SENSOR(かもめあき)

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第二十回電撃小説大賞に応募した作品になります。残念ながら一次審査で落選してしまったため、ここに掲載する運びとなりました。
敢えて改稿せずそのまま掲載していますので、反面教師として読めるかもしれません(?)
決して改稿するのが面倒だったわけではありませんよ決して。

序章 記憶

「返事しろよ……返事してくれよ! おい!」
 腕の中の彼女は絶望的な冷たさだった。
「聞こえねぇのか! 返事しろ! 返事……」
 抱きかかえた腕が、彼女の血に濡れる。
「嘘だ、嘘だろ、嘘だって、言ってくれよ! どうして……」
 既に日は落ち、窓の外には切れかかった街灯が、絶え絶えにオレンジ色の光を瞬かせている。まるで俺に現実を突きつけるかのように、それが紅の部屋をくっきりと照らし出す。
「もしもし、もしもし! 救急です! 血みどろで、女性が一人倒れています! 場所? 場所は、えっと……」
 いつの間に駆け付けたのか、玄関で誰かが電話をしているのが聞こえる。緊張した声のやり取りや、せわしない足音がいくつも迫ってくる。
「なんで……」
 もう一度、彼女の顔を覗き込んで、思わず目をそむける。その顔はオレンジ色の光の下でも酷く青ざめていて、毒々しい血の色と激しいコントラストを作っている。記憶の中の滑らかな黒髪は乱れ、力無く傾いた首から血が流れ、はつらつとした普段の姿は見る影もない。
 突如、激しい嗚咽が俺を襲い、絞り出したようなしわがれ声が漏れる。これが俺の声なのか。
「嫌だ! やめてくれ! 逝くんじゃない! くそっ……くそう!」
 あああああっ! という叫び声とともに、行き場のない感情を拳にのせて打ちつけると、それを追いかけるように大粒の涙が降り注ぐ。それと、一枚の紙切れ。
 はっとなって、俺はその紙切れを眺める。勉強机の上からはらりと落ちたメモ用紙には、震える手で書きこまれた掠れた文字が透けて見える。恐る恐る、それをつまみ上げて、裏返す。
「嘘だろ……?」
 何度目とも知れない、その台詞をもう一度口に出す。掠れ、震え、歪んでいたが、それは紛れもなく彼女の字だった。しかしその内容は、およそ信じられるものではない。
 立ち上がり、ふらふらとおぼつかない足取りで彼女の部屋を離れる。紙切れをしっかりその手に握ったまま、灯りのない廊下を手探りに進む。
 一歩一歩踏みしめるごとに、足が重たくなっていく。心臓の鼓動は早鐘のようで、全身を駆け抜ける寒気に、手に付いた血も凍りつきそうなほどだった。
 リビングに出ると、白い電灯の光が俺を包み込んだ。その光の真ん中に、もう一人、女性が倒れているのが見えた。紛れもなく彼女の母親だった。
 俺はその場にへたり込んだ。右手を開いてもう一度紙きれの文字を見つめる。嘘だろの一言はもう口に出ることはなかった。代わりにその紙を握りつぶし、無造作にズボンのポケットにねじ込む。
 既に涙は止まっていた。頭の中は真っ白だった。サイレンの音が遠くから聞こえてくる。彼女は……彼女は……なんてことだ……
 彼女は母親を手にかけた……


 ――これが十二月の出来事。彼女が何故こんな愚行に及んだのか、あの時は結局わからなかった。しかし、俺は今、当時何が起こったのか知るに至った。ある少年との出会いをきっかけにして。
 
 ――そう、あれは一月のことだった。

一章 藍色の瞳

 冬休み明けの教室。
 まぁ、騒がしいのは当然だ。が、俺はそれが気に入らない。
 公立の中学校、三年の三学期と言えば、それは高校受験の四文字でほぼ言い換えることができる。今はまさに、そのスタートの合図が鳴ろうとしているところ。
「だから、悪い冗談に決まってるじゃねえか。なんだってこんな時期に、転校生がやってくるんだよ」
 傍らの友人をなじるように、俺は口を開いた。
「俺に聞くなよ。俺だって信じられない。でも、確かに見たんだよ。あんな奴、絶対にこの学校にはいなかった。」
「どうせ一年か二年の間違いだろ?」
「担任と歩いてたし、ちゃんと名札も確認したって。俺、びっくりして二度見したもん」
 うちの中学校は、名札のプレートに引かれた線の色によって、その生徒の学年を知ることができる。今年度で言えば、一年は緑、二年は青、三年は赤。
「つったってなぁ……学年全員の顔と名前を覚えてるわけじゃねぇだろ……」
「いや、アレは見れば分かる。絶対外国人か、そうでなくてもハーフだって」
「余計胡散臭いっつーの」
 やれやれと首を振ると、クラスメイトは機嫌を損ねたらしく、ホントに見たんだよ、と毒づいて、自分の席へと向かう。ばかげている、と星野 閃斗(ほしの せんと)は思った。何故みんなああいうくだらない話が好きなんだろうか。もっと面白いことなんて、腐るほどあるのに。
 
 が、しかし、今回ばかりはそうではないようだった。
 
 始業のチャイムから一分ほど遅れて、担任が教室に入ってきた。
「えー、休み明けで積もる話もあるのは分かるが、ちょっと静かにしてくれ、大事な話がある」
(いや、まさかな……)
「転校生を紹介する。ほら、入ってきなさい」
(マジかよ……)
 これはもう苦笑いするしかなかった。先程の友人はざまあみろと言わんばかりにニヤニヤしている。出入り口に見知らぬ人影が登場すると、ざわめきが大きくなった。
 確かに、日本人離れした風貌だった。ふわふわとした巻き毛は雪のように白く、大きく見開かれた眼は蒼い。小さく整った鼻、彫像のように白く、しかし柔らかな肌。口元はへの字に曲がっていたが、それでも愛らしさが漂っている。髪の毛は短いが、男子にしてはやけに背が低い。男か女か判断つきかねていたが、いずれにしても人形のようという表現がこれだけぴったり合う人間はないほどだった。制服の代わりに着ていたのは撥水のフード付きコートと、だぶだぶの青いコットンパンツ。ところどころすりきれたり、ほころびたりしているのが目に付いた。室内にしてはずいぶんと暑苦しい格好だったが、それでも物足りないのか顔をコートの襟に沈めている。寒がりなのか、それとも緊張しているのか。
(ときわぎ) 斎人(ときわぎ さいと)君だ。このクラスとして生活する時間も残り少なくなったが、仲よくしてくれ。ほら、斎人君、君も何か一言」
 名前を聞いてようやく男と分かって、教室中がどよめく。しかし一方で、突然の新参者はだんまりを決め込んでいた。色素の薄い、空色の瞳で虚空を凝視している。見れば、肩が微かに震え、髪の毛と同じく真っ白で滑らかな肌は、少し火照っているようだった。
「……まぁ、無理しなくてもいい」
 緊張した様子を感じたのか、担任はこれで紹介を終えるつもりのようだった。
「おい、星野」
「え? あ、はい」
「教室の外に机が置いてある。中に入れてくれないか。君の隣は空いているだろう?」
「わかりました」
 めんどくさ、と心の中で舌打ちして、古ぼけた机と椅子を運び入れた。自分の席の左隣に置き、机の脚をビニールテープの印に合わせる。
 顔を上げると転校生と目が合って、思わずぎょっとしてしまった。慌てて視線をそらし、自分の席に戻る。斎人は礼も言わずにそっと椅子に腰を下ろした。その動作は静かで、幽霊のようだった。
 俯く斎人の姿を見て、俺はなぜかほっとしていた。脳裏には空色の視線がちらついている。内気な奴だと思ったが、それにしては、俺と目があってもそらそうとしなかった。何故こいつは俺に向かって、挑むような視線を投げかけてきたのか。
 
 こいつはただものじゃねぇな。直感的に、そう考えていた。


「で、何の用だ?」
 俺の声は、無人の廊下によく反響した。正確に言えば、俺の他にもう一人。
「……ちょっとこれから時間ある?」
 初めて聞く斎人の声は、幼げな少年の声にも、凛々しい少女の声にも聞こえる。
「そりゃあ、もう放課後だからな、内容による。受験勉強より優先できるって言うなら、聞いてやらんでもない」
 と、暗に断ったつもりだったのだが、どうやら斎人には通じなかったらしい。
「君、腕っ節に自信はある?」
 唐突な質問に、ちょっとまごついたが、さらりと答えた。
「あ、あぁ。まあな。少なくとも平均よりは上だな」
 それが俺にできる精一杯の謙遜だった。実際、体力テストでは学年トップクラスだ。
「それなら充分だね」
 うーん、と小さく唸って、斎人は考え事を始めた。そこで初めて、俺は自分が観察されていたことに気がついた。
「お前、日本語喋れるんだな」
 名前は明らかに日本人だが、一日中全く喋らなかったから、根っからの外国人だと思っていた。
 しかし、斎人はふん、と鼻を鳴らして答えないので、少々カチンときた。呼び出しておいて何なんだこの態度は。
「あのな、用があるならさっさと言ってくれ。俺は無駄な時間ってやつが一番嫌いなんだ」
 斎人は、唇を尖らせたまま、まっすぐ俺を見つめる。
「頼みごとがあるんだ。大事なことだけど、僕の力だけじゃ無理だ。誰かの協力が要る」
「何故俺に?」
「賢そうだったから」
 斎人はきっぱりと言い切った。
「どうしてそう思った?」
 うーん、と首を傾けるが、視線はぴったりと俺に張り付いたままで、気味が悪い。
「態度というか、仕草というか、僕をずっと観察してたし、授業聞かないで、自分の勉強してたから」
 ちょっと不可解だったが、褒められたので悪い気はしない。
「で、頼みってのは?」
 ぶっきらぼうに訊く。
「殺人を止める」
「は?」
「殺人を止めるのを、手伝って欲しいんだ」


 幸いなことに、既に日は傾いて、紫がかった夕焼け空が俺に微笑んでいた。俺は、人気のない路地で、電柱の陰に身を隠しているところだった。遅くなると親には既にメールしておいたが、仮に帰れなくなったとしても気にしねぇだろうな、とぼんやり考えていた。
 奴は包丁を持っている。斎人はそう言った。鞄の中に入っていたのを見つけたらしい。
 もちろん、鵜呑みにしたわけではない。あまりにも突飛な話だったし、包丁を持っているからと言って人殺しをするとは限らない。
 しかし、俺はいつのまにか、斎人の頼みを引き受けていた。彼の言葉には妙に説得力があったし、たとえ騙されているのだとしても、謎に満ちた斎人を知る機会と思えば、儲けものだった。
(しかしなぁ、こんなことなら断っておくべきだったぜ)
 少し後ろ、室外機の陰に隠れる斎人に聞かれないように、心の中で呟いた。もう三十分も待ち続けている。傍目から見ればずいぶんと怪しい。誰も通りませんように、と祈るしかできない。
 実に不思議だった。何故『待ち』の嫌いな俺が、斎人の言いなりになっているのか。何がそうさせるのか分からないが、斎人は俺より何枚も上手だと言うことだけは分かった。

「ねぇ」
 斎人が突然小声で呟いた。
「なんだよ」
「足音」
 その言葉に、俺ははっと我に返った。
 じゃりじゃりと足音が近づいてくる。ごく近くだ。目の前の曲がり角。
 俺が呼吸を整える前に、一人の男子生徒が姿を現した。
 電信柱に身を寄せ、何とかやり過ごす。幸いこっちに気がつかず、曲がり角を右に折れて、大通りの方へと抜けていった。
(よし……)
 ふうっ、と詰めていた息を吐き出して、狭っ苦しい石の壁から一旦抜け出す。

 しかし、それは迂闊だったと言わざるを得ない。
「星野君? 何してるの? こんなところで」
 思わず、跳び上がりそうになった。急いで振り返るとクラスの女子の姿があった。田中だったか鈴木だったかよく覚えていないが、今日は見間違えようもない。
 もう待ち伏せる必要はないと分かった。

「待ってたんだよ。お前を」
 緊張で声が震える。相手の返答いかんで、俺が赤っ恥をかくだけで済むのか、それとも……
「出しな。包丁を」
 凄みを込めた一言に肩を震わせたのを見逃すはずもなかった。何より、その反応に一番驚いたのは俺だった。こうなれば斎人の話を信じるしかない。
「な、なんのこと?」
「包丁を渡せ、と、そう言ってるんだ。見ちまったんだよ。鞄の中に入っているのをな」
「何の冗談……」
「いいから出せ。つべこべ言わず俺に渡すなら、今日のことは忘れてやる」
 どさりと地面に落ちた通学鞄。か細い手が震え、たどたどしくファスナーを開ける。白い手を突っ込んでぞんざいに取り出したのは、確かに鞘に収まった包丁だった。

「危ない!」
 斎人が叫んだ瞬間、少女は包丁を素早く鞘から抜き放って、俺に襲いかかってきた。一直線に撃ち出された銀色の刃が左胸に迫る。
 不意を突かれた俺は咄嗟に真横に踏みこんだものの、ぎりぎり刃をかわすので精一杯だった。体を反らしたことでバランスを崩し、ごつごつしたアスファルトに手をついて倒れ込んだ。それをめがけて少女はすかさず刃を振り下ろす。
「うわっ!」
 小さく叫んで体を捻る。空を斬った包丁が地面に当たって甲高い悲鳴を上げた。起き上がろうとするが、それを待ち構えるかのように斬り払われる刃に、俺は這いつくばったままじりじりと後退するしかなかった。
 がつんと背中が塀に触れた。もう退けない。すると、包丁を逆手に持ち替えた少女が一際大きく振りかぶった。
 その隙を、俺は見のがさなかった。刃を突きこもうと踏み込んだ少女の軸足を鋭く蹴ると、少女はよろめいて、その間に俺は立ちあがった。息を切らして塀に背中を張り付けている俺は、冷静さを取り戻しつつあった。
 唸り声を上げて、少女が突進してくる。けれど、思いのほか足へのダメージは大きいようで、先程よりも速度は遅い。はっと声を上げて気合を入れると、突きだされた腕をぱしりと捉え、受け流すようにしながら引き倒す。俺は少女の腕を返して、肘の関節を押さえ込んだ。
 くっ、と呻く少女は、もう動けない。合気道の基本技、『一教』。小さな力で大男もねじ伏せられる技であるうえ、体格も俺の方に分がある。勝敗は火を見るより明らかだった。
「おい、無駄な抵抗はするな。下手に動くと折れるぜ」
 力を失った手から包丁が離れたのを見て、それを素早く蹴り飛ばす。
「邪魔しないで」
 少女は俺をきっと睨んで歯ぎしりするが、全く動ける様子はない。
「邪魔なんてしないよ」
 突如、物陰から斎人が現れた。白い巻き毛がふわりと揺れ、口元は優美な曲線を描いていたが、まっすぐに少女を捉える眼は、品定めでもするかのように、冷たい空色に光っていた。
「あなた、確か転校生の……」
 少々意外だったようで、少女の声の殺気がいくぶん少なくなった気がした。代わりに、探るような目つきを斎人に向ける。
「包丁を見ちゃったのは僕なんだ。それで、星野君に協力してもらった」
「さっさと放して!」
 噛みつくように叫んでもがく。俺は腕に込める力を強めるが、バタバタと振り回される足は動きを止めない。
 その様子を見て、斎人は少し顔を曇らせると、何故か俺を振り返った。俺はびっくりして、腕に込める力を緩めそうになったが、かち合った斎人の視線は冷たい空色ではなく、少し色を濃くして、揺らめいていた。口元の微笑みもどこかぎこちなく、繕っているのだと知れた。少女には悟られないようにしながらも、俺と少女に交互に視線を泳がせて、握りしめた手には汗が浮かんでいる。
(迷っている……? 一体何を……?)
 俺が問いかけるような視線を投げると、斎人は小さくため息をついて、微笑みを繕った。まだぎこちなさが残るものの、妖精のような姿には不思議な魔力があった。
 斎人は、少女の顔の前にかがみこんで、そっとささやく。
「好きなんでしょ? 尾けてた男の子」
 少女の動きが止まった。
「いい? 殺す必要なんてないんだ。大丈夫、彼も君を好いている」
「どうして……」
 魂の抜けたような目で斎人を見つめ返す。
「間違いメールだね? 発端は。あれは彼の悪戯だよ。いわゆる、気持ちを確かめたい、ってやつだろうね。まぁ、ちょっと度が過ぎるとは、僕も思うけど」
「嘘!」
 引きつった顔で叫ぶ。
「だいたい、なんで転校生のあんたが知ってるの!」
 斎人は、ちらり、と俺の方を見て、思わせぶりに微笑んだ。
「嘘だ……」
 斎人の仕草を見て、女の声のトーンは一段低くなる。
「嘘かどうか、自分で聞いてみればいいじゃない。怒るのももっともだけど、問答無用で刺し殺すのは駄目だよ」
 真顔で言う斎人。 両手で掴んでいる腕が、少し硬さを失ったような気がした。
「……信じてもいいの?」
「少なくとも、僕と星野君は、嘘は言っていない。それは誓う」
「……分かった」

「ほら、放してあげて」
 斎人にそう促されて、ようやく、拘束する必要のないことに気がついた。解放された女子生徒は、ゆっくりと起き上がり、うち捨てられた包丁をしばし眺める。一瞬びくりと小さな肩が震えて、包丁から視線をそらし、そのまま立ち去った。すれ違う瞬間「ありがとう」と、弱々しい声が聞こえた。だが、そんなことはどうでもよかった。
 ――今の話は全部、初耳だった。
「どうやって、知ったんだ。俺も知らないことを」
「あ、あの男の子の愚痴を聞いたんだよ。ほら、君がやり過ごした人」
 ぽつり、ぽつりと話す斎人の声は、少し震えていた。
「嘘をつくな。あいつの顔は知ってるが、別のクラスのやつだ。お前はずっと俺たちの教室にいただろう。俺もそうだ。お前が聞いてて、俺が聞いていないはずがない」
「知らないよ。聞いたものは聞いたんだから」
 強がる斎人の眼は、しかし、少しおびえたような色をしていた。まるで小動物をいじめているようで、ちくりと胸の奥が痛んだが、構わずに質問を続ける。
「包丁もそうだ。鞄の奥深くにしまってあった。確かに、あいつは憎悪で頭がいっぱいだったかもしれねぇが、みすみす見られるような真似はしねぇだろ」
「見たものは、見たのっ」
 俺は心の中で舌打ちした。これじゃ埒が明かない。いろいろな可能性を吟味するしかねぇな。
 今のは全て演技だったのか? しかし、女は躊躇いなく刃物を振り回したし、演技をする理由もない。しいて言うなら俺に近づくというのが候補に挙がるが、もっと別のやり方があるはずだ。殺人を止めろと言われて、普通は相手にしないだろう。それとも、校内に知り合いでもいて、色恋沙汰のことを教えて貰ったのだろうか。いや、それなら真っ先にその知り合いに相談するだろうし、包丁を持っていたことには気づけなかったはずだ。女のことを知っていたなら、もっと賢い止め方があるだろう。
 つまり、こいつは、女以外は知りようがなかったことを、知ったのだ。
「まさか、さ……」
 斎人は、観念したかのように、ふっと息を吐いた。
「君の考えてることなら、合ってるよ」
「……マジで言ってんのか?」
「どうやって言い訳しても聞く気ないくせに、よく言うよ」
 斎人は不敵に笑う。
 ――こいつは、人の心が読める。
「よく気がついたね。正直、びっくりしたよ。まぁ、今回の一件をなんとかするために、誰かにバラすことになるかもしれない、とは覚悟していたけど」
 あり得ない、と俺は必死に自分に言い聞かせていた。しかし、何故か自分の中に生まれた仮説は揺るがなかった。知りたいと思う自分と、それを抑え込む自分がせめぎ合っている。
「いや、信じらんねぇな」
 苦し紛れにそう言った。
「信じないなら、信じないでいい。僕だって人に知られたくないもん」
 そのまま立ち去ろうとする斎人の背中を見て、好奇心が勝った。
「いや、待て。そいつはどういう仕組みなんだ? どうやって人の心を読む?」
「なんで答える必要があるの?」
「人に知られたくないんだろ? そのことを」
 斎人は、振り返ると、にやりと笑った。
「ふうん、僕を脅してるの? 君にそんな酷いこと、できる?」
「言っとくが、好奇心の強さだけは自信があるぜ」
 言いつつ、確かに良心が痛まないでもなかった。
「よく言うよ。相当プライド高いでしょ、君」
「うるせぇな。で、どうなんだ」
「言わない。話したかったら話してみれば? どうせだれも信じないよ。それに」
 体ごと向き直って、鋭い視線で俺の顔面を射抜く。
「秘密を握ってるのはお互い様だよ。心が見える僕の前では、秘密は秘密にならない」
「やめろ!」
 俺は思わず叫んでいた。
 やめてくれ、誰に向けるでもなくもう一度呟いて、固く目を閉じ、うなだれる。
「……いや、すまない。分かった。今日のことは忘れる。だから、それだけは、それだけはやめてくれ……頼む……」
 斎人は驚いた様子で俺を見つめていた。だが、それを気にする気力も俺には無かった。俺は荷物をとって、そのまま走り去った。

 毎日通る通学路に出ると、ようやく落ち着いた。大きく息を吐き出し、酷く疲れていることに気づく。
 思い出したように空を見上げると、真っ赤な海を、真っ黒な雲が切り取って、強烈なコントラストの斑点模様を作っていた。かつてないほど不気味な空。その景色は、俺の目の前にあの日の記憶を突き付ける。

 あの事だけは、あの事だけは、知られてはいけない。
 ぶるぶる震える手で、ペンダントを固く握りしめた。

***

(寒いなぁ……)
 くしっ、と小さなくしゃみを鳴らして、僕は執拗な視線の雨を通り抜けた。私服の転校生なんて注目を浴びるに決まっているけど、好きでそうしてるんじゃないんだし、放っておいて欲しかった。今はもう、誰とも関わりたくない気分なんだ。
 教室に入ると、案の定、四方八方から視線が突き刺さる。頑張って嫌そうな表情を作ろうとするが、あまりうまくいかない。ため息とともに席に座ると、思い出したように左隣を見る。
 隣の席の星野閃斗は、窓際の席で肘をついてひたすら外を見つめていた。その後ろ姿は何も語ることはない。だが、諦めることなく視線を窓の方に移した。
《確証はねぇが、『あのこと』はまだ斎人に知られてないだろう》
 立ち込める黒雲が作りだす暗がりが、窓の表面を磨きあげている。そこにはこちらに背を向けた星野君の顔がはっきりと映っていた。
 つんつんと逆立った短髪、見上げるほどの背丈、つっけどんな口調。彫りの深い目鼻立ち、日焼けした顔は、がっしりとした骨格に裏打ちされて引き締まっていた。いかにも体育会系だけど、細い眼の奥、真っ黒な瞳は冷ややかで、頭の回転の早さをうかがわせた。
 その眼に焦点を合わせると、その中に、うっすらとたゆたう水面が見えた。静かにゆったりと波打つ様子から、彼が平静そのものであることがわかる。
 これこそ、『心の見える』能力そのものだ。眼の中に現れる水面の波の様子や色から、おおよその感情が読みとれる。そして、頭の中で言葉をめぐらしているときは、その言葉がまるで船のように、水面の上を滑っていくのだ。
《つまり、斎人に分かるのは今現在考えてることだけで、記憶までは辿れねぇってわけだ。心を晒す機会は少ないほどいい。……あいつは確か、『心が見える』と言った。こいつは大きな手がかりだ。何かを見ることを通じて、心を見ている可能性がある》
 そこまで見て、思わずぞっとした。
《顔だな、たぶん。あいつは典型的な引っ込み思案だ。なのに、堂々と俺の目を見て話しやがる……》
 その瞬間、窓の中の星野君と目が合った。そこで、ぎくりとなって表情を変えたのがいけなかった。おそらくは全てを悟った彼は、素早く目をそらし机に突っ伏して、腕の中に顔をうずめてしまった。
(なんなんだよ、いったい!)
 僕は心の中で叫んだ。まったく、どうかしてる。心が見えるのは顔じゃなくて眼を見た時だけど、それ以外は全て図星だ。
 僕は茫然と傍らの同級生を眺めていた。もちろん、その背中は何も語らない。心を隠されている現実が、僕は信じられなかった。賢い人だとは思っていたけど、心を見るプロセスまで気がつくなんて、信じられない。まるで、真実そのものに一足飛びに辿りつくセンスを持っているみたいだ。
(まずい、まずいぞ)
 今の視線のやり取りで、反射を利用したテクニックも知られてしまったから、これから眼を盗み見る機会はほとんどない。その間にも星野君は、自らの保身のため、知識欲を満たすために、僕を調べ上げるだろう。それだけは勘弁してほしい。
(昨日、秘密は秘密にならないと言ってみたあのとき、星野君の焦りっぷりは尋常じゃなかった。よほど知られたくないことがあるんだ。それさえ、知ることができれば……)

 ちょうどその時、始業のチャイムが鳴った。教室のあちこちで生徒が席につく。
「ったく、ちょっとは返事してくれてもいいじゃねぇか……」
 言葉とともに舌打ちの音が通り過ぎた。我に返って顔を上げると、男の子が一人が去り際にこちらを睨んでいた。どうやらずっと僕に話しかけていたらしい。刺すような視線から、おぞましい嫌悪感が露わになっていた。
 それを見て、息が詰まった。
 自分に向く冷たい視線なんて、見慣れたはずだった。でも、今の視線のやり取りは、僕の心を深くえぐった。なんて、なんて、恐ろしいんだ。普通なら見えない、むき出しになった負の感情は想像を絶する痛みをもたらした。心が見えるようになったからには、この痛みとも戦わないといけないのか。そう思うと、背筋が震えた。
 我に返ると、昨日やりあった女子生徒が視界に入った。昨日の殺気に満ちた眼が嘘のように、晴れやかな笑顔を浮かべている。昨日の僕が望んだ結果だ。しかし、今の僕には、彼女が憎たらしくてしょうがなかった。

 
 三日後、家の前に星野君の姿を認めて、仰天した。
「なっ……」
 思わず隠れようとした僕に気がついてにやりと笑うと、彼は本を閉じた。
「おう、待ったぜ」
 そのまままっすぐ僕に近寄る。逃げられなかった。
「ど、どうやってここに……?」
 尾行されたのか? 星野君ならやりかねないと思ってたから、気をつけていたはずなんだけど。いや、それにしても、なんで先回りしてるんだ……?
「尾けてた、とか考えてるのか? まあ、半分当たりだ」
 口をへの字にした僕を見て、彼は笑った。
「図星か? 俺にも多少は心が読めるみたいだな。なに、だいたいの場所が分かれば、しらみつぶしに探すだけだ」
「し、しらみつぶし? この一帯全部?」
「ローマ字で表札出す方が悪いんだよ。『ときわぎ』なんて滅多にいねぇからな。独り暮らしのアパートに目星を付ければ、すぐだ」
「なんで……」
 僕は声が震えるのを止められなかった。
「なんで知ってるのさ、僕が一人暮らしだって、まさか……」
 ぎこちない沈黙が吹き抜ける。
「知ってるの? 僕に、親がいないこと……」
「……あぁ、そうさ。だから、今日は謝りに来たんだ」
 俯いた姿から、ひょうひょうとした態度が消えていた。
「だからさ、頼むから、入れてくれ……」
 か細い声で呟いた星野君の眼を見て、はあっとため息をつく。
「……どうせ無理やりにでも入るんでしょ」
「……ちぇっ、やっぱバレたか」
 小さく首を振って、がちゃりと鍵を回す。星野君は真後ろにぴたりと張り付いていて、油断も隙もない。僕に逃げ場はなくなった。

 一緒に部屋に入ると、カーテンは閉まったままで、夜かと思うほど薄暗かった。古ぼけた電灯が点くと、床の木目が浮かび上がる。
「……おいおい、ずいぶんと悪趣味なインテリアだな」
 見上げた星野君の視線の先には、天井からつり下がるロープ。先っぽは首がかかる様に、輪っかになっている。
「気にしないで、ずっと前から掛けてあるんだ」
「なんだってこんなものをずっと……」
「君のここに来た理由、もう一度言ってもらおうか」
 僕が無表情で睨むと、星野君は体を硬くして、顔をそむけた。
「分かってる」
 そう言って、彼は膝をついた。床の木板が悲鳴を上げる。
 その行動をいぶかしんでいると、決然とした表情の星野君は、額を床にたたきつけて叫んだ。
「すまねぇ! 節操ってもんが無かった。知っちゃならねぇ事にまで首を突っ込んじまった。許せとは言わねぇが、この通りだ!」
 僕は唖然として、彼を見下ろした。
(なんなんだ……この人……)
 僕はもう少しで口に出しそうになった。謝りに来たと言うのも意味が分からなかったけど、自尊心の強い星野君が土下座までするとは思わなかった。正直、警戒が先に立つ。演技なのか? でも、何のために?
「……眼を見せて」
 それが一番手っ取り早かった。星野君はゆっくりと顔を上げる。
その目はうっすらと濡れていた。けどそれは僕にとって些細な驚きだった。真っ黒な眼はガラスのように透き通り、身を切るような自責の念を露わにしていた。ここまで強い『意思』を僕は見たことがなかった。しかもその感情は、僕に対する深い同情に根ざしていた。
「……もしかして、君も大切な人を亡くしているの? ごく最近に……」
星野君は微かに俯いた。その瞬間、眼の奥に一人の少女が垣間見えた。綺麗な人だったが、その姿には血のイメージが纏わりついている。
 僕は、今まで他人に興味を持たなかった。お父さんとお母さん以外はみんな敵だったから、もし、興味を持ったとしても、それは結局自分を守るためだった。
 けど今、僕は星野君の過去を知りたいと思った。いかに乗り越えるか、その答えを、眼前の少年は知っている気がした。
「どうやって知ったの……? 親のこと」
でも、先に口に出たのはこっちだった。星野君が話し始める。
「中三の年明けに転校してくるなんて、余程のことがない限りそんなことはしねぇ。親の離婚か、死別か、俺にはそれくらいしか思いつかなかった。で、簡単な方から調べたのさ。半年以内に起こった殺人事件、事故……それで、三ヶ月前に起こった交通事故の記事を見つけた。お前の名前は載ってなかったが、親御さんの名前が載ってた」
「でもそれだけじゃ、僕が一人暮らしってことまでは、わからない」
「……学区内には孤児院なんかねぇし、親戚に引き取られたって考えんのが普通だ。だが、それは違うと思った。お前は私服だったからな。普通なら、前の学校の制服着てくるもんだ。事故があったのはすぐ近くだったから、お前は制服のある、この辺の学校に通ってたはずだ。つまり、何故か制服を失くし、新しい制服買うほどの余裕が無いってことだ。で、部活で知り合った他校の友達に片っ端から聞いてみたんだが……」
「待って」
 星野君は再び顔を上げた。嘘でないことを確かめる。
「そこからは僕が話すよ」
 僕は抑揚の無い声で言った。
「……てっきり止められるもんだと思ったんだが、いいのか? 思い出したくないんじゃないのか?」
「なんか、君なら……」
 僕は『わかってくれるかもしれない』の言葉を飲み込んだ。世の中そんなに甘くないことは、身にしみていた。けど、不思議と話すのは躊躇わなかった。

「いつからだっけ……物心ついた時には、もういじめに遭ってた。髪の色と、目の色のせいで」
 そう言って、真っ白な髪をさする。くるくると指に巻きつく髪は綿のように柔らかいけど、それが鬱陶しい。部屋の隅っこに置かれた小さな鏡に視線を移すと、くすんだ藍色の眼が映った。
「僕は何もしてないのに、ってずっと思ってたんだけどね、なんて言うのかな、だんだんすり替わっていくんだ。最初は周りの人が憎いんだよ。でもそのうち、人を憎いって思ってる自分が惨めになってきて、どうしようもない人間に思えてくるんだ。じゃなきゃ、こんな仕打ちに遭うはずがないもん、って。
 でもね、一度でもそんな愚痴を言ったことはなかったのに、一番辛くて、あとちょっとで折れてしまいそうな時、お父さんとお母さんはいつも励ましてくれたんだよ」
 そこで一旦話を止めて、僕は唇を噛んだ。
「けど、二人とも、死んだ」
 こもった声は、壁に届かずして消えた。
「三ヶ月前、絶望したよ。もうね、文字通り一日中泣いていたんだ。それまで、辛いのを我慢して学校にもなんとなく出てたけど、それどころじゃなくなったし、実際行かなかった。……あいつが来るまでは」
 視線を下げて、星野君の様子を窺うと、正座したままの閃斗が、まっすぐとこっちを見上げていた。なんとなく、その眼を覗くのがはばかられて、そのまま話を続けた。
「伯父、って言ってた。それももう本当のことかどうかは分からないけど、たぶん、嘘じゃなかったと思う。とにかく、あいつは突然やってきた。お坊さんを連れて来て、僕と一緒に小さなお葬式を出した。今思えば、あのときから警戒しておくべきだったんだ。僕らはクリスチャンだったのに……」
 徐々に、三ヶ月間抑え込んでいた怒りが、自分の皮膚を食い破るのを感じていた。体を流れるどす黒い熱に、焼き切れる寸前の神経がきりきりと悲鳴を上げる。
「忘れもしない、誕生日の前日だった。登校も再開して、立ち直りつつあったと思う。事故のことはみんな知ってたから、嫌がらせする人も減った気がした。あの時は、あいつは優しかったんだ。学校に行くことも無理強いしなかったし、引っ越すのが嫌ならここにいればいいって言ってくれた。でも、全部、全部嘘だった」
 もう、耐えられない。口からあふれだすのにまかせて、僕は叫び始めた。
「その日帰ったとき、門に大きな南京錠がかかってた。不動産屋の電話番号が貼ってあったんだ! あいつは、あいつは! ……僕が学校に行く間に、全て事を終えていた! 財産権を引き継いだのをいいことに、家を売り払ったんだ! 僕の物、父さんと母さんの物、家族の思い出を! 何もかも!
 馬鹿だったよ。あんな奴を、ちょっとでも親がわりだと思ったんだ。もちろん、強引に家の中に入ったよ。でも、余計苦しむだけだった。中の物は一切合切無くなっていた。家具も、家電も、食べ物も。ほのかに残っていた、お父さんとお母さんの匂いも、全部、消えていた。ただ一つを除いては」
 僕は口をつぐんで振り返り、当たり散らすような足取りで窓際の小物入れに近づく。この部屋の唯一の収納は作りが悪い。中々開かない引き出しと格闘して取り出したのは、一枚の写真だ。
「がらんどうのリビングに、ポツンと落ちてんたんだ」
 押し殺した声で言って、星野君に向かって突き出すと、写真に空いた二つの穴から驚愕の表情を張り付けた星野君の顔がのぞいた。斎人と一緒に写った両親の、顔のあった場所だ。鉛筆で無惨にえぐり取られている。両親の笑顔は、もう残っていない。
 写真をしまった僕は力無く腰を下ろした。しばらく黙って、またぽつりぽつりと語り始める。
「もう誰も信じないって誓った。そしたらいつの間にか、人の心が見えるようになってたんだ。これなら、誰にも騙されることなく、一人でも生きていけるって思った。で、今こうしているんだ」

 話し終えて、僕はぐったりとしたままうつむいていた。閃斗はその間、何も言わなかった。
 しばらくして顔を上げたとき、全身がだるく、頭に靄がかかったように感じた。乾ききった視界の奥には、まるで人魂のような藍色の光が揺らめいていた。それが星野君の眼に映る、自分の眼の色だと気がつくのに、しばらくかかった。
「なんでだよ……」
 星野君が、震える声で言った。
「なんでなんだよ! 何でお前、そんな話して、な、泣かずに、いられるんだよ……」
 尻すぼみになる声に、ぼうっとした頭が徐々に冴えていった。
「泣いて、いいの……?」
「え?」
「……馬鹿に……しない?」
 心からの言葉だったけれど、意外にも星野君の眼には驚きが見てとれた。口元をわなわなとふるわせながら、心の水面は次第に怒りと憐みをないまぜにして、渦巻き始めた。
「ふ、ふざけんじゃねぇ! 誰が、誰が馬鹿になんか……」
 星野君の反応は、僕には大きな衝撃だった。自分の中の柔らかいところを、知らず知らずのうちに覆って閉じ込めていた何かに、ひびが入ったような思いだった。唖然として見つめる間、星野君は大きく息をして、僕にかける言葉を探しているようだった。頬に涙を伝わせて俯いた彼の姿に、胸を打つものがあった。
 ぼーっとしている間に、少しずつ星野君の思いが自分の中に染み込んでいくのを意識した。しばらくそうしていると、突然自分の中で何かが弾けて、僕はわっと泣き始めた。
「うわあああああぁぁん……」
「お、おい」
 慌てる星野君の姿も、意識には上ってこない。
「お父さん……お母さん……どうしてぇ……えぐっ……どうしてっ!」
 必死になだめようとする声も、やがて聞こえなくなった。
 心の奥底から湧き起こる雫をそのままぶちまけて、僕は赤ん坊のように泣いた。透き通った、清らかな涙の流れは、体中をめぐって、全身の感覚を洗い流していった。

