ブーンは嘘をついていたようです

某掲示板で投下したブーン系小説を一般小説に近い形で掲載します。AAキャラの名前を借りています。
知らなくても支障はありませんが、事前に調べてみるのもいいと思います。

第一話




わたしは不幸にも知つてゐる



時には嘘によるほかは語られぬ真実もあることを


               ―――――芥川龍之介




~~ブーンは嘘をついていたようです~~

二〇一〇年八月一〇日(火)――

その日の某県は多くの地域で快晴となった。
夏休み真っ只中ということもあり、外出する人々が多く見受けられた。
元々お盆が近いので、最初から出かける計画をしていた家庭も多かったのだろう。
清々しく、平凡な夏の日だった。

午後3時頃、唐突に、そのニュースがテレビやラジオから一斉に伝えられた。

某県A市の留置所に入っていた犯罪者内藤ホライゾン(三九)が舌を噛んで死んだ、という報道である。

そして、それは暑さと解放感で蕩けていた人々の心の奥底に眠っていた、一つの嫌な事件の記憶を呼び戻した。

二〇〇五年四月に起こった、小里安一家殺人事件
某県A市でも有数の富豪であった小里安家の亭主ニダー(四四)とその家族が、隣のB市に在住していた内藤ホライゾン(当時三四)によって全員殺された。
死因は全て小里安家のガラスの灰皿によって殴られたことであり
事件の概要は、目撃者の執事によって語られた。

四月三日(日)、ニダーは内藤ホライゾンを客人として招き入れた。
その約束はニダーの方からなされたものであり、執事も当然知っていた。内容は教えられなかったが
ニダーは「二人きりで話がしたい」と言い、執事を外に出してホライゾンと二人で何事かを話していた。
応接室の扉を閉める直前に見たホライゾンの表情はひどく思い詰めているようであったと執事は言った。

それから執事はニダーの息子が母親に連れられて帰宅するのを出迎えた。
翌日から一年生となる息子の思い出作りに、遊園地へ遊びに行っていたのだ。

息子が帰ってきたことを伝え、そしてお茶の替えを持っていこうと思い、執事はニダーとホライゾンが居る応接室へ向かった。
ニダーの息子と母親も父親に会おうと思い、執事に連れられて来ていた。

しかし扉の前で異変に気付いた。
激しく口論をしているような音、その後ゴツンという鈍い音が聞こえてきたという。

胸騒ぎを感じた執事はニダーの名前を叫びながら扉を開けた。
執事、そしてニダーの家族は同時に室内の光景を見ることになった。

床に倒れるニダーと、返り血で真っ赤になったガラスの灰皿、それを持って荒く呼吸をしている内藤ホライゾン。
最初に悲鳴を上げたのはニダーの妻で、それから息子が喚きながら部屋に飛び込んだ。
執事は何をすることもできず、ただただ気が動転していた。

父の名前を叫びながらニダーの息子が駆け込んだ。
執事は動転しながらホライゾンを見つめ、その手が灰皿を握り締めるのを見た。
「危ない」と執事が警告したときにはもうホライゾンの腕が、ニダーの息子に向かって振るわれていた。

先程と同じ鈍い音を響かせ、ニダーの息子は鮮血を噴出させて倒れた。
それを見てさらに妻の悲鳴が響き渡った。
ニダーの妻は長髪を振り乱して、錯乱していた。

執事は妻を逃がそうとしたが、どうしても動こうとしなかったらしい。
悲鳴を聞いて、警備員が廊下を駆けてきていたが、ホライゾンもすでに扉へ向かって来ていた。
そのぎらついた目ははっきりニダーの妻をとらえていた。

執事はその目を見て恐怖したという
ニダーを殺して立っていたときや息子の頭をかち割ったときとは、ホライゾンの目の輝きが違ったからだ。
本当に殺したかったのはこの妻なんだ――執事はそう直感したという。

執事は思わずニダーの妻の前に飛び出した。
せめて妻だけでも助けてやらなければ、その一心であったと証言している。
しかし内藤の猛烈な体当たりで跳ね飛ばされ、壁に激突。
意識が朦朧として動けなくなり、執事の視界が暗くなった。

目が覚めたとき、ホライゾンは警備員に取り押さえられていた。
そして床にはニダーの妻が、頭から血を流して倒れていた。

これが執事の証言による事件の大まかなあらすじである。

到着した警察によって連行される途中、内藤ホライゾンは微笑んでいた。

三人もの人間を殺したのに、笑っていた。
その異常な状況がA市から、某県全域、さらに全国にも知れ渡り
内藤ホライゾンに纏わる怪しげな噂が飛び交った。

『笑顔の殺人鬼』――そんな通り名も耳にすることがあった。

噂というものは事実を捻じ曲げて、変形を繰り返しながら語られていく。
その殺人鬼の話も、事実の何倍にも増長されていく。
殺人鬼は血で興奮する、死体を喰った、捕まったのは偽物で本物は他県にいる、などなど。

しかし三年も経てば話は風化され、人々の注目は薄れていく。
世間では他にも多くの事件が起こり、暗い話、馬鹿げた話が交錯して関心を動かし続けるからだ。

二〇一〇年ともなると、事件のことを覚えているものはほとんどいなくなっていた。
現地の人々が時々その跡地を「怖い場所」として話に出すくらい。

しかし八月十日の午後に突如舞い降りた報道で、あの事件の噂がまたしても立つことになった。
裁判にかけられている最中だった内藤ホライゾンが、何故突然自殺したのか。
どうして5年もの間ひっそりとしていたのか。
笑顔の殺人鬼はまたも大衆を賑わせるのに足る謎を秘めていたのだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~

八月一〇日、夜、某県C市――

内藤ホライゾンの死の報道はネットでも大きく取り上げられていた。
昔の事件を引っ張り出しては弄繰り回し、今回の死について様々な憶測が流れていく。
どれもこれも信憑性などない、人間の通俗的な好奇心を擽るためだけに生み出された小話だ。

「…………」

内藤のことを知っているものからすれば、あまりにも滑稽に見えただろう。
この噂話を創造して発信しているものの中に、内藤のことを知っているものなどほとんどいないのだから。

「……死んだんだ」    
    
少し古びたアパートの一室、青年は薄目でパソコンの画面をじっと見て、呟いた。
内藤ホライゾンの死に関する情報を少しでも得ようと思っていた。
しかし両目に乾燥を感じたため、またこれ以上検索しても新しい情報は手に入らないだろうと思い至ったために、青年はパソコンの電源を落とした。

長身で細身な彼、鬱田ドクオはC市から都内の大学に通っていた。
やや利便性には欠けるが、経済的に優しかったので、ドクオはこのアパートを選んだ。

彼はほとんど母親のみによって育てられたのである。
彼の出身地はB市であり、他の市町村に行くことはこれまでほとんどなかった。
元来人づき合いが苦手なので、交友関係もかなり少ない。
それでも大学に入って今まで、一度もドロップアウトすることなく通学してきた。

『嘘なんだお』

水道でコップに水を注ぎ、ぼんやりとこれまでの人生を思い返していたドクオの耳に、懐かしい声が聞こえてきた。
もちろん実際に聞こえているのではない。心の奥底で思い出したのだ。

『笑顔なんて嘘なんだお。
 人間が、他の人間と何の争いもすることなく過ごすための手段にすぎないんだお』
 
遠い日々の、ブーンの声。
世間では内藤ホライゾンと呼ばれているが、ドクオの思い出の中ではその人物はブーンと名乗った。
名前はもちろん、その思い出の中でのブーンの姿を知っているものは、いったいこの世にどれくらいいるのだろうか。
少なくとも先程見たような風説を流している人の中には、一人としていないだろう。

『僕はもうずっと後悔しているんだお。
 嘘を続けて、これまで生きてきてしまったことに――』
 
一方で、果たして自分以上にブーンのことを知っているものがいるのだろうか、と自問する。
そしてその答えはすぐに頭に浮かんできた。
いる――そのことはちゃんとわかっている。

「笑顔、ねえ」

コップに注がれた水をじっと見つめて、一気に喉を通す。
体内に流れる冷たい気配が、夏の夜に体を包む茹だる様な感覚を切り裂いていく。

この感覚と絡めて何か哲学的なことを考えよう、とドクオは思考を巡らせたが、特に何も思いつかなかった。

今までの過去を思い出したから、そこに何らかの意味を見出したくなった。
そして現在の生活からも何かを見つけたい。
それを意味のあるものにしたい。

そのような心理は、中学生がカッコつけたいと思うのと似たようなものなのかもしれない。
自分にはっきりとした意味づけをしたいということなのだろう。

急に、ドクオは疲れを感じた。どっと降りかかってくるように。
ドクオは、既に敷いてある布団へ向かう。
着ているものはトランクスのみ、掛けるものも洗濯物から適当に取り出してきたタオルだけだ。

敷布団に横たわると、怪しい匂いが鼻を突いてくる。
たった一日手入れを忘れていただけで、布団は体に悪そうな匂いを放っていた。
今回は仕方ないので、ドクオは若干顔を顰めながらも目を閉じる。

まどろみ始めたところで、ドクオの携帯が鳴る。
暫くは無視しようと試みたが、着信音は耳を攻撃し続けた。
一度切れて、二度目のコールが鳴り響いたところで、ドクオは舌打ちをして身を起こす。

相手の名前を確認して、ボタンを押す

「……もしもーし」

~~~~~~~~~~~~~~~~

八月一一日(水)、朝、某県警本部――

「昨日の死体、内藤ホライゾンの死因はわかったのかい? 」

「出血多量のショック死で間違いありません。
 本来ならば看守が見張っているので自殺を防いでいるのに、面目ありません」
     
「内藤は品行方正だったらしいからね。監視が甘くなるのも無理は無い。
 事件から五年も経っているし、むしろ自殺したことの方が不思議なくらいだからな」
     
そう、何故死んだのか――大柄で垂れ眉の男、ショボン警部は頭の中で自問した。
昨日の突然の内藤ホライゾンの死が気になっていた。
何故死んだのか、あまりにも唐突で、不可解だ。

内藤の死体も既に見た。
不思議なことに、舌を噛み切るという痛々しい最期の幕引きを行ったのにも関わらず、内藤の顔は安らかだった。
苦しみから解放された、そんな印象を受けた。

そしてそれも、ショボンの頭から離れない不可解な点であった。

「この事件、確かずいぶんと刑の執行について争ったんじゃなかったかい?」

「ええ、内藤の家族、両親だけですが、息子はそんなことする人物じゃなかったと主張していましたし
 一家惨殺と言っても、実際に殺されたのは夫と妻と子どもの三人、死刑かどうかはギリギリでした。
 それを、ニダーの親戚の方々がこぞって死刑を促したんです。あそこには腕のいい弁護士もいましたしね」

「結局は、内藤の家族が不幸にも事故で亡くなられて、裁判は加害者側の弁護の勢いを失ってしまい
      ニダー側の主張が通って、死刑になったんですけどね」

「そういえば、鑑識くん
 確か5年前の事件でも不可解なことが無かったかい? 」

「ええ、まあ。
 正体不明の血痕が検出された金属バットがありましたね」
     
その金属バットは、内藤が殺人を犯した現場、すなわちニダー家の応接間のテーブルの上に置かれていた。
厳重なケースの中に収められていたので、よほど大事に扱われていたものだろうと推測される。
しかしバット自体はどこにでも売っているような平凡なもので、これといった特徴は無かった。
本来ボールが当たるべき場所でルミノール反応があった以外は。

内藤の犯行は明らかだったので、そのバットは怪しい点こそあったものの、鑑識が保管庫に入れたままだった。
事件は五年も前のものなので、今そのことを覚えているのはその事件を調査していたショボンくらいだろう。

「そのバット、もう一度調べられないかな。
 どうも気になっていたんだ。初めて見たときから」
     
「しかし今回の内藤の自殺は全く事件性の無いものですし。
 上が許してくれるかどうか」
     
困り顔の鑑識を見て、ショボンはわずかに唸る。

「……難しいかもしれないが、少しでいい。
 情報化社会も以前より発展したんだ。前とは違った情報が得られるかもしれない」
     
鑑識が了解し、保管庫へ向かうのを見届けたショボンは、ゆっくりと窓の外に目をやった。
昨日の晴天は今日にも継続されていた。
強い夏の日差しが、ショボンの体をこれでもかというほど熱している。
もうじき半世紀を生きたことになるショボンの目に、その光はあまりにも強すぎた。

バットだけじゃない、ショボンは心の中で呟いた。

ショボンは昔のことを思い出していた。
まだ自分が市警だったころだ。

D市の市警だったのは、もう二十年も前の話だ。
ショボンもまだ警察になったばかりで、犯人逮捕に躍起になっていた。

ショボンは未だに覚えている。
二五歳のとき、自分は内藤と会ったことがある。
他の誰にも、もちろん警察関係者にも言ったことがなかった。
そもそも、そのときの内藤は一般市民であったからだ。

それから一五年経ち、内藤が犯罪者として検挙されたとき、ショボンはどれほど驚いたことか。
昔見かけた善良な青年を、ずっとあとになって自分の手で逮捕することになるなんて。
さらに五年経った現在、内藤が死んだ今でも、その疑問は頭に残っていた。

彼の犯罪はきっと裏がある。
きっとあの謎の笑顔にも意味があるはずだ。
それをずっと知りたかった。

しかし本人である内藤ホライゾンは死んでしまった。
もう真実を知ることは難しいのだろう。 
     
せめて一度でも面会していれば、と今更悔やんでも、ショボンにはどうすることもできなかった。

八月一〇日、夜――

ショボンは帰路についていた。
昨日のブーンの死はまだ世間で噂になっている。
関連した質問の電話も何本か対処した。

内藤は思ったよりも広く、世間に影響を与えていた。
けど、それが一風変わった殺人鬼としてであるということに、ショボンは心の奥で苛立っていた。

疲れた目線を足元に向けながら、ショボンは路地を曲がった。

「ショボンさん、お疲れ様です! 」

あと数歩で家、というところで若い声が掛かる。
ショボンは聞きなれたその声に気付き、顔をしかめて見上げた。

「ジョルジュか、いいのかこんな夜中に」

ショボンの家の玄関に佇む、にやにやとした青年。
ショボンは数年前から彼のことを知っていた。

「うちは基本的に放任主義なんで
 それに今は夏休みなんで、試みに一人暮らししてますから」

「そんなこと言っても、君は未成年だろう?
 やはり気をつけてほしいものだね」

「ショボンさん相変わらずカタいですね~。
 そんなんだから奥さんに逃げられるんですよ」

「別居しているだけだと言っただろ。
 君、今日は何しにうちに来たんだ? 」

「ちょっと協力してもらいたいことがあるんですよ。
 ささ、とりあえず家に入りましょう」
     
「私の家なんだが……」

この青年、ジョルジュ君にはいろいろ話過ぎたようだ。
鍵を開けながら、ショボンはそう考える。
長く生きていても後悔は募るばっかりなのだ。
ショボンはそんなことも思った。 
     
どことなく楽しげなジョルジュを引き連れて、ショボンは自分の家に入る。

妻が別居したのは3年前だ。
一人息子が中学へ上がるのと同時に、大喧嘩してそれっきり。
奇しくもその数日後に、ショボンはジョルジュに出会った。

二〇〇七年のことだった
ショボンのいる地域周辺で、ひったくり事件が多発したのである。
犯行はあらかじめヘルメットと手袋を装着して背後からバイクで走り一気に盗むもので、被害は増えるが捜査は難航した。

精神的に疲れていたショボンはなかなか捜査に身が入らず、いらいらを募らせていた。

「おじさん、手伝ってやろうか」

ジョルジュは突然現れて、ショボンに協力すると提案してきた。
当然ながらショボンは反対した。
マンガじゃあるまいし、まだ一六歳の少年を捜査に参加させられるものか、と。

「それじゃヒント教えてあげるよ。
 犯人が狙っているのは以前某スポーツジムに通っていた中年女性ばかりで、全員家に犬を飼っている。
 そして息子が一人だけいるよ」
     
あまりにも事細かにジョルジュが述べるものだから、ショボンも興味が湧いたようだ。
後日、ショボンは青年に言われた通りそのスポーツジムを調べ、中年女性の何人かを調べた。
そして犬と息子の条件に合う人をリストアップし、刑事を張り込ませた。
するとあまりにも呆気なく、犯人逮捕に至ったのである。

スポーツジムで出会った女性と結婚したが喧嘩して別居になってしまい、腹いせに行っていたという。
犬も息子も犯人の妻が自分の家に持って行ってしまったらしい。
結局のところ、ショボンにとっては嫌な感じの事件だった。

それからショボンはジョルジュと出会い、いつの間にか様々なことを語る仲になっていった。

ジョルジュは時折ショボンの家に来ては、ショボンの捜査の助言をしてくれた。
その的確さに、ショボンは素直に感嘆していた。
ただ、初めのうちジョルジュは馴れ馴れしく話しかけてきていたので、敬語を使えとよく注意していたのだが。

新密度が増した頃に、ショボンはこっそりお礼としてずっと昔の事件調査の話をしてあげた。
昔あった大事件には、ジョルジュもよく興味を示してくれた。

ショボンはジョルジュに、自分の息子の姿を投影していたのだろう。
歳はジョルジュの方がやや上だが、大差は無い。
明るいジョルジュを世話してあげることに、ショボンは徐々に楽しみを覚えてきていた。

ジョルジュはなかなか富裕な家の子なのかもしれない。
ショボンは時々そう感じた。
身なりも整ってるし、家がそう近くは無いようなのに何の気なしにショボンに会いに来るからだ。

もちろんそれは事件があったときだけだが。

「最近は特に大きな事件は起きていなかったと思うが、何しに来たんだ? 」

「ええ、事件ではないんですが」

ジョルジュは「確かに」とでも言うかのように頷いた。
ショボンはジョルジュの話を静かに待つ。

「死んでしまった内藤ホライゾンについて話を聞きたいんです」

「内藤ホライゾン」という名前が、ショボンの頭の中で響く。
警察署内でも何度も頭の中で反芻していたその名前。

「……どうしてあの男のことが気になるんだい? 」

ショボンは期待を込めてジョルジュに質問する。
自分でも何かがおかしいとは思っていたが、何故なのかはわからなかったからだ。

「明らかな矛盾というわけではないのですが。
 内藤ホライゾンの死ぬ理由がわからないんです」
     
ショボンは頷く。「続けてくれ」という合図だ。
ジョルジュは訥々と説明し始める。

「内藤ホライゾンが事件を起こしたのは五年前のニダー一家殺人事件。
 このときの犯行の動機もわかっていませんが、今は置いておきます。
 内藤ホライゾンは長い間裁判に掛けられ、死刑はほぼ確定だった」
     
そうだ、ショボンは自分でもそのことは思い至っていた。
内藤ホライゾンは何をしなくても、そのうち死ぬはずだったのだ。

「内藤が死にたがっていたのであれば、何故五年間も生きていたのか。
 またできる限り生きたかったのならば刑が執行されるまで大人しく待っていればよかったはずです」

「うむ、その不可解さは私も感じていた」

ショボンの感じている不可解さには20年前の記憶や死んだ後の笑顔も絡んでくるのだが
そこまではジョルジュも知らないだろうし、特に伝えることもないと思ってショボンは言うのを止めておく。

「さすがっすね~、ショボンさん。
 そこで俺からの提案なんですが……」

「調査しませんか? この事件」

一瞬、ショボンは呆気にとられていた。

「……え!? 」

「いやあ、だって気になるじゃないですか。
 こういうのは一度調査してみないと」         

ジョルジュは事もなげに言う。
ショボンは残念そうに息を吐いた。

ジョルジュならば何か具体的な矛盾点を提示してくれる、そんな気がしたのだが、どうも上手くいかなかった。

「あのねえ、警察も暇じゃないんだよ
 事件性の無い事柄に一々首を突っ込むわけにはいかないんだ」

「それじゃ、今度のショボンさんの休みのときに行きましょう。
 それなら問題ないでしょう? 」
     
「せっかくの休みを潰すというのかい? 」

「仕事が無理なら趣味で、ですよ」

ショボンは呆れた様子で、にこやかなジョルジュの顔を見る。
断りたいが、自分でも確かに気になっていたことではある。
内藤ホライゾンが何故死んだのか、何故死んだ後にあんなに安らかな表情だったのか。

ショボンは休みを取り戻すのを諦めて、ジョルジュに向き直った。

「いいだろう
 内藤ホライゾンがどのような人物だったのか、ちょうど私も気になっていたところだ」
     
ジョルジュはあからさまに嬉しそうな表情をして「よっしゃあ」と叫んだ。

「ありがとうございます、ショボンさん!
 それで、休みはいつになりますか? 」
     
ショボンはカレンダーを確認する。
遠ければいいのだが、とショボンは微かに願ったが、やはり思い通りにはならないようだ。

「明後日、金曜日が非番だね」

~~~~~~~~~~~~~~~~

二〇一〇年八月一二日(木)、午前一〇時頃――

鬱田ドクオは携帯を片手に地図を確認しながら、某県F市の街を歩いていた。
F市は県庁所在地であり、ここ数年で最も急速に成長した都市であった。

といっても、ドクオが今歩いている街路は都会の喧騒からだいぶ引き離されている。
かつては商店街であったところを改良してビル街にしようと試みたが、失敗したらしい。
全体的にコンクリートの鬱屈した雰囲気が漂っている、あまり足を踏み入れたくない通りだった。
今日は昨日までの晴天が崩れて曇り気味であることも影響しているかもしれない。

目的地はもう見えている。
周りの建物の間にすっぽりと収まった、うらぶれた細いビルの二階。
『モララー探偵事務所』――ガラスに貼ってある黄色い文字が見受けられた。

ドクオは二、三度地図の目的地と名前を確認する。
ここが目的地であるとわかり、携帯を閉じた。

しかし――あまりにボロい見た目に、ドクオは不安を覚える。
本当に大丈夫なのだろうか、という言葉が脳を過った。   
    
妙に圧迫感のある薄暗い階段を上り、二階に辿り着く。
表で見たのと同じ文字が入口のドアにも貼ってある。
ドクオはドアをノックして、予約した者だという旨を伝え、返事が返ってきたのでノブを回した。

「これはこれは、よくお越し下さいました」

入室してすぐに、ドクオに声が掛かった。
彼がこの探偵事務所を経営している男、モララーに違いない。

さっぱりとした男――それがドクオが最初にモララーに抱いたイメージである。
表も裏も無い、そんな直感がして、ドクオは少し緊張が解れた。
街の雰囲気や圧迫感のせいで、思った以上に肩が張っていたみたいだ。

モララーの机は窓を背にしており、もし今日が昨日までのような快晴ならば逆光で見えなかっただろう。
机の前には相向かいのソファ、その真中に透明なガラスのテーブルがある。

「C市に在住の大学生であるドクオさんですね?
 昨日予約された」

「ええ、そうです。
 調べてもらいたいことがありまして……」
              
モララーはドクオを、扉側に設置してあるソファに座らせる。
それからコーヒーを取りだしてきて、テーブルの上に置き、ドクオの相向かいに座った。

「まあコーヒーでも飲んで、詳しいことを聞かせてくださいな」

気さくに話しかけてくれるモララーに、ドクオはますます好意を抱いた。
一口コーヒーを飲んでから、説明をする。

「実は、先日亡くなったブーンについて調査していただきたいのです」

ドクオはあくまでも簡潔に、意味がはっきり伝わるように言った。
モララーはコーヒーを持ちながら動きを止める。

「…………? 」

まるでドクオが理解しづらい発言をしたかのように、文字通り首を傾げるモララー。
ドクオは一瞬どうしてそんな目が向けられるのかわからず、それから一つ思い当たる。
「あっ」と小さく叫んで、ドクオは訂正した。

「先日亡くなった内藤ホライゾンについて調査していただきたいのです」

「いやいや、チョイ待ち、まあそれもあるけどさ」

モララーは掌をドクオの前に出す。
彼が困惑していることはドクオにもわかった。

同時にドクオはがっかりする。
どうやら名前が一般に知られているものではなかったから、というわけではなかったようだ。
ドクオもまた少し首を傾げた。

「死んだ人をどう調査するのさ? 」

「ああ、そういうことでお困りでしたか。 それは……」

答えを言おうとして、思考を巡らせるが、言葉が出てこない。
ややあって、ドクオは自分がその答えを知るわけがないことに気付いた。

「わかりませんよ。だからここにきたんです」

気まずい沈黙が流れる。
ドクオにとって、その嫌な感覚は小学生の時から訪れるものであったが、モララーにとってはたまったものではないだろう。
困っているモララーを見てそれを痛感する。

「しかも君が言った、内藤ホライゾンって、あれだよね?
 一昨日くらいに死んだ犯罪者。めっちゃニュース流れてた」
      
ドクオはまさにその通りというように肯定する。
モララーは暫く固まっていた 。

ドクオは昔から、自分が人との会話に向いていないことを知っていた。
今だって返事はしたものの、そこから自分で言葉を発する気にはなれない。
どれほど相手が言葉を見つけるのに困っていようと、相手からの言葉を待ってしまう。

このように、返答に困る相手の姿を見ることも多かった。けれど、それは決して気持ちのいいものではない。
できることならば会話は避けたい、コミュニケーションを避けていたい。

でも、今それは無理な願いだ。
どうしてもこの会話は続けなければならないのだ。
モララーに、ブーンの調査を依頼するということを必ず成功させなければ――

「あのね、私は今まで調査って言われたらいろんなものがあったのよ」

ようやくモララーが口を開く。

「家出した家族とか、不倫している夫とか、ストーカー見つけたり。
 生身の人のドロドロしたところを見つけたりするのが多いんだよね」
      
「……あんまりやりたくない仕事ですね」                  

「まあね、時々そう思うよ。そこまでストレートに言われるとちょっと辛いね。
       君、ひょっとしてあまり人と話さないタイプ? 」
      
('A`)「ええ、まあ。友達いません」

「そっか…………」

「ええ…………」

再び訪れる沈黙。
もちろんドクオは望んでこの沈黙を戻したわけではない。
ドクオ自身焦ってはいた。

こんなにすぐモララーに断られてしまうわけにはいかない。
話を繋がなければならない、けどそれはドクオの最も苦手とすることだ。
嫌な空気を感じながら、ドクオはモララーの返答を待っていた。

幸いモララーは気を取り直して話を続けてくれた。

「まあいいや。話を戻そう。
 とにかく、依頼主ってのは自分のことを一番に考えていることが多い。
 だから、死んだ人を調べたことはあまりないんだ。私もあまりしたくはない。
 こんなこと言うのも悪いけど、あんまり実益がないような、そんな気がしちゃうんだよね」
      
モララーは申し訳なさそうに言う。
率直な感じ方がちゃんと伝わってくるモララーの話し方にはドクオも感心した。      
      
「だいたい、どうして死んでしまった人のことなんか調べようと思ったんだい? 」

もっともな質問だろう、ドクオはそう思った。
自分は傍から見れば笑顔の殺人鬼とは何の繋がりも無い一般市民なのだから。

ドクオはモララーの言葉に頷いて、頭の中を整理し始めた。

「昔、会ったことがあるんです。
 その、内藤ホライゾンさんに」
    
モララーの眉がわずかに動くのを見て、ドクオは少し安心した。
興味を持ってくれそうだ――ドクオはそう感じて急いで言葉を繋げていく。

「僕はあの人と何度か出会って、思ったんです。
 この人凄く良い人だなって。
 あの人は僕に凄く優しくしてくれて、いろんなことを教えてくれたから。
 どうしても、世間でいう殺人鬼のイメージと結びつかなくて」

ドクオは自分でもひどく感覚的な感想だと思ったが、モララーは特に批判することも無く聞いていた。
ドクオはつくづく安心して言葉を続ける。

「事件があったときは衝撃的でした。
 あの人が犯罪をするなんて、とても信じられなくて。
 それに名前まで違っていたし」
    
「名前……ひょっとしてさっき言いかけた、ブーンって名前かい? 」

モララーが言葉を挟んでくる。
決して話の流れを切ったではない。ごくごく自然に割り込んできたのだ。
ドクオは落ち着いて返答する。

「はい。
 僕が初めてあの人にあったときはそう名乗っていたんです」
    
モララーは少し考えている様子だった。
ひとまず一蹴されずにすんだ、ドクオはその安堵感を味わった。    
    
「じゃあその殺人をした内藤ホライゾンが、ブーンさんに良く似た別人だった、ということはないのかい? 」

「いえ、それはありません。
    あの事件は僕がそのとき暮らしていた近くで起きたものですし、あの事件以来ブーンさんには会っていませんから」

「B市の中で、君はブーンさんと結構近かいところで暮らしていたのかな 」

「はい」

「いきなり変な相談ですいません。
 でも、僕は知りたいんです。
 あんなに優しかったブーンさんがどうして犯罪を行ったのか、そしてどうして今になって死んだのか」

モララーはじっと考え込んでいた。 

ドクオの説明はあまりにも簡潔で、感覚的で、不明瞭な点もあったが。
それでも内藤ホライゾン、もといブーンに対する気持ちを込めて言葉にした。
元々話すことが苦手なのである。説得じみた真似はできるわけがない。
ドクオは最初から気持ちで勝負するつもりだった。

ドクオはじっとモララーを見つめていた。
その目がだんだんと、面白いものを見たときの少年と同じような輝きを持ってくるのを、ドクオはしっかりと見ていた。

ふと、この人はどうして探偵になったのだろうという疑問がドクオに湧いてくる。
先程自分でもつい言ってしまったが、決して気持ちのいい仕事ではないはずだ。

それでもこの仕事を選んだということに、この瞳の輝きは関係しているのであろうか。

ドクオが色々と考えているうちに、モララーの方は意志が固まったらしい。
顔を上げて、モララーはドクオを向いた。


モララーは改まった口調になる。

「だいたい、状況はわかりました。
 本来ならこのような調査は行ったことが無いので、なんとも返答し辛かったのですが」
      
ドクオは無意識のうちに拳を握りしめて、モララーの答えを聞いていた。
それが緊張した時の彼の癖であった。

「――私としても、とても興味深い事柄であります
 あまり大した収穫は無いでしょうが、まずは5年前の犯行現場から調査していきましょう」
      
ドクオはモララーの言葉を聞き終わると、一気に呼気を吐きだした。
肩の力が抜けて、拳が解かれていく。

「ああ、よかった。
 ありがとうございます、探偵さん」
    
本心から、ドクオは感謝の言葉を述べた。
調査はしてくれることが決定したので、ドクオは一安心する。

そして、これは出来たらでいいのだが、ドクオはもう一つの提案をする。 

「モララーさん、あの……
 できたらでいいんですが、聞いてほしいんです」    
    
「僕も調査についていってよろしいでしょうか」

「そうだねえ……」

モララーはドクオの顔を見つめて、何度か頷く。
まるで調べられているような気がして、ドクオは少しだけ緊張する。
それでもさっきよりはだいぶましだったが。

「いいでしょう。
 相手は死人ですし、ばれるとかそういうことは気にしなくていい。
 それに……はっきりいって私の興味からくる暇つぶしみたいなものですから」
      
「暇つぶし……ですか。
 なんかすいません。忙しいのに」
    
相手が少しでもマイナスイメージの言葉を出したら、つい謝ってしまう。
それもドクオの癖だった。

「いやいや、謝らなくていいんだよ。
 何もしていないだろう」
      
モララーはカラカラと明るく笑い飛ばす。
聞いてて気分が良くなるような、垢ぬけた笑い声だ。
ドクオもつられて、気がついたら口の端が微妙に上がっていた。

「それに、ここはあんまり客が来ないからね。
 私としても、この探偵事務所だけで生きているわけじゃないから」

ドクオは納得し、少しホッとする。
自分が迷惑でないとわかると人一倍嬉しかった。

一方で、別の疑問が湧いてくる。

「じゃあどうやって生活しているんです? 」

言いながら、ドクオは自分でも、今日は良く喋るなあと思う。
今までは誰かと一緒にいて、こんなに会話が続いたことはほとんどない。
まして自分から疑問を投げかけるなんて、母親にだって珍しいことだった。

モララーはそれほど話しやすく、気兼ねしない男だった。

「ああ、普段なら適当にアルバイト見つけて稼いでるよ。
 今はちょうど期限終わって、何もないけどね」

あっさりと、モララーは答える。
あまりに普通な態度で答えたので、ドクオは返答が遅れてしまった。

「え、それって……ちゃんとした仕事は? 」

「ないよ」

今度はドクオが困惑する番だった。

「じゃあ……お金とか大丈夫なんですか? 」

「できのいい兄弟がいるんだ。
 大抵はそいつが何とかしてくれる」
      
その兄弟にとってはひどく迷惑な話だろう、とドクオは思った。
先ほどとは違う種類の汗が、次々と流れていく。

「あの、失礼ですが、おいくつですか? 」

「今年で40かな」

その数字に、ドクオは呆気にとられた。
ドクオ年齢のダブルスコアよりさらに上である。

ドクオは、たとえ自分でなくても、返答しづらいに違いないと思った。
40歳になっても収入源は兄弟頼みだという、そのような生活が果たしていいものなのだろうか。

「といっても、誕生日ははっきりとは知らないし。
 兄弟も血が繋がっていないんだけどな」
      
「血が繋がっていない……ですか」

ドクオの言葉をきいて、モララーはにやっと笑う。
何故笑われているのかわからず、ドクオは目をぱちくりさせた。

「いや、ごめんな。
 お前みたいな反応はもうずっと昔から見てきてるんだ」
      
モララーは可笑しそうに笑う。
この時のドクオには、何故そんなに可笑しいのか完全に理解することはできなかった。

「俺はな、記憶がないんだよ」

事も無げにモララーが打ち明かす。
いつの間にか、モララーの一人称が変わっていた。
ただの仕事上の関係から、ドクオ相手に打ち解けてきたということなのだろう。

ドクオはぽかんとした後に、その言葉の意味を理解する。

「記憶喪失……ですか? 」

「おう、ガキのころの記憶がさっぱり無いんだ。
 結構な歳になってからしか、思い出せないのさ」
      
「へえ……」

初めこそ驚いたが、ドクオはだんだんとモララーの発言に興味を抱いた。
記憶喪失など、聞いたことはあるが実際にそうなった人を見たことは無い。
元々人との接触はないが、ごく普通の人間でもそれは同じだろう。

「俺は全然気にしてないがな。
 むしろこうして一つは話題にできるから」
      
確かにモララーの口調からは記憶喪失であることを悲しむような感じは無い。
むしろ相手の反応を見て楽しんでいるようにさえ、ドクオには思えた。

それからも二人は話を続けた。

モララーはだいたい高校生のときに記憶を失って、拾われた。
モララーの兄弟というのは、彼を拾って育ててくれた家の人らしい。
年齢も恐らくモララーに近いのだそうだ。

モララーの名前は、拾われたときに着ていた服の裏に書かれていたもので、苗字まではわからない。
苗字が必要な時は拾ってくれた家の「分手」を使っているそうだ。

分手さんの家は山の中にあり、子どもを高校に行かせていなかった。
勉強はその家の主人が教えてくれて、モララーはそこの家の子どもと一緒に山の中で勉強したとか。

このように、会話は途切れることなく続けられた。
モララーの育った環境があまりにも普通とかけ離れていたので、ドクオは次々と質問をした。
まだ山の中での話しかしていないときであったが、モララーは強引に話を切る。
再びブーンのことに話が戻った時には、外で雨が降り出していた。

