孤高の絆約 第一章 ファウナ

孤高の絆約 第一章 ファウナ

序 文

 我 世に宿生す種々生態の有様に覚醒して研鑚を重ぬること八十有余年 実践を以って成就せんと欲し 新暦四二五年水望ノ月に拠住を発ちて十有余年 漸く確信せし思想 大全と成し此処に世に問うもの也


 然るに未だ語るべきこと之有り


 即ち 此の大全 我一人に成したるに非ず 幾多の霧散せし儚き命 流るる歳月に埋れ 砂塵と成りて忘却されし煌く尊き命の数々を以って成就すと知るべし


 余命いくばくか我知らざると雖も 愛弟子累々として之を語り継ぐべし


 ゆめゆめ忘るること勿れ 儚くも尊く眩き命に支えられし事を
 語り継ぐべし その懸命なる命の美しさを


   新暦四四一年光望ノ月  
     弓張月煌々と照らす書斎にて セネル・グローデン

追 記

 我 恩師の命に依りて その想い粛々と抒情して 此処に語り継ぐ者なり


 我欲に執着せし殺伐たる世にあっても尚 
 幾筋の涙を耐え 他の為に犠牲と成りし幾万の想い 幾重の喜哀の在るを忘るるべからず


 故に 我等が思想の一派 末代まで累々と語り継ぐべし


 この尊き命の瞬きを
 この尊き命の輝きを


   新暦四八四年火朔ノ月
     望月懐かしき書斎にて ジェノ・ファンガーソン

第一話 紫烟る過去への誘い

第一話 紫烟る過去への誘い

 弓張月に照らされる小さな森の小道
 その先にある小さな森の小屋
 生き抜く為には、其処を目指さなければならない……
 その一念で道を急ぐ三人の耳に、地面を嘗める様な重低音が少しずつ近づいて来る。夜半の不審なその音に耳を欹てながらも、余りの訝しさから三人はただ其処に立ち止まっている。而して彼等一行の眼前に現れた異形の者は、五体の獣人。
“何という事じゃ! ここまで来れたものを。大体、何故こんな処に獣人がおるんじゃ! 群狼や蜥蜴の類とは格が違い過ぎる。
この()やジェノだけでも逃がす手立てはないものか。死なせるわけにはいかぬ! 死なせるわけにはいかぬ! 
くぅ、なんとかせねば……何か良い手立てはないかのぉ”



 セネルは全身に汗を浴びてカッと眼を見開き飛び起きた。目覚めればファウナの宿屋の大時計が静かに時を打っている。徐に寝床を起って一人部屋の窓を開ければ、清々しい朝の空気が部屋一杯に満ちて来る。まだ陽は昇っていない様だ。その窓から身を乗り出して深呼吸しながら景色を覘けば、ファウナの街が薄く紫色の朝靄に包まれて静寂の内に佇んでいる。
 この街は、恵まれた鉱山に囲まれ嘗ての火山活動の恩恵から良質の温泉が絶えることなく流々と湧き出し、共和国首都アルティスとそれに属する都市国家ハルモニアを繋ぐ交易の要所に位置する所為か、商人や旅人が絶えず往来を賑わせている。西南と南東には過去の度重なる紛争からファウナを守り通した大望楼を構え、政治・宗教・経済-如何なる思惑にも組さないが故に一種独特の文化を育み様々な希望が交錯する街でもある。
 セネル達がここファウナの街を訪れたのは一年以上も前だろうか、東に横たわる太古の森林を抜け、ファウナ精鋭軍に護衛されながら街道筋を渡って漸く南東の望楼を観た時の湧き上がるような安堵感を今尚しっかりと身体が覚えている。今ではすっかり馴染になった旅館の女主人に濃い珈琲を頼むと、セネルは一人、窓から広がる清々しいこの街の様子を満足気に眺めていた。“この街はこれからいつもの様に活発に動き始める。そのための生気を一晩の内にゆっくり貯め込んでいる” 彼はそんな学者らしからぬ詩的な感情に包まれていた。“それにしても、何故あの様な夢を見たのかのぉ” ふと部屋を見渡せば、一緒に旅を続けているジェノが若者の特権で深く眠ったままでいる。
「おぉい、起きて見んか」
 この街の一番素晴らしいこの時を共に感じようとそう声を掛けてみたものの、遠くハベストから文句一つ言わず付き添って来た若者を無下に起こすのも忍びなく、一人改めてファウナ南西に広々と繋がる大地を眺め直せば、深い漆黒の山々が白み始めて豊かな緑に変貌し始めている。



「おじいちゃん、おはよう!」
 不意に澄んだ声で呼び掛けられ慌てて我に返ると、窓の下には彼女がいた。
「何か見えるの?良く眠れた?」
 矢継ぎ早に屈託なく彼女は笑みを携えて尋ねてくる。だがその瞳は深い悲しみを帯びて、これを背負い続ける覚悟を湛えている。
「おぉ、おはようさん。お前さんも年寄りじゃあるまいし随分早いのぉ」
 笑いながらセネルは、彼女を二階の自分の部屋に手招きした。その彼女とは、太古の森林を抜けエリュマントス山脈を越えんとする山道で出会った。危険極まりないそんな場所にたった一人で、山道の脇に座り込んで(ほしい)を頬張っていた。
「こんにちは!」
 山道で元気良く声掛けられ、そこに人がいる事に気付いていなかったセネル達は腰を抜かしそうになった……そんな事が懐かしく思い出される。
 当時の傭兵は、目的地までの資金調達の手段として商人や旅人の護衛をしながら旅を続けており、その中には道中の危険を煽って法外な金銭を要求する輩も多い。それが故に道中の傭兵は、ややもすると山賊同様に見られるのも事実であった。セネル達も、彼女の姿形から傭兵と判断すると胡散臭さを感じて、護衛など要るものかという頑なな姿勢を崩さず彼女を警戒していた。だがその彼女は、挨拶する以外には特にセネル達には興味がないらしく、ただ糒を口一杯に頬張るばかりであった。金なんぞ払いたくないもののこの山道の危険性は十二分に理解している彼等は、ただ通り過ぎればいいものを暫くそこに立ち止まって彼女を見ていたものだから、逆に彼女の方が訝しがって、“あっ! 糒食べますか?” と声を掛け直した程であった。セネル達にとっては腹が減っている訳でなし、疑っていただけに如何にも跋が悪く、“あぁ、いやいや……” と言葉を濁すのが精一杯だった事を、今も鮮明に覚えている。



 暫くして、部屋をノックする音と一緒に彼女は入ってきた。入って来るなり、セネルが一人独占してこの街の素晴らしさを楽しんでいた窓まで駆け寄ってきて、外の様子を興味深く眺めはじめた。“綺麗ね” 彼女は独り言の様に呟くと、頬杖を付いたままでいる。一方のセネルは、静かに椅子に腰かけ煙草の煙を深く燻らせながら、ここまでの旅を走馬灯の様に思い起こしていた。“思えばあの山道で、この()に声を掛けて貰わなんだら……果たして、今頃どうしておったかのぉ。ふぉふぉふぉ、この娘にはワシ等が腹でも空かしている様に見えたのかのぉ。何とも跋の悪い話しじゃわい”

 そもそもセネルは、気難しい学者堅気の融通の利かない性格で、余り人付き合いは上手くないが、跋の悪さも手伝って、山道ではそのセネルから彼女に話し掛けていた。
「娘さん、これからどこへ行くんだね?」
「特に決めてないけど、ここを下りたらパラスかなぁ」
 が、見ず知らずの者にどうして行く先を尋ねたのか、今思い起せばこれも縁であったのかも知れない。
 年間を通して降雨も少ないエリュマントス山地にあっても、美しく芳しい花を咲かせる金木犀が茶褐色の大地を覆う様に群集している。剥き出しの岩石の間からは竜の髭が緑の絨毯となって、無機質なこの地に生命の息吹を醸し出している。一方で、この地には神獣と呼ばれる生物も多く存在している。即ち、この地は植物の優しさと獣の危険が同居する場であり、故に、ここを訪れる旅人は山中までの護衛や身の安全のため傭兵を雇うのが通例である。彼女もまた、傭兵の一人であったのだろうか。もしそうなら、護衛すべき者達がいない状況を確かめずにはいられないのは、セネルの学者気質からだろう。いや、寧ろこの学者堅気が彼女との縁を繋いだのだろう。
 当時、事情を詮索しないのが旅人の慣例であったから、セネルは言葉を選びながらも彼女に尋ねてみた。
「誰かの護衛に向かうのかね?」
「ううん、最初はそうだったけど……結局は食べ物やら何やらの補給のお仕事だけしてきたの」
「一人でかね?」
「ううん、十人で向かって、他の人達は守りの交代で残ってるわ」
 要するに、誰かの護衛をすべく目的地に向かったものの、役不足と判断されて追い返されたのであろう。それにしても一人だけ返すなんて非常識な人間もいたものだとセネルは一人憤慨したものの、確かに彼女の雰囲気は傭兵というより“お嬢さん”という方が正しくも思えた。
「つまりあれだね! 君は、傭兵として力不足という事で追い返されわけだね。それで、僕たちの用心棒でもしようと思ったのかなぁ? こう言っちゃ申し訳ないけど、僕の方が少しは強いんじゃないのかな」
 ジェノは、未だ傭兵など要るものかという姿勢を皆目崩していない様子で、得意満面に捲し立てていた。が、一方のセネルの方は彼女が不憫に思えて彼女に対する訝しさは薄れ、寧ろ年下と思われる女の子に強がってみせるジェノに腹が立ってきた。
「こら! よさんか! 失礼じゃろう!」
 てっきり自分と同じ考えと思い込んでいたジェノは、セネルの反応に随分狼狽しながらも更に食い下がっている。
「でも先生! 太古の森林でも前評判ほどの事はなかったじゃないですか! 我々二人で、何とかやり過ごせたじゃないですか! 傭兵共ときたら徒に不安を煽って、法外なお金を要求するばかりじゃないですか! こいつだって……」
 そこまで言ってジェノも流石に気まずく思ったのか、腑に落ちぬ様子で言葉を選びながら話を繋いだ。
「いずれにせよ、この山だって我々二人だけでも下山できますよ。五日後頃には、きっとパラスまで行けるんじゃないですかねぇ。そう思われませんか、先生!」
 ただ、彼女の方はというと、二人のやり取りを一向に気に留める様子もなく、ましてジェノの無礼を咎める積りもない様子で、相変わらず糒を頬張っているだけで、全く会話に絡んで来なかった所為もあり、セネルとジェノの会話は学者らしからぬ中途半端な議論で終わってしまった。その間の悪い会話を打ち消す様に、セネルが言葉を繋いでいる。
「まぁ、それはそれとして、パラスまで一緒に行くかね? 護衛代は奮発できんのじゃが」
「あら、さっきの運搬で報酬は十分頂けたし……あっ! でもこれから下山するのは危険だわ、もうすぐ雨が降るだろうし、陽が暮れたら狼達の格好の獲物になるわ」
 セネル達の本心は、実のところ獣達の襲撃が不安でならなかった。加えて長旅で懐具合も寂しくなりつつあり、学者には不相応な金銭の心配ばかりをしていた事に恥じ入るばかりであった。一方でジェノはまだ負けずに虚勢を張って頑張っている。
「まっ、君でも居ないよりは少しは役に立つかもな」
 そんなジェノの若気に呆れながらも、セネルは空を眺めていた。
「雨が降るかの?」
「北東から風が流れているでしょう? 森で水を含んだ雲が、パラスの方に流れて行くとね、決って雨が降るのよ。その雨がナイアード湖に水を湛えてるのね」
 確かに太古の森林は多湿帯で、これに続くエリュマントス山脈は気温が高い。その割にナイアード湖からパラスに至ると急に肌寒く感じる……彼女の経験則がどこまで学術的かは分からないが一聴の価値はあった。
「ふぅむ、なるほどのぉ。では、娘さんどうするね?」
「今日はね、わたしここで雨をやり過ごす積りなの。おじいちゃん達もそうした方がいいよ」
「おじぃ……って君、こちらはセネル先生だぞ! 君はセネル先生を知らないのか! それでも傭兵の積りかい?」
 ジェノは、再びここぞとばかり頑張ってきた。どう見ても彼女の方が冷静で的を得ているだけに、年長の彼としては頑張り処がここしかなかったのも事実である。セネルはと言うと、ジェノのことは構わずに質問を続けている。
「雨が降って、狼達に囲まれたらどうなると思うね?」
「足場が悪い上に、狼が近づく音が聞こえにくいから……終わりかもね」
 再びジェノが頑張りを見せた。
「そのために君が居るんじゃないのかぁ! しっかりしてくれよ!用心棒さん!」
 とそこまで言って、ジェノは自己矛盾に気がつき赤面した。傭兵は要らぬお金も出さぬと言った手前、しっかりするのは寧ろジェノの方だった。セネルはすっかり呆れながらも、彼女に改めて質問を続けた。
「でものぉ、この地には神獣がおるな。こ奴等が夜中に襲ってきたらどうするかの?」
「大丈夫と思うわ。神獣は、縄張りに入らない限り何もしてこないから。それに、ここは狼と神獣の縄張りの境目だから、どっちも来ないわ」
 セネル達は言葉を失った。セネルがこの道を選んだのも、実は彼女が語った理由からだった。彼女は知らなかったが、セネルは生態に係る研究では世界的な権威であり、獣の行動を理解した上で身の安全を図りながら旅を続けてきたのである。長い研究の末にセネルが身に付けたその知見を、彼女は自らの経験則で悟っていたのである。
 セネルは思った。“なるほどのぉ。いやはや、この()は見た目と違って随分面白いわい。この娘さんには、パラスまでご一緒願おうかのぉ。それにしてもジェノはどうしてこうあるかのぉ” もはや、ジェノが頑張る見せ場もなくなっていた。
「娘さんの言う通りじゃなぁ。ワシ等もここで野営させて貰おうかのぉ」
 ちらりとジェノを見ながらセネルが答えた。彼女は既に食事を終えて微笑み返すと、特段勝ち誇った様子もなく粛々と三人の野営を準備している。流石に極まりが悪いのか、ジェノがモタモタと手伝い始めている。セネルは煙草を燻らせながら、若い二人を眩しく見ているだけであった。その彼女の段取りには無駄が無く、雨に備えての脇溝つくりから万一に備えてのテント周りの罠の配置まで的確に動き回って、しかもその間にセネルとジェノの食事の用意も仕舞えている。
「あっ、ありがとう」
 ジェノはもう、すっかり普段の温厚な青年に戻っている。
 セネル達が食事をとっている間も、彼女は夜間に暖を取るための薪集めから、テントから少し離れた所にもマキビシを張って不意打ちを防御している。セネルが食事を終えた頃にはすっかり陽も傾き、ポツポツと雨が降り始めていた。少し窪んだ岩肌に沿って組み立てられたテントは雨除けには申し分なく、薪の暖か味を蓄えながらも、煙を上手に外に逃がしている。セネル達がこれまで雇った傭兵達と比べても、特段優れているとまでは云わぬが、決して劣らぬ手際であった。

 山中の雨は、霧の様に舞いながら静かに降り続いている。

 彼女は、設営の時も食事の時ですら、自分自身をこれまで守ってきたであろう武器を左手に携えたままでいた。武具の種類には疎いセネルであったが、彼女の武器が身丈には些か不釣り合いな程に大きな槍である事と、それでいて彼女の身体の一部ででもあるかの如くシックリと馴染んでいる事はすぐに理解できた。そしてその槍が、この地の危険性を無言の内に語り掛けている様に感じていた。
「雨が上がったら山を降りられるかのぉ? いつが良かろうか? パラスまではどの位で着けるかのぉ?」
 セネルはこれからの行程を気にしながらも、彼女の返答を楽しんでいた。そんなセネルの思惑を知る事もなく、彼女は自然に応えている。
“雨が上がったら山道に沿って下山を始めて、川を……普段は浅瀬だから歩いて渡れるけれど、雨上がりだから無理をしないで、遠回りでも川沿いに歩いて、小さな森を、途中が獣道だけど、ここを抜けてパラスに行くのがいいと思うわ”
 だが、セネルはこの行程を既に想定していた。彼も旅の経験は豊富で、加えてこの地には幾度となく足を運んでおり、複数の獣道ですら熟知している程であった。彼女のこの行程であれば、危険な個所はかなり限定される。無理に川を渡ると、その先は道があるものの全域が狼達の縄張りで、ここをたった一人の護衛だけで突き進むのは愚行である。土台この地で安全なところはない以上、危険に遭遇する可能性は少ない方が望ましい。如何にこれを察知しながら避けて通るかは旅人にとって重要な判断で、特に少人数での旅であれば尚更である。彼女が “できる傭兵” を装っても、経験豊富なセネルには容易に看過できたのである。が、彼女の返事は尽く的を得ていた。全く無理も虚勢もない返答であった。この時、セネルは彼女と居ることで随分と安堵感を覚える事ができていた。
「ただね……」
 彼女が不安感を隠すこともなく話を続けた。
「川沿いに行くと蜥蜴が居るわ。川端の藪や茂み、それに川の中から取り囲むように付いてくると思うの。
川沿いに下って小さな森を抜けてパラスに行くのに夜間強行しても二日半……安全を観ながら陣取りして行けば、丸五日は掛かるかも」
 セネルはすっかり嬉しくなった。斯くも自分が想定した答えに真っ直ぐに返答してきたことが嬉しかったのである。少なからず自分自身が認めた人物が実はそれ程でもなかった……そんな経験を重ねてきたセネルには、自身の眼力を確かめずにはいられず、敢えて言わずもがなの問い掛けをしたに過ぎない。
 そして、彼女は見事にセネルの眼鏡に適ったのである。



 そのセネルは、ハベストの出身である。
 セネルがハベストに居た時分には、多くの研究者や富裕者、政治家など例をあげれば限がない程多くの人間達が、自己の研究の素晴らしさ、類稀なる商才、自身の権威、要するに自分の存在を認めて貰おうと饒舌に誇らし気にセネルのもとに集って来た。名声ある研究者に認めて貰う、そうする事で自分に箔を付けようとする……そんな見え透いた魂胆が如何にも狡猾な発想が、セネルにとっては不愉快で遥々訪ねてきた来客を内心気の毒に思いながらも徹底的に論破しては追い返していた。
 その結果としてセネルの風評は頗る悪い。
 頑固者・偏屈者・世捨人……研究の名声とは裏腹に、セネル自身は孤独であった。セネルの名声を利用しようとして失敗した人々は、寧ろ彼を貶めて自己防衛を図ったのだろう。そんな欺瞞がセネルにとっては悲しく虚しく、故に自然と人を遠ざけてきたのである。生来、人付き合いが苦手であった事も災いして、正に類なき偏屈爺の存在感を世界中に広めてしまっていた。ただ、セネルは真っ直ぐな人であった。そして、その真っ直ぐなセネルよりも、彼女は更に真っ直ぐだった。何一つ駆け引きも損得もない、その素直さがセネルには嬉しかった。
 セネルは独身で子供も居ない。ジェノだけが居た。
 そのジェノは、不甲斐無いうえに一所懸命さが逆に不憫で、そんな性格が幸いして随分と前からセネルの助手として、いつもセネルの傍らにいる若者である。研究の助手は言うまでもなく、普段の生活に至るまでセネルの世話をする若者である。

 嘗てのジェノは、過去の戦争で肉親を失い、ひとり様々な労働をしながら精一杯生きていた。
 ある日、この世の者とも思えない獣の死骸がハベスト近郊で発見され、その正体を突き止めるべくセネルに調査依頼が舞い込んだことがあった。この死骸を運ぶ労働を請け負っていたのが、未だ十歳にも満たぬジェノであった。ハベストは暑い。加えて死骸が発見された地域は砂漠である。異臭も酷い。誰もそんな仕事を請け負わず唯一ジェノだけが、いや誰も請け負わないからジェノに白羽の矢が当ったに過ぎなかった。
 それでもジェノは懸命に仕事をした。
 これ以上に腐食しないよう、異形の躯に幾度となく防腐剤を振りかけた。砂漠の暑さに耐え懸命に仕事をこなした。ハベストまでの幾夜を異形の躯と共に孤独に過ごした。普通の境遇なら両親の愛情に包まれて眠りに就く頃、躯を傍らにおいて、星降る夜をぼんやりと眺めながら、幾筋の涙を堪えて懸命に仕事をこなした。幼い頃から耳に残っている鼻歌を歌いながら、必死に寂しさを耐えていた。
 そして砂漠の中をたった一人 荷台を引っ張って遂にセネルの元まで届けたのである。まさに、生きるのが精一杯の無学な少年であった。しかし、仕事を仕舞えたジェノの笑顔は、素直で透き通っていた。本来なら両親から与えられる安心感・満足感・自信……そんな大切な感情を過去の戦争で無下に剥奪されて以来、ジェノが人としてその存在を認めて貰えるのは、まさに仕事を仕舞えた時だけであった。
 仕事は、生活の糧を得る為だけではない。
“ありがとう” “お疲れさま” そんな社交辞令ですら、ジェノが人として人と接触できる唯一の瞬間であったのだ。
 セネルは、躯の状態を確認して、直ぐにジェノの苦労を理解した。
「大変じゃったのぉ……」
 決して社交辞令ではなかった。セネル自身も幾度となく依頼を受けて、正体不明な異形の躯を運んでは、その研究に没頭した。いや研究できるからこそ、その苦労に耐えられた。ジェノはひとりの人として認められる喜びのために、たぶん母親から抱きしめられて褒められる様な喜びのために、苦労に耐えた。
 セネルの労いが、普段のそれと異なる事を感性で捉えたジェノは、“大変じゃったのぉ……” そのセネルの言葉が終らぬ内に泣きじゃくった。止めど無く涙が溢れてきた。肉親の温もりを覚えていないジェノには、セネルの正直な心の籠った言葉が嬉しくて只々泣き続けた。セネルもそれを止めなかった。
“随分苦労を重ねてきたのじゃろう……不憫な” 何の駆け引きもない何一つ裏腹な思惑もない、そんな真っ正直なセネルの感情に触れ、ジェノは一人の人間として、初めて世の中に立ったのである。
 セネルは、帰る家のないジェノをそのまま自分の家に置いて、あれこれと手伝いを頼んだ。以来、ジェノはセネルと共に居る。
 助手が欲しかった訳ではないが、いつのまにか共に居た。類なき偏屈爺にも漸く仲間ができたのである。以来、セネルにはジェノしかいなかった。
 そして、今彼女がそこに加わった。彼女がそこに居るのは単に行き先が同じだけに過ぎないし、パラスから先は分かれて恐らく生涯出会うこともないかも知れぬ。それでもセネルには嬉しかった。その一生の終幕が近づいているセネルにとって、その大半を孤独に過ごしてきた彼にとって、駆け引きのない関係は眩しく楽しい存在であった。



「蜥蜴ねぇ……あれは性質的に粘着質なうえに、結構凶暴なんだよね。多分ねぇ、ジワジワと包囲しながら、僕らが疲れてきた頃を見計らって、一斉に襲い掛かって来るねぇ」
 ジェノがいきなり話しに割り込んできた。長年の助手生活から彼自身も一端の研究者となっていた。
「でもねぇ、蜥蜴は視力が弱いんだよ。特に夜は何も見えていないな。その分、嗅覚が鋭いね。逆にね、そこを利用するのさ。
ほら、ここら辺に自生する竜の髭ね、これを磨り潰して袋に詰めてね、昼間は持ち歩くんだよ。それで夜はね、そうだなぁ……どっか適当な高さの木に吊るして、それでも僕等はずんずん先に進むわけね。
要するにだね、連中は僕等を付けて来る間に嗅いだ竜の髭の臭いをね、僕等の臭いって具合に誤認するわけだね。それで夜中に木に吊るした竜の髭の臭いが一所から嗅ぐって来るとね、連中は僕等がそこで眠っていると勘違いするわけだね。夜目の利く獣ならこんな子供騙しは通用しないけどね、蜥蜴は臭いの嗅ぐって来る処を懸命に探すだろうね。その間に僕等はずんずんと先に進むのさ!
わかる?
まぁ蜥蜴は凶暴とはいえ強くはないね。でも、群れてくるからねぇ……面倒だよ、いくら君だってさぁ。
旅をする時はね、どうやったら危険を回避できるか! これをね“危険回避行動”って言うんだけど、この行動が大切なんだね。幾ら強くたって、それだけじゃ駄目なんだね」
 最初の頃と打って変わって至って普段のジェノである。彼が語る内容は、散漫ではあったが意味は通じるし決して間違ってはいない。
「川沿いを抜ける時は一晩中、歩き通して行くことになるなぁ。よし! 今日は早めに就寝しよう! 明日は朝早くから植物採取だね。昼には出発できるかなぁ。明日は夜通し歩き放しだから、君も早く寝た方がいいよ。うん、問題はその先の小さな森の抜け方だねぇ。一晩中歩き続けるから、森に入ったら休まないといけないかなぁ。あの辺りにいい具合の処があるといいんだけどねぇ……」
 確かに、次の要所は小さな森での休憩場所であった。
 その小さな森の中央には、都市国家ディアーナの経済基盤をなす森林資源を調達するための小屋がある。小屋と言ってもかなり強固な造りで、ちょっとした城構えである。この時分であれば、材木伐採のための職人、それを護衛する傭兵集団が居るだろう。一先ずはそこに辿り着く事が肝要である。
 その小さな森は、太古の森林と比べれば小規模であるが、毒性の強い蜘蛛や蜂や蛇等が多く生息していて、これを狙う小型の熊や野犬も多い。丁度、小屋で材木職人護衛の集団が物資補給でパラスや近隣都市まで行くところであれば幸いだが、そうでなければ自力でその森を進まなければならないだろう。彼女の傭兵としての能力は正直未知数で、野営の手筈を見る限り素人ではないにせよ、やはり “お嬢さん” の印象は中々払拭できない。すると、偏屈爺と若者の学者でも戦う局面を想定しなければならない。
“ふむ、仕方がないのぉ”  とセネルが一人合点している時だった。
「エリマントスを抜ければ、材木の小屋があるから……」 と彼女が話し掛けた。
“エリマントス?” セネル達は聞き慣れない訛りに躊躇しながらも、それぞれの身上には互いに触れないのが慣習でもあったから、そのまま彼女の話に聞き入った。
「もしかしてパラスに行く旅団がいるかもですよ。上手くいけばですけどね」
「へぇ、あんな処でも休める所があるんだね。いやはや助かった」
 このジェノの感想とは裏腹に、セネルは感じ入っていた。“中々どうじゃ、この()はしっかりしておるのぉ”
「もしかしたら、デアーナの材木小屋には、アルテスに向かう旅団もいるかもですよ」
“デアーナ? アルテス?” セネルの関心は専ら彼女の訛りであったが、彼女の方は一向に自分の訛りを気にする様子はない。ただ、旅団がいるからと言ったきりその後に特段の言葉を繋ぐ事を止めてしまっていた。セネルは、その後の言葉を敢えて口に出したくない彼女の様子を感じ取った。旅団にセネル達が付いて行けば、恐らくは彼女と別れて今後出会うことは相当な偶然が重ならない限りあり得ない話である。
 或いは彼女は……“旅団が居れば、そこでお別れですね” と言おうとしたのか、今となっては推し量り様もない。
「虫やら熊やらが嫌ねぇ」
 彼女は小さな森を抜ける際の危険を指摘したに過ぎないのか、その地を一人で渡ることを想定しているのか、独り言の様に呟いた。セネルも、“そうじゃのぉ” と相槌を打っただけであった。互いに分かれを言葉に表したくない気持ちをジェノは悟った。ジェノ自身もその境遇から心の襞には敏感である。
「まぁ、兎に角、休みましょう!」
 ジェノにしては気の利いた言葉であった。何となく寂しい感傷に浸りながらも、二人は緊張が和らいだのか、やがてゆっくりと眠りに就いた。眠りの誘いの中でセネルが見た薪の明りがぼんやりと彼女を照らしているが、その横顔からは彼女の心を探る事は出来ない。



 外は霧雨が止め処なくサラサラと降り続いている。エリュマントスの静かな夜には雨音以外何も聞こえない。時折、焚火のパチパチと跳ねる音が侘しさを募らせるばかりであった。



 エリュマントスの山道に朝日が眩しく差し込んでいる。
 その眩さにセネル達が起こされた頃には既に彼女はテント以外の野営を解いて、更に朝の食事の用意まで整っていた。食事と言っても(ほしい)を粥状にした粗末な主食と干肉一欠けらの非常食である。彼女は、セネル達の目覚めを待ってテントを片付け始め、器用に布や支柱を纏めると山道の隠し場所に仕舞い込んでいる。ここエリュマントスに限らずこの様な隠し場所は、岩の窪みや大木の隙間等々を利用した形状の物や石組みして造作された物など巧みに外観を装って道々の至る処に隠されている。これ等の場所は旅人共有の物で、最後に道具を使用した者が古くなった備品があれば所持品と代替して互いに旅の扶助をしているのである。
 丁度、彼女が非常食の一部を補填している時、非常食袋の中に手紙を見つけた。一瞬の喜びが彼女の顔を満たした。
 その時々の想いや出来事、更には貴重な情報を一葉の手紙に残す者は多い。通常、古い手紙は薪の呼火として転用されるほか様々な言語で記述される事もあり、教養的に決して高くはない旅人の中には重要な示唆と気付かず燃やしてしまう時もある。それが故に命を落とした者もいるだろう。ただ彼女がこの時見つけたのは、緊迫する類の物ではない事が彼女の様子から窺えた。彼女は野営の片付けをしながらもどこか楽し気で、それを仕舞えると直ぐに紙切れに何かを書き始めた。小さくなった鉛筆で小さな文字で一心に何かを書き込んでいた。やがて書き終えたのか、鳩笛をそそくさと取り出して吹き始めた。
 鳩はこの世界の方々を巡回している。世界に散らばる伝書屋が育てた鳩である。鳩は必ず一定の処を巡回している。人々は鳩笛を吹いてその気持ちを鳩に託す。伝書屋は宛先を見極めてその方角を飛ぶ鳩に伝聞を繋ぐ。こうして鳩が人々の想いを世界中に繋げている。故に人々は皆、鳩笛を持っている。
 彼女は不安そうに空を見渡しながら、幾度となく鳩笛を吹いた。都市であれば苦労はないが、この様な険しい地での伝達は嬉しさと不安と複雑な気持ちで鳩を待つばかりである。セネルは自身のリュックから鉛筆を取り出して彼女に差し出した。“ほれっ”とばかりに何度が鉛筆を差し出すと、彼女は嬉しそうにこれを受け取りながら小さくなった鉛筆と新品のそれとを大切に仕舞い再び空を仰いだ。



 晴天の空は、昨日夕刻の雨を忘れさせる程に何処まで碧く続いている。



“あっ、来たわ!” 彼女の喜びが更に強く鳩を呼び寄せている。やがて二羽の鳩が近くの岩に警戒しながら留ると、彼女は直ぐに鳩の足に縊られている伝書筒それぞれに手紙と銅貨一枚を差し入れた。おそらく古い手紙に書き足す際に炭紙を敷いて写しを取っていたのであろう。須らく無駄のない動きを見る限り、幾度となくこういう経験を繰り返してきたのかも知れない。
 彼女は一羽ずつ鳩を抱きかかえては空に放った。二羽の鳩は一団となって高く高く空に昇っている。セネル達は空に旅立つ二羽の鳩を見送りながら、今こうして生きている事の喜びを感じぜずにはいられなかった。伝書鳩が便りを伝える頃には、既に三人の命は尽きているかも知れぬ。いや、伝書を残した人物が今も生きているかどうかも分からぬ。それでもその時そこで生きていた証が、二羽の鳩に託され飛び立っていった。
 無邪気に鳩を見送る彼女にセネルが声を掛けた。
「何と書いてあったね?」
「家族が増えたみたい」
「家族……とな?」
「ええ、お子さんが生まれたみたい。たぶん日付からして山腹にいた旅団の方ね。ここで野営して現地に向かう前に必ず生きて帰る事を誰かに伝えたかったって」
「ほぉ」
「山腹の皆さんお元気だと聞いてたから、その事だけでも伝えたくって。あはっ、余計なお世話かもね」
「いやぁ、待ち侘びる者には朗報じゃて。届くと良いのぉ」
「うん、届くよきっと! うん、必ずね!」
 話に割り込んできたジェノが、力説して彼女に語り掛けている。その語りは単に感傷的な励ましに過ぎないが、ジェノの境遇を知るだけにセネルには胸が痛かった。
“こやつの人生は果たしてこれで良かったのかのぉ。もし他の誰かと共に歩んでおれば、今頃は平凡でも幸せな家族がおったやも知れぬ。ワシは一体こやつの為に何がしてやれてきたのか……” セネルは逡巡せざるを得なかった。ジェノの生き生きとした横顔が返ってセネルには辛かった。鳩に想いを伝えた彼女の喜びが瞬間の命の煌きを放つほどに、セネルは誰一人として失いたくない感情を高ぶらせていった。

 セネルの生への強い意識を知る由もない若い二人は、至って暢気に空を仰いでいる。

第二話 小さな森の始まり

第二話 小さな森の始まり

 やがて竜の髭が十二分に採取される程に、三人三様に緊張感が募ってきた。その磨り潰された竜の髭は、一面に強烈な香りを放ち三人を加護している。
「行きましょうか」
 そう言って彼女は、山腹に潜む神獣と岩肌に隠れる群狼を緑に澄んだ瞳で確認しながら、一歩を踏み出した。



 一行が山道を下るにつれ、群狼が少しずつ間合いを詰めながら体制を整えている。ある時は荒く喉を鳴らす音が聞こえる程に近寄って来るかと思うと、またある時はセネル達の前方遠くに陣取って威嚇している。時には一斉に一定方向に走り出して、様々な動きで一行の体制を確認しながら三人に不安感と恐怖心と植え付けようとしている。
 同時に一行の力量を計っているのだろう。
 爺と女と若者の何れに狙いを定めているのか、最も無駄がない狩りを想定しながら秩序を保って三人を囲んでいる。油断すれば狩る側から狩られる側に落ちてしまう事を、群狼は本能と経験から学んでいる。そして人間の精神力が長続きしない事も知っている。故に慌てず騒がずジワジワと攻めて、やがて集団が自ら崩壊していくのを待つ。而して三人は群狼の動きに狼狽せず粛々と山道を下っている所為か、群狼にやや焦りの色が窺える。
 三人が野営を張っていた時には山腹からこちらを窺っていた神獣は、やはりこちらを見据えたまま同じ場所にじっと踏ん張って、人間と群狼の両者に無言の威圧を与えている。既に群狼の縄張りに侵入している三人には引き返すべき道はなく、前へ前へと進むより他に選択肢はない。彼女の緑の瞳は、群狼の様子を細かに観察し、群れの中の(おさ)を常に捉えている。敏捷なもの遅いもの、屈強なもの恐れているもの、長の意向を受けて小集団を差配しているもの単に従っているもの、それぞれを具に捉えながら群狼の揺さ振りにも動じる事も軽んじる事もなく、目配せ怠りなく真っ直ぐに歩んでいる。
 暫らくして山腹の神獣が地響きのような雄叫びを上げ、彼等の居場所にゆっくりとその巨体を揺す振りながら引き揚げ始めた。その様子を捉えた群狼の動きが、一層活発になっている。厄介な神獣の睨みもなく、眼前の人間共に心置きなく対峙できる。勝ちに焦る若い狼が遠吠え、空かせた腹を一杯にする楽しみに陣を乱し始めると、諫める様に屈強な狼が近寄って力で捩じ伏せているのが見える。群狼も必死に生きている。生きる為に群れの規律を懸命に守っているのだろう。若い狼はやがて静かに規律に従い、多くの狼がその一部始終を見届けた。彼女の身の丈程の大きな槍が、ただ静かにその時を待っているかの如く、凛として刃を空に向けている。セネル達とて幾多の危機を乗り越えてきた(つわもの)である。何をか畏れんや。



 群狼との闘いは、静寂の内に長く続いた。数に任せて一斉に襲い掛かれば群狼にこそ勝機があるが、容易に崩れぬ三人の気迫が強い盾となって群狼達を足枷ているのか、ただ来るべき時をじっと待っている様子だ。それでも確実に、闘いの時は近づきつつある。 しかし、群狼の長は一所を睨んだまま頑として動かない。群狼は互いに目配りしながら動き回るのを止め、闘いのその時に備えてじっとしている。
 彼女は油断なく構えながらも、その澄んだ緑の瞳を空に向けて、しっかりとした口調でセネルにこう呟いた。
「もうすぐ陽が高くなるわ」
「ふむ」
「きっと、陽が味方してくれる」
「うむ」
 力で押し通し蛮勇を競った愚か者が、この山腹の方々に眠っている。生来、夜行性の狼にとって、まして昨夜は一晩中この三人の気配を遠巻きに警戒していた狼にとって、高く昇る太陽は眼前の三人よりも警戒すべき敵となる。崩れない人間と大自然に対峙して、群れの長に決断の時が迫っている。
「お前さん、面白いのぉ」
「えっ、わたし?」
「うむ」
 時折交される少ない会話で、それぞれが互いの存在を強く認め合っていた。その一瞬、群狼の動きに変化があった。
「来るかの?」
「いえ、長が一所から動かない。縄張りを外れたら、もう追わない積りだわ」
 彼女の言葉を受けてジェノが不安気に口を開いた。
「一安心なのかなぁ?」
「ううん、まだ。もうすぐすると川が見えてくるわ。ほら、あそこに見える大きな岩を越えた辺り。あそこに辿り着くまでは……でも急いでは駄目。あそこを過ぎた辺りで、沢山襲われてる。川まではまだ狼達の縄張りだから。
慌てては駄目、急いでは駄目」
「ふむ、狼とて生きる為に必死に機会を窺っておるのじゃろうのぉ」
 必死なのは三人も同じで、セネルのその言葉が逆に可笑しくて、三人は含み笑いを見せている。緊張と緩和のゆっくりとした調和が、三人を支えている。
 前方にいた狼達が少しずつ後方に隊列を整えて、遠巻きに取り囲んでいた陣形を背後に回る陣建てに変えている。群れの長が三人を凝視して、最後の命令を群れに下す時を計っている。

 やがて、大きな岩が三人の眼前を覆い被さる程に近づいてきた。するとどうだろう、彼女は岩を避けて通るのではなく岩を乗り越える様に真っ直ぐに進んだかと思うと、岩の頂上で踵を返して群狼に向かい合った。群狼にとってもこの彼女の行動は突飛だったのか、中には歩みの途中の格好のまま驚いた様に立ち止まっている。セネル達はその瞬間を捉えて足早に岩肌を通り過ぎた。それと同時に彼女が岩を下りると、三人はそれまでと同様に慌てる事なくしっかりと歩みを進める。
“慌てては駄目、急いでは駄目” 彼女の言葉が心の中で呪文のように繰り返して響いて、阿吽の呼吸が三人の中に芽生えていた。



 長の声だろうか、遠くで一際鋭い遠吠えが聞こえる。狼達の緊迫した気配が少しずつ遠ざかっていく。
 遠くまで突き刺さる様に響き渡るその長の遠吠え……辛うじて命を繋いだ今でも思い出す度に鳥肌立つ思いがする。



「ここまで来れば、一安心かな?」
 狼の縄張りを出て川端に出るとジェノが緊張を保ちながらも陽気に口をつけば、漸く三人の口元から笑みが零れた。これから、川沿いに一晩中歩き通すならばここが最後の休憩場になるだろう。その川は、昨晩の雨が水面(みなも)をキラキラと洗い、緩やかだが深みのある緑色に染まって流れている。
 セネルが皆を見渡しながら語りかけた。
「愈々そなたの言う奇策を試す時じゃのぉ」
「先生、ひどいなぁ」
「ねぇ、水の中でも臭いは届くの?」
「うん、こうするのさ!」
 そう言ってジェノは、潰した竜の髭を一握り川に放り込んだ。同時に各々が非常食を頬張りながら、三人はまた歩み出した。



「もう、付いて来てるのかなぁ……蜥蜴」
「ええ、川向うに列になってるわ」
「ほぉ、そなた目が効くのぉ」
「あら、おじいちゃんだって気付いてたでしょう?」
「だからぁ、おじいちゃんじゃないってばぁ!」
 そんな気兼ねのない遣り取りが自然なほどに連帯感が生まれているが、彼女の槍はそれでも空を凛と刺して、三人に緊張を促している。
 蜥蜴の数が増えているのだろうか、時折水面を叩く音が続くと、ジェノの脳裏に不安が横切る。学者気質で言い切ったは良いが、実のところ教わった話であり実践はこれが初めてであったからだ。蜥蜴共が昼間に襲ってきたら折角の竜の髭も何一つ役に立たないどころか、採取した時間が無駄になる。まして群狼を掻い潜って来た行程が無駄になる。そんな不安を隠しながら歩いていると不意に彼女が言った。
「蜥蜴は昼間に襲ったりしないわ。来るとしたら、陽が傾きかけた頃かな。体が乾くのが嫌みたいね」
「うむ、きゃつ等はのぉ、普段は水中の小魚を捕食するのじゃ。大型の陸上生物を捕る時は大勢で襲って来るのぉ。じゃが、統制が執れておらん。我先に勝手に動いておるのぉ。長がおらんのじゃ。狼共と違う所じゃて」
「大勢で襲ってきてもね、その内の一匹を傷つけるとね、共食いを始めるのよ。倒し易い相手なら何でもいいのね。嫌ねぇ」
「しかも、水中に引き摺りこんで捕食しようとするのぉ。やはりお前さんの言う通り、身体が乾くのが嫌なのじゃろう。捕食の興奮で体温が上がるからのぉ。
きゃつ等の体温を知っておるか?驚くほど低いんじゃ。驚く程にのぉ。普通、動物は体温が上がると活発になるがのぉ、きゃつ等は逆じゃて。体温が上昇すると身体の自由が効かなくなるんじゃな。放っておくと、全身から血を噴き出してのた打ち回りよる。元々は陸に上がらぬ生き物じゃったからのぉ。適応しておらんのじゃよ」
 セネルと彼女のやり取りを“そうでしたかぁ”と聞き流しながらも、ジェノには何故自分が不安に思っている事が彼女に分かったのか、寧ろその方が気になってきた。
「でも……でも、なんでいきなり昼間に出て来ないなんて話に」
「えっ? だって水面ばかり気にしてたみたいだから、てっきり」
「ふぅむ、そちは実に分かり易い性格じゃからのぉ」
「それじゃぁ、何だか僕が馬鹿みたいじゃないですか? 先生ひどいなぁ!」
 再び三人に笑顔が零れた。緊張を程良くジェノが緩和して、益々三人の息が合ってきたのだろう。
 極度の緊張は、自我を瓦解させる。恐怖心から自ずと我先に早足になり、そして一人また一人と疑心に駆られて陣を崩してゆく。これが多くの旅団が壊滅してゆく過程である。外部からの攻撃で一瞬にして崩壊するのではなく、実際は旅団の内から崩れていくのである。如何なる旅団も強い意志と団結力を持って旅に臨んでいるが、いつ斯様な過程を辿るのか何を契機にして斯く崩壊するのか、実のところ誰にも分からない。何故ならば旅団の崩壊は即ち死ぬる事であり、累々と残る旅人の遺骸が広範囲に散在している事実が、斯く物語っているのみに過ぎないのである。
 果たしてセネル達はどうであろうか? この危険極まる秘境にあって、戦闘能力が全く未知数な女傭兵と今年で七五を数える爺と若者の脆弱な旅団である。唯一救いがあるとすれば、生き抜こうとする意志の強さのみであろう。



 陽が段々と陰り始めている。群狼では味方となった自然が、今度は彼等の仇となって躊躇なく襲い掛かっている。水面の流れが不規則なのは、多くの蜥蜴が時を窺っている事を伝えている。川端の藪も騒がしく、風もなく草木を揺らしている。
「川がね、大きく右にうねる辺りから、茂みが多くなるの。そしたら少しずつ川から離れる様に歩いて。そしたら蜥蜴が川面に上がって来るから。でも大丈夫、この間合いなら、まだ大丈夫」
 彼女は自分自身に言い聞かせるかの様にそう呟いた。
「うむ、しかと心得た」
「よぉし!来るなら来い! こう見えても僕は強いんだ! 運がね!」
「運だけ?」
「左様、運だけはワシ等は負けんのぉ」
 含み笑いが興奮を冷まし、少しの余裕が命を救う。セネルは我知らず “ワシ等” と言った。三人の運命は一つに繋がっていた。



 川が右にうねる。
 三人が少しずつ川面から藪側に進行を曲げていくと、連れられて蜥蜴達が川端に上がり始める。その動きは緩慢だ。蜥蜴の中でも原初的な部類の蜥蜴なのであろう。眼前の餌--セネル達への執着心から息が荒い。互いに触れたものに咬み付いている。既に蜥蜴の我慢は限界に近付いているのだろう。
 しかし森が始まる処までは、今一時を要する。
 セネルはふと若かりし日の出来事を思い起こした。研究のために訪れた湿地帯には、この地の種より知能の高い部類の蜥蜴が群れをなして暮らしていた。この群れの蜥蜴は時折二足歩行する事もあり、物を掴む事のできる程に前足は進化していた。捕食に貪欲なのはここの蜥蜴と同じだが、進化は統率を生み、その統率は群れの繁栄に繋がり、群れの繁栄は更にその進化を育む。護衛を買って出ていた傭兵の一人が、“一匹を仕留めれば、共食いを始めてゆっくり観察できるぜ” と蛮勇を見せて蜥蜴の一匹に襲い掛かった。セネルの止める声も聞かず、鋭い刃を蜥蜴に向けて行った。狙われたその一匹は、威嚇しながら後退しつつ、傭兵を確実に自分の射程に捉えている。やがて深追いをした傭兵は、四方を蜥蜴に取り囲まれていた。蜥蜴は互いに奇妙な声をあげながら、少しずつ間合いを詰めていく。統率の執れた狩りであった。鉛筆を棒切れに持ち替えてセネルは夢中で突進したが、蜥蜴にとっては獲物が単に一匹増えたに過ぎない。“お前達は強いとでも思っているのか? お前達こそが狩られる弱者だ!” セネルには、蜥蜴の意識が声となってはっきりと聞こえていた。
 幸いセネルの護衛は彼一人ではなく、異変に気付いた別の一隊が駆けつけてくれた。まるで舌打ちをするかの様に赤い舌をチラリと出して、蜥蜴は一斉に湿地に潜り込んでいく。自然の食物連鎖の中では、人間など底辺を徘徊する生き物に過ぎなかった。
“あの傭兵はどうしておるかのぉ。ワシ等は弱い生き物じゃ。ここの蜥蜴連中にはどう映っておるのかのぉ”



「もうすぐ、もうすぐしたら森が始まるわ! あそこまでたどり着けば、わたし達の勝ち!」
 彼女は歩みを止めることなく振り向いて語った。薄暮が彼女の淡緑色の瞳に映って、セネルは年甲斐もなく照れた。
「ふふ、そうじゃのぉ」
 前方には濃い緑に染まった森が近づいてきたが、蜥蜴達は相変わらず互いに牽制してセネル達に襲い掛かる様子は一向にない。
“この()は、こうして旅してきたのじゃな。勝ち方を知っておるわい。やはり正解じゃったのぉ” セネルは自己満足しながら蜥蜴達を見渡してみたが、あの時感じた蜥蜴の意識はもう今のセネルには届かない。“狩られる弱者じゃと? ならば狩ってみぃ!この娘に勝てるかのぉ?” セネルのこの想いが果たして伝わったのか、蜥蜴共は相変わらず息使いこそ荒いものの、確かに襲い掛かるのを躊躇している。



 やがて、小さな森が三人を包むように迎え入れた。蜥蜴共は互いに咬み付き合って、折角の獲物を逃した責任を擦り付け合っている様に見える。
 セネルは思った。“ふっふっふっ、この爽快さはどうじゃ! 倒さねば進めぬ時もあろうが、今はその時ではないわい。この娘は、その時を知っておるのかのぉ? ふっふっふっ、また一つ楽しみが増えたのぉ”
「先生! 何が可笑しいのですか?」
 ジェノが怪訝そうに覗き込んだ。そのジェノの口元もやや緩んで、ここまで生きた証を見せている。既に陽も落ち、弱い弓張月の明りの中で彼女が振り向いて微笑んでいるのが分かった。

 梟がどこかで啼いている。狼の遠吠えが聞こえる。非常食を頬張りながら、セネル達は森の奥へ吸い込まれて行く。諦めの悪い蜥蜴は、未だ森に沿って流れる川伝いにセネル達を追っている。

 夜の帳が落ちる頃、彼女が悪戯っぽく話し掛けてきた。
「愈々、若先生の奇策の時ね」
 セネルが腹を抱えて噴き出した。ジェノを先生と呼んだのは彼女が初めてであった。若先生ではあったが、ジェノは小恥ずかしくも嬉しげに笑った。が、セネルに対しては相変わらず “おじいちゃん” 呼ばわりしている。セネルには返ってそれが心地良かった。弓張月の明りも強くなって、三人の道案内をしてくれた。
「デアーナの小屋は真夜中になるね。おじいちゃん疲れた?」
「何のこれしきの事。ゆるりと休むには丁度良い運動じゃわい」
 実際は生死を掛けた歩みであった。狼に襲われていたか、そこを掻い潜ったとしても蜥蜴に食われていたか、その何れでもなくこの三人でこの小さな森まで来れた事はまさに奇跡であった。要所々々で三人は命を繋いできたのである。

 月を天頂に頂く頃、散りばむ星々を眺めながらジェノが言った。
「ここら辺がいいかなぁ。蜥蜴達が立ち上がっても届かない位の高さがいんだけど。体長は一間(約180㎝)位だったねぇ。ん? この木が良さそうだね!」
 そう言いながら鼻歌交じりにスルスルと攀じ登り器用に竜の髭を括り付けていると、彼女がピョンピョンと飛び跳ねて高さを確かめている。
「君、ちっちゃいから無理だよ!」
 ジェノが鹹かった。
「あら、若先生がノッポなのよ!」
 すっかり若先生が定着している。
「んで、どうじゃ? 守備は万全かのぉ……若先生」
「先生まで、冷やかさないで下さいよぉ」
 蜥蜴の追撃をかわす罠を仕掛け終わった一行に、漸く安堵の色が備わった。夜半過ぎには小屋に辿り着けるであろう。そこまで行けば、休息できる筈。一行の歩みは自ずと軽くなっている。遠くには、小屋の篝火が森を通して透けて見えている。



 その時であった。



 ゴロゴロと荷車を牽く低い音が聞こえる。低音なのは相当に重い荷を積んでいるからであろう。状況の訝しさに三人は立ち止まった。地を這い甞める様な音は前方から少しずつ近づいて来る。それでも三人は歩みを緩めながら前に進んだ。仮に遣り過ごすのであれば道を外れて森に潜む事も出来たが、そこには蜘蛛や蛇が居るやも知れぬ。危険をかわす目論見が裏目に出る事もある。十分な薬草を携えていない事も、森に潜む事を躊躇させた。
 そして、三人は荷車と出食わした。
 果たして荷車を押していたのは、五体の獣人であった。両者とも状況を掴み兼ねた。獣人共は口を半分開けたまま茫然としている。セネル達とて同様である。狼共や蜥蜴の類とは格が違う。そもそも論としてこの地に生息する者共ではない。ましてや獣人が荷車を牽く行為自体が尋常ではない。
 しかし、時は否応なく選択を迫る。
 獣人共はゴクリと生唾を飲み込むと口を真一文字に結んで、肩に掛けた棍棒を片手に持ち荷車を乱暴に放置して、横列に並んで戦闘態勢に入った。獣人共はある程度の人語を解するにも拘らず、獣人共は戦闘態勢に入った。積んでいる荷はそれが何かは分からぬが、見られてはまずい物であった事は確実だ。
“何ということじゃ! ここまで来れたものを。大体、何故こんな処に獣人がおるんじゃ!この娘一人で対峙できるものではない! この娘やジェノを逃がす手立てはないものか……死なせるわけにはいかぬ! 死なせるわけにはいかぬ!何か良い手立てはないかのぉ”
 セネルは動揺を抑える様に、逃げる手段を様々考えながら彼女を見た。だが、その彼女は深く息を吸い込みながら、背負っていた荷袋を右手に持ち直すと、前を向いたままの姿勢で囁く様にセネル達に話しかけてきた。
「荷袋を横に投げたら、道沿いに下がって! 木々が影を作っているから、そこに伏せて! 森の中に入っては駄目、毒蜘蛛がいるから。
大丈夫よ! 大丈夫」
 彼女はたった一人で立ち向かう積りでいる事が気配で分かる。生きる為に闘う事を既に決断していたのだ。
「早く! お願い!」
 彼女の尋常でない気迫に押され、セネル達は彼女が荷袋を右手に放り投げるのと同時に、道の後ろに下がって木陰に伏した。獣人は視力が弱い上に視界も狭い。ただ耳は効く。逆に荷袋のドサリと落ちる音が、セネル達の存在を消し込んでくれた。木陰に伏しながらも、セネルは短剣をジェノはナイフを彼等の効き手に握りしめている。“彼女一人を死なせはしない! いや、自分が犠牲になっても他の二人を助けてみせる!”そんな暗黙の認識が二人にはあった。

 五体の獣人がゆっくりと、少しずつ間合いを詰めるかの如く近づいて来る。
 中央の一体が雄叫びを上げると、他の四体が素早く彼女を取り囲んだ。一間半(約270㎝)の巨体が月明りに映し出された。 陣を組んだ獣人共には余裕さえ感じられる。“くぅ、なんとかせねば……” セネルの顔に焦りの色が窺える。
 だがその彼女は、セネル達が後ろに下がった事そして隠れている位置を冷静に確認しながら、再びゆっくりと息を吸い込んで、五つの巨体に取り囲まれても尚、動揺することなく真っ直ぐに構えている。身の丈ほどの槍は左手に握りしめられたままである。

 やがて、その槍が緩やかに動き始めると、獣人共にも緊張が走る。槍は、低く音を立てながら彼女の左側で旋回している。その旋回は、少しづつ速度を増してやがて彼女の頭上に移り、同時に空を割くその高音は小気味良く彼女の間合いを作っている。その大きな槍を頭上で旋回させながらも、彼女は大地に踏ん張る様でもなく、爪先立ちに真っ直ぐ正面を見据えて気迫を満たして立っている。まるで独楽(こま)が静止しているかの様に、或いは、これから軽やかに踊り出すかの様に、彼女は対峙している。旋回する槍の刃が、月明りを捉えては鋭く光っている。巨体に囲まれながらも、小さな彼女の存在は十分に獣人を圧倒して、ジワジワと囲いを狭めながらも獣人共が踏み込めないでいる。

 どれ程の睨み合いが続いたのであろう……正面の獣人が激しく雄叫びを上げた。
 その瞬間、彼女の背後に陣取りしている獣人が、鋭利な鉄片を埋め込んだ棍棒を勢いよく振り上げた。その棍棒を振り下ろす鈍く空を叩く音と同時に、地面を激しく打ち付ける音が森を震わせている。
 いや、棍棒が地面を叩き付けたのではない! 獣人が右目を抑えて地面に蹲っているではないか! 慌てて棍棒を拾い直しながらも、這蹲ったまま獣人が後ずさりすら始めているではないか!
 鋭く旋回する槍の空裂音は止む事なく彼女の頭上で月明りを浴び、正面を向いていた筈の彼女はいつの間にか体を反転させているのが判る。しかし、彼女の二の腕が切れている様だ。鮮血がポタポタと滴っているのも見える。
“むっ! 棍棒を寸で躱して、反転しつつ獣人の右目を裂いたのか!” セネルには彼女の動きが全く見えなかった。ただ、状況から瞬間の攻防を悟ったに過ぎない。しかし、まだ四体残っている。眼をやられたとはいえ、獣人は十分に闘える。加えて、傷付いた獣人は一層厄介である。持久戦ともなれば、寧ろ小柄な彼女には不利である。その彼女の二の腕の傷は、思いのほか深いのだろう。月明りに照らされる鮮血が、彼女の鎧を赤黒く染めている。

 彼女の左右に陣取る獣人が二体呼吸を合わせて、一斉に彼女に襲い掛かってきた。旋回しながら月明りを映す槍の穂先のみが、彼女の健在を示している。その刃の光が頭上で弧を描きながら緩く左に移ると同時に、突如一筋の帯となって下段から上段に線を描いた。
“グワッ!” “グフッ!”
 呻き声とも地鳴りとも取れる異音が辺りを震わせた。二体の獣人が蹲っている。一体は右頸動脈を押さえながら、溢れて来る血を必死に止めようとして震えている。もう一体は右脇腹を抱え込んでグッタリと地面に付している。ただ、彼女の二の腕の鮮血は流れ続けるのを止めず、僅かな攻防にもかかわらず彼女が肩で息をし始めているのも見て取れる。
 眼を傷付けられた獣人が、狂った雄叫びと形相で彼女に突進してきた! 刃の光が、弧を描きながら滑らかに、正面上段から左右と流れる様に移っている。一定のリズムで旋回し続ける槍と裏腹に、突進した獣人が無様にもんどり打って後ろに倒れ込んでいる。同時に、地面を這いずり回って呻き声すら上げ始めた。既に三体の獣人が闘争心を失って森の中に逃げ込もうとしている中、残る二体は未だ状況が掴めずに、その場に棒立ちになっている様子だ。もはや彼女に躊躇はなかった。右上舷の獣人が彼女の動きを捉えるより早く、槍の光が獣人の眉間から真下に伸びると、獣人は持っていた棍棒を落として額を抱えて仰け反った。
 ピュン! 槍の動きが止まった。その穂先は、真っ直ぐに左上舷の長らしき獣人の喉笛に向けられている。長らしき獣人は動けなかった。唯一無傷であったにも係らず微動だにできなかった。
()ね!」
 彼女は獣人の眼を捉えたまま、律直した姿勢ではっきりと一喝すれば、獣人共はガサガサと騒がしく森の木々を揺らして、荷車を置いたまま闇の中に消えて行った。
 そして森は静寂を取り戻した。……どこかで梟が鳴いているのが聞こえる。



 息を整えつつ二の腕を止血しながら、彼女が語り掛けて来るのを見れば、その小さな唇も切れている。
「ふぅぅ、おじいちゃん、若先生、もう大丈夫よ」
 そこには小さな彼女がいた。
「あっ、いや、あれだな……。お、驚いた」
 ジェノには言葉が見つからない様子だ。セネルも同様であった。音と光しか彼等には分からなかった。それに今こうして生き延びている事実が信じられなかった。
「急ぎましょう。獣人はまた襲ってくるわ。今度は体制を整えて」
「うむ、そうじゃのぉ。荷車を置き忘れておるわい。取り返しに来るじゃろうて」
「先生、走りますか?」
「走らいでか! 獣人は鈍いからのぉ!」
 セネルの言葉が終らぬ内に、三人は小屋の篝火を目指して勢いよく走り出した。終日歩き通しているにもかかわらず、軽やかに走り出した。まるで、生きている証を確かめる様に、恰も走る事で生きている実感を確かめる様に。彼女は、放り投げていた荷袋を素早く拾い上げると、スルリと肩に担いでいる。その仕草こそ、この攻防の終焉を告げるものであった。

 旅人は、常に危険と隣り合わせでいる。瞬間の行動の遅さが、致命的な結果を生む。故に、いつも最悪の状況を想定して動かなければならない。荷袋もまた然りで、その中の道具の全てが危険を計算され尽くして準備されている。傭兵であれば、非常食に薬草・鳩笛や鉛筆・古紙等のほか武器・防具類を保全するための油や研磨剤等が収まっていて、その時その場所その目的に応じて何を詰め込むかも傭兵の力量を知る手掛かりになる程、神経を使って道具を揃えるのである。単に腕力に優れるだけの傭兵は、早晩命を落とすのみ……如何せん経験のみが頼りだから、駆け出しの傭兵にとって命を削るのは、闘いだけではないと云えよう。少なくともこの点に関しては、セネル達の方が彼女より数段上手であったから、偶然にも三人は、互いに補い合う資質を持ち合せていた事になる。

「いや、それにしても驚いた!」
 ジェノは二度も同じ言葉を吐いた。セネルとて同感でいた。実は二人とも彼女は弱いと踏んでいたが、先程の闘いはどうだ! 一体目を倒してから全四体を組み伏せるのに要した時間は、如何ほどであったか? しかも、重槍の遠心力を生かしながらこれを巧みに扱って、急所のみを的確に切り裂いて闘争心を奪っていた。思えば最初の立ち位置から僅かに一回転しただけで、明日への命を繋いだのである。

第三話 小さな森の小屋

第三話 小さな森の小屋

 部屋の扉を軽く叩く音がしたと思うと、旅館の女主人がセネル好みの濃い珈琲を持って来てくれた。頬杖を付いていた彼女に朝食の用意を手伝ってくれと頼んでいる様だ。珈琲の湯気の向こうに、楽し気に女主人と話している彼女が透けて見える。
“あの時、この()は徒に命を奪おうとせんなんだ。この娘は、もう命の重みを感じておったのぉ。これまで如何程の悲しみを背負ってきたのかのぉ”
 生態学者のセネルにとって、命の営みほど尊いものはない。太古の森林でも危険を顧みず傭兵を雇わなかったのも、傭兵共の多くが生物を見たら襲い掛かる“生き物”であったからだ。殺生せねば生きられない哀れな生命体であったからだ。だが、彼女は自分が生き残る為に相手を生かした。命を奪おうとすればその分、相手も必死に抗うであろう。そうなれば彼女も無事でいられまい。しかし、彼女は自分が逃げる為に相手を逃がした。生きる事への凄まじい執着心を見せた。その気迫が無傷の獣人を圧倒したのだろう。
“もしこの娘でなかったら、このファウナに来る事もなく、世に蔓延る悪意に気付く事もなく……果たしてワシ等はどうなっておったかのぉ” セネルが濃い珈琲を楽しみながら瞼を閉じれば、今でもハッキリとあの時の様子が脳裏に浮かんでくる。



「いやぁ、それにしても、ほんと驚いた」
 ジェノが三度同じことを言う。
「えっ? 何が?」
「何がって、君がだよ」
「えっ? どうして?」
「い、いや……ど、どうしてって、獣人倒したじゃないか、五体もさぁ」
「あっ、あれは夜だったからよ。獣人、何も見えてなかったもん」
「って事は、昼に出食わしてたら?」
「そうねぇ……すぐ走って逃げてたわ!」
 セネルもジェノも腹の底から笑った。笑っている自分がいる事が嬉しくて、心底可笑しく笑った。その言葉が決して謙遜でない証拠に、彼女は怪訝な顔をして走っている。セネルも息を切らせながら語った。
「正解じゃ、正解じゃわい!」
 セネルにとって、彼女を選んだ事、無下に命を奪わなかった事、闘うべき時を待って耐えた事、それ等の全てが正解であった。

 一行が軽快に走り続けていると、前方から明りが近づいて来た。それも集団になって近づいて来る。おそらく小屋に駐留している旅団の護衛隊であろうか、トルーパに乗った一団の様だ。そのトルーパの一団がセネル達を見付けて、矢継ぎ早に質問を浴びせて来る。
「異様な叫び声が聞こえたが、何の声だったのか?」
「襲われたのか? 一体何があったのだ?」
「負傷者はおらぬか? 三人だけか?」
「護衛のものはおらぬのか?」
 が、三人は息を切らしながらそこに座り込んだまま、一団を迎えるのが精一杯だった。

 やがてセネルが状況を説明し始めた。二匹のトルーパがセネル達に割り当てられて、軽快に小屋に向けて走り続ければ、眼前にディアーナの小屋が遂に現れた。その城門の開門と同時に、三人は漸く安堵の場所を得たのである。再びセネルは、これまでの経緯を取次の者に説明した。取次の者が慌てて上席に報告に行くと、更に慌てふためいてこの地の責任者が現れた。
「こ、これは先生、斯様な僻地まで……ご高名は予てより伺っております。
私、この地を差配しておりますガントスと申します。どうぞ、お見知りおき頂きたく。
先生、お疲れではございませぬでしょうか?どうぞ、ごゆるりとご逗留下さい」
 流石にこの地を預かる責任者だけあって、接客には慣れている様子である。荷車を回収する一団が慌ただしく出て行く音が聞こえる。
「さぁさぁ、お供の方もお孫さんも」

 ジェノは可笑しくてならなかった。部屋に案内され彼女の方を見るなり、吹き出しながら話し掛けてきた。
「やっぱ、お孫さんに見えるんだねぇ」
「えっ? それって若先生の事よ。きっとそうよ。ねぇ、おじいちゃんもそう思うでしょう?」
 そこは矢張り一端の傭兵である。だが、それ程憤慨している様子もない。一方のセネルは、ガントスの誤解を寧ろ心地良く感じて、微笑み返すばかりであった。セネルには妻も子もない。まして孫などいる筈もない。しかし、もし結婚していれば彼女の年頃の孫が居ても不思議ではないし、セネルは既に孫娘の様な親近感を彼女に感じていただけに返って喜んでいた。彼女と出会ってから、僅か二日程しか経っていない。それでも、交した言葉以上に感情は暖かく混ざり合っていたのだろう。“この娘と旅を続けたいのぉ。ジェノの他にも守りたい者ができたわい。この娘はどう思っておるのかのぉ” セネルは、確かめたい気持ちを抑えながら若者達を優しく見つめていた。今は青年となったジェノと少年だった頃のジェノの姿が一つに折り重なって見える。ジェノは今もあの頃と同じ様に、透き通った純粋な気持ちのままでいてくれる。そして長身のジェノに隠れる様に、負けず劣らず純朴な彼女がいる。その彼女は、ジェノの指摘にセネルが反論しない様子をみて小首を傾げている。
「そうかなぁ? そうなのかなぁ?」
 小さく深い森は、上弦の月明りを浴びながら静寂を取り戻している。小屋の篝火が温もりを湛えて部屋の明りが三人を優しく包み、やがて三人は深く眠りに就いた。それは、生き抜いた者のみに与えられる安らぎのひととき。
 梟は、森の奥でまだ鳴いている。狼の遠吠えは、もうここには聞こえない。



 小さな森の小屋で迎える最初の朝、森の木々を潜って差し込む朝日の眩しさにセネルは目を覚した。一方、ジェノは床にうつ伏せになって彼女も小さな息をたてて、深く眠ったままでいる。セネルは一時の幸せを噛みしめながら、若者を起こさぬよう静かに朝支度を整えに部屋を出て行った。
 セネルが朝支度を終え部屋に戻る頃には彼女はもう目覚めていて、柔らかな笑みで挨拶を交し合った。そこへガントスが来て、小屋の名湯を満面の笑みで勧めてきた。恰幅の良い体形で満月の様に丸顔だが、豊かな顎鬚が印象的な壮年である。
「さっ、どうぞ、どうぞ! あっ、お孫さんからどうぞ! いやぁ、ここの湯はねぇ、いいよぅ! ホントだから! ゆっくり浸かるといいよぅ、うんうん」
 斯くして議論を待たず、孫と思われたのは矢張り彼女の方と確定した。彼女は苦笑するだけで、殊更に抗弁する様子もない。セネルに至っては尚更である。

 伐採木の香り発ち込めるこの小さな森の城内は、忙しく動き廻る職人達と旅人で満たされている。
 西には武具屋や道具屋を構え、北には伐採木が高く積み上げられ搬出のその時を待っている。昨晩、三人が潜った東門が唯一の出入口で、ここを抜けるとトルーパが数珠繋ぎになって来訪者を手荒く迎え入れてくれる。
 南側に広がる広場では、その行程を面白可笑しく旅人達が話し合い、休憩中の護衛隊は武勇伝を誇らし気に語っている。楽器を奏でて踊っている一行もいる。各々与えられたその時を、精一杯楽しんで賑やかである。
 その南側中央には井戸があって、滾々と湧き出る真水が、命の水となってこの要塞での人々の生活を支えている。この地が“小さな森の小屋”と呼ばれ所以は、元々はこの井戸を囲むように建てられた掘立小屋が始まりであったからと伝え聞いている。云わばこの井戸こそがこの城の始まりの場所であり、皆が一様に大切にしている場所と云えよう。正式名称は『ディアーナ自治領エリュマントス山麓東駐屯地』と言うらしいが、それらしき表札は何処にも掲げられていない。よって人々は皆“小屋”と呼んでいる。とは言え、今では立派な木城である。

