鏡の向こうと僕の日常 2

 どうも、馬鹿長いと前置きしてあった前章を読んで下さった皆々さま方、どうもありがとうございます。今回は、少しばかり桃色成分ありーの残酷描写ありーの、飴ムチ内容となっております。ちょっと辛いなと思った時は、すぐに画面から目をそらしておやつタイムでも設けて下さい。これからの季節、著者はところてんを推します。からし酢醤油でね、では。

国境の町から砂漠で


 その後、朦朧としたままサレの背に揺られ、気がつくと唯人はこじんまりとした治療院の寝台に寝かされていた。小さな町にありがちな、どんな病や怪我でも診てくれる年季の入った治療士はとにかく唯人が疲れすぎていること、そして胃腸がかなり弱っているようなので、軽い物から食べられるだけとってゆっくり休むよう言い渡してきた。
「本当に良かったよ、そう遠くない距離にこのミーアセンがあってさ。ラバイアとの国境の町だから規模の割にいろんな設備はちゃんとしてて物も充分あるからね、のんびり休んで、唯人。このところちょっと無理しすぎたんだよ」
 ラバイア側から大量に持ち込まれてくる砂漠茎木の赤黒い実をするすると剥いて、王子がしゃくっとした食感の淡紫色の一切れを口まで差し出してくれる。噛みしめると溢れてくる甘酸っぱい果汁を味わいながら、何かを口にするたび胃を絞めつけるこの感覚はなんなんだろう、と唯人は自然としかめてしまう顔をなんとか普通に戻そうと苦心した。あれから一週間、眠り続けたおかげで熱はなんとか下がって気分も悪くはなくなった、ただ……。
「まだ治らないの?胃痛、食べるたびに辛そうな顔してるよ。治療士は疲れのせいとしか言わないけど、万が一にも呪法の可能性もあるかもしれないから一応街付きの精霊獣師に診てもらったら?サレに頼んで予約しておくから、明日にでも行ってみようよ」
「うん、僕はただの胃荒れだと思うんだけど……」
「それならそれでかまわない、けど呪法はそんなに症状が無くても、気が付いたら取り返しのつかない事になってる場合がままあるからね。安心できたらそれでいいじゃない」
「そうかな」
 なんとか唯人を回復させようと、サレと王子は入れ替わりでいろんな物を持ってきてくれる。気にしないで先に王都に帰ってくれ、と何度言っても笑顔で相手にしてくれない。治療院で出される形が無くなるまで煮込まれた青班豆のとろっとした汁物を、渋い顔で唯人が食べきるのを見届けて、王子は宿へと帰って行った。ここの寝台は窓際の唯人のぶんとあと三つあるが今は他は誰もおらず、夜が来て治療士が隣接した自宅に帰ってしまえば暗い室内には唯人只一人となる。昨日からようやく立つ事ができるようになって、小用を済ませて部屋に戻ってくると隣の寝台にミラが腰かけていた。
「あ、ミラ」
「やあ、唯人。いいから横になっててよ、無理しないで」
 優しい声で促され、半身を起こして寝台の背に寄りかかる。気が付くと、鋭月と小野坂老も唯人を囲むようにいた。
「みんな、どうしたんだ?」
「今日、判明したんだよ」
「なにが?」
「唯人の、胃痛の元凶」
「胃荒れじゃないのかい?」
「それなら、僕らも大人しく回復を待つんだけどね」
 すいと伸ばされた手に、ずっとそのままで忘れられていた左腕の布がくるくると解かれる。若干滲んだ血でくっついていたものの、四つ穿たれていた穴のうち三つまではもう傷口が乾いてかさぶた状になっていた。ただ、最後のひとつ……唯人から見て左上の傷が、異様な変貌を見せていた。
「何、これ……どうしてこんな?」
 肌にくっきりと浮かび上がっている、大口を開けた爬虫類の頭部のような紋。ああやっぱり、とミラが溜息をついた。
「ごめん、唯人、僕が読み違えたんだ。あの時廃神殿で唯人に噛みついたのは不服従の精霊獣だと思ってた、でもそいつの中に禁呪が寄生してたみたいなんだ。禁呪は唯人の身体に入りこんで症状を出し始めてる、胃痛はそのせいなんだ」
「え?禁呪って……どんな?」
 ぞっ、と背に冷や汗が滲みだしてくる。アリュートの神殿で直接対峙はしなかったが、その禍々しさは充分感じられた。一旦弱れば、アーリット程の宿主でも内から喰い潰そうとする。きり、と胃が絞られたような痛みが走った。
「えっと、最初に言っておくけど、命には断じて影響ないよ。二十年くらい前までは、違法だけど裏でそれなりに使われてた呪法だから。これは相手の命を脅かすものじゃなかったから、そこそこ扱いが軽かったんだ」
「命に影響ない、軽い、呪法?」
「うん、名は飢餓呪法っての。正体が分かってからは、あの場にいた三人のうちで唯人がこれを受けちゃった天の采配にちょっと感謝しちゃったよ。とりあえず被害は最小限だ、お腹が辛い唯人には悪いけど」
「飢餓呪法って、何なんだ?」
 この状態を感謝されても正直いい気はしないが、後の二人では更なる影響があったようだ。ちょっと楽な気分になって、唯人はミラの話の続きに耳をかたむけた。
「文字通り、人に飢餓を植え付ける呪法だよ。これもまた幸いだったんだけど、唯人って死ぬ寸前とか慢性の飢餓に陥ったことないんだね。それを知ってる人間なら、この呪法にかけられたらとても正気じゃいられない。目につく限り、手当たりしだいの物を貪ってる。でも唯人はその感覚がもともと身体に無い、肝心の飢餓はただの空腹程度だから、呪法がとにかくそれに近い不快感を引っ張り出しておっ被せてるんだ。本当に悪いけど、これってかなり幸運なんだよ」
「それが、なんでサレと王子だと大変なんだ?」
 確かに、苦しい幼少時代だったサレなら大変な事になっていたかも知れないが、王子はとても飢餓に縁があるとは思えない。それ聞くかい、言わなきゃ駄目ですか、とひときわ苦渋の表情になって、ミラはなんとなく唯人からふいと顔を逸らした。
「飢餓呪法は、ただ人に飢餓を植え付けるためだけに生みだされた呪法じゃないんだよ」
「え?」
「……聞きたい?」
「う、うん」
「聞きたいの?」
「うん……って、言いたくない?」
「まあねぇ」
 いつもならここで覚悟を決めて問い詰めるのだが、今回に限り聞かないほうがいいかも、と謎の直感が唯人の耳に囁きかけた。しかしここで話を終えてしまっては胃痛が解決しない、唯人はあえて黙してミラを促した。
「えーと、そもそもの目的は……」
 今は色が決まりかねているような暗いミラの眼が、ちょっと泳いだ。
「その気のない両性を、無理やり女性化させて子供をね……」
 後は自分で考えてよ、と両手で頬杖して俯いてしまう。久々に頭を内からかっ飛ばされた気分になって、唯人は呆然と枕に沈みこんだ。
「そ、そりゃあ、本当に、僕で良かったっていうか……」
「だろ?」
「なんでアーリットが、そんなの持ってたんだ?」
「そりゃあ受けた本人から引き取ったのかもしれないし、駄目もとで直接仕掛けた大馬鹿がいたのかもしれない。変な知識を極めちゃうとあの超規格外れが瑠璃鉱竜みたいな貴重種に見えて、手に入れたくなるっていう異常心理に陥ることもあるみたいだしねぇ。でも竜並みに強いし、竜よりも確実に凶暴だから、万が一呪法が効いてもその後のほうがまず絶対、瑠璃鉱竜を屈服させるより不可能な気がするんだけど……この話、もうやめない?」
 わりとつらつらと語ってしまってから、哀願に近い視線をミラが向けてくる。なんとなく時々思い出しては実感する、アーリットは両性である、という事実が急に生々しく感じられ、ちょっと顔が変に熱を帯びてきてしまった。
「それでずっと持ってたって事は、消せない呪法なのかな」
「いいや、多分その逆、身体の封印下に入れといて、本当はさっさと解いて消してしまうんだけど。あまりに単純すぎるから、重い禁呪に先に手を付けてたらうっかり忘れてしまったとかだろう。こんな事にならなきゃ、おチビにとっては気にも留まらない程度の代物だから」
「それで、結局僕はどうすればいいんだ?」
 なんとなく腹に手を添えた唯人に、その事なんだ、とミラが鋭月らと目配せした。
「とにかく、差しあたっては胃痛はこれは空腹なんだ、って体に言い聞かせてみて。お腹が空くだろうけど痛いよりはいいだろ、それで持たせてる間に解呪にのぞむ。二級精霊獣師くらいになるとそれくらいの呪法は自力で解くことができるんだけど、唯人には無理だからそうなれば僕ら精霊獣が何とかしなくちゃいけない。綱手が充分な状態なら頼むのが一番いいんだけど、今は肩から出てくることさえしてないだろ」
「あの石を、手放したせいなんだろう?」
「それだけじゃないよ、小野坂さんも頑張ってるんだけど、廃神殿以降ずっと唯人の中の霊素が枯渇状態なんだ。消費と供給の釣り合いが完全に壊れちゃった。それは綱手が以前より格段に霊素を食うようになってしまったからで、今は唯人自身の気力を削っちゃうのを恐れて縮こまっちゃってる。だから今夜は僕らが実体化できてる今のうちに、その原因を整理させてもらおうと思って」
「整理?」
「とにかく、綱手を出して」
 どういうことだろう、と治療院の軽衣の肩をずらして埋め込まれている石に触れてみる。心の中で呼びかけても反応がないので、ちょっと乱暴だけどと爪を石にかけて引っ張ると、いつもの勢いを失った、白い姿がだらりと半ば垂れるように出てきた。
「綱手、お前も調子良くないのかい?」
 そうじゃない、気にしないでと言いたげに頭部をもたげ額の石を唯人の頬に押し当ててくる。それでもやはり全然違う様子でくたりと器用に腕の上に寄りかかられて、唯人はその頭をそっと起こして撫でてやった。
「さ、吐くんだ、綱手。この寝台の上に、全部だよ」
「吐く?」
 思わず問い返した唯人の腕からミラが綱手の頭部を引きよせて、まるで消防車のホースのように寝台の上へと構えて向ける。一瞬硬直し、胴を波打たせたその綱手の口から、びっくりするほどの量の何かが溢れだしてきた。
「え?えええ?」
 驚いたことに、まるで手品のように色とりどりの石みたいなのと共に生き物、それも出た瞬間出口より大きくなったりするのもいる。あっという間に、薄暗い治療院の部屋はおもちゃ箱をひっくり返したような状態になってしまった。
「綱手、これは一体……って、いつの間にこんな!」
「唯人、綱手を責めないでやってよ。これ全部、廃神殿での戦いの時に怯えて逃げ込んできたのやら、この機会にって卵…って呼んでるけど結晶化させた自身を産みつけてきたアーリットの精霊獣なんだ。彼の内には強い個体の餌とか、珍しいって理由で名を与えずにただ持ってるだけの精霊獣がそりゃあ山ほどいるんだけど、普通他人の精霊獣、しかも綱手ほどの規模の個体と接する事なんかまずありえないから逃げだす千載一遇だってノミみたくたかられちゃった。このまま持ってても霊素が消耗するだけだから、良いのだけより分けて後は手放そう。今晩中にさくっと済ませるよ」
「ちょ、ちょっと、これって、アーリットに返さなくていいのかい?」
「みんな向こうが怖くて嫌だから、逃げだしたり卵を託して来たんだ、そんな酷なこと言っちゃ駄目」
 まず手早いのからね、とミラと小野坂老が頭を並べていろんな色の石状の塊……精霊獣の卵を吟味し始める。その間鋭月は、周囲の生き物達が散ってしまわないよう追って集めておく役を受け負った。すごい事になった、と周囲を見回す唯人の目の前をあの青光りの蝶がひらひらと過ぎる。あ、これは欲しいと唯人は慌てて身を乗り出した。
「なにか要るのがあったら、一応僕に確認して綱手に戻しておいて……なに?夜光蝶?それならいいよ、名前あげたら」
 基本僕が姿を写せるのは手放すほうにしとくけど、そんなのは居てもいなくても大した事ないから、と顔を上げもしないままのミラに言われ、綱手がぱくり、と華奢な翅をくわえて連れてきてくれる。じゃあ蛍翅、(けいし)と呼んでやると、放された蝶はひらひらと飛んで差し出した唯人の指にふわりと乗った。
「本当に、今後増える一方ならアーリットみたいな名づけ方のほうが合理的かもな。いちいち考えて付けてると、いずれ覚えきれなくなるよ」
「気を付けてよ唯人、精霊獣のほうにしてみれば、一度貰った名前を主が忘れちゃうってかなり辛いことだからね……うーん、やっぱり逃げてくるだけあってそうそう強いのや役立ちそうなのはないか。小野坂さん、そっちは?」
「難しいのう、餌用の千倍シダやら砂紐蟲やら……おお、不浄を清める保清藻があるぞ、いるか?」
「うん、いるいる」
 まったく当の唯人の意向など差し挟む隙なしで振り分けられていく石の山を綱手と共にぼーっと見ていると、早くなんとかして欲しいと言う表情で、鋭月が綱手の口から出てきた獣の中でも一番大きい中型犬くらいの大きさの蜂に似た蟲を追って来た。腕には派手な羽根の鳥を抱え、ひたすら袖をつつかれている。袖の中からぽろりと出てきたリスと小猿の中間みたいな獣は、綱手の頭に飛びついて口の中に潜り込もうとしたが、綱手は固く口を閉めたまま唯人の襟元に頭を押しつけてしまった。
「ミラ、このちっちゃいのなに?」
「ん?それはいらない」
「何なんだ?って!」
「んあー、それは里リスっていって、なりたての精霊獣師がまず持つ精霊獣のひとつだよ、従順で人好きで使い勝手がいい。惜しむらくは見た通り全然戦闘向きじゃないんで、綱手を持ってたら必要ないから。もう、おチビったらなんでもかんでも持ちっぱなしにしちゃってさ、これじゃ唯人に不用品処分押し付けたようなもんじゃないか!」 
 いや正直なところ僕は全然何もやってません、というかやらせてもらえてません。ぼーっとしているのもなんなので自分にとってどっちがましなのか分からなかったが、ミラに言われたとおり胃痛を空腹だと思い込むようにしてみたら本当にお腹が空いて来た。王子が置いていってくれた籠の中から乳果を取り出し、綱手と分けて食べてみる。呪法で空腹なのだからもっと味なんて分からないくらいただ食べたくなるのかと思ったら、甘い実は充分おいしく痛みの去った胃に染みわたった。空腹感はさっぱり変わらないが、我慢できない程ではない。更に砂漠茎木の実をそのまま二つほど丸呑みした綱手を見ただけでかなりお腹いっぱいな気分になれて、唯人は寝台の上に精霊獣の卵を三つの山に分け終わったミラを覗きこんだ。
「終わった?」
「うん、一応。まず要るのはこれ、後で説明するけど四つだけだ。残りは唯人にはいらないんだけど、手放し方で二つに分けたから。こっちは人にかかわらないといられない子、売ると譲るって道がある。そこの里リスと大針蜂、物精も全部こっち」
 鋭月の袖に潜った小さな顔がちらりと覗き、一番大きい蜂似の蟲が翅を鳴らす。
「そして人にかかわらなくてもいられる子、こっちは野に放てばそれでいい、自由になってまた世界の一部に戻るんだ」
 卵は自分で決められないね、とミラに言われたので手に盛り上げて差し出してみたら、それぞれ同種らしきものが引き取ってくれた。窓を開け、月明かりに浮かぶ去るもの達へ、ミラに教えてもらった言葉をかけてやる。
「今までご苦労だった、僕はお前達は〝いらない〟から。世界主の元へ還ってくれ」
 風が吹いた、と思ったら一瞬の幻のごとく光の欠片は一気に宙に舞い、全て消え去ってしまった。それを見届けて、窓を閉める。
「良かった、これで少なくとも七割は負担が減ったよ。後は要る子の説明だな、まずさっきも言ってた保清藻、いろんな物を浄化してくれるから空気の悪い所や毒消しなんかで役立つよ。そして標鳥(しるべのとり)、道標の物精で行きたい場所の方向を教えてくれる、地味だけどこれも役に立つ」
 あれ、と鋭月が押さえている鳥が示され、え、これ据え置きですかと彼が表情を引きつらせる。鳥は袖をつつくのをやめ、きょとんとした顔を唯人に向けた。
「それと閃輝精、火花の精霊で特に用というか使い代は無いんだけど。捕まえるのがもの凄く難しくてね、おチビも手に入れるのに苦労したと思うんだ。これは逃がしたら多分こっぴどく怒らないまでも嫌味言われるだろうから、後で返せるよう持ってよう。名前付けちゃ駄目だよ」
 ぱりっ、と宙に球状の火花を散らした光珠を綱手がぱくりと口にする。最後に、とミラは黒い指ほどの大きさと形状の甲蟲らしきものを唯人に差し向けた。
「……鋼刃蟲、これはおチビのじゃないね」
「あ、それ、出せたんだ、なら持ち主の人に返さないと!」
「無理だよ、今はもうこの子は綱手のものだ、綱手の中にいる、ってのと食べられた、ってのは似てても全然違うんだよ。結論言うと唯人のものってことなんだから、諦めて所有して」
「どうしても、無理?」
「無理って言ったら無理、唯人のそういうとこ、馬鹿正直だねぇ。喧嘩ふっかけられたんだから戦利品でいいの、結構使えるんだよ、この子」
 ミラの白くて長い指の先で、蟲が硬い外殻の下から薄いガラスのような内翅を延ばして見せる。ここの切れ味はかなりのもんだよ、と得意そうに呟いて、ミラはそのまま蟲を綱手の口の中へと放り込んだ。
「それと、最後の最後でいい物が出てきたよ。僕もすっかり忘れてたけど、これ」
 傍らの小野坂老が、なにやらくしゃくしゃとした赤い物を広げて唯人に向ける。見せられた唯人も、しばらくなんだっただろうと考えて……ぽんと膝を打った。それは、テルアでアーリットに張られた封印の術式を込めた札だった。怒った綱手に丸呑みされていたのは覚えていたが、まさかそのまま持っていたとは。
「ちょっと、ちょっとだけ皺になって破れてるけど腕に巻いてみたら?効いたら儲けもの、くらいで」
 促されて腕にあてがってみると、あの時は肩に吸いつくように張り付いていたのに、しわしわになってしまった今は普通の紙並みにちっとも馴染まない。無理やり巻いて先程の布で締めると、確かにやや空腹感が落ちついたような気になれた。
「すごい、効いたよこれ」
「そうだろ、一級精霊獣師の自作ってのは伊達じゃないよ。明日この街の精霊獣師のところに行っても、多分これ以上の治療はしてくれないんじゃないかな。群島の子に頼んで残った精霊獣を正規のやり方で手放してもらったら、後は綱手が回復するまで大人しく過ごすのが一番だと思う。それで綱手の調子が戻ったら、禁呪を壊してもらってそれで終わりだから」
 果たして、次の日に来てくれたサレと王子に付き添われて、このミーアセンに駐留しているユークレン地方軍の精霊獣師のもとに行くと、診てくれた壮年の四級精霊獣師は唯人にかけられているのが確かに飢餓呪法であると断言してくれた。自分でも解呪できないことはないが、相当時間がかかる。なら良い封印の札を持っているのだから王都まで我慢して、専門の術師に診てもらった方がいいと言って唯人の腕の札の破れた部分を直してくれた。
 ついでにサレが任務の結果、と詳しい事は伏せて残りの不要な精霊獣らについての話を持ちかけてみたら、寄贈ということなら、と向こうは喜んで引き取ってくれる気を示してくれた。だのになぜか精霊獣のほうが唯人の内にもぐり込んでしまい、離れる事を頑なに拒む素振りを示したので仕方なく今少しの間持っておく事にした。
「しっかし、唯人に飢餓呪法とはねぇ。こりゃもうちょっと食べろっていう世界主の意思だよ、絶対」
「なんだよそれ!」
 今朝唯人から話を聞かされて以来、サレは笑いが止まらない。完全には抑えきれていない呪法のせいで、食欲旺盛になった唯人に王子までもがもうこのままでもいいんじゃない?と笑顔でひどい事を言ってきた。
「安心して唯人、食べる物はちゃんといっぱい持ってきてあげるから。我慢なんてしなくていいんだよ」
「嫌だよ、なんで二人して僕を太らせようとするんだ。太った男の精霊獣師って、この世界じゃおかしいんだろ?」
「そりゃそうだけど、大丈夫、俺が唯人を太らせるわけないじゃないか、ちゃんと責任持って立派な筋肉にしてやるよ。安心してたっぷり食って、まずは体力を取り戻せ」
「普通に食べて回復するから!」
 治療院に戻って寝台に納まっても変笑いをやめない二人は、少しいなくなったと思ったら、昨日まで果物ばかりだった間食入れの籠にテシキュル産の柔らかいチーズが薄く層になったパンとか炒って水分を飛ばした挽き肉のそぼろを入れた揚げ餅等、かなり嫌がらせ度の高い物を投入して含み笑いで帰っていった。(後で聞いた話によると、両性は知り合いの誰かの食欲が増すと本能で妊娠準備→いずれ出産→めでたい、という思考になり気分が高揚してしまうものらしい)腹が立つので綱手に片付けさせようと思ったが、全部食べたと思われたら癪だしあったら気になって落ちつかない。そう考えている間にも気が付いたら手にした揚げ餅を綱手とかじり合っていて、はっと我に帰ると唯人はがば、と掛布を跳ねのけ寝台から飛び出した。
「すいません、ちょっと散歩に出ていいですか?」
 ひょっこりと治療室のほうを覗くと、初老の治療士は泣きわめいている大男の足の裏に刺さった釘を相手にしながら背中で返事をかえしてきた。
「そだねえ、随分顔色も良くなったし食欲も戻ったようだから、少しずつ運動してもいいっしょ。なんなら明日からはお仲間の方の宿に移って、通いでこっちにきてもらってもかまわんよ。でもあんた達みたいなのは急いで直そっとする悪い癖があっから、そこんところは気ぃ付けて。あ、夕食はもう普通食でえっから、外の食事処で好きに食べてきんさいね」
「はい、ありがとうございます」
 外に出ると、夕暮れのミーアセンはテルアや千年樫の森ともまた違う、砂漠の外れを意識させる乾燥した熱っぽい風と夜に向けて急速に冷えていく空気の入り混じる異国感たっぷりの雰囲気に満ちていた。行き交う街の人も半分は肌の黒いラバイア人で、自国から持ち込んだ商品を運んでせわしなく移動したり、道端でユークレンや群島の商人との商談に熱を入れている。
 たとえ個人でも、少しでも金を持っていそうな顔をしていたら言葉巧みに変な物を売りつけてくるから気をつけろ、とサレに言われていたので、唯人は極力自分をじろじろ見てくる相手とは眼を合わさないようにして街の外れまでくると、砂漠が見渡せる街の外壁の上に上がっていった。
「わあ、思った通りだ、砂漠の月って大きくて綺麗だな。見てごらんよ鋭月」
『確かに、以前から思っておりましたがここの月は大きいですね。それにこの場から見ると淡い紅を差したような不思議な色をしています』
 まだ薄明るく夕日の名残を含んでいる一面の砂原の上には、ほのかに薄桃色の半月が輝いている。しばらくそのまま見とれていると、なにやらわざとらしい咳払いの音が足元から響いてきた。視線を向けると、一段下の張り出した部分に人影がふたつ寄り添っている、慌てて唯人はその場を離れると外壁を駆け下りた。やはり異界でも、男女の付き合いのノウハウはそうは違わないようだ。
昼も夜も賑わいはほとんど変わる事のない繁華街に戻ろうとして、夕食をみんなととるか一人でとるか考える。初めての街だからまだ知らない物も食べてみたいが、かと言ってあの二人にどんどん勧められたらなんか嫌だ。
 とか思いながら、足は二人の宿に向かって進んでいると、ふとどこからか視線らしきものを感じ唯人は顔をあげた。いけない、と慌てて俯きそのまま狭い路地を通り過ぎようとする。ラバイア人が荷を運ぶのに使っている砂漠鹿に引かせる箱車のひとつの前にさしかかったとき、鳥がさえずるような細い声が上から降ってきた。
「もし……そこのかた」
「僕?」
「はい……」
 少女を思わせるか細い声に箱車を振り仰ぐと、ぴったりと隙のない箱の後部に薄く横長に開けられた窓というか穴から指先が覗いている。近づいて穴に顔を寄せると、向こうからも寄せている金色の髪と両の眼が見えた。
「そんなところで、どうしたんだい?」
「私のことはいいんです、それより、その腕に巻いてあるのは一級精霊獣師様の札ですか?」
「そうだけど、これが?」
「あなたは、一級精霊獣師様のお知り合いの方なのでしょうか」
「うん、そうなるかな」
「良かった……」
 はあ、と少し声を詰まらせ溜息をつく。少しの間をおき、中の人物は穴から細い指で唯人に何かを差しだしてきた。
「どうかお願いです、これを、一級精霊獣師様に届けてもらえませんでしょうか。とても大切な物なのです、絶対に届けて欲しいんです」
 手のひらの窪みくらいの黄色っぽい何かを受け取ると、人肌程に暖かく濡れている。この人物は、どうやらこの小さな塊を口に入れて持っていたようだ。
「これ、何なんだい?」
「一級精霊獣師様に見せてくだされば分かります、私、あなたにお願いするためのお礼を何も持ってないのだけど……その腕、呪いかなにかですか?」
「あ、うん……」
「では、それを呪法の印に当ててみてください。きっと効きますから」
 どういう事だろうと思いつつ、腕に巻いてある布と札を取って浮かんでいる印に押し当ててみる。その途端、左腕の中で何かがざわり、と蠢く感触がおきた。
「うわ、な、なんだ?」
 まるで、焼けた石でも押しつけられたかのごとく、皮膚の下で何かがのたうっている。やがて印が泡立つようにゆらゆらを揺れ始め、液体とも気体ともつかない黒い何かをだらだらと溢れさせるとそのまま跡かたも残さず消え去ってしまった。同時に、絶えず感じていた空腹感も嘘のように治まってしまう。
「すごい、治った」
 驚きに目を見張って振り返った唯人に、穴の向こうの金色の瞳は、初めて少し微笑んだように細められた。
「良かったです、それでは……あ、どうかそれの事は、他の方には口外しないとお願いしてよろしいですか?」
「分かった、それはいいんだけど、どうして君はそんな所に荷物みたいに閉じ込められてるんだ、これを自分で持って行けない理由って何?」
「それは……」
 か細い声が答えようとした、その時。
「おい、誰かいるのか!」
 野太い叫び声と共に、箱車が止められている場の正面にある薄暗い酒場のドアが勢いよく開けられた。とっさに身を返して壁に張り付いて、ミラに姿を隠してもらう。現れたいかつい体格のラバイア人は鋭い眼光で周囲を見回すと、手に持った太い剣の鞘で箱車の壁を乱暴に打ちすえた。
「おい、声出すなって言ったろう、無駄にさえずってるとその舌切っちまうぞぉ?」
 顔に似合わない猫撫で口調で囁いて、もう一度周囲に目を配った後、再び店の中へと姿を消す。これはどう見てもただ事ではない、と唯人にもすぐ理解できた。
「あの子、もしかして、さらわれてるのかな」
『ある意味そうだけど、別の意味じゃそうじゃないね』
 すいと現れたミラが、唯人の視界を遮るように前に立つ。そのまま路地のほうに押し戻されそうになって、唯人は慌てて白い腕を振り払おうとした。
「なにするんだ、さらわれてるんなら助けないと!」
「唯人」
 赤茶けた、この街を構成している色の眼でミラがじっと見据えてくる。突然、今まで向けてきた事のない勢いで唯人の肩に腕をまわすと、ミラは華奢な身体に似合わない荒々しさで有無を言わさずずんずん歩きだした。
「ちょっと、やめろって、どうしたんだよ!」
「廃神殿以来、考えた事が多々あってね。唯人は今、またややこしい面倒事の迷路に尻尾振って飛び込もうとしてるんだ。ちょっと考えてみてよ、おとといまで寝込んでたんだよ?あの子があそこにいるのは自分のせいで、可哀相だけど仕方がないの、唯人には関係ない!」
 道端にたむろしている怪しげな男達から、いい品物があるからちょっと覗いていけ、などとかけられる声に氷のような視線で応えつつ、ミラはサレ達がいる宿の方へと進んでいく。もうすっかり暗くなってしまった空とは関係なしに無数の灯火で明るく照らされた大通りに出て、やっとミラは唯人を放してくれた。
「今の事、忘れるって約束して。ちゃんと身体を直して落ちついたら、僕がこうした訳やあの子の事とか、ちゃんと話してあげるから」
「……」
「唯人!」
 眼を逸らし、ふいと宿に向かって身を返す。その背からミラが身体に戻ってきたのを確認すると、唯人は歩いている間手に握り締めていた赤い札を広げて左眼ごと顔の左半分に押し当てた。素早く上から布で斜めに縛り上げて取れないように固定する。え、とミラが息を飲んだ気配と、鋭月が吹きだした声が同時に頭に響き渡った。
『唯人殿、流石です、倭の国の武士はそうでなくては』
『鋭月、なんでそういう事言うの!僕は唯人がこれ以上危険な目に……』
「ミラ」
 宿の戸をくぐり、二階に部屋をとっているはずの二人の元に向かう途中、階段で足を止める。彼の心中は痛いほど分かるが、ここは押し切られてしまう訳にはいかなかった。
「しっかりしてくれ、それは銀枝杖が言ってたのと同じ理屈じゃないか。考えすぎて煮詰まってるのなら、しばらく見てるだけでいいよ。助言だったらいつでも受け付けるから」
『分かったよ、じゃあ黙って見ててあげるから。いつでも泣きついて来てくれていいからね!』
 鋭月が怒っているときは意識のどこかが熱くなるが、ミラが怒ったときは反対に冷たく感じるというのが分かった。怒気だけ残してふっつり気配を断ってしまわれ、まあ仕方ないかと二人の泊まっている部屋の戸を叩く。運よく二人とも出ていなかったらしく、戸を開けてくれた王子は唯人の顔を見るなり眼を丸くして息を飲んだ。
「なに?唯人、その顔、まさか呪法が顔に移っちゃったの?」
「あ、いや、呪法は治ったんだ。これはちょっと別の事情で」
「事情ってなんだ?」
 サレに招かれ簡素な寝台の上に腰かけて、唯人は今あった事、例の人物に托された物の事だけ省いて一部始終を二人に説明した。
「早く助けないと、あの子砂漠に連れて行かれてしまうよ。サレ、なんとかならないのかな」
「誘拐なら、ミーアセンの地方兵に言えば動いてくれるんじゃない?行こうよ」
 唯人の気持ちにすぐに同調してくれた王子と違い、サレはなにやら考え込んだ様子で口を閉じている。この中では唯一軍人であるサレの言葉を若干の焦りを抑えつつ待つと、ちらと暗紅の眼が唯人を見た。
「唯人、その子、昼毛(金髪)で金色の瞳って間違いないな」
「うん、箱車の中は暗かったけどそれだけは分かった」
「それで、鳥が鳴くみたいに喋った」
「それが?」
「もしその子が〝金果の民〟だったとしたら、軍は手を出せないぞ。彼らの売買はラバイアじゃ合法なんだ、この回円主界で唯一、人であって金でやり取りされることが認められてる、そういう民族なんだ」
「え、どういうことなんだ?それって!」
「一応、俺が見に行ってみる。ただの誘拐なら助けられるが、そうじゃないなら、すまないが無理かもしれない」
 箱車があった路地まで引き換えす道すがら、王子が話してくれた金果の民の話はこうだった。この回円主界のどこかに三大霊樹と呼ばれている大樹が生えていて、そのうちの一本の金果樹の元には遥か昔から住みついているごく少数の民族がいる。普通の人間にはきつすぎて毒である金果樹の実を、その人達は何代もかけて少しずつ食べ続けることで身体を合わし、結果その血や身体を構成する諸々が金果の薬効を普通の人にも施せる、いわば生きた万能薬となった。最初は諸国の王族や貴族も彼らに敬意を払い、彼らが身の一部で作る薬を相応の対価で取引していたが、ある時とある国の賊が彼らの地をつきとめて襲い、数人の民をさらっていった。それからはあっという間に噂が広がり、我先となって無法者や、最後には彼らと交流のあった諸国の者達までが凶行に及んだので、金果樹は彼らを護る為千年の君に頼み樹の回りを結界で包みこんでしまった。それ以来彼等は外世との繋がりを断ち、ひっそりと静かに暮らしている。
 だが、時々止むにやまれぬ事情や、若い者が好奇心で結界の外に出てくる事があり、体と同じ重さの金と同価値といわれる彼らを捕えた者が好きにしていいと決めているのがラバイアと群島連合国。アシウントとテシキュルは売買のみ禁じ、ユークレンは最初からの付き合いもあり彼らを人として扱うよう定めている。
 ここミーアセンは領地としてはユークレンだが、もともと並んでいたふたつの国の街が合併してひとつになった経緯があり、街の人間の半数はラバイア人。細かい法などは、常に当事者の判断で流動的にユークレンとラバイアの間の都合がいい方を取られている。そのせいで、ユークレンの法を強制できない空気があるのが事実であった。
 路地に入ると、箱車はまだそこにあった。駆け寄って覗きこむと人が身じろぐ気配がする。サレが酒場の中に入り、さっきの巨漢のラバイア人を伴って出てきた。
「よっく見てくれ、おたくの国のガキじゃねぇって!やっと手に入れた金果の鳥だ、ほれ」
 ごつい鍵で箱車の背後が開け放たれ、太い鎖が手荒く引き寄せられる。か細い叫びがあがり、鎖に片足を繋がれている小さな身体が灯りの中に引き出されてきた。確かに、あまり綺麗とはいえない箱車の中に入れられていたせいで薄汚れてはいるものの、王子やアーリットとは次元の違う、明らかに人間の域を超えている金色の髪と眼と、輝くような肌をしている。怯えた表情で一同を見渡す眼が唯人に留まり、なんで来たんですか、と言いたげにぴぃ、と微かな声が漏らされた。
「血でも絞って確かめてもいいぜ?どんな怪我でもすぐ治るっていうからな」
 すらりと抜かれた大剣を向けられて、小さな肩が震えている。それはいい、とサレが押し止めた。
「分かっていると思うが、ここでは金果の民を売買する事は違法だぞ」
「ああ、こんなの見せちまったら、いつ横取りされるから分かんねぇからな。もう発たせてもらうとするか、商売相手は外に待たせてあるんでね。口止め料が要るんなら指二本までだ、それ以上は譲れねぇ」
「そんなものは要らん」
 ばん、と扉が閉められ元通り鍵が下ろされる。物言いたげな金の瞳はもういいんです、気にしないで下さいと諦めの表情で、闇の中へと閉ざされてしまった。
「あの子、どうなるのかな」
 砂漠鹿につながれ、城壁のほうへ去っていく箱車の後ろ姿を見送って、王子がぽつりと呟きを漏らす。渋い表情で、サレがその肩をそっと抱いた。
「殺されはしないでしょう、金果の民を買えるのは、よほどの財力がある王族か貴族ぐらいのものだ。そこで飼われて薬の材料を採られるんです、一生ずっと」
「なんで助けてあげられないんだ、ユークレンじゃ違法なんだろ?」
「唯人、すまない。あの子が今この場で取り引きされているなら止める事もできるけど、ただ運ばれているのを止めて取り上げるのはこのミーアセンじゃちょっと無理なんだ。そしてラバイアに運ばれてしまったらそこからは手出しは不可能だ、俺も嫌だよ、可哀想だとは思うけど軍人だから言う、どうしようもない」
 その晩は、三人で沈んだ雰囲気のままもそもそと夕食を終え、治療院と宿に分かれて戻った。もう灯りの消えた部屋の寝台に戻り、おもむろに治療院の軽衣を着替えると脇においてあった旅の道具入り袋を引っ張り出して、籠の中の食べ物を入れ水もたっぷり詰めなおす。荷物を負って出る前に、治療費いくらくらいだろうかと考えて、分からないのであの鋭月の紐の硬貨を外して机の上に置いた。
『行かれますか、唯人殿』
 鋭月を出すと、暗い中にふわと和服の姿が現れる。うん、やっぱり我慢できないよと苦笑すると好きにするのがいいですよ、と暗い瞳も微笑んだ。
「ミラは?」
「さあ」
 あれからずっと、冷たい気は気配を消している。結構怒ると長いんだなと肩をすくめ、唯人は治療院を出るとラバイア側の門に向って駆けだした。途中、砂漠の移動手段として砂漠鹿と同じくらい一般的な、鶏と駝鳥を合わせたような砂走鳥を売っている店に行く。どうせ一往復しかしないだろうからとにかく扱いやすくて安いのを、と言ったら唯人が見ても分かるくらい、あからさまに年寄りの鳥を押しつけてきた。ここでは値切るのが礼儀なので、しばらく切磋琢磨し言い値の半額まで頑張って、戦利品を連れて店を出る。羽の艶はくすみ、足も若い鳥の桃色とはかけ離れた灰色だが、それでも荷物付きの唯人が乗ってもしゃんと歩きだした鳥の背に揺られ、唯人は月が輝く砂漠へと踏み出した。
「さてと、出てきてくれ、標鳥」
 ばさり、と翼のはばたく音がしてあの派手な鳥が唯人の頭に乗っかった。ひょい、と上から逆さ向きで顔を覗きこんでくる。唯人の世界の雉に似た、一言で言い表せないくらいさまざまな色の羽根と、真っすぐ伸びた黒光りの尾を持った鳥だ。
「お前の名前は標(ひょう)だから、今から僕のものだ。で、早速だけど、あの子がどこに連れて行かれたか分かるか?」
 教えてくれるのは街や建物の場所だけで、こういう曖昧なのは無理かもしれないとも思っていたが、標鳥は瞬時に唯人の頭上で反転すると長い尾でぴしりとある方向を指し示した。
「あっち?」
 ひこひこと尾を上下され、唯人は進路をそちらへと向けた。いつか得た知識で、慣れない者が砂漠を移動するのは夜のうちがいいと聞いたような気がする。あのラバイア人は商売相手が外にいると言っていたから、別の街とかそう遠くにはいかないはずだ。今のうちに追っていけば取り引きの場に追いつけるだろう。だが追いつけたとして、下さい、はいで話が付けられるとは思わない。砂走鳥の尻に乗せた荷物の上に器用に腰かけている鋭月を振り返ると、彼も上からじっと唯人を見下ろしていた。
「鋭月?」
「いい御顔になられましたね、唯人殿」
「そうかい?」
「やっと分かってきた顔ですよ、今、我を通す為の人死には是か非か己に問うておられたでしょう。唯人殿の正義に相手が命を賭して向かって来るなら、唯人殿も己の正義を命で示しなさい。その命、私が全て力に変えて差し上げますから」
「ありがとう鋭月、頼りにしてる。本当は、ミラの言い分は正しいってちゃんと頭では分かってるんだ。けど、正しいのと納得できるってのが必ずしも一致しないのが人間の辛いところなんだよ」
「あの方の望む、己の身大事で面倒を避ける道を行くなら私など必要ありませんよ、それに……」
「それに?」
 ふ、と夜空に溶け込んでいる髪に縁取られた顔が無心に笑う。
「私も、たまには存分に血を浴びる機会に恵まれたいと思いまして。冴えざえとした月光の下、返り血に染まった主に揮って頂くことほど私を悦ばせることはありませんから」
「そう、なんだ……」
 聞くんじゃなかった、途中までいい気持ちで話せていたのに、うっとりと呟かれた最後の一言で全部吹っ飛んでしまった。やはり鋭月も、人間だと勘違いしては断じてならないと溜息をつく。月光に照らされ白く輝く砂の上、ざっ、ざっ、と規則正しく響く足音だけを聞きながらひたすら進んで行くと、小高い砂山の向こう側にごく小さな水場があって、そのまわりにかなりな規模の野営の一団がいるのが見てとれた。
 棒を数本組み合わせて布をかぶせただけの一人用の覆いが輪を描くように並んで、中心に据えられた見るからに豪華な天幕を取り囲んでいる。その豪華な天幕の脇にあの箱車が停められているのを見つけ、唯人は安堵の息をついた。ざっと数えたら小さな覆いの数は四十程、あの大きなやつの中にも数人はいるだろう。
 ミラに隠してもらえれば事は安全かつ楽に運ぶだろうが、彼の最後の捨て台詞の内容から頼っては格好よくない事この上無しだと思い、あえて頭の布を一度取り、右眼以外は出ないようきっちりと巻き直して唯人は五体に気合を入れた。あちらから見えないよう砂山の手前に鳥を停め、夜が更けて大多数の者が寝静まるのを待つ。いい事でもあったのか、夜半過ぎまで賑やかな声を響かせていた大天幕がやがて静寂に包まれて、頃は良し、と鋭月を腰に差すと唯人はすっくと砂丘の上に立った。大体の物の位置を頭に入れ、一直線に野営している集団の真正面に進んで行く。すぐに気付いた見張りが一人やって来て、唯人の前に立ちふさがった。
「貴様、何者だ!」
「金果樹の使いだ」
「なに?」
「我が民を、返してもらいに来た」
 言葉が終わった時にはもう、見張りの男は地になぎ倒されていた。唯人が心を任せたら、鋭月の刃は閃光より速い。更に後からやってきた数人を瞬時に峰打ちで叩き伏せて、寝起きの連中が蜂の巣をつついたような騒ぎに陥る中を、あえて傲然と進むと唯人は大きな天幕の前に歩み寄った。
「ええい、騒ぐな!たかが一人きりの賊に何をしている、さっさとやってしまわんか!」
 天幕の内から現れた、ひときわいかつい上半身裸の男が怒鳴り声を周囲に響かせる。振り返り、散らばっていた男達が自分を目指して集まってきた頃合いを見計らうと、唯人は取り出した樫の杖を矢のように投げ離れた水場の井戸の石組みに突き立てた。
「綱手!」
 正直、瑠璃鉱竜の本体を完全に実体化させられる程、体力も霊素も充分だとは思っていない。ならどれだけ持つかは賭けのようなものだが、ありったけの気力で支えるのみだ。杖の中心からまばゆい光輝が周囲に走り、巨大な青い頭部がぬうっとせり出して来る。すぐにそのまま、まるで水に潜るように砂に沈んだ巨体が、素早く砂中をこちらへと進む。無数の刃が唯人に届こうとした寸前、彼らの足の下でぐるりとその巨体を円をかくように大きくひねった。その動きに合わせて砂がうねり、男達が一瞬のうちに押し流されて身動きできない深さまで呑まれてしまう。彼らの怒声が驚愕の叫びに変わるのを背で聞きながら、気力を持たせる為にも力技は速やかに、と再度天幕に詰め寄ろうとした唯人の前に人影がひとつ割り込んできた。
 ラバイア人特有の濃い肌の色ながら、線が細く、かといって明らかに女性ではない輪郭でなんとなく両性だと分かる。足首に複数付けている細い金属の足輪から涼やかな音を響かせ一歩前に出ると、唯人よりは年上、二十代後半程に見えるどことなく気品のある顔立ちをした青年は、長い睫毛を伏せ無表情に唯人を見下ろした。
「愚かなる賊よ、ここが、国境である北ラバイアを預かるスリンチャ族の陣と知って襲ってきたのですか」
「……(いや、知らないけど)」
「どうやら、霊獣の使い手のようですね。なら私がお相手させてもらいましょうか。スリンチャの霊獣使いでは三強と呼ばれているうちの一人であるこの私、セティヤ・ナルバイドが」
 すいと袖が上げられた腕に、きちんと描かれた意匠のごとく精霊痕が散りばめられている。そのうちの幾つかに指で触れ、こちらに振られた動きに合わせ、影が唯人目がけて飛びかかってきた。
「……!」
 眼が捕えるより速く、刃がひらめき真横に薙いだ軌跡の中、真っ二つにされた蛇とも鰻ともつかぬ数匹の霊獣が砂に落ちてのたうった後消え失せる。まあ少しはできるみたいですね、と無表情の顔がほんのわずか口の端を上げた。
「でも、この程度では三強は名乗れはしないんですよ」
 青年が、細いがしっかりしている腕を組んだ…その瞬間、その足元から何百匹もの同じ長虫状の生き物が湧きだしてきた。
「この数では、いちいち切っていては間にあいませんよ?砂紐蟲は貪欲です、お前みたいに痩せていてはものの数分もかからないでしょうね」
 ざわざわと砂を這う集団が唯人に迫ろうとした、その時、白い物が伸びてきたと思ったら、唯人の腰にくるりと巻きつき背後へと引き上げた。寸前までそこにあったもの目がけ殺到した蠢く小さな影全てを、砂から飛び出した青い頭のぱっくりと開けられた口が砂ごとざばり、と一網打尽ですくい取る。透明な鋭い牙の間からさらさらと砂だけを出すと、顎を二、三度動かした後、綱手は口の中の物を〝ごっくん〟せずになんだかぐしゃぐしゃになった灰色の塊を砂上にべっ、と吐きだした。
「ありがとう、綱手!」
 髭で宙に支えられていた身体が、そっと砂に下ろされる。その足元の塊がもやもやと消えて行くのを見た青年の顔が、先程の落ちついた様子から一変した。
「……それは、なんです?」
 震える声で、再度振られた腕に合わせ、今度は横幅が畳ほどもあるサソリに似た蟲が現れる。が、臨戦態勢にもならず砂から頭だけ出している綱手はまたですか、と言わんばかりの様子で向かってきたそれをあっさり牙の間に捕えると、ばきり、と嫌な音を響かせ思い切り彼方へ振り飛ばしてしまった。
「まさか、竜?では、よもや貴方は……」
「もう、終わりか?」
 唯人の言葉にくっ、と唇を噛み身を返して天幕の内へと消える。後を追うより、綱手に命じて押しつぶしてしまわないよう上から豪華な天幕の外幕だけをはぎ取らせると、中には先程セティヤと名乗った青年と共に同じ歳ほどの男が一人、そして、奥の支柱にあの小さな金果の子がつながれていた。三人とも、眼を丸くして入ってきた唯人を見つめている。さっき街で見た箱車の男もいたようだったが、ちょうど足をもつらせながら逃げて行く背を一瞬だけ残し消え去った。
「お前、一体なんなんだ、ここへ何しに来やがった?」
 思ったよりは落ちついた声音で、絨毯に座っている男が呟く。多分この男が、先程聞いたこのスリンチャ族の一番偉いさんなのだろう。ラバイア式のゆったりとした質のいい衣装に身を包み、あちこちに飾りを付けた様子からかなりな身分であろう事が一目で伺えた。
 大声で叫びながら、ふいに横から切りこんできたいかつい男の幅広な剣を半歩動いてすいとかわし、すかさずその背を斜めになぎ払う。ラバイアの剣は一様に幅広でごつい、まともに打ち合ったら鋭月の薄い刃は確実に欠けるか折れてしまう危険があるが、振ったときの隙が大きいのと突く型が遅いから素早い鋭月の太刀筋を的のでかい相手は避けきれない。ぱっくりと裂けた背から血を吹いて転がった男を一瞥し、(早く誰か手当してあげて!)まんじりともせず動かない二人の脇を抜け奥に入ると、唯人は無言のまま刀を振り上げて、身を固くした金果の子の足を戒めている枷を一刀のもとに断ち切ってやった。
「おい!何しやがる、それは俺が今買った……!」
「……知ったことか」
ことさら不気味に映るよう、人間離れした口調で応え、右眼だけ覗いている赤い札で覆った顔を背後へと向ける。
「金果樹の命を受け、我はこの民を連れ帰る為ここに来た、止めても無駄だと言っておく」
 なんとか、上手く言えた。小さな身体を抱き上げようと近づくと、唯人だと気付いたのか向こうも金色の眼を見開いておずおずと手を差し伸べてきた。その唯人のうつむいた頬の布が、ふいに響いた鋭い音と共にはらり、と切れた。
「はいそうですか、って言えるわけねえだろうが。格好つけやがってこの盗っ人、そいつにいくら払ったと思ってる。横取りすんならもう少し早く、俺が買う前にしろってんだ!この北ラバイアを仕切るスリンチャ族の一位、シェリュバンから何かを分捕ろうなんて見上げた奴だ。ユークレン人か?その顔、見せてもらうぞ!」
 男が繰り出してきたのは、細くてしなやかな鋼製の鞭だった。やはり一族の一位というのは文字通り後継ぎという意味なのだろう、それなりの武闘の鍛練を受けているようだ。後ろめたさや迷いなど微塵もない、まっすぐな眼で唯人を見据えてくる。サレより濃い褐色の肌にばさっとした黒髪を無造作にたばね、引き締まった顔の輪郭と茶色の瞳がやや小さいので、白眼が目立ってひどくきつい印象の顔に見える。横で色を失っているセティヤを奥に引かせると、男は更に振りかぶって唯人に鞭の一撃を叩きつけてきた。こちらも金果の子に当たらぬよう大きく背後に飛んで避け、素早く背後の人がすっぽり入れる程の水がめの陰に身を隠す。鞭が水がめを打ち砕くのと同時に全身をバネにしてシェリュバンの右に飛び込むと、唯人は鋼の鞭が繋がっている皮製の柄を、彼が握っている指すれすれの位置で切り飛ばしてやった。
「……ちっ!」
 ひらりと身を離し、再度金果の子の前に立つ。舌を鳴らし、シェリュバンが傍らに転がっている大男の剣を手に取ろうとした。その時、離れた場所から何かが壊れるもの凄い音が響いてきて、その場の全員が動きを止めた。 振り返った唯人の眼にはそこで箱車を粉々に噛み砕いている綱手が映ったが、シェリュバンには箱車がひとりでに潰れて行く光景でも見えたのだろう。その中から数個の袋が転がり出して、中の金色の粒が砂の上にぶちまけられているのを口をあんぐり開けて見つめている。その止まった身体に、それまで奥で硬直していたセティヤが意を決したように背後から駆け寄ってきて、必死の形相ですがりついた。
「もう、もうやめて下さい一位の君!そこにおられるのは、間違いなく伝説の〝竜人〟竜が人と通じる為に人の姿を借りた者、です。私には、怒れる竜の姿が見える……これ以上、竜を怒らせれば我らが噛み裂かれてしまいます!」
「そりゃないぞセティヤ、どう考えたっておかしいだろうが、俺はちゃんと正当な取引をやったんだ。それをかっさらうってんなら、竜だろうがなんだろうが盗っ人ってのがラバイアの道理じゃないか、そんなのは認めんぞ!」
「だから、知ったことかと言っている。金果の民は、ただ金果樹のみのものだ。人どもが勝手に財をやりとりしようが、誰のものにもなりはしない」
 堂々と言い切ったシェリュバンに唯人が溜息をついた背後で、地で頭を抱えてうずくまる箱車の主を箱車の破片で埋めた綱手がゆらりとこちらを振り返る。主の説得は無理と判断したのか、セティヤは足をもつらせながら唯人のもとへ駆け寄ると、その足元に身を投げ出しひれ伏した。
「お許しください竜人、我が主、一位の君が金果の民を得ようとしたのはひとえに私の為なのです。罰するならこの私、セティヤを、一位の君にはなにとぞ慈悲を!」
「おいこら俺を差し置いて勝手に謝るな!俺が悪いってことになっちまうじゃ……」
「一位の君、お願いだから抑えて下さい、貴方にはあの竜が見えないのですから!」
 最初の時とはうって変わった哀願を込めた必死の面持ちで、セティヤが主と唯人の間で視線をさまよわせる。なんとなく、風向きが変わった気がして、唯人は鋭月の血を振り飛ばすとおもむろに腰の鞘へと戻した。
「お聞きください、今、一位の君の父君であられる、スリンチャ族の首位の臨終が近づいておられます。この期にかねてより首位の座を狙っていた一位の君の叔父上、つまり首位の方の弟君により一位の君は日々命の危険にさらされているのです。この御方の御兄弟は五人中三人までが毒を盛られたり賊にさらわれて亡くなられてしまいました。一位の君も、これまで何人の毒見の者を失ったか。先日ついに乳兄弟で従兄弟である私にその任が巡ってまいり、覚悟を決めておりましたものを偶然主が誰かが捕えた金果の民の事を聞きつけて、万毒に効くというその言い伝えを頼み手に入れようと手を尽くした結果ここに至った次第です。なれどもう充分です、ここで何よりも大切な一位の君を竜の怒りに触れさせる訳にはなりません、その怒り、全て私にお与え下さい。金果の民はお返ししますから」
 涙声で地に頭を押し当てる青年の姿に、唯人と金果の子はなんとなく顔を見合わせた。背後のシェリュバンはまだもの凄い目つきでこちらを睨んでいるが、大体の事情、それが同情すべきものである事は理解できた。頭を寄せてきた綱手の口の中に金果の子を乗せ、伸ばされてきた白い髭の一本をつかむとぶんぶん振って転がり出てきた緑の塊を手のひらで受け止める。多分、これでいけるだろう。伏している背に近づいて、びくりと身を固くしたその顔を上げさせると唯人は手を取って緑の塊を乗せてやった。
「我は、罰を与えにここに来たとは言っていない」
 セティヤが、不思議そうに濡れた瞳で手の上の物を見る。
「その精霊獣を宿せば、毒は血を巡らず浄められる。金果の民の代えにせよ」
 良かった、保清藻を契約せずに持っていて、とほっと胸をなでおろす。綱手の顎によりかかってそれを見ていた金果の子も、唯人の袖を引いて鋭月を抜かせると長くうねった金の髪を首のあたりからふっつりと断ち切って、セティヤへと差し出した。
「これもどうぞ、数本ずつ酢に溶かせば大抵の毒や怪我に効きます。貴方がたが私達と正当な取引を望むのであれば、ユークレン国を通して一級精霊獣師様に親書をお出し下さい。ラバイア国が今のやり方を許している間は難しいと思いますが」
 もういい?と口を閉じるとざあっ、と砂音を響かせ綱手が頭を持ち上げた。ここはできるだけ神秘的に立ち去ろう、と向きを変えた背に綱手を従え水場の方へと歩いてゆく。唯人の姿にぎょっとなって砂から抜け出そうともがいていた動きを止めた男達の中を抜け、樫の杖を回収すると唯人も身軽に綱手の口へ飛び乗った。振り返って平伏しているセティヤと腕組みして見上げているシェリュバンを目にして、そのとき初めて顔の布が解けている、よって札の下以外はほとんど見えている状態な事に気が付いた。
「うわ、ちょっとまずいかな……」
「竜人」
 あまり友好的に見えない笑みで、シェリュバンが白い歯を覗かせる。
「今はセティヤに免じて見逃してやるが、これが只の大ペテンだってんなら、俺が生きてる間はスリンチャの名誉にかけてお前を追い続けてやるからな。つかまえたら手足をもいで砂漠晒しの刑だ、ようく肝に命じておけよ」
 内心うわぁ、な気分を抑え、まあ後の事は後で考えるしかない、と不敵に笑って返す。口を閉じた綱手がざん、と砂に潜って視界が闇に閉ざされた、と言っても、砂丘をひとつ下からくぐっただけなのだが。気付かれないよう静かに砂走鳥を停めた場所に出ると、唯人は水場であらかじめ拾っておいた手のひら大の石に左手で触れて綱手を身体に戻した。
 なんとか持たせきってやった、気が緩んだ瞬間書き文字的に〝どしっ〟と来た貧血に似た酩酊感に、気力を削られるとはこういうことかと残りわずかを振り絞って砂走鳥の上によじ登る。重さが心配だが金果の子も乗せて、唯人は一目散にその場を後にした。
「あいつらに気づかれないうちに、できるだけ離れよう、どこに行ったらいい?」
 このままミーアセンに帰るのは、どう考えてもやめた方がいい。そもそもどこから来たんだい?と問いかけた唯人に、意外にも金果の子は廃神殿の名を口に出した。
「本当に、本当にありがとうございます。絶対、もう二度と戻れないと諦めていました。まさか、外の人が助けてくれるなんて。外の人につかまったらもう終わりだって、ずっと聞かされてきましたから」
 砂走鳥の背の上で、前に座らせたら身体を反転させてしがみついてきた小さな肩を安心して、と抱きしめてやる。間近で聞くと、その声は本当に鳥が歌っているように音楽的で綺麗だった。
「私、ラリェイナ(縞ツグミ)と言います、金果の民はみんな鳥の名なんです。恩人さま、あなたのお名前は?」
「あ、ずっとお互い知らないままだったんだね。僕は唯人、全部言うと阿桜 唯人だよ」
 砂走鳥の頭の上に再度標鳥を出し、廃神殿の方向へと一直線に向かう。倒れた唯人を背負ったサレが歩いてたどり着けたくらいだから、廃神殿とミーアセンはそれほどは離れていないのだろう。最低でも、はるか向こうに見えている千年樫の森まではたどり着いておこう、砂走鳥も老鳥だからあまり無理はさせられない。それ以上に、このまま揺られ続けていたら〝どしっ〟だった気分が〝ずうん〟になって遠からずまた吐いてしまいそうな気がする。周囲はまだ暗いので、そんな唯人の顔色に気づけはしないはずだが、腕の中の金色の瞳は心配そうな表情で見上げてきた。
「無理をなさっていませんか?なんだか気分が悪そうです」
「いや、とにかく夜のうちに砂漠を出るまではこのまま行くよ。森にさえ入れば僕の杖つながりで何らかの加護がもらえるかも知れないから」
「すいません、私の力では傷とか毒とか呪いはなんとかできるんですが、疲労や消耗はどうしようもなくて。そうですね、森に入ればきっとどこかでゆっくり休めます。廃神殿の領域に入れば、異国の方はもう絶対追いかけられないでしょうから」
 幸いな事に、スリンチャの連中が砂から這い出るには相応の時間がかかったのか、唯人らは追っ手の姿を見る事なくなんとかユークレンとラバイアの国境、千年樫の森の端にたどり着くことができた。標鳥の指す方向を見て、上り坂を進み茂ってきた草を踏んで森に入り木々の間の少し窪んだ場所でようやく足を停める。荷を軽くする意味でも砂走鳥に水を飲ませて休ませて、唯人は上衣の一枚布を解くとラリェイナの小さな肩を包んでやった。
「森は夜は獣がでるから火を焚ければいいんだけど、見つかったらいけないし。もうすぐ夜が明けるからそれまでここにいよう、寒かったりお腹空いてないかい?」
「大丈夫です、唯人さんこそ休んでください」
「そうしなさい、唯人殿。私が見張っておりますから」
 鋭月にも促され、それじゃ、と窪みの内へ腰を下ろす。少し前から不思議に感じていたが、本当に居るのかと思うくらいミラの沈黙はしぶとく続けられていた。そっと札を顔から剥がしてみたが、両眼の視界が夜空にちかちかしただけで怒っている気配すら感じない。それとなく鋭月に尋ねてみたら、返事はやはりさあ、のみであった。
『……ミラ』
『……』
『聞いてる?』
『……』
『もう終わったんだけど、まだ怒り続けるのかい?』
『……』
『謝ったらいいのかな?』
『ほっとくがええぞ、用がありゃ向こうから言って来るじゃろうて、お主が折れてどうするんじゃ』
 小野坂老は、わりと持ち主を立ててくれる気質のようだ。
『そんな事言ったって……』
 砂漠に近い森の中は、少々肌寒くはあったがうずくまった砂走鳥とラリェイナとで身を寄せ合ってとろりとひと眠りすると、すぐに夜明けがやってきた。小野坂さんに言われたので杖を出して抱えていたら、寝ていた間に森の気が身体に染み込んできた感じで気分は昨日よりはずっといい。もうここからは廃神殿はそう遠くなさそうなので、もともとが砂漠の生き物で森歩きには適さない砂走鳥に残っていた果物を全部食べさせて、砂漠のほうへ帰してやった。身が軽ければ、楽にミーアセンまで戻れるだろう。唯人もラリェイナと軽く腹ごしらえをすませると、標鳥に導いてもらって森の奥へ、廃神殿を目指し入っていった。
「それじゃ、良かったら、どうして外に出てきたのか教えてもらえるかな、この預かり物についても」
 取り出した、最初は黄色っぽかったが今は褐色に縮んでしまった、多分何かの実の欠片らしい物体を見せる。
「あの時は言えなかったんだけど、一級精霊獣師、アーリット・クランは今ちょっと不慮の事態になっていて、しばらく誰も会うことができない状態なんだ。それでもこれは僕が持っていていいのかな、返したほうがいい?」
 やはり砂漠よりは森に馴染んだ民なのか、小さな体でまるで野の獣のように身軽に歩きながら、ラリェイナは短くなったまばゆい金の髪で唯人にかぶりを振って見せた。
「いずれお会いできるのなら、どうかそのままお持ち下さい。私はもう、こちらには二度と来られないでしょうから」
「どうして?」
「そもそもの始まりは、今唯人さんが持っているそれ、金果樹の種だったのです」
「え、これが金果樹の種?」
 改めて手の物を見てみると、そう言われれば食べきった後の林檎とかの芯にそっくりだ。そっと爪を立ててみると、本当に中に小豆大の種らしき物があるのが伺えた。
「金果樹は、毎年実はいくつか付けますが、中に種を結ぶのは本当に稀なことなのです。金果樹も霊樹とはいえ樹ですからいずれは枯れる時がくる、その時の為に種ができたら一級精霊獣師様に托して苗木を育ててもらう、そういう約束を金果の民は預かっています。私の元に配分された今年の実の一切れから、十数年ぶりに種が出たので私達は一級精霊獣師様に知らせを送って里からこの地までの〝道〟を開いてもらうようお願いしました。ところが一週間ほどの前、約束の日に〝道〟は開いたのですが私が種を持ってこの地に降り立った時、一級精霊獣師様の姿はありませんでした。そういう場合はすぐに引き返すよう堅く言い渡されていたのですが。つい、いけないと思いつつ私はそのお姿を探してしまったのです、というより、それを口実に外の世界を見てみたかった、という欲求に負けてしまいました」
「それで、つかまってしまったんだね」
「はい、街道のそばまで近づいてしまって引き返そうとしたとき、あの黒い人に見つかって獣で追われました。あっという間に神殿跡から離されてしまって砂漠に追い出されて。鎖に繋がれたとき、もう駄目だと諦めました。自分で招いたことだからしょうがないとは思いましたが、ただ種の事だけが申し訳なくて。それだけがどうにかできないか悩んでいましたら、私の買い手が決まって街に連れて行かれた数日後、ミーアセンの都市精様が唯人さんの事を私に伝えて下さったのです。それだけで、どれほど私が救われた気分になったことか。種がちゃんと届けられるなら、もう私はどうなろうと良かった。なのにあなたはわざわざ砂漠まで、こんな私を救いに来て下さいました。このご恩にどう報いたらいいのか、考えも及びません」
「報いとか、そんなのはいいよ、僕のほうが最初に禁呪を治してもらったんだから。それに約束の日にアーリットが来なかったのも、テルア襲撃の日かその後と被ってしまったせいなんだろうけど、突き詰めたら僕が元凶だったのかも知れないし」
「一級精霊獣師様は、大丈夫なのですか?」
「うん、危険の山場は越えたから、待っていればちゃんと復活する」
「次に金果樹が種を持つのは、また何十年後になるでしょう。金果の民は長くても五十年程しか生きません、私はもう来られないでしょうから次に訪れるかもしれない私の子らには戒めとして私の愚かな行為と、そして金果樹の使いと名乗った雄々しき救い手の事を、代々語り継がせて頂きます、これからずっと」
「子供って、まだ先の話だね、そんなにかっこよくするのは勘弁してよ」
「はい?」
 おませだな、と頭に手を乗せようとした唯人を、怪訝な表情の金の瞳が振り仰いだ。
「えっと、聞いていい?ラリェイナって、歳は一体いくつなんだっけ」
 唯人の半分くらいしかない背に子供じみた曲線の愛くるしい顔立ちの中の大きな眼、どうみても十歳に満たない程だと思っていたが?
「十八です、子は二人おりますが?」
「……え?」
 うわ!激しく予想を裏切って、たったふたつ違いでベテランのお母さんだった!そう言われれば確かに言葉使いは大人びて丁寧だったし、砂走鳥の上で抱いてあげた時、やけに胸が触ったような気がしないでもなかったような。一気に出会いからのこれまでを思い返して、額に汗が噴き出してきた。成人だ、成人女性なんだと呟いてなんとか頭を切り替えようと頑張っていると、常に先を歩いていた標鳥が突然ぱたぱたと飛ぶというより舞いあがり、白い大岩の上に飛び乗った。それはまさしく、あの廃神殿の白い石英の岩塊であった。 
「あ、着いたよ、ここが廃神殿跡だ」
 空から見た時は、結構広く散らばっているように思えたが。目の前の岩によじ登ると、すぐそこにあの石を敷き詰めた広場状の石庭があるのが見えた。そう言えばここの護りに、次は敷地に入る前に追い出してやると言われたような気もするが。一体どのへんからが敷地だというのか、などと考えている唯人の隣からひょいと身軽に飛び出すと、ラリェイナは石庭ではなく、その南側にあるつる草にびっしりと巻かれた三本の石柱の中心にある丸く盛り上がった場へと駆け上った。
「そこが〝道〟なのかい?」
「はい、一級精霊獣師様の力がまだ続いておられたら、金果の民の〝鍵の調べ〟で里とここを直接つなぐ道が開きます」
 やってみますね、としゃんと立った光を溢れさせているようなその小さな身体から、木々に染みわたり、石に共鳴する……人なら、耳から伝わってその背に震えを起こさせるような澄みきった声が響きだす。最初驚いて、すぐにその人が発しているとは思えない、野の鳥か極上の笛の音のようなその調べにうっとりと意識をとらわれていると、やがてその足元にゆるゆると金色の光の輪が浮かび上がった。レース編みのテーブル掛けのような密で繊細な紋様が、人一人分程にゆったりと開き、噴水のように吹き上がる光で中の人影を覆ってしまう。細く伸び続けた最後の調べが緩やかに途切れ、光が閉じた。そこには、もう金色の小さな姿はいなくなっていた。
良かった、ちゃんと帰れたみたいだ。最後にいいものを聞かせてもらえた、まだ耳の奥に余韻が残っているみたいでくすぐったい。あんな見事な歌を独り占めしてもったいなかったなと周囲を見回すと、すました顔の鋭月と眼があった。
「いい声だったね」
「そうですね」
「分かるのかい?」
「唯人殿のご様子で」
 まあ、そんなとこだろう。ここでいつももう一歩踏み込んだ事を言ってしまったら、返り討ちをくらうのはもう分かった。立ち上がり、標鳥を呼ぶと唯人は木々の間の空に見える陽を眩しそうに振り仰いだ。
「夜までには、帰れるかな」



