鏡の向こうと僕の日常 3

 なんというか、男性向けではない内容なので、これを言うのもどうかと思いますが今回は女の子濃度が高めです。お風呂シーンにポロリもあるよ、野郎のだけどな!浴場での主人公の行動と心理がやや現実離れしておりますが、昭和中期の男はこんなもんです。あと、男らしくてかっこよすなAさんを気に入られている方は、この回の最後あたりから泣いてください、私も泣きました。
 

砂上国にて 地方篇

 自国に帰り、溜まりに溜まっていた仕事に忙殺された数日後。久しぶりに戻った住み慣れた空間は、少し離れていた間に妙によそよそしい空気に包まれていた。いつもどおり暗い室内に身の内の下僕を全て放ち、窓を開いて籠った空気を入れ替える。しばらく食べていなかった事を思い出して、おもむろに簡素なかまどに立つと、炭をおこして湯を沸かした。空腹という感覚がきちんと定期的にやってくる身体ではないので、食事とは自分にとっては他者との交流の手段のひとつか、綿密な管理に沿って必要なだけの栄養を取り入れる、ただそれだけのことなのだ。
 棚を開いて取り出した、麦から作られるいわゆる焼麩というものに近い塊を器に適量崩し、湯と塩を入れどろどろの粥状にし口にする。見た目美味そうにないし、実際美味くもなんともない。しかしそんな事などどうでもいい、これは身体を維持するだけのものなのだから。
 そう、どうでもよかったのだ、これまでは。
「……」
 この頃、何も考えていないとすぐ頭に思い浮かべてしまうことがある。乾いた軽い食感と、広がる優しいあの甘さ。
〝はい、アーリットにもひとつ〟
 こってりとした脂の濃厚な刺激に、衝撃さえ感じさせたその味の複雑さ。そして、鼻腔一杯に広がった香ばしい香り。
〝アーリットも……これ、食べる?〟
 あれは正直、本気で危ないと思った。あれをもしもうひと切れでも食べさせられていたら、皆が寝静まった後、隣にいる相手で完全に満たされようとする自身の身体を抑えられなかったかもしれなかった。自分が信じきれなかったので、相手にこっそり昏睡の術式を仕込んで何があっても悟られないようにして、なんとかあの夜はやり過ごしたのだが。
〝僕は、男なんだ、君にそう見てもらいたい〟
〝男だから、君の盾になって護るんだ〟
 あの甘い豆と同じ色の眼は、一体何を見ているのだろうか。重さはもう超されてしまったかもしれないが、背丈はまだ辛うじて勝っている。自分でそうあるべくしているのだから、この身体は彼に近い状態で、彼自身もそう見えると言っていた。一国を護るものとして、自分は誰よりも強く、揺るぎない存在なのだから。向けられるのは、畏怖と崇拝と愚かさゆえの挑戦、それのみでなくてはならない。
 もくもくとただ往復させていた手が止まり、気付くと器が空になっていた。片付けを済ませ、いつもは暖かい茶を入れくつろぎの一時のために部屋の空気を暖めて、かつ香り付けするのだが。少し気が向き地下の貯蔵庫に赴いて、貯めてある酒瓶のひとつを引っ張り出してくる。
 このユークレンで主につくられている黒葡萄で仕込んだ酒の飲み頃は、大体三、四十年を過ぎてからで、今出してきたユークレン十五世王成婚祝いのものは丁度二十年もの、まだ開けるには少し早い。それでもなぜか今宵はこれを味わいたい気分になって、蝋で封印してある軽木の栓を抜いた。
 大ぶりな杯に惜しげもなく注ぎ、まずは香りを確かめる。確かこの年は黒葡萄が稀に見る不作で、仕方なく山の葡萄を少し混ぜた。だから酸味が強くなるのを見越して芝苺の甘い実も入れたので、とても普通の葡萄酒とは思えない複雑な芳香を放っている。一口含んで、舌で転がし飲み下してみた。
「……やっぱり、早かったな」
 思ったとおり、甘味と酸味と渋みがまだしっくり馴染んでいない。少なくとも後二十年程は寝かさないと、この難しい酒は落ちついてはこないだろう。
 それでも、今のこの気分には妙にしっくりくるような気がして、もう一口含んでみる。
「こいつらは分かってるんだろうな、仕込んだ年に生まれた奴が味が分かる歳になる頃、ちゃんと美味くなる」
 久しぶりに飲むと、進め具合がよく分からなくなっていた。少し酔いがまわってきた頭に、またあの無邪気でひどい声が語りかけてくる。
〝寂しいんだろ?アーリット〟
〝僕が、百年傍にいるよ〟
「馬鹿が、酒は百年たっても充分飲めるが、人の百年ものなんてただの干物じゃねぇか。つまみにでもするってか?」
〝次の僕は、僕よりずっと長く君のそばにいる〟 
「〝次の僕〟の話を持ち出す段階で、もう自分の生涯じゃあ面倒見きれないって白状してるんだな」
 少し、苦しい。無意識に上衣を解いて帯を取り、内着のみの楽な姿でだらしなく寝台にもたれかかる。
 こうして一人でいると、己の声のみを聞いていると、いつしか嫌なあれに気付いてしまう。
 それは、例えるなら身体の芯に空いた限りなく漆黒に近い深紅の穴だ。そこから漂ってくるのは焼けつくような〝不足〟。飢えなどという単純なものではない、あまりにも多彩な欲求が濃く溶けあっていて、どうしたら埋められるのか手のつけようがない。ただ、ここを埋めろと本能が荒れ狂うのだ。
 これ程のものとは、正直長い人生で予想のひとつもできなかった。これまでに二度、事情で女性の身体になった事はある。身の内に保持していた呪法を利用して適度に食べ、なんなく優雅な曲線の身に変じ、事後は速やかにもとの状態を取り戻した。
 あれはただ、純粋に食欲のみであった。求めてきた、助平面丸出しの相手に重たい胸を委ねても、身体の芯は完全に冷え切ったままで、内でなんら変わる事の無い自分がせせら笑っていた。
 だが、今は違う。
 あのたかだか二十年程度の飲めた代物でないはずの若い酒を、この身体が求めている。言葉を、そして眼差しを心に染み込ませ、いい気分に酔わせて欲しい。その欲求を押さえ込んで蓋をしようとする頭に、深紅の穴は暴君のごとく反意を叩き返してくる。甘い物、美味しい物をくれた、真剣に護ると言ってきた、少し乱暴に押さえつけられ唇を塞がれた。
 自分を欲しいという思いを、彼は呆れるくらい真っすぐ示してくる。
 それを許した、それが嫌でなかった自分は、彼に応えなくてはならないのに。
 なぜ拒む。
 一体何を誤魔化している。
 苦しいのは、首から上が余計なことを考えているからだ。下らない、考えても意味のないことを。
「……うるさいな、考えもできない奴の言いなりになんてなれるか!」
 酒瓶は、そろそろ空になろうとしていた。本来は深い暗紅であるその杯の中は、材料の違いと熟成の足りなさもあって褐色を帯びている。空いた瓶の淡紫色と相まって、ふと記憶の泡が深層から浮かび上がってきた。
 そうだ、ずっと以前にも似たような事があった。優雅な銀髪、紫の瞳、金のアシウントに並ぶ銀のユークレンと呼ばれ称えられた、血統の末になった九世王。幼少時に身体が弱かったせいで、ずっとついていてやった。おむつも変えたし、城を散歩するときは小さな手でずっと上衣の裾をつかんで皺をつけた。成長後は明らかに武術には向いていなかったので、早々に諦め精霊獣師の教育に切り替えたら、歴代の王族では最高位の二級まで登りつめた。そのまま、歴代に習い良き伴侶を得て優れた次代を残せば霊獣王、智司王等それなりの良き名を墓標に刻めたはずだったのに。だが、未だ王墓にその名は無い。
〝愚生王〟
 文字通り、馬鹿王の上品な言い方だ。たった一度の、最初で最後の、一世一代の彼の望みが彼をその名に貶めた。戦に怯えて逃げ帰ったとも、無駄な散財したという訳でもない。そもそも王位を継いで、最も短期間しか在位していなかったのだから。それよりもなお重い、暗黙のうちに伏せられている禁忌に、彼は知った上で触れてしまったのだ。
〝一級精霊獣師殿を、我が伴侶にと望む。これが認められぬなら、私に伴侶は必要ない〟
 一体、何を血迷ったのか。
 確かに、憎くは思うはずがない。連綿と続く高貴なるユークレンの血筋、それに自分は常に寄り添い、助けてやって生きてきた。皆等しく愛情を持って育て、教え、その背を見守りそして最期を見届けた。それが自分、ユークレンの護人、第一級精霊獣師アーリット・クランなのだから。
〝どうして、誰も君に求婚しなかったんだろうね〟
〝この世界で存在するものの中で最も強い君、僕と一緒にこの国を見守って欲しい〟
 馬鹿か、お前。
 気持ちは、分かりすぎるほど伝わった。だがしかし、あの時は甘い気持ちなど微塵も湧きあがってはこなかった。お前の伴侶にならずとも、俺はこの国を護っているんだから。そう、この甘ちゃんが誰を迎えようと、俺の立ち位置には微塵の変化も起こらない。だから相手にしなかった、はぐらかしてさえいればそのうち諦めたのは分かっていたのだから。夭逝してしまったのは予想外だったが、生きていればちゃんと更生させて悪い夢から覚まさせてやれる自信はあった。人外を娶るなんてことは、歴史ある一国の王がやっていいことではない。
〝アーリットは、人間だよ〟
 また、出て来やがった。
 杯の中にわずかに残った、彼の瞳と同じ暗褐色の酒を一気に干してやる。
〝赤い血を流して一人で頑張っている、だから僕は盾になりたい〟
 ああ、そうなのか。
 酔いのまわった頭でも、思考は逆に冷たく冴えてくる。あのお坊ちゃんは、国と自分の為に俺を取り込もうとした。だがこっちの異界人は、時々いたたまれなくなるくらい何も知らない。俺が何なのかも、どういう存在かも。そのくせ妙な入れ知恵をされて余計な事を知った上で、ただの俺を、俺だけを見据えてくる。
 あれは、珍しい。
 だから、さっさと自分のものにしておこう、それが興味の原点だった。いろんな事を教えて、しっかり面倒を見てやって……懐けば、いずれ中の奴の隙を見て術式で封じ込め、知りたいことを洗いざらい引きだしてやる。その結果壊れたら、まあ死ぬまでは手元で飼っておいてやろう、どうせあっという間なのだから、その程度に思っていた。
 その思いあがりへの、これは罰なのだろう。彼は異界人であったが、同時にごくありふれた雄として自分を少しづつ理解して、求めてもいいのだと分かるともう迷いはしなかった。この国最強の庇護者ではない、雄としての義務である〝護るべき〟対象として見たいのだと。
 驚かなかったと言ったら嘘になる、長い人生で初めてだった。だから、この身体も頭の制止に耳を貸さず、素直にそれに応え変わろうとしているのだ。護られるための、華奢で柔らかな存在へと。
「……」
 なんとなく、胸に手を触れてみる。感じる限り、まだ身体に変化の兆しは起きていない。
 怖い。
 まるで、今の自分がこれからの自分に全否定されているようだ。己の恐怖の根源の〝いつか目覚める自分の知らない本当の自分〟の気配がする。泣いても、震えていても誰もどうにもしてはくれない、だからこの嘘の自分は強くある。怖い相手をねじ伏せて、弱くされてしまわぬよう。
 弱さとは、ただ消え去ることへとつながっているかも知れないのだから。
「……俺は、誰にも負けない、たとえ自分自身にだってな」 
 何百年間言い聞かせてきた、それは孤独という名の重く凍りついた枷。
「俺を弱くするのなら、そんなものはいらない、必要ない」
 どれだけ時を過ごしても、本当に欲しいものは、何ひとつこの手に入らなかったのだから。
 なら、もう何も望みはしない。



「うーん、さすがに砂漠の朝陽は違うなぁ……」
 数日間の航海が何事もなく過ぎ、砂漠の港町であるサンガチュエギに、船は明け方に到着した。少し早いが、砂漠では太陽が頂点に近くなると何もできなくなるから、と他の客と一緒に船を下り町に入る。南下するにつれ日差しは暑く、空気は乾いてゆくのが肌で感じられたが、明け方の今はひんやりと涼しく靄の湿気が心地よい。 しかしひとたび陽が昇れば、何も被っていないとあっという間に顔の皮が剥けるぞと言われ、唯人はセティヤに教えてもらって、ちゃんとしたラバイア式で頭と顔を眼だけ出して布でぐるぐる巻きにした。ぐるぐる巻きといえば、ついでに精霊獣師の巻き衣装も熱がこもる危険があるのでやめたほうがいい、とラバイアのゆったりした衣服を勧められる。適当に入った店で買って着替えると、綱手は自由にできて嬉しいのかあちこちごそごそして唯人を困らせた。
『また砂地ですか、今後は以前よりももっと暑いようですね、唯人殿』
『暑いみたいだが、乾いてるだけまだマシだ。気をつけろよ、うっかり俺をしょって長時間陽に当ててたら、触った時手ぇ焼くぞ』
『そんなの、僕がちゃんと覆ってあげるから大丈夫だって。本当は衣装と顔もそのまんまでいいんだけど、郷に入れば郷に従えって言うしね。周りから浮かないようにしてたらいいだけで、いちいち唯人が気にする事じゃないの』
『むしろ、私としては砂の方が苦手と申しますか』
『あー、それもあるな、こまめに手入れしてもらわねぇと……ったって、もうあんまり銃としての構造は意味ねぇのか。くそ、どんどん杖になっていってる気がするぞ……』
『君は、修理が済んだ時から杖だって、さっさと自覚しなよ』
『あーうるせぇうるせぇ、唯人が銃だって思ってるうちは俺は銃なんだ!』
『もう、彼こそうるさいから唯人、ここはばしっと言ってやってよ、君は変てこな杖だってさ』
『変てこって言ったな!ここだけは譲れねぇ、変になったのは唯人のせいなんだからな!』
「結局、僕に非難がまわってくるのか……」
 ぐだぐだと文句を続けられ、面倒くさいからあからさまに無視してやったら機嫌を損ねたのか、やがて静かになってしまった。そう広そうには無い町を、よく見知った様子で歩いていくシェリュバンらに付いていくと、ラバイアの町の出入口付近には必ずある砂漠鹿や砂走鳥を取り引きする店にたどりつく。砂漠の民なりの複雑な繋がりがあるのか、砂走鳥売りの親父はシェリュバンを一目見るなり、笑顔で一番状態の良い鳥を人数分差し出してきた。
「スリンチャの一位様、お気をつけなされ、最近クルニ族を見かけたという者がこちらにもちらほらと来ております。少人数の隊はあまり相手にせぬという話ですが、何を考えているのか分からん連中ですからな」
「親父が弱ってて、跡目争いでうちがもめてるうちに稼ごうって算段なんだろ。俺がいない時くらいいいとこ見せようって気が無いのかよ、あのクソ叔父貴の野郎は」
「シャダン様……あ、これは失礼、三位様は、首位様のご看護でお忙しいそうで最近あまりお見かけしませんよ」
「看護ねぇ、こりゃ早く戻ったほうがよさそうだな」
 唯人は、ミラが譲らなかったので彼が変じた砂走鳥に乗って、他の若く元気のいい砂走鳥にまたがった皆と砂漠に出た。やはり砂漠の民は、黒い肌もゆったりした衣装をまとったその姿も、山や海にいたときより今の方がずっと馴染んで自然に見える。
 縦に一列に並んで、砂の丘の陰を伝いながら、目印も何もない砂漠を彼等は何も見ず、迷いもなくただ進んでゆく。唯人はミラ達と適当にお喋りしながらの行程だったが、他の者は、時たま出会う十数人単位の旅団と挨拶を交わす以外はただの一言も私語をせず、もくもくと進みやがて幾度かの休憩の後、夕暮れの頃にちゃんと今日の野営の場である、ささやかな水場へと到着した。
「よし、今日はここまでにする。明日はスリンチャ族の集落、イリュ水源地に着けるだろう。唯人は砂漠に慣れてるのか?異国人は砂漠鹿の曳き車に乗せてやっても暑いとか喉が渇いたとか、ひっきりなしに文句たれてるもんなんだが……声も出ないくらい弱ってんのか、ってひやひやしたぞ」
「……おや」
 砂走鳥のミラが唯人に戻ったので、その荷を下ろしたセティヤが気味悪そうに眉を寄せる。
「水袋の中身が、全然減っていませんよ」
「あ、それは」
 慌てて唯人は自分が日差しから護られている事と、ありえない水分補給の仕組みを皆に説明した。
「本当かよ、あのミナク島でそんな抜け駆けしてたのか」
「抜け駆けって、僕はそんなつもりはなかったんだけど」
「分かってるって、本気にするな。が、正直精霊獣ってのがそこまで奥が深いってのは、俺もこの旅を経験するまで知るよしもなかったな。セティヤを見てる限りでは、俺達には見えない獣を使う、くらいにしか思ってなかったからよ」
 ではこの機会に霊獣使いの重要性をしっかり認識してくださいな、とセティヤに嫌味を言われながら、シェリュバンが興味津々の眼を唯人に向ける。見たい?と唯人はスフィを取り出して、銃口を上にして持つと砂に立てた。
「……流、頼む」
 銃口にそっと舌の印を当て、砂地に走る白く柔らかな輝線がひとつの紋様を完成させた瞬間、こぽり、と微かな音と共に銃口から澄んだ水が溢れだす。背後でスフィが超絶嫌そうな顔で見守っている視線に耐えつつ、こういう次第、とシェリュバンに器に汲んだ水を差しだしてやると、それを飲み干した後、彼は大きな溜息をひとつついた。
「……まずいな」
「え?水の味、変だった?」
「いや、そういう意味じゃない。砂漠を身一つだけで自由に渡ることができる、お前にとっちゃ大したことじゃなさそうなこの力は、この国の誰もを魅了せずにはおかないとんでもなく危ない代物だってことだ。そんなことができる奴ってのは、金の余ってる連中がこぞって手に入れたがる生きた収集品の中でも特に珍品扱いされる。金果の鳥と一緒で、高値で売り買いされる対象なんだ。その上貴石の竜まで備えてるとなりゃあ……くれぐれも言っておくが、この技は下手に見せびらかすんじゃないぞ?」
 本気の声音で釘を刺し、お前らも秘密は護れ、今ここで誓いを立てろとシェリュバンが周囲の四人に声をかける。それに応え、皆はそれぞれの得物を手に捧げ、なにやらまじない文句のような言葉を呟いた。
「俺の客人となるからには、絶対俺が護ってやろう、誰もお前には手出しはさせん。しかし惜しかったな、あの一級精霊獣師がいなけりゃ俺がものにしてやれたのに。もしあいつと切れる事があったらいつでも俺に声かけて来いよ、ラバイアは妻は一人と決められているが、愛妾は何人いようがかまわないからな」
 豪快に笑われ、男らしいのにはとりあえず口説かれるな、と少々憂鬱になる。
「切れるもなにも、伴侶じゃないってのは、もうアーリットから聞いてるんだろ?」
「お前ら何があるのか、両方ともそうやって関係ないで押し通そうとしているが、忘れたのか?うちには格別鼻の利くのが一匹いるんだ。お前は俺が見ただけでも分かるが、あのしれっとした方もなかなかどうして、お前に向いてる時とそうじゃない時の匂いが全然違うんだと。体臭なんてのは、意識してどうこうできるもんじゃないからな。あいつは口でどう言ってても、とりあえずお前だけは自分に惹きつけておきたいみたいだぞ?」
 その言葉を聞いただけで、頭の中にふわっとしたあの形容しがたい香りが思い浮かんできた。否定しようのない、惹きつけられずにはいられないあれは、本当に自分だけに向けられていたものだったのか。焚火のせいかどうなのか、なんだか頬が熱くなってきた気がして顔を背けると、にやにや笑いのサテクマルと眼が合った。
「ここはあえて言っとくけどさ、もし機会があるんなら、俺も狙ってるってのは覚えといてよ?」
 冗談か本気か分からなくはない口調で、最年少までが参戦してきた。
「おいおい、この間一人前になったばかりのお子様よ。お前にゃとてもじゃないが手に負える相手じゃないだろ?ここは俺が先だって」
 船旅の時からこまめに唯人を称え、愛想を振りまいてきたキリシュがここぞ、と身を乗り出してくる。張り付いた笑顔でセティヤのほうへとにじり寄ると、はいはい、と可愛い妹分(?)をかばってやるべく、セティヤは伏し目の表情で分かりやすい脅しを実行した。
「キリシュ、あなたの背後に竜がいますよ?大きな口をあけて、頭を狙ってるみたいですねぇ」
「よ、よせってば!嘘だろ?」
「竜は俺には見えんが、あの一級精霊獣師が来たらすぐに伝えてやるからな、お前がこいつを賭けて闘う気があるんだと」
「え?それは……」
 上ずったキリシュの声に、どっ、と一同が沸いた……その時、皆の中心で燃えている火がはぜる音と、それに似た微かな音が唯人の耳に届いた。
「……?」
 さっと皆が表情を引き締め、すかさずサテクが砂の小高い丘を駆けのぼる。峰の向こうに目をやって、すぐに鋭い指笛の音が響き渡った。
「一位、誰かがこっちに逃げてくる、追われてるんだ!」
 ばっ、と瞬時にその場の全員が立ち上がった。素早く砂走鳥に飛び乗って、サテクが示す方角へと駆け出していく。唯人は、少し離れて銃で敵を狙うよう指示された。やがて、薄闇の砂漠の彼方に砂煙が立っているのが見えてくる。もう一度サテクが指笛を吹くと、向こうからも指笛が返り、それを聞いたシェリュバンがあれはスリンチャ族だ、と吠えた。
「貴様ら、ここをどこだと思っている!スリンチャの領地でスリンチャの民に害を成すものは、この一位、シェリュバンが許さんぞ!!」
 先頭を逃げていた数騎がつむじ風のように脇を通り抜け、追ってくる一群にシェリュバンらが踊りこむ。その手前で鳥を引いて止め、唯人は指示通り、後方からの援護射撃の任を請け負った。弾の鋼刃蟲が七匹に数を増やしたので、もう待つことなく撃ち続けられる。敵は十何人かいたようだが、シェリュバンの一団の方が腕が立つのとセティヤの砂紐蟲も復活していたので、あっという間に追い散らされ、四方へ散り散りに逃げ去っていった。
「クルニの者よ、戻り伝えるがいい、この地にアビ・シェリュバンが戻ってきたと!」
 シェリュバンの砂丘に轟く宣言で、戦いは終わり周囲は静けさを取り戻した。お前は竜が無くとも使い勝手のいい戦士だな、と褒められながら皆で先程の水源地へと戻る。先程すれ違った、逃げていた数人は火のそばで寄り集まって皆を待っていた。そのうちの一人が、戻ってきたシェリュバンにすごい勢いで駆け寄ってくる。薄いショールがふわりと舞い、漆黒の長い巻き毛が風に揺れた。
「……兄さま!」
「ディリエラ?」
 シェリュバンも、慌てて砂を駆け下りる。あとわずかの距離を、相手は一気に目の前の胸に飛び込んできた。
「兄様、助かった、まさかこんな場所でクルニ族に会うとは思わずに!」
「この時期に、軽率にも程がある!なんでこの程度の人数で集落を出るなどという無茶を!」
「兄様を迎えにきたからに決まってる!」
「なんてこった……」
 この馬鹿が、と細い体を抱えたまま水場に戻ると、後の数人は皆彼女の側仕えらしい若い娘ばかりだった。集落を出て来た時には男もいたが、途中出くわした敵をくい止めるため皆で立ち向かってそれきりらしい。火のごとく説教を浴びせてやりたいが、そうもいかん、といった表情でシェリュバンは唯人を振り返った。
「唯人、初めて目にかける。こいつは俺の妹のベル・ディリエラという、スリンチャの二位だ。ディリ、こいつは阿桜 唯人。ユークレンの霊獣使いで、俺の客人としてスリンチャの地に招待した、挨拶しろ」
 兄の胸に埋められていた顔が、ふいと上げられ唯人を見る。同じ褐色の肌に、猫を思わせるつりあがった大きな眼と茶色の瞳のラバイア美人だ。よろしく、と笑った唯人に、ディリエラはそれこそ猫そのものの仕草で、シェリュバンの懐に顔を戻し隠してしてしまった。
「ディリ、俺に恥をかかせるな、もういい歳をして」
 すまん、兄妹二人になってしまってからずっとこの調子で、と困り顔でそれでもじっと離さないでいてやっている。しばらくしたら次第に落ちついたのか、周囲を見渡し、見つけたセティヤとなぜかイェンに笑顔を見せる。その様子を見ながらサテクはあのお姫様、面倒くさいよと唯人に耳打ちした。
「まあそれもしょうがないんだけどさ、一位の兄弟は五人中三人亡くなってて二位様も二度さらわれたことがある、だから一位以外の男が怖いんだ。唯人が両性だって分かったら、きっと仲良くしてくれるよ、根は明るい方だから」
「男性が怖いって、イェンは?」
 体形が出ないすとんとした衣装と、最初に会ったときからずっと顔を黒布で巻いていたので、一番よく分かりづらい人物だった。船で話すようになってからは、結構普通で面倒見が良いのが分かったのだが。
「あれ?知らなかった?イェンは女だよ。月の障りが来るまでは、スリンチャじゃ技量があればずっと戦士扱いなんだ。逆にどんなに技量があっても、月の障りが来ると着飾って家に落ちついちゃうんだけどさ」
 うわっはー。
「そういうことは、先に言っておいてくれ!」
「え?なんで?何が?」
 ?マークだらけのサテクに、いっそ自分が混じりっ気無しの男だとぶちまけてしまえればどんなに楽か、と溜息をつく。その後、皆でしばらく休んだ後、途中はぐれた者を探す意味でも、このまま一気にスリンチャの集落に向けて進むことになった。再度砂走鳥に乗って、昼は一列に並んで進んだが、夜は日差しが無いのとまた襲われる危険があるので弱い者を中心に、その周囲を円状に囲んで進んでゆく。
 ほどなく、はるか向こうの砂山の陰に、数人の人影が固まって移動しているのが見えた。サテクマルが指笛を吹くと向こうからも応えが返る、どうやらディリエラのお供のようだった。
「一位……一位の君?これはなんと、奇跡だ……」
 皆程度の差はあれ一様に怪我をしているが、運よく命を落とした者はいないようだった。どうやら賊は逃げたほうを追いかけるのを優先し、立ちふさがった者達を一気に蹴散らしていったらしい。しかし彼等は命拾いしたものの、彼等の砂走鳥はとっくにどこかへ逃げ散ってしまっていた。
「仕方ない、足を怪我している奴は誰かが代わって鳥に乗せてやれ、俺も歩く」
「急がないと、夜が明けると体力の消耗が激しくなりますね、幸いな事に水源はついて来てくれていますが」
 セティヤが、心底助かったと言いたげに唯人を振り返る。その唯人は、少し離れた場所にある大きな岩山を見つめていた。
「シェリュバン」
「おう、なんだ」
「僕の竜で、妹さんとか、怪我してる人だけでも先に集落に送ろうか?全員運ぶこともできるけど、さすがに鳥は怖がって無理だろうから、後から誰かに連れてきてもらうってので」
「いいのか?」
「僕はいいから、向こうに着いた時の為にシェリュバンも来てくれたら」
「ああ、そりゃ助かる。ならセティヤ、お前達に後の事は任せるぞ。クルニの連中はもう大丈夫だと思うが、無理をせず追ってこい」
「はい、一位の君」
 岩山に近づいて綱手を呼びだすと、砂の上に固まって立ったシェリュバンらを下からすくい上げるように頭に乗せる。陸地を歩いているときは結構どすどすしているが、砂から首だけ出しているときは下でどのような足さばきをしているのか、綱手は滑るように結構な速さで砂地を移動し始めた。
「に、兄様!こ、これは……!」
「これが、竜か……」
 唯人には、乗っている足の下にくっきりはっきり綱手の青い頭が見えているが、精霊獣が見えない人間に今この状況がどう見えているのかそっちが分からない。ディリエラは側仕えの少女達と必死で支え合っているし、シェリュバンは見事に表情が固まってしまっている。途中怪我人がひとり転げ落ちそうになる事態があったが、綱手がすぐに髭で引っぱり上げてくれて事なきを得た。
 それにしても、目印ひとつない夜の砂漠を、シェリュバンは月と星の位置だけで迷いなく方向を判断し唯人に指示してくれる。すごいなあ、と感嘆してみせると砂漠で生まれりゃ誰にでもできる、と逆に霊獣使いに生まれた事の方を不思議がられた。
「スリンチャの歴史も長いもんだが、竜に乗ったなんて俺が初めてだろうな。まるで風に乗ってるみたいだ、ここに〝ある〟のに眼にははっきりと映らない、不思議なもんだ」
「精霊獣って、沢山いるとかえってうるさくて面倒な時もあるんだけどね」
「俺の部下も、似たようなもんだぞ」
「竜人は、何の用でスリンチャの地を訪ねてきた?」
 シェリュバンよりはずっと若いせいで、順応するのも早いのかきょろきょろしたりじわじわと移動してみたりしていたが、しばらくすると兄の傍らにやってきて横になっていたディリエラが、やはり眠れないのか、大きな眼をじっと唯人に向け話しかけてきた。
「叔父上を、懲らしめにきてくれたのか」
「違うぞディリ、唯人は俺の招きで客として過ごしに来てくれただけだ、内輪の話はするんじゃない。それと大事なことだ、この唯人が竜人であることはしかるべき時まであまり派手に言うのではないぞ、お前が兄の客人にいらぬ騒ぎを押し付ける気がないならな」
「兄様の客人ならば、スリンチャの客人だ。二位のディリエラも歓迎する、集落に着いたらうんともてなしてやろう」
 霊獣使いは好きだ、皆優しくて柔らかい、と大きな眼でじっと見つめてくる。異国の友人は初めてだ、とはにかむ表情に、なんだかこの関係はセティヤ式のきゃっきゃうふふの予感がする、と唯人はやや引きつった笑顔で応えた。
 その後は特に何事もなく、夜が明けて気温が上がるその前に、唯人はスリンチャ族の本拠地であるイリュ水源地にたどりつく事ができた。ラバイアの有力な一族は治める領地ごとに大きな水源のある土地を私有地として持っていて、そこを首位の者とその親族らが治めている。
 平民は首位の地を借り、畑や店を持って定住する者もいれば、領地内の別の小さな水源で集落をつくって暮らしている者もおり、物を運ぶ商いを生業としている者、それを奪って生きる野盗ども、岩山に住みつき宝石の鉱脈や地下のさまざまな資源を掘りあて一攫千金を夢見る者らが住み分けをして、この砂漠の国を成り立たせている。
 集落の手前で皆を下ろし、絶対に秘密だとシェリュバンは噛んで含めるように妹に言い聞かせていたが、ディリエラの顔を見るにこれは無理だな、と唯人は判断した。多分、年頃の女性の特権の〝誰にも言わないで〟を前提に、この秘密は速やかに行き渡ることだろう。
 イリュ水源地は、砂を何らかの手法で固めた砂レンガで造られた建物が並ぶ、ラバイアではごく一般的な様式の町だった。水源地らしく、人が管理している砂漠茎木が畑にきちんと立ちならび、赤黒い実をたわわに実らせている。そこで働いている者も道沿いに並ぶ家の者も、シェリュバンとディリエラの兄妹が通ると皆一様におのおのの仕事の手を止め頭を垂れた。
「一位様、よくぞ戻られました」
「長旅、ご苦労さまでした」
「果物をどうぞ、二位様」
「すぐにお会いできたのですね、良かった」
 子供達は無邪気に駆け寄ってくるとしばらく後を付いてきて、唯人を不思議そうに大きな黒い眼で見上げている。しばらく行くと、道の向こうに見えている、多分目的地であろうかなり大きな屋敷から誰かがやってくるのが見えた。
「一位の君、戻られましたか!」
「スワド、もう着いていたのか」
 サイダナまでは同行していた、初老の男が嬉しそうにシェリュバンの肩を抱く。子供らはちゃんと送り届け、ミーアセンの駐留軍とも話は済ませましたと報告され、よし、とシェリュバンも安堵の笑みを返す。その傍らにやってきた大柄な姿にも、唯人は見覚えがあった。
「もう動いても大丈夫なのか、ダルン」
「もちろんでさぁ、これしきの事でいつまでも伏せってなんぞいられねぇ」
 強面の顔がにやり、と笑む。その人物は、唯人がラリェイナを救いに行った時背中を袈裟切りにした、あの上半身裸の巨漢だった。身体はまだ布でぐるぐる巻きにされているが、弱っている様子はなさそうだ。その後からわらわらとやってきた、多分ミーアセン付近について来ていた部下の男達にひととおり声をかけてやった後、シェリュバンは怪我人をそちらに任せディリエラを呼んだ。
「ディリよ」
「はい、兄様」
「俺は今から年寄衆に無事を伝え、事の次第を報告してくる。夜の宴までには戻るから、唯人を西の客間に案内して俺の代わりにしっかりもてなしておけ」
「分かった、宴に出す古酒の甕(かめ)も選んでおく」
 真顔でうなずいたディリエラに手を引かれ、例の巨漢の脇を通る時一瞬眼が合ったが、彼も他の部下連中も唯人に何も思う様子はないようだった。そのまま、ここだけは他の建物と明らかに異なっている、岩山からせり出している感のミーアセンではまず見ない様式の屋敷に入ると、ずらりと並んだ召使たちが出迎えてくれる。
 風通しがいいように柱だけで壁のない回廊を歩いて行き、通された客間は、身分の高い者のステイタスらしい鉢植えだらけの広間だった。壁はタイルで飾られて、石そのままの床にはふかふかの絨毯が敷かれてある。入る前に召使の女性に靴を脱いだ足を清められ、素足で踏んだ絨毯の感触はまるで鷲獣の一番柔らかい胸元の羽毛のようだった。好きな所に座れ、と言われ腰を下ろすと一抱えほどのクッションがいくつもまわりに並べられる。外はもう暑くなり始める時間だったが、岩山は熱の遮断に優れているのか、部屋の中は少し暗くちょうどいい温度だった。
「竜人は何がしたい、水浴びか、食事か、眠いなら一休みする?」
「えっと、まず竜人はやめてくれ」
「ああそうだった、名前はなんと言った」
「阿桜 唯人だよ」
「意味は?」
「意味?」
「族名とか、位のことだ」
「うーん、阿桜が族名で唯人が僕の名前。位は、無いな。あえて言うなら阿桜の……母方に伯父さんがいて従兄弟の兄さんが二人、その両方に息子さんがいるから……ちょっと、すぐには分からないなぁ」
「分からないのか、大事なことなのに」
 そんなにたいした家柄じゃないし、との唯人の言い訳にディリエラは不満そうだったが、渋々阿桜の唯人、と呼んでくれた。
「では、とりあえず軽くつまめる物でも用意しよう、その間に水を浴びて砂を流してくるといい」
 身だしなみとか気遣ってくれる様子から、やはり彼女の中では女友達扱いなのか、と頭をかきかき案内してくれた召使の女の人について水浴び用の間に通される。ユークレンにいた時と違って、習慣とかを逐一教えてくれるアーリットやサレがいないせいで、ここで唯人は久しぶりにやらかしてしまった。
 大きな水がめと柄杓があったのでこれで水を身体にかけるんだな、と理解したのだが、ついどうせ自前の水があるんだから、と頭上にある窓枠にスフィを乗せて、そこから水を出してばしゃばしゃやった。するとなんと、しばらくしたら足元の綺麗なタイルを並べた床がぐずぐずになって溶け崩れてきてしまった。びっくりして飛び出し平身低頭して事情を聞くと、聞いてみれば当たり前のことなのだが水は貴重なのでかぶるなどとんでもない、杓で布に含ませて身体を拭くのが常識。当然床も水はけが良いようにここだけはタイル敷きの床を微妙に斜めにしているのだが、その下はやはり砂レンガなのでそんなに大量の水に耐えられる造りではなかったのだ。召使の人にすいません、修理手伝わせて下さいと申し出たら、そんな事を客人にさせたら私共が叱られます、と軽く追い払われた。
「さすが、阿桜の唯人はユークレンの人間だな。ユークレンの湖とやらは、このイリュ水源池の何倍くらいある?」
「ええ?えっと、何倍って言われても……この集落全体の何倍もあるから」
「海と、どちらが大きい」
「そりゃあ海だよ」
 会話は他愛ないが、今の状況は唯人にはかなりきわどいものだった。騒ぎを聞きつけやってきたディリエラが、一生に一度くらい自分も水の直浴びというものをやってみたいと頼んできたので、砂ぐずぐずの浴場にさっきと同じようにスフィで水を出してあげた。大喜びした彼女はためらいなく服を脱ぎ捨ててしまったので、仰天して逃げようとしたが、ずっと話しかけてくるから仕方なく唯人は今彼女と背中で話している。やはりここ、ラバイアでも両性は男性、女性の両方から意識されない存在らしい。水が冷たい、とさんざんはしゃいでいるその姿を、完全に嫌がらせでスフィが耳元で実況してくれた。
「いや、これはいい眺めだねぇ。俺も野郎のハダカ見せられるよか、こっちがずっといいや。おい、あの嬢ちゃん砲丸投げの鉄球みてぇな胸してるぞ、なんで見ねぇんだ?」
「見ていいわけないだろ!(小声)」
「向こうさんがあんなに見せびらかしてんだから、こっちが遠慮する理由なんてねぇ。どうせそもそもがあいつのエロ絵姿見に来たってのに、なんでここで純情ぶってやがる?正直になりやがれってんだ」
 うう……図星すぎて何も言い返せない。
『そのくらいにしてあげて下さい、スフィ殿。これ以上唯人殿を困らせるのなら、私が成敗させて頂きますよ』
「うるせぇ、むっつり助平その二」
『どういう意味ですか』
「ヤポンの連中は、何考えても顔に出ねぇって俺の前の持ち主の上司が言ってたぞ。すました顔で、言えないような事も考えてんじゃねぇか?」
 かっ、と左脇腹が熱源を押し当てられたかのごとく熱を帯びた。鋭月は冷静そうに見えて、結構無礼には沸点が低い。気がついたらスフィがまっぷたつになっていた、という事態を避けるべく、慌てて脇腹に手を当て下からの圧力を押し返す。出しなさい、の異様なオーラを感じ、なんとかしてくれと意識内のミラを探すと、呆れるくらいのんびりな声が返された。
『ほっときなよ、喧嘩するほどなんとやらのたぐいじゃない?』
 駄目だ、もう頼れるのは綱手しかいない。効果があるかどうかは分からないが、手の甲に頭を添え一緒に押さえてくれている姿に思わず目頭が熱くなる。今スフィを身体に戻したらどうなるんだか、と思ったその時、背後から声がかけられた。
「唯人、もう充分だ。水を止めてくれ、冷えてきた」
「ディリ、服は着てる?」
「まだ着ていない、髪が濡れている」
「早く着てくれ、頼むから!」
 手に布を捧げ持ってやってきた召使の娘が、赤くなって俯いている唯人の姿になんて恥ずかしがりやな方なんでしょう、と微笑んでいる。砂漠に出ていた時とはうって変わった、ふわっとした薄手の衣装に着替えたディリエラに手を引かれ客間に戻ると、ちょうどお盆の上に色とりどりの花が盛られたような軽食が出来上がっていた。いかにも女の子好きのしそうな、小さな堅焼きに具を乗せた物や揚げ菓子、蜜で固めた木の実や飾り切りした果物等が綺麗に並べられている。セティヤから聞いた話では、もっと肉主体の大雑把な食習慣の国かと思っていたが。ディリエラがそのひとつを先に取って口にしたのは、毒が入ってないことを示すもてなす側の礼儀らしい。
 きらきらしたご大層な茶器が運ばれて、ディリエラ自らが、この国の高貴な女性のたしなみである厳粛な作法にのっとり目の前で淹れてくれた薔薇色のお茶と一緒にそれを頂くと、あとは軽く昼寝してもらうのが、彼女のスリンチャ式おもてなしの流れのようであった。サイダナでもセティヤは床に寝ていたが、確かに柔らかい絨毯があれば、クッションにもたれて寝るのは実に気持ちがよさそうだ。
「一緒に寝るか?」
「ごめん、頼むから一人で寝かせてくれるかな!」
「そうか、人がいると気になるのか。本当に繊細にできてるんだな、分かった、私は自分の部屋で一休みする。兄様かセティヤが戻ってきたら声をかけるから、それまでゆっくりしているといい」
 もうすっかりうち解けあった女子友達の笑顔でひらひらとディリエラが去り、客間は鳥のさえずりと風で草が揺れる微かな音のみが響く静寂に満たされた。が、その絶好のお昼寝空間で、唯人はとても静かに安眠などできそうにはなかった。脇腹はまだ鈍く熱を帯び、スフィは……銃のほうは壁に立てかけてあるが、物精の彼の姿はどこに行ったのか見当たらない。
 スフィがここに来てから常に機嫌が悪く、他の皆に何かと突っかかっているのは唯人が水道管扱いばかりする、そのせいだと薄々感じてはいるのだが。そういえば、銀枝杖もアーリットに打撃武器扱いされるのが心底嫌だと言っていた。その結果があの惨状だと思えば、ここはなんとしてでも自分が治めないと、と唯人はクッションに埋まって必死で思案にふけった。
「……」
 駄目だ、昨晩は綱手の頭で揺られ続けて寝たか寝てないかの状態だったので、お腹が一杯になったらすごく眠い。鋭月も気を使ったのか、胸を苦しくさせるような身体に籠った熱はもう薄れてきた。が、このまま寝てしまうと何も解決しないまま目覚める事になりそうなので、もぞもぞと身を起こし、立てかけてある銃に寄って手に取ってみる。下に若干の砂が落ちているのに気付いて尾栓を開け、揺すってみると更に砂が石張りの床に散った。
「掃除しようかな」
 蓋を開け、いつもきちんと収まっている、黒光りの弾丸に似た生き物を指で引きだしてやる。
「バレットも、その辺で好きにしてていいよ。お前達は霊獣だからなんか食べるんだろ?残り物で口に合うのがあるなら片付けてくれ」
 言葉とともに、服の襟からも数匹の黒い影が一斉に飛び出した。そのひとつが鉢の花にへばりついたのに、慌ててそれは駄目、とつかまえて盆の上に残っている果物に乗せてやる。霊獣が物を食べるのは、霊素が不十分なのを食物で補っているだけで、良い杖を持っている今の唯人のものであれば別に必要ないのだが。綱手も、もう一時ほどは食べ物に執着しなくなった。それでもやはり食べるという感覚はそれなりに心地よいのか、甘い物から片付けにかかっている綱手に負けじと蟲達も、さくさくといい音を立てて砂漠茎木の実を食んでいる。カブトムシに西瓜をあげると腹壊しちゃうんだっけ?などとどうでもいい事を考えながら、唯人は銃の掃除に取りかかった。
 スフィを受けとった時、バセイ爺さんから最低限の工具をおまけとして一緒に預かってある。テルアからずっと持っている自分の荷からそれを出すと、開く部分はあけ、息をかけたり穂先に張りのあるブラシではたいて丁寧に砂を出す。銃口を下に向けたら水が少し流れ出してきたので、そこも念入りに拭いた後撃鉄を上げて引金を引く、を繰り返してその音と動きを確かめると、最後に金果樹製の銃床を牛の皮で磨き上げた。
「うん、綺麗になった」
「……何やってんだよ、一体」
 背後から降ってきた声に振り返ると、洗いたてのようにぱりっとなった軍服姿がこちらを見下ろしていた。灰色の瞳が床に並んでいる工具を一瞥し、はぁ、と溜息をひとつつく。
「そんなこと、今やる事じゃないだろう。今日明日中に砂漠を出る、ってんでもないし。中に多少砂が入っちまおうが、今の俺にはどうってことねぇよ、それよか、そんなぼさっとした顔してるんならさっさと寝ちまえって。どうせ夜は夜で歓迎のどんちゃん騒ぎやるんだろうから、今寝とかないともたねぇぞ」
「あ、そっか……」
 ついいつもどおりに銃を戻そうとして、一瞬手を止めた唯人に、いいから出しとけ、と壁を顎で示す。お前の寝てる間の番してやらないとな、と何気なさそうに言われ、まだ鋭月と気まずいんだ、と困りつつ唯人は再度銃を壁に立てかけた。
「スフィ」
「ん?」
「どこに行ってた?」
「別に、どこにも。勘違いしてんのなら言うが、俺らはお前から離れて見たり聞いたりできることなんて何ひとつねぇからな。あの鏡野郎とは一緒だと思うなよ」
「じゃあ、どこか見てみたいところとかあるんなら、僕……」
「寝ろ、って言ってんだろうが」
 微妙に苛立ち感の混じった声に、言葉を切って眼を伏せ俯いてしまう。一体何だよ、ぐずってんのか?と長身を折り曲げて、スフィは唯人の傍らにしゃがみこんだ。
「俺の機嫌取ろうとするなんぞおかしいぞ?お前がぐずぐずしてるから、こっちまでつられちまうんだ」
「だって、僕のせいでいろいろと嫌な思いしてるみたいだから。何とかしないと、って思って……」
 振り絞る思いで本心を出すと、一瞬、目の前の顔がぽかんとなった、
「は?嫌な思い?嫌な思いってなんだよ、それがお前のせいって言われたって……全く何も思いつかねぇが。お前何やったんだ?ここのシャワールームやっちまった事はどうでもいいし。まさか、嬢ちゃんのアレにノリが悪かったって話なのか?まじか」
「いや、それはないけど!」
「んじゃ、他の何だってんだ」
「スフィは、僕に水管扱いされるのが嫌なんだろう?だから不機嫌で……」
「いや全然、まったくもってそれはねぇ」
 言葉の終わらない間に、即答された。
「不機嫌そうに見えたってのか」
「あ、ええと、そうじゃなかったのならごめん……」
 もういいから謝るなって言ってんだろうが、と再度深々と溜息をつく。軍服のポケットのひとつに手が突っ込まれ、中を探った。
「くそ、なんで無いんだよ……」
「何?」
「シガーが、吸いてぇんだ」
「は?」
 ぼそり、と呟かれた一言の意味が分からず、瞬間頭が真っ白になる。シガー?シガーって何だったっけ?シガーを吸う、吸うって事は……そこまで行って、ぼんやりと昔駄菓子屋で見た濃紺の箱が頭に浮かんだ。ああ、煙草か。
「それは、僕がどうにかできることなのかい?」
「どうもこうも、お前の〝認識〟の中にねぇから困ってんだ。鋭月の野郎は、頭に血が上ったら腐った沼みてぇな色のヤポンの茶なんか入れてしみじみしてるってのに。この坊ちゃんときたら、二十歳にもなってまだシガーも吸ったことねぇときてやがる」
「え?ちょっと待ってくれよ、僕、煙草って……大学の仲間に誕生日の飲み会で無理やり吸わされたから、知ってるはずだけど?後にも先にもあれきりだけど、辛かったから良く覚えてる」
「嘘じゃねぇだろうな、よし、探すからちょっと待て」
 再度ポケットを探って、出てきた銀灰色の箱に不思議そうな眼を向ける。これがシガーか?嘘だろ、と怖々封を切る手を傍から見ながら、中から駄菓子が出てきたらどうしよう、と唯人も軽く息を飲んだ。
「紙巻きなのか、随分とちっこい上にお上品な代物だな」
 幸いな事に、中身は唯人の記憶どおりのそれであったようだった。これはなんだ、と動かされた指の行為を見極める前にフィルターがむしり取られ、唯人へと向けられる。それは付けたままで、煙を濾して吸うんだよ、と諦め口調で教えると予想通りに馬鹿馬鹿しい、と返事が返ってきた。立てた親指の先に多分閃輝精だろう小さな火花がちかっと光り、細い筒の先に火が点る。
「……」
 ふーっ、と幻の紫煙が広がって、薄暗い広間の中を霞ませる。あっという間に終わらせて、そのまま三本程一気に続けた後、ようやくスフィはぼそり、と口を開いた。
「……軽いなぁ、こいつ」
「そう?」
「まぁいい、無いよかマシだ」
 少し、顔が穏やかになったように見えてきた。よし、もっと気合い入れて探したらバーボンとか見つかるかな、と期待の眼を向けられ、いやそれは無いと思う、絶対、と苦笑する。ありがたく残りをポケットにしまうと、今度こそスフィは改めて唯人をクッションに追いやりその中に埋めた。
「余計な気は、使うもんじゃねぇぞ。自分の中で勝手に悪い方に進めて行っちまったら、下は底なしなんだから」
「……うん」
「水の事は、俺自身は何も思ってねぇ。ただちょっとばかし〝火種〟(閃輝精)がびびって騒ぐんで困ってただけだ。お前がこのくそ暑い砂漠で重宝する機能なら、むしろ俺はそれを持てた事を有難く思う。ただな、ここに来て、ふと思っちまったのさ。俺はちゃんとした銃として二年、ぶっ壊れた銃としておよそ百何十年この世にあった。鏡に偉そうに言えるほどのもんじゃねぇ、今後お前が杖として俺を使いたいってんならそれでいいんだ。だがな、この自分に慣れちまって、この状態が当たり前なんだと思うようになっちまったら……もし万が一にでも俺達の世界に戻れた時、俺はどうすりゃいいんだろう、ってな。弾もねぇ、ただの重っちい銃剣の柄、百年余りガラクタだったまぎれもない〝銃〟の俺だ。鋭月の野郎はいい、あいつはどこに居ようが身一つで使い方もひとつ。それを悔しがっても仕方ねぇ、ってのは分かってるんだけどなぁ」
「そんなの、僕と同じじゃないか」
 そんな事考えてたんだ、と唯人は顔を上げた。
「僕だって、きっと元の世界に戻ったら身ひとつだけの人間だよ。鋭月を振り回したら警察呼ばれちゃうし、スフィは弾なんてとんでもない、壁に飾るくらいしかできないだろう。それが嫌なら早めに決めて、この世界にいる間に僕に聞かせてくれ。僕といるか、ちゃんと使ってくれる他の誰かに譲って欲しいかを。スフィは僕の国じゃ後者は難しいから、ネットで海外の人を探さないといけないだろうけど……」
「ネット?網でどうにかするのか?」
「うん、ネットって、網、じゃなくて……」
「なくて?」
「インターネット……って」
「そんな言葉、俺は知らねぇぞ」
「そう?英語……なのに……」
 胸のつかえが下りたらよほど眠かったのか、間延びした返事が途切れたと思ったら、もう唯人は微かな寝息を立てて夢の中へと落ちていた。何でぇ、人が聞いてるのによ、とおもむろに手を伸ばすと、果物を皆で皮ごと平らげ満腹しきった様子の蟲の一匹をつまみ上げてみる。
「武器をふるう、ってのは、あくまでお前らまともな人間にとっては目的じゃない、手段だ。俺がいないと成し遂げられない何かを抱えてる奴がいるなら俺は喜んでそいつに自身を捧げるが、こんな旧式のどうしようもねえ代物なんぞ、真面目に使ってんのはこの世間知らずだけだろうなぁ?まあ、はっきり戻れるかどうかの確証が持てないうちは、いくら考えてもしょうがねぇっての。しょうがねぇ事は、その時までは考えないにかぎる」
 鋼線を弾くような、特徴的な羽音をたてて蟲は指から飛び立っていった。壁を切り取ったような小さな通気の窓からは、砂漠の町の強い日差しを避けるために植えられているらしい、蔦に似た植物が少し入り込んできて揺れている。
 この時間帯は、この屋敷ではほとんど誰も働くことはない。ここもまるで建物全体がまどろんでいるかのように、暑く乾いた空気と穏やかな静寂に包まれている。その中で、動いているのは、ふさふさと長い砂漠色の淡褐色の毛をした犬に似た大きな獣がただ一匹。客間の隣の通路をやってきたそれに気付いて、入り口に座っていたスフィはへぇ、と顔を上げた。
「こりゃあ、随分とデカい犬っころだな。さすが、こんな豪邸だけのことはあるか」
 実体の獣は、精霊獣が見えるのかどうか。言葉の通じない相手に聞く由もないが、ぴたりと足を止めるとおもむろに近づいてくる。向けられた黒い鼻面が、通路側の窓から差し込まれ、立てかけてある見慣れない物体をふんふんと嗅いだ。
「……おい、よせよ。寄るなって、あっち行け!」
 唯人、と呼びかけようとした時にはもうあっけなく事は終わっていた。珍しい玩具を手に入れた獣は、上機嫌でその場を去っていった。薄暗く心地よい部屋の奥には、起こったことの何ひとつも伝えずに。



