薄桜鬼(改想録≠メモワール) 沖田総司編

薄桜鬼(改想録≠メモワール) 沖田総司編

チンピラと教科書と新月と

「見られたくないものを見られてしまった」

息苦しいほど重い空気が場に満ちている。
そしてあちこちから送られる、可哀想なものを見る視線。

千鶴は下を向いてただ判決を待つだけだ。
わずかに手足が震えてきた。

「殺しちゃいましょうよ、口封じするならそれが一番じゃないですか」

そんな声も聞こえてくる。

「まぁまぁ…まだほんのガキじゃねえか。罪もない町人を殺すなんざ、ご公儀の考えに反するだろ…」

「そんなこと言っても…あんなの見られて、それを口外されたら事だろう。男子たるもの、潔く腹を切ってだなぁ…」

男子…
そうか、いま見た目が男子なんだった。
女の子だと打ち明けたら、助けてもらえるだろうか。
ここに座らされてから、もう半刻ほど繰り返されている自分の命を左右するやりとりで、全身の神経が限界を訴え始めた頃、

「おう、みんなどうした」

大柄でいかにも威勢のよさそうな壮年の男性が
、大袈裟に床板を踏み鳴らしながら広間に入ってきた。

「局長!!」

「近藤局長!!」

周りの空気が変化したのがわかった。
一様にチンピラ…いや、かの有名な新撰組隊士達が背筋を伸ばす。
どうやらその人はこの組織のボスらしい。
なんだか任侠の映画の一場面を見ているみたいだな…などと妙に冷静な脳がつぶやいたとき、その人が私の方に顔を向けて、

「おぉ、こりゃめんこい!!どこの娘さんだね!?」

「……」

「娘!?」

途端に大注目されて、思わず居直る。

「よう、口聞いてみろ」

もはやチンピラにしか見えない隊士のおにいちゃんのひとりに声をかけられて、

「あ…
雪村千鶴と言います。」

この世界にきたとき、私は誰かの身体を借りていた。雪村千鶴は着物の懐に入っていた手紙に書かれていた名前。女の子が父にあてた手紙のようだった。達筆すぎて父様って文字しか読めなかったけど。彼女は男の姿で、どこに向かおうとしていたのだろう。

「ほれみろ、姿は男だが、まるで鈴がころがるような声じゃねえか、お前ら、こんな可愛い娘さんによってたかってなにをしているんだ?」

「局長、…実は…」

とりわけ真面目そうな隊士の一人が、つかさず駆け寄ってなにか耳打ちしている。

「…そうか。
それならば確かにここからすぐに出すわけにはいかんな」

先程の親しみやすい表情から一変して、かなり真剣な顔つきになったボスを見て、千鶴は泣きそうになった。
すると、そのひとはまた眉を八の字に変えて、

「いやいや…そんな顔しなさんな。すぐに捕って食ったりはしねぇよ。とりあえず今日は遅いからな、あんた、行くとこはあるんか?親御さんは。」

「…いえ…親はいません。
ひとを探して旅をしておりますゆえ…」

「なにか事情がありそうだなぁ…
まぁ、今日はここに泊まんなさい。男所帯だが、部屋を用意するから安心なさい」

その言葉を聞いて、途端に背中のつっかえ棒がとれて力が抜けた。あぁよかった。
促されて立ち上がるとき、膝が笑ってしまっていた。我ながらよく耐えた。
やわな現代っ子が、文字通りのまな板の鯉にされて平然としていられるわけがない。気絶しそうなほど緊張した。
でも、なんとか耐えられたのは、この宿主の女の子のおかげのような気もする。

なんだか安心したのと同時に少し強気になって、うつむいていた顔をぐっとあげ、歩き出したとき。ふいに前に立っていたおにいさんと目があった。

「ふーん、とりあえず助かってよかったね。でも、見ちゃったことに変わりはないし、あんまり調子に乗らないようにね」

いきなり意地悪な笑みを浮かべて話しかけてきた。
こちらを捉えている目は、アーモンド型でぱっちりとしているが、眼光は鋭く、なんとなく獲物を狙う猫を思わせる。
私は驚いたが、不思議と怖くなかった。さっきのやりとりで思いの外度胸が座ったみたいだ。
千鶴…の姿を借りた私は、キッとその猫目男を睨み返して、

「では、もし私が明日死ぬときは、あなたを最期の瞬間まで見つめることにしましょう。

もう親にも会えない私ですから、せめて見ず知らずのあなたに、私が立派に果てたところを記憶してもらうためです。」

彼は一瞬驚いた顔をしたが、再びにっと口角を横に流して、私の次の言葉を待った。

「そうすれば、私が死んだことはあなたから人伝に広まって…いづれ居場所のわからない父様にも知れるかもしれませんから…」

言いながら急に悲しくなって瞳がうるむ。私はちっとも悲しくないのに。途中からは口が勝手に動いたみたいだ。
そうか。千鶴は父様に会いたくて旅をしていたのか。

私の発言をそばで聞いた周りの隊士は顔が凍りついていた。
なぜか私にはこの人が誰かわかっていた。
若いのにやたらでかい態度、まわりの反応。いますぐにでも病気で臥せりそうな色白の肌。
教科書に名前がのっている、あの人。きっとそうだ。だから、思い付いた。あんた、私のこと覚えときなさいよ。覚えていて、もし誰かにはなしてくれたら、間違って一緒に教科書にのれるかも…

「っあははははは!!」

突如彼は爆笑して、さっきの意地悪そうな目が線になって流れる。目尻に涙つぶを貼りつけて、笑いをこらえながら、

「ははは…きみって、おかしな子だね。いいよ。覚えていてあげる。でも殺すのは惜しいなぁ…僕に正面切ってそんなこと言う子、なかなかいないよ」

なんだか牽制したつもりが逆に馬鹿にされた気がして、まだ笑いをこらえ続けているその人の前を、構わず通りすぎようとすると、

「今日はゆっくりおやすみ。明日も、君の命がこの世に在ることを祈るよ」

やかましい。
私はその人の顔を再び見ようとはせず、そのまま部屋を出た。
いま何年の何月?
あなたこそ数年後かに病気で死ぬのに…
かわいそう。
200年後くらいに教科書に乗るって知ってたら、少しは浮かばれるかしらね?

本当に人が死ぬのは、人に忘れられたときだって誰かがいってた。
私はいま、自分の名前も思い出せない。
自分じゃない容れ物のなかで、自分を必死に探るよりも、いっそ雪村千鶴になってしまった方が楽なのかもしれない。千鶴が死んだら私も死ぬのだ。もとの世界に戻れないまま…
でも教科書にのれるならそれでもいいか?

廊下にでたとき、ふと中庭に区切られた夜空を仰いだ。蛍光灯が邪魔をしない綺麗な暗闇だ。
千鶴はふいに庇にかかる新月を想像した。
実際その夜、月は見当たらなかった。

ひきこもりの大脱走(失敗)

「あーぁ、君の死ぬところを見届けられなくって、残念だよ。せっかくその死に様を後世の人に語り継ごうと意気込んだのに」

私の命の無事が決定した瞬間、新撰組のエース、沖田総司はそう茶化してきた。
完全に読まれている。
こいつ、読心の術でも心得ているのか…

私はこの猫目男に啖呵を切ってしまったときのことをいまでも思い出して、気恥ずかしさで消えたくなる。
とりあえず助かったのは、私が姿を借りている雪村千鶴の行方不明の父親が、新撰組の要人だったかららしい。
私の知ったことではないが…助かったのは素直に嬉しい。私から得られる情報があるかもしれないから生かされたのだが、なにしろ私は千鶴ではない。記憶にないことは適当にごまかした。すると、江戸からの過酷な長旅で記憶がとんだのだろうと、一方的に可哀想がられた。

当面の私の役目は、ここからでないこと。
男装を解かないこと。
あまり出歩いて目立たないこと。
たまに屯所の雑務の手伝いをすること。

…ひきこもりニートかよ!!

男装を解かないことになったのは、屯所内は女人禁制だからだ。それはそうだ。言わばここは現代でいう軍隊訓練棟兼、宿舎みたいなもので、そこに女が匿われているなんて知れたら、組織の評価が下がるのは目に見えている。
特にこの新撰組は、各地からならず者を集めた非正規組織であり、うまくいかなければ撤廃もありえる。世間やお上の評価にはとても敏感だ。
そんな組織の重要な秘密のひとつになってしまったがため、容易に人目につく行動はできないのだ。

ある日、私はついに耐えきれなくなって、部屋を飛び出した。
部屋の見飽きた風景のなかにずっといると、色々なことを考えてしまう。もし、このままもとの世界に戻れなかったら?幕末の動乱に巻き込まれて死ぬのだろうか。いくら私が日本史の成績が悪くとも、新撰組の末路についてはよく知っている。彼らは間違いなく明治時代が始まる前に新政府軍と闘って死ぬ。時代は脱け殻を脱ぐように、たくさんの不要、不良分子を粛清しながら新たな世界をつくってゆく。

廊下に走り出て屯所の出口を探す。
次第に視界が涙で歪む。いま、私はとても心細くて気が狂いそうだ。
しばらく進むと、ふいに剣の道場があるほうから、えい、えい、とかけ声がこだまするのが耳に入った。
その気合いの入った調子に少し正気を取り戻した私は、足を止めて、ふらふらと裸足のまま外に出て、声のする方へ近寄ってみた。

道場は質素で、でも重厚なつくりで、換気窓がわずかにあるだけで中の様子を伺い知ることはできない。
せっかくこの世界に来たのだから、ちょっとだけ覗いてみたい。剣の猛者ひしめく新撰組の稽古場を…

そんな余計な好奇心が湧いたのがよくなかった。
向こうから覗こうと建物の角を曲がろうとしたとき。

ドンッッ!!

人間の骨と骨が強くぶつかる衝撃を感じ、左側に鈍い痛みが広がる。
ずしゃ…とたおれこんだ目の前に地面が迫っていた。酷いのは、暑さをしのぐために打ち水がしてあったということ。着物の片側が泥まみれになったのが、水の染みてくる感触でわかった。

……最っ悪。
心のなかで舌打ちをしたとき、

「…おい、お前。ぶつかっといて謝りもしねぇのか」

深夜のコンビニでたむろするヤンキーのような声音に恐る恐る顔をあげると、上半身をはだけさせた稽古終わりの隊士が何人か千鶴を見下ろしていた。

「す…すみません」

慌てて起き上がって謝ると、
隊士達ががにやにやしながら、

「お、お前…見ねぇ顔だな、新入りか?」

「あーあ、上等そうな着物が台無しだな…」

などと言いながら近づいてきて、じろじろと見つめてくる。
まずい。一般隊士の目につくなと言われているのに。

「おい、脱げよ。すぐに洗った方がいいぜ、そこに井戸がある」

は?脱ぐ?

千鶴が振り向くと小さな井戸が木陰にぽつんとあった。

「俺達もちょうどそこで水を使おうと思っていたんだよ。ほら早く。副長に見つかると、水を無駄に使うなとうるさいからな…」

え?え?

言いながらこちらに手を伸ばしてくる。
…ちょっと!!脱ぐって…私女なんだけど!!
思わず悲鳴をあげそうになったとき。

「なにしてるの?」

のんびりとした、猫目男の声がした。

「…!!」

「お…沖田さん!!」

沖田の姿を認めた隊士達が、途端に気色を悪くしてうろたえ始める。

「い…いや、こいつ、さっき出会い頭に俺らとぶつかっちまって。倒れて、泥まみれになっちゃったもんだからその…そこで洗おうと思って…」

「ふぅん。でもそんな表の井戸を、汚れたからだを洗うのに使ったら土方さんに怒鳴られるよ。ちゃんと風呂場に行かないと。」

沖田はのんびりとした口調で諫めているだけだが、隊士たちは怯えた目を宙に泳がしている。

「というか、何で君たち裸なの?いくら暑いからって、そんな格好でうろうろするのは感心しないなー」

「す、すみません!!いま少し汗が引いたら稽古に戻りますので!!」

彼は深々と頭を下げる隊士たちをうっとうしそうに眺めると、手を振って言った。

「そうして。このこは僕が風呂場まで連れていくから。」

そそくさと隊士達がその場から離れていったあと、千鶴はようやくむくりと立ち上がって、傍らに立っている人にもごもご礼を言った。

「…ありがとうございます」

「どういたしまして。それより君、どうして部屋から飛び出してこんなとこにいるの?しかも裸足だし。…もしかして脱走とか?」

「………」

「まぁいいや。とりあえず風呂場まで行こう。替えの着物を持ってきてあげるから、君は先に行っていて。」

千鶴はとぼとぼと風呂場まで辿り着くと、沖田が来るのを待った。なんだか自分が惨めで可哀想で、また涙が出そうになる。

「おまたせ。これ、平助のやつだからちょっと大きいかもしれないけど。」

と言って、洗い立ての着物を手渡された。

「僕がここで見張っててあげるから、その泥を流して着替えなよ。あと、覗いたりしないから安心して」

そう言いながら、にやりといつもの意地悪笑みをつくってみせて、風呂場の戸をすっと閉めた。

あぁ…よりによってあの猫目にいちゃんに助けられるとは。助けてもらったのはよかったけど、脱走しようとしてたのもバレたし、鬼の副長と呼ばれる土方歳三なんかに告げ口されたらどんな目に遭うか…

水道水と違い、夏でも冷たい井戸水をかぶって頭を冷やす。
これからどうしよう。逃げることもできない、かといってこのまま戦争に巻き込まれるのも絶対嫌!!
あぁ、千鶴、あなたならどうした?
私は宿主に語りかけるけど、こんなときに限って彼女はなにも話さない。
私の身体はたまに、私の意思とは違う反応をすることがある。たぶんそれは、千鶴の気持ちなんだと思っていた。でもいまは…なにも反応を示さない。それは、千鶴にもわからないことなのかもしれない。

「ずいぶんと長風呂だったね。」

風呂からあがった仏頂面の千鶴に、沖田が何気ない風に話しかける。にわかにまた笑いだしながら、

「…はいはい、そんな捨てられた子犬みたいな顔しない。ねぇ、炊事係が、今日の夕げは君の好物の揚げ出し豆腐だって言っていたよ。」

沖田の言葉に思わず顔をあげて、

「…なんで私が揚げ出し豆腐好きだって知ってるんですか?」

「だって、君、いつも他のおかずはお通夜みたいな顔してまずそうにたべてるけど、揚げ出し豆腐のときだけは、嬉しそうに頬張ってるじゃない」

「………」

みてんじゃねー!!
よもやストーカーかと思うが、彼の場合、特に私に特別興味があるわけではなく、日常の様々な事象を鋭く観察する癖があるらしかった。
この間、藤堂平助に対して、イライラしているときにしきりにうなじをなでる癖があるのを指摘してせせら笑っているのを見た。

