鏡の中のリナリア(将倫)

東大文芸部の他の作品はこちら→slib.net/a/5043/  ※web担当より

五月祭で後輩との麻雀勝負を引き分け、喧嘩両成敗的にテーマ付き小説を書くことになりました。
将倫のテーマは「ぼくのかんがえたさいきょうのぶんがくしょうじょ」です。

 四月の陽気の中、ある教室の前に立つ桂斗真は緊張の面持ちをしていた。左の拳は握ったり開いたりしながら、右手は胸の前に持ち上げては下ろすことを繰り返す。
 それからどれだけの時間が経ったか、桂は意を決してその戸を三度叩いた。身が強張っていたせいで力が入ってしまい、一度目のノックは甲高い音を上げてしまった。それで慌てた桂は力の加減を過ち、二度三度目のノックは今度は逆に小さくなり、何とも不揃いで格好のつかないものになった。
 桂は額に汗を浮かべて直立の姿勢を崩さなかったが、しばらく待てど中からの応答はない。不安に苛まれた桂は、教室を間違えていないかと確認した。だが、戸の上に掲げられている教室名は、部活紹介に書いてある教室と同一だ。いくら緊張しているとはいえ、そして別館がやや複雑な構造で教室が奥まった場所にあるとはいえ、さすがにそこを間違えることはない。それから再度、今度は粒の揃ったノックをした。小気味良い音が響くが、相変わらず反応はない。
「うう、どうしよう」
 ここまで来てまた明日に持ち越すというのも無駄骨になってしまう。とりあえずは本当に中に誰もいないことを確かめねばなるまい。
 そう決めると、桂はおそるおそる戸に手を掛けた。
「失礼しまあす……」
 情けない声で一応断りを入れながら、戸を引く。古い見た目に反して、戸は音もなく開いた。
 身体が入る程度に開いてから、桂は教室内の様子を窺った。広さ自体は通常の教室の半分もない程度の大きさだが、左右の壁を巨大な棚が占めており、見た目的にはかなり狭く感じられる。教室の真ん中には長机が一脚置いてあり、その上には紫色の小さな花が花瓶に活けて置いてある。窓が開いているのか、その花は水中を泳ぐようにわずかに揺れている。視線をさらに教室の奥へと向けたところで、桂は思わず息を飲んだ。誰もいないと思っていた教室には人がいた。しかも、ただの人ではなかった。
 まだ高い位置にある陽光の差す窓の袂で、椅子に「ちょこんと座る」その人は、「肩に掛かる」ほどの長さの「黒髪」を風に靡かせながら、黒淵の「眼鏡」を掛けて「文庫本」を読んでいる。時折髪を耳に掛ける仕草は妙に艶っぽく、「清楚」な感じを醸し出している。「セーラー服」の裾から覗かせる「細く白い」手は見るからに「華奢」で、ふっと吹けば消えてしまいそうだった。胸元で翻るスカーフはえんじ色をしており、彼女との対比で鮮やかに映えている。彼女がそこに存在しているというだけで、教室内の雰囲気は澄んだ清涼なものに感じられる。
 その姿にしばしの間見とれてしまった桂は、自分でも気付かないうちにその感想を口から漏らしていた。
「ぼくのかんがえたさいきょうのぶんがくしょうじょ……」
 桂の声に気付いたのか、件の文学少女は顔を上げて桂の方を見やった。吸い込まれそうな黒の眼に、桂は再び息を飲む。だが、急なことにたじろいだのは桂だけではなかった。
「あ、あの、その――」
 彼女の方も、予期せぬ来訪者に目を丸くしてしどろもどろになっている。「か細い声」はともすれば聞き逃してしまいそうだが、不思議と桂の耳にはよく届いた。
 言葉を継げずにいる様子から、彼女が極度の「人見知り」であることは簡単に想像が付く。桂は自分から話し出さないことには何ともならないと思い、震えそうになる声を必死に抑えて目の前の彼女に話し掛けた。
「あの、俺、一年生の桂斗真って言います。ここ、文学部の部室ですよね?」
 桂が確認すると、彼女は小さく頷いた。だとすれば、桂が次に起こす行動は決まっている。自分の鞄を漁り中から一枚の紙を取り出すと、桂は彼女に差し出した。
「俺、文学部に入部しようと思っています。これ、入部届けです」
 まだ仮入部期間なので、正しくは仮入部届けだが。桂から用紙を受け取った彼女だったが、それをどう扱えばいいのか分からないらしく、矯めつ眇めつしている。どうにも心許なくなった桂は、その段になってそもそも正面の文学少女が何者であるのかも知らないことに思い至った。
「すみません、名前を教えてもらってもいいですか?」
 桂の言葉にはっとするように顔を上げ、彼女は困った顔で再びおろおろと口ごもった。どうも「少し抜けている」ところがあるようだ。その様は見ていていじらしくも思える。
