父親

 起きた頃は涼しかったのに、朝昼兼用の食事を摂った後でベランダに出てみると、サイクリング日和とは言えないくらいに暑くなっていた。中止も考えたが、走りたいと妻に主張され、結局予定通りに家を出た。
「一人で走ってた道を結婚してからもこうやって走ってんのって、なんか変な感じ」
 信号待ちの時に妻が呟いた。確かに、と私も思う。
「大学の時にはお互いサイクリングが趣味って分かってたのに、なんで一緒に走らへんかったんやろねえ」
「ほんまやなあ」
 私は一人で走りたかったのだ。誰かと速さを合わせることなど、考えられなかった。――実際走ってみると、妻は私が思っていたよりずっと速かった。
 第一の目的地である洋菓子店まで、妻が私を先導した。
「さて、プリン、プリン」
 自転車を歩道の端に止めると、妻は、三十分間結構なスピードで走って来たとは思えない軽い足取りで、店に入って行った。一般的な三十一歳の女性は果たしてこんなに元気で無邪気なのだろうか、と、後ろ姿を見ながら考える。子供でも出来なければ、落ち着いた人間にはなれないのかも知れない。妻も、私も。
 一応、結婚記念日を祝してのサイクリングデートなので、プリンとシュークリームを二個ずつ買った。我々としては奮発した方だ。
 洋菓子店から十分ほど走って、緑地に到着した。
 テーブルとベンチのくっ付いているものを一つ確保し、腰掛ける。
「飲みものでも買うて来ましょ。紅茶でいい?」
 私が頷くと、妻は小銭入れだけ持って、また軽快に走り出した。未だにサークルの先輩後輩気分が抜けず、こういった仕事はさっさと妻が済ませてしまう。一歳、いや、正確には〇.五歳しか違わないというのに。
 木立の向こうに妻の姿が消える。その近くでキャッチボールをしている親子が居る。子供は小学校低学年くらいであろうか、父親が投げる緩いボールを時々後逸する。あーあ、と思いながら、木立の方へボールを追う子供を見ていると、ペットボトルを持った妻が現れた。妻がボールを拾い、その子供に渡す。子供は妻の顔を見ていた、礼を言ったのだろう。しゃがんでいた父親が立ち上がり、頭を下げる。
「すいませーん」
 と明瞭に聞こえて驚いた。そこまで大きな声を予想していなかったのだ。
 キャッチボールはすぐに再開された。妻は、その様子を見ながらこちらへ歩いて来る。
 ……何故そんなにじろじろ見ているのだ? と不思議に思うほど、妻の顔はずっと親子の方を向いていた。
 父親の背後に回ってからも、妻は振り返って見ていた。そして、こちらを向いたかと思うと、小走りで戻って来た。
「どないしたん。知ってる人?」
 そう声を掛けると、妻は忙しなく手招きをしながら言った。
「あのお父さんね、辻田氏っぽいと思てんけど、なんか感じ違うから、ほんまにそうかどうか分からんのよ」
「え、辻田? ……そう言や、さっき『すいませーん』て、えらい声が大きかったなあ」
「でしょう。私も実は声にびっくりしてね。それまで子供の方しか見てなかったから」
「どれどれ。じっくり観察しよか」
 私と妻は並んで座り、その親子を眺めながらプリンとシュークリームを食べた。結婚してからの一年間を振り返りつつ味わうつもりだったのだが。
「あ、子供暴投」
 ボールはあらぬ方向へ飛び、木の幹に当たって、転がる。それを追う父親の顔が漸くこちらを向いた。父親は、訝しげな表情で我々を見た。並んで座りじっと視線を送る二人が居たら、当然変な気がするだろう。しかも、一人はさっきボールを拾った女だ。
 父親は、ボールを拾うと一旦子供の方を向き、五歩くらい進んでから振り返った。更に五歩進むと、今度は体の向きを完全にこちらに向けた。子供が駆け寄り、父親のシャツの裾を引っ張る。