 結局、ミーアセンの赤茶けた城壁が遠くに見えた頃には、もう夕焼けの大きな太陽は砂の下へと沈んでいた。標鳥が森沿いに通っているユークレンの街道ではなく、執拗に今来た砂漠の方ばかり指すので仕方なくそっちに戻ってみたら、なんとあの年寄りの砂走鳥がまだぽつんと一羽、唯人を待っていてくれた。正直くたびれはてていたので、ありがたくその背に揺られ森と砂漠の境目をのんびり行くと、なんとかスリンチャの一党と出くわす事もなく無事に街まで帰りつくことができた。
「良かった、無事に帰ってこれて。そういえばなんにも言わずに出てきたけど、二人はどうしてるかな」
 城壁の門が、段々近づいて来る。いつもなら数人のユークレン人なりラバイア人が出入りしているそこに、珍しく今は人影がないようだった。
 ただ一人、何も持たずにじっとこちらを向いて立っている、一つの影を除いては。
「……?」
 砂走鳥から降りて、白っぽい服を着ている人影に徐々に近づいてゆく。その顔が分かる位置になった時、どくん、と唯人の胸の中が大きな音を響かせた。
「そん……な……」
 足が、止まった。一気に思考が頭の中で荒れ狂い始める。これはなんだそんな馬鹿などうしようありえない街はどうなってるんだみんなもだ誰もいないミラもアーリットも逃げるのは無理だここでやらなきゃでも万全じゃないけどそんなこと言ってられないどうしたらいい自分で考えなきゃそうだスフィももういないこれはひょっとするとここで……?
 落ちつけ自分、たとえ百の道が閉ざされようと、百一つめの道を探せ。
 ふ、と向けられている顔が口の端を上げ、一見何気ない笑みを浮かべてみせる。その顔は……黒い髪に黒い瞳、薄黄褐色の肌をしたまさしく唯人そのもの、であった。この世界でこの顔を持っているのは唯人の他には只一人、あの、最悪の存在しかいない。早鐘のように鼓動が響き、まばたきさえできない眼が夕暮れの砂漠の風に乾き視界が霞む。無意識に上げた手が腰の鋭月に触れ……。
「……?」
 まさかそんなはずないのに、鋭月からは何の反応も返ってはこなかった。しんと落ちつきはらっていて、わずかでも殺気を感じた時のあの、電流のごとき警告が伝わってこない。何が起こった、と一瞬視線を落とした唯人の前でくっ、と喉を鳴らす音が漏らされた。次の瞬間ぶは、と盛大に吹き出し腹を抱えてうずくまる。同じ顔の相手は呆然となった唯人をよそにひとしきり苦しそうに笑いこけると、涙をふきふき歩み寄ってきた。
「あー面白い、なんて顔だよそれ、極限の百面相、ってやつだね。最高だ、唯人ったら!」
「……ミラ?」
「そうだよ、破壊主だと思ったんだろ。やったね、ざまあみろ!」
「なんなんだよそれ、ひどいぞ!どういう悪ふざけなんだ、まさかこの為だけにここで待ってたってのか?信じられない!」
 極度の緊張を一瞬で破裂させられて、街の手前だということも頭から吹っ飛びぎゃあぎゃあ唯人はわめき散らした。後ろで、自分は一切関係ありませんから、といった顔で鋭月はそっぽを向いている。とにかく帰ろうよ、とくすくす笑いで差し出された手をぴしりとはねつけると、唯人は砂走鳥を引いてずんずん先に歩きだした。
「ちょっと待って、街に入るなら僕と服を取りかえるんだ、そのままじゃ駄目だよ」
「なんで!」
「唯人は、昨日の晩からまた調子を崩して寝込んでるってことになってるからさ。昨日街を出て大暴れしたのは唯人じゃない、どこかの知らない誰かさんだから」
 ぴた、と足を止め唯人は背後を振り返った。どう?と言いたげな顔で自分がこちらを見つめている。その黒い瞳が、くるりと黄昏の淡い群青色に変じた。
「今朝、街にスリンチャの一族って名乗るラバイア人が大勢押しかけてきてね。自分達の物を強奪していった賊がこの街に逃げ込んでこなかったか、って徹底的に探しまわってたよ。治療院にも来たけど、治療士の先生はここには病人ひとりしかいない、昨晩は付き添いと交代でずっと看てたから関係ないって追い返してくれた。彼らが何を見たとしても、ユークレン街道からこのミーアセンに来た旅人、阿桜 唯人は一歩もこの街から出ていない。さ、分かったら大人しく帰ってあのまずそうな薬を飲んで寝てくれる?夜が明けたら熱が下がった、って事にしなきゃならないんだから」
「良かったですね、唯人殿」
 鋭月の声も、どことなくもういいじゃないか、と言いたげな響きを含んでいた。はいはい、と無抵抗な身体から血の染みと砂ぼこりにまみれた衣服がはぎ取られ、治療院の軽衣がかぶせられる。唯人がもそもそとそれを着こむ間に、ミラは砂走鳥から荷物を下ろすと、ミーアセンの城壁に向かってその尻を思い切り蹴飛ばした。びっくりして、しゃがれたわめき声をたてながら砂走鳥がよたよたと街へと駆け戻っていく。それを見送って、またひとしきり笑うとふぅ、と息をつき、ミラはふらりと唯人の肩に寄りかかってきた。
「あは……唯人、僕またひとつ初めての感覚を覚えたよ」
「なに?」
「お腹が空くって、変な感じだねぇ。持ち主の姿をとってるのが鏡精にとっては一番素で楽なんだけど、唯人と離れてたら一日でなんだか実体を維持するのに多少の努力が要るようになったよ、あと一日遅かったらどうなってたんだろ。綱手ほどじゃないけど、結構大食らいだってのを自覚させられたな、ごめん、唯人」
「謝ることじゃないだろ、ミラがいなかったからその分綱手が使えて助かったんだ、いいから早く戻りなよ!」
「うん、そうさせてもらう」 
 ミラと一緒に鋭月も身体に戻し、脱いだほうの服は、帰りぎわに城門の脇で夜の間じゅう焚かれている篝火の中に放りこんで燃やしてしまう。街に入り、あの砂走鳥の店の前を通ると、店主が何食わぬ顔で戻ってきた鳥を奥に引き入れているのが見えた。
『結局、封印の札ってミラにとってはどうでもいい物だったんだな』
『まあ、どうでもいいってわけじゃないけど。さすがにあれだけ劣化してるとね、抜け穴のひとつくらいは探せたよ』
『あまりに返事が無いから、鋭月に尋ねたりしたのにさ、みんなで知らん顔するし』
『それは僕、別に誰にも口止めなんてした覚えは無いよ』
『言えませんよ、あの時の唯人殿は若干の意地で動いておられましたし』
『そうじゃなぁ』
 いい加減にしろと言いたいが、具体的に聞かれない事を曖昧にするというのは物精の処世術らしいし、ミラに助けてもらわないという気負いがあったからこそ普通はやらない力押しもやれたような気がしないでもない。ここは素直に心で感謝しておくことにした。
『いつからあそこにいたんだ?ミラ』
『別に、待ったってほどじゃなかったよ。ミーアセンの都市精が知らせてくれたから』
 ほらあれ、と城壁の内と外、そして街の要所に彫りつけられている彫刻を示される。二つの国の特徴を出した女性の双頭を持った、翼のある豹の姿の守り神だ。
『両方の頭が口げんかばかりしてるけど、ユークレン側の頭は昼と森と街人と〝旅人〟、ラバイア側は夜と砂漠と商人そして〝盗賊〟に加護を与えてるから、今回はとりあえず両方ともそれとなく協力してくれたみたいだよ。街を出る前にはちゃんと都市精のほこらに行ってお礼言っておこうね、お供え持ってさ』
『〝盗賊〟?そんな肩書が付けられたのか?僕』
『唯人が何やったのかはともかく、それを見てた都市精がそう思ったんだからしょうがないね。でもラバイアでは盗賊ってけして悪い称号じゃないんだよ、ごく少数で多数が護る中のお宝だけをさらって消える、優雅で技量のある者への称賛だ。集団で襲った相手を皆殺しにして奪い尽くしたりする連中は、強盗とか野盗とか言われてはっきり区別されていて、こっちは忌み嫌われてるから』
『うーん、それでもやっぱりちょっと複雑かな、僕的にはさらわれた人を助けたんだって思ってるんだからさ』
 出入り口に誰もいないのを確認し、こっそりと細心の注意で治療院の戸をくぐると、窓際の唯人の寝台にもたれて王子が寝息をたてていた。昨日の晩は群島の子がいいって言ったのに、この子が夜じゅうついててくれてね。金果の民の扱いについて、ユークレンがラバイアに働きかけなくっちゃ、って思いを夜更けまで熱く語ってくれてさ。僕だったから良かったけど、本当に熱の出てた唯人だったらちょっとうっとおしかったかもね、とミラが苦笑する。荷を寝台の奥に置き、掛布をめくって細心の注意で身を潜りこませた、その次の瞬間、ぱちりと透明感のある青の瞳が開かれた。
「……起きたの?唯人」
「あ、うん」
 整った顔が覗きこんできて、どれ、と額に手が当てられる。しかし正直、今さっきまで外にいた唯人よりうたた寝していた王子の手の方が暖かく、少し妙な顔をしたが王子は熱下がったんだ、と笑みを向けてくれた。
「夕食は、食べられそう?」
「うん、お腹すいた」
 良かった、じゃそろそろ時間だから貰ってくるよ、と軽く欠伸を漏らしつつ、金髪の後ろ姿が治療士の自宅と繋がっている奥の扉へと消える。なんとかばれなかった、と唯人はミラと一緒に安堵の息をついた。
『せっかく昨日食事が普通になったのに、またあの豆の汁物に戻っちゃったのか。でもそれでもありがたく思えるよ、今はとにかく暖かい物をお腹に入れたいから』
『昨日の夜から、僕が欲しくないってずっと食事を断ってるんだ。それでやっぱりすぐに無理させたんだろうって、治療士さんにしっかりお小言貰っちゃってねぇ……群島の子が』
『うわ、サレ、ごめん……』
『あ、それと、唯人が置いてった治療院の代金は僕が回収して、間食の籠の下に隠しておいてるから。ちゃんと元に戻しておいて』
 この硬貨、何度出しても戻ってくるな、と取り出して再び鋭月の紐に通していると、ちょうど王子が湯気の立つ器を持ってきてくれた。予想に反して野菜と群島米を煮込んだおじやだった、暖かくて胃に優しい夕食でほっこりと体を満たす。温みがまわって口外できない疲れで唯人がうつうつとし始めると、つられてまた王子も目をしばしばさせ始めたので、気持ちはありがたいけど王子が無理したらなんにもならないから、熱は下がったみたいだし今晩はサレとゆっくり休んでよ、と唯人はどうにか王子に宿へと帰ってもらった。
 外の賑わいが微かに伝わってくる療養室で、久方ぶりにテルアでいた頃のように綱手を頭にかぶせて心地よい疲労でぐっすりと眠る。その唯人のもとへ訪問者がやってきたのは、街の灯りはまだそう落ちてはいない、夜半より少し前のことだった。
「唯人、起きられる?……唯人ってば」
「……ん」
「無理?」
「なに……?」
 肩をゆする白い手に、滅多なことでは寝起きで不機嫌になったことはないが、いささか面倒くさそうに返事する。その様子に無理させてはいけないと思われたのか、それきり声がかからなくなってしまったのがかえって気になって、唯人はちょっと薄目を開けた。薄暗い視界の中、唯人の寝台に寄りかかるようにしてミラが窓を開けている。その外に、なにやらぼんやりとかなり大きいものが居るように思えた、瞬間、それはばさり、と大きく羽音をたてて風を起こすと姿を消した。
「今の、なに?」
「あ、ニアン・ベルツだよ、廃神殿から届け物を持って来てくれたんだ」
「え?ニアン・ベルツ?ちょっと待って!もう帰った?」
 唯人の叫びに慌ててミラが窓から身を乗り出すと、屋根の上でいざ飛び立とうとしていたのか、わさわさと羽音が治まり鷲そっくりなでかい頭が覗きこんでくる。寝台から飛び出し、足元の荷物の奥にしまってあったあの預かり物の金果樹の種を取り出すと、唯人は手近な布にそれを包んで向けられた嘴に差し出した。
「ニアン、これを持って帰ってアーリットに届けてくれ、頼めるかい?」
 布をくわえた金緑の眼がじっと唯人を見て、そのまま力強い翼が広げられ夜の空へと舞い上がる。あっという間に見えなくなった後窓を閉め、満面の笑みでミラは唯人に向き直った。
「さて、わざわざ持って来てくれた物なんだけど。すごいお宝だよ、見る?」
「お宝?」
 なんだろう、と薄暗い中寝台の上に座りなおす。頭はすでにしゃんと覚めてしまった、その唯人の前にミラが喜々として差し出したのは。
「……木?」
「うん、木」
 またからかってる?と長さは唯人の腕程度、太さは先細りだがそこそこはある丸太を持ってみる。樹皮がいぶしたような重い金、木肌が明るい黄色味を帯びた、見た目は少し派手だがただの木だ。これをどうしろと、と顔を上げた唯人にこんなのが付いてたよ、とミラは小さな獣皮紙を開いて見せた。
「読もうか?」
「うん」
「我が恩人なる阿桜 唯人様へ、私金果の民、ラリェイナは貴方様の尽力により、無事金果の里の愛しい家族のもとへと帰りつく事ができました。事の次第を話すと金果樹様はたいそう喜ばれ、礼としてこれを差し上げることを許してくださいました。我が里に保存されているうちの一番大きな金果樹の枝片でございます、どうかいかようにもお使いください。それと今後も金果の民を救う局面があれば、なんなりと金果樹の名を使ってよいとの仰せです。それでは、貴方に永久(とこしえ)の世界主の加護がありますよう……以上」
「金果樹?これが?」
「そう、回円主界三大霊樹のうちの一本、金果樹だ。これで杖を作ればおチビの銀枝杖にも劣らない、最上級の杖になる。もう唯人はどんなに大きな精霊獣を持ったって、霊素が枯れる心配しなくてよくなるんだよ。ちょっとだけ寸足らずみたいだけど、他の木で接ぐか槍仕立てにしたら問題ない。いま回円主界に出回っているのは、金果樹が結界に覆われる以前に取り引きされたり略奪されたわずかなぶんだけだから、ほとんど王族が所持してるか、ほんの欠片を組み込んでるのがもの凄い値段で取引されてるかだ。全く、唯人はすごいよ、僕の考えてる段取りを踏んづけていってこんないい結果を手にしてしまうんだから。降参だ、もう金輪際無理に従わせようとはいたしませんから、物としてわきまえることを誓います」
「そんな言い方はやめてくれよ、ミラ。僕だってミラのおかげで助かったこといくらでもあるんだから」
 芝居じみた仕草で優雅に頭を下げられて、困惑しつつ手の中の物を再度ぐるりと眺めてみる。確かに杖にするには少々短めだが……ふと、ぴんと何かが唯人の頭の中で弾けた。
「ミラ」
「なに?」
「これ、スフィに使えないかな」
 ん、とミラも眼を止めた。
「まあ、尺は合いそうだね。けど結構削っちゃうんじゃない?勿体ない気もするんだけど」
「駄目かな」
「唯人のしたいようにしなよ、それは唯人のものなんだから」
 それじゃ善は急げ、と着替える間もそこそこに、唯人は鷲獣に変じたミラに引っ張られると夜空をキント目指して飛び立った。ミラが言うには、唯人がその丸太を持っているだけで霊素が流れ込んできて今気分はすこぶるいいらしい。もし出来上がった杖を持ったら綱手で移動なんて贅沢もできちゃうよ、遅いけどね、とくすくす笑うミラにぱくぱくと無音の抗議を浴びせる綱手を宥めるうちに、崩れた山肌に張り付いているキントの灯りが見えてきた。なにか対策がたてられたのか、麓に避難していた人々の姿はなく、石積みの民家の並んだ無事な区域に仮家をぎっしり立てている。もし引っ越ししてなかったら、木の職人さんの店は一軒知ってるよとミラに言われ、古いほうの街並みの樹の上へと舞い降りる。もう夜更けだというのに、たどり着いたその店の窓からはまだぼんやりと灯りが漏れていた。腕に丸太を抱えたまま、そっと戸を叩いてみる。
「すいません、夜分遅く失礼します、ここはホスさんのお店ですか?」
 返事はない、少し待って光の漏れている窓の方に近づこうとしたら先に窓が開かれた。典型的なこのあたりの鉱山労働者じみた、骨っぽい輪郭の男の顔が突きだされる。
「あ?誰かいるのか?こんな時間に何の用だ」
「ホスさんですか」
「ああ、そうだが」
「ここのバセイ爺さんって人を尋ねて来たんですが、おられますか?」
「親父か?ちょっと待て」
 顔が引っ込み足音が移動した後、店の扉が開かれる。中に招かれ売り物の家具や棚などが並ぶ店内を抜け、壊れた椅子や木材が積まれた奥の工房に連れて行かれると、そこには息子の見た目からは想像もできない、干して丸めたような風体の老職人が一人台に張り付いて作業をしていた。
「親父、客だぞ」
「すまんが、仕事の用ならしばらくは無理じゃ。今ちょっと手が空いとらんでなぁ」
 背中で返事をかえされて、しょうがないな、とホセが机上に目を向ける。
「まったく、それが届いてからもうずっと夢中でかかりきりじゃないか。夜更かしばっかしてると倒れちまうぞ、親父。いい歳なんだから」
「倒れるものか、楽し過ぎて寝る間も惜しいんじゃ」
「えっと、それ送ったの、僕なんですが」
 一瞬の沈黙があり、皺に埋まった顔がくるりとこちらを振り返った。木の部分と金属部分をきれいに分けられて、机の上に並べられているのはまぎれもないスプリングフィールドだ。片眼鏡の眼で唯人を頭から足先までしげしげと眺めた後、バセイはおもむろに節くれだった手を差し出してきた。
「お前さんが、イシュカの手紙にあったタダトとやらか」
「はい」
 ユークレン式に、お互いの手首をつかんで放す。そのまま脇に置かれていた大きな葉製紙が取られ唯人へと向けられた。
「この通り、こいつの構造は全部図面に起こしてすんだ。次は新しい木を何にするか決めようかと思っておったんじゃが。なんか持ってきたみたいじゃな、見せてもらえるのか?」
「あ、はい、そのつもりで持ってきたんです」
 ホス、客人に茶ぁ出さんかいと言われ、溜息混じりで幅広な背が奥へと消える。差し出した丸太を受け取り目にした途端、バセイはまるで子供のようにその顔を輝かせた。
「これで、こいつを作り直せというか?」
「合いますか?」
「合うじゃろ、ていうか合わせてみせるわい。これを使わしてもらえるんならどんな無理でもわしゃ聞くぞ、できあがったら死ねと言われても本望じゃ」
「いや、死なないでください」
 冗談抜きで、興奮で真っ赤になってしまった老人の顔に、大丈夫だろうかとやや心配になる。もう既にどう切り分けるかを頭で組み立て始めたのか、ひたすらくるくる丸太を回しつつ、ふと手を止めるとバセイは不思議そうな眼を唯人へと向けた。
「お前さん、一体何者なんじゃ?」
「え?」
「こんな田舎のジジイのもとに、一生に一度お目にかかれるかどうかの代物を二つもよこしおって。いくら客の事情は聞かんというても度が過ぎておるわ、まさかおおっぴらにできんもんじゃないじゃろうなー?」
「そんなんじゃありません、どちらも僕がちゃんとまっとうに手に入れました。武具は城の人の立ち会いのもとで、木は本人(?)から」
「本当じゃな?」
「世界主に誓って」
「ならワシにもひとつだけ誓ってくれ、これをここで直した事はけして誰にも口外するでないぞ。分かっておろうがこの木の価値はそりゃーそりゃーすごいモンじゃ、削り屑の欠片でも狙って回円主界じゅうの泥棒に集まってこられてはかなわんからな」
「分かりました、それで、いつ頃できそうですか?」
「そりゃあ、納得のいくまで手が入れられりゃあひと月くらいはじっくりとかけてみたいもんじゃが」
 その言葉にえ、と唯人が表情を引きつらせる。それはちょっと、と言い出す前に分かっとる、とバセイは片眼鏡の奥の眼を細めて見せた。
「ま、六、七日というところかの、ワシがこの仕事の出来に自信を持って仕上げられるのはそれくらいじゃ。後、少しじゃが鍛冶に頼まねばならん部分もあるでな、どうじゃ?」
「分かりました、それでお願いします、えっと……」
 唯人が言葉を続けようとしたら、ちょうど扉が開いてお茶を持った中年の婦人が入ってきた。お義父さん、こんな夜分にお客さんなんてどうしたんですか、とじろじろ唯人を眺めまわす。あ、と小さな声がその口から漏らされた。
「あなた、もしかして、少し前にここに来てた王都の精霊獣師さん?」
「あ、はい」
「お久しぶりね、中央坂通りの饅頭屋のカノちゃんが、あなたがみんなを助けて山崩したって言って噂になってたけど。本当?なにかの勘違いよねぇ?」
「え、あ、いや、それはアーリットが……違うか、ええと……」
 言葉に詰まってもごもごしていると、この若いのには到底無理でしょ、と自分で納得がいったのか、ホス夫人であろう女性は愛想笑いでごまかしお茶の盆をどん、と机の上に置いた。その振動できちんと並べられている部品が一斉にぐらつきあう、とバセイの顔が一瞬凍る。そのまま唯人に興味を失った様子で夫人は部屋を出て行った。
「全く、女なんてもんはなーんも見とりゃせんのう。ワシはこれを持ってきたお前さんなら、そんくらいのことはやってのけると察しがつくわい」
「すいません、僕も寸前まであんな事になるとは思わなくて」
「別にかまやせん、エンプの屋敷が壊れようと誰も気にせんし、街の地下坑道は、要所を補強さえすればまた問題なく住めると王都から来た調査員が言うてきた。今残った鉱夫が総出で補強工事をしとる真っ最中じゃ、金にはならんが自分らの街の事なら気合い入れてやらんとな。王都の襲撃騒ぎで雲石の切り出しもまたせにゃならんから、出て行った連中も帰ってくる算段をしておるらしい。キントはいい方に向かっておるよ、んで、さっき何言おうとした?」
 話を中断させた湯気の立つお茶を、ありがたく頂き一口啜る。懐かしい、カノの店で出されたのと同じ白花茶の味だった。
「あ、それで、代金の話なんですが」
「ほう」
「正直、僕には相場が全然分かりません。いくらぐらいになるんですか?」
「そりゃ、ワシにもわからんよ」
「え?」
 盆の上にある小皿の豆をつまみながら、バセイが首を振って見せる。
「椅子やなんかの修理代なんぞ、材料は上の鉱山の木じゃからほとんど取らんし。お前さんも材料は持ち込みなんで、後はワシの手間賃ということになるが、正直こいつに関しては、仕事をしたって気分にはなれんかったわい、面白すぎて」
「でも、無料ってわけには、あ、じゃあもし良かったら、残った木屑を引き取ってもらうって事では?」
「お前さん、欲が無いのう、それともよほどの物知らずか!」
 ぶはは、と突然爆笑され足をばたつかせる丸い背を慌ててさすってやる。分かった、それじゃあ残ったぶんはワシがここで預かっておいてやる、必要になったらいつでも取りに来い、それまで眺めたり触らせてもらえればそれで報酬は充分じゃと涙混じりで呟かれ、唯人は感謝の気持ちで胸が一杯になって、ただ頭を下げるしかできそうになかった。
「おーい、お客人、こんな遅くに来て宿は用意できてるのか?キントの宿は今全部借住居になってるから、泊まれるとこなんて無いぞ。うちの材木置き場で良けりゃ、寝るだけくらいなら用意させるが」
 気を使ってくれたのか、奥の部屋から声がかけられる。あ、おかまいなくと返した唯人の声などかき消される音量で、バセイの大声が響いた。
「そんな心配失礼じゃぞ!出来のええ精霊獣師ってぇのは、北のトリミスから南のミーアセンまで一晩かけずに往復できるそうじゃ。この客人もワシらには想像もできん遠くから来て、当たり前に帰るんじゃろうて」
「はい、大丈夫です、もう用は済んだので帰りますから。夜分にお邪魔しました」
「んじゃまた後日にな、期待して待っておれ」
「楽しみにしています」
 最後に、その節くれだった手をもう一度しっかりと握って別れの挨拶とする。半月が見下ろしている空を飛んでミーアセンに戻り……。
それから三日、悲しい事に唯人はいまだ寝台の上の人のままであった。朝になったら熱が下がったよ、良かったなぁですませられると思ったが、金果の子の件でがっかりさせたと思い込んでしまった王子と治療士にお小言くらったサレ、両者は固く手を取り合ってそれで済ませてくれはしなかった。動かないのに食べると太るとか、足がやせるから動かしたい等の要望もことごとく二人がかりで却下され、最後にはあの二人を捨てて街を出ようか、と冗談めかしてミラと計画を練るくらい煮詰まった四日目の朝、ようやく治療士からそろそろゆっくり運動しなさい、とのお達しが降り、唯人の要望でみんなでミーアセンの都市精のほこらにお参りに行ける事となった。
「なんで今になって都市精参りなの?そりゃまるっきり無視ってわけにもいかないけれど、唯人がここでお参りしたくなるような何かってあったっけ?」
「だって、他に観るものなんて何も無いだろ。ただ歩いてても怪しいのにたかられるだけって気がするし、二人ともまだ行ってないって聞いたからさ」
 文句を言っているわけではない、ただ純粋に不思議そうな王子に、まあ足慣らしにはちょうどいい距離じゃないかとサレがとりなしてくれる。テルアのように立派な聖堂があるわけではない、城壁の内側に浮き彫りにしてある大きな双頭の像にひさしと祭壇を付け、多くの人々が絶えず祈りを捧げている。そんなミーアセンの都市精のほこらの前まで来ると、唯人はここの決まりで中の果物や菓子が種類ごとにきちんと偶数になっている(奇数だと二つの頭が喧嘩になって、すごいバチを与えてくるそうだ)お供えの籠盛りを買って、その中にバセイ爺さんに削ってもらった金果樹の樹皮をふたつに割って忍ばせ祭壇に乗せた。これはラリェイナの分のつもりだったが、像の前に膝をつき感謝の言葉を頭の中で唱えているとふと、頭の中に聞いた事のない、女性らしき二重の声が響いてきた。
『来ましたね、私ミーアの、旅人への加護を受けし子……』
『来たな、我アッセンの盗賊への加護を受けた子……』
『聞きなさい、旅人の子』
『聞くがよい、盗賊の子』
『奪う者がまだこの街にいます』
『奪われぬよう、けして気を抜かぬことだ』
『言葉が欲しくば、いつでもおいで』
『道を望めば、いつでも来よ』
『旅人の子』
『盗賊の子』
 え?ラリェイナはもう里に戻したのに、どういう意味だろうと頭を上げたが、声はそこで途絶えてしまった。言葉の通りに取るなら、数日前この街に来て唯人を探したスリンチャの連中がまだ街にいて、何かを奪い返そうと手ぐすね引いているのだろうか。というか、彼らに自分の顔が知られているのかそうでないのかが一番の悩みどころなのだが。帰りの道すがら歩きながら考えていると、サレが屋台で好物の本場ラバイア式腸詰の焼いたのを買ってきてひと口かじれ、と差し出してくる。考え事で頭が一杯になっていて、これがどういう味だったかついうっかり忘れてしまっていた。
「辛っ!」
「唯人、それ、前に王宮の祝宴で食べたじゃない。あの時二度と食べないって言ったの聞いた気がしたんだけどなぁ?」
 くすくす笑いながら、どうせこうなるんだろうと予感していたのか、王子が香料と砂漠キビの搾り汁を冷たい地下水で割った飲み物を差し出してくれる。一気に含むとひりひりする舌に独特の甘さが心地よく染みた。
 陽はあくまでも眩しくて高く、行きかう人々は皆せわしなく、通りは常にざわめいている。ごくありふれた境界の街の、昼下がりが過ぎて行く。
「よし、じゃあ昼は快気祝いで、唯人の好きな物食べに行くとするか。もうこの街の大体の飯屋の味は把握したからな、唯人、何がいい?」
「辛くないのがいい」
「分かりやすいねぇ、唯人ったら」
 くすくす笑いを復活させた二人に連れられお勧めの店に行き、おいしい物をたっぷり食べた後治療院へ戻る道すがら、王子が唯人の間食籠の乳果が切れている事を思い出した。これは綱手の好物で、あったらすぐに食べてしまう。市場なら治療院から近いから自分で行くよと言った唯人に、僕も宿で食べたいから、と王子はそのまま市場へ引き返して行ってしまった。このところ結構一人で買い物してるから、と特に気にするでもなくそのまま唯人を送り届け、また夜に来るよと言い残しサレも宿へと帰っていった。
 ちゃんと、忠告は受けていたはずだったのに。
 ……それきり、朝になっても二人は戻ってこなかった。

