最高のプレゼント

『最高のプレゼント』

 卒業式という季節は悲しくて寂しい。あと一月ほどで上野沙希が今まで作り上げてきたものが、ただの思い出となる。友達とも別れ、お世話になった先生とも別れる。何より、美術教師の堀田和彦先生と別れるのが一番辛い。
 堀田先生と付き合い始めたのはつい一年前からだ。それより前は、素敵な恋をしたいな、と思っていた。もちろん、その夢が叶った時は気絶しそうなくらい嬉しかった。だけど、今は違う。恋は素敵であると同時に、悲しいものでもある、そう思うようになった。
一年間、月にお祈りを続ければ、願いが叶うと聞いたことがあるが、本当なのだろうか。もし、本当なら、堀田先生と別れないようにお願いしたい。沙希は一瞬、合格した地方の大学を蹴ろうかな、と思った。しかし、すぐにその考えは頭の中から消し去った。そんなことをすれば、堀田先生に嫌われるかもしれない。もし、そんなことになれば、別れる事よりも辛く、悲しいことになる。
 沙希は鞄の中にスケッチブックをしまうと、ベッドに潜り込んだ。ほどよく弾力のあるベッドは、沙希の身体を包み込んだ。沙希はすぐに深い眠りに落ちた。
翌日の最後の授業は、美術だった。沙希は授業など上の空で、ずっと堀田先生の顔を見ていた。授業中の堀田先生の顔はとても活き活きしている。まるで少年のように何かに夢中になっているような顔だった。堀田先生は二四歳の青年なのだが、どうしても少年のようなあどけなさが残っている。けれど、そんな堀田先生の顔が沙希は好きなのだ。
 授業が終了し、ホームルームが終わった後、沙希はしばらくしてから美術準備室に向かった。ドアを叩くと中から、どうぞ、と堀田先生のやさしい声が聞こえてきた。
中に入ると、真っ先に目に飛び込んできたのは堀田先生の笑顔だった。机の上には美術の本がひろげられており、その隣に彼の好きなコーヒーが置かれていた。
「今日はちゃんと授業を聞いていたかい?」
「ううん。ずっと先生の顔を見ていたの。毎日好きな人の顔を見られて、私すごく幸せ。だけど……」
 沙希は、一瞬目線を堀田先生からはずした。
沈黙がしばらくの間続いた後、堀田先生は言った。
「沙希、コーヒー飲むかい?」
「はい」
 堀田先生が入れてくれるコーヒーは好きだ。沙希の好みに合わせて作ってくれる。砂糖の加減だってちょうどいいし、ミルクもちょうどいい。沙希では出せない、絶妙な味に仕上げてくれる。何より、先生と一緒に飲めるという事が一番嬉しい。
 しばらくすると、コーヒーを淹(い)れる音が聞こえてきた。それと同時にコーヒーの匂いが部屋いっぱいに広がり、この部屋特有な絵の具独特の匂いと混ざり合った。最初は、あまりこの匂いは好きではなかったが、最近はそうでもない。甘くて苦い。そんな匂いが漂っている。なぜなら、この部屋には彼と一緒にいた匂いが染み付いているからだ。
だけど、もう少ししたら、この部屋の匂いから、沙希の匂いだけが消えていく。そう思うと例えようもない悲しみに襲われそうになる。
沙希はどこか二人だけの世界に行きたいと思った。そうすれば、ずっと二人だけでいられるからだ。だけど、すぐに所詮は儚い夢だと思った。それと同時にそんなところがあれば、本当にすばらしいとも思った。堀田先生に会えるのは嬉しいけれど、誰かにこの関係を知れたらどうしようかと、この不安が常に頭の中をいっぱいにしている。もし、そうなったら、堀田先生はこの学校にはいられなくなるだろう。沙希自身だって、無事ではすまないだろうなって思っている。
逆にいっそのこと、この事が明るみになればいいのに、と思ったことさえある。そうなれば、みんなに見せびらかす事だってできるし、なにより、日陰でこそこそと恋をしなくてすむ。しかし、それはやはり許されない事なのだろうか。このまま卒業するまでずっと日陰で恋をし、卒業と同時にお別れしなければならないのだろうか。
沙希はなんだかやるせない気持ちになった。
「どうしたんだい、沙希?そんな悲しそうな顔をして」
 沙希は突然の声に驚き、周りに意識を集中させた。