「ほんまに辻田氏なんかしらん?」
「弟の方っていう可能性もあるけどな……」
 ひそひそ言い合う我々の方へ、親子は歩み寄って来た。
「そんな遠くから見てんと声掛けてくれよー、笹口ー! スミエちゃん、さっきから気付いてたんちゃうの?」
 スミエ(住江)というのは妻の旧姓である。辻田はそれを苗字でなく名前だと勘違いしているのではないか、と前々から思っていたが、確かめたことはない。
「何? 二人、いつから付き合ってんの?」
「付き合うてんのはいつからかよう分からんけど、今はもう結婚してますんや」
 と私が言うと、辻田は「えー!」と、大学時代と変わらぬ大声を出した。
「そうやったんかー、二人お似合いやと思っててんで、大学ん時から。なんかこう、ペースが一緒っちゅうか、系統が被ってるよな。でも、ぱっと見、夫婦っぽくはないな」
 辻田は腕組みをして一気に喋り、子供と一緒に我々の向かいに座った。
「そら、まだ一年ですからね」
 そう言ってから妻は残っていたプリンを掻き込んだ。
「一年か……子供はまだなんやな。はよ作れよ。レシピ教えたろか。ひっひ」
 辻田は身を乗り出して私の肩を叩いた。レシピとは何だ……と思っていると、子供が言った。
「れしぴって何ー」
 辻田が笑うだけで答えないでいると、今度は妻に尋ねてきた。
「れしぴって何ー」
「調理法」
「ちょーりほー?」
「そう。……さて、ゴミほかして来ましょかね」
 妻はテーブルの上のプリンの容器などを集めて、立ち上がった。
「ねーねー、ちょーりほーって何」
 子供も立ち上がって妻について行こうとする。
「おい! くっ付いて行く前に、自己紹介しろ。名前は?」
 辻田に腕を引っ張られ、子供は立ち止まる。そして、気を付けの姿勢を取ったかと思うと、
「つーじーたーだーいーすーけー、なーなーさーいーです!」
 と、物凄い大声を張り上げた。
「だいすけ、ってどんな字書くの?」
「大きいっていう字と……すけはまだ書けへんねん……」
 辻田がテーブルに指で字を書いて見せる。
「車片のこの字。こないだ書かしてみてんけど、輔だけ他の字の倍ぐらいになってな、嫁と二人で爆笑してもうた」
「爆笑したりなや、可哀相に」
「そんなん言うけどな、実際見たらめっちゃ笑うって」
「そういうのってずっと覚えてんで、絶対。『昔お父さんとお母さんに笑われた!』ってな」
 私と辻田が話しているうちに、妻と大輔君は並んで歩き出していた。辻田が振り返って見る。そして、
「親子には見えへんな、友達みたいや。なんでやろ」
 と言って笑った。友達のわけがあるか、と思い私も二人を見てみたが……本当に辻田の言う通りだった。何故だろう、理由は分からない。子供っぽい服装や髪形をしているわけでもないし、童顔なのは後ろから見えないし。子供が出来れば変わるのかも知れない、と、洋菓子店に入る時と同じような考えが浮かぶ。しかし、親になった自分達の姿を想像出来ない。親になった辻田は、大学の頃と口調は同じだが、見た目は随分落ち着いた気がする。髪の毛をつんつん立たせていないから、ということだけが理由ではないだろう。
「まあな、子供出来たら変わるんちゃう? スミエちゃんも」
 私の考えを見透かしたかのように、辻田は言った。
「でもなあ、親っちゅうのも大変やで。まずなあ、嫁の妊娠中が大変やったわ。なんかずっとイライラしててな」
「誰が?」
「嫁がに決まってるやろ! 気分悪いからって飯も作らんし。そうや、お前、料理出来たっけ?」
「カレーぐらいしか作られへん」
「あかんであかんで、出来るようになっとかなヤバいで。まあ、うちは俺が出来るから問題なかったけど」
