喋る癖がついていたのでそれが改善されていくことになる。
最初のほうは嫌だったが、途中からノってきた。朝に大声で歌うことにより気合が入り、一日のスタートを元気良く始めることが出来るようになった。
賛美の後にみんなで聖書を読む。箴言という箇所を決まって読む。この箴言は三一章まであり、その日付の章を読むこととなる。箴言とは聖書にある章で、ソロモンという王様がまとめた、生活の知恵みたいなようなものだ。
読んだ後に、自分が心に感じた箇所を分かち合う。
 例えば、箴言二十八章十八節:潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る
 十九節:自分の畑を耕す者は食糧に飽きたり、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる。
 といったように続いていき、聖書は全て、節ごとに書かれている。二十八日にもし自分が二十八章の十九節が心に響いたなら、
「十九節が教えられた。むなしいものを追い求めるとは、昔の自分でいうならクスリや酒といった快楽。それを追い求めていたら、貧乏になり、ろくな生活が出来なくて辛かった。だから自分の畑をしっかり耕す者となりたいから、そのためにも良い習慣を身に付けたい。そのために今日一日は昼休みに自主的に掃除をしようと思う」
などといった感じで、生徒と先生で分かち合う。その日何をするかというのを具体的に決めるのだ。そうして過去の悪習慣を良い習慣へと変えていく。
なんでも世界的に超有名なアメリカのビリーグラハムという伝道師はこの箴言を暇があれば読んでいたらしい。家の中のあらゆるところに聖書を置いておき、その全ての聖書に今日の日付の個所の箴言の章を開いて置いていたとのことだ。
朝のディボーションが終わり、生徒達はすぐに朝食の準備を始める。才門先生は次の準備をしようと、のそのそと動いている僕に向かって
「驚いた?」
と聞いてきた。驚いたというよりムカつくぜ。これからよっぽど特別な日でも無い限り毎朝「うだああいづうううつううああぁぁあゆまぁぁぁあああん!」とバカみたいに叫ばないといけないなんて。
一段階の頃は才門先生にとてもお世話になった。才門先生は英語が話せる。集中治療室のICUと似たような名前の、天皇一家で一番かわいいなんとか子様が行っているなんとかという有名なキリスト教大学を卒業している。
中卒高卒が集うティーンチャレンジャーの中では信吾の次ぐらいに学歴が高いだろう。ちなみに僕はたぶん、高卒だ。
たぶんというのは、通信制の高校で単位は全部取ったが、卒業式に行っていないからだ。卒業証書を貰っていないので良く分からない。もはやこの男、滅茶苦茶である。
才門先生はとても情熱的だ。規則、規律を大事にする。それでいてとてもユニークでかなりセンスのある(?)親父ギャグを良く連発して場を和ませてくれた。と思う。僕は親父ギャグを言える人を尊敬する。何故かというと僕は親父ギャグを考えても思いつかなく、親父ギャグを言ったことがないからだ。言ったことが無いというより言えないのだ。どうしてあんな語呂の良い返しをすることが出来るのだろうといつも思っていた。本当に尊敬する。これは決してバカにしているわけではない。
朝のディボーションの後、生徒で朝食を作る。日によって目玉焼きだったり、スクランブルエッグだったり、具無しの炊き込みご飯であったりと若干メニューが異なる。
その後は三十分間掃除をする。そして一時間ほど授業。次に作業。一時間ほど庭の草刈り等をする。その後昼食作り。一時間休憩してから一時間授業。二時間ぐらい運動の時間。運動が終わって自習の後、夕食作り。その後は自由時間。
といったように、目まぐるしくプログラムが進行していく。基本的にはこんな感じだが、水曜日と日曜日は教会に行き、土曜日は休日だ。たまにどこかの教会のボランティアに行ったり、みんなで海などに遊びにいけるときも結構ある。
生徒時代は色々なイベントに行かせていただいた。感謝祭で米軍基地に行き、ターキーを筆頭に豪勢な食事を食べた。ターキーというのを初めて食べたがそのジューシーさに感動した。スカイブルーの海が広がるキャンプ場でキャンプをしたり、スキューバーダイビングで有名な、カラフルな魚がたくさんいるところへ行ったりと最高だった。掃除、食事作り、学び、運動、宿題、食材買い物、教会、たまにどこかの教会の奉仕(ボランティア)、たまに遊びに連れて行ってもらい、土曜は休み。
金曜日はムービーナイトという、映画を観ながらお菓子やジュースを貪れるハッピータイムがある。
基本的にこの流れでティーンチャレンジの生活は日々過ぎ行く。ティーンチャレンジは四段階に別れている。一段階は初めの三ヵ月間。次に二段階に上がり、六ヵ月まで。次に三段階で九ヵ月まで。そして四段階で一二ヵ月経つと卒業だ。段階によってやることや出来ることが違ってくる。
四段階にもなれば、許可を貰えば一人で外出することなんてのも出来る。僕は一段階、信吾兄弟は生徒リーダーで四ヶ月目で二段階。といった感じだ。
毎毎週金曜日の夜はムービーナイト。映画好きの僕にとっては至福の一時であった。毎週出される暗証聖句(聖書のことばの何節かを暗記する)の口頭テストに合格すると、映画を観られるという特権が与えられる日だ。いつも映画を観る前にスタッフの先生にこう言われる。
「これは権利じゃなくて特権なんでね。毎週金曜日に観れて当たり前と思っていたらダメだよ。感謝を持って観ていきましょう」
その時にお菓子とジュースを飲み食いしながら映画を観る。お菓子とジュースをバリバリと飲み食いしながら映画を観られるのは最高に幸せだった。
当たり前のように飲み食いし、映画を当たり前のように観るような環境にいる時は、それに対して幸せだとは思わない。映画を観られることに、お菓子を食べてジュースを飲めることに感謝をしていないからだ。しかし、それが当たり前のように出来なくなり、たまに出来るようになると、それが極上の幸せだったと気付く。感謝が出来るからだ。幸せの秘訣はどれだけ一日のうちで感謝を出来るかということかもしれない。
 などと思いつつみんなで談笑しながらお菓子をむさぼり、ジュースを飲み干しつつ映画を観て感動を分かち合う。僕は相当な映画マニアだったのだが、映画の本来の楽しみというのを取り戻したといっても過言ではない。みんなで笑いながら映画を観るのは本当に楽しい。
二段階目からは小遣いが三千円出る。なんと、好きな時にお菓子を食べジュースを飲めるようになるのだ。それにしてもどうして留置所や精神病院等の施設に行くと甘いものが食べたくなるのだろう。本来僕は辛党であり、甘いのは買って食べようなんて中学生以降はあまり思ったことがないのに。ティーンチャレンジは留置所や精神病院とは違うがそれでも施設は施設だ。そして甘いものが食べたくなる。
毎週水曜日に買い物へ行く時に、この三千円の小遣いをやりくりし、コーラとお菓子を大量に買う計画(というよりも妄想)をいつもしていた。
そしてワックスを買う。せめて教会に行く時ぐらいは恰好つけたいのでそのためのアイテムだ。今までずっと恰好つけて生きてきたんだからその衝動は抑えられない。
僕は教会に行く時に、必死で恰好をつけていた。二段階になると同時に家からパンキッシュなズボンと尖った黒光りした靴を送ってもらい、髪の毛もピンピンに立ててビシッとセットする。鏡の前で何十分とセットをし、スーパークールになるのだ。
しかしティーンチャレンジでは教会に行く時にティーンチャレンジ専用のポロシャツを着なければならない。白い半袖のポロシャツ。ダサい。いや、ティーンチャレンジ専用のTシャツがダサいといっているわけではない。『白いポロシャツ』自体が自分の中ではあり得ないのだ。僕はこの白い半袖ポロシャツの存在を必死で隠していた。
ポロシャツの上に革ジャンを羽織り、精一杯ポロシャツの存在を抹殺しようと試みていた。(今はこのポロシャツは廃止され、服装は自由)


イメージとは程遠い教会
水曜日に教会で祈祷会というものがあり、その水曜日に生まれて初めて教会へ行った。行ったというよりも教会へ行くのはプログラムの一環なので、強制的に連れていかれるわけだが。僕は教会のイメージは長椅子がたくさんあり、なんだか綺麗なステンドグラスが張ってあり、中世チックなパイプオルガンが鳴り響き、真ん中に講壇。そして黒い変な服を着た神父さんみたいな人がいて、みんなスーツのようなピシっとした服を着用し、女性はロングスカート(ミニスカートは悪魔の服)で、みんな微笑を浮かべて握手をしてくれるんだろうなと思っていた。
そんなイメージをしていると、まるで才門先生が見透かしたかのように聴いてきた。
「良太は教会ってどんなイメージ?」
僕は少し考えてから、今のイメージを頭の中で膨らませて言った。 
「……なんか、厳粛な感じですね」
「なるほど。当たっているかもしれないね」
とサイモン先生が言ったのでやはり僕のイメージ通りなんだろうと思った。
しかし信吾が
「あぁ、僕もそんなイメージだったよ」
とボソっと言った。なんだ。違うとでも言うのか。しばらく車で沖縄の夜の街を走る。沖縄の夜は都会と比べると暗い。何故なら街灯が少ないからだ。特に田舎は真っ暗だ。しかしなんだか爽やかだ。常夏の香りがする。
何処かの喫茶店の下のガレージに車を留めた。おそらくこの近くに教会の建物があるんだろうなぁと思いつつ先生についていく。しかしどうしてここに車を停めるんだろう。知り合いのガレージかな。
すると、ガレージの坂の上にある、洒落な喫茶店へと入っていくではないか。
なんだ?寄り道か?
入口の前にはオープンカフェのようにオシャレな白い椅子と机とパラソルが2席ほど設けられている。カラランと中に入ると、サーフボードが天井にいくつも張ってはり、洒落た雑貨がたくさん散りばめられている。一番奥にカウンターがあり、椅子がズラっと並べてあった。左の真ん中のほうに一段高くなったステージのようなものがある。そこにはたくさんのアコースティックギター、エレキ、ベース、カホンが置いてある。なんともオシャレじゃないか。そしてなんだか外人がたくさんいる。さすが沖縄。
「ヘイ!コンバンハ」「ナイストゥミーチューナイストゥミーチュー」
なんて言いながら握手をしてきた。外人の握手は力強い。才門先生みたいだ。もしかすると日本人の握手が貧弱すぎるのかもしれない。
コーヒーメーカーとその横には色々な本が並べられていて、まだ時間があるのでコーヒーを飲んでも良いとのことなので、インスタントではない出来立てのコーヒーをいただいた。一口啜ってみると、う、美味い……やはり業務スーパーのインスタントコーヒーとは違う。
何人かの外人と日本人に初めましてだかなんだかと、あいさつをされる。そして先生に言われるがまま椅子に座ってボケェっとしていた。しばらくするとステージに若者達がギターを持ったり、カホンに座ったり、エレキギターをぶら下げる。かっこええ。真ん中のマイクスタンドの真ん前に座った若者があいさつをする。
その日本語を横の人が英語に翻訳する。そしてその次に若者が言った。
「お祈りします」
ここ教会かよ。知らんかった。
全然ちゃうやん。イメージと全然ちゃうやん。何が厳粛やねん。物凄くフリーダムやんけ。おいこら才門。騙しやがって。と心の中で思う。(すいません)
教会に草履でハーフパンツなんて赦されるのか。あのイカつい外人なんてタンクトップじゃないか。あの子はノースリーブで短パンだぞ。おいおい。聖なるロングスカートはどうした。それは悪魔の服のはずだろ。(僕の勝手なイメージの中では)
しかも賛美というのはパイプオルガンを弾きながら聖歌隊みたいな人たちがやと高音で「オォォォ」なんて感じの裏声をやたらきかせた歌を歌うと思いきや、カホンとギターとベースとキーボードでやたらポップなカッコイイ歌じゃないか。
最初の一~二曲はかなりポップで元気の良い曲だった。その後の曲はバラードな感じだ。歌が一通り終わると、真ん中の椅子にマッチョな外人が座る。めっちゃ強そう。
礼拝が始まる前にノリノリの満面の笑みで「グッドシィーユーグッドシィーユー」とか言いながらあいさてきた人だ。その人はこの教会の牧師先生(宣教師)らしい。
絶対勝てない。
全てのイメージが崩壊した。帰りの車の中で、
「教会はどうだった?」
と才門先生に聴かれた。こいつなめやがって。と思った。
「教会なんて行きましたっけ?」
と僕は答えた。その教会はアメリカの神学校も兼ねての教会らしく、だから外人が多いようだ。日曜に行く教会はまた違うところだったが、ここも教会のイメージとはかけ離れていた。茶髪のファッショナブルな若いにーちゃんねーちゃんがたくさんいて賛美をする時なんてジャンピングしながら歌っていた。めちゃ楽しい。でも最初のほうはクールぶっていたのでジャンピングをしないでポケットに手を突っ込み
「やってらんねーぜ」みたいな態度をとっていた。
月に一回行く教会だけは教会のイメージ通りだ。長椅子、パイプオルガン、いつ天国へ行ってもおかしくないおじいちゃんおばあちゃん。厳粛かつ、微笑を浮かべる牧師先生。静かな賛美に静かなメッセージ。プログラムに沿った礼拝スタイル。
どうやら様々なスタイルの教会があるらしい。
しかし何処でも共通しているのは教会の人たちはみんな気さくで明るい人ばかりだった。なんだかとても喜びに溢れているように僕は見えた。
そして、ティーンチャレンジには、ほぼ毎日運動の時間がある。
運動の時間はマラソンと筋トレがメインだ。僕は最初の二週間、瀕死だった。慣れない生活、規則正しく動きまわる生活に加えて二週間近く、ほとんど寝られなかったのだ。それもそのはず、このティーンチャレンジに入った当初から睡眠薬を全て絶ってきたからだ。別に睡眠薬を全部断つ必要は無かったのだが。気合いを入れ過ぎた。
しかし今になって思うのは、睡眠薬や安定剤を全て断って入って良かったと心から思う。あの時決死の覚悟で断っていなければ、施設の中でズルズルと睡眠薬に頼りっぱなしの可能性があったかもしれない。弱い僕には必要な決断だ。
僕は十年間以上毎日、大量の睡眠薬を摂取し続けてきた。そんな眠剤ジャンキーの僕にとって睡眠薬が無い生活なんて「寝るな」と言っているようなものである。
 こんなにクスリの無い生活は初めてかもしれない。どれだけ金が無い時でも睡眠薬と安定剤だけは僕の手が届くところに必ずあった。無い時は極めて稀である。
この本の冒頭ではクスリが無かった夜のことから始まっているが、クスリが無かった時はいつもあんな感じで発狂間近だった。
睡眠薬と安定剤をたくさん飲めばなんとか現実からは逃れられる。
僕は睡眠薬の使い方を明らかに間違っていた。元々不眠症なので睡眠薬は必要だったのだが、別の使い方をしていたのだ。持参していた睡眠薬の九割は眠るためではなく、理性を飛ばして現実逃避し、多幸福感を得るために使用していた。規定量以上の睡眠薬を飲むと酒で酔っぱらった時以上に気持ちが高揚し、多幸福感を得られる成分がある睡眠薬を知っているので、それを酒と一緒に摂取し、頭がほわんほわんとして理性がぶっ飛んでいる状態で生活をするのが僕の日常だった。マリファナや幻覚剤、脱法ハーブがあればなお良いが、金欠の際は睡眠薬と酒で過ごす。
そんな生活を繰り返していると頭が格段に鈍くなり、食欲も減り、体はやせ細り、すぐにキレて人に危害を加えたり、鬱病などの精神疾患で死ぬほど苦しむ薬物依存症になること請け負いだ。
僕を含めて僕の周囲全体が不幸になる。まさに不幸の連鎖。
周りの薬物中毒者は被害妄想が強くなり過ぎて、統合失調症などの精神的な病をひき起こし、生活していくこと自体が困難になっている人や、一生精神病院といった人も見かける。特に最近の危険ドラッグは安い分、成分がかなり粗悪で一度摂取しただけで心臓麻痺等により死んでしまったり、頭が被害妄想の塊のようになり、現実と妄想の世界がごっちゃになったまま精神病院に入院し、その状態が全く治らないというケースが良くある。僕の知り合いの一人は覚せい剤で頭がおかしくなり再起不能。
二人は危険ドラッグで頭がおかしくなり、そのうちの一人は被害妄想が取れなく、随分長いこと家から出られずに引きこもっている。一人は危険ドラッグを一回吸って心拍停止したが、なんとか生き延びた。阿鼻叫喚の地獄絵図である。まだまだいるがそのへんにしておこう。。
僕は取り返しのつかない自体になる前に薬物を断ち切ることが出来たのだ。
もしかしたら後一回使用していたなら、取り返しのつかない自体になっていたかもしれない。
何回やればそうなるのかは分からない。恐ろしいことだ。たったの一度だけで人生が終わってしまうケースもたくさんあるのだ。
シラフで不眠症のまま過ごす生活はなかなか辛かった。しかしながら、あの虚無の化け物は何故かやってこなかった。虚しさを感じない。肉体的には辛いが、あの絶望的な精神的辛さはほぼ皆無だった。なんというか、希望のある辛さを感じていた。
「これを乗り越えたら」という希望が胸の内にあった。
覚せい剤依存で入った40代の中年の人が
「良太さん、昼寝している時に痙攣してたけど大丈夫ですか?」
とかなり焦って心配してくれたことがある。そりゃ、ガリガリの青白い顔で生気のない僕が横になりうずくまって震えていたら焦るだろう。当人の僕はあまり記憶が無い。二週間もたてば夜もそれなりに熟睡出来るようになってきた。十年間以上、睡眠薬無しで寝たことが無かった僕にとって自然に寝られるのに感動した。
そして、夜に寝て朝に起きるという生活にも感動を覚える。

いつの間にかクリスチャン
僕は一年間ここにしがみつき頑張って卒業するつもりだった。もしここに一年いられないのなら、その後の人生は無いという断腸の思いだ。ここで逃げたら僕は死ぬまで逃げっぱなしの人生になる。そんな人生は御免こうむる。何も成し遂げられないまま、大ぼら吹きながら何も無いのに何かを誇示して、、ヤク中のままくたばるのはごめんだ。僕はもっと充実した人生が欲しい。何かをやり遂げたい。僕の人生はこれからだと思いたい。経った一年だ。
何十年の長い人生の中のたった一年で、この日本屈指のクズと友達や彼女に言われるほどにどうしようもない瀬上良太という男が変われるかもしれない。
友達には「お前は絶対に変わらん」と言われたが。なんの。変われるはずだ。 
もしも卒業することが出来たのなら、幸せと呼べるような人生が送れるのではないだろうか。僕は今でもティーンチャレンジにいる時に一番優しくて暖かい気持ちになった言葉を覚えている。それはテモテ先生が言った言葉だ。
「僕は良太に幸せになってほしいんだよ」
幸せというのが良く分からなかったが、そう言って貰えただけで幸せだと感じた。そんなことを言って貰えたのは初めてだった。愛を感じた。
ということは幸せとは人に愛されるということだろうか。いや、もしかしたら人を愛することかもしれない。とその時思った。愛を受けるよりも愛を与える人生こそが真の幸せではないだろうかと感じたのだ。とにかく僕は藁にもすがる思いなのである。僕は何一つやり遂げたことがない。いつも途中で挫折する。そんな投げっぱなし、脱いだら脱ぎっぱなしの人生から解放されたい。

