携帯電話恐怖症シリーズ1(将倫)

※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)

初出は2008年5月発行の静寂17号です。
将倫の文芸部投稿初作品となります。

慢性的携帯電話恐怖症

 僕は都立の共学高校に通う学生、一年生。
 父は都内の携帯会社に勤める一社員、いわゆるサラリーマン。
 母は家内の全てを任せられる専業主婦、そして極度の携帯依存症。


 事の発端は父が昇進したことだろうか。それまでは僕の家族は至って平凡、平和だった。朝家を出る僕と父を見送る母、学校へ行く僕、仕事へ行く父、家で家事に務める母。毎日が平らに進んでいく。この時には母はまだ普通だった。自分の携帯電話を持ち、友達と他愛のない内容のメールや電話をする。だがそれも家事の合間を見てのことであり、優先順位もまだ低かった。
 だが状況は徐々に変化した。
 父が昇進した。帰ってきた父はひどく上機嫌だった。僕と母はそれを精一杯祝福した。父は自分の鞄から携帯電話を取り出した。新製品のようだ。父はそれを母に渡した。新製品の不備がないかの確認と、宣伝広告のためだ。
 今から思えば、この携帯電話が全ての原因だったのかもしれない。

 その日から、母は少しずつ携帯電話に依存していった。家事の合間の携帯も、携帯の合間の家事に変わり、食事もだんだんと冷凍食品が多くなっていった。昇進したことで忙しくなっている父はたいして気にも留めていなかった。だが父よりも家にいる時間の多い僕にとって、これはかなりの問題である。家に帰ってまず聞こえる音、それは携帯のプッシュ音、それか電話の着信音、やかましい位の大音量で鳴り響く黒電話の音だった。
 僕はそんな状況がイヤだった。帰宅すると直ぐに部屋に篭った。だがあまり広いとはいえない家の中では、どこにいてもたいした違いはない。どこにいても、一様に携帯の操作音が耳に響く。僕の耳は、母の携帯をいじる音が反芻し続けた。
 ボタンを押す音や、爪がボタンを叩くような音、ひっかくような音――。
 僕はその音が頭の中で流れると、もう何にも集中出来なかった。家にいること自体がイヤになる。
 だが状況をさらに悪化させる事態が起きた。
 母が父に頼んでもう一台携帯電話を購入したのだ。母はそれをメール用と電話用に分けた。そして携帯の音が止まない時間は完全になくなった。引っきりなしにメールなり電話の着信音が響き続ける。母はトイレの時も、風呂に入る時でさえ携帯を手放そうとはしない。
――母さん、夕ご飯は?
 僕は空腹に耐えかねて母に催促したことがあった。最初の内は、それでも渋々作ってくれた母だったが、最近では全く作ろうとしなくなった。むしろ、そういう時は僕を叩いた。強い力ではないが、心に出来る傷は大きかった。食事よりも子供よりも自分よりも携帯を選んだのだ。僕は自分でご飯を作るしかなかった。一人の食事が続く。母は、ある内はインスタント食品を貪っていたが、それがなくなると僕に買いに行かせた。僕に抵抗する術はなかった。断れば今にも母が狂気と化しそうだった。
 この頃には、僕はノイローゼ気味になっていた。家にいても、学校にいても、電車の中でも、携帯を見ない日はない。そしてその度にある一様な音が聞こえる。
 プッシュ音にボタンを掻くような音、携帯電話の開閉時の音に着信音も――。
 僕の中で苛立ちと恐怖が募っていく。頭を抱えて、耳を塞いでも、僕の耳には否応なしに音が入る。携帯がないような場所でさえも、たまに聞こえるようになってしまった。

