幸福を買う男

幸福を買う男

1つ目の幸福

 今日も雨が降っています。皆は傘をさして体が濡れるのを防いでいますが、傘を買うお金の無い彼は、水が体を濡らすのを受け入れて、体温が奪われてゆくのに耐えるしかありません。トラックが通ると水しぶきが彼の服を汚します。しかし、服を買う余裕の無い彼は、その汚れが染み付いた服を着続けるしかありません。本当は皆と仲良くしたい彼ですが、見た目が汚くて、体もベトベトで、顔つきの悪い彼に近づく人はいません。1度小さな女の子が彼とお話をしようと近づいてきたことがありましたが、女の子の母親がそれを止めて、彼女を連れて行ってしまいました。ただお話がしたいだけなのに。彼は泣きました。地面に顔をくっつけて、顔面を汚して泣きました。
 そんなことが続いているうちに、彼は何も信用出来なくなりました。他人も、神様も。信じられるのは自分だけです。ゴミあさりをするときも、自分が認めた物以外は何も口にしませんでした。主食は雑草、樹液、あるいは雨水など、自然がもたらすものだけでした。人が関与した物は毒が盛られているかもしれません。口にした瞬間、体が爛れてしまうかもしれません。
 彼は町の目立たない所に自分の家を造りました。とはいえ材料は段ボールという人間の製造した物なので、彼の基本理念とは矛盾しています。自分と似たような境遇の他人がやって来ると、彼は全力でそれを阻止し、縄張りを守りました。稀に、ロケット花火という恐ろしい兵器を用いて縄張りを侵す人たちがいます。彼はどうにか踏ん張ろうとしましたが、何しろ相手は火を散らす心無い武器。段ボールはたちまち焼けてしまいます。泣く泣くその縄張りを捨てて新たな町に移動します。しかしそこは既に他人の縄張りになっています。綺麗な町では景観を損ねるとして除外され、廃れた町では幾つかのチームが存在していましたから、何処の誰とも知らぬ彼を受け入れる人はいません。ずっとその繰り返し。おおよそ4ヶ月、彼は色んな町を点々としていました。そうしてやっと見つけた安住の地。そこには人があまりいません。偶に、黒い服を着た顔に傷のある男の人達が、銀色に光る鞄を持って何やら取引をしています。彼は特に興味が無かったのですが、目が合ったら殺されてしまうかもしれないと考え、極力彼等から距離を置いて生活していました。
 梅雨が終わって、雨があまり降らなくなった頃。彼は食料を探しに近くの公園に行きました。前の町にも公園はありましたが、ここはそこよりずっと大きいです。見たことの無い草花も沢山あります。これらの草花に注目する人はあまりいません。皆自分の仕事、そして人生に夢中だからです。中にはゴミを捨てて行く人もいます。こういうことをされると彼は困ります。貴重な食料が汚染されてしまうからです。ゴミを捨てる人に出くわすと襲いかかりたくなりますが、衰弱した体ではとても勝てる気がしません。悔しいですが、彼等がいなくなるのを見計らってゴミを拾うことしか出来ません。
 こんな生活、いつまで続くのだろう。彼は悩みました。自宅に戻るまでずっと考えていました。……そういうときに限って、嫌なことが起きるものです。下を向いて、ブツブツ呟きながら歩いていると、見るからにおっかない男の子とぶつかってしまいました。取引をしていた男達ほど怖くはありませんでしたが、それでも性格はかなり悪そうです。
「おい、どこ見て歩いてんだよこの野郎!」
「すいません、すいません」
 謝ることしか出来ません。謝れば人は許してくれる。そう思っていました。ところが、男の子は違いました。彼の薄汚れた服の襟元を掴んで、顔面を思いっきり殴ってきました。
「やめてください。やめてください」
 男の子の暴力はエスカレートしていきます。彼の言葉など耳に入っていません。
 暴行が終わったのは10分後のことでした。男の子が飽きたため、彼は助かりました。ですが顔はぼこぼこ、歯も何本か欠けています。彼はお金を持っていないので、しばらくはこの姿で我慢するしかありません。
 何故自分ばかりこんな目に遭うのだろう。彼はまた考え始めました。しかし、どれだけ考えても答えは見つかりません。なぜなら、こんな酷い目に遭わなければならないほどの罪を犯したことがないからです。