追い討ちをかけるように、沖田が続ける。

「君って女の子なのに、脂っぽいものが好きだよね。天ぷらとか素揚げした魚とか…」

うるさい。
本来の私の主食はマックのフライドポテトなんだよ!!
あー…マックポテトマジ食いてぇ。
やけくそな気持ちになって、また目のはしに涙がにじみかけたとき、再び沖田が口を開く。

「あんまり思い詰めないでさ、気楽にしてなよ。そうだ、今度土方さんにお願いして、おつかいでもさしてもらったら?君が逃げないと約束するなら、いくら鬼でも外出くらい許してくれるんじゃないかな。」

くすくすと笑いながら彼は提案してきた。

「ここは牢屋じゃないんだからさ。」

意地悪なのか優しいのかよくわからない。

「…沖田さん」

「なに?」

「その、君っていうのやめてください」

「じゃあなんて呼んでほしいの?」

「…千鶴で」

「じゃあ千鶴ちゃん。今度脱走するときは僕に言ってよ。邪魔するやつを片っ端から斬り倒して無事に屯所の出口まで送り届けてあげるから。」

冗談なのか本気なのかわからない、涼しい顔で彼は続ける。

「まぁ、屯所から先は僕は行けないけど…いま、京は物凄く治安が悪いからね。せいぜい気を付けて行くといいと思うよ。」

それはわかっていたことだ。
ここから出ても、行く当てはない。新撰組の殺戮現場を目撃したときも、泊まる宿がなかなか見つからなくて焦っていたのだ。
夜になると帯刀した怪しげな輩がうろつき、間違っても女子供は薄暗い路地なんか出歩けない。

沖田はそれもすべてお見通しで、こうして冗談混じりに私をいさめているのだ。いまはここにいるのが一番安全だと。
やつが意外に思いやりのある人間だと思い至った途端、急に悔しくなって反撃を開始した。

「沖田さんはじゅんさいがお嫌いですよね。いつも一口も食べない」

「その通りだよ。よく知ってるね、あのぬるっとした感じがどうにも苦手でね。」

「一番隊組長なのに、じゅんさいが弱点なんて、なんだか人の子みたいでおかしいですね」

「なに言ってるの、僕は確かに人殺しが仕事だけど、一応人の子だよ?」

私の失礼な物言いを一向に気にしない沖田は、まるで妹と話しているような親しげな態度で語りかける。とても人殺しには見えない。

「千鶴ちゃん、今晩は揚げ出し豆腐と、汁物はじゅんさいの吸い物なんだ。僕の揚げ出し豆腐あげるからついでにじゅんさいも一緒に片付けてよ。」

「いいですよ。でもそれだと沖田さんの膳にはご飯しか残らないですね。炭水化物だけだと太りますよ」

「たんすいかぶつ?」

先程からヒグラシが大合唱を始めた。
その物悲しい声がひたすら辺りにこだまするなか、私と猫目男は縁側に腰かけて他愛ない会話を続ける。
久しぶりに人とたくさんはなしたせいか、
いつの間にか先程の言い様のない心細さは消えていた。

シークレット・トレード

「総ちゃーん。」

大声で呼びながら廊下を踏み鳴らして沖田の姿を探す。
彼の部屋の前まで来て、声もかけずに障子に手をかける。両手でカタンっと勢いよく開け広げた先に、沖田がこちらに背を向けて座り、書を眺めている。

「あ、いた。
総ちゃんさぁ、私の大事なかんざし、知らない?」

「…知らないよ。
ちづちゃん、いい加減声もかけずに人の部屋に押し入るのやめない?」

沖田は振り向きもしないで感心なさげに応える。
私はその態度に腹が立って声を荒げた。

「…知らないわけないですよね?
こないだ遊びに来た近所の五歳の女の子が、沖田さんにもらったんだって、嬉しそうに私のかんざしをつけてたんですけど?」

書を閉じてやっと振り返ったその顔には、お決まりのいたずらそうな笑みが浮かんでいる。

「いいじゃない。気に入ってるんだから、取り上げたら可哀想だよ。」

「…何言ってるんですか!!」

沖田は私が血相を変えて怒リ始めるのを、面白そうに見やる。

「…あれは、土方さんが知り合いからもらったものを、わざわざ私にってくれたもので!!子供のおもちゃとかじゃないんですよ!?」

私が土方の名前を出すと、沖田はにわかにつまらなそうな表情になって、

「そんなの知らないよ。別に構わないと思うけど?君はここにいる間はその格好なんだし、かんざしなんて使わないでしょ」

「総ちゃん!!」

私はいよいよ我慢ならなくなって手が出る。

「痛い痛い!!」

爪を立てて猫パンチを繰り出す私に、必死で抵抗する彼は、とても新撰組一番の剣豪には見えない。

ここ数ヵ月で、思いがけず沖田総司と親しくなってしまっていた。
まるで妹のように側にまとわりついている。
いや、総ちゃんの方が私にまとわりついているような気もするけど…
こんな光景を、一般隊士達が見たら目を疑うだろう。

現代では一般的に知られていることだが、沖田総司は剣士としては信じられないほど強かったらしい。
そのご多分にもれず、実際ここに存在している沖田もまさに天才剣士そのものだった。
真剣にやりあったら、彼の師の近藤勇をも凌ぐと噂されるほどだ。
それゆえ剣のことにはことさら厳しく、彼の稽古はかなりスパルタらしかった。それこそ耐えきれず脱落者が続出するほどで、彼の剣に対するストイックさは自他を問わないことがうかがえた。
ただ反面、それ以外のところでの彼は、かなりゆるい性格と言ってよかった。
子供みたいないたずらを繰り返したり、冗談を言うのが大好きで、稽古の時間以外の大半は、近所の子供とじゃれているというのも珍しくない。

そんな彼だからだろう。
私もつい気を許して、いろんなことを話していくうちに打ち解けてしまった。
彼もまた、私を見る目は常に穏やかで、なんだかんだ言いながらも色々と世話をやいてくれていた。
それに、新撰組の幹部である沖田のそばにいれば、女だという秘密がバレる心配も少ない。

「私のかんざし、取り戻してきて!!」

「えー!!自分で取り戻しなよ。
取り上げて泣かれたら人聞きが悪いじゃない。」

沖田と千鶴が依然、子供の喧嘩レベルの攻防戦を繰り広げていると、向こうから苛立たしげな足音が近づいてきた。
それが部屋の前で止まったと思うと同時に、雷が落ちる。

「まぁた、おめぇらか!!
うるせぇぞ!!」

そのライオンのような怒鳴り声で、あまりにビックリした千鶴は体勢を崩し、沖田の上に倒れこんだ。彼の顔が目の前に迫り、吐息が頬を撫ぜる。
私は一瞬体をこわばらせた。いくら仲良しでもこれは、ない。
焦って体を起こそうとするが、焦れば焦るほど体重が沖田の方にかかってうまく起き上がることができない。

「声が高いんだよ…向こうの対にまで丸聞こえだぞ!!
他の隊士に聞かれたらどうすんだ!!」

文字通り、鬼の形相の土方歳三が、仲良くくっついて床に転がってる二人を見下ろして、叱りつけにかかる。

「…ったく!!…総司!!
どーせ、お前がまた千鶴を怒らしたんだろ。いい加減にしろよおまえは…」

「なんでいつも、開口一番僕のせいにするんです。
…ちづちゃん、いつまで上に乗ってるのさ、重い。」

「…ご、ごめん…」

本気で迷惑そうな沖田に、私はおおいに傷つきつつ、今度は勢いをつけて体を離す。
そして、土方の方に向き直って、

「大きな声を出してごめんなさい。
あと、私、土方さんにもらったかんざしをなくしちゃったんです。」

……!?
は?
ちょっと待って私、かんざしのことを口に出すつもりは…

「あぁ…あれはもらいもんだし、別に構わねぇよ…」

そう言いながらも、少し残念そうな表情になる土方を見て、私はさらに心が折れた。

「それより、千鶴。あんたぁ、ちーとおてんばがすぎるな。いくら総司が面倒見ているとはいえ、あんまり勝手な行動をとられると、こっちも考えなきゃならねぇ。」

「…はい。ごめんなさい、土方さん。
以後、十分気を付けます。」

見る間にしょんぼりと小さく肩を落とす千鶴を見て、鬼の副長の鬼の角が引っ込む。

「ま…まぁなんだ、大人しくしといてくれりゃ、別に不自由はさせねぇからな。
総司、お前もあんまり千鶴にちょっかい出すんじゃねぇぞ!!」

そう言い残して土方は踵を返していった。

ところで…さっきの血迷った言動はなんだ。私はかんざしのことは一言も言うつもりはなかった。しかも私がなくしたって、どういうこと!?

千鶴だな…

私はそう確信した。
私の身体はたまに宿主の千鶴の意思で動いてしまうことがある。それを何度か繰り返すうち、私は千鶴の人格をなんとなく理解し始めていた。
千鶴は、現代人の私よりもすれていなくて、素直で、馬鹿正直で、お人好しで、心のきれいな女の子なのだ。
たぶんさっきの発言も、沖田と、土方と、私をみんな全部丸くおさめるために千鶴が発したものなんだろう。
私はなんとなく千鶴に対して嫉妬のようなものを感じていた。私にないものを持っている、そう思うと、彼女に反発してその意思とは逆の行動をとりたい衝動にかられる。

「土方さんも、女の人にはめっぽう弱いよね…」

土方の去っていった方をぼんやり見ながら、沖田がつぶやいた。

私ははっと我にかえって、彼の方に顔を向ける。

「総ちゃん?」

なんか表情が先程よりも硬いような…というか、顔色が悪いような?

「……っ、
…ケホッケホッ…」

ふいに背中を丸めて乾いた咳をもらした。

「どしたの?風邪?」

見たところただの咳だったので何気なく問うたが、彼は答えない。
私はこのとき、彼が史実上、労咳、今でいう肺結核に侵されて死んでしまうという結末をすっかり忘却していた。最近の私は、ここの時代に慣れすぎて本来の感覚が鈍っていた。自分の本当の名前も依然思い出すことができないでいた。
もしかしたら、思ったより千鶴が私の精神を侵食していたのかもしれない。

沖田はぽつりと言う。

「…ちづちゃん。そろそろ部屋に戻ったら?僕、書の続きが読みたい。」

「…うん。」

その日を境に、沖田はなんだか元気がなかった。いつもたいてい私が一人でいると、ふざけて話しかけてくるのに、そのままスルーしたり、いつもの笑顔が消えて近寄りがたいオーラすら出ている。一体どうしたんだろうか。

いつも主に沖田だけが、私の相手をしてくれていたので、彼が構ってくれないと毎日手持ちぶさただ。

昼下がり、千鶴は自分の部屋の縁側で、中庭に向けて足をぶらぶらとさせながら暇をもてあましていた。
すると、何気なく眺めた向こうの対の木のかげで、沖田と誰かが立ち話をしているのを見つけた。

あんなとこで、何話しているんだろ…怪しい…

好奇心がむくむくと芽生えた私は、足を忍ばせて向こうの対まで遠回りしながら近づき、沖田と話している相手を確認した。するとその人物は、これまた教科書にのっている超有名人で、将軍家専属の軍医である松本良順だとわかった。

その光景を目にした瞬間、千鶴はようやく沖田の労咳のことを思い出した。心臓がドクンと大きく波打つ。

「ははは、なぁんだ、やっぱりあの死に病ですか。どうりでなかなか治らないと思いましたよ。」

沖田ののんびりとした声が聞こえる。
死に病…
その響きに、一気に千鶴の鼓動のリズムは高まる。

「笑い事ではない。
…とにかく、このことは他言しないでおく。だが、君はもう激しい稽古には出てはいけない。体に負担がかかると、病の進行を早めてしまう。」

松本が真剣な面持ちで言って聞かせるが、
沖田は微笑みをつくったまま、

「どうせ短い命なら、最後まで剣をふるっていたいですけどね…」

などとワーカホリックなことを言っている。末期ガンを宣告されても、最後まで仕事したいと言い張るサラリーマンのようだ。

ふたりが話を終えて立ち去ったあとも、千鶴はその場に棒立ちになって動けなかった。沖田がこちらに向かって歩いてきて私の横を通りすぎた。
そのまま私に気づかずに去っていくのかと思いきや、急にくるりと振り返って私の姿を認めると、にやりと笑った。

「いまの、聞いてたんだ。」

「……」

「君みたいなおてんば娘に、皆に話すなと言っても無駄かなぁ?だったらこの場で斬らないといけないんだけど。」

そういって腰の刀に手をかけて見せる。
…私はそんな脅しにはのらない。
まず、そんな危ないもの常に携帯するなっての。
千鶴の精神を押し戻し、本来の私の感覚が全身に冴え渡る。

「言わないですよ。」

ふてくされたようにそっぽを向く私に、

「そう?でも、ちづちゃんはなんでも馬鹿正直に話しちゃうからなぁ…
その割に、変なとこで気を使って下手な嘘をついて、逆に不審がられるとかね。」

だから!!
それは私じゃなくて千鶴だって!!