 そうして僕は自分の携帯を破壊した。

 この頃になってようやく父が異変に気が付いた。夜遅くに帰宅しても、母は携帯をいじっていてご飯の仕度もない。洗濯物、食器が全てやりっ放し。こんな状況を見れば誰でも異変に気付く。
――最近、ずっと携帯ばかりやってないか?
 僕は幻聴のせいで眠れない日が続いていて、この日この会話がなされた時も、部屋のドアをわずかに開けて様子を窺っていた。
 父が母にそう言うと、母はきっと父を睨みつけ、それから直ぐに視線を携帯に戻してボタンを打ち続けた。まるで「邪魔をするな」と無言で訴えているようだ。父はその態度に一瞬驚いたようだが、直ぐに強気に出た。相当腹が立ったのだろう。父は母から携帯を取り上げようとした。
――お前が、こんな物ばかりやってるから!
――やめて、返しなさい!
 夜だというのに、近所の迷惑も考えずにお互いに怒鳴り散らしている。力で勝る父は母から携帯を取り上げることに難なく成功した。母は床にぺたりと座り込み、少しの間俯いていたが、直ぐに顔を上げるとすごい形相で――まるで鬼でも宿ったかのように――台所に駆けていった。僕は次に起こることが予想出来た。今なら止めることも出来るだろう。だが僕の足はすくんで、全く動かない。
 案の定、母は台所から包丁を持ってくるとそれを父に向けた。この行動には流石に驚いた父だが、まさか、という思いもあり微動だにしなかった。だが母は、その包丁で父を切りつけた。何の躊躇いもなく。何の容赦もなく。父の腕からは真っ赤な血が吹き出した。父は悲鳴を上げた。父は携帯を手放すと、腕を押さえて悶えた。母は父に見向きもせず、床に落ちた携帯を血に塗れた手で拾うと、誇らしげに父を見下した。
――私に逆らうからこうなるのよ
 母はそう言うと、返り血を気にも留めずに自室へと篭った。そうしてまた携帯の音が家に木霊し始めた。僕は恐怖のあまり、ベッドに潜り込みきつく目を瞑った。体がガチガチと音を立てて震える。
 電話の音、爪がボタンに当たる音、メールの着信音、指がボタンを押す音――。
 そうした音に苛まれながら僕がようやく寝付けたのは、ゆうに三時を過ぎていた。

