*星空文庫

かまくら~私の運命は。俺の手に~

糸公 作

  1. プロローグ
  2. 邂逅
  3. 日常と再遭遇と……
  4. 彼女の望み、彼の願い
  5. モノローグ
  6. 再び、戻ってきた日常
  7. 二人の関係
  8. 彼女の……
  9. 十五年後の繋ぎ目
  10. 失ってから……
  11. この夜を越えて
  12. 私の運命はあなたの手に
  13. プロローグ

プロローグ

燃えていた。
 吹雪が轟く山間の集落で、突如として数軒の家が紅蓮に染め上げられ、押し潰された。火の手はそこに留まらず、燃え落ちた家々を起点として集落中を駆け巡り、周囲を灼熱の煉獄へと貶めた。逆巻く火柱に透き通る夜気は焦がされ、辺り一帯が真昼のごとく照らし出された。
 襲い来る真紅の閃光に、集落の住人たる美しい女らは炙り出され、火の合間を命からがら逃げ回って――――否、立ち向かっていた。彼女らが屹然と手をかざせば、燃え盛る家々は前触れもなしに荒ぶる炎ごと氷に閉じ込められた。彼女らは姿こそ非力な女人であれど、本性は人の範疇にない。その正体は、自然の猛威を我が力として振るう、凍てつく大気の顕現。雪女と呼ばれ、恐れられた妖怪だった。
 雪女達のてによって炎を埋め尽くさんと次々に無数の氷柱が形成され、同時に冷気が熱気を圧倒して集落は冷酷な銀世界に戻った。
火事が収まり、集落は束の間の安息に満たされた。人外たちは互いの存命を確かめ合った。残念ながら火の手が上がった家の住人ら大半が見当たらない。しかし彼女たちは犠牲を気にかけなかった。淡々と復興に取り掛かり始めた。
 そんな静かな宵の安寧の中で、住人の一人が突然地面にひれ伏した。元から死体より冷たい体は、温度の代わりに形状を失った。息絶えていた。それを皮切りに鋭い風切りの音が鳴り響き、続いて柔らかく重たいものが地面に叩きつけられる音が断続的に飛び散った。辺りの森から無数の矢が放たれたのだ。生き残った住人は異常事態に怯えて、息つく間もなく、自分たちが作り出した氷壁の陰に隠れた。
全員が隠れた頃には、音を発するものはなく、無音が世界を支配していた。
血も流さずに背から矢を生やした人外の死骸と息を殺し物陰に潜む者と、集落を囲む森の中で武者震いを押さえ待ち侘びる者。それぞれの思惑が立ち止まって、夜は静かに過ぎゆくようにも思われたが、それは嵐の前の静けさだった。誰が合図をしたわけでもなく、唐突に、一時の均衡は崩壊した。森の夜闇から、松明を掲げ刀を携行する男たちが雪崩れのように集落へと流れ込み、それを人ならざる美女たちが迎え討った。
怒号と悲鳴と咆哮と……負の感情の顕現とでも呼ぼうか、聴く者の心を切り刻む絶叫が飛び交う空の下、在り来たりな木造の家屋の一軒に、対峙する影があった。獣を連想させる笑みを浮かべた男と、幼い娘を背後に守る妖しの女が視線で互いを牽制していた。
「やはり、お前たちの目的は奇襲だったか」
冷ややかで鋭利な女の問い掛けは、それ単一で人を氷漬けにできる氷点下の威圧だった。
「お前らのような化物が人間と共存できると思ったか!?」
女と相反して、男は、燃え滾る炎のような殺気を窪んだ眼と掠れた恫喝に宿らせていた。
縋り付く娘が視界に入ると、僅かに女の表情が陰った。だが彼女はそれを、冷淡な無表情の仮面で閉ざして男に冷酷な言葉を突きつけた。
「お前たちのような獣と共生できるものなど存在しないだろうよ」
 女の一言で男はさらに激昂した。最早彼は、女が見せた一瞬の逡巡にすら心づけない。
「黙れ!この日のために私は茶番に付き合ってきたのだ」
目に狂喜すら光らせて、男は懐に隠し持っていた小太刀を鞘から抜いた。
女は男の狂乱した様子から、もう語るべき言葉はないと思い至って、対決は不可避だと悟って、氷の刃を生成し、構えた。そして男を警戒しつつ、娘の耳元に顔を近づけて一言言い含ませた。娘の頬が汗以外のもので濡れた。彼女は嗚咽を上げながら、女の足にしがみついたが、女は微笑みながら娘を諭した。それは人外たる女は持たないはずの、温かい感情の現れだった。
ただならぬ母親の温癒を受けた娘は、一度その場に崩れ落ちはしたが、小さな拳を握り締めて再び立ち上がった。足は震えていたけれど母親を裏切りたくない一心で、娘は一目散に親から離れ戸口に駆けた。
開いた扉から外へ飛び出す最中に、娘は振り返った。振り返ってしまった。次の瞬間に彼女の瞳が映す光景を予期できずに。
 潤んだ少女の視界で、男と女が―――彼女の父と母が―――それぞれの刃で互いを刺し貫いていた。
 両親の相討ちという惨劇が、心も体も未熟な少女に降り掛かった。時間が止まったように錯覚される刹那の映像が、彼女の脳裏と眼球に刻み込まれた。忘れて目を逸らすこともできなくなった離別の記憶が痛みを訴えて疼き出す。
 それでも彼女は走り続けた。止まれば殺される。果たすべき悲願が見つかったから、殺されてやるわけには行かなかった。幼い少女の心に小さな炎が灯っていた。彼女を囲む烈火と比べるとちっぽけだが、風に吹かれようとも雪に埋もれようとも決して消えることはない、裏切った人間達への、冷たい憎悪の炎だった。

邂逅

 まばらに雲が散る濃紺の夜空は深く高く澄んでいる。半身を失った月とそれを取り巻く星の群れから溢れる燐光は冴え、舞散り降り注ぐ牡丹雪がその煌きを地表まで運ぶ。それを受け止めた、寝静まった街は見渡す限りの白銀に覆われ、淡く輝いている。生命を拒否する冷酷さと生命を抱き受ける寛容さを併せ持ったその景色はしかし、どことなくうら寂しげだった。
その真冬の深夜で、今はもう滅多に見かけなくなった、便所と浴場と玄関が共用の木造アパートが隙間風に震えていた。そこの薄暗い廊下には、氷った鼻水を垂らしながら凍えて歩く一人の男子高校生がいる。時刻は丑三つ時で、真当な学生が外出している時間ではない。 とはいえ、今晩の彼には如何ともし難い経緯があった。事の発端は彼は数時間前、馴染み深い友人、というよりは悪友に無免許のドライブに誘われたことだった。その悪友に恩がある彼はその誘いを断れなかった。そうして連れだされた彼を乗せた車は、不運にも警察に遭遇。真夜中の逃走劇を演じた彼とその悪友は、最後に危険を顧みない強硬手段に打って出て、全てが終わった頃には一日が終わっていた。
 本当はこんなことで体力を使う余裕はないのに。
 悲哀と疲労に満ちた背中で、少年は歩く。 
 そんなこんなで疲れきっていた彼だが、しかし、その表情は険しかった。今度ばかりは、どうしようもなく悪友が憤ろしい。何分か前までは本気で悪友の家に乗り込もうかと思案していた。彼が抱えた怒りは『最後の手段』に起因していた。不幸中の幸いで生還できたが、運が良くなければ命を落としかねなかった。辛うじて平静を保っている彼は、現在進行形で通話中の件の悪友、柴田実花の弁解に耳を傾けている。
『……ねぇ、賢十、悪かったって!』
 夜間とは思えない大音声で実花に名を呼ばれた彼、真野賢十は自室に備え付けられた蹴破れそうな扉の前で立ち止まり、かじかむ手でポケットにしまった鍵を探った。
実花は賢十の同級生の少女で、賢十と実花は周囲からは腐れ縁と揶揄されている。というのも、実花は今回に限らず数多の騒動に賢十を巻き込んでおり、だというのに、賢十は毎回実花に付き合っているからだった。とはいえ、今晩は度が過ぎている。
「反省の色が見えないんだが」
怒りが見え隠れする剣呑な声で、賢十は携帯電話越しに叱咤する。
『でも、あぁしないと、補導だったよ!?』
謝罪なのか言い訳なのかは判別できないが、実花は必死に弁明する。賢十はというと、白々しい気分になりながらもいまだ鍵を探していた。
「誘ったからには同乗者を安全に送り届ける所までやり遂げろ」
 これまでも実花はどこからか車を調達してくると、毎度まいど賢十を同乗させては深夜の山道タイム・アタックに挑戦していた。実のところ警察車両に追い回されることなど慣例で、いつも危ういところで逃げ切れていた。しかし、今回はかつてない最悪な惨事が結末となった。
『でも……わたしなり頑張って逃げた!』
 賢十はポケットから抜いた拳を固く握り締めて目を瞑り、直情的な罵倒を飲み込んだ。そして時間をかけて次の言葉を思案したが、やはり怒りの色は隠せそうにない。
「んで、その結果が……北の冬の湖にダイブか?」
賢十の言葉通り、『最後の手段』とは、吹雪く湖への飛び込みだった。しかも、覚悟が出来ていた実花は車が水面に接する直前に脱出を果たしたのに対し、何も知らされていなかった賢十は車両諸共沈みかける恐怖まで味わったのだった
『それは……』
「いいか、よく聞け!二度とお前の無免許ドライブには付き合わないからな!!」
『そんな、ちょっと待って――』
 実花が続きを喋らない内に、賢十は携帯電話を閉じて電源を切り、ズボンのポケットに滑り込ませた。実花はこれくらいではへこたれない少女なので言い過ぎたとは思わない。
 それから、彼は扉に頭を預け、溜息を漏らした。今の賢十は他人を憂えれないくらいに決定的で見逃せない障害に直面していた。
「鍵が、ねぇ……」
電話しながら、賢十は制服のポケットというポケットを片っ端から探したが、鍵はどこにもない。嫌な汗を流しながら、どこで落としたか思索しようとして、やめた。賢十は頭を使いたくなかった上に、落ちている推定される場所の最有力候補は極寒の水底だったからだ。現実から逃げ出したくなった。
「どうすんだよ?」
と自分に問いかけて自棄になる。いっそドアなんてものは壊してしまえと過度の力を込めて真鍮製のドアノブを握り手首を捻る。回った。
「……?」
何度も開いてくれと願ったドアが、開いた。その事態に賢十は言葉で感想を表現できなかった。記憶を辿ると、間違いなく、施錠していた。つまり、過去と現在が矛盾している。
そこで賢十は鍵をかけ忘れたことに次ぐ第二の状況に思い至った。冷えた体温に反して、額に脂汗が滲み出てきた。
「まさか、空き巣でも入ったのか?」
だとすると、犯人がまだ部屋に潜んでいる可能性がある。盗られて困るものはほとんど持ち歩いているので、犯人と鉢合わせるほうが悩ましかった。平時ならまだしも、極寒の冷水に体力を搾り取られた現状の賢十では危険が付き纏う。警察を呼ぼうと彼は携帯電話に手を伸ばし、中途で硬直させた。一度電源をつけたのならば、実花からの着信は歯止めが効かなくなるだろうことが予想される。しかも客観的に見れば、この時間に警察なんぞ呼んでしまっては賢十自身が怪しまれる。
「くそっ……」
万事に対して諦観的になってしまった賢十は、どうにでもなってしまえと部屋に立ち入ることにした。扉を、本人は強い勢いのつもりで開いた直後、部屋で金物が落ちる音がした。示し合わせたとしか思えない不審な物音だが、賢十は平時同然に鍵をかけて靴を脱ぎ、廊下を歩いた。危機本能などとっくに機能が停止していた。
照明を灯して、部屋を一瞥する。暗闇が掻き消え、敷きっぱなしの布団とコタツが配置され、似合わないシンクの台所が備えられた和室が現れる。悲しきかな、それがこの部屋の全てだった。決して荷物は多くないのだが、狭い。この部屋を評するなら、ただただ窮屈の一言に尽きる。
習慣的に食事の後に風呂に入る賢十は考えもなく鍋を取り出そうと、流し台の下に位置する棚を開く。長い一日だったなぁ……なんて一日の終局に思いを馳せながら――

「「……っ!?」」賢十と棚に潜んでいるそいつの、息と眼が合った。

有無を言う間もなく戸を閉じた。固く強く叩きつけるように、閉じた。
「疲れたな、食いもん食って早く寝よう……」
ごく自然な流れで現実逃避へと向かいかけた賢十は、
「……いや、おかしいだろ!?」
辛くも現に意識を引き戻した。賢十が予想していた侵入者と、棚の中に隠れていたそいつの印象は著しくかけ離れていた。想像していた侵入者は覆面黒ずくめの男だったが、現実は、小説よりも奇なり。賢十の想像力を遥かに上回っていた。
試しに賢十が棚の戸を軽く蹴ってみると、驚いて身じろぎしたらしく、物音と可愛らしい悲鳴が聞こえた。やはり、見間違えではないらしい。その事実を辛うじて飲み込んで、賢十は棚の取っ手に手をかけ、深呼吸すること数回、
前触れなく賢十は扉を開き、
「勝手に人んちに入ってんじゃねぇ!!」
中に潜む侵入者を怒鳴りつけた。威嚇の意味合いがなかった、といえば嘘になる。
「ひゃっ!?は、はいっ!」
威勢は良いが、さすがに怯えた、女の子の声が返ってきた。戸棚に隠れていたのは白無垢の着物に身を包んだ少女だった。賢十は気を落ち着けて、まじまじと彼女を矯めつ眇めつした。
 彼女の長髪は腰ほどまであり、その深く透明感がある濡れ羽色は雪月夜の空のような色合いだった。あどけなさを引き立てる大きな瞳は青く、不純物を含まない雪解け水を連想させる。歳も背も賢十より低く、それをかけ引こうとも、その精緻な美貌は実年齢と照らし合わせると幼さが目立つ。そんなような、触れたら崩れ落ちそうな儚さと処女雪のような透明感を兼ね備えた少女が、侵入者の正体であった。
 賢十の少女に対する第一印象は、とても可愛い、だった。
「顔見知りではない、な?」
「えぇ……」
困った風な顔なのに、初対面のその少女は微笑んだ。どう応対したものかと、賢十は軽度の頭痛に見舞われたが、外に放り出すつもりはない。一年ばかり前にいざこざがあった彼は、家に飛び込んできた人物を、増してや深夜に女の子を追い出すようなことはしたくなかった。
「お前の名前は?」
そう訊ねて、考え直してから賢十は「俺は真野賢十っていうんだが」と自己紹介をした。
思案顔になった少女は賢十の瞳をじっと覗き込む。純真可憐な女の子と見つめ合って硬直する純朴少年を尻目に、彼女は再びの笑顔を浮かべた。
「私は、霰といいます」
霰と名乗った少女の薄い唇が紡いだ、冷たく透き通っていて、暖かく落ち着いた響きの声に賢十は束の間聞き入った。
「どうかしましたか?」
賢十の態度を疑問に思った霰は首をかしげた。彼は、我に返って尋問を始める。
「どうして俺の部屋にいる?」
霰はあっけらかんと答える。
「寒かったものですから」
こみ上げる頭痛を堪えながら、賢十は質問を続ける。
「どうやって入った?俺は鍵をかけたんだが」
彼女は微笑を絶やさぬまま、右の人差し指と親指で何かを回すような仕草をした。
「単純な鍵でしたよ」
疲労の極致にあった賢十は、自室での安寧秩序を揺るがす闖入者にかなり苛ついてきた。
「警察に突き出してやろうか?」
口から滑ったその半ば本気の脅しは威圧的で、機嫌の悪さが如実に現れていた。対して霰は、笑みを崩して拗ねたような表情になった。
「それは……困りますよ、やめて欲しいです」
 長い睫毛の下で、蠱惑的青い瞳が揺らめく。立ち位置の関係上、必然的とはいえ上目遣の霰がした懇願するような拒否は、賢十の刺々を容易く削ぎ落とした。それが、彼女が無意識のうちに使った、必要だからこそ会得した処世術だなどと賢十が気付くはずはなかった。
「……」
彼はすっかり、返すべき言葉を見失い呆けることになった。
「どうかしましたか?」
「……なんでもない。今回だけ投獄は勘弁してやる」
霰が言葉繰りに長けているらしい。賢十はそのことを明確に実感したが、態度を変えるのが心底悔しかったのでぶっきらぼうな口調は相変わらない。それでも、言い知れぬ敗北感は拭えなかった。
「そうですか。ありがとうございます。では、夜も遅いので、私は帰ります」
もうそこに留まり続けるのが堪えられなくて、霰は口早に告げた。そして賢十から逃げるように視線を逸らし、霰は棚から出ようとする。
「待てよ、質問は終わってねぇぞ」
突然のことだったので、賢十は咄嗟に霰の両肩を掴み―――
「――触らないでっ!!」
 悲鳴めいた怒号が賢十の鼓膜を叩いた。見ると、霰は賢十を睨めつけている。先ほどまでの彼女の様子からは想像できない剣幕で、気を緩みかけた賢十の短慮からの行為は拒絶された。少女の前触れ無き怒声と、触れてしまった彼女の肩の、恐怖を伴う違和感に賢十は反射的に手を離していた。
「なんだ、その、すまん」
肩に触れただけにしては過剰な反応に思えたが、賢十は謝った。少女が怖かったのではなく、叫びの悲痛さから湧いた罪悪感と哀憫の念が賢十に訴えかけた故の謝罪だった。
「あ。えっと……すみません……」
我に返った霰は、消え入りそうな声音で賢十に詫びてからまた棚に収まってしまった。
「あぁ……」
賢十は霰の激情に呆気にとられていたが、彼女が急に悄げたことで冷静になれた。
彼の目には、単に霰は触られるのが嫌なだけ、とは映らなかった。
ワケアリってことなのか?
手に余韻を残す、人を凍らせてしまいそうなほどに冷たかった霰の感触と彼女自身は無自覚だった体の震えを思い出しながら、賢十はそんなことを思った。
「飯、食ってけよ。話はそれからだ」
己の生理的欲求と思いやりを綯交ぜにして、賢十は提案した。霰は僅かに首肯した。


こたつの上、鍋敷き代わりの分厚い情報誌に置かれた土鍋から濛濛と湯気が立っていた。
賢十は炬燵を挟んで霰と向き合って座り、時折鍋を箸で啄みながら会話の糸を手繰り寄せていた。幸運なことに、霰は会話に応じてくれていた。
「じゃ、お前……霰は、何も盗ってない、と?」
「はい」
霰の目に嘘の色は見えないので、賢十は彼女の言を信じることにした。最も、初めから賢十は霰が空き巣を狙って浸入した少女だとは思っていなかった。しかし敢えて訊ねたのは、言葉を交わすことで、場の雰囲気が澱むのを防ぐためだった。先刻のことがあるので、沈黙が続くと息苦しい。
「そうか。ま、俺の部屋に盗むようなもんはねぇもんな」
「そうでしょうか?」
「さぁな」
それから二人は暫し、各々豚肉なり白菜なりを胃に収め、茶を飲んだ。
「霰はこのあとどうするつもりなんだ?」
 お節介だと自覚していても、賢十は霰を放置したくなかった。少なくとも、見て見ぬ振りは出来ない。一晩ならば泊めてやろうかとすら考えていた。
「私は……そうですね、これから帰ります」
 霰がしようとしているのは至極当然の行動で、賢十に引き止める権利はない。
「金はあんのか?交通費くらいなら出してやるよ」
 どんな論理を並べようとも、賢十にできるのは手伝うまでだが、それはつまり、何かができるということだった。家出してきた少女ならば、家まで近くはないだろう。どんあ交通手段を用いてきたかは聞いてないけれども、霰に十分な手持ちの金があるとは到底考えられない。
「歩いてですから、要りません」
賢十は窓の外へと視線を投じた。降雪量は賢十が外出していた時よりも更に増していて、窓から溢れる蛍光灯の光だけでは、ものの数メートル先までしか視界が確保できない。加えて時刻はとうにニ時を回っている。賢十は訝しげに霰を見つめた。
「今は、女の子が一人で歩ける時間じゃない。それにどんだけ吹雪いてると思ってるんだ?」
霰は賢十の視線を曇りのない微笑でいなした。
「平気ですよ。私はここまでずっと歩いてきたんですから」
「……」
内心で深い溜息をつきながら、賢十は財布の残額を思い出す。千円札が三枚か四枚、入っている、と記憶は告げていた。「タクシーには乗れるな」と呟き、霰に話しかけた。
「金をやるから、使え。返さなくていい」
「いえ、いいですよ、そんな。迷惑をかけたくありませんから」
意地でも張っているのか、霰は頑として自力での帰宅に踏み切ろうとする。だがそんな自殺めいた愚行を賢十は許容できない。
「ダメだ、馬鹿言うな。こんな吹雪の夜中に、お前みたいなのを外に出せるか」
「申し訳ありませんが、あなたにそんなことを言われる筋合いはありません」
霰の態度も言動も、克明に不服だ、厚かましい、と告げていた。
「俺がどうかはどうでもいいんだ。ほら」
賢十は千円札を四枚差し出した。手痛い出費だが、目を瞑るしかない。
「要りません」
余計な世話はしないでください、といった感じで霰は紙幣を握る賢十の手を突き返した。
「んなこと言うなよ」
当事者の霰の意見など微塵も取り入れず、賢十は霰に紙幣を押し付けると素早く手を離した。自己満足の偽善ではあるが、止むを得まいと賢十は自身を納得させた。
「……むぅ」
拗ねたように、霰は手元の紙幣を見下ろす。
闖入者の少女は意地っ張りな性分だが、賢十も大概頑固な上にお節介焼きで、その度合いは霰の予想を上回っている。霰は会話の指針を変えることにした。
「あなたが理解できません。どうして、私に関わるんですか?」
唐突な質問に、賢十は顔を顰めて「うるせぇな」とぼやいた。彼は損得感情で動いているのではなく、霰が放っておけなくて、彼女に干渉していたが、それを直に言葉にするのは気恥かしさが前に出てしまって憚られた。
「そんなことこそ、お前には関係ねぇだろう」
売り言葉に買い言葉で言い返してしまった。けれど賢十自身、そんなはずはないと思っていたら、
「あなたが私に関わってきてるんじゃないですか」
霰が代弁してくれた。心中で同意した。しかし、実際の反応にまで同意の意志を覗かせるのは癪に障る。
「お前が馬鹿げたこと言うからだろうが。いやなら自己管理くらいしろ!」
負けじと霰も反論する。
「あなたに言われるまでもなくできてますからっ」
「どこがだ。意地張んなよ」
「張ってません。あなたこそ意地を張らないでください」
「俺は張ってねぇっ。いいから言う通りにしろ!」
 賢十の、頭の片隅に残った冷静な部分が己の傲慢を指摘していた。だけど止まる頃合いを逸していた。
「私はそんなこと頼んでいませんっ!」
 霰はすかさず反駁した。熱くなっているのは彼女も同様だった。
「うっせぇぞ、バカ!」
 最早単なる悪態でしかなかった。なおも言葉の応酬は加速する。互いに歯止めが効かなくなっていた。
「ば、ばかって……わからず屋!」
「お前にだけは言われたくねぇ!」
「私だって、あなたにばか呼ばわりされる謂れはありませんっ!」
「あんな外を歩こうとする奴が馬鹿でなけりゃ何なんだ!!」
「あなたこそ、要らないお節介はよしてくださいよ!!」
「なんだと!?――」「なんですか!?――」
賢十と霰の語勢が最高潮まで上り詰めた刹那―――二人の鼓膜を轟音が痛打した。壁が揺れてその度に地響きのような音が鳴り響く。隣りの部屋の住人が、時刻を弁えず怒号を飛ばす賢十と霰に激怒し、壁を殴ったのだった。激しい口論もとい子供の口喧嘩に熱中していた二人は、揃いに揃って口を閉じ、身を竦ませた。部屋に宵の静謐が戻ってきた。
「賢十さん、落ち着きましょう」
「あ、あぁ」
二人は互いに乾いた笑顔を見せ、声を聞かせあった。それから、打ち合わせたわけでもないのだが共同で鍋の残りをさらった。その間に口論の興奮は冷め、尾を引いていたぎこちなさは残滓も残さず掻き消えた。
賢十は茶を啜りながら、壁に掛けられたアナログの時計を見てみた。
「もう三時半か……」と呟き、霰に話しかける。
「さっきは、すまなかった。疲れていて、イライラしてたんだ」
霰は諸手で包むように持っていたコップを炬燵に置き、心情的にも肉体的にも肩を落とした。
「いえ、……私こそ、お食事をご馳走してくれた賢十さんにあんなこと言ってしまって……」
「さっきのことは、お互い様ってことで」
「えぇ、私もそうしてもらいたいです。すみませんでした。……あの、もし良ければ何か家事を手伝いましょうか?鍋のお礼ということで」
申し出ているのにむしろ頼み込んでいるような目つきで霰は問いかけた。
「そうだなぁ。だったら、頼む」
自身の疲弊した現状と霰の態度に逆らえず、賢十は霰の申し出を受けようと即断した。
「では、私は何をしたら?」
ふぅむと唸って一考の後、
「洗い物を片付けてくれ。俺は風呂に行ってくる」
と賢十は指示した。穏やかに微笑んだ霰は、快く「はい!」と頷き、鍋を流し台へ持っていった。なんだか感慨深い思いに浸りながら、着替えとタオルを取ると賢十は部屋を出た。共用の浴場で、息苦しい制服からのの解放感に浸りながら、シャワーを浴びた。朦朧とした意識に熱い飛沫が染み込んで、天にものぼってしまいそうな気持ちで浴室を出た。
足を引きずるようにして帰り着いた部屋は、夜の静寂に満たされていた。霰はもう食器洗いを済ませたらしい。
居間まで行くと、我にもなく、賢十は笑みを漏らした。
律儀に彼女は布団の支度まで請け負ってくれていた。部屋を出る前と比べて、布団は整理されている。しかし、そんな彼女の奮闘は甲斐甲斐しいというよりは、微笑ましい。
「……くぅ……」
控えめなに寝息を立てる霰は、疲れて倒れ込んだのか俯向きで布団に横たわっていた。白い肌を飾る長めの睫毛や、布団に乱れて這う夜空色の長髪がやけに艶かしかった。
欠伸を一つして、賢十は無防備に眠る少女を起こさないように細心の注意を払いながら、彼女の下敷きになっている掛け布団を抜き取って顔が出るよう被せた。それから自身は炬燵を布団の代用にして横になった。疲労と睡魔は気負わずとも賢十の意識を拐っていった。

                  *

暗闇を上下を二分する切れ目が入って、そこから見ていられないほどに眩しい白光が流入する。目を覚ました賢十は目を瞬かせていた。そうしていると、光が氾濫してひたすらに白いばかりだった視界に輪郭が浮かび上がる。次第に色相を取り戻す世界では、着物を着た髪の長い少女が、布団から上半身だけ這い出して、彼に中途に開いた手の平を向けている、と思ったら素早く手を引っ込めた。理解が追いつかない。知り合いにこんな少女はいただろうか、記憶を掘り起こすことに徹した。
「あっ、これはですね、賢十さん!」
少女は朝早くから忙しなく慌てている。彼女は懸命に何か喚いていたが、起きたばかりで微睡む賢十では彼女の心境を察するには至らない。彼は寝ぼけ眼で、曙の陽光に仄白く照らし出された少女を見つめていた。
青みがかった濡れ羽色の髪と底が見えない青い瞳は特徴的で、雪色の頬は心なしか紅潮していて、その表情はあどけない。
……ようやく、思い出せた。
「おはよう、霰」
 まず、日本人の礼儀として、賢十は素っ気なく挨拶した。霰は一度だけ慄き、深呼吸を繰り返した。
「おはようございます」
 彼女の声音から、先ほどの慌ただしさは消えている。賢十は気になったことを指摘した。
「お前、顔が赤くねぇか?」
 自身の体調など気にしたことがなかった霰は、素っ頓狂な声で、
「えっ?そうですか?」
聞き返していた。
「おお。……何だぁ、俺見て卑猥なことでも――」
枕による会心の横凪は賢十の側頭部を見事に打ち据え、下品な口上を中断させた。
「最低だと思います」
枕に続く言葉の殴打は、恐ろしく平坦で抑揚に欠けていた。本気で霰の機嫌を損ねてしまったらしい、という事実にようやく感づいた賢十は、
「なんだその、悪かった」
と呆気なく非を認めた。
「でもだ、霰」
「今度は何ですか?」
まだ彼女の口調や態度はつっけんどんだった。
「悪かったって……警戒すんなよ」
言っておいて無理があるとは彼自身自覚していたが、だからといっておとなしく黙るつもりは毛頭ない。
「顔が赤いってのはホントだ。熱でもあんじゃねぇのか?」
「そんなはずは……」
霰は自分の額に手を当てて体温を確かめようとしていたが、神妙な顔するばかりだった。
「体温、計るか。体温計が確かどこかにあったはず……」
立ち上がろうとした賢十は、動きを止めた。止めざるを得なかった。
「なんだ?服を引っ張るな」
賢十が着るジャージの裾を握って、霰は賢十が立つのを阻止していた。
「大丈夫ですよ、風邪なんてひいてませんから。体温なんて、計らなくて良いですから」
霰の笑顔はぎこちない。
「熱計るだけだろ。何が嫌なんだ?」
「そんなの、あなたには、関係ありません」
「またそれか」
「と、とにかくっ!私は、風邪なんて……っ」
そこで言葉を切った霰は突然うずくまり、嘔吐しそうなほど苦しげに咳き込んだ。
「おいおい、大丈夫かよ……」
呆れと心配とを抱いた賢十を尻目に、霰は頭まで布団を被ってしまった。賢十は途方にくれる。その日は登校日で、つまり、学生の義務がある……といえばあるのだが、それを躱す格好の口実もなくはなかった。
「何度も聞くが、家はどこだ?」
布団の饅頭からの返事はない。無理にでも会話を成立させようと賢十は声を荒げて言う。
「部屋に居座るつもりか?」
言っておきながらも、本心ではないとは言え、意地悪すぎたかもしれないと賢十は反省した。
「そんなつもりは……ありま、せん……」
自嘲している賢十への霰の応答は弱々しい遠慮で、賢十には、厚顔無恥に肯定されるよりも効果があった。賢十は心の底で白旗を上げる。もう霰にきつく当たれないし、冷たく突き放すなんてもっての外だ。賢十はとことんまで霰を看病する覚悟を決めた。無論、霰が拒否しようと、貫徹する心づもりだった。
賢十は立ち上がることなく腕を伸ばして、炬燵に置かれている携帯電話を手に取った。まず電話するのは学校。当たり障りのない会話の後、難なく虚偽の病欠を手に入れた。
電話を切った賢十が布団に目をやると、霰が起き上がっていた。
「賢十さん、何を……?」
「学校を休むことにした」と賢十は言おうとして、口を噤んだ。
「なんでもねぇよ」
強引な言い草になってしまったが、彼は、恩着せがましくはなりたくなかった。
「はぁ……」
霰はそれ以上の追求をできなかった。風邪は本人も気づかぬ間に、少女の体力を貪っていた。彼女は再び横たわって、熱っぽい息を吐いた。
「それよりも、霰、今日はここで休んでけ」
霰の自宅の話はしなかった。勘の鈍い賢十ではあったが、霰が家を教えない、或いは帰宅しようとしないことの裏にあるだろうのっぴきならない事情を斟酌する思いやりはあった。
「ですが、それだと」
賢十は霰の話を聴くつもりはない。どうにか主張を押し通す腹でいた。
「親とかに電話するなら、俺の携帯……はマズイか。家電あるから使え」
「いえでん?」
霰の瞳が小さな子供めいた好奇心に彩られる。こいつは何を期待しているんだ?賢十はふつと浮かんだそんな疑問を捻り潰した。
「家の電話だっ。一晩連絡してないわけだし、お前の親も心配してるだろ?」
思わず声を荒げた賢十に、霰は申し訳ない気持ちでいっぱいになって、けれども欲望が抑えきれずに質問していた。
「すみません。『でんわ』ってなんですか?」
現代人とは思えない問いに、「は?」と賢十は聞き返していた。自分の耳を疑った。
「いえ、ですからね、『でんわ』ってなんですか?」
 丁寧に、霰は重ねて問いかけた。賢十の耳が聞き間違えている、なんてことではない。
 『電話』とは何か?当たり前て賢十は考えたこともなかった。一体どういった趣旨でこんな問い掛けをしたのか……迷っていると、賢十はとある結論に至った。
「哲……」
『哲学』まで言い切ることなく賢十は口を止めた。霰はその碧眼を、純真な冒険心と無垢な好奇心に輝かせている。少なくとも、哲学的な思惟に耽る人間の表情には見えない。
「電話ってのは、遠くにいるやつと話せる道具だ」
破れかぶれで、賢十は電話について身も蓋もない説明を披露した。
「そんな魔法みたいな道具があるんですか!?」
 青い瞳に透けて見える驚嘆も、丁寧な言葉遣いに潜む高揚感も演技で表現できる範疇ではなかった。霰は、それはもう凄いといった風で、更なる期待を胸に賢十へ顔を近寄せる。
間近で眼を覗き合うという状況に、賢十は顔を赤くした。単に思春期らしい羞恥心が色めき立ったからではない。霰の気勢が賢十の髄を共振させて心臓が疼くような胸の高鳴りが湧き上がり、それが顔にまで表れたのだった。
あるんだよ。当たり前だろ?
そう他愛ない返事を返すのは芸がない気がして、賢十は悩んだ。その時、ある古人の教えが咄嗟に思い浮かび、それは理性を介さずに言葉として紡ぎ出され、大気と鼓膜と何かを震わせた。百聞は一見に如かず。
「使ってみるか?」
何気ない一言だったが、
「いいんですかっ!?」
霰は風邪だということも忘れて布団の中で跳ねそうなほどに喜んだ。。
予想以上の手応えに顔を綻ばせながら、賢十は霰に、電話の受け方を教えた。そして、その前に立っているように言いつけて自分は部屋を出た。
アパートの廊下で老婆とすれ違った。彼女の眼差しは実に冷たく賢十に突き刺さる。そこで初めて賢十は、自分がほくそ笑んでいることに思い至った。賢十は愛想笑いでその場をやり過ごした。おばあちゃんの足音が外へ消えたら、携帯電話から部屋に電話をかけた。
コールが一回、二回、三回と鳴る。霰の目の前に電話は有るはずなのに、中々電話は繋がらない。霰はなにをやっているんだと焦れったく思っていると、コールが途切れ、霰の息遣いが聞こえた。
『……もしもし。聞こえて、ますか?』
賢十が部屋を出る前の、心を躍らせていた霰からは想像できない、たどたどしい声だった。霰は当惑していた。数十秒前の霰と電話の話し相手が結びつかずに賢十は言い知れぬ不安に駆られた。
「聞こえるぞ、霰」
霰の心中に感づいたわけではないが、黙っていると霰がどうにかなってしまいそうだったので、賢十は間を置かずに声を返した。
『あ……、はい!』
 取り繕うように霰は声を張り上げた。その声量に、賢十は悪友を連想した。
「聞こえているから、もっと静かに話せ。いきなりどうしたんだ」
 霰は唾を飲んだ。
『私はどうもしていませんよ失礼ですね』
 反論しそうになる口を賢十は固く閉じ、溜息を圧し殺した。霰と意地の張り合いになるのはもう勘弁したい。
「そうか、ならいい」
 スピーカーから何か言いたげな少女の唸り声が漏れたが、案ずるまでもなく無視した。
「電話も知らないなんて、どうやって生きたんだよ」
 声に出してから霰に家の話題を振ってしまったと後悔した。訂正をいれようとしてなんと言おうか思いあぐねていると、『えへへ』なんて笑い声が耳に届いた。受話器が発したその音は少女の微笑に似つかわしくない寂寥感を纏っていた。
『……ねぇ、賢十さん』
「なんだよ」
ぶっきらぼうな口調の裏で、そこはかとなく賢十は気持ちを真剣なものに正した。
『もし、私の家の事情を案じてくれているのなら、どうかそのことは気にしないでください。あなたの気持ちは嬉しいですが、居候の私にあなたが気を遣う必要はありません』
「……」
 賢十の喉元まで伝えたい感情がせり上がってきたが、奇妙な自制が働いて、彼は押し黙っていた。
『ところで、もう一つ知りたいんですが、いいですか?』
「一々俺に許可を求めなくて良い」
『はい、分かりました。この道具を使えば、誰とでも話せるんですか?』
霰の質問の意図は相変わらず掴めない。
「相手が電話を持っていたらな」
模範解答を知らない賢十にできるのは、より現実に即した返答だけだった。
『そうですか。では、朝食にしましょう』
霰は強引に話を逸らした。それまでの会話が断絶され切り捨てられて、賢十は釈然としない。問い詰めてやりたいことは山ほどあった。けれどもそれらを口に出してしまったなら霰は雪のように姿を消す予感がしたので、彼は彼女に踏み込めなかった。
だから他になす術もなく、賢十は霰の会話の転換に流された。
「俺も、朝飯にしたいのは山々なんだが、材料の調達に時間がかかる。待ってろ」
『はい』
電話が切れた。賢十は自室に戻り、霰に「静かにしてろ」と前もって言い聞かせた上で、部屋の電話に、実花の携帯電話の番号を打ち込んだ。
『はいもしもし!!賢十!?』
架電した側の賢十が驚くほど早く電話が繋がり、驚くほど大声で、実花は応じた。
「そうだよ」
『昨日はホンットにごめん!!』
賢十の鼓膜は破裂しかねないまでに震える。耳が痛くなってきた。
「少し音量小さくしてくれ。何言ってるかわからん」
『う、ごめん』
実花の声が静まった。気落ちしていたのでおとなしく従ったが、普段だと数回は言い聞かせないと実花の大声は収まらない。
「それくらいだと聞きやすい。……で、お前に頼みたいことがある」
『今日は学校――』
そんなことは賢十も重々承知していた。だが気に留めることはない。
「昨日のこと、忘れちゃいねぇよなァ?」
賢十の顔が獰猛な笑みに歪んだ。霰が不審そうな目つきで賢十を見つめていた。
『……わたしは何をすればいいの?』
渋々といった感じではあるが、実花の声音は反抗的には聞こえない。委嘱を聞き入れてくれると賢十は判断した。ならば要件を述べるだけだった。
「食料調達だ。頼んだからな」
『……もうっ』
腹ただしげな実花の呟きを最後に、通話は切れた。
賢十は炬燵に入って「ふぅ」と一息ついた。そんな彼を、霰が布団に寝そべりながら睥睨していた。
「さっき話していたのは、賢十さんのご友人ですか?」
「ま、そうだな」
霰を見やった賢十は、彼女の、彼を非難する視線に射抜かれた。
「なんだ、文句あるか?」
「はい」
あまりにもきっぱりと霰が言い切ったものだから賢十は言い返せない。
「友達にあんなことを言ってはいけませんよ」
「……そうだな」
予想していなかった真面目な説教に、賢十は面食らってしまった。
「本当にわかってるんですか?」
「お、おう。……てか、お前は病人だからおとなしく寝てろ」
「……えぇ」
霰は顎まで布団に埋まり、目を閉じた。眠ってはいないが、声を発することはしない。賢十も言うべきことはないので、部屋では二人分の息遣いが唯一の音になった。霰も賢十も、その沈黙がさして気まずい訳でもなくむしろ居心地が良かったので、二人は安寧で空虚な時の流れに漂った。


自と他の境界が薄らぎ、大気に溶けてしまいそうなほどに時間が過ぎた気がしていた。
夢想的な微睡みから覚醒した賢十は、自分がうたた寝をしていたらしいことを自覚した。だとするとなぜ起きたのか?疑問に思う賢十の鼓膜に執拗に家のチャイムが鳴り響いていた。
「賢十さん、お客さんですよ」
賢十が声がした方に目をやると、布団から顔を覗かせている霰と目があった。
「俺が出る。お前は静かにしてろ」
伸びをしながら、気怠い体に鞭打って立ち上がった。全身を血が駆け巡る。扉に駆け寄り、覗き穴から来訪者の身なりを窺った。女子にしては短めな茶髪の少女が制服の上からダッフルコートに身を包み、震え上がっていた。寒そうで滑稽だったので、放置してこうかと賢十は本気で検討したが、結局は戸を開いた。「わっ」と女の子らしい声が聞こえた。
「よう、実花」
当人は爽やかに言ったつもりだが、冬の朝らしい針のような冷気が肌に突き刺さって、賢十の顔は強張っていた。
「おはよ、賢十。具合はどう?」
「おかげさまでな。……最悪だよ」
「う。昨日はホントにごめんっ!お詫びに頼まれたもの持ってきたから!」
「見せてくれ」
不遜に振舞う賢十は少女の手から紙袋を渡された。その中には、冷凍うどんと風邪薬、スポーツドリンクの2リットル入りペットボトルが入っていた。
「賢十、渡したからね!私、もう、時間ないから行ってくる!!」
「ありがとなぁ。気をつけろよ」
賢十が手を振りながらそう言った時には既に、実花は背を向けて走り出していた。
「さて、と」
実花を見送り、賢十は炬燵に戻った。
「霰、もう食うか?」
「えっと、いいんですか」
 遠慮するようなことを霰は言っているが、その目に宿る期待の色を賢十は見逃さなかった。
「いらないなら無理に食べる必要はないが?」
「食べましょう!食べたいです!!」
霰にしては珍しい、刹那の遠慮もない要求を賢十は微笑ましく思いながらも苦笑した。
「かけうどんでいいな?」
材料の問題もなくはなかったが、風邪の患者に食わせるならば、温かいものに限る。なので賢十の質問は、質問というより確認の意味合いが強かった。
「賢十さんにお任せします」
「よっしゃ。ちょっと待ってろ」
立ち上がった賢十は、昨晩霰が潜んでいた棚から鉄鍋を取り出し、作業にとりかかった。


「むむぅ……?」
昨夜のように、霰は賢十と向き合って炬燵に座っていた。彼女の視線と興味を惹きつけたのは、出し汁の匂いと湯気を漂わせるうどんではなく、その隣りにあるコップに注がれた、半透明の液体だった。
「なんですか、これは?」
賢十は、薄らとこうなるであろうことは予見できてはいたので、今更驚いたりはしない。霰の果て無き好奇心を満たすために、快く説明を始めた。
「それはスポーツドリンクだ。意地張って風邪ひいちまった間抜けとか、水分が足りてないやつのためにある飲み物だ」
それでも、揶揄が混じるのが賢十の悪癖だった。途端に霰は愛嬌のある繭をつり上げて、不貞腐れた。
「……間抜けってなんですか?私だって、なりたくてなったわけでは……」
「なりたくてなったのなら尚更―――」
「賢十さんっ!」
 すっかり機嫌を損ねた霰は、より一層表情を険しくした。
「あはは、悪かった悪かった」
 賢十は全く悪びれていなかった。霰はしかめっ面で唸っていたが、「……もう、いいです」とか細い声で告げて引き下がった。霰のその一言が下手に怒鳴られるよりも響いた賢十はもう一度深々と、謝罪した。
「だから、いいですから。早く、食べましょう?麺が伸びてしまいます」
 霰は故意で言ったのではないが、彼女の淡白な物言いは、賢十の良心に響き、彼は自身の正義感に責め立てられた。
「あぁ、そうだな」
 辛うじて賢十はそれだけを喉から絞り出した。
二人は黙々とうどんを啜った。気まずくて賢十は何か軽口でも叩こうとしたが、失敗に終わった。彼自身でも感知できない無意識が、思慮を経ない軽薄な言葉を押しとどめていた。
声が出せないので、賢十は霰の顔をぼうっと見やった。彼女は目の前のうどんに意識が引き付けられているらしく、彼の視線を感ぜられない。必死にうどんを啜る霰の雪のごとく白かったはずの頬は、心なしか血の気がさして、薄い紅色に染まっていた。
今なら。
賢十の内に潜む誰かが呟いた。
今なら、彼女に触れられるのでは?
昨夜は冷たかった肌にも、温癒が通っているのでは?
熱に浮かされてしまったような、思考とも呼べぬ情緒の移ろいに、心を、それと繋がる体を動かされて、霰に伸ばしかけた手を―――賢十は我に返って引っ込めた。
「どうしたんですか?」
賢十の不審な挙動に霰は問い訊ねたが、彼は愛想笑いを浮かべるだけだった。その胸中では、己を叱咤し、突発的な衝動の爆発を押さえ込んでいた。
「本当に、大丈夫ですか、賢十さん?具合が悪いのでは?」
霰は賢十の葛藤を見抜いていた。彼の顔の瑣末な変化にそれが滲んでいた。
「いや、んなわけ無いだろ。いいからさっさと食え」
今度の動作は自然で、声音からもぎこちなさを拭えていた。霰の、心配しているらしい青い瞳の輝きが平常になった。それから彼女は意地悪な笑みを浮かべる。
「なぁんだ。賢十さんも風邪引いたのかと思いました。……間抜けに」
少女は『間抜けに』の部分だけ、敢えて間を空けて無愛想かつ意地悪に言い放った。
「……うぐ」
啜っている最中だったうどんが喉に詰まって、賢十は無様に呻き、噎せ返った。したり顔で霰は微笑む。しかし賢十の様子が噎せるというよりは咳き込むになり、遂には転げ回り出したので彼女の態度が一変した。
「け、賢十さん!?」
尋常ならざる賢十の苦しみように霰は慌て、彼へと寄り添った。