ブーンの調査は、明日、8月13日金曜日に早速行うことになった。
まず調べるのは事件現場から。
手掛かりなんてもう残されていないだろうが、犯行の状況を見ておくことは大事なことだ。
これがモララーの言い分だった。

探偵事務所を後にして、アパートに戻ったとき、ドクオは達成感を感じていた。
ブーンの調査をしてもらうことに成功したことを素直に喜んだ。

ドクオの頭の中にはモララーの飄々とした姿が映っていた。
ドクオにとって、とても好印象だった。

けれど――頭を振って、その姿を消す。

わかっている、これは指令なのだ。
ブーンの話をネタにして、モララーに接近すること。
それが八月一〇日の夜に、携帯で伝えられた指令だった。

「わかっているさ」

ドクオはそう呟く。
そして、同時に指令を伝えてきた人物の言葉が蘇る。

『今はまだ言えないが、そのうち説明する
 その前にちゃんと接触するんだ。モララーと
 ブーンのことに関する最重要人物なんだからな』

笑顔の殺人鬼、内藤ホライゾン、またの名をブーンというその男。
彼の死に関係して、四人の人物が行動を始めていた。

警部のショボンと、その付き添いの青年ジョルジュ。

指令を受けたドクオと、記憶喪失の探偵モララー。

彼ら四人の行動が
一人の男に纏わる、悲しい事実と、嘘を暴いていく。

そして事件は、これから始まるのである。

第二話

二〇一〇年八月一三日(金)、1時頃、A市――

探偵、モララーはスーツを着て、冴えない青年ドクオを連れてこの街に来ていた。
聞けば彼は十九歳なのだという。
自分の半分以下であることに、若干驚いた。

自分の年齢といっても、それは一緒に暮らしていた分手マスという青年の年齢と合わせただけであり
実際の自分の年齢とは違っているのかもしれない。
そもそも記憶がないのだから、あまり気にしてもしょうがない、というのがモララーの持論だった。

A市内のバスに乗り、彼らが向かっているのは、かつて笑顔の殺人鬼内藤ホライゾンがニダー一家を殺害した場所である。
事前にA市の交番で聞いた話によると、ニダーの屋敷は取り壊されてどこかの金持ちがマンションを建設したという。
その人物は殺人事件があったことなど毛頭気にしていない人物なのだろう、モララーはそう考えると呆れてしまう。

たとえ自分が今暮らしている場所で、ほんの数年前に血だまりができていたとしても、何とも思わないのだろうか。
暮らしていける場所ならば、どこでもいいから綺麗なところの方がいい気がするのだが。
――でも山から離れたらどこも似たようなものか、そう思い至りモララーは苦笑いする。

「あの……モララーさん」

消え入るような声が聞こえてきたので、モララーはハッとする。
隣の席に座っていたドクオが話しかけていたのだ。
しかもそのおずおずとした様子からすると、どうやら長いこと声を掛け続けていたらしい。

「大丈夫ですか? さっきから一人でため息ついたり、笑ったり」

考え事をしながら表情を出していたのをドクオはしっかり見ていたらしい。
モララーは微かな恥を感じながら、それを掻き消して笑い飛ばした。

「なあに、ちょっと考え事していただけさ
 どうも昔から考えているといつの間にか表情が出てしまうんだよ」
      
「なるほど……なんだかモララーさんらしいですね」

ドクオの口が少しだけ緩んでいた。

モララーさんらしい、か――言われたモララーは頭を掻いた。
自分の性格はそんなにもわかりやすいものなのだろうか、昨日今日でわかってしまうほどに。
少しだけ考えたが、「わかりづらい」と言われるよりマシだと思い、モララーは満足する。

それにしても、この青年は変わりやすいな――モララーの思考の対象は自分からドクオに移る。
変わるといっても昨日探偵事務所に入ってきたときから、今とを比べてということだ。

正直事務所で話し始めたときにはあまり好感が持てなかった。
まるで人とコミュニケーションをとることを本能的に避けているように、モララーには思えたのだ。

ところが、今隣に座っている青年ははっきりと何かに向かっている。

内藤ホライゾン、いや、ブーンと呼ぶことにしよう、とモララーは思った。
まだその謎については触れることはできない。
この、言うなれば五年後の現場検証で何かが見つかればいいのだが――

「モララーさん、もう着きましたよ? 」

ドクオが心配そうに声をモララーに掛けてきた。
モララーはまたしても考えに熱中してしまったので、ボリボリと頭を掻く。
昔からそうだ。少なくとも記憶があるうちから、モララーは考えすぎるとよく周りが見えなくなったのだ。

バスから下りて、そこで初めて外の景色に気付く。
F市と比べたら見劣りするが、某県北部の中枢的な役割を占める街だ。
モララー達が下りたのは駅からほんの数キロ離れただけの地点だが、それでも薄汚れたビルと街路が目立つ。
山育ちの影響か、ついついモララ―はそんなことばかり考えてしまうのであった。

当時の殺害現場、つまりニダーの屋敷は本当に跡形もなくなっていた。
情報を頼りに来ては見たものの、聳え立つのは高級マンションでしかない。

一度歩みが止まり、困ってしまったモララー達は、しかたなくマンションの周りを歩くことにした。
一応目は配らせておくのだが、やはりこれといったものは見当たらない。

やがて、歩き始めた地点が見えてこようとしていたときだった。

傘を畳んで持ち、マンションを見上げている女性がいた。
どことなく気品が醸し出されていて、育ちの良さそうな見た目。
年齢は二〇代後半か三〇代になりたてだろうとモララーは推測する。

「あの人、マンションに入らずにずっと見上げていますね」

ドクオが指摘して、モララーも頷いた。
どうも女性はマンションに入るために来たのではないらしい。
ただその場所を見に来ただけなのだろうか。

モララーが考えを広げているうちに、女性が二人の方を向く。
思えば男性二人にじっと見られているのだ。不愉快に感じたかもしれない。
モララーは咄嗟に頭を下げた。隣のドクオもそれに倣う。

女性はただ、にこっと微笑みかけてきた

「あの、なんかすいません。こいつがじっと見ちゃって」

モララーはドクオの頭をくしゃくしゃにしながら言う。

「ええ!? いやまあ……うえぇ!?」

この青年は見た目からしてこういう状況が苦手なのだろうとモララーは思っていた。

あまりにも口が回らないドクオが惨めになってきたので、モララーは腕を下ろす。

「いやあ、すまなかった。俺も見てたから気にしなくていいんだぞ」

「そういう問題でもない、と思いますけど」

「ふふ」

女性が笑ったので、モララーもドクオもパッと表情を変えてそちらを向く。
それから、彼らは話し始めた。
自分たちが、ここで5年前に起こった殺人事件について調査していること。
特に内藤ホライゾンについて調べていることを。

出会いがしらに殺人事件の話をするのは奇妙だが、モララーは自然に話を繋げていった。
女性はひとしきり聞いた後、言葉を発する。

「内藤ホライゾンさんのことはよく知っていますよ。
 私の姉と関わりがありましたから」
     
その清楚な女性の名前はしぃと言った。
彼女もまた、三日前の内藤ホライゾンの急死について疑問に思っていた。
それでこの現場に来てみたが、何をするでもなく佇んでいるところでモララーたちに出会ったのだという。

「もうちょっとしたら、このお花を道端に添えようと思っていたんですけどね」

そういって、しぃは手元の小さい花をモララーたちに見せる。
リボンの装飾がかわいらしいが、決して派手なわけではない。

「献花、ですか」

「ええ、そう。
 もちろん、亡くなられたニダーさんと、その奥さんのためでもあるわ。
 でも本当は、内藤ホライゾンさんのため」

「そんなに思い入れがあるんですねえ」

「いえいえ、私なんて面識がないので。
 姉のためです。あの人、今は忙しいけど、きっとこれをあげたがってるだろうって思うんです。
    だから私が、姉の代わりに」

「あんまり仲良くないんですけどね。私と姉は。
 価値観が違うというか、姉はすごく自由な人だから。
 でも、根っこの方では同じなんじゃないかなあ」

言いながら、しぃはマンションを眼を細めて見上げる。
つられてモララーとドクオも見上げてしまった。やや自己主張の激しすぎるその相貌。

「跡形もないって、まさにこのことですよね」

なんだか虚しそうに、しぃが呟いた。

「全く、このバカでかいマンションなんか建てるから現場が無くなっちまうんだよ!
 なあそうだろう、ドクオ」
      
「いやあ、でも殺人現場を5年間も残しておくのはまずいんじゃないかなあ」

「いや、跡形もなくぶち壊すなんてひどい。
 屋敷を屋敷としか見てないからそうなるんだ。
 全く、こんなもん建てた奴をぶん殴ってやりたいよ俺は」
      
「ふふ、じゃあぶん殴ってみます? 」

しぃがさらっと発した言葉に、男二人は「えっ」と言って固まってしまう。
面白そうに微笑みながら、しぃは話を続けた。

「私のお父様なんです。このマンションを建てたのは」

「い、今お父様って言ったぞ」

「驚くのはそこじゃないと思いますよ」

モララーがこっそりと言い、ドクオが冷静に返した。

しぃの家系は古くから大量の土地を所有している富豪であり、しぃの父親は大型のマンションをいくつも経営しているそうだ。
しぃの父親は内藤ホライゾンに特別な思い入れがあって、彼が逮捕されたことも不審に思っていたらしい。
内藤の殺害が確定したことが受け入れられなかったしぃの父親は、腹いせにニダーの屋敷を買収、マンションを建設したという。

「それで、その思い入れとは? 」

「それはお父様本人に聞いてみてくださいな」

午後五時、A市郊外――

しぃが献花した後、二人はしぃに連れられた。

しぃの家には三〇分も掛からずに到着したのだが、そこには父親はいなかった。
父親自身は基本的に東京で暮らしているから、モララー達が到着してから使用人たちに呼んでもらったのだ。
しかしどうやらその父親は意外と遠くに出ていたらしく、ここまで時間が掛かっている。

その家の三階、高級ホテルのワンルームのような客室の窓から、モララーは曇り空を眺めていた。
普通ならそろそろ夕暮れ、紅色の陽光が人々を照らしている頃だ。
けれど今は光が届かないし、モララーの見る限りでは人もいない。
しぃの家の敷地内であるために部外者は中に入ることができないのだ。

この家の周りは鉄柵が囲っていて、入口以外から入ることは不可能。
その入口にも守衛が居るので、必ず家の人か使用人が付き添わなければ入ることはできない。
先程モララー達はしぃと一緒にいたので入ることができたのだ。

そういえばこの家はしぃの父親がしぃに人生経験をさせるために与えた家らしいが
果たして使用人つきの、しかも外界から隔離されたこの家でなされる経験はどういったものだろう、とモララーは考えてみた。
そして考えれば考えるほど、それは父親が与えたいと思った人生に過ぎないのだろうと思う。

別に非難しているわけではない。むしろ羨ましいくらいだった。
もう少し自分が若ければ、あまりの羨ましさに涙を流していたかもしれない、とモララーは思った。

「モララーさん」

ほんのわずかだが嬉しそうに、ドクオが呼びかけてきた。

この青年は長いこと感情をあまり表に出さない生活をしていたのだろうな。
そんなことを考えながら、モララーは振り向いた。

ドクオは二つあるベットのうちの一つで、布団にギュっと顔を押しつけていた。
どうも柔らかさを肌で感じているらしい。
思い切り肌をすりすりした後で、モララーの方を向く。

「僕、将来探偵になってみたいです。
 こんな気持ちのいい布団で寝られるなんて」

「……お前はそっちのベットだからな」

「うぃ」

ドクオは再びすりすりを開始する。
モララーは眉を顰めながら、頭をガリガリ擦った。

客室を用意してくれたのは意外だったが、特に断る理由も無いので二人は利用している。
特にモララーは、探偵事務所に用意してある敷布団がボロボロになってきていたのであまり使いたくなかった。
ふとドクオの敷布団は綺麗なのかと考えたが、綺麗と考えたくなかったので汚いと仮定しておく。

「モララーさん」

急に真面目な表情になって、ドクオが質問した。

「ん? どうした」

「あの、つかぬことをお伺いするんですけど」

ドクオは少し言葉を迷っているようだった。

「どうしてこんなに真剣にブーンのこと調査してくれるんですか?」

「……は?」

モララーには、ドクオの質問の真意がわからなかった。
だから疑問符をつけて送りかえしたのである。

でも、ドクオは首をかしげるばかりだ。
しかたないからモララーが言葉を紡いでいく。

「なんでって、それがお前からの頼みだから、だろ」

「いやでも、全く知らない人なんですよ? 僕やブーンのことなんて。
 それなのに、こんなとこまで来てくれて調査してくれて、いったいなんでかなって思って」

ドクオはごく普通に質問しているようだった。
それを普通と思えるのだから、やっぱりちょっと変わってるなとモララーは思った。

「んー、仕事だからってのもあるけどさ」

モララーもまた言葉をいろいろと考えてみる。
なるべく自分の考えに近い言葉。

「お前はさ、要はブーンのことが気になるから、調べている。
 ブーンさんはホントは優しかったのに、どうして殺人なんかって」

ドクオは素直に頷いた。

「そんなお前が依頼人。
 だから、依頼された俺はお前を信じて、ブーンはいい人なんじゃないかっていう証拠を探す。
 そしてどうしてあんなことやっちゃったのかっていう理由を見つけたい。
 これが俺の頑張る理由ってとこかな」

ちょっと恥ずかしくもあったが、モララーの本心は実にこんなものであった。

「それだけですか?
 たったそれだけで、あなたは僕のことやブーンのことを信じてくれるんですか」

「な、なんだよいきなり。そうなんだからそうなんだよ。
 こういう仕事はな、嘘をつかれることは多いけど、それでもな
 依頼してきた人のことはひたすらに信じなきゃならないの。それが俺の立場なんだ」

ドクオはなんだか感心したような表情をした。

「やっぱりかっこいいですね、探偵って」

どうも気恥ずかしいので、モララーは、あーっと呻いた。

「お前さんもいろいろ思うところがあるわけね」

「ええ、まあ……」

どうもすっきりしない返事が、ドクオから返ってくる。
やれやれ、とモララーは思ったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

結局のところ自分も似たようなものかもしれない、なんてことを考えていたのだ。
自分にしたって、はっきりしないことは多い気がする。飄々としているのは、それをうやむやにしているからだ。
だから、ドクオを強く責める気にはならなかった。

「とりあえずお前はさ、自信もて、なんて無責任なことは言わないでおいてやるから
 なるべく自分の考えを大事にしろよな。それって大切なことだぜ」

「はい!」

布団に顔をうずめるドクオを見ているうちに、階下で物音がするのに気付いた。
もちろん人はいるのだが、一段と動きだしたようなので、モララーは父親が来たのだろうと思う。

やがて客室の扉が開いて、しぃが二人を呼び出した。

一階、応接室――

モララーとドクオはしぃに連れられて、部屋の中に入った。
壁に飾られた賞状や、トロフィーがまず目につく。
応接室に置くということはそれだけ相手に見せびらかしたいという意図なのだろう。

「よく来てくれましたモナ。
 ありがとうだモナ、えっと……」
       
ふくよかな男が、腹の底から出るような声で語りかけて来た。      
       
「モララーさんとドクオさんですわ、お父様」

「ああ、そうだったモナ、忘れていたモナ」

「いやですわ、お父様。
 まだ名前なんて紹介していませんことよ」     

二人の笑い声が、客室中に響き渡った。
少し大袈裟かもしれないが、確かに家族としてのぬくもりが感じられる、そんな笑い方だ。
モララーとドクオは自分たちとかけ離れたその親子の様子をぼんやりと見ていた。

「とりあえず座るモナ」

父親はしぃを外に出して、それから顔つきを真剣なものに変えた。

「話はしぃから聞いているモナ。
 どうして私が内藤ホライゾンのことを好んでいるかモナね? 」
       
しぃの父親の名前はモナーと言った。
モララーとドクオがフカフカのソファに座り、細長くて艶のあるテーブルを挟んで反対側にモナーが座っている。

「まず話を始める前に、しぃの姉であるつーの話をしなければならないモナ」

つーはしぃとは歳の離れた姉であり、昔はよくしぃの面倒を見てくれた。
モナーや他の養育係にとっても、頼りになるいいお姉さんだったそうだ。

しかし一九九九年、つーは二〇歳になると同時に東京の家を飛び出した。

富裕なだけで何の刺激も無い毎日に嫌気がさしたらしい。
実際つーはその頃、大勢のガラの悪い友達とつるんでいたという。

「実のところ私は完全につーを舐めていたモナ。
 どうせすぐに帰ってくるのだろう、と高をくくっていたモナ。
 ところが……」
       
つーは全く帰ってこなかった。
さすがにモナーも捜索をしなければならないと思い、警察に連絡した。
しかしいくら待っても進展がない。
だんだんとモナーは焦りを感じて来たという。

「私はとても怖かったモナ。
 そしてとても後悔したモナ。
 つーにもしものことがあったらどうしようか、もし悪い奴らに捕まっていたらどうしようか
 毎日毎日そんなことばかり考えていたモナ」
       
その年の十二月、事態は大きく動いた。
某県D市のある市警が、モナーに連絡をくれたのだ。
失踪中のつーが、D市にて発見された、と――

モナーは急いでD市に駆け付けた。
D市は某県西部にある地方都市であり、モナーは初めてそこに赴いた。
モナー自身も、また他の関係者も、つーがまさかそんな場所にいるなんて思いもよらなかったらしい。

D市警察署の一室で、モナーはつーと再開した。
つーの傍らには、包帯を体の至る所に巻いた青年が座っていた。
彼らの手はしっかり結ばれていて、その関係はモナーにもわかった。

「そのとき包帯を巻いていた彼こそ、内藤ホライゾンであったモナ」

モナーは話を聞くことにした。
内藤、もといブーンは痛々しい体で、上手く喋ることができなかったため、つーが全て話してくれた。

つーはD市にて水商売で働いていたそうだ。
生きていく分には収入も十分にあり、生活にも困らなかった。
もう家に戻らなくてもここで暮らしていけばいい。ここには、家には無かった刺激があるから、つーはそう思っていた。

しかし、あるときブーンと出会った。
大学生の友達が紹介してくれた人の中に、その人物はいた。

彼は真面目な人で、普通なら自分と関わらない人だ、とつーは思ったらしい。
友達の友達として、偶然が重なって知ることになった彼。
でも一度目は何事も無く過ぎてしまった。

それから、今度は客引きをしているところでブーンに会った。
ブーンは心底驚いたらしく、つーの手を引いて話をしようとした。
つーはそれを払いのけて仕事に戻った。

しかしブーンはことあるごとにつーに接触して、説得しようとしてきた。
こんな仕事はするべきじゃない、君はもっとやるべきことがあるはずだ、と。
つーは何度もブーンを追い返した。しかしブーンもしつこかった。
そんな日々が続いた。

ある日、つーは自分の店が危険なことに手を出していることに気付いた。
つーは逃げようとしたが、店はなかなか手放してくれない。
困り果てた彼女はブーンに相談してしまった。

すると、どういうわけか、ブーンは店側に直接赴いた。
そして頼み込んだ。つーをもう止めさせてほしい、もう彼女は嫌がっている。
もちろん店がそんなことを聞くわけがない。
ブーンは思いっきり殴られ続けた。

つーはそれまで避けていた警察に連絡した。
たとえこの連絡のせいで自分が家出途中の身であることがわかったとしても構わなかった。
ブーンが助かるならばそんなことは、どうでもよかったのだ。

「つーはそう語ってくれたモナ。
 内藤ホライゾンはつーを更生し、再び我が家に帰してくれたモナ」
       
「私は彼に感謝しているモナ。
 彼はしばらくすると行方不明になり、次に私が目にしたのは殺人犯としてテレビに映ったときだったモナ。
 しかし、当然のことながら私は信じられなかったモナ。
 彼が凶悪な、俗に言う『笑顔の殺人鬼』などになるとは、とても思えなかったモナ」
       
モララーはそこまで言うと、目を閉じる。
昔のことを思い出しているようだ。
きっとブーンのことなのだろう、モララーはそう思った。

そして、どこかで似た話を聞いたばかりだとも思った。
やがてすぐに思い至り、ドクオの顔を見る。

モナーの話はドクオの話に似ていた。
ブーンは良い人だ。とても殺人犯とは思えない。
話は違っても、伝えたい内容は同じであるようにモララーのは思えたのだ。

ドクオはまっすぐ、モナーを見つめている。
真剣だ、といってしまえばそれまでだが、どことなくそれだけでは言い表せない感じが出ている。
悲しみが彼の瞳の奥に湛えている、モララーは青年を見ていてそんな気がしたのだ。

ドクオは自分の気持ちを言葉に出そうとはしない。
でも、モナーをじっと見つめる彼は、何かを感じたのだろう。
それが何かは、彼が話す気になるまではわからないままであるものなのだろう。
そんな直感が、モララーの頭を過る。

「私の気持ちは以上モナ。
 あの男に秘密があったのならば、それはそれで仕方のないことモナ。
 でも……もし彼の死が避けられるものであったならば、現状に後悔せざるをえないモナ」
       
モナーの言葉の後、静寂が訪れる。
こうなってはドクオは喋らないだろう、モララーが会話を続ける。

「お気持ちはわかりました。
 我々も、彼の死が受け入れられないでいる点では同じです。
 私は関わりがないのですが、このドクオ君は昔内藤ホライゾンにお世話になったことがあるそうで」
      
言葉を聞き終わらないうちに、モナーは「ほおお」と言いながら、ドクオに注目する。
ドクオはただ頭を下げただけだった。

「それは興味深いモナ。
 思うに君が会った内藤ホライゾンは我々の前から姿を消した後モナ。
 それはぜひお話を聞いてみたいモナ」

この人もやはり知りたがるのだ。モララーは職業上、ついそんなことを思ってしまった。
何人もそんな人間を相手にしてきたから、わかっていた。
謎があれば解きたがる、たとえそれが不愉快なものであろうとも。
それが人間なのであり、自分だって大差ないってことも。

「はあ、ですが僕の経験は本当に当たり障りのないもので。
 あの人のことを良く知る上では、あまり役には立たないかと」
    
「構わんモナ。
 今は真面目になって会社にかかりっきりなつーに、聞かせてあげたいんだモナ。
 彼女は――」
       
時計の鐘が鳴ったので、モナーは口を噤んだ。
六時の音である。

「随分話しこんでしまったモナ。
 食事の準備が整っているはずだモナ。
 お二人とも、今夜は存分にうちの料理を楽しんでほしいモナ」
       
「といっても私もこのうちの料理人の出すものを食べるのは初めてモナ。
 こりゃあ楽しみモナ」

午後六時、一階、会食場――

会食場に入る前に警備員のチェックがあった。
モララーとドクオは危険なものを持ち込んでないことを調べられる。

「会食の際には左胸のポケットにこの紫色のハンカチを挟んでください」

「あの……僕スーツじゃないからポケットないんですけど」

ドクオがおずおずと質問した。

「それじゃ別のポケットに入れてください」

「破けているんですが」

「…………」

「…………すいません」

「と、とりあえず私が預かっておきますね! 」

警備員からハンカチを受け取ると、モララーはドクオを連れてさっさと入場する。

「すいません」

「あやまんじゃねーっての」

会場は広かったが、今回使うテーブルは一つだけ。
入口から見て横長のものであり、奥に二つ、手前に二つの席がある。
席と席の間は五メートルほど離れていた。
さらに他人と向かい合うのではなく、席を線で結ぶとジグザグの形が出来上がるように配置されていた。

入口から見て、左奥にドクオ、左手前にモララー、右奥にしぃ、右手前にモナーが座る。
ドクオとしぃからは入口が見えて、モララーとモナーからは壁にあるレリーフが見えた。
藤の花のようである。すると、ハンカチの紫色はきっと藤色なのだろう。

「みなさん、本日はよくお越しいただいたモナ」

たった二人の客人だが、モナーは丁寧に挨拶を述べる。
お金を使うときは使うが、細かい配慮もする几帳面な性格が窺えた。

「私の家なんだけどな~」

しぃの呟き声も、モナーには届いていないようだった。

「それでは会食を始めるモナ」

モナーは振り向いて合図を出す。
警備員によって入口が開かれ、給仕が料理を運んできた。

「その席じゃ、いろいろと面倒じゃないですか? 」

わざわざ入口の方を向くために立ちあがったモナーに向かって、モララーが質問する。

「本来なら私が仕切るのよ。
 席もここなら入口が見やすい。し
 でもお父様がどうしても挨拶やりたいっていうから、やらせてあげたの」 
     
「ついついお客は丁寧に扱いたくなるんだモナ」

まずはスープが運ばれて、その後も少しずつ料理が運ばれてくる。

「おいしいモナ!
 こっちの料理人も良い仕事してるモナ! 」
       
喜んでいるモナーの姿を見て、モララーはふと客間で最後に見たモナーの様子を思い出す。
そして斜向かいにいるしぃに耳打ちした

「よかったですね、お父さんがここの料理を気に入ってくれて」

しぃは最初きょとんとしていたが、すぐに合点がついたようだ。
そして途端にクスクスと笑いだす。

「お父様、偉そうなこと言ってるけど味音痴なのよ
 むしろ誉めることの方が好きなの」

「何か言ったモナか? 」

モナーの首がモララーとしぃの間を行ったり来たりする。

「楽しい会食だって話していたところよ」

「そりゃあそうモナ。
 おいしいんだから楽しいモナ。
 どうモナ? ドクオ君もそう思うモナ? 」
       
「ぶっ、ごふ……はあ」

急に話しかけられて、ドクオは咽かえる。
どうやら料理をありったけ口に頬張ろうとしていたらしい。

「おい、ドクオ。
 もっと落ち着いて食べたらどうだ? 」
      
「いやあ、久々にまともな食事だったもので」

「まだ子どもなんだなやっぱり」

「いいじゃないかモナ!
 子どもだろうとなんだろうと、たくさん食べればいいモナ」

そう言っているモナーも、味わう前にがっつりと頬張っていた。
有言実行という言葉がモララーの脳裏に浮かぶ。

「子どもといっても、無邪気に食べ物を食べるくらいならいいんだけれどね」

しぃはため息交じりに呟いた。

「何か困ったことでもあるんですか? 」

悩み事があることは明らかだ。
しぃは頷いて、話しだす。

「ええ、どうもうちの敷地に爆竹を投げ込む子どもがいるみたいなのよ。
 裏の杉林の方でね。おかげで夜は眠れなくなることも多くて」
     
「そんな奴がいるモナか。
 許せんモナ。ぶっ放すモナ」
       
「お父様、まだ射撃やってたの?
 もう歳なんだからそろそろやめてほしいわ」
     
「まだまだ現役モナ~」

親子が愉快そうに話している脇で、モララーは考え込んでいた。
先程の言葉がまだ気にかかっていたからだ。

「しぃ、お前もいつまでも独り身でいないで、そろそろ結婚するモナ。
 そうしたらもっと楽しいし、おいしいものも食べられるモナ! 」
       
「まったくもう、30歳を過ぎた頃からそればっかりじゃないの、お父様」

「私はしぃに幸せになってもらいたいだけだモナ。
 どうだい、ドクオ君? うちの娘に興味はないかい? 」
       
「え! いえ、その……三次はちょっと」

「年齢なんて気にすることはないモナ!
 そんなもの関係ないモナ。モナが若い頃なんか」
       
「いやあ、そういうわけじゃ」

「お父様、さっきから言ってることが滅茶苦茶ですわ。
 ひょっとしてもうお酒がまわったのかしら? 」
     
「何だかいい気持ちモナ~」

「弱いんだからちょっとでやめておけばいいのに」

そこでドクオはふいに思い出したように口をはさむ。

「ていうかブー……内藤ホライゾンの話を聞きたいとか言ってませんでしたっけ」

「おー、そうだったモナ。
 あの男はホントに感謝してもしきれない男だモナ!」

ドクオはモナーの酒臭さをまともに食らって嫌な顔をしていた。

「ドクオくん、内藤のようになるには飲むしかないモナ」

「どうしてそうなるんですか」

「ドクオくん、多分もう何を言っても無駄よ」

しぃは心底残念そうに首を横に振った。

「諦めるの早すぎませんかねぇ」

「早く、短い。それがお父様の酔い癖よ」

「ほら、ドクオくんも飲むモナ!」

「え、ちょ、未成年」

「すいません、しぃさん
 少し聞きたいことがあるのですが 」
      
低いモナーの笑い声が会食場に響き渡る中、モララーはしぃに呼びかけた。
しぃは「何でしょう」というふうに首を傾ける。

「先程お話になった爆竹ですが。
 鉄柵の外側から、子どもたちが投げ入れてきているのでしょうか? 」
      
しぃは何故その話が再び振られるのかわからなかった様子だが、すぐに首を縦に振って反応する。

「ええ、私は見たことないのですが。
 爆竹の燃えカスを敷地内で拾った警備員がそうおっしゃっていたのです」
     
「敷地内……ですか。
 それって危なくないんですかね? 火事にでもなったら大変ですし」
      
「もちろん大変ですわ!
 どこかの風紀の悪い人々がやっているのでしょうけど、もし杉が燃えたりしたらと思うと……」
     
しぃがさーっと青い顔になる。
どうやら本当に火事が起きた場合のことを想像しているらしい。

「もし危害が加わるようなら、私が人を雇って滅ぼしてやるモナ。
 だから安心するモナ」
       
「いやあの、まだ誰かが投げ入れているとは――」

モララーの言葉が途切れた。
いや、その場の全ての人が一斉に動作を止めた。
突如として、真っ黒い闇が、彼ら全員を包み込んだからだ。

「きゃあああああ!!」

「電気が消えたモナ! どうしたモナ? 」

「外の天気が崩れていたので、雷でも落ちたのかもしれませんよ」

ざわめく暗闇の会食場の中、モララーは耳を澄ましてみる。
だがそこは家の内部にあるために外に通じる窓も扉も無く、外で雷が鳴っているのかどうかはわからない。

「電気が消えただけモナ。
 安心するモナ、しぃ」
       
「はい。
 でもあんまり急に電気が消えるもので驚きましたわ」
     
「こういったことは使用人が直してくれるものなのですか? 」

「そのはずモナ。
 しばらく待ってみるモナ」

「あ、今食べていいですかね」

一時は動揺したものの、だんだんとその場の全員が落ち着きを取り戻しつつあった。
しかしすぐに、その安寧は破られる。

一発の乾いた音が響き渡ると共に。

たった一発で、身体の奥深くまで震わせる音。
入口の方閃光が迸り、何かが崩れ落ちる音がする。
テーブルか椅子が破壊されたのだろうが、真っ暗なために目に映ることはない。

「きゃぁあああああああ!! 」

「なんだモナ!? 」

「銃声!? 」

「もぐぉ!!? 」

四人それぞれが声を出して、入口の方を向こうとする。

だが、モララーは見えないながらも目を動かす。
そして紫色の光の塊がいくつか動いているのが見えて――

「伏せろ! 」

モララーが叫ぶと同時に、別の破裂音がする。
ガラスの割れる音。
それに乗じて再びしぃの甲高い叫び声。

「どこモナ! 誰が狙われてるモナ!?」

見えてはいないが、3人とも伏せはしたようだ。
モララーはある推測から、そのことを確信していた。
確認し終えると、すぐに入口を向く。

やはり何も見えない。
暗闇と静寂の中、目を凝らす。
そして、見つけた。

紫の光だ――

その光は場所をあまり変えず、ふらふらと揺れ動いている。
モララーの予想では、その光の主は困っているはずだ。
何故なら聞こえるはずのない音が聞こえてきたのだから。

「横が空いてるよ」

言うと共に、モララーは光を殴り飛ばした。
金属質の重いものが地面に落下する音がする。

それは入口の扉の間から突き出されていたようだ。
廊下も真っ暗だから、見えないことには変わりない。
扉の向こう側から舌打ちが聞こえる。

ほぼ同時に、モララーが扉の隙間に手を入れ、相手の服を掴む。
これはかなり運が良かった。相手の動揺が伝わってくる。
モララーは渾身の力で、相手の襟元をしっかり握って頭突きをかます。

力が抜けた相手。扉から手が離れる。
その瞬間、モララーは扉の隙間から部屋の中に相手を引きずりこんだ。
なおも逃げようとする相手を、モララーは力強く地面に押さえつける。

「お前は思ってるんだろうな。
 『どうしてさっき、ガラスの割れる音がしたんだ。
 俺はちゃんと紫の光を射抜いたのに』って」
      
相手の右手を背中に張り付けて、動けなくさせる。
モララーはその体の上に膝立ちで乗って、話し始めた。

「残念ながらあれは俺がもらったものじゃない。
 俺の連れがもらったものを咄嗟にグラスに掛けておいたんだよ」
      
照明が復興して、光が部屋に満たされる。
モナーとしぃ、それにドクオはモララーに言われた通り伏せていた体を起こす。
そしてモララーが人を押さえつけているのを目にした。

「……ぐっ」

モララーの下で、警備員の男が呻く。
もう逃げることはできない。
その動きから力は無くなっていった。

警備員はテーブルクロスを丸めたもので椅子に縛り付けられる。
モララーは素早い手際で、彼に逃げる隙を与えなかった。

「モララー君。
 いったい何が起こったのか説明してほしいモナ」
       
「そうだわ。
 彼はうちの警備員のギコ君よ! それがどうして銃を持って」
     
「へえ、ギコって言うんですか、この男。
 銃のことは後で吐かせましょう。今はわかっていることだけ」
      
説明しようとしたところで、電気を復興させた使用人たちが駆けつけてくる。
縛り付けられているギコを見てざわつく入口付近。

「しぃさん、使用人を一人使わせてもらっていいですか? 」

しぃが使用人を一人呼ぶと、モララーは合図と動作を教える。
それから使用人は会食場の照明のスイッチに向かった。

「ま、簡単に言うと。
 このギコ君がみなさんに配ってくれたハンカチ」
      
モララーは一枚を腰のポケットから取り出して、ひらひらさせる。

「それは私の家系で食事を掛けるときのマナーだモナ。
 この家の資産を築いた先代の愛した、藤の色のハンカチを胸ポケットに入れることは」
       
「それを、モララーさん。
 どうして腰のポケットに入れてあるんです? 」
    
「暗くなったときに、この仕組みに気付いて移したんだ。
 つまり……」
      
モララーはパチンと指を鳴らす。
使用人は頷いてスイッチを切った。

電気は再び消える。
しばらくすると、紫色の光が浮かび上がった。
モララーが手に持っているハンカチが光っているのだ。

また指を鳴らし、光が戻ってくる。

「このハンカチに紫色の蛍光塗料が塗られているんです。
 明りを消したら光るようにね」
      
「だから先程電気が消えたとき
 銃声が聞こえて、そのまま振り返っていたら危なかったわけです。
 僕たち四人……いえ、ドクオを除いた三人は急所に目印を付けていることになるんですから」

「私は、多分モナーさんのものだと思いますが、暗闇の中でハンカチが光っているのを見たのです
 だから自分のハンカチはしまって、ドクオからもらったハンカチを、位置を記憶していたグラスに被せた。
 そしてモナーさんやしぃさんに対して伏せるように命じたのです。
 もし犯人が私を狙っているのならばグラスが割れる。お二人を狙っているならば伏せられて見えなくなる」
      
