トリック☆ブレイカー 11話~20話

トリック☆ブレイカー

   第十一話 切札

「これは、あたしの従姉の友達が体験した話なんだけど……」
 夏目は静かに、ゆっくりと話し始めた。
「その女性、その日は残業で遅くなって、帰りの電車を降りた頃にはもう、深夜だったんだって。それで、駅から家までは少し歩くんだけど、人通りの少ない路地を通らなきゃいけないのね。車で入り込んだら後悔しそうな狭ーい路地……。しかも真っ直ぐ伸びるその道が超薄暗いの。彼女はうわヤバイ、って思って、一気に通り抜けるつもりで早足で歩いたの。……カツカツカツ、って自分のヒールの音がやけに響く感じ……いつもは明るい内に通る、通り慣れたはずの道が、全く別の道を歩いているような気がしたって……。そしてしばらく歩いていくと、ポツンと街灯が立ってるんだけど、そのぼうっとした明かりの下に……黒いマフラーが落ちてたんだって……。季節は冬、マフラー自体は珍しくも何ともない。酔っ払いの落し物か、はたまた風に飛ばされた洗濯物か。でも、どちらにしたって関係無いから彼女は素通りしたの。そして、しばらく歩くとまた街灯が立っていたんだけど……アスファルトの上に、またあるのよ、黒いマフラーが……。彼女は少し驚いて、今度は立ち止ったの。今、目の前にある、地面の上でへびのようにのたくっている、長くて真っ黒なマフラーは、さっき見た物と同じ物のように見える、でもそんなことあるはず無いわよね……? 後ろを振り返るとさっき通り過ぎた街灯の明かりが遠くに見えるけど、地面の上まではもう見えない。かといって、戻って確かめる気はさらさら無い。気にはなるけど、彼女はマフラーを避けるようにして、また歩き出したの……。しばらく歩くと、また次の街灯が立っていて……もしかしたら、っていう予感が彼女にはあったわ……そして、街灯の下……。でも、そこには何も無かったわ。見回したけど、何も無し。拍子抜けしちゃった彼女は、別に誰かに見られていた訳でも無いのに、少し緊張していた自分が恥ずかしくなって、そそくさとその場を後にしたの。そうやって、漸く帰り着くことができた彼女は、玄関を上がり、明かりを点けて一息付いた。見れば、留守中に電話が有ったみたい。メッセージ有りのランプがチカチカチカ……彼女はボタンを押してメッセージを再生させた……するとそれは、友人からの飲みの誘いだったわ。彼女は友人の声に耳を傾けながら洗面所に向かい、明りを点けた瞬間、悲鳴を上げた。なぜって、洗面台の鏡に映った自分の首に、黒いマフラーがぐるぐると巻き付いていたから……! 彼女はすぐにマフラーを引き剥がそうとしたわ。でもマフラーはブチブチとちょっとずつ千切れるばかりで一気に引き剥がすことがどうしてもできないの。そして彼女は掌に纏わり付いた糸を見て気付いたの、これは髪の毛だって。彼女はもうバニックになって、泣きながら手を動かしたわ。そして、彼女は自分の肩の後ろに何かがあることに気が付き、身体を凍りつかせた……。彼女は小さく震えながらゆっくりと鏡に背を向け……そおっと、肩越しに鏡を見たの。そしたら、肩に女の首がぶら下がっていて、血走った眼でじっとこちらを見ていたのよ!」
「ぎゃあああああああああああああ!!!」
 と秋山が悲鳴を上げた。
「あ、アッキー後ろ……!」
「ぎゃあああああああああああああ!!!」
「あの、申し訳ございませんがお客様」
「ぎゃあああああああああああああ!!!」
「イヤ、ぎゃああ、じゃなくて。他のお客様のご迷惑になりますので」
 蝶ネクタイのウェイターが困った表情で告げた。
「あの……そういう話はもっとふさわしい時間と場所で、部屋を暗くして、ろうそくとか立ててやって頂くのがよろしいかと……」
 ウェイターが続けて言った。
 ある日の午後、とあるレストランでのことだった。外はすがすがしく晴れ渡っており、日当たりの良い店内は明るく、ちらほらいる客がこちらを見ていた。
「しかしお客様、このシチュエーションでそれだけ怖がれるって、どんだけ想像力豊かなんですか……」
「すすす、すみません! もう騒ぎませんので! すみません。すみません」
 秋山はウェイターに頭を下げると、周りのテーブルにもペコペコと頭を下げた。
「全く秋山君、ビビリなのも大概にしたまえよ君ィ」
 春日がコーヒーカップを手に言った。
「スガッチ……カップがカタカタいってるみたいだけど?」
「ちょ、ちょっと止めてよ夏目君。これはアレだよ……え、栄養失調」
「はぁ……オジサン二人がこの程度の怪談でビビリ倒すなんて……てゆうか、本物の遺体山ほど見てるでしょうがあなた達」
「い、いやあ。遺体とオバケは違うもの。ね、ねえ先輩」
「そうだね。違うね。全然違うね。でも僕の場合別に怖がってたとかそんなんじゃ無いからね? これはほらアレ……は、発情期」
「はいはい」
 夏目は息を吐いて首を振った。
「そ、それより夏目ちゃん、その女性、その後どうなったの?」
「何かね、そのまま気を失ったみたい。目が覚めたら朝だったって。それからは特に変なのが出たりすることは無いみたい。…………あれ? 今日はあたしが取材するつもりだったのに、なんでこんな話してるんだっけ。何かあたしばっかり喋ってない?」
 首を傾げた夏目の手にはICレコーダーが握られていた。休日につき、夏目の本日の装いは制服ではなく、藍が鮮やかなデニムのワンピースにキャメルカラーのミドルブーツとなっている。
「確かに……何でだっけ……」
「さあ、わかんないです……でも、大体いつもこんな感じのような気が……」
 春日と秋山も首を傾ける。と、ここで、彼等が座る席とは少し離れた所で、テーブルを叩く音がした。
「ホントいい加減にしなさいよ? いつまでこうしてるつもり? 話せば分かるって言うからこんな所まで来たんでしょ?」
「だ、だからそう怒らないで。これは誤解なんだよ。そ、そう何かの間違いなんだ」
 春日達がその声に目を向ければ、若い女が向かいに座った男を睨み付けていた。
「何が誤解よ? アンタの部屋に私のじゃない髪が落ちてたってことは、だから、そういうことなんでしょう? さぞかしおモテになるようで! ねえ、良?」
 女の眼が更に吊り上がった。
「そ……そんな。ち、千佳。だからあの髪の毛は本当に何が何だか解らないんだよぉ」
 良と呼ばれた男が今にも泣かされそうだった。
「さっきから知らない解らないばっかり。いつまでシラを切るつもり?」
「シ、シラなんて……」
「じゃあさっさと説明してごらんなさいよ! オドオドオドオドして、アンタ子供の時からそうよ!」
「ご、ごめんよ千佳」
「ああもう! アンタ見てるとほんとイライラするわ! シャキッとしなさいシャキッと!」
 と、言ったのは、千佳の後ろに立った夏目だった。
「へへん、最近はちょっとぐらい草食入ってる方が意外とモテるんですぅぅ」
 と良の後ろで秋山が言い返した。
「「……………………」」
 千佳と良はそれぞれ自分の背後を振り返って唖然としている。
「何よ草食って! 男の意地とかプライドとか無いの!?」
 と夏目が腰に手を当てて眉を吊り上げる。
「そっちこそ! 女ならおしとやかにできないもんかね! 髪の毛ぐらいでぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ、これだから女ってやつぁ……!」
 と秋山が大仰に溜息を吐いた。
「ちょっと、そんな口きいてタダで済むと思ってんの!?」
「ふん! もう上から目線の物言いにはウンザリさ! これからボクらは断固戦う!」
「戦うですって? ふっ、笑わせてくれるわ。アンタ達みたいなヘタレに何ができるって言うの?」
「あ! ボク達が本気出したら凄いよ? 多分パワーが三倍に跳ね上がるよ!?」
「ふっ、アンタらごときがこの私に勝負を挑むというの? ……ふっふっふ……よかろう……貴様らを手始めにこの大地を地獄の業火で焼き尽くし、いずれ世界全てを焦土と化してくれるわ!」
「そんなことはさせない! この命に代えても、世界の平和はボク達が守る!」
「ふはははははっ! 相手になってやろう。さあ、全力でかかってくるがいい!」
 夏目の手から光が発せられ、そのまばゆい光に包まれた秋山と良の、HPとMPが全回復した。
「ご親切にどうも! あとできたら、死んでる仲間も生き返らせてくれますかぁぁ!」
「うるさいわよ! 何なのよアンタ達さっきから! 何その世界観!?」
 千佳がまたテーブルを叩いた。。
「本当に何なんですかあなた達は? 急に出てきて」
 良も二人に抗議の眼を向けた。そこに春日が割って入る。
「まあまあ、別に怪しい者じゃありません。どうでしょう、差し支え無ければ喧嘩の理由を聞かせて頂けませんか?」
「支えるわ。つっかえまくるわ。何でアンタにそんなこと言わなきゃなんないのよ」
 千佳が春日を睨む。
「いやいや、先ずは状況を整理し、冷静に話し合いを進めてこそ、解決への糸口が見付かるというものです。あくまで僕達はそのお手伝いをしたいと」
 春日は自分の言葉にウンウン頷く。
「……何かアンタ達、ヒマだから来ましたー、みたいな感じがビシビシ伝わってくんだけど……」
 千佳がジト目を送る。
「気の所為です。さは、安心してお話下さい。これ以上若い二人が言い争い、お互いを傷付け合うのを見るのは辛いですから……」
「言い争ってたのは私達じゃないけどね……。フン……じゃあ、聞いて貰おうじゃないの」
 千佳が良を睨んだ。
「今日コイツの部屋に遊びに行く約束してたわけ。で、行ったわけ。そしたら私のより長い髪の毛がソファーの肘かけに付いてたのよ!」
 千佳は肩まで伸びた自分の髪に触った。
「なるほど。千佳さんより短い髪が落ちてたなら、成長途中で抜けた千佳さんの髪とも、良さん自身の髪とも考えられるけど、逆は無い。長い髪が落ちていたならそれは間違いなく別人の髪ね……」
 夏目が眼を細めた。
「そ、そんな! 違います! 確かに長い髪の毛が付いてましたけど! ぼくは全く知らないんです!」
 良が慌てて首を振った。
「良さん。参考までに、昨日から今日にかけての行動をお聞かせ願えますか?」
 秋山が訊ねた。
「え? ええ? き、昨日ですか? し、仕事ですよ。それで……夕方帰ったら親戚から留守電に『近々遊びに行く』って伝言入ってたんで、折り返したら話が弾んで夜になってしまって……それから寝て……で、今日は休みで、千佳が遊びに来て……。ち、千佳、本当だよ? 昨夜は親戚と電話してただけなんだ」
「ふうん……」
 千佳は素っ気無く鼻を鳴らした。
「なるほど。では昨晩、ロングヘアーの女性とソファーでニャンニャン行為に及んだという事実は無いと仰るんですね?」
 秋山が刑事の顔で訊ねた。
「ええ! 断じてやってません!」
 良が強く頷く。
 そこで、それまで静かに耳を傾けていた春日が口を開いた。
「ふむ……ところで良さん、最近、セーターの類を身に付けたことはありませんか?」
「は……?」
 質問の意図を測りかねて良が訊き返した。
「セーター等です。良さん、着てませんでした?」
 今度は千佳に訊いた。
「……確かこの前着てたと思うけど、それが何?」
 春日はそれを聞いて満足そうに頷くと、テーブルに手を付き、まるで教壇に立つ教師のような仕草で語り始めた。
「こんな話を知っていますか? 人間の髪の毛は一日に五十本から百本抜けると言われています。結構な数です。そして、髪の毛というものは思いのほか頭の油で汚れています。そのため、抜け落ちた後、至る所にペタペタ貼り付くわけですね。今あなた達が座っている椅子の背もたれ然り、乗り物の座席然り。そして、セーター……もうお気付きでしょうが、この起毛した表面は抜け落ちた毛髪をよく巻き込むのです! そうやって我々は日々他人の髪の毛を自宅にテイクアウトするわけです。例えば……」
 春日はテーブルに顔を近付けた。するとテーブルの隅にちょうど一本髪の毛が落ちていたので、指で摘み上げた。
「ほうらね、こんな風に。この場合はテーブルに肘を付いた時なんかにお持ち帰りとなりますね」
 春日は指先の髪の毛をふっ、と息で飛ばした。
「このようにして、良さんは先日どこからか髪の長い女性の毛髪を拾い帰ってしまったのでしょう。また、自分の部屋に全く覚えの無い、長い髪の毛が落ちていることに驚き、部屋に女の霊が出るなどと早トチリする怖がり屋さんもいますが、全て着ていた服が原因です。なあに、所詮怪奇なんて全部説明の付く現象なんですよ。ははは」
 笑う春日の横で夏目がポツリと言った。
「なるほど。そうやって尤もらしい理屈をこじつけることによって、全ての怪奇から眼を逸らし続けてきたのね……。先程子犬のように震えてらっしゃった春日さん?」
「ちょ、ちょっと止めてくんない? 違うからね? アレはアレだから……み、右手に仕込まれた超振動破砕装置」
「そ、そうだよ千佳! この人の言う通りだよ! あれはどこかでくっ付いた知らない人の髪の毛なんだよ!」
 後方支援を得て勢いづいた良が、説得に取り掛った。千佳は眉を顰めながらも話に耳を傾けている。
 春日達は一旦距離を置き、それを見守る。
「先輩。やりましたね! あの二人、上手く仲直りできるんじゃないですか? しかし、本当によく落ちてるもんなんですねぇ、髪の毛って」
「ああいや、実はあれ、言葉に信憑性を出すため、テーブルに手を付くフリしてこっそり置いた僕の髪の毛」
 春日がしれっと言った。
「うお!? マジすか!」
「……でもスガッチ。毛髪の巻き込みは着ている服の仕業ということで別にいいけど、実はやっぱり浮気してて、浮気相手の部屋からテイクアウトしてる場合だってあるわけで、完全に潔白を証明するには至らないんじゃない?」
 夏目が、千佳に聞かれたらまた話が拗れそうな言葉を吐いた。
「まあね、でもさ、良さんってここから見て、二股掛けられる程器用そうに見える?」
「あ、見えないわね」
 夏目は即座に首を振った。
「でしょ? だから僕も助け船を出してあげようかなーなんて思ったわけ」
 ぱちん、と音がした。春日達がそちらに視線を向けると、千佳がテーブルに手を付いていた。手を退けるとそこに一本の鍵があった。
「え? 何……千佳?」
 良が鍵と千佳の顔とを何度も見返す。
「鍵……返すわ……」
 千佳が静かに言った。
「かえ……? え……? ええ!? ちょ、ちょっと待って! 髪の毛のことなら―」
 良がテーブルに身を乗り出す。
「ううん、髪の毛のことはもういい……でも……ごめん……もうお終いにしよ……」
「そ、そんな、何で急に? いやだよ、訳がわからないよ!」
「……アンタはもう……ほら、伯母さんが遊びに来るんなら部屋の掃除くらいやっときなさいよ、全く……じゃあね……」
 千佳は呆れたように小さく笑うと立ち上がり、テーブルを離れた。
「ち、千佳……何で……何で? ぼ、ぼくは千佳じゃないと……」
 良は半端に伸ばした手のまま、茫然と立ち尽くしている。
「うわ。まずいですよ。なんでか一気にさよならムードになってますよ。どうします、先輩!?」
 秋山があたふたと春日を見た。
「…………」
 春日は無言である。
 その代わりに、夏目が口を開いた。
「……この状況で彼女を引き戻せる可能性があるとすれば、あの方法しかないわね……!」
「え、何それ夏目ちゃん! そんな都合の良い方法があるの!?」

※夏目が考えるその方法とは?

「夏目ちゃん、本当にそんな方法があるの!? 教えてあげて! 良ちゃんに教えてあげて!」
 秋山が茫然と突っ立っている良を何度も指差して言う。
「うん……でも……これは人に言われて言うものじゃないし……自分で決めてくれないと……」
 夏目が困ったように言った。
「は? 何それ? あ、出てっちゃうよ! 千佳さん出てっちゃうよ!」
 レジで精算を済ませた千佳が扉に手を掛けた。しかし、店を出てゆくことはできなかった。突然猛スピードで追い掛けてきた良に手を掴まれたからだ。
「ま、待ってよ千佳……その……ぼ、ぼ、ぼくと結婚して下さい!」
 千佳が驚きで目を丸くした。そして二人は見詰め合い、みるみると顔を赤くする。こちらにも鼓動が聞こえてきそうだった。二人は我に返り、店の客達の視線が自分達に集まっていることに気付くと更に顔を真っ赤にし、すぐ近くにあったボックス席に飛び込み、身をちじこませた。動揺のしすぎで、店を他へ移すという発想は浮かばなかったようだ。
「夏目ちゃん、あれが正解?」
 秋山が訊くと、夏目が苦笑まじりに答えた。
「まあ、そうね。ほら、指輪でなく、合鍵を返すってことは、あの二人は結婚どころかまだ婚約もしてないってことよね? それで、千佳さんは良さんが好きだから怒っていたわけでしょう? で、良さんも千佳さんのことが本気で好きならここはプロポーズしかないでしょう」
「なるほどねえ。はてさて、千佳さんの返答やいかに……」
 顔から湯気を立てながら二人はまだ体を小さくしていた。お互い、相手の顔をまともに見ることもできないと見え、俯いたまま黙りこくっている。しかし先に口を開いたのは良の方だった。
「あ、あの……それで……ど、どうかな……?」
「え、あ、うん……ありがと……でも……」
 千佳は答えに窮しているのか言い淀んだ。
「……わ、私その前に、実は謝っておかなきゃならないことがあって……」
「え? 何のこと……?」
 千佳はしばらくその先を切り出せなかった。それでも良は大人しく話の続きを待つ。
「じ、実は……ソファーの肘かけに髪の毛置いといたの……わ、私なの……ごめん!」
「「「……ハ?」」」
 良と、そのすぐ後ろで聞き耳を立てていた夏目と秋山が固まった。そのまましばし店のオブジェと化していたが、なんとか息を吹き返した良が疑問を口にした。
「え、えーと……な、何でそんなことしたの……?」
「良さん、あなたの気持ちを確かめるためですよ」
 爽やかな笑顔で横合いから口を挟んだのは春日だった。
「いやあ、千佳さん、結構ズルイ女性なのかと誤解してました。申し訳ない。あなたは実に正直な方だ」
「ちょ、ちょっと先輩? 一体どういうことですか?」
 秋山が待ったをかけた。
「要するに、千佳さんはとても女性らしい女性だったということさ」
「「「いや、全然わからないです」」」
 秋山と夏目と良が手をぶんぶん振った。困惑した表情の千佳を横目に、春日は話を続けた。
「先の会話からお二人は幼馴染みということでよろしいですね? ですから千佳さんは、良さんが浮気をするような人ではないと分かっていたはずです。しかし、謀らずにはいられなかった」
「何故です?」
 良が真剣な眼差しで訊いてきた。
「不安だったんですよ。浮気できるような人ではない。だからといって、自分のことを本気で愛してくれているとは限らない、ってね」
「そんな!」
 声を上げた良を春日は掌で制した。
「だから、あなたを試したんです。浮気の証拠を捏造することによって修羅場を創りだし、出方を窺った。もし真剣な交際を望んでいるのであれば、態度で示すはずだ、とね。しかし、良さんの煮え切らない態度にお芝居であることも忘れ本気でカッカしてきて、終いには呆れて……みたいな感じでしょうか?」
 春日が笑顔を向けると千佳はギョッとなってたじろいだ。
「いやでも、なんでスガッチがそんなことわかるのよ?」
 夏目が眉を顰めた。
「うん。思い出して欲しいんだけど、良さんは昨日留守電にメッセージを残した相手のことを『親戚』、としか言ってない。なのに千佳さんはその『親戚』が『伯母さん』だと知っていた、それはなぜか……? 答えは、良さんが仕事で留守の間に部屋に入り、偶然にも録音されてゆく音声をリアルタイムで聞いていたからだ、となる」
「あーなるほど!」
 夏目が手を打ち、千佳も驚いて口を開けた。
「……ん? あれ? ちょっと待って。それって別に昨日の内じゃなくてもよくない? 今日良さんの部屋に行ったんでしょ? なら今日隙を見てソファーの肘かけにこっそり髪の毛置いた方が確実じゃないの?」
 夏目のその疑問にも春日が答えた。
「それが、千佳さんが試したかったもう一つのことだよ」
「もう一つの……?」
 良が首を傾げる。
「ええ……。昨日仕掛けた髪の毛が今日も残っているということはですよ? ……良さん、あなた、千佳さんを、女性を部屋に招いておきながら、掃除を一切行いませんでしたね?」
「あっ……!」
 良が凍りついた。
「親しき仲にも礼儀あり。付き合いが長ければ長いほどその辺はなあなあになってしまうものですけど、相手を思いやり、僅かな手間を惜しまず部屋を綺麗にし、気持ち良く迎え入れる。千佳さんはそんな、普通のことがして欲しかったんですよ……」
「………………ち、千佳……ごめんよ……! 千佳ごめん……!」
 良が顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。
「あ、いい、いいから!」
 千佳は慌てて手を振った。そして二人はまた俯いた。
「……で、さ……私、こんなカマとか掛けちゃうヤな女なんだけど―」
「結婚しよう!」
 良が喰い気味で再度求婚した。
「あ……はい……しましょう」
 その迫力に押し切られて千佳は頷いた。
「はいはい……ごちそうさま」
 夏目は気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「ねえ、良? ハネムーンはどこにする?」
「そうだなぁ。北海道で岩盤浴なんてどうだい?」
「ええ~? 怖ーい。岩盤なんて浴びたらお肌がアザだらけになっちゃうよう」
「はっはっは千佳。読んで字の如くじゃないぞ? かわいいなぁ。よし決めた! 子供作ろう! 九人ぐらい!」
「ええ。私産むわ! ポンプのように!」
「千佳……」
「良……」
 と言って、春日と秋山が抱き合った。
「「もういいわ!」」
 良と千佳の息がピタリと合った。
 

   第十二話 毒薬注射自殺の謎

『オウ、バッスメル!』
 鼻の奥に侵入してきた腐敗臭に、春日と秋山が悲鳴を上げた。
 臭いの元となった腐乱死体は、既に部屋から運び出されているというのに、胃袋がひっくり返り、中身が込み上げてきそうになるその臭いは、こびりつき、いまだ室内を漂っていた。
 あるアパートの一室で遺体が発見されてから、二日が経過していた。二人は今、その部屋に立っている。
 部屋の中央に敷かれた布団には、遺体からにじみ出た腐敗液が濁った色の染みをつくっていた。そして布団の周りを見れば、脱ぎっぱなしの衣服や乱雑に積まれたマンガ雑誌やゲームソフト、またはAV機器のコード類で足の踏み場も無い。窓からは朝日が差し込んでいるというのに、このすがすがしく無さはどうだ。
「うわぁ。まだそこに遺体が有ったら、とてもじゃないけど部屋に上がれなかったでしょうね」
 鼻を摘んで秋山が言った。
「そうだね。よく腐乱死体の臭いは『地面に立てたバットにおでこを付けてグルグル回るアレ』七十周分の吐き気に相当すると言われているよね」
 ハンカチで口元を覆った春日が言った。
「よく言うかはわかりませんけど、そのくらい凄いってことですね」
「あっ、もう無理」
 春日が早足で玄関に向かったので秋山もその後に続いた。
 二人はアパートの屋外廊下に出ると一息付いた。
「……もうこのままここで報告を聞きますか?」
「うん。そうする」
 秋山は上着から手帳を取り出すと中を読み上げ始めた。もう手帳自体を渡して書いてあることを読んで貰った方がてっとり早いことも多いのだが、秋山の書く文字は、ミミズがのたくった後、スズメがついばんだような書体をしているため、本人にしか読めないのだ。
「えー、亡くなっていたのは、この202号室で独り暮らしをしていた山城オサムさん、無職で三十二歳です。山城さんは布団の上に横たわった状態で発見され、死因は毒を静脈注射したことによる中毒死です。死亡して二週間は経過していた模様です。また、遺体の傍には注射器が転がっていました。遺体の左上腕部には革バンドが巻かれ、その肘の内側に一つ、注射痕が有ったそうです。通報者であるアパートの管理人さんの話をまとめますと、まず、玄関のドアをマスターキーで開けたところ、内側からチェーンロックが掛っていたため、室内を窺うことはできなかったが、中から漏れ出してきた異臭にただごとではないと思い警察に通報した、とのことです。駆けつけた警官がチェーンを切って踏み込んだところ、中で山城さんの遺体を発見。当時部屋に一つある窓も鍵が掛っており、この部屋の鍵も室内で見付かっています」
「ふむ。部屋は密室だったというわけだね」
 春日は顎に手を当てた。。
「はい。そして、部屋に在ったパソコンは電源がずっと入りっぱなしになっていて、『働くとかマジ面倒だし。働くぐらいなら死んだ方がマシ』という文章が残されていたそうです。文書の作成日時は山城さんの死亡推定日と一致しますので、状況から見て、山城さんがパソコンに遺書を残し、その後自らに毒をうち込んで自殺を図ったものと思われます」
「そう……何か変わったこととかは無かった?」
「えーと、そうですね……あえて上げるとすれば、遺体から検出された毒が致死量を大幅に上回っていた、ということでしょうか。それと、窓の施錠に使用されるクレセント錠ですが、そのレバーハンドルの回転部分と、窓の上にあるカーテンレールの一部に飴が付着していた、ってことでしょうか」
「飴だって?」
「ええ、成分を調べたところただの飴です。それがベターっと付着していたんです。何か今回の件に関わりが有るのかと詳しく調べたそうなんですけど、ただ鍵がベタベタしているだけで窓やその周りに不審物は無かったそうです。なのでこれは自殺とは関係無く、山城さんが自家製の飴作りに挑戦でもして、換気をしようとしたとき、手にベットリと飴を付けたまま窓やカーテンに触れてしまったために付いたものじゃないか、というのが見聞にあたった職員達の見解です」
「ふうむ……」
 春日は玄関に向かい、一旦上がろうとしたが止め、秋山の方を振り向いた。
「秋山君、台所行って、飴の材料になる水飴と砂糖があるか見てきて。水飴作りから始めてる可能性もあるから、片栗粉もあるか探してね」
「…………はい」
 秋山は大きく息を吸い込んだ。

 数分後、覆面姿の秋山が出てきた。
「なんも無かったです。砂糖すらありません」
「そう……うーむ……でもまあ、飴なんかで窓をどうこうできるはずもないか。それに、毒の分量なんていうのも本人の自由っちゃ自由だしね……深く考える必要ないのかなぁ……。あ、そういえばこの部屋のカーテン、ちょっとおかしくない?」
「へ……? どれですか? ……あ、本当だ、言われてみればそうですね……」
 秋山は玄関から首だけを入れて中を覗いた。すると部屋の窓は、ごく普通の四角い引き違い窓であるのに対し、カーテンレールに掛るカーテンはガラス引き戸用に使われる丈の長いカーテンだった。しかも丈が長過ぎて完全に床に付いてしまっている。
「あ、でも……引っ越してきて、買い換えるのが面倒だから、そのまま使ってる、とか……」
「そっか……そうだね……。後さ、この部屋、汚いよね」
 春日が中を指差した。
「え? ああ、そうですね、散らかり放題ですね」
「だよね。でもさ、食べ終わった弁当の空箱だとか、食い散らかしたお菓子とか、ジュースの空き缶とかそういった類のゴミは全然無いんだよね」
「あ、本当だ、確かにそうですね。でもまあ、たとえ汚部屋に住んでいても、あの黒い悪魔とかチュウチュウ鳴く怪獣が嫌いな人だったんじゃないですか?」
 秋山が中を覗きながら言った。
「ふむ……そっか……。あ、管理人さんだけど、何しにこの部屋に来たの? 家賃の取り立て?」
「いえ、なんでも山城さんのお父さんに依頼されたそうです。最近息子と連絡が取れないから様子を見てくれ、と」
「へえ、そうだったの。それで、そのお父さんからは何か聞けたの?」
「はい、一応。でも自殺の動機に心当たりは無いそうです。それと、無職である山城さんの生活費なんですが、今までずっとお父さんが工面していたそうです。家賃や光熱費は全て銀行引き落としで支払ってたんですって」
「ああそう。お父さんなにやってる人?」
「町のお医者さんみたいです」
「ほう、お医者さん…………それで息子さん、オサムさんは長かったのかな、無職の状態が」
「はい、一度は仕事をするために一人暮らしを始めたそうなんですが、仕事が長続きせず、それからはずっと職に就いてなかったようです」
「ふうむ……働くぐらいなら死んだ方がマシ、そして自殺、か……精神的にまいっていたのかなぁ……。うん、内側からチェーンロックまで掛ってたのなら、どうやら自殺で間違いなさそうだね。ありがとう秋山君、特殊清掃が入る前にこの部屋に入れて良かった。ごめんね無理言って、担当の案件でもないのにいろいろ調べてくれて」
「いえいえ、どういたしまして。でもまあ、モロ事件性有りだったらこの部屋に上がるのも簡単じゃなかったでしょうけどね」
 秋山がにこやかに手を横に振った。
「うん……。じゃ、冬木君にこのこと知らせてあげようかね」
 春日は携帯を取り出すと誰かにメールを打ち始めた。それが無駄に、異様に速い。親指に何かが憑依したかのような凄まじい速さで文字を打ち込んでゆく。
「……先輩の友人だから別に信用はしてますけど、冬木さんってどんな人なんですか?」
「うーん……そうだなぁ……まあ……ひきこもりだねぇ……」
 会話しているときも、その指の動きは変わらなかった。
「えっ、ひきこもってんですか」
「うん。ひきこもごもだね」
「意味分かりません」
「ふむ、彼を説明するのはちょっと難しいんだよね……ニートっちゃニートなんだけど、全くの無収入ってわけじゃないし」
 春日は送信ボタンを押した。
「へえ? そうなんですか?」
「最近はパソコンなんて便利なものが在るから、こもりながらにして稼ぐ方法が結構有るみたい。プログラミングの仕事を請け負ったり、独自に構築したツールをネットで販売したり、他にも色々。パソコンに関してはかなりの腕前のようだよ」
「それだけPCスキルがあるなら、もう普通に就職した方がいいような……」
 秋山が首を捻った。
「いやでも、そこはほら、彼ニートだから……因みに、彼の座右の銘は『働かなくて済むならどんな苦労も厭わない』だからね」
「ふ、複雑なんですね……」
「そうだろ? お、返信キタ」
 春日と秋山が画面を覗き込んだ。
『オサムが自殺したなんて未だに信じられないんだけど……春日さんがそう言うならそうなんでしょうね……春日さん、わざわざどうもです』
 春日が画面から顔を上げた。
「そうだ、秋山君。この機会に冬木君に自己紹介したまえよ。これ使って」
「はは、そうですね。わかりました」
 秋山は渡された携帯を使って次のようなメールを送信した。
『こんにちは! 春日先輩の後輩で秋山と申します! 刑事やってまっす。よろしくです(笑)』
 返事が届いた。
『いきなり職業の話とか。それは無職のぼくに対する当てつけですか? 自分は刑事という立派な職に就いてますが何か? みたいな?』
「ええっ!? 怒った!?」
 秋山が愕然とした。
「秋山君、話題は選ぼう。彼らの取り扱いには細心の注意を払わないと」
 春日はオウンゴールを決めたチームメイトを見るような眼で秋山を見た。
「ええっ!? これボクが悪いんですか!?」
「ほら、謝って」
「……わ、わかりましたよ……」
 秋山はメールを書いた。
『すみません。そんなつもりじゃなかったんです(汗)決して悪気はありません』
『いや別に怒ってませんよ? ただどうなのかなって思っただけで』
『いや本当に。他意はありませんので。すみませんでした』
『怒ってないって言ってるでしょ! それともなんですか? まともに相手するのも面倒だから適当に謝っとけみたいな感じですか!? はいはいメンドくてスミマセンね! はいはい! ぼくなんか死ねばいいんでしょ!? 七輪持ってきて七輪! 今すぐ郵送して!』
「何この冬木って人! はじめましてなのにとことん絡みづらいんですけど!」
「マズイね。完全に頭に血が昇ってる。変なこと考えださなきゃいいけど……」
 春日が唇を結ぶ。
「うおお、マジっすか!」
 秋山が慌ててメールを打った。
『はやまらないで! 命を軽々しく考えてはいけません! 自殺は駄目です! 絶対に駄目です!』
 すぐに返事がきた。
『別にどうだっていいじゃないですか! あなたには関係の無いことですよ! それともなんですか、ぼくが死ぬことであなたに何か迷惑が掛るんですか? 掛らないでしょう! ぼくなんて生きてたってしょうがないし、生きてたって辛いことばかりで、どうせぼくには乗り越えられやしないんですよ』
『そうやって逃げてばかりじゃ駄目ですよ!』
『嫌なことから逃げだして、何が悪いんだよ!』
『いや、いいですよ! 本当に辛いなら逃げたっていいんです。ただ……リセットした後は、ちゃんとまた、一からやり直して下さい。そしたら今度は、前回よりちょっとでも先に進めるようになっていますから。世の中には、何事からも逃げださないで、どんどん先に進める凄い人達もいますけど、なにもそういう凄い人達と同じじゃなくたっていいんです。ただひたすらシンプルに、〈今の自分に出来ることをする〉それだけでも良いんです。そうやってちょっとずつ、強くなればいいんですよ』
 秋山がメールを送る。返事が来るのに、今度は少し時間が掛った。
『……はい……よくわかりました……』
『わかってくれましたか!』
 秋山はほっと胸を撫で下ろした。
『……じゃあ一度死んで、転生して、それから人生を一からやり直せばいい、ということですね?』
「ちがうわぁぁぁぁ!」
 秋山が絶叫した。そしてすぐさまメールを打つ。
『だから! 死ぬのは絶対駄目です! いいですか、世の中には、生きたくても生きられなかった人達がいるんです。自殺はこういった人達に対する、命に対する冒涜です!』
 秋山は真剣な顔付で次々とメールを送信した。
『それに自殺は誰かを悲しませるのです。ボクは結婚したことが無いので子供はいませんが、もしボクに子供がいて、その子供が自殺したらもう悲し過ぎます。もしボクが自殺したらボクのお父さんもお母さんも悲しむと思います。だから駄目なんです。じゃあ、悲しむ人がいなかったら自殺してもいいのか、って話になりますけど、やはり駄目で、なぜかと言うと、これから先、悲しんでくれる人といつか出会うはずだからです。だから、その人のためにも自殺してはいけないんです』
 秋山は真剣な表情でメールを送った。
『…………ふーん。秋山さんって、春日さんと似たようなことを言うんだね。なんか秋山さんもいい人っぽい印象を受けた』
 秋山がキョトンとしていると、隣で春日がくっくと喉で笑った。
「全く……生意気だろう? 冬木君といい、夏目君といい、最近の若い子ときたら……大人をからかってばかりだ」
「はあ……えっ? あっ、あれ冗談ですか!? なんだよぉ……もう、先輩が変なこと言うから!」
「ごめんごめん、ほんの演出さ」
 春日のニヤニヤした顔を見て秋山は溜息を吐いた。
「あ、じゃあ、冬木君ってそのくらいの歳ってことですね?」
「うん。まあ十代後半だね。正確な歳は聞いてない。一度注文を受けた本を彼の部屋まで届けたことがある。ドアをノックするとね……ドアが少しだけ開いて、その隙間から手がニュー、っと伸びてきてね、本をひったくるとすぐにパタンと閉めちゃった」
 また春日はくっくと笑った。
「その時のほんの一瞬、初めて僕等はお互いの顔を確認したわけさ。なんか普通の、今風の子だったよ。モロその辺にいそうな学生って感じ。痩せてた。後、血色があまり良くなかった。隈なんか作っちゃってさ」
「なるほど、今風ですね。じゃあ知り合ったきっかけがそれですか?」
「いや、違う。それとは別に、全くの偶然だよ。あれはいつだったか……僕がパソコンでネットサーフィンに興じていると、トラフィックの海に漂う、一通の電子メールを見付けたんだ。ウイルスプログラムでもなさそうだし、開いてみるとこんな文章がある。『運命って信じますか? この広大なネットワークの中で、唯一あなたがこのメールを拾ってくれました。ぜひお友達になってくれませんか?』と日本語と英語で書かれていた」
「おおっ! すげぇ! あれですか? 書いた手紙を空ビンに入れて、大海原へ流すアレのデジタル版ですね!?」
「ああ! すごいだろう? それを見た僕はキショイと思ってすぐさまその文書をゴミ箱へドロップしたわけだが」
「ああっ! 返事書いてあげて! 嘘でもいいから書いてあげて!」
「数日後、ふと思い立った僕はゴミ箱からその文書を取り出し、返事を書くことにした」
「ああよかった! なるほど、それがきっかけなんですね」
 秋山は安堵の表情を見せた。
「ああ。そして、文通が始まった。僕のオネエ演技に騙されているとも知らず、彼は僕のことをすっかり女性だと思い込み、初めて女友達ができたと喜ぶも、実は相手がオッサンだったという真実を知るのは六カ月も経ってからのことだった」
「ヒドイ! 先輩ヒドイ!」
「いやもう………………爆笑」
「最低だ! アンタ最低だ!」
「いやいや、冬木君はね……真剣に相談に乗ってくれる友達が欲しかっただけなんだ……誰でも良かった、性別は関係なかったんだよ。冬木君の話をすっかり聞き終えて、彼はもう大丈夫だ、と判断したからカミングアウトしたんだ。まあ、メッチャキレてたけどね」
「そりゃそうでしょう」
 秋山はジト目を送る。
「それからはもう友達。ネット友達はもっと増えたみたい」
「へえ……ボクの知らない所でそんなことがあったんですねぇ……」
 何に感心したのか、秋山がしきりに頷いた。すると、手に握った携帯がメールの着信を知らせた。冬木からである。
『春日さん、やっぱりオサムって自殺するような人間じゃないと思うんだよね。でさ、さっき貰ったメールを読み返してたんだけど、思い出したことがある。オサムが残したらしい〈働くとかマジ面倒だし。働くぐらいなら死んだ方がマシ〉っていうセリフだけど、前にアイツがチャットで使ったことがあるセリフなんだよね。前にアイツが〈金が欲しい。あーあ、早く親死んでくんねーかな。そしたら遺産とか保険金とか手に入るのにw〉とか言い出して。その後に、〈働くとかマジ面倒……〉って続くんだ。じゃあ死ね、このダメ人間野郎って返事しといたけどね。働くぐらいなら死ぬって、モロあいつが使いそうなセリフではあるんだけど、ホントに死ぬときに使うもんかなぁ……』
 これを読んだ春日が表情を変え、首を捻った。そうしたかと思うと、ふらりと玄関を上がり、落とした小銭でも探しているかのように室内をウロウロしだした。
「……………………」
 秋山は口を挟まず、そんな春日の様子を見守る。
 春日は布団や雑誌の山を跨ぐと窓に歩みより、窓枠の隅々に視線を巡らせた。今度はクレセント錠のレバーハンドルを動かして感触を確かめる。上下させると粘着質な手ごたえを感じた。
 窓を開け放つと外は今日も良い天気だった。眼下には草が伸び放題になった空地が拡がっている。
「そこはただの、長いこと買い手が付いていない売り地です。その空地から、部屋の中の様子を窺えるはずもなく、この二週間、室内の異変には誰も気付かなかったようです。お隣さんや大家さんですら」
 戸口から秋山が説明を加えた。
「ふむ……家賃や光熱費は銀行引き落としだったね。集金係が訪れることも無いから更に気付かず……か」
「はい。大家さんの話では、郵便受けにDMやらチラシやらが何週間分も溜まるのはいつものことだったらしく、まさか住人がこんなことになってるとは夢にも思わなかったようです。この二週間でなにかしらの業者が訪ねてくることもあったでしょうが、でかでかとドアに貼られた『セールスお断り』のプレートを見れば、まわれ右するしかなかったでしょう」
「……オサムさんの様子を見るよう大家さんに依頼したのはお父さん、だったよね?」
 春日が振り返って訊ねた。
「はい、そうです。お父さんは今まで、数カ月に一度様子を見に来たり、連絡を入れたりしてたそうなんですが、最近になって全然連絡が取れなくなってしまったんだそうです。そこで、大家さんに依頼を」
「そう。でもお父さんだけ? お母さんは?」
「はあ、それが……奥様は大分前に亡くなっているようです」
「そう……」
 春日は部屋の中央に敷かれた布団に目を落とした。
「先輩、これって、事件の可能性があるんですか?」
「うん……もしかしたら、だけど……でも、わからない……部屋はチェーンロックまで掛っている密室だから……いや、まてよ……?」
 部屋を見回した春日の脳裏に、ふと、ある考えが浮かんだ。
「秋山君、オサムさんの遺体だけど外傷と呼べるものは注射痕だけと思っていいよね?」
「え? ええ、そうですね。注射痕より目立つ傷があれば気が付くはずですから、それでいいと思います」
 春日は頷くと窓へと向き直った。窓を閉め、クレセントを回して受け金に掛ける。そして頭上に手を伸ばしてカーテンレールを触った。
「そうか、なるほど! 飴は接着剤の代わりか……! あとは〈アレ〉を使って……うん……だとすればこの犯行、できる……!」
「え、わ、解っちゃったんですか!?」
「うん、あのね……」
 春日の言葉を遮ってメールの着信音が響いた。
「おっといけない。冬木君をほったらかしにしてた……」
 春日はボタンに指を走らせ、冬木にこのまま待機しているよう指示するメールを打ち始めた。
「秋山君、君はオサムさんのお父さんに連絡を取ってくれるかい? そしてこう言うんだ『オサムさんは他殺の可能性が出てきた。〈奴〉を捕まえるか、〈あるもの〉を調べれば事件の真相が判るかもしれない。明日、もう一度部屋を調べてみる』とね。ベタな方法だけど、きっと引っ掛ってくれるでしょう……!」
 そう言うと、携帯をパクンと閉じた。

※部屋を密室にしたトリックとは?