思わず私は口を開いていた。

「そんなに信用できないなら、私も総ちゃんに私の秘密を教えてあげるよ。それならおあいこでしょう?」

それを聞いた沖田は腕を組んで、

「…なるほど、互いに秘密を握り合って漏洩を防ぐってわけ?なんだか政治家みたいな発想だね。」

と言って感心したように笑んだが、再びまたあの鋭い猫の目つきになって、

「いいよ…その案にのろう。
で?君の秘密って、なに?」

私は大きく息を吸い込んでから口を開く。

「…私は、本当は、千鶴じゃない。」

沖田は、どういうこと?と困惑気味に目を丸くする。


「私は、この時代のもっともっと後に生まれた人間で、なぜか雪村千鶴という女の子のなかに転生してしまったんです。」

「……」

また笑われるかと思ったが、沖田は笑みを消してまっすぐに私を見つめている。

「だから、総ちゃんが労咳にかかってしまうことも、ほんとは最初から知っていたし、(さっきまでは千鶴のせいで忘れてたけど)
新撰組がこの先どうなるか…
いえ、この国がこれからどうなるかも…ぜんぶ知ってる。」

私は危険を承知で、彼に打ち明ける。

「私…本当は千鶴の父親のことも知らないんです。そもそも顔すら、知らないし。
まぁ、人の父親なんだから知らなくて当然なんだけど…
だから…こうしてここに匿われて、生かされていてもなんの価値もないんです。
本当になにも知らないから…ここの人たちの役には立てない存在なんです。」

私は彼の瞳を見つめて必死に訴える。

「なんでこうなったかも全然わからなくて。
だけど!!もう千鶴として振る舞うしか仕方ないって思って。…私は自分の名前すら思い出せないから。
皆に申し訳ないなって気持ちはあります。だけど、ここを追い出されたら行くとこもないし…怖くて…」

言いながら辛くなってきた。
自分の行く末を思うと、不安で吐き気がする。

「こんなこと言っても…信じてもらえないかもしれないですけど。」

と、小さく付け足して私はうつむく。
着物の裾を、汗ばんだてのひらでぎゅっと握りしめて、彼の反応を待った。
すると、ずっと黙って聞いていた沖田が、静かにこちらに近づいてきて、私の顔をそっと覗き込もうとする。

「…信じるよ。」

「え…」

「だって、そんな自分に不利になるようなこと、嘘だったら言わないでしょう?」

顔をあげると、いじわると優しさがごっちゃになったような、いつもの彼の笑顔が私の目にうつった。
久しぶりにちゃんと、総ちゃんの顔を見た気がする。

「わかった。このことは僕も誰にも言わない。だから、君も僕の病気のことは口外しないでくれる。
僕は新撰組のために、そして、ここまで僕を強くしてくれた近藤さんのために、この命が尽きるまで闘いたいんだ。」

そう言い切る彼の強い眼差しを、私は受けとめようとしたが、思わず視線をそらしてしまう。
私は知っているのだ。彼は、最後まで闘うこと叶わずに、彼の大事な人の死すら知らされずに、病死してしまうことを。
その変えられない未来と、いま目の前にある現実との狭間で、私はなす術がない。
その事実が、ひたすら私を打ちのめす。

それでも、目の前の彼は穏やかに微笑んで、決して諦めようとはしない目をしている。

私はせめて、彼の人生を最後まで見届けようと思った。それから先のことはわからない。
でも、ここにきてから、総ちゃんはいつも私を助けてくれた。だから私も、総ちゃんの力になりたい。
未来を変えることができなくても、そばにいて、なにか総ちゃんのためにできることがきっとある…
そう、強く決心したとき…

にわかに沖田がまた咳き込み始めた。

「…ケホッケホッ…
ゴホッ…ゲホッッ…」

「…総ちゃん!!大丈夫!?」

私はとっさに彼の腕に触れようとしたが、

「……さわるなッッ!!」

沖田は千鶴の手を乱暴に振り払って、少しその場から離れてしゃがみこんだ。
千鶴はそのあまりの剣幕に唖然としながら、でもやっぱりその咳き込みようがひどく心配で、よろよろと彼に近づこうとする。

「ゲホッゲホッ…ゲホッ!!
はぁ…はぁ…
…近寄らないで…
労咳はうつる病気だって、君なら知ってるでしょ…」

千鶴はびくりと足を止める。確かに…でも、私はそんなことは気にならない。この肉体は借り物だし、千鶴には悪いけど、私はいま、自分のことなんかより彼が心配でたまらない。

沖田は、額に脂汗をにじませ、苦しそうな呼吸を繰り返しながらしゃべりつづける。

「…はぁ…はぁ…
ちづちゃん…君はさっき、自分は未来から来たって言ってたね。僕が労咳にかかることも知っていたって…
もしかしてさ…僕はこの病気で死ぬの…?」

「……」

千鶴が答えられずにいると、沖田は自嘲気味に笑って、

「……だったらさ、余計なことはしないで、そこで黙って見ていてよ。
…君が全部知っていても…未来が決まっていても…僕は、僕の思ったように生きる。」

彼は再び苦しそうに咳を繰り返す。

私は彼の言う通り、その場で、彼の咳が止まるまでただ黙って見守ることしかできなかった。

私は、自分は思ったよりも沖田総司のことを知らなかったのだ、と思った。
彼は自分の人生を必死に生き抜こうとしている。
それに対して、私ができることなんて、本当にあるのだろうか。おのれの名を忘れ、おのれの肉体すら持たない私が、
病に侵されながらも、懸命にその命を全うしようとする彼の肉体と精神に介入するなど、
あまりにズレた行為ではないのか…

そこまで考えてから、私は強くかぶりを振った。あれこれ考えていても仕方がない。
いまのネガティブな思考をすべて一掃するべく、気を取り直して沖田に声をかける。

「総ちゃん、私、なにもできなくても、一緒にいるよ。病気なんか怖くない」

沖田が顔をあげて私を見る。
私は、その弱りきった猫の瞳を見つめて、したり顔で言葉を紡ぐ。

「知ってる?肺結核なんて、現代じゃ、薬のんで寝てりゃすぐ治るのよ。
ちっともたいしたことないわ。」

と、彼を蝕む死に病の未来に対して、余命宣告してやった。
夏の日差しが、地面にのびた千鶴の影をくっきりと濃い色にした。

鬼やらい

「…ネギは入れないでっていったのに」

彼はふとんから上半身を起こして、子供のように拗ねている。

「ちょっと総ちゃん。ネギには殺菌効果があってね、…病気のとき食べると身体に抵抗力がついて早く治るのよ。」

「…うんちくはいいよ…
とにかく、僕はネギの入った粥は食べないから」

そう言って手で粥の乗った膳を私の方へ押し返す。
千鶴は仕方なく粥のお椀とさじを手にとって、沖田ににじりよる。

「……なに、するのさ。」

「ちゃんと、た、べ、る、の!!
好き嫌いしてるから病気になるんですよ!!」

無理矢理、彼の口に粥を流し込もうとする。彼は、しばらく私の腕を掴んでいやいや抵抗していたが、何度もしつこく迫っていたら、諦めて大人しく粥を口に入れた。
思いの外美味しかったのか、なんだかんだ言いながら、すべて食べてくれた。辛味が苦手だと言うので、時間をかけてじっくり火を通し、辛味を消す調理法を試したのだが、どうやら功を奏したらしい。

沖田は夏の終わり、稽古で無理をして倒れてから、肺結核が悪化してしまい、最近は刀も握ることもできない。
具合が悪い日は、一日中寝ていることもある。本人もその状態が精神的に辛いのだろう、昔の陽気で明るい性格が可哀想なほど影を潜めてしまった。

それでも千鶴はできるだけ明るくふるまい、彼を励ました。
弱った沖田の姿を見ていると、自分も心が押し潰されそうになるのだが、必死で耐えた。
周りが潰れてしまったら、弱っている彼は誰にすがればいいのか。気をしっかりと持って、私こそが諦めてはいけない。

「ちづちゃん、君はどうして僕にここまでしてくれるの?」

ある日、微熱のさがらない沖田が、ぼんやりと私の顔を見つめたまま聞いてきた。

「そりゃ、総ちゃんはここでは私のお兄ちゃんみたいなもんだし、
ここにきてから何回も助けてもらったし…
私は総ちゃんにまた元気になってほしいから…」

そう答えると、
熱にうかされた顔で妙なことをつぶやく。

「…僕も…君のことをずっと妹みたいに思ってきた。…だけど最近…それが少し辛い…」


千鶴には言ってる意味がよくわからなかった。
言いながら目を閉じて、眠ってしまったかのように見えたので、ふとんのめくれをそっとなおして、その場を去ろうとしたとき、
ふいに、眠ったと思った沖田の腕が伸びてきて、千鶴の腕をふわりとつかむ。

私はびっくりして動きを止めると、彼は眠たそうな瞼をあげて、

「待って…
もう少しここにいて…
僕が眠るまで。千鶴がいるって思うと、安心してよく眠れるんだ」

急に呼び捨ての名前で呼ばれて、どきまぎする。別に私の名前じゃないのに。
彼は千鶴の腕をいったん離すと、今度はそのまま手を握ってきた。

千鶴は突然のできごとに動揺してその場に固まる。
握られた手のぬくもりが、顔を熱くする。
どのくらいの間、そうしていたか。
そのうちに、沖田は静かに寝息を立て始めた。眠ったあともしっかりと握られたままの手を、どうしたものかと見つめて、私は先程の彼の言葉を思い出す。

妹みたいに思うのが辛い…
って…

急に切ないような、焦れったいような気持ちが身体を巡って、私まで熱を帯びたような顔になる。焦って、てのひらで火照った顔をバタバタと扇ぐ。
そしてまたしばらくしてから、ゆっくり、ゆっくり、彼の手から自分の手を引き抜いた。

部屋を出る前にもう一度、彼の寝顔を見やる。
…よく眠っている。
柔らかい灯火に照らされた彼の、伏せられた睫毛がその白い頬に影をおとす。
もともと色白だけれど、近頃、外にでないから陽に焼けずに余計に白くなった気がする。
その様子がひどく頼りなげで、なんだかこのまま消えてしまいそうで怖い。

沖田の病が発覚してから、千鶴は私のなかで存在を消したように大人しい。
だけども、私はやっぱり自分の名前を思い出すことができない。思い出せば思い出そうとするほど、頭の奥の方にしまわれてしまう。
どうしてなんだろう。いま、私はこんなにも私らしくいられているのに。
あとは名前だけ取り戻せれば、完全に私に戻れる気がするのに。

ふと、千鶴は、総ちゃんをどう思っているのだろうか?と考えた。
私のなかにいる、もうひとりの女の子。ときたま、素直すぎる心根を露にして私を困らせる、もうひとつの意識。
総ちゃんは、少なくともそんな私の無意識の部分も、全部含めて私だと思っているだろう。そう思うとなんだか複雑だ。

私は総ちゃんにあんなことを言われてから、なんとなく彼を意識してしまい、ときたま具合の様子を見に行く以外には、部屋に近づくのをやめた。
あんまり深入りすると、別れのときに辛い。私は現代人なんだし、いつかは帰らなくちゃいけないし。
今さら、そんな心の保身をしてももう遅いのに、私はそんな風に自分に言い訳した。

秋口の、涼しい風が心地よい夜、
千鶴はいつものように、少しだけ沖田の様子を確認しようと、廊下を歩いて彼の部屋の方へ向かった。
するとその途中で、縁側に腰かけた沖田その人に遭遇した。

「…総ちゃん!起き上がって平気なの?」

私は驚いて声をかける。

「…うん。今日は体調がいいんだ。
咳もでないし。」

沖田は、少し痩せてしまったその身体を、夜風にゆだねるようにして、薄闇にたたずんでいる。
総ちゃんがそうして起き上がって普通にしているだけで、私はとびあがるほどに嬉しい。

「よかった…」

私が心底ほっとしたようなため息をもらすと、彼は目を細めて私を眺める。

「ねぇ、ちづちゃん。最近どうしてあんまり僕の部屋に来てくれないの?すごく寂しいんだけど。」

どきりとして言い返す。

「…そ、そんなことないよ。いまだって、様子を見ようかなって思って来たんですよ。」

「でも前は、朝から晩までずっと、僕が目を覚ますと必ず君が横にいたから。
それで僕は、心細さを感じずにすんだのに。」

「…あはは、そんな、心細いなんて、総ちゃんらしくないよ。」

千鶴は笑いとばしてごまかす。
だが、彼は物憂げな表情になって、

「心細いよ。心細くてたまらない。
みんな、そうやって徐々に僕から遠ざかる。
僕はそのうち、まるで最初からいなかったみたいに扱われるんだろうね。」

彼らしからぬ悲観した発言に、千鶴は驚く。
私は別に、そういうつもりではないのに…

「新撰組は、闘えない僕をいつまでここに置いておくのかな。」

自らを嘲り、そんなことをつぶやく沖田に、千鶴はかける言葉が見つからない。
彼の仕事は剣をふるうことで、それは私が容易に踏み込んでいい事柄ではないと感じるからだ。
それは彼のプライドであり、まさに生きることそのものだ。
この新撰組の、特に幹部の面々は皆そうであるように、彼もまた、敵を斬り倒すことに生きる道を見いだしている。
ならば、それを奪われたときの苦痛は計り知れないはずだ。

人殺しはよくない、他にも生きる道はある、なんて間違っても口にはできない。

「総ちゃん、私は、総ちゃんがどんな状態でも気にしないからね。」

やっとそれだけ伝えると、再び黙りこむ。
少しの沈黙のあと、沖田は、

「ちづちゃん、君って最近、やたらと思慮深いことを言うよね。そんなに気を使えるような子だったっけ。」

と、いつもの調子を取り戻して茶化す。
総ちゃんはそういう意地悪を言っている方が、総ちゃんらしくていい。
いまなら聞けるかと思って、千鶴はこの間の彼の発言の真意を確かめるべく、

「あ…あのさ、総ちゃん、こないだ言ってたことだけど…」

と、言いかけたそのとき。

ガタタンッ!!

物凄い音を立てて、二間ほど先の部屋の障子がが倒れた。
そして、その倒れた障子の上に人がたっている。

「うるさいなぁ…なに?喧嘩?」

沖田が不快そうに声を発したしたとき、

ゆらりとその人影が月に照らし出された。

……!!

私は思わず息を呑む。
髪の毛が真っ白い。
そして、明らかに人間のそれではない、
赤く光る目がじっとこちらを見据えている。

沖田は立ち上がって、千鶴を自分の背中へと押しやる。

「羅刹の隊士…なんでこんなところに。」

彼がつぶやく。

らせつ。

私は、最初に新撰組の隊士に遭遇したときのことを思い出した。
その隊士はまさにいま目の前に現れたそれと同じだった。
そいつは正気を失った目で私を見ると、叫び声をあげて、足元に横たわる血まみれの死体を踏みつけながらこちらに向かってきたのだ。
そのあと総ちゃんたちに助けられたのだけど、私はあまりの恐ろしさにしばらく身体の震えが止まらなかった。

私はそのときのことを思い出したくなくて、あまりその存在について探ろうとはしなかったけれど、
総ちゃんが、あとでそっと教えてくれた。
羅刹とは、普通の人間が、ある劇薬を服用することで生まれる存在なのだそうだ。ほとんどの人間が、その副作用で化け物と化するらしい。
そして、なぜかその劇薬の実験をこの新撰組内で行っている。もちろん極秘だ。

闇夜に突如現れた羅刹が、手に持った刀をぎらつかせながらこちらににじり寄ってくる。

丸腰の沖田は、視線を羅刹からそらさないように注意しながら、千鶴の方に向くと、その腰にある小太刀に手をかけ、静かに引き抜く。

そして彼が太刀を逆手に構えた瞬間、

「ひひひっ…
血ぃ……!!血を、寄越せぇぇえ!!」

狂った羅刹隊士が走り込んでくる。

高く振りかぶった刀を、沖田に向けて力任せにふりおろす。
ガキン!!という鋭い金属音を立てて、刃と刃が交わる。

「……くっ…」

しばらく剣をにぎっていなかった沖田が、なんとかその殺気だった刃を受け止める。
だが、その腕はわずかに震えているようだった。

そのあとも、彼は何度も何度も振り下ろされる刃を的確に防御するが、どうしても力負けしてしまい、組み合うたびその刀筋は流れてしまう。

ギィン!!…ガキィン!!ガキン!!
闇に響きわたる、硬く緊張した音。
徐々に激しさを増していくその音が、鼓膜を痛いほど震わせてくる。

病気になる前ならこんな相手、一瞬で斬って捨てただろうに、今の彼は相手の攻撃を防ぐのが精一杯だ。だんだん息もあがってきた。

千鶴は沖田の後ろに下がり、息を殺して見守っていたが、寸でのところで攻撃をかわす彼を見て、助けを呼びにいかなくちゃと考えはじめたとき…

「くそっ…なんて馬鹿力だ…
……っ!!」

羅刹隊士の刀の一閃が、皮一枚のところまで迫り、沖田の身体がぐらりと傾いた。
床に手をついて倒れた彼に、再び狂気の刃が迫る。

「ひゃははっ…」

隊士が不気味な笑い声を漏らしながら、刀を持った腕を振り下ろす。

「……!!
総ちゃんっ!!」

私は思わず駆け出していた。
そして羅刹から庇うように、総ちゃんの身体に覆い被さって、ぎゅっと固く目を閉じる。

風切音がして、刀が振り下ろされる気配を感じたと思うと、右の二の腕に刺すような痛みが走る。
だが、それと同時に、

ドスッ!

