月に送る
「月が綺麗ですね」
煌々と月明かりが地面を照らす中、私の横を歩いていた君はそう言った。あの日も、今日みたいに大きく丸く満ちた月が出ていたような気がする。
君の言葉に釣られて、私は空を見上げた。斑点のような星の光に紛れて、大きな白い光が高く昇っている。
「別に、普通の月だ」
私はそう言って、手に持っていたタバコをふかす。君は少し頬をふくらませて
「あなたは、趣というものを解さないのかしら」
と不満そうに口にした。悪気はないんだけどね、私は弁明のように口にする。その言葉の隙間から、タバコの煙がプカプカと宙に拡散した。
君はわざとらしく咳払いをして、キリッとした表情を作る。
「中国の古典では、月というのは『どこか遠く離れた場所でも、同じ月を見ている』という意味で、誰かを懐かしむ際のアイテムです。懐かしむのは、離れ離れになった、兄弟、家族、それから―――」
―――恋人、とか。
「君は今、私のことを懐かしんでいるのかい」
私が軽口を叩くと、君はさらに頬をふくらませた。ここまで膨らむと、さらにどこまで膨らむのかということが気にならないわけではない。
「それから、夏目漱石が昔、『I love you.』の日本語訳をどう考えたかというと」
「『月が綺麗ですね』、だろ?」
私がそう口にしてしたり顔をすると、君の頬はもう少しだけ膨らんだ。
「全部知ってて聞いていたんですか」
私は手に持っているタバコが短くなっていることに気づく。指の近くの熱源を、私は灰皿に押し付けて消す。
どうして今日、このことを思い出したか。あれから何年経ったか、私の記憶ではあまり定かではない。君がいなくなってからの人生は、なぜか他人の人生を覗き込んでいるかのような、そんな気がしてならなかった。
思い出したのは、何気なくベランダに出てタバコを吸い、ふと空を見上げた時だった。
月が出ている。
大きな満月が、白く輝いている。
もしどこかで君が、同じ月を見上げて、仮に同じことを思い出していたら、と思う。そんな事はないとわかっていながらも、どこかで想像を巡らせる。
「君も、同じ月を見ているのかい」
私はどこかへ問いかける。しかし、当然、返事は帰ってこない。
空を見上げる。私は趣を解さないが、なるほど確かに、と思う。
―――月が、綺麗かもしれない。
月に送る