THE LAST MOMENT OF 呪縛


 五人むりやり乗って窮屈な軽の後部座席で、絵里が泣いている。助手席の享は、ずっと俯いたまま。
 何故こんなことになったのか。
 誰も何も喋らない。
 頭の中で「THE LAST MOMENT OF 呪縛」が流れ出す。俺らのバンドの、ライブでのアンコール曲。
 ショパンの「幻想即興曲」のフレーズを取り入れた、享のギターソロを聴く度に、こいつは天才だ、こいつと一緒ならばずっとやっていける、そう確信した――俺が、馬鹿だったのか。

 中一の時、俺と享は、辻田、中里、で出席番号が前後ろだった。体育館の階段で列を作って入学式が始まるのを待っている間、俺は享に話しかけてみた。
「だるいよなあ、はよ終わったらええのになあ」
「うん」
 享の反応は、たったそれだけ。表情を変えることなく、こっちへ顔を向けもせず。何なんだこいつは、と一瞬腹が立ったが、すぐにそれは興味へと変わった。こんな奴、見たことない。ただの根暗というわけでもなさそうだし。特に根拠もなくそう感じた。
 それから何度か話しかけてみても、享の反応は相変わらずだったが、迷惑そうな素振りも見せなかった。気が付いたら、つるむようになっていた。
 享とは、中二でも同じクラスになった。二人とも帰宅部で暇を持て余し、両親の帰りの遅い俺の家でCDを聴いたり雑誌を見たりして、放課後を過ごしていた。
 そんなある日、俺が何気なく
「バンドってやってみたいよなあ」
 と呟くと、享はいつものように「うん」と言った。またこいつは適当に答えてやがるな、と思ったが、その後に意外な言葉が続いた。
「俺、ギター持ってんねん」
「ほんま? 弾けるんか?」
「うん、ちょっとな」
 ちょっと、というのがどの程度か分からず気になって、弾いて聴かせてくれと頼み、翌日享の家へ行った。
 お年玉で買ったというから、安物かと思っていたのに、ギターケースから出て来たのは、眩しい水色のストラトキャスターだった。一体お年玉何年分だ、と聞こうとしたら、それを遮るかのように享は和音をかき鳴らした。そして、呆気に取られる俺を、ベンチャーズの「PIPELINE」のフレーズで仰天させた。ちょっと弾ける、どころではない。
「いつの間に」
 と言うのが精一杯だった。
「六年の時買ってん」
「え? じゃあ、ずっと前から弾けたんや?」
「うん」
「なんで言ってくれへんねん!」
 思わず遼の肩を両手でつかんで揺さぶった。
 そう、いつでも何でも、享はなかなか話さなかった。
 享がギターを弾ける、と俺が学校で喋ると、たちまち「バンドやろうぜ」と声をかけてくる奴が出てきて、享はまた「うん」と答えて話が決まった。取り残されないように俺も入り込み、余っていたパートのベースをやることになった。ベースを買う金がないと言えば、享は返済期限を決めずに貸してくれた。
 なんとかメンバーが揃って、享以外はまだろくに演奏出来なかったが、一丁前にバンド名だけは決めた。手元にあった消しゴムのスリーブに書いてあったから、ただそれだけの理由で“ERASER”になった。
 文化祭に出ることを目指し、キーボードの奴の母親が経営するダンスホールを営業時間外に使わせて貰って、練習を重ねた。曲なんて何でもいいと思っていたから、一番威張っていたドラムの奴の言いなりで、「これ」と渡されたスコアを見て、ひたすら弾いた。
 享はあっさり曲をマスターして、その後は俺の練習を見てくれた。音感も良く、しょっちゅう俺のベースのチューニングをしてくれた。
 そんなこんなで俺もなんとか一通り弾けるようになり、中二の秋、文化祭のステージに初めて立った。俺は緊張して、曲と曲の合間に掌の汗を何度もズボンで拭いたが、享はそんな素振りを全く見せなかった。演奏も、多分、完璧だった。
 終わってから、
「お前、緊張せえへんかったんか?」
 と聞くと、
「いいや」
 と返ってきた。本当のところはどうなのか、俺には分からない。

 中三の秋、文化祭でのステージを最後に、ERASERは解散した。受験が終わればまた活動したいという俺の意見に享は頷いてくれたが、他の奴は無理だと言った。進学する高校が違っては集まり難い、という理由だった。
 ならば俺は、享とバンドをやるために、享と同じ高校へ行こう、そう決意した。
 ……決意だけなら簡単だ。どこを受けるのかと享に聞いたら、S大付属のK高、という答えが返ってきた。軽音楽部の活動が結構盛んなのだと言う。
 そんなレベルの高いところ、俺の学力では受けさせても貰えない。と言おうとした時、享は無言で俺の目を見た。
「俺も、受けようかな」
 気が付いたら、そう口走っていた。
 それまで俺の家で音楽談義に充てていた夕方は、勉強時間になった。問題集を買って来て、片っ端からやっていった。分からないものは、享に聞けばすぐに解決した。少しずつ目の前の霧が晴れていくような爽快感すら覚えた。
 K高なんて、塾にでも行かなければ絶対無理、と家族を含めた周りの誰もが言っていたが、みんなの予想に反して俺の成績はすぐ上がり、最後の三者面談で担任からK高受験のゴーサインが出た。
 入試直前になると、うちでほとんど合宿状態だった。二、三回、享のお母さんが様子を見に来たこともあった。こっそりバンドの練習でもしているかと思ったのだろう。が、俺らはいつも勉強していたので、いなり寿司やら何やら置いて、お母さんはあっさり帰って行った。
 何度か夜遅くに妹の絵里が夜食を運んでくれたことがある。熱いココアが一番有難かった。
「頑張ってね」
 とだけ言ってそそくさと出て行く絵里をぼんやり眺め、かわいい奴め、なんて思っていた。
 猛勉強の甲斐あって、俺はK高に合格した。もちろん、享も。二人で喜んだ筈なのに、何故かその辺の記憶があまりない。
 いや、一つだけ思い出した。合格を祝して、俺の家でこっそり缶ビールで乾杯して、見付かるとヤバいとか言って、空き缶をわざわざ公園まで捨てに行ったのだった。そのビールはどこから持って来たんだったか?
 専願で受かった俺らは、卒業式までの一か月間、遊び回っていた。と言っても、金はないから、ひたすら楽器屋やレコード屋を見て歩いていただけだが。
 学校でも同じような調子だった。授業中にスコアブックを読んでいて先生に見付かり、それで叩かれた上に、没収された。頭の天辺に本の角が当たって、あまりの痛さに頭を抱えて足をじたばたさせていたら、隣の席の白井由紀子に笑われた。悪い気はしなかった。クラスで一番かわいいと密かに思っている子だったから。
 卒業式の朝、俺は前髪を流してハードのスプレーで固めるのに手間取った。学校に着いた時には、既にみんな校庭に集合していた。ダッシュで三階の教室まで行って、窓際の一番後ろの席に鞄を放り投げた瞬間、机の上に薄いピンク色の小さい紙があるのが見えた。それはカバンによって舞い上がって、もう少しで掃除用具入れと壁の隙間に入り込むところだった。危ない危ない、と拾い上げ、開いてみる。

  式のあとで、焼却ろのとこへ来てください。 Yukiko.S

 バンドばかりだった俺に、春が来た! と浮かれた俺は、その紙をポケットに突っ込んでまたダッシュで運動場へ出た……までは良かった。
「何やその前髪は! スプレーは禁止やろうが!」
 と担任に怒鳴られ、更に学ランのカラーを外していたのもとがめられ、首根っこをつかまれて前髪をぐしゃぐしゃにされた。笑いに混ざって「だっさー」「調子乗っとん」という声が聞こえてきた。白井由紀子も、列の少し前で笑っていたが、担任が俺の傍から離れて行くと歩み寄って来て、笑いを堪えながら小さな声で言った。
「前髪、フケみたいになってるよ」
「え? ……うわ、やっべ!」
 俺は慌てて手洗い場へ走って、頭を洗った。水が冷たくて凍えそうだった。が、体育館までまた走ったら暑くなって、ちょうど良かった。式の間中ずっと、由紀子に笑われたことが気になっていた。もう嫌われたかな、と思いながら、式の後で焼却炉の所へ行ったら、由紀子が居た。そこで告白されたのだが、何と言われたかは忘れてしまった。ただ、その後で言われたことに引っかかったのだけは覚えている。
「私、中里君って苦手やねん。なんか怖いっていうか」
 何故そんな話になったのだろう?