「なぁ、頼れそうな親戚がいるなら、そっちに送ってやるが?」
 そう問う賢十は、適当に見繕ったジャージの上からダウンジャケットを羽織り、スニーカーの靴紐を結んでいる。左手には紙袋を携えていて、その中身は昨晩、海水浸しになった制服一式だった。
「私が頼れるのはおばあちゃんだけなんですけど、今は、家にいませんから」
 霰は布団で寝そべり、玄関で靴を履く賢十と視線や言葉を交わしていた。つまり、彼女は留守を預かることになった。賢十自身、出会って半日と経たない霰に留守を頼むのに躊躇はあったが、状況は差し迫っている。彼は二着しか制服を所有しておらず、一着は例の有様で、もう一着はクリーニングに出してある。霰に付きっ切りにはなれなかった。盗まれて困るような金品はこれといってなかったこともあり、賢十は外出に踏み切ったのだった。
「家にいない?」
「あっ、ええと……」
 何かを思い出したような霰の表情は、口が滑ったと如実に告げている。
「仕事にでも出ているのか?」
 普通に聞いても誤魔化されるのは目に見えていたので、助け舟を出すふりをした。
「はっ、はい、そうです。そうなんです!」
 引きつっている霰の笑みから、何かがあると確信できたので、賢十はこれ以上追求することもなく「へぇ」とだけ相槌を打っておいた。人には誰しも聞かれたくない事情があることを知らない歳ではない。
「で、でもっ!」
 賢十が一人で納得しかけていると、霰が声を張り上げた。彼女は使命感めいた情熱に駆られていた。賢十は口を挟まず目線で話の続きを促した。
「今はたまたま家には居ませんが、おばあちゃんは優しくて、私の面倒をいつも見てくれていて……!」
 熱弁を振るう霰の、なぜだか泣き出しそうな瞳の奥に、賢十は彼女の心象を垣間見た。ごくありふれた、ともすれば他愛ない、祖母と孫娘が会話するだけの日常だった。不便な言葉では言い表せない多彩な情動が霰の熱意として賢十に流入する。無論、それでも全てには程遠かった。
「そっか」
 多くの感想を述べるのは無粋だった。以心伝心と呼べるほど明確なものではないが、賢十が一言しか返さなくとも、霰は伝えるべくが伝わったことを実感した。
賢十立ち上がって爪先で床を蹴り、靴に足を馴染ませた。
「霰、行ってくる」
「はい。いってらっしゃい、賢十さん」
 ものの少ない殺風景な室内で、霰の微笑みは白く儚げな燐光に包容されている―――。そう見えたのは幻に過ぎないと賢十のどこか、理性的な部分が囁いたが、否定しきれなかった。そもそも霰自体が昨晩の賢十の部屋に忽然と姿を表した存在なのだ。だから訳はないのに存在が幻想的に見える。そして……。
素人目ではあるけれども、霰が無理をしている風には見えなかった。賢十は心配はなさそうだと踏んで、ドアノブに手をかけ、ふとあることを思いついて止まった。
「……霰、欲しいものはあるか?」
「欲しいものですか……?」
 賢十が前触れもなくそんなことを言ったので、霰は心底意外そうに驚いた。
「なんだよその顔は」
「いえいえ、そんな。お気遣いは本当に嬉しいんですが、これといって足りないものはありませんね」
 少なからず遠慮の気持ちもあったが、事実、霰が思いつく限りの大概の物品は事足りていた。しかし霰が思う必要なものからは『嗜好品』が抜け落ちていた。人様の家だからではなく、知らない。最初からそうだろうと見抜いていた賢十は、悪巧みでもするようにニヤリと口角を釣り上げた。
「アイスとか買ってきてやるよ」
「あいす?」
「だから、アイスだって……あぁ」
 そこで賢十は今更、霰が横文字に弱いことに勘づいた。そのことを念頭に置き、アイスを言い換えると、
「氷菓子だ。風邪の時なんかには良いぞ」
 存外旨い具合に説明できたので、賢十は自分でも満足できた。
「ですけど、そんな、いいんですか?」
「おう。遠慮すんな」
「ではその、お願いします」
 やや恥ずかしげな霰に「いってくる」と言い残して賢十は部屋を発った。
扉は自重でしまった。霰は光が閉ざされた戸口に視線を注ぎ続けていたが、心苦しさが溢れかえって堪えきれず、丸めた膝を抱きしめ目を固く閉じた。


昨日とは打って変わって、清々しい空模様だった。雲が見当たらない空は青く冴え渡り、吸い込まれそうまほどに深い。
賢十が歩いている、地方によくある寂れたアーケード商店街は車道と軒先を除けば例外なく雪化粧が施されている。
彼は帰路に就いていた。既に制服は汚れたものと洗ったものを交換し終え、難は逃れている。物思いに耽るのでもなく、ただぼんやりとしながら賢十は足を動かしていた。誰も彼も退居してしまった雑居ビル、女物の洋服屋、客足の途絶えた喫茶店を視野に捉え、しかし思考には組み込まない。家路を急ぐ賢十はコンビニエンスストアの前を通り過ぎようとして、つまづいたように止まった。彼はアイスを買って帰る約束を思い出した。
「何買ったら喜んだろうな、あいつは」
 ガラスのドアが自ら退いて、足を一歩踏み入れたら電子音声のチャイムと「いらっしゃいませぇ」という舌足らずな声に迎えられた。迷わずアイスのコーナーに向かった。先客の黒い長髪の女性がアイスを物色している。目があったので、賢十は軽く会釈した。無愛想にも女性は凍りついているように何の反応も示さなかった。そのことを侘しく思いながら、賢十は粗雑に並べられたアイスを一通り眺めた。カップアイスが七割、棒アイス二割であとの一割はどちらにも分別できない、その他とでも呼ぶべきものだった。出会って間もないあの少女の好みを賢十が知るはずもないので、彼は思い倦ねた。賢十の体感時間で三十秒が過ぎた頃、彼は思考を中断して、抹茶味とバニラのカップアイスを一つずつ購入して店を出た。例の女性はまだアイスを選んでいた。
暖房が効いた店内と外気の冷暖の差に身震いしながら、賢十はアパートまでの道のりを歩く。風が強まってきて、痛いほどの冷気が道行く人に吹きつけられていた。何を思うでもなく賢十が空を見上げると、風が吹いてくる方角に分厚い雲が見とれた。雪が降るかもしれないな。賢十はそう思って歩を速めた。
その道すがらで、霰の今後のことを考えた。なし崩し的に賢十は家で霰を看病している。追い出すことができないのは、賢十が、世に言うお人好しだったからであった。他に理由はない。それはつまり、客観的な現状だけ述べれば、賢十は家出少女を匿う男子だということになる。警察に見つかれば御用になるのは明白で避けようがない未来だった。そうなることを含めたデメリットを昨晩の賢十が顧みなかったのはひとえに疲労が原因だったが、現在、幸か不幸か賢十は思考能力を取り戻している。そうなってから楽観視できるほど、霰は軽い存在ではない。なので何かしらの行動を起こさなくてはならず、最善策は霰を両親に送り届けることなのだが、彼女は住所も電話番号も明かそうとはしてくれない。賢十としては、ため息をつくばかりだった。
それから賢十、霰が自分のことを語らない理由について、建設性のない思惟を巡らしたている内にアパートにある自室の扉の前まで来ていた。ドアを開けようとすると、硬い手応えに妨げられた。鍵がかかっていた。賢十には施錠した記憶はないので、霰が中から鍵をかけたのか、なんて呑気に見当をつけて、開錠してドアノブを引いた。静寂の支配の下、薄暗い部屋に差し込んだ儚げな日差しに照らされて、漂う埃が月夜の雪のようだった。
「霰、寝てんのか?」
試しに賢十が呼びかけてみたが、返事はない。弱って寝付いている彼女を起こすのも悪く思ったので、賢十は自分以外には届かない音量で「ただいま」と呟き、部屋に入った。
 炬燵の隣りには、霰が体を休めていた布団が敷いてある。今、その掛け布団は大きく捲られている。
 ―――隠していたはずの、霰が横たわっているはずの、名残のように皺を寄せる白い生地を見せびらかして。

日常と再遭遇と……

放課後独特の、疲労混じり開放感が満ち満ちた高校の昇降口を、夕日が茜色に染めていた。そこのガラス扉に賢十はもたれ掛かっていた。
昨日部屋に帰って霰の不在を知った賢十は、アパートの周辺を歩き、時には駆けて彼女を探して回った。そして日も沈んで久しくなった頃にとうとう、彼は部屋に帰った。結局、霰を連れ帰れずに。
思い返すと現れた時もいなくなった時もあの少女は幻影のように唐突で、賢十が過ごした昨日すらも輪郭が朧げで現実味に欠けていた。
「あいつ、礼もよこさず消えちまいやがった」
 止めどなく、賢十は物思いを巡らせる。どうしようもなかったと分かっていようとも、割り切れない。
そんな、心ここにあらず、といった風体の賢十の肩が叩かれた。うつつを抜かしていた賢十は反射的に叩かれた肩の方へと視線を投げる。彼の隣りに立っているのは爽やかそうな好青年だった。賢十の友人で間違いない。
「日々希か……」
 賢十が名を呼んだ彼、小儀日々希は賢十の同級生の男子で、頻繁に賢十とつるんでいた。
「どうかしましたか、賢十くん。彼女にでも振られましたか?」
 この、人を選ばない敬語口調と薄ら笑いが日々希のトレードマークだった。賢十はわずかに心をざわめかす憤懣を眉宇を顰めるだけで押さえ込んだ。
「嫌味……で言ってるんじゃないよな、お前の場合」
「えぇ。何やら沈んでいるようにお見受けしたので、並々ならないことがあったのではと」
 どうしたものかと賢十は日々希を見やった。日々希は恐ろしく鋭い青年で、隠し事をするのは容易ではなかった。けれども霰とのことを大っぴらにするのは気が進まなかった。
「ま、そんなとこだ」
 その場凌ぎで、賢十は言葉を濁した。下手な嘘をつくよりはそうしておくのが、日々希に対する対応の仕方としては無難だった。普段ならばこれで話は終わる―――
「ははぁ。賢十くんに彼女とは。失礼を承知で聞きますが、お相手はどのような?」
 筈だった。賢十は内心で呻いた。全く予想外の質問で、賢十が想定していた範疇にはない。
「お前こそ、こんなこと聞いてくるなんて、何かあったのか?いつもなら、仏の道に煩悩はどうたらとか言って目もくれないだろう」
 賢十は躍起になって、話を捻じ曲げてで詰問を止めるつもりでいた。言葉になる理由がなくとも、少女との微睡みの中の夢のような時間は誰にも触れられない秘密として心の深く、押入れの隅にでも保管しておきたかった。
そんな賢十の咄嗟の指摘ではあるものの、日々希は正真正銘の仏教徒で現在は修行僧の身だった。平時は若さと外見に似合わず堅苦しく、彼が色恋沙汰に興味を示すのは異例だった。
「それは……まぁ、最近修行が厳しいので。それよりも、賢十くんが愛し合った女性とは?」
 いつになく踏み込んでくる日々希の一言に、賢十は図らずも霰の容姿や性格、小柄な体躯を思い出していた。静かに微笑んでいると思ったら出し抜けに怒り出す素直な女の子であった。改めて考え直すと確かに愛くるしい少女だという点は賢十も認めざるを得なかったが、だからといって、恋慕していたわけではなく、ましてや彼女などでは……
「賢十、ごめん、遅くなった!!」
 聞きなれている少女の大音声が耳に捩じ込まれた。いつもはうるさいとばかり感じていたが、この時ばかりは天女の声にさえ聞こえた。
「来たか実花。帰ろう!」
 肩に通学鞄を掛けて走ってきた実花は、首をかしげた。
「賢十、今日はノリいいね?」
「いいから、帰ろう」
 最初は戸惑っていた実花だが、賢十が歩き出すとついて来た。
「ねぇ賢十、どうかしたの?」
 雪に埋もれかけている校門を出て賢十と並ぶと、実花は早速訊ねた。
「それがですね、」
 どうしてか、日々希までもが一緒にいる。すかさず賢十は「いや、風邪が早く治ってよかったな、とだな」なんてまくし立てて、日々希の発言を妨げた。日々希は躍起になる賢十を見て含み笑いを漏らした。
「んぅ、日々希くん、そうなの?」
「えぇ、そうですよ」
 理由は曖昧だが、日々希が追求を諦めたので、賢十は重い安堵の息を吐いた。十年ほど老けた気分だった。そんな賢十の気苦労を知ってか知らずか実花の威勢は微塵も衰えない。
「ねぇ賢十っ!正月は私の家、来るの?」
「おばさんに悪いだろ」
「お母さんは、来なさい!って言ってたよ」
 賢十は実花のお母さんの性格を思い出して苦笑した。
「……おばさんの頼みとなると断れないな」
 一歩を身を引いていた日々希が進み出てきた。
「和気藹藹としていますが、お二人の仲はどのようなものなのでしょうか?」
 実花は慌てたふうで「仲がいい?」と問い返し、賢十は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「話が長くなるが、構わないか?」
 どうにか逃げられないだろうかという淡い願望を託して、賢十は前置きを口にした。日々希はにこやかに頷いて、先を促した。逃すつもりはないようだった。賢十は億劫であったものの、言い出しだ手前、黙りこむのもはばかられた。
「俺と実花が初めて会ったのが、この町の小学校だ」
 小学校の入学式は、彼此十年近く前の出来事だが、満開の桜に彩られた初めての学校は賢十の記憶の奥底に確と刻み込まれている。
「では、小学校入学以来ですから、十年ほどの付き合いになると?」
「いや、―――っ」
 『小学校卒業』と続けようとした、賢十は口ごもった。封じ込めていた惨烈な過去をほんのひと掬いだけだが掘り起こしてしまった。
自動車から投げ出された時に彼を受け止めた雪の冷たさ、全身を打ち付けた痛みに耐えて見ることしかできなかった、自動車が纏う紅蓮。それらが今しがた感じたことのような鮮明さで賢十の意識に蘇り、暴れまわった。
日々希に他意はなかったが、 賢十は触れられたくなくて圧し殺していた記憶を思い出し、密かに動揺していた。賢十の過去を知っている実花は彼の些細な異変を察知して、気づかわしく彼を見やった。
「賢十、具合悪いの?」
 体に不調はない。そんなことは実花も百も承知で、だからそれは、直接賢十のトラウマに触れないための彼女なりの優しさだった。
「すまない、考え事をしていただけだ」
 実花に気を揉ませることへの拒絶を原動力にして、賢十は歯切れよく言い切った。と同時に五感が回想から引き戻され、辺りが急激に現実味を増す。もう、周囲を鑑みれる程度には冷静さは取り戻した。なので、日々希を会話から置き去りにしてしまったことに気が回った。
「あぁ……。日々希、わるい」
「いえいえ、お気にせず」
 日々希の笑みは溶けなかった。
「話を続けるよ。……俺は小学校を卒業して、転校したんだ」
 核心に迫らないよう、賢十は一語一句に気を配った。
「親の事情で?」
「そうだ。で、高校に上がって帰ってきた」
 もう話すつもりはない。賢十は携帯電話で時間を確認する素振りをして、日々希が口を開く前に「あっ」と声を上げた。
「実花、日々希。バイトまで時間がないから、俺は急ぐ。じゃあな」
 返事など待たずに、賢十は、凍てついた薄暮の小道を駆けていった。
二人の仲介になっていた賢十がいなくなったことで、実花と日々希は目も合わせずに歩いた。ほどなくして分かれ道まで来ると日々希に別れを告げ、実花は一人で帰路を歩んだ。
一人では退屈で、実花は手持ち無沙汰を解決しようと携帯電話を開いた。一通のメールが届いている。件名のないそのメールは、賢十からであった。
 『さっきはたすかった。ありがとう』
 賢十らしい文体の素っ気無さに笑いを抑えきれなくなりながら、実花はメールを返信した。


疲労感と達成感とを背負って、賢十は住宅地の外れを歩いていた。彼が務めるバイト先の事務所ではその日のように十二時を回ることもある。だけどそこでの事務と雑用は給金が頭一つ抜けているので、賢十は眠気と冷気の泥濘で溺れることになろうとも許容できた。
とはいえども、疲れが癒えるわけではない。体の芯に詰まった疲れはどんよりと重く、無気力ともども簡単に消えてくれそうにはなかった。
賢十は白い溜息を漏らして、空を見上げた。その宵の凍て空は幾分か曇っていたが、中途に欠けた月の光も、無数に煌く星影も冴え渡っている。
呆けた顔を空に向けていた賢十の鼻先に、冷たい感覚が舞い降りて染み込んだ。それを皮切りに澄んだ夜空で、淡い月と星の輝きを纏った使者が、星の数よりなお多く踊り狂う。賢十が見渡せるちっぽけな世界は瞬く間に、白く白く染まっていった。
「雪か。……早く帰ろう」
一層強まる冷気を、賢十は首をすくめて服の隙間から締め出し、意識的に足を早めた。
雪で見通しが悪くなった視界は、元々家の塀と街灯と電柱しか映してなかったことも相まって、同じ場所を幾度となく彷徨っているような錯覚を引き起こす。慣れた道でなければ、雪の夜に外出する気など起きないだろう。賢十は無心に足を前へ前へと放った。
賢十が住むアパートが近くなってくると、ぼんやりしていた彼の意識は緩慢に収束した。睡魔の攻勢はより執拗になってきていたが思考と視野は精彩を取り戻していた。彼方では、すっかり雪景色に溶け込んだ狭窄な十字路が、街灯の白々しい光を受けて照り返している。街灯が薄らげた夜の一角に降り注ぐ雪達の輝きは一等星にさえ匹敵した。
あの十字路の先にアパートはある。体力はどうしようもなかったが、気力だけは回復してきた。賢十は足に更なる力を込めて、積もったばかりの雪を蹴った。まだ汚されていない雪は踏むたびに靴底がいくらか沈んだが、無視できる範囲である。集結したささやかな光を見つめ続ける賢十の目線が、足元に向けられることはなかった。
もしかしたら、賢十が夜間のちっぽけな光に惹かれたのは運命だったのかもしれない。街灯の下を、白い影が、薄らがない夜空色の軌跡を伴って走り抜けた。終始目を離さなければ見逃したことは間違いない瑣末な変動だったが、賢十は眠た眼でも見落とさなかった。それから賢十が走り出すのに一秒ともかからなかった。


「おい……霰なんだろ!」
 雪に埋め尽くされた道を走る小さな背中は、怯えたように震えて、それでも決心できずに数歩進んで、歩みを止めた。一日ぶりの霰は、緩慢な動作で振り返った。賢十も荒い息を整えつつ相対した。
「賢十、さん……」
 宵闇に合っても静謐な輝きを絶やさない青の瞳は、微かに揺れている。戦慄しているようにも見えた。霰がそんな調子なので、出会い頭にまくし立てるつもりでいた賢十は、すっかり出鼻をくじかれた。
「どうしたんだよ、お前。突然出て行って」
 そう言いながら、賢十は安堵している自分に気がついた。どうやら霰が気懸りで仕方がなかったらしい。腹立たしいが、自覚しないではいられなかった。
「あなたこそ、どうして、こんな時間に?」
「アルバイト……仕事だ。今は帰り道で、お前を見つけたんだ」
 話が逸れていたが、霰の内情に強く踏み出せない。賢十は彼女との距離を測りかねていた。
「そうですか。私も知り合いの方に頼まれて、外に出ているところなんです。昨日のことはごめんなさい。急用があって、今まで連絡が取れませんでした」
「……」
 霰は素直な少女だった。どんなものであれ、こんな夜遅く、年端もいかない女の子に外出を強いる用事などまともなことではありえない。例えばそれが嘘でもない限りは。「無駄な嘘はやめろ」と責めたかったが、賢十は吐き出しかけた密かな怒りを空気諸共飲み下した。
「終わったのか?なんなら付き合うよ。夜遅くに女の子一人だと危ないだろ?」
対する霰は、予期できていた賢十の親切心が、今は重くて泣き出しそうになった。けれどすんでの所で抑えた。彼女は自分のことに彼を巻き込みたくない。
「えぇでも、家は近いですから。お気になさらないでください」
 それではまた、なんて言い残して霰は立ち去ろうとする。賢十は彼女に追いすがった。そうしながら、彼女の内面に土足で乗り込む意を決した。このままでは何も出来ないままに霰を見失ってしまう予感がしたからだった。
「なぁ、どうして―――」
 威勢のままに、やや厳しく問い質そうと口を開いた賢十は、言葉を失った。彼は知らず知らずの内に、霰の肩を掴んでいた。その人とは思えぬ冷たさも然ることながら、霰の言葉を介さない遠慮、振り払えば掻き消えるだろう微苦笑が賢十に二の句を告げさせなかった。
「ごめんなさい。とても感謝しています。でも今は……」
 賢十とだけ視線を絡めていた霰は、彼の背後に人の気配を感じた。彼女につられてきた道の方へと意識をやると、雪を踏みしめる緩慢な足音が聞こえた。霰が身を縮ませたのを触れあう肩から察知しつつ、賢十は駆け寄ってきた少年に声をかけた。
「また会ったな、日々希」
 恐ろしい低気温の中でも、日々希は袈裟を着ていた。常の通り長めの茶髪を垂らした日々希は全く寒そうに見えない。もしかしたら服の生地が厚いのかもしれないなどと賢十は意味のない勘ぐりをした。
「いやぁ、修行の帰りでしてね。かく言う賢十くんは?」
「俺はバイト帰りだ」
「高校生がこの時間にバイトですか?」
「事情があるんだ。他人に口出しされる筋合いはない」
「そんなつもりはありません」
 日々希はさも愉快そうにひとしきり哄笑すると、賢十の背に隠れる霰を睥睨した。
「ところで、そちらの女の子はもしや件の、君の悩みの種ですか?」
 時に人に不快感を催させるほど、日々希は鋭い。話題を変えなければ、どこまでも真実を覗き見られる。
「単なる顔見知りの女の子だ。たまたま会ったから、送り届けている。疲れているし、もう夜遅いから急いでんだ、用がないなら明日にしてくれ」
「君がそんなに疲れているのでしたら、僕がその子を送りましょうか?」
「でも、お前……」
 言いたいことがうまい日本語にならず、賢十はもやもやとしたわだかまりを抱えた。人類最大の発明品の一つである言葉の不便さに捕らわれて、それを痛切した。
そんな賢十を見かねたわけではないが、彼の背の影から霰は進み出て賢十と並んだ。賢十が隣りの少女を見下ろすと、彼女は照れ笑いに似た顔で答えた。
「賢十さんはお疲れのようですし、私はあなたの友人に送ってもらうことにします」
 いきなり何を言い出すんだと賢十は彼女に抗議しようとして、そんな権利も、引き止める理由もないことに気づいた。考えてみれば、賢十と霰は出会って数日も経たない程度の仲に過ぎなかった。そう思考が転がり始めたらもう制御できず、忘れていた睡魔がぶり返してきた。
「わかった。なら、俺は帰るよ」
 霰が「さようなら」と呟き、日々希が霰を引き連れる間際に「では、また明日」と囁いたが、彼らの声は賢十の思考を介することなく彼の頭を素通りした。賢十は粘着くような欲求に引きずられて、家路を急いだ。


帰宅した賢十は、早々に寝支度を済ました。もう後はいつでも眠れる。疲れた賢十は眠たくて眠たくて仕方がなかったけれど、布団に入ろうと思えなくて、炬燵で居眠りと目覚めを繰り返していた。
 霰がいなくなった昨日の夜も、そんな風にしていて眠れずじまいだった。彼の思考は霰のことで支配されている。なぜ霰が行方を晦ましたのか、そもそも彼女はどんな少女なのか、答えてくれる者のいない問いが賢十の中で幾重も反復されて止まない。
 賢十と一緒にいる間が短かったからかもしれないが、霰は頑なに身上を隠し、そしておそらく心も閉ざしていた。そんな彼女は昨日、礼も面影も残さず去ってしまった。金品は盗まれていなかったし、他に部屋に変化があったのでもない。ただ何も残さず、希薄な夢のように忽然と姿を消した。
 そのままだったならやがては賢十も忘れていただろう。そうに違いないのだが、霰は先刻、再び賢十の前に現れ、彼と言葉を交わした。先ほどの会話から賢十は、霰が普通でない状況に置かれていることを認めざるを得なかった。なのに、それに触れるとなると怖気づいてしまう自分もいる。自分が何をしたいのか、分からない。
とにかく賢十は、行き場がない気持ちを宥めて空白の時間を埋めたかった。だが煩悶は時間を経るごとに腫れ上がる。愚痴ろうとは考えなかったし、嫌気がさしたりもしなかったが、やりきれない。霰の微笑みの意味を考え出すと、叫びたくなった。
そうして進むことも戻ることもできないでいた賢十の、上着のポケットが震えていた。手を入れて振動の主を取り出すと、マナーモードの携帯電話がメールの着信を告げている。真夜中に無作法な相手を訝しみながらも、日々の習慣として、賢十の腕は機械的に携帯電話を開き、操作した。
『こんな時間にごめん』
 メールの件名はその謝罪の一文だった。当たり前だ、と毒づきながらも賢十はメールを開いた。
『電話したけど、通じなかったからメールで話します』
 そこまでして急ぎで伝えなければならないこととは何なのか、賢十は文字を読む目を急がせた。
『賢十、無理してない?』
「してねぇよ」
 唐突で意外な質問から始まったので、賢十は誰に聞かせるでもなく声を発していた。
『私はもう、賢十が昔のことを乗り越えたと思っていたから、少し心配になったんだ』
「……」
『私のお節介かもしれないけど、一人で無理しないでね。もし苦しかったら……そうじゃなくてもいいけど、電話して。私もお母さんも歓迎するから。
 実花より』
「お前は手紙でも書いてるつもりか」
 自分の心配をされてしまった賢十は軽口以上の言葉をうまく繋げられない。彼の懊悩を引き起こしている霰のことで賢十は頭を使い尽くしていたため、自分のことが抜け落ちていた。だからなのか、そうして人から想われると自分というものが実感できて、安心した。
 自分を見てくれる他人がいないことに人は容易に蝕まれ、己とその価値を見失ってしまう。彼が感じているくすぐったいむず痒さも、得難い幸福感も、他から観測されてようやく立証される。
―――霰は、どうだろうか。
あの少女にも、彼女を見守る存在はいるのだろうか。ともに重ねた時間が浅い賢十にそれは教えられていないけれど、それでも軽くはなかった時間は賢十を真相に導きうるものだった。目を離せば消えてしまいそうな――事実、既に一度、賢十の前から消えた霰が、時折見せた脆さと儚さの根源はなんだ?あんな女の子がどうして夜の街を彷徨っている?その答えを賢十は前々から持ち合わせていたが、扱いに困って無視を決め込んでいた。それが彼の胸中で自ずと浮き彫りになった。幾度吟味しても疑う余地はなかった。
彼女を不安定たらしめているのは、孤独だ。
 ……どうして気づかなかったんだろう。
 そう賢十は自分に問いかけた。ある時期、彼は人格が歪む寸前まで独りで鬱ぎ込み、孤独の渦中にいたから。
 賢十は立ち上がった。あんな辛さをいつまでも霰に味わせていたくはなかった。霰のことが頭から離れなかった、霰に何か施してやりたかった賢十の真の欲望は自覚した。その達成が為には、まず霰に会わなければならない。
 手にしている携帯電話のように虚ろだった賢十は自分を取り戻し、果たしてどこにそんな力があったのか、自身の内に逞しく鼓動する炎熱を燃え上がっていた。
居ても立ってもいられなくなり、賢十はダウンジャケットを羽織りながら部屋を飛び出した。


地面からの雪明りに照らされた道の中央で、賢十は立ち竦んだ。意気込んで動き出したまでは良かったのだが、賢十は霰の家を知らない。霰達と別れた場所まで走ってみたものの、そこでは体温の名残も足跡も、吹き荒れる雪にもみ消されている。試しに日々希の携帯に電話をかけてみたが、通じなかった。僧として修行中には持ち出さないのか、単に忘れただけなのか、どうにも日々希の手元に携帯電話はないらしい。つまり日々希への直接的な連絡手段はない。
無策な自分への横着さに苛立ったが、そうこうしている間に過ぎる時間が惜しかった。迂余曲折する思考回路を理性で抑えこんで制御し、頭を働かせるように自分に言い聞かせた。五感から得られる情報が明細になる。心なしか勢いを増した吹雪に晒されつつ、賢十は疲れた頭を酷使した。
そうしていると、賢十は雪の厚壁の向こうに人影を見出した。こんな時間にどうしたものかと目を凝らしたら、白無垢の着物を着ているらしいと知れた。容赦なく打ち付けられる冷たさの塊から手で顔を庇いつつ、近寄った。
……もしかしたら。
淡い希望が冷えた賢十の身に灯る。
「おい、おーい」
 どうにも彼女は反応が薄い。賢十が知る霰という少女ならば、手を振って呼び返してくれそうなものだが、遠目だとそれらしき動作は見受けられなかった。きっと疲れているのだろう。賢十も憔悴しきっていたが、自分は立ち尽くしておきながら疲労困憊の彼女に動いてもらうよりは、自分から歩み寄りたい。彼女へ近づく賢十は早足を経て駆け足になった。
隔てる雪と空間が減って、彼女の姿が鮮明になる。今も舞い散る雪が如き色白の肌とそれに対をなす濡れ羽色の長髪、華奢な体型、それから―――
「あ、られ、じゃないのか?」
 賢十より頭一つ高い背丈に、漆黒の瞳。その二つの要素は、彼が知る霰とは決定的にに相違している。年の程は推測できないが、大人びた佇まいからして霰はもちろん、賢十と比べても年上のようだ。初見に思えたが、賢十はどこかで彼女を見たことがある気がした。記憶を探ったところ、昨日コンビニにいた女性と合致した。
彼我の距離はもう、互いが一歩進めば接触するところまで狭まっている。
「今晩は」
 月並みながらも礼儀として賢十は挨拶をしてみせたが、相手からの返事はない。声すら聞いたことがない人物ではあったが、躊躇う素振りもなく賢十は訊ねる。
「すみません。ここらで、俺と同じくらいの男子と、ちょっと年下の女の子を見ませんでしたか?女の子はあなたみたいに着物を着ているんですが……」
「……」
 真正面から彼女の視線を受け止めているだけでも怖気を含んだ気まずさに追いやられる。賢十が居心地の悪さを払拭しようと話の話題の選択に手間取っていると、女性が口を開いた。
「霰をかくまっていた男だな?」
 感情がある人間に出せるとは思えない、恐ろしく冷たい声だった。だが同時に、聴く者を魅了する力があった。それは賢十を惹きつけて、彼に、彼女の返事が答えになっていない上に唐突な問いであることなど忘れさせ、真実を吐き出させる。
「そうです」
「なら、ここから最も近い寺に行け。今すぐにだ」
 女性は品定めをするように賢十を睨めつけていたが、睥睨を切り上げて賢十から歩き去っていく。賢十は正気に戻るなり彼女と霰の身元を突き止める希少な手段だと気づいた。彼は女性を追おうとしたが突風が一陣駆け抜け、それに巻き上げられた雪が賢十の視界いっぱいを白一色に染め上げた。それでも賢十は手探りで白い闇を突き進んだが、雪煙を脱した頃には女性の面影も残ってはいなかった。
あの女性にはまだ聞きたいことがあった。霰と関わりがあるらしい女性なら、霰の素性を聞けるだろう。だが現在大切なのは、寺院に行けという言の真偽だ。彼女が言ったことが真実ならば、日々希は霰を寺院に連れ帰ったことになる。確かに寺院にならば日々希の親がいるし、財布なり携帯電話なりを取りに帰ったとも考えられる。初対面の女性が信用に値するかは悩ましいところではあるものの、日々希が寺に戻る理由は十分にあった。ならば……
弾かれたよう賢十は携帯電話を取り出し、寺の電話番号を打ち込んだ。通話ボタンを押してから、今の時刻を顧みて非礼な行為を悔やんだ。けれど、携帯電話は閉じない。優先されるべきは他にある。
鼓膜に響くコール音がもどかしくて焦れったい。足元の雪を踏み固めながら時間の経過をやり過ごした。
賢十が通話を諦めかけた頃、相手側の受話器が上げられた。
『あ、の、もしもし……』
 おどおどしているのによく耳に響く澄んだ声。聞き間違いはない。電話に出たのは賢十が探し求めていた少女だった。知らず知らずのうちに彼は聴覚に意識を集中させた。
「霰か?どうしてお前が……」
 彼の声を聞くと、受話器は黙してしまった。電話をかけてきたのが賢十だと知って、霰は逡巡した。伝えるべきことと、口をついて吐露しそうになる本音が小さな少女の中でせめぎ合った。
「おい、霰なんだろう?どうかしたのか?」
 通信の向こう側での葛藤など知るべくもなく、だが異変は感じ取って彼女を慮った。
「あぁの、いえ、なんでもありません。賢十さんから電話がかかってくると思ってなくて……」
「俺も、寺にかけたらお前が出るとは思ってなかったよ」
 どうやら今の霰は平静とは呼べないらしいと賢十は悟ったが、それでも彼女と会話できる機会を得られたのは僥倖だった。運が悪ければ、持っている霰の情報が皆無の賢十は二度と彼女の声が聞けなくなることもありえたのだ。
「それで、賢十さん。日々希さんに何か用があるんですか?」
 答えようとして僅かな躊躇いを覚えた賢十は、羞恥心も戸惑いも追いやろうと深呼吸を一つして、本心を晒す覚悟を終えた。
「お前って、日々希に送ってもらうって言ってたよな?」
「はい。……はい?」
 突拍子もなく切り出した話題の不自然さに霰はついてこれていない。賢十の内で自身に対する制止の声が高まったが、彼は噛み締めるように、赤裸々な意思を声に出す。
「単刀直入に聞く。お前が帰れる場所はあるのか?」
 携帯電話のスピーカーは頻りに「え?」だの「それは……」だのと先細りする少女の声を賢十の耳に届けた。賢十は密かに己の追求する理想を霰に伝える決意を固めた。
「聞いてくれ、霰」
 一気呵成に願望を述懐しようと、肺に息を貯めた賢十に返ってきたのは、霰の律儀な返事ではなくて無機質な機械音だった。それが知らせるところは唯一つ、通話が途絶したという事実であった。
「今度はどうしたんだ!?」
 電波障害の可能性を考慮して、賢十は再び電話してみたが通じなかった。鬼気迫った気迫で切り出したのが悪かったのだろうか、思わずがせり上がってきた悔恨の念を、「くそっ!くそっ!」口汚い言葉として賢十は吐き出した。
思いの丈を純真無垢だった雪にぶち撒けてしまえば後には何も残らず、気炎が燃え尽きた賢十は諦観的になっていた。熱された感情が冷えきってしまうと、ひどい思い違いをしてきてしまったようにすら思えてそれまでの自分が恥ずかしくなり、自嘲しないではいられない。時間のことを考えたならば、もう帰宅するのが正常だろう。賢十は諦めるか否かの瀬戸際に立たされていた。そして、その気持ちは傾き、心は既に決まりかけている。このまま帰って霰のことは忘れるか、それとも―――。選べるのは二つに一つ。理性の上での話をするならばどちらが適切かは明白だ。無我夢中で動くのは辛いし、冷静になると気恥ずかしくもあって、さらに何かを得られるとは限らない。それでも賢十が選択したのは……

彼女の望み、彼の願い

「たけぇ……」
 寺の社殿を間近で見つめて、賢十は感嘆した。
石の基礎の上に建てられたそれは典型的な禅宗様で、材木の褪せて熟された色合いはそれだけでも積み重なった年季を感じさせ、見るものを感服させる。雪の厳しい冬を幾つも耐え忍んできただけあるらしく、奥底に秘める頑健さが滲み出るようですらあった。それらに加えて何より、高い。立ち並ぶ木よりも背が高いということは前もって分かっていたが、それにしても想像を上回っている。その天を突かんばかりの威容たるや木造としては限界の域に達している。その大きさが、電灯のない夜を背景にして暴力的なまでに見上げるものを、賢十を威圧する。気を抜けば押しつぶされてしまいそうで、眼をそらせば襲い掛かってきそうで。
思わず圧倒されていた賢十は我に返った。気圧されている場合ではない。ここにくるまでには実花の力だって借りたのだから。


「賢十って、こんなに人使い荒かったかなぁ」
 彼女の声音はくぐもっていて聞き取りづらかったが、賢十には届いた。突然の電話で呼び出されたにも関わらず、実花はすぐに駆けつけてくれた。
「……すまん。こんど埋め合わせはするから、急いでくれ」
 そう謝った賢十は思わず腕に力を込めた。
「わ、わかったから、ひっつかないでっ」
「無茶言うなよ」
 第一、フルフェイスヘルメットから始まって手足まで厳重な防寒装備に身を包んだ実花には賢十が触れているかどうかすら分からないだろう。彼は今、実花が運転するスノーモービルに同乗していた。霰との電話が切れた後に彼が呼んだ実花曰く、スノーモービルは「お父さんのを借りた」とのこと。視覚を撹乱する雪は薄まり、活動に不自由はない。
霰に拒否されたらしい賢十であったが、諦める前に悪足掻きすることにした。先刻のアルバイトからの帰り道で、霰が見せた、精一杯の微苦笑。その裏に隠された気持ちを賢十は知らないけれど、女の子のあんな表情をを賢十は見過ごせなかった。憂う気持ちがないと言えば嘘になるが、もう時間は流れて賢十が望んだ通りに現実は動き出している。他の道には目もくれないで目的の達成に全身全霊を費やそうと、賢十は心に決めた。
「実花、寺には何時着く?」
「ねぇ賢十、それ言うの五回目」
 ほとほと呆れ果てた、とでも言いたげな実花の口調。賢十はそれに反論できない。しかし実花は、しかめっ面で進路方向の彼方にある寺を見据える彼の意思を尊重して、聞かれたらその都度予想の範囲で答えていた。それは五回目でも変わらない。
「もうすぐ、着くよ」
「そうか。ありがとう」
「……ねぇ」
 実花は敢えて尋ねずにいたが、やはりそのつっかえは無視できなかった。
「夜中のお寺に、どんな用があるの?」
 ところが賢十は頑なに語ろうとしない。それが気に食わなくて、実花が再度問い詰めようとしたところ、賢十が一言だけ囁いた。聞き取れなかった彼女は「もう一回言って」と促した。
「実花。ごめん。本当に済まないと思うけど、今は別のことで頭が一杯なんだ。落ち着いたら話すから、今は勘弁してくれ」
 異常な静けさを纏った賢十の懇願めいた返答に、実花はやむを得ず追求する口をつぐんだ。
「ほら、見えてきた。あの山のてっぺんがお寺」
 実花が目線で示した建築物を賢十は遠目ながら観察した。
雪を被った木々が茂る小高い山の頂上に、木造建造物の屋根が突き出ている。雪月夜にあっても降り注ぐ純白を拒否しているような、近寄りがたく物々しい雰囲気が賢十にまで届いた。夜の寺の迫力に賢十は気圧された。だが彼が赴いているのはそこで、怖がっている暇はない。実花の影から顔を出し、雪の礫を顔面全体に受けて、賢十は恐怖を取り去った。
一分も過ぎない内に、寺が建つ山の麓までスノーモービルは走った。
「停まるよ。捕まって」
 登った先に重厚な櫓門が待ち構える石の階段の前で実花はスノーモービルを停めた。滑りやすい地面の注意を払いつつ賢十はスノーモービルを降りた。
「事情は知らないけど、気をつけてね」
 らしくないことを言う実花に、賢十は「あぁ。お前も帰り道、気をつけろよ」とらしくない言葉で返した。
「うん」
 スノーモービルを発車させた実花を見送った賢十は、暗い森に挟まれた、辿り着く先の見えない階段を睨んだ。門前の脊柱に座る二匹の狛犬に凄まれつつ、彼は一歩踏み出した。


 入り口に続く四段だけの階段を賢十は一段飛ばしで昇った。厳重に閉められた両開きの扉は近寄りがたくもあったが、彼は意を決して扉に触れている手に力を込めた。長年の月日を感じさせない軽快な動作で扉は開き、漏れだした眩い灯火の光に彼はたじろいだ。
賢十の見渡せる限りだと身動ぎしているのは焚かれた炎とそれに投影された影だけだった。外見どおり高い天上を持つ社殿は闇を塗りつぶすように随所が炎で照らされており、最奥には仏像が鎮座している。
仏像のある奥へ歩きながら、見落としのないように一歩ごとに視線を張り巡らせた。だが、いよいよ仏像が触れられる所まで来ても発見らしい発見はなかった。思い直せば、電話が社殿に有るとは考えにくい。早とちりをするほどに焦っている自分をおかしく思いつつ賢十は踵を返して、
「あ?」
 最初は耳がくすぐったかった。他に気になるものもないので、物は試しと賢十が空気の微動に意識の全てを注ぐと―――
「お…は………だ?」
彼の聴覚は、限りなく雑音に近くて、くぐもった、しかし聞き間違いようのない人の肉声を拾った。見知った人物のものかは定かではないが少なくとも女性の声ではないので、霰が発したものでないことは確かだ。こんな時間にお経でも唱えているのだろうか。賢十の好奇の欲望が頭をもたげた。
邪魔をしないため、声を発した男を探りだすため、賢十は身振りからも呼吸からも音を消して耳を澄ました。
「……が……な…ず………る…。お…に………が……」
 今度は別の男の声だった。そしてそれらは仏像の奥から聞こえる。床板の些細な軋みさえ煩わしく思いながら賢十が仏像の裏へ回ると、古びた脆い木の引き戸がある。完全に閉まりきっておらず、その戸が通じる部屋から、堂内の篝火よりも濃密な光が差しこんで夜闇の残滓を容赦なく切り裂いている。彼はそっと戸の隙間に忍び寄り、耳を傾けた。
「彼女は、真実を語る気がないようですね」
 賢十の鼓動が跳ね上がった。鮮明に聞こえた声に聞き覚えがある。普段の厭味ったらしさはないが、会話している片割れは彼の友人で間違いない。
「父さん」
 どうやら賢十の友人が話している相手は、彼の父親らしい。賢十との面識はない。
「なんだ?」
「正体の究明は急がなければならないのでは?もしそいつが、あちらがわの謀略ならば、手段を選ぶ余裕などないのでは……」
 『そいつ』とは誰か、『あちらがわ』とはどの陣営を指しているのか、そもそも問答の趣旨はなんなのか。穏やかな話でないらしいことは張り詰めた緊張から予想できたが、指示語が表す対象、その意味に関して賢十は無知だった。
「焦るな、日々希。お前が言う通りにするのは最後の決着の時だ」
 父親は日々希を宥めてこそいるが、最悪の結末が不可避なのは確定していた。
「ですがっ」
「今は大詰めだ。もうじきことが片付く。ここでしくじる訳にはいかない」
「……」
 日々希の不服げな無言を父親は気に留めない。
「その娘の名はなんという?」
「彼女を匿っていた男は、」
 無言を貫き、一切の反応を示さずにいた賢十は、
「―――霰、と呼んでいました」
 たったその一言を聞いた刹那、意識の最も深遠たる場所に雷が落ちたような衝撃に打たれた。体の至る所で筋肉が緊張して目が見開かれ、呼吸が自らの意志で制御できない。会話の推移から考えられる所は、霰が囚われて、そして、このままでは陰惨な末路を辿るということ。見知らぬ世界に飛び込んだ賢十には、理解の外にある話だった。荒い呼吸を繰り返すと、辛うじて動悸が収まった。状況を見極め、判断する余裕も戻ってきた。
賢十は物音を立てすぎた。おそらく見つかっただろう、そう予感して、立ち去る前に彼は敢然と部屋を覗きこんだ。

「「……っ!?」」水色の瞳との再びの遭遇は妙な既視感があった。

 形容しがたい熱い湯のような喜びが賢十を優しく暖めたが、それまでの経緯を思えば彼女のこれからを憂慮しないではいられない。彼はその場を立ち去る踏ん切りがつかなくなった。
「父さん、客人のようですね」
 誰かが立ち上がったことは物音から知れた。逃げろ、逃げろと本能が声高に叫ぶ。賢十は霰を置いて逃げたくはなかった。が、ここで捕まればどうなるか、わかったものではない。
「……ちくしょうっ……」
感情を理性に服従させて、賢十は極力足音をたてない全力疾走で社殿を飛び出た。とはいえ寺院の敷地から出て行こうとしているのではない。幸運にも、ちらつく雪が足跡を埋めていた。天から降り注ぐ白い結晶に瑣末な感謝の念を抱きつつ、賢十は、雪で塞がりかけている縁側の下に体を捩じ込んだ。