すると、下から顔を覗かしている堀田先生の姿に気が付いた。彼は沙希にだけ与える満面の笑顔を浮かべていた。
「先生、いつからそこに?」
「ほんのさっきだよ。沙希がずっと俯(うつむ)いていたからね。どうしたのかな、と思って覗き込んだんだよ」
「私そんなに悲しそうな顔していました?」
 沙希は頬が少し熱くなるのを感じながら訊いた。
「うん、していたよ。今はいつもの沙希の顔だけどね」
 その言葉を聞いて、沙希は安心した。せっかく、堀田先生と一緒にいられる大切な時間だと言うのに、そんな顔をしていたら台無しだ。
「先生。コーヒーは?」
「僕の机の上だよ」
 堀田先生は机の上を指差しながら言った。
「それよりも、なにかあったのかい?」
 そう言うと同時に、堀田先生の顔は真剣な顔になった。
 沙希はさっき考えていた事を言おうかどうしようか迷った。だけど、話した方がいいに決まっている。沙希はさっき考えていた事を話すと、堀田先生はまた、いつもの笑顔に戻った。
「僕だって、いつもそう思っているよ。いつ明るみになるとも限らない。もしも、明るみになったら、僕はここにはいられないだろうね。それに、このまま沙希が無事に卒業したとしても、沙希の言うとおり、お別れかもしれないね」
 お別れかもしれない。たったそれだけの言葉なのに、沙希はあっという間に深い悲しみに落ちた。涙が出そうになるが、ぐっと堪えた。今、少しでも涙が出れば、たちまち、溢れんばかりの涙が出るだろう。肩だって震えるだろうし、嗚咽混じりの声だって発するに違いなかった。
そうなれば、堀田先生はきっと、困った顔をするだろう。それだけは絶対にイヤだった。だから、沙希はせめて、自分がどんな顔しているのか悟られないよう俯いた。
しかし、沙希は俯いた後すぐに後悔した。こんな事をすれば、泣いていると思われるに違いないと気づいた。彼を困らせないために取った行動が、結果、裏目に出たかもしれない。そう思うと、沙希は自分が情けなく思えた。自然と肩が震えだす。
今、彼はやはり困った顔をしているのだろうか。沙希は怖くて顔を上げることができなかった。
沙希はしばらくの間、絵の具がべたべたとついている床を見ていると、両肩に堀田先生の手が乗ったのを感じた。一瞬、沙希はそれが何かわからなかったが、すぐに、それは堀田先生の手であることがわかった。彼の手から、暖かいものが流れてきている。それは、沙希の体の中を通って、四肢の先端にまで流れた。
「沙希は、本当にこのままお別れしてしまうと、思っているのかい?」
 沙希は何も言えずに俯いていた。
「沙希の本心はどうかわからないけど、僕はこれで終わってしまうなんて思っていない。終わらせたくないと思っている」
 その言葉を聞くと同時に、沙希は自然と顔を上げた。そこには、優しい笑みを浮かべた堀田先生の姿があった。沙希は涙が頬を伝って流れていくのを感じた。流れ始めた涙は洪水のように溢れ出た。さっきまで我慢していた分も、一緒に流れ出た。
「先生、私もこのまま終わってしまうなんてイヤ。終わらせたくない。ずっと、ずっと先生と一緒にいたい」
 沙希は嗚咽混じりの声で言った。自分でも何を言っているのか、聞き取れないほどひどい声だった。しかし、堀田先生は何も言わずに聞いていてくれた。
 沙希は堀田先生の胸に顔をうずめ、思い切り泣いた。ここが学校だと言う事を忘れるくらい泣いた。堀田先生はいつの間にか、沙希の背中に両腕を回し、抱きしめていた。沙希もそれに答えるために、力いっぱい抱きしめた。
 先のことはわからないけれど、卒業と同時にお別れしなくていい。ただ、その気持ちだけが沙希の心の中をいっぱいにしていた。
 しばらくの間、堀田先生の胸で泣いた後、沙希はゆっくりと離れた。目の前が涙でぼやけていて、堀田先生の姿がはっきりと見えなかった。沙希はブレザーの裾で涙を拭った。
「もう、大丈夫かい?」
「はい。先生、ありがとう」
「そうか。でも、僕は沙希があんな大きな声で鳴くから怖かったよ。誰かが部屋に入ってくるんじゃないかってね」
「いじわる」
 堀田先生は悪戯(いたずら)っぽい顔を浮かべながら笑っていた。