 享と俺は、K高校で軽音楽部に入った。同学年の二人とバンドを組んだ。中学時代に吹奏楽部でドラム経験者の新保、もう一人はバンド自体は未経験のボーカル希望の相川。パートが被らずちょうど良かった。バンド名について相談したが、なかなか案が出ないので、イラついた俺は、
「もう、『ERASER』でいいか?」
 と言った。享は腕組みをして無言で頷いた。少し遅れて、新保も相川も頷いた。
 こんな感じで、中学の頃はドラムの奴の言いなりだった俺が、高校では仕切る側になった。
 世の中はバンドブームの真っ只中で、邦楽のコピーをする奴がうじゃうじゃ居た。それに混ざってしまうのが嫌で、俺は「洋楽をやろう」と言った。クラッシュの「LONDON CALLING」に始まり、とにかく色んな曲をコピーした。相川は小さい頃にアメリカに住んでいたことがあるらしく、英語の発音が完璧だったので、何を歌っても様になった。
 九月に行われる文化祭ライブの為に選んだ曲の中で、一番大変だったのが、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「STONE COLD BUSH」だった。ベースソロのある曲だ。夏休みの間は、ガソリンスタンドでのバイトと、この曲のチョッパーの練習しかしていなかったような気がする。
 由紀子とは卒業式の時から付き合っていた……と言っても、学校も違うので、なかなか会う機会もなかった。電話の向こうで「どうしても会いたい」と言うから、「スタジオで練習があるから無理」と断っても、「じゃあスタジオへ付いて行く」と言って聞かず、夏休み中に一回、仕方なく連れて行った。
 由紀子は、曲を聴いて、一言
「凄いなあ」
 と呟いた。
 みんなと別れてから、由紀子を家まで送って行く時、由紀子は暗い道で言った。
「尚矢が一番かっこいいよ」
「おう。決まってるやんけ」
 由紀子は笑っていた。楽しそうだった。
「中里君って、挨拶しても無視しやんねん。感じ悪いわー」
「あいつ、別に悪い奴ちゃうねんで。普段女と喋ったりせえへんから、照れてんねやろ」
「……時々思うねんけど、『男子校で、毎日ずっと一緒で、尚矢と中里君、デキてたりしたらどうしよう』って」
「阿呆か!」
 笑いながらそんな会話をした。
 由紀子は洋楽のことはよく分からないらしかったが、「文化祭のライブは必ず見に行く」と約束した。
 文化祭当日、高校の友達の女の子三人を連れて、由紀子は来た。俺は最後の曲の途中で調子に乗ってマイクスタンドを蹴り飛ばして、相川の足にブチ当ててしまい、相川が「いでっ!」と叫んだ声が視聴覚室中に響いて、笑いが起こってしまった。せっかく演奏は完璧だったのに……と、かなり落ち込んだ俺は、打ち上げで行った居酒屋で、チューハイをがんがん飲んでしまった。
「K高校軽音楽部御一行様、って書いてあんぞ! ヤバいやろ! 誰やねん、予約した奴!」
 とみんなで爆笑したこと以外、何も覚えていない。時が経って忘れたのではない。記憶が全くないのだ。目が覚めたら、そこは、享の家の居間だった。
「あれ? 俺……昨日、どうしたっけ……」
 居間とひと続きになっている台所で麦茶を飲んでいる享に聞いてみると、享は、呆れた顔で俺をじーっと見たまま、語った。酔っ払った俺は、由紀子の友達らに抱き付いて、「お前らみんな俺の女やぞー」と喚いて、怒った由紀子は俺に平手打ちを食らわして店を飛び出し、それを享が捕まえて連れ戻し、謝るよう俺に言ったのだが、俺は土下座の体勢のままで眠ってしまった、らしい。
「で、由紀子は……?」
「お前の横っ腹に蹴り入れて、帰った」
「……どうしよう」
 享はもう何も言わなかった。じっとしていてもしょうがない、と俺は立ち上がった。電話を借りて由紀子の家にかけてみたが、留守電だった。それでもしつこくかけていたら、享の声がした。
「今日月曜やで」
 そう、文化祭の代休なのは俺らだけなのだった。それならば、と今度は玄関へと向かった。反省の意味を込めて、顎の下辺りまで伸ばしっ放しにしていた髪をばっさり切ってしまおうと思ったのだ。靴を片方履いたところで、また享の声がする。
「どこ行くねん」
「散髪屋!」
「だから、今日月曜や言うてるやろ」
「あー、休みか……」
 俺は玄関にへたり込んで頭を抱えた。自分が世界一阿呆でどうしようもない奴に思えてきた。そんな時、享は言った。
「俺がやったろか」
「はあ?」
 中里家には散髪セット一式があって、享はそれで妹の髪の毛を何回も切ってやったことがある、と言うのだ。こうなったらもう何でもいい、と投げ遣りになった俺は、享に促されるまま庭へ降りた。バリカンで丸坊主にされるものと思ったが、そんなことはなく、享は器用にハサミも使った。出来たと言われて鏡を見ると、上の方と前髪が少し残してある角刈りのような頭になっていた。
「お前って、ほんまに何でも出来るよなあ……有難うな!」
「いや……」
 そう、享は何でも出来る格好いい奴。ただの調子乗りの間抜けな俺とは大違い。俺に土下座させた時なんて、絶対格好良過ぎだったに違いない。
 その日の夜、由紀子の家へ電話もせずいきなり行った。玄関の扉を開けた由紀子は、まず俺の史上最短の髪の毛を見て絶句した。怒りの言葉が発せられる前に、背中に隠していた薔薇を強引に押し付け、その場で土下座したら、あっさり許してくれた。女は単純だ、と思った。
 そして、油断した。
 十二月に入ると、ERASERはオリジナル曲作りに取りかかった。俺の家や、時には享の家で、みんなで集まることが多くなり、由紀子をほったらかしにした。
 二十三日に、少し広めのスタジオを借りた。その年最後の練習……が半分、後はほとんど遊びだった。由紀子やその友達も呼んで、大勢で散々歌って騒いだのに、それだけではまだ足りず、その後で更にカラオケにまで行った。酒は禁止、と俺に言っていた由紀子が、俺が曲を選んでいる最中に部屋の外へ出て、ピンク色の缶の何かを買って戻って来た。由紀子の手から奪ってそれを見たら、ピーチツリーフィズ、と書いてあった。
「ずるいぞお前! 俺には飲むなって言うといてなー!」
 隣で歌う相川のマイクが俺のその叫びを拾ってしまって、みんな耳を塞いだ。
「もー、あんたいちいち声でかいねん! あたしは酔わへんねんから別にええやろ!」
「俺だけ飲まんと居れ、ってか! んなもんやってられるか!」
「じゃあもう帰りいや!」
「おう、帰ったるわ!」
 みんなが唖然とする中、俺はスタジャンとベースを引っつかんで出て行った。由紀子が、でなければ享が、すぐにでも追って来るかと思ったのに、誰も追って来なかった。
 翌日のクリスマスイブには会う約束をしていたので、腹立たしく思いながらも一応待ち合わせの場所へ行ってみた。しかし、いくら待っても由紀子は来なかった。電話しても出なかった。そのまま一人で居たらどうにかなりそうな気がして、享の家に電話してみたが、居ないとお母さんに言われた。
「えっと……享、昨日、帰って来ました?」
「ううん、帰ってへんのよ。辻田君、一緒じゃなかったん?」
 やられた、と思った。もう由紀子は享のものだ、そう感じたのだ。
 大晦日の夜に、わざとらしく享に電話してみた。
「なあ、初詣行かへんか」
「え? あ、いや、ちょっと、出かけなあかんから」
 とか何とか言って切られた。それでも俺は諦めなかった。享の家は商店街で張り込めないから、由紀子の家の傍の大きな木の蔭に身を潜めた。夜更けに由紀子はそれまで見たことのない鮮やかな空色のコートを着て出て来た。気付かれないように少し距離を開けて尾行する。由紀子は地下鉄の駅の階段を降りて行った。そして、改札へと近付き、手を挙げる。その先に居た享が、俺を見付けて固まった。やがて由紀子が振り返る。
「何よ……つけて来てたん? 最悪」
「そうや。俺は最悪な奴や。なあ、享、こそこそすることなんかないから、由紀子と付き合ってるって言えや」
「……付き合ってる」
「うん、それが聞きたかっただけやねん、俺は。まあ、仲良くやってくれな。じゃあ、また、始業式に」
 何が言いたいのだろう俺は、と思いながら喋るだけ喋って、元来た道を引き返した。