「そら、食堂やってんねんもんなあ」
「あれ? なんで知ってんの? 俺、言ったっけ?」
 辻田は、親の食堂を継ぐことにした、と年賀状に書いてきたことがあったのだ。確か、七年前だ。その時は未だ結婚もしておらず、子供も居なかった。同じ年に私も、バイトだった塾講師を本職にすることにした、と書いたはずなのだが、
「笹口は今何してんの?」
 と尋ねられた。やはり、忘れられていた。
 そもそも、年賀状のやり取りすら忘れられたのだ。二〇〇〇年にこちらが喪中で出さずにいたら、翌年出しても来なくなった。なので、こちらもその次から出さなくなった。
「あー、すまんすまん、今度からまた年賀状出すわ。今どこ住んでんの? 俺はずっと一緒やけど」
 そう言いながら辻田はポケットからメモ代わりの携帯電話を取り出した。私が住所を言うと、打ち込み始めた。生まれてからずっと住んでいたところがマンションになって、今はそこに居るので、従来の住所に201を付け足しただけなのだが、辻田はそんなことに気付く様子もなかった。こんな具合に、家族との約束も忘れてしまったりしないのだろうか、と余計な心配をしていると、大輔君が走って戻って来た。やや遅れて妻も。
「大輔君、速いわ……」
「お姉ちゃん遅いー」
 お姉ちゃん。おばちゃんではないのか。
「だって、いきなり自分で『よーいどん!』言うて走り出すんやもん……それはずるいで。心構えっていうもんが要るんや、こういうのは」
 妻は七歳児相手に本気で文句を言っている。
「こいつ、もうすぐ運動会やから、気合い入ってんねん。あ、そうそう、最近は走んのも男女混合やねんぞ。知ってた?」
「ええーっ! そうなんですか? 走るのは何の順? 背の順? タイム順?」
 そう言えば、ついこの間、運動会の話になった時、妻はこんなことを言っていた。背の順で走っていた頃はぶっちぎりで一位だったが、四年生の時にタイム順で走ることになって、背の高い子らに混ざって速い方から二番目の組にされたものの、一位を獲れたらしい。その過去の栄光を七歳児に自慢げに語り出したりしないかと思ったが、そんなことはしなかった。
 不意に辻田がこちらを向いて言った。
「なあ、ここまで何で来たん?」
「自転車」
「え! 遠いのに! スミエちゃんしんどかったやろ、可哀相に」
「可哀相じゃないです、私、サイクリング好きですから」
 私ではなく妻が答える。
「辻田は何で来たん?」
「チャリやけど、俺のは電動やからな。楽なもんや。ちょっと乗ってみろよ」
 乗ると返事もしていないのに、辻田は立ち上がって自転車を取りに行った。
「わー、なんか凄い軽やかそう。乗ってみたい」
 漕いで戻って来る様子を見ながら、妻は目を輝かせる。
「サドル下げな乗られへんのに。面倒臭いからやめといたら?」
「何が面倒臭いねん、こんなもんすぐ上げ下げ出来るやん。乗ってみ乗ってみ、スミエちゃん」
「わーい」
 辻田は素早くサドルを動かした。喜んで漕ぎ出した妻は、ひゃー、とか、うわー、とか奇声を発しつつ遠ざかって行く。
「なんか漕ぎ始めが怖かったー!」
 大輔君が追い掛ける。それを見て笑う辻田の目が昔より柔和に感じられた。その時まで、辻田が細い銀縁の眼鏡を掛けていることに気付かなかった。
「昔から目悪かった?」
「うん」
「コンタクトやったん?」
「いいや」
「ということは……見え難いままずっと過ごしてたん?」
「そう。やから、よう『メンチ切ったやろ』って絡まれたりしてな」
 目が合った瞬間にいつも睨むような表情をしていた理由が今頃になって分かった。
 その辺を一回りした妻が、わーわー言いながら戻って来た。が、私の前を通り過ぎて、また遠ざかる。大輔君もまだ追い掛けている。持久力のある子だ、と感心した。