 その夜、闇に紛れた僕達は、自然と化して獲物を待つハンターのように息を殺していた。はやる鼓動は抑えつけようとすればするほど、意に反してビートを刻む。このヒリつくような緊張感は学生の頃参加した、フェンシングの大会以来だろうか……隣を見れば、秋山君が肥料を貰い過ぎたさるすべりみたいな顔で戸口を見詰めている。彼も緊張しているようだ、無理もない……だって彼も人の子だから。つぅー、っと汗が頬を伝う。やばい。オシッコいきたくなってきた。
「うるさいですよ! 何急に一人称形式!? なんですか、さるすべりみたいな顔って!」
 遂に耐えきれなくなって秋山が叫んだ。
「ああいや、中ダルみ気味だと思ったから、ちょっと奇をてらおうかと……」
「そんな奇のてらい方邪道です! 映画のDVDレンタルしてきて、いきなり副音声の解説付きで本編鑑賞するくらい邪道です!」
「しっ、静かに……!」
 そのとき、外の階段を上るカンカンカン、という足音が聞えてきた。二人は口を塞ぎ急いで身を縮める。意識して忍ばせているかのようなその足音は、ゆっくりと、しかし間違いなくこの部屋を目指しているようであった。
 チキチキ。鍵穴に鍵を差し込む音がする……。春日と秋山の鼓動がピークに達する……! カチン、と錠が解かれる音に続いて、ゆっくりとノブが回転した。扉が開き、息を顰めた何者かが部屋に入ってきた……影はすぐには動かなかった。玄関から室内の様子を窺っているようだ。そして小さな明りが点いた。どうやらペンライトのものらしいその細い光を頼りに、影は部屋の中へと踏み込んできた。
「そのまま! 動かないで!」
 春日と秋山は飛び上がるような勢いで立ち上がり、侵入者へライトの強烈な光を浴びせた。侵入者はその眩しさに思わず眼を庇って立ちすくむ。
「オサムさんの……お父さんですね……?」
 秋山が一歩前に出た。
「だだ、誰だ! な、な、な……」
 言動がおかしい。みなりは普通だが、まともな精神状態でないのは一目瞭然だった。眼の奥で狂乱の色が渦巻いている。
「誰だ!」
 わなわなと唇を震わせて同じ言葉を繰り返した。頬はこけ、脂ぎった髪がてらてらと光っている。
「オサムさんを殺害したのは……あなたですね……?」
 春日は静かに語り掛けた。
「あなたは、オサムさんが眠りについた夜、いや、オサムさんは昼夜逆転の生活を送っていたかもしれませんので、昼かもしれませんが……この部屋を訪れ、眠っているオサムさんをガスでも嗅がせて更に深く眠らせ、用意した毒薬でオサムさんを殺害した。その後、オサムさんが書いた文章を使って遺書を捏造したあなたは、部屋を密室にする準備に取り掛った。まず、部屋にある生ゴミを綺麗に片付け、処分する。そして玄関のドアを施錠する。このとき非常に重要なのはチェーンロックを掛けるということ。このチェーンロックが掛った上で、ドアと窓の施錠が完璧であれば、合鍵を使用した殺人事件の線は消え、合鍵を所持していたとしても疑惑が浮上することはまずない」
 春日の言葉に、秋山が首を傾げた。
「それはわかりますけど、生ゴミを処分するのは何故です? それに、そんな部屋のどこから外へ脱出するんですか?」
「うん、それはね、窓に仕掛けを施し、そこから出たんだよ。お父さんの採った行動はこうだ……まず、液状ゴムを使って、大きな、Oの形をしたゴムバンドを作っておく」
「え、液状ゴム、ですか?」
「うん。それは、常温では液状なんだけど、乾燥させると柔軟なゴムになるんだ。工事現場なんかで、防水処理を目的として、様々な場所の隙間を埋めるために利用されているね。輪ゴム等の軟質ゴム程ではないけど、伸縮性に優れた皮膜が作れるんだよ。そして、そのゴムバンドをカーテンレールにくっ付ける」
 春日は窓際に移動すると指差しで説明を始めた。
「接着剤として使用するのは飴だ。その飴を熱して融かし、カーテンレールにゴムバンドをくっ付けたら冷まして固める。次にクレセント錠のハンドルレバーを横に倒し、その回転部分にも飴を塗り付け、その位置でレバーを固定する。そして、カーテンレールに垂れ下がったゴムバンドを伸ばし、レバーに引っ掛ける。これで仕掛けは終了。外を確認して、人気が無いようなら窓から出て、冊子に足を掛けつつ窓を閉め、後は空地に飛び降りてこの場を立ち去る……。この時点ではまだ窓には鍵が掛っていない。仕掛けを作動させるには朝を待つ必要がある」
「朝を? なぜです?」
「ほら、この部屋の窓は東側を向いている、今朝も朝日が差し込んでいただろう? その直射日光を利用して飴を融かすのさ……! 飴が融けることによって固定を解かれたクレセント錠がゴムの収縮力によって回転し、受け金に掛り、窓の施錠が完了する。そして、カーテンレールの方の飴は室内の温度によって時間差で融け、ゴムバンドは自由落下を果たすわけだ」
 秋山はライトを顎の下にもっていき、自分の顔を下から照らした。
「なるほど……! でも、その仕掛けなら、別に液状ゴムじゃなくて、ただのゴムバンドでもよくないですか? ……あ、いや、それ以前に、落下したゴムが、物的証拠が丸々その場に残ってるじゃないですか……!」
「秋山君、顔怖い。……そう、トリックがバレないようにするには、落下して窓枠に引っ掛ったか、床に落ちたかしたゴムバンドを消し去る必要がある。その重大な使命を帯びた〈奴〉というのが、どこにでも忍び込み、こういう部屋には何匹湧いて出ようがさして珍しい存在では無い者達。齧歯類ネズミ科、クマネズミ属の一端を担う通称ドブネズミ達だよ」
「ドブネズミ!」
 秋山が眼と口を大きく開けた。
「そう、部屋を脱出する前に、薬の分量を調節して眠らせたネズミを数匹放置していくのさ。やがて眼が覚め、空腹のネズミ達がそのゴムバンドを食べてしまうように……! 周知の通り彼等は雑食であり、某ネコ型ロボットの耳を齧り倒したエピソードは余りにも有名であろう……!」
「はわあ……」
 春日の言葉に、秋山の心の四次元ポケットが開いた。
「しかし、ネズミ達に確実にゴムバンドを齧らせるためには幾つかの工夫が必要になる。まず一つ、関係の無いものを食い荒らして満腹にならないようにする必要がある。だから餌になりそうな生ゴミは全て処分したんだ。二つ目、ちょっとグロい話、ネズミ達はほっとくと遺体にまで食らい付く。だから、致死量を大幅に超える量の毒を投与する必要があった。ネズミは鼻が利く。毒の回った肉にはまず手を出さない。だから遺体には注射痕しか外傷が無かったんだ。三つめ、ゴムバンドが窓枠に引っ掛る可能性を考慮して、カーテンの丈を長くしておき、ネズミ達が昇り易いようにしておいた。最後に四つ目、ゴムバンドを作る際、液状ゴムを使用し、ネズミ達の大好物である種子や穀物、ヒマワリの種やピーナッツ、トウモロコシ等だね、これらを粉末にしてゴムに練り込み、喰い付きを良くする。電気コードですら齧る彼らだ、充分なおやつだったろう」
「そ、それが、ゴムバンドがただのゴムじゃなくて液状ゴムだった理由ですか……!」
「そう。まあ現時点では証拠も無いし、僕の想像でしかないんだけど……お父さん、あなたがここに姿を現したことで確信に変わりました……〈ネズミのフン〉を見付け出されて分析されたら、何を食したのかバレてしまう……それはマズいですよね? だから、あなたは全てを消し去ることにした……」
 春日は天井から下がる電灯のヒモを引いた。数回の点滅の後、青白い光が室内を照らしだした。
 汗で肌にシャツを張り付かせた男は手に灯油の缶を下げていた。そして、男の視線は秋山が手にした消火器に釘付けになっている。春日はライトの明かりを消すと、続きを話し始めた。
「注射痕がね、一つだけだったんですよ……静脈注射というのは結構難しい。新米の看護婦さんなんかはよくミスってますよね……それを静脈に、確実に成功させているということは、もしかしたら、注射をしたのは扱いに慣れた人物、あなただったんじゃないかと、ふと思ったんですよ。そして、息子さんの生活費を全て工面していたのはあなただ、大家さんや集金係をこの部屋から遠ざけることができる立場にいた……父親として合鍵を所持していてもなんら不思議では無く、医者という立場を利用すれば毒薬の入手もそれほど困難では無かったでしょう……オサムさんを殺害したあなたは、頃合いを見て大家さんにオサムさんの安否を確認するよう依頼し、計算通り遺体は密室の状態で発見され、証拠もネズミ達が消し去ってくれた。しかし接着剤代わりに使用した飴までも消し去ることはできず、トリックも完全とまではいかなかったようですね……どこか、間違っているところがありますか?」
 春日が男を見詰める。
「……………………」
 男は春日の声が聞えているのかいないのか、口を開けてただ突っ立っている。
 ヴーン……カカカッ……
 ふいに、触ってもいない山城オサムのパソコンに電源が入った。狭い室内にシーク音とファンの回転する音が響く。
 春日の近しい人間で、こんな芸当ができるのは一人しかいない。
 画面に『冬木です』という素っ気無い文字が浮かび上がった。しかしその文字が画面に表示されたのは、電源が入りスタートアッププログラムが滞りなく全て起動し、チャットが出来る状態になった七分後のことだった。
「おせぇよ!!!」
「間が持たねぇよ!!!」
 春日と秋山が口々に非難を飛ばした。
「もうちょいスムーズに来い! ドラマティックに!」
 春日がどんなに強く訴えようと、その声は画面の向こうには届かない。
『冬木です。オサムはダメ人間だったけど、親父殿、あんたはそれに輪を掛けてダメ人間だな! 虐待で子供を死なせる最悪な親もいるけど、明確な殺意を持って子供を殺すあんたみたいな親は最低最悪だ! あんた、人間じゃねぇよ!』
 画面に浮かぶ文字を見詰める男の顔からは土台生気というものが感じられない。
 春日はパソコンの前に跪くと、キーボードに指を走らせた。
『冬木君。きっとお父さんは、君達が交わしたチャットでのやり取りを、どのような経緯でかは知らないが、読んでしまったんだと思う。オサムさんが使った〈あーあ、早く親死んでくんねーかな。そしたら遺産とか保険金とか手に入るのにw〉という文章をね』
『??? だってあれは』
『そう。wは符号、(笑)と同じ。ニュアンス的には冗談だ、という意味。しかし、その文字に馴染みの無い人間は、文面通りに受け取るしかない。生活を面倒みて貰っておきながらあの言い草……お父さんは酷く絶望し、深く傷ついたんだ。君達が普段何気なく使っている言葉が、人の心を鋭く抉ることだってあるんだよ』
 ゴトン、と灯油缶が床に落ちた。男は顔を歪め、崩れ落ちると声を上げて泣き始めた。
 秋山は消火器を床に置き、頭痛を堪えるかのように顔を顰め、春日は目を細めて画面に点滅するカーソルを見続けた。

 その後、父親は秋山に付き添われて警察へと向かった。
 春日は一人、部屋の中を意味も無くぐるりと見回した後、最早一言も発しなくなったパソコンの電源を切った。
 

   第十三話 罠

 ある日のこと、携帯を片手にバス停の標識にもたれ掛った秋山が、誰かと電話をしていた。上機嫌に鼻を鳴らしているところをみると、会話は弾んでいるらしい。
「あー違う違う、そんなときこそ落ち付きなって。トリガー引くときは、息止めててみ? そんで、絞るようにじわぁっと引く。したら照準がブレないから。デジカメ撮るとき、手ブレ抑えるコツと一緒よ。マジマジ。…………何だって? ……あーそれは! じゃあ例えばさ、自分は茂みの中に隠れてると想像してみ? そんで、視界の十メートル先を敵が右から左へ移動していたとしてだよ。敵はこちらに気付いていない、狙撃のチャンス! でもこのとき、敵の動きに合わせて銃口も動かしていたんではいつまでたってもトーシロー。そうじゃなくて、敵の進路を先読みして、敵の二歩先に狙いを付けて弾幕を張るわけよ。そしたらば、敵は自分から弾幕に飛び込んで来てくれるって寸法よ! これ当たります。もちろん、タイミング命な? 早過ぎても遅過ぎても駄目、外せば即反撃くらうんだぜ? え? ……おいおい、このくらいでいちいち感心するなよ。こんなのサバゲーの初歩だよ君ィ。はっはっは―」
「えっらそうに」
 背後から掛けられた声に秋山は携帯を跳ね上げた。
「せせせ、先輩、お疲れ様です! 遠い所をどうも!」
 秋山が振り返ると、今着いたばかりらしい春日が立っていた。
「全くだよ。何度乗り継いだことか」
 高く昇った太陽の下、辺りは見渡す限り田んぼと畑しかない。
「因みに、携帯のアンテナは基本一、二本です。山に入ると圏外の場所も在ります」
「ど田舎にも程があるな」
 などと言いつつも、時間の感覚が麻痺しそうなその半端無いのどかさに春日の眼元は緩んでいた。
「ええ。ここの風景って何十年も前からずっと一緒なんでしょうね。本当にのんびりしてますよねぇ」
「まあ、農家の人はのんびりどころか毎日汗びっしょりで頑張っているんだろうけどもね。しかし秋山君、君も物好きだねぇ、こんな所まで来て二日掛りのサバイバルゲームとは。有休をなんだと思っているのかね君は」
「ほ、ほっといて下さい。ボクにとっては有意義な使い方なんです」
 秋山は唇を尖らせる。
「なるほど、意義の有り無しって、人によって大きく基準が異なるんだなぁ……」
 春日は明後日を向くと『勝手にしやがれ』とボソリと吐いた。
「あっ、ちょ、急な呼び出しにも応じる先輩だって充分物好きでしょう!」
「…………まあな」
 春日はニヤリと笑った。
「とまあ、冗談はこれくらいにして。秋山君、一体何があったんだい?」
「はい、じゃあ歩きながら、こっちです……えー、昨日ボクが所属するサバイバルゲームチームが別チームと山で交流戦をしていたときの話なんですけど、ボクと軍曹が茂みに潜み、特製激辛クレイモアの設置を敢行しているとですね、ふいに電車の警笛が―」
「え、ちょ、ごめん、待って、特製、何? ぐ、軍曹?」
「ああ、特別製の指向性対人地雷ですね。あとほら、やっぱり階級とか、必要になってくるじゃないですか。こういうのって」
「いや、知らないけど」
「まあ、普段はそれぞれ別々の仕事してるんですけどね。大佐殿はミリタリーショップを経営してて、大尉殿は現職の自衛官。ボクが少尉で曹長と軍曹は会社員。伍長はまだ大学生ですね」
「本職がおんのかい。刑事の君といい、一体何やってんの」
「だってボク、現場で発砲する機会なんて皆無ですし……そしたらもう休日は、同志達と共にのびのびと戦場を駆け巡るか、一日中家でガンシューティングゲームするしか選択肢が無いじゃないですか」
「時間が在るなら昇進試験の勉強したまえ」
「もう! 大人達は二言目には勉強しろ、勉強しろ! 高校のときは大学入ってから遊べって言って、大学では就職してから遊べって言って、ボク一体いつ遊べばいいんだよ!」
 秋山が声を大にして主張した。
「うむ。まだ学生気分が抜けてないみたいだね。いつまで経ってもゲーム感覚か?」
「あ、ゲームと言えば、今使ってる液晶テレビ、もっと大きいサイズに代えようかと思ってるんですよ。夏にお金が入ったら」
「ボーナスをなんだと思っているのかね君は。もうしばく。そこになおれ」
 春日は構えをとる。しかしここで考えた。この秋山のような消費者が経済を動かしているのもまた事実である。一概に贅沢は敵、物をボロボロになるまで使い倒す精神こそが美徳と片付けてしまってよいものだろうか。春日がそんな、理想と現実の狭間で悶えていると、秋山がたいして空気も読まず説明を再開した。
「話が横に逸れましたね。ええと……どこまで、ああ、ボクと軍曹がトラップを仕掛けているとですね、電車の警笛が長く鳴って、そしてしばらくしたらパトカーと救急車のサイレンも聞こえてきたんですよ。気になったんで、ゲームを中断して、山を降りて様子を見に行ったんです」
「……迷彩服のまま?」
「はい。みんなで」
「みんなで?」
「はい。で、話を聞くと、人が一人電車に轢かれたっていうじゃないですか。遺体はもう酷い状態だったみたいです。ボクは血がアレなんで、現場には一歩も近付きませんでしたけど」
「……そう」
「車両の運転手が線路の上に立つ男性を発見して、慌てて警笛を鳴らし、ブレーキを掛けたんですが止まることができず、轢いてしまったみたいです」
「ふむ……。その男は線路の上で突っ立って、何をしてたんだろう。どうしてその場から退かなかったのかな」
 春日は顎に手を当てた。
「そこなんですよね。亡くなった男性は轢かれる直前、携帯で家族に助けを求めています。ですので、どうやら自殺ではないみたいなんですよ。男性は家族に『線路で足が動かなくなった』と言ったそうです。家族の人が『足を怪我したのか? 足が溝に挟まったのか?』と聞くと男性は『違う、解らない、足が動かない』と、パニックの状態でそう繰り返したそうです。……そしてそこで、長い警笛と男性の叫び声の後、電話は切れたそうです……」
「ふうむ……」
「男性が口走った言葉の意味は不明なんですけど、線路上に特に異常は見られなかったため、この一件は男性が踏切を使わず線路を横切り、足を取られたための事故として処理される見通しです」
「そうなんだ」
「ただですね、やはり男性が電話でした会話の内容に疑問を持って、心にモヤモヤを残したままの地元の刑事も中にはいましてね。これはボクも同じ警察官としてほうっておけないな、と思いましてね!」
 秋山は胸を張って言った。
「なるほど……その地元の刑事ってのが美人なわけだ……」
「あ……あはははは……」
「あははじゃないよ」
 春日がジト目を送る。
「とにかく先輩、力を貸して下さい。後お金も貸して下さい」
「よし、歯を食いしばれ、そして歯医者に挿し歯の予約を入れろ」
 春日が拳に気を込める。
「えー……だってここ、ATMも無いんですよ」
「知らんがな」
「オーノー……ならどうしたら……」
 秋山は頭を抱えた後、手を大きく広げ、天を仰いだ。
「大地よ海よ……そして生きているすべてのみんな……! オラに現金をわけてくれ!」
「集まらん集まらん。自分でなんとかしなさいよ。よく知らないけど、サバゲーやるときって山の使用料とか許可とか必要なんじゃないの? お金持ってきてるでしょ」
「え……あ、いや……その……」
 秋山が眼を逸らす。
「ちょっと! まさか、他人の私有林とかに勝手に入り込んでやってたんじゃないでしょうね!?」
「ち、違うんです! ボク達は勝負に熱中するあまり、そこが私有地だと『気付かなかった』んです! 過失です! しょうがないんです!」
「こらあ! そうやって言い訳まで用意して! いい? そういう行いがサバイバルゲーマー全体のイメージに繋がり、善良なサバゲーマー達が迷惑するの! 謝って! そして、よい子のみんなはぜったいにマネしないで!」
「は、はいぃ! すみませんっ! 以後気を付けます!」
「はあ……全くもう、裁判沙汰になっても知らないからね」
「は、はい……何か……心配掛けてすみません」
「べ、別に君の心配なんてしてないよっ! 勘違いしないでよね!」
 春日は顔を赤らめるとそっぽを向いた。しばらく続いた沈黙の後、秋山はその場に崩れ落ち、地面に拳を叩き付けた。
「だめだっ…………! オッサン二人でツンデレプレイしたところでおぞましいだけだっ……! 萌えるどころか焼身したくなりましたっ……!」
「全くだね……」
 春日もホロリと涙を流した。
「こんなとき夏目ちゃんさえいてくれたら……!」
「そうだね……今度リクエストしてみよう。そしたらきっと彼女は、火が付いたように怒りだし、断固として、首を縦に振らないだろう」
「そうですね。後、絶対ボク等にお説教しますよね」
「するね……。そうやって怒れば怒る程、その怒った顔がツンなのだとも知らずにね……!」
 春日と秋山は顔を上げるとニヤッと笑った。
 その後、秋山がした交渉によって、金銭の貸与については返済時、利子としておこめ券を付与するものとし、事故の調査に関してはひとまず現場を見てから判断するものとして基本合意に達した。
 そうこうしている間に問題の場所である、森の中に引かれた単線の線路が見えてきた。森の中に引かれているといっても、木が倒れてきてレールを塞いだりすることがないよう、走る線路とその両脇に生い茂る木々とは、充分に間隔がとられており、日差しが遮られることもないので明るく、とても凄惨な事故が起きたとは思えない、静かで美しい場所であった。
「向こうから電車が来て……そこで、男性が轢かれたんです」
 秋山が指差しで説明を始めた。電車の運行が再開されているため、二人は今線路から少し離れたところに立っている。
「ちょうどこの辺り、ちょっとカーブになってるんです」
「なるほど……電車の運転手からすると、木々が視界の邪魔をして、カーブの出口に立つ男性の発見が遅れてしまったわけか……」
「そういうことになります。えー……亡くなったのは小野さんという五十代の男性ですね」
 秋山がメモを見ながら言った。
「ふむ。それでその小野さんは、どこか怪我して、線路に横たわったまま動けなくなっていた、というわけじゃないんだよね? 本人が電話で怪我したわけじゃないとか言っていたようだけど」
「はい。電車の運転手さんは、小野さんが線路の上に立っていたと話しています。あ、それでですね、小野さんは足を怪我していたかもしれないと言うより、前々から足が不自由な方だったようです」
「あ、そうなの?」
「はい、片足が不自由だったそうで。でも車椅子とか杖とかが必要な程ではなくって、一人で立つこともできるし、足を引きずりながらですが歩くこともできたみたいです。だから親族の方も最初、歩けなくなる程の怪我をしたんだと思ったそうです」
「ふうん……」
 春日は首を伸ばして左右を確認すると、早足で線路に近付き、しゃがみ込んで目を凝らした。均した地盤の上に砕石が撒かれており、その上に木製の枕木が等間隔で敷かれ、更にその上を錆びの浮いた二本のレールが走っている。古いが、何の変哲もない線路であった。春日は立ち上がると踵を返した。
「特に気になるところは無いね。まあ目に見えておかしなところがあれば、昨日の時点で地元の警察が見付けてるだろうけど」
「はい、見た限り別に不審な点は無いんです」
「ふむ……ところで、小野さんはなんでここを通ったのかな」
「それはだから、小野さんが足の不自由な方だったからですよ。小野さんは移動のとき、踏切まで迂回したり歩道橋の階段を上がったりすることが容易ではないため、移動の途中に線路が有った場合は近道のため、いつもそのまま線路を横切っていたみたいです」
「ああ、それはその通りなんだろうけど、そうじゃなくて。昨日は何の用事があってここを通ったのかなって」
「ああ、すみません、えと、小野さんは出掛ける際、家の人に知り合いの家に行くと話したそうです」
「知り合いの家に……行きに轢かれたのかな、それとも帰りに轢かれたのかな?」
「帰りのようですね。その知り合いというのが誰なのかも分かってます。その知人宅から小野さんが出てくるのを見掛けた方もいますので、帰り道で事故に遭ったのは間違い無いようです」
「ふむ……そんじゃま、その知人さんに事故の前、小野さんにどこか変わった様子が無かったか聞きに行ってみるとしようか」
「おっ、それじゃ協力してくれるんですね!?」
 秋山が眼を輝かせる。
「このまま帰ってもスッキリしないからね。でもその知人って今行ってもいるかな? 仕事中かもしれないよね?」
「あ、そうですかね。家がどこにあるかは知ってるんですけど」
「そう、じゃとりあえず行ってみようか」
 春日と秋山は足早に線路を横切った。そして森を抜け、田園に漂う肥料の香に風情を感じつつ、小野が昨日訪ねたという居を目差した。

 こうして二人は、一軒の家屋へと辿り着いた。
 表札には『別所』とある。しかし、戸を叩いても返事が無い。
「あらあ、やっぱり出掛けてるみたい。……ここまでだね。秋山君、残念だけど」
 春日が振り返って言った。
「ち、ちょっと待ってみましょうよ! 後一時間だけ!」
「長いわ」
「じゃあせめて一時間半! ……いや二時間!」
「この場合普通、時間は短くなっていくのが正しい。君は頭がおかしいのか?」
「じゃあえっと、じゃあえっと……!」
「どんだけ女刑事オトしたいんだよ」
 二人が戸口でギャアギャア騒いでいると、後ろから声を掛けられた。
「ウチに何か用ですかな?」
「「え?」」
 振り返った二人を、怪訝な表情で見詰める中年男が立っていた。相当年季が入った作業服を着ていて、履いている安全靴もくたびれ、擦り切れた爪先から中の鉄板が見え隠れしていた。そして手には仏花を携えている。
「あ……あの、失礼ですけど、別所さんでいらっしゃいますか?」
 秋山が居ずまいを正して訊ねた。
「……そうですが、あなた方は?」
「すみません、ボク達昨日の、小野さんの事故について調べてまして」
「……ああ、そうですか……」
「今、お仕事からお帰りですか?」
 今度は春日が訊ねた。
「ええまあ、工場は今日午前中だけだったものでね。……私もビックリしてますよ、事故には……」
「そうですか……それで、ですね、昨日小野さんがこちらに伺ったとお聞きしまして、そのときの状況をお聞きしたくてですね」
 「………………状況、とは?」
「例えば小野さん、酔っ払ってベロベロだったりはしませんでしたか?」
「ああ、そういうことですか。いや、酔っ払ってはいなかったですね」
 別所は首を振った。
「そうですか……。では、小野さんにどこか変わったところは無かったですか?」
「ううん……いえ、判りませんね。無かったと思います」
「そうですか。ではですね、差し支え無ければお聞きしたいのですが、小野さんは昨日、どういったお話でこちらに?」
「ああそれは、実は私、遠くに引っ越すつもりで、家を手放そうかと思っていましてね。それで、この家を安くで譲るから、見るだけでも見てみないかと小野さんに相談したんですよ」
 別所は自分の家を指して言った。
「なるほど、それで昨日は小野さんがお宅を見にこちらへ」
「そうです。それがこんなことになって……」
 別所は、春日の視線が自分の手に向けられていることに気が付いた。
「ああこの花はね……実は別所さんにではないんです。勿論、後で別所さんの分も用意するつもりでいますがね。今日は……妻の命日なんですよ」
「あ、失礼しました」
「いえいえ、それでね、この家は独りで住むには広過ぎるから……それでね……」
「そうでしたか……」
「私から教えて差し上げられることは特に無さそうですね……申し訳無いですが……」
 別所は小さく頭を下げた。
「ああいえいえ、参考になりました。ありがとうございました」
 春日と秋山も辞儀を返す。
「どういたしまして。でもね、私思ったんですが、小野さん昨日は白い服を着ていたんですよ。ここ数日ずっと日差しが強いでしょう? 服が太陽の光を白く反射して、電車の運転手には小野さんの姿が見え難くなってしまったんじゃないかなぁ。だからあんな事故に……」
「……はあ……なるほど……」
「……では、すみませんが私はこの辺で……」
「あ、お疲れのところすみませんでした」
 春日達が再度礼を述べると別所は会釈で応え、家の中へ消えていった。

 その後、春日と秋山は小野の住居にも足を延ばした。位置的に考えて、事故現場である線路は小野が別所宅から帰宅する際、近道のために横切ろうとしたものと見て間違いなさそうだった。
 そして二人は、再び現場へと戻ってきた。
「……………………」
 春日が線路をじい、と眺める。
「先輩、小野さんが電話で言った謎の言葉、少しは解りそうですか?」
「…………」
「一体ここで何があったんでしょうねぇ……」
 秋山は春日の返事を待たず、続けて疑問を口にした。
「……あのさ、さっき別所さんが、小野さんが着けていた白い服が日光を反射したんじゃないか、とか言ってたよね?」
「え? ああはい、確かに、太陽がカーッと照ってるときって、干してある白いシーツとか女性が差している白い日傘をまぶしく感じるとき有りますね。反射した光の所為で小野さんの身体の輪郭がぼやけてしまって、それで運転手がそれを人だと気付くのが遅れたんじゃないか、ってことですよね?」
「うん……。でもさ、よく別所さんは小野さんが白い服を着てたってだけであんな風に憶測が飛ばせたよね。緑ならまだ分かるんだよ、木々の緑と緑色の服が同化して、運転手には小野さんが見えなかったんじゃないか、ってね……」
「迷彩服みたいにですか?」
「そうそう。……これってさ……もしかしたら、別所さん自身がこの場所で小野さんを見て、実際にまぶしく感じたから、あんな科白が出たんじゃないだろうか……? すなわち、小野さんにここで何かをしたのは別所さんなんじゃないかな……」
「い、いきなりですね。何かって何を?」
「いやそれはまだ解らないけど……。片足が不自由な小野さんが足を引きずりながらここへ来て……そしてここで何かが……」
 春日は顎に手を当てて目を細めた。
「あ、その小野さんの悪い方の足なんですけど、神経が麻痺していたみたいですよ。昔車の事故に遭ったらしいんですが、そのとき足首に喰い込んだ大きめの鉄の板がそのまま埋没してしまって、いまだ足に残ったままだったみたいです」
「うわあ、痛い! さっさと手術して取り出せば良かったのに。あ、麻痺してるから痛くないのか」
 春日が顔を引きつらせていると、近くの茂みがガサガサ揺れ、そこから一人の老人が顔を出した。
「おうい、おめえさん達こんなとこで何してる? あぶねえぞ。昨日もこの辺りで事故があったらしいわ」
 老人が茂みから出て来た。どうやら地元の人間らしい。
「ああはい。実はボク達、その事故について調べてまして」
「へえ、そうなの」
「おじいさんはここで何を?」
「俺? 俺はあれだ、山菜集めててな、農協に持って行くの」
「そうですか。あ、そうだおじいさん、昨日もここに来ました? 昨日この辺りで別所さんを見ませんでしたか?」
 春日が訊ねた。
「あ? 別所って鉄工所で働いてる別所か? いやあ昨日は俺来てねえもん。知らね」
 老人は首を振る。
「そうですか……」
「でもそういや、何日か前にこの辺りで見掛けたな。仕事中だったのかもしれねえ。わからねえけど何かしてたな。それでな? 線路のところで急にすっ転んでな。靴が脱げてたわ」
「靴が?」
 春日が眉を顰めた。
「ああ。その後はどっか行ってしもうたが」
「…………あ! も、もしかして……そうか、解った!」
 春日が表情を変え、大きく声を上げた。
「おじいさん! ありがとうございます、おかげで謎が解けましたよ!」
「あ?」
「え、解ったって、別所さんが何をしたのか解ったんですか!?」
 秋山が驚いて訊くと、春日は力強く頷いた。

※この事件で使われたトリックとは?