という、鈍い音がして、
そっと目を開けると、羅刹隊士が大きく目を見開いて、立ったままこと切れている。

そして、その場にドサリと倒れ込んだ。

「…総司、無事か。」

千鶴が見上げると、斎藤一が刀を抜いて立っていた。彼の一撃によって羅刹は即死したらしい。

「雪村…すまぬ。わずかに駆けつけるのが遅かった。」

斎藤の気遣わしげな視線を辿り、
私は自分の右腕を見やる。血が滴っているが、傷は深くない。羅刹が途中で斎藤に斬られて、刀の切っ先が急所を外れたのだろう。

「…千鶴!!」

沖田が、その傷口を見るやいなや、肩をつかんで千鶴をこちらに向かせた。
真剣な顔つきで傷の具合を確認しようとする彼に、

「だ、大丈夫だよ…かすり傷だから」

と、落ち着かせるように告げる。
すると彼は、突然、千鶴を抱き寄せた。

「……ごめん。」

傷に触れないようにしてはいるが、腕を千鶴の身体に隙間なく巻いて、力を込める。

「そ…総ちゃん…」

私はその場に斎藤がいるので、焦って総ちゃんの身体を手で押し戻そうとするが、びくともしない。
病気で弱りきっているはずなのに、どこにそんな力があるのかと思うほど、しっかりと千鶴を抱き締めている。
その合わされた胸に、彼の心臓が力強く脈打っているのを感じる。
あぁ、この人は生きてる。私は泣きそうになりながら、そう思った。

沖田がなかなか身体を離してくれないので、傍らにいる斎藤の様子が気になってしょうがない。
千鶴は沖田の肩越しに、ちらりと斎藤の顔を覗くと、彼は険しい表情で庭の奥の繁みをじっと見つめていた。
そして、

「そこにいるのは、誰だ?」

と、誰もいない暗闇に問いかけた。
すると、斎藤の視線の先でかさりと人の動く気配がする。

「…ははは、新撰組の一番隊組長が、無様なもんだね。」

突然、闇から声が発せられる。

自分のことを言われて、沖田がようやく千鶴を離して、声のする方へ視線を送る。

「……だれ?」

繁みが揺れて、声の主が姿を見せる。

「まさか、こんなとこにいるとはね。
千鶴、会いたかったよ。」

暗がりから現れたのは、千鶴に瓜二つの男の子だった。背丈もちょうど同じくらいで、千鶴に似て可愛らしい顔立ちなのに、表情は悪魔のように歪んでいる。

千鶴が、突然現れたその人物に釘付けになっていると、
知ってるの?と問うような沖田の顔が視界にはいる。私は小首をかしげてみせ、知らないよ?という困惑の意を返す。

斎藤が刀を構えて、

「くせ者だな…いますぐここから立ち去れ。さもなくば…」

と威嚇すると、その男の子は、

「俺は南雲薫。千鶴の兄だよ。」

と名乗ってきた。
…兄?これは聞いてない。

千鶴が妙な展開に訝しげな表情を浮かべていると、

「お前は忘れているかもしれないけど、俺はお前を、ただの一秒も忘れたことはないよ。」

言っていることは感動の再会っぽいのに、顔が、目が笑ってない。なんなんだこいつ…
私は自分のなかに冷静さが戻るのを感じながら、つかさず第三者の目で突っ込みを入れる。
千鶴はまた、私に厄介な問題を寄越したようだ。

やがて、しびれを切らした斎藤が、本気で臨戦の構えをとりはじめると、南雲薫は後退りして、立ち去るそぶりを見せながら、こんなことを言い残す。

「新撰組の羅刹は質が悪いな。
たかだかこんな程度の血の量でおびき寄せられるなんてね。」

「また会いに来るよ。価値ある女鬼の妹にね。」

皮肉めいた口調で告げると、闇夜に消えた。

オンナオニ?
聞き慣れない響きに再び首をかしげる。
鬼ってあの?黄色と黒のしましま柄のパンツををはいてる、あの鬼?
私は豆まきのときに登場する鬼の姿しか、想像の域を出ない。
他人に厳しい人や残忍な行いする人に対して、あの人は鬼だ、と言うことはあるが、先程の彼が言うのは、そういう概念としての意味ではなかった。

千鶴が、鬼?

羅刹に鬼…
当然だが、私の未来の教科書にはひとこともそんなものの存在は載っていない。
そういった物の怪や幽霊の類いは、現代よりも闇が深かったその昔、人々の想像によって生まれた存在でしかないと思っていた。だけど…

私はなんだか疲れてため息を吐く。
ふと足元に視線を落とした。
すると、そこにあったものに目を見張った。

「……総ちゃん。」

思わず総ちゃんの着物の袖口をひっぱった。
彼も私の視線の先を見る。

羅刹隊士が倒れたところに、真っ白でさらさらとした粉のようなものがまかれている。
さっきは南雲薫の登場に気をとられて、まったく気づかなかったけど、羅刹の死体が消えて、代わりに大量の白い粉と、隊士が着ていた隊服だけが残されている。

私は背筋に寒気が走るのを感じる。
にわかに彼が口を開く。

「羅刹になった者が死ぬと、灰になる。
…他にはなにも残らない。」

そうだったのか…
そもそも、羅刹ってなんだ。誰がそんな薬を作ったんだろう。なんのために。

時折風に吹かれてさらさらと廊下にちらばるそれを、沖田はじっと見つめている。
千鶴はその思い詰めたような横顔を見て、不安になる。
なぜか、そのまま彼がどこかに行ってしまいそうな気がして、

「総ちゃん。」

注意をひこうと、私はもう一度彼の名前を呼んだ。

タスマニア・デビルの憂鬱

翌朝、管理されている屋敷から羅刹が抜け出し、しかも千鶴に危害を加えたという事実が上層部に報告されたらしく、幹部達はぴりぴりしている。
よほど羅刹と、その元となる薬の存在は極秘らしい。千鶴が見てしまったとき、口封じするのに殺そうとしたくらいだ。

一体なんのためにそんなことを?

おそらく、妙な薬を使い、人外の者と化したそれを戦争に使おうとしているのだろう、と私は推測した。
狂った羅刹は死を恐れない、というか、たぶん、悲しみや恐怖、ためらいなどの感情が消し飛んでいる。
一瞬の気の迷いが仇となる戦場では、持ってこいの存在だろう。死ぬまで闘い続ける使い捨ての兵士、それが羅刹。
暗い想像が私の頭を埋める。

日が高くなってから、私達は羅刹を管理している屋敷から、血のあとが延々屯所まで続いているのを発見した。
南雲薫の言葉を思い出す。

「こんな程度の血の量でおびき寄せられるなんてね」

南雲薫と名乗るあの少年が、羅刹の吸血衝動を利用し、千鶴に羅刹をけしかけようとしたのだろうか。
あの憎々しげな表情。千鶴、あんた兄貴に一体なんの恨みをかっているのよ。
私の中の千鶴は、いまだ沈黙を守ったままだ。

ところで、昨日負ったかすり傷だが、なぜか日一晩眠っただけで、あっという間に治った。
結構すっぱりいってたし、血が止まらないので五針くらい縫った。それなのに、それが跡形もない。まるで昨日のことは夢だった、と錯覚しそうなくらいだ。
もしかして、千鶴が鬼だということと関係しているのだろうか?

私が自分の部屋に戻り、傷あとを気にしていると、突然障子が開き光が差し込む。

「…おはよう、傷の具合は?」

朝の光を背に受け、沖田が立っている。

「ん?ぜーんぜん大丈夫。
ってか、部屋はいるとき声くらいかけてくださいよ。」

私はさっと、治りきった傷を隠して、沖田の方に顔を向ける。
沖田は神妙な面持ちで、その場に腰を落とすと、

「昨日は、ごめん。守ってあげられなくて」

と謝ってきた。

「…いいよ、そんなこと。総ちゃんこそ大丈夫なの?起き上がってて…
昨日疲れたんじゃない?寝てた方がいいよ。」

私は少し、まくし立てるように話す。
二人きりで話すとき、以前と違い空気が気まずい気がするのだ。

「昨日の薫って子、本当に知らないの?」

総ちゃんが視線を合わせようとしない私を見つめ、訊いてくる。
私は正面の襖の模様を目でなぞり、適当に答える。

「…あぁ、あのタスマニア・デビルみたいな」

「なに、それ」

「オーストラリアの珍獣」

「……」

タスマニアデビルは、オーストラリアのみに生息する小型の肉食獣で、見た目はツキノワグマの子供みたいな感じで可愛いのだが、実は凶暴で鳴き声が凄まじい。こないだテレビで、イモトが威嚇されてた。

沈黙が降りる。
てきれば昨日のことは忘れたい。
総ちゃんの病気、千鶴の秘密、私がもとの世界に戻れるかどうかも…
みんなみんな、本当は考えたくない、忘れたい。
私はまた、無性に不安にかられる。
それを隠すために、総ちゃんが困りそうなことを言ってやろうと策を練る。

「総ちゃん聞いて、私子供の頃に、ある鬼の話の絵本を読んでもらったことがあってさ…

その話はね、」

私があんまり得意気に話し出すので、沖田は諦めたようにため息をついて、耳を傾ける。

「あるところに赤鬼と青鬼が住んでいて、
なぜか赤鬼は人間と友達になりたくて、家の前に、こんな貼り紙をした。
どうぞご自由におあがりください、美味しいお菓子もあります。
だけど、鬼は恐ろしいものだって人間は思っていたから、誰も赤鬼の家にお茶しになんて来ない。」

総ちゃんは、早くもつまらなそうにしながら、部屋にあった菓子鉢を引き寄せ、なかのひとつを手でつまむ。

「それを聞いた親友の青鬼は、赤鬼のためにひと芝居うつことにした。人間達を信用させるために、自分が悪者になって人間の前で暴れてみせ、それを赤鬼に退治させたの。
すると、見事予想通り、赤鬼は良い鬼だとみなされて、人間達に慕われるようになった。」

私は母親が幼い自分に語りかけている様子を、脳裏に甦らせながら、続ける。

「だけど、赤鬼がある日青鬼を訪ねると、青鬼はいなくなっていて、こんな書き置きが…」

「赤鬼くん、君が人間達と仲良くなれて僕は嬉しい。いつまでも皆で穏やかに暮らしてください。だけど僕は、君と一緒にいるところを人間に見られたらいけないから、ここを去ります。いままでありがとう、どうかお元気で。」

「赤鬼はそれを読んで泣いた。鬼とは思えないような悲しげな叫び声をあげて。」

さっきまでつまらなそうに聞いていた沖田が、私の異変に気づいて、顔色を変える。

「赤鬼は後悔するの…僕は、たくさんの人間と仲良くなれたけど、たったひとりの大事な親友をなくしてしまった、と。」

私は耳をすまして懐かしい母親の声を聞いた。

「はい、今日の絵本はおしまいっ。さぁもう早く寝なさい、……」

「………っあ!!」

私は突然、小さな叫び声をあげて両手で顔を覆う。

「……千鶴?」

沖田が千鶴の顔を覗きこむ。

私の頬を涙が伝う。

「いま、
もう少しで自分の名前を思い出しそうだったの…でも…」

私は総ちゃんの心配そうな顔を見つめてつぶやく。

「また、頭のなかにしまわれてしまった…」

とめどなく流れる涙をどうすることもできない。千鶴は沖田が寝込んだあたりから、ずっと気を張ってきたが、そろそろ限界が近かった。
過ぎゆく時を、ただ黙ってやりすごすことしかできない、自分。
家に帰りたいという思いと、沖田のそばにいて、なんとかしてあげたいという二つの思いは、常にせめぎあっていた。そして、そのどちらも解決する手だては見当たらないのだ。

「千鶴。」

沖田は、千鶴の手に自分のてのひらを重ねて、こぼれ落ちる涙をそのままにしている彼女をじっと見ている。
そして手を伸ばし、指先でそっとその頬を撫でたかと思うと、少し頭を傾いで、顔を近づけてくる。
彼の前髪が、額をかすめる。

「……やめて!!」

私はとっさに沖田の身体を突き飛ばし、拒絶する。

「総ちゃんは、間違ってる」

私は涙をぐいと拭って、言い放つ。

「私は……千鶴じゃない。この身体も、この声も、私のじゃない。」

「…知ってるよ。」

彼は頷くような瞬きをひとつして、答える。

「…そういうこと、しないで。総ちゃんが見てるのは、千鶴の見た目で中身は別人の、ちぐはぐな女の子なんだよ?」

「それがなに?」

「……」

言いたいことが伝わらない。
取り合ってくれない総ちゃんを恨めしそうな目で見る。すると彼は、

「千鶴。
僕は君が千鶴でも千鶴じゃなくても、そんなことはどうでもいいんだ。
ただ、目の前で笑ったり怒ったり、泣いたりしている君がたまならくいとおしい。
僕は…君が好きなんだと思う。」

一瞬私の心が、その言葉に甘えたがる。だが、必死にそれにあらがい、大きく首を横に振る。

「違う。私のなかには千鶴がいる。私が言ったこととやしたことは、もしかしたら、千鶴かもしれない。
…そんなこと言われても、信じられないよ。」

私は素直にそう告げる。
けれど沖田は、表情をくずして問いかける。

「じゃあ、最初に僕に、死ぬところを見届けろなんて啖呵を切ったのは?その千鶴なの?」

「……」

「脱走しようとして転んで泥だらけになったり、ネギの入った粥を無理矢理口に流し込もうとしたのも?君じゃない?」

再び涙がにじんできて困る。

「僕の病気をたいしたことないって言って…
君を守れない僕なんかをかばって、敵に殺されそうになったりする君は…」

「ほんとに君じゃないの?」

私はうつむいて瞼を閉じる。
その拍子に、溜まった涙が睫毛にはじかれて、ぽたり、ぽたりと畳に染みをつくる。

「…わかってるよ。」

総ちゃんの優しげな声音が私を包む。


「…総ちゃん…」

私は子供みたいな涙声でつぶやく。

「君は勇敢な女の子だ。それは認めるよ。だけど、泣きたいときは泣いた方がいい。」

「総ちゃん…」

「なに?」

「…総ちゃん死なないで」

私は最も恐れていることを口にする。

「大丈夫だよ。僕は死なない。」

彼は誓いを立てるように答える。
総ちゃんがいなくなったら、私はこの見知らぬ世界でひとりぼっちだ。そうなったら、一体どうすればいいのだろう。
沖田は途方に暮れたような千鶴の顔を見ながら、こんなことを言う。