「スミエちゃん、綺麗になったよなあ」
 不意にそんなことを呟かれて、反応に困った。二秒くらい間を置き、適当なことを言っておく。
「大学の頃、まだ小学生みたいやったからなあ。今頃やっと女子大生ぐらいになってきた」
「はっは、無茶苦茶言うわ。でも、ほんまにそんな感じやな。二人で居ったら夫婦っていうより兄妹っぽいしな」
 そうか、と思う。だから、二人で親になろうという気持ちになかなかなれないのかも知れない。
「ひゃー、楽ちん楽ちん。成治さんも一回乗ってみたら? 未知の乗り心地やから」
 今度こそ私の前で止まった妻は、私に勧めてきた。せっかくなので、サドルを上げて乗ってみることにした。
「うおお、びっくりした。最初にびゅうんってなる」
「なるでしょ! 漕ぎ続けたらどうもないけどねえ」
 妻の声が遠ざからないのでおかしいなと思い振り返ると、妻は大輔君と一緒に私を追い掛けて来ていた。これからまた六キロくらいの道程を自転車で帰らなければならないというのに、そんなことも考えずに走り回っている。いや、考えているかいないかの問題ではない。大人が漕ぐ自転車を大人が追い掛けて喜んでいる光景は、誰が見てもおかしいに違いない。
 妻と大輔君を走らせまくってもいけないと思い、一周で止めておいた。大輔君は、余程疲れたのか、ベンチの傍で大の字に寝そべった。辻田は、追い掛けていた二人については全く触れず、
「どうや、ええやろ、電動。お前んとこも買うたらええねん。買いもんとか楽んなるで。今日も俺ここまで子供乗して来ても全然疲れへんかったしな」
 と、自転車屋の回し者のように勧めるのだった。私は、立ち上がった大輔君を思わず見る。
「あかんやん、七歳の子乗したら」
「ええやんけ、まだこんな奴に自分でチャリ漕がして遠出すんの危ないねんから。もう、相変わらず堅いなあ、お前はー」
 家のすぐ近くにも大きな公園があるのだから遠出しなければ良いではないか、と言いたくなったが、今そんなことでもめても仕方がないと思い、やめておいた。
「でも、大輔君、後ろに乗せるにはでっか過ぎる気がしますけどねえ。……身長は何センチ?」
「百二十三センチ!」
「やっぱり百二十超えてるんや、大きいと思た。私なんか、一年生の時、百十一センチしかなかったよ」
 いつも妻は子供時代の話を昨日の出来事であるかのように話す。そのことにより「自分とそれほど年齢が離れていない」と子供に錯覚させてしまう。子供に懐かれ易いのではなく、子供に「仲良くなれそう」だと感じられ易いのだろう。私は分析した。
「げ、あかん、やっぱり下げな、脚攣るかも」
 私に合わせてサドルを上げたままの自転車にまたがった辻田は、そう言って降り、サドルを下げる。辻田は、成人男性の平均程度の身長の私より、四、五センチ低い。なのに大輔君は妙に大きい。
「辻田さん、奥さん背高いんですか?」
 妻に先を越された。
「え? ああ、こいつが大きいから? それが、嫁もそんな大きないねん。スミエちゃんより一、二センチ高いぐらいちゃうかな。でも、俺は子供の頃小さかったけど、嫁は小六から殆ど背伸びてないらしいから、こいつも今は大きめやけど早めに成長止まってまうんちゃうかって思うわ」
「そんな、本人を前にして酷いで。いっぱい食べていっぱい運動して、まだまだ背伸びるよなあ、大輔君」
 私が言うと、うん! と大輔君は大きな声で返事し、ジャンプした。
「うわー、なんかいかにも先生みたいなこと言われた」
 先生とか先生でないとか、そんなことは関係ない。子供は親の否定的な発言をいつまでも覚えていたりするものだ。……それは私の持論であるが、果たして大輔君にも当てはまるのかどうか、怪しい気がしてきた。辻田の息子なのだから。