 二年の時のクラスに、映画を作って文化祭で上映しようと考えている奴らが居て、色々話しているうちに、ERASERのプロモーションみたいなのを作ってみようか、という話になった。
 同じ頃、コンテストのエントリーを巡って先輩達ともめて、俺らERASERの四人は軽音楽部をやめた。コンテストなんかに出なくてもこっちはこっちで勝手にやってやる、という俺の短気に三人が付き合わされたような形だ。三人は映画作りにも賛同してくれた。
 それからは毎日のように打ち合わせをした。曲作りそっちのけで、筋があるようなないような、適当な台本を作った。俺が強引に享を主役にした。出演が男ばかりなのはおかしい気がして、一人女の子を出そう、という話になった。さすがに由紀子に頼むわけにもいかないので、中里家で相談している時にたまたま帰って来た享の妹に声をかけてみたが、
「嫌です」
 と一瞬で断られた。その日の晩飯の時、妹の絵里に映画に出ないかと言ってみたら、絵里は考え込みもせず
「いいよ」
 と答えた。あっさり決定だ。
 六月のある土曜日、いよいよ河川敷で撮影開始。準備が整っても、まだ絵里が来ていなかった。習字から帰ったらすぐ来ると言っていたのに……ときょろきょろしていたら、堤防の上に姿が見えた。
「絵里――! はよ来てくれ――!」
 と大声で呼ぶと、ほぼ全員が絵里を仰ぎ見た。兄の俺が言うのも何だが、絵里はアイドル並にかわいい自慢の妹だ。享に言わせると俺にそっくりらしかったが。確かに俺と絵里は似ていると思う。つまり、残念なことに、俺は女顔なのだ。そのことに気付かれて誰かに何か言われたら嫌だ、と思ったその時、堤防の下に享の妹と友達らしき女の子らが居てこちらを見ていることに気付いた。
「優ちゃん、見に来る暇があるんやったら出てくれたっていいのに」
「絶対嫌です、映画なんか。それに、中学生の役って言ってたじゃないですか」
「うん、優ちゃんなら十分中学生に見えるからな」
 言ってから、しまった、と思った。何故か俺はいつも一言多い。悪い癖だ。享の妹――優ちゃんは、むっとしていた。享とはあまり似ていなくて優しげで、俺らより一つ下なだけと思えない子供っぽい顔、それはそれでかわいいとは思うが、どちらかというと一緒に居る友達の方が好みだ。シノ、とかいう子だった。享の家で何回か顔を合わせたことがあった。身長が俺と変わらないくらいで、凛として気が強そうで、きっと俺のちゃらんぽらんさなんて許さないだろう、そんな子。の隣に、もう一人居た。優ちゃんと背格好は同じくらいで、童顔でもあるのだが、こっちは少年っぽい。この子はなしだ、と思った。一応名前を聞いておいた。スミエ、というらしい。
 その三人のことは気にせず、撮影を始めた。川の中に入ってフリスビーを投げるシーンからだ。
「いい加減に返せよ! お前がそんな物を持ってたって、意味ねえんだよ!」
 と俺が台詞を発すると、背後から笑い声が聞こえてきた。あの三人だ。中学生に見えるなんて言われたから、仕返しのつもりだろうか。
「ったく、分かったよ! 返せばいいんだろ! 返してやるよ、ほら!」
 享はそう言って、フリスビーを俺に向かって投げた――と思ったら、フリスビーは大きく左に逸れて、取ろうとした俺はすっ転んでびしょびしょになってしまった。そんなことはどうでも良かった。顔を上げて岸の方を見ると、絵里が両手で顔を覆ってうずくまっていた。その足元に、フリスビーが転がっている。
「おい、絵里! 大丈夫か!」
 そう叫んで、俺は走り出していた。絵里は顔を覆ったまま「痛い……」と泣くだけで、どこに当たったのかさっぱり分からない。とにかく医者へ連れて行こう、と絵里を負ぶってから振り返ると、享は少し離れたところで呆然と立っていた。
「おい、享! 一緒に来い!」
 俺は怒鳴った。享が、我に返って足を踏み出す。この時俺は、妙な優越感を覚えた。妹の顔に傷が残ったらどうしよう、と心配するより、享に貸しが出来た、と思ったのだ。
 そんな曲がった根性が、自分でも嫌になる。
 幸い、絵里の怪我は大したことなかった。額に傷も残らなかった。
 結局、台本を男だけの話に戻して、映画は夏休みに入るまでになんとか撮り終えた。
 夏休みに入ってすぐだったか、家で晩飯の時に、絵里が言った。
「映画、ちゃんと出来た?」
「え? ……ああ、うん。なんとかな」
 映画のことなんて思い出したくもないだろうと考えていたので、その質問は意外だった。
「文化祭のライブ、見に行きたい」
 その言葉にもびっくりした。絵里にロックを聴く趣味はない、そう思い込んでいたからだ。
「いいけど、凄い音でかいで? 大丈夫か?」
 顔を覗き込むようにして尋ねると、絵里は笑った。
「私、もう中二やで? 去年、うちの学校の文化祭でバンド演奏見たし」
 そう、いつまでも小さな子供ではなかったのだ。現に、あのフリスビーの時に、相川が「辻田の妹、綺麗やなあ」と言っていたのだ。かわいい、ではなく、綺麗、と。
 軽音楽部と決別しての文化祭ライブ、何かトラブルが発生するかも知れない、と不安だったが、何事もなく当日を迎えた。
 映画の上映も合わせて、準備は万端だった。そして、本番、映画は少しみんなに笑われていたが、演奏の方はコピーもオリジナル曲も完璧だった。もう俺は変なことはしないぞ、と心に決めていたから、あまり動かないでおいたら、最後に「今年はマイクスタンド蹴れへんのかー」と野次が飛ばした奴が居て、引っ込む直前に思わず指差して「うるさいわ!」と叫んでしまった。すると、そいつが何か投げて来て、相川の頭に当たった。それは何故かチロルチョコだった。
「危ないやろ、こら!」
 拾って投げ返してやろうとしたが、新保と享に押さえ付けられて、そのまま視聴覚室から引っ張り出され、廊下の端っこまで連れて行かれた。相川も後から走って来て、
「もう、やめとけよ、絵里ちゃんも見てんのに」
 と言った。そう言えば、俺は演奏中に絵里を見付けられなかった。
「え? どこ居った?」
「……真ん中ら辺」
 そう言って、相川は俯いた。
「相川、ここでこいつ見張っててくれな。今戻らしたらややこしいから、俺らだけで片付けて来る」
 新保と享は視聴覚室へ戻って行った。戸が閉まるのを見届けてから、俺は相川に尋ねた。
「なあ、お前、ひょっとして、絵里のこと、好きか?」
 相川は黙ったままで顔を赤くした。
「あいつまだ中二やで。子供や子供。付き合うとかは、まだ早いやろ。後で打ち上げに連れて行くから、今は話するだけしとけ」
 俺は強引にまとめてしまった。相川は心配そうに俺を見た。
「酒飲むなよ」
 絵里が困るから、と言いたいのだろう。分かった分かった、と適当に返事して、俺は立ち上がった。そして、何気なく螺旋階段の方に目をやり、絵里が降りて行こうとしているのを見付けた。
「お――い! 絵里! こっち来――い!」
 そこら中の人間がみんなこっちを向いた。絵里は、一瞬嫌な顔をして見せた。そうだ、俺はいちいち声が大きいのだった。由紀子のことを思い出した。享を見に、来ていたのだろうか。怒鳴っている俺を見て、相変わらず阿呆だと思っただろうか。
 その日の打ち上げでは、さすがに酒は飲まなかった。絵里と一緒に帰らないといけなかったからだ。部ではなく映画メンバーとERASERとその周辺の人間だけで、居酒屋を予約してもいなかったので、適当にピザ屋に入って飲み食いした。長い椅子の一番端っこに絵里を、その右隣に相川を座らせて、左隣に俺が座った。
「中学生の女の子なんか居ったら、エロ話とか出来へんやんけ、なあ」
「こうやって改めて見たら、やっぱりそっくりやな」
「ま、性格は似てへんよな。絵里ちゃん、やっけ? 大人しそうやし」
「なあ、俺な、前々から思っててんけど、辻田って女やったら結構かわいいんちゃう?」
「げー、嫌や、こんな声でかくて喧嘩っ早い女!」
 連中は好き勝手なことを喋っていた。相川は、絵里にジュースを注いでやったりして、色々世話を焼いていた。絵里は、その度にぺこぺこ頭を下げていた。相川なら安心だ、と俺は思った……何が?
 絵里は時々顔を上げて、店の出入口の方を見ていた。帰りたいのだろうか、しかしそんなにすぐ帰るわけにもいかないし、と思って、店に入って一時間くらいしてから。
「もうそろそろ帰るか?」
 と言うと、絵里は驚いた顔で俺を見たので、こっちも驚いた。
「うん……」
 寂しげな顔を見て、相川のことを気に入ったのかも知れない、と考えた。そこが俺の浅はかなところだ。ならば、出入口の方を見ていたのは何だ? 帰る間際、絵里は享に微笑みかけていた……と何故今になって思うのだろう。捻じ曲がった記憶かも知れない。
 とにかく文化祭の終わりはその年こそ平和だった。
 その後は、新保のバイト先の先輩のコネでN市のライブハウスのイベントに出して貰ったり、そこのスタジオで本格的にデモテープを録ったり、バンド活動は充実していった。