 この木城の中央に三階建の寄宿舎がある。木造ではあるが威風堂々とした構えである。
 エントランスのない一階は吹抜けの酒場になっているが、二百人は収容できるその酒場は、夜ともなればこの城内に居る皆が集って喧しい場所となる。料理は猪や地鶏や川魚を素材に、些か豪快過ぎる味付けが自慢の酒場である。根菜類と茸が添えられて基本的に大皿料理である上に、都度味が異なって毎日同じ物を食べても飽きがこないのは摩訶不思議である。だが蒸留酒だけは、遠くからも注文が来るほど美味である。酒場を抜けた奥には湯屋があり、ガントスご自慢の良質な源泉が湧き出している。
 二階は間仕切りのない無暗に広い空間になっており、職人や護衛隊の者、旅人が好き勝手に陣取って休む場所となっていて、各々がそれぞれの荷物を四方に並べて各人の陣地にしている様で、相互不可侵の約束があると聞いている。壁には『貴重品は持ち歩け!』とぶっきら棒な注意書が至る処に張られ、外壁には広々とした窓を配し、明るい光と森の風を部屋一杯に取り込んでいる皆の憩いの場所である。
 三階は小屋を管理する事務所と、意外な事に首都の大銀行が入っている。他にガントスや護衛隊長の部屋とセネル達が案内された来賓部屋の都合三つの部屋が設けられ、一・二階の趣を異にした清楚で上品な間仕切りとなっている。
 寄宿舎に寄り添う様に建つ立柱の最上部には伝書屋がいる。昨日、彼女が放った鳩もここを経由して、今頃は目的地に着いて待ち侘びる者に想いを伝えている頃だろう。事務所と伝書屋は三階の高い処で一本の梯子で繋がっており、事務員が何度も通っては都度々々鳩が飛ばされている様子が窺える。

 その寄宿舎は、これを取り囲む様に高太の材木で拵えた城壁に固く守られている。その城壁上部は、人が行き来できる程度の回廊が設けられていて、常に護衛団が巡回している。巧みに丸太を組合わせた堅固な造りとなっている様だ。更に、城壁の東西南北の四隅には物見櫓が設けられ、ディアーナ行政府の徽章が悠々と風に靡いている。その徽章は、橙色の生地に白く色抜きされた牡鹿の角を対に戴き、両角の中央には切株を象った金色の円を一つ描いている。描かれた円の数は支配地の格を示しており、ここ小さな森の小屋はディアーナ行政府が支配する地域の中でもかなり格下の様だが、経済的な地位は高いと聞いている。護衛団が、その金色の円を白抜きの盾の文様で象った徽章を、皆その左腕に無造作に巻き付けている。 そもそも護衛団長他数名はディアーナ行政府に所属する衛兵であるが他は傭兵の寄せ集めであるから、何かと帰属意識を高めるべく工夫している様だ。

 城内では、アルティス語を公用語にしつつもマトゥータ訛りやダミア訛りも垣間聞こえる。職人の多くが力仕事の出稼ぎに来ているのだろう。ディアーナの支配地にも拘らず存外、ディアーナ訛りは少ない。唯一事務所内でのみ聞かれるばかりであるが、このディアーナ訛りは余所者には全く理解不能で加えて事務員は特殊な符丁を使っている。伐採された材木の情報を遣り取りしながらも、その内容は余所者には皆目分からない仕組みになっている様だ。

 部屋でセネルが、この行程での生物の様子や生態環境や城内の様子を日記帳に纏めていると、彼女が湯屋から戻ってきた。重鎧を解いた普段着姿の彼女は、傭兵とは思えぬ程に色白で、やはり“お嬢さん”の形容の方が相応しかった。その時、ジェノが漸く目覚めた。既に昼前で朝寝坊ではあるが、寝起きは至ってよい青年である。そのジェノが彼女を見ると、慌てて視線を逸らしている。恰好を付けたい年頃の青年でもある様だ。
「お先でした」
「では、ゆっくり浴びてこようかのぉ」
 ジェノは慌てて朝支度を整えると、セネルの後に従った。普段の生活がここにはあった。三人は、生死の狭間のない一時の休息を存分に楽しんでいる。



 セネルは湯に浸りながら、ジェノに話しかけた。“今度ばかりは危なかったのぉ” と昨晩を互いに回顧していると、自然と彼女の事に話題が及んだ。
「あの娘は、どこの出身なんですかねぇ?」
「さぁて、立ち入るにはまだ時が許さぬじゃろうて。じゃが、あの訛はクロノス地方のものじゃろう」
「クロノス! あの失われた古代王国ですか? 寓話の中でしか聞いた事がありませんでしたが」
「ふぅむ、ワシとてクロノス訛を聞くのは、生涯においてもこれで二度目に過ぎん。憶測に過ぎんのじゃが、緑色の瞳はアルティス大陸にはおらんしのぉ」
「確かにそうですねぇ。失われた古代王国の住人かぁ……興味が沸きますねぇ。あの娘はこれから何処へ行く積りなのでしょうか?」
「さぁて、何か目的があっての旅の様じゃが。どうじゃ? もし行き先が同じなら、暫らく一緒に来て貰うのは……」
 セネルの言葉が終らぬ内にジェノが直ぐさま賛同した。
「ですよぉ! いやぁ、僕もそう思ってたんですよ! 中々どうして、ああ見えて強かったし!」
「……それに存外、可愛らしいしのぉ」
「い、いやぁ、そ、それは好みもあるし……ど、どうですかねぇ?」
 ジェノは嘘が下手である。
 湯屋の外からガントスが叫んでいる。
「先生、湯加減はどうですか? お上がりになったら、お部屋までお食事を運ばせますので。こんな処ですが、中々評判いいんですよ。是非とも旅のお慰みにどうぞ!」
「いやいや、何から何まで痛み入りますなぁ。どうぞお気遣いなく」
「いやぁ、先生! ここの連中にはもう話題沸騰ですよ。先生のご本、見た事がある奴があちこちに湧き出してますぞぉ!
何せ字を読める奴は余り居りませんので、本当に見た事があるだけでしょうが……もしご無礼がありましたら、何なりとお申し付け下さい」
 苦笑するセネルの様子も知らずに、ガントスは話し続けている。
「それでですなぁ、お食事が終わりましたら、是非ご相談させて頂きたい事がありまして。如何なもんですかなぁ? お急ぎでなければ、お願いできませんかなぁ?」
「ふぅむ、昨晩の荷車の件ですな?」
「いやはや、恐れ入ります。左様でございます。何とも厄介な荷車で」
「ほぉ、それはガントス殿も難儀ですなぁ。いや、ワシ等も気になっておったのですじゃ。何かワシ等でお役に立てるのであれば、是非に」
「いやぁ、誠に恐れ入ります。いやいや、お湯はごゆるりと。それでは後ほど」
 セネル達は、ドタドタと湯屋を離れるガントスの様子から、あの重たげな荷車の中身が愈々気になってきた。
「思うのですが、獣人共の荷物、鉄鉱石では? いや、確証はないのですが」
「うむ、気付いておったか。荷車はファウナのモノじゃ。不思議じゃのぉ」
 前後に引き手の付いた荷車の形状はファウナ地方特有のモノである。加えて車輪や車軸といった要所に鉄板が施される仕様は、鉄鉱石運搬用のモノである。その荷車を、怪力の獣人が前後に二体ずつ都合四体で力の限り牽いていたが、高々荷車一台でそれ程の重量となると鉄鉱石以外には考え難い。重量だけであれば、寿命を全うした仲間を数体運んでいたとも考えられるが、そもそも獣人には埋葬の文化がない。仲間の死を悲しみ哀悼してそこに留まる事はあるものの、亡骸はその場に放置されるのが通例である。種族に依っては、亡骸の頭上に墓石の様に巨石を配置したり、愛用していた棍棒を副葬品に添える配慮もある様だ。だが、わざわざ一処に運んで“埋葬”する風習を成す種族はいない。生態文化的に亡骸の可能性がない以上、荷は鉄鉱石以外には有り得ないのだ。加えて、この地は獣人の生息地から遠く離れており近隣でもファウナ以西か以南であるが、彼等には集落を捨てて移動する文化もない。この文化的事実は、獣人共が意図的に荷車を牽いてきた証となる。
 では、何故苦しい思いをしてまで荷車を牽いてきたのか?
 何処へ牽いて行く目論見であったのか?
 そもそも何故、荷を積んだ荷車を持っていたのか?
 人間の盗難事件なら兎も角も、獣人が盗みを働くとは流石のセネルも聞いた事がない。食糧運搬の一団を襲って横取りを企てる事はあるが大概その場で食い荒らすのみで、横取りもその場の思い付きに過ぎず、食ってしまえば逃げる一団を追う事もない。腹を満たしさえすれば敢えて他に危害を与えないのが、獣人の一般的な生態である。しかし、昨晩の獣人共の明らかな狼狽はどうであろう。しかも、動揺を隠す事もなく問答無用で口封じの為だけに襲ってきた。余程、見られてはならぬ処に鉢合わせた、と考えるのが自然と云える。
 何故、何の目的で何処へ荷車を牽いて行く積りであったのか……学術的にも関心となる行動である。
 セネルとジェノは様々な仮説を立て検証しては、彼等の行動の謎を絞り込もうとした。そして、漸く一つの仮説に辿り着いた。
 即ち……“彼等は第三者との盟約に基づき、預かった鉄鉱石を秘密裏に運んでいた。その目的は、ディアーナ行政府とファウナ行政府の諍いを促すため!”
 セネル達の知的生産活動の効率は極めて高く、最も合理的な仮説が仕上がったものの、その実証方法は困難極まりない。が、思案するには少々長湯し過ぎた感もあり、一先ず湯船を出て部屋に戻る事にした。部屋に戻ると直ぐに料理が豪快に運ばれてきた。

「うわぁ! なんか凄いわね!」
「こ、これは一体、何人前なんだ?」
「まぁ、折角の御好意じゃて、頂くとしようかのぉ。……にしても、多いのぉ」
 三者三様の反応を余所に、ガントスがこちらを覗いている。
「いやはや、ご一緒に如何ですかな?」
 セネルから手招きされたガントスは、満面の笑みを湛えて“ご相伴に預かります”と入って来るなり、地鶏のモモ焼きに豪快に齧り付いた。彼女もジェノも意を決して料理に挑んだ。セネルは小屋の真水を飲みながら、既に満腹感で満たされていた。
「ふぅむ、それで相談というのは?」
「はぁ、どう収拾したものかと、お知恵を拝借願いたく」
「全く奇怪な事ですなぁ。……時に、そなたはどう思うね?」
 彼女が今回の件をどう捉えているのか、ふと興味を覚えたセネルは彼女の様子を窺った。
「酷い話だわ、純朴な獣人を利用するなんて! どこの人達かしら?」
「ふむ、第三者がおるとな? で、そなた荷は何と捉えたかのぉ?」
「鉄鉱石じゃないかしら」
「うむ、やはり荷車の型じゃな?」
「ううん、獣人が振り回してた棍棒! 鉄片が組み込まれてる型ね。あれはファウナ地方の武具屋でしか扱ってないの。武具はね、それぞれの場所でそれぞれ違うのよ」
「ほっほっ、棍棒は気付かなんだのぉ。“職は人なり” とはよう言うたもんじゃて。してそなたは、獣人共が荷と棍棒をファウナの何処ぞで盗みに入ったと思うかの?」
「ううん。獣人はファウナの望楼にすら近づけないわ。それにもし獣人が買い物にきたら、それこそ大騒ぎ!」
「ふぉふぉふぉ、確かにそうじゃのぉ。すると、どうなるかの?」
「たぶんね、棍棒を買ったのは普通の人。その人達がファウナから荷を持って来たと思うの」
「ふぅむ、“持って来た” とは意味深じゃのぉ」
「だって盗まれたとしたら、それに気が付かないって事はないわ。商品が無くなってれば、ファウナ行政府の警羅が懸命に探すでしょう? もし盗まれたと分かったら、護衛団が各方面に直ぐに追手を出すわ」
「ふむ、面白いのぉ。ファウナ側は追手を出したのかどうか……そなたはどう考える?」
「出してないと思うの。だって、山麓でもここでもファウナ行政府の徽章は見かけない。つまり、護衛団が出陣していない……という事は、ファウナ側は盗まれたとは思っていない、という事になると思うの」
「ふぅむ、佳境に入ってきのぉ。盗まれた物でないという事は?」
「正規の手続きで、ファウナ内で購入されたと思うの」
「ふぉふぉふぉ、同感じゃて。ワシ等ものぉ、何を隠そうそう考えておる」
 何者かがファウナ内で正規の手続きを経て荷を購入したついでに棍棒も購入した。これ等を何処かで獣人に全部引き渡した。鉄鋼石は何処かに埋めるか捨てるか……荷それ自体はある意味どうでもよかったという事だろう。
「さて、問題はのぉ、購入の仕方じゃな。お金を払って獣人に手渡しのなら、まぁ尋常ではないがのぉ、それ自体が悪徳とも言えんのぉ」
「それなんだけど、代金は掛払いじゃないかしら?」
 セネル達は深く大きく頷いた。
「鉄鉱石荷車一台分のお金なら金塊五個分(約五億円相当)くらいじゃないかなぁ? それを後で支払うなんて、普通の人にはできないわ。だから何処かの人達……別の組織か何か力のある人達が後ろで絵を描いてると、そう思うの」
「ふっふっ、面白いのぉ。さて、何故そうしたと思うかの?」
「お金を踏み倒したらファウナが怒り出すわ。ファウナを怒らせたかったのかも」
「左様じゃ、何せ互いに経済自治都市じゃ。不払いなんぞ起こしたら、その相手とは将来に渡って取引せぬは道理じゃて。じゃがそなたの仮説だと、ファウナ側は相手を信用したから後払いに承諾した事になるのぉ。ファウナ側の取引相手は誰と思うかの?」
「わからないわ。でも取引相手は誰の名義でも良かったんじゃないかしら? ファウナが怒り出しさえすれば、それで良かったと思うの」
「ふぅむ、取引相手は誰でも良かった--じゃが、この地で獣人と出会った事と関係ありそうじゃのぉ」
「うん、わざわざこっちまで牽いて来たのは、デアーナを利用しようとしてるのかも」
 セネル達は再び深く大きく頷いた。
「ふぉふぉふぉ、聡明じゃて。のぉジェノや、そう思わんか?」
 ジェノは、議論のできる相手を得たと云わんばかりに目を輝かせて、静かに二人のやり取りを聞いている。
「ふぉふぉ、後はのぉ、獣人が何故協力する気になったのかじゃのぉ?」
「そうねぇ。食糧、武器……兎に角、獣人が興味を持つ物で釣ったのかも?」
 ジェノが満を持して話に斬り込んできた。
「そこだね。僕等もそこが分からないんだよね。仮に今欲しい物があったとして、獣人がそんなに簡単に引き受けるかなぁ? 君はどう思う?」
「ええ、普通なら無理ね。ただたまにね、若い獣人が群れを外れて新しく集落を作ることがあるの。あっ、おじいちゃん達なら知ってるか。
それで新しい群れを作るのに、どうしても必要な物を交換条件にしたらどうなんだろう?」
 セネルはハッとした。
「ふぅむ、良きかな! 確かにそうじゃ、若い群れが集落を作ることが稀にあったのぉ! ふぅむ、これは一本取られたのぉ!」
「それでもね、幾ら交換条件があったとしても、獣人が人の説得に応じるなんて……」
「そうじゃのぉ……ふむ、群れを作ろうとしている獣人を知る第三者がおると考えてはどうじゃ? こ奴等が人間と獣人の中に入って、獣人共を説得したのじゃろうて」
「そうかぁ、ファウナで鉄鉱石やら棍棒やらを購入した組織、人間と獣人を知る仲介者、そして獣人……中々大掛かりだわ! それにその人達、ファウナを簡単に騙せるなんて!」
「そうじゃて、ファウナ側を容易く信用させ得る組織……しかも獣人の生態にも精通しておる様じゃしのぉ?」
 目を白黒させながら黙って三人の話を聞いているガントスに、セネルは矛先を向けてみた。
「ふぅむ、してガントス殿、そなた心当たりがある様じゃのぉ? 何か情報をお持ちの様じゃが? 差し支えなければ、ご教示頂きたいのぉ」
「はぁ、それが……実は私共なんです! 鉄鉱石を購入した事になっているのがですな」
 流石にセネル達はこの事実に驚愕した。単に利用されていると思われたディアーナが、実は当事者の一人であったからだ。ガントスから聞き得た事実を踏まえ、仮説を組み立て直すと……
 先ずディアーナ行政府が鉄鉱石をファウナ行政府に正規注文し、この荷をファウナ領内で受け取って、これを第三者を介して新たに集落を形成しようとしている獣人に手渡し、獣人は約定に従って秘密裏に荷を処分する、而して代金の不払いに憤慨したファウナ・ディアーナ両経済都市間は険悪な関係になる
……という事になる。

「ただのぉ、今回の件で双方不快にはなろうが、高々荷車一台分の鉄鉱石程度で、両地に紛争が起きるかのぉ? これは、序章に過ぎんのかも知れんのぉ。背後の企みはもっと大きいのかも知れん。さすれば、首謀者は何を目論んでおるのかのぉ?」
 セネルは独り言の様に斯く呟いた。が、ガントスにとっては、背後の企てより寧ろ眼前の解決が気掛かりでならなかった。

 ここ小さな森の小屋を騒がす事件で今分かっている事は、ガントスに依ると次の様な事であった。

第四話 巡り始める命運

第四話 巡り始める命運

 昨晩の騒動で護衛団が牽いて戻って来た荷車には、やはり鉄鉱石が積んであった。さっそく夜目の利く早鳩をファウナ行政府宛へ飛ばして、盗まれた荷車を回収しここ駐屯地に確保した旨を伝えた。後々どの様に返却するか話し合う積りでいたからだ。しかし、つい先ほど早鳩で届いたファウナ側の返答は、ここ駐屯地側にとっては意外で驚愕に値するものであった。
 それは、“当該品は去る十日前にディアーナ行政府より正規受注し、三日前には貴所一団が受け取りに来た品物である。盗品の回収とは何事か? 支払期日は四日後に迫っている。母団より貴所が決済する旨を伺っているが、支払いの準備や如何に? よもや証約を反故にする目論見ではあるまいな?“
 だがガントスの話に依ると、母団--即ち本国にあるディアーナ行政府から、ここ駐屯地に斯様な連絡は来ていない。都市間の連絡網は万一の情報途絶を想定して常に複数の手段で実施されているが、その何れの方法でも情報が途絶する程、かの地とこの地とで情勢が不安定というわけでもない。その方法の一つである銀行経由網ですら、今回母団がこの様な発注をした旨の情報が届いていないとの事である。
 セネルは煙草を深く燻らせながら、腕組みをしてガントスの報告を聞いている。
「ふぅむ、しかし、ファウナ側は正規に受注されたと主張しておるのですな。しかも、この駐屯地が受け取りに来たと」
「そうなんです。全く何がどうなっているのか……早朝に母国へ早鳩を飛ばしましたが、仮に発注が事実であったとしても、我々が受け取りに行った事実はございません!」
 ガントスは既にモモ肉を五本平らげ、その右手は猪肉の燻製を鷲掴みにして、左手は六本目のモモ肉を狙っている。ジェノも負けずにモモ肉を頬張りながら、仮説を再構築した。
「発注する時や受け取る時って、どうするんですか? 何か特別な方法がありますか?」
 先程からこのガントスは、ジェノと彼女、セネルの三人の関係を推し量りながら一向に理解できない様子であるが、斯く応えた。
「指輪状の印鑑がございましてな、ええ、それは厳重に管理しておりますが。それを溶かした蝋が固まる前に、こう “グッグッ” っと押して証約するわけです」
「という事はじゃな……この企てを首謀した者共は、母団とここ駐屯地の印章を複製する程の組織と言う事じゃなぁ。しかも操るのは人間だけではないぞ、他の生体との接触もできる。相当に力のある組織じゃろうな」
 この事実を踏まえ、セネルは腕組みしながら暫く深く考え込んだ。背後の組織が如何なる者共か、何者であれ容易ならざる相手である事は想像に難くない。一宿一飯の恩義に応える為にも、ファウナとディアーナの両地にとって有意な解決を図る必要を痛感していた。
「のぉ、ガントス殿。迷惑でなければワシ等にこの一件、預からせて貰えんかのぉ? と言っても、荷の代金を肩代わりする積りではないがのぉ。
果たして今回の首謀者が何者であるかは分からぬが、その者共の目論見こそはこの地がこうして慌てる事と思うのじゃ。もし何事もなく事が進んだら、寧ろその者共は次の行動に出ざるを得んじゃろうて。如何せんワシ等は企ての全容が分からぬのじゃから、今は遣り過ごすのが良き方策じゃと思うがの。と言うても名誉ある両地も体面上、互いに主張を曲げる訳にはいかんじゃろうて。それでのぉ、ワシ等が間に立てば少しは話し合いが進むのじゃなかろうかのぉ?」
「何と! いやいや、先生方が立って頂ければ、千万の軍を得たと同じでございますぞ! 当方こそ先生方にお願いできるであれば、願ったり叶ったり……いやはや、是非ともお願い申し上げたい!」
 ガントスは端からその心積りもあってか、セネルの提案は諸手を上げて受け入れられた。
「ならば、早速にファウナ行政府へ早馬を出して頂けるかの? 書簡を預けるので、それを届けて欲しいのじゃ。それに早鳩にて書簡を届ける旨の伝書も忘れずにのぉ。さぁて、文を認めるとするかのぉ」
「ははぁ、畏まりましたぞ。いやぁ、これは一安心。いやぁ、誠に助かります!」
 そう言いながら猪肉を片手に掴んで、ガントスは深々と頭を下げて部屋を出て行った。

 セネルは部屋にある立派な机に向かった。同時にジェノが書簡の準備を手際よく整えると、セネルは暫らく考え込んで、徐に文を認め始めた。書簡を書きながらセネルは彼女に話しかけ、ジェノが素知らぬ振りをして耳を欹てている。
「のぉ娘さんや、これから何か当てがあるかの? 済まんが手伝ってくれんかのぉ? お前さんなら、きっといい仕事をしてくれそうじゃて。どうかのぉ?」
「ええ、ここら辺りには居ないみたいだし」
「ほぉ、誰ぞ探しておるのかのぉ?」
「ううん、何でもないの。それに、わたしは急いでも仕方ないし、おじいちゃん達のお仕事も、何だか面白そうね!」
「ふぉふぉ、その心意気じゃて。前向きなのはそなたの良き性格じゃ。もしかしたらじゃが、ワシ等にも、お前さんの手伝いができるかも知れんしのぉ。済まんが、宜しく頼むぞ!」
 ジェノが嬉しそうである。真正直な若者である。彼女は、これから待ち受ける出来事へ挑む期待感で一杯に満たされている。二人の反応に満足しながら、セネルがファウナ首長宛への書簡を認め終わると、その書簡は漆の木箱に納められ、更にその木箱は当駐屯地の徽章が刺繍された絹に包まれた。外様からもこの書簡が徒ならぬ物である事が覗える。

 小屋の最上階で、角笛が静かな森一面を揺るがさんとする程に一際大きく吹き鳴らされると、書簡を持った事務長が護衛隊四名を編成して、東門より脱兎の如くトルーパを駆け馳せて行った。四名の護衛隊員が、ディアーナ行政府の徽章を旗印にして、その背に抱えている。一時(ひととき)に二十五里(約98㎞)を駆け抜ける駿足のトルーパにしがみ付く様に事務長が跨って、護衛隊の四名は颯爽と徽章を風に靡かせ小さな森を駆け抜けている。トルーパの一団が休む事なく駆け抜ければ、明日正午頃にはファウナ南東の望楼に到達できるだろう。
 徽章を旗印にするは、その一団が正規軍である事を物語る。その橙色の徽章が森の深緑に交じって一層美しく、そこに小屋とはいえ精鋭の正規軍が駆けている事実を如実に物語っている。正規軍を繰り出すは戦かそれに近い緊急事態でしかない上に、この駐屯地で正規軍が起てられたのは実はこの時が初めてであったから、何事かと多くの職人や旅人、果ては護衛団員までが一斉に集まってきた。その期を捉えてガントスは全員を集めて説明を始めた様子だ。“うおぉ!うおぉ!” という声が小屋を揺らす。拍手喝采する者達もいる。未だ何も解決していない筈だが、皆希望に満ち溢れた顔で喜び合っている。小屋とは云えこの地を預かる者だけあって、流石に人心掌握は巧みな様だ。

「ふむ……こりゃぁ、失敗は許されんのぉ」
 早馬がファウナに着いて先方から回答が戻って来るのは、四日後正午頃であろう。徐にセネルが机に向かい直して、もう一つ文を認め始めていると、興奮冷めやらぬ様子でガントスがドヤドヤと部屋に入って来た。入って来るなり “一安心、一安心” と一人合点しながら、再び料理に挑み始めている。
「おお、ガントス殿いい時に来てくれた。ディアーナ行政府にも同じ書簡を出しておくが宜しかろうて」
「左様でございますなぁ。いや、私とした事が母団への連絡を失念するところでありました。うむ、では早速に手配致しますぞ。万事お指図下さい。うわっはっはっ!」
 ガントスは頗る上機嫌でいる。
 やがて事務員が同じ仕様の木箱と絹衣を持って来てそこに文を納めると、今度は角笛を鳴らす事もなく旗印を背負う様子もなく、しかし護衛団は八名に増員されてディアーナにある母団に向けトルーパが掛け出て行った。母団に着くのは、例え昼夜を疎わずトルーパを乗り潰したとしても優に三月(みつき)を要する。故に書簡の内容を要約して数羽の早鳩も同時に放たれた。結果的に、厩舎には一匹の鳩も残っていない。トルーパですら既に三匹しか残っていない。人に限らず、小屋が総動員して動いた証である。

 セネルは、ガントスに向き直って今回の書簡の内容に付いてゆっくり説明を行った。その書簡は、セネルが知る事実を粛々と書綴り、次に事実から垣間見える第三者の存在を示唆し、最後に、その目論見が両地の反目を起こす為の一材料と懸念される事、更に軽々には “嵌められまいぞ” との忠告と、両地の解決の為の仲介をする旨を書き添えたものであった。
 ガントスは至って神妙に聞き入ると、大きく頷きながら、小屋の印章に不自然がないか調査している旨を報告し始めた。仮にファウナ側の回答にある様な正規発注であれば、印章押印が必須であるからだ。而して、一つしかない印章は矢張り厳重に保管されているとの事であった。
 ジェノが話に割り込んで尋ねている。
「最近、ここの印章が使われたのはいつ頃ですか? 何か使用履歴はありますか?」
 すぐ様、帳簿類が運ばれてきた。几帳面な字で整然と綴られている。様々な商業団体や護衛団、加えて個人商店主や一個人迄が、この地の良質な木材を求めて贖いにきている履歴が読み取れる。ジェノはこの中で一個人に着目して、ガントスに質問している。
「この個人客の支払はどうしてるんです?」
「いやいや、先程皆さんで話されてた様に、一個人だとその場でお支払い頂きますよ。ああ、でも領収に我方の印章を使う事はありませんなぁ」
「ここ駐屯地で商品を贖って支払ったら、直ぐに出立するんですかね?」
「いやいや、この地は僻地ですので、たいてい数泊される事が多いですなぁ」
「逆に行政府やら商主の方々は、事前に発注されて来るんですか?」
「左様でございます。彼等は発注書に矢張り我々同様に印章を押しておりますし、古くからお取引があるので、印章が違ったら直ぐに分かりますなぁ。
今のところ怪しい者はおりませんなぁ……あっ!」
 ここまで言って、ジェノが言いたい事がガントスにも漸く伝わった。氏素性が分からない者がこの地に来ているという事実に漸く気付いたのである。僅かな木材購入の為にこの様な僻地に足を運び、現金払いをして宿泊した上で出立した者がいる。仮にその者が事務所に夜半忍び込み印影を写し取ったとしたら、印章を使用した記録にも残らずしかも容易に偽物を作ることができるではないか!
 早速、個人客の台帳が洗い出された。
「まぁそうは言っても、この中にいるかも知れない程度ですけどね」
「いやいや、この中にしかおらんです!」
「でも一人一人裏付けを取ってくのも、さぞかし難儀でしょうね。何か上手い方法があるといいんですけど」
「いやいや、ここは意地の見せ処ですぞ! 虱潰しに当たりますわい!」
 ガントスの鼻息は荒い。が、頼もしく思える。この中に所在不明な個人がいれば、仮説の一端は検証される事になる。事務員が活発に仕事を進めている。その懸命に職務を全うせんとする姿に、セネルは純粋な気風を感じた。
 セネルは常日頃の研究の為に、原野か洞窟か険しい岩山か鬱蒼とした森か、何れにせよ余り人のおらぬ処にしかいない。稀に都市に立ち寄る事もあるが、大抵素性を隠してジェノの名義で宿泊しているにも拘らず、どういう手立てかセネルを見つけ出してきて講演を依頼して来る輩も多い。これは人付き合いの苦手な彼にとって、獣に襲われるよりも苦痛であった。必然と人付き合いを避ければ、自ずと普段の人々の生活を垣間見る機会は極めて少なく、逆にこれが故にこの地の人々の有様は実に新鮮に思えた。“良き処じゃのぉ” セネルのこの呟きをガントスは聞き逃さなかった。
「いやいや、何でしたらいつ迄でもご滞在下さい。大歓迎ですぞ!」
「ふぉふぉふぉ、そうも言っておられますまい。ファウナ側の返答次第でかの地へ赴きますぞ。それ迄は、済まんですがご厚意に甘えさせて頂きますぞ」
 先程迄の喧騒を余所に、小屋は漸く落ち着きを取り戻している様だ。

 それまで大人しく話を聞いていた彼女が口を開いた。湯屋に向かう途中の武具屋で聞いた話らしい。
「パラス近辺で盗賊団が目撃されたって聞きました。ハルモニア近隣の一団かしら?」
「ええ、その事なら私の耳にも入っておりますな。ただ、ハルモニアの一団とはまた別の奴等の様で、新興の厄介な奴等です。我が護衛団もパラス正規軍も神経を擦り減らして、奴等の動きを見張っております。が、如何せん神出鬼没な連中でして……ふぅむ、今回の件にも絡んでおるやも知れませんなぁ。
それにしても、武具屋の奴め! お嬢様を不安がらせるとは! いやいやご安心下され。警護は怠りなく行いますぞ!」
「あっいえ、わたしはお嬢様じゃ……」
「ふぉふぉふぉ、実はのぉ、色々あって、ふぅむ、何から話そうかのぉ……」
 ガントスは何を勘違いしたのか、ハッとして両手を突き出し首を横に振るなり、次で右手を胸に宛い深く肯いている。
「いやいや先生、ご事情は推察仕る。万事、このガントスの胸の内に仕舞っておきますぞ。いやいや、実にご聡明で気丈なお孫さんじゃ」
「ふぉふぉふぉ、そうでなくてのぉ……」
 悪い事をしたとセネルは彼女を見るが、彼女は肩を揺らして含み笑いを懸命に堪えている様子だった。ジェノも同様で、セネルに救いの手を差し伸べる様子もない。
「すまんのぉ」
「ううん、おじいちゃん気にしないで」
 セネルは彼女の言葉に救われると同時に、暖かな安堵感を覚えずにはいられなかった。彼女は未だ笑いが零れて仕方ない様子でいる。ジェノは可笑しさを堪えながら、一行に与えられた四日を如何に過ごすか提案している。図らずも、獣人と出食わした場所を入念に探索し直す事で意見が一致した。闘い後の獣人の行方が気掛かりだが、ガントスに依るとその後に荷を取り返しに来た気配はないという事であった。態勢を整えて戻って来ると考えていた彼女には、その事が意外で気になって仕方がない。獣人に限らず、所謂、人語を解する“神獣”の部類は言を左右しない特徴がある。仮に約定を以て荷を牽いていたとすれば、途中で放棄する事は考え難い。絶命する程の致命傷は与えていないにも拘らず、獣人共はなぜ諦めたのか? 或いは未だ取り返す機会を狙っているのか? 既にファウナとディアーナ向けに護衛団都合十二名が出陣し、残りの護衛団は八名である。今の小屋の守りは頗る薄い。
 彼女は、万一の獣人襲撃を想定していた。
 城内の職人や旅人の誘導・護衛の為に四名の護衛団員を配置したとすると、彼女を含めた五名で五体の獣人と対峙する事になる。前回は夜の闇が味方してくれた。しかし生態的に視力や視界に難のある獣人が、仮に今回奇襲して来るとすれば、日中に他なるまい。しかも前回は予期せぬ闘いであり、今回は用意周到に準備された闘いとなる。獣人共の必死さも比べ物にならないだろう。新たな群れを造る目論見があるとすれば尚更である。
 近隣に応援を要請するにも、この僻地では到着に時間が掛かり過ぎる。仮に城門を閉ざして城外で五名の護衛団が対峙するとして、もしも護衛団が壊滅すれば、如何に屈強な城門と雖も獣人の怪力を以てすれば容易に破壊できるだろう。残る四名で職人達を護衛しながらの闘いには希望が見出せない。仮に秘密裏に事を勧める目論見であるならば、小屋全員の口を封じようとするだろう。やがてこの小屋は全滅し累々と屍を重ねる事となるであろう。
 一方で、襲撃を受ければセネル達の仮説を裏付ける事にもなる。獣人が鉄鉱石欲しさに襲撃するなど有り得ないし、食糧欲しさであったとしても過去に人の集落を襲ったという事例がない。よって荷車を取り返す為、即ち、荷車を牽いていたのが獣人自身である、という事実が幾多の命を犠牲にして明白になる。年老いた者、幼い者、故郷に家族を残した者、その者共の苦痛と無念に満ちた残姿が、そして草木と化した小屋の跡が事実を明白にしてくれる。鉄鉱石一荷の大き過ぎる代償として、無言のままで事実を明らかにしてくれる。
 獣人共が諦めたのか否か……小屋に集う人々の命を繋ぐ為に、彼女達はあの場所へ行かなければならなかった。

 一行が装備を整え終ると、城門に三匹のトルーパが用意されていた。これに身軽く跨って、昨晩のあの場所へ馬を馳せれば、小一時間でその地は現れた。
 夕暮れの木漏れ日が美しい森の小道は、思ったより狭い道幅であった。右手はなだらかに滑り落ちて蜥蜴がいる川と交わっている。左手は亜高山の針葉樹が何処までも続いている。耳を澄ませば小鳥の囀りが清々しい小道である。昨晩、この地で命がぶつかり合った。一歩間違えばこの地で三人、この美しい小道に永遠に留まっていたであろう。
 一行は、昨晩獣人共が消える様に森の闇に沈んで行った左側辺りを探ってみた。あちこちが踏み均されているのは、既に護衛団が調査した後と推察される。一行は、尚も雑木林の奥に進んで行った。ひと一人がやっと擦り抜ける程の幅で乱雑に自生している木々を潜ってゆく内に、小じんまりとした空き地が現れた。その空き地の前方は、蔦が複雑に絡まり行く手を阻んでいる。右手に折れれば森伝いに小屋に近づくが、獣人であれば本能的に人間の集落を避けるであろう。而して左手は辛うじて進める気配である。浅手とは云え傷を負った獣人は、先ず身の安全を確保するに違いない。だとすれば、獣人は左手奥に進んだ筈である。その左手先へ進めば、森は益々樹勢を誇り明りを遮って自然が牙を剥き出しにしてきた。ある一本の樅の灰褐色の樹皮が窪んでいる……棍棒で殴り付けた痕だろうか。

 一行が森深くに沈んでどれ程経過しただろう、小屋で貰った除虫液もその効果が薄れつつある。伐採職人を保護する為にこの地で生成された物だけに、蜂や蜘蛛に悩まされなかったものの木酢で造られたこの妙薬は臭いがきつい。その強臭に耐えながら一行は妙薬を都度々々振り掛けて、やっとここまで辿り着いた。獣人の嗅覚が優れていれば彼女達の動きを察知できたであろうが、幸いに聴覚以外の五感は劣後である。故に気配を悟られる事なく、一行は尚も存分に探索を続けていった。
「この先は群狼の縄張りに繋がるわ」
 傷付いた状態で群狼の縄張りに侵入するのは、如何に獣人と言え危険極まりない。しかし獣人の巨体を隠すべき場所も見当たらない。ジェノは可能性を検討してみた。
「まさか川に降りたのかもなぁ」
 すると、彼女が珍しく即応した。
「ううん、獣人は水が嫌いよ。それにさっきの樅の木の窪み、殴ったんだわ! かなり怒ってるわね」
「ふぅむ、水が嫌いとな? それは初耳じゃのぉ」
 彼女は、そう考える事実を普段の様子で懐かし気に語り始めている。思えば彼女が自分自身の事を話したのは、これが初めてである。
「もう三年位経つのかしら……わたしね、クロノスから渡って来たの。着てからも長い間、激しく雨が降り続いてたわ。初仕事がね、ダミアでの旅団護衛だったの。その道中でね、どこかで道を間違ったのね、獣人の群れと鉢合わせ!」
「えっ! よく助かったねぇ」
「そう、それよ若先生! でも、獣人達ね、寄り固まって岩の窪みにじっとしてた。何日も雨が降って食べ物も少なかった筈なのに、じっと耐えてた」
「ふぅむ、獣人に限らず多くの生き物は無駄に食糧を保管はせぬのぉ。雨が続けば腹を空かしておるであろうに。雨に打たれるのを嫌がった可能性はあるのぉ。じゃが、水が嫌いとは言い難いぞよ。
……いや待て待て、獣が水場に集まる事があるのぉ。色々な種がこの場では争う事なく、警戒しながら群れを成して集まるのぉ。ふぅむ、ジェノや、その方そういう場に獣人の群れを見た事があるかの?」
「いえ、先生。獣人の群れが他の群れと一緒に居る事など有り得ません! 至って縄張り意識というか独占欲が強いですから」
「ふむ、では獣人の群れだけが、水場を占拠している処を見た事があるかの?」
「いえ、獣人が水場に限らず、水を飲んでいる姿すら見た事はありませんが……。でも、水を飲まない生物がいるとも思えません」
「ふむ、確かに多くの生命体には水分補給が必須じゃが、神獣類はどうじゃ?」
「あっ、いえ確かに神獣類は水分をあまり補給しませんが。まぁ霊獣類も同様で、こっちは皆目ですけど」
「獣人は外様が人に似ておる。似ておるが故に我々同様と思ってはならぬのかも知れぬのぉ。ふぉふぉ、好きか嫌いか……面白い切り口じゃて」
 生来、学者の二人にとって彼女の経験則は新鮮な響きを持っていた様だ。
「しかし、先生。それは観察者の主観であって、生態系を特色付けるものではないと思いますが」
「ふむ、その通りじゃて。じゃが、神獣・霊獣・獣人にせよ、共通の言語を持っておるな。人語すら解する様じゃ。それじゃて、我等人間は連中の言葉を解し得ておるか? 確かに連中は道具を造らんのぉ。じゃが、知性は我々だけに与えられたと云えるかのぉ?」
「知的であれば感情の発達もあるという事ですかぁ。確かに豊かな表現力は、豊かな感受性を助長させるとは思いますが」
「ふっふっ、結論を急ぐでないぞ。ワシ等の視点はこのままでも良いかどうかじゃな。ふっふっ、面白いのぉ」
 確かにこれ迄のセネル達の研究は、生態系の分類に関して、解剖学視点や特徴的な行動様式に着目して、環境との関わりの中で定義付けてきた。神獣や霊獣の類が水分を摂らない事実--正確には、“その生命維持の為に水分を殆ど必要としない”と言うべきだが、この事実を世に問うた時は当然の如く冷笑を浴びた。だが今日では、解剖学的検証や生活環境の検証を経てこれを立証し、子供ですら知る処となっている。
 しかしこれ等の知性体が感情を持つか否かの視座を、セネル達の研究家は有していなかったのである。研究の対象範囲が広がる喜びを子供の様に二人が喜んで語り合っている時、彼女が急に立ち止まった。
「この痕、新しいわ!」
 絡まる蔦と一緒に殴り付けられた痕は、確かに生々しい。一行に緊張が走った。この鬱蒼とした森では、巨体の獣人は身動きが取り難く、彼女は槍を振り回す事ができない。それでもここで出食わせば、力技に勝る獣人に幾分かの歩があるかも知れない。
「引き返しましょう。獣人達はまだこの森にいる! 傷が完全に癒えるのを待ってる……傷を癒す必要があるからだわ。だから、今もどこかでじっと耐えているわ!」
 彼女は獣人共の奇襲を確信した。獣人共は、己等の誇りの為に、満身に力を込めて闘いに臨んで来る。新しい群れを造る為に、命を賭して仕掛けて来る。自らの将来を切り開く為に、その存在を掛けて襲ってくる。“一刻も早く小屋に戻らなければ!” 彼女のその確信は、そのままセネル達にも伝わった。



 セネル一行が小屋に戻って来た。戻って来るなり寄宿舎の三階まで駆け上がると、三人の様子に驚いたガントスが直ぐに自室にセネル達を招き入れた。セネルは煙草を深く呑みながら、気持ちを抑えてガントスに語り始めた。
「のぉ、ガントス殿。昨晩の件、護衛団の調査結果や如何であったかの?」
「ええ、獣人五体の件ですな。荷車近辺を探索しましたが、何処かに霧散した模様との報告を受けました」
「荷を諦めたと捉えたのかの?」
「ええ、犬を放ちたくても、蜘蛛やらに刺されると厄介です。なので目視での調査ですが、あの巨体が見つからぬ筈もありません。夜陰に乗じて川を下って逃げたと判断しておりまする」
「ふぅむ、はたして、そうかのぉ? 獣人共の逃げる理由や如何に? 果たして獣人が、人間に怖れを成して逃げ失せるかの?
獣人共が新しい群れを造る為に誰かと約定を結んだとすれば、連中にとって荷は自分達の物という事じゃな。即ち、我等こそが荷を盗んだ張本人になるのぉ。その荷を人知れず廃棄する事を約束していたとしたら、獣人の行動特性からして必ずや約定を果たさんとするであろうのぉ。つまりじゃ……」
「じゅ、獣人共が荷を取り返しに、こ……ここを襲うと仰せられるか?」
「左様じゃて。森の奥でのぉ、真新しい獣人の痕跡を見たぞよ。まだ、かの地に潜んでおる、そうワシ等は踏んでおる」
「ま、まさか……しかしながら先生、では何故、昨晩いや今日でも襲って来んのでしょうや? 守りの薄い今こそ獣人共にとって絶好の機会ですぞ?」
「ふぉふぉふぉ、ガントス殿。獣人共をしてこの地が手薄か否かをどうして知る事が出来ようか?
獣人共にとってはのぉ、ワシ等が荷を盗んだ張本人じゃ。ただ、それだけじゃて。死に物狂いで取り返しに来るじゃろうて、新しい一族の誇りの為にのぉ。きゃつ等とてこの地を襲えば無傷では済むまい……そんな事は百も承知しておる。それでものぉ、命を掛けるに足る己の誇りの為にのぉ、死に物狂いで取り返しに来るじゃろうて。
そうは思わんかのぉ? ガントス殿」
 ガントスにも緊張が走った。立ったり座ったり落ち着かない。出立した護衛団の逗留予定地に伝書鳩を飛ばして帰還を促すにももはや時間がない。多くの人命が彼の双肩に掛かってきた。この小屋の維持は、母団にとっても重要事項である。今この地を失う訳にはいかない。人命と共に経済事情も重く圧し掛かってきた。
 やがてガントスは、腕組みして椅子に深く座ったまま思案し始めた。而してその結論は、人命も小屋もこの地の全てを守り抜く! 而も現在の陣容で守り抜く! ガントスは、カッと目を剥いてセネル達を真っ直ぐに見た。その様子が徒ならぬ決意を感じさせている。
「私も僻地とは云えこの駐屯地を預かる身。旅人も職人もこの地の全てを守り抜く覚悟です! 本来ならば先生方、安全確保して守衛堅固な都市へお送り申し上ぐるべきなれど、伏してお願い申し上げたい!
我々と共に闘って欲しい! 我々の陣頭に立って指揮を執って欲しい!
私は或いは、天下国家の要人を危機に晒した愚人としての誹りを末代まで受くるやも知れませぬ。なれど、なれども恥を忍んでお願い申し上ぐる! 今の手勢では我ら城門を閉じて怖れ隠るるのみ。いずれこの地は草木と遺骸の山と相成りましょう。この地を拝命した私が獅子奮迅して指揮執るべきところ、悲しい哉、私には知恵が足りませぬ。私は……ワシはここが好きなんです! この地をずっと残したいんです! でも、情けない程に知恵が足りませぬ。
何卒お願い申し上ぐる、我等と共に起って欲しい!」
 ガントスは瞬き一つせず、丸い目を充血させて真っ直ぐにセネルを見据えながら、深々と頭を下げた。ガントスの言葉が終るのを待たず、セネルはガントスの両肩を両手で鷲掴みに強く握っていた。
「命惜しさにワシ等が失せるとお考えか? それなら早朝に出立すれば済む事ですぞ。何ゆえこの地に留まり、昨夜争いし森に戻りて詮索しましょうや? 既にワシ等はそなた等と共にある覚悟ですぞ!」
「先生! このガントス、愚人なれども御恩は終生忘れませぬ! 必ずや、必ずや生き抜いて、いつかきっと、いつかきっと先生のお役に立って見せまする! 必ず、必ずお役に立って見せまする!」
「ふぉふぉふぉ、ガントス殿や、その意気やよし。その心持ちがあればこそ想いは遂げられましょうぞ。ささっぁ、早速に対策を立て共に闘いましょうぞ!」

第五話 襲撃の前夜

第五話 襲撃の前夜

 ジェノが、手際よく昨晩の遭遇を起点にして時間軸で対応策を纏めようと、手始めに獣人が受けた手傷の状況説明を彼女に促した。
 彼女は、一体は無傷、一体は右目上部から右頬に掛けて浅く、一体は右頸動脈を一体は右脇腹を何れも浅く、残る一体は眉間から鼻筋を通って顎まで裂いている状態でこの一体のみが深手を負っていること、浅手と雖も出血は著しく、止血し傷が塞がるのに丸一日は要する、との見解を身振り手振りで説明した。セネルは、彼女が冷静に相手方の状況を捉えながら闘っていた事実に、嬉しさと頼もしさを感じている。一方のジェノは、その説明に大きく頷きながら、生態的特徴として獣人の驚異的な自然治癒力を踏まえ、既に傷跡を残す程度に回復している事、しかし視覚機能が劣後的な獣人の行動特性として夜の戦闘は避ける事、従って今日中の襲撃の可能性は有り得ない見解を述べた。すると彼女がジェノの意見に被せて、獣人達が不十分な防具を補うため、樹皮を剥ぎ蔦編みして装備を整えるのに更に丸一日を要する筈と皆に伺った。即ち、強固なこの地を奇襲するにせよ、今の武具のみで襲い掛かる程に獣人は愚鈍ではない、可能な限りの装備を整えようとする筈という考えである。
「うん、獣人の知力は高いね。粗暴だけど確かに愚鈍じゃない。その可能性は高いな。ところで、闘ってみてどうだった? やっぱり、強い?」
 ジェノは獣人の身体能力の高さに着目して、彼女に意見を求めている。その彼女によれば、獣人の武器は棍棒のみ、加えて獣人の五体は闘いに不慣れ、それに……
「それに、獣人達ね、恐れている。怖くて震えている、そんな感じがするの。きっと、たぶんね、かなり若い獣人の群れと思うの。だから、ここに来たら恐怖を振り切る為にね、きっと、きっと死にもの狂いにね、闘ってくると思う」
 その彼女の不安を癒すかの様にセネルが言葉を繋げた。
「ふむ、奴等もまた怖れておるか。冷静に組織的に動いた側に勝機がみえるのぉ」

 獣人が奇襲を目論むのであれば明日早朝、十分に力を蓄えて襲うのであれば明後日早朝、獣人の行動特性に加えて小屋の態勢準備に要する期間が要となる。即ち、明日早朝の態勢と明後日では防衛線に著しい差異が出るからだ。
 そこで、ガントスより小屋の人容が現状どの程度かの説明があった。
 傭兵の人容は総勢八名で、その内の二名は数か月前に志願してきた新兵で実践経験は皆無である。残り六名の内の四名が経験豊富で実質的な戦力である。後の二名は傭兵経験こそ長いものの、その大半の期間をここの小屋で過ごしている。つまり、実践から相当な期間遠ざかっている状況である一方、小屋内での人望は厚い。職人の総勢は七二名で、戦闘経験はないとは云え、材木伐採中や苗木植樹時に熊などの動物に襲われれば、これを撃退できる程の腕力はある。また、万一に備えて小型弓を携帯しており、日々鍛錬する事こそないもののその扱いには慣れている。威嚇と自身が逃げる時間稼ぎの為、毒蜘蛛から抽出した毒壺も有しており、小屋にその在庫が十分に保管されている。材木調達の拠点だけに矢の材料には事欠かない。その安全を守るべき材木を購いに来ている旅人は総勢二四名であり、当然の事ながら実践的な戦闘経験などない。他に事務職員や首都銀行員に伝書屋、武具屋や道具屋、それに厨房を預かる料理人が居るばかりである。
 ガントスにセネル達を加えて総勢一二二名の内、男性が七六名で女性が四六名--これがこの駐屯地の人容の全容である。頭数だけなら獣人五体に十二分に対処できるものの、実践での戦闘経験者は彼女を含めて実質五名しかいない上に、全員を武装する程の武具はない。また、死闘が想定される場は、東門近辺の限られた空間である。ジェノは腕組みしながら思案した。獣人二体に対し二名が戦局を睨む場合、如何に効率良く獣人五体を分断させるか……七六名の動きと四六名の兵站とが鍵となる。
「獣人って組織的に攻撃してくるのな?」
「いえ、基本的に棍棒を振り下ろして来るだけね。稀に振り回すのもいるけど」
「だねぇ、それに身体構造的に胴体に比べて腕が極端に短いからねぇ。存外、獣人が攻撃できる範囲は狭いね」
「ええ、それに背後からの攻撃には、とても弱いわね」
「うん、成程ねぇ。如何に背後に回るかぁ……これが鍵になりそうだね」
ジェノは器用に小屋の全容を描いている。
「それにね、獣人って脚がとても短いからね、馬柵(まさく)みたいなのがね、有効じゃないかなぁ?って思うの」
「成程ねぇ! 馬柵の配置を上手くすれば、五体を分断できそうだね!」
 若い二人の闊達な意見を聞きながら、要所々々をセネルが補っている。
「馬柵とは良い手筈じゃ。獣人の身体特徴を上手く利用したのぉ。馬柵はのぉ、一列に配置せずに、交互に重なる様に配置するが良かろうて。それと、交差に配置した馬柵群との間にはのぉ、一定の空間を設けるのじゃ。獣人二体で一杯になる程度の空間じゃ! 馬柵を越える程に、五体の獣人は自然と二体一組ずつに分断してしまうのぉ。逆に、無理に分け様とすれば尚更に、五体は一所に固まるであろうよ」
 セネルの指摘は具体的な映像となって、彼女やジェノの脳裏に鮮やかに伝わっている。
「馬柵を越えて分かれた獣人を、更に引き離す様に、わたし達が仕掛けていけばいいのね」
「うん、その通りだ。獣人二体に対し傭兵二人と弓矢の掃射、兵站を上手く回せば断続なく闘える! 単体で持久力を頼りに攻めて来る獣人に対して、団体で組織的に動く人間の闘いになるなぁ。僕等は如何に意思疎通を強固にしておくか、これが重要だね!」
 満足気にセネルが全体を見渡し、深く煙草を燻らせている。
「ジェノよ、その通りじゃて。我等一枚岩の如くにのぉ、等しく同じ想いに染まる事が肝要じゃ。ここはガントス殿、宜しく頼みますぞ!
ふむ、後はのぉ、全体を捉える事じゃな。全体の戦局を見据える位置にのぉ、櫓じゃなぁ! これを建てる必要もあるのぉ」
「いやいや、馬柵や櫓でしたら、私共にお任せ下され。当に職人の腕の見せ所ですぞ!」
 ここぞとばかりガントスが会話に割り込み、愈々結論を得るべくセネルは彼女に話の矛先を向けている。
「するとじゃな、獣人の襲撃が明日か明後日か……そこが肝じゃのぉ。明後日であればどうじゃな?」
「それなら、わたし達に断然有利だわ!」
 彼女のこの言葉を聞いて、ガントスが俄然張り切って来た。ジェノの描いた小屋全様図に馬柵の位置が書き込まれていく。加えて即席弓兵隊の城壁配置とその人数、武具の保管場所や水・食糧の十二分な手配と配給手順、そして物見櫓の設営場所……小屋内部の配備が次々と確定していった。獣人共が全力で奪取せんとする荷車は、東門を潜って右手--即ち北側の伐採木置場に露骨に配置する事となった。

 明日か明後日か--獣人が仕掛けて来る時期を確定する必要がある。
 もし獣人の襲撃が明日であれば、馬柵は城内配置相当分しか組み立てられない。故に、東門は固く閉ざしたまま籠城して、城壁から弓矢を打ち下して抗戦する。さすれば獣人は小屋のあちこちに火を放って小屋を消滅させようとするであろう。鎮火は容易とはいえ、城門前の争闘となり小屋並びに伐採木の損傷は著しい。畢竟、矢を掃射しながら適宜打って出る局面も有り得る。いずれにせよ持久戦となり、精神的に脆弱な人間には不利である一方で、獣人は十分な装備を整えないままの奇襲となる為、矢を打ち込まれる程に体力を消耗するであろう。何れ近隣より援護隊が来るとしたら、頭数に優る小屋側に幾分かの歩があるものの、以降の小屋の存続は危ぶまれる。職人は仕事場を失い小屋は商材を失う。
 荷車一台の代償としては大き過ぎる。
 もし獣人の襲撃が明後日であれば、馬柵は十分な数を準備できる。故に、城門を開門する。而して、門前を南北に延びる街道筋にも馬柵を施して、獣人共を小屋に近づけない策を取る。闘争は門前の街道筋--上手く獣人を分断させれば、街道筋と門前或いは寄宿舎前での闘いとなる。また、籠城戦と異なり、開門された小屋に火を放つとは考え難い。即ち、火で焙り出さずとも、徒党を成して人間共が門を潜って湧き出してくる。これを小人数で対峙する獣人共には火を放つ余裕など有り得ない為である。獣人共は湧き出してくる人間を打ち据えながら、前へ前へと進もうとするであろう。仮に彼女の言う様に装備を整えているならば、前へ打って出る彼等獣人にとっては好都合な戦局となり、頭数で圧倒する小屋側にも勝機が見えてくる。明日早朝であれば小屋も獣人も共倒れ、明後日早朝であれば互いに有利な局面を創り出せる。誇りを掛けた闘いであれば、その闘いの為に全霊を掛けて来る。いや、全霊を掛けるに足る闘いを挑んでくる。

 セネル達は遂に確信を得た。
「うむ、獣人共の襲撃は明後日早朝じゃのぉ!」
 一同が深く頷いた。



 ガントスは、森に入っている職人とその護衛をしている傭兵達を呼び戻した。角笛が三度詠唱され、小さな森に響き渡っている。これが小屋に戻れとする合図である。そして、二階広間で休む者も南広場で寛ぐ者も武具屋も道具屋も料理人も、小屋に居る一同を一階の酒場に集めている。セネルはじっと腕組みをして、これから一同に説明する段取りを考察している。一方で、ジェノは手際良く闘いに備える小屋全様図を清書して、各員の立廻り方を箇条書きに纏めている。櫓は、東門頂上部と寄宿舎東外側の中二階に設けられ、東門櫓にはジェノが、寄宿舎中二階櫓にはガントスとセネルが陣取って戦局を差配する事となった。彼女は戻って来た傭兵達に挨拶に行った様だ。ただ、彼女の槍と鎧は整然と部屋に置かれたままで、闘いのその時を待っている。
 陽が傾き始め、城壁四隅に篝火が燈されている。寄宿舎の要所々々にも火が灯され、小屋全体が夜を迎え入れている。特に明々と照らされた酒場には、取り置きの名物料理が並べられている。やがて夜の闇が小屋を抱き、遠くで梟が来るべきその時を知らずに鳴いている。
 暫らくして、事務員がセネル達の部屋にやって来た。皆が揃った様だ。彼女はまだ部屋には戻っていない。屈託ない彼女の性格からして、多分他の傭兵達と意気投合しているのであろう。セネル達は静かに部屋出て酒場に向かった。

 酒場上席には演台が設けられており、既にガントスがドッカと腰を降ろして、地鶏のモモ焼きに豪快に齧り付いている。満月の様な丸顔に恰幅いい体格、それに実直な性格……彼は決して愚鈍でも無知でもない、人情味に溢れた人望ある男である。裏表のない常に直球勝負の男である。その彼がセネル達に気付くと、立直して上席を勧めている。その様子を見て、酒場の一同の視線が一斉にセネルとジェノに向けられた。ざわついていた酒場が一瞬にして静寂となった。
 壇上へ向かうセネルの眼に、彼女が他の傭兵達と一緒に酒場の最前列にいて、口一杯に名物料理を頬張っている姿が映った。セネルは、彼女と初めて出会ったエリュマントス山中での様子をふと思い出して、その目元が緩んだ。酒場の一同は、気難しくて偏屈で高名な学者との前評判を聞いていたので、これとは裏腹に、笑みを湛えた優し気なご老体の様子が意外で、驚きと親近感を持ってセネルを迎え入れている。これ程に暖かい視線で迎え入れられたのは、セネルの長い講演経験でも初めてであった。
 セネル達が着座すると、ガントスが佇まいを正して全員に語り始めた。昨晩の件からファウナ側の返答、獣人追跡調査結果に加え、今回の件の全容を包み隠す事無く冒頓に語っている。酒場の一同は各々料理を食べながらも、真剣にガントスの話に聞き入っている。そしてガントスは、獣人共がこの小屋を襲撃するであろう事も率直に話した。流石に一瞬の動揺が走った。
「さて、その獣人襲撃の対応策じゃ! 皆共よっく聞いておれ! 奴等にも奴等の理由はあるじゃろう。じゃがワシ等にも意地がある! この小屋を踏み躙られてなるものか!
よいか皆共、これからセネル先生ジェノ先生のお知恵を拝借して、ワシ等がここを守り抜くんじゃ!
誰一人死なせはせん! 守り抜くんじゃ! ワシ等が守らんで誰が守るかぁ! ワシ等は負けんのじゃ! 守り抜くんじゃ! よいか皆共!」
“うおぅ!うおぅ!” 拳を振り上げて酒場に生気溢れる怒涛の喚声が漲った。ジェノは、大衆の面前で初めて先生と呼ばれて思わず赤面しながらも、肌が泡立つ思いでこの声を聞いている。生き抜く事への真っ直ぐな執着心に、酒場が一杯に満たされていた。前衛に立つ傭兵達は、互いに肩を組んで生死を預け合う覚悟を示している。職人達は、固く握手してこの地でこの小屋と森を守り抜こうと決心している。偶然にこの時にこの地を訪れたに過ぎない旅人ですら、肩を抱き合って共に生き抜こうと誓い合っている。
 この共有感情を如何に持続するか--セネルはこの点に思いを馳せた。
 獣人を迎え撃つ小屋側の施策。決して一人の英雄に頼らず全員で事に当たる体制。そして皆の気持ちを一つに纏める人望。
 その何れかが一つでも欠け始めると一挙に崩壊する事をセネル知っていた。戦況を隠そうとすれば皆に不安が過る。逆にこれを露骨に明から様にすれば、不利な状況が一挙に加速する。セネルは慎重に策の説明方法を模索しながら演台に立った。
 希望に満ち満ちた眼が一斉にセネルに向けられ、再び水を打った様に酒場は静まった。酒場の一同をゆっくり見渡してセネルは力強く口を開いた。
「我々はのぉ、負けぬ!」
“うおぅ!うおぅ!” 学者らしからぬ開口に呼応して、酒場には割れん程の歓声が上がった。獣人がここを襲う理由、その行動特性から身体的特徴を平易な言葉で伝えながら、それが故に斯く行動するのだ、と各人の役割の大切さを易しく説いた。それぞれが各々の得意とする力量を果たせば、如何に獣人とは云え、恐るに足らぬ!セネルの説明は力強く集衆の心を捉えた。ジェノも昂揚しながら、職人達に馬柵の形状や数、配置、弓兵隊の配置と援護の間合いを力強く説明している。兵站を担う女性や旅人には、水や食料・矢等の防具の配付の時期と移動する場所を具に説明している。全てが理詰めで、漏れもダブリもなく整然と皆の腹に落ちている。彼女を含む傭兵達は、円座に陣取って互いの立ち回りを話し合っている。僅かな発言だけで、戦闘の力量は窺い知れる。彼女は、既に熟練者からも一目置かれている様だ。ガントスは傭兵、職人、旅人、小屋に常駐する事務員や武具屋、それぞれを廻りながら檄を飛ばしている。各々がそれぞれの仕事を自覚して意気揚々としている。

 セネルは全体を見渡して、彼女の居る傭兵達の円座に割り込んでいった。
「どうかのぉ?」
 傭兵一同に緊張が走る。今はこの地の一員であるが、元々は傭兵である。セネルの名を知らぬ筈もない。世界広しと雖も、セネルを知らなかった者は彼女一人であろう。
「うん、あのね」
 彼女が、屈託なく取り決めた立ち回りを説明した。彼女を含めた熟練者五名が前衛として獣人に対峙し、人望の厚い二名は職人で編成する弓兵隊の指揮に当たる。新兵の二名は兵站を助ける。その前衛五名は、馬柵を利用しながら五体の獣人を二体一組に分断すべく誘導して、分断後はそれぞれの組に対して二名態勢でその場への足止めを図る。決して深追いはしない。仕留めるのが目的ではない。撃退する事に重きを置いた戦略である。獣人が受けた傷の状況が何度も復唱されている。手負いの三体は何れも右側を負傷している。一体のみが顔面中央を負傷している。必然的に右側から獣人共に仕掛ける事となる。
 これを卑怯と罵る事勿れ。命を掛けた闘いでは相手方の弱点を最大限利用しなければならない。相手方への温情は、寧ろ相手方を愚弄する行為である。昨晩の彼女の闘いも又然りである。温情を掛けて獣人を逃がしたのではない。自らが生き延びる為に自らが逃げ切る為に、相手方の戦意を喪失させ威嚇したのである。当に賭けである。裏目に出れば命を落としていたであろう。闘いは常に命を掛けた大博打である。

 職人指揮の二名は、長弓を持って確実に獣人を狙撃するが、その掃射は足止めの為に行い、兵站指揮の新兵二名は、剣と楯を携帯して万全の守りを後方部隊に印象付ける狙いだ。前衛五名は各人が得意とする得物を使う。彼女は槍を、一名は斧を、二名は大剣を、残る一名は投物(なげもの)を使う様だ。彼女以外の四名は小盾を腕に装備するが、小楯で棍棒を受ければ腕が圧し折れ、その衝撃は肋骨を粉々に砕くであろう。ただ、盾を持つ事で気持ちに余裕が生じる。この余裕が戦局を冷静に捉え、獣人のみならず仲間の動きも抑えながら仕掛ける事が出来るだろう。前衛全員が軽量の全身鎧と兜を着用するは、流矢から身を守る為である。如何せん、即席の弓兵部隊である。しかも獣人の攻撃を須らく回避しながら仕掛けていく必要がある。前衛の運動量たるや想像を超えるものである。
 既に彼等は起ち上がって各人の動きを具に打ち合わせている。槍使いの彼女は単体で動かざるを得ない。斧や剣との間合いの違いの為である。獣人五体の中に飛び込んで馬柵の空間に誘い、分断を仕掛けるのが彼女の立ち回りである。残る四名は分断し易い様に左右脇手より仕掛ける。更に一旦分断した獣人が再集結しない様に、これも馬柵の配置を利用して立ち回る。

 職人達が馬柵製造に取り掛かった。獣人の身長・体重・腕力を計算して、撓りのある木材が選別されている。同時に容易に崩れぬ様に複雑な組木の仕様で構成される様である。棍棒の衝撃を吸収し、尚且つ獣人が乗っても崩れない、更に獣人の腕力を持っても容易には移動できない程の重量な馬柵である。故にそれぞれの配置場所で組立て易い様に工夫されている。丈夫で弾力があり、重量があるものの組立て易い、当に職人技の光る馬柵である。更に工夫すれば移動配置も容易にできるかも知れない。
“こりゃ新商品になるぞい” 
“商品名はなんがいい?”
“獣人柵はどうじゃ?” 
“もっさりしておるのぉ。小森柵ってのはどうじゃい?”
 職人達は、或いは闘いに敗れ儚く霧散する命運であってもなお、馬柵を作る事で命の灯を繋ごうとしている。旅人もまた、水桶の配置や配給の段取り、それぞれの役割分担を取り決め合っている。無駄なく無理なく、必要な時に必要な物が必要な場所に届く様に、職人・傭兵等の動きを聞き回って取り決めている。旅人とは云え、そもそもこの地に商いに来た商人であるから、実に効率良く手筈が決まっている様だ。事務方も武具屋も道具屋も料理人迄も、皆の間を忙しく動き回り情報収集に余念がない。全ての物資の供給元である。怖れ慄いて隠れる者など一人もいない。彼等もまた闘いに加わる覚悟でいる。
 当に、生き抜く事への真っ直ぐな執着心が、小屋一杯に満たされ、戦の準備が夜通し進められていった。獣人奇襲が明日早朝である可能性も無い訳ではないから、東門は固く閉ざされ、篝火が煌々と照らされている。
 職人は馬柵の製造に余念がない。旅人は部材や夜食の配給で忙しく動いている。傭兵達は城壁四隅に陣取って闇の中の動きを注意深く探っている。その活動が戦を強く意識させるからであろうか、それぞれが各人の役割を果たす程に、徐々に小屋全体に緊張感が高まっている様だ。
 ガントスがこの状況を捉えて、休める時に休めと半ば強制的に就寝を促している。寄宿舎二階には水の他に蒸留酒も振る舞われているが、酒に溺れる者はいない。生死の狭間にいる意識が酔いを醒ますのであろうか。目を外に向けると、煌々と灯りを燈す小屋と裏腹に、夜の闇は一層深くなって、時折風にざわめく木々ですら獣人の襲撃を連想させてしまう。粛々と出来上がってくる馬柵のみが、小屋の一同を安心させているのか、休む間を惜しんで皆で然るべき位置に配備して、皆が支え合って恐怖を振り払い、命を繋ぎ合おうとしている。

 否応なく夜は深く静まり、皆の口数も少なく無表情になっている。ただガントスのみが、満面の笑みで小屋中を忙しなく動いて声を掛け、充血した目を見開いて懸命に笑みを湛えている。それに呼応する様に、皆が不安を口にする事をグッ飲み込んで必死に耐えているが、何度も自身の立廻りを確認しながら、各人の言葉の端々には棘が立ってきた。血色も悪い。それでも言葉を必死に飲み込み懸命に耐えている。
“大声を上げて逃げ出したい”
“自分一人が居なくなっても影響はないだろう”
“この小屋が無くなっても、何れ同じ様な物ができるだろう”
“何故こんな処で頑張る必要がある”
“荷車を外に放置して持って行かせれば済むかも知れない”
“そうすれば助かるかも知れない”
“小屋の面目など自分には関係ない”
“誰が自分を助けてくれるというのか”
“いざとなったら皆逃げ出すのではないか”
“もし自分だけが死んでしまったら……”
 何人も同じ懐疑心を抱きながら、これを懸命に押し殺して必死に耐えようとしている。
“今はやるべき事がある”
“今はやるしかない”
 気持ちを支えているのは、ただそれだけだった。
 ガントスは懸命に表情を作りながら、大声で笑って忙しなく動き回っているが、それを能面な表情で皆は迎えている。それでもガントスは、懸命に微笑んで皆を鼓舞して、誰一人の命も失わせない為に必死の形相で微笑んでいる。一人ひとり名前を呼びながら、肩を抱いて “無理をするな、休めるときに休んでおけよ、心配するな大丈夫だ” と鬼の形相で微笑んでいる。ガントスもまた必死に耐えている一人である。