 翌朝、僕は悪夢で目覚めた。母が狂気へと化していく夢、携帯が全てを呑み込む夢。僅かな睡眠時間の間に何回も悪夢を見た。僕は重い足取りでリビングに入った。昨晩のことも悪夢の内であればどんなに楽だっただろう。だが僕の目には、昨晩と同じままのリビングが映っていた。時間が経過して乾いているが、拭いた痕跡すらない血の跡。僕は一瞬にして血の気が引いた。僕は朝食も食べずに学校に行った。
 通学中も、ずっと携帯の音が耳に聞こえた。そして眠気に襲われて目を瞑ると、今度は幻覚を見るようになった。携帯を持った無数の手が僕に近づいてくる。どんなに逃げてもどこまでも追ってくる。そしてその先には血塗れとなった母が包丁を構えている。もう僕に安息の地は残されていない。
 メールを打つ音、表面をがりがりひっかく音、目覚ましの音、黒電話の音――。
 学校の授業中でさえも携帯の音は僕に付き纏い、僕の苛立ちを増長させた。
 携帯が怖い。
 人が怖い。
 怖い。
 怖い。
 怖い。
 僕は頭を抱えた。全ての人が敵に見えてくる。どうにかして逃げ出す方法を考えなければ、僕が破壊されてしまう。僕が破壊してしまう。全てが破壊されてしまう。
 僕に思い当たる禍根は一つしかない。母。そして母の携帯。僕は覚悟を決めた。自分でやるしかない。自分でやらなければならない。
 僕は携帯の恐怖に耐えながら一日を過ごし、家に帰宅した。家からは何かが腐った臭いがし、その中で相変わらず母は携帯を打ち続けている。僕は玄関の鍵を締めると、玄関に置いてある金属バットを取り、母に近付いた。母は僕が近付いていると気付いていても、声をかけることはない。振り返ることはない。僕はバットを振り上げた。これで全てが終わる。僕はバットを振り下ろした。
 中学以降日頃あまり運動をしない僕は、バットの扱いに慣れていない。僕の手は震え、母の後頭部目掛けて振り下ろしたはずのバットは母の右肩に当たった。金属バットの当たる高い音と、骨が砕ける鈍い音がした。母は突然の襲撃に、驚き混乱しながらも僕を振り向いた。僕を振り向いた母の顔は恐怖に引きつっている。今僕の顔はどんな風なのだろう。鬼のような形相なのだろうか。それとも、何も写してはいないのだろうか。僕は一切の感情を捨てて目の前の敵の排除だけに専念した。再びバットを振り上げ、逃げようとする四つ這いの母の背中に一打、そして床に倒れた母の背中を数回殴り、そして後頭部を何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も殴った。床はへこみ、血の海と化した。母の頭は完全にその形を保っていなかった。
 その時、不意に母の手からこぼれた二つの携帯が同時に鳴り始めた。返り血を浴びた僕は、それらを睨みつけた。まるで僕の視線を感じ取ったかのようにぴたりと携帯は鳴り止んだ。僕はゆっくりと携帯に近づくと、二つとも破壊した。
――やった、やり遂げた
 僕は安堵してその場に座り込んだ。顔には笑みが漏れる。やっと携帯の恐怖から解放され、気持ちは嬉しいはずなのに、何故か涙が止まらなかった。何に対する涙なのか、全く分からない。僕はバットを手放すと、部屋に入った。体育座りになって顔を俯けた。これからどうなるのだろうか。僕はおそらく警察に捕まるだろう。状況に反して、心はひどく冷静だった。
 その時、僕はあの音を聞いた。携帯電話の表面を削るような音――。
 しかもこの音だけ。これは確か一番最初から聞こえていた音。僕は激しく動悸するのを感じた。まだ終わっていない。そんな思いが胸を占めていた。再び緊張が走る。
 また同じ音がしたかと思った時、僕は頬を伝う液体が口の中に入るのを感じた。始めは涙かと思った。だがそうでないことは直ぐに分かった。それは鉄の味がした。
 そして僕は自分が必死に頭を掻いていることに気付いた。そう、血が出るほどに、強く。頭が痒いわけではない。無性に、いや無意識に頭を掻いてしまう。僕の日頃の苛立ちは、僕の身体を確実に蝕んでいた。僕は意識的に止めようと努めたが、身体は僕の意に反して頭を掻き続けた。爪を立て、何の容赦もなく頭を掻き続ける。僕の頭は熱く、そして冷静だった。
 止まらない。音がだんだん大きくなっていく。止まらない。指先の触覚が気持ち悪い。止まらない。生暖かいどろどろの水を指で掻き回しているようだ。止まらない。指が肉を裂いていくのが内と外から伝わる。止まらない。それでも止まらない。やがて、一際大きな音がした。僕の指は侵してはいけない外皮をいとも簡単に貫いた。
 そして直ぐに、一切の音が消えた。

感染的携帯電話恐怖症

 俺は都内の大学に通う大学生。
 住まいは都内のマンション、その七階。
 隣人は順風満帆な三人家族、そして極度の携帯依存症。


 事の発端が何だったのかは分からない。だが最初の内は何の問題もなかったように思う。
 大学に入ってからこのマンションに越してきた俺を、隣人達は温かく歓迎してくれた。朝大学へと向かう時、隣の父親と息子と顔を合わせたこともある。そしてその時には必ず二人を見送る母親の姿もあった。そう、平和だったのだ。毎日が平らに進んでいた。この時の俺に、一体どんな不幸が想像出来ただろうか。

