揚水施設にて

僕は最近、随分と長いこと世話になった孤児院を出て、
この街のはずれにある揚水施設で働きはじめることになった。

幼い頃に、どういった経緯だったかは思い出せないが、
僕の家族はいつの間にかに散り散りになっていた。
父の顔はよく思い出せないし、だからそれと同じくらいに思い出も薄い。
記憶に靄がかかって、まるでハッキリしない。
そして、それとは対照的に……というほど鮮明ではないけれど、
母の顔は記憶に残っていた。
今思えば決して美人というわけではなかったけれど、
その表情は常に優しさに溢れていて、
僕はその母の雰囲気が大好きだった。
たぶん、そう悪くは無い家庭だったのだろうと思う。

だけどある日、それは唐突に終わりを告げた。
僕は一人で狭くてカビ臭い部屋で泣いているところを、
孤児院の職員に発見されることとなった。このあたりよく記憶に無いけれど、
そのまま僕は、つい最近まで世話になっていた孤児院で暮らすことになった。
両親に関しては何を聞いても教えてもらえず、僕への配慮なのか、
それとも本当に何も分からないのか、院長が言うには、両親は流行病か何かで、
少し遠い場所で離れて暮らしているというような、
なんとも曖昧な答えが返ってくるだけだった。
突然のこの状況に不安で不安で仕方なかったけど、かと言ってどうすることもできず、
とにかく言われるがまま、この孤児院で暮らすことを覚悟するしかなかった。
そして、幼児から少年と言えるくらいまで心身ともに大きくなった頃に、
色々とここでの生活に窮屈さを感じ始めた。
成人するまではこの施設で世話になる事ができるのだから、
それまでここにいればいいのだけれど、何故か妙な居心地の悪さを感じて、
自分には、どうもここに馴染みきれないシコリのようなものが絶えず心にあった。
だから、どうにかしてここから出てやりたいということばかり考えるようになっていた。

そんな僕にとって幸いだったことは、
この街には常に仕事の人手が不足しているということだった。
違法とされているはずの児童就労を誰も問題視しないほどに。
僕はすぐに公共設備に関する現場仕事を探し始めた。
こういった仕事はいつだって、他にも増して人手不足だった。
給料は安いし、少しばかり体力が必要になる場合が多い。
この街では不人気な仕事の代名詞だった。だから潜り込める自信はあった。
ゴミの収集、道路や鉄道の敷設工事、下水処理施設……。
どこが自分に合っているか思案したが、意外な方法で勤め先が決まった。
孤児院を出ることを申し出ると同時に、特に期待もせず「仕事のあてが無いか」を
たずねたら「良いところがある」と紹介されたのだ。
それが揚水施設での設備保全という仕事だった。違法かどうかは問題にしなかった。
他の仕事に比べれば体力はそれほど必要ない。特別に汚い仕事でもない。
そりゃ少しだけ危険な現場ではあるし、給金もひどいものだけど
仕事の内容には不思議と興味が持てたから気にはならなかった。
なによりはやくあの児童養護施設から抜け出したい一心だったから
あちこち駆け回って勤め先を探す手間が省けてよかった。
別に悪いところじゃない、
むしろ数多ある孤児院の中ではかなりマシな方だったと思う。
それは分かっていたのだけれど、
いつまでも居たくない、出なきゃいけないという強迫観念めいた何かが僕を急き立てた。

揚水施設は、気候と地形に少しだけ問題を抱えたこの街に
水を安定供給するための重要な施設だ。
街の郊外のあちらこちらに、水を汲める、引っ張ってこられると目星のついた場所には、それこそ無節操と言えるくらいに存在していて、
それは水が断たれる恐怖をよく知るこの街の人々の心理のあらわれのようだった。
おかげで春先の気温が上がり始めるころには、貯水池が嫌な臭いを放つ程に水は潤沢だ。
そのうちの一つ、規模としてはかなり小さいものだけど、古くから稼働している
従業員わずかに一名の小さな揚水施設で世話になることになった。
本当に機能しているのか怪しく思えて少し不安を感じたのは本当だけど、
給金さえしっかり貰えるのならば文句はない。
それになにより、この建物が醸し出す暗く神秘的な雰囲気が気に入っていた。
それは、ほとんど即決でここを選んだ大きな理由の一つでもあった。
赤黒い古びたレンガで組まれた二階建てで、
運河の傍によく見かけるような倉庫に似ていた。
苔むした壁の高い位置に、ポッカリと穴が開いたように一つだけ窓があって、
質の悪い歪んだガラスの先でたまに人影が見えることがあった。
性別や年齢はわからないが、施設長の他に誰か居るのかもしれない。
そして、それ以上に興味を惹かれたのは機関室だった。
薄暗く、湿っぽく、さらに室温も高いという、不快な要素で満ちた地下室で、
外からは想像もつかないけれど、
新旧様々な機器で込み入っていて、乱雑で複雑な構造をした部屋だった。
見たこともない仕組みの機械が神経質に関係し合って、
ただ水を汲み上げるだけなのに、
どうしてここまで面倒なことをしているのか疑問に思えたけれど、
とにかくそういう複雑な機械や仕組みが好きな僕にとっては、
とても楽しめる心地よい場所だった。
なにかこう、不思議な安心感に包まれているような……。
だから、湿気や暑さ、せまっ苦しさはまったく気にならなくて、
ここで働けることになったのは本当に幸運だと思えた。

仕事が決まってすぐ、その近くに安い部屋を借りて、
僕はようやく自立と自由を手に入れることができた。
孤児院からも近いことが少し気になったけれども、
とにかく新しい生活が始まることに気分が昂ぶっていた。
あの陰鬱で神秘的な揚水施設と、このボロアパートの狭くて小汚い部屋。
この二つの居場所を往復する生活だ。
どちらも自分の好みで選んだ場所なのだからなんの不満もあるはずなかった。
ずっとこうやって暮らしていきたい。

働き始めてから三ヶ月ほど経って、取り敢えずで任されていた仕事の手順にも慣れ、
機関室に籠る事ができる幸せに浸っていた。
まだその殆んどを把握できていないこの機関室の構造と機能。
もちろん、この建物の根本的な意義である揚水機能の仕組みに関しては
最初に施設長からしっかりと指導を受けたので、
こうしてどうにか仕事が務まるようになっているのだけれど、
だから、その最低限の機能を駆動するために必要な構造物と、
この部屋を埋め尽くす、明らかに過分な規模の、
使途不明な機器や大袈裟な動力の伝達機構は、以前より更に不自然に思えた。
もっとも、それがとても魅力的に感じたからここで働こうと決めたわけで、
たまに不思議な懐かしさや安心感を感じることがあるくらいに、
まさに「自分の居場所」といって良いだろう最適な職場だった。
だから施設長に必要なこと以外は訊くつもりはない。
余計な事を聞いてドヤされるのが嫌だったし、
それが原因になってここを追い出されるかもしれないという恐怖感もあった。
施設長は機関室のことについてもそうだけれど、
この建物の二階に関しては特に寡黙になった。
明らかに不愉快であることを顔に出し、
酷い日には「今日は帰えっていいぞ」などとぶっきらぼうに言い放つこともあった。
そういう時に僕はとても後悔した。
施設長にとって二階は、それほどに碌でもない場所で、嫌なところなんだろう。
人にとって悪い思い出がある場所というのは、
当然だけどなるべく行きたく無いし、思い出したくもないはずだ。
そんな場所が自分のすぐ頭の上にあるとなれば、それは嫌な気分にもなる。
僕にとっては最近まで世話になっていた孤児院がそうだった。
そういうことを無神経に穿り返した、
普段は周りの物事に大した関心が無いなクセに、
この建物の事だけは何故か無節操な好奇心を振るう自分に戸惑った。
もう考えない方がいいに決まってる。
僕はあの、効率の悪さを主張するような、機械達が不器用にたてる唸り声と、
近くを流れる大河から汲み上げられたばかりの水の生臭さと、
そして機械油の匂いにも包まれたこの部屋が好きだから。
それだけで満足だったし、この暮らしを守るのが目下の最大の関心事だった。