 
 薄暗かった。
 誰かが僕を呼ぶ声がする。いや、気のせいに決まってる。だって、僕は独りだから。
「おい、斎人。起きろよ、朝だぞ」
「う……ん……?」
「寝ぼけてんじゃねぇよ、朝だって言ってんだろ?」
 ぽかり、と頭を一発やられた。目をぱちぱちさせる。
「あれ?」
「あれ、じゃねぇよ。もう一発殴られたいか。まったく……」
 星野君はあぐらをかいて部屋の隅に座っていた。もちろん、最近越してきたばかりのぼろアパートの一室だ。相変わらず埃っぽくて、くすんだ窓ガラスから漏れる朝日はあまりに弱々しい。
「な、なんで君がここに?」
「お前、なんも覚えてねぇのかよ! それともなんだ、まだ寝ぼけてんのか?」
「え、ええっと、昨日君がここにきて、それで……」
「『あの話』をした後、お前大泣きしてさ、そのまま寝ちまったんだよ。まったく、赤ん坊じゃねぇんだから」
「う、うるさいな!」
「なんだ、いじめられっ子の割にはちゃんと言い返せるじゃねぇか。ほらよ」
 そう言って僕の方にレジ袋を放った。恐る恐る中を覗くと、何のことはない、菓子パンの包みが入っていた。そう言えば、結局昨日の夜は何も食べなかったっけ。
「あ、ありがとう」
 無断で家に押し掛けるような奴に借りを作るのは癪だけど、空腹には勝てない。そそくさとビニールの包みをちぎって、大ぶりのメロンパンにかじりつく。ざらざらした触感の生地を噛みしめると、香料の甘いにおいが鼻をくすぐる。なんだか、甘いものなんて久しぶりに食べた気がした。
 黙々と三個目の菓子パンを平らげると、頬杖ついてそっぽを向いていた星野君がビニール袋を差し出してきた。どうやら既に食べ終わっていたらしく、中には三つほどパンの包みが入っている。
「お前さ、本当に独りで生きていくつもりか?」
 ゴミを片付けている僕の背中に、星野君が呼びかけた。僕は振り返らず沈黙で答える。
「冷蔵庫もねぇ、洗濯機もねぇ、キッチンもねぇ。あんのは水道と風呂、トイレだけだ。服も数着しかねぇみたいだし、現金の貯蓄も見当たらない。こんなんで一体どうやって暮らしていくつもりだ?」
「……仕方ないじゃないか」
 消え入りそうな声で、僕は答えた。
「何が『仕方ない』だよ! 確かにお前が人と関わりたくないのは分かった。けどな、生活保護の申請をするとか、新聞配達するとか、いろいろ方法はあるだろうが。このままだと、そう遠くないうちに野たれ死んじまうぜ」
「それならそれで、いい」
「本気で言ってんのか? なら聞くが、なんでこんなもん作った?」
 閃斗は麻のロープでできた輪っかをつかんだ。
「死ぬつもりで作ったなら、お前は何故生きてる。本当は死ぬのが怖いんだろ?」
「うるさい!」
 ついに僕は振り返った。
「勝手なことばかり言って! 何様のつもりだ! じゃあ、もし同じ立場なら、君はきちんと行動できるって言うのか!」
「できねぇよ! だからこそ忠告するんだ。何も言わなきゃお前はずっとこのままだ!」
「なんだと!」
 きつく睨む視線を、星野君はまっすぐに受け止めた。瞬間、僕はその眼の中身に言葉を失った。本当に、心配してくれている。それがひしひしと伝わってきた。
「進路はどうする気だ? 行く高校決めてんのか? それともフリーターにでもなるつもりか? 中卒で、人間不信じゃやっていけねぇぞ。それにお前の見てくれじゃ、年齢詐称は無理だし、人目につく。力仕事にも向きそうにねぇから、そもそも雇ってもらえるか怪しい」
 全くの正論だ。でも、そこに救いの道はないことがはっきりとわかった。
「じゃあ、どうしろって言うんだ……」
「うちに来い」
「……え?」
「俺の家に住め、って言ってんだ。なんなら俺が家庭教師もしてやる。お前が付いてこれるかどうかは保証しかねるがな」
「な、え、なん……」
 慌てる僕を見ても、星野君は笑わなかった。
「ま、警戒するだろうな。言っとくが、義理や人情からこんな提案してるわけじゃねぇ。取引だ。俺はお前の能力に大いに興味がある。ギブアンドテイク、代わりにその能力についていろいろ聞かせてもらうぜ」
「そ、そんなに面白いかな? 別に君が人の心を覗けるようになるわけじゃないんだし……」
「面白いか、だって? 野暮なことを言うじゃねぇか。今までの話だけで気になることが山ほどある。考えてみろ、『他人』に『心』があるって証明できたやつは、誰もいなかったんだぜ?  それに、お前の能力は『心』が外からも認識できる現象であることも、同時に証明している。心を見るプロセスも気になるな。細かい眼の動きから無意識に読みとっているのか、可視光でない光を見ているのか、或いは光じゃなく、光と同じようにガラスで反射する未知粒子が存在して、それを見ているのか。さらには、何故そんな能力が芽生えたのか、何故お前にしかできないのか。疑問は尽きねぇ」
 ニヤニヤした顔で、閃斗は一気にまくしたてた。
「そ、そうなの……でも、その、君が勝手に決めていいことじゃないでしょ? 経済的なこともあるから、君のご両親が許してくれるかわからないし……」
 僕は暗い顔で続けた。
「嫌々引きとられて冷たい目で見られるくらいなら、一人がいい……」
 けど、星野君は笑いを引っ込めずに言った。
「は、なんだ、そんなこと心配してんのか。気にするんじゃねぇ、俺の家は金持ちだからな。その気になりゃ恐竜だって飼えるぜ」
「うーん、そんなもんかなぁ……?」
「大丈夫だって」
 そう言って、急に真顔になった閃斗は、背を向けてゴミ袋を片付け始めた。
「すぐに決める必要はねぇ。だが、今日一日は家に来てもらうぜ。話したいことがある……秘密にしてても、どうせバレちまうだろうしな」
「話ならここで聞くけど……」
「時間見てみろ。あと五分で出ないと遅刻だぜ? それに、遠慮なんかするんじゃねぇ。俺だって家に押しかけて泊めてもらったんだからな」
 反射的に『うん』と言いかけたのを堪えて、僕は立ち上がった。背後のリュックを手にとって、無言で教科書を詰める。
(義理や人情じゃないって言ったくせに、矛盾してるじゃん。カッコつけちゃってさ……)
 心の中で呟いた僕は、しかし、星野君の提示した取引は僕に遠慮をさせないためのものだと、無意識のうちに気がついていた。

***
 
 どくんと俺の心臓が波打った。
 背後では、斎人が身支度をしている。しばらくは目を合わせずに済むが、それまでに心を落ち着かせ、取り繕わねばならない。もし今の心を読まれたら全てが駄目になる。なんとしてでも隠しとおさねばならない感情が、俺の中に沸き起こっていた。
 俺は斎人を疑っていた。
 
 もちろん、本気で疑っているわけではない。むしろ、ありそうもないことだと、心の中で首を横に振っていた。しかし、胸の奥の方で疑念は確かに疼いていて、忘れようと思っても決して消えない。それほど、俺にとってあの記憶は信じがたいものとして残っているのだった。『あの話』を斎人にぶつけ、反応を見ないことには、疑念は消えそうになかった。
 最大の問題は、今日一日、斎人からこの感情を隠さねばならないことだ。しかも、昨日までとは状況が違う。斎人に露骨に隠し事をすれば、斎人は悲しむし、俺への信頼を失うことになる。そうすれば、斎人を立ち直らせることのできる人間は、誰もいなくなってしまうだろう。
 斎人の前を歩いて学校へ向かう道すがら、俺は必死に策を練っていた。

***

 僕にとって、学校生活の中で一番鬱陶しいのは給食の時間だった。
 教室の端っこで、給食当番の生徒たちが白衣を脱いで袋に押し込んでいる。配膳はもう終わったので、後は当番の生徒が座るのを待つのみだ。
 僕の目の前には星野君の姿。それと、隣と斜め前に女子二人。鬱陶しさの原因は、四人で席をくっつけて食べなければいけないことだった。
 いただきますの声がおざなりに響くと、僕は箸に手をつけずに目を閉じ、しばらく待ってから食べ始めた。
「ねぇ」
 鮭の切り身を口に運ぶ僕に、女の子が声をかけてきた。
「ずっと不思議だったんだけど、なんですぐに食べ始めないの?」
 僕はそれが聞こえないふりをして、蒸しご飯に箸をつける。給食用のご飯は一度にたくさん作るので、炊かずに蒸して作る。だから決まって味がなくて、糊のようだった。
「親がクリスチャンらしいから、きっと食前のお祈りだろ」
 僕は箸を止めた。
 女の子は、へぇっという顔で、まじまじと星野君を見た。
「いつの間にそんなこと聞いたの?」
「ちょっとな」
 そう言って笑う星野君の意図を、僕は測りかねていた。やめてくれよ。他人と関わりたくないの、知ってるくせに。
「ねぇ、榊君ってさ、ハーフなの? そうだとしても珍しいよね、真っ白な髪って」
 僕と星野君を交互に見つめて、もう一人の女子が聞く。黙れ黙れと心の中で念じながら、牛乳パックにストローを挿す。牛乳はあまり好きじゃないけど、まともにありつける食事は給食くらいしかないから、そうも言ってられない。
「クオーターらしいぜ。何でも、爺さんがフランス人だとか」
「違う、イギリス人!」
 思わず否定した瞬間、星野君がにやりと笑うのが分かった。しまったと思った時にはもう遅く、矢継ぎ早に質問が飛んでくるハメになってしまった。一度答えてしまったものだから、どうにもしつこい。――前はどこの学校にいたの? 親は何してるの? どうして転校してきたの? ――しかし、僕がどんどん暗い顔になるのを察したのか、話題は徐々に僕の好物や、得意なことに移っていった。あんまり無邪気に訊くものだから少し後ろめたくて、絵を描くのが好きだと漏らすと、やけに感心した様子なので、思わずその眼を疑ってしまった。ぎこちないやり取りが終わって、ようやく、市内の中学で起こった傷害事件に話題が移ったときには、とっくに食べ終わっていた。当番の生徒がじれったそうにしているので、慌ててお盆を持っていく僕の後ろでは、星野君が小さくため息をついていたが、気にも留めなかった。


 学校帰りの人気のない路地。隣を歩く星野君に、僕はむすっとした顔のままささやいた。
「なんだって、あんなこと言ったのさ」
「どうせ無視する気だったんだろ? そんなこと続けてたら、誰もお前のこと構わなくなっちまうぜ」
「余計なお世話だよ。もう誰とも関わりたくないんだ。知ってるでしょ?」
「あのな、確かにいろいろ詮索してくるが、お前と仲良くなりたいと思ってそうしてるんだ。騙したり、おとしめたりしようとして訊いてるんじゃない」
「……あの事は、話したくない。それに、話してしまっていたら、僕は君の秘密を守ろうとは思わない。君も困るよ」
「訊かないように気を遣ってくれただろ? もし訊こうとしても俺が止めたさ。それに、まんざらでもなさそうだったじゃねぇか、お前も」
「……うるさい。で、どっちなの、君の家」
 立ち止まった僕に、星野君は右だと言って、先を歩く。僕は黙ってそれに従う。何もかも打ち明けた反動で朝から会話は少なかったが、給食の一件があってから、僕は休み時間のたび質問攻めだったし、閃斗の仕打ちに腹が立っていたので、話しかける気にもなれなかった。だから、クラスの人に絵を描いてとせがまれたときは、隣で眠そうにしている星野君をモデルに、ずる賢そうなキツネを描いて、うっぷんを晴らしたりしたけれど。
「着いたぞ」
 声をかけられて顔を上げると、急に目の前が開けたのが分かった。僕は門の前に立っていた。夕日を纏って鈍く輝く、凝った作りの鉄格子の門は、僕の背丈の倍はあった。その門の脇には、生垣が真冬にもかかわらず青々と茂り、左右均等に、路地の奥の方までずらりと並んでいる。目を凝らすと視野に入る限り、全て丁寧に切りそろえられているのが分かる。
「え?」
 思わず顧みる僕に、星野君はにやりと笑ってみせた。
「言ったろ? 金持ちだって」
 そう言って門に手をかけると、堅牢な門はやすやすと開いて、僕らは芝生の中を突っ切る石畳の道に入っていった。

「ただいま」
「お帰りなさい。あら、友達? 珍しいわね」
 家の外も凄まじかったが、中も相当だった。大理石の床は鏡のように磨きあげられて、てらてらと不思議な光沢を放ち、訪問者を出迎える階段は絨毯張りで、手すりには草花をかたどった華麗な装飾が施されている。そしてその上には、燦然と輝くシャンデリア。
「ねぇ、金持ちったって限度があるでしょ」
 唖然としている僕に、星野君は苦笑した。
「『玄関は家の顔』が父さんの口癖だからな。居心地悪いのはここだけだから、安心しろ」
 恐竜だって飼える、と豪語したのも、あながち冗談じゃないのかもしれない。
「星野邸へようこそ。えっと、お名前は?」
「と、榊です。榊、斎人」
「へぇ、変わったお名前ね。待ってて、今お茶を用意しますからね」
「あ、いや、お茶はいい。二人で話したいことがあるんだ」
 女性はちょっと眉を持ち上げたが、特にいぶかる風もない。
「あら、そうなの」
「あと、今日は泊ってもらうから、食事は二人分頼む。いつも通り、時間になったら俺の部屋に運んでくれるか」
「はいはい。お部屋はどこにするの?」
「俺の部屋でも、もう一人くらい寝れるだろ。そうしてもらうよ」
「わかりました。では、ごゆっくり」
 そう言って、奥の部屋に引っ込んでいった。

「……若いお母さんだね」
 そう言うと、星野君は吹き出した。
「違う違う、お手伝いさんだよ。母さんは忙しいからな」
「……知らないもん、そんなの」
 僕は顔を赤くした。確かに、この家ならお手伝いさんの一人や二人、いてもおかしくないけどさ。
「というか、眼に書いてなかったのか?」
 星野君は不思議そうに尋ねる。
「……あのね、心は見えても、読むのはそんなに簡単じゃないんだよ。雲行きを見て先の天気を当てるみたいな感じ。考えてごらん。『今自分がどんな気持ちで、何を考えているか』なんて、はっきり説明できるものじゃないでしょ?」
「なるほど、一理あるな。しかしその割には、俺の考えてることは筒抜けだったじゃないか」
「……君は読みやすいんだよ。単純だから」
「ちぇっ、言うようになったな」
 本当は、単純だと言うのは褒め言葉だった。普通、眼の奥に見える心の水面ははっきり見えず、不規則に波打っているし、言葉が浮かんでいることも少ないのだけど、星野君は違った。思考回路のほとんどがテキスト化されていて、水面を覆うように湧き出る言葉が互いにぶつかり合い、新しい言葉となって、また漂っていく。その奥に透けて見える水面の動きもはっきりしていて、躍動感にあふれている。見ていて飽きないほどだ。たぶん、賢いというのはこういうことなのだろうと僕は考えていた。でもそう言って閃斗が調子に乗るのも癪だから、『単純』と言ってごまかしたのだ。
 階段を上りきると、明るい森の中で二羽の小鳥が鳴き交わす様子を描いた、綺麗な絵に出迎えられた。左に折れて長い廊下を突っ切るとようやく星野君の部屋だった。確かに玄関ほどきらびやかではなかったが、それでも普通の家のリビングくらいの広さはあったし、ふかふかのソファ、ベッド、テレビ、オーディオ、パソコン、タンス、勉強机、本棚。中学生の部屋としては十二分の設備が整っていた。
「まぁ、適当に座ってくれ」
 僕に向かって薄いクッションを放ると、星野君は絨毯の上に同じものを敷いて座った。
「あ、ありがと」
「ま、これが俺の家だ。見ての通り金は有り余ってるし、親もあまり家にいねぇから、居候するのを気兼ねする必要はねぇ。親や使用人も家族が増えたと喜ぶだろ。でもまあそれはお前が決めることで、今日呼んだのは俺の話をするためだ」
 そう言って、星野君は目をつぶった。
「悪いが、しばらくは俺の眼を見ないでくれ。……自分の言葉で話したい」
 その言葉にはどこか引っかかるものがあったが、今までの様子から、辛い話だと察していたから、僕は小さく「分かった」と答えた。

「篠原 友璃(しのはら ゆうり)」
 星野君はその名を出して、ちょっと間を開けた。どこか、僕の反応を窺っているような気がした。
「俺の、えっと、友達だ。学校は別だったが、小さいころからの知り合いでな。けど、先月死んじまった」
 はっとなってまじまじと星野君を見る。制服の上からでもわかるほどしなやかで屈強な体つきの中に、ぽっきりと折れてしまいそうなか細い芯があるのを感じた。
「あの日、俺は友璃と出かける予定だった。けどいくら待っても駅に来ねぇし、電話しても返事がねぇから、様子見にあいつの家まで行ってみることにした。呼び鈴鳴らしても出ねぇから、おかしいなと思って試しにノブを捻ってみたら、開いた。ますます変だと思って中に入ったら、友璃が勉強机に突っ伏して首から血を流していた。俺が着いた時には、もう……」
 そこで口をつぐんで悔しそうに首を振った。
「友璃の母親も、リビングで刺されて倒れていた。母親は助かったが、友璃は逝っちまった。で、問題はこれだ」
 星野君は目を閉じたまま学生服のボタンを少し外して、女物のペンダントを取り出す。手のひらのちょこんと乗っかった小ぶりでハート形のペンダントは、友璃が生前持っていたものだという。写真なんかを入れるために中が空洞になっているようで、星野君は薄目を開けて銀色の蓋を取り外し丸まった紙きれを取り出した。星野君が丁寧にその紙を開くとかさかさと乾いた音がした。名刺くらいの大きさのメモ用紙には、赤黒い血が飛んでいて、ひび割れた大地のようにしわが走っている。眼を凝らすと、震えた鉛筆の字がかろうじて読みとれた。

 わたしが お母さんを 殺した 
 ごめんなさい
 わたしも
 さようなら

「病院で目を覚ました友璃の母さんは、友璃の変わり果てた姿を見て、自分で自分を刺したのだと言った。俺もこの紙は警察に見せていない。しかし、包丁は友璃の手元に落ちていたし、友璃の母さんの傷はとてもじゃないが自分で刺せる場所じゃなかった。背中から刺されていたからな。ただ、俺は警察に必死に頼み込んで、友璃が母を傷つけたということは黙ってもらうことにした。死んだ友璃の名誉のためにな。
 思い当たる節が無いわけじゃなかった。前日、友璃は母さんと喧嘩したと言ってた。確かに友璃の母さんは厳しかった。でも、一人娘の友璃を本当に可愛がっていたし、父さんのいない友璃も、女手一つで育ててくれた母さんを慕っていた。それに、あんなに優しかった友璃が、そんなことするはずがなかったんだ。今でも、俺は信じられない」
 信じられないんだ、星野君は、自分に言い聞かせるようにして、もう一度呟いた。

***

 不意に、斎人への疑念が全て馬鹿馬鹿しく思えてきた。
 俺が引っかかっていたのは、斎人と出会ったあの日、斎人が殺人を止めたことだった。斎人は心が見える能力を使って、殺人衝動に駆られた少女を説得したわけだ。斎人の力は一人の命を救い、一人の罪を防いだ。友璃の一件と真逆だ。
 友璃の行動は、自発的なものとは思えない。ということは、友璃本人すら気がつかないうちに誰かがそそのかしたのだということになる。それはそれでありそうもない話だが、心の見える能力があったらどうだろうか。そんな疑惑が、昨日斎人が寝入った後に頭の片隅にふっと浮かんできたのだ。もちろん難しいに違いない。しかし、目の見えない人が絵を描いたり耳の聞こえない人が曲を作ったりするよりも、心の見える人間が心を操る方が至極たやすいだろう。
 ぽんぽんと優しく肩を叩かれて、眼を閉じたまま顔を上げた。
「話してくれて、ありがとう」
 斎人の声は柔らかく響いた。
「大丈夫。友璃さんの名誉のために、今日聞いたことは誰にも言わない。絶対に。……約束する」
(そうだよな……)
 俺は自分が恥ずかしくなった。斎人がそんなことをする理由もないし、そもそも、斎人は人の命をもてあそぶような奴じゃない。斎人の能力ばかりに気をとられて、斎人その人を見ようとしていなかった。……この愚かな妄想は、すっかり忘れてしまおう。そう誓って目を開ける。
 斎人の反応に神経をとがらせていた集中の糸が切れると、どっと疲れが押し寄せてきた。友璃の顔と血の色がちらついて、思わず涙が落ちそうになる。友璃……俺は小さく呟いた。

***

 その後しばらく、僕と星野君は一言も会話を交わさずに黙りこくっていた。ごろりとソファに横になった星野君は、ときどきしゃくりあげるようにして泣いている。普段の様子からは想像しがたい姿だが、無理もない。まだ一ヶ月しか経っていないのだ。僕だって、まだしょっちゅう泣きたい気分になる。
 青色のクッションを抱えて考えていたのは、話し終えた星野君の眼に浮かんだ女の子の姿。昨日、謝る彼の眼に垣間見た少女だった。きっと、篠原友璃さんの姿なのだろう。滝のように流れ落ちる黒髪は滑らかで、お嬢様らしい品のいい顔には微かに紅が差していた。けれど、僕が気になっていたのは、星野君の眼の中の彼女がまっすぐこちらを見つめて、しきりに何かささやいていることだった。その声は聞こえなかったけど、あれは一体何と言っていたのだろうか。
 
 料理は七時きっかりに部屋に運ばれてきた。運んできたのは先程のお手伝いさんで、しんみりとした部屋の空気を察したのか、お盆を置いてさっさと出て行ってしまった。詮索しないでくれるのは有難かったが、飼われているかのような、居心地の悪さが募った。
 メニューはライ麦パン、鮭とほうれん草のクリームシチュー、シーザーサラダ、プリン。他の皿に比べて、シチューだけやけに家庭的な雰囲気が漂っていたのに少し違和感を覚えた。
「……おいしい」
 猫舌の僕にはちょっと熱かったが、とろりとしたシチューはほんのり甘くて、飲み込むとお腹の底の方がじんわりと暖かくなった。ほうっと息を吐き出すと、ふわふわと白い湯気が漂って、にんじん、玉ねぎ、ほうれん草、暖かい野菜の匂いが口いっぱいに広がった。その香りは、不思議とどこか懐かしいような、そんな気がした。
「だろ?」
 サラダをつついていた閃斗は、嬉しそうだった。
「母さんな、忙しいけど、夕飯の一品だけは必ず自分で作るんだ。そりゃ、プロじゃないから見た目はコックの作ったやつに叶わないけど、負けず劣らず旨いんだぜ」
 ふと、キッチンに向かうお母さんの姿が蘇ってきた。そういえば、牛乳嫌いの僕に、しょっちゅうシチューを作ってくれたっけ。最初はいやいや食べていたけど、僕向けに甘く作ってくれるようになってから、シチューは僕の好物になった。どこか懐かしいのは、忘れかけていたお母さんの料理の味を思い出したからかもしれない。そう考えると、鼻の奥の方がつんと痛くなった。泣き出しそうになるのをこらえながらスプーンを動かしていたら、ずいぶん時間がかかったけど、とろみのあるシチューはずっと暖かいまま僕を待っていてくれた。

 食事の後はお風呂に入った。なんとなく予想はしていたが、お風呂場は一人用にしてはずいぶん大きかった。星野君に勧められたとはいえ、先に入ることには少し罪悪感を覚えたが、お湯につかるのもしばらくぶりだし、まだ時間も早いので、その申し出に甘えることにした。
 石鹸を泡立てて、細い腕にこすりつける。思えば、伯父に家を売られてからというもの、心身ともに汚れ、すさんでいく一方だった。もし、あの時星野君に話しかけていなかったら、一体どうなっていただろうか。
 お湯につかると、思わずため息が出た。三ヶ月分の疲れが一気に取れていくような気がした。僕もずいぶんオッサン臭くなったな。突然そう思って、むしょうに可笑しくなった。十分か二十分、しばらくぼうっとしていると、ある顔が浮かんできた。
(……まただ)
 先刻の篠原さんの顔は、やはり必死に何かを伝えようとしているような気がした。けど、どうしてこうも目に焼き付いているのだろうか。それがよく分からなかった。相変わらずその声は聞こえないし、まっすぐこちらを覗きこんでいる。
 唇の動きから何を言っているのか探ろうとしていた僕は、ふと思いついて、その黒い眼の奥に意識を集中することにした。映像や写真の眼を見ても心は見えないけど、記憶の中の眼ならどうだろうか。閃斗の眼の中の、さらに友璃の眼の中を覗くことになるのであまりうまくいくとは思えなかったが、妙に鮮明な記憶の中の眼にメッセージが宿っているのが見えた。
「もうひとり、いる」
 口に出してみた僕には、その意味するところは分からなかった。もっとよく見ようとしたけど、集中が途切れたのか少女の顔はかき消すように消えてしまって、それっきりだった。
 
 部屋に戻ると、星野君が入れ替わりで風呂場へと向かった。僕はソファに寝転がって、かけっぱなしになっていたクラシックに耳を傾ける。中三にしてはずいぶん渋い趣味だと思ったけど、ひょっとしてピアノなりバイオリンなり習っているのかもしれない。
(おぼっちゃまだもんな。上品さはかけらもないけど)
 思わず笑ってソファに腰掛けると、めまぐるしいピアノの旋律が止んだ。代わって、ゆったりとしたバイオリンの調べが始まると、篠原さんのメッセージについて考え始めていた。
 もうひとりとは誰のことなんだろう。
 そもそも、もうひとりと言うからには、誰か対比する人がいるんだろう。もうひとり心の見える人間がいるということかな。そうだとしても、何故篠原さんが僕の能力を知っているのだろう。あるいは、閃斗が心の奥でそう思っているのかな。だとすれば、どうしてその考えが篠原さんの眼に宿ったのか。
 篠原さんは何を伝えたかったんだろう。
 曲が変わって、再びピアノの旋律が響き始めた。この曲は知っている。ベートーベンの『月光』だ。僕の家にピアノは無かったけど、お父さんが時々聴いていた。その、もの悲しい調べは、しかし、じんわりと心の奥をあっためてくれる気がした。聴いているうちに、うとうとまどろんでくる。ここ三ヶ月の中で今が一番幸せだと、心から思った。白いクッションを抱きしめて、僕は幸せな夢の中に溺れていった。


 ――結局、篠原さんのメッセージのことは星野君に言わなかった。しかし、今思えば、このときに伝えることで、救える命があったのかもしれない。

二章 鼻もちならない少女

 高校受験が迫っていた。
 さして成績が良かったわけでもなく、ましてや三ヶ月間勉強をほったらかしにしていた僕にとって、状況は絶望的だった。一番早く始まる私立推薦の願書受付開始は、五日後に迫っている。まだ間に合うとはいえ、進学を考えるなら迷っている暇はなかった。

 結局、僕は星野家にお世話になることにした。あまりの待遇に申し訳なさばかりが募ったけど、正直他に選択肢はなかった。星野君の言葉で目が覚めたのだ。心が見えるとはいえ、たった一人で世を渡っていくには、僕はあまりに物を知らなさすぎた。
 ――あ、星野君だとよそよそしいから、閃斗と呼べって言われたんだっけ。
 両親には、閃斗が話をつけてくれた。僕の境遇――両親に先立たれ、伯父に騙されて全財産を失ったこと――を話すと、二人は快く僕を受け入れてくれることになった。お手伝いさんやら庭師やら料理人やら、全部ひっくるめて二十人もいるのは流石にぶったまげたけど、閃斗の言っていた通りみんな家族が増えると喜んでくれたし、眼を見る限り本心からそう言っているようだった。
 ところでその能力のことだけれど、僕に人の心が見えることは僕と閃斗だけの秘密に留めることにした。閃斗の両親に黙っているのはなんとなく気がとがめたけど、閃斗曰くビジネスの最前線で活躍する両親が斎人の能力を知れば、ひょっとしてほうぼうで利用されることになるかもしれない、とのことだった。それぞれの会社の業績が数万の社員の生活に直結している以上、それを向上させる手段があるなら使わないわけにはいかないんだ。閃斗は厳しい顔で言った。

 進路について、一番無難なのは私立中堅校の推薦入試に出願することだった。滑り止めとして受ける人も多い私立中堅校では確実に生徒を確保するために推薦枠が多く、同じ学校、コースでも一般入試に比べれば難易度は低かったし受験科目も国数英の三科目だった。また、学校内の学力層が厚いために入学後の頑張り次第で在学中に進学コースに上がることができた。けど問題は、私立高校は軒並み授業料が馬鹿にならないことだった。
 星野家の財力からすれば、授業料なんて大した額ではないかもしれない。でも、親戚でもない赤の他人の家に転がり込む以上なるべく迷惑はかけたくなかった。できることならいつか受けた恩は全て返したいと思っていた。しかしそれも幼い子供の甘い考えなのだと、心のどこかで気がついていた。
 けれど、僕の迷いは、閃斗の一言で吹っ飛んでしまった。

「お前は俺と一緒に月高に入るんだ」
「え?」
 学校からの帰り道で切り出した閃斗の言葉に、僕は耳を疑った。
 月高と書いて『つきこう』、あるいは『げっこう』と略される県立月島高等学校は、ここ一帯では私立高校を差し置いて最難関の進学校だった。一学年三百六十人のうち七割が旧帝国大学やら有名私立やら医学部に進学するという華々しい活躍っぷりで、全国的に見ても中高一貫の有名私立には後れをとるものの、公立高校の中ではトップクラスの進学実績だった。もっとも、一学年の半分は浪人するという話ではあったが。
「つ、月高って、あの月高? と、トップ校じゃん!」
「そりゃあもちろん、俺が行くんだからな」
 あ、このナルシストめ。出願もしてないのに合格確定みたいな物言いを……
「無茶言わないでよ! 僕の成績そんなに良くないし、三ヶ月間全く勉強してないんだよ?」
「俺が教えりゃ何とかなるさ。それに、お前は自分が思っている以上に賢いと思うぞ?」
「え?」
 認めるのは癪だけど、閃斗の学力は本物だった。部屋にとってあった定期テストは、ほとんどが九十五点以上、数学や理科は満点でない方が珍しいくらいだったし、本棚には『量子力学』とか『解析入門』とか、見たこともないような分厚い本が並んでいた。大学で扱う内容だと聞いた時には、「気持ち悪っ!」と叫んで、閃斗に睨まれたっけ。
 そんな閃斗だから、もしかしたらできる人の見分けがつくのかもしれないと思っていたら、閃斗の言葉は期待を裏切るものだった。
「なんせ、転校してきたその日に俺を出し抜いたんだからな」
 それを聞いてがっくしと肩を落とした。つまりは自分が利用されたことが悔しくて、僕を持ち上げているだけなのか。買いかぶりもいいところだ。
「あのねぇ……僕の内申点知ってるの? 学年末テストも終わっちゃったし、万が一、当日点が満点だったとしても、門前払いだよ?」
 県下の公立高校入試では、各中学校で出す通知表の内申点と試験問題を解いて出た当日点の合計で順位が決まる。内申点は、九科目五段階評価で、それを二倍したのが点数になるから、九十点満点、当日点は五科目それぞれ二十点の百点満点だ。月高のボーダーがどれくらいなのかは知らないが、僕の一学期の内申点は二十八点、二倍すると五十六点だし、ほとんど登校しなかった二学期に至っては二十点だ。三学期の成績は一年間の平均として算出する以上、当日点で百点をとっても、結果はお察しだろう。
「それなら大丈夫だ。うちの中学甘いからな。月高目指すって言えばそれなりに配慮してくれるさ。俺だって……その……美術はいつも三だったが、たぶん五にしてくれるだろうし」
「……それってなんかズルくない? なんでそこまでして月高に行かなきゃならないのさ? 確かに、僕だってできることなら閃斗と一緒の高校に行きたいけど……無理だよ」
「……一緒の高校、それもあるけど、お前、西中の奴に会いたくないだろ?」
「あ……」
 西中、僕が前いた中学校、苦い思い出の多い場所だ。そっか、忘れてた。当然、西中の人たちも受験の年なのだ。入学後、高校で顔を合わせるのは大いにありうる。思わず、ぶるりと身震いした。
「……そう……だね」
「だろ? 月高はここから電車で一時間、だいぶ離れてる。しかも、西中学区のすぐ近くには竹高があるから、この辺の中学なら成績上位層の大半がそっちに行く。竹高も月高ほどじゃないが十分進学校だしな。それに、月高とセットで受けられる公立高校はあまりぱっとしないところが多いから、なおさら竹北とセットで受けられる竹高を選ぶ奴が多い。北中から月高目指すのも今のところ俺だけだし、西中からもせいぜい一人か二人くらいだ。西中の奴が来る可能性は低い」
 閃斗の言葉に僕はうなずいた。閃斗は続ける。
「それに、勉強できる奴はだいたい人間もできてることが多いからな。よっぽどいじめなんて馬鹿な真似する奴はいねぇ」
「それはどうだろう……?」
 なんか自分は人間ができてるって言いたいだけのような気がするんだけどな。
「ま、もちろん統計なんかとっちゃいねえからなんとなくだけどさ。月高行こうぜって言ったのはそういうわけだ」
「なるほど……うーん、でも、本当に大丈夫なのかな……」
「大丈夫だって。月高受けるって言ったって、入試問題はどの公立高校でも一緒だろ。それに、その入試問題の難易度は全都道府県の中で最低クラスなんだぜ? 俺と同じくらい勉強すれば今からでも何とかなる」
「君と同じくらい勉強って……君は要領がいいし理解も早いからいいけど、僕が同じだけ勉強しても間に合わないよ」
 勉強のできる人って言うと、授業聞いてるだけで理解してそれほど勉強に時間を割かなくても満点取っちゃうとかそんなイメージだった。
 しかし、僕の言葉に閃斗は驚いたように言った。
「へぇ、まだ気がついてなかったのか。言っとくが、俺は頭悪いぜ」
 な、こいつめ。どの口が言うか。過剰な謙遜は逆にウザいって知らないのか。
 と、僕の心中を察したのか、閃斗はにやりと笑った。
「頭悪いって言うのは、勉強できねぇって言ってんじゃねぇ。生物学的な意味でだ。海馬って知ってるか? 脳の中の、短期記憶をつかさどる部分だ。形が海馬、つまりはタツノオトシゴに似てるからそう呼ぶんだが、俺は生まれつき海馬の機能が低い。要するに、物忘れが激しいんだよ。爺さんみたいにな。一旦しっかり覚えて、長期記憶として保管されてしまえば忘れねぇんだが、記憶を定着させるまでが苦手なんだ。普通の奴が三回で覚えられることも俺には十回やらないと覚えられない」
「え? ちょっと待って、それで今の成績ってことは……」
 閃斗はふふんと得意げに鼻を鳴らして、
「一日のノルマは平日八時間、休日十六時間。それが俺の平常運転だ。今日からお前にも同じだけやってもらうぞ。なに、中学の勉強なんて丸暗記と計算練習だ。そんだけやれば何とかなるだろ」
「へ、平日八時間? そんな、物理的に無理じゃん! だって、七時半に学校行って、四時半に帰ってくるでしょ? 起きてから出るまでに三十分、帰ってからも二時間半しかないじゃん!」
「なんでお前十二時間も寝てんだよ! ガキか!」
「え、だって、することないし……」
「勉強しろ! ったく、よくそれで平均キープできたな。逆に希望が見えてきたぜ」
「え、じゃあ君は何時に寝て何時に起きるの……?」
「六時に起きて十二時に寝る。あんまり睡眠削り過ぎても逆効果だからな」
「六時間しか寝てないの!? なんで生きていけるの!?」
「そんな簡単に死ぬか! まったく……」
 そうこう言っているうちに、そそり立つ門の前に着いていた。

「で、どうするんだ? やる気はあるのか?」
 小路の中ほどで立ち止まった閃斗は、家に入る前に僕の意思を確かめておきたいようだった。
「え、ええと……」
 僕は正直、自分がどうしたいのかよく分からなかった。これまで今日この日を生きるのに精一杯だったから、机に向かって勉強すること、ましてや自分が高校に通う姿など想像もつかなかった。けど、改めて考え直してみる。
(月高か……きっと、賢い人、閃斗みたいな人がいっぱいいるんだろうな……いや、それは不気味だけど)
 今まで、僕には年の近しい人で尊敬できる人はいなかった。同級生はみんな僕にひどい仕打ちをするから軽蔑の対象としか見ていなかったのだ。閃斗は閃斗でもちろん感謝しているし凄い人だとは思うけど、いかんせん自分の能力を鼻にかけているのが気に食わなかった。もうちょっと謙遜ってものを覚えようよ。ねぇ。
(尊敬できるような人と、友達になれるだろうか……)
 そう考えると、急に閃斗の提示したシナリオが、魅力的なものに思えてきた。
 そんなわけで、僕は無意識のうちに、『うん』と言ってしまっていた。