「良太は、神様信じてみる?」
ティーンチャレンジの生活が三週間ほど経った時に、朝の聖書の学びを終えた後。才門先生にそう言われた。
その時、信じたいと思った。どうだろう。反キリストで悪魔を崇拝していたような僕が「信じたい」と思ったのだ。
でもまだこの聖書の神様が本当にいるのかいないのか分からなかった。
僕は少し間を置いてから、
「信じたいです」
と言うと才門先生は
「よし、じゃあ一緒にお祈りしよう!」
と言って信仰告白のお祈りをすることになった。何故だ。
僕は「信じたいけど、まだこの聖書の神様が本当にいるのか分からないから信じられない」を省略して「信じたい」と言ったつもりなのに、何故か「信じます」と伝わってしまったようだ。
そうして才門先生の勘違いによって、この施設に来て三週間後にめでたくクリスチャンとなった。クリスチャンになったと言っても、口で信仰告白をしただけである。
 イエスキリストが自分の罪のために十字架にかかってくれた神様だと信じます。というようなことを口で告白するだけで聖書的に言うなられっきとしたクリスチャンなのだ。ただ僕はその信仰を心から告白した。
存在するのかしないのかはまだはっきりとは分からないが、その時は存在するんだと信じて心から祈った。もし存在するのなら、僕の祈りを訊いてくれているはずなのだから。
もうすでに聖書の神に対しての敵対心は無かった。
正直疲れていてそういうことはどうでもよくなっていたのである。
ただ、泥沼に浸かったままの人生から解放されたかった。解放してほしかった。
今までの人生が『反抗』を糧にして生きてきてこの悲惨極まりない有様だったのだから、価値観を変えて『受け入れる』ことにしようと思った。
いや、クリスチャンは己の罪と徹底的に戦い、神に従う生き方だ。
罪に反抗し、神に従順する。
昔の僕は世の中に反抗し、自分の欲の奴隷となっていた。そこに希望は無く絶望しかなかった。だから神様を信じたかった。
しかしながら、この聖書の神が一〇〇%存在すると分からないと嫌だ。存在しない架空の者、誰かのおとぎ話にすがりつくなんて虚しすぎる。哀れすぎる。悲惨すぎる。僕はその『誰かのおとぎ話』にすがりつくような生き方だけはしたくなかったのだ。 
だから宗教なんて絶対に信じないし、何事に対しても真実だとはっきりと確信するまで疑っていく。そんな無神論者の僕が、存るか存ないか分からない聖書の神様にすがりついた。それはそのことわざの通り、藁にもすがる思いだった。
もし聖書の神様がいるなら僕の価値観は百八十度変わる。
何故なら聖書では全ての人間は意味をもって神様に造られて、みんなそれぞれに特別な使命が与えられている。この世界に偶然は無く、全てが神の摂理の中にある。と説いているからだ。意味の無い人生と、意味がある人生の違いは大きい。
よく自分哲学を語る人が「意味が無いなら意味を造ればいい」というが、意味の無い人生に意味を造っても、世界に意味が無いというところに土台があるなら、意味を造ったとしてもそれはただの自己満足に過ぎず、結局のところ意味は無いということになる。だが、もし土台に『この世界に意味がある』となるならば、人生に味がつく。無味乾燥の砂を食べる人生から塩気の聞いた極上料理へと早変わりする。
自分が何よりも絶望していたのは『意味が無い世界』というところに土台を置いていたからだ。本当は世界に意味があって欲しい。意味が無いなんて悲し過ぎる。
世界に意味があるには、理論的にどうしてもこの宇宙を創造した者がいないといけない。

生まれ変わりたいやつら、生まれ変わったやつら
生徒リーダーの大富信吾いわく、
「いやぁ、昔は肌が真っ白で心は真っ黒だったけど、ここにきて肌が真っ黒になって心は真っ白になったよ!」
なんて上手いこと言ってやがった。
彼は大麻依存症でかなり荒んだ生活をしていた。北海道大学を入学しているだけあってずば抜けて賢い。
ティーンチャレンジで僕は四期生になるが、四期生で卒業したのは信吾と僕だけで、他にもたくさん生徒は来ていたがみんなすぐに辞めていってしまった。
僕と信吾が卒業出来たのは賢いからとか根性があったからではない。
信吾は賢いし根性もあるが、僕は物凄く頭が悪いし、根性なんてこれっぽちもない。僕と信吾に共通していたのは二人とも底なし沼で身動きが取れなくなり、もがけばもがくほど沈んでいくような絶望的な人生から抜け出したいと願い、聖書の神様に助けを求めていたところだ。
僕と信吾にはもう一つ面白い真逆の共通点(?)がある。
信吾は何をしても人よりもずば抜けて出来ていた。勉強も大してしなくても成績はトップクラスだった。そのため「自分は人と違う」と思って傲慢になっていたらしい。僕は何をしても人よりずば抜けて出来なくて勉強なんぞしてもしなくても下からトップ三に入るため「自分は人とは違う」と思い、劣等感の塊だった。
二人の合致した共通点は、底なし沼にハマった悲惨な人生から抜け出したい。底なし沼から救出されてシャワーを浴びて、風呂でも入って新しく生まれ変わりたいということだ。
信吾は北海道大学というエリート大学に行っていたにも関わらず、途中からとんでもなく荒んだ生活をし、大麻依存症へとなっていた。大学も休学中であった。
信吾は変わるきっかけを見つけたようだ。それがクリスチャンとなることだった。
ティーンチャレンジでは朝七時からディボーションが始まるのでそれまでに起きれば良い。大体みんな六時四五分に起床する。
しかし信吾は毎朝五時にジリリと目覚ましが鳴り、すぐに止め、なんの躊躇も無しにムクッと起きあがり聖書を読んでいた。その姿を僕は毎朝見ていた。
そしてそのブレない姿が恰好良いと思った。
彼は聖書に生きる希望を見出したのだ。僕も見出したい。
だから僕もその聖書にすがりついてみることにした。負けじと朝五時に起き、聖書を読むことにした。(途中から5時半になった)
僕はここでの生活を真剣に取り組んだ。ここが自分の再スタート。それにクリスチャンという生き物がとても喜び溢れて生きていて、それが羨ましかった。
僕がイメージしていたクリスチャンというのはいつもパリっとした服を着て、いつも笑顔で、いつも優しそうで、真面目で弱々しくて、辛いことに耐えて貧相な生活をしているといったかなりマゾヒストなイメージだがそれが全然違う。後々に出てくる徹也先生には凄みをきかせて良く怒られる。
全然弱そうじゃない。徹也先生は相当厳しかった。ティーンチャレンジには先生が四人いた。
局長のテモテ先生と才門先生と昌貴先生と徹也先生だ。全員がティーンチャレンジの卒業生だった。テモテ先生は冒頭で話した通りの札付きの極悪。ハワイのティーンチャレンジで更生した。
才門先生は重度のアルコール依存症。
昌貴先生は一八年間ギャンブルに明け暮れて、最後のほうはホームレスをしつつギャンブルをするという狂いに狂ったギャンブル依存症。
徹也先生は相当ぶっ飛んだ薬物依存症。
彼らの過去の体験談を聞くと僕のヤバさも目がかすむほどだ。(詳しくはYrs!Future!第二部以降にみなさんが出てきます)

世界は広い。僕は友達から「日本指折りのクズ」と言われていた。プロサッカー選手の三浦和義が「キングオブカズ」と呼ばれていたが、僕はその称号にちなんで「キングオブクズ」と呼ばれていたほどだ。しかしどうだろう。僕はこのキングオブクズの称号を彼らに譲るべきなのかもしれない。(元キングオブクズになるが)
自分より、あるいは自分と同じぐらいどうしようもない人がいてほっとした。
そしてそんな人達が、昔の話が信じられないぐらい変わっているのをみて、またほっとした。それは自分にもチャンスがあるということだ。
個人的には徹也先生を最初に見た時に安堵した。徹也先生はファッショナブルな服を着て明るめの茶髪で、洒落た車に乗ってウーハーを付け、ヒップホップやロックなイカしたクリスチャンソングをガンガン聴いていた。
クリスチャンソング、ヒップホップやロック、メタルやハードロックなクリスチャンソングがあるというのも驚きだったが、どうやらクリスチャンが多いアメリカやヨーロッパ等では普通らしい。クリスチャンだからといって眼鏡の七三にしなくていいのかと安心した。
しかしそんなファンキーな恰好の徹也先生の生活はどうかというと、とても健全だ。そのギャップがまたイカす。ティーンチャレンジの先生なのだから当たり前だが、酒もタバコもドラッグもやらないし、聖書に書かれている『昼間らしい正しい生き方』
をしている。
彼らは酒もタバコも女もクスリもギャンブルもしていないのに、その人生はそういったことをやっている人に比べて数倍楽しそうだ。喜びがありポジティブで明るく、輝いていた。そしてセックスドラッグロックンロールな生き方こそ、悪い生き方こそカッコいいし、悪くないとダサいと思っていたのが、どうやらそんなことも無いようだ。彼らは断然イカしているじゃないか。
それに、酒やタバコや女などの欲に溺れなくても人生は楽しいようだ。知らなかった。彼らはいつもナチュラルハイだ。つまりクスリをやっていないのに喜びに溢れ、テンションが高い。そして人のためになるような事を喜んでしている人生なのだ。
自己中心に生きていた僕は不幸のドン底までいったのに、人のために生きている人が喜び溢れた生き方をしている。面白いパラドックスが起きている。
彼らの人生の土台には聖書がある。聖書に書かれている神を信仰している。
昔、彼らはギャンブルを信仰していたり、アルコールを信仰していたり、薬物を信仰していたり、彼女を信仰していたりした。僕は薬物とロックと女性と悪魔を信仰していた。
依存対象を変えたのだ。僕も死臭が漂う絶望人生はこりごりなので依存対象を変えてみたい。

二つに一つの真理
『人生に意味は無い』という土台から『人生に意味がある』という土台へと変えることにした。究極的に考えると、この世界は偶然か必然か。意味はないのか。意味はあるのか。という二択に迫られる。それは必然的に神はいるのか、神(いわゆる、この世界を創造した大いなる何か)はいないのか。という問いに結びついてくる。この世界を創った何者かがいるのか。もしくはこの世界は偶然に出来たのか。この違いは大きい。創った者がいるならば、全てに意味があることになる。偶然ならば、全てに意味が無いことになる。
僕はずっと世界は偶然に出来たから意味は無いという無神論者の信仰を持っていた。しかしそれは無味乾燥の砂を噛む人生だった。そこには一片の愛も無いように感じる。ならば、これからは世界を創った者がいるから意味はあるという有神論者になろうという流れだ。どの神を信じるか?となるとまぁ、その時出会ったのが聖書だが、聖書の神が一番信憑性のあるものだと昔から思っていた。何故なら二〇〇〇年間全く変わらずに伝えられてきて、たくさんの学者達の間でこの聖書は研究されてきたからだ。そして読めば読むほど「なるほど」と思えて感動する点が多い。聖書の言葉に
「わたしを愛する者を、わたしは愛する。
わたしを熱心に探す者は、わたしを見つける。」 箴言8章17節

とある。僕はこの言葉を信じて神を熱心に探すことにした。僕は神の存在を求めた。
「いるならいるで、僕に答えてくれ!いや、答えてください!頼みます!」
と必死に心の中で祈っていた。そして、聖書に書かれているような正しい生き方してみることにした

肉体改良計画
ティーンチャレンジには運動の時間がある。
運動の時間はマラソンと筋トレがメインだ。
「押すと倒れて折れそうな良太の体で、果たしてマラソンと筋トレは出来るのか」
とみんなにとても心配された。体重、四十六キロ。頬は痩けて肋は全て浮き出ている。さらに透き通るような真っ白な肌。簡単に折れそうな手足。かなり危ない体つきである。僕の昔の美的感覚で言うと、ガリガリで不健康な体が恰好良かった。理想のパンクロッカーの体つきだ。ジャンクフードと薬物によって培われた悪魔的肉体美である。良く中世の絵画等で悪魔が出てくるが、ほとんどがガリガリか、もしくは太っている風貌をしている。不健康ということを全面に押し出して描いているのなら、あれは正解だと思う。
悪ければ悪いほど恰好良い、ダメならダメなほど恰好良い、不健康なら不健康なほど恰好良いという歪んだ世界で生きていた。狂って、捻じ曲がって、捻くれた価値観だ。ある日、この病的にガリガリな体を鏡でふと見た時に、嫌悪感が芽生えた。
クリスチャンとなってから、悪魔を連想させるようなものを美しいと思うクレイジーな美的感覚も変わってきたようだ。
信吾はかなりガタイが良い。 
しかし、そこまでモリモリムキムキは好みではない。僕的に彼はやり過ぎだ。
 あれじゃぁ女の子にモテない。モテないことはないけど、女の子というのはもっとスリムが好みなんだ。分かってないなぁ信吾は。と思うが、おそらく信吾はモテたいがために鍛えているのではないだろう。僕は細マッチョがいい。スレンダーで筋肉があるのが僕の理想的な美だ。細マッチョが女の子にも一番モテる。何かの雑誌にもそう書いていたから間違いない。
その細マッチョという究極の美を目指して筋トレを始めた。
女性にモテたいという少し不純な動機が入っているのも事実だが、美を目指すのは悪くない動機だ。
(しかし後になって気付いたのだが、ティーンチャレンジを終了し、神学校に行っている時にいつも僕は筋トレをしていたせいで、筋トレ馬鹿のように見られてしまって全くモテなかった)

マラソンも必死で走った。信吾が異常なほど足が速い。こいつどんな肺活量してやがるんだと思いながら、いつも信吾の背中を見ながら走っていた。
走っている時、信吾がたまに後ろを振り返る。
「大丈夫?」
とペースダウンをする僕に合わせてくれる。当時のティーンチャレンジではマラソンの最中は一人で走れない。基本的に入って3か月ほどは一人で行動することは出来ない。だからいつも信吾は僕に合わせないといけない。しかし、いつか信吾を抜かす。
 僕には卒業までに三つの目標がある。
まず神様を見つけること。そして細マッチョになることと。次に、信吾にマラソンで勝つことだ。
基本的に運動の時間、マラソンは走るか走らないか生徒一人一人が自分で決めることが出来る。ティーンチャレンジでは何よりも自主性が問われるのだ。死ぬほど苦しい思いをして十キロ近くのアップダウンの激しいマラソンコースを走るイカしたやつ、否、イカれたやつはあまりいない。というか二人しかいない。だからほとんどいつも信吾と僕の二人でマラソンをしていた。
僕はここでの生活を全て真剣に取り組んだ。こんなに真面目に真剣なのは人生で初めてだった。自分の価値観、自分の人生を変えるための挑戦だ。ここで一年いられないようなら僕の人生はもうダメだ。そんな気持ちだった。
ここでの生活は充実していた。ここで生活や心の態度を変えて生きていると、いつも心にあった焦燥感や空虚感、不安、悩み、恐れ、そういったものほとんど無かった。
 初めて心に安らぎを感じていたのだ。それはとても居心地が良かった。ひょっとしたら、僕はこれを求めたいたかもしれない。
そして『居場所が無い』といつもつぶやき、居場所を探していたのはひょっとすると、これ、この、安心、平安を探していたのかもしれない。
虚無の化け物もいつの間にか僕のところへ来なくなった。有難いことに僕に興味がなくなったようだ。十年間も纏わりついていたくせに、わずか2~3か月で縁を切ってしまうとは薄情なやつである。僕の元カノみたいだ。まぁ虚無の化け物は薄情で全然結構なのだが。別の獲物を探し、今日も人の心を喰らい、絶望を与えているのだろう。

血の洗礼式
一段階を終了して二段階に行く時、洗礼を受けることを決意した。洗礼とはイエスキリストを信じ受け入れて、クリスチャンとなったことをみんなの前で宣言するための儀式のようなものだ。牧師先生に水の中に全身を浸けられて、そして、水から上がってきた時に昔の自分は罪とともに死に、新しい自分になったということを証明する。
洗礼の日が決まり、その日のために僕は祈り備えていくことにした。
そしてついに洗礼式当日、その日は雨だった。雨だったというかその日は台風だった。
ティーンチャレンジは何をするにも雨天決行である。テモテ先生は昔、雨が降る日は何もせずに外には決して出ずに一日中寝ていたらしい。そんな過去の自分と決別するために『今日これをする』と決めたことはたとえその日に雨が降ろうと、雷が鳴ろうと、台風が来ようと、竜巻が来ようと、氷が降ろうと、矢でも大砲でも降ってこようと、決めたことをすると決意しているらしい。おそらく矢とか大砲が降ってきたらやらないとは思う。それにしても中々いい迷惑である。
しかしそれは環境に左右されないということだ。環境に影響されるのは意思が弱く、主体性が無い証拠だ。環境のせいにして自分の出来ることの幅を自ら狭めてしまう。
 自分のこれまでの人生や性格の欠点などを親や学校や社会のせいにするのは簡単だ。しかしながら、最終的にその選択を決断したのは自分なので結局全ては自分のせいなのだ。 僕は今まで親や学校や社会のせいにしてきた。責任転嫁をして捻くれていた。
人類の祖先であるアダムとエバは神様との約束を破った時にお互いに罪のなすりつけ合いをした。
僕はもう、自分の人生を他人の責任にはしない。責任感のある男へとなるのだ。
僕が不幸になるのも幸せになるのも自分次第で誰のせいでもない。ティーンチャレンジでは意思の強い主体性のある人間、責任感のある人間を目指す。だから僕の洗礼式の日もちょっと台風が来ていたが、何の問題もなく行われた。洗礼式は海で行われるので、礼拝が終わった後にあるビーチまで車で走った。
そのビーチに着くと、いつもと違い異常なほど駐車場が混んでいるではないか。
何やらその日はビーチサッカーか何かの世界大会があるとのことが分かった。つまりビーチは使えない。ならばどうするのか?関係無い。今日やると決めたのだから、何がなんでも今日やるのだ。
何処で?ということで何処かの海岸沿いに車を停め、僕とテモテ先生と牧師先生はテトラポットを乗り越えて、海に入っていく。海は大荒れだ。みんなは見守ってくれている。ザッパーン、ザッパーン、と波を打つ度に、僕の体はフジツボに強打する。痛い。凄く痛い。なんだこれ。そして僕の洗礼式は始まった。
牧師先生が大声で何かを言っているが波が激しくて波の音によって全てが掻き消された。そしてテモテ先生が何かを叫びながら、僕の頭を海に沈める。それと同時に大きい波が来てフジツボに手を強打し、血が滴り落ちた。
海から上がってきて、みんなが拍手喝采をしてくれてた。
「おめでとう」と言って握手をしてくれる。僕は右手が血に染まっている(それは言い過ぎだが)ので左で握手をした。
テモテ先生がボソッと言った。
「この子の信仰生活は大変なものになりそうだな」
今ではその預言の通りになっている。
あの血の洗礼式から五~六年経ったが、僕の信仰生活は大変なものだ。自分の中にある悪との闘いだった。自分の罪のおかげで苦しむことがたくさんあった。
しかし一度として「クリスチャンにならなければ良かった」と思ったことはない。僕は「クリスチャンになんて死んでもならない」と言っていたが、実際そうである。
クリスチャンは一度死なないとなれないのだ。僕は洗礼で水の中に沈められたことにより、古い自分は死んだのだ。そして新しい自分へと、悪魔の子から神の子へと変えられたのだ。