基本的にこの仕事に決まった休日は無いのだけれど、
そもそもが施設長一人でもどうにかなる程度の仕事量だったから、
僕は時々こうして暇をもらうことができた。
じゃあなんでわざわざ金を払ってまで
僕のような全く経験不足のガキを使う気になったのか、
気にならないでもなかったけれど、それも何故かやっぱり訊く気になれなかった。
縁というやつなんだろうか?
まぁ、どうでもいいや。という意味を溜息に混ぜ込んで小さく吐きだして
あちこちにシミがついて薄汚れた濃い緑色の二人がけソファーに凭れた。
硬いバネが身体を跳ね返す。
天井や壁の薄水色の塗装が剥げて、
其処彼処で灰色のコンクリート素地が顔を覗かせている。
黒いシミも見える。カビだろうか。
そのシミの一群は、基本的には不規則なテンポで部屋を汚しているだけだが、
こちらの見ようによっては何か意味を持っているようにもとれてしまう。
人や動物の顔であるとか、なにかの図形に始まって、
終いには明日の行動を予定した運行表であるといったような酷い思い込みまで、
見れば見るほど、考えれば考えるほど、とんでもない方向に妄想が広がっていく。
そんな無駄と言えるような時間の使い方を僕は割と気に入っていた。
そして、こういう瞬間に感じる、自分の体重が徐々に消えていって、
そのまま自分自身が無くなってしまうような、そんな不思議な浮遊感が好きだった。
そんな風に楽しめるのだから、部屋で天井を眺めているだけというのも悪くない。
そういう風にとてもリラックスしている時に、よく意識に上ってくることがある。
それは、僕はどこの街で産まれて、どういう家で暮らしていて、
顔の覚えていない父はもちろん、ほとんど表情しか記憶にない母に関しても、
彼らは一体どういう人達なのだろうとか、兄弟なんかも居たのかもしれないという、
そんな自分の生まれや家族の事だった。
別に悲しい気分になったりするわけじゃなくて、ただなんとなく思いが至るだけだ。
いくら記憶があやふやだとはいっても、両親への関心まで無くなるわけじゃないし、
孤児院に拾われるまでは一緒に暮らしていたはずだから。
記憶を巡る冒険は、先に進むに連れて霧が深くなり足元も覚束なくなって、
一体自分は何を探しているのかが怪しくなるくらいにアタマが働かなくなる。
僕は今のところ、無理矢理にまでしてそれを知る必要もないと思っているし、
そのまま記憶の追求を続けようとすると、
なにか心に澱のようなものが溜まっていく心地がして不愉快だったから、
簡単に切り上げることができた。
どうでもいいことなのかもしれないし、誰かが教えてくれるのなら、
それはそれで聞いてみたいとも思う。その程度のものなんだろうか。
僕の、僕に対する生まれの経緯への興味なんて。
いつもこうやって、だんだんよく分からなくなってくるのだけれど、
だからと言って簡単に無視できるほど淡白にもなれないのだから、
人の心っていうのは、自分のものでさえ割と複雑で不可解なんだと思った。

空想だか妄想の余韻を置き忘れるようにして、
ソファから怠い身体をどうにか起こして立ち上がり、
一瞬だけ感じた面倒に惑わされたけれど、
空腹の方が勝ったので止むを得ずにキッチンに向かった。
そこはキッチンとは名ばかりの、水道と火力が不足気味なコンロがあって、
日保ちする食料を貯めておくだけの場所だけれども。
そこで僕はカチカチのパンと何時だかに淹れたコーヒーの入ったカップを見つけたので、
それを今日の最初の食事にしようと思った。
たまの休みも悪くないけど、明日はまたあの仕事場に行ける。
それは楽しみというか、妙な安心感があった。仕事中毒というやつなのだろうか。
ちがうな、それは馬鹿げてる。そういうことじゃないと思う。

固くてボソボソのパンは、コーヒーに浸してようやく食べられるくらい柔らかくなった。
味なんてどうでもよかった。

仕事は順調に、ようするに特に面倒なこともなくクビになることもなく、
水槽の循環機みたいに淡々とまわっていった。
相変わらず僕は、揚水機能の維持のために必要な、
だけどそれは機関室の機能のごく一部だと思われるけど、
とにかくとてもシンプルなシステムの監視や整備にあたっていた。
毎日見ているはずなのに、この部屋に犇き合う謎の機械群は僕を飽きさせなかった。
大袈裟な歯車やクランク、ボイラーのようなものもある。
これらのパーツにどのような意味があるのだろうか。
ちゃんと機能しているのだろうか。またどうしようもない妄想が頭を擡げてきた。
どうみてもこの建物の当初の目的から逸した仕組みが組込まれている。
ここの揚水施設は、汲み上げた水の余剰分を一時的にプールして、
使用状況をみながらそれを電力へと変換する、
簡単な発電装置のようなものも備えていた。
二系統ある電源の片方は、半公営の電力供給会社からのもので、
揚水設備の機能に与えられている。
もう一系統は先ほどの発電装置で生み出されているもので、
根拠の読めない価格設定がされている電力会社からの電気使用料金を、
できるだけスリムにするためには本系統の電力を極力最適化する必要があったけど、
この施設の機械全部をまわすにはあまりにも「最適化」され過ぎていたから、
だから普段はそれを補う形で使われているようだった。
そんなギリギリの状態で稼動しているというのに、
あの無駄に思える機械たちが動きを止めているところは
今まで一度も目にしたことは無かった。
その発電機が生み出す電力は、
あくまでも汲み上げる水と貯水量のバランスで作り出しているもので、
だから発電ができなくなる時もある。
そんな、揚水機能の正常な稼動さへ危うくなりそうな時だって、
この機関室の大袈裟な歯車やボイラーなどのそれらは、
休みなく元気に回転し反復し湯を沸かしたりしていた。
それはわざわざ本系統の電力を融通している可能性だって感じさせた。
どうしても止めるわけにはいかないように見えた。
それほどに大切なものなのだろうか。
施設長には訊けない。やはり不機嫌になる気がしたからだ。

ある日、いつも通りに仕事に向かうと、
珍しく開け放たれた二階の窓に施設長の姿がみえた。
いつもと違う緩んだ優しい表情は、
その視線の先にいる誰かと会話しているようにも見えた。
誰がいるのかなと疑問に思った。自分以外にも働いている人がいるのだろうか。
だけどその時はとくに深く考えることをせず、仕事の持ち場につくことにした。
そして暫くすると施設長がやってきたので、さっきの事を尋ねてみることにした。
怒られるかもしれないという心配はあったけれど、あまり臆せず自然に尋ねていた。
「なに、今日は……機械の調子がすこぶるイイからな。それだけだよ」
施設長はちょっと間を空けて、慎重に言葉を選ぶようにそう答えた。
なにか肩透かしを喰ったような、煙に巻かれたような、
うまく誤魔化されたような釈然としない気分だった。
まだ怒鳴られた方がマシだと思えてしまう。
だけどあの時に見た表情と、今の言葉にはなにか深い結びつきが見えた気がした。
嘘を……というか、いい加減で言っているとは思えなかった。
一瞬の間にとても不思議な気分につつまれた。
その日の機関室の空気は、確かにいつもよりも穏やかだと言えた。
あの謎めいた機械達はいつに無く軽やかな動きを見せていて、
悲鳴のような、あるいは体調の良くない老人の呼吸のような、
「ようやく動いている」といった感じを聞く者に与える、
あの不安定な駆動音も穏やかだし、
機関室のあるあらゆる部品がそれらとの連携にスムーズさを増していた。
もちろん全部が腑に落ちたわけじゃなくて、
誰かと喋っていたように見えたことに対する、納得のいく返事はなかった。
言葉の端々に、ただただ早くこの話題を終わらせてしまいたいという、
バツの悪そうな、そんな雰囲気が感じ取れるだけだった。
さすがにこれ以上の追求はやめておこうと思った。
施設長が上機嫌ならば僕も仕事がしやすいし、
なんであれ、はっきりとした事を話したがらないのならば、
それはやっぱり施設長にとってあまり触れて欲しくないことなんだろうから。
僕はどうにもハッキリしない妙な気分を抱えたまま
その日の終わりまでを過ごすことになってしまった。