 始めて一時間で、僕は後悔していた。
 初めに、社会科に取り掛かることになった。閃斗は教科書の虫食い問題を印刷して僕に手渡す。「分からんところは飛ばせよ」とは言ったけど、いや、ちょっと待って。『が』とか『の』しか残ってないじゃないか。ほとんど埋まらないまま進めるけど、全く終わりが見えない。それもそのはず、一時間経っても、プリンタの音は鳴りやまないのだった。
 予想通り、他の科目もそんな調子だったから、とてもじゃないけど閃斗の出すノルマが終わるとは思えなかった。一日八時間でも足りず、結局時間を測る必要はなかった。
 睡眠時間も半分になったわけだ。最初は眠くて眠くて仕方なかったけど、だんだん慣れてきて、夜十時を回っても目が冴えるようになってきた。人間やればできるんだ、としみじみ思ったけど、そう言ったら、閃斗は、六時間睡眠は標準だぞと口酸っぱく言っていた。
 まさに地獄のような勉強漬けの毎日だったけど、僕はいつしか乗り気になっていた。これまで僕は自分の努力じゃどうにもならない『運命』に翻弄されてきたけど、今初めて自分の努力で未来を勝ち取ろうとしているのだ。それはとても素晴らしいことに思えた。もちろん、とってもしんどかったけど。
 そうそう、しんどいのは勉強だけじゃなかった。
「買って来たわよー」
「あ、ありがとうございます」
「いいのよ、敬語なんて使わなくて。私は雇われ人なんだからね」
 にっこり笑って紙袋を押しつけるのは、初めて来たときに閃斗の母親だと勘違いした、家事手伝い兼お目付け役の百合子さん。服の持ち合わせがないのでいろいろ選んで買って来てくれたのだ。服だけじゃない。閃斗の部屋には僕用の机やベッドがそろい始めていた。なんか軒並み可愛らしいデザインだったのを見て警戒するべきだったんだけど。
「な、な、なんじゃこりゃ!」
 百合子さんが鼻歌交じりに出て行った後で、僕は叫んだ。
「どうした?」
 閃斗が訊く。
「な、なんでもないっ」
 僕は顔を真っ赤にして、閃斗に目もくれずに、逃げるように百合子さんを追いかけた。
「あ、あ、あのっ!」
 叫ぶと、百合子さんが廊下の突き当たりで振り返った。全速力でそれに追いつく。
「どうしたの?」
 僕の必死の形相に、怪訝な表情を浮かべる。
「気に入らない服でもあった?」
「いえっ、そうじゃなくてっ、いや、そうなんですけどっ、そもそも、あのっ……」
 慌てて全然言葉が出てこない。落ち着け。大げさに二回深呼吸して、僕は叫んだ。
「僕、女じゃありませんっ!」
 その時僕が抱えていたのは、タータンチェックのミニスカートだった。
「えっ?」
 百合子さんはきょとんとした表情。
「だ、か、ら、勘違いしないでくださいっ! 正真正銘僕は男ですっ!」
 恥ずかしさに顔から火を噴いている僕への百合子さんの反応は想像をはるかに超えていた。
「無理しなくていいのよ」
「は!?」
「私は全部分かってるんだから、隠す必要なんてないわよ」
 そう言って悪戯っぽく微笑む。
「あ、あの、言ってる意味が……」
「そりゃあ、友璃さんが亡くなってから日が浅いもの。引け目を感じるのは分かるわよ。でもね、あれ以来ずっと閃斗はふさぎこんでいたの。おかげでずいぶん元気になったんだから、私はむしろ感謝してるのよ」
「はい!? え、ちょ、ちょっと!」
「でもねー、閃斗がそんなに惚れっぽいとは思わなかったわ。それに、まさか同棲なんてねぇ……あの子、そんなに大胆だったかしら」
 何と言うか、とっても楽しそうな顔をしている。
「ち、違うったら!」
 最大級に顔を真っ赤にした僕の前で、百合子さんはにやにや笑っている。しまった、これじゃ余計に誤解を招くじゃないか。
「あんまり野暮なことは言わないけど、ほどほどにしなさいよ! じゃ、頑張ってね!」
 ウインクした百合子さんを、僕は必死に引きとめる。
「いや、ちょっと! 本当に勘弁してください……」
 しかし、そのまま百合子さんは行ってしまった。

 部屋に戻ると、閃斗は苦しそうに笑っていた。百合子さんが持ってきた紙袋は、既に開かれていた。
「確かに、俺も最初見たときは男か女か分かんなかったよ」
 閃斗はにやりと笑った。
「もう、他人事だと思って!」
「まあなんだ、下着が入ってなくてよかったな」
「いや、そうじゃなくてさ……」
 僕は暗い顔で、いきさつを説明した。
「あー、それはなかなか面倒だな」
 と言いつつ、閃斗は面白がった態度を崩さない。
「君も被害者なのに、どうしてそんなに落ち着いてるのさ」
「ま、別に実害ないし、百合子さんそういう色恋沙汰は大好きだからな。それで楽しんでるんなら、ほっときゃいいだろ」
「僕には実害あるんだってば! 着る服ないんだよ!」
「まあ、俺の服でも着とけばいいじゃねぇか」
「君のは大きすぎるんだよ……」
「あぁ、そうだったな。じゃあ、昔の服を引っ張り出すか」
「いや、あの、なんで誤解を解こうという発想がないんですか……」

 何度も説明して、ようやく分かってもらえたのは三日後のことだった。流石に、洗濯に回す下着が男物なのは変だと思ってくれたらしい。
「いや、それ以前に、一緒の部屋で過ごすのをごまかすために男装している、って発想が、どうやったら出てくるのか、理解できないんですが……」
 頭のネジが一本くらい飛んでいるとしか思えない、とは言わず。
「分かってないわね、恋は盲目なのよ! 恋する乙女は何だってやるわ!」
 と、熱っぽく語る百合子さんの目は、輝いていた。
「そ、そうですか。乙女じゃないのでよく分からないです……」
 まとめると、百合子さんは僕のことを、ちょっと大人ぶって可愛い格好を避け、ボーイッシュな路線に終始している女の子だと思っていたらしい。こんなに可愛いのにもったいない! と気を利かして、張り切って可愛い服やら家具やら選んできたらしいのだが、僕としては大きなお世話だ。羊をかたどったクッションは気に入ったけど。
「うー、でも、女の子じゃなかったのは、ちょっと残念だったわね」
「知りませんよ、そんなこと」
 僕は苦笑する。
「だから、敬語は使わない! 本当は、敬語使うのはこっちなのよ。気を遣わせないで」
 口調とは裏腹に、優しい笑顔。
「はーい」
 ふと顔を上げ、百合子さんと眼が合うと、その場で凍りついた。僕は、動揺を悟られないように慌てて部屋に戻った。
「おいおい、結局バラしちゃったのかよ。つまんねぇな」
 廊下での会話を聞いていたらしい閃斗は、僕の強張った顔を見て、心配そうに言った。
「どうした? 幽霊でも見たような顔して」
「いや、あのさ……」
(可愛い男の子と閃斗が一緒の部屋か……それはそれで楽しめそうね……)
 百合子さんの眼の中を語ると、流石の閃斗も引きつり笑いを浮かべた。それからしばらく、僕らは百合子さんと口をきかなかった。


 百合子さんに翻弄されていたころ、私立一般の合格通知が届いて一つの大きな自信になった。けれど公立高校の受験までわずか二週間に迫っていた。閃斗のノルマはまだ終わりが見えず公立一般の過去問にも一切手をつけていない。僕は焦っていた。
 何もかも投げ出したくなっていた。もういいじゃん。十分頑張ったよ。私立は受かったんだしどうとでもなるさ。やけっぱちになってそう思うたび、新しい家族の顔が浮かんで僕は自分が惨めになる。いろいろムカつくこともあったけど、自分の勉強時間を割いて僕の勉強を見てくれる閃斗。百合子さんはじめ、掃除や洗濯、お風呂の用意、身の回りのことをやってくれる星野家のお手伝いさんたち。一度も会ったことは無いけれど、僕を家族の一員と言ってくれた閃斗の両親。見ず知らずの僕にこんなにも尽くしてくれる人たちがいるのに、僕だけが怠けるわけにはいかなかった。辛さとありがたさで泣きそうになりながら、机に向かった。

 卒業の日はあっというまにやってきた。休み時間の間も閃斗にしごかれることになったから、結局クラスの人とはあまり仲良くなれなかった。最初こそ、関わりを持ちたくないと一心に思っていたけど、いざこうして別れの時がやってくると勿体ない事をしたなあと思った。閃斗の家で『いい人』をたくさん知った僕は、世の中悪い人ばかりじゃないんだとようやく思えるようになっていたのだ。校歌はうろ覚えだったけどなんとか周りに合わせて歌ったし、寄せ書きに書いてあったありがとうの言葉は一生の宝物だった。今まで貰った寄せ書きはことごとく何も書かれていなかったから。
 閃斗の両親は案の定忙しくて来られなかった。他の人は友達同士で集まっては写真を撮ったりしていたが、僕はさっさと帰ることにした。今でも僕は物珍しい目つきで見られるし、僕のことを知らない保護者が来ているとなればなおのことだった。あんまり知らない人にじろじろ見られるのはまだ慣れない。閃斗は部活とかでいろいろ付き合いもありそうだったけど、一緒に帰ってくれた。

「ねぇ、それにしてもさ、どうなの、これ」
 僕が取り出したのは、今日卒業証書と一緒に渡された通知表だった。正直今日渡すのは卒業式ムードぶち壊しだと思うんだけどまあそれは置いとくとして、問題は中身だった。
 貰った時はびっくりして自分の名前が書いてあることを何度も確認した。まさかお前十段階評価か! とか疑ったりもした。けどもちろんそんなはずはなく、僕の内申点はオール五で、合計四十五点の満点だった。
「甘いったって限度があるでしょ!」
 言いたくてうずうずしていた言葉をようやく口にした。
「なんか聞き覚えのあるフレーズだな」
 そう言う閃斗ももちろん満点だった。
「だってさ! 絶対おかしいじゃん! 特に体育! 一学期も二学期も『一』だったのに! しかも三学期はろくに体育の授業なかったのに! なんで『五』になってるのさ!」
「まあ、いいじゃねぇか。願ったりかなったりだろ」
「それはそうだけど……なんかもやもやするなぁ……うぅ……」
「今更言っても仕方ねぇよ。内申書は高校側に出しちまったんだから」
「……でもさ、あんまり酷いと中学校の信用がなくなるじゃん」
「いいんだよ、それに見合った点数を当日取れば済む話だ」
「そうかなぁ……」
 しかし、実際そうするしか他にないのだった。卒業式が終わったということは、すなわち、入試本番まであと一週間ということだ。

 前日になってようやく過去問に手をつけた。閃斗の掲げたノルマは何とか消化したものの、残された時間はあとわずか。やばい。明日の準備のことも考えたらほとんど解く時間ないじゃないか。あんまり夜遅くまで粘って本番集中できなかったら意味ないし、ぐぬぬ……。
 泣きそうになりながらもせめて一年分はやりきろうと思って、タイマーをセットし過去問集をめくりノートに答えを書いていく。しかし、十分くらい経ったところでふとペンを止めた。
「ねぇ」
「どうした?」
「これ……簡単過ぎじゃない?」
 そう言うと、閃斗は笑った。
「だから言ったろ? 何とかなるって」
「いや、あの、そうじゃなくてさ、これくらいの問題だったらこんなに勉強する必要なかったんじゃないかなと、そう思いまして」
「ま、そうかもしれねぇな」
 閃斗は真面目な顔でうなずく。
「もしかしてさ、ノルマの量、直前まで過去問に到達しないように調節してた?」
「いやぁ……」
「だってさ! なんか最近妙に多かったじゃん! いざ過去問やろうかと思ったらすかさずプリント渡してくるしさ!」
 あっはっは、と閃斗は笑い始めた。
「本当に気づいてなかったのか!」
「はい?」
 きょとんとした顔の僕に、閃斗はなおも笑い続ける。
「俺がそんなに物忘れ激しそうに見えたか? 手帳の一つも持ち歩いてないじゃねぇか。全部嘘だよ、嘘。ハッパかけるために言ったんだ。まさか本当に毎日八時間も勉強するとは思ってなかったけどな」
「な、なんですとっ!?」
 あんぐりと口を開けたまま絶句する僕を見て、笑い転げる閃斗は説明を続ける。
「いや、だからさ、記憶障害ってのは、口から出まかせだ。お前に勉強させるための口実だよ。知った上で乗り気なんだと思ってたぜ。あー、腹痛い」
「ひ、ひどいっ! 僕がどういう思いで勉強してたと思ってるんだっ! 訴訟も辞さんぞっ!」
「二言目にはいつもそれだな。まあ悪かったよ。てっきり眼を見て知ってるもんだと思ってたからな」
「あ……」
 そっか、眼を見れば分かったはずなんだ。どうして気がつかなかったんだろう。無意識のうちに閃斗を信用していたんだろうか。今までは、誰の言葉も眼を見ないと信じられなかったのに……ううん、時には眼を見てもなお信じられなかったのに。
 笑い過ぎて涙さえ浮かんでいる閃斗の眼は、悪気のないことを如実に表していた。そうだ、閃斗の眼はこんなにも透き通っているんだ。閃斗はどこまでもまっすぐなんだ。だからきっと、眼なんか見なくても信じられるんだ。
「信じてくれて、ありがとうな。嬉しいよ」
 僕の考えを読みとったかのように閃斗が言った。驚いたけどもちろん本人にそんなつもりはないらしく、涙をぬぐう仕草に芝居めいたところは無かった。
「うん……こっちこそ」
 ありがとうと言いかけたけど、口をつぐんだ。
(いや、ちょっと待て、なんかうまくごまかされてないか……?)
 そんな僕の心象は知ってか知らずか、閃斗は言った。
「いや、しかし、よく頑張ったよ。平日八時間なんて、俺もテスト期間にしかやんねーもん」
 あ、それでも、テスト期間はそれぐらいやるんですね……。

 前日の夜にそんな調子だったから、おかげで本番は全然緊張しなかった。もしかしてそれも全部閃斗の計算だったのではないかと勘繰ったけど、閃斗はどこ吹く風だった。一応面接試験もあったけど、面接官の心が見えてしまう僕にはあまり評価の対象でないことがよく分かったので緊張しなくて済んだ。一緒に面接を受けた人たちが妙に頭の回転が速いのにはちょっと焦ったけど。
 そんなわけで、今はローカルテレビに映る解答速報を見て自己採点をしているところだった。
「どうだ? よさそうか?」
「うん、たぶん大丈夫そう。写し間違いはあるかもしれないけど……九十二点」
 数学で三点、理科で三点、社会で一点、英語で一点の失点。国語は満点だった。月高のボーダーはおおよそ九割だ。不本意ながら内申点は満点を頂戴しているので、当日点が九十二もあればよっぽど大丈夫だった。
「そうか、うんうん、やっぱりお前はやればできる奴だよ」
 閃斗は満足そうにうなずく。
「ま、俺が教えたんだし、当然っちゃ当然だが」
 そう言う閃斗を僕は睨む。あーもう一言多いんだから。口を尖らせて聞き返す。
「ところで、閃斗はどうだったのさ?」
「えーっと、九十九だ」
「え、何間違えたの?」
 ぽりぽりと頬を掻きながら、恥ずかしそうに閃斗は答えた。
「歴史の『歴』の字間違えた」
「は?」
 素っ頓狂な声で聞き返したのが癇に障ったのか、閃斗は少し顔を赤くして言い訳を始めた。
「いや、だってさ、最初は正しく書いてたんだぜ? けどよ、見直したときに、どうもこの下の部分が、『止める』じゃなくて『土』のような気がしてきて……そんで、なんか『土』の方が歴史っぽいな、みたいな……」
「なあに、それ」
 くすくすと笑ってからかう。これをのがせば閃斗をからかう機会なんてそうそうやって来ないから、逃すわけにはいかない。
「いいだろっ! 受かればいいんだよ受かれば!」
 露骨な挑発だったけど閃斗は見事に引っかかってくれた。国語が満点でよかったと僕は心の底から思った。夕飯ごろまではいじり倒せそうだ。
「なんでお前俺に対してだけはサディスティックなんだよ……」
 ウザいからに決まってるじゃないか。どうしてその自覚がないんだ。心の中で呟いて笑った僕を閃斗は睨んだけど、僕の点数に心底ほっとした様子だった。
 
 その日は百合子さんがケーキを焼いてくれた。僕はあの一件をずっと根に持っていたけど、そのケーキが閃斗が勉強している間にぺろりと平らげてしまう程度にはおいしかったので、すっかり機嫌を直してしまった。
「ちょっと待て! 百合子さんのケーキどこいった!?」
「ごめん、つい……」
「一ホール全部食べたのか!?」
「だってー、おいしかったんだもの」
 小綺麗なショートケーキは、お店で作ったものかと思うくらいの出来栄えだった。スポンジはふわふわで、甘いクリームはちょっと酸味の強いイチゴと相性抜群だった。あんなのどうやって作るんだろう。今度教えて貰おうかな……。
 余韻に浸っていると、閃斗は呆れたような顔で、ため息をついた。
「……お前、夕食後なのによく食えるな」
「甘いものは別腹だもん!」
 そう言うと、羊のクッションを抱いてソファに座った。
「それに、テスト終わったのに律儀に勉強してるのが悪いんだよ」
「どこがいけないんだよ!」
「えー、なんかムカつくじゃん。今日くらいゆっくりしろっ!」
「意味分からん……」
 ぼやく閃斗は、少しイライラしているようだった。漢字の間違いでさんざんコケにしたからだろうか。眼を見ながら本気で怒る一歩手前で調節していたつもりだったんだけど、やっぱり性格悪かっただろうか。恐る恐る眼を覗いてみる。
 違うと分かった。意外なことに閃斗は不安がっていた。もちろん昨日今日の入試のことだ。確かに自己採点では合格間違いない点数をとっていたけど、答えの写し間違い、採点ミス、そういった『もしも』のことは、結果が出るまで分からないのだ。
 閃斗の眼を見ているうち、合格発表までは安心できないなと思った。


 昇降口へ上る階段の下、三角形の薄暗がりの所に、人だかりができていた。午前十時三十分、物理的には小さくも、僕たちにとっては大きな意味をもったホワイトボードが運び込まれ、数字の羅列が露わになった。

 僕は生まれて初めて嬉し涙を流した。

「まったくあの日以来いつも泣いてばっかだな。少しは笑ったらどうなんだ」
「だって……だって……」
 ふふっと閃斗は笑って、わしゃわしゃと僕の頭をかきむしる。
「痛い! 痛いよ!」
「そんなに泣いてたら落ちたかと思われるじゃねぇか! 受かったんだからもっと堂々としてろ!」
「くそぅ、鬼め……」
 涙目でぼやく僕に何故が閃斗は悲しそうな視線を返した。
「それにな、落ちた奴だって当然いるんだ。だから受かったお前は嬉しそうにしてなきゃいけないんだよ」
 なんというか、この状況で他の人のことを考える余裕があるあたり凄いなと思うけど、あまりにも気が回り過ぎててちょっと不気味だった。
「そう言う閃斗だって、あんま嬉しそうじゃないじゃん」
「俺はあれだ、落ちるはずが無かったからな」
 ……まあそう言うとは思ったけどさ。もうちょっと小さな声で言った方がいいんじゃないですか。睨まれてますよ。
「なんだ、ちゃんと笑えるじゃねぇか。それでいいんだよ。折角可愛い顔してるんだからな」
「うげっ、気持ち悪っ」
「なんだよ、他意はねぇぞ!」
 珍しく慌てる閃斗を見て今度こそ盛大に吹き出した。確かに、お腹を押さえて笑うのは久々な気がした。

 ただ、その笑顔は一瞬で凍りついた。

「どうした? 深刻な顔して」
 目線の先には、ホワイトボードを覗き込む一人の少女。少し茶色がかった髪を、フリルのついたシュシュで束ねている。
「ははーん、一目惚れか? お前もなかなか隅には置けないな」
 閃斗が軽口を叩くのを無視して、僕は唇を噛んで黙りこくっていた。
「お、おい、どうしたんだ?」
 僕のただならぬ様子を察して、閃斗がもう一度訊いたとき、僕はようやく口を開いた。
「白宮 橘(しらみや たちばな)」
 それを聞いて閃斗は絶句した。閃斗も分かったのだろう。閃斗が知らない僕の同級生とはどういう存在なのか。
「西中の元クラスメイト……悪魔の一人だ」
 無意識に握りしめた手に自分の爪がくい込んだ。

***

(う……わっ……)
 俺は声に出さずに呟いた。手にしているのはクラス名簿。俺と斎人が同じクラスになっているのを見て喜んだが、そのまま女子の欄に移ると、例の『白宮橘』の名が同じ枠の中に収まっていた。
 受かっていたのか。そしてまさか同じクラスになるとは。合格発表の日にふさぎこむ斎人を会う可能性は低いと言ってなだめたのだが、面目丸つぶれだ。同じようにクラス表を眺める斎人は驚くでもなく、ただひたすらに仏頂面だった。
 入学式を終えて指定された教室に入ると既に担任が教壇に立っていた。何やらいろいろ書類を配り始めたので、斎人とおしゃべりすることもできなかった。
 確かに、合格発表のときに見かけた少女が同じ教室にいた。見覚えのあるシュシュでポニーテルにしている白宮さんはおろしたての紺色のブレザーに身を包み、淡々とプリントをさばいていた。後ろにプリントを手渡すときにいちいち会釈をしている姿には『悪魔の一人』という言葉は似合わなかったが、まあ斎人がそう言うのだからそうなのかもしれない。
 斎人は明らかに不機嫌だった。むすっとした表情で一言も口を利かない。結局、西中時代に何があったのか俺は詳しく聞いていないから、その心象は測りかねていた。俺にも斎人の力があったらなと考えるともどかしい。まあでも、同じクラスとはいえ名前を覚えないまま一年を過ごす人なんかもいるものだ。関わらないように気をつけていればなんとかなるだろと考えていた。
 しかし、それは大きな間違いだった。

「……(ときわぎ)君?」
 一通り話が済んで帰り支度を始めたころ、意外なことに白宮さんの方から話しかけてきた。俺は思わず身を硬くしたが、斎人はそれを無視してプリント類を鞄に詰め込んでいた。
「と、榊君だよね。びっくりしたー。月高受けてるなんて、知らなかったよ。あの……その、元気にしてた?」
 おや? 俺は違和感を覚えた。斎人が悪魔と呼ぶ割にはずいぶんと好意的なような。そんな俺の疑問をよそに斎人はぴたりと手を止めた。
「よくそんな口が利けるな」
「え?」
 白宮さんはその場に凍りついた。
「よくそんな口が利けるな、って言ったんだ」
 見上げた藍色の視線を見て俺はすくみ上がった。なんて強い恨みのこもった眼なんだ。刹那、俺も心が見えるようになったのかと錯覚するほどに激しい、負の感情が俺を貫いた。その視線を正面から受けた白宮さんは真っ青になった。
「君が僕に今まで何をしてきたか、僕がどういう思いだったか、何も知らないくせに! 目障りだ! 早く消えろ!」
 斎人が叫ぶと、彼女は青ざめたままぶるりと体を震わせて逃げるように教室を去った。

 斎人は、口元を小さく歪ませてせせら笑っていた。
 伏せられた目はとろんとしていて、焦点が定まっていないようだった。水を打ったように静まり返った教室のただならぬ雰囲気も、意に介さない様子だ。
 玉のように綺麗で柔和な顔立ちの斎人は、むすっとしていてもどこかあどけない愛らしさを宿す。ましてや微笑みは実によく似合っていて眩しいほどなのだが、今の斎人の微笑みは一目見て空恐ろしくなるほど残忍だった。悪い霊にとり憑かれた妖精のように不気味に笑う斎人の姿を、クラス中の人間が眺めていた。
 しばらくそのまま笑っていた斎人は満足げにほうっと息を吐くと、蒼い目をしばたかせて顔を上げた。その瞬間、自分に突き刺さる視線に気がついたようで、淡い桜色の肌がさっと青白くなった。さっきとはうって変わって、檻の中の小鳥のように弱々しく怯えた様子で、視線を彷徨わせていた。
「今のは、お前が悪いぜ」
 すがるように俺を見上げた顔にささやくと、視線がかち合う前に斎人は再びうなだれて震え始めた。しまったと思った時にはもう遅く、斎人は教室を飛び出していた。
 斎人は、一滴も涙を流していなかった。


「参ったな……」
 予想はしていたが、家に帰っても斎人はいなかった。血の気の引いた斎人が走りだしたとき咄嗟に後を追おうと思ったのだが、斎人の荷物が落ちてプリントが四散したために叶わなかった。くそっ、こんなことなら無視してさっさと追っかければよかったぜ。心の中で毒づいて斎人の荷物と自分の荷物をソファに放り投げる。
 しかしまた、斎人の居場所の目星もついていた。斎人の住んでいたぼろアパートはまだそのままになっている。斎人の帰る場所を潰しておくのは俺の家に住むことを強制しているようで嫌だったので家賃を払い続けているのだ。おそらくはそこへ帰っているだろう。
 時間をかけて探せば、斎人は見つけられる自信があった。しかし問題は物理的な距離ではなく、心の距離だ。
 斎人は、俺に裏切られたと思っているだろう。
 もしかしたらそうなのかもしれない。俺は斎人をそれほど信用していなかったのかもしれない。しかしどうしても、白宮さんの反応は演技には見えなかった。斎人に話しかけるときの、ぎこちないながらも嬉しそうな笑顔。言い募る斎人に、息を飲み込んで震えた華奢な手。走り去るときの死人のような顔。こげ茶色の目に浮かぶ光は、必死にこらえようとしながらも滲みだしてきた涙だった。その後ろ姿にずっと感情を抑え続けてきた人間のある種の儚さを感じた。斎人の背中と同じだ。
 斎人は何か勘違いをしている。俺はそう思えてならなかった。心を読むことに関しては斎人の方が断然上なのだ。橘の気持ちに気がつかなかった斎人は彼女の眼を見ようすらしなかったということになる。斎人にそうさせる過去の出来事を何も知らないのが俺をいらだたせた。
 首に巻きついたネクタイを引っ張った拍子に、ペンダントの留め具が外れて床に落ちた。慌てて拾おうとした時、ペンダントにこびりついている血と輪っか状の鎖を見て俺ははっとなった。
 斎人のぼろアパートには、麻のロープが揺れている。それを思い出して、嫌な予感がした。


「おい斎人、いるんだろ?」
 薄い扉を荒々しく叩いても、中から返事はなかった。
 夕日はほとんど沈みかけていて、灰色の雲がたなびく空が濃紺に沈んでいた。自転車でアパートの前まで来た俺は顔をしかめて、斎人の部屋の前にあぐらをかいて座りこむ。
「いるなら返事してくれよ。頼むから」
 懇願するように言ってもやはり返事はない。本当にいないのか居留守を使っているのか、あるいはもう……。
 俺はかぶりを振ってその考えを打ち消す。しかし当然鍵がかかっていたし確かめようもない。扉はそれほど頑丈そうではなかったが流石に素手では壊せないし、そもそもそんなことをすれば捕まるだろう。
「しょうがねぇな……」
 小さくぼやいた俺は斎人が出てくるまで居座ることに決めた。
「こうなったら我慢比べだ。いつまでもここにいてやるからな」
 俺はドアに向かって怒鳴り、振り返って背中を壁につけると目を閉じた。いつまでもとは言ったものの本心は明日の朝までのつもりだった。斎人が絶対にここにいるという確証はない。もしかしたら明日ふらっと学校に現れるかもしれないし、逆に行方が知れないのであれば捜索願を出さなければいけない。そうなる前に出て来てくれることを祈っていた。

***

 ――閃斗は何も分かっていない。
 薄暗い部屋の中で外から響く閃斗の叫び声を無視しながら、僕は乾いた木の板に寝そべってぼんやりと天井を見つめていた。床板のささくれがちくちくと背中を刺すと、背中に走る七針の傷跡が浮き上がってきたように錯覚する。
 ――あれは、中二の五月だったっけ。
 背中から窓に叩きつけられて割れたガラスで背中を切ったのだ。あまりの痛さに気を失って、起きた時には病院だった。後から知ったけど、加害者の三人は僕が気を失ったのをいいことに貧血で倒れた僕が一人でガラスに突っ込んだのだと弁明していた。確かに僕は小さいころから心臓が弱くて貧血で立ちくらむこともままあった。でも担任がそれを鵜呑みにしたと知ったときは何も言い返す気が起こらなかった。あのとき見ていたクラスメイトも誰も何も言わなかった。その中には白宮さんもいた。
 僕に実害のない傍観者も大勢いたけど、僕は加害者と同じように傍観者を憎んでいた。特に、下手に手を差し伸べても傷つけるだけだと自分に言い訳して、心優しい人間を気取っているような奴は吐き気がするくらい嫌いだった。当時は心が見えなかったから、誰がそういう輩かまでは分からなかったけど。
 しかし、白宮さんは傍観者ですらなかった。

 中三の四月、修学旅行の新幹線の席決めがあった。当然席の余りはなかったから、必ず二人一組で隣同士に座らなければいけなかった。先生のいないホームルームの時間に生徒に任された席決めは、僕の隣は誰になるのかに論点が集まった。黙りこくっている僕の目の前で堂々と繰り広げられる議論は、くじ引きで決めようという結論に着地した。
 クラス全員が見守る中わら半紙のプリントが切り分けられ、三十九枚の紙片のうち一枚に『はずれ』と書きこまれた。席替えのときと同じ要領で紙片が袋に突っ込まれ一人一枚ずつ取っていく。僕はその光景を虚ろな目で眺めていた。
 突如教室がざわめいた。
 列に並んでいた白宮さんが何かを落とした。慌てて拾おうとして隣にいた女子に止められた。彼女の袖口から落ちたのはわら半紙の切れ端。ご丁寧にもくじを作ったのと同じプリントの切れ端だった。手に隠し持っておいて引いたふりをするつもりだったということだ。罵られた白宮さんはくじとは関係なしに僕の隣になった。嘲笑の響く教室で僕はぎゅっと耳を塞いだのを覚えている。

 ――今回はお前が悪いだって? 冗談じゃない。
 奥歯を噛みしめると、ぎりっと音がした。
 ――要するに閃斗は僕を信じてはくれない、それだけのことだ。
 やっぱり僕は一人で生きていく運命にあるのだ。そう実感するも涙は流さなかった。

***

 翌日、ついに出てこなかった斎人を置いて俺は学校へ向かった。しかし俺に遅れること十五分ほどで斎人が教室に現れて心底驚いた。
 ふらふらとおぼつかない足取りで席に向かう斎人は目も当てられないほどにやつれていた。昨日は何も食べなかったに違いない。もともと白い肌は血の気を失い、のっぺりとして能面のようだった。
「……斎人」
 斎人の席の隣に立って話しかけた俺は当然のように無視された。そもそも斎人に聞こえているかすら怪しい。それほど斎人の眼は虚ろだった。愚直に呼び掛けるだけでは反応しそうにない。
「白宮さんさ、お前のこと好きだぜ。たぶん」
 言うと斎人は微かに首を動かした。それを確認して続ける。
「お前のことチラチラ見てたし、話しかけた時は本当に嬉しそうだった。そもそも、腫れものみてぇに思ってるんだったら、わざわざ話しかけたりなんてしない」
 机の上で斎人は拳を握りしめた。
「……そんなわけ、ない」
「違うって言い切らないのは、やっぱり眼を見なかったんだな」
 これは他の人に聞かれないように耳元でささやく。
「見なくたって、わかるよ」
 むすっとした顔で呟く斎人に俺は眉間にしわ寄せて言った。
「あのさ、昔何があったのか知らねぇけどよ、お前何か誤解してるんじゃねぇか?」
 斎人は答えない。
「出ていくときの白宮さんの後ろ姿、最初に会った時のお前にそっくりだった。怯えてたぞ」
 握りしめた斎人の拳が少し震えた。
「謝って来いとは言わねぇ。でも、もう一度まっすぐ白宮さんの眼に向き合ってみてもいいんじゃねぇか?」
「……分かってない」
 斎人は勢いよく立ちあがった。
「分かってないから、そんなことが言えるんだ! あいつが、あの悪魔が、僕と一緒だって? 冗談じゃない。同じなのは君だ。何も知らないくせに、分かったような口を利いて!」
「そりゃそうさ。俺はお前とは違う。話してくれなきゃ分からない分からずやさ。……頼むから何があったのか言ってくれよ。もちろん後でも構わねぇから」
「嫌だね」
 吐き捨てるように斎人は即答した。予想外の反応に自分の信用の失墜を感じた俺は悲しくなった。
「そうか……」
 それっきり、斎人は頑なに口を閉ざしていた。

 昨日の一悶着はクラス全員に見られていた。入学したてということもありとりたてて斎人に辛くあたる人はなかったが、皆、斎人からは距離をとって他の人に話しかけていた。西中から転校してきた時と真逆だった。斎人にしてみればそれは楽なのかもしれないが、クラスから孤立するのは時間の問題だと思った。斎人の過去を話して同情を買っておきたいのはやまやまだったが、斎人との秘密を軽々しく語るのも気が引けるし、そもそも俺ですら納得いかないのだから説得力に欠けると思った。斎人と知った風の俺に誰も何も聞いてこないのは幸いだったと言える。
 しかし、入学二日目で白宮さんは学校に来なくなった。親から体調不良だとの連絡があったらしいが理由ははっきりしている。
 何故か、斎人と白宮さんの二人の顔が友璃の死に顔と重なって、俺は気が気でなかった。


 今日は諦めて家に戻った。とりあえず斎人に自殺の意思はなさそうだったので、斎人のアパートにご飯を持って行って様子を見てくるよう百合子さんに頼んでおいた。斎人の体調は心配だったが一晩中家の前で居座っていては先に消耗するのは俺の方だ。大人しく家のソファに横になりながら何の気なしにテレビをつけると、画面に映ったニュースが俺を釘づけにした。
「おいおい、またかよ……」
 アナウンサーが緊張した声で語るのは近所で起こった傷害事件。被害者はかなりの重症らしく、加害者は自殺してしまったそうだ。両者ともに高校生ということもあって全国ニュースで取り上げられている。
 初めて斎人の家に行った翌日の給食の時間にクラスメイトが話していた傷害事件も、詳しい場所までは分からなかったが市内の中学だったという。確か同級生をカッターナイフで切りつけたということだった。被害者の生徒はもうすっかり回復しているが、受験期の事件でドタバタし苦労したと言ううわさを聞いた。
 あの事件を皮切りにこれで四件目だ。あれから早いもので三ヶ月が経つが、その間、学生絡みの傷害事件が市内で四件も起こるのは途方もない頻度に違いなかった。それも通り魔とかなら分かるが、全て加害者がはっきりしていて全然別の人物なのだ。
 この調子じゃ学校教育はうんぬんとか、非生産的な議論がおっぱじまるんだろうな。そう思った俺はリモコンを取って電源を切ろうとした。
「……西中学校では、一連の事件を重く見て全校生徒にアンケート調査を実施する方針を固めました。……県教育委員会は、県全体で同様のアンケート調査を行うことを検討中とのことです」
 
 ――ちょっと待て。
 ――西中、だと?