群島国編


「どうも、長い間お世話になりました。ありがとうございます」
 ちゃんとまとめた荷物を背にかけ、白い長衣姿に深々と頭を下げる。治療費いくらになりますかと呟いた唯人の無表情に、治療士はせめてもう一日くらい休んでいかんかね、と仕方なさそうに言ってきた。
「お代なら、先払いで貰っとるから。ほら、これ」
 引き出しから取り出した、よく見ると唯人が鋭月の紐に付けてある硬貨と同じ物を見せられる。ずっとよく分からないまま高額硬貨だと思っていたのだが、聞いてみると、軍の命で行動中の者が任務中にかかった諸費用を対象者が国に直接請求できる小切手のような物らしい。確かに饅頭ひとつ買うのには使わないな、と改めてアーリットは何考えてこれくれたんだろう、と溜息をつきつつ唯人は診療室の片隅に置かれた大小二つの荷をちらと見た。
「荷物、よろしくお願いします」
「はいよ、取りに来るまでちゃんと預かっといてやっからね」
 誰も来なかった夜を訝りつつ朝を迎え、一番に宿に行ってみるとそこには片付けられていないそのままの部屋と、一晩使われなかったらしい冷えた寝床があるだけだった。宿の主人に聞いてみると、昨日の午前、唯人と出かけてから後一度も戻った様子は無かったらしい。唯人に何も告げず二人でどこかへ行く、そんな事態はありえない。治療院を出てある場所に向かう唯人に、ミラがそっと囁きかけてきた。
『都市精のところに行くの?』
『うん、何か見てたら教えてくれるかと思って』
『それがいいよ、賢明な判断だ』
 昨日とはうって変わって足早に道を行き、巨大な彫像の前に立つ。こちらが問いかける前に、すぐあの女性らの声が唯人の頭に響いて来た。
『来ましたか、旅人の子』
『来たか、盗賊の子』
『お願いです、知っていたら教えて下さい。昨日僕と分かれた後、あの二人に何かあったのですか?』
『知っています』
『見ていたからな』
『金色の旅人の子が、砂漠から来た者に囚われました』
『黒い夜の子は、それを追って去っていった』
『出て行ったのは西の門』
『追っていったのは昨日の夜』
『分かるのは、そこまでです』
『分かるのは、そこまでだ』
『ありがとうございます、感謝します。せっかく昨日忠告を頂いたのに、無駄にして申し訳ありませんでした!』
 ぐいと頭を下げ、彫像に向き直ると刻まれている双頭の顔が気にするな、と労わるような表情を浮かべたように見えた。そのままきびすを返し、北西南と三つある門の、群島連合国へと繋がる西門へ向かう。門を出て、すぐユークレンと群島連合国沿海領の境になっているキーアセ山脈から続いている森に入ると、唯人は人の少なくなってきた頃を見計らって標鳥を呼びだした。
「標、二人の行方はこっちでいいのか?」
 鳥の真っすぐな尾は、ぴたりと道から少しずれた森の中を指している。この先道が曲ってその途上にいるのか、森の只中なのかは残念ながら、標鳥ではそこまでは分からない。ミラに乗せてもらって一気にいければ早いのだが、これもまだ新しい杖ができていないので、無理をしたらまたミーアセンに逆戻りしかねない。しばらく思案した後、唯人は道を外れて森の中へと分け入っていくほうを取った。
 森から引き返すのはいつだってできるし簡単だが、道なりに進むのは、もし道があさっての方に続いていたらそこから引き返すのは時間の無駄だ。道から外れた山肌も、まだ草とかが生い茂ってとても踏み込めないとかいう状態ではない。ごちゃごちゃと葉を茂らせた背の低い灌木が並ぶ山の斜面をとにかく肩の標鳥の示すままに進んでゆくと、ふいに、見たところあまり使われてはいないような獣道っぽい細い山道に出くわした。
『ミラ、これって人の道なのかな』
『そうだね、狩りのときとか山菜採りで地元の人が使ってる道なのかも。主道とは別に、群島国側にまでつながってる可能性はあるよ』
 よく見てごらん、と示された地面に顔を寄せてみると湿気を含んだ土の上の落ち葉を人が踏みしめた跡がある。足跡は、更に先へと進んでいるようだ。
『まだ、そんなに古くはない。とりあえず、注意して進もう』
『うん』
 千年樫の森とは違い、茂っている木の丈が低く密でないのでそう暗くはない山道を一人もくもくと進んでいく。すると、山のそこここにさまざまな獣が潜んでいて、じっとこちらを見ていたり、突然飛び出して逃げ去ったりして唯人を驚かせた。今も見上げると、道が上り坂で続いている遥か先に黒くて結構大きな何かがいるように見える。襲ってこないといいんだけど、と足を止めた唯人に、その黒い影は突然奇妙な声を響かせた。おーう、とかほーう、に聞こえる朗々とした声。それを耳にして人間だ、と気付いた途端、その付近から更に二つの影が現れた。
『唯人、逃げよう!』
 相手が何なのかは分からないが、とにかくつかまらないほうが良さそうなのは瞬時に分かった。草むらにでも逃げ込んで、ミラに姿を隠してもらえば、などと考えくるりと身をひるがえした。唯人の腕に、どこからか矢のごとく伸びてきた何かがびしり、と巻きついてきた。
「……わっ!」
 枯葉に覆われた山道に、勢いよく体が引き倒される。すかさずうつ伏せに押さえ込まれ、首筋に冷たい刃が押し付けられた。
「つかまえたぞ、群島のネズミ!」
 わらわらと、周囲に集まってきたのは全部で四人、全員黒い肌のラバイア人だ。それと唯人を押さえているのと刃を向けているので全部で六つの顔が唯人を見下ろしている。身の内で綱手と鋭月が動こうとするのを感じ、唯人はそれを必死で押し止めた。左腕を戒めているこの鎖の鞭には覚えがある、冷たい刃を何とか避けつつ頭を上げると、下半分を布で覆ってはいるが、忘れようのないきつい印象の顔と視線が合った。
「首が繋がってるうちに、大人しくお前らの正体を吐きやがれ!この浜蟲めが!」
「……?」
 何を言われているのか分からず、思わずぽかんとすると、乱暴に髪をつかまれ首筋を刃のほうにぐいと押さえられる。肌に食い込む感触はあるが、それとなくミラが護ってくれているのか切れた感じはしない。必死で離れようともがいていると、ふと、剣を握っていた細い腕がその刃を伏せた。
「何してる、セティヤ」
「これは、違うかもしれません」
 柔らかな物言いの、この声も聞きおぼえがある。
「見て下さい、この少年。確かに群島人の顔ですが、着ているのはユークレンの衣装ですよ」
「誰と間違えたのかは知らないけど、僕にはあなた達にこのような仕打ちを受ける理由が分からないのですが。物取りなら荷物は差し出しますから、どうか乱暴はしないでください、お願いします」
「俺を、物取りだと?」
 困惑の表情で訴える唯人にシェリュバンだったか、の黒い精悍な顔が目つきの悪い顔を更に険悪にする。まだ手は戒められたままで体をぐいと引き起こされると、とりまく六つの顔は唯人の顔をじろじろ眺めまわした。
「どう思う?スワド」
「んー、見た感じじゃ、どっちかってえと無害な面ですかな」
 もしゃもしゃと縮れた髭を蓄えた、初老の男がぼそりと呟く。隣の頬傷の目立つ少年もうん、と首を動かした。
「細っこい腕だし、丸腰だよ」
「まぎらわしいなぁ、この状況でこんな道を歩いてくるのが悪いんだよ」
「……なあ、面倒臭いからこいつ片付けちまおうぜ?」
 長刀を背に負った男と、目だけ出して黒い布で頭を覆っている若者の言葉で一通りの発言が終わり、視線がシェリュバンへと戻される。
「冗談はよしなさい、確かに、どこの訛りもないユークレン語ですね。一位の君、その方、放してあげてください。腕に印があるから両性ですよ、群島生まれの他国育ちでしょう」
 ちっと舌打ちされ、腕の戒めが解かれた。もう興味は無いといった面持ちで去ろうとする一同の中、まだ記憶に新しいセティヤと呼ばれた青年だけが腰を下ろすと唯人の衣服の泥を払ってくれた。
「申し訳ありません、ごらんの通りみんな慣れない地なもので少し気が立っているんです、物取りではないのでどうか怖がらないで。どうして主道でなく、こんな滅多に使われない裏道をやってきたんですか?群島領へ行くのなら、悪い事は言わないから今回だけは主道をお行きなさい。私達はタチの悪い野盗を追っています、いつ出くわすか分からない彼らとの戦いに巻き込まれたら、次は本当に命がないですよ」
 ラバイア訛りのユークレン語で穏やかに語りかけてくるセティヤは、ほぼ向かい合っているにもかかわらず、唯人があの〝金果の使い〟である事にまったく気がついてはいないようだった。とりあえず良かった、と心の中で息をつく。じゃあ言いましたからね、と腰を上げようとしたのを唯人は慌てて引きとめた。
「すいません、僕にも教えて下さい。その野盗って、人さらいですか?」
 視界の奥で、ほぼ足音を立てず離れて行く一団の足がぴたり、と止められる。
「僕、連れの子がミーアセンでさらわれて、それを追いかけてここに来たんです。街に来たスリンチャの連中が金果の子を探してたから、昼毛のその子が連れていかれたのかって……」
「で、私達を追ってきたと」
「それで、どうしようってんだお前。俺達と優雅にユークレン式の交渉でもしようってつもりだったのか?よほどの大物ってのならともかく、ラバイア人なら十人中十一人が、お前もふんじばって持ち金奪った後にたたき売っちまう両得をとるがね」
 スワドと呼ばれた初老の男の言葉に、残りの全員がそりゃそうだ、と笑って見せる。破壊主と比べれは、いざとなったら只の人間六人くらいどうにでもできる自信はあったが、それは最後の手だろうとこの場は落ち込んだ風で俯いてみせるとセティヤだけはやめなさい、と仲間を睨んで黙らせてくれた。どうやら唯人を両性だと思い込んで、少し親近感を持ってくれたようだ。
「冗談でもそういう事を言うと、ユークレン人に、スリンチャ族があの野盗集団のクルニ族と同じに見られてしまうんですから!あの、説明するとややこしくなるんですけど。私達はあなたの言う通りスリンチャの民なんですが、あなたの連れをさらった本当の野盗を追ってるんです。さらわれた子はきっと助けてあげますから、ここは私達に任せて街へ引き返してはもらえませんか?気持ちだけではどうにもなりはしませんよ、お若い方」
「でも……!」
「そもそも、そのさらわれた子、ってのはお前とどういう間柄なんだよ」
 引き返してきたシェリュバンが、もう一度唯人を余すところなくじろじろ見まわして呟く。どうやら見た感じ、金髪の子の身内とは思えない唯人が必死なのが引っかかったようだ。そりゃあ王子だから……と言おうとしていけない、と一瞬言葉につまってしまった、唯人の胸倉が再度伸ばされてきた手に素早くつかまれた。
「やっぱり、こいつおかしくねぇか?」
「ちょっと、シメて吐かせてみましょうか」
 低い声を漏らし、男達が詰め寄ってくる。やはり荒事になるしかないか、と諦めの溜息をついた唯人の頭上から、ふいに、重い羽音らしき響きが降ってきた。
「……?」
 全員が見上げようとした、その動きより速く、何かが人の居並ぶ只中に飛び降りてきた。滑るように割り込んできて、銀の光が走ったと思ったら一瞬で唯人の胸元を引いていた手が弾かれる。その褪せた金髪の後ろ姿が目に入った瞬間、唯人のまわりの全ては瞬時にどこかへ吹き飛んでしまった。
「……探したぞ、唯人」
「アーリット!」
 振り返ったその肩を、飛びついて夢中で抱きしめる。見とれるような緑の眼もそれがはめ込まれているその顔も、全然何ひとつ変わっていないアーリットだ。嬉しさのあまり、更に言葉を続けようとした唯人の脇腹が、だしぬけに見えない位置にまわされてきた手でぐいと力一杯鷲掴みされた。
「……!」
 あまりの痛さに、悲鳴も含めて声が止まった。くぁ、と息だけ漏らした唯人の上体が、再会の喜びにしてはどうか、と思いたくなる妙な体勢で熱っぽく抱き返される。ものすごくいい笑顔なのに、その眼の奥からいいから黙ってろここは俺に任せておけ分かったかさもないと……的な圧迫感のあるオーラが漏れているのを感じとり、訳が分からぬまま引きつった笑顔で唯人はそれに応え、ひしと目の前の胸にすがりついた。
「なんで、俺が帰ってくるまで待っていなかったんだ!」
 なんか、小芝居が始まっている。それであれば、自分の役が把握できるまで何も話さないほうがいいのは分かったが、それにしても顔が近い。耳のすぐそばで話しかけられたら、背中がむず痒い感覚に襲われる。それがどう映ったのか、目の前の光景に一瞬気を飲まれた様子で言葉を失っていたシェリュバンらがふと我に帰り、剣呑な視線を向けてきた。
「おい、いきなり降って来やがって。何者だ、お前!」
「俺か」
 振り返るその仕草が、なんだかすごく格好いい。こういう時は、本当にその男らしさについ見惚れてしまう。
「人に名を聞くときは、まず自分から名乗るもんだが。まあいい、俺の名はアーリット、テルアの軍属精霊獣師だ。お前らがどこの誰かはどうでもいいが、大勢でこいつに手出ししようとしてるんなら、この俺が許さんぞ」
 上げられた手が、さり気なく唯人の頬に添えられる。大切さを示しているようにも、この後唯人が見せるだろうとんでもない表情を隠そうとしているようにも伺えた。
「こいつは、俺の〝伴侶〟なんだから」
 ええええっ!?
 いつどこでなんでそうなった、と目を白黒させる唯人の視線アピールをさらりと無視して背のほうへと押しやられる。どんな種類の生き物でも雄同士が戦う前にまずやりあう〝眼力で相手の力量を計るモード〟に入ったシェリュバンを、こちらも不敵な笑みで受けるアーリットを唯人は己の立場がなんだかおかしい事を感じつつ、黙って背後から見守った。
「お前ら、ラバイアのスリンチャの一党か。ミーアセンであれこれやってたみたいだが……誰がやったにしろ、俺のガキの行方を知ってるみたいだな。首に頭が乗ってるうちにさっさと言ったほうがいいぞ、ガキはさらわれるわ伴侶は襲われてるわじゃ、今の俺の心中、お前らにだって分かるよなぁ?」
 こういう物言いと、それにふさわしい凄みを効かせるのを呼吸のごとくさらりとやれるから、よほどの考えなしか無鉄砲でない限り、皆この痩身の精霊獣師を腕力でどうこうしてやろうという気を収めてしまう。唯人を含め素姓が怪しくないのなら、無駄に争っていい相手ではないと判断したのかすいと殺気を収めると、シェリュバンはおもむろに顔の布を引き下ろしてアーリットに向いた。
「いかにも、俺は北ラバイアを預かるスリンチャ族の一位、アビ・シェリュバン・ウスル・スリンチャだ。後の五人は俺の部下、言っておくがお前の伴侶に乱暴するつもりはない。だが、お前の子をさらった連中が群島の奴なんでな、奴らの一味か間者の疑いが感じられれば調べないわけにはいかん、それだけだ」
「なんで、群島の連中がミーアセンに来て子供をさらうなんて事やりやがったんだ」
「向こうの事情は知らん、俺はただ、俺の部族の失態を購う為に子供を取り返しに行かねばならんのだ。本来は部外者には教えないがさらわれたのがお前達の子なら仕方ないな、歩きながら事情を話してやる、ついてこい」
 見事、としか言いようがない采配であった。これまでの成り行きを全て理解した上でこの状況に無理のない設定を唯人に被せ、相手を納得させ情報を与える気分にさせた。歩きながら話し始めたアーリットが、それとなくシェリュバンとの会話の中に織り込んで唯人に聞かせた唯人達の架空設定は、アーリットと唯人は番(つがい)どうしで(両性どうしの婚姻は、夫婦という言葉を使わないし夫と妻という観念もない)さらわれたのは唯人が産んだ子。普段は家族でテルアに住んでいるが、アーリットが仕事でしばらく留守にした間、唯人が子連れで群島国に出かけた途中立ち寄ったミーアセンで災難にあった、というものであった。
『相変わらず、嘘つかせたら右に出る者なしだねぇ、おチビって。昔から、怪しい場所や敵地に潜りこむ仕事を普通にこなしてたからこういうの上手いんだよ。でもこうやってこっそり後ろから顔見てると今回の設定はおチビも新鮮みたいだ、さすがに子持ちってのは初めてなのかな。唯人もさっさと頼れる伴侶のそばで子供の身を案じる親の顔になってよね、今別の意味で泣きそうな顔になってるよ』
『そりゃあ、そうだろう……』
 心配そうにミラが囁きかけてきたが、正直唯人は今の自分を誰も責める事はできないだろ、と最低のテンションに浸りきっていた。唯人の世界に置き換えてみたら、暴漢から助けてもらったか弱い妻が男の唯人で、颯爽と助けに現れた最強の夫が両性のアーリット。そしてそのアーリットの子を自分が産んでいて、それが普通にまかり通る世界……頭が痛い、駄目だ、深く考えるな。これについてはサレに聞かされた時点で理解の終わったことじゃないか。そうだ、そもそも両性だと思うからわけが分からなくなるんだ。アーリットもサレも王子もひとくくりにするのにはすごく無理があるが、男性だと思えばいいじゃないか。で、自分と夫婦なわけで、と完璧に負の思考がループした。
『頼むから、泣かないでよ?唯人』
 唯人の暗いオーラを感じ取ったのか、前をシェリュバンと歩いていたアーリットが振り返りふっ、と心配するな、の表情で手を差し伸べてくる。この世界に来てすぐの頃だったら、こんな事してくるアーリットじゃなかったので戸惑っただろうが、暗示というものは恐ろしいもので今は何だか不安に押しつぶされそうな若妻に憑依されているような気分になって、唯人はその手を恥ずかしそうにそっと取った。
 セティヤまでもが、砂漠で初めて会った時とはもう別人だと思いたくなるくらいな〝若い奥さんお気の毒〟の顔でこちらを見つめている。思えば今まさに自分はこの世界においては正しい扱い、つまり両性扱いされているんだなあと突然自覚し、唯人はいささかのめまいを感じつつ、アーリットの背中越しの、彼とシェリュバンの会話に耳を傾けた。
「王都のユークレン人にしていい話かどうかはともかく、数日前、俺達スリンチャの一党はとある商人との取り引きの為、集落から出てミーアセンの南に陣を張っていた。そいつが滅多に手に入らない金果の鳥を売るってんでな、金を用意して待ってたんだ。ところが取り引きが終わった直後に、変な奴が突然やってきたと思ったら鳥をかっさらって行きやがった。金果樹の使いだとかほざいてたが、そんなワケないだろうが。ユークレン語使ってたからありゃ多分ユークレンのバカ強い霊獣使いだな、うちのセティヤが手も足も出なかったんだから」
「だから、本当に竜がいたと何べん言えば分かるんです、もう、次は知りませんから竜に喰われてしまいなさい!」
 見えないシェリュバンが信じようとしないのがよほど悔しいのか、眉を吊り上げてセティヤが叫ぶ。やれやれと言った表情のシェリュバンに、唯人は黙って知らん顔をした。
「で、俺はてっきり商人の野郎にはめられたと思って代金はとり戻してやったんだが、考えてみりゃあそれなら取り返しに来るのがちっとばかし早かったな、と。その後、とりあえず奴の手掛かりでもありゃあとミーアセンを洗ってみたんだが、それがまずかった。情報集めの奴がしくじってスリンチャが金果の鳥を奪われた、ってのが街に拡がっちまってな。表向きは変わらないが、水面下では宝探しがおっぱじまっちまった。昼毛の子供が何人かいなくなっちまったが、そのうち二人はなんとか見つけ出して、親に返して今護衛に護らせている。多分、その中に金果の鳥はいない、結局子を探す親は二組残ったが、お前らを足していなくなったのは三人か。ミーアセンの地方軍が動き出すと、俺達の失態がユークレンとラバイア間の問題にまでなっちまいそうだから、できるだけ待ってもらうよう親連中に口止めして俺達の手で事を収める事にした。で、よければ、お前も軍抜きで協力してくれるとありがたい。セティヤが都市精に聞いた話では、子供はなぜか全員群島国人らしき連中に買い取られた後、まとめて連れ去られたらしい。俺の部下の鼻が利くのが見つけたこの道の先は、多分主道とは別の行程で群島沿海領につながっているんだろう。なんとか追いついて取り返してやる」
「それで、結局金果の鳥はどうなったんだ」
「知らねえし、それはもういい、俺はスリンチャの一位としてやるべき事の順位はわきまえてる。それに、これはあくまで俺の推測だが、あんなバカ強いのが連れてったんだから、誰ももうあいつから奪うなんて事できねぇよ。鳥も自分からついて行ったみたいだったし、あいつがもし万が一にも本当に言った通りの奴だったなら、もう鳥は空に帰っちまったろうな。ま、俺は金は戻ったし代わりの物は充分得た、損はしてないからこの話はもう終いだ」
 話を聞いているうちに、この人結構いい人なんだ、と唯人は改めて目つきの悪さで損をしているシェリュバンの顔を後ろからそっと覗き見た。全てを損得で考えるのはラバイア人の持って生まれた気質だが、彼は権力にものをいわせて一方的な得を得ようとはしない。誇り高く責任感があり、人の上に立つ者の傲慢さでちゃんと末端の失態を己の物として受け入れている。首位の座の為、彼の兄弟を次々と殺めたという叔父に比べれば、彼が首位に付いた方がよほどスリンチャという部族の為になりそうだなと感じられた。
「で、一応聞かせてもらいたいんだが。このまま俺達に付いてくるんなら、軍属の精霊獣師のあんたは戦力としてあてにしていいんだろうがそっちのお嬢さまはどうなんだ?正直使えそうには思えんが」
「申し訳ないが、その点については俺も見栄は張らん、こいつは戦力に入れるな。だが帰らせようとしてもついてくる気質だし、自分の身を護るくらいはできないこともない。最悪、俺が護るから同行させてやってくれ、頼む」
「そういうことでしたら、ぜひ私に任せてください。外敵もそこの礼儀知らずどもも、指一本触れさせませんから」
 なんだか微妙にテンションの上がっているセティヤの言葉に、周囲の礼儀知らず一同から言葉にならないブーイングのオーラが滲みでる。そういえば綱手がやっちまったこの人の精霊獣、どうなったのかなあと思うことで唯人はさりげないシェリュバンの暴言と、この〝歩兵隊に民間女性が同行することになって空気がおかしくなっちゃったよ〟状態を我慢することにした。
「一位、思ったとおりだ、この先に洞窟がある。正しい道を知ってりゃ主道の峠を越えるより速く群島側に抜けれる地下の裏道だ」
 常に少し先を行くスリンチャの二人、黒布を巻いたイェンと頬傷のサテクマルが戻って来てそう告げたのは、山道を二時間ほど進んだ後。高さ的にはそう登っていない山の奥深くでの事だった。
「やっぱりな、多分、このあたりのユークレン人やミーアセンの奴らもこの事は知らねぇんだ。で、中はどうだった?」
「入り口から覗いただけでも、奥で道がいくつにも分かれてる。さすがにサテクマルの鼻でも、あそこから先は無理だな」
「俺達には湿気がきつすぎるんだよ、砂漠とは違うから」
「かといって、無闇に進んじゃ絶対無理だ、どうする?」
 ふん、と考え込んだシェリュバンを見やり、アーリットがさりげなく唯人の脇を小突く。なんでこんなに何でも知ってるんだろう、と訝りつつ唯人は横のセティヤに声をかけた。
「あの、セティヤさん」
「はい?」
「僕、標鳥っていう道標の精霊獣を持ってます。これに頼めば出口まで連れて行ってくれるんだけど、一位さんには見えないから、信じてもらえるかな」
 ほい、と肩に出して見せてやる。私は見えているから信じるのも楽ですが、ラバイアでは霊獣使いはそういませんし物精などもあまり知られてはいませんからね。一応は話してみますが、と難しい顔でセティヤはシェリュバンに声をかけた。
「はあ?道標の精霊獣?って、ミチシルベってなんだ」
「街をつなぐ道にある、場所の方向とか距離を書いた石や板ですよ」
 うーん、まずそこからだったか、確かに砂漠に道標は無い。
「んで、その石だか板だかが鳥で道案内するってえのか、わけ分からんな」
 黙って待っている、そのわけ分からんで出来ているようなアーリットが、頭と眼に砂のつまった野郎だな、と小声でぼそりと呟いた。
「分かった、信じられんのなら俺達は先に行くから、お前らは後から付いてくるなり好きにしろ。行くぞ、唯人」
 それだけ言うと、ふいときびすを返し歩き出す。道の先にぽっかりと開いている洞窟の入り口まで行って標鳥を放そうとすると、なぜか鳥は、何かを嫌がっている様子で唯人の肩を足でつかんで踏ん張った。
「どうした?標」
 何かいるのか?と真っ暗な穴の入口に近寄ろうとする、その肩をアーリットがすいと引く。振りかえった唯人の耳に、暗がりからかしゃかしゃと硬い物が触れ合っているような微かな音が聞こえてきた。
「やはり、ここはまっとうな奴は近寄れないようになってる隠し通路みたいだな、ちゃんと番を置いてやがる。ユークレン領の治安を預かる者として見過ごすわけにはいかない、退治させてもらうとするか」
 なんだ?と近寄ろうとしてきたシェリュバンらを唯人が止めるその目の前で、洞窟から巨大な人の手のような物がぬっと這い出てきた。毒々しい朱と黄のまだらに覆われた、びっしりと脚の並ぶ、イソギンチャクが殻を持って蟹になったような気味の悪い生き物だ。精霊獣ではなく本物の蟲なのか、息を呑みながらもゆっくりと得物を構えた一同にまあ任せろ、とアーリットは片手をあげた。
「分かった分かった、半月ぶりの生き餌だからって騒ぐな。今喰わせてやるから勝手に行け」
 こん、と杖の先が地を叩く。光と共に拡がった紋から踊り出た獣らは、まるで放たれた矢のように一直線に蟲目がけて襲いかかっていった。瞬時に四方から喰らいついて、穴に戻ろうとするのを封じると、裂かれた殻の穴に我先にと頭を突っ込み中の肉を貪ってゆく。耳を覆いたくなるような音と体液が飛び散る一方的なその光景に、途中で気持ちが悪くなってしまったのは唯人と多分臭いに負けたサテクマルだけで、最後には硬い外殻までばりばりと音をたててきれいに喰らい尽くされた一部始終を、特にセティヤは感嘆の表情で見届けた。
「素晴らしいですね、これがユークレンの軍属精霊獣師の精霊獣ですか……」
 もういないか?と奥を覗く背に、光の珠になった精霊獣が速やかに戻る。こちらを手招きするその姿におまえの連れ、すげぇなと本音の一言を囁かれ、うん、この世界一すごいんだよと心で返し唯人はアーリットへと駆け寄った。
「こいつは、このあたりにいる蟲じゃない、多分群島側から連れてきたんだ。もしかしたらまだ先に何かいるかもしれんから、俺と唯人は先に行くが、お前らは付いてくるんならあまり間を空けるなよ、暗いからはぐれる恐れがある」
 心もち空気が湿った感のある暗闇に唯人が改めて標鳥を放すと、鳥はやっと安心した様子で先に立ってちょこちょこと中へと入っていった。
「……やっと、二人きりで話せるね」
 少し間を空けて、シェリュバン達が付いて来ている足音を聞きつつ、空に放した夜光蝶の光に照らされた洞窟内を歩いて行く。もう手は離していたが、狭い通路に二人並び、唯人は改めて青い光に浮かび上がっているアーリットの横顔をじっと見た。
「本当に、来てくれたんだ」
「俺は、約束は守るからな」
 ふん、と鼻を鳴らし、ま、着替えてきたから直行じゃなかったけど、とどうでもいい事を付け加える。そう言われてもこれまでと同じ白い正装姿に変わりは無い、もしかして同じなのを幾つも持っているのだろうか。
「脇腹、まだちょっと痛いんだけど、痣になってるかも」
「じゃ、これから鍛えとけ」
「そんなの無理だって!て、こんな話したいんじゃない、身体はもういいのかい?」
「ああ、二、三か月かかるところをなんとか半月でつなぎ合わせた。これのおかげでどうにか無理が効いた、助かったぞ、返しておく」
 伸ばされた腕が首にまわされて、あの虹色の石の首飾りが掛けられる。結構使っちまったみたいだがまだ空じゃなさそうだぞ、と言われ、もうすぐこれもいらなくなるよ、と唯人は大分輝きの鈍くなった首飾りを服の下へと入れた。
「よくここが分かったね、標鳥は僕が取ってしまったのに」
「標鳥とは懐かしい話だな、とっくにニアン・ベルツの餌にでもなったと思ってたが。ま、俺はこの回円主界ほぼすべての土地の事は知ってるし、こういう場では泳風連魚もいる。気の力が強い奴の居場所は読めるから唯人、お前だったらもうどこにいようが、北方海賊の北限居留地だろうと見つけられるぞ」
 そんな扱いだったんだ、と前にいる標鳥がアーリットの目にかかりたくない風で、さりげなく唯人の側に寄ろうとしている様子に同情の顔を向けてやる。アーリットは、そういうところが実にシビアだ。
「なら、王子やサレの居場所も分かる?だったら先に行ってくれた方がいいんじゃないのかい?」
「そううまくはいかなくてな、俺もまだ完全に本調子ってわけじゃない上、群島連合国ってとこは精霊獣師がほぼいないに等しいから、大気中の霊素が使われないせいでユークレンより段違いに濃い。サレみたいな精霊獣師としては下級の連中の薄い気は読みづらいし、王子は……多分、気絶してるか術式でも使われて眠らされているんだろう、気配が無い。だからと言って昔みたく力押しで事を進めちまったら、かつて国を挙げて俺と回円主界東方国、つまりアシウント、ユークレン、テシキュルと対立してた群島連合国で、せっかく落ちついて来た反東方人意識がまたぶり返しちまう。という訳で、後ろの奴らは今回の行動に不可欠ということでついて来てもらう。ラバイアは群島人と東方人両方に商売でいい顔してるから、いざという時の公平な立ち会い役には最適なんでな」
「そうなんだ、で、改めて一応聞いておきたいんだけど……」
「うん?」
「なんで、ずっと一緒にいたのかと思うくらいそんなに何でも分かってるんだ?」
「それは、ミラに聞いてないのか?」
 えっ、と絶句し、またやられた、と意識の中のミラに集中するより先に、ミラが凄い目つきでアーリットを睨みつける感覚があった。アーリットと連絡取ってた?と聞くと僕じゃない、と慌てた返事がかえされる、真相はそれより更にひどかった。
『えっと、僕もゴタゴタ続きで言うのすっかり忘れてたんだけど。実は、ついさっきまで唯人の右眼にずっと泳風連魚の片割れが入ってたんだ。唯人の眼は黒いから、僕のせいで色がくるくる変わったりおチビみたいに緑が出たりしないんで、本人も含めて分かりづらいんだよ。で、おチビは廃神殿以降の唯人が右眼で見た事を全部知ってるってわけ。瀕死抜けた直後でもそのくらいはやるんだよ、このおチビはさ』
「……廃神殿から、全部」
「まぁな」
「飢餓呪法の事も?」
「あー、あれな、使い道一応あったんだぞ。もう手に入らないのに、惜しい事したな」
「砂漠での一部始終も、見てたんだ……」
「あれはお前にしてはよくやったよ〝金果樹の使い〟様。あいつら全然お前に気付かないだろ、実はあの時夜だったから、ちょっとユーク・ミリアの発光上げてやったんだ。眼が緑光りしてた上、顔半分だったからまさか同じ人間だとは思ってないさ、感謝しろよ」
 どうだ、の言い草に思わず唯人は背後のシェリュバン達を振り返った。残念、もう少し離れていてくれれば鋭月でこの隣の藁頭を成敗してやれたのに。仕方ない、ここはグーでまけといてやろうと振り上げた拳をすかさず受け止められて、駄々っ子状態で腕をぶんぶんさせていると夫婦喧嘩にしか見えないからやめようよ、とミラが切ない事を言ってきた。
『今、後ろのみんな心の中で〝あなたが留守ばかりしてるから!〟とか勝手な言葉入れてるね。ありきたりの展開としては、おチビが無理やり肩を抱く、とかじゃない?』
「もう、何なんだ!ちょっとおかしいよ、みんなして!」
 思わず大きな声を出しそうになってしまい、慌てて顔を伏せ手で口を覆う。一人で怒ったり困ったりの唯人をただじっと眺め、アーリットは不思議そうに呟いた。
「俺はお前の世界の事を知らんから、お前が言う〝おかしい〟の意味はよく分からんが……今のこの状態は、おかしいのか?」
「えっと、そう言われたら、この世界的にはおかしくないんだろうけど……」
「具体的に何がおかしいんだ、説明してみろよ」
 アーリットが唯人の世界の事を聞いて来たのは、これが初めてのような気がする。よりにもよってこの話題、と唯人は向けられている緑の眼にちょっとたじろいだ。
「えーと、僕の世界には両性の人っていない、って言ったよね」
「ああ、群島連合国やテシキュルの東とか、結構そういう地域はあるな」
「だから、男女がより見た目で決まってるっていうか……僕から見たアーリットはどっちかっていうと男性だから、男同士で夫婦みたいに振る舞うのは不自然なんで頭が受け付けないって言えばいいのかな」
「そうか、そんな風に思ってるのか。まぁ俺だってちゃんと準備すりゃあ胸くらいはそれなりに出るが、それは伴侶が決まってガキつくろうって話になってからの事だからな。胸がでかけりゃお前も気分が変わるのか?そういう見た目によって反応が違ってくるって心理は両性にはよく分からんな、好きか嫌いかどうでもいいか、それだけだろ」
「胸、大きくなるんだ……」
「そりゃな、両性なら誰だってなる。こっちにしてみりゃ、用もないのに常時胸のでかい女のほうが不便って気がするんだが」
 改めて見るともなく自分と同じ眺めの胸に目をやってしまって、このとき初めて、唯人はテルアの精霊獣師正装の持つ意味に気が付いた。一枚の布を巻く方式だから、どう体形が変わろうとそのつど絞め方を調節するだけで着こなせる。これは両性の為に考え出された極めて機能的、かつ合理的な衣装なのだ。
「信じられない……」
「なら、ラバイアの首都に行くことがあったら〝導師ジュネイの情婦アレイト〟か、〝火炎竜の妖婦〟だったかの題の絵を探してみな。王の城に秘蔵されてるからまず無理だとは思うが、二百年くらい前にラバイア王たぶらかしてた禁呪使いのジジイを垂らしてた時の俺が描いてある。ま、絶対無理だとは思うがな!」
 大事なことなのか二度言われた、見られたくないなら黙っていればいいのに。改めて目にしてみて思うが、アーリットは両性一般がそうであるようにさほど男っぽいという顔つきではない。ただ唯人より背が高く常にむすっとしているのと、声が女性よりはやや低いので唯人の中で言葉使いに男性補正がかかっているだけで、(ユークレン語には古語と新語の差はあるが、男女差はない)もし初めて会った時、本当に胸でも大きかったらまず間違いなく女性だと思っただろう。そういう出会いをしていたら、彼の事をどういう気持ちで見ていただろう。自分の眼には充分整って見える顔でよく面倒を見てくれて、誰より強く性格にやや難のある彼に、少なくともこの状況に違和感を持たなくてもよくなっていたのだろうか、先程の再会の弾けるような喜びの気分そのままで。
「アーリットって」
「ん?」
「今までで、誰かの伴侶だった事あった?」
 つい、心の声がそのまま口から出てしまった。言ってしまった後ですごい事聞いてしまった、なんとか聞こえなかった事にならないかと朱の差した顔を思わず伏せる。唯人の心情は読めたのだろう、少しの間の後ぼそり、と返事が返された。
「ねえよ、さっき言ったみたく都合上相手をその気にさせたことは何度かあったがな」
「ご、ごめん、立ち入ったこと聞いちゃって」
「相変わらず無防備だなお前、そこは〝自分もその気にさせられてるのか〟って警戒するとこなんだぞ」
「え?今、僕にそんなことする意味ないだろう?」
「今は今だが、以前から俺にはお前を手玉にとって、ミラに洗いざらい吐かせるって目的があるんだから気ぃ抜くな」
 あれから考えてはいたのだが、その手玉に取られるのとミラに言う事聞かせるのとの因果関係がまだ正直よく分からない。なんかすごい事されるんだろうかという漠然とした気持ちは、いつかは確認しておいた方がいいのだろうか。
「アーリット……」
「なんだ」
「アーリットの知りたい事、僕少しは分かったよ、廃神殿で色々あったから。でもそれで感じたのは、アーリットはそれを知らないほうがいいってことだった。自分が何者か分かって、それでアーリットの今後は何か変わるのかい?」
 怒るか、締め上げられるかの覚悟はした上での言葉だった、さっとアーリットの表情が引き締まる。それでも、向けられた緑の眼を唯人は真っすぐ受け止めた。
「さっきの話だ、俺が誰も受け入れられない理由……自分が何者か分からないってのに、無責任に惚れてくれた奴のガキこしらえる気になんぞなれねぇだろ。鎌腕蟲みたく交わった後相手を喰っちまう種だったらどうするんだよ、この姿だって、無意識に人に擬態してるだけかもしれない。この皮一枚の下に何がいるのか、今の自分の一瞬後さえ何が起こるか分からない、その居心地悪さが分かるってのか?」
 ふっ、とアーリットが笑ってみせる。その顔は、今の唯人にはなんとなく分かるあの愛想笑いの顔だった。その表情を目にした途端、あの時夢でみた自分は化物だから誰も好きにならない、と血の叫びを吐いていた背が頭をよぎる。そっと腕を伸ばすと、唯人は再度アーリットの袖から覗く手首をつかまえた。
「こういう言い方って、知ってるからずるいって思われてもしょうがないだろうけど」
 その形を確かめるように、指をからめて手をしっかりと握りしめてやる。
「僕には分かる、ちょっと歳をとるのが遅いだけで、アーリットはこの世界の人や僕と同じ人間だよ。ちゃんと赤い血が流れてるし、死にそうになっても本性なんて出ない、意識がなくなる寸前まで僕の事気遣ってくれた。今だって、無理をおしてちゃんと約束を守ってここに来て助けてくれている。目的云々の為だとしても、それってすごく人間的な行動だと僕は思えるから」
「その言葉、二百年前に聞けてりゃあなぁ。タッシにもう少しくらいいい顔してやれたのに、残念だ」
 タッシってのは、ユークレン九世でな、すげー馬鹿で俺口説いた挙句早死にしちまった奴だ。俺もちょっと若かったから持てあましちまって、とわざと話題をずらそうとするようにアーリットが饒舌になる、その言葉の調子よりは、はるかに深かった彼の悲しみを唯人はあの時見届けている。
「ま、自分の世界にいない両性の話なんぞどうでもいいから。お前は自身の世界に帰ったら、さっさと気に入った女見つけてしっかりものにすりゃいいんだ。お前ってどっちかというと大人しいふうで好き勝手するから、気の強そうなのに手綱握られるのがいいかもな」
 別に振りほどくでもなく、つないだままのアーリットの手は唯人よりも少しだけ暖かい。唯人の世界にいなくても、彼はゆるぎなくここの現実だ。もとの世界のあの下宿に戻って、大学生活の中で彼女を探す……唯人の中では、なんだかそっちのほうが今となっては夢の中のように非現実的なことに思われた。
「もとの世界に戻っても、僕はずっと一人でいようと思ってる、そう決めたから」
「なんでだよ、お前だっていずれ家庭持ってちゃんと子供育てなきゃならないだろ」
「だって、もし機会ができればいつだってこっちに帰ってこれるようにしておきたいんだ。破壊主に言われた、テルア襲撃の時、君に生き返らせてもらったから僕の命はもう君のものなんだって。だから僕の自由にはできない」 
「はぁ?何言い出すかと思ったら、なんだよそりゃ」
 そのあたりは知らなかったのか、目を丸くするとアーリットは呆れたように視線を上げた。
「あの野郎、本当―っにただの一言もロクなこと言いやしねぇな。あのな、そんな事間に受けてたらこのユークレンの人間ほとんどの命が俺のもの、て話になっちまうだろうが。いるかそんなの、それにその理屈なら俺だって……」
 ふいと、一瞬言葉が切られ視線が唯人へと戻される。
「……俺だって、長い間生きてるが今回初めてお前に結構きわどいところを助けてもらったんだから、俺の命もお前のものって事になる。これってお互いさまで無しってことなのか?それとも互いが互いのもんってなりゃあ、それこそ普通につがいじゃねぇか」
 どっちがいい、と二種類の菓子のごとく問われ動悸が早まった唯人の沈黙に、分かってるから、あまり深く考えるなよと緑の眼がまたあの本当の思いを隠す愛想笑いで細められる。わざと冗談めかして調子を上げたアーリットの声に、わずかに力が込められた。
「ま、お前がどう思おうと、俺の答えはひとつだ。百年も生きられん奴なんて相手にするか。そっちは死ぬまで一緒でそりゃ満足な一生で終わるんだろうが、残されたこっちは思い出で余生過ごすのもしんどいし、かと言ってその後また次、って思えるほど軽くもねぇんだ」
 それはもっともな言い分だと思う、いつまで生きるか分からないという不安を抱えて生きる、それこそが彼の本音なのだろう。
「お前はお前の世界に戻ろうがここに残ろうが、普通の人間の時間を普通に生きる。そんで俺に間抜け面でガキ見せびらかしてさっさと老けこんで逝っちまうんだ、今ここで何言おうがそうなるんだよ。そうだな、五代くらい下がったら、そのガキにお前の事嘘八百吹き込んでやったら面白いかもな。実は俺との間に隠し児がいるんだぞ、とかよ」
「そこまで言って、なんで気が付かないのかな。アーリット、君って……」
「あ?」
 気持ちを込めて、つないでいる手にぎゅっと力を込めてやる。
「確かに、誰だって百年生きるのは難しいと思う。けど、例えば君が僕のものだって本気で言ってくれるなら、僕も喜んで君のものになるし、それだけじゃ我慢してないよ、男なんだから。その結果の、君の不安の元を半分にして後半分は僕でできてる次の僕は、多分僕よりずっと長く君の傍にいるだろうから、君はもう寂しい思いをしなくてもよくなるんだ」
「俺は、別に寂しくなんか……!」
「自分の事を知りたいってのも嘘じゃないんだろうけど、本音は寂しいから師匠って人の行方を捜してるんだろ?もういい加減に認めたら」
「そんなんじゃない!」
 こちらを見ているアーリットの白い頬に、うっすらと赤みが差した……ような気がしたと思ったら、ふいとそむけられてしまった。追うように覗いてみた顔は今までに見た事のない、いわゆる照れ由来の困っているらしい表情を見せていて、唯人は初めて見せてくれたこれは悪くないなと微笑んた。
「お前、まさかと思うが……俺の事、垂らしてやがるのか?」
「今の顔見たら、ちょっとそうしてみたい気分になってきた。おかしいよね、もう伴侶なのに」
 この、と言いかけて、顔の熱が自覚できたのかこちらに向きかけた顔が再度そらされてしまう。何百歳も年上なのだからどれだけ上手くあしらわれるかと思ったら、まさかの沈黙がきてしまった。どうやら、裏の読めない睦言には本気で慣れていないようだ。
「じゃあ、どうにかして百年もってみろよ、そしたらちょっとは考えてやってもいい」
「そんなことでいいのかい?」
「そんなことってなんだよ、普通は七十年くらいなもんだろうが」
「僕の世界では、八十歳くらいが普通だし、百歳の人もそう珍しくないよ」
「そりゃすげぇこった、だがな、お前がそれだけ生きられるかどうかなんてお前自身にだって分かってないんだろうが」
 それでよくもまあそんな無責任な言葉、臆面もなく吐けるもんだなこのガキの無神経な口は、と聞こえないくらいの声で呟いた手を、おそるおそる引き寄せてみる。しょうがなさそうにこちらへと寄せられてきた細身の体から、ふわっと柔らかな匂いが唯人を包み込んできた。今まで傍に寄る機会は時々あったが、最近特に感じるようになった、唯人の同性としての抵抗をすり抜けてしまうそれを改めてしっかり取り込もうと深く呼吸した。途端、襟首がひっつかまれたと思ったら、なにか冷たく細長い物がずい、と唯人の背に差し込まれてきた。
「……う、うわぁ!なななに?」
「そーいや忘れてた、銀枝杖に仕置きがあったんだ。こいつは度が過ぎる潔癖性質で、俺以外の奴に触れられるのが心底嫌だからな、しばらくそうやって汗吹いた背中にくっついて、しっかりと脂と垢でも染みつけられちまえ。俺は別にどーでもいいからなぁ」
「そっちはどうでもよくっても、僕は!」
 アーリットのねちっこい言い方に、襟元で銀枝杖がふるっと震えるのが感じられた。気持ちは分かる、痛いほど分かる、銀枝杖。
「この役は、絶対お前じゃないと無理なんだぞ。他だとどいつだろうが銀枝の拒否くらって瞬殺だからな、嫌なところを泣いて我慢する絶妙の位置にお前がはまったんだから謹んで協力しろ……だから抜くなって、人の話聞いてないのかお前」
「聞いてるけど、なんでそんな物騒なもの背中にしょわされなきゃならないんだ。大体、これで僕にはなんの得があるんだよ!」
「知るかそんなこと」
「ほら見ろ!」
 あまりの言い草に、何とか背中の杖を引き抜こうとじたばたしてみるものの、深々と通されたそれを余計擦りつけているような状態になってしまい、銀枝杖の〝ぶるぶる〟が〝がくがく〟になって肌へと伝わってくる。ミラに取ってくれと泣きつこうとしたら、触りたくない、の一言でばっさり切り捨てられてしまった。
 もういい、よく考えれば上衣をほどけばいいんじゃないかと帯に手をかけようとしたその時、すっかり意識の外になっていた綱手が出てきて杖を口で引っ張り上げてくれた。ありがとう、やっぱり最後に助けてくれるのはお前だけだよと頬寄せ合って、アーリットに抜いた杖を投げ返す。形だけでも拭くとかどうにかしろと思ったが、アーリットは受け取ったそれをそのまま手首の印に戻してしまった。
「お仕置きってことは、今後も使い続けるんだね、銀枝杖」
「ああ、勿論だ、大事な俺の必需品だからな。ミラがこいつをおかしいって言ったのは間違ってないし、そのことは最初から承知してる。そもそも三大霊樹の他の二本と違って、銀枝樹だけは人間の事を毛嫌いしてるんだ、心底な。その銀枝樹の一枝が、蟲に運ばれてきた禁呪にとり憑かれたのを俺がやむなく斬り落として解呪した後杖に仕立て上げた、それがこの銀枝杖だ。人間への嫌悪感と親木から見捨てられた絶望でこいつは常に不安定だが、俺の似たような部分と同調しているうちは大人しい、用は扱い方だ。今回は俺の不調で勝手させちまったみたいだったが、お前が収めてくれて助かったと言っておく。こいつの代わりなんぞ、そうは無いからな」
『まったく、僕はともかく二度と唯人を巻き込まないでおくれよね。この子は何が怖いかも知らないで好き勝手するんだから、今からでもしっかり教えといて、おチビの言う事はまだ聞くみたいだからさ』
 唯人の内でぶつぶつ愚痴るミラの言葉をやんわりと意訳して伝えると、アーリットは笑って言葉を返してきた。
「俺より怖いものなんて、そうそうこの世界にはないだろうさ。俺をやり過ごせたんなら、もう大抵の事は大丈夫だ」
『まぁ、そうだろうけどね』
 そんな事を話しながら、どのくらい歩き続けただろうか。灯りが無くては鼻をつままれても分からないだろう暗がりの通路は、何らかの地図か先達がないとまず永遠に出口へはたどり着けないだろうと思わせるほど、当てのない空間と分岐につぐ分岐で構成されていた。今通って来た道を振り返ると、もうその周囲に別の穴が幾つも並んでいたりする。これは危ないとシェリュバンらとできるだけ間を空けないようにして、皆でひとかたまりになって、それからもわりと起伏も蛇行も結構きつい洞窟内をもくもくと進んでゆくと、、やがて、少し天井が低くなってきて夜光蝶が頭に降りてきた。行く先からかすかに風が流れてきていて、それが明らかに今までの森や洞窟の湿ったそれとは違う独特の匂いを含んでいる。唯人の記憶の中にもあるこの匂い……夏が来る度、幼かった自分をそこへ連れて行ってくれた祖父の顔がふいとよみがえる。懐かしい、潮の匂い。
「海の匂いがするよ、出口が近いのかな」
「そうだな、結構歩いたからそろそろ外に出てもいい頃だ。この裏道は、いずれ治安の為にもちゃんと整備して公道にしてやるからな。一方はユークレン領につながってるんだから文句は言わせないぞ、群島の奴ら」
 ゆっくりと、道が下り坂になってゆく。次第に足元が硬い岩から土になってきたと思ったら、突然風がひゅう、と頬をなで、唯人は満天の夜空の下にいた。ミーアセンから山向こうの群島国沿海領まで、山を越える本道を行ったら普通は一日半はかかる。だから旅人は大抵ミーアセンを昼頃に出て、山の手前の山岳部族の集落で一泊し次の日一日かけて群島側に降りるという行程を取る。
 この裏道は山の登り降りが無い分、早く向こうに着けるだろうとは思っていたが、なんとその日のうちの夜半に群島連合国側に抜けてしまった。入り口同様門の護りみたいなのがいなかったのか、と周囲を見渡したシェリュバンに、特に何かがいる臭いはしない、と 鼻のいいサテクマルが小鼻をひくつかせた。 
「でも、先に行った奴らは絶対ここを通ってるよ。土を踏んだ臭いがまだ新しい、この距離じゃ、もう街に入られたな」
 暗く長かった洞窟から、やっと月光に照らされている外に出て、眼下に広がる異国の街並みの灯りを眼に映す。ユークレンの石造りの建物とは一線を画した、木と土でできた家々が敷き詰められたように並び、屋根を葺いている艶のある陶板がほの明るく浮かび上がっている。その向こうは、昼間なら絵のように綺麗な島々を浮かべているであろう暗い海だ。右手は砂浜だが左手は港になっていて、大きいのやら小さいのやら、無数の船が停められているのが見てとれる。
 ここから西は群島連合国、三百の部族で構成された小さな島国の連合国家だ。大まかには五つの島群と三つの沿海領から成り、二百年ほど前までは部族間で覇権を争い内乱を繰り返し続けていたが、今は北からたまに襲ってくる北方海賊とやりあうくらいで連合国家としての国内は落ちついている。唯人達がたどり着いたのは、ミーアセンからの主道が繋がっているので群島国の東の入り口として栄えている、カタヤ湾に面した沿海領ハラクレムの街、サイダナであった。
「さて、街に入る前に最低限お前に言っとかないといけない事がある。唯人、最初に会ったときから言っていたが、お前はわりと群島人系の顔つきをしている。だが困った事に群島人にはほとんど両性はいない、少し前なら、ごくたまに生まれるのは発覚しだいその場で始末されてたくらいだから。人道的な意味でユークレンが施設を造ってこっそり引き取る仕組みにしてからは、生き残って他国育ちになるのも増えたがな。というわけで、どうしても素姓を言わなくてはならん状況があったら、親は群島の出だが生まれも育ちもテルアだって言っとけ。精霊獣は誰も見えやしないから好きに使ってもかまわないが、精霊痕を見せてたら年寄りは出来そこないって陰口叩いてくるから適当に嫌そうにしてろよ。そして一番重要なのは、この国はうわべはともかく、奥底ではいまだ俺を筆頭とした東方人にびびってるって事だ。その時実際何があったのかはもう記録として紙の中にのみ存在してる程度だが、翆眼鬼って名は逆に恐れの具象化としてこの国に深く根付いてる。俺は、ここじゃある意味破界主みたいなもんだ。まさか本物だとは夢にも思わないだろうが、あんまり人前で馴れ馴れしくするなよ、お前の印象が悪くなるからな」
 それだけの事を唯人に言い含めても、アーリットは己の髪や眼を隠そうとは一切しないようだった。山道を降りてほどなく街に入り、それでは各自街で情報集めをしようという話になって一旦シェリュバンらと別れて散る。アーリットは分かるが、セティヤもこっちに付いて来た。様子は穏やかだが、まだ完全に信じられてるわけじゃないのかなと感じつつ、深夜でもそこそこ賑わいのある通りに足を進めようとする。
 その唯人の腕を引き向きを変えさせると、迷いなく街外れのほうに足を進め、、アーリットはそこだけ雰囲気が少々違う東方国仕立ての石造りの建物の前へとやってきた。少し離れた位置で二人を待たせ、戸を叩くと、開かれた奥から年配の品の良さそうな夫人の顔が覗く。彼女は、アーリットの顔を見ると驚きに目を見開いた。
「まあ……こんな夜更けに誰かと思ったら、貴方ですか、一級精霊獣師様。突然訪問してこられるのはいつものことですが、今宵は一体何のご用で?」
「野暮用だよ、元気そうじゃないかミリィ、すまないが事情はまた後で説明するから、呼び名はアーリットにしてもらえないか?実は後ろの奴を少し休ませてやりたいんだ、ここなら安心できるから」
「それならお安いご用ですよ、さあ、どうぞ入って。子供達が眠っているから、中では静かにしてくださいね」
 アーリットに呼ばれ、唯人達が入れてもらったこの建物は、さっき彼から聞かされたばかりの群島生まれの両性を引き取って育てているユークレンの養護施設であった。月の光が射している、簡素だが掃除の行き届いている廊下を行くと、壁にずらりと並んでいる扉から穏やかな子供達の寝息が響いてくる。奥の応接室らしき部屋に通され、何か暖かい物でも、と出て行った老夫人をアーリットはユークレン十三世添王子息女、ミレル・ローテンド嬢だと説明した。
「俺は、すぐ街に捜索の為戻るが……唯人、お前はここで朝まで休んでおけ。口に出さないのは偉いが大分疲れてるのが傍目にも分かる、歩き方が変になってたからな」
「え、なんで?大変なのはここからじゃないか、ここまで来てどうして僕だけ置いてかれなきゃならないんだ、アーリットだって!」
 そんな話、納得できるわけない、と立ち上がろうとした唯人の足が銀の杖に払われ、ふかふかした長椅子に転がされる。なにするんだ、と起きあがるより速くさっさと履物が奪われてしまった。さっき奥からやってきて、アーリットになにやら耳打ちされていたここの使用人らしい若者が、水を張った桶を持ってきて傍に置く。唯人の脚を押さえたままぱふんと背を叩いたアーリットから、赤く輝く小さな羽根が一枚飛び出してひらひらと桶の水面へと落ちると、ゆっくりと羽根が沈んだ水からふわっと暖かな湯気が立ち上った。
「足、浸けるぞ」
「いいって言ってるのに!そんなことしなくても」
 不機嫌な呟きを聞き流し、赤く腫れ、ところどころ擦り傷のできた足が湯に浸される。ちょうどミレルが持って来てくれた暖かい飲み物も、アーリットはかいがいしく唯人の手に渡してくれた。
「アーリットって、こんなに人を甘やかす性格だったっけ?」
「俺は、自分の物は大切にする。そうしないと長く使えないからな」
「そうだろうね」
「お前は、俺のものの中では痛みやすいほうだろうから、長持ちさせる為にもこれからはうんと大事に扱ってやるさ」
「それはどうも」
 唯人の精一杯の嫌味は、ふん、と妙な笑顔で受け流された。これも頼れる伴侶モード憑依の成せる技だというのだろうか、それとも……。急に顔が寄せられてきて、つい慌てて身を離そうとした唯人の頭がぐいと押さえられる。あ、内緒話か。
「ま、それはいいとして。前にミラにも言われたからな、お前は何も分からないまま面倒の中へ突っ走る物騒な面がある。これまではユークレン国内で俺がどうにでも後始末できたが、ここでは少しは考えて動かないと困った事になる恐れが多分にある。とにかく、ガキの行方はなんとしてでも俺とスリンチャの連中で突きとめるから、それまではお前はここでじっとしてろ。……おい、セティヤ」
「はい?」
「すまないが、こいつが勝手に出歩かないように見張っててもらえるか?逃げだそうとするかもしれないから、その時は縛り上げてくれていい」
「アーリット!」
「分かりました、ちゃんと見ておきますからご心配なく」
 ぷっと膨れた唯人の表情を笑顔のまま一蹴し、身を返すとアーリットは部屋を出て行った。ふわふわと湯気のたちこもる室内で、顔を伏せて押し黙った唯人とセティヤに、さっき桶を持ってきてくれた若者が掛け布を運んで来てくれる。ゆっくり休んで、と言葉を残し奥へと消えた背を頭を下げつつ見送った。と、桶の湯が気になったのか、するりと出てきた綱手の姿を目にしたセティヤが不思議そうな顔を唯人へと向けた。
「おや、それは一体何という霊獣ですか?初めて見ますが」
「ユークレン北部のキント鉱山にいる、渓谷ミミズの固有種です」
 言った瞬間、なんですと?的な間の後、がっ、と向こうずねに歯を引っ込めている口が甘噛み+2くらいの力でくい込んだ。しょうがないだろ空気読めよと心の中で呟いて、引きはがした口に飲み物の残りを流し込んでやる。やがて充分体も温まったので、足を拭いてゆっくり一休みする前にちょっと、と唯人はそ知らぬ顔で腰を上げた。
「どちらへ?」
「小用に行ってきます、すぐ戻りますから」
「では、私も行きましょう」
「……」
 もういっそのこと寝たふりをして相手が寝るまで待って、それから抜けだす作戦にするべきか。しかしこの手を使うと、自分のほうが寝てしまう恐れがある。布にくるまり長椅子に横たわって、襲ってくる睡魔と戦いながらちらちらと床に横になっている(砂漠の民は、そちらのほうが慣れているので落ちつくそうだ)セティヤを盗み見していると、しばらくしてもう我慢の限界、と言いたげな忍び笑いが響いてきた。
「……御苦労さまです」
「どういたしまして」
「貴方は本当に困ったお方ですね、どうしてあんなに頼りがいのありそうな伴侶の方の言うことが聞けないんでしょう。あの方が、貴方の身を案じてくれているのは分からない歳でもないでしょうに。私でもあの方の気持ちはよく分かりますから、なんならちょっと縛ってあげましょうか?」
「いや、それは遠慮します」
「なら、大人しく寝なさい」
 縛る、の言葉と共にセティヤの毛布の陰からするりと伸びてきたすごく長いヤスデ似の霊獣を、鎌首を上げた綱手が睨み返す。僕は戦力外って設定なんだから相手しない、と引き戻すと、苛立ちをこっちに向けられ耳にかじりつかれた。 
「痛い!痛いってば綱手、やめろよ!」
「また騒いで、いい加減になさい、貴方一体お幾つなんです?」
「三十歳です!」
 ええっ?と一瞬セティヤの表情が止まった。これは……唯人がラリェイナの歳を知った時と同じ反応だ、どうやらかなり若く見られていたうえに、王子と会った時に違和感を持たれないよう年齢を上乗せしたのがとてつもなく無理があったようだ。しかしそれでもこれで押しとおすしかない。
「本当……ですか?」
「本当です、若く見えるって皆に言われます!」
「年上の方でしたか、知らなかったとはいえ失礼をしました。でも、それなら尚更そのように振舞って頂ければよかったのですが。サテクの倍には見えませんでしたね、同じくらいかと思ってましたよ」
 いや、それは冗談だろう、でないとアーリットの性癖がおかしくなる。
「すいません……」
 この流れでアーリットの歳まで聞かれたらどうしよう、とひやひやしたが、そこまで話は及んでこなかった。もうなんだか嘘を嘘で固めるのが面倒くさくなってきてしまった、これだからアーリットがそばにいると困る、安心してつい頼ろうと思ってしまうから。
「でも、本当に、僕だけこうやって皆と別扱いされるのは辛いんです。アーリットはああ見えて、すごい深手から立ち直ったばかりだし、じっとしていると子供の事を考えてしまって。どうしてさらわれたんだろう、ひどい目に合ってないといいんだけど、って」
「それは考えるなと言っても無理でしょうが、ひとつ覚えておいてください。こうやって数人である目的の為に動いている場合、順繰りに休める者から休んでおくというのは大切な事なのですよ。あなたの伴侶が後で休めるよう、今はあなたが休むのです」
「……はい」
「では、気を紛らわせるのに少し話をしましょうか。唯人さんは、この街のことは知っていますか?」
「いえ、今回が初めてです」
「私は何度もこの街に来ていますが、ここの食べ物は美味しいですよ。砂漠では魚は貴重品ですが、ここは肉より魚が主流になっていましてね、私達には珍しい物ばかりです。唯人さんは今、準備中ではないのですか?準備中なら気兼ねなく食べられていいんですよね」
 準備中?にこにこしているセティヤの顔、どこかで見たような気がする。そうだ、あれは、ミーアセンで飢餓呪法にとり憑かれていた時、王子とサレが二人して唯人に向けていた……。
 分かった。
 セティヤは、両性どうしの世間話で、もし唯人が二人目の子を考えているのなら、その為の身体の準備をしているのかどうか聞いているのだ。まいった、こんな話の知識はない、うかつに返事をしていると致命的な失敗をしてしまいそうな気になって、唯人は仕方なく曖昧な笑みでごまかした。
「でも、ミーアセンで見かける中央国系の方々は、子持ちなのに皆いい感じに体形を戻されている方が多くてうらやましいですよ。私は民族というか体質的にもこの歳になってからいざ子を産むとなると、脂肪を付けるのは簡単なんですがその後がですね……」
「え?セティヤさんは、おいくつなんですか?」
「一位の君と同じです、そちらに聞いてみて下さい」
「え、それはずるいですよ、あんな恐そうな人に聞けないです」
「恐くないですよ?頑張って威張りやのふりしてるだけですから。小さい頃は上に兄上がおられたから、目立たないかたでしたんですけどねえ」
 薄闇の中でひそひそと続けられる、これが話に聞いた、自分がかかわるとはまず夢にも思わなかった主婦のお茶話というものか。頭がぐらぐらしてきた唯人に、大丈夫、きわどくなってきたら僕が助けてあげるから、とミラのありがたい声が響く。その局面は、わりと即座に訪れた。
「それで、見たところ、唯人さんも素敵に体形を戻されてますね。なにかいいやり方があるのですか?」
 はい、よろしくお願いしますミラ。
「え、えーと、そうですね、ユークレン湖で獲れる水蛙という食材がありまして。干してあるのを汁で戻して食べるのですが、栄養価が低いのか腹もちは良くても身に付きません。テルアの両性は大抵がこれで体を戻しています、簡単に手に入るので」
 ああ、この世界に来た時、初めてアーリットに食べさせられたアレだ。汁が不味かったので印象が悪かったが、今思うとふかひれのような物で汁さえ美味しかったら普通に食べられたのではなかったか。
『ミラ、もしかして、アーリットって料理だめなのか?』
『まあ、美味しい物作ったら食べすぎちゃう恐れがあるから、そうならないよう気を付けてるのはあるだろうけど。美味しい物作れるかどうかは分からないね。僕は多分無理だと思う、ミストもそんな事する気なかったし、あの子の生活には必要性がないから』
 よし、ひとつ勝てそうな事が見つかった。母が亡くなった後、祖母の手伝いをしていたのでそこそこ料理はできるし、下宿でも自炊はちゃんとやっていた。そんな事で優位に立ってどこまで男捨てるつもりなんだと日本人的自分が叫んだが、もう気にしないことにした……いやちょっと待て、失礼だがアーリットってそもそもちゃんとした味覚を持っているのだろうか?それが一番心配だ。
「セティヤさんがもし入り用になったら、お送りしましょうか?日持ちしますから」
「ああ、それはありがたいですね。砂漠の食事はそんなに種類がない上、肉やら乳やら栄養価が高いものばかりですから単純に量を減らすしかないんですよ。もともとあまりいない両性に気を使ってくれる民族でもありませんし、ユークレンがうらやましいです」
「で?相手の方は、もういるんですか?」
 別に知りたいわけじゃない、これは話の流れというやつだ、そうなんだ。
「ええ、付き合いは長いのですが。一位の君が無事首位になられて妻を持てば、その後その方と共に暮らそうと思っています。砂漠の民らしく大人しくて無口で、随分待たせたのをよく辛抱してくれました」
 こういう普通の会話の中で、唯人の世界なら当たり前に察しがつくはずの相手の性別がこれっぽっちも分からないというのはすごいと思う。それはそれは、待ち遠しいですねと話しを合わせているつもりが、ふと気が付くと自分もすっかりあの笑顔になっているのに気付き、もうどうにでもなれと更に相手についてもっと掘り下げてやろうとした、唯人の頭に、突然羽音が響き何かが飛び乗ってきた。
「……標?なに?」
 何を感じ取ったのか、すごい剣幕でくるくる回って唯人にある方向を示している。一動作で飛び起きた唯人に、セティヤも慌てて身を起こした。
「ちょっと、待って下さい唯人さん、不用意に動いては!」
 一番近い窓を開け、そこから出ようとする背にヤスデ似の蟲が絡もうと伸びてくる。それを、綱手は肩越しに無い目のひと睨みで止めた。結構広い畑になっている下に飛び降りて、鳥の尾の指している方へ向って駆け抜ける。中心街でないせいか人気のない通りは少し道が下り坂になっているらしく、勢いが付いてしまいどんどん暗い中を進んでゆくと、やがて耳にはっきりと波の音が届いて来た。
「海だ、これ以上は行けないよ、標」
 家並みの間を抜けたら、目の前に防波堤らしき積み重ねられた岩が現れた。足元が心配だが、上に立つとその先は今は引き潮なのか砂浜が広がっている。ここに何が?と鳥を腕に乗せると長い尾がぐるりと向きを変えた。
「足音?」
 最初は、波の音にまぎれて分からなかった程のそれが、徐々に近づいてきて多人数のものへと変わる。慌てて岩陰に身をひそめると、暗いなりにそれが数人の男達で、その中の幾人かはかなり大きな……ちょうど子供一人が入るくらいの袋を負っているのが見て取れた。
「これは……」
「大当たりですね、唯人さん」
 音もさせず追いついて来ていたセティヤが傍らに添う、人数は七人、どういう相手か分からない上にセティヤの前では鋭月が出せない。どういうタイミングで仕掛ければよいのか、と思案する唯人の前で、人影の一人がふと波打ち際に向かって歩み寄った。見たところ、水面に船らしき物は見当たらない。見守る唯人の前で人影が取り出したのは、なんと、少し短いが杖らしき物であった。
「霊獣使い、なのか?」
 アーリットは、この群島連合国ではほぼいないに等しいと言っていたはずなのに。杖が振られ、それに応えるように暗い海面から波を割り何かがこちらへとやって来る。セティヤも、どう動いたらいいか思案しているようであった。
「困りましたね、砂紐蟲が使えれば良かったんですが」
 申し訳なく思いつつ、初めて聞いた顔で問いかけてみる。
「今は、使えないんですか?」
「先の騒動で、竜に消されてしまったんですよ。霊獣同士の闘いでは完全に消滅させられることはありませんが、復帰させるにはそれなりの時間が必要ですからね。まだちょっと無理なんです」
 ああ、それで、と合点がいく。綱手があの時蟲を咀嚼して呑みこまなかったのは、霊素の枯渇している唯人を気遣っていたのもあっただろうが、セティヤから霊獣を取り上げようとは思っていなかったゆえの行動だったようだ。しばらくすれば、霊獣は復活しまた彼の力となる。あの時だけ抑えられればそれでいいという唯人の気持ちを、綱手はちゃんと汲んでいてくれたのだ。
「唯人さんの渓谷ミミズは、戦闘向きじゃないんですよね。ちなみに、武器は何か持ってますか?」
「樫の杖、を」
 はい、分かりました無理ですねと苦笑され、あなたさえいなければ竜と刀が使えるんですが、と無言の悲しい笑みを返してやる。しかしさらわれた子の奪還と己の正体暴露を天秤にかけてみて、このまま行かせるわけには断じてならない、と唯人は向こうの連中の挙動に目を凝らした。
「セティヤさん」
「はい」
「僕が、今から向こうに回って物音をたてます。そしたらあいつらの数人は僕の方にやってくるだろうから、なんとかあの袋を負っている奴だけでも止めてもらえないでしょうか。僕の事は気にしないでください、いざとなったら姿を消す方法も持っていますから」
「そんな、危険ですよ、唯人さん!」
「お願いします!」
 止めようとしたセティヤの腕をすり抜けて、連中をはさんだ反対側へと駆けてゆく。できれば、強そうなのは全員こちらに来てもらいたかった。夜光蝶を頭上に放ち、防波堤の岩の上に立つと石塊を下へと蹴り落とす。波音のみの砂原に、石の転がる派手な音が響き渡った。
「そら、こっちに来い、僕はここにいる!」
 波打ち際にいる連中の動きが止まった、唯人の願いも空しく、一人の影だけがこちらへと近づいてくる。岩から飛び降りなるべく隠れているセティヤの死角に入るよう立ち位置をとって鋭月を出すと、唯人は相手がやってくるのをじっとその場で待った。
「……?」
 ふいに、肩で風が動いた。振り返ると、伸びた綱手を避け大きな影がひらりと岩山に跳び上がる。夜光蝶の青い光に浮かび上がった只中で、唯人の目は優雅な身体をしならせた豹に似た獣と、その牙に捕えられて必死にもがいている鳥の姿をとらえた。
「標!」
 次の瞬間、獣の顎が閉じ、羽根を舞い散らせた鳥の姿が消え失せる。唯人に聞かせた事のない威嚇音を吐く綱手を見下ろし頭上をひと飛びに越えると、獣は唯人の真正面にやってきた大柄な人影の傍らに駆け寄った。
「……なんで」
 光に浮かび上がったその顔に、我知らず声が震えを帯びる。
「なんでここにいる……なんで、こんな事を!」
 この獣を、知っている。この顔も、知っている。どちらも、ここにいては……自分に、こういう風に向き合っているはずはない。
「答えてくれ、サレ!」
「これ以上、ついてこないでくれ」
 まるで、魂をどこかにやってしまったかのような声だった。いつも優しげなその暗紅の瞳も、今は背後の海と同じ真っ暗で、ゆっくりと上げられた右手の半月刀が鈍く輝きを放つ。不惑、と一言呟いて、唯人も鋭月の銀の刃を抜き放った。
「なにか理由があるのなら、今ここで聞かせてくれ!」
「……言えるわけ、ないよ」
 言葉が終わるより速く、金の刀身が振り下ろされてきた。城で初めてやりあったあの時は、ただわけも分からず鋭月に任せるしかなかった刃を、己の意思と力でしっかりと受け止める。力では競り負けるのは分かっているので左に逸らし、あえて先に踏み込むと低い位置から横薙ぎの一太刀を浴びせようとする。まともにくらえば腹を真横に切り開かれてしまうだろうその流れは、くるりと回った幅広の刃に遮られた。両刃がぶつかる寸前、軌道をわずかに下向きに変え相手の刃に滑らせる感じで勢いを逃がす。そのまま前のめりになりかけた身体でぐっと踏みとどまると、唯人はすかさず身を返しサレを振り返った。
「だってサレ、王子を追いかけてここまで来たんじゃないのか?あの袋はさらわれた子供達なんだろう、ここで取り返せば終わりじゃないか、アーリットも来てるんだから!」
「アーリットが……来た?」
 上段から振り下ろした鋭月の刃が、すかさず片腕で受け止められ唯人の腕にじんと痺れが走る。次の瞬間、予期していなかった下からの拳を紙一重でかわすとバランスを失った身体が砂浜に倒れ込んだ。振り上げられた金の刃が迫り、まさか本気で、と息を詰めた唯人の額寸前で、それはなにか目に見えない障壁にぶつかったかのように弾かれた。それも分かっていた表情で、ゆっくりと再度構えなおす。その時、波打ち際のほうから呼ぶ声がかかってサレはくるりと身を返した。
「待て、行くな!」
 唯人の叫びに、一瞬だけその顔が振り返る。
「唯人、王子と……子供達は絶対俺が護る。だから追ってくるな、アーリットにもそう伝えてくれ!」
「だって!」
「これは、俺の故郷の腐った部分。俺が、全部この手で壊してしまわなきゃいけないものなんだ。唯人には……真っすぐで素直で、俺のいいところしか知らないお前には関係ない、頼むから来ないでくれ、俺の中の闇は見ないでいい!」
 ざっ、と足が砂を蹴る。戻っていったサレに波打ち際で二人の影に阻まれていたセティヤが身を引くと、三つの影はそのまま海面すれすれに浮かんでいる薄い舟らしきものに飛び込んだ。
「……綱手!」
 口の中で呟いて、防波堤の石積みに杖を刺そうと振り返ろうとした。その時、唯人の体に何かが投げつけられてきた。瞬時に煙のような細かい粒子が広がり、目の前が白く霞む。甘さの中に何かが腐ったような異様な臭いを感じた途端、視界がゆらり、と変に歪んだ。
「……!?」
 まるで黒い軟体動物のごとく、みるみる壁のように立ち上がって迫ってきた波の向こうで水飛沫をあげ舟が遠ざかってゆく。それを見ながら動けない唯人に波は容赦なく襲いかかり、その身体を水中へと引き込んだ。上も下も分からない冷たい水の中、ぐるぐる回され意識が飛ばされそうになる。必死で息をつめもがくしかできず、やがてそれも限界になってきた時、内からミラの声が響いてきた。
『唯人、落ちついて、大丈夫だから!』
『……ミラ!』
『これは幻覚だよ、暴れると本当に海に落ちてしまう。動かないでじっとして!』
『これが幻覚?そんな……』
 突然、がっと背後から腕をつかまれた感覚があった。振り返ると、手の骨格標本みたいな白い物体が二の腕にはりついている。そこから繊毛のようなものがうねうねと伸び出し首や胸に絡みついてきたのに、思わず総毛立つ感覚に襲われ唯人はなんとかそれを引きはがそうと身をよじった。その拍子に、詰めていた息をついに吐いてしまう。口から洩れる泡と入ってくる海水の感触にもうだめだ、と思った瞬間、鳩尾に重い一撃が来た。当て身をくらわされた、と感じる間に意識が闇に落ちる。遥か遠くで、呆れたような怒声が耳を過ぎていった。
「こいつ、俺がいないと一体何回死にかけるつもりなんだ!」