それからまた、しばらくして衝撃的なことがあった。
ティーンチャレンジでは衝撃的なことがたくさんある。その一つの出来事をお話ししよう。タイトルをつけるとしたら『ラッキョウの奇跡』だ。

ラッキョウの奇跡
いつものように生徒たちで昼食を作っている時だった。昼食は担当が決まっている。生徒リーダーが基本的に食事リーダーで、生徒が多い時はリーダーがみんなに指示をして、食事を作る。この時、僕は副食の汁物などが担当である。
その日はカレーだったので、副食は特に無くて暇だったので信吾にしょうもない冗談を言いまくり、ちょっかいを出しつつ食事作りをしていた。信吾は若干うっとおしがっていた。
本日のディナー、カレーライスが完成し、いつものように先生を呼び、みんなでお祈りをした後にいただく。このカレーをバクバクとがっついている時に、ふと思った。(ラッキョウが、ものすごく食べたい)
そう思うと、むしょうにラッキョウが食べたくなってきた。なんだかもう頭の中はラッキョウだらけでラッキョウのことしか考えられなくなってきた。
「ラッキョウ、食べたいですね」
とぼそっとつぶやいた。
「いいねぇ。ラッキョウ。カレーにはラッキョウだよね」
といつものノリで昌貴先生。そこからはラッキョウの話でヒートアップしていき、終始ラッキョウの話をしていた。まさかラッキョウでここまで盛り上がるとは。
食べたい。ラッキョウがどうしようもなく、食べたい。こんなにラッキョウを食べたいのは産まれて初めてだ。ラッキョウが食べたくてウズウズする。ラッキョウが食べたくてウズウズするのは初めてだ。
どうしてこんなにラッキョウが食べたいのか、自分でも良くわからない。
しかしこのティーンチャレンジにおいてラッキョウは高級食材だ。とてもじゃないが、リクエストなんて出来ない。それにしても食べたい。嗚呼、神様ラッキョウが食べたいです。なんて思いながらカレーを食し、翌日を迎える。
寝ぼけ眼で(そんなこともないが)朝の掃除をしていると、急にセンターのインターホンがぴんぽーんと鳴った。こんな時間に誰かが来るなんて珍しいと思いながら、僕が玄関から一番近くにいたので、玄関に出る。ドアをガララと開けると、近所のおじさん(といっても結構遠い)が何か袋を持ってニコヤカな顔をして立っていた。
「こんにちは」
と僕は頭を少し下げてあいさつをする。するとおじさんも
「こんにちは」
と言った。そして袋を僕の前に差し出してこう言った。
「ちょっと島ラッキョウをたくさん貰ったので、おすそ分けしたいなぁと思って」
と大量の島ラッキョウが入った袋を渡された。僕は頭がガツンとドつかれたような衝撃とともにしばらく呆然とし、少しの間そこに立ち尽くしたまま声が出なかった。
そして二,三歩後ずさりした。
ラッキョウの話をした翌日に大量のラッキョウが手に入る。しかもラッキョウの話をしたのはその日が最初で最後で、ラッキョウを貰ったのもこの日が最初で最後だった。こんな偶然って。いや、これを偶然と片づけるのは、逆に浅はか過ぎやしないか。
ちなみにおじさんが昨日のラッキョウの話を聴いていたことは、まずありえない。あの部屋で会話している声が聞こえるわけがない。百歩譲っておじさんが実は江戸時代に滅亡したはずの忍者で、家に侵入して会話を聞いていたとしよう。
何故そんなことをするんだ?しかも何故そこまでして僕を驚かそうとする?それはまずあり得ない。
生徒はみんな「こんなことってあるのかよ……」
と愕然としていた。奇跡を幾度も体験してきた昌貴先生でさえ
「マジかー!うっはっはぁー!神様凄いねぇ」と大興奮していた。
まさにラッキョウの奇跡である。
『ラッキョウの奇跡』と言えばまるでラッキョウが奇跡を起こしたように思われるかもしれないので、『ラッキョウを通して神様が与えてくれた奇跡』と言おう。
ラッキョウをきっかけに神の存在性が僕の中で大きくなった。
聖書の神様というのは少し堅いように感じるかもしれないが。そんなことは無いのだ。非常に豪快かつ、ユニークな方法で面白いことをしてくれることが良くある。

こういった偶然では片づけられないことを、話し出すとキリが無いほどにまで僕は体験していくことになる。そこから分かることはただ一つ、確かに聖書の神様は存在する。

存在の証明
それからまたこんな奇跡もあった。ある日曜日の礼拝の時のことである。
その日はいつもと違う教会へ行くことになっていた。
その日の朝、寝ぼけ眼を冷たい水で覚まし、いつものようにキッチンへ行き、電気を付け、目を閉じて静かに祈っていた。
「神様、僕はあなたの存在をまだ信じることが出来ません。僕は理屈っぽいんです。理屈っぽい僕でも納得するような理にかなった方法であなたが存在するということを教えてください。例えば僕の目の前に現れるとかです。僕の目の前に現れてくれるなら、信じます」
ラッキョウの奇跡も時が経てば「あれは偶然だったんじゃないのか」などと思いはじめる。無神論者の僕は二十数年間、進化論と偶然という確率の中で生きてきたのだ。それが土台となってしまっているので、どうしてもそんな簡単に信じることは出来なかった。
「テモテ先生、僕は理屈っぽくて理論整然としていて、自分がきちっと納得しないとどうしても信じることは出来ません。理屈っぽいんですよ、僕はとにかく」
とテモテ先生に車の中で言った。テモテ先生は「そうかー」と言っていた。
教会に着くと、そこの教会の牧師は女性だった。
四~五十代の綺麗な人だったが独身だった。なんでも神様に人生を捧げたから結婚しないのだそうだ。なんと勿体無い。人生損してるぜ、と正直思った。そう思うのも僕の価値観の押し付けである。

「理屈で信じる人というのは、信じていることにはなりません」
その牧師先生はメッセージの中でそう言った。僕ははっとして顔をあげ、メモを取っていた手を止めた。続けて牧師先生は語る。
「信じるというのは理屈じゃないんです。理屈で信じるというのは信じたことには繋がらない。近づきたいのなら、信じなければいけません。自分が納得いくから信じるというのは結局のところ、自分が信じたいことだけを信じているんです。それは信じたとは言わないのです。信仰とは目に見えないものを信じることです。もしも目で見て信じるのなら誰だって信じるでしょう。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを信じなければならないのです。へブル人への手紙11章6節~」

開いた口が塞がらないほど唖然とした。
僕が祈ったことがそのままメッセージで応答されることになったのだ。まさかテモテ先生がグルで牧師先生と打ち合わせしてメッセージの中で言わせたのか?なんてそんなわけはない。そこまでして僕を洗脳しようとしないだろう。じゃあ盗聴か?んなわけない。
では神様が存在するのなら神様の答えであり、存在しないのなら偶然ということだ。
しかし偶然で片づけるにはあまりにも出来過ぎていることが多いのだ。
メッセージが終わり、食事を食べた後に特別イベントがあった。それはある有名なクリスチャンのピアニストの方がちょうどこの日この教会に来てくれて、ピアノで弾き語りをしてくれるとのことだった。ちなみにこの人は目が見えないのである。
盲目のピアニストの方は家族の人に手を持ってもらい、ピアノのところまで行き、そして弾きながら歌い出した。とても透き通った魂を揺さぶるような綺麗な歌声と綺麗な旋律を奏でるピアノだった。

――君は愛されるため産まれた 君の生涯は愛で満ちている

歌声よりも先に僕はこの歌詞にピクッと反応した。どう反応したか?
酷く不快に感じたのである。

――君は愛されるため産まれた 君の生涯は愛で満ちている
  永遠の神の愛が我らの出会いの中で 実を結ぶ
  君の存在が私にはどれほど大きな喜びでしょう
  君は愛されるため産まれた 今もその愛受けている
  君は愛されるため産まれた 今もその愛受けている

耳を塞ぎたくなるほど胸が嫌悪感でいっぱいになった。
「なんて寒い歌だ。ここまで受け付けない歌は存在しない」
心からそう思ったのた。目がピクピクと痙攣するほどだ。マジである。本気と書いてマジである。
他の生徒は「良い歌だね」などと、呑気に感動していたが僕は吐き気を催しそうなほどにムカムカとしていた。
理由はこの歌詞が愛についてシンプルでストレート過ぎたからだろうと今になって思う。この時はとにかく腹が立った。○×のような歌だ。とか昔良く使っていた下劣な言葉をたくさん使って心の中で罵倒したぐらい腹がたっていた。教会の窓ガラスを全部割ってしまいたいぐらい腹が立っていた。
ここまで言えばどれほど僕が嫌いだったかお分かりいただけるだろうか。
しかししばらくの間、ことある事にこの曲をご視聴することがあり、ある日を境にこの歌は僕にとって特別なものとなるのだが、それはまた後に話をしよう。

キリスト者とは、挑戦することと見つけたり
話は変わるが、僕はこのティーンチャレンジで人生初の規則正しい生活をしていた。夜十時に寝て、朝五時に起きる。夕日が沈み、暗闇の夜に寝て、太陽が昇るとともに起きる。なんて自然体なのだろう。
昔の僕は暗くなる頃、ふくろうの鳴き声(ふくろうなんて見たこと無いが)とともに家から出てほっつき歩き、太陽が昇る頃に、小鳥のさえずりとともに(小鳥のさえずりが聴こえたことはないが)布団にくるまっていた。
悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。
箴言4章19節
と書かれているように、僕は暗闇の道を歩んでいた。それが光の道を歩むようになったのだ。悪ければ悪いほうが良い人生からは卒業だ。悪ければ悪いほど真っ暗闇となっていく。それはとても恐ろしいものだ。
暗闇の道に良いことなんか何一つとして無い。騙された。不健康であれば不健康なほど良い体ともおさらばする。不健康なほど良いことなんて何一つ無い。当たり前だが。そのためにも僕は運動の時間に熱中した。マラソンを死ぬ気で走った。マラソンの時は、ほとんどが信吾と僕の二人だ。運動の時間は大体がマラソンと筋トレに明け暮れる。信吾は相当体に自信がついてきたのか、胸筋がついて嬉しいのだろう。良く自分の胸を触って確認してそれが癖になっていた。
僕はそれが滑稽で面白くてバカにしていたが、気付けば自分もその癖がついていた。
僕と信吾だけではなく、僕が後々ティーンチャレンジのインターンとして一年間働いている時も、生徒たちが同じことをしていてそれを見て昔を思い出し、みんな同じ男はバカなんだなぁと思ったことがある。
ある日、鏡に映った僕をまじまじと見てみると、自分の肩の形に異変があることに気付いた。前は自分の肩には筋肉が全くのってないので、スラっとしていて、頼り無かったのだが。
なんと、肩が盛り上がっているじゃないか。明らかに昔の肩とは違う。
僕は嬉しさのあまり、信吾に肩の形が変わっている!変わっている!とはしゃいでいた。
この自分の体に変化が現れたことがきっかけで何かのスイッチが入り、気が狂わんばかりに筋トレをするようになった。
ティーンチャレンジは夕方から大体が自由時間である。その自由時間にある一定のパターンとリズムが出来た。自由時間になると腕立て、腹筋、背筋を30回3セットほどする。
そして机に戻り聖書を読み、宿題をする。聖書を二章読み、宿題が一段落すれば、また腕立て、腹筋、背筋を三十回三セット。終わるとまた机に戻り聖書を読み、宿題をする。これが夜寝るまで繰り返される。結構異常な行動である。
センターの二階にバーベルがあり、昼休みにひたすらバーベルを挙げる。いつも昼休みに二階のベランダから「うおぉらぁ」という奇声が聴こえてくる。
「良太、いつまでやっているんだ。大丈夫か……」
と才門先生にたまに苦笑されていた。
元々ガリガリなのでやればやるほど筋肉がすぐに盛り上がってくる。
センターに来た時、体重は46キロで「こいつは死ぬか、すぐに帰る」と予想されていたが予想に反して僕は生きながらえた。生きながらえてしかも体格がどんどん変わっていった。教会の人にも
「良太君凄い体変わったね。二回りぐらい大きくなったんじゃないの。昔の面影が全然ないよ」
驚愕していた。
ご飯はいくらでも食べられたのでご飯を死ぬほど食べた。そして小遣いは全て筋トレのためにササミに費やし、口の中がパサパサになるまで毎日食べ続けた。
死ぬほど筋トレをし、卒業する頃には体重が60キロまで増加していた。自分の理想なスマートマッチョになることが出来たのだ。
おかげで神学生の頃はフェイスブックで半裸の写真を良くアップするようになり、院長先生に良くお叱りをうけた。
そして忘れてはならないのがマラソンである。このマラソンはまさに精神的な戦いであった。途中でもう歩きたくなる。しかし歩かない。走りきる。
マラソンはティーンチャレンジの一年の間に数えきれないぐらい走ったが、立ち止まったり歩いてしまったことは二~三回しかなかった。
「もう立ち止まりたくない」という思いがあった。やり遂げたい。走りぬきたい。僕は人生の中でやり遂げたことが一度も無い。中途半端を極めたような男だ。
いつも何かにチャレンジしてはすぐに挫折する。そのうちチャレンジすることも諦めていた。そんな僕にティーンチャレンジ・ジャパンは名前の通り、挑戦する日々だった。僕はティーンチャレンジでネガティブな思想から相当ポジティブな思想へと変わっていった。人は自分が口から出す言葉によって左右されるんだと分かった。
死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。
と聖書に書いてある。僕は死の言葉を愛して食してゾンビになって生きていた。
生きていたというか徘徊していた。
「死にたい、だるい、つまんねぇ、ムカつく、殺したい、殺すぞ、うざい、キモい」
「○○○ ××× ○△×(ここでは言えないような言葉の数々)」
僕が昔口から出していた言葉は大体こんなところだ。これで会話していたほどだと思う。その言葉を告白すればするほど、そうなっていく。死にたいといえば余計死にたくなるし、つまんねぇといえば余計つまらなくなり、だるいと言えば余計だるくなり、殺したいと言えばもっと殺したくなる。
そして殺すぞと言って本当に殺そうとしたこともある。出せば出すほど惨めに、悲惨になっていくこと請け負いだ。
センターでは否定的な言葉や汚い言葉は禁止されていた。そして過去の話も禁止されていた。過去を振り返るよりも将来の話をしようということだ。
「出来ないじゃなくてやるんだよ」
昌貴先生は良くそう言っていた。
僕がティーンチャレンジを卒業してからも頻繁に思い出すようになった名言である。
「出来ないなんていう選択肢を自分で作らない。ということは、つまり選択肢が無いんだからやるしかないでしょ。だからやるしかないんだよ。やる。とにかくやる」
昌貴先生の口癖である。自ら出来ないという選択肢を断ってしまっているのだ。
それは背水の陣に似ている。

背水の陣の語源の由来は中国で、漢軍と超軍のある戦から来ている。その時、漢軍の兵三万。超軍の兵、実に三〇万。この圧倒的兵力の差の中、漢軍の大将は、自分たちの兵を自ら川岸まで追い詰めた。後ろは激しい流れの川だ。飛び込むと死ぬ。そんな状況の中で、三十万の超軍と真っ向から勝負をした。逃げ場の無い漢軍の兵が生き延びる術はただ一つ。それは『勝つこと』だ。それ以外に生きる道は無いのだから、必死で勝つしかない。
そしてなんと漢軍はたった三万の兵で三〇万の超軍を打ち破ったのだ。
これが背水の陣の由来である。

昌貴先生は朝五時に起きると決心してから、毎日どんなことがあっても絶対に朝五時に起きている。これはそうそう出来ることではない。自ら出来ないという逃げの選択肢を断ってしまっているのだ。昌貴先生は「サイボーク」と呼ばれるほどテンションが毎日変わらない。常に元気で明るくて面白い。落ち込んでいることを見たことは無い。昌貴先生がいるとみんな笑顔になる。それこそ、昌貴先生が神様から与えられた一番の賜物だと僕は思う。ちなみに昌貴先生のシリーズも発売するので、是非読んでいただきたい。彼がどれだけぶっ飛んでいる人なのかが良く分かる。

42・195キロの挑戦
『やるしかない』チャレンジが出来た。僕の最大のチャレンジとなったのは、二月一一日に行われる沖縄マラソン大会だった。フルマラソンで42・195キロ。時間   制限があり、時間内に走りきれないと完走賞はもらえない。
「この沖縄マラソンを良太と俺と信吾で挑戦しないか」
と、徹也先生に言われた。僕は怖気ついた。フルマラソン。果たして完走出来るのか。40キロ走るってなんかアホみたいな距離だぞ。
「この沖縄マラソンは非常にアップダウンが激しいコースで、恐ろしく辛いコースとして有名で日本全国はおろか海外からも挑戦してくる人もいるらしいよ」
とテモテ先生はさらっと追い打ちをかけるようなことを言った。何言い出すねん。
その後にテモテ先生は
「そういえばハーフ、20㌔のマラソンコースもあるなぁ」
とボソっと言った。僕はキリっとした表情でヤル気満々に即答した。
「ハーフマラソンのコースにエントリーにします」
近くに居た徹也先生が顔をしかめた。
「信吾はどうする?」
とテモテ先生。
「フルマラソンにチャレンジします」
と、信吾。僕はチキンか?うるせぇ。ハーフマラソンも立派な挑戦だ。チキンならハーフマラソンさえも挑戦しないだろ。
誰も何も言ってないのにと心の中で自己弁護する。
昼休み。さて、昼寝しようと蓑(みの)虫(むし)のごとく布団にくるまっていると、徹也先生が僕のほうに来て蓑虫の僕を見下ろしながら仁王立ちのまま言った。
「良太」
「は、はい。なんすか」
僕は蓑虫のままそう答えた。
そして脱皮をするかのごとく布団を剥ぎ、起き上がる。
徹也先生は腕組みをしながら言う。
「良太、ハーフマラソンももちろんチャレンジや。素晴らしい挑戦やと思う。でも良太はハーフマラソンを完走出来ると踏んだから選んだんやろ。俺が思うに、チャレンジというのは自分が出来そうにないことにチャレンジしてこそ本当のチャレンジやと思う。もし完走出来ひんかったとしても気にすんな。チャレンジすることが何よりも大切なんや。結果はどうでもいい。マザーテレサも、神様は私たちに成功してほしいなんて思っていません。ただ挑戦することを望んでいるだけよ。って言ってたやろ。挑戦しろ!良太!」