「結果、グラスが割れる音がしたので犯人が私を狙っていることがわかりました。
 あのグラスは私の席のやや左側に置かれたものであるし
 私の席はモナーさんから5メートル、しぃさんからは約2・5メートル離れています
 もしお二人のどちらかを狙ったのであるならば、いささか的外れすぎる」

「すっかり私が狙われているのかと思ったモナ」

「それは多分気が動転していたからですよ、モナーさん」

モララーは落ち着いた口調で諭した。
      
「また、さっきからギコ君が『どうして俺の居場所がわかった』といった顔つきで睨んでくるので
 そこら辺についてもざっと解説しましょう」
      
モララーは闇の中で弾き飛ばしたものを拾ってくる。
黒々として艶を持つ拳銃を見て、モララー以外の三人は青い顔をする。

モララーが合図を出して、三度目の消灯。
ほんのわずかな静けさ。そして、誰ともなく息をのむ。

銃口に紫色の光が浮かび上がる。
ハンカチに塗られていたのと同じ種類の蛍光塗料だ。

電気をつけさせて、モララーが口を開く。

「いくら腕が良くても、どこから銃弾が出るのかくらいは把握しないとですからね。
 この銃に蛍光塗料が塗られていれば、撃ち抜くべき光と合わせることもできます」

「それから、これは推測なのですが。
 最近聞こえる爆竹というのは、ギコ君が敷地内で撒いていたものではないかと思われます。
 これだけの芸当をするにはそれなりの練習が必要ですが、私有の警備員が拳銃を表に出していたら大問題。
 夜中にこっそりやるしかありません」
      
「杉林の方ならきっと明りが少ないため、電気が消えたときの射撃の練習には適していたのでしょう。
 ここは他の家からある程度隔離されているし、爆竹に乗じて撃てば多少はごまかせます。
 とはいえ連発していたら他の使用人やしぃさんが怪しがるので、何日にもわけて練習したわけです」
      
「しぃさん、一応なのですが爆竹のカスを拾ってくる警備員というのはギコさんじゃありませんでしたか?
 ギコが捨てたゴミを他の人が拾ったとも考えられますが」
      
「他の奴は関わってねえよ」

「ほう、お前が爆竹を使ってたということは否定しないんだな」

「んだと、ゴルァ!!」

ギコは体を必死に揺さぶるが、テーブルクロスは破けそうもない。
モララーが余程きつく結んだようである。

「た、確かに爆竹のカスは毎回ギコさんが持ってくるものでした。
 夜回りをするのはギコさんの役目でしたので……それで」

「ありがとうございます。
 まー、どっちにしても発砲した時点で犯罪は確定。
 ここにいる全員がその音を聞いているわけだし、この銃と弾丸を調べればすぐにわかることだ。
 ここに来て逃げるのは無理ってもんだぜ、ギコ」      

反抗的な目つきでモララーを睨みつけ、ギコは唇を噛んでいた。
しかし言い返すことはできず、悔しそうに口を開く。

「……俺がやったよ」

頭を垂れて、ギコが犯行を認める。

「そんな……どうして? 」

「君は確か元々は東京の私の屋敷で働いていた警備員だモナ。
 優秀さと誠実さを買ってここの警備を任せたというのに、どうしてこんなことを」
       
「頼まれたんだよ」

ギコはモナーやしぃとは顔を合わさずに言う。
まるで二人に責められることが耐えられないかのように。

「へえ、そいつは気になるねえ」

モララーは言いながら、ギコに詰め寄る。

「俺がここに来た理由は、かつて内藤ホライゾンが殺人を行ったニダー邸跡地でしぃさんに会ったからだ。
 かなり偶然性の高い出来事であったのにも関わらず、お前の行った犯行は計画的。
 まるで事前に俺がここで会食をするということがわかっていたかのように。
 なあんか出来すぎじゃあねえか? 」
      
「とりあえず俺がしぃさんに会ってからここに来るまでは、しぃさんやモナーの性格を知っておけばある程度予測できる。
 問題は俺がどうやってニダー邸跡地に行ったかだが――」
      
ここでモララーはちらっとドクオを一瞥する。
ドクオは顔を硬直させて竦み上がった。
自分が疑われているということを悟ったからだろう。
モララーにブーンのことを調べるように言ったのは自分なのだから。

「――今は置いておくとしよう。
 さて、ギコ君。君は誰に言われたのかな?
 ここに来るであろうこの俺を暗殺するようにけしかけたのは」
      
ギコはモララーをじっと見つめている。
モララーもまた同様に、ギコから目を反らさなかった。
相手の心が自分の言葉に答えることから逃げようとするのを妨げるように。
モララーの目線はギコをとらえて離さない。

「言うしかないようだな」

ギコは観念して、その名を口に出す。

「ブーンの息子だ。
 それしか聞いてねえよ」
     
少しの間、誰も口を開かなかった。
その名を知っている者も、知らなかった者も同様に。

「……ブーン? 」

「誰……ですか? 」

「…………」

モララーはもう一度ドクオを見た。
真っ青な顔をしていた彼は、モララーの視線に気づく。
そして首を縦に振る。

「内藤ホライゾン。
 あいつのもう一つの名前、それがブーンです」
      
その言葉にモナーやしぃ、そしてギコまでもが息をのむ。

「へぇ、そいつは驚いた。
 俺は気付かないうちに大犯罪の肩入れをしていたのかもしれねえな」

客間――

ブーンの息子――ギコは確かにそういった。
ブーンも年齢的に見て息子が居てもおかしくはない。
その息子が何らかの行動を起こしているとしても、それは確かにありうること。

しかし、何故自分が狙われているのかはわからない。
自分は彼の起こした事件と関わった覚えはない。少なくとも記憶がある限りでは。
某県内で起きた事件ではあったが、ただそれだけ。接点など無い。

それならば、記憶が失われてしまう前に何らかの関わりがあったということなのだろうか。
死んでしまった後も、息子に意志を受け継がせて自分を殺させるほどの恨みを伴う関わりが。
果たして未成年のうちにそのような関係が生じることなどありうるのだろうか。

今はまだわかりようがない。
わかるところで考えていくべきだ――モララーは思考を切り替える。

ブーンの息子とは誰なのか。
そしてそいつはどうやって自分をしぃと会わせたのか。

自分があらかじめブーンについて調査するように仕向けていたら。
そしてもししぃさんがブーンのことを思い出してニダー邸跡地に行くことがわかる立場だったならば。
後者の疑問は解決できる。
ブーンについて興味を抱いている自分が、ブーンの過去を少し知っているしぃと関わることは明白であり
しぃの性格からして自分はこの屋敷に引き入れられるであろうと予測できるからだ。

それができるのは誰か。
そんなの一人しかいない。モララーにはもうわかっていた。
その人物の方を向く。

ドクオは今、ベッドの上に座っている。
ちゃんと夕方自分が枕に抱きついていた方のベッドだ。

彼が自分をここに誘き寄せたか、あるいはそう命令されたかだ。モララーは推測する。
見縊っているのかもしれないが、モララーはドクオの意志のみで自分がここに連れてこられたとは考えられなかった。
指示があったような気がした。そうするように命令されていたと思った。
完全な主観なのだが。

「ドクオ。
 そろそろ話してくれねえか? 」
      
返事は無い。

「もうしらを切るのは難しいぞ。
 これからもうすぐ警察が来る。
 ブーンの息子とやらが見つかるのも時間の問題だろうし。
 俺がここへ来る理由となったお前もきっと疑われてしまうぞ」
      
やはり返事は無い。
ドクオはどうしてもモララーと話そうとはしなかった。

モララーがもう一度ドクオに話しかけようとする、その時だった。

気の抜けた音楽が、客間に鳴り響く。
ドクオはびくっとして、自分の荷物を確認し、携帯を取り出した。
音源はそれのようである。

ドクオは携帯のボタンを押して、通話を開始した。

「もしもーし……え? あ、はい」

しばらくの無言。

「え、ええ!!? 」

裏返りそうな素っ頓狂な声を出すドクオ。
焦りに満ち足りた響き。

「何で……どうして!? 」

ドクオは首を激しく左右に振り、髪の毛を掻きむしる。
何か信じがたいことでもあったのだろうか。
モララーはドクオの挙動を真剣な面持ちで見つめていた。

「わかった……」

震える手で、ドクオはボタンを押す。
通話が終了する。

「おい、いったい何があった?
      随分と取り乱していたようだが」
      
恐る恐る、モララーは声を掛けた。
ドクオは落ち着きを取り戻し、目を閉じる。

「モララーさん、はっきり答えましょう。
 僕はブーンの息子を知っているかもしれない。
 かもしれないというのは、そのように名乗ったときを見たことがないからです。
 でも、あなたが思っているように、僕にあなたをここに連れてくるように命じた人間はいます」
    
ドクオはモララーを向く。
スラスラ話しているのは、さっきから頭の中で文章を考えていたからなのだろう。

「でもその目的は知らない。
 だからあなたが殺されそうになるなんて思いもしなかった。
 それだけはわかってもらいたい。僕はただ命令されていただけです」
    
「目的がわからないって。
 お前、そんな奴をどうして信じることができたんだよ」
      
モララーは思ったことを率直に言う。
よくわからない人間の言うことを素直に聞き入れるなんて、そんなの馬鹿げているから。

「目的はわからない、けどそいつは知っている。
 僕の数少ない親友の一人です。
 だけど……」
    
ドクオはそこで言葉を切る。
目はまた焦点を失い、拳がつくられる。
腕が震えるほど強く、ドクオは拳を握り締めていた。

「何が起きたのか聞かなきゃならない」
    
ドクオは深呼吸をする。
震えがだんだんと小さくなっていく。
それが悲しみだったのか、怒りだったのか、もうわからない。

「僕はあいつのところにいかなければならないみたいです。
 会って、話をしてくる。そして目的を知らなくてはならない」
    
「モララーさん、どうかあなたはここに残って調査を続けてください。
 もしモララーさんにあいつの目的を教えることができたら、僕はあなたに連絡します」
    
「……止めても聞かなそうだな」

もうドクオが行く気であるということは見た目からわかっていた。
先程の電話は、その決心をさせてしまうほど、予想外の出来事であったみたいだ。

「ドクオ……一つ言っておくぞ」

小さなバッグを抱えて、客間を出ていこうとするドクオに、モララーが声を掛ける。
ドクオは振り向かず、動きを止めた。
でもそれが聞く姿勢であることは、モララーにはわかっていた。

彼はブーンの息子に会おうとしている。
いや、なんとしても会って、その行動の目的を聞き出そうとしている。
どんな目にあっても――モララーはその気持ちを汲み取る。

絶対に、その姿勢には見覚えがあった。
ずっと昔に心についた古傷が、疼いた。

だからモララーはドクオに対して言う。

「絶対、無茶はするなよ」

ドクオがどのような反応を示したかはわからない。
一度だけ鼻をすする音が聞こえた気もする。
だけどそれが何だったのか判別する前に、彼は部屋を出ていってしまった。

親友という者に、会いに行ったらしい。
そしてモララーと何らかの関わりがある人物に。

モララーは閉じた扉を見つめていた。
先程まで、そこには冴えない青年が立っていた。
もしかしたらその青白い顔は、だれかに命令されていたがためのものであったのかもしれない。
ふと、そんなことが脳裏に浮かんだ。

サイレンの音が聞こえてくる。
警察がやってくる。

そして、自分がすることは分かっていた。
ブーンの息子に関係がありそうな人物が一人だけいる。
彼女に会いに行くことだ。

第三話

二〇一〇年八月一三日(金)、午後三時、B市――

ショボンは休日だというのに薄地のスーツ姿でB駅にいた。
私服を着たのはもう随分前で、クローゼットの中に入れて放置した結果虫食いだらけになってしまった。
だから仕方なくこの姿なわけである。

「ショボンさん、いつもこんな堅苦しい姿なんですか? 」

声を掛けて来た若者に、ショボンはゆっくり目を向ける。
彼の名前はジョルジュ。
ショボンは彼と一緒に内藤ホライゾンの過去について調査するためにここB市へ来たわけである。

事件当時、内藤ホライゾンは B市のあるアパートで一人暮らしをしていた。
ニダー邸は今となっては無くなっているはずなので、得られることはほとんどないだろう。
そう考えたショボンはB市で生活していた頃の内藤ホライゾンについて調査することにしたのである。

「これしか服がないんだ。
 いつも仕事が多いから着なれている、問題は無いはずだ」
 
「あんまりやりたくない職業ですね」

「君も働くようになったら似た感覚を持つかもしれない。
 さ、トイレを済ませたなら、行こうじゃないか。
 かつて内藤ホライゾンが暮らしていたというアパートに」
     
二人は小さくて簡素な造りのB駅を後にする。

ショボンとジョルジュはB駅からタクシーにのってアパートの場所を言う。
その住所は警察に保管されていた書類からショボンが書き留めて来たものであった。

タクシーはB駅を離れていく。
上り坂を上っていくとすぐに、高い建物が無くなる。
駅の周りだけにやや大きい建物が集中していたのだ。

B市の学校がいくつか見えて、下校する小学校の子供たちのはしゃいでいる声が聞こえる。
元気なものだ、などと年寄りじみたことをショボンは心の中で呟いた。
帰路だというのにまるで疲れていない。自分とは正反対だ。
 
「子どもって元気が有り余ってるんですねえ」

ちょうどショボンが考えていたことをジョルジュは口に出した。
お前も俺からすれば子どもだがな――ショボンはふとそんなことを思う。
ショボンは口の端をやや上げながら、街並みに目を向ける。

大きな通りに入ると、街も賑やかになり、飾り付けが見られる。
タクシーの運転手と話してみると、この通りを真っすぐ行けばB市の中心街に向かうという。
近々B市北部の河原で花火大会があるらしく、街路脇の飾りはそのためのものだとか。

やがて目的地のアパートに辿り着く。
大通りから曲がって、やや住宅街の中に入った先にある、赤い屋根の二階建てのアパートだ。
特に古びたわけでもなく、一般的にありふれた形のアパートであろう。

少なくとも犯罪者がいたとは思えない。いるアパートなんてのも想像しづらいが。
およそ暗い事件からは縁のないように思えた。

タクシーを降りて、二人はアパートの階段を上っていく。
内藤ホライゾンが住んでいた部屋番号も警察にしっかり保管されていた。

空の彼方で雷鳴が聞こえた。
まだ降ってはいないが、そのうち大雨になるのだろうか。
空のどんよりとした雲はただゆっくりと蠢くのみであった。

目的地の部屋のドアを軽く叩く。
奥の方で物音が聞こえてくる。
中の住人がゆっくりドアに向かって来ているのだろう。

そして、扉が開いた。

出て来た少女は、ショボンの顔とジョルジュの顔を見る。
年齢差が著しいこの二人を、少女はどのように見たのだろうか。
その視線は再びショボンに戻ってくる。特に何も言うことはなかった。

「県警のショボンといいます。
 今日は非番ですし、物騒なことがあったわけでもありません。
 ただ少し調査していることがあるのです」

警察だとわかると、少女も多少は息をのんだようだ。
 
「いいのか? そんなものほいほい言っちゃって」

「別に隠すことでもない。事実なのだから。
 それに、何もない普通の人間が他人の事情を詮索するというのは変なものだよ」
     
かといって仕事以外で警察がそれをしてもいいということはないと、ショボンにはわかっていた。
でもこれで少女は精神的に、我々に対してより多くのことを話してくれるかもしれない。
聞こえは悪いが、ただ質問をするだけだ。それほど悪いことでもないだろう。              

「何でしょう」

小さい声で少女が言う。

「ここで5年前に生活していた内藤ホライゾンについて調査しているのです」

「……この前死んじゃった? 」

ショボンは頷く。
少女の口が閉じる。表情にはあまり出さないが、考えているようだ。

「中に入ってください」

少女は室内にショボンとジョルジュは招き入れる。
二人はそのまま中へ入って行った。

フローリングの床の上で、差し出された座布団に座る。
押入れのどこからか卓袱台を取り出して、二人の男の前に置く。
それから黙々と台所へ行き、コーヒーを持って来て、それから少女は二人の男に向かい合う。

少女は自分の名前をシュールと名乗った。
B市から県南部の大学に通っているという。

このアパートを借りたのは今年の春から。
大学進学にあたって一人暮らしをしたいと親に頼みこんで叶ったらしい。
何故B駅から離れたこのアパートかとショボンがきくと、「好きな人が近くに住んでいるから」と事も無げにシュールが答える。

「随分と普通に答えるんですね」

「恥ずかしがるなんてのは私らしくない」

「それで、君は内藤ホライゾンと関係があるのかい?
 どうも内藤ホライゾンと接点が合ったようには思えないんだが。
 訳があって僕たち二人を中に入れたんだろう? 」
     
「私はあまり関係がないかもしれない。
 でも……関係がある人を知っている」
 
「だから呼んだわけか。
 それで、そいつは一体誰だ? 」
     
「さっき少し言った
 ……私の好きな人」
       
ショボンがその人の名前を尋ねると、シュールは少し考えてから口を開く。

「その人は内藤ホライゾンという名前は出さなかった。
 彼はあのテレビに出ていた殺人犯のことを『ブーン』と呼んでいた」

シュールは話をする。

その人と出会ったのは中学一年生のとき。
B市内の三つの小学校を卒業した生徒たちがその中学校で混じり合ったために、初めて出会う人も多かった。
シュールとその人もまた、別々の小学校からその中学校に上り、出会ったのである。

しかしシュールも初めからその人と仲が良かったわけではない。
それどころか、無口なシュールは女子の間でも浮いた存在で、あまり好意的に接してもらうことがなかった。
彼女がクラスの中で、学年の中で孤立すれば孤立するほど、彼女に対するいじめが頻繁に行われた。

シュールは最初のうち我慢していた。
小学校のときの知り合いと話をすることでなんとか孤立を免れていた。
けれど、その子どもたちもだんだんとシュールを避けるようになった。

気がつけば学校のほとんどの女子が彼女を避ける風潮になっていた。
友達はいない。話してくれる人もいない。

シュールは学校に行きたくなくなった。
親に反抗をして、学校に行くことを拒んだ。そういう自我が目覚めていた。
自分を傷つけ、縛り付けるルールを呪っていながら、自らを暗い部屋の中に閉じ込めた。

他人との接触をゼロにしたシュールの心の中では、いつでも学校でのいじめのことが浮かんでいた。
何度も何度も、いくつものいじめの記憶が蘇ってきた。
まだ人が話してくれたときを懐かしんで涙を流し、今の生活を見て再び涙する。
いつしか生きることが嫌になった。

彼女の家はB市の大型マンションの一室だった。
マンションの15階。
そして彼女の部屋には窓があった。顔を出して見下ろせば遥か下に駐車場が見える。
人も車も、玩具のように見えた。

ある日唐突に、飛び降りようと思った。
もう生きてはいられないと心の中で結論を下し、ゆっくり窓に歩み寄った。
星が綺麗な10月の夜だった。

部屋のドアが激しく叩かれる音がする。
誰だろうかとシュールは思い、誰でも良いとシュールは思った。
どうせ自分はもうすぐ逝くのだから、気にすることはないと決めた。

しかし音は煩く響き渡り、やがて何かが崩れる激しい音が聞こえた。
既に窓に手を掛けていたシュールも、思わず振り返った。

そこにその人がいた。シュールはそのとき彼の顔も知らなかったのだが
ドアを破壊してここに入ってきたのだろう。
ふっとドアの方に目をやると、何人かの大人が見えた。
そして大きな棒を持っている人がいて、その男がドアを破壊したのだと直感した。

その男は今にして思えば内藤ホライゾンだったとシュールは言う。
内藤を見たのはそのときが初めてだったらしい。

その人が自分に近づいてくるのがわかって、シュールは思わず叫んだ、「来ないで」と――
しかしその人はなおも前進してくる。まるで言葉が聞こえなかったかのように。
そこでシュールは片足を窓の外に出した。

冷たい風が足を撫でる。
その人がようやく動きを止めた。

その人の顔は青ざめていたという。
後に元々青白いとわかったが、そのときの彼は明らかに怯えていた。
ここまで来たのはいいが、何をしたらいいのかわからない、そんな表情であったそうだ。

その人がやっとのことで、「どうして死のうとするんだ」と質問してきた。
必死で考えだしたにしてはあまりにも月並みで、無意味な質問だったので、シュールは鼻で笑った。
そして今まで受けて来たいじめの苦しみを語り出した。

思い出の隅から隅まで探し出して、思い出せる限りの苦しみを吐露する。
その全てを吐きだして、シュールは言う。
「これ以上の苦しみを味わうのはもう耐えられない、だから死ぬ」と言い放った。

その人も、扉の奥の大人たちも黙っていた。
少しでも動けばシュールは部屋の中にある足で床を蹴り、落ちてしまうかもしれないから。

暫くして、その人が息を吐く。
集中しているようであり、真っすぐシュールを見て、言った。
「それじゃ、俺が死んでないのはおかしい」と。

その人はまず自分が母子家庭であったことから話を初めて、中学校や小学校どころか幼稚園時代から受けていたいじめについて語り出した。
肉体的な苦痛が伴う残虐的な恥辱の数々がその人の口から伝えられてくる。
不自然なほど無感情に語られるそれらの事柄は、逆にその人の凄惨な人生を物語っていた。

年齢が増すにつれて、いじめもエスカレートする。肉体的にも精神的にも。
その人はそれをただ母親に申し訳ないからという理由でのみ耐えていた。
我慢して、学校に通い、平気な顔をしていじめを受けていた。

シュールはその人を哀れに思った。
そして自分があまりにもわがままであることに気がついた。
周りが要求していることを撥ね退けて、無理やりにでも我を通し、都合が悪くなったら逃げに徹する自分を愚かに思った。

いつの間にかシュールはその人に抱えられて部屋の中央に引っ張られていた。
足はもう外に出ていない。もう窓から落ちる心配もない。
そのとき、もうシュールには落ちる気力も無くなっていた。

こうしてシュールはその人と知り合った。
再び学校に通うようになって、その人が同じ学校であることを知った。
二人は一緒に通うようになり、一緒に話すようになり、一緒に帰るようになった。

シュールにとって初めての友達であった。

その人はよくブーンについて話していた。
シュールが飛び降りようとしたとき、ドアを破壊した男がその人物だと教えてくれた。
その人と同じアパートで暮らしているらしかった。

その人は、自分がブーンさんにたくさんのことを教わったという。
シュールが自殺することを見越して、助けに行かせたのもブーンだったと明かした。
ちなみに壊したドアの弁償をしたのもブーンだったとか。

だけど、すぐに事件が起こった。
シュールが助けられた翌年、ブーンがあの事件を起こした。
何故か内藤ホライゾンという名で、ニダー一家殺人事件が報道されていた。

内藤ホライゾンというのが本名であるらしい。
しかしそれ以上に、その人が親しげに話していた人が事件を起こしたことに対するショックが大きかった。

シュールはその人に会って、その苦しそうな顔を見た。
どうしていいかわからずに困っている、そんな表情であり、前に見た表情とは似ていたが、全然違った。
本人でもわからないことが多すぎるということはよくわかった。

シュールは混乱しているその人の傍にいつもいた。
その人の心が壊れないように、いつも話しかけるようになった。
前の自分のように逃げてしまわないように、ずっと接するようになった。

いつの日かその人と一緒にいるだけで胸が温かくなったけど、それが恋だと気づいたときにはもう、その人は傍にいなかった。
既にその人は大学に通うために別の市に行ってしまっていたから。

その人が進学した後、シュールは彼のアパートに入居した。
ブーンのいた部屋に入居できたのは偶然であった。住みたがる人もあまりいなかったのだろう。
前の入居者が出ていって間もなかったらしく、シュールはすんなりその部屋に住めた。

シュールは独りになってしまうその人の母親の身を案じて、よく遊びに行くらしい。
そして、その母親は自分が昔ブーンと関わりがあったことを教えてくれた。

「だから、もしブーンのことを聞きたければその人の母のところに行くといい。
 私が知っていることで、世間と違うのはブーンという名前くらいだから」
       
シュールはそう言って、話疲れたかのように首を動かす。
これほど長いこと話したことはあまり無い様子だ。
 
「それじゃ、その人の母親って人の部屋番号を教えてくれませんか? 」

「この部屋のちょうど上で住んでいる。
 だけど今はパートに出てるから夜の7時まで帰ってこない」
       
ショボンがその人のパート先を聞き出して、シュールが答える。
 
「行ってみた方がいいかもしれませんよ。
 帰るのを待ってたら日が暮れてしまいそうだし」
     
もう日はだいぶ傾いていたが、確かに遅くなりすぎるのも億劫だとショボンは思った。
何より、本来なら今日は休日であり、明日からはごく普通にまた出勤しなければならないのだから。

午後5時半、B市、アパート――

二人はシュールに頭を下げて、部屋を後にする。
ショボンはこれから会いに行く女性――ツンという人の部屋を一瞥する。
今は鍵がかけられている。中にはだれもいないはずだ。
 
「内藤ホライゾンに関する収穫は、少しだけでしたね」

ジョルジュがさらっと口にする。
ショボンは何か言おうと思ったが、ジョルジュの言葉は正しかったので口を噤む。

「しかたないさ。
 彼女があの部屋にいるのは正しく偶然なんだから。
 むしろ彼女がほんのわずかでも内藤ホライゾンに接点があったことに感謝するべきだよ」
     
二人はそのアパートの階段をゆっくり下りていく。
ツンのパート先はあるいて十分ほど先のスーパーであり、シュールがそこまでの道筋を教えてくれた。
歩いていくのは大変かと思い、ショボンは内心ひやっとしたが、ツンも毎朝歩きで勤めに行くというので安心する。
さすがに女性の主婦が毎日こなしている分の運動くらいなら、明日の仕事には響かないだろうと思ったからだ。
 
「ショボンさん、一つ聞きたいんですけど……」

ジョルジュが歩きながら、ショボンに話しかける。
ショボンは顔を向けずに「んー? 」と唸って返事した。

「これから内藤ホライゾンのこと、何て呼びます?
 なんかブーンという名前の方が、本当の名前って感じがしますけど」
     
内藤ホライゾン――これは一般に知れ渡った名前である。
あの笑顔の殺人鬼の戸籍を調べた結果出された名前であり、ブーンという名前が調査上にでたことはない。
二〇年前に出会ったときも、ブーンという名前は聞かなかった。

「内藤ホライゾンでいい。
 事件を犯した犯人の名前がそうであり、僕らが調査しているのはこの殺人犯なのだからね」
 
「犯罪者としては内藤ホライゾンってことですか? 」

「そういうことになるな。
 あまりきつくは言わないが、僕らが犯罪者の過去を追っているという自覚は持っていたほうがいいだろう」
     
事件を犯したのは内藤ホライゾン――ショボンはそう割り切った。
では、事件以前にD市で会ったのはブーンなのだろうか。
シュールが言っていたような人物は、そして自分が覚えている二十年前の人物は、ブーンなのだろうか。
それほどまでに簡単に、一人の人間に対して二つの名前を与えていいものなのだろうか。

人間の悪い部分はこの名前、良い部分はこの名前。
そんなふうに割り切っていいのだろうか――ショボンは考えた。

そして、自分はそれではいけない、という結論に達する。
警察として、そしてこのことを調査している人間として。
内藤ホライゾンという人間が内藤ホライゾンとして何を思い、何を犯したのか。
そこに至るまでに何があったのかを知らなければならない。

内藤ホライゾンの犯した本当の罪について調べるのが自分のするべきことなのだ。
ショボンはそう感じた。

ショボンの脳裏には、死んだときの内藤ホライゾンの顔が浮かんでいた。
あの安らかな表情が浮かんでいた。

何故あのような表情ができたのか。
それを知りたいというのも調査動機の一つである。

それを頭の中で、ショボンは再び確認した。
 
「つきましたね」

ジョルジュの声で、ハッと我に返るショボン。
入口の上に、白い下地に赤い文字で名前が書かれたスーパーだ。
シュールによれば、ここにツンが勤めているという。

二人は中に入った。
軽快な音楽が耳から入り、ガンガンに効いた冷房の風が体に降りかかる。
その涼しさを感じて、外が真夏であったことを思い知らされる。

ショボンは店員に話しかけて、ツンという女性がいるか聞く。
警察手帳を見せるまでもなく、店員は店の裏に案内してくれた。

普通なら入らない、壁の大きな扉を潜る。
店の明るい雰囲気から一転して、仕事場の空気を感じる。

店員が控室に導いてくれた。

扉の窓から、中の様子が見える。

女性の顔が見えた。
胸のプレートに名前が書かれている。
間違いなく探していたツンという女性だった。

ショボンは扉を開けようとしたが、止まる。
中の様子がおかしいと察したからだ。
 
「? どうしたんですか。
 中入りましょうよ、ショボンさん」
     
「いや、少し待ってくれ」

ショボンはジョルジュを制止して、中を確認する。
ほんのわずかに扉を開けて、中の音が聞こえてきた。

「次、今週の月曜から今日の午前までの売上は? 」

苛立ったツンの声。

「は、はい! 報告します、リーダー」

気弱そうな女性が、何枚かの紙を片手に持って立ち上がる。
そして数字を並べていったが、どうもツンの顔つきがよくならない。むしろ悪くなっていく。
どうやらツンが期待していた数字からかなりはずれていたらしい。

「先週よりさらに落ちてるじゃないの!
 そんな数字を報告していいと思ってるのか、ああ!? 」
      
「はひぃ、すいません! 」

「リーダー、それはひどいです!
 リーダーが報告しろって言ったから」

「あんたは黙ってな、新人! 」
      
「先週も先々週も同じ話を聞いたわ。
 いい加減反省ってものが見えてきてもいい頃じゃないかしら? 」
      
「だいたいあんたらは接客からしてまだまだなのよ。
 どうしてお客様が重くて困ってるカゴを持つこともできないの? それに――」
      
それからも長々と、ツンの説教はつづいていく。
そこにいるパート労働者たちの顔から、次々と涙がこぼれていった。

「なあ、パートのリーダーってパートなのか? 」

ジョルジュが冷や汗を流しながら言っている。

「知らないよ。パート歴が長いから威張ってるのかもしれないね」

「やっぱり年上は敬わなくちゃなんだな」

「そうだね。それは大事なことだ」
 
「……ところで、当然交渉はショボンさんだよな? 」

「何を言い出すんだ?
 私みたいなしょぼくれた男より、君の方が好意的に話を聞いてくれる。
 故に君こそふさわしい」
 
「いや、あんたの方が歳が近いだろ。
 俺なんか離れすぎてて話が合わねーよ」
     
「どうして年齢がわかるんだ?
 適当なこと言って逃げようとするんじゃない。
 それと、敬語が崩れてきてるぞ。お前にそれを教えるまでどれほどかかったと思ってるんだ」
 
「と、とにかくショボンさん、行ってくれよ。
      年上は敬うべきなんだろ? 」
     
「だからこそ君なんだろ? 年上をむざむざ死ににいかせるのかい君は」

その時、部屋から一段と大きな声が聞こえてくる。

「あと一時間ちょい、まだまだ諦めないわよー!!! 」

「おおーーーーー! 」

二人は恐ろしいものでも見るように顔をしかめていた。
 
「戦場かよ」

「これは終わるのを待つ方が良いみたいだね」

二人は結局、ツンのパート時間が終わる夜7時まで店の中で待っていた。
外は曇っていながらも、色が濃くなり、暗くなっていく。
時間的にはシュールの家で待っていても大差なかったことになる。

明日はきついだろうな――ショボンは空を眺めながらぼんやり考えていた。
 
「そろそろ七時ですし、外で待ちましょう」

ジョルジュに言われて、ショボンはスーパーから外に出る。
空には何もない。分厚い雲が横たわっているだけだ。
しかし、もし星などが見えたとしても、スーパーの光などで掻き消されてしまうだろう。
どこか山奥に行かないと、その光は届かないのだ。

やがて、ツンがスーパーから出てくる。
キビキビとした足取りは、やや触れがたいものであったが、それでもショボンは話しかけた。
なるべく速めに内藤ホライゾンの名前を出して、ツンに事情を説明する。

「内藤ホライゾン……ですか」

ショボンの説明の後、ツンはそう呟いた。

「そうです。
 彼について、何か知っていることがあるならば、ぜひ教えてもらいたいのです。
 さきほどあなたのアパートに行き、シュールさんから話は聞きました」
     
「シュールちゃん……そう。
 話を聞いて、私が内藤ホライゾンと関係があると思ったわけですか」
     
ショボンは正直に頷いた。相違はないし、嘘をつく必要はない。
ツンはしばらく立ち止まり、目を虚ろにして何事かを考えて、それから首を横に振る。

「残念だけど、私もまたそれほど力になれるとは思えません。
 確かに小学校、中学校と私は内藤と同じ地域で暮らしていましたが、それだけです。
 特別に仲が良かったわけではありませんので、あなたたちが望んでいるような詳しい話ができるとは思えません」 
     
ショボンとジョルジュは顔を見合わせる。
やっと掴んだ内藤ホライゾンの過去についての手掛かり、たとえどれほど小さなものでもそのことに変わりはない。
ショボンはジョルジュを見つめて、彼の考えは自分の考えと大差ないのだろうと思った。

「聞かせてください。
 どれほど他愛のないお話であろうと、内藤の過去を知る手がかりであることに変わりはありませんから」

ショボンとジョルジュは、ツンと共に夜の街路を歩きだす。
昼間のどんよりとした雲のせいで、夜だというのに熱気がまだ残っている。
今夜は蒸し暑い夜となるのだろう。

「あなたの息子さんは、内藤ホライゾンと知り合いだった。
 シュールさんはそう言っていたのですが、それはいったいどういう関係でした? 」
     
「近所だったから、というのが最適でしょうね。
 同じアパートに住んでいたから、ゴミ出しや駐輪場で見かけることがあって
 あの子もそのように知り合いになったのでしょう」
     
「しかし、どうもシュールさんの話を参考にすると、息子さんは相当内藤に親しく接していたように感じられるのですが
 どうしてでしょうか? 」
     
「たまたま馬があったのでは……そうとしか私には言いようがありませんね」

ショボンは口を閉じる。どうも息子を中心としたこの話題からでは話が広がらないようだ。

「同郷の人間が自分の息子と仲がいいことについて、あなたはどう感じましたか? 」

「特別にはありません。
 さっきも申しあげたように私は内藤と仲が良かったわけではありませんでしたから」

「良い、悪いとも感じなかった? 」

「それほど限定するのなら……良いのではないでしょうか。
 息子は友達が多いほうでは無かったようですし」

「それでは、少年時代の内藤の話で、覚えていることはないでしょうか? 」

「ええ、小学校から元気な人でしたね。とにかくいっぱい遊んでいて
 特に仲のいい少年がいまして、その子とはいっつも一緒でした」
     
ツンの言葉が楽しげな雰囲気を内包していることに、ショボンは気付いた。
話しているうちに昔のことを思い出して、その懐かしさを感じたのだろうか。

「その仲の良かった友達とは? 」

ショボンの何気ない質問で、ツンの顔に翳りが生じる。

「ごめんなさい、名前まで思い出せないの」

これが翳りの正体なのだろうか――ショボンの頭に疑念が浮かぶ。
しかし確かめたくても、どうにも取っ掛かりが見つからないので、話を続ける。

「どうぞ、内藤の話を続けてください」

「ええ、わかりました。
 内藤は高校生のときに急に転校してしまったのです。
 それからの行方はわかりませんでした。ここに引っ越してくるまで」

「転校の理由はわからなかった? 」

「はい、同じ学校の誰にもわからなかったので、ちょっとした話題になりましたね」

ショボンは「ふむ……」と呟き、思考を巡らせた。

「何年も前に同じ学校に通っていて、急に謎の転校をした男が同じアパートに引っ越していた。
 そして自分の息子と知り合いになった。それどころか親しげにしていた。
 それでも……特に何も感じなかった、ずいぶんと淡泊な気がしますが」
     