 どれ程の時間を耐え抜いたのだろうか、やがて城内に設置すべき最後の馬柵が--これでもかと云わんばかりに職人技が語り掛けてくる骨太で横広な三角錐の馬柵が完成した。それが配置される様子を小屋の全員が固唾を呑んで見守って、堂々とした防御柵が完備された瞬間、不安が安堵感に変わり、小さな森全体に響く程の歓声と成って木霊した。東の空が白み始め、小屋を祝福しているかの様にも思える程であった。
 小屋の歓声は絶ゆる事なく続いている。肩を抱き合って泣いている者、両手を天に翳して喜びを身体一杯で表している者、茫然と昇る朝日を見つめている者、水桶一杯の水を頭から浴びて生きている実感に心から感謝する者、大きく欠伸する者、己の宗派に則って神に祈りをささげる者……昨晩の無表情な各人の様子が一変し、一人ひとり生気を取り戻し始めている。
 職人や旅人達の安堵感が小屋一杯に広がる一方で、傭兵達の緊張は頂点に達している。朝日を受けて獣人の襲撃が始まれば籠城戦となる。可能性は極めて低いと云え、当に今はその時である。城壁四隅の櫓に立つ傭兵達は、更に眼を見開いて森を見据えている。だが彼女は他の傭兵と異なり、昨晩から見張りに立つ時以外は浅く床に就いて、旅人達の兵站や職人達の作業を手伝う事もなく、静かに寝息を立てていた。ジェノは、忙しく各員を廻って差配に余念がない。何度も状況確認をして廻り、皆の中に居て懸命に真摯に自説を説いて歩き、そして皆と一緒に歓喜の声を上げていた。セネルは、部屋の椅子に腰かけたままじっと夜を明かした。



 一仕事を仕舞えたジェノが部屋に戻って来た。ドッカリと床に座り込んで、彼女を見るなり頻りに感心している。
「流石に彼女は度胸が据わってますね」
「下手に立ち回って怪我でもしたら厄介じゃしのぉ。そなたも少し休むがよいぞ」
「いや、先生の方こそお先にどうぞ。僕は少々興奮してまして……中々、寝付けそうにもありません」
「ふぉふぉ、ワシもじゃて。さぁて、昨晩はああ言ったものの、獣人共は本当に襲って来ぬかのぉ」
「ええ、僕もそこは少なからず心配ですが。でも彼女の様子を見るとちょっと安心しますね」
「ふぉふぉ、やはり“職は人なり”じゃて。研究場でも味わえぬ緊張感じゃな。これを楽しめる程になるには、まだまだ未熟かも知れぬのぉ」
 陽は段々と高く昇り、小屋全体を明るく照らし始め、森の緑は爽やかに眩い光を浴びている。その朝日が彼女を起こした。緩く背伸びして床から起き上がると、早速に朝支度に取り掛かった。
「若先生、馬柵出来上がったみたいね。凄い歓声だったわ」
「そうね、ちょっと感動的だったよ」
「もう一踏ん張りね。街道筋まで仕上がれば十分だわ」
 姿見の前でサラリと伸びた栗毛色の髪を梳き終え、いざ見張りの交代に向かおうとする時、彼女はクルリと振り返って言った。
「大丈夫よ、おじいちゃん、今日は来ないわ。来るんなら朝日を背にして襲って来るはず。もう陽が昇っちゃったから、だから今日は来ないわ。安心して休んでね」
 にっこり微笑んで、彼女は部屋を後にした。セネルは頬笑みながら親指を建てて呼応した。
「ふぉふぉ、あの()は寝ておらなんだか。休みながらも、五感は砥ぎ澄ましておった様じゃのぉ。ふぉふぉ、やはり“職は人なり”じゃて。そう思わぬかジェノよ」
 斯く話し掛けながら、漸くセネルは床に就いて、大きく気伸びすると直ぐに睡魔に吸い込まれた。その様子を見ていたジェノも、床にゴロリと寝転ぶと大きく欠伸しながら、“職は人なりかぁ、先生かぁ……僕が先生かぁ。ふっふっふっ満更でもないかなぁ”と独り言を呟いて、やがて深い眠りに就いていった。既にガントスは自室で高鼾を掻いている。旅人の半数が二階の広間で明日に備えて休んでいる。職人もまた然りである。
 馬柵の為に木を削る音、木槌で組み立てる音が小屋に響き渡り、皆の安心感を促している様だ。一層高く強く昇る陽を受けて護衛団にも余裕が生まれている。
 決戦は明日早朝と決まった。明日を乗り切れば将来が切り開ける。木槌の音は一層軽快に小屋全体を賑わして、笑い声と一緒に小屋全体に響いている。セネルとジェノは、その音に誘われ深く眠りに就いたままである。



 果たしてどれ程の時間が過ぎたのだろう、ガントスが部屋を叩く音がする。セネルとジェノは、ほぼ同時に目覚めた。やはり、少なからず緊張感が残っていたのであろうか。ガントスは、部屋に入ると直ぐ現況の説明に入った。既に馬柵は必要数を完成し配置を待つばかりである。毒壺や弓矢、食糧や水、各人への防具の配付、須らく予定通りに完了したとの事であった。加えて手の空いた職人への弓の手解きを傭兵の者が行っているそうだ。明日早朝には全員が所定の位置に着く段取りも仕舞えている。東門と寄宿舎中二階には見事な櫓が建てられている。
「ふぅむ……では、開門し馬柵を設営するとするかのぉ。どうじゃ、ジェノや」
「ええ、愈々ですね、先生」
「では先生方、中央櫓までお越し下され」
「ん? あの()はどうしておるかのぉ?」
「馬柵に飛び乗ったり飛び降りたり、いやはや闊達なお嬢様ですなぁ。うわっはっは」
「ふぉふぉ、何か意図があるのじゃろう。さぁて、参ろうかのぉ。皆が待っておろう」
 三人は部屋を出て二階に降りると、多くの職人や旅人が出迎えてくれた。
「セネル先生、ジェノ先生見て下されや。ワシ等の柵、見事な物ですじゃろ」
 各々が各自の仕事振りを、胸を張って説明してくれる。生き生きとした仕事振りである。
「ふむふむ、皆よう頑張られたのぉ。感心なものじゃて。皆よう頑張られたのぉ」
 セネルもジェノも一人一人と固く握手しながら前に進んだ。寄宿舎前では、今や遅しと職人や旅人、傭兵達が集っている。二階の大きな窓を股越した階段を上ると、重層な中央櫓がシッカリと寄宿舎に設営されている。その櫓の中央には小屋の徽章が風に悠然と棚引いている。櫓に着くと、中央にガントスがその右手にセネルが左手にはジェノが立った。一同から割れんばかりの拍手が上がり、ガントスは大きく息を吸い込むと大声で叫んだ。
「さあ皆の衆、愈々この時が来た! 見よこの櫓を! 見よこの馬柵を! ワシ等の予測通り、明日には獣人共が来る! 来るなら来い! 蹴散らしてくれようぞ!」
 ガントスが拳を天に掲げると同時に、一斉に皆が軍声を上げた。“うぉぉ!” という掛け声と共に開門され、一斉に所定の位置に馬柵が組み立てられている。丸太組木の骨太で横広な三角錐の馬柵が次々と所定の配置に堂々と並べられている。ジェノが急ぎ中央櫓を降り東門櫓に登ると、毅然として皆に指示を出している。要所々々では傭兵達が立って警戒線を張っている。
「ご立派なお弟子さんを持っておられますなぁ。心強い限りですじゃ」
「ふぉふぉ、そうかのぉ? 今回の事が奴を育ててくれたのじゃろうかのぉ」
 セネルは、遥々ハベストを出た頃の事をふと懐かしく思い出した。つい最近までジェノはその頃と然して変わらなかった。そう、彼はエリュマントスの山麓から変わり始めた。いや正確には、彼女がジェノを若先生と呼んだ頃から変わり始めた。“ふぉふぉふぉ、いやいや、ワシではないのぉ。ワシではない。ふむ、あの()がジェノを化かしてくれたわい。ほんに頼りなかったがのぉ。ジェノの奴め、見事な化けっぷりじゃわい” セネルは嬉しかった。学者であると同時に教育者であるセネルにとって、これ程嬉しい事はなかった。人が互いに刺激を与えて育っていく--人付き合いの苦手なセネルには、到底出来ない事であった。我知らず、セネルは群衆の中から彼女を探した。その様子を察したガントスが櫓から身を乗り出して街道筋を指差した。
「おお、お嬢様なら、ほれ……街道筋北側の馬柵の間に居られますぞ」
 確かに、獣人を誘う馬柵の空間にいて頻りに歩幅を計りながら、仲間と身振り手振りを交えて殺陣廻りを決めつつも、時に城壁に構える弓兵隊に掃射の間合いを擦り合わせている姿も垣間見える。立木を獣人に見立てての鍛錬を繰り返しているのだろうか、熟練者から中々手厳しく指導されている様子だが、笑い声も混じって聞こえて来る。
 昨晩と同様に、生き抜く事への真っ直ぐな執着心が、小屋一杯に満たされてきた。もはや不安を口にする者はいない。懐疑心が生まれる余地はここにはない。



 陽が傾き始めている。寄宿舎の影法師が東の森に高く延びている。城壁四隅に篝火が燈され、寄宿舎の要所々々にも火が灯されると、小屋全体に夜を迎える準備が整った。明々と照らされた酒場には、出来たての名物料理が所狭しと並べられている。不安で眠れぬ夜は過去のものとなった。皆が充実した時間を共有して、ガントス号令のもと、休むべき者は床に就いている。そしてその時を待っている。
 夜空には弓張月が美しく輝いている。梟はその時を知ってか皆を讃える様に、やはり遠くで鳴いている。来るべきその時を待つ様に遠くで鳴いている。不思議な程の静寂にの中で、陽を呑み込んだ夜が小屋を優しく包んでいる。二階広間には、小屋で命を繋ぎ合う人々が充足感に満ち満ちて寄り添って休んでいる。豊かな人間味に満ちた顔をして静かに時を待っている。
 夜は益々深く、篝火は愈々明るく瞬いている。
 セネル達も束の間の休息を自室で迎えている。明日は獅子奮迅の活躍を強いられる三人であるが、妙に落ち着いた心持で就寝している。ここにきてからいつもそうであった様に、ジェノが鼻歌交じりに床にゴロリと寝転ぶのを見て彼女が言った。
「ねぇ、それって子守唄?」
「ん? 何だろう? 小さい時から知ってたんだぁ。何の歌だろう?」
「うふふ、変なの。それに、もう一つ寝床あるのに、そっちの方が休めるの?」
「だねぇ。もう何年もこうしてるなぁ。こっちの方がねぇ、何故だか落ち着くんだ」
「うふふ、変なの」
 彼女はクスクスと笑いながら小声で応えている。若者の普段着の会話を邪魔すまい、明日には或いは二度と話が出来なくなるやも知れぬ--そう気遣ってかセネルは寝入った素振りをしている。
「そんな処に寝て、親御さんに怒られなかった?」
「親かぁ……どんな顔してたかなぁ?」
「えっ?」
「ほら、もう二五年位前になるのかなぁ、ハベストで戦争があったそうなんだよね。君知ってる?」
「ううん、まだ生まれてないわ」
「はっはっはっ、だよねぇ。その戦争でね、親父もお袋も巻き添えにあったみたいでねぇ。僕が三つ位だったのかなぁ……一人っ子だったそうだから、セネル先生に拾われる迄はほんとに一人ぼっちでね。いやいや、結構みんなに可愛がられてたのかもなぁ。でなきゃ生きてなかったろうしねぇ。
それでね、家もないしさぁ、夜になるとね、いつも湖畔の椰子の根元でね、こうやって鼻歌唄いながら寝転ばってたなぁ。十年位こうしてたのかなぁ……ハベストはね、星々がとても綺麗でねぇ、今にも落ちて来そうな位に輝いてるんだよ。それでかなぁ、こうやって寝た方が妙に落ち着くんだよねぇ。
あっ、でも先生にはよく怒られてたなぁ。寝床に休め、風呂に入れ、手掴みで物を食べるな、本を読め、分からぬ事は何でも聞けってね。って事は、やっぱ親に怒られてたねぇ。
ただねぇ、どういう訳かこの癖だけは治らないんだよねぇ。何だか落ち着くんだよなぁ」
「……そうだったの……ごめんなさい。立入った事聞いちゃったみたいで」
「はっはっはっ、構わないさ。変な言い方だけど、それだからこうして世界中を旅して廻れるんだし。存外、幸せなのかもなぁ。もし、先生に拾って貰えてなかったら、今頃何をしてたんだろう? 相変わらず街の片隅で寝転んでたか、いやぁ、きっと世間を恨んでゴロツキにでもなってたかもなぁ」
「うふふ、それは無理ね。若先生は悪党にはなれないわよ」
「だなぁ、弱っちいからなぁ。悪党になる前にやられちまってるかもなぁ」
「うふふ、そうね」
「なにぃ、コイツめ!」
「あはは、でも頭いいから指導者には成れるわね」
「うんうん、それは育ての親に似たんだろう」
「うふふ、さっき酒場で皆を差配してた時ってねぇ、案外格好良かったわよ」
「うん? そ、そうかぁ? あはは、まぁあれだなぁ、我ながら自分に酔ってたかもなぁ」
「うふふ、そこがおじいちゃんと違うとこかもよ」
「あはは、手厳しいなぁ」

 “コホン” とセネルが咳払いをした。慌ててジェノは首を竦めて言った。
「おっとっと、そろそろ休むとするか。明日は早いしね」
「ええ、そうね。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
 セネルは若者の邪魔をした気拙さもあったが、それ以上に嬉しかった。ジェノが幸せと言ってくれた。自分を指して親と言ってくれた。小言ばかりで何もしてやれない……そう思っていただけに寧ろセネル自身の方が救われた。ジェノが居なければ原野で誰にも知られず躯になっていたか、ハベストに居たとしても誰に看取られる事なく一人旅立っていたであろう。生きていても死んでからも孤独に過ごしていたであろう。しかし、今のセネルには守りたい者達がいる。孤独な偏屈爺にも人として親として最後にやるべき事ができただけに嬉しかった。
 拾われたのはジェノではなくセネル自身の方であったのか知れない。“幸せなのはワシの方じゃて、ワシの方じゃ……” セネルは至福の感覚に抱かれながら眠りに就いていた。彼女もジェノも静かに寝息をたて始めている。



 やがて、二階広間では一人また一人と起き上がり、輝く月を見上げながら、各自の持ち場に就き始めている。ガッチリ握手を交わす者、拳を付き合わせる者、それぞれの表現で命を預け合っている。セネル達もまたその一人である。彼女が装備を整え終えると、三人はシッカリと見つめ合った。不安も恐怖もない、その瞳には信頼のみが宿っていた。
「行きましょうか」
 エリュマントス山麓の時と同じ様に彼女が口火を切った。彼女を先頭にして三人が部屋を出て東門へ向かわんとする二階広間で、一行を見付けた道具屋の女主人がゆるりと立ち上がりながら彼女を呼び止めた。
「娘さんや、髪を梳いて行きなさらんか?」
「えっ、いいんですか? ありがとう」
 彼女は嬉し気にそう応えると、一際大きな姿見の前に促された。広間の明りが美しく彼女を照らしている。道具屋の女主人は淡緑色の櫛で髪を柔らかく美しく結っている。丁寧に幾度となく髪を梳いている。丁寧に編まれた淡い栗毛色の髪には金色の髪飾りが添えられた。その様子をセネルとジェノが、いや広間に居る全員が暖かく優しく見守っている。彼女は女性でありながらも一人最前線に立つ兵士であり、同時に闘いに望むと雖も、どこ迄も一人の女性である。故に、如何なる時もどの様な状況下でも美しくありたいと願っている。そして広間の全員がそうしてあげたいと思っているのか、旅人であろう一人の婦人が朱紅を貸してくれた。
「惹いてさしあげましょう」
 小指に取った朱が淡くしかし鮮やかに彼女の唇を彩った。生き生きとした命が彼女の顔に艶やかに広がった。これを死化粧と云う勿れ。生き抜く覚悟で美しく飾るのである。再び彩り直す為に美しく飾るのである。
「さぁ、行きなされ。必ず戻ってきなされや。戻ってきてまた結って差し上げましょう。必ず戻って来るのですぞ!」
 彼女は微笑みながら真っ直ぐに立って道具屋の女主人に、いや広間に居る全員に応えた。
「ええ、きっと」
 その佇まいの一部始終を見届けると、今度はセネルが口火を切った。
「さぁて、参ろうかのぉ」
 セネルは中央櫓に彼女とジェノは下に降りて行く。もはや名残を惜しんでいる時ではない。持ち場こそ異なるものの、三人は三様の在り方で支え合っている。
 既に中央櫓にドッシリ腕組みをして待つガントスの眼は、若い二人が寄宿舎を出て行く様子を捉えている。そしてジェノは東門頭頂の櫓に掛け登りながらも、彼女に拳を向け互いの健闘を祈っている。微笑みを返しながら彼女は眼前に広がる戦場に怯む事なく、凛として城門を通った。彼女は門前で佇む人ではない。ただ前へ前へと進む人である。
 その彼女を傭兵の仲間達が迎え入れている。斧使いは大斧をガツンと拳で弾いて、大剣を操る者は利き腕の力瘤を見せて、もう一人はおどけて見せて、投物を扱う者は苦無を器用に指で転がしニヤリと笑って、それぞれが彼女を迎え入れている。彼女はクルリと槍を一旋回させてこれに応えている。命を預け合う覚悟を、各人の得物で各人なりに素直に表している。
 東門櫓でジェノが橙色に染めた布を首に巻いた。セネルはそれを左上腕に堅く短く、彼女はその槍に風が靡く如く縊っている。小屋の全員が何らかの形で橙色布を腕章の様に身に付けている。普段は何の効果があるのかと冷やかに扱われていた腕章であるが、しかし今この橙色の布こそが小さな森の小屋の一員である事の誇りを雄弁に語っている。その橙色の生地に染まる徽章の旗印が、中央櫓に流々と掲げられている。この小屋の人々にとって、ガントスには尚更のこと、これ程に対に戴く牡鹿の角の徽章が力強く感じられる事はなかった。この徽章旗はこれからの彼等の人生にあっても悠然と靡き続けるであろう。

 東より一筋の光が真っ直ぐに徽章旗を照らすと同時に、角笛が小屋の誇りを掛けて強く高らかに鳴らされた。朝日は滑る様に小さな森を駆け抜けて闇を緑に染めている。

第六話 舞い狂う砂塵

第六話 舞い狂う砂塵

 その昇る朝日を背に受けて、五体の獣人が胸を張って立っている。獣人共がいつからそこに居たのか分からぬが、整然と並んで小屋を睨み付けている。その様子は、小屋の面々と同様に様々な葛藤を乗り越えて来た事を如実に示している。徒に奇襲を掛けずに、堂々と正面突破の戦を仕掛ける事を選択した、潔い顔付きである。やはり獣人共は、許される時間を精一杯掛けて、可能な限りの防具を拵えてきた。ある者は熊皮を鎧に見立て幾重にも重ね着し、またある者は蜥蜴皮を鞣して急所々々を保護している。別の者は樹皮を重ねて闘いに備えている。その何れも器用に編まれた蔦で縊られ、シッカリと獣人の身体を保護している。それぞれの片手に、矢の掃射を浴びる事を想定してか、丸く削り摂られた木盾を固く握りしめている。
 一体だけ頭に布を巻く者がいる様だ。彼がこの群れの(おさ)なのだろう。その長が列の中央にあって、時を告げる様に一際大きな雄叫びを上げた。



 既に最前衛の四人の傭兵が、獣人共の武具を目視しながら素早く馬柵(まさく)の間に分け入って獣人を迎え入れている。東城門正面の馬柵は五列に交差して配列されており、五人の傭兵達にとってその馬柵の位置は、どの場所であれ目を瞑っていても分かる程に身体に叩き込まれている。ただ彼女だけは東城門前中央で毅然として、槍を天に垂直に建てたまま油断なく身構えている。
 棍棒を強く叩き付けるも圧し折れる事なく頑としてそこに踏ん張る馬柵とその配置に、獣人の突進は完全に封じられているのだろうか、前衛と獣人共の睨み合いは長く続いている。

 獣人共の威嚇が続く中にあっても、彼女は冷静に仲間の状況を目配せしている。
 彼女の右手前には、大斧使いのパロメが今や遅しと構えている。そのパロメの右下には、大剣を抜いて精神を研ぎ澄ませたタキトゥスが控えている。彼女の左手前には、大剣を下段に構えたバイゼルが火蓋の切られる時を悠然と待っている。そしてバイゼルの左下には、両手に苦無を携えた投物使いのスティナが気配を殺して控えている。彼女は熟練の傭兵達に囲まれて大きく息を吸い込みながら、雄叫びを上げる獣人共をキリッと睨み付けると、小気味良くその槍を旋回させ始めた。
 穂先の橙色布が艶やかな弧を描く。
 セネルがジェノが櫓からグッと身を乗り出した瞬間、迷う事なく彼女は獣人共に向かって駆け出した。寄宿舎二階に待機する者、城壁上部で弓を構える者、額に両手を堅く結び神に祈る者、顔面を両手で覆って絶句している者、小屋の全員が固唾を呑んで旋回する槍が描く橙色布の弧を目で追っている。

 角笛の音が高らかに響き渡っている。獣人共の雄叫びが被さる様に一面を揺るがしている。

 獣人四体が彼女の突進を受けて前に出た。彼女は襲い来る巨体に怯む事なく一列目の馬柵を軽やかに超えると、これを踏み台にして二列目の馬柵に跳び移った。この二列目と三列目の馬柵には獣人を誘き寄せる空間が設けてある。その空間の真ん中に、槍の橙色布が美しい弧を描きながら舞い降りた。
 四人の仲間は巧みに馬柵群を潜り避けながらも、同じ間合いを保って彼女を追っている。
“案ずるな、お前一人ではないぞ”
 彼女には仲間四人の意識が明瞭に聞こえていた。

 獣人共は外側の馬柵群を何とか乗り越えたものの、次に控える馬柵群に行く手を塞がれて、否応なく横列に並んでこれを避けざるを得ない。
 その機を逃さず彼女は、三列目の馬柵を素早く潜り抜け、先陣を切る熊皮の獣人に旋回する刃を差し向けた。立ち止まらざるを得ない熊皮の獣人を追い越すこともできず、後方に続く獣人三体は必然的に馬柵群に沿って左右に分かれ始めた。
 その刹那、熊皮の獣人に続く樹皮を纏った獣人に標的を定めて、パロメが身を低く構え満身の力を込めて、突進しながら大斧を振り上げた。その樹皮の獣人は棍棒で大斧の一撃を防いだものの、熊皮の獣人を援護する事能わず、立ち止まって大斧からの防戦に廻っている。その間も彼女の槍が描く橙色布の弧円は、容赦なく上段・左舷・右舷と旋回しながら熊皮の獣人を仕掛け、その場に足止めている。そこへ三列目の馬柵を足場にこれを跳び越えて、タキトゥスの大剣が上段より振り下ろされた。熊皮の獣人が、寸での処でその刃を木盾で受け止めたその一瞬間を点いて、彼女の槍が熊皮の獣人の右脇腹を裂き上げた。が、熊皮はかなり上手に編み込まれているのか、槍の刃を以てしても獣人の身体を傷付けるには至っていない様だ。
 直ぐ様、彼女は後方にクルリと宙返りして三列目の馬柵に飛び移った。彼女を追って熊皮の獣人が前に出したその足を再びタキトゥスが襲えば、今度は棍棒を地面に建ててこれを受け止める。いや、獣人が剣を受け止める前にタキトゥスはその一撃を途絶させ、後方でパロメが一人攻防している馬柵の方に素早く移動していた。


 先陣で攻防する二体とは逆手の左側に折れた蜥蜴皮を纏った獣人は、パロメ等の攻撃を受ける右側の仲間を援けたくともこれを頑なに拒絶する馬柵群に阻まれて身動きが取れず、止むを得ず左手に横列する次の馬柵群を懸命に乗り越え先に進もうとした時、一つの馬柵の隙間からバイゼルの大剣がスルリと突き出てきた。慌ててこれを避け様と身体を逸らして、蜥蜴皮の獣人は翻筋斗(もんど)り打って乗り超え掛けた馬柵から仰向けに転げ落ちた。その獣人の目に黒い影が覆い被さる。宙に跳んだスティナが苦無を六つ、上から浴びせ掛けたのだ。避ける間もなく、スティナの苦無が蜥蜴皮に突き刺さる。
 左手に折れた殿(しんがり)の獣人がやっとの思いで馬柵群を擦り抜け、転んで苦無を受けた仲間を懸命に抱き起こし上げている。獣人はその身体的特徴から、一旦転ぶと自力では中々起き上がれないのだ。
 馬柵群に潜んでバイゼルが身を低くして、転んだ仲間を抱き起こそうとする殿の獣人の右脇腹に剣を衝き立てようとした。が、一方の抱き起こされた蜥蜴皮の獣人がバイゼルのその動きを捉えてその腕を必死に伸ばし、手に硬く握り締める棍棒でバイゼルの剣を間一髪払い除けている。同時に、腕を伸ばした蜥蜴皮の獣人の無防備な背後に、スティナの苦無が四つ再び浴びせられた。が、今度は抱き起した殿の獣人が、精一杯に手を回してその苦無を木盾で受け止めている。
 互いに助け合った二体の獣人が気迫と共に体制を整え直す頃には、バイゼルは馬柵群に中に身を潜め、スティナは完全に気配を消し去っていた。何処から出て来るか分からぬ攻撃に、左手二体の獣人共は右手の仲間の援護に向かう道を完全に閉ざされている。


 右手三列目の馬柵の上で律直して槍を旋回させる彼女に、熊皮の獣人が再び突進を仕掛け、その力の凄まじさを示すかの様に、渾身の一撃で棍棒を振り下ろして来た。
 それより早く彼女は更に後方に宙返りし、誘うべき空間に舞い降りている。熊皮の獣人が振り下ろした棍棒は、三列目の馬柵にベシッと食い込むものの、熟練職人が魂を込めて造った馬柵は頑として壊れない。
 その熊皮の獣人は、橙色布の弧を描く彼女を厳しく凝視して、自分を狙う東城門の弓使いの存在にまだ気付いていない。その弓は、一晩の間、毒壺に浸された矢を番えている。頭に布を巻く長らしき獣人のみが、弓使いの気配を感じ取って何やら激しく言葉を発しているものの、鳴り止まぬ角笛の音と獣人共の雄叫びにかき消されて、その声が届かない。同時に狙撃弓の毒矢は、真一文字に熊皮の獣人向けて放たれた。瞬く暇も与えずに、放たれたその毒矢は熊皮の獣人の右肩を貫き、射抜かれた熊皮の獣人は、瞬激に一時気を失ったのだろうか前倒しに倒れ込み、その勢いで彼女が誘う空間に真正面から転がり落ちた。
 その熊皮の獣人を援けようと、後に続く樹皮の獣人が前に出る瞬間を再びパロメが捉えて、馬柵に攀じ登ると高く跳んだ。しかし、樹皮の獣人はパロメのこの動きを逃さず、棍棒を真っ直ぐに衝き出し迎撃態勢に入っている。
 パロメは舌打ちして “しまった! しくじっちまったぁ!” と思うと同時に、棍棒を衝き出す樹皮の獣人の動きに合わせて、空に跳びながらも手に持つ大斧を全力で投げ付けていた。熟練者のみが持つ思考とは裏腹の反射行動が成せる技であった。グッと体制を整え直した樹皮の獣人が旋回しながら飛び来る大斧を棍棒で見事に叩き落とし、同時にパロメが素手のまま地面に着地すれば、樹皮の獣人が千載一遇のその機会を捉えて、迷う事なく最後の一撃を食わせんとパロメの頭上に棍棒を振り下ろしている。

 小屋の一同が眼を伏せた。
 彼女とタキトゥスが、パロメのもとに援けに行こうとしている。しかし、そのパロメは着地と同時に一握りの砂を左手に掴んで、弾き飛ばされた大斧の行方を横眼で追うと、棍棒を振り下ろす樹皮の獣人の顔面めがけて砂を投げ掛けた。その獣人はパロメを絶命させんと大きく眼を見開いていただけに、その眼は砂の眼潰しの直撃を受けている。
 砂を投げ付けるを姑息と笑うなら笑えばいい。だが、命の遣り取りに刃を使わねばならぬ道理はない。自然の全てを味方にする者が勝者である。砂礫(すなつぶて)とて実直な武器である。
 タキトゥスが砂の眼潰しの成果を見届けるより早く、必死の形相で弾き飛ばされた大斧の方へ転がりながら向かって、樹皮の獣人が砂を叩いている隙に大斧を拾い上げ、パロメに目配せしてこれを投げ渡した。ガシリと大斧を受け取ったパロメは、前転しながら樹皮の獣人に接近し、その左膝頭を真横に裂いた。ドスンと片膝を付く樹皮の獣人に、タキトゥスが容赦なく襲い掛かる。しかし、樹皮の獣人はタキトゥスの大剣を木盾で受け流すと、棍棒を杖代りにして気合もろとも立ち上がった。
「脆き小人よ。今のは……今のは、よき一撃じゃぁ!」
 樹皮の獣人は、低く籠った声で明らかに人語を使って、パロメに向けてニヤリと笑いながら斯く語り掛けた。息を切らせながらパロメは応えている。
「何じゃぃ、お前わぁ言葉がぁ……言葉がぁ分かるんかい! じゃったら、それじゃったら、もう帰れ! お前達にはなぁ、お前達にはなぁ、勝ち目はないんじゃ!」
「脆き小人よ。そうもいかんのじゃぁ。
ワシ等にはワシ等の理由がある! お前達にお前達の訳があるのと同じじゃぁ! じゃから、下がる事なぞできぬ!」
 そう言い終わらぬ内に樹皮の獣人は棍棒を振り下ろした。
「下がらねば、倒さるるのみぞ!」
 タキトゥスの問い掛けにもニヤリと笑うだけで、力の限り棍棒を振り回している。その獣人の無茶苦茶な攻撃を避けながら、パロメもタキトゥスも愈々覚悟を決めた。
「是非もねぇ」

 パロメとタキトゥスは、互いに目配せて彼女の方を見た。予定通りに誘き寄せた熊皮の獣人の様子を探るためである。毒矢を受け転がり落ちたその獣人は、馬柵を掴んで立ち上がろうとしている。が、慌ててパロメを援けに行こうとした彼女は、別の馬柵に片足を掛けている状態で完全に相手に背を向けている。クワッ!と眼を見開いて、勝機を捉えた熊皮の獣人が、容赦なく背後から彼女を叩き潰そうと襲い掛かってきた。その獣人から発っせられる徒ならぬ殺気を背に感じた彼女が、慌てて振り向いた時や遅し、棍棒が振り下ろされ様としている当にその瞬間であった。
 彼女の動きが完全に止まっている。
“しまった! 駄目! もう避けられない!”
 彼女は死を強く意識した。走馬灯の様に色々な事が思い出される。その意識とは裏腹に、彼女の身体は固く硬直している。ただ振り下ろされてくる棍棒の様子だけがはっきりと見える。もう何も聞こえない。棍棒以外は全てが止まっている。異常な程に静かな空間が広がっている。ゆっくりと視野が移っている。薄れゆく意識の中で、彼女の緑色の瞳は、東城門をぼんやりと眺めている。その瞳の中に、真っ直ぐにジェノの姿が写った。指揮棒を天に向け律直している姿が見える。その先にはセネルがいる。中央櫓から転落しそうな程に身を乗り出しているのが見える。しかしその二人の姿も少しずつ淡く消え掛っている。ゆっくりと瞳が閉じられようとしている。
 パロメとタキトゥスが血眼になって三列目の馬柵を跳び越え、形勢が逆転した彼女を援けに向かおうとしている。スティナが脱兎の如く馬柵を潜り抜けている。バイゼルが潜んでいた馬柵から駆け出している。
 まさにその瞬間であった。
「一斉に放てぇ! 放つんだぁ! 一斉に放ってくれぇ! 放つんだぁ!」
 東城門の櫓に陣取るジェノが、力の限りの声を振り絞って号令を発した。“うおぉぉー!” という掛け声と共に、東城門から毒矢が一斉掃射された。無数の毒矢が熊皮の獣人に突き刺さる。その獣人が彼女への攻撃を途絶させ、木盾で顔面を防御し始めた。が、腕に腹に膝に無情に矢が突き刺さっている。後に続く樹皮の獣人が、眼前のパロメ達には眼もくれず盾も棍棒も投げ捨てて、馬柵を乗り越えようとしている。この忌々しい馬柵を乗り越えて、自らが盾と成って仲間を救おうとしている。
 その時、東城門の弓使いの矢が、一斉掃射に仁王立で耐える熊皮の獣人の横を嬉々として駆け抜け、必死の形相で馬柵に攀じ登ったばかりの樹皮の獣人のパロメに真横に切り裂かれたその膝に鋭く深く突き刺さった。
“グオォォォ!”
 激痛を覚え、毒矢をまともに受けた樹皮の獣人は、馬柵からゆっくりと倒れ落ちる。矢の掃射を耐えていた熊皮の獣人が、振りかえって倒れる仲間をガッシリと受け止めたが、その背中には無数の矢が襲い掛かっている。

 飛び狂う流れ矢に当たらぬ様に、漸く彼女に追い付いたパロメとタキトゥスが取り囲むように盾で彼女を守って、別の馬柵の裏に引き込んでいる。忽然とスティナが彼女の前に立った。そして血色を失った彼女の頬に右手を添えて、ゆっくりとしかしはっきりと話し始めた。
「落ち着け。いいか、お前は東城門下に走れ。あの二体を誘き寄せるんだ。お前はまだいける! お前はまだいけるんだ!
案ずるな、お前には俺達がいる。でもな、獣人を侮るなよ。素手でも十分に戦えるからな」
 そう伝え終えると、スティナは再び気配を殺した。スティナの言霊を受け、彼女の緑に澄んだ眼に力が蘇り、頬に血色が戻り始めている。やがて彼女はゆっくりと息を整え出した。

「奴等とはケリを付けなくてはならねぇ! 先頭二体の獣人共は、この()とワシでやる!
タキトゥス、お前はバイゼルを手伝ってくれぇ」
 パロメがタキトゥスに小声で囁いた。
「うむ承知した。無理するでないぞ」
 タキトゥスが大剣を真っ直ぐ上に掲げると、同時に毒矢の掃射が停止した。その合間を縫う様に、タキトゥスは左手側で孤軍奮闘するバイゼルの応援に向い、パロメと彼女は東城門下に走った。
「ご、ごめんなさい……わたし、あんなとこで固まっちゃった……」
「ああん? そりゃ、そうじゃろう。ワシだってよぉ、小便チビリそうじゃ!」
「あはっ、いやだぁ」
 一瞬にして、パロメは彼女の緊張を解き放った。城門下で生気を取り戻した彼女は、再びスックと立って槍を旋回し始めた。橙色布が描く槍の弧は、形勢が小屋側に移った事を語っている。


 左手では、三列目の馬柵群が作る影の中に、もう一人の剣士バイゼルが潜んでいた。ある時は馬柵の隙間から、またある時はそこから跳び出して、蜥蜴皮の獣人だけを集中して狙い、絶命させるには到らないものの確実にその動きを止めている。前に進めぬその仲間を置き去りにできぬ殿の獣人も、今でこそ無傷ではあったが身動き一つできないでいる。右手側で奮闘する仲間の一体がその全身に毒矢を浴び、別の一体は膝を割られて立っているのさえ精一杯の様に見える。援けに行こうにも、前に進めば苦無が大剣がトリッキーに飛んでくる。
「バイゼル、待たせたな。うん? スティナは如何した?」
「うむ、奴なら手持ちの苦無が切れた様じゃ。補給に本営に戻っておるぞ」
「ふぅむ、では……奴が戻るまで、踏ん張るとするか!」
 そう言うと直ぐ様、タキトゥスは獣人の前に打って出た。今でこそ無傷の殿の獣人が、タキトゥスを捉え棍棒を振り翳して襲い掛からんとする時、バイゼルが馬柵を踏み台に宙に跳んだ。前を行く蜥蜴皮の獣人が加勢に入ろうとするが、殿の獣人は手を広げそれを遮っている。その蜥蜴皮の獣人は馬柵に寄り添ったまま動きたくとも身体が自由を許さぬ様だ。おそらくは彼女の槍から受けた過日の額の傷は、かなり深いのだろう。重槍の刃は彼女が思っている以上に致命傷を与えるのかも知れない。
 朝日を受け忽然と現れた場所から頑として動かない長らしき獣人が、何度も加勢に入り込もうとするのを、その都度、今でこそ無傷の殿の獣人が遮っている様子だ。人には分からぬが、頻りに何かを叫び合って、その意を汲み取ったのか、獣人の長はきつく口を結んだままその唇は切れ、鮮血すら流れ落ち出している。
 人の眼には、この獣人共の行動はどう映っていたのであろうか。


 セネルは中央櫓に身を乗り出して陣取っている。
 戦場で懸命に闘う彼女達の一挙手一動を、瞬きする事なく見詰ている。幾度となく水を呑み込んでは、矢や水の補給を的確に指示している。同時に獣人共の立ち回りを具に冷静に観察している。彼の経験を以てしても、これ程に激しく動き回る獣人共を観た事はない。改めて獣人固有の身体能力の高さと身体構造と行動の関係をその眼に焼き付けている。
 右手側には、二列目と三列目の馬柵群が作る空間に誘い込んだ二体の獣人共を更に東城門下に引き付けている彼女とパロメの様子と、左手側には、二人の剣士が三列目の馬柵群に別の二体の獣人共を繋ぎ止めている様子が、この中央櫓から手に取る様に観える。
 弓兵隊と傭兵達との呼吸が合っている様だ。傭兵達が引くと弓兵隊の一斉掃射が始まる。合図を待って掃射が終るや否や、傭兵達が猛然と戦に挑む。その合間を縫ってスティナが東城門を潜っている。潜ると直ぐに、苦無を仕込んだ帯がスティナ目掛けて投げ込まれている。直ぐ様これをガシッと受け取ると、スティナは間髪入れず踵を返して東城門を戻り駆け、次の瞬間には左手三列目の馬柵を足場に宙に跳んで、馬柵に寄り掛かっている蜥蜴皮の獣人へ苦無を浴びせている。その獣人は木盾でこれを防ぐのが精一杯であった。
「待たせて済まん」
 スティナはタキトゥス達への挨拶もそこそこに、馬柵群の中に身を潜めている。タキトゥスが、クィッと親指を立てて反対側にいる獣人共を指し二人が肯くのを確認して、気合と共に反対側の獣人共を目掛けて馬柵群から攻め出した。最前線に立つ彼等は何度となく様々な戦闘状況を想定しては、幾度となく鍛錬し合った。もはや言葉は必要なかった。目配せし簡単な仕草だけで、何をしようとするのか明確に意思疎通している。眼前の獣人に対峙しながらも、仲間の状況をシッカリと捉えている。

「帰れと云うに、まだ分からんのかぁ!」
 そう叫びながらタキトゥスが獣人共の背後から攻め寄せる。彼女の旋回する槍とパロメの大斧に気を取られていた獣人共が慌てて振り返えれば、その一瞬間を狙ってジェノが号令を発し無情な矢が空を切る。獣人がその毒矢を避けるには眼前の馬柵群を越え、自らの全身に矢を受けても東城門下に傾れ込むより手立てはない。意を決して二体の獣人は、眼前の馬柵群と急所を狙い撃ちして来る矢に猛然と突進し始めた。
 左手側で蜥蜴皮の獣人を必死に庇い支える殿の獣人が、けたたましく何かを叫んでいる。が、その声は高らかな角笛に遮られて他の仲間には届いていない。

 闘っているのは傭兵だけではない。ある者は武具を携え、ある者は弓を引き、またある者は物資を確実に補い、皆が闘っている。その意識は小屋にいる全員に繋がっている。城壁に構える職人達は、息が切れん程に角笛を吹き鳴らしている。命の限り吹き鳴らしている。角笛を鳴らさない時は弓を放っている。水を頭から呑み込んでいる。食糧に齧り付いている。各々が懸命に闘っているのだ。その物資を補給する旅人達もまた、休む事無く南側中央の井戸と酒場を出入りし、物資を数珠繋ぎに手渡しながら、汗まみれになって闘っている。補給に手の空いた者は、直ぐに角笛を鳴らして最前線にいる者を鼓舞している。
 セネルもジェノもガントスも、声を枯らして皆を奮い立たせている。とりわけ、ガントスが吹き上げる大角笛は、この地が未だ陥落していない証と成って、小屋の全員を勇気付けている。

 セネルが馬柵群を越えんとする獣人共の異常な行動に気が付いた。単に馬柵群を越えれば良いものを、明らかにこれを選んで越え様としている。馬柵の形状は均一であるにも係らず、明らかにこれを選別している。
 その様子を観察していたセネルは遂に確信した。
「むぅ! なんと、そうであったか! ガントス殿、ここは頼みましたぞ!」
 そう叫ぶと、脱兎の如く中央櫓を駆け降りた。ガントスは頷いただけで、相変わらず仁王立ちになって、真っ赤な顔をして大角笛を力の限り吹き鳴らしては、声高らかに叫んでいる。
 セネルは酒場を駆け抜け寄宿舎正面の入口に立つと、当に二体の獣人共が愈々東城門下に誘き出されている処であった。
 驚いたのは彼女とパロメであった。
 セネルは、正面で弓を構える職人二人に耳打ちすると、ジェノを見上げた。最前線に立つ恩師を見付けたジェノの驚きたるや、想像を絶するものであった。が、当のセネルは大きく深く肯くと直ぐに、中央櫓に駆け戻って行ったのである。
「な、なんじゃ?……今のは?」
「……と、わたしに聞かれても……」
 彼女は突進してくる獣人二体を捉えながらも、ジェノを見上げた。そのジェノは笑みを返して彼女を見ている。果たして、ジェノにはセネルの意図が通じたのであろうか。だが今は、彼の差配を信じるしかない。
「おんや? お前さん、若先生とはいい仲なんかい?」
「お生憎さま。そんなんじゃないわ」
 彼女達が獣人共を東城門下に十分に引き付けたのを見計らって、ジェノの号令のもと雨垂れの如く毒矢が獣人後方より打ち込まれている。後方から獣人共を煽っていたタキトゥスは、既に左手側の馬柵に踵を返してスティナ達に合流している。
 ジェノが東城門櫓から寄宿舎正面を指差している。パロメと彼女はこれを受けて、攻めては引いて二体の獣人共を寄宿舎正面へ誘っている。当にその獣人共が東城門下を潜って出た瞬間であった。東城門下の両脇に控える職人達が一斉に毒矢を掃射すると同時に、獣人共目掛けて大量の水がぶっ掛けられた。

 獣人共が怯んでいる。槍にも大斧にも大剣にも苦無でさえ、恐れず突進してきた獣人共が立ち止まって、浴びせ掛けられた水を懸命に手で払っている。その隙を付いて彼女が打って出る。パロメが低く構えて突進する。応戦する二体の獣人共が、いざ反撃に出ようと踏み出すと、両脇から毒矢が掃射される。寄宿舎の大窓からも毒矢が放たれている。そして、容赦なく水が浴びせ掛けられる都度、獣人共は必死にそれを振り払っている。
 突進するにも立ち止まざるを得ない様子である。

 既に満身創痍の獣人共に異変が起きている。元来獣人はガッシリとした体形で、当に戦闘の為の身体付きである。単に筋肉質なだけの身体ではない。攻撃を身体で受け止めるだけの脂質を帯びた体形である。が、その身体が水でふやけている。明らかにダブ付いた体形に変貌している。
 その身体変化をセネルとジェノは、シッカリと目に焼き付けた。
 嘗て “獣人は水が嫌い” と彼女は言った。“獣人が水場に限らず、水を飲んでいる姿すら見た事がない” とジェノは言った。セネルとて同様である。その理由こそ、獣人がその皮膚組織からも水分を摂取できるから、大気中に帯びた僅かな水分ですら自ずと摂取していたからである。故に、敢えて水場を占拠する事も、ましてや好んで飲料する必要もないのだ。獣人共が避けていた馬柵の足場には、仮に火を放たれた際に備えて水桶が用意されていた。その水桶を獣人共は避けていたのだ。万一、不用意に水を浴びれば、その身体能力が著しく損なわれる事を獣人共は知っていたのだ。

 先陣を走る熊皮の獣人が、北側に露骨に置かれた荷車を見付けた。そこへ向かって猛然と走り込もうとした。が、その動きは緩慢で矢の標的となるばかりであった。次に続く樹皮を纏った獣人は、更に水分を含んだ樹皮を脱ぎ捨てるより他に手立てはなかった。それをパロメは見逃さなかった。いや、熟練の本能が勝手にパロメを動かした。矢の掃射が止むのを待たず、樹皮を纏っていた獣人に向かい低く構えて転がる様に突進している。既に樹皮を脱ぎ捨てた獣人は、その身体でパロメの一撃を受けざるを得ない。
 その獣人が下から払い出される大斧を辛うじて避けた瞬間、パロメはその眼前で空に跳び、上段から渾身の一撃を繰り出した。空に跳んだパロメは無防備である。獣人がその剛腕を突き出せば、逆にパロメの身体を突き破り、虚しく大斧は朽ち落ちる。それでもパロメは武人の誇りを掛けて空に跳んだ。
 大斧の刃が、陽の光を受けて真っ直ぐに獣人の胸部に振り下ろされている。そして、大斧は獣人の身体に深くめり込んだ。
「脆き小人よ……今のも、今のこそ、よき……よき一撃じゃぁ! み、見事じゃ! も、脆き小人よ……」
「なぜ、引かんのじゃ。あれほど、あれほど引けと云うたに、何故じゃ?」
「云うたじゃろう、脆き小人よ。
ワシ等にもワシ等の理由が……あるのじゃよ。お前と同じじゃ。お前には、お前の……」
 樹皮を纏っていた獣人は全てを語る事なく、その身体に打ち込まれた大斧を両手でだき抱える様に、静かに前のめりに倒れていった。倒されてもまだ前に進む積りでいたのだろうか、その巨体は静かに地面にうつ伏せていった。
 先陣を走る熊皮の獣人が翻って仲間の様子を見ると悲しみの籠った叫び声を上げて、パロメに向けて歩み出している。いやパロメではない--仲間に向かって歩み出している。
 弓を握る職人たちが涙を呑んだ。涙を呑みながら矢を放った。城門から寄宿舎から、悲しみを帯びた毒矢が熊皮の獣人に降り注いでいる。
 彼女の緑の瞳もまた憂えている。もはや熊皮の獣人は絶命している。死してなお仲間のもとに歩んでいる。その獣人には、うつ伏せに倒れる仲間以外には、もう何も見えていないだろう。ただズルズルと足を引きづって仲間のもとに歩んでいる。
 彼女が槍を振り上げた。その合図を受け角笛が止んだ。矢も飛んでいない。その静寂の中で、先陣を切っていた熊皮の獣人もまた静かに倒れていった。仲間の一歩手前で崩れ落ち、懸命にその腕を伸ばして仲間に触れ得たのであろうか、笑みすら浮かべながら、やがて静かに息絶えていった。二体の獣人は、彼等の目的を果たす事なく散っていった。


 驚く程に音のない瞬間が小屋を支配した。


 やがて、蜥蜴皮の獣人が、殿の獣人が、獣人共の長が雄叫びを上げた。ガントスが、その顔面を皺くちゃにしながら大角笛を吹き上げた。合わせて小屋中の角笛が吹き鳴らされた。それは二体の獣人を憐れむものか、再び闘いの火蓋が切って落とされる合図なのか、小さな森を震わす程の悲しい音色であった。

 パロメに新たな大斧が手渡される。彼女は涙を拭う事なく城門を駆け抜けて、左手側で踏ん張る仲間のもとに走っている。
 蜥蜴皮の獣人は、苦無を受け満身創痍になっても、まだ前に踏み出そうとしている。殿の獣人とて大剣の鋭い刃を受け、最早無傷ではいられない。それでも無傷であった筈の殿の獣人は、長に向かって何かを懸命に語り叫んでいる。同時に苦無から蜥蜴皮の仲間を必死に守ろうとしている。守りながら長に何かを必死に語り叫んでいる。
 タキトゥスが正面に打って出る。バイゼルが低く構えて突進している。その時、闇雲に彼女が馬柵を跳び越えて宙に舞った。慌ててスティナが、彼女の背後から同時に空に跳んだ。四つの刃が一斉に獣人に向かって襲い掛かっている。
 襲い来る彼女達の姿を、横目でシッカリと捉えた殿の獣人が、その最後の時を覚悟したのだろう、右手に持つ棍棒を彼女に向けて渾身の力で衝き出している。同時に苦無を受ける為だけに左手の木盾を構えている。そして両脇腹に食い込んでくる剣の痛みを味わっている。
 腕から力が抜けるのか木盾すら支えきれない様だ。皮膚を裂いた刃が骨を砕き身体の奥深くに刺さっていくのが分かるかの様に、その手から棍棒が落ちて行くのが見える。殿の獣人は、蜥蜴皮の仲間を見ている。そして長を見ている。二体の仲間が手を突き出して何かを叫んでいるのを朧気に見ている。薄れる意識の中で、殿の獣人は左手を大きく開いて長に付き出している。“来るな! 来てはならぬ!” 大きく開いたその手が無言の内にそう語っている様に見える。やがて仰向けに倒れていった殿の獣人の顔に、満足に満ち溢れた笑みが零れていった。


 宙に舞った彼女は、明らかに冷静さを失っていた。闘いにおいては冷徹である必要はないが、冷静である必要はある。仲間達は、彼女のその変化に気が付いていた。
“これ以上、踏み込ませてはならない。踏み込ませたら、この()は進むべき道を見誤るかも知れない” 仲間達はそう確信した。
 スティナが、空で器用に回転して蜥蜴皮の獣人に対峙するように着地しながらも、地に降りる瞬間の無防備な彼女を守ってくれている。その彼女は、着地するのが精一杯であった。そこに仲間がいる事を、彼女は強く意識した。同時に未熟な自分を恥じ入った。一瞬でも死を意識した彼女にとって、獣人共の姿が自分と重なっていた。単に威嚇する為だけの目論見で宙に舞った。その後の事は何も考えていなかった。倒れて行く獣人への感情の昂りを抑える事ができなかった。彼女は闇雲に跳ぶ以外に何も考える事が出来ないでいた。理不尽に失われていく命を前にして、冷静さを保つ事が出来ないでいた。
「それでいい。十分な動きだよ」
スティナがそう励ましてくれた。
「よし、後は任せておきなさい」
「うむ、もう無理をするでない」
二人の大剣使いがそう語ってくれた。
「あれじゃなぁ……涙する者すら居らなんだら、こいつ等が哀れ過ぎるぞい」
 遅れてやって来たパロメがそう癒してくれた。
 彼女は仲間の気持ちに肯くのが精一杯であった。ただ、身体が前へ前へと意味も無く突き進んでいた。これ以上は闘えない自分がいる事に、自分自身でも気が付いていた。廻りの状況を目配せする余裕が無い事も気が付いていた。もう彼女には、蜥蜴皮の獣人の最期を見届けるだけの勇気が無かった。止めど無く涙が溢れていた。
 今のこの闘いは、誰かが獣人共を利用しなければ、起きる筈も無い理不尽極まる闘いであった。利用されなければ、獣人共は何処かに安寧の地を得て、新たな群れを造っていたのかも知れぬ。それを少なくとも何らかの邪な意図で踏み躙った輩がいる。その者への怒りと消えていった命の儚さに、彼女の緑の瞳から涙が溢れて仕方なかった。


 いつの間にか、長らしき獣人は忽然とその姿を森の中に隠していた。長が闘いの場に踏み込めば、獣人共は全滅していたであろう。新たな一族の誇りを掛けてその存続を強く願っていたのか、無傷であった筈の殿の獣人が長を懸命に止めていた。その強い思いを受け、長らしき獣人は忽然と姿を消したのだろう。ただ、長らしき獣人がいた馬柵は辛うじて原形を留めているものの、強く鷲掴みにされたらしく両掌の跡が窪みと成って残っている。
 ガントスの大角笛が強く吹き鳴らされた。皆が各々の想いを込めて角笛を吹き鳴らしている。その音色は決して勝ち誇った響きではなく、徒に散った命を憐れみ、その誇りを讃える音色であった。いつまでも角笛は鳴り止まないでいる。

 朝日はもう天頂に達し、小さな森に散って逝った命を優しく静かに照らし続けている。セネルが静かに中央櫓を後にした。ジェノが東城門櫓から降りている。彼女は座り込んで泣いている。仲間はそれを止める事なく一緒にそこで待ってくれている。


 この戦いは、後世の人々にどう伝えられていくのであろうか?

第七話 静かな攻防

第七話 静かな攻防

 セネルは、彼自身が見聞した出来事を須らく日記に書き綴っていて、まさに分身とも云えるその日記を片時も肌身離さず持ち歩いている。
 ファウナの一室で瞼を閉じて、宿屋の女主人が持ってきてくれた珈琲を啜りながら日記に手を添えれば、そこに綴られた出来事が、貢を捲るまでもなく脳裏に浮かんでは消え、殊更に獣人への憐れみが波の様に押し寄せてくる。
 あたかもその場に居合わせたかの如く鮮明に……。



 闘い終えた小さな森の小屋では、生き抜いた喜びと散って逝った命への憐憫が、混沌となって渦巻いている。優し過ぎる琴線の所為か泣きじゃくる彼女の肩をタキトゥスがポンッと叩くと、コクリと頷いて彼女はゆっくりと立ち上がった。勇気付けようとパロメが笑みを湛えながら話し掛けている。
「あぁあれじゃな……そんなに泣いたら、別嬪(べっぴん)さんが台無しぞい!」
「……もう!パロメさんったら。お世辞言ったって何にもでないんだからね」
 スティナが珍しく大笑いしている。気の利いた言葉を掛けた積りが、実に間の抜けた励ましにしかならなかった事もあり、パロメはただ照れくさそうに微笑んでいる。
 そこへ東城門櫓から降りてきたジェノが近づいて来た。獣人との壮絶なる闘いの中で落ちたのであろう、彼女の髪飾りがその手に握られている。闘いの最中にあっても幸いに踏み付けられる事もなく美しい金色を保ったままのそれを、彼女は黙って受け取るとニッコリと微笑んで、栗毛色の髪に挿した。
 それまで激しく小屋に舞っていた砂塵も陽炎の内に落ち着きを取り戻し、いつもの様に緩い優しげな風が緑の森を抜けて小さな小屋に流れている。徽章がそれにゆっくりと靡いて、小屋の争いを避け空に高く舞っていた鳩が、綺麗な螺旋を描きながら鳩舎に舞い戻り始めている。
「さぁて、本営に戻ろうぞ。皆が待っておる」
 バイゼルに促され傭兵達は皆が待つ寄宿舎へと戻って行った。そこでは職人が、旅人が、事務員が生きている喜びに瞳を潤ませて、彼等を暖かく迎え入れている。ガントスは満月の様に丸い顔を皺くちゃにして、隠すことなく大声で泣きながら皆を迎えている。
 その輪の中央にはセネルがいた。
「皆、よう頑張られたのぉ。よう踏ん張った。よう耐え抜いたのぉ」
 セネルの眼にも涙が光っている。彼女はセネルの胸に顔を埋めて、生きている喜びを噛みしめている。セネルは暖かく彼女を抱きしめ、髪を優しく撫でている。一方のガントスは、スティナをバイゼルをタキトゥスをパロメですら、それぞれガシリと抱きしめ大泣きし続けている。
「これこれ、ガントス殿! 鼻水が付くわい! こりゃ堪らん……もう、勘弁してくれぇ!」
 パロメがおどけてガントスに応えている。獣人にも怯まない大斧使いも、髭面の泣きじゃくった親父には敵わないらしい。それが可笑しくて小屋の一同が腹を抱えて笑っている。

 タキトゥスが、セネルとガントスに話し掛けてきた。
「私はこの獣人の言葉をば、聞きましたぞ。パロメ殿も聞いたであろう?」
「うむ、聞いたわい。確かに、聞いた……生涯忘れはせぬ言葉ぞい」
 パロメは地に伏した獣人を見ながらそう語った。襲撃を受け抗うためには止むを得ない仕儀であったとはいえ、やはり命を屠った重たい意識が拭いきれないセネルは、タキトゥス達の言葉にすぐさま呼応した。
「ふぅむ、してタキトゥス殿や、獣人は何と申しておりましたかな?」
「はい、“ワシ等にもワシ等の理由がある” と。“我々と同じじゃ” とも申しておりましたぞ。のぉパロメ殿」
「あぁそうじゃ、その通りじゃ。何だかのぉ、こ奴等が他人には思えんぞい」
「うむ、私とて同じ気持ちぞ、パロメ殿。
どうですかなぁ、セネル先生、ガントス殿。こ奴等を丁重に祀ってやりたいのですが、どうですかなぁ?」
 セネルは獣人共が語ったというその言葉を幾度も反芻しながら、真摯に応えている。
「ふむ、よき心構えですぞ、タキトゥス殿。如何かな、ガントス殿?」
 ガントスは未だ泣き止まずに、深く大きく頷いている。職人も旅人も皆同様に頷い、やがて誰彼ともなく獣人を仰向けに起こし始めた。女達が、獣人に突き刺さる斧やら苦無やら毒矢の全てを、それ以上に傷口が広がらぬ様に丁寧に取り除いている。獣人の身体にこびり付く泥砂を綺麗に拭き取っては、その傷口を柔らかく拭っている。その様子は、まるで誇り高き戦士の永遠の眠りを汚さぬ様に丁重であった。男達は、獣人が眠りに就く為の墓を、南広場の陽が良く当たる場所に掘り始めている。セネルとジェノはそれぞれの獣人を触診しながら、誇りを纏った美しくも悲しきその瞼をそっと閉じてやった。



 陽が傾く頃には、南広場には四体の獣人が安らかに眠るに足る二間堀の十分な墓穴が出来上がっていた。その穴の四方は馬柵を解体した木材が隙間なく組木され、墓穴の底にも、馬柵を解体して造作された床状の板が綺麗な木目を描いて敷き詰められている。ゼラニウムの花葉が所狭しと飾られ、獣人共のそれぞれが身に付けていた棍棒や鎧や木盾も副葬品として供えられている。
 やがて四体の獣人は絹衣で幾重にも柔らかく巻かれて、傭兵や職人に抱えられ安住の地に埋葬されていった。

 その棍棒を副葬品として祀る際に、スティナが頻りにその一つ一つを調べていると、タキトゥスが怪訝そうに覗き込んでいる。
「スティナよ、如何した?」
「うん、棍棒の符丁を調べていたんだよ。何か分かるかも知れないと思ってね」
「なるほど、手掛かりが掴めるやも知れぬの」
 確かに、棍棒の一つ一つには特殊な符丁が刻印されてあった。その写しを丁寧に取ると、スティナは彼女にそれを手渡した。
「もしファウナへ行くのであれば、これを持って行け。何か掴めるといいがな」
「うわぁ、スティナさんありがとう」
 無邪気にそれを受け取る彼女の仕草が、スティナには覚束なく感じて言葉を重ねた。
「……ほら、この棍棒だがな、ほとんど工夫されていない様だから、いつ頃、何処の武具屋で売られたか位は履歴で分かるだろう。後は店主がどの程度の記憶の持ち主かにも依るがな」
 武具は、同じ種類のものならばどれも均質な形状をしている。通常、それ等を購入した傭兵や旅人は、各人の身体や腕力や使用状況を想定して、武具屋に細かく改修を依頼する。特に傭兵は、総重量や重心、長さや形状に至るまで、使い勝手が良いように細工を様々に施すのが常である。無論、飾り付けも全てが個々人固有のものである。よって、元々は同種の武具であったにも係らず、その使用者次第では全く別物の武具に成り得る。
 最初の製造だけは人間固有の活動であるが、武具に細工を施す行為は神獣類や霊獣類にも見受けられる。即ち、人間の武具を偶然に拾うなり意図的に奪取するなりした神獣類や霊獣類が、更に自身に都合良くそれ等の形状を変化させて所持している事もある。獣人が所持する棍棒類は、その大半がこの類の棍棒である。
 しかしながら、獣人がこの戦いで使っていた棍棒には、ほとんど工夫や細工が施されていない。原形を保ったままであった上に比較的真新しくも見える。その様子を見ていたジェノが、興味深く写しを覗き込んでいる。
「すると獣人達は、得物に細工する暇もなく荷を受け取っていた可能性が高いね。存外、この企ては発端からまだ日が浅いのかも知れないなぁ」
 スティナは腕組みしながらニヤリと頷いた。
「そういう事だね。また、先生方の仮説が裏付けられるね」
「そっかぁ、そういう事かぁ……」
 漸く彼女にもスティナの真意が掴めた様だ。



 二間堀の墓穴も職人達の手に依って綺麗に埋め直されている。陽も落ちて篝火に照らされた遺構は、物々しくも美しく色彩られている。これからも、この墓標は大切に守り続けられるであろう。ガントスが強く大角笛を吹き鳴らした。その音は月明りの森に染み入る様に響き渡っている。獣人の長にまで届いていただろうか……。
 月明りに照らされた小屋では、四体の弔いが厳粛に執り行われ、各々が各人の想いを込めて彼等の誇りを讃えている。最後に、セネルが四体へ捧げる詩を朗詠した。篝火が墓標の四隅に飾られ、暗闇を嫌う獣人の魂安らかなれとばかりに一面を明るく照らしている中、東城門が静かに閉ざされていった。

 ガントスが大きく手を打つと、小屋の全員を酒場に誘った。
“今日はワシのおごりじゃ! 心置きなく楽しんでくれ!”
 ガントスは皆を労いながら蒸留酒を振る舞い、小屋の皆は各々好き勝手に着座しながら小屋の名物料理を頬張り酒を酌み交わしている。セネルもジェノも、共に闘い抜いた仲間として、その輪の中にいる。孤独なセネルの人生に於いて、初めて感じる至福感であった。
 女達は酒場でたむろせず、先に湯屋に向かった様だ。湯に浸かり、身体を休めながらもワイワイと賑やかに騒いでいる様だ。彼女は、道具屋の女主人や紅を惹いてくれた婦人と、恰も旧知の間柄の様に楽しげに会話に耽っている。湯を上がると女達は酒場には向かわず、二階に陣取って相変わらず話に夢中であった。普段なら二階では飲み食い御法度なのだが、今日だけは特別なのだろう、酒や料理が持ち運ばれている様だ。
 道具屋の女主人が彼女に話し掛けている。その目には再び涙が滲み始めている。道具屋の女主人は早くに伴侶を亡くし、女手一人で育てた一人娘も今は遠くダミアに嫁いだらしく、彼女が一人娘と重なっていたのか、戦いの最中、懸命に物資の補給に勤めながらも、手が空く度に固く合掌しては最前線に立つ彼女の加護を神に祈っていたそうだ。
「さて、約束じゃ。またお前さんの髪を梳かせておくれ。ほんに、よう戻って来てくれたの……よう戻って来てくれた。ありがたいことじゃ、ありがたいことじゃ」
「ふふふ。だって、だって約束したもの。きっと戻るって」
 姿見の前に座る彼女の緑の瞳もまた潤んでいるのが分かる。美しく梳かれる髪が鏡台に写っている。その鏡越しに、職人と肩を組んで千鳥足で階段を上がって来るパロメの姿が見える。
「ワシの煙草を取ってくりぇー!
ううぉ! 別嬪(べっぴん)しゃんぞい。前にも言うたじゃろうがぁ、別嬪しゃんじゃとぉ!
こりゃぁ! 聞いておるかぁ?」
「何だねぇ、この酔っ払い親父わぁ!」
 既に呂律(ろれつ)が回っていない上に前後不覚なパロメを、道具屋の女主人が上手にあしらっている。廻りの女達からもケラケラと笑われながら、パロメは再び階段を転がり落ちる様に降りて行った。と同時に、ジェノとスティナが肩を組んで何やら歌いながら上がって来た。二人とも年が近く互いに息が合うのだろうか、パロメ同様すっかり出来上がっている。ドヤドヤと女達の輪の中に割り込んでドッカと腰を据え、女達に酒を振る舞われている。パロメと違って若い男だけに、女達も楽しげに二人を揄っている。

 酒場も二階も歌い声と笑い声が絶え間なく続いて、南側の広場でも大勢の職人や旅人達が繰り出して踊り始めている様だ。セネルもジェノも久しぶりに、いや生まれて初めて人の輪の温もりを感じていた。在りのままの自分で居られる心地よさがここにはあった。
 篝火に照らされる小さな森の小屋は、生きている喜びで一杯に満たされている。



 一方、小さな森は一層深く夜の闇に包み込まれ、九夜月だけが静かに森を照らすのみである。小屋からは随分と離れた森の深い処で、獣人の長が一人ジッと腕組みをしている。
 小屋の喧騒はここには届かない。

「何用じゃ!」
 長は不機嫌にそう尋ねた。
「ふっふっふっ、気が付いていたのか。木偶(でく)の坊にしては感心な事よ」
 森の暗闇から数体の人影が、ぼんやりと滲み出る様に現れた。
「ふっふっふっ、なぁに、これから貴様がどうする気かと思ってな」
「一人寂しく逃げ帰り、さぞかし心細かろうと眺めておったのよ」
「仲間を見殺しにしてまで逃げる様も、中々見物だったぜ」
 人影の数体がベタベタと湿った籠った声で厭らしく長を愚弄している。
「ふっふっふっ、小屋の連中は酒盛りで大賑わいだぜ」
「お仲間を切り刻んで、酒のツマミにしてるんじゃねえのかぁ?」
「へっ、良かったじゃねえかぁ? おめえ食われないでよぉ」
「くっくっくっ、俺達はよぉ、おめえの仲間だぜぇ」
「ふっふっふっ、慰めてやろうじゃねえかぁ。なぁどうだよ?」
 人影の数体は、執拗に長を愚弄している。どんよりと曇った眼からは生気が全く感じられない。腐乱した遺骸に集る蝿の様に、ネットリと五月蠅く長を見下して笑い続けている。
 長はクワッと目を見開いた。
「貴様等如きに愚弄される筋合いはないわ! さっさと何処ぞへ散れ!」
「おやおや? 怒ったのかい? 哀れに思って、わざわざ慰めに来てやったのによぉ」
 人影の慇懃さに耐えながら、それでも長は矜持を失ってはいない。
「生きる希望も誇りも無い有象無象(うぞうむぞう)共めが!」
「くっくっくっ、希望だぁ? 誇りだぁ? そんなもん捨てちまいなよ」
「くっくっくっ、そんなもんじゃぁ、腹は膨れねえぜ」
「さっさと捨てちまいなよ。そんな安っぽいもんはよぉ!」
 “安っぽいだと!” 眼を見開いた長の身体に怒りが走った。その誇りの為に命を掛けた仲間が彼にはいた。懸命に誇りを守り抜こうとした仲間が彼にはいた。自分の為に敢えて犠牲になって逝った仲間が彼にはいたのだ。仲間の一人ひとりが、眼前に浮かんでは消えてゆく。仲間の最期の笑みが、自分に向けられた生き生きとした微笑みが、彷彿として長の頭を過ぎってゆく。その壮絶な尊い犠牲が、誇りそのものが今踏み躙られている。忘れもしない友の存在に唾するものが、いま自分の眼の前にいる。
 許せなかった。許す事ができなかった。我慢し耐えるべき事ではなかった。自分一人ならいざ知らず、仲間への愚弄が長の全身の血を煮えたぎらせた。
「捨ててしまえだとぉ! 安っぽいだと! 貴様等如き蛆虫に何が云える!」
 長は雄叫びと共に棍棒を振り上げた。一族の名誉を掛けて、渾身の力をのせて棍棒を振り上げた。が、数体の人影はベッタリと笑っている。

 一瞬だけ、小さな森が騒がしく震えた。ほんの一瞬だけ……。

 月の明りは森の奥には届かない。
 その暗闇の中に長が仰向けに倒れ込んでいる。苦しみと悲しみに溢れた顔付で仰向けに倒れ込んでいる。その長の身体には、無数の剣先の痕が生々しく残っている。視覚に劣る獣人の背後から、夜陰に乗じた非情な傷が無数に残っている。絶命してもなお刺し続けたのか出血の無い傷が、至るところに残っている。
 息絶える最中、長は何を想ったのであろうか、彼の頬には一筋の涙の痕が残っていた。それは彼の無念を伝えるものなのか。仲間の想いを遂げられなかった事への詫びを伝えるものなのか。いずれにせよ、誰かに何かを伝えたくて、長の頬を一筋の涙が伝っていた。
 誰の目にもわかるほどに、悲しくはっきりと……。