 随分久しぶりに、あの夢がやってきた。
 本当に夕暮れなのか、ただ赤いフィルターが掛かっているだけなのか、いつもこの世界は淡い暖色で言葉以外の音が無い。そして居るのは、多分過去のアーリット。今と寸分違わない、石造りのテルア城の見慣れないバルコニーの片隅で、霊獣らと共に作りのいい揺り籠を足で揺らしている。その中で、綿菓子みたいな毛並みの獣に寄り添われ無邪気に笑う赤ん坊を眺める朱に染められた顔には、何の表情も浮かんではいなかった。
「全く、五人目ともなると扱いがぞんざいだよな、ユークレン十三世第二添王子様よ。いくら天下太平だからって、他にやることいくらでもあるだろうが。ちゃんと面倒みる気がないならもっと気の利く乳母でもつけやがれって……と、どうした」
 それまで不機嫌の欠片もみせていなかった可愛らしい顔が、突然くしゃっとなりうぇ……と予兆を示した後、大音量の鳴き声を響かせる。意外にも落ちついた顔で手を伸ばし、小さな体を抱き上げあーこりゃおむつだ、と呟くと、身を返してアーリットはすたすたと屋内へと戻っていった。
「お前の兄貴も、親父も爺さんもその前も、何代俺に面倒みさせるんだよ、お前ら一族は」
 心底意外だとしか言いようがないが、あっという間の慣れた手さばきでおむつ交換を終え、機嫌の直った腕の中の小さな命をじっと見やる。相変わらず、その顔に表情は無い。
「こんな小さいのが、たった二十年足らずで俺を追い越して行っちまうんだ」
 ふう、と溜息が口をつく。
「そして百年もしないうちにどいつも皆いなくなる、一体何人目のお前らが俺の最期を見届けてくれるんだろうな」
 風が冷えてきたな、もう奥に戻るか、と目で合図すると周囲にいた獣らが揺り籠に取りついて運んでくる。ちょうど何か別の用事で離れていたらしい王子付きの侍女が戻って来た足音が聞こえ、赤ん坊を揺り籠に戻すと模様入りの白い衣装をひるがえした後ろ姿は足早に石柱を組んだ手すりに歩み寄り、そのまま立ち止まること無く飛び降りた。常人ではまず無事ではいられないだろう高さを極めて何事も無く着地して、その後を追った唯人の意識の前でふと足を止める。何かを思い返すように、彼は先程まで暖かな命を抱いていた己の手にじっと目を向けた。
「……俺にも、あんな頃があったのか?師匠、ミラ」
 この気持ちは、どのような表情で表わすべきなのかまだ分からない。
「それで、いつかはまがりなりにもなんか産んで、最後に干からびた年寄りになってちゃんと土に還れる時が来るってのか。それさえも俺に教えないまま消えちまったなぁ、あのボケ師匠、どんだけ俺の事イラつかせりゃ気が済むんだよ」
 万が一にもまだ生きてやがったら、絶対その場で俺がこの手でシメて世界主に還してやるからな!とだんだん怒りに変わってきた積年の思いを反芻する顔で、この場を去ろうとする。その眼が、偶然唯人を捕えたかのごとき間合いと位置で留められた。
「分かってる、こんな事じゃ悩むもんか。なに化物のくせに人間みたいな事考えてんだろうな、世界はひとつ、俺は一人、〝どうして〟なんて意味がない」
 俺は一人、ただひとり。
 ……ああ、それが、僕の名なんだ。