覚悟していたものの、賢十が潜むそこは寒さが厳しく賢十は震えて我慢している。過ぎた時間は永遠にすら感じられたが、実際のところ、半刻も過ぎてはいないのだろう。
「そろそろ、だな」
 雪を払いのけて、寺の僧を警戒しながら、賢十は静かに縁の下を抜けだした。僧は見当たらず、彼は胸を撫で下ろした。それからふっと浮かんだ逃げという選択肢を切り捨てて、姿勢を低くしながら社殿に侵入した。
思い描いたままに事態が進むので賢十はやや拍子抜けしたが、それに越したことはないのだと思い直した。気を緩めずに堂内を歩き、例の、霰が居た部屋の前にまで戻ってきた。
今度は完全に戸は閉まっている。
「ふぅ……」
気を入れ直し、賢十は慎重に戸を引き、部屋の中を窺った。
「……」
 札を始めとした呪術的品々がいくつも置かれた小部屋の中央で霰は正座し、その純粋な青の眼で賢十の顔をのぞき込んでいる。魅了されたように賢十は彼女に歩み寄り、膝をついて中腰になった。
「よぅ……霰」
 賢十の登場に狼狽して霰は声を発せずにいるので、賢十は冗談交じりに口火を切った。
「なぁ、参拝にしては遅すぎやしないか?日々希もいないようだし……」
 彼の軽口を意に介さず、霰は困惑を振り払った。
「賢十さん、今すぐ、ここを立ち去って下さい」
 囁き声のようで、けれど凛と澄んでいて、聞こえないふりは出来そうにない。
「悪いが、断る」
 素っ気ない賢十を、霰はきつく睨んだ。幼い容貌にしては迫力があったが、睨み始める寸前に見せた泣き顔のせいで彼を動じさせるには至らない。ちょっとやそっとでは賢十は挫けない、そんなことを改めて見せつけられて、霰は口を割った。
「わかりました。では、事情をお話しするので、それから判断して下さい」
 どんな逆境だろうが跳ね除けてやる、だなんて賢十は心中で意気込んだが、表向きには大人しく「話してくれ」と頼んだ。
「賢十さんは、先ほど、どれくらい、日々希さん達の話を聞いていましたか?」
「はっきり聞こえたのは……お前が本当のことを言う気がない、と日々希のやつが話したところからだ」
 賢十の発言を吟味するように静思した霰は、苦いものが混じった微笑を浮かべてから、滔々と語りはじめた。
「でしたらあなたは、私は日々希さん達から狙われいるという話を聞きましたね?」
「あぁ。だから、早くここを――」
「それはできません。私はここから動けません。それに、日々希さん達の行為は、正当な理由があってのことです。なぜなら、……私達の一族は」
 一時言い淀んだと思ったら霰は深く息を吸って、物語りを再開した。
「たくさんの人間を、殺して来ました」
 冗談を言っている風には見えない、確固とした真剣みが今の霰にはあった。賢十は茶化すこともできないで霰の話を傾聴する。
「私達が殺してきた人々の数はもう数え切れなくて、決して、償えません」
「なぁ、それはお前も、なのか?」
 ほんの数時間でも傍にいた賢十には、目の前で優しい笑みを浮かべる少女までもが、彼女の言う一族らと同類の殺人鬼だとは到底考えられなかった。或るいは信じたくなかったのかもしれない。
「はい。昨日の明朝のことを覚えていますか?」
 彼女が口にした朝を賢十は思い出した。寝ぼけていたの記憶が点で曖昧だが、そういえばあの朝の霰は不審な慌て方をしていた。
 ―――けれど、まさか。不意に浮かんだ想像の残酷さに、賢十の表情が引き攣った。邪推が当たっていないことを一心に彼は祈った。
「私はあの時、あなたを殺そうてしていました。もし起きなかったら、私はあなたを手にかけていたことでしょう」
 一番言わないでもらいたかった、だけど感づけていた事実を霰は自白してしまった。霰は虚偽を吐いた風ではない。賢十の祈りは虚しくも届かなかった。
「わかりましたか?私は逃した獲物をなんて見ていたくないんです。自分の失態を見せつけられるようで恥ずかしいですから。なので早く、どこか、消えて下さいっ」
 霰は語っている間ずっと、微笑んでいた。それは尚も崩れない。
賢十の経験に、霰が述べたことを打ち消せる材料はない。彼の出番は終わった。いや、とっくに終わっていた。理屈でものをいうのなら、そうだと悟って、けれど賢十は微動だにできなかった。今度こそは意地でもしがみつきたかった。実花の協力まで得てここまで来たのだ、手ぶらで帰ることなんでしたくない。
一度は揺らいだ賢十の意思が、再度、纏め上げられていく。
「なにをしてるんですか?お願いですから、出て行ってくださいよ」
 立ち尽くす賢十に向けた霰の言葉は、彼の自室にいた時とは考えられなほどに辛辣である。だが、賢十を動かすには足りない、という点では同じ事だった。
「断る」
 目を見開いた霰は、動揺を隠そうとして口を真一文字に引き結んだ。彼女のちっぽけな決意の表明だった。
「だったら、この場であなたを始末しますよ?」
 霰の脅しを笑い飛ばし、賢十は目を瞑って全身を弛緩させた。
「やってみろよ」
「……え?」
「だから、俺は退く気がないから、その気があるなら俺を殺せ」
 己を人質にとる、作戦とも呼べぬ博打に賢十は打って出た。恐怖はしていない。理論なんて蹴飛ばした直観で、賢十は霰には人を殺せないと確信している。だから彼は怖くなんてない。一刻も早く霰の説得を終えたかった。
「……」
 さっきまでの威勢はどこへやら、霰はすっかり黙ってしまった。それから目を閉じている少年と沈黙を貫く少女の相対は数分維持された。
なので、賢十が盤石となった平静に油断しきるのは避けがたい事態であった。賢十は、部屋の外で会話を盗み聞きするものに、そいつが戸が開くまで気づけなかった。
「おやおや。侵入者はあなたでしたか、賢十くん」
「日々希……!?」
 振り返ると、袈裟衣姿の日々希が半ばまで開かれた戸から顔を覗かせていた。そこに張り付くい表情は先程までの霰のそれと同等の筈だが、賢十には怖気が走るほど不吉に見えた。日々希は賢十が部屋に戻るのを待ち伏せていていたのだ。
「お前、霰を家まで送り届けるんじゃなかったのかよ」
「事情は、彼女から粗方聞いているでしょう。私は自分の責務として、彼女の贖罪に協力しているだけですよ。聞いていたでしょう、彼女たち一族の話を」
「どうせ……霰が俺を遠ざけるための出任せだろう?だからそいつは俺に手出しなんて出来ない」
 侵入者、という賢十の立場は日々希からすれば格下だが、言い争いなろうとも賢十は退かない。頑固な彼を、困りましたね、といった感じで日々希は睥睨してみて、変化がない判断するや日々希は観念したように言う。
「わかりました。私は賢十くんの性格を見誤ったようだ。お教えしましょう、そこの少女がどんな存在であるかを」
 勿体ぶった日々希の物言いに気を取られる賢十の後ろで、霰は歯噛みしていた。
「賢十くんは妖怪の存在を信じますか?」
 意味を問いたいところだが、どうせ煙に巻かれるだろうから賢十は素直に答えることにした。
「いない、とは思わない。けれど絶対いるとも思っていない」
 ふっ、と日々希は賢十の月並みさを笑った。
「まぁ、多くの人の答えはそんなようなものでしょう。……賢十くん、もちろん僕は意味もなく質問をした訳ではない。霰でしたか、その子はそういう存在だ」
「そうなのか」
 突飛な話だというのに、賢十は日々希の言で納得すらした。霰はそう信じさせるだけの、常人にはない何かがある。
「意外に動じませんね。疑うものだと思っていましたが」
 賢十の反応を楽しみたかった日々希は期待が外れて、顔に出さずとも、気を悪くした。
「霰さん、いい加減にご自分の口から種族を教えてくれませんかね?」
 霰は俯きながら、声を絞り出す。
「私は、人間です」
 頑なな霰を、軽蔑する風に日々希は鼻を鳴らした。
「……まったく、頑固な女だ。彼女の何の妖怪なのか、賢十くんはもしかしたら見当がついているのでは?」
 彼女の常任委はない特徴を頭の中で並べた。冷たいからだに類まれなる美貌を兼ね備えた、冬の妖怪。状況証拠と直感が導いた結論でありながらも賢十は確信を持って呟いた。
「雪女か?」
 一抹の事実を自分と霰に突きつけるその行為は、日々希を満足させた。
「その通りですよ。彼女は雪女――人の命を糧にして生きてきた、感情もない雪の精だ」
 日々希が言ったことの中に、賢十には腑に落ちないことがあった。
「感情がない?」
 霰が見せた数々の多彩な表情も感情も全て嘘偽りだとでも言うのか?少なくとも賢十の記憶の中で、霰は賑やかつ多感な少女で、日々希の言葉をそのまま飲み込む気にはなれなかった。
「えぇ。その雪女は、賢十くんが思うようなものではありません。君が言ったようにそいつが君を襲わないでいるのは、結界を張って彼女を閉じ込めているからでしてね。君を傷つけなく無いから、なんて理由からではありませんよ」
 ゆっくりと、賢十は、彼の背後で佇む少女に向き直りあぐらをかいた。
「本当なのか、霰?」
「それは……。はい。その通りです。ばれてしまいましたね」
 顔を上げた霰は、苦々しそうに微笑んでいた。
「日々希、結界なんてほんとにあるのか?見えないんだが」
「えぇ。そもそも結界とは可視的なものではありませんから。彼女の周りに札などを配置してあるのはそのためでしてね。死にたくなければ不用意には触らないことだ」
 日々希の懇切丁寧な説明を聞き届けて、賢十は物憂げに「そうか……」と返した。それから、一息の間に心を落ちつけた彼は、膝を立てて、
「日々希、すまん。俺は馬鹿だ」
「そんなことは実花さんの話を聞いていればわかりますよ」と日々希は最後まで言い切らせてもらえなかった。
「うおおぉ!」
 立ち上がりざまに賢十は肩で日々希を突き飛ばした。日々希は賢十の突発的な奇行に虚を衝かれて状況の把握が遅れ、決定的な隙を作ってしまった。日々希の数瞬に渡る思考停止につけ込んだ賢十は、霰を包囲するように配置してある札やら怪しげな道具やらを蹴飛ばし、冷たい雪肌の手を固く握った。
「賢十さん、待って、やめて」
 か細い霰の制止を無視し、賢十は霰の手を引いて日々希の脇を通り抜け、小部屋を飛び出た。意外なことに日々希は仲間を全く呼んでおらず、夜気が余すところ無く社殿を満たしている。駆け出そうとした賢十の背後で日々希が立ち上がった。
「待ちなさい!君は一体何を考えているんだ!?」
日々希の声に引き止められたように賢十は振り返った。賢十を睨む日々希の目つきは鋭かった。だがそれは、ただ賢十に激昂しているようには見えない。むしろ彼の身を案じている風すらに見えたのは賢十のお人好しな性分のせいか。
「日々希、俺達に少しだけ、時間をくれ」
「そんな戯言を、本気で言っているのですか?」
「本気だから、言っているんだ」
 二人の少年の対峙は長続きせず、賢十は身を翻した。「夜明けまでには戻ってきてください。僕一人で待っています」というある種の警告を背に受けた賢十は、そのまま誰にも進路を妨害されずに、半ば引きずる形で霰を社殿の外に連れ出す。
「賢十さん、お願いですから、あなただけで逃げて、逃げて……っ」
 半狂乱にも見える霰の必死の声音は、ひどく形容しがたい無数の悲嘆や心痛が無秩序に織り交ぜられたものであった。賢十が聞きたいのそんな嗚咽のような声ではない。
「走れっ!」
 少女の負の念を打ち消さんばかりに彼は声を張り上げて、寺を囲む林へと分け入り、駆け抜けた。最初は賢十に反駁しようとしていたが、走る内に賢十について行くことに腐心していた。数えきれないほどに雪に足を取られながらも、彼らの逃避行は体力の限界も超えて続いた。


 森は、特に大木の幹に付近は雪が少ない。足がいうことを聞かなくなるまで走り抜いた賢十と霰は、そこに腰掛けて同じ一本の木に寄りかかっていた。
天上の枝々を掻い潜って舞い降りた雪が、霰の着物の膝に載って溶けた。
「ごめんなさい、賢十さん。こんなことに巻き込んでしまって」
 息も絶え絶えなのに、霰は謝罪する。自分からやめるつもりは無さそうだ。
「気にすんな。俺がやりたくてやったことだ」
「ですけど、私は本当に、妖怪です。人ではありません。そんな私を助けてしまって……」
「お前が妖怪だろうが人だろうが、俺から見れば大して変わらない」
これは霰を激励するためだけの出任せではなかった。彼女の言葉には、端々に人間でないことへの気後れが滲んでいるので賢十は使う言葉を慎重に吟味したけれど、賢十から見た霰という女の子が激変してしまうわけではない。
「ですけどっ、もし私が本当に賢十さんを殺すつもりでいたら、今頃あなたは……」
「俺も途中までは、日々希の話を信じていたよ。あいつとの付き合いのが長いからな」
「だったら、どうしてっ?」
 霰は賢十を押し倒しかねない威勢で、彼を問い詰める。賢十はといえば、気まずそうに頬を掻いて誤魔化しを試みたが、霰の常にはない眼力に押し負けた。
「お前は、自分が辛い時にどんな顔をしているか、分かるか?」
「わ、私は辛くたって顔には出しません」
 その場限りの強がりで霰がそんなことを言い張っているのではない。賢十も重々承知している。
「確かにお前は、さっきなんかもずっと、微笑んでいたよ。お前は強いやつだ」
 強いやつ、と呼ばれた霰は落ち込んだ風に、地面を這う木の根をなぞった。
「……だけどな、その笑顔は、お前が一番苦しい瞬間にだけ、苦笑いみたいになるんだ。困ったってな感じの笑い方でな、だから助けないと気が済まなくなった。それだけだ」
 思ったよりも向こう見ずな性分の賢十に、霰は若干呆れてしまった。
「もし私があなたを殺そうとしたら、どうするつもりだったんですか?」
 考えてもみなかった、とは流石に白状できず、賢十は実際にそうなった場合を想像して答える。
「そうなったら、諦めて殺された。日々希を信じなかったから死ぬことになったんなら、恨めしいのは自分だけだ」
 無茶苦茶ですね。霰が正直に漏らした一言の感慨に、賢十は苦笑いするばかりだった。
呑気に笑う少年に、霰は、でも、と切り出した。
「あなたの優しさは素敵です」
 仄かな薄明かりに照らされた霰の頬は、寒さのせいか薄紅色に染まっている。雪が降る夜に溶け入りそうな美貌の笑顔と、彼女だからこその混じりっけなしの称賛は、年頃の少年が耐えられるものではなかった。
「や、優しいっていうのなら、お前も負けてないだろう」
 当初、霰は賢十が何を言おうとしているのか本気で思い当たらなかった。霰の部分的な鈍感をもどかしく思いながらも賢十は訊ねる。
「俺を厄介事に関わらせないために、俺を殺すつもりでいただなんてはったりかましたんだろ?」
「それは、その……」
 素直に認めてしまうのはあまりにも面映く、それ以外の居た堪れなさも相まって、霰は口ごもる。彼女のその様を賢十は肯定と受け取り、続けてあと一つ、気になっていたことを尋ねた。
「なぁ。こんなことは聞かないほうがいいかもしれないし、嫌なら答えなくてもいい。……お前はどうして、途中まで人間だと言い張ったんだ?」
 霰は賢十の真意を探ろうと彼の顔を覗きこむ。
「どうして、そんなことを聞くんですか?」
「どうしてって……それは、俺が気になったからだ。おかしな好奇心だとは分かっている。無理に答えろとは言わない」
 霰はしばし思索に耽け、降参です、とでも言いたげに小さな声を上げて薄く笑った。
「あなたになら、話してもよさそうですね」
 果たして今のやり取りのどこに霰の心を解く鍵があったのか、彼女は顔を綻ばせて、木々の合間で瞬く星々を見上げながら告げた。
「私は、幼少からおばあちゃんに育てられました。両親が居たのかも覚えていません」
 霰が両親のことを聞かれると迷った末に黙りこみ、おばあちゃんのことになると堰を切ったように話しだした原因はそれだった。
「その『おばあちゃん』も雪女なのか?」
 目線の先を賢十の目まで下げて、目を瞑りながら霰は首を横に振った。
「いえ、私と違って、おばあちゃんは普通の人間です。おばあちゃんは私を、人間として、育ててくれました」
 『おばあちゃん』の話をしている霰は、暖房のない部屋でストーブに身を寄せる時のように心地よさそうだった。
「そんなふうに育てられたから、お前は人だと言っていたのか」
「はい」
 これ以上はないと言った感じで、霰はきっぱりと明言した。
「おばあちゃんは私を人として育てたから、私は、人でいたい、なんて。思っちゃったんですよ。現実逃避だって気づいているのに、認めたくないんです」
 彼女が初めて自らの来歴の深くを明かしてくれた。その霰なりの信用に応えたくて、賢十は「お前は人間だ」なんて言って励ましたかったが、終に口にすることはなかった。その場限りの気休めを言ってしまえば賢十からしてみても霰からしてみても気楽でいられるだろう。けれども、そういう中身の無い言葉は、辛辣な事実よりも深く心に結びつきいつかは質の悪い毒になる。少しずつ、長い時間をかけて、それは心を侵していくのだ。
「……すみません。こんな話をしてしまって。大丈夫ですよ。人でも妖怪でも、私は私だって分かってますから」
賢十の思い悩む姿を見かねた霰は独白を撤回してしまった。
「……すまない」
「謝らないでくださいよ」
 気に寄りかかりながら賢十を見上げる霰は、困ったような顔をした。それでもやはり、微笑んでいた。
「なぁ、霰。夜明けまで、あとどれくらいあるだろうか」
「月はもう東へ傾いてますし、そう長くはないかと思います」
 霰につられて賢十も欠けた月を目で追った。
「だな。眠る時間も無さそうだ」
「もし良ければ、私が膝枕で寝かせてあげましょうか?時間になったら起こしますよ」
 唐突なお誘いに思わず賢十は霰の横顔を、目を限界まで見開いて見やった。彼女は実に澄ました涼しげな表情で、淡い朱色の薄い唇に悪戯っぽい笑みを湛えている。からかわれたと気づいた賢十は何を言うでもなく、不機嫌顔で黙り込んだ。拗ねた賢十にどう応対して良いか分からず、霰は気まずそうになんども賢十の顔色を窺った。
二人の間に流れる時間が緩やかなものであっても、この世の理として時間は過ぎ去る。賢十だって霰だって、伝えきれていないのに伝えたいことは山ほどあった。
「なぁ」「あの」
「霰から話してくれ」
 彼女の希望を聞いた上で、どんな行動に出るか結論づけたい賢十は発言権を霰に譲った。
「あ、やっぱり私は……」なんて遠慮しようとするので、「さっさと話せ」と強引に押し切った。霰は頬を膨らませたと思ったら仕方がありませんといった風にして口を開いた。
「賢十さん。ごめんなさい。……私は、このままあなたと逃げてしまいたい」
「行く宛はあるのか?」
「ありません」
「だろうと思っていた」
「えぇと、すみません、今の言い方ですと語弊がありました。私は生きながらえたいのではありません」
 こほん、と咳払いをした霰は、大人びた表情でいて、これまで前面に出ていたあどけなさはなりを潜めている。彼女は今度こそ、本当に大事なことを話そうとしていた。単に生き延びることは彼女の願いではないらしいのが賢十は意外で、彼は居住まいを正して霰の語り口に耳を澄ました。
「私が行きたいのは賢十さんの部屋、あなたが住まう世界です」
「俺の……?」
「はい。賢十さんのような人がいる世界には、きっと優しい光が溢れているから、そこで過ごす時間が欲しいんです。三日も要りませんから。これ以上は望みませんから。最後にその幸せがあれば、もう後悔はありません」
 社会は楽なことばかりではない、などと指摘する無粋は、冗談でも言おうとは思えなかった。賢十には、運命と向き合う霰を馬鹿になんて出来ない。彼女なりに決意を固めて、それでも残ってしまった最期の願いを明かしてくれたのだと彼に伝わったから。賢十は心の底からそれを叶えてやりたかったが、運命を甘受しようとする姿勢が気に食わなくもあった。
「お前の考えは分かった。今度は、俺の話を聞いてくれ」
「はい、もちろん」
 改めて話そうとなると、賢十は切り出し方に迷った。自室で立ち上がった時には決断していて、今までも何時は話そうかと機を窺っていたのだが、うまい頃合いを掴めないでいたのだった。
「霰は今、戻れる場所はあるか?」
「……」
 答えられないのはそれが事実だから。自分にも身に覚えがあるので、賢十は彼女の沈黙に痛いほどの共感を抱いた。
「実はな、俺もお前のように、当て所もなく彷徨った末に他人の家に居候したことがある」
 霰への共感に記憶を呼び起こされた賢十は、我に返った時にはそんな独白を始めていた。理由や目的があるが故の行動ではなく、静かな衝動に突き動かされたからだった。そして、賢十が語ろうとしている過去は彼がこれまで多くの人から隠してきたものだった。全部を話す勇気はない。しかし部分的とはいえ、それを吐露するのは弱みを見せること他ならないのだけれど、止めようなんて絶対に思えない。霰は多少なりとも心の内側を晒してくれたから、賢十も自分を明かすことで誠意を示したかった。
「俺を泊めてくれたのは、今の友達の母親なんだ。その人は突然現れて事情も話さない俺を、一人暮らしを始めるまで、養ってくれた」
 今になってみると、その豪胆さが社会的正義に適っているとは言えないと分かる。けれど一寸の疑いを挟む余地もなく、
「俺はあの人に救われた」
 ふと我に返って霰の顔を盗み見ると、珍しく微笑を消した真剣な眼差しで、彼女は賢十の話に聞き入っていた。だからその先も臆面なく声に出せる。
「霰、俺の部屋に来ないか?昔の俺のようなお前を、俺は放っておけない。助けたいんだ。だから俺に、お前を支えさせてくれ。お前が旅立つ日まで」
 言い切るかどうかというところで賢十は頭を下げた。懇願と、無防備な真意を曝け出したがために熱くなった顔を見せまいとして。
「何があるかわからないから、お前は待っていてくれ。また後で」
 目を合わせる勇気がなかった賢十は、彼の宣言を聞いた霰がどんな表情をしたのかも確かめずに脱兎の如く走り去った。


足が枝切れよりも頼りなくなり転んだ回数が十を超えた頃、連なる木々の切れ間が見えた。社殿は相も変わらず、老熟した武士が如き物々しい威容で鎮座している。一本の大木と茂みを隠れ蓑にして、賢十は、日々希達の動向を探った。彼が隠れてから程なくして、社殿より数人の僧が出てきた。全員が一様に袈裟を着ているが、坊主頭なのは数えるほどしかいない。最後尾に、全体からやや遅れて、日々希とその父が社殿から現れた。日々希の足取りは覚束ない。彼は父に、強く叱咤されていた。話の内容までは聞き取れないものの、賢十は、彼と霰を取り逃がしたことで日々希が咎められているだろうと勘づいてしまえた。今すぐ日々希の父の眼前に飛び出して、日々希の失態は自分が為であると弁明したかった。でもそれは多くの危険を、例えば捕まって霰の居場所を聞き出されてしまう可能性を孕んでいる。賢十は目を瞑って自罰の思いを耐え忍んだ。
賢十が目を開いて再び社殿とその周囲を観察した時には、僧の一団は解散し終えており、一人たりとも残ってはいなかった。
それでも賢十は慎重に、疑り深く物陰から監視する目を警戒し、誰も居ないと判断すると疲れ切っていた足に無理強いして社殿まで疾走した。
妨害なく賢十は社殿まで戻ってこれた。彼は足を止めずに小走りでお堂を突っ切って仏像の背後に回りこみ、例の小部屋の戸を叩いた。
「入って来なさい」
 賢十は戸を小さく開いて体を滑り込ませて、後ろ手で戸を閉めた。
「遅くなったな、日々希」
 日々希は仲間を同席させていない。対する賢十も約束を果たした。こんな状況下での互いの正々堂々とした振る舞いを、彼らは驚くに値しない、とばかりに意に介さない。賭けだとするならば負けるのが道理だろうに、賢十も日々希もそうなることを確信していた。実に非凡で凡庸な友情はまだ効力を発揮している。賢十が頼りにできるのは、その不確かなものだけ。
「そうでもありません。霰さんは連れてきていないようですが……良い時間は過ごせましたかね?」
「あぁ。そんで、腹が決まったよ」
 緊張を解きほぐし、声を明瞭にするために、賢十は言葉の合間に深呼吸を一つ置いた。
「単刀直入に言わせてもらう。霰を、見逃してくれ。あいつはお前が言うような人殺しの化け物じゃない」
 もう日々希は賢十のことを笑わなかった。というよりも呆れ果てていた。
「君の愚直さは、或いは、評価されるべきなのかもしれませんが、事ここに至っては愚かしいだけですね」
 軽口を叩く余裕を賢十は持ち合わせていない。日々希の言葉の意味する所を問おうと無言を貫いた。賢十が沈黙する間に日々希は熟考を重ね、ある決断を下した。
「少し、話しをしましょうか。雪女について」
「聞かせてくれ」
 唾を飲み込み、賢十は話の続きを促した。
「元々ここは、妖怪が多い土地でした。人を襲うものも少なくなかった。その中でも、雪が多い地方ですから、雪女は脅威でした」
 現実的かどうかは別として、寒冷な地域で雪女が強大だった、というには理にかなっているように賢十には思えた。
「雪女は、人の生気を生きる糧とします。さらに感情のない奴らに慈悲はありません。かつての村落からは、毎年、多くの『凍死者』が出たらしい」
 この場合の『凍死者』とはすなわち、雪女の餌食になった人々ということなのだろう。
「そして死者の大半は男だったそうです。雪女達の美貌は、数え切れないほどの男を死に誘い込んできたんだ」
「お前は……、俺が霰にたぶらかされていると言いたいのか?」
「えぇ。奴らは男を丸め込んでしまえば、あとは口付け一つで命を吸い出せてしまう。あの少女は確かに人ではありえないほどに美しくはあります。が、それは君のようないたいけな少年を惑わすためだ」
 皮肉交じりに言っているが、日々希はつまり、賢十に忠告しているのだった。お前は騙されている、直に殺されるぞ、と。
「日々希。まず礼を言わせてくれ。ありがとう。お前は俺が思っていたよりも良い奴だ」
「そんなことを言って油断させる、というのはもう勘弁して下さいよ」
 おどけた口調がどこまで本気かは計れない。仮に日々希が鎌をかけたのだとしたら、その用心は見当外れということになる。
「お前がそういう人間だということを踏まえて頼む。霰を信じてやってくれ」
 日々希は不本意だとばかりに眉をひそめた。
「賢十くんは勘違いをしているようですが」
 一旦言葉を区切って、日々希は賢十を一瞥する。
「僕達は無差別の愛によって戦っているのではありません。この寺が属する流派の僧は、人間を妖怪から守るために戦って来ました。禅を組んで経を唱えてきたのも、超自然の存在たる妖怪を滅ぼす力を得るため。妖怪を助けるはずがないんですよ」
 賢十を諌めようとする日々希に、賢十はそれでも自分の正義を語る。
「んなもん建前だ。お前だって、誰もかも助けたいだろう?あいつと俺たちに、なんの違いがあるんだよ、なぁ!?」
 日々希は賢十の頑固さ加減に屈服し、目を伏せた。
「どうやら、ここまでのようですね。……君はもっと話が通じる相手だと思っていた」
 もはや日々希は完全に、賢十に愛想を尽かしていた。
「おい、それってどういう――」
 賢十が日々希に詰め寄ろうとする寸前で、小部屋の薄い扉が蹴破られる。慌てて賢十は逃げ道を模索するがそもそも出入りできる場所は唯一、今は壊された戸だけ。そこから何人もの僧が雪崩れ込んできている。逃げ場はない。賢十は足を引っ掛けられて木板の床に転がされ、痛くて呻こうとするとその余地も与えられずに四肢を締め上げられて頬を冷たい床に押し付けられた。
「は……なせ……っ!」
 声も満足に出せず、だが気勢は衰えず、賢十は獣が唸るように喚いた。彼とは対照的に近寄ってきた日々希の態度は事務的で冷淡だった。日々希は賢十の頭の横で膝立ちになって、命じる。
「さぁ、あの雪女の居場所を吐きなさい。でないとたくさんの人命が失われてしまいましてね、あまり物分かりが悪いようでしたら、相応の対処を覚悟してもらいますよ」
 熱が篭っていないようでいて、日々希の命令には迫力があった。彼の人間を守ろうとする意思は本物なのだ。だけど賢十だって、霰を見殺しにしたくない。そんなことできるはずがなかった。
「おい日々希!お前は知らねぇだろうけどなっ、霰はよくムキになって怒るし、悲しそうな顔をしたりする時もある。小さなことで嬉しそうにするし、見惚れるほど綺麗に微笑んだりもするんだ!」
「だから、どうしたと?あの妖怪は――」
「人殺しなんかじゃねぇ、絶っ対に!霰はただの、無邪気で素直で、そんな人間の女の子なんだっ!!」
 我武者羅に叫んだ。理路整然となんてしていなくとも、無様でも構わない。一心に霰が曇りのない微笑のまま過ごせる世界を切望して、雄叫びを上げた。
「賢十さん……っ」
 悲痛な賢十に呼ばれたように一人の少女が小部屋に飛び込んで来た。彼女が纏う白無垢の着物はほつれや破れが目立ち、下駄を履いていた足は裸足になっている。
「なぜ雪女がここにきた!?」との僧たちの問い詰めも、
「霰、逃げろ!」との賢十の懇願も振り切って霰は彼の元へと走る。掴みかかってきた一人の僧を掻い潜り、賢十を囲う残りの数名に着物の袖や裾を掴まれながらも彼女は彼の傍に駆けつけた。
「もう……もう、いいですからっ」
「お前はまだ幸せになっていないだろ!?」
「私はあなたみたいな人がいてくれただけで幸せですからっ。誰も賢十さんを傷つけないで!あなたもっ、自分を犠牲にしないで!」
 賢十にしがみついて、霰は必死に訴えた。その色白の頬を熱い雫が幾筋も走る。嗚咽を上げて感情を剥き出しにして、彼女は泣きじゃくっていた。
それを見た僧たちは次第に力を緩めた。なぜならその涙は、万感の情動の表れだったから。


「待って下さい、賢十くん」
 霰を伴って階段に差し掛かった賢十を日々希は追ってきた。今回の結末に納得出来ないらしかった。
賢十達は寺院から開放されてからの帰り道にいる。先ほど、感情があるもにしかない涙を霰が僧の面前で流したことで、彼女が無情な雪女でないことが証明された。妖怪と断定できない彼女を寺院の側は拘置できなくなり、今に至る。
「なんだ日々希?要件があるなら早く終わらせてくれ。俺はもう眠いんだよ」
 気が抜けて呑気になった賢十を、日々希は冷ややかに睨めつけた。
「僕はまだ、霰さんを信用できていません」
「だったら、監視でもなんでも勝手にしておけ」
 賢十のぞんざいな返事を日々希は鼻で笑った。
「そんなことは、言われるまでもありませんよ。それより――」
 日々希は霰に向き直った。何を言われるのかと賢十は気を揉んだ。
「霰さん。そろそろ、正体を教えてくれませんかね」
 危惧していたほどではない要求なので賢十は拍子抜けした。そして会話から興味を失い、それの早期の終了を願った。実際の所、霰の不可解さが気になっているのは日々希だけで、霰本人はもちろん、賢十もそんなことは二の次だった。
「私は、人間に育てられた雪女です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「だとすると、君の、育ての親の感情が君に映ったとでも言うのですか?」
「そうだったら、嬉しいです」
 他意はない霰の受け答えを、日々希は「……ふん」と一蹴した。
「なぁ。霰には感情があった。それだけじゃダメなのかよ」
「感情があったからといって、彼女が無害だとは限りませんから」
 日々希の装われた素っ気なさに賢十は知らず知らずの内に溜息を吐いていた。
「なら、霰は、お前が守るべき対象に入らないのか?」
 日々希が肩を震わせたのは、賢十の錯覚ではなかった。
「……彼女を人間とするかどうかは、僕の独断では決められません」
「真面目な人ですね」
 霰の率直な感想に「だな」と返しつつ、賢十は階段を降り始めた。今は早く帰宅して床に就きたい。体が気怠くて地面にへばりついてしまいそうだった。
「まだ話は終わっていないのですが……」
 日々希の声音には押し潰された怒りが滲んでいる。誰のための怒りなのか、分かってしまっているから、賢十は言及しなかった。
「見れば分かるだろ?帰るんだよ、こいつと、俺の部屋に」
 賢十は隠したり誤魔化したりしていないからこそ、日々希は激憤を、舌打ちという明確な形で示した。
「理解できかねますね。賢十くんは、どうして、出会って間もない妖怪にそこまで尽くせるんだ?」
「それはだな……」
 あれだけ他人に構っておきながら、自分のこととなると賢十は返答に困った。賢十は論理的に行動したのではなく、感情に従ってきただけだった。
「――わかりませんか?」
 答えに窮する賢十に代わって、霰が会話に割り込む。刺々しい日々希の睨みを受け止めて、霰は雪の結晶が如く繊細な相好を崩した。
「では、日々希さんは困っている人を助けられませんか?」
「僕だってできるなら助けますよ。けれど、賢十くんの場合はあまりにも非現実的だ」
「おいおい……」
目と鼻の先で己の内面について話し合われて、賢十は居た堪れなさの極致に立たせられていた。だが霰は、賢十の煩悶などお構いなしだった。
「ですよね。賢十さんは現実がどうかなんて考えないで、理想を追いかけます。ですから、私にだって手を差し伸べてくれる」
 目を細めた日々希は、静かな声に激情を押し込めて、吐き出す。
「だけど……そんなものは夢物語に過ぎません。僕達は、僕達の手が届くだけのものを守るしかないのです。その上を求めたら、本当に大切なモノが守れませんよ」
 荒々しくもある直情を前面に押し出し始めた日々希を、
「はい。私もたぶん、そうなんだと思います」
 年不相応の落ち着き払った、諦観的な態度で霰は肯定した。日々希の姿勢を決して軽んじているのではなく、心底人間の無力さを肯定していた。
「あなたが言う通り、賢十さんの理想は達成が困難でしょう。けれど、ですから、賢十さんに協力してくれませんか……?」
 二人の少年は漠然と、頭を下げて懇願する少女を見つめた。やがて少年らの一人は恥ずかしそうに頭を掻き、もう一人は無愛想に背を向けて社殿に戻っていった。
「日々希も、難儀な性格をしてるよな」
「えぇ、本当に。……それで、あの」
 霰は気まずそうに視線を地べたに落とした。
「今更、だとは思います。けれど、私は賢十さんの世界に行って良いのでしょうか?」
震える彼女の手を、賢十は、
「あぁ。遠慮すんなって」
 握り締めて、見失わないようにその感触を意識する。霰の手からじんわりと温もりが染みこんできた。

モノローグ

 全員、敵だった。
 同級生らは何かにつけて、口や手を出してくる。世間一般から外れている奴は気に入らないらしい。あいつらは敵だった。
 先生たちは表面的には気遣いを忘れなかった。その扱いの違いが生徒を焚きつけているとも予想できないで。いざという場面では必ずと言っていいほど傍観に徹するあいつらも、敵だった。
 でもそんな中で叔父夫婦は別だった、時期もあった。叔父は頼もしく、いつでも守ろうとしてくれた。その妻は優しく、いつでも親身に相談を聞いてくれた。間違いなく誰よりも親切に接しようとしてくれていた。至上の味方だと、思っていたのに―――
「実は、君の両親はまだ死んでいないの。怪我が重くて、面会拒絶なだけ」
 それは親の死を引きずる彼に伝えられた、稚拙極まりない虚構だった。賢十はとっくに、そんなはずはない、と分かってしまう年齢に達していた。だから彼自身はどこか冷めた目で、現実を受け入れていたのだ。
 だというのに、言い渡されたその幻想は、甘い魅力に満ちていた。未熟な心に傷を負った少年を惑わす、甘美なる力に。目と鼻の先に現れた、唯一の希望。中身のない空想だと理解していても、縋らないではいられない。
 結果的に言えば、少年はそれに依存した。叔父夫婦の予想した範疇を遙かに逸脱する成果を、その嘘は招いてしまった。
 当然のことだが、そんな歪で見せかけの安寧が崩壊する日は遠くなかった。
 そして少年は今もなお、心の奥で彼らに抗っている。

再び、戻ってきた日常

 瞼に隔離されていた暗闇に細い光明が開かれる。まず賢十に見えたのは、見慣れた自室の天井だった。茶色く濁ったように汚れているそこに、白かったかつての面影はない。誰かしらがカーテンを開いたようで、窓から押し掛けてくる陽光が目をちくちくと刺激する。
今月も残すところはあと三日だった。その残りは全て連休で、従って賢十は二度寝の贅沢を享受できる。この権利を行使しない手はないと思う反面、せっかくの休みを有意義に過ごしたいという欲求もあった。
 賢十は起きようか起きまいか、寝ぼけた頭で思案する。体感時間で一分程度。だが、ふと我に返った彼は、すっかり眠気を見失ってしまっていた。
 仕方なしに賢十は起きあがろうとする。
「っ!?」
 全身の皮膚の内側を這いずり回った悪寒が賢十を布団に引き戻した。震えながら寝転がっても、不快な寒気は纏わりついたままで払拭できない。
「うっ――」
 突如、消化管の奥から、むず痒い感覚が込み上げて来て、
「げほっ、がほっ、ごほっ!!」
 賢十は数秒間咳き込んだ。おまけに喉で激痛が迸った。賢十はたまらなくなって喉を押さえながら、右に転がり左に転がる。なおものたうちまわろうとすると、上から押さえつけられて、額に冷たい感触が張り付いた。ひ弱な力と言うよりは彼女の存在に、彼の大振りな動作は封じられた。
「すごい熱ですね……動いちゃ駄目ですよ?」
賢十に覆いかぶさった霰が彼の額に手を当てていた。彼女の黒髪の先端が賢十の頬をくすぐる。そこから香る甘い匂いに意識が持って行かれそうになる。
 彼女が退いたことで難を逃れた。霰は、そういう癖なのか、正座をして賢十の返事を待った。
「あぁ。喉いてぇ……」
 喉が痛い今では、それだけの片言を絞り出すのが限界だった。
「そうですよね。飲み物、置いておきますから、飲めそうだったらなるべく飲んで下さい。それと、お粥を作ろうと思うんですけど、食べられそうですか?」
 発声するのが億劫で、賢十は首肯だけしておいた。
「わかりました。では、ちょっと待っていて下さい」
 霰は今日も変わらぬ白無垢の着物姿で台所に向かった。その着物は傷だらけで修繕の後も見受けられず、破れや汚れが目立った。これは賢十の精神衛生上よろしくない。体を起こした賢十は、熱が下がったら霰に服を買い与えようと今後の予定を一つ立てながら、布団の傍らにおいてあるコップに口を付けた。それに注がれていたのはスポーツドリンクで、その僅かな甘みは存外心地よく身に染み入る。のどが渇いていたらしく、一気にコップは空になった。賢十はまた布団に横たわって、昨晩のことをはるか昔のように思い出した。

 昨日、賢十たちはあれから、のんびりと部屋への帰路を歩いた。ここまでは確かだ。二日か三日後には満月になるだろう冴えた月がだいぶ西へ傾いていたのは賢十の記憶にも明澄に刻まれている。しかし、彼の意識も記憶も、そこから先が不明瞭だった。誰かしらと鉢合った気がするのだが、誰と会ったのかもとどんな会話を為したのかも、全く頭に残っていない。

 つい昨夜のことなのに判然としない記憶に、賢十は強い苛立ちを覚えた。翌日に風邪をひくほどくたびれていたと考えてもやはりもどかしい。とはいえ、体力的な無理強いを押し通してきたという自覚も賢十はあった。
「賢十さん、もう飲みきってしまったんですかっ?」
霰はコップの中身が無いことに気づくと、すぐにまたスポーツドリンクを注いでくれた。自然、彼の表情筋は弛む。このまま何もしなくとも、霰は甲斐甲斐しく家事はこなしてくれるだろう。美少女が身の回りの世話をしてくれる。客観的に省みても斜に構えようとも、気分が悪いはずがない。今日に限り、彼は自分にだらしない休息を認可した。


「できましたよ」
いつかのように分厚い情報誌を鍋敷きにして、霰は粥が入った鉄鍋を炬燵に置いた。そして茶碗に粥を少なめに盛り、箸と合わせて賢十の前に並べた。
賢十は布団を抜けだして間髪入れずに炬燵に入った。
「どうぞ、召し上がって下さい」
 そう言う霰は白く照らされた曇りない微笑みを賢十に向けていた。雪解け水には不純物がほぼ皆無で、故に透明な青色を宿す。彼女の瞳の色は、そういう類のものだと賢十は想っていた。
 言葉にすると矮小で、けれどかけがえのない幸運を彼は噛みしめた。
「あぁ。いただきます」
「自分で食べられますか?難しいようでしたら私が食べさせますよ?」
 気遣わしげに問うた少女に、やっぱり他意は見受けられない。それは所謂『あーん』という奴では、なんて煩悩に捕らわれていた賢十は、例えようのない罪悪感に見舞われた。彼は切に、彼女が世俗を学んでくれるように祈った。
「そこまで気を使わなくていい」
 断っておきながら、もし肯定したならばどうなっていたか空想してしまった。霰は『あ~ん』をしてくれていたのだろうか。
「………っ!」
 膨らみかけた妄想を賢十は叩き潰した。安易な欲望に流されていてはいつか、せっかく助けた霰を本末転倒な結末に追いやりかねない。賢十は厳しい自制を己に課した。本音だと涙を呑む思いだった。
彼女の純真さに気後れしつつ箸で米をせっせと口に運んでいると、彼はふと疑問を思い出した。
「なぁ、霰。聞きたいことがあるんだが」
「何でしょうか?」
「昨日、どんな経緯で俺は部屋まで運ばれたんだ?」
霰は俯いて「えぇと……」と唸り始めた。昨日のことを思い起こし、どこから話すか順序立てをしている。
賢十からは、前髪に隠れている彼女の表情は窺えなかった。分かることといえば、霰は考えこんでいて、おそらく時間がかかることのみである。見えない彼女の表情を覗いていても不毛なので、賢十は無言で手と口を働かせた。
 賢十の咀嚼する音ばかりがしばらくは響き、会話は生まれなかった。それでも彼に、不満はなかった。
 彼は高校に入学してから一年近くを一人暮らしで切り抜けてきた。やむを得ずに手助けを求めることはあっても、それに依存はしない。疲労も辛苦も独りで乗り越えた。だから賢十は、風邪を引いたから看病してもらっているという事実だけでも感涙を堪えるのに多大な労力を要する名状しがたい幸福感に囚われていて、つまるところ、感無量だった。ましてや相手が見目麗しい少女なのだから、こんなに幸運で良いのかと憂えてさえしまう。彼は黙々と箸を操った。
賢十が一杯目を食べきった頃にちょうど、霰は顔を上げた。
「賢十さんは、歩いていたら突然倒れて、そのまま寝てしまったんです」
返す言葉も無く賢十は沈黙した。そんな馬鹿なことがあるか、と笑い飛ばせない自分が不甲斐ない。
「それで、ちょっと怖かったんですけど、日々希さんたちを呼んで手伝ってもらいまして、あなたをお部屋まで運んできたんです」
 すぐさま賢十は頭を抱えた。気分の問題だが、あんなことがあった後だとあまり日々希に貸しを作りたくなかった。実利の問題はないのだけれど、気まずい。
彼の懊悩を敏感に察した霰は、心底申し訳なさそうに「すみません。他に方法が思いつかなくて……」と謝りだしてしまう始末だ。昨晩も賢十は似通った状況に陥っていた。内心で自分のふがいなさを嘆きつつ賢十はすかさず訂正と謝辞を並べることに従事する。
「文句があるわけねぇだろう。……ありがとう。すまない、助かった」
賢十がそう言ってもまだ霰は腑に落ちないといった面持ちで、彼の目の奥をじっと探ってくる。埒が明かないので、彼は念を押すように語調を強めて「ありがとう」と礼を口にした。そうしてようやく霰は、賢十の本音の探究を切り上げた。
「えへへ」
あとに残ったのは、照れくさそうな彼女の笑い声だった。つられて賢十も声を上げて笑おうとし、
「は―――ゲホッゲホッ」
ひどく咳き込む羽目になった。途端に霰は慌てふためき、賢十の背中をさする。
 彼が落ち着くのに、一分は費やした。
「まったく……賢十さん、もう、無茶はよしてくださいね?」
 そう言われても、賢十は肯定し切れなかった。あの場で、霰を見捨てる選択なんて考えられない。
 自責の念に潰されそうになりながらも、彼は曖昧に苦笑して煙に巻く。
「それよか、お前の服ってその着物しかないのか?」
 話題を逸らすのを兼ねて、賢十は霰の衣服について言及した。尤も彼は、返ってくるだろう答えの内容を粗方想像できていたが。
「えぇ。そうですけど、それがどうかしましたか?」
 全く見事に予想通りだったので、賢十は溜息も出なかった。彼女は出会った時から同じ服装でいる。果たして何日間着ているのだろうか、見当もつかなかった。
「どうかしましたかって……、着替えがいるだろう。他の日常用品もだ」
「えぇと、そのことなんですけど……」
 口を挟むと話が途切れてしまいそうなので賢十は押し黙った。霰は歯切れ悪くも続ける。
「昨晩の帰り道で運良く、親戚の方と出くわしまして」
 霰の言葉に触発されて、賢十の記憶の断片が精細を取り戻した。半端な所で途絶していたが、思い出した部分については確言できる。
 昨晩の帰途で、彼は女性と再会した。霰を探していた賢十を寺に導いた、あの女性だ。近辺に賢十と霰だけしかいなかった間の、邂逅だった。
「明日の夜半には迎えに来るそうなので、私がこの部屋で住むためのものは要りません」
 この一言で、賢十は回想の世界から現実に引き戻された。
「おぉ、行き場所ができたか。そりゃよかった」
 出来過ぎた話にも思えた。けれど賢十はまず素直に、霰の新しい安住の地が見つかったことを喜んだ。引き取る際は即断なのは不安にも思えたが、他に親戚がいないのだろうと結論づけた。行く宛もなかった霰の立場が好転したのは掛け値なしに喜ばしい出来事だ。
 しかしそれとは別に、彼女の言の後半が引っかかった。過度な遠慮なのか、率直な意見なのか、賢十には判別しがたい。
「で、お前は迎えが来るまで何日間も、その着物を居続けるつもりなのか?」
「はい」
 それはもうにこやかに、霰はあっさり頷いた。
「駄目に決まってんだろ馬鹿」
 霰は賢十のお節介に一々、遠慮を申し立てていたが、こうしない訳にはいかないのだ。自分を助けてくれた人のようになるために、或いは―――
「どうしたんですか?」
「いいや、なんでもない。ともかく俺の服でいいから着替えろ」
「……む」
 不服そうに唇を尖らす霰にタンスの配置を説明するのが面倒だったので、賢十は自ら動いて下着とジャージとを引っ張りだし、彼女に放った。その時に、自分の衣服を女の子が着るという出来事に心臓が反応しておかしなリズムを刻んだ。霰に悟られないよう、賢十は表情を取り繕った。
「それを着ろ」
「は、はい。……それで、私はどこで着替えてきたら良いんでしょうか?」
「そうだな……」
 賢十はその問いに即答はできなかった。このアパートは便所も浴場も共用なので、それぞれの自室にに個別の部屋はない。かと言って、隔壁もない共有の空間で異性が着替える状況を堪え忍べるのは男子として失格だ。
「いっそ、風呂に入るついでに着替えてきたらどうだ?」
「あ、それはいいですね。この頃、お風呂にも入れませんでしたから」
 苦し紛れの意見だったが、霰は嬉々としてそれを受け入れた。衣類に加えてバスタオルを賢十から受け取ると、それらを両手で抱えて霰は部屋を出て行った。
 ……今更ながら、雪女が風呂に入ることに、賢十は先入観との相違を感じ出した。溶けたりはしないかと心配してそわそわしてしまう。けれど本人は大丈夫だと言っていたからにそうなのだろうと自分を納得させ、彼は大人しく布団で横になった。思い直して、普段着に着替えてから再度布団に潜り込んだ。
賢十は見飽きた天井の汚れを眺めることで時間を潰した。一人しか居ない部屋は当然ながら静かで、他にすることもない。隣部屋や廊下を誰かが通ったらしく床板の軋む音がした。どこかの蛇口から水が流されたらしく勢いの良い水音も聞こえる。一年という歳月の積み重ねでもいつの間にか生活臭が漂っている。静閑でうそ寒い中にいると、普段は意に介さない五感からの情報が逐一鮮明になった。一人で過ごす時間独特の現象だった。それを久しく感じていた彼は、昨日の夕方から大して時間が経過していないことに気づいた。賢十の体感では、霰に会いに行く前に部屋で悩んでいたことが随分と遠い。こんなことでどうするんだ、と、人の恋しさに焦がれ始めた自分を賢十は叱咤した。賑やかな部屋はそう長く保たないのだ。休みが明ける頃にはもう、霰は旅立っていくのだから。
 せめて一緒に過ごしている内に、何かしらの繋がりを築いておきたかった。そうだ、と賢十は思い立った。
 部屋の電話番号を教えておこう……
そんな具合に由無し事を考えていたら、次第に意識の芯が解けて、微睡んできた。霰には悪いが、賢十はまた眠ることにした。視界が明滅して自我が融解し―――
「賢十、生きてる!?」
廊下から扉越しに、遮蔽物があるとは思えない大音声が轟いた。賢十は一気に眠気がさめる。彼の返事を待たずに扉が引きちぎれんばかりの速度で開かれ、どたどたと喧しい足音が床を揺さぶった。
「いた!生きてる!」
「お前は山岳救助隊かっ」
例によってやけに懐かしく思える、快活な声を響かす実花は、羊毛のニーソックスに昨日と同じダッフルコートという格好だった。手にはやや大きめのビニール袋を下げている。
賢十の傍に座ると、実花は躊躇いがちに彼の額に手を伸ばし、熱を簡易的に計った。
「熱、高いね。日々希くんが、賢十は体調が悪いって教えてくれたから来たんだ。賢十、滅多に風邪引かないから驚いちゃって。ごめんね、たぶん、一昨日のせいだよね」
 賢十が風邪を引いたことの主因は実花にはない。どうしてよりによって彼女に知らせたのか、賢十は密かに日々希に憤慨した。
「そのことはもういい。それにこれは、昨日、俺が無理をしたからだ。自業自得だよ」
「……ねぇ。無理をしたって、賢十をお寺に送った時のことなのかな?」
 昨日、賢十が無理をした、という所に実花は反応し少し迷ってから問い質した。あの時賢十は詳しくを何も教えずに、後日教えるといった趣旨の発言のみに留めていた。だから実花には聞く権利があり、賢十には話す義務がある。しかしながら賢十としても、ありのままに昨晩の出来事を話せるはずもなくて、彼は語るべき事柄とそうでないものとを吟味した。
 話せるくらいに賢十の中で話が煮詰まって、彼は口を開いた。声を出すことなく、そのまま硬直する。賢十の視線は部屋の出入り口、開かれた扉に注がれ、固定されている。彼の視線を辿って、実花も振り返った。
「え?」
 そこに立っていたのは、夜空色の長髪と水色の瞳と、今はほんのりと紅潮した雪色の肌を持つ人間離れした美しさの少女。賢十の言いつけを守って黒いジャージを着た霰だった。
「賢十。あの子、誰?」
 霰のことを賢十は失念していた。実花に霰が見られるような苦境が全く予測の埒外にあった。彼は混乱して、息を吐かずに口を開閉させている。実花はなんとも言えぬ居た堪れなさに襲われて、霰と賢十を交互に見やった。結果、その場において唯一呆気にとられていない霰がまず動くことになる。実家に深々とお辞儀をして、それから、
「どうも、はじめまして。賢十さんのお世話になっている、霰と申します」
 完璧で、でもある意味では間の抜けた挨拶を霰は披露した。