 小さな森の小屋では、人々が酒を酌み交わし歌い踊って、今まさに生きている証を噛みしめている。天の九夜月がその人々の喜びの様を煌々と照らしている。その月は、森の奥深く鬱蒼とした暗闇で、一人無念の最期を遂げた獣人の長も等しく照らしている。
 いつ終わるとも知れぬ小屋の宴は一層賑やかに暖かく、既に命の終わりを告げた獣人の長の躯は暗闇の中で益々静かに冷たく、同じ時を過ごしていた。



 ベッタリと纏わりつく様な数体の人影は、暫くは獣人の尊厳を踏み躙って楽しんでいたものの、やがてそれにも飽きた様だ。その生気の無い数体の人影は、小屋の温もりに引き付けられる様に、月明りを避けてヌメリと移動し始めている。やがて、小屋の眩い篝火から逃れる様に木々の造る影の中に身を潜めて、曇った眼で小屋の賑わいを眺めている。
「くっくっくっ、何だか楽しそうじゃねえか。点火(つけび)でもしてやろうか! もっと賑やかになるぜぇ」
「ふっふっふっ、止めておけよ。一文の足しにもならねぇ」
「ふん、こんな掘立小屋なんぞ、潰してしまったら面白れぇのによぉ」
「楽しみは取っておけよぉ。暇つぶしの為によぉ」
「でもよぉ、随分楽しそうじゃねえかぁ? ちょっくら小屋の間抜け面でも拝んでくらぁ」
「ふっふっふっ、殺るんじゃぁねえぞ。それはよぉ、後でじっくり楽しませて貰おうぜ」
 一体の人影が、まるでシミの様に小屋の城壁にへばりついて、城内の様子を伺いながら内に滑り込んでいく。その人影は、生き生きとした人で溢れる小屋の隅を静かに蠢きながら、一階に積み上げられた酒樽の影に身を伏せて、やはり澱んだ眼で中の様子を覗き込んでいる。

 酒場では、酒を浴びる様に呑み込んでいるパロメが上機嫌で職人達と絡み合い、スティナがジェノと一緒に料理に齧り付いている。タキトゥスはセネルの煙草を貰って、これを深く燻らせ寛いでいる。
 “くっくっくっ、居るわ居るわ、どいつもこいつも間抜けた野郎共だぜ。泣いて命乞いさせてやるぜぇ。どいつから可愛がってやろううかぁ? ちくしょうめぇ、我慢ならねえぜぇ、我慢ならねえぜぇ!” 腐臭漂う笑いを浮かべてベタベタと物影に潜んでいるその人影は、必死に抗う者の命を無下に剥ぎ取る快楽に身悶えして、どこまでも澱んだ厭らしい眼で、酒場の様子を伺っている。

「ワシの煙草は何処じゃぁ? ワシと呑み比べする者は居らんのかぁ! わっはっはっ、居らんのかぁ?」
 パロメは頻りに職人達に絡んで、酒を浴びている。が、同時にその左手は懐の短剣を探っていた。一瞬、鋭い眼差しをスティナに送ると、その彼もまた腰の苦無に手を添えていた。煙草を燻らすタキトゥスは、大きく背伸びしながら剣柄に手を置いている。それぞれが陽気に振る舞いながらも、腐臭の存在に早くから気が付いていたのである。
 酒樽の影に張り付いていた腐臭の影も、己の存在が知れている恐怖をこの時初めて感じ取った。
“ぐっ! き、気付かれたのかぁ? くそぉ、気付かれたのかぁ? こ、ここは逃げねぇと。は、早く逃げねぇと……こ、殺されちまう! くそぉ! し、死にたかねぇ、まだ死にたかねぇ!”
 腐臭の影は、気配を必死に消しながら這う様に無様に消え失せて行く。その様子を三人はシッカリ感じ取っていた。パロメが息を整えながら、片手に波々と注いだ酒を持ってタキトゥスの脇を通り過ぎた。スティナが “もう食えん! 水、水” と叫びながら、気付の生姜をガブリと齧りついている。三人は擦れ違い様に目配せて意思を疎通している。
“ワシは外の様子を見て来るぞい”
“俺は上の様子を探って来るよ”
“うむ、無理するでないぞ。ここは任せておけ”

 スティナがジェノを指差して大声で(から)かった。
「若先生! お嬢さん放ったらかしで、いいのかい? 振られちまっても、知らねえぞぉ!」
 酒場にたむろする職人達が、一斉にやんや!やんや!と囃したて大笑いしている。ジェノは既に真っ赤な顔を更に赤面させて、皆に押しやられる様に立ち上がっている。その時、ジェノはスティナの眼光が一瞬鋭くなった様子を見逃さなかった。照れ笑いしながらも、皆に背を押し出されて二階に上がるジェノは、階段の踊り場でスティナに尋ねた。
「どうした? 何か起こっているのか?」
「うん、怪しい気配を感じたよ。俺は三階を見廻って来る。若先生、二階の様子を見てきてくれないか?」
「うん、分かった。まだ獣人の他にも居たんだな?」
「ああ、随分厭らしいのがね。あっ、そうそう……“無理するでないぞ”」
 スティナはタキトゥスの口真似をしている。その様子が緊迫した状況でない事を如実に伝えている。

 二階に駆け上がって来た若い二人を見付けた女達は、揄う眼差しでジェノを捉えている。
「おやおや、若先生ったら! どうしたんだろうねぇ。何か恋しい事でもあったのかしら?」
 頭を掻きながら照れ笑いをして、それでもジェノは注意深く二階の様子を探っている。スティナはスルリと三階に駆け上がって行った。特段変わらない二階の様子に安堵したジェノは、女達の輪の中に再びドッカリと腰を降ろした。
「あらあら、残念でしたわね、若先生!」
「ほんと、もうちょっと早く来なくっちゃねぇ。お嬢さんはもう寝ちゃったわよ」
「今日はもう諦めて、さぁ私達と呑み明かしましょうよ」
 何を諦めるのか皆目要領を得ないが、ジェノはケラケラと明るい女達の笑い声に交じって小屋の名物料理を楽しんでいた。ジェノは、一階に居ても二階に居ても、皆に揄われては酒を振る舞われている。
 三階に上がったスティナは、念入りに気配を探りながら、その安全を確認した。ガントスの豪快な高鼾(いびき)が聞こえる。窓越しに外を伺えば、外に出ているパロメがこちらを向いているのが見える。そのパロメは片手を高く上げて、腐臭の影が城内から去った事を告げている。
 その横にはセネルがいて、来賓室を見上げて指を差している。スティナが腕枕の仕草をすると、セネルは安心した様子で頷いた。



 息を切らしながら城内に潜んでいた腐臭の人影が、救いを求める様に仲間のもとに戻って来た。
「ふっふっふっ、どうしたよぉ? 半べそ掻いてるじゃねえか」
「ふっふっふっ、オメエが殺られればよぉ、俺達が攻め入る口実ができたのによぉ」
「ふっふっふっ、震えてんじゃねぇよ! そんな奴はよぉ、死んじまった方がよかったのによぉ」
 命辛々逃げ帰ってきた仲間を様々に罵声している。やっとの思いで逃げ帰って来た腐臭の人影の屈折した心根は、罵声を浴びるほどに小屋の面々に向けられていく。
「くっ、小屋の奴等、許さねねぇぞ! ぶち殺してやる! おれを虚仮(こけ)にしやがって、くそぉ! 必ずぶち殺してやる!」
 やがて九夜月が朝日に天の座を代ろうとゆっくり沈み始め、東からは四日目の陽がゆっくり昇ろうとしている頃、数体の人影はベッタリとした腐った笑みでその醜い顔面を覆いながら、いずれ戻る目論見で朝日から逃れる様に、小屋の前から静かに消え去っていった。



 その朝日が燦々と小屋を照らし始める頃、見張りの交代でパロメが城壁上の回廊に上がって来た。そこには、バイゼルが三人の職人と共に一晩中見張りに立っていた。
 そのバイゼルも昨晩の異様な気配をやはり感じたらしく、目を凝らして小屋を取り巻く森を眺めていたそうだ。そして漸く明け方近くに、木々が造る影に沿って走る一団を目撃すれば直様に、一団が走り去る方向に矢を放っておいたそうだ。バイゼルは伝えるべき事をパロメに告げ終ると、大きく欠伸をしながら回廊をゆるりと降りて行った。そのバイゼルに依れば、その一段の風体と身の熟し方から推察するに、最近パラス近辺を騒がす例の一団ではないかとの見解であった。

 以前にパロメ自身もパラス行政府からの要請を受け、『エリュマントス山麓東駐屯地』からの応援派遣団として、共同してその新興の一団の討伐隊に幾度となく加わった事があった。一戦を交える覚悟で隠処(かくれが)とされる拠点に臨んだものの、其処は常に蛻の殻であった。それも一度ならず二度、三度と討伐は空振りに終わり、その苦い経験から内通者の存在をパロメは予てから抱いており、それが小屋側の人間なのかパラス側の人間なのか分からずに悶々としていた。ただ、小屋側の者でない事を強く願っていたに過ぎない。
 しかし、昨晩の一件から考えると、小屋側の人間とする嫌疑がすっかり晴れて、寧ろパロメには清々しかった。
 昨晩、城壁回廊で職人達やバイゼルが目を凝らしている中、腐臭の者は夜陰に乗じて巧みに鍵爪で城壁を攀じ登ったのか、そこかしこに爪痕を残している。逃げる際も相当に慌てていた様子で、途中々々ズリ落ちた形跡が残っている。仮に小屋側に内通者が居れば、東城門脇の小口より手引きすれば足りる筈だが、昨晩の宴では、夜通し小屋の人々が寄宿舎の内外を彷徨いていた事もあり、そうと知って東門脇の小口の(かんぬき)を抜く事は合理的でない。即ち、小屋側に内通者がいるならば、余程の馬鹿者でもない限り、手引きが徒労に終わる可能性が高い昨晩に手引きする事こそ避けるであろう。
 しかし、事実として腐臭の者が忍び込んでいる。これは内部の様子が分からない事、即ち、小屋側に内通者がいない事を如実に物語るものである。故にパロメにとっては、昨晩の腐臭の者の存在が逆に小屋の面々を信頼するに足る仲間である証となって、咽喉に引っかかる不快な小骨が綺麗に取れた様な感覚に包まれていたのである。

 パロメが感じた清々しさは、ただそれだけではなかった。

 パロメは、小屋の南側に広がる広場で昨晩セネルに会った際に、崖から飛び降りる覚悟でこの悶々とした想いを伝えてみた。
 パロメは一介の大斧使いに過ぎぬ。然したる武勲も無い下級の傭兵である。せいぜいこの小屋の様な僻地を預かる責任者と言葉を交せる程度の身分に過ぎず、いずれは闘いの中で埋もれて逝く命運である。加えて当時は、如何なる状況下でも黙って従うのが一介の傭兵の立場であり、意見を述べるなど求められない限り有り得ない話であった。一方のセネルはこの世界に名を馳せる学者であると同時に、その一挙手一動が世界の指導者に影響を与える程の人物である。おそらく永遠にその名は残るであろう。そんな一介の傭兵が、高名なセネルに想いを伝えてみたのである。

 果たして、その結果はどうであったか。

 セネルは、パロメの眼をまっすぐに見て深く頷いた。そして、パロメの気持ちは大きく揺り動かされた。パロメの四十有余年の人生に於いて、これほど満ち足りた気持ちになった事は一度も無かった。セネルがパロメに語った事--“真っ直ぐに信じよ” 教えて貰ったのは、ただそれだけに過ぎぬ。しかしそれはパロメの信条と同じであり、パロメからすれば自分自身を認めてくれたのと同じであった。この時、パロメもまたジェノ同様に、一人の人間として世の中に立つことができたのである。
“ワシは、何かせねばいかんぞい! なんが出来る? えぇい! この盆暗頭がぁ! なんも思い付かんぞい。ワシにも、こんなワシにも出来る事は何ぞ無いものかぁ…… そうじゃぁ! 獣人の長が消えたぁ。そして腐臭の者が現れたぁ。なんか匂うのぉ、プンプンするわい! 探ってみるかぁ。何ぞ先生のお役に立てるかも知れん。よっしゃぁ! 奴等が消えたのわぁ、矢の飛んで行った方じゃな。そっちから当たってみるかいのぉ。うむ、これならワシじゃから出来ることじゃ!いや、これはワシにしか出来ん事ぞい!”
 パロメは城壁回廊にあって、交代してからジッと同じ処を見つめて愈々覚悟を決めている。そして大声で職人を呼んで見張りを代って貰うと同時に、タキトゥスとスティナを探しに寄宿舎に飛び込み、二階の大広間で大ノ字で寝ている二人を荒々しく振り起こして叫んだ。
「こりゃ、寝とる場合かぁ! 行くぞい! 早よう支度せい!」
「い、一体、如何したのじゃ?」
「行くって……何処に?」
 タキトゥスとスティナの両名ともさっぱり要領を得ていない様子であるが、少なからず命を支え合った仲間の想いは固く通じている。二人は慌ただしく用意を済ませると、まるで当たり前の様にパロメに従い、東城門を急ぎ駆け出して行った。道中パロメは二人に話し掛けている。
「タキトゥス! スティナ! ワシにも漸く分かったんじゃ!」
「ふむ、分かったとは、今回のカラクリの事か?」
「いやぁ、ワシじゃから出来る事が分かったんぞい!」
「何だか分からないけど、面白そうだね。いいよ、付き合うよ。」
「がっはっはっ! いずれのぉ、お主達にも分かるわい! ワシには分かったのよぉ! 分かったんじゃ!」
 タキトゥスは頷き、スティナはニヤリと笑った。パロメが会得した事が何かは、二人にとって然したる問題ではなかった。寧ろ己の道を見付けた仲間がそこにいる--ただそれだけで二人の気持ちは充分に満たされていた。

第八話 涙のあと

第八話 涙のあと

 勢いよく小屋を飛び出したパロメに、一抹の不安が過る。もしも今、小屋が襲われたらと……。同時に昨晩セネルに教えられた言葉が沸々と蘇り、小屋の仲間達の生き生きとした表情がその不安感を一蹴した。“真っ直ぐに信じよ” その言葉をパロメは幾度も反芻し、一人納得して馬上で高笑いしている。タキトゥスとスティナは、そんなパロメの一喜一憂を一向に気に留める素振りも見せず、森の様子を深く窺ってトル―パを馳せている。
 研ぎ澄まされた人間の感働きは鋭い。バイゼルが放った矢の方角を見極めながら、三人は確実に獣人の長が眠るその場所に近づいている。
 やがて、森の深い処に冷たく横たわる獣人の姿を目の当たりにした。既に面影すら残さず顔面は潰され、その身体には無慈悲に突き刺したと思しき無数の創口が生々しく残り、嘗ては愛しき者に触れたであろう指は芋虫の如く切り散らばっている。
 スティナが無言のままトルーパの手綱を返し、深い森を一気に駆け出して小屋に戻って行った。残る獣人を発見した事の報告とその躯を牽く為の荷台を取りに向かったのであるが、言葉を交わした訳でもないのに、残った二人はその意図をはっきりと理解していた。

 タキトゥスは躯を凝視しながらボツリと呟いた。
「のぉ、パロメ殿。あの人達は、まっこと不思議な人達ぞ。お主そうは思わぬか?」
「ん? セネル先生達かぁ? うむ、その通りぞい! あの人達はのぉ、馬鹿正直なくらい真っ直ぐに生きとる人達なんじゃ。ワシには分かったんじゃ!」
 タキトゥスはただ微笑んで、パロメの言葉を素直に受け入れている。
 暫らくして、荷車を牽く音がパロメ達の耳に届いた。ファウナ行政府からの返答も、もうそろそろの頃であろう。
「さぁて、行くとするかぁ!」
 パロメの言葉にタキトゥスは大きく頷いた。

 陽は、暦に従い強く照り始めている筈だが、深い森の樹勢は益々盛んとなって陽の光すら届けまいとしている。その深い森にスティナが力自慢の職人四名と共に麻布を持って現れると、全員で躯をこれに包み、五十貫(約190㎏)を超える巨体を丁重に担ぎ出している。
 滴る汗にぬれながら、一人の職人がタキトゥスに話し掛けた。
「思えば今まで俺達職人が傭兵さんと話すのってよぉ、挨拶程度か酒場の馬鹿話くらいだったよなぁ。それがよ今はどうでぇ! 戦が切欠だよなぁ……獣人共が俺達をうまく引き合せてくれた様なもんだよなぁ」
「うむ、縁は人だけが作るものではないという事ぞ」
「いんやぁ、縁だけじゃないぞい!」
 パロメが、額から玉の様な汗をかきながら会話に割り込んできた。
「ワシ等の縁だけじゃないぞい! 考えてみい、もしセネル先生方が居らなんだら、ワシ等は心を一つにできたかぁ? もしあの娘が居らなんだら、ワシ等は獣人共の無念を感じ得たか?
もしあの人達が居らなんだら、小屋はのぉ、小屋は全滅しておったぞい」
“それがどうだ、全滅するどころか今こうして生きている。ただ生き延びているだけではない。立場を越えて互いに認め合い、助け合い、信じ合って生きている。そして生きて獣人共の無念を背負いその誇りを語り継ごうと、墓標まで建立している。まさにそうする事こそが人の矜持である。今度の戦は、単にワシ等の縁を結んだだけではない。ワシ等は生きとし生ける者の有様を感じ、人としての在り方を学んだのだ” と、いつになくパロメが雄弁に語っている。
 タキトゥスと職人達が呆気にとられて聞き入っているところへ、スティナが間髪いれず突っ込んだ。
「なぁパロメさん……それってさぁ、セネル先生に教わったんだろ?」
「がっはっはっ、やっぱぁ分かるか? うまく云えんのじゃが、ワシにもそう思えるんぞい」
 表現は兎も角もパロメの想いが仲間に伝わったのか、誰一人として躯の重みに不平を零さず、あたかも身内を扱う様に慈しんで運んでいる。それに応える如く深い森が一行を拒む事なく街道に導いたのだろうか、彼等の眼前には陽に美しく照らし出された荷車が現れた。

 獣人の躯は荷車に横たわり、暖かな木漏れ陽に包まれている。小屋まで走れば無残な遺骸が殊更に酷く傷むかも知れぬ配慮から、パロメ達は荷車に寄り添ってゆっくりと歩いている。やがて街道脇の木々の梢間から、小屋の徽章旗が風に靡いているのが見えて来た。その小屋には、躯の仲間が安住の地を得て眠っている。そこへこの躯を連れて帰らねばならない。パロメ達は、その使命感に誇りを感じざるを得なかった。

 闘いの中で獣人の長が越える事ができなかった東城門を荷車が潜る頃には、多くの小屋の人々が優しく荷車を出迎え、手には花すら添えている。寄宿舎前では、セネル、ジェノ、ガントスが胸に手を宛がえて、敵とはいえその大将であったろう獣人に敬意を示して立っていた。
 麻布が解かれると、小屋の面々は余に惨いその有様に顔を覆い立ち竦んだ。だが、彼女はシッカリと長を見つめ、泥砂に塗れる身体を丁寧に拭き取っている。彼女に続いて一人また一人と長の身体を拭い始めている。
 セネルが躯の身体を触診しながら、タキトゥスに尋ねた。
「この刺傷の痕は、何の類か分かるかの?」
「創口から観るに小剣の類で、レイピアに間違いございませぬ。切り裂くよりも、突き刺す為の剣ですな。主に接近戦で使用しまする」
「ふむ、余り聞かぬ武器の名じゃな」
「はぁ、昨今の剣戟では大剣や大斧、長槍が主流で、これ等を小剣にて受け流す事が難しく、戦を生業にする我等でもレイピアを扱う者はそうそう居りませぬ」
「ふむ、すると使い手は限られておるのかの?」
「盗賊共でございますな。好んで使うておるのは」
「昨晩、小屋に忍び入った者があると聞くが、これもその者共の仕業かのぉ?」
「はぁ、恐らくは間違いないかと思います」
 パラス以北からこの小さな森の近隣を騒がす、新興の盗賊の一団が確かに存在する。幾度となく討伐隊を繰り出したが、その度に忽然と消え去り、静かなこの森を騒がし続けている。
 ガントスが、カッと目を見開いて会話に滑り込んできた。
「むう、やはり今回の件に絡んでおりましたか! くそぉ、許し難い奴らじゃ!」
 ジェノは冷静に状況を整理してみた。仮説立てていた事が、少しずつ明確に現実のものと成りつつあるが、盗賊団をして首謀者と見るのは如何なものかと思案している時だった。
「涙のあと……」
 彼女は、優しく長の顔を撫でながらそう呟いた。そして長が葬られた時の様子をこう語り繋いだ。
“いくら夜目の利かない獣人であったとしても、これ程に至近距離で攻撃を受けるまで気付かぬ筈もない。近くに居ても不自然では無い存在--即ち、仲間として獣人に近づく事が許されていた存在。それがいきなり裏切った!
もしそれが盗賊共なら、寧ろ裏切り行為は茶飯事のことで、恐らくは荷車奪回に失敗した獣人を抹殺したのだろう。しかも面白半分に……”
「ふぅむ、そういう処じゃろうのぉ。惨い事をする者共じゃのぉ」
 セネルは一回り大きくなった彼女を感じていた。過日の戦いの中で、人一倍感受性の強い彼女は、溢れんばかりの獣人の無念を感じ取って自分を見失っていた。だが今の彼女は、華奢な身体で獣人の悲しみと盗賊共への怒りを包んで、冷静に状況を捉え様としている。
 
 その時、彼女はハッと耳を(そばだ)てて言った。
「鉄笛の音が聞こえるわ! 微かに遠くから!」
 静まりかえった小屋の一同には、しかし未だ何も聞こえてこない。尚も耳を欹ててみたが、森を渡る風の音のみが聞こえるだけである。
「ほら、鉄笛の音! 若先生、聞こえる?」
 必死に耳を澄ますジェノであったが、彼には何も聞こえない。ガントスが寄宿舎屋上にいる見張りの者に大声で叫んだ。
「遠眼鏡じゃぁ! それで覗いてみぃ! 何か見えるかぁ?」
 小屋の一同が固唾を呑んで屋上の見張りの一挙手一同に目を凝らしていると、見張りの者が遠眼鏡を覗き込んだまま興奮して叫んだ。
「南々西街道脇の蜥蜴沼地帯、半里ほど先に徽章旗を掲げる者達がおる!
徽章旗の数は全部で六旗じゃぁ!
黒地布にぃ……ん! ありゃぁ鶴嘴(つるはし)じゃぁ! 
繰り返す、黒地布に二対の鶴嘴紋様! 
ファウナの連中じゃ、ファウナの徽章旗に間違いない!」
“うぉぉ!” という歓声が、幾度も地面の底から湧き上がる様に小屋を震わせた。漸くファウナ行政府から返答が来たのである。ガントスが、殊更上機嫌で見張りの者に問い合わせている。
「やっと、来おったかぁ。そいで、格はいくつじゃ? あれじゃ、徽章旗の真ん中にある印の数の事じゃよ。ファウナ行政府のは、金塊みたいな四角形な印じゃったかなぁ?
どうじゃぁ? 一つかぁ? 二つかぁ?」
「あぁぁ、徽章旗の真ん中にあるやつじゃな?
あぁあれかぁ! 数はのぉ……ひぃ、ふぅ、みぃ……全部で七個じゃ!」
「な、七個じゃとぉ! 馬鹿こけ! 数かぞえられんのじゃなかろうのぉ?
目を凝らして、シッカリ見らんかぁ!」
「ひぃ、ふぅ、みぃ……いんや、間違えねぇ! 印の数は七個じゃ!
間違えねぇ、数は七個じゃ!」
「七個じゃとぉ! な、七個じゃとぉ! そ、そりゃぁ、ファウナ行政府の母団じゃ! 
ファ、ファウナ直参の正規軍がき、来よったのかぁ?
皆のものぉー小屋の徽章旗を城壁回廊に掲げぇい! ありったけの徽章旗を掲げぇい!
角笛じゃぁ! 角笛を吹けぇい!」
 ガントスの興奮は絶頂に達し、小屋の全員が何事かは掴めぬが、大変な事が起こっているらしい事に落ち着かず、ある者は城壁回廊に上ると小屋の徽章旗を滅多矢鱈に振り回し、またある者は真っ赤な顔をして力一杯に角笛を吹き続けた。

 小屋中で慌ただしくファウナ行政府の使徒一向を受け入れる準備が進められている中、“ふぅむ、丁度良い頃合いに来たものじゃて” とセネルは至って落ち着き払って来客の到着を待っている。ジェノは今回の真相に近づかんと、若い知恵を懸命に振り絞っている。彼女は廻りの喧騒を余所に、いつまでも長を優しい瞳で見つめている。その彼女の横顔に、ジェノはふと母性を感じ取った。
 微かだが、確かに鉄笛の音が風に乗って聞こえる。その音色に交じって角笛の音も届いている。過日、この小屋を出立した者達が帰還を知らせて吹いているのであろう。セネルが静かに事の成り行きを諸々想定しつつ、来客の出方を楽しみに待ち受けている。



 笛の音が、愈々ハッキリと聞こえてきた。そして遂にファウナ行政府の一団が城門前に姿を現した。
 ファウナ行政府の一団の装いは仰々しい位に立派なもので、小屋の面々は、ただその荘厳な姿を観るだけで立眩(たちくら)みを起こしそうな程であった。流石に世界に冠たる自治領の正規軍だけの事はある。
 トルーパ六体牽きの木枠に鉄を組み合わせた漆黒の大馬車を中央に配し、その両脇には褐色の幌を纏った三体牽きの中馬車を従えている。正規兵が前衛後衛各三名の布陣で大馬車を挟み、両脇の中馬車にも各三名が縦列に並んで守護している。
 総勢十二名のファウナ正規兵は流石に直参らしく全身を銀色の甲冑で覆い、艶消しを施しているとはいえ陽の光を眩しく反射させて煌びやかである。目を凝らすと、甲冑にも武器にも金色細工が丁寧に描かれている様だ。腰に大剣を備えて片手で長槍を構えながらも、もう片方の手だけで手綱を巧みに操るその様は、当にエリート然の雰囲気を醸し出し容易には近寄り難い。その中に黒いマントを羽織っている者がいる。正規兵の隊長であろうか。
 見張りの者がガントスに怒鳴られながら数えていた徽章旗が六つ、風に棚引いている。金色の鶴嘴を対に交差させ、ファウナを象徴する鉄鉱石を金色の長方形で象っている。その二対の鶴嘴が、あたかも両掌で鉄鉱石を捧げ持つ様に描かれた徽章旗である。艶のある黒地布に金色を使った徽章旗は、巨大な経済圏を直轄支配する自治領らしく容易には後塵を拝しない強い意志を示している。馬車の幌には徽章がいくつも丁寧に刺繍され、そのいずれの徽章にも金糸の七個の鉄鉱石紋様が描かれて、何処から見てもその一団がファウナ行政府の正規軍である事の威圧感を十二分に与えている。

 一方、小屋を発った小屋の正規軍はやはり同じ装いで戻って来たが、出立の時にはあれほど立派に感じたものの今はファウナ一団に圧倒され殊更に貧弱に思え、重任を果たした彼等が些か気の毒でもあった。
 だがその彼等を迎えるガントスにはファウナ一団の荘厳さなど眼中にない様子で、戻って来た仲間の一人ひとりの顔を飽くことなく誇らしげに眺めているが、その眼差しはあたかも我が子に向けた笑顔のようにも見える。身装(みなり)が貧相だからといって懸命に頑張った我子を卑下する親などいない。なるほど小屋の面々がガントスを慕い従うはずである。

 東城門前に整然と隊列したファウナ一団が、足並みを揃えて東城門を潜りだした。初めて潜る東城門にも拘らず、そこでいつ練習したのかと思わせる程に隊列を崩さず、寄宿舎の前に粛々と進んでいる。近くで見ると大馬車は三間強幅(約6m幅)の巨大な仕様であり、各所に施された細工には薄く朱も彩られていた。二間幅の幌の中馬車の一つには一団の物資が整然と積み込まれている様子だ。もう一つは意外な事に伽藍(がらん)としている。
 その一団が宿舎前で止まると、正規兵達は特段に号令が掛かる事もなく一糸乱れず下馬し、機敏に横列に並んだ。

 寄宿舎前には獣人の躯が横たわっている。それに気付かぬ筈もないが、全く眼中にはない様子で粛然と並んでいる。その中の黒いマントを羽織った男が兜を取ると同時に、他の兵員が槍を真っ直ぐに携えたまま眼前のセネル達に向かって一斉に敬礼をした。ガチャッという甲冑の音が一瞬だけ響いたが、その中に本当に人間がいるのかと思わせる程に、ファウナ正規兵の面々は全く微動だにしない。
 ファウナ正規兵の様子を見て、ほとんどバラバラに一行を向かい入れていた小屋の傭兵達も慌ててセネル達の後ろに横列に並んだが、今一つ落ち着かない様子で居る。彼女だけは横列には並ばず、躯の脇に付き添いながら、不思議そうにファウナの一団を眺めている。職人達は、一体どこに並んでいいか分からず、あちこちで緊張しながら直立不動で居ようとするも、慣れない姿勢で膝が震えて仕方がない。
 セネルはそんな様子を寧ろ微笑ましく思っている。その右手にはジェノが、左手にはガントスが胸を張って控えている。
 やがて、中央大馬車の扉が開いて中から白髪交じりの中老男性が降りてくると、クルリと振り向いた黒マントの隊長に促され、ファウナ一団の最前列に進んできた。獣人の遺骸がその男性の目に飛び込んできて一瞬だけ躊躇(たじろ)いたものの、至って冷静を装ってセネル一行に深々とお辞儀しながら、獣人の躯を間に挟んだまま仰々しく挨拶を始めた。

「初めて御尊顔奉ります。ハベスト公セネル卿と推察仕ります。
御前に拝す(わたくし)、アルティス共和国ファウナ自治領副首長を務めまする、エリス・アーテと申しまする。お見知りおき賜りたく、お願い申し上げまする」
 セネルを称して、国家元首やら政治家やら豪商なども “ハベスト公” とか “セネル卿” とか呼んでいるが、セネルは嘗て一度も国家から爵位を拝借した事はない。
 過去、アルティス共和国やバイア王国などから、爵位贈呈の申し入れが幾度もあり、そのいずれもが最高位である公爵位を準備してセネルの承諾を待った。世界に名高いセネルに爵位を送る事で自国の爵階に箔を付けるのが目論見であったが、セネルがそんな見え透いた魂胆に乗じる筈もなく、“そんなモンは要らぬ!” と尽く拒絶してきたのである。故に、偏屈爺、頑固爺として、その存在感が世界中に広まっているのである。しかし国家元首達は、贈呈すると言った手前、拒絶されてもなお “ハベスト公” とか “セネル卿” とか勿体ぶって呼称しているに過ぎないのである。セネル自身はそう呼ばれる事が不愉快で、嘗ては敢えて返事をしなかった事も逆に怒鳴り返した事もあるが、流石にこの年になると大人げなく、ここ数年はあっさり聞き流している。
「うむ、掛かる遠方まで御足労痛み入るのぉ。セネル・グローデンですじゃ」
「閣下のお言葉、誠に(かたじけな)く頂戴致しまする。
我が主たるファウナ自治領首長こそ早速来るべきところなれども、一領を預かる身なれば、(わたくし)小人なれど名代仰せ仕り、首長よりの伝言、ここに持参仕る次第であります」
「うむ、拝聴しようかのぉ」
 副首長エリスは一枚の羊紙を重々しく懐から取り出すと、セネル達の前で朗読し始めた。
「我、万事一切をハベスト公にお願い申し上げる。
仲介の労、之を畏れ多く有難く拝する者なり。
-アルティス共和国 ファウナ自治領首長 テミス・モイライ-」
「うむ、しかと承りましたぞ」
 セネルの言葉が終るや否やそれまで置物の如く微動だにしなかったファウナの一団が “敬礼!” の大号令を掛けた。その大声に驚いた小屋の職人達が、セネル達に向かって何故だか一斉に敬礼している。

「のぉ、エリス殿や。この獣人の様子をご覧あれ。シッカリと目に焼き付けておく事じゃて」
「私もこの異様にして悲惨な惨状に驚いておりまする。果たしてこれは如何なる次第でございましょうや?」
「ふむ、この場に於いてこそ話すべき事があるのじゃ。慣れぬ異形を前にご気分を害されるやも知れぬが、宜しいかのぉ」
「閣下の仰せの通りに」
 ガントスが椅子の手配を目配せすると、セネルは先ずガントスをエリスに紹介し次いでジェノを弟子であると紹介した。そして職人達には獣人の墓標を造るお願いをした。

 セネルは、この小さな森で獣人と初めて遭遇してからこれまでの経緯を、ゆっくりとエリスに語り掛け始めた。その話の途中に飲み物が配られるなど流石にガントスの段取りには抜かりがないが、煙草を吸わぬガントスはうっかり灰皿を忘れていた。
「灰皿も貰えるかのぉ」
 慌てて用意するガントスを余所目に、いきなり彼女がセネルに話し掛けた。
「あら、おじいちゃん、煙草はいけないわ」
「うむ、じゃがこれが無いとのぉ……頭が働かんのじゃよ」
 彼女がセネルを “おじいちゃん” と呼んだその一瞬、着座して背筋を伸ばし微動だにしない甲冑の者達が、ガチャガチャと物音を立てた。彼女の注意に懇願するセネルの様子を見て、エリスは慌てて二人を交互に見直している。
「さぁて、何処まで話したかのぉ」
「はぁ、我が領へ使者を立てる経緯までを伺った次第です」
「うむ」
 セネルが再び事の経緯を細かくエリスに物語りながらも、ジェノやガントスが所々補足を加えている。
 南広場では職人達が手際良く、獣人の永遠の住みかを拵えている様だ。躯は先に眠りに就いた四体の仲間の横に祀られるらしい。陽も陰りはじめる頃には、いよいよ埋葬する手筈が整い、セネルの話も終わりに近づいている。
「そういう次第じゃよ、エリス殿や」
「はい、セネル卿。ご教示痛み入ります。この者……獣人もまた立派でございますな。このエリス、生涯忘れ得ぬ出来事でございます」
「うむ。では、埋葬の準備もできた様じゃて、寄宿舎の中で待っておいて貰おうかのぉ」
「いえ、セネル卿。我等も葬送に立ち合いとうございます」
「うむ、良き心掛けじゃ。」
 道具屋の女主人が恭しく躯に近づくと彼女に問いかけた。
「お嬢さんも、埋葬に立ち会うかね?」
 その言葉に、甲冑の者達が再びガチャガチャと物音を立てている。恐らく、ガントス以上に大きな勘違いをしているのは間違いない。小屋の者達はガントスを除いて、直接彼女から話を聞いているだけに事実関係を掌握しているが、一方で、セネルをして “おじいちゃん” と呼ぶのはこの世界に彼女一人であり、セネルがそう呼ばれて普通に返答するのもまた彼女一人だけである。故に、甲冑の者達の勘違いも強ち間違いとは云えないのかも知れない。



 小屋に篝火が焚かれ始めている。四日目の陽は十日月に天の座を代ろうと、ゆっくり沈み始めている。寄宿舎から、この地の名物料理の香りが美味しそうに漂い始めている。その中で躯の英霊を鎮める儀式が、しめやかに執り行われている。小屋の皆が彼等の安らかな眠りを願っている。
 久しく啼き止んでいた梟が、小屋の近くで静かに鳴いている。

 明日は雨が降るのだろうか十日月には薄く霞が掛かって、淡く空を照らしている。その空の下、五体の英霊を祀った墓標は静かに小屋を見守っている。
 ガントスに促されてファウナ一行が小屋の名湯に誘われ、小屋の面々も三々五々と二階広間へ或いは一階大食堂へと消えてい中で、彼女は篝火に照らされる墓標の前に座り込んだまま、いつまでも佇んで動こうとしない。
 墓標の盛り土を片手で掬っては、サラサラと(てのひら)から零れる土を綺麗に均し直している。そして綺麗に均しては、再び土を掬っている。その仕草は、あたかもスヤスヤと寝る子供の髪を優しく撫でる様に優しくもあり、二度と目を開けることのない子供に寄り添う様に悲しげでもある。
 この世界に散らばる寓話では、世界中の妖精達が、地脈を通じてその気持ちを伝え合っていると云う。涙の痕を残した獣人も、その地脈を通じて、最期の想いを誰かに伝えたのかも知れない。それが父母への感謝の念なのか、生き抜いて群れを作れず無駄死に終わった仲間への詫びなのか、彼女はその言葉を静かに感じ取ろうとして、時折寂しげな笑みを浮かべている。
 腕組みして寄宿舎の壁に寄り掛かかるスティナが、その彼女の様子をただ静かに見守り続けている。

 大食堂では、ファウナ一行への宴席が設けられている様だ。ガントスが頻りにファウナ一団に小屋名物の蒸留酒を勧めている。小屋の傭兵達は城壁回廊の見廻りに立つ者以外は、ファウナから帰還した仲間の無事を祝って上機嫌に、だが粗相があってはならぬとばかりにいつになく大人しく振る舞っている。職人達は遠巻きにファウナ一行を囲んで、静かに食事と酒を嗜んでいる。セネルとジェノは、彼女の事を気にしながらも、エリスと差しつ差されつ会話を交している。

 ある程度、酔いが回ったのであろうか、エリスがファウナ領内で起こっている事案を話し出した。副首長とは云え一領を治める政治家ともなれば、軽々に自領の内情を語れるものではないが、その相手がセネルであった事も手伝ったのであろう、その心情を素直に露呈している。
「この様な事をお話して、セネル卿が御不快に思わねば宜しいのですが」
「ふむ、如何なされたのですかな?」
「はぁ、お恥ずかしき事なれど、我ファウナにおいても面倒な事案が多発しておりまする」
「うむ、面倒な事案とな?
いや、ここでは何ですな。如何ですかな、ワシ等の部屋にてお伺いしましょうぞ」
「いやはや、お気遣い賜り恐縮でございます」
「なんの。今回の一件は、序章に過ぎんのかも知れぬと思っておりましてのぉ。背後の企みはもっと大きいのかも知れぬと。さすれば、首謀者は何を目論んでおるのか、或いは、エリス殿を煩わす事案とも関連あるやも知れぬ。ジェノや、ガントス殿を呼んできてくれるかの?
して……」
「はい、先生。あっ、彼女ならスティナが付いておりますから」
「うむ、左様であったか」

 ジェノがガントスを見付けて耳打ちすると、大きく頷いたガントスは一際大きな声でファウナの一団に話し掛けた。
「さぁて、ファウナの方々、如何ですかな我が駐屯地の蒸留酒は?
この蒸留酒、チビチビ呑んではなりませぬぞ! 斯様に呑み干されよ!」
 ガントスはそう言うや否や一気に大椀一杯の酒を呑み上げた。それまで静かに酒を嗜んでいた小屋の面々がその呑みっぷりを見たとたん、押さえ付けていた呑兵衛の魂にとうとう火が付いた。やんや! やんや! の喝采の中、我も我もと一挙に酒を呑み始め出したのだ。“さぁさ一献! さぁさ一献! さぁさぁ一献召し上がれぇー!” と囃したて、ファウナ一団に酒を勧めている。小屋の傭兵達や職人達、延いては旅人達の見事な呑み合いに拍手喝采しながらも、そこは武人の意地で酒を勧められて断る訳にもいかず、ファウナ一団も我先に大椀一杯の蒸留酒を呑み干している。すると更に小屋の面々も負けじと名物の蒸留酒を、これでもかと云わん程に呑み上げている。先程まであれほど上品であった大食堂の様子は、やはりいつもの様にどんちゃん騒ぎとなっていった。 その騒ぎに紛れて、セネル一行は三階の自室に上がっていった。

 自室に戻ると直ぐに、セネルは南側の窓から身を乗り出して広場の墓標を見た。そこには、ジッと佇んで獣人の声に耳を傾けている彼女の姿があった。
「お嬢様、御心配でございましょう」
「いや、大丈夫。一人ではない。少々、感受性が強くてのぉ」
「お気持ちが、お優しいのでしょうなぁ」
 セネルとエリスがそんな会話を交している処に、ジェノとガントスが料理と酒を持って入って来た。一通り並べ終えると、“色々と差し障り有るやも知れませぬ故、ワシは下で待機致しております” と気を利かせて部屋を後にしようとしたガントスをセネルが引き留めた。
「いやぁガントス殿や、小屋にとっても一大事やも知れぬぞよ」
 その言葉を聞いて、ガントスの男気がギラリと輝いた。

第九話 小屋の仕掛け

第九話 小屋の仕掛け

 エリスに依るとファウナ行政府を悩ます事案とは即ち、ファウナ領内を発った自領生産品が輸送道中で度々襲撃されるというものであった。襲撃に備えて護衛団を増員したり搬送工程を細かく変更したりと対処療法を施しても、今尚、断続的に時には連続して襲撃事案が起きているそうだ。無論、この為の歳出は尋常ではなく、今後のファウナ行政府の財政にも悪影響を出しかねない状況との事である。
 かかる最中にこの小屋から荷車回収の連絡があったものの、その生産品はファウナ領内でディアーナ行政府が正規購入した物であった事が裏付けられたため、ディアーナ行政府は襲撃事案を逆手にとって購買物を無理やり返品しようとしているのではないか、との嫌疑も上がったそうだ。もしセネルが仲介の使者を出さなかったら、一連の襲撃事案はディアーナ行政府が裏で仕込んでいるのかも知れぬという疑惑も浮上しかねない状況であった、とエリスは包み隠す事なく事実を伝えてくれた。
 また、一連の事案ではバイア王国の悪意に満ちた仕掛けの意見も根強く、そもそもファウナ行政府との関係が険悪であるが故に、その意見は実しやかにファウナ領民の間で囁かれているとの事であった。

 確かにバイア王国との間では、国境を形成するディラエ山脈最高峰のディラ山で良質な鉱石が発見されて以来、その採掘権の所有で紛争が絶えない。
 そもそも発見したのはファウナ行政府の鉱脈調査団であり、しかもこの領域はアルティス共和国の国境内地でもあるから、その共和国の一員であるファウナ自治領が採掘するのは理に適っている。が、その運搬にはアギュイエウス平原を経由せねばならず、この地を治めるバイア王国が鉱石の運搬に理不尽な課税を課してきたのが、最初の紛争の発端であった。しかも論争は過熱し、そもそも両国の国境がディラエ山脈山頂なのかその麓なのか、麓としたら何処からが麓なのかという不毛な議論から、ディラエ山脈山頂を国境とするバイア王国の突然の宣言に始まり、ディラ山採鉱出入口がアギュイエウス平原側にあった事も災いして、この採掘地はバイア王国のものであると云う強硬姿勢が、やがてファウナ行政府とバイア王国の、延いてはアルティス共和国とバイア王国の対立関係を生んだのである。

 アルティス共和国は、ファウナ自治領とディアーナ自治領という巨大な経済基盤を持つ領域を抱え、更には、世界中に信仰の厚い宗教もハルモニア自治領を中心にして栄えている。加えて、中継貿易で財を成すマトゥータ自治領や豊かな穀倉地帯を領内に持つダミア自治領、更に共和国内の知識を集約してこれを発展させる目論見で開所されたパラス自治領など、鉱山資源・森林資源等の基幹産業から宗教・商業・農業・学問と多方面に渡って世界に影響を与えている。
 一方のバイア王国は、アギュイエウスやマイアの各平原での農業が主産業であり、主要都市と云えばカラトスとケレスの二つしかない。その王国が世界的な覇権を狙って、両国の何れにも所属しない自由都市のブリゾやハベストに侵攻したのは二十五年前の事である。その時のハベスト侵攻で、ジェノの両親は戦禍に巻き込まれ、命を失ったのである。一方、当時のセネルは、王国侵攻を学者の立場で非難し、独立自治の立役者として、遂には王国に侵攻を取り止めさせた過去があった。
 その後、王国がセネルに対して、ハベスト公爵の爵位を勝手に贈呈したが、その使者がセネル邸に着くや否や、椰子(やし)の実を投げ付けて追い返したのは(つと)に有名な逸話である。ジェノが、この旅の途中でこの逸話は事実なのかと尋ねたところ、投げ付けたのは机にあったインク瓶であって椰子の実ではない、という返答をセネルから貰っている。故に逸話は概ね事実である。
 そして、ブリゾ及びハベストの両地はいまでも独立自由都市として、バイア王国にもアルティス共和国にも帰属していない。
 この結果として、バイア王国はアルティス共和国の後塵を拝する事になり、両国関係は冷戦下にあると云ってよい状況であり、ファウナ領民がバイア王国の陰謀説を上げるのも、かかる経緯があったからこそである。このディラ山採掘地は、採掘される事なく現在も廃坑として封鎖されており、何としてもこの鉱山を手に入れて基幹産業を増やしたいバイア王国が、再び共和国に圧力を掛けて来た、と云うのが噂の出所と思われる。

 一連のファウナ行政府の事案と噂話とを静かに聞いていたセネルは、目を(つぶ)って小首を傾げた。
「果たして、そうかのぉ?」
 獣人とこれを抹殺したであろう盗賊団の存在が、バイア王国を首謀者とするには、些か腑に落ちない様子であった。
「確かにのぉ、王国は強引じゃ。じゃがのぉ、荷を襲わせて何になるや? 荷が届かなんだら、共和国内も王国内も困るであろうて。混乱に乗じてディラ鉱山を採掘し始めたのなら話が別じゃが……王国に採掘技術があったかのぉ?」
「御意にございます。王国には採掘技術はなく、一番困っているのは王国自身でございます」
 ジェノが若い頭脳を駆使して、懸命に全容を推測しようとしている。ガントスは、自分の出番はまだかと虎視眈々として料理に齧り付いている。



 十日月は雲に隠れ、篝火だけが小屋を明るく照らしている。墓標の前の彼女がスクッと立ち上がってスティナに振り返った。
「……わたし、盗賊団を探します!」
 スティナはただニヤリと笑うだけで、静かに寄宿舎に戻って行った。明日には、雨が降るであろう小さな森は、いつもにも増して静かに夜の闇に包まれていった。
 寄宿舎一階の大食堂の明りは、ファウナの来客と小屋の面々、それにあちこちに転がる大椀と、散々に食い散らかされた名物料理をどこまでも明るく照らし付けている。腐臭の者がその身を潜めていた昨晩の酒樽は、既に綺麗に撤去されている。彼女は、酒に酔い潰れて大食堂を寝床にして転んでいる職人達やパロメ達やファウナの来客達を余所目に、まるで酔っ払いに絡まれるのを避けるかの如く、小走りに二階まで駆け上がった。
 二階では、やはり整然と荷で区切られた大広間で、小屋の面々とファウナ護衛隊長らしき黒マントの男とガントスまでもが、大の字になって既に眠りに就いている。自分に黙って付き合ってくれたスティナも休んでいるかも知れない……そう思ってその眠りを邪魔せぬ様に足音を潜めながら、三階の自室に向かうその階段で、彼女はばったりエリスと鉢合わせした。
 コクリと会釈を交すと、エリスは流石に紳士然として彼女を先に通してくれた。その擦れ違いざまに、エリスが付けている香水であろうか柑橘の甘い香りが、古い蝋燭の残香(のこりが)と一緒に彼女の鼻をくすぐった。それは、この小屋の蝋燭とは異なる彼女が初めて嗅ぐ香りであった。
 三階の自室では、セネルとジェノが難しい顔をして椅子に浅く腰掛けている。部屋を出て行ったエリスの様子から険悪な事が起こった雰囲気はないものの、今回の全容が掴めるようで把握しきれない歯痒さに、二人が苦虫を潰した様な顔付で椅子に腰かけていたものだから、彼女は勢いよく扉を開け放ったまま、そこに立ち竦んでしまっていた。
「……どうしたの?」
「ん? ふぉふぉふぉ、済まぬ済まぬ。少々考え事をしておったのじゃ」
「ふふ、それより君のほうこそ、凄い勢いで扉を開けたねぇ」
「ええ、わたしね……わたし、盗賊団を探しに行きたいの」
「ふぅむ、獣人を抹殺したであろう輩共じゃな。して、その一団を首尾よく見付けたとして、それから如何する目論見かのぉ?」
「獣人の敵討かなぁ? 或いは、一人を捕まえて尋問する?」
「だって、それはね、それは……それは今から! 今から考えるけど……」
 如何にも彼女らしいその応えに、二人は腹を抱えて笑いだした。
 理由は兎も角として、二人の思惑は既に盗賊団の探索の必要性に辿り着いていた。獣人と首謀者の間にいて、その取引を仲介した者の存在を立証する為には、一団の探索は避けて通れない為だ。仮に盗賊団がその仲介者であったとして、既に存在した一団を利用したのか、或いは、新たに一団を組織したのか、利用したにせよ組織したにせよ、なぜ故に盗賊団を使ったのか、そもそも首謀者は何の企てを遂行せんとして、斯様に面倒な事を仕組んでいるのか--セネル達の逡巡は当に全容の解明にあったからだ。今回の一件は、単にこの小さな森の小屋だけの案件ではない。単なる鉱石盗難事件ではなく、ファウナ領内で同種の事案が多発している事を考慮すると、首謀者は世界を巻き込んだ意図を持って、着実に計画を実行に移している筈である。ここ小さな森の小屋の事件は、その計画の一端に過ぎない。セネル達は、その一端から紐解いて全容を捉えようとしていたのだ。
 真っ赤になってプクッと膨れ面をしている彼女を見てセネルが語り始めた。
「ふぉふぉふぉ、笑うて済まなんだのぉ。うむ、そなたの云う通り、連中は探さねばならんのぉ。実はのぉ、世界のあちこちでのぉ、同じ様な事が起こっておるそうじゃて。鉱石の荷がのぉ、襲われておるんじゃよ。かなり大掛かりじゃぁ。誰ぞがお金を費やしてのぉ、世界中で悪さを働いておるわい」
「えっ、世界中で?」
 驚く彼女にジェノが優しく語り掛けている。
「うん、そうなんだよ。さっきねエリス副首長が仰ってたんだ」
「まさか、王国が? でも、鉱石がなくっちゃ王国も困るわ。一体、誰が?」
「そうなんだ、そこなんだよ僕等が考えていたのはね。誰が、何のために?ってね」
「そう、そうだったの。良かったぁ!」
「ん? 良かったとは?」
「ううん、何でもない」

 以前セネルがファウナ行政府宛へ書簡を送った際に、彼女はセネル達に協力すると約束した。ファウナ一団が到着すれば、セネル達は一団と共にファウナ領に向かうと思い込んでいた彼女にとって、ここで盗賊団を探し出す為には、セネル達と袂を分かつ必要がある。畢竟、約束を破る事になる。無意識のうちに一緒に旅を続けたいという想いが彼女にもあったのであろうか、分かれる辛さが彼女にはあった。それでも盗賊団を探さずにはいられない慟哭に似た想いに気付いて、その複雑な思いで三階まで駆け上がって来たのである。
 “良かった” とは、彼女の無意識の気持ちだったのだろう。急いで湯屋の準備をすると、彼女は笑みを浮かべて下に降りて行った。その彼女の想いを知ってか知らずか、セネルが “良かったのぉ” と漏らした。ジェノはただ “ええ” と陽気に応えただけであった。二人も湯屋の準備を整えると、気持ちが緩んだのか大きく欠伸しながら部屋を後にした。



 小屋は、回廊での見張りの者が交代する時以外は、至って静かに夜を過ごしている。深々と更ける夜の中で、セネル達にも漸く安らぎの時間が訪れた。



 月が陽に変わるのを知らず、セネル達はいやエリスですら朝を遅い時間に迎えた。今日は曇天の空である。この濁った空の下の何処かに探し出すべき盗賊の一団がいる。いずれ明るい光のもとに引き摺りだされるべき一団がいる。
 セネル達が朝支度を仕舞えて部屋を出ると、再びエリスに出食わした。“いやはや、昨晩は……” などと社交辞令を交しながら一行が大食堂に降りると、そこにはガントスが手薬煉(てぐすね)引いて待っていた。彼は、昨晩の会談で自分の出番が中々回って来ないのと、やはり上席の者との会談であった事もあり、連日して浴びる様に呑んだ酒も手伝ってか、手洗いに立つと同時に我知らず二階大広間で眠りに就いてしまったのである。
 頭を掻きながら申し訳なさ気にセネル達に近寄ってくると、エリスが機転を利かせて和やかに着座を促した。一行が着座すると直ぐにセネル達には濃い珈琲が、珈琲を飲めない彼女には石榴(ざくろ)果肉をシロップに浸した料理が運ばれてきた。風望ノ月になるとこの小屋の近辺にたわわに実る石榴の外種皮は食用に、根皮や樹皮は駆虫薬に、果皮はうがい薬として用いており、この意味では豪快な料理と上品な味わいの蒸留酒と並んで小屋の名産品でもあり、彼女の一番のお気に入りでもある。余に美味しそうに頬張る彼女の様子を見て、エリスもまた石榴を注文する程である。

 濃い珈琲を啜りながらセネルが徐に口を開いた。
「のぉ、エリス殿。直ぐ様にファウナへ出立すべきとも思うが、ワシには盗賊団の一件が気に掛かるのじゃ。ワシ等の仮説が正しいのか、偶然に獣人と盗賊共が争っただけなのか……事と次第では、全容を掴む切欠になるやも知れぬのぉ。
そこでじゃ、暫くここにあってきゃつ等を探索しようと思うのじゃ。如何かのぉ、エリス殿」
「御意にございまする。私も、事実の程を確かめとうございます。これはファウナの命運にかかわる事、単に荷車一台の事ではございませぬ。どうぞ私配下の衛兵共をご存分にお使い下さいまし。必ずや充分な働きを致しましょう。いやいや仮に偶然の争いであったとしても、盗賊共が今回の件に係っていなかっただけでも朗報でございまする」
「うむ、公務を留めてしもうて済まぬのぉ」
「なんの、これもまた公務でございますれば」
 ガントスの目がここぞとばかりに輝いて、早速にパロメ・タキトゥス・スティナの三名が呼ばれた。合わせてエリスが黒マントの男を呼び入れた。



 愈々役者が揃った。曇天の空を余所に、小屋には漲る程の希望が満ち満ちていた。遂に、盗賊団探索の号令が掛かる時が来たのである。
 小屋大食堂に集う面々の顔には、深い使命感が刻み込まれている。ハベスト公と称されるセネルに呼ばれる。加えて、ファウナ副首長とガントスが同席するその席に呼ばれる、ただそれだけで武人の誉れと言えよう。しかも過日の獣人との闘いを経て、盗賊団の存在を匂わす獣人の無残な躯が、そしてファウナ正規軍が遥々来訪してきた事実が、今回の事件が徒ならぬ案件である事を物語っている。その案件の為に呼ばれる、即ち “選ばれた” という自負と責任が、大食堂にすら収まりきれない程の気概となって各人の面構えに現れている。
「集まってもろうて済まんのぉ。実はの、各々方にお願いがあるのじゃ。事の経緯は今更語るまいて、そなた等の魂に刻み込まれておる様じゃからのぉ。
さぁて、ワシにはのぉ、あの無残な亡骸がのぉ、これからの世界の暗澹たる姿を示しておるように感じるのじゃ。この世界の何処かにのぉ、うむ、かなり頭の良い奴じゃろうて……それが何処ぞにおってのぉ、この世界を土台から揺るがさんとして企んでおる様に思えるのじゃよ。
ただ、今度の事はのぉ、この小屋が斯程に抵抗するとは想定外じゃったろうて。たがのぉ、首尾良く事が進まんでも、きゃつ等の企ては些かの狂いも生じてはおらんと思うのじゃ。
じゃが、唯一のヘマはのぉ、黒子が表に見え隠れした事じゃな!」
 パロメが身を乗り出して話してきた。一介の傭兵の身分であったとしても、セネルは、自らの意見を発する者に対して立場を越えて接してくれる。この経験が、パロメをして一人の人間に成長させてくれたのである。
「この小屋に忍び入った盗賊共でございますな」
「うむ、奴等は何一つ全容を理解しておらんじゃろうて。暗闇の内で仕舞うべき事を表に出しおったわい」
 ジェノが興奮を隠す事なく話を繋げている。
「僕達にとっては、これは千載一遇の機会なんですよ、皆さん! もうこれから先にはないかも知れない機会なんですよ!」
 ガントスも負けじと拳を振り上げた。
「この尻尾は死んでも放して堪るものかぁ! グイグイ引き出してくれようぞ!」
 エリスは、きちっと背筋を伸ばして深く頷いている。黒マントの男は表情を変える事なく淡々と話を聞いている。寧ろ彼の作法こそが武人の振る舞いなのかも知れない。
「して、ガントス殿や。これまでの盗賊団討伐の一段を話して貰えるかの?」
 ガントスはここぞとばかりに、過去の討伐隊の経緯を語り始めた。

「要するに、空振りだったと云う事ですな。不思議な事です」
 エリスは論理的に、しかし小屋の面目を潰さぬ様に紳士的に、これまでの経緯を分析している。パラスと云えば、聡明なる知恵者が集う学術都市にしてその名を世界に轟かす共和国自治領、そのパラスの裏をかく一団がいるとは到底思えぬ。一方の盗賊団と云えば、何の因果かは知らぬが夢と希望を失って、人道を外れし集団にして底知れぬ欲望に駆られる者共に過ぎぬ。権謀術数を計らず専ら強奪せんとする輩が、これ程に巧みに身を潜める事が不思議でならぬ。
 エリスのこの分析は尤もであり、寧ろセネルにしてみれば思惑通りの反応であった。
「まさにエリス殿の申される通りじゃて。なぜ故に、過去幾多の討伐策は失策に終わったのか?パロメ殿や、どう思うかね? 思う処を意見してみなされ」
 パロメは顔を真っ赤にして意を決して自説を説いた。
「私は……ワ、ワシは、内通者が居ると睨んでおります!」
 ガントスは言うに及ばず、エリスも黒マントの男も皆、驚愕した面持ちでパロメの意見に耳を傾けた。パロメは彼なりに、懸命に言葉を選びながらも決して臆することなく、パラスにこそ内通者がいると云う自分の考えを説いた。決して流暢ではない、いや枝葉末節に拘れば論理的ではないパロメの意見ではあったが、その真摯な態度と真っ直ぐな想いは、一同にシッカリと伝わっている。
「うむ、獣人を葬りこの小屋に忍び込みし者共がのぉ、小屋とパラス領とがこれまで壊滅せんとしてきた一団かどうかは未だ分からぬ。じゃがのぉ、巧みに追撃をかわすこれまでの一団にはのぉ、背後に知恵者がおると思うのじゃ。そして、今回の小屋の一件じゃ。これにも明らかに知恵の高き首謀者がおるのぉ。偶然とは思えんのじゃよ。同じじゃとしたら、実に手強き相手じゃな」
「そうなんです! ここ数カ月に及んでパラス領を脅かす新興の盗賊団とファウナ領を悩ませる襲撃事件。緻密にして狡猾な陰謀を企む首謀者が、全てを差配していると思うんです。でも、その意図が分からない。何を目論んでいるのか皆目分からないんです。仮に獣人を惨殺した一団を捉えた処で、直ぐに全容が解明するわけじゃありません。いや、もしかしたら無関係かも知れません。そのうえに、深入りすれば命を失うかも知れません。もし無関係だったら、それは無駄死になるかも知れません。
でも、それでも……」
「大丈夫よ、若先生。盗賊団が無関係だったとしても、探しましょう! ねっ、タキトゥスさんスティナさんパロメさん、お願い!」
「うむ、無論じゃ」
「ふふふ、了解したよ」
「別嬪さんにそんな目して云われると断りきれんぞい」
「わたし、バイゼルさんにもお願いしてみるわ」
 バイゼルは、彼女等と共に小屋を守り抜いた大剣使いである。妖剣の使い手で、夜目が効くこともあって専ら夜半に活動しているが、過日盗賊共が立ち去る姿を唯一目撃しその方角に矢を放った者であり、小屋の面々から “(ふくろう)” の異名を付けられた傭兵である。
「うむ、奴なら旧知の間柄ゆえ、私から話を付けましょうぞ。いなや、奴なら一言で済みますなぁ。ただ “行くぞ!” とだけ」
 タキトゥスの言葉に、一同は心底痛快に笑った。ただそれだけの言葉で命を預けられる、その気持ちが清々しかったのである。命を失う危険を彼らに背負わせる申し訳なさに、ジェノは涙ぐんで話し続けている。
「皆さん! 済みません。もしかしたら、事実を知りたいだけの自己満足なのかも知れません。知って何ができるのか……約束もできません。それなのに……」
 スティナがそれを遮った。
「なぁに、若先生よ。あんたは死に物狂いになって知恵を絞る、俺達はそれを信じて突き進む。
それで十分だよ」
「実に素晴らしい者達かな。ファウナの正規軍にぜひとも欲しい逸材です」
 黒マントの男がエリスに話し掛けていると、慌ててガントスが割り込んだ。
「いやいや、こ奴等は小屋の酒が無けりゃ、燃料不足で動きませぬぞ」
「なんじゃいガントス殿。折角の出世話が御破談じゃぁ! がっはっはっ」
 パロメの豪快な笑い声は、ここに呼ばれた(つわもの)の気持ちが一つになった現れであった。世界に不安の種を播く魂胆に、関係するかしないか未だ判然としない危険な仕事を、誰の為でもなくまして己の誉れの為でもなく、“ただ許し(がた)し!” のその一念で信ずる処に命を投げうつ覚悟が、彼等に備わったのである。今回の事件が解決したならばまだしも、解決しないか今回の探索が無関係であったら、当に無駄骨以外の何物でもない。が、斯様な事は小事に過ぎない。大事は、己が信ずる事にひたすらに突き進む事である。人を得て人を信じて真っ直ぐに歩む事である。タキトゥスにもスティナにも、漸くパロメの爽快さが分かり始めてきた。
「図らずも、またそなた等の命を預けて貰う事になったのぉ。済まぬぞよ。じゃが、今でなけりゃいかんのじゃて。済まぬのぉ」
 深々と頭を下げるセネルに、皆が慌てて間に入った。
「何を申されますや! このガントス、いやぁ、こ奴等とて既に先生方に命差し上げておりまする! お願いでございます! 迷わずご存分にお使い下され!」

 この曇天の空のもとに身を隠す盗賊団の探索には、タキトゥスとスティナ、それにパロメと彼女が対になって、南北に延びる街道筋を起点に、広範囲を探索する事となった。土地不案内なファウナ正規軍は、昼夜を問わず小屋を護衛する段取りである。バイゼルは毎夜、小屋を取り巻く小さな森を凝視する。大任を果たして戻って来た小屋の一団は、職人の伐採護衛に当たりながらも怪しげな気配を常に探る。
 しかも、今回はパラス自治領との共同歩調を取らずに、単独で盗賊共に挑む。何人いるのかも分からない相手に少人数で挑む。探索隊には青と赤の癇癪玉が渡され、盗賊団発見と同時に間髪いれずこれを打ち上げ仲間に知らせる。と同時に決戦を挑んで可能な限り足止めを図る。恐らくは、盗賊団を捉える機会は一度だけ、逃せば警戒して更に深く身を潜めるであろう。そうなっては元も子もない。世界の命運を握るかも知れぬ機会は、後にも先にも一度だけである。
 まさに捨て身の仕掛けである。信ずるのは己の技と仲間の存在だけ。だが、彼等に迷いはない。それだけあれば十分なのだ。

 小屋の東門から、トルーパに跨った戦士が二組、南北の街道に颯爽と駆け出して行った。もう戻る事がないかも知れぬその街道を、ひたすらに己が信じる処に従って駆け出して行った。セネル達はその姿を見失うまいと、その眼に彼等の姿を焼き付けている。

 曇天の空の彼方から雷の音が響いて来る。やがて雨が降るのだろうか。天が味方するのは盗賊の一団なのかそれとも小屋の者共なのか。そのいずれであっても、小屋の仕掛けは動き始めた。

第十話 術中に嵌る輩

第十話 術中に嵌る輩

 深い森の奥で苦渋に満ち満ちた形相で獣人が最期を遂げた北側街道筋には、パロメと彼女が盗賊共の存在を探っている。
 雨がポツリポツリと小さな森を濡らし始めている。明るい場所に引き摺り出すべき盗賊共は、薄暗く湿った木陰の世界の住人であり、常に息を潜め気配を隠し生きている屍である。雨が連中の住まう世界にとって好都合な環境なのは歪めない。それでも、彼女達には進むべき大義がある。必ず見付け出すべき道義がある。
 風も出て来た。小さな森の木々を細かく揺らしては、盗賊共の気配を何処までも隠し通そうとしているかの如くである。或いは彼女達に試練を与え、これから進む道程への覚悟の程を確かめている様にも思える。

 彼女の緑に澄んだ瞳は、森の闇を具に捉え、彼女の耳は、雨音と木々を騒がす風と盗賊共の息使いを懸命に探っている。パロメは全身の毛を逆立てて、盗賊共の微かな動きを感じ取っている。雨はダラダラと降り注ぎ、彼女達の行く手を阻んでは、“お前達の決意はそれだけのモノなのか?” とほくそ笑んでいる。
 それでも、彼女が乗るトルーパは街道の雨泥を跳ね上げて、北へと疾走している。やがて六つの生気を失った眼球がその疾走を捉えた。ある者は木の高い処から、ある者は地に伏して藪に隠れながら、ある者は立木の裏に寄り添い立ちしながら、彼女とパロメの姿を見送っている。

 小さな森を抜けようとする辺りでパロメが手綱を牽いて森へ踵を返さんとする時、小さく彼女に呟いた。
「三人かぁ。見張りの者ぞい」
「ええ、ゾッとするわ。仕掛ける?」
「うんにゃ、囮かも知れんぞい。もいっちょ、探ってやるかの」
「ええ、今度はわたしが前を走るね」
「あぁあれだぁ、吹き矢には気を付けぇよ」
 そういう事は小屋を出る前に言うべきだが、その言葉の掛け方が如何にもパロメらしく思えて、彼女はニコリと微笑んだ。

 そして彼女達は、小さな森のもと来た街道を再び馳せた。先程あれ程に寒々しく感じた気配は、彼女達を付けて来たらしく街道を戻り始めて直ぐにベタリとまわりついて来る。が、彼女達を襲う目論見はないらしく、立ち位置を変えながらジットリと見据えているだけである。先程と唯一の違いと云えば、彼女達が既に気配を感じ取っている事に、盗賊共も感付いているらしい点だろうか。トルーパとの擦れ違い様に、盗賊共が蜥蜴の潜む川沿いに隠れる様に移動し始めているのが分かる。
 “仕掛ける?” 彼女は再びパロメに目配せした。が、パロメの茶褐色の団栗眼(どんぐりまなこ)は、“も少し泳がせぇ!” と語っている。盗賊共の存在を感じながらも素知らぬ振りで遣り過ごした彼女達は、再びトルーパを留めて手綱を返しながら呟いている。
「川を渡る気かしら?」
「うんにゃ、蜥蜴共が騒ぎよるからの。川伝いに動く積りじゃろ」
「小屋下かしら? それとも群狼の方?」
「そうじゃな……群狼に騒がれるのも面倒じゃろう。小屋下から蜥蜴沼の方ぞい。
問題はそっから先じゃ。そっからは森がパラス領の尾根に続いておる。じゃがパラス領内は隠処(かくれが)の痕ばかりぞい。パラス領内には戻れんじゃろうなぁ。パラスの衛兵が見張っておるからの」
 小さな森が続くパラス領の尾根は、元々は草原であったのを、長年の小屋の植樹で立派な森に仕上げた人工森林である。整然と並ぶ大木と雑草が綺麗に刈り取られた地肌は、一面が緑に苔生(こけむ)して盗賊団が身を潜めるには不都合な場所である。その人口森林を抜ける辺りには小屋の伐採場があり、出荷を待つ大木が美しく積み上げられている上に、小屋の職人達や護衛団が気を張っている場所である。更にその先は、これから育てる苗木が延々と草原を埋めており、尚更に盗賊団には不都合な場所となっている。そこを抜ければ、エリュマントス山中で彼女とセネル、ジェノが選択を迫られた群狼の縄張りが待ち受けている。