アパートに戻ってからも、いや、家路の途中からすでに
何度も何度も繰り返し、今日の施設長の言葉を反芻していた。
機械の調子がいい……。
ただそれだけで機嫌が良くなるというのは、あの人の場合、多少は納得いく。
なんせあの揚水施設を何年もたった一人で運営してきたのだから、
設備に愛着が湧いてもおかしくはないし、
調子が良いという事は、単純に業務に差し支えるような不安が薄まるということだ。
だったらいつも仏頂面の施設長が笑みを漏らすこともヘンじゃないはず……
……と思っていても、やっぱり何かおかしい気がする。違和感がある。
機械の調子がいい日なんて、今までにもいくらでもあったはずだ。
実際に、機関室のあの軽やかに駆動する感覚は以前に何度も感じている。
だけど施設長があんな笑顔をこぼして見せたのは初めてのことだと思う。
気にし過ぎなんだろうか。こんな細かいことは、
いつもならばとっくに忘れて二度と思い出す事はないだろう。
これ以上は考えても仕方が無い。施設長にしかわからないことだし、
訊いたって本当のことを全部教えてもらえるとは思えない。
日付が変わるかどうかという頃まで、隙があればあれこれ思案して悶々としていた。
何かを思い出せそうで思い出せない、喉のあたりに違和感を感じる。
どうにも歯切れの悪い気分を抱えて寝床に潜りこんだ。目は冴えている。最悪だ。

それから暫くの間、施設長のあの笑顔は、
少しだってヒントらしきものすら与えてくれないままで
僕の想像力を刺激するだけ刺激して時間を奪い続けていたけれど、
だけどさすがに時間が経ってくると興味も少しずつ薄れてくるもので、
記憶の表に出ることも稀になってきた。たとえ思い出したとしても
あまり深く考え込むこともなかった。
僕はまた、そうやって日常に戻ることができた。
あんなに熱をあげていたのが馬鹿げて思える。
原因が施設長の笑顔にあるという点が、なぜか僕を少しだけ不愉快にさせた。
幼い頃の僅かな記憶から母親の微笑みを引き出して、
それを打ち消そうと努力した。

僕はその日、いつもよりも早く目が覚めてしまったので、
勢いままに職場に向かうことにした。
だからといって通勤の風景が大きく変わるわけじゃ無くて、
いつもの道を通り、いつもどおりの僕の職場が見えてくる。
古びた煉瓦造りの二階建て揚水施設。
今日も変わらず正面入り口をくぐって中に入り、ホールに出る。
その先の廊下に機関室の入り口がある。
二階へ昇るための階段は、その陰鬱な廊下の一番奥にあった。
そしてその途中には、囚人が収監されている檻のような柵が道を塞いでいて、
先に進むにはその檻を開くための鍵が必要だった。
それは見たこともないくらいゴツい錠前で、壊してしまおうという気を簡単に殺いだ。
機関室に行く前にはいつも、チラリとその柵が目に入るけれど、
特別に気にするようなことはなかった。
だけどその日に限っては違っていた。
チラリどころか目が釘付けになってしまった。
鍵が開いている……?
そのゴツくて醜い錠前は、だらしなく柵に引っかかっているだけで、
ぽかんと口を開けて退屈している守衛のように、柵のお守りを放棄していた。
全身で感じるほど心臓が高鳴った。二階へ行ってみたいと思った。
なにがあるのだろう。なにか特別な機械でも設置してあるのだろうか。
あの日、施設長は機械の調子がいいという事をあの表情の理由にしていた。
だけど考えてみれば、確かに機関室の機械群も調子が良さそうだったけれど、
施設長ははっきりとそれを指してはいなかった。
だから、二階にはまた別の機械なり装置がある気がしてならなかった。
調子が良い事が珍しいくらい、そんなに気難しい機械なんだろうか。
僕は気が付くと、いつの間にかにあの日の感覚に支配されていた。
あれだけ悶々とさせてくれたんだ、少しくらいは知る権利ってものがあるだろう。
勝手にそう思い込もうとしていた。今がその機会なんじゃないのか?
そうだ、別に悪いことじゃない。
「二階にいくな」とは一言も言われたことはない。
こやって鍵をかけ忘れ、開け放しにしたままということは、
別に僕が二階に行っても大した問題ではない、その程度のことなんだろう。
「二階にいくな」とは一言も言われたことはない。
目の前にあるのは、開閉自由なただの柵だ。
目がチカチカしてきた。興奮しているのが良くわかる。耳から肩の辺りまでが熱い。
柵の方へ踏み出す一歩が重たい。
どうした。簡単なことだ。歩いて柵をくぐりその先の階段を昇る。それだけだ。
僕は意を決っして一歩を踏み出した。
……だけど二歩目は無かった。
ギシギシと階段を降りてくる音が聞こえた。施設長だ。
体が爆発するんじゃないかと思うくらいのショックが体中を駆け巡り
僕はそれで我を取り戻した。
慌てて機関室の方へ小走りで向かって、今日の仕事の段取りを始めた。
……いや、正確には始めるフリしかできなかった。
汗でシャツがグショグショになっていた。
そして無意識に手のひらをズボンに擦り付けていた。
うまく平静を装っているつもりの僕の前に、施設長がやってきた。
その顔は少し驚いているようだった。
「今日は随分と早起きだな?」
その言葉で表情の理由がわかった。
僕がいつもよりはやく持ち場にいることが不思議だったようだ。
そして、手にしていたものを慌てた様子でクシャクシャに丸めてポケットに突っ込んだ。
よくは見えなかったが、何か皮のような質感の布状の物だった。紙ではないようだ。
それに気をとられたせいか、僕の混乱はもう少しだけ深まって、
早く出勤したことに特に意味は無いということの説明がたどたどしくなってしまった。
それを聞いてから施設長は何かを思案して訝しげな顔になり、
「そうか」と言ったあと、まだ何か聞きたそうな、
歯切れの悪い間を残して機関室か出て行った。手はずっとポケットの中だった。
あの布切れは油を拭くためのウェスだろうか。
きっと二階にある機械のメンテナンスに使ったんだろう。
とにかく、柵に近付いた事はバレていないようで少し安心することができた。
二階の秘密にはとても興味が惹かれるけれど、施設長の怒りを買って
仕事を失う可能性とを天秤にかけたら、あまり深く探らない方が賢明だ。

それからは意識していつも通りの時間に職場に向かうようになった。
そして、持ち場への途中さりげなく柵の方へ目をやる習慣がついた。
いつも変わらずにあの不細工でゴツい錠前が僕を威圧していた。
今はあまり気にしないようにしよう。いつか教えてくれるだろう。
そう言い聞かせてから仕事をスタートさせることにも馴染んできた。

雲ひとつ無い快晴で、日差しが強いことを考慮しても、
春先にしてはとても暑かった。
結局はそれが大きな原因の一つだったのだけど、
そのときはまだ訳がわからないまま、
問題の起きた揚水機能に手を煩わされることになった。
トラブルというのは、取水量が規定量を下回ってしまうというものだった。
だというのに、保全装置はなんの警告も発していなかった。
マニュアルにある復旧のための手順を何度か試したのだけれど、
一向に回復する兆しはみせず、施設長と二人で首をかしげるばかりだった。
「ちょっと下、見てくるか……」施設長はそう言って、
面倒なこの状況への苛立ちを隠さない深いため息をついた後に下へ降りていった。
機関室の地下には、取水口と取水のための機構が詰め込まれていて、
その機械群の密度と排熱とで酷く暑く、その上ジメジメしていて生臭くて、
とにかく最悪の環境だったから、施設長がため息をつくのもよく分かった。
僕は言われた通りに機関室でのオペレートを続けていた。
ここの保全装置はいったい何のためにあるんだろう。
保全装置のための保全装置が必要なんじゃないのか。
ブツブツと独り言をこぼしながらも、無駄に多いと思えて仕方のない計器類から、
必要な情報のチェックは怠らなかった。
どのくらい経っただろうか。何度か保全システムが警報を鳴らして、
そしてすぐに鳴り止むということを繰り返し、
次第にそれが昔からそういうものだと錯覚する位に慣らされた頃、
施設長が地下から戻ってきた。
体を動かすたびに湿った衣服の擦れる音が聞こえるくらいに全身が汗ダクだった。
シャツが体に貼り付いていて、上半身はまるで裸でいるように見えた。
「バカにしやがって、たいしたトラブルだったよ」
ウンザリしていることアリアリだった。肉体的にはもちろん、精神的にも
疲労にぶちのめされていることがよく分かった。
ここ最近の暖かい気候からか、いつもはあまりみられない藻のような緑色の縺れたロープみたいな生き物が大量に発生していた。
それが取水口を、警報を鳴らすかどうかという絶妙な塞ぎ方をしていたらしい。
過去にも藻に塞がれたことはあったらしいが、今回のような事は初めてだという。
取水量を見張る年代物のセンサーは、ただ一箇所だけに雑に取り付けられていて、
そんな状況をみてしまうと、果たしてこの施設は本当に重要なものなんだろうかという
前からの疑問をさらに強くしてしまう。
そんなことを考えながら施設長の愚痴を聞いていて、ふと気あることに気が付いた。
施設長の透けるシャツの胸ポケットに、何かが入っているようだった。
正方形に近いカタチのそれが、紙でできているものだったら
汗で痛んでしまうのではないかと思い、
それを施設長に知らせると、ひどく慌てた様子で
その硬質な感じの紙切れをポケットから取りだして、
一瞬間ジッとそれを見つめたとおもったら、
また慌ててクルリと後ろを向いてしまった。
どうも僕には見せたくないものだったらしい。
だけど遅かった。見えてしまった。
僕はそれがなんだかを知ってしまった。
一瞬のことだったけれど、ハッキリと目に映ってしまった。