「それはまあ、少しくらいなら私も驚きました。
 けれどそれだけです。他人の事情をわざわざ詮索することもありませんし」
     
「他人……ですか」

「そうです。
 同じ学校に行っていただけで、それほど親しくなければ他人と呼んで差し支えないでしょう? 」
     
ツンはそう言い放つ。
ショボンは再び口を噤んで、そのまま歩き続けた。

なんだか冷たい言い方をする、やたらとそんな印象が残ってしまう。
しかし、いささか強く残りすぎではないだろうか、そうショボンは思った。

アパートに到着する。
ほとんど全ての部屋に明かりが灯っているようだ。
入居者は十分にいるのだろう。

ショボンとジョルジュは部屋の前まで、ツンと一緒に歩いてきた。
扉の前でツンは二人に軽く頭を下げる。

「それではこれで。
 あまりお力添えができなくて、申し訳ございませんでした」
     
「いえいえ、大丈夫です。
 元々趣味のような調査ですので、あまり気になさらないでください」
     
ショボンもまた頭を下げる。しかし、横に立つジョルジュは動かない。
ツンは会ってから一言もしゃべらず、頭も下げないジョルジュを一瞥して、それから部屋に入ろうとする。
 
「ツンさん」

何の前触れもなく、ジョルジュが言葉を投げかける。
ツンは動きを止めて、ゆっくりとジョルジュを見つめた。
 
「ブーンさんに息子がいたということはありませんでしたか? 」

ツンはふっとため息をつく。
それを引き起こした原因が呆れなのか、安堵なのかは判別しかねた。

「悪いけど、私は本当にブーンのことはよく知らないの。
 息子がいたかもしれないし、いなかったのかもしれない。結局知らないのよ」
     
ツンはそう言って、部屋の中に入ってしまう。
扉を閉めて、鍵が掛かる音がする。

ショボンは顔を上げて、ジョルジュの方を向き、その顔に笑みが満ちているのを確認する。
何かいいものを発見した子どものような表情だ。
 
「今の聞いたか、ショボンさん
 『ブーン』だってよ」
     
ショボンにはその発言の意図がわかっていた。
もしジョルジュがその質問をしなかったら、もう少し後に自分からその名前を出す気でいたからだ。

「ああ、確かにツンはその名前を口にした。
 俺が一度として会話の中で口に出すことのなかった、その名前を」
 
「しかも俺の質問に何の疑問も抱くことなく、だ」

ショボンもその言葉に頷いた。

シュールの話によると、ツンの息子は内藤ホライゾンのことをブーンという名前で呼んでいた。
しかもシュールが、五年前に内藤の殺人事件が報道されるまで『内藤ホライゾン』という名前を知らなかったことを踏まえると
その息子もまた『内藤ホライゾン』という名前を知らなかった、あるいは『ブーン』という名前の方を好んで用いていたということになる。

しかしどうしてそのような状況が生まれるというのか。

母親であるツンは小学校、中学校において内藤ホライゾンと同じところに通っていた。本人もそこは認めている。
そしてツンは内藤と親しくなかったというが、引っ越してきた際に驚いたとなると、その名前はちゃんと憶えていたということになる。
20年以上前の内藤の姿と、引っ越してきた当時の内藤ホライゾンの見た目は当然違っているはずであり
にもかかわらずその引っ越してきた人物を内藤と判別することができたならば『内藤ホライゾン』という名前がキーとなったと考えると自然であるのだ。

『内藤ホライゾン』という名前をツンは知っていた。

ところが、息子は少なくともシュールに対してその名前を用いていないのである。
ツンは『内藤ホライゾン』という名前を教えなかったのだろうか。息子が親しく接している男の名前を、当の息子に教えなかったのか。
仮に何らかの理由で内藤ホライゾンが『ブーン』という名前を息子に対して用いていたのだとして、そのことに何の疑問も抱かなかったのか。

それどころか、今さっきジョルジュがわざわざ『ブーン』という名前を用いて質問をした際にツンが『ブーン』という名前を用いて答えたことを考えると
ツンもまた『ブーン』という呼び名を内藤に対して用いることに何の疑問も抱いていないということである。

「つまり、ツンの頭の中では『内藤ホライゾン=ブーン』という等式が成り立っていたと考えられる。
 そのことを確かめたかったんだろ? 」
 
「ああ、証拠なんてものはないけど。
 それまでの会話で一度も出てきていなかった名前を突然話題の人物に当てられたのにも関わらず
 普通に答えたってのは、かなり怪しいと思いますよ」

「すると、かなり強いイメージの連結だと考えられるね。
 思うに『ブーン』というのは、子どもの頃のあだ名と考えるのが一番適当なんじゃないかと思うんだ。
 小さい頃に付けられたあだ名というのはその人物の特徴を正直に捉えた、印象深いものが多いからね。
 ただ名前をもじったものではないところからすると、なおさらその傾向が強いあだ名だろうと思うよ」
 
「しかし、そう考えると先程のツンの言葉は如何わしいものになりますね。
 あだ名で呼び合うということはそれなりの親しい関係があったと考えられます。
 まあ大小あるとは思いますが、突然転校して偶然であったのに何も感じない、というほどのものとはとても思えません」
     
「推測の域を出ないにしろ、あの発言は鵜呑みにするには信憑性が足りていないだろう。
 試しに内藤の立場を考えてみようか。まだ事件など起こしていない内藤ホライゾンの立場を」
 
「内藤ホライゾンがブーンという偽名を使う理由はわかりませんね。まだ何もしていないのだから本名を隠す必要は見られない。
 ブーンというあだ名を用いてツンと接触した、あるいはツンがブーンという名で内藤を示した、と考えるとすんなりいく。
 息子がブーンという名前を用いたのも、母親がその名前を主に内藤を指し示すのに用いていたから。
 やはり内藤とツンの間には交友関係があったと考えるほうが良さそうですね」     
     
「まだ調べる事柄はありそうだな。
 ただ、方針はだいぶ立てやすくなった」     
     
内藤ホライゾンの過去を恐らくツンは知っているのだろう。
しかし今は話してくれない。何故かはわからないが、交流が無かったように発言していた。
関係がわかるとまずいというのか、それとも隠さなきゃならない理由があるのか。

「もし発言が嘘なら、咄嗟に考えたんでしょうね。
 こっちが息子と接触してしまえばすぐに綻びが見えてしまいそうだし」
     
いや、息子と接触しなければならないからこその発言なのだろう、とショボンは思った。
自分たちが息子と接触する前にツンが息子に連絡すれば、ショボンたちの調査が息子に及ぶことを防げる。
息子が内藤ホライゾンと関係を持ち、母親が内藤の過去を隠そうとしているのならば、なおさらだ。

方針が立てやすいとは言ったが――ツンに真実を話してもらうことが一番手っ取り早い、だがどうも難しいことのようである。
ならば内藤の出身地を調べるのがいいのだろう、とショボンは思った。
そこでツンと内藤の関係が明らかになるならば、なおさら好都合だ。もうツンは言い逃れできなくなる。

いくら過去を隠そうとしても、嘘という壁は事実で突き破れる、ショボンは確信する。
しかし、その途端にツンの言葉が浮かんできた。

『他人のことをわざわざ詮索することもありませんし』

詮索、か。ショボンは自分がそれをしているのだと思い、嫌な気分になる。
そのとき、ツンが非難めいた口調だったことも相まって、罪悪感が湧いてくるのを感じた。

けれど、首を横に振る。
隣でジョルジュが不審そうな顔をしているけど、気にしなかった。

こんな気持ちは、この仕事をしている間になんども味わってきたことなのだ。
詮索の先に真実があるならば、自分はその行動をためらうわけにはいかない、そう言い聞かせる。

二人はアパートを出て、何十メートルか歩いた。
アパートは角に隠れて、もう見ることはできない。

大通りが目の前に見えてきたところで、ショボンの携帯電話が鳴る。
珍しいなと思いつつ、ショボンはジョルジュに断って電話に出た。

「こんばんは、ショボン警部」

聞き慣れた声、鑑識のクックルだ。

「何か用か? 私は今日非番なんだが」

といっても仕事と同様に動き回ってはいたが、ショボンはそのことは言わないでおく。

「やだなあ、忘れちゃったんですか?
 仕事と関係なしに調べ物をさせたじゃないですか
 ニダー一家殺人事件の現場にあった金属バットのことですよ」
     
その言葉で、ショボンは思い出す。
昨日のことだ。内藤ホライゾンのことが少しでもわかるかもしれないという思いつきで、その命令をしたのである。
今思えば事件でもないのに調べてくれたクックルには感謝すべきだろう。

「ああ、思い出した。調べてくれたようだね。ありがとう。
 それで、何かわかったことでもあったのかい? 」

「ええ、警察の所有している過去の血痕のデータファイルを調べた結果
 金属バットから検出された血痕と照合する人物が一人浮かび上がったんです」
     
やや間があいた。データを再確認しているのだろう。

「現在F市に在住している分手モララーであることがわかりました」

クックルの言葉は確かにショボンの耳に届いた。
けど、それを判別するのには時間が掛かった。

「申し訳ないが、もう一度言ってくれないか? 」

「分手モララーですよ!
 1994年12月に我々の調査に介入してきたあの探偵の」
     
「勝手に犯人に接触しようとして全てダメにしたあの大馬鹿か!?
 まだ生きていたのか、あの血気ならすぐに変な事件に突っ込んで死ぬと思ってたが
 その名前がどうして今こんなときに出てくるんだ? 」
      
「そりゃあ、あの金属バットでぶん殴られたってことじゃないですかねえ。
 相当昔の話になるとは思いますが」
     
そういえば――ショボンは思い出した――奴は記憶喪失だったはずだ。
まさか奴は金属バットで殴られて記憶が飛んだ? しかしそれをニダーが持っているとは――ショボンの思考が巡っていく。

「とにかくあの男も、笑顔の殺人鬼と何らかの関係があった。
 そう考えて間違いなさそうですね」
     
内藤ホライゾンの過去に、あの記憶喪失の探偵が関係している。
まるで考えもしなかったことだとショボンは思った。第一モララーの名前などここ数年すっかり忘れていた。
その名前とともに、嫌な事件の記憶もまた心の隅に蘇ってきた。

「連絡ありがとう、クックル。
 現在の奴の住所はわかるか? 」
      
クックルが言った住所をメモに書き留めて、礼を言ってから、ショボンは携帯を切る。
直後、疲れがどっと押し寄せてきて、大量の溜息が吐きだされた。
 
「大丈夫ですか、ショボンさん?
      急に老けたようですよ」
     
「まあ、いるものなんだよ
 私にも、苦手な奴の一人くらいは」
 
「顔色まで悪いですね……今日はゆっくり眠って――」

ジョルジュの声が、掻き消される。
それは彼が声を発するのを中断したせいでもあるし、不意に大きな音が聞こえて来たせいでもあった。
まるで何かが弾けたような音が。

「な……!? 」

ショボンは急いで、元来た道を走っていく。
音は確かにアパートのあった方角から聞こえてきた。
暗い中、あの建物の辺りだけが明るく光っているのが見える。

ジョルジュも走ってきているのだろうが、あまり気にしてはいなかった。
ショボンはとにかく急いで角を曲がり、その光景を目にする。


――理解できなかった。


何故あのアパートが、燃え盛る炎に包まれているのか。


呼吸を荒げて立ち竦むショボンには、全く理解できなかった。


思考回路が停止して、ショボンはただ呆然とその光の渦を見つめる。
赤色の邪悪なエネルギー体は何度も何度も曇天を喰らおうと空へ伸びては地に堕ちる。
直下のアパートが部分的に爆ぜている。

悲鳴が、それだけで済ませてしまうにはあまりにも心を抉る力を持つ叫び声が聞こえてくる。
住人の声だ。あまりにも遠くから聞こえているようにショボンには感じた。

ショボンは思わず駆け出した。
ツンやシュールは中にいるはずだ。このままでは炎に飲み込まれて――

誰かがショボンの片腕を鷲掴みする。
 
「ショボンさん! 落ち着いて!
 もう無理ですよ、近寄ったら危険です! 」
     
必死で叫ぶ若者の声。
それもまたショボンにとっては遠く感じられた。

振り払おうとするが、力ではだいぶ衰えが始まっているようだ。
どうしても動くことができない。
若者を振り払うことが、どうしてもできない。

どこからかサイレンが聞こえてきた。
誰か近隣の住民が消防車を呼んだのだ。

そして、水の滴りを感じた。
雨だ――火が消える。
安心が湧いてくる。

けれど、目は前をじっと見つめていた。
消防隊員が引っ張り始めても、ショボンの目はアパートを見つめていた。

目の前で、手掛かりが消えようとしていた。

内藤ホライゾン、彼の死に近づいたからなのか?
そんなことがあるのだろうか?

偶発的な事故なのかもしれない。
しかし、事実はそう、やっと見つけた彼の過去への手掛かりが消えていく。

どうしてなのか、わからない。

ただ、大きな圧力を、ショボンはひしひしと感じていたのだった。

第四話

二〇一〇年八月一四日(土)、一〇時 B市総合病院――

昨晩、某アパートの一室から火の手が上がった。
火災があったアパートの住人は全員、生きてはいたものの怪我を負っていた。
幸い軽傷で済んだ大家は、火災当時の状況を語るためにB市警察署に赴いている。

ショボンは火災現場にあまりにも近くにいたため、呼吸器を痛めたらしい。
しかしそれは消防隊員が診てもらうように促したもので、ショボンはたいしたことないと思っていた。
昨晩、現場にいた重軽傷者を運ぶために駆け付けた救急車にショボンも乗って、簡単な治療は既に受けていた。

健全だったジョルジュは昨晩消灯時間ぎりぎりまでショボンのそばにいた。
ショボンも少し話しづらいという程度だったので、いくらか応対はしていた。
調査はまだ続けよう、そう二人は約束し、ジョルジュは帰って行った。

一晩の入院で済んだことは、幸運なことなのかもしれない。
もちろん体調の面でも運の良いことではあったのだが、それ以上の利点も見つけていた。

一つは仕事を公に休むことができるということ。
見舞いに来るという同僚からの連絡があったが、「明日にはもう帰るから」といってショボンは全て断っておいた。
これでまた一日、例の『趣味』に没頭できるというわけだ。

もう一つはシュールやツンの様子を確認できるということ。
まだはっきりとした連絡は受けていないが、死者はでていなかったはずだ。
どちらも生きている。軽傷ならなおいいのだが、果たして思い通りに行くものだろうか。

退院の手続きを終えて、一度ショボンは外に出てみる。
昨日の大雨が嘘のような、すかっとした晴れ空だった。
蝉の声が耳を突いてくる。何気ない木々のどこかに彼らは潜んで、その翅を必死に擦らせているのだろう。

院内に戻り、ショボンは入院患者の部屋について係員に聞いてみる。
良く見たらさっきショボンの手続きをしたばかりの女性であり、いくらか不思議そうな顔をしていた。

火災被害者は全員この病院に搬送されていた。
もしシュールやツンが入院しているならば、ここで必ず会えるはずだ。

面会できるのは軽傷者だけということらしい。
ショボンは、面会可能な人物のリストの中にシュールとツンがいるかどうか確かめるように言う。
奥の部屋に入った係員の女性は、数分後に戻ってきて、シュールの面会についてはOKとする。

つまりツンは重傷なのだ。
若干落胆したショボンだが、とにかくシュールの部屋に向かうことにした。

シュールの病室は、彼女の他に五人の病人が収容されている六人部屋だ。
それぞれの部屋はカーテンを引くことで任意に空間を遮断することができた。

シュールは扉に近いベットだったのですぐに見つけることができた。
ショボンは彼女と目があって、頭を下げる。
彼女もまたショボンのことがわかったらしく、それに応えてくれた。

「なんとも大変なことになってしまったようだ。
 君もこれから大変だろう」

シュールは何も答えず、その代わりに傍からスケッチブックを取り出す。
サラサラとペンを動かして、ショボンの前に提示する。

[私は今、喉をやられているので喋ることがつらい。
 筆談になることをご了承してほしい]
       
あのか細い声で喉をやられたならば、さぞ声が出しづらいことだろう、とショボンは危惧した。

「了解した。
 すぐに回復できることを祈るよ」
     
シュールは微笑む。
嬉しいことを表しているのだろう。

「事件発生当時のこと、わかるかい? 」

頷いてから、シュールは文字を書き始める。

[火がついたのは七時三〇分頃。
私は部屋の中にいたので、外の様子はわからなかった。
ツンさんはすでに帰って来ていたはず。ちょっとだけ聞き耳を立てていたから] 
       
ショボンは頷いた。
自分がジョルジュと一緒になって、部屋に入るまで近くにいたのだから。

[あなたたちの会話も聞こえた]

ささっと書いて、シュールが付け加える。
ショボンは返す言葉に詰まり、唸り声を出した。

「なにか、気に障ることがあったなら謝るよ」

すると、今度はシュールは首を横に振る。
嫌に思ったわけではないようだ。
返事を書いて、またそれをショボンに見せる。

[別に怒ってはいない
それに、ツンさんの発言もおかしかった。
ツンさんは内藤のことをブーンと呼んでいたし、あの人も内藤という名前を知らなかった]
      
やはり、ツンの発言は嘘だった。
息子も、内藤ホライゾンに対して『ブーン』という名前を用いていたのだ。

「それはあだ名と考えてよさそうかい?
 それと、内藤はツンさんとは親しかった? 」
     
シュールは少し考えてから、文字を書きだす。
今度は何度か筆を止めている。なかなか断定しづらいようだ。

[あだ名だとは思うけど、それほど深い事情は知らない。
内藤もツンも会うことは避けていた。
理由は教えてくれなかった。昔は仲良かったらしいけど、今は避けていると言ってた。
あの人も理由を知らないようだった]
      
避けていた――その言葉は意外だったが、昔仲が良かったのならば『ブーン』という名前に順応できたことは納得がいく。
仲が良かったが、何かあって避け始めた。
それは転校していたから、関係が一度断たれたものだったから、ということだろうか。

息子も知らない――これもまた嫌な知らせだった。
しかしまだ望みが絶たれたわけじゃない。

「ありがとう。
 このようなしつこい調査に協力させてしまって、すまないね」
     
すると、シュールはまたしても首を横に振る。
今度は勢いに乗って、次々と言葉を書き並べていった。
微笑みを浮かべながら、シュールはその文字をショボンの前に突き出す。

[私も内藤ホライゾンの過去が知りたい。
調査が終わったら知らせに来てほしい]
      
その文字がショボンの目に映ったとき、声には出さなかったが内心はっとした。
それがシュールの切実な願いだということははっきりと伝わった。
彼女もまた知りたいのだ。あの謎の死の真相を。

「……わかった。
 約束しよう。きっと知らせることになろう」
     
その言葉を言い終えると、シュールが一段と笑顔になった。
表情にそれほど変化があったわけではないが、嬉しそうな感じが伝わってくる。

この子が軽傷で済んでよかった――ふとショボンはそう思った。

「ところで、そのスケッチブックは誰かのアイデアかい? 」

何となく気になったので、ショボンは質問する。
シュールはまた少し考えて、ペンを動かしていった。

[朝早くに友達が来た。
会話できないとわかると、すぐにこれを持って来てくれた]
      
「なるほど、良い友達だね。機転も利く。
      どんな子だい? 」
     
少し首を傾げながら、シュールは文字を書く。

[あんまり他人に言うなと言われた。
だから答えたくない]
      
ショボンはその文字を見て、少しだけ動きを止める。

「彼がどこへ行ったのかもわからないのかい? 」

眉を顰めるシュール。
さっとペンが進んでいく。

[家に帰ったのかもしれない。
私もそろそろ、ゆっくり休みたい]
      
文字を認識して、ショボンは何度か頷く

「男の子なんだね」

「……!! …………!!? 」

明らかに動揺の色を見せたシュール。

「その反応を見ると『あの人』で間違いないのかな?
 いやあ、鎌をかけたつもりなんだけど、うまくいくもんだね。
 そういえばさっきからどうして『あの人』なんて書き方をするのかも気になっていたんだけど」

その言葉の終わる前に、シュールはショボン目掛けて思い切り枕を投げつけた。

「いや、ちょっと! 悪かったよ、ごめんよ」

ショボンは口早に謝罪を述べたが、真っ赤な頬をしたシュールは敵意をこめた眼差しでショボンを見つめる。
続いてコップが投げつけられて、ショボンは枕で防ぐ。
当たることも、割れることも防いだわけだ、などと無駄に上手いことが頭に浮かぶ。

「何を患者さんにしているのですか!? 」

看護師が飛んでくる。

「いやあ、少しいろいろありましてその、事情はちゃんと」

しどろもどろになったショボンの声は、すぐに途切れる。
シュールがスケッチブックをバンバン叩いたからだ。
看護師の目はそちらに注がれる。

[変 態]

看護師の息をのむ音が聞こえてくる。
やたらと大きな音だった。

ショボンはなおも冷静に対処しようと試みた。

「いやいや、ねえ君、何その文字。
 どう考えても書いてるような時間なかったよね今。
 使いまわしたよね、それ。ねえ」
      
腕を鷲掴みにされるショボン。
ぎっちりと握り締めるその腕は、看護師のものだった。

「ちょっとこちらへ、奥で話を」

「いやだなあ、私は何も……痛いんですけど」

べーっと舌を出すシュールを睨みつけながら、ショボンは奥へ連れ去られていった。

解放されたとき、時計の針は一一時を過ぎていた。

「恥ずかしがるのはガラじゃないって言ってたじゃないか。
 まったくもって、年下というのは怖いね」

ぶつぶつとぼやきながら、ショボンは病院を後にする。

たとえこの病院に『あの人』が来ていたとしても、もう残ってはいないだろう。
わざわざシュールに「誰にも言うな」などと伝えたほどだ。
ショボンとは限らないが、誰かに捕まって事情を話すことが嫌だったに違いない。

さて、これからどうしよう――ショボンは気持ちを切り替えることにした。
今シュールのところに行っても騒がれるだけだ。
ツンともやはり面会は出来ないだろう。

すると、もうこの病院に用はない。
ならば移動しよう。どこへ? 一応考えはある。
内藤ホライゾンの育った場所、かつてのG村であり、現在のD市だ。

しかし、その前に気になることがあった。

モララーのことである。

思いがけず、今回もあの男が関わっていると判明した。
それにおそらくは奴の失われた記憶が関わってくる。
このことを踏まえると、どうしても気になることが一つあった。

ショボンは行く先を決めた。
まもなく南天に上ろうとしている太陽の下に出て、B駅へ向かっていく。

二〇一〇年八月一四日(土)、一時 東京――

モララーは都会というものが好きではなかった。
山の中で育ったことを考えると、自然が少ない都会を嫌うのは当然のことなのかもしれない。
しかしモララーの抱く嫌悪感は、単純に「緑が少ないから」というエコロジカルな理由で生じるものではなかった。

表向きの清潔感、整理整頓された秩序の裏に潜む、暗くてドロドロとした不定形の負のイメージ――ここまで修飾してようやく伝えたいことの片鱗が見えてくる。
ただの暗いもの、残酷で非情なものは山の中にだってある。生命の危機や死の感覚はむしろ都会より強く感じられた。
無論、モララーが嫌うのはそこではない。問題は『裏に潜む』ということだ。

山の中にある負のイメージはむき出しのものである。ちょっと道を逸れれば野生の動物の肉片や骨くらいすぐに見つかる。
しかし都会のそれは隠れている。そして人前では誰もが何事も起きていないふりをしている。
暗い事件をひた隠しにし、そこから人と人との間に疑惑と猜疑心が生まれ、さらに新たな負が生まれてくる。

たまらなく嫌だった。

育った山を離れて、大学を出たらすぐに探偵として働き始めた。
そしたらいろんなことが見えてきた。人間の嫌な部分をたくさん見てくることになった。
嫌な思い出ができることだってもちろんあった。

そしてその中の一つ一つが、自分を今でも突き動かしていることを、モララーは感じていた。
大嫌いな感覚が、自分を動かしている。なんだか矛盾しているようで、正しいことなのだ。

とにかく都会は嫌、それなのに今、モララーはこの国で一番の大都会に来ていた。

昨日の夜のことである。
A市にあるしぃの家、モナーが貸していた家で起きた発砲事件が全ての引き金だった。

一緒にその場にいたドクオという青年は、昨日の晩にどこからか連絡を受け取っていなくなってしまった。
夜中に来た警察への応対は全てモララーが済ませておいた。
ドクオがその場にいないことは警察も疑問を抱いた様子であったが、事件は明らかに警備員のギコによるものだったのでドクオへの追及はなかった。

モララーはほっとしながら、またドクオに会ったときは何を言ってやろうかとも考えた。
きっといくつか言うことを聞かせることができそうだ。

それから、モララーはモナーにつーの居場所を聞いた。

『ブーンの息子』というフレーズが頭に残っていたからだ。
それはギコが、自分に暗殺の依頼をした人物として揚げた男の名前だった。

ブーンという名前を初めて聞いたのは、ドクオが内藤ホライゾンの調査を依頼してきた時だ。
ドクオは内藤ホライゾンのことをブーンと呼び、慌てて言い直した。
それから、ドクオは自分にとっての呼び方はブーンであるといい、自分が内藤ホライゾンと親しかったことを話してくれた。

ブーンとは内藤ホライゾンのこと。
つまりギコに依頼した人物とは『内藤ホライゾンの息子』ということになる。
実際にそのような人物がいるかどうかは知らない。何らかの比喩かもしれない。

ただ、モララーは依頼人であるドクオの意思を尊重し、内藤のことをブーンと呼ぶことに決めていた。
勘でしかないが、そうした方がいい予感がしたのだ。

とりあえずの調査方針として、モララーはブーンと関わりがあったという、つーを訪ねることにしたのである。

「でけえな……」

目の前のビルを見上げながら、モララーは思わず呟く。
モナーのグループの一つである会社だった。

中に入って、受付嬢と話をする。
既にアポイントメントは取ってある。モナーが手をまわしてくれたおかげだ。
紹介されるのは、社長室へいく道筋だ。

つーは家に帰って来た後に、モナーの手によって出世を約束されたという。
どことなくモララーの嫌いな負のイメージがつきまとうが、気にしているとキリがないのでモララーは無視した。
そして時が流れて、一つの会社の社長にまで上り詰めたというわけだ。

その話は今朝モナーに聞いたものであり、モナーはあくまでも「つーには最初から才能があったモナ」と言い張った。

「家出したときも、大学はもう出た後だったモナ。
 私は娘を嫁に出す気は無かったし、独り暮らしをさせる気もなかったから、捜索したんだモナ」
       
モナーの考え方が良いのか悪いのかまで判別する気はない。
ただ、なんとなくモララーにはつーが家出した気持ちがわかった気がした。

エレベーターで最上階まで上り、到着の音が鳴る。
扉が開いて、赤い敷物の上を歩く。

社長室はすぐに見つかった。
モララーはプレートを確認してから、扉をノックする。

入室の許可を示す声が中から聞こえてくる。
ドアノブを回して、「失礼します」といいながらモララーは中へと入って行った。

地上から遥かに高い快晴の空を覗かせる大きな窓を背にして、つーは立ち、モララーを見つめていた。
その体が壁際によったので、逆光から逃れて姿がよりはっきりとモララーの目に映る。
育ちの良さそうな品のある女性だった。その品格はしぃにも共通していたものだという考えが咄嗟に頭を過る。

「昨日の夜は大変だったと聞いているよ。
 うちの警備員が発砲事件を起こしたそうだね」
     
「ええ、もう伝わっているんですね。モナーさんから? 」

「そうだよ。お父様はそういったことはすぐに連絡をよこすのさ」

つーは顔を綻ばせる。
モララーはその様子をじっと見ていた。
しぃと比べれば多少粗い言葉遣いだが、口調の奥にある気持ちは温かなもののように感じられた。

「なんだか不思議そうな顔をしているね」

「ああ、いえ。すいません
 いろいろと昔の話を聞いていたものですから」

「……お父様から? 」

モララーがコクリと頷くと、つーは若干固まり、それから一気に乾いた笑い声を発した。
外の天気と同じように、カラッと晴れ渡る様な気持のいい笑い方だ。

「確かに、あたしは若い頃は家出だの水商売だのいろいろ遊んだねえ。
 でも、そんなのいちいち気にすることはないじゃないか。誰だってそんな経験の一つや二つ、あるもんさ。
 あんたもあるんじゃないかい? 」
     
「……どうですかね」

自分の境遇を考えてみた。未成年を前にして記憶喪失、それからはずっと山暮らし。
ある意味ではかなり長期間にわたる家出と言えるかもしれない。しかも戻る見込みなどないのだ。

「あるかもしれません。
 言い方によりますけど」
      
「ふふ、そういうもんさ。
 さてと、そろそろ本題に入ろうか。用があってきたんだろ? 」
     
つーとモララーは木製のテーブルを挟んで相向かいに座る。来客との会談用に使うものだろう。

「時間は三〇分ほどしか取れないよ。そのことはちゃんと考慮してほしいね」

それからモララーは、ブーンについての話を始めた。
もちろん、つーに対しては「内藤ホライゾン」という名前を用いたが。

「内藤ホライゾン」の名前を聞いた瞬間、つーの形の良い眉がピクっと動いた。
若い頃お世話になった彼が死んだのはほんの少し前、やはり気にはなっていたのだろう。

思えばこの調査をするように依頼してきたのはドクオだったはずだが、今ここに彼はいない。
それにもかかわらずモララーが調査を続けているのは奇妙なことなのかもしれない。
いつの間にか自分から、あの殺人鬼の過去を暴きたくなっていたのだ。

モララーはモナーから話を聞いたことをつーに伝える。

「あなたは内藤ホライゾンと関わりがあった
 そのことに間違いは無いはずだ。そうだろう」
      
つーは遠い過去に思いを馳せるように、窓の外に視線を移した。
ブーンと出会ったときのこと、起きたことを思い出しているのだろうか。

まるで違う感情だが、彼女もまたブーンに魅せられていたのだ――モララーの脳裏にそんなフレーズが思い浮かぶ。
モナーの言葉伝いで聞いただけだが、今のつーの表情を見て、モララーはそのことを確信していた。
つーはブーンに惹かれていたのだ。

「話に相違は無いね。あたしは内藤ホライゾンと出会った
 23、24くらいだったかな。とにかくあたしはまだまだガキだったよ
 あいつは本当に、面倒くさい奴だった」

「内藤ホライゾンに出会った後、あるお店の客引きをしている最中に、あなたは再び彼に会った」

「そう、そしてあいつはあたしを捕まえて言ってきた。
 『君はこんなことをするべきじゃない。どうかやめてくれ』ってね。
 おかしいだろ? 家出したガキ相手に真面目にそんな話をふっかけてくるなんて」
     
「それからも何度も内藤は、あなたを家に帰らせようとした」

「あたしのアパートの住所まで、どうやって知ったんだかわからないけどわかっていたよ、あいつは。
 そしてあの事件だ。内藤ホライゾンはお店を経営するヤクザの組員に目を付けられた。
 何度も謝って、何度も殴られて、それでもあいつはあたしをやめさせようとしていた」
     
つーの目が細くなる。まるで大切な人を見守るような、温かい目。
言葉が途切れた。どちらも話しだそうとは思っていないようだった。

長い沈黙の後、モララーが口を開く。

「結果的にあなたはその店をやめたのですね。
 そして、それから内藤には会いましたか? 」
      
「……お父様はそこまでしか話していないようだね」

正直に「はい」と答えるモララーの声を聞いて、つーは笑った。

「会うも何も、あたしは内藤ホライゾンと一緒に暮らすことにしたんだよ」

「あたしには一人の子どもが、腹の中にいたんだ。
 相手がどこぞの誰ともわからない。きっとあのお店で働いていたときに、調子こいて孕まされたんだ。
 お店を訴えようにも、気がついた時にはもうそこは潰れていたよ。どうやら裏の組が結構危険なことをしていたらしくてね。
 あたしはよく知らないけど、警察が大挙して組を潰したらしい」
     
「ま、あそこがどうなろうとあたしには関係ない。訴えることが出来なくなっただけさ。
 それからは悩んだよ。誰ともわからない子どもを育てるのかってね。
 けれど中絶もしたくなかった。家出して散々家族に迷惑掛けて、反省してるのに、自分から迷惑を被ろうとしていたんだ」
     
「それだけじゃない。内藤ホライゾンもまたあたしに、その子を育ててほしいと言ってきた。
 それからいつものように綺麗事を並べていったんだ。何度も何度も。
 だけど……なんでだろうね、今度はちゃんと効いてしまったんだ。綺麗事が、あたしの心に」
     
「あるいは、そのときもうあたしの気持ちは内藤ホライゾンに傾いていたのかもしれないね。
 どうしたんだい、探偵さん? さっきからいやに静かじゃないか」
     
急に言葉を掛けられたので、モララーはハッとしてつーに顔を向ける。
意味をなさない言葉の欠片をいくつか出して、額に流れる汗を拭った。

「すいません。まさか内藤ホライゾンに妻がいただなんて。
 聞いたことも無かったものですから」
      
そこではなかった――気になっていたのは。でも今は打ち明けない。
つーはまた乾いた笑い声を響かせる。

「妻じゃないよ、同棲さ。
 結局最後まで結婚することは無かったんだ」
     
落ち着きを取り戻しつつあったモララーは、その言葉に首を傾げた。

「同棲をしていた……いったいどれくらいの期間です? 」

「子どもが産まれて、4年ほど経つまでだよ。
 どうにも内藤は結婚することを拒んでいたんだ。断固としてね。
 それでも子どもには悪い影響があるかもしれないと考えて、あたしたちは子どもが小学生に上がる頃に結婚する予定ではいたよ」
     
「でも、あいつは消えちまった。
 一九九五年の話さ。あいつはあたしらを置いてどっかに逃げてしまった。
 連絡を取ろうと思えばできたんだろうけどね、あいつの置き手紙にそれを拒む記述があったから、手をつけないでおいたよ」
     
つーの発した言葉はしっかりとモララーに届いた。
今から一五年前の話、突然のブーンの失踪。
それから一〇年経って、ブーンは殺人鬼となってテレビに映り、それから5年後には死んだ。

「理由は言ってないのですか。
 何故いなくなってしまったのか」
      
「言ってないよ。ふっと消えちまったんだ。
 それからあたしはモナーの家に帰り、そこから就職を勧められて、今に至るわけさ」
     
口早につーは自分の状況を述べる。
もちろんモララーの耳には届いていた。

約束の時間が迫ろうとしていた。
つーが話してくれたのはここまでであり、それ以上知っていることは無いようである。

「そろそろ帰ることにします。
 話していただき、ありがとうございました」
      
「あたしの話が何かの役に立てるなら、それで十分だよ。
 今では人の為になりたい気持ちでいっぱいなんだ。
 昔荒れていたことに対する反動ってやつかもしれないね」
     
モララーは立ちあがって、出口へ向かっていく。
つーも立って、モララーを見送ろうとし始めていた。

だが、モララーは突然踵を返す。
あまりにも唐突だったために、つーは動きを止めた。

「一つ聞き忘れていました。
 その産んだ息子の名前、聞かせてもらえないですか? 」
      
つーの目がじっと自分を捉えていることに、モララーは気付いていた。
いったい何を見つめているのか、それはわからないが、良い気持ちでは無い。


「ジョルジュっていう名前だよ」

外に出ると、温かい南風が頬を擦っていくのをモララーは感じた。
湿り気のある空気に一際圧迫感を感じる。ビルの中の冷房が強かったせいでもあるのだろうが。

長岡商事――ビルに掲げられている看板をモララーは何ともなしに見上げていた。
それは長岡グループ会長、長岡モナー氏の有する一会社の名前であり、社長の名前は長岡つーという。
今しがたモララーが会話してきた人物である。