「沙希、ここは君の母校なんだ。いつでも帰ってきたらいい」
 堀田先生は笑顔で言った。
「はい。先生、お願いがあるんですけど」
沙希は昨夜、鞄の中に入れておいた、スケッチブックを取り出した。
「これに、先生を描いてもいいですか?」
「どうしてだい?」
「先生に、プレゼントしたいから」
 堀田先生は少し考え込んだ後、言った。
「よし、だったらちょうどいい。僕も沙希にプレゼントがあるんだ。ちょっと早めの卒業プレゼントだけどね」
「何ですか?」
「それは、後でのお楽しみだ。じゃあ、始めようか。僕はどうしたらいい?」
「じゃあ、席に座って下さい」
 堀田先生は言われるがまま腰掛けた。両手を膝の上に置き、顎を引き、背筋を伸ばしている。美術の時間、モデルになる子がいつもとっているポーズだ。
「これでいいかい?」
「はい」
 沙希も椅子に腰掛けた。正直言って、沙希は絵を描く事が余り上手ではない。むしろ、下手な方だ。だけど、沙希はどうしても自分の描いた作品を堀田先生にプレゼントしたかった。自分の気持ちを言葉以外の何かで伝えたかった。それには、この方法が一番いいと思った。
沙希は筆箱から先が少し丸まった鉛筆と消しゴムを取り出した。スケッチブックを開き、堀田先生に習った事を頭に思い浮かべた。そして、ゆっくりと描き始めた。
沙希は堀田先生の顔を繊細に描いた。一本一本の線を描くたびに、彼の肌や唇の暖かさが伝わってきた。まるで、彼の顔を優しく撫でているようだ。ひょっとしたら、人物を描くということは、その人の体中を撫でる事なのかもしれない。こんな事を思ったのは初めてだった。他の恋人達も好きな人を描く時は、そういうふうに描いているのかもしれない。
 沙希は一通り描き終わった後、溜息をついた。今回はわりといい作品が描けたと思っていたのに、それほどでもなかった。頬の輪郭は少し歪(いびつ)だし、目の位置だって少し近すぎる気がする。一瞬、こんな作品を先生にプレゼントしてもいいものか、と悩んでしまう。
「先生、できました」
 沙希は躊躇いながら言った。
 堀田先生は席から立ち上がると、沙希の方に近づいてきた。沙希はスケッチブックを恐る恐る手渡した。堀田先生はページを開き、しばらくの間、絵を眺めて言った。
「いい絵だ」
「えっ?」
 沙希は大きく目を見開いた。
「確かに、あまり上手いといえる作品ではないけどね。でも、ただ写真みたいに描くだけなら、ちょっと練習したら誰でも上手に描ける。そう、この作品には優しさや暖かさ、瞳の奥に見える心の強さがある。沙希の僕に対する思いが伝わってくる。ありがとう、沙希。これは僕の一生の宝物だ」
 そういわれた瞬間、再び、沙希の目蓋の上に熱いものがこみ上げてきた。
「沙希、今度は僕の番だ。僕のプレゼント、受け取ってくれるかい?」
 沙希は無言で頷いた。
 堀田先生は机の裏から一枚のキャンバスを取り出した。
「沙希がこれを糧に、これからもずっとがんばっていって欲しいと思っているんだ」
 そこには、満面の笑みを浮かべた沙希の姿が描かれていた。この絵からは、ここで先生と過ごした、楽しかったもの、全てが凝縮されているような感じだった。
「沙希が大学生になったら、色々な事を経験するだろう。楽しい事や辛い事、ひょっとしたら、悲しいこともあるかも知れない。だけど、そんな時は、これを見てがんばって欲しいと思って描いたんだ。それでも、耐えられないことがあったら、すぐに僕が飛んでいってあげるよ」
 堀田先生はそう言った後、沙希に絵を手渡した。
 沙希は照れくさそうに笑った。
 これは、今までの人生の中で、最高のプレゼントだった。
 例え遠く離れても、心はずっと繋がっている。これまでも、そしてこれからもずっとがんばっていける。沙希は堀田先生の顔を見つめながらそう思った。

最高のプレゼント

最高のプレゼント

  • 小説
  • 短編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-26

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