 もう、この境遇を受け入れるしかない。彼はそう自分に言い聞かせました。さぁ、もう少しで自宅です。……と、自宅の前に奇妙なものを見つけました。屋台が立っているのです。こんな所に屋台なんてなかった筈。今日ここに来たのでしょう。それにしても、他人があまり寄り付かない危険な場所によく店を開いたものです。どんな物を売っているのかと中を覗き込むと、支度をしていた店主と目が合ってしまいました。先程の事があったものですから、彼は素っ頓狂な声を上げて尻餅をついてしまいました。ですが、この店主は悪人ではなく、「大丈夫ですか」と声をかけ、彼に手を差し伸べました。眼鏡の奥の瞳は、それはそれは優しげなものでした。彼は久しぶりに、他人に感謝しました。こういうとき、少しでも優しさを見せられると、それまでの怒りは収まってしまうものです。
「すいません。気になったもので」
「そうですか。では、ここで会ったのも何かの縁、商品をひとつ、いかがですか?」
 ありがたかったのですが、何度も言うように、彼にはお金がありません。そのことを店主に説明すると、
「心配ありません。ここの商品は全額タダですから」
 何ということでしょう。今の彼にとって、この店は天国のような場所でした。
「申し遅れました、私は店主の、色眼鏡です」
 何だか信用出来なさそうな名前でしたが、そんなことはどうでもよかったのです。彼は色眼鏡に、どんな商品を売っているのか尋ねました。
「私は、『幸せ』を人に売っております」
「幸せ? どういうことですか?」
「そのまんまの意味です。権力、富み、愛……。私はそういった幸せを、皆様に無料で提供しているのです」
 やはり、この男も他の人間と同じだったのだろうか。彼はがっかりしました。この男も自分を馬鹿にしているのだ、と感じました。
 しかし、ちょっと面白そうなので、彼は色眼鏡の話に乗っかってみることにしました。
「なら、俺に金をください」
「あなたの幸せは、お金でよろしいですね?」
「はい」
「提供出来る幸せはお1人様3つまでですが、もう少し考えてからにしますか?」
「いや、今は無くならない財産が欲しいのです」
 彼が言うと、色眼鏡は彼の手を優しく握りました。色眼鏡の手はとても暖かく、彼の心は一瞬にして晴れてしまいました。
「はい、これで、あなた様に『お金』という幸せが渡りました。では、今日はこの辺で。何かありましたらこちらに連絡をください」
 そう言うと、色眼鏡は1枚の紙を手渡しました。この店の電話番号でした。
 ありがとうと言って彼は店をあとにしました。もうここには来ないだろう。そう思っていました。
 ところが、店から離れて5分ほど経つと、彼の目の前に大きなリムジンが現れました。取引していた人たちの車かもしれないと、彼は逃げる準備をしました。
 リムジンのドアが開き、中からスーツを着た男性が現れました。ああ、連れて行かれる。いざ逃げようとすると、足がすくんで動けません。戸惑っていると、男性が彼に近づき、こう言いました。
「ご主人様、お迎えに上がりました」
「ご、ご主人様?」
「急いで。ここは危険です」
 男性に率いられ、彼はリムジンに乗り込みました。2人が乗ったのを確認すると、ドライバーはやたら長いその車を動かし始めました。
 中では拷問など全くされず、むしろ手厚い待遇を受けました。まずは格好良いスーツに着替えさせてもらい、次にシャンパンを飲ませてもらいました。これがフランスの味か、などと訳のわからないことを考えていると、男性は銀色のケースを彼に手渡しました。
「これをお忘れですよ、ご主人様」
 恐る恐るケースを開けてみると、中には黒光りするカードと3つの札束が入っていました。これが、これが自分の物なのか? 彼はなるべく指紋をつけないよう、慎重に黒いカードを取り出しました。
 ここで漸く、彼は色眼鏡のことを思い出すのです。あの店主は、本当に幸せを売る男だったのだと。彼をリムジンに乗せた男は執事といったところでしょうか。
 リムジンが豪邸に着きました。男性が言うことには、ここは彼の家なのだそうです。庭とプールがあって、中に入ると世界中の高価なオブジェがお出迎え。2階建てで、上には大きなベッドのある寝室が。1人入ってもまだスペースがあります。これらが全て自分の物。彼は興奮しました。夢ではありません。彼の手にはまだ、電話番号が書かれた紙が握られていますから。
 だが、服が綺麗になっても臭いはまだ残っています。男性に風呂がどこにあるのかを尋ねて、浴場に向かいました。そこでも彼は驚きました。温泉宿のように広い湯船。ライオンの口から湯が出てきます。スペースがかなりあって、シャワーは2つだけ付いています。何だか不自然でしたが、文句は言えません。何しろ、彼は今日からここを好きに使えるのですから! シャワーでこれまで蓄積された汚れを洗い流し、湯船に浸かります。体中から痛みが引いてゆくかのようです。
 さっぱりした後は、体を適当に拭いてあのベッドの中へ。ふかふかで、これまで眠っていた地面とは格別です。彼はそのまま眠りにつきました。