長岡ジョルジュという男――それが、先のつーとの会話で挙げられた名前である。
血は繋がっていないものの、ブーンとつーによって息子同然に育てられた人物。

『ブーンの息子』というフレーズははっきりと憶えていた。
ギコを雇い、事件を起こさせた人物だ。

会ってみる価値はあるだろうとモララーは思っていた。

そして、収穫はそれだけではない。
つーはもう一つ、ヒントを与えてくれた。恐らくは無意識に。

『あいつはあたしらを置いてどっかに逃げてしまった』

「逃げる、か……」

それがただの比喩だとは、モララーにはとても思えなかった。
ブーンは何者かに追われていたのか。

~~~~~~~~~~~~~~~~

二〇一〇年八月一四日(土)、午後三時、C市――

ドクオは河原で一人佇んでいた。
この川はD市の水源から県北部の県境を迂回している川であり、ドクオがいる岸の向こう岸は他県である。
流れが荒く、渡るのには不向きなために、もしあちらの県に行きたければ鉄橋を越えなければならない。

そしてその鉄橋の下で、なるべく斜陽を避けて日陰の部分で、ドクオはじっと川を眺めていた。
鴨が何匹か泳いでいる。数年前には下流の方でアザラシが見つかったらしいが
ドクオが見つめる場所は起伏が激しいので魚類であろうとも進みにくいのであろう。

鮭のことについて――急にドクオの頭の中に浮かんだ命題だ。
鮭の川上りの話を小学生の時に聞いた。
ぼんやりと思い出してみた。

あの魚は産卵の時期になると、一斉に川を遡上してくる。
たとえその道がどんなに荒れていようと、汚かろうと、罠が仕掛けられていようと。
鮭は構うことなく川の上流を目指していく。産卵場所を探し、子孫を残すというそれだけの理由で。

ようやく適当な場所を見つけることができた鮭は、卵を産み、そして果てる。
もはや命を残す必要はない。子孫繁栄という目的は達成することができたのだ。
鮭はただそのためだけに、その時まで生きていたのだ。

昔、ドクオはそれをとても悲しいことだと思った。死というのはそれほどまでに彼にとって恐ろしいものだった。
だけど今、彼はそうは思わない。
目的がある。鮭として生きて、鮭として死んでいくその生涯をドクオは、遥か遠くにある理想のように感じていた。

ドクオは産まれたときから父親がいなかった。
母親に聞いてみる気にはなれなかった。母はその質問を極端に避けている、そんな気がしたのだ。
そしてその結果彼に訪れたのは、どうしても埋まることのない心の穴だった。

普通の人が当然有しているものがないということ、それは抗いようも無い喪失感をもたらしていた。
そしてその感覚が、普通の人から自分を遠ざけているのだとドクオは感じていた。
どうしても人と上手く接することができない。理由のない劣等感、同じ場所に立っていないという思い込み。
そこには、母を悲しませたくないという気持ちも作用していた。

経験がなければ力はつかない。
コミュニケーションの不足は、他者との会話、接触を避けることに繋がった。
いつしかドクオは孤立するようになった。中学生を前にして、独りとはどういうものかを悟っていた。

そして誰とも触れ合わないうちに、自分という存在が不安定になっていった。
本来ならば他者との関わりの中で確立していく自分の立場を得ることができなかった。
無目的。

つまり自分は鮭にも劣るのか、そんなふうに考えることもあった。

だけど、そのたびにそこに誤りがあることにもすぐに気付いた。

たった一人、心を開いている人物がいたということを。

それがブーンさんである。

ブーンさんはドクオが小学生に上がる直前に、ドクオの近所のアパートに引っ越してきた。
初めて見たのは、少し遠くの街のデパートにランドセルを買いに行った日の帰りのことである。
母は車を持っていなかったので、二人は歩いてそのデパートから帰って来ていた。

ブーンさんはアパートの前でぼーっとしていて、ドクオと母の方に目をやるとあからさまに驚いた。
ドクオは不審者じゃないかと思って母の腕を強く握りしめたことを覚えている。
その母親の腕はやけに震えていたことも、未だに覚えていた。

その日、ドクオの母親がこっそり出かけた。ドクオを寝かしつけた後である。
もっともドクオは寝付けなくて、その母の行動に気付いていたのだが。
ドクオはトイレに行くために起きようとした時、母が帰ってきたことがわかった。
話しかけようとする前に、母が泣く音を聞いた。

母はブーンさんの家に赴いたのだ、子ども心ながらにそう感じた。
きっと、この二人の間には何かがあった。それが母の涙に現れている。
その声にならない嗚咽を聞いて、ドクオは何もできないまま、隠れて自室へと戻っていった。

それから母がよくブーンさんの家に連れて行ってくれた、
初日だけ、ブーンさんは警戒していた様子だったが、その日母と外出して、帰って来たときにはもう蟠りが無くなったようであった。
ドクオは学校では孤独を感じながら、度々ブーンさんと会えることを楽しみにしていた。

ブーンさんはいつも笑顔で、明るくて、遊び相手になってくれた。
呼び方はそもそもブーンだったし、ドクオは内藤ホライゾンという名前すら知らなかったんだけれども。
ドクオは一緒にいるときにとても気持ちが晴れやかになった。苦しいことは全て忘れられた。
ブーンさんはドクオにとってかけがえのない存在になっていった。

中学生になってからもそれは相変わらずであり、むしろ一緒に街を歩いたりもするようになった。
一緒に市の街を散策して、いろいろなものを見つけて、笑い合った。

ブーンさんの笑顔はドクオの意識に鮮明に残っていた。

そのブーンさんが、あるマンションに目を付けたのは、2004年10月のことだった。

「あの子……」そうブーンさんが呟いたので、ドクオも意識を向けた。
マンションの入り口に一人の少女が見えた。
同じクラスだったので、ドクオはその名前を知っていた。シュールであった。

ドクオはブーンさんに、シュールがいじめられっ子であり、クラスでも浮いていること、不登校気味であることを説明した。
ブーンさんはしばらく考えたあと、言葉を発した。
「あの子、もうすぐ死ぬかもしれないお」

それから気がついたらドクオはシュールの部屋にいた。
ブーンさんに言われるがまま、主体性の欠片もなしに行動していた結果である。
きっと自分の顔は恐怖で歪んでいたに違いないとドクオは今でも思っている。

その日からシュールとも仲良くなった。
もう孤独は感じなくなった。感情表現は苦手だが、内心では心が晴れ晴れしていた。

シュールとはよくブーンさんの話をした。というかそれしか話題が無かったのだ。
ブーンさんと一緒に街を散策したこと、一緒に遊んだこと。
小さい頃から今まで、自分がどれほどブーンさんに感謝しているか、彼は必死にシュールに伝えた。

自分はブーンさんの為に生きたいと思っていた。
それだけが自分の目的だ――不安定な思春期の精神状態で、ドクオはそう信じることで平静を保っていた。

だけど、ブーンさんの表情が変わり始めていた。
笑顔がだんだんと失われていった。

ブーンさんに元気が無くなっていったのをドクオは薄々感じていた。
依然として笑顔ではいるが、心から笑っているわけではないとわかった。
長いことその笑顔に支えられていたから、なおさら。

でも質問することはできなかった。そんな勇気は持ち合わせていなかった。
だから遠まわしに聞いた。
どうしていつも笑顔でいるのか、と。

ブーンさんが一層笑顔になったのをよく覚えていた。
心で全く笑っていなかったのをよく覚えていた。

「嘘なんだお。
 笑顔なんて嘘なんだお。
 人間が、他の人間と何の争いもすることなく過ごすための手段にすぎないんだお」
 
「僕はもうずっと後悔しているんだお。
 嘘を続けて、これまで生きてきてしまったことに――」
 
「僕はずっと昔とても大変なことをしてしまったんだお。
 そのことでずっと嘘をついているんだお。誰に対しても。
 君のお母さん、ツンに対しても、真実を話したことは無いんだお」
 
「僕は必ずなんらかの形で償いをしなければならないんだお。
 罪に対して罰を受けるのは当たり前のことなんだお。
 これまでずっと、笑顔で乗り切っていけると考えていた自分がバカだったんだお」

ドクオはその言葉を思い出すと、今でも寒気がした。
あれはドクオの知っているブーンさんじゃなかった。
でも、もしブーンさんの言っている言葉が本当だとしたら、その恐ろしい言葉を発したブーンさんこそが真実なのだ。

それから数日後、ブーンさんはニダー一家を惨殺した。
ドクオは確信していた。殺したのはあの恐ろしいブーンさんである、と。
だからどうしてあのブーンさんが殺人を犯したのか、とても気になっていた。

ずっと偽りの笑顔を続けていたブーンさんが、どうしてあの事件を引き起こしたのか。
ひょっとしたらニダーは何らかの秘密を握っていたのではないか。
ブーンさんの知られたくない過去を――

斜陽が顔に当たったので、ドクオはハッとする。
かなり時間が経っていたようだ。
もう空が紅い。晴れ渡ったいい空だ。

背後で足音が聞こえたので、ドクオは振り返る。
誰が来たのかは大方察しがついた。

「遅かったな」

挨拶も何もなしにドクオは言う。
つっけどんな言い方だが、特に問題はない。
 
「お前が早すぎんだよ」

「お前に言われて、俺はずっと行動してきた。
 八月一〇日にお前が携帯で連絡をよこしてきてからな、ジョルジュ」
 
「ああ、その通りだ。間違いは無い。
 俺は一〇日にお前に電話した。モララーという私立探偵に、内藤ホライゾンについての調査依頼をしろってな」
 
「『内藤ホライゾンの知り合いなんですが、内藤の死が気になるので調べてほしいんです』
  要旨はこれだ。あとは上手くA市の跡地へいけば、お前はしぃに出会い、金持ちの女の家に連れて行ってもらえるだろう。
  あの時のその女が一二日に跡地へ向かうという連絡は、俺の仲間の警備員が知らせておいてくれたからわかったことだ。
  その男とこまめに連絡して、しぃの行動時間もおおよそ操れた」
     
「警備員……あの発砲したギコって奴か? 」
 
「そうだ。ああ、どうして知り合ったのかまでは聞かないでくれ。
 なかなか面倒なことと結びついているんでな。言うわけにはいかない」
     
「俺の興味はその男じゃない。
 何故発砲したか、それだけだ。
 狙いはモララーさんだったんだろ? 」
 
「その通り。
 お前の行動のおかげでモララーはあの家に行った。そして発砲されたというわけだ」
     
「気に食わない言い方だな」
 
「これから人を殺す、協力しろと言われて気分を良くする人はそういないだろうからな」

「あの警備員が『ブーンの息子』と言ったから良かったものの
 そうでなかったら俺も気が狂いそうだった」
 
「あれか、そのセリフは言わせたんだよ。
 お前に事件の裏に俺が居ることを知らせるためにな」
     
「殺すつもりが無かったのか? 」
 
「むしろあの程度では死なない男だと思ったよ。
 あのモララーって野郎はな」
     
「捨て駒か」
 
「ギコのことか? 安心しろ。
 どうせどっかの組に見捨てられたところを拾ってやっただけ。
 元々表の世界では生きていられなかったような人間だよ」
     
「まるでヤクザの親分にでもなったかのようだな」
 
「カッコつけただけだ。俺はそんな凶悪な背景持っちゃいねえよ」

「……んで、そろそろ教えてくれないか?
 モララーってのは何者で、どうしてお前は奴を狙っているんだ」

「その前に少し昔話をしようじゃないか」

ジョルジュは一歩、ドクオに近づいた。

「そんなに長い歴史をお前と共有したつもりはないが」
 
「出会ったときは意外と古いだろ。
 5年前だ。ブーンさんがニダー一家を惨殺した年の6月、俺とお前は会った」
     
「……お前はブーンという呼び名を知っていた。
 俺がブーンさんのいたアパートの前でそう呟くのをお前は耳にした。
 だから俺に話しかけた。俺は『ブーンの息子』だ、なんて言ってな」
 
「そう、それが最初の出会いだ。
 俺は昔ブーンさんに育てられた子だってことを、お前に伝えた。
 そしたらお前は俺と交流を持ちたいと言ってきたな」
     
「ただのメアド交換だ。よくあることだろ」
 
「とてもそういう顔つきには見えないがな。今も昔も」

「…………まあな」

「でもお前は全く連絡をよこさなかった。
 俺が大学生になった後も、さっぱりだった。
 ようやく来たのが一〇日。あのブーンが死んだ日だ」
 
「それまでいろいろ調査していたんだよ。
 モララーの存在を確信したのはその期間だった」
     
「不思議な言い方だな。ようやく本題に入るってわけか」
 
「その通りだ。実はな、モララーは――」

突風が二人に吹き付けてきた。
夏の温まった空気は突如として空間を駆け巡ることがある。
轟音を鳴らしながら。

ドクオは身を竦ませた。
だけど、ジョルジュの言葉はしっかりと届いていた。
だからこそ目を見開いた。

符号が繋がったからだ。
そのとき初めて、ドクオはブーンさんの言葉の真意を理解した。

ブーンのついていた嘘について。
そこから生じた大きな過ちについて。

「……おい、お前」

ドクオは思わず声を出して呼びかける。

「何をするんだ。これから」
 
「D市へ向かう。
 お前もだぞ、ドクオ」
     
ジョルジュは口の端を大きく釣り上げる。
企みがあるに違いない。そういう顔つきだった。
 
「俺がずっと一緒に行動していたおっさんは、今日を逃したらだいぶ長いこと暇がないらしい。
 だから絶対に今日動く。そしてモララーもきっと来る。俺にはわかるんだ」
     
何か絶対の自信があるのだろう、ジョルジュの力強く頷いていた。
 
「そんでもって奴を、モララーを殺す」

それが当たり前のことであるかのように、ジョルジュは決意を表明した。
意味はもうドクオにはわかっている。この殺人の理由は、とても空しいものだということも。

でも自分からは何も言いだせなかった。
そのような資格があるなんて思いもよらなかったから。

自分にはブーンさんのことはよくわからない。
前にどこかで思ったが、自分以上にブーンさんのことをわかっているのは、きっとこのジョルジュだけだ。
ブーンさんの息子として育てられた彼に尽くすのは、ブーンさんに尽くしたいと思った男のすることではないのか。

それこそまさに自分の生きる目的ではなかったのか。

また一歩、ジョルジュはドクオに近づく。
手が届く距離となり、ジョルジュは腰のポケットから物体を取り出した。

黒く、光沢のあるそれは、新品に違いない。
昨日の晩、ドクオはそれを初めて見た。危機的状況の中で。
 
「お前が持っているべきだ。
 モララーはお前に対して、油断しているはずだからな。初対面の俺よりも」
     
ドクオの手に握られたのは、拳銃だった。
持つのは初めてであり、そして今、今晩それを用いることを命令されているのだ。
 
「至近距離なら猿でもはずさねえし、ゴリラだろうと死ぬだろうな」

楽しそうに言い放つジョルジュからは、毒々しい悪意が伝わってきた。
ドクオはとても顔を上げて、その様子を見ることはできなかった。

正直に言って、殺したくは無かった。
モララーに抱いていた好意は本当のものであったから。

様々な光景が交錯していった。

母親であるツンが泣いている姿、シュールが自分の話をじっと聞いている姿。

初めて出会ったときのジョルジュ、悲しい思いを裏に秘めたブーン。

そして、昨日一緒に行動していたモララー。

殺さなくてはならない。
そういう指令だ。
これは指令なのだ。

病院のベッドで再開したシュール。

重傷を負っているのでツンとは面会できないと伝えて来た看護師。

そして、昨日の晩のモララー。

『無茶するなよ』

その言葉が、心の奥に傷をつけていた。
自分の身を案じてくれている人を殺さなくてはならない。
まるで何かが狂ってしまったように、ドクオは感じていた。

午後4時、B市総合病院――

ドクオはツンの容態を確かめるために、再びここへ来た。
受付に話をして、ツンのことを質問する。

大して期待はしていなかった。
まだ前回来たときからあまり時間が経っていない。

気落ちして入口から出て来たドクオに、ジョルジュが缶コーヒーを与えた。
 
「面会は? 」

ジョルジュは話しかけてみる。
ドクオは小さく、首を横に振った。
 
「そっか……
 ま、アパート火災の中生きていただけでも幸せってものだろ
 こわいよなあ、突然の事故だなんて」
     
今度は小さく頷くドクオ。
缶コーヒーを開けて、ちびちびと飲み始める。

「もういいさ。気は済んだよ」

思ってもいないことを口にする。

本当は確かめたかった。
子どもの頃は怖くて言えなかった、あの涙のわけを。

ブーンさんの正体がわかった今なら、聞く資格があるように感じた。

でも、まだ回復していない。まだ話をすることはできない。
つまりまだその時期じゃないんだ。ドクオはそう考える。

この計画を無事成功することができてから聞こう――ドクオはそう誓った。

缶コーヒーをゴミ箱に入れる。
まだ奥の方に残っていたが、気にしなくなっていた。

いや、それだけじゃない。
いろんな物事に対して、意識が及ばなくなっていった。

今はただ、殺人のことしか頭に残されてはいないような気がする。
それしか考えてはいけないような、そんな気分がドクオを取り囲んでいた。

ジョルジュが車を用意していたことにも、さほど驚かなかった。
車で向かえば、一時間ほどでD市には到着する。
それまでずっと、ドクオは頭の中でイメージを働かせていた。

モララーの頭を撃ち抜く瞬間を。

二〇一〇年八月一〇日
この日、ドクオは拳銃を握り締めながら、犯行現場となるであろう場所へと向かっていた。

同じ日、この事件に関わる別の人間はまた違う方法でD市へ向かうことになる。
彼らは日中それぞれの意志で行動していた。

ブーンの過去の過ち。
それが生み出すものとは、なんなのか。
そしてどのような結果をもたらすのか。

まだ誰にもわからない。

第五話

二〇一〇年八月一四日(土)、午後2時頃――

旧G村は現在D市の内部にあり、山脈の中腹に位置する村落であった。
現在はG地区と呼ばれているその村落とD市街地との間にはロープウェイが繋がれており、そこを使う人は大勢いる。
もちろん道路も繋がってはいるが、いつも薄暗い山の森の中を通ることを好まない人も多く、交通量は多くない。

しかしショボンはそのどちらも使わず、山の裾で車を降りて川沿いを歩くことでG村へと向かっていた。
いや、正確には市街地とG村の間にある民家を訪ねようとしていたのだ。
山の中でひっそりと佇んでいるその建物、ほとんど自給自足の生活を営んでいる一家が暮らしていた。

そしてそこは、モララーの暮らしていた場所でもあった。

川沿いに大掛かりな装置を発見して、ショボンは立ち止まる。
川で泳いでいる魚を捕獲するために用いるものに違いない。
この時期に獲れる魚のことはよくわからないが、それでも一つ気付くことがある。
この近くに人間がいるということだ。

ショボンはその装置の傍で待っていた。
太陽の光が川面に反射されて映るキラキラとした輝き。岩にぶつかって上がる水しぶき。
川の音が聞こえてくる。歩いている途中には気にもしなかった音だが、耳を澄ましていると疲れが取れていくようだ。

自分が疲れていることを今更思い出していた。
昨日は一日調査をして、その晩には事故に巻き込まれたのだ。
そして一応入院だってした。たった半日の入院だが、間違ってはいない。

火事――そういえばあれは何だったのだろうか、ショボンはふと考える。
何故起きた事故なのかは聞いていなかった。むしろまだ特定するには早すぎる。
今頃は消防隊員がアパートの燃えた残骸を調べて、その出火元を考えているところだろう。

あの火事で失われたものと言えば、それはアパートだ。ツンとシュールの住む場所。
それもまた大きな損失だが、他にもある。
ツンさんが証言できなくなったということだ。

二階に住んでいるツンが重傷で、一階に住んでいるシュールは軽傷だった。
ここから導かれる一番簡単な推測は、出火元が二階だったというものである。
しかもなるべくツンさんに近いところで起きたのだろう。あの火災の直後に大雨が降りだしたため、火は予想以上に速く消えたから。

ひょっとしたらツンの部屋で起きたのかもしれない、そう考えてショボンに別の思考が展開する。
それは違和感ではなく、あえて言うなら奇妙な整合感である。
些かタイミングが良すぎるのではないか。

ツンが嘘をついているとわかり、もう一度問い詰めれば大丈夫だと思っていた矢先にあの事故である。
亡くなったわけではないが、証言を得ることが引き延ばされてしまった。自分もそう軽々と行動できるわけではないのに。

もしあの事故が事件だとしたら、それこそが犯人の狙いということになる。
しかしそこに至るためには一つ、重要事項が必要であることもショボンは同時に気付いていた。

考えることに疲れたので、ショボンは空を見上げた。
快晴はこの地域にも広まっている。吹き抜ける山からの風が心地よい。

「誰でしょう? 」

突然声を掛けられたので、ショボンはその方向を見る。
ギョロっとした目が印象的な、ややがっしりとした体躯の男がじっとショボンを見つめていた。
その目がさらに驚きで見開かれる。

「あ、あなた……ひょっとしてショボン刑事ですか? 」

「その通りだが、君は? 」

ショボン刑事というのは懐かしい呼ばれ方だ。
自分が警部に上がってからはもっぱら『ショボン警部』と呼ばれるようになっていた。
よってこの男は昔のショボンの知り合いということになるのだが、ショボンには咄嗟にわからなかった。

だが、その黒々とした瞳を見ているうちに記憶が蘇ってくる.

「分手マス君か。モララーと一緒にいたあの」

かなり昔の記憶だった。
まだショボンは30代であり、世間はまだ20世紀だった。
モララーに初めて出会ったとき、彼は分手マスと一緒に探偵事務所を開いていたのである。

「今、モララーはいませんよ。
 もう何年も帰ってきてません」

「わかっている。彼はまだF市で探偵事務所を開いているようだよ」

「らしいですね。それしかやっていけないということはわかってますが、不安です。
 未だに生活に必要なお金は全て私頼みなのですから」
       
それから分手マスは話を始めた。
彼はモララーと離れて自分で事業を興し、成功を収めたのだという。
当時はまだ情報化社会の開拓時代であり、チャンスはいくつも転がっていたのだ。

モララーとは随分長いこと連絡を取っていないらしい。
お金だけはきっちり払うように要求して、それ以外の話を振ろうとするとすぐに逃げてしまう。
それなのによくお金を与え続けていられるね、とショボンが質問すると、分手マスは苦笑いする。

「これでも数年間同じ場所でくらしていたのです。
 彼が十分につらい思いをしているのはわかってます」
       
ショボンも頷いて、それからはまた話を聞く側に徹した。

現在、分手マスは実家に帰省している最中であった。
数年ぶりの帰郷で、昔のことが懐かしく、こうして父親が仕掛けた装置を見て回っていたのだという。

ショボンは分手マスに実家へ案内してほしいと頼んだ。
どうしても言って、聞きたいことがあるから。
分手マスは承諾して、ショボンを連れて森の中へ入っていった。

いくらか歩くと、森の中で光が差し込む開けた場所が見えてくる。
かなり広い空間であり、外の世界とは森によって隔てられた別の世界であるように感じられた。
広場の中央には二階建てのログハウスがあり、そこがモララーの父親であるビロードの家であることはすぐにわかった。

「では、私はこれで」

「どこかへいくのかい? 」

「山の方でキノコを採る仕事が残っているのです」

分手マスはそういって、ショボンに背を向ける。
ショボンの記憶とはかなり変わっていたその背中を見つめて、ショボンは言う。

「随分とたくましくなったじゃないか」

足を止める分手マス。
言葉は確かに届いていたはずだ。
彼は振り返って、ショボンと向き合った。

「その言葉、いつかモララーにも言ってやりたいです。
 彼が未だに過去に捉われていることはわかってますから」
       
そう言い残して、彼は森の奥へと行ってしまった。

ショボンは踵を返して、ログハウスに向かった。

傍にいくつか畑があることに気付き、その自給自足の生活の一端が垣間見える。
分手マスがいなければ、ビロードは自分一人で川魚を捕え、キノコを採集していたのだろう。
そう考えて、数年間連絡を寄越さないモララーに苛立ちを感じた。

ドアをノックして、返事を待つ。

「はいっていいんです」

窪みに手を掛けて、開く。
鍵すら無い、簡素なドアだった。

「…………? 」

白髪の男がショボンを見て、頭の上にはてなを浮かべる。

「誰なんですか?
 わからないんです」
      
ショボンは面識がなかったことを思い出し、ビロードに頭を下げる。

「申し遅れました。私は県警の警部であるショボンです。
 お宅のモララーさんと分手マスさんとは何度かお会いしたことはあるのですが」

「ほえ、それじゃあ15年ほど前にあの二人が事件に巻き込まれたときですか? 」

ショボンが肯定すると、ビロードは小刻みに首を上下させる。

「わかったんです。
 どうぞ、中に入ってほしいんです」
      
ビロードに勧められて、ショボンは足を踏み入れる。
リビングに連れていかれて、木製の横長の椅子に腰かけた。

落ち着いた雰囲気のする家だ。ほとんど全てのものが木でできていることも影響しているのかもしれない。
視覚から、質素で温かい感覚が伝わってくる。夏の暑さとは違う、精神的な温かさ。
開けられた窓から入ってくる風が、気持ちよく肌に当たる。

自分も老後はこんな家で暮らすのも悪くない、ショボンは心の隅でそんなことを考えていた。
自給自足、晴耕雨読――その言葉の意味は昔から知ってはいたが、今では真意まで伝わってくる。
何にも煩わされない生活は、ショボンにはとても魅力的なものだった。

晴耕雨読という言葉が思い浮かんだので、ショボンはどこかに本棚でもあるかなと思った。
ビロードがコーヒーを注いで持って来てから、そのことを質問する。

「本棚ですか。
 二階の部屋はほとんどが本で埋まっていますよ」
      
二階に赴くと、予想以上に大量にあったので、ショボンは素直に感嘆を漏らした。

「妻も私も読書好きだったんです。
 たくさん買って、二人で読んで……息子たちもたくさん読ませました」
      
息子たち――その言葉に意識が集中する。

「分手マスとモララーですか」

「そうなんです。
 彼らは昔から本を読み、山で遊んで暮らしていました」
      
ショボンはあまりにもはっきり言うビロードを見つめた。
コーヒーを一口運んで、口を湿らせる。

「失礼なのはわかっているのですが、モララーさんは拾い子ですよね? 」

ビロードは静かに目を閉じる。
本人は何を思ったのかわからないが、ショボンにとっては嫌な沈黙だった。
あまり長くは続いてほしくない。自分の発言が気に障ったのなら申し訳ないからだ。

「あの……やはり気に障ったでしょうか」

「え、あ、いえいえ」

ビロードは首を横に振る。

「少し思い出していただけなんです。
 モララーのことを」
      
ビロードの視線がテーブルの上の、額に入った写真に向けられる。
ショボンもつられてそれに目を向けた

ビロードと、頬の赤い女性が手をつないでいる写真。
きっとどこか正式な写真屋で、記念として撮ってもらったものなのだろう。
二人はまだ若い。20代半ばと見受けられた。

「今からもう40年以上前の写真なんです。
 映っているのは私と妻なんです」
      
ビロードの目が愛おしそうになるのがショボンにはわかった。
よほど愛していた女性なのだろう。二人が恋仲であることはなんとなく理解できた。

「妻はマスを産んで、すぐに亡くなったんです。
 交通事故で、即死だったんです。
 治療する術もありませんでした」
      
静かに、心に直接語りかけるように、ビロードは話し始めた。
ショボンは黙って、耳を傾ける。

「マスを残された私は、現実から逃げだしたくなりました。
 それでこのログハウスを建てて、自分の手で生活を営むことにしたんです。
 人と触れ合いたくなかったんです。今思えばものすごく情けないことなんです」
      
「義務教育は受けさせました。マスは中学校卒業まで親戚の家に預けたんです。
 だけど高校に上がる前に、突然私のところにやってきて一緒に暮らしたいと言ってきました。
      彼はまた別の理由で、高校生活から逃れたかったのです」
      
「別の理由……といいますと? 」

ショボンが口を挟むと、ビロードの顔に苦笑いが浮かぶ。
その笑い方は、先程マスが顔に浮かべた苦笑いとあまりにも似通っていた。

「頭が良すぎたんです。
 親がこんなことを言うのは少し気が引けるのですが、彼には高校課程の授業は必要ありませんでした。
 残りの大切な知識はこの家の本で全て習得したのです」
      
「彼は私の生活を全面的にサポートしてくれました。
 畑の耕し方や、魚を捕まえる方法、野生の草花の情報まで教えてくれました。
 生きるのに必要な知識を得て、それを用いて私を助けてくれた……それはいくら感謝してもしきれないことなんです」
      
「といっても、マスはあまり行動する人ではなかったんです。
 彼に言われたことを私が実践する、そのようにしてここでの生活はなりたっていたんです」

ビロードの言葉を聞いて、ショボンは納得する。
ショボンの記憶にある分手マスはひょろっとした痩躯の青年だった。
だからこそ、がっしりとした体型になっていたのを見たときに、誰だかわかるまで時間が掛かったのだ。

「優秀なお子さんで」

「ええ、しかしその頃私は危惧もしていました。
 たまに街へ工具などを買いに行くときに、彼は絶対外へ出ていかないんです。
 これでは私がもし死んでしまったときに困るのではないか、そんな不安が常に私の胸の奥にありました」
      
「けど、彼は変わりました」

ビロードの顔つきが変わる。嬉しそうに目元が緩んだ。
そして視線がショボンの方に向けられたので、ショボンは彼が言わんとしていることを察した。

「モララー……ですか」

「そうなんです。
 1987年の冬に、モララーが川を流れてくるのをワカッテマスと私が発見し、この家に連れてきました。
 モララーは頭にひどい怪我がありましたが、応急処置をして麓の街の病院に連れていきました」
      
ビロードは思い出しているらしい。言葉を少しずつ紡ぎだしていく。
ショボンはいよいよ本腰を入れて話を聞きていた。

「川の上流から流れて来たとなると……旧G村ではないですか?
 あの村の端でも川は流れていますし、それより上流から流れて来たのなら村の誰かに見つかるはずです」
     
「私もそのことはわかっていました。
 だからモララーの意識が戻ったら、元の家に帰す気ではいたんです。
 病室で、彼の意識が回復するまでは保護者として見守っていよう。それから後は預けよう、本当の親の元へ」
      
「しかし戻らなかった……彼は記憶喪失だ。少なくとも私の会った頃の彼は」

ビロードも「その通り」というように首を動かす

「私は仕方なくモララーを引き取りました。
 施設に預けることもできたのですが、私はそういったところに子どもを渡すことに抵抗を感じたんです。
 それに、マスのことがありました。彼にはもっと人と触れ合ってほしいと、私は思ったんです」
      
「モララーは、元からそうなのかは知りませんが、とても行動的で、山が大好きな青年でした。
 そしてマスに誘われて、本もたくさん読み、知識も得ていたようです。今思うと、彼の言動は機知に富んでいた。
 何事にも考えを膨らませることができたように見受けられたんです。マスと一緒にいて、モララーにはそういう能力が身についたんです」
      
「マスもまた、近い年代の友達ができて嬉しかったようなんです。初めこそ避けてはいましたが、モララーが積極的だったんです。
 コミュニケーションが苦手なマスの気持ちを理解して、いくつもの話を振り、討論もしていたんです。
 マスは変わりました。モララーのおかげなんです。一番の親友ができた、いや、双子の兄弟が出来たようなものだったんです」      

「あなたにとってモララ―は息子同然というわけですか」

ショボンの言葉に、ビロードは力強く頷いた。

「彼らは……私にはもったいないくらいに優秀な子どもだったんです。
 そして二人とも、私のことを父親として扱ってくれた。こんな山奥にひっそり暮らしている世捨て人を」
      
誇らしそうな表情が、ビロードの目に浮かんだ。
優しい柔らかな顔だった。

ショボンはモララーの身の上を考えていた。
あの生意気な探偵の過去をこのような形で知るとは思いもよらなかった。

「水を差すようで悪いのですが、しかし気になるので質問させてください。
 モララーの両親はどうして彼を探さないのでしょう?
 何年もほったらかしにしておくなんて、いったいどういう親だったのでしょうか」
     
すると、ビロードは今度は力なくその言葉を否定する。
表情は途端に翳りが見えた。

「会いました」

すぐには意味がわからなかった。
ショボンは思わずその意味を聞きなおした。

「会ったんです。モララーの両親に。
 彼の所持品から、名前だけはわかっていたのですからね。G村に目星をつけて、すぐ見つかりました。
 彼を拾ってから一〇日後のことです」

「さて、会ったのに何故私が育てていたのか。
 どうして未だにモララーに連絡を取ろうとしないのか。
 わかるでしょう? 」
      
ビロードの問いかけに答えることを躊躇うショボン。
答えはたった一つしか考えられなかった。

「モララーを、捨てたのですか」

質問されたのでなければ、とてもじゃないけど聞けなかっただろう。
いくら他人のことを詮索する職業に就いていると自嘲しても、他人の傷を抉るような言葉は掛けたくないものである。

ビロードは肯定する。

「聞こえよく言えば、私に養子をくれたということになるんです。
 モララーは私の養子なんです。だから息子なんです。
 彼は私の息子であり、分手マスの兄弟なんです」
      
段々と、ビロードの語気が強くなっていった。
本人がそれに気付いているのかはわからない。おそらく癖なのだろう。

「驚いたことにモララーの年齢がマスと同じであり、1970年生まれだったんです。
 彼らはやはり双子と呼んでも差し支えなかったのかもしれません」
      
ビロードはそう言って、コーヒーを飲みほした。
かなり長いこと喋っていたために喉が渇いたのだろう。

「モララーの出身はG村であることは間違いないんですね」

ショボンは自分から話を始めた。

「そうなんです
 彼の両親もG村の出身、現在のG地区です。
 もっとも両親ともに既に離婚して他県にいます。モララーを養子に出したのも離婚しやすくするためだったんです」
      
ショボンは小さく唸り、思考していた。
頭に浮かんでいたのは内藤ホライゾンのことである。

金属バッドと、それに付着していたモララーの血痕。
それがニダー殺害現場にあった。
ショボンは、ニダーがそれを見せたから内藤は殺人を犯したのではないかと思っていた。

「モララーをG地区へ連れていきます」

否定の言葉はなかった。
ビロードは口を開かず、ショボンを見つめていた。

「何をするつもりなんです? 」

ようやく開いて出てきた問いかけ。
ショボンは間をおいてから、答えを出す。

「彼の記憶を蘇らせます。きっと上手くいく気がするので」

「この事件にはモララーの記憶が必要であるように私には思われるのです。どうしても、昔の記憶が。
 彼の少年時代に起きた出来事が大きく絡んでいる、そんな気がしてならないのです」
     
ショボンはコーヒーを一気に飲み込んで、口の動きを滑らかにした。

「言うのが遅れましたが、私は先日亡くなった内藤ホライゾンという男について調査しているのです」

ビロードは訝しげに眉を寄せる。

「それは……確か数年前に小里安一家を殺害した人の名前だったはずなんです
      その人が亡くなって……それでどうしてモララーが関わっているんですか? 」
      
「モララーはもっと小さいときから内藤ホライゾンと関わっている、そんな気がするんです。
 実は内藤ホライゾンの故郷もまた、G村なのです。
 このことを知らせ、G村へ行けば、モララーは忘れてしまった過去について何か思い出すかもしれない」
     
ビロードの動きが止まる。彼もまた思考を巡らせているようだ。

「つらいことを思い出してしまうかもしれないんです。
 でも、モララーは過去を知らないことで、今まで散々つらい思いをしてきた。
 だからこれは、いいことだと思うんです」
      
途切れ途切れに、ビロードはショボンの意見を受けた。
ショボンはビロードに深々と頭を下げる。

ログハウスを後にして、ショボンは一度麓の街まで下りた。