 目が覚めると、そこは再びあの養護施設の応接室だった。しかし、昨晩と周囲の様相はまるっきり一変していた。
「……ん?」
 射し込む朝日に満たされた室内で、薄目を開けて……まだ夢の続きなんだろうかと目を閉じる。その途端、頭がやや乱暴に揺さぶられた。
「目が覚めたのか、なら起きろ、寝なおすな」
 ああ、怒ってる、声だけで分かるくらいだから相当だ。なんだかひどく気分がよくないので程々にしてもらいたいが、多分この気分も彼のお怒りも原因は自分なのだろう。諦めて目を開けて息を大きくひとつつくと、淡い緑の水中を、ぷくりと湧いた大きな泡が浮かんでいった。
「なんだ……?これ」
 息はできる、声も普通に聞こえる。だが、まるで水槽の中のように、周囲は完全に澄んだ水で満たされていた。ゆらゆら揺れる景色の中、唯人が寝かされている長椅子の足元に腰かけて、アーリットがこちらをあまりにも冷たい視線で睨んでいる。ゆっくりと身を起こすとふわりとミラが現れて、そっけない無表情で唯人の傍らに立った。
「おチビ、先に言っとくけど、唯人はちょっと気分が悪いみたいだから」
「そうか、そりゃ奇遇だな、俺もだ」
「お前が悪いのは機嫌だろ」
 その言葉に抑えていた気分を逆なでされたのか、アーリットはすかさず噛みついてきた。
「そりゃあなぁ、あの都市精の海獣ババアのくだらねえ無駄話に延々付き合わされて、なんかおかしいって思った時には、どこかの考えなし無鉄砲ガキが性懲りもなく敵に手玉に取られて沈没しかかってるときた。よく間にあったもんだって、ちょっとは俺に感謝のひとつでもしてくれていいんじゃないか?ミラヴァルト様よ」
「はいはい、どうもありがとうね。助かりました、おチビ殿」
 馬鹿丁寧なミラの返事に、その呼び方いい加減にしないと本気でどうにかするぞ、といらいらとアーリットが言い捨てる。二人ともやめてくれ、と唯人は力なくその間に割り込んだ。
「ごめん、僕の力が足りなかった」
「また〝ごめん〟だ、呼吸みたいに言ってる言葉に何の意味もねえんだよ。謝るなら、取り逃がしたことじゃなく、俺があれだけ言ったのに勝手に突っ込んじまったってほうだろうが。なんで敵と自分の強さの度合いとか、事の危険度をいつまでたっても読もうとしないんだ。たった一晩だぞ?それでも俺が直々に縛っとかなきゃお前はじっとしてられねぇのか?今から縛るか、あぁ!」
 頭ごなしに怒鳴られて、綺麗な泡が大量にアーリットの口からもぷくぷくと湧き出て上がってゆく。それをつい目で追ってしまう唯人の視線に気づき、アーリットは差し出した杖で上衣を脱がしてある唯人の胸をこつん、と突いた。
「お前が昨日あいつらにくらわされたのは、幻覚の薬物と混乱の術式の複合攻撃だ。術式のほうはすぐ俺が解呪してやったが、薬物はあいつらの秘伝みたいで、お前が吸い込んだ以外はみんな風と波がさらっていっちまって特定のしようがない。まあ混乱は抜いてるから幻覚の自覚は持ててるだろ、破界主をやり過ごしておいて、こんなのに引っかかって死んだら話にもならん」
 で、昨晩何があった、怪我の治療に行ってるセティヤから大まかには聞いたが、とアーリットが一旦言葉を切る。僕が話そうか?とミラが気を使ってくれたが唯人はいいよ、自分で言うからと俯いた。
「標が、やられてしまった」
「まさか、この群島国に物精をやれる奴がいたとはな。どんな連中だったんだ、そいつら。その顔だと、知ってる奴みたいだな」
「……サレ、だったんだ」
「あいつが、あっちにいたのか」
「うん、見間違いかとも思ったけどそうじゃなかった。はっきり僕に言ったんだ、子供達は自分が護るから、追ってくるなって」 
「なら、黒幕はひとつだ、それで話のつじつまは合う。サレが、お前は来るなって言った理由もな」
「サレが、昔暗殺者だったって話……?」
「知ってるのか」
 緑の眼が、ふいとこちらに向けられる。サレが話してくれたから、と返すとお前相当気に入られたんだな、と低い笑いが漏らされた。
「どこの国でも、正規の軍とは別に、身内同士で表沙汰にできない殺し合いをやる為の私兵とか暗殺集団ってのを持ってるんだ。特に群島連合って国は部族が三百もいる上に、族長を血筋を主とした実力で決めている所が多い。多妻制も普通だから、現族長に息子が複数いるとそれだけで殺るかやられるかになっちまう。両性が異端なのも俺の事もあるだろうが、少数なのに潜在力は高いやつをさっさと排除する為の体のいい難癖にされてるってのが事実だろう。サレが居たっていう〝二十七指の会〟は歴史が古く、昔から親に見放された両性を集めて徹底的に鍛え上げて暗殺者に仕立て上げてる裏組織だ。この広い海域に散らばってる無数の島のどれかに奴らは潜んでいる、ぶっ潰してやりたいのは山々だったが、これまで俺の所に来た奴はしくじるとすぐ自死しちまってそれまでだった。何度もやり方を考えて、やっと生き残ってくれたのがサレだったんだが。はっきりした尻尾をつかむまでこっちから討って出るわけにはいかなかったのが、やっとその機会が来たってわけだ」
 待ちかねたぞ、とアーリットの眼が物騒な光を放つ。
「この際跡形もないくらい粉々にして、痩せこけて眼ばかりぎらついてるガキを俺にけしかけるのは終わりにしてもらわないとな。群島の連中が、優れた人材を他国相手に使い捨てにしてるのを気付いてくれりゃあそれが一番いいんだが。とりあえず、今日からエリテア諸島のあたりからめぼしい島をしらみつぶしに当たってみるとするか。あまりのんびりはしてられないからな」
 この言葉の最後の部分に、自分のことが含まれていたというのを、この時の唯人はまだ気付いていなかった。
「で、僕は?何をしたらいい?」
「〝僕は?〟てか?」
 おうむ返しされ、戸惑いの視線をかえす唯人にまだなんかぬかしてやがるぞこのガキ、とアーリットが苦い顔をする。
「俺の言う事を聞く気があるのなら……一言だけ言う、ご苦労だった、お前はもうここまででいい」
「え?」
「昨日の事でよく分かった、これ以上はお前には無理だ。この世界の問題だ、お前がこんな目までしてかかわることじゃない。帰れ、テルアは駄目だから俺の住処は……万が一破界主の野郎に襲われでもしたらまずいから、廃神殿か、なんなら金果樹の里に行ってかくまってもらえ、あそこの結界は重いからな。とにかくもうこれ以上一歩も西へ進む事は許さん、それに関しての口応えもだ。文句があるなら、今ここで俺を負かすくらいの力見せた上で言え」
「……」
 凄まじい抗議の言葉が、喉元の真下までせり上がってきたのに口から出たのは浅い吐息の泡ひとつだけだった。自分でも分かりすぎるほどに分かる、アーリットは意地悪や唯人を見捨てたからこんな事を言っているのではない。唯人が心の特別な位置に入ろうとしている今、万が一にも失うような事がまた起きたら、その衝撃は今度こそ彼を粉々に打ち砕いてしまうのだ。どんなに考えても言葉が出ず、ただ物言いたげな眼を向けるしかできない唯人からあえて目線を逸らしたまま、アーリットはおもむろに腰を上げた。
「分かったんなら、俺は行くぞ。言っておくがお前が嫌がったから泳風連魚はもう付けないが、今後どこにいるのかくらいは俺にはちゃんと分かるからな。俺の裏をかくつもりなら、今度こそ縛り上げられて廃神殿の底にでも埋められる覚悟をしておけよ。ちなみにこの間俺がいたのはまだ底じゃない、更に下だ」
 背中で言い捨てられ、閉められた扉を肩を落として見送った、唯人の頭に、そっとミラが手を乗せてきた。
「まったくおチビったら、縛る縛るってうるさいよねぇ。あれじゃ縛れないって白状してるようなもんだよ、どうでもいい相手だったら言う前にやってるし」
「……」
「ねえ、唯人」
「……」
「けっこう話は戻るけど、キントから帰ってユークレン王の式典に出た後に、僕が言った事覚えてる?」
「……うん」
「おチビがもういいって言ったんだから、あれこれあったけどここで気持ちを切り替えて、僕とどこか別の国に行ってみない?ラバイアはまだかすった程度だし、テシキュルとアシウントも行ってないだろ。テシキュルの見渡すかぎりの銀穂の草原や、アシウントの岩肌を切りだして造った街なんてそりゃあ見事だよ。あ、でも先に群島国をひとまわり見ておくのもいいか」
「……ごめん、ミラ」
「駄目かい?」
「悪いけど、今そんな気にはとてもなれないよ」
「おチビに、嫌われたんじゃないってのは分かってる?」
「……うん」
「唯人は、そういうところは聡いからいいね。心配なんだ、大事だからって、その一言さえ言えればおチビも辛い思いしなくてすむのにさ」
「僕は弱いんだ、テルア襲撃のときから何ひとつ変わっていない、足手まといだってはっきり言わないだけアーリットは優しいよ」
「またそんな事言って、金果の民の件はおチビも褒めてたじゃない」
 ゆらゆら揺れる幻の水の中、長椅子の上でミラと綱手に寄り添われてしばらくそのままじっとしていると、ふと、再度扉が開かれた気配があった。
「……あの」
 かけられた小さな声に、振り返ると声のとおりの小さな顔が隙間から覗いている。
「お客さま、朝ごはんだから呼んできてってミレルかあさんに言われたんだけど、ふたり?」
「あ、一人だよ、ありがとう」
 唯人と同じ肌の色の手に引かれ、大きめな広間に入ると子供達は長机にきちんと並んで唯人を待っていた。一斉に向けられた目にじっと見守られつつ、客用らしい素材も大きさもみんなと違う器に大鍋から淡い桃色のお粥をよそってもらうと、適当に薬味を乗せられ末席に着く。
 最初にユークレンの習慣である、世界主と都市精への感謝の言葉が捧げられ、それを復唱して終わると一斉に日々変わらないであろう朝食が始まった。
 子供達は、見たところ歳は唯人より少し年下くらいから赤ん坊まで、三十人程おり大きな者が小さな子の面倒をよく見て皆行儀もいい。よほど気になったのか、隣に座っていた、さっき唯人を呼びに来てくれた子がおそるおそる差し出してきた,Uの字式の箸の先の煮た芋を綱手が遠慮なく食べたので、あっという間に唯人は突き出された芋に取り囲まれるはめとなった。人懐こい子供達は自分達と同じ人種の顔の唯人をすぐに受け入れると周囲に群がって、後片付け後の勉強時間にはみんなして王都テルアの話をねだってきた。
 群島の人間は、部族が三百もいて言葉の種類も多いので、公用語には商売に便利な簡易ラバイア語を使っている。が、ここの子供達は十五になるとほとんどがテルアの精霊獣師育成学校に入るため、みんなユークレン語を教わっていてちゃんと使いこなせる。どこの言葉でも分かるが、話すのはユークレン新語しかできない唯人にとっては実に助かることであった。聞かれるままに街の事、城の事、王族の事などを次々に話していると,ここでもまた、ちょっとした騒ぎがおきた。
 突然、もうすっかり忘れていた唯人の中にいたあの里リスとやらが飛び出して、子供の一人にくっついてしまったのだ。その子は眼が不自由で、どうやら綱手もそうだったが、精霊獣はどんな人間が己を必要としているかちゃんと見分けて、共に在ろうとするらしい。それじゃあ、とこの機会に唯人がいらない精霊獣を綱手に追い出してもらうと、どれもがそれぞれの子供達に引き取られ、きれいさっぱり片付いてしまった。
「まあまあ、こういうのは捕えるにしても買うにしても、結構大変なものだと聞いていますのに、本当によろしいのですか」
 施設長であるミレルは、私にはさっぱり見えませんがと言いつつ、大はしゃぎの子供らと共に唯人に深々と頭を垂れた。いいんです、僕には必要無かったものだから、と代わりに貰った子供達の宝物のきれいな貝殻や手作りの品、とっておきのおやつで両手を一杯にして笑顔を返すと、いつしか重苦しかった気分が落ちついていた。
 そうこうしているうちに勉学の時間が終わり、昼の軽食を取ると(群島国は一日二食の夕たっぷりが基本で、昼過ぎに軽食を取る。ユークレンとは真逆)子供達はそれぞれが年齢に応じた労働に散った。小さい子はより小さい子の面倒を見たり掃除や洗濯等の家事をして、年長の者は畑や家畜の世話、水くみや食材集めに柴拾いなどやる事はいくらでもある。唯人はみんなから誘われたが、収集が付かなくなる前に、ここの最年長であるシイという名の青年が焚きつけの柴拾いに連れ出してくれた。
 昨日唯人に桶の水や掛け布を持って来てくれたこの青年は、顔は前髪を長く伸ばしているのでほとんど分からないし、片足が腿から下がなく竹の棒の上を割って筒をはめただけの義足である。その足と眼が良くないせいで、唯人と同じ歳くらいになってもここでずっと居残って施設の仕事を手伝っているそうだ。裾の長い巻き布的な衣装のせいで、言われるまで気付かなかった自然な素振りで柴入れの籠を背に負い、唯人を連れて施設の裏にある里山に登ると、シイは足元の小枝を手探りで拾い集めながらなんとなくな風で話しかけてきた。
「どうなるかと思ったけど、まあしっかりしてるみたいで安心した」
「え?なに」
「昨日帰って来たときは、かなりまずそうな感じだったから」
「そうだったんだ、僕は覚えてないから、騒がせたのならごめん」
「あんたよりか、一級精霊獣師のほうがすごかったよ。何か用があったらって行こうとしたけど無理だった、仔を産んだ直後の砂猫みたいな気配だったな。近寄ったらたとえ竜でも噛み殺す、って感じ」
「そんなに?」
「多分、臭いで気付いたんだ、あんたに使われた薬に〝睡蘭の粉〟が入ってるって。群島のある連中だけが秘伝の調合で使う毒で、しばらく幻覚が続いた後、そのまま眠ってしまいほっとくと死ぬ。後に痕跡は何も残らないから、大抵は酒の飲み過ぎってことで片付けられるんだ。ちなみに、解毒剤もあの連中しか持ってない」
「……え?」
 長い前髪の下の、口元しかその表情はうかがえないが……まるで雲の上に水面があるかのように、水に沈んでいる景色の中、その薄い唇がふっ、と微かに端を上げた。
「でも、あんたは心配しなくていい」
「どういう事?」
「俺が、その解毒薬の調合法を知ってるから」
 その言葉は、非常に重要なある事実を含んでいた。思わず動きの止まった唯人を置いて、シイは義足の足で器用に海を望む崖の方へと歩いてゆく。あぶない、と慌ててその後を追って行くと、切り立った岩肌に張り付くようにひと群れの草が生えているのが見えた。
「そこに、花が咲いてるか?」
「うん、白と黄色がある」
「じゃあ、白の蕾だけ摘んで。三つもあればいい、黄色は絶対駄目だ」
「分かった」
 指の先ほどの蕾を摘んで手渡すと、それを手のひらで転がして、俺、色がよく分からないんだとシイは小声で呟いた。
「親もどうせ結局捨てちまったんだから、ちょっとくらい色がおかしかったっていじらないでくれりゃあ良かったのにな、俺の眼」
 まあ、そのおかげで勘が鋭くなってなんとかあそこで生き延びる事ができたんだけど、と立ち上がる。後は手持ちの材料で大丈夫だから、と褐色の腕が唯人に差し出された。
「昨日の夜、ずっと声が聞こえてた。サレ、どうして、サレ、行っちゃだめだ……サレって、エリテアのナナイ族のカーサ・レピだろ?」
「うん、知ってるのかい?」
「もう分かっただろう、俺も、元〝二十七指の会〟の暗殺者だ。もっとも俺は翆眼鬼にたどりつくどころか、普通の完成品になる前にふるい落とされたくちだけど」
 柴の籠を抱え上げて、歩き出そうとした竹の足先が、雑草にかかりつまづいたのに慌てて唯人がその肩を抱きとめる。数回のやりとりの後、半ば強引に唯人はその手から籠を引き取った。
「俺の昔の名は、ア―ジのグシ・イデク(腐った肉)。眼の見えない物乞いのガキ時代を経て会に連れてこられ、毒薬の調合者としての技を仕込まれてた。だけどあそこは生き残る為ならなんでもやる奴らの集まりだから、五年ほど前に俺は後から来た目の付いてる奴に場を追われ、今更の実戦要員訓練にまわされた。出来るわけない水練をやるよう言われたのは、まあていのいい不用品処分ってことだ。外海に放りこまれて島に帰るどころか潮にどんどん流されて……ついに鮫の巣に流れつきそこで片足をもぎ取られ、もう覚悟したその時、ちょうど船で通りかかったサレが血で興奮した鮫のうようよしてる海に飛び込んで、俺を助けてくれた。そしてもう生きる気力のかけらも残ってなかった俺を施設に連れて行って、後に続く同じ境遇の奴のためにここと子供達を護れって……また俺が必要とされる〝場〟をくれたんだ」
 山道の途中で、里山らしい大きな木の生えていない斜面から眼下を望むと、あまり高さの無いサイダナの家並みの中に、石造りの養護施設は馴染みきれないままもしっかりと建っている。この地では虐げられるしかない小さな命を護る、揺るぎない砦のようにも見えた。
「今、どうにか逃げてきた数人の同じ境遇の奴が、俺と共にここであいつらから施設を護っている、これまでは黙ってても手に入った出来そこないが施設ができてからは段々こっちに流れてくるようになって、そろそろあいつらもここをどうにかしないとって思ってるんだろう。五年前にサレは、自分が再びここに戻って来る時は、あいつらを潰す覚悟ができたときだって言った。サレが来たなら俺達も後に続く覚悟は決めているが、施設を無防備にするわけにもいかない。で、あんた、どちらかに加わってくれないか?」
「え?」
「別に、断ってもそれをどうとは言わない。あんたには小さい連中が世話になった、受けた恩は倍返しがここの流儀だ、だから拾ってくれた会に逆らえない部分もあるんだが。できれば、カタがつくまでここでみんなと一緒にいてくれればありがたい」
「ごめん、それはできない」
 そうか、と特に感情の入っていない呟きが返される。間髪いれず、唯人は言葉を続けた。
「施設は、なんとしてでも君たちが護るべきだ。そして僕は、どうあってもサレのもとに行かなきゃならない。サレが僕に見せたくないって言った闇をこの目で確かめて、そのうえでそれを全部合わせて大切な僕の友達のサレなんだって伝えたいんだ、駄目かい?」
「いや、それでいいと思う」
 山を下りて施設に戻ると、ちょうど畑仕事をしていた連中も野菜で一杯の籠を持って帰ってきたところだった。唯人とシイに気付くと晩は野菜の汁と菜っ葉飯と根菜の塩漬け!とくったくなく笑う。楽しみだ、とか返しながら屋内に入ると、薬ができるまではしばらくかかるから好きにしてるといいと言われ、唯人はじゃあ、と窓の向こうの国境のキーアセ山脈を振り仰いだ。
「なら、ちょっと取りに行く約束をしてる物があるから行ってくるよ。それが出来上がっててもそうでなくても、夜までには戻ってくるから。もしアーリットが先に戻ったら、そう伝えておいて」
「分かった、じゃああれを渡しておいたほうがいいな」
 シイが出してきて唯人に持たせてくれたのは、薄い葉製紙に包まれた数粒の丸薬だった。睡蘭の毒薬の幻覚の期間は普通は二日ほどだが、人によっては体質ですぐに眠ってしまう場合がある。そうなってしまうと解毒薬が効きづらくなってしまうので、少しでも眠気を感じたらこの薬を飲んですぐ戻ってくるよう言い渡された。
「じゃ、頼むよ、ミラ」
「任せて、唯人」
 群島国の濃い青の空には、ミラの鷲獣の白い翼がよく映える。昨日あれだけ頑張って通り抜けたキーアセの峰も、空からだとあっという間に通り過ぎてしまった。はるか向こうに赤茶けた城壁に囲まれたミーアセンを望みつつ、暗緑の森の上を抜けてキントへと向かう。昼下がりの通りを以前来たときと同じように店へと向かうと、そこにいたホセは、唯人が来たら連れて行くようバセイに言われていた店を教えてくれた。
「親父のやつな、ついにぶっ倒れちまったんだ。なんとしてもあんたが来るまでに間に合わさないと、ってなぁ。いいトシして、本当にガキみたいに夢中になっちまうんだから呆れるよ。けど、俺の下の息子が弟子入りしてる鍛冶家に持って行ったのが昨日だから、もう出来上がってる頃だろう。ほら、あそこ、ニ―ロの店だ」
 指差す先にあるその店も、地盤補強を免れた区域にあったのか、相当年季の入った外観ながら中では人が作業をしている気配があった。店番をしていた若い男がよう、親父と立ち上がって背後の唯人に目を向ける。あんたが爺さんの客か?と問われ頷くとじゃあ後は任せた、とホセは帰り、その息子のラトに連れられ唯人は奥の作業場へと入っていった。
「あの長いのならもう出来てるぞ、ってか、ありゃ一体何なんだ?」
「うん、銃って言うんだけど、武器の一種だよ」
「先っぽに刃が付いてるが、刃物にしちゃあ恐ろしく使い勝手が悪そうだ、筒になんか意味あんのか?」
「あると言えば、あるんだけど……」
「物好きじーさんは詮索すんな、渡しときゃいいって言ったけどよぉ。俺そーいうの気になると我慢できないんだよな、ひょっとして、群島国の新兵器?」
「……言われたんなら黙ってろ、一流になりたけりゃな」
 部屋に入った途端、奥で背を向けていた大柄な身体から響いて来たもの凄い低音の唸り声に、ひゃ、とラトが身をすくめた。むっとした熱気が立ち込めている作業場では、二人のいかつい男がなにやら熱そうな焼けた金属塊を叩いていて、更に奥でもう一人、キントには珍しい明るい金髪の人影がそれを眺めている。こちらを振り返った熊みたいな体格の店主のニ―ロにじろりと睨まれて、ラトは慌てて唯人を前に押し出した。
「お、親方、うちの爺さんのお客です。あの長いの取りに来たって」
「おう、家具屋の客か、やっと来たのか」
 あいつはいつも変な物しかよこしてこん、とぶつぶつ呟きながら脇の台の上に乗せられていた懐かしいそれを持ってくる。もともとを知らんからこの出来上がりが正しいのかは分からんが、言われた通りにはやったぞ、と唸るように言われ、唯人は渡された銃をこみあげる懐かしさと共に手に取った。
「確かに、元通りです。どうもありがとうございます!」
「礼ならバセイに言え、俺は指示通りに繋いだだけだ」   
 金果樹で作り直された銃床は、明るい栗色だったのが桐の箪笥みたいな色になり、滑らかに磨かれて手に吸いつくような感触だった。弾を入れる跳ね上げ扉式の尾栓を開けて中が空なのを確認し、構えて撃鉄をカチンと鳴らす。重さも、バランスも申し分ない、後は……。
「スフィ……?」
 そっと口の中で呟いて、薄暗い周囲を見渡してみる。どこからかひょっこりと、あの赤毛が覗いていないだろうか。
 ふっと息をつき、唯人は銃を片手に持ち直した。スフィはもういない、この手にあるのは作られたばかりの新品の銃だ。百年余りも過ぎればまた武器精は宿るかもしれないが、それまで唯人は持たないしその武器精はきっとあのスフィではない。
「なにか気に入らない部分があるのなら、今のうちに言ってみろ、代金は家具屋に請求するよう言われてるからな」
 唯人の若干沈んだ面持ちを見抜いたのか、ニ―ロが気持ち声を和らげて話しかけてきた。いえ、何も問題はありません、お手数かけましたとそこにいる全員に深々と頭を下げてきびすを返す。もっと色々聞きたいが、親方が恐すぎるといった様子を隠せないラトに帰りを見送られ、店の入り口までやってきた唯人はふと、人影が背後からついて来ていたのに気が付いた。さっき作業場の最も奥にいた、顔はよく分からなかったが明るい金髪が目だっていた人物だ。振り返ったままの唯人に、ラトも不思議そうにその視線を追って背後に目をやった。
「ん?なんかいる?」
「彼、ここの人?」
 ラトの返事より先に、がっしりした長身のその姿が唯人の脇を追い越して行く。肩に掛けていた長い外套を勢いよく羽織るとそれはあの、緑褐色の軍服だった。
「……スフィ!?」
「俺を無視していくつもりかよ、つれない奴だなぁ」
 一瞬、隣のラトのことが頭から吹き飛びかけた。慌てて必死で表情を戻し、不信顔のラトに挨拶して店を出る。そのまま路地の奥の誰もいない空地まで駆けてゆくと、改めて感無量の面持ちで唯人は懐かしい姿と向き合った。
「スフィ……久しぶり、なのかな」
「そうでもないだろ、俺にしてみりゃだが」
「居たんなら、すぐに声かけてくれれば良かったのに!」
「声をかけたとして、あそこで大はしゃぎさせて、他の奴に変な目で見られるのは可哀想だって思ったんでな」
「そうか、そうだね……気を使ってくれたんだ。でも、本当にそんな頭してるから、こっちは全然分から……」
「ストップ、それ以上は言うな」
「え?」
「頭の事は言うな」
「で、でも。おかしいって言ってるんじゃ……」
「言うなったら言うんじゃねえ!あのなぁ、こんな派手な色の台木を俺に組むなんて、やっぱお前はなんも考えてねぇ素人だよ、どう見たって家具か洒落た彫刻の色だろが!小綺麗になる意味なんてねぇっての、分かってんのか?」
 ことごとく唯人の言葉を遮ってかかるほどスフィはぷりぷり怒っているようだが、唯人の心は喜びで一杯だったのでほとんど気にならなかった。それに同調するように、頭の奥で忍び笑いが漏れているので会話に引き入れてみる。
「いや、そんな事別に気にしなくていいと思うけど。な?鋭月」
『そうですね、私の白鞘とされてもまあ我慢できない色ではありません。でも、この髪や装いがそのようになるのは勘弁して頂きたく思いますが』
「ほーら見ろ……」
『僕はいいと思うけど、おチビに似てるけど、もっと深い色で綺麗じゃないか』
「それが嫌だっつってんだよ!!」
 どうやら、そこが踏んではならない地雷のようだった。そういえば、以前はアーリットを事あるごとに嫌そうに〝金髪野郎〟呼ばわりしていたが、こうなってはもう言えない。ぶすっとした顔で、おもむろに今まで持っていなかった兵帽を取り出し被ると中に髪を押し込んでしまう。もうこれについての話は一切無しだと睨みつける、そこは変わらない灰色の瞳がずいと唯人に寄せられた。
「それじゃ仕切り直しってことで、ぴかぴかの俺を改めてお前の物にしてもらおうじゃないか。どうするかは分かってんだろうな」
 うん、と頷いて刻印されている名を確認してみようとした、唯人の動きが止まった。
「あ……!」
 思わず、声がもれる。あの闘いのとき石に打ちつけでもしたのだろうか、英字の綴りはちょうど中心あたりが大きな傷で潰れ、もう読めなくなっていた。
「これ……」
「ん?なんだ、もう忘れちまったのかよ、俺の名前」
「そんなわけないよ!」
「じゃ言えよ、そんなとこに刻んである文字なんてどうでもいい、お前が呼びたい名で呼びゃあいいんだ」
「うん、そうだね……〝スプリングフィールド〟」
「おう、また世話になるぜ」
 にっ、と武骨な顔がほころんだ。ぽっと右肩のあの位置に暖かな感触が灯り、小さな紋が浮かび上がる。金果の杖入手おめでとう、とミラに言われ杖?というより銃なんだけど。でももう撃てないからやっぱり杖か、と思案する唯人にちょっと待て、とスフィは指を立てて見せた。
「おい、誰が撃てねぇって勝手に決めてんだよ。よーし、じゃあ今から慣らしも兼ねて、新しくなった俺の実装を見せてやるから目ん玉見開いて拝みやがれ」
 まずあれだ、と指で示されたのは、はるか彼方に小さく見えている、旗を新調した見張り台に吊られた鐘だった。鐘と言ってもテルアの王城のそれとは比べるべくもない、両腕で抱えられるくらいの大きさでここからだと豆粒ほどにしか見えない。なんであれ?と呟いた唯人をさっさと構えろ、とスフィは促した。
「だって、弾がないんじゃ……」
「んじゃ、確かめてみろよ」
 え?と蓋を開けてみると、確かに黒光りする銃弾らしき物が入っている。
「俺の弾(バレット)だ、火種ももう仕込んであるからな」
「バレット?」
 へー、こんなのも備わったんだと感心しつつ蓋を閉め、必要ないような気もするが撃鉄を上げ構えて引金を引く。と、火薬の爆発音というよりは、空気銃的な音と小さな火花を散らし弾丸が撃ち出された。銃などとかかわった事のない唯人の実力ならまず当たるはずの無い、彼方の的がカーン、と乾いた音を響かせ、道を歩いていた人達が一斉に見張り台を振り返る。大抵のものはこれでやれる(殺れる?)、とスフィが呟くその間に、何かがすごい勢いでこっちに向かってきたと思ったら、唯人の額にぱしっと張り付いた。
「え?な、なに?」
 手に取ってよく見たら、その黒いなりはさっきの銃弾と思えるが、なんか足と触覚があってもそもそと動いている。これって……。
「鋼刃蟲じゃないか!」
「おう、そうなのか、あつらえたみたいにぴったりだ。これからとっとと増やして十発くらいにしといてやる、すぐに戻って来るからそれくらいで充分足りるだろ」
 一瞬、身体の中で蟲が増えるという、字面だけでも猟奇的な状況に肌が粟立った。
「そ、そんな……十匹でちゃんと止まるのか?」
「そりゃ、餌がたんまりあるからほっといたらいくらでも増えるな。そこはお前がしっかり管理しろよ、主なんだから」
「え?僕はまだこいつには名前なんてつけてない……」
「〝バレット〟」
 白々しい顔で、念を押すようにスフィが呟く。ああ、早速やられた。慌てて袖をずらすと、肩のスフィの印の傍に添え星というか本物のほくろのように、小さな点がぽつりと現れた。
「僕としては、これはなんとかして持ち主だった人に返すべく方法を模索している最中だったわけで、断りのひとつもなくこういう勝手な事されると本当にどうしたらいいか分からなくなって困るっていうか……ちょっと確認しておくけど、僕みんなの主だよね?主って主人って意味だったような気がするんだけど、それであってるんだよね?」
「うるせぇってんだ、男なら過ぎた事うだうだ言ってんじゃねぇ、どうしても、ってんなら十一匹にして一匹返せばいいだけの話だろうがよ」
「……分かった、もういいよ(本心 良くない)」
「とどめ刺すみたいで悪いが、火種もお前ん中にいたの(勝手に)使わしてもらったからな。民間からの供出感謝する」
 それは。
『あ、閃輝精だ、すっかり忘れてたよ。唯人ったら、おチビに再会したときすぐ返さないから!仕方ない、向こうも気が付いてないみたいだしこのまま知らん顔で通そう、余計な痛い目みたくないだろ』
「ミラ……それでいいのか?」
『気付かないのが悪いの!』
「そうそう、使わないでただ持ったままなんてこっちもつまんねぇぜ、用がある奴がばんばん使った方がいいに決まってんだ!」
「精霊獣の主って、なんなんだろうねぇ……(自分が本当に、ただの餌つきの檻、それだけって気がしてきたよ)」
 人間、諦めが肝心だ。滲む涙を指先で抑えた唯人に分かったんならいい、じゃ次だ、とスフィは今度は唯人を来た道を戻ってホスの店へと引っぱって行った。
「ここを去る前に、あいつだけはやっとこうって決めてたんだ。おい、なんか食いもん持ってるか?」
「あ、うん。お菓子ならあるけど」
 精霊獣のお返しに、施設の子供に腰の帯に押し込まれていた硬い焼き菓子を取り出して見せる。上等だ、それを放りこめとスフィが指し示したのはホセの店の裏手になる、屑の木っ端を積み上げている廃材置き場だった。
「次は木屑を撃つのかい?」
「それじゃ菓子なんぞいらねぇだろうが、まあ待ってろ」
 言われるままに木の影に隠れてしばらく待つと、ちらちらとなにやら小さな影が姿を現した。どうやらカノが地下の行動で渓谷ミミズと並んで一般的だと言っていた、目なしネズミという生き物のようだ。まさかあれを撃てと、と焦った唯人にその奥だ、とスフィはこの世界のガラス代わりである薄い晶板の奥の薄暗い室内を示した。
「台の上に、同じに見えるがなんか感じの違う奴が一匹見えるだろ。あいつは外のと違って霊獣だ、これまでは爺さんがつきっきりだったんでなんとかなってたが、隙あらばとってある金果樹の残りをかじり尽くそうって魂胆だぞ。俺も何回か危なかった、そのお返しはしっかりさせてもらっとかないとな」
 でも、窓の奥だから撃てないよ。板が割れてしまうから、こっちに出てくるまで待たないと、と唯人が躊躇する間もなく、いいから、とまたも強引に銃を構えさせられる。その引金にスフィがぐいと指を入れた瞬間、唯人が今まで見た事のない、虹色の光の線がレーザーばりに空を走った。なんなく透明な晶板を突きぬけて、光に貫かれた小さな影がそのまま吹き飛び四散する。ざまあみろ、とかすれた声が吠えた。
「霊獣相手にはこれだ、今の俺はいくらでも霊素を取り入れて溜められるから、それを弾にして撃ち出すなんて芸当もできちまうぜ。だがこっちは実体のあるやつ、物とか生き物相手には意味ないからな、みんな通り抜けちまうから」
『すごい事になっちゃったね、唯人。彼、完全に杖性能を取り入れちゃったんだ……あんな勢いのある霊素弾なんて、多分銀枝杖でも撃てないよ。金果樹、ただの杖にしちゃわなくて良かったなぁ』
「恐れ入ったか」
「うん」
「もう弾が尽きたらそれっきり、なんて二度と言わせねぇからな」
「言わないよ」
「そ、そうか、分かったんならいい」
 まるで子供のように素直に唯人が呟いたので、少々恥ずかしくなったのかスフィはいつもの癖でがしがしと頭をかいた。はらり、と帽子からこぼれた金の髪が覗く。
「まあ、これでやっと普通に役に立てるようになったってわけだ。あ、でも鈍器扱いももうやるなとは言わねぇぜ、そういう使い方も軍の教練じゃちゃんとありだからな」
「そうなんだ」
 笑顔を向けると、差し出された重みの無い手が肩に乗せられた。その肩の印を確かめるように指がなぞる感触があり、そのまま腕の銃と共に光の珠と化し身の内に入る。長い間欠けていた物がやっと埋められた気分になって、ほっと息をついた唯人に呼びかける声があった。
『……のう』
『え?何、小野坂さん?』
『ええ杖を手に入れたなぁ、めでたい事じゃ』
『杖じゃねぇっての』
『えっと、みんなのおかげです、小野坂さんも無理ばっかりさせてすいませんでした』
『いやいや、己の力不足を恥じるばかりじゃ。それでなんじゃが、一応、これでワシの務めは済んだと思ってええかのう?』
『え?』
 そんな事、まったく頭の片隅にも思い浮かばなかった。思わず問い返した唯人に、ごく穏やかに言葉は続けられた。    
『最初からそのつもりだったんじゃ、ワシはあくまで今日この時までの間に合わせ。いやはや、もう疲れてしもうたわい』
『でも、別にいてくれても僕は全然……』
『お主は、これからも活劇続きなんじゃろうて。すまんがもう勘弁させてくれんか、老体にはちときついでな、頼む』
『ごめんなさい』
『なんで謝るんじゃ、いろいろあったが久しぶりにあちこち見られて楽しかったぞ。気が荒くて手と口の達者な若い頃のひねくれ小僧と違って、杖としての扱いも良かったしのう』
『それじゃあ、帰りにおチビんちに寄って戻して行こうか?どうせ通り道だから僕は全然かまわないよ』
『いや、その事についてなんじゃが……』
「……おーい、おまえさん!」
 ふと、頭上から声がかけられた。振り仰ぐといつ出てきたのか、内着に肩掛け姿のバセイが階上の窓から身を乗り出し手を振っている。笑顔で唯人もそれに応え、手を振って返した。
「どうじゃー、調子は!」
「最高です、バセイさんのおかげです!」
 おもむろに銃を構え、建物の遥か上の松ぼっくりに似た実を狙う。弾は見事にそれを弾き飛ばし、バセイの足元へと落下させた。
「ワシも楽しかったぞ、また壊したらいつでも来い!」
「はい、頼りにしてますから。これからも身体は大事にしてくださいね」
「分かっとる、心配するでない」
 それでなんじゃが、と唯人の中で再度声が響いた。しばらくその言葉に耳を傾け頭上に呼びかける。
「ちょっと、教えてもらいたいんですけど」
「なんじゃ」
「バセイさんって、義足、とか扱った事ありますか?」
「無いとは言わんが、それがどうした」
「僕が昨日知り合った義足の人がいるんですけど、それは粗末な物であまり良さそうな感じじゃないんです。その人は随分僕を助けてくれたので、僕の杖が彼の足になりたいって言ってるんですが。テルアではそういう物精付きの木を芯にした義肢があって、精霊獣とかかわれる人にはすごく具合がいい物なんですよね?」
「確かにそうらしいな、ワシは精霊獣のことはさっぱりじゃが、本物そっくりの義足や義手を彫って王都に収めたことは幾度かある。で、またこの老体に鞭打てとゆうておるのか?おまえさん」
「あ、今度は、別に急ぎはしませんけど」 
「物が物じゃから、本人が来るか詳細な寸法の資料がないと始まらんぞ」
「分かってます、なら本人に言っていつか来させますから」
「ようし、契約成立じゃな。まったく、この歳になって日々が賑やかでしょうがないわい、老けこむ暇もありゃせん!」
 いたずらっぽく笑うバセイの眼は、唯人の祖父や知っている年配の人物のそれとは違う、ずっと子供っぽく若々しい印象を唯人に感じさせた。
「さて、話もまとまったね。じゃ帰ろうよ唯人、日が暮れる前には戻らなきゃ……」
「……」
 唯人?ともう一度呼ばれ、え?と軽くまばたきする。今なにか、変な意識の途切れがあった。ものすごく慌てた様子でミラが出てきて唯人の顔を覗きこむ、来る前に貰ったあれ持ってる?と素早く懐が探られた。
「唯人、今、眠くなったんじゃない?」
「いや、そんな感じじゃないんだけど……」
「いいから、あの薬飲んでおきなよ。ほら、水あるから!」
 取り出した葉製紙を開けて、出てきた三つの粒を目にしてふと止まる。
「ミラ、聞くの忘れたよ」
「何?」
「これひとつでいいのかな、それとも三つで一回ぶん?」
「うーん……」
 あんまり見せた事のない、〝分からないや〟の顔でミラも止まった。
「えーと、僕の意見としては間違えて足らなかった、より間違えて多すぎた、のほうがこの場合の結果はましだと思うんだけど。どうせもう帰るだけだから、全部飲んじゃえば?そんなに危ないものなら最初に言ってくれてるだろ」
 それはそうだな、と納得したというよりは、何だか言葉が頭に入ってこず、どこかへ流れて行くような気分で唯人はそのまま薬を全部含んで飲み下した。さあもうさっさと帰ろう、と鷲獣に変じたミラの背に引っぱり上げられて慌ただしくキントを飛び立つと、金果樹のおかげで結構な勢いで傾きかけた陽を追ってサイダナへと戻ってこれた。
「あ、帰ってきたか」
 施設の敷地に降りてきた唯人を、シイは小走りで出迎えてくれた。すぐに効き目が飛んでしまうから早く飲んで、と小さな杯に入った真っ黒な液体を渡される。一気に干すと、舌が縮こまるほど渋かった。
「うあー、ひどい味、ちょっと甘いの食べないと……」
 おもむろに引っ張り出した硬いのをぽりぽりやっていると、もうすっかり慣れてしまっていた水の中の景色がだんだん薄れ元通りの世界が戻ってきた。治った、と笑顔を浮かべありがとー、とシイに腕をまわしてへばりつく。なんかおかしい、と感じたのか、そのままシイは唯人を施設の中へと入れず、出入り口の門の方へと移動した。
「どうかした?」
「どうもしてないよ?なんかすごくいい気分だけどー」
 なんだか分からないが、キントからサイダナに帰る間に、徐々に唯人の世界は例えるなら淡くてきらきらのピンク色状態と化していた。うはは、と笑いがこみあげてきた背を押さえ込みながら、なんでこうなった、とシイが困惑しつつ思案を巡らせる。子供連中には会わせないほうがいいな、ちょっと外に出ようかと手を引かれ、ふわふわと唯人はその後に付いて施設から浜辺に続く道を降りて行った。
「どこかで、一杯やったとか?」
「ううん、別に……あ、一杯といえばシイ、あの薬さ、飲んだんだけど」
「うん」
「三つでよかったんだよね?」
「そうだけど……え?」
 頭がしっかりしてる唯人だったら、この返事だけで己のまたしてもの失態に気付いただろう。しかし頭はふわふわのままで、何ひとつまともに考えられそうにはなかった。
「もしかして、全部飲んだ……?」
「ん、飲んだよ」
「……」
「ミラがぁ、足りないより多いのが……えっと、なんだったっけ?」
「ごめん、こっちだけの常識だったのか。同じ薬を一度に何個も飲むなんて、まずありえないって……」
「おえ?なんか悪い事したのかい?シイ。ちゃんと言ってごらんよ、許してあげるからさぁ」
「しょうがない、後に残らないはずだから抜けるのを待とう、大人しい人で良かった」
 もう、完全にはたから見た目はできあがった酔っぱらいそのものだった。どうやら先に貰った薬は後の薬をより効きやすくするための、血流を良くしたり眠気を払う興奮剤的な成分でできていたらしい。そして予想通り、規定量をぶっちぎってしまったようだ。
 それとこれとは別なのか、いたって通常状態の綱手の首ねっこをはみはみしてドン引き状態にさせながら、唯人は普段の抑制がすっ飛んでしまった頭でもさもさとシイの長い前髪をかき上げて、あらわになった、意外にもつくりの繊細な女性的な顔をまじまじと眺めた。
「優しい顔だね」
「そうか?見えないからよく知らない」
「それに、北の海みたいな落ちついた色の綺麗な眼だ、隠さないでもいいのに」
「俺は、あんたのそのみんなと同じ色らしい眼と取り換えられるならどんな不細工になってもかまわないよ。このちっぽけな部分の色変わりだけで全てを失ったんだ、家も、家族も、見える事も足も」
「でも、今は代わりがちゃんとあるじゃないか。これからだって望めばもっと何でも手にできるよ、茶色の眼で不細工なシイは得られない、うんといいことがさ」
「そうかな……ちょ、もうやめろって」
 どうやれば可愛くなるか、と真ん中分けにしたり耳にかけてみたりする手がさすがにうっとおしい、と押し戻される。臆面もなく出さないと勿体ないよ、と更に絡もうとしたらするりと身をかわされた。気がつくと、いつの間にか行く手にあの防波堤が見えている、なんだか身体が熱くてしょうがなくなってきたので、ひとつ波とでも戯れるか、と唯人は下履きの裾をまくり上げつつ、穏やかな波が寄せている砂浜へと向かってほてほてと降りて行った。
「シイはそこにいて、危ないからさー」
「……どの面下げてそれ言ってんだよ、てめぇは」
「……?」
「お前の方が数倍危ないっつってんだ、この記憶がザルの蟲頭野郎が!」
 地の底から響いて来たかのようなその声に振り返ると、こちらにやってくる、海からの風に金髪をなびかせた人影があった。ものすごく重くて濃いオーラを背負っているのを、いつもの唯人だったら素早く感じ取って大人しく首根っこをつかまれに行っただろうが、今の彼は一味違った。
「あ、おかえりー、アーリット!」
 あくまで軽い調子で駆け寄って、軽い調子のまま伸ばした両手で肩に抱きついてみる。何のつもりだ、のなん、のあたりで無防備な足に大外刈りが見事に決まり、アーリットの長身はころりと砂浜に転がされた。
「うわ!」
「はい一本!」
 すかさず上から押さえ込んで、やったことはないが兄弟喧嘩のノリでぱんぱんと砂を叩いてカウントを決める。ふわふわの奥底に沈んでいる、なけなしの正気が後五分でも生きていられますようにと震えながら呟いた気がした。
「僕勝ったよね?勝ったから、僕もサレのところについて行くから。今朝言った事、忘れてないだろ? 」
「……おい」
 ああ、いい感じに怒りが極まりつつある声だ。
「ちなみに、再戦は却下。自分が勝つまでやろうとする奴ってずるいと思うんだよね」
「てめえ、不意打ちの勝ち逃げってのはどうなんだよ!」
「勝ちは勝ち、いーからいーから。まずそっちの返事ちゃんとしてくれよ、駄々っ子じゃないんだからさぁ」
「……輝華(きか)、こいつ……殺るべき、だよな?」
 いっそ不思議なくらいの抑えた声で、下になったままのアーリットが呟いた。眼が、明らかに危険な何かを帯びている。背を浮かすように少し身じろいだと思ったら、ふいに周囲がむっとした熱気に包まれた、慌てた様子でミラが傍らに飛び出してくる。
「うわ、信じられない。おチビったら、か弱い只の人間相手に竜出す気だよ。もしもし?この子は禁呪使いや破壊主じゃなくて、ちょっと壊れてるだけの唯人なんだけどー?」
「ただの壊れてる人間が、俺をここまで怒らせるか!」
 アーリットの背の下から四方に炎の輝線が走り、砂に描かれた紋章からごう、と巨大な火柱が立ち上る。その踊る炎を割って中から現れたのは、以前テルアの空でちらりとだけ見た紅い竜だった。その名は、轟炎の精霊獣、紅輝炎竜。瑠璃鉱竜より細身でしなやかに見える翼持つ体躯は、この世の全ての紅で形作られている。それを麻痺した頭で恐いというより綺麗だなあ、とうっとりと眺めると、唯人は銃を取り出し防波堤の裾である傍の石に銃剣の先を突き立てた。そこから青の輝線が走り、ずい、と綱手が乗り出してくる。炎竜が、威嚇するように渦巻く風のごとき吼え声を響かせた。
「綱手、やっと気兼ねなくお前を出せるようになったよ、この際胸を借りるつもりで思いっきりやっちゃってよし!」
 唯人の言葉が終わると同時に、凄まじい地響きがあたりを揺らした。間髪入れずの炎竜のぶちかましに、綱手が派手に波打ち際へともんどり打つ、紅と青の凄まじいぶつかり合いが始まったのを仰向けで呆然と眺める緑の眼が、ふいに慌てて戻された。
「こら、何やってんだお前!本当に、頭どうにかしちまったのかよ!?」
 もう完全に自制心とか後の事を考えるとかが麻痺してしまって、というかどうせすぐに人生終わるんだから心残りのないようにしたい事はやってしまおう、とおもむろにアーリットの白い上衣に手をかけると一気に開き、綺麗な紋様に埋め尽くされた肌をあらわにする。抵抗しようとする腕を、文字通りの馬鹿力で両方とも押さえつけるとふう、と唯人は安堵の息をついた。
「……良かった」
「あぁ?」
「心配で、本当に心配で、ずっと頭が一杯だったんだ。この綺麗な身体に、もし傷の痕でも残ってたらどうしようかって思ってた」
「そんな事、お前にしてくれって誰が言った!」
「だって、他には何ひとつできなかったから、ただ心配するだけしか。アーリットは強い、でも陰で血を流してることもあるってことをほとんどの人は知ろうともしない。それを見て、嫌だって思ったなら……弱くて何もできない僕は何倍もの覚悟でその後を追いかけて、せめて君が立ち向かう災難の何分の一かは受け止められるようにならないといけないんだ。でないと君はこのままずっと、僕を保護者以上の眼で見てくれないんだろうから……」
 なんだか周囲が静かになった、と顔を上げると、炎竜と綱手ががっぷり組み合った姿勢のまま、上からこっちを見下ろしているのと目が合った。やば、と言わんばかりに慌てて炎竜が青い頭にかじりつき、綱手がわざとらしい悲鳴をあげる。別にいいけどもう少しやっててもらおう、と唯人はまた下へと向き直った。
「僕は〝男〟なんだ。どれくらいかかっても、君にそう見てもらいたい」
 ふっと、押さえ込んでいる腕から力が抜けた感じがあった。
「……それが、お前が思ってる〝男〟か」
「うん、大事だって思ったものを全力で護るのが男だ、って、お爺ちゃんに言い聞かされた」
「それで、お前はその俺にはよく分からん男の理屈で、今俺を押さえ込んでひん剥いてるってのか?」
「それは……だって、見せてくれって頼んだって無理だろうし、放したら殴ってくるだろ、顔にきっぱり出てるんだから!」
「放さなくても、お前をぶっ飛ばすくらいできるってのは知ってるよなぁ!」
 いつも薄くほのかに輝いて見える眼の、唯人にひたと据えられている左がふいに光量を増す。もう完全に対破壊主モード、つまり冗談抜きだと感じた唯人に容赦ない一言が発された。
「ユーク・ミリア、風……!」
 やばい、これは食らう訳には断じてならない。この距離だと良くて耳と生き別れ、最悪頭が真っ二つだ。両腕は塞がってるし、と、とにかく止めないと、止めるには……以上の思考をコンマ数秒で巡らせて、まともなら死んでもやらないはずの解決策を導き出してしまい、唯人は最も近い位置にある空いた箇所で眼下の危険部位を塞いだ。なんだかもう、頭が熱くてどうにかなってしまいそうだった。
「……」
「…………」
「………………」
 真っ白な数秒間が硬直したまま過ぎて行った後、ぐい、と重なった顔が横にずらされる。
「……〝風渦〟!」
 出し抜けにものすごい風が巻き起こり、唯人を巻き込むと勢いよく体を吹き飛ばした。下が砂なのでそう大した衝撃はなく、転がった唯人の首と背が、素早く飛び起きたアーリットの杖でうつ伏せに砂に押しつけられる。形勢逆転、と全体重をかけられて、まあよく持ったな自分、とゴングの空耳を聞きつつ人生の終焉を悟った顔で観念すると、何とも言えない表情の顔がぐいと寄せられてきた。
「……まあ」
 これは一体なんの表情なんだろう、唯人の過去と照らし合わせると怒りが度を越して若干の笑いが入っているような。嫌な相手に見せる、完璧にお愛想のあれとも少し違う。どっちにしろ怖い、ものすごく怖い。
「俺も、全然悪くないとは言う気はない」
「……?」
「面倒がらずに、最初に全部教えときゃあ良かったのか?」
「……??」
「今から説明するのももうなんだから、この際、逆にお前に聞く。お前の世界じゃあ、求婚ってどうやってんだ?」
 あまりに意外で唐突な言葉の内容に、唯人は思わずぽかんとなった。ようやくふわふわ感が薄れてきたようで、入れ違いに黒雲のごとくどうしよう感が胸に湧き上がってくる。
「……???え?」
「さっさと言え」
「え、ええと……口でちゃんと言う、一緒になってくださいって。それで、男性の方が相手に指輪を送ったりして……」
「それだけか」
「あ、後、相手の親にも挨拶に行くかな」
「そのまんまだな」
「そうだけど……それが?」
「じゃあ、俺に雛豆食わせたり垂らし文句吐きながら指絡めてきたり、なんの前置きも無く口重ねてくるのさえ全くその気はありません、知らなかったんですで済ませられるってのか、お前のゆるいにもほどがある世界では!その度に知らなかったんならしょうがありませんねぇ、で済まさなきゃならん俺の我慢にも、いい加減限度ってもんがあるんだぞ、おい!」
 そこでちょっと言葉を切って、手近の石を拾いもう完全に見物モードに入っている背後の竜に投げつける。炎竜が素早くよけたので、石は綱手の額に命中し意外に良い音を響かせた。
「正直、この間のこともあるんだし、無駄に疲れたくないんだよ。こいつはそんなつもりじゃない、ガキみたく俺を頼ってるだけだって何とか身体に言い聞かせてるってのに。いつ、やけに腹が減ってくるか気が気じゃないんだぞ?お前がそうやって無神経に俺に〝男〟を意識させようと突きつけてくればくるほど、俺は気を張ってないとこの大事に嫌でもか細く、柔らかくなっていっちまうんだ。それが〝両性〟なんだ、お前にはまだ分かってないんだろうがな!」
 怒っているのは当たり前だろうが、以前の癇癪よりはどっちかというと感じはお説教だ。耳を伏せ、尻尾を丸めて平伏するしかない唯人を可哀想に思ったわけでは断じてないだろう、ミラが凄まじく余計な追加説明を横からぶち込んできた。
「そりゃずるい言い草だよ、言葉が足りないねぇ、おチビ。大事なことだ、別に好きじゃない相手なら何言われようとどうってことないんだろ?身体がそうなる心配してるってことは……」
「うるせぇんだよ腐れ鏡!それ以上言ったら俺の全身全霊かけて本気で潰す!」
「あはは、ほら、照れてるよ。この子ったら、可愛い」
「黙れ、手っ取り早くお前の餌のこいつから潰すぞ!」
「もう、おチビったら、すぐ怒るんだから。やるのは一瞬だけど後悔は一生だよ?特に君の一生はまだ全然先が見えてないんだからさ」
「てめぇに心配してもらうつもりはこれっぽっちもない!」
「……(もうやめてどっちともライフはゼロよ……)」
 紅輝炎竜の熱気が立ち込めている砂浜は正直暑く、気付くと唯人の額には汗が浮いていた。その背に寄りかかるように身を預けているアーリットは平気な顔をしているが、ふわふわ感の去った頭に別のくらくらというか動悸を誘ってくるあの匂いは相変わらずな上、何だかますます濃度を増したようで。ついさっきの無我夢中の中の柔らかな感触を思い出してしまい、もうどうしようもなくなって唯人は黙って下を向き、砂に顔を押し込んだ。
「おい、鼻に砂つめて窒息しちまうつもりなら望むところなんだが、その前にちょっとさっきの奴見せてみろ」
 言葉と共に小突かれて、俯いたまま肩から銃を出し渡す。受け取ったそれに目をやって、これだけの素材をこんな風にしちまったのも、物知らずの異界人ならではだな、と呟かれ、けっ、とスフィが毒づいた。少し抵抗していたようだが、ぱんと尾栓を開けられ、中の火種(閃輝精)に気付いたアーリットの形のいい眉がすいとひそめられる。かつてない、最悪のタイミングだ。
「なんで、こいつがこんなとこに居る」
「ご、ごめん、返そうと思ってたんだけど、スフィが勝手に……」
「あのな、精霊獣に好き勝手されてるってこと自体が、精霊獣師の技量の未熟さを晒してるってことなんだぞ。まあお前の中はミラと瑠璃鉱竜が仕切ってるから、大事には及ばんだろうが」
「仕方ないよ、そもそも僕はこんなことになったのが、まだほんの数カ月前なんだから……」
「そうだなぁ、充分学んでもいないからこいつ(閃輝精)が何の幼体かも分かってない」
「え?」
「気にするな、ちょっとやそっとじゃ成体にはならん、お前が歳くって死んだらその後で回収するから持っていろ。こんな満足に理解してない力をどんどん身につけて、お前が望むことはただ、いずれ俺の盾になる、ってことだけなのか」
「……うん」
「〝男〟だから?」
「そうだよ、いつになるか分からないけど、いつかは絶対に」
「随分長く生きてきたが、そんな理屈は聞いたことがないな。俺と並び立とうとするのは、どいつも皆俺を打ち倒すことを目指してた奴ばかりだったから。まあそれは、お前の残り数十年の余生で気長に頑張ってみるんだな。仕方ない、俺とやりあってちゃんと規定時間以上耐えたから、テルア軍二級精霊獣師扱いにしてその特権、有事の際その場で自己判断して行動する権利を認めてやる。エリテアについてきたいなら好きにしろ、だがとりあえずその前に……」
 おもむろに取り出した小さな何かをがつ、と唯人の頭に放り投げると杖を引いて立ち上がる。俺まで砂だらけにしやがって、とぶつぶつ漏らしながら上衣の合わせを直すアーリットに、やっと終わったん?と言いたげに背後の炎竜も長い体をううん、と伸ばして背伸びした。しなやかな体躯が輪を描くようにぐるりと回ったら、一瞬高く火柱を上げその姿が熱気ごと消えうせる。綱手はといえば、何がはまったのか、はるか向こうで砂を飛ばして夢中で穴掘りしているようだ。
「それ、飲んでおけよ」
「……何?」
 身を起こし、傍らに落ちている物を拾ってみると、小さな石彫りの蓋つき小瓶のようだ。蓋を取って顔を寄せて見ると、酢のような刺激臭が鼻をつく。
「セティヤに事情を話して分けてもらった、金果の民の万能薬だ。よく考えたらそれがあったってのをすっかり忘れてた、俺も焦って知らないうちに周りが見えなくなってたみたいだな」
 本当に、なにがあっても唯人のことは常に考えてくれている。ありがたくこれを飲む事で全ては丸く収まるような気はしたが、さすがにもうこれ以上は精神的にも肉体的にも無理だった。こっそり飲むふりだけして酸っぱい顔をして、後ろ手でそっとミラに渡す。効いたか?と幾分心配そうに覗きこまれ、砂まみれの顔で唯人はなんとか笑顔を浮かべて見せた。
「大丈夫か本当に、もう襲ってこないんだな?幻覚と昏睡の症状は知ってたが、壊れるってのは聞いた事なかったな、異界人だからか」
 いやそれは違うが、わざわざ言わなくてもいいだろう。というか言えない、天下の一級精霊獣師に無駄足を踏ませたなんて。
「うん、効いた、さすが金果の薬だな」
「なら、さっさと起きろよ、ここで夜明かしする気じゃないだろ」
 さっきまで砂浜を朱に染めていた夕陽は、もう水平線の下に沈んでしまっていた。薔薇色の名残を追うように、空の反対からは紺青のとばりが広がって来ている。綺麗な眺めだが正直それどころではない、どんどん濃さを増す一方の脳内暗雲に、成すすべも無く唯人は再度ゆっくりと砂に向かって突っ伏した。
「ごめん、気にしないで。ちょっと一人になりたいから、アーリットは先に帰ってくれ」
「だから何なんだ、まだどこか変なのか」
「これは薬じゃ治らないんだよ、ただの自己嫌悪だから。なんならいいから好きに殴ってくれ、それだけの事君にしたし」
「お前、ラバイアの変態呪術使いジジイと同じ趣味なのかよ。殴られるのがいいなんて俺には到底分からねえ、まあその手の趣味の奴の殴り方、ってのはその時しっかり身につけさせてもらったがな」
 ……何やってんだよ、アーリット。
「そうじゃなくて、君が怒ってるのなら殴られてもその覚悟はあるって話で……」
「怒ったさ、てめえを竜に喰わせちまおうと思ったくらいにはな。けどまああっさり喰われるほど弱くもなくなったし、そのヘコみっぷり見てたらなんとなく分かったからもういい」
「何が?」
「お前が、誰にでも普通にそういう事するんじゃない、ってことがだ」
 面倒臭そうに伸ばされてきた腕に肩がつかまれ、ぐいと身体が引き起こされる。砂だらけの顔を手荒く払う指がふと、唇に触れ止まった。
「ま、初めてじゃないんだし、お前には何も不利な事起きないんだからあまり引きずんなよ、別に求婚とか関係ないんだろ?」
 え?
「は、初めて……じゃない?」
 ぽっかり空いた脳内空白を、ここに来てからのあれやこれやの景色がものすごい速さで通り抜けたがそれらしい場面はヒットしなかった。もしかして、無意識のうちにやってしまったのか?それは非常に怖いのだが。
「あ?気がついてなかったのか、テルア襲撃の時、お前の息が止まっちまってたんで俺がしばらく吹き込んでやっただろ。口を付けないで息吹き込むなんて芸当は、いくら俺でも無理だが」
 あうううう。 
「……それを、どうして今、しれっとした顔で僕に言えるんですか?」(動揺のあまり敬語)
「そりゃあ、あの時はお前のことなんて、双界鏡に乗っ取られた謎の馬鹿、じゃなきゃ知らん世界から迷い込んできた砂猫のチビくらいにしか思ってなかったから。死なせない為にやる事としては間違ってないだろ」
 はい、確かに間違ってはいませんが。なんとなく、拾って帰った仔犬の面倒をみていたら予想外に巨大化して、ある日ついに押し倒される、の日常的あちゃーな風景が頭に浮かんで溜息が洩れる。と、ふいに頭上を覆った影に気付いて、唯人は顔を上げた。
「……うわっ!」
 一瞬、破壊主の新手の怪物かと思った。まるでそのまんま電柱が軟体化したような黒いびったんばったんしている生き物を、綱手が誇らしげに口にぶら下げている。おぉ、内湾ウナギじゃないか、またでかいのをつかまえたな、とアーリットが呆れたように呟いた。
「こりゃ群島じゃ精のつく食いもんの代表格だ、お前にこれ食って元気出せって言ってるんだろ」
 どう見ても、この大きさでは食われるのはこっちのような気がするが。気がついたら内着の中まで砂まみれで、心も体もざらざらの気分のまま、とにかくこの獲物は施設に持って帰るべきだなと重い腰を上げる。防波堤の石積みを上がると、唯人はもうすっかり忘れていたシイがそこでずっと待っていてくれたのに気がついた。
「わ、シイ!いてくれてたんだ、ごめん!」
「うん、よくは分からないけど、すごい喧嘩だったな、治まってよかった」
「あ、アーリットにも言っとかなきゃ、アーリット!探してる本拠地、分かりそうだよ」
「なんだと?」 
 もう大人しくなった巨大ウナギをぶら下げた綱手を従えて、施設に戻る道すがら(幾人かとすれちがったが、みんな変に宙に浮かんだ巨大ウナギとその端っこを申し訳臭く持って歩く唯人を見ないふりしてくれた)唯人はシイの素姓と、水先案内を頼める旨を説明した。場所はアーリットが今日一日で絞った大体の予想場所の範囲とも合っていたようで、スリンチャの連中はいつでも船を出せるようにして待っているよう言ってあるので今晩にでもそこへ向かうことになった。
「俺はこの足だから、かわりにエツって奴が付いて行く。そいつと義兄弟の誓いをたてたのがまだ島にいて、どうしても迎えに行きたいそうだから」
「あ、足と言えば」
「うん?」
「僕はさっき、キントに僕の杖、みたいな物を取りに行ってたんだけど。その間借りてた別の杖がもうゆっくりしたいから、君の足になりたいって言ってるんだ。いいかな、アーリット」
「なんで俺に聞くんだ」
「だって、元々は君のだったんだろう?借りた僕が勝手に決めたら」
「もう、二百……ええと、ずっと前から俺のじゃない、そいつがそうしたいって言うんなら好きにしろ」
「別にいい、そんなのは金持ちがやることだ。俺にはそんな金ないし、あれば他に使う」
 そう言われれば、代価のことなど全然考えていなかった。唯人が立て替えるのはたやすいが、それを安易に受け入れる気性ではなさそうな雰囲気だ。
「キントに、知り合いの面倒見のいい職人さんがいるんだ。その人に代金代わりの物は預けてあるから大丈夫だよ」
「タダが恐いってんなら、まずいい足付けてそれからしっかり稼いで、納得のいく金払えばいいんだ。こののほほんバカに、お前騙す悪だくみなんか無理だってのくらいは分かるだろ」 
「なんか腹立つな、その言い方……とりあえずはい、これ」
 取り出した樫の杖を手渡して、名前は小野坂さんだよ、と告げた唯人の背後からアリューティス(一番星)、と言い直しがかかる。アーリットの本名のことを考えれば、忘れようのない名だ。改めて物精の持ち主への忠誠心のようなものを感じ取って、唯人は心の中で頭を垂れた。相変わらずの表情の分からない顔でそれを受けとって、シイも黙って頭を下げる。
「ああ、そうなったらこれからあの窓をどうするか考えないとな。じゃあ唯人、代わりにあの黒い長刀俺によこせよ」
「それはちょっと困るなぁ」
 唯人の呑気な返答に、脇腹の中の鋭月がじわりと奥に沈む感触がした。
『無論、断固拒否します、よろしければスフィ殿がどうぞ』
『もういっぺん壊れる羽目になろうが、俺も絶対御免こうむる』
「ていうか、まず窓を直そうよ……」  
 結局、シイの義足にも使っている沿海産の竹がいいんじゃないかと話しつつ、施設の門をくぐる。綱手のお土産を子供達は大はしゃぎで迎えてくれたが、騒ぎに出てきたミレルはさすがに品の良い顔でおおいに絶句してくれた。しかし大変な御馳走である事は間違いなかったらしく、水場に置かれたそれを明らかに刃物に慣れている様子の数人が見事な手付きでさばいていく。その隣で邪魔にならないように衣を脱いで砂だらけの体を流していると、今朝唯人を朝食に呼びに来てくれた小さな子が包みを抱えてやってきた。
「お弁当作ったよ、出かける時は言って」
「あ、分かった、じゃエツって子呼んできてもらえるかな」
「エツはぼく」
「え、君?」
 年の頃はまだ七、八歳程にしか見えない、唯人と同じ東洋系の顔立ちの、くりっと大きな黒い瞳が笑いかける。こんな小さな子……と思った唯人の心中を読んだのか、ひゅっ、と空を切る音が耳をかすめたと思ったら、先に重りの付いた紐がくるくると唯人の首に巻きついていた。
「ぼくが以前使ってた鋼糸なら、これで、繋がってるのは骨だけになっちゃうんだけど。分かった?」
「……わ、分かった」
 その後手早く用意を終えて、アーリットとエツの三人連れでシェリュバンらが世話になっているラバイア人の豪商の住まいに行くと、待ちかねていた様子でシェリュバンは唯人らを港の思っていたより大きな船へと連れて行った。一応何かあったときの本国への報告のため、シェリュバン側の一人、スワドを残し後の四人……セティヤ、キリシュ、イェン、サテクマルと唯人ら三人、計八人で船を出す。シェリュバンもエツを見てあからさまに眉をひそめて見せはしたが、水先案内であることはしょうがないので何も言ってはこなかった。
「一旦エリテア本島に向かってそちら側から回らないと、ここから真っすぐ向かっては不自然で怪しまれる。一番南のシウド島寄りにア―ジ諸島に向かうふりで、横を通るのが一番自然だ。今からだと、着くのはちょうど明け方前くらいか」
「みんな夜に眼が慣れてるから、暗いうちに行くのは危ないよ。昼は島の上にある武術教団のふりをやってて、仕事から帰ってきたみんなは島の中で寝てる。暗いうちに海から上がって、中に忍びこむのは明るくなってからがいい」
 港を後に海へ出てしばらく後、お弁当を食べたいとエツが言うので持ってきた包みを開いてみると、中は香草味噌を塗って焙った鰻の切り身を御飯にはさんで押し寿司状に切り分けた物だった。いかにも精がつきますといわんばかりの、脂みなぎっている具入りのそれをアーリットに勧めるのは非常に緊張を伴ったが、腹を決めてあくまでさりげなく差し出すと特にどうということも無く彼はそれを受けとった。あまりに色々ありすぎたので、そういえばラバイア組の前ではまだ偽装伴侶継続中だったというのを忘れかけていた。
 ラバイア組も味見してきたので早々に片付いた食事の後、もう一度島での行動の手順を全員で綿密に組み上げる。シェリュバンは唯人とエツが島にまで付いてくるのに難色を見せたが、エツは島の中も知っているし敵に霊獣使いがいる以上、こちらの手数も多い事に越したことは無いというアーリットの説明に渋々納得してくれた。
「で、エツは知ってるかな、どうして会が子供をさらったのか。もし知ってたら教えてくれないか」
「話だけなら聞いてるよ」
 別に何でもない事のように淡々と、エツはその幼い口で語り始めた。
「とくにいつやるって決めてるわけじゃないんだけど、ずっと昔から会がやってる〝贄の祭〟ってのがあるんだ。髪が金色とか眼が緑青の出来そこないを連れてきて、みんなで切り刻んで始末しちゃう。その後で体つきはいいけど気の弱い奴とかに無理やりその肉を食べさせて、それで心が壊れて何でもできるようになったら鬼の力が憑いた、強くなったって喜ばれるんだ。これまでは群島国のどこかから連れてきてたみたいだけど、うちの施設のせいで足りなくなってきたんだろうな、よその国にまで手を出しちゃうなんて」
「本気かよ、冗談じゃねえ」
 聞き終えて、米と魚、両方の食感に慣れていないのか、一人傍らで魚挟み飯をちびちびかじっていたサテクがまるで生の蟲を食わされたような顔をした。彼もここにいる以上はれっきとしたスリンチャ族の一戦士で、鼻がいいだけの子供ではない。
「ラバイアじゃ、子供は一族の宝だ。成人の儀式を終えて一人前と認められるまで、一族みんなで面倒を見て戦いにもかかわらせない。どんな理由があるにしろ、子供をないがしろにするのを理解する気にはならねぇな」
 おもむろに船の窓から唾を吐き、シェリュバンが低い声を漏らす。セティヤ、もうそいつ連れてって寝かせてやれよと言われ二人が別室に出て行った後、彼は隅にあった酒の瓶をひとつ持って来て封を切った。杯を満たし、じっと波の音に耳を傾けるように黙り込む。
「本当に、さらわれた子供を助け出すだけでいいのか、って話になっちなったな。俺も砂の上なら戦略とか考えるのは慣れてるが、水の上じゃあ勝手が違い過ぎる。正直、この人数でどうなるか……」
 差し向けられた杯をひと口含み、アーリットが言葉をつなぐ。
「大丈夫、できる、俺達より先にそこを潰す覚悟で乗り込んでる奴が一人いる。あいつは強い、それに閉鎖的な群島の内部事情に押し入っても、他国人の俺達みたく反発を受けないご大層な肩書きの持ち主だ。あいつがひと暴れする騒ぎの陰で俺達は子供らを探し、保護した後どさくさまぎれで一緒に腐った連中をやっちまえばいい、そして島兵が来る前にずらかる」
「そいつは、何者だ?」
「エリテアの廃皇子、今はテルアの傭兵だがあいつも同じ穴の出だ」
「なんつーか、どこの国でも後継ぎってのは大変だな。そいつがどうカタを付ける気かは知らんが、俺はガキには一切手を下す気はないからな」
「あいつだって、誰よりそう思ってるさ。人の殺し方しか教えられていない子供は抑えつけてる大人を潰してから、飯と居場所と母親代わりを充分にあてがって安心させてやりゃあ大抵は大人しくなる。その為の受け皿はちゃんと用意してあるからな、俺の国の人的資源としてありがたく頂くために」
「そりゃ結構うまい話だな、東方国に近い北ラバイアの俺の領地もこれからの付き合いを考えりゃゆくゆくはそっちの人材を増やす必要があるだろうし。俺も商売仲間誘って、ひとつここに施設でも造ってみるか」
「さあて、群島国も島主が変わればまた方針が変わるかもしれん。どうなるかは世界主もまた知るよしもなし、だ」 
 そう広くもない船の中の大部屋で、雑魚寝なのは当たり前として夫婦設定上やむおえない、アーリットの懐で夜を明かすという耐久イベントに耐えられる自信がなく内心どうしようかと悩んでいたら、いつの間にか彼に何かされていたようで。(後でミラに聞いたら、昏睡の術式とやらを張り付けられたらしい)気が付いたらもう明けていた翌朝は、おあつらえ向きの風のない、靄のかかった朝だった。
 小型の木舟を二艘降ろし、靄にまぎれてエリテア諸島南位の小島、ミナク島に接近する。そう大きくはない島だが、真っ赤に塗られた海神武道の武術教団の建物が島の半分ほどを覆っていて、ここから更に少し南下した位置にある漁師島のシウド島より人の住んでいる数は多いと言われている。このあたりの海域には鮫が多く、海神の加護を受けたものでないと危険だという噂がまことしやかに拡がっているので、漁師舟程度の小さな舟は絶対この島に近寄らないし、エリテア諸島の南にあるア―ジ諸島に向かう大きな船も、シウド島に用が無い限りここは離れて通っていく。
 靄は風の具合であっという間に状況が変わってしまうので、ミラに隠してもらえるようできるだけ舟を寄せ進んで行くと、舳先にいるアーリットが風の臭いを嗅いでちっと軽く舌打ちした。
「初めてだ、群島の海域でまがりなりにも結界の気配を感じるとはな。まあちゃちいもんだから、こっちも目くらましを被せておくか」
 差し上げられた銀の杖が、宙に文字を描くように動き、一瞬周囲を包むような光の覆いを浮かび上がらせる。大分島の様子が分かるようになるまで近づいてきて、舟に積んだぼろを体に乗せてその隙間から建物を伺うと、物見のようなでっぱりにいる人影がこちらを見ているような気がした。ミラに隠してもらっているので見えてはいないはずなのだが……人影が何かを口に当てた、その直後、唯人の舟の底にどん、と鈍い衝撃がきた。
「……?」
「いけない、鮫にばれたみたいだ。鮫使いが鮫を集めたらこの舟壊されちゃうよ、早く逃げよう!」
 そのエツの言葉が伝わると同時に、イェンがぼろから半身を起こすと素早く海面に向かって短剣を投げつけた。それが当たった一匹の血を嗅ぎつけあっという間に他が群がり喰らい合いが巻き起こる。その騒ぎに紛れて海に飛び込むと、唯人達はおのおの岩陰に身を寄せ、砂のない岩だらけの島に上陸した。
 ここからは二手に別れ、アーリットの上で騒ぎを起こす組と唯人の子供を探す組とで別行動となる。なんとか同行のセティヤ、エツ、サテクと集まり完全に夜が明けるのを待つ間、ふと、唯人は足元のごつごつとした岩の間に水の流れがあるのに気が付いた。見渡すと、少し離れた岩壁から水が流れ出していて、樋を作って中に引き入れた残りが下の岩を穿ち窪みに水たまりを作っている。真水ならありがたい、顔だけでも洗える。確かめてみようと皆から離れてそちらに近づいて、溜まり水に伸ばした手がふと、突然びしりと撥ねつけられた。
「……?」
 ぷくり、と頭を出してきた、錆色の蛙におうむの嘴を付けたような変顔の生き物が、まん丸な眼で唯人をじっと睨む。ちょっとだけでいいから、と更に伸ばそうとした指を再度尾で弾かれ、いいよ、けち、と身を起こす。すると、綱手が肩から出てきて水が流れ出している岩の穴に直接頭をくっつけた。ごくごく、と喉を動かしぷはーと唯人を振り返る。こっちならいいのか、とおそるおそる手に受けて含んでみると、やはりいい冷たさの真水だった。きょろりとした眼の生き物は、黙って唯人を見上げている。なんとか顔と頭をすすいで皆にも教えようと戻ると、話を聞いたエツはまた気を滅入らせるような一言を吐いてくれた。
「あー、その水場ね、仕事してきたひとが帰ってきてすぐ血とか洗う洗い場だよ。武器の毒とかも流してるから、下の溜まってるのは飲めないから。飲まなかった?ていうか、お兄ちゃん、なんで知らない場所でじっとしてられないの?ふらふらしちゃ駄目じゃん」
 セティヤならともかく、まだ小さいエツに言われるとちょっとこたえる。なぜだか分からないが、この世界では人が少ない所ほどどこからか自分を見ている目や、呼びかけてくる声なき声が聞こえてくるような気がしてついそちらへ引かれて行ってしまうのだ。
 もう夜明けが近い、見張りが浜を調べに降りただろうからその隙に下に入ろう、とエツは皆を連れて入り組んでいる岩の奥へと進んで行った。絶対に外からは見えない位置に、人一人が通れるくらいの穴がぽっかり空いていて、中から妙に暖かく生臭い風が漂ってくる。
「ここはあまり使われていない出入り口だから、人はいないと思うけど……」
「大丈夫、誰もいない」
 サテクが、自慢の鼻で確認してくれた。しかし臭いな、ここでこんなじゃ中じゃ利かないかも、と渋い顔で付け加える。武器は使えるようにしておいて、と言われ銃を出すと(施設で子供がくれた物の中に、きれいな細い帯があったのでそれを結んで背に負えるようにした)唯人はエツについて真っ暗な穴の中へ入って行った。
「まず、どこへ行く?」
「ここからぼくの知り合いのいる寝所まで行ってみて、その後一番広い洞穴に向かってみる、全員集まるときに使う場所」
 振り返ったエツの顔は、先程までとはうって変わった、野の獣を思わせる印象へと変貌していた。瞳孔が大きく広がって、完全に表情が落ちている。口には出さないが、やはりここが恐いのだ。少し行くと狭いがちゃんとした通路に出たが、ここの住人は灯りのいらない生活に慣らされているらしく、やはりほぼ同じの真っ暗だ。かといってこちらが灯りを付けるわけにもいかず、ひとかたまりになって導かれるままに進んで行くと、さらに臭気の濃い少し下がった一画へとたどり着いた。最低限の獣脂の灯火にぼんやりと浮かんでいる、まるで監獄のような眺め。一本の通路の両側に、戸も幕もない出入り口の穴がずらりと並んでいる。唯人らに物影で待つよう言って、エツは気配さえも感じさせない身のこなしでするりと通路を進んで行った。
「大丈夫かな」
「そろそろ、上でも騒ぎが起きる頃でしょう、それに乗じてエツさんの知り合いを見つけられればありがたいんですが」
 しかし、エツはすぐに帰ってきた。
「おかしいよ、誰もいる気配がない!」
「どうして?」
「ひょっとしたらもう、贄の祭りが始まってるのかも、ぼくらも早く行こう」
 その時、はるか頭上でずぅん……と地震のような揺れが起こり、周囲の通路の壁が軋んだ。どうやらアーリット達が地上の建物に押し入り暴れ始めたようだ。それでも誰も出てくる気配のない通路にもういい、と夜光蝶を飛ばし周囲を照らすと唯人はエツの背を追って、ひたすら道を駆け抜けた。
「あ、誰かいる……」
 立ち止まろうとして、それが倒れ伏している動かぬ骸であることに気付く。あちこちにばらばらに転がっているそれは皆年配の者で、すべて一太刀で切り捨てられている。これみんなここの武術指南の師匠だよ、とエツが驚きの表情で呟いた。
「やった方はかなりの手錬れのようですね、大剣で急所を一撃、それだけで終わらせている、この人数全てを」
「……サレ」
 遠くで、大勢の人らしき声が響いている。この奥が広場だとエツに言われ、自然にサテクマルが一同の先頭に立った。こちらは探索班だったので、若くとも戦士は彼一人、子供と戦力外の唯人を護らねばと思ったようだ。汗ばんだ手で銃に触れると、こちらはかえって高揚しているらしいスフィの気配が伝わってきた。ゆっくりと、指で撃鉄を押しあげる。
「やっぱり、みんな集まってる!」
 最後の角を曲がると、突然耳をつんざく大音量の声が響いて来た。ぼんやりと薄暗い空間の中、何十人もがひしめき合い興奮の叫びを発しながら奥の何かを取り巻いている。誰もがとり憑かれたような面持ちで、背後からやってきた唯人達に気付きもしない。夜光蝶の青白い光に照らし出されたそのいちばん奥の光景が目に入った瞬間、唯人の左手はもう無意識の動きで石壁へと叩きつけられていた。
「綱手っ!」
 今まで見た中で一番早い、まるで流れ込む水のように青い巨体が滑り出してきた。何が起こったのか理解する間もなく、その付近にいた人の塊が四方にはね飛ばされる。訳も分からず瞬時に大混乱になった中、反撃しようとした連中を羽虫かゴミのごとく通路の方に押しやっていく、その姿を呆然と見つめ、セティヤは表情の落ちてしまった顔で唯人を振り返った。
「……竜人?」
「すいません、説明は後でしますから!」
 背で返し、壁のごとき綱手の胴の脇を抜けて奥に駆け寄ろうとする。その唯人に降りかかってきた短剣を、傍らから伸びてきた長爪手甲が素早く弾き返した。
「俺、知ってたよ」
「サテク!?」
「最初は、俺の鼻、どうかしちまってたのかと思ってたんだ。山で会ったときからずっと、竜人としか思えない匂いがしてたから。そしたらあの金髪に、ばらしたら全員竜に喰わせるって脅されてさ……これですっとした、もういいんだな?」
「そんなことしないって!」
「俺もそう思った、そんな匂いがしてたから!」
 返す爪で向かってきた相手を裂き、すかさず蹴り倒す。綱手の隙を抜けて襲ってくる連中を、セティヤが復活したらしいサソリ似の蟲の精霊獣で迎え撃つ中、唯人も銃を構えて向けた。
「スフィ、いいかい?」
「おう、当てたいとこだけしっかり見てろ。すまんが弾はまだ三発しかないから、鋭月も出しておけ!」
「分かった!」
 こちらに向かってくる人影の、致命傷にならない位置、利き手や足を狙って引金を引く。撃ってから弾の帰ってくる間隔を読みながら、唯人は更に数人を撃ち倒した。
「綱手、全員押しだしたら蓋をしろ!」
 怒号と叫びが溢れるさなか、三日月状に丸めた身体をぐいぐいと通路に寄せてゆき、皆を押しだした綱手が横っ腹でぴったり出入り口に蓋をする。通路側から沢山の棒や刃物で突いている姿がぼんやり透けて見えているが、瑠璃鉱竜の鱗はその程度でどうなるものではない。中に残っていた数人をほどなく全て抑えると、唯人は身を返し、今度こそ真っすぐ奥で壁を背に座り込んでいる影へと駆け寄った。
「サレ!」
「……やっぱり、来たのか、唯人」
 その姿は、まるで朱をくまなく塗りつけた人形のようだった。顔も身体も手足も、ありとあらゆる箇所が裂け、深く開いて血を滴らせている。その背後には王子を含めた三人の子供が意識のない様子で横たえられており、唯人達がここに来るまで彼はさしたる抵抗もせず、ここでずっと一人、会の人間らの刃をその身ひとつで受け止めていたことが読みとれた。
「なんで、こんな……サレだったらここの連中なんて簡単にやっつけられるんだろ?どうして、こんなになって……」
「やっぱり、駄目だったよ」
 ふうっ、と溜息が漏らされて、暗紅の瞳が唯人を見る。
「ここの奴ら、全員片付けちまおうって……そのつもりで従ったふりでここまで来たのに。駄目だった、俺と同じ、怯えた眼をした過去の俺を前にしたら……とても全員、この闇の中に永久に埋めちまうなんてできなかった」
「サレは優しいから、そんなの無理だって僕はちゃんと知ってたよ、アーリットだって」 
 泣き笑いの唯人の頬に伸ばされた指が触れ、赤い染みの跡を引いた。睡蘭の毒は抜けたか?アーリットが付いてたから一か八か任せたが、ずっと心配だったんだ、と困ったように笑ってみせる。大丈夫、と抱え起こそうと身を寄せた唯人を、俺の事はいいから、とサレは苦しい様子ながらも押し止めた。
「ここはいいから、早く調合の間に行ってくれ。子供達にも睡蘭の毒が使われてる、もう眠ってしまったが、あいつらの中にいる毒使いならまだ効く解毒薬を知ってるかもしれない、早くしないと……」
「薬はあるよ、効くかどうか分からないけど一応試してみる」
 小動物の姿で肩に現れたミラから、昨晩アーリットに貰った小瓶を受けとり栓を取る。毒と傷なら何にでも効くというその効力を信じ、唯人は瓶の中身を三等分で子供達の口へと注ぎこんだ。固唾をのんで見守る中、けほ……と小さなむせる声が響き、それがやがて三重となって本格的に咳き込む苦しそうなものとなる。そっと上体を抱き起こすと王子は青天の眼をゆっくりと開け、唯人と、傍らのサレを見た。
「王子、気がついた?良かった……」
「唯人、サレ……」
 セティヤもそばにやってきて、幼子二人の様子を確かめる。ミラが持っていた水を渡して含ませると、一息ついた後、まだ本当に小さな二人はセティヤの胸にすがって泣きだしてしまった。
「可哀想に、すぐに家へ帰してあげますからね、もう恐がらなくていいのですよ」
「王子、こんな事になってしまって本当にごめん、迎えに来たよ。アーリットもいる、皆で一緒にテルアに帰ろう」
「僕……分かってたよ、今までの事」
 サレにじっと向けられたままの眼が、じわりと潤む。
「身体が動かなくなった後も、耳と意識は保ってたんだ。僕らが薬の幻覚のせいで怯えてたとき、袋の上から抱きしめてずっと話しかけてくれてたね。ここで成す術もなく転がされてからも、何十人もの攻撃をたった一人で防いでくれて……」
「駄目です、王子、俺はそんな眼で、そんな事を言ってもらう資格はない。唯人達が来るのがあと少しでも遅かったら、俺はもう持ちこたえられなかったかも知れなかった。ご大層な事を言っておきながら、やりとげる覚悟も冷徹さもなかったんだ。申し訳ありません、小隊長失格です、俺……」
「とりあえず、先に出る事を考えましょう。ここはあの通路以外、他に出入り口はないんでしょうか」
 綱手が塞いでいる箇所を一瞥し、セティヤが周囲を見渡してみる。エツが反対側の奥を示して、島の上の建物に抜ける通路があると教えてくれた。
「サレ、立てる?」
 小瓶の底にわずかに残った雫を、一番深い脚の傷へと垂らす。その程度でどうにか出来るようには到底見えなかったが、気丈にもサレは唯人の肩を借り立ち上がった。
「上がどうなってるのか分からないけど、簡単にはやられない面子がそろってるから……?」
 突然、どん、と重い衝撃音が洞内の気を揺らした。綱手の大きな体躯がじわり、とこちらへ押し返される。いつの間にかそこにいた大勢の人影は姿を消しており、もう一度押されずらされた通路との隙間から見たこともない、大きな手がこちらへと入りこんできた。すかさず向き直った綱手がそれを咥えて抑えるが、もう一本伸びてきたほうに絡みつかれ首を締めあげられる。泥の中から這いだしてきたような暗緑の、ずるずるした巨大な人型に近い精霊獣がどんどん綱手を押しやって、ついに開いてしまったその隙間から、人影が一人、こちらに入ってきた。
「何者かな、お前達は」
 誰も返事をしなかったが、衣装と肌の色で大体の察しはついたらしい。教団の揃いらしい簡素な着衣に斜めに布をかけた相手の顔を目にし、サレに寄り添っていたエツが震える声を洩らした。
「クワエ、霊獣操士……さま」
「いきなり押しかけてきて、ここの管理者が皆やられてしまったではないか。随分と野蛮な方々だ、道具はいくらでも作れるが、道具を鍛える職人を育てるのは並大抵の手間ではないのだよ?」
 ふん、と背後を見やり差し上げた節くれだった杖を人型の精霊獣に向ける。一瞬電光のような青い光が霊獣の身体を走り、激しく鞭打たれたかのようにのけぞると、霊獣は更に綱手を抑え込む力を増した。
「さて、どれが竜憑きだ」
 隠す間もなく肩の印を見抜かれたのか、空気の鳴る音がしたと思ったら矢が唯人目がけて飛んできた。すかさず唯人の頭にかけ上った小動物のミラが護りを張り、矢が四方へ弾き飛ばされる。どうやら、この人物の後からさっき閉めだした連中が再び入り込んできたようだ。子供達を一番奥にして、じわじわと上への通路に寄る中すいとサレが唯人から離れ、満身創痍の身でクワエの前に立ちふさがった。
「お久しぶりです、導士クワエ」
「カーサ・レピ、やはりな」
「あなたに授けていただいた武器精は、重用させて貰っています」
「その王家に伝わりし半月刀〝金虹豹(タタルタン)〟は、お前にしか使えぬ物なのだよ。偉大なる陽皇帝が、その血を汲む鬼の子に唯一かけて下さった情けだというのに、お前ときたら」
 ふっ、とクワエが息をつく。細い眉の下の細い眼は、この困った子は、と言っているようだった。
「おまえを信じて裏切られるのも、もうこれで三度目だ。ここを出て行った時はあんなに優秀ないい子だったのに、やはり翆眼鬼は恐ろしい、どんな手管でおまえをここまで骨抜きにしてしまったんだろうねえ」 
「人として扱ってもらいました、だから人に戻った、それだけの事です」
「おまえを否定し、人と扱わなかったこの国の気風を創り上げた翆眼鬼だよ?まあいい、壊れた道具を直すより、連れて来てくれた至宝を手に入れるのが先だ。おい、他のは後でいい、まずあの後ろのをやれ。殺さないようにな、薬漬けにして傀儡にするのだから」
 近づいて来た数人が、おのおのの飛び道具の照準を唯人に向ける。流れ弾が後ろに当たらぬよう、唯人も少し前に出た。
「まだ、翆眼鬼を殺れるなんて妄想を抱いている貴方達に、もうこれ以上不幸な子らを付き合わせるわけにはゆきません。外に行けば嫌でも分かる、竜憑きはここの程度の技量ではどうにもできないし、もし万が一にも殺してしまえば、翆眼鬼は今度こそ絶対にこの国を許さない。だから俺は、貴方を……ここの全てを終わりにする。この国の皇子だった者として、国を護るその為に」
 言葉と同時に、サレの足が地を蹴った。それは充分予期していた風で、クワエの背後から鳥の頭だけを人にすげ変えたような霊獣が飛び立ち襲いかかる。しかしこの間に、唯人の方も充分迎撃態勢を整えていた。
「……スフィ!」
「おう、霊素弾だな?こっちなら連射できるぜ!」
「頼む!」
 放たれた三本の光の軌跡は、まっすぐ鳥の霊獣を貫いた。まるで輝く粉を固めて作っていたかのように、暗い宙にその姿が四散し散る。一気に間を詰め、サレの金色の刃がクワエの身体に届きかけた、瞬間……まるで鞭のように飛んできた黒い影が、その身体を吹き飛ばした。綱手ともつれあっているあのずるずるした人型が、伸ばした部分で一撃を放ってきたのだ。血を飛び散らせながら転がって、動かなくなったサレににやりと酷薄そうな笑顔でクワエがほくそ笑む。その首に間髪入れず、死角から放たれた細い紐がくるくると絡みついた。
「……?」
「ぼくだって……やるよ!」
 絞り出すような声を漏らしたのは、エツだった。言葉と共にぐいと引いたその得物が、以前の彼の鋼糸ならそこで勝負はついていただろう。しかしただの紐にその威力はなく、逆に思い切り引き戻され、悲鳴と共に彼の小さな体は倒された。
「おや、まだ他にも逃げた子が来ていたのだね。お前は、そう、ベンテルエ・ツマイ(残飯の蛆)だな、あの恥知らずな獣小屋に逃げ込んですっかり飼いならされて。堕落の味を知ってしまった卑しい家畜は、もう秩序あるここには戻れないよ」
「誰が戻りたいもんか!」
「なら、なぜ戻って来た、砂漠の犬や薄汚い他国育ちまで引き入れて。カーサ・レピと同様、ここをどうにかできるとでも思ったか?浅はかな子……そういえば、以前お前とよく寄り添っていたのがいたな、何と言ったか……」「そうだ、兄さん、ユエ兄さんをぼくは助けに来たんだ!」
「そうそう、クンユ・エジン(どぶの泥)だ。お前を荷に詰めて逃がしてしまった嘘つきは、もうここにはいないんだ。暗殺業には使えないから、別で役立ってもらったんだよ。エリテアの高貴なる雷妃様が所望された、子供の肝製の秘薬の材料にね……」 
 一瞬で、エツの幼さの残る顔が凍りついた。頭が真っ白になったのか、これ以上は無いくらい大きく目を見開いて動かなくなった身体に容赦のない同胞の刃が襲いかかる。それを、割りこんだサテクが爪の渾身の一撃でくい止めた。
「セティヤ、唯人、俺は霊獣は見えないんでそっちを頼む、こいつらの相手だけに専念するから!」
 びん、とクワエの首に張られた綱が断ち切られ、もう完全に気死してしまった感のエツをセティヤが素早く子供達の方へと戻す。サレとエツが倒れ、戦力的に苦しくなってきてじわじわと追い詰められていく中、まずあれをどうにかするべきだ、と唯人は綱手を絞めつけている人型の精霊獣を振り仰いだ。霊素弾を撃ち込んでやりたいが、今はセティヤともども敵を近づけないようにするのが精一杯だ。
 勝ったな、と言いたげな笑みを浮かべ、クワエが唯人の首に狙いをつける。その時、ふいにどこからか、一条の緑光がすいと空を切って飛んできた。それが耳元をかすめて通り過ぎた瞬間、唯人は地を蹴ってサテクの腕をつかみ、倒れているサレの元へと駆け寄っていた。
「セティヤさん、子供を壁際に寄せて!」
 ふわりと身体がミラの防御壁に包まれたのを感じ、向かってくる相手にも大声で叫ぶ。
「炎が来る!焼かれたくなかったら伏せるんだ!」
 とっさには、言われた事の意味がよく分からなかったようだった。それでも動きの止まった人影の只中に、まるで特大の火炎放射器を放ったかのごとき猛火が吹き込んできた。アーリットが、通路を通して上から紅輝炎竜の轟炎を放ったのだ。人は勿論、綱手に絡んでいた精霊獣までもがこれには度肝を抜かれたのか、思わず手を放し逃れようとした、その隙を見逃さず、綱手が鋭い牙を相手の脇から背にかけてがっぷりと喰い込ませる。まるで弓の弦が鳴るような霊獣の悲鳴が響く中、複数の人影が奥の通路から洞穴へと駆け降りてきた。
「よう、隠密行動ご苦労さん、上まで騒ぎが届いてるぞ。こっちが陽動班だって分かってんのか?」
「アーリット!」
「言っとくが、俺は止めたんだからな!いくらなんでも下にいる連中が巻き添えくっちまうだろうって。聞きやしねぇぞ、この竜人様は」 
「一位の君、御無事でしたか!」
 セティヤの声に、見た感じ傷一つおっていない褐色の顔がおう、と笑って返す。すぐにイェンとキリシュが前に出たが、炎に驚いた連中は先を争い奥へ引こうとする最中であった。 
「なんだ、こっちのほうが多勢じゃねぇか。俺もこっち組に入りゃ良かったな……あ、ガキばっかか」
 面倒くさいな、とそれでも向かってきた数人をシェリュバンが手の鋼鞭で叩き伏せる。すぐに唯人のもとにやってきたアーリットは、なぜかひどい渋面だった。
「どいつも生きてるか?そこの小隊長殿も」
「うん、ひどい怪我だけど」
「まったく、子供が見つかったんならさっさと呼べよ。こんな臭い場所初めてだ、血と恨みの念を何十年溜めりゃあここまでの臭いになるってんだ?我慢ならんな、瑠璃鉱竜もあまり攻勢にするなよ、これ以上あれにかかわってると〝穢れ〟が移りかねん」
 言葉と共に、差し上げたアーリットの手にふわりと小さな紅い羽根が浮かび上がる。優雅な動きで杖の先に添わせ、ひらひらと舞った紅の欠片が綱手に押さえつけられている人型の霊獣の一端に触れた。途端、そこがまるで紙ででもできているかのようにめらめらと炎が立ち昇る。綱手に放され、今初めて垣間見えた顔になんとも言えない苦悶と疲弊の表情を見せ崩折れた精霊獣に、アーリットは顔をあげると凛とした声音で呼ばわった。
「……人を迎え、人と在り、人に堕とされし界の具象。西海に浮かぶ麗しきエリテア群島の十二位たる南の真珠、ミナク島たる島精よ、我最古なるアリュートの名の元に、この不浄なる地を深遠なる海原の平穏に帰さんが為ここに参ず。汝浄化の炎と共に世界主の元へ還らんことを、全ての苦痛、恐怖、怨恨、悪夢、闇は今この場にて終焉を臨む」
 アーリットの言葉が続く間も、炎はどんどん霊獣を舐め広がっていったが、巨大な体躯は身じろぎひとつしなかった。まるで、こうなるのをずっと待ち望んでいたように。やがて燃え尽きていった黒い塊を見届けて、厳しい表情の緑の眼が振り返る。さすがにこれは分が悪くなったと感じ取ったのか、クワエは身を返すとそこにいた誰よりも早く太い通路へ駆け去って行った。
「どこへ逃げようってんだ、ここは島だってのに」
「それにしてもここのガキってのは健気だな、甘くしてりゃあ何度打っても怯まねえ」
 それでも手加減しているらしいシェリュバンらの攻撃で、もう動けるのは最初の半分以下に数を減らしてしまっていたが、それでもまだ気丈にも数人がクワエの退路を護ろうと必死で立ちふさがってくる。これ以上痛めつけても手間が増えるだけだな、とアーリットは前に出て、おもむろに息を吸うと声を洞に響かせた。
「おい、ガキどもよく聞け、こんな事してる場合じゃないんだぞ、この島は無くなる!日没ちょうどにこの竜がすべてを崩す、どいつもこいつも死にたくなければすぐに這ってでも外に出ろ。もうお前らを縛る奴はいない、逃げても誰もお前らを罰しないから、後の事は後で考えて、今は逃げろ!」
 ざわり、といならぶ人影の間に戸惑いのような空気が広がった。わざと口を半開きにして、鋭い牙を見せつけ自分達を見下ろしている綱手にこれ以上はどうやっても勝てそうにない事、唯一の指導者であるクワエがいち早く去ってしまったことがようやく頭に染み込んできたようだ。まるで夢から覚めたように、皆おどおどと顔を見合わせ通路を振り返る。一番近い者が駆けだすと、堰を切ったように皆我先にと逃げだした。地面に打ち捨てられた数々の武具を見届けて、アーリットが満足気に口の端を上げる。
「出てけ出てけ、俺の見たてじゃまだ時間は充分ある。後は隠れてるのがいないか一応全部見回っておくか。唯人、お前はそこのガキども連れて先に行け、瑠璃鉱竜はここに待機させてな」
「分かった……あれ?サレは?サレがいない!」
 ふと気付くと、さっきまで傍らでぴくりともせず横たわっていた姿が消え失せていた。慌てて周囲を見渡して、どこにもいないのにまさか、とアーリットに視線を戻す。ああ、と緑の眼が彼方を向いた。
「あいつは、最後のケジメをつけに行ったんだな。どうしてもお前には見せたくないんだろう、分かってやれ」
「だって、あんなに怪我してたのに!一人で行かせるなんて……」
「大丈夫、呆れるくらい頑丈なやつだ、俺が直々に丹精込めて鍛え上げてやったんだから」
 戦いの勝敗は、既に決まったようであった。徐々に呆然自失から気を取り直したものの、涙が止まらなくなっているエツを、サテクマルが黙って頭を抱えてやっている。もう唯人達のことなど目に入っていない様子で、駆け回っている会の連中と一緒に来た道を引き返して外に出ると、島の上にある朱塗りの建物を紅輝炎竜が押し潰し、焼き尽くしているのが見えた。
 凄まじい黒煙が立ち上り、シウド島のほうまで長く伸びている。それを見ていたらふと思い出したことがあり、唯人は今朝上陸した島の反対側にまわると、あの蛙似の霊獣がいたささやかな湧き水のある場所へと行ってみた。溜まり水を覗いてみると、相変わらずちっぽけな眼が水面から飛び出している。顔を寄せ、唯人は精霊獣に呼びかけた。
「ごめん、ここはもう沈んでしまうんだって。人もみんな出て行く、良かったら、僕と行くかい?」
 水面近くに伸べた指は、今度もびしりと撥ねつけられた。そうだよね、こんな事になったのもここに来た僕達のせいだ、君は何も悪くないのに。悲しい気分でしばし見つめていると、ぬっと上がってきた頭部から何かが唯人目がけて飛ばされてきた。
「え?」
 きらりと光った小さな欠片を、慌てて手で受け止める。親指くらいの大きさの透明な石、これは何だか知っている。ミーアセンの療養所で、綱手の口から溢れ出てきた精霊獣の卵とされている物だ。水の中、ぷくり、と蛙似の霊獣が大きな泡をひとつ吐いた。
 わたしも、ずいぶんとけがれてしまった。あたらしくなってやりなおすことにするから、たまごをいっしょにつれていってほしい。うみのそこ、ふかみをめぐるみずを、ここからさいごにうけとったひと……
 はっきりとした言葉ではない、思いがそのまま伝わってきたような感覚を唯人に届けた後、ふいにぴょんと溜まり水から飛び出して岩肌をよじ登り、水が湧きだしている裂け目に褐色のヤモリに似た姿が這い込んで消える。見守る唯人の前でみるみるその流れは細くなっていき、やがて完全に止まってしまった。
『この泉は、今終わった。ここに人がやってきた時、彼らの為に島精が地下から呼んだ水源だ。さっきおチビが島精を還したから、ここも遠からず枯れるのは決まってたんだろうけどね。どうする?唯人、泉精も面倒みてあげる?どこにでも水が呼べるから便利と言えば便利だよ、どっちかというと砂漠の人のほうが喜ぶだろうけど。あ、でもここの水を飲んだ、って約束事が付いてるのか』
「じゃあ、テルアの浴場にでも行ってもらうといいのかな」
「あそこは、湖から水を引いてるから意味ないよ。ユークレンは中心が湖だから、どこに行っても水には困らない国だ」
「なら、僕が持っておこうか」
『そうだね、僕が水筒を持たなくてもいいくらいは助かるかな』
 そうか、と卵をミラに預け、皆のいる場所に引き返すとささやかな砂浜は人で埋め尽くされていた。建物の燃える煙を合図と決めていた、唯人らが乗ってきた船が沖からゆっくりと近づいてくる。鮫にやられないようでかい船貸してくれた商売仲間には感謝だな、何とか全員乗せられそうだと安堵するシェリュバンの眼が、ふとやってくる船とは違うほうに向けられた。もう一隻、ひとまわり小ぶりな船影が彼方からこちらを目指してやってくる。やべぇ、エリテアの島兵か?と船の型を見定めようとする視線がアーリットのそれと並んだ。
「そのようだな、あれは本島を護る皇帝の直轄の兵が使う軍船だ。だが本気の武装はしていない、おそらく何が起こったのか調べに来たんだろう。さて、これからは舞台を変えての第二戦の始まりだ」
「なんだ、逃げねぇのか?」
「今からじゃもう遅い」
「まぁそうなるのは仕方ないのは分かるが、その前にだ」
「あ?」
 もう我慢の限界だぞ、といわんばかりの、唯人の世界では俗にガン飛ばしと呼ばれている種の目線がアーリットへと向けられる。それに対して返されたのは、いっそ見事としか言いようのないしらばっくれた顔だった。
「そろそろ、俺達にいい加減本当のところを言ってもらえんだろうかな、何者だよお前ら」 
「テルアの軍属精霊獣師だと言った事に関しては、微塵も嘘はついていないつもりだが」
「俺はそっち方面はあまり詳しい方じゃないが、セティヤはすくみあがってるぞ。竜がつがいで〝裁き〟に降りてくるなんぞよほどの事だろうとさ」
「お前らが竜をどういう風に考えているのかよく分からんが、〝裁き〟とやらは俺は知ったこっちゃないとだけ言っておく。とりあえず、つがいってのは忘れろ、茶番はもうここまでだ」
「なんだ、それも嘘だったってのか、もう本気でどう考えればいいんだか……うーん、竜だけでも見えりゃあ、まだ理解しやすいと思えるんだが」
 ばりばりと砕かれている特徴のある形の屋根を眺め、ここにいるほとんどの奴らが見えてるってのに、と若干の悔しさを言葉に滲ませる。砂漠でいた時からしたら、彼の精霊獣に対しての認識は多少は変化があったようだ。
「そういや、あの唯人って竜人に、今度会ったら砂漠晒しの刑だって言っちまってたな。覚えてるかねぇ?あれは砂漠じゃ〝お前みたいな恐ろしいのには二度と会いたくないから、さっさと消えてくれ〟って負け犬の遠吠え的な意味なんだが。今更思い直してもこれっぽっちも勝てる気がしねぇ、あんな小娘みたいな顔してるってのに。ばれたからって、今こっちには牙を剥いてもらわないで欲しいんだがな」
 唯人の右眼を通してそれを見ているアーリットもああそれ、と頬をかく。今ここでそれを思い出すか、結構気の小せぇ奴だな、との思いは口から出る前に呑みこまれた。アーリットも、そこまで無駄に底意地の悪いほうではない。
「多分、忘れてるだろ、覚えててもそっちが蒸し返さない限りは黙ってるさ。あいつは俺と違ってもの覚えが悪い上に骨の髄までお人よしだからな、気が通じ合ったらそれ以前のいざこざは全て無し、そういう奴だ」
「で、つがいじゃねぇならお前らどういう間柄なんだよ、さっきのでかいのと金髪の品のいいガキも含めて」
 その問いに面倒くさいという顔でアーリットが言葉を選んでいるうちに、やがてぎりぎりまで船影が近づいて来た。ガキども大人しく乗るだろうかな、とシェリュバンが呟いた向こうで、エツが知り合いだったらしい子供達を集めて熱心に説得している声が聞こえてくる。 
「……誰かを殺す仕事しなくても、ご飯が食べられる。もちろん腐ってなんかないよ、殺すのは、自分とみんなが食べたいものだけでいいんだ。夜寝て、朝起きるから最初はまぶしいのがつらいけど、慣れたらそっちが正しいんだって分かるから……」
 よほどここの暮らしが嫌だったのか、すぐに従ってきた数人にミナク島にあった小舟をすべて出させ、大人しく乗る気になった連中を運ぼうと段取りを決めていた。その時、遅れてやってきた派手な軍船からもこれまた派手に塗られた小舟が降りてきた。浜辺の視線全てを集める中、ゆらゆらと優雅に浜にやってくる。降りてきた数人の兵と、滑らかな光沢の衣装に身を包んだ小柄でぽっちゃりとした感の男は、一体何がどうしたといった表情で島をぐるりと見渡した。
「誰か、この事態を説明できる者はおるか!」
 すいと外交向けの顔になり、アーリットがその視線を受け止める。
「ここを預かっていた者は、おそらくもう誰も残っていないと思われます。僭越ながらこの私が語る事はできますが、しかしこのような場で全て語りきれるものでもありません」
「お前は何者だ、なぜ他国人禁制のこの島におる、これはお前がやったというのか?」
「どうでしょう」
「よ、よろしい、なら身柄を預からせてもらおう、付いてまいれ」
 金髪翆眼のアーリットに微笑みかけられ、男がたじろいだ風で目を逸らす。その傍らで島を出ようとしている若者たちを、兵らは慌てた様子で立ちふさがって止めた。
「おい、何を勝手にしておる!お前達はここから出てはならぬ決まりであろう。戻れ戻れ、ちゃんとした調査が終わるまで中におれ!」
「しかし、日没と共にこの島は海に沈んでしまうのですよ。せっかく慈悲深きラバイアのスリンチャ族一位が手配して下さった船があるのだから、若い命を無駄に海の藻屑にせぬ事が偉大なるエリテア皇帝の英意に沿うのでは?」 
「島が沈む、とな?」
 気付くと、茜色の夕陽はもうかなり海面に近づいているようだった。不安げな若者らの怯えた声で、浜がざわめきに包まれる。まさかそんなわけが、と小役人らしい男はアーリットの言葉にぽかんと島に目をやった。こんなに落ちついているからには、島の頂上で朱塗りの門柱をへし折ろうとしているあの炎竜も見えていないのだろう。ばき、ともの凄い音を響かせ潰れた門の破片が下へと続く石段を転がり落ちるさまに気付き、やっと、まだ何かいるのか?と頂上に目を凝らしている。話している時間が惜しい、ちょっと分かりやすく教えてやれとアーリットに目で促され、唯人は島の中で待っている綱手に心の中で呼びかけた。
「……うお、な、なんだ?何が起こった!」
 地響きと共に、一気に島の中心が崩落した。足元が急に崩れ、炎竜が羽根を広げてバランスをとった後、下に向かって怒声を浴びせかける。綱手にとって地中の作業はお手のものだ、さっさとあの一番広い洞穴を崩してしまったらしい。これには、まだ半信半疑だった若者らも本気で今後のことが実感できたらしく、一気に島兵を押し戻す勢いで波打ち際の舟へと詰め寄った。
「もう、これでは調査といっても」
「し、しかし、お前らを裁く証拠を……」
「証拠など必要ない、全て俺がやったから、逃げも隠れもしない」
「サレ!」
 いつの間に戻ってきていたのか、現れた姿が崩れかけた石段を下りてくる、サレは静かな表情で、いならぶ面々を見渡した。その血だらけ、傷だらけの様子に思わずわらわらと集まってきた島兵らが役人の男を取り囲む。そろえて差し出した腕に縄がかけられようとするのを見て、王子が駆け寄って止めようとしたが、サレはかぶりを振ってそれを制した。
「俺をつかまえればすむのだから、他の者は逃がしてやってくれ。貴方達以外の全員には見えているんだ、この島を海に還そうとしている竜が」
 サレの言葉が終わる間にも、更に崖がわの一部が崩れ土砂が次々に海に落下する。よ、よし、と覚悟を決めた様子で男はサレを含めた異国人一同を自分の船に、島の者らをシェリュバンの船に乗せる指示を出した。
「ようし輝華、お前はもういい。後は瑠璃鉱竜に任せる、戻ってこい!」
 アーリットが杖を掲げて呼ばわると、炎竜は翼を開いてこちらへと舞い降りてきた。驚いた浜辺の一群が散ろうとする上空でくるりと小さな姿に変じ、アーリットの肩にとまる。その姿は、彼の家で初めて目覚めた時目にしたあの赤い着ぐるみ鳩だった。
「陽が沈んだな、そろそろやっちまえ、唯人」
 派手な船に乗り移って、甲板にいならぶ半信半疑の顔が眺める脇で、海にぽっかりと浮かぶ小さな島の最期を身届ける。まるで子供が飽きた砂山を押し崩すように、さっき陥没した中心の凹みにゆっくりとその周辺が流れ込んでゆく。船が進むにつれ、唯人はさっき皆がいた浜からは見えなかった島の中腹に開いている見張り場らしき張り出しに、人影がうずくまっているのに気が付いた。教団の衣装を着て、手には杖を握っている。遠目にしか分からないが、どうやら首から上が無いらしいその姿もすぐにその場と共に崩れ落ち、土埃に呑まれ消え去った。
 どんどん、どんどんと盛り上がりを下げてゆき、やがて押し寄せる海の水がそこにあった島の痕跡を覆い隠す。驚いた鮫が海中を右往左往しているなか、小一時間もかけず辺りは濁った海と化した。 
「本当に、沈んでしまった、これはどう報告したらよいものやら……」
 皆がそちらに気を取られている隙に、王子は必死でサレの傷の手当てに専念していた。服を裂いて血をぬぐい取ろうとしてみるものの、生乾きの血はねっとりと重く、無理をするとサレが苦痛の表情を見せる。仕方なく、そのまま花様蜘蛛の糸で塞いで巻ける部位は布で巻いていった。ひとつの区切りが付いて気が抜けたのか、サレも黙ってされるまま、暗紅の眼でじっと島を眺めている。
 海に還ったミナク島からエリテア本島までは、そう時間はかからなかった。行く手に広い陸地が見え、徐々にサイダナより立派な構えの港が現れる。港の手前で一旦停まると小さな先触れの舟が来て、ここで島の連中を乗せた船とは別の港に入ることが分かった。多分皇族領に一番近い港から直接城に連れて行かれるんだろう、とのアーリットの言葉通り、サレのように紐で繋がれこそしないものの、島兵に厳重に周囲を囲まれ船を下りる。さりげなく、船着き場に並んでいる石のでっぱりに触れ綱手を身体に戻すと、そのまま唯人達は木と石をうまく組み合わせて築かれている壮麗なエリテア陽皇帝の居城へと連行されていった。
「追って沙汰を出すゆえ、しばらくここで待っておれ、よいな」
 サレだけを別に、唯人達……アーリットとシェリュバン、セティヤ、王子と子供二人は幸い小分けされずにひとまとめに城の一室へと押し込まれた。あの小役人もサレの言葉がある以上、シェリュバンらを罪人扱いするかどうかすぐには判断しかねたらしい。部屋は人数に対してけして広いものではないが、明らかに牢屋という風ではないし一通りの調度品や水もちゃんと置かれてある。さらわれてから満足に飲み食いさせてもらっていなかっただろう子供達にセティヤが手持ちの携帯食を与えると、やっと落ちついたのか二人は夢中でそれを口に頬張った。
「王子も、水とか飲んだら?酢で余計喉が渇いてるだろ」
「……うん」
 サレが心配でしょうがないのは顔にありありと出ていたが、黙ってそちらに加わった王子の背を、さりげない風でシェリュバンも見守った。
「王子?王子って呼ばれてんのか、あいつ」
「え?あ、うん」
「ただのあだ名なのか、本当に王族みたいに小綺麗な面だな」
「〝みたい〟じゃない、正真正銘のユークレン十五世添王子殿下だ。そして俺はテルア軍第一級精霊獣師アーリット・クラン、我が領土ミーアセンから誘拐された子供と王子を取り返す為の作戦における、今回のラバイア国北部領、スリンチャ族の協力には同盟国として深く感謝する。ユークレン王に代わりひとまず礼を言おう、正式の感謝状は帰還次第送らせてもらう」
 にっこりと、満面の笑みを向けられそうかよお前があの話に聞いた知護国の守護神さんだったのか、もう何も言う気起こらねぇ、とシェリュバンも若干の疲れの入った笑顔を返す。んじゃお前も軍属精霊獣師ってやつか?と問われ僕は違うけど、と唯人が答えかけたその時、入り口の扉の鍵が開けられる音が響いた。
「……誰か来た」
「あの役人か?」
 皆の視線が集中する中、扉が開き入ってきたのは、皆の予想とは違い一人の流麗な女性であった。一目で分かる、群島の中でも特徴のあるエリテア様式の肩が垂れた衣装をまとい、艶のある長い黒髪を綺麗に結い上げている。歳は唯人とそう変わらないか少し上な印象で、淡い褐色の肌と切れ長の眼がとても品があって美しい。少し緊張した面持ちで一同を見渡すと、女性は膝をついてエリテア式の礼をした。
「皆様方には、正式な取り調べは明日から、との上よりの申し伝えです。それまではここで引き続きお待ち頂くと言う事で、御食事をお持ちしましたのでどうぞお召し上がり下さい。ここから出ることは許されませんが、もし入り用な物がありましたら、なんなりとこの星族公主、ハルイに申しつけを」
「あの、聞いていいですか、島にいた人とサレはどうしているんです?」
「私は、ずっとここにいるので外の事は分かりませんが、ご一緒に来られたかたは離れの牢に入れられたと思います」
「怪我の手当てとか、してもらってます?」
「落ちつきなさい、王子」
 アーリットに諭され、でも、と不安の色を隠さぬまま言葉を切る。
「このまま裁判になって、もしもサレが重い刑になっちゃったら……って思ったら、とても落ちついてなんかいられないんだ」
「そうさせない為に、我らがここにいるのです。お忘れですか?そもそも最初に貴方をさらったのが二十七指の会の者なのですよ」
 とりあえず食べて、何事にも対応できるよう頭と身体に力をつけておきましょう、とハルイと侍女数人が持って来てくれた食事を囲む。豪華でも粗末でもない、唯人がまだ口にした事が無い物も多々あったそれを皆で食べ終えると、最後に盆に乗った菓子を置いてハルイらは部屋を出て行った。戸を抜けるその前に、一瞬こちらを振り返り意味深な視線を向ける。
「また後に、器を下げに参ります、では」
 パタン、と戸が閉められた。すかさずアーリットが手を伸ばすと菓子を取る、どう見ても餡入りの饅頭なそれを二つに割ってまた次のを取るのにおいおい、食ってからにしろよとシェリュバンが眉をひそめた。
「いいから、お前も手伝え、唯人」
「え?」
 わけが分からないまま、手近なのを取って割ってみる。と、横から手を伸ばして一個つかみ、そのままかぶりついた子供の一人が口をもぐもぐさせた後、びっくりして何かを口から引っ張り出した。
「ごみが入ってた!」
「あ、それだ、ちょっとよこせ」
 少しよれたが、明らかに意識して小さく折られている紙を開くと中に文字が記されている。ご丁寧にもエリテアの文字と、拙い簡易ラバイア文字の両方で書かれたそれを素早く読み取ると、アーリットはすぐに紙を丸めて菓子に戻し綱手の口に押し込んだ。
「何て書いてたんだ?」
「しっ、小声で話せ……この後夜中に、さっきのハルイ公主が番兵に口止めかけてここに来る、牢にいるサレに会わせてくれるそうだ。それともう一人、ここにいる奴で牢に会わせたい人がいるらしい。できればサレを連れて逃げてくれって書いてあったが、それは無理だ。正当性はこちらにある、って事を主張しなきゃ、みんなそろってお尋ね者にされちまうからな」
「で、誰が行ったらいい?」
「向こうのご指名は、チビ二人と王子と俺だがここは唯人、お前が行け、いざという時ミラに隠してもらえるからな。俺はこの建物の場所と内部を把握して、できればあっちの船の様子も調べてくる、一位殿は留守番だ」
「なんで、お前が仕切ってんだよ」
「飛べないやつはじっとしてろ、拠点を護るってのも大事なことだぞ、ばれたらすぐに動くためにな」
 ぶすっとなった顔で、それでも納得したらしいシェリュバンに私も居ますから、とセティヤが苦笑する。
「分かったよ、アーリット。けどなんでこの子達なんだろう?」
 他に頼れそうな面子がいないので、自然とセティヤべったりになっているミーアセンの子供二人。金髪なのは同じだが、明るめの髪に白い肌、青灰色の瞳のフェスと、ほぼ金茶の髪で群島系の肌に赤紫の瞳のリリク。船の中で聞いた話では、やはり王子と同じにまず黒いラバイア人につかまって、その後金果の民でないということが分かった上で買うと言ってきた群島人に引き渡されたようだ。そのまま薬を飲まされ袋詰めにされて街を出るところを、間一髪サレが追いついてきて、古巣に戻りたいという嘘をアーリットの不在の事情を漏らす事で信用させて同行した。
 彼がいてくれなければ、どうせ殺される子供達の身を気遣ってくれる者などおらず、島に着くまで持つかどうかも怪しかったと王子は辛そうに言った。薬の幻覚が出ている間は優しく宥め、同行者の目を盗んでは水を飲ませ、一番大きい王子をずっとできるだけ辛くない姿勢で運んでくれた。そして島に着いたその後は、文字通り身体を張ってその命を護り抜いたのだ。
「僕は、サレに一生分の仮りができた。ここでサレが罪に問われて処分されるなら、僕はユークレンの第二王位継承者として正式にこの国に減刑の申し立てをする。サレが多くの人を殺したのはまぎれもない事実だけど、それでも死なせるわけにはいかないから」
 王子は、サレに会わせてくれるという向こうの計らいに嬉しそうであったが、子供二人は訳が分からずきょとんとなっていた。それでも、静かにして騒がないというセティヤの言いつけにうん、と小さな頭を揺らす。しばらく待っていると、再び外に人の気配が近づいて来た。男の声と数回小声のやりとりがあり、そっと扉が開かれる。唯人と王子は素早く立ち、子供を連れてそちらへと駆け寄った。
「よろしいですか?」
 やはり、先程のハルイ公主だ。もう説明等は一切せず、すいと向きを変え歩きだす。その後ろに付いて出たアーリットは、すぐに廊下の窓に跳び上がると身軽に上へ出て行った。
「あ……」
「大丈夫です、彼は慣れていますから、僕達は先を急ぎましょう」
 幾分不安そうな顔をしたが、ハルイはそのまま唯人らを離れの牢へと導いてくれた。途中誰とも合わず、牢番がいるべきはずの入り口までもがもぬけの空であるのは、ハルイの言葉によるとどうやら次期皇帝となる皇子がその母親である雷妃ともどもかなり評判の悪い人物で、その兄であるサレが皇位を継ぐ事への期待が民の間に徐々に広がっているせいらしい。昔と違って両性への偏見も段々と薄れ始めているし、以前里帰りした時のサレの姿を見た者が、それは立派な美丈夫だった、と噂を皆に広めたようだ。
 これなら本気で牢のサレを連れ出すのも難しいことではないかも知れない、と思いつつ半地下の牢の奥に入ってゆくと、ずらりと並んだ木の格子の奥の、そこだけ厚い石の扉で封じられてある突き当たりの牢まで行ってハルイは足を停めた。
「陽虹皇子さま、星族公主ハルイでございます」
 扉の向こうで、金属の鳴る音がした。
「智国添王子殿下と、一級精霊獣師様の代理の方をお連れしました。すぐにここを開けますので……」
「それは駄目だと言ったはずだ」
 静かな、はっきりとした声が響く。四角く開けられている小さな覗き窓に王子がとりつくと、中は他にひとつの窓もない真っ暗な空間だった。
「サレ、大丈夫?怪我はちゃんと看てもらえたの?」
「王子……」
 おそらく、体を鎖かなにかで繋がれているのだろう。声は近づいてくるものの、姿は闇の中で分からない。
「大丈夫ですよ、王子と公主がちゃんと手当てしてくださいましたから。それはいいので、俺から王子にお願いがあるのですが、それを聞いてもらうため来てもらったんです」
「なに?」
「明日、正式の裁きが始まったら俺が王子をさらった、と証言してもらえませんか?」
「なんで!」
「今回の件は、ユークレンは完全に被害者であると言う事になってもらいたいからです。テルアの兵である俺がアーリットと組んで会の連中を始末したんじゃない、俺はずっと暗殺者としてテルアにいた、好機を得て王子をさらったが仲間割れが起き、王子の身を護らんがため、一級精霊獣師はやむなく島ごと会を沈めた……それでなんとかつじつまが合うと思うんです」
 ユークレンにとってはそれが一番いいんでしょう、と締めくくろうとしたサレの言葉を、ばん、と拳が扉を打ったすごい音が制止した。
「馬鹿な事、言うんじゃないよ」
 とても普段の王子からは想像できない、低く重い声だった。
「最初から被害者だよ、ユークレンは。この上大事な軍の小隊長であるお前までなんで引き渡さなきゃならないんだ!僕は絶対認めないから、アーリットにだって、誰一人嘘は言わせない!」
 みるみる赤く腫れた手で目を押さえ、ふいと背を向けてしまう。その王子の肩を抱いてやって唯人も覗き窓に呼びかけた。
「サレ」
「……唯人か」
「ごめん、こういう言い方ってないと思うけど。アーリットは、今ここでサレが考えるよりずっと前から綿密に策を練って事を運んでるよ。公平な立ち会いをさせるためにラバイアの人を連れてきたし、最初は島兵が来る前に逃げるって言ってたのにいざ船が来たら待ってた、って顔してた。物事をきちんと収める考えはもうできていて、それは決してサレに全部おっ被せて終わらすってことじゃないと思う。諦めて、明日を待とう。そして一緒に帰ろうよ、サレ」
「……」
「僕は今日、サレが見られたくないって思ってる暗い部分をおおむね見たと思う。それでも、サレに対する思いは一切変わらないから。優しくておおらかで、いざという時は誰よりも強い、頼れる僕の兄貴分だ。行き詰ると自分を捨てて諦めようとする悪いくせがあるけど、それは誰も喜ばないっていうのは分かっておいたほうがいいと思う」
「……まいったな」
 微かな笑い声が、暗闇に響く。
「そうやって、はっきり言っちゃうところが厳しいんだよな、唯人は。アーリットに似てきたんじゃないか?」
「それはないよ」
 唯人らとサレが話しているうち、ハルイは唯人がサレを連れ出してくれないのかとしばらくやきもきしていたようだが、サレが明日の裁きを受ける気であるのを察すると諦めたのか子供を別の牢の前へと連れていった。あまり離れていない木の格子の牢の中に、一人の女性がうずくまっている。連れてこられた子供を見て、その女性が声を押し殺して啜り泣くのが響いた。
「……あの人は?」
「私の姉である、星族公主ラナイです」
「え?一体なにをして?」
「俺のお袋と、同じだな」
 サレの言葉に、ハルイは黙ってうなづいた。
「虹妃様のことですね、はい、おそれながら。陽虹皇子様の弟であらせられる陽雷皇子様は、生まれつきお体が弱かったせいか娶った雲妃様と月妃様がなかなかお子に恵まれませんで……そのお二方は皇子の母である雷妃様の癇気に触れ、処分されてしまいました。次の妃にと召された私を失いたくない一心で、父、星族長はつい姉が隠していた事を表にしてしまったのです。この者の姉は一度鬼子を生んでおります、とても皇子殿下には差し上げられませんと。その子は姉の夫君も納得の上で他国に養子に出され、何不自由なく暮らしていると聞き及んでおりましたが……すぐに雷妃から母子共々の処分の沙汰が姉のもとに下されてしまいました。雷妃様は、虹妃様のことがあって以来そちらの事情にとてもお厳しいのです。そのせいで、父は己の失態を悔いるあまりの心労で床に伏せってしまいました。私はせめて何かできる事はと思い、ここで出来うる限りの噂を集め、ミナク島で何かの騒ぎがあった事、東国の方々と異国で誘拐された子供がここに来たことを知り、姉に一目なりと合わせようと皆さまの世話を願い出ました次第でございます」
 深々と頭を垂れたハルイに合わせるように、涙を抑え牢の中の夫人も頭を下げた。その前では赤紫の眼のリリクがわけが分からないまま、泣いているおばさんをなんとか慰めたい顔でじっと手を握られている。やがて、もういいからお行きなさい、とくぐもった声で促され、ハルイは牢の中の姉に手を差し伸べると格子越しにひしと互いに抱き合った。
「ハルイ、今となってはお前のこれからだけが心配でなりません。私のせいでどこにも貰い先がなく、一生独り身になってしまうようなことがあれば……」
「そのようなこと、私は少しも気にしてはおりません。産まれる子に怯え嫁がねばならぬなら、独り身の方が気が楽です」
「ともかく、私のことはもうよいですから。陽虹皇子が死罪だけは免れるよう、皆様を手助けして差し上げなさい。元をたどれば陽虹皇子が皇位を継げば、その妃の一人は星族から選ばれるはずだった。すなわち皇子とお前は許嫁の仲、なんとしてでも救って差し上げるのです」
「姉様、それは今おっしゃる事では……」
 少し上気した頬を恥じるように、唯人らにふいと背を向けハルイが立ちあがる。そろそろ戻りましょうかと問いかけられ、王子もいいかい?と振り返ろうとした唯人に、扉の向こうのサレの声が響いた。
「……唯人」
「え?」
「今の話でやっと分かった、ミーアセンの誘拐騒ぎは最初から仕組まれたことだったんだ。たったひとり、目当ての子を連れ去るためだけの。王子ともう一人の子は、真実を悟られないためのただのついでだ。会の連中が、贄の祭りと称していたのは、エリテアの貴族の中でも特に格の高い血筋から出た鬼子の血が世に広がらないよう、闇に葬る儀式だったんだ」
「そんな……」
「一体どれだけ血を流せば気が済むんだ、あの女は!」
「あの女?」
「エリテア陽皇帝妃、雷妃インシャ。もうここには関わりたくないと思った俺の甘えが、ここまでの狂いを国に広げてしまったのか……畜生!」
 吐き捨てるようなサレの叫びに、ハルイは華奢な身体をひるがえして扉に駆けよるとうやうやしい素振りで膝をついた。
「まだ間に合います、皇子様がそれを正そうと思ってくださるのなら、私を始めそれに従う者はこの城にもまだ多数おりますから。数年前、こちらに健やかな御姿を見せて頂いた時から、みな心の底で皇子が戻られる事を望んでおりました。陽帝陛下は最近御身体の具合がすぐれず、ここ数年は雷妃様がそのお言葉を伝えるという形で政事は行われておりますが、雷妃様の癇気のせいで苦言を呈する者はそれとなく遠ざけられたり処分されたりで、今はそれは困った有様だと父は申しておりました。主だった要職は雷族ばかりで占められ、虹妃様の一件でもともと不満のある虹族に加え妃をないがしろにされた雲族と月族、そして我々星族もこのまま陽雷皇子様が陽帝を継がれる事を不安視しております。あの時、雷妃様に強く命じられたとはいえ、あの若く無力であった虹妃様を貶め皇子を追放した事は本当に国の為に正しいことであったのかと。身勝手だとお怒りになられても当然かと思われますが、皆、陽虹皇子様に一縷の期待を抱いているのです……」
「本当に、呆れるくらい勝手な言い草だ」
 口を開いたのは、王子だった。
「でも、まさしくそれが王族の在り方なんだよ。国の民ひとりひとりの力は小さくて、僕らはそれを日々やりくりして国をまわす。けど自分自身が〝国〟なんだって思いあがってひとたび道を外れれば、力はまとまりあっという間に巨大な意思、まさしく国そのものと化して己を乱した頭をもぎ取りすげ変えてしまうんだ。僕ぐらいの子供でも、それくらいはちゃんと知っている……サレ、どうする?この国は鬼って蔑んだ君を頭に欲しいんだってさ」
「……」
「ここは、鬼の治める国になるんだよ」
「そんな、私共は……」
「王子、そういう言い方って」
「分からないかな、この国の定義じゃユークレンを含めた東方国は、すべからく鬼の治める国なんだ。僕はこの国の〝人間〟の英断を称賛するよ、智の国の鬼としてね」
「決着は、明日付けよう。みんな今晩は部屋に戻って、ゆっくり休んで明日にそなえてくれ」
 静かに告げられたサレの言葉に、分かった、と唯人が返すと王子はつかつかとサレのいる扉に歩み寄り、小さな覗き窓に無理やり腕を差し入れた。届く?と呼びかけるのに向こうからもじゃらじゃらと鎖を引く音が寄ってくる。しばらくの後、指が触った、と王子は満面の笑顔で手を抜いた。
「サレの気が変わって良かったよ、もう罪を一人で被るなんて冗談でも言わないでよね。テルアに戻ったら、僕を怒らせた罰で鐘磨きの刑にしてやるんだから、覚悟しといてよ」
「え?鐘って、あの大鐘楼のですか?それは勘弁してください!」
「申し開きは、帰ってからでないと受け付けないの」
 あからさまに冷やっこい言葉でぴしりと閉め、さ、行こうと身を返す 。戸の向こうで響いている含み笑いを聞きながら、唯人も最後に覗き窓に手を入れひらひらさせた。
「じゃあ、明日、サレ」
「ああ、明日な、唯人」
 小窓の奥の暗闇から、ちりちりと鎖の揺れる音が送ってくれた。