 俺は報道が別のニュースに移ったのを見て電源を切ると、パソコンに向かった。スタートアップになっているブラウザから新聞の電子版のページに飛ぶ。事件に関わっていた人物はみな未成年だったから個人情報は伏せられていたが、偶然にしてはあまりにも一致が過ぎることから今回の事件報道で解禁された情報があった。四つの事件全てにおいて、あるいは加害者、あるいは被害者として西中の生徒が関わっていた。今回は高校生の起こした事件だったが、その学生は西中出身で斎人の元同級生だった。
 偶然なのか? 斎人の能力と何か関係があるのか? いや、確かに西中の人間は恨んでいるだろうが、このところ白宮さん以外とは会っていないはずだ。斎人の生霊がとり憑いて狂わせたと言うのでもあるまいし。いやいや何を考えているんだ俺は。
 しかし気になってよく調べてみると、ふと気がつくことがあった。
 事件の起こった日は四回とも『斎人が不機嫌だった日』と重なっていた。一回目は斎人の家に押しかけて説教した日。二回目は斎人に猛勉強を始めさせた日。三回目は百合子さんの誤解が明らかになった日。そして間を開けて四回目の昨日は、白宮さんとの一件で俺と仲たがいした日。これは初めて死人が出ている。それに気がついてすうっと背筋の寒くなるのを感じた。
 偶然の一致だと思いたかった。実際、斎人が機嫌を損ねたのはその日ばかりではない。斎人が手をつける前にクッキーを食べきってしまって買いに行かされそうになったり、俺が夜十時くらいに机でうとうとしていたのを見つけてむくれていたり。何かとわがままで無邪気な斎人はちょくちょく俺につっかかっていた。構って欲しかっただけかもしれないが。
 それにしても、活字になった情報から判断したことではあるが、なんとなくどの事件も友璃のケースと似ているように思われた。衝動的に刃物で切りつけたり殴りかかったりした加害者達は、すぐに自首して自分の罪を認めている。昨日の事件の犯人に至ってはその場で自殺していると言うし。それに友璃は中高一貫の私立中学に通っていたが、西中の学区に住んでいた。
 斎人がこの事件と関連していると考えるのは流石に安直だろうとは思った。しかしいずれにしろ、この一連の騒動は見過ごしてはいけないと直感していた。

***

 もう春だというのにすっかり冷え込んだ朝、日が昇るよりも前に僕は一人住宅街の中を歩いていた。駅までは閃斗の家からならそこそこ近いけど僕の家からは遠い。それに、既に建て替えられたかつての家の前を通るのは忍びないのでだいぶ遠回りすることになる。
 道半ばでお腹がきゅうっと悲鳴を上げる。百合子さんがお弁当を持ってきたけど僕は頑として手をつけなかった。三ヶ月でだいぶ耐性がついたと思ったけど、閃斗の家で過ごすうちすっかり元に戻ってしまったらしい。もともと少食とはいえ給食も出ない高校では一日一食確保できればいい方だから、より厳しくなる。
 ふとクラスメイトの視線を思い出した。直接僕に何か言う人はいなかったけど、誰もかれも瞳の中に背筋の凍りそうな冷たさを宿していた。心なんて見えなければいいのに、と思うけれど僕にはどうしようもない。白宮さんの所業を告白しても今更言い訳にしかとらないだろう。閃斗だって僕を信じないのだから。そう、閃斗だって……
 
 突然、宙に浮いたような気分になった。
 不思議な涼しさがさあっと体を吹き抜けて、頭を覆うもやもやが吹き飛んだ。
 恍惚とした解放感は、しかしあっという間に過ぎ去った。びっしりと汗をかいていることに気がつくと、目の前の風景がぐにゃりと歪んだ。
 あれ、僕、どうしちゃったんだろう。
 誰か……呟こうとして、息が詰まった。
 胃に何も入ってないはずなのに強烈な吐き気がした。
 どくん、と心臓が縮みあがった。
 強烈な寒気に手足の感覚がみるみる凍りついていく。
 お腹のあたりまで寒気が上ってくる。
 するすると意識が漏れだしていく。
 ごうごうと耳鳴りが覆いかぶさってくる。
 じきに何もわからなくなった。

***
 
 私は、何日かぶりに鏡の前に立った。
 我ながらひどくやつれていた。茶色がかった髪は手入れをする気力もないのですっかり艶を失い、ぼさぼさになっている。ほくろ一つないのが自慢の真っ白な肌は、心の疲れがとれない今となっては幽霊のような不気味な印象を助長するだけだった。頬はこけ、筋の通った鼻だけがむやみに浮き上がって見える。無意識に噛んでいた唇は血がにじんでいて、消え入りそうな細い眉の下には泣き腫らして真っ赤になったこげ茶色の瞳が浮かんでいた。はあっとため息をついてずきずき痛む頭を振りながら、私はまたベッドに倒れ込んだ。
(榊君に恋をしたのは、中二の初めだったっけ)
 同じクラスになった榊斎人ははっと目を引く姿をしていたから、見た目を好きになったのではないと言えば嘘になる。けれどもともと口下手で本音と建前の混じった息苦しいやり取りが苦手だった私は、クラスメイトの喧騒をどこか超然とした様子で眺めている榊君の姿に、あこがれにも似た感情を抱いていた。
 でも、彼の態度の裏にある事実を知るまでにそう長い時間は必要なかった。決定的だったのは、五月の出来事。窓ガラスに叩きつけられて気絶した榊君は救急車で運ばれていったけど、いつの間にかそれは斎人が勝手に倒れたということになっていた。てっきりいじめっ子の三人は謹慎にでもなるのかと思ったけど、何事もなく時間だけが過ぎていった。榊君が背中を縫ったと聞いたときには胸の締め付けられるような思いがした。
(どうしてあの時先生に言わなかったんだろう。榊君が退院するまでは心配でそれどころじゃなかった。学校に来たときは安心してそれどころじゃなかった。そんなの言い訳じゃない)
 私はまた唇を噛む。
 支えてあげたい、今度はそう思った。でもなんて声をかけたらいいのか分からなかった。意を決して話しかけようと近づいても、痺れたようになって足が止まってしまう。榊君の超然とした態度は誰も関わるなという強い意志そのものだった。同級生の女子にさえ自分から話しかけることの少ない私には、ただ榊君を眺めることしかできなかった。
 ずるずると時間が過ぎ、三年生になってしまった。このまま別のクラスになってしまったらもう二度と榊君には近づけないかもしれない。そう思うとたまらなかったけど、好運なことにまた一緒のクラスになれた。でもまた一年手をこまねいていたら、中学卒業と同時に本当に会えなくなる。私はこの一年で何とか話しかけてみようと決意した。神様の思し召しか、意外にもチャンスはすぐにやってきた。
 まんまと隣席になった修学旅行の新幹線の中、窓際の榊君はずっと外の景色を眺めていた。
 どぎまぎしながら車窓を眺めるふりをして、おっかなびっくり榊君を眺める。こんなに近くで斎人を見るのは初めてだった。
 トレードマークの白い巻き毛は、ふわふわとしていて羊のようだった。柔らかい肌には微かに赤みがさしていて、頬は桜色に染まっていた。頬杖をついてけだるそうに流れる景色を見つめる様は、旅行の始まる前だというのに疲れがにじみ出ていた。それでも、窓から差す光に切り取られた妖精のような姿はうっとりするほど幻想的だった。不機嫌そうな顔でさえこうなのだ。榊君が笑ったらどんなにか愛らしいのだろう。
 榊君が頑なに車内に目を向けないのをいいことにぼんやりと見とれていたら、いつの間にか目的地に着いてしまっていた。結局話しかけることはできなかったけどなんだかそれで満ち足りた気分になってしまって、最初の決意はどこ吹く風、なあなあになってしまった。
(今思うと、あの時話しかけなかったのが決定的な溝を作ってしまった……)
 十月初め、榊君は学校に来なくなった。その日の新聞で両親が亡くなられたことを知った。私の恋は終わったと気がついた。あのときは榊君の親の死を自分の親の死のように悲しんだっけ。しばらくして榊君が学校に現れた時、絶望に沈む藍色の眼を見ても何も話しかけることができなかった私。そんな自分が情けなかった。榊君はまた来なくなって、転校したと教師が告げた。
 高校の教室で見かけたときには心の底から驚いた。浮かれた気分で弾みをつけると一年経っても叶わなかった目標はあっけなく達成できた。榊君への風当たりの強さが無意識のうちに話しかけることを躊躇わせていたことにようやく気がついた。
 その時返ってきた榊君の言葉は私の心にぶすりと刺さった。
(私は榊君の気持ちなんて考えようともしなかった……)
 くじ引きのイカサマも、榊君の目には鼻もちならない出来事として映っていたに違いない。そんなことも、思い通りにいって浮かれていた私には分からなかったのだ。

 枕はすっかり湿ってしまっている。緑色のカーテンの向こう側はまだ真っ暗だ。勉強机の上で時計がカチカチと音を立てている。暗くてよく見えないがまだ朝の五時くらいだろう。ぴったり閉じられたドアの向こうから両親の声が漏れ聞こえてくるから。
「……大丈夫そうか? タチは」
 私をタチと呼ぶのはパパの声。
「分からない……今日も学校に行けないかもしれないわ」
「一体どうしたんだろうな、月高に行くの、あんなに楽しみにしていたのに」
「それが、ちっとも話してくれないのよ……」
「タチはあれこれ悩みやすいタイプだからな。しかし、入学初日で不登校になるというのは……」
「カウンセリング、頼んだ方がいいかしら?」
「あんまり酷いなら、そうした方がいいかもしれないな……」
 パパがそう言って会話が途切れた。カチャカチャと食器を下げる音が聞こえる。ママは嘆くように言った。
「せめて、もう少し家にいられたら、話もできるのだけど……」
「こればっかりは、仕方ないからな……」
 パパがううんと唸る。仕事が忙しいのだ。
「あなた、今日も遅くなりそう?」
「ああ。今日は夜勤なんだ」
「分かりました。軽めのご飯を置いておくから」
「すまないな」
「いいのよ」
 しばしの沈黙の後食器洗浄機の音が響き始めてそれ以上やり取りは聞こえなくなった。
 医者のパパと薬剤師のママ、二人の朝は早い。パパは一週間のうち二日間は市の総合病院の外来、四日間は開業し、休みの木曜にもしょっちゅう医師会や学会に出かけている。ママはパパのクリニックで処方した薬の調剤をするほか、パパの外来の日には薬局で働いている。
 大好きだしあこがれの存在でもあるパパとママ。忙しい両親にここまで心配をかけていることに改めて気付かされて胸がちくりと痛んだ。行かなきゃいけない、わかってる。でも榊君のあの藍色の眼で睨まれることを思うと、足がすくんで動けなかった。あの眼は本当に怖かった。制服に袖を通そうとすると全身に寒気が走って吐き気がした。そうでなくとも一日中ずっと頭痛がするし、微熱もある。いつか榊君に自分を見て欲しいというささやかな夢は、最悪の形で実現してしまったのだった。
 頭痛はさらにひどくなっていた。寝不足でめまいがする。しがみつくようにして布団を引き寄せると、せめてもう一時間ちゃんと寝ておこうと目をつぶる。耳鳴りもしてきたけどもともと疲れていたので、手足の痺れていくのを感じながら眠りに落ちていった。

 霞んだ意識を揺り起こして緑色のカーテンを引き開けた。東に面した窓から、オレンジがかった朝日が入ってくる。とろんとした目で窓の外を眺めると、視界の端に雲のような白い塊が映った。
 ゆっくりと視線を移すと、家の前の路地を榊君が歩いていた。夢うつつの私は驚くでもなくただぼんやりとその姿を見下ろしていた。
 その足取りはゆったりとしていた。いや違う。ふらついているのだ。風になびくすすきのように榊君はゆらゆらと歩いていた。
(ううん、まだ夢を見ているのかな)
 まだめまいが収まらないみたい。ずきずき痛む頭の中で呟いた。
(こんなになってもまだ榊君の夢を見るなんて)
 頭痛がひどくなってきた。硬く目を閉じてからもう一度開くと視界から榊君の姿は消えた。
(やっぱり、寝ぼけているんだ……)
 もう学校に行く時間だ。この調子じゃまた行けないかもしれないけど、せめて行く努力はしないと。そう思って立ち上がると、塀の死角に隠れていた人影が露わになった。
 榊君が倒れていた。
 たっぷり二秒間、通りを見下ろしたまま固まった。
 寝巻のまま寝室から飛び出したときは、頭から水を被ったように目が覚めていた。階段を駆け下り廊下を突っ切る。鍵がかかっていることも忘れて玄関のドアに突進してしまい反動で転びそうになった。慌てて錠をひねって開けると目の前に彼の姿があった。
「ときわぎくんっ!」
 上ずった声で呼びかけても何も反応が無い。びっしりと冷や汗をかいていて顔は真っ青だ。まるで人形が転がっているかのようにぴくりとも動かない。
 駆け寄って口と鼻とに手をかざす。何も感じない。
(呼吸が……止まって……)
 頭の中が真っ白になって自分まで倒れそうになった。
(馬鹿、私が何とかしなきゃ……榊君は……)
 どきり、と心臓が跳ね上がった。
(と、とにかく、心臓は動いているの……?)
 震える手を榊君の胸に当てる。
(わかんないよ……わかんない……)
 耳元で自分の鼓動が響いている。手のひらを打つ振動は榊君のものなのか、自分のものなのか。
(わかんないよ……神様……)
 完全にパニックに陥った私は、そのまま榊君の胸に手を押し当てていた。


 いつの間にか寝入っていたらしい。目を覚ますとアルコール消毒剤の匂いが鼻をつく。真っ白なベッドにうずもれる榊君はまだ目を覚ましていないようだった。だいぶましになったけどまだ頭の芯がびりびりする。もうひと眠りしようかな。でももし、その間に榊君が……
 そう思ったところで、目の前の白い手がぴくりと動いた。
「か、看護師さんっ!」
 慌てて、廊下を歩いていた女性を呼びとめる。事情を話すとすぐに担当医を呼びに行ってくれた。
「ここは……?」
 榊君の消え入りそうな声が耳を打った。思わず名前が口に出そうになってはっと口をつぐんだ。
 振り返ると、まだ朦朧とした様子の榊君がうっすらと目を覗かせていた。起き上がろうとするものの力が入らないのか、頭が枕に落ちる。目と首だけを動かしてあたりを見回していた視線が私にぶつかった。
「え……」
 榊君がささやくのを聞いても私は目をそらすことしかできなかった。
「し、白宮……さん?」
 すぐに分かってくれたのはちょっと嬉しかったけど、何て返事をすればいいのか分からなかった。こちらに向く目は蒼く、まだ生気を取り戻していない様子だった。
「やぁ、目を覚まして良かった。一時はどうなるかと思ったが、一安心だな」
 がらりと扉を開けて医師が入ってきてほっとした。目の覚めた榊君と二人っきりは気まずいことこの上ない。
「あの……僕は……?」
「心臓発作だ。あともう少し対応が遅れたら危なかった。お嬢さんが手当てしてくれなかったら今頃どうなっていたか」
「お嬢さんって……白宮さん?」
 榊君は狐につままれたような表情で医師と私を交互に見つめている。医師は大きく頷いて上機嫌に語る。
「倒れた場所がお嬢さんのお家の前だったのは不幸中の幸いだったぞ。いやはや、お医者さんの娘さんだとは聞いたがそれにしたってお手柄だ。救急車の手配、回復体位、AED、心臓マッサージ、人工呼吸、たった一人でよくやったよ。それにまだ高校生らしいじゃないか。たいしたものだ」
「じ、人工呼吸……」
 うろたえる榊君はすっかり目を覚ました様子だった。
「ははは、そんな君が思ってるほどロマンチックなものじゃないぞ。まあ元気そうで何よりだ。その様子なら今日ゆっくり休めば明日には退院できるだろう。もちろん、明日いろいろ検査をして異常が無ければだが」
「あ、ありがとうございます……」
「お礼なら隣のお嬢さんに言ってくれ。ああ、高校の方にも連絡したからじきにお家の人も来るだろう。じゃあ、私はこれで」
 そう言って医師は風のように去っていった。再び私と榊君が取り残された。
 榊君は不思議そうな目つきでまじまじと私を見つめている。私のことをどう思っているのだろう。全く見当もつかなくていたたまれない気分だった。でもここで帰ってしまったら何もかも曖昧になってしまいそうで、帰るに帰れなかった。自分の足元を見つめ上目遣いでちらちらと彼の様子をうかがう。
 しばらくそうしていたら、榊君は天井に視線を移してぽつりと言った。
「……あの、その、ありがとう。助けてくれて」
「ごめんなさい……」
 私が言うと榊君は少し体を起こした。
「今まで、助けてあげられなかった……」
 きょとんとした表情だったけど、空色の眼は鋭く光り、観察されているような気がして怖かった。視線を落とした手はひとりでに震えている。
「うぐっ……」
「だ、大丈夫!?」
 突然胸を押さえて苦しむ榊君に跳び上がるようにして駆け寄る。点滴のためにむき出しになった左腕を取ると、規則正しい鼓動が感じ取られてほっと胸をなでおろした。
 榊君の心臓は、今朝の様子が嘘のように力強く拍動していた。ラグビーボールのような形の心室が膨らむと太い血管の繋がった心房を通じて血液が流れ込む。それに続いて縮む力で血液が動脈へと押し出されていく。その様子が、はっきりと分かった。
「良かった……なんともないのね。でも、どうしたの?」
 ぎょっとした様子で榊君が見下ろしたのに私は気がつかなかった。その瞬間別のことに気を取られたから。
 ――榊君の眼、特別な力がある……?
「ちょ、ちょっと」
 榊君に呼びかけられて、はっとなった。
「ご、ごめんなさいっ!」
 慌てて腕から手を離す。顔が熱い。
「あ、あのさ」
 声をかけられて見上げると、榊君と目が合った。そこにはさっきまでの探るような色はなくただ純粋な驚きをたたえていた。
「え、えっと……」
 焦りと迷いがそこに加わる。榊君は、しばらく悩んだ後、決心した様子で口を開いた。
「どうして、分かった?」
 厳しい声で尋ねられて、眼のことを聞かれているのだと理解するまでにしばらくかかった。
「ど、どういうこと?」
 榊君は再び困った顔をしたけど、首を振って諦めたように口を開いた。
「僕さ、眼を見ると、人の心が見えるんだ」
「え?」
 
 榊君の腕に触れた時、彼の眼はぽうっと光が灯っていた。
 もちろん現実の光じゃない。肌を通して伝わってくる眼の像と言うか、影と言うか、そこから何か特別な雰囲気を感じた。形でも色でもないそれは何なのかよく分からなかったけど、特別な力が宿っているのだという不思議な確信があった。
 だからなのか榊君の突拍子もない話はすっと心にしみるように信じられた。それとも彼が嘘をつくはずがないと信仰に似た思いがあったからなのか。
(心が……見える……?)
 それでもその話の意味するところを正しく理解するには時間がかかった。しばらく呆けたような顔で榊君を見つめていた。
(あれ? それじゃあ、私が榊君を好きだってこと、ばれちゃってるんじゃ……)
 その瞬間、榊君は面食らった表情でシーツにもぐった。
(あ……今、ばれちゃったのね……)
 まるで他人事のようにのんびり考えていたけど。
(あれ?)
 一呼吸置いて一気に頭が回り始めた。
(ちょ、ちょっと待って? 私が榊君を好きな気持ちが、榊君に伝わったってことは、つまり、こ、告白……)
 ようやく私も真っ赤になった。
(え、こ、告白っ!? 嘘っ!? そ、そんなつもりじゃなかったのにっ!? でも、結果的には……)
 少し顔を出した榊君の表情が少し和らいだ気がした。
「み、見ないでっ!」
 思わず叫ぶ。
「ご、ごめん。いや、その、白宮さんって意外と天然なんだな、って」
「うるさいっ! 何なの、もうっ……」
「僕と一緒」
「え?」
 榊君はぎこちなく笑みを浮かべて、目をそらすようにして上を向いていたけど、蒼く滲んだ眼差しは真剣そのものだった。
「ごめんね、本当に、ごめん。ずっと誤解してた。勝手に白宮さんの気持ちを決めつけて眼を見ようともしなかった。そのせいで、傷つけちゃって……」
 戸惑いを隠さない歯切れの悪い榊君の言葉は、それでも泣きそうになるほど嬉しかった。
「いいから、もう、いいの」
 心の底からそう思った。
「もう全部、終わったことだもの」
「……ありがとう」
 そう言う榊君は硬い表情を崩さなかった。まだ本心から許してくれているわけではないのだ。けど、多少なりとも歩み寄れたのだと分かった。
「ひとつ、お願いしてもいい……?」
「……何?」
 それでもやっぱり物足りない気がしていた。怒られないかなと内心びくびくしながら思い切って聞いてみる。
「し、『白宮さん』じゃなくて、『タチ』って呼んでくれる?」
 榊君がほんの僅か口元を緩めるのに気がついて、うっとりしながら眺めていた。
「よろしくね、タチ」
 私、今、幸せだ。胸の奥がほんのり暖かくなるのを感じた。

 榊君には、すぐに目をそらされてしまった。
 ――でも、今はこれで充分。
 心中で呟く言葉は榊君にも見えているのだろうか。
 ――きっといつか、通じ合える時が来るはず……。
 私はにっこりと笑った。

三章 死神の見えざる手

「ええと、要するに、生き物の肌に触れると体内が見えると、そう言うことなんだな?」
 丸いちゃぶ台を挟んだ反対側で閃斗はうんざりしたような声で言った。
「違うよーっ。見えるんじゃなくて、感じるの」
 白宮さん、いや、タチが口を尖らせると閃斗は苛立ちを隠さずに言った。
「あーもう、だからその『感じる』ってのがわかんねぇんだって。もうちょい具体的に言ってくれよ、タチ」
「だめっ! タチって呼んでいいのは家族だけだもん」
 閃斗とタチのやり取りをはらはらしながら見ていた僕は、跳び上がりそうになった。
「えーっと、タチ? それってどういう意味……」
 僕はしどろもどろで尋ねる。
「ならいいじゃねぇか。お前と斎人が家族なら、俺と斎人も家族なんだからな」
 ニヤニヤしながらやり返す閃斗の言葉を聞いて、タチは自分の言葉の意味を悟ったようだ。
「あ、いやっ、そのっ、家族みたいに仲のいい人って意味でっ!」
 タチがふるふると首を振ると茶色がかったポニーテールが揺れる。文字通り子馬が尻尾を振っているようで微笑ましいというかなんというか。
「はーい、できたわよー」
 と、突然部屋に入ってきたのは百合子さん。手に持ったお盆にはシフォンケーキと紅茶が乗っている。
「あ、ありがとうございます」
 赤らめた顔を隠そうとタチは慌ててカップを取って危うくこぼしそうになった。うーん、残念ながらもう手遅れだと思うんだけどな……。僕は苦笑する。
「あら、大丈夫? 熱いから気をつけてね。ではごゆっくり」
 僕の予想通り百合子さんはやけに上機嫌だった。空のお盆を抱えて去り際に僕に向かってウインク。だから余計なお世話だってば。
「わ、若いお母さんね……」
 タチが言うと閃斗は吹き出した。
「そっくりだな、お前ら」
「え?」
「僕も最初勘違いしたんだけどね、百合子さんはお手伝いさんだよ」
 苦笑してタチに説明する。
「……知らないもん、そんなの」
 むくれるタチを見て、閃斗がまた笑いだす。
「まったく一緒じゃねぇか! 仲いいな、ホントに」
「もう、学校でもさんざん冷やかしておいて、やめてよ」
 結構強めに言ったつもりだったけど、閃斗に笑いやむ様子はない。
 退院して学校に行くと僕を出迎えたのはクラスメイトの好奇の眼だった。タチの不登校や僕の発作のことは誰もが気にしていたようで、唯一事情を知る閃斗の話は瞬く間に広がった。かくして僕とタチの間柄はあることないこと尾ひれがついてクラス中の話の種になっているのだった。
 おかげで白い目で見られることは無くなったけど、他にもっとやりようがあっただろうに。閃斗は面白がって言いふらしているのだ。
「いいじゃねぇか、まんざらでもねぇんだろ? 実際」
「うるさいっ! ケーキ取ってやるぞっ」
「おいこらまた独り占めする気か! あのな、聞いてくれよタチ。こいつこないだケーキ一ホールまるまる平らげたんだぜ。おかげで俺の分が……」
「隙ありっ!」
「させるかっ!」
 素早く突き出したフォークからケーキの塊が逃げ、空を切ったフォークは机に当たる寸前で止まった。
「くそっ」
「まだまだだな。俺に不意打ちするのは百年早い……」
 と言っている間に僕は閃斗の紅茶にどっさりと砂糖を投入した。
「あ、てめっ!」
 慌てる閃斗をふふーんと笑って見上げる。
「不意打ちがどうしたって?」
「この野郎……やってくれるじゃねぇか」
 そう言って、閃斗は大きな手でわしゃわしゃと僕の頭をかきまわす。
「あ、やめっ! 暴力はんたいっ!」
「うるせーっ」
 ふふっと隣でタチが笑った。
「二人も十分仲いいじゃない」
 ばつの悪そうな顔で閃斗はようやく手を止める。
 僕とのいざこざで神経をすり減らしていたタチはすっかり元気になって透き通るような肌にほんのりと紅がさしている。気持ちほっそりとした輪郭からは弱々しさを感じるものの、筋の通った鼻がそれを引き締め理知的な雰囲気を漂わせている。ほっそりとした眉は緩やかに曲がり、こげ茶色の瞳が悪戯っぽく瞬いていた。
「おーい、斎人、聞いてるか?」
 目の前で日に焼けた手がひらひらと動く。
「顔赤いぞ、ん?」
「な、何?」
 聞こえなかったふりをして聞き返す。幸いそれ以上の追及は無かった。
「だいぶ話がそれたがタチの能力の話だ。百合子さんもしばらく戻ってこないだろうしな」
「だからーっ、タチって呼ぶのは……」
「堅いこと言うなよ、面倒くさい」
「もーっ」
 頬をふくらませるタチ。しかし、そんな彼女が手に入れた力は確かに不思議なものだった。

 タチの家の前で僕が倒れた時タチは完全にパニック状態だったという。僕の心臓が動いているのか止まっているのか、そればかりが気になって他のことを考えられなくなっていたらしい。本当はAEDを使えばすぐに分かるから真っ先に救急車を呼ぶべきだったとタチは言ったけど、冷静な判断ができないほど焦っていたのだそうだ。
 そのとき何かが起こった。タチは僕の肌を通して僕の心臓が止まっていることをはっきりと『感じた』という。鼓動を感じなかっただけでなくこぶし大の心臓の形やそれに絡みつく血管の一本一本まではっきりと分かったのだ。細かく痙攣していて心室細動を起こしていると判断したらしい。
 僕の心臓が止まっていることを知ったタチは目の覚めたように冷静になれた。事実が事実としてはっきりと認識できたことで、すべきことが頭の中に浮かび自然と体が動いたそうだ。不思議な力に目覚めたことで何もかもうまく行きそうだという自信も生まれた。救急車を呼び、気道を確保し、両親のクリニックに置いてあったAEDを持ってきて応急処置をやり遂げたのだ。能力は直接僕の救命に役立ったわけではないけど、この奇跡が無ければ僕は今ここにいなかったかもしれない。
「えっと、なんというか、肌に触れた手から幽霊の手みたいなのが伸びて体の中に入っていくの。その手は体の中をすり抜けていくんだけど触った感覚はある。体の中を手探りで進んでいくって感じかな」
「うーん、体の中を手探りかぁ……」
 話を聞いてて正直あまりいい気分はしない。きっと危害は無いんだろうけど、体の中を得体の知れない何かがうごめいていたと思うとむずむずする。
「触った感覚か。それじゃあ色は分からないんだな? あと、熱は感じるのか?」
「色は分からないけど熱さ冷たさなら分かるよ」
「え、でも、それじゃあ僕の能力に気がついたのは……?」
 タチは難しい顔をして考え込むように言った。
「それがよく分からなくて。形も温度も普通の眼と変わらないんだけど、とっくんの眼に触るとなんとなくぴりっと痺れると言うか、不思議な力が流れてるって感じがする」
「えっと、『とっくん』って……?」
「とっくんはとっくんよ!」
 どうやら僕のことらしい。一体いつの間にあだ名なんて決めたのか。
「おいこら、話をそらすな」
 そう言う閃斗も冷やかしたいのを堪えているようだ。
「斎人の、『心を見る』能力と同系統のものかもしれないな。『体内を触る』能力ってところか。自分の体はどうなんだ? 例えば、手を内側から触ったときにその不思議な感覚はあるのか?」
「そういえば……自分の体は触ってない」
 そう言ってタチは右手で自分の手首を取った。目を閉じて集中を高めている様子だ。しばらく待つと目を開けた。
「確かに私の手にも同じような力がありそう。特に手の表面あたり」
「なるほど。とするとやっぱり似た能力である可能性が高いな」
「うーん、どっちも『感覚』に関係してるよね」
 僕の言葉に閃斗は大きくうなずいた。
「そうだ。俺も同じことを考えてた。斎人の能力は『視覚』でタチの能力は『触覚』だ。推測の域を出ないが、ひょっとして『聴覚』、『味覚』、『嗅覚』を持ったやつもいるかもしれない」
 閃斗は興奮に顔を上気させて続ける。
「それに、タチの能力だけでも十分面白い。生き物に触った時しか内部を触ることはできないんだよな? 『生命とは何か』と言う問いは昔から大いに議論を巻き起こしてきたが、今ここにその答えがあるのかもしれない」
「な、なかなか大きく出るわね」
 ちょっと引き気味のタチ。僕も同じだ。だが閃斗は気にしない。
「例えばそうだな、死体に触ってみたことはあるか?」
「あ、あるわけないじゃないっ!」
 叫ぶタチに、閃斗は笑った。
「別に人間の死体だとは言ってねぇよ。肉とか魚とかさ」
 タチはほっと胸をなでおろす。
「ああ、なるほど……今度試してみるわね」
「頼んだ」
 閃斗はそう言って、紅茶に手を伸ばした。
「甘っ!」
 せき込む閃斗。どうやら僕が砂糖を入れたのをすっかり忘れていたらしい。
「ふふん、砂糖への愛が足りないよ」
 僕は閃斗のカップを取って一気に飲み干す。
「よく飲めるね……」
「斎人にとってはご褒美だからな」
「うるさいな、もうっ」
 口を尖らせると今度は自分の紅茶をすする。もちろんケーキは既に無くなっている。

「そう言えば、なんか他にも話すことがあるって言ってなかったっけ?」
「ああ、そうだったな」
 答える閃斗の表情は真剣そのものだ。
「二人とも、最近ここらで傷害事件が頻発しているのは知ってるか?」
 僕とタチはうなずいた。
「調べたらな、加害者か被害者のどちらかは西中の生徒、あるいは元生徒なんだ。ただ、今朝起こった事件は全然関係ないみたいだったが」
「確か校長先生が辞めるとか辞めないとかそんな話になってたよね。でも、どうして?」
「事件のあらましが篠原友璃さんの一件と似てるって、そう言いたいんだね?」
「そうだ。関連があるとは言い切れねぇが、なにぶん新聞やニュースだけじゃ良く分からないからな、状況を教えてほしい。特に加害者の性格、人を傷つけようとするような奴かどうかだ」
「えっと、篠原さんって誰?」
 そういえば僕の眼のことは話したけどそっちはまだだった。しまったと思ってすまなそうに閃斗を見やると、閃斗はごく簡潔に説明した。
「俺の友人だった幼馴染だ。ついこないだ死んじまった」
 それ以上閃斗は語らなかったけどタチの協力を促すには十分だったようだ。タチは真剣な顔つきで首をかしげた。
「うーん、校内でも情報は隠されてたしいろんなうわさが流れてたけど……。でもそんなに暴力的な人じゃなくて、どちらかというと大人しい人だったって聞いたよ。でもその、とっくんみたいに周りからの風当たりは強かったからいろいろ悩んでいたのかも」
「報道じゃ名前が隠されてたんだが、分かるか?」
「知らない。あんまり知っちゃいけないことだと思ったし……」
「まぁ、賢明な判断だな」
「僕はもう転校してたから全然知らない」
 そう言うと、閃斗は残念そうにため息をついた。
「そうか……そうだよな。なんか情報が入ったら教えてくれ」
「あんまり悩み過ぎないようにね。偶然かもしれないんだし」
「……ああ」
 閃斗はそう言ったものの、立ち止まる気はさらさらなさそうだった。

 タチを見送った後、六時きっかりに閃斗はテレビをつけた。トップニュースはもちろん、今朝起こった殺人事件……かと思ったら違った。
「今日の十五時だと……ついさっきじゃねぇか!?」
 今度も殺人事件で犯行現場は近くの本屋だった。二階はレンタルビデオ屋になっていて文房具なども売っているそこそこ大きいお店だ。少し前に帰ったタチのことが心配だったけど、既に犯人は自殺したらしい。
「西中の人じゃ……ないみたいだね」
 被害者、加害者ともに身元は公開されていたけどいずれも成人だった。僕が知る限り教員にも同じ名前の人はいない。
「一日で二件の殺人事件……やっぱりおかしい。どう考えてもおかしいぜ、これは」
 当然ニュースでも二つの事件とここ三ヶ月で起こった四件の事件を関連して取り上げていた。けれど最初の四件こそ西中の生徒が関係していたものの、今日起こった二つは西中とはなにも関わりが無かったし西中の生徒以外は皆年齢も職種もバラバラで共通の知り合いもいないそうだ。それに犯人は全員逮捕あるいは自殺していて複数の目撃情報もある。警察も目下関連を調査中とのことだ。
「一体何が……何が起こってるって言うんだ? 友璃も犠牲者の一人なのか……?」
 閃斗はがむしゃらにチャンネルを変える。いつもは滅多につけないような民放も含め。そうして画面に映ったある文句に閃斗は釘づけになった。
『死神の見えざる手』
 詳しいことは分からないけど、経済学の考え方、『神の見えざる手』をもじっているらしい。
『死神が見えない力で人々を狂わせ殺人に向かわせている、そんな印象を受けますね』
 勿体ぶった言い方で白髪の混じったいかにも学者風の男が解説している。
 閃斗はこういう地に足付かない主張を聞くと鼻で笑ってさんざんこきおろすのが常だったけど今回ばかりは黙っていた。
「死神、か……」
 その疲れ切ったような眼は既に虚空を眺めていた。心の中の水面は閃斗にしては珍しく不規則に揺れていて、もやもやしたものがわだかまっているのが分かった。僕もまったく同じ気持ちだった。