「あ、す、すみません。私、曽下部ゆのって言います」
「ソカベ……先輩」
「はい、あの、文学部って去年も私一人だったので、その、どうすればいいか分からなくって……」
 声音は次第に細くなっていき、やがて黙ってしまった。「言葉少な」な曽下部に対して会話を続けるのも少しだけ気の毒に思うが、桂としても聞いておかねばならないことがある。
「文学部ってどんな活動してるんですか?」
 部活紹介にはただ一言、文学好きが集まる部、としか書かれておらず、小説を読むのが好きな桂はそれに惹かれてやってきたわけだが、実際どういった活動をしているのかを知ることは重要だった。しかし、部員が「一人」しかいないことを考えると、その質問にもあまり意味はないのではと思えてくる。
「えっと、私は放課後はずっと本を読んでます……」
 まるで悪いことを告白しているかのように、身を縮こませながら曽下部は答えた。ただでさえ「小柄な」身体をさらに小さくさせているのは痛々しくもあり、逆に桂の方が申し訳ない気持ちになってくる。
 それから桂は口を開くことが出来ず、曽下部も何も言わず、結果として二人は机を挟んで静かに読書に励むことになった。曽下部の言う文学部らしい活動と言えばそうなのかもしれない。本を手繰るその手付きは「繊細」で、いかに本を大事にしているかが容易に察せられる。桂がちらりと窺った限りでは、曽下部はヘミングウェイの老人と海を読んでいた。窓際に座り暖かい陽射しを身に受けながら海外文学の名作を読み耽る曽下部は、まさに桂の思い描く文学少女そのものだった。
 それからどれくらいの時間が経っただろうか。桂も本を読み始めると集中するタイプなので、周囲への注意は散漫になる。にもかかわらずその声に気付いたのは、やはり彼女の声が透き通るように空気を震わすからだろうか。
「あの、ちょっといいですか?」
 年下の桂にも「敬語」で話す曽下部に、桂は読んでいた本を閉じて視線を上げた。曽下部は閉じた文庫本を膝の上に乗せ、真っ直ぐに桂の方を見ている。
「はい。どうかしましたか?」
「さっきから気になっていたんですけど、桂くん、最初に私を見たとき変なことを言ってましたよね?」
 一瞬桂はぎくりとした。何も悪いことなどしてはいないが、初対面の人を捕まえて言うには礼儀に欠く言動だったことは否めない。桂は黙って曽下部が続きの言葉を紡ぐのを待った。さしずめ判決を待つ被告人のようである。
「その、最強の文学少女、とか」
 なぜか恥ずかしそうに顔を赤らめて言う曽下部に対して、桂は最早申し開きをする意味もないと思った。なので、いっそ思いの丈をぶつけてみることにした。それは開き直りというものだろう。
「ええ、そうですね。俺が最初に曽下部先輩に抱いた第一印象は『最強の文学少女』でした」
 曽下部は顔を俯けつつ、会話を続けた。
「私はそんな大層なものじゃありません。――桂くんの言う最強ってどういうものですか?」
 小さな声ながらもきっぱりと断言した曽下部は上目遣いに桂を見遣る。当初の反応に反して、実はそこまで話が下手とか嫌いというわけでもないのかもしれない。桂は曽下部に対する認識を少し改めた。
 それから桂は自分が思う理想の――最強の文学少女について語った。そうと思える要素を列挙していく内、そのいずれもに曽下部が当てはまり、やはり彼女こそ文学少女であるという確信を強めた。しかし先輩相手に熱を込めて妄想を開陳する様子は、傍から見ればかなり奇異であろう。
 桂の最強の文学少女論を最後まで聞いた曽下部は、下を向いてしばらく考え込んだ後、困惑げな表情で再び桂と視線を合わせた。
「こう言ってはなんですが、私はそんな人物は実在しないと思います」
「なんでですか?」
 曽下部の反駁に桂は思わず食い付いた。現に目の前に最強の文学少女がいるというのに、それをして実在しないとは、甚だ納得できるものではない。
「私がそう思うのは、桂くんが言ったいくつかの要素に矛盾があるからです」
「矛盾、というと?」
「例えば、博識であるということを観測するには、その人からそれと判断できるだけの知識を引き出さなければなりません。そうした人が言葉少なであるというのは整合性に欠けます。それから、部活動に所属しているのにその構成員が一人だけであるということはあり得ません。年度が変わる段階で休部、悪くすれば廃部になるでしょう。それに、抜けているというのと繊細であるというのが両立しているのもしっくりきません」
 いくつか例を挙げて、曽下部は最強の文学少女の存在を否定する。