「なるほど。つまり、この子は明日まで賢十の部屋に居候する、と?」
 炬燵に入っている実花は訊いた。ダッフルコートは脱いで傍らに置いてあって、その下には、黒いTシャツの上に赤いセーターを着てショートパンツを履いていた。
「そうだ」
 対して賢十は布団の中でうずくまっていた。どちらの少女からも、そこより抜け出すことを許されていない。
 納得しきれずに実花は首を傾げる。
「ね。その、霰ちゃん、は賢十の従妹なんだよね?」
「あぁ」
 賢十は霰の身分を、一時的に彼の家に宿泊する従妹だと糊塗していた。
「賢十、親戚が少なかったはずでしょ?それに、どうして女の子が、男の賢十の部屋に泊まることになったのかな?」
 立て続けに反論しがたい質問を並べられて、賢十はやや頭痛が悪化した。
「まず、最初のだが……俺にも親戚は、いるにはいるんだよ。これ以上は言わせるな」
「う……。ごめん」
 賢十は、彼の内情をよく知る実花の徳性を利用して同情を誘い、一つ目の追求を振り切った。卑怯かな、と良心の呵責を感じないでもなかったが、実花の発言が短慮だったのも否めない。
「で、でも、霰ちゃんが泊まるのなら、女性の親戚の家にするべきでしょ……?」
 中々しぶとく食い下がる実花を今度はどういなそうかと思案していると、実花の対面に座っている霰が口を開いた。
「それは、私がお若いのに一人暮らしをしている方の生活が学びたくて、無理にお願いしたんです」
 思わぬ援護射撃ではあったものの、賢十はありがたく霰の話に便乗した。
「こいつ、もうすぐ受験控えてるんだけどな。もしかしたら一人暮らしすることになるかもしれないんだよ。ほら、高校生で一人で暮らしてる奴って俺くらいだから」
「それなら、分からなくは……ないかも」
 不承不承ながらも、実花は自分を納得させた。賢十は気取られないように胸を撫で下ろした。実の所彼は、実花を相手に嘘を貫き通す自信がなかったからだ。
「霰ちゃん」
 実花は唐突に話し相手を霰に変更した。
「何でしょうか?」
 神妙な調子で霰は実花の目を見る。
「気をつけなよ。霰ちゃんはとても可愛いし、賢十も男だから、気を抜いたら変なことをされるかもしれないよ」
 危うく賢十は吹き出しかける。辛くもそれは免れたが、そのせいで咳き込んだ。彼がそうしている間にも少女二人の会話は淡々と織り成される。
「変なこと、とはどんなことですか?」
「知らないことは、ない、よね……?」
「はい?」
「そ、そう」
 実花は、霰から顔が見られない角度で賢十をきつく睨みつけた。もとい、助けを求めた。
「俺にふるのか!?」
 激しく頷く実花と純粋な好奇の眼差しを寄越す霰に、賢十はたじろぐ。逃げ道が見あたらない。
「……ぐっ……」
 観念した賢十は、それっぽく唸ったり咳払いして時間を稼ぎ、うやむやで得心してもらえる言い方を模索した。
 結論は、
「つ、つまりだ。男女が仲良くすることだ」
 賢十自身、自分で言っておきながらもあまりにも曖昧にぼかし過ぎたせいで本筋が見えてこないことは自覚していた。しかしだからといって、賢十は、雄しべ雌しべ云々の話を天衣無縫の少女にする度胸などないし、持っていたくもない。
「でしたら、私と賢十さんや、実花さんと賢十さんのような間柄ですることですか?」
 霰の解釈は、正鵠ではなく聞いた人間の度肝を射抜いていた。賢十と実花は自分の吐息で喉をつまらせる。潔癖を通り越して無知な霰は、悶える二人を憂うべきか笑い飛ばすべきか決めかねていた。
 三者三様に動転し、困惑する中で、まず賢十が沈静化し、ついでに窒息の難を脱した。急ぎ霰の誤解を訂正する。
「待て待て。違う、だいぶ間違っている。そういったことに及ぶのは、今の俺達なんかよりもずっと親しくなってからだ」
「はぁ……。それで、具体的には何をするんですか?」
 今度は賢十が実花に救援を要請したが、実花はのぼせたような放心状態で、彼の声が届いているのかすら怪しかった。要約すると、賢十は孤立無援で窮地に立たされた。もう、嘘同然でもそれらしい説明を並べ立てなければこの苦難は乗り越えられない。
「それはだな……これ以上ないってくらい親しくなった男女は……」
「男女は?」
 覚悟を決めて、
「―――キス……口づけをするんだ」
 一番言ってはならないことは回避した。だが、声に出してみると、この答えも相当に恥ずかしい。ちょうど今の賢十の心境は、穴があったら入りたい、と表現できるものだった。それでも悶えるのは回避した彼だったが、顔が熱くなるのはどうすることもできない。羞恥を隠せない自分の青臭さがこれまた情けなくなり、挫けそうだった。
 一先ず、賢十は霰から顔を背けた。
「おい実花、変な尻拭いさせんじゃねぇっ」
 実花にだけ聞こえるように、脅迫めいた低い声で彼は彼女を非難した。だが、実花の意識は天高くまで昇ってしまっているらしく、賢十に見向きもしない。
「おい!」
「………」
「しっかりしろっ!戻ってこいっ!!」
 危篤の患者に対して使うような文句の呼びかけは、賢十が思っていたよりも声量が大きく、
「わっ!?」
 実花の意識を呼び戻すのには成功したが、
「ひゃっ!?」
 ついでに霰まで驚かせてしまった。
「す、すまん、霰。お前まで驚かせるつもりはなかったんだ。……ところで実花、頼み事がある」
「何?」
 賢十は後生大事に着物を抱える霰を一瞥した。実花には頼ってばかりで気後れする部分もあったが、彼女の唯一の所持物たる土汚れのこびり付きくたびれた着物を見ると、彼の意思は決然たるものとなった。
「悪いんだが、こいつの服を見繕ってやって欲しいんだ。もちろん、金は俺が出すから」
「賢十さん、私は要りませんってば……」
 霰を手で制し、彼は続ける。
「俺はこの通り、風邪を引いちまってる。それに男の俺だと何を買えばいいのかわからない。けれど霰にはなるべく早く、服を買い与えてやりたいんだ。……忙しいのなら、無理に頼まれなくてもいい。日々希も事情を知っているから、あいつに頼む」
 賢十が言い切ると、実花は不機嫌顔だった。視線が非難がましい。
「むくれないでくれよ。いやなら、拒否してくれたらいいから」
 宥めるつもりで賢十は言ったのだが、それが殊更に実花の機嫌を損ねた。世間一般で言う鈍感な性分の賢十は実花の心情がを表層さえ読めなかった。彼女に睨まれながら考えること数秒、彼は両手を上げて降参の意を示した
 実花はため息を吐いて「……もう」とぼやいた。
「わたしはね、もっと自分が信頼されていると思ってるんだ。だから、今みたいな態度は、信じられてないようで嬉しくない」
 賢十の思考からは到底外れた発想だった。頼られる立場を自分に置き換えて、ようやく、あぁそうかと納得できた。
 頼らなければ迷惑をかけない、そして迷惑をかけずに済むのならこれ以上のことはない。これまで彼はそう信じ続けていた。だから相手からこんなことを言われるのは嬉しいが、やはり進んで相手に頼るのは気が引ける。
「えぇと……ごめん」
 せめて絞り出したのはその謝罪だけ。それが精一杯だった。賢十の心境をそこはかとなく感じ取った実花は「謝って欲しいんじゃないのに」という欲求を口には出さずに胸にしまっておいた。
「霰ちゃんの買い物はわたしが付き添うから。任せて」
 賢十は喉が痛むふりをして、無言で頷いた。


 颯爽と実花が、嫌がる霰を連れ出してから、時針は十二分の一回転し分針は半周した位置にあった。
 賢十は時折スポーツドリンクで喉を湿らせつつ目を瞑っていた。だが意識ははっきりしている。彼はなぜが気が休まらず、中途な微睡みから抜け出せないでいた。溜めてきた疲れは体の奥底にわだかまっているから眠れないはずが無く、何より今は眠らなければいけない。彼は無為な時間の経過を歯痒く思いながらもどうにか体を休ませようとして、目を閉じ思考を停止させた。
 眠ろう、眠れ俺……
不安定で明確な意思を持て余していた賢十は、扉の外で床板が上げる悲鳴を聞いた。アパートの廊下を誰かが歩いている。その足音の主は賢十の部屋のまで止まり、チャイムを鳴らした。
「誰だ?」 
 この古臭いアパートは客人が少なく、貧相な外見から訪問販売の対象にもならなくて、訪ねてくる者は滅多にいない。その上賢十は宅配だとしても心当たりがなかった。
 ともかく、来訪者に待たせるのも悪いと思って、彼はドアチェーンを外さぬままに訪問者を出迎えた。
「こんにちは、賢十くん。まだ、殺されてはいないようですね」
 口癖のように皮肉る、普段着姿の友人が来客者だった。袈裟衣を着ていないと何ら変哲のないただの好青年で、僧としての面影はない。
「日々希か。何のようだ?」
 出会い頭に、嫌みに聞こえかねない軽口を投げかけた友人に、賢十は愛想もなく応対した。
「友人として遊びに来ただけですよ」
 昨晩、騒動が解決してもからも納得しなかった日々希を、賢十はいぶかしみながらも部屋に招き入れた。


 欧州を意識した意匠の、地方都市の通り。そこは車道がなく赤や茶、黄色の煉瓦で彩られた石畳の道が続いている。その中央に並べられた鉢で、薄紅色の花を咲かすクリスマスローズが通りを左右に区切っていた。道の端から伸びた緑色の街灯は人々の頭上から頭を垂れ、伴って歩く短い茶髪の少女と長い黒髪の少女を見下ろす。
「私、生まれて初めて、こんなに人がいるところに来ました!」
 邪気なくはしゃぐ霰は、上は厚めの生地の白いケープと袖口がゆったりとしたセーター、下は濃紺色のプリーツスカートにハイソックスという服装だ。どれも実花が貸し与えたものだ。外見が考慮されていない黒ずくめのジャージ姿で霰に外出させるのを看過できず、実花が家に立ち寄って着替えさせたのだ。セーターの袖が手の甲を隠していたりミニスカートなのに膝の下まで隠れていたりと、年下で小柄な霰にはサイズは大きかったが、ジャージとは比べるべくもない。
「大げさだなぁ。東京はもっと人が多いよ」
 賢十の家を訊ねた時と同じ格好の実花は、霰の言を本気で誇張だと思っていた。しかし誇張でないどころか賢十らが住む街よりも人気のない場所で半生を過ごした霰は、心底怯えて、
「ここよりも人が多い場所に行ってしまったら、人に押しつぶされてしまいそうです」
 と呟いた。戦慄いた唇を見せられた実花は半笑いになって口角を引き攣らせた。
「ねぇ。さっき電車に初めて乗ったって言っていたのも、本当なの?」
「はい、もちろん」
 こともなげに肯定した霰の、浮かべる微笑みの曇り無さに、実花は信じざるを得なくなった。


「で、繰り返すが、何のようなんだ?」
 炬燵で差し向かう位置に、賢十と日々希は腰掛けている。
 日々希が部屋に来てから賢十は幾度となく訪問の理由を問いつめていたが、返ってくる答えは変わり映えしなかった。
「様子を窺いにきただけですよ。教えてもらえますかね?」
 薄ら笑いを顔に貼り付ける日々希が本気で言っているのかは、いまいち判然としない。隠すべき事柄はないが、果たすべき義務でもないので、賢十は素直には取り合わない。
「偵察しにきた、の間違いじゃないか?」
「ほぅ。それはどうして?」
 反問する日々希の回りくどさに辟易した。けれども賢十は律儀だった。
「お前、俺の部屋から霰がいなくなるのを見計らってきただろう。実花をけしかけたのも、そのためじゃないのか?」
「ご明察」
 慇懃に賢十を称賛したは良いが、日々希は巧妙に会話の趣旨を本題から逸らしている。先ほどからこの調子だ。もう何度目の繰り返しになるかは忘れたが、まるでそれが使命であるように賢十は質す。
「いい加減に、俺の部屋にきた訳を話せよ」 どうせ今度も同じ結果に終わるだろうとうんざりしていた賢十は、次の日々希の言葉に眼を見張ることとなった。
「そろそろ頃合いですかね。よろしい、話しましょう」
「は?」
 日々希は一息ついた。それが落ち着くためなのか焦らしなのか賢十には判らなかった。だが日々希がそんな前振りをするのは、虚偽無く冗談も抜きで何かを話そうとしている時の癖だった。賢十は日々希が開口するのを待った。
「良いですか、賢十くん。僕が下らない時間稼ぎをしていたのは、仲間が結界を張るためのものでした」
「どうして、そんなことを?」
 時間稼ぎの真意を教えたからには、目的を話さないはずはないだろうと踏んで賢十は訊ねた。そしてそれは、先ほども賢十の推理に与えられた「ご明察」の一言に相応しかった。
「妖怪らは、今の機械で成せることの大半を彼らの術で実現できます。その中には盗聴機も含まれているのです。最悪、僕達の会話は筒抜けになります。この部屋にそんな術が仕掛けられているとは限りませんが、万に一つということもありえますからね。万全の注意を払って、この部屋と外界を遮断させてもらいました」
 現実味がある、といえば嘘になった。実は賢十はこれまで、可視的な異能が行使されるさまを目の当たりにしていない。さらにただでさえ、日々希の風貌と振る舞いは胡散臭いのだ。日々希が意図しているのかは定かではないが、薄笑いの鉄面皮で本音を隠してしまう。そのせいで中途半端な知人が相手だと日々希は不信の目を向けられがちだ。
「回りくどい奴だ……」
 でも。賢十はそうであれば殊更、この友人を信じてやらなければならない、とも考えていた。やむを得なかったとはいえ、本当は昨晩のように騙すのもしないに越したことはない。なぜなら賢十は知っているからだ。人を寄せ付けない雰囲気と胸に一物ありそうな行動に秘匿された日々希の本性が、思慮深く優しいことを。
「つまりお前は、かなり大事なことを話すのか」
「えぇ。君が相手だと会話が楽で助かる」
 苦笑する賢十は、俺は鈍感なんだがな、とは異見しない。
「『妖怪』なんて単語が出てきたからには、霰の話しなんだよな。言っておくが、俺は譲らないからな」
 日々希は目を細めて、「君の頑固さは身に沁みて分かっていますよ」と賢十の威嚇を一蹴した。
「昨日、僕が賢十くん達と遭遇したのは偶然ではありません。僕達は今、街中を嗅ぎまわっています」
「そう聞くと、怪しい組織か警察みたいに聞こえるな」
「えぇまぁ、そこらの組織よりは念入りですよ。僕達が守るものは、替えがききませんからね。……特に今は気が抜けない時期な上に、奇異な噂もありますから」
 賢十は眉を顰めた。日々希の語った、躍起になる三つの訳の内、替えがきかないものを守っているというのは得心できた。命に代替はない。が、後半の『気が抜けない時期』と『噂』の二点に賢十は心当たりがなかった。
「勿体ぶったからには、時期と噂の話も聞かせてもらえるんだろうな?」
 日々希は笑みを不敵なものに変えた。
「もちろん。むしろ、今日はそれを話すために来ましたから」
 それから日々希は目を閉じ、気を落ち着かせた。不審な気配はない。賢十はもはや日々希の行動の意図を探ることはせず、頷いて話の続きを促した。
「賢十くんは、小正月をご存知で?」
「いや。初耳だ」
 初めて聞いた言葉と日々希の話の関連性に頓着しながらも賢十は素直に訊ねた。こんな所で知ったかぶりをしたら、無意味以上に阻害になる。
「旧暦一月十五日の行事のことです。その日の月は満月で、昔は正月の終わりとされていたそうだ。僕達は毎年、この日の晩は気張らねばなりません」
「つまり、何が起きるんだ?」
「……その日の夜に、雪女の力が最大になるのです」
「なんだかまずそうだな」
 とは口にしながらも、まだ雪女の超自然的な力を目の当たりにしたことがない賢十は、危機感がなかった。妖怪と無縁な日常に生きている賢十には、実感が湧かないのだった。
「えぇ。雪女が暴れるとしたら、その晩と決まっています。そしてそのために、奴らは人の生気を吸う」
 日々希が弁舌を振るう、雪女の暴動や生気の略奪に具体性はない。ただ少なからず、死傷者を生む、という点に関しては賢十も承知した。
「雪女にとって、人の生気ってのは燃料みたいなもんなのか?」
「いえ。むしろ逆ですね」
「逆?」
 力の底上げを狙って生気を集めるんだと勘違いしていた賢十には、日々希の言っている意味が分からなかった。
「生気は雪女の冷気を抑制します。彼らは力の制御のために生気を求めるのです」
 理路整然としている日々希の説明に、賢十は感嘆すると同時に「なるほど」と相づちを打っていた。
 日々希はまだ、口を止めない。
「そして今年の小正月は、今月の最終日です」


「だいぶ、買い込んじゃったね」
 二日弱の滞在には有り余る大量の衣類が詰め込んである紙袋を、霰は両手、実花は片手に持っている。実花は、どちらかというと体が大きい自分が二袋持とうと意見したのだが、霰は頑固にも「私のものですから、私が持ちます!」と主張して譲らなかった。
「はい!でも、お金は足りてますか……?」
「もちろん!賢十は結構な金額を渡してくれたから」
 そう言い繕ったが、実はもう予算を超えていて自腹を切ったことを、実花は内緒にしておいた。稀にもお目にかかれない明眸皓歯な少女の霰はどんな服を着ても映え、店を回っていた時の実花は彼女を着せ替えるのに無我夢中だった。そうしている最中に次々に服を購入してしまったのだった。
 ともかく、用事は済んだ。このまま帰っても良かったが、実花は霰と少しぶらつきたかった。賢十の居候ともなれば、彼の話が聞けるからだ。
「帰る前にちょっとだけ、遊んじゃおっか」
「え……ぇっと、そうしましょう!そうしたいです!」
 一瞬の逡巡こそあったが霰は快諾した。人見知りそうな霰の賛同を得られたのが実花は意外だった。けれどそれより嬉しさが勝った。
「霰ちゃん、行きたいところはある?」
 実花は上機嫌に訊ねた。
「いいえ。この近くの地理は分からないので、実花さんにお任せします」
「そっか!」
 実花が先導する形で歩き出し、霰は半歩遅れて続く。
 ふとあることが気がかりで、実花は提案する。
「ところで、『さん』付けだと堅苦しいよ。呼び捨て……でなくても、せめて、『ちゃん』にしてくれると嬉しいな」
「実花、ちゃん……ですか?」
 おっかなびっくりといった感じで霰は聞き返した。実花は「うん!」と首肯する。それを見た霰は、食べたことがないものを口にするように慎重に、しかし何度も口の中で新たな呼び名を反芻してみた。
「……実花ちゃん。この呼び方をすると、お友達みたいですね」
 そんなことを口走りながら、霰は照れた顔に歓喜を覗かせて「えへへ」と頬を緩める。女の実花から見ても可愛らしい仕草だった。
敵わないなぁ。
僅かに嫉妬を催しながらも、実花もだらし無く頬を緩ませた。
「みたい、じゃなくて友達だよ!」
 この一言だけで、照れくさそうにしていた霰は満開の花のように咲った。満面の笑顔と比べると、実花に友達だと宣言される前の表情は曇っていたのが明朗となった。霰を照れたように見せていた真意は、本当は気恥ずかしさではなくて不安だった。
 そのことを見透かした実花は、霰がいじらしくて、真横から抱きついた。
「きゃぅ!?」
 霰が悲鳴をあげたが離さない。我慢ならなかった。実花は賢十が間違いを犯していないか、或いはこれから犯さないか、真摯に憂慮した。
「賢十の部屋にいた時も聞いたことだけど、ホントのホントに、酷いことはされてないんだよね?」
 言い終えてから、実花は前回の失敗を思い出して身構えた。
「はい。酷いなんてそんなことは、絶対に、ありえません」
 大声とは言い難いのに凛と澄ました霰の声音は、他からの質疑を断固として拒絶している。か弱くあどけない外見に秘められた心根の、気高い一面が具現化していた。
 実花は、雰囲気を豹させた霰に気圧されて、抱きついていた腕を放した。実花の心中に困惑と疑惑が吹き込み、立ちこめた。
「……ねぇ。霰ちゃんは、賢十のことが好き、なの……?」
 実花の問いが途切れ途切れになったのは、怯えていたからだ。肯定されて笑っていられる自信はなかった。
「恋愛感情があるか、という意味でならば、私にはわかりません」
 実花はほっと胸を撫で下ろした。それはもう、人付き合いの少ない霰にも手に取るように窺い知れるほどに。けれど霰は見て見ぬふりをした。霰がまだ体験したことがなく、ただ尊いということだけが明らかな感情に襲われている友達になんと声をかけるべきか、霰は知らなかったし思いつかなかった。だからもう少し自分の話をすることにした。
「決して、嫌いなんではないですよ。賢十さんにはとても感謝しています。私は今、これ以上思いつかないくらいに幸せですから」
 霰は比喩でも誇張でもなく、『これ以上』の幸せが思いつかなかった。
 賢十への信頼を明示している霰の態度が微笑ましくて、実花は思わず笑みを漏らした。
「……そうだ、賢十の昔の話、してあげよっか」
「昔、私みたいに居候していた、とは聞きましたけど」
 居候の話をしようとしていたわけではないが、実花は次の言葉に窮した。賢十がその話を明かしたということは、実花の予想を超えて賢十がをが信用していることに繋がる。出会って数日の賢十と霰の仲が存外近しいことに、実花は危機感を抱いた。
「だったら、賢十が居候していたのはわたしの家、ていうのも聞いたのかな」
 実花は競争心をひた隠しにしようとして、失敗していた。むしろ剥き出しになりつつすらある。
「そうだったんですか!!」
 色めく実花の心情に感づかず、霰は無邪気に微笑んでいた。
「う、ぅん……」
 霰の対応は実花にとって幸運であり、惨めでもあった。実花はこれ以降二度と痴態を晒さないように、嫉妬などの悪感情の一切を打ち消すため、声を大にし話題を提示した。
「よ、よし。じゃあ賢十がわたしの家にいた頃のことを話そう……!」


「明後日、か」
 霰の旅立ちは明日だ。人間として育てられ、雪女として捕縛された少女が賢十と離別する夜と、雪女の力が最高潮になる夜には一日の乖離がある。関連性が有ると断言するのは早計だが、無いとも言い切れない。賢十は確たる結論を得られずに宙ぶらりんなままの思考を保留した。
「言い忘れていましたが、現時点で彼女に異変が起きると確定したわけではありません。彼女の正体は僕らも把握していませんので」
「それは、明々後日になるまでに霰を監禁したり……始末するようなことはないって意味に捉えていいのか?」
「えぇ。正直な所、僕達も彼女に構っている暇はないので。彼女程度の力ならば、起こせる被害もたかが知れています」
「へ?」
 間抜けな声を漏らした賢十は首を傾げた。僧達は日々の雑務を片付けるので手一杯なのだろうか、とまで考えて賢十はその方針を破棄した。日々希の言動から推察するに、霰は特殊な事例にあたるはずだ。そうやすやすと捨て置くはずがない。だが、日々希の言い草だとまるで霰の騒動より優先すべきことがあるように聞こえる。
「なにか起きたのか?」
「そうですね。それはそれは気が重たくなることが、起きましたよ。いえ、僕は実際には目にしていないことなのですが……目撃情報の話です」
「……あぁ。そのことも話してくれって頼んでたか」
「まぁ僕は頼まれずとも、お話するつもりでいましたが。……これが、本当に厄介でしてね」
 珍しく嘆息する日々希を見ていると、なんだか賢十も同情してやりたくなった。日々希が表情を崩すことは稀にも稀だ。気が進まない、というのは単に憐憫を誘うためだけの誇張ではないらしいことを、賢十は認めないわけにはいかなくなった。
「他人事だと思っているようですが、むしろ、最も危険なのは、君達一般市民なんですよ」
 日々希の忠言は安閑としている賢十に釘を差した。この期に及んでもまだ、妖怪なんて異世界の出来事同然に思っていた賢十には寝耳に水だったので、脊髄反射がごとく聞き返す。
「俺たちが危険って何が起きるんだよ?」
「声を荒らげないでいただきたい。今までの事態のほとんども君らに危険が迫っていました」
「んなわけが………妖怪の実在だって、まだ怪しんでいるのに」
 賢十を馬鹿にするのも兼ねて、日々希は鼻で笑った。
「それは僕達が未然に防いできたからですよ。君が知らなかったのは当然だ。だから今は落ち着いて、専門家の僕の話を聞きなさい」
 これだけのやり取りで日々希は賢十を窘めてしまった。賢十は不服だったが、それを顔に出さないように日々希に向かって首肯した。このまま従うのも癪ではあるけれど、それを抗議するのは幼稚が過ぎる。
「冷静になれたようですね。では話を再開しましょう」
 心なしか、賢十には、日々希の佇まいがいっぱしの僧のそれに見えた。実際、賢十の印象は決して錯覚ではなく、日々希は気分を仕事のものに切り替えていた。
「この所、雪女が目撃されているらしいのです」
 言われた直後の賢十は、ことの重大性に思い至らなかった。恐るべき妖怪としての『雪女』という単語を耳にしても、未だに賢十の中では霰の温柔な印象が強烈だった。
「霰さんのことではありません。列記とした、本物の、冷酷非道な雪の精です」
 念入りに、日々希は言い聞かせた。やはり実感は伴わないが、賢十は雪女を侮るのは止めた。雪女とは僧達が組織ぐるみで追い縋り、駆逐している存在だ。普段は冷静沈着な日々希が昨夜のように必死になって忠告する存在なのだ。僧らの覚悟の程も、雪女の危険度も賢十には推し量れないけど、安易な楽観が身を滅ぼすことを予想できないほどに馬鹿ではなかった。
「賢十くん。霰さんの一件と、雪女の出没。僕達はこれに関連性があるのではと考えています」
「あったら、どうなるんだ?」
「もしそうであるなら、……一番最初に危険が及ぶのは、君になるでしょう。もしかしたらもう、目をつけられているかもしれません」
 気遣いの言葉だと理解はしていたが、賢十は思わず身震いした。それに日々希の言を信じるならば心配事が一つ増える。
「なぁ。それは、俺の周りの人間にまで被害が及ぶのか?」
 賢十が恐れているのは、自分へ差し向けられた悪意が身の周りに飛び火することだった。霰を助けた時の賢十は、面倒事を背負うのは自分だけだと思っていた。けれどその善行が周囲の人間を巻き込み苦しめてしまったら、賢十は悔恨による自責に耐え切れなくなるだろう。
「その点は心配要りません。……いえ、この言い方は適切ではありませんね。正解に言い表すと、狙われる危険は一般と大差ない、と言ったところでしょうか」
「本当なのか!?」
 賢十は我知らず日々希に詰め寄っていた。
「えぇ。雪女は無感情ですからね、目的物に狙いを定めると他は歯牙にもかけない」
「そう、か……」
 真実かどうかを確かめる術は賢十にない。専門家の日々希を信じるのが、賢十にできるせいぜいだった。
「目撃された雪女というのは、白い無地の着物をきた長い黒髪の美人だそうです。ようするに典型的な雪女の姿ですね。心当たりはありますか?」
 賢十は深く考えずに首を横に振ろうとして、
「っ」
 思いとどまった。賢十は記憶を再生する。霰の居場所とそこで取り返しのつかなるかもしれないことを教えてくれた、あの女性。思い出した彼女の雰囲気は、どことなく霰に似ていた。それこそ、賢十が霰の親戚だと決めつけて疑わなかったくらいだ。
「なにか思い出したようですね。話してもらいましょうか」
 感づかれてしまった以上、隠し通せる道理はなく、なにより隠す意味がなかった。それでも情報を授けてくれた義理はあるので話そうかと数瞬迷ったが、観念した賢十は素直に白状した。日々希が一度つかんだ尻尾を離すほど甘くはないと知っている。
 ただ、最後の抵抗として、霰の居場所を教えてくれたことは伏せたままにした。


「賢十がわたしの家に来たときは、驚いたなぁ。最初は誰かわからなかった」
 もう二年近く前になる、賢十が実花の家に飛び込んできた日のことを実花は懐かしんでいた。話す和やかな口調は意識したものではなく、いつの間にか感慨から声に出していた。
「久しぶりに会ったから、ですか?」
「それもあったよ。けれど一番は、見た目も雰囲気も別人みたいだったからかな」
「それは、成長したから、ではないんですか?」
 空を見上げなら一考した実花は、首を縦に振った。
「そうかもしれない、けどわたしが思うに、なんとなくあの時の賢十はやつれてたから」 
 霰は当時の賢十に、自分のことを重ね合わせた。そうして思いを馳せたら、自然とかつての彼の心痛や疲労、そして安堵が理解できた。安住の場所を失ったことによる淋しさ。光明がない世界を彷徨する孤独と絶望。それらの果てに、心を安らげてくれる人と出会えた温かい喜び。どれも言葉で語り尽くせないもので、霰は賢十に深く共感した。
「でしたら賢十さんは、実花ちゃんに感謝しているんでしょうね。言い尽くせないほど、感謝していると思いますよ」
「えぇ!?……そうかな。だ、だけど、世話したのはお母さんだし……」
「お世話だけが全てではないと思います。あなたは賢十さんの心の支えになったはずです!」
「そうかな……?」
「はい!」
 霰の言葉には言いしれぬ説得力が備わっていた。それが、賢十と霰の境遇の類似によるものだとは当然実花に知る由もない。
「……ありがと。
 それで、わたしとお母さんも始めのほうは家に送ろうと思ってたんだ。賢十の奴、名前と小学校のこと以外、ほんっとに何も話さなかったんだから」
 酷似した状況と秘匿する本音について身に覚えがあったので霰は閑雅に失笑した。
「でも、助けてあげたんですよね」
「まぁ……そうだけど。賢十、一週間、ううん、二週間は静かだった。顔を見せたがらないし、特に体は絶対に見せようとしなかった。着替えを見そうになったら本気で怒られて、びっくりしちゃった。気になったし、心配だったなぁ。何があったのかなって」
 警戒を解くのに二週間もかかったというのには霰は共感しかねた。慎重だとしても長すぎる。自分の経験と照らし合わせると、くつろげる場所にたどり着けたならば、絶え絶えだっただろう緊張の糸はすぐにでも綻びるに違いないから。
「そのことを賢十さんは、お話になっていましたか?」
「全然。あやふやになって、わたしも聞きそびれちゃった」
「はぁ……」
 落胆が顔にでないよう霰は努めた。
「霰ちゃんは、わかるかな?」
 実花の問いに霰は意表を衝かれ、
「どうして私に?」
 霰は考える前に反問していた。対して実花には、明答できる理由はなかった。だが質問したのはそれに足る動機が根底にあったからで、意識すれば難なく言葉になった。
「あの時の賢十と同じ感じがするから。あの時の賢十の気持ちが分かるみたいだったから」
 賢十と霰が似ている。霰はそのことを、昨日の夜に賢十本人からも言われていた。そうだったから、霰を助ける決断に至った、とも賢十は語っていた。霰はそれを全面的に否定はしない。けれど、そうでなくとも賢十は霰を助けに来ただろうとも確信していた。
 救いの手が差し伸べられた森での遣り取りを追憶して、霰は心が和んだ。実花が怪訝な顔をしたので、すかさず会話に復帰する。
「そうでしょうか。自分のことは何とも言えません」
「わたしが言うからには、間違いないね。で、分かるの?」
「残念ですけど、私には……。お役に立てなくてすみません」
「謝らないで。ちょっと気になっただけだから」
「ならいいんですけど………賢十さんが二週間も鬱ぎ込んだというのは、意外です」
「わたしも。余程嫌なことがあったんだと思う。聞かれるといつも話題を逸らそうとするんだ。だから、あまり触れないであげて」
 気の優しそうな霰には不必要だろうと思いつつも、実花は言い聞かせてしまった。だけど霰は素直に頷いてくれて、実花は杞憂を切り捨てられた。そうして会話が一段落つくと、唐突に、
「そうだ、聞きたいこと、あったんだ」
 この会話を始めた趣旨を思い出した。
「なんでも聞いてください!」
 霰は妙な活気に満ちていた。ここまで張り切っていたら、どんなことでも答えてくれそうに見える。昨晩のことが頭から離れなかった実花は、躊躇いなく話を切り出せた。
 「賢十が昨日の遅くにお寺に行ったのは、霰ちゃんと関係あるの?」
 地雷と言うべき質問に霰はおののいた。彼女は咄嗟の虚言の作成に腐心する羽目になった。
「それはです、ね、私が……賢十さんの家を抜け出したので……」
 嘘というよりは事実の局所でしかない。そのことに気づいた霰は、けれど後戻りできないまでに語ってしまっていた。
「どうして、なんで!?」
「えぇと………それは………」
 猛烈な実花の追及を受けて、霰は言葉に詰まる。実花と目が合うのを恐れて、視線が定まらない。元来霰は嘘をほとんどつかずに生きてきた身の上った。評し方次第によって素直とも愚直ともとれる、そんな性分だ。昨日の寺で賢十を追い返すために語った霰の種族の話も、ほとんどが日々希の入れ知恵であったほどである。故に虚構で相手を弄しようなどと挑むこと自体が既に失敗に等しかった。
「色々と事情があって、賢十さんのお世話になることに私が申し訳なくなって、逃げ出したんです」
 結局、霰は言葉を濁して、実花が諦めることを哀願した。しかし悲しきかな、それさえも霰にしては及第点であった。彼女が相手を騙すのに、話の内容を隠すか、語る内容を絞り込むより以上は望めない。
「そうなんだ。聞かない方が、良いよね」
 とてもではないが実花には、露骨に表情が凝り固まっている霰を問いつめることはできなかった。
「はい、お願いします。すみません」
 実花の言及から本意を隠し通せた、と霰本人は思った。彼女は気が緩み、そのあどけない相貌に微笑みが戻った。
「でもそれだとどうして、霰ちゃんは今も、賢十の家に居候して……あ。わかったかも」
 実花は自分で疑問点を提起しておきながらも、勝手に答えにたどり着いてしまった。付き合いが長く猪突猛進になりがちな少年が何をしたかなど考えるまでもなかった。
「賢十さんが逃げ隠れしていた私を見つけて、連れ戻してくれましたから」
 真実だったこともあって、霰は淀みなく話せた。そこに抱く紛れようのない感謝の念が彼女を饒舌にしていた。
「話してくれてありがと」
「いえ、こちらこそ。お友達って、いいものですね」
 霰が呟く口振りは、生まれて初めて友達ができたような響きを伴っていた。実花は思わず吹き出した。
「大げさだよ。でも、嬉しいこと言ってくれるなぁ」
 二人の談笑は帰りの電車の中でも尽きなかった。実花は居候していた頃の賢十の生活を暴露し、霰は旅をしたこと事態は隠して、道中での出来事を語った。同性の友人との談笑が久しい霰はこの上なく楽しくて、その時間が泣いてしまいそうなほどに尊く感じられた。

二人の関係

 幾らか光が柔らかくなった日溜まりに浮かぶ布団の上で、だらしなく大の字になって、賢十は呆けていた。日々希は要らない置き土産を残し、部屋を発っている。
 去る間際、日々希は賢十に二つのことを言いつけた。どちらも大したことではなく、外出の自粛と、霰との性的接触の回避がその内容である。前者は部屋には結界が張ってあるから、後者は、雪女の人を襲う常套手段にそういったことが含まれているから、という理由だと、賢十の質疑に日々希は答えた。賢十としては、療養中の身で最低限度外の外出をする気はなく、霰に手を出すのなんて以ての外だった。注意されるまでもない。
 昨日までの賢十にとって、雪女など現実の埒外にいた。妖怪など時代遅れも甚だしい冗談でしかなかった。でも日々希の目は真剣と以外に形容できなくて、面白くないなと切り捨てるのは些か薄情が過ぎる。それに、冗談の類でこんなものを―――
「ただいまです!」
 扉を開くと同時に霰が快活な声を響かせた。
 息を呑んだ賢十は、目にも留まらぬ早さで手元にあった日々希の置き土産を布団に押し込んだ。
「賢十、わたしは帰るよ!またね!!」
 両手が荷物で塞がった霰に代わって、実花は扉を開けていた。布団が敷かれている位置からは死角にあって、賢十に感知できたのは別れの挨拶と身動ぎする気配だけだった。扉が閉まった直後、霰は軽やかな足取りで居間まで跳んで来て、賢十ににこやかな微笑み顔を見せた。ぎこちない笑顔で彼は彼女を迎える。
「おかえり」
 霰は声高に「はい!」と返して、賢十の傍らに腰を下ろした。
「とっても、楽しかったですっ!」
 未だ興奮冷めやらぬ、といった様子の霰の微笑は溌剌としている。平時なら見守っているだけでも幸せになれるだろうその姿を、賢十は異世界のもののように眺めていた。
 心の底から幸せを満喫している霰の隣で、賢十は必死で表情を取り繕う。布団の中、木目の固い感触が否が応でも手に伝わって、日々希の依頼めいた指図を思い出させた。
 