施設長は黙り込んでいた。
僕がその紙切れ……それは写真だったのだけれど、
それについて説明を欲しがってからどのくらい経ったのだろう。
口を開こうとする素振りを見せたかと思うと、
またグッと唇の端を外側に引っ張るようにして、
何かを堪えるようにツラそうな表情をして、それを黙る理由とした。
機械の作動音だけが響き渡る。
金属と金属が絡み合って奏でるノイズ。
これに包まれていると、僕は心地良さすら覚える。
今だって……いや、こんな状況なのにいつもより居心地がいい。
あれは、僕のアタマに残る数少ない家族の記憶。
その中でもさらに僅かな、まさに写真のように鮮明な記憶。
施設長が胸ポケットにおさめていたあのボロボロの写真。
それに写っていたのは、記憶まんまの母さんの姿だった。
その笑顔もまったく同じだった。
混乱よりも、なぜか嬉しさのほうが優っていてそれが更に戸惑いを深めていた。
だけど今ここでワケを聞き出さないと言う選択はありえない。
だから今のこの状況なのだ。
そしてとうとう、施設長が口を開いた。
「ある人から……預かっていたんだ。事情があって。今はそれ以上は……すまない……」
もちろん納得なんてできるものではなかった。
けれど、なぜか追及する気にもなれなかった。
やっぱり少しだけ、いや、相当に混乱しているのだと思う。僕も施設長も。
「ある人」が誰なのか知りたいけれど、
とりあえず、僕の家族の事情を知っている人の手がかりが掴めたかもしれないという、
その事実が知れただけでも大きな収穫だった。
初めて見た施設長の詫びる姿からは、何か複雑で込み入った雰囲気が滲んでいた。
僕は、強くでれば詳しく知ることが出来る立場なのだろう。
でも、結局は僕に写真を見せてくれた事を考慮してあげるのが
なにか人として最低限の矜恃のように思えた。
だから今回は退くことにした。今は。
そもそも家族のことなんて、たまに思い出す程度のことだったのだから、
いま無理矢理に引っ掻き回して、今のこの生活を捨てることは僕にはできない。
一先ずはこれでいい。見なかったことにすればいい。

気まずい空気がなかったといえば嘘になるけれど、
その後の業務はいつも通りにすすめることができた。
そのうちに終業の時間がきたので、一通りの報告を済ませて職場を出ると、
僕は途中にある雑貨店で「親父の使いで」と適当に誤魔化してお酒を買い
それからアパートに戻った。

慣れないうえにそもそも弱いのだから、フラフラに酔うまではあっという間だった。
そうなる前からずっと家族のことを、今日の写真のことを考えていた。
なんで施設長があの写真を持っているのだろう。誰から預かったのだろう。
どうして今は詳しく話せないのだろう。じゃぁ、いつ話してくれるんだろう。
いや、だからそもそもなんであの写真を施設長が……。
同じところを呆けたように廻る、展開しない記憶の旅路。
今日の天井のシミは、それをサポートしようとしてくれる案内人のような、
案内人というのは違うか。地図だ。そんな風に見えた。
あの大きくて丸いシミは母さん。
少し離れて右側にある歪な形のが施設長。
真ん中の小さいやつが……僕かな。
視界がグルグルと回り歪みはじめた。心臓の鼓動が強く速くハッキリと聞こえる。
顔が熱い。手や足が腫れぼったい。
シミを凝視しようと頑張るけれど、視線は彼方此方に散らばって落ち着かない。
あのシミは……あぁ……
僕……ぼく……
しせつちよう……
かあさ……ん
と…う…
ぼく……

酔いにまかせて眠るのは、なんて心地いいんだろう。
それに抗う理由を考ることすら、優しく包んで流してしまう。
どうでもよくなってきた。体をソファに深く沈み込ませる。
僕はそのまま、遠くなる意識を引き留めることはしなかった。

酷い朝を迎えた。どうして後悔すると分かっているのに酒を呑むのだろうか。
少なくとも昨日は理由があったのだけれど、
やっぱりこのゴミ溜めの底のような気分への言い訳にはならないのかもしれない。
フラフラで足元が覚束ないけれど、どうにか職場へ向かう準備を整える。
準備といっても大したことはないのだけれど、一つ一つの動作に気力が必要だった。。
二日酔いだから……いや、もしかしたら施設長の顔をみることが
根本的なつらさの元になっているのかもしれない。
一晩中ずっと考え続けたけれど、酔っていたとはいえ、
僕の逞しい想像力はどうしても妙なところに着地してしまう。
それが嫌で嫌で、だから今朝は最悪なんだ。
余計なことを考えるとロクでもない事になる。自分で自分を苦しめてどうするんだ。
これは一種の自殺と言っていいのかもしれない。
そんなことを欠勤の言い訳にすることなんて出来ないから、
あの揚水施設で働きだしてから初めて、
アパートをでる前に「仕方ない」なんて言葉が出てきてしまった。

ぎこちない雰囲気は、日を追う毎に薄れていった。
いつも通りの持ち場。いつも通りの機械達。いつも通りの施設長。
いつも通りの錠前。いつも通りの二階の窓。いつも通りの……。

あれだけ繁っていた木々の葉は、すっかりと老け込んでいた。
夏が過ぎ、秋が来る。
気温が大きく下がると、機械の調子も変わってくる。
季節の変わり目は色々な変化を運んでくる。
僕は機関室で機械の定期メンテナンスに手を焼いていた。
ひどく古くて、そして難解な言い回しのマニュアルはまるでパズルのようだった。
どこの国のメーカーだったか、そこの製品のマニュアルもこんな感じだったな。
そんな出来の悪い物語のようなマニュアルと格闘し、
ほとんど翻訳といえるような手間を費やしてどうにかうっすら理解する頃には、
肌寒い気温だというのに、額に汗が滲んできた。
さすがに少しイライラしてきて、工具や機械へのあたりが雑になってきた。
そして不運なことに、大げさに回る歯車をスパナで引っ叩いたところを
ちょうど機関室におりてきた施設長に見られてしまった。
施設長は、細かい工具やグリスのチューブなどの油脂類を抱えていた。
ここの機械のメンテナンスに使う工具にしては、少々繊細に過ぎる気がする。
あれはもっと精密なものを弄るためのものだと感じたけれど、
そんな詮索は施設長の怒鳴り声で中止になった。
驚いてスパナを落としてしまった。カランという乾いた響きが足元から聞こえる。
「お前は何を叩いたか分かってるのか?」
いつもの表情じゃなかったし、声も少しだけ殺気だっているように聞こえた。
だから僕はすぐに謝って許しを請うた。
「謝ってすむ問題じゃないんだ!」
という言葉で始まった説教……というよりも、
神様が罪人に審判でもしているような、
心に重くのしかかる文言を選んでは叩きつける、
まるで裁判長の判決文のようなものは、
ゆうに三十分くらいは続いたと思う。
あまりの剣幕にポカンとしていただろう僕の顔をみて、
施設長はハッと我に帰ったような表情をした。
そして「すまなかった」と小さくこぼして、また機関室から出て行ってしまった。
なんだったんだろうか。いつにない怒り方だった。
スパナで叩いたといっても、壊す勢いで振りかぶったわけじゃなくて、
ちょっと小突いただけだったのに。
その叩いたところがそんなにマズイ場所だったのだろうか。
そう言えばこの歯車はなんだ?揚水のための機構に必要なパーツだったら、
僕だっていい加減に把握しているつもりだ。
これは知らない。いや、これだけじゃなくて、
この部屋を埋め尽くす機械の半分くらいは、ほとんど関係してない気がする。
この施設の機能を拡張したり新しくしたりの、アップデートの際の以前の機能との
擦り合わせに必要な名残みたなものじゃないかと思っていた。
不必要な、本来ならば撤去してあって当然のガラクタみたいなものだと。
だけど今の施設長の激昂ぶりをみると、なにかとても重要なものに思えてしまう。
腑に落ちない。だけどどうしようもなかった。
施設長に聞くわけにもいかない。たぶん、また怒り出すような気がする。
なんなんだ。
僕の中にだんだんと、不満とか不安を意識させる
ザワザワとしたものが芽をふいたことに気がついた。
それはなにか理性の及ばない野蛮な感情に思えてしまい、それを潰すことに必死だった。
余計なことはするな。
心の中で繰り返した。
強く強く強く。
何度も何度も何度も。
心を鎮める努力はしたつもりだ。