「せ、先輩。別所さんが一体何をしたっていうんですか!?」
 事情がわからずキョトンとする老人を完全に取り残し、二人の会話が続いた。
「別所さんは罠を仕掛けたんだよ。小野さんしか引っ掛ることのない罠をね……」
 春日が引き締まった表情で話し始める。
「罠ですって?」
「そう。小野さんは、磁力によって足を絡め取られ、線路上から動けなくなってしまったんだ」
「じ、磁力!?」
 秋山が眼を剥いた。
「うん。線路を見てごらん。錆びが浮いていることから判るように、レールは鋼鉄製だ。そして鉄と言えば磁性体、つまり磁界の中にあるとき磁力を持つようになる物質だ。僕の考えが正しければ、この辺りの地面の下のどこかに、磁力発生装置が埋まっているはずだよ」
「そ、それって、電気の力で磁気を作り出す機械のことですよね?」
「そう。工場等ではリフティングマグネットという機械が使われている。クレーンの先に磁石が取り付けられている装置なんだけど、その強力な磁力で重い鉄の塊も持ち上げることができるんだ。鉄工所で働く別所さんはこの類の機械に精通していて、それを利用したんだと思う」
「でも……どうやって小野さんをこの場所へ?」
「うん。別所さんは足が悪い小野さんが近道のために線路を横切るであろうことを考慮して、計画を立てたんだろう。まず別所さんは適当な口実を作り、小野さんを呼び出した」
「口実ってのは家を安く売るってやつですか?」
「そう。そして頃合いを見計らって小野さんを家から送り出す。頃合いとは、電車がここを通過する前に、小野さんが線路に差し掛かるようにすることだ。また、小野さんは歩くのが大分ゆっくりだったはずだから追い越して現場へ先回りすることは充分可能だ。そして小野さんを待ち伏せていた別所さんは、用意していた罠を作動させた……」
「あ、そうか! 小野さんの足首には……!」
「そう、事故によって鉄の板が埋没している。別所さんはそのことも知っていたんだろう。そして、小野さんの足は磁力によって引き寄せられ、レールとくっ付いてしまったのさ」
「眼に見えない力が働いていたわけか! だから小野さんは電話であんなこと……!」
 秋山が手を打つ。
「そして、小野さんが動けなくなっているところに、電車が来て……」
「…………」
「磁力は鉄製のレールを伝わるから、小野さんが磁力発生装置の真上を通らなくても足を捕ることはできる。大体この辺りを通ってくれればいいってわけさ」
「な、なるほど……。じゃあやっぱり先輩が言った通り、別所さんはここで小野さんの服の白さを実際にまぶしく感じたから、あんな科白が口を付いてしまったわけですね?」
「そうだろうね」
「しかし先輩、どうして今回の犯行に磁力が関係していると気付いたんですか?」
「それはね……」
 春日は唖然として佇む老人を振り返った。
「おじいさん、数日前ここで見掛けた別所さんが、そのとき仕事中だったのかもしれないと思ったのは、作業服を着ていたからではありませんか?」
「あ、ああ……そうだ」
 老人は戸惑いながらも頷いた。
「やっぱり。おじいさんは別所さんが何かの作業中だと思ったわけですね。しかし実はそのとき、別所さんはそこで装置の作動テストを行っていたんですよ。別所さんは作業服のとき、足には安全靴を履いていた。安全靴には物が落下してきたときのために爪先をガードする鉄板が入っているからね。それをうっかり磁石にくっ付けてしまい、転んでしまったんだよ……」
「なるほど……!」「え、えらいこっちゃあ……」
 秋山が驚きの声をあげ、老人が唇を震わせて呟いた。
「先輩、この後どうしますか?」
「…………」
 春日は鈍く光る鋼の軌条に目を向けていた。


「―というわけで、僕達はあなたが証拠を隠滅するために現場に現れるのをこっそり待ち伏せることもできましたし、地元の警察と協力してあの一帯を掘り返すことだってやろうと思えばできました。しかしそれをしなかったのは……」
「あなた自身の口から、真実を話してほしかったからなんです……」
「…………」
 春日と秋山の前には今、別所が立っていた。抵抗は無駄だと悟っているのか、別所は二人が話している間、身動き一つしなかった。
「……あなた方が仰った通りです……私が殺しました……」
 そして小さくそう呟いた。
「……別所さん……何故あんなことを……?」
 秋山が問う。
「あの男を恨んでいました……私は妻を喪った……。ある日、妻は手の痺れと眩暈を訴えました。勿論すぐに医者に連れて行きましたよ。……しかし、小野が先に診療所に来ていて……あの男は足の感覚が無いはずなのに……それなのに、その日に限って足が疼くと言って……。この辺りにはその診療所一つしかなくて、医者も一人しかいなかった。……あの男は妻に順番を譲ってくれなかった……! 処置が早ければ助かったかもしれないのに……! 妻はその日脳梗塞で倒れ……三日後に死にました……」
「…………」
「それから私は小野の事をいろいろと調べ上げたんです……復讐するためにね……」
 その後別所は、現場で小野を手にかけたときの様子を、淡々と語った。

 こうして、別所は警察へと出頭し、その供述通り現場近くの地面を掘ってみたところ、そこから電力によって磁気を作り出すことのできる装置が発見され、事件の幕は閉じた。

「ひっく……ひっく……」
 帰りのバスの中、秋山が何度もしゃくりあげていた。
「もう泣くの止めなよ……」
 春日が秋山に声を掛ける。
「……だって……だってあんなの……悲し過ぎるじゃないですか……」
「……うん……そうだね……」
「うう……あまりにも……あまりにも……」
「秋山君……うん、まあ……お目当ての女刑事が人妻だったのがショックなのはわかるけどさぁ……」
「ふぐぅ……無念です……」
 秋山が泪にむせぶ。
「全く君は、刑事のくせに観察力が足りないよ。左手の指輪に気が付かなかっただなんて。顔ばかりに目がいってるからそんなことになるんだよっ」
「違いますぅぅ! どっちかっていうとおっぱい見てましたぁぁ!」
「どっちにしろ刑事失格じゃあぁ!」
 春日のツッコミが走るバスを揺らした。
 

   第十四話  誤認

「いつになったら出発できることやら……」
 春日はハンドルに頬杖を突きつつ呟いた。助手席に座る秋山はルームミラーを自分の方へ向け、後方を窺っている。張り込みではない。
 制服姿の夏目が春日書店号を飛び出してから、既に五分以上が経過していた。
 鏡に映る夏目の後ろ姿の向こうには、下校途中の小学生が五人。手ぶらの少年が四人、五人分のランドセルを抱え、汗だくの少年が一人、という編成である。
 少し開けた窓の隙間から夏目の声が滑り込んでくる。
「あのねえ、もう一度聞くけどアンタ達さ、なにが楽しくてイジメなんてやってるわけ?」
 肩をいからせる夏目を相手取り、一番体格の良い少年その一が唇をとんがらせている。
「いじめてないって言ってるだろ! いじめてないよあ!?」
「う……うん…………」
 ジロリと睨まれ、ランドセルを全身に纏った少年は、目を合わさずに頷いた。
「そんな聞き方されて、いいえ、イジメてます。なんて答えられる訳ないでしょ! 後の仕返しが怖くて! でもその子を見れば一目瞭然よ! 汗びっしょりじゃない! 随分長いことアンタ達の鞄を持たされ続けてたっていう証拠でしょ! それに! アンタ、この子のこと、小突いてたでしょう!」
 無関係を装っているつもりか、一番離れたところで息を潜めていた少年その二を、夏目はビシリと指差した。
「いい!? よく聞きなさい。相手に力が無く、やり返してこないことをいいことに振るう拳、それは暴力なの! テレビでよく若手芸人が小突かれたりイジメられたりしてるけど、あれはギャラが発生してるの! 仕事なの! あくまでエンターテインメントなのよ! 社会生活としっかり区別しなさい! あたしはね! なにも『清く正しく生きろ』だとか『弱きを助けよ』とか小難しいこと言ってるんじゃないのよ! 『自分がやられたら嫌なことを相手にするな』って言ってるの、たったそれだけ、わかる!?」
 夏目がどんどんヒートアップしてゆく。車内の二人が溜息を吐いた。かといって、ここで止めに入るのも何かが違うだろう。ただ二人が心配なのは、カッとなった夏目は、あの幼稚な正義マンごっこを街のちんぴら相手にでもやりかねない、ということだ。春日と秋山は何を見たとしても絶対に手を出すなと夏目にクギを刺している。下手に相手を逆上させて狼藉を働かれでもしたらもう取り返しがつかない。春日達が夏目に許した唯一の行動は警察への連絡、それのみであった。それでも心配な春日は先日、痴漢撃退用の催涙スプレーを夏目に与えた。それを常に持ち歩くよう強制された夏目は、『なによコレ、ポッケがパンパンになっちゃうじゃない』などとぶつくさ文句を言っていたが、春日があまりにもしつこいので目下のところ約束を守っているようである。春日は更に、暴徒鎮圧用のスタンガンを携帯させようと目論んでいが、まだ秘密だ。
 ルームミラーを見ていた秋山の眼元が緩んだ。春日が振り返ると、夏目が少年からランドセルを剥ぎ取り、ボトボトとアスファルトの上に落としているところだった。そして少年達に自分のものは自分で持つよう命じている。
 ぱかっ、と音がした。夏目が少年その一にゲンコツをかました音だ。どうやらその少年が、ランドセルを拾う拍子に何かを言ったらしい。夏目が『もう一度言ってごらん!』と大声を上げている。もの凄く痛いのだろう、少年は殴られたところを両手で押さえ、唇をぷるぷるさせている。そして次の瞬間には踵を返して逃げ出していた。他の少年達もバタバタとその後に続く。そうして最後にはあの、ランドセル押し付けられ過ぎ、の少年だけが取り残された。少年は背負ったランドセルのベルトを強く握り、青い顔をしている。車の二人の位置からでは確認できないが夏目が凄い顔をしているのは間違いない。夏目がグリン、っとバネ仕掛けのように首を捻って少年の方を向いた。少年はびくりとした後、まただらだらと汗を流し、何度も何度も直角に体を折り曲げておじぎをし、やはり逃げるように走り去った。
 仏頂面で後部座席のドアを開いた夏目を春日と秋山が渋い顔で迎えた。
「大人げなくね?」
「最後のゲンコツはどう見ても暴力じゃね?」
 口々に言う男達をギロンと睨むと夏目は言葉を返した。
「違うわ。正義の、鉄槌よ。まったく、最近の子供は目上の人間を敬うってことを知らないみたいだわ」
「そう言うなら夏目ちゃんも年上であるボクに対して、少しは敬意を払って貰いたいもんだね!」
 秋山はここぞとばかりに言い放った。……脳内で。
「だいぶ時間をロスしちゃったわ。スガッチ、車出して頂戴」
「……了解です」
 春日がイグニッションを回した。ルームミラーの位置を直しながら夏目に訊ねる。
「でもね、夏目君。今から出発したら、夜になっちゃうよ? 大丈夫なの?」
「大丈夫。従姉のトコ行くってことにしてあるから。口裏も合わせてあるし、明日ガッコ休みだし、となれば一刻も早く現地に向かわないともう、申し訳が立たないじゃない」
「誰に? ……てか、何で僕達も行くの?」
「つべこべ言わないの! こういうのはみんなで行った方が楽しいじゃない! 何よ、あたし一人で行けって言うの?」
 そう言われたらもう、何も言い返せない。春日は溜息を吐くとアクセルを踏んだ。
 今回の目的地は海である。それはある科学実験のためであった。海で食べる焼きそばやバーベキューがなぜあんなにも美味しいのか―夏目はそれを潮風に含まれる塩分が食べ物に付着し、それが絶妙な調味料となり旨みが増すのだ、と仮定した。ならば、天然塩の名産地の潮風を受けた食べ物は、それは美味しくなるに違いない、と発想を飛躍させ、ならば検証するしかない、という考えに至った次第である。
「別に夜になってもいいのよ、海で食べると気分で美味しく感じるのかもしれないじゃない? 今回は視覚には頼らず、味だけで判断したいから。それと、しばらく潮風に晒したおむすびAと、普通のおむすびBを、どれくらい味に違いがでるかも食べ比べてみましょ!」
 夏目は脇に置いた鞄をポンポン叩いた。
「カップ焼きそばも同様にね! 本当はバーベキューでやりかったけど、手間が掛り過ぎるから断念したわ」
 全てを断念してくれ、静かに前を見据える二人の顔にはそう書かれていた。しかしたとえ口に出せたとしても、ルームミラーに映る確変時のパチンコ台並みに煌びやかな笑顔を見せているこの娘を止めることは、到底無理だったであろうが。

 塩が生産される程きれいな海、となるとやはり都会から遠く離れたところ―となり、車を走らせるにつれ、次第に民家やすれ違う車は減っていった。そして更に車を走らせ、とっぷりと日が暮れた頃―
 
 一行は道に迷い、車も壊れた。
 
「えっと……さっきここから入ったと思うから……うーんと……今この辺り……?」
 修理を呼ぼうにも何と言う地名のどこに呼べばいいのかも分からず、秋山が車内灯を頼りに地図と格闘している。
「お腹空いた……ノド乾いた……」
 春日がハンドルにつっぷしてぼやいた。
「もう、なんなのよここ」
 夏目が車の外に眼をやった。近く大規模な開発計画でもあるのか辺りは大きく切り拓かれており、右を見ても左を見ても剥き出しの地面ばかりが拡がっていた。もう少し早い時間帯なら、何かしら建設に携わる人間達がその辺で働いていたに違いないが、今は本当に、人っ子一人居ない。
「な、夏目君。海に近付いているのは間違いないんだし、もう殆ど海みたいなものだから、ここで始めてもいいんじゃない? ……実験」
 春日は勇気を出して言ってみた。
「イヤよ! 何でこんなところで!」
「ち、ちょっと閑散としてるけど、落ち付ける良い所じゃないか」
「閑散どころか更地じゃない! 別に賑やかな所が良いって言ってる訳じゃなくて、砂浜とか、最低限のロケーションは欲しいのよ! ちゃんと実験した場所、どこどこって書くんだから!」
 鬼の新聞部部長が眼を吊り上げた。
「そ、そうだよね! ムード大事だよね! ほら秋山君! 現在地の割り出し急いで!」
「や、やってますよぉ」
 春日と秋山は車の外に首を出した。するとちょうど、遠くで車のヘッドライトが光った。
「やった、助かった、車だ!」
 二人は急いで車の外に出た。
 合図をして車に止まって貰うと、運転席にはラフな服装をした中年男が座っていた。
「車が壊れた? へえ、奇遇だねえ。俺今からダチの家に飲みに行くところだったんだけど、そいつ腕の良い修理屋なんだわ。診て貰ったらいいよ」
「本当ですか!? 連絡取れますか?」
 秋山が表情を明るくさせた。
「なんなら連れてってあげるよ、ついでだから。ちょっと待ってな」
 神田と名乗った男は、牽引用のロープを取り出した。春日達はそれで引っ張って行って貰えることになった。
「助かりましたね。こういうのを怪我の功名っていうんですかね」
「違うよ。不幸中の幸いだよ」
「違うわよ。この都合の良過ぎる話の展開は渡りに舟って言うのよ」
 夏目が冷静に訂正した。

 取り壊しの進む家々や空地が目立つ中で、ぽつんと一軒だけ建物が残っていた。豊見モータース、看板にはそう書かれている。もう営業は終了しているのか、明かりは消え、シャッターは降りていた。
「おう、豊見。この人達、車が壊れたんだってよ」
「ああそう」
 ツナギ姿で表に現れた豊見と呼ばれた男が、腕時計に眼を落した。
「すみません。やっぱり無理ですかね、この時間じゃ」
 秋山は頭を掻いた。
「ああいや、大丈夫ですよ。まずは診てみないとすぐ直るかどうかはわからないけど、まあ代車もあるから」
「本当ですか、助かります。道に迷って、車も壊れて本当に困ってたんです」
「へえ、どこ行こうとしてたの?」
「一応、これから海へ向かおうかと思ってるんですが」
「え、これから? こんな時間に?」
 豊見が不思議そうに訊ねた。それに対して秋山は曖昧に返事をした。ここで言葉を濁すのも変に思われるかもしれないが、実験のためだと言えば、もっと変に思われるだろう。
「なのでできれば、道とかも教えて頂けると……」
「いいよ、教えてあげよう。豊見、紙とペンあるか?」
 神田に言われ、豊見はツナギのあちこちをパンパンと叩いた後、無い、と答えた。
「上か? じゃあ取ってくるか。ちょっと待ってな」
「何から何まですみません。お手数をお掛けします」
 頭を下げる秋山に、神田は手を上げて答え、建物の裏に消えた。
 今度は春日が車を降りて来て、豊見に頭を下げる。
「すみません、お世話になります。ところで、この辺りに自販機ってありませんか?」
「え、いやあ、無いね」
 豊見は苦笑して首を振る。その後すぐに手を叩いた。
「あ、そうだ、ちょっと待ってて、そういえばいろいろ買ってきてあるはずだ」
 豊見は神田の車のトランクを開くと、中からペットボトルを二本持って戻って来た。
「あったあった、これでよければどうぞ」
 と言って、春日と秋山に一本ずつ渡した。夏目が車に居ることには気が付かなかったようだ。
「いいんですか? すみません。あ、じゃあお金を」
「いい、いい」
 豊見はパタパタと手を振った。春日は礼を言いうとボトルのキャップを捻り、旨そうに中身を呷った。
「……ん? おい豊見、あれって俺が持ってきたやつか?」
 メモ帳とペンを手に戻って来た神田が、春日と秋山が手に持つペットボトルを眼で指した。豊見が頷く。
「おう、そうだ。別に構わないだろ? ジュースの一本や二本でケチケチするなよ」
「いや、ケチってるわけじゃねえよ。でもあれ……」
「こんばんは。こんな時間からでも修理ってお願いできるんですか?」
 最後に夏目が車を降りてきた。豊見はいきなり現れた女子校生に小さく驚き、しばし見入った。因みに神田も先程同じ反応をした。薄暗くても夏目の整った顔立ちというのは充分に男の目を引くものらしい。
「あ、ああ修理ね。じゃあちょっと診てみようか」
「どうする? 中入れるか? 車押すか?」
 神田がシャッターを指した。
「いや……大丈夫だ」
 言うと豊見は通れる分だけ持ち上げたシャッターを潜り、ほどなくしてスタンドの付いた照明器具と工具入れを持って出てきた。そして慣れた手付きで照明を入れると春日書店号のボンネットを開けた。そして、中の所々をチョンチョンチョンと触ると、それだけでもう顔を上げる。
「ああ大丈夫。これはただのオーバーヒートだよ。しばらくしたら走れるようになる」
「え、本当ですか、よかったぁ。ありがとうございます」
 夏目が表情を和らげて頭を下げた。
「いやいや」
「じゃあスガッチ―」
 夏目が振り向くと、春日はいつの間にか春日書店号の後部座席に居て、夏目の鞄からタッパーを取り出し、中のおむすびをおいしく頂いているところだった。
「えっ!? なっ、ちょっ、スガッチ!? 何やってんの!?」
 夏目がもの凄い勢いで春日に掴み掛った。春日は何故自分が怒鳴られているのか解らない、といった風にキョトンとしている。
「あーっ! 二個も食べてる! これ実験のために用意したのよ! 一体なに―」
「んん!?」
 夏目の背後でくぐもった唸り声が上がった。夏目が振り返ると、秋山がペットボトルを手に固まっていた。秋山は口に何かを含んでいたが、少し迷ってからそれを飲み下し、呟いた。
「スクリュードライバーだ……」
「は……?」
 豊見が驚いて神田を見た。
「ああ、あれか? そう、カクテルだ」
 神田が頷く。
「酒だったのか!? 変なマネするなよ!」
「お前が勝手に勘違いして渡したんだろうが。人ン家にゴチャゴチャ材料持ち込んでシェーカーシャカシャカするのもアレだったから家で作って持って来たんだよ!」
「お前カクテルなんか飲まなかっただろ!」
「今マイブームなんだよ!」
 中年二人が言い争う。
 夏目は向き直って春日の顔をまじまじと見た。
「え? 何? じゃあ、もしかして、コレ酔っ払ってんの?」
 とても酔っているようには見えなかった。いつもより眼がキリリとしているくらいだ。そして春日は、おもむろに鞄から魔法瓶を取り出し、今度はインスタント焼きそばの作成に取り掛るのであった。勿論、夏目は慌てて取り上げた。
「夏目ちゃん、もしかして先輩?」
 秋山が夏目の後ろから声を掛けてきた。
「うん、そうみたい……」
 春日の足下には半分くらい空になったペットボトルが転がっていた。
「あー酔ってるわ。眼が違うもの」
 春日の顔を覗き込んだ秋山が眉を顰めた。
「へえ。スガッチって酔うとこうなるん? で、何で一言も喋らないわけ?」
「さあ? 言語中枢がクラッシュしてんじゃないの? 大概次の朝には直ってる、何も覚えてないみたいだけど」
「そう……でもどうしよう……これじゃあ運転は無理よね……」
「うん……ボクが運転してもいいけど、ボクも飲んじゃったからしばらくは無理。吐き出そうか迷ったんだけど、頂いた手前失礼かなと思って。いや、やっぱり飲むべきじゃなかったな……」
 秋山はバリバリと頭を掻いた。
「うーん、しょうがないわね。とにかくスガッチ、今は酔いを醒ますのが先決よ! 分かっ―」
「ごっごっごっ」
 春日はグイグイ飲んでいた。
「飲むなー!」
 夏目は春日の頭をはたくとペットボトルを奪い取った。
「大丈夫かいその人? 酔っ払ってんの?」
 神田が車内を覗き込みながら言った。
「申し訳ない。まさか酒だとは思わなくてね」
 頭を下げる豊見に秋山は手を振った。
「いえいえ、全然です。こっちが勝手に飲んじゃったんで。しばらくすれば元に戻ると思いますから」
「どうだろう、私の家がこの上にあるから、そこで休ませては? 水を飲ませて横にさせたらいい」
 豊見が背後の建物を指で差した。
「え、よろしいんですか? でも、突然押し掛けたらご家族にもご迷惑じゃ……」
 今度は豊見が手を振った。
「それは気にしなくていい。今は一人で住んでるから。今日はこいつと一杯やろうってところだったんだ」
 豊見は神田を指差した。
「そうそう。遠慮なんてしなくていい」
 神田が言った。
「そうですか? えっと、じゃあすみません、お言葉に甘えさせて頂きます。 ……先輩! こちらで休ませて頂くことになりました。上行きます。分かりますか? 上です!」
 秋山が指で上、上、とジェスチャーすると春日も上、上、とやってコクコク頷いた。
「そうです。上です。上行きましょう」
「(コクコク)」
「はい、そうです。上です。だから車を降りて下さい」
「(コクコク)」
「はい。先輩、分かりますよね? 車を降りて下さい。降りないと上へ上がれませんよ?」
「フハハハハハハ!」
「いや、ここ笑うとこじゃないです。さっさと降りて下さい」
「(プイッ)」
「さっさと降りろやああああ!!!」
 秋山は春日の頭をばしーんと叩いた。
「アッキー落ち付いて! 気持ちは分かるけど!」
 こうして春日は、男達の手によって水揚げされるマグロの如く車から引きずり出され、そのまま豊見の部屋へと搬送された。
 やっとのことで玄関を潜ることができた秋山達は、段ボールばかりが積まれ、家具はテーブルとソファーしかないようなリビングに通された。
「悪いね見苦しくて、今引っ越しの準備をしているところなんだ」
 豊見が苦笑しながら言った。
「あ、引っ越しされるんですか?」
 秋山はソファーの上に春日を放り投げた。
「うんそう……」
 豊見が奥の台所へ向かった。神田はテーブルを挟んで向かいにある別のソファーに腰を下ろした。
「この辺り、空地ばかりだっただろう? 今ここは開発計画が持ち上がっていて、立ち退きとか取り壊しが進められているんだよ。あとここもね。だから豊見もここから移ることになったんだ。地域の発展のためには必要な開発だと謳ってる奴もいるけどどうだかな……なあ、豊見よ?」
「……ああ……どうだかな……」
 豊見がボトルとグラスを持って戻ってきた。
「はいこれお水」
「ああどうも」
 秋山はグラスを受け取ると春日の顔をグイッと上に向け、グラスを傾けて春日の口に水を注ぎ込んだ。
「お嬢さん達にも何か用意しようか」
「いえ、あたし達は結構です。どうかお構いなく」
 夏目は小さく首を振った。
「ふう……ここまで順調だったのに、大分時間喰っちゃいそうね……でも仕方ないか……」
 夏目は春日の頭を腕でかかえると、胸に抱いた。そして秋山から水の入ったボトルを受け取ると、ボトルを春日の口に向けてひっくり返し、ゴッポゴッポと勢い良く水を流し込んだ。
 空になったボトルを床に転がし、春日も転がしておくと、豊見が今度は茶菓子を運んできた。
「大丈夫かい彼? 何かぐったりしてるけど……」
「どうぞお構いなく、ほっといたら目を覚ますと思うんで」
 秋山がにこやかに答えた。
「ところで、ここから海って近いですか?」
 夏目が神田に訊ねた。
「ん? ああ、そういえばまだ地図書いてなかったっけ。近いっちゃ近いよ。でも砂浜とかは無いよ? ここら辺の海岸はテトラポットばっかりだから。波止ならあるけど」
「波止?」
「うんと、あれだ、防波堤だよ。海岸から沖に向かってこう、道、というかコンクリートが突き出してるやつ。知ってる?」
「ああ、分かります。それって近いですか?」
「……いや、止めた方が良いよ」
 豊見が話に割り込んだ。
「もう暗いし、あそこは十メートル以上も深さがある。足を滑らせでもしたら大変だ。止めておいた方が良いよ……」
「そうですか……。まあ……連れもこんなですしね……」
 夏目は床で動かなくなった春日を見下ろした。ビニール袋をガサガサしていた神田が陽気な声を出す。
「そんじゃあ、その兄ちゃんが眼ぇ覚ますまでゆっくりしてったら良い。ここで飲むのも最後だからと思って、しこたま買い込んであるからよ。お嬢ちゃん達も喰いなよ。豊見も、慣れ親しんだ家と仕事場を一遍に離れるのは寂しいだろうが、今日はパァーっとやろうぜ」
「……ああ、そうだな……」
 豊見は頷き、腕時計に眼を落した。
「おっとその前に、片付けなきゃいけない仕事があるんだ。しばらく外すぞ。お前はお嬢さん達のお相手しててくれ」
「おう?」
 豊見は近くにあった段ボールを横にどかした。するとそこにはテレビが隠れていた。豊見はテレビの電源を入れるとリモコンを秋山に渡した。
「ちょっと失礼しますよ、どうぞごゆっくり」
「すみません、ありがとうございます」
 豊見は開けてあった窓を閉めると部屋を出て行った。

 そして、豊見が帰ってきたのは一時間程してからのことだった。
「おう、おかえり! 仕事は片付いたか?」
 息を酒臭くした神田が上機嫌に手を上げた。そして、春日の傍に転がっている空のボトルは二本に増えていた。
「……ああ……」
 濡れた前髪を額に貼り付け、豊見は頷いた。
「それより聞けよ豊見! お前が居ない間、俺だけ飲んでるのも悪いから、お嬢ちゃんに何度も喰い物勧めてたんだけどよ、お嬢ちゃんそのたんびに要らないっていうのよ。何でだって聞いたら、面白いんだぜ!」
 神田は夏目達がどのような目的があって海に向かっていたのかを豊見に言って聞かせた。
「それで海に……」
 豊見は眼を丸くした。
「そんなわけであたし達、できればどうしても海に行きたいんです」
 困ったように夏目が言った。
「『達』じゃないけどね……」
 秋山が小さく呟いた。
「な、面白ぇだろ! だからよ、お前が帰ってきたら俺達も一緒に連れてってくれって話してたんだよ!」
「あ、あの波止にか?」
「おう」
「……でも……危ないぞ」
「んん? ああまあ、確かにな。お嬢ちゃん、足下には気を付けろよ。落ちたら大変だからな」
「いや、気を付けなきゃいけないのはお前の方だ」
「おっと」
 豊見に言われ、神田は唾を飛ばして豪快に笑った。
「だからよ、この兄ちゃんはそのまま寝かせといてよ、俺達も行こうぜ」
「……そうだな……そうするか」
 豊見は頷いた後、床に横たわる春日に眼を落した。
「彼をこのままここに寝かせておくのも可哀そうだから、ちゃんと寝室で寝かせてあげようか。奥にベッドがあるから、そこへ運ぼう」
「いいんですか? お気使いありがとうございます。あ、大丈夫ですボク達で運びますので。夏目ちゃんそっち持って」
「うん」
 春日は万歳をする恰好でズルズル引きずられ、寝室へと運ばれた。
「重い。もういいわここで」
 夏目は寝室に入ったとたん手を放した。
「も、もういいわここで、って……」
「どこで寝てようと『寝室』で寝ていることには変わりないじゃない」
「そ、そうだけど……でもこれじゃ結局、先輩、床から床へ移動しただけってことに……」
「いいのいいの」
 夏目はさっさと寝室を出て行ってしまった。リビングでは豊見と神田がテーブルにあった皿を手に立ち上がっていた。
「よっしゃ、じゃあこれ、タッパーに詰めようぜ」
 豊見と神田は台所へと向かった。
「あ、豊見さん。お水、ありがとうございました」
 リビングへと戻ってきた秋山も春日に水を飲ませるために使ったグラスとボトルを持って豊見達の後に続いた。
「ああ、そのままでいいのに。じゃあ、流しに突っ込んでおいてくれるかな」
「わかりました。……あ、そうだ夏目ちゃん、……か……ほ……かな?」
「は? 何、聞えない。今何て言ったの?」
 夏目はテレビの音量を下げた。
「いや、先輩に書き置きとかしておいた方がいいのかな、って。眼覚ますかもしれないでしょ」
「ふむ、そうね……。いいわ、あたしが書いといてあげる」
「うん、お願い」
 夏目は鞄からメモ帳を取り出すとシャーペンをノクした。
「どう、書けた?」
 秋山がグラスを片付けて戻ってきた。
「ん」
 夏目は秋山にメモを見せた。切り取られたメモ用紙の真ん中には、春日に向けたメッセージが書かれていた。『留守を頼む』。
「いや夏目ちゃん、確かにそうなんだけど、状況を把握するには情報が少な過ぎるよね? 眼が覚めたら知らないところにいて、その上こんなメモまで残されていた日にゃ、もしボクならパニックに陥ること請け合いなんですけど……」
「スガッチなら大丈夫よ。そこはお得意の推理でも働かせるがいいわ」
 夏目は寝室まで行くと春日の傍にしゃがみ込み、顔と眼鏡の間にメモを挟んだ。

 気持ち良さそうにフラフラと歩く神田を先頭に、夏目達は一路防波堤を目指した。この夜遅くに制服のまま外をうろつくのはマズいということで夏目にはパーカーを羽織らせたが、元々民家が少なくなってきている地域な上に、時間も時間なので人や車とすれ違うことは全く無かった。
「あのマンション越えたらすぐ海だよ」
 神田が前方を指差す。大きく拓けた土地に背の高いマンションが建っていた。
「へえ、豊見さんとこみたいに、まだ残っている建物が在ったんですね。あれもその内取り壊されちゃうんですか?」
 秋山の疑問には豊見が答えた。
「ああいや、あのマンションは新しい街のモデルとなるべく先駆けて造られていた新築マンションだよ。これからどんどんとあんなのが増えていくんだろう」
「へえ、そうなんですか」
「あ、風に海の匂いが混じってるかも」
 夏目が明るい声を出した。頓挫しかけた計画が再開されたとあって、その足取りは軽い。
「え、本当? どれどれ……」
 秋山はくんくんと鼻を鳴らした。
「うん? これ何の音?」
 しかし秋山が感じ取ったのは潮の香ではなく、水の音だった。水がアスファルトを叩く音だ。音の出所を探ると前方に見えていたマンションからだった。屋外照明の弱い明かりではいまいちはっきりとしないのだが、後十数メートルのところまで近付いて大体音の正体が解った。マンションの外壁に散水栓が設けられているようなのだが、壊れているのか、ブシュブシュと音をたてながら勢い良く水が噴き出しており、辺り一面を水浸しにしていたのだ。
「何だろ、水出しっぱなしで。誰かのイタズラかなぁ……」
 秋山が眉を顰める。
「このままにしておけないわね。止めましょう。どこかに傘とかないかしら」
 夏目は首を回して辺りを見渡す。
「うーん……無いねえ」
「あ、良い方法考えたわ」
 夏目は秋山の背後に回ると、上着の背中を掴み、秋山を盾にしてグイグイ進んだ。
「え、あ、ちょ、夏目ちゃん!? あばばばばばばっ! や、やめ……うん……!? うわぁぁぁ!」
 秋山が悲鳴を上げて腰を抜かした。近くに行くまでは全く気が付かなかったが、すぐ足下に一眼で死んでいると判る男が転がっていた。男の身体は首も肘も膝も、そのどれもが不自然な方向にねじ曲がり、アスファルトの上で糸を切られた操り人形のように横たわっていたのだった。


 その後、秋山の報せを受けて駆け付けた警察によって現場の見聞が行われた。
「それにしてもびっくりしたわね」
 夏目はハンカチを絞った。
「…………そうだね」
 秋山は上着を絞った。
 二人は既に警察の聴取を受け終え、休みを取っているところだった。遺体も既に運び出されている。
「あたしが遺体に触れてみたら、顎や節々に硬直が現れ始めていたわ。そうよね?」
「ボクは触らないでって言ったんだけど、そうだね」
「てことは、あの遺体は死後一時間から二時間ってことになるわよね」
「なるね」
「あの男の人、このマンションの住人だったの?」
「うん。九階に一人で住んでたみたい。土本さん、だったかな」
「……水道が噴水みたいになってたアレは何?」
「パイプの繋ぎ目が何らかの道具を使ってへし折ってあったみたいだよ」
「そう。……じゃあ問題は、その土本さんって人を突き落とした犯人が、なぜ水道を壊し遺体をずぶ濡れにする必要があったのか、ね。……取っ組み合いになったとき、土本さんの身体に犯人を特定できる何かが付着してしまって、それを水で洗い流そうとしたのかしら……」
 夏目が腕を組んで考え始めた。しかし秋山が首を振る。
「いや、それがね。まだはっきりしないんだけど、どうも土本さんは誰かに突き落とされたとかじゃなく、自分から飛び降りた可能性が有るんだよ」
「え、どういうことよ?」
「屋上の手摺の前に、土本さんのと思われる靴が揃えて置かれていたんだよ」
「……じゃあ……自殺だって言うの……?」
 夏目は十階建てマンションの屋上を見上げた。
「あそこから飛び降りて……?」
「だろうね。死因は傷の状態からしてアスファルトと身体が激しくぶつかったことによる死亡とみて間違いないそうだもの」
「でも! 靴なんて、土本さんを突き落とした後、犯人がわざと置いたものかもしれないじゃない! 偽装工作よそれ!」
 夏目が喰い下がると、秋山は困ったように眉を寄せた。
「うん……。だけど、このマンションはエレベーターホールに入るにも鍵が必要なところだし、一階にある非常階段への扉も基本的に内側からしか開かない。おいそれと部外者が入り込める建物ではないんだよ。今もまだ調べは続いてるけど、土本さんの部屋が荒らされていたり、争い合った形跡とかも無いらしいんだ」
「じゃあ、水道が壊されていたのは何だったって言うの!?」
「何かの偶然、と言うか、全くの別件、と言うか……」
「どんな別件よ」
「例えば、土本さんが飛び降りる前に水ドロボーか、このマンションにイヤがらせをしようとした人間が現れて、壊して逃げた、とか」
「ちょ、本気!? おかしいってそれ! それに、土本さんの服装憶えてる? ウインドブレーカー着てたのよ。自分が住んでるマンションの屋上から飛び降りようって人がわざわざウインドブレーカーなんか着る? これってちょっと変じゃない?」
「いやそれは……何着ようと勝手じゃないかな」
「それに、そうよ、九階に住んでる人がわざわざ屋上まで昇る? 自分とこのベランダから飛べばいいじゃない!」
「ボ、ボクに怒られても……」
「とにかく、情報が足りないわ! アッキー、もう少ししたらまた情報収集してきて!」
「な、夏目ちゃん、この件はもう地元の職員達に任せてさ、ほら、実験もしなきゃだし」
「実験? ああ、そうだったわね。アッキー、そんなに実験が気になるなら一人で行ってきていいわよ」
「えー……」
「不審人物を目撃した人がいないか聞いて周りたいところね……でもこんな時間にドアを叩いて周るわけにもいかないし、困ったわね……。あ、アッキー、実験行く前にちゃんと、捜査の進捗状況を確認しに行ってよね」
「なるほど……夏目ちゃんの中ではもう終わったことなんだね……」
 秋山は女の切り替えの早さを改めて思い知らされた。
 こうして夏目は、昼間刑事の仕事で馬車馬のように働いた秋山を、頑張れ、の一言で更に馬車馬のように働かせるのであった。