 目が覚める寸前の夢というのは、変なのが多い。
 ちゃんと定刻に、健やかに目覚めた場合はそうでもないのだが。変なタイミングでいきなり起こされた時、しかも少し前からその予兆を示されていた場合は、夢の内容というのはなんともおかしなものとなる。お手洗いを探して走り回るのは典型的なパターンだが、ハンドルもブレーキも利かない車、水浸しの世界など危機感というより〝困った〟で構成されているのは分かるのだが。
「……ん、」
 顔を、無数の虫が這っている。払っても、払っても、全然いなくなろうとしない。両手で顔を覆ったら、指の隙間から潜りこんできて小鼻や唇、耳をかちかちと挟まれ続け、これはたまらない、と耐えきれなくなったところでついに目が覚めた。
「なんだよ、みんなして……」
 顔の上で運動会をしてくれていたらしい蟲達を、一匹ずつ引きはがして指の間にはさんでいく。こんな風に、人が寝ているのを邪魔してきたことなど無かったのに。監督不行き届きだとしかめっ面で、それでも起きないまま、多分責任者がいるであろう方向にまとめて放り投げてやる。すぐに空中で方向転換したのかほぼ同時のタイミングで再び顔に張り付かれ、もう!と起き上がると開け放たれている入り口の方を睨みつけた。
「スフィ!こんな嫌がらせしなくっても、起きろって言ってくれれば僕起きるのに……?」
 返事が無い、スフィ?ともう一度呼びかけて、周囲を見渡してみる。次の瞬間、ざあっ、と頭から血の気が引いた。
「ちょ、スフィ!」
 顔のあちこちに蟲をくっつけたまま、唯人は跳ねるように部屋の入り口に駆け寄った。物精の彼の姿が無いのは別にいいのだが、壁に立てかけてあったはずのライフル銃が消え去っている。しまった、いつもは出していても抱えて眠るのが常だったはずなのに。客人扱いされて、つい気が緩んでしまっていたようだ。シェリュバンやディリエラを疑う気は毛頭ないが、ここは盗賊が称賛を受ける国、ラバイアなのだ。
「お前達、スフィがどうしたのか知ってるのか?」
 差し出した手に乗ってきたのを数えると、今気付いたが六匹しかいない。これは一匹ついて行ったんだな、と唯人が理解した瞬間、蟲達はいつもの眼にとまらない程の速さとは違う、そこそこの勢いでふわりと空に飛び立った。
『……どうしたの?唯人』
 唯人が眠っているときも、どちらかというと起きている事が多いミラまでもが、珍しく今起きた声で話しかけてくる。袖の内で綱手が欠伸をしている感触があり、みんなちょっと緩み過ぎた、と唯人は渋い顔で客間を出ると、飛んでゆく蟲達を追いかけた。
『スフィが、誰かに持ち去られたみたいなんだ、バレット達が行き先を知ってるみたいから突きとめる』
『ちょっと待って、大ごとにしちゃあ駄目だよ?慎重に行動しないと、一位の君にどんな迷惑がかかるか分からないからね。僕が隠してあげるから、見つけたらさっと戻してさっと帰ろう。誰にも気付かれないように、分かった?』
『うん!』
 迷いなく飛んでいく蟲を追って歩く建物の中は、まるで複雑な迷路のようだった。イリュ水源地のほとんどの建物は砂レンガ製なので、強度の問題で屋根は高いが二階が無い。しかし族長の屋敷であるここはどれだけの労力と時間を費やして造られたのか、手前の方は他と同じに砂レンガで築かれているが、奥は岩山を丸ごと彫り抜いて造られており三階構造になっていてとにかく広い。
 もう自分一人では絶対もとの客間に戻れないな、と幾度めかの角と階段を抜けて思った後、やっと蟲達は綺麗に彫刻された一枚板の扉の前で旋回し、皆そこに張り付いた。そうっと近づいて、耳を押し当てると中で複数の人間が話している声がする。
 姿はミラが隠してくれているので気にしないでいいが、どうやって入ろうか、と思案していると、足音が近づいてあっけなく扉が開かれた。
「分かったな、命に代えてもそれは護っておくのだぞ、ここには誰も近づかぬよう言い渡しておくからな」
「はい、旦那様」
 室内から姿を現したのは、典型的なラバイアの装いに身を包んだ数人の男達と、獣を連れた赤い差し毛の少年だった。男にきつく何かを言い渡され、多分使用人であろう少年が何度も頭を下げる。扉が開いたままになっているのをこれ幸いと、唯人は素早く少年の脇を抜けて部屋の中に入り込んだ。
「スフィ!」
「何やってんだ、遅ぇぞこの寝ぼすけが!」
 あまりこういうことはするように見えないが、向こうも相当不安だったのだろう。すっ飛んできたと思ったら、肩をぎゅっとつかまれる。言いたい事山ほどあるんだぞ、とまくしたてようとするのをそれは後でとミラが押し止めて、銃はどこ?と問いかけた。灰色の眼がそちらを示すより先に、蟲達が打ち出し模様で飾られた金属の箱に取り付いて、後ろ側の蝶番を削りにかかっている。
「あの中?」
「ああ」
 待つ程の間もなく、重そうな上蓋が切り離される。誰かが戻ってこないか確認しつつ、中にあった銃に手を触れると瞬時に光の珠と化し、スフィはどちらとも唯人の内に収まった。
「よし、とっとと出て行こう……!」
 その時、無情にも背後で扉の閉まる音がした。とっさに箱の蓋を戻し、壊れているのが分からないようにして棚の陰に身を隠す。部屋に戻ってきたのは、先程の連中のうちの少年と獣だけだった。よし、見張るぞと箱の正面に座りこんで、真顔で睨む彼の傍らに毛並みの見事な獣も横たわる。ごめん、と心の中で詫びを入れ、忍び足でその後ろを抜けると唯人はごくゆっくりに、そうっと扉の鍵を内から開けそのまま部屋から出ていった。途中から獣の顔がこっちを向いていたような気がしたが、その体内の物が嗅ぎつけられない以上、ミラに護られた唯人を見とがめる事はできなかったようだ。蟲達はスフィに唯人を巡り合わせたら気が済んだのか、さっさと一緒に身体に戻ってしまったので、帰りは標に助けてもらって元の客間へととんぼ返りした。
 道中、頭が痛くなるくらいスフィがわめき散らしてくれた事の次第は、あの獣にさんざ舐めまわされた後少年のもとへと届けられ、彼が主人に自分を見せたらもの凄い珍品だということが一目で見抜かれすぐに箱に収められた。下手すりゃ再度解体もんだったぞ、と最後は半泣きで訴えられ、それじゃあむしろあの子がこの後大変なんじゃ?とうっかり呟いてしまったら、あまり経験したことのない、大の男に本気泣きでマジ切れされた。
『ああそうかい、俺よりたった今、顔見ただけの他人の心配をしますってか。そうだよな、こんな犬のヨダレが染み付いちまった骨董品よか、人間様のほうが大事に決まってるもんな、お優しい唯人様は!』
『ちょっと、なんでそういう話になるんだよ。スフィはちゃんと戻ってきたんだから、それでいいじゃないか』
『甘ったれるのも、いい加減になさって頂きたい。唯人殿は言うのを遠慮しておられるようですが、そもそも自分を出しておけと貴方が唯人殿に進言したのだから、持ち去られた事とて唯人殿一人の責ではないでしょう。わめく前に、礼を述べなさい』
 正論だが、それは今言わないほうが良かった気がするのだが。まだ機嫌が直ってはいない?さっきの意趣返しなのか、鋭月。
『……』
『ど、どうだろう、スフィ……シガーでも吸って、落ちついたら?』
 本心では、中で煙を吐かれるなどあまりいい気のするものではなかったが、おそるおそる提案してみたらやっと頭の中が静かになった。もうなんでもいいからさっさと落ちついてもらったら、早々にヨダレとやらも拭かせてもらおう。それにしても大きな、いい毛並みの獣だったな……などと考えていると、外から足音が近づいて来た。
「唯人、起きているか?」
「あ、ディリエラ、起きてるよ」
「セティヤが帰ってきたぞ!」
 飛び起きて、二人で屋敷の正門に向かうと、ちょうど砂走鳥を降りたセティヤ達が入ってきたところだった。お帰り、と駆け寄ってディリエラはセティヤやイェンと、唯人はサテクや嫌々キリシュと再会を喜び額を付ける挨拶を交わした。
「みんな、あれからクルニ族とかに会わなかった?」
「はい、ここに着くまではミーアセンからの商隊の一団に会っただけで、野盗に気をつけるよう言っておきました」
「みんな早く中に入って休むといい、水浴びの間は今少し具合が悪いのだが」
 なんで?と呟いたサテクを苦しまぎれの笑みでやり過ごす。その後、皆が水を浴びて着替えるのをディリエラと客間で待って、皆がそろったところでエリテアの話などしながら日が暮れるまでゆったりと過ごした。そこで初めて分かったのだが、シェリュバンが自分の親衛隊四十人の中から選りすぐって群島国に連れて行った五人のうち、目付役のスワドと従兄弟のセティヤ以外は、身内がこのイリュ水源地に定住していない。戦士としての技量が高いので、シェリュバンに見込まれ雇われている身で、普段はこの屋敷の専用の建物で住まわせてもらっているそうだ。
 当然、何かと話に出てくるあの三位の叔父という輩も同様の連中をこの屋敷に囲っていて、直接どうこうという事はあまりないが、雰囲気は良くはなさそうだ。シェリュバンの兄弟に手を下した者もいるだろうが、当然のことながら証拠は何ひとつありはせず、長男を殺した犯人だけはすぐ名乗り出てきたので捕えられたものの、手口や動機は一切明かさずただ自分が一人でやったと言い張り即座に処刑された。後で聞いた話では、その男はシェリュバンの叔父に多額の借金があり、残された家族はどこからか幾ばくかの金を手に入れ、すぐに町を出て行ったらしい。
「これは、あくまで一位派のみんなで噂してる事なんだけどさ。あの三位、クルニ族と手を組んでるんじゃないかって。一位が留守にしたら、なぜかあいつらがこっちによく現れるんだ。ラバイア国北部がスリンチャ領で、その南は北西部を預かるヴァイカ族の領地。けど砂漠には他の国みたいにはっきりとした線引きがあるわけじゃないから、その曖昧な部分を奴らはたえず移動して暮らしている、商人の隊や遊牧の民を襲って奪うだけの稼ぎでね。勿論一位がいたら黙っちゃいない、あの人は首位が一線を退いた時からその役を引き継いで、スリンチャの重要な産業であるミーアセンとの交易を護るために、商人の隊にはちゃんと規模に合った護衛を俺達戦士から選んで付け、時には自分が砂漠に出て野盗狩りとかやっている。ところが、一位がいなくなると途端にそういうのが全部ぐだぐだになっちゃうんだ……三位が一応仕切るんだけど、なぜか待ってたみたいにクルニがうわうわ北上してきて。三位の護衛が付いてるのに商人は襲われ放題だし、遊牧して暮らしてる連中もみんな怖がってイリュに避難してくるよ。本心では、みんな一位のいない間は二位様を頭にしてスワドのおっさんに仕切ってもらいたいんだけど、さすがにまだ十代の怖がりなお姫様だからちょっとさ。ま、明日になったら見てみなよ、一位が帰って来たってみんなに知らせが行き渡るから、安心した連中は砂漠に帰ろう、商人は余所より少しでも早く隊を出そうって集落は大騒ぎになる。俺も馴染みの連中が誘いに来るだろうから、誰について行くか決めとかないとな」
 籠に山盛りになっている砂漠茎木の実を、威勢よく丸かじりしつつサテクが呟く。少し離れた位置で、同じ実を花を模して綺麗に飾り切りしてディリエラを喜ばせながら、イェンがぼそりと背中で囁いた。
「今回は、そうもいかねぇって。みんな竜人を一目見たくて騒いでる、一生に一度あるかないかの機会だし、見ないうちは出て行かないだろうさ」
「やっぱり、もう噂が行き渡っちゃったのか……」
 仕方ないな、と頭をかいた唯人に私は知らないからな、とディリエラはきまり悪そうに目を逸らした。
「ちゃんと、この屋敷の者だけに、口止めした上でしか話していない、万が一にも失礼があるといけないから」
「女の人に、そういうのって無理だよ。まぁ一位も怪我人とかには口止めするの忘れてるだろうし、似た者兄妹だよな」
「そもそも、みんな竜なんて見えないはずなのに、竜人だけ見て何が嬉しいんだろう」 
 唯人の疑問には、セティヤが答えてくれた。
「このイリュ水源地にも両性は、少なくとも群島国よりは沢山居ます。そしてラバイアの首都スィリニットの都市精は砂の竜で、求めがあれば砂をまとった姿を皆の前に表しますから、竜は目に見えるのだと勘違いしている方も多いのですよ。さて、一位の君はどうやって唯人さんを穏便に〝お披露目〟する気でしょうね」
「俺が許すから、こっそり竜で三位の住んでる辺りぶっ壊しちまえよ、唯人」
「そんな無茶な、キリシュ」
「あの、むかつく三位派連中の住処だけでもいいんだから。砂レンガ造りで脆いから、水浴びの間みたいに水ぶっかけてぐだぐだにしたら面白いって」
「やらないってば」
 そんなことを話しつつ、やがて日が落ちて景色が一面の朱に染まる頃、唯人は改めてディリエラに呼ばれ衣装部屋へと連れて行かれた。このままでいいとしばらく粘ってみたものの、兄様に世話役を命じられている、ちゃんとした格好をしてもらうのももてなしのうちだ、と頑として譲ってくれず、結局ビロードみたいな手触りの臙脂色の服に着替えさせられた。
 袖も胴もだぶだぶの、大雑把なワンピースみたいな形で裾には金糸の縁飾りが縫われている。それに幅の広い帯を締め、後はこれも神格の象徴なのか、じゃらじゃらと幾重にも額飾りに首飾りや耳輪、手首と足首にまで繊細な細工の施された金輪を付けられて、どこかのお祭りでこんな馬いたよな、と唯人はひとり溜息をついた。
「ディリ、ひとつだけ教えてくれよ、これって男性の恰好?それとも女性?」
「どちらでもない、貴血の衣装だ。男は上着の丈がもう少し短くて下に足通しを履くし、女は私のような薄絹を着る。唯人は、薄絹のほうがいいか?」
「その逆、男物がいい!」
「そう言うな、竜人なのだから、男のなりをしていたら皆が不思議がる。どうしてもと言うなら、せめて髭を生やしてからにしろ」
「えー?だって、シェリュバンも生えてないじゃないか」
「兄様は、ユークレンや群島国に行く時は礼儀として剃ってるんだ。ほら、もう行くぞ!」
 一歩足を進めるたびに、飾り物がたてる賑やかな音を響かせながらそんなに広くない一室に通されると、そこにはシェリュバンや彼の腹心であるスワドにダルン、そして数人の年寄りが唯人を待っていた。どの顔も〝これが?〟との思いを隠しようもなく、しばし唯人を見つめた後、慌てて頭を下げて見せる。シェリュバンに招かれ、その傍らに座るとディリエラもすまし顔で唯人の側に陣取った。
「ディリ、ご苦労、客人を綺麗に飾ったな、竜人にふさわしい華やかさだ」
「竜人は、男の装束のほうがいいそうだ。まあ、それはまたの機会にしてもらうが」
「竜人殿、よくぞこのスリンチャの治める地に、一位の君の客としておいで下された」
 歳は取っているが、厳格そうな面持ちの白髪の老人が近づいて挨拶する。
「儂は、首位様の妹婿のザンジャイ・ナルバイドと申す者。まさか生きているうちに、首都以外の竜をこの目で見られる眼福に預かる機会が来ようとは、喜ばしい限りだ」
 彼を皮切りに、他の老人らも口々に唯人に歓迎の意を述べた。
「我ら一同、歓迎しますぞ、竜人殿」
「ごゆるりと滞在なされよ」
「まだお若そうに見られるが、酒は大丈夫ですかのう?」
「大丈夫だ、こう見えてディリより歳を超しているからな」
 唯人の長所である、どちらかというと無害で人が良さそうにみえる顔は、年寄りうけも充分のようだった。恐縮してシェリュバンを振り返ると、得意顔で年寄り連中の賛辞を浴びている。
「一位、今宵は久々にあの三位の悔しがる顔を拝めそうですな」
「あ奴は昔から珍品には目が無い、野盗と組んで商隊を襲わせ上前をはねているという噂もあるくらいだからな」
「あくまで噂だ、しかしそうではないと胸を張って言い張れるお人柄でも無いのが難しい」
「竜なんぞ目にしたら、財をはたいてでも欲しがるでしょうよ。そもそも街や遺跡ではなく、人についている竜がいるなどと我らも初めて知ったのですから。ラバイアの伝説の竜人は、あくまで竜自身の化身ですからな」
「強欲なる叔父貴殿が理解してくれるだろうかな、竜が金で人の物になるわけがない。俺はただ、友としてこいつの他愛もない望みを叶えてやろうと思ってここへ招待してやったということを」
「ほう、竜人の望みとは。一体どのような?」
 うわ、言うな、言っちゃ駄目ー!シェリュバン!!
 目を丸くして、必死で心の声が伝わるようシェリュバンを見つめたが、彼はわざと気付かない素振りで一同に微笑んだ
「親父の部屋に、その伝説の竜人の絵があっただろう、それを見たいのだそうだ。唯人は他国の竜人だから、ラバイアの伝説の竜人を知らないのならぜひ見せておくべきだろうと思ってな」
「おお、それはもっともだ」
「ありがたき偶然であるな」
「あの絵は、写しではあるが本物から直接写した格の高い品であるからのう」
 ありがとう、シェリュバン。ありがとう、いいように誤解してくれている皆さん。熱くなった目頭を押さえると、いい笑顔のままのシェリュバンの眼が、礼には及ばんと返しているようだった。
「しかし、それでは少々難しいことになりそうですな」
「はい?」
 長く伸ばした白い髭を撫で、ザンジャイが唯人を振り返る。
「首位殿は、もういつお隠れになられてもいたしかたない状態。その部屋に入る事が出来るのは、奥方様と選りすぐられた世話係、そして一位から三位殿の三人のみ。いくら竜人殿でも、こればかりはご容赦していただかねば」
「それは、別に唯人がどうしてもそこに行かなきゃならないって話じゃない。明日にでも俺とディリが行って、こっそり絵だけ借りてくるさ。どうせ親父が逝っちまったら俺が継ぐ物なんだ、ちょっと見せてやるくらいならいいだろ?」
「まあ、それなら別に何も言う事はありますまい」
「御意」
「しかし、あの絵も値打ち物ですから、三位に見つかると難癖を付けてくるやも知れませんぞ。一位、充分お気を付け召されよ」
「まったく、叔父貴は爺さんが逝ったとき、ちゃんと親父や叔母上と財産分けしたってのに。なんでああも、人のもんばかり狙ってくるんだろうな」
「それはやはり、一位様が継がれるのはスリンチャに連綿と受け継がれた宝ばかりのことゆえ。先代が三位に譲った品は、ご自身の代に手に入れた物がほとんどですから」
 延々続く年寄りの話に、唯人は段々結構自分がとてつもない無茶を言ってしまった気になってきた。そういえば、シェリュバンの事情が今大変だというのは、初めて砂漠で会った時から知っていたはずだったのに。確かに絵は見たいが、そんなに微妙な時期なんだったら無理しなくても、と思った唯人の心がそのまま表情に出てしまったのか、ふいにシェリュバンの手が伸びてきたと思ったら、頭をくしゃっとやられ、髪に絡ませていた金の飾りが思いきりずれた。
「兄様、唯人に乱暴に触るな!せっかく綺麗にしているのに、これだから男は……」
「すまんすまん、ディリ」
「……(ごめん、僕も男なんだけどな……)」
 もう一度やり直しだ、と頭を引き寄せられ、もういいのに……と思いつつ口に出せないでなすがままにされていると、召使の女性が大広間の用意ができました、と一同を呼びにやってきた。
「よし、行くぞ唯人、お前の歓迎の宴だ。他国の人間なのは皆知っているから細かい作法は気にしなくていい、とにかくどっしりと落ちついてろ。それとなんかしてみろって言われても、いちいち耳を貸すんじゃないぞ。大抵の奴は俺の親族だからわきまえてるが、多分わきまえない奴が一人いる。しつこかったら、竜人に命じるのか?って凄んでやれ」
 一番位の高い者が、最後に宴の間に入るのはユークレンと同様の様式を感じさせた。明々とすみずみまで灯火に照らされた、最初唯人が通された客間の軽く五倍はありそうな大広間には、もうぐるりと輪状態で座った人が詰まっていて、手に手に杯を持って宴の前の雑談を楽しんでいる。ユークレンや群島国のように段差の付いたあからさまな上座はないが、空けられているいい敷物が敷かれた場にシェリュバンらの一行が腰を下ろすと、広間内の者は皆杯を上げて口々に一位の君を称える言葉を投げかけた。
「ありがとう、偉大なるスリンチャの血で繋がれた我が一族よ。まずは、あまりにも身勝手な俺の一存でこの領地を離れ、長く空けてしまった事をここに詫びねばならん」
「その全ては儂、ナルバイドの愚子への一位殿の温情ゆえと聞き及んだ。よって一位殿に代わりこの儂が皆に詫びよう、すまぬ、申し訳なかった」
 深々と老ナルバイドの頭が下げられたところで、さらにシェリュバンが言葉を繋ぐ。
「だからと言って、彼をこの後も責めるような事があってはならん。この不在の期間のほとんどを、俺は他国の揉め事に巻き込まれはるか異国の地にあったのだ、その間俺を支えてくれたのはセティヤを含めた俺の忠臣で、その揉め事があったおかげでこうして世にも稀なる竜人と出会い、この地に招いて皆にもこの幸運をわずかばかりでも分け与える機会に恵まれた。誠に不運と幸運というものは、一枚の絨毯のごとく裏表になっていて切り離せはしないものだと言うよりない」
 すいとシェリュバンの手が唯人に差し伸べられ、瞬時にその場全員の視線が一気に唯人に集中した。本当に冗談ではなく、物理的な圧迫感さえ感じ、うわー、と視線を泳がせる。と、結構近くで、綺麗に着飾ったセティヤがこちらににこにこと笑顔を向けてくれている。ちょっと安心して微笑んで返したら、別方向で何者かが立ち上がった気配があった。
「なかなかの口上であるな、我が甥御どのよ」
「三位殿、一位の君と呼ばわりなされ」
 シェリュバンの背後にいた年寄りが、もう、しょうがないなと言いた気な口調と表情でぼそりと呟く。なんとなくその顔を目にした瞬間、どん、と唯人の心拍数が跳ねあがった。
「叔父が、兄の息子を甥と呼んで何が悪いというのだ、まだ兄上はご存命でおられるぞ?」
 そんなことは分かっとるわ、と顔を逸らされ、ふふん、とたっぷり蓄えた顎ひげを撫でる。その顔は、スフィを探しに行って突きとめた部屋から出てきた数人の男、間違いなくそのうちの一人だった。う、うん、見つかってはなかったから大丈夫だ、知らん顔していればそれでいい。思わず傍の年寄りにならい自分も顔を逸らそうとした唯人を、スリンチャの三位である男、シャダンは珍しい動物を見る目でじっくりとねめつけた。
「それでだが甥よ、群島国に赴いていたというのは聞いたが、そのような稚子を連れ帰って竜人と名乗らせるとはどういう趣向の茶番なのだ。確かに、ナルバイドの小倅にならいお前好きのする可愛らしい別嬪だが、大風呂敷も程々にせぬと後でかぶる恥も大きくなるぞ?これくらいで収めて、皆に冗談を詫びたほうが良いのではないか」
「この客人、阿桜の唯人は群島国の人間ではない、ユークレンの者だ。若く見えるが歳は二十歳で、戦士として申し分ない技量もある。俺が招いてわざわざ来てもらったのだから、侮辱してもらっては困るのだがな」
 へっ、と、余裕の表情でシェリュバンは嘲笑ってみせた。周囲の皆が黙して見守る中、すまん唯人、ちょっとだけ許してくれと左の手を取られ、袖が引き上げられる。その肩に、けして乗せたり貼ったりしているのではないと一目で分かる、埋め込まれて一体化している空色の貴石が覗いた途端、シャダンの目の色が変わった。
「そ、それは……?」
「おや、このような財宝にお詳しい叔父上なら知っているものと思っていたが?」
 シェリュバンの挑発的な言い草に、我を忘れてずかずかとこっちにやってくる。流石に触れこそしなかったが、人目さえ無ければ石をむしり取りかねない気迫で眺めた後、その唇がわなわなと小刻みに震え始めた。ちなみに綱手のほうもこの視線の圧力に怯え、肩の中で縮こまって同じくらい震えている。
「空青石、なのか……?」
「ご明答だ、叔父上。これは正真正銘の空青石、ラバイア今代王の御用霊獣使いの首飾りの石よりずっと大粒だろう。この竜人と共に在るのは、この石を司る竜だ。セティヤは本物を見たそうだから聞けばいくらでも話してくれるぞ、俺とて最初は信じようとせず、随分怒られたからな」
 シェリュバンの視線に促され、一同の視線がセティヤに向かう。唯人と違って微塵も動じた様子を見せず、彼は表情を思わせぶりな微笑に変えた。
「はい、そうですね。私の眼に映ったのは、まさにその石そのままの青く美しい竜でした。竜人の気性のせいか、スリンチャの戦士を砂鼠のごとく翻弄はしましたが、ただの一人も襲ったり死に至らしめはしなかった。どちらかが一方に従うというよりは、親鳥と雛のように竜は竜人を慈しみ、その身を護っているように思えます。。ああ、竜の額には、幅が人の丈ほどもある貴石がはまってそれは見事に輝いておりましたよ」 
「馬鹿な……そんな大きな空青石があるなど、聞いたことがない!水瓜の種ほどの大きさのこの石が、一体いくらすると思っているのだ!」
「そんなことを口にするのは、天に浮かぶ月を値ぶみするのと同じ愚行だな。この竜人が、金を払って竜を得たと思うのならそれはひいては竜に対しての侮辱になりかねん、叔父上、程々にしてもらえないか」
 はっ、とシャダンが我に返ると、周囲の視線がいつの間にか自分に集中していた。皆、程度の差はあれ下世話な事を言う、竜人の御前で恥ずかしい、と言わんばかりの表情を浮かべている。もごもごと言葉にならない言い訳をしながら元の場所に戻った彼が腰を下ろしたところで、おもむろにシェリュバンの杯に酒が注がれ、全員の乾杯の後賑やかな宴が始まった。
 さまざまな宴の料理と共に、丸々と太らせた食用の砂走鳥の若鳥の丸焼きが人の輪の中央に運び込まれ、シェリュバン自らが一番美味いという首の肉を切り取り唯人にふるまってくれる。肉汁滴る柔らかなそれを頬張りながら、ディリエラが注いでくれた真っ黒な酒を含むと、薬酒のようなすごくくせのある甘味と発泡感のある不思議な味がした。
「スリンチャの民は、普段酒はやらない、酒は客人をもてなす為のものだ。砂漠では、酒になるような穀物はあまり得られないからな。これは砂漠キビと黒ナツメの実を長年漬けこんだ古酒だ、あくまで個人の家で出す用で、売り買いしないものだから貴重なのだぞ」
「そうなんだ、ありがとうディリ、美味しいよ」
 宴は長いからな、あまり一気にやって早々に潰れるんじゃないぞ、と言われるが、やはり今宵の主賓に皆興味津々なのか手に手に酒の瓶子や料理を取り分けた小皿などを持ってやってくる。どっしりしていろと言われたはずなのに、気付けば唯人はひよこのごとくひたすら頭をぺこぺこさせていて、ついには呆れたディリエラに首の後ろを引っ張られ、動かさないよう固定されてしまった。
「唯人さん、思ったとおりの人気ですね」
 こちらも皆に囲まれ話をせがまれていたセティヤが、やっとひと段落したのか挨拶に来てくれた。その傍らには、地味な印象の同い年くらいに見える人物が付き従っている。かなり控えめだが、唯人やセティヤと同じ両性の衣装をまとったその人物は、緊張した無表情でセティヤに促され唯人に軽く頭を下げた。
「こちらは、私の婚約者のハウィル・ビアトと申します。イリュ水源の護り人の一族で、彼もその任に付いているんです。無口ですが、言葉を飾るのに長けていないだけなので、どうか気を悪くされることのないようお願いしますね」
 立て板に水のごとく喋るセティヤを横に、彼も何か言わねばと焦っているのは分かったが、あー、と一言だけ漏らすと頭をかいて諦めてしまった。
「仕方ないですね、代わりに言ってあげましょうか。ハウィは、唯人さんの白い肌とくせのない漆黒の髪を、水源の砂地にかかる木々の影のようでとても馴染みやすい、と褒めていたのですよ。でも、調子に乗らないよう、唯人さんにはもうお相手がいることはしっかり言っておきましたから」
「そ、そんな意味じゃ、なくて……」
 焦る婚約者のうろたえっぷりを充分楽しむと、シェリュバンやディリエラにも挨拶しセティヤは二人で下がっていった。話に聞いたとおりの、真面目そうないい彼氏?だな。お似合いの二人だね、と言うと意外にも出会いは見合いだが、口説いたのはセティヤだぞ、とディリエラはその慣れ染めをこと細かに教えてくれた。別に知らなくてよくても、聞けば楽しい話はこの世にいくらでもある。
 それから後も、顔も覚えきれない程のさまざまな人と言葉を交わしたり、人生初の水煙草が出てきてスフィの為に吸ってみたら思ったとおり気分を悪くしたり、ディリエラの友人である娘達の踊りの輪に囲まれて大騒ぎされたりと、宴は賑やかに続けられていったが、やはりあの人物はとてもこのまま終わらせてくれそうにはない雰囲気をみなぎらせていた。宴の間は無視しようにも重すぎる視線をずっと人の合間からくれ続けていたし、二度ほど取り巻きらしい人間が会いに来い、みたいな事を遠まわしに伝えに来たが、どちらともシェリュバンがすっぱりと一蹴してくれた。
「あー、気持ちいいぞ、唯人。あの叔父貴の物欲しげなツラといったらない!お前が欲しくてしょうがないが、どうやったらいいのか分からないのさ。俺がお前を手に入れたという話なら、悔しいだろうがまだ交渉の手段があるってのが分かる。だがお前は誰のものでもない、怒らせたら元も子もないからうまく壊柔する方法を必死で考えてるんだ。うっとおしいだけだから話す必要なんかないぞ、ここで目的の絵を見て、気のすむまでスリンチャの客人でいたら後は好きな所へ飛んで行け。そしてまた気が向いたらいつでも遊びにくればいい、それが友人というものだ」
「うん、そうだよ、僕も綱手も何かを代償に所有されるものじゃない。シェリュバンみたいに、人として友達になろうって言ってくれればそれでいいんだ。いつかあの人も、気が付いてくれればいいんだけど」
 さて、いい加減夜も更けたことだし、ここは派手に皆に期待のものを拝ませて宴を盛り上げて締めくくるか、とシェリュバンが腰を上げる。実は、この大広間の横には広い中庭があり、そこに来客の皆に竜を披露できるよう準備がされていた。この地最高の贅沢である、水をふんだんにまいて地面を湿らせその上を通る者の足跡がはっきり付くようにして、その先に立つディリエラら娘達をここに運んできた時のように持ちあげて見せる。そうすれば、皆にもその存在が感じ取れようという苦心の策だったが、キリシュが出した三位派の住居を押しつぶすという案も、シェリュバンとしてはなかなかに捨てがたいようであった。
「いっそのこと、両方やるか?」
「や・ら・な・い!」
「宴の余興だ、俺が言ってるんだから気にしなくてもいいじゃないか」
「そういう風に調子に乗ると、テルアから、緑の眼をした竜よりずっと凶悪なのを呼び寄せてしまう気がするんだ!」
「……ああ、あれは恐ろしいな」
「うん、恐ろしいよ、とっても……」
 二人のテンションが見事に下がったところで、唯人はディリエラと先に外に出て、綱手が出せそうな壁を見つくろいに行った。綱手を呼びだす事に関しては、建物自体が岩を彫り抜いて造られているので唯人が触れさえすればどこからでも大丈夫そうだ。両性の人もそれなりに居るようだから、びっくりさせないよう物陰からの方がいいかと裏手にまわると、しんと静まり返った周囲の中、唯人の耳になにやら微かな、しかし嫌な感覚を呼び起こす音……というか人の声らしきものが響いてきた。広間にいる時は賑やかなだったせいで何も分からなかったが、耳に届いたそれは明らかに悲鳴、しかももう精根付き果てる寸前のようにひどく掠れている。それに呼びかけているような犬っぽい吠え声も聞こえ、落ちつかなく周囲を見渡した唯人に、ディリエラも表情を固くしたが気にするな、と呟いた。
「客人に聞かせるものではないな、まったく叔父上は……なんで今、ああいう事をさせるのか」
「いったい、何をやってるんだ?」
「召使の誰かがつまらん失態でもやったのだろう、ああ長々と声が続いているのは、手足の一本でももがれているんだな。まあ、取れる瞬間は叔父上の楽しみで見届けるつもりだろうから、まだ引っぱっている最中か。私はああいうのは古い慣習の悪い部分で、心底嫌だが叔父上の召使いだからどうしょうもない、唯人も聞かなかった事にしてもらいたい」
 瞬間、唯人の頭に浮かんだのは、あの大きな獣と共にいた少年だった。奥の部屋で三位にスフィを見張れと命じられていたのに、唯人がこっそり持ち去ってしまった以上、何事もなくすまされているはずはない。矢も盾もたまらず声の出処を突きとめようと駆けだした唯人を、ディリエラは慌てて引きとめた。
「どうしたんだ、唯人、お前には関係ないと言っているのに!」
「関係なくないんだって!」
 黙っているつもりだったが、仕方なく昼あった事の顛末を手短に語って聞かせると、ディリエラはまず大きな眼を見開いて呆れ、それからますます腕に力を込めて唯人をしっかと拘束してかかってきた。
「異国人の考える事は分からない、そういう話なら間違いなくそいつは唯人の物を持ち去った泥棒で、心おきなく腕もぎの刑を見守ってやるのが道理だろう。なんで、助けに行こうなどと思うのだ?」
「だって、うっかり手放してたのは僕が悪いんだし。とにかく、腕をもぐなんて罰は嫌なんだ!」
「それは、私も嫌だと言っている」
 とにかく、叔父上が宴に参加している間は大丈夫だ、と宥められた後、ふと何かを思いついた顔でディリエラが猫じみた大きな目を輝かせる。やはりここはやるべきだな、とにやりとあまり良くなさそうな笑みを浮かべ、彼女は思いついたはかりごとを囁くべく、傍らの耳を引き寄せた。



「さあみんな、お待ちかねの竜のお出ましだ。この良き宴の思い出を誰彼にも、幾久しく語り継げるようしっかり目に留めておかんことを!」
 中庭に集まった人々の上に、二階の張り出しに立ったシェリュバンの朗々とした声が響き渡る。ここには屋根が無いので塀の外、付近の家全ての屋根の上にも集落の人間がぎっしりと集まって、一生に一度の機会を見逃すまいと固唾を飲んで見守っている。
 薄絹をまとった娘らが惜しげもなく水をまいて湿らせた砂の上を、壁から出てきた綱手はおごそかに踏みしめ進んで行った。ずん、ずん、と足音が響き、大きな足跡がくっきりと刻まれ皆の歓声を誘う。ちょっとふざけて、生えている背の高い椰子に似た木にすり寄って揺らしてみたりしながらUの字状になっている人々の中心にやってくると、歩み寄った唯人に綱手はすいと頭を垂れた。
 それに上がって、後に続くディリエラや数人の娘達を引っぱり上げてやる。全員乗ったところでよいしょと背を伸ばし、ぐるりと皆の前をまわった後、シェリュバンがいる張り出しに近づいて娘達を持ちあげてやると、まずは感涙を抑えきれない両性らから、続いて他の皆からも割れんばかりの歓声が上げられた。
「竜だ、本当に竜がいるんだ!」
「素晴らしい、なんという美しさか!」
「それに、砂走鳥のように従順で大人しい、あんな竜をどうやって手に入れたという……」
 召使いが持って来てくれた、人が楽に入るほどの籠に山と盛られた砂漠茎木の実をひと口で収め、さくさくどころでない音を響かせる。本当は、皆が食べ終わった残りのまだ肉がいっぱい付いている鳥の骨が気になってしょうがないんだけど、と訴えられ、後でシェリュバンに貰ってあげるから、と宥めると唯人はその頭から飛び降り、皆に軽くお辞儀した。
「竜人が、今宵の宴の感謝の意を示すため、竜に触れることを許すと言ってくれた。男女は両性に手助けを頼み、くれぐれもぶつかったりしないよう望んで欲しい!」
 ディリエラの言葉に、皆しばらくは尻ごみしていたようだが、歩み寄ったセティヤがそっと伸ばした指先で何もない空間に触れる素振りをすると、その付近からおずおずと近づいてきた。座りましょうかね、と猫でいう香箱状態になった綱手の腹の、ひとつひとつが手のひらより大きな鱗の感触に一同から言葉にならない声が漏れる。
 やがて、その中から思いきった表情であの人物が近づいてきたが、唯人は心の内をちらとも出さない顔でそれに気付かぬふりをした。さりげなく綱手に頭を下げるよう命じると、思ったとおり、側近の両性に確認させて額に輝いている貴石に手を伸ばしている。見えないのに手の感触だけで顔を紅潮させているその様子に、分かりやすい人だなぁ、と溜息をつくとおもむろに今気付いた、と言わんばかりに表情を一変させ唯人は叫び声をあげた。
「あ、何という事を!その石に触れてはいけない!」
「え?」
「皆さん、離れてください!早く!」
 何事、と側にいた人たちが慌てて引くのを待って、綱手はゆっくりと身を起こした。普段鳴いたことなどほとんどないのに、硬い岩を打ったような耳に響く吠え声を響かせて牛のように足で地面をかく。皆に聞いてくれと言わんばかりに、ディリエラが大声で唯人に呼びかけた。
「どうしたのだ、竜人、これは!」
「ああ、申し訳ない、まさかそんな事をする人がいると思わなかったから、言うのを忘れていました。竜の額の石は神聖にして冒してはならざるもの、それに触れられ竜は機嫌をそこねてしまいました。こうなっては、僕にも手がつけられません!」
「な、なんだと?そのような大事を、なぜ忘れる!」
「まさか、まさか神聖な竜の象徴を、手にしようとする方がいるとは思わずに……」
 神聖もなにも、シェリュバンらをここに送り届ける最中、唯人とシェリュバンはずっとその上に座っていた。更には固いので座り心地が悪いとか文句を言って綱手をふて腐れさせたりした、その程度のものだ。皆に気付かれないよう上にいるシェリュバン兄妹を振り仰ぐと、ディリエラはやっちゃえ、の笑み、シェリュバンも口の端を上げて奥の塀を指し示して見せる。
 壊さない力加減で、木や建物の壁にばんばん体当たりを続ける荒ぶる綱手に何とかしようという素振りで唯人が近づくと、砂ぼこりの立ち込める中庭を巨大な体躯はどしどしと横切り、あっけなく示された奥の壁を突き破った。
「り、竜人、そそそちらには、儂の……!」
 ディリエラに聞いたので知っている、塀の向こうはあの三位派連中の住居だ。本当に上手に、最初周囲に軽く体当たりして中の人間を追いだしてしまうと、綱手は一気にその建物の三分の一程を力任せに押し崩した。もうもうと真っ白に砂ぼこりが舞って、人々の悲鳴や外から見物している連中のはやし立てる声が響き渡る中、どうする、と完全に度を失った顔でシャダンが唯人に詰め寄ってきた。
「おい、貴様!どうすれはあの竜を止められるのだ、まさかこのまま……」
「だから、僕にはもう……あ、ひとつだけ方法が、いや……」
 しらじらしく、唯人は悲しそうに眼を伏せて見せた。
「なんだ、それは!」
「僕の杖です、それさえあれば竜を大人しくさせられるのですが。困った事に、ここに来て休んでいた間に失くしてしまったのです。竜は機嫌を損ねなければ杖が無くとも言う事を聞くのですが、こうも怒っていては、やはり杖が無いと……」
「その杖とは、どのような物なのだ!」
「かなり変わった、細い筒状の金属と明るい色の台木を組み合わせてできている物で、先にはささやかな刃が付いています。大きさはこのくらいで」
 両手を広げて見せた唯人に、ぐっ、とシャダンが息を飲んだ。たとえ唯人があの部屋の一部始終を見ていなかったとしても、何か感づきそうな程の汗を一気に顔に噴いて、そ、そうかとぎこちない返事をかえす。さあて、次は何を壊していいのかな?ときょろきょろしている綱手に頼む、止まってくれと口だけの制止の言葉をかけている唯人の注意が自分から逸れている隙を見計らって、シャダンは脱兎のごとくある場所へと駆けて行った。
「おい!この役立たずが!」
 すごい剣幕で飛びこんできた主人の形相に、小屋で番をしていた男が慌てて平伏する。それには一瞥もくれず、大きな木組みにしばりつけられ、不自然な体勢に吊り下げられている息も絶え絶えの様子の少年に、主人であるシャダンは荒々しく詰め寄った。
「まだしぶとく口を割らんのか、今一度問うぞ、あの宝をどこにやった!どこに隠したのだ!!」
「三位……様」
 涙の跡を引いた眼が薄く開かれて、掠れ切った声が絞り出される。
「隠して、ません……俺、ずっと……見て…て……」
「ええい、それは聞き飽きたと言っておる!お前以外誰もあの部屋に入った者はおらぬのだぞ、おい、そこの!」
「へ、へい」
「もっと責めを強くしろ、もう腕が取れようがかまわん」
 怒鳴られて、あたふたと仕掛けに近づこうとした部屋番が、ふと足を止め入り口を振り返った。さっきからずっと外で吠え続けていた、三位ご自慢の逸品のひとつである砂漠狼がばんばん木の扉に身を打ち付けている音がする。自分のお気に入りが傷つくのを何より嫌う主であるだけに、下手に怪我などされては大変だ。
「三位様、ちょっくら先に外の奴を繋いできまさぁ、世話係の悲鳴聞かされて興奮しちまってんだ」
「さっさとしろ!」
 やれやれ、咬みつかれねばええが、と伸ばした手が扉を引いた瞬間、弾けるように扉が開かれ男が吹っ飛ぶと同時に大きな身体が部屋の中に突っ込んできた。唸り声と呼吸音の混じった凄まじい響きを立てつつ、長い体毛を逆立てた大柄な獣が砂漠の真昼のごとき青の瞳で前に立つ人間を睨みつける。一瞬気押されて動きを止めたものの、獣が口にくわえている細長い物体に目が留まり、それが何なのか分かった途端シャダンの口から驚愕の叫びがあがった。
「お、お前、どこでそれを!」
 よこせ、と伸ばされた手を狼はひらりと身軽に避けた。馬鹿者、儂に従わんとはどういう気だ、とようやく起き上がってきた部屋番と共にかんかんになって追いまわしてみても、外に逃げるでもなく、手の届く紙一重でぐるぐると部屋を逃げ回る。ついに体力の限界にいたり、へたりこんでわめくしかできなくなった相手をおもむろに足を止めて振り返ると、狼は吊られてぐったりとしている少年に駆け寄ってその足元に身を寄せた。
「よ、よし……じっとしておれよ……」
 できるだけ口から離れている端をつかもうとした手が、またひょいとすかされる。ふざけたり甘えているのではないと言いたげな、真剣な面持ちで狼は物分かりの悪い子供に言い聞かせるように、前脚で再度少年の足に触れて見せた。
「三位様ぁ、お気を悪くせず聞いてくだせぇ。そいつ、ガキを下ろせって言ってるんじゃ?」
「なにぃ?」
 あんたの方が話分かってるよ、と言いたげな表情で、狼が部屋番を振り返る。ふざけるな、なんでスリンチャの三位たる儂が獣に命令されねばならんのだ、と癇癪をぶちまける主にたかが獣ですよ、ここはとりあえず言う事聞いといて要るものを取っちまいやしょう、と部屋番はそっと耳打ちした。
「あれさえこっちの手に入りゃ、狼はつないじまってまた仕切り直せばいいだけのことなんですからさぁ」
「そ、そうだな、今はとにかくあれを取り返すのが一番だ」
 よし分かった、降ろしてやれと命じられ、部屋番が縛りつけてある木組みの仕掛けから少年を外し下へと落とす。その身体に飛びついて、必死ですり寄る狼が口から落とした〝竜人の杖〟を拾い上げ、ほっと安堵の息をついた……。
 その瞬間、まるで雷鳴のごとき凄まじい音が天から降ってきた。瞬時に真っ白な土埃に霞んだ視界に身動きできなくなったシャダンの横で、小屋の一部と共に木組みの責め具が、小枝を組んだ玩具のごとくがらがらとあっけなく崩れ落ちる。狼は、少年を背に乗せあっという間に小屋から逃げ去っていった。
「な、何が、起こった……?」
 小屋の灯火が、崩れ落ちたあれやこれやの巻き添えをくって消えてしまった暗闇の中、ふと風が吹いて土埃を吹き散らした。見上げると、満天の星がきらめいている。ちょっと待て、天井は?屋根は……?とぼんやりと考える中、ふいに背後からかけられた声にもう若くない身体が残りの生涯ぶんの汗を一気に吹きだした。
「あ、僕の杖!」
 なんだとおおおぉ???
 開け放たれた小屋の入口に立っているその姿は、まぎれもない竜人、その人であった。頭に灯っているぼんやりと輝く青い光に浮かび上がって、白い顔がこちらを真っすぐ見つめている。あまりのことにぽかんとなって動きを止めてしまった手から、持っていた物がふわりと浮きあがった。
「お?おおおっ?」
 思わず目で追ってしまった表情が瞬時に凍りつく、小屋の屋根に威勢よく開けられた穴、というかほとんど無くなってしまった部分から、竜らしき巨大な顔が突っ込んできてこちらを見下ろしていた。なぜ男性のシャダンにこれが見えたのかというと、単純にその辺りの空間の砂ぼこりが竜の頭ぶんだけ遮られている、ただそれだけの事なのだが。伸ばされた長い髭の一本を器用に杖に巻き付けて、駆け寄ってきた竜人の手に渡す。まずい、この状況はとてつもなくまずい、どう見ても盗んで隠していたとしか思えないではないか。爆発しそうな勢いで、頭をフル回転して言い訳を探す。
「こ、これはだな、儂の砂漠狼が今どこからか拾ってきたわけで、けして儂が……」
 そのシャダンに、意外にも竜人は信じられない表情で信じられない言葉を吐いた。
「ああ、どうもありがとうございます!」
「……はぁ?」
 にこにこと、輝かんばかりの笑みで戻ってきた大切な所有物を抱きしめて、大きく頭を下げる。
「この杖を見つけて下さったんですね?さすがスリンチャの三位様だ、感謝します!」
「は、あ?あ、う、うむ……?」
「これで竜を鎮められます、見ていて下さい」
 唯人が銃を振り上げて示すと、綱手は大きな頭を巡らせて駄目押しで屋根を崩しながらこちらに向いた。
「竜よ、鎮まりたまえ!(もういいよー、綱手、鳥肉もらいに行こう)」
「……!(はーい、待ってました!)」
 開いた天井から頭が引き抜かれ、どすどすと足音が引き返してゆく。魂が抜けたまんまのシャダンの両手をもう一度握って感謝の意を示した後、唯人はさっさときびすを返しその場から立ち去った。最初の広い中庭に戻る前に、ふさふさとした毛の獣が駆け寄ってきて、ふわりと真っ白い人の姿へと変わる。
「唯人、こっちはうまくいったよ」
「ありがとう、ミラ」
「本物の砂漠狼くんと一緒に、二位姫様の知り合いの家でかくまってもらえるってさ。あの子達は、どちらもずうっと東の僻地に住んでる少数民族と希少種だね。こんなとこにいるのは何らかの理由……多分野盗とかにさらわれて、珍しい物好きの金持ちに商品として売られちゃった、かな。このままあの三位のもとに帰しちゃうと、盗みの罪を押し付けられて処分される恐れが多分にあるから、どうにかしてこの集落から出してあげる方法を考えないとね」
「きっと、あの子がこの銃を三位に持って行ったのは、純粋に持ち主が分からなかったからで、盗もうって悪意は無かったんだと思うな。そのせいでこうなってしまったのなら、原因は僕にも少しはある、だからどうするかはちゃんと考えるよ」
「……ったくお前はよ、あの責め具から助けてやっただけでもう充分じゃねぇか。また面倒が増えねぇようもうこれ以上かかわるなって、あの元祖金髪に変てこな術仕込まれて、ぼけっとなっちまったお前なんて御免だからな、俺は」
「まあ、そうなったらそうなったでその前に、銃のヨダレはちゃんと拭いておくからさ」
「そんな話してるんじゃねぇんだよ!」
 怒ったスフィに締めあげられながら中庭に戻ると、逃げるよりも事の成り行きを見届けなければ済まない顔の客達に遠巻きにされながら、綱手は大人しく座り込んで唯人を待っていた。すぐにお願いして、召使いの人に持ってきてもらった大皿の上の鳥の残骸をぺろりと平らげて、悠然と壁の紋に這い込んで姿を消す。なぜだか分からないが誰ともなく拍手が起こり、塀の中と外の区別なく、竜人と一位を称える歓声はずっと夜空に鳴り続けた。