どうしてこんなことをしているのかは分からない。
謎の機械や装置、「機械の調子がいい」という言葉、そしてあの笑顔、
昨日施設長が抱えていた細かい工具・・・・・・。
努めて意識にあがらない様にしていた大小様々な疑問が重なり合い、
僕のアタマの許容量を少しだけ過ぎてしまったのかもしれない。
母さんの写真はそれを更に壊滅的な状態にする事に充分効果的だったようだ。
深く考えることが面倒になるくらい、なかば捨て鉢となっていた。

まだ夜が明け切ってないから辺りは暗いけれど、ここに着くまでに目は慣れた。
そして建物の裏手に回り、施設長が扉の開錠に来るのを待った。
しばらくすると、ギシギシと情けない音をたてながら
一台のクルマが扉の前までやってきた。
ドライバーは乱暴にドアを開けて、
ひと仕事といった感じでクルマの外に降り立った。
クルマのライトで扉を照らして、正面玄関扉の鍵を開ける。
いつもの、何気無い手慣れた手順。そしてそのままクルマに戻って、
駐車するスペースまで移動させるのもいつもの手順のようだった。
僕はその隙に建物の中に潜り込み、ロビーにある棚の陰にかくれた。
そのすぐ後に施設長が入ってきて、照明のスイッチを入れる。
重い橙色の光は、ロビー全体を隅々まで照らすには不十分で、部屋は薄暗い。
だからか、僕がいることに気がついていないようだった。
施設長はそのままロビーを通り過ぎて、一直線にあの柵へ向っていった。
ガチャガチャと鍵を開けようとする音が聞こえてくる。
僕は速くなる鼓動に気が付いた。
これからしようとする事にまだ躊躇いがあるようだった。
罪悪感に強く苛まれて、身体から力が抜けそうになる。
どうしたんだ。ここまで来て!
やれ。やるんだ。
僕には知る権利がある。そのはずだ。いろいろと説明が不足してるのが悪い。
この揚水施設は一体なんだ。僕はここの従業員で、それなりに長く働いている。
母さんの写真の説明が無いことがとりわけおかしい。
それを見られた時点で言い訳できないはずだ。僕の母さんだ。
真っ当に思える言葉が、頭の中を迸る。
自分を弁護して納得させるための大切な儀式だ。
そしてそれは、柵のほうから聞こえたガチャンッという音で終わりを告げた。
カランという金属音の後に、キイキイと耳障りな音も聞こえてきた。
柵が開いたようだ。
床を、今にも抜けそうな床を、踏み締め鳴かせて施設長が二階へあがって行った。
足音を小さくするために靴を脱ぎ、うまく間をはかり、僕も続く。
古い木の板の床が音を立てないかと心配だった。
一歩一歩をまるで剃刀の上を歩くように慎重にすすめた。
汗が止まらない。手のひらをズボンで拭う。もちろんその音にも気をやった。
鼓動に合わせて目がチカチカしたけれど、不快には思わなかった。
一段一段。薄暗い、ほとんど照明のとどいていない階段を昇る。
だけど僕には、昼間のように明るく見える。
全身の神経が冴えて冴えてしかたない。
まるでそれが、身体の外に剥き出しになっていると思えるくらい鋭敏になっていた。
床のきしむ音、衣擦れ、呼吸、唾を飲み込む喉の音……。
二階への階段のなかばには、僕はそれらを完全に消してみせた。

自分のしていることを忘れているかのように、落ち着きと、
そしてなぜか、奇妙な懐かしさに包まれて僕は二階へと辿り着いた。

短い廊下の先にドアが一つだけあった。
そのドアが半開きになっている事を期待したのだけど、きちんと閉じられていた。
誰ひとり部屋の中には通さないという意思のようなものを感じる。
だけど気圧されることはなかった。
ここまでと同じ、まるで手慣れた空き巣みたいに音無く扉の前まで身体を運ぶ。
ドアノブに手をかける。鍵穴がないところをみると、鍵はかかってないのだろうか。
あるいは中からのみ施錠できるのかもしれない。もっともこの部屋への通り道は、
あの階段だけなのだから必要ないのかもしれない。
ドアが開かないのならば施設長が出てくるのをここで待つまでだ。
全部を詳しく知るには、少し不穏な表現だけれども、
「追い詰めた」状態で施設長と話をする必要があると思った。
もちろん、何もバレずに済めばそれが一番なのだけど。
覚悟を決める時期だ。最悪ここから追い出されるだろうな。クビだ。
思いのほか僕はこの事に、特に写真にたいして執着していたらしい。
当然といえば当然なのだろうか。自分の出生や家族の事にも関係するのだから。
知らず知らずにアタマの中で大きくなって、一日中考えを廻らせていた。
今のこの行動は、なるべくしてなったのだと思う。
だから……だから……仕方ないのだから……。
自分を惑わせるように絡みつく、思考の渦を振り払うように、
僕は頭を左右に振ってからドアノブ強く握り直してそれを決意の表れにした。
右へ捻る操作に、ドアノブはなんの抵抗も示さなかった。
鍵はかかっていなかったようだ。

部屋は想像よりも狭くてシンプルだった。
腰の高さくらいのチェストがベットの横にあって、
そのそばの椅子に施設長は座っていた。
そしてチェストの上には不似合いな事に、様々な工具や、なにかの細々とした部品、
布製だろうか、もしかしたら革なのかもしれないけれど、黒く汚れたウェスが、
それらが一応の秩序をもって並べ広げてあった。
よく見てみると、ベットの周りの床にも同じような道具が散らばっていた。
ベットの向こう側、いつもは外から眺めるばかりの小窓から、
朝日が昇り始めているのが見えた。
それに染まる空のグラデーションを綺麗だと思うくらいには落ち着いていた。
でももしかしたらそれは、ただ単に思考停止に陥っていただけなのかもしれない。
一方で施設長は明らかに狼狽しているのがみてとれた。
幽霊だろうか?それとも凶悪な殺人犯?とにかく信じらないものを、
目の前に居て欲しくないものを見る顔だった。
しばらく二人ともなにも言葉が出なかった。
施設長は単純に僕がいることへの驚きから。
僕はもう一人、知った人物がいることへの驚きから。
もう施設長に怒鳴られるとか仕事をクビになるとかどうでもよくなった。
施設長のその先の、ベットの上にいる人物に釘付けになっていたから。
上半身をタップリとしたクッションに預けて肩までシーツを被った、
ただ天井を見つめるだけの……いや、見つめるのとは違う。
まるで生気が感じられない。
その瞳は、まるで空っぽだった。
そして問題はその瞳の持ち主だった。
肌は多少不自然だけど、色良く滑らかにみえたし、
長い赤毛の髪も綺麗に整えてあった。
その目も鼻も口も眉も……知っている。
いや……覚えているんだ。
そこにいるのは、僕の母さんだから。