「女王のために働くハチになった気分だ」
 秋山が、一体何を間違えてこんなことになったのか、今日一日を振り返っていると、夏目の大きな声が掛った。
「アッキー! 何独りでぶつぶつ言ってるのよ、早くこっち来て!」
「あ、はい……」
「で、どうだった?」
 もう深夜になろうというのに、この眼の輝きはどうだ。
「ええとまず、寝ていたマンションの住人達もこの騒ぎで起きだしてきたんだけど、話を聞いても今のところ不審者の目撃情報はゼロみたい」
「そう……」
「それでね、豊見さんと神田さんだけど、亡くなった土本さんのこと、知り合いというわけじゃないけど、知らない人ではなかったみたい」
「どういうこと?」
「ほら、この辺り今開発計画が持ち上がってるって話があったでしょ? 土本さんはその都市開発の立案者で責任者でもあったらしいんだ。元この辺りに住んでいた人達は土本さんの顔と名前くらいは知ってるって訳」
「そうだったの」
 夏目は豊見と神田に眼をやった。二人は夏目達とは少し離れたところで道路の縁石に座り込んでいた。
「じゃあその土本さんの部屋の様子についてだけど、補足はある?」
「ええと、まず一番最初、警官が玄関のノブに手を掛けたとき、鍵は開いていたそうだよ。そして部屋の明かりは点いてたって。さっきも言った通り室内に争いがあった形跡は無し。屋上にも特に異常は見られない。マンションの住人で争う音や土本さんの叫び声を聞いた人も居なかったよ。やっぱり、状況から見て自殺と考えるのが妥当じゃないかなぁ。自殺しようとする人がいちいち明かりを消したり鍵を掛けなかったとしてもおかしくないからね。土本さんは自ら屋上へ上がり靴を脱いでそこから飛び降りた。だから屋上には黒の革靴が揃えて置かれていたんだよ」
「え? ちょっと待って、黒の革靴?」 
「そう。玄関の靴箱の中には屋上に揃えてあった靴の紙箱もあったし、靴のサイズは土本さんの足のサイズと一致してる。土本さんの靴で間違い無いみたいよ」
 秋山が付け加えると、夏目が首を振った。
「ちがくて、上にウインドブレー着てるのになんで黒い革靴履くのよ。なぜにフォーマル? 一足ぐらいカジュアルな靴無かったわけ?」
「さ、さあ……どうだろう……」
「聞いてきて」
「はい」
 秋山はかけ足を始めた。

「な、無かったみたい」
 戻ってきた秋山が肩で息をしながら告げた。
「むー……」
「い、いやだから、何履こうと勝手だって」
「……マンションの中に部外者が入り込めないなら、その内側、住人による犯行、っていう可能性は?」
 夏目の問いに、秋山は首を振る。
「それがね、女性や年配の方ばっかりなんだよね。大の男を突き落とすなんて無理だと思うね。返り討ちに遭う可能性大だよ。そんなことするより、夜道で後ろからナイフで刺した方が簡単で安全だよ。この辺りあちこち暗いし、夜は人通りも極端に少ないそうだし、財布を抜き取ったりして通り魔的な物取りの犯行に見せ掛ければ容疑者の絞り込みも難しくなって捜査を撹乱できるしね」
「うわ、アッキーよくそんな悪いこと思い付くわね。そんな人だったんだ……」
「え、ちょ、こ、これはあくまで、刑事としてのアレであって、ボク自身はごく健全な好青年なわけで―」
「でも結局、遺体が水を被っていたことの説明には全くなっていないわね。これが一番の問題だと思うのに……」
「あ、話変わってる……」
「ねえ、遺書は在ったわけ?」
 夏目の問いに、秋山はまた首を振る。
「いや、見付かってないよ。パソコンや携帯に遺書を残す人も居るからそちらも調べようとしたらしいけど、部屋に携帯が無かったみたい。それとパソコンの方もロックが掛ってて中を見ることができなかったらしいよ。メーカーさんに協力を要請してロックを解除して貰うこともできるけど、人に読ませるための遺書にロック掛けるはずは無いだろうから、土本さんは遺書を残さなかったと考えて問題無いと思うよ」
「そう……。じゃあ自殺の動機については?」
「ああそれがね、動機は不明だったよ。土本さんは大きなプロジェクトを任されたことを喜んでいたそうだし、大好きな夜釣りにも精を出していて、とても悩みや不安を抱えてるようには見えなかったらしい」
「ふーん……夜釣りねぇ」
「うん。ライフジャケットを着て釣竿を背負った土本さんが、早朝に帰宅するのを住人が何度も見てる。つい先日も、人から教わった爆釣ポイントを今度試すと言ってご機嫌だったらしいんだ」
「…………やっぱりそんな人が急に自殺するなんておかしいじゃない……」
 夏目はポツリと言うと、豊見らが居る方へと足を向けた。
「神田さん豊見さん、ちょっと訊きたいんですけど、亡くなった土本さんってこの辺り一帯の開発を推し進めていたって聞いたんですけど、住民の抗議とか反対運動とかは無かったですか?」
「え……? いやあ、そりゃ個人々々で思うことが違うことはあったかもしれないが、特にそういう運動は無かったと思うな。なぁ?」
「……ああ……」
 すっかり酔いが醒めてしまった様子の神田の問いに、豊見が頷いた。
「でもお嬢ちゃん、何故そんなことを聞くんだ?」
「いえ、もしかしたら今回の一件、土本さんと付近の住民のトラブルが何か関係しているんじゃないかと思って……」
 夏目の意味深な発言に豊見と神田がギョッとなった。秋山が割って入り、作り笑いで取り繕う。
「す、すみませんね、変なこと訊いて……はは、き、気にしないで下さい!」
「……あ、ああ……。そ、そういや、こうしていて随分経つよな、今何時だ、豊見?」
「あ、ああ今……」
 豊見は腕時計に眼を落した。
「…………今……十二時……半……くらいだな……」
「おう、もうそんなになるか」
「…………アッキー、海行くわよ」
 夏目が急に秋山の方を向いた。
「え、何しに?」
 秋山が首を傾げて訊く。
「実験に決まってるでしょう」
「ええっ!」
「ここへは後で戻ってくればいいわ。そういうわけなんで豊見さん神田さん、あたし達ちょっと行ってきますんで」
「あ……ああ……」
 戸惑いの表情を浮かべる神田と豊見に、夏目はひとつ頭を下げ、スタスタと海へ向かって歩き出した。秋山は頭を抱えそうになりながらその後に続いた。
 
 海へと続く道路は、真っ直ぐに伸びていた。防波堤はその道路の先に造られていて、月明かりで見るそれは、まるで海の上まで道路が走っているかのようだった。そして、防波堤の入り口には車が入り込まないよう注意を促す看板が置かれていた。
「夏目ちゃん、足下気を付けてよ」
「眼が慣れてきたから全然平気。防波堤って思ってたより広いのね、車でも普通に通れるんじゃない?」
 夏目はコンクリートの上を普段と変わらない様子で歩いてゆく。
「いや、造られる場所によるんじゃないかな。ここが偶々こんな造りになっているだけで、どこでも一緒、という訳ではないと思うよ」
「ふうん…………。ねえ、さっき神田さんが豊見さんに時間訊いてたわよね」
「うん」
「十二時半くらいって言ってたわね」
「うん」
「くらいって何?」
「あ、それはボクも少し気になった」
「時計を見たのに正確な時間が分からないなんて、その時計が大幅に狂ってるか、動きが止まってるかよね」
「うん……」
「……そして豊見さんは時計がおかしくなっていることを他の人に知られたくなかった。だから分からない、とも、壊れているとも言わずあんな風に言った……」
「…………」
「ひょっとしたらだけど……今回の出来事、豊見さんが絡んでいるんじゃないかしら……」
 夏目が声を低くした。
「そ、それはどうだろう」
「だって、土本さんの死亡推定時刻に豊見さんは部屋に居なかったのよ?」
「でも、あのマンションのエレベーターホールに入る方法は二つしかない。鍵を使って自動ドアを開けるか、インターホンで中の住人に呼び掛け、ロックを解除して貰うか、だよ。豊見さんはどうやって中に入るの? 合い鍵を作ったの? それともまさか土本さんに頼んで開けて貰ったって言うの? そして、土本さんを屋上に連れ出し、そこから突き落としたって?」
「………………わかんない……」
 弱く、小さな声だった。沈黙が訪れ、しばらく波の音だけが辺りを支配した。
 夏目が振り返ると、秋山は少し離れたところに居た。夏目に背中を向け、こそこそと何かをしている。夏目は秋山の背後まで歩いてゆくと、その肩を叩いた。
「何してんのよ?」
「ごほっ!」
 びくりと肩を震わせた秋山が、地面に何かを落した。
「何なのよ?」
「い、いやその」
 夏目が体を折って地面を見ると、ペットボトルが落ちていた。中身がこぼれ出て、どんどんと地面に黒い染みが拡がってゆく。
「何? もしかしてコレ、豊見さんから貰ったやつ?  まだ持ってたわけ? さてはずっと、隠れてちびちびやってたわね」
「え、ええと」
「はぁ、しみったれたマネしないでよもう」
「あ、あはは……ごめん」
 秋山はペットボトルを拾い上げた。そのとき、地面にできたシミに眼を落していた夏目の頭に、ある考えが過った。
「……!? え、あ……も、もしかして、だから水道が壊されていたの……?」
「夏目ちゃん?」
「ごめん、ちょっと待って」
 夏目は秋山を掌で制し、ぶつぶつと呟きながら歩き出した。
「だとしたらどこで? あまり遠くまで行くと時間が掛り過ぎてしまうわ……でも、車を飛ばせば……」
 夏目は辿り着いた防波堤の先から海面を見下ろした。
「…………!」
 夏目の頭の中で、バラバラだったピースが凄まじい速さで組み合わさってゆく。
「ああっ! そっか! ここだったんだ!」
「どどど、どうしたの!?」
 秋山が駆け寄って来る。
「アッキー! 解ったわ、犯人はやっぱりきっと、豊見さんよ!」
 夏目が跳ねるように振り返り、興奮した声で言った。

※夏目の言う通り豊見が犯人だとすると、豊見はどのようなトリックを実行したのだろうか?

「どういう事!? 夏目ちゃん、わ、解るように説明してよ!」
 秋山が驚きで眼を大きくした。
「今するわよ! 落ち付いて!」
 かくいう夏目の方がずっと興奮している。
「まず、土本さんはあのマンションの屋上から突き落とされたんじゃないわ」
「え、どういう……」
「じゃあ仮に、人が高いところから落ちて、身体を地面に叩き付けたとして、そのとき地面の上はどんな状態になってると思う?」
「え、それって、ち、血が出てるとか、そういう話?」
「そう、地面の上には血溜まりができるはずよ。犯人は水道を壊すことによって辺りを水浸しにし、遺体から流れ出た血は水によって洗い流されたと思わせることが目的だったのよ」
「洗い流されたと……?」
 秋山は眉を顰めて首を傾げた。
「だから! あのマンションは本当の殺害現場じゃないんだってば!」
「あ、そ、そうか……! 単に別の場所で殺害して遺体をあのマンションの下に放置しても、血の状態からあそこが殺害現場じゃないってことがすぐにバレちゃうってことだね! な、なるほど、別の場所か! じゃあ本当の殺害現場はどこだろう? あのマンションと同じかそれ以上高い建物となると、この付近には無いらしいから、結構離れた場所かもしれないよね? そ、その場所を早く探さなきゃ……! なっ……! わっ……!」
 慌てた秋山が右往左往する。夏目は静かに首を横に振った。
「そうじゃないわ……ここよ」
 夏目が口角を上げ、両手を広げた。
「へ、ここって……ここが、何?」
「ここが殺害現場なの! それと、土本さんは突き落とされたんじゃないわ……車に撥ねられたのよ……!」
「ええっ!? な、何それ……」
 夏目の思いも寄らぬ発言に、秋山の頭がこんがらがる。
「黒い色をした車の前面に、アスファルトで造った壁を取り付けたのよ!」
「……っ……!?」
「ライトは点けず、真っ直ぐな道路を走って、車がある程度まで加速したらギアをニュートラルに入れてエンジンを切る。車のことなんて、ドライバーの隣で見たり聞いたりした程度のことしか知らないけど、そうすれば車って慣性で、音も無く、しばらくそのスピードのまま進むんじゃない?」
「う、うん……」
「その車で防波堤に突っ込み、ここで釣りをしていた土本さんを撥ねて殺害するの。そしたら土本さんの死因は『アスファルトと身体が激しくぶつかったことによる死亡』となるわ」
「あ……!」
「そう、実は車が凶器だったのよ。使用する車に取り付けるアスファルトの壁はそんなに大きなものじゃなくてもいいわ。釣りをする人って自前の椅子か、足を放り出して縁に座ったりするでしょ。ある程度の高さがあれば充分なはずよ。海面を見ていた土本さんは、後ろから静かに近付いて来る車に気が付かなかったのよ」
 夏目の言葉に、秋山が戸惑いつつも頷く。
「う、うん、壁を取り付けた黒い車だったり、ライトやエンジンを切ったりするのはなるほどと思った。だけど、土本さんが防波堤の先っちょに座って、向こうを向いているとは限らないんじゃない? そもそも、土本さんってよくここに来るの?」
「だから、夜の何時にここで釣りをするとよく釣れるって、釣り好きの土本さんに言っておけばいいのよ」
「ああ、そうか……!」
「だから実は、釣られたのは土本さんの方だったってわけね。そして犯人は土本さんが釣り糸を垂らしていることを確認してから車を走らせた。防波堤の入り口に立っている看板は前もって退かしておく必要があるわね。この場所で、車を使って殺害する利点は二つ在るわ。一つは土本さんを撥ね飛ばしてそのまま車も海へダイブさせることによって、殺害と同時に凶器を海に沈めて隠すことができること。そして、もし道路で撥ね飛ばしたとしたら、遺体の衣服は地面を転がったときにあちこち破けてしまうはずなんだけど、海に落ちたならそうやって派手に破けてしまうことは無い。車に撥ねられた遺体だとはまず思われない、というのがもう一つね」
「な、なるほど……」
「土本さんはライフジャケットを着ていたはずだから、しばらくすると浮き上がってくる。沈んでゆく車から脱出した犯人は陸へ上がり、遺体を引き揚げた……」
 ここで、夏目の表情が僅かに曇った。
「それが……豊見さんなんだね……?」
「……ええ……時間を見計らって行動しないといけないから、時計は手放せなかった……だけど時計を付けたまま海に入ってしまったことが原因で、壊れてしまったのね……」
「…………」
「豊見さんは遺体からマンションの鍵を回収。釣りの道具、ライフジャケット等は処分。自分が着ている濡れた服は着替えて……。遺体をマンションへと運ぶためには、前もってもう一台車を用意しておく必要があるわね……」
「あ、も、もしかして、テレビの音量が大きかったのはエンジン音を聞かせないため……?」
「きっとそうね。……そして、豊見さんは回収した鍵を使って土本さんの部屋に入った……自殺を偽装するためにね。手っ取り早いのは遺書を残すことだけど、手書きの文字だと筆者識別に掛けられる恐れがあるからダメ。他には、パソコンや携帯に書き残す手が有るけど、携帯の方は土本さんを撥ねたときに壊れて使えなくなったんじゃないかしら。残るはパソコンだけど、これは単純にログインパスワードが分からなくて起動できなかったのよ。そこで、豊見さんは屋上に靴を揃えて置いておくことで自殺に見せ掛けるプランに変更した。部屋のベランダに靴が揃えてあっても不自然だから、屋上まで持っていったんだわ。釣りのときに履いていた靴は、海水でずぶ濡れになっているからもう使えない。それで、代わりの靴を探したのよ」
「そうか、釣りのときにはもしかしたらカジュアルな靴を履いていたかもしれないけど、残っていたのはフォーマルな革靴しか無くって、仕方なくそれを使ったのか!」
「うん。後は遺体をあの場所へ寝かし、マンションの散水栓を道具を使って壊してその場から立ち去る。辺りは水浸し、屋上から飛び降りた土本さんの血は水で洗い流されたように見えるってわけ。遺体に付いた海水も洗い流されてまさに一石二鳥よ!」
「す、凄いよ夏目ちゃん!」
 秋山が興奮で息を荒くする。
「そんな…………もっと大声で言って」
「ははは、いやでも本当にスゴ―」
 ふいに、厚く大きな雲が月を隠し、暗さのあまり何も見えなくなった。
「お、おっと……夏目ちゃん、大丈夫? どこ?」
「ここよ」
 秋山が声のする方へと腕を伸ばすと、夏目の手に触れた。互いにしっかりと手を繋ぎ合う。
「夏目ちゃん、じゃあ証拠は―」
「うん。探せば今もこの海の底に沈んでいるはずよ! そうね、潜水艦が必要かしら……? アッキー、海軍に連絡して頂戴」
「その必要は無いよ」
 いきなり横合いから掛った声に夏目と秋山は飛び上がった。
 姿は見えない。が、その声は豊見のものだった。
「……ど……どういう意味ですか……豊見さん……」
 秋山は夏目の手を引くと自分の後ろへ下がらせた。
「だから、そのまんまさ、必要ないんだ。なぜなら―」
 豊見の姿はまだ見えない。秋山の身体に緊張が走る。
「なぜなら、私がこれから警察のところへ行って、洗い浚い白状してしまうのだからね……」
「「……………………は?」」
 夏目と秋山が間の抜けた声を出した。
「だから、罪を認めると言ってるんだ。君達が考えた通りだよ、奴を殺したのは私だ」
「そ……そうですか……ええと……でもあの、なぜそんなあっさり……」
 豊見の息を吐く音が聞こえた。笑ったのかもしれない。
「そこに沈んでる車……あんな大きなもの、もう隠しようがない。疑いを持たれた時点でアウトなのさ……。それなら事件が明るみに出る前に自首して、少しでも刑を軽くする方が利口ってもんだろう? あんな奴のために死刑になるのは御免だ……」
「何が……あったんですか……?」
 秋山が、豊見に訊ねた。
「……大分前になるが、奴の代理と名乗る者が立ち退き交渉に来たとき、私はきっぱりと断った……。その頃からかな……仕事がぱったりと無くなったのは。私は廃業に追い込まれ、あの土地を手放さなくてはならなくなった……。奴が裏で手を回していたと知ったのは最近だがね……。あれは親父が残してくれた大切な土地だったのに……! 何が地域の活性化だ、そんなもので利益を得るのは一部の人間だけだ……!」
 豊見はまた息を吐いた。
「もしかしたら、奴が別の場所で殺されたと、誰かが気付くかもしれないとは思っていた。しかし例え疑いを持たれたとしても、土本はどこか別の建物から突き落とされ、あの場所へ運ばれた、と思い込み、その在りもしない『土本が突き落とされた本当の建物』をいつまでも探し回ってくれることを期待していたんだが、まさか車で撥ねたこともバレてしまうとはね……こんなにも早く……しかもこんなに可愛らしいお嬢さんに……。沈めてある車は、時間を掛けて少しずつ水中で解体してしまおうと思っていたのに……」
「……何と言って、土本さんをこの場所へ誘い出したんですか……?」
「大潮の夜に防波堤の先っちょで何匹も釣り上げた、と言っただけだよ。ふふ……本当は私は、釣りどころか竿を握ったことすら無い……」
「豊見さん…………」
 ……………………返事が無いことで、二人はもうそこに豊見が居ないことを知った。


「なるほど、やるね……」
 春日がこめかみを強く抑えながら言った。眉間にはまだ夏目が挟んだメモが挟まっている。
 夏目と秋山に尻を引っぱたかれた春日はようやく意識を取り戻し、事の顛末を聞かされたのであった。東の空はもう白みを帯び始めている。
「豊見さんは、僕達がいつまでも道の前でたむろしていると都合が悪いから、いっそ家に招いてしまおうと考えたわけだ」
「そうですね……」
 秋山が頷く。
「僕達の車を調べるとき、作業場へ車を移動させずにそのまま外で作業を始めたのは、きっとそのとき、シャッターの奥に問題の車が有ったからなんだろうねぇ……」
「はい……。今職員が中を捜査しています。夏目ちゃんのお手柄ですよ」
「まあ……」
 夏目が指で鼻先を掻いた。
「そういうこと。スガッチが役立たずしてる間に、事件はあたしがスッキリ、バッチリ解決しちゃったわけよ」
「パチパチパチ。……でも―」
 春日はまじまじと夏目の顔を見た。
「その割には浮かない顔してるね」
「…………」
 夏目は決まりが悪そうにそっぽを向いた。
「……フクザツなのよ……いろいろと。そりゃ、豊見さんがとても悪いことをしたんだってわかってはいるけど……。豊見さんて、根は真面目で正直な人だったんだろうな、とかね……。もし、大切な物を奪い去られたとして……あたしならそのときどうするんだろう…………」
 夏目は眉根を寄せると俯いてしまった。
「……な、夏目君、そんなの今考えても仕方ないっていうか……そのときになってみないとわからないっていうか、い、いや、そうならないように大切な物は確り掴んで離さないようにすればいいっていうか……その……ね?」
「わかるよ……そんなのわかってる……けど、さ……」
 そう言って夏目はまた眼を伏せる。春日はオロオロしながら、それでもなんとか気持ちを言葉にしようとする。
「な、夏目君……だからさ、ええと、つまり……」
「大丈夫だよ、夏目ちゃん」
 言葉を継いだのは秋山だった。
「……は? 何が?」
「いつだって、たとえ夏目ちゃんが苦しくて、負けそうになったときだって大丈夫―」

「ボク達が守るよ」

 にこりと微笑んで言った秋山に、夏目が眼を見開いた。
「バッ、バッ、バカじゃないの! な、な、何カッコつけてんのよ!」
 夏目は真っ赤にした顔から湯気を立てた。
「ア、アッキー? 何、どうしたの、大丈夫? 今回ちょっと男前だよ?」
「酔っているのか!? 酔っているからか!?」
 春日も驚いて秋山を見ている。
「もうっ! 二人して! ボクはこれが普通です!」
 秋山は両手をグーにして怒った。
「ふふ……あーキモイキモイ」
 夏目は嬉しそうに肩を震わせた。そして、
「ふうっ…………まあとりあえず、一つだけ確かなのは―」
 小さく肩を竦める。
「今回の実験は完全に失敗ね。だって、これだけお腹空いてたら何食べたって美味しいもの」
 そう言うと夏目は、少し疲れの見える顔で笑った。

 警察の調べにより、作業場からは遺体を運ぶために使われた車が発見された。車内には遺体を包んだと思われるビニールシートや土本の持ち物と思われる物品も多数見付かった。
 数日後、海から引き上げられた車には、車体の前面にアスファルトで造った平台が取り付けられており、更にサイレンサーを取り付ける等して消音が図られ、駆動系は加速に特化した改造が施されていた。

   第十五話 相撃

 とある日の夕方、春日書店に秋山が現れた。
「おいおい、穏やかじゃないね。一体何事だい?」
 秋山の姿を見て春日が眉を顰めた。秋山はこの暖かさだというのに背広の前をきちんと留めており、その左脇腹は僅かに膨らみを見せていた。
「あ、いやいや、これは……結局抜かず終いでした」
 秋山はちらと脇腹に眼をやると残念そうに息を吐いた。
「でした? 犯人はもう逮捕できたってこと?」
「ええと、被疑者死亡につき、捜査打ち切りって感じですか。いやまだ、仕事が一個残ってるんですけど」
「ふうん? どんな仕事? ていうか、どんな事件だったの?」
 二人は店の奥にある事務所兼倉庫へと向かった。店が小さいのでごく僅かな移動で済む。
「先日、U町の宝石店にですね、マスクにサングラスをした二人組が拳銃を手に押し入りまして」
 秋山がパイプ椅子をギシギシ広げながら話を始めた。
「店の防犯カメラにそのときの映像が残っていたんですけど、二人が店に現れたのが午後一時ジャスト。一人が拳銃とストップウォッチを手に店員と偶々居合わせた一般客に睨みを効かせつつ、もう一人が銃底でショーケースを叩き割って、宝石をバッグに詰め込み始めたんです」
「ほうほう、それで?」
「まさにあっ、という間のできごとですよ。きっかり2分で盗れるだけ盗って店から引きあげてます。店内にはまだまだ高価な宝石が残ってるっていうのに、その誘惑を振り切って、ですよ」
「ふむう、プロか……」
「店を出た二人が表に停めてあった乗用車に乗り込んで逃走してます。パトカーが現着したのはそれから二分経った後で、その頃にはもう、影も形も」
「あらあ……」
「逃走に使用された車が現場から少し離れた所にある路上に乗り捨てられてまして、調べたところ、盗難車でした。そこから別の車に乗り換えたと思われます」
「手強いねえ、それでどうなったの?」
「はい、そんで、犯人が武装してるってことで、ボク等にも着装指令が下されましてね、今回は銃撃戦があるかもってテンション上がってたんですけど」
「こらこら」
「それが昨日、民間から、何やら大きな音を聞いたという通報があったんですよ。向かった職員が、音がしたという家屋を調べたところ、そこで宝石強盗とみられる二人組がそれぞれ銃を手に遺体で発見されまして」
「わお、急展開」
「はい。死因は両名とも貫通銃創からの出血性ショックです。どうやら仲間割れを起こしたようですね。リビングで撃ち合ってました」
「へえ、リビングで……」
「はい。そこで向かい合った形の二人が前のめりに倒れていました。二人とも靴は履いたままです。所持品から身元も割れました。ええと、関根という男と、もう一人が室伏という男ですね。現在防犯カメラの映像と照合中なんですけど、頭髪や体型等外見的特徴から、強盗に入ったのはこの二人で間違いないようです」
「ふむ……そしてその二人が、同士討ちを……?」
「ええ、検死解剖も旋状痕の鑑定もまだではあるんですけど、鑑識班の報告によると、壁に付着した血飛沫の角度から視ても、それぞれ相手の銃から発射された銃弾を受けたことによる死亡とみて間違い無いそうです。……ふぅ、宝石を盗るまでは上手くいってたっていうのに、最後の最後で宝石の取り合いを始めたんですかね……慎重で利口な奴等かと思いきや、結局、野蛮人だったんですねぇ」
 秋山はやれやれ、と首を振った。
「そうだねぇ……」
 春日も頷く。
「人の欲望ってやつぁ、怖いもんです……」
「ああ、全くだね。あと何が怖いって、後ろから『だーれだ』って眼を塞がれて、幾ら考えてもその人物が誰なのか本気で心当たりが無い時はめっちゃ怖いね」
「……ああ怖っ! ちょっと想像してみたら確かに怖っ! いや、じゃなくて、何の話ですか。今その話要らなかったですよね」
「ふっ……秋山君、この世に要らないものなんて何一つ無いんだよ」
「あ、その台詞が一番要らなかったです」
「ワオ、氷のようだぜ。まあいいや、話を戻そう―ええと、そもそもその民家、誰かの家なの?」
 春日の疑問に秋山は首を振った。
「いえ、誰かの所有というわけではなくて、普通の売り物件でした。関根の方が胸の内ポケットに、蛍光ペンで駅から家屋までの道順を几帳面にマーキングしてある地図を入れてました。一時的に隠れ家として使ったのかもしれません。浴室のガラスが壊されていたので、そこから侵入した模様です」
「そう。……しかし、狡猾な犯人達が真っ正直に正面から撃ち合っているのは少し妙だな……現場で何か気になった点とかは無かった?」
 春日が問うと、秋山が首を捻った。
「気になった点ですか、そうですね……玄関と勝手口の鍵が両方とも開いてたってことですかね。窓を割って侵入してるってことは、鍵を持って無かったってことですよね? ということは、玄関と勝手口の鍵は家に侵入した後、内側から開けたってことになります。二人はわざわざ扉まで行って、鍵を開けて、それからまたリビングまで戻ったんですかね……?」
「ふむ……」
「他には……室伏が履いていたズボンの尻ポケットなんですけど、内側の生地がべろん、と外にはみだしていたんですよ。ポケットに入れていた何かを取り出したときにめくれてしまったのは間違いないと思うんですけど、銃を入れておくには小さ過ぎるし、また宝石を無造作に尻のポケットに入れておくとも考えられないし……一体何を取り出したのやら……」
「うん……」
「後は……そうですね、二人が倒れていたリビングの床に、塩が噴いてるところがありましたね」
「何て? 塩?」
 春日が眉を顰めた。
「はい。塩の結晶です。カーペットに、こう、地図が描かれてました」
 秋山は座ったまま身体を折って床に指を当て、くるりと図を描いた。
「なぜそれが塩だと? もう分析結果が出たの?」
「いえ、舐めてみたらしょっぱかったんで」
「何かれ構わず口に含むんじゃない! 乳児か君は! 毒物だったらどうするの!」
「! ……! ……っ……!」
「予想だにしなかったんかい! なに驚愕の表情!? こっちがビックリだわ!」
 秋山の顔が鮮やかに青ざめる。
「せせせ、先輩? ボ、ボクちょっと気分が……びょ、病院に行った方がいいですかね……?」
「ああ診て貰え! 頭重点的に診て貰え!」
「よ、良く効く薬を処方して貰わないと……」
「君に付ける薬は無いと思うけどね」
「…………ま、まあでも、これだけ時間経ってるのに大丈夫ってことは、大丈夫ってことですよね?」
「…………」
 春日はちょっとずつ秋山から離れた。
「ちょ、ちょっと先輩?」
 秋山が伸ばした手を春日は身を引いてかわした。
「なんっ……なんで逃げるんですか先輩! 大丈夫ですよ? 何もうつりませんよ?」
 プシューッ。
 マスクで顔を覆った春日が、秋山に向けて何かのスプレーを散布した。
「ぷぁ、ちょ、なんですか人を変な病気みたいに!」
「……とまあ、冗談はさておき、話を元に戻そうか。なんだっけ、人の欲望は怖いって話だっけ?」
「ボクは先輩が怖いな。いやちがくて。床に塩」
「ああそうか。床に塩……なんだろう……」
「何か料理でもこぼしたんですかね」
「不法侵入した販売物件の中で料理を? ……いやその前に、ガスとか水道が通じてないでしょ」
「あ、そうでした。電気もガスも水道も通じてなかったです」
「ふうむ、……他に気付いたことは?」
 春日が問うと、秋山が手を叩いた。
「あ! 大事なこと忘れてました! 盗まれた宝石が何処にも無いんですよ!」
「最初に言えよ」
「そういえば、今日はその件で来たんでした! 無いんですよ! 遺体の周りにも家の中にも! 近くにそれらしい車も無かったし、関根と室伏の自宅にも行ってひっくり返したんですけど」
「ちゃんと探したのー?」
 春日が秋山を横眼で見る。
「探しましたよ! 一所懸命」
「誰よりも先に宝石を見付けることができれば、こっそり一個くらい貰ったとしてもバレないだろうって?」
「なんっ、なにをバカなっ! そんなわけないでしょう! ったく……でも、一番最初に見付けることができれば、宝石店のオーナーに気に入られて、ご褒美に宝石の二個三個もくれるって展開に」
「ならんならん」
「だって、今月ピンチなんですよぉ……はぁ……このぶんじゃ、月末はまたエアごはんかぁ」
「エアごはんて! それはつまりただの呼吸だよね!? やめて、悲しくなるから! 食べるマネごとしたってお腹は満たされないから! 心も満たされないから!」
「ええ、こうやって口動かしてエアごはんしてるとですね―もぐもぐもぐもぐもぐもぐ……涙が止まらないんです」
「はぁ……ゲームとか、エロいことするお店にばっかりお金使うからだよ」
「だって、せっかく刑事になったのに、発砲できる機会なんて訓練の時くらいしかないし、だったらもう、別のイミで発砲するしかないじゃないですか」
「さ、さいてぇ」
「お風呂が発泡しているお店だけにね」
「うるさいよ!」
「とにかく、宝石が無いんですよぉ、隠し場所を探り当てる良いアイデアはありませんか?」
 秋山がずい、と身を乗り出す。
「ムチャ言わないでよ、エスパーじゃないんだから。何処かに埋めたかもしれないし、もしかしたら他の人間に預……」
 春日がスッ、と表情を変化させた。
「先輩? どうかしましたか?」
「……秋山君、問題の家屋だけどね、どんな家だった? 立地は?」
「どんな? どんなって、普通の家ですよ。住宅街にある普通の一軒家。門が有って、玄関が有って。家の裏側には勝手口が有って庭が有って。庭には路地裏に通じる裏門が有ったかなぁ」
 秋山が空中を見上げながら記憶を辿った。
「そう……じゃあ、地図はそれぞれが一枚ずつ持っていたはずだよ……」
「はい?」
「秋山君、君が舐めてみたっていうあの塩の結晶、あれの科学分析をお勧めするよ」
「え? 分析したら宝石の在りかが分かるんですか!?」
「いや、直接結び付くかは分からないんだけど、捜査の手掛かりにはなるかもしれないよ」
 春日の提案に秋山はぽかんと口を開けた。

※春日はどのような事柄を示唆しているのだろうか?