 もしあの時、セネル達が危険を冒して群狼の縄張りに足を踏み入れていたら、獣人にも小屋の騒動にも世界の不穏な動きにも全く関わる事なくいずれはパラスに到着し、命運が一つに繋がる機会を失っていたであろう。
 だがしかし、天は彼女達にこれでもかと云わんばかりに難儀を振り掛けている。天が彼女達に何をさせたいのかは知らぬ。ただ今は、縺れた糸を解く為にただ前へ前へと進まざるを得ない。

 トルーパで駆け抜けながら彼女達は、川沿いで息を殺している一団の厭らしい視線をかわして、小さな森が始まる辺りにまで馬を進めた。
 彼女達が街道筋を疾走する度に、そぼ降る雨に打たれながらジッとこちらを凝視する一団の様子は、逃げる機会を窺っている様にも、或いは不意打ちを加える機会を狙っている様にも思える。だが、連中の戦術は、吹き矢で足止めし徒党をなして背後から襲い掛かるのが常套手段で、少人数で闘いを挑む気概は更々ない。さすれば、矢張り逃げる機会を窺っているのかも知れぬ。それにしても、三人だけこの小さな森に潜んでいた理由が掴めない。故に、癇癪玉はまだ打ち上げる時ではない。

 東に延びる蜥蜴の住む河は、小さな森が始まる辺りで大きく右に(うね)っている。その畝りは、更に小さな森を避ける様に大きく右に逸れて、小屋のある辺りで河は遥か西方に進行方向を変えて流れている。小屋から真西に延びる林道は、専ら小屋で加工した木材を河へ運ぶために仕込まれた一本道で、その小屋と河が交わる辺りには、荷受け場が設けられているばかりである。
 パロメの団栗眼が彼女に、その荷受け場に向かへと目配せした。瞬時に二人は手綱を返して小屋へとトルーパを走らせている。盗賊共は彼女達の行動の真意が掴めぬらしく、眼前を馬が駆け抜ける度に輝きを失った眼でそれをドロリと眺めている。

 小屋の東門前でパロメはスパッと馬から飛び降り、同時に彼女はその手綱を右手で手繰り寄せると、失速させる事なくそのまま城壁に沿って西へ駆け抜けた。東城門を潜る際にパロメが中央櫓に陣取るガントスを見付けた。激走する姿を目視したガントスに、パロメは指三つを立てて西を指差し、そのまま寄宿舎脇をすり抜け小屋の西側に廻って行った。
 西側には武具屋と道具屋が店を連ねて構えている。その武具屋の主人が、雨に打たれながら激走してくるパロメの姿を捉えると、裏の勝手口の鍵を開け、武具を飾っている大きな陳列棚を力の限り押し出した。その陳列棚の床底には真下に延びる真黒な穴が口を広げている。
 勝手口に突入してきたパロメに、武具屋の主人が檸檬を一つ投げ渡した。それを片手で受け取りガブリと齧りつくと、パロメはそのまま床底の穴倉に滑り落ちて行く。同時に武具屋の主人は、もう一つの檸檬を穴へポイっと投げ落した。
 綱伝いに滑り落ちるパロメは、上から落ちて来るもう一つの檸檬を器用に受け取ると、そのまま迷う事なく真黒な穴の中に吸い込まれていった。
 武具屋の主人は、勝手口をきつく施錠すると再び陳列棚を力の限り引き戻して、何事も無かったように店先で煙草を吹かし始めた。この穴倉は、小屋の万一に備えて非常用に掘られた物であり、ガントスと武具屋の主人の他はごく一部の者が知るのみである。武具屋はこの小屋に限らずどの街でもなにがしかの特命を持っている。ここの主人のそれは非常口の門番であり、万一の際には最期に小屋を後にする使命を担っているのである。

 人ひとりがやっと通れる程の狭い縦穴を、綱を伝って十間(18m)ほど滑り落ちると、漸く地面に辿り着く。その地面は、やはり人ひとりがやっと通れる程の横穴で、真横にダラダラと下りながら延びている。採光は一切なく、あたかも地獄にでも通じる様な横穴である。所々に埋め込まれている夜光石が、僅かに生きる者が通る道であることを示しているばかりである。
 その細い坑道を重鎧に大斧を携えたパロメが、一目散に駆け抜けている。総重量が十貫(約37.5㎏)にはなろうかと思われる重装備で加えてかなり息苦しい。それでもパロメは一目散に休む事を知らず駆け抜けている。
 その坑道の出口には、彼女が一人で待っている。盗賊共に鉢合わせするかも知れぬ危険な荷受け場にたった一人で待っている。自分が来る事を信じて、何一つ疑う事なく馬で駆け出して行った彼女を一人にはできぬ。故にパロメは四十を超えた年にも拘わらず、一目散に休む事を知らず駆け抜けている。

 城壁に沿って西に馬を走らせた彼女は、西の一本道を転げ落ちんとする程の勢いで駆け抜け、荷受け場が眼前に見えると手綱を引いて馬を留め、約束の荷受け場に一人で滑り込んで行った。荷受け場のぬかるみは誰かが走り抜けて荒らされた様子も無く、自然のままに雨垂れを受けている。“まだ、盗賊団は此処を通り過ぎていない!”そう確信した彼女は槍を小弓に持ち替え、やがて走り抜けて来るであろう腐臭の一団を静かに待ち構えた。

 彼女達が街道筋を何度も行き来したのが幸いしたのか、盗賊団は一気に川沿いを駆け抜けず、立ち止まって様子を窺っては小刻みに進んできたのだろう。彼女が息を整え身を隠して狙いを付けているその荷受け場に、実に驚く程に無防備に姿を現した。
 彼女は全く躊躇する事なく、先頭の盗賊に狙いを定めて弓を弾いた。
この場に先回りされている事を想定していなかった先頭の盗賊の右肩を、血飛沫と共に矢が貫いた。前のめりに倒れる先頭の盗賊に二本目、三本目と矢が連続して放たれている。その矢は右足太腿と右脇腹を浅く突き刺し、浅手とは云え流れ出す血潮は泥濘を赤黒く染めて、盗賊の一団の動きを完全に留めた。
 四本目、五本目の矢が先頭の盗賊を容赦なく射止めている。艶消しの紺の楔帷子(くさりかたびら)を身に纏う盗賊の鳩尾(みぞおち)に二つの矢が突き刺さる。先頭の盗賊は、迂闊にも六本目の矢を避ける為だけに川に落ちて逃げた。楔帷子は武器の威力を驚く程に吸収するため、未だ致命傷に至っていない筈なのに、あれ程の出血をしたまま川に落ちて逃げた。そこに蜥蜴がいる事を知って川に逃げた。直ぐに蜥蜴の一団が血を嗅ぎ付けて襲ってくる。先頭の盗賊は、もはや二度と浮かび上がる事はないだろう。尋常ならざる者の愚か過ぎる選択の結果を、苦渋の顔で受け止めるより他に彼女にできる事はなかった。
「この(あま)がぁ!」
 狂ったように残り二人の盗賊共が、彼女を目掛けて襲い掛かる。彼女には、もう弓で狙いを定める余裕はない。足もとの槍をポンと蹴り上げて、彼女は上段に身構えた。槍を旋回させて重槍の特徴を生かした闘いを準備する暇はない。得意ではないが槍柄で剣先を払い除けて、槍先で突き刺す戦術で持ち堪えるしか方法が無い。ただパロメが来る事を固く信じて、持ち堪えるより手立てがない。
 盗賊共が繰り出すレイピアの剣先は思った以上に素早く、彼女は重槍の柄で払い除けるのがやっとであった。幸いに雨の泥濘が、盗賊共の動きを足止めてくれる。足を掬われ今一歩踏み込めぬ盗賊共の剣先は、彼女の鎧を傷付ける程度の威力しか無い。そもそもレイピアは突き刺して本領を発揮する武器であるから、鎧の上から突き刺す為にはシッカリと踏ん張って踏み込まなければならない。その足場がぬかるんでんでいたのは、或いは天が彼女を味方したのかも知れない。
 しかし、彼女の槍先は腐臭の者共に比べて遥かに遅い。足を取られながらも盗賊共は、余裕で彼女の攻撃をかわしている。ジワジワと彼女との間合いを詰めて、威力が弱いとは云え着実に彼女の命を削りに掛かっている。
「ただ殺してしまうだけってのも、勿体(もったい)ないぜぇ」
「ふっふっふっ、だよなぁ」
 盗賊共の卑猥な笑みが、一瞬の隙を作った。彼女はそれを見逃さなかった。
 彼女は足もとの泥を力一杯跳ね上げた。その泥砂はバシャリ! と左側で身構えていた盗賊の顔面を汚した。屍の目でも、泥は目に沁みるらしい。慌てて振り払おうとする盗賊に向かって、彼女は槍を低く構えながら無我夢中に突進した。いくら彼女が華奢とは云え、全体重を乗せて突き刺されては一溜りもない。彼女の槍は盗賊の脇腹を突き抜けた。
“ゲボッ……” 人とも獣とも取れぬ呻き声が低く辺りに響いた。
「こ、この(あま)がぁ……」
 楔帷子に槍先を邪魔され未だ致命傷には至っていないその盗賊は、いきなり彼女を両手で抱きかかえた。槍を抜く事も抱きつく盗賊を払い除ける事も、今の彼女にはできない。
「くっくっくっ、こりゃぁいい。どうしてやろうかぁ?」
 大笑いしながら(よだれ)を垂らして歩み寄る残りの盗賊は、既に勝ちに酔いどれている。愚か過ぎる姿である。嘗ては人であったろう面影はもうどこにもない。そしてその盗賊は、いきなり仲間であったろう腹を刺された者の首筋にレイピアを突き刺した。断末魔の呪いの様な叫び声と共に、仲間に裏切られた盗賊がグッタリと彼女に圧し掛かっている。彼女はその者を抱きかかえ、キッと残りの盗賊を睨みつけた。
「な、何をする! 仲間じゃないの!」
「あん? 知らねえなぁ、こんな奴ぁ」
「お、愚か者め!」
 彼女の罵声すら、残りの盗賊の耳には届かぬ様子である。
「あん? 何だってぇ? へっへっへっ……」

「愚か者と言うておるんじゃ!」
 残りの盗賊がハッとして振り向くその後ろには、パロメが鬼の形相で大斧を上段から振り下ろしている。その大斧は盗賊の兜を一刀両断にかち割って、その顔面は真っ二つに裂かれた。嘗ては人間であった筈の何の因果か人道を踏み外し邪道に蠢く者の最期であった。
「こ、この人達は、一体?」
「これがの、盗賊団――いや腐臭の者共ぞい。人でなく獣でもなく、哀れな存在ぞい」
「これが腐臭の者共……」
「うむ、こ奴等が向かおうとする先に、一団がおるな」
「それじゃ、スティナさん達が! 急がなくっちゃ!」
 まさにその時であった。南の蜥蜴沼の辺りから、最初の癇癪玉が打ち上げられた。南の街道筋を探っていた仲間が、遂に盗賊団の本隊を探し出した合図である。
「行くぞい!」
 パロメは、ポイッと檸檬を彼女に投げ渡すと、彼女が馬を繋ぎ止めていた場所に掛け登って行った。彼女はその檸檬を受け取ると、仲間に裏切られ予期せぬ最期を遂げた腐臭の者の脇に、黄色に輝く檸檬をそっと置いた。嘗ては人であった腐臭の者に、今もこれからも人としての矜持を失なわぬ彼女の覚悟を示す様に、そっと檸檬を添えてパロメの後を追った。仲間を失わぬ為に、仲間と共に生き続ける為に、二人は雨の中を駆け抜けている。



 癇癪玉を打ち上げたスティナに、腐臭の者共が一斉に襲い掛かろうとしている。それをスティナとタキトゥスの二名で迎え撃とうとしている。その二人は、連中を足留めし仲間達が来るまで引き寄せておく目論見でいる。
「ふむ、癇癪玉を打ち上げたからには、持ち堪えようぞ!」
「無論、その覚悟だ!」
 スティナは、ニヤリと笑うと右手の森に分け入った。この森は人口森林であり、幾度となく職人護衛のために分け入った場所である。職人達が丹念に仕上げて来た木々の配置、間隔……その全てが身体に染み付いている。緑に苔生(こけむ)した地肌も当に勝手知る感触である。一方の腐臭の一団には、この上なく動き難い場所でもある。とは云え多勢に無勢……持ち堪える為に地の利を生かした一か八かの戦法を、スティナは腐臭の一団に仕掛けた。

 腐臭の者共は、小屋の南方半里先にある蜥蜴沼から更に西に下って、当にパラス領の尾根が森に掛からんとする辺りに蠢いていた。およそ身を潜めるには、不都合な処に腐臭の者共はいた。
 獣人との壮絶な闘いを凌ぎ、希望と喜びに満ち溢れる小屋の様子が、その感覚を失って久しい腐臭の者共には如何にも不愉快で居心地が悪く、小屋の者共が恐怖に慄き一団に命を懇願しながら死に悶える惨めな様を見なければ腹の虫が収まらない、そんな鬱々と屈折した邪で陰気な快楽を得たいが為に、最初の内はベッタリと小屋の様子を窺っていたのだろう。
 然るに、ファウナ母団が来た上に、小屋からは追手らしきトルーパに跨った戦士達が飛び出してきた。どこかで獣人との闘いを我関せずと厭らしい薄笑いを浮かべて傍観していた腐臭の者共には、その追手が相当な手連と分かっている筈である。
 奪って剥ぎ取って嬲り殺す屈折した快楽に身を置く腐臭の者共は、その立場が逆転すると無様に我先に命を惜しんで逃げ回る。しかも徒党を成して逃げ隠れすれば、仲間を生贄にして生き延びる事が出来るやも知れぬとばかりに、腐乱した死肉に何方からか集る蝿の如く湧いて出て来る。
 その場所に、天道を歩まんと矜持を持ったスティナとタキトゥスが攻め入ったのである。一方の腐臭の者共は、大音を鳴らして癇癪玉まで打ち上げられ、何れ更なる追手が来ると察してか、死の恐怖心に耐え切れず支離滅裂になって、兎にも角にも眼前の相手を殺して自分一人が逃げる事だけを考えて二人を追っている。
 十二名程の腐臭の者共は二手に分かれて二人を追撃すかと思われたが、内十名程がスティナを追って森に分け入り、残りがタキトゥスを前に小刻みに震えながら身構えている。
「うぬ等は置いて行かれた様じゃな。手加減はせぬぞ! 観念せい!」
 タキトゥスの怒声に腐臭の二人は戦慄し、その身体を硬直させて震えている。やがて、眼光鋭く睨み付けるタキトゥスを前に、一人が口から泡を吹き出して卒倒したかと思うと痙攣しながら息絶えた。図らずも一人になった腐臭の者が、発狂したかの有様でタキトゥスに襲い掛かって来たが最早勝負にならない。タキトゥスが気合と共に大剣を振り下ろすと、腐臭の者は兜もろごと一刀両断にかち割られ、その血飛沫が緑の苔を赤く染めている。

 森の中ではスティナが巧みに木立を利用して苦無を打っている。こちらの腐臭の者共は、多勢に任せて幾分か余裕がある様子で、ある時は低くまたある時は高く打ち込まれて来る苦無を、小剣で打ち払いながら間合いを詰めている。
 スティナは森の奥深くに誘い込んでいる様で、実は同じ処を大きく円状に回っているに過ぎないのだが、統率の執れていない腐臭の者共には、只でさえ今何処に居るのか自分の居場所が掴めぬ上に、苦無を払い除け逃げ切る事ばかりに気を取られ、スティナを必死に追い掛けて来るのみである。一方のスティナは、この人口森林内では苦無の補給が利かぬが故に、打ち払われた苦無の位置を正確に覚えながら、大きな円状にグルグルと腐臭の者共を引き回しては、払い除けられ地に落ちた苦無を再度拾い集めて、それを再び投げ打っている。腐臭の者共からしてみれば、何れ投げ物が底を付きその機を逃さず畳み掛ける目論見が外れ、絶える事なく続け様に投げ付けられる苦無とスティナが一層不気味で、いつ逃げるかただそれだけに腐心している様子である。
 やがて、一人また一人と戦線を離脱し始めている。そこへ、気合の入ったタキトゥスが、大剣を振り翳して追い掛けて来た。逃げ腰の腐臭の者共へ大剣が振り下ろされる度に、細身の小剣ではこれを受け切れず、地を這蹲って避けるのみであった。そして上手く避け切れれば、これ幸と必死に逃げ隠れしようとしている。
 とはいえ、矢張り数に優る腐臭の者共を壊滅するには至らず、二人の疲労の度合いは高まるばかりである。癇癪玉を打ち上げて、まだそれ程の時は経っていない。彼女やパロメ、それに小屋に待機する護衛隊が此処を探り当てるには、今一時を要するであろう。

 スティナは愈々覚悟を決めた。そして、忽然と森の中に気配を隠した。眼前の敵を見失った腐臭の者共は、追い掛けるのを止め、今度は一固まりになって背後に迫るタキトゥスに向き直った。形勢が逆転したと思い込んだ腐臭の者共が、先程までの態度と打って変わってベタリとした薄笑いを浮かべて、タキトゥスに対峙している。が、その瞬間、スティナがタキトゥスの背後に忽然と姿を現した。驚く腐臭の者共をよそに、小声でタキトゥスに話し掛けている。
「このままでは共倒れだ。俺が囮になる」
「むう、如何する積りじゃ?」
「この先は川に落ちる崖になってたなぁ。そこまでこいつ等を誘き寄せるよ」
「ふむ、こ奴等を崖から蹴落として殲滅するのだな」
「いや、落ちるのは俺だ!」
「むう?」
「いや、落ちる振りだよ。そしたらこいつ等の事だ、急に勢い付いて、タキトゥスさんに向き直る」
「うむ……」
「そしたら、タキトゥスさん踵を返してくれ」
「逃げる振りをするのじゃな」
「うん、そういう事さ」
「して、それから先は如何する?」
「多分こいつ等の事だ。二人が居なくなれば、我先に隠処(かくれが)に逃げ込もうとする筈だ。俺はこいつ等の後を付ける」
「むう、途中見つかったら如何する? 無理をするでない」
タキトゥスの口癖を受けて、スティナはニヤリと笑って応えた。
「そうなる前に応援に来てくれよ。頼りにしてるぜ!」
タキトゥスはスティナの決心の程を感じ取った。
「うむ、心得た。じゃがスティナよ、決して無理をするでないぞ」
「ふふふ、ああ分かってる。俺にも何かする事がある様に思えてるんだ。無駄死なんぞ真っ平だよ」
「必ず応援に行くぞ! 必ず行くぞ! 死ぬでないぞよ!」
スティナは爽快な笑みを浮かべ再び忽然と姿を消すと、煙に巻かれる腐臭の者共の背後にスックと現れ直した。そして、腐臭の者共に向かって見下す様にこう叫んだ。
「さぁて、どいつから地獄へ送ってやろうか?」

 腐臭の者共に唯一誇りがあるとすれば、蔑まれ貶れると、がぜん依怙地になって刃向ってくる。未だ何処かに、人間であった時の意地が残っているのだろう、図星に弱点を晒されて狼狽して虚勢を張るのである。スティナは連中の弱点を衝いて、自分を追撃し始めるのを煽ったのだ。
「貴様ぁーぶち殺してやるぅ!」
「形留めぬ程に切り刻んでやるぅ!」
腐臭の者共の案の定な反応に満足しながらも、スティナは腐臭の者共の更に僅かばかりの自尊心を尚も逆なでしている。
「ほぉ、お前等如き弱い奴等にそんな事が出来るのかぁ? 俺は強いぜ! さっさと尻尾巻いて逃げてもいいんだぜ。後ろから苦無打ち込んでやるよ!」
 もはや腐臭の者共の思考回路は完全に停止し、判で押した様な決まり文句を口々に吠え叫んでは只々スティナを睨み付けるばかりだ。
「貴様ぁーぶち殺してやるぅ!」
「殺っちまえぇー!」
「ぶち殺しちまえぇ!」
 スティナは内心でほくそ笑んで、更に深くの森が川に滑り落ちる崖へと、腐臭の者共を誘った。腐臭の者共は、もとより冷静な判断なぞできよう筈もない。誘われるままに森の奥深くへ、スティナを追って分け入っている。

第十一話 追い続ける苦無

第十一話 追い続ける苦無

 スティナは、眼前に崖が見えてきた処で(きびす)を返して腐臭の者共に対峙すると、腰の鍵爪を両手に装着して先頭を走る腐臭の者に切り掛かった。次々と襲い来る腐臭の者共の剣先を一人鍵爪で受け流しつつ、低く転がりながら或いは高く宙に跳びながら、巧みに鍵爪でのみ攻撃を仕掛けている。冷静な戦士であればその意図を勘ぐるであろうが、悲しいかな腐臭の者共にはそんな余裕すらない。
 やや遅れて、重鎧を喧しく音立てながら、タキトゥスが一団の背後を攻めつつ、腐臭の集団を引き離し始めた。ある時は恰も防戦を強いられ後退するかの如く、またある時は一気呵成に踏み込んで、腐臭の者共を可能な限り自分に引き付けようとしている。手強いスティナと引き気味のタキトゥスを比べて、狡猾なる腐臭の者共は自然とタキトゥス側に引き寄せられ始めている。十名の腐臭の者共のうち、七名までが大剣使い組みし易しと云わんばかりに、タキトゥス側に引き寄せられている。一方のスティナは、猛然と三名の腐臭の者共を攻め抜きながらも、劣勢を装い崖側にジリジリと後退している。

 スティナとタキトゥスの目が合った。
“そろそろ、いくぜ!”
“うむ、無理するでないぞ”
 その瞬間、思わず足を取られたかの如くスティナは態勢を崩し、攻め込む腐臭の者共の攻撃を鍵爪のみで一身に受けながら、崖に追いやられる振りを演じてその時を待っている。腐臭の者の一人が、鋭いレイピアの突きを放った。その機を逃さずスティナは、剣先を避ける様に振り舞いながら、一際大声で叫んで後の崖に落ちていった。
“う、うわぁー!”
“ス、スティナァァ!”
 タキトゥスもまた、迫真の演技で驚愕の声を張り上げ、怯んだ素振りで腰を引いた。そして時間稼ぎのため、直ぐには森に逃げ帰らず、大剣を正面に構えながらジリジリと後退するや否や、恐怖に慄いた表情で脱兎の如く逃げ出してみた。案の定、立場が一気に逆転した腐臭の者共は、いつもの様にベタリとした薄笑いを浮かべて、殺戮の快楽を楽しまんとタキトゥスを追い掛け始めた。タキトゥスがこの闘いの場に遅れて来たのは、途中までトルーパを引き連れに戻っていた為で、準備していたその馬に跨ると、再び馬上から大剣を振り回して腐臭の者共を引き寄せている。
“さぁて、そろそろ引き上げようか………スティナよ、無理をするでない。死んではならぬぞ! 必ずや迎えに行くぞ! 持ち堪えよ、スティナ!”
 内心の固く強い想いを持って、万一の事あらば自らの死を持って償う覚悟で、タキトゥスは手綱を返して獣道を走り逃げて行った。追い詰められる恐怖心から解き放たれた腐臭の者共は、心底腐りきった厭らしい声で、落ちて行った投物使いと逃げて行った大剣使いを嘲笑(あざわら)っている。
「ふぁふぁふぁ、見たかぁ、あいつ等の面を!」
「ひっひっひっ、もっと甚振(いたぶ)ってやればよかったぜぇ」
「へっへっへっ、泣き叫んで命乞いさせてやりたかったぜぇ」
 反吐(へど)が出そうな臭い息使いで、あれ程に震え上がって自分一人逃げる手立てばかりを考えていた腐臭の者共は、そんな無様な自分がいたことすら皆目忘れてしまったかの様に、各々が思い付く限りの下品な言葉で二人を罵り笑っている。

 崖から落ちたと見せかけたスティナは、鍵爪を崖壁に突き立てて両腕だけで全身を支えながら、崖壁にピッタリと張り付いている。崖の高さは三十間(約36m)を超えている。その先端に強靭な腕力を持って、崖壁に張り付いているのである。タキトゥスが時間稼ぎをしてくれている間に、装着していた楔帷子(くさりかたびら)の外套を川に投げ捨てて、崖の上から下を覘けば、まさに崖から釣瓶(つるべ)落としに川へ落ちたかの如く装っている。豈図(あにはか)らんや、一人のいや一匹の腐臭の者が崖から川を覗き込んでは、引き攣った笑い声を殊更に上げて衆目を浴びている。
「ひっひっひっ、俺が突いた一太刀でよぉ、あいつぁ見ろよ川ん中へ真っ逆さまよ! ひっひっひっ、ここからよぉ落っこちまったぜぇ。お、俺がよぉぶち殺してやったぜぇ」
 恐らくは顔面にかなりの手傷を負っているのであろうか、途中々々で(よだれ)を垂らしながら、己の下らぬ自慢話に懸命である。
“くそぉ、早く隠処(かくれが)に戻りやがれってんだ。一体、何を愚図々々してやがるんだ!”
 スティナの腕の筋肉は、プルプルと震え始めている。咄嗟にスティナは、若い頃の鍛錬を思い出していた。両足に一貫(約3.75kg)の重しを付けて、幾度となく片手で懸垂を繰り返した。緩く(たわ)んだ幾連にも繋がる紐を、猿渡で渡り切った。それを思えばこの程度の時間で筋肉が音を上げる筈もない。手連(てだれ)の者は、何等かの形で自己暗示を掛ける術を、また平常心を維持する手立てを身に付けている。スティナの若かりし頃の回顧は、その一つであった。
“ふっ、酒の呑み過ぎかなぁ?”
 スティナは静かに息を吸い込み、ジッと時が訪れるのを待ち耐えた。

 その時が来た。腐臭の者共が、自画自賛しながら引き揚げている様だ。腐臭の者共の足音が地を伝って、スティナの両腕に伝わって来る。
 余に引き離される訳にもいかず、頃合いを見計らって、スティナは一気に崖を攀じ登り崖上に這い出た。スティナを支えていた鍵爪は、刃が毀れもう武器としては使い物にならない。彼は、その得物を腐臭の者共が走り去った方向に、刃先を向けて置いた。彼の身を守るべき武器は、もう苦無しか残っていない。

 腐臭の者共の背中が、小さく遠くに垣間見える。スティナは息を整える暇すら作らず、腐臭の者共の後を追った。川沿いに小走りに走り抜けているその後をそれでも万一に備え、用心して身を隠しながら追撃している。その追撃の道中でスティナは、後から自分を追って応援に来るであろう仲間への手掛かりの為に、要所々々で苦無を木立に突き刺している。自らを守る得物を使って、後から来る仲間への道標(みちしるべ)を残している。仲間は必ず来る! そう信ずればこそ、自ら丹念に仕込んだ得物を道標に使っているのである。今は苦無を失っても、後を追って来る仲間がこれを拾い集めて、必ず自分のもとまで持って来てくれる。そう信ずればこそ、何一つ躊躇する事なく自らの得物を使えるのである。
 腐臭の者共は、追撃者の存在を知る由もなく、川に沿って小走りに走り抜けている。このまま走り続ければ人口森林を抜ける。その先には小屋の伐採場がある。伐採場の先は未だ苗木で身を潜める所はない。
“奴等、何処へ隠れる積りだ?”
 腐臭の者共は尚も走り続け、愈々伐採場が眼前に迫った。すると一団はジッと一固まりになり身を潜めると、その伐採場の様子を窺っている。暫らくして一団に動きがあった。少人数になって木立の陰を利用しながら、少しずつ右手に折れ始めている。
“ほぉ、面倒な走り方をするもんだ。陽の目を見ないってのも辛いよなぁ”
 スティナは一団との距離を保ちつつ、追撃の手を緩めない。徐々に伐採場を後ろにして、再び腐臭の者共は走り出した。その先は大きく(うね)った川と森とが交差する場所に出る。
“川を渡るのか?”
 スティナの右手、遥か遠くに立つ崖が――ほんの数時間前には、その崖壁に必死の思いで張り付いていたその崖が、霞掛ってこちらを見据えている。
 一団の動きが更に変わった。五名ずつ二手に分かれて、一隊はそのまま真っ直ぐに走り抜け、もう一隊は更に右手に折れて走り出している。手持ちの苦無も残り二つとなった。どちらを追うべきか………スティナは暫らく思案して、苦無を地面に立て不意に手を離すと、その苦無は右に倒れた。倒れたその苦無をそのままに、彼の追撃が再び始まった。道標に使える彼の得物は残り僅か一つである。それでもスティナは振り返る事もなく、腐臭の者共への追撃の手を緩めない。
 五名の腐臭の者は、尚も人口森林を走り抜けている。雨に打たれる水面(みなも)の音が、遠くから微かに聞こえて来る。腐臭の者共が二手に分かれてから随分の距離を走った。ここら辺で道標を残す必要がある。
 スティナは最期の苦無をジッと握りしめている。その瞳は前方の腐臭の一団をシッカリと捉えている。もしも、これからまだ走り続けた先に隠処(かくれが)があったとして、それが直進方向ならいざ知らず、再び右や左に折れてしまうと道標に使える物も、まして身を守る術の全てを失う事になる。万一、真っ直ぐに走り抜けた別の一団に鉢合わせれば、確実に命はないだろう。それでもスティナは、ただニヤリと笑って最期の苦無を静かに地面に置いている。
 尚も腐臭の者共は走り続け、事もあろうに右手に折れ始めた。万事休すの状況ではあるものの、ここから先は彼女やパロメ達の勘働(かんばたら)きに頼るしかあるまいと、迷わずスティナも右に折れ追撃し続けている。
 そう………誰が見ている訳ではない。追撃を止めても咎められる事もない。だが、スティナにはそんな野暮な発想は微塵もなく、自信と信念に満ち満ちて、迷わず腐臭の者共を追撃し続けている。雨は尚も降り止まない。既に相当な体力を消耗している。スティナはそれを強靭な精神力で持ち堪えて、腐臭の者共を追い続けている。
 やがて川が森と水平に交わらんとする処で、腐臭の者共が立ち止まった。そして辺りの様子を頻りに窺うと、一人また一人と立て続けに忽然と姿を消している。素人が傍から見れば、まさに悪魔の仕業の如くにスッと立ち消えていったのである。が、これとてスティナの目から逃れる事はできなかった。
“何てこったぁ! あんな処にねぇ。上手く考えたもんだよ。手間掛けやがって”
 スティナの執念は遂に腐臭の者共の隠処(かくれが)を炙り出したのだ。自らを守る得物を全て投げ打ってなお、一瞬の迷いもなく追い続けたスティナの意地が、多勢を成して探索したパラス連合の討伐隊ですら片鱗さへ見出せなかった腐臭の者共の隠処を、とうとう光のもとに引き摺り出したのである。
 隠処のある場所の奥の方から、先に二手に分かれていた五名の腐臭の者共が姿を現しては、一人また一人と姿を消してゆく。隠処は地面に掘ってある。愚かしい程に腐臭の者共自らその仕掛けを示してくれている。スティナは、腐臭の者共の全員が隠処に収まったのを確認して、穴倉の見える木立に近寄り、それに攀じ登って木上から隠処の様子を窺った。
残る使命は、仲間にここを知らせるべく彼の仲間が近くに来るまで、ジッと耐えて待つのみである。曇天の空は陽を隠し、天を照らすであろう月さえも覆い隠さんとしている。真っ暗な闇が近づきつつあるのだろう。それが味方するは、スティナの方か腐臭の者共か………。
 決戦の時が刻一刻と近づいている。

 陽も陰り月明りも曇天に遮られて届かぬ人口森林の奥には、身を守る物すら犠牲にして執念で炙り出した腐臭の者共の隠処がある。スティナが近くの木上で気配を殺し、その辺りの様子を丹念に探っている。入口は眼下の一ヶ所、総数は十名、特定の頭を持たぬ烏合の衆、壊滅させるのはいとも容易い事だ。だが、この連中と手合わせし、ここまで追撃してきたスティナには、(いささか)か腑に落ちない事がある。
 つい最近まで、パラスと小屋の連合討伐隊の裏をかき続けた集団、神出鬼没の容易には尻尾を掴ませない連中とはとても思えぬのだ。或いはこの連中は単なる下部組織で、上層部の指示でここに(たか)っているだけかも知れぬ。ここの者共を殲滅させたところで事態は進展しないかも知れぬ。
“もう少し探る必要があるな。だが得物は全部使い果たしちまったし、さてどうしたものか?”
 スティナは、木上でそぼ降る雨に身を晒して鎮考した。己の目的に照らして果たすべき役割は何か――少なくとも、力任せに腐臭の者共を抹殺する事ではない。それでは獣人を惨殺した連中と大同小異、斯様な事をしたかった訳ではない。
 セネルが豊かな経験と深い知識と広い人脈を駆使し、ジェノが若い知恵を振り絞って暗闇の中で手探りで藻掻(もが)き苦しんでいるのは、やがて世界を不安に陥れるかも知れぬ不穏な動きを牽制し、いずれはこれを排除する事に他ならない。
“それなら俺は何をする?”
 責める様に自問を重ねては、自らを追い詰めている。
“俺にも何かする事がある様に思えてるんだ” とタキトゥスに言ったものの、果たして其れが何なのか。夜の闇が一層深く黒々と空を覆い、彼自身の心と重なっている様に思えた。
 その時、隠処の入口に腐臭の者が現れた。可能性としては二つ―― 一つは今まで追って来た者共とは別行動していた雑魚(ざこ)――もう一つは新手の者、即ち上層部の繋ぎの者。
 スティナは用心深くその仕草を探っていると、怪し気な足許の動きに合わせて途端にパタリと入口が開いた。開くと同時に刃が仕込まれた戸板が、侵入者を迎撃しようとスパッと下から突き上げている。迂闊に身を屈めて入口を開ければ、百舌蛙の如き串刺しを喰らわせる仕掛けの様だ。
 その者が再び(せわ)しなく足許を動かすと、その戸板すらパタリと開く。そしてポッカリと口を開けた穴倉にストンと落ち入れば、そこには追尾された事すら知らず、見張られている事も尚更な腐臭の者共がいるのだろう。その者が地に消え去ると、如何なる仕掛けかは知らぬが器用に入口が閉じている。
夜は再び静まり返り雨音が寒々しいばかりである。

 半時程待つと、手の込んだ仕掛けの入口がパタンと開いて、今度は戸板の刃が姿を現す事もなく、ヌッと繋ぎの者だけが這い上がって来た。態々(わざわざ)入口から出て来たと云う事は、他に出入り口が無いためであろう。
“ふん、やっぱ繋ぎだな。って事は、奴等また移動しやがる気かぁ。面倒な事になったな”
 案の定、更に半時程待つと追ってきた腐臭の者共が、ぞろぞろと穴から這い出してきた。その動きは緩慢で全く油断し切っている。
“追うしかねえなぁ”
 そう決めたスティナはスルリと木上から滑り降りると、最後に出て来る腐臭の者に狙いを定めた。が、湧いて出たのは九名のみ―― 一名は隠処に待機の様だ。
“好都合だ!”
 スティナは、腐臭の者が立ち去る方向を確認して入口に忍び寄った。手探りすると、其処には引き手の石が二つある。慎重にそれを動かすと、確認済みの仕掛けが繰り返えされる。彼は、咄嗟に仕込まれた刃の一つをもぎ取り、地面にスッと落ち入った。驚いたのは留守を任されていた腐臭の者だ。そしてその驚きこそは、その者がこの世で行った最後の仕草となり果てた。
 スティナは手当たり次第に穴倉を物色し、武器となる物を携えると隠処に火を放った。湿った土中の隠処に放たれた火は、室内を散々に燃え尽くした後は、煙と成って土の方々(ほうぼう)から湧き上がって来るだろう。煙が起たぬとも熱された地面からは水蒸気が蒸し返すに違いない。延いては、それが仲間への道標になる。最早スティナの頭には“仲間はきっと遣って来る!” という思考のみが支配しているに違いあるまい。その証に、隠処を後にしたスティナは、腐臭の者共が立ち去った方角に迷わず走り出している。
連中を追った経験から大凡(おおよそ)だが、スティナは連中の行動様式が把握できていた。目眩(めくら)ましに蛇行しながら走るのかと思いきや、驚く程に真っ直ぐに走る。木陰、岩陰までの短距離を、小刻みに真っ直ぐ走り抜く。しかも一列になって、走っては隠れ、隠れては走る。これを繰り返して移動するのである。意外な事に振り返って背後を確認する事も少ない。
“やっぱぁ、陽の目を見ねえ奴ってのは、随分と面倒だよなぁ”
 そんな珍妙な感想を抱きながら、最期を走る腐臭の者を懸命に追った。徒党を成して駆け抜ければ、小雨が幸いし泥濘(ぬかるみ)を乱してその痕跡を残す。連中は、相手を密かに追って不意打ちを喰らわす術には長けていても、密かに追われる事を全く想定していない様子だ。
 やがて、スティナの目は殿(しんがり)を務める腐臭の者の背後を捉えた。その者の足の運びに合わせて距離を詰めていく。何れ何処ぞで左右に折れるだろうから、その機を逃さず一人ずつ仕留める目論見だ。
 間合いを詰めて背後に迫るスティナに気付かず、愈々(いよいよ)殿の者が右に折れた!一気に詰め寄るスティナに気付いた時や既に遅し。殿の者は一突きに喉笛を突かれ絶命した。今度はその腐臭の者の屍が仲間への道標となって、腐臭の者共へと誘ってくれる。
 このまま突き進み川まで出れば、身を隠す物が徐々に少なくなる。更に、川を渡れば群狼の餌食になる。
“左に折れる気だな”
 そう確信したスティナは一気に間合いを詰めて、左に折れるその前に我知らず殿となった腐臭の者を一人、静かに仕留めている。が、人口森林が苗木林に変わらんとする処で、例によって腐臭の者共は次々と土中に立ち消えている。しかも今度の入口はかなり大掛かりな仕様で、恰も大蛇がパックリと口を広げたかの如く、一時に腐臭の者共を土中に呑み込んでいる。
“思ったより近かったな。拙い事になったぞ………”
 思った通り、一度閉じた隠処の口が、再度パックリと広がると、ゾロゾロと腐臭の者共が湧き出してきた。その数は三十名を下回らないだろう。鎧を装着している者もいるらしくガチャガチャと音立てて隠処周辺に警戒線を張っている。スティナは人口森林に滑り込むように立ち戻ると、その一本の木上に攀じ登りジッと気配を隠した。
 仲間はまだ来ない。癇癪玉を打ち上げるにはこの雨と闇夜は不都合だ。腐臭の者共に見付かるのが早いか、彼女やパロメ、タキトゥス達が駆けつけるのが早いか――何れにせよ今のスティナにできる事は、仲間を信じて待つ事しかなかった。
 その仲間達はその頃………。

 スティナが最初の癇癪玉が打ち上げた時、彼女とパロメは腐臭の者共三名を仕留めていた。その轟音は、腐臭の者共の一団がスティナ達の調査隊側にいる事を教えている。二人は、急ぎトルーパで小屋まで駆け上がると、南街道筋の蜥蜴沼迄の半里の距離を振り返る事なく一挙に駆け抜けた。小屋に待機していたバイゼルは癇癪玉の音と共に跳ね起きて、蜥蜴沼目掛けてトルーパを急き立て、大任を果たした護衛団は癇癪玉の音が鳴り響くや職人達の護衛を固め、それぞれ小屋への帰還を急いでいた。
 蜥蜴沼が彼女達の眼前に迫る頃、ほぼ全速力で駆け出してきたバイゼルが二人に追いついた。一時(ひととき)二五里(約99㎞)を走るとされるトルーパの一部でもある如く低く構えて激走してきたのである。
「首尾の程や如何に?」
「こっちは腐臭の者三体じゃぁ。本体はスティナ達の処、蜥蜴沼の西じゃ!」
「承知した。先に参る!」
 バイゼルは再び鞭打ち、スティナ達の加勢に馬を急き立てた。常人ではない手綱捌(たずなさばき)である。既に彼の後姿すら見えなくなった。彼女達も鞭打つが、彼ほどに走れば落馬しかねない。それでも腐臭の者共本体に僅か二人で剣を交す仲間がそこにいればこそ、無理を承知で馬を急き立て懸命にバイゼルを追った。

 腐臭の者共を崖へ誘いてその隠処を炙り出さんとするスティナの捨て身の囮策を、徒労に終わらせる訳にはいかぬタキトゥスは、(わざ)と腐臭の者共を引き離し自分への追撃を諦めさせる必要があった。蜥蜴沼西の人工森林を徒に蛇行し連中を煙に巻くと、自分への追撃を諦めた事を確認し、応援を呼ぶべく蜥蜴沼に向けて走り出していた。そして、その沼に差し掛からんとする辺りで、前方より激走してくる一匹のトルーパを捉えた。タキトゥスが手綱を引き締め前方からの馬を待つと、その遥か後方からも二匹のトルーパがこちらに向けて掛けているのが見える。
 ニマリと笑って、タキトゥスは再び崖の方に向かって馬を走らせた。その姿に誘われる如く爆走するバイゼルと、それに必死で追い付かんとする彼女達の都合四匹の馬があの崖に集結した。
 その崖には既に腐臭の者共の姿はなく、ただ鍵爪が一つ、ボロボロになった刃を南に向けて置いてある。タキトゥスは、平然と構えるバイゼルとぜぇぜぇと肩で息するパロメ達に、馬上のまま事の仔細を話している。
 この時スティナは、腐臭の者共が右に折れた伐採場を横目に、懸命に連中を追っていた。

 そのスティナが崖に残した目印を見て、バイゼルがスティナの真意を語った。
「うむ。きゃつ等、更に南に下ったのだな。川沿いじゃな」
 恰もそこにスティナが居るかの如く、ボロボロになった鍵爪に話し掛けている。タキトゥスが言葉を繋げる。
「目印が散在しておる筈じゃ。いざ、参ろうぞ! 腐臭の者共を打ち取りて、隠処を潰す迄は、我等に戻るべき処なし!」
「合点承知の上じゃ! スティナ一人を死なせてなるもんかい!」
 恐らく腐臭の者共が、そしてそれを追ったスティナが通ったであろう獣道、道にもならぬ茂み、果ては崖下に落ちる岩肌まで全身の神経を研ぎ澄まして目印を探し求めている。決死の想いでスティナが残していったその目印を追い求めている。
 不幸なのは、腐臭の者共の立ち振る舞いを一行の誰も知らない事であった。いや、スティナでさえ、連中を追尾して初めて知った程である。パロメ達には、腐臭の者共は彼方此方(あちこち)を蛇行しながら、追跡されるのを避ける様に走り抜く、と云う固定観念があった。これが故に、二つ目の目印を見付けるのに、無駄に時間を費やした。目印が腐臭の者共に見付かっては何もならない――そうであるなら分かり難い処に探すべき目印はある筈だ、という先入観が更に探索を難儀にしていた。
 刻一刻と時が過ぎていく。この時にもスティナが腐臭の者共と一人で闘っているやも知れぬ。その想いが一行の焦りとなって、二つ目の目印が中々見付からぬ。
 その時スティナは、腐臭の者共が伐採場を後にし、二手に分かれた辺りにいた。そしてそのスティナの右手、川を挟んで遠くに霞む崖の一帯に、血眼になって目印を探すパロメ達がいた事になる。
 そのスティナが最期の苦無を道標に使った頃、漸く彼が残した目印を彼女が見出した。驚いた事に苦無が一つ、露骨に木立に突き刺されている。後を追って来る仲間が目印を直ぐに探し出せる様に、スティナは実に分かり易い処に目印を付けていたのである。
「むぅ、なんちゅうーこった! とんだ道草を食ったぞい」
「鍵爪から五町(約550m)程ぞ。奴の事だ、きっとこの間隔で目印を仕込んでおるに違いない」
「うむ、そうと分かれば、いざ参ろう! スティナはこの先じゃ!」
 一行に強い希望が蘇った。探し出すべき目印の種類とそれが置いてある大凡(おおよそ)の場所が分かったのである。三つめ四つ目と苦無の後を追って、一行は再び走り出した。苦無を置いたと云う事は、スティナが自らの得物を目印にした事、それが尽きれば丸腰になる事、これを如実に感じ取った仲間達は再び走り出したのである。
 そして三八個目の苦無が、伐採場を眼前に見据える辺りで見付かった。既に陽は落ち曇天の空が月明りを遮る頃、まさにスティナが腐臭の者共の最初の隠処を木上で睨み付けている頃の事であった。スティナは仲間の半里(約2km)程に先にいる。

 夜の暗闇は、一行の目印探索を否応なしに難儀にしている。夜目の利くバイゼルが血眼になって苦無を追い求めていると、不意に彼女がタキトゥスに尋ねた。
「スティナさん、いつも得物を幾つ携えてたのかしら?」
「うぅむ。ワシにも良く分からんが、奴のこの帯に備えられるのは残り二つぞ」
 そう言って、スティナ愛用の苦無帯を手に持った。その帯には三八個の苦無が整然と納められている。
「近いのかしら?」
「うむ、今はそう願うばかりじゃ」
 一行は、伐採場から五町(約550m)のこの場所で、懸命に苦無を探った。雨を(いと)わず闇を恐れず目印を追った。腐臭の者共が既にスティナを捕え、この地で闇に乗じて待ち伏せているやも知れぬ。それでも一行は、容易ならざるスティナの力量を信じて、懸命に目印を追った。
 不意にバイゼルが、タキトゥスに向き直って答えている。
「奴は右手に折れた様だな」
 その手には三九個目の苦無が握りしめられている。深黒に艶消しの苦無を探し出すのに、二時(ふたとき)が過ぎた。腐臭の者共を逃がさんとしているかの如く、夜の闇が漆黒の苦無を包んで手放さなかったのである。それでも四人の執念が、バイゼルの目に力を与えた。そして、夜の闇から求めていた苦無を奪い返したのである。
 だがその時スティナは、三十名を下らない腐臭の者共が警戒線を張る其の直中(ただなか)にいた。

 もう時間は残されていない………。

第十二話 土中の火柱

第十二話 土中の火柱

 四人は暗闇を右に走る。残る苦無はあと一つ。その一つを探し求めて雨中を駆け抜ける。五町(約550m)程走って、再び最期の苦無を探し始めると一抹の不安が彼等を襲い出した。
 そこにスティナがいない! と云う事は最期の苦無を目印にして、丸腰のまま腐臭の者共を追っているに違いない。その不安を打ち消す様に、必死になって残る苦無を探せば探す程、パロメ達に幾重にも重なって不安が(よぎ)ってくる。無論、彼女にも。
 獣人との壮絶なる闘いの中で死の淵に立った彼女に、“お前には俺達がいる” スティナはそう励ましてくれた。
“スティナさんには、わたし達がいる。わたし達がいるわ。だから、だから決して死なないで。わたし達が必ず行くわ………必ず!”
 彼女は、その強い想いで懸命に不吉な夜の闇を振い払った。パロメ達とて同様であった。その執念が、再びバイゼルの目に力を与え、最期の苦無を遂に見付けたのである。真っ直ぐな方向を指し示す漆黒の苦無が、夜の闇の中にあっても尚その存在をはっきりと示している。
「行くぞい!」
 パロメの号令のもと一行は、苦無の示す方向へ脱兎の如く走り出した。ここから五町(約550m)先に腐臭の者共が潜んでいる。そこにはスティナが待機している。その確信のもと、四人は暗闇を駆けていった。
 しかし、五町(約550m)先には何もなかった。腐臭の者共の気配すら感じられない。無論スティナはそこにいない。
“いや、或いは予備の苦無を持っていたやも知れぬ!”
 不吉な想いを断ち切る様に、懸命に辺りを窺った。振り解いても尚、不安が襲い掛かって来る。断ち切っても尚、不安が覆い被さって来る。夜の闇が、四人を呑み込もうとしている。
 その時であった。
 地に伏して目印を懸命に探していたバイゼルが不意に起ち上がって、小さな森の風に運ばれる臭いを嗅いでいる。ほぼ同時に彼女もその焦げた臭いに感付いた。
「向こうの方だな」
 バイゼルはそう呟くと、眼前の暗闇をカッと凝視した。梟の異名を持つ彼の眼に飛び込んできたもの――それは地面からフツフツと湧き蒸す煙であった。
「付いて参れ!」
 バイゼルを先頭に、彼女達がトルーパに鞭打てば、スティナが火を放って瓦解させた最初の隠処(かくれが)が、彼等の眼中に飛び込んで来た。その入り口からは、濛々(もうもう)とした真白い煙が発ち昇っている。タキトゥスがその地面に手を添えると、その熱さに思わず手を引っ込めている。
「まだ、時間は経ってなさそうじゃ。スティナの奴め、あれ程に無理をするなと忠告しておいたに」
 まだ追跡は続いている! スティナは丸腰になっても尚、自分達への目印を残しながら追撃の手を緩めていない! それも、近い処でたった一人で闘い続けているに違いない! そう確信した一行に力が蘇った。もはや夜の闇が、彼等の気持ちを覆い隠す事などできない。パロメが彼女に向かって、自信たっぷりに話し掛けた。
「癇癪玉はまだ残っておったの。そいつを打ち上げよ! ここにワシ等が居る事を奴に伝えるんじゃ! 奴の事じゃ、あんな腐臭の者共に討たれるタマではないわい! 奴は、スティナは、ワシ等を待って動くべき時を図っておるぞい! さぁ思いの限り打ち上げよ!」
 彼女はニコリと微笑んで隠処の残火を癇癪玉に着火した。癇癪玉は轟音を発するものの、花火と違い光を出さない。それでも、その音と破裂する時の一瞬の閃光だけで、スティナにはその意味が通じる筈、その思いで彼女は癇癪玉に着火した。

 彼女達が瓦解した最初の隠処に就いた頃、ゾロゾロと大蛇の口から湧き出してきた腐臭の者共が、そこへ辿り着く前にスティナに仕留められた二体の遺骸を引き摺ってきた。仲間の死を悼む気持ちは全くないかの如く、遺骸の両足を粗暴に引き摺りながら運んできたのである。
 腐臭の者共の頭らしき鎧を着た者が、その遺骸を幾度となく足蹴にしては息が残っているかどうか調べている。やがて、遺骸が身に付けていた武具を(むし)り取る様に剥ぎとると、川のある方にやはり遺骸の両足を引き摺っていった。どうやら蜥蜴の餌にする目論見なのだろうか、どこまでも非情でぞんざいな弔いである。
 川に投げ込まれる無情な音が聞こえる。スティナは木上で、その様子を具に観察していた。全てを呑み尽くす漆黒の闇夜ですら、この腐臭の者共を嫌悪しているのだろうか、その闇がスティナを包み、風に舞って降り注ぐ雨がスティナを隠している。スティナは、怒りと憐れみに満ちた瞳で、もはや人であった記憶すら失っている唾棄すべき腐臭の者共を睨み付けている。
 まさにその時、彼女が癇癪玉を打ち上げたのである!
 一瞬の閃光と共に轟音が辺りに轟き渡った。その光を捉えその音を聞いたスティナの眼が、彼の覚悟を促した。
 轟音に慌てふためく腐臭の者共を抑える様に、頭らしき者が一団を集めて何やら指示を出している。闇夜に紛れて追撃してきた者を返り討ちにしてやろうと、恰もこれから晩餐会でも始まるかの如く楽し気に頻りに指示を出している。これから始まる殺戮の喜びに身悶えした腐臭の者共が、一斉に辺りに散らばっている。既に、漆黒の闇夜にすら見捨てられている事を知らず、嬉々として散らばっている。

 天誅を下せ! スティナはその時、確信を得た。その自信に背を押されて、スティナは愈々覚悟を固めた。彼は一人ではない! 仲間がもうそこまで来ている! いつ()むとも知れぬ闇夜の雨にしとどに打たれながら、腐臭の者共を睨むスティナの瞳が、獲物を捉えた鷹の眼の如く、迷う事なく仕掛けの時を待っている。
 腐臭の者共は、癇癪玉を打ち上げた討伐隊が何れここにやって来る事を想定して、三人一組で隠処を取り囲む布陣で臨んでいる。しかし連中の思惑に反し、その癇癪玉を打ち上げた彼女達は、最初の隠処辺りでスティナの合図を待って動かない。
 やがて痺れを切らしたのか、鎧を騒がしく纏う腐臭の者共の頭らしき男が、前方に潜む三隊九名に探索を命じた。結果として、この隠処周辺に散らばる腐臭の者共の総員は二十有余名、入口を守る者は頭らしき男を含めて僅か四名となっている。その四名は、迎撃に余程の自信でもあるのか、或いは、討伐隊が此処まで来る事はないだろうとばかりに気の抜けた姿勢で突っ立っている。
 この機を逃さず音もなく木上を滑り落ちたスティナは、入口とは反対側にいる者、即ち敵からは最も離れている者、延いては身の安全を過信している者に狙いを付けると、地を這うかの如き姿勢で木陰を擦り抜け、苗木ですらそよぐ事なく静かに、その者の背後に回った。その者が、ダラダラと降り続く雨を嫌悪するかの様に空を見上げたその瞬間、その者の後頭部から上顎をレイピアの剣先が貫けば、痛みはおろか死んだ事すら気付く事なく空を見上げたまま絶命していった。スティナは、剣を突き刺したまま背後からその亡骸を支え、次の瞬間を虎視眈々と狙っている。
 仲間の一人が瞬殺された事すら気付かぬ腐臭の者共は、暢気に前方を見据えたままでいる。やがて、中々始まらぬ殺戮に業を煮やした頭らしき男が隠処を守る他の二名すら前方へ応援に行かせている様子だ。するとクルリと後ろを振り向いて、既にこの世の者ではない入口反対側の者に話し掛けて来た。
“おい! お前はよぉ、ここで様子を見とけや。俺は中で前祝いに一杯引っ掛けてるからよぉ。始まったらよぉ、俺に直ぐに知らせるんだぜ。いいな!”
 その者の全身を背後で支えるスティナが、その者の左手を操って了解の仕草を送った。これも、連中を追撃する時に学んだ腐臭の者共特有の仕草である。
 守りの二名が前方の闇夜に消えていく。合わせて頭らしき男が地面を探って隠処の入口を開けて、木上では確認できなかった隠処入口への侵入方法を、スティナに態々(わざわざ)お披露目してくれた。
 地面から鎌首を(もた)げた大蛇の様な隠処の入口に、頭らしき男が吸い込まれるのを待って、スティナは支えていた男を仰向けに寝かしその目を静かに閉じてやった。何れは獣の餌とされる腐臭の者への、人としてのせめてもの情けであった。
 辺りを警戒しながら入口に近づくと、そこには野太い立枯木(たちがれき)を装った牽き手が一本、地面から突き出している。その牽き手を手前に引くと、先程と同じ様に地面が鎌首を擡げた。その大蛇の口へ滑り込むスティナ――意外にその入り口は長く下に延びている。入口付近にある牽き手を引くと、入口の扉が閉まる仕掛けの様だ。用心の為その引き手を引いて息を静かに整えるスティナに、奥の方から声が届いた。
「何だ? 意外に早く始まったな。一匹ぐらい残しとけよ! いひっひっひっ、俺がよぉテメエらの手本によぉ、いひっひっひっ、上等な嬲り殺し方、教えてやらぁ!」
 その声に誘われて奥へ進むと、荒々しく組木された隠処が、遂にその全容を現した。
 ジトッと湿め渡ったその隠処は、行燈に暗く照らされ鰻の寝床の如く長く低く延びている。そこには様々な荷が乱雑に散在し、食糧の多くが腐っているのか異臭が籠っている。あちこちの壁面には、百足や(げじ)など背筋が寒くなる多節足の名も知らぬ虫すら湧き蠢いている。およそ人の住む処ではない。腐臭の者共は、果たして何を想い、何を感じてこの穴倉に身を寄せているのだろうか。

 その穴倉の一番手前で、声の主が酒樽に柄杓を突っ込んで、浴びる様に酒を(あお)っている。鎧を脱ぎ去り剣すら放り投げて、酒を呑むのに無我夢中である。漸く音もなく近づく人の気配に気付いて、頭らしき男が振り向いた時には、剣先がその喉頭に浅く突き刺さり、滴る鮮血が行燈に黒く照らし出されていた。
「お前が盗賊共の頭か?」
 その男は死の恐怖に蒼白となって声すら出せずに首を横に振る。
「他に隠れ潜んでいるのか?」
 その男が命を懇願する眼で首を縦に振る。
「その全てをお前は知っているのか?」
 首を激しく横に振っているその男は、先程の威勢をよそに小刻みに震えている。
「ほぉ………お前は助けを求める命を救った事があるか?」
 男は激しく首を縦に振って媚びている。
「嘘を付け!」
 吐き捨てる様に呟くと同時に、剣先が男の咽喉を付く。その男は上半身を拗らせて酒樽に頭を突っ込んだ。
「冥土の土産だ。好きなだけ酒を呷ってろ!」
 スティナは、腐臭の者共への怒りを通り越して憐憫すら感じていた。“こいつ等、何処で何を踏み間違えちまったんだ” そう独り言を呟きながらも、室内とは云えぬその穴倉を丹念に調べてみたが、何一つ盗賊団の全容を覗い知る手掛かりはない。“こいつ等も捨て駒の一つかぁ。益々、面倒な事になってるな”
 更に奥を調べに踏み入ると、土壁の一角に布を被せた荷があった。それだけは丁寧に台車に乗せられ、何れは何処ぞへ運ぶ目論見がある事実を物語っている。その布を剥ぎ取ると、そこには驚愕すべき物が安置されていた。
「こ、こいつは! 発破じゃねえか! 何で、こんな処に!」
 十本もあれば小屋ですら跡形なく吹き飛ばせる発破が、百本を下らない数でそこに存在している。“パラスにこそ内通者がいる” と、セネル他の一同を前にパロメはそう断言した。この発破を目の当たりにして、その推測は真実味を帯びてきた。

 発破は炭鉱採掘の際に頻繁に使用され、その需要はファウナにおいて顕著である。が、ファウナでは原料となる苦土(≒マグネシウム)はおろか弗素(ふっそ)の元となる蛍石や氷晶石は手に入らない。それが入手できる処、それら発破を発明し実用化した処――即ちパラスである。
 この世界に強い影響力を持つアルティス共和国、それを支える経済都市であるファウナ自治領とディアーナ自治領、その生産力を著しく高めたのは世界に冠たる学術都市パラス自治領である。世界の穀物の半分を生産するダミア自治領も、最近ではパラスでの品種改良実験や発明品をもとにその収穫高を一気に伸ばしている。
 そのファウナでは出荷された荷が正体不明の一団に頻繁に襲撃されているという。この小屋を巻き込んでディアーナの印章すら偽装されている。そして、パラスに潜む内通者疑惑と眼前の発破――それぞれの点が別個に偶然重なっているとは思い難い。
“恐れ入ったぜ。セネル先生の狙い通りじゃねえか。となると、こっから先は若先生の出番だな。ふふふ、面白くなってきやがった! 俺にも何かできる事がありそうだ! ふふふ、面白くなってきやがった!”
 スティナが発破の辺りを見回すと、油樽がある。灯明りにする為の物なのだろう。
“まず、俺がしなくっちゃいけねぇ事といえば、この発破の存在を知らしめる事と………腐臭の者共を一掃する事! だな”
 ニヤリと笑うと発破の束を湿らぬ様に慎重に数ヶ所に配置し直し、同時に腐臭の者共が寝具代りに使っていたらしき綿入に油を(ひた)して発破を取り囲み、残りの発破も穴倉のあちこちに、誘爆する様に配備した。四本の発破を胸に仕舞い行燈を一つ携帯して、スティナは意気揚々として入口の牽き手を引いて外に出た。
 暗闇の雨は今も降り続いている。その下に広がる暗闇に向かってスティナが大声で叫んだ。
「敵襲だぁ! ここに攻めて来たぞぉ、敵襲だぁ! 戻れぇ、ここにいたぞぉ! 戻れぇ!」
 その声は、暗闇の中に吸い込まれる様に響き渡って、隠処の入口から漏れる微かな光が、ゾロゾロと集まって来る腐臭の者共を照らし出している。行燈の火を癇癪玉の導火線に点火すると、スティナは隠処を背にして明ら様に姿を現した。漸く見付けた敵の姿を追って、ゾロゾロと隠処に戻り来る腐臭の者共。
“もう、そろそろかな?”
 そう独言(つぶやい)てスティナは脱兎の如く隠処を後にした。

“グッゴォ――ゴゴォォォ――ゴッゴォォォ――グッグググ――”

 異音と地鳴りが暗闇を轟かせていると、闇の中に消えていくスティナを待っていたかの様に隠処を覆う土が(あぶく)の如く盛り上がり、轟音と共に火柱と成って天に向けて吹き上げ始めた。地中で誘爆した発破は、次々に爆裂して火柱を上げ続ける。舞い狂う火柱の後を追う様に、油がメラメラと炎を嘗めて暗闇を追い払い、辺り一面を焦がさん程に照らし付け、暗闇に生きる腐臭の者共の姿を炙り出している。
 相当な数の腐臭の者共が、土中からの発破の一撃で吹き飛んだ。その爆風は腐臭の者共の手足を剥ぎ取り、襲い狂う火柱は舌舐めずりしながら容赦なく彼等を呑み込んでゆく。火獄の珠簾も斯くの如しと思わせる炎の餌食となった腐臭の者共は、狂気の悲鳴を上げながら火達磨になって転げ回っている。それでも生き延びた腐臭の者共は、既に精神に異常をきたして、この期に及んでも嬉々としてスティナに襲い掛かろうとしている。

 その爆音と火柱は仲間への連絡には申し分く、遠く小さな森の小屋で見守るセネル達の眼にも飛び込んでいる。

「あっ、スティナさんの合図!」
 彼女が待ち侘びた瞳で叫んだ。
「うむ。それにしても、何ともド派手な合図じゃのぉ」
 タキトゥスがにんまりと笑っている。
「がっはっはっ、これでこそ奴らしいわい! そりゃぁ、急ぐそい!」
 パロメの身体に力が漲っている。
「暗闇に潜む輩もおるじゃろう。私に続け!」
 バイゼルが一行の先頭を切ってトルーパを急き立てた。

 小屋の最上階でこの轟音と立ち上る火柱を見聞きしたセネル達は、驚愕の面持ちとそこにいて腐臭の者共と死闘を繰り広げているであろう彼女達一行の安否を気遣った。
「あれは火薬じゃのぉ」
「火薬かぁ。やはりパラスも無関係ではなさそうですね」
 セネルとジェノは、組み立てている恐るべき仮設が少しずつ現実の物になる不安感に(さいな)まれていた。

 バイゼルが、前方に潜む腐臭の者共二組を闇の中に見出した。
「右舷前方半町(約55m)程の所に三名、左舷前方同じく半町程の所にもう三名、何れもレイピアを抜いて、地に伏して待ち構えておるぞ」
「うむ、タキトゥスはスティナのもとへ走れ! 右の連中はバイゼルが仕留めい! ワシとこの()で左に突っ込むぞい!」
 パロメが端的に仲間を差配する。
「承知した!武運を祈る!」
 タキトゥスは、鞭打ってスティナがいるであろう火柱に向けて馬を走らせ、バイゼルは颯爽と馬を走らせ、森の闇に潜む腐臭の者共のもとに馬ごと突入した。鋭いレイピアの剣先が馬上の者を襲わんとする瞬時に、バイゼルの姿が煙の様に立ち消える――戸惑う腐臭の者共をよそに、今度は森の闇の奥からバイゼルの声がする。
「何処を見ておるか。しっかりと私を見よ! そんな弱腰でこの私を倒す積りでいたのか?」
 慌てて振り向く腐臭の者共の目に、森中に佇む人影と思しき青白き光が映った。
「チッ、田舎の傭兵風情が! 串刺しにして蜥蜴の餌にしてくれるわ!」
 意気込む腐臭の者共の罵声を余所に、バイゼルは蛍石を仕込んだ大剣をユラユラと怪しく揺らめかせた。蛍石は大剣の動きに合わせて左右に揺れては消え、消えては揺れて恰も本物の蛍が舞うかの如く妖艶な光を放っている。
「ふっふっふっ、田舎の幻術かぁ? こりゃぁ滑稽だぜぇ! 俺達の目を騙せるとでも思ってんのかぁ?」
 ベッタリとした薄ら笑いを浮かべて、数に任せて襲い掛からんとする矢先、その怪しき蛍石の光が二つに分かれ舞う。その光は矢張り青白く発光しては消え、消えては瞬き始める。二つが三つに分かれ、三つが四つに舞い直す。腐臭の者共の前方で瞬いていた青白き光は、やがて無数の光を淡く悲しげに放ちながら、連中の周りを取り囲む様にゆっくりと舞っている。
 雨夜の暗闇を一層深くしている森の中に既にバイゼルの気配はなく、腐臭の者共は無数の蛍石の幻惑に惑わされ声を失っている。
「い、田舎のよ、傭兵風情が………ふ、ふざけた真似しやがって」
 怯えながら虚勢を張る腐臭の者の一人の胸から音もなく大剣が突き出した。
「お、俺? や、殺られたのかぁ? お、おい、お、俺はぁ?」
 背後にいたバイゼルの気配を知らず、その大剣が身体を突き抜ける痛みすら覚えず、一人の腐臭の者が己の死すら理解することなく息絶えた。
「く、くそぉ! こ、こんな処で………ち、ちくしょう! 死にたかねえ!」
 腐臭の者の一人が闇雲に怪しく光る光に目掛けて斬り掛かるも、その剣は空しく空を切るのみである。その無駄な足掻(あが)きをする者の肩に、一匹の蛍がとまった。
「な、何だこりゃ! 本物の蛍じゃねえか? ほ、蛍石の幻影じゃなかったのか?」
 スルリと切先(きっさき)鋭い刃が己の身体を擦り抜けた気がした。見ると己の鳩尾(みぞおち)から剣が突き出している。
「えっ? あっ!」
 悪行の限りを尽くした腐臭の者の辞世の言葉であった。グシャリと崩れる様に倒れ行く二人の仲間を見て、残った腐臭の者は死を覚悟した。その覚悟に合わせる様にバイゼルの大剣が、静かな青白き真一文字の閃光を放って腐臭の者を切り捨てた。
「幻術はのぉ、夢と(うつつ)を具現した剣舞じゃ。あの世に逝って仲間に教えてやるか良かろうぞ」
 バイゼルは大剣を鞘に収めながら、慈悲に満ちた眼でそう呟いた。

 左手の腐臭の者共は、トルーパに跨った二人の戦士を前に既に戦意を喪失している。パロメの大斧が、逃亡を図らんとする腐臭の者の脊髄を二つに割った。その腐臭の者が声もなく潰れる様に地に伏したのを見て、他の者もガタガタと震えて地に這い蹲って命乞いを始めている様子である。余りの哀れさに彼女が馬上で旋回させた槍の動きを止めたその瞬間、もう一人の腐臭の者が油断を衝いて馬上の彼女を襲わんとしている。実に容易に図り知れる欺瞞に満ちた稚拙な策であった。彼女は悲しげな瞳で飛び掛かる腐臭の者へ槍の一突を喰らわせた。鋭く突き出る槍に向かって図らずも全力で飛び込んだ腐臭の者の終焉は、実に惨めな自滅となった。
 馬を翻して来たパロメが、彼女の油断を誘って急襲を仕掛けるという愚策を演じた残る腐臭の者を正面から大斧ごと掬い上げた。腐臭の者が纏う鎖帷子(くさりかたびら)が裂ける音と共に、骨が砕ける鈍い音が血飛沫と共に噴き上がるのを見る事もせず、パロメと彼女はタキトゥスの後を追って馬を急き立てた。
 そこへバイゼルが合流する。仕留めたのは都合六名の腐臭の者共――果たして残り何名の敵をスティナとタキトゥスが対峙しているのかと思うと、一刻の猶予もなかったのである。眼前では濛々と立ち上がる火柱が大剣を振り翳すタキトゥスの姿を黒く映し出している。

 スティナに誘き寄せられた腐臭の者共の半数が最初の爆発でその身体を粉々にして、残り半数が手足を失い火達磨になって焼け死んでいった。折角命拾いした残余数十名は、そのまま雲隠れすればよいものを、それでも尚スティナを襲わんと、彼を取り囲もうとしている。
「スティナァー!」
 そこへ大声を張り上げながら、火柱にも爆音すら臆する事なくタキトゥスが馬もろごと突っ込んできた。その様子を眼前に捉えたスティナは、ただニヤリと笑って、胸元から発破を二つ取り出した。この期に及んで漸く状況を掴めたのか、腐臭の者共数名が驚き慌てて包囲網を崩してその場を逃げ去ろうとしている。
 しかし時はもう遡及しない。スティナは着火した発破を躊躇なく投げ付けると、爆音と激しい光を伴って腐臭の者共を六名ほど、闇夜に高く吹き飛ばした。残る数名の戸惑い迷う腐臭の者共に、タキトゥスの大剣が容赦を知らず振り下ろされれば、事の状況が掴めず立ち(すく)む腐臭の者共が大根菜っ葉の類の如く見事に断ち割られている。馬上の剣士の鋭い殺陣に、腐臭の者共は成す術もなく瓦解して、その腕やら首やらが火柱に照らされて空を舞い狂っている。