「君が僕をかばって斬られそうになったとき、本当に怖かった。君が死んでしまうと思って…」

そして、彼女の両の肩に手を添えて、その額に自分の額を寄せた。
静かにふたつの視線が重なり合う。
私は、水滴の残る眼をいっぱいに開けて、彼の瞳の、その澄んだ色にみとれた。

「今まで、怖いものなんてなかったんだ。
人を斬ることも、死ぬことも怖くなかった。」

「だけどいまは…」

千鶴はそっと目を閉じて彼の弱さを感じとろうとする。

「君を失うのが怖い。」

そう言って、沖田は千鶴の肩に置いた手に力を込める。そして再びゆっくりと顔を近づける。
彼の震えるまぶたが目の前に迫っても、私は、今度はそれを拒まなかった。

…総ちゃんが、私に恋をしてしまった。
すごく嬉しいはずなのに、私の胸は切なさで張り裂けそうだった。
総ちゃんが病気で死んでしまうか、そうでなくても、これから激化しそうな戦争に巻き込まれるか、はたまた私が家に帰ってしまうか、どの運命に転んでも、結局最後は離ればなれだ。
私と総ちゃんが一緒にいれる時間は少ない。
私はその現実を受け止めよう。
最後の最後まで総ちゃんのそばにいたい。いくら辛くても、不安でも、その気持ちだけは変わらないのだ。

堕地水、鬼血水、緒命水

総ちゃんが、また熱を出した。

私は総ちゃんの側を片時も離れなかった。
それこそ、寝る間を惜しんで彼の看病にあたった。
しかし周りの人達は、彼に関しては半ば諦めムードになっていた。沖田が最前戦に立てなくなってからだいぶ久しい。もう復帰は難しいと考えているようだった。

それも仕方の無いことだった。
京の情勢は、まさに混乱の様相を呈していた。いま新撰組は病人にかまっている場合ではなかった。

かの最後の将軍、徳川慶喜が大政奉還しちゃったのだ。慶喜は、闘いたくなくてなんとか抵抗勢力の気をそらそうとしたのかもしれないが、ますます倒幕派の勢いが加速し、危険な状況に風向いていた。
…戦争、か。
私は寝不足の頭でぼんやり考える。
まぁ私に言わせれば、戦争っていったって、太平洋戦争じゃない。ただの内紛だ。
自国を守るためにみんなが力を合わせるのではなく、闘って勝った方が敗者を従わせ、それからようやくまとまる、っていうのがよくわからない。
結局、泰平の世と言われた江戸時代も、諸大名達を力で押さえつけてたところがあり、日本国は本当の意味でひとつではなかったのだろう。近代へ向け、それが初めてひとつになる。そのための闘い…

でも、私はもうそんなことはどうでもよかった。私はただ、明日も総ちゃんのそばにいられますようにと、毎日神様に祈った。神様なんて、これまで一度も信じたことはないのに。
世の中が史実通りでもなんでもいい。
だけど、沖田総司の生涯だけは、どうか史実をなぞらないでほしい、と本気で思ったりした。

そんななか、事件が起きる。
新撰組のボスが撃たれた。ボスといえば局長の近藤勇だ。
護衛が手薄な状態で外出したところ、狙われた。
犯人は、内部抗争で粛清しきれなかった御陵衛士の残党らしい。身から出た錆だったのかもしれない。新撰組は敵よりも仲間を殺した数の方が多いことで有名だ。
命に別状はないが、重傷だった。
組織内には緊張が走り、都の不安定な情勢のなかで、進撃の時が刻一刻と迫るのを皆が感じていた。
千鶴は、沖田の耳に入らないように注意していたのだが、彼はそんな周りの空気を敏感に感じ取っているようだった。

冬が近づく肌寒い朝、沖田の姉から小包が届いた。相変わらず体調の優れない沖田のもとへ、その小包を届けに行く。

「総ちゃん、入るよ。」

声をかけて、部屋に入る。
彼は、体を起こして私を迎えようとする。

「あっ、いいよいいよ、寝てて…
お姉さんから小包が届いたから持ってきたの。」

「…小包?」

沖田はその包みを受け取り、紐を解いて中身を確認する。…手紙と、木箱だ。
彼は手紙だけとると、開けてみて、と言って木箱を千鶴に手渡した。

沖田が手紙を読んでいる間、千鶴はそっとその木箱のふたを開けた。

中には…妙なものが入っていた。

「なにこれ。」

私はそれを手にとって顔の前に掲げた。

それは、小さな薬壜だった。
透明なガラス製の壜のなかに、真紅の液体が揺れている。
沖田が、それを見て固まっている。

「総ちゃん?
お姉さん、なんだって?」

「労咳が治る薬だって…書いてある。」

私は驚いて声をあげる。

「うそだ。」

だって、この時代にそんなものは無い。
もしそんな薬があったら、今頃Wikipediaに沖田総司は病死とか、かかれたりはしていないはずだ。

沖田がその薬壜をじっと見つめて、その正体を明かした。

「…そうだね。それは、変若水だよ。」

「おちみず?」

彼はなぜかふっと笑いを漏らすと、

「それを飲めば、確かに労咳は治るかもしれないね。でも、その代わりに羅刹となってしまう。」

「!!」

なんと…この薬こそが、あの羅刹の元となる劇薬だったのだ。
千鶴は慌ててその薬を木箱に戻して蓋をする。蓋を上を両手で押さえて、頭に湧く疑問を口にする。

「な…なんでこんなもの、お姉さんが!?」

「わからない…
でも、この手蹟は確かに姉さんのものだ。
僕が心配で、探し回ってようやく手に入れたとか書いてあるよ。」

私はただならぬ事態が起こった気がして、まったく落ち着かない。
こんなもの…いますぐ海に投げ捨てたい。

「…千鶴、おいで。」

呼ばれて、総ちゃんの顔を見るが不安の色を隠せない。
彼は、廊下の方に視線を走らせて、誰か来る気配がないか確認すると、千鶴の腕をつかんで引き寄せる。

「ちょっ…総ちゃん…」

「もしかして姉さん、いま新撰組で僕が役立たずだと思って、羅刹になってでも闘いなさいって言いたいのかもね。」

総ちゃんは私を強引に抱き寄せると、愉快そうにそんな冗談を言う。
…全然笑えないし。

「…そんなわけないよ。」

きっと、誰かの嫌がらせだ。
千鶴は表情を曇らせる。
沖田は安心させるように、千鶴の頭を肩の上に乗せて、髪を撫でる。

「大丈夫。僕はそんなものは飲まない。」

彼はそう言ってくれたが、私は胸騒ぎがしてならなかった。

私は、その薬を沖田の目につかないように自分の部屋にしまいこんだ。あんな風に言っているが、誇り高い彼なら、戦争に参加すると言ってリポビタン・Dよろしく変若水を一気飲みしかねない。
いや、本当に、冗談でなく。

変若水を飲んで羅刹化すると、信じられないような身体的能力と、自己回復力を得ることができる。
ただしその代償として、吸血衝動にかられ、徐々に正気を失うのだ。

怪我、病気、なんらかの理由で闘えなくなった隊士が変若水を飲むケースが多々あった。
闘えずに命永らえるくらいなら、羅刹化して狂ってでも闘い、そして死ぬ。
そう考える隊士が多く、羅刹の実験と称しては、その哀しい心理を利用し、この麻薬を飲ませていたのだ。
そして、そんな刹那的な考え方をするのは、沖田も例外ではないはずだ。むしろ、性格的にすすんで羅刹化しそうだ。
沖田総司は、並外れた剣術の才を持っているがゆえ、なんの疑念も持たず、純粋に剣の道に生きてきた。もしも再び刀を握れるならば、彼はなんでもするだろう。

数日後、近くの宿屋に近藤勇を襲撃した犯人がまだ潜伏しているらしい、という情報が入った。
当然、突入して取っ捕まえよう、ということになって周囲が騒がしくしている頃、沖田はまだ寝込んだままだった。

私はその夜、いつも通り総ちゃんのそばにいて、様子を見ていた。いや、本当は総ちゃんがどこかに行かないよう、見張ってるつもりだった。
だが、睡魔に負けてそのまま机につっぷして眠ってしまったらしい。
目覚めると、まだ夜中だった。
まずいまずい…寝落ちした…と思って顔をあげると、
総ちゃんがいない。

嫌な予感が頭をみるみる冴えさせる。
千鶴は、急いで立ち上がって廊下へ駆け出た。
…静かすぎる。
みんな、宿屋に夜襲をかけるために出払ったのだろうか。廊下を急ぎ足で歩いて、沖田の姿を探す。
すると、向こうから諜報部隊の山崎が、同じような急ぎ足で焦った様子でやってきた。

「山崎さん!総ちゃん見なかった?」

「…それが、さっき裏門から表へ飛び出して行ったのが見えて。」

「…!!」

千鶴は嫌な予感の真偽を確かめるために、自分の部屋へと踵を返す。
そして変若水のしまってあった引き出しを開け、木箱の蓋に手をかける。

…無い。

追ってきた山崎に振り向いて懇願した。

「山崎さん…
夜襲する宿屋の場所教えて!!」

「ひとりでは…危険です。」

「いいから!!」

強引に場所を聞き出すと、勝手に屯所の外へ飛び出した。
ひやりとした外気が全身の緊張をあおる。
外灯ひとつない闇夜に足がすくみそうだ。
この時代の夜は暗すぎる。その暗さに慣れていない私は、夜になったら絶対に表には出なかった。
だけど、いまは怯えている場合ではない。
どこへ向かっているのかわからなくなりそうな真っ暗闇の中を、夢中で走った。

宿場街をひた走り、点々と並ぶ提灯をひとつひとつ目で確認して言われた名前の宿屋を探す。
だが、その必要はなかった。
狭い路地の、二つ目の辻を右に曲がったところで、闇に浮かび上がる人影を、私は見つけた。

…総ちゃんだった。

白い夜着のまま、豪快に返り血を浴びた状態で、かげろうのようにゆらりと立っている。
手には硬い光を放つ刀。
そこには、すべてが終わったあとの冷酷な静けさが漂っていた。
千鶴が歩み寄ると、ゆっくりとこちらに振り返る。

「…なにやって……」

千鶴は言いかけて、彼のその姿に言葉を失う。
いつもの沖田ではなかった。
燃えるような銀色の白髪。その瞳は、着物に付いた鮮血と同じ色だった。
殺人を犯した余韻を残す、鋭い視線をこちらに向けてくる。千鶴が初めて彼に会ったときに見たのと同じ、狙いすました猫の目だ。

「総ちゃんのうそつき」

私は震える唇を噛んで、彼の行動に抗議する。

「羅刹になんかなかったら…総ちゃんの身体はもたない。命を縮めるだけだよ。」

「このままなにもできないよりはマシだよ。」

沖田は冷たく言い放つ。

「僕から剣をとったら何も残らない。
君を守ることも…近藤さんの仇を討つこともできない。
だから、僕は最後まで剣を振るい続ける。たとえ羅刹になってでも。」

やっぱり、それが彼の答えだった。
生きることイコール、闘うこと、敵を倒すこと、剣を振るうこと。
退屈を敵に娯楽ばかり追い求める現代人には、およそ想像のつかぬ精神世界だ。

彼が全身に生気を甦らせ、刀の先まで、己の神経を張り詰めて立つ様を見て、これが本来の姿なんだと承知した。今までずっとそうして闘ってきたんだと。
だが途端に、彼がひどく遠い存在にも思えた。
私がいつも見ていたのは、冗談を言って笑っている彼か、病気で臥せっている彼のどちらかだったから。

神様は、思わぬかたちで私の願いを叶えた。
沖田総司は、病気で死ななかった。
あの赤いくすりを飲んで、心を無くすことを条件に、命をほんの少し繋ぎ止めたのだ。

辺りに漂う血の臭いが、鼻をつく。
なにも言わず宵闇に、ただ私達は立ち尽くす。
早く、夜が明けて欲しいと強く思った。

戦闘開始

「ねぇ、まだ怒ってるの?」

沖田が千鶴の機嫌をうかがうように訊いてくる。

「別に…
血が欲しくなってもあげないからね。トマトジュースでも飲んで、我慢してよね!!」

私たちは、大阪城にいた。
年が明け、ついに戦争が始まった。初戦の舞台は京都だった。
ただ、沖田と千鶴はそれに参加しなかった。
ボスの近藤勇が、昨年末の銃撃事件で負傷し、兵を率いることができず、大阪城にて養生することになったのだが、沖田がどうしても近藤の護衛がしたいと言ってきかなかった。

私にとっては、一旦は胸を撫で下ろす流れだった。総ちゃんも私も、とりあえず危ない目には合わずにすんだ。
だが、それもほんの気休めだろう。まだ始まったばかりだ。

ちなみに、初戦の結果は負け。新撰組は江戸に敗走していた。
そうだったっけ?全然覚えてない…
もっと真面目に日本史を勉強しとくのだった。
しかし、いきなりヤバイ展開だ。

鳥羽・伏見の戦いは、新政府軍が大砲やなどの火器を大量に使用し、数で圧倒していた旧幕府軍をいともたやすく蹴散らしたそうだ。もう、どうやら刀の時代じゃないようだ。
とっとと降伏すればいいものを、新撰組は最後まで諦めずに闘うのだろう。
なんだろう、最終的に男の意地、みたいなものなんだろうか…理解不能。

総ちゃんはと言えば、羅刹化して途端に元気になった。私の今までの苦労は一体…と、思うほどケロッとしている。
病気が治ったかにも見えるけど、変若水は別に肺結核の治る薬ではない。これも、たぶん一時的に症状を抑えているだけのものなんだろう。
なぜ、自分の命を削ってまで闘うのだろう…理解不能。

千鶴の心は宙ぶらりんだった。
緊張の極限状態を、無理くり引き延ばされているような気分だ。
これからどうなるか分かっているので、ことさらにもどかしい。新撰組側についていることは、沈没寸前の船に乗っているようなものだ。なんとかできないんだろうか。せめて、総ちゃんだけは闘いで死なずに生きて残って欲しい。

昼間、寝ているであろう沖田の部屋にそっと侵入する。羅刹は夜行性なのだ。日中は太陽の光を避け、眠る。

私は、目を閉じて眠っている彼の横に、一緒に寝そべって身を寄せる。
もう少し一緒にいたかったなぁ…
合わせた両手を枕に、彼の顔を真横から眺めて思う。
千鶴はすでに沖田との別れを覚悟し始めていた。無理にでもそうしなければ、とても平静を保てない気がした。