 高三の春には、O公園の野外イベントのステージにも立てた。終わってから、近くまで来て見てくれた人達にはもちろん、そこら辺で遠巻きに見ていた人にもデモテープを配って回った。
「お姉さんお姉さん! デモテープ貰って下さい! またここでもやると思うんで、良かったら来て下さいね!」
 俺はここで営業スマイルを身に付けた。そんな俺を見て、相川は「ようやるわ」と呆れ、新保は「男にも配れよ!」と怒った。享は、俯き加減でぼそぼそ呟くように喋りながら配っていた。見ていてイラついてきたので、
「もっとはっきり喋れよおおお!」
 とタックルをかますと、女の子らがげらげら笑った。
(あかん、なんか俺、お笑い担当みたいになってきてる?)
 その予感は現実のものとなった。イベントの後のアンケート用紙に、「ナオヤのMCおもろかったです」とか「ナオヤ君今日のギャグさむかった」とか、そんなことばかり書かれるようになったのだ。俺のベースを聴け! とばかりに久々にソロを入れても、もう遅かった。
 その一方で、享はというと、演奏の面でもビジュアルの面でも、評価は日に日に上がっていき、追っかけみたいなのまで現れた。その群れの中に俺が割って入って行ってべらべら喋って、女の子らに「なんでやねん!」とつっこみを入れられている間に、享が横っちょから抜け出して帰る、なんていうことをよくやった。仕方がない、と俺は諦めた。技術も、見た目も、享には遠く及ばないのだから。そんな風に確信したのは、夏休みに曲を作った時だ。ERASERと言えばこれ、と言われるような、勢いがあってシンプルな曲が出来た。が、なんとなくタイトルには凝りたかった。相川が適当に付けた仮タイトル「呪縛」では、面白くない気がした。
「アンコールとかでもやりたいし、『THE LAST MOMENT』とかどう?」
 俺が提案すると、相川は
「歌詞に“呪縛”って何回も入れたのに、タイトルから消すん?」
 と不満そうに言った。
「一番は“呪縛”やけど、二番は“幻想”やろ。入れるんやったらどっちも入れなバランス悪いけど、そんなん両方入れてもださいし、ならどっちも消した方がましやん」
 俺が意見を言った後で生まれた沈黙を、享が破った。
「分かった。“呪縛”はタイトルに入れて、“幻想”は、俺がソロで『幻想即興曲』のフレーズを入れることにする」
「は? 『幻想即興曲』? 何それ」
 俺には何のことか分からなかった。相川が手を一回叩いて言った。
「それええわ! ……ショパンの曲やで。知らん?」
 馬鹿にされたような気になった。
「そんなもん入れても分からんやん。知らんもん、そんな曲」
 そう文句を言うと、享は反論もせずにギターを弾き始めた……「幻想即興曲」のフレーズだった。聴いたことがある。が、いつの間にこんなものを練習していたのだ?
「すげー!」
 新保が声を挙げた。俺はただ呆気に取られていた。もう反論する理由もない。
 タイトルは、一応俺の案と混ぜて「THE LAST MOMENT OF 呪縛」にして、“呪縛”も後で英語にするつもりだったが、辞書を引いてみるとゴロが悪かったので、結局そのままで落ち着いた。
 「THE LAST MOMENT OF 呪縛」は、九月の文化祭ライブで初披露となった。享の“幻想即興曲ソロ”は、高校最後のライブにふさわしい完璧さだった。その年は、もう俺はソロも入れずに地味に終えた。でも、最後の最後に阿呆なことがしたくて、享の手からピックを奪って客席に投げた。笑いが起こる。「誰のん投げてんねーん」という声もする。「俺投げるもんないねーん」と返事し、ステージを後にした。
 その年は絵里も受験を控えているため来なかったし、打ち上げでは今後の展開について話し合おう、ということになっていたから、メンバーだけでファミレスへ行った。その時、もう俺はプロ気分だった。いや、享とやっていればプロになれるような気がしていた。享ほどではないにしても、俺もそこそこ弾けるから、享だけメジャーに引っ張られることもないだろう、と思っていた。実際、ERASERのバンド全体の評判もかなり上がっていて、その日の客には校外の人間も多く混ざっていたのだ。
 しかし、打ち上げの場で、相川は言った。
「じゃあ、今日をもって、一旦活動休止っていうことで」
「何?」
 俺はまた大声を出して、そこらの客が一斉にこっちを向いた。
「何、って何?」
 新保は目を丸くして言う。
「もう高三の二学期やで? 部やったら引退やで?」
「俺ら、部ちゃうやん。……あれ? お前、S大内部推薦のつもりちゃうんか?」
 立ち上がって新保を指差す俺を、享が制し、冷静に言う。
「おい、尚矢。俺ら、今の調子じゃ内部推薦なんか無理やって、前言われたやろ」
「おう。俺そんなん関係ないし。大学行く気ないから。え? そのつもりちゃうかったんか?」
「俺は大学受ける」
「はあ?」
 なんて驚いてみたが、結論こそはっきり聞いてはいなかったものの、実は分かっていた。享は大学を受ける受けないで親としょっちゅう喧嘩になっていると言っていたから。いや、享が自分からそう喋ったのではなく、俺が聞き出したのだ。あの、いつも無表情で口数も少ない享の、微妙な変化に気付くのは、俺だけだと思っていた。
「バンドやめるっていうわけじゃないんやから、落ち着けって」
 享は俺を座らせようと腕を引っ張りながらそう言った。そして、これは打ち上げの時ではなく、帰りに地下鉄の改札で別れる直前だったと思うが、
「俺は、受験はするけどギターを休むつもりはない。二人で練習は続けて、路上ででもやろう」
 享は言った。そうか、その手があったか、と思った。
 それから暫くは、放課後享が俺の家に来て路上ライブの打ち合わせをした。塾から帰った絵里は、俺らを居間に見付けると、ほとんど無視して部屋へ引き上げて行った。帰りの遅い両親の代わりに俺が作った晩飯を、享も一緒に何度か食べても、絵里は口を利かなかった。
 それなのに、練習しに行った文化センターに入る間際、視線を感じて振り返った時、一瞬歩道橋の上に絵里が見えたような気がした。まさか、と思ったが、いよいよ駅前での路上ライブをやることになった十一月のある日、機材を準備している時視界に入った、改札の傍に佇む絵里っぽい人影は……本当に絵里だった。
「何してんねん? 塾は?」
 と俺が聞くと、絵里は何も言わずに首を横に振った。それでは、休みなのか、サボったのか、分からない。それよりもまず、何故俺らがその時そこでやると知ったのか、不思議に思った。が、俺は何も聞かなかった。聞いたって、まともな答えが返ってくるとも思えなかったのだ。絵里が何を考えているのか、分からなくなってきていたから。
 機材の傍で聴いていた絵里は、ライブの途中で離れて行って、誰かと喋っていた。享の妹の優ちゃんと、その友達のシノちゃんとスミエちゃんだった。その三人こそ何故見に来たのだ? と思った。妹というものは、普段よそよそしくしていても、実際は兄の活動が気になるのかも知れん、とか何とか思いながら、慣れないアコギをたどたどしく弾いていた俺は……本当に間抜けだ。