「あの、意味がよく分からないんですけど、科学分析すればいいんですよね?」
 秋山がいぶかしげな表情で訊ねると、春日は頷いた。
「そう、あの塩の結晶をDNA鑑定にかけるんだよ」
「DNA鑑定?」
「うん。あの、関根と室伏の二人が倒れていたリビングに、もしかしたらもう一人、他の人物がいたかもしれないんだ」
「へっ?」
「そうだな、仮にその謎の人物を『X』としようか。ガラスを割って、一番最初に家屋に浸入したのもそのXだよ。そして、関根と室伏が玄関と勝手口から、それぞれ家の中に入って来て、この二人がリビングでばったり出くわしたとき、そこでXが、胸を真っ赤に染めて死んでいたとしたらどうなる?」
「はいい?」
 秋山が頭上に大量の?を浮かべる。
「そしてもしこのXが強盗犯の一味だったら?」
「え……?」
「Xは前もって関根にこう言ったんだ『室伏が裏切るかもしれない、信用するな』って。そして、室伏には『関根が裏切るかもしれない、信用するな』と逆のことを言っておく。そしてXは玄関と勝手口の鍵を開けておき、問題のリビングで『死んだフリ』をしておく。リビングと言えば家の中心、家のどこへでも通じている要所。玄関から入ろうが勝手口から入ろうが奥へ進めばリビングへと辿り着く。そこへ現れた関根と室伏がXを見て、死んだフリをしていると気が付かなかったら……?」
「…………」
「Xが言った通り裏切りやがった、と二人は思うよね。それと同時に二人には大義名分ができるわけだ。先に裏切ったのは奴だから、制裁を加える権利は自分にある、とね。相手が死ねば盗んだ宝石は自分が独り占めできる、という打算も働いただろう。そして二人は反射的に銃に手が伸びる。こうなってしまったらもう後には引けない、ここから先の二人の思考と行動は見事な一致を見せたはずだよ。『銃を抜いたからには、相手より先に狙いをつけなければならない。銃口を向けられたからには、相手より先に引き金を引かなければならない。殺られる前に殺れ!』とね。で、バンバン……と」
 呆気に取られていた秋山がようやく声を絞り出した。
「…………い、いやでも。そう上手くいきますかね?」
「そんなの分からないよ。だから、Xは汗をかいたんだ」
「……っ……!?」
「不安に決まってるさ。バレたら確実に二人に殺される。もしかしたら、なぜこんな方法を選んでしまったのか、死んだフリしながらぶるぶる後悔していたのかも」
「そ、そうか、あの塩の結晶は、汗が乾いたものだったのか……!」
「そう。あるいは、汗っかきのおデブ」
「あ、ああ……この気温で……」
「そう」
「いや、でも待って下さい、同時に二人をリビングに来させるなんて無理ですよ」
「そうかな? かなり時間に正確な二人だし、どこどこに、何時ちょうどに来いって念を押せば難しいことは無いんじゃない? それよりも、関根と室伏が家屋に向かう道の途中で偶然出くわして、全てがパァになる可能性の方が怖い。だから蛍光ペンで道順をマーキングしてある地図を、それぞれに渡しておいたんだと思う。二人が全く別々の道を使って家へ向かうように仕向け、そして、一人は玄関から中へ、一人は勝手口から中へ入らせて、二人をリビングでハチ合わせさせる……!」
「……そ、そんな……」
「まず、ネットや不動産屋を回って、都合の良い物件を探し、見付けたのが偶々あの家屋だったんだろう。そして適当に理由を作り、二人をあの家屋へ呼び出す。警察にどこで職質と所持品検査をされるか分かったもんじゃないから、関根と室伏は普段外を出歩く時、拳銃など絶対持ち歩かなかっただろうが、Xの姦計によって裏切りに対して警戒していた二人は、用心のために拳銃を所持していた……」
「……! そ、そして二人は、約束の時間に家へ上がり込んだ……?」
「そう……。電気は通ってないから家の中は薄暗く、Xは死んだフリをしているとすぐに気付かれる恐れは無い。しかし、上手く撃ち合いになっても、どちらかが生き残る恐れはある。そのときは、死んだ方の銃を拾い上げ、生き残った方を後ろから撃てば良いわけだ。そして、二人に渡してあった地図は、手掛かりになるものだから両方とも回収しておく必要がある。室伏はその地図を尻のポケットに入れていたんだろう。Xはそれを抜き取ったんだよ。しかし、関根の方は簡単に見付けることができなかったんだ。だから、全てのポケットに手を突っ込んで地図を探すよりも、むやみに死体を動かさない方を選んだんだと思う」
「な、なるほど……」
「そしてXは二人の宝石を奪って逃げた、と」
「二人組の強盗じゃなくて、三人組みだったのか……!」
「うん……。逃走車の運転役か、闇商人とのブローカー役か、まあそんなところだろう。首尾良く事が運んだと思って、Xは今頃どこかでほくそ笑んでるだろうね」
「野郎! 絶対探し出してやる! でもどうやって……あ、なるほど! 遺伝子といえば精子! あの汗の結晶を分析して貰って、遺伝子情報を読み取ったら、今度は精子バンクをあたって、保存されている遺伝子と照合して、人物を特定しろってことですね!?」
「ちがう。犯罪とかする人は精子バンクしないから。それに、汗くらいからじゃ、ごく大雑把な遺伝子情報しか得られないよ。塩の結晶を分析したら、関根と室伏の遺伝子情報と共通点がどれくらい有るかだけを見れば良い。もし不一致が多ければ別人のDNAだと解され、その場所に別の誰かが居た、という証明になるだろう?」
「あ、そうか」
「そしたらその後は問題の物件を管理している不動産屋に、それらしい人物が訪ねて来なかったか問い合わせるんだ。その他には……そうだな、これはXが車輌の運転手役だった場合の話だけど、警察は検問で二人組の男が乗った車を重点的に探したはずだ。三人になることで、上手く検問をすり抜けたのかもしれない。そんな車が通らなかったか記録を調べてみるのも手かも」
「なるほど! そうやって、そのXを探し出すことができれば、イモずるで宝石の在りかも! よっしゃあ! ありがとうございます先輩! あわや諦めムードの事件をまさかここまで! 流石先輩、ボクと先輩のコンビの前に怖いモノ無しですね!」
 秋山のガッツポーズに春日が頷く。
「ああ! モチロンさ! さあ、行っておいで。ああ秋山君、もしかしたらXも銃を持っているかもしれない。用心のためにこれを着ていくんだ」
「先輩、そんなことまで! ボク感激です! ありがたく―」
 春日が差し出していたのは、白装束と三角形の額紙だった。
「あ、怖いモノあったわ……」
 秋山は春日にヒイた。

   第十六話 三重苦 

『でさ、もうアッタマきたから、こう言ってやったわけよ―「親父! 男には通さなきゃいけない意地ってものがあるんだ! ぼくは自分の生き方に誇りを持っている! だからぼくはここから一歩も動かない! この部屋から一歩も出ない!」……ってね』
 冬木がどこか誇らしげに言った。
「………………」
 ヘッドセットを掛けた春日が、額を押さえて沈黙している。
『「地位も名誉も要りはしない!」とも言った。「でも結婚はしたいな」って言ったら殴りやがった。ムッカツク』
「うん、ぶたれて当然だよね。むしろ窓から放り出されなかったことを神に感謝しようか」
 その日、店の仕事が終わった春日は、事務所兼倉庫に置いてあるパソコンを使い、インターネット回線で冬木と通話をしていた。
『なんでよ? ぼく自分の金は自分で稼いでるわけだからね? 文句言われるスジ合い無いっしょ?』
「……そのパソコンの才能が唯一の救いとしても……全く、君はパソコンの無い時代に生まれていたらどうなっていたことか。いや、違うな。この時代に生まれたからこうなったのか……」
 春日は大きく溜息を吐いた。
『ああ、稼ぎと言えば、お遊びで作った部屋人(へやんちゅ)Tシャツが売れちゃって売れちゃって』
「……部屋人しか着ないであろう部屋人Tシャツがそれだけ売れるってことは、この世の中にそれだけ部屋人が溢れているということか……」
『ぼくは独りじゃない』
「くっ……そんなことばかり上手になりくさって……もし僕が君の兄貴だったなら、もっと早い段階で真っ当な生き方を歩ませることができたものを」
『冗談! 兄貴なんかいらないね! 妹は欲しい』
「ええい、黙れ」
『いやー、これでもメッチャ子供の頃は、大きくなったら正義の味方になって、自分が持ってる全ての力を使って、弱い者を助けようとか思ってたんだけどねぇ。今では自分が持ってる百円募金するのも惜しいってんだから不思議だよねぇ』
「…………」
『それに子供の頃って毎週テレビにかじり付いている割には、戦隊ヒーローとか、巨大ロボとかって、本当には存在しないって結構早い段階で気が付いてるでしょ? でも、自分が大人になったら巨大ロボとか、普通に自分の手で開発できるとか思い込んでたフシがあるよね。図工で造るダンボールロボはその予行演習みたいな。将来はいっぱい勉強して、人々の役に立つロボを造ろうって燃えてたんだけどねぇ、中学に入ったら合体ロボより別の合体に興味が湧いちゃったわけだこれが』
「………………」
『それにちょうどその頃、古典とか歴史なんか勉強するよりも、プログラム打ってる方がよっぽど有益だって悟っちゃったんだよね。何代の徳川某が何をしたのかなんて、必要なその時になって検索すりゃいいんだから、どうせ捨てちゃうノートにくる日もくる日も板書写すより、検索エンジンの使い方覚える方がずっと有意義な時間の使い方だって!』
「……だけどね冬木君、君が大好きなそのインターネットに流れている情報が、全て事実であるとはかぎらないわけだろう? その情報が本物かどうかはどうやって見極める? 自分で歩いて、見て聞いて感じて、考える。そうやって初めて、真実が見えてくるものなんだ。少なくとも僕は今までの経験からそう信じている。指先の操作だけで得られるものなんて、たかが知れているんだよ」
『…………』
「そう……いくら『事件の真相』を検索したって、決してヒットなどしないのだから……」
『名言キタァァァァァァァ!』
 冬木が奇声を上げた。
『め、名探偵気取っちゃったよこの人! ぶっはははははっ! ……け、決してヒットなどしないのだからー。プッ、誰か、誰かー! お薬の時間です!』
 スチャチャチャチャチャ、と何かのボタンを連打する音が春日の耳に届いた。
「ふ、冬木君……たいがいにしないと、マジでキレるよ……」
 春日は顔を赤くしながらこめかみをぴくぴくさせた。
『だ、だって……くく……もうあまりにもカッコいいもんだから、スレ立てて皆に晒そう……いや、皆で称えようかと思って』
「よし、次は法廷で会おう」
『ウソウソ! ジョークだって! ……まあ確かに、ネットには嘘やテキトーな話ばっか転がってるよ。ちょっと前までのぼくが偏った認識でものごとを見ていたことは認めるよ。情報の真偽を確かめるためには実際に体験したり、色んな角度からものごとを見る必要があるってことも解った。それを教えてくれた春日さんと秋山さんにはまあ、一応感謝してるよ。あ、秋山さんといえばなんか前、何とかって女子高生がぼくのこと取材したがってるとか何とか言って連絡あったんだけど……』
 冬木の声には警戒するような響きが含まれていた。春日が手を打つ。
「ああそうそう。僕達の友人で夏目君と言うんだけど、学校では新聞部として活動していてね。それで是非、こもりんを取材してみたい、と」
『こもりん?』
「夏目君命名の、君のアダ名だよ。ひきこもりだからこもりん」
『……あの……こちらとしては、ぜひ関わりたくないんですけど……』
「どうして? とても利発でかわいい子だよ? 僕と秋山君は彼女を妹のように思っているくらいさ」
『いーや妹ってのは、すこし頭がさわやかで、ドジで、兄に頼りっきりな方がかわいい!』
「いや、君は頼りになるどころか、部屋から一歩も出てこないじゃないか……」
『てか逆に、ぼくに何を期待して取材したいのか聞きたいね! 部屋は一年中真っ暗で、足の踏み場も無いくらい散らかってて、賞状やトロフィーは一個も無いのにフィギュアとかはいっぱい飾ってあって、ゴミ箱はティッシュでパンパンで、語尾がござるなら満足なの? それならご期待に添えないから! ぼくの部屋割と整然としてるから!』
「そこをなんとか。君への取材が駄目となると、シワ寄せが僕等へ来ちゃうから」
『知らないし。どーせ取材ったってアレでしょ? 秋山さん同伴でしょ? ぼくが何か変な素振りを見せようもんなら、即タイホの勢いでしょ!? 目の前にぼくが居るのに、秋山さん間に立たせて「最近ハマっているものは何? って聞いて」ってやるんでしょ!?』
「いや、いくらなんでもそこまでは……」
『取材させたらさせたで、社交辞令でも今日は参考になりました、くらい言ってもバチは当たらないのに、期待外れとなると「つまんない」とかハッキリものを言うタイプの女と見た!』
「正解」
『あああっ! 考えただけで恐ろしい! 予想通りのヲタクっぷりなら、それはそれで「キモーイ」とか言ってヒクんだろ!? どないせーちゅーんじゃあ!』
「いやでも、ここは一つニーズにお応えして、某ミニスカ魔法少女について熱く語りなよ! 小一時間語りなよ!」
『そんな特殊技能ねえよ!』
「ならせめて、今から頑張ってゴミ箱をパンパンに」
『するかぁ!』
「そんな、僕がこんなにも頭を下げているのに!」
『見えん見えん。てか絶対下げてないし』
「交友関係を広げるつもりでさ。女子高生の生制服が拝めるんだよ? ほらあれだ、萌えー、じゃないか」
『そんな言葉に騙されるか! 拝まれるのぼくの方じゃん! ぼくを観察しに来るんじゃん! 萌えーじゃねえよ! 萎えーだよ!』
「もう、さっきからワガママばかり、いい加減にしてくんないかな」
『えっ! 何でぼくが悪い感じになってんの?』
「あのさぁ、困るんだよね、このくらいの要求、快諾してくんないとさぁ。こっちにも都合ってもんがあるんだからさぁ」
『えっ! ぼくの都合は!? アレッ!? いつの間にか交渉じゃなくなってきてるよ? 命令に近いものがあるよね? 不可避ルートなの? これ不可避ルートなの?』
「よく考えたまえよ? このままではご両親に迷惑が掛ることにもなりかねない……それは君も本意では無いだろう?」
『マフィア!? 命令通り越して、もはや脅迫だよね!? ぼくそんなに悪いことした!?』
「勘違いしないでくれたまえ。こちらはあくまで君の意志を尊重し、判断は君に委ねるよ。……さあ、どうするね?」
 春日が声を低くした。
『……ふっ……ふふふ……はははははっ! わかったよ! 好きにしろよ! もうどうでもいいさ! いっそ殺せ、殺せよォ! そうさ、どうせぼくなんて社会のクズだ! 家に居れば白い眼で見られ、外に出たら出たで挙動が怪しいと職務質問を掛けられる! それにあれでしょ、何か事件があったとき、警察が現場付近で聞き込みとかしてるけど、あれって本当は不審者の目撃情報とか集めてるんじゃなくて、「警察だ」って名乗ったときの反応見て、必要以上に警戒したり動揺したりする奴を容疑者の候補に挙げてるんでしょ! きっとそうでしょ!? そりゃこちとら視線恐怖症なんだから別にやましいことがなくてもオドオドするっちゅーねん! ひきこもりナメんな! これだからおちおちコンビニにも行けやしねえ!』
「…………ふ、冬木君……君も、苦労、ぐす……してるんだねぇ……ぐす」
『同情するなぁあああ! 余計に悲しくなるわぁあああ!』
「ごめんね、勝手なこと言って、夏目君にはちゃんと僕の方から断っておくから。本当にごめんね」
『気ィ使うなぁあああ! ……はぁ……でもぼく等って警察とかにはホント苦労させられるんだよ。犯罪者予備軍とか言ってすぐ疑いの眼向けられるし。秋山さんは随分マシな方だけど。ちょっと前にも変死体が出たとかでダチの所に、刑事が話訊きに来たらしくてさ』
「変死体だって? 事件でもあったのかい?」
 春日が眉を顰める。
『ちがうちがう。酔っ払ってプールに入った馬鹿が溺れたってだけの話。その男が住んでるマンションの部屋には室内プールがあって、んで、同じマンションの別の階に住んでるダチのところに刑事が来たわけ。でもそのダチに言わせればその男は同情の余地も無い、死んで当然のコソドロ野郎なんだってさ』
「コソドロ野郎だって? 何があったの?」
『その、ぼくのダチ、漫画書いててさ。全然プロとかじゃないんだけど、でもいつかは、って感じでシコシコ頑張ってたわけ。で、新人賞に応募するってんで作品の構想びっちりノートに書き込んでたらしいんだけど、半年かそこら前に、引越しのどさくさでそのノート落したって言うのよ。でもまあ、ネタ自体は頭の中に在るから、別に? って感じだったらしいんだけど、何カ月かしてびっくりすることが起きたって。自分が書こうとしてたはずの話を別の人間が書いてて、連載とか始まって、しかも発売当初から神漫画扱いの状態で! 当然ダチはその漫画家と出版社にモノ申したんだけど、その漫画家、既にそこそこ売れてた奴だったらしくてさ、誰もダチの話を信じてくれなかったんだって……。で、その漫画家ってのが、プールで溺れてた男ってわけ』
「ううむ……」
 ―ある一つの物語があったとする。そして、その物語は自分が書いたものであると二人の人間が主張していたとして、そのどちらが本当の作者なのかをはっきりさせなければならないとき、一昔前なら、続きを書かせてみれば良い、といわれた。ニセモノには続きを書く事が出来ないからだ。しかし、もうありとあらゆるネタが出し尽くされた感のある昨今では、物語がどのように展開したとしても、どこか他のところで、似たような物語が既に在ったりする。そのため、真の作者は自身の独自性を証明するのは極めて困難であるといえよう。どうやったってかぶってしまうのだ。そう、だからネタが古かったり、表現が古かったとしても、これはもうしょーが無いことなのだ。
『あの……なんか……読者への挑戦どころか読者への言い訳始まっちゃったんですけど……』
 いや、これは読者へ言い訳をしているのでは決してなく、斬新なアイデアが思い浮かばなかったとしても、別に自分が悪いわけではないんだ、と自分を元気づけているのだ。
『完全に負け犬の考え方じゃねえか!』
「ふむ、このように、あえて情けないことを言ってツッコミを誘い、目先の笑いを得ようとするのも、最近よくある手口だね」
『いや、春日さん、冷静に解説しないで……』
「そうだね。じゃあアホな地の文に付き合うのはこのくらいにして……。では君の友達は、それが自分の考えた物語であると証明できなかったってわけだね?」
『そう。どうしたってプロの漫画家の方にアドバンテージがあるからね。駄目だったって。あいつそれ以来、日を追う毎に悔しさが募って、相当荒れたし、相当荒らしたって』
「いや、荒れてても、荒らし行為はやめよう」
『でもそいつ以上に逆上してたのがそいつの兄貴でさ、出版社に電話掛けて、猛烈に抗議したらしいよ。それだけでは気が収まらず、その出版社が出した本を、何十冊も取り寄せて、ビリビリに破り捨てたり、燃やしたりしたって!』
「そうは言っても、そのために何十冊も購入してるわけだから、逆に売り上げに貢献してるんじゃ……?」
『とにかく! そうこうしている内に、漫画家は勝手に死んじまったわけよ! 弟に言わせると、どうせなら自分の手で沈めたかったらしいけどね』
「ふうん……もしその盗作の話が本当なら、君の友達の兄弟には、動機があるってことになるね……」
『………………』
「……あ、いやいや! 別に、深い意味は」
『まぁ……そうやって、春日さんと同じように疑った刑事達が、いろいろ調べてたみたいよ。でもムリなんだって。弟の方は足が悪くて、独りで立つこともできないから車椅子使ってんの。大の大人溺れさすとかゼッタイ無理。漫画家はマンションの近くにある居酒屋で飲んでるとこ目撃されててさ、胃の中身の消化具合からかなり正確な死亡推定時刻が割り出されてんの。死因は溺死。で、漫画家が死んだ時間、弟がなにしてたかっつーと、自分の部屋でぼくとチャットしてたのさ! 「そろそろ本気で、中学の同級生から掛ってきた同窓会の誘いの無難な断り方を考えようず」という議題でね! だから、弟のアリバイは完璧なのさ!』
「あ、ああそう……じゃ、じゃあお兄さんの方は?」
『ああー兄貴にも犯行はムリだね。漫画家は室内プールに素っ裸で浮かんでたんだけど、兄貴ってば水恐怖症だから』
「水恐怖症?」
『うん。まあ、ぼくも今回聞くまで知らなかったんだけどね。しかも高所恐怖症で閉所恐怖症なんだって』
「はい?」
 春日が素っ頓狂な声を上げた。
『だからさ……ええと、あ、図で説明した方が早いかも。春日さん、今からアプリ送るから、インストールして』
 春日が画面を見ていると、なにかしらソフトが送られてきたので、言われた通りにした。
『した? じゃ、アイコン出てるはずだからアプリ起動して。後は何もしなくていいよ。こっちでやるから』
 画面にウィンドウが開き、なにやら図形が映し出された。縦に長い四角形が3Dで表示されている。
『これマンションの簡略図ね。そんで―』
 図形に階数を分けるための横線か引かれ、十層に分けられた。
『十階まであって、兄弟が住んでるとこが十階。で、漫画家が独りで住んでたのか一階』
 それぞれの場所がチカチカと点滅した。
『で、このマンション、外側は総ガラス張りなのよ。だから、ドアを開けて部屋の外に出たら目の前は一面ガラス。もうメッチャ見晴らしが良いらしい』
 今度は図形の外周が点滅した。
『だからさ、高所恐怖症の兄貴は部屋から出ることさえできないわけ。それに、水恐怖症だからプールで人溺れさすとか絶対にムリ。後、例えばエレベーターで一階に降りようとしたとしても、エレベーターホールやエレベーター自体に窓は無いけど、閉所恐怖症だからエレベーターに乗れないってわけ。あ、付け加えると階段もムリね。そこも外側がガラス張りだから、兄貴には使えない』
「ち、ちょっと待って。エレベーターも階段も使えないなら、お兄さんはそもそもどうやって今住んでる十階の部屋に入ったの?」
『引っ越し屋が家具と一緒に運び入れて、以来それっきりらしい』
「そ、そう……。でもそんな人がなんでわざわざそんなところへ引っ越したんだろうね」
『だよね。しかもひきこもりのくせに閉所恐怖症だし。超ウケる。変態だね』
「君が言うな」
『いや、弟の方が高い所大好きでさ。ほら、車椅子に座ってると普通、手摺が邪魔で外が見えないじゃん? 弟の方がそのマンションの造りをえらい気に入ったらしくてさ』
「なるほど」
『でもさ、そのマンションの造りって、女の人にとってはスカートの中、下から丸見えじゃん? もう全く買い手がつかないらしい』
「あ、オフィスビルみたいに外からは中が見えない特殊ガラスじゃないんだ……」
『いや、そうするはずだったみたいだけど、予算をケチったからか、微妙に透けてるらしいんだよね。オーナーは悔恨の余りハゲ散らかってるらしいよ?』
「そ、そう……」
『でさ、兄貴の方からそこへ住もうと言ったらしいよ。自分にとってはヂゴクみたいな部屋なのにさ。優しくない? よくは知らないけど、弟が車椅子になったのは、兄貴の不注意による事故が原因だったらしくてさ。弟の方はそのことで兄貴を責める気はさらさらないみたいなんだけど、兄貴の方は負い目を感じているからか、すごく弟を気遣ってるみたい。両親を早くに亡くしててさ、それでも結構な財産を残してくれたみたいで、兄弟仲良く充実したひきこもりライフを満喫してたみたい』
「ふ、ふうん……あのさ、もう少し突っ込んで訊きたいんだけど、お兄さんの恐怖症のこと、間違い無いのかな?」
『うん、兄貴は高所恐怖症かつ、閉所恐怖症かつ、水恐怖症であり、それが演技ではありえない、って複数の医者が診断してるよ。今住んでる部屋から一歩外に出れば、もう腰が砕けてそこから動けなくなるし、水の張った洗面器にでさえ顔を付けることもできない。狭い密室では恐怖の余り、少しの時間でさえ耐えることができないってさ』
「ふむ……じゃあそうやって、お兄さんがいろいろな恐怖症持ちだと分かったから、犯行が不可能だと判断されたんだろうけど、そもそも最初に、他殺の可能性も有るから兄弟のところに刑事が話を訊きに来たんだろう? 死んだ漫画家の部屋はどんな状態だったの?」
『状態は……そのまんまなんだけど。室内プールで漫画家が溺れてたっていう。ただ、玄関の鍵が開いてたらしくてさ、後その漫画家相当な酒好きで、毎晩々々酔っ払っちゃあ夜中に帰宅してたらしい。タクシーの運ちゃんにエントランスホールまで運ばれて、そのままホールで爆睡したり、玄関の前で力尽きてそのまま廊下で寝てたりする男だったみたい』
「ああ……たまにいるね、そんな人」
『うん。だから、やろうと思えば誰でも、泥酔した漫画家をプールに落とすことは出来るってわけ。だから最初警察は事件の可能性も考慮に入れて動いてたみたい』
「ふむ……それで、遺体は誰が発見したの?」
『原稿を催促しにきた出版社の担当にだね』
「その担当者のアリバイは?」
『完璧みたい』
「そう……因みに、そのマンションには室内プールが付いているのが普通なの?」
『いや、ちがう。漫画家がマンションのオーナーに金積んで改装させたらしい。ブログで自慢してた』
「ふむ……。じゃあ、マンションの階段やエレベーターだけど、ちゃんと調べは行われたのかな」
『ああ、刑事達があーでもないこーでもないやってたみたいよ。高所恐怖症の兄は、外を巨大な幕で覆い、外の景色を見えなくしてから階段を移動したんじゃないか、とかさ。だからそれ以前に、兄貴は階段に近付いたり屋上に昇ったり出来ないっつーの。それに普通に考えて、十階から一階まで覆える程大きな幕なんて用意出来るわけ無いっしょ』
「確かに」
『同じようにエレベーターも調べられてたよ。天井の一角が蓋になってて、簡単に上へ持ち上がったから、捜査員がカゴの上へ昇って、一階から順に「R」って表示されてる階まで念入りに調べてたみたいだけど、何か仕掛けが施された跡は一切無かったって』
「…………」
『他に何か質問は?』
「いやあの……君さっきから僕の質問にバシバシ答えまくってるけど、なんでそこまで詳しく知ってるの? まさか向こうまで行ってきたの?」
『まさか! ぼくが調べたんじゃなくて、弟の方から聞いたんだよ! 無線の音拾うなんて道具が有れば一発っしょ』
「あ、弟さん……そういう道具をお持ちなんだ……」
『……あの兄弟ってさ、金は持ってるから生活への危機感とか全然無くて、人生舐めてて、基本ダラけて生きてんだけど……あの弟が唯一、本気で、真面目に取り組んでるのが漫画なわけ。自分の作品をパクった漫画家の死に対する関心はかなり強いわけよ』
「なるほど……それで、盗聴してまで、警察に聞き耳立ててたわけだ……決して、褒められたやり方じゃないけどね」
『そうかもね。でもまあいいじゃないの。で、質問は? もう無いの?』
「ああええと、そうだな……弟さんだけど、移動するときはいつも車椅子を使っているのかな?」
『基本的にはそう。でも、夜は電池充電するから乗らないみたい』
「ほう、充電……。その充電ってのは普通にコンセントからするもんなの?」
『うん。でもあいつ、パソコンとかエアコンとかオーディオとか、一つの部屋で電気使い過ぎてるから、更に電源取るとすぐブレーカー落ちるらしい。だからいつも使ってない部屋のコンセントで充電してる、とか確か言ってた』
「ふうん……トイレ行きたくなったらどうするの?」
『キャスター付きの椅子でコロコロー、と』
「ああ、そうなんだ。……冬木君、君と弟さんはその夜、チャットしてたって言ってたけど、どのくらいの時間?」
『えーと、四、五時間ぐらい?』
「あんなテーマで何時間議論すんだ君達は……!」
『え? ザラだけど?』
「ザラなんかい」
『うん。まあとにかくこれで解ったでしょ? あの兄弟は漫画家の死と全然関係無いって』
「…………いや、ちょっと待って……もしかしたら……お兄さんには漫画家を殺害することが可能かもしれない……」
 春日は画面に映し出された図形をじっと見詰めていた。

※春日の言う通り、三つの恐怖症を抱える兄にでも犯行は可能なのだろうか?

 冬木が向こうで、静かに息を飲んだ。
『へ、へえ……マジで……? あの兄貴が漫画家を殺せるって……? ははっ……どうやって?』
「エレベーターで一階まで降り、泥酔して寝入っている漫画家を水を使って窒息死させたんだ」
『なんっ……! 春日さん、アンタなに―』
 冬木は一旦言葉を飲み込むと、ゆっくりと言い直した。
『そりゃムリでしょ、春日さん。あの兄貴は部屋を出て、通路を渡ることが―』
「うん、自力ではムリだろうね。一歩部屋の外へ出るとそこで腰が砕けちゃうんだから。でも、あるものを使えば自分の足で歩かなくても移動が可能となる」
『あるもの?』
「電動車椅子だよ。弟さんの車椅子は電動式なんだろう? お兄さんは、君と弟さんがチャットを興じている間に車椅子を持ち出したんだ。弟さんが充電を開始した時点でバッテリーのパワーがどのくらい残っていたのかは知らないけど、多分一時間くらいは充電してから行動を開始したんじゃないかな」
『…………』
「部屋の外に出たら、レバーを操作して、後は車椅子に座ってブルブル震えてりゃいい。そうやって、エレベーターホールまで移動したんだ」
『……で、でも! 閉所恐怖症の兄貴がエレベーターに乗れるはずが無いって!』
「いくら閉所恐怖症でも、エレベーターぐらい、頑張れば乗れるでしょう? 何も十階から一階まで一気に降りる必要は無いんだから。一階ずつインターバルを挟みながら降りれば良い。それでも恐ろしくて、たとえ一時でも閉所に居られない、というなら、恐怖を軽減させる方法はあるよね。まず、一階へのボタンを押した後、ドアが閉まらないように紐を結んだつっかえ棒しておく。次に天井の蓋を持ち上げ、そのままカゴの上に昇っちゃうんだよ。そのマンション、住居スペースは十階までみたいだけど、Rの表示があるってことはエレベーターは屋上(Rooftop)まで上がるってことだ。エレベーターシャフト内はロープやガイドレールが有り、ややゴチャゴチャしているとはいえ、頭上にはカゴが屋上まで上昇できるスペースがあり、またエレベーターシャフト自体の天井は更に高いところにあるから、それらを合わせると、カゴの中よりは断然広くなる」
『そ、そんなことで閉所恐怖症が収まるっていうわけ……?』
「収まるんじゃない、軽減させるんだ。重度の閉所恐怖症の人はトイレに入るとき、自宅なら、ドアを少し開たままで用を足すらしい。またはユニットバス等、ある程度の広さや開放感があれば何とか大丈夫らしいよ。そうやって恐怖を軽減させているんだ。今僕はお兄さんはカゴの上に乗った、と言ったが、もしお兄さんが超ヘビー級の高所恐怖症の場合、カゴの上に乗ってしまうと、今度は恐怖のため、天井から床へ降りることができなくなってしまう。脚立を使って上半身をカゴの外に出すのみに留めておいた可能性もあるな」
『あ、頭を外に出したからって、結局密室は密室じゃん!』
「うん、そうだね。これでもまだ怖いと言うなら、最終兵器がある。オペラグラスのつるを少し改造して、前後を逆にして掛けるんだ。こうすると物が遠くに見えるようになる。天井や壁も遠ざかって見えるから、広く感じるようになるのさ……!」
『オ、オペラグラス逆さ掛け……だと……。バカな……そ、そんな子供騙しで……』
「一階までのごく短時間の間だし、しかもエレベーターシャフト内はうす暗いだろう? オッケオッケ」
『軽っ……』
「後このとき、間違っても下を見ちゃ駄目さ。床が遠く見えちゃうからね。そして、紐を引いてつっかえ棒を取れば、扉が閉まり、エレベーターは下降を始める」
『…………』
「そうやって一階まで移動したら、エレベーターから出て、一階のどこかで漫画家が酔い潰れてないか探す。居なかったら待つ。君と弟さんはいつも長話になるから時間的には余裕が有る」
『…………』
「そして床に転がっている漫画家を見付けたら、鍵を探して出して、漫画家を部屋まで運ぶ。車椅子を使って楽に運ぶことができただろう。時間は夜で、そこは人気の無い残念マンション。人に見られる心配も無い。部屋に入ったらバスルームまで運び、手足をタオルで縛るか、布団で簀巻きにする等して身体の自由を奪う、こうすれば身体に拘束の跡は残らない。そして…………水を張った洗面器に漫画家の顔を押し付け、窒息死させたんだ……」
『…………!』
「その後は、遺体を室内プールへ運ぶ」
『そ、そうだ! 水恐怖症の兄貴には遺体をプールに浮かべるのは無理だ! 水を張った洗面器とはワケが違うよ! 近付くことすらできない!』
「何言ってんの。これが一番簡単なことじゃないか。プールの水を一旦全部捨ててしまえばいい」
『……あ……あれ……?』
「自家用プール等、大量の水を用いる設備は、お風呂の湯船みたいに底の方にゴムの栓が有るわけじゃないよ。排水や給水はバルブを捻って行うか、コントロールパネルのボタンで操作するんだよ。水をきれいに抜いた後、服を全部脱がせて遺体をプールの底に置き、再び水を溜めたんだ。こうすれば、漫画家は自らプールに入ったが酔っていたため溺れた、って見えるわけさ」
『……そ、そんな……』
「そう、これは、できるはずがない、を逆手に取った犯行だったんだよ。様々な障害を抱えているお兄さんだからこそ、このような方法を採り、容疑者から外れようとしたんだろうね……。多分、お兄さんは君達がチャットをする度に一階へ下り、充分下調べを行った上で犯行に及んだんじゃないかと思う」
『マ、マジかよ……あの兄貴が……あ、あのさ……実は弟も犯行に関わっていた、なんてこともあるのかな……?』
「いや、お兄さん単独による犯行だと思うね。もし二人で共謀してやったのなら、例えば、パソコンをもう一台用意して、弟さんが一人二役を演じ、お兄さんもチャットに参加しているかのように見せ掛ける等して、アリバイを作ろうとするはずだ。それに何より、事件の手掛かりとなる情報を君に教えることは絶対にしないはずだ。弟さんは関与してないと思っていいだろう」
『……ひ、独りで……弟のためにそこまですんのかよ……弟の無念を晴らすために? ……馬鹿じゃん……』
「…………」
『で、でもさ、それは、やったかもしれないっていう可能性だけで、やったっていう証拠なんか何も無いでしょ?』
「いや、お兄さんは今回、いくつかの小道具を使用したはずだけど、基本的にひきこもりだから、外で物を購入したりできず、家の有り物を使うしかない。たとえ宅配便を使っていたとしても、大きな荷物は弟さんの注意を引いちゃうから、小物に限られただろうね。そして、外に出られないという同じ理由で、使用した道具を遠くに捨てに行くことができないから、まだ部屋に隠し持っている可能性が高い。他には、漫画家の部屋の水の使用量を毎月のものと比較してみるのも手かもしれない。水を捨てて溜め直した分だけ差が出ているはずだ。そして、水を捨てて溜め直すという作業は二十分や三十分では済まない。現場に長く居れば居る程、そこに痕跡が残り易いからね……バキュームマシンで集めた埃を、細かくチェックするくらい徹底的にやれば、お兄さんの体毛の一本くらい、出てくるかもしれない……」
『そ、そんな……か、春日さん……ぼく、どうしたらいい……?』
「知らないよ。警察に通報するなり、見ぬフリをするなり、それをネタに脅迫するなり、好きにすればいい」
『……………………』
 長い沈黙が続き、春日はただ静かに冬木の答えを待った。
『…………じ、じゃああの……じ、自首を、勧めるよ……。真実を問い質して、自首するよう、せ、説得する』
 春日は向こうには聞こえないように小さく笑った。
「そう? じゃあ、どうしようか。どうやって説得する?」
『ぼ、ぼくは部屋から一歩も出れないから…………メールかFAXで?』
「そんなザンない勧め方があるかいっ! 『自首しなよ』とか書く気!? アホか!」
『じ……じゃあ、電話で……』
「ダメダメ! 彼の家に行って、直に会って、肉声で伝えなよ!」
『いやいやいやいやいや、ムリムリムリムリムリ! あ、そうだ! あの兄弟、ぼくの顔知らないから、春日さんがぼくのフリして代わりに行ってきてよ!』
「よし、恥を知れ」
『でもほら、ここまでの話の流れだと、もう春日さんはぼくの兄貴みたいな感じ、みたいな、そんなニュアンスだからここは一つ、弟のために一肌も二肌も脱いで、超すっぽんぽんのまる出しの方向で!』
「なにをこんな時だけ調子のいい! 君さっきはっきりと兄貴なんていらないって言ったじゃないか! え、冬木君! ちょっと聞いて……あ! 切りやがった!」
 その後しばらく、冬木の携帯やパソコンに連絡がとれなくなったのは言うまでもない。

 かくして春日は、兄を説得するよう、冬木を説得するのに、十日を要したことをここに記しておく。
 こうして、実に数年ぶりに人前へと出た冬木による、たどたどしい説得が始まった。
 兄と弟は、突然現れた冬木に驚き、その冬木が自首を勧めてきたことに対して更に驚いた。
 最初でこそシラを切っていた兄であったが、春日が睨んでいた通り、証拠を処分できずにいたために、やがて抵抗を諦めた。
 警察へと出頭した兄の傍らには、一緒に罪を償っていこうと、いつまでも付き添う弟の姿が在った。

