嫌悪(丹羽煮埴輪爾和鳥)

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 圧迫感は、突然訪れた。

 私が広げているルーズリーフの真横、机の白に影が差した。椅子を引く音、椅子に重い物が載せられる音、リュックサックが床と擦れる音がする。それに合わせて私も意味も無く椅子を左にずらし、机上のものを整理して左手側にまとめる。
 見慣れないリュックサックをじっと見つめるのも不自然なので時計を見るふりをして教室を見まわすと、普段私の右隣に座っている女子学生は私の正面、教授が座る席の真横に座って、私に横顔を見せながら発表の準備をしている。
 ふと教室の狭さを感じたが、教室の大きさが突如変わることはありえないと内心苦笑して、女子学生が配布したレジュメに目を通し始める――ふりをして、横目でルーズリーフのわずか右を視界に入れる。
 半袖のTシャツから伸びた日焼けした腕が、静かにレジュメを裏返した。その視線は熱心にレジュメの文字を追っているのだろう。今の私も周りからはそう見えているはずだ。いや、ひょっとすると隣の学生も、レジュメを見るふりをして――いや、何を見ているというのか。私は少しどうかしているのかもしれない。思考がおかしなところへ入りこんでいる。軽く開けられた窓からは心地よい風が入ってくるし、今日は涼しいので熱射病でもないはずだ。だのに胸から上で何か息苦しさを感じる。
 左から突如近づいてきた足音に顔を上げると、教授が入って来た。ギイという嫌な音。ああ、閉まってしまった。
 正面1メートル先のところで教授は私に横顔を見せて、授業開始を告げた。教授を挟んで向こう側で、やはり横顔しか見えない女子学生が硬い声で報告を開始する。
 彼女の声に従ってレジュメに目を落とすと、視界に紺のTシャツと茶色い腕がやはり入った。何かを考えているのか、人差し指がとんとんとレジュメを静かに叩いている。
 それにしても、隣の学生は誰だろうか。授業最終日に唐突に現れる典型的な省エネ学生か、それともいつも空いている席に適当に座っている大学院生だろうか。顔をわざわざ見るのもためらわれ、またそれに気づかれたらなんと思われるかとも思い、細身だがしっかりした腕を視界に入れるに留めておくことにした。
 しかし誰だかわからないからだろうか、気づくとそちらに意識を向けていて、発表の声が耳から耳を通り過ぎていってしまう。私のレジュメの上では、ただシャーペンで引かれるラインの数が増えていくばかりである。
 右から身じろぎの音が聞こえ、視界の中の左腕が私の右にあるレジュメを押さえた。筆記音がそれに続く。カリカリという音はやがて止まり、前髪かどこかをくしゃりと掴んでから、またレジュメの左に腕が下りてくる。その腕は先ほどよりわずかにこちらに近づいている気がする。半袖から伸びる左腕と七分袖から出ている右腕の距離の近さに、何故か胸がむかむかして、私はレジュメの文字に必死で視線を落とす。
 いつの間にかレジュメの半分を過ぎていたけれど、内容が頭の中で上滑りするだけで、彼女の声が別の世界のもののように聞こえてしまう。視界の端でしなやかな筋肉の付いた腕が英語の本を引き寄せると、それにも視線を向けてしまう。ささいな動作、どこにでもある光景だというのに。
 あっ。思わず上げそうになった声を呑み込んで、私は固まった。分厚い本をめくった拍子に、大きな左手が、私のレジュメにかすった。
 何も考えていなさそうな無邪気な腕は私の心臓を冷やしてから、やがて日焼けしていない右腕の近くに身を落ち着けた。その左腕は、教授がクーラーをつけたにも関わらず汗ばんでいる。
 気持ち悪い。それが素直な感想だった。
 何か得体の知れないものが視界に、隣にいる。それは人間で、学生で。いったい何を私は避けて――怖がっているのだろう。そこに思考が至って、息が詰まった。
 怖い。気持ち悪い。何が怖いのか。隣の男子学生が、だ。
 と、隣から聞こえる鼻の詰まったような呼吸音に思わず身をすくめ、疑念が確信に変わると共に、何故という疑問が生まれる。
 いつから私は男嫌いになったのだろう。