 俺が最初に異変に気が付いたのは、大学の講義が全休だったある平日のことだった。親からの仕送りで生活には充分に事足りていた俺は、バイトに行くわけでもなく、ただ部屋でぼうっとして過ごしていた。
 ふと耳を凝らすと、隣の家から昔ながらの黒電話の音が聞こえてくる。恐らくは携帯電話の着信音だろう。今のご時世、ダイヤル式の黒電話がある世帯などごく稀だ。俺が何故この音が気になったのかは定かではない。別に、昼間に電話が掛かってくること自体は不思議なことではない。しかも電話を受けているのは専業主婦、家にいることにも疑いの余地はない。だが俺が気にかかった原因は、その頻度だったのだろう。リビングに寝転がりうたた寝しようとする俺を、隣人の携帯の着信音が妨げる。着信音が止んで再び眠りに就こうと、うとうとし始める俺を再び着信音が叩き起こす。そんな事が一日中続いているのだ。
――うるさいな
 始めの内はただ苛立ちが募るだけだった。寝室は隣人の壁から一番遠い場所に位置しているために夜は快眠出来ていたし、平日の昼間ならば俺も大学へと通っていたからだ。
 だが状況は唐突に悪変した。
 講義が終わり帰宅してきた俺を待っていたのは、携帯の着信音だった。それも、二つに増えている。頻度も遥かに増している。
 夜だというのに、その音は鳴り止むどころか更に音を大にして鳴り響いていた。もはや壁の反対側だとかは関係ない。その音が微かに聞こえるだけでも、俺の脳は危険を知らせるかのように大きく響かせていた。昼夜を問わずに携帯電話は鳴り響き、そして俺は睡眠時間を奪われていった。
 このような日が何日か続き、俺は半ばノイローゼになっていた。ありとあらゆる電子音が携帯の着信音に聞こえてきて、無性に不安になる。通学中、歩いている時や電車内にいる時、携帯を見ないことはない。俺は人々が携帯を操作しているのを見る度にゾッとした。たとえそれが音を発していなくても、俺の脳は勝手に着信音を鳴らしていた。嫌な汗が額を流れていく。携帯を目にすることすら嫌になっていく。次第に俺は携帯に追い詰められていった。
 そうして俺は自分の携帯を破壊した。
 ある晩、俺が携帯に怯えながらベッドの中で固くなっていると、隣から怒鳴り声が聞こえてきた。寝室にいてもその内容が聞こえる程に大きな音だった。或いは、俺の脳が勝手に補完していただけなのかもしれない。もうこの頃になると、それくらいの事を判断するのも難しくなっていた。ただこの時は少なくとも、隣人の夫婦が怒鳴り合っていたことは確かだ。深夜のマンションの一室でそれは起きていたのだ。
――……が、こんな物ばかりやってるから!
 男の声。声の太さや態度からいっても父親の言葉であることは間違いない。当然『こんな物』とは携帯のことを指しているのだろう。俺は無意識の内に意識をこの会話に集中させていた。その結果が良いものになるはずなどないにも拘らず。
――やめて、返しなさい!
 父親が、携帯ばかりをしている母親から携帯を取り上げたのだろう。俺は隣室で起きていることを簡単に想像することが出来た。俺はこの時ふと、初めて別のことに気を回した。
 では、今息子はどうしているのだろうか。
 壁を隔てている俺でさえも起こす怒号が、同じ部屋にいる子供を起こさないわけがない。では目を覚ました息子はどこで何をしているのだろうか。まだ高校生の息子は、当然俺よりも帰宅時間が早い。そして親への依存度も高い。恐らくは俺以上に母親の凶行に怯えているに違いない。俺はこの息子に同情していた。両者を取り巻く環境はかなり似ている。外にいても内にいても、携帯電話が精神を蝕んでいく。