 最悪の時には、君がけりをつけてください。
 
 そんな命令と一緒に渡された、脇差し。有事の際にはその短刀で、霰を――しろ。日々希は言外にそう命じていた。賢十が思わず握りしめた鞘に内包される冷たい煌めきは、彼の掌に突き刺さるようだった。
「あの………賢十さん。昼食はまだですよね?すみません、帰るのが遅くなって」
 太陽はとうに頂点を通り越している。風邪を引いている賢十をそんな時間まで放置していたことで、霰は自分を責め苛んでいた。少女のしおらしい心入れのおかげで、賢十の心持ちは幾分か平穏に回帰した。けれど隠している刃は、楔になって彼が霰に歩み寄るのを妨げた。
「あぁ。頼む」
 心に暗い影を落としながらも、賢十は明るくあるように努める。
「はい。お任せください!」
 彼の葛藤の主因たる霰の言葉や立ち振る舞いが、賢十の胸中全体に疑念が広がるのをくい止めてくれる。きつい皮肉だと賢十は思った。
 瞑目した賢十は、台所に向かう霰の存否を気配で確かめながら、体を休める。
 夢現の境界でさまよっていると、記憶が逆行してきた。霰との短い思い出が緩やかに逆再生されると巻き戻しは加速し出した。取り立てて特別なことのない、高校に入ってからの日常は瞬時に過ぎ去り、入学、春休み、卒業、受験、勉強………やがて、人生最大の変化とそれに至るまでの展開が克明に、意識の下に、さらけ出された。
 実花の家に駆け込む以前、賢十は母方の叔父夫婦に引き取られていた。きっかけは覚えていないが、そこでの生活は―――
 まずい、と思った。叔父夫婦との記憶は彼が必死になって忘れ去ろうとしたものだ。胸の奥の深淵に閉じこめて蓋をし、実花達との幸福な日々を重りとして二度と思い出さないように封印していた。けれどもここ最近は穏やかで平坦な日々ば続いていたから、油断していた。安易に記憶の底を探ってしまった自分が怨めしい。ただどんなに悔やんでも、認識してしまったその記憶は彼の意志にしがみついて離そうとしない。そいつはまざまざと己の醜悪を見せつけるように浸食してくる。
 殴り罵られた。相手の評判を貶めることを反撃とした。叔父らの暴力や暴言はいっそう苛烈になり、賢十の反撃も狡猾を極めた。灰色にも見劣りする、安穏の対極にある日々。期間にすれば一年にも満たなかったが、息が詰まるほど重苦しい諍いの中での生活は彼を崩壊寸前にまで追いやった。最後の最後まで争いに和平はなく、賢十が家出したことで強制的に中断させられた。
 電話が人を呼んでいた。霰に『家電』と教えた方だ。その声に目を醒まされた賢十は、上体を持ち上げた姿勢で停止した。
 ………嫌な、予感がしたから。実花を初めとしたほとんどの知人とは、携帯電話で遣り取りをする。ただ、ほとんどと言うからには例外があり、その例外には、つい今し方思い出していた人物が包括されている。妄想に過ぎないが、看過するには恐ろしい可能性。
「賢十さん、電話ですよ」
 霰に向けて浅く頷き、布団を抜け出して電話の前に立つと、熱いものにでも触れるように、賢十は受話器を触るのに躊躇した。彼の挙動をいぶかしみ、霰は駆け寄った。賢十は左手を握りしめながら、深呼吸を一つしてせめて動悸だけでも改善し、右手で受話器を取った。
「はい、もしもし。真野ですけど」
 恐る恐る名を申し出た賢十は、
『何してんのあんたは。電話にでるのが遅い!人の迷惑も考えてちょうだい!!』
 女の金切り声での罵倒に賢十は身をすくませた。彼の妄想が現実となってしまった。傍らで賢十同様に震え上がっている霰を唯一の頼りにして、彼は受け答えする。
「何のようですか?」
 賢十の口振りにも、攻撃性を示す棘が見受けられた。
『あんたが勝手に出てったせいでね、わたしらは、いっつも他の親戚に文句言われてんの!』
 戻ったら戻ったで、どの面下げておめおめと帰ってきたな、と罵るだろうことを、賢十は心中で批判した。
「ごめんなさい」
 理性も本能も飛び越えて、ただ彼は謝罪し許しを乞いていた。
『全部あんたのせいじゃないっ!あんたが勝手に気狂いになって、出てったんでしょうっ!?』
「ごめんなさい」
『あたしらが何をしたってのよ、この恩知らず!!』
「ごめんなさい」
『あたしらがやったもん、全部返せっ!』
「ごめんなさい」
『何もできないのに謝んなっ!!』
「ごめんなさい」
『このゴミ学生っ!世話してやったのに迷惑ばっかかけて、死んじまえっ!!』
 そう叫んだ途端、唐突に電話は切られた。嘆息すると、疲弊した賢十は崩れ落ちそうになった。が、左手で握りしめていた小さな手の持ち主が、前から抱きつくようにして彼を支えた。
「賢十さん、お布団に戻りましょう」
 密着しながらの必然的な上目遣いで、霰はまず賢十の体を労った。賢十はというと、味覚を除く五感全てに訴えかけてくる甘く柔らかく温かい彼女の存在、胸の高さから彼を見やる霰の美貌との、キスができてしまいそうな距離感、そして―――
「もしかして俺、ずっと、お前の手を握っていたのか?」
 霰の手を無意識に握りしめて離さなかった事実に動転して胸が高鳴り顔は紅潮していた。
「……ぇと……はい……」
 顔を逸らして気まずそうに霰は肯定した。賢十は羞恥の荒波に揉まれながら、自分の弱さを改めて認識した。
 どちらも退くか突き放すかして、近づきすぎた距離を置く踏ん切りがつかなかった。そうしていると、離れる機会を逸した。
「誰なんですか、今の電話相手の方は?」
 俯きながらの霰の質問は、話題を逸らすことばかりが目的ではなかった。
「俺の叔父の奥さんだ」
 と賢十は形式的な関係を教えたが、霰は柳眉を顰めて当惑を表現する。彼女は浅慮に従って相手の弱みを暴露することなどできなくて、けれども見過ごして無関心を装うような器用さも持ち合わせていない。
「実花の家に泊まる前の、俺の保護者さ。……仲は、見ての通りだがな」
 なし崩しに賢十は、露呈したも同然の秘密を明かした。実花にでさえ口を固く閉じて、秘匿の厳守を一貫させてきたが、あの場面を見られたとなると隠すのも白々しい。
「実花さんには聞かないよう言われていました。だけど、おかしいですよ。賢十さんがあんな風に罵られるなんて。どうして言い返さないんですか?できないんでしたら私が説得します。行きましょう」
 霰は賢十を、固く強く信頼している。彼がどれだけ鈍感だとしても、今の発言を聞いては分からないはずもなく、賢十にはそれがなお痛烈に聞こえた。
「なぁ、霰。俺も昔から、今みたいな人間じゃなかったんだ」
「……どういう、意味ですか?」
「まんまの意味だよ。叔父さんの家にいたときは、俺は頭の悪いガキだったんだ」
 ただしそれは、現在を肯定する言葉でもなかった。彼の手元には、霰を―すための凶器がある。
「自棄になってた時期があったんだ。周りへの迷惑も顧みずに、自分のことばかり考えて」
「だから、反論できないって言うんですか?」
「あの人らは、無償で俺を養ってくれようとしたんだ。馬鹿なことに、俺はそれに反抗しちまった」
「……なんでっ……どうして賢十さんが!なにか、きっと訳があるはずですっ!」
 霰は躍起だった。目の前の恩人とその過去との齟齬を受け入れられなかった。けれど反抗の理由まで話すと賢十は、自衛が為の外殻は失われてしまうから、憤慨する霰の問いに答えられない。彼はただ、首を横に振った。
 憤懣と懇願の光を宿していた青い瞳は未だ握られている二人の手を見つめていた。だが目線を上げて賢十と目が合うと、彼女の感情の高ぶりは瞬時に静まった。
「私、昨日の夜にお寺を逃げ出した後、賢十さんが言っていたことが分かりました」
 前触れなしに、霰は趣旨換えした。
 否、代わったのは話題ではなく言い方だ。
「何の話だ?」 
 布団を被って泣き出したい衝動に駆られていた賢十には、彼女の意図が掴めなかった。彼の声には少なからず震えが含まれる。
「今のあなたがしている表情が、困ったような微笑みなんですね」
 反射的に、賢十は自分の顔を指でなぞっていた。表情筋は硬直して感情を現出させている。疑いようはない。第一、これが誘導尋問だったら、目の前にいる少女が仕組んだにしては高度過ぎる。
「今、話してくれなくても良いです。けれど、辛くなったら私を頼ってください。私は賢十さんに恩義がありますから、遠慮はいりません」
 ありのままの心中を告げると、霰は台所へ戻った。その注目は既に、働く手元に向けられている。
「………」
 惚けた顔をして、些末な敗北感を抱えたまま、賢十はいそいそ布団に戻った。気にくわない感情の隠れ蓑の陰で、彼は懐かしい心底からの憩いに己をゆだねた。
 しかし、布団に隠してある冷たい感触は、少女の言葉が彼の心に寄り添うのを後一歩の所で妨げる。


 昼食も、その後の片づけも終わった。霰は炬燵の四辺の内、賢十が眠る布団に一番近い場所に座っている。彼には背を向ける形になるが、紛れもなく賢十と霰は間近だった。
 彼女は、肩越しに彼を見やる。恩人の少年は赤ら顔で寝ている。堰の回数は減ってきていて、体調の回復が見て取れた。
 今や暢気に寝息をたてている少年は、眠っている間だけは年齢に不相応な強さがかき消えていた。覚醒時の彼は、大半の同年代とは釣り合わない逞しさを備えている。その起因も、彼が例の電話相手と会話をしているのを間近で目撃して、悟った。そんな賢十だからこそ、出所不明の霰を助けてくれた――そうは承知していても、彼の不幸を恨まずにはいられない。その気持ちは、彼女がここに忍び込んだ動機に対しても差し向けられていた。

 一昨日の夜、ちょうど賢十達が警察に追われていた頃。霰は焦燥に追いやられ、使命の実行を急いでいた。
 彼女の抱える使命とは、一度は賢十に明かしたことで、だが明かされていないも同然のことだった。寺にまで来てしまった賢十を追い返そうとした際の虚偽の脅迫には一つだけ、告白したと言って差し支えない真実が混じっていたのだ。賢十にも未だ言えずにいるその秘密とはこういうものだ。
 霰は。
 賢十を。
 その命を、奪おうとしていた。
 彼女が帯びていた使命とは、人間を一人殺すというものだった。ただいつまでも決心がつかず、彼女は数日間に渡って放浪していた。その果てに、期限は迫り、体力も限界を迎えようとしていた。
 二の足を踏んでもいられなくなっていた霰は中途な決意を抱えて、人気のないアパートの一室に目をつけた。能力によって生成した氷の鍵を用いて解錠、侵入した。それから、主の代わりに夜闇が居座る部屋の中央で立ち尽くした。
 決めていた、霰は。その夜の間に住人が帰ってきたら、手に掛けようと。帰ってこないことを望ながら。
 長くも短くもない時間が経過して、部屋の扉の前で止まった足音と若い男の話し声が聞こえた。相手が帰ったのかさして間もなく会話は途切れ、誰かが扉にもたれ掛かって扉が軋んだ。
 この時にはもう、霰の心臓は、彼女の細い体を突き破りかねない勢いで暴れていた。少女に人を殺めた経験はなく、固めた意志は瞬く間に瓦解して霰を構成するありとあらゆる要素がのたうち回っていた。
 居ても立ってもいられなくなって、彼女は近くにある大きめな戸棚に身を潜めた。ここで待ち伏せるんだ、待ち伏せるんだ、そして―――。霰は自分に言い聞かせて、鼓舞しながら相手を待った。
 やがて扉は開かれた。緊張が腕を跳ねさせて収納していた金属鍋に当たり、甲高い物音が鳴る。少女の鼓動は痛いほどになったが、中止できる段階はとうに過ぎていた。彼女は身を丸く固めて、耳を塞いだ。
 男は侵入者の存在に気づいてないわけでもないのに、気負いなく居間まで歩いてきた。室内には明かりが灯されて、霰が隠れる棚にも戸の隙間から光が忍び込んだ。飛び出すなら、その時が絶好だったが、霰は全身の筋肉がひきつって自在に運動できる状態になかった。部屋の主たる少年は荷物を置き、霰の所在を特定したように、一直線に彼女が潜む戸棚の取っ手を掴んだ。最早、霰は命を狙う側ではなく、狩られる側の心持ちだった。
 そして戸は開かれ、
「「……っ!?」」 
 住人の目には雪解け水が如く純粋な少女の青色の瞳が映り、その瞳は、眠たそうで疲れがにじみ出ていて愛想の欠片もない少年が、目を見開いて仰天しているのを捉えた。直後に戸が再び二人の間に立ちはだかり、刹那の遭遇は幕を閉じた。
 当然ながら霰は我を見失って慌てた。だが騒ぎ立てることもできず、小動物風に戦慄して現実からの逃避行に旅立った。などと戯けていたら戸棚が外側から蹴られ、震動と衝撃音が霰の意識に襲って現実に引きずり戻し、ついでに彼女の油断につけ込んで肝を潰しかねないほど震え上がらせた。
 それから霰を匿っていた戸もとい閉じ込めいた障壁はまた開かれた。まじまじと二人は見つめ合う。くたびれてなければ格式高そうな黒色の衣服に少年は身を包んでいた。地位がよく分からなかった。彼は怪訝な面もちで、霰にいくつも質問を飛ばした。怯えきった彼女の思考は過熱して機能停止に陥っており、居たたまれなくて逃げだそうとも試みたが、少年がそれを許さなかった。だからせめて、これから殺す相手に弱みを見せまいと気丈に少年の訊問に答え、堪え、受け流した。真野賢十と初めて巡り会った時、霰の心を覆い尽くしていたのは恐怖と焦りとなけなしの害意だった。しかしそれも長持ちしない。
 触れられた、肌に。自分がもう、人間ではない証左に。
「――触らないでっ!!」
 という叫びと、不似合いな敵意に満ちた眼差しは偽りようのない本心からの拒絶だった。
 彼女の肌は色だけでなく温度も雪に比喩されるに相応しい、人にはあり得ないものだった。そして霰は我が身の本性が露呈するのを恐れていた。それは、警戒され抵抗され、退治の憂き目にもあうかもしれない、なんて理知的な考えから湧いた感情ではなかった。そんなことよりも、人でない、と評されることそのものが耐え難かったのだ。人外と扱われてしまうのは祖母から授かった愛が全否定されてしまうようで、想像するだけでも細胞の一片、血の一滴が理性に反発して荒ぶり肢体が破裂しかけ、心の深淵には疼痛が駆け巡った。
「なんだ、その、すまん」
 霰の痛ましさを片鱗とはいえ引き出し、目撃してしまった賢十は、深く行動を詫びた。犯した所業がなぜ愚行たるかも理解できないでいたのに、頭を下げた。霰は賢十の謝罪も耳に入らず、性根が暴露されたと感づいて脱力し、すっかりへたり込んでしまった。その後から温かみが増した賢十の優しさが、胸に痛かった。本当に罪深いのは彼女の方だったから。

 結局霰は、賢十の親切と果たすべき罪への自責とで板挟みになり、耐えきれずに彼の前から姿を消した。寺に捕まった後は、そこで生涯を終えようと心に決めていた。だが元標的の恩人に台無しにされ、連れ帰られた。
 現在、霰のすぐ後ろ、手を伸ばしたら届く距離に賢十はいる。無防備に眠っている。隙だらけで命を奪うのは赤子の手を捻るよりも簡単だ。けれども彼女は微笑みながら、その温かな一時を満喫することを選んだ。たとえその選択が彼女から何もかもを奪うのだとしても、もうこの時間の他は要らない。心苦しい部分はないと言えば嘘になるが、そうすると決心している。
 ふと思い立ち、霰は賢十の手を握りたくなった。色白で細い指は、恐る恐る、対照的に肉厚な手の平をつついた。霰は賢十に起きる素振りがないことを確かめて、そっと自分の手を賢十のそれに絡ませた。手と手の隙間に、未来を切り開く力が生まるわけでも、空も飛べるような熱意が湧くわけでもない。単に、今にもかき消えそうな温もりが二人に間で分かち合われ、漂うだけ。しかし霰は、それこそが何よりも愛おしかった。その数日の幸福を余さず抱きしめるようにして、彼女は自分の肩を抱いた。少女の双肩は震えていた。


「――うおぉ、よく寝たぁ」
 大欠伸をしながら賢十は布団をはねのけ、上体を起こした。熱は下がっていて、体調は絶好調。風邪をひく以前よりも良好だ。
 窓の外から、日の光は消え失せていた。宵闇が部屋にまで入り込んでいる。室内に人の気配はなく、霰は外出していた。
 彼女の行き先が賢十は気になった。まさか、一昨日のようにもう戻ってくるつもりはないなんてことはないと思っていたが、気がかりなのは否めない。彼女の行く宛として考えられるのは、せいぜい実花の家くらいだ。あとで電話しておこうかと賢十は持ち前のお節介性分を発揮させる。
 立ち上がった賢十は、脳からの命令を体が軽やかに受信することに感動を覚えつつ、電灯のスイッチを押しに扉近くまで歩いた。
 すると見計らったように、扉が開かれた。夜色の長髪が美しい、あどけない少女が不規則な足付きで入室してきた。
「お帰り……霰……?」
 今の霰は、雰囲気が賢十の印象と相違している。だが背格好と服装からして他人のそら似はあり得ない。必然的に怪訝な語調になった賢十の出迎えに、しかし彼女は何ら挙動を見せず、無言で彼に見入っていた。
 ひとまず賢十は明かりをつけた。暗闇に取って代わった白色で視野が明確になる。
 映し出された少女は端正な無表情。
 その瞳は、黒い。
 賢十が己の視覚が正しいかを確かめる数秒もなく、彼女の無表情は崩れた。霰は、夢幻から解放されて目が覚めた、とでも比喩されよう面差しになって、彼が瞬きをする間に目は青くなった。それから霰の華奢な体は戦慄き、立て直せなくて崩れ落ち始めた。
「っ!」
 賢十は膝立ちになって脇の下に腕を入れて霰を抱き留め、彼女が倒れ込むのを防いだ。少女の痩躯は出会いの夜を思わせる冷たさだった。密着しているだけでも人を凍り付かせてしまいそうで、賢十の脳裏に冷酷な死の予感が走る。
「霰、しっかりしろっ」
 賢十は霰を捨て置くことができず、全身の毛と肌を総立ちにさせながらも腕に力を込め直した。
「……賢十、さん」
 顔を上げた霰は、まばたきをして、静穏に微笑んだ。
「ごめんなさい。もう、平気ですから」
「……そうか」
 霰の平常を訴える発言は信用ならなかったので、賢十は立ち上がるまでは彼女を離さなかった。少女の体躯は不健康なほどに軽く、難なく持ち上がった。霰は賢十の恩顧に甘えて支えられ、それから彼の腕から抜け出して自力で立ち直った。先ほどの危うさは消え失せていた。
「なにしてたんだ?」
「この町の平和を守ってきました!」
「……」
 もう一度問おうか、彼は迷った。ほんの一瞬、怒鳴ってでも真相を吐かせようかとも意気込んだ。だが霰はこんな愚にもつかない冗談だか出任せだかを口走ったからには、何をしようとも頑なに口を閉じて開かない。そのことは賢十にだって予測できたが、だとしても腹立たしさは収まらなかった。
「無茶すんなよ」
 感情を極限まで押し殺して、賢十は言い捨てた。そのまま彼は、体ごと霰から顔を背けた。
「体調、よくなったみたいですね。晩ご飯は何にしますか?」
「何でも良い」
 あからさまに不機嫌な声だった。賢十の後ろで霰は苦笑した。が、即座に穏和な微笑になった。
「すぐに用意しますから。まだ寝てなきゃだめですよ?」
 賢十は日本語になっていない気の抜けた返事をして、布団に戻った。起床直後の威勢は面影もない。
 霰が台所で料理に勤しみ、賢十は布団で休む、昼に似た構図になっていた。その類似は、賢十が思慮に囚われ始めたことで同一へと完成された。
 布団に入ってからの無言の時間が、賢十に突拍子もない懸念を付きまとわせた。霰の外出は目撃されたという雪女との接触が目当てだったのではないかと勘ぐって、不安が際限なく広がってしまった。
 もし賢十の予想が的中しているのであれば、彼の身には危険が迫っているのは確実だ。臆病者だと謗られたならそれまでだが、彼の邪推は自衛には必然の発想だった。仮に霰が雪女と手を組んでいるとすると、彼女はどう行動するのか、賢十は何を以て対処すべきなのか。未然で不確定の事態を妄想して、彼は短刀の柄を固く握り………
 ―――思考を省みて、体中の皮膚をかきむしりたくなる後悔に襲われた。
 一体この三日間で自分は何を見てきたのか、容赦なく己に怒鳴りつけた。霰には、まだ心中の全てを語ってくれてはいないらしい嫌いはあるが、人を傷つけるには過ぎた優しさが彼女には宿っている。彼女の微笑みによぎった沈痛や歓喜や慈愛の何もかもが賢十にそれを教えてくれた。それなのに、よりにもよって自分が、霰に猜疑の目を向けてしまった。明日の迎えが来るまで、あの少女には他に身寄りがないのに。
 返そう、小刀を。
 賢十はそう決めて、携帯電話を手に取った。まだ迷いはあったが行動には反映されない。急く気持ちのままにボタン操作も素早かった。電話帳に記載された人名の羅列から選択するのは、友人たる僧の名だ。賢十はもしもの危険に対する恐れを、断ち切れないまでも抑制して、通話ボタンを押した。
 呼び出し音は彼からするともどかしいことに、十回は繰り返された。賢十が地団駄を踏みたくなった頃、ようやく二人の少年を電波が結びつけた。
「もしもし。今、時間あるか?」
『なんですか、賢十くん?』
 鬱陶しそうな声音である。賢十は、日々希が忙しいと言っていたことを思い出して、話そうかと
躊躇った。その間に秒針が一回転した。だが最終的には、小太刀を持っていると沸き起こる不信への、虫酸の走る嫌悪感が賢十の背を押した。
「……今日渡されたあれ、返すよ。あれがあると霰を信じちゃならない気がしちまう。そんな自分を俺は許せない」
 声には出して驚かずとも、日々希は息を呑んだ。
『……君なら、言ってくるかもしれないとは想定していましたが、よもやここまで早期にとは。ご自分の身を危険にさらす意味は、理解していますよね?』
「もちろんだ。その上で、この決断をした」
『やはり、君には無駄な脅しでしたか』
「で、どうなんだ?」
 日々希の疲弊した吐息が、音声になって賢十の耳に流れ込んだ。諦念とも覚悟ともつかない、あるいは両者が混在した嘆息だった。
『君があの脇差しを返却することは構いませんよ』
「本当か!?でも、どうして……」
 反対が待ち受けていると思っていた賢十には、日々希の了承は僥倖で、驚喜する反面、怪しんでもいた。
『正直な所、素人があんな物を持っていようが役立つとは思えませんから。まぁ、あれにも仏の御力は宿っているのですが』
 説明を受けた賢十の疑問はかえって加速すした。
「お前、だったら何で、あんな物を渡したんだ?」
『その辺の事情も合わせて、直接会って、説明しておきたいことがあります。脇差しはその時に返していただきましょう』
 とんとん拍子過ぎて、賢十は正直、気味が悪かった。
「なるべく早ければ助かる」
『時間はいつでも構いません。今晩でもよろしい。ただ賢十くんには―――』
 言葉を切った日々希は、気まずそうであった。
『君自身の安全とはまた別の、覚悟をして貰わなければならない』


 チャイムが鳴らされたのは、唐突だった。純和風の食卓を霰と二人で囲んでいた賢十は、仕方なく立ち上がって出迎えに扉へと赴いた。
 誰が来たものかと賢十はちょっと考え込んだ。日々希ではないだろうという確証はあった。彼が犬猿の仲の霰がいる部屋に平然と入ってくるとは思いがたい。それに加え賢十には、『唐突』さに定評のある悪友がいた。
「よぉ、実花」
「こんばんは、賢十」
 悪戯っぽく揶揄するような笑みを浮かべる実花は、どことなく楽しげだった。彼女は昼間にも来ていたダッフルコートに加えて首に赤色のマフラーを巻き、冬の夜の寒気に対抗している。後ろ手に何隠しているらしく、どうやらそのせいで実花は上機嫌なようだ。
「どうしたんだ、こんな時間に?」
 宵の口に、仮にも一人住まいの男子の家を女子一人で訪問するその気心は賢十に知れない。ただ、問われた実花は、大きく相好を崩す。
「ふっふっふ。風邪引きの賢十のために、わたしがご飯を作ってきたのだっ!」
 態とらしく笑いながら、口頭での「じゃーん!!」なる効果音とともに実花は背中に隠し持っていた弁当箱を見せつけた。青い風呂敷に包まれていて、彼女の声量と同じくボリューム過多である。
「気遣いありがたいんだが、一応霰が晩飯は作ってくれたんだ」
「え、え、嘘でしょ!?」
 想定外にへこまれたの、賢十も我になく怯んでしまう。
「いや、まぁ、マジだ」
 しどろもどろになりながらも賢十は答えた。
「霰ちゃん、料理できたんだ……」
「けれどもなんだ、その………」
 意気消沈した実花への対応に賢十があたふたしていると、部屋の床を叩く控えめな足音が聞こえた。
「実花さ……ちゃん、お弁当、持って来てくれたんですね!」
「でも、霰ちゃんがもうご飯作ったんでしょ?」
「私が作れるのは和食だけですから。恥ずかしながら、洋食のお料理を知ったのも最近でして」
 かつて霰を取り巻いていた環境は閉鎖的で、彼女の育ての親は洋食の存在さえ知らなかった。霰自身は彷徨の道すがらに、通りがかった家々からの恩顧によって洋食の料理を認知した。故に作り方など知りようもなかったのだ。
「ですから、夕飯、ご一緒願えませんか?」
 霰のお誘いに実花は顔を輝かせ、賢十にねだる目つきで「良い?」と許可を求めてきた。賢十は良くも悪くも、人の頼みをはねつけるのが得意な人種ではない。
「好きにしろ」
 ただし例によって、彼の口調はぶっきらぼうだった。
「やった!」
 声を上げて喜んだのも束の間、実花は短い茶髪を風に浮かせながら賢十の脇をすり抜けていった。
「……やれやれ」
 不愛想な風貌に賑やかな食卓への喜悦を押し隠して、賢十は実花に続いた。
 時計回りに実花、賢十、霰の順で一同は炬燵に入った。霰が用意した、味噌汁、ご飯、煮物、漬け物諸々の小皿と、実花が持参した三重の重箱が狭い炬燵の上を隙間なく埋めている。病み上がりの男子一名と女子二名でへ完食するのに心許ない。
 そこで実花が提案する。
「ね、日々希くん呼ぼうよ」
 賢十と霰は見事に表情をひきつらせ、それでも辛うじて笑みを保持している賢十が、
「ま、まずは挑んでみようぜ」
 ぎこちなく問題の先送りを提起した。
「ん?賢十が言うなら、それでもいいけど……」
「よし、じゃあ食前の挨拶をしよう」 
 やや居心地が改悪された場の空気を吹き飛ばさねばならない。特に賢十は、大きく息を吸い込み腹を膨らませた。
「「「いただきま」」」「ガァッ……ハッ、ゲホッ!」賢十がせき込んだ。「ちょっ!?」「賢十さん!?」
 実質賢十が発案したも同然の挨拶だったのに、気合いを込め過ぎた自身の手で台無しにしてしまった。幸か不幸か、咳は賢十に恥じられるほどの余裕も与えない。
 両隣の少女らがすぐさま彼に寄り添った。
「賢十のバカっ、なにしてんのっ!」
「賢十さん反省してくださいっ!」
 ついでだめ出しされてしまった。彼は反論に打って出ようとして、喉の痛みにやむなく断念する、だけに留まらずおどろおどろしい悲鳴を絞り出して苦悶した。尤も喉が動いたとしても、有効な正論を持ち合わせていない賢十は、無力に変わりなかったのだが。自覚すると気分が底なしに沈んだ。
 霰は立ち上がって何かしらの作業に移ったので、賢十が声を聞き取れるのは間近にいる実花だけだった。
「やめてよ、変なことで驚かさないで」
 悪友兼幼なじみに、背をさすられながら愚痴をこぼされた。地震の情けなさに辟易しつつも、まだ物事を喋れるほど喉が回復していない彼は黙ってそれを甘受するしかない。
「結局、昨日の夜のことも話してくれてないし」 悪いことをしたという罪悪感はあったが、口が裂けても話せる内容ではなかった。問いただされても結論は揺るがなくて、賢十は文句を聞き入れるしかない。
「ばーか」
 子供じみた内容と口調の悪口を放ると、実花は押し黙った。痛みが収縮して、賢十は掠れた声なら出せるようになった。
「時間が経ったら……話すっつってんだろうが……っ」
「疑っているわけじゃ、ないけど」
 予想だにしない返しに賢十は戸惑った。
「なんだよ、それ……」
 賢十が言葉に詰まったところで、
「すぽーつどりんく、用意したので飲んでください」
 霰が介入した。不器用な二人を一歩退いた立場から見守っていた彼女は、会話の途切れ目を見計らっていたのだった。意思を交わすのに賢十と実花が難儀したら、自身が潤滑剤となるために。
「さ、飲んだら早く食べてしまいましょう。でないと冷めてしまいます」
 そう告げて、霰は一足早く食事に手をつけた。


「それじゃ、わたしは帰るね」
 湯飲みを置いて、実花は立ち上がった。三人は食後の一服にお茶を啜っていてが、宵の口と形容すべき時間帯は過ぎてしまっていた。
「送ってくよ」
 にべもなく賢十は実花を案じた。なんだかんだで、彼は昔なじみの悪友が大切だった。実花は振り返ってほくそ笑みながら「うん!」と妙に元気よく頷いた。
 賢十は財布をポケットに詰め込み、携帯電話を取ろうとして、
「……」
 それが置かれた布団が視界に入った。そこには例の『置きみやげ』が隠されている。賢十は持ち出すべきか一考する。持ち出す面倒さえ乗り越えられたら、襲われた際の備えになるし、霰に見つかる可能性も潰える。利益と損益の兼ね合いが、彼を決断させた。
「実花さん」
 霰の意識の視野から賢十が外れた。彼はこれを好機と見て、まずダウンジャケットを手に取った。
「今日はありがとうございました」
 さらに賢十は、四つん這いの姿勢で携帯電話に手を伸ばす、ついでを装って掛け布団に手を差し入れる。
「ではまた」
 そのまま何気なく鞘に入った短刀を取り出し、体を視線からの盾にしてダウンジャケットにくるみ回収、携帯電話も手にして炬燵に戻った。
「うん。またね」 
 実花と霰の会話が終了したのを目の端で確認しつつ賢十は起立し、自然を装ってダウンジャケットを羽織る最中に、柄が出るように短刀をズボンに差し込んだ。
「ふぅ」 
 一連の動作が無事完了したので彼は思わず息をついてしまった。それから癖で鍵を探したら、なくしたのだと思い出した。
「じゃ、霰、留守は頼む」
 ドアに寄りかかっている実花は非難がましく賢十を見やっていた。賢十は慌てて靴を履きながら、霰に片手を振った。
「はい。いってらっしゃい」
 遅いよ。急かすな。そんな風に小突き合う実花と賢十を、霰はいつもの微笑みと小振りする手で見送った。彼らの幸せは霰の願う一つで、傍目から眺めているだけで、彼女は温かくなれた。
「さて、と」
 霰は賢十の後ろ暗い動きを見なかったことにして、食器の片づけに取りかかった。

 
 賢十達が繰り出した夜空の下には雪がちらついていた。息が吐いた側から白く闇に浮かび上がり、霧散した。実花と賢十は並び、音を鳴らしながら雪を踏みしめて歩いた。
「ね、賢十。霰ちゃん一人にしてよかったの?」
「あぁ。あいつは盗みとかは働かねぇよ」
 自信満々に質問の意図をはき違える賢十に、実花はため息で呆れを表明した。
「そんな心配してないよ。そうじゃなくて、具合悪そうだったから」
 言っておきながら実花は、実質、連れ出したのは自分なんだと気づいて、重ね重ねため息を吐きつつ俯いた。霰を思いやる資格などない気がした。
 賢十は、隣を歩く少女がなんらかの葛藤を抱えていることは薄々察しながらも、慰めてやることはできなかった。なぜなら、
「あいつは、俺が近くにいたら強がるから、かえって疲れさせちまう」
 賢十にもまた、自分なりの苦悩があったからだ。
 霰は人を心配させたくなくて、疲れも悩みも親しい間柄の人間にほど見せたがらない。優しく真面目であるが故、自分が傷つく道の他を知らない。賢十が助けたくて手を伸ばしても、ふりほどかれてしまう。そんな人の不条理に抗うこともできない自分が、彼は不甲斐なかった。
「やり切れねぇよなぁ、どうにも」
「やっぱ、霰ちゃんの事情、複雑なんだ?」
 旧知の少年が苦心する理由くらいなら、実花にはおおよそ見当がついた。
「まぁ、な。俺の家に来たのも何かあったからなんだろうし。あいつは話してくれないけど」
 なんてつぶやいていたら、賢十はそもそも、霰が彼の部屋に流れ着いた経緯を一切訊ねていないことに思い至った。賢十は目の前と足下に執心して、霰の身元に関心が行かなかったのだ。おばあちゃんと過ごしていたらしい、というのが数少ない情報だった。
「今度、そこらのことを聞いた方がいいかもな」
「う、ん。だよね。……賢十」
 吹っ切れたように実花は顔を上げた。
「どうした?」
 彼が横目で見た実花は、思い詰めた表情をしていた。雪明かりが頼りないこともあって、似合わない儚げな翳りが差している。
「私は一人で帰るから、霰ちゃんの面倒、見てあげなよ」
 ここにいたって実花は、賢十を連れ出して霰を独りにしたことを悔やみきれなくなっていた。今度は詳細まで実花の内心を読みとれた賢十は失笑した。
「霰はそこまで弱くねぇよ。それより、お前を一人で帰らせてもしものことがあったらどうするんだ」
 気まぐれに賢十は、実花の短髪を洗うように撫でた。茶色い彼女の髪は存外柔らかく手に張り付いて、触り心地がよかった。ついでに、甘い匂いが、なんて邪気溢れる感想を抱いていたら、
「ぶべ!」
 賢十は鼻面を裏拳ではたかれた。
「な、なにすんのよっ!?急に、あたま、撫で……!」
 実花は賢十が触れた箇所をしきりに触りながら頭を抱え、あたふたと地団駄を踏み出した。彼女の真っ赤に熱した顔は賢十には見えなかったが、それが皮肉にも彼の鈍感を助長させてしまう。一年の長きを共に過ごしても尚、関係に進展が見られない彼らの、二人きりでいるとありふれる遣り取りだった。
 氷点下の白銀が降り注いで、賢十の顔面の痛みと実花の頬の熱さを冷ました。実花は恨みがましい視線を賢十に向け、愛想笑いで返された。
「賢十って、なんでデリカシーないかな」
 実花の文句は語尾が怒りに跳ね上がっていて、恐怖で賢十の背筋を伸ばさせた。すかさず彼は平謝りして状況の打開を画策する。
「いや、すまん、悪かった。もうしないから許してくれ」
 腕組みした実花は不機嫌さ故に荒々しく、鼻から息を吐いた。
「別に、するなとは言ってない」
 そうとだけ言い捨てると、彼女はそっぽを向いた。
「はぁ……?」
 言動不一致な実花の女心は賢十が逆立ちしても解せない領域にあるため、彼には、何をしても怒らせる未来想像図しか描けなかった。そんなこんなで藪をつついて蛇を出す前に、彼はおとなしく引き下がった。
 住宅の塀で成された道に多くある角の一つを二人は曲がった。月と雪を経て届いた陽光の残滓が、住宅街の一角に敷地の広い邸宅を浮かび上がらせている。
「やっぱお前の家はでけぇよな」
 賢十は、自身が現在住まうアパートの一室と前方の屋敷を比べてしまって、対比にすらならない格の違いに肩を落とした。
「ちょっと、そんな顔しないでよ。そのおかげで、賢十が居候できたんだから」
「まぁな。ありがたい話だ」
 実花への同意と感謝を呟きながら、賢十は屋敷にいた頃の思い出を懐かしんだ。かつて彼が身を寄せた、実花の実家での日々を。
「ここまで来れば平気。それじゃあまた明日、賢十」
「おい――」
 「明日も来るのかよ」と賢十が愚痴っぽく訊ねる隙も与えずに、実花は走り去っていった。滑るなよなんて憎まれ口を叩けば、彼女はしかめっ面を見せるためだけに振り向こうとして転びそうなので、彼は黙然と悪友を見送った。実花は門扉の前まで来ると振り返り、体全体を活用して飛び上がるように賢十に手を振ってきた。彼も同じことをして応えたら、
「さっさと帰れぇーっ!」
 なんて言い残して実花は塀の奥に消えていった。
 賢十は踵を返し、助言に従って家路を急ぐことにした。滑らないように最低限の注意だけを払い、一歩を大股かつ迅速にした。しかし彼の歩みは、最初の角を曲がった所で遅くならざるを得なくなった。
「やぁ賢十くん。仲睦まじいですね、喜ばしいことだ」
 塀に背中を預けた日々希が待ち伏せていた。日々希は直角に折れた角の死角で盗み聞きも兼ねて賢十の周囲を監視していたのだった。
「趣味が悪いな。全部聞いていたのか?」
「えぇまぁ。目を離すわけにもいきませんから」
 随分と都合の良い言い訳を手に入れたな、なんて文句の一つでもくれてやろうかと賢十は思案したが、言い負かされる未来が見越せたのでやめた。
「それはさておき、ちょうど良かった。今、お前の忘れ物を持ち歩いているんだ」
 本題を切り出しつつ左腰の感覚を確かめて、賢十は歩行を再開した。借り物を持ち主の手に戻すのも、部屋に帰るのも早くしたかった。
「それを返して貰う前に、君に知らせておかなければならないことがあります」
 短刀の返却との交換条件を、賢十は可能な限りで思索した。ずぶの素人の知識では、代替の武器程度が想像の限度だった。せめて、霰の身柄が要求されないことを祈るばかりだ。
「思い違いをしているようですが、あの脇差しは、君の自衛を本意にして預けたものではありません」
 初っ端から、件トンの想像は前提ごと脆く崩れ去った。だったら、と新判明の事実に当てはまる結論を再度考え出す、なんてできるはずもない。
「一から説明してくれ」
「えぇ。まぁ本当のことを説明したところで、賢十くんが納得できるとも限りませんが」
「構わない」
「あの脇差しは、君を霰さんと親しくさせないためのものです」
「は?」
 言い聞かされた突飛な真相に、賢十は間抜けな声で反問するのを免れられなかった。
「心当たりはあるでしょう。あれは君が霰さんに優しくする時、あるいはされる時の、心のつっかえになったはずです」
 思い返すと全くその通りで、否定のしようがなかった。賢十が脇差しの返却に踏み切ったのも、脇差しが十分に本分を果たしたからだ。
 だが。
 賢十が気になったのはそこではなかった。
「なんでそんなことをする必要があったんだ?」
 効能なんて今更知ろうとも、もう終わったことだ。しかしその行為に潜む底意は、その限りではない。
「聞く覚悟はできていますか?」
 日々希の警告じみた問いかけに、賢十が抱えている曖昧だった悪寒が、明細な形状と質量を手に入れて具現化しつつあった。霰と睦むのがなぜいけないのか、考えど、邪推ばかりが膨らんだ。
「分からない。けれど、俺はそれを聞かなければならないはずだ」
「そう、かもしれませんね。ですが、脇差しの返却を許したのは、僕の独断です。賢十くんは聞かない選択肢も持っている」
 日々希はこう告げているのだ、知るかどうかは君の意思次第だ、と。賢十に権利だけを付与し、彼に義務を逃げ道とすることは許していないのだ。賢十は生唾を、返答の潤滑剤として呑み込んだ。
「教えてくれ。……いや、教えろ」
 無礼だという認識はあった。けれど意志の強さを示すために、命令形を使った。目を逸らすという不誠実は、賢十にはできなかったから。たとえそれが許されていたとしても。
 要求した覚悟を見せつけられた日々希は、なにもかもを拒絶するように固く瞼を閉ざした。これから自分が明かさなくてはならない、来るべき結末は、この数少ない友人の一人を少なからず痛めつける。短刀の返却を了承した時点で、承知したことが重く日々希の肩にのし掛かった。
 目を開いた日々希は、賢十に頷いて見せた。
「いいでしょう。聞きなさい」
 賢十も軽く頷き返す。いつの間にか彼らは、街灯が作る光の円の中で立ち止まっていた。

「小正月の夜、霰さんは、死にます」

「そうか」
 なんとなく予想はできていたが、理性を痛打してくるその内容に、かえって賢十は言葉少なく答えることしかできなかった。
「彼女の体では、小正月の夜に起きる力の膨張に耐えられません」
「あいつが普通の雪女でないことに原因があるのか?」
「えぇ。ようやく、霰さんの正体に見当がつきました。これはそこから導き出した予測で、僕の私見です。だが確実と言って良い」
 賢十は目で問う。霰が何者なのかを。敢えて声に出すまでもなかった。
「彼女は恐らく、人間と雪女との間に授かった子です」
「なるほど、な……」
 証拠を突きつけられたわけでもないのに、賢十はそれ以外の可能性を考えられなかった。霰は確しかに、人の性格と雪女の特異性を引き継いでいる。どちらも後天的とは思えない。
「霰さんはどうやら、人間の体に雪女の力を宿しているようです。これまでは自身の生気で抑え込んできたらしいですが」
「明後日の夜はそうもいかなそうだ、と?」
 疑問形ではあったが、肯定されるまでもなく賢十は悟っていた。
「なんで、今年は駄目なんだろうな?小正月は毎年あったろうに」
「人から生気を奪っていた、というのが可能性の一つです」
「それだけはありえない」
 刹那の思考も逡巡も挟まずに賢十は断言した。霰が人を襲ったなどと、彼は確固として認められないし考えられない。
「ならば今年は、なんらかの原因で、常態の力が増大したのでしょう」
「その前の状態に戻してやれたらな……」
 口に出しても不毛なだけの賢十の問いに、日々希は応えられない。
 賢十が自覚なく沈んだ面持ちになっていると、日々希と目があった。友人の眼差しは、賢十を慰謝している。賢十は僅かに笑って余裕ぶった。
 賢十の強がりを見ていられなくなった日々希は、無駄だと知りつつも叶わぬ希望を言い添える。
「人から生気を吸えば、生きながらえることも叶うのですがね」
 日々希の慰めは出来が悪すぎて、賢十は失笑を禁じ得なかった。
「お前らがそれを許すわけねぇだろ」
 鈍感な初心者であってもわからないはずがなかった。雪女による殺人を僧達は絶対に阻止することも、彼らが生半可な思いで人々を守っているのではないことも。
 つまり誰一人として、死に逝く霰を助けられない。
「すみませんね、賢十くん」
 日々希は、慰めていた側の賢十の同情を逆に誘うほどに落ち込んでいた。そこに普段の皮肉好きな性分は微塵も見受けられない。
「謝るな。ありがとう」
 賢十は律儀な友人に、その言葉と、ズボンから鞘ごと抜き取った短刀を差し出した。日々希はそれらの両方を掴み取った。


 昨晩は霰を目撃した、電灯に照らされる狭い十字路で賢十と日々希は別れた。賢十の住むアパートはもうすぐそこにある。光の粒が固まったような雪に染め上げられた夜に、透けて見えるぼやけた陰としてアパートは存在していた。覚醒した住人の在住を示す光は、一室の窓からだけ漏れていた。他は外出中か、空室である。このアパートの住人は皆、昼夜を問わず、或るいは夜のみ働く一人暮らしの人間だった。廃屋の一歩手前で、徹底的な低家賃のみが取り柄のアパートに住み着く人種など、意図せずとも限られるのだ。
 そんなアパートで、唯一自分にだけ、帰りを待ってくれる人がいる幸せに賢十の頬はゆるんだ。
「待ってろよ、霰」
 他愛ない冗句まで持ち出して浮かれながら、飛び上がってしまいそうな足取りで賢十は歩みを進めた。
 跳ねて、跳んで、駆けて―――
 止まることを余儀なくされた。
 アパートの玄関口に、髪の長い着物姿の人影が立っている。引き戸の化粧ガラスから漏れ出る光が逆光になって、賢十には背格好しか分からなかったが、霰にしては背が高い。
 悪寒めいた予感が彼の脳裏に立ちこめたが、近づかなければ部屋に帰れない。賢十は意を決して歩み寄った。
 より近くから観察すると賢十の予感はいよいよ疑いようのないものになった。彼の前に立ちふさがるのは、白無垢の着物という時代離れの格好と凍てついた美貌、そして致命的に異質な雰囲気を纏っている女性。間違いなく、賢十に霰の居場所を教え、僧らに追いかけられている『雪女』だった。
 賢十がたじろぐと、彼女は歩いて距離を詰めてきた。
「うぉ!?」
 たった今、歩き出したばかりの彼女は、賢十がまばたきをする数瞬に彼の眼前にまで迫っていた。賢十の全力疾走よりも明らかに速い。
 人外の接近を、すなわち危険の切迫と捉えた賢十は後ろに飛び退こうとした、が、手遅れだった。白く脆そうな腕が突き出されて賢十の襟首をつかみ、持ち上げた。
「くっそ、離せ!」
 賢十は万力のような細腕を振り払おうとして細い手首を握りしめた、直後、
 「―――っぁ!」
 彼の声帯は無声の悲鳴を張り上げた。賢十はすぐさま手の平を雪女の肌から引きはがした。だが極低温の雪女の素肌に接した彼の手は、重度の凍傷を負っていた。根性が挫けそうになりながらも、賢十は目と鼻の先にある血の気のない細面を睨みつけた。
「あんた、なにがしたいんだよ!?」
「お前は邪魔になった。霰に何をしたかは知らないが、もう二度と、あの子に近づくな」
 心なしか賢十には、彼女の語気が荒々しく聞こえた。無論、感情のない雪女にはあり得ない話だ。
 しかしどのみち賢十は、そんなことを気にかける余裕を身体的にも心情的にも持ち合わせていなかった。目の前の脅威が霞むくらいに、彼の心の大部分を占拠する少女がいた。
「っざけんな!!今すぐにでも、俺は霰に合わなくちゃ何ねぇんだっ!」
 おそらく霰は己の死を予期していて、なのに誰に告げることもせず、独りで虚勢を張っているから。昨日の夜、少しでも心を開いてくれてからの霰の、賢十に対する言動がそれを証明している。
「そうか。ならば死ね」
 宣言は実に簡潔で、無慈悲だった。心ないだけあって相手の敵意は薄いが、それは躊躇うような感情についても適用される。
 逃れられない終焉への絶望が、賢十は表情を歪ませた。自分の人生がこんなにもあっけなく終わるなんて、信じたくなかった。ここで死ぬわけにはいかないのに。彼は断末魔寸前の抵抗として、雄叫びを上げようと力一杯息を吐き出した。乾きかすれた声の出来損ないが喉笛を振るわすのがせいぜいの成果だった。賢十の喉は乾ききったが、咽せることもできない。
 彼女は殺めようとしている少年の悪足掻きを感慨もなく見届けると、艶やかに息を吸い込んだ。
 その仕草を眺めることしか賢十にはできない。
 彼の顔が思わずひきつった。
 やめろ!まだ俺は死ねないんだ!
 心の中では何度も制止の言葉を連呼していたが終ぞ音声にはならない。形の良い彼女の唇が、まるでキスをしようとしているように細められた。見惚れてしまいそうで、だけど命を刈り取る彼女の一挙一動が賢十から冷静さも反抗心も削り取った。
 そして、彼女の口から殺人的な冷気が吹き出される。
 賢十はそれを無防備に顔面に受けて。
 彼の意識は白く塗りつぶされていく。
 情動の彩りの一切が、容赦なしに、冷たく白い雪に覆い尽くされる。もがいていた賢十の四肢からは力が抜け出て垂れ下がり、痙攣さえしなくなった。
 殺害対象の全身が完全に弛緩するまで彼女は吐息を吹き続けた。殺したという確信はあったが、最後に彼女は生死を判別するために賢十を揺さぶり、さらに額を指で弾いた。さながら人形のように彼は無反応だった。死んだ、と彼女は判断して、賢十を打ち捨てた。踏み固められた雪に叩きつけられた彼は立ち上がらない。
 人外の美女は地面に這い蹲る少年を一瞥した。瞬間の無音が生まれ、その空白を埋め尽くすように爆音を伴う突風が吹き荒れた。辺りは巻き上げられた雪色に染まり、風が止んだ頃には、彼女の姿は音もなく消え失せていた。