   第十七話 傀儡

 ある日、夕方の混雑までにはまだ時間がある一般道を、春日書店号がのろのろと走行していた。
 アクセルを踏んでも、くたびれたどノーマルのエンジンはわんわんと唸り声だけは勇ましく、スピードは一向に伸びない。しかし先を急ぐ用事でもないらしく、ハンドルを握る春日の表情は実にのんびりしたものだった。助手席では秋山が更にユルい表情で風に前髪を遊ばせており、フロントガラスでは糸で吊られたマスコット人形がエンジンの振動を受けてピコピコと踊っていた。
 やがて車は、低い生垣に囲まれた、ブランコと滑り台しかないような小さな公園の前に差し掛かった。
 二人がなんとなしに公園の中へと視線を移すと、制服姿の夏目が、ものっ凄い荒々しくブランコを漕いでいた。
 二人はさっ、と眼を逸らすと、何も見なかったことにして、スルーを敢行した。
 二人が嵐の気配を察知し、巣へ逃げ帰る小動物のような心境でいると、秋山の携帯が着信した。発信者を確認した秋山は、春日を見た。
 春日は前だけしか見ていない。秋山は窓を閉めると通話ボタンを押した。
『今、横通ったでしょ。なんでシカトすんの……?』
 受話部から流れ出た声は、よく知った声だった。
「え、な、何が? どこかですれ違った? ごめん、気が付かなかったなあ、ははは」
『いいから。誤魔化すとかいいから。ちょっと来て』
 それだけ言うと、電話は切れた。春日は直ちにUターンに取り掛かった。
 路肩に停めた車から、胸に『春日書店』と入ったエプロンを掛けた春日と、背広姿の秋山が飛び出し、園内へ駆け込むと、夏目の前に整列した。
「や、やあ。夏目君、な、何かあったの? ご機嫌斜めみたいだね……はは」
 春日がギクシャクと片手を上げた。
「い、今学校の帰り……? はは」
 秋山も作り笑いを顔に貼り付けている。
「…………」
 夏目は無言で、地面に眼を落としていた。
 春日と秋山が額に汗していると、夏目が重々しく口を開く。
「……ねえ知ってる? 今アメリカがね、大不況なの……」
「…………」
「…………」
「エリア51って聞いたことある? ネバダ州にあって、そこには空軍基地がるんだけど、昔からそこにはUFOが何機も収容されてるって噂があったの。そしてアメリカはそのUFOを日夜研究してて、今まで蓄えられた知識はもの凄い量になってて、もしアメリカが隠し持っている技術を一気に公開したら、世界中がパニックになるとまで、まことしやかに囁かれていたのよ。エリア51の元職員があそこにはUFOなんて隠されていないと証言したって話も有るけど、UFOはもう別の場所に移されてて、『今は、もう隠されていない』っていう意味だとあたしは解釈していたわ」
「…………」
「…………」
「それでね……今アメリカの経済がどん底でしょ? もう何週も連続で全米が泣いているの。街は失業者で溢れ返り、このまま放っておくともっとマズイことになる……どこかで立て直しを図らないといけないの……! そう! もしひた隠しにしているテクノロジーが本当に在るのなら、今使わずして何時使うの!? 貧困に喘いでただじっと耐えるなんて殊勝な人種じゃないでしょアメリカ人って! ここまで切羽詰まっても何も出さないのはなぜ!?」
「…………」
「…………」
「……答えは一つ……何も無いのよ……。出し惜しみしてるとかそんなんじゃなくて……出す物自体が無いの……隠されたスーパーテクノロジーなんて……どこにも無いのよ……」
 夏目が唇を噛んだ。鎖を掴んでいた手に力が籠る。今にもまた猛々しくブランコを漕ぎ出しそうな雰囲気であった。
「ま、まあまあまあ夏目ちゃん! 抑えて抑えて!」
「……はぁ……。なんかあたし、オーパーツとかUMAとか超常現象とかが、科学の名の元に一つずつ解明されていくたびに、何か大切なモノをどんどん失っていく気がするわ……なかでもエリア51は期待度高かったのに……あたしなんて日頃、もうキャトられて性別変えられてもいいくらいの気構えでいたのよ!」
「アグレッシブか君は」
 春日が感想を述べた。
「だって、それくらいのサプライズがないとキャトられ損じゃない!」
「そ、そうかな? でもまあ、エリア51? それだって、もしかしたらこれから先に何か動きがあるかもしれないし、まだ他にも、世界には不思議がいっぱい残ってるじゃないか」
 切り傷から血が滲んだ人差し指を舐めながら、春日は夏目を励ました。
「まあねぇ……中でも、この世で最大の不思議、『宇宙』がまるまる残ってはいるんだけど、こればっかりは確かめようもないしねぇ……」
 夏目は深い溜息を吐いた。
「それは違うよ夏目ちゃん! この世で最大の不思議は宇宙なんかじゃない! この世で最大の不思議、それは―」
「それは恋。とか言うつもりじゃないでしょうね?」
 夏目が氷のような目で言うと、身体を硬直させた秋山が口をパクパクさせた。
「はぁ……恋、ね……。そうね、もうこうなったら、カレシでもつくってみようかな」
「「マジっすか!!!」」
 春日と秋山が跳び上がった。
「ええ、そして、その男の子と吊り橋を渡って、橋がユラユラ揺れて、恐怖心からくるドキドキを脳がトキメキと勘違いして、本当に相手のことを好きになってしまうかどうか、検証するの!」
 ずざざ、っと春日と秋山が地面に突っ伏した。
「じ、じゃあ最初はそのカレシのこと、好きでもなんでもないんじゃないか!」
 顔を砂まみれにして春日がツッコミを入れた。
「それ最終的にときめかなかったらそのカレシどうなんの!? 用済み!? やめてあげて、トラウマになるから! そんなことにいたいけな少年を巻き込まないであげて!」
 秋山も目に涙を浮かべて懇願した。
「フン。じゃあ少年じゃなければいいわけ? ならアッキーかスガッチ。どっちかあたしと付き合う?」
「「ええええええええっ!?」」
 春日と秋山が吹っ飛んだ。
「ああでも、うーん、そうね。二人ともいい人だし、大好きよ。だけど、これであともうちょっと、超能力者とか、タイムマシン発明する超天才とか、宇宙人の類ならなぁ」
「それもう完全に別モノじゃないっスか!」
「それ基本ボク等に興味ゼロじゃないっスか!」
「はう……どっかその辺に転がってないかな……出会いとか、不思議とか……」
「な、夏目ちゃんが望むようなモノがその辺に転がってたら街中パニックになるって話もあるよね」
 秋山が引きつった笑みを浮かべながら膝に付いた泥を手で払った。
「でもあたし、ただ不思議を待ってるだけじゃないわよ! 自分からアッチの世界に少しでも触れようと努力したんだから! 例えば、ネットで魔術の本、取り寄せて読んだり」
「ま、魔術ッスか」
「そう。でもあたしが読んだ本は、狙った相手を呪い殺す方法だの不幸にする方法だの、陰湿なモノばっか、もう全然あたし好みじゃないし! がっかりよ! スガッチとアッキーに掛けた、悲鳴を上げて飛び起きる程恐ろしい夢を見せるっていう、ナイトメアの魔法も効果無かったし」
 ずがが、っとまたも二人が盛大に地面に突き刺さり、砂ぼこりを上げた。
「結局掛けてんじゃん! バリバリ掛けてんじゃん!」
「かかか勝手に人の体で実験しないでよ!」
 春日が絶叫し、秋山が震え上がった。
「そう固いこと言わないでよ。せーぜー寝不足になるくらいじゃない。もし掛ったら、お詫びに何か美味しいものでも御馳走しようと思ってたんだから。結局掛らなかったし、事前に断ったとしても、絶対OKしないでしょ?」
「あああ当たり前だよ! ま、まさか夏目ちゃん、ボク等の知らないところで他にも何かしてるんじゃないでしょうね!?」
「してないしてない。なんか魔術って間違うと、起きる物事をなんでもかんでも自分の都合の良いようにしか解釈しなくなったり、たっぷり自己暗示掛けて更に深みにハマっちゃいそうだから。そう、やっぱり暗い部屋でジメジメしてるより、お日様浴びながら地道なフィールドワークするのが一番確実だと思うわけよ、うんうん。と、いうわけで、二人ともこれから、何か事件があった現場に行くんでしょ? あたしも連れて行ってよ」
「「…………は?」」
 春日と秋山がぽかんと口を開けた。
「だってさっき、二人とも車から降りて来たとき、背筋や手足を伸ばすような、疲れた素振りは全く見せなかったでしょ? これは長時間同じ姿勢で車に乗っていたわけじゃないってことだから、出発したばかりの可能性が高い。それとスガッチの指の傷、それ、本の梱包を解いてるとき、紙で切ったんじゃない? 本や雑誌を扱う人がよくやる怪我よね。傷がまだ真新しいってことは、スガッチはさっきまでお店で仕事してたってこと。後、アッキーのズボンに付いた泥。それ、この公園で付いたものじゃないでしょ?」
 夏目が靴の爪先で地面の砂を軽く蹴った。
「いくらアッキーでも、こんな平日に泥んこ遊びするほど暇じゃないでしょ。となれば、何処か泥で汚れるような場所で何かがあって、困ったアッキーがスガッチに応援を頼んで、店はどうせ暇だから閉めて、これからその場所へ向かうところなんじゃないかな、って思っただけよ」
「「…………」」
 秋山はまだぽかんと口を開けており、春日は苦笑を浮かべている。
「でも勘違いしないでよね、事件が起きて喜んでるわけじゃないわ。不謹慎じゃない」
 夏目はひょいっ、と肩を竦めた。が、春日と秋山は夏目の瞳の奥に、先程までは無かった、チリチリと灯る火花を見逃さなかった。
 
 
 かくして、夏目を加えた一行は、再び車を走らせ、ある一件の家屋を訪ねる運びとなった。その家はとある、周りに民家も少なく、とても静かな場所に建っていた。
「へえ、古いけど、イイカンジの家ね」
 車を降りた夏目が、洋式の木造三階建てを見上げて感想を述べた。
「じゃあ、二人とも、車の中で打ち合わせした通りにお願いしますよ」
 同じく車を降りた秋山がネクタイを締め直しながら告げた。
 三人で玄関まで歩くと、先頭の秋山がドアを叩いた。二度目のノックで応答があり、中から顔色のあまり良くない、三十半ばの男が出てきた。
「先程はどうも、度々申し訳ありません」
 秋山は丁寧に頭を下げた。
「ああ、刑事さん。まだ何か? ……後ろの方達は?」
 男が春日と夏目に怪訝な眼を向けると、質素な花束を両手で持った夏目が一歩進み出た。
「突然押し掛けて本当に申し訳ありません。私、秋山さんの友人で、夏目と申します。……私、亡くなった先生の本の大ファンでした……それで、一言お悔やみを言いたくて、秋山さんに無理を言って……」
 言うと夏目はしおらしく眼を伏せた。
「先生の……? ……そうですか。では、そちらは?」
 男に眼を向けられ、今度は春日が進み出た。
「はい。私、偉大な先生の死に、いてもたってもいられず、まことに勝手ながら、書籍を扱う人間の代表として、参った次第であります」
 春日は胸を突き出してエプロンに書かれた店名を強調してから、深々と頭を垂らした。
「……そうでしたか。それはわざわざどうも。……どうぞ中へ」
 男が中へ促すと、三人は恭しく頭を下げつつドアを潜り、奥へと進んだ。
「先生の死を悔やんで頂けるのは、弟子として有難いことですが……あまり他言は無用に願いますよ。先生がどのようにして亡くなっていたか、既にお聞きですよね?」
 先を歩いていた男が肩越しに振り返って訊くと、夏目が深く頷いた。
「はい……。勿論、外では決して話に出しません……それで……この花を、その場所に……」
 夏目は大事そうに抱えた花を男に見せた。
「……そうですか。じゃあ、こっちです……」
 男は向きを変え、更に奥へと進み、裏口のノブに手を掛けた。ドアを開け外に出ると、そこは庇の無いポーチになっていた。
 夕日を浴びてオレンジ色に染めあげられた土の地面が拡がっている。庭というよりは広場といえるくらいに拓けていて、その中程にぽつんと一本の木が立っていた。
「あの木がそうです……。じゃあ、私はお茶の準備でも……」
「ああ、お構いなく」
 踵を返す男に秋山は頭を下げた。
「……さて、と」
 男の背中が見えなくなると、夏目の眼つきが元に戻った。
「アッキー、あの木のところで、作家先生が亡くなっていたのね?」
「そう。先日、堂本さんという男性が、あの木の枝にロープを掛けて首を吊っているのが発見されたんだ。堂本さんは、怪奇小説作家として活躍していたらしいんだけど…………夏目ちゃん、全然知らないの?」
「うーん、どこかで本を見掛けたような、ないような。あたし、創作モノは読まないのよね。『実録』とか『本当にあった』とか付いてる本はつい読んじゃうんだけど」
「……それだってほとんどはきっと創作だよ……。じゃあ、先輩は?」
「うちの店に怪奇モノは一切無い」
 腰に手を当てて春日が言った。
「アンタ等そんなんで、さっきはよくもあんなでまかせを……」
 秋山がジト目を送る。
「その類の本を一番読まないのは君じゃないか。いいからほら、続きを話したまえ」
「……はい。ええと、遺体の第一発見者は、さっきボク等を迎えてくれたお弟子さんで、土橋さんと仰います。土橋さんの通報を受けて、救急隊が、その後にボク等が駆け付けたんですが、到着した時点で堂本さんの遺体は死後二時間程経過していました。遺体はあっちを向いていて―」
 秋山は木の向こうを手で示した。
「傍には踏み台にしたとみられる脚立が倒れていました。首を吊るのに使われたロープは、枝に結ばれていたわけではなく、フックを使って枝に引っ掛けてありました」
「フック?」
 春日が眉を顰める。
「ええ、クエスチョンマーク(?)の形をしたフックです。ちょうど、下の点のところが、輪っかになっていて、そこにロープが結んでありました。そのフックが枝に掛っていたんです。それと、堂本さんが亡くなった夜は、雨が降っています。ねかるんだ土の地面には、ボク等が今立っているこのコンクリ製の足場から踏み出して、あの木まで向かう堂本さんの足跡がはっきりと残っていました。あそこまでの距離は十メートル弱。ここは見ての通り開けた場所で、木の向こうも敷地が拡がっているのみです。後、堂本さんの部屋で遺書が見付かっています。『我が想像力は既に朽ちて、精も根も尽きた。よって、死を選ぶ……』みたいなネガティブな内容が小学生みたいな字で連綿と綴られていました」
「読めるならまだいいさ。君の字なんて、ミミズがのたくった後、ドジョウに進化したような字じゃないか」
「せめて個性的な字、と言って下さい。まあ、ボクの話はさておき、出版社の方から近年の原稿を数点提供して頂きまして、筆者識別に掛けたところ、遺書は堂本さんの直筆であると鑑定されました」
「へえ? じゃあ、堂本氏は原稿書くとき、パソコンとか使わないんだ?」
「ええ、全て手書きです。自他共に認める機械オンチだったそうです」
「ふーん……。まあ、ここまで聞いた限りじゃ、自殺にしか聞えないわね。何か不可解な点でもあるわけ?」
 夏目が小首を傾げた。
「うん。まず、堂本さんは酔っていたわけでもないのに、地面に残った足跡がやたら千鳥足だったということ。次に、首筋に付いた爪の痕と、うなじのスリ傷が随分多いこと。ロープなんかが首に食い込むと、苦しくて、こう、爪で引き剥がそうと、首にもがき傷が付くんだけど、これじゃまるで―」
「絞殺死体みたい?」
 顎に手を当てた夏目が上目遣いに訊いた。
「うん。変でしょ? 後、普通……って言い方も変だけど、普通、人が首を吊る場合、まず枝やかもいに縄を結えたら、縄の先に輪っかを作って、そこに頭を通してから、その後踏み台を蹴るものなんだけど、堂本さんの場合は少し変わってるんだ。首に掛っていたロープなんだけど、首の周りの長さと、輪っかの大きさがちょうど同じくらいなんだ。これじゃ、輪っかに頭が通らない。だからつまり、輪っかに頭を通したんじゃなくて、先にロープをネクタイみたいに首に巻き、うなじのところで固く結んでから、ロープを枝に掛け首を吊った、ということになる。これはちょっと変だよね……。遺書も見付かっているし、事件性は無いというのが大方の意見なんだけど、こんな風に幾つか疑問点もあるんだよ。で、何か見落としがないか、今日はボクがここを訪ねて、土橋さんに了承を貰っていろいろ調べてたってわけ。そして、木に登って枝をよく調べていたら、なんと枝には何かが擦れたような跡が無数に残ってたんだ! ちょうどフックが掛っていた辺りだね。これは何かあるに違いないと思い、ボクは直ちに先輩へ応援を要請したんだ」
「ちょっとは自分で考えなさいよ」
 夏目が白い眼差しを向けた。
「ふっ、甘いよ夏目ちゃん。どうせボクが考えたって解るはず無いんだから、考える必要なんて無い。だからここはボクの迅速な判断を褒めるところさ!」
「褒めるわけないでしょ! 要するに、ダメ人間ってことじゃない!」
「違うよ! 要するに、潔いんだよ」
「潔いどころか、最初から諦めてるでしょうが! ダメ人間よ!」
「こらこら、こんな所で掛け合い漫才やってる場合じゃないでしょ」
 春日が呆れて口を挟んだ。
「アッキーがおかしなこと言ってるからよ」
「夏目ちゃんが些細なことにこだわるからだよ。いやでも確かに、夏目ちゃんはツッコミのタイミングが絶妙でとっても気持ちが良いんですよねぇ……。それに若い女の子にガミガミ言われるのってちょっとコーフンするし……うーん……刑事と女子高生の異色ユニットってのも意外とアリかもしれないですよね? 夏目ちゃん、いっちょ二人でデビューしてみる!?」
「しないわ。だからアッキーは独りで、芸名、綾小路キモまろでデビューしたら良いと思うわ」
「しくしくしく…………」
「さ、こんなキモまろはさておき」
 夏目はひざを折って地面に眼を落とした。どこを見ても、土の地面が拡がっているだけで、足跡らしきものは見当たらなかった。
「うーん……さすがに数日も経過してると、もう何が何やら分からないわね……。しかも救急隊の人達がごちゃごちゃに踏み荒らしてるんじゃないの?」
「……ぐすっ、いや、大丈夫。救急隊員さん達っていうのは、犯罪事件である可能性を考慮した、現場保存の心得が有るんだ。ちゃんと、堂本さんの足型を消さないように行動してくれているよ。だからバッチリ調べてある、あの夜、ここには堂本さんの足跡以外に、不審な足跡は一切無かったって断言出来る」
「そう……。じゃあ、その足跡の深さは、ちゃんと堂本さんの体重分の深さであってる?」
「深さ?」
 秋山は小首を傾げたが、春日は察した。
「なるほど、堂本氏がおんぶされて運ばれたんじゃないかって言いたいんだね?」
「そう。まず同じサイズで同じ種類の靴を二足用意するの。そして、堂本さんを絞殺したら、遺体を背負って木のもとへ移動。二人分の体重だから、より深く足跡が付くの。そして、帰りは後ろ向きに歩く。足跡が千鳥足なのはわざとね。千鳥足って歩幅がバラバラだし、歩数も普通に歩くより全然多くなるでしょ? 行きと帰りで足跡が沢山残るのをこれでごまかしたのよ。そして、堂本さんにも同じ靴を履かせておけば、堂本さんが自らの足であの木まで歩き、自殺したように偽装できるってわけ。でも、行きと帰りで重さが違うから、足型は同じでも、深さが明らかに違う足跡が有るはずなのよ。で? どうなの、アッキー?」
 問われて秋山は、あたふたと同僚に確認の連絡を入れた。
「な、夏目ちゃん、残っていた足跡、大人一人分の沈み具合で間違いないって」
「ちいっ、外したか……ならばこうよっ! 雨が降る前に、木のもとへ移動したの。そして、遺体を木に吊るしたら、雨が降るのを待って、地面がぬかるんでから後ろ歩きで足跡を付けるの。足跡が千鳥足なのは、重い遺体を運んだ為の疲労と、殺人を犯してしまった恐怖で膝がカクカクしてたからよ! それなら、一人分の深さの足跡しか残らないわ」
「おおっ、それだっ!」
「まだ続きがあるわ。部屋から見付かったという遺書。堂本氏の直筆で間違いないようだけど、あれは、堂本さんが作中で使おうとしていた文章だったのよ。それを犯人が遺書として利用したの!」
「ななな夏目ちゃん! 恐ろしい子! さ、早速、犯人を連れて崖へ移動しないと! 夏目ちゃん、犯人は一体誰―」
 秋山が身体に急ブレーキを掛けた。
「……ごめん夏目ちゃん、遺書にはお弟子さんや出版社の担当さんに宛てたメッセージも一緒に書かれていたんだった。作中に使われるような文章じゃ、全然、ないや」
「先に言いなさいよ!」
「うんうん、やはり漫才に落ち付いたか……」
 春日が横で、しみじみと頷いた。
「アッキーが大事な事、早く言わないからよ!」
「いやいや夏目君、君の頭のキレには毎回舌を巻くけどね、事を急いだ君にも非はあるよ。そんなんじゃ、いずれ秋山君と同じく、お笑い要員として定着してしまうぐっ! …………」
 夏目は春日の脇腹へ地獄突きを決め、沈黙させた。
「案ずることないよ、夏目ちゃん。先輩だって立派なお笑い要員だよ」
 秋山のフォローになっていないフォローに答える代わりに、夏目はしょんぼり俯いた。
「あのう、お茶、入りましたけど……何やってるんですか一体……?」
「えっ、あっ、いや!」
 秋山が振り向くと土橋が立っていた。
「その花、木の所に添えて頂けるはずじゃ……?」
 皆の視線が夏目の手元に集中した。その手にはまだ花束が握られている。眉を顰める土橋の前へ、神妙な面持ちをした春日が進み出た。
「えー……協議の結果、この花はやっぱり、先生の書斎へ手向けさせて頂こう、ということになりました」
「…………全く意味が解りませんが、そうされたいと仰るなら別に構いません……」
 土橋は表情にやや不信感を残しつつ承諾すると、三人を二階にある堂本の書室へ案内した。
「わあ、これがプロの仕事部屋なのね」
「なんか感慨深いものがあるよね」
「ボク緊張しちゃいます」
 興味深そうに室内を物色し始めた三人に、土橋が素朴な疑問を投げかけた。
「あのう……なぜ皆さん白い手袋をはめるんですか?」
「尊敬する堂島先生の私物を汚い手で触るのは失礼ですから」
「あのう……思いきり名前間違えてるんですけど」
「秋山君、カメラ出して。記念撮影を開始して」
「了解です」
「あ、アッキー、こっちも撮って」
 夏目が秋山に指示を飛ばす。土橋が素朴な疑問を投げかける。
「あのう……何か絨毯のシミとか、壁の傷ばっかり撮影してますけど、それで本当に記念になるんですか?」
「なります。とても重要です。それより土橋さん、あなたは堂本先生と二人でここにお住まいだったと聞いておりますが、先生が二階で、あなたが三階?」
 春日が訊ねた。
「え? ええ、そうです」
「なるほど、土橋さんはお弟子さんになって長いんですか?」
「ええと、そうですね。五年くらいになるでしょうか」
「なるほどなるほど、参考になります」
「何のですか?」
「土橋さん、この狸の置物も、先生の趣味ですか?」
 夏目が部屋の隅から訊いてきた。そこには狸の焼き物が飾られており、大きさは夏目の胸の高さまであった。愛嬌のある顔で首を傾げ、突き出た腹の下に巨大なキャン玉袋をぶら下げている。
「ああそれは、私が先生にプレゼントした物です。縁起物ですからね」
「そうですか。でも、こんなに大きくて重そうな物、どうやってここへ運んだんですか?」
「ウィンチを購入しましてね、それを使って窓から引き上げたんです。電気で動くんですよ」
「そのためだけにそんな機械まで買ったんですか?」
 夏目が驚いて訊くと、土橋は頷いた。
「ええ、口にこそ出しませんでしたが、先生が作品のことでお悩みだったことは薄々感じてましたし……。この置物には『他を抜く』という意味もありますし、少しでも先生の運気が上向けばと、どうしてもそれをプレゼントしたかったんです」
「そうだったんですか。優しいんですね」
「…………」
 夏目が微笑み掛けると、土橋は一瞬だけ表情を曇らせた。
「……ああ、ここからもあの木が見えるんですね」
 春日が重厚な造りの机を周り込み、窓に近付いた。そこから、堂本が首を吊っていたという、木の幹から真横に突き出した太い枝を見ることが出来る。春日は土橋の了承を得ると窓を開け、下を窺った。窓は裏口の真上に位置していた。
「あ、すみません。ちょっと失礼します」
 出版社の人間から電話が入ったと言って、土橋が席を外した。
「うん? なんだろ、これ……?」
 春日が窓の下枠の部分に、観音開きの窓を開け閉めしたときにできる曲線を描いた疵の上に、ごく最近付いたものらしい何かが擦れたような跡を見付けた。春日が振り向く。
「……秋山君、枝に引っ掛けられていたというフックだけれどね、爪の先はどっちを向いていたのかな?」
「爪の先ですか? ええと、遺体はあっちを向いていて……カギ爪はこっち向きですね」
「そう。遺体の傍には脚立が倒れていたんだよね。どんなの?」
「ええと、梯子を真ん中から折り畳んだ、使う時にハの字に広げるヤツですよ。あ、写真あります」
 秋山が出した数枚の写真に、角度を変えて撮影された脚立が写っていた。地面に接したところだけは、さすがに泥で汚れているが、光沢からして、脚立は新品であることが判る。
「……………………秋山君、堂本氏の遺体、雨で濡れてた?」
「えっと……いえ、濡れてませんでした」
「そう……」
「あの、ボクちょっと考えたんですけど……夏目ちゃん、人を催眠術で操ったりできる?」
「は?」
 真面目な顔で訊ねられ、夏目が眉を跳ね上げた。
「いや、なんかそんな映画を見たんだよ。人を操るっていう。堂本さんは犯人に催眠術を掛けられて、トローンとして、フラフラーとあの木まで歩いたんじゃないかな。そして、枝にロープを掛け、脚立を蹴ろうとしたそのときに、堂本さんはハッと我に返ったんだよ。首に付いた傷は、バランスを取ろうと必死にもがいている間に爪で引っ掻いたもので、頑張ったけど、ついに脚立から足が離れてしまい……ぶらーん、って。これならほら、あの少し変な状況の説明がつくでしょ。遺書もさ、書かされたんじゃないかな」
「はぁ…………アッキー、催眠術についてちょっと教えてあげる。人が眠るとき、意識が無くなる一歩手前の、ふわぁ~ってしてるときあるでしょ? そのときって、理性というフィルターが働いてないから、深層意識に直接声が届き易いの。それが、暗示に掛り易い状態なのよ。相手をリラックスさせて、その、暗示に掛り易い状態になるまでひたすら待って、いざその状態になったら実際に暗示を掛ける、これが催眠術。ここまではいいわね?」
「う、うん……」
「そして例えば、女性と交際したいけど女性が怖い、だとか、海外旅行に行きたいけど飛行機が怖くて乗れない、といった『コンプレックスやトラウマによって抑圧された願望』を持っていて、かつ『暗示に掛ることによって苦手を克服できるなら暗示に掛りたい』という本人の意思があってはじめて、暗示に掛るわけ。または、自分には暗示が掛っているから大丈夫、という強い思い込みから恐怖が和らいでいるだけ、と言えなくもないわね」
「そ、そんな、じゃあ催眠術って一体……」
「その術式によって救われた人がいるなら、それが催眠術よ。とにかく、当人が望んでもいない暗示には掛らないし、死にたいと思っているわけでもない人を、自殺するように操ったりはできないのよ」
「そ、そうかぁ……」
「うーん……そうね……肉体を操る方法は無いと思うけど、人の心を操る方法ならあるわ」
「と、というと?」
「呪いを掛ければいいのよ」
「へっ?」
 今度は秋山が先程の夏目と同じ表情をした。
「今日あたしが、アッキーに悪夢を見せる魔法を掛けたって話をしたわよね。そして、怖がりのアッキーは、家に帰って一人になると、あたしの話を思い出して、こう思うの、『効果が遅れているだけで、もしかしたら今夜あたり怖い夢を見るかもしれない』ってね。で、どんどん悪い考えが浮かんできて、勝手に負のスパイラルに陥るの。結果、眠れなくなったり、本当に悪夢を見ちゃうわけ。これが、『呪い』のシステム。丑の刻参り、ってあるでしょ、ワラ人形の。あれ、頭にロウソク立てて、恨んでいるターゲットの名前を叫びながら、カーンカーンって、クギを木に打ち付ける音を周り中に響かせながらやるでしょ? でもそれって、誰かに気付かれない方が不思議よね? そう、その行為はいつか誰かに目撃されるの。そして、誰かが○○という人物に呪いを掛けているっていう噂がたち、噂は人から人へ伝わり、やがてターゲットの耳にも入る。ターゲットは何となく落ち付かなくて、怖いけど、その話が本当かどうか確かめたくなって、明るい内にでもその現場に足を運ぶの。そして見るのよ……そこら中の木に打ち付けられた無数のワラ人形を。その光景が瞼に焼き付いて、必要以上に恐れてしまうの。そういえば、最近胸が苦しいような気がする、呪いが効いているのかもしれない、死ぬ! ってね。そして、勝手な思い込みで体調を崩すわけ。まさに病は気から、ってやつよ。でも、呪いを掛けてる人間は真剣に、本気で相手を呪い殺そうと必死でやってるの。それが、そういう結果に繋がったりするわけね」
 夏目はひとしきり喋るとウンウン頷いた。
「そ、そんな話をイキイキされても……」
 秋山が頬に汗する。
「ターゲットを貶めるために、ターゲットの周囲に悪質なデマを流すといった情報操作も、呪いの一種と言えるんじゃないかしら。その所為でターゲットは人間関係の軋轢から心労を重ね、結果精神に異常をきたして最悪、自殺を図ったり……ね」
「なるほど……つまり、手の込んだイヤガラセによって、メンタルアタックを仕掛けることはできても、身体を操ることは無理ってことだね」
「……いや、ちょっと待ってよ二人とも。案外、人の身体を操ることも可能かもしれない」
 と、そこで、二人の会話に春日が口を挟んだ。
「えっ、どういうことですか先輩?」
「まず、確かめたいことがある、夏目君、力を貸してくれるかな。いいかい……」

 担当者と話をしていたという土橋が戻り、入れ違いで秋山は電話をかけると言い、春日はトイレに行くと言ってその場を離れた。そこで、夏目には一つ指令が出されていた。指令と言っても、何でもいいから、ただ普通に土橋に話を振り、話を聞く、それだけであり、目的は単純に、土橋の足留めであった。
 相手が一般的な健康男子の場合、夏目による足止め効果は、絶大、である。

「さて、と……」
 そしてその間、春日と秋山は三階にある土橋の部屋に潜入していた。
「ドアに鍵が掛っていなかったのはラッキー」
 春日が室内を見渡す。
「せ、先輩。これ、不法侵入ですよ?」
 秋山がドアの方をチラチラ気にして、ビクビクしながら言った。
「もし見付かったら、つい部屋を間違えて、つい色々見ちゃった、ということにしよう」
「…………」
「間取りは二階の部屋と一緒だね。窓も同じ位置だ。ほら、あの木が見える。窓を開ければ?」
 窓枠の下の部分には、二階と同じように何かが擦れた新しい跡が残っていた。
「よし。じゃあ秋山君、土橋さんのノートか日記的な物を探して」
「は、はい」
 しばし、二人のコソドロまがいの行為が続いた。
「ないなぁ……普段はパソコン使ってるみたいだねぇ……」
「あ、これなんかどうですか? 土橋さんの学生時代のじゃないですかね。文芸サークルの会報みたいですよ、どうぞ」
「おお、やったね。でも、それは君が読んで。土橋さんの作品を探して」
「え、ボクが? は、はい。ええと、あった、これだな…………あれ? あれえ? この字って、確か……ど、どういうこと?」
 秋山が何度も首を捻りながら、文集をためつすがめつした。
「うん。その反応が見たかった。さあ、部屋を出よう」
「え、あ、もういいんですか?」
「うん、見るべきものは見れた。……さてと次は、秋山君、出版社の担当さんに連絡取れるかな? 幾つか質問して欲しい」
 秋山は頷くと堂本の担当者に連絡を入れ、春日に言われた通り幾つかの質問をした。
「―では、はい、ありがとうございました、それでは失礼します、はい―」
 秋山が電話を切る。
「どうだった?」
「はい、今日の土橋さんと担当さんの会話ですが、今後についての打ち合わせをしたそうです。堂本先生は連載の仕事を手掛けていて、次回からは弟子の土橋さんを後任とするよう、遺書に書かれていたんですって。あ、ボクも読みましたけど、確かに書いてありました。後、堂本先生は決して書斎に人を入れなかったようです。担当さんでも、執筆中の堂本先生の姿を見たことは無いそうです。それで、堂本先生が書く字についての話になりまして、昔はそれほど酷い字じゃなかったそうなんですよ。数年前からだそうです。本人は手首の関節痛で上手く字が書けない、と漏らしていたそうなんですが」
「そう…………なら、やはり堂本氏の死亡は自殺によるものじゃないよ」
「せ、先輩! 解っちゃいましたか!?」
 秋山が眼を見開いた。春日が頷く。
「ああ……犯人は、土橋さんだよ。土橋さんはある方法を使って、あの木まで堂本先生を歩かせ、そして殺害したんだ」 
「あ、ある方法……? と、とにかく了解です、じゃあすぐに車を回します!」
「いや、崖には移動しないから」

※堂本はどのような手段で殺害されたのだろうか?