 ほんの僅かの間怒鳴り声が止んだ。俺にはこの間が何より怖かった。狂気に駆られた母親が取るであろう、常軌を逸した行動が目に見える。だが実際には、隣室で何が起きているかは俺には分からない。
 その時、急に父親の悲鳴が聞こえた。痛みに耐えるように悶える声が聞こえてくる。俺は身を硬くした。恐らく、携帯を取り返そうと、母親が父親に襲いかかったのだ。
――私に逆らうからこうなるのよ
 最後に聞こえた母親の言葉が、俺の中で何度も何度も繰り返された。狂気に満ちたその声が、頭の中に染み渡っていく。俺はもう何を考えることも出来なかった。頭の中が真っ暗になっていく。だがそうかといって、眠りに就けるわけでもなかった。恐怖で身を震わせながら、聞こえるはずのない携帯の着信音が頭の中で延々と鳴り響いている。
 結局、寝付けたのかどうかさえ俺にはよく分からなかった。うとうととし、眠りに就いたかと思えば着信音に起こされる。またうとうととし、眠りに就いたかと思えば今度は先程の光景が思い起こされて目を覚ます。
 気付けば窓からは明るい日差しが入り込んでいた。俺はやっとの思いで重たい身体を起こすと、大学へと向かった。
 歩いている間も、俺は緊張が解けなかった。道行く人が携帯を持っているかと思うだけで、恐怖が俺に襲いかかる。
 携帯が怖い。
 人が怖い。
 怖い。
 怖い。
 怖い。
 俺はもう耐えられなかった。ちょうどマンションから最寄りの駅に着いたところで、俺は引き返していた。このまま携帯に追いやられていては、俺が破壊されてしまう。携帯に破壊されてしまう。
 俺はエレベーターに飛び乗った。だがこの密室空間内で、俺は運悪く人と一緒になってしまった。その人は携帯を持っていない。だが逃げ場のないこの空間で、絶え間ない緊張に縛られている俺には、許容範囲を越える恐怖がのし掛かっていた。
――やめろ、やめてくれ
 俺の声は正常な音とはならず、むしろ呻き声に近かった。俺はエレベーターが止まると直ぐに駆け出した。携帯の着信音が走る俺を追い立てる。部屋の前まで着きほっとする間もなく、今度は隣室から携帯の着信音が聞こえてくる。音に挟まれた俺は、急いで部屋に逃げ込むと、寝室に籠り頭を抱えた。いくら頭を抱え、耳を塞ごうとも、音は俺の中で響き続ける。
 しばらくそのままの状態を保っていたが、何がどう変わるわけでもなかった。早くこの状況から脱しなければならない。外から変わるのを待っていては、俺の方が先にどうかしてしまう。自分から何か行動に移さなければならない。そのための方法が、俺にはたった一つしか浮かばなかった。それが社会的に最善かなどはどうでもいい。俺にとって最良か否かの問題だ。俺はすっくと立ち上がった。今は隣室からは携帯の音は聞こえない。俺は玄関へと向かうと、金属バットを手に外に出た。そして俺は隣室の呼び鈴を鳴らした。
 だが、少し待ってみても何の反応もなかった。携帯に依存している母親のことだから、出ないのも仕方のないことかもしれないと思いながら、淡い期待を胸に俺はドアに手をかけた。当然、ドアには鍵が掛けられていた。予期していたこととはいえ、この事で俺の中に焦りが生まれた。今やらなければならないという思いが、俺から微かに残っていた冷静さを奪っていく。
 俺は急いで自分の部屋に戻った。玄関がダメなら、窓から行けばいい。ここは七階ではあるが、一室分ならベランダを乗り越えられないこともない。冷静な判断力を欠いた俺は、早足で部屋を横切っていく。