~~~~~~~~~~~~~~~~

二〇一〇年八月一四日(土)、午後三時、某県のとある駅のホーム――

突然携帯電話に着信があったとき、モララーはドキリとした。
だいたい電話があるときはどこの誰が掛けて来たのかわかる。
しかしこの電話は唐突だった。故に不安だった。

恐る恐る携帯を開く。知らない番号だ。
とにかく出てみた。

「もしもし? 」

どうも電波が悪いらしく、相手の言葉は上手く聞こえない。
モララーも受信しやすいところを探すために歩きまわった。

もともと遅い昼食というか、間食をとるために寄った駅である。
急いでいるわけではないから余裕があった。

「もしもし? もしもーーし」

思えば間違い電話かもしれないのだから、切っても差し支えなかったはずだ。
でもその発想が無かった。

「私だとさっきから言っているんだが」

ようやく言葉をキャッチしたとき、モララーは発想の枯渇を心底後悔した。

「そ、その人生諦めきったムード漂う声の主はショボンか? 」

「ようやく返してきた返事がそれか。昔から相変わらず失礼な奴だ」

「お前も相変わらずな暗さだな。つーかどうして俺の携帯の番号知ってんだよ」

「ビロードから聞いた。いろいろと話があったからな」

「は? なんでうちの実家行ったの? 」

「その日本語はおかしい」

「うるせえな、質問に答えろ」

「おかしいものはおかしいんだ。
 うちというのは家のことだ。そして実家というのも家のことだ。
 故にお前は今『家の家行ったの』と聞いたことになる。これは間違っている。馬から落ちて落馬したとか、溺れて死んで溺死したとかそのくらい」
     
「だー、もうしつこいな。正しさなんて気にするなよ。
 お前はそんな生き方して楽しいのか? 40代のおっさんの言語能力を虐げて楽しいのか」
      
「むしろ40代なのになぜお前はそんなに活き活きしているんだ。妬ましい。もっと絶望しろ」

「絶望なんかしねえよ。絶対お前みたいになるものか」

「そのセリフは15年前にも聞いた。よかったな、全然私に似ることがなくて」

「全くだ。
 話戻すぞ。どうして俺の家に来たんだ」
      
「お前の故郷について質問してた」

「ああ、G村のことか」

「…………」

「え!!? どうして知ってるの? 」

「あほか。そのくらい予想つくわ。
 もう随分大人びてから川流れてたんでな」
      
「つまんねーやつ。感動を返せ」
     
「どんな話したんだよ、あのじじい」               

「これが現実、か……」

「ぼやぼや呟いてるなよ。
 話終わってないぞ。なんで俺の実家で俺の故郷の話なんか聞くんだ」
      
「ふむ、その前に話しておかなければならないことがあるな。
 内藤ホライゾンという男を知ってるか? 」
     
「…………知ってる」

「それは良かった。実は私はそいつの調査を」

「お、おいちょっと待て待て」

「まさか『内藤ホライゾンの死に疑問を感じて調査している』だなんていうんじゃないだろうな」

「……その通りなわけだが」

「はあ? 」

「なんだいきなり。人の話の腰を折ってまで聞いて何不満そうな声出してるんだ」

「何なの? 故人の調査するのが流行りなの、今? 」

「落ち着きを取り戻してくれ。私の調査は興味本位なものだ。
 決して流行りではない」

「ああ、そう。悪いな。
 何せ俺もそう言われて調査していたところなんだ」
      
「なんと! それじゃあ私と同じじゃないか」

「嫌な巡り合わせだな」

「さて、『言われて』ということは調査依頼でもあったのか? 」

「ああ、冴えない面した大学生から相談を受けたんだよ。ドクオっていう青年だった」

「ドk――え? 」

「えぇええぇえええぇぇえええ!!! 」

「おっさんがバカでかい声出そうとするんじゃねえよ、うるせえな。
 んで、そっちはなんで調査したんだ」
      
「あ、ああそうだな。悪かった。年甲斐も無く。
 私は内藤ホライゾンの事件のときの笑顔と、死んだときの安らかな表情が気にかかっていた。
 それと、ある青年の助言で殺人の動機にも興味が湧いたんだ。その青年はジョルジュといってな」

「ジョr――え? 」
      
「なあぁにぃいいいいいいい!!? 」

「うるさいな、年甲斐を考えろバカ野郎」

それから二人はお互いに知っていることを話し合い、情報を交換した。
モララーは周りから怪しげな視線を受けながらも、それを無視して話に没頭していた。

午後5時、D市の山の麓――

指定された駐車場で、モララーはショボンを探していた。
ようやく見つけたとき、ショボンは不機嫌そうな顔つきだった。

「話したことは本当なんだろうな? 」

「そっちこそ」

モララーは車に乗り込んだ

「G村か……」

モララーは誰に向けたわけでもなくそう呟いた。

「そういえばお前、G村に行ったことはないのか? 」

「行って何になるんだ。
 気付いた時にはもう20過ぎてたんだ。誰も待ってねえよ」
      
「それもそうだが、少しぐらい気になるものじゃないのか」

モララーは言葉を発しなかった。
ショボンも黙っていた。

傾きつつある夕日を浴びて、男二人が乗った車は未だ動く気配を見せなかった。

「怖かったんだ。ずっとな」

長い沈黙の後、とうとうモララーが口を開いた。

「G村が、か? 」

「そうだ」

モララーは本心から言っていた。
昔から、川の上流に行くことを極端に恐れていた。
自分が見てはいけないなにかがある、ずっとそんな気持ちがしていた。

「でもな、今は大丈夫だ」

「ほう、それはまたどうしてだ? 」

その言葉を聞いて、モララーはあっけらかんとした声を出して笑う。

「この歳になって、怖いとかそんなこと言ってられねえよ
 行こうぜ、G村。そして記憶を取り戻そうじゃないか」

本当は怖かった。
今でも相変わらず、モララーはG村、現在のG地区へ行くことを拒みたかった。
あの村落は訪れたくない。自分はあの村を恐れているし、あの村は自分を拒んでいる。ずっとそんな気がしていた。

でも、もうショボンから話は聞いた。バッドのこと、自分とブーンとの繋がりの可能性。
ショボンが提示したその話を電話越しに耳にしたときは、正直疑いの気持ちしか抱けなかった。
だけど、希望はあった。記憶が戻ればわかるかもしれない。
自分が襲われた理由。もちろん不明の部分は多分にあるのだが。

それから二人は、ドクオとジョルジュの話も交換し合った。
あの二人の青年について、二人ともブーンと重要な関わりを持つ人物であるのだ。
ブーンと共に暮らしながら、失踪されたジョルジュ。
そしてブーンと親しく接していたドクオ。

ブーンの息子のことも考えた。
二人のうちのどちらかが、この名前を冠していたに違いない、モララーとショボンはそう結論付けていた。

山を登っている最中に、モララーの携帯電話が鳴る。
またも予想してない連絡。モララーの不安は募った。

ショボンと目線を交わして、それから電話に出る。

掛けて来たのは、ドクオだった。

「モララーさん、ですか」

弱々しい声が聞こえてくる。
ドクオの声に違いなかった。

「おお、ドクオか。
 どうしたんだ、何かあったのか」
      
「実はお話したいことがありまして、G地区に来てほしいのです」

「へえ、わかった。じゃあ今から行くよ」

「ありがとうございます。お願いします」
    
それだけだった。たったこれだけの会話で、電話は切れてしまった。
あまりにも簡潔で、あまりにもひどい――モララーは思わず大声で笑ってしまった。

「どうした、急に笑い出して。
 本当に感情豊かな中年だなお前は」
     
ハンドルを捌きながら、ショボンが非難する。
モララーは腹を抱えながら、運転席のシートに手を掛けた。

「だってさ、何も前触れなしに『G地区に来てくれ』って言うんだぜ?
 D市に少しでも行ったことがなきゃわからないのに、地区名なんてよお。
 しかも俺のことについては何も質問しないんだ。今どこにいるのか、とかそんなことすらなし。
 これじゃ何時頃に到着するのかすらわからねえよ」
      
大口開けて笑いを溢れさせているモララーの腰の上で、再び携帯電話が鳴る。

「もしもし? 」

「あ、あのすいません。モララーさん。
 いったいどれくらいしたら到着しますか」
    
モララーの顔から笑いは消えた。

「……2時間くらいだ」

咄嗟にその制限をだす。
現在時刻は五時三〇分を周ろうとしていた

「あ、じゃあそのくらいになったらまた電話します」

そういって、ドクオは通信を切った。

モララーはその携帯電話をじっと見つめていた。

「誰かいるな」

「ドクオ君と一緒にってことかい? 」

「ああ」

「何だか信頼が無いんだな」

「信頼しているからこそだよ
 間違いない。あいつは誰かに言わされている」
      
断言するモララー。
カーブに注意しながら、ショボンは口を開いた。

「じゃあ、考えがまとまっただろ」

「もちろんだ。
 ブーンの息子、そうだろうな」
      
モララーにはもう、ドクオを疑う気持ちは微塵も残っていなかった。

「ジョルジュだ。奴がブーンの息子だ」

「……一旦考えを整理しようか」

運転しつつ、ショボンが切り出した。

「もし彼がブーン、内藤の息子だとする。
 ならば、私のところにきたのは最初から計画のうちだったということか?」

「多分な。お前のことだ、事件の話でもしたことはあるんじゃないか?」

「ああ、したよ。警察内部のことまで喋るわけにはいかないから、事件の概要をだけどね。
 当然、お前が関わる事件の話もした。これが、あいつの狙いだったんだな」

「そう、ジョルジュの狙いは俺。
 さっき教えたように、俺はしぃの屋敷で命を狙われている。
 狙った者は『ブーンの息子』が首謀者だといったから、まずジョルジュが仕組んだものとみていいだろう」

「だが、それなら私の方で起きた火災はなんなんだ?
 私はあのときジョルジュと一緒に行動していたし、それに火災は私たちがアパートから離れた直後に発生した。
 なかなか危険じゃないか。最初からジョルジュが仕組んだものだとしても、気になるな」

「それから、昨日お前を殺すつもりだったということは
 ジョルジュは元々お前に会わなくてもいいと考えていたということだ。
 それなのにどうして今日は呼びだした? 突然何かいいたいことでもできたというのか?」

「……なんだろうな」

モララーは実際その場で考えた。二つの謎について。
ショボンの方で起きた火災。そして、自分が呼び出される理由。

「まず火災について、もしかしたらだがな」

モララーは自説を展開する。

「火災の規模はそこまで大きくなかったと聞いている。死者はいなかったみたいだしな。
 とはいえ、偶然起きた事故として処理するのはちょっと怪しい。
 まるでお前とジョルジュが去るのを見計らってから発生したような気がするからな」

「そこで、だ。誰かがお前らを見張っていた。
 そしてアパートから出て来たあとに、出火した。これでどうだ。
 出火原因なんかはそろそろ検出されているんじゃないか? あとで問い合わせてみてくれよ」

「私たちを殺すつもりではなかった、と?」

「そうなる。アパートの住人とか、そのあたりに狙いの人物がいたんじゃないか?」

「そういえば……
 あの火災、一階の住人は軽傷、二階の住人は重傷の割合が高かったぞ」

「じゃあ、二階の誰かが狙われてたんじゃねえか? どうよ」

「ツンだ」

モララーはバックミラー越しに、ショボンの閃いた顔を見た。

「鬱田ツン。鬱田ドクオの母親は二階に住んでいた。
 私も朝考えていたんだけどね、ブーンに関わりのある彼女が狙われていた可能性はあるんじゃないか?」

「で、でもよお」

モララーは頭を掻く。

「じゃあなにか、ドクオは自分の母親を殺そうとした奴と協力しているのか?
       いくらあいつがしゃきっとしてない奴だからって、そこまで薄情とは思えないが」

二人の唸り声が車内に広がる。
この疑問点は、不可解だった。果たしてドクオは何を考えてジョルジュと協力しているのか。

ややあって、ショボンは口を開く。

「ジョルジュにとっても予想外だとしたら?」

「ん、さっきの俺の仮説を前提として
 お前らを見張っていた誰かが勝手にやったということか?」

「あるいは……見張っていることすらジョルジュが知らなかった」

ショボンの一言が、モララーの考えに刺激を与えた。

「……ジョルジュの裏にも誰かがいる?
 ジョルジュ以外にも動いていた人間がいる?
 そう仮定すれば、なるほど」

「その動いている人物と昨日か今日出会って、ジョルジュが俺と会うことに決めたとも考えられるな」

モララーの放った言葉で、車内は沈黙する。
お互いに自分に考えを整理しているのだろう。

「なあ、お前。この考えを提示したのには、それなりの理由があるんじゃないか?」

ふとモララーは思いついて、発言する。
ここまで続いてくると、この話を裏づける何かがほしいと考えたのだ。

「前々からちょっと気になっていたことがあるんだ。
 ジョルジュの資金源はどこからきているのか」

なるほど、とモララーは頷いた。
確かに、自分を襲った警備員も、アパートでの火災も、普通の人間が行える代物じゃない。
資金源がある、裏で大きな力を持った人物が動いている、そう考えると自然なのではないか。

そして同時に、モララーの脳内にはその人物像が思い浮かんでいた。

「なあ、ショボンさんよ」

「なんだいきなり改まって『さん』づけなど。不吉だな」

「俺をG地区に送ってから、動ける?」

「……ほれみろ」

「頼む! 電話番号だけでも教えるから!」

「いや、明日は普通に出勤なんだけど……動きたくないんだけど」

「……ま、どうせジョルジュからきくことになるだろうし、落ち着こうか」

ショボンがほっとしているのがよくわかった。

「ただちょっと、俺の方にも警戒が必要なことを留保していてくれよ」

「裏にいる人物が危ないからか?」

「そだなー。なんかきな臭いからなー。
 ジョルジュがどうしても俺を殺すっていうのなら、その裏の人物と協力して
 必ず俺をしとめる方法でも編み出してそうだしな。
 単純に物量で襲ってくるかもしれない。そうなったら逃げきれるかどうかわからん」

「お前それ、私が警察官だからって、言ってきてるんじゃないだろうな。
 機動隊とか用意してくれよー、的な」

「え、無理なの?」

「できるか、ボケ」

「……俺やばくね? おい誰だよ裏になんかいるとか言い出した奴」

「私だが、会うと言っちゃったのはお前だしな。
 呼び出されたのに素直に従っちゃうんだもんなー、かっこつけて」

「なあ、ちょっと、俺に策があるんだよ。耳貸してくれよ」

車は徐々に徐々に、G地区へと接近していった。

G地区――

モララーとショボンは河原に立っていた。
車は堤防の上に停めてある。都会なら車上荒らしの危険があるが、この山間の村なら多少注意を怠っても大丈夫だろう。
ショボンの考えが甘すぎるのではないかとモララーは思ったが、本人が大丈夫と言っているので気にしないことにした。

「気分はどうだ?」

「よくねぇ、よ……」

モララーの気分は悪くなっていた。
村の中に入ったときから、言いようのない吐き気を感じ、手や額から冷や汗が流れ始めていた。
静かな音を立てて流れる川を眺めながら、何度もハンカチで汗を拭い、意識を保とうとする。

約束よりだいぶ早い時間から、彼らはここで歩いていた。
もし記憶が戻らなかったらしかたないからブーンの息子とやらから聞く、そのつもりだった。

およそ20年前、モララーはこの川を流れて、下流の森で隠遁生活を送っていたビロードに拾われ、一命を取り留めた。
モララーの記憶は病院で意識を回復させたときから始まっており、それ以前のものは深い闇の中に沈んでいる。
だけど、その闇の底からいくつもの泡が出てきていた。

「なんなんだろうなぁ、この気持ち。
 この川、なんか縁起でもない気持ちにさせるんだよなあ」

この川を知っている――モララーはそう確信した。

脳内にイメージが浮かぶ。
それは、実際に体験したことのある景色なのだろう。

昔から、そんな気分はしていた。
こうして至近距離で川沿いで眺めているとそれがよくわかる。

頭の中のイメージが固まっていく。
思い出せる。


自分が流れていたことを思い出せる。


夜だ。都会では決して見ることができないほどの幾つもの星が天上を覆っている。
深い深い夜に自分はこの川を流れていた。
鉄の味を口の中で感じながら。

記憶が闇の底から現れようとしている。
20年間眠っていた忌々しい過去が、失われていた欠片が手に入ろうとしている。

目眩がして、モララーはよろける。
ショボンが慌ててその体を手でつかみ、支えた。

「お、おいモララー」

危惧の言葉が聞こえた気がした。
恐らくショボンが掛けたものだとはわかったが、モララーは反応することができなかった。

意識は現実から離れていった。

気持ちが悪かった。
自分に何年も無かったものが、自分を苛み続けていたものが手に入るというのに。
長い間、心のどこかではその復活を願っていたというのに、今はどうすることもできない恐れを感じていた。

世界が暗転する。

夏と、冬が、頭の中で何度も訪れる。
自分はまだ幼い。
モララーも、ツンも、ブーンも幼い。

何故その名前を知っているのか、だんだんとわかってくる。
懐かしいものだ。たとえ失われていたものであったとしても、昔の記憶はかくも甘美で、感慨深い。

彼らは幼馴染だった。

そしてとうとう、その日の記憶が蘇る。
全てがわかる。

濁流のように、時系列を無視した混沌が脳の中に流れ込み、整理が追いつかない。
様々な感情が交錯し、何が正しくて何が嘘なのかもわからない。何故自分は怖がっているのかも。

人々の顔が頭の中で浮かび、その意味が後からついてくる。

「わかった」

気息奄奄の状態で、ようやく絞り出したか細い声でモララーは呟いた。
自分が膝立ちになっていることに気付く。気がつかないうちに体が動いたのか、ショボンがそうさせたのか。

「大丈夫なのか? ひどい汗だ。
 それにかなり疲労しているみたいだが」
     
ショボンがモララーの顔を覗き込んだ。

「記憶ってのは、疲れるものみたいだ。
 とりあえず、ショボン。俺らの予想と結構近かったぜ」

体を支えるショボンの腕を軽く払いのけて、川を見つめる。
遠い昔、自分はあの川を流れていた。

目を離すことができなかった。
自分の憶えていることが、取り戻した記憶があまりにも衝撃的なものであったから。


「俺はブーンに殺された」


ようやくモララーは自分の思い出したことをはっきりと認識できた。

電話が鳴る。ドクオからだ。
気がつけばもう約束の時間だった。

モララーの身を案じてショボンが携帯電話を取ろうとするが、モララーはそれを制する。

「さすがにそこまでバカじゃねえよ」

携帯のボタンを押して、通話を開始する。

「モララーさんですか? 」

肯定するモララー。

「もうG地区にいますね?
 今すぐ、廃校になったG高校の校庭の、ケヤキの木の下に来てください」
    
了解し、モララーは携帯電話をポケットにしまう。

「お呼び出しだ。
 G高校の校庭だってよ」
      
ショボンの方は向かずに、そう伝えた。

「……いくのは俺一人でいい」

「もう行くのかい?
 まだわかっていなかっただろ。君が狙われている理由」

モララーは肩を竦めて苦笑いしながら、ショボンの方を振り向く。

「さあな、でもこんな面倒なことをするくらいだ
 何か面白い理由でもあるのかもしれねえな」
      
ショボンはがっかりしたように溜息をついた。

「記憶を取り戻しても、その理由はわからなかったんだね」

「そういうこと」

軽々と返答するモララー。ショボンはその飄々とした姿をじっと見つめた。

「もし犯人がその理由を話してくれたなら、教えてくれよ。
 私も気になっているんだ。だから」
     
「わかってる。だから死なないし、死なせない」

言葉を中断させられたショボンは「やれやれ」とぼやいて堤防の上に向かった。
自分の車に乗って、待っているということなのだろう。モララーはその後ろ姿を見て思った。

G高校が自分の母校であったことも思い出していた。
そのことも少しは感慨があった。ついさっきまですっかり忘れていたというのに。

「行くか」

記憶を頼りに、モララーは河原を歩いていく。
そこはG高校までの近道でもあったから。

歩きながらモララーは自分の過去をもう一度思い返してみた。
取り戻す前にあれほど怖がっていたものだ。思っていた通り、気持ちのいいものではない。
それでもここに犯人の鍵はあるはずだ。
せめて予習でもしておくことが礼儀だろうとモララーは思っていた。

G高校に到着したのは、夜の七時四五分だった。

第六章

G高校――

ケヤキの木は、この高校のシンボルだった。
モララーは今となって思い出せる。この廃校に自分は通っていた。
高校2年生のときまで。

夏の夜、風は少しだけ熱気を帯びている。
とはいえ都会のそれと比べたら、幾分か冷ややかだ。
心地よい冷気が辺りに微かに感じられる。

ケヤキの前に、青年はいた。
モララーは校庭の端からその人影を見つけていた。

月が煌々と照らしているので、確認するのは容易い。

「……」

青白い顔は元々だったが、月の光のせいでいつもより一層際立っている。
とはいえ、まだ今日で会うのは三回目なんだけどね――モララーはそんなことを思った。

そのたった数日間で、モララーはドクオの人物像をある程度特定していた。
人づきあいが苦手で、ちょっと配慮が足らなくて、どことなく自信が無くて
そして、ブーンのことが気になって仕方がない、そんな人物だ。

ブーンの息子と何らかの関わりがあったのだろう。
だから、ブーンの息子と協力して何かを行っている。
そうまでして、何を成し遂げたいというのか、それをこれから聞くのである。

「遅かったですね」

「細けえよ」

モララーは徐々に歩んで、ドクオに接近する。
ドクオは引かなかった。
なおも顔は暗いが、足は動かず、じっとモララーを見据えている。

「話ってのは、なんだ?」

わかりきっていはいたものの、モララーは一応きいた。
このほうがドクオも喋りやすいのだ。

「ブーンさんのことについて、です」

「なんか、最初に会った時みたいだな」

その言葉で、ドクオの頬がやや緩むのをモララーは見た。
だがすぐにドクオの顔は無表情に近い暗いものに戻ってしまう。

「モララーさん、ブーンさんのことを知っていたんですね」

「ああ、知っていたというか、さっき思い出したんだ。
今はきっと、いろいろと答えられることが増えていると思うぜ」

「へー、じゃあ教えてもらおうか」

突然聞こえて来た声に、モララーは首をかしげ、ドクオはびくっと反応する。
ケヤキの裏から、人影がもう一人分。
 
「ブーンはどうして、自殺しなければならなかったのか」

「おでましかい、ブーンの息子さん」
 
「よくご存じで」

「は、殺そうとしてて何言ってんだか」
 
「知らない人に殺されるってこともありうるんじゃないですかねえ?
 こんな世の中だしね。大切な人は死んで、どうでもいい人は生きていく」

「ずいぶんふわふわしたことを言うね、君」
 
「そっちこそ飄々として、いけすかないな。
 さっさと話してもらおうか」

「ブーンの過去、か。いいだろう」

モララーはひとつ咳をして、喉を整える。
さっき思い出したばかりの過去を口で説明するというのも、ちょっとばかり不思議な話だ。
その体験は自分のものだけど、長年連れ添ったわけじゃない。
それでも大事な、記憶。モララーはなるべく正確に伝えるつもりだった。

「もうずっと昔の話さ」

~~~~~~~~~~~~~~~~

一九七〇年 G村――

モララーは産まれた。
内藤ホライゾン、鬱田ツンは近所に住んでおり
親同士の付き合いから、三人は仲の良い友達としての付き合いへと発展していった。

内藤の『ブーン』というあだ名は、彼の口癖から来たものだった。
乗り物、特に飛行機が好きだった内藤は、事あるごとに手を広げてその真似をしたのだ。
ツンとモララーは面白がって彼に『ブーン』という愛称を与えた。

ブーンは野球も好きで、モララーとツンも一緒によくテレビや球場で観戦していた。
ブーン自身も草野球チームに参加し、格別うまいわけではなかったが、目いっぱい練習をしていた。
その姿を応援するのも、モララーとツンの日常の一つだった。

小学校、中学校と進学していく最中も、三人は交友関係を続けていた。
徐々に性別の違いを認識してきてはいたものの、昔からの付き合いであるので、さして気にすることもなかった。
三人の関係は性別関係ないものだったのである。

いつでも笑っているブーン。
いつでもどこか飄々としているモララー。
そのどちらに対してもいさめる言葉を掛けることが出来たツン。

この三人の組み合わせは、ぴったりだったのだろう。

~~~~~~~~~~~~~~~~

「でも、高校生になったころからかな。
 ちょっとばかし状況が変わっちまった」

「俺の家がゴタゴタしだしてな。細かく説明するのは辛いとこだが。
 俺の親父がずっと昔に借りを作っちまった奴がいてな。
 そいつがよく俺の家に押しかけて来るようになったんだ」

~~~~~~~~~~~~~~~~

それがニダーだった。

ニダーはモララーの弱みを握っていた。
そのことをネタに、モララーの家の財産を絞り取ろうとしていたのだ。

モララーの父親は率直に言って優しすぎた。
借りをつくったのは事実であり
ニダーのことを完全に嫌がることができなかったのである。

モララーの母親はいらだちを増していった。
何度も何度も、モララーの父親に取り入り、ニダーを突き離すように懇願した。

だけども、モララーの父親はできなかった。

~~~~~~~~~~~~~~~~

「詳しいことは俺も知らねえんだけどな。
 まだ俺は子どもだったし、そういうことはあんまりききたくなかった。
 どのみち俺はすぐ会えなくなっちまったし、いいんだ」

~~~~~~~~~~~~~~~~

モララーはだんだんと家の暗い雰囲気を感じて、学校でもあまり明るくふるまえなくなっていった。
ブーンやツンもそのことに気付いて、モララーの話をきこうとした。
だけど、二人まで暗くなってほしくないと思い、モララーはその話をしなかった。
毎日、なんとか理由をつくってごまかしていたのであった。

一九八七年――

モララーたちは高校二年生となった。
この頃になると、ブーンは野球部の活動が忙しくて、あまりモララーと接することはなくなった。
当時は携帯電話も無かったし、特別に連絡することもなかったから、なんとなく疎遠になっていった。

それでも、ブーンがモララーのことを心配していたのは、モララーも知っていた。
そしてそれはツンも同じことであった。
ツンも同じように、モララーのことを心配してくれている。
モララーはそれを感じて、言えないにしても、そのことが嬉しかった。

ある日の夜のことである。
いつものように、ニダーがモララーの家に押しかけた。
母親も父親もいる時間であった。

モララーの母親はいつも以上に苛立ち、ニダーを追い出すべく罵詈雑言を並べた。
モララーはその様子を廊下から隠れて見ていた。怒る母親の姿をあまり見たくなかったのである。

「ホルホル、そんな強気な態度が示せるのも今のうちニダ」

その日はニダーもどこか苛立っていたのだろうか。
怒っている母親をからかいたかったのであろうか。
とにかくニダーは、いつもとは違う行動に出た。

ニダーが見せたのは一枚の写真だった。

遠くからなんとか見えたその少女は、モララーの運命を変えることになる。

一旦青ざめて、父親と母親は激しい言葉を交わし合うことになる。
その怒声の中で、モララーはなんとか状況を把握した。

どうやら写真の少女はモララーの父親の隠し子であるらしい。
いうなれば、モララーの姉のような存在なのだろう。
どうしてそんな存在がいるのか、詳しい事情はモララーにはわからなかったが
それがニダーの握っている父親の弱みであることは明らかだった。

翌日、モララーの母親は家を出ていった。
唐突だったが、昨晩の様子から、モララーは母親の家出を察した。
母親は、隠し子の存在を知らなかったのだ。父親もどうしてもそれを言うことが出来なかった。
それが昨日になってばれて、母親の怒りの矛先は父親へと向けられたのだ。

父親とモララーの家庭は、どん底だった。
父親は日に日に荒れていき、モララーに暴力をふるうようになった。
身体こそ大人に近づいていたモララーだが、反抗することはできなかった。
その態度の豹変っぷりに、ショックのあまり動けなかったのである。

モララーは暗い顔を学校で必死に隠した。
あからさまに暗い様子なんて、示したくない。
もしそんなことがばれたら、自分は今までどおりの生活が送れないかもしれない。
このG村で、ツンやブーンと一緒に過ごす日々が壊れてしまうかもしれない。

ブーンと疎遠になったことは、よかったのかもしれない。
ブーンにはその辛い様子が伝わらなかったのだから。
だけど、ツンは違った。

「ねえ」

ある日の下校中に、ツンとばったり出くわした。
うっかり暗い顔をしていたモララーは、慌てて笑顔を取り繕った。

「な、なんだよツン。
 お前の家、こっちじゃないだろ」

「あんたに会いに来たのよ。
 あんた、最近今にも死にそうな顔してたから」

ツンはモララーの様子に前から気付いていた。
そしてずっと心配していた。
モララーの身に何かあったのではないか、だとしたら自分ができることはないのか。
そんな想いから、モララーに話しかけたのだという。

G村の中央を流れる川沿いで、二人は話しあった。
ツンのかけてくれる言葉が、モララーには優しく、温かかった。
暗くふさがれたモララーの心は、徐々に開かれていった。

モララーはそのぬくもりをずっと欲していたと気づいた。
自ら拒絶していたそれは、唐突に奪われた母親のぬくもりと似ていた。
自分の元から突然いなくなってしまったぬくもり。自分を支えてくれるもの。
それが、ツンからもたらされた。

その事実に気付いた時、モララーは欲してしまったのである。

「ツン……」

ひとしきり自分の話を終えたモララーは、夕暮れのせいか火照りを感じながら、ツンに顔を向けた。

「俺と……俺と付き合ってくれないか?
 俺には誰かが必要なんだ。ツンみたいに、俺のことを支えてくれる誰かが」

ツンはすぐには答えなかった。
モララーは気まずい沈黙を感じていた。

あまりにもいきなりだ、モララー自身もそう感じていた。
やっぱり撤回しようか、なんてことを考えた頃、ツンが口を開いた。

「あんたやブーンとは友達のつもりだったんだけどなあ」

妙に鈍い衝撃が、モララーの頭に訪れた。
必死で応える言葉を探すモララーだが、その言葉を見つける前に、ツンが口を開く。

「ま、どうしてもというなら何度かデートしてあげてもいいわよ。
 その思いっきりヘタレな性格も見直してあげてもいいかもね」


その日の夜は浮足立っていたのをモララーは今でもよく思い出せる。
思えば思春期真っただ中で、彼女がほしいと心のどこかで思っていたのかもしれない。

モララー自身、ツンのことは確かに友達と思っていた。ちょっと前まではそうだった。
でも言ってしまった。そしてデートの約束までこぎつけた。
心のどこかでそんな欲求があったのだろうか、考えれば考えるほど、そうだったように思えてくる。

自分はツンのことが好きだ。
それは錯覚かもしれないけど、それでもそのときのモララーの頭はツンのことでいっぱいになっていた。
今まで普通に友達でいたのが不思議なくらいである。

その日は、父親から飛ばされる罵声も耳から耳へと抜けていった。
そうして夜は更けていったのである。

その数日後のことである。

「あ」

「お」

モララーが普段より遅くまで学校にいたからだろうか。
野球部の部活が早めに終わったのだろうか。

モララーは帰り道でブーンと遭遇した。

久しぶりに、二人は話すこととなった。
しかし、一旦疎遠になっていたため、会話は長くは続かない。

ブーンも野球部での成績が振るわないらしく、どこか辛そうな顔をしていた。
だからモララーはあまり長いこと野球の話をするわけにもいかなかった。

夕暮れが二人を照らしている。
季節は夏で、蝉の声が喧しかった。

「なあ、ブーン」

ふと、モララーは思いついた。
ブーンにまだ言っていなかったことを。
蝉の声がその気持ちに拍車をかけたようだ。

「ん? なんだお」

ブーンはそばを流れる川の方を見ていて、モララーからはその表情は見えなかった。

「俺さあ、ツンと付き合うことになるかもしれねえんだ」

不思議な間があった。少なくとも、モララーはそう感じた。
でもそれを深く考える前に、ブーンはモララーの方を向いた。
大きな笑みを浮かべて。

「それはおめでとうだお。お幸せにだお」

モララーはブーンの言葉と笑みを真に受けた。
ブーンも祝福してくれている、その考えが頭の中で浮かび、嬉しかった。
ただそれだけしか感じないほどに、モララーはのぼせていたのであった。

夏休みに入った。
ブーンは相変わらず野球部で忙しい。
今までのように、三人で遊ぶということは、もう随分前から無くなっていた。

モララーはツンと会うようになった。
高校生になってからはあまり遊ばなくなったが、感覚としては中学までのそれに近かった。
遊びが延長したようなもの。恋人同士じゃなくてもできるもの。

だいたい、モララーは言いだしたものの、恋人というのをよくわかっていなかった。
遊び以上のことをする勇気もなかったし、必要性も感じなかった。
ただなんとなく、ツンと一緒にいるとほっとした。家にいても気が滅入るだけだったからだ。
だからモララーはツンと会いたかった。