 一月に入ると、享もさすがにライブどころではなくなって、家に来なくなった。俺は暇になって、バイトの日を増やそうかと思ったが、店長に断られ、ぶらぶらしていてもしょうがないので教習所に通って、車の免許を取った。
 享と新保が私大に合格しても、相川が国立の後期を受けるというのでまだ練習を再開出来なかった。享はその間に教習所に通った。俺は一人でぶらぶらしていて、スコアブックを買いに入った本屋で聞いたこともない大学の二次募集の願書を見付けて、何となくノリでそれを買って、出して、受けてみたら、法学部に合格してしまった。相川も国立の法学部に合格した。
 それとなく享に聞いてみたら、由紀子は東京の大学に行くことになった、とのことだった。遠距離恋愛なんてこいつには無理だな、俺はそう思った。別に、不幸になれと願っていたわけではない。
 とにかく全員なんとか受験を乗り越えられて良かった、心からそう思った。ばらばらの大学に通う俺らだったが、新保が実家を出て大学の前のあけぼの荘というボロアパートに住んでそこをミーティングの場兼機材置き場にして、たびたびそこに集まるようになり、結束が固まった気がしていた。
 四月の半ば頃、もう一人メンバーを増やそうという話になった。ギターか、キーボードで。スタジオやレコード屋にメンバー募集のチラシを貼らせて貰う一方で、俺は大学で同じゼミに居た笹口を誘ってみた。キーボードを持っていて、もう五年くらい一人で弾いて遊んでいると言っていたので。笹口は何故か困惑していた。一度家へ呼んでみて、享と会わせてみた。これは合わんな、とすぐに思った。こいつら二人とも、お互いに無理だと思っているはず、とも察したが、そんなことを確認してはみなかった。バンドになんて入らなくても笹口は一人で宅録でもして十分楽しんでいけそうだった。
 そうこうするうちに、スタジオ経由で連絡してきた神路の加入が決まった。ツインギターという形態になって、それから暫くは曲の作り変えに明け暮れ、六月になってやっとO公園での野外ライブを再開出来た。固定客がついてきたので、録ったデモテープを今度は売ってみた。するとこれが百本完売。九月にはライブハウスFでの初ライブに漕ぎ付けた。
 上手くいった、何もかも――バンド活動に関しては。
 練習とバイトに明け暮れ、大学に合格した時点では適当にサボってればいいやと思っていたのに通い始めるとそういうわけにもいかなくなって、結局ゼミでの発表なんかに力を入れてしまって、そんな毎日にだんだん疲れてきた。
 それでも、せっかくファンも付き出したところで手を抜きたくはなかったので、ライブでは全力を出した。が、それがまた空回りするのだ。「たまには目立たしてくれ」と言ってアンコールに「STONE COLD BUSH」のコピーをやって、ソロの尺を間違えて大混乱に陥った時には、もう立ち直れないかと思った。ファンが励ましてくれでもしたら良いのだが、俺の場合、ただ笑われるだけで終わってしまう。個人的に慰めてくれる彼女も居ないし、と、俺は寂しい思いをしていながら、打ち上げに絵里を連れて行って、相川から告白させたりして、人の世話を焼いていた。
 そんな俺の気も知らずに、相川は絵里の好みの服とか食べ物とかについて、会うたび色々聞いてくる。付き合い出したのだから自分で聞け! と密かに俺はいらいらしていた。
 こんな具合で、その頃は享よりも相川との方がよく話をしていた。
 享の大学は、俺の大学よりも更に遠くて、初めからサボりがちで、あけぼの荘に入り浸って過ごすことがよくあったようだ。ということは、新保とダベっているのだろう、と思っていた。俺が夕方部屋に着いた時には、新保は居らず、享が一人、ということも何度かあったが。
 十二月には、ライブハウスFでの初ワンマンが決まった。チケット数は二百で、手売りでほとんど捌けた。三枚手元に残して、優ちゃんの友達のシノちゃんでも招待しようかと企んでいたら、背の低い方の友達の友達という子からチケットを回して欲しいと頼まれて、せっかくファンだと言ってくれているのだし、と思って、売った。その子達は優ちゃん達とは系統が違って、コギャルっぽかったが、結構かわいかった。俺が何か喋るといちいちわーわーきゃーきゃー騒いでいたが、よくよく話を聞くと三人とも享のファンらしかった。正直、面白くない。
 ライブ前日、リハのためにFへ向かう時、機材は新保の車に積んで、俺と享は原チャリで向かった。俺が前を走っていた。妙に左に寄っているバンが居て、危ないなあ、と思いながらよけて追い越した。その直後、変な音がした……後ろを走っていた享が、バンと接触してこけたのだ。
 享は、幸いそれほど速度を出しておらず、ぶつかってつっこんだ先の低木がクッションになったのか、奇跡的に骨折はしていなかった。しかし、枝で右腕を深く切っていて、何針か縫った。
 運ばれた病院で怪我の処置が終わった頃には、俺からの連絡で飛んで来た享のお母さんと優ちゃんも居た。それなのに、俺は思わず言ってしまった。
「明日、ライブどうすんねん」
 お母さんと優ちゃんは、とがめるような目で同時に俺を見た。
(享の怪我の心配よりライブの心配か、それでも友達か、って思われたか……でもな、待ってくれよ。俺がこかしたんちゃうし。享がこけたんが悪いんやんけ。なんでよりによってこんな時にこけるかな。念願の、初ワンマンやねんぞ?)
 心の中でしか文句を言えなかった。絶句している二人をよそに、俺は言葉を続けた。
「中止っていうのは無理やから、神路がカバー出来る曲に変えるか、とか相談せなあかんねんから、弾けるかどうかちょっとギター持って来て……」
「酷い人なんですね、辻田さんって」
 優ちゃんが小さい声で言った。
 酷い人?
 ヒドイヒト?
 俺が?
 そんな風に言い切られたのは初めてだった。喧嘩っ早くて声がでかくておっちょこちょいな奴だと思われている自覚はあったが、そんな人でなしみたいに言われたことはないはずだった。いや、由紀子は酔っ払った俺に向かってそんな言葉を浴びせたかも知れない。なんて考えていると、何も言えなくなった。
 その後全員で相談の末、享のギターソロを減らしたり、出来る限り神路が享のパートを弾いたりすることで、ライブは敢行。無事終了したが、やはり色々とごまかしたせいで、不完全燃焼だった。
 享は、打ち上げにも行かず、いつの間にかさっさと帰ってしまった。
「痛いんやろ、今日はしゃあないわ」
 と言う相川ののんびりした口調が癪に障って、でももう何て言ったらいいのか分からなかったので、打ち上げの途中で黙って帰ってやった。俺も、享みたいに、黙っていたら誰かが察してくれて、たまに何か提案したらインパクトがあるものだから持てはやされる、そんな生き方をしてみたいぞ、と考えながら家にたどり着いた――時、玄関に絵里のローファーがなかった。家のどこにも居ない。帰った形跡もない。何考えてるか分からん奴だらけだ、その時はその程度にしか思わなかった。
 その後は、学年末のテストを控えて、ERASERの活動をセーブすることにした。
 それでも、以前のように、あけぼの荘に行こうと思えば行けたのだが、事故以来気まずくなった俺は、あまり出向かなくなっていった。享だけでなく、新保や相川にも顔を合わす回数が減り、相川と絵里がどうなっているのか尋ねることもなくなった。絵里の方はというと、頻繁に家を空けるようになった。時々、家に帰らない夜もあった。相川と会っているのだろうか、と聞くことはおろか、考えるのも面倒だった。
 こんなままでいいのか? 悶々とするばかりの毎日が、過ぎていく。