 その時、俺の耳には何か妙な音が聞こえた。携帯の着信音でも、何かの電子音でもない。もっと物理的な、何かが何かを貫くような、鈍い音。だが今の俺にはそれはどうでもよかった。俺は躊躇もせずにベランダを乗り越えると、隣の部屋のベランダに立った。ベランダに面する窓には、何故か鍵はかかっていなかった。俺はもはやたった一つのことしか考えずに部屋に乗り込んだ。
 乗り込んだ途端、俺は部屋の異常さに目を見張った。そこから漂う異臭は、何かが腐った臭いと、鉄の臭い。そして視界に飛び込んできたのは、床を真っ赤に染め上げている血溜まりと、その中に倒れている人間だったモノ、血に濡れた歪んだ金属バット、そして粉砕されている二つの携帯電話だった。
 この瞬間、俺は理解した。この家の息子も、俺と同じことを考え、そして実行してみせたのだ。全ての元凶である母親と、その携帯を破壊したのだ。
 俺はこの家の息子の姿を探した。何か同族意識のようなものを感じた。喜びを分かち合いたかった。
 だがある部屋への扉を開けた瞬間、仄かに抱いていた希望は脆くも崩れ去った。その部屋には、少年が血塗れの頭を抱えて倒れていたのだ。その光景を見て唖然としていた俺は、自分の部屋で聞いた鈍い音を思い出す。あれは恐らく、携帯に身も心も蝕まれた少年が、自身の頭を掻き毟り、そして外皮を貫いた音だったのだ。
 その事実に気付いた俺は、無性に可笑しくなった。この少年は俺と同じなのだ。だとすれば、俺が辿る末路も似たようなものになるだろう。俺は放心したまま、脳漿を覗かせた少年を見つめていた。
 その時、この家のドアの鍵が開く音がした。俺は何も考えずにその音の方へと出向いていった。見るとそこには、この家の父親が立っている。自分の家の惨状を見て言葉を失っていた父親は、俺の姿を確認すると感情も籠めず落ち着いた様子で呟いた。
――君が殺ったのか
 俺はこの言葉を聞いた途端、身体中に殺意が沸き上がるのを感じた。この父親に向ける殺意の理由は分からない。ただ、俺にはもはや自分の感情を制御するだけの自我は残されていなかった。
――お前らさえいなければ!
 俺は手の中にある金属バットを握りしめると、それを振りかざして父親に向かっていった。父親は逃げる風でも抵抗する風でもなく、ただその場に立ち尽くしていた。そんな父親を、俺は力任せに殴りつけた。一打目で完全に頭蓋が割れたと分かった後も、俺は何回も何回も何回も何回も何回も何回も殴った。バットは歪み、玄関は血の海と化した。父親の頭は、もはや頭と呼べる物ではなくなっていた。
 俺は息を荒くさせたまま、その場で膝を折り曲げた。これで俺に出来ることは全てだ。後先の事などどうでもいい。とにかく、今はやり遂げたのだ。
 その時、どこからか携帯の着信音が聞こえてきた。どうやら父親を殴っている最中に、父親のポケットから落ちたようだ。その携帯が音を立てて鳴り響いている。俺は着信音を聞くや否や、激しい焦燥と恐怖とを感じた。身体ががくがくと音を立てて震える。携帯の着信音が、俺を追い詰める。締め付ける。のし掛かる。俺は未だに携帯の恐怖から抜け出すことが出来ていなかった。
 俺は恐怖に耐えられなくなり、携帯から逃げるようにしてベランダの方へと走り出した。理性は働かない。今はただ本能が身体を突き動かしている。そして、自室に戻ろうと手摺によじ登った時、震える足が手摺を捉え損なったことに気付くのにすら、僅かな時間を要した。その間にも、俺はマンションの七階から落下していた。
 俺の身体は硬い地面に叩き付けられ、そして不気味な音を立てて砕けた。辺りに俺だったモノが四散した。