イカすぜ。僕はその言葉に奮い立った。そうだ。挑戦しなければ。それは安直な挑戦ではなく、無謀と言われるほどの挑戦がいい。それこそが情熱を持って生きている証。

「フルマラソンにエントリーしまーす!」
と、僕は元気よく答えた。
分かったことがある。それは結果を考えていると、何も挑戦することが出来ないということだ。聖書の言葉に
『明日のことをほこるな、一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ』
とある。知っているのは神様だけだ。そして神様は結果よりも、どれだけ一生懸命そのことを行ったかを判断してくれるのだ。明日のことが絶対に分からないように、結果なんて絶対に分からない。
分かっているのは、やらなければ可能性は〇だということだ。
宝くじは買わなきゃ当たらない。(宝くじは買わないが)
「良太、良く決意した!マラソン大会出るからには完走しなあかんで!俺たちなら絶対完走出来る!おい!完走しろよ!やるからには完走しろよ!分かってるな!」

と、徹也先生。あれ?おかしいな。言っていることが最初と違うぞ。滅茶苦茶やなこの人。早速プレッシャーを感じる。
「じゃぁ、まず二十五㌔の距離を走ってみるか。それを完走出来ないと、とでもじゃないが無理だろう」
とテモテ先生。この人もいきなり滅茶苦茶なこと言ってくる。
そして早速、その日の運動の時間、センターから二五㌔ほど離れたところまで車で強制的に運ばれる。早速過ぎるだろ。
「じゃぁ、ここにしよう。良太、信吾、降りて」
と言われ、降りてすぐに「がんばれよ~!」と言い放ち、車は去っていった。酷い。それでもクリスチャンか。
今まで最高でも十五キロ程しか走ったことがない。少し恐れる。少しっていうかかなり。しかし時間制限があるわけでもない。
取り敢えず走ってみると、なかなか調子が良い。爽快だ。なんだ、結構いけそうじゃないか。いつも信吾がペースを滅茶苦茶上げて走るから死にそうになっていただけで今回はかなりスローペースだから全然問題無い。本当は40キロぐらい余裕で走れるぐらいの体力が付いているんじゃないか。
などと余裕ぶって信吾に話かけながら走っていた。しかしそんな安息も長くは続かなかった。目の前に橋が見える。その長い橋は信じられないぐらい急な昇り坂となっている。しかもその昇り坂の橋は3キロぐらいはありそうだ。
天国まで続いているのではないだろうか思われるぐらいの急な坂だ。意識が遠のきそうだ。
僕は半分まで昇ったところで悟った。
これは、無理だ。
いやいや、「出来ないなんて選択肢は無い」とかそういう問題じゃなくて。無理なもんは無理やって。じゃあ昌貴先生がこれ走ってみてから言ってーや。と心の中で思う。
信吾も瀕死である。瀕死の信吾を初めて見た。このままじゃ僕たち二人はこの坂で全ての体力を消耗してしまう。まだセンターまで十キロ以上あるのに。もはや絶望的である。もうセンターに帰れないのではないだろうか。
嗚呼、ここで僕はくたばってしまうのか。とまでは思わないが。
最初のほうは信吾も後ろを振り返って、いつものように「大丈夫?」と声をかけてくれていたが、坂の終盤あたりになると、そんな余裕も無くなってしまったようだ。
声を全くかけてくれない。寂しい。信吾、いつものように後ろを振り向いて励ましてくれ。
なんとか立ち止まらずに走り抜いたが、そこから一〇〇メートルもたたぬうちに僕は歩いてしまった。信吾も一緒に歩いてくれた。そこからはまた走りだしても、もう精も根も尽きているせいか、またすぐに歩いてしまう。
一度歩いてしまうと走る気力が失せてしまうのだ。
走り抜くためには、走り続けるしかない。
残り六キロほどのところからは走る気力は完全に失せてしまい、足の痛みに耐えかねながら、信吾とともに長い道のりを歩き続けた。
ジュースが飲みたい。サイダー、ファンタ、コーラ、甘いジュースが飲みたい。むしょうに飲みたい。何がなんでも飲みたい。されども自販機が無い。というかその前にお金も無い。つまりコーラは今、飲めない。 
無慈悲だ。この世は。
人は体力が極限状態まで来ると糖分を異常なほど求めるようになるみたいだ。
信吾と色々な話をしながらセンターまでの道のりをひたすら歩いた。
「なぁなぁ、信吾。俺は今めっちゃコーラ飲みたいわ」
「でもコーラは筋トレや運動した後に飲むと筋肉にかなり良くないらしいじゃん」
「いや、たまにはいいやろ。てか炭酸が全部あかんの?」
「さぁ?糖分がダメなんじゃなかったっけ?」
「じゃあジュース全部あかんやん」
なんてたわいもない話をしながらひたすら歩く。気が付けば日が暮れていた。
沖縄の自然が溢れるド田舎の木が茂る町々に夕日が沈む。真っ赤に染まる町を眺めながら、昇る。
果たして、この美しい自然が偶然に出来たのだろうか。と、ふと思う。
もう少し昇ってから後は平坦な道をひたすら歩き続けるとセンターだ。
ティーンチャレンジでは過去の話を生徒とするのは御法度だが、この時は無礼講のような感じで信吾と過去の話に華を咲かせていた。馬鹿をした話や将来のことなどたくさん話をした。
「ティーンチャレンジ終わったら札幌行くから美味しいラーメン連れてってーや」
「もちろん」
信吾が「もちろん」と言ってくれたのが僕はとても嬉しかった。
それは、「これからも友達なんだから当たり前じゃないか」という意味なのだ。
将来の約束というのは良いものだ。例えその約束が果たせなかったとしても。その時にその光景を想像する。一緒にラーメンを食べながら過去のティーンチャレンジの思い出を語り合って笑いあう。それを想像するだけで、楽しくなり幸せになるものである。人間なんてイマジネーション一つで幸せになるものだ。

なにはともあれ、無事帰路に着くことが出来た。足が生まれたての子鹿のようになっていた。もう日は暮れて夜になっていて先生も心配して捜していたみたいだ。
センターの階段を上がるだけで足がもつれ、まっすぐ歩けない。なんだか滑稽で面白くて僕と信吾は笑っていた。
その時二人で食べたミートパスタは今までのミートパスタの中で一番美味しかった。
格別な味がした。たぶん三ツ星レストランのパスタより美味しかったと思う。
やり遂げた後の飯は必ず美味い。山盛りのパスタをたいらげてしまった。
そしてしばらくして沖縄マラソン大会に向けて、二日間の徹也先生の特別強化合宿に行くことになった。三人は三日間合わせて約五〇㌔の道程を走ることになる。
しかも坂道は全てダッシュというイカれた人しか考えることが出来ない、アホしか出来ないメニューである。まるで天国に連れていってくれるような地獄の、否、天国のメニューだった。徹也先生のメニューはいつも、アホみたいにイカれた、じゃなくて、もれなく天国行きのトレーニングを組んでくださる。感謝である。
いやぁ本当に感謝だ。

キリストの十字架
その強化合宿の時に、三人で何時間もずっと悔い改めの祈り(今ままで、自分がしてきた悪いことを思い出せる限り思い出して神様の前で謝り続ける)という祈りをした。無神論者だった僕だがティーンチャレンジに来て色々な体験を通し、そして聖書を勉強することによって神が存在すると理解するようになってきた。
しかし、罪の自覚と神の愛についてはあまり理解をしていなかった。
そして頭では神が存在すると理解できるのにも関わらず、どうしても神がいるという実感が沸かないのだ。自分の罪と神の愛、そして神の存在については頭で理解出来たとしても、心から分かるようなものではない。
この合宿に来ている時、泊まらせていただいているところは祈祷院といって、クリスチャンの人が祈りや断食に来たり、キャンプ等で使う場所なので大声で祈ることが出来る。
だから三人、大声で今までの自分の罪を思い出せる限り祈りまくっていた。
「神様、小学生の時お母さんの財布からいつも千円ぐらい盗んでいたことを赦してください!神様、小学生の時に、同級生にホースで水をかけて泣かしたことを赦してください!神様、お父さんから、十万円だまし取ったことを赦してください!神様、二股をかけてそれがバレて彼女の心を苦しめたことを赦してください!」
 思い出せば思い出すほど、それはもう、自分がいかに罪深いかということが良く分かる。まだここに書けるようなことを書いただけで、ほとんどがここでは書けないようなことばかりだ。僕には人には決して言えない墓場まで持ちこむことを決意しているような恥ずかしい罪、極悪非道な罪が数限りなくある。
しばらくすると、徹也先生が後ろから近づいてきて、耳元でこう言った。
「今から神様が良太に教えてくれるって言っているよ」
(なにゆっとんねん。アホとちゃう?)
 と正直思った。(すいません)
一体何を教えてくれるというのだ。どうしてそれが徹也先生に分かると言うのだ。適当なこと言いやがって。と思った。(すいません)
 だが、もし本当ならば何か凄いことが起こるんじゃないだろうか?そう思い、必死で祈っていた。するとそれから数分後の出来事だ。
それは数秒だったか。いや、一瞬だったと思う。
なんの前触れも無しに急に、イエス・キリストが十字架を背負っているシーンが頭の中にパッと思い浮かんできたのだ。それは一瞬にも関わらず、とても鮮やかに頭の中で再現されていた。花火のように一瞬で消えるが、目に焼き付くように。目で見えたわけではないが、目で見えるよりも鮮明だった。
どうしてイエス・キリストは十字架を背負っているんだろう?
と考えた。どうしてかだなんて、それは知っている。散々聞かされてきたのだから。
小学生の時に西暦がどうして生まれたか気になり、イエスキリストが誕生した時から西暦が生まれたと聞き、産まれた年が世界の数え年になってしまうほどの人物とは一体どんな人物かと思い、家にあった子供向けの伝記にイエスキリストがあり、それを読んだ時からずっと知っていることだ。
知っているにも関わらず、何故だろう?とその時考えたのだ。
そして何故かということがすぐに分かった。
頭では知っていたが、その時心で分かったのだ。

そうか、イエス・キリストは僕の罪という十字架を背負ってくれたんだ。それは、僕のためであり、それは僕のせいでもある。僕の罪の責任を。罪が全く無い人が代わりに背負ってくれたんだ。死刑宣告を受けていた僕の代わりに、僕に死んでほしくない、苦しんで欲しくないという思いでジーザスが死刑になってくれたんだ。

 友達に吐いた嘘のため、お母さんに吐いた嘘のため、人を傷付けた、その傷のため、心の中で思った酷いことのため、人を見下した心のため、自分の体を、自分の心を傷付けたその傷のため、そして今まで、自分を造ってくれた神様を否定してきた、その罪のために。僕は生涯でどれだけの人を欺き、どれだけの人を殺し、どれだけの人の物を盗み、どれだけの人の心と体を傷つけていくだろうか。例え直接的でなくとも、その言動を思ってたくさんの人を殺して傷つけていくだろう。僕は自分が罪人だと認めざるおえない。僕は自分が死刑になると認めざるおえない。
 自分が犯してきた全ての罪、そしてこれから犯す全ての罪、僕の生涯犯す全ての罪を天の父なる神様に赦してもらうために、人類で唯一罪を犯したことが無い神のひとり子であるイエス・キリストが、十字架にかかってくれたんだ。
 その時に、真理を本当の意味で知ったのだ。
頭で理解するのではなく。心で知ったのだ。
そして胸に熱く、優しい何かが流れ込んできた。
それはきっと愛だろう。
 それと同時に涙が止まらなくなり、しばらくその場でひれ伏して泣き続けた。
その時、僕は紛れも無く罪人だった。

十字架刑は「もっとも残酷でもっともひどい死刑」と言われている。
見せしめて殺すのが十字架刑だ。死刑囚たちが死んでいく様子を一般人は誰でも見ることが出来た。
十字架の上の囚人は、ゆっくりと時間をかけて想像を絶する苦痛の中、死ぬ。
死刑囚は十字架に架けられる前に、まず、凄まじいほど鞭で打たれる。鞭には刺やガラスの破片などが付いている。背中の皮膚が剥がれ骨がむき出しになる。
そして、大量に出血する。
鞭打たれてフラフラになったイエス・キリストは重い十字架をかつがされて刑場まで歩くことになった。これも見せしめの効果と、囚人の体力を奪うことが目的だった。いよいよ十字架刑になるが、まず手足を縛り、そして手足にでかい釘を突き刺される。
 十字架に固定された死刑囚は、固定された両手足だけで自分の全体重を支えることになり、手と足に刺された釘の固定部分の痛みは想像に絶する。食べ物も水も基本的には与えられないが、このままの状態で何時間かたつと、死刑囚の体は自分の重みで下に垂れ下がってくる。しかし、だらりと下に垂れ下がりきると、胸筋や横隔膜が引っ張られて呼吸ができなくなるから、死刑囚はここで体勢を立て直して体を持ち上げねばならない。腕で状態を引っ張り上げ、足で体を支え直すわけだ。しかし体力が完全になくなるとこれができなくなり、外傷と体力低下による肺水腫などもあって、死刑囚は呼吸ができなくなり、やがて窒息死する。
死刑囚が十字架の上で死ぬには、かなりの時間を要した。その間、死刑囚はほんのわずかでも自分の命を長らえようと、苦痛にもだえながら十字架の上でもがき続け、やがて死に至る。十字架にかかっている間イエスキリストは全裸の状態だ。そして糞尿も垂れ流しなのだ。
 イエス・キリストは神様だ。その神様がそんな想像を絶する苦痛と辱めを受けたのだ。十字架刑は古代ローマにおいて、もっとも残酷でおぞましい処刑法だった。イエスキリストが二千年前に十字架にかかったのは確かな記録である。そしてなんのためにかかったのかということも確かなのだ。歴史的事実なのだ。
イエス・キリストは潔白にもかかわらず、自らその十字架刑にかかったのだ。逃げようと思えばいくらでも逃げることは出来た。自分が無実だということを証明しようと思えばいくらでも証明が出来た。無実なのだから。しかし逃げずに自分が無実だと証明もせずに、黙って十字架にかかったのだ。
何故?
それは、僕の罪を、天の父なる神様に赦してもらうためだ。
僕が地獄に行かずに、天国に行って欲しいというその一心なのだ。
イエスキリストは僕を救う必要なんて無かった。しかし救ってくれたのだ。
 何故?
それは僕を愛してくれているからだ。愛している人を救うのは当然だ。
 その事実が本当に分かったからこそ、僕は聖書の神様を無視することが出来なくなった。罪の汚さと神の愛、十字架の愛は、いくら哲学、神学を勉強して研究に明け暮れても分かるものではない。神学の研究をしている学者でもクリスチャンになっていない学者もいるのはそこにある。この世の哲学や思想、学問では決して理解出来ないのがある。人の想像力、人の知恵ではどうしても越えられない領域があったのだ。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。
コリント人への手紙第一、一章二一節
それはつまり『人の力ではどうしようにも出来ない壁』ということだ。
なんと衝撃的なことだろう。人知を超えた領域があるのだ。人知を超えた神の領域。それが罪の自覚と神の愛の実感だ。
「罪が赦された」
僕はそれがはっきりと分かったのだ。