 見上げると黒く細い架線が鉛色の空をバックに駆け回っている。月高から帰る途中の乗り換え駅で僕はいつものように閃斗と一緒に人ごみの中を彷徨っていた。
 僕はあまり駅の雑踏は好きじゃなかった。今までなら教室の息苦しさよりは他人の寄せ集めの人ごみの方がずいぶん気が楽だったけど、心が見えるようになってからはそうもいかない。眼を見なければ心は見えないとはいえ通勤通学の時間帯でさらに複数路線の交わる乗り換え駅とあれば否が応でもたくさんの人間の眼が視界に入るし、決して気分のいいものばかりではなかった。だから電車の中では専ら本に視線を落としていた。それとも本に視線を落としたまま閃斗とおしゃべりしていると言うのが正しいか。けど電車乗り換えの移動はどうしようもない。降りる駅で階段の近くに出るためにホームの奥の方へ歩いていくその時だった。
『本日は……鉄道をご利用いただき、誠……がとうございます』
 突然響いた途切れ途切れの駅内放送に思わず上を見上げた時、視界の端に何かが映った。
 気弱そうな男性の横顔、虚ろな目に浮かぶ狂気の色を認識した瞬間に僕は叫んだ。
「閃斗! 白シャツジーパン眼鏡の男を取り押さえて!」
「は? どうしたんだ、突然」
「早く!」
 言いつつ、僕は荷物を放り出して駆け出す。
『ホームに参ります電車は通過電車です。危ないですので、黄色い線の内側までお下がりください……』
 スピーカーから録音された声が流れると、カーブを曲がってきた貨物列車のライトが見えた。ファーとけたたましい警笛を鳴らしてまっすぐこちらに走ってくる。
 視界に捉えた男まで三十メートル。だけど、人でごった返す夕方の駅のホームは通り抜けるだけで一苦労だ。
「誰か止めてーっ!」
 叫んだ声は警笛にかき消された。男がゆっくりと手を伸ばす。その先には、ヘッドホンをつけて本を読んでいる女性の姿。背後には全く気がつく様子が無い。
 ようやく事態を把握した閃斗がスパートをかけた。人ごみの中を縫うようにして男に迫る姿はまるで稲妻のようだ。けれどガラガラと線路に伝わる振動は強さを増し、カーブを曲がり終えた列車は加速してあっという間に距離をつめてくる。
 男が、女性を突き飛ばした。
 ぐらりと前につんのめった女性はあっけなく宙を舞った。両腕で空をかき、精一杯体をそらすけどもう遅い。僕は固く目を閉じた。
 どんっと鈍い音がして警笛は絶叫に押しつぶされた。ワンテンポ遅れて、ガラスを引っ掻くような鋭いブレーキ音がこだまする。長く尾を引くその音はなかなかやまない。
 立ち止まっていると、人の波がどっと押し寄せて倒れそうになった。慌てて目を開くと携帯を片手に殺到する人々が見えた。
「待てっ!」
 ぎりぎり耳に届いた叫び声は閃斗のものだった。人ごみの隙間からかろうじて見えたのは泡を食って逃げ出す犯人の姿。改札とは真逆の方向へ走っていくけど、どうやらホームの端から飛び降りるつもりらしい。
 けれど、人ごみをかき分けながら進む犯人は邪魔者の無い閃斗にあっという間に追いつかれた。動きにくい学生服にも関わらず軽やかに飛びかかった閃斗が男を押し倒す。男はうろたえるも素早く仰向けに直って殴りかかったが、閃斗はその拳を受け止めてそのまま捻って叩きつけた。あまりに痛かったのか男は観念してぐったりと背中をついた。それでも閃斗は油断なく警備員の来るまで力を緩める気はないようだった。
 見回すとあたりは地獄のような有様だった。
 はねられた女性は何処へ行ったのかわからないけどあたりにはまだ暖かい血が生々しく残っていた。パニックになって泣き叫ぶ人、関わりたくない様子でさっさと出口へ向かう人、現場の写真を撮る人、犯人を取り押さえた閃斗に拍手する人、緊迫した声で警察に連絡している人、人ごみをかき分けながら現場に近づく警備員、様々な人が各々の役割を演じているかのようで、夢を見ているんじゃないか、あるいは夢であって欲しいと無意識に感じているようだった。
 貨物列車は既に停車し、現場の少し奥が最後尾だった。かなりの速度を出していたようで停まるまでにかなりの距離を走っていた。どんなに楽観的な人でも女性が助かっているとは考えないだろう。線路から目をそむけるようにして僕は閃斗に駆け寄ろうと人の群れに体を押し込んだ。
 ――おや?
 僕はゆったりと落ち着いた足取りでこちらへ歩いてくる人間に気がついた。周りが足を速めてぞろぞろと現場に集まるのに逆らって一人悠然とした様子だった。最初はそのまますれ違おうかと思ったけどその眼を見て僕はふと足を止めた。あたりは恐怖と緊張と混乱に満ち満ちていて眼にもそれがありありと現れているけど、そいつの眼だけは違った。
 年齢は僕とそう変わらないように見えた。黒いブレザーにストライプのネクタイ、エナメル鞄を肩にかけた姿はありふれた高校生のそれだった。男子にしては長めの黒髪は軽くウェーブがかかっている。まっすぐと筋の通った鼻、薄く乾いた唇、彫りの深い顔立ちはどこか冷徹な雰囲気を醸し出しているものの女子受けはよさそうに思えた。きりりと整った眉、角ばった眼鏡に縁どられた真っ黒な眼は憂鬱そうな表情とは裏腹に笑っていた。
《ちょろいもんだぜ》
 彼の眼の中を読みとったとき、ぞわっと寒気がした。
(この人は……もしかして……)
 その時彼がこちらに気がつく。眼が合って僕は信じられないものを見た。
《この人は……もしかして……》
 僕の意識が鏡のように跳ね返って映っていた。眉間にしわを寄せると彼の眼にも警戒の色が浮かぶ。
《何だと? こいつ、俺の心を見てやがる》
(まさか……僕と同じように……)
《こいつも……心が読めるのか?》
(ひょっとして……一連の事件は……)
《ちっ、気がつかれたか……》
(この人が、『死神』……?)
 まるで電気信号のように刹那に互いの意識が飛び交った。二人の意識が眼と眼の間で反響してめまいがする。凪ぎのように思考が止まった瞬間彼は周りにはばかることなくにやりと笑った。
《だったらどうする? 俺を止める気か?》
 それは紛れもなく僕へ向けられた言葉だった。反射的に閃斗の篠原さんを想う気持ちが浮かんできた。
《そうか、お前がその気なら……》
 続く言葉を見て僕は咄嗟に眼を閉じた。全身がぶるりとすくみ上がってもう一度寒気が走る。
 どれくらいの間そうしていただろう。恐る恐るまぶたを上げると彼の姿は無かった。二回深呼吸して心を鎮めると、まだ震えの残る手をポケットに突っ込んで携帯を取り出す。
 その時ぽんと肩を叩かれた。
「おい、あんまり趣味がいいとは言えないな。死体の写真を撮るなんて後悔することになるぜ」
「あっ……」
 聞き覚えのない声に心臓が跳ね上がりそうになって思わず声を上げた。あの人だ。間違いない。すぐ後ろにいる。俺の写真を撮るんじゃないぞって警告しているんだ。
 僕はぎこちない仕草で携帯をポケットにねじ込んだ。一体、何をするつもりだ。思わず身構えるけど肩に置かれた手の感覚は消えた。
 そのまましばらく固まっていた。閃斗が傍らにいないのをこれほど不安に思ったことは無かった。手のひらには冷や汗がべったりと張り付いている。呼吸は荒く心臓は波打ち吐き気がする。がんがんと頭痛がして今にも卒倒しそうに思えた。
 振り返ると今度こそ彼は去っていた。見えるのは恐怖と混乱に憑かれた人々と赤茶けた錆を晒して沈黙する列車。ほとんど日も沈みかけていて斜めに差し込む紅い光を補うようにぽつりぽつりと電灯が点き始めると、ようやくサイレンの音が近づいてくるのが分かった。けどその音に覆いかぶさるように彼の言葉が脳内に響く。
《そうか、お前がその気なら……死んでもらう》
 まぶたの裏に焼きついた『死神』の眼は澄んでいたけど、それは逆になんとしてでも僕を亡き者にするという強い意志の表れだった。
 夢であってくれ。そう祈りながら僕はもう一度目を閉じた。


「着いたわよ」
 百合子さんの声に時計を確認すると既に二○時を回っていた。車のドアを押し開けて外に出ると夜の冷たく澄んだ空気が頬を撫でる。さあっと風の通り抜ける音にふと見上げると、雲の隙間で点々と星が光っている。あれはこないだ覚えたオリオン座だろうか。真っ黒の空に寂しそうに瞬く。
 簡単な事情聴取を受けた後で家に連絡して百合子さんに迎えに来てもらった。結局電車の運行は再開の目処が立たなかったから駅前はタクシーや自家用車で大渋滞だった。おかげで普段なら四十分くらいで着くところを二時間も三時間もかかってしまったのだ。百合子さんと合流するのも一苦労だった。目立つ車で行くとは言っていたけど、ようやく百合子さんを見つけて黒塗りの怪しい車に案内された時は流石の閃斗も苦笑いだった。
「それにしてもずいぶんな災難だったねぇ……閃斗もお手柄だったみたいだけどあんまり無理しちゃ駄目よ?」
「分かってるって」
 百合子さんに心配させないように笑って答える閃斗。こういう配慮が自然にできるのも閃斗の凄いところだ。僕もそうしたいのはやまやまだったけどとても笑い飛ばせるような気分じゃなかった。まだ震えが止まらない。
《ご両親も交通事故で亡くなられたらしいから、思い出しちゃったのかな》
 百合子さんはそう思っていたみたいだけど、それ以上に僕の心を蝕んでいたのはあの『死神』の眼だった。ぱらぱらと雨が降り始め、急かす百合子さんに生返事をして僕は足早に自室に逃げ込んだ。

「一体どうしたんだ斎人? ずいぶん参ってるみてぇだが」
 僕は廊下に出てあたりを見回し百合子さんがいないことを確かめてようやく口を開いた。
「あのさ……実はね、『死神』を見たんだ」
「『死神』?」
 驚いた閃斗に僕はついさっきの出来事を話して聞かせた。話を終えても意外なことに閃斗はあまり驚いてない風だった。
「そうか……心の見える奴がもう一人……」
「ねぇ、どうしたの? まるで、こうなることを知っていたみたいだけど」
「いや実はな、友璃の話をした時お前のこと疑ってたんだよ」
「僕を?」
「お前はそんな奴じゃねぇって分かったから、考えないことにしたんだけどさ、ほら、友璃は親殺しなんてするはずがねぇって言っただろ? でも、未遂だったにせよ実際にやっちまったわけだ。つまりそうするようにそそのかした奴がいるはずで、心が見えるならできるかもしれないって思ったんだよ。まさか、もう一人いるなんて思わなかったからな」
「そうか、それで、あの時……」
 僕は、閃斗の眼の中に篠原さんの姿を見たことを話した。
「もう一人っていうのは、あの人のことだったんだ……」
「俺の中に、友璃が……? いや待て、なんで友璃は知ってたんだ?」
「君が無意識のうちにもう一人の可能性を想定してたんじゃ……」
「うーん、無意識、か……」
 そう言う閃斗は何故か残念そうだったけど理由を見る前に目を閉じて考え込んでしまった。
「で、どうするかだな。『死神』は本気だったんだよな?」
 閃斗は厳しい声で言った。
「うん。間違いないよ」
「できると思うか? その……他人の心を見ながら殺人欲求を煽って特定の人物を殺させるようなことが?」
「わからない……でも実際、彼は何人も傷つけてきたわけだし、あの眼はなんとしてでも殺してやるって眼だった」
「無差別かそうでないかは結構大きいと思うが……しかし、甘く見るべきじゃなさそうだな。顔は分かるか?」
「うーん、ちょっと待ってて」
 机に置いてあった画用紙と鉛筆を手にとっておもむろに描き始める。幸か不幸か彼の顔はしっかり目に焼き付いている。たぶん二度と忘れないだろう。
「できた。だいたいこんな感じ」
 手にした画用紙から『死神』の顔がこちらを睨んでいた。
「……上手いもんだな。こんなに上手かったか?」
「自分でも、今までで一番の出来だと思う。あんまり嬉しくないけど」
「火事場の馬鹿力ってやつか? 技術力も関係あるんだな」
「……そうかもね」
 茶化した閃斗は真剣な表情に戻って紙の上の顔とにらめっこを始めた。
「いいか斎人。顔が割れてるお前は下手に出歩くな。そして外に出るときは必ず俺と一緒にいろ。いいな」
「うん、分かった」
 素直にうなずくと、閃斗はにかっと笑った。
「よし安心しろ。絶対俺が守ってやるからな」
 頼もしそうな閃斗だったけどその眼の中では俺ならやれるという自信と本当に大丈夫だろうかという不安がせめぎ合っていて、僕は励ましの言葉を素直に受け入れられなかった。
 抱きしめていた羊の形のクッションは柔らかかったもののどこか心もとなく思えた。

 夜はなかなか寝付けなかった。
 真っ暗闇の部屋の中電子機器の電源ランプだけが不気味に光っている。頭ではただの機械と分かっていてもそれが自分を見ているような気がして、目を閉じるのが怖くて仕方ない。疲れと不安と緊張とで頭はぼうっとしているけど目だけが妙に冴えている。ふかふかのベッドに寝転んでも頼りなさが先に立って、タンスの中の方が安心して寝られるんじゃないかと変な考えが首をもたげてくる。
 いつの間にか汗をかいていた。寝巻の下のシャツが背中に張り付いて気持ち悪い。背中に手を突っ込むと背筋がぞくっとした。手が氷のように冷たい。どうせ着替えなきゃいけないし遅いけど一度熱いシャワーでも浴びてきた方がいいかな。そう思ってもぞもぞと布団を押しのける。
「寝られないのか?」
 閃斗の声。どうやら閃斗もまだ寝ていなかったらしい。
「う、うん。汗かいてるし、一回シャワー浴びてくる」
「気をつけろよ。暗いからな」
「分かっ……」
 言葉はそこで途切れた。
 立ち上がった瞬間、脳裏にあの黒く澄んだ眼が蘇ってきた。眼の中の『死んでもらう』の一言が鮮やかにフラッシュバックする。
 ぎゅーんと頭から血が引いていくのが分かった。倒れそうになるのを膝をついて何とか堪えると、ぜぇぜぇと大きく息をした。刺すような痛みが胸を貫く。
「おい、斎人! どうした!」
 ベッドから飛び降りた閃斗が電灯を点けてこちらに駆け寄る。ぱっと明るくなった部屋に思わず目を閉じる。
「く……薬、飲み忘れてた……」
 うっすら目を開けても閃斗の姿はおぼろげにしか分からない。これはまずい。自分でもよく分かった。
「馬鹿野郎! 待ってろ、すぐに助けを呼ぶ!」
 そう言って机の上から携帯電話を取ると緊張した声で話し始めた。
 ごうごうと次第に大きくなる耳鳴りの音を聞きながら僕は荒く息をしていた。

***

 私が古ぼけた引き戸を開いて一年八組の教室に入ると、星野君がクラスメイトに取り囲まれていた。
「なぁ星野、犯人はどんな人だった? 強かったのか?」
「うるせぇな。人違いだって言ってんだろ」
「なんだ、星野の捕まえたのは犯人じゃなかったのか」
「そうじゃねぇって」
「じゃあやっぱり星野のお手柄だったんだな。すげぇじゃん」
「あのなぁ……お前ら……」
 どうやら昨日起こった人身事故の話をしているらしい。へぇっ、犯人を捕まえたのは高校生って噂を聞いたけど星野君だったんだ。でもいつになく謙虚なような……。それにいつもそばにいるはずの人影もない。
「おはよーっ」
 話しかけると顔を上げた星野君はおはようと返した。その響きはどこかぶっきらぼうで、苛立っているのが分かった。
「とっく……じゃなくて、(ときわぎ)君は?」
「ああ、斎人なら病院だ。昨日の夜に薬を飲み忘れて発作が出てな。元気なんだが一応今日は大事を取って検査入院ってことになった」
「えぇっ!? また入院?」
 びっくりして思わず声が上ずってしまった。
「こら、あんまり大きな声出すなよ」
 星野君は不機嫌そうにぼやいた。
「だ、だって、入院って。あれからまだ一週間も経ってないのに。ど、どこの病院なの?」
「いやそんなに心配するなって。朝俺も見てきたけど大丈夫だから。明日には退院できるはずだ」
「でもお見舞いくらい……」
「駄目だ!」
 立ち上がって星野君が叫んだ。驚いて何も言えずにいると星野君はばつの悪そうな顔になった。
「あ、いや、すまん。寝不足でしんどいんだ。ちょっと放っておいてくれないか」
「ご、ごめん……」
 周りのクラスメイトも気まずそうに離れていった。私も席に戻ろうとして背中に声をかけられた。
「ああ、あと、早いうちに話したいことがあるからそのつもりでいてくれ」
 他の人に聞かれないようにささやき声だった。振り返ると星野君は何事もなかったかのように頬杖ついて外の景色を眺めている。
 寝不足だと言った割には眠る気はさらさらなさそうだった。どこか遠くの方を見つめる目はぎらぎらしていて追いつめられた動物が最後にもがくときのような弱々しさと危うさがないまぜになった表情だった。引き締まって日焼けした顔立ちにもどこか陰りが見えて悩んでいるのだと分かる。普段なら得意になってぺらぺらと武勇伝を披露するはずの星野君がクラスメイトの称賛を鬱陶しがっていたのも、一人で考え事をしたかったからなのだろうか。大きな声出すなって自分で言っておいて私に怒鳴るのもらしくなかった。
(大丈夫って言ってるけどずいぶん心配しているみたい……)
 いくら聞いても星野君は話してくれそうになかった。大丈夫だからと苛立たしそうになだめる様子が余計に不安をかき立てた。星野君は何か隠している。とっくんみたいに心は見えないけど私にもはっきり分かった。
(話したいことって一体なんだろう。もしかして、とっくんが……)
 瞬間、ちらりと頭をよぎった思いつきに恐ろしくなった。ふるふると頭を振ってそんなわけないと自分に言い聞かせるけど一度膨らんだ不安はなかなかしぼんでいかない。
 いずれにせよ学校帰りにお見舞いに行こう。そう決意した時に始業のチャイムが鳴って慌てて席に戻った。

 電車に揺られて駅に着き、そこから家に帰る道を少しそれて向かったのは、市の総合病院。結局星野君はとっくんの場所を教えてくれなかったけど、二人の家から近いし前に救急車を呼んだ時もここへ搬送されたから今回もそうだろうと思った。
 市だけでなく近隣の大企業も出資している総合病院はこのあたり五、六の市町村の中でも最大級で、お父さんが言うには半径十キロメートルを『診療圏』としてカバーしているらしい。建物だけでも五つくらいはあるしその一つはなんと十二階建てだ。だから私が迷子になるのも無理のないことであって。
(えっと、入口どこだったっけ……)
 前来た時はとっくんを引き渡して急いで着替をして救急車に付き添いとして乗り込んだからついて行けばいいだけだった。しかし駅からの道のり、坂を下って辿りついた病院の建物は見渡す限りコンクリートの壁面で出入り口どころか人っ子一人見当たらなかった。どうやら側面に出てしまったみたい。左右には建物に沿って路地が走っているけど一体どちらに行けばいいのか。まあ迷っても仕方ないかと左に折れる。二、三分くらいコンクリートを眺めながら歩くと幸い正面玄関に出ることができた。
 改めて見ると、病院は実に綺麗だった。市営バスも入ってくるロータリーの中央には色とりどりの草花が茂り、行き交う人々に笑いかけている。見上げると南向きの壁は一面ガラス張りになっていて、沈みかけた日の光を斜めに受けてきらきら光っていた。私が生まれたころにはもう今の建物だったはずだけどよくもまあこれだけ綺麗に保てたものだ。こないだ行った星野邸も凄かったけど、目の前の建物は清潔感にあふれ機能性を追求した簡素な美しさがあった。
 中に入ると微かに消毒液の匂いがしてぴりっと緊張が走った。車いすに乗っている人や点滴台を引きずって歩いている人がちらほら。ああやっぱりここは病院なんだと実感して少しほぐれていた不安が再燃するのを感じた。
(お見舞いの受付は……)
 案内板を見つけてしばらく眺めると二階の地図に『総合受付』の文字を見つけた。たぶんここだろう。道筋を指で辿って確認する。エスカレーターを上って正面ね、よし。
 カウンターには小ざっぱりとした事務員のお姉さんがいた。幸い誰も並んでいない。
「す、すみません。お見舞いに来たのですが……」
「はい、御面会ですね。患者様のお名前は?」
「榊斎人です」
 そう言うと受付の人はキーボードに指を走らせて検索を始めたが、戸惑った様子でこちらを見た。
「あの……申し訳ありませんが、榊様は面会謝絶となっております」
「面会……謝絶?」
 私はぽかんとした顔で見つめ返した。
「えっと、どうして?」
「付添い人様のご希望です。人が来ると病状が悪化しかねないとのことで」
 付添い人の名前は教えてくれなかったけどきっと星野君だろう。
「病状……? 悪化……? そんなに悪いんですか……?」
「詳しいことは分かりませんが……精神的に参ってしまっているとのことです」
 急速に不安の渦が強くなっていくのを感じた。星野君は頑なに私をとっくんと会わせようとしなかったし自分も見舞いに行く風ではなかった。どう考えても普通の状況ではない。
「あ、あのっ!」
 とにかくいてもたってもいられなかった。
「お部屋に入れて貰えなくても構いません。部屋の前まででいいので、連れてってくれませんか」
 困った顔をされたけど私はてこでも動く気はなかった。しばらくそうしていると後ろで話を聞いていた風の女性が立ち上がって声をかけてきた。
「しょうがないわね、私が案内する」
「あ、ありがとうございます!」
 ぱっと顔を輝かせるとすらりと背の高い女性はふふっと笑った。優しそうなふっくらした顔に浮かんだ笑顔はどこか百合子さんと似ていた。
「ちょうど交代の時間だから、いいでしょう?」
 受付の人はほっとしたような表情でうなずいた。女性は私に向き直ると言った。
「じゃあ、ついて来て」

 階段を上がって辿りついたとっくんの部屋は個室だった。
 ずらりと扉の並ぶ廊下は静まり返っていてときどき行き交う人の足音だけがやけに響いていた。つるりとした床は塵一つなくて丁寧に滑り止めの加工がしてある。さりげなくあちこちに手すりがついているのを見て行き届いているなと感心してしまった。
 中に入りたくてうずうずしていたけど、貴重な休み時間を割いて案内してくれた女性を裏切るわけにもいかないので大人しく扉の前に立っていた。せめて呼吸の音くらい聞こえれば多少は病状の検討もつくのだけれど、生憎病室の扉はそんなにやわじゃない。そわそわしながら五分くらい立ちすくんでいたけど寝ているのか覚めているのかすらわからなかった。しまいにはほとんど扉に耳をくっつけるようにしていたけど遂に諦めて女性に向き直った。
「無理を言ってすみませんでした。そろそろ失礼します。その、案内していただいてありがとうございました」
 はにかんだ女性が口を開きかけた時、背後で呻き声がした。
 驚いて扉を開きそうになるのを何とか思いとどまった。代わりに今度こそぴったりと扉に耳を押し当ててふうっと深呼吸をした。
「やめて……」
 上ずった声だったが確かにとっくんの声だった。
「……見ないで! こっちへ来ないで! やめて……お願いだ、やめてくれっ……」
 それほど大きな声ではなかったけど悲鳴に近い甲高い声はしっかりと私の耳に届いた。どこか心の奥の方がきりきりと痛むのを感じた。どうやらうなされているらしい。それもこのようにうわごとを言うのは、きっと高熱を出しているのだ。単なる心臓発作で高熱を出すという話は聞いたことがないからやっぱりただ事ではないのかもしれない。
「見るな……」
 そう言ったっきりとっくんはまた静かになった。部屋に入りたい気持ちを歯を食いしばって堪えると、改めて受付の女性にお礼を言って足早に去った。これ以上部屋の外で待っていたら自分を抑えておける自信がなかったから。
 階段を下りて受付の前を通り過ぎるとそのままエスカレーターに乗った。患者さんや高齢者への配慮なのかエスカレーターは妙にのろかった。歩いて下りて行こうかそのまま進むに任せていようかちょっと迷った時、後ろで声がした。
「そういえばね、さっきすごい剣幕の子供を見たのよ」
 私の二段上のところに四十くらいのおばさん二人が並んで立っていた。
「へえ、どんな?」
 片割れが興味深そうに尋ねると勿体ぶった調子で話し始めた。
「なんか、ぼうっとしてふらふらした様子で気になっていたんだけど、突然通りすがりのお医者さんをつかまえて怒鳴り散らしていたのよ。『なんとかしてくれよ、頼むから』って」
「ふうん、その子、そんなに重病だったの?」
「違う違う。病人の友達よ。なんでも心臓が悪いらしくていよいよ助かる見込みの無いところまで来ちゃったみたい。とっても苦しいのね……『死なせてくれ』って、うわごとみたいに繰り返してるそうよ」
 何の気なしに聞いていた私はその言葉にぴくりと耳をそばだてた。
「それは可哀想に……さぞかしその友達も辛い思いをしていたんでしょうね」
「そうみたい。最後にはほとんど泣き出しそうになってお医者さんに慰められていたわ。もう中学生か高校生くらいの男の子だったけど、赤ちゃんみたいにぐずってて痛ましかった」
「あの……」
 私が声をかけると二人はぎょっとしてこちらを向いた。
「その友達か病人の、もっと詳しいことご存知ですか……?」
 尋ねる声は自分でも震えていることが分かった。
「え、えっと、そうね……お医者さんに名前を聞かれた友達の方は確か星野って名乗ってたわ」
 恐怖に全身が縮みあがって卒倒しそうになった。頭の中が真っ白になって考えるより先におばさん二人の脇をすり抜けてエスカレーターを駆けあがっていった。
「ちょ、ちょっと! ここ下りのエスカレーターよ!?」
 背中に飛んでくる声を無視して懸命に駆け上がる。ぜぇぜぇ息を切らしながら上りきると元来た道を戻っていった。ほどなくしてとっくんの病室に着く。躊躇いなく扉を開けようとしたけど開かなかった。鍵がかかっている。
「とっくん、とっくん! お願い、返事して! とっくん!」
 扉を叩いて叫ぶ。こちらを不審そうな目で眺める人影にも構わずに声を張り上げる。そのうち病院の人が集まってきて扉の前から引き離されてしまった。そのまま入口まで連れて行かれほとんど放り出されるようにして私は病院を後にした。

 家に帰りついた時には八時を回っていた。がんがんと痛む頭を揺さぶって玄関のドアをくぐり機械的な動作で鍵を閉める。おぼつかない足取りで階段を上り寝室に辿りつくと、倒れこむようにしてベッドに横たわった。既に目は真っ赤に泣き腫らしていたけど、それでも足りずにまた声を上げて泣き始める。
(やっと、やっと、仲良くなれたのに……)
 何度も頭を駆け巡った言葉がもう一度顔を出す。
(死に目にも会えないなんて、むごすぎる)
 冷蔵庫にお母さんの用意してくれたご飯が入っているはずだったけどとても食事なんてできそうになかった。制服姿でベッドにうつ伏せになったまま夢かうつつかも分からない長い長い時間を過ごした。何度も息が詰まりそうになってせき込んでいるうち、喉もからからになって腫れぼったくなっていた。惨めだ。今までに見聞きしたどんな状況よりも惨めだった。
 ようやく我に帰ったときは真っ暗闇になっていた。いつの間にか分厚いカーテンが閉まっていて窓の外の街灯を遮っている。目覚まし時計を引き寄せると午前一時を指していた。
 どうやら悪夢を見ていたらしい。頭がぼんやりしてよく思い出せないけど、びっしりと汗をかいて走り回った後のように肩で息をしていた。珍しく寝ながらにして暴れたようでシーツがしわくちゃになり頭の位置が寝る前と逆になっていた。
 一度目が覚めてしまうと寝たいと思っていてもなかなか寝付けない。うっと突き上げるような吐き気もしたので仕方なく立ち上がってトイレに向かった。
 灯りを点けてトイレのドアを開けると便座のふたに張り紙がしてあった。どうやら調子が悪いらしい。しょうがない、クリニックの方のトイレを使おう。階段を下りクリニック側の扉をがちゃりと鍵をひねって開く。診療室や受付の横を通り抜けると待合室に出た。普段と違って真っ暗でがらんとした待合室は不気味だったけど、構わずトイレに入る。
 部屋に戻ろうと廊下に出た時、おやっと思った。行きは気がつかなかったけど扉が微かに開いてオレンジがかった光が漏れだしている。あの部屋は薬品庫だ。お母さんまだ起きてるのかな。
「お母さん?」
 扉の外から声をかけるけど返事は無い。恐る恐る扉を開くと中には誰もいなかった。
(おかしいな……)
 薬品庫は当然誰しも勝手に入っていい場所ではない。お母さんは使うたびにしっかり施錠しているし娘の私でも鍵の場所は知らなかったから、薬品庫の中は見るのも初めてだった。
 部屋の四方には頑丈そうな金属フレームの棚が置かれガラス戸の奥で薬品のビンやら箱やらがラベルを向けて整然と並んでいる。けれどそのうち左手側の一つだけは高価そうな電子天秤や乳棒乳鉢などが収められていて、その下には引き出しがずらりと並んでいる。きっと薬さじ……じゃなくてスパーテルや、ピンセット、ハサミ、綺麗なハンカチや薬包紙などが収められているのだろう。他には電卓とかメモ帳とか筆記具とかを使うんだっけ。こまごまとした道具は薬局の方にも持って出かけるらしいから、こだわっているに違いない。
 部屋の中央には傷一つないつるんとした机が備え付けられていて、端っこには流し台がついていた。手元が暗くならないように電気スタンドも置いてあった。
 薬品庫というからてっきり薬品が並んでいるだけなのかと思っていたけど、調剤の設備も整えてあるのを見てちょっと驚いた。怒られるかなと思ったけど鍵のありかを知らない私には戸締りできないんだしと言い訳して中に入った。要するに好奇心が勝ったのだった。
 一つ一つ棚を覗くと聞いたこともないような名前の薬品がいっぱいあった。よく処方される抗生物質や解熱剤のパッケージはかろうじて見たことがあったけど、他は何に使うのか全然分からない。
(やっぱり、私はまだ何も知らない……)
 そう実感して心細くなった。ちょっと目先が変わったことで意識の外に追い出されていたとっくんのことが蘇ってきた。
(私がもっとしっかりしていれば、助けてあげられるかもしれないのに……)
 ぼんやりと思ったけどすぐにかぶりを振って自分の言葉を打ち消した。プロのお医者さんがどうしようもないんだから十五の私にできることなんてない。不意にそれまでさんざん泣きわめいて受け入れようとしなかったとっくんの死が実際にあり得ることに思えてきて、虚しさが全身に広がった。
(私には……何もできない……)
 何故か涙は浮かんでこなかった。感覚が麻痺してしまってぼんやりと立ち尽くしていた。
 部屋に戻ろうと思って振り返ったとき、棚の中の赤いラベルが目に入った。
 びりっと切れていた神経が再び繋がったかのような感覚が全身に走った。
 ――『死なせてくれ』って、うわごとみたいに言ってるそうよ――
 エスカレーターで聞いたあの言葉が脳裏に蘇える。
 ぼうっと霞んだ視界の中央に『医薬用外毒物』の文字だけがくっきりと浮かび上がって見えた。
(楽にしてあげられるかな……)
 ガラス戸はあっさりと開いた。鍵がかかっていないことを不審に思うこともなく、私はゆっくりと手を伸ばした。

***

(くそっ、ここも駄目か)
 心の中で呟いた俺は舌打ちして、天を振り仰いだ。
 斎人は今病院にいる。病状は心配だったが医者は確かに明日には退院できると言ったからとりあえず命に別状はないだろう。人目もあるし念のため面会謝絶にしておいたから今のところ斎人は安全だ。しかし、いざ斎人が退院してしまえば俺は斎人につきっきりでなければならない。『死神』のことを調べ上げるなら今がチャンスなのだ。
 けれど手掛かりの少ない現状、やれることはそう多くなかった。
 初めに手をつけたのは制服屋を回ることだった。
 斎人は、『死神』の顔だけでなく服もはっきりと覚えていた。よほどのショックで目に焼き付いているらしい。友璃の姿を見た時も後から思い出せるくらいはっきり覚えていたそうだから、意外とそういう特技があるのかもしれないが。
 そういうわけで、適当に理由をでっちあげては制服屋に斎人の絵を見せて回り、どこの学校なのか特定しようと試みたのだが上手くいかなかった。しまいにはもしかしてただの変装でそんな制服なんて存在しないのではないかとさえ思えてきた。直接自分が手を下すやり口でもないからそんな面倒臭いことをしているとは思えなかったが、案外用心深い奴なのかもしれない。そう考えると直接の手掛かりは顔しかないことになる。
 今日回るのはここが最後と決めた制服屋から顔を出すと、すっかりさびれてしまった商店街が冷え切った夜の闇に沈んでいた。家から歩いて行ける店だから乗り換え駅で遭遇したあいつの情報は望み薄だと思っていたが、五軒目もあえなく空振りだと焦りがじわじわと這いあがってくるのを抑えきれなくなってくる。
 びゅうっと強い風が吹いてペンキの剥げたシャッターががらがらと音を立てた。まだ七時だというのに目に入る全ての店がシャッターを下ろしている。一体この中で営業している店がどれほどあるのだろう。近所にできたショッピングモールにすっかり客を吸われた商店街に今日は何故か同情を覚えた。
 俺は今強大な敵に立ち向かっているのだとひしひしと感じている。
 『死神』は相当頭の回るやつに違いない。いずれの事件の加害者と被害者――いや、どちらも『死神』の被害者なのだが――からも『死神』との接点は分からなかった。たぶん知り合いの知り合いのそのまた知り合いくらいからじわじわとプレッシャーをかけていくのだろう。いったいどのように煽動しているのか想像もつかない。
 純粋に心を分析する能力についても斎人を凌いでいると思われた。斎人は今俺が考えているような具体的に頭に浮かんだテキストは簡単に読みとることができたが、喜びや怒り、悲しみといった漠然として曖昧な感情をひも解くのはそれほど得意ではなかった。対して『死神』の手口からはターゲットの性格をしっかりと捉えていることが分かる。そうでなければこんな短期間で三つの殺人事件を起こすなんて不可能だろう。
 点滅を始めた青信号を見て小走りで横断歩道を渡った。すぐ後に今渡った大通りを眩しいヘッドライトを灯した自動車が激しく行き交う。会社帰りの車たちは気が急いているのかあわただしく加減速していてどこか危うい感じがした。それを見て思わず顔をしかめる。
 現時点では圧倒的に不利だ。対抗するには『死神』の蒔いた殺人衝動という種を一つ一つ探し出し説得や力ずくで止めないといけない。完全に後手に回る上根本的な解決にはならない。それに狙われている以上、殺人衝動を見抜ける斎人は迂闊に動けないから必ず取りこぼしが出るだろう。悲劇は永遠に終わることはない。
 かといって『死神』を法で裁くことはできない。彼は表面上何もやっていないのだから。殺人をそそのかされた本人すら気がついていないのに殺害の幇助を立証することは無理だ。たとえ斎人が申し出て『心を見る力』の存在を証明したとしても『死神』がその能力を持つという証明にはならないし、その能力で人殺しをそそのかしたのだという証拠もない。
 つまり『死神』は何か自分からヘマをしない限り無敵なのだ。たとえ正体を知ったとしても手の出しようがない。奴は安全圏から出ないように細心の注意を払っている。おそらく奴を止める手段はただ一つ。
(殺す……それしかないのか……?)
 ぎらぎらと街灯の輝く通りをそれて足元もおぼつかない暗い路地に入った。その瞬間しんしんと冷え切った空気が体を包み思わず身震いする。家へと続く道は緩やかに曲がっていて先が見えない。
 進んでいく道は殺すか殺されるかのどちらかにしか繋がっていない。俺にとっては両方破滅への道のりだ。『死神』が煽動行為に飽きてやめてくれるのならそれが一番いいが、一つ殺人事件を起こすのにもそれなりの労力を使うだろうにこれほど躍起になっているからにはただの道楽として以外に理由がありそうだった。
 しかも斎人が狙われている今となっては引き返せない。『死神』が斎人を疎んだ時点でもう俺の破滅は決まってしまっていた。まだ俺のことを知らないにしても時間の問題だろう。
 気がつくと家の前に出ようとしていた。ぽうっとオレンジ色の光を放つ玄関灯がいかめしい鉄柵の門を宵の闇から浮かび上がらせている。その光の円の端っこでちらりと動く影を見て俺は驚いた。
「……誰かいるのか?」
 言いつつ咄嗟にポケットからサングラスを取り出して、眼を隠す。
「へぇ、昨日の今日なのに用意がいいじゃねーか。お前が閃斗だな?」
「お前は……」
 闇の中から現れたせせら笑うその顔は、紛れもなく斎人の描いた絵の通りだった。
「『死神』……?」
 緊張と混乱に声を震わせると青年は手をひらひらさせた。
「おいおいよしてくれそんな仰々しい呼び方は。自分で言ってて恥ずかしくないの? 俺のことは、『シン』って呼んでよ」
 シンと名乗る青年は斎人の絵からそのまま飛び出してきたかのようにまるっきり同じ出で立ちをしていた。唯一違うのは鞄を持たず手ぶらなことくらいだろうか。黒ずくめのブレザーに身を包み眼鏡をかけている。黒い眼はいけすかない長髪に見え隠れしているものの、その奥で力強く光っていた。あの眼が斎人と同じ力を持っているのだと思うと気分が悪くなる。
「……何しに来た。俺を、殺しにか?」
 ひょっとして今までずっと尾行されていたのか。十分にあり得るがそもそもどうやって俺のことを知ったのか。昨日駅でこいつに会ったのは斎人だけのはずだ。
「それは違うって分かってんだろ? 星野閃斗。なーんで君一人殺すのに俺がわざわざ手を汚さなきゃいけないのさ。確かに白髪のおチビさんよりは手こずりそうだが」
「何しに来たって聞いてんだ。答えろ」
 吐き捨てるように言ってもシンは笑みを絶やさない。
「取引だよ。情報の交換だ」
 シンは言った。
「説明しろ」
「俺がこの能力に目覚めたのは半年前、交通事故に遭遇した時だ。自転車に乗ってた俺が夜道を渡ったら酔っ払いが慌てて急ブレーキかけてよ、スピンして歩道に突っ込んだんだ。理由はよく分かんねーけどそれから心が見えるようになった」
 シンの話を聞いて俺ははっとなった。何の偶然か知らないが、それは斎人の両親が亡くなった事故だった。
「最初は遊び半分だったんだぜ? ちょっと刺激してやるだけで自分の思い通りに人が動くのは実に痛快だったよ。しかしそれで女を一人自殺に追い込んだとき、俺にもう一つの能力が宿った。その時俺は気がついたんだ。神様だか何だか知らねーが、人柱を捧げれば俺の能力はみるみる高まっていく。実際そうだった。最初は心中語しか分からなかったが、今では一目見ただけで考え方や好みまではっきりと分かる。どうやって感情の矛先をすり替え、恨みや妬みや憎しみに持って行けばいいか、がな。どんな人間でも思い通りに動かすのも、そう遠くない未来には不可能じゃねーだろう」
「だから、どうした?」
「白髪のチビ、榊斎人って言ったか。あいつがどうやって『視覚』を手に入れたのか教えてくれよ。俺だって今みたいなまどろっこしい方法は嫌なんだ。他の方法があるならそっちの方がいい」
「……なるほど、な」
 そう言って俺は黙ったまましばらく立ちすくんでいた。シンは気味悪くにやにや笑っていたが、あんまり俺が黙っているので口を開こうとした。
 その瞬間を俺は見逃さなかった。
 音もなく地面を蹴り三歩先のシンに迫る。同時に、上半身を左に捻るのに合わせて右手を振りかぶると、袖口に仕込んでいたナイフが飛び出し手に収まった。鞘を噛んで一気にナイフを抜き放つと、勢いそのままに鋭く斬りかかった。
 迷いなく両眼を狙って薙ぎ払った刃に、シンの眼鏡が弾け飛んだ。血も散ったが、整った鼻に少しばかり紅い筋が浮かんだだけだった。かっと見開かれたシンの眼に憤怒がひらめく。
 上体を大きく後ろに反らしたシンはバック転の要領で俺の顎めがけて蹴りあげた。まるで俺の斬撃を待っていたかのようなカウンター。背中を向けて咄嗟にかばうが左肩に鈍い痛みが走る。
 続けざま両手で着地したシンは脚を大きく広げて薙ぎ払う。慌てて身を引いた俺の鼻先を鋭い蹴りがかすめた。その隙にシンは後ろに跳んで地に足をつける。
 あとは一瞬の出来事だった。
 俺がもう一度斬りかかろうと前かがみになった瞬間、シンの拳が弾丸のように飛んできてみぞおちに強烈な一撃を叩きこまれた。目の前に火花が散って呻くと、風船のように体が浮き上がり、受身を取ることもできずに地面に叩きつけられた。全身がじんじんと痺れてナイフとサングラスをもぎ取られた時も、ぴくりとも動けなかった。
 がっちりと俺を組み伏せたシンは勝ち誇ったように高笑いした。
「はっはっは、閃斗、お前もなかなかやるみてーだが俺には勝てん。暗殺は諦めた方がいいぜ。今ここで殺しても状況的には正当防衛だが証人がいねーなら仕方ない。生かしておいてやるよ。ただし、人目のつくところで俺を殺しに来たら死ぬのはてめーだ。覚えとくんだな」
「くそっ……この野郎……」
 虚しく抵抗するも俺を押さえつける力は岩のように重く一ミリも動きそうにない。
「あんまり手荒なことはしたくなかったんだがな、こうなったら仕方ねー。眼の中を見せて貰うぜ」
 俺はすぐに眼を閉じたが、その直前にシンの眼が視界に入った。
「なるほど。生存本能として『視覚』に目覚めたのか。なら交渉決裂だ。俺には真似できねーからな」
 俺は背筋が寒くなった。ほんの一瞬で見抜かれてしまった。斎人は心中語を読むのでさえたっぷり一秒はかかるというのに。
「それに、俺の最初の獲物はお前の女だったんだな。通りで俺を恨むわけだ」
「……今、何て言った?」
 それまで抑えていた怒りが急速に湧き上がってくるのを感じた。
「……篠原友璃は、お前が、殺したのか?」
 ははっとシンはもう一度笑った。
「人聞きの悪い。あの女は自分で死んだんじゃねーか。死んでもらった、って言ってくれよ」
「てめぇ!」
「はっはっは、知ってるか? 大切な人を傷つけた人間の絶望に満ちた眼を。最高だぜ? 母親を手にかけた女の眼を人目がなければ拝んでやれたんだがな、実にもったいなかったよ、あれは!」
「外道め!」
 怒りにまかせて左手の拘束を振り切ると、もう一つ仕込んでいたナイフを投げたが、鞘のついたままのナイフは簡単に弾き落とされてしまった。
「あんまりかっかするなよ。奥の手は最後まで取っておくものだぜ。それに、心配しなくてもあの世でじきに会わせてやるさ。そうだな、気にいらねーならお前にはあの女より酷い運命を用意してやろう。『友人を殺し、友人に殺される』ってのはどーだ?」
「黙れ! 何でも思い通りにいくと思うんじゃねぇぞ!」
「何とでも言えよ。じきに思い知ることになるさ」
 首に強い衝撃を受けて目の前が真っ白になった。耳には、シンの嘲笑がこびりついている。そのまますっと意識が遠のいて、俺は何も分からなくなった。