「なあ、これからカラオケでも行けへんか?」
 子供連れとは思い難い辻田の提案に、私は戸惑い、返答せずに大輔君を見た。カラオケカラオケ、と大輔君は飛び跳ねていた。
「ああ、こいつな、カラオケ好きやねん。カラオケで字覚えていってるぐらいやからな」
「えー、でも、字だけじゃなくて歌詞そのものも覚えてしまったりしませんか?」
「覚えるけど、別にええやん」
「小さい頃に余分なこと覚え過ぎると脳が埋まりますよ。この人なんて、駅名に脳の容量の大部分を費やしてしまってますからね」
 そう言って妻は私を指差した。
「駅名は知ってて便利やろ。怪獣とかの名前覚えるよりはずっとましや」
 と開き直っておくしかなかった。
「なあなあ、怪獣はええから、カラオケ行くやろ?」
「お姉ちゃんお姉ちゃん、カラオケ好き?」
「カラオケなあ、まあまあかなあ」
 大輔君もすっかりカラオケ気分になっているようだったので、行くことにした。
 サイクリングで色々な所を走り回っている私でも知らないようなややこしい道を、辻田はくねくね曲がって行く。途中、一体どこへ連れて行かれるのだろう、と不安になったが、十五分ほど走ると突如見知った駅の傍へ出た。そこはカラオケ店の入っているビルの前だった。道にずらずら並ぶ自転車の列の端に、辻田はさっさと自転車を止めた。こんな所に止めていて良いのか、などと言いながらもたもたする我々を、
「早く早くー!」
 と大輔君が急かす。ドアの前でばたばたしていた。辻田に似て気が短いようである。
 その割には、飲み物を選ぶのに随分迷っていた。が、同じように妻も迷っていたので、思わず笑ってしまった。
 辻田は歌う曲を既に決めてあったのか、部屋に入るとすぐにリモコンを操作し始めた。そして、間もなくして演奏が流れ始めた。「Maybe Blue」というタイトルが出る。知らない曲だ。
「うわー! 本人映像来たー! 若い!」
 画面を指差して妻は騒いだ。反応しない私に向かって、妻はこう続ける。
「ユニコーンやん、知らん? これ、多分八十七年の曲やと思うよ。ほら、あの真ん中の人、奥田民生やん」
 私はその頃流行りの曲に全く興味がなかったので、いくら説明されても分からない。しかし、辻田の歌が上手いことは分かった。間奏の時に、辻田はエピソードを語った。
「この曲、昔、覚えて歌えって言われて嫁にCD渡されてな」
 昔とはいつだ? まだ嫁ではなく彼女だった頃の話か? 実は中学時代から付き合っていたのか? いや、大学入学当初には彼女は居ないと言っていたはずだが? ……私は自分の歌う曲を選ぶのも忘れて、辻田の歌を聴きながらそんなことを考えていた。
 妻は、モーニング娘。の「モーニングコーヒー」を選曲し、間奏で
「結婚してからこの人にアイドルの曲いっぱい聴かされて洗脳されました」
 と私を指差した。辻田が手を叩いて笑う。まだ小学生アイドルユニットの曲を歌われなかっただけましだ、と私は密かに胸を撫で下ろしていた。いや、問題なのは寧ろこれからだ。子供が出来てからもこんな曲を聴いていられるのだろうか。「お父さんはいつもアイドルのうたをきいています」などと作文に書かれたら嫌だ。……また考えごとをしていて曲を選び損ねた。
 大輔君はアニソンらしき曲を歌った。音程は余り合っていないようだったが、声の大きさはやはり父親譲りで、マイクが要らないのではないかと思うほどだった。
 私は散々悩んだ挙句、村下孝蔵の「離愁」を選んだ。妻は「出たー」と笑う。歌っている途中でちらっと大輔君を見ると、眠そうな顔をしていた。歌い終わってマイクを置いてから、辻田には