沖縄マラソン開始
強化合宿も終わり、二月になった。そしてついに沖縄マラソン大会の日がやってきた。いつも前向きな信吾も「沖縄マラソンを完走する!」から「沖縄マラソンを完走したい!」と言葉の語尾が少し変わっていたのを僕は見逃してはいなかった。
僕はハナから諦めていたので緊張をしていない。アァ、もうどうにでもなれ。二十㌔の距離さえ完走出来ない僕にはとてもじゃないが駄目だろう。
沖縄マラソン大会は約一万人ものランナーが走る大掛かりな大会だ。ハナから諦めていた僕もさすがにスタート前になると一気に緊張してきた。人がもりだくさんだ。ざわめいている。ティーンチャレンジに来て一番たくさんの人を見た気がする。
みんな足に自信があるランナー達だろうか。僕は走り始めてまだ半年だ。と心の中で言い訳をしてみる。そして、みんながスタートラインに立ち、スタートを待ち望む。  
おそらく、銃声がパンとなるんだろうと期待した。
しかし、銃声は鳴らずになんだか良く分からないまま周りから歓声が沸き起こり、スタートした。スタートの音を見逃した。別にどうでもいいけど。
スタートした直後に僕の意識が急に大きく変わった。「
絶対に完走してやる」と。
そう、僕は完走が出来る。出来るんだ。走り出すとやたらと気分が良くなってきた。
前に走っているランナーを抜かしていくのが気持ち良い。ゴボウ抜きだ。凄い。
練習の成果か?速い。僕は速いのだ。と勘違いをする。僕はすぐに自惚れて勘違いをする。さりげなくお世辞で「頭良いね」と言われると『やはり俺は天才なのか』と誇張して勘違いする。
そう、つまりそれは馬鹿なのである。女の子と目が合っただけで『あの娘は俺のこと好きなんじゃないか』と勘違いするほどだ。そう、つまりそれは幸せなバカなのである。僕にはお世辞を言わないほうが良いのだろう。全部本気以上に受け止めるから。(でも褒められて伸びるタイプだから誉めてほしい)
人は僕を『幸せな勘違いヤロー』と呼ぶ。その自惚れからハイになり序盤からスピードを飛ばす。ここではその勘違いが裏目に出てしまうことになった。
給水所がたくさんあり、ボランティアの人達が水、スポーツドリンク、スペシャルドリンク、他には塩飴等の食べ物を用意してくれている。たまに何処かの中学、高校生の吹奏楽の演奏をしてくれたりして祭り気分だ。たくさんの人が応援に来てくれている。みんな僕を応援しにきてくれているのだ。これは勘違いじゃない。
おそらく僕のことをみんなは知らないが、僕のことを応援してくれているのに変わりはない。ただ、もし僕がこのマラソン大会に出場していなくても、変わらずみんなは応援に来ていると思うが。
それにしても、まるで自分がマラソンランナーになった気分だ。いや、僕はれっきとしたマラソンランナーじゃないか。これも勘違いではない。
良く見ると若い女の子がやたらと多い。なんてこった。これはかなりの誘惑だ。
みんな肌の露出度が高い。けしからん。マラソンなんだから当たり前なのだが。
ティーンチャレンジのむさ苦しい生活ではたくましい男達の上半身裸の姿は見たくなくてもしょっちゅう見ていたが、女性の肌を見ることは、たとえ見たくてもほとんどない。ほとんどないっていうか、無い。あり得ない。教会に行ってやっと女性を見ることが出来るぐらいだ。 でも教会だからみんなそこまで露出をしてはいない。
女性に触るのも握手ぐらいだ。
僕のような、性にたいしてだらしない人間にとってはティーンチャレンジは最強の禁欲生活だ。なので、若い女の子が走っているとどうしても目がいく。意思の弱い僕には逸らすなんてことは出来ない。こんな美しいものから逸らすなんて出来る訳が無い。二十代だぞ、僕は。と言い訳を心の中でしてみる。
若い女性の走る姿は本当に美しい。どうしてこんなにセクシーなんだろう。とか思っているとペースが乱れる。しかも体は自然に走りながら若い女性のほうへと行ってしまう。まるで磁石だ。やばい。やばいぞ。僕は一体何をしているんだ。変態だ。
女に集中するのではなくマラソンに集中しなくては。
一〇キロほどの道のりは余裕だった。まさに快走。しかし、いかんせんペースが速すぎた。最初に自惚れてペースが速すぎたのと、ゆるやかな坂が続いたせいと、若い女の子ばかり見ていたせいで、一八キロ地点でおもいっきりバテてしまった。完全に自分の責任である。
それに雨が降り出した。二月の気候にこの雨は沖縄でもさすがに寒い。さらに僕は少し足を故障していたのだ。徹也先生が強化合宿で坂道を全部ダッシュしろとか無茶なことさせるからだ。あのヤロー。と、人のせいにしてみる。
足の痛みが二~三週間ほど取れなくて、マラソン大会がとても不安だったのだが、マラソン大会の三日前に奇跡的にその痛みが取れたのだ。その痛みがここにきて現れた。それにくわえて坂のアップダウンを走った負担もあり、足に激痛が走りだした。
 それでも僕はあきらめずに走っていた。後、半分近くもある距離でこの状態。これはもう無理なんじゃないかと頭をよぎった。いや、これはどう考えても無理だろう。
しかしやる。無理でもやる。やるしかない(昌貴語録)
無理なんじゃないかと僕の頭の中で囁く声があるが、それでもあきらめない。昔の僕なら諦めてすでに歩いてギブアップしていただろう。
しかし、今の僕の辞書にはギブアップという単語は無い。その代わり、新たにギブアップの前のネバーが付いた単語が深く心に刻まれているのだ。

痛みに耐えかねて二七キロ地点から走ることが困難になり、足を引きずりながら歩
くのと変らない速度で、それでもなお走った。
僕にとってこのマラソン大会はただのマラソン大会ではない。過去の、いつも何をやっても途中で投げ出していた、いつもなんでもすぐにあきらめて放り出していた、何をやっても続かない、何も出来ない自分との決別なのだ。
クリスチャンとなり、新しく生まれ変わった自分の証なのだ。
しばらくすると後ろから徹也先生が来て僕を抜いていった。徹也先生が僕に何かをアドバイスをしてくれたが、四〇%ほど意識が飛んでいる状態なので何を言っているのか分からなかった。信吾はおそらくもっと先にいるだろう。
いつも信吾の背中を見て走っていたので寂しいところがあった。運動の時間のマラソンは信吾がいつも後ろを振り返って
「良太、大丈夫?いける?」
と声をかけてくれる。良きライバルであり良き戦友だ。もっともライバルというには僕と信吾では力の差が大き過ぎるが。そんな信吾がいない。
マラソンは基本一人だ。そしてマラソンはいつも自分との戦いだ。沖縄マラソン大会は時間制限がある。時間までにゴールが出来ないと完走したことにはならない。
今のペースだと一キロ何分かというのを走りながら計っていたのだが、今のペースではギリギリアウトになる。
足を引きずりながら走り、限界が来て走れなくなると歩く。これの繰り返しだ。
――わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。

ヨシュア記一章九節の聖書の言葉が頭によぎる。三十キロの地点で、周りの人はほとんど歩いている状態だ。
三四キロメートル地点でテモテ先生と才門先生が応援に来てくれていた。
「良太、後少し!後少し!」
と才門先生が叫びながら応援してくれている。僕はこの熱血漢溢れる時の才門先生がとても好きだ。
僕はというと、半分意識が無い。半分意識が無い中、写真を撮ってもらう。ここまで来るともうゴールするしかない。僕は激痛の中、無理やり走った。足が悲鳴をあげる。足がちぎれそうだ。呼吸が乱れて上手く息が吸えない。
最後の下り坂は特に辛かった。足に大きく負担がかかるため、足の痛みが増幅する。四〇キロの地点で最後の二キロは全てを出し切るために走り抜くことにした。全てを出し切って走りぬきたい。走れる余裕を残したくない。口の中は血の味がする。完走した後血を吐くんじゃないだろうか。などと思う。
徹也先生の特訓はいつも「限界突破」だった。だから僕はいつも限界突破が出来る。

残り一キロ、残り五〇〇メートル、周りが歩いている中、僕は走った。一〇〇メートル、五〇メートル、二〇メートル……ゴールが見えた。
 今まで何かをやり始めてゴールまで行ったことが無かった。いつも途中で全てを投げ出すのでゴールを見たことが無い。ゴールというのを初めて見た。
そしてゴールを通過した。走り抜いた。この僕が完走出来たのだ。
その時、僕の中の全ての不可能が消えた。
出来るんだ。という喜びが心の中から沸き上がった。
やり遂げることが出来たという喜びを初めて味わうことが出来た。
それはクスリで得られる快楽よりもずっと気持ちの良い喜びだ。
晴れて三人とも完走することが出来た。順位は六一九四位でタイムは五時間五七分一三秒だ。ほぼギリギリのタイムである。ちなみに信吾は一六二四位でタイムは四時間二八分六秒だ。この差でライバルなんて言っていた自分が恥ずかしい。
フルマラソンを完走するということは、人によっては容易いことなのだ。そこまで大騒ぎするようなことでもない。
しかし、僕がフルマラソンを完走するということは奇跡なのだ。苦しいことから逃げて、何をやっても続かずに何も出来ない。何もやりとげたことが無い僕が初めてやり遂げたのだ。メダルや表彰状というのを貰ったのも初めてだ。
やり遂げた喜びというのを初めて体験することが出来た。

変えられていく僕 
マラソンを完走してもティーンチャレンジの生活は続く。
マラソンが終わってからしばらく二人ともまともに歩けなかった。階段を昇り降りする時はカニのように横になりながら、一段一段手と使いながら昇って降りる。かなり滑稽な姿だった。
卒業するまで後五ヶ月…
マラソン大会が終わり、しばらくすると祝福がきた。
僕と信吾に高校の図書館の本の整理のアルバイトをやってみないかとテモテ先生に持ちかけられたのだ。
五日働いて確か三万ほどもらえたと思う。長らく万札というのを見たことが無かったので三万という響きに焦る。そんな大金持ってしまっていいのだろうか。
ティーンチャレンジャーにとって三万もの大金を生徒期間中に手に入れることが出来るのは、大富豪レベルである。アラブの石油王クラスである。
そしてこのアルバイトもチャレンジを受けることになる。
このバイトは五日間でかなりスピードを上げて働いて、やっと本の整理の作業が終わるほどの量だ。ペースを上げて二人で作戦を練って協力し、坦々とこなしていくが、三日目に大きなミスがあった。今までコンピューターに打ち込んでいた三分の一ほどの本のデータが消えていたのだ。
おそらく誰のせいでもない。コンピューターが悪いのだ。もしかしたら僕が悪いのかもしれないが、事の真相は既に分からない。でも僕は良くヘマをやらかすので、僕のせいだという可能性が無いとも言い切れない。
しかしながら二人で一致を保って、ペースをうんと上げてより良い作戦の末、なんとか終わることが出来た。いかに仕事をサボるかを考えて仕事をしていた僕がいかに綺麗に、尚且つスピーディーに仕事をこなすかを考えながら仕事をしたのだ。
別に最後まで終わらなかったとしても、お金はもらえたのだ。でも最後まで終わらせた。
僕はどんなことでも最後まで責任を持ってやり遂げたかった。そしてそれが出来るようになった。
このバイトのお金で思わず服とプロテインを買った。そして給料の三分の一の一万円をティーンチャレンジに募金をした。
僕が惜しみなく、喜びをもって自分のお金を募金することが出来るのも、これもまた奇跡。昔なら働いたお金の3分の1を募金するなんていうバカなことはしない。
昔はバカなことと思っていたが、今はそう思っていないからするわけだが。
与える幸せこそが、真の幸せだということに気付き始めたのだ。
それはそうと、今までは自分の小遣いでササミをプロテイン代わりに買っていたのだが、本物のプロテインを大枚はたいて買ったのだ。
もう、ササミはこりごりだ。パサパサした肉に醤油をつけたり、ポン酢をつけたりしてご飯と一緒に食べる。これが僕のプロテインだった。苦痛を伴いながら無理矢理食べていた。今でもあのササミを観ただけで、口の中にあのササミの味と、パサパサとした食感が広がってくる。もうササミは一生分食べたので一生涯食べることはないだろう。(それは言い過ぎだが)この頃になると僕の肉体は細マッチョと言えるほどの筋肉がしっかりとついていた。
三段階に入り、大きく変わったのは宿題を真剣に取り組みだしたことだ。二段階までも、もちろん自分なりには出された宿題は真面目にやっていた。提出期限を守り、毎週出される暗証聖句(聖書のことばの暗記)も頑張って覚えて合格するというのは、僕にとって奇跡だ。しかし宿題の質的には悪い。早く終わらせたいというのが見え見えの投げやりな感じだ。だからこそ、三段階に入り宿題に力を入れた。
僕の字は小学校低学年レベルの汚さで、人生の中で字が綺麗と言われたことは一度も無い。そう、一度もだ。
「個性的な字だね」と哀れみを持った顔で言われたことは何度もある。
そんな字も、時間をかけてゆっくり丁寧に書き、なんとか小学校高学年レベルまで成長した。とにかく、ティーンチャレンジでは悪い習慣を良い習慣に変えるための訓練をしていく。それによってティーンチャレンジを出た後の人生にも影響が出る。僕は自分自身が変革しないと未来は無い。
No FutureからYes Futureへ。
そんな英文法があるのか分からないが、そんな感じだ。

誰かの役に立ちたい
悪い習慣を良い習慣に変えるために最も素晴らしい方法がある。それは人のために何かをすることだ。僕はティーンチャレンジにいる間にたくさんボランティアをさせていただける機会が与えられた。もっとも、自分から進んでそんなことをするような人間ではないので、ティーンチャレンジのプログラムの一環なのだが。それでも僕は昔のようなお金をもらって働いていた時よりも一生懸命ボランティアをした。
例えば、ある黒人の牧師先生が新しい教会を建てることにして、土地も買って、建物もあるのだが、そこの内装をしなといけなくてお金に余裕があまり無かった。
その牧師先生はテモテ先生の知り合いなので、ティーンチャレンジでその教会の内装の手伝いをすることになった。
まず、レンチやバール、さく岩機などで壁等を壊していき、そして石膏ボードを張ったり、クロスを張ったり、塗装をしたりと色々な事をした。
ティーンチャレンジのプログラムはその時、2ヶ月ぐらい毎日朝から夕方までその教会の内装造りをしていた。肉体的にはとても疲れていたが、なんだかとても心が晴れ晴れとしていた。そして、内装は無事に完成し、献堂式(教会の新築祝いのようなもの)が開かれて、そこに僕達も招かれた。最後に業者の人がリフォームをして、教会は見違えるほど綺麗になっていた。献堂式にはたくさんの人が来ていた。、
「ティーンチャレンジの生徒のみなさんがこの教会のために一生懸命働いてくれました」
献堂式の中で、牧師先生にみんなの前でそう言って紹介され、僕達はそこに集う人々から拍手喝采をいただいた。献堂式が終わってから、その黒人の牧師先生が僕達のところに来て、涙を流しながら何度も抱擁と握手をして感謝の意を表してくれた。
僕はその時に嬉しいような、喜びのような、優しいような感情がどっと溢れてきて、心が感動でいっぱいになった。
こんな人の迷惑ばかりかけて、親も周囲の人も不幸に陥れてきたような僕が、人のために無償で働くことが出来たのだ。そして初めて人に感謝をされたのだ。
こんな僕が人の役に立ったのだ。僕が人に感謝をされたのだ。
その時、人は人と神様を愛するために造られた存在なのだと、心からそう感じた。
愛するために造れたのだから、人を愛している時に最も生きている意味を感じるのだ。自分のために生きている時はひたすら絶望だったが、人のために生きた時に希望と喜びを知った。僕はこれから、どんな方法でも良いから人の役に立つ生き方をしたいと思った。自分の欲のために生きるのではなく、いつも土台には人の役に立つためにという思いを持っていたい。
人のために生きた時、初めて生きる意味を知った。その時、心にいつもあった重い何かは完全に取れ、初めて自由を感じていた。

孤独という病気
クリスマスに、昌貴先生の働いていた職場の老人ホームにクリスマス会ということで、みんなで賛美を歌い、子供の劇をするイベントをさせていただいた。
そこで僕と生徒と先生で賛美を、いつものティーンチャレンジ流のアカペラで大声で歌った。お爺ちゃんお婆ちゃんがビックリしてぶっ倒れたりしないかなと思って僕はいつもより声量を少し下げた。
そしてその後は口直し?に子供の可愛らしい劇が披露された。
老人ホームは二階と三階のフロアがあり、二階がまだ比較的元気な動けるお爺ちゃんお婆ちゃんで、三階が動くこともままならかったり車椅子で生活を余儀なくされている人達で、その両方のフロアでさせていただいた。
最後に帰る間際、お爺ちゃん、お婆ちゃんに一人ずつ握手をさせていただく時間を貰ったのだが、三階のフロアの、体が硬直していてほとんど動けなくて、賛美と劇の間もほとんど反応が無かったお婆ちゃんがいたのだが、そのお婆ちゃんに握手した時、お婆ちゃんは僕の手をギュッと握りしめて、僕は驚いた。そしてしばらく離してくれずに、お辞儀をなんとかしているのか、必死で体を上下に揺すっていた。
声にならないうめき声をあげていた。それは仕草にも言葉にもちゃんとなっていなかったが、確かに、心から「ありがとう、ありがとう」と言っているのが分かった。
昌貴先生に聴くと、三階のフロアの人達は家族も全然来てくれずにほとんど見放された人もいるとのことだった。お婆ちゃんはクリスマス会を開いてくれたことを心から感謝してくれていたのだ。僕はその握手をしている時に、胸が痛くて痛くて、悲しくてたまらなくなり、涙が出そうだった。
マザー・テレサが「最も酷い病気は孤独だ」と言っていた。そしてその最も酷い病気を造り上げているのは他ならぬ人間なのだ。他ならぬ僕なのだ。人間が造ったこの病気は、人間しか治す方法は無い。
僕はこの病気を発症させないために何が出来るだろう。僕はこの病気を治していくために何が出来るだろう。この病気にかかっている人を一人でも多く治していけるなら、なんて素晴らしい人生だろうかと心から思った。
 
罪について
 てめぇ、クリスチャンになったからっていい子ぶってんじゃねーぞ。そんなにお利口さんになったつもりでいんのかよ。嘘くせぇ。偽善者の仲間入りを果たしたってことか。ヒャッハッハ。と思っている人も、もしかしたらいるかもしれない。昔の僕なら間違いなく思う。
 クリスチャンになって変わったといっても僕は紛れもなく罪人で、ただ罪が赦された罪人ということが自分で良く分かる。例えば嫉妬という罪。
 あるクリスチャンの喫茶店のリフォームのお手伝いをさせてもらった時に、ペンキ塗りを基本的にさせてもらった。そこのオーナー?らしい、若い女性がとても可愛かった。僕は一目ぼれをした。生徒がもう一人いたのだが、この生徒はヤル気無い組の生徒である。
 しかし、この生徒はとても器用でペンキ塗りをとても上手にこなしていて、その女性にとても褒められていた。
 僕はというと、とても不器用で、何度か失敗をして、その女性に「どんまい」なんて励まされていた。
 終わった後に、その女性は「みなさん本当に予想以上に手伝っていただいて大変助かりました。特に、○○さん(器用なヤル気無い組の彼)はすごかったですね。」
 なんと、mとても褒められていたのだ。僕はその時に、いつもヤル気無くて先生の言うことも全然聞かなくて、帰ることばかり考えてるいくせに。どうしてあいつが褒められるんだ。可愛い子だからって張り切りやがって(そういうわけじゃないと思うが)あいつの本性知ったらきっとあの子も失望するに違いない。と嫉妬心に駆られて、酷いことばかり思っていた。
 他にも、もう一人ヤル気無い組の生徒で、彼は何処へ行ってもそのテンションの高さから人気があった。僕は当時、結構真面目ぶっていたので、あまり目立たなかった。
何処へ行っても彼が持て囃されていて、僕の存在感が薄かったために、自己顕示欲の強い僕は(どうして真面目に頑張っている俺が評価されなくて、あんなに先生の言うこと聞かないで、脱走して酒飲んでタバコ吸って帰ってきたようなやつが、あんなにもてはやされるんだ)
 と嫉妬して裁いていた。表面上に見えるような罪は犯さなくなってきたが、しかしながら中身は汚いもので渦巻いていたのである。それに、クリスチャンになって社会に出た後でも、犯罪では無いにしても酷いことを何度もした。前と違うのは悪いこと。人を傷つけてしまった時に悔い改めて、その人に誠意をもって謝罪し、次からはもう二度としないと決意をすることだ。しかし弱い僕はまた繰り返してしまう時がある。このことから分かるのは僕は紛れもなく「赦されただけの罪人」だということである。