 後に残ったのは、まるで俺を嘲笑うかのように鳴り続ける、携帯電話の着信音のみだった。

間接的携帯電話恐怖症

 私は都立の中学校に通う学生、二年生。
 隣人は全員が奇怪な死を遂げた、三人家族。
 その隣人はマンションから転落死した、大学生。


 事の発端ははっきりしている。隣人と、そのまた隣人が変死したことだ。
 隣人の母親はリビングで撲殺され、父親は玄関で撲殺されていた。両者ともに絶命した後も殴られ続け、殴られた箇所は完全に形を保っていなかった。そしてその家の高校生の息子は、自分の部屋で後頭部を掻き毟り、自らの指で外皮を突き破っていた。隣人の隣人、つまり私の住まいから二軒先の大学生は、マンションの七階から転落し、頭蓋骨を陥没させて死んだ。
 当初、この二つの部屋で起きた事件は第三者による強盗目的の殺人と考えられていた。だが、凶器となった金属バットが二つあったことと、そのバットからはそれぞれ高校生の指紋と大学生の指紋しか検出されなかったこと、及びバットに付着していた血痕などから、事件はあっさりと真実へと導かれた。
 つまり、高校生の息子が何らかの理由で母親を撲殺し、その後自室で自殺した。その後帰宅した父親を、ベランダから侵入した大学生が撲殺、大学生が再びベランダから自室に戻ろうとした時、足を滑らせて転落、そのまま死亡した。
 これは、現場の状況から見てもほぼ間違いないことで、警察は今その動機について調べている。
 ただ、これはあくまで表面をなぞっただけの事実だ。事件が起きた部屋の隣に住んでいる私は、事件が起きた本当の理由を知っている。
 きっかけは隣の母親が、携帯に取り憑かれたことだろう。その母親が主に携帯をしている部屋からは構造上壁を隔てて距離があったため、私はさして気にならなかったものの、その頻度は明らかに普通ではなかった。毎夜のように隣室からは携帯の着信音が聞こえていた。私の部屋で聞こえるその音は微かなものだったため、私を含め家族はそれほど困るような事態には陥らなかった。だが隣の部屋に住んでいる者、またさらに隣に住んでいる者には、その音は精神を狂わす音以外の何物でもなかった。
 そうして追い詰められていった高校生と大学生が、凶行に及んだというわけだ。
 年が近いこともあり、昔から仲の良かった高校生がある日突然死んだことに、私は深く衝撃を受けた。
 そして、その日から私の周囲の環境は劇的に変化した。

 事件の翌日、私が学校へ向かおうとマンションの入り口に立った時、そこには多くの報道関係者が詰め寄せていた。マンションで起きた異様な事件。マスコミがそれを野放しにするはずもなく、私は逃げる間も与えられずにその輪に捕まってしまった。しかも、私は事件の起きた部屋の隣室に住む住人だ。彼等がそんな格好の獲物を逃がすはずもなかった。
 ――昨日の事件について、何か聞かせて下さい
 ――殺害された母親は携帯依存症だったそうですがご存知でしたか?
 ――母親が携帯をしている姿を見たことがありますか?
 私は止め処なく押し寄せる質問に答えることも出来ず、俯いたままその場から遠退こうとした。尋ねられる質問の殆どに「携帯」という単語が含まれていることが、私の心をひどく動揺させた。携帯という日常的な物が、ここまで人を動かすのだ。
 私はそのまま走り学校に向かった。
 学校に行けば静かになる、そう思っていた私だったが、淡い期待は脆くも崩れ去った。学校に来ている生徒にだって、昨日の事件の事は知れ渡っている。しかも、早いところでは朝のニュースで既に携帯電話のことにも触れられていた。好奇心に滾る中学生が、その事に興味を抱かないわけがない。
 ――お前ん家の隣人が死んだんだってな
 ――しかもその母親が携帯依存症だって話じゃん
 ――お前はどうなんだよ、携帯に取り憑かれてんのか
 心無い生徒の言葉が、私の耳に突き刺さる。誰もが、自分に無関係なことには容赦がない。誰もが、非日常を求めて私に詰め寄る。私の心を無視して彼らは土足で踏み込んでくる。私は耳を塞いだ。悪意の籠った生徒の視線が、私の居場所を奪っていく。
 その日から、私の携帯に膨大な数のメールと電話が殺到し始めた。
 見知らぬアドレスから事件に関するメールが押し寄せてくる。見知らぬ番号から無言の電話が押し寄せてくる。その音は一日を通して止むことがなかった。
 私は次第にその音に追い詰められていった。携帯の着信音が私の心を掻き乱す。携帯の着信音が私の睡眠を妨げる。携帯の電源を切っても、私の耳には着信音が鳴り響いていた。甲高い着信音が、耳に障り、私の思考を麻痺させていく。
 ――最近疲れているようだが大丈夫か?
 日に日に窶れていく私を見て、同じように窶れた私の父親はそう声を掛けてくれた。今感じている痛みは、家族全員が受けているものだ。母親も父親も、行く先々で事件のことを聞かれて追い詰められている。私はせめて家族を心配させないようにと、無理をして気丈に振る舞った。
 ――大丈夫だよ
 そう言った私の顔は、とても不自然に笑っていただろう。私の眼の下には隈ができ、ストレスで少食になった私の頬は痩けていた。
 その晩も、私は眠ることが出来ずに、やがて朝を迎えた。
 不眠のせいで虚ろな眼をして学校へ行った私を待っていたのは、同級生達の冷たい視線だった。誰かに声を掛けても、決まって無視された。隣室で事件が起きたという理由だけで、私はクラスから排除の対象にされてしまったのだ。
 私には、他人から無視されるというのがこれ程に辛いものだとは思わなかった。他人から自分の存在を否定され、そして独りになっていく。以前の私ならそれほど気に病むこともなかったかもしれない。だが今は、沈黙が私の周りを取り囲んでいる。そしてその沈黙の中、私の頭の中では携帯の着信音が鳴り響いているのだ。止むことのない電話の音が、私をどんどん追い詰めていく。
 そうして私は自分の携帯を破壊した。
 携帯を破壊しても着信音が鳴り止むことはなかったが、この時、私は微かな期待を抱いていた。事件は一過性のもので、今私を取り囲むこの状況も直ぐに改善されるのだと。それは私のささやかな現実逃避だったのかもしれないが、今の私にはそう思い込むことでいくらか楽になれた。あと少し、あと少し耐えれば全てが終わる、と。
 だが、おかしくなりそうだったのは、私よりもむしろ父親の方だった。そろそろ会社でもそれなりの地位を築いている父親には、責任というものが生じている。その責任と事件とが、父親に想像以上のストレスを与えていた。家に帰った父親は、何をするでもなく椅子に座りぼうっと天井を眺めていた。
 ――お父さん、大丈夫?
 私がそう声を掛けても、父親は何の反応も見せなかった。私は家族のこんな様子を見るのが辛くてならなかった。誰かのせいにしたくても、その相手がいない。早く楽になりたくても、周囲がそれを許さない。携帯がそれを許さない。