 テストが終わってからもだらだらと過ごしていてもしょうがない、春にまたFでやるライブの打ち合わせのためだ、と自分に言い聞かせて、俺はあけぼの荘へ足を運ぶようになった。
 享、新保、神路の三人はよく集まったが、今度は相川があまり顔を見せなくなっていった。相変わらず絵里はよく出かけていたので、てっきり相川と会っているとばかり思い、
「おい、お前、デートばっかりしてんと来いよ」
 と電話してみた。
「いや、そういうわけじゃないんやけど……」
 返事ははっきりせず、よく分からない。ある朝、家を出ようとしている絵里に思い切って聞いてみた。
「なあ、最近、相川と会ってるか?」
 絵里は、不快感を顕にした顔で俺を見るだけで、何も言わない。
「いや、別に干渉したいんちゃうねん、相川が最近あんまり顔見せへんから、ちょっと困ってて」
「お兄ちゃんに関係ないやん」
 絵里は吐き捨てるように言って、出て行った。
 次の日、今日来なかったら家まで押しかけてやる、と考えながらあけぼの荘へ行くと、全員揃っていた。
「お、やっと来たか」
 絵里に言われでもしたのだろうか、と思った。やる気が湧いてくるのを感じながらコタツに入った俺を、四人がじっと見る。
「あ? 何や?」
「おい、相川」
 新保に促されて、相川が口を開く。
「実は……俺、司法試験受けようと思って。だから、バンドはもう続けられへん」
「は?」
 俺は一応驚いたが、そんな予感が全くないことはなかった。国立大の法学部を受けると聞いた時点で、そんなこともあるかも知れないとは思っていた。だからこそ、路上でのアコースティックライブでは享と二人で歌った。ギターをツインにしたから、相川が抜けた後はすぐ俺と享とで弾きながら歌う形態に移行出来るはずだった。そして、俺が腕組みをして黙っていても、勝手に話はそういう風に進んだ。みんなが五人での最終ライブについて具体的に話し合う間、俺は、相川と絵里の今後について考えていた。相川は司法試験にもあっさり通るだろう、そうして弁護士にでもなれば、絵里は弁護士夫人か。その時まだ付き合っているかどうかも分からないのに、妄想していたのだ。
 が、不意に新保に肩をつかまれた。
「おい、聞いてんのか、辻田」
 驚いて顔を上げると、神路に大きな溜め息をつかれた。
「最近お前もやる気ないし、このままやっていってもあかんのちゃうか、って思ってやな」
「……え?」
 という俺の声は掠れた。血の気が引いていくような気がした。
「もう、Fのライブを最後にして、解散しよう」
 そう言ったのは享だった。
「解散って、おい、ちょ……ま……待てよ、何やねんいきなり、俺、やる気ないことなんかないで」
 慌てる俺に、相川はいつもの穏やかな口調で言った。
「ゼミの発表とかで結構頑張ってたんやろ? せっかく法学部なんやから、辻田も司法試験受ければいいのに」
「はは、何言うてんねん、俺んとこなんてそんなもん受ける奴居らんって! ……そんな話してる場合ちゃう、今はバンドや! せっかくここまで来たのに、やめるなんてもったいないやろ!」
 俺がいくらやる気を示しても、もう誰もそれに乗ってはこなかった。
 そう、ERASERは、俺が仕切っていないとダメなバンドだったのだ。俺が、空回りするくらい張り切って、みんなをむりやり引っ張っていないといけなかったのだ。
 もう、諦めた。
 終わりだ。
 ERASERは、五月十三日の金曜日が、解散ライブになった。涙でも込み上げてくるかと思っていたが、そんな感傷的な気持ちには全くならなかった。俺は。本編のラストの曲で、相川が声を詰まらせているのを見ても、泣いてやがる、お前はアイドルか、なんて茶化してやりたいくらいだった。
 ところが、本当に本当のラスト、「THE LAST MOMENT OF 呪縛」の享の“幻想即興曲ソロ”の最中、突然、頭の中が真っ白になった。いや、真っ白というより、それは“無”だった。そこからの記憶が飛んでいる。目が覚めたら、そこは、あけぼの荘だった。
「俺……昨日、どうしたっけ……」
 こたつ机で麦茶を飲んでいる相川に聞いてみると、相川は目を見開いた。
「ほんまに、覚えてないん?」
「……おう」
「どこから?」
「……呪縛の、享のソロの辺りから」
「ほんまにほんま?」
「嘘ついたってしゃあないやろ!」
 かけてあったタオルケットを吹っ飛ばし、俺は四つん這いでばたばたと移動して、相川の首を絞めた。
「何してんねん、おい、こら!」
 どこからか部屋に戻って来た新保に、引き剥がされた。
「こいつ、俺が昨日どうしたかって聞いても、言いよれへんねん!」
「……ああー、ほんまに解散せなしゃあないって思うわ。俺が教えたる。お前な、享のソロのとこからむちゃくちゃ弾き始めたかと思たら、ダイブまでして、もう最後わけわからんことになってんからな。で、当の本人は失神するし。最後の最後ぐらい綺麗に締めたかったのに、お前に全部むちゃくちゃにされてもうて。俺ら一生呪うぞ」
 新保はそう一気にまくし立て、カバンを持ってまた出て行った。知らんぷりで荷物を片付けている相川に、聞いてみた。
「……享と神路は?」
「知らんよ。……じゃあ、俺、そろそろ司法試験の講座行かなあかんから、そろそろ……」
 相川は、私物を詰め込んだ大きなリュックを背負って、部屋を後にした。
 俺は一人、取り残された。
 初めて、涙が出た。