目をつむり、また、私は彼を救う方法を考える。

「そんなことして、なにかされたらどうするの?」

千鶴が再び瞼を開くと、眠っていたはずの彼が、急にこちらにごろんと寝返りをうった。私の真正面に、彼の顔がくる。

「…ねむくないの?」

私は尋ねる。

「千鶴がそんな風にしてきたら、嫌でも眠れないよ。」

意地悪く微笑みながらからかってくる。
いつもなら、すぐに言い返せるのに、今日はダメだ。
彼の顔を見つめていると、なんだか胸が苦しくなってくる。
こんなに総ちゃんは綺麗な目をしていたっけ、と思った。耳や、鼻や、唇や手のひらは、こんなに美しいかたちをしていたろうか…
寄せた身体からは柔らかい匂いと、ぬくもりを感じる。
そこ生きている彼が、とても眩しく思えた。でも、それはこれからすぐにでも壊されてしまうかもしれない。だが皮肉にも、そう思えば思うほど、目の前の彼の姿は美しさを増すのだ。

私が黙って、ただ彼を見つめていると、

「そんな顔しないで…
僕は、千鶴のわらった顔が見たいんだ…」

沖田は囁くようにそう言うと、身体を半分起こして、千鶴の顔の横に手をついた。
そして、そのまま覆い被さるように口づけようとする。

「…いや。」

私は小さくつぶやいて顔をそらす。そして握った手で彼の身体を押し返そうとする。
でも彼は、その手をつかむと優しく畳に押し当てた。

「なに考えてたの?」

総ちゃんが私の自由を奪ったたまま訊いてくる。

「総ちゃんを救う方法。」

沖田は目を丸くすると、吹き出しながら、

「僕は、千鶴がそばにいてくれたらそれでいいんだよ。他にはなにもいらない。」

そう言って、千鶴の唇へ口づけを落とした。
温かい涙の粒が、私の頬をすべる。
幸せなのに、かなしい。
この世にそんな感情があるなんて、全然知らなかった。私の心の温度計の針は、ふりきれずに震えている。

「なに、また泣いてるの。」

そっと唇を離すと、沖田が不思議そうに尋ねた。

「私、生まれ変わったら…また総ちゃんに会いたい」

私は泣きながら、ずっと心のうちにあった想いを告白する。

「そして、死ぬまでずっと一緒にいたい」

総ちゃんは、指先で私の頬をそっと撫でて涙を拭い、穏やかな笑顔で約束してくれた。

「そうだね。君は、ずっと僕のそばに。」

それから私達は、揃って仰向けに寝転んで、手を繋いで眠った。
私と総ちゃんの間に流れる空気は、まどろむように凪いでいて、許されるなら永遠にそうしていたかった。
だが、時の砂は容赦なく滑り落ちていく。

お別れのときが近づいている。
もうこれ以上、ここにいてはいけないよ。
私のなかのなにかが、そう忠告している。
もしかして…千鶴なの?

春はいまだ遠い3月初旬。
寒風吹きすさぶなか、近藤勇率いる新撰組は、名前を変えて甲州へと進軍した。いまの山梨県あたりだ。ついに2回戦目が始まる。

まずしんどかったのは、移動だ。大阪から江戸まで行くのに船で丸3日もかかった。新幹線なら東京から新大阪まで3時間もかからずに着くというのに…
ちなみに徒歩だと、1日10時間くらい歩いても、5日以上かかるらしい。信じられない。
そう思うと、人は文明によって時空をも超えてしまっている気がする。

私達は江戸に到着した数週間の後、さらに西へと行軍した。闘う前に移動で疲れてしまいそうだが、この時代の人たちは、当然ながら歩きに慣れているのであまり問題ないらしい。現代人の私も、千鶴の健脚のおかげでなんとか耐えられている。

だけど本当は、来るなと言われた。
女は戦場に近づけるべきでないという慣わしもあり、足手まといになるからと、かなり反対された。でも私はなんとかついていくのを許してもらおうと、

「わたくしは、もはや女であることは捨てました。伝令でもなんでもお手伝いいたします。
これまで厄介になりましたご恩に、今ここで報いたく存じます。」

と、仰々しく言ってみせた。
すると、豪傑の近藤勇はおおいに感嘆して、私がついてくるのを了承した。
本当は、総ちゃんのそばにいたかっただけだ。沖田も、危ないから江戸に残りなよと説得してきたが、ここまできて彼のそばを離れるわけにはいかない。

6日、夜が明けてすぐに戦闘が始まった。
戦士達の咆哮と、弾丸が弾ける音が、目の覚めるような冬の青空にこだまする。
私はその音を聞いて、恐ろしいほど静かな胸の内に、いよいよ覚悟を決めた。
こうなったらやけくそだ。時代と運命に抵抗してやろうじゃないの。
私はできる限り、新撰組と、総ちゃんの助けになろう。それが、結末を知る私ができる、彼らへのせめてもの手向けではないか。
関係ないからとカヤの外から眺めて、もう無理じゃん、諦めなよ。なんてのは、感じ悪すぎる。

千鶴は、日中は本陣深くに護られ、大人しくしていたが、日が落ちると、数人の諜報部隊とともに、敵の様子を伺うために本陣をそっと抜けた。その後ろには、少し離れて沖田と羅刹隊が続く。
沖田は、なんといっても剣の腕がたつ。広い場所で銃火器をどんちゃんやるより、狭い場所で隠れている敵を見つけ出し、暗殺を行う方が向いている。つまりは、他の羅刹隊士とともに夜襲をかけ、敵の勢力を落とす作戦だ。

昼間、新撰組側はかなりの犠牲者を出した。普通に生きている隊士はもう数が少ない。もはや羅刹隊を使い、夜、敵が休んでいる隙をついて攻撃するしかないのだ。
でも、極秘の存在である彼らを使うのは本当に最後だけだと、私は知っていた。それほどすでに追い詰められていた。

私は草影に身をかくし、目眩がしそうなほどの緊張を無理矢理押さえつけながら、敵の陣営のひとつへ近づいた。
入り口に、敵の衛兵の姿が見える。
千鶴が息を殺して見ていると、ちょうど交代の時間だろうか、その衛兵が背を向けて持ち場を離れた。

…いまだ!!

私は手を挙げ、大きく横に振って合図を送る。

すると、それに気づいた沖田が素早く走り出て、敵陣に乗り込む。そして、すでに羅刹化した隊士達が彼の後に続いた。

「なっ…うわっ…うわああぁあ!!」

突然闇から現れた化け物の集団(羅刹)を見て、敵兵が叫び声を上げた。

まぁ、そうなるよね…
私は幔幕の内側から聞こえてくる断末魔の声が恐ろしくて、耳を塞ぐ。…怖い。
でも、どんどん敵陣の奥深くに進んでいってしまう総ちゃんの様子が心配だ。
勇気を振り絞り、足許に無惨に転がる死体を避けながら、私は彼の後を追った。

中で沖田は、ひたすら敵を斬り殺していた。
千鶴は慎重に身を隠しながら、その様子を目撃した。
彼の動きには一切の無駄がなかった。
こう言うと不謹慎だが、まるでショーを見ているかのような、鮮やかなる刀さばきだ。
まず、目の前の敵を斬り倒したかと思うと、背後に迫るもう片方の敵を、ろくに目も向けず振り向き様に刀を一閃し、その首をはねた。
そして次の瞬間にはもう、彼の目は別の標的を捉えているのだ。
他の隊士が一秒で一人斬るところを、彼は同じ一秒で二人も三人も斬っているような、そんな殺しのスピードだった。
羅刹化の影響を差し引いても、やはりその強さは彼の素質だ。

これが沖田総司…

千鶴は、息をするのも忘れて彼のその姿に釘付けになった。
私の知らない、総ちゃん。
このような殺戮を行うために、幼い頃より日々腕を磨き、厳しい稽古に耐え、精進してきたなんて。
なぜ、そんな人生しか彼には許されなかったのだろう。刀筋に一切の迷いを残さない彼は、そんなことは露ほども考えたことはないだろう。
でも私は、今度彼が生まれ変わるときには、もっと別な人生を歩んで欲しいと思った。おじいちゃんになるまで生きて、愛する人たちに見守られて死ぬ。そんな穏やかで幸せな人生を、どうか生きなおして欲しい。
そう願わずにはいられなかった。

あらかた敵を片付けると、少しの静寂が訪れた。もたもたしていると、別の陣営から援軍が来てしまう。今日は、これだけやれば十分。

「…よし。…そろそろ引き上げるよ。」

沖田は周りの羅刹隊士に撤収を呼び掛けて、その場を立ち去ろうとする。
だが、

「……ぐっ…」

急に彼が呻き声をもらして、その場に立ち尽くした。

「…ぐっ…ぐぁ…」

胸のあたりを苦しそうに掻いて、地面に膝をつく。やがて、瞬く間に彼の黒髪が白い色に変化する。
…羅刹の発作だ。

私はすぐさま彼に走り寄り、手を引いて目立たないよう物陰へ連れて行く。

「…くっ…う…
はぁ…はぁ…」

苦しそうに喘ぐ沖田の背中を、千鶴は心配そうに何度もさする。
彼は顔をあげると、そばに転がる死体のひとつに視線をやった。そして、おもむろにそれに近づくと、傷から大量に流れる血に口をつけようとする。
私はとっさに彼の腕をつかんで、それを止めさせる。
沖田が千鶴の顔を見上げた。

…ダメ。

私は首を横に振って、彼をいさめる。
ダメ。そんな死体の血を飲んだら。なんだかそんな気がする。

「総ちゃん……私の血を。」

そう言って千鶴は、自分の腰の太刀の鯉口を切る。それを見た沖田が、荒い呼吸を繰り返しながら言う。

「…ダメ…だ…
…君を、傷つけたくない…」

「…大丈夫。なぜか、傷はすぐ塞がるの。」

私は腕に小さな傷をつけて、流れ出た血を彼の口元へ近づけた。
沖田は一瞬ためらうように私の顔を見たが、私が真剣な目を向けていると、やがて傷口に口をつけて血を飲み始めた。

冷たい唇の感触がする。
なにか言おうと思ったけど、言葉が出てこない。
沖田も黙って私の血をすすり続ける。
彼のそんな姿を見ていると、本当に悲しい。
こんな化け物になってまで、彼が守りたかったものとはなにか。己の誇りか、それとも近藤さんと新撰組への忠誠か。

そのうち彼は落ち着きを取り戻すと、傷から唇を離した。
私はほっとして、立ち上がろうとする。
そのときだった。

「あーぁ…こんなに殺しちゃって。
死に損ないが、さらに死人を増やすなんて、本当に人間は愚かだな。」

突然、近くで聞き覚えのある声がした。
千鶴は再び身を固くする。
暗闇に目をこらすと、いつからそこにいたのか、あの男の子が立っていた。

「千鶴。お前を殺しに来たよ。」

憎々しげに顔を歪めた南雲薫が、こちらを見ている。
なんでこんなときに…勘弁してよ…
私はうんざりして、正直、千鶴を責めたくなるような気持ちになる。

「だけど、その前に沖田を殺しとかないとね…」

は?総ちゃんを殺す?…なぜ。
私は南雲のその言葉に強く反応する。
彼はなぜか千鶴をひどく憎んでいるようだ。だけど、きっと総ちゃんは関係ないはずだ。

総ちゃんを守らなくては…

身のほど知らずと分かってるのに、急にそんな思いが湧いてきた。
私は小太刀の柄を握りしめる。
どうしても、総ちゃんに死んで欲しくなかった。千鶴の兄だろうがなんだろうが、関係ない。彼の命を脅かすものは、なんであろうと許さない。

私は怯まずに、南雲に挑むような目を向ける。
タスマニアデビルなんかに構ってる場合じゃないのよ。この戦場を生き抜いて、きっと家に帰る。そして、総ちゃんを絶対に死なせはしない。

吐く息が、白い湯気になって夜に溶ける。
息をするたび、何度も何度も現れるそれが、生きている証拠みたいだった。
きっと傍らで彼も同じ白い息を吐いてる。
私はもう、なにも怖くなかった。

永訣

突如、戦場に現れた南雲薫が、まるで悪魔の子どもみたいな笑みを口元に浮かべて、私達に話しかける。

「…やっぱり、変若水を飲んだんだね。
沖田なら、飲むと思ったよ。」

「…どういうこと?」

私は思わず南雲に口をきいた。

「普通に渡したら、飲んでくれないかと思ってさ。
だいたい、一般人がそんなもの手に入れられると思うか?変若水は綱道が研究を重ねて作った薬で、そこらへんにあるようなものじゃない。」

綱道ってのは、千鶴の父親のことだ。

「…まさか。」

「沖田の姉の筆跡を調べて、わざわざ手紙つきで送ってやったんだよ。
…感謝して欲しいな。俺から、役立たずで哀れな沖田へのささやかな贈り物だよ。」

南雲はせせら笑いながらそう言ってきた。
なんてことだ。やっぱりあの小包、変だと思ったんだ…こいつの仕業だったのか。
私は、あまりに卑劣なやり方にムカついて、千鶴と同じ顔した彼を睨みつける。
その後に、沖田の顔を横目でちらりと見ると、同じように彼も南雲に鋭い眼光を向けている。
役立たずで哀れ、という侮辱の言葉を浴びせられ、静かに怒っているようだった。

突然現れ、なんの脈絡なく一方的に私達に憎しみをぶつけてくる彼に、私は問うた。

「あんたの目的って一体なんなの?」

「たったひとりの兄に向かって、あんた呼ばわりとはなんだよ。
いつからそんなに偉そうになったんだ?女鬼だからって、いい気になるなよ。」

知るか。
私は千鶴じゃない。
私が敵意を向けると、南雲も馬鹿にしたような笑いを消して、瞳の中の憎悪の光を強めてくる。

とどのつまり、南雲の話はこうだ。
千鶴と薫は双子の兄妹で、東の鬼の一族の出身だった。(ていうか、本当に鬼っていたんだ…)
だが、その一族は彼らが生まれてすぐに、得体の知れない鬼の力を恐れた人間達によって、攻め滅ぼされたのだ。奇跡的に生き残った二人は、それぞれ別々の鬼の家に引き取られたのだが、その扱いは雲泥の差だった。
数が少ない鬼達の間では、子孫を産み残せる女鬼の方が珍重され、優遇される。
薫の方をひきとった家は、同じ顔だったので性別がよくわからなかったのだろう、蓋を開けてみたら男で、大激怒だったらしい。
彼は、心ない扱いを受けながら育ち、同じ双子なのに大事に育てられた片割れの妹を、ずっと恨んで生きてきた、というわけだ。

うん。
確かにそれは災難だね。
すっごく可哀想。
可哀想すぎて泣ける。
だけどさ…

「…それで?それのどこが総ちゃんに関係あるわけ?」

私は次第にイライラして、南雲に疑問をぶつける。

「…わかってないな。
俺は、お前が大嫌いなんだ。」

彼は憎しみを露にして、吐き捨てる。

「同じ場所で生まれ、同じ双子で、同じ運命を共にするはずの兄妹なのに、俺だけが虐げられ苦しむ…そんなのは不公平だと思わないか?」

「…俺はね、お前が大事にしているものを壊してやりたいのさ。そして、今までのうのうと生きてきたお前に、俺と同じように、死ぬほどの苦しみを味わせてやりたいんだよ…!!」