 それから数日後、私の精神はもはやどうにかなりそうだった。鳴り止むことのない着信音が、私の思考を奪っていく。
 この数日ろくに眠っていない私の眼は血走っていた。焦点も定まっておらず、数歩進んではふらついてしまう。歩くのさえままならない重い足取りで学校に向かった私は、教室で独り俯いていた。頭の中では依然として携帯の着信音が鳴り響いている。この時私にはっきりした意識があったかは分からない。だがその音、その声だけはなぜかはっきりと聞こえた。
 ――おはよう
 不意に話し掛けられたことに、私は驚いた。顔を上げた私を、その生徒は少しばつが悪そうな顔で見ていた。はっきりと私に向かって声を掛けてくれたのだ。今までクラスの中で私は存在していなかった。存在を許されていなかった。だが今のこの一言は、私がここにいることを認めてくれている。私は瞳の奥から込み上げるものを留めることが出来なかった。私の頭の中で、それまで決して鳴り止むことのなかった着信音が、次第に音を細めていき、そして消えていった。
 ――おはよう
 涙に濡れた声で、私は応じた。

 それから周囲の状況は徐々に変化を見せていった。周囲に溢れていた異常が、次第に引いていったのだ。私の家族も、少しずつ以前の、平凡だった穏やかな日々に返ろうとしている。
 今でも携帯は怖い。だがそれでも今は乗り越えられる。私は独りではないのだ。おはようと言ってくれた同級生が、私を支えてくれる誰かがいる。それだけでも私は明日へ歩き出せる。
 今は、そう信じている。

携帯電話恐怖症シリーズ1(将倫)

これを書くに至った動機は、電車内で席に座る人がこぞって携帯をいじっているのが非常に気味悪く感じたからです。
五年前はまだガラケーがマジョリティだったので今とは雰囲気も違いますね。
自分の中では若干黒歴史です……。

携帯電話恐怖症シリーズ1(将倫)

携帯電話に依存した家族と、それが原因で携帯電話恐怖症になる主人公が至る結末は。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 慢性的携帯電話恐怖症
  2. 感染的携帯電話恐怖症
  3. 間接的携帯電話恐怖症