 それから暫く、俺は抜け殻のようになっていた。バイトにはなんとか行ったが、大学は一週間丸々サボった。夕方、居間で寝転がってぼんやりテレビを眺めているところへ帰って来た絵里は、汚いものでも見るような目で俺を見た。もう三か月くらいまともに話をしていなかったので、解散のことも告げてはいなかった。
「なあ、俺ら、バンド解散してんで」
 と言うと、「知ってる」と返ってきた。
「なんや、知ってたんや。そらそうやな、相川から聞くもんな」
 半分独り言のように呟き、またテレビの方を向いた。数秒後、もう部屋へ引っ込んだと思っていた絵里の声がした。
「相川さんとは、もう会ってないから」
「え?」
 俺は思わず起き上がった。
「司法試験の勉強するからもう付き合われへん、とか言われたんか?」
「……そんなんちゃうけど」
 絵里はそう言って、今度こそ居間から出て行った。それ以上、聞きようがない。聞いてもしょうがない。考えてもしょうがない。いつまでもだらだらしていてもしょうがない。俺は次の日から大学へ行った。
 休んでいた間のノートをそこらの人間に借りて、空いている三限の間に写すため図書館へ向かっている時、
「おーい、辻田やい」
 と、間の抜けた声で呼ばれた。一回生の時ゼミで一緒だった、笹口だ。その隣には、見覚えのある女の子が居る。誰だったか、俺としたことが少し考えた。そうだ、優ちゃんの友達だ。
「あれっ、スミエちゃん、ここやったん? 全然知らんかったわ」
「私も知りませんでしたよ」
 大学生になってもスミエちゃんは相変わらず少年っぽいな、と思いながら化粧っ気のない顔を見ていると、いきなり、
「今もバンドしてはるんですか」
 なんて聞かれて、心臓が止まりそうになった。河川敷で映画を撮ったことや、ワンマンにシノちゃんを招待しようと思ったこと、そんな記憶のカケラ達が一気に押し寄せてくる。
「いや……もう解散してん。なんか予定とか合わんようになってきたしな」
 出来るだけさらっと答えておいたのに、
「なんや、あんな力入れとったのに? もう一切活動なしかいな?」
 と、笹口が話を引っ張る。
「そうや。ちょっと資格の勉強でもしようかと思ってな」
 俺は適当に口から出まかせを言っておいてから、それも良いかも知れない、と思った。
 学食の入口に置いてあるパンフレットの棚を見てみる。法学部があると言っても、さすがに三流大学なだけあって、司法試験講座のパンフレットは見当たらなかった。公務員、行政書士、社労士、辺りのをいくつか取ってめくってみるうちに、俄然やる気が湧いてきた。勉強に没頭したら、バンド解散の虚しさなんて全部忘れてしまえる! と確信した俺は、その日のうちに早速資格試験予備校を見に行くことにした。
 駅から遠そうだったので、一旦家に帰って、原付に乗って行った。その予備校の入っている雑居ビルは見付け難く、あれか? と思いながら一度前を通り過ぎてしまった。ぐるっと回って、やっぱりこれか、もっとでかい看板でも出しとけよ、と文句を言いたくなった。ビルの一階はブティック、地下はバーで、それらの看板ばかり目立っているのだ。こんな駅から遠いところにあるバー、客は来るのか? と、何気なく階段の下を見ると、客らしき男女が出て来た。まだ八時前なのにもう帰るのか、変な奴ら、なんて思いながら男の方の顔をよく見ると……相川だった。隣に居るのは、髪の長い、知らない女。口紅の色がやたらと濃くて、タイトスカートで大人っぽく見せているが、顔付きを見る限りでは同年代。階段の真ん中辺りで相川は俺に気付いて、立ち止まった。
「おい! お前、何してんねん!」
「何、って……俺、ここの上の予備校に行ってて」
「そんなこと聞いてんちゃうわ! 絵里とはどうなったんや! そいつと付き合うようになって、捨てたんか!」
 俺の声は辺りに響き渡り、バーからもブティックからも誰かが顔を出してこっちを見た。相川は、階段を駆け上って来て、イチョウの木の際まで俺を押して行った。結構力があるのだとその時になって知った。
「いきなり変なこと言うなよ! 人のこと『そいつ』とか言って指差して、失礼やろ!」
 そんな風に怒る相川を見たのも、初めてだった。バンドで俺が何をしてもいつも穏やかだったのに。俺は圧倒されてしまった。
「すまん……で、絵里とは」
「まず言うとくけど、あの人は関係ない、ただ講座で一緒になっただけやから」
 相川はそう言ってちらっと女の方を見た。少し離れたところでおろおろしていた女は、「じゃ、私、これで」とか何とか言うと、小走りで駅の方へ向かって行った。
 無性に腹がへってきたので、隣にあるファミレスで晩飯を食べてから詳しい話を聞くことにした。
「で、何がどないなってんねん」
「……絵里ちゃんには、好きな人が居って……」
 と語り出した時には、すっかり俺の知っている相川に戻っていた。
「は? いつから?」
「ずっと前から」
「ずっと前っていつ」
「……もう、何年も前からや。……ほんまに何も分かってないんやな、辻田」
 相川は、憐れむような目で俺を見た。
「絵里ちゃんは、享が好きなんや。多分、初めから。享、中学の頃から辻田ん家遊びに行ってたんやろ? その頃から、ずっとな」
 俺は言葉を失う。俺らに夜食を持って来て「頑張ってね」と言っていた、小六の絵里の姿が浮かぶ。
「打ち上げの時も、絵里ちゃん、享の方ちらちら見てたし。でも、俺が『好きな奴居る?』って聞いても絵里ちゃんは『いいえ』って言うねん」
 何故、享が好きであるということを隠して、相川と付き合ったのだ?
「まだ分からん? 由紀子ちゃんやったっけ? あの子と享、付き合ってるんやろ?」
 そうだった、三年半前、高一のクリスマスの時から、享と由紀子は付き合っているのだった。
「由紀子ちゃんが東京行ってから、絵里ちゃんは享と二人でしょっちゅう会い出したんや。ほら、あの時……初ワンマンの時、享、終わってすぐ居らんようになったやろ」
 その前日の事故で切った腕が痛むから、さっさと帰ったのではなかったのか、享は。相川が、そう言っていたはずだ。
「俺、見てん。享が外出て、絵里ちゃんと一緒に帰んの」
「は? なんでその時何も言わんねん? お前、俺にも『痛いんやからしゃあないわ』とか言うてたやんけ!」
「もう、落ち着けよ……っていうか、今更全部言わすなよ……享のこと好きって分かってて俺告白したのに、怒ったり出来るわけないやろ」
「じゃあ、由紀子はどうなんねん、由紀子は! 東京に居って何も分からん間に、二股されてんのか!」
「……俺がそんなとこまでどうこう言う筋合いないから知らんわ」
「享に直接聞くぞ」
「うん、そうして」
「他人事みたいに言うな! お前も一応、彼女取られたんやぞ! 一緒に来い!」
 まだメンバー全員合鍵を持ったままだということを思い出し、ファミレスから享のベルに「アケボノソウヘコイ」と入れてから、相川をむりやり後ろに乗せて原チャリを飛ばした。
 駐輪場に原チャリをねじ込んでごちゃごちゃやっている間に、相川が先に入った。「あ!」という声が聞こえて、何事かと慌てて入る。相川が部屋の外で立っている。何かを見て驚いている顔だ。何を? と思った瞬間、上半身裸にジーパンの享が相川を突き飛ばして外へ飛び出してきた。
「何やってんねんおま……うわっ!」
 俺も突き飛ばされた。享は、右手にTシャツらしき布を持っていた。そして、左手は、絵里の腕をつかんでいた。セーラーの横のファスナーを空けたままの絵里が、享に引っ張られて一緒に廊下を走って行く。
「待て! こら!」
 享と絵里は、出てすぐのところ、大学の塀沿いに止めていた車に乗って、大通りの方へ逃げた。俺は原チャリで追いかける……追い付くはずもない。国道との交差点まで、六百メートルほど走って、もう諦めた。
 俺はそのまま家へ帰った。
 その夜、絵里は帰って来なかった。

 居間で一瞬うとうとしただけで、ほとんど眠らないまま夜明けを迎えた。部屋の主である新保に聞けば何か分かるかも知れない、と思い、電話せずにいきなり行ってやった。
 が、部屋に居たのは相川一人だけだった。そう言えば、前日、何の報告もせずじまいだった。
「もう……昨日どうなってん……何か言いに戻って来るかと思って待ってたら寝てもうたわ」
「すまん……追い付かんかった」
「当たり前や」
 相川は呆れ返っている様子だった。
「新保は?」
「居らん。……そう言えば、こないだ、新しいバンドやるとか言ってたな。そろそろ合鍵返してくれって」
 俺はそんな話、聞いていない。何も知らないのは俺だけ。
 また相川は帰って行って、一人で取り残された。
 ごろんと寝転がり、天井の木目を見ていると、眠くなってきた。
 暑さに目を覚まして、時計を見るともう昼の一時だった。寝ている場合じゃない、と飛び起きて、家に帰るよりまず享の家へ向かった。お母さんに聞いてみると、享は朝帰って来て、車で大学へ行くのに優ちゃんとその友達二人を途中のボーリング場まで乗せてやると言っていた、とのことだった。その車にまさか絵里は乗せていないだろうから、一緒には居なかったのだな、と思った。
 じゃあ、絵里は今学校に居るのか、と考え、落ち着いて家に帰った俺は、卓袱台の真ん中に丸い物が乗っているのを見付けた。フリスビーだ。河川敷で、享が絵里の額にぶつけた、あの、白いフリスビー。何となく手に取って、裏返してみると、小さな字でこんなことが書いてあった。