南雲はそう叫んで腰の刀に手をやると、一気にその刃物をすらりと抜いた。

やばいやばい。怒らせてしまった。
私は果敢に、千鶴の小太刀を鞘から引き抜こうとする。まぁ、使い方なんて分からないんだけど、なんとかなるでしょ…
そのときの私は、とにかくこの件に関して総ちゃんはまったく関係がないので、巻き込んではいけないと、ただそれだけを考えていた。
でも沖田は、それを手で制止する。

「…君になにができるの?
刀の扱い方なんて知らないでしょ。」

「そ、そうだけど…
でもあいつ、千鶴に恨みがあるだけで、総ちゃんは関係ないし。」

私が真剣にそう訴えると、彼は少し笑って、

「…あのさ。
君がもし千鶴じゃないんだったら、君もあいつに構うことないんじゃないの?」

確かに。でも私は、羅刹化してしまった総ちゃんに、戦争以外のことで力を使ったり、傷ついたりして欲しくなかった。

「君は下がっていて。ここは僕がやる。」

「総ちゃん……でも…」

「いいから。
…僕に、君を守らせて。」

言いながら、総ちゃんが私にひどく優しい目を向ける。
こんなときなのに、その眼差しに私の心臓はどきんと戸惑ったように揺れた。

「なに仲良くおしゃべりしてるんだ?
そういうのが癇に障るんだよ…
来ないなら…こっちから行くぞ!!」

南雲が刀を振り上げてこちらに向かってくる。

きゃー!!
私はさっきまで偉そうなことを言っていたものの、いざ刃渡り50㎝以上の刀を掲げて向かってこられると、さすがに逃げ腰になり、総ちゃんの背中に隠れる。

「最初からそうしてなよ…
まったく君って素直じゃないよね。」

沖田はにやりと笑ってそういうと、視線を戻し刀を構えた。

南雲が物凄い速さで沖田の懐へとびこみ、刀を横になぎ払った。だが、沖田はそれを完全に見切っており、つかさず後ろに飛び退いてかわす。

私は邪魔にならないように、慌てて離れたところへ避難した。南雲のスピードは沖田に負けていなかった。小回りのきく小さな身体を活かして、細かく沖田への攻撃を繰り返す。
先程、強がって闘おうとした自分を恥じた。私なんか、たぶん秒殺だろう。

沖田は、南雲の攻撃を確実にかわし続ける。体に傷ひとつつけずに、反撃の隙を見極めている。それに対し南雲は、

「さすがに速いね…だけど、鬼の力をなめるなよ。」

そう言って突然、動きを止めた。
にわかに奴の顔つきが変わる。
そして、風になびく髪の束が、徐々に白銀に変化していく。同時に瞳の色は薄くなり、やがて黄金色の光となって妖しげにまたたいた。
しかも、よく見ると額に、白い象牙のような二本の角が生えている。

…鬼だ!!ほんものの…鬼…!!
私はびっくりしすぎて、身を乗り出して彼の姿をよくよく確認しようとする。
その風情は、安っぽいつくりもののそれではなかった。生々しい妖しさをたたえた、まさに化け物。羅刹も相当驚くけど、こちらはなんていうか少し種類が違う。醸す空気に、畏怖すら覚える。
でもとりあえず…ケータイがあったら確実に写メってるな。

「…驚いたか?
沖田、お前の傍らにいるその女…
そいつもこんな姿になるんだよ。
…その女は、人じゃない。」

鬼に変化した南雲が、沖田を挑発するように言う。

「…わかってんの?」

地面を勢いよく蹴って、再び走り込んでくる。だが、その速さが尋常じゃない。
宙へ高々と上げられた刀が、沖田の心臓めがけて、一直線に振り下ろされる。
今度はさすがに彼もかわすことができずに、胸の前に刀を構え、防御する。

ギィイン…!!

叩き合わされた刀同士が、嫌な音で鳴く。

沖田の表情に、少し余裕がなくなった。

「…君さ、さっきからよくしゃべるよね。
そろそろ…黙らせた方がいいかな。」

沖田は峰に手を添えて刀を押し返し、南雲の刃を振り払うと、反撃に出る。
南雲が構えなおす前に、彼の高速の突き技が繰り出された。

「……くっ!!」

危うく急所を逃れた南雲の太股を、沖田の刃が切り裂いた。
ビタッと、血が地面に滴った音がした。
沖田はそのまま攻撃の手を緩めず、容赦なく南雲の身体に傷を増やす。

だが、南雲はほとんどそれらの傷を気にしない。傷の治りが早い鬼だからだろうか。身体は血だらけになっていくが、息はほとんど乱れていない。
でもそれは羅刹の沖田も同じだった。南雲も負けじと刀を操り、彼の身体にも確実に傷を負わせていた。

激しくぶつかり合う二人の白い吐息が、ゆらり、ゆらりと辺りに漂っては、闇に吸い込まれていく。

私は、血まみれになっていく彼らを見つめながら、石像のようにその場へ固まって動けなかった。手足は寒さにかじかんで、冷たくなっていった。ただ、視線だけが総ちゃんを追う。
彼が傷つく度に、目を覆いたくなる。でも、そらした瞬間にすべてが終わってしまいそうで、必死で離さずに見つめた。

ふたりの力はほぼ互角。
これではいつまでたっても決着がつかないように思われた。

「……くそっ…
とっととくたばれよ…
この…死に損ないの羅刹が!!」

南雲が突然叫んで、力任せに刀をなぎ払う。
物凄い力だ。
沖田は刀を盾にしてその衝撃に耐える。
だが、彼が怯んだそのすきに、なにを思ったか、南雲が私の方へ体の向きを変えて走ってきた。

え?うそ…
私は焦って逃げ出そうとするが、まったく予測していなかった事態に、足がかたまって思うように動かない。

そのうちに、どんどん南雲が近づいてくる。

「…やめろ!!
そのこに近づくなッ!!」

総ちゃんが南雲の背中越しに叫んで、駆け出す。だが、間に合わない。

奴が私の前に立ち塞がる。

「沖田をいたぶるのも飽きたから…
やっぱりお前を先に殺すことにしたよ。
もともと、それが目的だからな。」

もはや鬼というより、悪魔にしか見えない南雲が、冷酷な無表情で私を見下ろす。
そして刀を持った腕を静かに振り上げる。

…千鶴、助けて!!
私はそう祈りながら、千鶴の剣に手をかけて、思いきり引き抜く。

キィンッ!!

小気味良い音をたてて、刀同士がぶつかる音がした。運よく、南雲の刃先をはねのけたのだ。

おおっ!!私、結構やるじゃん。
そう簡単にはやられないもんね…
調子に乗った私は、総ちゃんの真似をして小太刀を中段に構える。

「…ちっ、
どいつもこいつも生意気だなぁ…
そんなことしたって無駄だよ。」

南雲が今度は刀を両手で構え、再び刀の切っ先をこちらに向ける。
二つの刀が相対したとき、私は妙なことに気がついた。
…同じなのだ。
南雲の持っている剣と、この千鶴の剣が。
形も大きさも、使われている装飾具の素材も、まるで同じ。双子の二人と同じように、対をなしていた。

私は、なんだか急に南雲が哀れに思えた。さっきまではどうでもよかったが、もし、千鶴と彼が同じ扱いを受け育っていたなら、二人は仲の良い兄妹だったんじゃないだろうか。

再び南雲が私を殺そうと向かってくる。
だが、すでに沖田が追いついた。
私は、あ。という顔で南雲の後ろに視線を向ける。南雲が気づいて後ろを振り返ったが、ちょうど沖田が、刀身を奴の脳天めがけて勢いよく振り下ろすところだった。

…そのときだ。
突然、私の身体が勝手に動いた。

いや、動いたのは「千鶴」の身体だった。私自身は、背中をトンと押されるような感覚とともに、意識を肉体の外に飛ばされた。
その瞬間、頭に自分の名前が閃光のように甦ってきた。
私の意識は、その場に置いていかれたまま、千鶴の背中をぼんやり見送った。

何が起こったのか理解できなかった。
千鶴は、南雲の身体に体当たりして、彼の身体を退けると、沖田の刃をその身に受けたのだ。

……ズザッ!!

さっきまで私の身体だったはずのそれが、切り裂かれて地面へ倒れる。

「……!?
…千鶴ッ!!」

沖田はその場に刀を投げ捨て、すぐに千鶴の身体を抱き上げる。

「……なにをして…!!
千鶴!!…千鶴ッ!!」

総ちゃんが必死に千鶴に呼び掛けている。
彼女は肩から腰にかけて太刀を浴び、見ていられないほど酷い傷口から、大量に血が吹き出ている。

私は震えながら自分の身体を見てみた。
ブラウス風の白いチュニックに、デニムのパンツ姿だった。手首の小さな腕時計は3時を指してる。
私の身体だ…
でも待って、なにかおかしい。
そう、自分の身体の奥に、地面が透けて見えてる。

「…千鶴!!…千鶴!!」

蒼白になって千鶴の名前を呼ぶ総ちゃんに、私はそっと近づいた。
彼は気配に気づくと、ゆっくりと顔をあげる。

「……君…は、」

私の姿を認めると、唖然とした顔でつぶやく。

「…千鶴…?」

違うよ総ちゃん…私は千鶴じゃない。
私の名前は…
告げようとして口を開くのだが、肉体がないので声にならない。私は、幽霊になってしまったのだろうか。

総ちゃんは、私と千鶴を交互に見てから、また私の顔をじっと見つめる。
なにか言いたいのに、口がぱくぱくするだけで、言葉を発することができない。

諦めて、タスマニアデビルの方に目をやった。彼はなぜか苦り切った顔をしている。泣き出しそうな子供のような表情にも見える。千鶴が刃に倒れて、思い通りになって、嬉しいんじゃないのか。

沖田の腕に支えられたままの千鶴が、にわかに口を動かした。私はすぐさま彼女へ視線を戻す。

「あ、貴方の名前を…
…お返し…します。
いままで…隠していて…ごめんなさい…」

なに言って…!!
私は千鶴の瀕死の姿に発狂しそうだった。どうしてこんなことをしたのか、まるでわからなかった。涙が溢れそうなのに、それを許してくれる身体が無い。

千鶴は、今度は南雲の方にわずかに首を向けて、

「薫…も…ごめん…ね…
わたし…なにも知らなくて…」

と、謝った。
彼はなにも言わず、自分をかばって致命傷を負った妹を真顔で見つめている。

「……」

「つらい…思いを…したのね…?
…ごめんね。」

南雲が独り言のようにつぶやいた。

「…やめろ。」

「私のたったひとりの兄さん…最後に…会えてよかっ…た…」

「やめろ!!…やめろッ!!」

彼は鋭い声で叫んで、耳を塞いだ。
そして、目を見開いて、

「……俺…は、」

そう言ったきり、怯えるように後退りすると、

「……っくそっ!!」

背を向け、その場から逃げ出していった。私は、彼の哀れな後ろ姿を見送る。

千鶴はごめんなさい、と何度も繰り返しうわ言のようにつぶやく。私と南雲と、そして総ちゃんにまで。

「おきた…さん…
…わたしを、許してください…
か、彼女を…あなたから…引き離す…ことに…
ですが…このままでは、わたしも彼女も…前にはすすめない…だから…」

「…分かったよ。分かったから、もうしゃべらないで。でも…どうして君が、犠牲になる必要があったんだ…!!」

総ちゃんが、悲痛な表情で千鶴に訴えかける。
すると千鶴は弱々しく微笑んで、
そうするしか…なかったのです。
と言った。
そして、焦点の定まらない目で、もう一度私の方をみると、

「貴方が…貴方のいるべき場所へ…
どうか…帰れ…ますように……」

そう言って静かに瞳を閉じた。

…千鶴?

「………」

彼女の腕が力なく地面へ滑り落ちる。

千鶴!!千鶴!!
私は声にならない声で、千鶴を呼ぶ。だけど、彼女は目を覚まさなかった。

馬鹿…!!
私は心のなかで思いきり千鶴を罵倒した。
そして、自分の愚かさを思い知り愕然となった。
ずっと運命を共にしてきた宿主に、私はなにもしてあげることができなかった!!
私は、自分のことと総ちゃんのことばかり。千鶴を邪魔者扱いして、物言わぬ彼女のことを考えてあげたことはなかった。それなのに…彼女は私のために犠牲になった。

私は、やりきれない思いに胸をかきみだされながら、祈るように天を仰ぐ。
すると、自分の霊体のような身体が、ぼうっと白く光っていることに気づく。そしてそれが、小さな細かい光の粒になって闇に広がり、輪郭の端のからどんどん四方へはじけていく。

……総ちゃん!!

私は必死で総ちゃんに手を伸ばした。
…いやだ!!
まだ…まだ帰りたくない!!
私は…彼になにも伝えてない。
自分の名前も…
総ちゃんが、ほんとに大好きだったってことも、なんにも言えてないの…!!

すると彼も、手を伸ばして私に触れようとする。
私の大好きな猫の瞳が、戸惑いと悲しみの色に染まっている。
側に横たわる千鶴の身体が、どんどん蒼白く、冷たくなっていってる気がする。
そして、まるでそれに呼応するかのように、私の身体は一層光りを強めて、足元からどんどん消えていくのだ。

いやだ…!!
待って…お願い…!!