「早いな、唯人。昨晩は遅かったのだから、朝の席に立ち合わずとも良かったのに。さては、ディリに叩き起こされたな」
「叩き起こしてなどいない、陽が昇ると余計だるくなるから、涼しいうちに支度を整えてもらっただけだ」
「流石に今朝は、朝を知らせる合図の音も遅れていたな。集落の人間全てが気が落ちつかず眠れなかったのだろう、伝説の竜をじかに見たとあってはな」
 昨晩、興奮冷めやらぬ客人を最後の一人まで送りだした後、唯人はようやくじゃらじゃらした装身具から解放されて自分の客間に戻り、クッションに埋もれたらあっという間に朝になった。召使の人が来てくれると思っていたら、今日もディリエラは大切な友達の世話を預かる気満々で、起こしに来てくれたのを皮切りに半日でちゃんと治った水浴びの間で身だしなみを整えさせて(背中を拭くと言ってくれたが、全身全霊で拒ませてもらった)兄様が待っている、と朝食の席に引いていかれた。
 一族の一位であるシェリュバンにとっての朝食は、一日の予定を話し合う一族会議の場であって、主だった臣下やあの三位も皆一堂に会している。もういいのにまた開いている一位の隣席に呼ばれると、彼は上機嫌で唯人を迎えてくれた。
「俺達は朝は乳で煮出した茶しか飲まんが、お前は軽く何か食べるか?」
「あ、僕も昨晩沢山食べたから、お茶だけでいいよ」
「そうか、あまり食うとまずいんだったな、お前ら両性は」
「う、うん……(そうだった、忘れてた……)」
 砂漠の普通なのか、容赦なく甘く泡立ったミルクティーでふわふわする二日酔い気分を覚ます唯人をよそに、会議が始められる。まずは今日出発する商隊への護衛の戦士の割り振り、次に野盗の被害と対策について、それとテルアから届いているユークレン王の礼状への返礼のことなどと続いたところで、退屈なら好きに出ていってもいいのだぞ、とディリエラが囁きかけてきた。
「この話が終わったら、私と兄様で絵を取ってきてやるからもう少し待っていろ」
「うん、別に急がなくてもいいから」
「……で、最後に、昨夜の騒ぎで壊された、儂の敷地の建物の被害についてのことだが!」
 突然傍から届いてきた鼻息荒い声に、危うく唯人は手の椀を取り落としそうになった。隣のシェリュバンを振り返ると、いたずらを見つけられた腕白小僧のように、開き直った笑いを隠しきれないでいる。気をもむ唯人を気にするな、の仕草で制すると、居並ぶ年寄連中からも口々に、その程度の事をここで論じるか、とやんわりとたしなめる声が次々に上がった。
「そういう事は、客人のおらぬところで穏便に話しあってはどうかのう」
「竜人とてわざとやった事ではないのだし、竜はちゃんと人を避けて暴れたのだからな」
「お主も知らぬ話ではないであろう、二百年前の竜人が、呪法使いに惑わされたラバイア王を諌めるため、王宮の半分を一夜で焦土と化した事を。それに比べれば、昨日の事などどうということでは……」
 流石に面と向かって言う者はいないが、他でもない三位本人がいらぬ事をしたせいで竜が暴れてしまったらしい、という話はしっかり館にいるほぼ全員に行き渡っているようだった。自業自得というものではないか?と年寄り衆の眼が語っている。しかし全くの無視という訳にもいかんだろう、俺の客人の不手際は俺が購おう、とシェリュバンは鷹揚に微笑んで見せた。
「建物は、俺の方ですぐにでも直させよう。あの離れの小屋の中にあった物は、壊れてしまって何だか分からんから弁償で勘弁してくれ、それでよいか?」
「後、儂の下人と貴重な飼い獣が騒ぎで逃げて姿をくらましてしまいおった。そう広くもない集落ゆえ、探すのは難しくはなかろうが。もしこのままいなくなりでもしたら困る、あれも貴重な儂の財なのだからな」
「ああ、あのタカン族と狼か、昨晩すごい勢いで屋敷を飛び出して行くのは見たが……南にでも逃げてクルニ族に見つかればそれまでだな、もう諦めたほうがいいのではないか?これだから生きた奴を宝扱いするのは気が進まんのだ、死んだら終わりだからな」
「あの者らを得るのに、一体いくら払ったのだろうな。また物々交換で、スリンチャの宝をどこぞの成金貴族に流しでもしたのだろう」
 けして周囲に聞かせる程の声の大きさではなかったが、ディリエラの嫌味をしっかりと聞き逃さず、シャダンは振り返ると噛みついてきた。
「う、うるさい、儂の物を儂がどうしようと勝手ではないか!それに今回は何も失ってはおらんぞ、実に良い取り引きだったのだ。首都の美術商が、スリンチャ族所有の竜人の絵から写しを作らせて欲しいと申し出てきてな。儂は長い付き合いの相手ゆえ快く応じ、代金代わりに砂漠狼を譲ってもらったのだ。タカン族の餓鬼は、離すと狼が暴れるからおまけで付けてくれたわけで……」
「ちょっと待て、なんだその話は、俺は知らんぞ」
 瞬時にこれまでの鷹揚な笑みを引き締めて、シェリュバンが目つきを鋭くした。
「絵は、父上の部屋にあるのではないのか」
「兄様の不在の間、絵はちゃんと覆いをかけられ壁にあったはずだが。まさか、違う物にすり替えたのか?叔父上!」
「なんということを、三位殿、ついに首位様のものに手を付けてしまわれたか!」
「人聞きの悪い事を言うでない、借りただけだと言っておるだろうが、ちゃんと返すと言う証文は取ってある!」
「絵を写すというのなら、一位不在の間は二位様と儂ら年寄衆に話を通した上で、写す相手に訪ねて来てもらうと言うのが筋ですぞ。よもや勝手に、しかも内緒で持ち出してしまわれるとは!」
 あまりにも自分勝手なシャダンの爆弾発言に、普段はけして声を荒げることなどないであろう年寄り連中が大騒ぎを始めてしまったので、朝食の席は蜂の巣を叩き潰したような騒ぎに陥ってしまった。一応ひと握りはいるらしい三位派の年寄りも、まっとうな言い訳はどう考えても無理だと思ったのか、ただ訳の分からない怒鳴り声で応戦している。耳がどうにかなりそうな中、もう本気でこんな身内いらん、といった表情そのままにシェリュバンが一同を一喝した。
「もういい、こんな話、いつまでやろうがらちが開かん!ひとつだけ聞くぞ叔父上、絵はいつ戻るのだ!」
「いつなどとは決めておらん、絵が出来上がるまでだ。芸術とはせかしてはならぬものだからな、若いお前には分からぬだろうが」
「それでは、百年借りられようと文句が言えぬではないか!」
「貴様、儂の友を侮辱する気か!いくら一位といえそれは許せんぞ!」
 もう完全に逆ギレ状態で、顔を真っ赤にしたシャダンが立ち上がる。すかさずこちらも立ち上がったシェリュバンにこれ以上はシャレにならない、と感じたのか、各々の年寄り衆が慌てて制止にかかった。
「そもそも、そんなにむきになるなどあの絵が一体どうしたと言うのだ。お前とてずっと興味など見せていなかっただろうに!」
「俺は父上に教わったのだ、誇り高き砂漠の民、スリンチャの一族は一度した約束は何に変えても守らねばならん、と、それが大切な友と交わしたものなら尚更だ。群島国で俺はこの竜人に、スリンチャが所持している竜人の絵を見せてやると約束した。叔父上のおかげで、それはとてつもなく困難になってしまいそうなのだがな!」
「なんと、そのような用向きであったのか」
 こればかりは何の含みも感じさせない、心底驚いた顔でシャダンが唯人を振り返った。なんだ、結局お前も同じではないか、己の物ではまだないというのにそのような約束を勝手にして。とうそぶかれ、シェリュバンよりディリエラの視線の殺意成分が増す。これをまともにくらっては本気で即死しかねないというのは分かったのか、シャダンは伏せ目の笑顔で言い訳にかかってきた。
「知らなかった事とはいえ、申し訳ない事をしてしまったようだ。なら、どうだ、儂がその友人に一筆書いてやるから、訪ねて行ってみてはどうだ?もしかしたら、もう写す作業が終わっているやも知れぬしのう」
「叔父上、竜人に使い走りをさせようというのか!」
「約束をしたのはお前なのだから、お前が行ってくれようが儂は一向にかまわぬが」
 ぐっ、とシェリュバンが唇を噛んだ。
「兄様が、今父上の側を離れられる訳が無いだろう。後継ぎたる者は、先代の臨終を看取らねば後継ぎとして認められぬのがここの習わしだ。父上の具合からも、先の群島国への出向きさえ兄様にとっては苦渋の判断であったのだぞ、まあ叔父上にとってはこれが最後の好機なのだろうがな!」
「おお、姪よ、可愛いらしい口でまたそのように毒を吐く。儂はそのような俗世のしがらみに一切興味など無い、とずっと訴えておるのになぁ。まあよい、儂の友人は首都におる。訪ねてみる気になったらいつでも儂に言え、紹介状をくれてやろう。言っておくが、紹介状無しに訪ねても会ってくれるようなそんじょそこらの三流商人ではないぞ、王宮にも出入りを許されておる高名な美術商だからな」
 まるで闘技場のような熱気で朝食の会が終わり、とことん険悪になったオーラをまとい、シャダンとシェリュバンは別々の扉から一言も言葉を交わすことなく部屋を出た。今後は、首位が息を引き取るその瞬間まで、シェリュバンはその傍らから離れる事はない。首位の部屋までの通路を唯人とディリエラを両脇に従えて、困った事になった、と彼は心の底から呆れたと言いたげな深いため息をひとつついた。
「まさかこういう事態になろうとはな……あのクソ叔父貴は俺達をとことん困らせるため、試練として世界主からつかわされた魔物としか思えん。さっさと聞かされていたら、まだ対処のしようもあったものを。今更首都に使いを送ろうにも、俺の持っている腕の立つ戦士はほぼ商隊の護衛に割り振ってしまったな、ナルバイドのほうにでも頼んでみるか……」
「紹介状さえ貰えれば、僕は一人で行けるよ?鷲獣で飛べばそんなにかからないだろうから」
「いや、空を行くのはやめておけ、今首都方面の砂漠は〝荒れ〟の時季だ。大規模な砂嵐がよく起こるから、巻き込まれでもしたら大変なことになる。竜に乗って砂地を移動するほうがまだましだろう、それにしたって慣れた水先案内がいたほうがいいだろうがな」
 仕方ないな、とにかく嫌だけど紹介状とやらを貰いに行くか、と結論が出たところで重厚なつくりの首位の間の扉の前に着く。念のため、と唯人を残し中に入った兄妹が壁にかかった絵の布をめくって確認したが、下にあったのは白い薄絹をまとった清楚な女性の絵であった。
「若い頃の母上だな」
「まったく、油断も隙もないとはこの事だ。時間ができたらほかの物も一度総確認しておかないとな、つまらん仕事が増える一方だ」
 そこでとにかく気をつけろよ、との言葉を貰いシェリュバンと別れ、シャダンのもとに向かおうとする唯人に、幾分強張った表情でディリエラが続いた。なんといっても相手は自分の兄弟を何食わぬ顔で消したかもしれない相手、兄の立ち会いなしに相対するのは相当に恐ろしいのだろう。しかしここの事をほとんど知らない繊細な客人を一人で向かわせるわけには断じてならないと思ったのか、ぐんと豊かな胸を張って唯人の先に立ち、彼女は、シャダンの護衛の人相のよからぬ男達がたむろしている中を毅然とした足取りで進んで行った。
「叔父上、紹介状とやらはできたのか?取りに来てやったぞ」
 慇懃な態度の扉番に開かれた扉をくぐると、悪趣味と紙一重のごちゃごちゃした美術品に埋め尽くされた一室の奥で、シャダンはちょうど、高級な薄手の獣皮紙に文をしたため終わったようだった。薄紙を乗せて余分な墨を吸い取らせ、思わず良からぬ事を書いたのでは、と勘繰りたくなるような素早い手さばきでそれをたたんで封筒に収め封をする。身内に向けるとは思えない、まったくの無表情でその前に歩み寄り手を差し出したディリエラに、シャダンはおお、ご苦労と顔をほころばせた。
「せっかく足を運んでもらったのだが、気を悪くしないでくれ、竜人を一人で出向かせては申し訳ないのでな。ちょうど儂も、くだんの美術商に新しく入荷した品の目録を作ってもらっておるので、それを受け取りに行く息子にこれを託すことにした。竜人も、息子の隊に同行してはもらえぬか?道中の町や景色など見物しながらの旅も良いものだぞ。なあ姪よ、お前は怖がりなのだから、出しゃばらず後は大人の儂に任せておけ、悪いようにはせんから」
「シュイロウか?あの女の後を追うことにしか興味のない奴に、客人を任せろと言うのか」
 いくらなんでもそれは、と嫌そうな顔になるディリエラにそういう年頃なのだから、とあえて否定はせずシャダンが苦笑してみせる。もういいからさっさとそれを渡せ、と伸ばした手をやんわりとかわし、シャダンは扉の脇にずっと控えている扉番を目で呼んだ。
「いくらお前が強がって見せたところで、それは兄である一位が仕切っている場だけのこと。外に出れば、また恐ろしい人さらいや野盗連中がお前を襲おうと手ぐすね引いて待ちかまえているぞ。自分の部屋に戻るがよい、そしてこれまでどおり大人しくしておれ、美しきディリエラ〝箱の中の人形の姫〟よ」
 ごく何気なく付け加えられた最後の一言に、彼女の形良くつりあがった眼が限界に近いのでは、と思えるほど見開かれた。明るい茶色の瞳が、徐々に火を吹かんばかりの輝きで満たされる。うっそりと背後から近付いてきた扉番の手がその肩に触れようとしたその瞬間、すいと身を低くしてそれをかわすと、旋風のごとく繰り出された足が相手の腹に蹴りこまれ、美術品の並べられた壁へと吹っ飛ばした。
「うお!な、なんと!何をする!!」
 派手な、確実に数個はやってしまった音が響いたのに度肝を抜かれ、シャダンが悲鳴に近い声を上げる。つい一緒にびびってしまった唯人に怪我はしなかったか?と微笑むと改めて居住まいを正し、ディリエラはこの部屋に入って初めてシャダンに表情を見せた、背を凍らせるような、もの凄い笑みを。
「分かった、叔父上がそういうつもりなら、私にも考えがある」
「……ディリ?」
「兄様の名代として、スリンチャの二位のこの私、ベル・ディリエラが竜人の首都行きに同行してやろう。竜人に、あの女好きの指一本触れさせぬためにもな!」
 それだけ言い捨てると、後は相手が言葉を返す間も与えずくるりと身を返して唯人の手を引きその場を去る。後ろに続く唯人からは見えないが、凄まじい表情を崩していないのか、合った瞬間そそくさと背を向ける護衛の男達のど真ん中を抜け、ディリエラはそのまま自分や唯人が使っている部屋の方には戻らずに、外に出てシェリュバンの戦士がいる詰所へと足を向けた。
「あ、二位様、珍しいな、いらっしゃ……!」
 入ってきた二人に気付いて、ついいつもの調子で駆け寄ってきたサテクマルが彼女の表情を見た途端、顔を引きつらせて後じさる。いならぶ顔のどれもが百戦錬磨の戦士そのものの様相なのに、煮えたぎっているオーラを放出しているディリエラに誰も近づけず、ややあって現れたスワドだけがどうなさったんですか、と極めて穏やかに話しかけてきた。
「そんな顔をなさってたら、誰も声をかけられんではないですか。誰に何を言われたか知らんが、まずは落ちつきなさい」
 それとその手は放してあげたほうが、とやんわりと言われ我に帰って、慌ててずっと握っていた唯人の腕を放す。知らず知らずに力がこもっていたのか、唯人の腕にはくっきりと赤く痕がついてしまった。
「すまない、唯人」
「いや、平気だよ、これくらい」
 すーっと熱を帯びた気が抜けていった感があって、スワドに促され、ディリエラはそばの椅子にすとんと腰かけた。改めて、言ってしまったことが自分の中に染み込んできたようで、しぼんだ風船のようにはあ、と大きな溜息をつく。なにがあった、と取り囲む男連中の視線を一身に受けるのも辛そうに、ディリエラは顔を上げると力のない声でスワドに話しかけた。
「叔父上の所に、紹介状を受けとりに行ってきた」
「はあ、それであんな顔に」
「だが、小娘には任せられないと。シュイロウの隊で唯人を首都に連れて行くから、後は任せて部屋に戻れと笑われた」
「は?四位ですか、まあ三位の使いで首都には何度も行き来しておりますからな」
「あの、季節がわりで女を替えるスリンチャ一の恥知らずだぞ?どうせこの旅の合間に息子に竜人を口説かせて、あわよくばものにしようという叔父上の腐った魂胆が見え見えだ」
 え?なんだって??女好きという性格を他人事のように聞いていたが、そうくるとは思いもつかなかった。
「いやそれはない、絶対に、間違ってもないから!!」
「分かっている、唯人に想い人がいるというのは兄様から聞いた。強くて賢く見目のいい、申し分のない人物だと。だがあの恥知らずはな、そういう相手の方がそそられるのだ。幸せな人妻とか、恋人に夢中な女性を口説き倒してものにしたらあっさり次に乗り換える。何回も刃傷沙汰を起こしたが、叔父上が金と権力で収めてしまうから懲りないときた。叔父上の息子としてふさわしいクズだ、あれは」
「まあ、それに関しては否定する気もありませんな。ここ最近はイリュの住民の風当たりがきつくなったから、首都に遊学に行きたいらしいという話も聞いておりますが、思いとどまってもらいたいもんです。スリンチャの評判が悪くなる」
「それで、つい腹が立って、私が行くと言ってしまったのだ。いくら竜に護られているといっても、ラバイアの道理をよく知らない優しくて繊細な唯人を、味方の一人も無しに何日もシュイロウの下品な戦士どもと共に置いておくなど考えるだけで嫌気がする。招いた者の責任として、客人を不愉快にして去らせるわけにはいかないからな」
「で、ここに戦士を頼みに来たと」
 こっくりと、ディリエラの頭が動いた。
「私一人では、やはり無理だ。大きな口を叩いても、いざ本気で考えてみると怖くて泣きだしそうになる。まわりの者を皆切り捨てられ、血生臭い男達に押さえつけられて連れ去られるあの恐怖はまだ消え去ってくれはしない、スリンチャの二位を名乗る者として、強くありたいとそればかり願っているというのに」
「二位様、それはしょうがないよ」
 おそるおそる、サテクマルが声をかける。他の男達、そしてスワドも重々しく頷いて見せた。
「二位様に、一位と同じくらいの度量を求め、それができないから駄目だなんていう奴はここにはおりはしませんって。二位様は今のまんま、なんも言わず助けてくれってここにいる馬鹿どもに一言命じればそれでいいんでさぁ。それだけでみんなほいほい従っちまいます……と、言いたいところなんだがなぁ」
 正直困った顔で、スワドが出してきた戦士の割り振り帳と睨み合う。やっぱり、ここの最低限の護り以外はみんな出払っちまう予定だな、と再度紙をめくった手がふと止められた。
「しょうがない、サテク、お前、姉ちゃん呼んで来い。他の奴も戦士経験のある女の身内がいたら事情を説明して頼んでくれ、それとイェンは腹が痛いって休み届け出してるが仮病かどうか確認な、後はセティヤにも、うーん……」
「セティヤは、ハウィルとの婚姻の証に互いに贈りあう品物を選ぶため、二人で街に出かけるとか言ってなかったか?」
「だな……まあ、一応聞くだけ聞いとけ」
 とりあえずそれで集まりを見て、駄目なようならうちのかみさんでも呼んできます、若い頃はそりゃあ恐ろしい暴れ鹿だったもんで、とスワドが安心させるように軽口をたたく。四位の隊が出発するまでにはなんとしてでも都合付けて見せましょう、と胸をたたかれ、唯人は皆に頭を下げるとしぼみきったディリエラを支え詰所を出ていった。シェリュバンの所に戻ろうか?と聞くと黙ってかぶりを振って返す。とりあえず唯人の居させてもらっている緑いっぱいの客間へと戻り絨毯の上に落ちつくと、唯人は通りかかった召使の女性に何か飲物を持って来て欲しいとお願いした。
「ディリ」
「うん?」
「本当に、嫌だったら無理することなんてないんだよ?女の子のディリにそんな辛い思いさせてまでかばってもらわなくても、僕は大丈夫なんだから。竜もいるし、五十人くらいなら大怪我させずに大人しくさせるくらいの武器と技量もある。なんなら旅の途中でこっそり紹介状を頂いて、先に首都に行っちゃうのもありかって思ってるんだ。僕の考えなしなお願いのせいでここまで話が大きくなって、本当に君達兄妹には迷惑かけてしまったって反省してる、ごめん」
「客人にそんな思いをさせてしまっては、呼んだ側として申し訳ないな。いいのだ唯人、私だって一生このイリュの集落に閉じこもって生涯を送るわけにいかないのは分かっている。今回の事はいい機会だ、兄様が側にいなくとも、信じる戦士らを従え砂漠をゆく、スリンチャの直系としての在り方を、私も見事示してみせる!」
 唯人に真っすぐ向けられた、ディリエラの明るい茶の瞳にいつもの輝きが戻ってきたところで、ちょうど部屋に飲物が運ばれてきた。持ってきてくれたらいつもは入り口で手渡すか、床に置いていくのに珍しく盆を手に捧げ持ったままこちらへと入ってくる。長いまっすぐな黒髪をきりりと縛り上げ、豊かな身体を召使のお仕着せで包んだその女性はきれいな白い歯を目いっぱい見せて、二人に満面の笑みを向けた。
「やっほー、ディリちゃん、来てあげたよん」
「……パリアータ?」
「わー、それと竜人ちゃん!昨日遠目に見たけど、近くで見るとまた可愛ゆいなぁ、朝の乳茶みたいな肌してさ」
「は、はあ……」
 なんだか、良い意味でテンションの高い人だ。けして無作法ではないのか盆を置いてきちんと膝をつくと、女性はおもむろに深々と二人に向かって平伏して見せた。
「まずは竜人様、お初にお目にかかります。私はこの屋敷で召使いを、それ以前は戦士として働かせて頂いておりましたニキエのパリアータと申します。竜人様には、異国で弟のサテクマルが大層世話になったとか。私、今はこうして召使いをしてはおりますが、この屋敷の有事には、いつでもここを護る盾の一枚として在るべくいまだ鍛練は欠かしておりません。二位様には日頃よりの忠誠を、そして竜人様には愚弟の恩を返す為、是非ともこたびの旅の一行にお加え願えればとここに馳せ参じました次第、どうかよしなに御計らいを」
「いいのか?パリアータ。お前は、父上の世話係の一人という重役を預かっている身なのに」
「そりゃあもー、ディリちゃんが一大決心されて出かけられる旅の同行者があのスリンチャの〝歩く下半身〟なんて、ほっとけるワケがないっしょー。あ、イェンっちも腹痛ってのはマジみたいだったけど、一晩あっためたら治ったから来るって。多分食べ過ぎだね、ありゃ」
 それなら申し訳ないが同行してもらおう、かつて〝スリンチャの大砂猫〟と呼ばれたパリアータが来てくれるならこんなに心強いことはない、と頭を下げようとしたディリエラを、すかさず押さえ込むとそのままもみくちゃのくすぐり責めにする。あっけにとられているうちに、気が付いた時にはなすすべもなく、唯人も一緒にきゃーきゃーあられもない声を上げさせられていた。
「なんで僕までぇっ!」
「竜人ちゃん、思ったより肉が固いねぇ!」
「や、やめて下さいぃ!」
「ほれほれ、腰布むいちゃうぞー」
「ああっ、そ、そこだけはぁっ!!」
「きゃ、客人なんだ、許してやってくれ、パリアータ!」
「じゃあ、ディリちゃんの可愛いおへそで我慢するか」
「よさないかぁっっ!」
 お、親にもこんな事されたことなかったのに。まるで乱暴されかかった小娘みたくなって二人して部屋の隅まで追いつめられ、息を荒げて涙目でふるふるしたら思い切り笑いこけられた。二人がかりでなんですーだらしないなと呆れられ、じゃ、用意してきますからとパリアータは颯爽と出ていった。
「な、なんか、すごい人だね……サテクからはちょっと想像できなかったな」
 ぼさぼさの頭で、ちょっと悲しそうにディリエラが眼を伏せる。
「……彼女は、かつて私の姉の護衛だった。姉を護れなかったのを最後まで気に病んで、私が二度目にさらわれた時は敵の陣に一番に斬り込んできて助けてくれた恩人だ。ニキエの家系は代々良い戦士を出す、私達に忠誠を捧げてくれているのは、本当にありがたい事だと思っている」
 何とか二人で居住まいを正し、ちょっと落ちつこう、と床に忘れられていた飲物を頂いていると、今度は入れ違いにセティヤが来てくれた。勿論同行させて頂きます、ハウィルもよろしければお付けしますよと言われ、二人で出かける用は大丈夫?と訊ねてみる。ああ、そのことですか、とセティヤは微笑んだ。
「どちらにしろ、質のいい贅沢品を買うにはミーアセンか首都ぐらいしか行けませんから、どちらでも良かったんですよ。向こうに着いて自由時間が頂けるなら、こちらからお願いさせて貰いたいくらいです。ハウィはそれほど強い霊獣を持っているわけではありませんが、、弓の腕がいいから戦力的には問題ないでしょう」
 それに私達が同行すれば、四位の標的が増えて唯人さんに向ける熱意が分散されるかもしれませんし、と恐ろしい言葉をさらりと付け加える。もはやスリンチャの恋人達の間では、シュイロウの誘惑は度胸試しのような扱いになっているのだろうか。
 結局、翌朝早くに集落を発つシュイロウの戦士ほか五十人の隊には唯人とディリエラ、そして十人の女性と両性でまとめられた小隊が同行することとなった。一族の一位であるシェリュバンでさえ、戦士や雑用の人手を含めて四十人程で旅をしていた事を考えれば、これは破格の規模である。しかもいざ出発となって、にぎにぎしく屋敷の玄関に現れたものを眼にして、唯人は思わずあんぐりと開いた口を閉めるのを忘れそうになった。
「唯人、分かっているから何も言うな」
 ディリエラも、渋い顔で目を逸らす。砂漠を旅する際の乗り物として、まずほとんどの人間は砂走鳥を使う。荷物のある人やよほどの年寄りは砂漠鹿が引く荷車に乗り、ものすごく稀には乗れる霊獣を持っている両性もいるのだが。正直、目の前のこれは見た事がない。唯人の世界の〝御神輿〟にそっくりな木組みの上に三畳間程のど派手に飾られた箱が乗り、前と後ろに伸びた軸木にはそれぞれ一頭ずつ、四頭の砂漠鹿が繋がれ固定されている。旅の最中の彼等の世話の事も考えたら、王族級のものすごく贅沢な乗り物だ。
 どんなに、吹けば折れそうなはかない姫君が乗っておられるのかと思ったら、背面の扉が開いて姿を現したのはシェリュバンと歳はそう変わらなそうに見える大の男一人だった。宴の席で見かけたような気もしたが……シャダンの視線が重すぎて、あまりそっちには顔を向けられなかったのだ。
「んー、お早う。美しき従兄弟どの、そして愛らしい竜人よ、昨日は良く眠れたかい?」
 両手を広げて肩を抱こうと近づいてきた、背は高いがひょろりとした相手をディリエラは無駄のない流れるような動きで避けた。ん、と困ったように鼻を鳴らし、唯人に伸ばされたきた腕をも、素早く唯人を自分に引き寄せる事でかわさせる。おいおい、挨拶くらいさせなよと呆れる相手に、ディリエラは背中の毛を逆立てた猫のような顔で応じた。
「もう分かっていると思うが、唯人、こいつがスリンチャの四位で私とセティヤの従兄弟殿、ナプ・シュイロウ・マオル・スリンチャだ。今後一切、口をきく必要はないからな」
「そりゃあないよ、せっかく知り合えたんだから仲良くさせてくれ。正直、俺はディリには感謝してるんだぞ?いつもむさ苦しい連中と旅をさせられてうんざりしてたんだが、今回、君は俺の為に一抱えの花束を携えてきてくれたじゃないか。どれも魅力的なのには変わりないけど、まずはこの可憐な異国の一輪をよく愛でさせてくれ」
 おうわぁ、と全く意識することなく顔が〝ふざけんな〟になった。この四位、確かに父親に似ず顔の造作は悪いと言う程ではない。シェリュバンが目のきつさで損をしているのに比べたら、ラバイア人には珍しい少し目尻が下がった顔つきは甘く、とても優しげに見える。自分でもそれを分かっているのだろう、語り口も甘いし漂ってくる香料の匂いもあからさまに甘い。まだはっきり何かに例えられないアーリットのあの香りのほうが数百倍好ましい、というのは唯人だけの思いだが。
 そうだ、分かった、この雰囲気は都内某所のベテランホストだ、とぴんと来たところで唯人の彼への興味は終了した。なんとなくだが、この顔にはとりあえず結論として〝どんな人間も自分を好きになるに決まっている〟と言いたげな、呆れた傲慢さが感じられる。それより何より、たとえ砂漠の砂が水に変じようが、唯人が絶対彼に心を許せそうにない重大な事実にすぐ気が付いた。
「今日は、竜は連れていないのかな?俺も乗せてくれるかと期待してたのに。ああ、誤解しないでくれ、怒っているんじゃないんだ。あの竜の事、父上はへそを曲げてしまったみたいだけど、俺は美しいものは多少の危うさは秘めていてもいいと思っているから。だって、俺と同じだろう……?」
「はあ」
 段々脈が早まってきた気がするのは、苛ついてきたせいもあるのだが、彼のある部分の印象が唯人にとって最悪なそれに触れたせいだった。大きくうねった長い黒髪、暑い国で束ねもせず背を覆っているそれは、まぎれもない……破壊主のそれに酷似して見える。更に癇にさわることに、金の縫いとりが施されている衣装までこの砂漠でまさかの上下黒でそろえてあるので、背を向けられると体内の鋭月までもがぎくりとしたのが伝わってきた。
 一緒にしては、この時だけはあちらのほうに申し訳ない気がしたが、とにかく女性的な言い方をさせてもらうとこれは生理的に受け付けない。もう無理だ、と唯人は溢れんばかりの秋波をくれている相手から、そそくさと離れようとした。
「ああ、控えめな容姿そのままに恥ずかしがりな君、他国から来て分からないのだろうが、ここから首都への旅は君が思う以上に大変なんだ。そのあたりが同様に経験不足な従兄弟殿ともども、意地を張らずに今からでも俺に頼ってみればどうだろう?」
「心遣いは有難いのですが、こちらにも旅に慣れた者が同行してくださるので、どうかご心配なく」
「ニキエのパリアータか、あれも現役を退いてもう何年たっているのかね?大砂猫の牙も丸くなっていないといいんだが」
「まぁ、少なくともお前と違って、夜落ちついて眠る事はできるだろう」
 しかめっ面で呟いたディリエラをこら、嫁入り前の娘が言う事じゃないよとたしなめて、シュイロウが優雅に額同士を合わせるラバイア式挨拶を仕掛けてくる。それを断固としてかわし、隣のディリエラと本気で逃げる。
「アスクラのダット、気が変わったらいつでも来るといい!」
 ああもう、滑舌まで怪しいこの野郎。ほぼ女性ばかりに囲まれて何日かの旅というのも考えると少し汗ばむ状況だと思ったが、ディリエラの言うとおり、一人で彼と相対せねばならない状況になっていたら、集落を出る前に心が折れてサイダナかエリテアに逃げ帰っていたかも知れなかった。
 離れた場所に集まっている、女戦士の一団に戻ってほっと息をつく。シュイロウの配下の男共も主人に負けず劣らずの下心丸出しな笑みでこちらを盗み見しているが、女達はつんと胸を張って全く意に介していない素振りを貫いていた。
「よう、唯人。あの種鹿野郎と挨拶してきたのか、目と耳腐ってねーか?」
「あ、お早うイェン、お腹はもう大丈夫なのかい?」
「ん、もういい。灸すえてあっためて寝たら大抵の事は治るから、俺」
 群島の時と少しも変わらず、すとんとした衣装と頭に黒布を巻いている彼女は、今回のディリエラの隊の中では一番男っぽく見える。セティヤを含めた四人の両性は、どちらかというと皆綺麗めの顔つきで完全に女性陣と同化しているが、ハウィルに至っては無口なのと印象が限りなく薄いので、一度会ったにもかかわらず、しばらく居るのに気が付かなかった。
「唯人さん、旅の支度は私達だけで向こうに着けるだけの分は用意できていますから、シュイロウの隊は同じ方向に向かうだけの別の隊と思ってください。三位が何か企んでいたとしたら、あれは最悪五十人の敵です」
「まぁ、十中十五くらいは企んでいるだろうな」
 セティヤの言葉に、ディリエラが暗い顔で溜息をつく。
「ただこちらとしては幸いにも、唯人さんが無尽蔵の水がめの役をしてくださるので大量の水を運ぶ必要がない。だからそれを持たない事で、あちらに頼っている部分はあるというふりが出来ます。向こうにそこを切り札だと思わせて、油断させる事ができますね」
 本当は、旅の荷物は全部綱手に運んでもらおうと思っていたが、綱手がいるのに気付かれたら乗せてみろとか言われるのも嫌だし。彼にはミラと一緒にある仕事を頼んでいたので、シェリュバンが用意してくれた運搬用の砂走鳥に分けて乗せた。昨日事の次第を知ったシェリュバンは、とても心配して一応ディリエラに考え直すよう説得したが、彼女の決意が固い事を知るとできる限りの旅支度とシェリュバン自身の名馬ならぬ名鳥を貸し与えてくれた。唯人にも妹を頼むと真摯に頭を下げられて、男扱いしてくれた気がして嬉しくて、絶対護るから、と唯人は胸を叩いて見せた。
「たった十人くらいの隊でも、荷物を入れると結構な規模になるんだな。でも、あっちには到底かなわないけど」
 唯人の世界では、旅の荷は女性の方が多いというのが定説だが。旅慣れしている元戦士の女性達の荷物はとても簡素で、幾つもの砂漠鹿の荷車を連ねるシュイロウとは両極端の極みに見える。向こうはまるで、朝のユークレン大橋の上の景色がそのまま移動しているようだった。
「四位の隊は、ちょくちょく首都に出かけるけど見かけた遊牧の民からは〝町が動いてる〟って笑われてる。あれでクルニ族の餌食にならないから、裏で繋がってんだって陰口叩かれるんだ。どう見たって格好の獲物だろ、ありゃ」
「でも、護衛があれだけいるんなら」
「あのごろつきどもが役に立つって思ってるのか?馬鹿馬鹿しい。宴会の夜、おこぼれ貰って仲間と一杯やってて聞いたんだけどさ。俺がいる時はいつも護衛してやってる商人が、どうしても外せない取り引きがあって三位派の護衛十人と一緒にミーアセンに行ったんだと。帰りに案の定クルニの野郎に待ち伏せされて、相手は五人もいない程度だったのに騒いでるうちに荷の半分を取られて無傷で逃げられちまった。護衛の連中に噛みついたら、命があるだけでも感謝しろって言われたってさぁ。笑わせるよ、一位の戦士なら荷を取り返すまで追いかけて、賊は自分達の名誉のために絶対残さず始末する。そもそも、半数の相手にはまず負けないし」
 イェンと話しつつ、唯人が普通の砂走鳥にまたがると、離れた位置の四頭立て鹿みこしがにぎにぎしく動き出した。普通に歩いては砂走鳥の方が早いので、引き離してしまわないようディリエラを中心とした円陣を組み、 パリアータを先頭に据えシュイロウの大隊に付いて進む。
 鹿みこしの背を見ながらあの中暑くないのかな、と呟くと、セティヤがあれには三位が大枚をはたいて買いつけた北海の霊獣を備えている霊獣使いが同乗していますから、と教えてくれた。
「その方も、私と同じに一応スリンチャの霊獣使いの三強の一人ということになってはいるのですが。わざわざ首都から呼び寄せたにしては、空青石を連ねた首飾りに金で買った霊獣を入れて、高価な〝輪〟をふんだんに付けて……あれだけ金をかければ、五歳の両性でも三強になれますね」
「〝輪〟?輪って、セティヤが手や足首に付けてるそれ?」
 そういえば初めて会った時から眼にしていたが、シェリュバンの戦士の中で彼だけ、手足に木やら金属やらのさまざまな素材の輪を幾つも付けて賑やかな音を立てている。ただの飾りか霊獣使いの象徴くらいだと思っていたが、違うのか。
「ああ、輪というのは唯人さん達東国の霊獣使いにとっての杖ですよ。ラバイアには杖として使えるような長生きで大きくなる木はありませんし、大きな木片だと痛むのが早くて。だからユークレンやアシウントから良い木を仕入れて輪にして、そこにラバイア産の貴石をはめ込んで威力を底上げして使っているんです。それでも一個で満足できる性能には到底ならないので、私のように沢山になってしまうんですけどね」
 ふうん、と何気なく視線がいった先のハウィルが、慌てて腕にはめている透かし彫りの木の腕輪を見せてくれる。何か言おうともごもごしているうちに、先にセティヤに三色尾鷹の霊獣を持っている事を言われてしまった。
「シュイロウの隊には、霊獣使いが先に言ったペンドゥラ一人しかいませんから。もし相対することになっても、私と唯人さんさえいれば何とかなるでしょう。正直、あのミーアセンでの戦いを知っていれば、三位も戦士が何人いようが無駄な事が分かるんでしょうがね」
 というような事を、ついつい長話せずにはおれないほど旅のペースは遅かった。何せ鹿みこしの速度が遅いので、まわりの砂走鳥に乗った戦士らもだらだらとその周囲を囲んで緊張感なく進んでゆく。あっという間に日が傾いて、水場もなにもない砂漠の真ん中で隊が停まり野営の用意を始めたのに、パリアータが信じられない、と首を振った。
「普通の速度で行ったら、このずっと先にある水場まで楽に着けるはずなんだけどねぇ。まさか明日一日かけてそこまで行くの?こんなんじゃ行って戻ってくるまでに、ひとつ歳とっちゃうよ」
「私達に水を補給させないで、彼等の分を分け与える代わりに交換条件を突きつけてくる気なのかもしれませんよ?まあとりあえず、交渉に行ってきます。唯人さんは待ってなくていいから、くれぐれも彼等に見られないよう鳥の陰ででも皆に水を補給してあげて下さい、お願いします」
 分かった、と地に降ろされた鹿みこしに向かうセティヤとディリエラを見送って、焚火を起こして夕餉の支度を皆でしているふりをする中、唯人はこっそり砂走鳥の向こうに隠れると、そこに積み上げてある水袋ひとつずつに水をたっぷりと詰めていった。砂走鳥は水を飲み溜めできる生き物なので、そわそわするものの唯人の作業をじっと見守ってくれている。塩漬け肉と根菜を煮込んだ香辛料の効いた料理が出来上がる頃、また怖い顔になったディリエラとセティヤが手ぶらで戻ってきた。
「やっぱり、何か言ってきた?」
 唯人の言葉に、セティヤはくすくす笑っているが、ディリエラは眉間に深い皺を入れている。両者の視線が自分に向けられているのに気付き、僕か、と唯人も苦笑した。
「すいません、こちらで勝手に判断させてもらったのですが。シュイロウ殿から唯人さんを自分の輿で寝泊まりさせる提案をされたので、丁重にお断りしてきました。唯人さんがこれを受け入れるなら、水を分けて頂けるとのことですが。皆さん、どうします?」
 一斉に、火の周りからほがらかなブーイングの声が響き渡った。あのど助平、そこまでやりたいか、等、身も蓋もない非難の声があがる。ちなみに個人的に水が欲しい方がおられたら、その方は遠慮なく来て頂いてよろしいそうです、と付け加えられた途端、そこらのものが手当たり次第離れた位置の鹿みこしに向かって投げつけられた。なかでもノリで放たれたハウィルの矢などは、危うく本当に当たるところだった。
「ああ畜生、つい小刀投げちまった、後で拾いにいかないと……」
 ぶつぶつこぼしながら夕食をよそってくれたイェンから椀を受けとって、代わりにさっき一杯にした手持ちの水差しを渡してやる。それを味わって、一日甕の中で砂漠を渡ったぬるい水よりこっちのほうがずっといい、と皆口々に喜んでくれた。
「それじゃあ皆さん、私達は水が心もとないというふりをするため、明日は四位より先行して次の水場に急ぎましょう。何か起こるか分かりませんから、今日はゆっくり休んで力を蓄えておくように。よく分かっていないあちらの殿方が交流を求めに来られるかもしれないので、砂紐蟲を放っておきますから。誘いに応じる気のある方は、先に私に断っておいてくださいね」
 いやいや、それはないと皆がそろってセティヤにかぶりを振る。食事を終え、火を囲んでの世間話が花咲く中、ふと唯人は何かに気付いた顔で彼方を振り返ると皆の注意を引かないよう、そっと腰を上げた。
「どうした?唯人」
「うん、来たみたいだ」
 ディリエラと共に皆から少し離れると、波のような砂音が近づいてくる。音が止まり、唯人の目の前でざっ、と足元の砂が割れ巨大な頭が突き出されてきた。
「綱手、ご苦労さま!」
 すり寄せられてきた頭を抱きかかえてやり、おもむろに開かれた口の中にいる、ふたつの影が出てくるのを待つ。すぐにふさふさした毛並みの大きな身体が飛びだしてきて、後に続いた小さなほうは、片方の腕を肩ごと固定しているので唯人が抱えて降ろしてやった。最後に、いつもの小動物の姿をしたミラが出てきて唯人の肩に飛び降りる。よっこいしょーと砂から全身を現すと、綱手は犬みたく身振るいして砂を飛ばした後、小山のような身体でうずくまって唯人に髭を絡めてきた。
「大丈夫だった?どこか痛いとか怖い事なかった?」
「は、はい……」
 シャダンのもとで獣の世話係をやっていた少年、黒髪に赤い差し毛が特徴的なタッカ(本当の名は、エファランクシャヴァイテュというのだが、あまりに長く略そうにも切りどころがないのでタカン族という意味のこの名で呼ばれていたそうだ)は、あの夜屋敷からミラに連れられ逃げ出した後、ディリエラの知り合いの家で手当てをされて狼ともどもかくまわれていた。幸い、腕は肩が外れることもなく筋を少し痛めただけで済んだようだったが、普段からあまりいい扱いをされていなかったのか粗末な服を着た小柄な身体は痩せ、あちこちに小さな傷がある。
 これくらいの子供なら、竜に乗った事への高揚感とかを顔に出してもいいものなのだが。これからどうなってしまうのか、また別の所へやられてしまうのだろうかとその顔は言葉にできない不安に満ちていて、ディリエラは腰を下ろして目線を合わせると、安心させるようにその頭を撫でてやった。
「おいで、食事はとってある。腹いっぱい食べさせてやろう」
「〝砂漠の覇者〟様に先に……俺、いつも残り物だから」
「〝砂漠の覇者〟?あの狼か」
「はい」
「叔父上しか考えつかないご大層な名だな、そんな面倒くさいのよりもっと簡単な……お前は、なんと呼んでいたのだ?」
 わふわふと息を弾ませながら、狼は少年の周りを嬉しそうにぐるぐる飛び跳ねている。自分にそのような事を問いかけられたのに驚いたのか、杏色の瞳をとまどった風に泳がせて少年はもそもそと呟いた。
「……ハルアジャ、タカンの言葉で……〝雲の影〟」
「よし、ハルアジャには充分餌をやるし、お前にもお前のぶんがちゃんとあるぞ。他人の流儀は知らないが、私はたとえ下働きだろうが子供に獣の残りを食べさせる気はない。さ、皆が心配するから戻ろう、唯人も」
 三人で焚火のほうに戻ると、ちょうどセティヤの罠に向こうから忍んできた複数の男が引っかかったらしく、みんなで大笑いしている最中だった。ここにいるはずのない顔を連れてきたのに気付き訝しむ一同に、事情を話し首都まで連れて行って東に向かう商隊にでも託すつもりだと説明する。幸い女性達は屋敷勤めの者が多く、彼と彼の事情を知る者がほとんどだったので皆快くそれに賛同してくれた。
「シュイロウに見つかったら、勝手に逃げたのが偶然迷い込んできたとでも言っておきましょう。まさか彼も、この子一人を送り返す為に人員を裂く気は毛頭ないでしょうからね」
 温めた煮込みを夢中で頬張っている少年の横で、狼はいつのまにか自分で調達してきた大きな砂鼠をばりばりと平らげている。餌の心配はいらないな、と微笑むと、皆がそろそろ寝るための一人用の天幕を張り始めたので唯人もそうすることにした。ディリエラと共に皆の中心に入るよう言われるが、男の自分が申し訳ないのと、添い寝を希望する綱手のために輪の一番外れに小さな天幕を組みたてる。今回は、一度綱手を身体にしまってしまうと次に大きな岩を見つけるまで出せず不便になるので、このまま出しておくことにした。
 添い寝というよりは、人の横でハムスターの群れが寝ているような状況なので、ハウィルを始めとした両性の面々は明らかにびびっているが我慢してもらうしかない。小さな天幕の中、砂の上に敷いた一人サイズの敷き布の上で丸くなると、遠くで誰かが爪弾いている弦楽器の物悲しい音色が耳に届いてきた。そう悪くはない調べなのだが、どうしても状況が状況なだけに春先の雄猫が頭に浮かんでしまう。するりと入ってきた綱手の髭をいつものように頭に乗せて、いざという時の為銃と刀を出して抱えさっさと寝ようと眼を閉じると、暗闇の中、なぜかエリテアでアーリットと別れたときの、物言いたげな顔が頭に浮かんできた。
「アーリットは、もうとっくにテルアに着いてるよな、何をしてるんだろう」 
 離れていると、つい気になってしまう。元気な状態だと分かっているなら尚更だ、横暴で口が悪くていろいろと苛められはするが、やはり傍にいてくれると安心する。そうだねぇ、とミラの声が返ってきた。
『だいぶ留守にしちゃったからね、きっと溜まった仕事でてんてこ舞いしてるよ』
『今僕が、アーリットの昔の姿が見たくてこんな所に来てるって分かったら、きっとすごく怒るだろうな。今から言い訳を考えていた方がいいのかな』
『別にいいんじゃない?見るなって言われたわけじゃないんだし』
『でも、絵にたどりつく前にアーリットが来たら、絶対引きとめられる気がするよ』
『……それは大丈夫じゃない?』
『え?』
『多分、というか、来ないと思うな、おチビは』
 なんで?とその言葉の意味を問いかけてみたが返事は返ってこなかった。思わず問い詰めたくなるが、この頃のミラは嘘を言わない代わりに、言いたくない事は断固とした沈黙で拒否してくる。アーリットが来ないつもりなら、それは一体どう解釈すればいいのだろう。もう手がかからなくなったから、本当に好きにしろという事なのか……?
『ミラ』
『……』
『やっぱり、彼にとって僕は、自分の国に迷い込んできたやっかいなただの余所者、ってだけだったのかな』
『どうかな、僕はおチビじゃないから断言はしない。ただ、あの子は寂しがりやだから、困ってる生き物をかまうのは嫌いじゃないんだよ』
『保護者的に?』
『そう、森の中で親とはぐれた獣や弱っている蟲の子を拾ってきて、家に入れて餌を食べさせ懐で暖めてやる。元気になって懐いたら、あの子にとっては束の間の短い命、森に帰しても、最後まで一緒にいてもいい……』
『そのまんま、僕だな』
『そうだね、けど、君はそういうわけにはいかないんだ、唯人。君には君の世界、っていうちゃんとした飼い主がいる。どんなに気に入って欲しくなっても、そこから奪って自分のものにしてしまう事はできない、おチビもそれは分かってる』
『じゃあ、どんなに頑張ろうと、僕の気持ちは全部無駄だってことなのかな?』
『唯人』
 穏やかに、諭すようにミラが囁いた。
『よく考えて、君はこの世に出てきて二十年、おチビは四百年を過ぎている、どれだけ時が過ぎても追いつけるってものじゃない。君はおチビにとっては目の離せない不思議な子、どこから来て、何をするのか全然分からない。だから、何百年も面倒みてきた国と世界が落ちついたと思ったら、自分の思いもつかない破滅に向かってて不安になってるおチビにとっては、そういう刺激って結構気がまぎれて美味しかったんじゃないのかな』
『そう?』
『ところがね、おチビは美味しいを突き詰めると怖いになってしまう困った子なんだ。この世界のほとんどが、自分と同じ時間にいてくれない。好きな人、楽しい事、美味しい物はあっという間に過ぎ去って、あの子に孤独と不満と喪失感しか残さない。なら、夢中になってしまう良いことなんて知らないほうがいいって思いたくなるだろう?唯人が、自分にとって美味しいものになりつつあるってあの子は気付いてしまった。だからもうここまで、これ以上は先に進まないって決めちゃったのかもね』
『そんな……』
『唯人、君は本当におチビのことが好き?』
『……うん』
『君の世界にはいない、君の理解の遥か向こうにいる子だよ。姿はそう変わらなくても、獣や蟲、いやもっとかけ離れてる存在かも知れない。互いの〝好き〟が互いの思ってる状態じゃないかも知れないんだよ?』
『うんと前に、アーリットもそんな事を言ってたよ。好きな相手と交わった後、その相手を食べてしまう生き物だったら嫌だって。でも最悪そうだったとしても、そういう種の食べられる方って自分の事を不幸って思うのかな。それがアーリットって存在の在り方で、少なくとも好き、ゆえの行為なら僕はきっと受け入れられる気がする。痛くないなら、なおいいんだけどね』
 意識の中で、呆れたような溜息の風が吹いた。
『唯人、君やっぱり相当変わってるよ』
『そう?』
『あの超規格外れのおチビに気に入られるだけの事はある、って言ってあげたらいい?でも、これだけは覚えておいて。君の無邪気で無神経な〝好き〟は、数百年前あの子の心を粉々に切り刻み、命とほぼ同価値のものを捨てさせてしまった刃に変わる危うさを隠し持っている。おチビを好きだ、一緒に居たいって思うなら、まず君は自分を死なせない為にこの世界に来たって事を忘れちゃいけないよ、絶対にね』
『うん、分かってる』
『全ては、そこを越えてから始まるんだから』
『あの時アーリットが言ったのは、ただの例えで悪い冗談なのは僕にだって分かってるよ。僕は君の言うとおりまだ子供で物知らずだから、何だって確かめてみないと分からない。先の事を考えるだけで、今の行動をやめてしまうなんてできない。手探りで触れた物で痛い思いをしながら前に進んで、何としてでも僕の世界の〝死〟をはねのけて、百歳まで生きてアーリットに僕を認めてもらうんだ』
『はいはい、頑張って』
『ミラ』
『もう寝なよ、唯人』
『僕は、良い方向に進めているのかい?』
『……さあね、とりあえず世界は知らん顔で君はここにいる、そういうことさ』
 そこで言葉を終わらせたミラは、それ以上はもうなにも語る気はなさそうだった。弦楽器の音がいつしか遠くなり、唯人はそのまま眠りに落ちた。