 
第三章・摂理の中に存在する人生
     人はいつか死ぬ。早いか遅いか、それだけだ。

三月一一日、それは日本を揺るがすような大災害があった日だ。僕はその時、運動の時間で二段階生の元ヤク中である祐介(仮名)と二人で走っていた。祐介とは意見の対立で良く喧嘩をする。この日は走っているといきなり何処からともなく、警報の アナウンスが聴こえてきた。良く聞き取れなかったが、非常に大きい津波の危険性が  あるので注意とのこと。祐介はこれを聞いて
「どっかで凄い災害が起きたんやって」
と言い、僕は
「たぶん沖縄では良くあるアナウンスやで」
と言って言い争いをしていた。僕達はどんな些細なことでも言い争いをするのである。しかしこの時は悔しいことに祐介が正しかったことが分かった。
センターに帰ってくると、なにやらとても深刻そうな顔をした先生たちがいて、その顔を見ただけで只事じゃないことが分かった。家族に連絡を取れとのことだった。
大地震が起こり、世紀最大とも言える津波が東北を襲ったのだった。
この東北大震災によって、ティーンチャレンジの働きも大きく変わることになった。
局長のテモテ先生はとてもアグレッシブな人だ。何度も言っているかもしれないが、昔はパンクロックにかぶれていて、沖縄のハーフギャングにも所属して、十数年間も毎日覚せい剤を打ち、人を殴りすぎて指の関節がおかしくなっていて、ドラッグのやりすぎで医者には三十まで生きられないと診断されたほどだ。刑務所にも何度か入っている。札付きのワルである。
そんなテモテ先生は悔い改めてクリスチャンになり、ハワイのティーンチャレンジを卒業して、日本の某大企業に就職し、社会的地位もきちんと確立し、結婚も出来た。なによりも、とても思いやりがあり生徒やスタッフのことをいつも気に掛けてくれているのだ。テモテ先生のアグレッシブさに聖書を土台とすることによって、良い方向へとシフトチェンジすることが出来たのだ。
そんなテモテ先生だからこそ、決断も行動も早い。テモテ先生はすぐに復興支援に行く準備をした。まず初めに先陣を切って、テモテ先生と信吾が行くことになった。
信吾はおそらく直ぐに決断してテモテ先生に「僕も復興支援に行きたいです」と伝えたのだろう。僕はこの時妬みの罪があった。
先陣を切ってテモテ先生と行くことが出来る信吾がうらやましかったのである。
何かこう、テモテ先生に一役買われたんじゃないかという嫉妬心があった。
テモテ先生と信吾は昼食を食べて直ぐに東北に行くこととなった。
信吾と何か話したが、良く覚えていないが妬んでいたのであまり話をしなかった。
テモテ先生が
「信吾行くぞ!」と声をかけ、信吾は「いってきまーす!」
と元気良くセンターから出て行った。
僕はあまり見送りのあいさつも気がすすまずにしなかった。そのことを僕は後々悔い改めることになる、
その後テモテ先生と信吾の活躍はセンターで良く聞くことになった。僕は活躍を聴けると嬉しかった。
復興支援に行った当初の被災地はかなり悲惨だったみたいだ。初めのほうは店という店は全て食料切れで、食料を買うことが出来なかったらしい。
「お金さえあれば食料は何処でも買えると思っていたのは愚かだった」
とテモテ先生は後に言っていた。食べ物もろくに食べられずに、持ってきたカロリーメイトを主食として朝から晩まで働いていたらしい。チキンでヘタレな僕では根をあげていただろう。
信吾がいなくなったので暫定的に僕が生徒リーダーとなった。しばらくして才門先生と昌貴先生も復興支援に行くことになり、センターには先生が徹也先生一人で、後は僕と祐介と他二人の生徒だけとなった。
徹也先生は先生一人でセンターをきりもみしないといけない。休まる暇が無いようだった。ティーンチャレンジのスタッフを休み無しで働くのは精神的に相当なストレスの負担がかかるのだ。それは僕がインターンとしてティーンチャレンジで働いた経験を通して後に、良く分かる。人は自分で経験してみないと他人の気持ちは分からないものだ。しかしながら、まだ体験をしていないその時は、徹也先生がイライラしていることがたまにあり、なんでそんなにイライラしてるんだ。と何度か思っていた。
生徒四人のために訓練して見守っていかないといけない。責任重大だ。そりゃストレスも溜まるだろう。
僕は僕で、生徒リーダーという立場にいてプレッシャーがあった。
僕は今までずっと下っ端人生で、人の上に立ったことなど一度もない。しかし徹也先生がフォローをしてくれ、色々なアドバイスを貰い、なんとかやっていくことが出来た。そして、徹也先生は僕が立派に成長するために(たぶん)僕にかなり厳しく訓練をしてくれた。昔の僕なら反抗しまくっているところだが、生き方を変えるためにも従順というのをこの訓練を通して深く学んだ。
僕の親父は、ある教会で徹也先生がティーンチャレンジに行き、キリストに出会って変えられたお話を聴いた。そこで親父はティーンチャレンジの存在を知り、パンフレットを持って僕のところへ来たのだ。僕は徹也先生を通してティーンチャレンジに行くことが出来たのだ。徹也先生はその教会での話の締めくくりにこう言った。
「僕はこれから、ティーンチャレンジのインターンになり、生徒達と一緒にフルマラソン大会を完走します!」
その言葉の通りになった。沖縄マラソン大会こそが、その言葉の具現化である。
徹也先生には良く
「良太!生き方変えたいんやろ!そんなことでどうするんや!」
と叱責されたのを覚えている。しかし徹也の叱責には愛があると感じるからこそ、自分のために叱ってくれているのだと分かっていたからこそ、僕も反発したりムッとしたりすることが無かったのだ。僕がこれから自立して社会に出ていけるように背中をグッと押してくれていたのだ。押すというか崖から突き飛ばして爆笑しているような感覚ではあったが。

復興支援へ
しばらくしてから、僕にも復興支援に行く機会が訪れた。祐介と僕の二人で東北の復興支援に行くことになる。サマリタンズパースというクリスチャンの復興支援の団体があり、そこに所属し、そこのとても大きな軍用キャンプで寝泊まりすることとなった。サマリタンズパースは色々な人達が数日~一週間をかけて、仕事の有給休暇をとり、復興支援に訪れる。仕事の有給休暇を削って自費を払ってまで復興支援に来るなんて、僕にはそこまで犠牲にして人の役に立つことは出来ない。
ここでたくさんのクリスチャンの人と出会うことになった。ここで出会った人達とは、今でもフェイスブック上で連絡を取っている人が多い。
僕が来た当初は六月だったが、被災地は三か月で大分マシになっていたほうだ。
このサマリタンズパースがある場所が岩手の住田という場所なのだが、そこは度肝を抜くほどの田舎だった。車で何時間も走り、険しい山を超えていく。ティーンチャレンジも相当な田舎にあるのだが、ここはティーンチャレンジがある町が大都会に見えるほどの超ド級のドドドドド田舎だった。 
キャンプ場に着き、初めに昌貴先生を発見する。
「おぉ~良太。久しぶり!」
と満面の笑みでいつものハッハッハという笑いで握手をしてくれた。
久しぶりに会った昌貴先生は相変わらずの笑顔でテンションが高い。この人の精神構造は一体どうなっているんだろう。この人は元気が無いところを見たことがない。相当ハッピーな人だ。羨ましい。
そして翌日、早速被災地へ行くことになった。住田は山奥で更にテントの中というほぼ外同然の場所で寝るのは、六月なのに凄まじく寒かったのを覚えている。
寝袋にくるまって、服をたくさん着こんで寝たのだが、寒すぎて目が覚めて持ってきた服を全て着込んでもまだ寒くて大変だったのを今でも覚えている。
後に布団が支給されて、ようやく寒さを凌げるようになったのだが、寒さで寝れないなんて体験は初めてした。それによって寒さを凌いで寝れる家や布団があることにどれだけ感謝をしていなかったのかを気付かされた。
朝に食堂でミーティングをし、祈ってから現地へと向かう。
しばらく車で走っていると、日本とは思えない目を疑いたくなるような光景が目の前に飛び込んできた。僕は何よりも先に恐怖を感じた。ある街は全てが崩壊していて何も残っていなかった。街の中に船が突っ込んでいたり、ボロボロの廃車が道路の脇に積み重ねてあったり、家はほとんどが半壊、もしくは全壊。酷い臭いと大きい蝿がぶんぶんと飛び回る。まるで戦争の後のようだった。
作業は解体や、ヘドロを救ってドノ袋に入れる作業であったりと色んなことをしたが、かなりの肉体労働だった。
ある時、マンションの一室をハイプレッシャーで綺麗にしていく作業をしていた。
その時に、風呂場のヘドロを救う作業を祐介が任されていたが「オオエェ」と酷くえずきながら出てきた。
「ここヤバイ。マジヤバイ」
と大きく目を見開いて連呼していた。
「なんや、お前相変わらず大げさやな。じゃあ俺がやったるわ」
と意気揚々と風呂場に入ると、風呂場は真っ黒な水で一杯になっていた。しかし、臭いも結構臭いぐらいでそこまでではなかったので、やっぱり大げさなやっちゃなぁあいつと思いつつ、スコップで真っ黒な水を救ってみた。すると、スコップの中にあるのは黒い水だけではなく、もれなく魚の死体やウジ虫の死体があることに気付いた。
うげぇっなんだこれは、と思いつつ、その瞬間、今まで経験したことのないほどの悪臭が僕の鼻を突いた。まさに死臭というか。グロテスク過ぎる臭いだった。
この世のものとは思えない狂気の激臭である。
狂気の悪臭が密室にこもり、「ウォェエエ」とえずきながら作業をしていた。
後ろから「ほらな」と祐介の声がする。
それは本当に世にもおぞましい光景と臭いだった。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図である。もっとこの臭いがどれだけ酷いものかと表現したいのが、文章能力と語彙が足らないので伝えることが出来ない。無念。
昼食の時に、その臭いが脳に焼き付いていて、ごはんの香りがその悪臭の香りがするようで、昼食が食べられなかったほどだ。僕が復興支援に来たのは六月だったが、三月、四月頃はこの臭いが街中を覆っていたらしい。僕はその時ふと『罪』というものを考えた。自分の中にある罪とはこういうものだ。
「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生む」という聖書の言葉がある。
この風呂場に溜まったヘドロは、昔の僕の罪が熟した結果のようだ。おそらく僕の心はこんな状況になっていたんだろうなと。
そしてジーザスという唯一の神様はそのヘドロ塗れの僕を嫌な顔一つせずに神様である自分もヘドロ塗れになって、僕を抱きしめて救ってくれ、綺麗に洗ってくれたのだ。ならば僕も嫌な顔一つせず、喜びをもって作業をしようではないか。と思ったがやはり駄目だった。えずきまくりで作業をしていた。

予想だにしない出来事
しばらくサマリタンパースのキャンプに泊まり、色々な人と出会い、充実した毎日を送っていた。日本人でアメリカに渡来し、そこで寿司屋の店長をしている50代の人は、店を任せて何か月もサマリタンパースで寝泊まりしながら復興支援をしていた。
ある人は有給休暇を取り、自費で何度となく復興支援に携わっていた。
ほとんど半強制的であり、お金も自分で出していない僕は頭が上がらない。
いつものように作業をして、昼の休息を取っていた時のことだ。その時は、船で捕れた魚を保管する場所だかなんだか、僕にとっては良く分からないそういう場所があるのだが、そこの屋上で昼食を食べた後に、屋上から海を眺めていた。
魚の青臭さが四六時中するような場所だった。相変わらずハエは良く肥えていて、僕のおなじみの良く見るハエとは一回りも二回りも違う。
それにしても、まさかこの穏やかな海からすさまじい津波が来たなんて誰も予想だにしなかっただろう。などと思いながらしばらく海をぼけぇっと眺めていた。
すると、才門先生と昌貴先生が、何やらとても申告そうな重たい顔をして僕達を呼び寄せた。
そして才門先生が重い口を開いた。
「みなさんにとても残念なお知らせがあります」
あまりにも暗い顔つきだったので一瞬戸惑った。
サマリタンパースの復興支援の活動が何かの理由で出来なくなったのかな?
それにしては表情が険しいが。
僕があれこれと思いめぐらしているうちに才門先生は涙声で「信吾が死んだ」と言った。そう、信吾が死んだと言ったのだ。
僕はその意味が良く分からなかった。他の生徒達が「嘘だろ?なんで?」と大きな声を出しているので我に返った。
僕は誰にも聞き取れない声で「え?」と言ったままそのままの姿勢で動かなかった。
次に僕が思ったのは「なんで?」ということだ。それ以外に考えることは出来なかった。なんだか地面が傾いているような感覚になった。僕は今立っているのだろうか?
 自分が経っている場所から、みんなから遠のいていくような感覚だ。音も良く聴こえない
「信吾が死んだ」
 残酷で冷たい言葉。信吾が死んだ?どういうことだ?死んだ?なんだそれ?どうして死ぬ?何故?死ぬわけないだろう。だってこれからなんだから。これかだよ。
信吾はティーンチャレンジを卒業して、しばらく東北のとある教会で復興支援のミニストリーを行っていた。そして時が経ち、牧師となる決意をして、その復興支援のミニストリーをしてお世話になった教会の牧師先生のところへ一年間献身(その牧師の家に泊まり、仕える)してから神学校へ行く決意をしたらしい。
妹の結婚式があり、結婚式が終わってからすぐに北海道の実家の荷物を全部車に積み、いざ教会へ行こうとする矢先のことだった。
北海道のフェリー乗り場で、不注意事故により車ごと海に転落してしまった。ろくに寝ていなくて疲労が溜まっていたせいらしい。

――昼休息が終わり、午後からの作業が始まる。
 車で次の作業に行く。才門先生と二人きりの車内。僕と才門先生は作業現場に着くまで終始無言だった。重い沈黙だった。才門先生は今何を考えているのだろう。
口の中がカラカラだ。僕は自分の手に持っていたペットボトルを握り締めながら考えていた。頭の中は、『なんで?』でいっぱいだった。そのうち怒りに変わってきた。
ふざけんな。なんで死ぬんだ。おかしいだろ。これからだろ。これからお前は活躍していくんじゃないのか。刑務所にいる友達に面会に行くんじゃなかったのか。牧師になって昔の自分と同じような若者を助けるんじゃなかったのか。
ラーメンは?美味しいラーメン、連れてってくれるんじゃないのか。
もうマラソン勝負出来ないじゃないか。次の沖縄マラソン大会に一緒に出る約束をしてその時までに走りまくって勝とうと思っていたのに。
お前はまだ死ぬべきじゃないだろう。これからじゃないか。これから頑張っていくんじゃないのか。お前はエリートじゃないか。俺なんかと違い、お前は凄いやつじゃないか。何処へいっても認められて。凄い活躍が出来るのに。おかしいだろ。そんなことは、おかしい。
僕は何度も才門先生に
「なんで死ぬんですか?」
「どうして死なないといけないんですか?」
と言おうとしていたが、声を出そうとして、途中で思いとどまった。そんなことは才門先生も分からないことは知っていた。どうして一番信仰熱心で一番良い奴が死ぬんだ?ペットボトルを握る手に力が入り、沈黙の車内にミシミシとペットボトルの潰れる音だけが鳴る。
作業場所に到着し、僕はゆっくりと車から降りて作業に取り掛かろうとした瞬間、「おかしいやろ」と叫び、ペットボトルを投げ飛ばし、うぅぅと唸りながら壁をおもうっきり力を込めて殴った。そしてそのままうずくまった。涙が地面にポタポタと落ちていくのをジィっと見つめていた。
 悔しさ、憤り、悲しみが混じった涙だ。痛みを覚え、ふと拳を見ると拳の肉が剥れ、血に染まっていた。凄い血だった。しかし今の僕にはそんなことはどうでも良かった。
 才門先生が近づいてきて、僕を引っ張り、僕の手を見て「良太、自分で何をしてるのか分ってるのか!」と怒っていたが、僕はぼんやりとしていた。
 そしてそのまま病院に連れていかれることになった。
なぜ一番熱心に神様を愛していて、一番将来有望な男が死んだんだろう。
僕は神様に尋ねた。
「神様。どうして僕じゃなくて信吾なんですか?」と。
僕はしばらく神様に対して怒りを込み上げていた。
ティーンチャレンジ組は作業を中断し、キャンプ場へ帰ることになった。手を怪我した僕は昌貴先生に病院に連れていってもらい、その後キャンプ場へと帰ることになった。帰る支度をしている時に、サマリタンズパースのボランティアの人達が昌貴先生に話しかけていた。昌貴先生は何処へいってもその人柄の良さ、曇一つ無い明るさ  
によって人気者だった。
「昌貴さん帰るの~?どうして?」
と明るい声で聞いてくる人達。昌貴先生は振り絞ったような今出来る精一杯の明るさで「ちょっとね」と言い、笑いながら、帰る支度をしている。いつもと同じように振舞っているが、まるで全然違う。全身の力が入らないのに無理をして力を入れているようだった。しかしその様子の違いは僕一人をのぞいて、誰も気付かないようだ。
この時ばかりはいつも元気で明るい昌貴先生も落ち込んでいたみたいだった。
昌貴先生は車の中で僕を励まそうとしてか、何か色々と喋っていたが僕はずっと無視をしていた。この人、全然空気読めてねーなと思った。
僕とコミュニケーションを取るのを諦めたのか少し口を閉ざし、しばらくしてから賛美を歌い始めた。しばらく昌貴先生の賛美を聴いていると、僕も賛美を口ずさんでいた。
世界には悲しいことがいっぱいあって、それは決して無くなることはないだろう。
 今この瞬間にも、理不尽に死んでいく、殺されていく人がたくさんいる。
 僕は周りで悲しいことがあっても、そこで捻くれることなく、真っすぐ前進していかないと。信吾のようにまっすぐ前進していかないと。
その時ふと思った。そうか、信吾はまっすぐ天国に行ったんだな。
そうか、信吾はもう悲しみの無い天国にいるのか。
なんとなく、心に平安があった。