僕はベットのほうへ歩きはじめた。
施設長は、先程までの動揺から解放されたようで落ち着いた顔をしていた。
または「諦めたような」とも言える表情かもしれない。
まずどうするべきか僕は混乱したけれど、
考えてもどうしようもないから、思い付くままに口を開くことにした。
「あの……、母さん、あ、ちがう、施設長、これはどうして……?」
もちろん僕は、真っ先に母さんに話しかけたいとは思ったのだけど、
これはきっと何かの勘のようなもので、混乱の中から選ばれた言葉だったんだろう。
施設長は僕から目線を外して、それをベットに寝ている人物のほうへ向けた。
そして、まるで古い水門みたいに重々しくゆっくりと口をあけて、
どうしたものかといった感じで言葉を絞り出した。
所作の一つひとつに、先ほどの表情のような諦めと疲労を感じさせる。
「そうだ……おまえのお母さんだよ」
眉間にシワを寄せたのは、僕だって同じだった。
焦れったいと思った。だから、なぜ母さんがここにいるのか、
それが今ここに充満する空気の本質だろう。

「おまえの母さんは、ここである病気の養生をしている。
街から少し外れて静かだし、自然も多い。
ここで預かってくれと頼まれたんだ。
写真一つ渡されて……そう、あの写真だ。そしてある病院を訪ねた。
そこで患者達は病気や怪我はもちろんだが、
それとは別に、歓迎されているとは言い難い病院の待遇とも戦っていた。
おまえの母さんもそうだった。あんな場所じゃ治るものもなおらない。
その頃の院内では感染症の心配もあったから、なるべく早くに連れ出したかった。
病院から患者を追い出すときの対応は、まったく素晴らしいものだった。
あれならば、どこの貴族だろうが中年の観光客だろうが満点もらえるだろう。
たいした連中だったよ!……まぁ、それはいい。
そして正式な手続き……紙切れ一枚にサインすればそれで済んだ……を終えて
お前の母さんはここで暮らしているというわけだ。
本当はここに入れるわけにいかないんだ。
病気がうつるかもしれない。とても恐ろしい病気だ。
母さんの顔をみてごらん?おっと、あまり近づくな。だからマズイといったろ。
そう顔だ。どうみえる?少なくとも健康食品の宣伝に使えるものじゃない。
そういうことだ。いつもこんな感じで呆けてるんだ。これも病気のせいだ。
幸いなのは、誰でも感染するわけではないということだ。私には耐性があった。
だがお前はどうだ?わからないだろう?な?だからもう出て行ってくれないか?
無駄だ。手を握ろうが、頭を抱こうが、胸に埋めようが、変わりはしないよ。
だから……な……たのむ……」

そう一気に言い放つと、それで施設長の中の全部の気力を使い果たしたかのように
首をうなだれてそれから両手で顔を覆ってしまった。
それでも僕に納得できるわけなかった。いや、誰だってそうだろう。

なんだ、なんなんだ。
どうしてそんないい加減なことを次からつぎへと並べることができるんだ!
こんなところに母さんを閉じ込めろなんて、誰から頼まれた?なんで施設長に?
病気?だったら尚更、無理矢理にでももっといい病院に、
いい医者に見せるべきだろう。まるでおかしい。
もう治りかけてるのか?感染症?静かなとろこで療養だと?
なんだ、なんだよ、もう諦めてるみたいな扱いじゃないか。
父さん……か?父さんに頼まれたのか?どこにいるんです?なにをしてるんだ!
いったいなんなんだよ……。

僕も負けずに思いを吐き出した。そうせざるを得なかった。
眠くなったり腹が減ったりするのと同じくらいに自然なことだった。
まるで下水道から溢れる汚水の奔流だった。
その後に残るのが、洪水に襲われた街の跡のように、
処理に困る瓦礫の山になろうとも、
もう感情のコントロールなんかできなかった。
息がくるしい。僕は泣いているのか。こんな唐突な状況の上に、
混乱を深めるような施設長の言葉だ。泣くか怒るかしかできない。
怒るのは最初にやった。だから泣いているんだ。

数分のあいだ、沈黙が部屋を包んでいた。
下から聞こえてくる施設の稼働音。

母さんも施設長も視界に入らないように、あちこちと目線のやり場を探してから、
僕はようやく頭を冷やす必要があると思えるくらいには落ち着いてきて、
そしてそのせいか、同時に後悔の念にも襲われはじめた。
僕は俯いたままくるりと向きをかえて、ドアのほうへ歩きはじめた。
「後でもっとちゃんと教えて下さい」
そう言うだけが精一杯だったけれど、今のこの場で僕がとれる行動の中で、
あらゆる意味でこれが最善だと思えた。
……本当のところは多分、ただ単にひとまず逃げ出したかったんだろう。
一度このメチャクチャな頭の中をまとめて整理する必要があった。
僕は後ろ手にドアを閉めた。
来る時はあれほど明るく見えた通路の薄暗さに驚く。
飲み込まれる気がして怖かった。
階段を下る時は、手摺に頼って、まるで老婆のように慎重でなくてはいけなかった。
誰かが言っていた。「迷ったらヤメろ」
やらずに後悔するのならば、やってから後悔しろ。
ただしそれは、直感で失敗の種類を嗅ぎ分けてそれに対処できる人間の為の選択肢だ。
ダメな奴の場合はこうだ。
迷った挙句に衝動的に動いて挙句に酷い目に合う。
迷ったらヤメろ。本当だった。

こんな状態だというのに、自然と持ち場に足が向く自分に気がついて、
気色の悪い笑い声を漏らしてしまった。

朝見た光景は、時間が経つに連れて鮮明になっていった。
記憶の中の母さんと、施設長が持つ写真の母さんと、そして、
二階のベットの上で不恰好に埋もれる母さんの顔は、確実に一致していた。
一体どういうことなんだろうか。
母さんがあの揚水施設で寝ていて、施設長は写真を持っていて、
僕はあそこでもう、決して短いとは言えないくらいの時間を過ごしてきた。
施設長はどうして教えてくれなかったのだろう。
不都合でもあるのだろうか。何か疚しいことが。そうとしか思えない。
僕は今日の出来事への不満で、勢いままにその思いを強くした。
鍵までかけていたのだから、やはり人に知られたくない事情があるはずだ。
だったらなんで僕を雇った?
控え目にいってもあの施設は水不足への心理的な不安を和らげる、
気休めと言えるかも怪しい、実質はほとんど無意味なものだ。
だから今までずっと一人で、施設長ひとりでも大きな問題は無かったのだろう。
だったらなんで……。

翌朝の施設長の顔は、まるでこの世の終わりを明日に迎えるかのような、
ひどく神妙なものだった。
今日の朝、アパートを出てここに来るまでは、詳しい話をどう聞き出したものかと、
あれこれ思案していた。悩むのは、決して積極的に聞きだせる気分じゃなかったからで、勇気を奮い起こす方法を探るのがその中心議題だった。
そして職場に着いて施設長の顔を見ると、途端に意気消沈してしまった。
昨日と違った空気の重さがあった。
僕はこういうとき、いつも何を話したらいいのかがわからない。
遠からず、でも程よい距離感で、そしてそれが話の核心への
確かな一歩になるような言葉が、直感的に出てくる人が羨ましく思う。
僕の言葉がそうであると祈ったけど、本当のところはどうだか自信がない。
「母さんの……その、病気ってのは……悪いんですか?」
何か考えを巡らせる事ができるかどうか、とても微妙な間のあとに施設長は
「そうだ」と深く息を吐き出しながら、疲れたように言った。
だからもう、近くに行ってはならないとも。
ここにもまた、諦めたような表情があった。
僕はまたも自分の気分が急速に萎えて行くのが、それこそ手に取るようにわかった。
また重い空気が僕等の周りに立ち込めてきた。

その日から一つだけ変わった事があった。
あの柵から錠前が消えたのだ。
これに僕はとても困惑した。
母さんに、二階へは近づくなと言っておいて、この状況はなんなんだろうか。
次の日もその次も、柵に鍵はかけられることはなかった。
だから、施設長のかけわすれではないことは確かだ。