 既に決着は付いた。
 逃げ遅れた腐臭の者共三名がレイピアを自らの胸に突き刺し、血塗れになって火柱の中に飛び込んだ。捕まった盗賊団がその後の取り調べて如何なる拷問を受け自供を迫られるか知っていたのだろうか、敵に倒される不名誉を避けて火に身を投じたというより、その非業なる死の恐怖に耐えきれず、現実から逃げる様に死を選んだかの様に思えた。
 腐臭の者と呼ばれる盗賊団は、襲った村や街や旅人、旅団をなす善良な人々に対し言語を絶する辱めと苦痛と恐怖を与えながら、それを楽しみにして世に巣食っている。故に、捉えられた盗賊は極刑に処せられる。その刑の執行前に、様々な事件との関わりを取り調べられる。その取り調べで自らが無防備な人々へ与えた苦しみが数十倍になって自らに降り戻ってくるのである。それを知っているからこそ、この火柱に身を投じた腐臭の者共は、恐怖と苦痛から逃れる為だけに自滅の道を歩んだのであろう。
 思えば哀れである。

 ただ一人、逃げ遅れ自害し損ねた腐臭の者が、項垂(うなだ)れて地に座り込んでいる様だ。無防備なこの者を惨殺する程、彼等一行は落魄(おちぶ)れてはいない。慈悲なき者にすら寛大な慈愛を与える度量の持ち主ばかりである。

 タキトゥスに続いてパロメがバイゼルが彼女がスティナのもとに集まってきた。
 スティナは黙って、ただニヤリとだけ笑って見せた。彼女が安堵の表情でスティナを見つめている。パロメとバイゼルは小さく笑みを浮かべただけで特段の言葉を掛けなかった。ただ、タキトゥスだけはどうしても言わざるを得なかったのであろう。スティナの両肩を揺さぶって、激しく話し掛けている。
「あれほど、あれほど、無理するでないと云うたに、あれほど云うたに! こ奴は、こ奴は………」
 タキトゥスは大粒の涙をボロボロと流して、それでも構わずスティナの肩を強く揺さぶり続けている。

 縄打たれたこの腐臭の者は、パロメに引かれて小屋に向け重い足取りで歩き出している。その途中、森の中で蛍が幾匹も舞っているのを彼女が見つけた。バイゼルが闘いの中で使った蛍が、狂おしい程に舞っては消え、現れては瞬いている。
「きれいね」
 そう呟いた彼女の言葉に反応する様に、腐臭の者が蛍をジッと見つめている。恐らくは生きている内に見るこの世の最も美しき光景である。
 雨が止んで、月を覆い隠していた厚い雲が逃げる様に空から去り始める頃、淡い月明かりのもと、一つ残った癇癪玉が打ち上げられた。少なくとも今なすべき全ての事が終わった合図が薄明かりの空に放たれた。五人の瞳はその一瞬の煌めきを眩しく見つめている。

 遠く小屋の最上階では、セネルとジェノが厳しい瞳でその光を眺めていた。それは終わりの合図の様でもあり、これから始まる決戦への強い意志を示す合図の様でもあった。

第十三話 それぞれの道

第十三話 それぞれの道

 薄明かりの月が、雨に打たれた小さな森を抜けるスティナ達一行と縄打たれ項垂(うなだ)れて歩く腐臭の者を淡く照らしている。
 バイゼルが万一の追尾を警戒して少し離れて殿(しんがり)を務め、スティナの両脇でタキトゥスと彼女が馬足を揃え、先頭でパロメが腐臭の者を縄で牽く布陣で小屋を目指していると、やがて前方から小屋に駐屯する仲間の護衛団四名が数珠繋ぎに連なって松明(たいまつ)を携えてやって来た。
 その光に炙り出される腐臭の者は、艶消しの兜に粗末な鎖帷子(くさりかたびら)で全身を覆い、肩や腰など要所々々を組紐で縊った薄手の鉄板片で保護するばかりで、重装備の者と剣を交えるにはおよそ不相応な身拵(いでたち)である。その兜は恰も人格を否定する如く目の辺りだけを僅かに()り抜いており、唯一この穴だけが生身の腐臭の者を世間と繋げているばかりである。

 一行が小屋に着くと、職人や旅人達が怒りや蔑みの眼で腐臭の者を見据えて、中には罵声を浴びせる者や投石する者もおり、腐臭の者に対する世間の嫌悪の程が覗い知れた。その腐臭の者は小屋の者の冷たい仕打ちに悪怯(わるびれ)る様子もなく、パロメに牽かれて小屋北側の宿牢に縄で後小手に縛られたまま収監されると、二人の護衛隊員が牢を見張り、スティナ他の面々は疲れた身体を引き摺る様にセネル達のもとに急いだ。

 小屋の三階では、セネル、ジェノ、ガントスの三名が、一同の到着を今や遅しと待ち構えていた。小屋の最上階で見た火柱と轟音、それに眼前の彼等を包む強い硝煙の残香(のこりが)と、その全身に浴びた(おびただ)しい返り血は、まさに彼等が命懸けの闘いを勝ち抜いた事実を物語っていた。セネル達の瞳は暖かい愛情に満ち溢れ、ただジッと彼等を見据えている。彼等を称賛し、その無事を心から喜んでいる瞳であり、その涙は幾万もの言葉になって相手の心に深く届いていた。
 そこへエリスがやって来た。紳士らしく丁寧な(ねぎら)いの言葉を掛け終ると、さっそく事の経緯の報告を求めてきた。
 パロメが北側街道の報告を行うのに続いて、南側街道の状況についてスティナが報告を始めた。仕留めた腐臭の者共の総勢は四十名弱、瓦解した隠処(かくれが)は二ヶ所のみ、残念ながら腐臭の者共の本営ではなく下部組織の一団であったことも付け加えた。エリスは敵陣本営でなかった事にひどく落胆した様子で、頬杖をついてスティナに質問した。
「ふむ、して鉱石を隠してはいなかったのか?」
「いえ、鉱石はありません。そこにあったのはコレです」
 そう言ってスティナは懐から発破を二つ取り出すと、腐臭の者共が百近い発破を隠し持っていた事実を告げた。が、エリスにとって発破などよりも強奪された鉱石--即ちファウナの財産の方が重要らしく、ただ首を(すく)めて二つの発破をチラリと観ただけであった。
「ふむ、そうか………あれ程に大騒ぎして、結局、得た物はコレと腐臭の者一人だけかね?」
 その冷めた言葉にジェノが顔を真っ赤にして、エリスに掴み掛からん程の勢いで椅子を蹴り上げた。ガントスが拳を固く握りしめてエリスを睨み付けている。咄嗟に、セネルが間に入った。
「言葉が過ぎますぞ、エリス殿」
 おそらく、ジェノと僻地のガントスの二人だけが相手であれば、そんな彼等の態度は意に介さない些細な事であったかも知れないが、流石にセネルから小言を言われては不承不承(ふしょうぶしょう)引き下がらざるを得ない。更に、この生死を分けた闘いに彼女が加わっていた事も幸いした。エリスは、彼女がセネルの孫娘だと思い込んでいる。その孫娘の闘いを愚弄しては、これから政治家としてセネルに取り入るには不都合だ。曲りなりにも経済大都市の副首長を務めるだけにこの上なく計算高い。
「いや、申し訳ない。諸君の働きを愚弄する積りは一切ないのだよ。私もこの戦いで些か気が起っていたのかも知れない。いやはや、申し訳なかった」
「いえ、お言葉忝(かたじけな)く存じますぞい」
 パロメが年長者らしく戦士一同を代表して社交辞令でこの場を収めた。“では、(わたくし)はこの辺で………” とそそくさと部屋を後にするエリスを、ジェノとガントスが鬼の様に睨み付けている。
 エリスが部屋を出た後も、ジェノとガントスの怒りは中々収まらなかったが、当の戦士達は一行に気に留めていない様子である。
「なぁに若先生、お偉いさんっていつもあんな感じだよ」
 ジェノ等二人は逆にスティナに(なだ)めら、それが可笑しくて皆が肩を震わせて笑いを噛み殺している。セネルが笑みを絶やさず、しかし腕組みをして机に置かれた二つの発破を厳しい眼差しで見つめながら言葉を繋いだ。
「事は重大じゃな。明日、怪しき者への取り調べを行おうぞ。
さぁて、皆も疲れておろう。湯に浸かり身体を癒えて、今日はゆっくり休むがよいぞ。
皆よう無事に戻って来てくれたのぉ。よう戻って来てくれたぁ。それだけで十分じゃ」
 戦士達がガントスが、各々笑みを絶やさず一礼して部屋を後にすると、彼女は大きく欠伸しながら湯屋に向かった。月明りが優しく小屋を包んで、やがて彼等に深い憩いの時を与え始めている。

 新しい朝が小屋に巡ってきた。
 朝支度を整えたパロメ達がセネルの部屋の前に集まっている。そこへエリスがガントスと共に現れた。ジェノが部屋に招き入れると、其処には朝食の用意がすっかり整っていた。エリスを筆頭に一同がセネルの部屋に招かれると、エリスがわざわざセネルの居る所で聞こえる様に“いやはや、昨晩は失敬した” などと社交辞令を述べている。これも処世術の一つなのだろう。
 そんな社交辞令に構わず、直ぐにセネルが口火を切った。
「さぁて、捕えて来た者への取調べじゃが。ワシとエリス殿、ガントス殿、それにジェノの四名で行おうと思うのじゃ。(ちまた)では拷問を持って自供を迫る術もある様に聞くが、それではあの無頼の者と大同小異じゃ。世の(ことわり)に則って、かの者は極刑に処せられるじゃろう。じゃが、かの者が与えし苦痛を以って、あの者を苦しめるは人の矜持に(もと)る。
命を賭したそなた等にとっては、腹に据えかねる事もあろうがのぉ、そこは辛抱願いたいのじゃな。如何かのぉ?」
「全く同感でございます。ファウナとして全く異存ございませぬ。私も拷問を以てする世間の法をば、悪しき慣習と(かね)てより思っておりました」
 エリスが間髪入れず賛同した。
「嘗てワシは獣共憎しの一念でございました。ワシ等の仕事を邪魔しよるわ仕事仲間を襲うわ、いっその事、この世の中から消えてしまえばよいのに、とも思っておりました。
じゃが、この前の獣人との闘いの中で、ワシの中で何かが変わり申した。上手く申せませぬが、この世の中はワシ等だけのものじゃないと………。
腐臭の者共の所業は許し難し、なれどもあいつ等の背負ってきたものが何か、それを知らぬままでは、いつまでも別の腐臭の者が生まれて来るやも知れませぬ。そして、それを生む環境をば、もし万が一ワシ等自身が作っていたとしたら、ゾッとします」
 ガントスもまた人として腐臭の者を扱う事に諸手を上げて賛同した。パロメ達はもとより拷問を加える意図など更々ない。
 そのパロメが起立して提案している。その姿は、以前の僻地の護衛団員にありがちな卑屈な姿勢ではなく、自信に(みなぎ)るものであった。
「先生方が取調べの間の事ですがの、ワシは残りの腐臭の者共を捕えたいと思っとります。無論、連中とて無抵抗で捕まる筈もありません。激しい戦になるかも知れませぬの。じゃがですな、ここで手を緩めては、これ(さいわい)とこの地より逃げ出しよります。あ~この地はそれで安泰ですがな、他の地が迷惑この上ない事になりゃせんかと心配しよります。ここにおるスティナが連中の動き方を観ておるで、この期を逃さず、この地に巣食う腐臭の者共を一網打尽にしたいと、あ~そう思うのですじゃな」
 慣れない言葉回しにしどろもどろになりながらも、パロメは胸を張って自分の考えを述べている。
「うむ、我事(わがこと)ばかりの世の中にあって見上げた心意気じゃ。そなた達であれば(いたづら)に命を奪う事などないじゃろう。如何かなエリス殿、ガントス殿」
「御意に御座います。パロメ殿には我がファウナの衛兵もご存分に使って頂きたい」
「うん、いい考えじゃ。お主ら何だか随分と変わったのぉ?」
 自分と同じように成長している仲間を観て、ガントスの顔が緩んでいる。
「ふむ、ならばパロメ殿や、早速調査隊を率いてくれるかのぉ」
 パロメ他の仲間の顔が生き生きと輝いている。この地の為だけではない、他の地の為にも延いては世の中の為にも、腐臭の者が再び恐怖と不安の影を落とさぬ様に、そして腐臭の者が二度と生まれぬ様に――彼等は言葉を越えたこの感情を共有して、今自分がすべき事できる事への使命感に満たされていた。
「うむ、それとのぉ。今回では新たに発破が発見されておるのぉ。皆も知っての通り、これを製造するはパラスのみじゃて。しかもそのパラスには内通者が居るやも知れぬ。
よってじゃ、こっそりパラス領内に入って、こちらもパラスに協力者を得ようと思うのじゃ。ワシの古い友人でのぉ、イドモーン殿じゃ」
「イ、イドモーン卿でございますか?」
 イドモーン・メリテはアルティス共和国よりパラス公爵の爵位を与えられるパラス随一の賢者である。いやパラスに限らず、西のセネル、東のイドモーンと称される程にこの世界を支える知恵者である。セネルより若干年上でセネルと異なり喜んで爵位を受けているが、その信条の頑固さはセネルに一歩も引けを取らない人物である。セネルはどういう因果か政治・経済・宗教絡みでその紛争仲介を頼まれる事が多いが、イドモーンはひたすら研究に没頭するやや浮世離れした学者であり、セネルとは五十有余年を超える付き合いである。
「パラスを無視する訳にはいかぬし、かと言ってパラス首長殿へ協力要請するにも、内通者に知れる怖れがあるのぉ。万一、今度のパロメ殿の調査隊が不発に終われば、事は余計に厄介じゃて。この地にとっても世の中にとってものぉ。
奴ならば、内通者で有る筈もなし、色々と協力して貰えるじゃろうて。どうじゃな?」
「いやはや、イドモーン卿ならば、誰も異存など有ろう筈がありません」
 エリスが語るのをガントスが肯いて受けている。パロメ達も驚きを隠せないでいる。彼女は朝食の石榴(ざくろ)果肉を口一杯に頬張りながら、名前を聞いただけで驚くここの一同を不思議そうに眺めている。
「うむ、ではのぉ、文を(したた)める故にこれを誰ぞ届けてはくれぬか? それでのぉ、暫らく留まってパラスを探って欲しいのじゃて」
「それならば、私が行きます。いや、発破を見付けたのも何かの因果かも知れません。是非、私にご指示下さい」
 スティナが凛として名乗りを上げた。スティナは自らの命運を感じた。その目の輝きがジェノにも伝われば、ジェノが追認を皆に諮っている。
「うん、彼ならば適任です。いや彼以外にはないと思います」
「うむ、ならばパロメ殿の作戦会議に加わった後、早速パラスへ発って貰おうかのぉ」
 スティナがジェノを見てニヤリと笑う。ジェノがグッと拳を握りしめてスティナの決意を称賛している。パロメは自分同様に、これから進むべき道を成すべき事をここまで生きて来た理由を見出しつつある仲間を嬉しげに団栗眼(どんぐりまなこ)で見つめている。
 進むべき道、成すべき事、生きて来た理由――それが何処なのか、果たして何なのか――容易に見付かる筈もない。ただ、何処かにある、何かがある――そう思える瞬間にスティナが立った事が嬉しいのである。
 タキトゥスやバイゼルとて同様である。未だ自分達はその境地には至っていない。なれど仲間が其処に一歩を踏み出そうとしている。ただそれだけで嬉しさが込み上げてくる。
 それぞれの役割が愈々見えて来た。

 パロメが調査隊編成の為に階下へ降りようとする時に、“この()は如何しましょうや?”とセネルにそう目配せした。セネルは静かに首を横に振った。彼女の戦士としての力量を疑った訳ではなく、それは肉親特有の直情に過ぎなかった。それを言葉にすると彼女の誇りを傷付ける、一方でセネルの心情も理解できるパロメは、二階に降りると直ぐに思い付いた様に彼女に指示した。
「あ~あれだなぁ。先生達の取調べの最中にの、あやつが暴れるといかんぞい。お前がシッカリと護衛せい!」
「うん、わかったわ」
 彼女はセネルやパロメのそんな心情を知る由もなく、屈託なく自分の立ち回りを受け入れた。ただ、スティナを始め共に闘った仲間達はパロメのその真意をシッカリと受け止めていた。彼等には余計な言葉なぞもう必要が無かったのである。
 嘗ての獣人の闘いの中で、(ほとばし)る感情の(たかぶ)りを抑える事が出来なくなった彼女を、皆で一斉に止めた事があった。獣人の背負う無念とこれを迎え撃つ一戦士としての立場とこの闘いの引き金となった首謀者への怒りとが混沌となって、彼女の理性と感情とその華奢な身体がバラバラになっていた。理屈ではなく直感だけで、これ以上に踏み込ませてはならぬと、皆で取り囲んで思い留まらせた事があった。
 今度の仕掛けは、悪逆非道な腐臭の者共相手とはいえ生身の人間相手である。昨晩の闘いは火柱や轟音鳴り響く地での戦闘を好んで待ち構える敵への闘いであり、夜の闇と火柱と轟音が襲い来る腐臭の者共を無機質に思わせてくれた。が、今回は日中に隠処(かくれが)を急襲し、眼前の人間に向けて剣を交える、まさに人間同士の戦いとなる。その時、それでも冷徹に自分の精神を維持できるだけの力量が彼女にあるかも知れぬし、逆にその優し過ぎる琴線が音を立てて切れるやも知れぬ。獣人との闘いで彼女は確かに成長した。惨い獣人の躯を目の当たりにして彼女は一層成長した。が、一足飛びに場数を(こな)させるにはやはり躊躇せざるを得ない。
 幾多の戦を経験したパロメ達ですら、藻掻(もが)き苦しむ相手を仕留める時の剣から伝わる鈍く重たい感覚に、夜半震えて目覚める事がある。奪った命の重たさに耐え切れず、手の震えが止まらぬ事がある。駆け出しの時分には何度逃げ出そうとしたか判らぬ。
 どういう目的かは知らぬが、彼女が旅を続ける限り何れはその苦しみを味わうだろう。だが、それが今なのか、今でなければならないのか、それがパロメ達には判らなかった。それだけに、セネルの暗黙の指示はパロメ達にとっても非常に有難いものであった。

 パロメ達が酒場に降りようとする時、セネルの部屋の窓からエリスが叫んでいるのが聞こえる。
「タウ!タウは居らぬか?」
 タウとは、ファウナ護衛隊の隊長でクロークを重鎧の上から羽織っている男である。一階の酒場でパロメ達は、急ぎ早に寄宿舎を走るタウと擦れ違った。爽やかな笑顔で軽く会釈するその姿はやはりエリート然として近寄り難い。
 パロメが酒場に小屋の護衛団八名を集めている。暫らくしてドヤドヤと集まって来た護衛団に今回の調査隊の趣旨や策を説明している処へ、タウ率いるファウナの一団がやって来た。彼はやはり爽やかな笑顔を作って、紳士然としてファウナの衛兵四名をパロメに引き渡してくれた。僻地の武勲なき傭兵の指揮下に入る事に抵抗感を示すかと思いきや、至って穏やかに四名を引き渡してくれた。
「きっとお役に立てると思います。パロメ殿のお力でこ奴等を(しご)いてやって下さい」
「いんやぁ、お力添え(かたじけな)く思いますぞい」
 パロメも段々と社交辞令が上手くなっている。スティナがその様子を見てニヤリと笑っている。それに気付いて(おもむろ)に咳払いしながら、スティナに腐臭の者共の動き方や闘い方の特徴やら隠処(かくれが)の特色やらの説明を求めた。
 酒場の卓上には、小屋を中心とする現在の地図と時系列に沿って過去の地図が広げられた。こうして眺めると小屋の開墾の歴史が、先達が累々と残してくれた遺宝が、概然として迫って来る。
 スティナは、腐臭の者共の隠処こそ嘗てこの地を開墾する際に非常壕として掘られ、その後に放置された(あと)ではないかと狙いを付けていた。元来は開墾が進むにつれ非常壕は埋め立てられる筈である。が、書面上は適正に埋め立てられた事になっているものの、実際はそのまま放置され今回連中の格好の隠処として転用された、という仮説である。確かにその幾つかは今回瓦解させた隠処と符合する。
 残りの非常壕址のうち腐臭の者共が潜んでいると思しき個所、即ち、二十名ないし三十名を収容できる規模の址で、埋め立てた事実が明白な非常壕を除外して、怪しい址が次々と抽出されている。先達が幾多の苦渋と喜びを経て残した遺宝を、怖々(おめおめ)と腐臭の住処に供しては、奇しくもガントスが言った様に、腐臭の者共を生む環境を自分自身で作っていた事になる。小屋の誇りを掛けて壕址から腐臭の者共を払拭しなければならない。
 対峙する腐臭の者共の力量を想定して、一隊六名編成で調査隊が組織されている。腐臭の者共は軽鎧歩兵に短剣・吹矢の類であるから、こちらが重鎧騎兵に大剣・長槍で臨めば一名に対し四名の腐臭の者を相手にできる。奇襲が功を奏すれば、更に多くの腐臭の者共を捕縛する事が出来るだろう。抗う者は止む方なし、なれども身動き取れぬ程に打ち据えて、その姿をその証言を陽下のもとに曝け出させる為に、いま討伐が開始された。
 やがて、パロメを旗頭とする二組十二名の調査隊がトルーパを急き立てて東門を潜り抜けて行った。二度とこの地に腐臭の者が生まれぬ様に、先達の名誉を守りこの地を後世に繋げる為に、獣人の時と同様にその(かいな)に徽布を巻いて南街道を駆け抜けて行った。中央櫓で身を乗り出してその様子を見ていたスティナと彼女が、鮮やかな橙色布を誇らしげに風に(なび)かせ見送っている。

 それぞれの者の眼前にはそれぞれの道が延びている。時に交わり時には離れる道が何処までも幾筋も続いている。雨に濡れた緑若の葉に(きらめ)く穏やかな陽が、苔生(こけむ)す森を嘗める様に照り抜けて、眼前に広がる道に歩み入る者を奮い立たせている。
 その姿を知ってか知らずか、セネルが(おもむろ)に自室を後にした。ジェノが神妙な面持ちで恩師に付き従っている。人の矜持を以って闇を晴らす尋問の時が愈々始まった。

第十四話 背負ってきた想い

第十四話 背負ってきた想い

 小屋北側の宿牢は、葭窓(よしまど)が殊更高く造作されている以外は、牢とは気付かぬ程に普通の造りである。入口の引戸を潜ると土間の向こうに四面を格子で仕切られた牢が三つ、各牢の中央から自在鉤(じざいかぎ)に括られる縄がダラリと垂れ下がっている。
 昨晩ここに牽き連れられた腐臭の者は、中央の牢に胡坐を掻いて太々(ふてぶて)しく正面を睨んでいる。収監される際に、彼は身に付けていた防具一切を脱衣し普段着を着せられている。もう何年も湯浴していないその身体からは異臭が甚だしく、加えて彼はその全身に酷い火傷を負っている様だ。特に顔面と云わず頭部全体が焼け(ただ)れている。常人なれば直視に耐えられぬ姿なのだろうか、事実、見張りの者は蝋燭に照らされるこの男の姿が恐ろしくて、敢えてこの者を照らさぬ様に明りの位置さえ変えていた程であった。
 その宿牢へセネルとジェノが入って来た。葭窓から漏れて来る北側の光は弱く、ただでさえ陰気な牢内を一層陰鬱に照らしている。格子を隔てて、腐臭の者の前面に座ったセネル達は、見張りの者二名に守られて早速この者へ質問を投げ掛けたが、案の定、腐臭の者は質問に応える気などなく、ただ薄笑いを浮かべるか無表情で眼前の二人を睨むかの態度しか取らない。それでも、根気強くセネル達は尋問を続けた。途中の昼食ですらセネル達は格子を挟んでこの者と一緒に取った。口すら開かないこの者へ幾度となく質問を投げ掛けていると、時折この男がむず痒そうにしている様子が覗えた。
「ん? その方、如何したのじゃ?」
 セネルは、動態学のみならず解剖学的手法でもこの世の中に宿る様々な生命体の構造を研究している。無論、その中には人間も含まれており、単に解剖するのみならず、治癒する術すら心得ている。
「そなた、火傷の治療を施したのか? この臭いは化膿しておると思うがのぉ?」
 この言葉を待たず、初めて腐臭の者が口を開いた。ただ“うるせえ! (じじい)がぁ!”とだけ。
「ふぉふぉふぉ、目や耳に異常はなさそうじゃのぉ」
 そう言うと同時にセネルとジェノは牢内に入ろうとした。慌てた見張りの者が二人を引き留めようとしている所へ、彼女がやって来た。
「あら、おじいちゃん達ったら危ないわ。わたしも一緒に入るわね」
 てっきり一緒になって留めると思っていた見張りの者は呆気に取られて、牢内に入る三人を眺めている。三人はその見張りの者の様子にお構いなく牢内へ入ると、彼女が長剣を携えて男の背後に立ち、両脇を抱える様にセネルとジェノがこの男を挟んでいる。
「どれ、そこに俯せてみよ」
 言葉とは裏腹に、半ば無理やり腐臭の者を俯せにして衣類を捲ると爛れた火傷の痕の所々が化膿しているのが判る。ジェノが見張りの者に未使用の布切れと湯を沸かす様に指示すると、急ぎ自室に戻り治癒道具一式を小脇に抱え戻って来た。何事かとばかりにエリスとガントス、それに小屋の職人達が宿牢に集まって来た。
「おお、良き時に来られたのぉ。手伝ってくれるかの? これから治癒を始めるぞよ」
「ち、治癒でございますか?」
「この(じじい)がぁ! ぶっ殺すぞ! 放せぇ!」
 ジェノが曼荼羅華や芥子等から独自に抽出した液体を手際良く気化させて、これを腐臭の者に嗅がせると、あれだけ騒ぎ暴れていた腐臭の者が急に静かに眠りに就いた。驚くエリス達を余所目に二人は小刀で化膿部分を切開し手際良く治療を施している。眼前で観るその光景にエリスが青褪めているが、セネル達は一向に構う事なく施術を続けていった。
 腐臭の者が目覚める頃には、淡い月明りが小屋を照らしていた。全身を刺す様な痛みを覚え跳ね起き様としても、身体中を晒木綿で巻かれ身動き取れないでいる。気付けば寝床に横になり昨晩と異なり明々と蝋燭が焚かれている。縄も解かれ、鉄製の足枷だけが自身が牢人である事を思い出させるのみである。
「てめえ! 何しやがった!」
 粋がる男をジェノが診ている。
「ん? 気が付いたのか。治癒したんだよ。暫らくは痛みも有るが時期に癒えるさ」
「うるせぇ! この若造が! ぶっ殺してやる!」
「その元気があれば、傷の治りも早いかもな」
「くそぉ! てめぇ………」
 夜明して看護する覚悟で、ジェノが格子の前で身動(みじろ)ぎせずジッとこの男を観ている。この男とて負けじと睨み返していたが、その脇に居る彼女に気付くと急に静かになったかと思うと無視する様に目を閉じて、やがて眠りに就いた様だ。
「おじいちゃん、治してくれたんだぁ」
「うん、こいつは何れ死に逝く命運なのかも知れないけど傷付いてたからねぇ」
「やっぱりね」
 口を割っても割らなくても、この男は極刑に処せられる。近々失う命と分かった上でいま助ける真意が、彼女には痛い程に理解できた。優しくすれば口を割る等と云う安易な発想ではなく、自白しようがすまいが命ある者を救わんとするセネルの心情を彼女は既に理解していた。
「パロメさん達どうだった?」
「ううん、癇癪玉上がらなかったから」
 隠処(かくれが)が発見或いは戦闘が開始された時点で、癇癪玉が一つ打ち上げられる段取りである。その後、連続して三つ打ち上げられれば討伐が成就し、二つであれば撤退した事実を伝えてくれる。もしその後に何も打ち上げられなければ、そこで仲間が虚しく散った証を伝えてくれるのみである。一つも癇癪玉が上がらないのは、寧ろ仲間が無事でいてくれる事を知らせており、この今日の結果に、小屋の者が逆に安堵しているのもまた事実である。
「そっかぁ………あっ、それでスティナは?」
「おじいちゃんのお手紙持って直ぐに行っちゃったわよ。あっ、そうそう若先生にヨロシクって言ってたわ」
 スティナは書簡を預かると、パラスに向けて一人トルーパで駆け出して行った。武具を纏わず旅人の装いで、イドモーンを頼りにパラスへ潜入するため一人駆け出して行った。彼女が一人東門櫓に立ってその後ろ姿を見送ったが、スティナは門を潜る時にチラリと振り向いてニヤリと笑っただけで、後は振り返る事なく進むべき道へ駆け出して行ったそうだ。
「ふっふっ、あいつらしいよね」
「ええ………」
 “また会えるよね” と付け加えたい気持ちを彼女はグッとのみ込んだ。数日中には、眼の前の腐臭の者はファウナに移送される。その間に森の隠処に潜む腐臭の者共の件も埒が明くだろう。そうなれば彼女達はファウナへ向かう。一方で、少なくともスティナの仕事は近々に片付く代物ではない。伝書の遣り取りがあるにせよ、出会う機会が今後あるのかどうか――それは、彼女達とスティナのこれからの命運が繋がっているか否か次第である。それをジェノに尋ねた処で詮なき事である。
 腐臭の者の傷は少しずつ回復している様だ。この男への尋問は連日続いているが、何一つ語らず、牢内でジッとしたままでいる。癇癪玉は未だ一つも上がらない。虚しく三日が過ぎた。ただ変わった事と云えば、あれ程に毒付いていたこの男が悪態を付かなくなった事くらいであろうか。

 四日目の朝を迎えた。
 前夜の見張りに就いていた彼女が宿牢を出ようとする時、この男が不意に語り掛けてきた。寝床に横になったまま彼女を見る様子もなくボソリと聞いてきた。
「おめえよぉ………いくつになる?」
「………!?」
 彼女はただこの男をキッと睨んで、黙って宿牢を後にした。
 やがて、陽が高く天頂に達した頃、真っ直ぐに空に昇る癇癪玉の音が小屋に響いた。かの伐採場を更にパラス領内に南に向かう森の端、山々が深い森に滑り落ちる辺りで癇癪玉が打ち上げられている。小屋に居る職人も旅人も皆が静寂の内に南を見つめている。そこには仲間がいる。合図を打ち上げたからには腐臭の者共もこれに気付き抵抗を始めていると思われる。そこで命を賭している仲間がいる。事の成就をただ願うだけしか出来ない小屋の者は、一心不乱に遠く南を見詰めている。そして二時(ふたとき)が経った頃、今度は伐採場を遥か西に入る辺りで別の癇癪玉が打ち上げられた。別の一隊が腐臭の者共を捉えたのだろう。いま、同時に二ヶ所で仲間が死闘を繰り広げている。忸怩(じくじ)たる思いでそれを見詰める彼女は、今直ぐにでも駆け付けたい衝動を必死に抑えていた。直情で動くのは容易い。が、組織で動く時、一人の感情が全体を瓦解させる危険がある。彼女は自分を保とうと懸命に自身と闘っていた。祈る様に西と南とを交互に見詰めて、ここに留まる苦しみに耐えていた。
 どれ程の時間が経ったのだろう………
 陽が傾きかけた頃、連続して三つの癇癪玉が南の方から打ち上げられた。奇しくもほぼ同時に西からも三つの眩い光が強く小屋まで伝わって来た。その音が届かぬ先に小屋全体が歓喜の叫びで一杯に満たされていた。職人達も旅人でさえ、獣人との生存を掛けた闘いの時と同様、思いは一つになって戦士達と戦っていた。仲間への称賛と誰一人傷付かずいて欲しいとの願いを込めて、ある者は抱き合いある者は拳を振り上げていた。
 おそらく、戦況報告の者が物資の補給も兼ねて小屋まで戻って来るだろう。負傷者がいれば小屋に待機した彼女達が応援に向かう機会を得るかも知れぬ。いやが上にも彼女の気持ちは昂ぶっていた。それからの一時(ひととき)が、彼女にとってどれ程に長く感じられた事か。何度も東門櫓に登っては、戻ってくるであろう仲間を南街道筋に探していた。
 遠くからトルーパの蹄の音が聞こえる。彼女は眼を凝らしてその音を辿っている。そして、月夜に照らされる街道筋に見えたのはバイゼルであった。
「開門! 開門! バイゼルさんが戻ってきたわ!」
 彼女のその声を合図に東門が重々しく開くと、勢いよくバイゼルが飛び込んできた。ガントスが、寄宿舎から転げ落ちる様に出てくるや否や、矢継ぎ早に質問し始めた。
「皆は無事か? 怪我人はおらぬか? 物資は足りておるか?」
「あぁ――先ずは水をくれぬか? ガントス殿」
 そのバイゼルの口調にガントスは皆の無事を確信した。
「こっちは、腐臭の者共三十有余名、抗う者ばかり。恐らくは覚悟を決めておったのだろう。
パロメ殿の一隊は如何?」
「パロメはまだじゃ。して隠処には何かあったか?」
「あぁ、あった。発破が二百程も隠してあった。それに、鉱石が荷車換算で五台分程じゃろうか」
「うむ、交代は必要か?」
「いや、大丈夫。それより後一日分程の物資をお願いしたい」
「よし心得た。存分に持ってゆけ!」
「あっ、パロメさん! パロメさんも戻ってきたわ!」
 息を切らせながら東門を潜ったパロメは、差し出された水柄杓を一気に飲み干すと、彼女に向けて腐臭の者の様子を聞いた。
「そうかぁ、奴も往生際が悪いのぉ。お前は、此処でもうちょっと踏ん張っておれ。あと調べるのは三ヶ所のみぞい。案ずるな、これしきの事でへばれやせんわい!」
「えっ!? わたしも行くわ!」
「いんや、奴はのぉお前じゃないといかん気がするんじゃ。よいな先生方をシッカリと護衛せいよ」
 彼女は不服そうではあるが、今回の隊長がパロメである以上、彼の指示には従わざるを得ない。パロメの報告に依ると、隠処の腐臭の者共は五十有余名にして、矢張り発破を三百程とこちらは鉱石十台分相当を隠し持っていた様である。悲しむべきは、バイゼル隊同様に、腐臭の者共は投降する意思は皆目見受けられず、已むを得ず全てを成敗したそうだ。戦いに遜色ある怪我人もなく、全員で残りを明日早朝に急襲する段取りとの事だった。
 この報告を聞いてガントスは驚愕した。この小屋の近辺に少なくとも百名を超える腐臭の者共が潜み、発破を六百近く隠し持っていた。それに獣人が牽いていた分も含めれば延べ十六台相当の鉱石までも。発破のみで金貨百二十枚、鉱石なら金貨三二十枚は下らない。末端価格ともなれば金塊五十塊(約25億円)でも購えない。鉱石だけならいざ知らず発破を使って何を企んでいたのか、是が非でも調べなければならない。
 彼女がやや不機嫌に宿牢の交代に入ると直ぐに、腐臭の者が話し掛けてきた。
「なぁ、一体何の騒ぎだぁ?」
「あなたの仲間が討伐されたわ」
「ふん、あんな奴ら仲間じゃねえよ」
 そこへジェノが薬を携えて入ってきた。
「容態はどうだ? まだ痛むか?」
 腐臭の者の晒木綿を施術した開口部位が開かぬよう入念に剥ぎながら、薬を丁寧に塗っていると、腐臭の者が呟くように言った。
「おい、若先生よぉ。もったいねぇ事するんじゃねえよ! 薬はよぉもったいねぇ」
「そんな事をしても口を割らないぞ!ってこと? 構わないさ。もとよりそんな積りじゃないしね」
「もったいねぇじゃねえか! もったいねぇんだよ!」
「薬には詳しいのかい?」
「………」
「まぁ、安くはないね。でもさ、ここで使わなかったらいつ使うんだよ? 薬は治療の為にあるんだから」
「俺がどんだけ働いたらよぉ、おめえの薬買えると思うよ? 俺がどんだけよぉ………」
「ふふふ、心配は要らんさ。お前さんにも他の誰にもお金を請求する積りはないからね」
 ふと腐臭の者が彼女を見た。
「………おめえよぉ、いくつになる?」
「えっ!?」
「蛍よぉ、綺麗だったよなぁ」
「ええ」
「大きくなりやがって」
「………!?」
 そう言った切り彼女に背を向けて、声を絞るようにボソボソと独り言を呟いた。
「………あの頃は、俺にも家内がいたっけ。娘が一人いてよぉ。ちっちぇ時から身体弱くてよぉ」
 腐臭の者ですら、もう何年も忘れていた。そう――世間から忌み嫌われるこの腐臭の者にも人生があった。道を踏み外して以来、振り返る事もなかったこの男が歩んで来た過去とは………



………腐臭に落ちる前の嘗ての彼は懸命に働いていた。
 発掘団の護衛から荷車運搬の護衛、村の夜衛と馬車馬の如く懸命に働いていた。彼の妻もまた身を粉にして懸命に働いていた。病弱な一人娘に薬を買うために、いい治療を受けさせてやりたい一心で寝る間を惜しんで働いていた。一人娘は彼等の希望だった。彼等の人生の全てであった。時を惜しんで働くことなど苦にはならなかった。いや寧ろ喜びとさえ感じていた。そうする事で娘が幸せになれればそれで十分だった。
 その彼等の娘が八つを数える頃、遠くハルモニア自治領で正規軍の衛兵が募集されている噂を聞いた。彼等の今の稼ぎからすれば、直ぐにでも飛び付きたい程の待遇である。薬だって購える。ハルモニア自治領であればいい治療だって受けさせる事ができるだろう。だが、マイア地方の彼の一家はハルモニア自治領へ向かう事ができない。徒歩で渡れば健常人でも二年の歳月が過ぎてゆくだろう。病弱な一人娘を休ませながらの長旅など出来よう筈もない。仮に出来たとしても先達つ物がない。これだけ懸命に血が滲む思いで働いても幾許(いくばく)の余裕すらない。しかし、ハルモニア自治領へ行ければ、きっと娘は良くなる。暮らし向きも必ず良くなる。
 いや、夢を見るのは諦めよう。現にこうして三人幸せに暮らしているではないか。不安はあっても幸せに暮らしているではないか。そうだ、夢を見るのは諦めよう。分不相応な夢を見れば、(うつつ)に不満を残す。夢を見るのは諦めよう。ただ、娘が成人してその時この子が夢を見れれば、それだけで彼等は幸せである。唯一夢を見れるなら、ただそれだけを願うばかりである。
 その一家の様子を、村の人々は暖かく見守っていた。自らを犠牲にしても歯を食いしばるこの夫婦を、我事(わがこと)の様に感じていた。そして、一台の馬車とブリゾからの乗船札を黙って渡してくれた。方々に手を尽くして、旅の途中で途方に暮れる事なきよう村を訪れる旅人や商人に頭を下げて、厭事(いやごと)を言われても他人の為に何度も何度も頭を下げて、旅の手配も付けてくれた。
“娘さんが幸せになれるのなら、ハルモニアへ行っておいでよ”
 村人は金貨五枚を惜しげもなく彼等一家の為に差し出した。これ程の金貨があれば、田畑を新たに開墾できる。苗木を購って村を潤す事ができる。皆の暮らし向きも少しは良くなるだろう。それでも村人はこれを惜し気もなく、微笑んで差し出してくれた。
“重い………重い………”
 こんなにも重く暖かい金貨を彼は初めて手にした。両掌でこれを抱いて地面に額が付かん程にひれ伏して号泣した。妻は、震える両掌で顔を覆って、そこに泣き崩れた。村人は何も言わず、その暖かな手で妻の背をいつまでも優しく擦っていた。
 その後、護衛兵仲間が代わるがわる彼等一家に付き添って、やっとの思いでブリゾまで扱ぎ付ける事ができた。眼前に広がる海が希望となって彼の家族を照らしている。寄せ来る(さざなみ)が、期待となって彼の家族を誘っている。
 故郷を出て船に揺られハルモニア自治領に着いた頃には、既に三年が経っていた。そこで志願して衛兵補になると、彼は懸命に歯を食いしばって鍛錬に耐え、更に一年を経る頃にハルモニア正規軍衛兵として登用された。僅か一年での昇格は非常に珍しい事であった。
 ここでも彼は身を粉にして働いた。娘の様子が日を数える程に良くなっているのが分かる。尚更、彼は懸命に働いた。彼の妻も必死に働いた。二人で力の限り額に汗して、娘の為に家族の為に、守るべき者がそこにいるからこそ彼等は懸命に働けた。何も苦にはならない。どんな無理だって熟せる程に、希望が彼等を動かしていた。支えてくれた村人の想いが、いつも彼等を守ってくれている。彼の家族には明るい未来だけが見えていた。
 ハルモニア自治領の外れには大きな湖があって、風望ノ月には辺り一面を飾る様に蛍が舞っていた。舞っては消え、消えは舞う淡いあかりが、静かな湖面を幻想的に打ち奏で、物悲しくも楽し気に、儚くとも美しく彼等の心にしみて来る。遠く故郷を離れ親しい友人もいないこの地で肩を寄せ合って暮らす彼の家族にとって、手と手を繋いで観るこの瞬間こそ幸せと安らぎを強く感じる唯一の時であった。一人娘は葡萄酒と三切れの干肉に乾パンを大切に抱きかかえ、喧騒を離れた湖畔でささやかな食事を楽しみながら、舞い狂う蛍を飽く事なく眺めていた。贅沢すぎる時を静かに寄り添い合って、飛び交う虚ろなあかりを綺麗な瞳で見つめていた。

「あの時も、キレイだったよなぁ………」
腐臭の者はそれだけ呟くと、背を向けたまま肩を震わせて声を殺していた。



 五日目の朝が巡って来た。パロメ達の腐臭の者共探索も今日には決着が付くだろう。これ等の者共がバラバラに潜んでいた事が幸いし、僅かばかりの陣容で十倍を超える相手を撃破できた。急襲の冥利に尽きる熟練の策が功を奏している。今回の探索で、新たに捕縛できた腐臭の者こそいなかったが、失われた鉱石を始め恐るべき量の発破を回収でき、満足できる成果を得たと云える。後はパロメ達の無事の帰還を祈るばかりである。加えれば、捕えしこの宿牢の者の口から新たな情報が欲しい所だが、幹部でもないこの者から得られるものは期待できない。ただ、少なからずその人間性を取り戻して欲しいと願うだけである。
 セネルとジェノが彼女を連れて、朝日に照らされる宿牢に入ると、腐臭の者は既に目覚めて朝食を摂り終えた処であった。容態は確実に回復している。が、その態度は相変わらずであった。セネル達を見ると背を向けて横になると沈黙を続けている。セネルとジェノはその太々しさに頓着せず治療を始めた。腫れあがっていた化膿部分も沈消し、切開部の縫合も順調に癒着しているのを確認して、薬を塗るジェノを脇に据えて、セネルが話し掛けている。
「そなた、ハルモニアの衛兵であったのか?」
「………」
「ならば、弾正を知っておろう?」
「弾正! 奴は………くそぉ!」
「もう五年も前になるかのぉ。その方かの惨劇を知っておるや?」
「惨劇だと! 笑わせるな! 貴様等に何が分かる! 分かるもんか!」
「やはりのぉ」
「貴様等に分かるもんか! あれは、あれはよぉ………地獄だったんだよ! 地獄だったんだ!」
 沸々と怒りに包まれながら、腐臭の者は黒く渦巻く自身の過去に取り憑かれ、必死に葬り去ろうとして来た自分の人生をいやが上にも回顧せざるを得なくなっていた。



………腐臭に落ちる前の嘗ての彼は懸命に働いていた。
ハルモニア自治領正規軍衛兵としての三年間、誰にも後ろ指を指される事なく、皆が嫌がる仕事も好んで引き受けて必死に働いていた。愛しい一人娘の為、家族を支え続ける為、時を惜しんで己が身を犠牲にして働いていた。古からの神聖なる教義でこの世界の一切合財の苦渋を拭うため、武具を纏わず単身で戒律を広める聖職者が集うこのハルモニア自治領の正規衛兵として、誇り高く揺ぎ無い自信に満ち溢れていた。
そう――あの時までは、眩い程の明るい未来が彼と彼の家族を包んでいた。

第十五話 暗闇の希望

第十五話 暗闇の希望

 当時のハルモニアでは、正規軍衛兵に新たに雇用された者のためその家族も含めて、ファウナへ通ずる街道筋に大規模な兵舎が設営されていた。暑い時期は涼しく、寒い時には暖を取るのに申し分ない兵舎であった。整然とした木立並木で区画され、共同ではあるが湯浴みもできる施設の他、生活に密着した技術を子供達に教える舎屋もしっかりとした教授陣を迎えて運営されていた。海幸山幸にも恵まれ、医術に優れた者も常駐していた。希望に溢れたこの街に住む正規軍衛兵の仕事は、ハルモニアを訪れる巡礼者の保護と世界各地に旅立つ聖教者を安全な所まで護衛する事、それに交代で聖都の夜警を務める事であった。正規兵ではあったが防火や救命の諸活動にも繰り出された。時には、自然災害で崩れた道や橋や建物を復旧する荷役も担っていた。
 彼は昼夜を問わず愚痴を零す事もなく一所懸命に働いていた。彼の妻もこの地の名産品である葡萄畑で栽培から酒造りまでを手伝いながら、彼と一緒に支え合って愛娘の明るい将来だけを念じていた。

 新暦四一八年の新緑眩い水望ノ月の頃だった。
 晦日夜半に正規軍本営からの伝令で各兵舎毎にそこに住まう兵士達が一ヶ所に招聘された。緊迫感漂う伝令にこの地の家族の者共さえ耳を欹てて聞き入っている。円陣を組む兵士達の前に立ったのは、純白の法衣を纏う弾正その人であった。
 彼は、凛として闇夜に通る声で皆に語り掛けた。
“聖都に殉ずる誇り高き兵士諸君! 諸君に申し述べたき儀、これあり!”
 凛々しく力強く彼が兵士達に語り掛けるその内容は、この安住の地に暮らす者を震撼させるものであった。
“信仰の中心であるハルモニア、自由の象徴であるこの地を蹂躙せんとする者共がいる!
 この地の自治を奪い、豊かな大地を踏み汚す者共がいる!
 邪な思想でこの地を支配せんと欲し、武力侵攻せんとする者共がいるのだ!
 即ち、首都アルティスとその属国である守銭奴都市ファウナとディアーナ!
 加えて盗賊集団のマトゥータ、海賊集団のブリゾ!
 これ等は利得に迷いて既に侵攻を始めていると聞く。
 その数や知れず、力の程や分からず!
 なれども金銭に物を言わせての強欲に囚われし輩にして、烏号の衆なり!
 受け入れて利得に汲々と隷従するか、この地を放棄して放浪するか、諸君は自由である。
 しかし、忘れてはならぬ事がある。
 我等には神の加護がある! 我等に正義がある!
 繰り返す! 諸君は自由だ!
 ただ願わくば、願わくば、神に組して邪なる者共へ神の鉄槌を与えようぞ!
 ここに集い、諸君の希望を奪う者共を迎え撃ちこれ等を畏怖させようぞ!”
 自由を失い希望を剥奪されてやがて虚しく原野で朽ち果てるか、懸命に抗い自尊を保つか――弾正はそう語り掛けたのであった。涙を流し鼓舞する弾正の語りに合わせて煌々と篝火が焚かれている。夢と希望がどちら側にあるか明白に思えた。少なくともこの時までは。
 この兵舎だけでも、三万の兵士がいる。聖都及びその周辺には二十万を下らない兵力がある。ここに住まう者が百万はいる。それ等の者が一丸となって首都の一団を迎え撃てば、神の加護も相乗して必ず守り通す事が出来るはず。群集心理も手伝い一気に皆の気持ちが一つに燃え盛った。
 彼もその中の一人であった。聖教者を護衛して幾度となく訪れたファウナ――その繁栄の程を目に焼き付けている筈の彼ですら、冷静に熟考する事ができなかった。
 ファウナは、人口一億三千万人規模の経済自治都市である。兵力たるやハルモニアを軽く凌駕する。もし、攻め入るとしたらファウナ単体で容易に制圧できる。共和国の主要都市がこぞって出場(でば)る必要なんぞ更々ない。仮に、クレオーンの云う主要四都市群が本気で攻め入れば、兵力たるや五百万を下らないだろう。これをたった二十万の兵士だけで迎え撃てるわけがない。火力、物資、それ等を支える財力――その何れをとっても全く勝ち目はない。瞬く暇もなく呑み込まれるだけである。
 だが、それでも………家族を奪われるかも知れぬ、娘の希望が断たれるかも知れぬ………ならば断固として、この地を安住の住処として守り抜く!彼は只管(ひたすら)にその一念に染まっていた。いや、彼だけではない。この兵舎に住む者全員が正義の御旗一色に染まっていた。

 この年は、ファウナを中心とするアルティス共和国とバイア王国が衝突した紛争から、丁度十五年を迎える年にあたる。そのバイア王国がハルモニアを支援するらしいという噂が真しやかに囁かれた。不安が噂に尾鰭を付けて流布される。農業都市ダミアから百万を超える軍隊が合流するそうだ。ブリゾは共和国に反旗を翻し始めた様だ。首謀者はファウナとディアーナで、利権を争って仲違いを始めた様だ。共和国は混乱している。――枚挙すれば限が無い程であった。
 少数で多数を攻略するには奇襲しか選択肢はないと考えたハルモニア軍は、ファウナ自治領との領境に流れる大河に沿って延々と木製の防柵線を張り、愈々ファウナ領内に奇襲を掛けたその時、ファウナは領内挙げて共和国建国祭で賑わっていた。ファウナ自治領線でこれを警備する者は五十名足らずである。しかも祭を祝いながらの警備である。そこへ傾れ込む一万のハルモニア兵。ファウナ領線の鎮圧は一瞬であった。領線警備の者は全く抵抗する事なく敗走した。何が起こったか皆目分からず着のみ着のまま逃げ去った。
 勝利に沸くハルモニア側は、その徽章を風に靡かせて自由を守護する宣言を高らかに謳い上げた。彼はその一万の衛兵の中にいて、勝利の喜びに家族を守り抜いた誇りに酔い知れていた。
 やがて他の兵舎に住む三万の兵士が合流し、ファウナ領内へと突き進んで行った。然したる抵抗もなく、彼等の侵攻の行く手を阻む者などないまま、正義を信じてファウナ領を侵して行った。
 しかし、その喜びは束の間のものであった。眼前に続々と集まるファウナの大軍を前に、一歩も進めぬ膠着状態が幾日も幾月となく続いた。
 共和国内では権力闘争が絶えず、ファウナもディアーナとの諍いが高じて身動きが取れないでいる! そんな情報が飛び交い、正義と自由を守る聖戦士の名声も上がって、彼等兵士の士気は益々昂っている一方で、長引く膠着状態はハルモニアの財力を著しく疲弊させている。頼みとするバイア王国からの支援もダミアからの援軍もなく、兵舎ですら物資が枯渇する事態が続いた。
 かかる戦況も知らずに取り立てて攻め入る様子もないファウナ軍を前に、三万の兵は交代で自身の住む兵舎に戻り、安らぐ時さえ持てる様になっていた。
 前衛に立つ彼が漸く交代して、懐かしい家族が待つ兵舎に戻ることができた時の事である。彼が嬉々として懐かしい兵舎に辿り着いた時、あれ程に夢見た美しい兵舎が明々と燃え盛っているではないか! 黒装束の一団が火矢を放って、寝静まる兵舎を次々と襲っているではないか!
 この兵舎には妻がいる。娘がいる。彼は剣を抜いて黒装束の一団に切り掛かりながらも、夢と希望が溢れる我が家へ走り抜けた。飛び交う火の粉をもろともせず、脇目も振れず妻と娘が待つ家へ駆け抜けた。
 焼け落ち瓦解した多くの兵舎。逃げ惑う兵士の家族。その無抵抗な人々に切り掛かる無慈悲な集団。必死に彼は走った。煙に巻かれながらも懸命に走った。そして、その彼の眼に入って来たのは半壊した我が家であった。燃え盛る炎が我が家を呑み込んでいた。
“妻は!? 娘は!? どこだ? どこにいる?”
 彼は、襲い来る黒装束も飛び交う火矢も視界に入らず、火の中に飛び込んで妻と娘の名を叫び続けた。
 大きな梁が崩れ落ち炎を帯びてメラメラと全てを呑み込んでいるその中で………
「………あな、た………」
 微かだがハッキリと彼の耳に妻の声が届いて来た。梁が交差して崩れるその中から妻の声が聞こえる。剣を投げ捨てその声に近づくと、そこには妻と娘が両脚と腰を崩れた壁と梁に挟まれてうつ伏せに重なる様に倒れていた。妻は必死に娘を守ろうとして、庇う様に娘に依り掛かり倒れている。咳き込む娘の声も聞こえる。
 彼は、素手で焼け焦げた壁を取り払う。太い梁を全身で持ち上げようとする。その彼に火の粉が纏わり付いて、チリチリとその衣服を焦がし始めている。それでも尚、我身は構わず、妻と娘を助け出さんと必死に梁を持ち上げようとする。
 火の粉が妻に娘に襲い掛かる。咄嗟に水桶を探すも近くに井戸はない。懸命に素手で火を振り払う度に、彼の肉片を焼く臭気がジリジリと纏わり付く。彼は、妻と娘に移ろうとする火を払い除けては、その全身で梁を持ち上げようとしている。彼のその背中にはもう火の手が燃え移り、火塗(ひまみ)れになっても尚、彼は愛する者を助け出そうとしている。
「諦めるな! もうすぐだ! もうすぐだ!」
 必死に妻に声を掛ける。
「おい! 諦めるな! ここまで来たんじゃないか!」
 妻の虚ろな目が彼を見詰ている。娘の咳き込む声が止んでいる。
「おい! しっかりしろ! もうすぐだ!」
 妻が必死にその細い腕を伸ばして娘の髪を優しく撫でている。娘の眼が少し開いて彼を見ている。
「もうすぐだ! 諦めないぞ!」
 娘が笑みを浮かべている。一筋の涙を流して微笑んでいる。
「おい! しっかりしろ! 一緒に頑張ってきたんじゃないか!」
 妻の口元が微かに開いて彼に向けて何かを語り掛けている。
「馬鹿やろう! 一緒にやって来たんじゃないか! こんなところで諦めるな!
馬鹿やろう、しっかりしろ! 俺が助けてやる!しっかりするんだ!
二人でこの子を守って来たんじゃないか! 馬鹿やろう! 諦めちゃ駄目だ!」
 妻は最期の力を振り絞って娘の頬に優しく手を添えた。娘は眠る様に笑みを湛えて横たわっている。妻の眼が静かに閉じている。口元の動きが彼に妻の声を届かせた。
「………あな、た………ありが、とう………」
「馬鹿やろう! 一緒じゃないか! 一緒に踏ん張って来たんじゃないか!
諦めないぞ! 俺がお前達を助けるんだ! おい! しっかりしろ! もうすぐだ!」
 彼は気付かないが、その全身は既に火に包まれている。腕も足も頭さへ燃え盛っている。まさに燃え上がる炎が必死に梁を持ち上げようとしている。
「もう………すぐだ! しっかり………しろ!
一緒に、一緒に………ここまで………頑張って………来た………」

 彼が目覚めた。悪夢を思い出す様で身体が痛い。風さえも刺す様に疼く。
“ああ、疲れているのか。体が動かねぇ”
 だが、彼の眼には何処までも碧く澄み渡る空が見えていた。やがて、一面に漂う焦げた臭気を微かに感じた。
 夢ではなかった。必死に身体を動かすと、身を重ねて真黒に焼き焦げた二人の姿が見える。あれ程、頑として動かなかった梁は、炭となってボロボロになっている。兵舎のあちこちで煙が立ち上っている。
 夢ではなかった。今の彼には涙すら流す事ができない程に、その顔面は焼き爛れていた。
“何故、俺だけが生きている? 何の為に生きているのか………”
 彼の意識は既に死界を彷徨(さまよ)っていた。そのまま死んでいれば、或いは彼は幸せだったのかも知れない。
 地に仰向けに焼き焦げて倒れる彼の身体に蹄の振動が伝わって来た。カッと目を見開いて、激しい痛みに耐えながら、彼は必死に立ち上がった。
“まだだ! まだ、助けられるかも知れん。 この()を診てもらうんだ! まだ、助けられるに違いない!”
 彼はヨタヨタと蹄の方に歩み出した。
「ぎゃー化け者だぁ!」
 その異様な叫び声を聞いて、数名の者が集まって来た。鎧を着た兵士である。彼の仲間である。
“娘と妻を診てやってくれ! まだ、助かるんだよ! お願いだ、早く!”
 だが、焼き爛れた彼の顔面は、彼から声さえ奪っていた。彼の仲間は剣で彼を打ち据えて、遅れてやって来た荷馬車に塵の様に彼を放り投げ入れた。
“おい、待てよ! 俺だよ! 妻と娘がそこに居るんだよ! 妻と娘を助けてくれよ! そこに居るんだよ!”
 声とならない異様な呻きが荷馬車に響き渡る。
“待てよ! 行くんじゃねえよ! あそこに娘がいるんだよ! 妻が待ってるんだよ! 何処に行くんだよ! 行くんじゃねえよ!”
 彼が振り絞る様に出した叫びは、唸りとなって荷馬車に響いている。
 荷馬車は、やがて神聖都市ハルモニアの荘厳な城門を潜った。彼はその威厳に満ちた徽章をぼんやりと眺めた。ここで、誰かに妻と娘を診て貰おう、そうしたらまた一緒に暮らせる、家などまた造ればいい、また一緒に暮らしていける――そんな期待に膨れて彼は荷馬車が止まるのを待った。
 大きく荷台を揺さぶって荷馬車が止まった。と同時に、荷が無造作に傾けられ、蝋燭すら燈されていない暗闇に、彼は吸い込まれる様に転がり落ちて行った。抵抗するにも身体の自由が利かない。やがて、どさりと何かの上に落ちて行った。鼻が曲がる程の強烈な異臭漂うその暗闇には、幾人もの遺骸が無造作に投げ込まれていたのである。彼が既に嗅覚すら失っていたのは、寧ろ幸いであったかも知れない。それでも彼は、必死になって自分の下にあるものを痙攣する手で触って確かめていた。それが、焼き焦げた遺骸である事に気付くのに、然したる時間は掛からなかった。
 絶望が彼を支配した。
 この暗闇で、助かるかも知れぬ妻と娘を残して、一人死んでいく運命を呪った。いや、誰かが妻と娘を見付けて手当てしてくれているかも知れぬ。そうしたら、自分の存在に気付く仲間が現れて、ここから救出してくれるかも知れぬ――幾度となく、襲い来る絶望を払い除ける様に、暗闇の中で希望を見出そうとした。が、絶望は彼を容赦なく包みこむ。やがて、彼は考える事を止めた。ピクリとも動かなくなった。
 どれ程の時間が過ぎたのだろう。自分の上にも更に焼き焦げた遺骸が次々に転がり落ちて来て、息すら出来ぬ程に折り重なり合っていた時だった。眩しい光が眼の前を横切った。何度も何かを探す様にその光は暗闇を照らしている。
“仲間だ! 仲間がやっと助けにきてくれた! これで、これで娘達を助けに行けるぞ!”
 彼は残された力でモゾモゾと動き藻掻(もが)いて助けを求めた。 光を照らす者が、この暗闇で蠢く音を捉えた。その音を頼りに、腐り始めた遺骸を払い除けている。そして、腐臭の中に焼き爛れた彼を見出した。だが、その光の者は“けっ!死に損ないか!” と唾気を掛けて立ち去ろうとしている。
「待てよ! 生きてやがるのか? あれからもう三日も経つぜ。本当に生きてるか調べてみろよ」
「けっ、気色悪い!」
「うるせぇ! 早く調べろってんだよ!」
 光を指す男は渋々と、もう一度だけ彼を探した。彼は懸命に身体を揺さ振って、生きている自分を知らしめた。
「ほぉ、面白えじゃねえか。生きてやがる。こいつは使えるかも知れねぇ。
お前、こいつを連れ出して来い! 俺は外で待ってるぜ」
 もう一人の男は闇の中を迷う事なく立ち去って行った。
「けっ、面倒な死に損ないがぁ!」
 光を指す男は不満を打ちまけながら、彼をその腐臭漂う暗闇から連れ出してくれた。その後、隠処に連れ込まれた彼は、全てを知った。そして、絶望の中に一縷の希望を持った。妻と娘を奪った奴等に復讐する希望が、彼に宿ったのである。



 これまでの己の生き様に縛られている宿牢の腐臭の者は、臓腑の底から言葉を吐き出すが如く思いの丈を語り付くしている。
「貴様等には、分からねぇよ! 地獄だったんだよ!」
「して、そなたは、何処までもその地獄を彷徨(さまよ)うのか?」
「くそぉ! 弾正のやろう! くそぉ!」
「その弾正とて、行方知れずじゃのぉ。そなた、何か知っておるのか?」
「はぁ? 何を言ってやがる! 奴は生きてるよ!」
「むっ、何と申した? 弾正が生きておるとな?」
「………ああ、お頭の、そのまたお頭の、俺達の中じゃ偉え盗賊のお方がよぉ、確かに、そう言ってたぜぇ」
「なんと云う事じゃ、弾正が生きておったか!」
「くそぉ! なんで奴が生きてやがんだよ! 娘が何で死ななきゃならねんだよぉ!
くそぉ! あの野郎だけは、あいつだけは俺が!」
それだけ語ると、腐臭の者は再び口を閉ざした。ジェノは静かに男の話を聞きながら治療を続けていた。それ以上、問い質した所でこの男は今回の謀の全容は知らされてはおるまい。弾正と思しき人物が背後に潜んでいる事が分かっただけでも充分だった。
「重ねて尋ねるが、そなた何処までもその地獄を彷徨う積りか?」
 セネルの問い掛けにも微動だにしない。治療も終わり、真新しい晒木綿を巻き直す時、彼女が大粒の涙を流している事にセネル達が気付いた。いやもう一人、腐臭の者もこれを悟ると、いきなり声を絞り出した。
「おい! 泣いてんじゃねえぞ! 泣くんじゃねぇ!
もう、もう泣くな………もう、泣くんじゃないよ………」
 男は横を向いたまま、それきり口を開かない。セネル達は飲み薬を置いて、静かに宿牢を後にした。

 外に出ると、ガントスが血相を抱えて走り込んできた。
「癇癪玉が一つ上がりましたぞ!」
 陽が天頂に昇っている。これが最期の闘いとなるだろう。あの者の闇は、果たして晴れたのか、セネルは自問しながら寄宿舎の最上部へ歩み出した。
彼女は、まだ涙を流している。ジェノがその肩を優しく抱き寄せた。彼女は、空高く輝く陽に照らされながら、腐臭の悲しみをその華奢な身体でシッカリと受け止めていた。
 小さな森の小屋が総力を上げて臨んだ腐臭の者共への挑戦にも、愈々終わりの時が近付いている。この地に巣食う腐臭の者共をこの地のみならず他の地に拡散させてはならない――その使命感だけで命を掛けて闘いに臨んだ。願わくば、無益な殺生はしたくないと淡い期待を抱いて、他の為に自己を犠牲にする覚悟で討伐した。失われたファウナの財産や出所不明の発破などの成果物の代償として、この闘いに挑んだ者は腐臭の者共の夥しい返り血を浴びて、永遠に拭い落とせない深い傷をその心に背負った。
 セネル達は合図の閃光を見詰ながらも、闘う者が互いの意識下に背負う傷の大きさに虚しさを隠し切れないでいた。悪逆の限りを尽くす憎むべき腐臭の者共――その者共を孕み育てたのは、他ならぬこの世界であった。この世界にその者共を蔓延(はびこ)らせぬ様に命を賭している者がいる一方で、この世界がいとも容易(たやす)くその者共を産み落としている。いつ終わると解らぬ輪廻にあって、幾多の命が輝く事も忘れて消え失せる。
 この世界に生きる数多の賢者、貴族、政治家、延いては国家、都市――所詮、この輪廻の前では無力過ぎる存在に過ぎない。セネルは、徒に年を重ねて来た自分を恥じ入った。この年寄りがやるべき事は残されていないか、彼は只管(ひたすら)逡巡していた。
 ジェノは、宿牢で男が語った弾正の存在を複雑な思いで反芻していた。
 当時、共和国より弾正を首謀者とするハルモニアの惨状を収めるべく、セネルに仲裁依頼が舞い込んでいた。これを受任してハベストを発ったもののその道中で有耶無耶(うやむや)に落着し、その後の成り行きは噂話のみ、煮え切らない結末に地団駄を踏んだ昔を思い起こしていた。あの時にもし無理をしてでも踏み込んでいたら、或いは、異なる結末が今を迎えていたかも知れぬ。数年を経て因果が一つに繋がって、後味の悪さだけが残っている。
 彼女は、明るい未来を信じて懸命に闘う仲間と、積年の恨みを抱えて鬱々と生きている腐臭の者共への憐憫に心が押し潰されていた。そんな不甲斐ない自分に苛立ちも感じていた。パロメ達なら、宿牢の男の背負っていた過去を知っても尚、その悲しみを我事の如く背負い込んで、それでも剣を振るうであろう。それに比べて自分は………意気地の無さに遣る方ない憤懣さえ覚えていた。
 何時(なんどき)かを経て打ち上げられ三つの閃光が、辛うじて彼等三人を救ってくれた。凱旋してくる仲間を笑顔で迎えなければならない。だが、彼等が敢えて背負い込んだ心の傷への労いの言葉が見つからない。その悶々とした心持で待つ時間の長さたるや如何ばかりであったろうか、やがて仲間達が意気揚々と引き上げて来た。
 小屋の職人達が旅人が喝采の内に一行を向かい入れている。彼女は、パロメ、タキトゥス、バイゼル――別行動をして僅か数日しか経っていないのに、随分久しぶりに合った様な不確かな気持ちのまま、言葉を失った虚ろな笑みを造って迎え入れた。セネルやジェノは労いを込めて、彼等の未来に与える貢献を称賛している。
 パロメ隊とバイゼル隊は、奇しくも同じ隠処に腐臭の者共を見出した。その数は六十有余名、この地の腐臭の者共を束ねていたと思われる其処には、荷車換算で鉱石十五台相当分、是に加え発破が四百本もあったとの事だ。矢張り連中は追撃を想定していたらしく、粗末とはいえ可能な限りの迎撃態勢を整えて、小屋の重層騎兵隊に挑んで来たそうだ。まるで死ぬる覚悟で、投降を促すも無表情に口を真一文字に結んで、何一つ策を弄する事なく小屋の連合隊に突進してきたそうだ。累々と朽ち果てて逝く腐臭の者共に対して、憎しみを越えて慈悲すら感じずには居られなかったとタキトゥスが回顧している。不思議であったのは、腐臭の者共が迎え撃つ覚悟でいたにも係らず、一切発破を使って来ない事であったという。過日の奇襲ならば、発破の使い時を失したと思われる。が、今回は使うだけの余裕があった筈、それでもレイピアのみで攻めて来た。そこに憎むべき腐臭の者共とはいえ、一分(いちぶ)の矜持を垣間見たとバイゼルが語っている。
 徐にセネルが宿牢の男の話を始めた。徒に年を重ねた自分を恥じて皆に詫びた。
「二度と腐臭の者共を生ませまいぞ」
 このセネルの言葉にパロメが眼を真っ赤にして頷いている。積年の恨みを情に駆られて晴らすは容易い。正義の御旗を掲げて殺戮するは道理に適う。なれどもそれは新たな恨みを積み重ねるだけである。パロメには、セネルの言葉の一つ一つが、自分がいまここにいる意味となって重く心に響いていた。
 凱旋の祝宴は、未来への重責と散って逝った者共への憐憫とが折り重なって、黒く更けていく夜を忘れて延々と続いていた。その輪の中にいて、逃げ出したいひ弱な自分を必死に抑えながら耐える彼女の姿を、セネルもジェノもパロメですら優しく見守っていた。