「はい、どうぞ、我流なものですが」
 しんとした、風も吹かない砂の上。かなり不自然な様子で、草を編んだと思われる敷物が敷かれている。ほぼ真円に近い月から注ぐ明るい月光に照らされて、あまりにも理解のできない複雑な手順で小ぶりな陶器のカップに湯気の立つ液体を調合すると、セイザという彼の時代の米国の認識では拷問の時にしかやらない方法で座しているヤパンのサムライは、薄い笑みでそれを向かい合った相手の前に置いた。
「それほど熱くはありませんが、気になさるなら少しずつで」
 普段表情をほとんど変えない相手に笑顔で勧められても、目の前のこれが身体に入れていい物と思えない。調合した本人がしばしば自分で飲んでうっとりしているのを見ているし、ティーだという説明も聞かされてはいるが……やはり駄目だ、どう見ても藻が腐った沼の水にしか見えない、泡の立ち具合がなんとも不気味ではないか。困惑で一人軍服の下に大量の汗を吹いている米国兵の苦悩に気付いているのかいないのか、別にせかすでもなく黒目がちの暗い眼を細めて天の月を眺めると、鋭月は脇からもうひとつ茶碗を取り出した。
「よろしければ、自服させて頂いてかまいませんか」
 自服、ジフク、セップク、切腹……米国人にとって伝説の恐怖であるハラキリに似た響きだが、ここで持ち出す内容なのか。まさかそんなはずはない、と自分に言い聞かせ怖々頷いて返す。どうも、と出した茶碗に慣れた手つきで濃茶をたてると鋭月は品良くそれを頂いて、最後にずずっ、とぶち壊すような音を響かせた。
「やはり、茶の湯はスフィ殿のお気には召しませんか。これは、私の国では最も格の高いもてなしなのですが」
 すでに冷めかけている茶の様子に溜息をついて、申し訳ありませんと下げようとする。慌てて、スフィはその手を引きとめた。
「ちょ、待てって!飲まないなんて言ってないだろ、泡が湧いてるから引くのを待ってたわけで……もういいみたいだな」
 点てなおしますよ、と言われるが、いいからとごまかし口のそばまで上げた腐れ沼水をじっと見る。泡は減ったが、まだ嫌な具合に生暖かい。くそう、こんな心理攻撃に自由と栄光の米国陸軍兵実装長銃が屈してなるものか。両手で持って、一気にあおってやった。
「……!!!」
 にがあぁぁぁ、と舌がら伝わった感覚に全神経が震えあがった、どっ、と口中に唾が溢れてくる。こん畜生、やっぱり騙しやがったな!先に出されたヒガシ(干菓子)とかいう兎の形のキューブシュガーを先に食べるのだと言われ従ったが、どう考えてもこれに入れて溶かして飲むものだろう!こいつを責めてもはぐらかされるだけだろうから、明日一番に唯人に言いつけて事の次第を暴いてやる、覚えてろよ。
「スフィ殿は、思いを言葉にせずとも全て顔に出してしまわれますね……」
 含み笑いを響かせながら、まだありますよと出された小皿の落雁を二個ほど口に放りこんで、痺れる舌を落ちつかせる。その時、それまで置物のごとく傍らにうずくまっていた鳥がふいにひょい、と首を伸ばしたと思ったら、菓子をつついて飲みこんだ。
「あ、ずるいぞてめえ、それ食うならこの苦いのも飲め!」
 突きつけられた茶碗の底の残りを、はいはいうるさいなと言いたげな顔でぐぐーっと吸い上げる。鳥らしく喉をひくひくさせた後、別にどうってことないじゃん、な表情で見返され、ま、まあ、標識に味が分かるとは思ってねぇよ、とスフィは視線を泳がせた。
「……んで、鋭月、結局これはなんのイベントだってんだよ。俺に苦い思いさせて嫌がらせしてんなら断じて屈する気はねぇからな。いくらでも受けてやるから、こんなちびちびじゃなくてどんと来い、ってんだ」
 言葉通りに空いた茶碗をどん、と置かれ、鋭月が薄い唇で溜息をつく。
「同じ世界の出だというのに、貴方と分かり合うのはこの標殿とより難しい気がします……。私はただ、この美しい月を愛でながら茶を頂いて、ここに来てから唯人殿のお心をわずらわせている私共のわだかまりをどうにか収めようと思った次第だったのですが。嫌がらせととられては、いたしかたありません」
 敷物の隅で、細い筒に生けられた地味な花が夜風に揺られている。それを見るともなしに見て、スフィはこいつら、と少々呆れそうになった。
「なんだよ、ヤパン人ってのはなんでどいつも小難しい上にまわりくどい手ばっか考えるんだ。何も言わねぇで唯人は卑屈に俺の機嫌取ろうとするし、お前は苦い物飲ませて嫌にさせる。たった一言、こう思ってるからこうだって言やあ分かる事なのによ」
「私どもは、言の葉より五感に感じる事で思いを共有する民ですから。できれば言葉で済ませてしまうよりは、相手に良かれと思う事をやって組み取ってもらうのが望ましいのです。だから多少の事では表情も変えたりは致しません、心中を他人に示してしまうのは無作法なことですから」
 そっか、とがしがしと明るい色の髪を掻き、どこを見ているんだかよく分からない暗い瞳に向かい合う。
「面倒臭いって思いは変わらんが、それもお国柄ってことなんだな。んじゃ、俺もヤパン流にお返ししてやるか、軍隊流しか知らねぇがな」
 おもむろに長い上衣の懐から質の良くないアルミのポットを取り出して、ごそごそした後、その中に茶釜で沸いている湯を柄杓で注ぎ込む。すぐに周囲に漂い始めた香に、鋭月が少し眉を寄せた。
「なにか、焦げてはいませんか?」
「焦がしてあるんだ、良い香りだろ」
「焦げ臭いです、口にする物の香ではありません」
 やんわりと顔を伏せ、鼻を袖で覆った鋭月にやった、とスフィは心の中で親指を立てた。さっきの茶碗に並々と注がれた真っ黒な液体に、黒目がちの眼がいやーな感じに細められる。差し出されたそれを気丈にも持ちあげて、一拍置いて(多分息を止めた)ひと口啜ると鋭月はしばらく黙りこんだ。今きっと、口の中が唾で一杯になってるんだろう。
「……香りのままの、お味、ですね」
「無理なら、シュガーやミルクをたっぷり入れるといいぞ、女子供はそうするんだ」
「私は、そのどちらでもありません」
 標はまた、ポットの口にかかっている布袋の中の濾し殻を平気な顔をしてつついている。やっぱりこいつ、味分かってねぇ……と鼻白んだスフィの傍らで、なんとか鋭月は眉間の皺を伸ばしつつ茶碗一杯のコーヒーを干した。
「どうだ、美味いだろ」
「……」
「参ったか」
「……スフィ殿」
「おう」
「一応聞いておきますが、これは、嫌がらせなのでしょうか?」
「俺の国じゃ友好を深める手段だ、お前がどう思おうがな」
「そうですか、分かりました」
「もう一杯いるか?」
「いりません……いえ、充分です」
 ちょっとぐっとなった後、やがてくすくすと笑いが漏れる。なんで、互いの交流を深めるための物がどっちもこんなにひでぇ味なんだろうな?とスフィも笑った。
「あの湖城の蔵に収められていた頃は、互いに言葉を交わす事はあっても、このように踏み込んで理解し合おうなどという考えは起きませんでしたね」
「そりゃあ、あの頃、俺はあそこで朽ちて終わる事しか考えてなかったからな。こんな知らない世界で、よもやヤパン人に修理されてまた使われる日が来ようとは夢にも思わなかった」
「人に使われ満足して頂くのは、物にとってなにより望むべき在り様です」
「ああ、獲物を照準に入れて、あいつの思ったとおりの位置に弾を当てるとゾクゾクする。あいつは相手を仕留めちまうのを嫌がるから、末端の難しいところを撃ち抜かなきゃならねぇがちゃんと当たると一瞬ほっとするからな、その感じがいいんだ」
「私を揮われるときは、もう諦めておられますよ。最初の国におられた頃よりは、大分勘を取り戻されたのか動きは良くなりましたが、いまだ血に慣れず辛そうな顔をなさってしまわれる……それは今の私の祖国の在り様を思えば、しょうのないことなのでしょうが」
 ふっ、と一瞬言葉が途切れ、砂漠の静けさが周囲に満ちた。
「護んなきゃなぁ、あの若い、頼りなくて、でも懸命な命をよ」
「その為に、いかほどの屍を積もうとも」
「俺達は武器」
「……人を護り、かつ人を殺める矛盾の具象」 
 すいと、一動作で鋭月が立ち上がった、間をおかずにスフィの長身もそれに続く。彼らがいる砂の丘の麓、小さな天幕が集まる場にわずかの動きがおきていた。あちらの大規模な夜営の場との境で、うねうねと無数の長蟲が砂から頭をもたげ何かを警戒する素振りを見せている。そこに近づいてきたのは、向こうから来たらしい二つの人影だった。背の高いのとすこし小柄に見える、その二人が距離を詰めるに従い長蟲が集まってそれ以上寄るなと威嚇して揺れる。その時、小柄な人影の背後でちかり、と白くまばゆい光が揺れた。
「お見事、ペンドゥラ」
「御心のままに」
 長蟲は、一瞬のうちに全て氷漬けにされていた。その脇を悠々と抜け、二人が天幕の間に入り込む。音の無い勝負だったとはいえ、居並ぶ小天幕からは誰も出てくる気配はなかった。
「調べの術式も効いてるみたいだな、みんな起きようとしない。本当にお前は有能だ、霊獣使いなんてお前一人で充分だよ」
「おそれいります」
 甘い囁きと共に抱き寄せられ、小柄な身体が恥ずかしそうに身をよじる。さて、竜人の天幕はどれだい?と問われ、こくり、と息を飲んで覚悟を決めるとペンドゥラと呼ばれた霊獣使いは、青く浮かび上がっている竜の傍らの天幕を指し示した。
「本当に、竜は大丈夫なんだろうな」
「はい、霊獣は主の心を読み取って動くもの、主さえ眠らせておけば……」
 近づいて天幕の裾をめくると、中で竜人は身体を丸めてぐっすり寝入っているようだ。砂漠灯蟲の精霊獣の光に照らされても身動きひとつしようとしない、それじゃじっくり頂かせてもらうとするか、と眠る腕が抱えている武器をどかそうとした手が、なぜか空を切った。
「……?」
 なんだ?ともう一度伸ばしてみるが、まるで見えない幕で遮られているかのように触れない。何度か試した後、どういうことだ、と外で待たせてある霊獣使いを呼ぼうとした、それより先に奥の暗がりから柔らかな声が響いてきた。
「……ちょっと」
「だ……誰だ!」
「静かにしてよ、唯人が起きちゃう!……ねえ、主が寝てれば霊獣は無害って、それ一体どこからの知識?そもそも竜憑きをそこらの霊獣使いとひとくくりにしちゃうなんてさ、無茶するなぁ」
 だしぬけに、竜人の背の陰からひょっこりと小さな白い獣が現れた。なんだこいつ、と捕まえようとした手がまたも空をつかむ。素早く入ってきたペンドゥラもこの獣は見た事なかったのか、警戒の面持ちで身構えた。
「しゃべる獣、いや、霊獣?でも、四位様にも見えている……」
「初めまして、僕はミラ、竜人の精霊獣の一体だよ」
 何かもごもごと寝言を呟いた主の肩に駆けあがって、丁寧に挨拶してみせた小さな姿にすかさずペンドゥラが霊獣を封じる術式を唱えてかかる。別に慌てる様子もなく、つぶらな瞳はじっとそれを見守った。
「んー、残念、それが効くのはこの子が持ってる中では夜光蝶くらいしかないねぇ。で、次はどうするの」
 悔しげに唇を噛んだその背に、青白い光と冷気が揺らぐ。だが、それが実体化する前に、竜人の頭に被さっていた白い帯のようなものがするりと伸びあがったと思ったら、持ち主も気付けない勢いで一気に冷気の靄を吸いこんでしまった。
「……どうした?何をしている!」
「本気でそんなのしか持ってないのなら、このまま帰った方が僕はいいと思うんだけど」
 小さな顔が、ふう、と呆れたように溜息をついて見せる。
「知らないのなら可哀想だから、一応教えといてあげようか。主が寝てる時こそ、霊獣はその意識の束縛を受けずに本来の状態でいるんだよ。霊獣師の技量に余る霊獣を抱えたら、寝てる間に喰い潰される覚悟もしなきゃならないし。この子みたいに、人が傷つくことを極端に嫌がる主に悪さをしかける輩を内緒でこま切れに引き裂いちゃうことだってできる。分かる?今の僕らはどっちかというと、大切な主の寝床を生臭い血や臓物で汚したくない、ただそれだけでこうやって忠告してあげてるんだ。君らの地位とか立場なんて獣の知ったことじゃないしねぇ」
 ふと、ううん、と竜人が身じろいで鼻声を漏らした。物騒な物言いとは反対に、慌てて獣が白い帯を引き戻すと竜人の耳に押し付ける。心底、大切な主を起こしてしまうのを気遣っているように見えた。
「まあ、そういう狼藉に及ぶつもりなら、まだこの子が起きてる時にしたほうがいくらかはましなんじゃない?外にいる、忠実で人の脆さをよく分かってるやんちゃ盛りの若竜をけしかけられるほうがね、とりあえず命を落とす心配はない」
「お前のような、ちっぽけな獣が何を偉そうに!」
「うーん、この地ではまだ〝大きいほど偉い〟がまかり通ってるのか、僕の見た目の大きさなんて意味無いんだけどな。分からせてあげてもいいんだけど、唯人のお仲間のみんなを怖がらせたら悪いからやめとこう」 
「……分かったら、さっさと出て来てもらえませんかね。これ以上居座られるなら、私が膾(なます)切りにして差し上げますが」
「おい、片方は残せよ、俺がでっかい穴くれて風通し良くしてやるんだから」
 天幕の外からの物騒な言葉は理解できていないだろうが、既に充分血の気が引いた二人に、まあ大人しく帰ってくれるなら今回は見送ってあげるけど、と小さな姿が促すように幕をくぐって外へと向かう。まだ眠り続ける竜人からそのまま後じさって離れ、天幕から二人が出てくると、思わず息を飲む至近距離に竜が頭を寄せていた。ペンドゥラが、すくみあがってシュイロウに縋りつく。
「綱手、お邪魔虫は帰るってさ、遊ぶのはまた今度にするみたいだから寝てていいよ」
 あっそう、と頭を引くとわざとらしく綺麗な牙を目一杯見せつけふわぁ、と欠伸する。その鼻先に飛び乗った白い獣に小さな前脚で彼方の鹿無しみこしを示されて、憮然とした面持ちで立ち並ぶ天幕の間を戻っていく、その時、天幕のどれかでもう我慢の限界、と言いたげな押し殺した忍び笑いが漏れた。ひとつが起こってしまうと皆耐えきれなくなったのか、くすくす、ふふ……とさざ波のように次々と女性の喉声が周囲に満ちる。ちっ、とペンドゥラが顔に似合わない舌打ちの音を響かせた。
「……も、もう駄目…」
「ちょっとパリィ、我慢して!」
「だ、だって、いつも竜婦でも落とす自信がある、って豪語してるスリンチャの〝歩く下半身〟がさ、ただ突っ込んだ挙句の返り討ちって!十代の血気盛んな坊ちゃんじゃあるまいし、番犬に吠えられて退散ですかぁ?か、可哀想っていうか可笑しくて……死ぬ……」
「駄目だって、それ言っちゃあ!」
「この後、うぇーんペンちゃん、って慰めてもらうんだよ。それ考えると、もう……」
「やーめーて、こっちも我慢してるんだから!」
「もう、寝られなくなっちゃうじゃん!パリィの馬鹿!」
「あー、これ見られただけでも付いてきて正解だった」
「この一幕、数年は笑えますね」
「でも、口説く手間省こうなんてあいつサイテー」
「ただの寝込みならまだしも、術で寝かせてって。どこが色男なんだか、サイテー」
「大人じゃないね、なんだって欲しがる親父似のガキなんだよ、サイテー」
「ペンちゃん変な趣味ー」
「早く更生してねー、まだ若いんだから」
 ひそひそと交わされる、屈辱の極みの言葉を浴びせられながら陣の端まで来ると、先程氷漬けにされたはずの長蟲がうねうねと足元から這いだしてきて、付かず離れずの距離で取り囲んできた。見渡しただけでその数はさっきの数倍、黒々と両陣営の間を埋め尽くしていて〝まさかあの程度で本気でこの私に勝ったとでも?〟という持ち主の思いを具現化しているかのようだった。やり返そうにも、頼みの冷獣は貴石に閉じ籠ってしまったのか、こちらの呼びかけに何も応じない。生まれて初めての凶悪な敗北に言葉もない主人の背を支えながら、ふと、くるりと振り返ると気丈にもペンドゥラは凛とした声音で捨て台詞を投げつけた。
「お前達、首位様の孫であられる四位にその態度はなんだ!無礼にも程があるぞ、戻ったら三位様に全て報告するからな!」
「おそれいりまーす」
「おそれいりますー」
「おそれいります」
「おそれいりますです」
「同じくー」
「……竜人様に夜這いかけるのは、無礼ってゆーか無謀では?」
「やめなってば!」
 見事なまでの棒読み言葉が、虚ろに砂漠に響き渡る。ゆらゆらと長蟲に追われ、二つの影が鹿無しみこしに戻るのを見届けて、鋭月とスフィの二人は唯人の幕へと戻った。
「ん?……鋭月、スフィ……?」
 今やっと、騒ぎに気付いたのか唯人が薄目を開けて振り返る。
「……なにかあった?」
「いや、気にするな。変な蟲が飛んできただけだ、もう行っちまったよ」
「そう……」
 ふわり、と飛んできた武器精の光珠を迎え入れ、綱手の髭に顔を埋めると再び眠りに落ちる。先程、向こうから弦楽器の調べに乗せて怪しい術式が届いてきたのはミラとセティヤがあっさり気付いたので、ミラが音だけ通す防御壁でこちらを覆っておいたのだ。そうとも知らずやってきた二人を皆が唯人の天幕まで知らんぷりして見守ったのは、女性のちょっとした意地悪というか、たまにはひどい目にあっちゃえ的なというか。思ったとおりの結果に、皆大満足したのは言うまでもない。ちなみにディリエラとタッカも寝ていたらしく、朝になってもまだくすくす笑いの面々の中で唯人ときょとんとした顔を見合わせた。
「昨日、なにかあったのか?唯人」
「さあ、僕も寝てたからよく分からなくて。たいしたことは無かったみたいなんだけど」
 一応武器精二人にも改めて聞いてみたが、やはりたいした返事は返ってこない。それとなぜだかスフィが茶道の作法を訊ねてきたので、あまり詳しくはないが答えてやったらぶすっとなって黙ってしまった。なにがどうしたのかさっぱり分からない。
「さて、唯人さん、今日は昨晩話したとおり、私達は次の水場へ先行します。向こうがなにか仕掛けてくるなら絶好の機会になりますから、二位様だけには注意を怠らぬよう進みましょう。それさえ留意していれば、百人の敵でもこの隊は打ち勝てます」
 皆で朝の乳茶を飲みながら大まかな予定を話し合った後、ミラが戻ってきたので唯人は再び彼の変じた砂走鳥に乗り、空いた鳥にタッカを乗せた。何か運ばなくていい?あのみこしは?とそわそわしている綱手にこっそり付いてきてくれ、と命じて砂に埋まってもらい、シュイロウの大隊を残し朝靄の立ち込める砂漠へと発つ。
 集落から遠出したことのないディリエラが疲れていないか心配だったが、やはりそこは砂漠の民、生き生きとした表情で鳥の背に揺られている。昨日のだらだらとした行程と違って、今日は鳥のペースで進んで行くので砂走鳥も調子が良さそうだった。
「この感じなら、昼ぐらいに水場に着けるよ。なんなら、今日中に一気に次のニマービーレ水源地まで行っちゃってもいいんだけどね。あんまり四位と差を開けちゃうのも、どうだか……」
「私は、ニマービーレに行った方が良い気がしますが。小さいですがまだスリンチャ領の集落ですから、クルニの心配をせずにゆっくりのろまな皆さんを待てるでしょう」
「そだね、久しぶりにあそこの蟹を食べられるのかー、楽しみ!」
 セティヤとパリアータ、二大重鎮の話がまとまったところで、気持ちいいくらい予定通り、昼頃に小さな水源に着いた。水の補給はどうでもいいのでちょっと休んで食事をとって、もうひと組そこにいた、首都からミーアセンに向かっている途中の商隊と情報交換する。やはり、砂嵐は結構頻繁に起こっているようだ。
「まあ、ラバイアの民なら砂嵐の一回や十回、くらっとかないと一人前と言えませんって。ちゃんと対処すれば死ぬ相手じゃありませんから、野盗なんかよりはずっとましっていうか」
 ちなみに、砂嵐の対処法というのは遠くにその兆しが見えたらけして逃げようとは思わずに、砂走鳥を全部手綱で繋ぎ、座らせた輪の中心で人も互いをつかんでじっとうずくまりただ通り過ぎるのを待つ。何かが飛ぼうが埋まろうが、けして身を起こしてはいけない、立った瞬間飛んでいったという人間の話もまことしやかに伝えられているそうだ。
「ニキエの家訓にもありますよ、砂嵐で飛んだ奴と鉱山でひと山あてるって出ていった奴は探さない、ってね。馬鹿はいないほうがいいって意味」
「シュイロウも、どこかへ飛んで行ってくれぬものか」
「うーん、さすがにあの乗り物は、ちょっとやそっとじゃねえ」
 一休みを終え、小さな水源を発つ時になってもシ、ュイロウの大隊はまだ影も形も見える兆しは無さそうだった。やはり昨晩パリアータが予想した通り、今日の夜までにここに着くつもりなのか。なんなら一晩ずつ先に進んでいって、あの恥知らずと同じ場所で野営しないですむように行くのもありだね、とか話しつつ進んでいると、大分陽が傾いてきた頃、ふと、ハウィルがパリアータに鳥を寄せてきた。
「どうした?」
「今、鷹が見てきた、先に砂嵐が起きている。まだどちらに進むか分からないが、用意しておいたほうがいい」
 示された方を見ると、砂漠のはるか彼方、地平線が黄色く霞んでいる。あたしの勘が鈍ってなきゃ、こりゃ大きくなるよとパリアータは隊を停め、砂嵐をやり過ごす準備にとりかかった。
「タッカは、小さくて危ないから鳥に身体を縛りつけておいて、腕は大丈夫かい?」
「大丈夫、もうあんまり痛くないから」
「唯人とディリちゃんは初めてだろうけど、じっと我慢さえしてればどうってことない相手だから。ほら、座って!」
 他の皆が慣れた手つきで鳥同士をつなぎ、その輪の中に座り込む。少しくらい砂に埋まってた方が安心だよ、と言われたそばから狼は自分で砂を掘って半分ほどその場に埋まった、それを見た綱手も真似をして、わさわさと足を動かしなんとなく埋まってみせる。多分彼は何もしなくても大丈夫だろう。
「やっぱり、近づいてくる……というより、この辺一帯は全部巻き込まれるね。さて、どのくらいで通り過ぎてくれるかな?」
 ぎりぎりまで見ていよう、と唯人とディリエラが見守る先で、地平線の靄はどんどん広がって、やがて砂漠が立ち上がったように黄色の壁となってこちらに迫って来る。ひゅうひゅうと風がうなり、身体に当たる砂の勢いが強さを増してきた。
「そろそろ伏せて、頭の布をちゃんと締めないと耳が砂で詰まっちゃうよ。みんな、いい?」
「大丈夫!」
「……来るよ!」
 ごうっ、と天が鳴った。まるで洗濯機の中に放りこまれたように、風というよりは水に近い重い流れが吹き荒れる。パリアータが上から覆い被さってくれているが、それでも少しでも身体を浮かそうものなら、すくい上げられて瞬時に空の只中に放り出されてしまいそうだ。全然〝どうってことない〟なんてもんじゃない、必死でディリエラの頭を抱えて耐えていると、ふと、不自然に風の具合が弱まってきた。
「……あれ?」
 ものすごい音は相変わらずで、周囲はすっかり薄暗くなっているのになぜだか身体に風圧が伝わってこない。みんな違和感を感じたのか、パリアータを含めた数人がおそるおそる顔を上げた。
「……!」
 セティヤにぽんぽんと肩を叩かれて、唯人も顔を上げてみる。
「……あ」
 頭上は、一面がぺったりとした空ではない青に覆われていた。こういう風に真下から見たことはなかった気がする、綱手のお腹。まるで四本柱の屋根のように、うずくまる皆の上に立って風と砂を防いでくれている。もそもそと身を起こした誰かの口から、竜人様がいてくれたらもう砂漠で怖い物なんて何もないね、と嬉しそうな声があがった。
「ずっとイリュにいてくれないもんですかねぇ、竜人さま」
「本当に、一位様と二位様、この際どっちでもいいから竜人様を貰っちゃえばいいんですよ。それで首都みたいにイリュも竜の護る地になればたいしたもんじゃないですか、ね?」
「竜人様、どっちでもいいからお願いします!」
「そういえば、どちらでも歳がちょうど合うじゃないですか、これは運命ですよ!」
「私は、二位様をお勧めします!」
「いや、一位様がもうすぐ首位様を継がれるならそっちのほうが!」
「一位様って、もう伴侶の候補絞ってなかったっけ?」
「竜人様を娶れるんなら、他は蹴っちゃうに決まってるよ」
「ほら、二位様からもお願いしてください、仲良くしてらっしゃるんでしょ?」
「……もう、みんな、勝手な事を言うな!どっちでもいいとはなんだ!唯人と私と兄様はあくまで友人であって、唯人にはちゃんと心に決めた相手がいるのだ、私とシュイロウを同じにする気か!」
 一斉に、えー、の声が重なった。どんな方なんですか、うちの若様達より立派なんですか?と口々に問われ困り果てる唯人にぴしり、とセティヤが一言言い放ってくれた。
「立派かどうかは返事のしようがありませんが、その方も竜人ですよ。そういうことです、もういいでしょう」
 一瞬で、あーそりゃしょうがないな、の空気が満ちる。竜人ならばしょうがない、それじゃあ立派なお子さんがたんと生まれたら、そのうちの一人でも……と無茶話を進められ、もうどう返事したらいいか分からなくなった唯人にごめんよ、となぜかパリアータが申し訳なさそうに苦笑して見せた。
「もう、みんなったらどいつもこいつも。ちっとも分かって無い連中ばっかだよ、悪いね、竜人ちゃん」
「あ、いや、僕は別に……」
 その言葉は、一体どういう意味なのだろうと問いかけようとしたら、なんとなく周囲が明るさを取り戻してきた。
「お、そろそろ抜けるかな。本当に助かったよ、一度抜けたら絶対引き返してくる事はないからね。後はニマービーレまで一直線だ、夜には着けるから晩ご飯は蟹!」
 みるみるうちにそよ風程度の風も止み、積もった砂を降らせながら綱手が皆の上から移動する。慣れているのか、砂走鳥も半ば砂に埋もれていたのが次々と起き上がり、慌てもせずにどんどん遠ざかってゆく黄色い靄を見送った。
 そのとき、突然獣の吠え声が周囲に響いた。
「どうした?ハルアジャ」
 出し抜けに、砂から抜け出しあらぬ方向に向かって吠え始めた狼に、タッカが慌てて縛りつけられている紐を解こうとする。なおも吠え続け、何も無いはずの砂地に身を躍らせたその途端、砂がめくれ人の姿が飛びだした。
「何?!」
 瞬時に、同様に現れた人影に砂漠が埋め尽くされる。あの砂嵐の中を、布一枚の下に隠れここまで忍び寄ってきたというのか。ざっと見ただけでも二、三十人が見事に円を描いてこちらを取り囲んでいる。なかなかやるね、クルニども、とパリアータは薄い笑みを浮かべると、まるでご馳走を前にした猫のように紅い唇を舐めてみせた。
「やっと来たかい、美味そうな鼠ちゃんども。この大砂猫の餌食になりに来てくれて嬉しいよ、一匹残さず骨まで噛み砕いてあげるからね!」
 ざっ、とその場で味方の全員が得物を手に立ちあがった。唯人も、スフィを手にディリエラの前に立つ。パリアータがおもむろに取り出し両腕にはめたサテクマルと同じ長爪手甲は、鉤爪がサテクのよりもまだ長く、ところどころが錆びていてこれに裂かれたら相当痛そうだ、と思わせる心理的効果も抜群の代物であった。
「ところであんた達、偶然あたしらを見つけたにしちゃあ間が良すぎるんだけど。もし狙ってたんだとしたら、竜に勝つ算段はしてきたのかい?無策で勝てるんなら、首都はとっくにあんた達のもののはずだよねぇ!」
 その言葉を待っていたかのように、人影のひとつから何かが綱手目がけて投げつけられてきた。べちゃっ、と粘っこい音をたて、それが額の貴石に見事にへばりつく。若干の間があり、ぶるっ、と頭を震わせると、綱手はゆっくりでんぐり返しのポーズをとって額を砂に擦りつけた。なんだか嫌な臭いが漂って、それが獣か鳥の死んで腐ったものだと分かる。なにするんー!と怒った綱手の鋭い咆哮が響き渡った。
「よし、竜が怒ったぞ!」
「後は、竜人から杖を奪ってしまえ!」
 竜を引きつける側と、こちらを襲撃するのとで分担を決めていたのか、一斉に砂煙を立て敵が襲いかかってくる。だが、彼等の計算では頭に血を昇らせて目の前の人間を追っていくはずの竜は、その場から一歩も動かず、おもむろに尾をしならせると、向かってきた一団をものの見事に払い飛ばした。
「お、おおっ!」
「なぜだ、話と違う!」
 大丈夫、ちゃんとみんな相手するしー、と引きつけ担当の一群もものすごい勢いで追いかけて、遠慮なしにふっ飛ばしてゆく。よほど頭にきたのかたまに前脚で踏んだりしているが、下が硬い土や岩ならそこで終わりのはずが砂なので辛うじて生きていられるようだ。阿鼻叫喚の中、もうやぶれかぶれな感で襲ってきた相手を、微塵の容赦も見せずパリアータらスリンチャの戦士は叩き伏せた。
「竜人ちゃんはこんなの殺らなくていいから、ディリちゃんとそこにいて、私達が全部片付けるからね!」
「ちょっと待ってくださればすぐに終わりますから、砂嵐よりは速いですよ」
 砂漠の流儀では、自分を襲ってきた敵に情けをかけても得をする事はなにもない。その場で倒さないと、こちらの手の内を知った上で更なる増援を連れ戻ってくるだけなのだ。あんなに印象の薄かったハウィルの矢が、寸分の狂いもなくセティヤを狙っていた敵の喉を射抜く。唯人が足を撃ち抜いた男も、すかさずイェンが飛びかかり小刀で喉を掻き切った。
 ディリエラは、下手に私も、などと意気込みは見せずあくまで護られる者の威厳を持ってじっと戦いを見守っている。この状況を受け入れ、取り乱さず見届ける事が彼女の戦いなのだ。
 それにしても、パリアータの戦いっぷりは凄まじかった。綱手にやられて転がっているのには目もくれず、襲いかかる屈強な賊を容赦なく蹴り倒し、爪で引き裂き刺し貫いてゆく。みるみるうちに辺りに倒された連中が転がって、やがて賊は一斉に退き始めた。その背に、ハウィルの正確な矢が追い打ちをかける。結局、逃げられたのは片手に余る人数のようだったが、パリアータはあえて追いかけようとはせず戦いを終わらせた。
「誰か怪我したぁ?」
「かすり傷程度ならね、後、エンテの剣が折れちゃった」
「使うの久しぶりだったしさぁ、首都で買い替えようって思ってたんだけど、もたなかったよ」
「その辺の適当なの拾っときなよ」
「あー、やっぱ実戦って違うねぇ、久々に勘が戻ったよ。まだ十年はイケるね、あたし」
「馬鹿言ってんじゃないの、女は子供ができたらやんちゃは終わり、なの」
「えー、つまんなぁい」
「そういう情動は、逞しい男にしっかり受け止めてもらえばいいんだから!」
「殺っちゃわない程度にねー」 
 朗らかに笑う一同に、切り替えすごいなぁ、と溜息が洩れる。さて、まだ息のあるのに事の次第でも問い詰めますか、と周囲を見渡すと、イェンが綱手に踏まれたらしい比較的傷の浅い男を引っぱってきた。
「さ、こんな砂漠の真ん中で長居するのもなんだから、単刀直入に聞くよ。あんたらがクルニだってのは分かってる、ここにスリンチャの二位がいる事と、竜のあしらい方を誰から聞いたっての。もしすっきり話してくれたら余計な痛い目みなくてもいいし、ちゃんと捕虜扱いにしてやるよ?」
 目を逸らし、黙りこむ男にそれじゃやらせてもらっちゃおうか、とまだ血まみれの鉤爪の端を耳に引っかける。唯人がはらはらすると綱手もつられるので見ないでおこうか、と離れようとしたところに何気なさそうにセティヤが割り込んできた。
「パリアータ、時間の無駄ですよ、こういう時ぺらぺらと話す相手の言う事なんて信用できません。それよりはすぐにここから離れましょう、後から来る連中が騒ぐと面倒くさいですから全部蟲に片付けさせます。それもそこに捨て置いてください、すぐにいつの骸か分からないほど綺麗さっぱり喰い尽くされますから……」
 うっ、と男が息を飲んだ。すでにざわざわと屍に纏いつき始めた蟲たちに、まだ息のある者の悲鳴があがる。話せない、話す事はできないのは百も承知だが、恐怖に耐えかねたのか、男は吐き捨てるように呟いた。
「どうせ、間にあわない……」
「何がです」
「今からどうしようが、もう間に合いやしないんだ!スリンチャの三位の戦士はほぼ全員が俺達の仲間、今の四位の隊の護衛もな。今頃はもうイリュに引き返しているだろう、今一番手薄になっているイリュを俺達総出でぶん捕る千載一遇の機会だ。首位の実子とその手下を残さず始末して、あの役立たずの三位に後を継がせりゃあ、あいつは長年かけて取り入ってやったからすっかり俺達を自分の手駒だと思い込んでいる。反対に俺達がいいように操って、イリュをものにしてやるんだよ!」
 がっ、と鈍い音がした、その瞬間、男は地に蹴り倒されていた。身が凍るほどの表情になったパリアータが、勢いつけて男の頭を踏みつける。鉤爪が向けられ、男が目を剥いて苦悶の声をあげた。
「やっぱり、首位様の御子息を殺めたのは、あんた達だったわけ……」
 突きつけた鉤爪の先が、ずぶりと男の喉に埋められる。
「あたしのこの世で一番の宝物だった、華奢で小さなイルディラ様をねぇ……寝所に毒蟲を忍ばせて、全身腫れあがらせて苦しみ抜いたあげくの最期にしてくれちゃって。最後の瞬間までその手を取って、あたしはあの時心に誓ったんだ。これをやった奴、その一族全員にこの罪を購ってもらおうってね。これで長年疑ってたのがはっきりしたよ、ありがとう」
 もうそれを聞いてはいない相手から、血の滴る得物を抜き取りくるりと振り返る。まっすぐディリエラに歩み寄って、パリアータはその前に膝をついた。
「二位様」
「ああ」
「申し訳ありませんが、これよりイリュに引き返す事をお許し願います」
「分かっている、私も戻ろう、竜に助けてもらえば早く着けるだろう」
「それは駄目です、二位様はこのまま竜人殿と共に首都へお向かい下さい」
「なんだと?」
 目の前の一部始終にも耐えきったディリエラが、驚きに目を見開いた。
「己の地の一大事だぞ?私に戻るなとはどういう事だ」
「薄汚い砂鼠など、いくら群れを成そうが私共の敵ではありません。二位様は一位の名代として、約束通り竜人殿の首都行きに同行なさってください。スリンチャを統べる一族のお一人であられるなら、その戦士を信じて頂きたく存じます」
「でも……」
「いや、僕も行くよ、パリアータ。シェリュバンの大事を見過ごすなんてできない、友達なんだから!」
「有難きお言葉、我が一位にしかとお伝えしておきましょう。しかし助力は無用です、竜人殿は私の分まで二位様を護って差し上げて下さい、どうかよろしくお願いします」
「私の分もですね」
 ゆらりとセティヤが身を返し、パリアータの脇に立つ。無言でハウィルもそれに続き、覗いている眼だけの皮肉っぽい笑みでイェンが並ぶと、スリンチャの戦士は全員で唯人とディリエラに頭を垂れた。
「イリュが、今後竜の加護を受けた地になったと思われてしまっては困るのです。今回、襲ってくる賊どもを退けるのに竜の力を借り、それが周囲の領主や首都に広まってしまえば彼等はスリンチャ族を怖れ、それぞれが対抗する為の力を得ようと密約を横行させるでしょう。結果、ラバイアの均衡は崩れ始める。竜は、あくまで竜人のもの、その身を護る為だけに在らねばならぬのです」
「分かったか、唯人」
「ディリエラ!」
「それで、愚かな賊を滅ぼすのにどれぐらいかかりそうだ」
「戻る途中に四位の隊に追いついたとしても、数日でけりは付けられるでしょう。丁度二位様が首都に着く頃ですから、用事をこなされている間に吉報を持ってお迎えに上がれるかと思います」
「ああ、すっかり忘れていたが、紹介状もシュイロウと共に引き返してしまったのだな……」
「分かりました、もし追いつければそれも奪います」
「頼む」
 その言葉と共に、ふと、ひょいひょい、と何かが唯人の耳を引いた。小動物のミラが、肩からそっと話しかけてくる。
「……ねえ」
「なに?ミラ」
「えっと、紹介状ならもうあるよ」
「は?」
「昨日の晩、こっそり忍びこんで頂いちゃった。あっちの二人が悪さをしに来るって分かったから、留守の輿にお邪魔させてもらったんだ。本当はもっと後にしようと思ってたんだけど、ちょうどいい機会だったから、こうなってみると良かったね」
「流石だよ」
「お役に立ててなによりさ」
 一度事が決まると、戦士達の行動には微塵の迷いも無駄もなかった。身を軽くするため旅の荷は唯人が二マービーレまで運んで預かってもらう事にして、最低限の装備の鳥に乗る。皆がそのまま駆け去る前に、ふとパリアータとセティヤがディリエラを残し、唯人のみを呼び寄せた。
「竜人ちゃん」
「はい?」
「これはあくまでもしも、の話だけどね。首都に着いて十日たっても使いが来なかったら、イリュから南東に降りたサクタウ水源地ってとこに行ってそこにいるニキエの者に二位様を託してもらえるかな。ニキエの一族はそこから更に離れたニキエタイ高地に住んでて、ちょっとやそっとじゃ見つからないから」
「パリアータも、そこにいるのかい?」
「ま、生きてりゃね。で、もしそこにニキエの者がいなかったら、もうユークレンでも群島国でもいいから、ラバイア以外の好きな所に連れてって。生きてさえいればどうにだってなる」
「ディリエラの為にも、絶対無茶はしないでくれ」
「大丈夫だって、猫の住処が鼠に乗っ取られるわけないの!」
 あーあ、蟹はおあずけかぁ、とぼやくパリアータに戦いが片付いたら私がおごりますよ、とセティヤが笑いかける。そのセティヤからはこれを、と大きさの割に重い革袋を手渡された。中を覗くと、まとまったお金と紙片が入っている。。
「これは?」
「もうどうせなら、私達の代わりに唯人さんに首都で贈り物を選んでもらおうと思いまして。二人で用意したお金と、その紙にどんな物がいいか書きました。お互い何を書いたかは知りません、選ぶのは唯人さんにお任せしますので、そのお金で買ってきて頂けますか」
「竜人の選んだ品というだけで自慢の種が増える、そのほうが有難い」
 鳥の背から、ハウィも弾んだ声をかけてくる。しっかり頷いて革袋を荷物に収めると、唯人は、一気に駆け出した皆が砂煙を上げ見る間に砂丘の向こうに小さくなっていくのを見届けた。
「行くか、唯人」
「うん」
 荷物持ちの鳥を一列に繋ぎ、先頭をタッカの乗った鳥にして戦いの地を後にする。これから先は、標が大張りきりで道案内をかって出てくれた。
「皆に、聞きたかったが聞けなかったことがある」
「なんだい?」
「シュイロウの事だ、あれは本当に、自分の護衛が身内である私達を始末し、領地を乗っ取ろうと画策していると知っていたのだろうか。確かに癖は悪いが、父親と違ってそこまで考えているようには到底見えなかった。もし何も知らず巻き込まれているのなら、せめてパリアータらの手にかからぬよう祈るしかない。たとえ好きにはなれなくとも、親族がこれ以上失われるのは辛いからな」 
「大丈夫だよ、きっと」
「今にして思えば、叔父上はあの場でわざと私を挑発し、怒らせたのだろうな。私が意地になって、自分からイリュを発つように。スワドは、ただでさえ兄様の戦士が少なくなっているというのに、私に屋敷の護衛の女衆の中でも選りすぐりの者を付けてくれた。結局私は、いいように踊らされていたというわけだ」
「ディリエラ」
「なんだ」
 伏せられた形の良い眼が、ふいと唯人に向けられた。
「やっぱり、僕達も戻ったほうがいいんじゃないか?パリアータはああ言ったけど、クルニ族にイリュを獲られてしまったら……」
「私は、パリアータや他の皆、そして兄様を信じる。それに私が戻れば、護らなくてはならぬ足手まといが増えて彼等を不利にするだけだ。皆が唯人を信じて私を託したのだから、唯人はそれを無下にしては駄目だ。首都に行き、彼等を待とう」
「それでいいのかい?ディリ」
「……ああ」
 二マービーレに着くまでの間、重い空気を察したのか、タッカは努めて明るく振舞いディリエラに色々と話しかけてくれた。さらわれたことや売り買いされた話は避け、首都で見たさまざまな物や景色、たまたま城の窓に現れたラバイア今代王のことなど、彼なりに精一杯伝えてくれたので、ディリエラの気も随分まぎれたようであった。
 その後、スリンチャの領地の最も東である二マービーレ水源地にたどりつき、一日待ってみたが誰も追ってくる気配はなさそうだったので、当初の予定通り荷物と鳥を預かってもらって、唯人ら三人はここからは綱手に乗って首都へと向かう事にした。砂漠に来て最初にシェリュバンに言われたように、どこにでも水が呼べる唯人と綱手がいれば、後はほぼ手ぶらで旅ができる。唯人ら大人二人と子供と狼でまだ余裕がある綱手の口の中に収まって、流れる砂漠の景色を眺めていると青のフィルターがかかったそれは、何だか一面の海を思わせた。
「砂漠が、海に見えるよ」
「海とはこういうものなのか?私は見たことがないから分からないが」
「僕も、群島国の穏やかなのしか知らないけど。なんだかあの辺りから魚が飛び出しそうだ」
「魚が飛ぶのか!」
「そんな大したことじゃないって、この面倒が片付いて、落ちついたらディリも港町に行ってみればいい。たとえ一度でも、見ているのとそうじゃないのでは大違いだから」
「唯人は、この世界のあちこちを見て回っているのだな」
「そうだね」
「楽しいか?」
「うーん、面倒くさい事も多々あるけど、知らない事を知るのは刺激的だな」
「私は、立場上今後もそんなに自由にするわけにはいかぬ。唯人がもっともっといろんな地や街を見知ったら、またイリュに来た時話して聞かせて欲しい」
「勿論、喜んで。でも、自由にできないって……シェリュバンが首位になったら、ディリはどうなるんだい?」
「それは、セティヤの母君である私の叔母上と同じだ。じきにスリンチャの領地の良家から見合いの話がたんと来る、じっくり見定めて良い相手を選ぶのだ」
 案外、今回の戦はその相手を絞る良い機会かもしれぬ、とわざと平気なふりで呟いて見せる。じっと外に向いたままのディリエラに、必死で心痛を押し殺そうとしている無理を感じ取り、唯人もなんとなく言葉を切った。
「唯人、言っておくがパリアータは無理だぞ。どんなに強くて家柄がしっかりしていても、あれは女性だ。私も唯人やセティヤのようであれば、考えたかも知れぬがな」
「いや、そんなこと思ってないって」
 ふと、なんとなくサレが言っていた〝好きになった相手、誰とでも一緒になれる〟という言葉が思い出された。アーリットもそうだ、彼が万が一にも自分を認めてくれて、自分の為に変わってくれたらどんなに素敵な姿になるのだろうか。それを見てみたかったという気持ちが、この旅の始まりだったのに。
 それは、とりわけ甘やかなただの夢であろうことは、分かっているのだけど。