「私の印象からすると、デカルトの神の存在証明のような感じを受けますね」
 耳慣れない言葉が飛び出し、桂は首を傾げた。文学少女と神がどう関係するのかさっぱり分からなかった。
「なんですかそれ?」
「存在論的証明とも言いますが、簡単に言えば、存在するという属性を最大限に持つのが神である、という証明方法です。これを桂くんの論に当てはめるとするなら、文学少女という属性を最大限に持つのが最強の文学少女である。文学を嗜む少女は存在しているから、最強の文学少女も存在する。そう言っているように聞こえます」
 曽下部は一息入れてから、まとめに入った。
「複数の文学少女の持つ要素を混ぜ合わせているから、最強の文学少女には矛盾が生じてしまい、だから実際には存在しない。もし私をそうだと言うのなら、それは目の前の事実を都合よく解釈しているに過ぎません。私はそう思います」
 曽下部は高校生にしては不要とも思えるほどの「博識さ」を、何の嫌味も感じさせずに見せた。そして確かに、桂が思い描く最強の文学少女像は世に溢れる文学少女を融合させたものだ。曽下部の言うことは正しい。だが、同時に間違っている。
「でも、先輩は実在しています! 悪魔の証明をするまでもなく、最強の文学少女は存在し得ます」
 桂が取る存在証明は、曽下部が最強の文学少女足り得るというその一点だ。だが哀しいかな、それを真と断ずることが出来るのは桂だけなのだ。ぼくのかんがえたさいきょうのぶんがくしょうじょである以上、最強の文学少女は一般化出来ない。つまり、このまま論議を続けたところで、主張の拠り所が同じ舞台にないので平行線を辿るばかりだ。
 何度か同じやり取りを繰り返した後にそのことに気付いた二人は、お互い主張の矛を収めた。
「――妙な論争を繰り広げてしまいましたね」
「……そう、ですね」
 曽下部は議論をしていたときとは打って変わって、またしおらしく下を向いてしまった。その姿を見るにつけ、桂は最強の文学少女の実在を強く確信せざるを得ない。
 それからは、二人とも読書の続きを再開した。時間の経過を意識に上げることなく、ページをめくる音だけが五感を刺激し、一定のリズムを刻み続ける。
「はい」
 不意に曽下部が声を上げたことに桂は気が付いた。周囲を見回すと、曽下部は教室の入り口に視線を向けている。桂も意識を戸の方に向けたところで、控えめなノックの音が二度教室に響いた。
「はい」
 曽下部は先程と同じ台詞を口にすると、椅子から立ち上がり入り口へと向かう。軋んだ音を立てながら戸を開いた先には、女子生徒が緊張した顔付きで立っている。胸に下がるネクタイをいじりながら、応対した曽下部と言葉を交わした。内容までは桂の耳には届かなかったが、二言三言のやり取りを終えると、深くお辞儀をして去っていった。どうやら入部希望者というわけではないらしい。
「誰でしたか?」
 曽下部が席に戻ったタイミングで桂は尋ねた。文学部に用がある人以外で、この教室を利用する者はいないはずだ。
「迷ってたみたいです。四月だとたまにあるんですよ。新入生が教室の場所を尋ねてくることが」
 柔らかく笑いながら、曽下部は答えた。確かに、部室が数多くある別館は少々作りが複雑で、かつ文学部の部室はその入り口付近にある。道を尋ねるにはもってこいの場所にあるのだ。
「新入部員ではなかったんですね」
「ええ、少し残念です」
 文庫本に手をやり、曽下部はまた読書に戻ろうとしている。新入部員という言葉を聞き、桂は言い忘れていたことがあるのを思い出した。
「あ、曽下部先輩」
「はい」
 桂の方を向く曽下部に、頭を下げて口を開く。
「これからよろしくお願いします」
 そう言って頭を上げた桂の目に、窓から差す夕陽が入った。それが眩しくて桂は思わず視線を逸らす。その先には硝子戸の付いた棚がある。
 硝子に反射して映る紫色の小さな花は、橙の灯りに照らされながら、風に吹かれて軽やかに踊っていた。

鏡の中のリナリア(将倫)

ヒント:間違い探しは五つあります。
この作品で言いたいことは登場人物の名前にも表れています。元ネタが何かを想像してみると面白いかもしれません。

鏡の中のリナリア(将倫)

文学部に入部しようとする桂斗真が部室を訪れると、そこでは文学少女が一人静かに読書をしていた。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-05

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