  わたしは、このフリスビーの持ち主の人と、旅に出ます。
   恋をして淋しくて
   五月雨は緑色
   悲しくさせたよ 一人の午後は

 二十年くらい前に流行った「初恋」という曲の歌詞らしきものはともかくとして、“旅に出ます”という言葉に、愕然とした。
(旅って……駆け落ち? わざわざ朝これを起きに戻って来たんか……ひょっとしたら、見付け出して欲しいんかも知れん)
 そう思って、俺は立ち上がった。
 そろそろボーリング場から帰っただろうか、と中里家へ電話してみても、優ちゃんはまだ家に居なかった。
 スミエちゃんなら家に帰っているかも知れない、と思ったが、電話番号が分からない。そこで、サークルが一緒だという笹口にかけてみて、電話番号を聞いていても埒があかないので、スミエちゃんを自転車の荷台にでも乗せて連れて来てくれと頼んだ。
 それから、絵里の部屋を見に行った。何かなくなっていないか、調べるためだ。しかし、見ても分からない。日記でも書いているかも、と引き出しを開けようとしたが、鍵がかかっていた。タンスを開けてみたところで、元々どのくらい服が収まっていたか知らないので、何も分かりようがなかった。
 机の足元の紙袋の中身を見てみると、友達からの手紙らしきものだった。一つ、開いてみる。

  えりりんのカレシ、こないだO公園でライブやってるとこ見た!
  めちゃめちゃカッコいー! ギターすっごいうまいやん!
  で。ボーカルの人にも告白されたんやろ? モテモテやん??スゴいな♪
  いつもえりりん、お兄ちゃんのこと、いちいちうるさいとかあつくるしいとかゆってるけど、
  そんなかんじじゃないやん。やさしそうやし、カッコいいし!
  あんなお兄ちゃんにやったら、いろいろ言われてみたいわvv この、ゼイタクものっ!

 「ぱふぱふぱふぱふ」という音が近付いてきて、窓から外を見てみると、業務用の運搬自転車がこっちへ向かって走って来ていた。笹口だ。ちゃんと、スミエちゃんを後ろに乗せている。俺は慌てて外へ出た。そして、フリスビーを二人に見せた。
「わざわざすまん! これ……これ見てくれ! どういう意味やと思う?」
「どういう意味も何も、歌詞やろ」
「知ってんねん、これが『初恋』の歌詞の一部やっていうことは。でも順番が変やし、なんか暗号みたいや……ん? 恋、五月雨、悲しく……こ、さ、か。……そうか、分かったぞ! 小阪や! 小阪に居るんや!」
 その時になって、ひらめいた。あいつらの隠れる場所と言えば、神路の家しかない、と。
「まさか、そんなんちゃうやろ。頭文字で自分の行き先を知らせるなんて。それに、『旅に出ます』て書いてんのに、なんで小阪やねんな。ここから小阪までなんて、自転車でも行けるがな。そんなとこ行くのに、旅するやとか言うかい」
 と言う笹口の横で、スミエちゃんも頷いていた。
「バンドのもう一人のギターの奴が住んでんねん! そいつんとこへ転がり込むつもりなんや!」
 二人を外に残し、俺は家に駆け込んだ。神路に電話してみるが……出ない。
「辻田さん、もう私も笹口先輩も帰りますよ!」
 というスミエちゃんの間延びした声が聞こえる。
「頼むから待ってくれ! 一緒に探してくれよ!」
 次に、享の家に電話してみた。お姉さんが出た。享は居ないが優ちゃんは帰ったとのことなので、事情を簡単に説明して、すぐに来て下さい、と頼んだ。
 お姉さんは赤い軽でやって来た。後ろには優ちゃんも乗っている。俺はお姉さんと運転を交替し、笹口を助手席に、スミエちゃんを後ろに座らせて、出発した。
 神路の住む文化住宅には、迷うことなく到着出来た。車を止めて外へ出て、
「俺が部屋へ行ってみる。享と絵里が飛び出して来た時のために、お姉さんと優ちゃんは下で待ち構えてて。スミエちゃんと笹口は裏手頼む。窓から出る可能性もあるから」
 と指示した。そして、部屋の扉の鍵が開いていたので思い切り開けてみた。が、誰も居ない。テーブルの上に、カップラーメンの空の容器があった。触ってみるとまだ温かい。部屋にまだ漂う美味そうな匂いのせいで、腹が鳴った。そう言えば、朝から何も食べていない。
「あかん、誰も居らんわ。でも、また帰って来そうな気配はあるから、ひとまず腹ごしらえしよう」
 と提案する俺を、四人が四人とも呆れた顔で見た。もう、何と思われていようが、どうでも良かった。
 またみんなを軽に乗せて、一番近いファミレスまで移動した。駐車しようとした時、見たことのあるなにわナンバーの車が見えた。昨日追いかけた、享の車だ! 何故かそう分かった瞬間には声が出なかった。
(居るんやな、享、絵里……)
 ドアを開けると、「いらっしゃいませ」と言う店員を無視し、店内を見渡した。窓際に、黒いTシャツを着た享と、セーラー服姿の絵里が居る!
「享! 絵里!」
 そう叫ぶと、客も店員も、みんなびくっとした。享と絵里は、こっちを見て固まっている。俺が近寄って行っても、動かない。
「いつから何がどうなってたんや、え? じっくり話聞こうやないか」
 俺は享と絵里の腕をつかんで、立たせようとしたが、二人とも踏ん張って動こうとしない。
「嫌や、外出たら、お兄ちゃん、享をどつくんやろ!」
 ……絵里は享を呼び捨てにした。
「ちょっと、手伝って! お姉さん、優ちゃんも! なんとかしてこいつら……」
 お姉さんは、俺の肩を両手で持って、なだめた。
「そんな力ずくで連れて帰らんでも、ここで話すればいいやん」
「無理っすよ、こんなとこじゃ! 話は帰ってからや!」
「分かったからお兄ちゃん……痛いから放してよ、帰るから」
 俺は、絵里の腕から手を離したが、享の方はまだつかんでいた。享は立ち上がり、俺に引っ張られるままに店の外へ出た。絵里がそれに続く。お姉さんも優ちゃんも、ばたばたと付いて来た。
 享の車はその場に残して、俺の運転で、軽に五人乗って帰ることにした。助手席に享を座らせて、後部座席の真ん中に絵里を座らせ、優ちゃんとお姉さんが挟むような形で。
 階段の下に、笹口とスミエちゃんが立っていた。二人ともぽかんと口を開けていた。そうだ、そのまま置いて帰ってはあまりに酷い。俺は、ポケットの財布から五百円玉二つを抜き出し、窓を開けた。
「享の車は後で取りに来るから。笹口とスミエちゃんは電車で帰ってくれ。すまん。……これ、電車賃な!」
 五メートルほど離れていたので、上投げで五百円玉を投げた。笹口は、無言のまま二つともキャッチした。それを見て、
「凄いですねえ! ぱしぱし! と……」
 スミエちゃんが拍手して喜んでいるのを見ながら、窓を閉める。あの二人はお似合いだ。まだお互い何とも思っていないようだが、仲良くやってくれ、うまくいくだろうから。そんなことを思いながら、軽を発進させた。
 五分ほど走ったところで、享が「あ」と言った。
「何や」
「ファミレスに、テープ忘れた」
「何の」
「Fで初ワンマンの時の」
 何故そんなものをファミレスの店内へ持って行ったのだ、と聞きたかったが、俺は黙っていた。
 ただひたすら、初ワンマンが決まった頃を、懐かしく思った。資格の勉強くらいで、忘れられるようなことではない。バンドは、俺の全てだったのに。享との日々が、全てだったのに。ずっと一緒にやって行こうと思った享と、もう元には戻れない。何も打ち明けない享が悪かったのか、勝手に突っ走る俺が悪かったのか、そんなことはもうどうでもいい。
 何もかも、終わりなのだから。

 助手席で、俯いたまま、享が
「ごめん」
 と言う。俺は聞こえないふりをする。
「ごめん、尚矢」
 何についての「ごめん」だ? 尋ねるわけにもいかないし、何も返事のしようがないので黙っていると、絵里のすすり泣く声が聞こえてくる。俺こそ泣き出したいのに。これからどうすれば良いのか分からないのに。話し合うって言ったって、これ以上、何もどうすることも出来ない。
「享、この呪縛を解くために、もう、俺を殺してくれ」
 そう声に出すことすら、叶わなかった。

THE LAST MOMENT OF 呪縛

THE LAST MOMENT OF 呪縛

設定:1987年?1994年

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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