私はさらに、総ちゃんの方へ強く腕を伸ばそうとする。
だがついに、彼の指先へ触れる寸前で、私の身体は完全にかき消えた。

…辺りに静寂が訪れる。
まるで、何事もなかったかのように音を失った世界で、沖田は見慣れぬ衣服をまとった女の子が、幻のように消えた先をじっと見つめたままでいた。彼がいくら目を凝らそうとも、そこにあるのは、ただただ漆黒の闇ばかりだった。
彼女は帰ったのだ、そして永遠に戻っては来ないだろう。
沖田は、石のように冷たく動かない千鶴に触れた。それから目を閉じて、静かに二つの魂に黙祷を捧げた。

そのあと、どうやって戻ってきたかは覚えていない。ただ、遠退いていく意識のなかで、私は総ちゃんのことを忘れたくなくて、何度も繰り返し彼の名前を呼んだ。

さよならも言えなかった、私の大事なひと。
いつも見透かしたような意地悪な目をして、そのくせ心はずっとあったかくて優しかった。あぁそうだ、私はこんなにも彼を覚えている。忘れることなんてきっとできない。
どうか神様、彼を守ってください。私は千鶴の言う通り、大人しく家に帰ります。もう誰の運命も、邪魔はしません。
だからどうか、彼に最後の最後までありったけの幸福を与えてください。

私は、そんなひどく我が儘な願いを、乱暴に神様に祈ってから、電源を落とすようにぷっつりと意識を虚空へとばした。

夢のあと、そしてエピローグ

「わああぁぁ!!」

誰かの泣き叫ぶ声で目が覚めた。

私は気づいたら白い部屋で寝かされていた。
だんだんピントが合ってきた風景は、江戸時代後期の木造建築空間ではなかった。
直線が計算されたピッチで走り、すべてが直角に組み合わされた硬質で人工的な空間。そして、ひたすら白い。白い壁、白い床…白い…

「…よかった…!!あんた、お母さんだよ!!
わかる!?」

ヒステリック気味な声が頭蓋骨まで響く。
いつものことだけど…もう少しトーンを落として欲しい。でも、懐かしさに少し鼻がツンとする。
横で泣いていたのは、母だった。母は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら私の手を握り、よかった、よかったと繰り返している。

帰ってきたのだ、とぼんやり思った。
ここは、たぶんどこかの病院だろう。
アルコール消毒液の臭いがする。
というか、なんで私病院なんかにいるのかな…
私はまだはっきりしない頭に、一生懸命思考を促す。

そうだ…総ちゃん…どうしたかなぁ。
私はまだ彼のことを覚えていることに安心した。

そして…千鶴…。
千鶴は、やっぱり死んでしまったのだろうか。南雲が斬られる瞬間に私の精神を押し退け、その兄の身代わりとなって斬られてしまった彼女。彼女が息を引き取るのとほぼ同時に、私は現代へと帰された。
千鶴は、最初から分かっていたのかもしれない。自分が死ぬことでしか、私をもとの世界に帰せないということを。しかも結果的には、あんな悪魔のような兄の命まで救ってしまった。
どこまでお人好しなのか。本当に馬鹿…

私は千鶴を想い、静かに涙を流す。
彼女は、まるであの絵本に出てくる青鬼のように、他人のために自分が犠牲となったのだ。
私はあのおとぎ話を、道徳として母から読み聞かせられても、そんなことをする人間はこの世にはいないだろうと思って生きてきたので、彼女の行動は衝撃的だった。
どうしてあんなことになってしまったのか。
そもそも私が、もし彼女のなかに転生しなかったから、彼女は今ごろ生きていたかもしれないのに。そう思うと胸をえぐられるような自責の念が襲ってくる。

カーテンからそよそよと平和な風が流れ込んでくる。
でも私は気づく。この世界には千鶴も総ちゃんもいない。あるのはただ、紛れもない私自身のこの身体と、それを器としているただひとつの精神…
しかもその身体の、あちこちが痛い。まるで全身を強く打ちつけたような痛みだ。
私は一体どれくらいの間眠っていたのだろう。
少なくとも、向こうでは半年以上は経過していたはずだけど、戻ってきた世界ではあんまり時間が経ってないようだった。
もしかして、全部夢だったのだろうか。
私は、だんだんと記憶がとぎれる前のことを思い出した。

私はあの日、母と喧嘩をした。
原因はあまり覚えていないが、たぶん大したことではない。私は家を飛び出し、しばらく近所をふらふらとしたあと、なぜか突然、死んでしまおう、と思いついた。
そして、目についた中途半端な高さのアパートの階段を登ったのだ。

私は完全に頭に血がのぼっていた。
20年足らずの自分の人生が、相当につまらないものに思えた。なんだかすべてが思い通りにいってなかった。

そう、親が離婚してからが特に酷かった。
母はもともと気が強かったが、それが酷いヒステリーになった。それでも母は、ひとりで毎日遅くまで働いて、私のために大学に行くお金を捻出しようとしてくれた。
私はなんとかそれに応えようと、学費の安い国公立の大学に行こうと頑張ったのだが、失敗して滑り止めの私立の学校に入ってしまった。
母もそれまで口にこそしなかったが、さすがにこのときばかりは落胆を隠せなかったのだろう。高額な学費が生活を圧迫してくると、遠回しに私を責めることもしばしばだった。

私は、大学の授業もあんまり真面目に受ける気にならず、毎日適当に過ごしていた。
本当は、学費なんかどうでもよかったのだ。私は本当にあの学校に行きたかった。だから頑張った。…でもダメだった。母親がそのことを認めず、労ってもくれなかっことに、私は少なからず動揺し、また失望していた。
家に帰ると、母の愚痴と嫌みを聞かされ気が滅入った。家には私と母以外には誰もいない。私達親子は静かに行き場を失っていった。

唯一の楽しみといえば、大好きなサークルの先輩と話ができることだったけど、この間告白する前に、すでに彼女がいることが判明した。

なんかさ、このまま生きてても仕方ないじゃない?この先楽しいことなんて、きっとなんにもない。

私は靴を脱ぎ捨て、アパートの屋外廊下の手すりに足をかけて登り、仁王立ちした。雨樋のパイプをつかんで身体を支え、遥か地面を睨んだ。
だけどそこまでやってから、なんだか気持ちが冷めてきた。
顔をあげると、夕暮れの大きな太陽が目にはいる。半熟卵の黄身みたいな濃いオレンジ色で、地平線に沈む前に最後の輝きを放つ。それがとても力強くて、美しかった。それを見た私は、
死ぬ勇気があれば他に色々できるかもしれない。
と思い直し、降りようとする。
というか…こんなとこ、誰かに見られたらかなり恥ずかしい。
だんだんと冷静になってきた私は、急いで足を欄干から外そうとした。
…だが、私はバランスを崩して欄干の向こう側へ身を踊らせた。

確かに身体が、宙に浮かされた感覚は覚えている。でも、地面にうちつけられた衝撃とかは覚えていない。

気づいたら、私は千鶴になっていた。
そして、彼に出会った。

私はまだ目の裏に焼き付いている、総ちゃんの顔を思い出す。
笑っている顔、怒っている顔、苦しんでいる顔、悲しげな顔…

新撰組の剣の達人、沖田総司。鬼のように人を殺していた。それなのに、私が思い出すのは彼の人間らしい豊かな表情ばかりだった。
常に生きるか死ぬかの世界に身を置きながら、普段は現代人の私達と同じように、笑ったり怒ったりして、ご飯を食べて眠り、毎朝陽の光を浴びて目覚め、今日の天気の話なんかする。
私は不思議だった。
命をかけて闘う戦士たちは、いつもピリピリとして怒気を発しているような人達ばかりだと思っていた。でも彼や、他の新撰組隊士はそうじゃなかった。日常をどこまでも「普通」に生きていた。

ただ、どんなに辛くても悲しくても、生きることを諦めなかった。まるで一瞬一瞬を惜しむかのように、決して一日を無駄にはしなかった。
それぞれが己の信念を持ち、目標を掲げ毎日精進し、時が来れば闘う。ただそれだけのシンプルな生き方だった。

私は病室のテレビで、小学生の男の子が自殺を図ってマンションから飛び降り、死亡したというニュースを見た。
自分も些細なきっかけで死のうとしていたので、痛ましいと感じながらも、苦笑を漏らしてしまう。
この国では、毎年三万人もの人が自ら命を絶つらしい。確かに、この世は辛いことばかりだ。時代が変わっても、どんなに文明が発展しようとも、幸せというのは、過酷な毎日の隙間にしかない。
いじめられているのなら、闘えばいい。別に相手に歯向かうだけが闘いではない。学校に行かずに身を守るのもひとつの闘いじゃないか。
死ぬことは、諦めだ。その先の未来の放棄だ。今が辛いからといって、その先もずっとそうかなんて誰にもわからないし、未来は、己の努力でどうにかできる可能性を秘めている。
人生が常に良いことばかりであるはずがない。でもだからこそ、そのなかで出会うわずかな幸せがいとおしく、尊いものだと感じるのではないだろうか。決して、生きることを諦めてはいけない。

私は自分でも驚くほど、生きていたい、という気持ちが強くなっていた。もう死のうなんて、これっぽっちも思わない。
それは、たとえ化け物と化しても闘うことを止めなかった彼の姿が、私に生きろと言っていたからかもしれない。

私が千鶴の姿を借りて、総ちゃんに出会い、心を通わせたあの記憶は、絶対に夢なんかじゃなかったのだ。
自分のために死のうとしていた私が、他の誰かのために死ぬ覚悟をした。そしてその私を命がけで守ろうとしたひとがいた。
その記憶は私の胸の奥深くに、いつまでも消せない炎となって残された。彼は、私のなかで生き続けている。

私は病院を退院したあと、ネットはもちろん、大きな図書館などにも行き、沖田総司について片っ端から調べた。
けれど、彼の生涯については、どの資料を見ても断片的であいまいなことしか書かれていない。
私が見たものは、どれひとつとして史実には残されていなかった。
文献には、単に歴史上の出来事が淡々と羅列して記され、そこに生きたひとの感情や生き様に関して特筆されているものは、ごくわずかしかなかった。
そして沖田総司の最後については、戦火のなか病のため戦線離脱し、江戸の隠れ家でひっそりとその命を終えたという記述が残されているのみであった。


ーーーEND ーーー

薄桜鬼(改想録≠メモワール) 沖田総司編

あとがき☆
ー新撰組のエース、沖田総司に思いを馳せるー

日本人は、可哀想な人が好きだ。

かわいい、という言葉は、そもそもかわいそう、という言葉から生まれたという説もあるとか。
我々日本人は、辛い境遇で健気に生きる姿に、心打たれやすい節が少なからずあります。
なぜか、陰のある設定が好まれた時代もあって、昔の少女漫画なんて、主人公がみんなみなしごだったり、親がいなかったりします。
リカちゃん人形までも最初、なぜかお父さんが行方不明、という暗い設定だったそうです。(あとで訂正された)

そもそも新撰組も、そんな可哀想な人々だったからこそ、いまでもこんなに人気なんだと私は思ったりします。
新撰組についての資料は、実はあまり残ってないそうです。なにしろ昔のことで、色々作り話も多く、本当のことは詳しくは分からないのです。
なんでこんなに有名なのに?と思ってしまいますが、思えば彼らは、新しい時代の敵として消えてった存在であり、当時の日本政府的には、遺すどころか歴史から抹消したい存在だったんでしょうね。哀しいかな、時代の流れとは残酷です。

ただ、彼らは決して人々の心に残らない存在ではなかったようです。
そのうちに、時代のストーリーテラー達は、新撰組を物語に登場させるのです。
最初は悪役だったようですが、徐々に主役の物語も生まれ、現在、アニメや漫画、ゲームにまでなって、若い人も夢中になっています。

武士になりたくて、武士を夢見て、集まった身分を問わない者達。彼らはそこで、自らの居場所と生きる道を見い出していく。
だが、最後は闘って倒され、新時代の幕開けと共に消えていく。そんな男達の物語…
…みたいな。
…ハリウッド映画の予告編みたいな。(割と暑苦しい系のやつ)
つまり、新撰組の誕生から解散のいきさつには、恵まれぬ者達が、色々苦労しながらも生きる道を見いだしていくという熱いドラマ性があり、じゃあそれを使わない手はないということになり、たくさんの物語が生まれたのだと私は思います。

そして、わけても、この沖田総司という人。
いやー見つけちゃいましたよね。
彼はネタの宝庫です。
才能溢れる夭折の剣士。
なにやらこの10文字だけで、なんの捻りも工夫も加えることなく、色々なストーリーが妄想…いや、想像できます。
そのおかげでか、新撰組の他の隊士はともかく、沖田だけは土方、近藤と並んで広く名前を知られています。

若くして幹部、それも重要な1番隊のリーダーということは、もちろんエースですね。野球でいうとピッチャー、サッカーでいうとストライカーのポジションで…ここですでに、学校にいたら女子にキャーキャー言われそうな空気が漂います。

これに、最終的に病気で死んでしまうというスーパー可哀想な設定(というか事実)が追加されます。すると、あぁなんて哀れなのかしら…といって特に女子などは、このひとイケメンだったんじゃないか、という非常に身勝手な妄想に行き着くわけです。

本物の沖田総司は草葉の陰で、
え?ちょ、俺そういうキャラじゃねぇし…
と、ひとりごちているかもしれません。
いいの、黙ってて。
乙女の夢、壊さないで。

ともかく、普通ならそのまま時のなかに埋もれそうなものを、沖田総司はその可哀想な生涯に注目され、掘り起こされて現在に至るのだと私は思います。源義経なんかも、ちょっとキャラ的に近いものがありますね。時代劇では、必ず花形の二枚目俳優が演じています。

薄桜鬼の沖田総司は、デレに入るまで相当に底意地の悪い嫌なやつですが(オイ)、私の想像する彼の人間像というのは、もっとシンプルで、ただ無邪気に剣を振るい(無邪気な人殺しってやばいけど)、黙って師につき従うまっすぐで健気なイメージです。
そう、NARUTOに出てくる白みたいな…まるで、彼にはそれしか生きていく術がないかのように剣に没頭し、それ以外のことはまず考えない。政治的な錯綜や、時代の流れなどにはまったく関知せず、ただ感覚的に生きている、そんなイメージです。
沖田の実家に彼の居場所はなかったようですし、そこから拾い上げてくれた近藤に、一生ついていく気で生きていたのかなと思います。

まぁでも、本当のところはやっぱりわかりません。誰も見た人はいないのですから。もしかしたら、全然想像と違うかもしれない。

それにしても、人の人生を勝手に面白おかしく、色々な風に作り替えるなんて、死後間もなかったりしたら、不謹慎以外の何物でもないと思いますが、こうして百年以上もたってからなら、それはとても稀有であり素敵なことなのかもしれません。

人が本当に死ぬのは、忘れられたときである。
映画「アメリ」で、そんな意味合いのやりとりの場面があります。
ルノワールの有名絵画を眺めながら、絵に描かれる人は幸せだ、自分が死んでからも、絵が残っている限り、多くの人がその人に会える…というシーンです。
文学や絵画、サブカルでもいい。多くの作品に残される過去の人々…
忘れないで。と言っている気がします。
沖田総司に思いを馳せられるならば、どんな形でも、それが彼にとって一番の供養になるのかもしれません。
時空を越えて、彼の魂に触れたい。
そう思って書いていました。

なんちゃってね…
本当はやっぱりこの可哀想な設定が非常に魅力的で、物書き初心者の私にはとっても「書きやすかった」からなんですけどね。
そもそも薄桜鬼の世界観を拝借してますし…
総ちゃん、私のお遊びに付き合ってくれて、どうもありがとう。
そして、読んでくださった方には厚く御礼を申し上げます。

サラ

薄桜鬼(改想録≠メモワール) 沖田総司編

ゲームの薄桜鬼にインスピレーションを得て書いた二次創作小説沖田総司編。 表紙(途中w)をつけ、まとめました。 千鶴のなかにタイムスリップしてしまった現代っ子と沖田総司の交流を描いています。原作のお話が好きであり、二次創作に理解がない方はご注意を。半分ふざけていますwですので、比較的割りきって楽しめる方はどうぞ!!(笑)

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-07-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. チンピラと教科書と新月と
  2. ひきこもりの大脱走(失敗)
  3. シークレット・トレード
  4. 鬼やらい
  5. タスマニア・デビルの憂鬱
  6. 堕地水、鬼血水、緒命水
  7. 戦闘開始
  8. 永訣
  9. 夢のあと、そしてエピローグ