 ぱちん、と夏目が自分の手の甲を叩いた。
「ああもう! ここなんか虫がいるわよ! 痒っ!」
「なんだって! くそう、虫め! よくも夏目ちゃんのDNAを! 吸うなら春日先輩のを吸え!」
「勝手なこと言わないでくれたまえ」
「あ、あのう、これから何が始まるんですか?」
 土橋が落ち付かない様子で訊ねた。四人は今、車を停めてある家の前へと集まっていた。
「いやなに、チョットした実験を行ってみようじゃないか、という趣向です」
 春日がにこやかに答える。
「ここで良いわけ? 木の近くの方が良いんじゃないの?」
 夏目が訊くと春日が肩を竦めた。
「どこでも大丈夫だよ。それに、これ以上現場の地面を踏み荒らすのもマズイからね。じゃ、始めようか」
 春日は地面に実験に使う小道具(荷造り用のビニール紐、ハサミ、空のジュース瓶、ハリガネ)を並べた。
 ビニール紐とハサミは春日書店号に積んであった。空瓶はその辺に落ちていた物を使い、ハリガネは土橋に貰った。
 次に春日は、夏目と秋山を向かい合わせで立たせ、二人に間隔を5メートル開けさせた。
「秋山君、君、木の役ね。左腕を肩の高さで、真横に真っ直ぐ伸ばして。その腕が枝ね」
「はい」
 秋山が言われた通り腕を上げた。春日はビニ紐ロールの端を夏目に握らせ、紐を伸ばしながら秋山に向かって歩き出した。
「夏目君、君が紐を掴んでいる手の位置が、家の二階の窓の位置だと仮定しよう」
 春日は秋山の傍まで行くと、伸ばした腕にビニール紐を引っ掛け、また夏目のところまで戻って来て、適当なところで紐を切った。
「次に、ハリガネに手を加えて、クエスチョンマークの形のフックにする。そして、『?』の下の点の部分は紐が通せるように輪っかにする」
 春日は紐の端から数十センチのところに、そのフックを結び付けた。そして余った紐の端を、空瓶の飲み口のところに結び付け、その瓶を夏目の足下に立てた。
「この瓶が、首にロープを掛けられた堂本氏。薬で眠らされ、裏口のポーチの上に置かれた椅子にでも座らされていたんだろう」
「ちょっと、まさかあたしにこの紐を引かせて、アッキーの足下まで瓶を歩かせようってわけ!?」
 夏目が眼を大きくした。
「紐を引いてごらん」
 夏目が言われた通り紐を引くと、紐がピン、と張った後、紐に引かれた瓶がその場でこてん、と倒れた。
「当然、そうなるよね。このままロープを引いたって、堂本さんの体は前のめりに倒れるだけ、しかも、首に掛けられたロープの結び目は首の後ろに有るわけだから、引っ張られた体はくるりと回転してしまう。これでは仮に歩かせることができたとしても、木に向かう後ろ歩きの足跡が地面に残っている、という奇妙な状況ができあがってしまう。この問題を解決するために―」
 春日は倒れている瓶の、飲み口に結び付けてある紐の隙間に、別のもう一本の紐を通し、結い付けた。そして春日は、瓶をその場に残し、紐を伸ばして夏目の後ろに立った。夏目より頭一つ背が高い春日が、紐を持った手を上に掲げた。
「僕の手の位置が、三階の窓としよう。そして―」
「「!!!」」
 春日が紐を上へ引くと、倒れていた瓶がヒョイ、と立ち上がった。
「このように、一本では無理でも、二本の紐を使って支えれば、立たせることが可能なんだ。夏目君、紐を引いて」
「う、うん……」
 夏目が紐を引くと、その度に瓶はグラグラと体勢を崩すが、その都度春日は瓶が倒れないように紐を上手く操った。そして瓶は、フラフラと蛇行しながらも、秋山の足下へと辿り着いた。
「じゃあ夏目君、そのまま紐を引いて、瓶を引っ張り上げて。そして枝に見立てた秋山君の腕にフックを引っ掛けるんだ。フックは一度、枝の上を完全に通過させてね。そうすると、フックは自重でぶらりと垂れ下がる、そうなったら、ゆっくりと紐を戻して、フックを枝に掛けるんだ」
「オッケ」
 夏目が紐を操作するが、フックの先は秋山の袖を引っ掻くのみに終わった。
「難しいわね……」
「成功するまで何度でもトライして」
 その後、夏目は更に失敗を繰り返した。
「な、夏目ちゃん……そろそろ成功してくれないと、ボクのスーツがえらいことに……」
 その後、夏目は更に失敗を繰り返した。
「しくしくしくしく……」
 そして漸く、フックは袖に掛った。
「うん、ここまでは理解したわ。こうやって堂本先生を無理やり歩かせた後、木に吊るして殺害したわけね……木の枝に引っ掻き傷がいっぱい付いていたのはこの所為だったのね……あ、ということは、犯人は二人いるってこと?」
 夏目の疑問に春日は首を振った。
「いや、単独でも可能さ。二階でロープを引っ張る役をウィンチに任せればいい」
「ウィンチ!? そ、そっか、人体を吊り上げるには人の力じゃ結構キツイ、でもそれなら……」
「うん。ウィンチのコントローラーはケーブルを延ばして三階で操作すればいい。ロープを捌きながらだからかなり大変だっただろうけどね」
「なるほどね、でも問題はこの後よね、窓から伸びるロープを、足跡も付けずにどうやって回収するの?」
「それはね、ウィンチから、フックの輪っかまで伸びているロープを、巨大な円状にすればいいんだよ。例えば、輪ゴムの何処か一か所を切ると一本のゴム紐が出来るだろう? それをイメージしてみて」
「ああ、そっか! 円状のロープのどこか適当なところを切って、手繰り寄せればロープはフックの輪っかから外れるのね!」
「そう。円状のロープは大分ウィンチに巻き取られてしまっているけど、どこでハサミを入れようが、結局ロープは回収出来るって寸法さ。同じように、三階から堂本氏の首まで伸びるロープも円状にする。首に掛ったロープの隙間に、別のロープを通し、それも円状にすれば、ロープのどこか一か所を切ることによって、同様に回収出来る。堂本氏のうなじにスリ傷が多かったのはロープを手繰り寄せている間に付いたものだろうね」
「なるほどね……! それじゃあ、紐を円状にした状態で、本当に成功するかどうか、実験を最初からやり直してみないといけないわね」
「ああ、早速やってみよう」
「最初からその状態でやって下さいよ!」
 秋山が叫んだ。めそめそする秋山の袖をボロボロにしておいて、今度も見事にフックは袖に掛った。その後に、じゃあ上着脱いどけば良かったじゃん、と夏目が言った。
「うん、なんとかその状況を作りだせたみたいね」
 夏目と春日がそれぞれ紐を切り、手繰り寄せると、秋山の腕に掛ったフック、そしてビニール紐に吊られた瓶だけが残った。
「こうやって、堂本さんは身体を操られたってわけね。でも、トリックの仕込みの時に付く足跡はいつ消すわけ? 実際、スガッチ結構歩き回ったでしょ?」
「うん。まずね、犯人は、その夜は雨が降った、という事実だけが欲しかったんだ。そして雨が降ったから、行動を起こしたのさ。まず、雨が止んでから仕込みを始める。堂本氏の飲物に薬でも混ぜて眠らせ、ロープを張り、脚立を倒し、自分が付けた足跡を土を均して一旦全部消す。準備が出来たら三階の窓から声を掛けて堂本氏を起こし、先程のトリックを実行して、堂本氏を歩かせ、足痕を付け直す。すると、堂本氏の足跡以外は誰の足跡も無い、という状況を作りあげることができる。堂本氏が歩くのを拒んだらこのトリックは成立しないけど、目が覚めたら首を締め上げられていて、抵抗も出来ず、苦しんでいる最中、歩け、さもないと殺す、などと脅されたとしたら……」
「歩くわね」
「歩きますね」
 夏目と秋山が頷いた。
「僕がおかしいと思ったのは秋山君に脚立の写真を見せて貰ったとき。ぬかるんだ地面を歩いたはずなのに、倒れた脚立には堂本氏の靴の泥が付いていなかった。それで、堂本氏は脚立に昇らなかったんじゃないか、って思ったんだ。もし雨で洗い流されたというなら、遺体も濡れていたはずだしね」
「待って、遺書は、遺書はどうなるのよ。鑑定結果は本物と出たんでしょ?」
「本物だけど、本人が書いたものではなかったんだよ」
 春日の言葉に、夏目が眉を顰める。
「は? 何それ意味わかんない。アッキーが、堂本さんが書いた原稿と照合したら本物だったって」
「だから、原稿自体、堂本氏が書いたものではなかったんだよ。警察の皆さんも、第三者である出版社から提供されたリソースだったから、すっかり油断してしまったようだね」
「…………?」
「ふっ、どうやら何もかもお見通しのようですね」
 土橋が諦めたように息を吐いた。秋山が眼を見開く。
「ど、土橋さん! いつからそこに!?」
「最初からいました」
「い、一体どういうことなのよ、スガッチ」
「近年、堂本氏の作品として書かれた原稿は、全て土橋さんの執筆によるものだよ」
「え、そうなの!?」
「ほ、本当ですかっ!? じゃ、じゃあ土橋さんは……!」
 夏目と秋山が驚きに口を大きくする。春日は頷いた。
「そう、作品の本当の作者は土橋さん……つまり、土橋さんは堂本先生のゴーストだったのさ。…………怪奇小説だけに」
「うわぁ、言っちゃったわね……」
「先輩、そういうこと言わなきゃかっこいいのに……」
 二人の溜息もなんのその。春日は眉ひとつ動かさず言葉を続けた。
「このロープを使用したトリックを実行できるのは、堂本氏と同じ家に暮らし、コンディションが整うのを淡々と待ち構えられる土橋さんしかいない。ならば、遺書の方に何か秘密があるに違いない、と僕は考えた。そして、土橋さんの字を秋山君に読ませることで、その疑問は払拭できた」
 春日が視線を向けると、秋山は頷いた。
「は、はい。ボクが堂本先生のものだと思っていた字は、土橋さんの字だったみたいです。そうか、人が変われば字も変わる。それを誤魔化すために、堂本先生は手首が痛いなどという嘘を担当さんに」
「いや、多分堂本氏は、土橋さんの原稿をせっせと書き写している間に、本当に手首を痛めたんじゃないかな。それを契機に、土橋さん直筆の原稿をそのまま担当さんに渡すようになったんだと思う。土橋さんは普段パソコンを使用していたかもしれないが、堂本氏はパソコンを扱うことができない。そのため、土橋さんの原稿データをフラッシュメモリや宅内LANで取り交わすこともできないから、手書きの原稿でやり取りをしていたんだろう。そして土橋さんはそれを利用し、偽の遺書を用意するトリックを思い付いた。またトリックにはウィンチを使用するが、購入したことはすぐに割れるし、ウィンチだけ購入したのではいかにも怪しい。ウィンチを手に入れるための適当な理由付けとして、狸の置物を堂本氏に贈呈した、というわけだよ。準備を万端整えたら、先程のトリックを使って堂本氏を殺害する。その後は、大急ぎで後片付けをし、自ら第一発見者となって警察を呼ぶ。ぼやぼやしているとまた雨が降り出して、せっかくの足跡が消えてしまう恐れがあるからね。そうやって堂本氏の死亡を自殺に見せ掛けようとした」
「…………ええ、そうですよ……」
 土橋は静かに頷いた。
「土橋さん……」
「その通り、本を書いていたのは私です。……先生から、君の面倒をみる代わりに、君の書いた作品を、私の名前で出させてくれ、と言われました。金が無く、生活もままならなかった私は、その話に乗った。そのとき私は、逆に先生の名前を利用している気でいた。丹精込めて書いた作品を世に出すことができ、更に金も手に入る。ただそれだけで満足でした。自分の名前が世に出ることは無かったけど、誇らしかった…………最初はね。私は先生に独立を申し出ました。しかし先生はそれを頑として認めなかった……。このまま続けても才能の枯れた先生と共倒れになるのは明らかだった……。そんなのは……御免だ……!」
 土橋はぶるり、と肩を震わせた後、息を吐いた。
「ふっ……お嬢さん、あなたが大ファンだと言ってくれた本は、実は私が書いたものだったんですよ? よろしければ、サインを書きましょうか。私の……最初で最後のサインです……」
「あ、ゴメンなさい。あたし実は全然モガっ!」
 春日は慌てて夏目の口を塞いだ。そして代わりに頷いた。
「慎んで、頂戴致します」
 土橋の手により、夏目の手帳への調印が厳かに行われた。それが済むと、今度は秋山が恭しく一礼して前に進み出た。
「土橋さん、恐れ入ります。最後ついでに、こちらの供述書にもサイン頂けまぐはっ!」
 今度は春日のハイキックが秋山を黙らせた。


「どうしたの、随分静かだね。疲れちゃった?」
 ハンドルを握る春日が、夏目に声を掛けた。
 土橋の付き添いを秋山に任せ、春日と夏目は帰路に付いていた。ドアに頬杖を突き、窓の外を流れる夜景をぼんやりと眺めていた夏目は、小さく首を振った。
「ううん。ただ、ちょっとね……、ねぇ、こんな話知ってる? 自殺の名所として知られているビルが在ったのね。そのビルでは、年に何度も人が飛び降りてて、対策のために階段の入り口に鍵が取り付けられるんだけど、毎回壊されちゃってたんだって。ほとほと困り果てたビルのオーナーが、階段から屋上へ繋がるドアの前に、こんな張り紙をしたの。『こんな高い所まで登ってこられる元気が有るなら、生きてみよう!』って。そしたら、飛び降りがぱったりと無くなったんだって」
「…………」
「こんな風に、ふとしたことで価値観がガラリと変わったりするのね……不思議よね……ほんの些細なことで、人は人を憎んだり、愛したり……何かのきっかけで、人生が絶望に染まったり、バラ色に変わったり……」
「…………」
「ホントにちょっとしたことでもいいのよ……」
「…………」
「だからね…………」
「…………」
「晩ゴハンおごって」
「全く君って娘は!!!」
 流石の春日も顔を真っ赤にして怒鳴った。

  第十八話 必然

 耳をつんざく排気音を轟かせ、何台ものオフロードバイクが急な斜面を駆け登ってゆく。
 あるライダーは土埃をあげつつ巧みなアクセルワークでコーナーを抜け、あるライダーはバイクに跨ったまま宙を舞い、空中で、事故にしか見えないような角度に車体をわざと傾けた後、姿勢を制御し見事な着地をきめた。他のライダー達も車体が宙を舞う度に、眼を覆いたくなるような危険な技を次々と披露していく。
 コースが直線になると一斉にムチが入り、スピードは最高潮に達する。
 そんな中、突如として一人のライダーの首がヘルメットごと吹っ飛んだ。一瞬の後、肝心な部分を失った胴体からは真っ赤な血が噴水のように噴き上がり、バイクはしばらく走った後、バランスを崩して横転した。
 カラカラと回るタイヤの音だけがしばし続いた後、あたりから次々と悲鳴があがった。

 その日、秋山に呼び出された春日は、某所にあるモトクロスパークへと姿を現した。
「せんぱーい! こっちでーす!」
 秋山が手を振って合図すると、Tシャツ姿の春日がそれに手を挙げて答えた。Tシャツの胸には、大きく『車派』と書かれている。
 春日はこのような場所に来るのは初めてなのか、停めてある泥だらけのバイクやカラフルなツナギで身を包んだライダー達をしげしげと眺めながら歩いて来た。
「やあ、秋山君。並んでいるオートバイだけどさ、サイドミラーは取り外しが利くとしても、ライトも方向指示機もナンバーも無いオートバイがあるね?」
「ああはい。それはええと、コンペティションっていうモデルですね。レース場やこういった練習場専用のバイクで、二輪免許が無くても乗れるんですけど、公道では一切走れません」
「おっ、物知りだねえ」
「えへへ。ボクもさっき聞いたんです。それより先輩! モトクロスのトライアルって見たことあります? 先輩を待ってる間、参考までに見せて貰ったんですけど、もうすごいんですよ! ジャンプ台からバイクがポーンって飛ぶんですよ! ポーンって! 聞けば、飛んでる間にバイクの上で逆立ちしたり、一度完全にバイクと体が離れたりする技もあるらしいんですよ!」
「マジでか! そこまでいったらもう乗りこなしてるとかそういうレベルじゃないじゃん! 乗ってないじゃん!」
「そうなんですよ! びっくりですよね! 後で絶対見に行きましょうね! ……で、亡くなったのはこの練習場を利用していた瑞穂さんという男性です。死因は頸部切断によるもので即死でした。こちらへ来て下さい」
 秋山は少し歩いてコースに出ると、脇に立ててあった一本のポールへ近付いた。
「このポールと、コースを挟んで反対側に立っているポールの間に、鉄製の細いワイヤーが張ってありました。瑞穂さんはこのワイヤーに気付かずに、かなりのスピードで突っ込んだ模様です」
 秋山がポールとポールの間に指で線を引く。春日は眼を細め、さっきまでそこに在ったであろう、血の滴る鋼鉄の糸を想像した。
「首の位置にワイヤーがあったわけだ……でも、他のライダーさん達は平気だったわけでしょ? なんで瑞穂さんだけ? 瑞穂さんだけメッチャ座高が高かったの?」
「いえ。見ての通りこのコースのこの区間は長い直線になっています。普通、加速するときは空気抵抗を減らすために皆さん姿勢を前傾にするらしいんですけど、そのときなぜか瑞穂さんだけはずっと立ち乗りしてたみたいで。立ち乗りってのは、道の凹凸が激しいとき、膝のクッションを効かせてショックを和らげるためにするそうです」
 春日は地面に眼を落した。
「激しいデコボコなんて無いねぇ……。それが彼のスタイルだとか、立ち乗りするクセでもあったとか?」
「いえ、そんなことはないそうです」
「そう……。じゃあ偶然にも、瑞穂さんが立ち乗りしてしまったが故に、彼だけが運悪く犠牲になったってこと?」
「ええ。瑞穂さんが、先に来て練習を始めていた他のライダーさん達と合流して、走り出した、その後すぐのことだったらしいです」
「ふうん……」
「鑑識も聞き取りももう終わっています。別の場所に同様の罠が仕掛けられていたなんてことはありませんでしたが、このコースはしばらく使用禁止です。こんな事態になってここのオーナーさんはかなり狼狽してましたよ」
「まあ、そうだろうね。あ、どうでもいいけど、こういうところのトイレって、公園の公衆便所みたいにもっと汚、いや……ワイルドな感じかと思ったけど、意外と綺麗だし、シャワートイレ完備なんだね。さっき入ってきたんだけど」
「ああはい。なんでも、ボコボコの道を行くバイクに跨ってると、肛門への負担が尋常ではないらしく、ライダーにとって、シャワートイレは必須アイテムらしいですよ。ここのライダーさん達それぞれの自宅にも、100パー設置されているそうです。因みに、ライディング後のひとシャワーはハンパ無く快感らしいですよ」
「ほほう、快感とな?」
「ええ。まあそれはさておき、とにかくこれはもう、許し難い極めて悪質なイタズラです。先輩、犯人を挙げる、何か良い方法はありませんかね?」
 秋山が表情を変え、真剣な眼差しを向けた。
「イタズラ、ね……しかし犯人は、なぜそんな高い位置にワイヤーを張ったんだろう? コースがストレートの間、ライダー達は皆、前傾姿勢をとるんだろう? 本来なら誰もこの仕掛けには引っ掛らないはずだからね。愉快犯なら、もっと低い位置に張りそうだけど……ワイヤーはいつ頃張られたのかな?」
「はい。使用されたワイヤーは錆び一つ無く、真新しい物でした。ごく最近仕掛けられたものに間違いありません。……亡くなった瑞穂さんはもう、ほんととんだ災難ですよ」
「うん……」
「瑞穂さんには交際していた女性がいましてね。かわいそうに、瑞穂さんが亡くなったショックで倒れて、病院に運ばれました。なんでもその女性、少し前から眩暈や吐き気、体重が減る等、体調を崩していたそうで、恋人の死が、止めを刺したようなかたちです」
「へえ、それは気の毒に……」
「ええ、全くですよ……」
 春日と秋山は眉をしかめて頷きあった。
「ふむ……今回の事件、この練習場に何か恨みのある人間の犯行だろうか……。付近の住民とライダー達の間で、何かトラブルが起きていたとか、そういった話は聞けなかった?」
「いえ、特にそういった話は……」
「じゃあ、ライダー同士での話では? どんな些細なことでもいいんだけど」
「ええと、あ、それでは、亡くなった瑞穂さんと、あるライダーさんの間の話なんですが」
「うん?」
「瑞穂さんと交際していたという、倒れてしまわれた女性ですが、以前は、相澤さんという男性と深い仲だったそうなんです。その相沢さん、同じくこの練習場に通うライダーなんですが、恋人を奪われたと言って、瑞穂さんに対する恨みを洩らしていたとの話が有りまして」
「ええっ、おいおい、それをトラブルと言うんだよ! モロ動機が在る人物が居るんじゃないかっ」
「えっ! い、いやでも……状況から見て、たくさんいるライダーさん達の中から、瑞穂さんだけを殺害するというのは不可能でしょ? 愉快犯の無差別的犯行じゃないんですか?」
「……瑞穂さんのバイクに何か細工がされた痕跡とかは無かった?」
「いえ、そのようなものは一切ありませんでした」
「じゃあ家族の方に、瑞穂さんの今朝の様子とか訊けないかな?」
「残念ながら、瑞穂さんは独り暮らしです」
「そう……。やっぱりバイク乗りは住む所もワイルドなの?」
 春日が問うと、これにも秋山は首を振った。
「いえ、普通です。多少古い1LDKだとか」
「ふむ。普段は何やってる人?」
「そこも普通に会社員です。ただ三度の飯よりバイクが好きで、休日は必ずここでライディングを行っていたようです。夜は夜で別のライディングを行っていたと思われますが」
「こらこら、お下品だよ。…………秋山君、瑞穂さんの遺体は今どこに?」
「署の安置室です」
「くわしい検視は?」
「いえ、行われてませんが? 死因が確定していますし……」
「そう……。もしかしたら、瑞穂さんが死亡したのは偶々じゃないかもしれないよ……」
「え!? 何か解ったんですか先輩!?」
「ああいや、まだちゃんとした証拠があるわけじゃないんだけど、遺体と、そして瑞穂さんの自宅をちょっと調べれば、すぐにはっきりすると思うよ」

※春日の言う通りこれが計画的殺人だとして、瑞穂だけを狙って殺害する方法はあるのだろうか?

「それでは秋山君、すぐに検視医さんに連絡して、瑞穂さんのア○ルを重点的に調べるよう言うんだ……!」
 春日がギン、と眼を鋭くさせた。
「ア、ア○ルですって!? ア○ルをよく調べろって言うんですか!?」
 秋山がギョッ、と眼を大きくする。
「そうだ。穴が空くほどよく見てくれと頼むんだ。きっと酷くかぶれているはずさ」
「かぶれ?」
「そう。瑞穂さんは犯人の策略に嵌り、ア○ルがかぶれてしまったんだ。つまり、瑞穂さんはシートに座りたくても、痛くて座れなかったんだよ」
「え、し、しかし……そんな局部を、狙ってかぶれさせるなんて可能なんですか?」
「可能さ……瑞穂さんの家に忍び込み、そこにあるシャワートイレのタンクの中に、かぶれの原因となるものを混入させればいい」
「シャ、シャワートイレ!?」
「そう。最近の新築物件なら、便座にタンクが内蔵されていて、シャワートイレも最初から付属しているタンクレストイレ、ってのが多いんだけど、瑞穂さん宅の場合、部屋が多少古いということで、シャワートイレは後から取り付けるタイプのものと見た。後付けの場合、トイレの水を流すタンクとシャワー用のタンクは別々だから、比較的簡単にかぶれの素となるものを仕込むことができるってわけ。かぶれの素と言って一番に思い浮かぶ成分は漆に含まれるウルシオールやサクラソウのプリミン辺りだね。瑞穂さんは会社員だから平日の行動パターンを読むのは容易いが、瑞穂さんの不在を狙って家に忍び込もうとしたら、合鍵を作っておく必要がある。ライダー同士での集まりの席で瑞穂さんにしこたま酒を飲ませ、酔い潰れている隙か、瑞穂さんがここでライディングを行っている間にバッグを漁るなどして、こっそり合鍵を作っていたということが考えられるね。おそらく昨日、タンクへの仕込みを終えた犯人は深夜にここを訪れ、計算した高さにワイヤーを張ったんだろう。瑞穂さんはそうとも知らず家で用を足した後、いつものようにア○ル洗浄をして、犯人の思惑通りかぶれア○ルになってしまったんだよ」
「そ、それじゃあ、それが原因で瑞穂さんはシートに座れず、立ち乗りしたままワイヤーに突っ込んでしまったということですね!?」
「そう。漆など、手に付いただけでも痒いのに、ア○ルなんてモロ粘膜だ、相当痒かったに違いない」
「さっさと病院行けって話ですよね」
「まあね。しかしそれでも、バイクに乗りたかったってことじゃないかな」
「ああなるほど、本当に好きな事をするためなら、多少の事は我慢できる、ってわけですね? それ解ります。ボクにもそういったところありますね。ボクくらいのカレー好きになると、たとえカレー2、ライス8だとしても充分美味しく頂けますもん」
「んん? なんか違くね? まあいいや。というわけで、一番怪しいのは彼女を盗られたっていう相澤さんという男性だね」
「なるほど……ではその犯行を裏付けるものはありますか?」
「まず何度も言うけど、瑞穂さんのア○ルを念入りに調べることだね。そしてシャワートイレのタンク内を調べること。何かしらの痕跡があるはずさ」
「了解です。しかし、どうでもいいですけど、先輩の方がよっぽど下品な気がするんですが」
「気のせい」
「そ、そうですか……で、では物的証拠は?」
「残念ながら、合鍵も余ったワイヤーもかぶれる汁も、全て処分されているだろう」
「そ、そんな……ではどうすれば?」
「相澤さんがどこかで合鍵を作ったことがないか鍵屋さんをしらみつぶしに当たるんだ。そしてもう一つ、相澤さんは元カノさんの命も狙っている可能性がある」
「な、何ですって!?」
「元カノさんは体調を崩していたらしいじゃないか。相澤さんは、自分から瑞穂さんへと乗り換えた元カノさんのことも恨んでいて、以前から、瑞穂さんにしたのと同じ手口で、元カノさんに毒を盛っていた可能性が高いね」
「と、ということは、元恋人の部屋に侵入して……!?」
「うん。恋人同士の時に、部屋の合鍵を受け取っていたとしても不思議じゃない。別れ話の時には合い鍵を返したかもしれないけど、合い鍵のスペアを作っていたのかもしれない。その鍵を使って元カノさんの部屋に侵入したんだよ。もしかしたら今、元カノさんの体にはかなりの毒が蓄積しているのかもしれないよ……」
「な……なんてことだ、すぐにお医者さんに連絡して、検査して貰わないと」
「うん。そして相澤さんは、元カノさんを殺害するまでは毒を仕掛け続けようと考えているはずだから、そちらの方の証拠はまだ隠し持っているに違いない」
「なるほど! わかりました、じゃあ先に、元カノさんが運ばれた病院に連絡だけは入れておいて、たぶんまだこの練習場内のどこかに相澤さん居ると思うんで、証拠集めにあちこち走り回るのもメンドいし、もうこのまま自首するよう説得しに行きませんか?」
「ワオ、そんな台詞吐く刑事は日本で君だけだろうね」

 春日と秋山は場内で見付け出した相澤を、両サイドから挟み込み、『今自首しないと一生後悔しますよ』と耳元で、何度も何度も呪いのように繰り返し、相澤を、今自首しないと一生後悔するかもしれない、という気にさせることに成功した。
 相澤は春日が言った方法で瑞穂を殺害したことを認め、部屋へ忍び込むための合鍵は練習場近くで鍵屋に造らせたことも白状した。
 病院に運ばれた女には、やはり中毒の症状が出ていたが、医師の的確な処置により、大事に至ることは無かった。

  第十九話 豆腐の角に頭ぶつけて……殺人事件

「ちんすこうーーーーー!!!」
 沖縄へと思いを馳せた秋山の雄叫びが、超高層ビルの巨大な内部空間に響き渡った。
「更に、丁寧語にするために頭に『お』を付けるとちょっと複雑な感じになります」
「付けんでいい」
 春日がうんざりした様子で言った。
「おちんすこうーーーーー!!!」
「うるさいよ!」
「先輩、ふと思ったんですが、飛行機の沖縄線のキャビンアテンダントは機内でお菓子を配るとき、『おちんすこうはいかがですか?』って言うんですかね?」
「しらねえよ」
「更に! マンゴーの頭に『お』を付けることによって―」
「もういいだまれ!」
 ある夜、二人は完成を目前に控えた超高層建築物の中にいた。
 四方をテナント用スペースに囲まれた中央フロアは一階から最上階の三十階まで吹き抜けになっており、秋山は照明が落とされたうす暗いフロアの中心に立つなり、天を仰ぎ、静寂を切り裂く雄叫びを上げたのだった。
「ふうっ……」
 秋山は満足気に額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
「何やりきった顔!? バカじゃないの!」
「いやあ、あんまり静かだったのでつい」
「いいから、さっさとここで何があったのか説明したまえ」
「あ、そうでした、すみません」
 秋山は手帳を取り出し項を開くと、一つ咳払いをした。
「ええと、今朝の話なんですが……この建設現場で警備員をしていた小松さんという男性が、遺体で発見されたんです。死因は鈍器のような物で後頭部を殴られ、延髄を損傷したことによる呼吸不全です。死亡推定時刻は昨夜、午後十一時。朝、現場入りした作業員がここ、一階中央フロアで倒れている小松さんを発見しています」
「うん……」
 春日は話を聞きながらライトの光を床に当てた。床には一面、20センチ四方のタイルが敷かれており、それによって碁盤のようにマス目が形成されていた。
「小松さんは壁寄りの位置でうつ伏せに倒れており、傍にはライトがオンになった状態で転がっていました」
「ふむ……」
 春日は秋山が示した方向にライトを向けた。既に鑑識も終了し、遺体は運び出されている。次に壁にライトを当て、その光を上へ滑らせると、二階部分に手摺が見えた。
「……一階から上はどうなってるの?」
「全ての階で真ん中が吹き抜けになってます。そしてその外側がぐるりと通路になっていまして、更にその外側がテナントスペースになっています。ですからどの階の、どの位置の手摺からでも中央フロアを見下ろすことができる造りになっています」
「へえ……」
 春日はライトの光をどんどんと上の方へ向けていった。
「このくらい大規模な工事となると、平日は夜間でも内装工事なんかが行われていて絶えず人の出入りがあるそうなんですが、日曜である昨日は工事自体が休みのため、ビル内は完全に無人となっていたそうです。小松さんは通常外にあるプレハブ造りの守衛室に詰めていて、夜間は数時間おきに、ビル内に異常が無いか巡回していたそうです。そこを襲われたものと思われます。また、遺体の周りの床には、沢山の引っ掻き傷が残っているのが見つかりました。どうやら、犯人はスパイクを履いていたようです。そのため、残念ながら足形を採ったりはできませんでした。そして今回、使用されたとみられる凶器が……木綿豆腐です」
 秋山が真面目な顔で言った。
「………………」
 春日が無言でガシガシと頭を掻く。
「遺体の後頭部には砕けた豆腐が大量に付着していて、周りの床にも豆腐の欠片が四散していました。これがその、豆腐の欠片の一つです」
 秋山はシャーレを取り出すと開いて中を見せた。春日はそれを覗き込むと、指先で摘んで感触を確かめた。やや乾いてはいるが、豆腐特有の弾むような弾力があった。
「それでですね、実はボク、今回の事件がどんなものなのか、大方の予想はついているんです。で、それが当たっているかどうか、先輩の意見を聞かせて貰いたくて、今日は来て頂いたんです」
「ほう?」
 春日が意外そうに眉を動かした。
「では先輩、問題です。人の頭を豆腐で殴るとどうなるでしょう?」
「おこられる」
「そうです。おこられます。豆腐まみれにされたら、そりゃおこります。柔らかい豆腐で殴られて、死亡するなんてまずあり得ません。しかし、豆腐で人を撲殺する方法があるんですよ」
「ふうん?」
「それは……豆腐を凍らせてしまえばいいんですよ! 犯人はカチコチの豆腐を手に持ち、闇に紛れて小松さんの背後から忍び寄り……」
 秋山は離れたところに透明な、小松なる人物を立たせると、腕を高く振りかざし、そのまま足音を忍ばせて近づき、そして、力強くその腕を振り下ろした。
「こうして、砕けた豆腐は周りに飛び散り、小松さんは前のめりに倒れた……。どうですか?」
 秋山が振り返った。
「ううむ……」
 春日は腕を組んで頭を捻る。
「駄目ですか?」
「いやまあ、そんなもので殴られれば、そりゃ死んじゃうよ。でも、なんで豆腐なの?」
「はい。ただの氷でも良いじゃないか、ってことですね? へへ、その理由もちゃんと考えてあります。犯人の家に適当な容器が無かったんですよ」
「容器?」
「はい。例えば、水を四角いレンガの形に凍らせるためには、まず四角い容器を水で満たして、それから冷凍庫に入れて凍らせる必要があります。しかし生憎、犯人の家には適当な大きさの容器が無く、何らかの理由で容器を用意することもできなかったんですよ。それで犯人は仕方なく、豆腐を凍らせることを思い付いたんです。豆腐ならばそのままの形で冷凍庫に入れて、凍らせることができますからね」
「お、一応スジは通るねえ」
「へへへ、そうでしょ!」
「でも、適当な容器すら用意できない理由って何よ?」
「えっ? ……あ……いや……それは……」
「いやそもそも、氷である必要も無いよね? 氷を凶器に使用するメリットは溶けて無くなることだけれども、今回のような場合、まず、凍らせた物を使う必要が無い。何でもいいから鈍器で殴って、凶器は持ち去ればいい」
「あ、まあ、そ、そう言われれば……そんな気も……」
「それに、返り討ちに遭う危険を冒してまで警備員に襲い掛る? それ程の価値がこの建設中のビルに?」
「そ、それはだから、犯人にも、のっぴきならない事情があってですね……」
「だから! 警備員襲って、その上凶器が豆腐で、その凶器を現場に残していくメリットは何だって聞いているんだよ!」
 春日の眼がつり上がった。秋山の表情は一転、眉がハの字になる。
「え、あう、そ、それは……えっと……あの……」
「え、何だって? 聞こえなーい、もっと大きな声で言ってくれますかー」
 春日が耳に手をかざす。
「………………」
 何も言えず、俯いてしまう秋山。
「もしもーし、聞こえてますかー? 早く理由を説明してくださーい。もしもーし」
「う……ううっ……ぐすっ……うぇっ……」
「はっ! 泣けばそれで済むと思っているのかい!? 見上げた心掛けだねえ! ええ? 刑事さんよぉ!」
「うえぇ、ごめんなしゃーい、ごめんなしゃーい」
 春日が酷く意地悪に見えるが、これは彼等のプレイなのであった。
「それにだね、秋山君、君の推測には大きな瑕疵がある。君は犯人が凍らせた豆腐で小松さんをどついたと言ったが、豆腐は凍らせると変色してしまい、しかも解凍された後は水分が流れ出て、傷んだスポンジのようにスカスカになり、その弾力も失われてしまうんだ」
「え? そ、そうなんですか?」
「ああ、一度冷え切ってしまうと、二度と元には戻らないんだよ」
「恋と一緒なんですね」
「そうだね。だから、回収された豆腐の状態からして、凍らせた物ではなかったということになる。小松さんは何らかの鈍器で殴られ、その後豆腐をかけられた、と考える方がまだ分かる」
「し、しかしですね、殴った後、豆腐をかけるってどういうことですか? 意味無いですよね?」
「うん……何かの見立てか、儀式的な意味か……それとも遺体を辱めるためか……」
「むー……どれもピンときませんけど……」
「そうだね……ふむう……とにかくまだ情報が少な過ぎるよ」
 春日が眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
「あ! 言うの忘れてました! 関係者に聞き込みを行った結果、小松さんはある出来事から、人の恨みを買っていた可能性が有るとの情報が有ります!」
「何っ!?」
 春日がバッ、と秋山を見た。
「ええと、数か月前の話なんですが、この建設現場は作業員と関係者全員の食事を、あるお弁当工場から取り寄せていたそうです。それで、そのお弁当工場は自家製豆腐が一番の自慢で、いつも何かしら豆腐が使われた料理が入っていたそうです。そしたらある日、そのお弁当を食べた小松さんが、豆腐に当たってお腹を壊したと言い出したんだそうです。それを聞いた建設現場の責任者の方が、作業員に食中毒者が出ては堪らないとそのお弁当工場への発注を取り止め、別のお弁当業者を利用することに決めたとか。しかしですね、同じものを食べたはずの他の作業員さん達は皆平気だったんですよ。これは豆腐嫌いの小松さんが、ほぼ毎日豆腐を使ったメニューに腹を立て、ウソを吐いたのでは、というウワサがあります」
「もろ豆腐絡みじゃんか! 最初にゆえ!」
「す、すみません!」
「なら、それを恨みに思った、そのお弁当工場の工場長辺りが小松さんを……」
「あ、その工場長さんなんですが、既に亡くなっているんです」
「はっ?」
 春日が眉を潜める。
「大口のお客を失った原因が、豆腐だったことに余程ショックを受けたのか、倒れてしまわれてそのまま、だそうです……元々、体の強い方ではなかったようですね」
「あ……そう、なんだ……それは気の毒に……」
「はい、しかし話はそれだけではないんです。実は、亡くなった工場長さんの息子さんが、この建設現場で工事作業員として働いています」
「だから、それを先に言え! その人が犯人だ、すぐに捕まえろ!」
「あ、それがですね、ええと、その方は出川さんといいまして、勿論、すぐに話を訊きに行きました。そしたらですね、小松さんが殺害された昨夜、出川さんはA県で営まれていた葬儀に参列していたんです。確認ももう取れてます」
「葬儀だって? しかももう確認が取れてる? 随分手回しがいいね」
「はい、それが、出川さんの方からどうぞ調べてくれと進んでいろいろと話をしてくれまして。すぐA県警に協力を要請して調べて貰ったんですよ。出川さんの話によると、友人の訃報を知り、慌てて家を飛び出して、葬儀に参列したそうなんですが、それが全くの勘違いで、アカの他人の葬儀だったとか。出した香典を引っ込める訳にもいかず、記帳だけして帰って来たそうです。他人の葬儀ですから、当然、知り合いと出会うワケも無く、出川さんが葬儀に参列していたことを証言してくれる人物はいないんですが、受付に置かれていた芳名帳には出川さんの名前と住所がしっかり記入してありました。A県で夜、葬儀に参列していたとなると、いかなる交通手段を使ったとしても、ここで小松さんを殺害することは絶対不可能なんです」
「むう……そう……でも、その息子さんがすごい怪しいじゃないか」
「はい、確かに、充分動機にはなり得ますよねぇ」
「…………うーん、じゃあ殺害された小松さんに、昨日、変わった様子は?」
「あ、小松さんの同僚に話を訊いたんですが、小松さんは死亡推定時刻の数時間前、昼勤の警備員さんと交代の引き継ぎを行っていました。そのとき、小松さんが機嫌良さそうにしていたので、その同僚の方が何故かと訊ねたところ、小松さんはビル内の巡回が楽しみだと答えたそうです。更に何故かと訊ねたところ、それを教えたら楽しみが無くなる、と言って笑い、それ以上は教えてくれなかったそうです」
「楽しみ……。他には? 現場で、何か変わったことは?」
「そうですね、えっと……遺体の傍の床に、何か薬品をこぼした跡が有ったので、成分を調べましたところ、接着剤のはがし液だと分かりました。事件と関係があるのか、単にこの建設現場の作業で使われたものなのかはまだ判りません」
「ふむ、はがし液、か……」
「あ、それと、出川さんですが、血を見ると気絶するタチらしいです」
「出川さんが?」
 春日が眉をぴくりとさせた。
「はい。今日出川さんから話をお聞きしていたときの事なんですが、ボクは不意に鼻孔の奥に違和感を覚え、指先で違和感の正体を探っていたところ、粘膜を傷つけてしまい、出血してしまったんです」
「要するに鼻ほじったら血が出たわけね。てか、参考人の前で鼻ほじんなよ」
「そしたら、かるく掌が紅に染まるくらい出血しまして、それを見た出川さんは気を失ってしまったらしくて」
「らしくて?」
 春日は首を捻った。
「ええ、どうやら気を失うのはボクの方が一瞬早かったようですね」
「刑事が自分の鼻血見て気絶してんぢゃない! 全く……」
 春日は溜息を一つ吐くと腕を組み、頭の中で話を整理し始めた。春日が考えている間、秋山はすることも無いので辺りをぶらぶらと歩き回った。コツン、コツンと秋山の足音だけが響き渡る。
「あ…………」
 春日は小さく声を上げると振り向いた。その眼は秋山の足下に向けられている。
「どうかしました?」
「あっ……!」
 春日が今度は弾かれたように頭上を仰ぐ。
「ど、どうしたんですか?」
「……秋山君……ちょっと行ってきてくれるかな?」
「え? ど、どこへですか?」
 春日は指を一本立てて上空を指した。

『……こちら……三十階の……秋山です……』
 電話の向こうのその息遣いは、荒い。
「ご苦労さま。随分掛ったね? それで、どうかな?」
『ガクがヒザヒザします……』
「うんうん、わかるけど、そうじゃなくて。そこに何か無いかい? ていうか、今どの辺にいるの? 合図して」
 春日が見上げた遥か上空で、秋山のライトがチカチカと光った。
「OK確認した、僕のことは見える?」
 フロアに立つ春日は空に向けてライトを振った。
『あ、見えました。うわ遠、豆粒ですよ』
「うん。じゃあちょうどその辺りに、何か無い?」
『何かと言われましても……別に何も無いですよ?』
「そっかぁ……じゃあ悪いけど、今度は二十九階に下りて―」
『あ、ちょっと待って下さい。よく見たら、手摺に布テープの切れ端がくっ付いてました。…………何かが手摺に貼り付けてあったのかな? 手摺がベタベタします』
「そう…………。オーケー秋山君、もういいよ、ありがとう」
『え、もういい? 何か解ったんですか?』
「ああ、解ったよ。殺害方法がね。そして諸々の事情から考えて、犯人はきっと、出川さんだろう」
『え? ……ええっ!? ちょ、ちょっとスミマセン、な、なんですか殺害方法って』
 声から、秋山が大いに戸惑っていることが窺える。春日は頭上を仰いだ。
「秋山くん、出川さんはね、君が今立っているところから、小松さんに豆腐を当てたんだ」
『は、はぁぁ!? ここから!? いや、何言ってんですか先輩、ここから見たら人なんて、点みたいにしか見えないんですよ!? こんな小さな的にここから豆腐を投げつけたって、絶対当てられませんよ! しかも人は動くんですから! それに出川さんが犯人って……で、出川さんにはアリバイがあるんですよ!?』
 春日の言葉に混乱してしまい、秋山は続けざまに疑問を発した。

※この事件の犯人が出川という男だとすると、春日が言うような方法で小松を殺害することは可能だろうか?