 翌朝は静かに巡って来て、隠処に残された鉱石や発破を小屋の者が総出で引き上げ、小屋の一角に厳重に囲いで覆うと、誰に促される訳でもないのに小屋の者々が、野晒(のざらし)に横たわる腐臭の者共を伐採場脇に丁重に埋葬している。その遺骸に唾棄すれば、面白半分に獣人の長を嬲った腐臭の者共と同じ事である。その思いが、彼等をして丁重に埋葬する行動となって現れたのであろう。
 過日、エリスが放った伝書の返答に依れば、数日中には小屋で預かる強奪品の撤収と捕えし腐臭に者の移送の為に、ファウナより援軍がやって来るそうだ。本来であれば発破はパラスに引き渡すべきであるが、未だスティナより内偵の詳細が来ていない為、事実を伏せてファウナが預かる事になった様だ。ファウナ援軍と共にエリス達一行は、宿牢の男をファウナへ移送し、ファウナの法に照らして粛々と刑が固まるであろう。今のセネル達にできるのは、ただ治療を続けるだけであった。
宿牢の男は、あれ以来、一言も喋らない。この小屋近隣の腐臭の者共が一掃された事実にも何一つ感情を表す事なく、静かに宿牢内で横になっている。
 
 やがて、ファウナの援軍がこの小さな森の小屋に遣って来た。爽やかに晴れ渡る空が清々しい風を伴って、総勢百名を超えるであろう荘厳なファウナ一団が小屋の周りを取り囲んでいる。ここからファウナ首都まで、要所々々を衛兵団が陣取っているそうで、最終的にファウナへ戻る頃には、鉱石と発破を囲んで総勢五百名の衛兵がエリスを筆頭に帰還する段取りとなっているそうだ。失われたファウナの財産を奪回した事を強く誇示する為の政治的な手法らしい。ガントスは、この獣人や腐臭の者共との闘いを経験していなければ、恐らくはその政治演出に恐れ入り、恰幅のいい身体を殊更に小さくして構えていたであろうと自嘲して、セネル達に出会えた事を心底感謝していた。
 エリスを先頭にタウに縄打たれ牽き連れられた宿牢の男が、小屋の面々が見守る中を移送用に格子牢が組まれた馬車に向けて進んでいる。綺麗な晒木綿で全身が覆われ、静かに馬車に向けて歩んでいる。
 格子牢の手前でエリスは立ち止まり、宿牢の男に話し掛けた。
「何か、言い残す事はないか?」
 宿牢の男は何も答えない。
 タウが縄を牽いて格子牢に男を誘い、当に牢に入らんとする時であった。男は、凛として背筋を伸ばし、寄宿舎前に陣取るセネルやジェノ、彼女達をその目に見据えて、大きな口調で語り掛け様とするが委縮して言葉がでない。
 セネルが男に向かって話し掛けた。
「己の意見を語るに、貴賎の隔たり(いずく)んぞ是あらんや」
 男は唸る様に唾を呑み込んだ。身体を震わせて絞り出す様に声を発した。
「ハ、ハベスト公爵………セ、セネル卿とお、お見受け致します。
わ、我、元ハルモニア第四三師団衛兵長アレクト・リモス。
忌わしき………い、忌わしき腐臭の身に落ちし、愚かなる者にございます。
穢れしこ、この身なれども、お、お願い申し上げたき儀、これあり!」
 事情を知らぬファウナ衛兵団が慌ててこの男を黙らせ様とする。それをエリスが一喝した。
「うぬ等はセネル卿のお言葉を如何に聞いておったかぁ!」
 驚く衛兵団を余所に、セネルは男に語り掛ける。
「うむ、申されよ。何者もそなたの心情の(ほとばし)りを妨げはせぬ」
「わ、我は、ぞ、賊徒として打ち捨てられし者なり。
共和国への反逆これ軽からず。う、打ち取られるを恥とは思わず。
なれど、我の矜持を弄び、あ、(あまつさ)えか弱き者への………
つ、妻と娘の苦しみや如何に! 何故(なにゆえ)の辛苦なりや!
弾正、許すまじき! 弾正、許すまじき!
こ、この私怨にて人道踏み外し者なれど、ね、願わくば、願わくば………
弾正に天誅を!
つ、妻と娘の夢を毟り取りし弾正を! 弾正を!」
 男の声は、涙に咽び言葉にならない。
「うむ、先の惨劇において、アレクト・リモス殿は正義のもと殉死されたと聞き及んでおる。
その妻、娘もまた然り。アレクト殿の無念すでに承っておるぞ。
必ずやかの大罪を引き起こせし者、白日のもとに牽き立て、天道の裁きを与えようぞ」
 腐臭の者であったこの男はセネルの真意を咄嗟に悟った。
“如何に怨むべき事由があったとしても、腐臭の者としての罪は払拭できない。
腐臭の者の妻子として死ぬは、妻子の本意ではあるまい。
まして、腐臭の者の妻子として未来永劫に渡り辱めを受けるを、そなたは良しとするや否や?”
 腐臭の者であった男の声は、唸りだす様に咽びながらも、ハッキリと届いて来た。
「アレクト殿の妻、娘………眼前を汚せしこの腐臭の者とは、一切、一切関わりなし!
我、ただアレクト殿の無念、受け取りし者なり!」
 セネルは、ただ静かに頷きこの男に、改めて話し掛けた。
「のぉ、そなた。
罪を償いてその魂が浄化された後、もし天に召さるる事あらばアレクト殿に伝えよ。
“奥方娘子と共に観る天河の蛍や如何に?”と」
 男は、ただ身体を震わせて小屋の者達を見つめている。そして痛む身体を懸命に動かして、両足を揃えながらその左腕を胸に充がい、震える右手で敬礼を表した。ハルモニア正規兵の正装礼式である。小屋の戦士達も各々の得物を正面に翳して敬意を表し、ファウナ正規軍ですらタウの号令のもと、正礼の姿勢でこの男を格子牢に誘った。
 格子牢に収監されその中央に座す男の口元が、優しく微笑んでいる様に見える。男は彼女を見つめると、その口元が微かに動いた。
“蛍、キレイだったなぁ”
 それでも彼女には、この男の声がハッキリと聞こえていた。碧く澄み渡る空のもとファウナの一団が全進し、小屋の者が静かにその後ろ姿を見送っている。
「蛍、キレイだったね」
 彼女が去って行くこの男に呟く様に語り掛けていた。

第十六話 縺れる糸

第十六話 縺れる糸

 仰々しくこの小さな森の小屋を去るファウナ自治領一団の後姿が見えなくなる頃、セネルが大きく溜息を付いた。
 少なくとも宿牢に繋がれる男は、覆い被さる闇を自ら振り払って潔く罪に服してくれるだろう。しかし今回の全容は、未だ解決の糸口すら掴めないでいる。足取り重く自室に戻りながら、セネルがジェノに語り掛けた。
「のぉ、ジェノや。一度整理してみようかのぉ」
「ええ、先生………」
 思えば、夜半に荷車を牽く獣人とこの小さな森で出食わした事が発端であった。
 どこぞで盗み入ったのであれば、獣人の目的は兎も角も、それを奪取し返還するだけで足りる。しかしその荷は、偽装されたディアーナ自治領並びにこの小屋の両印章を悪用して入手したものと判明した。しかも、堂々とファウナ自治領内で荷を授受している。
 代金不払いで両地に諍いを起こす為にしては、荷一台なぞさしたる紛争にはなるまい。その割には印章偽装や獣人を騙して利用する等々、危険を冒してまで策を弄している。一歩間違えば、荷を騙し取る以前に命を落としている。更に、搬送に失敗した獣人抹殺の為に腐臭の者共が絡んできた。しかも、数百名規模の徒党を成す一団であった。
 一方で、当事者の一人であるファウナでは、搬送中の荷が世界各地で襲撃されているという。
 その最中の今回の一件である。神経を尖らすファウナを挑発するかの仕業である。事実、ファウナ内では、冷戦下にあるバイア王国や同じ共和国の朋友であるディアーナでさえ襲撃事件の黒幕ではとの嫌疑が掛かり始めていた。
 絡んできた腐臭の者共の隠処(かくれが)からは、ある程度の盗難品と思しき鉱石がディアーナ領内から発見されている。もしこれをファウナの調査隊が偶然発見していたら、ディアーナへの嫌疑が益々強くなっていただろう。加えて、隠処からはパラス自治領でしか製造されない発破までも発見されている。
 パラス近隣を騒がす新手の腐臭の者共とファウナを脅かす腐臭の者共、それにこの小屋の事件に絡んできた腐臭の者共――腐臭の者共を接点に、これら三大自治領を巻き込んだ企てがあると考えるのが自然であろう。
 その上に、この地で捕えた腐臭の者であった男は“弾正”の生存を示唆した。
 後世に“ハルモニアの惨劇”とまで云わしめた凄惨なる事件の首謀者である。もし、弾正の生存が事実であれば、ハルモニア自治領とて彼の存在はこの上ない脅威となり、無関係ではおられまい。嘗てのこの惨劇で、無謀にも弾正はファウナへ武力侵攻している。弾正の生存はファウナの神経を逆なでし、ハルモニアに政治的・経済的な圧力を掛けないとも限らない。

 獣人が牽いていた一台の荷車は、腐臭の者を通じて、世界に冠たるこれらの各自治領を繋げているのである。
 良質な鉱山を世界各地に有し、採石の他に穀物の収穫高も比類なき大経済圏を形成するファウナ自治領――広大な山林を世界各地に保有し、養蚕の他に麦米の収穫高に秀で同様に大経済圏を形成するディアーナ自治領――火薬を始め多くの革命品を発見・発明・製造し、世界中の知恵者が集う研究都市のパラス自治領――共和国内のみならず世界の信仰の中心であり、精神の支柱である宗教都市のハルモニア自治領――これ等の共和国主要自治領を巻き込んで何をする目論見なのか。
 これらの共和国主要自治領に挑むは、まさに戦争を仕掛ける事に他ならない。二五年前にはバイア王国が、直近では弾正が、共和国瓦解を目論んで世界に不安の影を落とした。が、その無謀な挑戦は何れも虚しく挫折し、共和国内の連携が一層強まる程に更なる大国として世界に君臨する結果を招いた。

 ジェノは深く椅子に腰かけたまま腕組みを崩さず眉間に皺を寄せて一つの仮説を建ててみた。
「先生。もし、今回の荷車の一件が思惑通りに進んだとしたら………」
 思惑通りに進んだとしたら、流通の疲弊を避けるべく世界各地の襲撃に備えてファウナ自治領は増兵し、結果的にその財政を圧迫させる。世界各地で偽装印章を悪用され、信用を失墜したディアーナ自治領の経済損失も大きい。バイア王国への嫌疑、加えてこの地で発見されるであろう盗難されし鉱石の存在が、ファウナ・ディアーナ・バイアの関係を悪化させる。加えて、襲撃や各都市そのものへ発破が使用されたらパラス自治領への世上の非難は避けられず、ファウナ・ディアーナ・パラスの各自治領が険悪な関係となるだろう。
 その不協和音を付いて王国が三度、覇権を狙う!?
「ふぅむ。じゃがのぉ、ジェノや………」
 バイア王国の主要産業は農業であり、共和国への経済依存度は高い。共和国内の不協和音は王国へも著しい悪影響を与えるであろう。王国内にも現王族への反目がある。この期を捉えてこの者共が謀反を起こす可能性も高いが故に、王国にとっては現体制を維持するには危険な賭けと成りかねない。
 セネルの反証は論理と現状を反映し、王国首謀説の仮説を覆している。

「そうすると、共和国内の不安定な関係下で利得を得る者は………ハルモニア!?」
 確かに精神の拠り所としての地位は今でも高いものの、嘗ての様な共和国における実質的地位は失墜している。歴史的には過去の長き時に渡って共和国の在り方を左右する程の発言力があったものの、共和国内では大経済圏を為すファウナとディアーナにその中心的な立場を譲り、思想面でも新たな発想で革新を続ける研究都市パラスに劣後し、国外では王国の新興宗教に信徒の多くを奪われている。政情不安と成った共和国の新たな再建にハルモニアが再び台頭する機会を造る為に暗躍している!?
 セネルは首を横にゆるりと振りながら、若い知識の暴走を防いでいる。
「ふぉふぉふぉ、ジェノや。結論を急ぐはそなたの悪い癖じゃ」
 一時的にハルモニアの発言が高まる可能性はあるものの、ファウナ他の復興は時間の問題であり、そうなれば再びハルモニアは沈黙を守らざるを得ない。何故なら、このハルモニアには果実と葡萄酒の生産以外に産む物は何もないのだから。

「ああ………」
 ジェノは頭を抱えて黙り込んだ。
「ふぉふぉふぉ、そう落ち込むでないぞ。ジェノや、もう一度、考えてみようぞ」
 二人は、堂々巡りとなる仮説の前提から見直してみた。

 ファウナ自治領の荷を襲撃続けたとして、ディアーナ自治領の印章が悪用され続けたとして、発破がパラス自治領の意図に反して悪用されたとして、これ等の共和国枢軸自治領にどれ程の悪影響があるであろうか?これ等の枢軸自治領の蜜月な関係が消失したとして、それが世界にどれ程に禍根を残すであろうか?
 まず、ファウナやディアーナの財力を以って相互に警護体制を整えたなら、この両地以上の財力を投入して襲撃を続けることは困難であり、印章偽装とて政治的な決着は容易であろう。更に、パラスの革命品なくしては今の世界はどうにも回らない。世上の非難を受けて、より堅固な管理体制のもとでパラスの製品需要が一層高まれば、これ等の関係が蜜月でなくとも、経済合理性の観点から連携はそう容易く崩れまい。
「つまりじゃ、こたびの一件がのぉ、世上の不安を(あお)る為であればのぉ、この世界に(さざなみ)を起こす程度の事にしかならんという事じゃな」
「不安を煽る為ではないと?」
「ふむ、正確には不安を煽る為だけではない、と云う事じゃ」
「………!?」
「世上を暗闇で覆い、企てが成就せんでも利を得てのぉ、あわよくばこの世界の秩序を覆さんとする意図を感じるのじゃよ」
「せ、世界秩序の転覆ですか!? そんな事が………」
 ジェノはセネルの思慮に我が耳を疑った。単なる政争や経済紛争ではなく、世界そのものを造り変える――そんな事が出来るのか? ジェノの驚きも尤もであった。
「何の因果かは分からぬがのぉ、ワシはこれまで実に様々な事に首を突っ込んできたわい。首を突っ込む毎にのぉ、うむ、それぞれにそれぞれの言い分が、それぞれの立場に適った理があると気付くのぉ。大概の事情は想像に難くないが故に、その解決策がのぉ仲裁する前には自然と見えて来るもんじゃて。
亀の甲より年の劫とはよう云うたものよのぉ、ふぉふぉふぉ。
じゃが今回の事件。皆目分からぬわい。皆目のぉ………。
それでじゃ、ワシは、これまでの尺度を一度捨ててみようと、ふむ、誰も思わなんだ価値観で捉え直そうと思うたんじゃな。今回の首謀者は、ワシ等から観ればのぉ、ふぅむ、正に突飛な事を考えておるんじゃなかろうかとのぉ。
ふぉふぉふぉ、一つの仮説じゃて。仮説じゃよ、ジェノや」

 茫然とするジェノを余所目に、彼女が突然ふたりの話に割り込んできた。
「ねぇ、弾正って人、どんな悪い事をしたの?」
「ふぉふぉふぉ、そたな知らなんだか。
『弾正』というは名前ではのうて、ハルモニア正教会の職階じゃな。
その者の名は、クレオーン・テシオネ、ワシも会った事はないがのぉ。
さて、その弾正はのぉ、数多の命を我欲に塗れ奪いおったのじゃよ。
そう、己の満足の為だけにのぉ」
 セネルは彼女に向き直って、まだ、この世界の記憶に生々しく残る“ハルモニアの惨劇”と呼ばれる二度と引き起こしてならない悲劇を、暖かな眼差しで煙草を燻らせながら、もの静かに語ってくれた。この世界の将来を担うのは、最早この年寄りではない。若い彼女の心にこそ、その惨劇が刻み込まれるべきである。惨事を繰り返すまじとの熱い想いがセネルから彼女に、血が受け継がれる様に脈々と伝わっていた。

 その惨劇は、五年の歳月を遡る水望ノ月から始まったと伝えられている。
 セネルは紫に煙る煙草を深く燻らすと、知る限りの事を彼女に伝え始めた。セネルの語りは、彼女をして五年の歳月を遡り、彷彿と惨劇の状況を浮かび上がらせた。セネルは彼女の緑の瞳を温和に見つめながら、渾身の魂を込めて語っている。
「ふむ、かの惨劇はのぉ、うむ、その始まりは………」


………新暦四一八年水望ノ月晦日の頃、ハルモニア正規衛兵一万の軍勢がカルデア平原を埋め尽くして、弾正の号令を今や遅しと待ち構えている。真緑に染めた生地に神々しい光を象った六角星を二対の剣が戴くハルモニアの徽章が、平原を吹き付ける寒々しい風に煽られて翻っている。
 その様子を満足気に眺めていた弾正が、手にしていた杖を重々しく天に翳すと、雲間から一筋の閃光が彼を照らし始めた。あたかも天が味方しているかの如く、一万の兵は鳥肌立って我知らず勝鬨(かちどき)を上げた。
“正義は我等の側にある!”
 そう信じて疑わぬ者々が、愛する家族を守るため己を犠牲にしてもハルモニアの栄光を勝ち取らんと命運を天に委ねた。弾正が振り翳した杖の先にはファウナがある。何も疑う事なく、一万の兵がファウナへ向けて侵攻した。

“ハルモニアの惨劇”の始まりの時である。

 そもそも弾正とは、ハルモニア正教会の弾正職――即ち、司教・司祭・助祭からなる聖職者が戒律を犯していないか、教義を見誤って布教していないか、その地位に甘んじ堕落していないか――当に信仰の土台が揺るがぬ様に見張る大司教直属の諮問機関であり、その職にある者を総称して云う。然るに、大司教の眼と成り耳と成り、世界中に散って正しく信仰を導く聖職者でもあり、教義への造詣に深い者共でもある。
 しかし、数千万の信者、数百万の助祭、数十万の司祭、数千の司教を見張るには心許(こころもと)無い二十名足らずの機関でもある。その大義名分とは裏腹に、実態は大司教の身の回りの世話をする者共でもある。
 その弾正職に新暦四〇八年水朔ノ月晦日の頃、クレオーン・テシオネが入内(じゅだい)した。希望に満ち溢れる教義研究に熱心な二十歳の若者であった。
 弁舌爽やかで物腰は柔らかく、舌鋒の鋭さも厭らしさを伴わないこの若者は、時の大司教ウパ七世の(しとね)と成り果て戒律を破り、やがて大司教お抱えの論客として頭角を表わした。五年を待たず弾正職の長として、領主であるハルモニア候にすら意見する地位にまで上り詰めたのである。
 クレオーンは、事ある毎に、経済合理性を追求するファウナやディアーナの両自治領を非難し、神の思し召しとする自然現象や種々の疫病すらその原因を論理的に追及し克服するパラス自治領をして悪魔の使い手として糾弾した。遥々、共和国首都アルティスにまで赴いて、共和国議会で列席するファウナ首長・ディアーナ首長・パラス首長の面前で、信仰への冒涜者と名指しで非難する程に、彼の信仰への眷恋(けんれん)心の凄さとして、遠くバイア王国までその名が伝わっていた。
 既に老体のウパ七世は成す術もなく、ただ彼の言に従い依り(すが)るだけの醜い皺を顔に刻むばかりで、ハルモニア候ですら彼の前では沈黙せざるを得ない、思えば尋常ならざる風雲を醸し出していた。司教以下の聖職者たるや言わずもがなである。
 その一方で、クレオーンは楽園の創設を謳って、世界各地の貧しくも潔い人々を集いて、ファウナ領線に沿って大規模な兵舎――いや、楽園を造り上げていった。そこには、自由と豊かな物資と恵まれた自然環境が人為的に施され、いやが上にもクレオーンをして選ばれし者の風評を世界中に広めていった。
 無論、ハルモニア自治領にその造営を続ける財力はなく、クレオーンはファウナやディアーナ、パラスの共和国各自治領に資金の捻出を依頼する事となる。表向きはこれ等の地を糾弾しながらも、それぞれの首長と対面する時は人が変わった様に穏やかで、只管(ひたすら)神の教えに従う巡礼者の一人を演出して、神が目指す楽園創造の為の義援金を募ったのである。弾正職の長として、共和国議会において無礼を顧みず申し立てた非を素直に認めこれを詫びて、臆面もなくこれら首長に救済を求めていたのである。
 事実、彼の創造した楽園にはパラスで研究され開発された薬品類が多く用いられ、この楽園と称する兵舎に住む人々の健康を支えていたのである。街並みの石も木も灌漑用水や鋳造の技術も全て、彼が糾弾し非難し続けたファウナやディアーナより授かった物ばかりであった。
 だが、この様な欺瞞も早々長くは続かなかった。
 救済と称する要求は日増しに増え続け、与えられる事に慣れたハルモニアの人々は、与えられない事に不満を抱く様になっていった。慈愛の浄銭も貰う事が普通になれば、その尊い有難みを忘れる様だ。
 寄進と称する物乞いにも陰りが見え始めると、クレオーンはその舌鋒を世界に向けて発信しては、半ば脅し取る様に義援を要求し続ける様になっていった。
 一方でハルモニア領内でも、徒に共和国に依存して豊かさを享受するクレオーンの施策に厭気を感じる純粋な人々が現れて来た。“物欲では信仰を満たせない!”そうクレオーンを非難する者がハルモニアの議会で目立ち始める様になっていった。
 その声が一つに固まらぬ内に、クレオーンが動いた。領民の不満を外に向けようとしたのである。
“共和国がハルモニア候を暗殺して、この自治領を直轄地として支配し、神から授かりし葡萄酒を利得の品として扱わんとしている!”
“ハルモニアの民をしてこの地の開拓整備を進め、これが成った暁には領民を排斥し、ファウナ以下の守銭奴都市の乱れた快楽地に(おとし)め汚して、殊更に利得を追求する目論見でいる様だ!”
“交易の為にバイアの異教徒と手を組んで、ハルモニア正教会三千年の歴史を閉じようとしている!”
 これらのクレオーンが流した風評は、瞬く間にハルモニア領に広まり、共和国憎しの敵対感を創出していった。その返す刀でクレオーンは、根も葉もない悪評を封じる為と称し、ファウナ他の自治領に更なる義援を強硬に募って行った。同時にバイア王国の異教徒に相互依存を打診する暴挙にも打って出た。クレオーンは、内々にハルモニアを離れバイア国王に謁見したのである。
“元来、バイア聖教とハルモニア正教は、同質の教義から派生したものであり、式典作法の些細な相違こそあれ、実質的に兄弟となる宗教である。互いに手を結び、この世界に神の教えを布教しよう”
 臆面もなくクレオーンは弁舌を振るったのである。教義の詳細に詳しい彼にとって、共通点を見出す事は容易であり、そもそも民の救済という点では全く異なる筈もない。見識のない者であれば肯かざるを得ない論法で国王の歓心を買い、バイア聖教皇に取り入ろうとしたのである。
 無論、聖教皇には一蹴され他の異教徒からは侮蔑の目で見られたものの、国王には利用価値のある男として映った様で、その後も幾度かの書簡を交す程の間柄になった様である。
事あらばバイア王国と連携し、共和国内にあって敵対国に懇意に通じる立場を利用して、やがては共和国における自身の発言力、延いてはその地位を高めんと、涙ぐましい程の必死さで保身を図り続けたのである。

 果たして、何がクレオーンをしてこの物欲の権化ならしめたのであろうか?

 ハルモニア正教会の記録に依ると、彼はケルミス山から涌き出るクルー川が造る肥沃な平原の民の子として生まれている。即ち、遊牧民の子である。どのような背景からかは分からぬが、九歳の時にマトゥータに移り住み、荷役をして生計を立てる様になった家庭のもとで、豊かではないにせよ不自由のない生活を送っていた様である。
 そこで一人の助祭に出会い、正教会に入信すると懸命にその教義を学んでいったそうである。元々、知恵のある青年だった様で、やがては助祭を上回る教義を身に付け、その助祭の推薦でハルモニアに召喚されたのである。
 が、一方で、マトゥータの商人相手に巧みな弁舌を以って寄進を募り、その銭で酒を呷り女郎を求め博打を打っていた、との悪評も付き纏っていた。当時の助祭が真意を正すと、涙を流して潔白を訴えていたそうである。
 兎に角、容姿端麗で爽快な程に弁舌で、一対一になれば落ちぬ者がいない程の力量があった事は間違いない。
 元より悪人であったのか、ハルモニアに召喚されて地に落ちたのかは、今となっては分からず仕舞いである。が、彼をして斟酌すべき情感が無い事も事実であった。それが証拠に、彼の両親は名こそ変えているものの、今も農業都市ダミアで農夫として静かに暮らしているのである。
 一時はクレオーンの両親としてハルモニア内の豪華な屋敷に住み、この世の幸せをそこで過ごしていた事もあった。が、クレオーン絶頂期のある時を境に逃げる様にハルモニアを離れ、名を変えてダミアに移り住んだ様だ。
 一説には、無教養なる両親では自身の出世の妨げとなると考えたクレオーンが、大枚(たいまい)と引き換えに親子の縁を一方的に切ったとも囁かれている。また一説には、彼の館には情婦も多く住まわせており、その一室には酒も多く備えて有ったそうで、聖職者の身にありながらとこれを咎めた両親を嫌って追い出したとも噂されている。
 その何れが正しいかの詮索は無意味である。が、クレオーンが決して純粋なる信者で無かった事は、多くの事実が物語っている。

 その彼は富と名声を手にした。そして、その御零(おこぼ)れに預かろうと多くの者が集まった。彼はその富と名声を維持し続けなければならなかった。只管(ひたすら)上を目指すより他に手立てが無かった。一旦、それ等を失えば、彼には何一つ残る物も慕う者もいなかったからである。
 ある意味、満身創痍となって物欲を満たし続けざるを得ない哀れな男であった。その為に豊かな者を相手に、威賺(おどしすか)し続けなければならない矮小な男でもあった。マトゥータに居た頃は、組みし易い金持ちから小遣銭を(かす)める程度であったろうが、取り巻き連中が増えれば増える程に孤独感を募らせていく嘆かわしい男に成り果てていったのだろう。
 そして、遂に内外に不安を煽って、神の名の(もと)の聖戦を共和国に仕掛けたのである。世界各地から希望を夢見て苦汁を嘗めて賛同してきた赤貧の人々の心情を巧みに利用して、無謀なる聖戦を挑んだのである。
 神の名を騙って奪い集めた蜜を、そうとは知らず鱈腹(たらふく)舐めた人々は、それを神の恩寵と誤認して、もとよりなかった物を失うまいと必死に抗う。そんな心情を巧みに利用して、黙って寄進してきた共和国各自治領をして夢と希望を剥奪する者に擦り変え、蜜を舐める利己心を神に殉ずる精神と偽善する。
 無論、係る欺瞞を論破し民に真実を語る聖者もハルモニアには多く在住していたが、その言葉はクレオーンの集団心理を陽動する策の前に虚しく響くばかりであった。
 冷静に考えれば、巷の噂も共和国には何一つ得るものが無い。ハルモニアが謙虚に歩み出れば共和国の枢軸自治領群も何も拒まず、世界から夢と希望を持って集いし者が、これからも同じ様にそれを紡ぎ続ける事は容易であった。
ただ、クレオーンの利己を満たさぬだけである。そして、クレオーンは自分の為に聖戦と称する喧嘩を仕掛けたのである。

 カルデア平原の一万の軍勢が、緑草を踏み均してファウナ領線を越えた。
 その領線に建つファウナ駐屯地の物見櫓を警羅する衛兵が、続々と集まるハルモニア正規衛兵の動きを三日目から確認していたが、単なる訓練と錯誤したのか、母団に連絡すら怠り物見遊山でこれを眺めていた。が、軍声高らかに領線を越えて前進するハルモニア軍を観て、初めて侵攻を意識し、脱兎の如く駐屯地を捨てて敗走して行った。最初の攻防は、戦とは程遠い内容のままハルモニア側の勝ち戦となった。
 その先勝に沸くハルモニア軍であるが、クレオーンは弁舌こそ巧みとはいえ、戦術に関しては素人以下であったから、領線を越えると単に大河に沿って延々と防柵線を拵える以外に、特段の策を持ち合せていなかった。ファウナ側の準備が整う前に可能な限り領内深く侵攻しそこで防柵線を張るのが常套兵法であるが、クレオーンの策はその防柵線を少しずつ前進させるだけのものであったという。

第十七話 狂い始める目論見

第十七話 狂い始める目論見

 ファウナ自治領首長府にハルモニア軍侵攻の一報が届いた時、ファウナの街はアルティス共和国建国祭の真最中であった。首長府内で軍議こそ開かれたもののハルモニア軍侵攻の真意が掴めず、単にハルモニア候に使者を遣わす事を取り決めただけであった。
 仮に真意不明のまま数万のハルモニア軍勢が侵攻を続けたとしても、ファウナ領域内の各防衛線には同程度の常備軍が次々に控えている。そこからファウナ自治領首都迄には十万人規模の衛兵団が駐屯している。軍備力も財力に比例して、大人と子供程の開きがある。要するに、ファウナにとって数万の軍勢が領線を越えた程度の事は、全く脅威にならないのである。しかも、見掛け倒しのハルモニア軍勢であれば尚更である。

 これがクレオーンの最初の誤算であった。

 クレオーン自身、戦術見識に乏しいとは云えファウナに勝てるとは思ってもいない。彼の目論見では、最初の奇襲は成功したとしても態勢を整えたファウナ軍がすぐさま反撃に転じ、善戦空しくハルモニア軍がジリジリと後退を余儀なくされる、という筋書きであった。ハルモニアは歴史ある共和国の一員であり、関係険悪と雖も一気呵成にファウナ側がハルモニア領都に攻め込む筈がないという読みであった。
 そこにクレオーンが付け入る場面が演出できる。
 ハルモニアの民衆へは神への殉死を促しながらも、身を挺して毅然とファウナ自治領と交渉する自身の姿を演出し、バイア王国へ仲裁を依頼し共和国議会を牽制する独立したハルモニアの外交力――延いては、自身の諸外国への影響力を内外に演出できる。とりわけハルモニア領内の自分への不満分子を牽制するに足る威勢を張る事ができる。
 ファウナへの侵攻すら、ハルモニア正教の教義に則り、いたずらに金銭的利得に汲々とする同朋への神の警告でありその強い意思を示す為の行動に過ぎず、その証拠に戦争を仕掛けるには貧弱すぎる程の軍備で神より携わりし剣のみで前進したとする、一方通行の正義心を以って正当化する腹積もりでいた。然るに、裸同然で神の御心を示すハルモニア兵をファウナは無慈悲にも重鎧騎兵を以って蹂躙し、(あまつさ)えハルモニア領都を包囲する愚挙に出たという、身勝手な論理を以って、正当化する腹積もりでいた。
 表向きの説法も然る事ながら、自身の保身と出世の為に世界中から集めた衛兵が、今となってはクレオーンの施策上の重荷になっていた。この者達へ提供した楽園と称する兵舎の成果は、己の地位を高めるのに十分に役立ってくれたが、維持するとなると共和国内の各自治領を(おど)し廻って義援金を強奪しなければならない。いつまでも黙って寄進が続くとも思っていないクレオーンは、体裁良くこれ等の衛兵を始末する必要があったのだ。
 そこで、この役回りをファウナに押し付けようとしたのである。共和国内でも精鋭の軍事力を誇るファウナに、最早邪魔以外の何物でもない衛兵を綺麗に片付けさせようと企てたのである。
 
 そのクレオーンの思考に依れば………
“衛兵はハルモニア正規軍の一員であるが、所詮は寄せ集めの郎人に過ぎない。これ等の者共には、少なからず今まで味わった事のない幸福を与えてやった。ここら辺で自分の為に殉死して貰わねば、自己の保身が危うい! かと言って、これ等の者を邪険に放逐すればハルモニア内の反クレオーン派に絶好の機会を与えるだけだ! 仮に上手く放逐できたとしても世界中で自分の悪評を触れ廻られたら面倒だ!”
 故に、ファウナにこれ等の衛兵を一人残らず始末して貰う必要があった。抹殺して欲しいのは、衛兵だけではない。
“殉死した家族が領内に残れば、建前上その保護を続けなければならない。従って、残された家族も綺麗さっぱり消し去って貰わなければならない。だが衛兵の家族を前線に送る訳にもいかない。畢竟、戦闘する場所は楽園と称する兵舎を舞台にして貰う必要がある。楽園を守れ! と家族の者共すら竹槍持って突進して、見事に打ち果てて貰わねばならない! その演出が無いと、無抵抗な家族をも蹂躙したファウナに対する、自分の涙の抗議が迫真を帯びないではないか! これまでファウナを散々に挑発してきたし、多分に腹腸(はらわた)が煮え返る思いでいるだろう。その怒りの矛先を用済みの衛兵とその家族に向けて貰い、これ等の負債を清算させて、我の演説に華を添えて貰わなければならない!”
 然るに、ファウナは全く動かないでいる。反撃どころか撤退ばかりしている。
“これでは、ハルモニア軍は前進せざるを得ないではないか! 前進したら戦場が楽園ではなくなるではないか! 衛兵とその家族が殉死する目論見が頓挫するではないか! 中途半端に生き残られては邪魔者が増えるだけではないか! 何故、ファウナは反撃してこない? 反撃して我が軍勢を一呑みに踏み蹴散らしてくれ! 累々と大地に横たわる衛兵の躯が、希望を踏み躙られた家族の者共の無念の死顔が、幼き者が泣き叫び彷徨する姿が、その全てが我が演説に華を添える筈だ! 早く我が衛兵を切り殺せ! その家族を馬蹄で踏み潰せ! 幼子など早晩餓死する! 早く我がハルモニア領に反撃を加えよ!”
 クレオーンは、意気揚々と戦況報告をする者を見る度に青褪(あおざ)めていった。ハルモニア軍が少しずつ前進する程に、思惑から外れていく現況への不満が募っていく。

 その頃、当のファウナは建国祭の絶頂にあり、軍総司令さえも踊りに参加して自治領上げて大騒ぎの真最中で、毎夜々々花火が夜空を美しく飾っていた。ハルモニア軍の侵攻ですら、“ハルモニアの方々が祭りを盛り上げに参加しに来るそうだ” との話に摩り替わっていた。ファウナの街のあちこちで『歓迎! ハルモニア御一行様!』の垂れ幕が見受けられる。旅館ではファウナ名物料理がハルモニア風に工夫されて試食会が頻繁に行われている。ハルモニアの方々が迷わぬ様にと、街の至る所に街全容の地図が掲示されている。吹奏楽団がハルモニア領歌や民謡を一所懸命に練習している。反撃どころか、今や遅しとハルモニア御一行を和やかに待ち受けているのである。
 唯一、ハルモニア候宛に向けられた使者が、領線で死相を帯びたハルモニア軍にその行く手を阻まれファウナに帰還してその様子を伝えるも、一度内海に出てマトゥータ側から使者を再度遣わせよ、との悠長な指示が下りただけであった。
 今となれば、寧ろこのままハルモニア軍が侵攻しファウナの街を目の当たりに見ていれば、或いは、この惨劇は避けられたかも知れぬ。柔やかに微笑むファウナ市民、子供達、自分達を歓迎一色で受け入れる屈託ない風土――それでも神の剣を無抵抗な人々に振り下ろす愚か者などいる筈もない。何が真実であるのか――自分達が聞かされていた事実との相違が、白日のもとに晒される。クレオーンの虚勢が明白と成って、或いは、ハルモニアは再び穏やかな自治領として本当の楽園を構築できたかも知れぬ。アレクトの家族とて、今も家族身を寄せ合い蛍の淡く静かな光に強い希望を見出して、幸せの喜びに満ち溢れた人生を送っていたであろう。

 だが時代は、この明るい結末を殊更に避ける様に流れていった。

 クレオーンの焦りは日増しに強くなり、何とかこの状況を打開すべく落ち着きなく軍幕内の自室を彷徨(うろつ)いた。その利己心は、臨界点を知らず増長し続けていった。頬がこけ落ち、端正な瞳は剃刀(かみそり)の様に冷たく虚ろで、白髪さへ交じる様になった黒髪は盗賊の如く無作法に伸びていた。時には剣を振り回し、鞭で部屋の方々を打ち据えて、粛然としていた部屋は一体誰に物色されたのかと疑う程の有様となっていた。
 ハルモニア領首長府からの書簡を細切れに引きちぎり、部屋中に散乱させたままこれを踏み蹴散していた。その壁に掲げられる大司教ウパ七世の肖像画の額に短剣を突き刺したまま、幾日も放置している。ハルモニア候から授かった葡萄酒が一滴残さず呑み干され、乱雑に床に転がっている。
 恐らく彼はここ数カ月の間、誰一人として軍幕内に招き入れていないのだろう。暗幕で採光を遮った部屋で、悶々とした日々を一人で過ごしていた様だ。
 そして、その鬱々と腐敗した精神は、遂に己が生きる道筋を見付け出したのである。最初にハルモニア軍が仕掛けた日から三月(みつき)が経った光望ノ月、悪魔に見染められしクレオーンは狂気の策に打って出たのである。

 建国祭の余韻冷めやらぬファウナでも、陸伝いに或いは海上経由で使者を送れどもこれを頑なに拒むハルモニア軍に業を煮やし、二月(ふたつき)が経った頃には十万規模の軍を対峙させる様になっていた。が、対峙するだけで全く攻め入る気配はない。
“これ以上の貴軍の侵攻は誠に不愉快である!”
 その程度の不機嫌な様相を醸す以外には、何一つ仕掛けて来ない。それどころか、何やら物資が不足しているらしきハルモニア軍に対し、薬品や食料を補給すらしている。対峙しているのか援護しているのかすらままならぬ不可思議な睨み合いが続いている。
 この防柵線に集って来た僅か三万のハルモニア軍では、ちらほらと脱走者も出ているらしい。しかも、敵軍であるファウナ陣営に防柵線を越えて逃げている。尋常であればその場で斬首されても不思議ではないが、ファウナ軍はこれを受け入れて、看護すらしてファウナ領都に無事に送り届けている。
 そして、その脱走兵の証言はファウナを震撼させた。その報は共和国議会にも伝令された。世界中に伝書鳩が放たれ、事の経緯がこの時初めて明らかとなっていった。
知らぬ間に悪の権化に祀られていたファウナ・ディアーナ・パラス各自治領の憤慨の程は凄まじいものであった。無論、これが故にハルモニア領に攻め入ろうという強硬論では無く、民衆を扇動して戦を仕掛けて来た弾正クレオーンへの糾弾の声で共和国が強固に連携を始めた。
 この報はバイア王国にも届いた。当のバイア国王は、薄々その真意を知っていたとは云え、ハルモニアの愚行を弁護すれば、折角立ち直り掛けている共和国との関係が拗れかねない。
 新暦三九八年のハベスト侵攻、新暦四〇三年のディラ鉱山をめぐる共和国紛争と相次ぐ戦争で、その財力を使い果たした王国には、弾正に利用価値あると雖も進んでこれを手助けし三度(みたび)共和国を相手に戦争を起こす力が残っていない。即ちバイア王国は、クレオーンをして信仰の冒涜者として、冷戦下にあるアルティス共和国に追随したのである。本来であれば、この期を捉えてハルモニア正教会を非難したいところだが、共和国における精神の拠り所を糾弾する事が憚られるという政治的思惑が働いて、図らずも世界中がクレオーン一個人を吊るし上げる結果を招いたのである。
 この世界の動きに慌てたのは農業都市ダミアであった。嘗ての紛争の中で共和国の極東に位置するこの都市は、ただ傍観していただけであった。いや、正確には傍観せざるを得なかったのである。気候温和で領地の境界は全て共和国内の自治領であり、そもそも戦が起きた過去が無い極めて平和惚けした農業都市である。共和国に援軍を送りたくとも、三千万の総人口に対し僅か五千の兵力しか持たない温厚な都市であり、その五千の衛兵の主な仕事は、開墾を手助けする事と農地を荒らしに来る猪や猿を撃退する事のみで、未だ嘗て人と戦った事は一度もない。そのダミアが百万の援軍をハルモニアに派兵する事になっていると聞き、初めて戦禍に巻き込まれる不安からダミア中が大騒ぎとなった。

 この事がクレオーンの二つ目の誤算となった。
 大司教ウパ七世やハルモニア候とファウナ他の自治領が直接書簡を遣り取りし、ハルモニア領首長府が自分を裏切らないとも限らないと考えた彼は、徹底的に外部からの情報を遮断させていた。この施策は、ハルモニア領内に世界情勢を知らしめない効果はあったものの、一方で世界情勢がこの地に入らない欠点を同時に露呈した。戦況が長引けば脱走者が出る事くらいは想定していたが、脱走兵如きの証言が正面切って取り上げられるとは思ってもいなかった。まして、その証言で自分が伝播した造り話が露呈するなど夢にも思っていなかった。脱走者が見付かれば直ぐに殺される、仮に捕えられたとしても拷問を受け永久に牢に繋がれ二度と陽の目を見る事はない、クレオーンは脱走兵の言葉なぞ聞く筈がないと高を括っていたのである。
 しかし、ファウナはこれを保護し一人の人間として話を聞いたのである。これを指図したのは、他ならぬファウナ自治領首長テミス・モイライその人であった。
 一介の炭鉱夫から身を起こし、若い時分は世界各地の鉱脈探しに旅を重ねた人物である。そしてその旅の途中で一人の学者と出会い、その教えに感銘して以来、勝手に一番弟子を名乗る人物である。その学者こそセネル・グローデンであった。
 初めて出会った時は既に高名なセネルに委縮し、テミスは尋ねたい事も控えて謙虚に澄ましていたが、“己の意見を語るに貴賎の隔たり(いずく)んぞ是あらんや”そう諭された時、全身がワナワナと震えたった。これまで鉱脈を探し求めて分からない事、理不尽に感じた事、全ての思いの丈を溢れる言葉と一緒にボロボロと立て続けに露呈した。
 幾日も語り合った。セネルは地質学者ではないから鉱脈に関してどれ程の助言が与えられたか定かではないが、その思想は確実にテミスに伝わっていた。
 守銭奴都市と蔑まれた嘗てのファウナ――しかし今では金銭の為に命を失う者など一人もいない。寧ろ、銭などの為に命を粗末にするなとの文化が根付く都市である。事業に失敗した者は、所属する経済団体が他者に与えた損失を補填し、一定期間を丁稚として修業すれば、再度事業を起こせる決まりを設けている相互扶助の文化が育まれている都市である。
 そのファウナへ投降してきた者をどうして惨殺するものか。脱走兵の証言は、全てがその言葉通り筆記され、テミスの元に届いたのである。
 人をその立場で峻別するクレオーンと分け隔てしないテミスの違いが、クレオーンをして自ずと窮地に陥れていたのである。

 世界が反クレオーン一色に染まっている事実を、当のクレオーン本人は全く気付いていなかった。自らの保身の為に情報を遮断したが故に、己の立場を危うくする情報まで届かなくしていたのである。
 アルティス共和国が、バイア王国もまた事の決着の仕方に迷った。大司教ウパ七世もハルモニア候も恐らくはクレオーンに騙されている。それを承知でハルモニア領内を鎮圧すれば、両者の面目を著しく損ね兼ねない。
 テミスがセネルに仲裁を願い出た。共和国議会も同様に仲裁を打診した。バイア王国ですら宿敵セネルに頭を下げてきた。
 そしてセネルがジェノを連れてハベストを発った――その一報が世界中の伝書屋を通じ、放たれた鳩に和平の想いが託されて、安堵感がこの世を覆っていた。そう、最初にハルモニア正規軍が仕掛けた日から三月(みつき)が経った光望ノ月の、悪魔に見染められしクレオーンが狂気の策に打って出たその時、ハベストの老人に世界の安寧が託されたのである。



 小さな森の小屋の大時計が静かに時を告げている。夜は何事もなくただ静かに深まっている。
「ふぅむ、かの者は………アレクトは交代の時が来て、我家に戻ったと言っておったのぉ」
「ええ」
「ワシの記憶では、弾正の狂気に満ちた軍令を皮切りに、最前線が浮足だったと聞いておる。ただ単に最前に留まりて其処に佇み続けたとのぉ。さすれば、弾正の軍令が届く前にかの者は我家に戻ったのでろうのぉ。思えば哀れな時の歯車じゃな」
 小さな森の小屋で語り紡ぐセネルは、深い悲しみ包まれながら、彼女に再び惨劇の詳細を語り始めた。



 そのクレオーンの軍令――狂気の策とは………

 彼は青白い頬こけた顔に不敵な笑みを浮かべながら、陣営を後にした。その際に脱走兵の処罰を聞かれて、逃げ出す者へは火矢を背後から放ちて天罰を与えよとほくそ笑みながら、軍令したと云う。
 アレクトのもとに交代の伝令が届き、久しぶりに帰る我家と暖かく待っている妻と娘の顔を思い浮かべながら彼が楽園に向けて嬉々として走り去った当にその時に、クレオーンの軍令が最前線に届いたのである。
 一様にその仕打ちに驚く衛兵達に、本当に我々の闘いは正義の闘いなのかと不安の色が覗える。結果的にその軍令は実行される事なく、単に最前線の衛兵を其処に佇ませるだけに終わった。悲しむべきは、その軍令が届いた頃、アレクトは待ち侘びる娘の顔を思い描いて懸命に暖かな我家を目指して走っていた事であった。
 もしこの軍令を彼が聞いていたら、命運はどう変わっていたであろうか? 他の同僚と共に最前線で佇んでいただろうか、或いは、この戦いを疑い仲間を引き連れて楽園に戻っていたであろうか?
 最前線に佇んでいたら、最愛の家族は彼へ感謝の言葉を告げる事も出来ずに、希望の一つも見出す事なく苦しみながら灰と成っていたであろう。仲間と共に弾正の欺瞞に気付き楽園に戻っていれば、或いは最愛の家族を助け、同時に仲間の家族を救い、正義の刃を弾正に向けていたであろう。その何れであっても、アレクトは腐臭の者に落ちる事なく思い遣りに満ちた潔い剣士としてその生涯を全うしていたであろう。
 しかし、この僅かな時間の狂いは彼をして腐臭の地獄に落としめた。

 クレオーンがトルーパを急き立ててハルモニア領都に戻って来た。一目散に大司教ウパ七世のもとへ走る。驚く大司教を余所にその足元に跪くと、恭しく伺いを立てている。
「畏れ多くも賢き大司教様に慎んで申し上げます!」
 この度の聖戦、甚だしい誤認があったと、自ら起こした闘いをあたかも他人事の様に語り始めた。(まこと)しやかに囁かれし噂の真相、(つぶさ)に調べてその事実を掴んでいたが、その調査報告自体が捏造されていたと、彼は何処までも今回の事件の被害者を装っている。
 その噂とは、一つ、共和国がハルモニア候を暗殺して後、この自治領を直轄地として支配し、神から授かりし葡萄酒を利得の製品として扱わんとしている事。一つ、ハルモニアの民をしてこの地の開拓整備を進め、これが成った暁には領民を排斥し、ファウナ以下の守銭奴都市の乱れた快楽地に貶め汚して、殊更に利得を追求する目論見でいる事。一つ、交易の為にバイアの異教徒と手を組んで、ハルモニア正教会三千年の歴史を閉じようとしている事。
 自らが創作したデマだけに流暢に全ての噂を復唱している。しかもその噂の事実関係を調査した旨の偽証も付け加えて大司教に大嘘を付いている。当に神をも畏れぬ所業である。
“噂の出所は、ご慈悲を以って創造せし楽園の衛兵共!これ等の者は、元々世界各地に住んでいた者共であり、世上の様々な情報に通じている。その正確さは欠けているものの、火の無い所に煙は起たぬ諺にある通り一聞の価値ありと思いて、楽園の信用ある衛兵に調査させた。驚いた事に、若干の誤謬はあるものの概ね噂は事実であるとの報告を受け、この度、正義と信仰の為に我等ハルモニア正教会の永遠なる誇りを掛けて聖戦を決起した。然るに、この報告を成したる者――悲しむべきはこの者も噂を流布せし楽園の者と結託していた。
 即ち、噂は全て虚言であった! 満ち足りた生活に飽き足らず、更に物欲を満たさんと欲し、慈愛に満ちたハルモニア正教会を騙してファウナ殿へ挙兵するに至った………恐るべき所業の数々、もはやこのハルモニアの命運、かの(よこしま)なる楽園の者共の底無き欲望と共に遂に朽ち果てる時がきた”と………。
 涙を流して語るクレオーンの演技たるや、事実を知らぬ者の涙を誘って疑いを挟む余地がない程であった。それ以上に大司教ウパ七世は狼狽(うろた)えた。騙されたとは云え、聖戦の名のもとに共和国最大の自治領に剣を向けた。やがて、共和国内の大軍がこのハルモニアを廃土とせんと攻め入って来る。共和国の中央に位置するハルモニアには逃げ場がない。海を渡って王国に行けども、其処は異教徒の地である。最早(もはや)神のご加護は期待できない。誤ったのは我々の方だから、ご加護なぞある筈がない。
 大司教ウパ七世は声を震わせて泣き続けた。泣く事以外にできる事がない老人であった。その様子を捉えてクレオーンの演技は一層迫真に迫っていった。
「願わくば、この私の身を以ってこの無益な争いを収めたく存じます。何卒、何卒、ハルモニア公爵殿下に謁見の上、卑しき身分なれども、このクレオーンに全権掌握を願い出たく、伏してお願い申しあげます」
「おお、なんと潔き者よ。そなたその身に代えてこのハルモニア正教会を守らんとするか。よし、そなたの想いハルモニア公にお伝え申そうぞ」
 大司教ウパ七世は老体を引き摺って、ハルモニア公邸へ向かって行った。その後ろ姿が見えなくなるまで、大司教の部屋で項垂(うなだ)れて泣き崩れていたクレオーンは、大司教が駆け出して行った事を確認すると、大きな溜息を付いてその場に胡坐を掻くと欠伸しながらほくそ笑んだ。
「ふん、馬鹿めが」
 小声でそう吐き捨てると、後はただ大司教の返答を座して待っていた。世上を知らぬ彼の頭には、再び脚光を浴びて権勢を欲しい侭にする前途洋々たる未来が描かれていた。



 小さな森を包み込む夜の帳に誘われて、床にゴロリと寝転んだまま耳を欹てて聞いていたジェノが、やがて寝入りに就いた様だ。その様子を見てセネルが微笑みながら、彼女に向き直っている。
「ふぅむ、たいぶ遅くなった様じゃのぉ。そなたも休むか?」
「ううん、もっと聞きたいわ」
「ふぉふぉふぉ、そなたの好奇心は時に眩しく感じるのぉ。さぁて、そのクレオーンじゃ………そうじゃ! この書物をそなたに進ぜよう。テミスがのぉ、ふむ、ファウナの首長殿じゃな。奴がのぉ、かの惨劇の次第を(つぶさ)に記述してワシのもとに届けてくれたものじゃよ。ファウナへの道すがら目を通してみるとよいぞ。
さぁて、時の大司教殿を懐柔したクレオーンにはのぉ、やはり仲間が居るのじゃ。これも厄介な奴じゃ。まさに蛇の道は蛇じゃな」
 彼女は書物に目を落としながらも、セネルの話に聞き入っている。彼女の緑の瞳が深く遠く時を遡及して、ハルモニアで起きたその惨劇を(つまび)らかに捉えている。



 己の理想に一歩近づいたクレオーンが誇らしげに佇む中、暫らくして、正教会の門前が騒がしくなった。急に佇まいを正したクレオーンは必死に顔を造って、やがて息を切らせて来るであろう大司教とハルモニア公をジッと待っていた。案の定、二人の老人がその顔面を蒼白にして走り込んできた。
「クレオーン、見上げた心意気ぞ! そなたに全権を委ねよう。このハルモニアを救ってたもれ!」
 ハルモニア公のお墨付きを遂にクレオーンが得た。ハルモニアの全権を掌握したのである! 笑いを必死に堪えながら、クレオーンは恭しくハルモニア公に一礼すると、その狂気の策を披露した。
「そもそも、この度の事は、ハルモニア公爵殿下並びにハルモニア正教会大司教様のお慈悲に満ち溢れし御心を踏み躙りし、楽園の者共の悪行にございます。ファウナ殿を始め聡明なる共和国首長殿に事の次第を包み隠す事なく打ち明ければ、どうしてこのハルモニアを蹂躙など致しましょうや !?
憎むべきは楽園の者共! この者共に天罰を下し、地獄の炎火でその罪を償わせて後、怖れ多き事なれど、大司教様自ら共和国各自治領に向かわれて謝罪されるが宜しかろうと愚考致しまする」
 楽園の者共への天誅で事が収まらず、我身を以って謝罪の旅にでるとは思ってもいなかった大司教は、幾分躊躇したもののここでこの意見を覆す程の考えもなく、ただ肩を落として肯くより他に仕様がなかった。その様子を確認したクレオーンは、凛として起立し正教会大聖堂に響き渡る程の大声で号令を掛けた。
「ハルモニア正規軍、出陣である! 悪族なる楽園の者共を打ち払え! その楽園も全てを打ち払え! 天は我等に味方するものなり! ハルモニアの誇りを以って悪族に天罰を下せ!」
 弾正の人生において、最高の時を迎えた瞬間であった。そして、その時を境に奈落の底に落ちる瞬間でもあった。

 ハルモニア正規軍少将以上の軍幹部が正教会内の大司教執務室に招聘され、クレオーンが得意気に且つ雄弁に今回正規軍出陣の趣意を語っている。
 だが、その説に正面切って意義を唱える者がいた。正規軍歩兵師団を束ねるバスチェス中将である。予てよりクレオーンに反目する一派の一人である。そのバスチェスは、今回のファウナ侵攻が、本当に楽園に住まわせし者共の謀略である事を証する事実は何かと執拗にクレオーンに迫った。正規軍を動かすには明確な大義名分がいる。事実関係を法廷内で(つまび)らかにして、その上で軍の投入を決めるべきが筋であると主張した。
 当に正論である。そもそもが全てクレオーンのでっち上げた作り話だけに、法廷内での検証は非常に具合が悪い。だが、全権をハルモニア公爵より拝命し、しかもハルモニア正教会の最高権威者である大司教のお墨付きを背景にクレオーンは強硬にこれを退けた。
「バスチェス中将殿! 現にファウナ軍数十万が領線に集結している事実をどう捉えられるか? 然るに、前線の楽園の衛兵共は何一つ迎撃する事もなく、やがてファウナ軍を我等が神聖なる領地に導き入れましょうぞ! 連中にとっては、このハルモニアの誇りなどどうでも良いこと。だた、与えてくれる者に慇懃に(へつら)う者共なり! 事実関係を調査して後に法廷論争なぞ、危機感の欠如や甚々しい!一軍を預かる中将殿がその様な有様では不甲斐ない。
故に、このクレオーン! 未熟者ながらもハルモニア軍の全権を公爵殿下並びに大司教様より承る事となった次第ですぞ! 将として毅然と悪族と闘う姿勢こそ、今、ご貴殿に求められし事と存ずるが如何に?」
 前線の状況は、情報を統制しこれを掌握しているクレオーンしか分からない。ファウナ軍が侵攻する姿勢すら見せていない事実は、この会議では明らかにされていない。中将は沈黙せざるを得なかった。
「まずは、我もとに精鋭二千名の重鎧騎兵をお貸し頂きたい。そして、楽園の悪族の者共を打ち払い、再びハルモニアの聖なる権威を世界に棚引かせましょう!」
 狼狽する大司教ウパ七世にしろハルモニア公爵にしろ、最早その身の危うさに(おそ)れるばかりで、中将の正論――クレオーンへの批判は、そのまま多くの者の不満として燻ぶるだけとなった。

 そして、直ぐに精鋭二千名が抽出され、正教会前の広場にその雄々しい姿を現した。その間、クレオーンは一旦、自分の館に戻り一人の旧友――彼がマトゥータに居た時分につるんでいた男と密会していた。その男、今ではマトゥータの闇社会では一端の頭を名乗る男であった。クレオーンは、殊更に上等な葡萄酒を注いでこの男に振舞っている。
「久しぶりだなぁ」
「互いにな。随分と羽振りがいいじゃねえか。分け前に預かりてぇもんだぜ」
「ふふふ、だろうと思ってな。実はな………」
 クレオーンは小声でこの男に何やら打ち明けている。
「はっはっはっ! 弾正殿ともあろうお方が、俺達よりひでえ話じゃねえかぁ!」
「ふん、政治の駆け引きはお前には分からんさ。それで、どうする? 呑むか呑まぬか」
「呑めねぇ――と答えたら、おめえの手下共が一斉に俺の首を取る積りだろうが! おめえの考えなんぞ、お見通しよぉ。まぁいいわな! 悪い話でもねぇしな。引き受けてやるぜぇ! 感謝して貰いたいもんだぜぇ」
「ふふふ、感謝だけでいいなら、いくらでもしてやるよ」
「けっ、食えねえ奴だ。んじゃ、俺は行くぜ。おっと、後ろからグサリ何ぞ考えるんじゃねえぞ」
「ふふふ、仲間を裏切ったりはしないよ。仲間のうちはね」
「けっ!」
 そう唾棄して、上等な葡萄酒に口すら付けずにその男は忽然と気配を消した。
“ふん、毒なぞ盛ってないのにねぇ。まぁ、あんな奴には勿体ない酒だしね。この俺が美味しく頂くとするか。ふふふ、それにしても上手くいったなぁ、ふふふ”
 クレオーンは一人含み笑いながら、一気に葡萄酒を呑み干していると、わが世の春を謳歌する彼のもとに一騎当千の精鋭が集った旨の連絡が入った。
“愈々、仕上げの時がきたね。ふふふ、楽しみだ”
 クレオーンは、零れる笑みを必死に堪えて悲壮なる顔を作りながら、正教会前に集う駒を満足気に眺めた。
「諸君! 今宵二時(ふたつどき)、我等が聖都を脅かす悪族の者共の住処(すみか)を打ち払う! 案ずる勿れ、其処には誰も居らぬ。悪族の兵共はファウナ殿を脅かしている。だが、悪族と雖もその親族には罪はない。大いなる慈悲を与え既に安全な地へ移動させている! 案ずる勿れ、其処には誰も居らぬ! 悪族の兵とはいえ、よもや愛する家族の者共を犠牲にしてまで、己が物欲に汲々とする事はあるまい。
 だが、かの者共にその罪の重さを知らしめ、その罪を(あがな)って貰わねばならぬ! 故に、我等は楽園を焼き払う! その業火はかの悪族なる者共の闇を照らしつけ、必ずや神の怒りに畏れ、やがて正教会の慈悲に縋るであろう! 我等が使命はかの悪族なる者共を救浄することにあり! ハルモニアの誇りと名誉に掛けて、神のご加護のもとに、いざその歩みを進めよ! いざ粛清の火矢を放て! やがて、神々しい未来が我等がもとに開けん! いざ出陣の時である! 全軍、進軍を開始せよ!」
 このクレオーンの演説を、暗闇からジッと聞いている男――クレオーンと結託する闇社会の男が、その手下に命令を発した。
「聞いての通りだぜぇ。夜中の二時(ふたつどき)前には、綺麗に片づけとけよ! 抜かるんじゃねぇぞ!」
「へい、お頭。なぁに、相手は女・子供の類で造作もねえ。度胸付けに若けぇ者にもやらせまさぁ」
「ふん、手筈はてめえに任せるぜ」
 手下は夜の闇に吸い込まれる様にその姿を消している。男はクレオーンを繁々と見詰めると、ペッ! と唾を吐き捨てた。暫らくはクレオーンを睨んでいたが、精鋭軍の行進の音に紛れていつの間にかその気配を消していった。

 丁度その頃、アレクトは身体の疲れすら吹き飛ぶ程の嬉しさに包まれながら、愛する妻と愛しい娘の待つ我が家へ懸命に走り続けていた。その手には、領線をなす河川敷で見付けた淡い紫色に輝く玉容石を土産代わりに握りしめ、その綺麗な石を嬉しそうに眺める妻と娘の顔を思い浮かべながら、懸命に我が家に走り続けていた。その石は、アレクトの家族が夢と希望を未来に繋ぐ石として永遠に輝き続ける筈のものであった。
 少なくとも、この時までは………。

第十八話 アレクトの妻

第十八話 アレクトの妻

 その男の手下共は、ハルモニア首都に一番近い楽園と称する兵舎に繋がる街道筋に続々と合流している。一様に真黒な装束で全身を包み、松明さへ掲げずに小走りに兵舎に向かっている。その兵舎に住む衛兵の家族は静かに眠りに就いている頃だろうか、誰一人として街並みに出ている者はいない。
 やがて手下共は、兵舎の門を潜ると直ぐさま散りじりになって各家屋の前に身を伏せた。辺りの気配を入念に探り終えると、短剣を片手に次々と家屋に侵入し始めた。住人の大半は女・子供・稀に年老いた夫婦の類であり、賊の侵入にすら気付かずに深く眠ったままでいる。
 その多くが、悲鳴を上げる暇さへなく短剣で首筋を割かれ、迸る血飛沫(ちしぶき)をその身に浴びて前線で奮闘する肉親の優しい眼差しを遠くに想いながら一筋の涙を流して息絶えている。ある老人はその心臓を一突きで貫かれ、その人生を何一つ振り返る事なく苦しみながら、幸福のうちに天に召される希望を打ち砕かれ、息絶えている。幼子ですら慈悲が与えられる事もなく豊かな未来を剥奪されて、母親を探す小さな手だけが漸く母親を探り当てたのか、ただその温もりだけの幸せを最後に感じて震えながら命の炎を消している。
“誰が何故、この地を襲うのか? 誰が何故、私達の幸せを蹂躙するのか? 誰が何故、幼き子らを悲しめるのか?” そんな懐疑すら許されず、多くの者が無念の内に息絶えていく。伝えたい事があっただろう、残したい物があっただろう、繋ぎたい命があっただろう、だが、誰に何もする事が許されないまま、もがき苦しむ無念だけを与えられて、楽園と信じて疑わないこの地を空しく去って逝くばかりである。
 一方の無表情な手下共は、痙攣しながら手を天に翳し懸命に何かを掴もうとするその悲惨な姿を余所目に、淡々と家屋を物色している。最後の時を無下に与えられた無抵抗な人々が、この世の名残の様に大きく息を吸い込みながら見開いた瞳で天を睨んで横たわるその姿さへ、この手下共には見えていないのか、粛々と室内を物色している。
 銅銭を見付ける、食料を見付ける、金目の物なら無造作に袋に詰め込んでいる。我が子の未来を信じて必死に貯めてきた僅かだが豊かなお金が、やがて戻ってくる夫の為に大切に仕舞っていた贅沢すぎる食べ物が、血塗れの手で鷲掴みにされて汚い麻の袋に投げ込まれていく。
“それはお前達の物ではない! 何物にも代え難い物なのだ!”だが悲しい哉、ここには天に通じるその声を聞く者はいない。尊さを微塵も感じない臭い息を吐き続けるだけの天に唾する者共しかここにはいない。
「けっ! ロクな物がねぇや。無駄働きかよぉ」
「ちっ! 兵隊共がもう来やがったぜ。詰らねぇ仕事させやがって!」
 手下共は家屋を出て暗闇に身を潜め、精鋭軍が放つ火矢を避ける様に、この楽園を去っている。同時に無情な火矢が楽園を焦がし始めている。メラメラと燃え盛る炎が赤々と楽園を嘗めている。
 クレオーンの云う通り、確かに其処には誰もいない。既に死に果てた者以外は誰もいない。火矢を放っても家屋から誰も飛び出して来ない様子を見て、精鋭軍は安堵して火矢を放ち続けている。悪族への見せしめの為に、正義と信じて楽園を焼き尽くしている。ハルモニア首都の城門を出る時に、火の粉避けとして手渡された黒装束を纏って、一心不乱に楽園に火を放っている。
 しかし、所詮は卑しくさもしい者の所業であった。手下共が片付けるべき者を全て仕留める前に、正義を信じ込もうとする精鋭軍がやってきたのである。この時の軍は、嘗て仲間と信じて疑わなかった楽園を焼き払う後ろめたさから、いま自分がしている事を闇雲に正当化して、遣らされ仕事に尤もらしく意義を糊塗して、ひたすら火矢を放つ愚か者である。
故に、一縷の希望の残る僅かな家族がそこにいることすら気付かずにいた。いや、もし幾許(いくばく)かの義心があれば気が付いたであろうに、敢えてそれに気付こうとしなかった。

 アレクトの家族がその僅かな希望の中にいた。
 精鋭と呼ばれる者であれば、誰か一人は澄んだ目でこの街を観ることが出来ただろう。血の匂いが漂う異様さに心を取り戻したであろう。だが、面前で非難されたバスチェスは、その腹癒(はらい)せから、特に小心で愚鈍なる者共を選んでクレオーンに渡していたから、名ばかりの精鋭軍はその名の通りの働きで、一縷の希望にさえ他人の顔をしてやり過ごそうとしていたのである。
 必要なのは少しばかりの優しさだけで足りたのに、ただそれが無いだけで全ての夢が空しく燃え盛って逝く。
 もとより身体の弱いアレクトの娘は、煙に巻かれて意識が薄れている。アレクトの妻は、その娘を必死に脇に抱き寄せて、暖かな希望に満ちた優しい声で娘を助けようとしている。
梁の(きし)む音がする。早くここから外へ出て行かなければと焦る気持ちを嘲笑(あざわら)う様に、煙が二人に纏わり付いてくる。
“いつも守ってくれる夫は、自分達の為にその命を投げ出して闘っている。今、この()を守れるのは自分一人………この娘と一緒に夫の帰りを待つ為に、今を諦める事はできない”
 煙の合間から赤い炎が舌舐め摺りして、二人を焼き払う機会を覗っている。前進しては下がり、下がってはまた前に進む。広くもない筈の部屋では、強い希望を内に秘めてアレクトの妻が娘の希望を繋いでいる。
“もう一度、この()を夫に会わせたい………たとえ、わたしの時間が止まっても、もう一度だけ、この娘を夫に会わせたい………”
 そして、アレクトの妻の手が玄関の扉に届く時が来た。ここを開ければ、その先には夢と未来が開いている。もう少し、もう少しだった。
 アレクトの妻が扉を開けようとしたその時に支えを失った梁が倒れてきた。同時に家屋全体が内側に(しな)り崩れてきた。
 娘を庇う様にアレクト妻は我身で子供を囲った。飛び散る壁片が妻の頭を打つ。倒れ狂う支柱が妻の背中を叩きつける。それでもアレクトの妻は、我が娘に糸筋の傷すら与えぬのなら、この痛みすら笑顔で受け流して、夢を明日に繋げようとした。
“もう一度、もう一度だけでもいい、三人揃って蛍を観に行きたい。三人はいつも一緒だったから、もう一度、せめてもう一度だけ………”
 これまで家族の家を支えていた梁が、共に燃え尽き様とするが如く、今は妻と娘の足を離さずにいる。意識が少しずつ遠ざかっていく。
“ああ………懐かしい声が聞こえる。マイアにいた頃の懐かしい香りがする。優しい眼差しに囲まれて、暖かな気持ちのまま時間がゆっくり流れている。ああ………夫の声が聞こえる………いつ、戻ってきたのかしら………?
 戻ってきた!………戻ってきたの? 戻ってきたわ! 夫が、夫が戻ってきてくれたわ!”
 妻の意識が炎より激しく燃えあがって、最後の力を振り絞るように見上げたその先には、愛しいアレクトが確かにいた。
 大きな梁が崩れ落ち炎を帯びてメラメラと全てを呑み込んでいるその中で、妻と娘の名を叫び続けるアレクトの姿がはっきりと見える。妻は、希望を繋いで叫び続けるアレクトに命の限りの声をあげた。
「…あな…た………」
 剣を投げ捨て近づくアレクトの姿が、妻にははっきりと見えた。彼は素手で焼け焦げた壁を取り払っている。太い梁を全身で持ち上げている。纏わり付く火の粉を懸命に素手で振り払う夫の姿が見える。
“ああ………やっぱり夫は、夫は戻ってきてくれた………必ず戻ってきてくれると信じていた………もう大丈夫………この()を今度は夫が守り通してくれるに違いない。”
 アレクトの声が近くで聞こえる。
「諦めるな! もうすぐだ! もうすぐだ! おい! 諦めるな! ここまで来たんじゃないか!」
 アレクトの言葉だけが妻の耳に聞こえている。
“そう、三人一緒にやっとここまで来た………諦めては駄目………この娘の為にも、夫の為にも………”
 妻は、娘に向かって必死にその細い腕を伸ばした。娘の眼が少し開いてアレクトを見ている。
“大丈夫だわ………この娘はきっと大丈夫だわ………”
「おい! しっかりしろ! もうすぐだ! もうすぐだ! 諦めないぞ!」
 一筋の涙を流して微笑みながら夫を見る娘がそこに居る。アレクトの声に励まされながらも、彼の姿が火に包まれて見えなくなりつつある。このままでは、三人とも焼け死んでしまう。
「おい! しっかりしろ! 一緒に頑張ってきたんじゃないか! 馬鹿やろう! 一緒にやって来たんじゃないか! こんなところで諦めるな!
馬鹿やろう、しっかりしろ! 俺が助けてやる! しっかりするんだ!
二人でこの子を守って来たんじゃないか! 馬鹿やろう! 諦めちゃ駄目だ!」
 妻は最期の力を振り絞って、眠る様に笑みを讃えて横たわっている娘の頬に優しく手を添えた。