そして鍵が消えた日とほぼ同じ時期に、施設長も変わった。
その全身から、威圧感というか威厳というか、なにか張りのようなものが失われた。
急に老け込んだように見えた。
顔に、空っぽで底の見えない穴が空いたような、深い影に覆われたような、
虚ろな雰囲気を漂わせた。
会話にも覇気が無くなった。丸みを帯びたと言えば耳触りは良いけれど、
幽霊と問答しているような、
まるで要領を得ないふらついた言葉のやり取りになった。

僕は一つ大切な機会を失って、別に一つ、大切な機会を手に入れたようだった。
施設長はたぶん、もう何も大切なことを話してはくれないような気がした。
今の施設長からは、もう全部を僕の判断に任せてしまおうと、
ある意味で投げ遣りと言えるような態度を見ることができた。
だから鍵をかけないのかもしれない。
病気がうつるかもしれないということを覚悟するのならば、
勝手に二階にあがってのあの部屋に行き、
好きなだけ母さんに会えばいいと言っているようにもとれた。

投げやりなのは、もう僕も同じなのかもしれない。
仕事も施設長も病気も母さんも、もうとにかく、
このグチャグチャになった地面を掘りすすむしかない気がしてきた。
その先でどうなろうと、諦めるか受け入れるか、表現はわからないけど、
とにかく好奇心の言い訳に付き合う覚悟ができたといえた。

僕は何も考えずに二階への階段へむかって歩き始めた。

扉を開ける瞬間は少しだけ怖かったけれど、
開けてしまったあとは、もうどうにでもできそうな気分だった。
それほどに興奮か……ちょっと違う気がするけれど、
とにかく変に昂揚していたのはたしからしい。
その勢いに任せたままで、僕はベット脇の椅子に腰掛けた。
それまでは気が付かなかったのだけど、なにか掠れた音が、
下手クソな弦楽器の悲鳴のようなものが、母さんから鳴っていた。
肺の病気なんだろうか。呼吸がおかしいのだろう。
だけどよく耳を澄まして聞いてみれば、それは確かに言葉であることがわかった。
嫌悪感よりも好奇心強くなってきたのがわかる。
僕はより聞き取れるように、母さんのほうへ耳を向けた。
母さんは、その不自然で耳障りな声で、二つの名前を呟き続けていた。
一つは不思議な響きのある男性名。
一つは僕の名前。
そしてたまに、また三人で暮らそう。というような言葉を挟みこんだ。
その文脈から、もう一つの名前は父さんのものなのかもしれない。
そのか細い声から紡がれる言葉には、ある一定の周期があることがわかった。
僕の中を瞬く間に、黒く粘ついた不愉快な感情が埋めつくした。
涙が溢れ出てきて、嗚咽を止めることが出来なかった。
全身から力が抜けてしゃがみ込む他にしようがなかった。
膝の上に腕をおいて、そのさらに上に頭を載せた。
母さんにはもう、魂みたいなものが無いんじゃないかと思ってしまったから。
勝手に想像して勝手に泣いているだけなのだけど、そう思えて仕方なかった。
暫くそうやって泣きじゃくったあと、また来ますと言って部屋をあとにした。

僕はあることにきがついた 。
母さんの手を握ることもしていなかった。
それなのに勝手に呆けた想像をして母さんの魂を、母さんを殺していた。
触れれば何かが変わるかもしれない。自分を慰めるためには、
そんな儚い望みを立ち上げてすがるしかなかった。
ベットの周りに散らかった、工具やら部品やらに無意識に阻まれていたのだろう。
それらはなにか、不気味で不吉な気分を、否応無しに抱かせるものだった。
だからベット脇の椅子より先には踏み入れようとは思わなかった。
病に苦しむ母親が目の前にいるというのに。
僕は自分がひどく薄情な人間に思えた。
勇気をふり絞ってー。
そう、勇気をふり絞る必要があった。
ここからは、部屋に入るのとも、ベット脇の椅子に座るのとも違う、
その先の覚悟が必要だった。それは直感のようなものだった。
そしてようやく母さんの近くに立つ事ができた。
手を握る。それは真っ白でとても冷たくガサついていて、そして重たかった。
握り返してくれるかと期待したけれどそれは叶わなかった。
嫌な気分だった。粘りけのある嫌な汗が吹き出してくる。
そして、恐る恐る顔を上げた。
当然だけど母さんの顔がそこにあった。あるのは確かだ。
遠くで見た時に感じた違和感が、その正体を隠すことをやめて、
一気に僕の前に覆い被さってきた。
顔色は、手と同じで真っ白だった。綺麗というよりも怖いくらいだった。
やはり表情は読めない。きっかり一定の間隔で瞬きをするだけだ。
その瞼の先にある、たまに痙攣する瞳からは生気を感じることはできない。
そしてまた、僕ともう一人の名前を呟き始めた。
その口の中は真っ暗で、一筋の光すら逃さない吸い込まれるような黒一色に見えた。
そしてすぐに僕はハッとしてしまった。
……見えたのではなく、それは錯覚ではなくて、本当に空洞だった。
普段なら意識もしない、人の口の中。
自分の常識からあまりにも逸れたモノを目にした僕は、
違和感を感じる間も無く恐怖した。
全くごく普通の口の中を期待したのだけれど、歯も舌もなかった。
その「穴」から、まるで夜中に遠くから聴こえてくる風切り音のように、
僕ともう一つの名前が、不気味な「音」として鳴り響いた。
僕は仰け反ってから後ずさり、そのまま振り返って部屋のドアを目指した。
一歩一歩が重たくてドアが遠く感じた。
恐怖と悲しみが綯い交ぜになって僕の心を支配していた。
階段を転がり落ちるようにして下って、勢いままにホールに出た。
それだけでもう息があがっていて、膝に手をつき中腰でそれを整えていたから、
機関室からあがってきた施設長に気がつかなかった。
さっきのことを施設長に話そうと、問いただそうと施設長の顔をみた瞬間に、
僕はまた言い様のない恐怖の洪水に流されてしまった
施設長の顔には、今まで見たことがないような「笑顔」がうかんでいた。
いや、張り付いていたと言った方がシックリくる。
作りの良い精巧な人形に時折見る、人形を超えた、だけどヒトには僅かに及ばない、
中途半端なリアリティの表情に似ていた。
だけどなぜだか、施設長の顔をから目を逸らすことができなかった。
恐怖はもちろんだけれど、それとは他に「期待」のようなものが
僕の足をその場に引き留めていた。
施設長はそのベットリとした笑顔はそのままで、口だけが不自然に動き始めた。
「もう見たのか?わかったのか?」
僕は何をわかったというのだろうか。
聞きたいことや言いたいことが山ほどある事はわかっていたはずだけど、
簡単には言葉にできそうもなかった。
俯いて黙っていると、まるで僕がここにいないかのように、
視線を僕の先へ、僕を透過させ階段の方へやって、一言だけ呟いた。
「ちょっともう一度、二階に行くか。ついて来い」
心臓を直接に殴られたような、強い衝撃が胸を走った。
キラキラとした光りの粒が視界を覆い、眩暈もしてきた。
いま逃げてきたばかりなのに、あの恐ろしい場所にまた連れて行くのか。
恐ろしい、母さんが、母さんに似たなにか……。
……?……なにか?
なんだ?いや、なんでいいんだ。あそこは怖い。怖い母さんがいる。
怖い?母さんが?何を言っているんだ。

僕は強い吐き気に襲われていたけれど、なんどもそれを飲み下して、
施設長の申し出を受けて再び二階へ行くことを覚悟した。


初めてこの部屋に来たときとは、立ち位置も時間も空気も違う。
施設長は母さんの頭の直ぐ傍に、そして僕はその左斜め後ろで立ち止まった。
母さんは先程と変わらずに、空っぽな顔をしながら、
口だと思われる……実際に口なのだけど、
その真っ黒い穴から変わらずに名前を「鳴らし」続けていた。
そしてしばらく、僕らは黙ってそれを見ていた。
不思議なことに、さっきまであれほど僕を雁字搦めに捕らえていた恐怖感は薄れて行き、今度は哀しみのほうが強く心の中に染み出てきた。
薄っすらと涙が滲んできたことに驚いた。なぜかここで泣くのは見っともないと思い、
キッと顔を上げて少しだけ前へ出て施設長の顔を盗み見た。
施設長は信じられないような優しい顔をしていた。
その表情にどういう意味がこもっているのか、理解がつかなかった。
なんでそんな顔ができるのだろう。
どう思ってそんな顔を―。