***

 一日中こんこんと眠り続けると、僕はだいぶ落ち着いた気分になった。
 真っ白に塗られた天井はよく見ると細い傷が走っていたり小さなへこみがあったりする。点滴台も少し年季が入っているようで、金属製の脚の部分に錆が浮き始めていた。窓から差し込む光は眩しく、とうに朝は過ぎ昼に差し掛かろうとしているのが分かった。
 再び病院に運び込まれて最初に目が覚めたのはちょうど昨日の今頃だった。心臓はすっかり調子が戻っていたけど、悪夢にうなされて高熱が出た。どうやら自分で思っていた以上に精神が参ってしまっていたらしい。閃斗もタチも何故か会いに来てくれなくて、心細かった。
 点滴で栄養は取っているものの長いこと何も口にしていないので胃は空っぽだ。だんだん頭の中が澄んでくると、お腹がきゅうっと鳴った。たくさん汗もかいているけど熱は下がったみたいだ。体を起こしてナースコールのボタンを躊躇いがちに押すと、看護師さんが飛んで来て空になった点滴を外したり汗をぬぐうタオルを置いてくれた。体温を測ると平熱に戻っていた。もう歩けそうだと告げると、一時間後くらいに診察をするからまた呼びに来ると言われた。
 タオルを冷たい水で少し湿らせると、入院服をはだけて丁寧に全身を拭いた。さっぱりとした体をそよ風が撫でると不安も和らいで清々しい気分になる。この調子なら明日にも学校に戻れそうだ。そう考えると嬉しかった。
 たっぷり寝た後ですっかり目も覚め退屈を持て余して体を伸ばしていると、コンコンと遠慮がちに扉を叩く音がした。看護師さんかと思ってそのまま待つけど一向に扉の開く気配はない。変だと思ってベッドから抜け出し扉に歩み寄ると、鍵がかかっていることに気がついた。何の気なしに鍵を捻った瞬間、引き戸がひとりでに滑った。
「た、タチ!?」
 目と鼻の先に立っていたタチは顔を真っ青にして、魂の抜けたような出で立ちだった。こげ茶の眼は虚ろで、その中ではうすぼんやりとした虚無の水面にばらばらに砕け散った感情の断片が漂っていた。強いショックを受けて発狂する一歩手前の眼だ。
「ど、どうしたの!?」
 華奢な腕をつかんで揺さぶるとタチの眼に徐々に光が戻ってきた。
「……とっくん?」
 呟いたその時、タチの眼の中に凄まじい感情の渦が巻き起こった。
 閃斗から僕の入院を告げられたこと、僕のうわごとを聞いたこと、信じられないうわさ話を耳にしたこと、昨日一日でタチが経験した出来事がその時のタチの動揺とともに嵐のように吹き抜けていった。続けざまに薬品庫での記憶が鮮やかに蘇る。
 不意に視界が暗転した。
 気がつくと、僕は薬の瓶がずらりと並んだ棚を見つめていた。
 オレンジ色の光に照らされているものの室内は薄暗かった。驚いて周りを見回そうとするけど僕は吸い込まれるようにして薬のラベルを見つめたまま動かなかった。
(ここは……タチの家の薬品庫……?)
 動揺する僕の意識と何かもう一つ重なりあって存在している意識があった。それは悲しみに満ち満ちていて、まるで僕が親を失った時のようだ。それが小さく声を上げた。
 ――楽にしてあげられるかな……
(……タチの声だ。ということはここはタチの記憶……? タチの記憶を僕は見ているのか?)
 僕の手がゆっくりとガラス戸に伸びた。その先に、赤いラベルのついた瓶があるのに僕は今気がついた。
 ガラス戸が音もなく開いた。いや、僕が開けたのだ。瓶を取ろうと手を伸ばす僕のもう一つの意識、すなわちタチの意識は、じんじんと痺れて自分の手が震えていることさえ分からないみたいだ。
 蝋人形のような血の気のない手はじわじわと毒薬に近づき、触れるか触れないかぎりぎりのところで止まった。
 その瞬間、ぴーんと頭の中で何かが弾けた音がした。詰めていた息をはっと吐き出してぜぇぜぇと荒く息をついた。手の震えが全身に広がって立っていられなくなり腰が抜けて尻もちをついた。咄嗟に床に打ちつけた手に鈍い痛みが走る。
 がんがんと悲鳴のような痛みが頭の中で反響していた。切り離されたトカゲのしっぽのようにひとりでにぶるぶると震える手で頭を押さえる。ぱちぱちと目の前で白い火花が散って耳鳴りが激しくなってきた。
 ――私……今、何を……?
 うずくまるようにして床を見つめていた。
 ――とっくんを……殺そうと?
 強い吐き気がして腫れた喉を酸が刺した。視界がかすんで何も見えない。鼓動が荒れ狂って、呼吸が早くなった。頭痛に押しつぶされて何も考えられないまま全身の感覚が無くなっていく。
 ――私は……わたしは……

 我に返るとタチが僕にすがりついてすすり泣いていた。振り払うどころか恥ずかしいと思えるほどの気力もなくて、僕はただ茫然とされるがままになっていた。
(なんだったんだ、今のは? こんなこと、初めてだ……)
 最初の方こそタチの見た映像が目の前に現れただけだったけど、しまいには僕が僕であるという感覚が完全に消失してタチの精神に同化し、痛みや悩みも現実のように生々しかった。今病室でタチの前に立っていることの方が夢のように感じられるほどだ。
(それに一体何が起こっていたんだろう……? タチは僕が危篤だと勘違いしていた……?)
 僕は一瞬のうちにタチが何を見聞きしたのか理解していた。病院のエスカレーターで聞いたうわさ話。僕は死なせてくれなんて言った覚えはないし熱は出ていたけど心臓は正常に戻っていたはずだ。閃斗が医者に懇願していたと言うのは本当だろうか?
(まさか……全部『死神』の仕業なのか……?)
 谷底に突き落とされたような深い絶望を感じた。一度そう考えるとそうとしか思えなくなった。
 うわさに登場した閃斗は人相特徴の手掛かりはなく、ただ自分から星野と名乗っただけだった。タチの耳に入ることを見越して芝居をうったのだ。でも、どうやって僕の発作のことを知ったんだろう? それに、閃斗の名前もタチのこともたった一日で知られてしまったのは何故だ? 僕を殺すと宣言した翌日に、赤の他人ならともかく僕に好意を寄せているタチを刺客として差し向ける『死神』の力に鳥肌が立った。
(今回はぎりぎりのところでタチが思いとどまってくれた。けどもしかしたら、本当に僕を毒殺しようとしたかもしれない)
 僕が発作を起こしたのは偶然だ。でも、『死神』はその偶然をしっかりとらえ使えると判断して、タチの不安を煽り僕に自殺願望があると錯覚させた。もちろん失敗する可能性の方が高いと『死神』も思っていただろう。ここまでタチが追いつめられたのも偶然に偶然が重なった結果だ。でも、奴には次がある。今回の失敗もタチが傷ついただけで『死神』には何のリスクもない。同じような手口で何度も僕を殺そうと試みるだろうし、次はどうなるかわからない。僕の命は風前のともしびだ。明日生き残れるかどうかすら確かではない。僕は身震いした。
 げほっとタチが咳き込む音で僕は物思いから覚めた。僕の肩に頭を預けるタチは小動物のようにぶるぶる震えていた。僕の左手にすがりつく氷のように冷たい手をしっかりと握り返して、そっと背中をさすった。
「大丈夫だよ。僕はもうすっかり元気だから、安心して」
 タチはずっとしゃくりあげていた。
「つらかったね。心配かけてごめんね。でも本当に大丈夫だから。タチ、君は悪い夢を見ていたんだよ」
 一言一言ゆっくりと言い聞かせるように語った。
 タチの頭がぴくりと揺れて肩から離れた。タチはぼろぼろと涙を落としながら小さく首を振って口をもごもごさせた。どうやらショックで口が利けないらしい。
《違う……夢なんかじゃない……私……とっくん……を……》
 眼の中の言葉も途切れ途切れだった。
《絶対……恨んでる……会わせる顔なんて……》
「違うよ。僕は嬉しいんだ。そんなになるまで僕のことを心配してくれて」
 きっぱりと言ってもタチは聞こえていないようだった。
《私……わたし……もう……生きて……》
「タチ!」
 タチの手をぎゅっと握るとタチは驚いたように顔を上げた。目が合ってそらされそうになったけど、両手でタチの顔を挟み込んで阻止した。
「タチ、僕はここだよ。聞いて」
 タチは黙ったまま吸い込まれるようにして僕の眼を見ていた。
「タチがいなくなったら嫌だ」
 タチはゆっくりと瞬きをした。
「僕さ、ずっと友達がいなかったんだ。閃斗が初めてでタチは二人目なんだよ。だから『好き』ってどういうことかまだよく分からない。でもこれだけははっきり分かる。タチがいなくなるのは、嫌だ。ずっと……できるならずっと一緒にいたいって、そう思う。嘘じゃない。本当だよ」
 涙でいっぱいになったこげ茶色の眼が大きく見開かれた。その中で、僕の言葉が一言ずつこだまのように跳ね返って、染みとおっていくのが分かった。瞳の奥にぱっとひらめいた眩しいほどの輝きは透き通っていて、言葉にできないくらい綺麗だった。
「だから落ち着いて。いなくなるなんて言わないで……お願い」
 タチの眼をまっすぐ見つめていると、突然それがとろんとなって力の抜けた体がもたれかかってきた。
「わわっ」
 慌ててそれを受け止めるけど、もともと力はないし病み上がりなので支えきれずに後ろに倒れてしまった。
「た、タチ! ちょっと!」
 のしかかるタチは僕の胸のあたりに頭を乗せていた。眼に気を取られて気がつかなかったけど今日は髪を下ろしているらしい。さらさらとした茶色がかった髪が僕の肩や首のまわりにかかっている。そこから、ほのかに花の香りがした。
(ね、寝てる……?)
 唖然として見るとタチは確かに目を閉じてすーすーと小さく寝息を立てていた。精神的に耐えられなくなって気絶したのかと不安だったけど呼吸は穏やかで次第に手足に熱が戻ってきている。
(よ、よく分からないけど、とりあえずは心配しなくてもいいのかな……)
 どぎまぎしながらタチの頭を取り落とさないようにゆっくりと体をずらして上体を起こすと、肩に手をあてて揺さぶった。
「タチ、起きて! こんなところで寝てたら、迷惑だよっ!」
 それでもタチは一向に起きる気配はなく、開いていた手を軽く握っただけだった。
(だめだこりゃ……どうしたものかな……)
 ため息をついてふと見下ろすと、僕の膝の上に頬を擦り寄せるようにして横たわっているタチの表情は安らいでいた。頬を咲き始めの桜のような薄い桃色に染めて、幸せそうに微笑んでいる。
(敵わないなあ……)
 心の中でぼやいた僕は胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じながら、その寝顔に見とれていた。


「せ、閃斗!? 大丈夫なの!?」
 退院して家に戻った僕は閃斗の姿を見て仰天した。
 顔のあちこちに絆創膏を貼り付けて手首や肩に包帯を巻いている。服に隠れて見えないが、胸や脚にもあちこち傷があるらしい。
「心配すんな。骨や筋は痛めてねぇ。かすり傷だ」
「い、一体何があったの?」
「話すと長くなるんだけどな……タチはどうしてる?」
「タチなら、家に帰ってると思うよ」
「帰ってる? タチは今日は学校に来てなかったぞ?」
「あ、いや、だから、病院にやって来たけど家に帰ったんだよ」
「病院に来た? おかしいな。面会謝絶にしておいたはずなんだが」
「あー、いや、話すと長くなるんだけど……」
 あの後、家を飛び出したタチを追って病院にやってきていたタチの母親に現場を目撃されてしまった。とっても気まずかったけど母親は娘の顔を見てほっとしたようで、特に僕をとがめることもなくぐっすり眠るタチを半ば引きずるようにして去っていった。いや、あの時は本当にどうしようかと思った。今度から駅へ行くときはタチの家の近くは通らないことにしよう……。
「じゃあ、三人集まってから話そう。タチに連絡できるか?」
「ええっと……できないね」
「ったく、カノジョの連絡先くらい聞いとけよな」
「……うん」
 答える僕に閃斗は目を丸くして気味悪そうに僕を眺めた。
「なんだよ、突っかかってくると思ったら。それともなんだ、病院で告白でもしたのか?」
「ち、違う! ぼんやりしてただけっ!」
 慌てて否定した僕を見る閃斗は悪戯っぽい目をしていた。
「じゃあ、タチの家まで行くぞ。斎人は場所知ってるよな?」
「え!? えっと、それは……知ってるけど……」
 ついさっきタチの家には近寄らないと決意したばかりなのに。今日たまたま休みだったというタチの母親も家にいることだろう。
「……なんだ? やっぱり何かあったのか?」
 すっかり顔を火照らせてしまった僕を見て閃斗はため息をつくと急に真剣な顔つきになって言った。
「悪いが俺もお前も命がけなんだ。一分一秒だって惜しい。早く準備してくれ」
 その言葉に水を被ったように体の熱が冷めた。
「……わかった」
 そう言って壁にかかった上着を取ると閃斗と一緒に部屋を出た。

『はい、もしもし?』
 インターホンから聞こえる声は記憶に新しいタチの母親のものだった。
「あの、白宮さんのクラスメイトの榊です。白宮さん起きてますか?」
『あら、さっきの……』
 向こうも、僕が誰だかすぐに分かったようだ。思わず表情が硬くなる。
『ちょっと待ってね』
 ほどなくしてドアが開きタチが現れた。
「あれっ? 二人揃って、どうしたの?」
 つい五時間前の幽霊のような顔つきが嘘のようにけろりとした様子で出迎えるタチに僕は面食らってしまった。
「三人で話したいことがある。能力に関係することだ。時間いいか?」
 僕の動揺など露知らず、閃斗は切り出した。
「うん、大丈夫。場所はどうするの?」
「あー、他人に聞かれたくないんだが、俺の家まで戻ってると時間がかかるな……」
「それじゃあ、上がってもらおうかな。ちょっと待ってて。ママに聞いてみる」
「一つ条件があるわ」
 突然響いた声の方向に三人の視線が集まった。
「ママ!?」
 振り返ったタチの背後にいつの間にかタチの母親が立っていた。タチの顔を少し細長くしたような色白の女性の表情は、険しかった。
「その話、私にも聞かせて貰おうかしら」
 厳しい顔で見下ろす姿に僕ら三人は凍りついた。
「最近、橘が酷く悩んでいるのと何か関係があるんでしょう?」
「え、えっと、ママ?」
「あなたには聞いていないわ。どうなの? そこのお二人さん」
 閃斗は神妙な面持ちで黙ってタチの母親を見つめていたが、しばらくして小さく首を振った。
「……場所を変えるぞ、斎人。この際、白宮さんには話せないが、仕方ない」
「待って、閃斗」
 自転車にまたがろうとした閃斗を服を引っ張って止める。
「タ……じゃなくて、白宮さんのお母さんが心配するのももっともだよ。それに白宮さんにも聞かなきゃいけないことがある。……話そう。最初から最後まで全部」
 閃斗は渋面を隠さなかった。
「……どうしてもか?」
「どうしてもだよ。あれは……」
 僕はちらりとタチの母親を見やった。
「……てこでも動かないって眼だ」
 苦笑した僕を見て閃斗は髪をかきむしった。
「お前が言うならそうなんだろうな。今日中に話し終わるといいんだが。今のうちに遅くなりそうってメールしとくか……」
 そう言って閃斗は携帯を取り出すと素早く文字を打ち始めた。ものの十数秒で入力を終えると何故かその画面を僕らの方に見せた。
『悪いがこれからは筆談で頼む。会話は聞かれている』
 画面にはそう表示されていた。そのままスクロールして続きを見せる。
『下手をすると、俺たち全員の命に関わる』


 かなりかいつまんで伝えたつもりだったけど筆談だったこともあり、状況を説明し終わったころにはとっぷりと日も暮れ街灯が夜闇で幅を利かせる時間帯だった。白宮家のリビングルームで丸い机を囲む四人は閃斗が鞄から取り出した大量のコピー用紙に各々がペンを走らせることで語らっていた。初めは僕と閃斗による説明が中心だった。
『榊君は自分の命のためタチを巻き込もうとしている』
 タチの母親が僕を見る眼は金属のように冷たくのっぺりとした光を映していた。
 タチが大きく首を横に振って母親にすがるも強引にその腕は押しのけられた。僕に心が見えることはすでに伝えたけど全く臆する様子はない。
『あなたのことで娘がどれだけ悩み私たちがどれだけ心配したか分かってる? これ以上辛い思いをさせるのは駄目。命を危険にさらすなど論外』
 閃斗は不機嫌そうに眉を上げた。
『もう引き返せません。シンは斎人の能力を知る白宮さんを生かしておこうとは思わない。今はシンを止めるのが唯一の手段』
 タチの母親はぎろっと閃斗を睨んだ。閃斗の主張は正しい。でも母親の気持ちも痛いほどよく分かる。僕だってできるだけ他の人を巻き込みたくはない。今こうしてタチの母親に秘密を打ち明けたことでシンの標的を増やしたことにも強い罪悪感を覚える。それがタチなら尚更だし、僕でさえそう思うのだから母の心配は当然だ。その眼には、娘の命に危機が迫れば自分の命を投げうってでも守ろうとするであろう、強い意志が感じられた。
『せめて娘を気遣って。不安にさせて悩ませないで。娘がシンに対抗できないなら知らせる必要はない』
 タチが母親の手をとった。真剣な目つきで訴えるように母を見ている。ペンをとって一文字一文字確かめるように書いた。
『知らないことの方が怖い』
 その字は丁寧に書いているにも関わらず少し震えていた。
『榊君がいつの間にかいなくなるのは耐えられない。ずっと傍にいたい』
『落ち着いて。あなたがそんなにお熱になるなんておかしい』
『理由なんてない』
 駄々をこねるようにタチは小さく首を振った。
『困った子。よく考えなさい』
 そう書いた紙をタチに押し付けると僕に向き直った。言いにくいが仕方ない。僕はペンをとった。
『あなたは昔の僕と一緒です』
 タチとよく似たこげ茶色の瞳にきつい光が宿った。
『タチの心を決めつけて眼を見ようともしない』
 意外にもタチの母は怒らなかった。唖然とした顔で僕を見つめている。
《タチのあだ名を……どこで?》
 眼には純粋な驚きがあった。
『タチって呼んでくれって言われたんです』
 僕の渡した紙を手にとるとタチの顔と交互に見つめる。タチは小さくうなずいた。母親は信じられないという様子でまじまじとそれを見ていた。しばらくそうした後に口元がふっと緩む。
《もういつまでも子供じゃないのね……》
 嬉しさの中にちょっと寂しさが見え隠れしている、そんな眼だった。前に家族以外にはタチと呼ばせないと言ってたけど、思っていた以上に深いわけがあるのかもしれなかった。
『話を続けて』
 あっけにとられた顔の閃斗にタチの母親は紙を差し出した。閃斗はゆっくりとペンをとって書き始めた。

『ここからは推測』
 そう前置きして閃斗は綴る。
『シンのもう一つの能力は『聴覚』』
 走り書きした閃斗の字は少し読みにくかったけどすっかり慣れてしまった。
『一昨日の斎人との遭遇からたった一日で俺と白宮さん、斎人の発作のことを知り、白宮さんをけしかけ俺に取引を持ちかけた。遠く離れた場所の情報を得る能力を持っている』
 黙ったまま僕は小さく手を上げて異議のあることを示した。
『尾行は? 周りの人間やタチの心を見て探れる』
『不可能なことがある。病院と俺の家の両方を特定した件。病院の場所はタチ、俺の家は俺を尾行して初めて分かる。同時には調べられない』
『最初から星野君の家を知っていた可能性は?』
 タチが尋ねた。
『ない。そのために駅から車で帰る俺達を尾行するのは無理。大混雑だった』
 なるほどと心の中で呟いた。二人もそれ以上異論はない様子だった。
『聴覚だと判断する理由は?』
『シンは、斎人の名字を正しく読んだ。字面を見れば『さかき』で『ときわぎ』とは読めない。斎人の名前を聞いて知ったはず』
『見るのも聞くのも両方できるのかも』
『シンは俺の顔は知らない様子だった』
 僕は顔を引き締める。
『つまり、シンは地獄耳で、遥か遠くの会話まで聞くことができる』
 閃斗はうなずいて少し付け加えた。
『何かしら条件はありそうだが』
 閃斗が筆談を申し入れたのはそういうことだったのか。だいぶ回り道をしたけど、ようやく合点がいった。僕らがどこまで知っているかはシンに知られない方がいいに決まっている。
『聞けば聞くほど、厄介な相手』
 苦々しい表情でタチの母親は頭に手を当て俯いた。よく見ると茶色がかった髪はところどころ明るい色が混ざっている。白髪染めの色だ。年の割に多いその本数から普段の気苦労が透けて見える気がした。

『次は私の番』
 タチは昨日病院で見聞きしたことを淡々と綴った。病室で会った時の様子を思うと身を切るように辛いであろう出来事を、よどみなく書き連ねていく様子を僕は唖然として見ていた。
『まるで他人事みたい』
 そう書いて見せるとタチはよく分からないといった風に首をかしげた。その眼の奥はいわゆる明鏡止水のように澄みわたり一片の動揺もない。どこか無機質な感じがして背筋がうすら寒くなったけど、酷く気に病んでしまうのではと心配だったからほっとした。あと、もう一つ幸いだったのは、どうやらタチは僕と病室で会ったことを忘れてしまっているらしい。自分で話すのも恥ずかしいので適当にごまかしておいた。
『つまりシンの行動はこう』
 閃斗は残りの三人を見回しながら状況の整理を始めた。
『駅で斎人と会った日に『聴覚』で俺の家を見つけ俺が斎人と親しいことを知る。翌日俺と白宮さんの学校での会話を聞き白宮さんが斎人と親しく斎人の発作を不安がっていることを知る。白宮さんの眼を盗み見て利用できると判断し病院まで尾行する。会話を聞いて眼を見ながら不安を募らせていくことを感じ取って、それを決定的にするため白宮さんの目に直接触れないところで俺を装って騒動を起こし斎人が危篤だといううわさを白宮さんの耳に入れる』
 僕は閃斗の言葉を反芻して粗がないか考えたけど見つからなかった。ただ一つ気になってシンの似顔絵をタチに見せたが分からないようだった。まあやすやすと顔を覚えられるような真似はしないか。その時タチの母親がペンをとった。
『おかしい。朝見たけどトイレに張り紙なんてなかったし、薬品庫の鍵も閉まっていた』
 そう書いて顔を曇らせる。閃斗も考え込むようにして頬杖をついた。
『玄関と薬品庫の扉を見せて貰えますか』
 閃斗の意図を察して母親はこくりと頷いた。
 案内された薬品庫の前に立って閃斗は錠前を調べ始めた。鍵はごくごく普通のシリンダー錠で、角ばった椀を伏せたような形の金属の塊に鍵穴が縦に入っている。閃斗はそれをペンライト片手に子細に眺めた。
 閃斗が指さした場所には確かにうっすらと真新しいひっかき傷があった。周りに比べて微妙に白っぽくなっている線は細く、鍵で引っ掻いたのではできないような傷跡だった。
『夜中に忍び込んでお膳立て?』
 閃斗はこくりと頷いた。
『タチが自室に戻った後もう一度忍び込んで張り紙をはがし、薬品庫の鍵を閉めた』
 そのやり取りの間タチの母親は薬品庫の中で盗られた薬品がないか点検していた。微かに瓶を机に置く音が聞こえてくる。
『ちょっと意外』
 背中をつつかれて振り返ると、タチも紙を握っていた。
『シンはあくまで自分の手は汚さないような人だと。焦ってたのかな』
『バレなきゃいいってこと。直接の損害がなければ警察も本腰入れて動かないだろう』
『普通の人に鍵をこじ開けるなんてできる?』
『慣れれば楽らしいが、ピッキング用の道具は錠前屋以外所持を禁止されている。南京錠でもないしただの針金じゃ難しいだろう。おそらく心得がある』
 閃斗の言葉を見るうち僕の中でシンの人物像がどんどん不気味なものに変わっていくのが分かった。シンは一体何者なのか。つきとめなければ明日は来ないかもしれない。
(それにしても……)
 僕は心の中で疑問符を打った。
(どうしてそこまでしてタチをけしかけたんだろう。殺人でないとはいえ自分の手を汚すのはシンにとっては大きな決断のはずだ。ただでさえ危ない橋を渡っているんだから。それにタチの眼を見て性格を知ったなら僕を殺す可能性は限りなく低いって分かってたはずなのに……)
 肩に手を置かれて見上げると閃斗がぐいっと腕時計を突き付けてきた。既に十一時が迫っている。
《すっかり遅くなっちまった。帰るぞ》
 眼でそう言ってから薬品庫のドアをノックし、タチの母親に二人でお辞儀をした。タチに手を振って別れると僕たち二人は帰路についた。


 閃斗と縦に並んで夜道を自転車で通り抜ける。自転車のライトや街灯はあるものの住宅の電灯はほとんど消えていて、心細いことこの上なかった。できる限り太い道を通っていたけど行き交う車もなく、静まり返った闇の中を滑るようにして僕らは黙々と自転車をこいでいた。
 小学校に突き当たるT字道のあたりで、ふと、ぷんと焦げ臭いにおいが鼻をついた。おやっと思ったその時、前を走る閃斗がブレーキをかけた。
「斎人、見てみろ」
 閃斗に促されて彼方に視線を移すと、夜空に紛れて見えにくいけどもうもうと黒煙が上がっているのに気がついた。火は住宅に隠れてほとんど見えなかったが、時折ちろちろと蛇の舌のように姿を見せる赤い火の粉があった。
「駅の近くだ。行ってみよう」
 そう言うと閃斗は地面を蹴って再びペダルに足を乗せた。その後を黙って追いかける。
 ほどなくして駅前の通りに出ると、むっとするような熱風にむせ返りそうになった。ここに来るまでの間にあちこちでサイレンが鳴っているのにも気がついていた。
 燃えているのは駅に隣接するホテルだった。あちこちの窓から炎が吹き上がり、どす黒い煙が天に吸い込まれていく。その周りを数え切れないほどの消防車や救急車が取り囲み、何本もの水柱が放物線を描いて炎に立ち向かうものの、あえなく霧散しては消えていく。それほど火の手は激しかった。緊急車両を取り囲むようにしてたくさんの野次馬の姿が見えた。着の身着のまま集まって来たような寝巻姿の人も混じっている。誰しも不安そうにしてごうごうと燃えさかる建物や担ぎ出される人々の様子を眺めている。その集団を押し分けるようにして担架や車両が行き交う。その救急隊員や消防士の表情は、マスクに隠れてよく分からなかった。
「酷い……」
 僕はあっけにとられてぽつりとつぶやいた。
「これも、あいつの仕業だと思うか?」
 遠くの方を見ながら閃斗が言った。僕はその言葉にはっとなった。
「まさか、全部囮だったのか……?」
「囮?」
「シンは、この事件を僕たちに止められたくなかった。だから、タチをけしかけて……」
 閃斗は眉を寄せて僕を見た。
「斎人の考え過ぎ……だといいんだが……」
 ちりちりと火の粉が肌を刺激するのも構わずに、僕らは茫然と立ち上る炎を眺めていた。

 翌朝のニュースによると死者は九名、意識不明の重体が十二名のほか、多数のけが人が出たということだった。犯人は四十代無職の男性で、ホテルの二階に部屋をとり深夜にホテルのあちこちに油をまいて回って火を放ったということだった。その時に居合わせた従業員が刺されたらしい。犯人も焼死体として見つかった。
 当然のようにシンとの繋がりはつかめなかった。しかし僕はこれがシンの仕業だと直感し、シンに比べた時の己の小ささが痛いほどよく分かった。
 ――あんなにもタチを苦しめておいて、全部ただの囮だったって言うのか!
 タチを利用され傷つけられたことで、僕のシンへの怒りは確固たるものになった。自分の命が狙われているということ以上に僕を奮い立たせるものが生まれた瞬間だった。

 しかしこれもまた、開戦ののろしにすぎなかったのだった。

四章 耳をおおいて鈴を盗む

 『死神』としてのシンの行動はホテルで起こった放火事件を最後に幕を閉じたかに見えた。実際『死神』による事件はこの三ヶ月ぱったりと止まっていた。テレビで『死神』の言葉を聞くことも無くなり、世間からも忘れ去られようとしていた。高校では三度のテストが終わり、じきに夏休みに入ろうとしているところだった。
 けれどその実は嵐の前の静けさでしかなかった。三ヶ月前に事件が頻発したのはたまたまシンの蒔いた種が同時に芽吹いただけのこと。シンといえども事件を起こすにはそれなりに準備期間が要るようだ。タチが利用された一件はあくまで偶然が重なったから少ない労力で済んだということらしい。
 それにシンは操る相手に殺人をさせるのではなく自殺をさせるように方針を変えたようだ。殺人事件は成功率が低い上大々的に報道される。死ぬ人数は少ないがより確実で足がつきにくい自殺を選んだというわけだ。
 僕たちも勿論手をこまねいていたわけではなかった。
 シンと出会った駅でシンに魅入られた人々をよく見かけた。様々な場所から様々な人間の集まる駅はシンにとっては格好の狩り場のようだった。僕は登下校の時間を毎日変えて、できる限り多くの人間の眼を観察することにしていた。そして殺人衝動や自殺願望を持った人を見つけると、眼を見ながら説得を試みるか現場を押さえて閃斗に力ずくで止めて貰っていた。
 本当に、見るのも辛いような眼をたくさん見た。女手一つで育てた子供を病気で失った母親、かつての僕と同じように同級生から殴る蹴るの暴行を受け続けている少年、親の不仲の板挟みに遭って悩む女子学生。世の中にはこれほども多くの不幸に溢れているのかと思うと胸が痛んだ。けれどそこから眼をそむけることはできない。シンの餌食になるのは決まってそういう風に精神的に追い詰められた人々だからだ。シンから見れば彼らは非常に操りやすいのだろう。運命に翻弄された上、最後はシンの見えざる手によって破滅へと導かれていく人々を止められずにいるのは耐え難い苦痛だった。
 けれど全く希望が無いわけじゃなかった。たくさんの眼を眺めるようになって、心を見る能力はみるみるうちに高まっていった。いっぺんに複数人の眼を視界にとらえてもおおよそは感情をつかむことができるようになったし、強く心に刻まれた記憶ならば眼を見たときに意識に上っていなくても読みとることができるようになった。今までは波打つ水面とそこに浮かぶ言葉しか見ることができなかったのが、ほんの少しなら水の中まで見通せるようになったという感覚だった。それに単純に心を見るのに必要な時間や集中力も少なくなった。今では、二、三十秒かけてざっと見回せば視界に入る人々のうちシンに操られていそうな人は見分けることができる。
 しかし能力の成長はシンも同じのようだった。日を追うごとにシンの術中にはまった人の数は増えていく。おそらくはある程度の人数は僕らに阻止されると見込んで、僕らに見つからない本命を決めて殺しているのだろう。それにシンの持っている『聴覚』についても詳細は分からないままで、僕たちは直接顔を合わせながらもメールでやり取りをする状態が続いていた。それでも本当は全部筒抜けなんじゃないかという不安が収まることはなかった。
 一方で、閃斗はシンの正体を探ろうと尽力していた。何かと理由をつけて他の学校に行った同級生に連絡をとり、僕の描いた絵を見せては聞きこみを続ける。協力を依頼した人数は百を下らなかった。さらに、事件の状況から共通点を探りシンの人物像を浮かび上がらせようと苦心していた。けど、どちらも進展はない。それにたとえ正体を明らかにしたとしてもその後どうするのか全く方針は立っていなかった。殺さなければならないという結論を先送りにしているようだった。
 タチとその母親には特にできることはなかった。確かにタチは『触覚』を持ってはいたけどそもそも相まみえること敵わないシンに対してはまるっきり役に立たない。ただ、タチはときどき僕の眼を調べて能力が高まっていることを保証してくれた。タチの母親も僕たちとの約束通り秘密を守ってくれているようだった。
 閃斗はともかく、僕は学校の勉強もどうにかしないといけなかった。入試の当日点は高かったけど所詮付け焼刃の学力であって、中間テスト実力テスト期末テストとほぼ一ヶ月おきに襲ってきた試験の結果は散々だった。何より中学校の勉強とは次元が違う。閃斗は上手く切り替えて勉強するときは勉強に集中していたけど、僕は駅で見た眼がフラッシュバックしてどうも勉強が手につかなかった。部活も何かしら文化系のに入ろうと思っていたけどそれができる余裕はなかった。閃斗やタチも部活には入っていないみたいだった。
 言ってみれば、状況は最悪、どんづまりだ。
 ことはほとんどシンの思い通りに進んでいる。僕たちの命が狙われることこそなかったものの、シンに対抗することのできない僕たちが軽んじられているようにも思えた。何か全く違う発想が必要だと痛感していた。
 そんな状態の中、遂に恐れていた事態が起こった。