砂上国にて 首都編

「ここが、ラバイアの首都、スィリニットか……」
 数日間で二回の砂嵐をやり過ごし、ようやく砂漠の旅を終えると、砂上の都は突然蜃気楼のごとき姿を唯人らの前に現した。想像はしていたが、いざ目の当たりにしてみると、やはりイリュなど地方の一集落に過ぎないのだと実感する。なにせここには水源というより立派な河が中心を通っていて、そこから水を引いたいくつもの人工の池が街のあちこちに散りばめられているのだ。
 建物は砂レンガや石積み製で、少し小高い位置にある王宮を頂点にして周囲を取り囲み街並みを造っている。砂嵐を防ぐための立派な外壁に開いた門をくぐり、賑やかな大通りに入ると、どっちを向いても視界を埋め尽くしている黒い肌のラバイア人達は、唯人を群島人の商人とでも思ったのか、荷を持っていないのが不思議だと言いたげに皆じろじろと眺めてきた。
「さて、まずはこの紹介状の人物を探さないと。ここに書いてあるのは名前かな」
 ラバイア文字など読めない唯人に、どれ、とディリエラが書状を受け取って見る。
「王室御用達美術商、バリウスタ・クェンタン、とあるな。タッカは知っているのか?」
 意外にも、タッカは知らないと首を振った。どうやらこの人物の下にそれぞれの分野を扱う子飼いの商人らがいて、そこから直接シャダンに譲られたようだ。その子飼いの商人の店の場所なら分かる、と言った後で、タッカは少し口ごもると悲しそうに俯いた。
「どうした」
「俺、店に戻される……ですか?」
 あれからすっかり毛並みは荒れたが、その代わり野性味の増したハルアジャが鼻を鳴らして少年に身をすり寄せる。その言葉にふふん、とディリエラは含み笑いで応えた。
「ああ、絵の対価として譲り受けた砂漠狼のことか、あれは宴の夜に逃げだしてしまったからな。向こうが返せと言うなら、叔父上と交渉してもらおう、私の知ったことではない。お前はそんな話とは関係ない、単なる人さらいの被害者だ。保護したからには私が責任持って自分の土地に戻れるようここで東に行く商隊を探してやる。もう人さらいに売られぬ、まっとうな商いをしている隊をな」
 ぱっと少年の顔が輝いた、思わず抱きついてきた小さな体をディリエラが包んでやるのを微笑ましく見守りながら、ついでに、とセティヤから託された袋の中身の紙片を確かめる。うーん、よ、読めない、これも……。
「ディリ、これ……」
「ん?なんだ、〝良い輪〟と〝異国記〟これは、セティヤ達の欲しい品か」
「分かる?」
「セティヤから以前聞いた、ハウィルは水源守りでイリュから出る事はほとんどないが、小さい頃から異国に興味があったようだから、せめて異国の事が書いてある本を沢山読ませてやりたいと。だがそういうたぐいの本というのは、ユークレンやアシウントの学者が書いたものがほとんどで、ラバイアには写しに写しを重ねた物しか入ってこない。挿絵などはまず原本そのままではないし、安物になると全然関係ない事や空想じみた内容になってしまうからな」
「じゃあ、良い物が欲しいならテルアとかに行った方がいいんだな」
「〝輪〟もだろうな、確かに首都には最高級からがらくたまであって選ぶ種類は豊富だが、同じ物でもユークレンよりは割高だろう。霊獣使いの道具はあの国の物の質が一番だ、霊獣使いの王が治める霊獣使いの国だから」
 ディリエラの言葉にううん、と考えを巡らせた後、とりあえず目的の場所に向かいつつ、店の軒先に並べられた品々を眺めてみる。唯人にとってはほんの繋ぎにしかならなかった小野坂さん……千年樫製の腕輪がびっくりするような値を付けられていて、格の高そうな店に看板代わりに飾られている銅葉樹のほんの小片がはめ込まれている輪は、セティヤ達から預かった金より二桁上の金額が貼られてあった。まあ値切るのが礼儀の国だから、多少高めの値が付けられているのは分かるが。ハウィルはどの程度の品を考えているのだろうか、これでは到底無理な気がする。
『ミラ、ちょっと』
『分かった』
『まだ何も言ってないよ』
『言わなくても分かるって、キントに行って、あの木くずを貰ってくればいいんだろう?ついでにテルアで本も買ってきてあげるよ。以前おチビが言ってたじゃないか、蔵書の間の資料のたぐいは、新しい版が出されると古いのは順次街の書物商に卸されるって。運が良ければそんなに古くないのが手に入れられる、それがなくてもテルアには出来のいい写しが沢山あるからね』
『どれくらいかかる?』
『唯人を運ばなくていいなら、うんと早く飛ぶ生き物になれるから遅くても今日の夜までには戻れるよ』
『じゃあ、お願いしていいかな』
『だから、そこは、お願いじゃなくて命じるものだって、そろそろ覚えて』
『そう言われてもさ』
『……ついでに、おチビの様子も見てこようか?』
『え?いいよ、そんなの!』
『分かった、見てくるよ』
『ミラ!』
 くすくす笑いを押し殺しながら、肩に現れた小動物のミラが唯人の懐から袋を取る。それをくるりと抱きこんで、そのまま小さな鷹に似た鳥の姿に変わると、彼は放たれた矢のように一直線に空へ舞い上がっていった。
「竜人さま、この角を曲ってふたつめがその店。俺とハルアジャは、ここで待ってていいですか?」
「ああ、くれぐれも気を付けるんだよ」
 昼間、人通りの多い場所でいきなり人さらいが行われる程、スィリニットは治安の悪い街ではない。先に宿を取っておいてくれ、とタッカに頼むと、唯人とディリエラはどちらかというと目立たない造りの店の戸をくぐった。
「失礼するぞ、誰かいるか!」
「いらっしゃいませ、って言いたいけどね、うちは飛び込みの客は相手にしてないよ。なんか欲しいのなら道向こうの獣市場に行ってくれ、そこに無いもんはここにも無いんだから」
 のっそりと奥から出てきた蛙みたいな体形の店主の男は、二人をじろじろ見ると開口一番こう言い放った。耳をすませると、奥の戸の向こうから微かに複数の生き物らしき鳴き声が聞こえてくる。ぷわぁ、と長い煙管で煙を吐く男にディリエラは嫌悪感をなんとか抑え、おもむろに紹介状を出して見せた。
「悪いが、私は何かを買いに来たのではない。この紹介状の相手、バリウスタ・クェンタンに会いたいのだ。叔父がこちらから砂漠狼を譲ってもらったと聞いたのでな、どこに行けば会ってもらえるのか教えて欲しい」
 ふっ、と男が肉に埋まった細い目を更に細くした。
「失礼、貴女様はどちらの方で?」
「私の名は、ベル・ディリエラ・ウスル・スリンチャ、スリンチャ族の二位である。そちらは阿桜の唯人、私の友だ」
「おお、シャダン殿の姪御殿であられたか、噂にたがわずお美しい。儂は獣商人のボロア・イーデ、以後お見知り置きを」
 ごてごてと指輪に飾られた太い指が伸ばされて、華奢な手を恭しく捧げ持つのをディリエラは全くの無表情で受けた。群島国のご友人とは珍しいですな、と唯人にも気味の悪い愛想笑いを向ける。紹介状を受け取り封印が確かにシャダンのものであるのを確かめると、ボロアは机上の葉製紙を取りなにやら書きつけて渡してくれた。
「クェンタン様は、王宮の敷地の中にご自分の店を構えてらっしゃいます、場所をここに書きましたのでお訊ねください。多忙な方ですからおられるかどうかは分かりませんが、もしご不在でも留守番が応対してくださるでしょう。ところでもし差し支えなければ、何用でお越しなされたのかか話して頂けませぬでしょうかな?もしや、儂の商品に何か不備でもあったとか……」
 どうやら、体つきに似合わず小心者らしいこの男は、上司のお得意様が重大なクレームを持ってきたことを肌で感じ取ったようだった。小さな目がおどおどと泳ぎ、じわりと染みだす汗をせわしなくぬぐい続けている。指が触れないようにその紙を受け取ると、目も合わせずにディリエラはひらりと身をひるがえした。
「ああ、叔父上がこちらから譲り受けた砂漠狼は、先日逃げ出してしまったのだ」
「なんと、それは勿体ないことを……ちっ、あのガキめ、やはり役に立たなかったか」
「なんだと?」
「い、いいえ、こちらの話です。では、代わりに何かご用意致しましょうか?同じものは、いまちょっと持ち合わせがありませぬが……」
「いや、いい、やはり生き物は扱いかねるから、もう懲りたと叔父上は言っていた、もう世話になる事もなかろう。心配せずともその件で来たのではないから、お前は気にする事はないからな」
「では、また、お気の変わられる時があればなんなりと」
 深々と頭を下げたボロアは二人が店を出るまで見送ってくれたが、角を曲がるとすぐにディリエラは彼に握られたほうの手を、まるで蛙の口に突っ込んでしまったかのような顔で見た。
「気が変わるわけがあるか、人買い稼業で肥え太った商人が!私がラバイアの竜人なら、奥に押し入って表に出せないような奴の商品を全部外にぶちまけてやる!」
「僕も、持ってるあれやこれやが知られたら、ああいう人の店に並ぶのかな」
 身体に戻した綱手は、襟からひょいと頭を出して物珍しそうにきょろきょろしている。唯人的にはほんの軽い冗談のつもりだったが、ディリエラに呆れきった眼を向けられてしまった。
「何を言うかと思ったら、人が御することのできぬ竜を従える竜人を、誰が捕えて売り買いできるのだ。兄様がやった〝友人として招待し、今後も付きあう約束を結ぶ〟というのは最良の案だと私も感心したのだぞ。私とて、唯人に会うまでは竜人とは気高く気難しい、人間などまともに相手をしない存在だと思っていたからな。正直、ちょっと怖かった」
「僕の知ってるもう一人の竜人は、強くて気難しくてちょっと怖い時もあるかな。けど付き合ってみたら心配性で世話焼きで、実は寂しがりだって分かったんだ。どんなに力があっても、そこはやはり〝人〟なんだと思う」
「唯人は、その人が本当に好きなのだな」
「うん、気持ちだけは誰にも負けないって思ってる。肝心の本人には、まだ上手く伝わってないんだけどね」
「相手に意識されたいなら、あえて冷たく振舞ってみるのも手のひとつだとシュイロウが言っていたぞ」
「うーん、そういう微妙なのってあまり察してくれない気がするな。意識したら気の済むまで問い詰めてくるだろうし」
「なら、唯人がもっと女らしくしてみればいいのではないか?」
 おおっと、その発想は無かった。
「そうかなぁ」
「唯人が願うのであれば、私がいくらでも綺麗にしてやるぞ。顔は可愛らしいし、その髪と肌は本当に飾りがいがあるからな」
「わ、分かった、その時はお願いするよ」
「兄様にも見せて、口を閉まらなくさせてやるといい」
 賑やかな広い通りを歩きながら、一旦宿に入るかこのまま城に行くか考えたが、とりあえずいるかいないか確かめるだけでもバリウスタの店まで行ってみることにした。石段を登っていくと頭上に近づいてきた、はるか昔、アーリットに一晩で半分を焼失させられたという王宮は、やはり代々の血統で治められた王の城というより、すっきりと落ちついた指導者の邸宅といった雰囲気で、王を部族のもちまわりで決めているラバイアらしい造りであった。
実際は土台が一段上にあるのだろうが、見た感じでは階上が王宮、階下をぐるっと商店が取り巻いたピラミッド構造に見える。今通ってきた庶民の店とは次元が違う、いかにも王室御用達のオーラを放出し放題の高級店らはうるさく呼び込みをすることもなく、つんと戸を閉め得意客相手だけの商売しかする気はないようだった。
ボロアに貰った紙片を頼りに店の前を進んでゆき、もうほとんど城の門のすぐそばまで来たところで目指すバリウスタの美術品店にたどり着く。ひときわ大きく、何だか分からない生き物の彫像が入り口の両脇を固め、壁はきめ細かいぶち模様の大理石っぽい石で築かれていて、今まで見た店のなかでも断とつに格調高そうだ。それを見て、なんとなくディリエラがここに来るまで着続けている己の旅装束にちょっと困った眼を向けた。ちなみに、唯人の衣装も港町で買った間に合わせのままで、ディリエラよりまだ安っぽい。二人で顔を見合わせて、出直す?と言いそうになったその時、目の前の大きな晶板で作られている店の扉がゆっくりと開かれた。
「……え?」
「ようこそ、お若いお二人様」
 暗がりの中から出て来たのは、ほっそりとした身体を高級そうな衣装で包んだ人物であった。髪をかなり手の込んだ感じに結いあげて、一目で分かる質のいい宝石の付いた装身具で身を飾り、歳は若くは無いだろうが艶めかしい化粧を施して年齢不詳に見せている。印象は高級店の女主人そのものだが、その目が一瞬唯人の肩の綱手にはっきり留められたので、両性だと分かった。
「私の店にご用ですか?」
「あ、いや、は、はい……」
「なら、遠慮せずお入り下さいな、そんなところで迷っておられずに」
「そうか、で、では」
 艶然と微笑まれ、ディリエラが蛇に魅入られた小鳥状態になって誘われるままに店の中へと入っていく。唯人も後に続いてその人物の傍らを通り過ぎようとした時、伸べられてきた手がふわりと綱手に触れた。びっくりしてするりと引っこんでしまった綱手と振り返った唯人に、相手はラバイア人には稀な、黒い肌に映える淡紫の瞳を興味深そうに輝かせた
「貴石の霊獣とは、また珍しいものをお持ちですね」
「い、いえ、これはそんなたいしたものじゃなくて」
「これは御謙遜を、私はこのラバイアのみならず、回円主界ほぼ全ての貴石に精通していると自負しておりますので。見たところ、中央から北部山岳地方産の空青石とお見受けしましたが、いかがなものでしょう?」
「すごい、当たっています」
「ユークレン産の石は、アシウントのものより虹色の照りが強く、大粒の物は特に希少性が高いのですよ。精霊獣も、よりこちらを好む傾向がありますね」
「貴方が、バリウスタ・クェンタンさんですか?」
「そうですよ、ラバイアで最も歴史が古く最も格の高い美術品店、エレイト・パラナ(未知の輝き)の主人、バリウスタと申します。どうぞよろしく」
 店内の様子は、商品をあまり置かない主義なのか、あくまで品良く絶妙のバランスで高級品を飾ってあって、シャダンのけばけばしい自室に比べたらずっと洗練された貴族の洒落っ気を感じさせた。光沢のある厚手の布張りの豪華な長椅子に通されて、ほどよく冷えたラバイアでは超高級品の泡の立った葡萄酒を勧められるに至って、ディリエラはみるみるうちに一族の二位から怯えた十代の小娘に戻ってしまった。
「それで、今日は一体何をお求めに参られました、お二方」
「え、ええと……わ、私は、スリンチャの二位でディリエラと言う。こちらは私の友の阿桜の唯人、お初にお目にかかる、クェンタン殿」
「ああ、スリンチャの……こちらこそ、三位様にはいつもご贔屓にさせて頂いております」
「その叔父上のことなのだが、以前、そちらにうちにある竜人の絵を貸し出したとか」
「はい、とある事情で、あるお方が絵の写しを必要とされたので、一番本物に近いスリンチャ族の品をお借りできたらとお願いしたのです。三位様には快く応じて頂き、感謝の言葉もありません」
 こう丁寧に返されては、何だか、戻してくれと言いづらくなっているのがディリエラの表情からありありと伝わってきた。取り引きとしてはこの相手に全くの落ち度はない、そもそもはこちら、スリンチャの事情なのだから。
「それで、写す作業はどのくらい進んでいるのだろうか」
「どうかされたのですか?」
「いや、たいしたことではない。もう仕上がっているのなら、できれば持ち返りたく思っているのだが」
「それは、王宮に行って絵師を訊ねてみないことには。今ここでは分かりませんね」
「王宮……だと……?」
「ええ、写しを所望されたのはラバイア今代王ですから」
 暗めの紅に塗りつぶされた唇が、金色の葡萄酒をひと口含む。くすりと笑った顔は、言いたいことはみんな分かってますよと見透かしているようであった。
「……そうだったのか」
 まるでとどめを刺されたように、ディリエラの肩が落ちてしまった。
「それは、仕方ないな……」
「まあ、そう気を落とさずとも。可愛いお顔が台無しですよ、もし王宮に伺いたいのでしたら、よろしければ私が取りはからって差し上げましょうか?幸いな事に、明日の午前は私の予定が空いています。御用画家は私が選んで王に紹介した方ですから、共に行けば会えるでしょう」
「それは有難い話だ、感謝する」
「では明日、今のそれよりもう少しだけ、貴女に似合う衣装を用意させますから。そのままでいらっしゃい、お連れの方も」
 やっぱり、とちょっと恐れ入ったところで、唯人はふと己の懐ですっかり忘れ去られていた物の事を思い出した。確かこれがないと、相手にしてもらえないという話だったような……慌てて取り出しディリエラに渡す。
「そうだ、クェンタン殿。叔父上から紹介状を預かっていた、これを」
 受け取った封書を宝石の付いた小刀で開け、目を通すバリウスタの表情がふと引き締められた。が、その直後、瞬時にそれは元の穏やかなものへと戻された。
「四位殿が来られるとありますが、あの方はどうされました?」
「ああ……あの、従兄弟殿の隊は遅いので、私が先に着いてしまったのだ。もうしばらくしたら来るだろう」
「では、ここに書かれている四位様の婚約者のかたも後からご一緒に来られるのでしょうかね。その方の為に良い物を見つくろって欲しい、とありますが」
 どっ、と唯人の背に汗が吹きだすのと同時に、ディリエラが眼をまん丸にしてこっちを振り返った。周囲の雰囲気に気押されて縮こまっていた彼女のオーラがぶわっ、と怒りで勢いを取り戻す。なんだかよく分かりませんが深くは聞きますまい、とそれを微笑で受け流し、そろそろおいとますると腰を上げたディリエラに、バリウスタはもう数年来の知り合いのように付き添った。
「三位様所望の目録は、明日ご用意しておきましょう、大きくてかさばりますからね」
 多分、今頃彼はそれどころではないだろうなと思いつつ、お願いしますと頭を下げ、唯人は店を出る前に一言聞いてみた。
「クェンタンさん」
「はい?」
「どうして、紹介状を見せないうちから僕達を店に招いてくださったんですか?」
 返事の代りに、細くて長い指がすいと唯人の頬に触れた。
「長年こういう商いを生業にしておれば、紹介状などなくとも、私の眼には貴いもの、価値があるものが分かるのですよ。いくら土くれの中にあっても、優れた宝玉の光はその内から溢れてくる……逆に、屑石をどれほど金の箔で包もうが、けしてそれ自身の価値が上がろうはずは無いのです」
 その己の審美眼に絶大の自信を持った眼でじっと見据えられ、つい自分から眼を逸らしてしまう。明日、お待ちしておりますから、との言葉と共に見送られ、扉が閉まるとはぁ、とディリエラが全身で大きく息を付いた。
「情けない、言いたいことを言う段階にさえ持っていけなかった」
「それは、ここで言っても無理だって分かったからだろう?クェンタンさんは仲介をしただけで、絵についての交渉は、明日王宮の人とやらないと駄目みたいだから」
 あっさり言う唯人に、ディリエラは小声でうぅ、と唸った。
「唯人、いくらスリンチャ族がラバイアの北の国境を預かっているそこそこの地位の一族だといっても、王が所望されたということに、しかも首位でない私のような小娘がずけずけと物申すことなど出来るわけがないだろう。明日、明日か……?こんなことなら、セティヤかパリアータが来るまで待ってからにしたほうが良かったな」
 またずぶずぶとしぼみモードに入り始めたディリエラを、クェンタンさん優しそうだから大丈夫だよ、と励ましながら宿に向かう。ずらりと宿が並んだ宿屋街に差しかかると、客引きに捕まえられるより先に、角で待っていたタッカが二人に駆け寄ってきた。
「あー、お嬢さま、唯人さまー!(二位様、竜人さま等の呼び名は既に口止め済み)」
「待たせたな、タッカ」
「宿とりました、こっちです!」
「ご苦労」
 真面目な召使いが全力で取り組んでくれた仕事を、微笑ましく感謝したその後。唯人は、窓に戸もない安宿とは違うそれなりにちゃんとした宿の部屋に通されて、心の中であんぐりと口を開けその場に彫像のごとく凍りつくはめとなった。
「えっと、同室……?」
「すまない、唯人が休む時は一人でないと落ちつかないのは分かっているが、いつまで滞在するのかはっきりしていない以上、路銀は大事にしておかねばならないのでな。どうしても嫌か」
「そ、それなら僕、寝るのは街の外で綱手と一緒でもいいんだけど」
「そんなことを言うな、私を一人に……しないでくれ……」
 さあ困ったぞ困ったぞー、縋るような眼で見てくるディリエラの中では、唯人はあくまで優しく強く、ちょっと繊細なお姉様だ。たった一年だが年上なので、頼りたい気分も分かる。見たところ、寝台が二つあるので最悪の事態は避けられそうだが。(タッカは、ハルアジャが宿に入れないので、宿の客の砂走鳥を繋いでおく鳥舎で一緒に寝ると言っていた)とりあえず街でも見て歩こうか、と唯人はその時が来るぎりぎりまでにこの事態の対処を考えることにした。
「タッカを任せる東行きの商隊も探さないとな、どこに行けばいいんだろう?」
 宿の、入ってきたのとは別な方の出入口。強い日差しを避けるため、砂漠産の丈夫なつる植物を建物に張り巡らせて歩きやすくしてある通りのほうに出ると、すぐにしっかりした屋根のある広い商店街のような場所に出た。標がいるから安心してふらふらできるそこは、足元はちゃんとした石畳で、河の水から引いて張り巡らされた水飲み場が至る所に設けられている。暑く砂っぽい外より、ずっと居心地のいい大通りだった。
 周囲はもうどっちを向いても店、店、店でなんの統一感もなく、肉と履物、金細工と賭けごとの店が隣同士に並んで延々と続いている。そこここに人が群がって、値段交渉の声が響きわたる光景はミーアセンが百倍濃くなったような印象だった。
「ここがスィリニットの中心地、ラバイア最大の街の象徴の自由市場だ。金さえあれば、ここで買えない物はないという。通りすがりの金持ちの貴族が私や唯人を見そめ、欲しいと思ったなら、しかるべき人間にしかるべき対価を払えばその望みは叶うらしいぞ」
「そんな馬鹿な」
「勿論、こっちにもそれをはねつける権利はある。人さらいが敵わないと音を上げ、前金を雇い主に返すまで叩きのめせばいいだけだ。もっとも私を欲しがるような輩は、私の命を何より必要とするだろうがな」
 どうということも無さそうに呟くディリエラの手を取って、小杯に入った飲み物を笑顔で無理やり押し付けようとしてくる若い娘から逃げつつ、少し人密度の薄い水飲み場に避難する。湧き出している水を含んでみると、いつの間にか口が慣れてしまった流の水よりぬるくてやや泥臭い味がした。
「ここは、僕が今まで見てきた中で広さはともかく、人と物の数は一番多い街だな。ここが砂漠の真ん中だなんて、信じられないよ」
「ラバイアの歴史書によると、スィリニットの始まりはありふれた鉱山のひとつだったらしい。そこを掘っていた連中がたまたま金の大鉱脈を見つけ出し、あっという間に人が集まって山は街になった。人が多くなるにつれ、水の需要が増えたので遠くにあった河を分けて側を通し、掘り出された鉱石は屑岩となってこの街を砂嵐から護る壁になった。時が過ぎ、金はほぼ掘り尽くされたが、もうそれが無くとも充分やって行けるほど街は大きくなったのでラバイアの民がここを首都と決めたのだが、その時はまだこの街には竜はいなかった。鉱山時代からいた、複雑な坑道で常に人を導いてくれた霊獣が都市精として祀られていたらしい、あの事件が起こるまではな……」
「あの事件?」
「ラバイアの竜人降臨の大事件だ、王を惑わせ、スィリニットを牛耳ろうとした呪法使いはまず一番に都市精を捕え、坑道の奥底に残っていた金を探させてそれを元手に街の中での地位を上げた。それを知った王はその者に怯えそして心酔してしまい、その者の言うとおりにすれば隣国のテシキュルやユークレン、果ては世界の全てをも手に入れられるとのぼせあがってしまったのだ。その慢心が天の火竜の怒りをかい、とある年の戦勝祭りに乗じて降りてこられた竜人は、まず呪法使いの懐に情婦として入り込むと全てを奪って無力化し、重税に怒り狂っていた街の民の中へと放り出した。そして民の見守る中、竜に戻ると王を諌めようとした忠臣が幽閉された牢や過度に武装し始めていた居城を焼き払うなど王にも相応の罰を与え、最後に強い都市精が必要であろうと砂の竜を街に授けて天へ戻られたのだ。救われた街の民は以後、王位をひとつの一族に継がせるのを止め、その時々の才覚がある者が継いでゆく仕組みにした。それが今のラバイア今代王の在り方だ」
「前の都市精はどうなったんだい?」
「それは書には載っていなかったな、坑道の奥底に戻ったか砂竜に喰われたんだろう」
「それ、ちょっと扱いの差が凄すぎない?」
「そうか?」
 お国柄なのか、その辺はあっさり流される。改めてアーリットの仕事っぷりに感心しながら人通りの中を標に示されるまま再度歩きだすと、やがて何本もの通りが交わるかなり大きな空間に出た。ぽいと標が頭から降り、建物の間で存在感を放っている、大きな岩塊に刻まれた街の地図らしきレリーフに歩み寄る。それに気付いた風で、地図の左上の隅に刻まれていた梟に似た鳥がすいと壁から半身を乗り出すと、まん丸な目で唯人達を見下ろした。
「標の知り合い?」
 この地図も、刻まれてから相当の年月を経た物らしい。よう、久しぶり、程度に視線を交わすと標は勢いつけて飛びあがり、あんたの目的地はここ、と地図の右端に張り付いた。
「え?ちょっと待って、僕達西から来たから門がここで宿屋街はここ、で自由市場がそこで……って、東の端だ、無茶苦茶遠いじゃないか!」
 どうやら標が言いたかったのは、〝商隊を探すのは今からでは歩きじゃ到底無理〟のようであった。仕方ない、今日は戻って明日に備えてゆっくりするか、と振り返ったらもうどの道から来たのか分からない。はいまわれ右ー、とまるで子供を引率する保護者のごとく、標は毅然と唯人の頭に乗っかり尻尾をぴんと張ってくれた。
 その後適当に街を見て回って夕食をとり(しかし、イリュで出されたものはそうでもなかったのに、ラバイア料理と銘打って店で出される物はどうしてああ容赦なく辛いのだろう)宿に戻りたくないが戻らねばならない唯人にディリエラは、明日の為、肌や髪を念入りに手入れしたいからと首都の名物の公共浴場行きを提案してきた。
「唯人も一緒に行ったほうがいい!何日水を浴びていないのだ、明日はもしかしたら王の御前に伺うやもしれないのだぞ?」
「あ、うん、そうだね……タッカも行く?」
「タカン族には大勢でお湯につかる習慣ないです、外で待ってていいですか?」
 ならこの機会に経験してみたらいいのに、と誘ってみたががんとして受け付けない。どうやら民族的に、人前で肌を晒すことにかなりの抵抗があるようだ。
「じゃ、お小遣いあげるからハルアジャとお菓子でも買って宿に戻っててくれ、遅くなったら先に休んでいいから」
「はい、分かりました、ごゆっくり!」
 小さな背が人混みに消えるのを見届けて、振り返った唯人の手が、もう待ちきれないと言いたげにぐいと引きよせられる。
「唯人、スィリニットの公衆浴場はすごいのだぞ。小さな水源ほどの大きさで、しかも湯なのだ!信じられるか?」
「そう……」
 大興奮のディリエラの前で、唯人のテンションはむしろ降下の一途をたどっていた。風呂に行くのは別にいい、毎日湯につかっていた元の世界の生活に比べたら、今の自分はそうとう駄目な状態なのは分かる。しかし……。
「覚悟しておくがいい、その乳茶色の肌、足の指の間まで徹底的に洗い上げてやるからな!」
 ああ、やっぱり。ディリエラの中では唯人はもう女湯行きが決定しているようだ。ううん、と唸る肩で綱手がお湯お湯、と嬉しそうにゆらゆらしているのが腹が立つ。こうなるのが分かっていたなら、ミラをあんなに早く使いに出すんじゃなかった、と唯人はたどり着いた石灰岩ぽい象牙色の石で造られた公共浴場の建物を、恨めしげな顔で眺め上げた。
「個室があるのか、しかし結構な値段だな」
「お金は大事って事で、ここは大浴場にしないかい?僕はそっちのほうがいいな!」
「そうなのか?唯人がそういうならそれでいいが。どうせ一緒だしな」
 もしかして、混浴とかだったら本気で何としてでもミラが戻ってくるまで待とう、と思った唯人の心配には及ばず、ちゃんと入り口は二つあった。(両性のはなかったが)それぞれの壁には追加料金で受けられるサービスが延々と印されてあって、それを目にして舞いあがっているディリエラに一旦落ちつこう、と肩を叩いて入り口に向かう。のれんこそ無いがまったく唯人の知る銭湯そのままに、男女の入り口が並んでいる。その真ん中に座っている老婆が、唯人達の足音を聞き付けたのか盲いている白濁した眼をこちらに向けた。
「女二人、大風呂を頼む」
「いや、どっちかというと……僕は、男湯が……」
 ごにょごにょと呟く唯人の前で、老婆はほんの一瞬小鼻をひくつかせると、黒と白、二つの碁石そっくりの石を投げてよこしてきた。黒が唯人、白がディリエラだ。
「黒は男湯、白は女湯。ごゆっくり」
 ちゃらんとお釣りを返されて、ディリエラがあっけにとられた顔になる。
「もし、ご老人、霊獣使いは男扱いなのか?」
「お嬢ちゃん、もし両性がいるんならこの婆めがこの場で決めるしきたりなんだが、とりあえずそこの若いのには男湯の石しかやれんよ。たとえ召使いだろうが、白石を持たない奴が女風呂に入ったら、ふんじばって叩きだしていい決まりになってるんだから。嫌なら個室を取っておくれ!」
 しっしっと追い払わんばかりの口調だったが、唯人はこの皺くちゃのお婆さんを引っぱり上げて思い切り抱きしめたい気分だった。残念だなぁ、と上ずった声で、まだ何も納得していない顔のディリエラを女湯に押しやって、さっさと男湯に逃げ込んでしまう。やはりイメージとそう変わらない脱衣所には何ともいいタイミングで珍しく群島人の一団が訪れていて、褐色の肌のただ中にある唯人の精霊痕だらけの身体をうまく目立たなくしてくれた。
 物珍しそうにきょろきょろしても、浴室に入った後、作法がよく分からなくて常連らしいラバイア人にじっと目を向けていても、誰も唯人を気にする様子はない。それを最大限に利用して、頭上の壁沿いに大浴槽に流れ込んでいる湯の樋の穴を開いてまず身体を隅々まで流し、自由に使っていい束子で垢を落としていると、傍で同じようにおっかなびっくり振る舞っていた見ず知らずの群島人の男が背を流すのを手伝ってくれた。話してみると、昨日仲間とここに着いたア―ジの干物商だという。
「あんたはどこから来た、若いのに一人なのか?」
「あ、僕はイリュから。商売じゃないんですが」
「おお、珍しいな、西方人の霊獣使いか。俺はそんな時代遅れの偏見なんぞ知らん世代だから気にするなよ、ここで会ったのも何かの縁だ、なにか群島産の物で入り用な品があったらいつでも声をかけてくれ。実は商品の目玉なんだが、ついこの間サイダナで大量に手に入れた貴重な特上級の内湾ウナギの干物があるんだ、これを食ったら三日は寝られなくなるって代物だぞ!」
 ああ、それ持ってるし捕まえたのは僕の肩にくっついてるこいつです、と口には出さずに曖昧な笑顔でその場をごまかし湯船に向かう。砂漠では贅沢の極みだろうたっぷりと湯を湛えた石造りの浴槽に身を沈め、極楽ごくらくぅ、と靴下そっくりに伸びきって水面に浮かんでいる綱手を横目に見ていると、ふと、時々その口から変な白い靄が洩れているのに気が付いた。
「綱手、口、どうかした?」
 唯人の声に、若干びくっとなって振り返った口から小さな塊が飛び出し唯人の顔に当たる。なんだ?と手にすくい上げようとしたそれより速く、透明なかけらはすぐに溶けて無くなってしまった。
「……綱手」
「……(びくびく)」
「僕に、隠し事してるだろ」
「……(さ、さあ……)」
「なんで、お前の口から氷が出て来るんだ!また僕に内緒で何かつかまえて食べたのか?持ち主がいる霊獣を取り上げたんならもう勘弁しないぞ、これからはミミ助って呼んでやるからな!」
 がーん!
 こっちに向かってぱっかり開いた綱手の口の中に、本当に小さな何かがいた。きらきらと銀粉を振りまいている、丸餅くらいのドライアイスの塊と言ったら近いのか……まるで弾かれたようにそれが飛び出してきた瞬間、浴場を満たす熱い湯気が一気に極寒の冷気に入れ替わった。
「うわ!な、なんだ!」
「つ、冷たいっ!!」
「いったい何事だ!」
 あっという間に、唯人のいる湯船の表面に薄氷が張った。浴槽に湯を注いでいる樋も凍りついて、入り口付近でばしゃばしゃと湯を溢れさせている。驚いて、何が起こったのか分からないまま脱衣所に殺到する客らに混じって唯人も避難すると、開け放たれた浴場の出入口から霊獣はするりと空を滑り後を追ってきた。その身から放たれる冷気と似た感触で、霊獣の心が唯人に伝わってくる。
(あつい、あつい、どこにいってもあつい!)
 どうやら、かなり頭にきているようだ。唯人の正面でぴたり、と止まった小さな身体が怒りで細かく震えている。
(これいじょうここにいたら、ほんとうにきえてしまう、きえたくない!)
 そう言われても、唯人には何をどうしたらいいのか分からない。周囲のラバイア人達の霊獣の見えない人は霜をふいた浴場を呆然と眺め、見えている人は唯人が霊獣に襲われている、とこれまた大差のない呆然顔を向けている。と、ふと何かの気配を感じ取った風で、霊獣はびくりと揺れると白い冷気の尾を引いて、瞬時に開いている窓から外へと飛び去ってしまった。
「綱手、あいつ一体何なんだよ!」
「……(話すと長くなりますが……)」
 男湯の騒動は、結局野良の霊獣が(その霊獣が、けしてこの国にいるはずがない種であることは誰も気にしていなかった。ボロアのような霊獣を闇取引する連中の事は皆に普通に知られているのだろう)紛れ込んだのだろうということでカタがつけられた。騒ぎの詫びに飲み物を一杯提供させて頂きます、と頭を下げられ、風呂上がりの客がくつろぐ天井の無い休憩の間へと通される。当然のことながらそこにまだディリエラは来ていなかったので、身内同士の脳内会議に集中すべく唯人はあまり人のいない隅に寄り、居眠りしている風を装った。
『鋭月、スフィは?なんか知ってるんだろ、教えてくれ!』
『まあ、綱手が誰からあれを食ったのかは知ってるが、あれが何だって言われるとちょっとなぁ』 
『それ、誰なんだ!』
『あの、神輿に乗られた黒づくめの御仁に仕えていたお方ですよ。唯人殿の寝所に踏み込まれて、その上あの獣をけしかけようとしたので綱手殿が先に取り押さえたのです』
『えっと、黒づくめって……シュイロウ?』
 二人が忍んできたあの夜、唯人は最初から終わりまで寝ていたので結局ペンドゥラという霊獣使いの顔を見ていない。しかし寒気の霊獣を持っていて、それでシュイロウの輿を暑気から護っているという話は確かに聞いた。
『あれ、寒気の霊獣なのか?』
『綱手の野郎は以前お前にきつーく言い聞かされたんで、あいつを食わずに口ん中に留めてたんだ。あの後持ち主と別れちまったし、結構弱ってたんで可哀想に思ったのか出しもしないで今に至ったってわけだが。んでも、俺の感じじゃどうやらあいつは、自分のボスよかお前のもんになりたがってるみたいだぞ』
『え?』
『唯人殿もご覧になられたとおり、あの者はこの地にいるべき存在ではありません。私共と違い主から充分な糧を頂く事が出来ず、弱り果てているのでしょう。あの夜偶然綱手殿の内に捕えられ、ここのほうが居心地が良さそうだと思われたのは仕方のない事かと』
『向こうがなんて思おうが、僕は霊獣はもういい、他人のなら尚更だ。これ以上〝盗賊〟の肩書きのレベル上げるのは御免だからな!』
 これぐらい気を張っていないと、ずるずるとアーリット化してしまうのは眼に見えている。自分が彼のように完璧に霊獣を制することができるようになれればいい事なのは分かっているが、まだ今の状態では振り回されるだけだ。
「それにしてもディリエラ遅いな、まだなのかな」
 女の子の入浴、しかも明日の事があるので特に念入りになっているだろうそれが長引くのは予想はしていたが、やはり待たされていると心配になる。さりとてこちらから見に行くわけにもいかないしなぁ、と女湯の出口を見るともなしに見ていると、ふいに周囲で風が回った。
「……?」
 さっきの霊獣?と辺りを見渡す眼には何も映らない。と、頭上で羽音が響き、懐に結構大きな何かが落ちてきた。
「ただいま、唯人!」
「ミラ!」
 白い翼がくるりと回り、いつもの小さな獣の姿になって唯人の頭に飛び降りる。手の中の荷物が思ったより大きいのに、重かっただろ、ご苦労さまと唯人はミラを上げた手に受け止め向き合った。
「探したかい?ごめん、こんなに早く帰ってくるって思わなくて」
「ううん、別に、唯人の居場所くらい分かるって」
「結構荷物大きいじゃないか、どうしたんだい?」
 それがさ、と珍しくややくたびれた様子で、ミラはぺたりと唯人の手のひらに伸びて話し始めた。
「まず、キントの家具屋をたずねたんだけど。預けてた金果樹の木屑は、これのせいでそこらへんの霊獣をみんな引き寄せちゃったみたい。見えないけど気配で落ちつかないから、もう引き取ってくれってお爺さんに全部返されちゃった。それとさ、サイダナのシイ君が来てお爺さんちに住みこんでたよ。義足を作ってもらう間、資材置き場の隅を借りて、自作の薬を売ってお金を稼ぐんだって。種を色々持ってるから、薬草の畑を作れば材料は自給できるからね。キントの治療士は怪我とか骨折ばかりでいつも手一杯だから、ちょっとした風邪やお腹痛いときとかはみんな助かるんじゃないかな」
「シイ、ちゃんとキントに着けたんだ、良かった」
「小野坂さんがついてるからね、以前よりはいろんな事が楽になったと思うよ。あの子は綺麗な異国顔してるし、目と足が悪くておっとりしてるキントにはいない感じの子だから、みんな無性に手助けしてあげたくなっちゃうみたい。僕が唯人の姿で訪ねたら、すごく喜んで笑顔で迎えてくれたんだけど正直まわりの視線が痛かったなぁ……特にラトって子、居候なのに手取り足取り、下にも置かない扱いだよ。あれは完全に狙ってるね」
「みんなが優しくしてくれるなら、きっとシイもすぐ馴染めるかな」
「ちょっと恐縮してるみたいだけどね、それで、泊まってけって勧められたけどまた今度、ってお別れしてテルアに向かった。街の壊れてた所は大分直ってたよ、その中に、以前は見なかった某国の堅苦しい軍服を沢山見たけどね。書店に行ったら異国記のたぐいは棚一杯にあったから、綺麗でそこそこ新しいのを選んできた。ラバイアのお金出したら変な顔されたけど、さすがテルアだ、その場で計算してちゃんと受け取ってくれたよ」
 結構お金残ったよ、と言われ、包みから袋を出して確認してみると、半分くらい残っている。程良く厚い本は絵が多く字も大きめで、あまり知識を突き詰めている風ではない庶民向けな感じだ。ユークレン語で書かれてあるのは、セティヤに訳してもらえばその分二人の時間が持てて良いだろう。いいものだ、文句なし、と唯人はそれを有難く、袋詰めされている金果樹の枝片とともに包みに戻した。
「で、唯人、君は何してたの」
「ああ、街を見てまわった後お風呂に入って、今はディリを待ってるんだ。ちょっと遅いんだけど……」
「それは女の子だしね、なんなら僕、行って見てこようか?」
「いいよ、疲れてるみたいだから」
「あのさ、僕、ここからそこまで行く途中にへばっちゃうって程じゃないって」
 ぽいと手から飛び降りて、小さな白い姿は奥へと入っていってしまった。働かせてばかりで申し訳ない気がするが、やはりミラは何をしてもらっても、心底安心して任せられる。もう少しかかるようなら、預かり物だけど本を読ませてもらおうかな、と再度包みに手を伸ばした唯人に、背後から陽気な声がかけられた。
「お兄さん、ちょっと、そこの群島人のお兄さん!」
「えっ?」
 声と共に、肩が軽く揺さぶられる。内心そこそこびっくりしたのを顔に出さず、覗きこんできた顔を振り仰ぐと風呂上がりの客らに冷えた飲み物を売り歩く若い娘は、溢れんばかりの営業スマイルで盆の上に並べた飲物を唯人に突きつけてきた。
「一杯ならタダだから遠慮なくどーぞ、冷たいお茶と果汁でーす」
「あ、僕は、いいから……」
「何言ってんの、言葉分かる?タダだよタダ、後で損したって文句言われたって困るんだから!」
 半ば強引に杯をひとつ押し付けられ、大きく背の開いた刺激的な衣装の後ろ姿が去っていく。つむじ風のごときその勢いにあっけにとられたが、仕方なく口を付けようとしたら、突然ずいと伸びてきた綱手が横から杯にかぶりついてきて、あっという間に一気飲みしてしまった。
「綱手!なんだよ、喉乾いてたのか?」
 唯人は、ここのところ少しでも渇きを感じたらすぐに流が美味しい水をくれるので、あまり他の飲物を必要としなくなっている。それにしても強引だな、と若干気分を損ねた唯人に綱手はけぷっ、と変なげっぷを吐いた。
「あ、ミラが戻ってきた」
 行きかう人々の足元をちょろちょろと抜けて、白い姿が戻ってくる。どうだった?と聞くと肩に飛び乗り二位姫様いたよ、と安心させるように伝えてくれた。
「今、髪に櫛を入れてる最中、長くてくるくるだから大変みたい。でももうそろそろ終わるみたいだからのんびり待ってようね」
 そりゃそうだよな、イリュでも召使いの人が付きっきりでやってたし、と改めて安心して身体の力を抜き壁にゆったりともたれかかる。男湯はどうなったんだろう、ちゃんと直ってればいいんだけど、と思いつつ、労わりを込め肩のミラを手で包んで襟元に押し付けてやる。すると、彼もただの飼い獣のように気持ちよさそうに眼を閉じて身を預けてきた。
「うーん、やっぱり唯人からの霊素はいいなぁ。暖かくて柔らかくて充分で、疲れなんてあっという間に飛んじゃうよ」
 この獣の姿だからいいけど、いつもの人の格好ならとんでもないよな、とか余計な事は考えないようにして、さりげなく割り込んできた綱手共々ゆっくりと撫でてやる。あ、そうだと何気ない風でミラが薄目を開けた。
「それでさ、言い忘れてたけど……テルアでおチビに会ったよ」
「え?」
「街に入ったときからばれてたみたい、書物店から出たらつかまって、アシウントの精霊獣師も最近のは質がいいからなめてんじゃないぞって忠告してくれた。唯人はどうしてる、って聞かれたから……」
 ここで、思わせぶりに言葉を切るとミラはふふっ、と鼻を鳴らして見せた。
「……から?」
「とびきり可愛い女の子と二人旅中、って言っといてあげたからね」
「……!!」
 うわあああなんてこと言いやがった何考えてるこの金属板ってゆーか無生物!!と眼を見開いた唯人に、だって口止めされなかったし、と獣の顔がにんまりと笑う。こんなことになるなら、多少のプライバシー流出なんかどうでもいいから泳風連魚を付けておいてもらうんだった!もう何もかも差し置いてテルアにすっ飛んで行きたい気分をぐっとこらえ、唯人はからからの口から喘ぎのような言葉を絞り出した。
「で、な、何て返事したんだ?アーリット……」
「それがさあ」
「う、うん」
「そうか、って。それだけ」
「それだけ……」
「つれないよねぇ、可愛くないったら」
「それだけ、なんだ……」
「唯人、あんな鈍感傲慢おチビ、もうやめちゃいなって」
「……」
 その後すっかり口数を減らし、頭の中をアーリットへの言い訳とか言い訳、そして言い訳などで一杯にしながら悶々としていると、やっとディリエラらしき姿が扉の向こうからやってきた。予想していたふわふわ頭と違って、唯人には理解できない軽そうな筒状の……例えるならへちまの芯のような物を何本も髪に巻いて留め、乾いた時綺麗な巻き毛になるよう整えてある。今晩どうやって寝るんだろう、と驚きを隠せない唯人に褐色の肌を艶やかに輝かせ、ディリエラは上機嫌の顔で歩み寄ってきた。
「待たせたか?唯人」
「あ、うん、それほどでも」
「さっき、壁の向こうが騒がしかったな、何かあったのか」
「ああ、それは。僕の竜が、多分ペンドゥラって人の霊獣を隠してたのが逃げ出したんだ。随分気がたってたみたいで、浴場を氷漬けにして行ってしまったよ。ちゃんと持ち主の元に帰ってくれればいいんだけど」
「ペンドゥラ?というと冷気の霊獣か。あの者もシュイロウと同様、どうなっているのか気がかりだが……」
「うん?」
 ふと、ふわっ、と明らかに温度の違う風が唯人の肌を吹きすぎた。きらきら光る微細な粉が、空気に混じり薄れてゆく。風の来た方を振り返った唯人に、じっと動かなかったミラも片眼を開けた。
「あいつだよ、戻ってきた!」
 竹垣を立て、それをつる草で覆っている休憩所の柵の上に、白い塊がちょんと乗ってこちらをうかがっている。明らかに唯人に向かって吐かれた白い靄状の吐息が、またひやりと顔を撫でて流れて行った。
「そこに居るのか?唯人」
「うん、こっちを見てる、なんだろう」
「もしかして、ペンドゥラがこの街に来ているのだろうか」
 そうか、と近寄ろうとしたら霊獣はふわりと舞い上がり、柵の向こうに消えてしまった。
「追いかけてみるよ、ディリ、君は先に宿に戻ってて!」
「待て、私も……!」
 立ち上がった唯人の背で、どさっ、と何かが床に倒れる音がした。
「ディリ?」
 どうしたんだ?と横たわる上体を抱き起こそうとするが、その身体にはぐったりとなんの力も感じられない。瞬時に異変を感じ取り、唯人は軽く彼女の肩を揺さぶった。
「しっかりしろ、ディリ!」
「唯人、足が……身体が、痺れて……力が」
 すぐに口にも痺れが来たのか、声がかすれて低くなる。
「ここに来る前に、何か飲んだり食べたりしなかった?」
「店が……ついさっき、振る舞いだと言って、飲物……」
「君もか!」
 ぞっ、と背を冷や水を浴びせられたような感覚が駆け降りた。すかさず、先程唯人に飲み物をくれた売り子を探すが、視界の範囲にはどこにもいない。そこでやっと、さっき綱手が唯人から飲み物を横取りしたのは、何か感づいた故の行動だったと理解できた。
「綱手、お前は大丈夫か?」
 別に、あれくらい、と肩の白い姿が小首をかしげて見せる。すぐに周囲の客らもディリエラの様子に気付いたのか、徐々に人が集まってきた。
「おい、大丈夫か?」
「気分でも悪いのかい?」
「湯あたりかしら」
「可哀想に、ときどきいるのよ、湯に慣れてなかったのね」
「誰か、治療所に連れて行ってやれよ!」
 そう珍しい事ではないのか、すぐに柵がわの裏出口の方から浴場の者らしい二人の男達がやってきた。専用の板にディリエラを乗せ、その場から担ぎ出す。病人を早く届けようとしているにしては、いささか乱暴に猛スピードで駆けていく男達は商店街を駆け抜けどんどん進み、やがて、唯人がなんとなく見覚えのある薄暗く人気のない路地までやってくると、そこで足を停めた。
「どうしたんです?ここは……」
 見たところ、周囲には治療院どころかまともな建物さえ見当たらない。それにさっき曲った角を反対側に行けば、そちらにあるのはあの獣商人のボロアの店だ。嫌な予感がする、と動かないディリエラに寄り添った唯人に、男達は無言で板を下ろすと唯人らを置いて去ろうとした。
「待って下さい、なんでこんな所で!」
 追うに追えず叫んだ唯人に、奥からやってきて、二人とすれ違った大きな影がゆらゆらとこちらへと伸びてくる。
「おかしいな、なぜ片方にしか薬が効いておらんのだ、ちゃんと飲んだのを確認したと言ったではないか」
 低い耳障りな声と共に、暗闇から現れたその男は、やはり唯人の予想通りの人物であった。でっぷりと太った身体に細い煙を引いた煙管……まだ記憶に新しい、重そうにたるんでいるその面構え。
「やはり貴方ですか、ボロアさん」
 自分を睨みつける唯人に、ボロアは何も知らない、あくまで若い世間知らずな二人をいつもどおりに手に入れた、と言った表情でにやりと笑んだ。
「また会いましたな、可愛らしいお二人さん。護衛の一人も無しにこの街、そして儂のもとへ迷い込んでくるなどなんて無知で愚かなのだろう。貴方がたが街を楽しんだ後、夜にはもう、貴方達を欲しいという注文が儂に届いてきたよ。さあ、悪いようにはせん、今宵の内にうんと綺麗に磨き上げて、上流階級の秘密の夜会でせりにかけてあげるから。どうか大人しく儂に従っておくれ、こっちもその肌に傷などつけて値を下げたくはないからねぇ」
 話しかける事で唯人の注意を引いておいて、物影から放たれた、多分痺れ薬付きの吹き矢はバレットが容易く弾き返してくれた。僕がこの身体に抱えているものを知ったら、この人はどんな顔をするんだろうか、と考えても湧きあがってくる怒りが抑えられない。こっちの準備はいいよ、と言いたげに肩にいたミラがううん、と伸びをして起き上がった。
「僕には、護ってくれる存在が何もないって思ってるんですか」
「儂にはったりをかまそうとしても無駄だぞ?ちゃんとこちらの霊獣使いに見させてもらったのでな。道案内の鳥に肩の長蟲、それとちびの草潜獣が一匹か、数があってもそんなのばかりでは……」
「……無知で愚かなのは、どっちかなぁ」
 ふいに、ボロアの耳障りな声が止められた。目の前の相手の肩にとまっている白くちっぽけな毛皮の塊が、急にむくむくと膨れ上がってゆき、炎のように揺らめく銀の毛並みと鋭く巨大な牙の肉食獣の姿に変わる。竜ほどではないが、それでも人よりは大きなその身体を甘えるように主人に絡ませ飛び降りると、獣は狩りの姿勢で身を低くし、笑うように深く裂けた口を開けた。
「僕さ、生の脂身ってあまり好きじゃないんだよね。牙に付いたらなかなか取れないし、特に年寄りのって臭いんだ」
「し、喋った!しかも姿が変わったぞ?」
 瞬時に、ボロアのただの切れ目みたいな目がそれなりに目一杯見開かれた。
「お、おまえ!そそそいつはなんだ、獣なのか、霊獣なのか?」
「うるさいな、そんなことどうでもいいじゃない」
 それより自分の心配しないの?とわざと舌舐めずりして見せる。本当のところは、彼は主の代わりに豆の汁ひと匙さえも口にできない存在であるのだが。
「双界鏡って名は知らなくても、この僕がこの子を護ってるってこと、分かってくれたかな。商人さん、言っておくけどこの子相当の事されないと怒らない子だよ?僕に牙を剥かせちゃうなんてさ……本人じゃなくて、お姫様のほうを嫌な目にあわしちゃったってのがちょっとまずかったね。さて、その不格好な脂の塊、どこから引きはがしてあげようかな?」
 じり、と進む獣に合わせ、脂汗を滲ませた背が同じだけ引く。表情は醜く歪み、引きつっているが、その口から出た台詞はいっそ見事と呆れるものだった。
「す、すごい!長年世界のあらゆる生き物を扱ってきた儂が見た事のない獣だと?おいお前、それを一体どこで手に入れた!ものすごい珍品だ、もしそいつを手に入れたいきさつを教えるならお前は見逃してやるし、そいつ自身をよこすなら特別に大盤振る舞いで二人とも見逃してやろう!どうだ、悪くない話だろう!」
「駄目だこの人、海に落ちても懐のお金を離さないで、一緒に沈んで溺れちゃう種類の馬鹿だ」
 げんなりした唯人の心中は、きっちりミラが代弁してくれた。垂れ下がった肉に埋まった小さな目を暗い欲望の熱情で満たし見つめられ、気持ち悪い、かじるのも嫌だと溜息をつく。
「どうせ、僕がお前なんて嫌だってあくまで言いはったら、結局は持ち主を始末しちゃうんだろ?でなきゃ他人に売る霊獣なんておいそれと手に入れられるわけないものね。それじゃいつもどおりにやってごらん、上には上がいる、ってのを思い知るいい機会だろうから」
 えらく口のまわる獣だな、とボロアが周囲に合図すると、いつの間にか周囲を取り囲んでいた数人の影が動いた。すかさず唯人も壁際にディリエラを寄せ、武器を出して構えようとする。その瞬間、複数の悲鳴が闇の中、次々と響いた。
「な、なんだ……どうした、お前達!」
 暗がりでもよく目立つ、でっぷりとしたボロアの影が慌てた様子で周囲を見回している。はるか遠くの街灯の、微かな光に縁取られた姿がゆらりと近づいてきて、唯人は更に別の一派がこの場に加わってきたのを感じ取った。
「……金にとり憑かれた下衆が、お前の手下は我らがたった今全て片付けた、後はお前一人だけだぞ」
 声は、低めの女性のそれだった。声の主が思い当たったらしいボロアがちっと舌打ちして背後を振り返ろうとする、それより速く蹴り倒されたらしい重い音が響いた。
「な、なにをする!儂はちゃんとお前との取引に応じてこの二人を捕えて来たではないか、なぜ儂の手下を始末するなど!」
 そこまで言って、更に顔でも踏まれたのかふぎゃっ、と身も世もない悲鳴が上がる。この隙になんとか二人で逃げ出せないだろうか、と唯人が思うより先に、また、さっきより多数の人の気配がそこここから現れ周囲を取り囲んできた。
「誰がお前と取り引きをした、我らはただ、追ってきた我らの獲物にお前らこの街の人買いが手を出さぬようにと忠告しただけだ。さっきなんと言っていた?全部聞かせてもらったぞ。我らの獲物を横取りして値を吊り上げようとした上、珍品の霊獣欲しさにその何倍も貴重な竜の器を砕こうとするとは……まあ、どちらにしろお前はここで終わりだ、たとえ知らなかったとはいえ、竜の尾にじゃれついた蛙は踏み潰されるのが当然だ」
 言葉が終わると共にげぶっ、とくぐもった声が漏れ、それきり周囲は静かになった。ぽっと暗がりに光が灯り、その只中に立つ、ある砂漠の一族の特徴的な衣装をまとった人影がこちらへとやってくる。少し離れた位置で足を止め、鋭い視線でこちらを睨んでいる顔は、ふいに覆っている布を引き下ろした。
「また会ったな、竜人」
「……え?」
 誰だ?と訝る唯人に黒づくめの方の御供ですよ、と鋭月が囁きかける。じゃ、霊獣使いのペンドゥラって人?その人がなんで、今ここで僕を……と戸惑う唯人に、シュイロウの霊獣使いの頃を知っている者なら目を疑っただろう、ペンドゥラは女性寄りの印象が勝っている顔に凄まじく酷薄そうな笑みを浮かべて見せた。
「竜の一件では、よくも我らを欺いてくれたな」
「何のことだ?」
「砂嵐の後の戦いで、竜の額に腐肉を投げたのはこの私だ。あれで宴の夜のように竜の制御を失わせ、戦士もろとも二位を始末した後、杖を取り上げたお前を四位にくれてやって籠絡させるのが我らの計画だったわけだが。お前を信じたばかりにこのざまだ」
「ペンドゥラ、君は……」
「誇り高き流浪と狩猟の一族、砂漠の狼と呼ばれしクルニ族が三位、サイ・ペンドゥラ・インタールが私の名。以後、見知っておいてもらおう、竜人よ」
 薄暗い中から向けられた笑顔は、女性的であるにもかかわらず、優しさとか暖かさとは程遠い印象のものだった。今や隠そうともしない血の臭いを纏い、子供じみた殺戮と残酷に慣れきった暗い紫の眼を獣のごとく輝かせている。どんなに非情であっても、アーリットはけしてしない眼だと思えた。
「でも、セティヤは君を首都から来た霊獣使いだと」
「ああ、本物はとうの昔に首都とイリュの間のどこかの砂に埋まっている、それほど強くもなかったがな」
「イリュは今、どうなってるんだ」
「知らん、たとえ知っていても言う義理は無いだろう。我らの任務は引き続き、スリンチャの二位の命とお前を得ることだ。その小娘はここで始末する、そしてお前は面倒な竜を呼び出される前に死なぬ程度に切り刻んでやろう!」
「……このぉっ!」
 ペンドゥラの言葉が終わると同時に、まるで一陣の風のごとく唯人の背に向けて刃が突き出されてきた。すかさず伸びた綱手に喉元に喰らいつかれた男を脇に抜かせて避け、身を返すと向き合ったその手にはもう銀光放つ太刀が構えられている。次々と間を詰めてきた複数の覆面姿に囲まれて、唯人の傍らには血を浴びる期待に舌舐めずりする鋭月がふわりと寄り添った。
「お前達も、クルニ族の残党か?ここまで追ってきたのか!」
 皆、何も答えない。しかし着ている衣装の感じと凄まじい殺気でそれと分かる、自分が殺される事は無いはずだろうから、ここはなんとしてもディリを護る、と唯人は意識に鋭月が入ってくるのに任せ、受け入れた。
『仕方ない、今日は無礼講だ、鋭月』
『唯人殿の御心のままに』
 本当の殺陣というものは、けしてテレビで見るような様式的な美しいものではない。相手が数人いれば、それらは一人一人順番にかかってくることなどなく、四方から一斉に襲いかかってくる。こちらが一人ならとにかく動きが悪い者、ごく僅かでも怖れがある者から片付けて数を減らすしかない。あらゆる方向から迫ってくる武骨な刃を風になびく草のようにひらひらとかわし、肩から放ったバレットらに撹乱させつつまず一人、と完全に懐に入った相手の横腹に閃光の刃を滑り込ませる。切っ先が肉を断ち、次の相手に向かう……その視界のすみで、自分がディリエラを護ったほうが唯人が動きやすい、と踏んだのか、ミラがのしかかっていた相手から離れるとひらりとこちらへ戻ってくるのが見えた。
「唯人、この子は任せて!」
「頼む、ミラ!」
 いざとなったら壁に手をつけば綱手を呼んで一掃できるが、竜に特別な感情を持っているこの街の人に綱手の姿を見せてしまうのはちょっと危ない気がした。大丈夫、まだ僕一人でどうにかできる。舞うように敵を次々と薙ぎ払い、貫いてゆく鋭月の剣技に身を委ね、やがて唯人は砂漠の民特有の大ぶりな短刀を構えたペンドゥラの前に迫った。
「これは、殺し合いなど知らぬ世界で育った眼をしていると思ったが、結構やるものだな、竜人よ」
「僕の力じゃない、僕の中のみんなが僕の為に力を揮ってくれているんだ。僕自身は何もできない、ただ信頼して、僕という人間が望むこの世界での彼らの在り方を伝えてあげているだけだ」
「分からんな、獣はねじ伏せ、支配し使い捨てるものだろう。たいして役にもたたず、すぐにすり減って消えるだけだ、どいつもな!」
 一片の情も感じられないその言い方で、唯人ははっきりと理解した。彼女は、テルア軍で位置づけるところの九級精霊獣師だ。石に封じて霊獣を持てるが、身体に持ってより深い部分で通じ合ったことがないので見えない連中と同じ、霊獣をせいぜい便利な道具くらいとしか思っていない。ふいに、消えたくないと嘆いていたあの霊獣の小さな姿が頭に浮かんだ。
「あの、寒気の霊獣はどうしたんだ、ちゃんと君に戻ったのか?」
「何故お前がそれを私に問う、知りたいなら教えてやろう、そら!」
 突っ込んできた刃の先をかわそうと、身を逸らそうとしたその瞬間、唯人の片足がまるで地に固められたかのごとく動きを止めた。なんとか尻餅をつく状態で転んでかわし、暗がりの中で白く浮かび上がった氷塊と化した足先に息を飲む。冷たさに肌が痺れ、このままでは肉が凍りつく、と焦った唯人の眼下にすかさず白い輝線が走り、地面にぽうっと簡素な丸い紋を浮かび上がらせた。
「流?」
 何も無い地面から、緩やかに水が吹き上がってきて唯人の足を包み込む。すぐに細かい亀裂が入り、氷塊が砕け足が自由になった。二度、三度と襲ってきた責めになんとか耐え、立ち上がった唯人になかなかカタが付かない苛立ちを露わにした顔で、ペンドゥラは傍らに浮かんでいる霊獣を振り返った。
「脚一本など無駄だ、身体ごと凍らせてしまえ、ネイナット!(白い粉)」
「……」
 霊獣は、肩で息をしているように宙で揺れている。鋭月が指摘したとおり、もともと寒冷地にいるはずなのに真逆の暑い砂漠に連れてこられ、充分な霊素も得られず冷気を吐かされるばかりで存在がもたなくなりかけているのだ。唯人の眼にも辛そうに、これ以上は無理と訴えている霊獣を、舌打ちの音を響かせペンドゥラはあっさり見限った。
「お前がいないとあの〝×××以外幼児並み〟がぐずって苛々するのだが……高い金を払ったというのに、ここまでだな。シャダンがイリュを獲ったら、次はもっと長持ちするのを買わせるとしよう。そら、残りの力を使いきって竜人を凍らせろ!」
 ふわっと宙を滑り、銀粉を散らす小さな塊が思い切った様子で一気に迫ってきた。思わず身構えて、鋭月を盾に一刀両断の構えをとる。そのまま体当たりしてくるかと思ったほどの勢いだったが、霊獣はひらりと唯人の手前で向きを変え、周りをくるくると回り始めた。銀粉が周囲に散り、また霊獣の言葉にならない思いが微かに唯人に伝わってくる。
(きえてしまうのはいやだ)
「お前……」
(でもそれより、あんないやなのにつかわれて、このずっとよさそうなのをいじめないといけないのがもっといやだ。おおきいののなかからでなければよかった、どうせきえるなら、あついのをがまんしてさいごまでじっとかくれていればよかった)
 声なき声で嘆きながら、霊獣は身体を銀粉のごとき冷気に変え唯人の身体に吹き付けてきた。みるみるうちに、雪が降り積もるように衣が白く凍りつき始める。しかしそれには一切反応せず、唯人は離れて立つペンドゥラを睨みつけた。
「君は、本当に霊獣を使い捨てにしてるんだ」
「それがどうした、霊獣とは使うものだ。お前だって竜を使っている、強いから長持ちするだけのことだろう!」
「君の霊獣が弱くてすぐに消えてしまうのは、君自身が霊素を満足に与えてやれないからだ。うんと強いのを買ってもらったりしたら、君はすぐにその霊獣に喰い潰されてしまうだろう。自分の事も霊獣の事も何も分かってないのに全部弱いもののせいにして、可哀想なこれをむざむざ消してしまうくらいなら僕が貰う、この霊獣もそれを願ってる」
「貴様、誰に向かって話している、私はスリンチャの三強と呼ばれた霊獣使いだぞ!」
「ユークレンなら、十段階の下から二番だ、本当に強い人は空青石に頼ってなんていない。もういいからこっちにおいで、僕がいいなら面倒みるよ」
 もう親指ほどの大きさに縮んでしまっても、忠実に唯人を凍らせようと頑張っていた霊獣をぱしっと手でつかまえる。口を開いて待っている綱手に放りこんでやると、ごくり、と喉が動いて飲みこまれた。
「君の霊獣使いの術はここまでだ、それでもまだ、続けるのか」
「そんなこと関係ない、そもそも、そのようなものには最初から頼ってなどいなかったのでな!」
「君達がどうしてもディリエラを傷つけるというのなら、僕も絶対引きはしない!」
『無駄死にも、美学のひとつとしてあってもよろしいものですよ、少なくとも私はそれを厭いません』
 鋭月は、久々に存分に血を浴び上機嫌の様子だった。襲いかかってきた賊の短刀が唯人の身体のどこかに届くその前に、先に繰り出された切っ先が瞬時に腕を斬り飛ばす。薄闇に悲鳴があがる度、地に次々と紅い飛沫の花が咲き乱れて生臭い気が立ちのぼり、数を減らした賊は修羅のごときたった一人の勢いに、徐々に路地からじりじりと押され始めた。
「怖いなら逃げたらいい、追わないし、僕もそうしてくれた方がいい」
 唯人の言葉に、もう布で覆っていても分かる、怯えきった目の若い男は思わず周囲を見渡した。逃げたいのは山々なのだろうが、そうすると後で仲間にどう扱われるのかが骨身に染みているのだろう、意を決した風で剣を振りかざしてきた喉の正面に、すかさず刀の峰で渾身の一撃を入れる。死にはしないが、まず数日は起き上がれないだろう。
「思いあがるな小憎、敵に情けをかけているつもりか!」
 ふいに、予想もしていなかった方向からペンドゥラの声がした。仲間に唯人へ捨て身の攻撃をさせて注意を引き、素早く壁際に倒れているディリエラへと忍びよっている。手に握られた短刀が、薄暗い中鈍く輝いた。
「もういい、良く分かった、悔しいがお前はあの馬鹿四位にも、今の我らの誰だろうと手に負える相手ではない。ならば先にイリュを落とすほうに加勢して、お前はその後我らの全力をもって屈服させてやろう、だが、この娘は何としてでもここで頂いていくぞ!」
 さっと踊り出たミラを、引き締まった体格の影がひらりと飛び越え刃をふりかざす。しかしディリエラの身体はミラの眼に見えない障壁で覆われていて、その刃はけして届くはずはない。
 形容しがたい、金属が硬い物体に弾かれる音が響き……そして唯人は息を飲んだ。
「ディリ!!」
 突如、ぶわっと、噴水というより壊れた水道管のごとく砂が吹き上がった。ちょうどディリエラのいる真下から勢いよく噴出し続ける砂に、瞬時に彼女の姿が飲みこまれ、ミラとペンドゥラが吹き飛ばされる。すぐに体勢を立て直して置き上がると、ミラは迷わず砂柱のただ中へと身を躍らせた。あっという間に、その姿も砂に埋もれ消え失せる。
「なんだ……これ」
 ざわっ、と肌が泡立った。いけない、ディリエラを助けないと、と近づこうとするが砂の勢いが激しすぎて押し返される。そうこうしているうちに、街の人々が騒ぎを聞きつけたのか大勢の声が路地の向こうから近付いてきた。
「ディリ、ディリ!畜生、どうすれば!」
 ミラと同時に流されたらしいペンドゥラは、どうなったのか影も形も見当たらない。この私闘の痕跡も生々しい現場にいる自分を第三者に見られるわけには断固としてならず、さりとて去るわけにもいかない行き詰った唯人の耳を、何かが思い切り引っぱった。
「い、痛っ!」 
 振り仰ぐと、いつにない真摯な面持ちで標が頭上から見下ろしている。とにかくここは一旦引け、とぴんと伸ばされた尾が人々の迫ってくるのと反対方向の路地の奥を指し示した。
「でも、ディリエラを置いてなんて!」
 聞きわけの無い事を言うな、と更に爪まで耳にかけ、激しい調子で容赦なく示す方へと追い立てられる。やめろ、と払おうとする唯人の眼に、吹き上がる砂柱が、一瞬あるものの姿をとってゆらり、と揺らめいた。
「砂の、蛇……いや、竜……?」
 まるで大蛇が沼に沈むように、もたげた頭部がゆっくりと地に届き、吸いこまれるように砂が引いていく。それを最後まで見届けるのは到底頭上の存在が許してくれず、唯人は暗い路地に必死で駆けこんだ。 
「どこまで行けばいいんだ、標!」
 こんな血まみれの様相で、誰かに出くわしでもしたら、と思っただけで、服の内からじわりと水が浸み出してきた。びしょ濡れになってしまうのはしょうがないが、飛びついた血をきれいに濯いで痕跡を流し去ってくれる。急いで口で水を吹きかけ鋭月も清めて身に戻すと、きわどいタイミングでやってきた街の人達が立ちつくす唯人の脇を通り過ぎて行った。
 さっきまで居たほうでは、街の人達が斬り伏せられた賊やボロアらを見つけたのか、ざわざわと騒ぎ立てる声が大きくなっている。鋭月が引いたせいで、今までまるで映像のように現実感が無かった血や切断された人の身体、悲鳴や生臭い臭気などが心に重く浸みこんできて、我知らず唯人は目立たない路地の傍らに足を止め、静かにその場にしゃがみこんでしまった。自分でも情けないと思うが、いまだ慣れてしまえるものではない。動悸の治まらない胸でディリエラやミラのことを考えたら、じっとしている事がとてつもない罪悪のように感じられてきた。今すぐ引き返さないと、僕はなぜ、こんな所で何もせずぼんやりしているんだろう……。
「あいつだ、あいつが……!」
 遠くから響いてきた潰れた叫び声と共に、彼方で群れている人の群れがさっと割れた。ざわざわと騒ぐ群衆の中、奥から明らかに雰囲気の違う人影が三人、こちらへとやってくる。白く長いフード付きのマントですっぽりと身体を覆い、ぱっと見はてるてる坊主のようないでたちだ。近づいてきても、フードが深々と覆い被さって顔はどれも鼻から下くらいしか分からない。叫んだのは、どうやら唯人がさっき命だけは取らずにおいた若いクルニ族のようであった。動けずにいる唯人の腕が、近くにいた街の人間につかまれ拘束される。逃げる?と覗きこんでくる綱手を唯人はいいから、と押しとどめた。
「他国人だな」
「……」
「本当に、お前がやったのか?」
「先に、向こうが襲ってきましたから」
「連行しなさい」
 唯人の言葉など通じていないかのように、先頭の人物が呟くと、脇の一人の袖から赤いムカデ似の長蟲が這い出てきた。するすると地を這い、唯人の足から上がってきて腕を戒めようとする。が、腰まで上がってきた所で当然のごとく綱手にひと睨みされ、長蟲はぽとりと落ちると一目散に持ち主の裾へと逃げ帰ってしまった。それを見た反対側の一人がすかさず大きな鎌状の腕を持った、タガメと蠍の中間の蟲を放つが、やはり綱手に小さな頭部を〝かぷっ〟とされて勢いつけてバックで引き返してしまう。これは手強い、と身がまえた相手の驚きがひしひしと伝わってきて、このままではどんどん事態が悪化する、と唯人は慌てて伸びている綱手を手元に引き戻した。
「違うんです、僕、抵抗してるわけじゃなくて……」
 ついに、三人の中では一番の実力者らしい真ん中の人物が進みでてきた。どういう策を秘めているのか、霊獣を出して来ることなく普通に歩み寄ってくる。やっぱり噛まないとしょうがないと思う、と唯人を伺う綱手を意に介せず、人物は唯人のすぐ正面までやってきた。
「……またお会いしましたね、若き異国の貴き御方」
「え?その声、クェンタン……さん?」
「しっ、お静かに」
 近くによると、フードの中にある紫の瞳が微笑んでいるのが分かった。ぎりぎり唯人だけに聞こえる程度の喉声で、今は知らないふりをなさい、と紅い唇が囁きかける。
「ここは、人の目が多すぎます。どうか少しの間だけ、私共に従うよう貴方の獣に言い聞かせてはもらえませんか?こちらが到底敵わないのは重々分かっておりますゆえ」
 言葉が終わるとともに、裾が地に届くほどのマントがふわりとひるがえり、内からかなり大きな金色に輝く六翼の猛禽の霊獣が現れた。鋭い叫びで威嚇され、分かりました、降参ですと両手をあげる。綱手は良くわきまえた様子で、本気出しゃあ丸呑みだけどね、と唯人に一応アピールしてすいと肩に引っ込んだ。
「犯人が、降参したぞ!」
「さすが、王の護衛をされておられる治安霊獣師の面々だ」
「無駄な抵抗しないほうが、利口ってもんだ!」
 唯人を捕まえた人物を筆頭にわあわあはやし立てられて、この上もない悪目立ちだ、と更に唯人は自分が嫌になった。そろそろ北の彼方の地で、緑の眼の最強霊獣師がこの大問題児を穏便に行動させるための術式を織り上げ始めているかもしれない。白いフードの下で若干びくついている様子の二人が唯人の後ろに立ち、三人に囲まれる形になって唯人は夜の通りを連行されて行った。明るく照らし上げられた商店の合間を抜け、あの岩に刻まれている街の地図の前を通り……やがて商店街を抜けると、道は昇りの石段へと続いていった。
『これ……昼間通った城に行く道じゃないか、僕は、城に連れて行かれてるのか?』
『どうやら、そうみたいだな』
 スフィに相槌を貰いながら、煌々と明かりを点けている城下の高級店の前を抜け、三人は王城の敷地の入り口の門の前に来て一旦足を停めた
「霊獣師長様、もっと人手を呼んできましょうか?」
「この者、なかなかの霊獣を持っているようです、逃げぬよう数で抑えないと」
「僕は、逃げるつもりはありません」
 すかさず言い切った唯人に、既に格下感を匂わせながらなにを、とクェンタンの部下らしい二人が気色ばむ。その二人が思わず耳を疑うような一言を、クェンタンはごくあっさりと口にした。
「増援は必要ありません、貴方達もここで結構です。通りの現場へと戻りなさい、この者は私が直々に取り調べを行いますから」
「それは危険です!」
「いくら霊獣師長でも、お一人では!」
「大丈夫だと言っているのです、私を信じなさい。王の最高位御用霊獣使いである、このバリウスタ・クェンタンを。それに本当に私達の手に負えない相手なら、砂の竜が放っておくわけがありません。この者は、竜の眼にもかからない小物か、でなければ竜に見極められているのでしょう」
 この一言で、まるで電撃に撃たれたかのように、二人は姿勢を正すと元来た道を引き返して行った。その白い後ろ姿が見えなくなったのを見届けて、やれやれとクェンタンがフードを下ろす。門の前まで来ているのでそのまま入っていくのかと思ったら、彼は身を返すと唯人をすぐ隣の自分の店へと連れて行った。
「クェンタンさん、王の御用霊獣使いって、すごく偉い方だったんですね。そんな地位の貴方がどうして美術商なんて」
「逆ですよ、阿桜殿、私は元々が一介の美術商だったのです。先代の御用霊獣使いがその役を退いた時、たまたま私が次の実力者だったので仕方なくこの任を預からせて頂きました。しかし私が治めねばならぬ霊獣使いの騒ぎなどそうはないので、普段は変わらず商いをさせて頂いている次第です」
 胸で輝いている空青石の首飾りも、これは言うなればただの位の象徴で、中に霊獣は宿ってはおりません。私の霊獣は金翼鷲のみ、その子はここに居りますから、と服の胸元を引き下げて鳩尾のあたりに印されている精霊痕を覗かせる。つい眼を背けた唯人に可愛い方、とくすくす笑いを洩らしながらクェンタンはたどりついた〝エレイト・パラナ〟の扉を開いて唯人を招き入れた。中にいた初老の店番が、入ってきた主を見るなり軽く会釈し奥へと消える。砂まみれで生乾きの己の状態に、唯人が豪奢な長椅子に掛けるのを躊躇していると、クェンタンはすぐに唯人に乾いた布と代えの衣装を出してきてくれた。薄ぼんやりと室内を照らす灯火のもと、重くまといつく服を脱ぎ身体を拭く。と、何だか右腿の外側がやけに冷えてきたので見てみると、そこには今までのなかで一番綺麗な精霊痕が浮かび上がっていた。
 氷片のモザイクか、透明な液状の樹脂で肌に直描きしたような、雪の結晶を思わせる細かい模様が膝近くまで肌を覆っている。しばし見とれた後、寒いよ、と言い聞かせるように頭の中で呟くと、慌てた様子ですぐに冷感は治まった。おずおずと、頭に言葉にならない意識が語りかけてくる。
(たすかった)
『気分はどう?』
(つめたくはないが、いごこちはいい。ほしかったものがうんとある)
『うん、僕はこれ以上は冷たくはなれないから我慢してもらうしかないんだけど、気に入ったなら良かったよ』
(いごこちのいいおまえのいうことをきくから、なまえがほしい)
『え?名前あったんじゃ?ペンドゥラがネイ…とかって』
(それはもういらない、いやなにんげんがつけた、ちっともじぶんにあってないし、いやなことやむりばかりやらされた)
『うん……じゃ、〝薄荷〟ってどうかな?すーって冷たい感じが似てるから』
(つめたい?つめたいのはすごくいい、いいなまえならちゃんとちからがだせる)
『それじゃ、よろしく薄荷、まずはちゃんと元通りになるんだよ』
(やくそくする、うんとつよくなってやくにたつ。おまえをあついのやあつくないのからまもってやる)
 唯人が乾いた服を着て、沈んだ面持ちのまま長椅子に身を沈めるのを、クェンタンは何も訊ねようとはせずに正面でずっと見守っていた。昼と同じに豪華な椅子に腰かけて、白いマントを脱いだ下の衣装は明らかにある種の制服を思わせる、ゆったりとした上衣に三重の巻きスカート状の下衣。素顔に近いそれでも大層整った面持ちは、昼間の濃い化粧の女主人とは全く違った印象だ。そうだ、彼はこの首都スィリニットの最高位御用霊獣師で、これから僕を取り調べるんだ、と緊張する唯人に、紅く形の良い唇でクェンタンはふふ、と微笑んだ。
「心配せずとも、貴方がなんの理由もなく人を殺めたり、自然に嘘をつく事ができる人間だとは私は感じてはおりません。正直に、ありのままを話して頂ければ嬉しいのですが」
 この相手を信じていいのか、唯人にはまだ分からなかった。殺されたボロアは彼の商いの仕事上の部下で、唯人達を捕まえようとした一連の事実にかかわっていないとは言い切れない。自分では気付いていないが、若干怯えた眼になっていたのかふむ、と鼻を鳴らすとクェンタンはついと立ち上がり、その傍らに静かに身を寄せてきた。あまり大袈裟に引くのも大人げない、と身じろぐ唯人にかまわず顔を寄せ、頬に飛び付いて乾いていた血の染みをそっと指で拭って落とす。服に焚きしめている香の、独特の深い香りが唯人の鼻をくすぐった。
「貴方を襲ったのは、クルニ族ですね」
「……!」
「数月前にも、ある者の手引きで彼等が城に入り込み、王が狙われる騒ぎがあったばかりなのです。城の兵士もかなり被害を受けて、その時はなんとか竜に追い払って頂いたのですが。最近また少しずつ、この首都に彼等が入り込んできている気配を感じると竜に聞かされてはおりました。表だって悪事を働くわけではありませんが、彼等の気配があるとこの街の暗い部分が目に見えて活気づいてくる。あのボロアも、以前は異国の生き物をごく普通に扱っていたやり手の獣商人だったのですが、私に隠れて彼等との付き合いを始めてから一気に裏稼業にのめり込んでしまいました。随分と羽振りが良くなったことを、多忙を言い訳にせず、もっと親身になって気を配っておくべきでした、今となっては言い訳にしかなりませんが……」
「あの人は、僕とディリエラをつかまえて人買いのせりにかけようとしたんです。でも、僕等を先に狙っていたクルニ族に邪魔だから、とあっけなく片付けられてしまった。僕はディリエラを護るためなら何でもやるつもりだったけど、やはりああも簡単に命を奪われてしまうと辛くなる。僕達さえあの人の店に寄らなかったら、と思ってしまって」
「それさえも、彼の運命だったのでしょう、貴方が導いた事ではありません。しかし、なぜクルニ族は貴方達を付け狙っているのです?」
 その口調は問いかけだったが、紫の瞳はもう答えを知っているようだった。まるで全てを見透かすように、どこまでも澄み、まっすぐ唯人を捕えている。欲しいのはただ一言、唯人の口からの証明なのだ。
「……僕が、竜を持っている。竜人〟だからです。クルニ族の連中はスリンチャ族の直系を消して、領地と首位の座、そして僕をも手にして一気にこの国での地位を高めるつもりでいる、多分……」
「やはり、そうでしたか」
 思ったとおり、彼は驚きを顔には出さなかった。
「貴方を知ってしまった者達は、燈火に引かれる蛾のごとく、貴方を手に入れることしか考えられなくなってしまう。真実を知らなかった憐れなボロアも、彼方の地よりこの手紙を私に宛てた、古馴染みのお得意様も」
 ほっそりとした身体がつと立ち上がり、机の引き出しにしまってあったシャダンからの紹介状を取り出して見せる。本来なら得意様のご相談の内容を明かすなど商人の禁忌として基本中の基本なのですが、と前置きした上で、クェンタンはその内容を教えてくれた。
「大事な部分だけお伝えしますね……儂、スリンチャの三位たるシャダンは、このたびスリンチャの地イリュを訪れた竜人を息子が娶る幸運な機会に恵まれた。儂は遠からずスリンチャの首位につき、イリュは首都と同じ竜の加護を受けた地になるだろう。竜人は、儂の顔を立て以前貸した絵を取り戻したいという姪の我儘に付き合いそちらに赴いてくれた。首都の竜がどう反応するかは分からぬが、もし荒事になり儂の竜人の力が勝るようなこととなれば、次の今代王の地位も儂が授かる可能性が増す。それを踏まえたうえで、今後も末長い付き合いをよろしく頼む。竜人が負ければ責は一位にくれてやるつもりだ、あ奴が異国から竜人を連れて来たのだからな……と」
 ここにディリがいなくて良かった、と唯人は心の底からの溜息をついた。もしここに三位共々在席していたら、唯人がどう止めようと、たとえ綱手が介入しようと鉄槌を下そうとする彼女を抑えられなかっただろう。どうやったら、ここまで自分勝手な筋書きを立て、あまつさえそれが実現するなどいう妄想に浸れるものか。
「最初から最後まで、無茶苦茶です。僕は四位に娶られる気は毛頭ないし、スリンチャの一位が継ぐイリュの地は竜の加護を欲してはいない。僕はただ、ここに来る前にスリンチャの一位にラバイアの竜人の絵の事を聞かされて、ひと目でいいからそれを見てみたくなった。それでこの国を訪れて、絵の持ち主である一位の代理である二位に無理をおして付き合ってもらってこの街に来たんです。本当に、ただそれだけのことなんです」
「絵?絵とは、スリンチャ族所有の〝火炎の竜婦〟のことですか」
「はい」
「それだけの事が、今のこの事態へと膨れ上がってしまったとは。貴方は、些細で、しかしとてつもないきっかけという訳だったのですね」
「僕には、そういう意識は微塵もないのですが」
「なんともこれは難しい事態です、単純にスリンチャ族がクルニ族の襲撃を受け、援護を欲しているというのなら恩を売りつけはされますが、周辺の付き合いのある領主やこの首都からも、義援の兵を出せないという訳ではありません。が、この手紙から察するに、貴方の言う通りクルニ族は上手く首位を継ぐ権利のある三位殿に取り入って、あくまで騒ぎを外に漏らさずお家騒動という形をとる気のようだ。しかし、貴方が、スリンチャの内紛に加わらなかった事は懸命だったと申しておきましょう。竜とは、それほどこの国では神聖なものなのです。ただでさえラバイアの今代王という存在は些細な事でうつろいやすい、竜がある部族の地に現れ、特定の人物を助けたとなれば現在の今代王になんら落ち度がなくとも、王位の譲渡という事態になりかねないのです」
「それは、他ならぬスリンチャの戦士の一人に諌められ思いとどまりました、彼等も分かっています」
「結構、私も商売のお得意様として三位殿には常日頃ご贔屓にさせて頂いて親密な間柄ではありますが、やはりこのラバイアという砂上の大国の北の国境を預かる者としては、あの方は少々頼りない感があると申しますか。個人的な感想を述べさせて頂けるなら、人の上に立つ度量は感じられません。ああいう御方は金の使い道を知らぬ君主の下にいて、道楽で文化や財を世間に回すのが向いておられるのです」
「スリンチャの内での争いは、彼ら自身が収めます。首都も、僕も関わるべきではない。ただ、僕は……」
 奥に姿を消していた店番の老人がやってきて、暖かい茶を供じてくれた。薄暗い灯りに照らされる深い紅色を眺めていると、豪華な茶器でもてなしてくれた無邪気な笑顔が、砂の流れに消え去ってしまった光景が甦ってきた。
「クェンタンさん」
「はい?」
「僕に教えてください、首都の都市精〝砂の竜〟とは、どういう存在なのですか?さっき僕が戦っていたら、突然砂が吹きだしてきてディリエラと僕の霊獣が呑まれてしまった。その砂が竜の姿をとったのを、僕は確かにこの眼で見たんです。彼等はどこに連れて行かれたんですか、なぜ僕ではなくて無力なディリエラを!」 
 争っていたのは僕なんだから、僕を諌めるべきなのに、と俯いて声を詰まらせる。唯人の様子にふっと息をつき、そう思いつめるものではありません、とクェンタンは穏やかに茶が冷める前に頂くよう促した。
「竜人がこのラバイアの首都、スィリニットに授けし都市精である砂の竜は、ただひたすらに公明正大、常に目を光らせ、街じゅうを余すことなく見守っています。他の結構な規模の都市の都市精でも、求める者に言葉を与えたりはしても直接動く事はそうありませんが、スィリニットの砂竜は砂のある所ならどこにでも潜んで騒ぎや騒動があると自治兵より速く現場に現れて、的確に災いの種を見つけ出し物事を収めます。ただのたとえですが、首都でよからぬ企みを話しあう時は、階上の密閉された部屋か池に浮かべた舟の上でやれとまで言われているくらいですから。なので民は皆、安心してこのラバイア一栄えている大都市スィリニットで、昼夜を問わず安心して暮らす事が出来る。皆惜しみない感謝を日々都市精に捧げ、それを糧に都市精もこの街に深々と根を下ろし力を得ています。どちらが欠けても成り立たない、人と霊獣の良い在り方の最も大規模な状態がこの街なのです」
「じゃあ、ディリエラは……」
「あくまで私の推測ですが、竜は彼女を連れ去る事で彼女の身の安全と、貴方と賊がどちらかを殲滅するまで戦い続ける目的を一時的にでも失わせたのだと思います。もし貴方が戦いのさなかに頭に血を昇らせて、自身の竜を呼びだすような事にでもなれば、砂の竜はこの地を賭けて貴方の竜と戦わなくてはならなくなる。この首都で竜同士が争うという、未曽有の事態を招いてしまうのです」
「では、けして僕の竜を出さないと誓えば、彼女がどこに連れて行かれたのか教えてもらえますか?」
「それは、なんと言うか……」
「お願いします!」
 詰め寄る唯人に、クェンタンは言葉を切って眼を伏せた。
「すいません、本当に申し訳ないのですが、砂の竜の所在は王にもこの私にも、はっきりとは分からないのです。竜は常に街を巡っておられます、言い伝えでは城の地下に金鉱時代の坑道が張り巡らされて、そこを住処にしているとも言われていますが。誰も見たことは無いですし、そこに至る通路も確認されておりません。信じてくれとしか言いようがありませんが」
「じゃあ、逆に何か騒ぎでも起こせば、また竜が向こうから……いたっ!」
 興奮を抑えられず物騒な事を口走った唯人の頭を、背後からの一撃が揺らした。ぱさぱさと羽音が響き、いつものように頭上から逆さに覗きこんできた顔が馬鹿な事言ってんじゃないよ、と睨む。ひょい、と飛び降りちょこちょこと床を進むと行くのか行かないのか、と標は足を止め唯人を振り返った。
「……標?」
「おや、この霊獣は……」
「僕の標鳥です、行きたい場所を教えてくれる霊獣なんですが。標、ディリの居場所が分かるのかい?」
 人間ならふふん、と含み笑いの表情だろう無表情でくるりと反転し、黒い尾が実に微妙な、方向は城だが地中の斜め下を指し示す。まあ任せなさい、とそのまま標は閉じたままの店の扉をすり抜けて、すたすた外へと出て行った。
「ま、待ってくれ標!」
 慌てて追いかけようとした唯人の肩を、素早くクェンタンが引きとめた。止めても僕は行きますから、と言おうとした頭にばさりと白いフードのマントが被せられる。店の外ではそれを着て、けして口を開かず私の後ろにいなさい、と言われ唯人はきょとんとなってクェンタンを見た。
「なぜ、僕を助けてくれるんですか?」
「城に向かわれるのでしょう? 護衛の兵士に見つかって、騒ぎにでもなれば無駄に怪我人が増えてしまいます。貴方が私共の敵でないのであれば、いらぬ被害は頂かないに越した事はありません。ここは穏便に砂の竜に会って、スリンチャの姫君をどこへやったのか、返してもらえるか話してみましょう。それで貴方が大人しくして頂けるのなら、私はそれが一番です」
「ありがとうございます、クェンタンさん」
「礼には及びませんよ、私はこの地の誰より竜という存在の恐ろしさを知っているだけの事ですから」
「恐ろしさ、ですか?」
「ええ」
 ふいと、紫の瞳が遠い昔に思いをはせるように細められた。
「遥かな昔、私の祖であるインタール家の愚か者が、この都でとある大失態を起こし、それは厳しく民と竜にお叱りを頂いてしまいまして。百年程他の領地で暮らした後、やっとここに戻る事ができたのです」
「竜にお叱りって、もしかして、クェンタンさん……?」
「ちなみに、身一つで逃げ出した廃王の身内を受け入れてくださったのは他でもない、当時のスリンチャ族の首位でした。その後彼等の庇護のもと、密やかに生きる道を選んだのが私の祖、そして過去の栄華を忘れず、いつか返り咲く野望を胸に砂漠に去ったのがクルニ族の祖と言い伝えられています。そういう訳で、この騒ぎを収めるために私は尽力を惜しみません。さあ、行きましょう」
 唯人にマントを着せ、中が分からないようきっちりと前を閉めた後、先に立ち扉を押す。外で二人を待っていた標は、微塵の迷いもなく城の門の方へと向かい、そこを通り過ぎるとむき出しの岩山状態になっている前庭の外れへと進んで行った。
「こんな場所に何があるんだ、標」
 真っ暗ななか、相当危険に見える岩肌のわずかな出っ張りに飛び移り、標は一応唯人を振り返るが足を止めようとはしない。おっかなびっくりついて行くと、やがてなんの前触れもなく足を停め、標はすごい勢いで岩肌を掘り始めた。岩の隙間のわずかな砂地にしか見えないそこが、みるみる砂を飛ばされ穴となって奥へと続いてゆく。どさどさと溢れ出して来た砂が一旦止まったところで、ついてこい、と標が頭を突き出してきた。
「ここが、竜の居場所への入り口なのか?」
「これは……言い伝えは本当だったのですね、金の坑道は、ここに築城する際に砂を入れて埋めたと言われていましたが。残されていた部分もあったとは」
 近づいて覗きこんでみると、中は真っ暗で先の様子は分からない。夜光蝶を出して先に入った標を確かめて、クェンタンさんはもうここまでで、と言おうとした唯人を、そう言わずに、と彼は含み笑いで押し止めた。
「このような、何百年も誰にも知られずにあった秘密をこの眼で見定めずに戻るなど、それほど私は老いて臆病になっているわけではありませんよ?若い貴方から見れば、そう感じるのかもしれませんが」
「い、いえ、そんな」
 一応標が先に立って導いてくれているが、穴に入ってみると、そこは急な下りの枝分かれした道だった。下には砂が積もっていて、妙に足元が滑りやすい。そろそろと慎重に降りてゆくと、ふいに前を行く標がびくっとなって足を止めた。
「標?」 
 真っ暗な奥底から、ざざ……と微かな音が響いてくる。これは砂……砂の流れる音だ、と唯人が気付いた瞬間、素早く標は唯人が気付きもしなかった斜め上に開いている横穴へと飛びこんだ。
「クェンタンさん、あっちへ!」
 線の細い体つきからは思いもつかない機敏さで、すぐに彼も唯人の後に続いた。二人が飛びこんだ後、クェンタンの金翼鷲の霊獣が現れて、背と翼で砂が流れ込まないよう防いでくれる。時間との勝負、と言いたげに標は迷わずそのまま奥へと進んで行った。
「明らかに、私達を拒んでいるように感じますね」
 クェンタンが、横道だらけの狭い通路を眺めつつ話しかけてくる。さっき入ってきた道がもう砂に埋まってしまった以上、これからは標を信じて先に進むしかない。付いていく者にいささかの不安も感じさせない、迷いのない足取りで枝道を進み突きあたりまで行くと、再度ざっくざっくと砂を掘る。標の足が長年塞がれていた砂の壁を崩したのか、ざあっ、と砂が崩れると共に、唯人の身体は平らな砂地の上に投げ出された。
「クェンタンさん、大丈夫ですか?」
「はい、私は無事です」
 周囲を見渡すと、暗くて全体はよく分からないが、箱のように周囲を岩壁に囲まれた砂地はそう広くなく、見上げた天井の高さも伺えない。ちょうど唯人の腰ほどの位置の岩壁に先程の通路と思われる穴が開いていて、そこから落ちてしまったようだ。立ちあがると、標は警戒するように頭を上げてぐるりと唯人の周囲をひとまわりした。
「やはり竜の住処は城の地下にあったのですか、でもまさかこんな広い空間だったとは。私の店も、宙に浮いているようなものだったのですね」
「後は、竜がいつ現れるか、です」
 さらさらと、砂の流れる音がする。先程の砂の洗礼からも、もうここに竜がいることは明白だ。標はその小さな身体で唯人を護るつもりなのか、、首の羽毛を逆立てそわそわしながら気配を伺っている。ミラが不在の今、問答無用でこの砂を一気に浴びせられたら唯人はきっとひとたまりもない。しかし、綱手を出すのは最後の手段だ、僕はここに話し合いに来たんだから。と唯人はあえて武器を出す事もせず、砂地の中心へと歩いて行った。
「砂の竜、僕は貴方と話をする為にここに来た、どうか姿を見せて欲しい!」
「私からも願います、常に正しく揺るぎなき、首都の守護精獣よ。スリンチャの姫を連れ去ったというのが真実であるのなら、その真意を示し、どうかこの者に返してやってはもらえませぬか。私が王にかけあって、出来うる限りの保護をさせて頂きますゆえ」 
 じわり、と嫌な熱感が唯人の首筋に触れた。
 これは、敵意だ。
 周囲の気に、何者かの怒りが満ちている。立ちつくす唯人にクェンタンが近づこうとしたより速く、唯人の足元の砂が一気にすり鉢状に沈み込んだ。
「阿桜殿!」
「クェンタンさん、離れて!」
 反射的に差し伸べられたクェンタンの手が、指先をかすめ遠ざかる。砂の窪みはそのまま唯人を咥えた巨大な口と化し、竜はゆっくりとその鎌首を砂から持ち上げた。
『話す事など、なにもない』
「おやめください、この者が一体何をしたと!」
 竜の顎に捕えられるのは、砂の詰まった筒の中に押し込められたような苦しさだった。辛うじて頭は出ているものの、胸が締め付けられて息がままならない。下から飛びつこうとする標を避けようと、竜は更に高みへと伸びあがった。
『この程度のものではないだろう、本気を出してみるがよい』
「何を……言って……」
 声を絞り出すだけて身体じゅうが軋んだ、肩で綱手が必死に砂を散らそうと暴れているが、砂そのものが動き続け、しっかりと押さえつけてくる。クェンタンをどうこうしようという気はないのか、彼が駆け寄ろうとすると足元の砂が波打って、壁の方へと追いやられた。
『霊獣師よ、これは、我とこの輩との勝負。お前は関わらずともよい、控えておれ』
「そうはいきません、竜よ」
 クェンタンの必死の呼びかけを聞きながら、唯人は、砂の圧力でもう声どころか意識が途切れかけていた。眼下では、蛇の胴を思わせる砂のうねりに追われ標が逃げ回っている。せめて、ほんの少しでも……手が動かせれば、スフィを出して綱手を呼びだす事が出来るのに。まさか相手がこうも問答無用で襲ってくるとは思わなかった。
「どうか理由をお教え下さい、その御方はクルニ族からスリンチャの姫を護りここまでやってきたのです。貴方に懲らしめられなくてはならないような、この街に害悪をもたらす輩ではありません。そもそも竜の宿主であらせられる方、不浄な器を、竜は選ぶことがあるのでしょうか?」
 食い下がるクェンタンに、竜は諭すように語りだした。
『三月前の、王城の野盗騒ぎを覚えているか』
「はい?……ええ」
『あの夜、賊を従え城に押し入り、守備の兵の過半数を使い物にならなくした黒衣黒面の異国人……我は、其の者がこの街に入り込んできたその時から気付いていた。これは、只者ではないと。付かず離れず見定め、牙を剥いたその時にはいかようにしても制すると』
「はい」
『であったにもかかわらず、いざその時になると、我はまるで砂鼠の子のごとくあしらわれた。我を完膚なきまでに制した後、黒面の者は全てを只の戯れだと言い捨て王や宝物には目もくれず、この首都の最も重要な宝である竜人の絵を引き裂き去ったのだ。この首都など、その気になればいつでも砂に還せる。ならば本気の護りが備わるまで玩具として今しばらく残しておこう、と言い残してな』
「その者が、他国でも問題になっているという話は伺ってはいたのですが、まさかクルニ族と共に攻め入って来るとは思っておらず」
『我は負けた』
「でも、首都はいささかも損なわれておりません。次こそは……」
『次はどうなるという?数百年の昔、我はここを護る力の無きものに代わりこの街を託された。我が負ける、それはすなわち我の力が足りぬという事。だとすれば数百年の昔と同様に、我をここに置いた者は彼の者に勝つべく更に強き存在を遣わすであろう。それがこの者、すなわち竜、なのだ。都市の護りの任を解かれる事は致し方ないが、せめて我の最後の意地として、その強さを見せてもらわなくては』
「僕は、そんなつもりで来たんじゃない!」
 思い切り声を張り上げたつもりだったが、掠れてほとんど言葉にはならなかった。唯人がどう仕掛けてくるか見定めようとしているのか、竜はじわじわと唯人の身体を締め上げ一気に終わらせようとはしていない。くらくらする頭でなんとかこちらの話を聞かせないと、突破口を作るには、と唯人は必死でもがき続けた。ミラはいない、でも、倒されて消え去った感覚は無い。唯人同様、ディリエラを護って砂の中で動けないのだろう。
『綱手……なにか、何か手は無いのか……』
 顔に降ってくる砂が眼に入りそうになり、思わず閉じる。ふと、閉じた闇の中に、ぼんやりと何かが浮かんできた。
 アーリット。
 懐かしく、胸を熱くさせるその姿。駄目だ、こんなときに思い浮かべてしまうなんて。もう彼に頼っちゃいけない、彼は僕を信じて一人にさせてくれたんだ。子供みたいに泣いて呼んだら情けないじゃないか、僕は強くなって、彼を護ろうって誓ったんだから。
 意識が、段々遠くなっていく。そうなると逆に、目の前のアーリットは本当にそこにいるのかと思えるくらい、みるみる細部までその姿をはっきりとさせてきた。最後に見た時の姿と寸分違わない、白い衣装をまとったすらりとしたその長身。
 この感じは、何だか覚えがある。
『そうだ、あの〝夢〟の光景だ……』
 もうすっかり慣れ親しんだ情景として、意識に擦りこまれた赤っぽい色調の世界。ただ、これまでと違うのは、その只中にあって常に自分を見ていなかった彼の眼が、真っすぐこちらを見据えていた。褪せた金髪が縁取っている整った顔が、テルアにいた頃のようにごく自然にあのむすっとした表情を浮かべている。
『……おい』
 だめだ、脳の酸欠が酷くなってきた、幻聴まで聞こえてきた。
『おい、って言ってんだ』
 随分現実感のある響きだな。
『聞こえてるんだろ、何か言え!』
 ふいに、霞みのかかった唯人の意識をこじ開けるように声が入り込んできた。
「え、あ?あ、アーリット……?」
 ふん、と多少苛立っているときのあの鼻息まで伝わってきた。慌てて眼を開き、周囲を見回してみるがそれらしい姿は見当たらない。本当に幻聴が、と焦る唯人の心中が筒抜けているかのように、くっ、と喉を鳴らす音がした。
『相変わらずみたいだな、お前』
「……え?」
『どうせこんな事になるだろうと思って、策を仕込んどいて正解だったよ』
 どうやら、この声は酸欠の幻聴ではないようだ。またなにか、知らない間にやられていたらしい。一気にへこんだ唯人の気持ちは伝わらなかったのか、あまり聞いた事の無い感情を帯びた声は続けられた。
『俺を呼んだな』
「……」
『黙ってたって無駄だぞ、こうやって俺の声が聞こえてるってことは、お前はかなり辛い目にあって俺の事を考えたんだ。別に恥じる必要なんてない、今更だろうが』
「……そうだね」
『助けて欲しいなら、眼を閉じて意識を開け、後は俺がどうにかする。ただし、一言言っておくが俺に任せるならミラに逃げられる覚悟はしておけよ。お前の身体ごと中の奴、全部制御下におくからな。あいつが俺に隠している事を、全部暴いてやれる機会だってことだ』
 ああ、そういう事だったのか。それを先に言ってくれただけでも、彼は随分と変わったと思えた。全て思い通りにできるのに、こちらに判断する機会を与えてくれている。ちょうどいいタイミングで、今ミラはいない……埋まりかけた顔を上げ、唯人は首を振って砂を振り飛ばした。
「アーリット」
『ん?』
「僕にこう言ってくれないか?こんな手のかかるうちはまだまだてんで子供じゃないか、面倒かけやがって、そんな事で俺を護るってよく言いやがったなぁ?って」
『それは、助けた後でな、悔し涙で聞いてる顔をじっくりと拝ませてもらうとするさ』
「ありがとう、ずっと気にかけてくれて」
『分かったから、さっさとどうしたいか決めろ、無駄に痛い思いしてるんじゃない』
 痛い思い、させたくないんだから。
 その気持ちだけで、君が僕を見守ってくれている、それだけで僕は。
「……見ててくれ」
『は?』
「そこから見ていてくれ、僕が、どれだけ君に近づけているか」
『生意気言いやがって、ガキの見栄に付き合えってのか?』
「ちょっと遅いけど、反抗期なんだ」
 くっ、とアーリットがまた喉を鳴らした
『じゃあ勝手にしろ、お手並み拝見だ。それだけ言うんなら、間違ってもしくじって無様な真似を晒すんじゃないぞ?その時は今の状況が泣いて逃げ出すくらいの俺の仕置きを上乗せしてやるからな』
 触れそうなほど近づいてきた緑の瞳は、まるでこちらの心を覗きこんでいるようだった。信じてくれた、それを実感できた瞬間、唯人の頭に稲妻のごとく案がひらめいた。やったことはないが、多分できるはず。まるで一筋の清流が流れ込んできたかのごとく、霞んでいた意識が冴えて来た。
「分かってる、アーリット」
 苦しい息の下、唯人が応えるとふと、上から砂の竜の怯えたような声が響いてきた。
『この〝気〟は?』
 ざっ、と頭が砂に覆われる。
『やはり〝あの御方〟の……』
 見ているんだ、アーリットが。
「流っ!」
 叫んだ瞬間、ぶしゃっ、と鈍い音と共に吹きだした水に砂が弾けて散った。竜の顎が崩れ、放りだされて落ちる唯人の身体を飛んできた金翼鷲が素早く背で受け止める。大きく弾んで転がって、そのまま岩壁に駆け寄ると唯人は勢い付けてそこに左手を押しあてた。
「綱手、来い!」
 青い巨体は、壁から一気に砂上に躍りだしてきた。すかさず砂竜に襲いかかるが、組み伏せようとするとすぐに崩れ、また別の場所から伸びあがってくる。この砂で満たされた場、全てが彼の身体のようなものなのだ、ならばこっちは……。
 砂が再び自分を捕える前に、すっくと立って背を伸ばすと息を整え気合いを入れる。取り出したスフィを手に、その銃床をざくりと砂に突き立てると足と銃、その三点を中心にいつものごくシンプルな、しかし美しい白く輝く紋が浮かび上がった。
「西海の、地下を巡りし深淵の大河よ。汝の眷族たるささやかなる泉と共に在る、阿桜 唯人が願います。この場に、汝の一端を今ひと時繋がんことを!」
 暗闇に声が響くと、唯人の周りにふわっ、と白い霧が立ち上った。次の瞬間、紋章の円の縁からガラスのごとき水が勢いよく吹き上がる。噴水とかとは全然違う、まるで透明な筒のように伸びあがり、放物線を描いて砂地に降りそそぐと、見る間に広いその場の砂の色が変わり始めた。ざあっ、と砂がうねる音が水音にかき消され、暴れる獣を網で絡めるごとく、のたうつ砂を水の流れが抑えてゆく。やがて足元に水が上がってきて、砂が動かなくなるとともに流からの知らせが唯人の意識に届いてきた。
「薄荷、ここを全部凍らせろ!」
(分かった)
 この短期間に充分すぎる霊素を得て、元通り以上の力を得た冷気の精獣は新しい主に己の力を見せられるのを待ちかねていたようだった。青白く霞む輪郭だけで形作られた、雪の結晶か微生物のごとき不可思議な姿がふわりと具現化し、足元に浮かび上がっている白い紋に吸い込まれる。薄い青の紋が被さるように浮かび、そこからあっという間に四方へ冷気が広がっていった。水が氷に変わってゆき、まるで軟体動物のように伸びあがってさっきの通路に這いこもうとしていた水混じりの砂柱も、そのままの形で瞬時に凍りつく。鷲の背に乗り標共々通路に避難していたクェンタンは、もう言葉も出ない表情でそれを見守っている。なんとかやった、と唯人は荒い息を宥めながら綱手を呼び寄せた。
「綱手、流が捕まえてくれたから、掘りだしてここへ持ってきてくれ。壊さないようくれぐれも大事に扱うんだよ」
 了解、と鋭い爪で砂入りの氷をもの凄い勢いで掘り、綱手の巨体が下へと潜ってゆく。じゃりじょりという何とも言えない音がしばらく続き、やがてひょっこりと再び頭を覗かせると、その口には人の大きさ程の氷塊がくわえられていた。
『……』
 氷塊の中には、砂と同じ色の何かが封じ込められている。綱手がそっと下にそれを下ろすと、少しの曇りもないその内部に閉じ込められているのは、身の丈が人ほどもある大トカゲだった。
「貴方が、スィリニットの砂の竜……ですね」
 ぴっちりと氷に覆われ身動き一つできないので、トカゲは眼球を動かし唯人に応えて見せた。
『まるで、知らなかったような口ぶりだな』
「知りませんでした」
『そんなはずはない、お前が〝あの御方〟の使いならば、我があの御方に護りとおすと誓ったこの秘密を知らぬはずがない』
「やっと僕の話を聞いてもらえるようになったので、ここで言わせてもらいます。貴方が〝あの御方〟と言っているのがかつて火炎の竜婦と呼ばれた人のことなら、僕はその人に助けてもらったただの人間です、でも貴方の事は聞いていなかったから、全然知りませんでした」
『本当か』
「世界主に誓って」
『では、お前は何用でこの地を訪れたのだ。人の身にはあり得ぬはずの竜をその身に宿し、〝あの御方〟の気を匂わせて。〝あの御方〟が前の弱い都市精を我に代えたように。絵を護れなかった我を更に強い、本物の竜と入れ替えに来たというのでなければ、一体……』
 氷に閉じ込められている砂トカゲの金緑色の瞳が驚きに見開かれる、慌てて唯人はかぶりを振った。
「たとえ貴方がどう思おうと、僕はそんなことできません、そのやり方を知らないのですから。最初に願った言葉のとおり、僕が貴方の居場所を訪れたのはただ、僕の個人的な我儘を聞いてこの地に連れて来てくれたスリンチャの姫と僕の大事な仲間をどうか返して欲しい、本当にただそれだけなんです。彼女さえ戻してくれるなら、僕は彼女の迎えがこの街に来るまで大人しくして、けして騒ぎは起こさないと誓います。クルニ族の件もクェンタンさんに相談して、ここのやり方に従いますから。僕一人で勝手はしません」
「砂の竜よ、私からも重ねてお願いします」
 自分の名が出たところで、うまくクェンタンが話に入ってきた。
「この御方は、竜人の絵を見る事が望みなのだそうで。スリンチャの地で写しを拝見させてもらおうとしたら、それがこの首都に貸し出されていたのでここまでやって来た、ただそれだけの事なのです」
 ややあって、砂の竜は重々しく呟いた。
『……そうだったか、すまぬ』 
 分かってくれた、と唯人が頭を垂れると、再度足元に輝いた流の紋がすいと氷塊の下に滑り込んだ。柔らかな水が湧き出して、氷塊を包み融かしてゆく。更に水は広がって、凍りついた砂地を覆って融かすとすぐに下へと浸みこんでいった。
 氷が融けて姿が現れると、気まずかったのか砂トカゲはすぐに砂に潜ってしまった。まだ充分に乾いていない、もっさりとした重そうな砂で出来た頭が再度生えてくる。少し離れた場所の砂がゆるゆると動いたと思ったら、そこからまだ意識を失ったままのディリエラが姿を現した。
「ディリ!」
『大丈夫だ、お前の供がその娘を放さぬので、根くらべのつもりで砂に沈めてあった。断じて姫に危害を及ぼすつもりはなかったのだ、薬が抜けるまで、後しばらく待つとよい』 
 駆け寄って華奢な身体を抱き起こすと、髪はとんでもない状態だが砂の竜の言うとおり、怪我などは負っていないようだ。ほっと息をついた身体に、するりとミラが戻ってきた感覚があった。
『ミラ、大丈夫だったかい?』
『……』
『ミラ?』
 追い詰められて、物影に飛び込んだ獣のような彼らしくない雰囲気だ。無理に触れようとすると、怯えて噛みついてきそうにさえ感じられる。もう大丈夫だから安心して、と穏やかに言い聞かせ、唯人は綱手も呼んで身に戻した。
「それでは、僕達は上に戻ります。ここの秘密は一切口外しないと世界主に誓います、乱暴してすいませんでした」
 ミラが参っているようなので、自分で運ぼうとディリエラを抱き抱える。当たり前の事だが、帰路はもの凄い昇りになるんだな、と思った唯人の足元に、さらさらと砂が寄せてきた。
『城の中に、我の通路である砂井戸がある。そこへ送るので、霊獣師に任せお前達は以後は城に留まるがよい。賊は大多数が街を去ったようだ、城内の兵でも護れよう』
「あ、はい、でも、宿で待ってる子が……」
「なら、城の者に頼んで呼び寄せますよ」
「ありがとうございます」
 井戸に押し上げてもらい、クェンタンに案内され城の客間に向かう途中、唯人はある壁の彫刻に目を留めた。この城は竜人に焼かれた時に残った古い部分と、以後建て増しされた新しい部分が複雑に繋がっている。井戸から出てすぐの、最も古い一画である宝物庫や書物の保存室のそこここに、案内と共に鳥の姿が掘りつけられている。長い尾をぴんと張っているその姿に標鳥だ、と呟くと、クェンタンはそれは鉱山時代の護り主の霊獣ですよ、と教えてくれた。
「スィリニットの伝承の中でも、この霊獣の消息はいまだ議論がなされている分野なのですが。こうもあっけなく答えが出てしまっては、学者連中が知ればなんと言うでしょうね。いっそのこと、見なかったことにしておくのがいいでしょうか?」
「標、そうだったのなら教えてくれれば良かったのに」
「……」
 そっけない様子で先をゆく標の顔は、鳥なりに何かを懐かしんでいるように見えた。