~~~~~~~~~~~~~~~~

「まー、あれだな。今だから言えるけど
 こんなの全然付き合ってるって感覚じゃねえよ。
 浮足立っていたんだろうな。家が辛かったってのもあるし、恥ずかしい話だ」

「そして夏休みが過ぎ、秋が来て、年が変わるかなって頃
 俺はそのことに気づいてしまったんだ」

~~~~~~~~~~~~~~~~

きっかけはツンの一言だった。

「あのさ……あたしたちって付き合ってるのかな?」

その言葉がモララーには突き刺さった。
今まで何の気なしに信じていたことなのに、急に信じられなくなった。

ツンは実際モララーにとても優しくしてくれた。
性格上、優しさ一辺倒ではなかったのだが
つきはなしては、後から温かく接してくれる、そんな態度がモララーの心の栄養となっていた。

でも、ツンの一言から、疑問が生じた。

どうして俺たちは恋人なのだろう。
別に恋人じゃなくても、俺たちはこの関係を保てたのではないか。
ツンの優しさを感じることは可能なのではないか。

冬休みに入る頃のことである。
モララーはまた川辺で、ツンと会っていた。

「半年間、ありがとな」

それが別れの、いや、元の関係に戻ろうという意思表示だった。

「結局そこまでヘタレは治らなかったけどねー」

「はは、どうだかな。
 こののらりくらりとした性格はこの先ずっとついてまわってくるかもしんねえなあ」

「治す気ゼロか。どうしようもないわね。
 とにかく、新年になったらブーンもさすがに暇が出来るでしょ。
 そのときちゃんと言いなさいよ。自分の家のこと。ブーンも心配していたんだから」

モララーは笑ったが、ここ最近さっぱりブーンと会っていなかったので、うまく打ち明けられるか不安だった。
実際会っていないから伝えられなかったという面もあった。
モララーのことをブーンが心配していたということが確かなのは、はもう半年以上前のことなのだから。

ところが、その日の夜のことである。
モララーは家に帰ってきて、異変に気付いた。

母親がいた。
半年間家を出たままだった母親が、父親と口論していた。
モララーはそっと、廊下からその様子を見た。

どうやら、母親は離婚を切り出したらしい。
父親もそれには同意だったようだ。
ただ一つ、迷っていたことがあった。

モララーの親権はどちらが持つかということだ。

両者ともに、モララーの親権を争っていた。
そして、モララーにとって残念なことに、二人はモララーの親権を欲していたのではない。
どちらかといえば、モララーを互いに押し付け合っていた。

母親にしてみれば、自分がいるにもかかわらず他の女と交流していた男性の子どもなんて、欲しくはない。
父親にしてみれば、モララーを抜きにして新しい生活を営みたい。
両者の言い分はこんな感じで、モララーはどちらにとってもいらない子どもであるようだった。

「……」

モララーは二人の怒声を聴きながら、自室へと向かった。
話の流れからして、自分はどこか遠縁の家に送られるらしい。
モララーの頭の中には、ツンの別れ際の言葉だけ、残っていた。

「嘘……」

修了式の日、モララーは帰り道でツンに打ち明けた。
自分が近々、遠縁の家に行くことを。
きっと年が明ける頃、自分はもうG村にいないことを。

「両親の方が、な。もうダメみたいだ。
 俺は遠くにいた方が、都合がいいみたいなんだ」

冬の寒い風を感じながら、二人は歩いていた。

「だってそんな、急に。
 ブーンにだってまだ言ってないのに」

「そのへんはまあ、なんとか言っておいてくれ。
 もともとあんまり話さなくなっていたんだし、言いづらいんだよな」

「……このヘタレ」

「知ってるさ」

二人はなおも歩き続ける。
いつもの川沿いが見えてくる。

「川沿い、行くか?」

「寒いでしょ」

「だよなあ」

モララーにしてみたら、家の方向は違うのに、この方角に歩いてくるツンは不思議だった。

「あのさ」

ツンが、そっと発言する。

「あたし、もっとあんたに優しくすべきだったかな」

「は?」

そんな言葉が出てくるなんて思いもよらなかったから、驚いた。
ツンの方を向くが、髪でどんな表情をしているのかよくわからない。

「じゃあさ、もっと早くあんたに話しかけてあげたらいいとか、そう思わない?」

「いや、いやいや、どうしたんだよ急に」

わけがわからず、モララーはツンの前に立つ。
そして、気付いてしまった。

ツンが泣いていることに。

「な……なんで……」

ツンはくるりと後ろを振り返る。今まで歩いてきた道のりを。

「あたしはね、あんたとブーンが元のように仲良くなってくれたらいいなって思ってたのよ」

「あんたとブーンが疎遠になったのは気付いていた。
 そしてその原因は、ブーンが忙しいのもあったけど、あんたが暗くなったのもあった。
 だからあたしは半年前のあの日、あんたを元気づけようと帰り道で声をかけた」

「でも、あんたは『付き合おう』なんて言ってきた。
 あたしは……あんたを元気づけるためなら、って考えた。
 だから、デートみたいなことをしてみた。
 付き合ってるのかな、なんて言っておきながら、そのことに疑問を感じていたのは、あたしだったの」

「今までどおりの友達同士の付き合いでもあんたが明るくなってくれるって、この前気付いてちょっと嬉しかった。
 でも、結局あんたは行っちゃう。だったら、あたしのやったことって無駄だったのかなって。
 だったらもっと早く、あんたに気付いて、声かけてあげてれば良かったなって、そう思ったの」

ツンの告白が、モララーの動きを止めた。
ツンの行動の裏にそんな感情が合ったことを、モララーは知らなかった。
もちろんそれを咎める気は無い。疑問が生じたのは自分も同じことだったから。

気まずい沈黙が流れる。

「でも、さ。いつか会えるかも知れないじゃねえか。
 ずっと友達でいれば、そのうち連絡とかとれるんじゃねえの? だったらそのときさ」

「あたしは、今あんたとブーンを仲良くさせてあげられなかった自分に腹を立ててるの!」

ツンの怒声がピリピリと乾燥した空気に響く。
それから、ツンは走り出した。
モララーの家とは反対の方向に。

モララーはどうしても、その背中を追いかけることができなかった。
自分にその資格があるとは思えなかった。

夜が訪れて、モララーは自分の家の前を見た。
誰かがいた。
月明かりは弱かったが、街灯によってその姿はだんだんはっきりと見えて来た。

モララーよりいくらか年上な少女は、見覚えがあった。
写真のあの少女だ。
普通は驚くのだろうが、モララーは何故か冷静に状況を把握していた。

「あんたは……」

モララーはじりじりと、少女に寄る。

「なんであんたが俺の家に来てるんだ?」

「一応、私の父親の家らしいからね。
 もっとも、今は留守のようだけど」

モララーは今父親が不在なことを知っていた。
そのため、鍵をしっかりともっていた。

「親父は仕事だよ。で、あんたの用は何だ」

「……同じようだね」

モララーには、彼女の発言の真意がわからなかった。

「あなたも、私と同じ。家が面倒だと、お互い辛いね」

何故だか、モララーはいらついた。
自分のことを見透かされているような感覚が辛かったのかもしれない。

「うるさいな。用が無いなら帰ってくれよ。
 俺は別の腹から出て来た姉なんてのに興味は無いんだ」

そう吐き捨てたが、少女は動こうとしない。
モララーはさらに少女に詰め寄った、そのときだった。

少女はモララーに歩み寄り、ひょいと飛んで、モララーの額にキスをした。

「なぁ!?」

モララーは驚いて飛び退く。

「なにすんだよ!」

「ふふ、一度だけ、お姉さんみたいなことしてみたかったの。
 ごめんね、迷惑かけて。じゃあね~」

最初から不思議な雰囲気を醸し出していた少女は、結局そのまま走り去ってしまった。
その後ろ姿を見ながら、モララーは考えた。

彼女は、自分が同じと言っていた。
彼女もまた、どこかにぬくもりを求めたのではないか。
そのせめてもの表現が、自分を弟のように扱うという行為に表れたのではないか。

とはいえ、そのような温もりを他人に与える余裕は、モララーには無かった。
だから、頭を振るい、鍵を取り出して自宅に入ろうとした。

がしっと、腕を掴まれた。

モララーはびくっとして、掴まれた腕を見て、掴んだ人物を見る。

「ブーン……?」

何故ここに、という疑問が最初に浮かんだ。
しかし、ブーンの表情を見て、その疑問は消えて、次の疑問が強烈に浮かび上がった。
ブーンの顔つきから、ひどい違和感がしたからである。

強張ったその顔は、モララーの知っているあの顔にとてもそぐわなかった。
こんな表情を彼がするところを初めて目にしたのである。

モララーの知っているブーンは、いつも笑顔だった。
笑顔を絶やすことはない、温和で、優しい少年。
今目の前にいる少年は、笑ってこそいるものの、どこか今までと違う。
そう、まるで無理やりにでも笑っているかのような、そんな印象をモララーは受けた。

「モララー。
 ここでなにしていたお?」

ブーンの問に、どう答えていいのか、モララーは躊躇した。
いったい何のことだろう。
先程の少女と話していたことを言っているのだろうか。

だとしたら――モララーは説明しようとして、思いとどまる。

少女のことは、モララーもよく知らない。
モララーの父親の隠し子であるということだけ。
そしてそのことを説明すれば、自分が暗くなり、ブーンと疎遠になった理由も離さなければならない。

まだ、打ち明けたくはなかった。
簡単に説明できることではない。ましてブーンには、もっとちゃんと、後で説明してあげたい。
そんな想いがモララーにはあったのだ。

だから、首を横に振った。

「ごめんな。今は説明できないんだ。
 後でちゃんと説明するから、な?」

それから、モララーは自分の家の玄関を振り向いた。
一旦家に入るだけ、ただそれだけだった。

直後、頭に強い衝撃を受けて、モララーの意識は飛んでしまった。

~~~~~~~~~~~~~~~~

「ここからはもう、覚えてねえよ。
 気付いたら俺は川の上に浮かんで夜空を見上げていた。
 あのとき殴ってきたのはブーンだってことだけは、なんとなくわかるんだけどな」

モララーは長い昔話を終えた。
ドクオもジョルジュも黙っている。
いったい二人はどんな言葉を返してくるのか、モララーはそれをじっと待っていた。
 
「俺は、ブーンさんからも昔話を聴いているんだ」

ジョルジュが言う。
 
「あんたの話を補完できるだけ、知っているぞ。モララー。
      あんたはどうやら、どうして自分が殴られたのかわかっていないみたいだからな」

モララーは肩をすくめた。

「ブーンの息子を称すお前さんには悪いが、その通りだ。
 ブーンが何を感じていたのか、俺にはわからねえ。疎遠になり過ぎていた。
 説明してくれるとありがたいね。俺としても」

ジョルジュは舌打ちをした。
 
「ブーンさんの気持ちをわかってあげようとしなかった、あんたの責任さ」

それから、ジョルジュの話が始まった。

「ブーンさんは小さい頃からお前と、ツンと友達だった。
 ブーンさんにとってもその関係は大切で、大事にしたかったんだ。
 性別を超えた友達としての関係をな」
 
「お前が何かを抱え込んでいることにはブーンさんも気付いていた。
 それでも話せなかったのは、部活が忙しかったからってのが一番にある。
 でもな、ある日のことだ」
 
「ブーンさんはある日突然、お前から、お前がツンと付き合っていることを聴かされた。
 そのとき、ブーンさんは一瞬頭が真っ白になったらしい。
 それでもすぐに正気になって、お前を祝福する言葉をかけた。お前の話通りにな」
 
「だけどそれから、ブーンさんは不思議な感覚にとらわれるようになった」

ジョルジュはそこで一息つく。
頭の中で、文章を確かめているかのような仕草だ。
この話はジョルジュがブーンから聞いたものなのだろう。
その話を正確に伝えようとしているのだろう。
 
「繰り返すことになるが、ブーンさんはお前たちとの交友関係を続けたかった。
 そして、お前とツンが付き合うなら、その関係をちゃんと祝福してやろうという気になった。
 そうするのが本当の友達だろうとブーンさんは思っていて、実行しようとしていた。
 だけどな……どうしてか、ブーンさんの頭の中にツンのことが思い浮かぶようになってしまったんだ」

「……」

モララーは少しだけ、察してしまった。
ジョルジュの言い出す言葉を。
その様子に気づいているのかはわからなかったが、ジョルジュは話を続ける。
 
「ブーンさんは、今までツンを女性として見る気は全くなかった。
 だけど、お前とツンが付き合うことを知ってから、無性にそのことが気になるようになってしまった。
 そこには、関係が継続しにくいとか、どことなくおいてかれた気分とか、いろいろ混ざっていたのかもしれない。
 ブーンさんはずっとそんな自分を責めていた。責めていて、それでもお前を羨ましく思うのをやめられなかった」
 
「わかるか、モララー。
 ブーンさんはお前の行動のせいで、ツンのことを好きになってしまったんだ」

モララーは何も答えなかった。
ただじっと、ジョルジュの言葉を促した。
ジョルジュとしても、まだ話が終わっていなかったのだろう。言葉が続く。
 
「それでもブーンさんは耐えた。
 お前がツンと付き合っているのをちゃんと応援する気持ちもあったんだ。
 だからちょっとずつ距離を作っていった。元々部活が忙しいのもあったからな、作りやすかったらしい」
 
「だけど……ある日」

「ブーンさんは下校中に見たんだ。
 モララーと一緒に帰っていったツンが、泣きながら道を走って戻ってくるのを」

「あぁ……」

それは、先程の話の中の最後の日のことなのだろう。
モララーはそれに気付いた。
 
「ブーンさんは、お前とツンとの間に何かあったんじゃないかと思った。
 それで、ツンを呼びとめた。もうすれちがっていて、結構距離があったけど、止まってくれたらしい。
 そして聞いたんだ。『モララーと何かあったのか』って」
 
「ツンは泣きながら、怒っているようだった。
 ただ一言、『もう別れたから知らない』とだけ、言ったらしい。
 そして、ツンが行ってしまったあと、ブーンさんはお前のことを追いかけた」
 
「そのときのブーンさんの感情は、いろんなものが混じり合っていたらしい。
      お前とツンとの関係が壊れたことは知った。そこからいろんなものを感じたんだ」
 
「まず今までどおりの関係が続けられないかもしれないことを嘆いた。
 ただお前らが別れるだけならまだしも、ツンの様子を見て内藤は、二人の喧嘩別れを予想した。
 もしそうなら、もとの交友関係が戻るのは絶望的だ。ブーンさんは板挟みの状況で、苦しい思いをしなきゃになるかもしれない。
 そんなことになるのがたまらなく嫌だった」
 
「それから、ツンを泣かせたお前が許せなかった。
 その頃にはブーンはかなりツンのことが気になっていて、ツンのことが好きであることも自覚していた。
 だから、理由はどうであれ、お前のことが許せなかった」

「いろいろな負の感情が入り混じっていて、ブーンさんはとても気持ちが悪かったらしい。
 今まで我慢していたこと、言ってはならない、考えてはならないと自制していた想いが噴き出した。
 せっかく、自分はお前らの関係を守ろうとしていたのに、お前らはそうやって平気で壊すのか、って」
 
「それでもまだブーンさんはお前のことを信じていたのかもしれない。
 少なくとも、このときはお前と話をしようと考えていた。
 いろんなことを話してくれれば、それが間に合っていれば、ブーンさんの行動は防げたかもしれない」
 
「だけど家の前で、お前が女の子と会っているのを目撃してしまった。
 額にキスをする瞬間もな、しっかり見てしまった。
 そのときに、ブーンさんの中の何かが崩壊してしまった」

「それは……それは俺が悪いんじゃない」

モララーは思わず口にした。
父親の隠し子が突然そのような行動に出たことは、自分に非があるわけじゃない。
 
「……わかってるさ」

そのジョルジュの言葉は、モララーにとって意外だった。
ジョルジュはそのことを自覚している。自覚して、なおもこの話をしているというのか。

「だったら、なんで」
 
「話を続けさせてもらおうか」

ジョルジュの強い口調。
モララーは口を閉じざるをえなかった。

「ブーンさんは、部活帰りだから持っていた金属バットで、お前を殴った。
 お前は倒れこみ、動かなくなった。
 まさか死んだのではないか、一気に冷静になったブーンさんはお前のことを心配した。
 だけど、声を掛けられ、びくついて、声の方を見た」
 
「出会ってしまったんだ。ニダーに」

「!!」

モララーの頭の中で、物事が整理される。
完成図が頭に浮かび、この事件のシナリオが急速に、モララーに理解される。
その時になって初めて、モララーはジョルジュたちの狙いに気付いた。
それがとても虚しいものであることも。
 
「後は、お前の話の中で出て来たニダーの所業と同じさ。
 ニダーはブーンさんの弱みを握った。そしてブーンさんの家にまで押し掛けた。
 奴は、ブーンさんの家から搾取をするようになったんだ」
 
「ブーンさんの家は逃げるように引っ越した。
 ブーンさんも転校した。そして新しい場所で暮らすようになった。
 最初に行ったのがC市の市街地、その後がB市。そこにいるドクオがいた街さ」

「ブーンは、逃げたのか。
 ずっとずっと、ニダーの搾取から逃げ続けたというのか」

C市に逃げたときに、つーと出会ったのだろう。
きっとつーを助けたのは、自ら身を売って搾取されるつーのことを悲しんだからだ。
モララーはそう感じた。自分は搾取を強制されているのに、わざわざ自分から搾取されにいくつーが見ていられなかった。

「君がつーさんの息子であることは、知っているよ」
 
「ほう、じゃあ理解しているんだろうな。
 俺はD市でブーンさんに救われたつーの息子。そして数年だけだが、ブーンさんと同棲していた。
 俺は、ブーンさんから愛情を受けて育った。つーもそれを嬉しがっていた」
 
「だけど、ある日、ニダーがブーンさんを見つけてしまった。
 ブーンさんは俺らに言ったよ。『君らに迷惑をかけるわけにはいかない』
 俺はよくわかってなかったんだけどな。つーはずっと泣いていた。
 そんなつーを尻目に、ブーンさんは行ってしまった。どこへいくか、告げもせずに」

「俺達親子は、ブーンさんを探した。ブーンさんの言葉に反しちまうけど、でも探したかったんだ。
 そして、県内ニュースとして、B市の少女の自殺を食い止めた少年の話が揚げられていた。
 その少年こそが、そこにいるドクオだ」

「!!」

突如名前を出され、ドクオは驚く。

「ショボンから聞いていたが……
 人は思いもよらねえな。全くよ」

「俺達はドクオの家族に接触を試みた。
 ま、俺だけがドクオと接触したんだがな。ドクオはブーンさんのことを良く知っていた。
 だけど、どうやらブーンさんはもう事件を起こしてしまっていた」

「ああ……」

ドクオが口を開く。

「ブーンさんは、ただ『見つかった』とだけ言っていた。
 今思えばあれはニダーに見つかったっていう意味だったんだ」
 
「そう、そして今度は逃げなかった。
 2005年のあの日、ブーンさんはニダーに呼び出された。
 ショボンから聞いてるぜ? 謎の金属バットがあるってな」

「はっ、そんなこと、上にばれたらショボンの首も危うくなりそうだな」
 
「おっさんはちょろかったぜ? きっと妻子に逃げられたのが寂しかったんだろうな」

モララーは自嘲気味にほほ笑んだ。もっとも強がりながらの笑みだったが。
 
「ブーンはあの日、あのときの金属バットを見せられて、さらにゆすられたんだろう。
 そして隙をついて一家を殺した。ニダーと、その妻を。二度と自分についてこないようにするために」

ジョルジュは話を終えた。モララーの様子をうかがっているようだ。
モララーから何も言うことがないとわかると、ドクオを向く。
 
「ドクオ、構えろ」

やはりびくつきながら、ドクオは腕に持ったそれをモララーに向ける。
まごうことなき拳銃が握られていた。

「普通の人はそんなもの持ち歩かねえんだぜ?」

モララーは銃を傍目に、ジョルジュに言う。
ジョルジュはただにやにやと笑っているだけだった。

「そんで、俺をどういうわけで殺すんだ?
 ブーンをあの殺人に駆り立てた原因はニダー、つまりは、俺の家とニダーの関係だ。
 ニダーはもういない。だから残っている俺を、お前が殺すってことなのか?」
 
「その通りだよ。
 俺はブーンの息子も同然。そして、ブーンが為せなかったことを俺はする」

「へ、ばっかじゃねえのか。
 ブーンは俺を殺そうと思ったんじゃない。かっとなっちまっただけだ。
 そんなものを掘り下げて俺の命を奪うなんて、ブーンの気持ちを考えてないのはお前の方じゃねえのかよ」
 
「……お前を殺すことに意味があるんじゃないさ。
 ブーンさんをあそこまで追い込んでしまった状況が、俺には憎いんだ。
 ブーンさんはよぉ、つーと出会ったときも、ドクオと出会ったときも、ずっと笑顔だったらしいぜ。
 俺も微かに覚えているんだ。ブーンはずっとずっと、にこにこしていて、笑顔そのものだった」
 
「だけど、はるか昔に、その笑顔を取り繕わなければならない事態が生まれ、それが最悪の結末を迎えた。
 それからブーンさんは笑顔の裏にいろんな感情を隠して、生きて、そして死んでしまった。
 笑顔の裏にたくさんの嘘を隠しながら生きていく、そんな生き方をせざるを得なかったブーンさん。
 それが人間の生き方か? あそこまで優しい人間が、どうしてそんな仕打ちを受けなきゃならないんだ」
 
「俺の記憶の中に、ブーンの言葉がある。俺は小さな子どもだったけど、その言葉だけは覚えている」


『嘘なんだお』



『笑顔なんて嘘なんだお。
 人間が、他の人間と何の争いもすることなく過ごすための手段にすぎないんだお』



『僕はもうずっと後悔しているんだお。
 嘘を続けて、これまで生きてきてしまったことに――』


「ブーンさんは、嘘をつく前のブーンさんは、きっと願っていたはずさ。
 嘘をつく人生なんて嫌だ。できれば潔白でいたい。
 俺は、そんなブーンさんの存在を信じる。そしてその存在をありえなくさせたお前を、殺す」

ジョルジュは断言した。
まっすぐにモララーを見つめる。
その口はにやりと、不気味に持ち上がっている。狂信的な信者のような顔。


「狂ってるぜ、お前」

モララーはぼそりと言う。

「お前のやってることはただの独りよがりだ。
 お前は自分勝手なブーンの人物像を拵えて、それに従って自分の欲望を正当化しているだけだ。
 ただ単に悲しいだけなんだろ、ブーンがいなくなって。どうしてそれで終われない。諦められないんだ」

ジョルジュは目を閉じ、それから、言葉を発する。
 
「ブーンさんのことが、大好きだったから。それだけだ」

正気でない眼が、モララーに向けられた。

「ドクオ! もういいぞ」

ジョルジュの呼びかけ。
モララーを始末しろという命令。

学校の森が、風にあおられたのか、急にざわめく。
おどろおどろしい雰囲気をモララーは感じた。
自分の鼓動が速くなっていることも、はっきりと。

「くぅ……」

ドクオはモララーに銃を構えながら、呻く。
明らかに迷っている。

「なあ、ドクオ」

モララーは呼びかけてみる。
ドクオの顔がさらにひきつった。
 
「おっと、ドクオと交渉でもするつもりか?
 やめておいたほうがいいぜ。こいつだってそれなりにブーンさんに感謝している。
 暗い引きこもりがちな少年だったこいつを変えてくれたのが、ブーンさんだったからな」

「シュールを助けた、あの事件か」

森のざわめきが一層激しくなった気がする。
山が近いせいか、強い風が吹いてくるようになった。
木々の揺れ、擦れる音が大きくなっていく。
 
「そう、こいつは中学生のときにブーンさんの助けを借りてシュールを救った。
 だけどそのうちにブーンさんはいなくなった。悲しみも相当だったはずだ。
 俺はちゃんとこの耳できいた。そして、俺のこの考えに協力してくれるとも言ったんだ」

モララーは確かめるようにドクオを見つめる。
ドクオはただおどおどと、その視線を避けるだけ。

「ドクオ、きこえているんだろ」

再び声をかけるが、返事はない。
ただひたすらに困っている、そんな印象だ。

「よお、お前はどうしたいんだ?」
 
「何を無駄なことをやっているんだ。
 さっきもいったようにドクオは協力者。お前の敵だぜモララー」

ジョルジュが煽るが、モララーは諦めきれなかった。

森の木々のざわめきが嫌に耳に残る。
まるでどこか遠くで誰かが叫んでいるような気がした。

「ドクオ、いい加減自分に素直になれ。
 ジョルジュのいいなりになって、ホントにいいのかお前。
 お前にはお前なりの考えがあるんじゃないのか?」
 
「そいつに考えなんてあるもんかよ。
 言われなきゃ動かないタイプの人間だ。俺に対しても、ブーンに対しても。
 だから俺がこうしてこいつに――」

「俺はドクオに質問しているんだ!!」

モララーの怒鳴り声が響いた。
ドクオは肩を震わせ、ジョルジュはバツが悪そうに口を紡ぐ。

「なあ……ドクオ」

「ぼ、僕は……」

ドクオは依然として眼を泳がせている。
どうしてもまとまらない答えを抱え込んでいるように。

「僕は、確かにブーンさんにも感謝している」

その言葉を聴いて、ジョルジュは満足そうな笑みを浮かべ、モララーを一瞥した。
モララーはその視線に眼もくれずにドクオを見据える。

「でも……
 僕は、モララーさんもとてもいい人だと思う」

「僕は、いつも喋ることが苦手で、それがコンプレックスというか、人と接することが苦手で。
 ブーンさんはそこに気付いて、優しく接してくれた。僕を強くしてくれた。
 そこは感謝していて、ブーンさんのことが大好きで、だから殺人のときにすごく悲しかった」

ドクオはそこで一呼吸置く。
森のざわめきは未だに大きくなる一方だ。

「そして……モララーさんは、ちゃんとブーンさんのことを調査してくれたんだ。
 ブーンさんのことはこの国の人はみんな知っている。もう死んじゃったってことも。
 そしてそんな人間の調査をしてほしいなんて奴を信じてくれる人はそうそういないと思う。
 だけどモララーさんは僕を信じて調査してくれた。ブーンさんのことを。それはすごいありがたいことで」

「たった一日しか一緒に行動しなかったけど、モララーさんが誠実に調査していることはよくわかった。
 少なくともその時点では見ず知らずだったのに、こんなに頑張ってくれる人がいるのかって、思った。
 そして、僕のことも心配してくれた」

「俺は、俺はだから……」

ドクオは一人称が変わっていることに気付いていない様子だった。

「この人を殺したくない」

それがドクオの正直な感想のようである。

湿っぽい風が抜けていく。
ドクオの青白い顔は、口を閉じて、頑なな態度を示していた。
 
「正気か、ドクオ」

ジョルジュの言葉。
それに乗ずるように、揺れる木々。吹き荒れる強風。

ドクオは答える代わりに、銃を下した。
 
「てめえ……」

ジョルジュはそう言うと、ドクオに接近していく。

モララーは嫌な予感を感じ、とっさに口を出した。

「そういえば、ジョルジュよぉ」

ジョルジュは歩みを止めて、モララーに向き直る。

「ひょっとしてお前、アパートのこと、ちゃんとしたことをドクオに伝えていないんじゃないか?」

それは単なる閃きだった。
もしあの事件のことをドクオが知らないならば、こんな態度に出るはずがないのではないか。
母親を傷つけたあの火災、その原因を知っていれば、ジョルジュに従うこともなかったのではないか。

ジョルジュの顔に明らかな動揺が浮かぶ。
 
「な、なんのことを言ってんだ。あれはただの事故だぜ?」

予想は的中したらしい。
モララーはジョルジュを睨みつける。

「警察を舐めるんじゃないぜ。明日になったら、きっともうすべてがわかっているはずだ。
 あの火災は誰かがしくんだものだってことくらいな。
 だいたい、お前とショボンがいなくなった直後に起こる、そしてそれでけがを負ったツンが、ブーンと関わりを持っている。
 この状況から、その火災がただの偶然だったなんて、不思議じゃねえか」

「……事故じゃ、ない?」

ドクオの眼に、違った色の生気が出てくる。
あまり快くない色合いだった。

「なあジョルジュ、よくよく考えてみたらよ。
 ブーンが俺を殺そうとした原因は、ツンにあるとも言えるんじゃないか?
 俺とツンが喧嘩別れしたと考えたなら、両方に責任があるともとれる。
 実際ツンがはっきり言わないことが、ブーンの行動につながったんだからな」

「し、知らない! あれは俺がやったことじゃないんだ」

「ほーぉ、どうやらお前の裏にいる誰かさんの仕業なんだな。
 どうやらショボンと一緒に考えたのであってるみたいだな。
 俺を殺そうとしたのはお前、そして俺からブーンの過去をきこうとしたのはそいつ。
 お前は俺を殺そうとして失敗して、その後そいつから助言を得て俺の過去を探る方向にシフトした」
 
「なんのことだかわからんといって――」

ジョルジュの言葉は途切れる。
構えられた拳銃。
その腕は、ドクオのものだった。

「お前は、あの火災は事故だと言った。あのとき、電話口で」
 
「ああ、事故かもしれないと言った。
 そもそも俺は何も知らないから、あいつが勝手にやったことだから、俺は関係が」

「その誰かのことを、俺は知らない。
 お前はその存在を俺に隠していたんだな。俺のことを有効に利用するために。
 もし母さんを殺害しようとしている人物がいるなんて知れたら、俺が協力しなくなるかもしれないから」

ジョルジュは返答に詰まる。
ドクオの言った言葉は、的を射ていたようだ。
ドクオは何も知らされていなかった。ジョルジュに利用されていただけ。

「俺はようやく決心がついたよ」

ドクオはジョルジュをしっかりと見据える。
銃口も揺るがない。
さきほど、モララーに向かっていたときとは違い、明らかにジョルジュを狙っている。

「俺だって、ブーンさんのことは大好きだ。
 ブーンさんのおかげで、今の俺があるんだから」

「俺は、ブーンさんが生きていたとして、もしモララーさんに出会っても
 こんなことは絶対にしないと思う。
 あの人なら、モララーさんと出会っても、すぐに笑顔になって再会を喜ぶさ」

「あの人はそういう人だった」

森のざわめきはこれまで以上に激しい。
叫び声、うめき声、まるでどこからかそんな声が聞こえてきているかのようだ。
風は相変わらず強い。吹きすさぶ校庭、男が三人、睨みあっている。

「いつの頃だったか、母さんがこっそり泣いていたことがあるんだ」

ドクオは唐突に語りだした。

「母さんはどこへいったのか教えてくれなかったけど
 俺はなんとなく、母さんはブーンさんのところへ行っていたんだと感じた。
 そこで何を言われたかは知らない。でもそれから、母さんは表ではブーンさんを避けるようになった」

「だけど家の中ではちょっと違った。
 もちろん直截的ではなかったけど、俺に対してよくブーンさんのことを質問してきたんだ。
 何度も何度も。ブーンさんとホントはちゃんと話したいけど、話せないときであるかのように」

「きっと母さんはブーンさんに口止めされたのかもしれない。
 もうあんまり会わない方がいい、とかそんなことを。
 母さんは芯が強いからちゃんとそれを守っていた。一方で心ではちゃんと繋がっていた」

「俺はそんな母さんの様子を見て、思ったんだ。
 こんな友達関係が、いつか自分も作れたらいいなって。
 そしてこうも思う。モララーさんもきっとこの友達関係がつくれたのだろう、
 だけど、スレ違ってしまったから、できなかった。本当は一番悲しいのはモララーさんなんだって」

「だから俺は、モララーさんとブーンさんの関係を壊したくない。
 そして母さんをも殺そうとしたお前を許すわけにはいかない」

ドクオは口を結び、拳銃を握る。

「へ、言っておくけどな。
 俺がこんなひょろい奴一人でお前をしとめようとしていたなんて考えるなよ、モララー」

ジョルジュは今なおにやりと口の端を引き上げる。
 
「この校舎の周りの森のなかにはなあ
 俺の味方してくれる奴らがたくさんいるんだよ。
 まあ全員あいつの繋がりなんだけどな。とにかく、お前らがこんなところで俺を始末したところで
 お前らはその怪しげな奴らにつかまって、やられちまうんだぜ」

ジョルジュは叫ぶように言い放ち、モララーを指差した。
モララーは眉を顰め、ジョルジュを見つめる。

口を開いて、思っていることを言ってやろうとしたときだった。

森が叫んだ。
いや、叫び声がはっきりと聞こえてきた。

幻聴でも何でもない。
確かな人間の声である。

その声は一つじゃない。
何人もの声が、そこかしこから聞こえてくる。
誰かが誰かに襲われている、そんな声だ。

「お前こそ、俺が一人で来るなんて思っていたんじゃないだろうな」
 
「は!?」

モララーはそのジョルジュの驚きようを見て、思わず吹き出してしまった。
よほど予想外だったのだろう、ジョルジュの眼は同様をあらわにしている。

「てめえがバカにしたおっさんは、確かにバカみたいに暗い奴だが
 やることはちゃんとやってくれる良い奴なんだぜ」
 
「おい、おいおいおい。
 まさか機動隊でも呼んだなんでふざけたこと言うんじゃないだろうな?」

喧しいほどの叫びが三人を包んでいく。

「んなわけあるか。もっと現実的な話だ。
 ちょっとこの前な、お前さんのおばさんの家に厄介になったとき
 いろいろと懇意にさせてもらってな、モナーさんの連絡先ももらっておいたんだ」

「で、きっとお前は俺を殺すためにいろいろ策を練ってくるだろうと思ったから
 俺としてもなんとか殺されないように仲間を呼ばなきゃだなって思った。
 だから、モナーさんに連絡したんだ」

「モナーさんは射撃が趣味だという話をたまたま耳にしていてな。
 しかもあれだけの見栄っ張りだ。きっと優秀な射撃の選手たちとも交流があったに違いない。
 射撃の選手ってのは、自衛隊とか、警察官とか、その筋の人たちがなることが結構ある。
 だから、その気になればモナーさんのコネで強力な助っ人を呼べると踏んだ。かなりの賭けだが、うまくいったようだ」

「ほら、子どもを叱るのは親の役目ってよく言うだろ。
 それにあやかったっつーわけだ」
 
「……あれ、親じゃないんだけど」

「親族なら似たようなもんだろ」
 
「い、いつだ! いつあんなの呼んだんだ」

「お前らと会う少し前。
 ショボンが、機動隊なんてだせないよーなんて言うもんだから、モナーさんの連絡先を教えたんだ」

強い強い風が吹く。
その風から、嫌な雰囲気を感じたのだろう。
ジョルジュは上を見上げ、きょろきょろする。
 
「な……な、な……」

黒いシルエットがはっきり眼に浮かんだようだ。
モララーにとっては、これもまた予想外だったのだが。
いつの間にか接近していたのは、ヘリだった。

到着したヘリから、下りてくる男。
ショボンだ。

「うわ、空飛ぶおっさんだ」

「くたばれ40代」

「いつヘリなんて持ったんですか? つかなんでヘリで来たんすか。憧れですか」

「ふふ、羨ましいだろ。貸してくれたんだ」

「……ガチかよ」

モララーとショボンのやりとりが交わされる。
その軽妙な言葉の応酬に、ジョルジュもドクオも面食らったようだ。

「や、悪いねお二人さん。
 特にジョルジュ君は、せっかく張った俺包囲網を崩壊させちゃってもうしわけないね」

「……ざっけんな」

ジョルジュは声を震わせる。
拳をわなわなさせて、モララーを睨みつける。
 
「ふざけんなよこのやろぉ!!」

ジョルジュの叫び。そしてモララーへと歩んで、拳を振り上げる。

だが、その拳にするどく、黒い物体がぶつかる。
投げたのは、ドクオ。

「観念しろ。ジョルジュ。
 もうお前の望みは終わりだ。次に何か、モララーさんにしようもんなら、俺が黙っちゃいない」
 
「この……腰ぬけの癖にッ」

「……なんで俺、お前なんかを信じちゃったんだろうな」

ドクオが、自分に呟くように言う。

「もう終わりなんだよ。ジョルジュ。
 始まるべきでもなかったんだ。こんな虚しい弔いなんて」

「わかってるよ」

ジョルジュは、少しずつ力が抜けていったようだった。
しぼんでいく声。

モララーもショボンも、その様子を見守っていた。
 
「わかってんだよ。そんなこと。
 でもよ、やり場のないこの想いを、いったいどうしたらいいって言うんだよ。
 俺は……俺は……」

ジョルジュは一度、大きく息を吐いた。
それから、思いっきり歯を噛みしめる。

吐きだしたい気持ちがいっぱいあるのだろう。
恐らく小さい頃から抱え込んだ、とても大きい感情が。

その感情をこめて、ジョルジュは再び、モララーを睨みつけていた。

モララーはまっすぐに、それを睨みかえす。

「ジョルジュ、頭を冷やしてこい。
 お前はまだまだやり直せるんだ。まだ若いしな」

モララーは冷静に言った。
それでもジョルジュは、食い下がらない。
 
「俺の考えは、さっき言った通りだぜ。
 変える気なんてない。ブーンに嘘をつく一生を負わせたのはお前だ。
 だから俺は、お前を許す気なんてない」

「おい、よく聴けよ、クソガキ」

モララーはずいっとジョルジュの前に立つ。
ジョルジュは一瞬たじろいたが、それでも眼はモララーを睨んだままだ。
 
「なんだよ、説教でも垂れるつもりかよ」

吐き捨てるように言い放つジョルジュ。
モララーは動じない。

やや沈黙があった。
ジョルジュは少しだけ、身を引いた。
モララーは俯き、それからジョルジュの顔を見る。

「俺の考えも変わらねえよ。
 てめえはただの独りよがりだ。独善的なだけのあほだ。
 そして、そんな考えに縛り付けられて一生を棒に振るのを辛くも逃れられただけの野郎だよ」