 月島高校では九月に体育祭がある。クラス縦割りの団に分かれて球技や陸上競技など各種競技の成績を競うのだけれど、他にも団ごとに創作ダンスの練習をして男女ペアで踊ったり、竹や段ボールやペットボトルなどを駆使して団のシンボルとなるモニュメントを作ったりする。そのモニュメントは『マスコット』と呼ばれ、大きいものでは高さ三、四メートル、横幅も六、七メートルくらいはある。最初『マスコット』と聞いたときはテーマパークにいるような着ぐるみを想像したけど、実際は竹の骨組みにペンキで色塗りした段ボールをかぶせて作るという何とも手作り感の溢れる代物だった。でも団によってはかなり出来のいいものを作るらしい。
 体育祭は九月とはいえ二学期も始まって早々にあるから、体育祭の準備は夏休み前から始まる。体育祭準備のための短縮授業の後、僕は先輩の指示のもと段ボールをビニールひもで縫い合わせて作った板に彩色をしていた。
「へえ、君なかなか慣れてるね。二年生?」
「い、いえ、一年生です」
 突然呼びとめられて僕は慌てて顔を上げた。
「ふうん、上手じゃないか。ペンキで綺麗に線を描くのは難しいんだけどね。初めてでここまでできるのは大したもんだ」
「は、はあ……」
 感心した様子の先輩に僕は何て答えたらいいかよく分からなかった。確かに小学校で水彩、中学校でアクリルガッシュを使ったもののペンキをハケで塗るのは初めての経験だった。ねっとりとしたペンキは伸びが悪くすぐに線が掠れてしまう。かといってハケにペンキをつけ過ぎるとべっとりと板の表面についてしまって線が太り、模様がつぶれるのだ。同じ色をベタ塗りするだけなら楽なんだけど模様を入れるとなるとそうもいかない。僕としては不格好な出来に申し訳ないと思っていたのだった。
「いやね、俺達のクラスに絵の得意な奴がいてさ、デザインを考えて貰ったんだけど細か過ぎてそいつ以外描けそうにないんだ。諦めようと思っていたんだけど……」
 僕は嫌な予感がした。
「え、えっと、僕なんかには荷が勝ち過ぎてますよ。ほら、ここは線が掠れてますしこっちでは逆に太くなってて……」
「細かいところはいいんだよ。完成したら教室一杯の大きさになるんだ。遠目に見たらそんなの気がつかないって」
「そ、そうですか……」
 僕はどうやったら断れるか必死に考えていた。『馬車馬』といういかにも体育会系な団テーマを旗印に作られる『マスコット』は中華風の騎馬をかたどっていた。完成図のデッサンを見たけど、一目見ても段ボールで再現するのは無謀な緻密なものだった。リーダー役のこの先輩が言っているのは馬の鞍や馬が纏う布に描く模様のことだろう。確かにびっくりするくらいセンスのいい綺麗な模様だったけど、あれを全部一人ないし二人で描くとなると骨が折れそうだった。
「頼まれてくれないかな」
「申し訳ないですけど、できません。とても当日までに描き終えられるとは思いませんし」
 きっぱりと断った。模様を描く前にはもともとの段ボールの柄を隠すために下地の色をベタ塗りする必要がある。それだけでも一苦労だし、ベタ塗りのせいで鉛筆での下描きも見えないので模様は一発勝負で描かねばならなかった。失敗してしまえば段ボールを縫い合わせる作業からやり直しになってしまう。そんな責任を背負うのはまっぴらだった。
 それにシンのこともある。周りから見れば部活にも入っていないしクラス委員も大した役回りじゃないから暇そうに見えても仕方なかったけど、作業に追われてシンに魅入られた人々を探す時間を削がれてしまうのはなんとしても避けたかった。それに、僕の護身のために傍にいる閃斗もつき合わせることになってしまう。僕が居候の身だということは別に隠すことでもないからあまり不審がられないとは思うけれど、独自にシンを調べ上げようとしている閃斗の時間も犠牲にすることになる。
「うーん別に全部やる必要はないんだ。せめて鞍の部分だけでも描いてくれればだいぶ見栄えが良くなると思うんだよ。それに一年には休み明けの骨組み作業を主に手伝ってもらおうと思ってたんだけど、君はその間模様を入れるのに専念してもらって構わない。それならさほど居残りしなくても終わると思う。どうかな?」
 正直ちょっと迷った。竹で骨組みを作るのはどう考えても重労働だから僕の体力が持つはずもない。閃斗と別行動になってしまうのに多少不安ではあったけど学校の中なら大丈夫だろうと思った。周りに先輩たちだっている。
「ち、ちょっと考えさせて下さい」
「ああ。いいとも。どうせ模様を入れ始めるのはベタ塗りが終わってからだ」
 そう言って先輩は他の作業を見に行った。
「なんだ、スカウトか?」
「そんなんじゃないよ、たぶん」
 閃斗はからかうように言ったが僕には本心が分かる。閃斗は色塗りに関しては目も当てられないくらい不器用だった。僕にできて自分にできないことが面白くないのだ。それがバレていると分かったのか視線を落として手にこびりついた汚れをこすり落とし始めた。
「……どう思う」
 困った顔でささやくと閃斗の方も真面目な顔になった。
「受けてもいいんじゃないか? 俺には見当つかないがその方が放課後に時間が取れそうだと思う。それに外での力仕事よりはそっちの方が向いているだろう。何なら俺も……」
「それは、駄目」
 きっぱり言って閃斗の塗っていた段ボールを見やる。多少塗りムラがあるのはしょうがないけど、茶色い段ボールの面が露わになっているのはアウトだ。閃斗に手伝わせるわけにはいかない。
「別行動になるけど……大丈夫かな」
「心配だが、外での作業はそこそこ危ないしずっと斎人の周りに気を配るわけにもいかない。周りに人が多い方がいいだろう」
 言い方はぶっきらぼうで、およそ閃斗らしくない思慮に欠けた意見だと思った。作業に集中してしまうのは中も外も同じだし人目が多いのもそうだ。
「ちょっと拗ねないでよ。真剣なんだから」
 それっきり閃斗はぷいとそっぽを向いてしまった。まったく、妙に冷静で頭の回る閃斗だけど他人より劣っていることを認めたくないようなところは、ほとんど子供だった。
 けど、今回ばかりはそれが吉と出た。
 閃斗に突き飛ばされて、僕は教室の隅に寄せてあった机にぶつかりそうになった。
 呻き声を上げて目を開けると張り詰めたような閃斗の顔と閃斗の手元に落ちた刃の出たカッターナイフが見えた。その刃先に細く血の筋がついているのに気がついて息を飲む。
「お前、どういうつもりだ?」
 閃斗が剣呑な声で問いかけた先には、二年生の先輩が青い顔で震えていた。
「ち、違うんだ。俺はそんなつもりじゃなかった。けど……」
「何が違うんだ、言ってみろ!」
 立ちあがった閃斗は学年の差も構わずに怒鳴ったが、僕はそれ以上周りの音が聞こえなくなった。
 僕は、怯えるクラスメイトの眼を見て、心臓をわしづかみにされたような恐怖を覚えた。
(シンが、いる……)
 かつて閃斗の眼の中に篠原友璃の姿を見たのと同じように、慌てふためく男の子の背後にうっすらシンの姿が浮かび上がっていた。見る者を恐怖させる残忍な微笑みを浮かべて、吸い込まれそうな黒い眼がまっすぐにこちらを向いている。
《どうだ? (ときわぎ)斎人》
 眼を通じてシンは語りかけてきた。
《今の俺は他人の思考を読むだけじゃない。ほんの少し俺の思考を流し込んでやることもできる。どういう意味か、分かるな?》
 それだけ言うと、シンの姿は忽然と消え失せた。
(そんな……)
 僕は玉のような汗を浮かべてシンの脅し文句を反芻していた。
 いわばシンは他人にとり憑いて一瞬ならば操ることができると言っているのだ。その証拠に閃斗の頬には浅くも鋭い切り傷が浮かんでいる。刃物とはいえカッターナイフなんて投げるものじゃない。普通なら空中で刃先があらぬ方向を向くに決まっている。けれど閃斗の傷の様子を見る限り、刃先がこちらを向いてほとんど水平に飛んできたことが分かる。そんな芸当ができたのは得体の知れないシンの仕業と思うしかなかった。
 僕が恐怖したのはシンの能力ばかりではない。月島高校の中ではあまりにも警戒を緩めていたと気がついたのだった。慣れてきたとはいえ人の心を覗くのには集中力がいるから、駅で必死に心を覗いている分高校に入ると安心してあまりじっくりと眺めていなかった。日常生活でこの能力を使うのがはばかられるのもあって、無意識のうちにシャットアウトしていたのだ。だから事が起こるまで気がつかなかった。
(いや、焦っちゃいけない……)
 めまいを堪えて僕は必死に言い聞かせた。
(わざわざシンが僕に能力を教えたということは、脅かして怖がらせて焦らせようとしているんだ……。奴のペースにはまっちゃ、駄目だ)
 怖気づいて人払いなどしてしまえば、襲われるリスクが高くなる。そうなればシンの思うつぼだ。でも僕は震えを止めることはできなかった。
(まだシンの能力は弱いかもしれない。でもいつか閃斗やタチが操られて、僕に刃物をつきたてる日がやって来るのかも……)
 そう考えながら閃斗の背中に焦点を合わせると、ようやく閃斗が先輩に掴みかかっているのに気がついて慌てて仲裁に入った。
 二年の先輩がカッターナイフを投げた瞬間を目撃したのは閃斗だけだったから、なんとか閃斗を説き伏せて手を滑らせたということにしておいた。実際は僕を殺す気で投げたのだけど本当はシンの仕業だ。余計な人物にまで迷惑をかけてはいけない。
 でも僕にできたのはそこまでだった。閃斗の説得に気力を使い果たしてしまって、ほとんど閃斗に引きずられるようにして家路についた。閃斗も聞きたいことが山ほどありそうだった。


 いつになく体がだるくて駅での観察もままならずに家に着いた。閃斗に急かされてパソコンの前に座ると、慣れない手つきでさっきの出来事を説明した。
『もうシンの所業を止めるのは難しい』
 画面に表示された文字を見て力無く頷いた。その通りだ。電車に揺られる間中そのことばかり考えていた。一瞬でも思い通りに操れるなら、自殺させるのなんて簡単なことだ。考えてみれば僕らにバレても対処のしようがないというのも、脅しに使った理由かもしれなかった。
『どうすればいい』
 閃斗もまた僕と同じように小さく首を振った。お手上げだと言う顔だった。
『同じ力を手に入れない限り無理だ。憑かれてることは見抜けるのか?』
『わからない。学校では油断してたから』
 暗い顔で閃斗はソファにもたれかかった。パソコンでの会話を終える合図だった。二人で暮らすようになってからも十分過ぎるほど広い部屋だったけど、今はどこか窮屈に感じられた。シンがいつも聞き耳をたてていると考えるだけで毛ほどもくつろげないのだった。
「もう、やめちゃうか」
 閃斗の口をついた言葉に泣きそうになった。
「いくらシンを追っかけても……友璃は戻ってこない」
 必死に涙をこらえる閃斗の眼は、悔しさと、情けなさと、申し訳なさで、はちきれんばかりだった。心の拠り所だった自尊心が粉微塵になって打ちのめされた様子だった。
「閃斗……」
 僕だって、タチを傷つけたシンを心の底から憎んでいる。でも閃斗にかける言葉は思いつかなかった。篠原さんのように望まずして手を汚し命を落とす人が増えることも、閃斗は分かっていた。分かった上で言っているのだった。
(僕たちが降参だってわかったら、シンは僕たちの命を見逃してくれるだろうか……)
 考えるまでもなく答えはノーだろう。『死神』の正体がシンだと知っているのは僕たちだけだし見逃す理由も無い。僕たちには手札は何もないのだ。他の人を殺すのと同じように僕たち三人のことも殺すだろう。
「閃斗、君は……」
 見逃すはずがないのは僕でも分かる。閃斗だってとっくに気がついているだろう。
「死ぬ気、なの……?」
 閃斗は答えなかった。
 珍しく閃斗の眼の中には言葉が漂っていなかった。心を表す水面は波打ち泡立っていたけど、どこか冷静さが感じられた。迷っているのだと思った。
 閃斗が口を開きかけた時、部屋にノックの音が響いた。
 勉強机に置かれた時計を見るとぴったり十九時だった。いつの間にか夕食の時間になっていたらしい。するりと開いた扉からお盆を持った女性が現れた。
 百合子さんではなかった。
 隣で閃斗が仰天しているのが分かった。声を上げそうになって慌てて引っ込める。まるで金魚が水面で口をぱくぱくさせているみたいだった。でも閃斗の言いたいことは分かった。
(この人が……閃斗のお母さん……)
 すらりと高い背丈は閃斗には届かないものの僕よりも頭一つ分くらいは高く、引き締まった体つきや身のこなしから若さがにじみ出ていた。肩まで伸ばした黒髪も艶やかで、化粧っ気をあまり感じさせない肌は抜けるように白かった。とても十五の息子を持つようには見えない。ぱりっとしたスーツに身を包み夜の室内だというのに大ぶりのサングラスをかけている。小脇にタブレット端末とキーボードを抱え、もう片方の手で夕飯の盆を支えている様子は何ともちぐはぐで奇妙だった。
(僕の養母にあたる人……そういえば一度もご挨拶してなかった……)
 閃斗の母親は何も言わずにタブレット端末を机の真ん中に置き、僕たちにキーボードを渡して料理を並べた。何度か廊下のカートと往復して運んだ食事は三人分あった。当然と言えば当然だけど僕たちと話をするつもりらしい。
『はじめまして。サングラスは取れないけど、ごめんなさいね』
 部屋の隅から椅子を引っ張って座った母は、タブレット端末が起動すると手元のキーボードを素早くタイプした。僕に心が見えることもシンに聞かれている可能性があることも全部知っているようだった。僕は慌てて頭を下げた。お世話になってますと言いたかったけど、閃斗の母親がここにいることはシンに知られない方がいいようなので、黙っていた。
『斎人が来てからずっと顔出さなかったのは斎人の能力を知ってたからか?』
 閃斗の打ちこんだ文章も同じ画面に表示された。どうやら三つのキーボードが全て机中央の端末に繋がっているらしい。
『忙しかったのもあるけど、会社のことが筒抜けなのはまずいから』
 そう伝えると母は料理を口に運び始めた。僕たち二人も慌てて食べ始める。
『どうやって知った?』
 怪訝そうな顔で閃斗は尋ねる。母親だけならいいが他の人にもバレるような不手際を犯していないか心配になったようだ。
『本棚の裏に盗聴器がある。斎人君がどんな人物か、知っておきたかった』
『やりすぎだろ』
 閃斗は呆れた様子だった。
『悪かった』
 その言葉が心からのものなのか隠れた眼からは読みとれない。
『用件は?』
 単刀直入に閃斗が訊く。時間がないことを知っているのだ。もちろん盗聴器なんてものを個室に仕掛けられたのを怒っているのもあるみたいだけど。
『そんなに慌てなくていい。今日はこのためにたっぷり時間を確保してきたから、ゆっくり話しましょう』
 母はキーボードを膝に置くとスプーンを手にとってシチューをすくった。偶然なのか必然なのか、今日のメニューは僕が初めて星野邸で食べた夕食と同じメニューだった。
『心配なの。あなた達が死神を追っていることが。何のためにそうするのか、今どうなっているのか教えて』
 どうやら料理を味わう雰囲気にはならなさそうだ。
『シンは、友璃の仇だ』
 案の定母はシチューを飲み込んでそのまま固まった。きりっと整った眉を寄せてサングラスに隠れていても分かるほど、深刻そうな顔をしていた。
 それから閃斗はこれまでのいきさつを簡潔に語った。一度タチの家で説明しているから慣れたものだ。母は料理の冷めるのも構わず画面と閃斗の表情を交互に眺めていた。
『まだまだ甘い』
 事情を把握した母は僕たち二人を見て言った。射抜くような鋭い視線が黒いレンズを透かして見える気がした。
『これだけ分かっていながら、シンの身元に心当たりがないなんて』
 驚いた僕らは互いに顔を見合わせて母の言葉を待った。けれどすぐには答えてくれなかった。
『先に食べましょう』
 料理はすっかり冷めてしまっていた。早く話を聞きたい僕は急いで食べきったが、母は考え込むようにしながらゆっくりと口に運んでいた。閃斗の話をもう一度整理しているのかもしれない。ようやく食べ終わったころには母が部屋に来てから一時間ほど経っていた。
『何事も最初が肝心』
 僕たちに考えさせるように勿体をつけて母は語り始めた。
『最初の被害者は篠原友璃さんだった。シンの立場になって考えてみて。最初の実験台はよく見知った人にするはず』
 僕は声を上げそうになって慌てて口を押さえた。篠原さんは私立に通っていたと聞いた。シンはその学校の生徒かもしれないと言っているのだ。閃斗のつては中学の知り合いや部活の大会でできた友人で私立に通う人はいなかったから、情報網にかからなかったのだろう。
 舌打ちした閃斗は急いでパソコンに向かって検索をかけた。すぐに現れた制服の写真は紛れも無くシンの着ていたものと一緒だった。
《馬鹿か……俺は!》
 閃斗は拳を膝に叩きつけてうずくまり自分のふがいなさを悔やんでいるようだった。僕もまったく同じ気持ちだった。すぐに気が付いていれば救える命があったかもしれないのだ。
『まだ終わっていない』
 母がキーボードの上で手を滑らせる。
『決着をつけるなら焦らず万全を期して臨みなさい。篠原さんのお母さんに話を聞いておくといい』
 閃斗は顔を上げてその先を促した。
『シンが視覚を手に入れたのは、視覚を持った斎人君のご両親が亡くなったとき。そしてシンが聴覚を手に入れたのは、篠原さんが亡くなったとき』
『友璃が聴覚を持っていたと?』
『女の勘。よく当たるの』
 つまりは僕のお父さんかお母さんのどちらかが『心を見る能力』を持っていて、シンがきっかけに起こった事故で亡くなった時にシンにその力が移ったと考えているのだ。そして篠原さんが亡くなったときにも同じ現象が起こったと。突拍子もない話だったけど藁にもすがる思いの僕には聞いてみる価値があると思えた。
 それからはいかにシンを追い詰めるかを親子二人で議論していた。やり取りの素早さに口をはさめずに聞き手にまわっていた僕だったけど、途中からはほとんど上の空だった。
(お母さんは閃斗の気持ちが分かっていない)
 憐れむように閃斗を眺めながら、僕はこの親子の隔たりをひしひしと感じていた。
(本当は何もかも捨てて楽になりたいと思っているんだ。篠原さんという心の支えを失ってシンを倒すという使命感だけに引きずられているけど、自分でも気付かないふりをしているだけだ。本当はいつも全部投げ出したいと思っている……)
 親子の話はつまり、いかにしてシンを殺すかという話だった。母は閃斗が自身の使命をまっとうすることが閃斗にとって命よりも大切なことだと考えている節があった。敗北こそ閃斗の最も嫌うことであり、閃斗本人も、社会的に抹殺されることより誇りを保つことを望むだろうと思っているのだ。眼は隠れていても話しぶりからそのことが伝わってきた。
 でも本当は違う。母は、さっき閃斗が諦めの言葉を口にしたことを知らない。閃斗は母ほど勝ち気な人間ではない。篠原さんが死んだ時点で既に敗北に囚われてしまっているのだ。そんな閃斗に、容赦なくイバラの道を示す母の姿は酷なものとして映った。
 けれど僕は黙っていた。いずれにしろ他に道は無いのだった。
 せわしないタイピングの音だけが、夜の帳に包まれた部屋に虚しく響いていた。


 篠原友璃の母親は確かに有用な情報をくれた。
 直接会って話したいが何も説明せずに筆談を始めるのは不自然だからと言って、閃斗は篠原さんのお母さん宛てに手紙をしたためた。そのとき、部外者の僕が見ても仕方ないと言って僕には手紙を見せてくれなかった。その言い方は癇に障ったけど本当は篠原さんのことを思い出して情けないところを見せたくないのだと分かったから、とやかく言わなかった。だからどういうやり取りがあったのかは定かではないけど、確かに閃斗が出かけた日の翌日に閃斗宛てに一通の手紙が届いた。その手紙の方は僕に見せてくれた。


 前略

 突然のご連絡とても驚きました。星野君と最後にお会いしてから半年が経っていると思うと、友璃のいない時間のどんなに早く過ぎていくことか思い知らされるようです。あのとき、友璃のためにずいぶん気を配って頂いたこと、改めて感謝申し上げます。
 さて、生前の友璃のことでご質問を頂きました。親子二人の秘密をどうお知りになったのか不思議でなりませんが、今際の時まで友璃のことを思っていただいた星野君の頼みとあれば包み隠さずに打ち明けてしまうのが友璃の望みだろうと思い、お返事差し上げた次第です。
 
 確かに友璃は、常識では考えられないような不思議な力を持っていました。しかしその力の詳細を語る前に、星野君が友璃と出会う前の友璃の半生について触れておかなければなりません。
 今打ち明けるのもたいへんに心苦しいことですが、友璃は決して望まれて生まれた娘ではありませんでした。
 しかし友璃がこの世に生を受けてからしばらくの間は何事も無く過ぎて行きました。知らないことばかりで毎日が冒険だった友璃の幼少時代には私たち夫婦の間にも一種の連帯感があり、ともに友璃を育て上げることで精一杯で、早瀬のように過ぎゆく時間にただ押し流されていくだけでした。
 かみ合わない歯車が悲鳴を上げ始めたのは友璃が四つの時です。友璃が幼稚園に通うようになって心に余裕の生まれた私たちはいさかいを繰り返すようになっていました。お互い幼い友璃のことを思って忍耐を重ねてきましたが、長くは持たず、結局友璃が六つの時に別れることになりました。小さな友璃の手を引きずるようにして家を出た時、友璃が酷く泣き叫んでいたのを鮮明に覚えています。
 薄っぺらい嘘に思われても致し方ありませんが、私たち二人は心の底から友璃を愛し、友璃もまた両親を同じように愛していました。誓って言いますが、冷え切っていたのは夫婦の仲だけだったのです。父と母、どちらが友璃を引き取るかで喧々諤々のやり取りをしましたし、結果逃げるようにして夫から友璃を引き離したことも幼い友璃には断腸の思いだったようで、それまで元気いっぱいの女の子だったのが鬱屈と家に籠るようになっていました。愚かな私はつまらない嫉妬からそんな友璃に手を上げたりしたものです。今でも私はそのことを後悔しています。
 ある朝、友璃が眩しいほどの笑顔で父の声が聞こえたと言ったのは、二人暮らしを始めてから半年が経った頃のことでした。
 最初は気にも留めていませんでしたが、しきりに夫の近況を口にするのでだんだん気味悪く思うようになりました。どこかお医者さんに診せようかと考え始めた頃、起きぬけの友璃が真っ青な顔で父がいなくなったと告げた時には流石に肝を冷やしました。まさかと思って別れた夫に連絡を取ろうとしたものの、電話は一向に繋がりません。いたたまれない心持ちで夜を迎え夫の死の知らせが舞い込んだ時、私は友璃に特別な力があることを確信しました。そこに綴られていた夫の生活は、友璃が語っていたのとまったく同じものだったのです。
 友璃が自身の能力を自覚し使いこなすようになるまでにもそれなりの歳月が必要でした。しかしながら友璃が成長するに従ってその能力の全容が分かるようになりました。私は友璃に言い含め、不思議な力のことを親子の秘密にし胸の内にしまっておくことにしたのです。

 友璃の能力は『想い人の声が聞こえる』というものでした。
 誰か一人、心の底から知りたいと思う人を決めるとその人の声、時には息遣いさえもがどれほど離れていても耳に響くのだそうです。四六時中、たとえ友璃が夢うつつの時でも『想い人』が発した言葉とその居場所が分かると言っていました。『想い人』は変えることができますがそのときに新しい対象の人の声を直接聞く必要があるとのことです。
 友璃が誰を『想い人』にしていたか今となっては知る術もありません。最初は私だったのでしょうが、味を占めた友璃は私に内緒で『想い人』をころころ変えていたようです。ひょっとして星野君に決めていたのではないかと思います。黙ってそんなことをする友璃の身勝手を許してくれとは言いません。私に娘を責める資格など無いのですから。

 以上が星野君の知らない友璃の全てです。
 星野君は私が友璃に刺されたことを、最後まで信じられないと言ってくれました。友璃は優しいからそんなことができるはずないと。
 確かに友璃は悪くありません。悪いのは全て私なのです。友璃に刺されても仕方の無いようなことを私は友璃にしてきたのです。しかしそれを苦に思った友璃が逝ってしまったことは、本当にあってはならない不幸でした。
 友璃に先立たれてからというもの、私は折に触れるたび死ぬべきは友璃ではなく私だったのにと嘆いてきました。まだ立ち直るには長い時間がかかることでしょう。その後私がどのような身の振り方をするのか見当もつきません。
 最後に、星野君が今でも友璃のことを思いやっていてくれていたこと、とても嬉しく思います。大変ぶしつけではありますが、どうか、少しでも長く友璃のことを覚えていていただけると幸いです。

草々


 僕が読み終えるまで閃斗は脚を組んで椅子に座り、黙りこくっていた。僕が顔を上げてもしばらくはそのまま動かずに、涙をこらえるようにしながら静かに息をしていた。
『篠原さんは一人の声しか同時には聞けなかったけど、シンは違う』
 パソコンを立ち上げて画面越しの会話ができるようになった時には、閃斗はもう平静を取り戻して僕の言葉に力強く頷いた。
『何人までなら聞けると思う?』
『せいぜい十人くらいだろう。四六時中聞こえるならそれ以上登録しても聞き分けられない』
『今登録しているのは誰かな?』
『俺、斎人、タチ、他はターゲットとして目星をつけた奴だろうな』
『僕たちをわざわざ登録する? もう筆談に切り替えているわけだし』
『会話の内容が分からなくても、位置を知ることができるだけで十分な収穫だ。それに一度解除してしまえば声を聞かないと再登録できないし、安易に外すとは思えない』
 答えると閃斗は考え込むようにして頬杖をついた。
『聞こえるのは声だけだというのも吉報だ。それ以外の音は聞こえないならいくらでも演技ができる』
『誰かと喋っているふりをするんだね』
 我が意を得たりと閃斗は笑った。
『あんまり露骨だと怪しまれる。慎重にやらないといけないがシンをおびき出せるかもしれない』
 状況は大きく好転しているように思えた。けれどおびき出した後に何をするかは僕も閃斗も敢えて触れることはなかった。

 僕たちは閃斗のお母さんに囮になってもらうことに決めた。
 もしもの時の連絡手段として渡された端末から、たった一つだけ登録されているメールアドレス宛てに協力をお願いするメールを送った。驚いたことにものの一、二分で返信があり、明日の夕食のときに行くとだけ書かれていた。
 母とのやり取りは極力シンを警戒させないように努めた。シンの話題を出さないのは勿論、途中で筆談に切り替えることもせずに突然現れた母に驚く息子と初めて養母と顔を合わせる子供という役回りに終始した。上手く演技ができるか不安だったけど実際口に出してお礼を言うのは初めてなのですんなり口をついて出てきたし、感謝の言葉を伝えられて良かったと思った。母の声はシンに聞こえていないはずだけど、念のため僕たちに合わせて貰った。その方が演技がしやすかったというのもある。でも、おかげで演技というよりは普通に家族団らんができた気がして嬉しかった。父親はその場にいないものの家族の食卓はもう叶わないと思っていたから。
 しかしたった一ヶ所だけシンへの脅威となり得る情報を差し挟んだときはすこぶる緊張した。
「なんか、最近疲れてるんじゃない? 百合子さんが心配してたよ」
 母が言った。
「いえ」
「大丈夫だ」
 打ち合わせ通り即座に否定する。
「本当に? ときどき帰りもずいぶん遅くなるみたいだし」
「体育祭の準備で居残りがあるので、そのせいです」
「まあ疲れるのは疲れるけど、楽しくやってるからな」
「それならいいけど。あんまり百合子さんを心配させちゃ駄目よ」
「はい」
「分かってる」
「毎日こうやって顔を出せたらいいんだけど。万が一百合子さんにも言いにくいことがあったら私に連絡して頂戴」
「えっと連絡というのはどこへ……?」
「あれ? 渡した携帯にアドレスが入ってなかった?」
「ああ、これですか。ありがとうございます」
「忙しいからって、気を遣うことはないから」
「分かりました」
 答えながら僕は心の中で安堵していた。予定通りよどみなく話すことができた。あとは特に意識せずに話を合わせればいいだけだ。
 会話の内容は体育祭の準備のことや少し前にあったテストのことなど様々だった。閃斗がタチのことを話題に出して僕をからかったりもしていた。打ち解けた楽しい時間だったけど本来の目的はシンに対して釣り糸を垂らすことだ。ほどほどの頃合いで母は去っていった。
「何て言うか思ったより気さくな人だった。大会社のカリスマ女社長だって聞いてたから、怖い人かと思っていたけど」
 閃斗が会話を続けないと不自然だと眼で言っていたので、率直な感想を言ってみた。
「うーん、表裏が激しいのは確かかもしれないな。じゃなきゃやっていけねぇし」
「ちなみにお父さんはどんな感じなの?」
「似た者夫婦だよ。ご飯は作ってくれないが」
 そう言われて閃斗の父の姿が目に浮かぶような気がした。
「思ったんだけど、閃斗って会社を継ごうとか思ってるの?」
「分からん。特に意識したことはねぇし、父さんも母さんもその気はないんじゃねぇかな。今のところは漠然と学者になろうかとか思ってるし」
「なんとなくそうだと思った」
 僕は微笑んだ。
「どういう意味だよ」
 閃斗はちょっと機嫌を損ねたようだ。
「自由だもん、閃斗。気取ったり飾ったりしない。自慢が過ぎることはあるけどとっても素直に生きてる。親が社長だとか後継ぎがどうとかいうしがらみとは全然別のところにいるって思うんだ」
「まあそう言う意味では感謝してるよ。二人とも尊敬できる立派な親だ。あんまり会えないのは勘弁だが」
「閃斗の家に来て、本当に良かったって、改めて思う」
「やめろよ、照れくさい」
「閃斗が照れてどうするのさ」
「うるせぇな」
 久々に、屈託なく話をした気分だった。一応シンに対する牽制の意味もあるわけだけど、ここのところシンの耳を気にして心のままに語らうことができなかった。このゆったりと時間の流れるようなひとときを大切にしていきたいと切に願う。けれど、シンとの決着をつけるために最後の賭けに出ようとしている今は、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。
 おもむろにパソコンを立ち上げて閃斗に話しかける。
『さっきので大丈夫かな』
『絶対とはいえない。だがシンにとって母さんは間違いなく不安要素だ。俺達と接触の可能性があると分かれば、必ずマークしておこうと思うだろう』
 確かに、閃斗の母親は影響力の大きい人物と言える。僕たち二人だけならただの学生だけど、驚異的な財力を持つ母親がバックにつけばそうもいかない。少なからずシンには脅威となるだろうし、念のため監視対象に加えようとするのは自然な反応だ。
『でも、本当にやって来るかな』
 僕が話に出したのは二日後に開かれる市民向け講演会のことだ。閃斗の母が講演者として演台に立つことになっているから声を聞くには絶好のチャンスで、もしシンがお母さんを登録する気なら逃す手はない。もちろんこの予定が先に決まっていたから今回の作戦を思いついたんだけど。
『来るさ。間違いない』
 自信満々の閃斗に対して少し不安を覚えた。
『お母さんが誰なのか、知らないかもしれない』
『調べりゃすぐ分かる。シンは星野の名も知ってるしこの豪邸を見ればだいたい察しがつくだろう。万が一、既に母さんを登録していた場合は来ないだろうが』
『何処で待ち伏せる?』
『それを今から相談だ。極力人通りがなくて隠れる場所もあるといい。勿論シンが必ず通る場所だ』
 僕は神妙な面持ちで頷く。
 地図を見ながら相談するうち夜はあっという間にふけていった。僕たちは時が経つのも忘れて、パソコンの画面越しに無音の会話に没頭していた。カーテンを閉め忘れた窓から覗く月の無い夜空が遥かな高みから見下ろしていた。


 朝方のうららかな光が嘘のように空には黒雲が滑るように流れ、色のないざらついた地面に薄暗い影を落としている。僕と閃斗、タチの三人は欄干に背中を預けて立ち『里半橋』の名が刻まれた石柱の後ろに身を隠していた。
 駅と市街地を分けて流れる里半川に覆いかぶさるようにして架かっている橋は、丸々コンクリート造りで車が一台やっと通れるくらいの細さだった。けれども里半川は決して小さな川ではなく橋の全長はおおよそ二十メートルある。昨日の大雨で土砂の混じった川は灰色に濁り、手を伸ばせば届きそうな距離でごうごうと音を立てていた。足元は時折微かに揺れ、今に橋が落ちても不思議ではないと僕は思った。
 講演会の会場とその最寄駅の間には里半川が横たわり、他に橋もあるもののかなり遠回りをしなければならなかった。つまり、もしシンが講演会へと向かうのであれば必ずここを通るはずだった。講演会の始まる三十分ほど前はそれなりに人通りもあったが、それが過ぎてからはさっぱりだ。その中にシンがいなかったことはしっかりと確認してある。閃斗の母親の出番は途中からだからその時だけ顔を出すつもりなのだろう。こちらとしては好都合だった。
《まだかな……》
 身を寄せ合うようにしているタチや閃斗の眼には明らかに焦りの色が浮かんでいた。けれど声を出せば待ち伏せがバレてしまうので黙りこくっている。他に人影の無い橋の周辺では水の下る荒々しい唸りだけが単調に響いていた。
 スタンバイを始めてからおよそ一時間が経過するまで人っ子一人現れなかった。もうじきに閃斗の母親が演台に立つことになる。当てが外れたかといぶかしんだ、その時だった。
「そこにいるんだろ」
 聞き覚えのある声に背筋を寒気が走った。寄り添う二人もたちまち身を硬くするのが分かった。
「出てこいよ。三人とも」
 忘れるはずもない。紛れも無くシンの声だった。