「なんだ、随分と騒がしいな」
 船の帆柱に舞い降りたニアン・ベルツから飛び降りて、甲板を見回っているエリテア島兵の警備をくぐり下に降りる。一番広い船室に入ると、中は異様な緊張に満たされていた。
「あ、精霊獣師殿!どうやってここに?」
 アーリットに気付き、慌ててやってきたシェリュバンの部下のキリシュが、素早く入り口からの死角へと引き入れる。まずはシェリュバンらの状況を簡単に話し、こっちの様子はどうだ、と問うと彼はあからさまに困った顔をして見せた。
「ミナクの連中の態度はさまざまだ、全面降伏の奴の中でももう処分されると諦めてるのもいるし、サイダナの施設に入れてもらえると一縷の望みを抱いてる者もいる。危険なのは逃げだそうと企んでいる連中だ、この船の上や外を島兵が警備してはいるが、彼等は本当に分かっているのかどうか。ここにいるのは皆、暗殺のみに特化した抑えのきかない子供だということを」
「確かに、俺もどうってことなくここまで来られたぐらいだから結構ゆるいな。島でやっていた事など、本島の連中は正直知らんのだろう」
「先程数人がこっそり出て行こうとしたが、イェンが見つけてなんとか賽(サイコロ)の出目勝負で沙汰が来るまでは動かんという約束をさせた。あいつは賽の目を自由にできる特技をもっているからな、だがそれを大人しく守ってくれるとも言い切れん、どうしたものか」
「それはどいつだ?」
 キリシュが示した先には、成人するまでにほとんど生活環境の悪さと負わされている仕事のせいで消えてしまう、会の連中の中では年長の数人が暗い表情で固まっていた。近づいて来たアーリットを、敵意のこもった無表情で振り仰ぐ。その傍らで見張っているイェンも、黒布から覗いている眼は、正直彼等に本気で向かってこられたらとても抑えきれない、と語っていた。
「お前ら、ここから出ようって考えてるのか」
「当たり前だ」
 あまりにも削ぎ落された体格の、暗い眼の青年が唸る。アーリットがその前に腰を下ろすと、周囲の数人がまるで狼が群れの一位を護るようにそのまわりに寄ってきた。
「こき使われて死ぬのが、俺達に許されてる唯一の生き方だ。たとえ上が誰になろうが同じなら、鎖に繋がれる前に逃げてやるさ。このだだっ広い島に逃げ込んじまえば、のんびり生きてるのろまな獲物を喰って生きていくには事欠かないだろうからな」
 腰に伸ばされた手が、帯に下げてある鋭利な小刀を抜き鈍く輝く刃を舐める。この挑戦的な仕草に可愛い奴、と言いたげに口の端を軽く上げると、アーリットは意味深な表情を浮かべてみせた。
「まあ、そういう破滅的なのも選択肢のひとつとしてあってもいいとは思うがな。その前にお前ら、この機会に一度でも今の現状をぶちまけて訴えてみようって気はないってのか」
「訴える?誰に?」
「お前らをさんざん働かせて、使い捨てにしてきた事をさっぱり知らないこの島の偉いさんだよ。下からたどっていくのも面倒だから、一気に頂点目指してみるか?……陽皇帝、その人を」
「陽皇帝、だと?」
 さすがに名が大きすぎたか、驚きに青年らは目を見開いた。
「お前、何言い出すんだ、皇帝に俺らみたいなゴミがどうしようってんだよ。そうやって俺達を煽って自滅させようってのか?それくらい分かるぞ、馬鹿にしてんじゃねぇ!」
「ほぉ、いきがるのは人並みだが度胸はやっぱ犬程度か、お前ら。だったら尻尾巻いて暗がりへ散れ散れ、所詮犬は犬だ」
「てめえ……」
 だん、と小刀が床板に突き立てられた、周囲で聞き耳を立てていた連中がびくり、と震え、イェンがあんた何言ってんの、と目を丸くする。それを意に介せずするりと立ち上がると、アーリットは一同に背を向け、肩越しにふと振り返って見せた。
「俺は、これから陽皇帝のもとに行く」
「なんだと?」
「あいつとは知らん仲じゃないからな、息子の片割れが帰って来たってことを教えてやらなきゃならん。多分お前らの今後にも多大な影響があること間違いなしだぞ、なんてったってそいつはお前らと同じ穴の出なんだからな。居場所を探して穏便に訪問させてもらう為に、そうだな、何人かこそこそするのが上手い奴がいりゃあ助かるんだが。ま、お前らには関係ないか、暗がりから人に喰いつくしかできねぇ犬っころだしな」
「知りもしねぇで好き勝手言ってんじゃねえよ!上等だ、付き合ってやらぁ!」
 笑みに似て非なる形に細められた緑の眼に、火を吹きそうな勢いで殺気だった数人が立ちあがる。キリシュとイェンは大丈夫かと言いたげな視線を向けたが、アーリットは引き続き後は任せた、とそのまま出入り口に向かった。
「お前、名前はなんて言うんだ」
 隠そうともしない殺気を放ちながら、先頭で付いてくるあの若者が低く返す。
「名なんて言えるもんはねぇよ、バンテ・ボク(病気の犬)て呼ばれてるだけだ」
「やっぱり犬か」
「殺るぞ、てめぇ」
「俺だって大差ない、〝知らない〟ってだけだからな」
 船内に降りる通路からそうっと甲板を伺うと、見張りの兵は緊張感のない面持ちで欠伸などしている。十人弱の人影が、素早く死角を突いて通り抜けてもいっかな気が付く様子はなさそうだった。
「こりゃあ本当に今後お前らがどうにかしないと、本気の奴に攻め込まれたらこの国は結構やばい事になっちまうかもな。その辺もちゃんと伝えておくか」
「あんた、一体何がしたいんだよ」
 船の陰に飛び降りたアーリットに、バンテが不思議そうに囁きを漏らす。ふいと緑の眼はなんという事もなく、暗い夜空を振り仰いだ。
「……すべてが、歪みなくあるように在れと望む。ただそれだけだ」