弔いマラソン
 僕は一度東北の復興支援から遠ざかり、沖縄のセンターへと戻ることになった。沖縄のセンターでしばらく通常通りのプログラムを行うことになる。
ある運動の時だった。僕はすでに四段階だ。他の生徒が病院へ行くので先生が生徒を連れていくことになり、僕は一人で運動をすることになった。
いつもの公園の四百メートルのグラウンドを十周ぐらいしなさいと言われた。
雨がシンシンと静かに振っている。とても静かな公園だ。何の音もしない。
いつものように準備体操を行い、体をほぐす。軽くジャンプすると胸が揺れるのが分かる。洗濯板だった胸もいつの間にかたくましい胸板となっていた。(といってもそこまでゴツゴツムキムキなわけではない)
信吾が胸筋が付いてきたのが嬉しくて良く胸を触っていたのを思い出す。
タンッと地面を軽く蹴って、軽やかにスタートをした。小雨が降っているがこの沖縄の気温にはちょうど良く、少し冷たい空気が僕の肌をピリピリと刺激する。
ふと気づいた。いつもと違う。いつもは走る時、信吾とセットだったのだ。
一人で走るのはおそらくこれが初めてだったのではないだろうか。
 他に誰もいない静かなグラウンドにタッタッタッと自分の足音だけが小刻みに響きわたる。
人はいつか死ぬ。早いか遅いか、それだけだ。そしてこの大地に生きた証を、生きた痕跡、足跡を残していく。その痕跡は色々な場所に刻まれているし、色々な人の心に刻まれている。心に刻まれた大切な人の痕跡はそのままその人の心に生涯残る。
それはとても大切なものだ。その大切なものを受け継ぎ、そして誰かに流していく。そうしてその大切なものは色々な人に受け継がれていく。
僕は自分がキリストを信じて変わった証をするために生涯を賭ける。あらゆる情報が溢れ、飛び交うこの世の中で、明日の常識は昨日の非常識と言われるほど何もかもが変わっていく世の中で、唯一確かだと言えるもの、確固たる信念を持って確かな本物を伝えたい。そのためには命を賭けることさえ出来る。
 僕が確かだと言えるのは、自分が罪人で、イエスキリストが救い主だということだけだ。きっと、信吾も同じだろう。
急に僕のペースがグンと上がった。
僕の心の奥底から何かが湧き上がってきた。それは何かエネルギーのようなもので、ある人は闘志と呼び、ある人は情熱と呼んだりする、そういった類のものだ。それは僕の心に、こう訴えかける。
「走れ!」
急に涙が頬をつたった。
グラウンドの土を勢いよく、シューズで掘るように蹴った。それと同時にスピードは一気に上昇した。十周?三十周、いや、四十周走ってやる。四百メートルのグラウンドを四十周。十六キロになる。相当なペースで飛ばしているので、普通の一六キロメートルとは違う。
 二十周のところで足がズシンと重くなる。しかし意地でもペースは緩めない。
二五周のところで立ち止まりたくなった。足に激痛が走る。痰が絡み嗚咽する。
だから僕はペースをグンと上げた。ほとんどダッシュだ。
三七周。思いに肉体がついていかない。ペースが下がる。すぐに僕はペースを上げた。三八周目。足が鉛のようになり、ペースが下がる。僕は更にペースを上げた。
口の中が血の味がする。後二周。僕は安堵した。
三十九周……四十周を過ぎたのにも関わらず、僕は止まらなかった。こんなところで止まりたくなかった。
彼はキリストを伝えるために命を賭けた。駄目だった自分がこんなに変わったんだ。人生には希望があるんだ。あなたは愛されている。あなたには使命がある。
そのことを伝えたくて堪らなくて、休む間も作らずに突っ走った。あまりにも突っ走り過ぎて天国へ行ってしまった。
マザーテレサの言葉を思い出した。
『いずれにせよ、もし過ちを犯すとしたら、愛が原因で間違った方が素敵ね』
彼は天国で神様にきっとこう言われただろう。
「私のためにそこまでしてくれてありがとう」
結果ではなく、その心が大事なのだ。
 足がもつれ左に大きくそれる。しかしすぐに真っ直ぐ立ち直し、全力で走る。つまりダッシュだ。
 四十一週目。まだ僕は走れる。
手を必死に動かせば足は無理矢理ついてくる。
 四十二週目。「ハッ」と大きく息を吐き、前を見つめる。
 四十三週目のゴールを切ったところで僕は足を止めた。
 僕は自分の限界を知り、そしてその限界を超えた。

「出来るじゃん!」
信吾がそう言ったような気がした。
人にはそれぞれ特別に与えられた使命がある。僕には僕の道があり、僕のゴールがある。自分にしか出来ないことがこの遺伝子に刻まれているのだ。信吾はその短い生涯の中、全力で自分の使命を全うしたのだ。

徹也先生との和解
六月も後期にさしかかり、この時にティーンチャレンジはしばらくセンターを東北へと移転することになった。僕の四段階はめまぐるしく日々が流れていった。東北でしばらく復興支援をして、七月からは東北のセンターで沖縄の時と同じような流れのプログラムで日々が過ぎていった。
ある時、教会の朝の礼拝が終わった後に徹也先生に怒られた。その時、僕はストレスが溜まっていたせいか、初めて先生にキレた。教会の椅子を直す時に椅子をおもいっきり壁に叩きつけた(教会の物なのに)
「良太、こっち来い」
徹也先生が僕の腕を強引に引っ張った。
「なにすんねん」
と、腕を引き離そうとする。
「ちょっと外散歩しよか」
と徹也先生が珍しく、少し優しめな口調で言った。仕方なく二人で散歩することになる。
朝方の東北の六月は結構冷える。朝の礼拝は五時半からで、終わるのが六時半ぐらいだ。今は朝七時。一番冷える時間帯かもしれない。少し霧がかった町を徹也先生と二人で並んで歩いていた。なんとなく、親父と自転車でドライブした夜を思い出した。
静かな朝だった。しばらく歩いていると椅子があったのでそこに二人で腰かけた。
徹也先生が口を開いた。
「俺も色々と辛く当たってごめんな。でも良太が見込みあるからやで。他の三人には全く怒ったことないやろ。見込みなかったら辛く当たらんよ」
と徹也先生。僕は無言だった。
「お祈りしよか」
と徹也先生。
「はい」
と小さい声で返事をした。徹也先生は静かにお祈りを始めた。
――お祈りします。
「神様。喧嘩した後に話し合って仲直り出来たことを感謝します。今まで良太に辛く当たって良太を傷つけたことをお赦しください」
徹也先生がお赦しくださいと祈った時、徹也先生は涙を流し、声を震わせていた。徹也先生が泣いたところを初めて見た。徹也先生は心を強く持って強くあるようにと意識しているような人だったので、徹也先生が僕の目の前で涙を流したことに驚いた。とても優しい祈りだった。僕も釣られて泣いた。徹也先生には良く釣られている気がする。
人が神様の前で悔い改めている姿はとても優しい気持ちになる。その姿は人の嫌な部分が全て洗い流され、その人が最も清く映る瞬間だ。全く濁っていない混じり気の無い、透き通った水。
ティーンチャレンジは暑苦しい男臭い集団だが、その中でも徹也先生は一番暑苦しい男だと僕は思う。というよりも一番無茶でぶっ飛んでいる。
マラソン中に坂道をダッシュさせるなんてぶっ飛んでいる。だからこの僕と徹也先生が涙を流す場面もそんなに清々しいドラマのワンシーンではない。
スポ根アニメ(熱血スポーツアニメ)で男二人が試合に負けて歯を食いしばって涙を流すようなシーンが妥当だろう。スポ根情熱的な涙だ。何処まで行っても暑苦しい。漢臭い。
徹也先生はティーンチャレンジのインターン生を卒業してから、今は沖縄にチェーン店を開き店長として活躍している。ちなみに僕がインターン時代に卒業した二人の生徒が徹也先生の店でバイトをしている。

卒業
それからしばらくして、僕以外の生徒三人がタバコを隠れて喫煙したとのことで退学になった。なんと、ティーンチャレンジ卒業の残りの十日弱は僕一人で過ごすことになったのだ。なんてこったい。一寸先は全く分からない。
僕は唯一、東北で卒業したティーンチャレンジ生だ。
信吾が献身しようとしていた教会で卒業式をしてもらい、そこの牧師先生にお祈りもしてもらった。感謝なことである。
冒頭でも話したが、僕が生徒時代の頃はティーンチャレンジの四期生と言われている。ティーンチャレンジの四期生の卒業生は信吾と僕の二人だけだ。
四期生は全員合わせると十五人ほどいたが、みんな途中で帰っていった。そんな狭き門のティーンチャレンジを卒業することが出来たのだ。
この何をやっても続かなかった僕がだ。これは奇跡以外の何者でもない。ラッキョウの奇跡よりも凄い。
 僕は今まで何かをやりだして一年以上続いたことなんてなかった。一年間真面目に取り組んだことなんてなかった。
そんな僕でも新しくなったのならば、誰でも新しくなるのだ。僕でもだということは誰でもだということなのである。70億人いるなら70億人の人間に可能性があるということだ。
 僕はクリスチャンとなり信仰生活を歩むことによって、生まれて初めて心の平安、喜びというのを得ることが出来た。
 大阪に帰ってきて家族と再会した時に、心も体も変わった僕を見て母親も義理の親父も、とても驚いていた。というのも僕は体重が一年前は四十六キロしかなくて、青白くてガリガリだったのだが、帰ってきた時には体重は六十キロあり、がっしりとしてそのうえ真っ黒だったのだ。念願の細マッチョ達成である。僕は母、父、兄、そして迷惑をかけた友人達に謝罪した。そしてみんな僕のことを赦してくれた。
赦すというのは本当に愛のある行為だと赦されたことによってまた実感する。
僕は母にとても迷惑をかけた。精神的に追い詰めるほどに。
「これ以上良太が人様に迷惑をかけるなら死んでほしい」
と思ったほどだ。しかしそんな母が赦してくれたのだ。母の愛は深い。
 今では母も義理の親父も婆ちゃんまでも、毎週日曜日に教会の礼拝に行き、熱心なクリスチャンへとなっている。
 今僕と付き合ってくれている人達はみんな僕のことを日々赦してくれている人たちだ。クリスチャンとなっても罪人だから人を傷付ける言葉も吐くし、迷惑もかける。
知って傷付け、知らずに傷付ける。いくら変えられたといっても僕は元々が相当酷いもんだから、まだまだ酷いもんである。
しかし、それをみんな赦してくれているからこそ日々僕と仲良くやってくれているのだ。僕は毎日誰かに赦されて生きている。
何よりも神様に生涯における全ての罪が赦されたのだ。
だからこそ僕は、人が自分に犯す全ての罪を赦していく。そして神様が僕を愛してくださったように人を愛していく。

第四章・YES!
あなたは何か意味があって、今、生きているということだ。
帰ってきてしばらくして、進路について悩んでいた。野田牧師の勧めで神学校へ行かないかと言われていたが、ティーンチャレンジを卒業してすぐに神学校というのも気が引ける。というのも、神学校へ行くと寮生になるのだが神学校生活というのはとても規則が厳しくて大変だと聞いていたからだ。
しばらくバイトでもして自由になりたい。という思いがあった。楽をしたいという僕の弱さが出ていた。だけどみんなは神学校を勧める。
驚くことに野田先生の教会と実家と神学校は全てかなり近い距離にあった。
電車一本、乗り換えなしでいける距離なのだ。神学校へ行くとなると教会、実家、神学校の行き帰りをしないといけなくなるので、この交通機関はかなり便利だ。それに僕の行く神学校(生駒聖書学院)は九月から途中入学が出来る。今は八月。まるで全てがあらかじめ用意されていたかのようなことである。
だけどまだ、神学校へ行きたくなかった。せめて後一年……と。
僕は牧師や伝道師といった教会の働きをするという夢を持っていた。だけどまだなりたくない。何故なら、もう少し遊びたいからという思いがあったからだ。
しかしある日、シャワーを浴びている時のことだ。その時のことを鮮明に覚えている。シャンプーを髪の毛につけ、目を閉じてゴシゴシと洗っている時に、ふとこういう強い思いが来た。
――『信吾は、自分を変えてくれた神様の愛を伝えるために、卒業した後、すぐに東北の復興支援をし、教会に一年仕え、神学校へ行く決意をしていた。彼は使命のために突っ走った。瀬上良太はどうだ?』
はっとした。
僕は風呂場から出て、リビングに居た母にこう言った。
「やっぱり九月から神学校に行く」
――神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」
ローマ八章二八「災い転じて福となす」ということわざとこの聖書の言葉は似ている。
信吾の死を通して、東北では信吾と携わった人達の何人かが東北の復興支援のために、日々その身を捧げて被災者のために働いている。
僕は信吾を通して神学校へ行く決意が出来た。もしあの時行かなかったら弱い僕は神学校へ行くのが億劫になり、昔のような生活へとグイグイ、ズルズルと引きずられて元に戻っていた可能性もかなりあった。いや、きっとそうなっていただろう。
そうして生駒聖書学校へ入学しての三年間……ここでそのことを書いてしまうと、後二百ページは続いてしまう。しかしそんなページ数はもう残されていない。200ページを一ページにまとめてしまおう。
詳しくはまた機会があれば、僕の証言の続編にてその話もしよう。
生駒聖書学院では、ティーンチャレンジで学んだことを実践していき成績は常に上位に入っていた。三年の最後の期末試験では二位を取った。
(一位を取っていたら高慢になっていたので神様の計らいだと信じている)
僕は今まで成績なんてものは下からトップ五に常に入っていたほどだ。
その僕が常に上位キープをしていた。そうして、生駒聖書学院でもたくさんの試練を乗り越えていき(ほとんど自分が蒔いた種かもしれない)たくさんの祝福があった。
何よりも最後の卒業式で三年間の間にお世話になった人や、僕が積極的に関わり、自分なりに愛を持って接してきた人達がみんな卒業式に来てくれたことが一番の祝福だった。卒業祝いのプレゼント等をたくさんいただいた。自分のためにここまでたくさんの人がお祝いをしてくれたことは奇跡だ。
僕は二十四歳の時、
「今死んだら葬式には誰も来てくれないどころか、みんな俺が死んだことに喜ぶだろうな」
と思っていたほどだ。実際死んでいたらそうだっただろう。今死んだらそれなりに僕の葬式に来てくれるに違いない。結構自信ある。でもまだ使命を全うしていないので死なない。
そんなどうしようもなかった僕が、ここまでお祝いをしていただけるなんてあり得ない。でも実際にあったことなのだ。あり得ないと思っていたことが起こる。
 それが奇跡。それを幾度となく経験していった。
神学校を卒業してから再びティーンチャレンジに戻り、インターンとして一年間働くことになった。その一年間も語りだすと後150ページは必要になるので、1ページでまとめよう。
インターン時代にはもう一度東北の復興支援にも行く機会が与えられ、さらには広島の災害支援のボランティアにも行かせていただいた。
僕が救われてティーンチャレンジに行き、そして生駒聖書学院を卒業し、今の今までは最高に充実している。
それは今起こっている全てに意味があるからだ。だから辛いことがあっても、それも意味があってそういう道を通っているというのが分かるので、過去のような虚しさというのは一切無かった。僕の人生の全てに意味があり、僕にはこの人生において使命が与えられていて、神様の計画があるからだ。
高校も専門学校も中退した僕が、ティーンチャレンジのフルマラソン大会の時以来、やると決めたことはほとんどやり通していくことが出来た。抜けているところは多少(多々)あるがみんなの助けもあり、やるべきことをこなしていくことが出来ている。
 何も出来ない僕が、何でも出来る男となったのだ。
何でも恐れずに挑戦出来る男となったのだ。自分の持っていた今まで使い道が無く眠っていた自分の才能を発揮することが出来ている。僕の二十六年間の悲惨な人生を覆すようなことだ。
僕がインターンの間に三人の生徒が一年のプログラムを終えて修了していった。三人とも本当にいいやつで、生涯付き合っていくつもりだ。その中に過去の悪友である栄光もいる。栄光とは良く喧嘩をした。なんでこんな奴とこんな長い間付き合いがあるんだろう?と思うほど、良く喧嘩をした。おそらく似たところがあって、そこが引き付けあうのだろう。
そんなこんなでティーンチャレンジの一年間は過ぎてゆき、ちょうど横浜でティーンチャレンジ十周年記念があり、その大会で卒業生全員が五分ほどスピーチもさせていただいた。そして僕はこのYes!Future!をシリーズ化して本を出していこう、という使命があったので、インターンの一年が終わってから沖縄に一か月ほどいて、ティーンチャレンジにかかわっている人達のインタビューをした。四人インタビューしたので、既にシリーズ第五段までは出すことが出来る。

挫折
沖縄の一か月間を終え、やっとこさ大阪に帰ってきた。大阪に帰ってきてすぐに働こうと思い、ハローワークに行くと、障がい者の方の作業所で就労支援B型の作業所のスタッフの仕事があった。僕は分かりやすい形で、資格が特になくても人の役に立つことが出来る仕事ということで、老人ホームか、障がい者の方の作業所で働こうと思っていた。どちらかというと作業所で働きたかったので、そこに応募した。
すると、面接の時にすぐに採用が決まった。僕は飛び上がるほど嬉しかった。
なんてたって初めての就職である。そして僕は一生懸命働いた。社内での評判もそれなりに良かった。素晴らしい職場だった。
だけど、二か月ほど働いていると、あることで大きく挫折してしまったのだ。
そして誘惑に負けた僕は過去のような生活に一~二週間ほど戻ってしまったのだ。しかし、その時に僕はとても嫌悪感でいっぱいになった。変えられた僕は昔やっていたようなことを楽しむことは出来なくなっていたのである。そして悔い改めた。その一~二週間の間に色々な人にとても迷惑をかけてしまった。そして職場を退職してしまった。
信仰生活の中で一番の挫折を体験したのだ。だが、そこで大きな解放もあった。それは人の目をいちいち気にしなくなったということだ。僕は人に評価してもらいたい、人に認めてもらいたいという思いが強すぎて、嫌われたくないが故に、いつも人に嫌われないようにと努力をしていた。しかしその生き方はとても疲れるのである。あることを通してその思いから解放されたのだ。昔は人と喋るのが億劫だったが、解放された今となっては、人と喋るのがとても楽しくなった。
今僕はライティング(商品のレビューや、何かの体験談等を書いて業者にその文章を送ることによってお金を貰えるまっとうな仕事です)のバイトをしながら、作家になるために日々読み続け、書き続けている。僕は本気で作家になれると信じている。
三浦綾子さんや遠藤周作さんのようなクリスチャン作家になれると信じている。
もう後には引けない。前進しか無い。本当に選択肢が「やるしかない」。
この信仰の道を走っていると、たまにつまずいて倒れる。しかし立ち上がる。倒れた時に、このまま倒れていたいと思う。起き上がってまた走りだすのは辛いからだ。 
倒れてそのまま寝ていたい。しかし寝てしまうと僕はもう二度と起き上がれない。もう二度と走れない。
走ることはおろか、歩きもしない。だがそこはゴールではない。それは望んでいない。僕のこの道は圧倒的勝利の故に、フィナーレを迎えるのだ。
キリストは十字架上で死を打ち破った。それを信じるクリスチャンも、この世において最後には勝利をするという約束が与えられているのだ。
この『信仰』という道を貫き通すと決意しているのは、それは神の愛というのを知ったからである。僕はティーンチャレンジでクリスチャンとなった。初めは良く分からずになった。しかし、ただ神というものが知りたかったし、自分にとって必要だったから求めた。求める者には答えてくれるのがこの神様だ。
そして、ティーンチャレンジで『四の五の言わずに信じなさい』と言うほど、神様は自分自身の存在を現してくれた。知れば知るほど信仰は深まっていく。
なるほど、クリスチャンというのは世界人口70億人中、20億人前後いるだけのことはある、と感じる。