 通り過ぎたところを後ろから刺すという閃斗の目論見は諦めるしかなさそうだった。声がしたのは橋の入口のあたりだ。石柱から身を乗り出さなければ見えない位置だから大人しく出ていくしかなさそうだった。閃斗も同じ考えのようで、眼で合図をすると懐からサングラスを取り出した。僕とタチを小突いて促し姿を晒す。
 シンは不気味に笑いながら道の真ん中に突っ立っていた。ブレザーではなく紺色のフード付きジャンパーを羽織り、その下にぴったりとしたトレーナーを着こんでいる。ズボンは丈夫そうなジーンズで履き古した運動靴を身につけている。黒縁の眼鏡もなくコンタクトにしているらしい。動きやすい格好で来ているのが一目で分かった。
「どうして分かったって顔してるな」
 サングラスで眼を隠しているにもかかわらず、シンは見透かすような口調で言った。
「なーに、お前らが俺を見くびっていたってことさ。篠原友璃の母親こそ、俺が『聴覚』で初めてマークした人間だ。星野閃斗、お前から手紙が舞い込んだことは知っているんだよ」
「な……」
 引きつる閃斗の顔を見てシンはおかしそうに笑った。
「ははは。独り言の多いばーさんだったよ。おかげでお前らが『聴覚』の情報を仕入れたことが分かった。となれば罠を張るのは想像がつく」
「ば、馬鹿な! 一体何人登録しているんだ。聞き分けられるはずが……」
「ふん、舐めないで欲しいな。やかましい教室の中でも自分の名前が呼ばれればすぐに反応することができる。それと同じだ。ほとんどはくだらない無駄話だが、気になるワードは拾うように無意識で取捨選択しているのさ。慣れれば簡単なことだ」
 閃斗は悔しそうに歯ぎしりして言った。
「……罠と分かって何故来た?」
「俺にとっても好都合だからだ。この状況が」
 そう言ってシンは舐めまわすように僕たちを眺めた。その眼は露わになっているが、僕の方がサングラスをかけているので心中を察することはできない。
「証人がいないんじゃ、正当防衛と主張できないんだろ?」
「それがもう、そうじゃねーんだよな。お生憎さま。星野を返り討ちにしたら、証人はそこの二人だ。俺と眼を合わせれば素直になれるぜ。ぺらぺらしゃべってくれるはずさ。いや、何なら、遺書書いて自殺してもらった方が後腐れなくていいかもしれねーな」
 シンは満面の笑みを浮かべた。どこか恍惚とした残忍な笑みだった。シンは僕たちの意思を完全に度外視して話している。考え方を誘導するとか、そんな生ぬるい次元で話しているのではないのだ。
「それって……洗脳……」
 心底震えあがって僕は呟いた。
「その通り! お前らのちゃちなサングラス、それが唯一の命綱ってわけさ。それを外したが最後、お前らは操り人形になり下がる。俺は既に神の領域に踏み込んだ。俺の進化を止められる奴はいない」
 その思いあがった言葉はどこか滑稽に響いたが、笑い飛ばすことを許さない重みがあった。
「この世における力とはなんだ? 金か? 目の前の敵を打ち倒す技か? それは違う。本当の力とは、人を服従させ使役できることだ。財力や腕力はそのための手段にすぎない。俺はその力を手に入れた! 問答無用で他人を従える、絶対的な権力だ!」
「させるものか」
 引き締まった彫りの深い顔立ちに険しい表情を浮かべて、閃斗は戦闘用のナイフを取り出した。閃斗もまたシンと同じように、動きやすく隙の無い身なりをしていた。膝や肘、胸には小さくも頑丈なプロテクターをつけている。普段着に見える茶色のベストは刃を通しにくい特別なものだった。
「止めてみろよ。やれるもんならな」
 シンがジャンパーを脱ぎ捨てると、ベルトに固定されたホルスターが露わになった。そこからゆっくりとナイフを引き抜き、切っ先を閃斗の正中線に合わせて構える。
 空はすっかり雲に覆われ、小さな水滴がぽつりと肌に落ちるのを感じた。遠くの方でゴロゴロと雷の唸り声が聞こえる。相変わらず濁流の水音がけたたましく響いていたが、手に汗握る僕にはどこか遠くの出来事のように感じられた。
 二人は互いにぴたりと刃先を向け合ったまま、じわじわと距離を詰める。五メートル、四メートル、三メートル、距離が縮まるにつけ鳥肌が立つような緊張がびりびりと体を震わせている。その様子を、僕とタチは固唾を飲んで見守っていた。
 文字通り手の届く距離になった瞬間、二人は同時に動いた。初手、閃斗は喉を狙って突き、シンは下腹部へ膝を突きあげる。
 シンが閃斗の手首を払い、閃斗が身をよじって膝蹴りをかわしたのを最後に、僕には動きが追えなくなった。
 降り始めの湿っぽい土の匂いをはらんだ空気を裂くようにして、二筋、銀色の刀身が舞う。しかし、二人の乱舞の真髄は二振りのナイフではなく、むしろ僅かな体捌きや相手の刃を払う手刀の応酬にあった。両者ともに力む様子がなく、腕は鞭のようにしなやかで、足は変則的なステップを踏んでいるようだった。胸を突きにくる手首に刃先を合わせ手首の動脈を狙う。懐に入ろうと踏み込む軸足を鋭く蹴りあげて体勢を崩しにかかる。隙あらば肘打ち、関節技、投げ技を決めようと互いに神経を逆立てている。
 ひとときも留まるところがなく、流れるように重心を移してしのぎを削り合う立ち会いは、はっとするような美しさを秘めていた。しかし裏を返せば一瞬の隙がたちまち死に繋がることを示している。互いに相手を殺すことには一抹の迷いも無かった。かつて閃斗はシンに後れをとったと言ったけど、それはすなわち怒りと迷いで平静を失っていたからだった。ナイフの扱い自体は見よう見まねの付け焼刃だけど、呑み込みの早い閃斗はしっかりとものにし、合気道で養った体捌きや動体視力でカバーしている。今の二人は、少なくとも僕の目には、全くの互角に映っていた。
 降り始めた雨に混じってぱっと紅色が飛んだ。目を凝らすと閃斗の肩で服がすっぱりと切れ、うっすらと血が滲んでいる。しかしそれほど深くはないらしく閃斗は表情を変えずに斬り合いを続ける。
 それを皮切りに互いが互いの攻撃を捌ききれなくなっていった。頬や胸、足、腕。いずれも深手ではないものの確かに冷たい刃が肉を裂いていく。どちらの動きも次第に鈍くなり消耗しているのがはっきりと分かった。切り傷だけでなく重い打突も骨身に響いている様子だ。足取りは次第に重くなり、雨と血と汗の雫を吹きすさぶ風がさらっていく。二人の顔にも焦りの色が見え始めていた。決着の時は近い。
 初めに急所を突いたのは閃斗だった。正面を縦に斬りかかってきたシンに対してその腕を左手で受けたかと思うと、そのまま自分の腕を蛇のように絡みつかせシンの利き腕を極めた。その一瞬動きを止めたシンの腹に鋭く膝蹴りをねじ込む。
 しかしシンも負けてはいない。呻き声を上げるも一歩も退かなかった。骨の軋むのも構わずに閃斗の腕を強引に振りほどくと、折れた利き腕で腿にナイフを突き立てた。幸いそれほど深くは刺さらなかったけど、閃斗は呻いて一歩下がった。シンが左手でナイフを引き抜くとべったりと血糊のついた刃が光り、僕は青くなった。その刃がたじろぐ閃斗に容赦なく突きこまれる。
 けど、利き手でない左手での突きは僅かに遅かった。閃斗は喉元への突きを肘のプロテクターで受け流し、その回転の勢いのまま顔面に回し蹴りを放った。シンは咄嗟にかばおうとしたが右腕はだらりと垂れ下がったまま動かない。視線を泳がせたシンの顔に重りの入った靴を履く閃斗の左足が吸い込まれ、体ごと弾き飛ばした。もんどり打って倒れたシンに駆け寄り、すかさず手足を膝で押さえつけると、逆手に持ちかえたナイフを大きく振り上げる。

 次の瞬間、目の前を白い影が横切った。
 意識の外に追いやられていた雨音が一斉に耳を打つ。いつしか本降りになっていた雨はざあざあと雑音を振りまいて、硬い地面に当たっては砕け散っていた。その大粒の雫を汚すように舞い上がった血は、シンのものではなかった。
「タチ……?」
 腰を抜かして座りこんだ僕は、ただ茫然と眼前の光景を眺めていた。
 シンに覆いかぶさるようにしてうつぶせになったタチの背中に、閃斗の振り下ろしたナイフが突き立っていた。フリルのついた真っ白なブラウスに尋常でない量の血の染みが広がっていく。
(タチがシンをかばった……?)
 思考回路は錯綜し視界が徐々に狭まっていく。倒れるまいと後ろに手をついた時、何かがそこにあるのに気がついた。視線を前にまっすぐ固定したまま後ろ手で拾い上げ、ぶるぶる震える手で目の前に持ってくる。スポーツ用のサングラス。それがタチのかけていたものだと気がつくまでに、かなりの時間を要した。
(タチが、サングラスを、外した……)
 その意味をようやく理解してタチの顔に視線を移すと、生気の無いこげ茶色の瞳は光を失っているように見えた。
「はーっはっは!」
 ぐったりとなったタチの体を跳ね飛ばし、閃斗の顔面を足蹴にして立ちあがったシンは、これ以上ないほどの大声をとどろかせて勝ち誇ったように笑った。その表情は死神そのものだった。
「シン!」
 僕はありったけの怒りを込めて叫んだ。
「お前、タチに何をした!」
「榊斎人、奥の手ってのは、最後まで取っておくもんだぜ」
 茫然自失の体で横たわった閃斗の顔を踏みつけ、シンは言った。
「白宮橘に初めて会ったときから俺はこの女に憑いていたんだよ! お前にカッターナイフを投げつけた男のようにな! 当時の俺の力は弱かった。だがそれでも、サングラスを外させることなどわけもない!」
 閃斗は既に抵抗する気力を失っているようだった。自分がタチを刺したというショックで生ける屍のようになっているらしい。ピクリとも動かない閃斗の体に容赦なく雨が降り注いでいた。
「ちっ、窮鼠猫を噛むってわけか。手こずらせやがって」
 傷だらけのシンは折れた右腕を抑えながらも、目は狂気に血走らせていた。
「喜べ! 榊斎人! 俺の最初のしもべとなったのはお前の友人だ。いや、恋人と言うべきか? まあどうでもいい。じきに死ぬだろーからな。そして俺は、触覚を手に入れるってわけだ。俺の進化の礎になれることに、感謝するんだな!」
「シン、きさま!」
 僕は手をついて立ち上がり、シンに跳びかかった。しかしその瞬間、目の前に火花が散った。強烈な蹴りをみぞおちに叩きこまれた僕は成す術なくその場に崩れ落ちた。
「心配するな。お前も今すぐこっちに引きこんでやる。なーに、案ずることはねーよ。ちょっとその眼隠しを外して俺の眼を見れば、すぐに右も左も分からなくなる。あとは心の底から湧きあがる衝動に身を任せればいいんだ」
 語り終えると悶えている僕の髪を掴んで力任せに引き上げた。かがみこんで真正面から僕を見つめるシンの目がサングラス越しに見える。僕に言い聞かせるようにしながらシンは話を続けた。
「お前にまずやってもらうのは閃斗を殺すことだ。有言実行ってやつだよ。あいつの運命は『友人を殺して、友人に殺される』ことだって俺が決めたんだ。予言じゃねー、言わば宣言ってやつだな。その後はそこの女と二人仲よく逝って貰うことにするよ。俺に尽くした喜びに打ち震えながら息を引き取るんだ。幸せだろう?」
 混濁した意識の中でかろうじてシンの言葉だけが頭をよぎっていった。お腹を押さえていた手を離し、ぎゅっと握りしめる。
(ふざけるな……)
 僕は湧き起こる怒りの熱に神経を焼き切りそうになりながら、同時に自分の中で怨嗟の炎が燃え上がっているのをどこか遠くから眺めているような、不思議な感覚にとらわれていた。
(こいつは、シンは、何人もの命を奪っておきながら、自分が人を殺めたという自覚を一度たりとも持ったことがない)
 握りしめた手にこもる力はますます強くなり、自分の爪が手のひらに食い込むほどだった。一方で、一斉に立ち上る『意思』の群れに手を伸ばすと、蹴りを入れられた痛みがすうっと軽くなっていくような気がした。
(思い知らせてやるんだ……。望まぬままに手を汚した人々の自責の念を、殺された人々の怨嗟を、僕が眼にしてきた心からの叫び声を……)
 僕は自らの怒りが自分の中の大きな潮流と同化していくのを感じた。その流れに身をゆだねると全身に力が満ち満ちてくるのが分かる。その勢いでシンの手を力強く払いのけると、導かれるようにして立ち上がった。
 ――僕なら、できる。
 仏頂面の僕を怪訝そうに眺めるシンの前で、僕は全身に力をみなぎらせて立っていた。サングラスのフレームに手をかけ勢いよく放り投げると、遠くの方でからんと小さな音がした。その瞬間にかっと眼を見開いて、シンの黒い眼を一直線に見下ろす。
 刹那、あらゆる惨劇の光景が稲妻のようにひらめいた。刃物で切りつけた首からぱっと血飛沫が上がる瞬間、貨物列車の先頭車両に女性が激突する瞬間、燃えさかる部屋の中で崩れる天井に押しつぶされる瞬間……。際限なく現れる血生臭い記憶は堰を切るように流れ、シンの眼の中にたゆたう水面を容赦なく押し流していった。さらにそれを追いかけるようにして恐怖や懺悔の絶叫、悲痛な慟哭が蘇り、滝のように激しく降る雨の音を消し飛ばす。
 続けて、激しく燃えさかる魂の数々が僕の体を通り抜けていった。それに触れるたびつんのめるような衝撃とともに魂は爆ぜて、体を真っ二つにするような苦しみと嘆きが自分のこととして感じられた。身も心も焼き焦がす灼熱の炎に悶え続けるあまり、自我がばらばらに分解されて抗う力を失い、いつしか魂の見るままに見、聞くままに聞くようになって同じ感情を分かち合っていた。
 地獄のような業火の応酬も際限なく続いたが、時間の感覚もとうに吹き飛んで意識も真っ白に焼け落ちた後、気がつくとあたりは静寂に包まれていた。
 リビングの中央で電灯の光に照らされて横たわる中年女性を見下ろしながら、僕は包丁を握った手をぶるぶると震わせていた。
 ――私が、わたしが、お母さんを殺した……。
 僕は母親から目をそむけるようにして振り返ると、灯りの無い廊下をさっと駆け抜けた。
 ――ごめんなさい、ごめんなさい、お母さん、わたし……。
 既に日は落ち、窓の外には切れかかった街灯が、絶え絶えにオレンジ色の光を瞬かせている。私は薄闇に沈んだ部屋の中で勉強机に突っ伏してすすり泣いていた。
 ――どうすればいいの? わたし、どうすれば……?
 ふと、まだ手に包丁を握っていることに気がついた。それをゆっくりと机に置いて、空いた手でメモ帳を破り取るとぎこちなくペンを走らせた。
 
 わたしが お母さんを 殺した 
 ごめんなさい
 わたしも
 さようなら

 目の前には勉強机に重なって、灰色の橋の欄干が映っていた。
 ――死ななければ。わたしは、死ななければいけないことをした。
 私はその上に乗っかっている包丁をもう一度手に取り、自分の首筋に刃先を当てると一気に切り裂いた。
 その瞬間、僕の体は宙を舞った。
 真っ逆さまに、逆巻く濁流の中に落ちていく。
 水面に叩きつけられた衝撃とともにざぶんと大きな水音がしたかと思うと、身を切るような冷たさで一気に視界が白んだ。
 全身の切り傷に、砂交じりの汚水が染みる。焼けるような痛みだったけど、気が遠くなるのを止めることはできない。水を飲んで息が詰まる。雨音も水音も聞こえなくなった。ただ押し流されていく感覚のみを意識しながら、俺は気を失った。

 同時に、僕は我に返った。
 はるか遠くに鳴り響いていた雷は、今やその光で橋を照らし出すまでに近くなっていた。丈夫な生地でできた長袖のTシャツもぐっしょりと濡れている。みぞおちの鈍い痛みが疼いて吐き気がした。けれどそんなことは二の次だ。
「シン……?」
 シンの姿は消えていた。いつの間にかまた倒れてしまっていたので、起き上がってあたりを見回してみたけどやはりシンはいなかった。ついさっきまでシンがいた場所から血痕が橋の中ほどまで続き、欄干のところで途絶えていた。
(ひょっとして、僕が見ていたのは……シンの意識?)
 よく状況は分からなかったけどとりあえず後回しにしてもよさそうだ。となると他に火急を要することがある。
「タチ! 閃斗!」
 折り重なるようにして倒れている二人に駆け寄る。
「大丈夫!? しっかりして!」
 閃斗はううんと呻き声を上げながらも体を起こした。太腿の傷はそれなりに深かったが、太い血管はそれているらしく出血はそれほどでもない。手当てをすれば何とかなりそうに見えたし、意識もはっきりしているようだ。けれど、タチの方は素人目にも駄目だと分かった。
「シンはどうした?」
「たぶん、川に身投げした。今はタチだ」
 うつぶせに倒れているタチを抱え起こして、僕は必死に声をかけた。
「タチ、タチ! 僕だよ。返事して!」
 背中から右脇腹に突き立ったナイフの隙間からでも信じられないくらいの血液が流れ出していた。内臓がやられているに違いない。もしナイフを抜けばたちまち失血死してしまうだろう。シンの脅威が去ったことに内心安堵していた僕をじわじわと締め上げるように絶望が蝕んでいった。
「タチ……ううっ……」
 タチの眼は微かに開いていた。心の水面は濁っていて奥まで覗くことはできないけど次第に透明度を取り戻していくのが分かった。
「……とっ、くん」
「タチ!? 話せるの!? タチ!?」
 気持ちまぶたを上げてタチは微かに息をついた。顔は蒼白で冷や汗をかいているが、眼はすっかり透き通り、平静さを取り戻しているように見えた。
「良かった……怪我してない……良かった……」
 うわごとのように、ぶつぶつと呟いた。どうやら、シンの力によって、僕が襲われているものだと錯覚させられていたらしい。こみ上げるものがあって、僕はうっと嗚咽を漏らした。
「タチ! しっかりして!」
「大丈夫だよ……私なら……とっくん……」
 涙ながらにタチの肩を小さく揺さぶったけど、タチはどこか超然とした恍惚とした微笑みを浮かべてどこか遠くの方を見ていた。僕の声も届いているかわからない。
「……大丈夫じゃないよ……こんな、こんな酷い怪我してるのに……」
「……怪我? 怪我してるの? 私が?」
 タチは少し顔を曇らせて怪訝そうに言った。
「……わかんないなあ……何も感じない……なにも……」
「タチ!」
 僕は堪え切れなくなって、わあわあと声を上げて泣き始めた。傍らに座りこむ閃斗も真っ青になって、ごめんな、俺のせいで、としきりに呟いている。
「とっくん、お願い」
 思いのほか力強い声にはっとなってタチを見つめた。こげ茶色の眼は光を取り戻して僕をまっすぐ見つめていた。透き通るような真っ白な肌にも少し赤みが戻っているような気がした。
「傷が……診たいの。目じゃ見えないけど、触れば分かるから……。でも、手に力が入らないの。私の手を……怪我の近くの肌に、くっつけて……」
 突然の申し出に戸惑ったけど、タチの眼が真剣なので素直に従うことにした。閃斗にタチの体を支えて貰ってタチの左腕を持ち上げる。タチの手首を掴んだ時に青白く細い指先がぴくりと動いた。躊躇いがちに服の中にタチの手を潜り込ませて、ナイフの刺さった右わき腹に当てると、服の上からそっと押さえてやった。タチは軽くまぶたを下ろした。
「……こっちが、肝臓で、こっちが、腎臓で……肋骨にもちょっと当たってる……うーん、血がいっぱい出てるなあ……」
 まるで他人事のようにぼやいて微笑んでいるのは何とも気味が悪く、気が違っているのかもしれないと思えて哀れだった。
「……とっくん」
「……何?」
 別れの言葉でも言われるのだろうかと思って、僕は身を硬くした。やめてくれ、こんなことが現実だって突き付けるのは、やめてくれ。そう思いながらも、頭では既にタチの死を確信していて、何も言わずに逝ってしまうのは耐えられないと考えていた。けれどタチの言葉はおよそ信じられないものだった。
「邪魔だから、取って」
「え?」
「私の背中に、何か刺さってるの。邪魔だから、抜いてくれない?」
 僕は絶句してタチの眼を見つめた。
「……抜いたら、間違いなく死ぬぞ」
 隣で閃斗がささやく。しかしタチにはその宣告は聞こえていないようだった。
「お願い。このままじゃ、駄目なの」
 言ってることは支離滅裂だったけど、タチの眼の中は凪いでいてやけくそを言っているのではないと知れた。平静で冷静で、細く一本の道筋を見据えているような眼だった。一瞬、まだシンの影響が残っているのではないかという考えが頭をよぎるも、僕は心を決めた。
「……閃斗、押さえててくれる?」
「やめとけ。むごいものを見るぞ」
「いずれ死んじゃうなら、一緒さ」
「投げやりになるのは、やめろ」
「投げやりじゃない。タチは何か思うところがあって、言っているんだ」
 頑なな僕に、閃斗は遂に折れた。ため息をつくと、無言でタチの腕を肩に回した。
「あ、手はお腹に当てたままにして。あと、ゆっくり抜いてね。痛いから」
 タチの声は弱々しくも、鈴音のようによく響いた。閃斗は立ち膝をつきわきに肩を差し入れ、担ぎあげるようにしてタチを支える。僕はタチの後ろに回り込んで息を飲んだ。
 白いブラウスに広がる血の染みは背中全体に広がっていた。雨がその輪郭を滲ませて紅を吸い取っては地面に流れ落ちていく。ナイフの柄が飛び出したその根元からは、今まさにぽたりぽたりと血が滴ってコンクリートの地面に染み込んでいく。その地面は雨が清めるのよりも早く真っ黒に染まっていった。
 傷口を広げないように慎重に柄に触れる。閃斗の手に馴染むようにぐるぐると滑り止めのテープが巻かれた柄は、雨に濡れて不気味な光沢を纏っていた。思いのほかしっかりと刺さっているようで少し触っただけではびくともしなかった。しかしタチの体の中には切っ先が埋まっているのだ。手の震えを必死に押さえながら、僕はナイフの正面に座って柄を握った。
「……いくよ」
 小さく呟くと、茶色の髪が僅かに揺れてタチがうなずいたことが分かった。高鳴る鼓動を聞きながら、ほうっと一度深呼吸をして目を閉じる。傷口のすぐ横、背中の真ん中あたりを左手で押さえながらゆっくりと力を込めて、ナイフを抜き始めた。
 その瞬間、膝に生暖かいものが当たって僕の体の熱が一気に冷えた。
「駄目っ!」
 悲痛な声でタチが叫ぶのを聞いて、僕は思わず手を止めた。
「もっと、もっとゆっくり……間に……合わない……から……」
 そう言われて再び力を込め、押しているのか引いているのか分からないほど微妙な力加減で少しずつナイフを引っ張った。すると不思議なことに、手に感じる抵抗力は少しも弱まることがなかった。不思議に思った僕は恐る恐る目を開く。
 柄を握る手と藍色のジーンズは傷口から吹き出した血に濡れ、おぞましい色合いになっていた。けれど思ったほど出血はなく、既に血は止まっているように見えた。二センチほど引き抜かれたナイフの刀身は確かに紅くなっているけど、ぎらりと光る金属が露わになっているほどでほとんど血はついていなかった。
「次は、ここと、ここを、くっつけて……」
 目を丸くして傷口を眺めている僕をよそに、タチは寝言のようにもごもごと呟く。その響きは心地よい夢でも見ているかのように弾んでいた。
「分かった、わかった。肝臓さえ、どうにかなれば、あとは……」
 その瞬間、僕はナイフの柄が押し出されるような奇妙な感覚を覚えた。最初は小さな力だったけど、次第に大きくなったそれは確かに僕の手を押し戻して最後にはひとりでにナイフが抜けていくのが分かった。あまりにもあっけなくナイフは地面に落ちて甲高い金属音を上げた。思わず悲鳴を上げて両手で顔を覆ったけど、恐れていたことは何も起こらなかった。
「……タチ?」
 返事はなかった。ただ、息はしていた。ゆっくりと深い呼吸だった。
「……斎人、ナイフを」
 閃斗に言われて目を開け、足元に転がった凶器を慎重に拾い上げるとタチの体を支える役を交代しながら閃斗に渡した。閃斗はそれをしっかりと鞘に収め、細い革ひもでぐるぐる巻きにして結び、懐にしまった。
「傷は……?」
 タチの背中の上の方、肩甲骨あたりを肩で支えてゆっくりと服をずりあげる。恥ずかしいだのなんだの言っている場合ではない。
「信じられない……塞がってるよ」
「なんだって?」
「ナイフの傷なんて跡形もないんだ。血はついているけど、何処に刺さってたのか分からないくらいだ」
 肌は新品のキャンバスのように真っ白で、傷やその痕跡は一つもない。閃斗に言った通り服に染み込んだ血が肌に張り付いて固まり始めていたけど、それ以外別段おかしなところはなかった。
「助かった、のかな……」
 僕が服を元に戻すと閃斗はタチの手をとって手首を軽く押さえた。
「脈ははっきりしている。だがたとえ傷が塞がっていたとしても相当な出血だったはずだ。すぐに病院に連れていった方がいい。問題はこの状況をどう説明するかだが……」
「四の五の言ってる場合じゃないよ! 早く救急車呼ばないと!」
 タチは深い眠りについているようだった。ちょっぴり口を開けてすやすやと寝息を立てている。いつか僕の病室で見た眠りに落ちた時のように表情こそ安らいでいたものの、顔はまだ白かった。その姿は気がつけば散っている桜の花のように儚いものに見える。
「任せてちょうだい」
 突然後ろから声をかけられてぎょっとした。振り返って後ろに立つ人影を認めて仰天する。
「百合子さん!?」
 二人で一斉に叫ぶとすらりと背の高い世話焼きの女性はにっこりとはにかんだ。
「こんなこともあろうかと、お母さまからお医者さんの手配を仰せつかっていたの。さあ、早く乗って!」
 手招きした先には見覚えのある黒塗りの外車。血まみれの味方を背負ってこんな車に乗り込むなんて怖いおじさんたちのすることじゃないか。そう考えると、ちょっぴり可笑しかった。
 二人でタチを担ぎこんでドアを閉める。それを合図に急発進した車は街路をジグザグに走り抜け、あっという間に幹線道路に踊り出た。それでも物足りないと言わんばかりに百合子さんはさらに速度を上げる。
「ちょ、ちょっと待て、事故ったら全部台無しだぞ!?」
 流石の閃斗も怖気づいた様子で顔をひきつらせている。
「見くびらないでくれる? このくらい、まだまだ序の口なんだから。もっと飛ばそうか?」
「や・め・ろ! だいたい、パクられたらどうするんだ! ただでさえ人目をはばかる状況なんだぞ?」
「その時はその時。適当にごまかす。それに、みすみす捕まったりなんてしない」
「あの……百合子さんって、一体……?」
 僕の当然の疑問に、百合子さんはバックミラー越しにウインクを返すだけだった。
 車のエンジン音が座席を伝わって、力強く体を震わせる。タチは僕の方に寄りかかるようにして、雨に濡れた髪の毛をまっすぐ落としている。その静かな吐息を聞きながら、僕はふと窓の外を見上げた。
 空はまだ陰っているものの、いつの間にか日がさし始めていた。まだ大粒の雨の雫が太陽の光を受けて真珠のように優しい光を振りまいていた。そういえば今日の雨はにわか雨だと言っていたっけ。これならもしかして、虹が見られるかもしれない。
 ぐっしょりと濡れた手に何かが触れた。見ると、ゆっくりとこちらに倒れ込んでくるタチの手が僕の手の上に重なっていた。口元をほころばせてそっと指を絡めると、張り詰めた緊張の糸が切れたように、強い眠気が僕を襲った。
(きっと、大丈夫……きっと……)
 そのまま、深いまどろみに沈んでいった。

終章 死人に口なし


「とっくん!」
 蝉が騒ぎ始めた初夏の朝方、照りつける日差しに目を細めながら石畳の小道に突っ立っていた僕は、門の向こうにタチの姿を認めて手を振り返した。
「ごめーん、待った?」
「うーん、ちょっと待ったかも」
「嘘言わないの。息上がってるよ」
「あれ、バレちゃったか」
「もう、意地悪」
「そっちだって遅れたじゃん」
「人んち行くときは、ちょっと遅れていくのがマナーだよっ」
「敵わないなぁ……」
 そうぼやくとそっとタチの手をとって、玄関への道を並んで歩き始めた。
 タチは水色のリボンのついた麦わら帽子をかぶり髪も下ろしていた。花柄が薄く透かしこまれた真っ白なワンピース姿で、ずいぶんとお嬢様然としている。
「どうしたの、めかしこんで」
「だって、こないだ来た時はこんな豪邸だって知らなかったんだもん。それに、今日は星野君のお母さんもいるんでしょう?」
「ああ、なるほどね……って、タチのお母さんはどうしたのさ」
「あっ……それは……」
 タチはぎこちなく笑って後ろめたそうに視線をそらした。けれどその前に僕は心中を読みとっていた。
「喧嘩したのか……まあ、しょうがないかな」
「問い詰められたら、話さないわけにはいかなかったの。何て危ない真似をするの、って怒られちゃった。うーん、当分は口利いてくれないかもしれないな……」
「まあ、今度また頭下げに行くよ。タチは完全に巻き込む形になっちゃったし」
「いいの。ついていくって言ったのは私だから」
「あらあら、それは残念」
 突然口を挟まれて前を向き、目と鼻の先の人影に気づいてひっくり返りそうになった。
「お、お母さん!?」
「ええっ、この人が!?」
 サングラスをかけ腕組みして僕たちを待ち構えていた母は、やれやれと首を振ってため息をついた。
「白宮さんのお母さんがみえるのであれば、いろいろお話ししようと思っていたのだけれど。来られないのなら仕方ない。どうやら一通りは丸く収まったみたいだし、後で報告を受けることにするよ。今日の話し合いは、子供三人水入らずでやって頂戴」
 母は来客用の簡素なスカートを翻して振り返ると、軽く手を上げて秘書を呼んだ。そのまま身振り手振りを交えながらあれこれ指示を出す姿を、二人で唖然として眺めていた。
「わ、若い……」
 ぽろっとこぼしたタチの言葉を耳ざとく聞きつけて、振り返った母は笑う。
「それはどうも」
 それを最後に早足で家の中に戻っていった。
 
 部屋に入ると、ちょうど百合子さんが机に紅茶とお菓子を並べているところだった。
「あ、あの、こないだは本当にお世話になりました」
 百合子さんはにこにこしながら空のお盆をとって、タチに向き直った。
「気にしないで。こっちだって、楽しませてもらってるんだから」
「え?」
 首をかしげるタチの脇を通り抜けて、百合子さんは鼻歌交じりに去っていった。
「どーいうことですかー?」
 その背中を追いかけるタチの視線に、赤くなった僕の顔が映らなくて幸いだった。
「遅かったな」
 ふんぞり返るようにソファに座る閃斗が、こちらに向かって手を上げた。
「大人二人はどうしたんだ?」
「えっと、いろいろあって、欠席みたい」
「なんだよ、脅かしやがって。どうやって言い訳したらいいかずっと考えてたのに」
「そんな偉そうに座って、よく言うよ」
 苦笑しながら、丸いちゃぶ台を囲む座布団に腰を下ろすと、おもむろに紅茶を含んで、ほとんど無意識のうちに砂糖を足した。
「で、あの時何が起こったんだ?」
 見慣れた動作はわざわざ突っ込まずに、閃斗はいきなり核心をついた。僕は手に取ったカップを戻して机の上で手を組んだ。
「……僕もよく分からないけど、たぶん、シンと同じような力を使ったんだと思う」
「洗脳か?」
 閃斗の眼は僕を責めるような、恐れるような、憐れむような、複雑な感情を呈していた。
「ちょっと違うかな……。僕はただ、今までに見てきた犯罪に手を染めてしまった人たちの心を、シンに強引に見せつけたんだ。途中からは僕の精神もシンと同化して、シンと同じように魂の叫びを聞いていた。都合のいい考え方かもしれないけど、シンはようやく人を殺める罪悪感を知って、川へ身を投げたんだと思う」
「心を見るだけじゃなく、他人に自分の心を見せる、あるいは他人の心を自分の心に同化させる、ってわけか。入力に対する、出力だな」
「そうだ……そう言えばあのとき、篠原さんの心が見えたよ」
「……そうか、俺も友璃の幻を見た気がするんだ」
「えっ……? それじゃあもしかして、幽霊? あの光景は、死んだ篠原さんしか知らないはずなんだけど……」
 閃斗は小さく首を振って、それを遮った。
「死人に口なし、さ。何かの間違いだろう」
「でも……」
「それでいい。俺はもう変な期待をしてしまう方が辛いんだ」
 ティーカップを手にとって一気に飲み干した閃斗は、ぎゅっと目を閉じ天井を振り仰いだ。しばらくそうやった後、不意に視線を戻して鋭く言った。
「シンは死んだと思うか?」
「わからない。ただ、あの傷で濁流にのまれたら、まず命は無いと思う。僕が思い出せる限りでは、水も飲みこんでいたはず」
「まあ、祈るしかないか……」
 閃斗は深刻そうな表情を崩さなかった。僕は視線を移して帽子を脱いだタチに水を向けた。
「タチは? 体調大丈夫なの? それと、あのときは一体……?」
「えっと、体調は大丈夫だよ。昨日までちょっとふらふらしてたけど、今朝起きたらすっきりしたし。ただ、傷を治すときは朦朧としてたから、私もよく分かんないんだ……。死んでたまるかって無我夢中で、『触覚』で傷の様子を診ながら、ここがこうなったら治るのになって考えてたら、本当に治っちゃったの」
「今はできるの?」
「できないよ。できたら星野君の怪我を治してるし」
 シンとの斬り合いからたった二日では、そうそう傷も癒えるものではなかった。閃斗は服の下にびっしりと包帯を巻きつけている。特に太ももの刺し傷は完全に治癒するまで一ヶ月ほどはかかるだろうと言われた。ちょうど体育祭の時期と被っているから間に合うかどうかと内心穏やかではないのだった。
「強い生存への欲求か。どうやら、『視覚』や『触覚』の程度は意思の強さと密接なかかわりがあるらしいな。『視覚』でも心を見るだけでなく心を見せることができた。同じように、体内を知ることができる『触覚』の高次の能力として、体を治すことができたということか……。まったく、知れば知るほど訳が分からん。どうやったらそんな凄まじいスピードで代謝が進むんだよ」
 嘆く閃斗をよそに、僕とタチは紅茶をすすっていた。
「おいこら、ちょっとは反応しろよ」
「だって……」
「だよね」
 タチと顔を合わせてうなずき合う。それが可笑しくて二人して微笑んだ。そんな中閃斗だけが面白くなさそうに腕を組んで睨んでいた。

 話さなければいけないことは話し終わったので、あとは音楽をかけたりしながら、適当に談笑していた。思えば、三人でくつろぐのは初めての経験だった。シンのその後は気がかりだったけど、今日明日でどうこうということはないだろう。袋入りのクッキーを閃斗と取り合いながら僕はあっけらかんと笑っていた。楽しいひとときは飛ぶように過ぎ、いつしかお昼時になっていた。
「あーごめん、もう帰らなきゃ。お母さん怒ってたから、昼ごはんまでに帰るって言っちゃったんだ」
「そうか、それじゃあ仕方ないね……。帰り道分かる?」
 帰り道と言うのはこの部屋から玄関までの行き方のことだ。なんせ廊下は長いし階段もいっぱいある。僕だってしばらくは迷いっぱなしだったのだ。
「うーん、連れてってくれる?」
「分かった。閃斗はどうする?」
「パス。足が痛ぇから、あんまり動きたくない。また学校でな」
「うん、じゃあね。お大事に」
 手を振ったタチと連れ添って部屋を出ると、僕はゆっくりとドアを閉めて長い廊下を突っ切っていった。
「ねぇ、とっくん?」
 廊下を曲がって階段を降りようとした時、タチに服の裾を引っ張られた。
「何?」
 振り返ると、タチは細い眉をきりっと寄せて思いつめたような表情をしていた。
「私、全部思い出したの」
「思い出した? 何を?」
「シンに操られそうになって、とっくんの病室に行った時のこと」
 ぎくりとなって、僕はたじろいだ。
「たぶん、私に落ち着いて欲しかったんだよね。そう言ってたもん。だから、とっくんの眼を見たら急に意識が遠のいて、目が覚めた時にはなんだか自分のしたことがすとんと受け入れられて、客観的に見られるようになってた。きっと、閃斗が言う『出力』の一種だと思う。あのときのこと、最初はすっかり忘れてしまっていたんだけど、断片的に少しずつ思い出していったの。それで昨日全部思い出したんだ」
「うーん、僕も何が起こったのかよく分かってないんだけど、たぶんそういうことなんだろうね……」
 しどろもどろに答えると、案の定はねつけられた。
「ごまかさないで。何言いたいか、分かってるくせに……」
 タチは口を尖らせてぱっと頬を赤らめると、そっぽを向いてもごもごと言った。
「い、今もさ、同じなの? その、一緒にいたいっていうのは……」
 じっと考え込むようにして、僕はどう言うべきか悩んだ。
「ちょっと違う」
 僕はできるだけ平静を装って、小さく首を振った。
「えっ……」
 視線を戻したタチの表情が強張った。僕はそんなタチに歩み寄ると、そっと肩に手を置いた。ほとんど同じ高さのこげ茶色の瞳に、僕の蒼い目が映っている。
「好きってどういうことか分からないなんて、もう言わない。僕もタチが……好きだよ」
「あっ……」
 その瞬間、タチの眼の中で、ふわりと喜びの色が舞った。その色合いはとても華やかで、たとえようもなく綺麗だった。嬉しそうに目を細めてくしゃっと笑うタチが眩しくて、僕も思わず頬を緩めた。
 顔を赤くして微笑み、どぎまぎしながら見つめ合っていた僕らは、やがて、どちらともなくゆっくりと顔を近づけていった。

***

 玄関から階段を上りきったそこには、春も盛りの森の中で小鳥のつがいが鳴き交わしていた。偶然にもその絵の前に立っていた二人は、初夏の喧騒から切り離された廊下の真ん中で柔らかい光に包まれていた。

SENSOR(かもめあき)

読んで頂きありがとうございます。楽しんでいただけたでしょうか?

"DEATH NOTE"みたいなサスペンスが書きたいなあと思って練った設定になります。いろいろ『感覚』について細かく考えてはいたのですが、それを上手くトリックとして使いこなせなかったかなあとか、かなり強引な話になってしまったなあと反省していたり。まあ何が言いたいかというと、ファンタジー以外も書いてるんですよってことですね。そもそもの作品数がまだ少ないのですが。
よろしければ、ご意見ご感想頂けると幸いです。twitter @KamomeAki

SENSOR(かもめあき)

「心が見える眼」を持つ少年、榊 斎人(ときわぎ さいと)。人生に絶望し人間不信に陥った彼は、星野 閃斗(ほしの せんと)との出会いをきっかけに、立ち直っていく。一方、巷では傷害殺人事件が多発していて……?

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章 記憶
  2. 一章 藍色の瞳
  3. 二章 鼻もちならない少女
  4. 三章 死神の見えざる手
  5. 四章 耳をおおいて鈴を盗む
  6. 終章 死人に口なし