2つ目の幸福

 翌日から、彼の1日は大きく様変わりしました。朝から銀座や錦糸町、日本橋でお金を大量に消費し、夜は歌舞伎町で綺麗なお姉様方と楽しいひと時を過ごします。まさに豪遊です。彼の家には時計や服などのコレクションが溜まり、遠方には土地を3つ持ちました。しかも、これだけお金を使っても財産は無くなりません。これほどの幸せは無いと彼は大喜びしました。
 しかし、良いことばかりではありません。しばらく経つと、彼の家に劇薬が送りつけられたり、町中で殺されそうになったりと、今まで以上の危険が彼を襲いました。理由は簡単、彼が億万長者だからです。富こそ幸せの鍵と考える人は彼以外にも沢山います。そんな人達が、彼の富を狙っているのです。彼はその対策としてボディーガードを雇い、どうにか危険を抑えることが出来ました。
 さて、それから何日か経つと、彼は何だか物足りない気分になりました。原因は何だろうかとベッドに潜って考えていると、あることに気がつきました。いくらお金を持っていても、愛人は買うことが出来ません。歌舞伎町では沢山のお姉様方と仲良くなりましたが、彼にとってそれは一緒に楽しむ相手にすぎません。決してそこに愛はありません。
「次は愛か」
 彼は大切にしまっておいた1枚の紙を取り出し、電話をかけました。そう、色眼鏡にです。
 住所を伝えると、色眼鏡はものの数分で家に到着しました。
「ありがとうございます、また私に電話をかけてくださるなんて」
 色眼鏡は腰を低くして彼に礼を言いました。
「礼には及ばない。それより次の幸福だ」
 お金持ちになってから、彼の態度は大きくなりました。以前は全ての人に対して敬語を使っていたのに、今では色眼鏡にも私語で話します。
「俺はお前のおかげで億万長者になれた。だが、それだけでは足りないのだ。俺の人生には愛する者が必要なのだ」
「なるほど」
「眼鏡、次は俺にピッタリの妻をよこせ! 次の幸せは、『愛』だ!」
 色眼鏡はすぐにそれを許可し、前のように彼の手を優しく握りました。やはりその手は暖かかったのですが、人のぬくもりなど、今の彼には無価値な物でした。
 作業を終えて色眼鏡が帰って行きます。すると、それとほぼ同時に、1人の女性が彼の寝室に入ってきました。茶色の長い髪に整った顔。澄んだ瞳、そして豊満な体。彼の好みの女性がそこに立っていました。
「あなた」
「お、俺のことか?」
「当たり前じゃない、あなたは私の夫なんだから」
 彼の中で何かが弾けました。例えるなら、そう、火山。火山噴火のごとく、彼の『愛』の感情は爆発しました。
 妻は彼に歩み寄り、彼の隣に横たわりました。これでやっと、余分に空いていたベッドのスペースが埋まったわけです。
 その日はいつも以上に安らかな眠りにつくことが出来ました。これからはもう、1人寂しく眠らずに済みます。一緒に眠ってくれるパートナーがいますから。朝起きても、買い物に出かけても、食事をしても、妻は常に隣にいます。2つの幸せが、彼の生活をより暖かいものに変えました。
 ですが、光ある所には必ず影が出来ます。幸福になれば、同時に不幸も襲ってきます。
 ある日、都内でディナーを楽しんだ帰りのこと。彼は黒いスーツ、妻は真っ白なドレスを身にまとっておめかししています。
「美味しかったな」
「ええ。あなたのおかげよ」
「いつも俺と一緒にいてくれるからな。これぐらいやらないと恩返しにならないよ」
 そんな話をしていると、2人の前に1人の男が現れました。げっそりとやせ細っていて、目は焦点が合いません。最も彼の目を引いたのは、その手に握られているナイフです。
「なんでだよ……なんで、俺を捨てたんだよぉ!」
 妻のかつての恋人でしょう。男はずっと妻の顔を見て喚いていますから。
 追い払ってもらおう。この近くで待っているボディーガードに連絡を入れようと電話を取り出したとき、事件は起きました。彼が通話ボタンを押して事態を連絡した、ほんのちょっとの間に、男は妻に突進しました。それも、ナイフの刃を突き立てて。男が離れると、妻は仰向けに倒れました。傷口から流れ出る血が、純白のドレスを赤く染めてゆきます。彼は妻に駆け寄りました。
「おい! しっかりするんだ! おい!」
 もう遅かったのです。刃を抜いたことで血が一気に放出され、彼女の血液は大量にながれでてしまったのです。
 震える手で、彼が119番に連絡します。男の方は駆けつけたボディーガード達が取り押さえました。男は最後まで喚いていましたが、本当に叫びたかったのは彼の方です。彼はまだ希望を捨てていません。叫んだら、妻が遠くに行ってしまうような気がしていました。
 それから2日後。結局、妻は出血多量で他界してしまいました。叫んでいなくても、彼女は遠い所へ行ってしまいました。このとき漸く、彼は叫びました。腹から声を出したのは小学校の音楽祭以来でした。