「……ん」
「……」
「……あれ?」
「おはよう」
次の日の、夜明けにはまだ少し早い朝、客室の申し訳ないほど大きな天蓋付きの寝台でふと目覚めると、枕の脇に随分久しぶりな人の姿のミラが座り込んで、じっと唯人を眺めていた。両の瞳は、ただ唯人だけに向いているのか黒と薄褐色の間でゆらゆら揺れている。落ちついた?と聞くと慎重に、言葉を選んでいる風で話しかけてきた。
「唯人」
「うん?」
「僕、唯人に聞いておかないといけない事があるんだ、大事なこと」
「何?」
「その前に、とりあえず、昨日は頑張ったね、よくやったよ。僕……鏡の物精ってね、真っ暗な、ほんのわずかの光も無い所が一番怖くて苦手なんだ。砂の底でさえなきゃ、お姫さま連れてすぐ戻れたんだけど、ごめん」
 謝ることなんてないよ、ミラはちゃんとディリを護ってくれた、と微笑む唯人にまた怯えた眼を向ける。それを気付かせたくないのか、白い顔はそっと伏せられた。
「唯人、分かってる?」
「なにが?」
「僕は、君の精霊獣だってこと。僕以外のみんなだって、君を助け、身を護る、その為だけに君と在る」
「うん」
「たとえ君がどんなに大切に思ってる子だとしても、危険な状態の君を置いてその子を護るなんて、そんなことあっちゃいけないんだ。僕がこれまでどうりの僕だったなら、けして君のそばを離れはしなかった、だのに僕は動いていたんだ。君の彼女を護りたい、その気持ちに支配されてね」
「ミラ、それって……」
「おめでとう、唯人。君はついに、その気になればこの僕を手足同様に使える域に達したんだ。僕はもう、君に本気で僕の秘密をおチビに話せって命じられたら拒めない。だから聞くよ……唯人、大切な僕の主、君はこれから僕とおチビ、どちらを選ぶ?」
「え?」
「僕はまだ、おチビに全てを明かせない。君のそばを去る事になってもそれは護らなきゃいけない約束なんだ」
「ちょっと待って、どうしてそういう話になるんだ。僕が君に言う事聞かせられるようになったとしても、今すぐアーリットに秘密を話せとは言ってないだろ?」
「昨日の事、分かってないの?」
「昨日の何?色々ありすぎたからちゃんと分かるように言ってくれ」 
 まるで子供のように要説明の態度になった唯人に、ミラははいはい、とその傍らに座りなおした。
「砂の竜とやりあってた時、君、おチビを感じたよね?僕は君から離れてたけど、はっきりと伝わったよ」
「ああ、うん、まるでそこにいるみたいに見えたな。そういえばあれは、何だったんだろう」
「これさ」
 伸べられた手が、唯人の内着の胸元に入り込んでくる。気付いた時には、その指には虹色の石が挟まれていた。
「唯人、これ、返してもらっていい?」
「え?」
 首にかかっている紐を外されそうになり、ちょっと待って、何なんだと身を起こす。
「別にいいけど、なんで?」
「別にいいならいいだろ!」
 そう言われるとなんだか気になって、やんわりと抵抗してみるとまたミラの顔がちょっと機嫌を損ねた感じになった。
「分かったよ、理由を言えばいいんだろ!僕だって騙されたんだ、あの陰険策略おチビ、今回は唯人に何も監視の術式付けてないって安心してたのにさ、この石の中に隠してたんだよ。君がある一定の事象……多分苦痛や恐怖、そこから逃れたいっておチビの事を思ったら、それを鍵に封印が壊れて術がほどけるように編まれてたんだ、どんな術式だったと思う?」
 声音からすると、そうとう危険そうな雰囲気だ。でも僕を助けてくれる為のものだったんだろう?と言い訳しようとした唯人に、ミラは精一杯の嫌な顔をして見せた。
「エリテアで別れた時言われただろ、今度何かあったら首を縄で引く、ってさ。あれ、今分かったよ、もうとっくに縄は付いてたんだ、それを引っ張るかどうかの話だったってこと」
「え?」
「この世界で他者を支配するやり方、ってのは色々ある。おチビが得意な垂らして言いなりにするとか、薬で暗示入れるとか。その中でも一番危険でとんでもないのがこれ、意識を直繋ぎして完全に操っちゃうって方法なんだ。本来なら、おチビ自身がこういう事をやる不届き者を取り締まる立場なんだってのに!」
「意識の……直繋ぎ?」
「こんなこと、数日程度で出来る事じゃないんだよ。絶対かなり前から下準備はしてたはずだ、何か思い当たる事なかったかい?」
「思い当たるって言ったって……」
「唯人が自分の世界にいたときは、まず経験のなかった事とかさ」
「それ言ったらキリが無い……あ」
「ほら、何?」
「そう言われれば、あの時似てるなって思った事はあったな。時々、変な夢を見ることがあったんだ。アーリットの小さい頃とか、昔の事だとは思ったんだけど夢だからさ、本当かどうかも分からないし、ここじゃそういう事もあるのかなって思ってた」
「唯人、君、どうしてそういう大切な事を黙ってるんだい!」
「だって、ミラって僕の中にいるじゃないか、そういうのはちゃんと分かってるって思ったってしょうがないよ!」
「僕は君の心が読めてるわけじゃないよ、中にいても外にいてもちゃんと言葉にしてくれないと分かりゃしないって!」
「そうだったんだ……」
 どっと疲れて、一旦お互い冷静になろうと言葉を切る。
「で、最初にその夢を見たのはいつ?」
「えーと、キントから帰った夜、だったかな」
「そうか、君が急に消えたからこれは手を打っておかないと、ってすぐに仕込みを始めたんだな。君に一番違和感のない、夢って形で互いの意識の一端を重ね合わせて、少しづつ馴染ませた箇所を術式に織り込んだんだ、なんて高度な技術の無駄活用だよ」
 そう言われれば、ひとつひとつの夢の中の彼の心情に、こちらにも近い経験があった気がする。子供の頃、父親がいないせいで不安だった事、母が亡くなった悲しみ、高校を卒業してすぐに働くべきか、本当に希望する仕事の為になんとしてでも大学に行くか悩んだ日……それら諸々が、代わりにアーリットに流れてしまったのか。もう今更、問いただす気にもなれないが。
「廃神殿でおチビにこれを貸して、戻ってきたときにはもう仕込まれてたな。術式の維持と再構成にそこそこ霊素が必要なのを、こっそり石の霊素でまかなうって事も計算した上でね。唯人、君はそうやって無防備にぼさっとしてへらっとしてるけど、おチビは君にちゃんと言ったのかい?これはこの世界ではあまりにも危険で、誰だろうとやっちゃいけないことなんだ。やられるほうがかなり頭弱いか、術者に心酔してないと……ほんの少しでも君がおチビを怖がったり拒否したら、その瞬間心が壊されてしまうことだってあったんだよ?僕の抱えてる秘密を彼が欲しい、その為に君がどうなろうとかまわないって本気で思ったなら、どうなったと思う!」
 分かったら素直に返してよ、と押さえつけてくる腕からそれでも逃げる。どうしてだか、これを取られてしまう事のほうに抵抗があった。
「アーリットは、僕を術で押さえつけて好き勝手なんてしないって!昨日だって先に断ってくれたし、ちゃんと遠慮したら僕の為に指一本、術のひとつも使わなかったんだから」
「あのおチビは、たかだか二十歳の君が理解できるほど単純な相手じゃないんだって!」
「でも、僕はアーリットを信じる、信じたいんだ」
「じゃあ結論、唯人、君はおチビを選ぶってことでいい?」
 噛みつくように呟いたミラに少し黙りこんだ後、おもむろに石の首飾りを外すと唯人はそれを相手へと差しだした。
「分かった、これは君に預けるから。渡すんじゃない、預けてるだけだからな」
「え?」
「この先、これが僕に必要になった時、どうするかは君に判断を任せるよ。けど捨てたり壊したりはしないって約束してくれ、それでいいだろう?僕は君みたいに事が分かってるわけじゃないからアーリットと君、どちらかを選んで一方を捨てるなんて無理だ。そんなのできない」
「なんでそうずるい手を持ってくるんだ、唯人、僕はいつだって君の事を一番に考えてるのに」
「ありがとう、でもミラ、僕の印象では君はこの世界の為に僕をどう動かせばいいか、それを一番に考えてる気がする。アーリットもだよ、この世界を終わらせない為の知恵を君から引き出そうと一生懸命なんだ。君達は、そろそろ互いに協力するわけにはいかないのかい?」
「ごめんよ、それだけは無理、悪いけど」
 そう、と溜息をついた唯人に、眼を合わさないままするりとミラは潜りこんだ。朝から疲れた、と再度寝台に横になった唯人の顔に、まあちょっと冷えたら?と言いた気な冷気がふわりと届いてくる。
(あまりあつくなるな、あついのはにんげんにはよくないのだろう)
「あ、ありがとう薄荷、気にしなくていいから」
 これは気持ちいいな、と呑気にしている唯人と自分の温度差が少々癇にさわったのか、ミラが棘のある口調で突っついてきた。
『唯人、それ、昨日の晩ぶん捕っちゃった子?さすがだねぇ、野盗一味の首級から奪うってどれだけなんだよ、ミーアセンの都市精も認めた〝大盗賊〟唯人さまさまだ』
「そんなんじゃないって!」
『脚の精霊痕もえらく綺麗じゃないか、そういうのを格を示す勲章みたいに扱うアシウントなら、そりゃあもてはやされるって。そこに窓の開いた下履きあつらえてもらえるよ』
「僕はそんなの着ないからな、精霊痕なんてどうでもいい」
『どうでもいいのは君だけなの、その子取り上げた時、野盗の首級に知ってるような事言ってたけど、その子の事、ちゃんと知ってる?ほんとは君もよく知らないって気がするんだけどなぁ』
「寒気の霊獣だろ、違うのかい?」
 そんな言い方するの、この暑い国の中だけだよ、とミラは思ったとおりの唯人の大雑把な返答に満足そうに含み笑いした。
『正しくは〝凍練獣〟自然の精獣って種でさ、おチビの持ってる中では、紅輝炎竜、泳風連魚と黄雷獣とかかな。轟炎につむじ風に雷光、そしてその子は北の凍気、雪嵐や地吹雪の幼生さ。こういう連中は、綱手みたいに一部で祀られてる以外は人って存在から相当遠い位置にいる上、人を理解しようって気質もほとんど無い。小さいのを捕まえて小さいままちょっとした事をやってもらうには便利なんだけど、霊素を取り込めば取り込むだけ強く、いくらでも大きくなれるからひとつ手綱さばきを間違えば、すぐに持ち主にも手がつけられなくなって喰われたり暴走させてしまうはめになってしまうんだ。金果樹が供給する霊素を全てその子がものにしたら、この砂漠に溶けない氷の街がひとつできちゃうだろうねぇ』
「そ、そう……」
(いわれないことはやらない、おまえはだいじだからこまらせない)
『へー、いい子じゃない、僕と大違いだ。唯人、君、相変わらず運がいいよ?こんなに人に聞きわけのあるのって珍しいって』
「この子は、前の主に随分と苦労させられたんだ。最初見たときはちっぽけでふらふらで、夜光蝶程度の精霊獣だと思ってた」
『テルアで、もう少しだけ勉強する時間があったら良かったのにね』
「なんで、一見か弱そうに見えるのに限ってこんなもの凄いのばかりなんだ?綱手も標も、流だって。やっておいて言うのもなんだけど、まさか本当に僕に河が繋がるなんて思わなかったよ」
『なんで、唯人は一見弱そうに見えるそんなのばかり拾っちゃうんだろう。まあ、金果樹を持ったことで格別に魅力的な餌になっちゃったってのは、君自身が招いた結果だって自覚してもらわないといけないんだけど』
 おうむ返しされて、もう精霊獣はこれ以上絶対なにもいらない、と固く心に誓ったのにな、と溜息をつく。肩で欠伸している綱手に先輩、どう思う?と問いかけてみたら予想通り別にどうでもいい、とごくあっさり流された。
「今日は、クェンタンさんがディリエラと一緒に城の絵師の人に会わせてくれる約束だ。ディリの調子はどうかな、ちゃんと元気になってたらいいんだけど」
 起こしに来てくれるまで勝手にうろうろしちゃ駄目だよな、と天蓋の裏の模様を眺めていると、やがて召使の女性が客間の戸を叩き、朝の支度をした後、唯人に高級そうな生地のぱりっとした服を着せてくれた。朝を乳茶で済ませるのはたとえ王族だろうと変わらない慣習のようだが、唯人が異国人という事に気を使ってくれたのか、軽い焼き物と果物の添えられた朝食を有難く頂くと、唯人は姿を見せないディリエラの様子を訊ねてみた。
「はい、スリンチャの姫様は、今朝は健やかに目覚められましたようで」
「なら、会いに行きたいんですが」
「……それが」
「はい?」
「ええ、そうですね、どうぞお訪ねください」
 ややぎこちない言葉と笑顔を向けた侍女に、ん?と首を傾ける。向かいの部屋なので出たらすぐなのだが、一応侍女に案内されディリエラの部屋の扉の前に立つと、中でなにやら押し殺した啜り泣きのような声が響いているのが聞こえてきた。
「ディリ、僕だよ、起きてる?」
「……」
 ふっ、と声が止まった。
「入っていい?」
「……駄目だ、来るな」
 えええ?と耳を疑うような低く重い声だった。傍らの侍女を振り返ると、実は朝からこのご様子で、中に誰も入る事が許されないのです、と困った顔で告げられる。どうしたんだ、と戸を叩くとひときわ大きく鼻を鳴らす音がした。
「唯人、私は今日はここから出ない、すまないが私の代わりに用を済ませてもらえないか?一生の頼みだ」
「え、な、なんで!何があったんだ、ディリ、気分でも悪いのかい?」
「悪い、最悪だ、今まで生きてきた中で最も悪いと言っていい」
「それじゃ、治療士の人に診てもらわないと。とにかく戸を開けて、ちょっとだけでも顔を見せてくれ!」
「嫌だと言っているのだ!」
「そんなに大きな声が出せるんなら、そんなには悪くないみたいだな。それじゃこっちから入らせてもらおうか?僕は開けてもらうまで待つ事もできるけど」
 一瞬ひるんだような気配と、部屋のどこかに潜って隠れようとするどたばたしている音が続き……辛抱強く待つ唯人の前で、やがてもの凄く嫌そうに扉が薄く開かれた。侍女の人に下がってもらい、隙間に顔を寄せる。と、褐色の腕が出てきて唯人の胸元をつかむと、素早く中へと引き込んだ。
「おはよう、ディリ」
「一応、昨日の晩の事を話してもらおう、何があったのか」
「その前に、本当のところの気分はどうなんだい?」
「何度も言わせるな、悪いのだ」
 やはり少々ぐずっていたのか、眼が赤くうるんでいる。薄い掛け布で頭をすっぽりくるんでいる不自然な様子に、ああ、それか、と唯人は俯いているディリエラに申し訳ない気持ちになった。
「えーと、どこから話せばいいんだっけ」
「浴場で体調が悪くなった後だ、板に乗せられてすぐ気を失ったからな」
 一瞬、安堵の溜息が口から洩れた。あのクルニ族を斬り伏せた時の自分を、見られずに済んだ。ディリエラはそれを怖がったり気分を害したりはしないだろうが、それが自分の本性だと思われるのにはまだ抵抗があった。できるだけ丁寧に、どちらも正体を伏せたクェンタンの事、竜の事などをかいつまんで説明する。聞き終わって、大変だったのだな、と一応唯人をねぎらってはくれたが、だがそれはそれ、これはこれだと再度ディリエラは寝台の上に戻り、丸まってうずくまってしまった。
「ディリ……」
 ここからは、全身全霊をかけて言葉を選ばなくてはならない、もし一言でも間違えたら……いいや、そんな事考えるのはよそう、ただ全力を尽くすのみ、だ。
「間違ってたらごめん、気にしてるの、髪、だよね?」
「……」
「ちょっとだけ、どうなってるか、見せてもらってもいいかな」
「嫌だ」
「多分、自分が思ってる程じゃないと思うよ、すぐ直るんじゃない?」
「そんな頭をしている唯人に何が分かる」
「別にそんなに気にしなくてもさ、昨日ここに連れてくるときにもうみんな見てるから、今更隠したって……」
『唯人、それ駄目だよ!言っちゃまずい!』
 ミラ、ちょっとだけ遅かった。
「唯人の、大馬鹿者が!」
 コンマ数秒で、すらりと伸びた足先がぶん回されてきて唯人の脇腹に見事に突き刺さった。唯人のほうが悪いと思った時は、中のみんなは誰も助けてはくれないらしい。それか怒れる女性の鉄槌は、誰だろうと避ける術はないという事か。妙にスローモーションぽく、唯人の身体は軽々と床に吹っ飛ばされてもんどりうった。
「この私を晒し者にしたな!もう知らぬ、付き合いもここまでだ、出ていけ!」
「ディリ!ちょっと……ディリエラ!」
 そのまま部屋から放りだされ、その後登城してきたクェンタンの説得が入るまで、ディリエラは手負いの獣のごとく頑なに部屋で立てこもりを断行し続けた。確かに、髪は砂とあの巻き道具が絡まってものすごい事になっていた。しかし男の唯人の考えでは、翌日ちゃんと再度整えればそれでいいことだと思っていたのだが。若い娘のディリエラは、その頭をただでさえ洗練された王城という高貴な場で下々にさらしてしまったというのが耐えられなかったようだ。
 しかし、人の扱いのプロであるクェンタンにそれは丁寧に宥められると、徐々に落ち着いたのかディリエラは乳茶を頂きながら大人しく城の侍女数人がかりで髪を整えてもらい、唯人と同様の綺麗な衣装を着せてもらうと部屋から出てきて恥ずかしそうに唯人に癇癪を詫びた。
「すまなかった、唯人、見苦しい振る舞いをした」
「いや、僕のほうこそ、無神経な事言ってごめん」
「身体は痛くはないか?加減しなかったから痣になっているかもしれない、本当に悪かった」
「大丈夫だって、ディリの蹴りなんてどうってことないから」
 本当は、危うくあとわずかで鋭月の精霊痕に当たるところだったので、彼が面倒な髪など元から断ち切ってしまえばいいのに、とかぶつぶつ文句を言っていることは伏せておく。
「それでは、用意も整いましたようですのでまずは王にお目通り頂いて、城の絵師を訊ねましょう。お二人とも、あまり緊張する必要はありませんからね、砂の竜から話は通されているでしょうから」
 どこにつぎ目があるのか分からない、長い長い絨毯の敷かれた通路を歩いて王の私室へと向かう。扉番に許され入ったそう広くない部屋の中にいたラバイア今代王を預かる人物は、初老のぽってりしたとても人の良さそうな人物だった。ユークレンや群島のエリテアと違い、一段高い王座にいるわけでもなくシャダンとそう変わらない程度の衣装を着て、見事な白髭を撫でながら机に向かってせっせと獣皮紙の山に眼を通している。王というよりは、唯人から見たらどこかの会社の社長に近い雰囲気がした。
「おお、来たか、竜の客人よ。クルニ族に襲われて難儀したそうだが、怪我が無くてなによりだ」
「右がスリンチャ族二位姫、ベル・ディリエラ嬢、左がその友人のテルアの精霊獣師、阿桜 唯人殿であられます」
 しまった、礼儀作法を何も聞いていない、と隣のディリエラを盗み見しながら膝をつくと、急ぎの仕事中なのでこのままですまぬ、と王も腰かけたまま鷹揚に返礼をしてくれた。
「聞けば、イリュは今大変な状況とか。周辺の領主も警戒して、なんとか情報を得ようとやっきになっておるらしい。姫よ、そなたがこの首都に援軍を頼みに来たというのであれば、今からでも幾らか向かわせる事はできなくもないが……間に合うかどうかがな」
 正直、どう考えても無理と思えた。もう戦いが始まってしまったであろうパリアータと別れたあの日から、既に数日が過ぎている。今からここを出て更に数日を過ごし、イリュに着いたその時、もしシェリュバンが生きていてもそうでなくても、シャダンの勢力が勝っていたら彼はスリンチャの一位を名乗り首都兵を嘘で固めた言い訳で丁重に帰してしまうだろう。どのような思いを胸に巡らせたのか、真っすぐ視線を前に据え、ディリエラはその美貌のまま王に毅然と微笑んで見せた。
「ありがたきお言葉、身に余る光栄と嬉しく思います。しかし援軍は無用、そのお心だけで充分かと。我が兄、アビ・シェリュバンは卑しき賊にはけして遅れなど取りませぬ、一位の戦士が必ずや兄を勝利に導くでしょう」
「おお、よくぞ言った、さすが北の大鷲、アビ・シェイザードの子よ。ならばそなたが首都にいる間は、この私が責任を持ってその身を保護してやらねばな。あれとはこの街の学び家で共に学んだ仲、その時の札遊びの負け分をこれで埋め合わせてもらうとしよう」
 ほっほっほ、と軽やかに笑い後の事は任せたぞ、とクェンタンに数枚の書類を渡す。竜は何を今代王に伝えたのか、まるっきり空気扱いのまま唯人はクェンタンに促され、ディリエラと共にその場を後にした。
「王は、今は何も語られませんでしたが、イリュの戦況は逐一伝わっていると思われます。様子を見て、付近の領主が変に手を出したり野盗が更に集まらぬよう手を回すくらいはやってくださっておられるはず。結果がどうあれ、いずれ伝えてくださるでしょう。貴女は先程のように兄を信じ、胸を張って待っておいでなさい。貴女のような美しい姫君の願いを、世界主はきっと無下にすることはありませんでしょうから」
 クェンタンの言葉に、流行りの形に結いあげた髪で俯きディリエラは淡く頬を朱に染めた。今日も、優雅な王宮の礼装に一部の隙も無く身を固めた彼と並んでいると、一対の彫像のようであまりの綺麗さに溜息が出る。絵になるなぁ、絵に描いてみたい、とか思いつつ歩いていると、やがて通路の雰囲気が変わりなんとなく懐かしさを感じさせる、あの独特の油の臭いが空気に混じり漂ってきた。
「こちらが、城の絵師の工房となっております。今代王はあまり絵を所望される方ではございませんが、ここにはラバイア最高峰の絵師らが集まり技を磨いておりますので各地の領主様からのご注文が引きも切らぬ状態なのですよ」
 クェンタンが扉を開くと、広い室内には数人の絵師がいて、各々の仕事に精を出していた。入ってきた唯人らを数人が顔を上げて見たが、まず綺麗な城の役人、そして綺麗などこかの貴族であろう姫、(絵の依頼?)そして異国の従者かなんか、と値踏みした眼で勝手に納得し仕事に戻る。おそらくここの責任者であろう、頑固が皺の一本一本にまで出ている老人に軽く挨拶を済ませると、クェンタンはその更に奥の秘密めいた一室へと二人を導いた。
「一応言ってはおきますが、ここから奥で見聞きする事はスィリニットの最も重要な秘密のひとつです。先程の絵師達も、この奥で何が行われているかは知りえない。どうかくれぐれも口外される事のないように、肝に命じておいて下さい」
 はい、と気を引き締めて、天窓を擦り硝子のような物で覆っている、ふんわりとした明るさの小部屋に入る。そこには壁に二枚の絵が立てかけられて、独特な様相の人達がそこに張り付きなにか行っていた。先程の絵師が芸術家なら、こちらは技術者然としているというか。皆年季の入った灰色の作業着を着て、それが絵具まみれの極彩迷彩柄になっている。
 唯人達が入ってきたのは皆すぐに気付いたようだが、やってきたのはその中で一番若い青年一人だった、短く切られたくせ毛をぴんぴんさせて、満面の笑みに細められている眼は誰かと同じ、綺麗な曙の紫だ。傍らの唯人とディリエラに余所の人間見たの久しぶりだ、と言わんばかりの視線をくれると青年はそのままクェンタンに嬉しそうに抱きつこうとして、服が汚れる、とあっさり身をかわされた。
「お久しぶりです、母上!連絡を頂いて、こんな所に来られるなんてどうしたんですか?」
 え、は、母上って言った……?
「ああ、よしなさいルオスファナ、人前で。皆が見ているというのに」
 ものすごくびっくりしたのは(正直言って、砂の竜がトカゲだったときより驚いた)自分だけかと思ったら、眼をまん丸にしたディリエラも困った顔のクェンタンを横から呆然と見つめている。青年は、性格は子供っぽいが、歳はどう見てもディリエラや唯人と同じくらいだ。期せずして改めて思ったクェンタンさん歳幾つ?の心の声が眼があったディリエラと完璧に重なった。
「どうも、恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
「うん、お客様なんて初めてだなぁ、何の用?」
 まだ母親の懐を諦めていないのか、鼻を鳴らす仔犬の顔でクェンタンを伺っていたルオスファナが改めて興味津々の顔を唯人に向ける。壁の絵を眼にしたディリエラが、あ、と小さな声をあげた。
「唯人〝火炎の竜婦〟の絵だ」
 壁に並べられている二枚の絵は、まるで写真のように寸分変わらない瓜二つであった。片方には、赤を基調とした色調で描かれた艶めかしい女性が蠱惑的な表情でこちらを見つめている情景が描かれてあり、もう一方は同じ図柄だが、無残にも中心が大きく引き裂かれている。ちょっと都市の救世の象徴とするにはいささか煽情的な絵だが、アーリットの言うにはそもそもが〝導師ジュネイの情婦アレイト〟という題だったのだから、こうなのは仕方が無いのだろう。
 確かにシェリュバンの言葉に間違いはない、絵の女性は胸がばーんで腰はきゅっと締まり、臙脂の薄絹のきわどい衣装の裾からはすらりと見事に伸びた脚が大胆にこちらへと突き出されている、子供のうちは刺激が強いというのもよく分かった。しかし肝心のその顔は……贅沢な薄いレースのベールで覆われていて、隙間から見えているのは笑みで細められている眼の片方と、濃く紅をひいた唇のみ。陽を浴びたせいなのか肌は浅い褐色で、手首に銀枝杖の精霊痕まではっきり描きこまれているのになんだか妙に別人じみて見えた。それでも眼を離すことはできず、しばらく食い入るように眺めていたら、クェンタンが息子に事の次第を話している声が耳に届いてきた
「この御令嬢は、そこの写しの持ち主であるスリンチャ族の姫君です。遠路はるばる訪ねてこられて絵を持ち返る事が出来るかどうか様子を見においでたのですが。この様子では、まだまだ無理のようですね。仕方ありません、ルオス。王の御為、ここは貴方が全身全霊を込めて今少しの間、絵を借りられるよう姫にお願いなさい。なんとしてでも来年の都市祭までに、秘密裏に絵を修復するのが貴方の役目なのですから」
 その言葉を聞かされて、最初の印象からそうだろうと思ってはいたが、ルオスは何の困惑も意地も見せることなく瞬時にぺったりとディリエラの足元にひれ伏した。多分、彼のプライドは、この国の男らしさや勇猛さを称える普通の常識とはかけ離れたどこかにあるのだろう。そのあまりの迷いのない動きに、ディリエラのほうが思わずたじろいで数歩引いた。
「おお、そうだったとは!けして口外できない理由ゆえ、説明もせずお借りしたのをやはり不安に思われましたか。しかしこの通り、この絵が無くては僕の仕事は半歩も前に進みません。どうか今しばらく、絵を預からせてはもらえませんか!」
 わ、分かったから立ち上がって欲しい、と言われぴょんと飛び起きる。背後の同僚が、すいませんこの人おかしいですが素なんです、気にしないでくださいと眼で訴えているのを横目で見て、ディリエラはうむ、と微笑んだ。
「そもそも、私がこの絵を持ち返りたいと思ったのは、ここにいる友人に見せたかった、ただそれだけだったからだ。唯人が見て満足したなら、私自身は別にどうしても急いで持ち帰りたいということはない。あと勝手に絵を貸した叔父がよもや売り払ってはいなかったのか、それを心配していたのだが、ここを見てそうではないと分かったからな。兄には私から説明しておく、貴方は都市祭りの絵の一般公開までにどうか仕事を頑張ってほしい」
 うわぁ、と大喜びのあまり初対面なのに思わず抱きついたルオスを、初対面なのにディリエラは間髪いれず投げ飛ばした。ひょろっとした身体がくるりと回り、傍らに積み上げている古そうな何かの山に突っ込んでがらがらと崩れ落ちる。どっちもどっちだ、と呆れつつ慌てて唯人が片付けようと近づくと、その中に、キビの茎の合板に描かれた何枚もの相当古そうな絵があるのが眼にとまった。
「あ、ああ、後で僕が片付けるよ、気にしないで……」
「いや、大事な物だったら申し訳ないから。これは、何の絵ですか?」
「これ?これは旧王宮に残されていた〝火炎の竜婦〟と同じ頃に描かれた絵だよ、当時の顔料の資料として置いてるんだ。全部美人画なんだけど、ほら、例の、竜人にとっちめられた王が全盛の時、テシキュル南部との大きな戦に勝ったから超ド級の戦勝の宴を開く事にして、そのための綺麗どころを集めようと各地の領主に地元の美人の絵を献上させたんだ。全部裏に名前と釣り書きが入ってるからひとつひとつ見ると結構面白いよ、この娘はサンガチュエギのカティ、眼がぱっちりしてるけど訛りがある、ウムのオンリタは胸が大きいけど踊りが上手くないんだって。こっちは……この時代には珍しい、混血の昼毛のお嬢さんだ。アッセン出身のアレイト、物知りだけど背が高い、って、かなり通好みだな」
「アレイトって……竜婦と同じ名前だ」
「別に珍しくはないよ?初めての子につけるよくある名前じゃないか」
「え、そうなんですか?」
「うん、この部屋にも一人いる、呼ぼうか?」
「い、いや、いいです!」
 いずれ、これで昔の美人画集とか作って母さんに売ってもらって研究費の足しにでもしようかな、君は絵が好きみたいだね、良かったら手伝わない?と笑顔で肩を叩かれる。それには全く反応できず、唯人は手の中の一枚にじっと見入っていた。これは、〝火炎の竜婦〟が描かれたよりまだ前の絵なのか。板に写されている特徴的な容姿の女性は、あのむすっとした表情で片膝を立て絵の外の誰かの髪を編んでやっている。眼も、描いた絵師がそこを印象付けたかったのか細かく緑を乗せていて、今にも顔を上げ、なに見てるんだ、とあの声が聞こえてきそうだった。
 僕は、君に会うためにここまでやって来たんだよ……。
 二百年前の、女性の姿のアーリット。きれいに日焼けしている肌の色、生え際が黒い金の髪。でも化粧っ気はなく、ややふっくらとした顎の線や優しい丸みを帯びた肩、そして豊かに張った胸を自分に見られているのが少々気恥かしくて、不機嫌な顔になっているようにも見える。唯人の眼でそれを一緒に見ているミラが、小声でぽつりと呟いた。
『懐かしい顔だ。随分とさ』
『ミラも、見たことあったのかい?』
『ううん、僕も見た事あるのはあっちの竜婦の絵だけだったんだけど。びっくりだ、やっぱり親子なんだな、ここまでマーリャに似てるなんてさ』
『マーリャって……アーリットの母親で前の創界主だった?』
『うん』
『こんな顔、だったんだ』
『そう、おチビはうんと小さい頃はマーリャのそのまんま縮小版で、君に似て黒髪で淡い褐色の肌、濃い金色の瞳の持ち主だった。それが七十年を過ぎた頃からどんどん色抜けし始めちゃってさ……ミストは、あの子の中のマーリャの寿命が先に尽きたんだろうって寂しそうにしてた。けどこの絵を見たら喜んだろうな、マーリャはまだあの子の中にちゃんといる、用が無い間は眠ってるけど、おチビが彼女の身体の状態を望んだらこうやって表に出てきてくれるんだ。記憶が無いから本人が一番不思議に思ってるだろうね、そういうのも僕に聞きたいんだろうな』
『僕は、この顔好きだよ。アーリットは笑ってるより、こういう顔のときのほうが素だから』
『おチビは、君に出会ってからよく表情を出すようになったよ、良くも悪くもね』
 許されるものなら一日中ずっと眺めていたかったが、そうもいかないのは分かっているので出来る限り眼と脳内にその姿を焼きつけると、唯人は絵を、積み上げている山の一番奥に差し入れた。
 いつか、この地に留まることが許される身になったら、僕はとびきりの彼の絵を一枚描くことにしよう。見つかったら多分怒られるから、内緒にしてこっそりと。あのサイダナの浜辺で酔った勢いで彼をひん剥いてしまった時のことは、恥ずかしながらあまりにも鮮明にこの頭に焼きついている。その光景は道徳的にはアウトだが、芸術としてはぎりぎりオッケーだ……と、思っておく。
 ふふっ、と脳内の黒さをはみ出させた含み笑いを漏らすと、唯人は最後にもう一度、見たところ自分の世界とそう変わらない画材一式と、火炎の竜婦の自分を煽っているような眼差しをしっかりと眼に写し取った。