 一夜が明けて、使いの者が唯人達を呼びに来るまでの間、室内は何とも言えない緊張感に満たされていた。あれからずっと、連絡のひとつもなくアーリットが帰ってこない。見張りの兵が確認に来たときはミラに化けてもらってごまかしたが、(ラバイア組がまた驚いて、唯人を見る目がますます怪しくなった)いざ呼び出しが来てしまった今、しょうがないと腹をくくってミラのアーリットでこのまま押し通すことにした。アーリットに限って逃げたとかやられたいう選択肢はまずありえない、きっとなにか独自に行動しているのだろう。
 部屋にいた全員、王子や子供達も残さず、周囲を多数の兵で厳重に固められ城の奥まったほうへと導かれる。たどりついたそこは、唯人の世界で言うならアジア調の様式が微妙に混じり合った雰囲気の大広間だった。壁は象牙色の土壁、柱や梁は朱で塗られ床は板張りで艶やかに磨かれている。天井は細く裂いた竹らしきもので編んだ風通しの良い素材で葺かれ、中心の高い箇所が開いて光と風を取り入れる天窓になっている。
 正面は身分の高い者が座すように一段高く、御簾がかけられ奥は見えない。そして残りの三方はそこそこの人数がここで起こる事柄を観られるよう階段状の座席にしつらえてあった。まさしく裁きを行うにふさわしいつくりの部屋だったが、今のところ聴衆とおぼしき人影は一人もそこにはいない。代わりに、服装でそれと分かる高官とおぼしき一団が正面の高座の脇から無表情にこちらを見下ろしている。兵にひと塊に床に座らされ、入ってきた扉が背中で閉ざされると男の一人が立ち上がり、わざとらしく咳払いした後喋り始めた。
「これより、雷族領ミナク島消失及び海神武道の教団員殺害についての審議をとり行うこととする。まず、おのおのの身分をこの場にて明らかにせよ」
 うっそりと、威厳を示す尊大な表情でまずシェリュバンが顔を上げた。
「ラバイア国北部領、スリンチャ族一位、アビ・シェリュバン・ウスル・スリンチャだ」
「同じくスリンチャ族六位、セティヤ・ナルバイド」
「ユークレン十五世王添王レベン・フェッテ添王子」
「同国テルア軍第一級精霊獣師、アーリット・クラン」
「あ、阿桜 唯人、で……」
「同国客人、非軍属第二級精霊獣師扱いである」
 一瞬、自分の肩書きが思い浮かばず頭が真っ白になった唯人を、すかさずミラのアーリットが補佐してくれた。
「後二人はミーアセンの住民、フェスとリリク、そしてスリンチャ兵あと三名同行の船で待機中、以上」
 王子の名が告げられた途端、一同にざわめきが起こった。ひそひそとなにやら言い交わし、本当か?的な視線が向けられる。王子はびくともしない顔で、少し視線を泳がせサレがいないか探しているようだった。
「では、これまでの経緯を語ってもらおう、嘘と隠し事はそなたら自身の為にならぬぞ」
「別に、嘘をつく必要などない」
 ラバイア国は、各部族の族長が話し合いで順繰りに王の役を務めているので、いずれ族長になるのが決まっているシェリュバンは格の上では王子や皇子と同等である。ここに居並ぶ高官にへりくだる気はないという意思を表す、片膝を立てたあぐらに肘を乗せた横柄な姿勢で、シェリュバンは金果の民のくだりは伏せ、ミーアセンを出てからのこれまでを大体で語って聞かせた。
「……俺は、ともかくさらわれた子供を取り戻す、ただそれだけの目的でミナク島までやってきた。島のガキどもを多少は懲らしめただろうが、それは向こうが立ち向かってきたからでお互い様だ。ユークレンの連中がちっとばかしやりすぎた感は否めんが、あちらさんだって自国の王子がさらわれりゃあそりゃ必死にもなるだろ。俺の……ラバイアの意見としてはこっちに非があるとは思わねぇ、以上だ」
 ざわめきは、大きくはならないものの治まる様子もなかった。
「なぜ、すぐに本島の軍にかけあわなかったのだ?ちゃんと知らせればこちらで兵を出したものを」
 その言葉は、すかさずセティヤが一蹴してくれた。
「おそれながら、我らがたどり着くのがあとわずかでも遅れていたら、子供らは憐れな肉塊と化していたでしょう。多少乱暴でしたが、これなる精霊獣師殿らが竜で活路を開いて下さったからこそ、我らは彼らを救うことができたのです。そのあたりをご留意願います」
「しかし、教団の指導者を全滅させて島まで潰し、全ての証拠まで海に葬ってしまった行為を不問にするわけには……」
「島を沈めたのは、申し訳ありませんが貴方がたには一切理解の及ばぬことわりの話です。島の精霊獣が終焉を望んだと言っても、ここに居合わせているこの国の方には誰一人分かりはしない。あれはこれ以上放置すれば、最後は周囲をも呑みこんで腐らせる禁呪と化す負の念の凝縮した塊だった。ああなってなお、人の為、己が堕ちきる前に恨みごとひとつ言わず浄化の炎にその身を委ねた心優しきミナク島。私とて、そうなる前に救う機会があったなら……この国に良き精霊獣師が存在しなかったことが、ただ悔やまれてなりません」
 凛とした偽アーリットの言葉に、これ以上どう続ければよいのやら、的な雰囲気が高官らの間に満ちる。その時、それまで静かだった高座の御簾の奥からふいに声がした。
「……これはこれは、予想通りのお言葉、耳が痛い」
 その言葉に、色めきたった様子で高官らが一斉に高座の方へと向き直る。まだそう歳を重ねている風ではない、少し高めな調子の男の声だ。ふふ、と含み笑いを漏らしつつ声は更に続いた。
「相変わらずなことだ、東のかたは聞いておればいつも最後はそうやって話をまとめてしまわれる。ありもしない存在をつくりあげ、そのせいだと言っては分からぬ事を憐れんで下さる。こちらにすれば、そのような見も触れもできぬ物を信じろと言う方が無理な事。ミナク島が災厄と化すなどという戯言を、なぜ信じなくてはならぬのかな?」
「これは異なことをおっしゃる、なによりミナク島の教団員とやらが精霊獣を使役していたではないですか。それなのに皆様は、そのようなものは存在しておらぬと申されますか」
「そのような事実は、こちらでは一切認められておらぬからな」
 あっさりと言い放たれ、おいおい、と偽アーリットが細い眉を少し上げた。
「それでは、エリテア国は我らをどう扱うおつもりか。ただ島を襲い、暴虐の限りをつくした賊とでも?そうなると、ユークレンとしては王子誘拐の件から正式に再度訴えを起こさせて頂くこととなりますが。幸いな事に、こちらにはスリンチャ族という充分に全てを見届けてくれている理解者もおりますし」
「これこれ、早合点してもらっては困る。こちらとしては誘拐の件に関してはそなたらの申し分に異を唱えるつもりはない、ただそれを行ったとされる者どもはすべて亡くなってしまったし、証明するための証拠も島ごとそちらが沈めてしまった。どうしようもないではないか、ならここは互いにおおごとにはせず許し合い、事を収めようと提案しておるのだ、どうであろう」
「島は失われましたが、そこにいた者らは残っております。誘拐の背景や余罪の調査などをうやむやにされては困るし、なにより我らが求めるのはそちらが〝大量殺人犯〟としてうやむやの内に処分しようとしている者が、なぜそのような凶行に及んだのか、その真意を得る事であります。なぜ彼はこの場にいないのです?一番この場にいなくてはならないはずだというのに」
「あの者は、裁くまでもない。あれだけの人数を殺めたのだ、たとえどのような理由があろうと……」
「テルア王立軍兵、サレ・エリタ・ナナイはユークレンの兵として職務に忠実であったと思います。戦の只中であったなら、兵が王を護る為何十人倒そうがそれは罪ではない。ユークレン添王子のこの身があの場にあった以上、彼を殺人者呼ばわりするのは控えて頂きたく願いますが!」
 王子の淀みない言葉に、一瞬周囲の空気がひるんだように思われた。
「そなたらは、あの者を不問にせよと申しておるのか?」
「彼の言い分を、聞いて頂ければと願っておるだけでございます」
 がやがやとざわめくだけの一同の中、ふと高官の一人が手を上げた。ほとんどの者が同じ配色の衣装を身につけているなか、四人だけ色違いを着ているうちの一人だ。位の差かと思ったら、他の者があからさまに迷惑そうな顔をした様子から、どうやら部族が違うのだと分かる。穏やかな印象のかなりの年配な顔が上座に向けられ、静かな声が発された。
「よろしいですかな?」
「よい、星族代」
「我も、今智国の王子が申されたことについては確かめておく必要もあるかと思われますがな。ここにおられるほとんどの雷族のかたがたは、己の領地ゆえ事を分かっておられるのかも知れぬが、この星族代にはよく分からぬ事もありますので」
 穏やかな表情ながら、言葉の内容は痛烈な皮肉なのは唯人にも分かった。雷族のみで話を進めるのは許しませんぞ、と暗に周囲に訴えている。同色の衣装の雷族の高官らが気まずい視線を集中させるなか、御簾の奥の声が幾分うっとおしそうに呟いた。
「そこまで言うなら連れてくるがよい、共に審議を行うとしよう」
「ありがたき御言葉」
 兵の数人が広間を出て行き、すぐに大柄な人影を伴って戻ってくる。手といわず足といわず傷の手当ての布を巻かれ、顔にも大きな膏薬付きの布が貼られている。だが、久しぶりに思える明るい表情と光の戻った眼で、サレは唯人らに笑顔を向けた。すぐ後ろにハルイが付き従っていて、入り口のそばですいと腰を下ろす。手枷をはめられ、着ている物もまだミーアセンからのままのぼろぼろ状態の衣装であったが、堂々とした体躯とその容貌にこの島の偉大なる主のかつての面影を見たのか、高官の中の年配の者から溜息ともつかぬさざめきが漏れた。
「サレ!」
「王子、昨日はよく眠れましたか?」
「疲れてたからぐっすり寝たよ、サレの心配なんかちっともしてなかったから!」
「それは良かった」
 黙れ、と兵に小突かれ手枷に戒められたまま、唯人らとは幾分離れた枠の内へと立たされる。約束らしい身分宣言を、サレは臆することなくはっきり周囲に響かせた。
「……ユークレン名サレ・エリタ・ナナイ、テルア王立軍王城守備隊小隊長。エリテア名は陽皇帝長子、陽虹」
 今度こそ、隠しようのない動揺のざわめきが広間内を揺るがした。騒ぐ高官らをよそに、御簾の奥からは何も言葉がかからない。そのとき、だしぬけになんの前触れもなく、御簾がゆっくりと引き上げられた。
「皆の者、騒ぐでないわ」
 意外にも、そこには二人の人物の姿があった。一人は女性、もう一人は青年、それを目にした唯人の心にその瞬間浮かんだのは、〝似ていない〟ただその一言であった。
「ここは、公正なる城の裁きの間であるぞよ、罪人ごときに怖気てどうするのじゃ」
 隅に控えているハルイ公主の衣装と形だけは似ているが、はるかに豪華な刺繍で飾られた艶のある生地のそれをまとっている年配の婦人。穏やかさとか暖かさとはほど遠い、あまりいい意味でない賢さとすべてを蔑んでいるような笑みの形に唇が歪められている。それでいて声は妙に不自然に優しくしようとしているような猫なで声で、ちっと舌打ちして座り方を正したシェリュバンも、唯人と感じたことはそう変わらない様子であった。
「……兄上」
 青年が、サレに呼びかけた。
「お久しぶりにございます、兄上におかれては変わらず健常そうでなによりかと。我はこのとおり虚弱なもので、いまだ往生しております。しかし健常ゆえのこたびの無頼、たとえ兄上であろうと許されるものではない、と我としては判断せざるを得ぬのですが。いかがでしょう」
 これが、サレと少なくとも半分は血を同じくする人物だというのか。唯人はとても信じられなかった、病弱というのは聞き及んでいたが、まさかこれほどまでに違っているものだとは……隣の母親と同じく豪奢な衣装を身につけているが、襟や裾から出ている首や手があまりに細いので、まるで鎧を着せられているかのように衣装が浮いてしまっている。褐色の肌が青白くなるとこうなるのか、顔や手は土気色にくすみ、髪は整ってはいるが何か付けている物の不自然な艶を放っている。顔のつくりは若干サレと共通している風が見られなくもないが、こけた頬と、母親からあの人を蔑んでいるように見える口の形を見事に受け継いでしまっているので、もう正直別物と化していた。
 悪いが、これではエリテアの人々がサレに期待を抱いてしまうのも無理はないと思えてしまう。特に感情に変化は出さず静かな面持ちのまま、サレはふいと視線を上げ真っすぐ壇上の二人と向き合った。
「こちらこそ、久しいことだ、陽雷。言うよりは健やかそうで安心した」
「それはどうも」
「お前に案じてもらわずとも結構、鬼子よ」
 すかさず、横から雷妃が侮蔑の言葉を投げかける。母上、そう言わず、と宥めた陽雷皇子も、心中はそう差異はなさそうであった。
「さて、東国の方々が求めているので一応お聞きするのですが。兄上、なぜこのような愚行に身をやつす事となったのですか、兄上は偉大なる陽皇帝の皇位を継ぐにはふさわしい者でないとされ、海神武道教の教団で生涯を武道に捧げ生きるよう父上に言い渡されたのでしょう。東国に逃げ、戻ったと思ったら育ててくださった恩人を皆殺しにしてしまうなど、人の所業とは思えませぬ」
「鬼であるからな」
 何を言われようと、暗紅の瞳はただ穏やかに揺るがない。
「その恩人に、翆眼鬼を殺してくるよう仕向けられ智国へと送られたのだ、できなければそこで死ねともな。恩を仇にしたからこそ、こうして生き長らえている。翆眼鬼と智国の皆が、俺を生かしてくれたのだ」
 真っすぐ見つめている王子の青い瞳に、サレはちらと自虐的に微笑んだ。
「本当は、戻ってくる気などなかった。もうエリテアの事は俺には関係ない、一生テルアに傭兵として居よう、そう思っていた。でもやはり駄目だ、この国は俺を呼び戻そうとし叫び続ける、ここに戻ってこい、腐りかけている身を喰いちぎって血と膿を流し出せ、鬼ならば出来るだろうと」
「一体、何を言って……」
 よもや、と上座の二人が顔を微かに強張らせる。何と言う事もなく、サレは腕を上げ鋼製の手枷にじっと目を向けた。
「ミナク島は、もう数十年の昔から海神武道の島ではない。行き場のない者を無理やり集め、暗殺と、最近はおよそ口にできない禁断の秘薬の生成までを生業とし、その黒い報酬を誰かの懐に流し込み続けていた。その金で力を得た者が己の部族を優遇したせいで、裁きの間の顔ぶれもいまやこの有様だ。五歳に満たない俺がかつて扉の隙間から覗いたこの広間は、五色の礼装がきちんと分けられそれは壮麗な眺めだったというのに。まさしく父、陽皇帝の威光のままに」
「懐かしき話ですな、我も覚えておりますぞ、陽虹皇子殿」
 先程の色違いの衣装の高官が、ほうと溜息をついてみせる。
「今の話、もし事実であるならこれは由々しき事態でありますぞ。許されるのなら持ち帰り、他部族の方々と協議せねばなりませぬが」
「おや、エリテアの天の五部族より選ばれし族代殿が、証拠もなしにこのような人殺しの言葉を鵜呑みにされるとは」
「真実は、ミナク島の者に聞けばひとり残らず知っている。物証が欲しいなら雷妃殿に直接求めてみればいい、島の薬師がつい最近も所望された秘薬を納めたと言っていたからな」
「……罪人の戯言に、耳を貸すでないわ!」
 いきなり、年配の婦人特有の金切り声が周囲の壁に響き渡った。顔を真っ赤にした雷妃のその形相に、どうやらこれが同部族をも恐れさせる癇気であるらしく、一番近くにいる高官があたふたと面を伏せる。隣の陽雷皇子さえもがああ、と細い眉をしかめるのが見えた。
「この者は、狂っておる」
 絞りだされたその言葉に、星族代の高官が別の意味で驚いて席を立つ。
「雷妃様、それはあまりに無理がありますぞ、誰の目にも陽虹皇子殿はしっかりとしておられる。ここは公正なる裁きの場、そのような無体を申されては……」
「我の言葉は陽皇帝の言葉、その我に異を唱えるならお前も不敬者と見なさねばならぬ。もうよいわ、そこな狂人は客人及び一部の官人を皆殺しにして我らに処分されたという事にしよう。兵ども、出でよ!」
 雷妃のそれこそ雷のごとき呼ばわりに、広間の四方から相当数の足音が迫る。結局は茶番、と言いたげに、陽雷皇子は物憂げに伏せた眼差しを眼下の兄へとくれた。
「兄上、貴方はもう少し賢い方だと思っていましたのですが」
「そうか」
「一言、己が悪いのだと、たとえそうでなくてもその一言さえ言えれば、少なくとも客人は助けられましたのに」
「それについては、昨日提案してはみたのだが。その客人に大層怒られてしまってな、いらぬ懲罰を頂いてしまったのだ」
「そのような事、気に病む必要はありませぬよ。皆様方は今宵には細かに挽き潰され、鮫の腹の中におりましょう。我は正直、母上と違ってあまり血なまぐさい事は好きではないのですがねえ」
 ふむ、と気の毒そうに顔をしかめて見せる。特に慌てた様子もなく、サレは隅にいたハルイと星族代らに唯人らのいる方へ逃げるよう指し示した。もともと上座からは末席になる離れた席にいたせいで、歳の割には素早い動きで逃げ出した老人に、このままでは己の身も危ういと悟ったのか残りの色違いの高官らも慌てて続く。
 それを見守るサレの肩でふわりと光が揺れ、金の刃のタタルタンが現れた。落下するそれを瞬時に足指でつかみ刃を上にして床に置くと、鋼で出来ている手枷をそれ目がけて振り下ろす。雷妃の金切り声よりなお響く、鋭い音と共に手枷は真っ二つに切り離された。ただのがらくたと化したそれを外し、傷一つない刃を肩に負うと唯人達のそばに行く前に、サレはふいと今一度陽雷皇子を振り仰いだ。
「陽雷、お前もたまには国から出て、もう少し見識を深めればよい」
 うっそりと、おのおのの得物を構えようとしている唯人達をふいと振り返る。
「この島の全ての兵力を集めても、あの夜毛の精霊獣師一人倒せはしないのだ。ましてや昼毛……翆眼鬼とあっては、群島国全てでかかろうとまず無理だ。知らなかったとはいえ智国の王子をさらい、この国に翆眼鬼を呼び寄せてしまった時からお前と母の命運は尽きていたのだ」
「何を世迷いごとを、翆眼鬼などとはもうはるか過去の伝え語りの悪鬼ではないか。あのような金毛翆眼を連れてきて我らを恐れさせようとは肩腹痛い。実を言えば、あの者の言葉には半信半疑であった。砂漠の端の街で鬼子を連れ戻すついでにある子供をさらえば、智国に潜みしそなたが付いてくるとな」
「あの者?」
 足早に唯人らのもとにやってきたサレが、雷妃の言葉に足を止める。その時ばん、と三方の扉が開け放たれ、お仕着せの兵がわらわらとなだれ込んできた。もうこれでかたはついた、と雷妃は余裕の笑みで顔を歪めて見せた。
「よくぞ戻ってきてくれたのう、陽虹、妾はこの日を心より待ちかねておったぞ」
「これは、私は貴女に疎まれていると思っていましたが」
「そのようなありきたりの言葉で、この心中が言い表せるものか!ただ若くて愛らしいだけの、頭の中は鳥程度の小娘にわずかの差で世継ぎ産みの先を越され、妾がその後五年間、どのような思いで日々を過ごしたか……鬼子であることが分かって母子共々嬲り殺しにしてやろうと思うたのに、この場に及んで陽皇帝はそなたを島送りにした。皇族にしか扱えぬ武具をつけ、その使い手として生きられるようにな!だがもう妾とてあの頃の妾ではない、こうして皇族殺しに組してくれる者もおる。今度こそ完全にそなたには消えてもらおう、我が陽雷が誰はばかることなく皇位を継ぐためにのう!」
 雷妃の耳障りな高笑いが響きわたるなか、兵が人数にしたらほんのひと握りの異国人を取り囲む。それでも楽勝だろ、と言わんばかりの顔のサレに唯人は背後からこそっと重要な事実を囁いた。
「ちょっと、サレ」
「なんだ?唯人」
「えっと、今言うのもなんだけど、ここにいるアーリットに見えてるの、実はアーリットじゃないから」
「えっ?」
「言ったとおりに取ってくれ、僕達をテルアから廃神殿まで乗せてくれたあの蟲だよ」
「???」
「後でゆっくり説明するから!」
「じゃあ、一応聞いておくが、そこのアーリットに見えるどなた様かは何ができるんだ?」
「戦えない人を、護ってもらうよ」
「……それだけか」
「それだけ、だな」
「ちょっと、まずいか」
「まずいと思う……よね」
 言葉の割には、サレの表情ははっきりと落ちついて見えた。そう、ここにいる面子ならこのくらい大丈夫だろう。
「あ、それと、石作りの大きな物がどこかにある?」
「なんだ?」
「竜を呼ぶよ、僕が触れば出てくるから」
 唯人の言葉に、ふむ、とサレが視線を上げた。その先、雷妃らのいる上座に向き合う下座の壁には、ほぼ壁画と言っていいほどの大きさの美麗なモザイク画がある。五色の玉石の粒で陽皇帝の徽章を描いた見事な細工のできに、これは壊しちゃいけないな、と思わず自分を見帰した唯人にサレはにっ、といたずらっぽく笑って見せた。
「いいさ、許す。俺も皇子のはしくれ、それくらいの権限はあるだろ、もし怒られたら二人で直そうな?」
「うん、分かった」
 それじゃあ道を開くぞ、と前に出たサレに続き、唯人も一斉に襲いかかってくる兵にすかさず刀を構えた。傍らに王子も立ち、手に持った輝海晶の杖で素早くサレ、唯人、シェリュバンと順に触れる。なぜか触れられた瞬間、ふわりと身体が軽くなる感覚が身体をかけ巡った。
「少し反応が早くなる術式、これくらいしかできないけど!」
「ありがとう、王子!」
 言葉と共に、突っ込んできた数人を鋭月で薙ぎ払う。傍らの物精の鋭月が伏し目で溜息をついたので、やっぱりちょっと多勢かな、と唯人は返す刃でセティヤを襲おうとしていた数人を切り伏せた。
「気になさらないで下さい、お相手の鎧が見た目少々祖国のそれに似ていると思いましたが、存外やわなので呆れただけですから。唯人殿の御命にかかわりそうな輩はこの中には見受けられませんですね、ならば適当にお相手させて頂くといたしましょう」
「まあ、正直綱手を呼ぶまでの時間稼ぎでいいんじゃない?ここを壊しちゃうのは申し訳ない気もするけど」
 いつもの見えない壁で背後のハルイらを護りつつ、打ちこまれてきた矢をそのまま弾き返して別の兵に当てたミラがそろそろ姿戻していい?と唯人を振り返る。そちらは彼とシェリュバンらに任せ、唯人はサレの後に続き一気に壁画に駆け寄るとその端に手をついた。
「来い、綱手!」
 壊したら悪い、と思った唯人の心が伝わったのか、綱手は若干の玉石を散らしたものの、ごく慎重に絵から滑り出してきた。踏むと脆弱な人間は潰れてしまうので、頭をぶんぶん左右に振って邪魔者を弾き飛ばしつつ足場を確保し降りてくる。見えない相手に兵が大混乱に陥るなか、唯人らを兵から庇う位置に強引にその身を割りこませてくるとここちょっと狭い、と綱手は窮屈そうに手足をもぞもぞさせた。その足元で、床板が呻き声のような音を立てている。どうして兵が近づけなくなったのか分からずただ怒り散らす雷妃に、ぬうっと頭を寄せた綱手の前へサレは飛び出した。
「よい機会です、ここに貴女が存在を認めぬ精霊獣、その中でも最強の竜がいる。信じようが信じまいが〝いる〟のです、そろそろ世界の半分以上が認めている事実を、国の長と言う立場の上で受け入れてはもらえないですか。両性とて、けして卑しき存在ではないということも」
「鬼めが、妾に上から物申すとは」
 乱れた髪の鬼気迫る表情が、にやり、と妖しく歪む。さっと開かれた上座の背後から引き出された人影を目にした途端、ハルイが細い叫びをあげた。
「姉様!」
 後ろ手に戒められ、その場に崩折れたのは昨晩牢で見た、ハルイの姉のラナイ公主であった。妹と目が合ったその瞬間、溢れた涙が憔悴した頬をつたう。その首に身分の高い女性が護身用に持つ小刀を突きつけられ、一瞬の迷いもなくサレは手のタタルタンを下へ投げ捨てた。
「なりません、陽虹皇子……!」
 二人の公主の声が重なる中、居並ぶ兵に命が下されるかと思ったが、雷妃は凄絶な笑みを崩さぬまま、サレを上座、すなわち自分の元へと呼び寄せた。
「お前は、ほんにしぶとい鬼だからのう……妾の手で、確実に息の根を止めてやろう。もっと、近うよれ!」
 ラナイ公主の首の小刀から目を離さぬまま、じりじりとサレがその元に歩み寄ってゆく。その時、それまですっかり影を潜めていた者の声がふと響いた。
「母上」
「……」
「母上?」
「なんじゃ陽雷、このようなときに!」
「母上、兄上を始末するその役、我に任せては頂けないでしょうか」
「そのようなこと、この母に任せるがよい、そなたの手は汚さずともよいのじゃ」
「しかし、母上は手が塞がっておられるし。ここは……」
「うるさい!そなた、母の言うことが聞けぬというか!そなたは大人しく妾に従っておればよい、何もできぬくせに!」
「……はい」
 暗い声を返した陽雷を背に、雷妃がサレを待つ、あと少し、ほんの数歩でこの刃が届く。ぐっと身を乗り出そうとした……その背後で、一すじの銀の軌跡が横薙ぎに輝いた。
「きゃああああ!」
 ラナイ公主の悲鳴が、鋭く周囲に響き渡った。何が起こったのか分からぬ顔で、振り返った頭が首から滝のように血を吹き出しながらゆっくりと倒れてゆく。豪奢な衣装をみるみるうちに鮮血で染め、眼を見開き自分を睨む母をつまらなさそうに一瞥すると、陽雷皇子は改めて手の剣の血を振り飛ばし、ハルイへと突きつけた。何が起こったのか分からず動きを止めたサレに、母譲りの口元で艶然と微笑みかける。
「ああ、兄上、何という事をしてしまったのです」
「なん……だと?」
「いくら憎いとはいえ、母上まで殺めてしまうなど。まあ復讐と言われれば、こちらには返す言葉もありませぬが」
「俺は、そのような……」
「良いのです、分かっておりますから。このような嫌な女に逆恨みされて、お辛い生涯だったのでしょう。実はその点では、我も同様だったのですよ」
 床に拡がる血だまりが、ゆるゆると拡がってゆく。嫌そうに眉をひそめ、陽雷皇子は一歩身を引いた。
「この女は男児を産む、ただその為だけに得体の知れぬ薬を使って、結果、子を生まれつきの不具……虚弱にしてしまった。始まりがまともではない以上、歪みは更なる歪みで支えてゆくほかない。弱い皇子を認めさせる力が必要になれば腐った生業にも手を染め、子ができぬとなればまた怪しい薬にたよりなんら問題のない、健やかな妃を皆壊してしまう。これが鬼の所業でなく、何だというのでしょうかな……」
 くっ、と細い喉で何かを噛み殺すような音を立てる。自嘲にも、泣くのを堪えているようにも聞こえる音だった。
「でも、これで我は解放された。もうおぞましい母という名の支配者はいない。兄上には感謝の言葉もありません、何と言ったらよいのでしょう」
 そこだけはまったく同じな、暗紅の瞳が向かい合う。
「後は、貴方だけですよ。死んでください……兄上」
 陽雷皇子に捕らわれているわけではないのに、軽く刃を突きつけられているだけのラナイ公主は少しも身動きできないようであった。雷妃の凄まじい憤怒の死に顔に射すくめられてしまっている、それでも恐怖に青ざめた顔で、なんとか言葉を絞り出した。
「陽虹皇子……わ、私の事は気になさらず、ハルイを、妹の事を……」
「おや、それはなりませんよ、星族公主は我の次の妃にと決められている。母上さえいなければ、我は身内が鬼子を産んだ事など気にしません。鬼子が生まれれば、また潰してしまえばよいだけの事でしょう」
 ぐっ、とサレの身に力が込められた。沈黙に怒りを込め一歩踏み出そうとする素振りに、本当にお気が短いようで、と陽雷皇子がラナイの肌に食い込ませた刀をよく見せようと上体を引き起こそうとする、その時……。
 鋭い音と共に、その刃が弾け飛んだ。
「サレ!」
 彼方から叫んだのは、唯人だった。綱手の陰に立ち、上げた銃口にすかさず舞い戻った蟲がぺたりとへばりつく。一秒の何分の一かの間に、そのたくましい腕は目の前の細い喉をつかみ床に押さえつけていた。
「陽雷……!」
 少し力を込めればすぐに終わらせてしまえそうに、手の中のそれは頼りない。なぜか抵抗はおろか身じろぎひとつすることなく、陽雷皇子は、何かを待つような遠い目をサレを通り越したその向こうへと向けた。
「兄上、流石です、人というよりは猿のごとき素晴らしい身のこなしだ」
「黙れ!」
「そんな大声を出さずとも、聞こえておりますとも。まあ、積もる思いもありましょうが、あまり嬲るのはできればやめていただけませんか」
「……?」
「駄目でしょうか」
「……」
「あれだけ殺せるのだから、この細首を手折る事など造作もないはずだ。一息にやられるとよい」
「……陽雷」
「もう、疲れ果ててしまったのですよ、我は。無理をさせられるのも、それが少しも報われぬのも、それでも生かされる事さえも」
「お前……」
「全てが明るみに出た時、腐った支配者を打ち倒した救世の皇族、などという出来過ぎの美談を愚かな民どもは好むのです。兄上なら、その馬鹿馬鹿しい茶番の主役にぴったりだ」
「最初から、そのつもり……だったのか」
「ああ、父上は、母上がやった事全てに一切関与しておりませんから。数年前から生かさず殺さず程度の毒を与えられ、雷族に厳重に守られた地で軟禁されております。迎えに行って差し上げれば、きっと喜ばれることでしょう」
 静かに語られる告白に、いつしか喉をつかんでいる手からは徐々に力が抜けようとしていた。
「それを聞いて、なぜ俺がお前を手に掛けられると思う」
「おやりなさい、その為だけに我はこれまでの生ぬるく柔らかな修羅の日々を耐えてきたのです。私自身などどこにもいない、ただ母が皇帝の権威を持ち続ける為の道具としてあったこの生を」
「そのような事はない、陽雷。お前は……」
 おもむろに手を離し、サレが身を引いた、瞬間、固唾をのんで見守っていた雷族の兵士が動き出した。手の得物を振りかざし、一気に上座へと詰めかけようとする。
 その時、天井でなにやらすごい音がした。
「……?」
 走っていた者もその足を止めるほどの、尋常では無い事態を匂わせる不気味な音だった。明らかに、屋根を支えている横木に何か起こった感じの音だ。ずん、ずん、と二回振動が走り……いっそ小気味よい勢いで、天窓がその上の覆いごとずばっと突き破られた。慌てて逃げまどう兵の上に折れた木片をばらばらと降りまいて、鷲に似たでかい頭が覗きこんでくる。うわあ、と見上げた唯人に、綱手までもが〝自分は壊さないよう無理したのに!〟と言いたげな唖然顔で天井を仰いでいる。その下からの全員の視線を全く意に介することなく、鷲の鉤爪はばりばりとさらに穴を広げるとどすん、と下に降りてきた。その脚に、二人の人影が見えている。まあ一人は分かっているが、降りてきたもう一人が誰なのか分かった瞬間、周囲にいた兵がばたばたと武器を捨て一斉にその場にひれ伏した。ゆっくりと周囲を見渡す緑の眼が、唯人に留められにっと笑う。
「すまん、ちょっと遅くなっちまったみたいだな」
「いいよ、みんな生きてるし」
「思ったより遠くにやられちまってたもんでな、この偉いさんがよ」
「それはいいんだけど、なんでわざわざ壊して入ってくるんだよ!」
「何が悪いんだ、こっちは急いでたんだ。それに普通に入ってったらこの雑魚どもがこっちに気付くのに時間がかかっただろうが」
「それくらいいいだろ、綱手だって気を使ってるってのに!」
「お前、それは竜の使い方としてはおかしいぞ?」
 つい普通に会話していたら、一番近くにいたエリテア兵にもの凄い顔で睨まれていた。慌てて平伏しようと銃を下ろすとよい、と手が挙げられる。床にいたのを寝着のまま、上着を一枚かけただけで連れてこられたのか完全に素の様相で、髪も髭も長く伸びているが、元々備わっている威厳は少しも損なわれてはいない。エリテア全島の統治者、陽皇帝は病んでいるとは思えない、しっかりとした足取りでサレと陽雷皇子がいる広間の上座へと上がっていった。ほぼ二十年ぶりの対面に、呆然となっているサレの傍らで陽雷皇子が母親の骸の側へとにじり寄る。
「陽雷、ならぬ!」
 凛とした声音に、陽雷が己の喉に突き立てようとしたした小刀は、すかさず振り返ったサレの一撃ですんでのところで弾き飛ばされた。
「陽雷、まだお前はこのような事を!」
「ご容赦ください、父上、兄上。我はこうすることのみを支えに生きながらえて来たのです……!」
「雷妃を手にかけたのか」
 怨嗟の念に顔を歪め、こと切れている妃の姿に陽帝の静かな面持ちが曇る。腰をおろして手を述べ、二人の息子をその懐に抱きよせると、陽帝はその面持ちのままの慈しみを込めた声で語りかけた。
「陽雷、己の無力を責め、自身を断罪せずとも良い。雷妃を選んだのはこの儂であるのだから、同じだけの責が儂にもある」
「……そのような」
「そして陽虹、儂の思いの及びもつかぬほど、立派になって戻ってきたな。あの小鳥のごとき虹妃より、このような美丈夫が育とうとは」
「ひとえに、父上よりの賜物かと」
「陽虹よ、儂を含め全てのエリテア領民は、お主に赦しを乞わねばならぬ。お主の母を奪い、貶め、辛い思いをさせた事、どうか赦してもらえぬか。この国が再び再生し、健やかなる道を目指すにはお主も必要不可欠なのだ。度々道を外すことはあろうが、本来皇子らは互いに弱い部分を補い合い、支え合って国を治めるもの。どちらが優れておるとも、優れた者のみが国を治めるというものでもない、儂はそう思うておる」
「だから俺はあの時言ったんだよ、半端に頭のいい女は馬鹿だが忠義のある臣下にくれてやるのがいいってな。神がかってるくらい明晰か、とことん癒し系が王の伴侶には向いてるんだ」
 身も蓋もないアーリットの物言いに、すまぬ、儂も若かったと陽皇帝が頭を垂れる。さて、と上げられた緑の眼が空気を読んで平伏した唯人を含めた一同を見渡した。
「陽皇帝は、つい今まで雷族領の僻地のとある館に囚われていた。ここにいるお前ら全員それを承知の上だったってんなら、改めて俺を加えた面子でぶっ飛ばさないとならないんだが、どうなんだ?」
「い、いや、我々はそのような事……!」
 さすがにそこまでやっていたとは末端では知るよしもなかったのか、周囲の兵がうろたえて顔を見合わせる。我らの忠誠は陽皇帝のもとに、との声が次々に上がり、よい、と陽皇帝はその言葉を受け入れた。
「客人らの審議は、儂が日をおいて引き継ぎ行うこととしよう。皆はこの場は治めてもらえぬだろうか、儂に免じて」
「は、ははっ!」
 ざわざわと兵らが引いていく中、なにか壊したと思われたらかなわない、といった様子で綱手もずりずりとバックして壁画へと戻っていった。どうやら、なんとかここの土台は耐えきってくれたようだ。腰の抜けているラナイ公主を抱えてサレが降りて来たので、唯人も床に落ちていたタタルタンを拾って駆け寄った。
「サレ!」
「おう、唯人!」
 降ろしたラナイが妹と抱き合うその隣で、剣を渡そうとした腕が引かれぎゅうっ、と抱きしめられる。しばらく我慢していたが、ちょっと長いと困惑しはじめた頃、王子とアーリットがそれぞれの側から引きはがしてくれた。
「サレ、僕には?何もやることないっての?」
「いつまでへばりついてやがんだ、ちっとは抵抗しろよ!」
 まあこれで一応カタはついたな、とシェリュバンらも安堵の表情で顔を見合わせている。
 天井に開いている大穴から射しこむ陽光は、まさしく西国エリテアの象徴そのままに強く、眩しく、暖かだった。