君は愛されている
この自伝の中にも一度出てきたが、ティーンチャレンジにいる時に、いつもと違う教会に礼拝に行くことになった。女性が牧師をしている綺麗な教会だ。そこに特別ゲストとして来た人がいた。それは盲目のピアニストのクリスチャンの方だった。彼はピアノを弾きながら賛美を歌っていた。
その中の賛美で『君は愛されるために産まれた』という賛美を歌っていた。
どんな歌詞かというと

――君は愛されるため生まれた。君の生涯は愛で満ちている。
君は愛されるため生まれた。君の生涯は愛で満ちている。
永遠の神の愛は我らの出会いの中で実を結ぶ。
君の存在は私にはどれほど大きな喜びでしょう。
君は愛されるため生まれた。今もその愛受けている。
君は愛されるため生まれた。今もその愛受けている。――
という歌詞だ。僕はこの歌を聴いた時に殺意が沸いた。怒りがこみ上げ、虫唾が走った。周りのやつらを全員ぶっ飛ばしたくなった。
僕にはこのシンプルに伝えた「愛されている」というメッセージがとても受けつけなかった。みんな「とても良いね。感動した」と言っている中、僕は今にも爆発しそうだった。歌の途中に教会の窓ガラスを全部割って出て行ってやろうかと本気で思ったぐらいだ。そして、その盲目のピアニストの人に対してもとても汚い思いを抱いてしまった。それは僕がそれだけひねくれていたからである。
あるロックバンドの歌詞で『愛だの恋だの抜かしても、結局のところ俺たちは動物なんだぜ』といった感じの歌詞がある。
僕はその歌詞に惹かれるようなひねくれた人間だ。
しかしその後のクリスチャンライフで『君は愛されるために生まれた』の賛美は、何かと縁があり、聴かされることになった。その都度、肩をフルフルと震わせていた。感動しているのではない。虫唾が走っているのだ。いつも「勘弁してくれ」と嘆いていた。まるで「君は愛されるために生まれたアレルギー」のようだ。
略して「君愛アレルギー」とでも言おうか。
しかし、そんな僕に衝撃的な変革があった。ティーンチャレンジを卒業してから、野田牧師先生の教会で奉仕をしながら神学校の寮生として勉学に励んでいた時のことだ。クリスマスに教会でクリスマス礼拝を行うことになり、その中で子供たちの特別 
賛美があった。歌う賛美は……
「君は愛されるために生まれた」だった。またか。またお前か。と僕はため息をついた。
そして子供たちが歌いだす。

――君は愛されるために生まれた 君の生涯は愛で満ちている

あどけない子供たちの歌声と少し恥ずかしがった表情に、いつも騒いで悪いことばかりしているのと違って、それが少し面白いなとクスっと笑った。
その瞬間、はっと感じた。
いつも親が子供に接するやり取りの一つ一つ、親が子供にかける言葉の一つ一つ、子供が「ママ、パパ」と泣きながら親のもとへ走っていき、親はあやして抱き上げる。
その子供たちと親との一つ一つのやり取りが鮮明に思い出されたのだ。親が子供と接するその全てに愛があると。どんな些細な事でもその中に愛がある。僕はまるでその時、見えなかった目が見えたような気分だった。親と子供のやり取りの一つ一つ、どんな些細なことにも親の愛が見える。どうして今まで見えなかったんだろう。
そして神様の愛もそうだ。僕の生活のあらゆるところに、ジーザスの愛を感じることが出来る。あぁ、そうか。愛ってこういうことを言うのか。これが愛なんだ。
僕の中で目に見えない愛が具現化された瞬間である。
その瞬間、涙が止まらなくなった。僕は人前で泣くことが出来ない。だから感動して泣きそうになっても、いつも食い止める。しかし、この涙は止まらない。視界が歪み、何がなんだか分からなくなり、地面に伏せて泣いていた。
胸が締め付けられて暖かい気持ちが体の中に流れた。歌でこんなに泣いたのは初めてだった。否、こんなに泣いたのは初めてなんじゃないだろうか。
それからというもの、この『君は愛されるために生まれた』が教会で流れると僕はその都度、涙が止まらなくなり僕を悩ませた。今度は別の意味で勘弁してくれと思った。この賛美には色んな意味で泣かされっぱなしだ。
自分が大嫌いだった歌が大好きな賛美へとなったのだ。なんて素晴らしいことだろう。 
僕が反抗したものは権力?世界の理不尽さ?偽善者?僕は何故反抗していた?僕は一体何故それをしたかった?
そう、僕が一番強かったのは『愛』に対しての反抗だった。
「君のためを思って」
「君のためなんだよ」
そういいながら結局は自分のため。条件付きの愛。人はみんな自己中心で自分のことを考えて生きている。愛などない。偽善者どもめ。化けの皮をはがしてやる。僕にはいつもその意識があった。
愛など無い。しかしそれとは裏腹に、僕は誰よりも愛を求めていたのだ。だからこそ女性に対して酷く依存していた。おそらくドラッグよりも女性に対する依存のほうが強かっただろう。僕は完全な愛が欲しかったのだ。決して僕のことを見捨てない愛。
僕が極悪非道で無職だとしても、僕が全身不随で頭がおかしくなったとしても、僕が誠実で愛に溢れ年収5000万あったとしても、僕がどういう状況でどんな人間であれ、僕の存在を愛してくれる。そんな愛を求めていた。しかし、どの女性にもその愛は無かった。僕は相当酷い男なのでいつもフられてばかりなのだが、いつも裏切られたと感じていた。あの時は「ずっと一緒」などと言っていたくせにと憎悪していた。(圧倒的に僕が悪いのだが)
僕にも人にも確かに愛はある。
愛の無い人はいない。しかしその愛はみな不完全なのだ。
愛の無い人はいないが、完全な愛を持っている人はいない。
父の愛も母の愛も、彼女にも確かに愛はあった。完全では無いが、僕を愛してくれていたのだ。
母は絵の才能があった。美術の学校に行きたかったのだが、大好きだった祖父に
「何を考えている!」と一喝され、反対された。
祖母は妹には好きな物ばかり買ってもらっていたのに、母にはあまり物を買ってくれなくてエコひいきをされていると感じていた。その母の傷から、母は僕になんでも物を与えてくれ、そして「何かをしたい」というならお金はすぐに出してくれた。しかし、母の傷を埋めようとする愛は不完全だった。
 自分が不自由だったために、なんでもしてあげたいという思いは逆に僕が何も出来なくなり、不自由になってしまったのだ。そして僕はそれを求めていなかった。
僕が母に求めていたのはスキンシップだった。母は足の病気で入院していたのと、仕事が忙しかった事などから、僕とのスキンシップの時間が極度に少なかった。
そのうち、僕は母から離れていくようになった。
そして僕はそれを付き合う彼女にいつも求めた。だが、それを彼女に求めても求めても、それに対する飢え乾きは収まらなかった。そしていつかフられる。
もっと感覚を刺激するドラッグに求めても、その乾きは満たされず、逆に虚しさだけが募っていくことになった。
母には確かに愛があった。しかしそれは母の傷から、良かれと思ってしたことだが、僕が一番求めていたのはそれじゃなかった。
小学生の頃の一つの深い傷がある。
ある日、先生からみんなに宿題が出された。それは自分のお母さん、もしくはお父さんに『自分の子供について』の感想文を書いてもらい、それを先生に提出するとのことだった。僕は早速、母に趣旨を伝えて書いてもらった。そして全員が提出し終えた後、先生が
「それでは今からみんなのお母さんが書いた自分の子供についての感想文を読み上げていきます」
と言った。みんな「えーっ!」と叫んで騒いでいた。
一人ずつ、母から自分の息子についての感想文が読み上げられていく。
読み上げられている時の子供はとても恥ずかしそうだったが、とても嬉しそうだ。
というのも、その母から息子への感想文は本当に感動するようなことが書かれていた。普段は言えないが、どれがけ自分の息子を愛しているかということが何枚もの用紙を通してそこに書かれていた。それはまさに愛の具現化だった。まさしく母から子に向けたラブレターだ。それと同時に、僕は違和感や妬みのようなものを感じていた。
僕は自分の順番がまわってくると同時に嫌な予感がした。ドキドキと嫌な動悸がした。そして僕の番が来た。
「それでは次は良太君。
先生は僕の母が書いた手紙を観て少し躊躇した。そしてしばらく間を置いてから読み上げた。
「良太は、体が細いことを気にしているようですが、勉強を頑張って欲しいです」
先生が気まずそうに
「終わり」
と言う。誰かが言った。
「え?それだけ?」
僕は「ははっ」と笑いながら、なんでもないような顔をした。
『お母さんは仕事が忙しいし、こんな意味の無いことは嫌いなんだ。こんな感想文なんて、なんでもないことじゃないか。どうでもいいことじゃないか』
今でもそう思う。母は当時、僕達を食べさせていくために大変だったのだ。それにとても合理主義な人だった。しかし、どうでもいいことではなかった。一見なんでもないことが一番大事なのだ。
あの感想文は親が子供をどれだけ認めているか。どれだけ自分の子供の個性、長所や短所を知っているか、どれだけ日々、心と体でスキンシップを取っているか、どれだけの愛があるかの現れだった。その感想文を嬉しそうに長い時間かけて書いている親の顔が目に浮かぶ。母は日々の生活の中でそれだけの余裕が無かった。だから母はあの時、感想文をなんでもないものだから、どうでもいいものとして扱ってしまったのだ。僕の求めていたのは合理的なものじゃなかった。
それはお金や物質ではなく、日々の生活の中での二人だけのなんでもないような会話、なんでもないような親と子の体の触れ合い、心と体のスキンシップだった。心と体を触れ合うことだった。自分自身もそれに気付いていなかったのだ。
子供の頃、僕はスキンシップを一番求めていたのに、自分自身でそれに気付いていなかった。現代においての日々の忙しい生活の中で、もっとも大事なことはなんでもないようなスキンシップだと感じる。
僕が何処へいっても居場所が無いと感じていたのは、母に愛されていないと感じていたせいだ。親の愛を感じなかったせいで、僕は自分が愛してもらえる居場所、最も大事な愛というピースが欠けていたため、その愛を捜し、そしてそのピースの代わりとして、ドラッグや女性、セックス等、何かの快楽に依存していたのだ。
ジーザスの完全な愛を知った時、捜していたピースが埋まったのだ。
では、母に愛が無かったのかというとそうではない。母には確かに愛があった。僕を一生懸命愛してくれていた。僕はそれに気付かなかったのだ。何故かというと、僕は別の形の愛を捜し求めていたから。母の愛に気付かなかった僕に責任があるのだ。母は不器用ながらも自分なりに一生懸命、僕を愛してくれていたのだ。
母は母で同じように育てられたのだ。誰が悪いというわけではなく、否、言うならば、みんながみんな悪いのだ。人は七〇憶人、全員罪人なのだ。
僕は自分が弱いからこそ、昔、弱い者の味方が大好きだった。だから革命家が好きだった。革命家は虐げられている権利を勝ち取るために、弱い一般市民のために戦う。そこには確かに愛がある。
ロックンロールが好きだった。特にパンクロック。特にブルーハーツというロックバンドは
「お前を蔑みバカにする世界なら僕が蹴りを入れてやる」
「誰も頑張れって言ってくれないなら俺が頑張れっていってやるよ」
といったように弱い僕を励ましてくれる。そこには確かに愛がある。しかし革命家は自分のためでもあるし、戦うのは権力を横行する奴らに対する憎しみという感情もある。ロックンロールも歌っている自分自信のためでもあるし、憎しみの感情もある。 
人には確かに愛はあるが、しかし確かに不完全なのだ。
そして弱い者の味方が大好きな弱い僕にとって、完全な愛に反抗し、完全な愛を求める僕にとって、聖書の神様に行きつくのは必然だ。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。
すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
コリント人への手紙第一2章28節

ジーザスは完全な愛を示してくれたのだ。ジーザスは僕のために死ぬ必要は無かったのだ。別に僕を救う必要は全く無い。でも僕を、みんなを愛しているからこそ、この宇宙を創造されたほどの偉大な者が自らの命を犠牲にしたのだ。
なんの疑いも、なんの裏も、他になんの理由も無い。僕のために死んでくれたのだ。
これよりも純粋でシンプルで深く完全な愛は他に存在しない。
そして、ジーザスは僕が産まれてから死ぬまで、変わらぬ愛を持って愛してくれているのだ。そう、これは僕が求めていた完全な愛だった。
その愛を受け取るか、受け取らないか。僕はずっと受け取らなかった。
しかし、受け取ったのだ。そして僕の欠けていたピースは埋まり、真の自由と虚無の化け物から解放されたのだ。
「君のためを思って」
と言われてもそこに偽りはない。だから僕はこの聖書に書かれていることを信じている。また、ジーザスは日々の生活の中で、人や色々なものを通して僕達に心と体のスキンシップを取ってくれている。僕はそれを知ってそれを日々感じている。そして僕はこのジーザスのような愛を持って生きることを毎日、目標としている。僕も人間だから完全な愛を持っていない。しかし、ただ純粋にあなたのためにという完全な愛を持って生きていたいと願い、そのように心がけている。

フューチャー!
僕の生き方が具体的にどのように変わったかというと、ノー・フューチャー!と叫んでいた人生から、イエス!フューチャー!と叫ぶ人生へと変わったのだ。
何も出来ない。死にたい。と思っていた人生から、自分は何だって出来る。生きたい!と思えるようになったのだ。絶望から希望へと確かに変わった。
 それは揺るがない事実だ。
今日本では自殺する人が毎年三万人近くいる。一億総鬱国家と言われるほど病んだ時代にある。
僕の友達は大学生の時に自殺をした。彼は確かに僕に助けのサインを出していた。しかし僕は自分の楽しいことばかりをして、彼のサインを見て見ぬふりをしていたのだ。
 あの時、彼に助けの手を差し伸べていたら彼が死ぬことは無かったんじゃないだろうか。
僕は絶望の中にいる人達に希望を伝えたい。
あなたの人生には意味があり、あなたには特別な個性があり、特別な才能があり、あなたにしか出来ない特別な使命がある。何よりも、あなたは愛されているんだと。
そのためにあなたはこの世に生を受けた。それは他の誰でもない、あなたにしか出来ないことなのだ。あなたはこの世で生きている限り、決して消えない希望がある。
それは、あなたには使命があり。そしてあなたはとてつもなく愛されているということだ。この二つは決して変わらない普遍のものである。
僕が伝えたいことはノー・フューチャー!ではなくてイエス!フューチャー!だということだ。あなたは何か意味があって、今生きているということだ。
必要の無い人間なんて誰一人いないということだ。あなたはあなただけにしかない、素晴らしい個性を秘めているということだ。
そしてあなたは特別に愛されているということだ。そう、特別に。
あなたは愛されている。繰り返して、繰り返して、何度も言いたい。
あなたは愛されているのだ。
それが本当に分かったのなら、人生は最高に素晴らしい。
 それが分かったのなら、死にたいなんて思わなくなる。産まれてこなきゃ良かったなんて思わなくなる。生きたいと思えるようになる。
産まれてきて本当に良かったと思えるようになる。それを伝えていくために僕は命を賭けることが出来る。
そのために生涯を捧げていくと決心をしている。
僕の人生はイエス!フューチャー!と叫べるようになることでようやく始まった。
明日のことを誇るな。一日のうちに何が起こるかわからないからだ
と聖書に書いてある。
明日のことは分からない。それどころか一秒先のことも人には分からない。
しかし聖書にはこうも書かれている。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。                   ピリピ人への手紙四章六・七節

僕は二十五年間、偽りの自由という名の牢獄にいた。しかし、その希望の無い牢獄から解放された。牢獄から解き放たれ、真の自由を得、揺るがぬ希望、確個たる信念を持つことが出来た。僕はその希望を牢獄にいる人たちに伝えるために生きている。



死んだように生きる人生は卒業した。僕は生き返った。
僕は生かされている。
僕は全ての人達に希望を伝えるために生きる。



――これが僕の体験した半生です。
 これを読んでいるあなたにはどんな素晴らしい、ドラマチックな人生がこれから待ち受けているでしょうか。
あなたに用意された自分だけの舞台、自分だけの使命、
自分だけの道、自分だけの特別な人。

 それはあなただけに与えられた素晴らしいものだ。
『事実は小説よりも奇なり』
というが、やはりそれは人の造ったストーリーよりも、この壮大な世界の中にある神の摂理は人の想像力を凌駕しているからだろう。
平凡な人生なんてない。
 全ての人に想像を絶する感動的な素晴らしい人生が待ち受けている。
 その人生はすでに用意されてあるものであり、
そして自ら創造していくものでもある。

あなたには希望がある。決して消えない希望がある。
そう、生きている限り、決して消えることのない希望があるのだ。
あなたのこれからの人生が最高に祝福されたものとなりますように

                                 YES!                               

私はこのYes!Future! シリーズの本を通して、人が救われ、信仰が燃やされることを堅く信じています。
この本を出版するにあたり、何処の出版社も通さずこの本の制作の全ては自主製作であり、また製作費も自費となっております。
このミストリ―の継続のため、献金によってご協力して頂けましたら幸いです。
是非よろしくお願い致します。
振り込み先は以下の二つのどちらかとなっております。
ご都合の良いほうに、重ねてよろしくお願い致します。


りそな銀行 東大阪支店
普通口座0233336 瀬上良太(セガミリョウタ)


■ゆうちょ銀行 ■金融機関コード9900
■店番 418■預金種目 普通(または貯蓄)
※預金種目は「普通」「貯蓄」のいずれでも振込可
■店名 四一八 店(ヨンイチハチ店)
■口座番号 9514588 
■名前 セガミリョウタ
シリーズ第二部は12月に発売予定です。
ご購入の際はこちらまでご連絡ください。
瀬上良太
TEL 09067595341
メールgtoryota@gmail.com
著者のフェイスブック
https://www.facebook.com/segami.ryota


アドラムキリスト教会
http://www.adullum.com/
牧師 野田詠氏
大阪府東大阪市喜里川町2−18
ひょうたん山三番街商店街

依存症更生施設
ティーンチャレンジジャパン・インターナショナル
ティーンチャレンジジャパンにご興味のある方は、お気軽にご連絡ください。

http://www.teenchallengejapan.com/
086-244-6080又は080-3574-4499
月~土曜9:00~19:00 相談無料・秘密厳守

Yes!Future!

Yes!Future!

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 時代・歴史
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-13

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著作権法内での利用のみを許可します。

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