 待ち望んでいた訪問者らがやってきたのは、それから数日たった後の事であった。城の門番からスリンチャの使いがやってきたという知らせを受け、ディリエラと共にいた唯人は慌てて二人で城の玄関へと駆けつけた。
「パリアータ!」
「やっほー!ディリちゃん!!」
 身体のあちこちを布で縛ってはいるが、テンションはそのままのパリアータの豪快な胸にディリエラが飛びこんで、ぎゅうっと思い切り抱き締められる。十人ほどいる一行の、唯人の見知った顔はサテクマルだけだったが、なぜかもう一人、若い女性が大喜びでやってきて熱い抱擁をぶつけてくれた。
「唯人、久しぶり!」
「俺も!見てくれよこの格好、情けねぇったら!」
 声を聞いてやっと分かった、見知らぬ女性はイェンだった。顔の黒布は取り払われ、(後で聞いたら単なる肌荒れ防止だったそうだ)なかなかに美人な切れ長の眼がきまり悪そうに笑っている。どうも腹が重いと思ったら、大いくさの最中についに障りが来ちまって、怪我人扱いされて大恥かいちまった。とはにかむイェンの旅衣装の裾をサテクが背後から引っぱってからかうと、すかさず小刀の刃がその頭をかすめて過ぎた。
「セティヤは?いないみたいだけど」
「ん、ああ、セティヤはハウィルが怪我したから付き添いで来られなかった。あいつ、蟹おごるって言ったのにさ」
「え?ハウィル、大丈夫?」
「ああ、気にするほどじゃないって、顔殴られてえらく腫れたけど、そもそも無口なんで困ってないから。セティヤは看護で誰はばかることなくべったりで、ただでさえ暑いのにもう近づけやしないって感じでぇ」
「……とにかく、イリュはどうなった、それをまず聞かせて欲しい!」
 その言葉に、パリアータを筆頭にした一同は一斉に並んで膝をつくと、ディリエラと唯人を振り仰いだ。
「我らが偉大なる、スリンチャの二位たるディリエラ姫、そして竜人殿。我らスリンチャ一位の戦士はこの手で見事クルニ族を打ち滅ぼし、砂漠へと退け勝利いたしました。一位様はシャダンを自室に軟禁し、三位の地位を剥奪すべく手筈を整えております。息子のシュイロウは人質としてクルニ族に連れ去られ、解放する為の条件がこちらに届けられておりますが、その交渉は今後できるだけ慎重に〝ゆっくり〟と行うと申されておいでです」
 この言葉にはぷっ、と吹きだす声が漏らされたが、唯人も危うくそうなりかけたのをぐっと辛抱した。
「本当に、今回は竜が強運を呼び寄せてくれたとしか思えない出来事ばかりありまして。一位の戦士はそのほとんどが商隊の護衛についてミーアセンを目指し進んでいたのですが、イリュからの一報を受け、さりとて商隊を無防備にするわけにもいかず困っていたら、珍しくミーアセンから野盗の見張りで飛んできた鷲獣騎兵に巡り合えたのです。一位様が留守の間に、クルニが好き勝手していたのがいい方に転びました。普段はあのような、ラバイアの深くまで訪れる連中ではないのです。事情を話せば快く護衛を引き継いで頂ける事となり、伝令が好意でニキエタイまで飛んでくれたので、ありえない速さでスリンチャ最強のニキエの一族や一位を敬う他の部族も一気にイリュに馳せ参じることができました」
 ここで一旦言葉を切って、パリアータは豊かな胸の谷間からまばゆく輝く何かを引きだした。豪華な細工の金鎖に繋がれているごく小さな水色の石、空青石の首飾りだ。
「あと、これをこの街に来る途中、半日ほど手前の砂漠で拾いました。そこにはまだそう時間のたっていない闘いの跡が残されていて、落ちていた物からクルニ族と何者かがやりあったようだという事は分かったのですが。どうしてこの、ペンドゥラの持ち物がそこにあったのやら。あの子、何があったんでしょうかね」
「ペンドゥラは、実はクルニ族の三位でイリュに呼ばれた霊獣使いと秘密裏に入れ替わってたんだ。この街でディリを始末して僕を手に入れようと襲ってきたんだけど、それが叶わなくて先にイリュに加勢するって言葉を最後に姿を消した。でもこの街の人を巻き込んで殺してしまったから、きっと都市精の怒りをかって制裁を受けたんだろう。死体がなかったのなら、生き延びてまたどこかに去った可能性はある」
「そうでしたか、イリュに戻ってもシャダンは拘束、その戦士も全て死ぬか逃げるかしてしまいましたから何もできないとは思いますが、一応知らせは送っておきましょう、なにはともあれ……」
 すいと立ち上がったパリアータが、両手を差しのべ唯人の顔を包み込む。顔が近づいてきたので慌てて逸らそうとしたががっちりと固定され、成す術の無いその額にこつん、と寄せられた額が触れ合った。
「竜人ちゃん、いや、阿桜殿。二位様を約束通り護って頂いたこと、感謝します。貴方に任せていたからこそ、私達は何の心配も無く思いきり戦う事ができた。一位の戦士も少なからず命を落としましたが、皆己の手で領地と一位を護れた事を誇りに逝けたのです。またいつか、私達の地が災厄を被る時が来たときは、我らが貴方に祈ることをお許し下さい。竜が我らを見守ってくれている、という幸運を」
「それほど頼もしいものでは無かったのだがな、痺れ薬は飲まされるわ砂まみれにされるわで……まあ、こうして生きてはいるが」
 ディリエラの嫌味にごめん、と頭をかく唯人に彼女も笑顔で身を寄せ額を付けて親愛の意を表した。これで、一応の片は付いた、絵は持って帰れないが、彼女は胸を張って己の地への帰路につく。その日の内に王とクェンタンにも挨拶し、ついでに城内に住んでいるルオスの部屋にも立ち寄った。
 この数日でルオスはその男らしさの無さっぷりで、すっかりディリエラとうち解けて、絵の修復が終わった暁には彼自身が責任を持ってイリュまで絵を届けることを約束してくれた。クェンタンは、そんな息子にどうしても店を継いでもらおうとは思っていませんから、ともう逆玉上等の期待を匂わせている。その彼に、夜になってクェンタンに紹介されたお勧めの店に連れて行かれてご馳走してもらい、見納めの共同浴場を個室でたっぷり堪能した後は、最後は城に戻ってディリエラの要望で久しぶりにイリュ式の床でザコ寝とあいなった。
 どうしてもやりたかったのだろう、両側にパリアータと唯人を並べ、唯人の反対側にはなぜかルオスやタッカもいる。イリュのスリンチャ族とニキエの酒事情は違うのか、勧められるままにさんざん酒をくらって大トラに変じたパリアータを皆で宥めすかして寝かしつけ、互いのこれまでを延々語りあっていると、やがてディリエラが眠くなったのかうとうととし始めた。
「ルオス、ディリが寝たら僕、部屋に戻るよ」
「うん、もちろん僕も帰るけど。君はいいんじゃないか?信頼されてるし貴血なんだから」
「そうだぞ唯人、俺も二位様もお前がいたって気にしねぇから。一緒にパリアータ押さえてくんないと」
「いや、イェン、それは……」
「うりゃっ!青二才ども、何こそこそしてんのよ、うちのディリちゃんとお近づきになりたいってんならまずあたしをとおしなさいっ!どいつもこいつも、生まれたての鹿みたいなひょろひょろの身体してぇ!」
 突如降ってきたわめき声と共に、どさあ、と豊満な胸からの体落としが浴びせられてきた。酔っぱらいの恐ろしさは知っているが、絡んでくる異性のそれは格別だ。たとえ両性でも襲われるのは嫌だよ、とディリエラとひん剥かれそうになったときの事を思い出して唯人が身震いすると、サテクマルが決死の覚悟で姉を取り押さえにかかってくれた。
「姉ちゃん、自分がいつまでも売れないからって見境いなくしてどうするんだよ、恥ずかしいんだって!」
「うるさぁい!まだ生えてもいない末っ子が、あたしに意見するな!」
「い、いつの話してんだ、もうとっくに生えてるぞ!見せてやろうかこの暴れ猫!!」
「ばーか、ヒゲの話だってのこの変態小僧。そっちじゃないほうなら、あんたのよか竜人ちゃんのが気になるっての」
 ああ、王宮がどんどん下ネタに染まってゆく……姉を押さえつけながらも、サテクが一瞬〝それは俺も興味ある〟な眼をしたので公開処刑される前に、唯人は自分の客間に帰らせてもらうことにした。ディリエラは、周囲の騒がしさにもめげずもう毛布にもぐって寝息をたてている。その美しい顔は最初に出会った時からいささかも変わらないが、もう彼女は叔父が言い放った箱の中の人形ではない、若くりりしい砂漠の貴族の姫君だ。
「おやすみ、ディリ、みんなも」
「俺も!姉ちゃん片付けたらそっち行くぞ!」
「あたしもあたしも!今夜はみんな寝かさないんだから!」
「酒臭い年増猫は隔離だって言ってんだ!」
「結局、俺にパリアータ押し付けて行く気かよ。貸しにしとくからな、唯人!」
 後はイェンとサテクに頑張ってもらおう、とタッカとハルアジャを連れ向かいの部屋へと戻る。一人と一頭は唯人が勧めても寝台を遠慮し床の隅っこで寝てしまったので、唯人は一人広い寝台に横たわった。この数日の開いた時間に、唯人はクェンタンに頼んで首都から東に行く商隊のつてを探して貰っていたのだが、すぐにそれは難しいという返事がかえってきた。ラバイア国の首都から東というのは、ごく近場に流れる河ぞいにいくつかの集落があるだけで、それより向こうは少数民族が細々と暮らす荒れ地が広がり海に面する断崖絶壁で終わっている。そこまで行けばもう北はテシキュル、南はかなり南下したらぐっと入り込んだ湾になった港湾領イルーゾだ。イルーゾに向け南下する商隊はいくらでもいるが、少数民族相手の商売をしようと東に向かう隊など首都にはおらず、むしろテシキュルの騎馬遊牧民が季節になると南下してきて彼等とささやかな物のやりとりをしているらしい。こうなったら乗りかかった船、自分が彼の故郷の地まで送り届けてやろうと腹を決め、ミラにその旨を相談してみると彼の返事はいいんじゃない?であった。
『あの子を送り届けたら、テシキュルに入って銀穂の草原を見に行こう。その後内陸に戻って、一回テルアがどうなってるかこっそり覗きに行ってもいいしね、勿論おチビには内緒でさ』
『そうだな、王子やサレもどうしてるか知りたいかな』 
 たまには、誰にも関わらず自分だけの落ちついた旅がしてみたい。これまでがちょっと賑やかすぎたから、と反省してもう寝ようと薄手の毛布に潜って眼を閉じる。すぐに何か言い負かされたのか、壁の向こうでサテクのわめく声とばん、と扉の開けられる音がした。
「姉ちゃんの馬鹿!もう知るか!……おい唯人、こっち入れてくれ!」
「僕をひん剥かないって誓うなら!」
「誰が!イリュの野郎全員に恐れられてる最凶嫁き遅れと一緒にするなって……!」
「サ~テ~ク~、あんた、さっきから言わせてりゃあ……」
「ひぇぇっ!」
 重い打撃音、そして何かを引きずる音と共に扉の向こうが静けさを取り戻す、震える手で合掌。姉というものが、あんなに恐しいものだということをこの歳になって初めて知った。犠牲は大きかったが無駄にはしない、ありがとうサテク、迷わず成仏してくれ。
「勝手に殺すんじゃねぇってんだ!」

荒れ地を訪ね 

 次の日の早朝、スィリニットの西の門に立ち、唯人はスリンチャの皆とひと時の別れを交わしその背を見送った。二日酔いのパリアータにセティヤに頼まれた本と金果樹の木片のひとつを託すと、残ったお金はいくらあっても邪魔にはならないから、と強引に懐に押しこまれた。
「シェリュバンには、落ちついたらまた遊びに行くって伝えてくれ。この子を東に届けたら、改めて訊ねさせてもらうから」
「分かった、それまでに水浴びの間の床を強化しておこう」
「頼むよ」
 もうすっかり旅装束に身を固めたディリエラは、唯人と初めて会った時、シェリュバンの懐に隠れてしまったのと同じようにぎゅっと目の前の胸にしがみつくと、甘えた声で囁きかけてきた。
「また、いろんな国の面白い話を沢山仕入れてきて、私に聞かせてくれ、竜と一緒に」
「うん、変わった物があったらお土産に持って行くよ」
「世界主が、唯人を見守って下さるよう祈っている」
「ありがとう」
 ざっ、と砂走鳥の足が砂を蹴り、朝陽を背に数騎の影が彼等の故郷へと旅立ってゆく。色々なことがあって、今では家族同様のみんなだが、別に寂しいとは思わない、会いたくなればいつでも会える。起伏の続く砂漠の向こうに点のような姿が消えるのを見届けると、唯人はタッカを連れて中心街に戻り、クェンタンに貰った地図を広げてこれからの行く先を検討した。
 困った事に、タカン族はラバイアの少数民族のほとんどがそうであるように、自分達がラバイアという国のどの辺りに住んでいるのかという事をはっきり分かっていない。ただ砂漠ではなく、荒れた山間部に張り付いて狩りや採集で生活しているという話から、かなりテシキュルに近い土地だろう、という事で北東にそびえるギュンカイ山脈を目指してみることにした。
「いざとなれば標もいるし、でも結構遠いから、準備だけはちゃんとしていかないとな」
 さすが砂漠の街だけあって、市場で売られている保存食の種類は眼を見張るものがあった。それは僻地に行くほど金が意味を成さなくなり、物々交換、その中でも食料が一番相手に望まれるということらしい。貴重品を持っていると野盗に狙われても命を残してくれる可能性が高まるから、邪魔にならないし薬にもなる香辛料なんかがいいよ、と勧められ、唯人は香りのいいのをひと包み買うと大分使いこまれてきた荷物袋に詰め込んだ。
 自分を唯人の召使いだと思っているタッカはなんとしてでもその荷物を預かりたいようだったが、子供に持たせるのには重いのと、ラバイアという国の盗賊賛美が身に染みているので唯人は荷の中身で一番重いあのウナギの干物だけを貴重品、ということで持ってもらう事にした。ハルアジャが目を輝かせたので遠からず彼の腹に収められるだろうとは思ったが、タッカは包みを抱え込んでたとえお前だろうがあげないぞ、と真面目に干物を護っている。そんな二人と一匹とやっぱり集まってきた地元の巻毛猫の皆様とでしばらく歩いて街の東端にたどりつくと、ここからはミラの鷲獣に乗せてもらって砂漠に出る、というその前に、唯人は今一度、砂に浮かぶ小山の頂きの王城を振り返って見た。
 陽炎揺らぐ砂漠の都、砂の竜が護りしラバイアの首都スィリニット。破壊主は、何を思ってこの街を訪れ、去ったのだろう。本気になればこんな大きな街でも破壊し尽くせる力を持ちながら、何もかも中途半端に放りだしてゆく。キントやテルアを壊しても、人災は無いに等しかったし唯人とアーリットとの戦いも、とどめをさす機会はいくらでもあったのに生死のギリギリで手放した。〝死〟ではなく〝苦しみ〟そして〝騒乱〟を求めているのか。世界を壊し尽くすという彼という存在は、世界主が必要として生みだしたものなのか、それとも彼もまた自分と同じ、この世界の異端者なのだろうか……。
「行こう、タッカ」
 とめどない思考を振り払うように、王城から眼を戻し唯人は歩きだした。砂の竜は、あれから一度だけ唯人の元を訪れて〝火炎の竜婦〟に今後の自分がどうあるべきかを問うた事、そして返ってきた言葉の内容を打ち明けてくれた。都市精としての任を解くつもりは無いゆえ、今後はこれまでに増して人と力を合わせ、人を鍛え、頼れるようになれ、と。確かに、我は首都の民を護る事のみに重きを感じ、共に在ろうとは思っていなかった。この言葉を重く受け止め、来るべき日に向け精進する、と彼は素直にその言葉を受け入れた。
 そして、最後に無礼の詫びだと言って、テシキュルとの国境近くをうろついても怪しまれないようラバイア王の印の付いた身分証を出してくれた。本物の砂トカゲ避けになる、彼の鱗が張りつけられたそれを砂漠の都市の思い出全てと共に荷に収め、二人を乗せられるようちょっと大きめな姿になったミラの鷲獣にまたがると、真っ白な羽根を勢いよく羽ばたかせてミラは砂の上へと舞い上がった。
「やっとちまちました地上移動しなくて良くなったね、東に行けば行くほど砂嵐は起こらなくなるから。速くて安全だし空の移動が一番いいよ、唯人もそう思っただろ?」
 そういうこと言う、とイラッとする綱手を宥めつつ、眼下の一面の砂漠を横切る大河を通り過ぎると、やがて砂地がだんだん硬く、ぱさぱさした草の生える荒れ地へと移り変わってゆく。点在する水場に降りて休憩をとった時に、唯人はこれまで聞かなかったタッカの身の上について言えるだけでいいから、と訊ねてみた。
「タッカは、どうして住んでいた場所からさらわれてしまったんだい?」
「タカン族は、住んでいる東の最果ての山で、季節によって海側と陸側を行き来しています。暖かい間は海側で塩と魚を獲って、寒くなると塩漬けの魚を持って陸側にまわって寒さをしのいで獣を狩って暮らすんです。そうやってずっと昔から生きてきました。でも……」
 空を移動している間は、狼とは思えない落ち着きっぷりでミラの前脚につかまれていたハルアジャの毛並みに顔を寄せ、杏の色の眼が辛そうに伏せられる。
「俺が生まれてしばらくの頃から、海側の住処が段々変わり始めました。まるで、砂が降り積もったみたいに全てが灰色に……そこに近づいただけで、みんな何とも言えないぼうっとした感じになってしまうから族長がもうここには住めない、場所を変えようと北よりに新しい住処を切り開きました。けれど、灰色はどんどん広がって、ついに山を越えて山側の住処まで呑み込んでしまいました。その頃にはもうタカン族の伝統的な暮らし方は続けられなくなっていて、みんなは北の草地に移って行ったり岸壁の手前にあるわずかな浜に住みついたりとちりぢりになっていきました。俺の家族は最後まで山に残っていた一握りだったけど、寒季を越す為の魚が足りなくて獣を追って遠出しないといけなくなって。どんどん砂漠に近づいていったら、ある日ついにハルアジャが砂漠の野盗の罠にかかってしまったんです」
「それで、一緒につかまってしまったのかい」
「タカンの一族は、人と狼が同じ。タカンの始まりからずっと男と雄狼は力を合わせて狩りをして、女と雌狼は一緒に仔を育てて家を護ります。俺もハルアジャも互いの母さんの乳を貰って大きくなった、そんな兄弟を見捨てるなんてことはできなかったから」
 タッカがぎゅっと首を抱くと、ハルアジャは大きな舌でその顔を舐めた。珍獣として自分だけに買い手がつき、引き離されそうになったら暴れる事で、なんとか彼も彼なりの努力で兄弟を側に留めていたのだろう。遠い未知の場所で、寄り添って生きてきた二人。やっと自由になって、故郷に戻れる時が来たというのにまだその顔は暗く、幾ばくかの不安に耐えているように見えた。
「竜人さま」
「ああ、もう二人きりだからその呼び方はいいよ。唯人、って呼んでくれ。僕はタッカの主人じゃないんだし」
「え?ち、違うんですか?」
 今の今まですっかりそのつもりだったのか、慌てた様子で彼が向き直った。
「うん、シェリュバンやディリエラと同じ友達だよ、ハルアジャもさ」
「それは駄目です!」
「なんで?」
「助けてもらった上にこうやって送ってもらってるのに、俺は竜人さまにそれに見合うお返しをなにもすることができないです。毎日が食べていくだけで精一杯だったし。もしかしたら、もう家族は山から別の場所に移ってるのかもしれない。もし山に戻っても、家族に会えなかったらこのまま竜人さまのおそばに仕えさせてもらうしか、俺……」
「タッカ……」
 帰る場所が、もう無いのかも知れない。それを考えると、彼が常に見せる不安そうな表情がやっと理解できた気になれた。分かった、家族の人が行きそうな場所を全部まわってみて、それでも誰も見つからなかったらまたイリュに戻ろう、ディリはちゃんと君を普通の召使いとして扱ってくれるだろうから、と笑顔で宥めてあげるとタッカは申し訳なさそうに小さく頷いて見せた。
「竜人さま」
「唯人って言ってくれ、また人買いに聞かれたりしたら困るだろ?」
「はい、分かりました、唯人さま。あの、俺も聞いていいですか?」
「うん、なにを?」
「唯人さまは、何をするためどこに向かってるんです?故郷は?今何か御用の途中なんですか」
 ううん、それは難しい質問だなと唯人はちょっと考え込んだ。今更ながら、この世界に来た後は状況に流されるままで、具体的にどうするべきなのかミラはまだ何も言ってきた事がない。一度だけ言われたのは、いろんな国を見て回ろう、くらいで世界主の事でさえはっきりとは教えてくれていない。そろそろ聞いてみてもいいんじゃないか?と自分の考えに入ってしまっていたら、傍らでタッカがじっと自分の返事を待っているのに気が付いて、曖昧な笑顔を返して見せた。
「故郷は、ここからずっと遠い所。そこに帰る方法を見つけるためにあちこち訪ねて回ってるんだ、タッカと似てるのかもな」
「もしかして、世界主さまのおられる天蓋界なんですか?竜は地上で姿を持ったり天に戻って風になったりを繰り返して生きてるって語り婆から聞かされました。竜人さまも、天に帰る道を探してるんですか」
「うーん、そうなのかな」
 天に帰る、その言葉は唯人のこれからのひとつを遠からず表しているという気がした。再度鷲獣のミラに乗り、遥か彼方に黒々とそびえているギュンカイ山脈に徐々に近づいてゆく。山肌の状態が分かるまでになると、タッカの言葉どおり、山は一部の黒っぽい木々と大部分の灰色の部分が不気味に入り混じった状態になっているのが見て取れた。
「ああ、駄目だ、もうここまで灰色になってしまったんだ。これじゃ、山のどこにももういられない。タカン族の住む地は、なくなってしまったんだ……」
 小さな肩を落として俯いた、その背にかける言葉も無く延々と続く灰色の峰を飛んでゆく。もう夕陽が地に触れそうになった頃、とりあえず一旦降りてみよう、と唯人達は高度を下げ割と大きく残っている深緑の森のそばへと近づいていった。ミラが翼を大きく伸ばし、眼下の景色が旋回する。ざっ、と土煙をほとんど立てることなく枯れ草のまばらに生えた地面に降り立つと、即座に小動物の姿に変じたミラを肩に乗せ、唯人は彼方ののっぺりとした灰色に覆われている景色に眼をやった。そのままおもむろに歩きだすのに、びっくりしてタッカが止めようとその背を追いかける。
「唯人さま、駄目です、近づいちゃ!」
「大丈夫だよ、見るだけだから」
 以前、テルアでアーリットに一度だけ聞かされた〝廃化〟と呼ばれるこの世界の大地の病。彼自身もそれに蝕まれかけたということは、本人の記憶からは失われているのだが。この機会に、自分の眼で見られるのなら見ておきたい。
「本当に、何もかもが灰色だ」
 もう目と鼻の先の位置で、淡褐色の地面が下がりその向こうには一面の灰色が広がっている。灰色の雪景色と言われればそう見えなくもないが、よほど細かい粒子なのか微かな風でも舞い上がり、もやもやと不思議な質感で揺らめいている。その中に、ふと、何かが動いたような気がした。
「……え?」
 今度は、はっきりと見えた。
「馬鹿な、そんなはずは……!」
 そんなはずはない、こんなところにそれが現れるなど。とにかく確かめたくなって、何も考えずそちらへ足を踏み出そうとした唯人の身体は、背後から飛びついてきた小さな身体に思いきり引きとめられた。
「唯人さま!」
「タッカ?」
「行かないで、行っちゃ駄目なんです!」
 素早く前にまわり込んできたハルアジャも、頭でぐいぐい押し返してくる。一人と一匹がかりで灰色の境界から引き戻されるうちに、靄の中の影は薄れ、やがて見えなくなっていった。
「なんだったんだ……ただの幻だったっていうのか?」
「唯人さま、やっぱりここは危ないです。もっと離れた、砂漠のほうに戻ったほうが」
 不安そうに見上げてくるタッカの脇で、ふいにハルアジャが耳をぴんと立てた。
「なに?ハルアジャ……あ!」
 矢のように駆けだしたハルアジャの行く先を捉えたタッカが、小さく声を上げる。唯人もその視線を追って振り返ると、どこから出てきたのか、夕陽の方角、砂漠のほうから現れた数人の人影が見えた。向こうも砂漠狼らしき獣を数頭連れていて、駆け寄ってきたそれがハルアジャとぶつかり嬉しそうにもつれ合う。信じられない、と言わんばかりにタッカの夕焼けに染まった瞳が見開かれた。
「……タカン族だ、まだ残ってたんだ!」
 ぱっと彼の足も地を蹴った。複数の人影も真っすぐこちらへとやってくる。わりと小柄な、ラバイア人とは明らかに異なる赤褐色の肌の男達だ。皆毛皮を繋いだ上着を着て、赤い差し毛の入った黒髪をきっちり編んで頭に添わせたり、皮の鉢巻きを巻いている者もいる。自分達に向かって走ってくるのがタッカだと気付くと、男の一人が大きな声で呼びかけてきた。
「息子か?タカンのエファランクスヴァイテュなのか!」
「……父さん、父さん!俺だよ!」
 ひしと抱き合い、互いを確かめ合うとそのまま二人は唯人を振り返り、そろってこちらへとやってきた。この地から出たことなど無いし、多分こういう容貌の人間を見たことが無いのだろう。頭半分ほど背の高い唯人を眩しいものを見る顔で見上げると、タカン族の男はゆっくりと両腕を胸の前で交差して見せた。
「俺の名は、タカンのカティオグリュパンエトレ」
「僕は阿桜 唯人、初めまして」
「異国の旅人よ、感謝する」
 少数民族らしい、独特の言葉。やはり聞くと分かるが、こちらが話すのは無理そうだ。大丈夫です、俺が言葉伝えますから、とタッカが通訳を請け負ってくれた。
「貴方が、息子をこの地に連れ帰ってくれたのだな。もう死んだと思って諦めていたものを、こうやって五体満足で会える日がまたこようとは」
「いえ、これもなにかの縁なので」
「どうかタカンの集落に来て、うちの招きを受けてはもらえないか、もてなす物とてありはしないが」
 周囲にいた他の男達は、どうやら皆で狩りをしていたその帰路のようだった。成果はそう芳しいものではなかったのか、痩せた砂鼠が数匹、それとちょっと大きな長蟲が縄に掛けられ運ばれている。周囲ではしゃぎまわっている狼らに先導され、森の木々の合間に入っていくとそこには初めて目にする変わった作りのあずま屋が数件、寄り添うように建てられていた。一本の真っすぐな木を芯に、円筒形に板壁で周囲をぐるりと囲い屋根は枝と枯れ草で葺かれてある。
 外で木の実の殻を取っていた数人の女性が、帰ってきた男達とタッカに気付いてびっくりして手を止めた。なにやら言葉にならない叫びが漏れ、すぐにあずま屋から更に数人と、狼達が飛び出してくる。皆次々にタッカに飛びつき、人と獣の大きな塊が出来上がった。どうやら、うまく彼の家族や仲間と巡り合えたようだ。離れた位置でミラを肩に乗せ、じっと感動の再会を見守っているとやがて家族は落ち着きを取り戻し、人の塊の中からタッカが出てくると唯人を皆のほうへと押しやった。
「語り婆さまの言っていた竜人さまだ!本当にいた、この人なんだ!」
 おおお、と一同から声にならない声が上がった。両脇を支えられながら、ここの最年長であろう老人があずま屋の中から出てきてうやうやしい視線で唯人を仰ぎ見る。取り囲んでいる皆も、まるで唯人が生き神でもあるかのように静かにその場にひれ伏した。
「阿桜の唯人と名のりし異国の竜人よ、儂はこの地に残るタカンの長。我らの祈りを聞き届け、大切な宝である若い命を我らに戻してくれたこと、一生の恩にきる。さあ、中に入り我らのもてなしを受けてくれ」
「あ、はい、お邪魔します」
 タッカに手を引かれ、あずま屋のひとつへと導かれると他の家から出てきた人と狼もぞろぞろと付いてきて、皆で眼を丸くして唯人を眺めた。きれいな円形のあずま屋は、中に入ると本当に仕切りも何も無い、壁で囲っているだけの一部屋で、隅に石積みのかまどがありそこで火が焚かれている。女達が皆で食事を用意しようとしているのに気付き、タッカの言葉を思い出すとあまりそんな余裕ないんだろうな、と唯人は彼に持たせてあった荷を、ここの人達に振る舞うことにした。
「タッカ、それ重かっただろ、僕もう運ぶの面倒になったよ。手持ちの堅焼きと干物も古くなったから、そろそろ新しいのに買い替えようと思うんだ。で、もし良かったら古いのは貰ってくれないか?あまり無いけどここのみんなで食べよう」
 この提案に、タッカの家族は最初は客人にそのようなこと、とか言っていたが、唯人が試しに干しウナギの削ったのを火であぶり始めると、匂いで狼達が我慢できなくなって周囲で大騒ぎを始めてしまった。とりあえずみんなに一切れずつ、とタッカと協力して次々火を通していると、これだけは食べて下さい、と塩漬け魚とざらざらした食感の木の実を煮込んだ汁物を振る舞われる。イリュや首都で食べた料理とは比べ物にならない味だが、これが彼等の御馳走なんだ、と唯人はありがたくその素朴な味を堪能した。タッカも、久しぶりの故郷の味を喉を鳴らしてかきこんでいる。
 やがて、やってきた他の家族にも食べ物が分けられみんながその場で初めての珍味を口にしていると、そう広くないタッカのあずま屋はタカン族の人で一杯になってしまった。皆、毎日変わらない日々を送っていて目新しい事などそう無いのだろう。タッカがさらわれてから、どうやって帰ってこれたかまで皆に一通り話し終わると、タカンの人々は唯人を改めて崇拝の眼で見つめてきた。
「唯人さまは、竜と、姿の変わるお供や水を呼ぶ力も持っているんだ。だから砂漠を好きに行き来できるし盗賊や蟲を恐がらなくていい、自由に世界をまわってる。語り婆さまの話どおり、いずれ天に帰る時のため、その道を探してるんだって。俺は、そんな竜人さまの眼にとまった幸運を世界主さまに感謝しなきゃ。これからはまた家族の為にうんと頑張って働くから、ハルアジャも」
 唯人の眼には、もう他の狼と混じってしまったハルアジャを見分けることは無理だったが、タッカが呼びかけると彼はすぐにやってきて共に助けあった兄弟の顔をこれでもかと舐めた。いつ姿が変わるんだ、と唯人の肩のミラから眼が離せなくなっている小さな子供達になにかやってあげるべきかな、と苦笑しているとふと、何かを思い出した様子で女たちがひそひそ言葉を交わし始めた。
「あの、竜人……さま?」
「はい?」
「もしよろしければ、私ら、ひとつ相談したいことがあるんですが。聞いてもらっていいですか?」
「なんですか?」
「何日か前に、この集落のそばを通る旅の御方を見かけたんです。以前にも、うんと北の国から灰色を調べにやってきた異国の人がおられたんで、またそういうのかと思ったんだけど。えらく足の速い方で、止める間もなくいなくなっちまいました。灰色はもうすぐそこまで迫ってるし、その人は歩きだったからそう遠くには行ってないと思うんで。もし急ぎでないなら、明日にでも空から探してみてはもらえませんか?まだここらにいるなら、今度はみんなでほんとに引っぱってでも連れ戻したいんです。あの灰色に入っていった人間は、誰も帰ってこなかったから」
「それは心配ですね、分かりました、明日一番で空から探してみます。どんな格好をしてました?」
 タッカが唯人の言葉を伝えると、女達は互いに顔を見合わせた。
「真っ黒だったね」
「ああ、上も下も真っ黒だった。炭みたいさ、顔もすっぽり黒いので覆っててちょっと気持ち悪かったよ」
「あれは、灰色から鼻や口を守ってたんじゃないのかねぇ」
「背はえらく大きかった、あなたよりもまだ大きいと思う、異国の人はみんな大きいんだ」
 その言葉に、ふっ、と嫌な感覚が意識に触れた。黒の衣装に長身の……いや、そんなはずはない。あの破壊の化身が、こんな寂れた僻地を訪れているはずがない、しかし……。
 翌日、陽が昇るとすぐにミラに乗せてもらって唯人はギュンカイ山脈を上からまわってみた。昨日見たとおり、山肌は一面の灰色と離れ小島のような暗い緑のぶち模様の不気味な様相を晒している。あまり近づくと危ないだろうから、幾分高度を取っているので人一人を見分けるのは大変なのだが、海側にも出て白く波飛沫をあげている浜辺に沿って進んでいると、山裾の背の低い木が生い茂っているあたりでふと、黒い影が動いたように見えた。
「ミラ、見えた?」
「うん、降りてみようか。一応、油断はしないでおいてよ」
「そうだな」
 離れた位置から対応できるように、スフィを出して背に負うとあまり幅の無い砂浜に降りる。ミラは唯人に戻り、慎重に黒い影を見つけた茂みの方へと近づいてゆくと、風のせいではない感じでがさがさと枝の揺れる音がした。
「誰か、いるんですか?」
 いつでも撃てるように銃を構え、少しずつ距離を詰めてゆく。銃剣の先が木にかかった枯れ草に触れそうになった瞬間、ざっ、と結構大きな黒い塊が飛び出し唯人のいる反対側へ一目散に逃げ去っていった。
「……獣だな」
『あれは山走りだね、タカンの人の大事な冬の糧だ、森がこうじゃ彼等も大変なんだろうな』
 獣の消えた先は、もうテシキュルに近い国境の山だった。灰色は南から北上しているのか、北へと続く峰にはまだ黒々とした木々が残っている。ふと、昨日灰色の靄の中にかいま見たありえない光景を思い出し、唯人は背後を振り返った。
「ミラ」
『なに?』
「君の力に護ってもらったら、あの灰色の中に入れるかな」
『ん、やったことはないけどね。少しの間ならいけるだろ、入りたいの?』
「うん、ちょっとだけ」
『中に行っても、探してる人はいないと思うけどな』
「そうじゃなくて、僕が確認したいんだ。昨日、ここに着いてすぐの時、灰色が舞い上がった靄の中に変なものが見えたから」
『おチビでも見えた?』
「違うって!」
『分かってるよ、何?』
「それが、何ていうか……信じられないんだけど、僕の世界の景色。金属とガラスって言う晶板でできた山みたいに大きい建物が沢山並んで、自動車って乗り物が行き来してる、この世界のどこにもない光景だ。僕の見間違いだと思いたいんだけど、あまりにはっきり見えたから、できるならちゃんと確かめたいんだ」
 はいはい分かったよ、とミラの言葉が終わると共に、見えない薄い膜に包まれた感触が身体を覆う。そろそろと足を進め、近くの灰色の地に足を踏み入れると海の底を歩いているかのように、足元からもくもくときめの細かい灰色の靄が舞い上がった。
「うわ、これはすごいな」
『こんなの吸いこんだら、それだけで倒れちゃいそうだよ』
 入ってきた方向を見失わないように、くるりと反転して後ろ歩きで更に数歩下がってみる。濁った水のような周囲に昨日見た光景が映らないかと目を凝らしてみるが、いつまでたってもゆらゆらしているだけで頭上の空まで見えなくなってしまった。やはり、昨日の光景はただの目の迷いだったのか。仕方ない、外に出ようと足を踏み出した、その時……。
 さっと、視界の端で影が動いた。
「……?」
 立ち止まり、そちらを確かめようとする。次の瞬間、唯人の身体は弾かれたように大きく背後へと飛びすさっていた。
「……まさか、本当に」
 靄の中から、浮かび上がるように現れたのはあの漆黒の姿だった。しかし、身の内で殺気があればすぐに警告を発してくれるはずの鋭月が、何も反応を見せていない。どうしたらいいか判断しかねたまま、唯人は目の前の黒い仮面を無言で見つめ続けた。
「ミラの冗談じゃ、ないよな……」
 引っかかった、と言って欲しいのに不気味な沈黙が続く。どうしたらいい、また正面のこの顔が笑いだしたら今度こそ許さないぞと言いたいが、そうでなければ次の瞬間、自分はまっぷたつになって地面に転がされる。テルアで赤子同然の扱いをされてから、少しは自分も強くなった気でいたがそれは全くの思いあがりだった。恐い、自分に向けられている仮面の奥の鮮血の色の瞳が、その腕が動く瞬間が……。
「……久しいな、創界主」
 黒面の下から、あの籠った低い声が漏れた。
「えっ?」
「武器を使おうとしても無駄だぞ、それはここでは叶わぬからな」
 慌ててスフィを構えた唯人に、黒の破壊主が軽く両手を広げて見せる。こちらは武器は持っていない、という意思表示だ。それでも命の危機を感じさせる圧迫感は、微塵も軽減する訳ではないのだが。何が起きているか分からず、とまどう唯人に仮面の下でふ、笑い声が漏らされた。
「廃化の地の上では、一切の回円主界の理(ことわり)は意味を成さぬ。霊素も、精霊獣もな」
 なんならやってみるがいい、と促され天に狙いを定め引金を引いてみる。カチンと乾いた音が響いただけで、何も起こらなかった。スフィ、と呼びかけても鋭月同様返事がない、身体にも戻せないので、仕方なくそのまま手に持った。
「ここで、何をしていたんだ」
 そんなこと聞く相手じゃないだろう、早く逃げないと、いやもう逃げられない、と心の中の自分が葛藤している。しかし唯人は確かめずにはいられなかった、今こうやって言葉を交わす事ができている、ならどうしても聞いておきたい。
「タカンの集落のそばを通ったのは、お前だったのか」
「ああ」
「こんな人のいない所に、何の用があるんだ」
 矢継ぎ早に問いかけながらも、いつ襲ってくるかと強張った表情の唯人の様子に苦笑しているように頭を揺らし、破壊主は変わらぬ調子で返してきた。
「どう答えれば、お前は納得する?」
「僕が納得したくて聞いてるんじゃない!」
「では、ここを調べに来た、と言おう」
 そんなの嘘だ、と返そうとして先手を取られた、と唯人は唇を噛んだ。
「何でお前が、そんなこと」
 この世界のあらゆる場所、そして秩序までもを好き放題に壊すだけの破壊の主。サレや、ディリエラの苦しみも元をたどればこの人物に繋がっている。それは、けして唯人の中で許せるものではない。
「これは、お前は、我の何を知っているつもりなのだ」
「ここを……テルアやキントのように、この山をどうにかしようって魂胆か、あんなに少しだけになってしまっても、頑張って暮らしているタカン族の人を苦しめるつもりなのか?」
「苦しみたくないのなら、余所に移る事もできように、不器用に留まり続ける愚かな者どもよ」
「もし本当にそうするのなら、僕はまたお前を止めなくちゃならない。まだ力が足りなくて、誰かを悲しませることになろうとも」
「世界を飛び回るだけの、何も知りはしない小鳥よ。翼持つその身でなぜわざわざ地を這う蛇の領域に踏み込んでくるか」
「その言い方だと、やっぱりお前も知ってるんだな、この世界で僕が何をさせられようとしているのか」
 これこそが、唯人の最も知りたい問いであった。ミラと、多分この破壊主も自分の知らないその答えを持っている。答えそのものはいらない、ただ知っているという確証が欲しかった。
「僕は、この世界に来て結構たったけど、あちこちで無駄に騒ぎを起こしているだけ何をしたらいいのか、どこに向かうべきなのかもいまだ全然分からない。在り方は違っても、これじゃお前と僕はほとんど変わらないんだ。お前を倒すのが僕のここでの目的かとも思った事もあったけど、それはあまりにも変だと思う。お前はいつどこでだって、そうしたければすぐにでも僕を片付けてしまえたんだから。でも、そうはしなかった」
 いつしか、緊張も忘れて唯人は目の前に立つ破壊主に話しかけていた。まるで今までの事が嘘だったかのように、破壊主は黙ってその言葉に耳を傾けてくれている。じっと唯人に向けられている、漆黒の仮面がふっと不思議な感情の色を帯びた。
「何を待っている、破壊主」
「……」
「僕か、それともアーリットなのか。お前が僕を生かす事で、お前の望む未来をこの世界にもたらすのは」
「それを、我が答えると思っているのか」
 唯人は、黙ってかぶりを振った。
「分かっているのならいい、しかし、そうだな、このところの翆眼鬼は癇気が強く話にならないが、お前とはこうして語りあう機会が持てたのだ、これだけは教えてやるとしよう」
 ゆらり、と破界主の黒い上衣の裾が風の無い中、揺らめいた。
「この世界は、たえず何かしら騒がしく不安定であらねばならぬ。鎮まり、穏やかな時が続けばやがて退屈という滅びに蝕まれる。それは、誰であろうと正せる事ではない、この世界が生まれた時からの約束事なのだから」
「なんだって?」
 問い返そうとした唯人に、くるりと破壊主が背を向ける。周囲に起こった風で、靄がみるみるその濃さを増し始めた。
「さて、そろそろ無駄話にも飽きてきた、我の役目を果たすとしよう」
「え、何を……?」
「お前がいなくては始まらぬのでな、創界主。本当に望むとおりに動いてくれるものだ」
 じっと息をひそめ、機会を伺っていた何かが周囲で動き始めた。いけない、逃げないとと自分がやって来た方向を探す。しかし濃密に取り囲む靄は増々その濃さを増し続け……。
 ふっと、唯人を取り巻いている空気の質感が変化した。
「……?」
 さあっと、あくまで何も感じさせず。まるで立ち込めていた霧が晴れたかのように瞬時にあらゆる物が目の前で具象化する。数回まばたきをしただけで、気が付くと、唯人は規則正しくレンガ色のタイルを敷き詰めた道の上に一人呆然と立っていた。
「こ、ここは……?」
 背後から溢れ出してくる人々が、立ちつくしている唯人を次々と無反応に追い越して行く。振り返った眼に映ったのは、随分と久しぶりな、見慣れた駅の出入り口だった。
「ミラ、これって一体……!」
 問いかけても返事が無い、肩の綱手を確かめようとして、唯人は自分が懐かしい安物のシャツにジーンズ、そしてくたびれた上着姿という芸大生お決まりの一式で身を包んでいる事に気が付いた。足も、砂漠の町で履き替えてからずっとそのままの軽木と蟲の皮のサンダルではなく、履き古したグレーのスニーカーになっている。
 襟元から手を入れ触れた肩にいつもの石の感触は無く、引っぱってしっかり確認したが肩はおろか、脇腹や脚にもそこにあった紋はなにひとつ、最初から無かったように白々とした肌があるだけだった。もし傍目に見ている者がいたならば、服の中に虫でも入ったのかと思われるような動作を一通り終えた後、唯人は改めて顔を上げゆっくりと周囲を見渡した。
「僕は、帰ってきたんだろうか?」
 これまでを思い返しても、何かが解決したような気はしない。こんな所でぷっつり切られて終わってしまうことなのか。とりあえず、往来の真ん中で考えていてもしょうがないので、自分の下宿に帰ってみることにする。陽の高さから見て今はちょうど唯人が大学から帰宅する時分、曜日によっては、居酒屋のバイトに行かなくてはならない。急速に甦ってきた、自分が慣れ親しんだ〝現実〟と入れ違いにさっきまでの自分にとって現実だったものが揺らめき、薄れていくような気分だった。
「やっぱり、どう見てもここは僕の住んでいる町、だな」
 足を踏み出す感触は、何だかひどく奇妙だった。変わり映えのない街の景色、行き過ぎる人々、賑やかな音楽、派手にまたたいている色とりどりの電飾の光。あまりに何も変わらなさすぎる、そこに在るだけの現実……。
「あれ?」
 急いで住み慣れた下宿に戻ると、自分の部屋の窓に明かりが点いているのが見えた。おかしい、同居人は奥の部屋にいるはずだから、もしいてもこちらの明かりは点いていないはずなのに。自分が消し忘れたんだろうか、と不思議に思いつつ階段を上がり戸を開けると、白く照らされている室内に人の姿は見えなかった。
「やっぱり、僕が忘れてたのかな」
 とにかく確認したかったのは、日付ともうひとつ、部屋の隅に置かれてあるあの鏡のことだった。机の上にあった携帯を開けて、日付を見るがいかんせん、自分があっちにいった日にちの記憶が曖昧になってしまっている事に気付き唇を噛む。そっちは諦めあの大鏡のほうに歩み寄ると、中に映っている自分も深刻な表情でこちらにやってきた。
「双界鏡、だったかな」
 硬質で冷たい輝きの中にいる、同じ顔に向かって話しかける。
「これで終わったっていうのか?僕とあの世界、あの人はいい結果を得られたのか?これきり、また二度と交わる事のない別の道を進むんだとしても、こんな終わり方を納得しろって?」
 手を押し当ててみても、硬い感触が返されるだけだ。戻ってしまえば向こうであった事などすべて夢、悪い夢だったと忘れてしまえという囁きが忍びこんでくる。それを振り払い、あの鮮烈な姿、褪せた金の髪に縁取られた毅然とした面持ちを心に思い浮かべていると、ふと、扉の開く音がした。
「……?」
 背後に、何かの気配が近づいてくる。振り返るより先に、鏡がその答えを映してくれた。薄明るい電灯の光に照らされて、迫ってくるそっくり同じ作りの顔。背後から鋭利な刃物を突きつけられたかのような恐怖と緊張を感じ、唯人は極めてゆっくりと首だけ背後に向けた。
「帰ってたのか、兄貴」
「……え?」
「すまない、少しの間と思ってそのまま外に出てたんだ、ちょっとその辺見てまわってきただけだから」
「お前……」
 肩にまわされてきた腕が、絡む毒蛇に感じられた。すり寄せられる同じつくりの顔は、引きつったこちらの表情に気付く様子も無く微笑んでいる。これはなんだ、どういう状況だと言葉も出せない唯人の緊張を知る由もない様子で、相手は唯人を鏡から部屋のほうへと引き戻した。
「帰った早々、なに自分に見とれてるんだよ。いくら見たって同じだ、俺以上の男前にはならないって。分かったらさっさと飯食いに行こう、俺ずっと待ってたんだから、今日はうまい店に連れてってくれるんだろ?」
「……不二人」
「ん?」
「不二人、か……?」
 絞りだした言葉に、相手は驚いた様子で眼を見開いた。
「おいおい、昨日会ったばかりで何言ってんだ、もう忘れたってのか?兄貴!」 
「昨日?」
「俺がここに訪ねて来て、今後は二人で頑張っていこうって言ってくれたじゃないか。まさか……」
 まわされた腕が、困惑気味に外される。
「まだいたって思った?俺のこと、やっぱり迷惑なのか。何年も音信不通なのが突然訊ねて来たからって兄弟なんて思えない、って……」
「そ、そんなんじゃないんだけど」
 どうやら、今の自分はあの夜の惨劇は通り抜けているらしい。みるみる困惑と裏切られた者の表情になっていった、唯人と同じ黒い瞳に慌てて言葉を取りつくろう。その後は、普段からあまり外食できる金銭状況ではないので美味しい店の知識などなく、仕方なく唯人は彼をバイト先の居酒屋に連れて行った。
「……」
「どうした?不二人、何でも好きに食べていいよ」
「うん……」
 料理が出された後、彼は箸を持つ唯人の手元をしばらく眺め、おもむろに自分も手に取った。飲物にストローを刺すことや、餃子をたれに浸すのも、なんとなく彼の様子がぎこちない。この街をよく知らない、というよりこの世界をよく知らない、というのを巧妙に隠しているように感じられる。いつだろうと、その気になればこの首を噛み千切れる獣の腕の中にいる、という緊張感が離れない。そのせいなのかどうなのか、懐かしいはずの目の前の料理は、何を食べてもほとんど味など感じられなかった。
 幾分の期待をしていたが、一夜明けても状況はまったく変わっていなかった。夜は隣で眠っている弟がいつ起き上がって来るか、と気が気ではなく、とても熟睡などできなかった。ぼんやりとした頭のまま大学に行って、講義の時間をうたた寝で過ごす。午後は不二人にせがまれるままに、そう広くもない町を案内してやった。その間中、表情はあくまで明るく唯人やこの町のことをあれこれ問いかけてくる弟に、薄氷を踏む様な心持ちで言葉を返しながら夕刻になり下宿に戻る。そこに偶然前庭の手入れをしていた大家の老婦人を見つけ、唯人は笑顔で挨拶した。
「あ、こんばんは、小野坂さん」
 お久しぶりです、と言いかけて言葉を飲み下す。
「お帰りなさい阿桜くん、弟さんも、本当によく似てるわねえ。今日は二人でどこへ行ってたの?」
「展望公園と、図書館にある歴史資料館を見てきました」
「それは良かったわね、でも、あまり遅くなっては駄目よ。阿桜くんも、バイトの帰りは気をつけなさい。昨日、この辺りで通り魔が出たんですって」
「通り魔、ですか?」
「ええ、被害者の人が相手は外国人だ、って言ってたって聞いたんだけど。なんだか、会った人を片端から殴っていったんですって、恐いわねぇ」
 気をつけます、と返して部屋へと戻る。本来の同居人はまだ戻らないようなので、唯人はまたそちらの部屋に彼の布団を用意してやった。
「不二人……」
「ん?」
「これから、どうするんだ?」
「さしあたっては、明日からでも住む所を探してみる。近所で安いなら、古かろうが狭かろうが気にしないさ、その次は仕事見つけないとな」
「この街で暮らすのか?」
「ああ、心配しなくったって兄貴に面倒見ろなんて言わないって。兄貴だって大学生活大変なんだろ?俺はただ、これからは兄貴がそばにいる、いつでも会えるって安心していたいんだ。うんと儲かる仕事見つけたら、たまには飯くらいおごってやるから」
「不二人、お前……」
「うん?」
「いや、なんでもない」
「なんだよ、言ってくれよ、兄弟だろ?俺達さ」
 くったくのない声で笑って見せる、兄思いのごく普通の弟。
 僕の知ってるお前は、そうじゃない。
 お前はここに留まるために僕を殺し、僕に成り変わろうとした。忘れてはいない、あの夜のお前は、誰かが自分を殺しにくる、と怯え、震えて泣いていた。
 この世界は、できのいい偽物、僕が心地よくあるための生温かい嘘だけでできている。
 暗闇の中、無言で唯人は布団から身を起こした。
「どうした?兄貴」
「ちょっと、そこのコンビニに行って来る。明日の朝飯買っておくよ、おにぎりとパン、どっちにする?」
「そんなの明日でいいじゃないか、変なのに出くわしたら襲われるぞ」
「すぐそこだから大丈夫だよ、それに朝は混むんだ」
 なら俺も行く、と不二人が言いかけ身を起こすより先に、いいから寝てろと制し素早く唯人はジャージ姿のまま外に出た。弟が後をついてこないのを確認し、そのままコンビニとは反対の、駅の方へと足を向ける。どうすればこの壁の無い檻から出られるのか分からなかったが、とにかく振りだしの場所に行ってみよう。薄暗い街灯に照らされている、そんなに大きくない駅前の広場。もう夜も遅いので、周囲に人の影はない。
「距離と方向は、このまま構内に入るくらい……かな」
 頭の中で、靄の中に入った時の事を思い出す。手ぶらなのだが、周囲に誰もいないので見つかったら言い訳はそれから考えよう、と唯人は改札を通り駅に入って行った。特に変わらない光景にもっと奥まで行ってみるか、と歩き出そうとした。唯人の前に、音も無く現れた影が立ちふさがってきた。
「なんでこんなところに来たんだ、兄貴」
「……不二人」
「俺を置いて、どこに行こうってんだ、俺、なにか兄貴に嫌われるような事したのか?」
 伸ばされてくる腕を、無意識の動作ではらいのける。しかし次の瞬間には、唯人の両肩はがっちりと壁へ押さえつけられていた。
「言ってくれよ、兄貴、言ってくれないと分からない」
「分からないさ……お前は、不二人じゃないんだから!」
 向かい合っている同じ顔が、すっと眼付きをきつくした。
「俺なんか、弟じゃないって言いたいのか?」
「違う、お前は僕の知ってる不二人じゃないって言ってるんだ。放せ、僕はこんなわざとらしい世界に騙されない!」
「何言ってるんだ、落ちつけって、兄貴」
 つかまれている肩を何とか振りほどこうとしてみるものの、どう力を入れてもびくともしない。もの凄く嫌な既視感が湧きあがってきて、小刻みに震えだした唯人の首筋を宥めるように指が這いあがってきた。
「怖がらないでくれよ、頼む」
「放せ、不二人!」
「駄目だ、兄貴が帰るって言うまで放さない」
 あくまで優しく、手がぐいと首をつかむ。やはり、と一気に鼓動が跳ねあがった。ふと、二人のすぐ背後を駅員が通りかかったが、まるで見えていないかのように無反応に行ってしまう。必死に腕をもぎ離そうともがく唯人の抵抗を意に介せず、寄せられた顔の両の眼がたよりない蛍光灯の光を受け、血の色の紅に輝いた。
「虚構こそが、救いなのだと何故分からない。現実はお前を死なせたのだろう?どうして己を追い詰める道を望む」
 嬲るように、絞めつけてくる指の感触に総毛立つ唯人の表情を楽しむ顔で眼を細め、声だけはごく穏やかに語りかける。
「何も考えず、大人しくしていればこの世界はお前のものなのに。平凡で穏やかな日常に包まれ、何も知ること無く息絶える事ができる。分かったなら、大人しく戻るが良い、血と苦痛と殺戮を好まぬお前にふさわしいのは、この虚構の世界なのだ」
 必死で放った蹴りが空を切り、それを避けようと手の力がわずかに緩められた。すかさず振りほどいた唯人が逃げ道を探し後じさるのを、殺意のない表情で見守っている、その言葉には若干の嘲りの響きがあった。
「言っておくが、どこまで走り回ろうがここから出る事は叶わぬぞ。翆眼鬼も助けには来ぬ、あれの芯に一番深く突き刺さっている怖れの最たるものがこの廃化の地だ。ここに入って来るくらいなら世界が滅ぶほうを選ぶ、お前がここに居る事を知っていようがな」
 ここに在るのはお前と我、ただ両者のみ。回円主界の一切はこの内では存在できぬと言ったはずだ、世界を構成する霊素が不活性化した状態があの灰色の塵なのだからな、と告げられる。分かったか?と同じ顔が駄々っ子に接する苦笑で唇を上げた。
「分かったら、諦めて戻ろう、兄貴。恐がらなくていい、俺が最後まで側にいてやるから」
「嫌だ」
「この痛みのない虚構に埋もれて消えるんだ、それが本来あるべきことなんだから」
「お前の言う通りになんかならない!僕は何としてでも……」
「……でも?」
「ここを出る、出てみんなの元に帰る!」
「無理だ」
「お前の決める無理になんて従わない」
「じゃあ、従うしかないってことをその頑固な頭に分からせてやるとしよう」
 表情一つ変えることなく、ごくあっさりと目の前の弟は言い放った。
「俺は、優しくて弱くて誰かに助けてもらうしか能がない、そんな兄貴が別に嫌いじゃなかった。だから一番兄貴にとって楽な消え方をしてもらおうと思ったんだが。それが気に入らないのなら、その次に楽な、この手で終わらせるほうにしてやるさ」
 ふわっ、と向かい合う二人を包む〝気〟が変わった。今まで押し殺していたらしい柔らかな殺気が解き放たれ、唯人に迫ってくる。背にまわった手が再び現れた時、そこには唯人の台所に置かれてあったあまりにもありふれた文化包丁が握られていた。
「この世界の刃物は、本気の闘いに使うにはてんで話しにならない。でも回円主界の術や得物は何ひとつ使えないからな、まあ兄貴の首程度ならこれで十分だろう」
 笑ってはいるが凍りつくような紅の瞳に見つめられても、もう、射すくめられて動けずあっさりやられる自分ではない。刃が向かってくるその前に、身をひる返し唯人は全速力で元来た方、駅の出口へ逃げだした。たとえ敵わない相手でも、最後の瞬間まであがき、抵抗し続けてやろう。どこかの店でこちらも武器を手に入れられたら、と考えながら走る唯人に弾かれても、駅を歩く人々は不自然に反応が薄かった。ちょっと振り返るくらいで、大きくバランスを崩されても怒鳴るどころか、、そのまま立ち直り知らん顔で流れてゆく。改札口を突っ切っても、駅員は目で追う事さえしなかった。
「みんな、みんなただの作り物、なんだ……わっ!」
 追ってくる相手を確認しようと振り返った一瞬、出し抜けに、本当に降って湧いたかのごとく唯人の進路を遮るように人影が現れた。減速も回避も間に合わず、紙一重のぎりぎりでその脇をすり抜ける。
「……!」
 風にあおられ、暗がりの中浮かび上がる金の髪が広がった。それが視界の端を過ぎた瞬間、唯人は全力で足を止め、身を反していた。
「ア……」
「……」
「アーリット……?」
 薄暗がりの中に立つ、浮かび上がって見えるその白い顔。周囲からほんの少しだけ違和感を放つ、あの白地に赤の柄の衣装そのままのシャツを纏い、唯人がやってきたほう、駅を見つめている。
「来た…来てしまったのか……アーリット!」
 彼にとって何より辛い、恐怖の具現であるこの廃化の地に。いや、自分が呼んでしまったのだ。思わず駈け寄り肩を引くと、金色の瞳が唯人に向けられた。
「……」
 何も言わない、表情も無い。その眼に唯人が映ってはいるが、見えていないような顔、何か変だ。
「アーリット!」
 ひょっとして、この彼も周囲と同じ作り物だというのか。そのほうがまだいい、だけど……。
「たとえ偽物でも、僕の巻き添えにしちゃいけないな。最後に君の顔が見られて良かったよ」
 さよなら、と去ろうとした、腕がふいに引きとめられた。え?と振り返ろうとした、その瞬間……。
「うわあっ!」
 背後から飛んできた鋭い蹴りに、唯人の身体は勢いよく吹っ飛ばされた。植木の石垣にしたたかに頭をぶつけ、くらり、と視界が歪む。その悪酔いしたような光景の中、やってきた不二人はアーリットを見ると、少し間を取って足を止めた。
「……翆眼鬼か」
 アーリットも、その声に反応を見せた。表情は出ないが、ゆっくりと頭を巡らし背後の唯人と正面の不二人の間で視線を往復させる。何か思い当たったのか、不二人がやや呆れた表情を顔に出した。
「そうか、恐怖を感じぬよう、深い暗示を己に施したのか。それでどうやって敵とそれ以外、護るべき存在を見分けようというのか、愚かにも程がある」 
 そんなつまらん策に賭けてでるとは、あの翆眼鬼とは思えぬな、憐れみすら感じさせる、と呟いた後、腕の刃物をその白い喉に差し向ける。近寄ろうとする相手に歯を食いしばると、唯人は無我夢中で飛び起きアーリットの前に立った。
「アーリット、僕が……」
「少しは考えろ、翆眼鬼の認識次第では、お前とて攻撃の対象やも知れぬのだぞ」
「えっ?」
 その声と共に、くるりと視界が回った。と思ったら、唯人の身体はまたもや植木の茂みへと放りこまれていた。今度は不二人ではない、明らかにアーリットがやった。訳が分からずもがいてやっとの事で起き上がると、アーリットは既に一切の迷いのない動きで正面の相手に襲いかかっていた。今までに見せた事のない俊敏、かつキレのある動作で肘を鳩尾へと叩きこむ。思わず上体を折ったものの、すかさず刃物を持った手を取られ投げを決められるのは何とかかわし、一旦不二人が距離を取る。さっき唯人を吹き飛ばした蹴りさえも、アーリットはその細い腕で見事に止めた。まるであらかじめ書き込まれているようなアーリットの無駄のない動きと相変わらずの無表情に、ふ、と不二人……いや、破壊主の口から再度笑みが漏れる。
「創界主よ、残念だったな」
「何?」
「どうやら、翆眼鬼はお前を救いに来たのではないようだ。我を屠る、ただそれのみを果たそうと、この場で己に相対する全てを打ち倒すという意思で動いている、ならば……」
 空を切る音と共に向かってきた脚を避け、身軽にとんぼを切った身体が唯人の前に飛び降りる。それ目がけ繰り出されてきた拳を紙一重でかわされると、拳は唯人の頭のすぐ脇にあった樹の幹に命中し、枝を大きく震わせた。
「その翆眼鬼の手にかかり、お前が脆い命を散らすとするか?。さすれば放っておいても翆眼鬼は、己の仕業で自滅の道を歩むだろう。つまらぬ結末だが、自らが招いたとあらばしょうがないとしか言えぬ」
「ちょ、待て、アーリッ……うわぁ!」
 破壊主の言う事は正しかった、一撃必殺という程重くはないが、鋭い拳が唯人に襲いかかってきた。こんなのってない、ものすごく不格好に逃げ惑いながら、二度、三度と必死でかわす。破壊主は完全に傍観者を決め込んだのか、常にアーリットの背後に回り込みながら面白そうに二人を見守った。
「やめろ、僕だ!分かってくれアーリット!」
「……」
「武器が必要か?ならくれてやるぞ」
 乾いた金属音と共に、足元へと投げられてきた包丁を反射的に蹴って遠ざける、そんな事は全く意識に届かぬようで、じりじりと間を詰めてきたアーリットに押され、唯人はついに壁際へと追い詰められてしまった。
「分かってるって、言ってくれ……」
 一片の感情も伺えない、今の彼の雰囲気そのままの金の瞳。見つめられると、悲しさがこみ上げて来て立ち向かうとか、逃げようという気さえ萎えてしまう。ゆっくりと近づいてきて、視界を覆い……。
 腕が、空を切る音がした。腹に重い痛みが広がり息がつまる。あっけなく、唯人の意識は暗闇に落ちた。
「……」
 力なく崩折れた身体がすかさず抱えられ、頭を支えた指が、頬を伝った雫の跡にそっと触れる。そのまま駅舎の壁に向け勢いよく放り投げるのに、ぶつかって落ちるかと思った身体は壁を通り抜けて消え、周囲に、すぐに変化が現れた。
 離れた場所に落ちている刃物が、みるみる細かい灰色の粒子となって散ってゆく。それを皮切りに、立ちならぶ建物に人や車、当たり前に存在している全てが色を失くし、砂で作られていたかのようにさらさらと崩れ、一気に失われてゆく。その只中に残された、ただ一人の姿をけして見逃さぬよう、冷たい気迫に満ちた眼は一点に据えられた。
「そういう策であったか、翆眼鬼」
 それを受けてなお、微塵の揺らぎも見せない紅の瞳が可笑しそうに細められる。
「手当たりしだい、この世界の核になっている者に当たるまで全てをなぎ倒し、世界が消え去れば後に残るのが真の敵……お前には珍しい、力任せの荒法だ」
 創界主は、お前に気付けば自分から近寄ってくるだろうし、何があろうとけして刃向かいはせぬだろうからな、と投げ飛ばされた身体が消えた辺りへ一瞥をくれる。
「では、あの無力な命、我が何としても欲しいと言えば、それを阻む策も講じているか?」
 脆弱で、考えの無い人間ひとりになぜそこまで手を差し伸べる、このままではいずれ……と語る相手の言葉が終わるのを待たず、空を斬り裂く拳がその顔面めがけ放たれた。
「相変わらず、話にならぬ奴だ」
 それでも、お前は随分と変わった。
 そう、お前に必要なのは、その己にさえ理解のつかぬ〝執着〟だ。
 失う恐れを凌駕するほどの、ただ欲しいという純粋な思い……。
 ……もう、時はあまり残されてはおらぬ。