 この教室が狭いのはいつものことで、私が男子学生の隣に座ることもたまにあることで。学内には男子学生が溢れかえっているし、男友達もいる。今日になって嫌悪するようなことでもないはずだ。
 いや、違う。原因ならあった。気持ち悪いメールだ。ひと月前、委員会の必要があって連絡先を交換したら、ナンパもかくやと鳥肌を立ててしまうようなメールが飛んできた。怖くなって、いない彼氏の存在をにおわせるメールを送ったらそれも落ち着いたが、今でも業務連絡のメールは来る。そして私は今でも、その名前が画面上に現れるだけで身が震えてしまう。
 しかし、正面に目を向けると、いつの間にか女子学生からバトンタッチして解説をしている教授のまっすぐな横顔がある。そして気持ち悪くも何とも感じない。その奥の女子学生のさらに向こう側、教授を挟んで私と対称な位置に座る同じ学科の男子学生も、大丈夫だ。と見ているうちにふとニアミスした視線も、何事も無く、何も感じず、自然に逸らされる。
 では何が駄目なのだろう。知っているから大丈夫なのか、見知らぬ男、カテゴライズできない男が駄目なのだろうか。では、右隣にいるのが突如現れた不真面目な学生ではなく、いつもの院生だとしたら、顔を確かめたらこの圧迫感は治まるのだろうか。それでもし治まらなかったら?
 そっと、視界の右端で左腕が頬杖をついた。頭が少しこちらに近づいたのがわかる。
 それとともに感覚が戻ってくる。そして、私の視線は視界の右端に縫いとめられる。
 こういうのを凍りつくと言うのだろうかと、やけに冷静なことを頭の中で考えている間も、私の五感は右隣りに支配されている。
 左腕を外して右腕で頬杖をついた。
 机に少し身を乗り出して、電子辞書に左手を伸ばした。
 ちょっと背もたれにもたれた。
 机に両肘をついて、左手で首を抱えた。
 右手でレジュメに書き込み、左手でレジュメを押さえて右手で消しゴムを動かした。
 疲れたのか、椅子の上で腰の位置を落として背もたれに肩をもたれかけさせた。
 左手がTシャツの裾に伸びて、少し引っ張った。
 そのままポケットに手を突っ込んでスマホを出して机の下で何やら操作した。
 スマホをポケットに突っ込み、右手でレジュメを机上から拾い上げた。
 ちらりと左手首を返し、時計の文字盤が一瞬上を向いてから左手を戻した。
 辞書に左手を伸ばして、右手はレジュメを置いた。
 前のめりの姿勢に戻った。
 そしてまた茶色い左腕が、
「じゃあ、今日はここまでで」
 ――教授の穏やかな声が、授業の終了を告げた。
 呪縛から逃れた私は冷えたガチガチの身体をほぐすこともせず、手早く荷物をまとめてそそくさと席を立った。これで今学期は終わり、当分この妙な感覚に悩まされることも無いだろう。
 とドアノブにかけた右手が唐突に固まり、これでいいのかと私に問いかけた。逡巡して、このまま悶々とするくらいならと、最後に顔を確かめることを決めてドアを開けた。
 ドアを閉めるふりをして教室の中を振り返ると、隣人はやはり院生だった。
 その顔が、ふとこちらを見て。目が、合った。
 途端、熱でもあるのかと思うくらい顔が熱くなる。
 やはり私は男嫌いになってしまって、もうどうにもならないから男子学生には接触しないほうがいいのだ。疑惑が確信に変わり、私はぱっと身を翻した。後方では、ギイとドアが閉まる音がしていた。

嫌悪(丹羽煮埴輪爾和鳥)

おそらく読み返しが必要になるであろう文章を書いてしまいましたこと、お詫び申し上げます。が、反省はしていません。伏線大好きなので。
地の文で「私」はやたらと気持ち悪い気持ち悪い連呼していますが、右隣の学生の行動を逐一観察している「私」のほうがよっぽど怖いと思います。つまりはそんなお話です。
本当はこんな生温かい結末ではなく後味悪い結末にしようかと思ったのですが、書いているうちに鳥肌立ったのでやめました。

嫌悪(丹羽煮埴輪爾和鳥)

日常の中の、ふとした違和感。そして私はとらわれる。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-07-05

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