「お前、渋過ぎるぞ。どこのじいさんと来たんや、っていう気分になるわ」
 という感想を述べられた。その後も私は「酔いしれて」「冬物語」と、村下孝蔵の渋い曲ばかり歌っておいた。
 残り時間が僅かになってから、最後にC?C?Bの「Romanticが止まらない」をハモろうと辻田が提案してきた。曲自体は知っているが、ハモりなどしたことがないので出来るかどうか分からないと答えたが、
「主旋律っていうか、お前の知ってるメロディ歌ってくれたら、あとは釣られへんように頑張ってくれるだけでええから」
 などと言いながら辻田は勝手に曲番号を送信してしまった。
 私は自分が歌うのに必死で、辻田のハモりに耳を傾ける余裕などなかった。が、「Fu、Fu」というコーラスにだけ参加する大輔君の声と、それを聴き手を叩いて笑う妻の声はよく聞こえた。
 曲の終わりに妻は拍手をしながら言った。
「凄ーい、完璧! あ、デジカメで動画録っといたら良かった!」
「そんなもん録らんで宜しい」
 という私の言葉を辻田が遮る。
「何? 録りたいんやったらもう一回やろか?」
「もう時間ないがな」
「あと三分ぐらいあるやろ、ちょっとぐらいオーバーしたって大丈夫やで」
「あかんあかん、終わり終わり」
「も??、ほんまにお前は堅いよなー」
 辻田は大袈裟に項垂れて見せた。子供の前できっちりしないでどうする、と説教してやりたくなったが、時間がなかったので帰り支度をしなければならず、それどころではなかった。
 フロントで会計を済ませた辻田に、二人分の六百八十円を払おうとしたが、小銭が百円玉一枚しかないので千円札を渡したら、辻田の方も十円玉がないからと四百円返して来た。それではこちらが得をし過ぎなので、もう百円渡そうとしたが、辻田は受け取らなかった。
「ええってええって、俺が誘ったんやから」
 こういう柔軟性については見習うべきなのかも知れない。
 大通りで辻田親子は北へ我々は南へと別れる際に、辻田は、
「今度バーベキューでもしようや。その時は嫁と娘も紹介するわ」
「え、子供もう一人居んの」
「あれ? 言うてへんかったっけ? 三歳のが居んねん」
 ……初耳である。
「お前んとこもはよ作れよ、子供はええぞー。じゃあ、また連絡するわ!」
 辻田が電動自転車を漕ぎ出してからも、大輔君は上体を捻って我々に手を振る。
「こら、大輔、もうええから! 危ないから前向け!」
 という辻田の大きな声がする。大輔君は前を向いてもなお両手をひらひらさせていた。それを見て二人で笑った。
「あんなはちゃめちゃな人でも親になってるんやから、私らでも大丈夫なんちゃうんかな、っていう気がしてきたわ」
 そんな感想を述べる妻も、違う意味で十分はちゃめちゃだと思われたが、そのことは胸に秘めておいた。
「さてと。一先ず帰って、もうちょっとええ服にでも着替えて、結婚記念日ディナーに出掛けるとしよか」
 と言うと、妻は目を見開いた。
「あ、そうか! すっかり忘れてた! ディナーって、どっか凄いレストランとか連れて行ってくれんの?」
「いや、そんな凄い店は無理やけど、適度なとこがあるやろ」
「何それ、適度なレストランって。まあ何でもいいや、ディナーディナー、やっほう!」
「うわ、ちょっと待て、そんな急いで、こけたらどないすんのんな」
 ぐんぐん加速する妻を追い掛けるようにして、私は再び走り出すのだった。

父親

父親

設定:2006年

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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