 その後、サレは牢に戻されることなく唯人らと共に客人用の広い部屋に居を移され、程なく陽皇帝の命により呼び戻された五部族の官人のもと、全ては明るみに晒された。ミナク島で行われていた数々の裏の稼業については、あの時島に残っている奴がいないか見回ってくる、と言ったアーリットがそのわずかの間に本当に必要な資料だけを集めて持ち出していて、それで充分証拠としては事足りた。
 陽皇帝は妃の悪行を全て己の責と認め、ユークレンに公式に謝意を述べラバイアにも面倒をかけた事を詫びた。子供二人は速やかにミーアセンに送り返され親の元へと届けられたが、同時に金果の鳥騒ぎについても誰かがもうちゃんと天に送り返した事、その者は素晴らしい報酬を授かったという話をシェリュバンがラリェイナの髪のひと房と共に持ち帰らせたので、じきに治まることだろう。
 ミナク島の連中は、幼い者はサイダナの施設へ、そうでない者と願い出た者は一年の社会復帰の訓練の後、正式なエリテア軍の一部隊として徴用されることとなった。その代表となったバンテは今でも訳が分かんねぇ、と狐につままれたような顔をしている。〝あの野郎〟にそそのかされて屋敷に忍び込み警護の者を片付けたら、なぜか陽皇帝本人はさっさと連れ出されてしまい、気が付いたら皇帝を救いだした義賊に祭り上げられていた。皆がわあわあ騒ぐのでどう振る舞ったらいいのか分からないが、このうるさい連中を糧に裏で生き延びようという考えはなんとなく頭から押し出されてしまったようだ。ミナク島の若者は、基本他者から命じられてしか行動できないよう教育されているので、周囲の期待という良い在り方を強く望まれるとあっさりそれを受け入れてしまう。能力は高いので、きっと皆いい戦力になるだろう。
「兄上が発たれる前に、ひとつだけ語っておかねばならないことがあります」
 数日かけた全ての審議が終わり、誰一人罰を与えられることはない無罪放免の証を頂いてそれぞれが自国に戻る準備を始めた中、あの日以来ひっそりと自室の床におさまって、寝たり起きたりを繰り返しているらしい陽雷皇子から、サレに来て欲しいという呼び出しが届けられてきた。彼も、元々虚弱な身体で相当気を張って生きて来たのだろう。ようやく気分が落ちついてきたのか、寝台の上で微笑むその顔は、裁きの間にいた時のそれよりはずっと穏やかで、険が取れたように伺えた。
「まず、これが例の秘薬。我はこのような物、もう見たくも関わりたくもないので、出来れば燃やすなりして処分することを望みますが」
 雷妃がミナク島に要求し、子のできぬ皇子の妃らに与えていたというおぞましい薬はもうほとんど残ってはいなかったが、物的証拠として一部国に収められ、残りはサレの手でエツに託された。彼の義兄弟の血肉で練り上げられたその薬を、彼自身は全部身体に取り入れて共に生きる覚悟であったが、大人である皇子の妃らが異常をきたす程の劇薬であることから一粒だけ細かくして長期間かけて取り、後はずっと一緒にいられるよう施設の片隅に埋める事にした。知らない誰かや獣が掘り返さないよう、木の根元を深く掘り埋めた後、木は次の年から花の色を少しだけ変えたという。
「それと今一つ、覚えておられますか、母があの時言った一言を。〝あの者〟に言われ、智国の王子をさらい兄上をこの国に引き戻したと」
「そうだ、その事が俺もあの時から気になっていた。誰がそれを雷妃殿に吹き込んだのかと」
「母上は、あの者の素姓を誰にも、この我にさえけして明かしはしなかった。城の中でも禁忌中の禁忌扱いだったのです、いつも母上が知恵を欲すれば前触れもなくふらりと現れる。初めて訪れたのは、一体いつの事だったのか。あの者がなぜそれを知っていたのかは分からないが、あの者に教えられこの皇城に秘蔵されていた秘薬についての禁書を手にしてから、母上は一気におかしくなってしまわれた。最初はそれでも我の事を案じる故と思うようにしていましたが……ミナク島で薬の量産を始め、それを他国に流すに至ってもうこれはただ事ではない、と。そこまで発展させてしまったのはひとえに母上の弱さだったかもしれませぬが、あの者さえ本の事を持ち出さねば、と……」
「あの者、とは?」
「母上は、ただその者を〝黒の君〟とだけ呼んでおられた。ここに現れたのは片手で数えるに満たぬほどであったので、我もその姿を見たのはただ一度、遠目に伺ったのみでありましたが。忘れようはない、あれは……」
 少し俯くと言葉を切り、寒さではなく微かに身を震わせる。黙って寄りそい、サレは薄いその肩に手を添えてやった。
「心底思わずにはいられない、なぜあのような得体の知れぬ者に、母上は心酔してしまっていたのか。その者の顔は、ただ黒一色の仮面。装束さえもあますところなく黒で、我の目には不吉な夜の象徴の大黒鷺に見えました」
「……黒の君」
「母上亡き後、もしあれが我のもとを訪れてきたらと思うと恐ろしくて眠る事もままならない。今度は我に向かって、甘美なる破滅の種をちらつかせてきたらどうなるかと」
「その時は、精一杯の声でこの兄を呼べばよい。何も恥じる事はない、なんだろうとこの手の剣の一振りで仕留めてやろう」
「兄上は、あの者を見知っておらぬからそう気楽に申される」
 なんの感情も見せず呟く弟を、こいつ、と手荒く揺さぶり迷惑そうな顔にさせて、サレはそう言う訳でもない、と窓の外に視線を向けた。
「実はな、ここ十数年、他国でもその輩が騒ぎを起こしているというのが問題になっているのだ。つい最近も、ここに来ている俺の仲間の精霊獣師二人が共にそれと対峙し、二人とも危うく死にかけた。世界主にかけて、あの二人はけして弱くはない。もしその者がまたこの地に来る恐れがあるというのなら、今後はエリテアも諸国が行っている会議に参加してみればどうだろう。智国に願い出ておけば、以後取りはからって貰えるだろう」
「兄上……」
「よく話してくれた、陽雷、この話を父上と智国の者に伝えてもよいか?」
「それは勿論、御心のままに」
 幾分疲れた顔になった弟を、元通り布団におさめてそれでは、と部屋を去ろうとする。その前に、ふとサレは何と言うことなく弟の顔にじっと目を向けた。
「どうしました?兄上」
「陽雷」
「はい」
「お前は、男なのだろう」
「そのつもりですが、それが?」
「俺の周りの男どもは、なぜ皆、吹けば折れそうな奴ばかりなのだろうかな」
「知りませぬ、我が痩せているのは胃の腑が弱いせいだと薬師が申しておりましたが」
「エリテアでは、家畜の乳を飲むことはまだやっていないのか?」
「田畑で使う水牛の乳ですか?ご冗談を。あんな臭い物は砂漠と東国の痩せ地(テシキュル)の民しか口にしませぬよ」
「臭くとも、滋養を得るためには一番良い物なのだ。智国では香草茶で薄めて香り付けして飲んでいる、贅沢品なのだぞ。そうだな、俺が智国での勤めを終え、この国に腰を落ちつける為帰ってくる時には智国の牛を何頭か連れ帰ってやろう、ここで飼えばいつでも乳が飲める」
「そのような物は、いりませんから」
 しかめっ面で布団に潜った弟の姿に、笑い声を浴びせ今度こそ部屋を後にする。天井が修理中の裁きの間の横を抜け、客室に戻ると中には船からやってきたラバイア組の全員と、旅支度をしている唯人がいた。
「あ、サレ、おかえり。陽雷さん、どうだった?」
「ああ、唯人、顔色は大分ましになってたよ。文句言い返すくらい気分も落ちついたようだ」
「それはよかった」
「アーリットと王子は?」
「前庭にニアン・ベルツといる、そろそろが帰るみたい」
先にテルアに詳細は知らせておいたが、とにかく向こうが心配しているのでなんのかんの言ってまだあちこち見て回りたい王子を宥め、アーリットは一足先に責任を持って王都へと連れ帰るつもりのようだった。
「で、本当に、一緒に帰らなくていいのかい?サレ。飛んだら一日なのに歩くと六日ぐらいかかるんだろ?ちょっと我慢すればいいだけなんだから……」
「すまん、唯人。廃神殿に行った時身に染みたよ、やっぱり俺には空は無理だ。俺の足ならもう少し早いだろうから、地道に歩いて帰らしてもらう。途中で、ミーアセンの荷物も回収しておくから。唯人こそ一緒に帰ったらどうなんだ?テルアは無理だがアーリットの住処くらいまでなら大丈夫だろ」
「うん、それはアーリットとも相談したんだけど。テルアからの知らせによると、アシウントの人がかなり僕の捜索の為にユークレンに入って来てるみたいなんだ。見つかると面倒だから、群島国なりラバイアなりをしばらく自由にうろついてたらいいって。アーリットは王様に報告を済ませたらまた出てきてくれるって言ってるから、それまではサレと一緒でいいかな、サイダナの施設にも顔出しておきたいし」
「ああ、それは勿論大丈夫だ」
 じゃあ、しばらくのお別れになるだろうから見送ろう、と前庭に降りると、綺麗に手入れされた砂地の上に艶やかな翼を輝かせたニアン・ベルツがいるのが見えた。唯人らに気付いた王子とアーリットが振り返ると、あれからずっと皆の世話をしてくれているハルイ公主も一緒にその場に居て、こちらに優しい微笑みを向けてくれた。
「もう行くのかい?アーリット」
「ああ、今日中には着きたいからな」
「ねえサレ、本当に本当に、ほんとーに無理なの?」
「すいません、王子、こればっかりは勘弁してください。これ以上情けないところを見せたくないんです、俺」
 深々と頭を下げるサレの様子に、僕は別にいいんだけどさ、と王子は軽く口をとがらせた。じゃあちょっとの間お別れだね、唯人、と華奢な身体が抱きついてくる。こんな事言うの不謹慎だと思うけど、今回のこと、僕はとても勉強になったし色々と刺激的だったよ、と喉声の囁きが耳にかけられた。
「テルアに戻れないなら、近くに来た時は絶対知らせてね、僕が会いに行くからさ」
「ご冗談は程々に、添王子。そもそも、一国の王子がなんの前触れもせず他国を放浪するなどと……」
「あーもうはいはい、そういうのは帰ったらアーテが数日かけて聞かせてくれるだろうから、ここではいいって」
 今ものの見事に一瞬だけ浮かべて消した〝このガキ〟の表情を抑え、アーリットが王子をニアンの足に乗せる。ふいと唯人を振り返り、もの言いたげな視線を向けてきたが、何も言葉を発することはなくアーリットはそのまま背を向けた。
「アーリットも、気をつけて」
「俺の心配なんて、するなと言ったはずだが?」
「言われてやめるものでもないと思うよ」
「お前はむしろ、できることならこれ以上俺に心配させるな。今度どこかでまた面倒起こしやがったら……」
「縛る?」
 言うだけでやらないよ、と笑ったミラの声が頭をよぎる。
「その首を、獣みたく鎖で繋いで曳いてやるさ。勿論本物ってことじゃない、離れてる相手を支配する禁呪ぎりぎりの術式ってのもあるからな。自分で考えて行動したいなら、俺が口で言ってやってるうちに従っとけよ」
 それだけ言い捨てると、空いている脚のほうに身軽にとび移る。大きな翼がゆっくりと開き、思ったより強く巻き起こった砂煙に見送る三人がつい顔を伏せた、その瞬間……。
「え、ええええー!?」
 なにやら壮絶なわめき声が響き、驚いて目を開けたら、傍らの大柄な姿が消え去っていた。人一人くらい楽につかめる鉤爪の足にがっしとつかまれて、更に長く尾を引く叫びが遠ざかってゆき、青い空に点と化して消える。砂ぼこりが治まった後、こちらも点になった眼でハルイ公主が何が起こった、と呆然と唯人を振り返った。
「そんな事するから、鬼って言われるんだよ、アーリット……」
「あ、あの……陽虹皇子様は?」
「アーリットが、連れて帰っちゃった、みたいです。すいません、やはり何日も待つ時間が無駄だと思ったかな。本人さえ我慢すれば一日で行き来できる距離だから、またすぐに戻って来れます……来れる、と思う……うん」
「そう、なんですか……」
「本当にすいません、挨拶もさせないで」
 これだからアーリットは、全く。こっちが先に島を出ておくべきだったなと愚痴りつつ、慌てて陽雷皇子と陽皇帝も訪ねて頭を下げておく。部屋に戻って支度の続きを終わらせて、唯人はとりあえず、ラバイアの面々はこれからどうするのか聞いてみた。シェリュバンがサイダナで借りた船は、子供二人を乗せてもう一足先に帰ってしまっている。サイダナで待たしてあるシェリュバンの部下のスワドが、子供達をミーアセンに送り届けてくれる手筈だ。後を追う形で、こちらもエリテア本島からサイダナに出ている定期船で一旦戻るか、南のア―ジ諸島を経由して西ラバイアに着くほうの船に乗るか。シェリュバンもまだ、考えている最中のようであった。
「で、お前はどうする気なんだ?唯人」
「うん、僕は好きにしてていいんだけど……かえってあてが無いから、どうしようって思ってる」
「なんだ、お前本当にテルアの軍人じゃなかったのか」
「ちょっと事情で、アーリットが庇護者のテルアの客人って感じ」
 そこはどうしても言えない事情を察して欲しい、の気持ちを表情に込めると、おうよ、と意外にもシェリュバンはそれをあっさり理解してくれた。
「分かってる、言わなくてもいいぞ。竜人を二人も有するとなったら、あの北の大国が見過ごしてくれるわけがないだろうからな。立場上は自由にさせとくのが賢明だ、お前も大変なんだな」
「うーん、まあね」
「で、行くあてが決まってないって?興味のある場所とか、見たいもんはないのか」
「あー、そうだ、気になってるのはあれかな……」
「アレ?」
「うん、シェリュバン知ってるかな、導師ジュネイのじ……情婦アレイト、って絵。ラバイアの王城にあるらしいんだけど」
 は?とシェリュバンがただでさえ白目がちの眼を大きく見開いた
「もういっぺん言ってみろ、なんて絵だって?」
「〝導師ジュネイの情婦アレイト〟か、〝火炎竜の妖婦〟かもしれない」
「ひょっとして〝火炎の竜婦〟でしょうかね」
 背後から、セティヤが話に入ってきた。
「ラバイアの首都スィリニットに降臨された、最古の竜人の絵だと言われています。古くて有名な絵で、一位の君の屋敷にも写しがあったような、ほら、首位様の間の赤い……」
「あー、あの赤い……って、アレか!」
 記憶をたどる顔から、なぜか、にんまりと笑顔になるとシェリュバンは手を伸ばし、唯人の肩をぽんぽんやった。
「そっか、安心したぞ、髭も生えねえ小娘みたいなツラでも、お前意外に野郎寄りなんだなぁ」
「え?一体どんな絵?」
「なんだ、知らないのか。そりゃあ、名のとおりの竜人の女だよ。胸がどーんで腰はきゅっと締まってて、薄絹の間から覗いてる滑らかそうな肌の脚はとんでもなくすらっと長い。一目で分かる、極上の女ってやつだ。俺も十五になるまでは親父が見せてくれなかったんだぞ、刺激が強すぎるってな」
 胸がどーんで脚がすらっとのアーリット、み、見たい、ものすごく……。
「見たいんだな、そんなヨダレの垂れそうな顔しやがってよ」
「唯人さん、そういうご趣味だったんですか……」
 二人二様の〝意外だな〟な顔を向けられて、慌ててどうにか表情を戻す。なら、とセティヤがそっとシェリュバンに耳打ちした。
「そうか、だったら見に来いよ唯人、うちに来るなら俺の客人として歓迎してやろう。親父がいつおっ死ぬか分からんのと、食い物には充分気を付けなきゃならんがお前なら大丈夫だろ。いや、もし俺が竜人連れて帰ったって知ったら、あのクソ叔父貴が泡食ってひれ伏すかもな。そりゃ見てやりたいからぜひ来てくれ、いいだろ?」
 そうしてください、とセティヤも笑い、えーほんと?と隅で聞いていたサテクが駆けよってくる。先に言っておくけど、僕みんなが考えてる竜人とはちょっと違うよ?と念を押すとそうですね、とセティヤにあっさり返された。
「一級精霊獣師様に伺いました、ユークレンでは普通の霊獣と同じように竜を持てるのですね。勿論、竜に選ばれるという素質と強運の持ち主の特権のようですが、一体唯人さんの何が竜の気に召したのでしょう?」
「さ、さあ、僕にもよく分からなくて」
「そりゃあ、一人でスリンチャの猛者四十人の陣に突っ込んでくる鼻息の荒さだろうさ。俺は正直今でもまだ信じられねぇよ、この顔にいいようにあしらわれたなんてな」
 あーそういえば手足もいで砂漠晒し……の言葉を思い出し、忘れてるみたいだ、助かったと胸をなで下ろす。精一杯の人畜無害の顔で、じゃあ世話になります、と尻尾を振って唯人はシェリュバンに頭を下げた。
「そういうことなら、南行きの船で西ラバイアまで行ったほうがいいな。スリンチャ族の集落があるイリュ水源地まで、ミーアセン経由で戻るよりもそっちが楽だ。よし、決まりだ、いつ船が出るのか誰か聞いてこい」
 運よく、南航路の船は二日後に出るということなので、唯人は余裕を持ってミラの鷲獣に乗ってサイダナの様子を見に行くことができた。門をくぐるとすぐエツがやってきて案内してくれた養護施設は、子供の数が一気に増え、ミレル施設長は大変そうだったがその笑顔はなんだか随分と若返って見えた。建物は最初から余裕をもって造られているのと、エリテアからの援助の要請もあってやっていくには問題ないし、シェリュバンの知り合いであるラバイア人の豪商が下働きに若いのを雇おうと申し出てくれたので、子供らの将来の選択も増えた。
 シイは施設を護る役目がなくなったので、近いうちにキントに旅立つつもりだ、と唯人にとてもいい笑顔を見せてくれた。ついでにサイダナの特産品らしいあの大ウナギの干物のでかいのをくれると言われ、一応荷物になるからと断ったが、遠慮していると誤解されたのかひとまわり小さいのを押しつけられた。ぶよぶよした薄ピンク色のずっしりと重い塊はまだ生乾きで、しっかり乾くまでちゃんと包んでおかないとそこら中の砂猫が集まってくるらしい。
 エリテア本島に戻って、島を発つ前夜には陽皇帝直々のささやかな別れの宴席がもうけられ、(サレがいなかったのは本当に申し訳なかったが)誰もが充分食べ、飲んでぐっすり休んだ。やはり顔つきが近いと嗜好や民族性も揃うのか、群島連合国エリテア群島領という国の雰囲気や風習や食べ物がとてもよく身体に合った唯人としては、少々立ち去りがたい気分もあったのだが。翌朝、荷物を負ってシェリュバンらとともに南行きの船に乗り込むと、ついて来てくれたハルイ公主は互いの姿が分からなくなるまでずっと埠頭で見送ってくれた。
「この船で、西ラバイアまで何日ぐらいかかるのかな」
「ああ、ア―ジ諸島の島を四つほど経由して、ラバイアのサンガチュエギって港町まで五日ってとこだな。もうしばらくするとミナク島があった場所の近くを通るぞ、深さが分からないから、船がうっかり乗り上げないか船頭はひやひやしてるんだと。鮫も気が立ってて、シウド島の漁師はこっちには来ないようにしてるみたいだ」
 帆に風を一杯に受けて順調に進む船の上から見てみても、もうミナクという名の島があった痕跡は海のどこにも見つけられなかった。かなりの量の赤い廃材がシウド島に流れついたが、人の骸などは鮫が片付けてしまったのか地に埋まったか、ひとつも上がらなかったらしい。
 漁師の小舟が行き来しているシウド島の脇を抜け、エリテア群島領を抜けると次のア―ジ群島領までは、たまに現れるごく小さな無人島以外なにもない、一面の海景色の航海となった。
 この五日間で、唯人はラバイア語を日常会話くらいは覚えようとあえてユークレン語の話せない連中、キリシュ、イェン、サテクマルらと積極的に話してみる事にした。その努力の結果、サテクはシェリュバンの歳が二十八歳であることを教えてくれたので、唯人も自分の歳をカミングアウトしてセティヤを安堵させ、イェンは短気に見えて、意外にも丁寧に唯人に言葉とついでに賽の目のあやつり方を教えてくれた。(指が相当長くて、器用でないと無理なのが分かっただけだったが)ついでに、唯人がまだ一人者だと知ったキリシュがちょっかいをかけてくるだろうから気をつけろとも忠告してくれたが、セティヤはそれを年頃の相手に対する礼儀みたいなものだから気にするなと笑ってくれた。そのセティヤからは、主婦談義で何とか付き合っている相手もスリンチャ族の遠縁で、見合いで知り合った両性である事までは掘り下げてやった。
 唯人自身に嬉しい事としては、標が復活したのと泉精の卵が孵化したので流(ながれ)と名を付け契約してやった。ついでに、この機会に一旦持ち精霊獣を把握しておこうと、寄港して騒がしくなる前に船の倉庫に一人籠って腰布一枚の姿になり全身の精霊痕を数えてみる。まず左眼にミラ、右肩の前にスフィ、それを囲むようにバレットの1から7まで、ついでに赤い〝火種〟の印もちゃんとある。左下腹に鋭月、左肩に綱手、左中指の先にごく小さな蛍翅の印、標のが見当たらないのでミラに後ろを見てもらったら、右肩の後ろ、首よりにあるらしい、ここから出てきて頭に乗っかってくるようだ。
 最後に孵りたての流のを探したが、どこを見ても分からない。ミラが恥ずかしい位置を確認させろと迫ってきたのを断固拒否していると、笑いながら分かっていた顔で水気のある所なんじゃない?と教えてくれた。結果、この生まれたての精霊獣のおかげで唯人は喉が渇いたな、と思ったら口を開かずに水を飲めるという、便利というか変な特性を新たに身に付けた。精霊痕が舌の裏に付いているせいなのだが、うっかり漠然と水の事を考えたりしたら、口から水を吹きだすはめになる。閃輝精が火種として使えるので、後は電気が通ったら人が住めるな、と自嘲気味に呟いたら、欲しいの?逆にミラに聞き返された。
「おチビが持ってるクーロ・アッソは、アージ群島領のクルネカ島にいる雷獣だ。綱手に頼めば獲ってきてくれるよ」
 お安いご用、と言いたげにするりと伸びた綱手を慌てて引きとめる。
「頼むから勘弁してくれ、これ以上はもう絶対いらないから!」
「えー?だって、金果樹の杖持ってるんだよ?いろんな攻特性の霊獣連れてたほうが手数が増えていいじゃない。最低でも、後三体くらいは大物を持っておこうよ、いずれおチビに並び立てるくらいにさ」
「それは、今後のためのミラの都合?」
 ふふん、とミラは笑顔で返事をごまかした。
「あ、そうだ、今度はしっかり聞いておかないと。今僕に、ユーク・レシィとかその他諸々の、アーリットに情報が筒抜けるような何かって付けられてる?」
「いいや、何も」
「本当に?」
「うん、誓って」
 あっさり返され、ほっとしてみるものの疑心暗鬼が抑えられない。あまりにあっけなく帰ってしまったので、何らかの手段で監視されてる感が拭えないのだ。しつこく念を押していたら、うるさくなったのか大丈夫だよ、と鋭月やスフィも交えて確認してくれた。
「おチビが廃神殿以降君を見守ってたのは、正直心配だったからさ。どうしても危なければ、たとえ無理してでも助けに行かなきゃならない。幸い唯人はなんとか自分で色々切り抜けて、おチビが持ち直すまで待てたけどね。その時と違って今はいい杖も持ってるし、精霊獣の扱いにも慣れたみたいだから一人でも大丈夫だって認めてくれたんだろ」
 そうかな、とやっと安堵する相変わらずの素直な気性に心の中で感謝する。
 唯人は知らない、数百年の間、固く心を閉じて誰にも開かなかったアーリットが、どんな顔をしてサイダナの施設の長椅子で眠る彼を抱えていたのかを。ミナク島に向かう船の中、術式で眠らせた顔をずっと見つめていた誰にも見せたことのない眼差しを。
 あの子も、もう多分気付いてる。手の中の器にたっぷり入った甘い蜜を指でひと舐めしようとして、食べつくして無くなったときの辛さを思い投げ捨ててしまう臆病な心の子だ。これ以上深入りすることに怯えて距離を取ろうとしてるなら、気のすむまで我慢させてあげるから。いずれ我慢できなくなる、その瞬間まで……ね。

鏡の向こうと僕の日常 2

 はい、今回も最後まで読破してくださいました皆様方、ご苦労様でした。大丈夫でしたか?次回は、もう少し穏やかな内容ですのでどうかご安心を。銃に詳しい方、もしおられましたらどうか生温かい目でお許しください。著者にはうきぺであ以上の知識は……に、日本刀も。

鏡の向こうと僕の日常 2

2です、2というからには先に1があると思いなせい。申し訳ありませんが、2から読み始めても大丈夫、というわけにはゆきません。1を読み切った大物のあなた様へ、特盛りのおかわりをどうぞ。 初めての国を出て、唯人は世界へと踏み出してゆく。手を引いてくれたあの人を、自分が護る、その為に。 だって僕は、〝男〟なんだから。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-06-08

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 国境の町から砂漠で
  2. 群島国編