「人の気持ちってもんがなあ。
 そんなに簡単に他人によって代弁することが、できてたまるかってんだ。バカ野郎。
 代弁出来ねえ言葉を必死こいて紡ぐために、俺は探偵やってんだ」


眼が潤むのを、モララーは感じた。
アホか、俺は。何泣いてんだ――情けねえな――
そう心に釘を刺し、目を閉じる。歯をかみしめながら。

「連れてけショボン。もう言うことはねえよ、そんな奴」

「手錠はないが、大人しくついてきてくれるかな」

ショボンの言葉がジョルジュに届いているはずだが、ジョルジュはあまり反応しない。
ジョルジュが不審そうな顔を向けてきているようだ。
どうやら眼がうるんでいるのを見られたのかもしれない。

それは恥ずかしいが、まあ仕方のないことだ。
自分の心はまだとらわれているのだろう。

モララーは自嘲気味に、自分に言い聞かせた。

「おい、のってくか?」

ショボンがモララーに声をかける。

「いいよ、電車くらいあるだろ」

「……そうか」

その後、ショボンはドクオを誘った。
ドクオはショボンの乗ってきたヘリに同乗することに決めたようだ。

ジョルジュと、ドクオを先に乗せて、ショボンが少しだけモララーに近づく。

「余計なお世話だったら、聞き流してくれ。
 お前も、逃れられるといいな」

余計なお世話だよ、おっさん。

長岡ジョルジュは逮捕された。
この事件は、終わりを迎える。
あと少し、残されたものを回収すれば。

だけど、このときモララーは気付いていなかった。
自分の心に抱いている違和感が何なのか。

そしてそれは、たとえ気付いていたとしても、どうにもならないことだったのである。

最終話

東京 二三時を過ぎたあたり――

「夜中に連絡してくるなんてね」

会社の就業時間はもう終わっており、つーは自宅にいた。
連絡があったのは、21時頃だ。
ジョルジュが逮捕されたことについてとあれば、夜中であろうとも、会わなければならないだろう。

「もうわかっているのでしょう?」

つーの自宅の玄関に、ショボンは立っていた。
ジョルジュとドクオを警察署に届け、自らはつーに連絡をした。
息子のジョルジュが逮捕されたことについて、お話をするために。

そして、ショボンはもう確信していた。

「あなたが、ジョルジュに加担していた。そうなのでしょう?」

「否定する気にもなれないね。
 どうせすぐにばれちゃうさ。あたしがやっていたことは。
 だから認めるよ。あたしはジョルジュの犯行に加担した」

つーはやれやれと、肩を竦める。

「もっとも、最初にブーンの恨みを晴らすなんて考えたのはあいつだけどね。
 あたしの知らないところで、ツンの息子と出会い、勝手にことを進めていた。
 あたしがジョルジュのやろうとしていることをはっきりと知ったのは、つい昨日のことだよ」

「モララー殺害の為に警備員を使わせるまで、知らなかったのですか」

「どうやら、勝手にあたしの名前を使って、そっちの世界の人たちと連絡を交わしていたみたいだよ。
 あたしはあいつがモララーを殺そうとするなんてことはまったく知らなかったね」

「ずいぶん自由に育てていたんですね」

「うちは放任主義だからね。
 息子を縛り付ける気なんてさらさらない」

ショボンは「なるほど」と、顔を俯かせる。
そのまま話を進めることにした。

「ツンの住んでいるアパートが爆破されていたことはもう調査でわかりました。
 さて、教えていただけますか。
 我々が立ち退いた後で、あそこを爆破した理由を」

「そうだね。長話をするとしようか」

つーは一息ついて、目を細める。
笑顔というには、あまりにも遠くを見過ぎた眼。
ショボンのずっと後ろを見ているかのような表情だった。

「放任主義とは言ったが、あいつがブーンのために何かしようとしていることは知っていた。
 あいつは勝手にあたしの友人と連絡を取って作戦を立てていたんだ。
 その気になれば、あたしには簡単にあいつのやろうとしていることがわかったよ」

「あいつがアパートに赴くことは知っていた。
 なんでそこに行ったのかはその時は知らなかったがね。
 あたしはそれを利用させてもらった」


「あんたたちはどう思ったか知らないが、あの爆発は、本来誰も傷つけるつもりはなかった。
 あたしは、警告のつもりだったんだよ。
 ツンへのつもりもあったが、本当はジョルジュへの警告だったんだ。あいつに見える形で爆破させたかった。
 それが思った以上に威力が大きくなってしまった。細かいところは専門家にまかせっきりだったから、こんなことになったのかもね」

「ジョルジュへの……ですか」

「そう、あいつが誰かを殺そうとしているのはわかっていた。
 だから殺す前に、何かしら示してやりたかったんだ。
 それであいつにどんな変化が生じるかを見たかった」

「その日の夜。
 あたしはあいつから話を正式にきいた。
 あいつがモララーの命を狙っていることを」

「あのアパートに行った理由は、ツンのことを調べたかったそうだよ。
 ツンの息子とは連絡が取れて、取り入ることができたが、ツンの話はまだ聞いていない。
 だから少しでもブーンの話をして、昔のことをどう思っているのか探りたかったらしい」

「ブーンの話をあたしから聞いていたから、ツンにもブーンの行動の非があることは知っていたんだ。
 だけどあんまり話を聞けなかったから、保留って言ってたね。今は話せないし、なんて言ってた。
 それから、今はモララーを殺すことに専念する、なんて言い出したんだよ」

「そこであたしはジョルジュに少しだけ待ったを掛けた。
 モララーの話もきいてみたらどうだ。あいつにもツンと同じことをするべきじゃないかってね。
 あいつは渋々あたしの考えを飲んだ。それで今日、モララーを呼び出して何かやったのだろう」

「……失礼ですが、何故あなたはジョルジュの犯行を止めなかったのですか。
 それだけ多くの話をしたというからには、時間はあったのでしょう」

「それなのにどうして、ジョルジュの犯行を止めもせず、あろうことか援助したのですか」

「親らしくない、ってあんたは思っているんだろうね」

「……平たく言えば」

「あんたは、子持ちかい?」

「今は、離れて暮らしています」

「そうかい。悪いことを聞いたね」

一息つく、つー。
また遠い目をしている。

それは愛おしそうな顔だ。ショボンにはようやくわかった。
親の顔だ――ショボンはそんな感想を抱く。自分にはできなかった顔。

「……あたしは、子どもを束縛するのが嫌いなんだ。
 だからジョルジュがやりたいって思っていることを通してあげたくなった。
 実際モララーのことを憎く思っていた面もあった。そこしか怒りのやり場が無かったから。
 心のどこかで、ジョルジュを応援してしまっていた、ただのとてつもない親ばかさ」

つーはショボンに近づいた。
ほほ笑んでいる、今度のその顔は、もう何もかも諦めた顔。

「さあ刑事さん、もうあたしを逮捕してくれよ。
 あたしももうおかしかったんだ。あたしも、ジョルジュも、感情がおかしなことになっちまった」

「今日は休みです。交番まで行きましょう」

そう言って、ショボンはつーを連れ出した。

もう夜中、雲は出ているが、星がちらほら見える。
その淡い光の下、ショボンは車を操り、つーは助手席に座って、交番へと向かっていた。

「結局あなたは、足を洗わなかったのですね」

「洗いきれなかった。正直に言うとそうなるね。
 ま、立場が違うよ。前はやられる側、今はやれる側だ。
 金があるがどうかで、人間はどっち側にでもなれるもんなのさ」

「内藤ホライゾンは、あなたに足を洗ってほしかった。違いますか」

「そのはずさ。でもね。
 そのためには、あたしの脚はあまりにも汚れていて、ブーンと共にいた期間はあまりにも短かったんだ。
 元々お父様とはそりが合わなかったしね」

「それでも、あんな事件をブーンが起こさなかったら
 もうちょいマシな人生を送れたのかもしれないねえ」

「早すぎますよ。諦めるのが。
 あなたがたはまだ誰も殺していない。第二の人生が始まる余地は十分にある。
 人が人を想うのを止めることはできませんよ。誰にだってね」

フロントガラスの向こう側に、交番の明かりが見える。
もうすぐ到着する。

「……ブーンが自殺する前に、いや、死刑が決まる前に。
 あたしとジョルジュはね、ブーンと面会したんだ」

ショボンの言葉が聞こえたのか、どうか、わからないが、つーは話しだした。

「あいつは、『そろそろする』と言っていた。
 見張りの警備員に感づかれないように、そんな言い方をしたんだ。でもあたしにはわかった。
 ブーンはもうすぐ死ぬつもりなんだって」

「いや、むしろあたしたちと会ったからこそ、あいつは死ぬことを決意したんだ。
 自分が犯した罪の重さに気付いて、もうこの世とさよならすることに決めたのさ。
 きっと、死んだ時は笑顔だったんじゃないかな」

つーの言っていることは正しかった。
内藤ホライゾンは笑っていた。死んだ時も。
あれは、この世のしがらみから解放された笑顔だったのか。

「あたしには、あいつを止めることが出来なかった。
 あいつは死にたいと思っていた。もし、それを止める言葉をかけていたら、あいつは救われたのかい。
 嘘をつくことに絶望したあいつを、どうやったら止められたんだい」

「あたしらは、嘘をつかなきゃいけないんだよ、生きていくためには。
 あいつは純粋すぎて、あたしらにも、その純粋さがうつっちまったのさ。迷惑な話だ」

交番の前に到着した。ショボンはドアを開けて、外に出る。
下りて来たつー。ショボンはその耳に声をかけようとして、やめた。
もうつーは心の中が整理できているようだ。この人には休息が必要なのだ。

ショボンはゆっくり、つーとともに交番へと歩んでいった。

~~~~~~~~~~~~~~~~

二〇一〇年八月二一日(土)――――

この一週間の間、世間は揺れた。

長岡商社社長、長岡つーが逮捕されたからだ。
長岡グループというこの国でも指折りの資産家一族から、逮捕者が出現したこと。
それは世間にも大きな影響力を有していた。

長岡グループの評判は低下していった。
一週間とはいえ、その勢いは大きかった。
長岡モナー会長は各方面で頭を下げることとなった。

ただ、肝心の事件の詳細については、あまり広まらなかった。
というのも、つーは、自分が火災を引き起こしたことしか伝えなかったのだ。
その理由についても、気の迷いでやったとだけしか、言うことはなかった。

恐らく彼女は、ブーンについて言及されるのを嫌がったのだ。
もし火災の詳細を伝えようとすれば、どうしてもブーンのことも離さなければならない。
世間の人々がようやく関心を反らしてくれたあの忌まわしい事件に、再び触れなければならない。
つーはそれが嫌だったのだろう。だから、黙秘した。

そして、彼女の裏で、ジョルジュは逮捕されていたが、こちらの情報は最初から小さい扱いだった。
ジョルジュ自身は直接モララー殺害に手を下していたわけではない。
責めるにしても、銃器を所持していたことくらいだったのだろう。
何より、ジョルジュの更生に一番の重きを置いた末の判断ではないだろうか。

「思い当たる節がないわけではないモナ。
 私は少し、彼女を縛り付け過ぎていたのかもしれないモナ。
 この件で、私としてももっと彼女と親身に接したいモナ」

テレビの中で、モナーが謝罪の言葉に織り交ぜて、こう発言していた。
彼も根が悪いわけではないのだろう。
ただ懐が大きいから、少しだけ気が大きくなり過ぎていたのではないか。

そんなふうに、モララーは考えていた。

「……もうお昼回っているのか」

探偵事務所の中で、ぼやく。
朝起きて、開業し、それからぼーっとテレビを見る。
顧客は今のところ無し。数日もすれば約束くらいはあるものの、基本的に暇な日々だった。

あの事件の後、モララーはとくに変わることがなかった。
何度か県警に赴いて、事件の後処理をしたり、たまにドクオから電話が掛かってきて、ツンの無事を聴かされたり。

そういえば、ツンの火傷はだいぶ処置が完了したらしい。
幸い顔などには目立つ傷は残らずに住むそうだ。
すででに爆発の目的はショボンから聞いていた。
だからこの程度で済んだのだろう。

あとでツンにも会わなきゃなー、モララーはぼんやり考える。
どうせドクオが、一緒に行きましょうとか言ってくるはずだ。そのときでいいや。

ブーンの墓参りとかもしたい。
せっかく記憶が戻ったのに、それはもうブーンがいなくなった後だった。
こんな言葉にすると、どこかの切ない物語のようだが、モララーにとっては妙に合わない。

感動するには年をとり過ぎたのか。
モララーはあまりブーンのいないことを悲しむ気になれなかった。
殺されかけた相手だから、というのもあるのかもしれないが。
ちょっと薄情じゃないか、モララーはそんな言葉を自分に浴びせてみたりする。

ふと、自分の携帯が鳴っていることに気付く。
表示された名前を見て、モララーはにやっとする。
考えていたそいつが、かけてきたのだから。

「もしもーし」

「もしもし、モララーさん?」

「ふふ、やっぱりなー」

けたけた笑うモララーを、ドクオは不審がっているようだ。

「ど、どうしました?」

「いやあ、的中すると気持ちいいもんなんだよ」

はあ、といった声が電話越しに聞こえてくる。

「んで、要件はなんだ?」

そうそう、とドクオが言う。

「実は、B市で花火大会があるんです。
 僕とシュールは行くのですが、モララーさんも来たいかなと思いまして」

「……お前ら付き合ってんだよな?」

「ええ、一応」

「いいの? 40歳のおっさんがそんなのに混ざっちゃっていいの?」

「ああ……まあ変ですね。
 じゃあ一緒に母さんの病室いきませんか?
 僕らはそのあと花火大会の方に行くんで、モララーさんは母さんといれば、知り合いみたいだし」

「あ、それはいいかもな!」

「じゃあ今日の夕方5時くらいに、B駅にきてください。僕、迎えに行きますんで」

17時 B駅前――

モララーは久しぶりにB市に降り立った。
どことなく、街から浮足立ったムードを感じた。
花火大会の影響なのだろう、それらしい飾りをいくつも見かける。
暗いことが続いたモララーにとって、それは心地よかった。

「モララーさーん」

「おー、ドクオー。実際に会うのは久しぶりだなー」

待ち合わせに選んだ銅像の前で、二人は出くわした。

「そうですね。なんだかもう懐かしい感じです」

「そんな懐かしむほどか。忘れてるかもしれないが、俺、お前に殺されかけてるんだからな」

「いやはや、あんまり思い出したくないですね。
 あのときはもう頭の中真っ白で、気付いたら……ああなってました」

「とにかく、ありがとよ。俺の言葉ちゃんと届いてたみたいでよかった」

「あ……はい!」

「シュールって子もくるんだよな」

「ええ、元々僕らの約束ですし」

「ほんと、なんで俺呼んだんだか。
 なんだかんだで俺は会ったことないんだよなー」

「モララーさんなら大丈夫ですよ。
   ブーンさんの友達ですし、きっと打ち解けます」

「お前にそんなこと言われるとはね。
 じゃ、来る前に馴れ初めでも教えてもらおうか」

「え、えぇぇえぅひゃぅぇ?」

「いいじゃないか暇なんだから」

「いやいやいや、大したことないですよホント。
 あの時も頭真っ白だったんです。ブーンさんが気になってたから僕も注目してて
 いつの間にか助けちゃって、いつの間にか付き合ってました」

「それもまたすげえ話だな」

「でしょう? 僕頭真っ白になってるといろいろできるんです」

「ほめてねえよ」

「あ」

小さな声が聞こえて、モララーとドクオは振り向く。
銅像に歩んでくるその少女。体は小さいが、ドクオと同じくらいの年頃のようだ。
すると、この子がシュールなのだろう。

「やあ、変態」

「やあ、シュール」

何事もないようにかわされる会話。
モララーは反応に困ってしまう。

「え、何お前そういう風に呼ばれてるの?」

「ええ。なんか、いきなり部屋に飛び込まれたとき、とっさに変態だと思ったらしく
 以降僕に対して真っ先にそのイメージが浮かんでしまうようなんです。
 まあ、挨拶のときだけですよ、言ってくるのは」

少女は大きく頷いている。ドクオの話は本当のようだ。
いろいろな付き合いがあるものだと、ある意味感心するモララー。

「シュールさん、かな?」

「はい」

「はじめまして、モララーです。
 ブーンの友達だったといえば、大丈夫かな」

「ちょっとだけ、ドクオから聞いてるから」

「私にとっても、ブーンさんは大切な人だった。
 私が人と接することが出来るようになったのは、あの人のおかげでもあるのだから」

そっか、とモララーは頷く。
思えばブーンはそこかしこで人を救っている。
きっと彼は元来そんな性格で、このシュールもまた、その性格に助けられたのだ。

「あいつのことを大切に思ってくれてありがとう。
       世間ではいろいろ言われているけど、あいつは、ほら、ちょっとだけ不器用なだけだから」

l「うん。そんな気がする」

「さて、それじゃ最初に母さんの病室行きましょうか」

ドクオもシュールがいるところでは張り切るようだ。
自ら話を切り出す姿を、モララーは初めて見た気がした。

シュールはあの事件のあと、ショボンから事件の粗筋を聞いたらしい。
このことはショボンから聞いたので詳しくは分からないが、彼女もまたブーンのことが好きだったのだろう。
自分とドクオを引き合わせてくれたブーンのことを。

横で年若いカップルが話しているのもなかなか無い機会だが
モララーは横やりを入れることもせず、ツンのことを考えていた。
思えば自分らもはるか昔に付き合っていた仲だ。自分が弱り過ぎていたせいだったとはいえ
やはり会うのは恥ずかしい気もする。さすがに会えないこともないが。

病院はそこまで駅から遠くなく、すぐに辿り着いた。
ツンの病室まで、ドクオたちにいざなわれて、向かって行く。

モララーの頭は中途半端で、言葉を準備するのは諦めた。
何せ今まで失っていた記憶。それも決してよくない記憶の中で会っていただけ。
言葉がすらすら思い浮かぶものではない。

病室のドアが開けられる。
一番窓際のベッド。

一目見ただけでわかった。
ツンがベッドに横たわっていた。
歳はとっているものの、特徴的な髪と顔立ちから、わかる。
不思議な感覚だった。頭の中のツンは高校生で止まっている。それが成長したら、こうなるのか。

ドクオとシュールはもう何度かこの部屋に来ているのだろう。
二人はツンに挨拶をして、ツンもまた、挨拶を返す。
それから、ドクオは振りかえり、モララーを示す。
普段なら絶対そんなことしないのに、こんなときだけ、厄介な奴だ。

「ほら、母さん。わかる?
 モララーさんだよ。母さんの昔の友達の」

ツンが眼を見開いて、マジマジと自分を見つめているのがわかる。

「…………あーー」

声が波のように揺れる。
それとともに、ツンは大きく首を縦に振る。
まるで大きく納得しているように。

「このヘタレ!」

「なっ、この……!!」

いきなりの罵倒に、モララーは返事に窮した。

「昔からそう呼んでたでしょ」

こともなげにツンが言い放つ。

ξ゜⊿゜)ξ「ほら、ドクオたちはもういったらいいわ。
      こいつはあたしと話がしたいんだろうし」

「あ、ちょっと待って母さん」

ドクオはモララーに向き直る。

「モララーさん、今更ながら、今回は本当にありがとうございました」

「おー、どした。急に改まって」

「いやあ、ほら、事件の後ってバタバタしてて、時間が無くて
 ちゃんと謝ったことなかったなと思ったから。
 今のうちにいっておこうと思ったんです」

「お前シュールちゃんの前だと強気だからな」

「そ、そうなんですかね。はは」

「とにかく、僕は僕なりにいろいろな決心がつきました。
 ブーンさんも、昔のことをいろいろ知ってしまったけど
 僕としては十分だし、それでブーンさんを嫌いになることはありません。
 やはり僕にとっては大切な人で、感謝してもしきれない人であることには変わりありませんから」

ドクオはすらすらと自分の感情を述べた。
本当に、変わった。そうモララーは思った。

「それじゃ、そろそろ僕らは行きますので」

ドクオとシュールは、頭を下げ、病室を後にする。

残されたのは、ツンと、モララーだけ。

「……記憶、無かったんだってね」

「ああ、つい最近戻ったばっかりだ」

ぎこちなく会話が始まる。

「まったく、どうして忘れてくれてんだか。
 あたしら付き合っていたのにさ」

「その件は、ホントごめんな。
 でも、あの付き合いは俺が弱り過ぎてたからで」

「うわ、変わってない」

「な、なにが?」

「ヘタレが」

言い返す言葉もなかった。

「まあうちのドクオも似たようなものだけどねー」

「あ、あそこまで変じゃねえよ!」

「あら、うちの子どもにけち付ける気?」

「……お前も変わんねえな」

「ふふ、ありがと」

「しかし、息子、いるんだな」

「なーによ、今更。
 随分とかわいがってくれたみたいじゃない」

「いやー、知ってる奴が子どももつってのは、変な気分だよ」

「知ってる奴が失踪したり、殺人起こしたりしている気分もすごいわよ?」

「はは、そうだろうな。
 ……ドクオ、誰の子なんだ?」

「あれー、気になるの?」

「そりゃあ……ちょっとは」

「本気じゃなかったのに?」

「……友達として、だよ」

「ふふ」

「んだよ、笑うなよ」

「いやね、友達なんて、久しぶりに言われたからよ。
 大人になると、妙に言いづらいのよね、『友達』って」

「……そういえばそうだなあ」

「うん。ちなみにドクオは普通の子です」

「普通?」

「そうそう、何の変哲もない、普通の子」

「んー、なんというか、その……若くね?」

「何が?」

「お前の産んだ歳」

「あー、うん。まあね。産んじゃって、逃げられちゃったから」
 普通のシングルマザーの子」

「そりゃあ大変だったろうに」

「そうね。でも親が助けてくれてる。うちの親も普通よりちょっと若いからまだまだ元気なのよ。
 だからあたしは長年パートを掛け持ちすることで生きることが出来てるの。ドクオも大学に送れたし
 あとはドクオが就職してくれれば安泰」

「しかし、どこんちも大変なんだなあ」

「あたしらの場合は特にね。あたしもね、あんたたちがいなくなってから、荒れたんだよ」

ツンは少しだけ俯いた。

「いきなり友達が二人消えた。
 もう知ってるかな? あんたがいなくなったあと、すぐにブーンは転校しちゃったから。
 あたしは凄く寂しくなっちゃった。寂しくなると、人はおかしくなるものよ」

「で、大学入ったらいろいろ暴れちゃった。
 気がついたらお腹に子どもがいて、相手はおろしてほしかったみたいだけど、あたしは拒んだ。
 お腹の中には確かに人がいたんだから。
 どんな境遇だろうと、生きていくべきなんだから、人ってのは」

「……それが、ドクオ」

「そうよ。あたしの自慢の子。
 泣かせたら承知しないわよ?」

「それ結構難しいぞ?」

「あたしもそう思う」

「それから数年たって、お前はブーンに再会したわけか」

「そう」

「ショボンに話したのは嘘なんだろ?」

「あの警察官のこと?」

「ああ」

「もちろん。
 というか、いきなりブーンのこと聞かれて、いらっとしちゃった。
 あたしだって、あのニュース聞いて、いろいろ考えていたのにさ。
 思い出したくない気持ちがあった。だから知らない振りをした」

「あのなあ、あんまりそういうのよくないんだぜ?」

「じゃあ、あんたは怒る?」

「いや、いいよ。ショボンだし。
 俺あいつ嫌いだし」

「なによ、それ。それに……言わなかったのはそれだけが理由じゃないわよ」

「ブーンが逃げてたから?」

「惜しい。最初にブーンに会ったのは、ドクオと一緒にいるときだった。
 それから、あたしは一人で、ブーンの住んでいる部屋に赴いた。
 そこで、聞いちゃったんだ。いろいろと」

「……ひょっとして、俺が殴られたことも?」

「……ふふ」

「言ってくれよー」

「そもそもあんたが生きているかは知らなかったし。で、ブーンは言っていたの。
 自分のことは言わないでほしい。自分が逃げるためでもあるけど
 それ以上に、自分はもう内藤ホライゾンの名前を捨てたいから。
 辛いことを思い出したくないからって」

「……向き合えなかったんだな。そのときは」

「ブーンが、自分の過去にってこと?」

「そう。向き合えなかったから、逃げていた。
 向き合ったから、立ち向かった。それがあの事件」

「嫌な話。ひとりよがりよ。そんなの」

「それで満足しちゃう人もいるってことさ」

「ブーンは、そうだったのかな」

「多分」

「……もっと話してあげればよかったのかな」

「お前が?」

「一旦家に行ったんだろ?」

「そう、それで、さっき言った通り。
 もっとあたしの意見をちゃんと言ってあげればよかったのかなって」

「それでも言わなかった」

「思いだしたくないなんて言われたらね」

「それで泣いた、と」

「うん……ん?」

「なんで知ってるの?」

「何を?」

「泣いたってこと」

「ああ。ドクオが見てたらしいぞ」

「……やろぉ」

「おいおい、いいじゃねえかそれくらい」

「別にドクオに怒っているわけじゃないの。
 あんまり子どもには見られたくないものなのよ」

「そうなのか?」

「そういうものなのよ。
 あんたも子どもができたらわかるわ」

「…………」

「ん? どうかした?」

「いや、何でもねえよ」

「……モララー」

「おう、何だ」

「今度、さ。ブーンの墓参りしよ?」

「……ああ」

「そして、仲直りしなさいね」

「……死んでるのに?」

「当たり前でしょ!」

「まぁ、だよなあ。
 殴られるくらいだものなあ」

「それが回りまわって、ここまで来ちゃった」

「うん。謝ろう」

「あたしも」

「……俺、恨まれてるかな」

「なんとも言えない気持ちでしょうね」

「なんだよ、それ」

「ただ単に、元に戻りたかっただけなのよ」

「元に?」

「そう、友達に」

「ああ……」

気まずい沈黙だった。

「ごめん」

最初に口を開いたのはモララーだった。

「あたしに言ってどうするの」

「ホントにな」

「あたしも、同じ気持ちよ。
 元に、戻りたかっただけ。友達として再会したかった」

「…………あぁ」

「せっかく、ブーンにも会っていたのに。
 あたしは、素直にブーンの言うことを聞いちゃった」

「…………」

「本当はどうするべきだったのかな。
 あたしはブーンの言うとおりに、ブーンの存在を知らない者として過ごさなきゃだったのかな。
 そのときは、それが一番ブーンのためだと思っていたけど、でも」

そこから言葉が消えた。
次に続く言葉が思い浮かばない、そんな様子でツンは黙ってしまった。

「…………モララー」

モララーもまた、何も言えない。

「……きこえてんでしょ」

「あぁ」

「ったく」

それからツンは、決心したとでも言うように一息ついた。

「帰ってくるの、遅過ぎなんだよ。このヘタレ」

ツンはよく人を罵倒する。
昔からそうだった。

そしてその罵倒が、深い気持から来ていることをもうモララーはよくわかっていた。

モララーが、何か言おうとしたときだ。
テレビのニュースが、異様な雰囲気に包まれたのは。

速報が入ったらしい。

モララーも、ツンも、一旦はテレビに注目する。

何故か、ブーンの顔があらわれていた。

「なっ!?」

「何よ……これ」

ニュースキャスターの声はひどく冷静に感じられた。
そのことが、モララーに強烈な違和感を覚えさせる。

何故、世間が再びブーンに注目する事態が生じてしまったのか。
固唾を飲んで見守る二人の前で、説明がなされた。


つーが、ブーンの過去を自供したようだ。

ブーンの殺人には、ニダーの行動が関係している。
つーはそのことを暴露し、自らがブーンと関わりを持つことを伝えた。

これだけにとどめていたのはあまり多くの人々を巻き込む気にはならなかったからなのだろう。
ツンやドクオ、シュール、モララーにまで説明が及んでしまうかもしれない。
だけどつーはそこまでは話を拡大したくなかったようだ。

「……きっと、ニダーだけは許せなかったんだ。
 そしてせめてその部分だけ、ブーンの行動の理由を言いたかった。
 そこだけでいいから、立ち向かいたかったんだ」

モララーはつーの心情を推察した。

つーは、耐えられなかったのだろう。
世の中の大勢の人々が、ブーンをただの悪人として記憶してしまうことが。

「…………」

「あ、いや……」

「……この人は、満足できない人だった。そういうことね」

「ああ」

モララーは視線をテレビに戻す。

「あ」

ニダーとその妻の写真が公開される。

もちろん、ツンもモララーも、それを見たことがあった。
だから、今更驚くことはなかったのかもしれない。

でも、モララーは気付いてしまった。

ニダーの妻の顔。
その顔に見覚えがあることに。

何故今まで疑問に思わなかったのだろう。
ブーンがあんなにも残酷な殺人事件を起こしたことに。

記憶を取り戻し、ジョルジュの話を聞いた時
ブーンがニダーを恨む理由はわかった。

だけど、よくよく考えればそれだけだ。
ニダーを殺したブーンに、それ以上、何も想いは無かったはず。

ならば、何故

ブーンはニダーの妻をも殺したのか。

もはや何度もなされたであろう事件の説明。
小里安ニダーが、そしてその妻である小里安ワタナベが殺されたこと。

この国の多くの人々がすでに聞き飽きていたそのフレーズは
今更、モララーの頭脳に衝撃を与えることとなった。

そしてそれと同時に、様々な思考が駆け巡り
頭の中で、ブーンの心の動きが急速に理解された。

「そういう、ことだったのか」

眼が潤んでいく。

自分の感情はまだ枯れていなかった。

それはただ、腑に落ちない点によって、止められていただけだったのだ。

どうしてブーンはニダーとワタナベを殺さなければならなかったのか、という、一点の疑問。

目の前の画像が、その理由を示していた。

「これが……あいつの原因だったのか」

「……モララー?」

「ツン、この女なんだ」

モララーは、テレビに映るニダーの妻を指し示す。

「ブーンが、俺の家の前で観たのは」

「!!……じゃあ」

「この女が、あのとき俺の家の前にいなければ
 いや、ニダーの妻になんかなっていなければ」

ブーンは、ニダーを殺した。
そしてそのあと、妻をも殺している。

ブーンは見てしまったのだ。
ニダーの妻の姿を、自分の記憶にあるあの少女の姿を。

なぜこの少女がニダーの妻になったのかはモララーにはわからない。
だけど、それでもモララーは、歯噛みした。

「あの事件の時、ブーンはきっと、ニダーを突発的に殺してしまった。
 そしてその直後に、この女を見てしまったんだ」

「自分の記憶の中で、ブーンもまた思ったんだろう。
 この女のせいで自分はニダーから逃げなければならない身となった。
 自分が、あの時、俺を殴らなければ……自分は何もなかった」

「きっと冷静になれば押さえられたんだろう。
 でも状況が状況だから、ブーンは、この女を殺してしまった」

「ばかだなぁ、ニダーだけに抑えておけば、せめて死刑にはならなかったのに」

「……でも、元からブーンは死のうとしていたんでしょ?」

「それは、そうだが……」

考えが、止まらなかった。
今まで無視してきた後悔の念が、怒涛のごとく押し寄せてきていた。
モララーは寸でのところで嗚咽を堪えた。

ブーンは、よく自分を嘘つきだと言っていたらしい。


ドクオたちが言っていた。


それは、元々はモララーを殺してしまったことについてだったのだろう。


いや、ひょっとしたら高校生の時に
自分のツンに対する感情をひた隠しにしていたことについてだったのかもしれない。


あるいは、つーやドクオ達に、自分を尊敬させてしまったことについて言っていたとも思われる。


とにかくブーンは嘘をつくことに疲れて、この世界に生きていく気力を失ってしまった。


だけど、モララーは気付いてしまった。

もし、自分が家の事情を話していたら、どうなっていた?



ブーンもツンもきっと味方になってくれただろう。



自分がブーンに殺される過去は無かった。



ブーンが死ぬことは無かった。



本当の嘘つきは、自分だったのではないか。

強く、強く、歯噛みした。
あまりにも悔しく、悲しい。

ツンが自分を心配して声を掛けてくれている。

でも、自分はなかなかそれに応じていられない。
まともな顔で返事するには、時間が掛かる。

止めどない、混濁した感情が押し寄せ、口から荒い吐息となって漏れる。
久しぶりに思いだしたこの感覚。
記憶があるからこそ実感できる、その暗い想い。

「ブーン。本当に……本当に、すまなかった」

ひねり出した言葉は、かすれていた。
今はどうしても、それしか言えなかった。

『友達』という感情が希薄になった、この歳になって初めて
モララーはその言葉の重みを知った。

心の中で、何度も何度も懺悔する。
口に出すことでは決して言い尽くせない想いの数々を、親友に捧げる。
優しく朗らかで、いつも笑顔で、どこまでも他人思いで、大好きだった親友へ。

B市の花火大会は盛況のようだ。
病室の窓からでも、それは綺麗に見えたことだろう。

モララーは霞んだ眼で、それを見た。
弾ける花火は、空に手向けられた花束のようだ。

花火は燃え尽きる。
空に届くことは無い。

想いにしても、懺悔にしても、それは同じ。
届くことなど無い。
それでも、向かわせずにはいられない。
いつまでも、いつまでも、忘れないで送りつづける。

それが自分のすべきことだ。

亡きブーンへ向けて、自分ができることなのだ。

堪え切れなくなったモララーの慟哭は、ツンにだけ届いていた。
体を屈ませ、ツンの横でしゃがみ込むモララーを、ツンは潤んだ瞳で見つめていた。
いつまでも。





これは、とある探偵の心に秘めた物語。



(おわり)

ブーンは嘘をついていたようです

ブーンは嘘をついていたようです

二〇一〇年八月一〇日、死刑囚内藤ホライゾンが自殺した。 自殺に疑問を抱く刑事、内藤と縁のある青年、そして記憶を失った探偵。 三人の捜査が絡み合い、内藤の死の真相に迫る。

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-04

Copyrighted
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  1. 第一話
  2. 第二話
  3. 第三話
  4. 第四話
  5. 第五話
  6. 第六章
  7. 最終話