「出川さん、急にお呼び立てして、申し訳ありません」
 秋山が現れた男に対して、深く頭を下げた。
「はぁ、どうも……」
 秋山達の呼び出しに応じて現れた、中肉中背の男が会釈を返す。まだ三十代らしいが、仕事の疲れでも出ているのか随分と老け込んで見えた。
「一体、何なんでしょうか?」
 出川が訝しげな表情で秋山達を見る。
「それはこちらから……」
 秋山が手で差すと、春日が頭を下げた。
「こんばんは、私この度の事件の捜査に協力をしております、春日と申します。えー、邪推かもしれませんが、小耳に挟んだところ、亡くなった小松さんとは因縁浅からぬ関係だとか。なら、出川さんもこの事件に関して、興味がお有りじゃないかと思いましてね」
「……興味無いですね」
 出川が表情を変えず言った。
「あ、そういうもんですか? でもまあ、話だけでも聞いて下さい」
「…………」
「今回の事件ですね、凶器はズバリ『豆腐』です。小松さんは頭に豆腐を当てられたんです」
 春日が言うと、すぐに横から、秋山が口を挟んだ。
「せ、先輩、それがいまいち、よく解らないんですけど……この一件、犯人が何らかの鈍器を手に小松さんを背後から襲ったんじゃないんですか?」
「いや、犯人はスパイクを履いていたんだろう? いくら気を付けてもカチャカチャと足音が立つ。背後を獲るのはムリだよ」
「あ……! あ、いやでも、豆腐を当てるなんて……例え当たったとしても、柔らかい豆腐なんかで人を殺せるわけが……」
「いいや、豆腐一丁の重さは300グラムから400グラム。そして地上三十階の建物は、高さが100メートル以上。その、100メートルの高さから落下させた豆腐は、重力加速度の計算式で計算すると、地面に到達する頃には時速160キロにまで達している。衝撃力というのは、ぶつかるときの面積等も関係してくるから、正確な数値は測定器でもないと測ることはできないけど、400グラムの物体が時速160キロでぶつかってきたときのことを想像したら、その衝撃たるや……」
 春日の言葉に、秋山はノドを鳴らして頷いた。
「……あ、は、はい……凄い威力になりそうですね、よく、解りました。……で、でも、それを人に当てるるなんて無理じゃないですか?」
「そうかな? 無風、無回転の場合、物体は重力によって、必ず垂直に落下する。上手く狙えば可能だよ」
「狙うったって……」
「まず、床のタイルを見てごらん。碁盤のように格子状になっているだろう? そして次に三十階の手摺。何があった?」
「何って……布テープが……」
「そう、そのテープで、手摺には照準器が取り付けられていたんだよ」
「しょ、照準器、ですか?」
「そう。照準器の作りはこうだろう、まず、棒で四角い枠を作り、そこに何本もの糸を縦横に張って、幾つかのマス目を作る。そして、一つのマスの大きさは、タイルの大きさと等しくする。これが、手製の照準器になる。床のタイルと照準器の位置を望遠鏡とレーザーポインターを使って正確に合わせ、それを布テープを使って手摺に固定すれば完成だ」
「えっと……でもそれをどう使うんですか?」
「うん、まず床のタイルの、どれか一つを起点と決めておいて、その起点から縦に何マス、横に何マスの位置に小松さんの頭がきているかを確かめ、照準器のどのマス目から豆腐を落とすかを決定する。そしてこれは当然だけど、手が届かない、手摺から余りにも離れた場所には豆腐を落とすことは出来ないから、必然的に豆腐を落とすことが出来る位置は壁に近い場所となる……。後はそっと手を放すだけってわけ」
 春日は両手で持った豆腐を、下に落とすジェスチャーをした。
「し、しかし……相手は動く人間ですよ? そう上手くいくでしょうか……それに、小松さんは後頭部を―」
「何かが床に落ちていたとしたら? しかもそれがガッチリ接着されていたとしたら?」
「へ?」
「思い出して。床には接着剤のはがし液が付着していた。ということはそこに何かが接着剤で貼り付けられていて、それをはがすために使われたんじゃないか、と考えられない? 秋山君、君が床に落ちてる物を拾おうとしたとしよう。そしてそれがなかなか取れないとき、君の体勢はどうなっていく?」
「どうって……床に膝を付いたり、その落ちている物に顔を近付けたり……あ、ああ……!」
「そう。そうやって、動きを封じられると同時に、後頭部を無防備に晒すことになる」
「そ、そうか……!」
「とはいえ、落下してくるのはあの柔らかい豆腐だ、体の別の場所に当たっていれば、痛い、で済んだかもしれないよ……後頭部への衝撃がいかに危険かを物語っているね……」
「……い、いやもう、何て言ってよいやら……」
 秋山はほう、と息を吐いた。
「さて、じゃあ床に何が貼り付いていたのかだけど―」
 春日はくるりと出川の方へ向き直った。
「出川さん、おサイフ、貸して頂けますか?」
「! …………い、いいですよ」
 出川はぎくりとした後、引きつった笑みを浮かべながら財布を差し出した。
「すみません、もう結構です。今の僅かな躊躇のおかげで、何が床に接着されていたのか解りましたよ」
 春日は唇だけで笑った。
「小銭ですね? しかし、それはあなたの手元にはもう無い。もう処分してあるのだから、例え財布の中身を調べられても全然構わない、と今思いましたね?」
「な……何のことですか」
「もうここまできたら、回りくどい言い方は必要ないでしょうか……僕は、あなたが犯人ではないかと考えています」
 春日が出川を見据えて言った。
「ち、違う……!」
 出川が小さく後じさる。秋山がまた横から訊いてきた。
「先輩、ちょっといいですか? 小銭が接着されてたってのは分かりました。そりゃ、お金が落ちてたら拾おうとしますよね。それに、豆腐を落としたってのも分かりましたけど、何故豆腐を凍らせなかったんですか? 硬い方が威力が増して、さらに確実になるでしょう?」
「じゃあさ、凍っていたとして、そんなのが頭に当たったらどうなる?」
「どうって……そりゃ、頭が、パーンって……」
 秋山は顔の横で両掌を広げた。
「だね。じゃあさ、出川さんはさ、そんな遺体の傍まで、小銭を回収にいける?」
「え、小銭を……? あ! そうか出川さんは!」
 秋山が手を叩く。
「そう、血が駄目だ。威力が有り過ぎても駄目なんだよ。遺体が派手に出血していたら、出川さんはそれを見たとたん卒倒してしまう。だから、威力をセーブする必要があったわけさ」
「な、なるほど……」
「出川さんのここ数週間の行動はこうだろう。まず、週末の作業が終わると帰ったフリをしてビル内に留まり、どこかに隠れておく。そしてわざと小銭をフロアに落としておき、それを数回に渡って小松さんに拾わせる。そして、小松さんがビル内を巡回するパターンを把握しておき、隙を狙って豆腐を落とすリハーサルを行う。その時は、大きな音が出たり、豆腐が飛び散らないように布かなにかで包む必要があっただろうね。そして事件の夜、出川さんは小銭を床に接着させ、息を潜めて待った。餌付けされていた小松さんは小銭を探し、まんまと罠に掛ってしまったわけだ。出川さんは、小松さんが持つライトの明かりを頼りに、頭部へ狙いを定め、豆腐を落下させた」
「…………」
「小松さんを殺害することに成功した出川さんは、スパイクを履いて遺体へと近付き、接着剤用のはがし液を使って床の小銭を回収した。スパイクを履いていたのは飛び散った豆腐を踏ん付けて足跡を残し、体格が割れるのを恐れてのことだろう」
「しかしですね先輩、この出川さんには、アリバイが有りますよ?」
「葬儀での、芳名帳へ記帳されていた氏名だね? いやあ、それはアリバイとしては弱いよ。ただ、金で人を雇っただけだろう」
「!!!」
 春日に眼を向けられ、出川は肩を強ばらせた。
「アリバイ工作会社というのがあるんだ。これは、浮気や不倫がバレないようにアリバイ工作を手助け等してくれる会社でね、アリバイ工作のための代理出席なんかも仕事の一つなんだ。知人に代理を頼むと説明が面倒だし怪しまれる恐れがある、このような業者を利用したとみて、ほぼ間違い無いだろう。彼等には当然、守秘義務がある。しかし、出川さん、知ってましたか? あなたが犯罪を行った疑いがある場合は話が別です。正式な手続きを踏めば、彼等はあなたの依頼内容を全て明かしてくれます。犯罪の片棒を担いでまであなたの秘密を守る義理は彼等には有りませんからね」
「…………」
 出川がガクリと肩を落とした。垂れ下がった手から、財布がこぼれ落ちる。
「……そうです……俺が……やりました……」
 顔を俯ける出川に、秋山が問い掛ける。
「……出川さん……なぜこんなことを? 失敗したときのこととか考えなかったんですか? そもそも、なぜ豆腐なんかで?」
 出川が顔を歪めて答える。
「あいつが憎かった……俺はあいつが、オヤジの弁当をろくに食いもせず捨てているのを何度も見た。あいつは自分が豆腐嫌いだからってあんなウソを……そのせいでオヤジは……オヤジは豆腐が大好きだった……豆腐はオヤジの全てだった……きっとオヤジは、自分の手で復讐したかったはずだ……! だから俺は、オヤジの分身ともいえる豆腐であいつを―」
「出川さん!」
 大声を発したのは春日だった。
「出川さん、あなた一体、リハーサルで何丁の豆腐を駄目にしました!? まして、復讐の道具としてお父さんの愛した豆腐を使うなんて、そんなことでお父さんが喜ぶと、本気で思っていたんですか!」
「!!!」
 春日の言葉に出川は眼を大きくした。
「……この犯行にはタイムリミットがあった。ビルが完成してしまえば当然、設置された防犯システムによってビル内に隠れたり忍び込んだりすることは不可能になってしまう。下準備に加え、日々の作業に手を抜いて仕事をクビになるわけにもいかない。出川さんあなた、ここ数週間、体力的にも精神的にも相当キツかったでしょう……仕事もよく頑張ったんでしょう……。でもね、その頑張った理由が復讐じゃ、誰も褒めてはくれないんですよ!」
「………………」
 疲れ果てた男は、ぺたりと床に尻を付き、そのまま呆然となった。
「…………出川さん……行きましょう……」
 秋山は出川の後ろから、両脇に手を差し入れ、支えるようにして立ち上がらせると、静かにその背中を押した。春日はされるがままにフラフラと歩く出川の背中を、いろいろな感情がないまぜになった表情で見送った。
 そして、その後ろ姿が見えなくなると、堪えていたものが一気に溢れだした。
「ちんすこうーーーーーーーー!!!」
 行き場の無い想いは叫びとなって、夜の魔天楼に響き渡った。
 

   第二十話 レム

 その日、彼等の眼前には、全焼を果たし、後は崩れ去るのを待つばかりの家屋があった。炎によって黒く染め抜かれた壁や柱は、本来どのような色合いをしていたのかさえ、最早判らない。屋根は崩れ落ち、窓ガラスはそのことごとくが割れていた。空から降り注ぐ強い日差しが、焼け跡の空虚さを更に際立たせている。
 家と家との間隔が数十メートル離れているのが当たり前のような片田舎での火事であったため、隣家に火が燃え移ることは無かった。
「消防の鑑識によりますと―」
 制服姿の秋山が、手帳に眼を落しながら告げた。
「放火で間違いないそうです。出火時刻は昨夜十一時、出火場所は玄関、とのことです。扉近くの地面に、燃料用アルコールのビンとライターが落ちていました。焼け跡から、この家で独り暮らしをしていた桑野さんという男性が遺体で発見されています。死因は一酸化炭素中毒と火傷によるもので、出火当時、桑野さんは就寝中だったため、火事に気付かず、逃げ遅れたものと思われます。しかし、たとえ火事に気が付いたとしても、玄関を炎で塞がれていたため、脱出は困難だったかもしれません……」
「…………酷い話だ」
 春日は鼻にシワを寄せた。
「まさかボクがこの村の駐在警官として着任早々、こんな凶悪犯罪が行われようとは……」
 秋山が拳を震わせる。
「不審者の目撃情報は?」
「それが……この辺りの住民は夜に外を出歩くことがない上に、就寝も早いため、有力な情報を得ることはできませんでした」
「そう……。通報者からは何か話が聞けた?」
「いえ、特に。家を出たところ、偶然火の手が上がっているのを見付けたみたいで、それで通報を。消防への入電は午後十一時十分です。友人を訪ねるつもりだったそうです」
「そう……。しかしその通報者さん、そんな遅い時間に友人のところへ?」
「はい。ええと、その方の話によりますと、在宅中、携帯へ友人から電話が掛ってきたんだそうです。それが午後十時三十分。しばらく会話していると、その友人に、渡したい物があるから取りに来い、と言われたので、携帯電話で会話を続けながら家を出た直後、遠くで火の手が上がっているのを見付け、友人との会話を切り上げ、消防へ通報した、とのことです」
「ああ、呼び出されて、家を出るところだったわけか」
「はい。後、念のため、会話の相手を確認させて頂いたんですけど、そしたらですね、あそこ、あの家の住人と電話していたと仰るんです」
 秋山が腕を伸ばし、火事の現場から百メートル程離れたところに建つ一件の民家を指差した。
「へえ?」
 春日の眉がぴくりと動く。
「勿論、直ぐに行って、あの家の住人に話を伺いました。田尾さん、という方です。確かに、田尾さんの方から電話を掛けたということに、間違いは無いそうです。カーテンを降ろしていたし、電話に夢中で、不審者はおろか、火事にも全く気が付かなかったそうです」
「……ふうむ……」
 春日が腕を組み、表情を険しくさせた。
「何か気になるところが有りましたか?」
「……有るね。……一つ大きく気になることがあ有る……」
「な、なんですか!?」
「君は一体どんな失敗をやらかして、こんな田舎まで飛ばされたの?」
「うぐっ……!」
 秋山が胸を押さえて大きくよろめいた。
「……せ、先輩。先に断っておきますが、ボク個人としては、落ち度は無かったと思っています」
「ほう、ではなぜ?」
「……それは、今を遡ること数週間前、本庁からお偉いさんが視察に来る、ということでボクが接待役を仰せつかったんです。それで、その方が体を動かすのがお好きだと伺ったので」
「ああそう、まあ、接待ゴルフとかは基本だよね。それで?」
「いえ、ご用意したのは接待アメフトです」
「お偉いさんにどんだけハードなスポーツやらせてんだよ」
「ちょっと趣向を変えてみたんですよ! ゴルフもアメフトも同じ球技じゃないですか! たいして違わないですよ!」
「片や世界で最も危険な球技じゃねーか」
「少し前に○ャンプに掲載されていたアメフトマンガをちょっと思い出しただけなんです! 先方にケガを負わせたのは相手選手なんです! ボクは悪くないんです!」
「いや君が悪い。君が全部悪い。飛ばされて当然。自明の理ってやつだ」
「そ、そんなぁ……。先輩も皆と同じこと言うんですかぁ? もう……じゃあ百歩譲って、ボクにも非があるってことでもいいですから、とにかく助けて下さい。ガンガンポイント稼いで、転属願いを受理して貰うんですから!」
「もういいじゃないか。一生田舎勤務でも」
「嫌ですよ! こんな娯楽のないとこ!」
「それならほら、ポイント稼ぎだけが転属のチャンスではないだろう? 出世したらある程度我は通るよ。昇進試験の勉強したまえ」
「そんなの嫌に決まってるじゃないですか。何言ってるんですか先輩」
「………………」
「あーあ。何週間か毎に、市街地と田舎とを交互に勤務ならベストなんだけどなぁ」
「こ、この男は…………。はぁー……わかったわかった、やるよ。事件の捜査、手伝ってあげるよ」
 春日は両手を挙げてなげやりに頷いた。
「本当ですか! ありがとうございます! 先輩は本当にいいひとだなあ!」
「よせよ、照れるじゃないか。……おっと、しまった、もうこんな時間か。ちょっと失礼するよ」
「どうかしたんですか?」
「いやね、今ブログで恋愛相談室をやっているのだけれど、今日は電話相談の予約が幾つか入っているんだ。悪いけど、少しの間静かにしててね」
「ああ、そうなんですか! 了解です! 流石先輩、誰からも頼りにされているんだなあ!」
 秋山が羨望の眼差しを春日に向ける。
 ややあって、春日の携帯が着信音を発した。
『……もしもし、あのう……』
 受話部から若い女の声が流れ出る。
「もしもし、恋でお悩みですね? 今日はどんなご相談ですか?」
 春日が爽やかに応対した。
『あのう、ワタシ、今付き合っている人がいて……もう3年くらい付き合っているんですけど……それで彼、すごく明るくて、一緒にいるとすごく楽しい人なんですけど……時々、本当にワタシの事好きなのかなって不安になる事があって……。彼、一緒にテレビを観ている時とか、街を歩いている時とか、綺麗な人を見掛けると、「今の人、可愛いかったね?」って普通に聞いてきたりするんです。ワタシもその時はそうだねって言うんですけど……自分で言っててすごく寂しくて……。彼はそんなこと思って無いと思うんですけど、比べられているような気がして……。それで……たまに心配になるんです……3年も付き合っているのにプロポーズもしてくれなくて……。あのう……ワタシ、どうしたらいいと思いますか?』
「別れなさい」
『…………………………』
 それじゃ、お電話アリガトウ、と言って春日は電話を切った。しばらくすると、また電話が鳴った。
『……もしもし、よろしくお願いします』
 先程とは別の女の声が流れ出た。
「はい、こちらこそ。今日はどんなご相談ですか?」
『はい……。今付き合っている彼氏の話なんですけど。少し前、彼が会社の同期の人の送別会をやるって言ってたんです。それで、男の人だけの集まりだって聞いていたんですけど、彼のデジカメを見たら、女の人もいっぱい来てたみたいで……肩寄せたり、抱き合ったりしてる写真とかもいっぱいあって……』
「あらあ……」
『私、頭にきて、彼に訊いたら、自分も女が来るとは聞いてなかったとか、そういうゲームだったとか言ってトボけてて。私、もうホント頭にきて、別れるって言ったんです。そしたら、ゴメンって謝ってくれて。もう誘われても絶対に行かないって約束してくれたんです』
「なるほどねぇ」
 春日はうんうん頷いた。
『ちょっと考えたんですけど、今度だけは許してあげて、一からやり直そうかと思うんですけど、どう思いますか?』
「別れなさい」
『……………………』
 それじゃ、ご相談があるときはまた。と言って春日は電話を切った。
「………………。ほ、本当に、せ、先輩は、頼りになるなあ……ははは……」
「よしてくれよ。……よし、一仕事終えたところで、ぼちぼち捜査を開始していこうか」
「は、はい……」
「えっと、あの家に住んでる人、田尾さんだっけ? どんな人なの?」
「はい。山林を所有していて、そこで林業を営んでらっしゃるとか。それで、ですね、これは村の住人に聞いた話なんですけど、実は、田尾さんと桑野さんの間で問題が起きていたらしくて」
「うん? どんな?」
「桑野さんはかなりご高齢なんですが、身寄りが無く、犬を一匹飼っていて、その犬を子供のように可愛がっていたそうです。高齢といっても、多少耳が遠いくらいで、矍鑠とした方だったみたいです。そして、田尾さんの方はというと、仕事柄、木が病気にならないように農薬を扱うこともあるらしいんですけど、桑野さんの飼い犬が、農薬が付いた木の実を食べて死んでしまったそうなんですよ。田尾さんの山で犬の死体が見付かったそうです」
「あらあ……」
「獣医さんの話では、農薬を口にして数分で死んでしまっただろう、とのことです。桑野さんは、それは悲しみ、田尾さんに対して訴えを起こして、慰謝料を請求したんです。ですが、田尾さんは『犬は可哀相だが、自分に責任は無い』と言って裁判所の出頭命令を無視し続けたんです。気持ちも解りますがそれがいけなかった。判決当日、法廷に現れなかった田尾さんの敗訴が決まったんです」
「欠席即敗訴、ってやつか」
 春日はポリポリと頭を掻いた。
「田尾さんに裁判所から慰謝料の支払い命令が出たんですが、田尾さんは支払いを拒み続けてまして、このまま支払いが無い場合は、所有する山林が強制的に差し押さえになって競売に掛けられ、その売却金が支払いに回されることになっていたんです」
「うわあ、それだけ拗れたらもう、立派な動機になるなぁ……。山を奪われそうになっている田尾さんが桑野さんに殺意を……」
「はい。ですが……」
「うん、わかってる。出火時刻は午後十一時。十一時十分まで自宅で友人と電話していた田尾さんに放火は無理、ってことだね」
「はい……」
 秋山が真剣な顔つきで頷いた。
「時限式や遠隔操作式の発火装置は?」
「いえ、一切使用された痕跡がありません」
「ふむ……。田尾さんの家からここまで、ちょうど百メートルってところか……会話をしているフリをして、友人に独りで喋らせておき、その隙にダッシュで火を付けに行って、ダッシュで戻って来たのでは?」
「いえ、どちらかと言うと、会話の主導権は田尾さんが握っていたようです」
「……なら、田尾さんがベラベラと独りで喋っていたんじゃないかい?」
「録音したテープを再生していた可能性ですね? それも無いようです。ちゃんと議論を交わし合い、変に長い間が空いたり、話が噛み合わなくなったりすることは無かったようです」
「そう。なら思い浮かぶのはコードレス電話、または家から掛けていると見せ掛けて実は携帯電話で会話していた、ってところだけど」
「はい。調べたところ、田尾さん宅の固定電話の番号から掛けられているのは間違いありませんでした。後、コードレス電話ですが、電話機の製造メーカーに問い合わせたところ、どの会社の製品でも、送信機からの有効半径は八十メートルくらいが限界だそうです。子機でも同じです。会話出来たとしても、ノイズが酷くなり、何かの拍子で信号が途切れようものなら、それっきり通話も切れてしまうそうです」
「そう……そんなにシビアじゃあ、とてもアリバイ作りには利用できないな……。ねえ、田尾さんの電話機、調べさせて貰った?」
「ええ。本体と受話機がクルクルコードで繋がっている、プッシュボタン式の電話機で、どこにでもある全く普通の物でしたよ」
「そう……。ええと、確か田尾さんと会話していた友人は、田尾さんに呼び出されて自宅を出たって話だったよね。どんな話の流れでそうなったのかな」
「はい、友人さんの話によると、そのとき、プロ野球の話をしていたそうなんですが、田尾さんが、O選手のサインボールを譲っても良いって言い出したらしいです。ボクにはよく分からなかったんですけど、何かの記念ボールらしくて、その友人さんはそれがノドから手が出るほど欲しくて、何度も譲ってくれるよう、頼み込んでいたそうなんですが、田尾さんは頑として首を縦に振らなかったんですって。それが急に譲って貰えることになって、喜んで家を出たところ火事と遭遇、ってことらしいです」
「そう……。ふむ、そんじゃそろそろ、田尾さんの家に行ってみようか」
「はい」
 二人はアスファルトで舗装された道を並んで歩いて行った。
 ほどなくして、田尾の家の前に辿り着く。
 ごく平凡な平屋であった。家の横には荷台にテールリフトが付いたトラックが停めてある。トラックの荷台を見ると、ちょっと揺すれば崩れてしまいそうな程、薪が積み上げられていた。
「あれは?」
「シーズンの間だけ、近くのキャンプ場に薪を卸しているそうです。今朝ボクがお話を伺いにここへ来たときも田尾さんは薪を割ってらっしゃいました」
「ふーん……。ん? これは?」
 春日が地面に眼を落した。家の前の土の地面に、おそらく田尾のであろう足跡が付いていた。玄関から出て、道路へ向かって行く足跡で、足跡自体は何の変哲も無いのだが、少し妙なのはその足跡の両側に、真っ直ぐ溝が走っていることであった。
「手押し台車でも押したような痕だな……なんだろ?」
 春日が首を捻っていると、ふいに引き戸が音を立てて開いた。中から年季の入った作業服を着た、頭を白髪で染めた男が出てきた。男がジロリと二人を睨む。
「なんだね? 警察が、まだ用があるのかね?」
 虚を突かれた春日と秋山はまごついた。
「あ、どうも。え、えっと。先輩、あちらが田尾さんです」
「そ、そう。えと、こんにちは。あ……ああそう、あれ、あの薪、すごい量ですね! 荷台に積み上げるだけでも大変じゃないですか?」
「はあ? …………後ろにリフトが付いとるだろう。積むこと自体は、苦労せんよ」
「そうですよね! えと、ところで、積んである薪ですけど、キャンプ場に卸してらっしゃると伺ったんですが、毎日あれだけの量をキャンプ場まで運ぶんですか?」
 春日が訊ねると田尾は首を振った。
「違う。三日に一回だ。薪を割るのもこの歳になると結構重労働でな。数日に分けて仕事をしている」
「三日間に分けて? 一番最近、薪を配達したのはいつですか?」
「一昨日だが?」
「そうですか。いつも、薪を割るのは午前、キャンプ場に配達するのは午後のことですか?」
「そうだ」
「今日の分の薪は、もう割り終わって、積んであるわけですよね?」
「そうだが?」
「そうですか。どうもありがとうございました」
 春日が頭を下げると、田尾が怪訝そうに眉を潜める。
「話はそれだけかね?」
「ええ……まあ……はい。今からどこかへお出かけになるんですか?」
「いや……。外の空気を吸いに出ただけだ。失礼する……あんたらもあまり家の前をうろつかんでくれ」
 田尾はもう一度睥睨すると戸をぴしゃりと閉めた。二人は踵を返し道路へと戻った。
「ちょっと先輩、もうちょっとマシな質問とかなかったんですか?」
 秋山がクレームをつける。
「え? ああ、ごめん、急だったから慌てちゃった。でもさ、変じゃなかった?」
「何がですか?」
「いやほら、だって―あ、君それ、ボタン取れかかってるじゃないか」
 春日は秋山の制服に、糸がほつれているボタンを見つけ、手を差し出した。
「ほら貸して、僕が付け直してあげよう。こう見えても僕は、裁縫が得意なんだ」
「なんですかその、今出来たような設定は……」
「ほら、早く脱ぎたまえ」
 春日のポケットから小さな箱が出てきた。どうやらそれが裁縫セットらしい。
「え、ええ? い、いいですよ別に。ボタンなんてこんなにいっぱい付いてるんですから、一個くらい無くても」
 春日が伸ばす手を、秋山が軽く払った拍子に、春日の手から小箱がこぼれ落ち、地面で音を立てた。
「げ、ごめんなさい!」
 針が散乱し、ボビンが糸を垂らしながら道を転がる。
「……あっ!」
 春日がいきなり声を上げ、後ろを振り返った。そして田尾の家の前まで早足で行くと、お辞儀をするような仕草をした。どうやら地面を見ているらしい。そしてまた道路まで戻ってきた。
「秋山君、この道路だけど、夜間、車の通りはあるの?」
「え? いいえ? ボク達がここでこうして話している間に一台も通らなかったように、この辺りは夜もめったに通りませんよ」
「そう。…………わかった、後は本人に訊こう」
 春日は再び踵を返すと歩き出した。その悠然とした足取りは、田尾の家へと向けられていた。

※春日はこの事件の犯人を田尾だと考えたようである。田尾はどのような手段をもって、桑野を殺害したのだろうか?

「な、なんだと! ワ、ワシが桑野のじいさんを殺しただとっ!?」
 春日が発した言葉に、田尾が眼を剥いた。
「そうです。桑野さんの家に火を付けたのはあなたです。そして、放火を行った時刻は午後十一時で間違いないでしょう」
 春日は冷静な態度で頷く。
「ち、ちょっと待って下さい。その時間、田尾さんは家に居て、友人と電話で会話している最中でしょ?」
 横から秋山が疑問を差し挟んだ。
「そう、友人と会話していた。しかし、家に居たのではない。桑野さんの家の前に居て、その手によって玄関に火を放ったんだ」
「いや、そんな、携帯もコードレス電話も使えないこの状況でどうやって? まさか、何かハイテク装置でも使ったというんですか?」
「いやいや、ローテクもローテク。ただ単純に、電話機のモジュラーケーブルを延長コードを使って延ばしただけだよ」
「え……延長?」
「そ、百メートルちょっとの延長コード」
「え……そ、それだけなんですか?」
「ああ。でも、それだけ長いと相当な重量になるから運ぶのも、片付けるのも大変だ。さっさと撤収しないと警察や消防車に姿を見られてしまう。そこで、田尾さんはケーブルドラムを使ったんだ」
「ケーブルドラム?」
「これをそのまま大きくしたような形だよ」
 春日は指先に摘んだボビンを見せた。
「そのケーブルドラムに延長コードを巻き付け、移動し易いようにハンドルも取り付ける。形をイメージするなら、学校のグラウンドの土を均すために使用される整地ローラーに近い形になる」
「ああ、眼が大火事になる某野球少年がオープニングで引いているアレですか?」
「そう。因みに、歌詞の『想いこんだら♪』を『重いコンダラ♪』だと視聴者が勘違いしてしまい、アレの名称がコンダラで定着してしまったのだけど、正式には整地ローラーまたは圧転ローラーというのだよ」
「勉強になります」
「田尾さんはこのようにして、電話機自体の移動を可能にしたんだ。田尾さん宅の地面に残っていた奇妙な溝はその時に付いたものだったのさ。そして、移動のために使った道路は車がほとんど通らないから見咎められる心配は無い。まず田尾さんは、電話機本体を鞄にでも入れて携え、ケーブルを延ばしつつ移動を始め、桑野さん宅の少し手前で一旦停止し、そこから友人に電話を掛けたんだろう。それは勿論アリバイの証人にするため。そして桑野さんは家の中に居て、就寝中。しかも高齢ということで聴力も弱まっている。普通の話声くらいじゃ起こしてしまう心配は無かっただろう。そして、頃合いを見計らって、会話を続けながら更に移動し、桑野さんの家へと近付き、玄関の前で火を放った」
「……………………」
 田尾は完全に青ざめた表情で春日を見ている。春日は言葉を続けた。
「そして今度は、ケーブルを巻き取りつつ、来た道を引き返し、友人が喰い付きそうな餌を用意して外へ誘い出し、火事を発見させる。後でその友人が証言してくれれば、午後十一時十分までのアリバイが確定するというわけさ」
「知らん! そんなのは知らん! た、ただ地べたに溝が付いていたくらいで……」
 田尾がぶるぶると首を振る。
「田尾さん、確かトラックの積み荷の薪は、三日で満載になるんでしたよね? そしてあなたは、キャンプ場に薪を卸したのは一昨日のことだと言った。まだ二日しか経っていないのになぜ荷台に積まれた薪はいっぱいになっているのでしょう?」 
「…………!」
「あそこに隠してあるのではないですか? ケーブルドラムを……」
「…………」
 田尾は、ハッと息を飲んだ。
「最初に、ここで僕等と鉢合わせしたとき、アレを処分するために出掛けるところだったんじゃないんですか? それでも自分は犯人じゃないと言うのであれば、薪を退かして見せて貰って良いですか?」
「……………………」
 田尾の表情が変わった。理解したのだろう、すべて終わったのだと。
 そして田尾は、腹の底に溜まっていたものを吐き出すかのように、喋り始めた。
「…………あの男は墓を建てるから金をよこせと言ってきた。…………死んだ犬のために墓を建てると。……しばらく前、裁判所から、訳の分らん文字ばかりが書かれた紙が届いた。それは破いて棄てた。そしたら何日かして強制執行だとか言ってきおった。数日中に金が払えないようなら山を取り上げる、とな……この山はワシの唯一の財産だ、それを取られたら生きていかれん…………。あの男に……ワシから全てを奪う権利があるのか…………?」
「ならあなたには、桑野さんの命を奪う権利があったと仰るんですか?」
「……………………」
 田尾は眉間に深い皺を刻むと、それを両掌で覆った。秋山が静かに語り掛ける。
「田尾さん、桑野さんは、なにもあなたを苦しめるためにお金を請求したわけではありませんよ……。桑野さんにとって家族と呼べるのはあの犬しか居なかったんです。だからせめて、ねんごろに弔おうとしたんですよ。あの犬、死ぬときとても苦しそうだったから……」
「……………………」
 田尾の肩は小さく震えていた。
「……………………」
 春日がスタスタ歩き出し、開いたままの引き戸から家の中へ入ると、傘立てから傘を一本抜いて戻ってきた。
「……田尾さん。ちょっとお借りしますよ」
「どうしたんです先輩? 雨なんか降って―」
 春日が傘の先で秋山のノドを突いた。それは、空気が弾けるような鋭い一撃だった。しかし、秋山は首を貫かれも、血を吐き出しもしなかった。なんと、更に人間離れした速さで身をかわしたのだった。
「フッ!」
 春日は切っ先を戻すと、すぐさま次の攻撃に移った。しかし、秋山は次々と繰り出される春日の刺突を踊るようにかわしてゆく。
「……な、なにをやっとるんだあんたら……」
 田尾は眼の前で起きている事態にさっぱりついていけない。
 秋山は空中で身を翻すと、トラックの屋根へと降り立った。
「田尾さんの言う通りですよ先輩。あぶないなぁ、何なんですか急に?」
「……秋山君。今君、あの犬、死ぬときとても苦しそうだった、と言ったよね。確か、その犬は農薬を口にして、数分で死んだという話だったはずだ。なのに、その犬の死に際を知っているということは、君はその場に居た、つまり犬に農薬を喰わせたのは君ということだ!」
「な、なんだとっ!」
 田尾の顔が驚愕の色に染まる。
「これは、田尾さんと桑野さんの間でトラブルが起こるように仕組まれた罠だったんですよ! そうだろ秋山君!? いや……君は一体何者だ!」
 春日が秋山に切っ先を向ける。
「………………。くく、くくくくく!」
 笑い出した秋山が、掌で顔を握り潰した。すると、そこに別の男の顔が現れた。
「くはははは! 流石だ、よくぞ見破った! 私こそは、悪の秘密結社『FUDATSUKI』のメンバーの一人、裏切りのジャックだ! お楽しみ頂けたかな?」
「本物の秋山君はどこだ!」
 春日が声を張り上げる。
「無事さ、とりあえずはね。どうだね、心配かね?」
「僕に事件を解かせて、一体何が目的だ!」
「なに、貴殿に興味が有るのさ。その鋭い洞察力で、幾つもの事件を解決してきたのだろう? 今回の事件はやや簡単過ぎたかな?」
「メンバーの一人、と言うからには君のような構成員が他にも居るのかっ!?」
「そうさ。正確な規模まではまだ教えられないがね。くくく……怖いかね? どうだ恐ろ―」
「一体どれくらい前から秋山君と入れ替わっていた!?」
「ええいっ! 一つくらいはこちらの質問にも答えろっ!」
 ジャックが青筋を立てた。
「だから、目的は一体何だ!」
「だから! 貴殿に興味が有ると言っているだろうもう! 貴殿の力を試させて貰ったのだよ!」
 裏切りのジャックが高らかに言い放った。
「…………」
 春日の手が小さく震えている。
「……そんなくだらないことのために犬を殺したのか? それに、人まで死んだんだぞ……?」
「おいおい、桑野を殺したのはあくまでもそこに居る田尾だ。それに、犬一匹の命が一体何だと言うのかね?」
「…………許さない!」
 春日の眼が怒りで燃えあがった。春日が身を低くして突進すると、突然上空に黒塗りのヘリコプターが出現した。
「くはははははっ! 今日はこれまで! さらばだ春日君! また会おう!」
 ヘリから降ろされた縄ばしごに裏切りのジャックが掴まる。春日は舞い上がった砂埃に眼をやられ、たたらを踏んだ。
「くそっ! 待てっ裏切りのジャック! 下りて勝負しろ! そして秋山君を返せ! そして僕達に謝罪しろ! それにアジトの場所も教えろ! 後、潔く自首しろ!」
「欲張りかっ! ふっ、まあいい。秋山を助けたければ来るがいい。場所は追ってメールする!」
 はしごにぶら下がったまま、裏切りのジャックは彼方に飛び去った。
「くそう、悪の秘密結社『FUDATSUKI』め! 待っていてくれ秋山君! 僕が必ず助け出す!」
 春日は熱く決意表明をした。青空には秋山の笑顔が浮かび上がり、エンドクレジットやエンディングテーマが流れるなか―

 春日は目が覚めた。

トリック☆ブレイカー 11話~20話

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トリック☆ブレイカー 11話~20話

  • 小説
  • 長編
  • ミステリー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-23

CC BY-NC-ND
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