「……だと、唯人、ってば……」
「……ん」
「起きてよ、唯人!」
 呼びかけの声が届いた瞬間、勢いよく頭に水が浴びせられた。
「わっ!な……何!?」
「起きた、生きてた!」
 真上から降りそそぐ光の下、まわされてきた白い腕にぎゅっと頭を抱きしめられた。まとわりついてくる白銀の髪が、濡れた顔に触れてくすぐったい。しばらく、何がどうなったのか分からずぼうっとしていたが、ふいに我に返ると唯人はミラの腕を押しのけて周囲を見回した。
「こ、ここは……」
 眼に映ったのは、萎びた灌木がまばらに生える山の斜面、少し登った辺りに廃地の境界が見えている。自分で転がり落ちたのか、誰かが突き落としてくれたのか。
 そこまで思い出して、すかさず唯人は傍らのミラを振り返った。
「ミラ、アーリットは、いないのか?」
「おチビ?なんで?いるわけないだろ」
「破壊主も?」
「何がどうしたっての、僕が気がついた時には、ここに君一人でいたよ。一緒に廃地に入った時から僕の記憶が飛んでるんだけど……精霊獣の意識が消えるってどういうこと?僕ら、どうなってたんだい」
「その話は後だ、今は、あの廃地の中でアーリットと破界主が戦ってるかもしれない、それを確かめないといけないんだ。もう一度、あそこに戻って……」
 一動作で起き上がろうとした唯人の上体は、全力で押し戻してきたミラに遮られた。
「駄目、何があろうとそれは駄目だから!」
「だって、アーリットが!」
「唯人、君がまたそのまま戻ったら何の意味もないんだって!まず、廃地をどうするか考えるのが先だろ?」
「どうにか、できるものなのか?」
「できるんなら、とっくにおチビがどうにかしてる。廃地を覆うあの靄を、消し去ってしまうことは誰にもできないんだ、でも……」
「何か、別のやり方がある?」
 ミラの手を借りて立ちあがると、肩の綱手がぐいと頭を押しつけてきた。
「吹き飛ばすとか、上から土を被せるとかの一時しのぎは以前やってた時期もあったよ。そこが元の状態に戻るわけじゃない、あくまでその時だけの修復だからすぐにやめちゃったらしいけど。けど今は、その少しの時間があればいいんだろ?」
「ああ、アーリットを助けて破壊主に立ち向かえる力を取り戻させる、その間だけでいい」 
「よし、じゃあ綱手に頼もう」
 ごつごつした岩壁から綱手を呼びだすと、その頭に乗って唯人は再度廃地の境界に近づいた。アーリットの泳風連魚ならもっと上手くやれるのだろうが、綱手もどうして、尾を伸ばすと勢いつけて横薙ぎに振り風を巻き起こす。二度、三度と続けると見る間に靄が吹き飛ばされ、奥の様子が見えてきた。
「あ、スフィが落ちてる!」
 絶対先に進まない、ここから風を送り続けてくれと綱手に言い聞かせ、唯人は再度廃地へと飛び込んだ。しばらく足を停め、またあの自分の世界が具現化してこないか確かめる。幻は靄が生み出していたのか、風で薄れるともう現れはしないようだった。素早く駆け寄り銃を拾い、更に奥へと眼を凝らす。風の音さえ届かない静寂の中、ごく微かな、何かがぶつかりあっているような音が耳に届いてきた。
「アーリット!」
 奥へ奥へと吹き飛ばされてゆく靄を割って、褪せた金髪が転がり出てきた。やっぱり、まだ闘い続けていた。鋭い破壊主の蹴りを避け、横飛びに転がり跳ね起きた足元がわずかに揺らぐ、いくら彼でも疲れているのだ。服から覗いている手足には痣や傷が幾つも刻まれ、顔の擦り傷には血が滲んでいる、早く助けないと。
 ふいと身を返し、唯人は元来た方へと駆けだした。廃地の縁を越え外に出て、手の中のスフィに呼びかける。少し間があったものの、返事がかえってきた。
「スフィ!聞こえる?」
『……あ?あ、ああ、何がどうした』
「撃てるかい?」
『おう、問題ねーが……俺、どうなってた?』
「それは後で、とにかく撃つ!」
『分かったよ、よく分からんがとっとと狙え!』
 思っていたとおり、廃地の靄から出ると精霊獣達は速やかに復活するようであった。テルアでのあの時のように、手に余る銃身を構え、生きた的に向ける。目まぐるしく動き続ける両者に狙いが定まらず、唯人の額に汗が滲んだ。
「アーリットに離れろ、って言いたい。でも、その瞬間破壊主に気付かれるから、確実に届く言い方じゃないと……」
 今の彼は、唯人が慣れ親しんでいるいつもの状態とは違う。下手に気付かせたりしたら最悪、こちらを襲ってこないとも言い切れない。どちらにしろ早くしないと、と悩む唯人の背後から、ミラのよくとおる声が響き渡った。
「〝アリュート〟おいで、こっちだ!」
 白い顔が、ぱっとこちらに向けられた。何の躊躇もなく駆け出した背を追う影に、照準を合わす。
 また、この顔を撃たなくてはならない。
 僕と同じ顔。
 僕を殺そうとし続ける顔。
 ……僕の、ただ一人の弟の顔。
 無意識に、ごく僅か照準が揺れた。
「……つっ!」
 一発ずつ弾込めしなくてはならない構造上仕方なかったが、二発目を撃とうとした時にはもう、その黒衣の長身が唯人の目前に迫っていた。銃弾はその右腕を掠めたのか、得物である鎌を利き手ではない左に持ち代えている。しかしそんなことなど意に介していない勢いで、黒の破壊主はそのまま大きく跳躍するとこちら目がけて襲いかかってきた。
「止める!」
 こちらに駆けこんできたアーリットは、正直、もうぼろぼろの状態だった。あちこちが引き裂かれた巻き衣装を垂らし、ぜいぜいと荒い息をついている。こちらを見ているその顔は、どうしてこっちに来てしまったんだろう、と言いた気な表情だ。廃地の中で闘う為だけに己を調整したのか、靄の外に出た今もあの凄まじい威力の精霊獣を使おうとはしない。これでは、術式を使ってくる破壊主に立ち向かわせるわけにはいかなかった。
「ミラ、アーリットを押さえておいてくれ!」
「分かった!」
 流、薄荷と心で命じると地から水の柱が飛び、鎌の刃を一瞬で氷の塊が覆う。その重さで均衡を崩した破壊主の懐に、瞬時に持ち替えた鋭月の刀身が滑りこんだ。
「今度こそ、僕が護る、もう護られるだけの僕じゃない!」
 高みから差し込む一筋の光のごとき、銀光の刃は漆黒に覆われた胸板を深々と斜めに切り裂いた。と同時に、氷が覆っていなかった鎌の刃の根元が唯人の右肩に迫り、一気に骨まで食い込んでくる。歯を食いしばって刃を払い身を離すと、破壊主の黒い衣装に開いた裂け目からどす黒い血飛沫が勢いよく吹き出し地に飛び散った。
「少しは、楽しませてくれるようになったな」
 相変わらずの、毛ほども苦痛を感じていない表情で赤い眼が笑みに細められる。
「怯えた眼をした獲物とは、戯れる気にもならぬ。牙をむき、向かってくるほうがそそられる」
 二人が離れた瞬間を狙い、ざん、と綱手が尾を叩きつけてきた。飛びのいた破壊主が一旦鎌の刃を戻すと、杖の先を先程飛び散った己の血痕に向ける。黒い紋章が地に浮かび、ぼこぼこと地面が盛り上がったと思ったら、あの内海ウナギを思わせる巨大な黒くうねる蟲が数本踊り出てきた。ぐん、と勢いつけて迫ってきたそれを間一髪綱手が身体で防ぐ。その硬質な鱗に怯んだ様子で、黒蟲は次々と再度地中に潜り込んでいった。
「お前もとことん懲りぬ奴だ、翆眼鬼もそうだが、強い精霊獣を宿す者は、内に持つものの制御が効かなくなったときが最も危険だというのをなぜ理解せぬ。さて、どうやって止めたものか?」
 薄ら笑いのその言葉を理解するより速く、足元の地面が細かく揺れ始めた。蟲が、地中を掘りまわって荒らし、山そのものを崩しにかかっているのだ。とっさに反対側にいるタカン族の集落の事を思い、振り返った唯人が視線を戻した時にはもうその姿は消え去っていた。逃げたのか、隙をついて襲ってくる気なのか、どちらにしろ相手も深手を負っている事は間違いない。痛む肩を押さえつつ、唯人はじり、とアーリットとミラがいる背後へとにじり寄った。
「……ミラ」
「何、唯人」
「アーリットを連れて、タカン族の集落に戻ってくれ。みんなに、急いでできるだけ山から離れるよう伝えるんだ、頼む」
「そういう事なら、君も一緒じゃなきゃ駄目だよ」
「僕には綱手がいる、大丈夫、何とかしてこの蟲を片付けるから」
 深々と裂けている肩の傷口は、痛みはひどいが不思議と血はほとんど流れ出ていなかった。もうすっかり唯人の身体の水分と馴染んだ流の水が、血を留めてくれているのだろう。
「早く行け、ミラ、命令だ」
 まただ、とミラが白い顔をちょっと嫌そうにしかめてみせる。
「分かった、おチビは絞めて落としてでも大人しくさせて、すぐに戻ってくる、待ってて」
 優しくしてやって、と汗の滲む顔で笑ってみせると、ミラは鷲獣に変じ、必死で振り払おうともがいているアーリットをつかんで空へと舞い上がっていった。それを見送り、取り出したスフィを構えようとしてできずに小脇にはさむ。肩の傷のせいで、両手で持つのは無理そうだ。
「スフィ」
『おう』
「霊素弾って、地中に撃てるかい?」
『そりゃあ、土って実体は通り抜けちまうから問題ねぇ。ただ、的が見えないってのはどうしょうもないぜ』
「僕の持ってる全霊素を散弾みたいにして放ったら、どのくらいの範囲をやれる?」
 足元は、ひっきりなしに続く細かい振動であちこちが崩れ始めている。もう、いつまでもつか分からない。唯人の考えは読めたようだが、ちょっといいか?とスフィは唯人に尋ねかけた。
『作戦は分かったが、火種(閃輝精)が提案があるってよ。俺が訳してやっから聞くか?』
「え?うん、なにかいい案があるんなら……」
 少しの会話を終え、軽く頷くと唯人は銃の尾栓を開き、中のバレットを出してやった。おもむろに銃口を下に向け、足元の土に押し当てる。利かない右手は諦め左脇にはさみ、左指を引金に掛けた。
「頼むよ、火種」
 手、指先を伝わって、スフィへと、自分の内の何かが流れ込んでゆく。弾が入るべき、今は空の薬室で火にかけた豆がはぜるような、小さな、しかし鋭い音が鳴り響いた。
『やれ、唯人!』
 指が、引金を引いた。
 音の無い閃光、真っ白に塗りつぶされる視界。熱も圧力も無い、それはただ純粋な光だった。地中に撃ちこまれても、その砂粒のひとつひとつの隙間から抜け、周囲を白く照らし上げる。
 その輝きに、黒い長蟲は激しい苦痛を与えられたように、そこここから勢いよく飛び出してきた。すかさず綱手と薄荷が襲いかかり、次々と凍らせ、噛み砕いてゆく。遠くに逃げた数匹は、小脇にはさんでどうにか撃ったスフィの霊素弾が粉砕した。
『唯人、やったぞ、後はとっとと逃げるだけだ!』
「ああ!」
 どっと上から流れてきた土を避け、綱手の口に登ろうと寄りかかる。このまま潜って山の崩落をやり過ごそうと思ったら、空からこちらへ一直線に舞い降りてくるミラが見えた。
「唯人、捕まえるから上に出て!」
「破壊主は?」
「いない、その辺りには見えない!」
「分かった、頼む!」
 ミラの降りる、つかむ、舞い上がるの一動作の後、山の土砂は綱手を呑みこみもろともに勢いよく崩れ落ちて行った。綱手は鉱石の竜なので、土に埋まるのはどうという事では無い。崩落が治まれば、そのまま地中で地固めをしてくれるだろう。
「アーリットは?村の人達はちゃんと避難できたのか?」
「上から見たら分かるよ、崩れたのは海側で集落のあるほうは大丈夫。おチビはきっちり絞めて置いてきた、っていうか、すぐに気を失っちゃった。多分敵がいなくなったから、術が解除されたんだよ」
 とにかく一刻も早く安全な場所まで離れよう、とミラはそのまま飛ぶと、タカン族が避難した森の縁に舞い降りた。山のただならぬ様子の一部始終を、タカンの人達はみんな森から出て不安そうに見守っていた。
「唯人さま、無事だったんですか!」
 人混みの中から、真っ先にタッカの小さな姿が唯人目がけ駆け寄って来てくれた。
「一体何があったんですか?二日も帰ってこないから、灰色に取り込まれてしまったのかってみんな心配してたんです!」
 しがみつき、涙声で呟く肩をごめん、と抱いてやる。アーリットを探すと、気を失った彼は女達に囲まれ傷を手当てされていた。
「アーリット!」
 慌てて駆け寄り上体を抱き上げて、随分と軽くなっているのに気付き驚愕する。確か千年樫の森で昏倒させて、連れ帰ったあの時は持ち上げるのがやっとだったのに。なんでこんなに痩せてしまったんだと訝りながら、唯人は自身も肩の手当てをしてもらいつつ、山が落ちつくのを待った。
 日が暮れかかる頃、作業を終えた綱手がもう大丈夫、と元通りに縮んだ火種を伴い戻ってきた。皆にそれを伝え、タッカのあずま屋に戻るとやっと一息つく。あずま屋の中には部屋のしきりが無いので、彼等は布や毛皮をあるだけ集めてカーテン状に掛け、隅に二人の休息の場をしつらえてくれた。
「何があったかは落ちついてからでいいですから、少し休んで下さい。顔色ひどいです」
 正直、気分はかなり悪かった。落ちつくと飢餓呪法のあの感覚よりひどい、貧血みたいな空腹感が襲ってきたのだ。靄の中でいた間、破壊主の不二人と色々食べていたつもりだったのはやはり全て幻だったらしい。あそこでぐずぐずしていたら、本当に自覚の無い飢えで命を落としていただろう。タッカが持って来てくれた温かい木の実と魚の汁を啜ると、最初に口にした時より何倍も美味しく感じられた。
「この人は?知りあいなんですか?」
「うん、僕の恩人、一番大切な人なんだ」
 傍らで眠る、傷のついた白い頬をそっと毛皮で覆ってやる。ちょっとやそっとでは起きない程、まるで糸が切れた人形のように眠りこんでいる。眼を覚ますんだろうか、覚ましたら、ちゃんと僕を見てくれるのだろうか。
「彼、ちょっと色々あって、変な事するっていうか……もしかしたら暴れて危ないかも知れないから、僕がいいって言うまでみんなあまり近寄らないようにしてもらえるかい?」
 はい、と頷いて小さな背中が垂れ下がった布の向こうへと消える。その気遣いをありがたく受けとって、目が覚めたら何をするか分からないアーリットの為に自分が寝る訳にはいかないな、と睡魔と戦う覚悟でいると、突然毛皮が波打ち下から何やら細長い物がずい、と伸びてきた。
「あ、銀枝杖」
「お久しぶりです、面倒な生き物さん」
 会って早々嫌味をもらい、揺るぎないなと苦笑する。青白く輝く光が人の姿をとり、眠る主の傍らに現れた。あなたみたいな下等生物と口なんかききたくないんです、アルの為でなきゃ。とあからさまな引きつり笑顔で唯人を下眼使いに眺めると、少女は一気に主の言伝てを吐きだした。
「アルからの伝言です、エクナスの神殿に連れて行け、それと絶対に、ほんの少しでも俺に物を食わせるなよ、以上です」
「エクナスの……神殿?」
「ここから北東、テシキュル国ハーロン高地にある、アリュートに次ぐ古い時代の神殿です。一年ほど前に破壊主の襲撃にあい、今は地上部分は半壊状態ですが」
「そこに行けば、アーリットが元に戻るのか?」
「多分」
 冷たい印象の少女の顔が、一瞬辛そうに引き締められた。
「エクナスは、規模は比べるべくもありませんが一応アリュートと同じ、負の呪法を中和、無害化する任を負っています。アリュートは呪法のわずかな隙や傷を見つけ、対抗する術式で食い込み内部から壊していくやり方を採っていますが、エクナスは外から〝鍵〟と呼ばれる新たな呪言を繋ぎ、呪法そのものを変化させていくという時間はかかりますが安全な方法を行っています。アルをできるだけ傷つけず、完全に元の状態に戻すにはたとえ万全でなくともエクナスに託すしかありません。アル自身が行った事ですから、アリュートには手の施しようがないのです」
 語り終えて口を閉ざした少女に、聞きたい事沢山あるんだ、答えられるだけでいいから、と訊ね唯人は眠るアーリットの顔を覗きこんだ。
「アーリットが、自分に何をしたのか、教えてもらえるかい?」
 暗示です、と即答された。
「破壊主もそう言ってた、一体どんな暗示なんだ?」
「聞いて分かりますか?」
「分かるかどうか、とにかく聞かせてくれ」
 時間の無駄は嫌いです、と前置きしつつも、銀枝杖は唯人に分かるよう言葉を選んで語り始めた。
「アルは、王都に戻ってからもずっと貴方の足取り、そして浮かんでは消える破壊主の動きを感じ取り、把握していました。その両者がこの廃地に向け、徐々に近づきつつあると分かり、行くべきか否か心底悩みましたがある一方で、これは逃げられない機会だとも理解したのです。自分が知りえない自分という存在について、探究してみる時なのだと」
「自分について?」
「ええ、貴方に話すと双界鏡様に筒抜けるので口止めされているのですが、そのうちの一つは理由の分からない廃地への怖れ、です。そこで暗示の術式を組み、廃地への恐怖を持っていない過去まで己の意識を戻そうと試みました、その結果……」
 銀枝杖の憂い顔に、唯人は言葉が出なかった。自分は知っていた、彼のその記憶はアーリットとしての人生のその前、アリュートの頃に遡る。それを過去の自分が封じている結果、出来上がったのは空っぽの彼だった。何も中にない、あらかじめ自分で決めた指示だけで動いていたアーリット。それでも、僕をあの場から放りだして、逃げる機会を作ってくれた。
「感謝していますか?」
 あの、一切の感情の無い金色の眼を思い出すと、また涙が滲みそうになった。
「うん、心の底から」
「では、今度は責任を持って貴方がアルをエクナスに届けなさい。まずはゆっくり休んで養分と霊素を満たし、完全な状態を取り戻すのです。アルの廃地の中での行動は、水準以上の敵意が失われれば一旦解けるよう指示を編んであるので、もう暴れたりはしませんから」
「良かった、それだけでも助かる」
「後、ですね、言っておかないといけないのは……」
 ここで、銀枝杖はあからさまに渋い顔をして見せた。
「あの霊素の結晶、持ってますよね」
「え?ああ、ミラに預けてる、彼が持ってるよ」
「それは、貴方の中にあるという事でしょう」
「うん」
「ならいいです」
「それが?」
「いいんです!」
 なんだろう、聞きたいけど機嫌悪そうだ、と口ごもる唯人にああもううっとおしい、と小さな唇の端を下げる。髪に絡んでいる銀の葉をふるふる揺らしながら、彼女は二度言いませんよ、と唯人を睨みつけた。
「今、アルは生まれたての赤子程度の思考しかできない状態です。放っておいたら何もできませんので、あの〝他者を支配する術式〟を起こし、貴方と繋がせて貰います。勿論、貴方がアルに支配される訳ではありません。アルが貴方を目や耳のように情報を取りこむ器官として利用するだけですから。も・の・す・ご・ぉ・く嫌なんですが、アルの中にいる私に唯一の人間の、貴方の情報が……以前、汗とか何やらで……擦りこまれてあるので、アルは貴方を〝非自己〟とはみなしません。本気の本気で嫌ですが、せいぜいアルの一器官として役立ちなさい!」
「は、はぁ……」
 銀枝杖は、苛つくと話の内容が一気に難しくなるようだ。、途中から何を言っているのかもうよく分からなかった。とにかく、頭が空白のアーリットを一刻も早くエクナスに連れて行ってあげないといけないという事だろう。しかしさっきの一戦で体内の霊素はほぼ空になってしまっていて、すぐには無理をできない。破壊主が現れない事を願いつつ、唯人は自分もアーリットの傍らでしばし身体を休めることにした。
 銀枝杖は人の姿を収め、杖として主の懐に寄り添っているが、静電気のごとくぴりぴりした敵意をこちらに向け放ってくる。ミラに何とかしてもらいたいが、彼が銀枝杖ととことん相容れないのはもう分かっているので、知らんふりしているのもしょうがないと諦めることにした。
 目を閉じて横になると、かまどの火で暖められた空気の心地よさや焚きつけがはぜる音、そしてタカンの人が小声で語り合ったり何かしている音が優しく耳を過ぎる。浅い夢が始まり、唯人は自分的にはごくありふれたその情景に抵抗なく入り込んでいった。
 ドラマや映画でよく見る、新婚夫婦の朝。若く初々しい新妻が、寝ている夫を起こしに来る。おはよう、起きて、寝たふりの夫に軽くキス。柔らかな唇が、頬に触れる。まだ起きないの?ここにしてくれたら起きるよ、と夫が笑う。くすくす笑いの両者の唇が重なって……。
 馬鹿らしい、なんでこんな恥ずかしい夢見てるんだ、早く終われっての。やけにリアルな感触に、自分どうかしてるぞと無意識のまま寄せられている顔をどかそうと手を上げて……。
 その瞬間、目が覚めた。
 いや、覚めたような気がした。
 絶対、まだ覚めてない、覚めてないと言ったら覚めてない。これは夢だ、夢の続きなんだ。
 そう思いこんで目を閉じると、自分のじゃない鼻息が顔をかすめ何ともくすぐったく、唯人は大声で叫びながらこの場を飛び出してどこかに逃げ去りたい衝動にとり憑かれた。
「ん……」
 なんで、アーリットが僕の上にのしかかって唇を塞いでいるんだろう。
 誰に聞いても分からないだろうし、誰に聞くわけにもいくはずがない。とにかくまず冷静になれ自分、冷静になれってのになれって言ってるだろ……。
 なれるわけないってんだぁ!
 心の中でセルフ突っ込みが決まったところで、んく、と微かに喉を鳴らし、アーリットが身を起こした。途端に一気に水が喉に流れ込んできて、げふげふとみっともなくむせる。溺死する、と涙ぐみながら上体を起こすと、見慣れた綺麗な緑の瞳がこれまで見せた事のない、不思議な無表情でじっと自分を見つめていた。
「アーリット……ってば」
 やはりまだ、何も喋ってはくれない。衣の着方なども当然頭から飛んでいるのか、ただでさえあちこち裂けた巻き衣装がぐだぐだだ。その様子に回円主界最強の精霊獣師の面影は無く、ただたよりなく、無防備に見える。
 なぜ、こうなってしまった。
 あんなに強くて明晰で、一国を背負って立ち、数百年揺るがなかった世界にその名轟く唯一無二の一級精霊獣師が。
 僕のせいで。
 僕が、自分の好奇心の為だけに、勝てない敵がいるかもしれない未知の場にうかうかと入ってしまったそのせいで。
 こんなどうしようもない、何ひとつ分かってない余所者に振り回されて。
 顔が熱くなって、目の前の顔が変に歪んだと思ったら涙が頬を伝い滴り落ちた。拭おうとした手より先に、無言で寄せられた唇が光る雫を受け止める。味が違う、と言いたそうに眉を寄せた表情を眼にしたら、無駄に自分を責めて泣いてる場合じゃない、と急に頭が冷えてきた。
「喉が渇いてたのかい、ごめんよ」
 一旦思考を凍結、とたった今起こった事全てを頭の奥に押し込んで、笑顔を作るととりあえず巻き衣装を直してやる。一級式の着方など知るわけないので八級式で巻いてやったら、布が重なって出来る染めの柄がものの見事に意味不明なただのブチになった。本人がいかに身なりに気を使っていたかを改めて実感させられつつ、髪を梳いてやりながら唯人は自分を飽かず見つめる顔に話しかけた。
「ちゃんと眼が覚めて良かったよ、どこか痛い所はないかい?」
 意外に見分けのつく、精霊痕だらけの身体についた痣や傷を調べ、たいした怪我はしていないのに安堵する。そうやって見れば見る程、彼の身体が初めて出会った時のままでなく、ある変化を起こしつつあることが見て取れた。
「本当に、細くなっちゃってるな……ちゃんと食べてたんだろうか」
 唯人が恥ずかしがらずに真剣に彼を見ていたら、きっとこの時気づいだろう、男性がただ痩せている状態とは違ってきている事に。
「銀枝杖が言ってた、意識が繋がってる状態だから、僕から水を飲めるって分かったのかな。できれば勘弁して欲しいけど」
 一眠りして大分楽になったので、山がどうなったのか、破壊主はどこに行ったのか確認しておきたかった。立ちあがると、アーリットがすぐに続く。君はまだ寝てていいから、と座らせても外に出ようとしたらまた付いてこようとする。銀枝杖に頼もうとしたら、杖は完璧無視で傍らにうち捨てられて背中で泣いていた。アーリットの外にいてくれた方が話がしやすくて助かるのだが、どんどん機嫌が悪くなっていくのが目に見えているので慌てて拾い、手首の印に戻してやる。するすると入っていく杖を、アーリットはなんとも不思議そうな顔で見守った。
 その後も、空白のアーリットは一言も喋らないまま、生まれたばかりの雛鳥みたくひたすら唯人の後を付いてまわった。常に一片の揺るぎもない無表情で、唯人以外は誰が話しかけようが触ろうが、黙ってふいっと眼を逸らすだけだ。しばらくはあずま屋の中でタカンの子供達に〝白い大きなお人形〟扱いされていたが、やんちゃな一人に軽く三つ編みを引っ張られ、嫌な顔で唯人のもとに逃げてくると背に隠れてしまった。
 その時傍らでタッカと話しこんでいた唯人は、それに気付いた瞬間心臓を握りつぶされたかのごとき衝撃を覚え、その後ほんのちょっとだけ、アーリットのこの状態を世界主に感謝した。彼の長く伸ばした一房の毛には、もしひとつでも解放されたら街一つ腐らせかねない程の凶悪でたちの悪い禁呪が複数編み込まれ、厳重に封じ込めてある。もし正気だったら、有無を言わさずニアン・ベルツがあずま屋を蹴り壊していただろう。
 銀枝杖は最初の頃は時々出て来て主の側に寄り添い嘆かわしい、とか痛ましくて見ていられないとかずっとぶつぶつ漏らしていたが、やがて我慢できなくなったのか姿を引っ込め本当に出てこなくなってしまった。唯人にだって、その気持ちは痛いほど分かる。とにかく椀に入った水を飲む事を覚えて欲しいのだが、最初に擦りこまれた事はなかなか修正しづらいのか具合が良かったのか、周囲に人がいようと喉が乾けば突然腕を絡めて顔を寄せてくる。大笑いのミラには今のうちだから気の済むまでやっといたら、とか言われ、アーリットが元に戻った時、千年樫の森を焼き払いに行くなら絶対僕は笑顔で見送ってやろう、と心に誓って溜飲を下げた。
 陽が高くなってからアーリットと二人乗りで空から見たギュンカイ山は、頂きを斜めに窪ませ海側に開けた広大な土地へと変貌を遂げていた。本当に造成地のようで、住むにはうってつけの状態のようだがしっかり見るとあの廃地の靄が薄く漂っていて、遠からず元に戻ってしまうだろうことは目に見えている。タカンの人達も、戻って住もうと言う者は誰もいなかった。
 破壊主も、あれ以降また姿を消してしまった。深手を癒す方を優先したか、そもそも今回も、唯人やアーリットと本気でやり合う気は無かったのかもしれない。彼の言うとおり、ただ楽しんでいるだけなら、今後も出会わないという保証は無いだろうが。
 その後数日間、タカン族の元で充分な休息を取り、唯人はなんとか腕以外は大体身体の調子を持ち直す事が出来た。銀枝杖の精神安定の為にもそろそろ旅立とうと決め、長老に挨拶をするべくタッカに頼んで取り次いでもらう。神を祀るような小さなあずま屋の中、毛皮の座椅子に埋まっている老人は唯人を前に、皺の奥の夕陽の色の眼をしばたたかせながらはっきりとした口調で語りかけてきた。
「異国の竜人よ」
「はい」
「北の、草原国に向かうと申されるか」
「はい、北東にあるエクナスという神殿へ」
「何用がおありかな」
「僕の誰より大切な人に、そこへ連れて行って欲しいと頼まれたんです」
「あの、枯れ草色の毛と乳色の肌の異国人か。大人しく無口な娘じゃな」
「あ、どうも……(大人しくも娘でもないけど、まあいいか)」
「そうか、行くか。なら、儂らもこの機会に覚悟を決めるとしようかのう」
「はい?」
「儂はタカンで一番長生きじゃが、その経験をふまえ言う。もうこれ以上この地が我らタカン族を養う事はできぬ、いや、とうにできなくなっておったのであろう。いつまでしがみつこうが、滅びるのが早いか遅いかというだけのこと。ならば儂ら年寄りはたとえ伝統を失うことになろうと、子らを永らえさせる為新たな道を開いてやらねばならぬ。新たな地に向かい、新たな暮らしを一から始めるとしよう」
「では、みんなで北へ?」
「南の岸壁近くに移住した仲間からは、砂漠の盗賊に襲われたと戻ってきた者が何人かおった。砂漠に近づけば近づくほど、獣より人が我らを襲う。我らは人同士で争う事はしたくないし、奴隷の暮らしも望みはせぬ、北には儂の孫らが家長を治める四家族が移って行ったが今の所誰も戻ってこぬし、悪い噂も届いてはいない、儂らも彼等の後を追うこととしよう」
「なら、皆さんが目指す場所に行けるまで、僕も同行させてください。行く方向は同じですし、僕も皆さんがちゃんと落ち付くのを見て安心して先に進みたいですから」
「そう言ってもらえるか、竜人の大いなる慈悲に感謝する」
 曲った腰で二つ折りにならんばかりに頭を下げられ、いいですから、と必死で宥め長老のあずま屋を後にする。大喜びのタッカが皆に伝えてきます、と去った後、唯人は致死量の銀枝杖の怒気にさらされるはめとなった。
「もう!何を考えてるんですかこの腐れ馬鹿蟲!アルと二人だけで空から行けば、数日で着けるんですよ?わざわざ、自分からこんな荒れ地ネズミの群れを世話しようなんて……そうまでしてアルの不幸を楽しみたいんですか!信じられない、馬鹿馬鹿、異界人っ!」
「あーもううるさいなぁ、そういうの分かってて君の大好きなおチビは唯人に後を任せたんだろ?嫌なら君が連れて行きゃいいだけのことじゃない、ねぇ?」
 タカンの集落に戻って以降、アーリットが眼に入る間じゅうへらへらしているミラは今も唯人の肩の上、獣の顔でくすくす笑いを続けている。できるものならとっくにやってます!とわめき袖に縋る銀枝杖にうっとおしそうに眉をひそめると、アーリットは仏頂面で空いている方の手を唯人の腕に巻き付けた。
「アル、貴方が元に戻ったら、こいつら全部一掃してアリュートの土にしてやりますからね!待ってて下さい!」
「こらこら、本性がはみ出しちゃってるよー?〝こいつら〟って……ねぇ唯人、これ聞かされちゃあ僕達神殿に行かないほうがいいって気がしない?」
「そういう訳にはいかないって」
 そんな事を話しているうちに、タカンの集落は唯人の前でみるみるその姿を変えていった。あずま屋の壁の板がどんどん取り外され、あらかじめ入っていた切れ込みに合わせ組み上げるとあっという間に数台の荷車が出来上がる。屋根の枯れ枝は大事な焚きつけとして荷台の底に押し込まれ、塩漬け魚の壺やかまどの岩さえもきちんと残さず積みこむと、車には引き手として狼が繋がれた。人も皆それぞれ荷を負い、男は側面と後ろから荷車を押す。季節ごとに住処を変える彼らだから、こういう移動には慣れているのだろう。今日まで住まわせてもらった土地への感謝と、これからの旅の無事を祈る儀式を済ませた後、タカンの一族数十人は北への一歩を踏み出した。
「行こう、アーリット」
 手を差し伸べると、暖かい指が握り返してくる。どれだけ銀枝杖に嫌われようと、これを嬉しいと思う気持ちは止められはしなかった。

鏡の向こうと僕の日常 3

 今回も長文読破、お疲れさまでした。今、ちょうど真ん中あたりです。今回ついに明らかにされましたが、なんと、Aさんはヒロインだったのです!これからはほぼ最後まで受難続きになりますが、揺るぎそうになりつつ耐える彼をどうか見守ってやって下さい。

鏡の向こうと僕の日常 3

二つ目の国を後に、唯人は砂漠へとたどり着いた。竜と在るということが、この国でどういう意味を持つか。人々の思惑に翻弄されつつ、彼はなお、進み続ける。 3です、できれば1からお読みください。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-06-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 砂上国にて 地方篇
  2. 砂上国にて 首都編
  3. 荒れ地を訪ね