 ひたすらに暗い闇の中を、賢十はたゆたっていた。いつかの夜の湖を想起させる暗中を。
 頭は働かない。僅かな記憶を掘り起こせたのすら、奇跡だった。
 体は働かない。あの日と違って。浮上など論外で、ひたすらに沈む。だが賢十は息苦しくはなった。それどころか、沈みゆくことを快くさえ感じていた。ただただ、無気力に無抵抗に、沈んでいきたかった。それが死の快楽だとも知らないで。
 無論のことではあるが、五感のほとんども暗闇に呑み込まれ、支配されていた。賢十が試しに、意識を体の端々まで張り巡らそうとしてみると、体が消えてしまったように何も感覚は得られなかった。
 ある一箇所を除けば。
 もしまだ体があるのだとすれば腹の辺りに、賢十は違和感を感じた。いつ現れたのかは定かではない。けれども、その温かさは確かだった。
 離れたくない。そんな衝動に駆られて、賢十は手を伸ばす。意識が抑揚を得て、彼の感覚が微少ながらも取り戻された。途端に鼓膜が誰かの泣き声に震わされる。大きな嗚咽がとても身近に聞こえて、泣きじゃくる感情が流入してくるようだった。
 俺が泣いているのか、と賢十は推測した。
 未だ忘れることの叶わない、生々しく悲痛な悲劇の残像では、彼が泣き止むことはないから。
 それは賢十の生涯が無残に一変させられた日の記憶だった。自家用車が燃え上がって、両親を火葬する棺桶と化した光景の端で、賢十はひたすら泣いていた。状況なんて理解できていないのに、独り取り残される予感だけは明白だった。
 不意にわき上がった、忌まわしい別離の光景に、彼は呻いた。腰を折って泣きたくなった。このまま悲嘆に暮れるのだと思った。
 だけど―――
 負の激情はやがて穏やかに静まり行く。腹に抱きついている柔和な温かさに中和され、消滅する。
 賢十の意識と感覚は、唯一残された温もりに集約した。すると、単なる温度にしか感じられていなかったそれに形が成し始めて小柄な人型を形成し、鼓膜を揺さぶる嗚咽は紛れもなく少女の声になって………


「――……さんっ!賢十、さんっ!!」
 緩慢に開かれた瞼の先で、青い瞳を一杯の涙に潤ませた少女が賢十の名を叫び、呼びかけていた。金切り声になろうとも掠れ声になろうとも声を張り上げていた。
「……あ……られ?」
 賢十の応答に、悲愴だった霰の表情が弛んだ。彼女はぎゅっと握りしめていた賢十の服を放した。そして思い出したように、いつもそうしてきた微笑みを浮かべた。泣きはらした顔だろうと、涙で彩られた少女の笑顔は、淡い光を放つ雪のように美しかった。
「心配……させないで、くださいよ。このまま死んでしまったらどうしようって……っ」
 霰はしゃくりあげながらも、涙を拭いて、微笑を崩さまいとしていた。
「俺に、何があったんだ……?」
 何かが起きて死にかけたくらいは察せたが、それがどうしてなのかを、賢十は思い出せなかった。どうしてか日々希と別れた辺りからの記憶が欠けてまばらになっているのだ。ほんの数分前の出来事なのに、断片的に思い出すのさえも困難だった。
「君は本当に覚えてないのですか?」
 ともすれば賢十以上に不愛想で、賢十より遙かに剣呑な声音が彼に突き刺さった。同じ敬語口調なのに、霰とは似てもにつかない。
「お前は見てたのか、日々希?」
「えぇ、気配を感じましたから戻ってみたら、君を放り捨てて雪女が去っていくところでした」
 唖然とした賢十は自分の体に異常がないか、手を見て全身にも怪我がないか、ざっと目で確かめ、加えて簡単に体を動かした。
「顔面が痛い以外に、変なところはないが……」
 霰は賢十の言葉を安易に信用しない。
「本当ですか?怪我があるなら、早く見つけないと大変ですよ」
 いたいけな少女の憂慮を日々希は鼻で笑った。
「たとえ具合が悪くても、妖怪に負わされた怪我を治すのは至難です。君も分かりますよね、霰さん?」
「それは……」
 沈んだ面持ちで霰は口ごもってしまった。まだ霰に攻撃的な日々希を、賢十は思わず「おいおい」と諫なめた。
「まず、部屋に入ろうぜ」
「いえ、僕はもう帰らせてもらいます」
 さすがに引き留める気には賢十もならなかった。自室で険悪な雰囲気にでもなられたら、あまりにも居たたまれない。不安なようで、むしろありがたい申し出ですらある。
「じゃあな、日々希。気をつけて帰れよ」
「君こそ」
 去る間際、日々希は賢十の隣で立ち止まった。いぶかしげに賢十が見やると、日々希は低い声で、
「気をつけなさい。今回は運良く助かったようですが、次に会えば確実に殺されてしまいます」
 耳打ちした。反論できるはずもなく、賢十はこくこくと頷いた。賢十自身に襲われたという自覚はないが、死に瀕したのは疑うべくもない事実だと思っていた。本能とでも呼ぶべき根元にある何かが、震えて極限の恐怖を訴えていた。
 賢十は感情だけを取り残して消えた記憶に怯えた。ようやく彼の意識は、己が命に死の危機が迫ったという事実を、明確な感触を伴って認知した。
「賢十さん、部屋に入りましょう?」
「へ?」
 賢十が我を忘れていた間に日々希は立ち去っていた。代わりに霰が傍にいて、賢十の顔をのぞき込んでいる。
「もう」
 彼女は、気のない返事をする賢十の手を取ってアパートの戸口へと歩き出した。 
「風邪をひいているんですから、こんなに体を冷やしてはいけません」
「あぁ、悪いな。心配かけて」
 他意はない賢十の謝罪に霰は顔を曇らせた。今度のことは自分がいなかったら起きなかったと霰は自覚している。彼を巻き込んでしまった後ろめたさが彼女に付きまとっていた。
「いえ……」
 自分が悪いと言い出す勇気が無くてまともな受け答えもできず、霰は小さな背で沈痛な表情を隠した。


 賢十は布団に身を投げ出し、「今日は疲れたなぁ」と呟いた。
 二人とも寝支度は済んでいる。すぐにでも寝てしまいたいというのが彼らの本音だったが、ある問題が発生して眠れずにいた。
「はい、大変な一日でしたね」
「俺の部屋なんかにいて、楽しかったか?」
 霰は目を瞑って波瀾万丈な一日を振り返った。意図せず彼女は相好を崩していた。
「いろいろありましたけど、とても充実していて、何もかもが新鮮でした」
「そりゃよかった」

「―――んで」

 ゆっくりと、賢十は布団から這い出て炬燵に入った。
「布団はお前が使え、霰」
「駄目ですよ、賢十さん、病み上がりなんですから」
 どちらが布団を使うかが、というのが目下の問題だった。一方が相手の厚意を受け入れれば解決するのに、頑固な二人はどちらも意固地になって譲歩しない。賢十と霰は既に二度の不毛な論争を交えており、現在は賢十がやや劣勢の戦況で一時休戦と相成っていた、のだが。
「そっちこそ、つい前まで風邪引いていただろ」
「賢十さんの方が最近です」
 再開してしまうと、また譲り合いは意地の張り合いに発展して、収拾がつかなくなる。
「でもお前は女の子だろう」
「私の故郷ですと、女性は皆さん、男性の方々を尊重していました」
「いつの時代の話だ、それは」
「現代です!」
「そこは論点じゃねぇ!!女のが体冷えやすいだろうが」
「偏見です!男尊女卑です!!」
「男尊女卑ってのはお前がさっき話していたようなことだ!」
 心の中で賢十は、自分を棚に上げ、霰を頑固者と謗った。彼女の心情は、容易く持ち上がるその痩躯と違って重たい。動かざること山の如し、なんて例えが頭を掠める。彼からしてみればもはや、慎み深いやら遠慮深いなどと褒められる領域ではない。賢十は苦肉の最終手段に打って出ることにした。つまりは、
「なぁ、霰。もう眠たいんだ。けれどお前が布団を使ってくれないと、俺は目を閉じても寝付けない」
 おそらくは霰の最大の弱点たる良心につけ込んだ。
「えぇ……でも、そんな……」
「頼むよ、俺を困らせないでくれ」
「あ、う……」
 予想を通り越して、効果は十二分に発揮された。霰はあたふたと申し訳なさそうに、に沈鬱な表情をする。
「ごめんなさい……」
 服の袖を握って俯いた彼女はか細く謝ると、大人しく布団に入った。
「え、おい、謝んなって……」
 打算のない霰の落ち込みに、今度は賢十の良心がまさかのしっぺ返しを食らった。そして今更になって、霰を説得しようとしていた本来の主旨を思い出し、それを本末転倒な結末で終わらせてしまったことに気づいた。霰を労っての行為だったのに、彼女を傷つけてしまったのではお話にならない。
 だが既に時遅し。手遅れだ。
「くそっ」
 彼は自責に苛まれ、せめて早く眠って忘れようと明かりを消した。布団の代用として炬燵に体を収めると、布団にはない、味気ない温かさが侘びしく染みた。
 睡魔は中々訪れない。
 賢十は愚行を慚愧し、満足に眠ることもできない自分を呪った。
「……賢十さん」
 消え入りそうに掠れている囁きが耳を賢十の耳を擽った。寝返りを繰り返していた彼は身動ぎを止めた。
「なんだ?」
 起きていることを明示するために大きめの声で応える。
「良いこと、思いつきました。聞いてくれますか?」
 遠慮しているのか勿体ぶっているのか、賢十は区別できなかった。しかしいずれにせよ、疲れているのに眠れない身だと苛つくことに変わりはない。けれど無論、それを表に出しては八つ当たりだになってしまう。
「……さっさと話せ」
 なので賢十は早口に短い返事を寄越した。
「はい!」
 明るく答えた霰が賢十に身を寄せる。彼は夢想するように、少女の容貌が薄闇に浮かび上がるのを見つめた。
 夜闇との対比で色白の肌は一層引き立てられて艶やかだった。長い睫毛と控えめに微笑む口唇が大人びた印象を形作る。けれど大きな瞳と小さな鼻、微笑みにある無邪気さは子供っぽくて可憐だった。
 今でこそあどけない可愛らしさが目立ちはすれど、将来は美人になるだろう整った目鼻立ちだった。
「お布団で、一緒に寝ませんか?」
 辛うじて吹き出すことだけはどうにか堪えた。だが賢十は目に見えて狼狽した。霰の薄い唇が紡いだその言葉が誘惑の文句でないことは自明である。でも、男子高校生の心を引っかき回すには十分な響きだった。
「駄目ですか?」
 狼狽する賢十に、霰は心配そうな声を掛けた。俺はまた霰に苦しそうな顔をさせてしまっているのか、なんて唇を噛んでいる内に彼はあることに思い至った。
 これは先ほどの後悔を晴らす、またとない好機なのでは、と。
 我に帰ったときには、
「いや、俺も布団に入る」
 余計な思案など挟まずに賢十は首を縦に振っていた。
 昏々とした中、賢十に場所を譲るために霰が動いて、布と肌の擦れる物静かな音がした。
 勢いだけで了承し、後先を考えていなかった賢十は悔いすらできずに唾を呑んだ。
 いいのか?
 などと自分に問いかけてみたが、そもそも是非は選べない。彼はおっかなびっくり、布団に隣接した。妙に高鳴り出した鼓動は痛いほどだ。逃げろとそそのかす臆病風諸々を抑制しつつ、賢十は決死の思いで手の甲で僅かばかり布団を持ち上げた。
 そして、まず足を入れる。抱いた感想は、温かい、であった。直に霰と接触してはいないが、彼女が横たわっていた箇所には体温の名残がある。
「よいしょっ、と」
 緊張が緩和した賢十は、一気に全身を滑り込ませた。彼と彼女の肩が当たった。
「お年寄りみたいでしたよ」
「……そうか」
 顔が熱くてたまらない賢十は、部屋の暗闇に感謝した。
「早く眠ろう。互いに、疲れてるだろ」
「そうですね」
「……………」
「……………」
 沈黙の気まずさは中々に耐え難いものだった。
「………なにか話そうか」
「そうですね」
 言い出しておきながらも間が保たない苦しさに溺れていた賢十は、霰が同調してくれたことで密かに安堵した。
「なぁ、さっきはありがとうな。気のせいかもしれねぇけど、お前がいなかったら、危なかった」
 賢十の隣で霰は、そっぽを向いて身を丸めた。
「………礼を言うのは、おかしいですよ」
 その呟きはあまりにも小さく、頼りない。でも、同じ布団で寝て、心音まで伝わるほど近くにいた賢十はそれを聞き逃さなかった。
「どうして?」とは彼は訊ねなかった。それが愚問であることは賢十でも分かる。つまり彼女は、自分がいなければ、先ほどの危機事態が起こりえなかったと言いたいのだ。だから、彼はこう言う。
「なら『さっき』っての訂正で。『今日』はありがとうな、助かったよ」
「どうしてそうなるんです?」
「……あまり、話したくないんだが」
「無理には、話してくださらなくても良いですけど………私といたって、損しかありませんよ」
 霰が顔だけ振り向いて、賢十の目を見つめた。彼女は彼の真意が知りたかった。
 けれど暗闇を見通せる能力は彼女にはない。
「あの、図々しいのは承知で、聞きたいことがあります」
「なんだ?答えられる範囲でなら、構わないぞ」
 何の気なしに答えた賢十の瞳孔を、霰は奥底まで見通した。彼が無理をしていないと判断して、小声で礼を言った。
「時々、考えてしまうんですよね。私があなたにかけている負担は、どうしようもなく大きなものなんじゃないかって」
 溢れ出した言葉は彼女の意思で止められるものではなかった。どうしても気になっていたことがあった。
「どうしてここまでして下るのかなって。もし私を利用しようとしているのなら、喜んで使われようと思います。けれど賢十さんは決してそんなことはしないでしょう」
「だからそれは、前言ったとおりだって―――」
「似た者への同情心だけで助けているんでしたら、早く私なんて追い出してください。私はあなたのような善人ではありません」
 昨晩、賢十は、似た者同士の同情で彼女を助けたと言った。でも、当初は賢十を殺そうとしていた霰にとって、それは不相応極まりない。どれだけ他が似ていても埋められない致命的な隔絶が賢十と霰にはあった。
 故に彼女は『同情』を忌避した。しかし敢えて『同情』という答えを待ち望んだ。未練をなくして、旅立ちの明日を迎えるために。
 そんな霰の心理を露とも知らず、賢十はそれまでの遣り取りから、両親との決別したあの日を思い出していた。胸に焼き付いているあの情景は、五感にすら問いかけて脳内で再生される。そして皮肉にも、そのトラウマが賢十を疑いようのない答えに導く。
「俺は家族をなくした。父親も母親もいない。いろいろあったが、今は一人暮らしだ」
「なら、余計に私は邪魔なのでは……」
「独りぼっちなんだ。ここ一年、実花の奴はしょっちゅう家に来てくれたが、一緒に暮らす相手はいなかった。独りで生きていたんだ」
 賢十はそう告白し、霰が聞き入っているのを横目で確かめた。予想よりもずっと強い光を放つ青い双眸があった。関心を示してくれる彼女に感謝して、彼は尚も、言葉を重ねる。
「お前がいてようやく気づけたが、俺は寂しかったらしい。誰かが傍にいることがこんなに安心できるとは思ってもみなかった」
「賢十さんも、そんなふうに思うんですね」
 類似した記憶を持つ者同士の悲痛な共感が、彼女の声から刺々しさを削いだ。
「霰が思うよりも、俺はずっと弱い人間なんだ。お前がいるだけで、どんなに助かっていることか」
 思いのままに弱みを打ち明けて、話しすぎたかな、なんて自嘲した。ここまで話すつもりではなかった。この優しい少女が相手だから、これでは、霰を自分の元に縛り付けてしまうかもしれないと気に病んだ。
「やっぱ、今のは聞かなかったことに……」
「む、無茶言わないでくださいよ」
 自分が必要とされていることへの歓喜に霰はふっと微笑んだ。賢十は彼女の表情の変化を雰囲気で察した。
「良かったです。あなたが私と一緒で」
 賢十が慰籍として嘘をついている可能性に思い当たりつつも、霰は彼の言葉を信じたかった。
「おう。明日もよろしく頼むぞ」
「はい!」
 二人は悪くないくすぐったさに笑い合った。
 会話が一段落つくと、睡魔は二人のすぐ傍にまで迫っていた。眠気の攻勢はここぞとばかりに亢進している。
「霰、悪いけど、俺はもう寝る」
「はい。私もそうします。お休みなさい、賢十さん」
 視界も思考も眠りに落ちきる最中に、霰が口を開いた。
「ねぇ。……もし私が本当に賢十さんを殺そうとしていても、あなたは私を助けますか?」
 眠りかけの体で、発声する体力と気力が賢十には残っていなかった。だから彼は、震えを隠しきれていない少女の、ちっぽけな手を握っておいた。

彼女の……

 翌朝、今日の離別も明日の運命もそれぞれが知りえていながら、しかし二人はいつも通りに朝食を取っていた。その日の朝食は賢十と霰が共同で用意した。バターを塗ったトーストと珈琲、味噌汁という和洋が折衷できずに混同された献立だった。
「今まで聞かなかったが、どうやったらただの味噌汁がここまでうまくなるんだ?」と霰手製の味噌汁に賢十が感嘆し、
「黒くて、苦くて……甘い……?」と賢十が入れた珈琲を霰が興味津々に啜っていた。
 変わり映えのしない穏やかな日々は、決して現実逃避ではない。霰が望んだのはこれであり、賢十も無意識にそのことを察して平素さを尊重していた。
 けれど、逆境は彼らを逃さない。
「あれ、電話ですね?」
 皿も茶碗も大半が空になった頃、驚かすように電話が掛かってきた。
「俺が出るよ、お前は食ってろ」
 席を立ち、電話に出た。電話相手の一声が賢十を硬直させた。
 それからの賢十の表情は一貫して不愛想に固まっていた。その言葉の応酬は会話などと評せた代物ではなく、ほとんど一方的に相手が捲くし立てた。彼が意見を挟んだのは一回のみ。
 通信の途切れた受話器を置いた賢十は、すぐさま霰に振り向いた。
「霰、すぐに部屋を出発するぞ」
 そう告げた表情は歪んでいた。
「え、ぇと………あのぅ、どんな電話だったんですか?」
 事態を飲み込めないでいる霰が賢十の目には暢気に移った。彼は凶暴な怒気とり憑かれた。
「そんなことは後で説明する!だから今は早く、出発するぞ」
 彼は霰の意向も、まだ湯気を昇らせる朝食の品々も無視して、身支度を始めた。その手際は荒く、服や財布を掴む手は引ったくるようで、とにかく焦っていた。
 豹変した賢十を、霰は口を開けたまま何も言葉を紡げないで呆然と眺めていた。そんな一向と動こうとしない少女の腕へ、少年は手を伸ばす。
 彼女はようやく我に返って、無我夢中で賢十に飛びついた。賢十に腕に抱きついて、その動きを止めた。
「待って、やめて、ください……っ!」
 賢十は霰を振り払おうとして、彼女の予想外の力に驚いた。そのことが自分を縛り付けているように思えて怯え、戦慄した。
「離せ離せ離せ、離せよっ、離せ!」
 力任せに賢十は暴れ回ろうとする。少年が秘めていた凶暴性は霰を意に介そうとしない。
 悲しい、とは霰は思わなかった。賢十が彼女に気を遣うべき必要など、初めからないのだから。でも、賢十を止められない、彼の心底に手が届かない自分への憤りはあった。否、あったなんて生半可ではなく、彼女の心中に看過できないほど大きく鎮座していた。
 なんとしても、止めなければ。
 どんな情念にも負けない強固な使命感が霰を衝き動かす。腕力では勝てない、雪女の力を使うわけにも行かない。
 通用して、且つ、賢十を傷つけない武器は一つだけ。
 霰は怯えきった賢十の瞳を、睨みよりも強烈な視線で射抜いた。覚悟が霰を鼓舞している。
 ほんの一瞬、逡巡した。けれど決意は急速に纏め直された。彼女は、目を閉じた。そして。
 唇を、賢十の頬に押しつけた。
 二人の間に、時が停止したような沈黙が訪れた。
 我を見失っていた賢十は、頬に感じる薄いながらに弾力ある唇の感触に気をとられていた。何をされたのか、どうなっているのかまでは理解できたが、そこから先に思考が及ばない。
「は?おい、あ、霰、今、お前……」
 背伸びをしていた霰は口を離して楽な姿勢に戻り、賢十から一歩遠退いた。
「正気になりましたか?」
「まぁ……な。さすがにあれは」
「い、今のは賢十さんを落ち着かせるためです。勘違いしないでくださいね」
 心臓の方はかえって暴れ回った、などと茶々を入れるなんて冗談は、さしもの賢十にも出来なかった。

 二人揃って炬燵に入り、賢十は霰に電話の手短に明かした。
「賢十さんの叔父さんの奥さんが来る、んですか」
 霰と対面して炬燵に入っている賢十は、苦々しく首肯した。平常心に立ち返ったものの、未だ義理の叔母から逃げ出したい衝動は打ち消せていない。
「一体どうして?」
「俺の様子を見に来るだとさ。さしずめ、他の親戚連中に言いつけられたんだろう」
 吐き出した言葉はため息共々、重く暗い。
「お家の居場所は把握されているんでしょうね」
「おそらくな。新しい部屋を探さないと……」
 そんな賢十の弱音を霰の咳払いが邪魔した。彼女は彼の瞳をじっと見据える。
「逃げ出しても、また見つけられてしまうと思いますよ」
「ならどうしろってんだっ!?」
「―――決まっています。正面から話し合いましょう。血縁同士なのに仲が悪いなんて、悲しいです」
「お前、他人事だと思って……!!」
「いいえ。あなたにできないのなら、私がします。任せてください」
 霰の青い瞳に挑発の色はない。彼女は本気で、賢十の厄介に介入するつもりでいた。放っておけば、彼女は間違いなく説得に挑みかかることだろう。
 本音だと、賢十はこの件に限って霰の厚意に甘えたかった。けれども、たて強がってでも温順な少女を巻き込みたくはなかった。
「正面から迎え撃つって点ではお前に同意しても良いよ、霰。だが、お前が入り込むのは納得しかねる」
「いえ……私が言い出したことですから。私が決着をつけます」
「お前には、お前のしなきゃならないことがあるだろう……!」
 彼女は明日の晩で、その生涯を終えるのだから。
「霰。悪いがな、これは俺の件だ。俺が自分でどうにかする。だから関わらないでくれ」
 頑なに賢十は言い捨てた。


「……ふん、狭い部屋ね」
 女はさも当然のように、施錠されていた鍵をマスターキーで開けて、上がり込んできた。棒立ちになってそいつを迎えた賢十は、管理人から居場所が漏れたのかと検討をつけていた。
「こんにちは、おばちゃん」
 脈動の規則が乱れたのをひた隠しにして、賢十は挨拶した。自然を装う振る舞いがかえって痛々しかった。
「馴れ馴れしくすんな!こっちは忙しいってのに、見たくもないあんたの顔を見させられてるんだから!!」
「………っ」
 いつもこうだった。支離滅裂な罵倒の文句が、致命的なまでに精神を抉る。論理性も説得力もないのに、言葉がはらんでいる純然とした害意が執拗にいたぶってくる。
 胃液と痰が入り交じったような不快感が喉の奥からこみ上げてくる。酷く嘔吐を催しながらも、賢十は歯を食いしばっって耐え抜いた。そして波がすぎると、無感情に声を出して上辺だけの返事で取り繕う。
「あぁ、やっぱり他の親戚の方々に言われたからいらしたんですね」
 同じ屋根の下で暮らしていた人間に向けているとは思えない、他人行儀な敬語だった。
「そうよ!……ったく、なんであたしたちが、押しつけれられて、しかも勝手に家出したあんたの面倒を見なきゃならないのかしら。あんた勝手に出てったのにっ」
「えぇでもこの通り、普通に生活できていますから。どうぞ、お帰りください」
 言い終えてから、賢十は発言を悔いた。この時点で帰るように促すのは、早計だった。追い払いたいという願望があまりにも露骨に透けて見える。焦って判断を誤った。
 賢十の案の定、女は憤怒に顔を赤くした。彼に詰め寄り、配線を無視して電話を掴み取ると両手で頭上まで振り上げ―――
「あ?」
 当然、女は賢十に振り下ろすつもりでいた、持ち上げられた電話は中空で停止していた。無理に動かそうと試みても徒労に終わる。
 その現象を引き起こしているものは明白である以上に奇怪だった。
 いつの間にか天井から垂れ下がった数本のつららが、縄のように電話に巻き付いているのだ。
「ひっ」
 状況を把握するなり恐怖した女は逃げだそうとして、
「待ってください」
 その前に凛然と少女が立ちふさがった。
 賢十は深く頭を垂れて、結局、霰に頼ってしまうことになった自分の無能を嘆いた。そんな彼の葛藤を見透かした霰が、黒みがかった青色の目つきだけで少年に微笑みかける。呆気にとられているのは女だけ。なぜならこれは、前もって霰が賢十に承諾させた介入だったからだ。

 先ほどの賢十と霰の会話にはまだ続きがあった。
「嫌です。あなたは無理にでも助けた私は、今、とても幸せですから」
 ありがた迷惑だ、と言い張る賢十の強がりを、霰は実に端的に拒否した。だが無論のこと、賢十はこの程度は譲歩しない。
「それとこれとは話が別だ。あれは、あれは命が関わっていたが―――」
 その時、苛ついていた賢十の雑多な情動は掻き消えてしまった。
 外灯の白い明かりの下で別れたあの瞬間と同じ表情を、霰は浮かべていた。
 また自分は間違えようとしていると気づいて彼は言葉に詰まり、言うに事欠いた。
「同じですよ。賢十さん。それだとあなたが苦しんでしまう」
 微笑みから苦々しさを消した彼女は炬燵の上に身を乗り出して、賢十の手を取った。彼が少女の手の滑らかでほっそりとした手触りに心臓を高鳴らしたのも束の間、その意識は、純粋だが底が見えないほどに深い青色の瞳へと引きつけられた。
「あなたが私の傷つくところを見たくないように、私もあなたの傷つくところを見たくないんです」
 久々に他人に守られていると自覚して、賢十は愕然とした。無理のある一人暮らしが祟って忘れていた人の温情が、今は強く感じられる。我知らず、血が滲むほど唇を噛んで、跡が残るほど拳を握りしめていた。
「あくまでも……主体は俺だ。だが、俺がやばくなったときは、俺を助けてくれるか………?」
「もちろんです!お任せあれ」

「なんなのよ、あんたはっ!?」
 金切り声で問い質す女と比べるべくもなく、霰は落ち着き払っていた。
「賢十さんの居候です。この度は彼にお世話になっています」
「退いてくれる?」
「それはできません。お節介ですけど、私は、あなたに賢十さんのことを認めてもらいたいんです。あなたは何も彼のことを分かっていません」
 霰に突きつけられる視線が鋭くなった。
「あの子は恩を忘れてあたしたちに反抗した。性懲りもなく、何度も。他に、あたしの知らないことがあるのかしら」
「あなたはどうして賢十さんがそんな態度をとったのか知っているんですか?」
「単に反抗期だっただけでしょ。無償で養って上げた里親に反抗するなんてもってのほかだけど」
「彼は、たったそれだけで恩を忘れるような人ではありません」
 そこで一端、言葉を区切った霰は賢十を見やった。
「そうですよね、賢十さん」
 彼女につられて、女も振り返った。まだ攻撃的な色合いの強い眼光が賢十を射すくめる。思わず賢十が俯いたが、そうした理由は彼の中にこそあった。
「大したことじゃないぞ」
「でも、あるんですよね。賢十さん、ちゃんと言わないと相手には伝わりませんよ」
 そもそも言うつもりが賢十にはなかったのだがもはや隠し通すのは難しい。なにより、霰の佇まいに、口答えを許さない強固な意志が見て取れた。
「全部、俺の私事だ。期待はすんなよ」
 長かった前置きの末に、彼は心と口を開いた。
「許せなかったんだ。よりによってあんた達が、あんな嘘をついたことが―――」
 
 交通事故で両親を亡くした賢十は、親戚の夫婦に引き取られた。それが叔父と、現在、賢十の部屋に乗り込んでいる女性との夫婦だった。
 転校先の中学校に馴染むには苦労したが、賢十を引き取った夫婦は彼を大切に養育した。仮初めながらも彼らの日常風景は、親子と呼んで差し支えのないものだった。
 しかし、賢十を育てる叔父夫婦には唯一、心配事があった。
 時折賢十が見せる、現実にはない悠遠な虚像を眺める目。年の瀬に不釣り合いな幽愁が滲む、ぎこちない表情。
 同じ屋根の下で過ごす家族として、目を離すと手が届かない所まで浮き上がってしまいそうな賢十の不安定さは、悩みの種だった。
 憂いと幸せとが同居した生活は、いつかも知れない破綻へと緩やかに時を刻んだ。
 賢十が引っ越してからほぼ一年たった頃に、転機は訪れた。
 今よりも幼かった賢十が何の気もなしに、
「母さんたち、戻ってこないかな」
 と呟いたことに端を発した。祈願とも愚痴ともつかない幼心の一言が、夫婦の片割れである女性を限界に追いやった。
 そうして彼女は口にしてしまった。
「実は、君の両親はまだ死んでいないの」
 と、論じるのさえばかばかしいあからさまな誤魔化しを。でも、賢十は信じ込んだ。心の底から欲していた答えを告げられて、盲目になった。何の脈絡もなく死別という形での親離れを強要された彼は、親の温もりを渇望していたのだった。
 無理がある少年の妄信は、埋め合わせの叶わない歪みを多分に抱えていた。それらは捌け口を必要とし、向かう先は限られる。中学生という年頃も合わさって悪辣な反抗心となった歪みの代償が、恩人らに牙を剥いた。
 今の彼からは想像できないほどその行為は徹底的にして粘着質だった。飽くこともなく繰り返され、叔父夫婦は疲弊した。彼の反抗は悪化こそしなかったが改善もせず、数ヶ月に渡って続けられた。
 変貌した賢十の悪行は、たとえ彼が姪であり大切な養子であっても、叔父夫婦に愛想を尽かさせ、それさえも通り越して憎悪さえもたらした。無視を貫こうとした叔父夫婦はけれど失敗して、やがて賢十に攻撃的になった。
 いつの日か、叔父夫婦の『反撃』は虐待の域にまで達していた。賢十が心身に傷を受けて平常な自分に立ち返った頃には、歯止めが利かなくなっていた。

「なぁ。どうしてあんな、意味のない嘘をついたんだよ。あれさえなければ、俺たちは……」
 答えなんて分かり切っている質問は、叱責の意味合いが強かった。
「あたしは、あんたが楽になると思って言ったんだよ」
 語気は弱まっていたが、反省の意志はこもっていない。
「待ってください」
 沈黙による不干渉を貫いていた霰が、唐突に横槍を入れた。女の反論が気に食わず、どうしても認めたくなかったからだ。
「あなたは本気で、そんなものが優しさだと信じているですか?」
 霰を助けたときの賢十は自己満足に溺れず、真摯に、助けられる側の立場を最優先としていた。彼にそれを可能とさせていたものを知ったのはこの場が初めてだが、あの気遣いは確かだった。
「当たり前でしょ!そうでなかったら言わなかったわよ」
 表情を固くして、霰は首を横に振った。
「いいえ、違います。あなたが嘘をついたのは、自分が安らぐためです」
 おっとりとしているのに、今の霰には有無を言わせない迫力があった。彼女の指摘が図星なこともあって、女性が反駁することはなかった。
「あなたの不用意な言葉で、賢十さんは後にまで残る深い傷を負ったんです。そのことを忘れないでください」
 女性を諭した霰は、次に賢十に焦点を定めた。自分に話題が振られたことを彼は訝しんだ。
「賢十さん、あなたにはしなければならないことがあります。……私が言わなくても、分かりますよね?」
「何をだ?」
「仲直り、しましょうよ」
 賢十の目つきが険悪になった。霰が僅かにひるむ。
「聞いただろう。俺があの人達に何をしたかも、あの人達が俺に何をしたかも」
 賢十は、未だに微かに消え残っている生傷の痕を思いながら、自分なりの言い分を吐き捨てる。当初は体に点在するそれらのせいで、実花とさえ顔を合わせるのさえもつらかった。今になって思えば霰に施したありとあらゆることさえも、賢十が彼らにされた仕打ちへの反抗に、それらの裏返しに思える。
「無関係でいられれば、それで良いんだよ」
 胸中を包み隠さず吐露した賢十は天井を見上げる風を装って、霰の表情を盗み見た。
 半雪女の少女は、これまでにないくらい強固で強烈な想念を瞳に漲らせていた。
「そんなわけ、ないじゃないですか」
 霰の気勢が賢十を脅かす。彼女が語ろうとしていることが引き起こすだろう変化に、賢十は恐怖した。けれど決して、引き下がりはしない。余計な口出しをする霰に抱いた猛烈な怒りが、彼を奮い立たせた。
「一体お前になにが分かる―――」
「分かりますよ!!もし、賢十さんとあなたの叔父さん方が本当の家族になれていた時間があるなら、私にだって分かりますっ!」
 『本当の家族』という言葉が賢十の心に潜む記憶の一片を呼び起こした。そこから湧く感傷を、彼は躍起になって元あった場所に押し込める。
「俺とこの人は血縁でもないんだぞ!?」
「私とあばあちゃんにだって、血の繋がりはありません」
「だからって、俺とあの人達との間に起きたことはなくならねぇだろうが!」
「喧嘩しない家族はありません。賢十さん達は終わるのに失敗しただけです」
「だからって……だからって………」
 賢十の反論は、抱えていた反抗心の残骸ごと、尽く霰に打ち砕かれる。彼はそれが認めたくなくて、まだ何かあるはずだ、と新しい障害と問題を思索したけれど、終ぞ望んだ物は見つからなかった。
 諦めて顔を上げると、無垢な少女と視線がぶつかって絡まった。
「賢十さん。私には、あなた達以外の知り合いがいません。お父さんもお母さんも、おばあちゃんだって、もういなくなってしまいました。もう二度と戻ってくることはありません」
 家族がもういない。彼女があれほど好きだと言っていた『おばあちゃん』さえも。初めて語られる事実だった。
 賢十は口を挟めず、もはや、霰の語りに耳を傾けるだけとなっていた。彼が声にならない呼気を吐き出すのと、霰が息を吸うのが重なった。
「でも賢十さんはまだ、家族を取り戻せます。どうか、意固地にならないで。なくしたら必ず、後悔してしまいますから」
 霰の痛切な嘆願と、それ以上に訴えかける青い目の輝きが賢十の心を締め付けた。他意の欠片も感じられない純情な真心は、何よりも人心を揺さぶる。作為が溢れて交錯する現代だと、そのような彼女の振る舞いはあまりにも希有で、大概の人間には耐性がないのだ。
「……くそっ」
 認めるしかない、負けを。
「分かったよ。話をつけるから、お前は席を外してくれ」
「はい!了解です!」
 裸足で部屋から飛び出していく霰を、賢十は見送った。

十五年後の繋ぎ目

 人間側の裏切りで、慣れ親しんだ里が燃え落ちていく。幸福の象徴の崩壊を見据える夫婦が一組、屹立していた。一人は並の兵士よりも体格の良い農夫で、その片割れはどことなく儚げで夜空色の長髪を持つ雪女だった。互いの手を取り合う彼らの目の前には、追っ手の僧が数十人。戦ったところで勝つのはおろか、何秒立っていられるかも怪しい。均衡が崩れた時点で、夫婦は逃げる間も与えられずに幾ばくの矢を全身に受けることになるだろう。僧らに逃すつもりは毛頭ないので、もはや死は免れない。
 とはいえ、二人は既に目的を達成していて、言うなれば勝利していた。命だけは助けてやるなどと心にもないことを喚いて僧らが投降を要求していたが、二人にはもう互いのことしか眼中にない。
「ここまでか………だが、あの子だけは逃せたな」
「はい。私達の手で育ててやれないのは、惜しんでも惜しみきれませんが」
 二人は一人娘を、離れた集落に住まう知人に委ねた。人間の中で自身の正体を知らずに育てば、娘は人間として一生を全うできるからだ。
 これまで夫婦は、追っ手を攪乱して娘の行方を悟られないために無謀な戦いにしてきたのだった。
 だがそれも直に決着が付く。
「俺たちはできる限りのことをしたさ」
 僧らの一部が弓を構えるのを確認すると、その夫婦は意志疎通もなく向き合って、身を寄せた。もはや反撃の手は尽きている。ならばいっそ、最期まで二人一緒に居たかった。
「心残りはありませんか?」
「あの子のこと以外は……、いや、一つだけあったな」
 雪女と人という種族の隔たりから、してしまうと人は命を落とす行為があった。忌避され、禁忌とされている最愛の誓いがあった。
「目を閉じてくれ」
 見つめ合いながらするのは、この無頼漢でもさすがに気恥ずかしい。相方の雪女は不器用な男の心情を察し、従順に目を閉じてちょっと背伸びした。
 自分の内心を汲み取って従っただけでなくさらなるお膳立てまでしてくれた雪女に男は感謝しつつも苦笑した。その笑みが消える前に一思いに顔を近づけた。
 異種同士の夫婦が最初で最後の口づけを果たした直後、矢は一斉に二人に襲いかかった。けれどもそれらは、女が自分たちごと凍り付かせて作り上げた長大は氷柱に弾かれる。
 
 ――――霰。

 自分たちの顔さえ覚えていないだろう娘の名を呟いた。二人で、凍り付きながら。

失ってから……

 そして、賢十が霰を呼び戻した頃には、お昼時を過ぎていた。一年間も硬直していた冷戦状態は、半日で万事解決とは行かない。けれど僅かながら、改善の兆しが見えた。
「悪かったな、霰。内輪の揉め事に巻き込んじまって」
 例の如く向き合って炬燵に座り、賢十と霰は談笑していた。
「こう言うときは、謝るんじゃありませんよね?」
 小生意気に返す霰を鼻で笑ってやろうかと賢十は考えて、今回限りは柔順に接してやろうと決めた。
「ありがとな。まさかお前がここまでの恩返しをしてくれるなんて、思ってなかった」
「わ、私が頑張ればざっとこんなもんですよ!」
 分かりやすく霰は狼狽えた。まさか賢十から率直な礼が返ってくるなんて予期できなかったからだ。賢十はというと、霰が意外なところで見応えのある反応を披露してくれたので満悦だった。
「今日の夕方にはもう部屋を出るんだよな?」
「はい」
「どこかに出かけるか?」
「いえ、賢十さんのお部屋にいたいです」
 立場次第では大胆な告白に聞こえるだろう率直な物言いに賢十はどきまぎした。霰にそう言わせた真意を推論するのにも苦労した。
「荷造り、時間かかりそうなのか?」
「いいえ、私は別れるまで、この部屋にいたいんです。……もしかして、ご迷惑でしたか……?」
 所謂ところの『すがるような目つき』で、しかも上目遣いで、霰が訊ねる。賢十にはかなり過度のだめ押しになった。
「いやいや。お前が迷惑ってことはないからな、絶対」
 平常心を揺さぶられて賢十は、彼女の存在を熱烈に肯定した。彼は心底、彼女の懇願が演技なのだとしたら適わないと思った。
 一方の霰は、滅多にみられない賢十の本意が霰を欲していたという事実が嬉しい反面、身の縮こまる思いだった。
「あ、ありがとうございます。お昼ご飯、私が作りましょうか?」
「任せきりなのも面目ないからな……そうだ、洋風料理の作り方、教えようか」
「はい!是非、教えてもらいたい、です………」
 最初は威勢の良かった霰の返事が先細りするのを、賢十は聞かなかったことにした。たとえこの先、霰に料理を作る時間が与えられなくとも、今は教えるこの一時こそが至宝となる。
「あぁ、そうしよう。やっぱり、料理も一人よりは二人でする方が楽しいしな」
 彼女は微笑を絶やさずに、深くゆっくりと、首を上下させる。
「服の整理だけ、してしまいますね」
 頷いてから顔を上げきる前に霰は振り返って、炬燵を出て行った。そして背を見せたまま、実花との買い物で手に入れた衣類を整頓した。
「おぉ、なら俺は準備しとくから」
 賢十が台所に向かい視線が外れたのを見計らって、霰は実花から譲り受けたセーターに顔を埋めた。


 カルボナーラがその日の昼食だった。クリームソースもブラックペッパーも初見の霰は食欲以上に好奇心を刺激された。
「この白いたれは優しい味ですよね」
「たれ……まぁ、そうだな」
 賢十は二重の意味で曖昧に同意しておいた。
「でも、黒い粒々は辛いです……」
「まぁ、そうなんだがな、」
 どうしても了承できないことが一つ、彼の目の前にあった。
「なんで箸でスパゲッティを食うんだ。フォークあるだろ!」
 熱意ある賢十の指摘に、霰は渋々フォークを逆手にとった。しかし慣れないフォークでスパゲッティを掬い取ろうとして、失敗した。
「使いづらいですよ、これ」
「だろうな、そんな持ち方してたら」
 どことなく嫌みっぽい賢十の言い草に霰は頬を膨らませる。逆手に持ったフォークと相まっていつになく幼く見える。賢十は幼子にするように「やれやれ」とため息をついて見せた。
「まず持ち方だが、筆を持つようにやれ」
 非難がましい青色の視線が暫し賢十に浴びせられたが、彼が急かすと不承不承従った。
「んで、それを麺に差して回転させろ」
 口頭だけだと説明不足に思えた賢十は、実演としてフォークでスパゲッティを絡め取った。
 賢十の手元に注目していた霰は、
「わぁ……」
 感嘆した。
「不思議な食べ方ですね」
 不機嫌の名残も感じさせずに、霰は感心している。賢十は子犬や小動物の類と遊んでいるような心持ちで癒されたが、同時に気恥ずかしくもあった。
 不慣れなフォークの扱いに苦戦しながらも、霰はカルボナーラを完食した。とうに食べ終わっていた賢十は、密かに彼女を盗み見るのを切り上げて、二人分の食器を流し台まで運んだ。
「賢十さん、手伝いますよ」
「いや、問題ない。これくらいなら一人も二人も変わらない」
 ちらりと賢十は時計に目をやった。昼食が遅めだったので、夕方までの時間は長くない。
「お前は荷物の準備を―――」
 もう大半を言い終えてから、賢十は、旅立ちを促す自らの発言の残酷さに気づいた。こうした時間が平穏過ぎるから忘れそうになっていたが、思い出した。
 賢十の部屋を出発した霰が明晩に迎える、不可避の悲運を。
 それに打ち据えられようとも抱きしめていられる最期の思い出作りとして選ばれたこの部屋が、霰に残された唯一の安息所であるという事実を。
「そうですね。では、お言葉に甘えさせてもらいます」
 微笑む霰の態度は変わりなく、彼女は明後日も一週間後もにこやかに生きていくのではないか、とあらぬ錯覚を覚えさせる。だが、日々希は命が関わる嘘をつくような人物ではない。それに霰は一昨日の晩に、三日間、賢十の部屋にいたいと話していた。霰の旅立ちが一日早まっている理由は定かではないが、当初提示した日限は死までのカウントダウンと一致している。彼女が己の命運を誰よりも熟知しているのは疑いようがない。
「なぁ」
 なんとかできないだろうか、そんな思いつきが助けたいという衝動になり、彼に声を出させていた。
「なぁ」
 でも、そこから先、なんと言えばいいのか、どうすれば彼女を救えるのが分からない。
「なんですか?」
 隠しきれないぎこちなさが、霰の声から、その挙動の端々から垣間見える気がした。だから賢十は尚更諦めたくなくて、けれど助ける方法がないことも、下手な手出しが彼女の意志に背いていることも把握できていた。
「悪い、何でもない」
 何もできない。
 だから、余計で安易なお節介は口走れない。霰に二の足を踏ませてしまうであろう文句を、賢十は飲み下した。


 何を思い、何を願おうと、時間は平等に取り留めなく流れすぎた。他愛のない会話がふと途切れて賢十が見た、窓から射し込む光は燃えさからんばかりの山吹色だった。
「賢十さん。……そろそろ……」
 黄昏と呼ぶに相応しい時刻を、時計の針は指し示していた。
「もう、そんな時間か」
 伝えたいことの大半は賢十の中でくすぶっていて、けれど時間と気持ちの両面から吐き出すのは躊躇われた。
「また、会おうな」
 口にしたのは、叶わぬと知れてる約束の要求だった。賢十はそれを声としてみてから、しまったと悔やんで唇を噛み、霰を陰鬱な目つきで見やった。
「そうですね。そうなると、良いですね」
 やはりと言うべきか、霰はただの一言も、確約はしてくれない。もし、同意ではなく誓約をしてくれたら、賢十はどれだけ気楽になれたことか。それが虚偽であったとしても、心痛はましになるだろうに。理不尽な欲求に駆られ、けれど彼は発散もできず、その果てに行き場のない焦燥に襲われた。このままでは、このままで終わってしまっては、一生後悔することになると必死に想う全ての感慨をかき集めた。
「なぁ、霰。もし苦しいときがあったら、ちゃんと相談しろよ。誰でも、俺にでも良いから」
 途切れそうになる声を振り絞って、強くも静かな口調で言い聞かせた賢十は。ポケットに手を入れた。愛想のない無表情で本音を欺いた。
 賢十らしく、穏やかながらも強固な意志が脈々と深奥に流れる言葉を受け止めた霰は、沸々と抑制の利かなくなってきた感情に戸惑った。そうして人としての情緒を持て余し、微笑みを忘れた彼女の眼前に賢十の拳が突きつけられた。
 固く握りしめられたその手は裏返され、
「持ってろ」
 開かれるとその上に、皺だらけになった紙に一切れが載っている。
「俺の電話番号だ。何かあったときは、公衆電話から連絡しろ」
 書いておきながら渡せずにいたそれは、賢十が欲したせめてもの繋がりだった。
「ありがとう、です。ありがとう、ございます」
 それから霰は、出発するまで、あまり表情を見せなかった。彼女は、賢十と実花に買って貰った衣服と、賢十から授かったいくらかの荷物と電話番号のメモとだけを持って旅立った。
 部屋を出る直前、扉を開いた霰は振り返った。
 彼女の微笑みは押し隠された苦しみと晴れ晴れした決意を湛えていた。