3つ目の幸福

 それからというもの、彼はあの男を殺すことばかり考えていました。どうすれば、刑務所の中にいる男を殺めることが出来るでしょうか。今回もすぐには良案は浮かばず、何度も何度も酒に頼りました。更に、相変わらず財産を狙う者達が現れて彼に襲いかかりました。その都度ボディーガードに助けてもらっていましたが、彼の精神はもう限界でした。
 ですが、そのようなときにこそ良案は浮かぶものです。彼は再び、色眼鏡に電話をかけました。この前と同じように、色眼鏡は数分で到着しましたが、苛ついていた彼には非常に遅く感じられました。
「遅い、何をやってたんだ!」
「申し訳ございません」
 色眼鏡は素直に謝りました。大なり小なり争いは何も生まないと知っていたからです。
「それで、頼みと言うのは?」
「俺に、『権力』を寄越せ」
「かしこまりました。なお、これで3つ目の……」
「うるさい! 早くしろ!」
 何かを言いかけましたが、色眼鏡はすぐに言葉を止めて、彼の手を握りました。作業はいつも通りこれで終了。色眼鏡は帰ってしまいました。
 『権力』を手に入れた彼は、早速法務大臣に連絡を取りました。用件は1つ。妻を殺した憎い男を死刑にしてほしい。
 今の彼に逆らう者はいません。なぜなら彼は、絶大な権力を持っているのですから。逆らうことは社会から消えることを意味するのです。
 数日後、男を死刑にしたと法務大臣から連絡がありました。まだ腹の虫が収まらなかった彼は、次に今まで自分を狙ってきた者達を殺すように命令します。こちらもすぐに実行され、ものの4日で全員死刑が執行されました。こんな話、当然口外出来ません。彼等は法外な手順を踏んで死刑を執行しているのです。
 更に、彼はより多くの人間を警察に捕まえさせました。皆、彼がよく思わない人間ばかりでした。もしかしたら、このときの彼は薄汚くて一文無しだった頃の怒りを再燃させていたのかもしれません。それから、医療、経済、そして軍事と、あらゆることに手を出しました。彼はまさに、独裁者でした。
 全てを手中に納め、首相官邸を自分の邸宅に選んだ彼は、ついに外交にまで手を出そうとしていました。もちろん温厚なものではなく、侵略戦争を起こそうとしていたのです。
「いいか、まずは近郊を全て侵略しろ。ゆくゆくは全世界を我が物にするのだぁ!」
 戦車や潜水艦が極秘裏に製造され、あわや本当に戦争になるところでした。
 しかし、その計画は脆くも崩れ去ることになります。彼は知らず知らずのうちに毒を盛られ、彼は衰弱してゆきました。出会った時から彼についてきてくれた、執事の仕業でした。
 げっそりと痩せ細り、目はやや飛び出しています。苦しいからです。こうなったとき、彼の脳裏にこれまでの記憶が走馬灯のごとく蘇りました。そして、なんだかんだ生き延びることが出来たあの日々がとても愛おしくなりました。富でも愛でも権力でもない、『生きる』ことこそ最高の幸せだったのです。
 彼は色眼鏡に再び電話をかけました。何度電話をかけても、相手は出ませんでした。そこで、幸せをもう3つ買ったことを思い出しました。
「もう、無理なのか……」
 最後の瞬間、彼の目からは一筋の涙が流れ出ました。生きたい。もう世界なんていらない。ただ生きたい。そう思いながら、彼は永久の眠りにつきました。



 最も素晴らしい幸せが『生きる』ことだというのは当たり前なのです。他の幸福を願うとそれを疎ましく思う人が現れますが、この幸福だけは、持っていても誰も恨みません。しかし、それに気づいている人は僅かしかいません。
 もし、あなたの前に色眼鏡が現れた時は、何が自分に最も必要なのか、じっくり考えることをおすすめします。

幸福を買う男

幸福を買う男

幸福から見放されていた男が見つけたのは、「幸福」を売る謎の店。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1つ目の幸福
  2. 2つ目の幸福
  3. 3つ目の幸福