次の瞬間、施設長が体を乗り出して母さんの顔に手を伸ばした。
足元の工具や部品が蹴り飛ばされて、
ガシャガシャと乾いた音を立ててあちこちに散って行く。
そして、その両手を母さんの口に突っ込み、左手は下顎に、
右手は上顎を無造作に握り上げた。
驚いて目を丸くするだけだった。目の前で繰り広げられている出来事は、
きっと夢か、そうじゃなかったら映画かもしかしたらテレビの番組か、
とにかく現実感を感じることが出来なくて、「作り物」くさくてたまらなかった。
そして、そうであって欲しいと強く願った。

施設長は「ンッ」と力を込めて両手を上下に、布を引き裂くように広げた。
それを見た瞬間に、僕は少しだけ嘔吐して母さんのベットを汚してしまった。
だけどそれも仕方ないことだと思う。さっきまで母さんの顔があった場所には、
ツルツルと滑らかな質感のマネキンに似た無表情な顔の形があった。
眼孔には目の玉がしっかりと埋め込まれていて、ぶるぶると痙攣している。
鼻の穴もあいている。下顎はゴッソりと施設長にもぎ取られてしまっていたから、
普通は舌やその先に在るべき食道やら気管やらが見えてもいいはずなのだけど、
そこにあったのは青く変色しはじめた粗末な真鍮製と思われるパイプと、
顎と耳の付け根のあたりからゴムのような伸縮性のある紐が垂れているだけだった。
「よくできているだろう?」
左手に母さんの下顎を握りしめながらこちらへ振り返って施設長はそう言った。
僕はまた腹の底から食道を駆け上がってくる不快な感じに襲われた。
咳込みながら「よくできているって……?」と繰り返すのが精一杯だった。
「そうだ。いいだろう?オレが作ったんだよ。な?わかるだろう?」
まったく質問の答えになっていなかった。
僕に説明するためではなく、まるで自分に言い訳するような喋り方だった。
「オレはさ、おまえの母さんを大切に思っていたよ。今もね。」
「だからさ、可哀想だろ?くたばったままじゃさ」
「こうやって生きてるみたいにしてやりたかったんだわ」
母さんを大切に思っていた……?何を言っているんだろう。
「ほんとはもっとマシになるはずだったんだよ。もっとよく動くようにさ」
「だからさ―」
と言ったか言わないかのタイミングで、
施設長は母さんを覆っていたシーツを剥ぎ取った。
母さんの下っ腹らあたりから、太さがマチマチの鋼線が無数に生えていた。
それはベットの中に吸い込まれていて、その先で何かと接続されている様だった。
よくみると、その鋼線は小刻みに伸縮していて、母さんの体の動きと連動していた。
震えるようにカクカクと、段付きながらの不自然な動き。
「ちょこっとだけここから動力を貰っていただけだなんだよ」
それは生きた母さんを再現しようとする施設長の努力のかたちだった。
ただの人形じゃダメだったのか。

「ちがうちがう、ダメなんだよ……。こう、包まれてないと……」
「オレはさ、さっきもいったけど、お前の母さんを愛しているんだ」
「抱きしめられて、胸に顔を埋めて、心臓の音を聞いていると、
この上なく気持ちが落ち着く。わかるだろ?」
「だけど!もうそれが出来なくなっちまった!」
「アイツは死んじまったんだ!あの小汚い病院で!あいつら許せネェ……」
「……いや、いや、そうじゃない、それはもう仕方ないことだ。
オレにも責任があるからな……」
「だけど、いや、だからかな?とにかく忘れられなかったんだよ」
「どうにかして、コイツを生きてるみたいにしたかったんだ……」

こんなに喋る施設長を初めて見た。
それよりも、その内容がどうかしている。普通じゃない。
なんだって?抱きしめられていると落ち着くから?
だから人形を、それも動いたり喋ったりする人形を作っただって?
それもこの施設の動力をくすねてだ。
にわかに信じられなかったけれど、最悪なことに目の前に証拠が横たわっている。
まだ他にも信じたくない事が、ハッキリとしない形で僕の頭の隅に澱んでいたけど、
今はとにかくこの状況を飲み込むのに必死で、
それについては深く考えないようにした。
「どうして黙っていたんです」
混乱はしていた。でも、だからこそ率直に聞けたのだと思う。

「どうしてたって……おまえ、こんなの普通じゃないだろう……?」
「こんなことするヤツは普通じゃない。オレだったら薄気味悪くて逃げ出すな」
「だからさ。お前にこの部屋を見られた時に全部終わったと思った」
「だけどお前は残ったんだ。驚いたよ。でももうやっぱり全部だめだと思った」
「お前がきてから今まで、オレはさ、とても満足した日々を送ってこれたよ」
「だけどオレのうっかりで全部ダメになっちまったんだ。だからかな」

だからこれを僕にみせたのか。
だから。だからか……。だから、なんでだ……?
なんだろう、おかしい。
「いや、そういうことじゃなくて……」
僕はそうつぶやいていた。
施設長に言うでもなく、この部屋の空気が自然にそうさせていた。
「ちょっと機関室にいくか」
そう言って無雑作に立ち上がるとそのまま部屋から出て行ってしまった。
僕は取り残されて、ひどい有様の母さんをぼんやりと眺めていた。
今になって涙が溢れてきた。

涙を拭って、頬を伝った跡を消して、それから僕も機関室に向かった。
施設長はそこで、背中を丸めて椅子に座り、部屋の奥の方を眺めていた。
その、施設長の視線の先にある、使途の不明だった剥き出しの機械たち。
ここにきた頃から不思議だった。けれども今はよくわかる。
どんな意味があったのかを。
いつの間にかに僕も、施設長と同じ方向を見つめていた。
静かで穏やかな時間がながれている。
さっきまでの、二階での雰囲気が嘘のようだった。
あまり認めたくないのだけれど、とても落ち着いていた。
落ち着くを通り越して、心地よかった。
そして僕は、その出所不明な心地よさにある程度の納得ができた。
淡々と繰り返される、機械の作動音。
そのリズムは確かに、この安心感の源の一つだといえた。
けれども、それだけじゃなかった。
この、母さんを駆動するパーツ一つ一つが、
そこで確実に活動し機能していることが、より大切だった。
居心地が良くて当然だった。安心感に包まれて当然だった。
いつの間にかに理解していたようだった。

「この建物全体で母さんじゃなきゃいけないんだよ。
まるで包まれているような感じが欲しいんだ。
お前ならわかるよな?ここの居心地の良さがさ。
おれもそうだ。あいつに抱かれているときが一番安心できた。」

この人に対して持っていた憎しみや猜疑心のようなものは、
恐ろしい事に、さっきからどんどんと薄れて行って
今ではもう、ほとんど消えてなくなってしまった。
二階から降りてきて、たいした時間は経ってないのに。
まだ混乱しているだけなのかもしれない。

施設長はあんな人形を作ってまで母さんを傍におこうとした人だ。
どうして壊してしまったのだろうか。
よくわからないけれど、施設長なりの……なにかのケジメなのだろうか。
母さんへの?僕への?父さんへの?
想像力だけが逞しくなっていくけれど、
僕はその成長に歪な何かを感じて、無理矢理にでも止めることにした。
いまわかるのは、この機関室にきて、僕がヒステリーを起こさなかった事が、
施設長にとって大きな意味があったらしいことだ。
満足そうに目を伏し頬を緩め、背中を丸めて椅子に座って、
母さんの「臓器」のほうを向いている施設長からは、
二階でみせたような狂気じみた雰囲気は一切なくなっていた。



揚水施設にて

揚水施設にて

幼い頃に家族と生き別れた少年は、 理由の分からないあせりから、長年世話になった 孤児院を出ることを決意する。 ひとりで生きるために仕事を探し、部屋を借り、 そして始まる、平凡だが気ままな生活。 生活の大部分を占める職場での時間。 それに慣れ始めた頃、少年は小さな違和感に気がつく。 静かな暮らしを願う少年にとって、それは果たして どういった意味を持つこととなるのか・・・・・・。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-12

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