 一時間後、賢十は夜の帳が降りた住宅街を走っていた。息は絶え絶えで、慣れていなければ痛くさえ感じる冷気が熱く熱された肺に充満する度に、咳や吐き気が催された。
 霰が為の、疾走ではない。
 日常へと回帰しようとして、賢十は一心不乱に足を前へ前へと振り、雪面を蹴り飛ばしていた。
 ことの発端は見慣れた訪問者だった。霰が旅立ってから、一分も経っていなかった。
「賢十くん、ついてきてください。頼み事があります」
 部屋に来るや否や、日々希は要求だけを押しつけてきた。
「は?」
 賢十は別段渋ったわけではなかったのだが日々希はそうは思わず、苛ついた風に、
「実花さんが窮地にあります」
 衝撃的な一言を放り投げた。
 その衝撃たるや、賢十が理性など瞬時に見失って立ち上がるほどだった。
「どういうことだよ?」
 放心しきった顔の賢十は、譫言のように日々希に問い詰める。
「一体何が……どこで何がおきたんだっ!?」
「彼女の家です」
 最後まで話を聞き届けることもなく、賢十は猛烈に駆け出していた。
 走っている内に理性の欠片が戻ってくると、事件の詳細を聞くべきだったと自身の愚かしさを痛感した。ただでさえ無力なのに無知でもあったら、賢十の身一つで解決できることなど思いつく限りでは存在ない。
 だが、動いてしまったからには仕方がない。かつての居住地だったそこは、衝動に任せるままに足を振り乱していれば最短距離でたどり着ける。せめて早期の到着を以てして、遅れの埋め合わせとまでは行かずとも緩和をしたい。
「うっ、ぉおおおおおおおおッ!!」
 走れ、速く。
 もっと速く、早く。
 走れ、駆け抜けろ。
 顔面に押し寄せる鋭利な刃物のごとき冷たさを歯を食いしばって堪え忍び、口の端から白い吐息を棚引かせて。
 幸せを取り逃さないように、日常を取りこぼさないように、間に合え、間に合え、と念じながら走った。
 果たして、実花の邸宅まで来てみると、にわかに僧が立ち並び、身を強ばらせて巡回していた。
 それらの視線の多くは、実花の部屋に結びついている。
 賢十は怒りと悔しさを噛みしめようとして空を裂いた歯と歯を軋ませ、一人の僧に声をかけた。
「すみません、何が起きているんですか?」
 中肉中背で頭も丸刈りの、今一つ特筆すべき点のない僧だった。その男は穏やかそうな顔つきを険しく歪めたまま、賢十を肩越しに視界に収めた。
「………なんだい?子供が出る幕じゃない、早く―――」
「雪女が出たんですよね?」
 僧は、部外者は知るはずのない情報を語る若者の登場に、飽いた口が塞がらなくなっていた。賢十はこれを好機とみて、構うことなく畳みかける。
「俺の友達……いや、親友がここに住んでるんです。時間がないんだ。俺は雪女について知っています。今更隠し立ては無用ですから、教えてください。ここでなにが起きているんですか?」
「……っ、それは……」
 うまい具合に追いつめられた僧が言葉に詰まる。そのまま情報を漏らすのを賢十は心待ちにした。
 睨むようにしている賢十は後ろにまで気が回っていなかった。彼の肩が誰か手に掴まれる。振り向こうとした賢十はそうする前に、両肩に添えられた手によって僧から引き離された。
「おい日々希、今話を聞こうとして……」
 賢十は、彼の肩を引っ張った手の持ち主、小儀日々希に向き直った。
「あまり、素人が調子に乗らないで貰いたい。あんな軽率な行動を取るなんて、どうかしていますね」
 珍しく感情にまかせて、日々希は暴言を吐いた。相手が平静でないことで、賢十の過熱した思考に少量ながら冷たい知性が流れ込んだ。
「すまない、俺が悪かった。でも、居ても立ってもいられなくなったんだ」
「そんなことはとうに承知しています。ですがそんなようでは、頼もうとしていた仕事を任せられません」
「悪かった。何度でも謝る。だから、教えてくれ。実花がいなくなったら、俺は、俺は……っ!」
 賢十の気持ちが解せないでもない日々希は、無言で賢十が使えるかを見定めた。
「よろしい。やるとなると命がけですが、構いませんね?」
「あぁ。自分の命なんて惜しくねぇ」
「僕は、君の命だって、見捨てるつもりはありませんから、お忘れ無きよう。では、ついてきてください。詳しい概要は歩きながら話します」


 実花に手出しはさせない。この身を犠牲にしてでも傷つけさせはしない。
 人工的な灯りから見放された廊下の一角で、賢十は立ち止まって、決意を固め直していた。
 日々希の助けで、賢十は窓から二階に侵入した。それから慎重であることを何よりも優先して廊下を進み、実花の部屋の扉が見える位置まできていた。
 日々希が言うに、雪女は実花を人質にとって、賢十を一人で来させろと脅迫してきたらしい。
 正直、少しだけ賢十は、霰と関わったことに悔恨を抱いてしまった。自分の所行が誘因となって、実花が危険に陥ったのは、どんな理由があっても許容できるものではない。
 なにがあっても、奪わせしない。
 実花を、平穏な 日常を。
 自分を殺しかけた相手が待ち受けているというのに、賢十はさほどの畏れを感じていなかった。むしろ怖いのは、しくじって実花を失うことの一点のみだ。
 実花が欠けた生活というのは、想像するだけでも四肢が震える。絶対に、亡くせない。
 怯えを振り切り、震えを無視して、賢十は扉の前まで歩いた。
 かつて居候していた時期にも、実花の部屋を訪れることはほとんどなかった。彼女の部屋へと通じるのは西洋風の木製扉で、どことなく、可愛らしい印象を受けるのは賢十の気のせいだろうか。
 ドアノブに手を掛ける。それは、外に積もっている雪が如き低温で、明らかな異変が起きていることを教えてくれた。
 近づいているのがばれていたら、どうなってしまうのか。俺に生きて帰れる見込みはあるのか。
 考え出したら憶測は止まらない。
 けれど賢十は足音は最低限に絞ったつもりだし、呼ばれたからには、出会い頭に有無をいわさずに殺すとも考えがたい。
 論理で表面上ながらも恐怖を取り去り、賢十は一息にドアを開いた。
「実花っ!!」
 彼女の姿が目に入るともう抑えきれず、賢十は少女の名を叫んでいた。
「賢十……?なんで、賢十が……!」
 疑問を呈する実花は、人が一人、辛うじて入れる大きさの氷の檻に囚われていた。彼女は窮屈そうで、事態が飲み込めずに混乱もしていたが、体は無傷で衰弱もしていない。
「無事そうだな……よかった。ちょっと待っていてくれ」
 賢十は視線の行く先を雪女に、目つきを限りなく強い怒りの籠もった睨みに切り替えた。
 静謐な薄闇に佇む雪女は、賢十の睥睨を受けて、僅かに顎を上げた。賢十を見つめ返した雪女は、相当に窶れていた。何が彼女をそうしたのか、賢十に知る由はないが、長い髪は乱れ、目に宿る光も弱々しい。とはいえ、その威圧的な美貌は未だ健在で、相対をするとなると、賢十一人では心許ない相手だった。
「まさか……本当に生きていたとはな」
 そう言って笑う女の目には、仰天ではなく悦楽の色が宿っていた。
「呼び出した奴の台詞かよ。実花を解放しろ。何が目的かは知らないが、霰はもう、部屋にはいないぞ」
 不敵な賢十の物言いに雪女は、そんなことに興味はないと言った風情で、形の良い鼻を鳴らした。
「お前のせいで、あの子を失った。………よくも台無しにしてくれたな」
「どういうことだ……あんたは、あいつと、なにをするつもりだったんだ?」
 彼女はそこで、初めて笑みをこぼした。ただし、酷く自嘲的に。
「復讐だ」
 聞き慣れない単語に、賢十は生唾を飲み込んだ。
「私はあの子と、最後の仲間と共に、人間に復讐しようとしていたのさ」
「あんたの過去に、人間となにか、起きたのか?」
 萎びれていながらもやはり麗姿の彼女は、俯いて前髪に顔を隠した。
「お前は、親を亡くしているそうだな」
「あぁ。……あんたも親を喪ったのか?」
「そう、だな。私の親は、人間に裏切られて、殺されたよ」
 またしても聞き慣れない単語に、賢十は眉をしかめた。
「裏切った、だ?」
「あぁ、そうか。お前は知らされてないのか」
 訝しむ賢十を弄ぶように、雪女は、柔らかな月明かりが差し込む窓際まで歩み寄り、窓枠に腰掛けた。
「人と雪女はな、かつて一度だけ、共に暮らしていたんだ」
 そうして彼女は語り出した。
 僧を中心とした人と雪女を含む妖怪は、これまで幾度と無く争ってきた。殺し合ってきた。雪女との対立はその中でも激しく、両者は数え切れない犠牲者と血塗れた因縁を積み重ねてきた。
 ここまでは賢十も聞かされたことのある内容だった。けれどそこから先が初耳で、重要だった。
 およそ二十年ほど前、人と雪女間に最大規模の戦争が起き、終結した。そこから両者の関係が、大きな変容を見せる。
 前抗争におけるあまりの死者数から、両陣営は共に、和平へと動いた。両者は史上初めて接近し、難航することもあれ、確実にその距離を狭めていった。血塗れた因縁は軋轢の深さであると同時に、悲哀の深さでもあったからだ。これ以上の仲間の死を忌避し、より親密な関係と平和を望んだ彼らは、新たな策に打って出た。
 すなわち。
 雪女と人間が協力して暮らす集落を、作ったのだった。
 これがもたらした結果は、成功と称すのも物足りないものだった。単に雪女と人の共同生活が成り立ったのに留まらず、誰も予期しない僥倖が生じた。否、生まれ落ちた。
 なんと人と雪女が夫婦になり、子を授かったのである。しかもこのような夫婦は一組だけに終わらず、後々急増した。
 こうして生まれた子らは、雪女から美貌を、人から体温ある肉体を受け継いだ。力こそありはしないが、自分に似た我が子を抱きしめた雪女たちには、本来無情の彼女たちにはありえない、感情らしきものも芽生えだした。
 その平和はいつまでも続くと、彼らは信じて疑わなかった。けれども破綻の兆しは、密かにその色合いを強めていた。つまり、力までをも受け継いでしまった子が、数を増やしていた。霰のような子らが。
 その子達が抱えたある欠陥は、人間と雪女の二種族の、埋まり欠けた溝を掘り起こしていった。それほど致命的な欠陥をその子達ははらんでいた。
 そして。
 五年後、均衡は、呆気なく崩れ去った。
「裏切ったのさ、人間は、私たちを」
「……何が起きたんだ?」
「ある晩のことだ、人間たちは、里にいたのもそうでないのも、一斉に雪女を攻撃した。私たちは全滅寸前まで追いやられたよ。人間側の傷も浅くはなかったみたいだがね」
 なんと言うべきか、賢十の語彙をひっくり返しても、返答に値する言葉はなかった。住む世界が違いすぎて、想像力を働かせても出鱈目しか思い浮かばない。
 賢十は生まれてこの方、一度もなかったほど鮮烈に、己が存在の卑小さを味わった。安穏な社会という井の中で育った彼には、そんな悪意と不幸の大海を知る由もなかった。
「本当に、分かり合えなかったのかよ」
 ちっぽけだとは自負しつつも、それ以外の言葉を賢十は見つけられなかった。
「霰のような半端な妖怪がいなかったら、或いは、お前のような人間がいたら、変わっていたかもしれないな」
「俺は普通の男子高校生だ」
「お前が何者かなど、どうでも良い。お前は一体、あの子に何をした?」
 何をしたか?
 そんなことを訊かれたからには、賢十は霰に何かしらの変革を起こしていた。
 けれど賢十自身には身に覚えのない成果について追求されても、彼は返答に窮するのみだった。思い返そうにも、彼女が問うような変哲のある行為などしていなかった。
「どうやら、本当に自覚がないらしいな」
「……俺は霰に、どんな影響を与えたんだ?」
 冗談抜きに質問する賢十を見て、彼女は高らかに哄笑した。それが抑えきれないくらいに、彼女にとって賢十の反応は面白かった。
「変わった奴だな、お前は。おもしろい。教えてないつもりでいたが、気が変わったよ。……お前に接してあの子がどう変わったか、知りたいか?」
「あぁ」
 賢十は間を空けず簡潔に肯定した。
「そうか。良いだろう、教えてやる」
 逸る気持ちを抑えて賢十は女の口先に注目した。彼女は勿体ぶらずに口を開く。
「お前と過ごしたことでな、霰は人間に近づいたのさ」
 言われてみると、当初は冷たかった霰の体には先日、温かみが宿っていた。賢十は何でもないことと思って気に掛けてすらいなかったが、考えてみればそれは、尋常の変異ではない。
「だけど俺は、あいつを家に居候させてやる以上のことはしてねぇぞ」
「そんなはずが……、いや、そうか。なるほどな。道理で私も、あの子と話してから……」
 彼女は、諦め混じりの静穏な心持ちで、窓の外を眺めた。雪明かりに照らし出された色白の相貌は、生涯の命題を解決して、満足はできないけれど納得はしたような表情をしていた。
「もう気づいているだろうがな、私は、その集落の出身だったんだ」
「……つまり、あんたは……」
 人と雪女の混血児なのか。言外に、賢十はそう尋ねた。彼女は彼に目もくれず、窓の外の方を向いて、けれどもっと悠遠な場所を見つめながら、頷いた。
「母も父も、仲は良かった。いや、よく見えた。あの晩までは、な」
 それから彼女は、人が裏切った夜のことをしずしずと語った。理想郷だったそこがいかに唐突にして崩れ去ったか、母に逃された彼女が目撃してしまった、両親の悲惨な死に際のことを。
 父と母が心中でさえなく互いを殺した、その惨劇を直視してしまった少女の心理は、賢十の想像を絶していた。
「尤も、二種族の関係にほころびを作ったのは私を含めた、力ある子供なんだがな」
「人の生気を吸わないと小正月に死ぬってやつか」
「それは副次的なものさ。最大の悪因は他にある」
「隠すな。さっさと話せ」
「嫌だね。僧らは知らないらしいから、詳しい話は霰に聞きな」
「俺はあいつがどこにいるか知らないんだ」
「あの子はなんとかして、最後にお前と話そうとするはずだよ。その時に聞けば良い」
「なんで、お前にそんなことが分かる……ひょっとして、あんたは霰と……?」
「あぁ……ふふっ、あんななりして、私を止めようと必死になっていたよ。さて、そろそろお別れだ」
「待てよ、まだ聞けてないことが―――」
 未解決の疑問を問いつめようとした賢十は、一歩踏み出すと硬直してしまった。雪女の術に掛かったわけではなく、ただ唖然とした。
 彼女の胸から矢の先端が生えたことに。
 一瞬遅れてから賢十は、僧たちが外から、窓際の彼女を射ったのだと理解した。
 真っ白の着物が胸から紅く染まっていく。助けられるはずがないし助ける義理すらないと理性の上でも知覚していながらも、賢十は駆け寄ろうとした。そんな彼の腕を避けるように、彼女は緩慢な動作で前のめりに倒れ、床に伏せた。


 賢十が思い返すとその日は、彼にとって重大な意味を持つ電話が何度もかかってくる一日だった。
 部屋の布団で横になって、賢十は実花の部屋での出来事を振り返っていた。
 雪女の力を持つ人間の女を賢十は最期の最後まで、揺さぶって、呼びかけて、見つめた。死に逝く彼女は、事実を好き勝手に語ったのみで、賢十が知りたいことを語り尽くしてはいなかった。
 けれど彼女は、
「これで、いい」
 と言って、賢十が呼び止めようとしても応えなかった。彼の掛け声がどれだけ大きくなろうとも、どんな言葉で紡がれようとも、彼女の結論は変じなかった。
 私はいい加減に殺されるべきだ、と。そう主張して、彼女は死ぬ瞬間まで強い気迫を黒目がちな目に宿していた。
 結果だけを述べるならば、賢十は求めた目標を達成できた。彼女の死と同時に、実花を幽閉していた氷の監獄は崩れ去り、日常は遺恨なく彼の手に戻ってきた。でも、言いしれぬ後味の悪さが賢十の内で蟠ってもいた。
 割り切れるわけがない。手を伸ばせば届く範囲で、血の通った人間の死を目撃したのだから。論理的にはそうなのだと理解していながらも、心理的に腑に落ちることはなかった。
「なぁ―――」
 霰、と呼びかけそうになった賢十は、ようやく彼女の不在を実感した。あの少女と永遠に別れることも、また一人の生活に戻ることも背負えたつもりでいた。けれど、煩悶を処理できずに、苦しんだ今になって、話しかけたら答えてくれる相手のありがたさを改めて痛感した。
 そして賢十は、ならば実花に電話してみようかと思いついて、即刻その思考を中断した。前触れなくあの半雪女に襲われ、その死を目撃した実花は相当に混乱している。それを抜きにしても賢十は、これ以上は愉快な悪友を異常且つ危険な事態に巻き込みたくなかった。
「………」
 賢十が黙り込むと、雑音混じりのありきたりな静けさが部屋の全てとなった。電子機器が駆動する音も空気が流動する音も、体内から響く心拍の音も、鬱屈な気分を助長する。
 とにかく、動こう。他に考えも思いつかず、賢十は意気込んだ。寝転がっていたら、陰鬱な気持ちから抜け出せなくなってしまうような気がした。はて、まずは何をしたものかと思案しながら賢十は起きあがった。
 すると待ちかまえていたように電話が喚きだした。家に据え置かれている電話の方だった。携帯電話に慣れ親しんでいる賢十は、電話相手の名が表示されず、この頃不吉な役回りの多い家電に出るのを躊躇った。でも出ない訳にもいかないし、それに、家電はここ数日間で引き寄せた運命はそう悪いものばかりでもない。手持ち無沙汰で、何かをしようと思っていた賢十はこの呼び出しが未知なる時間への道しるべに思えた。
「はいっ、もしもし。真野ですけど」
 急いで受話器を取った賢十の気分は、自然と昂揚していた。
『も、もし…もし……?』
 控えめというよりは怯えているらしい途切れ途切れの少女の声が響いた。
『私です。霰です』
「やっぱし、お前か」
 相手が霰だというのに、別段賢十は驚かなかった。根拠なんてどこにもなかったけれど、賢十は電話の相手を薄々看破していたのだ。
「どうした、困ったことでも起きたのか?迷ったとか?」
 電話の向こうから聞こえる霰の呼気が鋭くなった。
『し、失礼ですねっ。私だって子供じゃないんですから………って、ごめんなさい。こんなふうに喧嘩がしたくて電話をしたのではありません』
「あ、あぁ。そりゃそうだな、茶化して悪かった。……それで話って―――」
 あのことなのか。すでに喉元までせり上がっている言葉の続きを吐き出そうか胸にしまっておこうか、賢十は逡巡し、息を吸う。
「お前が明日に死ぬことか?」
 彼は一息に言い切り、すぐさま受話器から顔を遠ざけた。すると過熱していた顔がはっと冷えて彼は我に返り、自分が息を切らしていたことを知った。例の事実を口にするに当たって賢十は、ありとあらゆる最悪を無意識の内に想像し、実在しない何かに怯え、緊張し戦慄していたのだった。
 でも、今のは避けてはならなかった。もうそんな回りくどさが許されないまでに、霰の命の刻限は肉薄していた。
『……。知っていたんですね』
「案外、お前は驚かないんだな」
『なんとなしに、賢十さんには察せられている気がしましたから。一昨日や三日前も私の考えていることはばればれでしたし』
 本当は今回に限って日々希から聞いたのだが、無論、賢十はそれを告白して貴重な時間を無駄に終わらせようとは思わなかった。言いたいことや伝えなければならないことなんて山ほどあって、けれどその大半を話す猶予さえありはしないのだから。
「んで、この電話は今生の別れの挨拶、ってところか」
『はい』
 否定して貰いたかった賢十は、密かに落胆した。
『あなたにだけは話しておきたかったんです。もう何もかも包み隠さず私が話せる相手なんて、賢十さんぐらいですから』
「なんだか、愛の告白みたいだな」
 下らない軽口を叩きながら、賢十は自分がさほど落ち込んでいないのを自覚した。悲しくない訳ではないのに、これはどうしたことだろう。賢十は自己に問答してみようとすると、受話器から甲高い、悲鳴とも金切り声もつかない絶叫が迸った。
「な、なんだ、なにか起きたのか!?もしかして、もう―――」
『賢十さんこそ何言い出すんですかっ!そんな、あ、愛の告白だなんて……っ!!それは確かに私は来年には誰かと結婚しなければならない年齢になるはずでしたがまだ一年も早いですしそ、それにおばあちゃんがまだお前は嫁に出せないって』
 呪詛が如き勢いと淀みのなさで霰は喚き続ける。賢十は誰が見てないと知りつつも半笑いになった。
「冗談を真に受けるな、馬鹿!」
 口を止まらせる様子のなかった霰は、賢十が発した『馬鹿』の一言に沈黙した。
『分かってますよ馬鹿にしないでください。ちょっと取り乱しただけです』
「ちょっとじゃねぇだろう」
 無碍に指摘する。いけないと思いつつも賢十は霰をからかうのを自戒できなかった。
『ちょっとと言ったらちょっとなんです!』
 だいぶ霰はむきになってきたので、収拾がつかなくなる前に賢十は「ごめんごめん」と詫びを入れておいた。
「お前さ、明日にはその、死ぬんだろう。どうしてそんなに、平気そうなんだよ?」
『実感が湧かないんですよ。自分が明日に死んでしまうなんて。私、体のどこも悪くありませんし……あ、でも』
「腹減ったとか?」
『違いますっ!……いえ、それもありますけど……そうでなくて、体が冷たくなってきました。ここ最近になって急に、自分の体とは思えないくらい』
 出会った当初、賢十が肌に触れた時に霰が見せた悲痛な取り乱し様を、彼は思い出した。自分の肉体が体温を失っていく心持ちを、明細に想像するのは彼には不可能だったが、ただ想像できる域を越えた異常なのだという程度は理解できた。
 そうして彼女の体温について思索していると、疑問が浮かぶ。
「けどお前の体温ってたまに戻ってたよな」
 そこで先刻の、半雪女と会話を思い出す。彼女が言っていたのが正しければ、
「もしかして俺と生活していたのと、関わりがあるのか?」
『ぅ』
 霰は一秒ほど押し黙り、言おうか迷った挙げ句に『はい』と肯定した。
『どういった理屈でそうなるのかは知りませんけど』
 そう前置きして。
『私たちの様な存在は……その……人の優しさに触れることで、温もりを、取り戻せるようなんです』
 賢十は納得する反面、用意に認めたくないこともあった。
「俺、お前に優しくなんかしたっけ?」
『どうせ、認めないとは思っていましたけど、今更それですか?私が嫌だやめてと言ったってお節介を焼いてきたじゃないですか
 あなたは優しい人だ、と誉められているはずなのに、賢十は責められているような心地になった。
『全く、あなたが強引に私を助けようとするから、すっかり人間らしくなってしまいましたよ。……本当は、私はある人物に、人を殺せと言われていたんです』
 その『ある人物』の青ざめた横顔を賢十は思い浮かべた。彼女と賢十との、邂逅から死別までの記憶が、彼の脳裏を閃いた。
 賢十は思い切って霰に、あの半雪女を見知っていることと、彼女との関わり合いの顛末を打ち明けた。霰は、賢十には読み取りきれない多種の感情を内包した声で『はぁ……』とだけ漏らした。
「人間に育てられたお前は、やっぱり、あいつに仲間意識みたいなのはないのか」
『いえ、そう言うわけでは……。ただ、仲間だって割り切ることもできないんです』
「お前にしては珍しいっつうか、煮えきれない態度だな」
 賢十にとっての霰とは、誰彼構わず、無邪気に仲良くなろうとする少女だった。事実、この数日間の間に散々に霰をからかった賢十にも、彼女は嫌う素振りを見せないどころか好意的でさえある。他人を良く思っていない霰など、珍しいのをと通り越して異状だ。
『それは、ですね、あの人……雹さんと言うんですけれど、彼女とは、いろいろありまして。何から話せばいいんでしょうか……その……私の生い立ちの話はしてませんよね?』
「親の顔を覚えてなくて、『おばあちゃん』に育てられたって所までは聞いたが」
 より正確には、その『おばあちゃん』なる人物がいない―――つまりおそらくはもう、亡くなっていることまでが賢十の知り得た限度だった。けれど、そのことに触れる無謀さか、はたまた勇気を彼は持ち合わせていなかった。
「で、お前の故郷はどんな場所なんだ?」
『山奥にあった、ひっそりとした集落です。社会とはほとんど隔絶されていました。私はそこで、おばあちゃんに育てられました』
「道理で、お前が世間知らずなわけだ」
『む……』
 電話による会話だが、賢十には面と向かって話しているように、霰の不服そうな顔が目に浮かんだ。
『一応、あなたの部屋にたどり着くまでに、少しはこの世界のことも学んだんですよ』
 賢十の住む町が別世界とでも言いたげな『この世界』という呼び方が、彼は気にかかった。でも少し考えると、以前の霰にとっては世間から隔離されている集落が世界の全てだったわけで、山を出た先に広がるのは異世界同然なのだと悟った。
「話を戻そう。ならなんでお前は、その集落を離れたんだ?」
 逸れた話の軸を戻そうと目論で賢十が放った程度の質問に、霰は容易に答えられなかった。まさかこの期に及んで隠したいというわけでもなく、その問いがあまりにも単刀直入に核心に迫っていたからだ。
 彼女は脳内で記憶を整理し、それを他人に曝す覚悟を練り上げた。
『話しますね』
 数秒後、意を決した霰は、皮切りとして沈黙を破った。
『集落を出たのは、本意でしたし目的もありませんでした。ただ、出ざるを得なくなった、それだけのことです』
「なんだ、その曖昧な言い方は……雪崩に巻き込まれて集落がなくなってしまったとか?」
 そんなはずはないなんて安易な目測と、そうであってほしくないという感情故の牽制から、賢十は禄でもない当てずっぽうを口に出してみた。
『雪崩ではありませんけど、似たことですね。私達のような山の民にとっては天災と同等ですから、雪女は』
 最後の一言の語勢が際だって強まったのを、霰は自覚していなかった。さすがにもはや全容を語られずとも、分かってしまう。
「あぁ……なるほどな。あいつが、雹が、お前の故郷を滅ぼしたってわけか」
 思わず言い切ってしまった後、賢十は声に出すべきではなかったかもしれないと発言を悔やんだ。けれど、
『ご明察です。察しが早くて助かりました。全部自分で話すのは、つらいですから』
 どうやら賢十の心配は的外れの杞憂だったらしい。霰の先細りする声は気遣いの類ではなかった。
 ここでようやく賢十は、天真爛漫で八方美人の、見方によって頭の中がお花畑だなんて評されかねないお人好しの霰が、半雪女を好きになれない要因を了解した。他人へと好意を向けられないなんて霰にしてはなんと珍しいことかと思ったが、霰と雹の因縁を聞いてみると、やはり霰はお人好しだと再認識した。なにせ、恩人を殺され故郷を奪われ、挙げ句の果てに見知らぬ土地へと自分を放り込んだ相手を、霰は満足に嫌えていないのだから。
「なんで、お前はあいつをもっと憎んだり嫌ったりしないんだよ」
『私もおかしいなって思います。あの人は私の目の前で、おばあちゃんを殺したのに』
 脳裏に蘇りかけた育ての親との予期せぬ死別の光景を、霰は奥歯を噛みしめて深淵なる記憶の墓場に追いやった。無論、それしきでは忘れることなど叶わなかったが、その記憶は目に入らないようにしておかないと心が保たない。
『多分私も、その時に自分の正体と直に死ぬことを教えられていなければ、あの人を怖がってそれと同じくらい、怒ったでしょう』
「…………」
 霰が賢十の部屋に来るまでの経緯は、彼より一回り年下の少女に課されるにはあまりにも過酷だった。本音を言えば聞くのも耐え難い。もちろん世界を探せばもっと悲惨なことなんて数多あるだろうが、テレビの中ではない、実体がある残酷な苦難を背負った人物を、賢十は他に知らなかった。
『あ、の……そうでした。私は一つ、謝っておかなければならないことがあります』
「なんだよ、今更改まって」
『おばあちゃんは死ぬ間際、私に生きろって命じました。あんな鬼気迫った様子のおばあちゃんを見るのは、あのときが最初で最後でした。………それで、その、私が生きるには他人を犠牲にしないと駄目だって言われて、だから、私はあなたを………!』
 賢十を殺そうとした。そうして、おばあちゃんの最期の頼みを遂行しようと、生きようとした。命を狙われた側の賢十からしてみれば、どんな理屈であれ、許すべかざることのはずだった。
 でも。
 彼は、理屈や論理が立ち入れない域まで、霰の心に踏み込んでいる。
「お前は優しい奴だよ。俺が保証する」
『嘘ですよ、そんな、私はあなたを殺そうとしたのに』
「なら一つ聞かせてもらうが、さっきの人間と触れ合ったら人間に近づくって話、逆も成り立つのか?」
 数瞬の無音が受話器を駆け抜けて、その中から小さく『はい』という少女の呟きふっと浮き上がった。
「やっぱりか」
 賢十は思わず笑ってしまった。霰の不器用さがみるに耐えかねた。
「昨日の夕方、お前は体をすっかり冷やして帰ってきただろう」
『……なんの、ことですか……っ』
 不機嫌らしく振る舞おうと霰はしていたが、それは狼狽の部類だと賢十は思った。
「不思議だったんだよ。昨晩、雹が俺を殺し切れなかったのが。あいつは俺が生きているとは思ってなかったようだし」
 霰は言い訳を並べ立てようとして、けれど、
『―――っ――!』
 何も言葉になんてならなかった。
「隠すなよ。なんで、隠したんだよ………お前は『この町を守ってきた』んだろ?」言葉の途切れ目で肺にさらなる空気を送り込んで「霰!お前は雹と接触して、あいつを人間に近づけていたんだろ?だから昨日、お前は雪女になりかけていた。だから雹は俺を殺せなかった。違うかっ! ?」
 どうにかして霰は反論を繰りだそうとしていたが結局は、
『だって、だって言える訳ないじゃないですか!知ってしまったら賢十さんは私を止めるでしょう!?私にできる恩返しなんて、それしかないんですから!!』
 一気呵成に白状した。それから『世話になるだけな自分が許せなかったんです』と呟く声音は、怒声から尻すぼみになった。
『お返しがしたかったんですよ』
 電話のノイズに消え入ってしまいそうな声だった。
 俺はお前が傍に――――
 溜まらず賢十は、何か決定的な一言を口走りそうになった。その独白が誰も幸せにしないと思い至って、かみ殺す。もっと他にだって伝えるべき言葉はある。取り繕うように、賢十は違う説得の文句を考え出した。
「やっぱ霰は悪い奴じゃない」
 これだって、心根を具現させた本意だ。
『それは、ですけれども―――』
「最大の恩人との約束を守るためにお前は人を殺そうとした。だけど、どんな理由があってもお前には人を殺せなかった。お前は徹頭徹尾、他人のために動けてるんだ。そして誰の心も体も傷つけてない。大した奴だよ、霰は」
 だけど賢十は一つだけ、嘘をついていた。
『賢十さんの方こそ、お人好しでオオバカです』
「……おいおい……」
『どうかしてますよ、自分の命を狙った相手にそんな言葉をかけるなんて。私には勿体ないのに………っ』
 ひどく勢いに欠ける文句を漏らしてから暫くの間、霰が声をかけてくることはなかった。賢十は微かに聞こえる嗚咽が止むまで、話しかけるのをやめた。
 こんな少女が、もうじき死ななければならない。そんな世の無情さを賢十は恨んだ。彼女と、永久に離別しなければならない。そんな現実が、賢十の心を深深と抉った。
 

『すみません、賢十さん、取り乱してしまって。……そろそろ、電話に使うお金がなくなってきたので、切りますね』
 霰は公衆電話を使っていて、路銀はもう尽きかけているらしい。つまり、制限時間は長くない。それが意味差すところに思い至って、賢十はすこぶる沈鬱な気分になった。
「これで、最後なのか」
 霰と話す機会は。
『最後です』
「呆気ないもんだな」
『私はそうは思いませんけど……あの、最後なので言わせて貰います。ありがとうございました。忍び込んだ家の主があなたで良かったです。最後に賢十さんと巡り会えたのは、幸運でした』
 賢十は、照れではない要因で、顔が熱くなっていくのを感じた。その熱は生まれ落ちた直後から一気に燃え上がって膨張し、彼の深奥に充満した。
 そうして温熱は眼に集中して。
 気がついたら、賢十の目から流れ出していた。
 彼は電話相手にそのことが察せられないよう、なけなしの意地で声にはそのことが表れないよう心がけた。
「俺も礼を言っておきたい」
 一言ずつ、涙声になるのを堪えて、けれど滑舌良く、霰に話しかけた。
『礼をされるようなことをした覚えはありませんよ。叔父夫婦の件も恩返しに過ぎません』
「そうじゃなくて、だ」
 霰は微かに笑った。それから、
『なら何を―――――』
 彼女の声を押しのけて、つーつー、と無機質な電子音声が流れる。
 賢十は開き掛かった唇を噛んだ。言葉にしようとしていた、自分の部屋に来てくれた事への感謝があやふやになって宙を彷徨い出す。
「……おい。返事、しろよ………」
 それ以上、虚しい独り言を吐き出す気力なんて湧かなかった。賢十は天井を見やりながら、受話器を電話に落とした。
 その格好のまま、立ち尽くした。ずっと呆けていたかった。
 しかし、空虚でいられる時間はそう長くなかった。
 扉が叩かれた時も、賢十は、電話が切れた後と同じ状態だった。二回続いた硬質な音で、彼はようやく現実に引き戻された。急いで戸口に来た彼は、長らくの硬直が災いして眩暈に視界を揺さぶられながらも、扉を開いた。
 訪問者はほとんど予想できた相手だったが、微睡みに似た思考停止状態にある賢十は、うなだれた声で驚嘆した。
「日々希か……今更何をしに来たんだ」
「今の電話相手は、霰さんですね?」
「………お前ら、どうやってそんなことを調べたんだよ」
「説明は後ほど。時間がありません。彼女はどこから電話してきましたか?会話の内容はどう言ったものでしたか?詳しくお聞かせ願いたい」
 まるっきり警察だな、と賢十は思った。やり口も尋問も、事情を話したがらない性質も。
「金がどうこう言っていたから、公衆電話からだろう。具体的にどこからかけているかは聞いてない。たぶん、教えなかったろうし」
 霰の所在地など知ってしまえば、賢十は必ず、彼女の元へと赴いてしまう。
「んで、内容だが……、お前が聞いても、むず痒くなるだけだぞ。恋愛話ってわけでもないけど」
 日々希は賢十の言い様を鼻で笑った。それからなんでもない顔で立ち去ろうとする。賢十は慌てて日々希の肩を掴んで、彼を引き留めた。一向に事情を明かそうとしない日々希だが、賢十は彼らを慌てさせる原因について、心当たりがあった。
「待てよ。あの半雪女……雹って名前らしいんだがな、あいつが言っていた。力有る、人と雪女の子供はやばい問題を抱えているって」
 一時期は手を取り合おうとした二種族の間に、亀裂が入るくらいのものを。
「お前らが動くのは、それ関連じゃないのか?」
「さぁ。ただ僕は、上から霰さんの身を確保しろとだけ言われていますから」
 賢十の問いつめを軽く長そうとする日々希に対して、賢十はぶつかりにいくのをやめた。
 無論それは、諦めたということでもない。
「……そういや、お前らもほとんど知らないんだっけか。霰達の、出生を」
 こんな程度の言葉繰りで日々希を引きつけられるかは怪しかった。釣り針が大きいか小さいかさえ分からない。ただ、賢十の持っている手札はそれしかない。
「上が下っ端に秘匿するのなんてよくあることです」
 短く言い捨てて、日々希は身を翻した。その一連の言動が逃げに見えた賢十は、今が最大の危機で好機なのだと悟った。
 だから後、一押し。
「隠すの『上』にとってその件が、顔見せできなくなるような恥だからか?」
 矜持にナイフを突き立てて、動揺か激昂の反応を引き出すために。
「歴史の闇なんてものに葬りたい赤っ恥だからなんだな」
 二度目は質問ではなく断定の形で、しつこく念押しした。
「賢十くん、君は何が言いたいんだ?」
 そう尋ねながら、日々希は足を止めた。
「教えて貰いたいことがあるんだ」
 そう言い繕いながらも、今の今まで訊きたい内容を整理していなかった賢十は焦った。明日の晩までに彼と話せる機会は、そう何度あるとも思えない。
 賢十は、未だ広い知識の埒外の一つを厳選して、聞き方も慎重を心がけつつ、口を開く。
「最近、雪女に襲われて壊滅した集落はあるか?あったら、その場所はどこだ?」
「霰さんはそこにいるんですね」
 日々希は質問していなかった。一応の確認といったふうに訊いてきていた。
「さぁな。さっきも言った通り、あいつは自分の居場所を話さなかったよ」
「……助ける、つもりですか。君は彼女を」
 次は字面通りに、日々希は疑問をぶつけてきた。日々希にも、賢十の真意は測れなかったのだった。
 俯いて、賢十は独白する。
「あいつの命が助からないってのは分かっている。だから俺は、霰の命を救うためにいくんじゃない」
 本意ではないが、来るべき事実として賢十はそれを受け入れて、その先を求める。
「ただあいつが死ぬ間際に、そばにいてやりたい。死に際にまで、独りになんかさせない」
 穏やかな声音には、裂帛にも劣らない鮮烈な熱意が秘められていた。
「……賢十くん」
 一時の思惟を経て、日々希は沈黙を破った。ただし、気まずそうに。
「君のの希望は理解しました。が、僕はそれを叶えてやれない」
「どうしてっ!?」
「……君には隠しておくべきではなかったな」そこで日々希は一呼吸を入れた。「良いです、お教えしましょう。十五年前、人と雪女を決別させたという忌み子のお話を」
 元来の目標ではないが、日々希が提示したそれは、賢十を十二分に引きつけた。知らないままでいてはならないと、賢十の無意識が彼に告げていた。
「あいつらが生きていることに、なんの問題があったんだ?」
「生きていて、というのは正確ではありません。厄介なのは、小正月の晩に死ぬ直前だ」
「死ぬ直前……?」
 賢十は日々希が発したその言葉を反芻した。尚更に、事態が、俯瞰できる手元から遠のいていくように彼は感じた。だが、その錯覚は中断させられた。賢十は思い出したのだ、霰が町を離れたことを。彼女が死ぬ前に姿を消したのは、猫がそうするような、己の死に様を見せないための配慮だと彼は勘違いしていた。或いはそれも一因なのかもしれないが、主因ではない。霰の行為への追究が真実を彼の理解できる範囲につなぎ止めた。
「まさか、意志とは関係なく人を襲っちまうとか?」
 極微小な嗄れ声を上げて、日々希はうっすらと笑った。
「君の勘の鋭さには驚かされますね。その通りですよ。彼女たちは普通の雪女と違って、力が臨界を超えると死ぬ。彼女らの肉体はそれを回避するために、本人の意思に関係なく人を襲い生力を奪ってしまうのです」
 霰が賢十の元を離れた裏には、そんな事実があった。彼女は賢十が思っていたよりもずっと、直接的に、彼を傷つけないようにしていた。恩を仇で返さないようにしたといえば、当然とされるべきことでもあったが、そのために押し殺された気持ちは悲痛なものに違いない。あの少女の事を想像するだに、賢十は息の詰まる思いだった。
 そして賢十の知識はこの最後のピースを得て補完された。一昨日の晩、寺での騒動が終わった後に何が起きたのかを彼は推理できた。
 賢十と霰は一昨日の帰路にて、あの半雪女と遭遇した。賢十は気絶させられて昨晩と同様にその前後の記憶を失い、霰は死ぬ間際の自分が意志に関係なく人を殺してしまうことを教えられた。
 だから霰は、寺で最期の願望を吐き出した時には死ぬ直前の三日後まで賢十の部屋にいたいと言っていたのに、それを二日間に短縮した。翌日の彼女は、二日後の宵に迎えが来るだなんて言い出したのだ。
 となるとあの晩以後の霰は、孤独に死ぬことを自分に課し、その慰めとして最期の二日間で思い出を作っていたことになる。
 仮に本音を把握していたら、賢十は霰を傍から見ていられなかっただろう。痛々しいほどに彼女は悲壮だった。
「……っ……あの馬鹿っ……!」
 賢十は声を絞り出してはみたが、とても言葉になんてならなかった。自分はどれだけ彼女の思い出を輝けるものにできただろうか、もっと優しくはできなかっただろうか。そうして彼は自身に問いかけて、もしもの今に思いを馳せた。
 賢十は当事者にしか分からない悔恨によって唇を咬み、断続的な嗚咽を漏らしている。そんな彼を気遣った日々希は「……では」と言い残すとその場を後にした。

 更けて行く真冬の夜、二人の少女が二つの場所で、似ても似つかない決意を抱きしめていた。唯一の共通点は、彼女らが思い浮かべ、思い出す、少年の姿だった。
 二人の少女に思慕される彼は、何もできない自分の無力と傍にいてやることも許さない現状の前に泣き崩れていた。
 気力の絞り滓で扉の内側に体を引きずり込んだ賢十のズボンのポケットで、小うるさい電子音が鳴り響いた。携帯電話が自己主張するように響かす味気ないアラーム音が、床に沈み壁を張って、どうにか賢十の耳に届いた。
 失望にある賢十は、いかなる些事でさえも面倒に思っていたが、それよりもアラームの喚きは耐え難かった。彼はポケットで喚くそれを引っ張り出して、相手の名も確かめずに電話に出た。
『け、賢十!!』
 耳が痛くなるほどの少女の大声だった。不思議と甲高いわけでもない、ただただ声量の大きい、聞き慣れた呼びかけだった。
『へ、平気なの……霰ちゃんがいなくなって?』
 どうやら実花は霰の不在を知ったらしい。日々希辺りに教えられたのかな、意味もなく目星をつける。
 賢十は誰よりも親しい悪友の心痛を取り払ってしまおうと、声帯に空気を送り込んだ、はずだった。喉が聞られたような、空気が擦れる乾いた音が吐き出されて霧散した。諦めないで心にもない軽口を言って見せようとしたが、喉が痛くなるばかりだった。
『やめなよっ!……やめてよ、賢十』
 実花に割って入られて、賢十の虚しい試行は中断させられた。
『ねぇ、霰ちゃん、本当にいなくなっちゃたの?』
「あぁ。あいつは、あいつのやりたいことをしに旅立っていた」
『追いかけないんだね』
 本音では賢十だって霰を追いかけたい、なのにどうしてか、口からでる言葉は尽く諦念を漂わせていた。というよりは、認めていた。彼女の旅立ちを。
「仕方ないだろう、霰自身の意志だ。しかも、あいつが背負おうとしているものは重たすぎる。俺が出しゃばろうが、どうにもならないんだ」
 霰の事情なんて一切知らされていない実花にこんなことを言っても、理解されるはずはなかった。はずはなかったけれど、溢れる思いを吐き出さないと賢十は潰れてしまいそうだった。
「あいつがどこにいるかだって、もう分からない。俺には、霰を応援してやるくらいのことしか、できない……」
 自分では変えられない今と無力を嘆く声は、 情けなく弱々しかった。
『ねぇ賢十』
 少女が、携帯電話を握る手に力を込めて息を呑んだことを少年は察せなかった。
『そんな、霰ちゃんが大事なの?』
「いきなりなんの話だよ。今はそんなこと、関係ねぇだろう」
 賢十の意志や性分に関わらず、彼の言葉遣いは荒んでいた。霰と離別し取り返しがつかなくなった後で、彼女の心境を知るに至った彼は冷静な自分を見失っていた。
 常にはない賢十の粗暴さに実花は気圧された。だが、言い掛けたことを引っ込める気は一片もなかった。
『あるよ。だって、おかしいじゃない。賢十がそんなになるなんて』
「霰は、俺よりもさらに理不尽でつらい目に遭ってるんだ。おかしいことなんか―――」
『ないわけないよ。もう全部話しちゃうけどね、わたし、どうして霰ちゃんが賢十の家に押し掛けたとか、大体のことは日々希くんから聞いちゃってるんだ』
 だったら尚更、霰を助けたがる理由など説明するまでもない。賢十はそう思った。
『はっきりと言わせて貰うよ。分からないんだ、わたしには』
 分からない、とはどういうことだろうか。賢十は、彼の感情か理屈のどちらかにおける最善を選んできたつもりだった。彼の主観だと、彼は常に正しかった。尤もだ、と言われるのならともかく、わからない、なんて評される謂われはなかった。
『霰ちゃんは賢十の命を狙っていたんでしょ。あの子は賢十を殺そうとしたんだよ?なのに、どうしてそんなにあの子のために必死になれるのか、分からないよ』
 実花の意見もまた、彼女なりの主観ではあるが、一理ある。賢十と霰とのやりとりの一切を考慮せずに状況だけを慮れば、賢十に霰を助ける理由なんて見当たらないに決まっている。
 と、そこまで考えて。
 賢十は、自分がどんな岐路に立っているかをようやく自覚した。実行できるかは別として、仮に霰の下へ駆けつけたのなら死は確定する。その選択は幸せな未来になど繋がっていない。
 彼には今、これからも変わりなく続いていく温情に満たされた日常か、明日の晩で幕切れになる刹那の非日常という選択肢が用意されているのだ。
 誰一人として、後者を選ぶことには賛同しないだろう。実花も日々希も、賢十が求める霰でさえも。霰を追いかけるとはすなわち、賢十も含める全員を不幸にする、そういう選択肢だった。
 賢十は歯噛みした。彼が手を伸ばしている選択の身勝手さに、自分自身で屈しそうになる。
『どうして、なの?』
「それは……」
 理屈では説明しきれない時間を、賢十は霰と積み重ねてきたからだ。短いけれど緩急と寒暖に富む感情が行き交った数日だったから、助けたいという気持ちが理性をも上回って賢十を突き動かしてきた。
「あいつが見捨てられないんだ、どうしても。助けたくて仕方がない」
 他人に向かって声に出してしまうと、その欲求が途端に質量と実体を伴った。
「自分でも馬鹿だと思う。けれど、傍にいたいんだ」
 そして、その彼の言葉は、賢十と霰の絆を知り尽くせていない実花にも強く切なく響いた。
『そっか』
「あぁ」
 訳もなく返事をした賢十の決意は実花の心奥にまで届き、鈍い疼痛となった。賢十を悩ませる情念に対しての実花なりの結論が彼女を痛めつける。
『好きなんだね、霰ちゃんのこと』
 絶句。それが賢十の示した唯一の反応だった。言い返そうとするけれども実花の指摘が彼の中でこだまし、何を言えばいいのか思いつかなくなる。考えたこともない可能性だった。賢十にとって、霰を、困っている知人を助けたいと欲するのは常識だった。それは何も、人助けが義務だと吹聴されているのとは関係なく、ただ彼個人の正義としてである。
「俺は、あいつが……」
 好き。
 口の動きだけでそう反芻しながら、賢十は振り返った。今、視界に収まっている自室に、過去の心象を重ねて、見回した。今はそこにいないけれど、いた過去のある霰を見ていた。賢十はこの部屋で、霰の怒った顔も苦しみを堪える顔も、微笑みも、全てに触れた。彼女と過去を打ち明け合って、打ち解け合い温もりを共有し、いつしか、彼女との日々の延長を切望していた。
『だって霰ちゃん、自分の死を受け入れているのに、それでも賢十は、命がけであの子を救いたがっているんだから。絶対そうだよ』
「そう……なのか。俺は、霰を」
 もはや彼自身、そうであるとしか説明できない感情が己に宿っているのを自覚した。気づいてみれば賢十は最初から、実花にさえそうしなかったほど容易に、他人たる霰を受け入れていた。だけでなく、求めていた。ごく自然に意識へと馴染んでいた。同時に彼は、決意でも願望でもない欲望を抱き、
「俺、ちょっと野暮用ができちまった」
『ていうとやっぱり、賢十は……』
「ちょっくら助けてくる、霰を。あいつにどう思われようが、連れ帰ってきてやる!!」
 賢十の内で、見過ごされていたその感情が胎動しだしたのを実花は直感した。彼女は受話器から顔を離して、マイクも拾えないほど小さく『言うんじゃなかったなぁ……』なんて震えた声を漏らした。だがもう一度瞬きをすると彼女に弱々しさは見受けられなくなっていた。
『そんな賢十くんに良いことを教えて上げましょう』
 賢十は情報を渇望しているので、精一杯のおどけた物言いの真意は見透かされずに済んだ。
『日々希くんが、こんな時になった賢十に教えて、って言い渡された話なんだけど―――』
 実花は日々希から聞いていた、壊滅した村落がある山の場所を教えた。根拠はないが、そこに霰がいることは察せた。
 賢十は話を聞きながら身支度を整え、話が終わった頃には部屋を飛び出していた。
 彼の動きをスピーカーが伝える物音で把握した実花は、知り得た全てを吐き出した。吐き出して、へたりこんだ。声を出す度に募っていた、息苦しささえ伴う悲しみと胸焼けのような心痛が、耐え難いまでに膨れ上がっていた。実花は膝を丸め、打ち寄せる感傷を押し殺した。

この夜を越えて

「ん………うぅ」
 所謂ところの悩ましげな声に、控えめの欠伸が続いた。
 崩れ落ちる寸前となった茅葺き木造建築の小屋の中で、旅立った少女が布団に入っていた。満ち足りる直前の月が天の頂上で輝く時間帯だった。幸い吹雪くほどでもないが、藍の空からは綿雪が疎らに降り注いでおり、隙間風が我が物顔で室内に吹き込んでくる。常人ならば凍死は必至である。
 とはいえ、もはや人の体温を保てていないには一顧だにしない。
 彼女はいつ夜に溶けたかも分からない透明な呼気を吐き、掛け布団を頭まで被った。深夜も中頃だというのに、眠気が来ないのだった。それは決して、死への恐怖によるものではなかった。もちろん死を恐れてないわけではない。恐怖は日増しに霰を蝕んでおり、賢十と電話をしている時だってそれは変わらず彼女を脅かしていた。自分の死が怖くはずがないのだ。
 けれど死よりも気がかりで、本当に彼女を眠れなくするほど蝕んでいるのは、
「……賢十さん。私、ちゃんと恩返しできましたたか?」
 布団が作る局所的な闇に沈んでいると、あの少年のことを思い出さないではいられない。今生での決別を果たした後だというのに、である。忘れる義務が霰にはあったし、なにより彼女自身、思い出したくなんてなかった。記憶の一片も残さず忘れてしまえば、彼との日々を思慕して涙することもなくなるのだから。
 ひとまず眠るのは諦めて霰は布団を払いのけ、非常事態の備えだった行灯に火を灯した。紅色の光が仄かに室内に輪郭を浮かび上がらせる。昏々とした暗中から抜け出して、どうにか回顧を止められた。ついでに出かけようかと考えたが、行き場所がない霰は動き倦ねて、家内を眺めた。
 彼女がかつて『おばあちゃん』と住んでいた、そして今は一晩の寝床としている家は、強風に吹き飛ばされそうなほど見窄らしかった。思えば賢十の部屋に早く馴染めたのも、部屋が狭いという共通項があったからかもしれない。ただし、この家は現在、無数の風穴が空いて雪が吹き込み、部分的には凍り付いているのだが。それら全てが雹の強襲による損壊だった。
 ただ幸いなことに、部屋の中央に置かれた粗末な卓袱台は形状を保っている。キッチンと呼ぶには前時代的過ぎる調理場も然りだ。どちらも祖母との思い出が積み重なった大切な一品なので、不幸中の幸いである。
 と、物思いに耽っている内に物品の数々がおばあちゃんと暮らしていた、平和だった頃を想起させた。
 おばあちゃん―――
 結局、霰は『おばあちゃん』の終生の願いを叶えてやれなかった。致し方ないとはいえ、裏切ったのは確かで、彼女はそれを悔いていた。たとえいかなる理由があってもその背信を正当化してはならない、というのが変わらない霰の結論だった。
 『おばあちゃん』は血の繋がりがない霰に余さず愛情を注いでくれた。たとえ霰を養ったのが、子供のいない祖母にとっては代償行為だったとしても、霰は『おばあちゃん』を信頼し信用し、愛していた。霰にとって、『おばあちゃん』は唯一の家族なのだ。
「………散歩しよ」
 家は、穏やかだった日常を思い出させる品々で溢れている。賢十との思い出と同じく、失って二度と取り戻せないのなら、いっそ懐古の念ごと記憶を封じ込めていたい。
 扉を開けると、若干の寒風と、月と雪の白々しい微光に迎えられた。霞のような白光が雪原に立ちこめ夢幻めいた趣にしていた。だが動き回るには心許ない。霰は行灯の火を提灯に移し替えて、闇夜での頼みにした。
 白銀の雪を赤々と照らしつつ音を立てて踏みしめ、霰は外に繰り出した。彼の住む町で見た電灯と比べると提灯は遙かに頼りないが、こちらの方が彼女の性には合っていた。霰は闇をかき分け、幼年期から通っているお気に入りの小高い丘へと赴いた。
 おばあちゃんがいた頃は、雪の舞う夜の深きに出歩くなど厳禁されていた。そうでなくとも、霰のような少女の体力では冷え込みがきつい中を長くは歩けない。けれどもこの時に限ってその制約は外れているので、やや遠くとも通い慣れたお気に入りの丘になら行ける。
 じんわりと光を滲ませて闇を溶かす雪原の一角が大きく盛り上がっている。その軸となる、天へと延びた氷の大黒柱の先端が丘陵の頂上から突き出ている。霰が残した真っ直ぐな足跡は、彼女が登り切った頃には降り注ぐ切片に上書きされ、すっかり疎らになっていた。
 霰は氷柱の手前まで来ると、それに提灯を近づけた。比類なく透明な氷柱は紅色の光を受け入れ、周囲に拡散させる。紅色は夜と混じり合って、雪山の寒さを感じさせない、温かで穏やかな色合いとなる。
 霰は氷柱に背を預け、膝を丸めて座り込んだ。ここに来れば心が安まる。それは非論理的だが、不自然には思えない。これまでもしばしば訪れては、悲しかった日は慰められ、辛い時は励まされた。そうしてくれている気がした。そしてそれは今だって、霰に期待した通りの安らぎを授けた。否、期待を上回って彼女の心を温めてくれた。
 霰はあれほど落ち込んでいたのが嘘だったのではと思えてしまうほどに、活力が湧いてきた。明日死ぬというのだから奇異な話ではあるが、その活力は紛れもなく生きようとする命の脈動だった。
 沸き上がった気力のままに霰は立ち上がった。どうせ他に人もいないのだからと思いっきり叫んでみようか。そんな他愛のない体力の浪費にさえ心躍らせていると。
「あれ………?」
 山の中腹、集落にほど近い椿林で、ありえないことだが、小さく何かが煌めいたように見えた。こんな山奥に、こんな真冬に、こんな深夜に。そんなはずはないと思いながらも大きな目を凝らしてみると、光の点が不審に揺れ動いている。
 まさか、誰かが遭難しているのだろうか。
 一度心配してしまうともはや霰は見過ごせずに助けだそうと、夜と同質の長髪を靡かせて走り出していた。


 賢十は可能な限り身支度を用意周到にしてきた、つもりだった。特段の寒がりでもないのに何枚も重ね着したから丸々と着膨れしていたし、カイロや懐中電灯は予備まで持ってきていた。
 だというのに、だ。
 名も知らない常緑樹の林で、賢十はさ迷っていた。濃密な暗黒に飲み込まれて、震えを堪えることもできずに。
 賢十は実花から授かった、些細ながらも唯一の情報を頼りにここまでやって来た。出発したのは宵の口だったが、賢十は体力のことなど微塵も考慮していなかった。少なくとも山の中頃まで駆け上がってくるまでは、天にも届きそうな気概が充実していたのだった。
 だが現実は賢十の前に仰々しく立ちふさがり、後戻りもできない彼はひたすらに前進する羽目になった。
 俺はここで死ぬのか―――
 吐きそうになる弱音を飲み下して、せめて現在地を把握しようと懐中電灯で暗闇を切り裂き、夜への卑小な抵抗を試みた。
 夜闇から円上に切り離された中には濡れているような茶色の幹と深緑色の葉、雪の純白とそれらに混じって赤い点が映り込んでいた。目を凝らしてみるとその点は五枚の花弁から形作られた花だった。中央の黄色を囲んで赤い花弁が重なるその花の名は、
「椿か……」
 より正確には、雪椿という種だった。野生の椿は生け垣に使われている改良種とは違って、背が高かった。
 有益な収穫ではない。けれども山に入ってからは見ることのなかった鮮やかな彩りは、挫けかけた賢十の支えにはなった。憔悴していた彼は、体力が回復するのを待つことにした。それまで、照らし出された雪椿の花を見つめていようと思った。張り詰めていた気が弛んで思わず座り込んでしまい、けれど何かできるわけでもなく、賢十は黄を取り巻く赤色を呆然と見上げていた。
「眠いな………」
 寒中にいると眠くなるのは本当なんだな、などと彼は他愛のない思考を弄んだ。実際は夜遅いことと蓄積された疲労も少なからず災いしていたのだが、どのみち眠ってしまえば同じことだ。
 賢十は眠らまいと躍起になった。千切れかけの導線を流れる電気のように、彼の意識は断続的に途切れた。重たい四肢に力を込めて耐えていると、今度は視界が揺さぶられる。脳震盪を疑うくらいに意識も揺らいだ。意地を張っていた賢十だが、そろそろ限界を感じた。もう駄目かな、なんて諦念がちらつき始める。
 目覚めることのない眠りに落ちようとしていた賢十の瞼が、外部から強引にこじ開けられた。冷ややかな感触と突然の事態に理解が追いつかない彼は、直後。瞳孔に紅色の輝きを焼き付けられた。紅色は彼に虹彩から浸入して視神経を一気に駆け上り、脳内で氾濫を起こした。
 燦々とした刺激は眠気を見るも無惨に吹き飛ばし、かなり意識が確かになった賢十は、続く左右二回ずつの平手打ちを経てこう言われる。
「馬鹿なんですか!?こんなところに、一体どうして……自殺したいなら他でしてください!!」
 出会ってから初めて聞く辛辣さではあるが、それでも彼女は丁寧語だった。
「よう、霰。捜したぜ………」
 命を懸けてまで熱望した再会なのに、口から出るのは古今東西で使い古されてきたであろう定型句で、気の利いた台詞の一つや二つも言えない。
「やっとお前に、会えた……会いたかったっ!」
 顔を溶けた雪やら鼻水やら他の何かしらで汚し、賢十はやっと、彼女に会えた喜びだけは伝えられた。道程で言いたいことが思いつきすぎて、何から言えばよいのか分からなかった。
 理性も常識も置き去りにし、言葉にし切れないほどの想いだけを糧に歩いてきた。死後の世が如き凍てつく暗闇を、舞い散る雪片が想起させる微笑みに激励されて進んできた。
「来ないで」
 そんな賢十に相反して、霰は発破をかける。
「来ないで……くださいよ。賢十さんのためだから、独りだって耐えられたんです。なのにあなたがここに来てしまったら………賢十さんが死んでしまうのでは、意味がないじゃないですかっ!」
 奇しくも賢十と霰の考えは似通っていた。賢十だって、霰を犠牲にしてまで生きようとは思えなかった。
 だが霰はそのことに反抗するように、維持していた最後の関も決壊させて賢十の決死の選択を避難する。けれど必死にまくし立てる彼女の表情は、言動と合致していない。
 何か言うのは躊躇われた。言葉にすると伝えたい一つ一つが陳腐に成り下がってしまう気がした。だから。
「え……?」
 賢十は震える手を伸ばして、霰の背に回し、
「寒いんだ。しばらくこのままでいてくれ」
 抱きしめ、頬を寄せた。考え事ができない今だけの、愛情表現だった。
「でも、今の私は………」
 彼女が言わんとしていることは、彼も体感している。生きているのか怪しいくらいに、今の彼女の肉体は冷たいのだ。
 だが、そんなのは表面的な見せかけに過ぎない。少なくとも賢十にはそう感じられた。
「大丈夫だ。お前は温かいよ。人をそんなふうに思えるお前が、冷たいはずがないんだ」
 虚言ではなかった。詭弁と謗られようとも、これは純然たる賢十の結論だった。
「私は、温かくなんて……っ」
「あるさ。あるよ」
 なぜなら賢十は、既に彼女に………
 体力も気勢も余さず吐き出せた賢十は、満足して、気を失った。


 白銀の闇の中で、賢十は目を覚ました。どこにいるのか理解できずにしばたたく彼を、霰は頭上から見守っていた。
 賢十は居場所よりも先に、後頭部の柔らかい感触が気になった。意識の焦点がそこに定まって離れない。
「ひ、膝枕か」
 夜空色の髪を揺らし、泣きそうな表情で霰は頷いた。
 ただ目を開くだけで見つめ合ってしまうその姿勢は、賢十と霰の隔たりを限りなく近づけている。顔と顔が触れ合いそうになったことも身を寄せ合ったこともあるが、今の距離感はふとした拍子に口づけを交わしてしまそうな危うさをはらんでいた。
「ごめんなさい、私のせいで……」
「いきなりそれかよ」
「なら、私はなんて言えば良いんですか?」
 謝るよりは、ありがとうと言ってくれた方が賢十は嬉しかった。けれど賢十はその希望に口に出せない。霰がそのことを見透かせていないはずがなく、ごめんなさいと謝る以外は彼女自身が許せていないのだ。彼我の間隔が零にほど近くなったことで、霰の心の戦慄きが加減なく賢十に伝わった。
「何も言わなくて良い」
 賢十本人が顔に苦渋を充満させるような台詞だった。それでも彼は気恥ずかしさを笑ってどうにか誤魔化し、
「俺なんかに気を使わなくて良いから、だから、傍にいてくれ。勝手に消えて、独りで死のうとなんてするな」
 霰の手に体温が取り戻される。気のせいか、白い頬にも提灯とは別種の朱色が差した。話した内容を自省した賢十は、乾いた笑みで会話の間隙を埋め、思考する暇を作らないよう努めた。
 彼がそうこうしていると、青い瞳が潤んだ。
「私は賢十さんの傍に居てもいいんですか?」
 泣き出しそうな女の子の対処法など賢十は知らない。でも実の所、言い伝えたい言葉はずっと前から考えていた。ひとまず彼は彼女の手を握り直した。
「誰のためにここまで来たと思ってんだよ。……あの夜、俺の部屋に来てくれてありがとな」
 賢十の頬に垂れた熱が、一筋の冷たさを残して流れ落ちた。霰が泣き止むまで賢十は目を瞑っていた。


「賢十さん。私が住んでいた集落に案内しましょうか?」
 うとうとして、危うく眠りかけていた賢十は、話をよく聞きもしていないのに欠伸混じりに肯定に類する返事をした。
「ちゃんと聞いてますか?」
「あぁ……えぇと、なんだっけ?」
 賢十は軽い気持ちで答えたのだが、それが霰の怒りの琴線によっぽど強く引っかかったらしい。
「あのですね、賢十さん―――」
 体感だと小一時間、賢十は霰の小うるさい説教に耐えた。実際の時計の進みでは半刻にも満たない程度だったが、六日間で募りに募った不満を逐一愚痴られて彼はほとほと参った。
「まったくもう、どうして賢十さんは……」
 だいぶ収まったがまだまだ霰は業を煮やしている。賢十はすかさず別の話題を振った。
「悪かったって。早く行こうぜ。もう時間ねぇだろう」
 霰の怒りを鎮めるためでしかない発言だったが、時間がない、というのは全くその通りである。目を遣ってみると、腕時計はデジタル表示で昼過ぎを示していた。今となっては霰だけでなく賢十にも課せられている命の刻限は、かなり差し迫っている。
 夜まで時間がない。
「行こう」
 猶予は許されない。賢十は立ち上がるついでに、霰の手を取って引き起こした。賢十だけ白い天井に頭をぶつけた。
「いっ……!」
 霰と二人きりの世界に浸っていたせいで、賢十は周りが見えていなかった。
「すみません、私の背丈に合わせて作ったもので」
 言われて、賢十は全方位を囲む雪の壁を見回した。換気用に設けられた小窓が設けられた、ドーム状の雪室だった。
 どう考えても霰の細腕で作れそうにない。
「よかったのか、力使って」
「今更、出し惜しみするものでもありません」
「そうか」
「はい」
 指揮棒のように霰は手を振る。彼女の挙動に呼応して雪室は頂点から風花となり散り果てた。一瞬で彼らの周りを満たしていた薄闇は日光に置き換えられた。天気は雪模様だったが急激に増した光量に対応しきれず、賢十は目が眩んだ。
「行きましょうか」
 白んだ視界が緩やかに輪郭を取り戻すと、部屋にいた時と同様に微笑む霰がいた。触ると溶けてしまう綿雪のようにふんわりとした微笑みだった。
 たとえ下手くそだろうが、賢十は笑い返すしかなかった。


 膝丈にまで積もった雪に賢十は苦戦していた。どうして自分よりも体力や筋力に劣る霰が容易く進めるのか、理解できない。踊るように、滑るように、難解な物理の呪縛から解き放たれた可憐さで、彼女は跳ねて行く。慣れない賢十は持ち前の根性でどうにか霰の歩みについて行った。
 緩やかだが登頂は困難な雪化粧の山肌を登っていると、前触れ泣く前方が開けて平地にたどり着いた。点々と生える雪椿のそのまた向こうに、家と思しき小屋が点在している。
 集落の実在に、賢十は少しばかりの驚嘆と感動を覚えた。その彼の傍らで、霰は表情を固くして物も言わずに彼の手を引いた。賢十が訝しく思ったのも束の間、すぐさま合点がいった。遠方に見えるあれは、雹に滅ぼされた彼女の故郷なのだ。気の利かない自覚がある賢十は無粋に口を開くことはしないで、霰と繋がっている左手を固く握った。
 踏み入って、間近から観察すると、その散々な有様がよく分かった。
「ここが………」
 元は、数こそ少ないがいくらかの茅葺きの一軒家が立ち並んでいたことは窺えた。
「半年前までは、賑やかではないけど、平和な集落だったんです」
 しかし霰の言う素朴な村落は面影さえ残さず形骸のみとなっていた。大半の家には大穴が空き、溶けることのない氷がこびり付き、ひどいものでは基礎がむき出しになっている。当然人一人見当たらず、無差別に舞い降りた白色が空虚を際立たせていた。
「私の家はこっちです」
 倒壊したかつての居住空間から目を逸らしつつ霰は賢十と連れだって歩いた。集落の中央まで来ると、損壊の少ない一軒が立ち往生していた。
「私の家はあまり壊されないでも住んだんです」
 無論、育ての親を殺された霰にとってそんな些事は無意味であるが、見方によってはなけなしの希望でもあった。
 古めかしいというよりは使い物にならなそうな扉を開くと、確かに生活の跡があった。踏み固められた土間があり、そこから奥に進んだところに畳の居間があった。居間の隅には時代劇でしか見ることのない道具が纏めて置いてあり、中心に囲炉裏がある。部屋にも道具にも細かな傷や汚れが積み重ねられていたが、それが年月の具現にみえてかえって長らく愛用されたらしいことを感じさせた。
「汚いところですみません」
「いいよ。下手に小綺麗なのよりよっぽど落ち着く」
 二人は並んで、座敷に腰を下ろした。
 何か話さなければ。二人してそんな義務感に捕らわれた。冬の見知らぬ山を登ってまで霰に会いに来た賢十も、彼を助け、受け入れた彼女も、話したい気持ちや過去はいくらでもあって機会を待ちわびていた。だが好機に恵まれると、存外切り出し方に困窮する。時間の残り少ないことは承知していたが、だからこそ、交わす言葉の一言一言を大切にしたかったのだ。
 そうして賢十も霰も思惟を重ねていると、人気ない雪山では静寂が全てとなる。隙間風の囁きと双方の息づかいばかりを意識することになる。
 けれど、時間が経つにつれて、賢十達はこのままでも良い気がしてきた。意識しだして肩肘張っていた二人の雰囲気は、昔ながらの居間に漂う埃まみれの奥ゆかしさの前では氷解し、心地の良い静けさに移ろった。隣り合う相手の心臓の脈動さえ聞き取れる無音状態で、余計な気恥ずかしさは抜け落ち、最後には剥き出しの本心と本心だけがそこにあった。
「ねぇ、良いんですか?聞いているでしょう、私はいつあなたを襲うか分からないんです。私の意志とは関係なく」
 不意に霰がこんなことを言い出したので、賢十は彼女が、彼を殺さないために口を堅く結んで本能と戦っているのではと心配してしまった。
「ごめんな」
 そこからうまく言葉を繋げられなかった賢十は、畳に添えられた霰の手に自分の手を重ねた。賢十のものより一回り小さなそれは、氷と比べれば幾分かましだが、人間の手にしては冷たすぎた。賢十は、いつかのように自分の温もりを分け与える覚悟で、手からせり上がってくる悪寒に耐えた。

 ―――せめて、最期まで傍にいるから。

 直情が文字になったようなその言葉を口に出す度胸を、賢十は持ち合わせていなかった。
 けれど霰は、表層には出ないずっと深いところで賢十の思いをすくい上げた。
「そんなことをしても、私は喜びませんよ?」
「だけど、しないではいられないんだ。お前だって俺を助けたんだから、分かるだろ?」
 霰は俯いて返事をせず、賢十が見やると、彼の肩に寄りかかった。長髪の先端が賢十の手の甲を擽った。
 彼女の痩躯は温度が低かったが、より尊い、その胸に宿る温もりは健在している。賢十はダウンジャケットの生地越しに冷たい温かさを感じた。今更になってまた彼の心は、霰を失いたくないと錆びた蛇口を捻ったような掠れ声で唸った。その渇望が諦めに落ち着くと、無性に彼女と言葉を交わし会いたくなった。
「この家、昔からこんなに寒かったのか」
 他愛ない呟きにも霰は声を返してくれる。
「今ほどではありませんでしたが、冬は寒かったですね」
 夜なんか寒くて眠れないんじゃないのか?
 いえ、おばあちゃんと一緒に布団に入ったら、いつだって眠れました。
 お前、おばあちゃん好きだよな。
 大好きです!
 お前いつもおばあちゃんの話ばかりしてるもんな。
 あ、で、ですけれどね、私は賢十さんだって―――
 話し始めると、時間はゆるやかだが確実に過ぎ去った。
 霰のおばあちゃんがどれだけ優しかったか、実花がいかにおっちょこちょいなのか、日々希がどんなに堅物なのか………。口に任せて喋った内容はひたすらに他愛なく、敢えてこの時に話さないといけないようなことなんて何一つなかった。それでも胸中を一杯に満たす幸福はこの上ない輝きがつまっていた。
「賢十さん、案内したい場所があるんですけど」
 壁の亀裂から差し込む斜陽が、小屋ではらはらと舞う微細な埃を黄金色に染める頃、霰はそう切り出した。
「おう、行こうぜ」
 気のせいでも何でもなく黒ずんだ霰の瞳を見つめ返し、賢十は答えた。
「はい!」
 立ち上がるのは霰の方が早く、賢十は彼女に腕を引っ張られて腰を上げた。少女は少年に先立ち公園へ駆ける子供のように颯爽と小屋を出ていった。
「…………。」
 肌の、霰と触れ合っていた部分は冬の外気を暖かく感じていた。賢十はこの後の数時間が、本当に最期で最後なのだというたったそれだけのことを、もう一度実感させられた。そこから何かが発展することはない。寂寥感を握りつぶし、彼は霰を追った。


 一面の白色で舞う夜空色に、賢十は息を切らせて追い縋った。当て所なんてありそうにない雪原を行く内に椿も見当たらなくなり、小山にも満たない丘陵が視界の前面に居座りだした。
 その頂点は、心なしか輝いている。
「賢十さん、早く!」
 歩みを遅らせて目を凝らしていた賢十は声がした方角を注視した。丘陵の麓で霰が米のように小さくなっていた。よくあの距離から声を届けられたものだと心底感心したが思い直すとそうのんびりしていられる場面でもない。残り時間以上に、霰を怒らせたくなかった。変哲のない動機から賢十は先を急いだ。
「なにしてるんですか。もう、」
 時間がないのに、とおそらくは続けようとした霰を制し、突然賢十は雪の斜面を駆け上がり出した。
「競走だぁ!」
 年下の女の子に後れをとったことで矜持に傷が付いていた彼は、負けん気を全面に出した。客観視すればこの行いこそ恥ずべきだなんて考えには及ばなかった。
「あ、の………」
 ほんの一瞬呆気にとられた霰だったが、彼女もかなり負けず嫌いである。
「ま、待ってください!ずるいですっ!」
 着物が乱れるのも考慮しないで彼女もまた全力疾走した。
「ゴール!俺の」
「着きました!私の」
「「勝ち」ですね」
 積もった雪に不慣れな賢十と、遅れて走り出した霰は、壮絶なデッドヒートを繰り広げた末に肩を並べて登り切った。頂上を右足で踏む瞬間も同時だった。
「手を前に突き出していた私の勝ちですっ」
「競走は手じゃなくて胸が通過した時間で到着が決まるんだ。つまり俺の勝ちだ!」
「あなたに胸なんかないじゃないですか」
「俺は男だから当たり前だろう。てかお前もほとんどないだろうが」
「なっ………わ、たしは着痩せするんですっ!」
 そう叫んだ霰は着物の襟に手を掛けて―――
「おいバカこんなところで脱ごうとするな!」
「馬鹿じゃありません」
「分かったから手を止めろぉ!!」
 不毛な上に脱線しはじめた言い争いは、賢十の土下座で幕を閉じた。霰は勝ち誇った顔をしていたが、着物の帯が弛んで襟が肩までずり下がった白無垢に隠されていた、触るのも躊躇われる雪肌を垣間見た賢十に悔しいと感じる余力さえも残ってはいなかった。
 顔の火照りと異常に高揚している動悸が収まるまで待って、賢十は淡い青色の氷柱の表面を叩いた。
「お前が見せたかったのはこいつか」
 棟が如き威容のそれは、東に夜の気配を濃く滲ませる黄昏の夕暮れの空へと聳えている。
 少女は氷柱に寄りかかって小さな肩と頬をつけた。夕闇よりも暗い長髪が、氷柱に張り付いた。
「私、辛い時はいつだってここに来たんです。だから今も………」
 満月は雲に遮られることもなく、光の色を強めていた。
「今、体の状態はどうなんだ?」
「頭が朦朧としています。そろそろ限界かもしれません」
 どうやらついにたどり着いてしまったらしいことを賢十は理解した。なにもかもが結末を迎えてしまうその終着点が、目前に迫っていた。長かった六日間が、人生と共にとうとうその幕を下ろそうとしている。
 唾を飲み込む彼の胸に、霰がつんのめったように飛び込んできた。賢十の胸に両手をついて見上げてくる彼女を、彼はそっと抱き返そうとした。
 だが、次の霰の一言に賢十は腕を硬直させた。
「さよなら」
 生きてください。
 はにかみながらそう告げた霰を見やる賢十の体が、後ろへと傾く。半瞬遅れて霰に押されたのだと気づいた。賢十は背中から薄い暗がりへと落ちていく。
 怖かった、叫び出しそうなほどに。落下以上に霰を失うのが。
 背中に冷たく人を包み込む感触を得た直後、賢十の意識はもみくちゃになった。途中で回転しているのかどうかを判別する感覚まで喪失した。
 内蔵が破裂しそうな衝撃と同時に回転が打ち切られた。散々に意識をかき混ぜられた彼は目つきが胡乱としていた。彼が見る空は次第に黒く塗り潰されていく。
 雪が背中に打ち付けられる感覚が、両親を喪った数秒を彼の脳裏に呼び起こした。あの刹那も賢十は独りだけ安全な雪の上に放り出されて、事なきを得た。この世から愛しい人がこぼれ落ちていく様を見届けるところまで酷似していた。
 嫌だった。
 許容できるはずがなかった。
 両親と死別した後、賢十は猜疑と孤独に憑かれた。今、それを取り払ってくれた霰とも引き離されようとしている。
 運命が憎らしく、疎ましかった。憤りすら覚える。どうしてこんな目に、二度も会わなければならないのか。
 賢十は心中で奇蹟を願うことはしない。現実を恨み、ありもしない奇蹟に縋るのが無意味だなんて、車が炎上した一瞬で吐くほど思い知らされた。
 動かなければならない。運命に抗おう。
 右手は動いた。左腕は感覚がない。足は今後機能不全に陥ることを考慮しなければ問題なさそうだ。耳は意味のない間の抜けた幻聴ばかりを聞き取っていた。目を除く他の五感も似たようなもので、痛みやら何やらで異常を訴える。知らぬ顔を決め込んだ。
 賢十は跳ね起きた。彼の肉体は意識と同様に淵までは転がりきらず、中腹で踏みとどまっていた。
 頭上を見やると、白の奔流が渦を巻き波打っていた。中心は頂上にいるらしかった。
 空を飛ぶよりも無謀な勇気を抱いて、賢十は竜巻のような吹雪へと身を踊らせた。一歩踏み入るのと同時に意味を為さなくなった視覚に代わって、彼の触覚は正常に異常を感知した。露出した肌を打つ雪片は突き刺さったように痛む。その激痛が勢さと寒さのどちらに起因するのかも賢十は判別できなかった。されど尚も果敢に歩を進めると、耳が爆発音じみた風鳴りに震えた。考慮に値しない。
 この吹き荒れる豪雪の壁が、霰との再度の意地の張り合いだと賢十は自分に言い聞かせた。二連敗の屈辱はごめんだった。どのみち長居はできない。体力を使い潰すのも辞さない思いで無心に駆け上った。
 視界が色彩を取り戻した時、登り切った、晴れやかになった五感は一斉にそう告げた。賢十は、誰も傷つけるはずのなかった烈風と極寒の災厄に話しかけた。
「迎えに来たぜ」
 彼女はひどく機械的な動作で首を傾げた。その瞳は見慣れた青ではなく、漆黒だった。最期に、雪解け水のように透き通ったあの色が見れないことを、彼は少しばかり名残惜しんだ。
 賢十はゆっくりと霰との距離を縮めた。のんびりとしているのでも惜しんでいるわけでもなくただ体力を消耗している故の緩慢な足取りで、歩いた。
 そんな彼よりずっと早い歩調で、彼女の方から歩み寄ってきてくれた。その目は賢十を獲物として捉えていた。けれど彼には逃げる体力も残されていなかったし、それ以上に逃げるつもりがなかった。早く霰に自分の命を渡そうと賢十は体力を振り絞る。
 しかし賢十の願望に反して、霰は、あと二歩の所で電源が切れてしまったみたいに硬直した。
「あ……だ……め………近づい、たら………」
 本能に対する、霰の温もりが見せた決死の抵抗だった。
 無意識になってまで優しさを発揮する彼女を頬笑ましく愛しく想い、賢十は歩む。彼女に微笑みを取り戻す決意が彼の背中を押した。
 賢十は残り僅かな隔たりを一歩ずつ狭める。終わらせ方は直感的に悟っていた。
 力の入らない足で、倒れ込むように二歩の距離を埋めた。震えていた彼女の両肩を掴んで、その怯えが取り払われることを祈った。
 彼女の顔にはおよそ表情らしいものが見受けられなかった。しかし賢十は、虚ろに見える瞳の黒のそのまた奥で、やめてと叫んでいるのが痛切に分かった。証拠に、端正な無表情の顔を滂沱の涙が伝っていた。
 これからする行為がどうしようもなく霰を傷つけだろうことは承知していた、だけでなく。
 この夜を越えて。
 続く霰の人生を思うと、彼の心も張り裂けそうになった。申し訳なさで息が苦しくなる。賢十は胸中で、霰が彼を突き落とした時と同様の辞世を告げた。
 彼はその意志ほど固く目を瞑った。
 ごめんと連呼しながら、顔を近づけていく一瞬が引き延ばされたようにゆるやかに感じられる。
 そして―――
 まるで十五年前のように、独りの人間と雪女が小高い丘の頂上で。
 生まれて初めての、口づけを交わした。

私の運命はあなたの手に

 冷え過ぎた体は際限なく重くなる。
 吹雪から編まれた濃密な繭の中で、少年と少女は唇を合わせていた。彼らの口づけには愛の誓いと較べても尚、到底及び付くことのない万感の情動と価値とが織り込まれていた。
 その片割れたる少年、真野賢十は、全身の主要な骨を抜き取られているような完膚なきまでの脱力感と戦っていた。霰を掴んでいる両の手も、雪原を踏みしめる左右の足も、冷え過ぎて痺れている。唯一残った唇の感触は絆の証であり、やがて賢十を死に追いやる呪いでもあった。
 だけど、自分の身がどうなろうと。無様に息絶える事になろうとも。
(助けたい……生きて……くれ……)
 四肢から体温が吸い取られても決して燃え尽きない願いが、賢十を微動だにさせなかった。明滅する意識の中で、無心に彼女の微笑みを想った。
 少しずつ、賢十の生の威力は霰に移り、胎動を始めていた。それらはやがて彼女の思考能力を回復させ、視界の明度を上げる。薄っすらと開いた瞼の隙間に、霰は彼を見た。項垂れ、それでも掴んだ肩と触れ合わせた唇を離そうとしない賢十を。
 再生したばかりの霰の思考はその全てを以って賢十の死を拒絶する。堪らなかった、自分のために彼が死ぬことなど。例え、絶望に染まった結末は彼に望まれて訪れるのだとしても。
(死なないで……生きて、ください……)
 しかしながら彼女がどれだけ純粋に彼の生を臨もうとも、体が命令を受け付けない。もはや、賢十の思惑通りにその生命を与えられるしかない。

 ―――なんで……そんな……私は、生きたくなんてなかったのに……!!

 生への欲求も、『おばあちゃん』から命じられた使命もどうでも良かった。そんなものは、初めて賢十の部屋を抜け出した日にはもう捨てていた。
 もちろん賢十だって、霰の覚悟は言われるまでもなく伝わっていたし、頓着していないわけでもなかった。でも意志は彼にだってある。

 ―――お前の覚悟は知っている……けれど!俺はその上で、お前に生きてほしい!!

 賢十は自分の無力に唇を噛むのでも、運命を前に悲嘆に暮れるのでもなく、一心に望んだ未来への到着を熱望した。邪魔するものは全て、恐怖もトラウマも、霰自身の気持ちさえも乗り越えて手を伸ばす。
 死を賭した少年の覚悟を前景に、逆巻いていた暴風雪は中心から吹き飛んだ。名残の雪が舞い散り、一帯に静寂の夜が訪れる。
 唐突ながらもそれこそが終幕になる、少なくとも賢十はそう信じ込んでいた。彼から貰った心で、霰もそのことを痛嘆していた。
 だが。
 夜闇は全てを浸食できなかった。瞑目し身を寄せ合う二人の背後で、高らかと鎮座していたそれに鈍い光が灯った。
 霰だけがその光輝に気づいて目を見開く。
 彼女を見守り続けていた氷柱が、闇夜にあって自ら青く輝いていた。透き通った青色が霰の視界を満たしていた。
 氷柱はやがて頂点から仄かに青の煌めきを宿す雪となり、星光煌びやかな夜空に拡散する。そして決して離れない二人の下に降り注いだ。
「……ぷは」
 口を離した賢十は霰を観察し、己の健常を認知して、言葉を失った。
「お前、一体どうして……」
 瞳に曇りのない青色を取り戻した霰を凝視しながら、賢十はそう訊ねた。
「い、いいえ。知りませんし、分かりません。けれど………」
 青い微光は霰へと集約していた。光の雪が寄り集まってできた淡い光輝に彼女は包まれていた。
「けれど、この青い光の中にいると、とても落ち着いた気持ちになれるんです」
 霰は忘れた両親の記憶を懐かしく思った。なにも知らないけれど、心安らぐ懐旧の情だけが彼女の内でたゆたっていた。
「この光が助けてくれたんだと思います」
「そうか……俺たちは、助かったのか……」
 賢十は実感が湧かなかった。霰と唇を合わせた瞬間に悪寒が全身を駆けめぐって、それから気がついたらこうなっていた。喜ぼうにも歯ごたえらしい歯ごたえがない。どうしたものかと自分の言動を振り返ると、先ほどとは訳が違う、例の行為への罪悪感が押し寄せてきた。
「わ、悪かったな。その、あんな形でキス……接吻をしてしまって。今のは数えないことにしよう」
 賢十が慌てふためいているのを見て、霰は『キス』の意味を思い出した。彼女は彼に微笑みかけて、
「……ちゅっ」
 一思いに唇を奪った。
 先ほどは使命感に駆られていたが、今度は紛れもなく霰の意志による行為だった。賢十は湿った唇やまた温もりが灯った体の柔らかさ、想いも全部、受け止めざるを得なかった。
「お、おい………」
 体ごと離れた霰に、賢十は的確な言葉を投げられなかった。触れた箇所から響いていった感覚の残滓に酔っていた。
「これで、私の、初めて『きす』した相手は賢十さんです」
「霰って、たまに突拍子もないことするよな」
 もっと言うべきことはあるのだろうが、賢十は少し呆けていた。
「駄目でしたか?」
「そんなわけでは、ない。そんなわけがないだろう………」
 お前と通じ合えた、そう思えるから。賢十はよろける足に無理強いをして霰と向き合っていた。溶けて崩れ落ちそうなほど体が重くとも、霰から目を逸らしたくなかった。
「はは。さすがに今回は、疲れちまった」
 ついに前のめりに倒れようとした賢十を、霰が支えに入った。
「安心してください。私が責任を持ってお部屋っまで送りますから」
「……悪いな」
「まったく賢十さんは、あの夜も今も、無茶しすぎですよ」
 あんな吹雪に入るのは無謀だったと今になって賢十は反省した。こんな有様では霰に迷惑をかけてしまうからだ。けれどもそれは彼女を救う唯一の血路だったので、後悔にまでは結びつかない。
「そんなにしてくれても、私にできる恩返しは大したことないのに」
 それだけは違う。賢十は誰よりも彼自身が霰の無事と、できたなら傍にいてくれることを望んだから彼女を助けたのだ。
「お前がいてくれるだけで、俺は十分、いや十二分に報われるんだ」
 霰はかつて村だった廃墟の方を望み、それから青い瞳で賢十をのぞき込んだ。彼は途切れ途切れの視界に、必死に雪解けの青を捉えた。
「あなたがいたから、私の運命は開けました。あなたの手が私に希望を授けてくれました、賢十さん、」
 途絶間際で軋みを上げる意志を費やして、賢十は霰の声に耳を澄ませる。

 ……ありがとう。大好き、です―――

 途絶えゆく意識の中で賢十は、青い宝玉から雫がこぼれ落ちるのを見た気がした。


 凍てついていた心が音もなく落ちてきた一滴に溶かされ、波紋が広がった。
 見飽きた自室で朝日に照らされて、賢十は目を覚ました。自分の体臭が染み着いた布団から体を起こす。その拍子に、右肩から雪の結晶が一粒、舞い落ちた。
 瞼の裏で誰かの微笑みを見た気がした。
 鼓動がとくんと鳴り響いて、彼女の大切さを賢十に知らしめる。程なくして結晶が急速に融解を始め、伴って彼女の穏やかな笑顔も溶けていく。
「……待っ……」
 躍起になって喪失を阻止しようと、賢十はがむしゃらに手で掬おうとした。だが、
「………あれ?」
 彼の指先が触れたことで、それは衣服に染み込まれた。一睡限りの夢から醒めたように彼は茫然自失としていた。
 数秒の思考停止を経て我に返った賢十は、朝の予鈴がなるまで時間が差し迫っていることに気づいた。まだ何も準備できていない。
 慌てた彼は、消えた結晶を意に介すことなく日常の煩雑に回帰していった。

プロローグ

「賢十、この炬燵もう買い換えようよ」
「これは……思い入れあるんだがなぁ」
 卒業式を終えた四月、賢十は、段ボール箱がその数を増やす自室に実花といた。部屋の物品は不要なものから次々と捨てられるか段ボール箱に仕舞われるかして、室内はかなり開放的になっている。それでもなお、狭いことに変わりはないのだが。
「思い出なんて、また作れば良いよ」
 確かにそうだと思って賢十は口元に笑みを浮かべる。
「大学でもお前と一緒だしな」
「そ、そうだね……」
 照れくささと居心地の悪さから実花は口ごもった。
「ねぇ、本当に覚えてないの?」
 高一の冬から何度してきたか分からないその質問を実花は賢十に投げかけた。
「だーかーら、知らねぇっての」
「私に気を遣っているんだったら今すぐやめてね」
 『あの少女』の妥協が自分だなんて実花は冗談でも思いたくなかった。
「しつこい奴だなぁ」
 実花が時折話題に上げる少女など、賢十は見かけた記憶さえ持っていない。おかしな夢を見たのだと、賢十は思っていた。実際のところそう判じるにしては二年間も質問の内容に変化がないのは奇異だったが、だからといって他にどうとも結論づけられない。一時期は実花以上の執拗さで日々希も似通った詰問を繰り返していたが、これは実花に感化されたのだと思っておくことにしていた。
「それはまぁ、あの時期は転機ではあったがな」
 見知らぬ少女が会話の話題に上るようになったのと同時期に賢十の孤独感はだいぶ緩和されたし、いつの間にやら険悪だった叔父たちとの関係も改善できていた。実のところ、大学に行けるのは叔父たちの協力ありきだ。
「まぁ私も最近、勘違いだったのかなって思うようになったよ。でもね……」
 夢幻にしては、記憶に焼き付いたあの青い瞳の色は鮮明すぎた。
「座敷わらしでも見たんだろ。さて、次は何を片づけようか」
「炬燵を捨てちゃうんだったら、思いつくものはない………あ、電話、また片づけてない」
「そろそろ、仕舞っても良いか。元々携帯電話があるから不必要なんだし」
 もしかしたら家電の番号しか知らない人がいるかもしれないので残して置いてあったが、ここ一年、家電の受話器に触った覚えがない。滅多に目もくれなかった。
 だから留守電が録音されていることを示すランプに気づいたのも、この時だった。
「あれ……誰からだろう」
 奇妙に思う理性的な思考を差し置いて、彼の右手は受話器を持ち上げ左手の指でボタンを押していた。
「…………」
 無音が三秒続いて、
『――――っ、あのっ!』
 その声は氷のように澄み切っているのに、温かに響いた。賢十の頭には記憶されていない、少女の声だった。
『聞こえてるのかな……ぇと、私はあなたの恩を受けた旅人です』
 だけど彼の耳は既視感を訴えていた。
『あなたの選択によって道が開けた、そんな旅人です。きっともう忘れているでしょうけど』
 そのはずだった。だが既視感は全身に伝播した。繋いだことのない手の感触や聞き覚えのない笑い声、涙声、次々と忘れた温もりが蘇る。
『この度はご卒業おめでとうございます』
 賢十の目は悠遠の時空に見入っていた。網膜に刻みつけられた、見覚えのない雪解け水の青を湛える瞳、夜空色の長髪―――
『今回はほんのお祝いとお礼させていただくことにしました……えへへ、なんだか恥ずかしいですね』
 いつまでも絶やさなかった、あどけなく大人びた微笑みが、凍り付いていた記憶を呼び覚ました。
『ではまた、あの場所で』
 受話器を放り出すと賢十は慌ただしく、ある棚の前に跳ねた。熱くなった耳に自分の心拍が聞こえていた。
 その棚には二年前、非日常が隠れていた。賢十はその戸の取っ手を掴む。
 移り変わる世界の始まりを信じて。
 開け放った戸の奥には――――

『かまくら~私の運命は。俺の手に~』

『かまくら~私の運命は。俺の手に~』 糸公 作

男子高校一年生の真野賢十は事情があって古びた木造アパートに一人暮らしをしている。ある夜、悪友との違法ドライブから帰宅した彼の家には変わった侵入者がいて……。雪が降り注ぐ極寒の最中でもかまくらのように温かい場所を、との思いを込めた物語です。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2013-06-21
CC BY-ND

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