 だが、その手からはもう命の鼓動が伝わってこない。妻の希望が夢が炎に呑み込まれて、自分の命さえもう終わりの時を迎えている。
“こんなに懸命に生きてきたのに………こんなに必死に生きてきたのに………
せめて、せめて夫だけでも生き抜いて欲しい………これからこの()と一緒に二人で旅に出る………でも、夫にはもっと生きていて欲しい………”
 妻の眼が静かに閉じている。口元の動きが彼に妻の声を届かせた。
「…あなた………ありがとう………」
「馬鹿やろう! 一緒じゃないか! 一緒に踏ん張って来たんじゃないか!
諦めないぞ! 俺がお前達を助けるんだ! おい! しっかりしろ!もうすぐだ!………」
 妻の耳にあれ程ハッキリと聞こえていたアレクトの声が、少しずつ遠ざかっている。
“娘は微笑んでいた………そう、最後には三人一緒にいれたから………
それだけも幸せだった………わたし達は幸せだった………誰よりも、きっと誰よりもわたし達は幸せだった………“
 やがて、妻の意識は消え入る様に小さくなっていた。
“夫がいつの日か自分達のもとに来る日まで、そして再び一緒になる時まで、その時が来るまで、夫は懸命に生き抜いてくれる………わたし達の分まで懸命に………懸命に………”
 精鋭なる部隊に少しばかりの勇気があれば、アレクトの家族は少なくとも助かっていたかも知れぬ。いや、アレクトの家族だけではない、多くの夢がその糸を未来に紡いでいただろう。
だが、精鋭なる者は押し付けられた役割の火の粉を振り払うのが精一杯だった。それが故に、彼等にもまたアレクトの家族同様の悲しみが襲うことを知らずに………。

 一方、ハルモニア聖都内では………
“世界各地から集って来た楽園の衛兵共が、邪な謀議を働き飽くなき物欲を追い求めて、遂にはファウナ殿を誘い込んでこの聖都を焼き払う目論見だ” とする流布が世情を揺さぶり、楽園への討伐論が日増しに高まっていた。当然の結果として、この楽園への焼き打ちは毎夜の様に繰り返された。火の粉避けとして支給される黒装束に身を包んで、正義の鉄槌を示さんと毎夜々々非道なる焼き打ちが続けられた。
 もう一方の、前線でファウナの大軍を前に踏ん張るその楽園の衛兵達には………
“盗賊団が兵舎内に侵入しその一部を焼失したものの、聖都より派兵された正規軍がこれを撃破し、住人には被害が無かった” と事実無根の情報が流れハルモニアへの温情の念を高めていた。
 その情報操作の中にあって、クレオーンは前線の衛兵達に以下の命令を出している。
“正規軍に依り撃破された盗賊団は、著しくその戦力を失っているが未だに壊滅には至っていない。故に、楽園の衛兵諸君は毎日五百名ずつ楽園へ帰還し、正規軍を助けて協力して盗賊団を討伐すべし!”
 膠着状態で疲弊している前線の兵士にとっては、この命令は諸手(もろて)を受け入れられた久しく家族に会っていない衛兵にとって、この上ない休暇となる。更に正規軍と一緒であれば、尚更気が楽であった。
 一方の毎夜焼き打ちを実践する精鋭軍二千人には、盗賊団が楽園の衛兵と手を組んで近々に攻め入ってくるかも知れぬとの偽情報を流していた。
 そして、最初の帰還兵五百名が家族の顔を思い浮かべながら楽園に入ると、そこには黒装束の一団が火矢を放っている。その家屋には愛する者達がいる! 帰還兵は守るべき者を守ろうとして、剣を抜いて精鋭軍に斬り掛かっていった。
 それを迎撃する精鋭軍とてクレオーンの偽情報に洗脳され、やはり来たか! とばかりにその刃を帰還兵に向けている。
 同じハルモニアの正規軍同士が、互いに守るべき誇りを掛けて激突した瞬間である。悲しむべきはその数の違いである。如何に衛兵の腕が立とうとも、四倍の敵兵に囲まれては一溜まりもない。帰還してきた衛兵達は、必死に合流すべき正規軍を探した。探し求めながらも、襲い来る黒装束の一団の剣先を受け、時には黒装束の一団へ怒りを込めた一撃を食らわしている。楽園の彼方此方で剣がぶつかる鈍い音が響いている。鎧を切り叩き骨を砕く音が鈍く響いている。だが、焼け落ちる楽園の中で必死に仲間を探せども、そこに居るのは黒装束の一団のみである。懸命に我家へ走しろうにも、行く先々に黒装束の一団がいる。
 一人また一人と衛兵達が倒れるその上を黒装束のトルーパが無情にも駆け抜け、暖かな家族の顔を見る筈だった衛兵達の肉片を蹴り散らし、赤々と燃え盛る炎は、引き千切(ちぎ)れた腕や脚を鎧から噴き出した臓腑をこれ見よがしに照らし付けている。噴き出る血飛沫(ちしぶき)は、炎に煽られ煮え(たぎ)りながら異臭を放っている。原形を留めぬ臓腑が、別の生き物の様に痙攣しながら生臭く蠢いている。

 楽園はいま阿鼻叫喚(あびきょうかん)の巷と化している。

 激しい黒装束の攻撃に耐え切れず、楽園の家屋に逃げ込んだ一人の衛兵が、その家屋の中で無残に横たわる住人を、物色された室内を目撃した。その衛兵は、その惨状が我家の窮状に重なって、狂った様に家屋を飛び出しながら黒装束の一団に切り掛かるが、その怒りの矛先を収める時を見出す事なく、黒装束の槍が剣が我身に深く突き刺さって来る。切り裂かれた身体から、赤白い臓器がその居場所を失ったかの如くボトボトを零れ出している。大根、菜葉の如く次々に斬り据えられていく衛兵共を余所に、クレオーンと手を組む本物の盗賊団は、正規軍と同じ黒装束に身を隠し強奪の限りを尽くしている。
 何も知らされていない楽園に住む家族は、振って湧いた災難に成す術もなく命を散らして、その家族を守ろうとした衛兵団は、二度と前線に戻ることなくこの地で希望を失って逝った。
命を賭して闘っていたのが同じ正規軍と知らずに散ったのは、せめてもの救いとなったであろうか、或いは、全てを知って死ぬる方が幸せだったであろうか、何れにせよ、彼等が最後に流した涙の意味が、クレオーンに届く事はない。
 そのクレオーンの策略は執拗に前線の衛兵を窮地に追い込んでいる。
 一旦は帰還した仲間が中々戻ってこない。本営からの情報も来ない。疑心暗鬼が軍律を揺るがしている。最初の帰還命令から二十日が経ち、既に一万名の仲間の音信が途絶えた。楽園は無事なのか? 仲間の、家族の安否や如何に? 二万の前線に佇む衛兵団は、眼前のファウナの大軍に対峙しながらも落ち着きを完全に失っている。
 そこへ、襤褸(ぼろ)となって前線に戻って来た仲間が一人いた。返り血を浴びた鎧は生臭く、携えている剣は刃毀(はこぼ)れている。眼は虚ろで、だた楽園の惨状を伝える為だけに、ここまで歩いて来たのだろう。仲間を見ると漸く安心したのかその場に倒れ込み、“………ぜ、全滅したよ………” この一言だけ呟いて息絶えたと云う。
 (たちま)ちにして、命を賭した彼の言葉は前線中に知れ渡る事となる。
“全滅したのは、いつ帰還した兵の者共なのか? まさか、帰還した兵が全てではあるまい? 何故、正規軍と合流しなかったのか? 衛兵団が盗賊如きに殺られる筈がない。敵は本当に盗賊団なのか?”
 様々な憶測が更なる疑心を生んで、前線を束ねる将校に詰め寄っては、是非もない議論を虚しく繰り返している。そもそも踊らされている将校に聞いたところで埒は明かぬ。将校は、本営に打診すると応えるのが精一杯であった。
 その本営からの回答、即ちクレオーンが流した情報は、更に前線を浮足立たせた。その情報とは………。
“一昨日夜半に、黒き装束を纏いし二千有余名の一団が楽園を忽然と急襲し、事も有ろうに楽園に火を放ちて、無抵抗なる楽園の住人を惨殺し金員を奪いて逃走している。本営より楽園を奪う盗賊団討伐の為の正規軍部隊を編成し、明日の夜半三時(みつど)に一斉追撃を実行する。これに先立ち、前線を預かる衛兵団諸君は一万五千の討伐軍編成で明日の夜半一半時(ひとつはんどき)に楽園に戻り、悪逆非道なる盗賊団をハルモニア首都方面へ追撃されたし。而して、憎むべき盗賊団を正規軍と挟撃しこれを一掃せん! 残る五千の兵は前線に留まりて、ファウナ軍を牽制すべし!”
 クレオーンは、その口が渇く間もなくハルモニア正規軍の将校を集めて、偽情報を以って扇動を繰り返していた。
「栄光を重ねしハルモニア大本営のお歴々の方々、誠に悲しむべき報告をしなければなりません。我欲でその心根が固まる楽園の者共の所業の件でございます。かの者共がファウナを扇動して歴史あるこのハルモニア聖都を蹂躙せんと謀議している旨、過日のご報告の通りであります。この謀略への天誅を精鋭兵二千名にて実行し、己の悪徳に気付かせんとした我等が善行に対し、事も有ろうに夜陰に乗じて五百の編成で、精鋭兵を襲撃するに至っております。しかもこの二十日間連続して襲撃を繰り返す暴挙に出ております。我等、この者共に謀議あると雖もその肉親には罪なしとの思いやりから、楽園の家屋のみを打ち払っておるにも拘わらず、わが肉親への想いの欠片すら微塵にも顧みず、精鋭兵を毎夜襲撃しております。
 嘗てバスチェス中将殿より“事実関係を法廷内で(つまび)らかにして、その上で軍の投入を決めるべし” との恩情あるご意見を拝聴しこのクレオーン感極まりて涙したものの、最早この楽園の者共に掛けるべき恩情など悪魔に身を委ねし者共へは通じぬと確信しております!
 重ねて申し上げる! 時は悠長に待ってはくれませぬ! 今こそ正規軍の大軍を以ってこれ等の者共に神の怒りを示す時と存ずる! お歴々の御意見や如何に!」
 ファウナと対峙する前線の戦況どころか楽園に派兵した精鋭の状況に関しても、全ての情報がクレオーンの手に拠って統制されている環境下では、意見を求められても反論するに足る手段がない。愛国を説く者へそれが如何に国を危うくするかを知らしめるには、事実を(つまび)らかに検証して反証する必要がある。然るに、その事実が何なのかすら分からぬでは議論になる筈もない。将校の立場として、兎に角も反対といった感情的な意見を押し通すわけにはいかぬ。加えて、期に乗じなければ己の立場すら危ういかも知れぬ。反論できぬのであれば肯首した方が、今後の展開に機敏に対応でき得る。
 斯くして、クレオーンの一方的な正義感は、反対がないという消極的な賛成を以って可決された。

第十九話 二つの正規軍

第十九話 二つの正規軍

 内心で高笑いしているクレオーンは、バスチェス中将に向かって慇懃に司令を下した。
「畏れ多い事ですが、バスチェス中将殿。この度の楽園の者共への討伐隊の総指揮をお願いしたいと存じます。恩情味ある中将殿であれば、或いは、悪族と(いえど)もかの連中の中に善光を見出す者がいないとも限りませぬ故、是非にお受け戴きたく……」
 バスチェスはクレオーンの言葉を遮って応えている。面前で一度ならず二度も晒し者にされた中将にとって、クレオーンと会話を交わす事さえ苦々しく思えた為である。
「うむ、お引き受けしましょうぞ!」
 総司令といっても、実際の指揮権はクレオーンにある事は明白な状況である。ただのお飾りとして受けるのである。実質的にこれで面前にて三度も侮辱を受けた事になる。得意満面になってクレオーンが戦議を重ねている。
「明日の夜半 三時(みつどき)に一千の重鎧騎兵にて楽園中央にある聖堂まで御出陣下さい。既に、精鋭二千の者が楽園の者共と交戦致しておるかも知れませぬが、数に優る我等の勝ち戦は見えております。中将殿が御出陣とあらば、かの者共の中にも改心する者が出てきましょう。いずれ弱体化した衛兵共を懐柔するは容易きこと。無益な血を流しては神の教えに反しますゆえ……」
「うむ、万事を弾正殿にお任せしよう。詳細を我が配下の者へ!」
 そう言い残して、バスチェス中将は憮然とした表情で会議を終わらせた。

 嘗て楽園と称する兵舎には、延べ三万の衛兵とその家族の凡そ十万人が居住していたが、元々が兵舎――即ち、防衛線であるから、それぞれの兵舎は一定の間隔で配置されている。その兵舎の総数は二二箇所であり、一つの兵舎に凡そ三千もの衛兵の家族が安住として生活していた。将来に明るい希望を以って懸命に生きていた。
 しかし、これまでの精鋭兵と盗賊団の働きで、その二二の兵舎は前線に近い二つを残して、全てが廃墟となっている。盗賊団は六万を超える無抵抗なる住人を惨殺しその金員を強奪している。精鋭兵は膨大な義援を受けて建設された美しい街並みに火を放って瓦解させ、本営からの命を受けて帰還してきた延一万もの衛兵を悪族と思い込んで斬殺した。
 無残な焼死体や臓腑をばら撒き散らした衛兵の躯は、日中に盗賊団が正規兵服を着て、荷馬車に積み上げては聖都の地下墓地に塵の様に投げ捨てた。無論、この地への通行は一切が遮断され、ハルモニアへの物資流入は全て海路マトゥータを経由するものの、殊更に共和国に宣戦布告しファウナへ侵攻したうえは当然の事ながら、ハルモニアの経済停滞と物資の欠乏を招いている。クレオーンはこの点に関しても策略を巡らせる必要があった。表向きは共和国にも王国にも属さないブリゾに交易を打診しながらも、嘗ての仲間――盗賊団の頭目(かしら)を密かに館に招いている。
「最近は聖都でも日常品に支障が出ているようなんだ」
「そりゃそうだろうよぉ……天下のファウナやディアーナに喧嘩仕掛けて何言ってやがる!」
「ふふふ、まぁ結果は分かってたけどね」
「で、それがどうしたよぉ」
「うん、このままじゃ民衆が黙ってないからねぇ……」
「んで、何だよ! 俺が貧乏人の事なんぞ知るもんか!」
「ふふふ、そう怒るな。短気だなぁ」
「うるせぇ! 物資を寄越せって事だろうがぁ!」
「うん、話が早いね」
「ふん、澄ましやがって。まぁ、マトゥータの品物を流してやってもいいがな。高けぜぇ!」
「おいおい、どうせ盗品なんだろう?」
「うるせぇ! 流通させりゃ、盗品も立派な商品よぉ」
「……妙な理窟だなぁ。今回も君には随分儲けさせてやったと思うがなぁ」
「けっ、貧乏人をどんなに殺っても高々知れてるぜ。こっちは、毎夜々々一千の手下共を使ってんだぜぇ! あんなもんじゃ、嬉しくねぇぜ!」
「ふふふ、強欲だなぁ。まぁ、いいさ。話を付けてくれるかい?」
「ふん、商売なら仕方がねぇな。だが、高けぜぇ」
「ああ、でも君では人相が悪いから……誰か見た目が普通の手下を寄越してくれよ」
「けっ、聖職者が外見で人を判断しちゃいけねぇぜ。まぁ、それなりの奴ならいるかもな」
「ふふふ、じゃぁ商談成立を祝って乾杯するかい?」
「…………」
「毒なんか盛ってないよ。裏切ったりしないさ。仲間のうちはね」
「けっ! てめえの方こそ用心しやがれ! ああ、お前にいい事教えてやるぜぇ。ハベストの爺が動き出したそうだぜぇ」
「……ほぉ……でも、ハベストからだと、早馬飛ばして海路で来ても軽く四年は掛かるよね。遥々ここに付いた頃には全部終わってるさ」
「ふん、だといいがな。あっ、それとよぉ、塵置場でいいのも見付けてよぉ」
「塵置場? 地下墓地のことかな? そんな処でも頑張るの? 仕事熱心だなぁ」
「けっ、うるせえってんだよ! そいつは俺が頂くぜぇ!」
「ふふふ、構わんさぁ。興味ないね」
 盗賊団の頭目は厭らしい笑みを浮かべていた。地下墓地で見付けた物こそ、今回の企みを知ればクレオーンの命を付け狙う者共であった。そうとも知らずにクレオーンは、その慢心から頭目の言葉に耳を傾けなかった。クレオーンが万一裏切る事を想定すれば、彼に恨みを持つ者を配下に持つのも闇社会では常套手段であったが、わが世の春を謳歌するクレオーンは、眼前に居る者が闇社会の人間である事すら理解できずにいたのだろう。
「あっ、それとだね……」
「何だよ? 随分と神妙じゃねぇか」
「ふふふ、明日夜半 三時(みつどき)にね、正規軍と精鋭兵を合わせて三千程の軍がね、衛兵と衝突する事になってるんだけどね」
「ふん! それで衛兵共は今回も五百かよ?」
「いや、一万五千だよ。」
「てめえ!? 正規軍すら裏切るのか?」
「ふふふ、人聞きの悪い事を言うなよ。ただねぇ、厄介な奴がいてねぇ……明日には衛兵団に取り囲まれて、もう顔を見る事もないだろうけど。万一って事もあるだろう?」
「……そいつを確実に殺れってのか?」
 クレオーンはただニヤニヤと笑うばかりであった。仕事の相手を口に出すのは憚られる。悪魔に見染められし者と闇に生きる者との暗黙の合意であった。
「……んで、報酬は?」
「うん、ハルモニア領内での商売の利権はどう? 商組合なら堂々と君の云う商品を売れるよ」
「けっ!……まぁ、悪くはねぇな」
「ふふふ、いい仲間に恵まれて幸せだよ」
「ふん! じゃぁ、押込(おしこみ)は今日が最後でいいな」
「ああ、そう言う事になるね。明日は宜しく頼むよ」
 盗賊団の頭目は一気に葡萄酒を呑み干すと、無言のまま館を後にした。ハルモニア城門を黒装束で身を纏った精鋭団が駆け出している様子が見える。今頃は手下共が押込品を手に隠処(かくれが)に戻って来ているだろう。明日の状況次第でクレオーンを見限るか付き合うかが決まる。頭目にとっても決断の時が迫っていた。しかし、頭目が知るクレオーンの謀略すら全容の一部に過ぎない事を、彼が知る由も無かった。

 頭目は隠処に戻ると番頭(ばんがしら)を呼んで、今回の押入働きと塵置場と称する地下墓地で捕えた元衛兵達の様子を聞いている。拿捕した者はアレクトも含めて延べ六十名程であった。頭目は、一人一人と合っては今回の全容を話して、ハルモニアへの憎しみを植え付けていた。無論、その者達の家族を盗賊団が手に掛けた事実は伏せたままで……
 中には怒りに身を任せて盗賊団に寝返る者もいたが、大半はハルモニアへの恨みと同程度に盗賊団を憎んでいたから、折角生き延びた命を再度失う結果を招く事となっていた。寝返った者の中でもアレクトの状況は悲惨で、何一つ治癒を施さなかったから、生きていれば道具として死んでしまえばそのまま捨てる積りでいた。
「奴はどうだよぉ?」
「へい、何とか生きてやがります。ただ、使い物になりますかねぇ」
「生きていりゃ、(いず)れ役に立って貰うだけよ。そうそう世間様はよぉ、俺達を腐臭の者って云うそうじゃねぇか。ふっ奴はよぉ、そのまんま腐臭の者だぜぇ。ぐふふ……案外よぉ、役に立つかも知れねぇぞ」
「へい、承知しやした」
「それとよぉ、手下共に善人面した奴はいたかぁ? 表向きの商売でよぉ……いねぇか?」
「いや、面だけならいねぇ事もねぇです。探しやす」
「ああ、明日クレオーンの所に遣ってくんなぁ」
「へい、承知しやした。」

 クレオーンは館に居てこれからの成り行きを考えていた。
 中将率いる正規軍と精鋭兵の一団は、衛兵団一万五千に呑み込まれるだろう。そうなれば、中将の(とむらい)合戦と称して残る二つの兵舎を合戦場に四万の兵を投入して、衛兵団を殲滅させれば、残る衛兵団五千は雪崩(なだれ)を打つ様に崩れるだろう。これで楽園と衛兵共が片付いたとして、頭目もいつまでも生かしてはおけない。
それに……
“ふふふ、悪くないねぇ……”
 この時クレオーンには我欲に塗れた未来が見えていたのだろうか。だが実際は、その企みにも少しずつ(ほころ)びが生じ始めていたが、誰かがそれを教えたところで、今の彼には何も見えなかったであったろう。

 前線では一万五千の兵が軍備を整えている。楽園を守るため、愛しい家族を守るため、共に正規軍と手を携えて悪辣なる盗賊団に天罰を下さんと使命に燃えている。一方のハルモニア領内の兵舎では、物欲に駆られてハルモニアを穢す衛兵団に神の怒りを示さんと、各人が祈りを捧げて出陣の時を待っている。
 仲間同士で明日、命を削り奪い合う。勝者のない闘いの為に……

 宵待月が寂しく聖なる地を照らして、異様までの静寂さがハルモニアを包んでいた。
 ファウナと対峙する最前線では、六千名から成る重鎧騎兵千隊、七千名から成る軽鎧歩兵五百隊、それに二千人から成る弓槍兵百隊の都合三部隊一万五千名の編成が整うと、前線総司令官の号令のもと一斉にハルモニア首都方面へ行軍が開始された。いきなり(きびす)を返し始めた敵軍に驚くファウナを余所に、その大軍の進行は速やかで、寧ろ家族への想いを募らせているのか、常足(なみあし)が徐々に駆足に変わりて、ファウナ側は茫然とこの行軍を見送るばかりとなった。
 この尋常ならざる疾動に、総司令官が衛兵団の(はや)る気持ちを抑えようと号令している。その指示が衛兵団の想いを斟酌するものであればまだしも、単に己の立身出世の為――即ち、いざ開戦となった際に兵士の疲労と相俟(あいま)って戦力を損傷させれば己の将来に影を差すと考える為のものであるから、一向に兵士の心に響かない。それどころか、知るべき情報が全く与えられていない衛兵団の焦燥感は募るばかりで、総司令官の号令とは裏腹に疾風の如く行軍し続けるのみである。
 やがて、最前線にいた衛兵団は、僅か四時(よつどき)を経る頃には十里の行程を駆け抜け、最初の楽園――兵舎に到着した。到着するや否や、肩で息をしながらも蜘蛛の子を散らした様に方々へ駆け出す衛兵を束ね直す力量は、最早この総司令官には伴っていない。
 幸いこの兵舎は未だ黒装束の一団の襲撃を受けておらず、千を超える世帯の凡そ二千名の住人は安泰で、寧ろ衛兵団の突然の帰還に驚いていた。妻子との再会に抱き合って喜ぶ衛兵達を見て、他の衛兵達にも一縷(いちる)の希望が見えてきている。戻って来た父親に無邪気に抱き付く子供の様子を我が子に重ねている衛兵も多い。焦燥感と不安感から乱れていた軍律も、この兵舎の様子からやや持ち直しているものの、溢れる想いを留める事が出来ぬ一隊が進軍を開始すると、その意を受けて続々と各隊が合流し始めている。
 衛兵達の疲労をこの兵舎で癒して己の権威を取り戻さんとする総司令官の声はもうどこにも届かない。彼とその取り巻きの将校は、兵舎の一室で茫然と鎮座して、己の都合だけでは他人の心を繋ぎ止め得ない事にすら気付かず、他人の苦しみを僅かでも共感しうる力量がないばかりに、いつまでも其処に佇み続ける人に落ちていった。

 烏合の衆となって闇雲に行軍する衛兵の一団は、やがて次の兵舎に到達した。すると、ここの住人も衛兵団の突然の帰還に驚くと同時に、その喜びに似た驚きが衛兵団の中に秩序を呼び戻した。
“きっと我が家族もここと同じ様に無事でいてくれるに違いない!”
 その心象が彼等をして本来の武人の感性を目覚めさせたのである。かと言って、既に見限った先の総司令官を担ぎ直す気にもなれず、三部隊の長をして衛兵団の指揮官とし、三人が互選して一人の総大将を選任した。
 未だ本営の偽情報を信じて疑わぬ彼等は、先の兵舎とこの地に家族の居る兵士二千名程を各々の地に駐屯させて万一の盗賊団襲撃への防衛線を張ると同時に、残る衛兵団に次の兵舎への徒歩(かち)進軍を号令した。

 夜半に最前線を離れて八時(やつどき)を数え、陽も天頂に昇り始めている。一団は盗賊団襲撃を想定して少人数の騎兵・歩兵・弓槍兵を一組にした編成で秩序を保って清々しい朝日を正面に受けて行軍を続けている。
 一人の歩兵が弓槍兵に歩みながら希望に満ちた様子で話し掛けている。
「お前さん何処の楽園だい?」
「第七兵舎だよ」
「子供さんは?」
「いやあ、親父とお袋の三人住いさ。あんたは?」
「俺かい? 俺は別嬪なカミさんの二人暮らしだよ」
「あっはっはっ、そいつは是非お目に掛りたいね」
別の兵士が話に割り込んでくる。
「俺んとこはよ、カミさんは人様に見せれねぇが、息子はよ、誰に似たんだか出来のいい鼻垂れよ」
「あっはっはっ、出来がいいのに鼻垂れかい?」
 進軍の兵達は、本営側の過剰な反応が情報を過大に伝えているとの憶測から、久しぶりの帰還に心躍らせていた。今日の夜半 一半時(ひとつはんどき)には、盗賊団が非情にも無抵抗な住人を襲撃しそこに(たむろ)していると思しき楽園近隣に至って、この者共を聖都正規軍と挟撃のうえ、失われし命の弔いを行う使命感に燃えながらも、その悲惨なる地が我が兵舎とは露とも思わず、嬉々として行軍している。

 その明るい行軍も三つ目の楽園を眼前に捉えてから、激しい怒りと悲しみに包まれる結果となった。散々に焼け落ちた家屋や教会や集会所……その一つ一つが盗賊団の襲撃の激しさを物語っていた。
 ここに住まいを構える兵士達が我家の塹壕を払い除けながら、愛しい家族の姿を探し求めている。だが、二十町四方(約4,760,000㎡)の街並みには焼死体の一つすらなく瓦礫のみが累々と残るその様子が如何にも異様で、まるで悪夢を見ているかの錯覚を感じる程である。
 何処の兵舎もそうだが、各家屋には非常壕が床下に掘ってある。万一の際はそこに身を潜める為のものである。とりわけ教会や集会所の地下には比較的大きな壕が設けてある。兵士達は手分けしながら一つずつ非常壕を開けては、そこに逃れている筈の人々を探している。
 どれ程の時間が経った頃だろうか……
“いたぞ! ここに子供がいるぞ!”
“ここだ! ここには年寄りだ!”
 その叫び声が瓦解した兵舎内に響き渡っていた。生存者は皆一様に衰弱し、既に意識朦朧としている。衛兵軍の薬が配られ応急処置が施されている中を、子供の父親が老人の息子が号泣して名を叫び続けている。すると、衛兵軍の様子を遠目に確認したのか、この兵舎の住人が遠くからその姿を表して救援を求め始めている。命辛々(いのちからがら)ここを脱出し、ジッと主が戻るその時を待ち耐えていた住人達が救いを求めている。かかる惨状にも拘わらず、老人や子供、兵士の妻であろう女共の延べ百名程が辛うじて災難を避け得て命を繋ぎ止めていたのである。裏返せば二千名近くの住人の大半がその遺骸すら見付かる事なく霧散している事になる。
 家族に再会できた者は幸せであった。ここに居住する多くの兵士が悲嘆にくれ絶望感と共に盗賊団への怒りの遣り処を見失っていた。
 総大将は、ここを拠点に構える兵士千名程を継続探索の名目で駐屯させ、応急部隊に充分なる物資を置いて、全軍に進軍の号令を掛けた。あれ程までに希望に溢れていた衛兵団は不安感に(さいな)まれ、半日歩き詰めにも拘わらず、全力で四つ目の兵舎へ疾走している。
 そして、四つ五つと兵舎を重ねる度に衛兵団の絶望感と怒りは頂点に達していった。同じ様に各百名程の生存者を確認したものの、矢張り大半の命は虚しく散っている。その悲しむべき遺骸を残すことなく、誰にも看取られず送られずに寂しく消えている。

 時は夜半 一半時(ひとつはんどき)に近づき、総数一万名になった軍勢は人数こそ減少したものの勢いは怒りに駆られて増幅し、来るべきその時を今や遅しと待ち受けている。
 そこへ松明(たいまつ)を掲げて近づく一団が現われた。未だ遥か彼方前方ではあるが、明らかに街道筋に沿って馳せて来る一団である。衛兵団の判断は二つ、一つは合流すべきハルモニア正規軍、もう一つは黒装束の盗賊団。その何れであれ、臨戦態勢を布いて待つのみである。
 総大将は、街道筋を挟んで弓槍歩兵の各七百名を横列に潜ませると、その後ろに騎兵各四百名を、更にその背後に歩兵九百名を配して挟撃する態勢を整え、街道筋への進行を正面で阻むように騎兵千二百名と歩兵二千八百名を鶴翼(かくよく)に陣構えると共に、騎兵隊二千名を街道筋に迂回させ近づく一団の背後を突く布陣で、松明の一団を待ち受けている。
 そこで待つ軍勢が居るとも知らず、松明の一団は手綱を緩める事もなく、時とともに近づいて来る。地を蹴る音が夜の空気を震わせ、地響きの様に街道筋に潜む衛兵に伝わって来る。得物を握る手に汗が滲む。瞬きを忘れた瞳には怒りが宿り、髪を逆立てて来るべき時を待っている。

 その明りに照らされる一団の姿が遂に目視された。一様に黒い装束で全身を纏った一団の姿が衛兵達の眼にハッキリと映って、総大将はその一団を睨み付けながら総攻撃の時を窺っている。松明の一団こそ憎むべき盗賊団と捉えて、非業の死を遂げたであろう仲間の想いに応える為に彼等に代わって鉄槌を下すべく、衛兵達は身を怒りに震わせながら号令のその時を待っている。
 よもやそこに衛兵団が潜むとも知らずに黒装束の一団――クレオーンに洗脳され、いや己の保身の為にクレオーンに追従したハルモニア精鋭団二千名が、いつもの様に粛々と仕事を仕舞えて暖かな我家に早く戻りたいと念じながら、何一つ警戒する事もなく街道筋を駆けている。精鋭と雖も所詮は、クレオーンに押し付けられた使命の火の粉を振り払うのが精一杯の一団である。そして今、彼等の愛する者に衛兵団と同じ悲しみが襲うことを知らずに、街道筋を駆け抜けようとしている。

 黒装束の精鋭団の先頭を走る者が、街道筋の前方に陣取る騎兵の一団を捉えたその瞬間、衛兵団の総大将が悲鳴に似た雄叫びを上げた。(あたか)も臓腑を口から絞り出すかの如き軍声ともならない肉声が一斉に闇夜を突いて、道の両脇に潜む七百名の弓兵が矢を五月雨の如く放った。少なからず正義を信じ込んだハルモニア正規軍同士が、互いに互いを悪族と思い込んで命ある者が命ある者を殺め始めた。

 まさに勝者のいない戦が始まった瞬間である。天を埋める星々が涙の様に閃く中で、霞掛る月がその様子を悲しげに見降ろしている。

第二十話 純金の剣

第二十話 純金の剣

 遠く聖都にある豪奢な館内で、クレオーンが真紅に染まる葡萄酒を杯の中で揺らしながら寛いでいる。全てを知って尚、平然と頬笑みを浮かべて煙草を(くゆ)らせて自室に籠り事の成り行きに思いを巡らせている。薄緑の煙に何か映っているかの如く、モヤモヤと棚引くその煙から目を逸らさないでいる。
“ふふ、もう出会ってる頃かな? これからが山場だな……”
 これからの未来がクレオーンに見えるのか、それ程の神通力があれば天が見降ろすこの無益な戦の惨状をも見据える事ができたであろうに、惜しむらくはその力を我欲の為ならず他の為に用うれば、或いは彼とて後世に名を残す為政者になれたやも知れぬものを。

 街道筋では、五月雨に降り注ぐ矢が黒装束の精鋭兵の進行を確実に足留めている。致命傷こそ与えぬものの、精鋭兵団は混乱し陣容を立て直す事ができないでいる。精鋭兵にしてみればいつもの如く衛兵共が攻めて来たに過ぎぬ筈が、その数たるや尋常でない上に、そこに黒装束の一団が居る事すら知らされずに暢気に帰還してきたこれまでの衛兵共と異なり、今回の軍勢は初手から闘うべき準備をして挑んでくる者共である。
 街道筋への前進を妨げられ、数珠繋ぎの馬連では(きびす)を返す事すらできないその中を、立ち往生する一団目掛けて、衛兵騎兵団が前方と左右より押し出して来た。
 剣を抜いて身構える精鋭兵に馬頭がぶつかり合う。衛兵団は横列に幾重にも重なり合って、恰も波が寄せては返すかの如く仕掛けて来る。一方の精鋭兵団は前後左右いずれにも引けずに、最側面の兵のみが衛兵の波状攻撃を受け止めている。二千の精鋭兵も実態として闘いに参戦し得る者は、その最側面の兵のみであった。埒が付かぬ状況を打破せんと、幾人かの精鋭兵が敵陣に突撃した。寄せ来る衛兵騎馬団を避けこれを突破せんとした。が、その騎馬兵の後陣には無数の歩兵団がいた。弓を槍に持ち替えた槍兵団もいた。
 幾筋もの剣や槍が一人の精鋭騎兵に向けられる。甲冑を身に纏うとは云え、喉元や脇、膝裏や肘裏は構造的に脆い。それを知らぬ者はここにはいない。精鋭団の騎兵が振り下ろす剣が無数の敵剣に弾かれ、必死に抗う精鋭騎兵の両脇に敵槍が突き刺さる。膝裏が剣に裂かれる。その鋭痛に耐えながら馬を駆け出そうとするも、流れ出す鮮血は否応なしに精鋭騎兵の意識を遠のかせている。崩れ落ちる様に馬上から倒れ込めば、そこには低く腰を据えた歩兵団が甲冑ごと剣を突き立ててくる。
 甲冑が裂ける金属音と共に、身体に食い込む鋭利な刃の感触が全身を硬直させる。剣が引き抜かれれば、精鋭兵の臓腑が居場所を求めてボトボトとその身体から赤白く湯気立てながら湧き出してくる。尚も衛兵団の剣や槍が容赦を忘れて、甲冑を裂いてくる。そこに立つ精鋭兵が居る限り、その五体を切り刻む様に鈍い光を突き立てて来る。
 精鋭兵はもう痛みすら感ずまい。その兵士の眼は遠くを見て、異物の様に己の身体から這い出て来る臓腑を抑えながら、仰向けに倒れている。
 彼等精鋭兵には何が見えていたのであろうか? 帰りを待つ子供の無邪気な寝顔であろうか……妻の優しい笑顔であろうか……暖かな我家の様子であろうか……だが、その妻のもとに夫はもう戻って来ない。その子を抱き上げる父親はもう何処にもいない。その家の門を潜る筈の主はここで肉塊になって朽ち果てている。
 精鋭兵達は在るだけの血を全て流して死んで逝った。身体のあちこちから臓腑を撒き散らして冷たい地面に伏して逝った。そして、その事実だけは永遠に残るだろう。後に残された精鋭兵の家族は、楽園の兵士共を恨み続けて、いつの日かその身体に剣を突き立てる事を夢見て生き続けるであろう。
 楽園の住人が最後に見たものが、同じ様に精鋭兵に見えていたとしたら、己の所業が因果となって巡って来たに過ぎない。だが、その因果は残された衛兵に伝わり、更に残された精鋭兵の子孫に伝わって、いつまでも巡り絡まり合いながら、永遠に藻掻(もが)き苦しむだけである。

 精鋭兵団の長が退却を指示している。楽園中央の聖堂に走れと号令している。既に幾百の精鋭兵の黒装束が十分に血を含んで、赤黒く地面に張り付いている。その上を精鋭兵達や衛兵達が駆け抜けて、そこに横たわる肉塊は原形を留めず散乱している。
 その泥に塗れた肉片が元は人の一部であった事を思わせない程に異臭を放って散乱し、笑顔で愛しい子供を抱いていた父親が、優しい瞳をしていた夫が、今は大地に散り這って、明日には烏に(つい)ばまれ、人として死ぬる事を許されず、その魂のみ永遠に彷徨し続けるのだろうか、如何にも非業の最期である。
 それでも倒れた仲間の躯を見捨てて、精鋭兵団の長は退却を命じている。仲間の肉塊を蹴散らしながら退却を号令している。
 見事な差配である。生きている者を生かす為に、只管(ひたすら)退却を命じている。ただ、生かす事を考えるのであれば、もっと早くクレオーンの指図に盲従せず己の意思を以って矜持を示しておけば、(いたずら)に悲しみを重ねる事も無かったであろうに、保身の為に教会の威光を笠に着るクレオーンに平伏(ひれふ)して、生かすべき楽園の者を見捨て置きながら、今更生かす事を考えても時は遡ってはくれまいに。

 退却を始めた精鋭兵の一団を阻む様に、迂回していた衛兵騎馬団が襲い掛かって来た。最側面で衛兵の攻撃を受け持ち堪えていた精鋭兵が一人また一人と倒れていく。ジワジワと衛兵騎馬団が精鋭兵を逼迫させて、逃げの一手を取った精鋭の者共を確実に追い詰めている。崩れた陣形は容易には戻りはしない。
 街道の前後から押し寄せる衛兵軍と側面から波状して攻め立てる衛兵団に囲まれて、愈々精鋭の者共に最期の時が近づいている。
 衛兵達に散々に踏み散らされ、仲間の精鋭兵にまで蹴散らされた肉塊がヘラヘラと笑って“次はお前の番だ” と冥界へ誘っている。精鋭兵達は血色を失って、“俺には俺の帰りを待ち侘びる者がいるんだ!” と叫んでいる。“だろうな。俺にも俺を待ち侘びる者がいたよ……” と泥塗(まみ)れになって顔面から飛び出した眼球が語り掛けて来る。
 ドサリドサリと崩れ落ちていく精鋭兵の上を同じ精鋭兵が馬蹄に掛けて、鈍い音を響かせている。仲間に蹴り殺されるか、衛兵に切り刻まれるか、選択肢は二つに一つとなって、精鋭兵は正気を失いながら闇雲に突進を仕掛けて来る。
 果たして幾人が衛兵軍の包囲網を突破できたのであろうか、暗闇に立って蠢く衛兵が蹲って苦しむ精鋭兵に(とどめ)を刺している。砂塵が酷く舞っている筈の街道筋だが闇夜はそれさえ覆い隠して、静かに鈍い音があちこちに響き渡るだけである。

 衛兵軍の総大将は、各隊からの報告を受けて全軍に指示を下した。黒装束の一団が逃げ帰らんとした楽園中央の聖堂に盗賊団の本陣がいると睨んだ総大将は、全軍を聖堂に向けて行軍させ始めたのである。
 衛兵軍の損傷はほぼ皆無であったが、負傷した者へは護衛を付けて最前線近くの兵舎に帰還させると同時に、探索の為に残した衛兵団三千名に合流の伝令を出し、更に安泰であった兵舎へは今回の戦況連絡も付け加えて、再び騎兵・歩兵・弓兵の一組からなる小部隊編成を構築し、整然と聖堂に向けて進軍し始めた。本来であれば倒した敵の遺骸を検分し、その装備状況等から相手方の戦闘能力を計るのだが、この暗闇では致し方ない。止むを得ず、今宵全ての決着を付ける目論見で行軍の歩みを速めたのである。
 今宵 二半時(ふたつはんどき)には楽園中央の聖堂近辺を包囲する事ができるだろう。今回の戦で逃げ帰った黒装束の者が戦況を報告すれば、恐らくは本陣は雲の様に消え失せ、その探索は容易ならざる事態になる。猶予はないのである。

 一方、楽園中央の聖堂に陣取るバスチェス中将率いる一千のハルモニア正規軍は、既に物欲に駆られし楽園の衛兵団がいつ攻めて来てもよい布陣で待ち受けている。ただ、その衛兵団が一万を超える大軍とは知らずに僅かな手勢で待ち構えている。

 同時にその中将軍の様子を遠巻きに垣間見る別の一団が、バスチェス同様に今や遅しと衛兵団を待っている。
「ちっ、何をモタ付いてやがるんだか!」
「中将さんを見失うんじゃねぇぞ! 衛兵共はよぉ、一万超えるそうだぜぇ」
「けっ、こんな貧粗な軍勢なら一瞬じゃねぇのかぁ?」
「なぁに、お偉いさんはよぉ、真っ先に逃げ出すからよぉ、逃げ出した先に廻って仕留めればいいだけだぜ」
 そんな会話が繰り広げられているとは知らず、残されている時間は幾許(いくばく)もないと云うのに、中将の軍は余裕を以って聖堂にジッと構えている。
 そこへ黒装束を纏う精鋭兵数名が命辛々(いのちからがら)逃げ帰って来た。戦況が伝えられているのだろうか、中将軍の兵が慌ただしく動き回って聖堂を拠点に籠城する陣形に再編されている。応援要請なのか、数体のトルーパが聖都に向けて駆け出している。これを遠巻きに眺める一団にも緊張が走っている。

 衛兵団は総大将を囲むように整然と聖堂向けて行軍を続け、やがて眼前にその異様を捉えた。あれ程に神々しく(そび)えていた聖堂は見る影もなく崩れ落ち、ただその形状だけが聖堂であった証として残るのみである。
 衛兵団から見れば、聖堂を中心に煌々(こうこう)と焚かれる篝火が逆に盗賊団らしからぬ振る舞いで、一気に突撃する目論見が挫かれ行軍の歩みを止めると同時に、街道筋を中心に魚鱗の陣形で待機している。数体のトルーパが敵陣を視察するかの様に幾度となく聖堂近辺を巡察しては、本陣で軍議を重ねている様子だ。それもその筈で、中将軍は黒装束を纏っているものの、同時にハルモニアの徽章も掲げている。それを殊更に篝火で照らし付けて無言の威圧感を与えている。
 徽章の偽装は往々にして戦では有り得るが、万一これが本物であれば衛兵団にとっては合流すべき同じ正規軍であるから、接触にはそれなりの準備が必要となって来る。恐らくは、その判断が付き兼ねての巡察であったのだろう。
 一方の中将軍は、衛兵団を当初より敵視しているため、中々攻めてこない様子に寧ろ驚きすら感じている。

 やがて、衛兵団より十体のトル―パに跨った総大将が中将軍内に近づいて行った。自らの身を挺して、この一団が何かを見極める為に近づいて行った。
 充分に総大将の一団が中将軍に臨んだその瞬間であった。中将軍に躊躇は全くなかった。無数の矢が総大将を襲い、重鎧騎兵が円陣を組んでこの一行を仕留めに掛っている。その身体に幾筋の槍を受け大剣で鎧を叩きつけられ、細砂が風に吹き飛ばされる如く、総大将の一行は篝火の下に没した。衛兵軍総大将の呆気(あっけ)ない死を通じて、このハルモニア軍をして偽物と判断した衛兵団が一斉に軍声を上げて動き出し、中将軍が一か所に固まってこれを待ち受けている。

 再び、ハルモニア正規軍同士が血で血を洗う戦が始まった。衛兵団は聖都に名立たる楽園を穢す盗賊団を討伐する意図で、中将軍は強欲に駆られて聖都に反旗を翻す輩を一掃する目論見で、互いに仲間と知らずに再び命を削り合い始めたのである。

 衛兵団が魚鱗の陣形を崩さずに聖堂近辺を一挙に包囲して、一斉に矢の掃射を始めている。中将軍は、焼失した瓦礫を盾にこれを耐えるのが精一杯であった。衛兵弓兵隊は火雨を浴びせ掛けながら中将軍の陣建てを崩し、重鎧騎兵が歩兵を連れて包囲網をジワリジワリと縮めている。
 鎧を打つ鈍い音が静かな闇夜を震わせて、一つまた一つと消えていく命が確かに其処にあった。ハルモニア正規軍の徽章がその名誉をかなぐり捨てて、戦場の地で踏み付けられている。その様はそのまま中将軍の瓦解が近い事を示していた。剣に打ち据えられ槍に突き上げられて、この世への未練を含んだ叫び声の内に中将の軍勢が死に失せていく。煌びやかな正規軍の鎧は内側から血に染まって聖堂の廻りを赤く染めて、そこで説かれていた神の加護とは一体何だったのかと問い正したくなる惨劇が繰り広げられている。

 この様子を遠巻きに眺めている一団は、中央に陣取る中将の動きだけを懸命に捉えながらニタリと厭らしい含み笑いを浮かべて、気怠(けだ)るそうに暗殺の準備に取り掛かっている。
「よぉ、見ろよ! 中将さん結構頑張ってるじゃねぇか」
「ふっふっふっ、誰でぇ直ぐに尻尾巻いて逃げ出すなんて言ったのはよぉ」
「なぁに、もうそろそろだろうぜ」
「そぉれ、中将の軍が逃げ道を確保し始めたぜぇ」
「よっしゃ、そろそろ行くとするかぁ!」
 本物の盗賊の一団が、楽園の住人を惨殺し金品を強奪した憎むべき一団が、中将の逃げ道に忍び寄り始めた。
 ハルモニア正規軍は、もはや軍隊と言い難い有象無象に成り果てながらも、その大将――バスチェスの逃げ場を懸命に確保している。この期に及んでもまだ己の神輿を担ぎ続ける積りの様だ。
「皆の者、安全を確保しながら聖都方面へ撤収せよ!」
 中将の言葉がこの状況下にあって如何程の意味を持つのか、彼は未だに自分一人は無事に聖都に逃げ帰る心持でいる。
 部下を盾にして、バスチェスはトルーパを急かした。その暗闇の先には彼が旅立つ冥府が待つとも知らずに、馬に鞭打って現況から逃避し始めた。僅かな手勢を引き具して、聖都に戻って再び中将の威光を以ってこの衛兵共を打ち取らんと、己の面目に泥を塗ったこの戦いに憤慨しながら逃げている。

 聖堂で命を削る生臭い音が聞こえなくなった頃、中将が馬を留めて悲惨な現場を振り返って見つめていると、供の者はバスチェスを急き立てた。
「中将殿、お早く! ここは未だ危険でございます! 追手が直ぐに参りましょうぞ!」
 その時、共の者が乗る馬の脇から喉元目掛けて槍が突き立てられた。“ぐぶっ!” 最期の声は獣の唸り声とも取れる凡そ高貴な兵士には似つかわしくない音と共に、僅かばかりの手勢は儚くこの世を去った。
「うっ! 何者であるか? 我をハルモニア正規軍中将バスチェスと知っての狼藉か!」
 この状況で地位なぞ何一つ身を守る代物ではないのに、今の彼には威光を笠に着る他に手立てがなかったのだろう。
「ああ、よっく存じておりますぜぇ、中将さんよぉ」
「うぐ! 衛兵共の一派かぁ!」
「いんや、軍隊ごっこの兵隊さんと一緒にしちゃいけねぇな。こちとら歴戦の戦士さんよ。……ただ“元”だがな」
「うぐ……腐臭の者共かぁ! ぶ、無礼は許さぬぞぉ!」
「ああ、許して貰おうとは思っちゃいねぇさ」
「ふっふっふっ、それに作法は忘れちまったからよぉ。無礼があっても仕方ねぇなぁ」
「うぐ……な、何が望みじゃぁ? 金なら後で払ってやるぞ!」
「あぁん? 望みだぁ? けっ、そんならてめえの命を遠慮なく頂くぜぇ!」
「よ、よせ! よさぬかぁ!」
 馬から引き摺り下ろされた中将、いや一人の老人は手足を抑えられて豪奢な鎧を剥ぎ取られると、慈悲もなく喉元を掻き切られて、辞世の句すら謳う事なく、真っ赤に充血させた目で地面を睨み付けながら息絶えた。
 軍にあって唯一クレオーンに異議を唱え正論を以って是を正そうとした彼も、結果的に己可愛さの事勿(ことなか)れに落ち着いて、クレオーンへの恨みだけを残したばかりに、その身分には相応しからぬ寂しい最期を遂げる事となった。形振(なりふ)り構わず己の矜持を通す勇気があればこそ立つ瀬もあったろうに、今は地に這い蹲って、やがては獣の餌に成り果てている。
 後には、戦利品を値踏みする腐臭の者共の高笑いだけが暗闇を騒がしている。闘いに臨むに当たっても中将は、装飾 (まばゆ)い鎧や剣を身に付けていた様だ。純金製の短剣に至っては戦場では無用の寵物以外の何物でもない。掛る人物を神興に据えて命を投げ出して闘っていた兵士達の、あわよくば生き延びて再び愛する妻子に(まみ)えたいと願う無念の殉死は、果たして報われたのであろうか?
 聖堂前では、己に正義があると信じて死に逝く兵士達が累々と、真黒な夜空を見つめたまま静かに横たわっている。彼等がその最後に想ったものが何であったのか? それを知ろうとする指導者がこの聖都には欠落していた。

 衛兵軍が聖堂前を鎮圧し終えた頃、先に走り抜けていた伝令が漸くクレオーンの館に着くと同時に、頭目(かしら)がその配下と共に中将から剥ぎ取った戦利品を持参して来た。
「よぉクレオーン、首尾は上々だぜぇ」
「ふふ、恩に着るよ。でも、そんな物を持って来られても困るなぁ。適当に処分しておいてくれよ」
「ふん、言われる迄もねぇよ。んで、表の商売の方も宜しく頼むぜぇ」
「ああ、分かっているさ。丁度、伝令が来たみたいだ。先に失敬するよ。今度ゆっくり呑み明かそうじゃないか、久しぶりにさ」
「けっ、てめぇに毒でも盛られちゃ堪らねえや。酒盛りは遠慮しとくぜ」
「ふふふ、そんな事しないさぁ、仲間の内はね」
 クレオーンは全てが己の思惑通りに進む状況に満足感を隠しきれず、頭一行を部屋に残して、伝令の待つ部屋に移って行った。自画自賛の慢心がクレオーンの将来に影を落とし始めているとも知らずに、腐臭の世界に生きる者を仲間と信じて部屋を後にした。

 クレオーンが出て暫らくしてから頭は手下に耳打ちをしている。
「お前よぉ……この館に倉庫がある筈だからよぉ……そこにこいつを隠しとけや。分からねぇ様にな、いいな!」
「へい、お頭。万事、心得ておりやす」
「ああ、頼んだぜぇ。まぁ、いつか役に立つ事もあらぁ」
 頭目は純金製の短刀を貧粗な布に包んで手下に手渡すと、用心しながら館を後にした。その手下は、流石に盗賊らしく倉庫の奥――目立たぬ処にこの短剣を隠し込んだ。増長の絶頂にあるクレオーンはこの謀議を知る由もなく、伝令の者へ顔を繕って接している。

 周知の事実に驚くには巧みな演技を要するようで、クレオーンはガクリと床に跪くと、ひどく肩を落として声を震わせながら伝令の者へ尋ねている。内心とは裏腹に不安と期待を顔面に装いながら尋ねている。
「そなた……それは事実か!?  バ、バスチェス中将殿の安否はどうじゃ? ご無事に帰還され得たか? 正規軍はどれ程に持ち堪えうるのか?」
「誠に申し上げ難き事なれど、中将様のご武運を祈るのみであります。ただ悪逆無道なる楽園の者共なれば、正規軍の命運甚だ乏しきと存じます。願わくば増援の下配賜りたく存じます!」
「うむ、心得た。直ぐさま大司教様にお繋ぎして公爵殿下のご下知(げじ)賜わろうぞ」
 伝令の者が(うやうや)しく首を垂れるのを待たずに、クレオーンは取次の間を駆け出すとウパ七世の執務室に向かった。荘厳な螺旋階段を休まず駆け登り、深紅の絨毯に足を取られながらも懸命に走った。重壮な法衣を纏って走れば自ずと息が切れるが、可能な限りの逼迫感を出すには、兎に角走り抜く必要があった。
 須らく計算尽くされた行動である。己を殊更に良く見せる術は心得ている。その為に身体を酷使する事などクレオーンにとっては容易(たやす)い事であった。

第二一話 潰れゆく良識

第二一話 潰れゆく良識

 そのクレオーンの様子に狼狽(うろた)える教会の頂点に立つ老人は、何一つ逡巡する事すら忘れて一国の頂点に立つ別の老人に単に言葉を取り次ぎ、ここにハルモニア正規軍が徴収されるに至ったのである。
 命を懸ける者こそ不運の極みである。
 或る者は両親に感謝の気持ちを込めて固く手を握り合い、或る者は愛しい妻子を強く抱きしめ、“必ず生きて帰るよ” と懸命に笑顔を浮かべては必死に涙を呑み込んで、まさかこれ程安易に己の命が扱われているとは露とも知らず名誉の為に旅立ち始めている。
 夫や息子に憂いを残させまいと、その家族が笑顔で見送っている中を旅立つ兵士の心情をこそ図るべし。許されるならば、もう一度振り返って見ていたい……いや、立ち帰っていま一度愛しき者を抱きしめたい……いっその事この地を捨ててこれからも同じ時を共に過ごしたい……慟哭に似た心情が幾度となく沸き上がってはこの想いを打ち消して、“必ず生きて帰るんだ!”“ここで死んでなるものか!” と涙を浮かべて歩き出している。愛する者を守るのは自分しかいない、その為にも闘いに臨まねばならない、その葛藤に気が狂いそうになりながら重い足を引き摺って大聖堂の前に集まっている。
 帰りを待つ者にできる事といえば、神に(すが)るのみである。その神に最も近くにいる筈の大司教が掛かるていたらくとは露とも思わず、己の命を生贄にしても愛する者を守って欲しいとひたすら祈るのみである。
 理不尽な因習に縛られし聖都では、命を懸けぬ者が命を懸ける者の苦しみを分かち合う事などもう期待できない。神に守られし古の都は、既に見捨てられし都に成り果てていたのである。

 聖都内に常住する一万の軍勢に三万の近隣に駐屯する軍勢を加え、延べ四万の大軍を編成すべく、緊急の軍議――いや、クレオーンの独演会が開催されている。
 クレオーンは、自分に対抗し得る勢力を削る事ができれば上々で、一気呵成に衛兵団を鎮める目論見は元より持ち合わせていない。単に、楽園の者共への憎しみを植え付けて、常駐軍と衛兵団とが共倒れすればそれで十分なのである。そこにこの戦いに臨む者の心情など、幾許(いくばく)の斟酌すら存在していない。
 兵士達は何故死に逝く必要があるのか――即ち、クレオーンの為に滅するのである。兵士達は、たった一人の我欲の為に、暖かな我が子を抱きしめる事も優しき父母の想いに応える事も愛する妻を支える事も投げ捨てて、死に逝かねばならないのである。
 そのクレオーンは、バスチェス中将の弔い合戦を高らかに謳い上げて、兵士達を鼓舞している。しかしその戦略たるや素人同然で、常駐軍を指揮する将校の不満は燻り続けるものの、敢えて水を差してまで口を挟むのも憚られて、貝の様に黙り込んでいる。将校達もまたバスチェス中将と同類であった。
 クレオーンは、聖都常駐軍一万に対し大司教ウパ七世とハルモニア公爵の名において出陣を号令した。
 その軍勢は編隊しながら楽園中央の聖堂を目指しつつ、戦議を馬上で繰り広げては互いに先陣を譲り合っている。戦の経験のない常駐軍と実践の兵士である楽園衛兵団――数こそ競えども、本気で仕合えば一溜りもない。この為か常駐軍の進軍は鈍く、この間に一方の衛兵団は十分な休憩と物資補給を終え、探索の為に各楽園に残っていた三千の衛兵軍すら闘いに加わらんと懸命に楽園中央聖堂に向けて駆け抜いていた。

 夜半 四時(よつどき)、常駐軍の前に悲壮感漂う衛兵団が、暗闇を巧みに利用して急襲を仕掛けて来た。既に衛兵団は、楽園中央の聖堂を発って聖都近くまで押し寄せていたのである。
 衛兵団は聖堂で朽ちた者共の検分を終えて、その者共がハルモニア常駐兵であった事実に愕然とすると同時に、盗賊団の正体こそハルモニア直参の兵士共であり、この者共が負担となった楽園を襲い衛兵達の尊い家族を抹殺したのではと推論していた。
 そこへノコノコと現れたハルモニア常駐軍が、この嫌疑を確信に押し上げた。聖都を信じておればこそ憎しみと絶望感は尚一層に増幅し、その怒りは剣技に優れる者を更に鼓舞して、夜陰に乗じて一気に攻め出たのである。
 一人の人間の欲望を満たす為に三度、天すら眼を背ける無益な殺生が起こされた。冥府へ誘う暗闇だけはその口を大きく開けて、多くの命を呑み込んでいる。
 闘う意義が欠落し加えて技量が劣る上に奇襲を受けたハルモニア常駐軍の瓦解は顕著で、編成も儘ならぬまま出陣してまだ間もないと云うのに敗走を始めている。これに対し衛兵団の団結力は一層堅固となり、悲しみを背負った怒りの矛先をハルモニア常駐軍に向けて一気に吐き出しているかの如く攻め続けている。
 既に街道筋と楽園中央聖堂で充分に返り血を浴びた衛兵達は、人を殺傷する事への良心の呵責も抵抗感も失せ、刃毀(はこぼ)れすら顧みず敵兵を鎧もろごと打ち据えて、躊躇なく仕留めている。無事の帰還を願う家族の敬虔(けいけん)な祈りが天に届くより早く、ハルモニア常駐軍は道伝いにその屍を累々と重ねている。
 やがて、馬頭を突く音も鎧を打つ剣の音も途絶え、闇夜が静寂を取り戻した。バスチェス中将の弔戦の合言葉も虚しく、一万もの軍勢が肉片を撒き散らし大地に血を吸わせて朽ち果てた。一方の勝利を収めた衛兵軍は、憔悴(しょうすい)してその場に座り込み、肩を落として虚しさばかりを味わっていた。

 楽園を襲い愛する者の命を奪いし黒装束の一団へ、ハルモニア常駐軍と合流して正義の鉄槌を下す目論見で出陣した筈であった。然るに、その黒装束の者共はハルモニア常駐軍そのものであった。楽園は二つを残して全て焼失し、そこで待ち侘びていた家族の姿は何処にもなかった。
 衛兵達にはもう帰る処がない。帰りを待つ者もいない。嘗て、希望に満ち溢れてハルモニアを目指し、幾多の試練すら微笑んで耐え抜いてこの地を踏んだ喜びが懐かしい。妻や子、両親の姿が眼を閉じれば浮かんでくる。こうして全てを失う為に生きてきたのではない。
“俺は一体何をしてやれたのか……俺は何を守ってきたのか……”
 打ち萎れて涙すら枯れた一人の衛兵に、別の衛兵が近づいてきた。
「あんた、行軍で一緒だった人じゃないか」
「ああ、お前さんかぁ……お互い無事だっかぁ」
「確かに命は繋いでいるよ。でも、何の為に生きてるんだか」
「あんた、親御さん……は?」
「…………」
「そうかい……済まねぇな、厭なこと聞いちまって」
「いや、いいんだ。お前さんは?」
「兵舎の隠処(かくれが)によぉ……俺の(せがれ)がようぉ……」
「い、いたのかい? いたんだね!」
「ああ、一人でよぉ……あんな狭めぇ処で一人でよぉ……」
「良かった、良かったじゃないか!」
 両親を失ったと云う衛兵は、息子が見付かったと云う仲間を、恰も我が事の様に喜んだ。瓦解した楽園を探索している時に、“子供がいたぞ!”と叫び声が上がっていたのを、確かに彼は覚えていた。その言葉に希望を見出し、皆が懸命に生存者を捜した。その一人が名すら知らぬとは言え顔見知りの一人であった事が、彼には心底嬉しかったのである。
「ああ、ありがとよ。でもよぉ、でも……ち、ちくしょう! なんでだよぉ! なんでなんだよぉ!」
兵士の声は(むせ)び言葉にならない。それが全てを物語っていた。振るえる身体が全てを語ってくれた。溢れ出る涙が全てを伝えてくれた。

 その兵士の子供は、真っ暗な床下の隠処(かくれが)で、膝を組んでジッと耐えて隠れ抜いていた。
 黒装束の一団が楽園を襲う頃、異常に気付いた母親は咄嗟に子供をそこへ隠したのであろう。やがて家屋に侵入して来た者共を追い払わんと、懸命に争ったのだろう。我が子を守り抜くため必死に抗ったのであろう。
 しかし所詮は女の腕力である。
 その命は壮絶なる悲鳴となって散って逝ったのだろうか。だが、命を賭して抗う激しい物音は、床を伝って我が子に“そこに留まれ!”と“そこで助けを待て!”と教えてくれる。床を震わす振動は声となって子に伝わっていた。
 母親の命が途絶えた事も含めて、全てを伝えたのであろう。兵士の子供は、暗く狭いその場所で母親の最期の言葉を信じて、只管(ひたすら)ジッと助けを待ち続けていた。泣き声すら上げず、一人で寂しさを耐え抜いていた。
 その子が発見された時、その子はジッと前を見据えたまま、身動き一つせず膝を組んでいたそうだ。衰弱しきった身体は、もはや自分を支える事もできず、助け出されても笑顔すら浮かべず、硬直した表情のまま一点を見つめていたそうだ。やがて、父親が駆け寄り我が子を抱きしめても尚、その子は無表情のままジッと虚ろな眼差しで前を見つめていたそうだ。幾度となく我が子の名を呼び、頬を優しく撫でては強く抱きしめて、生気を戻そうと必死に叫び続ける父親の声は、虚しく響くばかりであったと云う。飲み水すら受け付けず固く組んだ膝を崩す事もせず、何を思い何を感じているのかすら分からない様子だったと云う。
 だがある刹那、その子が咄嗟に父親の手を握った。強く手を握った。
 手を握る以外は何も様子に変化がない。しかしその意思は、強く握りしめる小さな手からハッキリと伝わって来る。そして父親の胸に(もた)れ掛かると、震える身体で懸命に顔を起して父親を見上げ、一度だけ笑った。たった、一度だけ笑ってくれた。
 残された命の全てを投げ打って微笑むと、強く握りしめていた手から透き通る様に力が抜け、父親に抱かれたままその子は静かに眼を瞑っていった。ゆっくり息を吸い出しながら、静かに母親のもとに旅立った。父親に抱かれる温もりを感じながら微笑んで昇って逝った。
 母親の云う通り一人で耐えて待ち続け、その言葉通り父親は助けに来てくれた。
「なぁ、俺のガキをよぉ……褒めてやってくれよ! 褒めてやってくれねぇか……」
 絞り出す声が静寂の闇に響いて、周りに居る衛兵すら声を籠らせて泣いている。我が妻に我が子に想いを重ねて泣いている。
 これ程に幼い子供に苦しみを与える必要が何処にあったのか? 誰が何の目論見で掛る非道なる仕打ちを重ねる必要があったのか? 周りに居る衛兵の想いはただその一つであった。

 ここにいる衛兵の誰しもがハルモニアの唱える楽園に夢と希望を見出し、懸命に生きて幸せを掴もうとしていた。アレクトの家族も然り、この兵士の家族も然り、皆が(ささ)やかな幸せを掴もうとして必死に生きていた。ハルモニアが謳い上げる楽園の創造を疑わず、ハルモニアを信じその実現の為に身を粉にして忠誠を尽くして来た。
 然るにその楽園を破壊し、(あまつさ)へ無力なる者を無慈悲に葬り火を放ったのは、ハルモニアそのものであった。怒りと絶望感は衛兵の心を(むしば)んで、悪魔に見染められたかの如くハルモニアの軍兵共を切り殺したものの、何一つ心晴れぬ想いが募るだけであった。
 次にハルモニア常駐軍が攻撃を仕掛けてくれば、そこで命を失ったとしても、既に何もかも失った衛兵団に悔い残すものなぞ皆無であった。倦怠感が衛兵団に蔓延し、誰しもが死ぬる事を強く願っていた。
 恐らくは、ハルモニアの兵士達にも帰りを待つ者共がいたであろう。たが、その願いを虚しく奪い取ったのは他ならぬその悲しみを背負いし衛兵――自分自身である。もう終わらせよう……妻や子供の(かたき)を討って誰が喜ぶと云うのか……もう終わらせよう、終わらせたい……

 その時であった。ボツリ、ボツリと語り始める者がいた。聞くとはなしにその言葉は、皆の耳に届いている。
「俺はよぉ。俺は、生き残りよ……」
 この男は、最前線の部隊が聖都に(きびす)を返すより以前に、少数で帰還命令が出ていた頃の兵だと云う。そして、暖かな家族の顔に想いを巡らせて戻って来た楽園は、当に黒装束の者共に襲撃されている時であったと云う。
 彼は襲い来る黒装束の一団に剣を抜いて必死に交戦しては、愛しい家族を懸命に捜し当て、燃え盛る家屋に怯む事なく飛び込んで守るべき者を助けようとしたそうだ。が、そこで見たのは、既に切り殺され火の手が全身に回らんとする家族の姿で、崩れ落ちる家屋に成す術もなく、茫然と火に包まれる愛しい者を見つめるだけ見つめると、狂った様に黒装束の一団に切り掛かり、家族の無念を晴らそうとしたと語っている。生き延びる為ではない、せめて一矢を報いて死ぬる覚悟であったと語っている。そんな想いを知る由もない黒装束の一団は容赦なくこの男を切り倒し、馬蹄に掛けて蹴り飛ばし、地面に打ち付けられてやがて意識が薄らいでいったそうだ。
「俺はよぉ、そこで死ぬ筈だったんだ。死んでカカア達とあの世で合う積りだったんだ。だがよぉ、生きてやがる! 生きてやがるんだよぉ!」
 この男は、死んでおらぬ事を死ぬ程に悔んで、焼け落ちた楽園を彷徨して意味もなく叫び続けたと云う。
 その時、ハルモニア常駐兵の甲冑を纏った一団と遭遇した。その一団は、楽園で死に失せた者を埋葬する為に其処に来ていると告げて、その一団を束ねる長に合わせてくれたが、その長の口からは、この男の想像を絶する事実が語られたと云う。
「あの黒装束共は、ハルモニアの常駐兵士よ。楽園が邪魔になってよぉ、衛兵共が最前線に出ている隙を突いて、焼き払ったのよぉ。お前達は見捨てられたのよぉ。俺達は雇われ兵……上に逆らう事なんぞできねぇ身分よ。嘘だと思うなら、聖堂下の地下墓地を見てみなよ。俺達が指示を受けて投げ捨てた遺骸がゴロゴロ転がってるぜぇ!」
 長の語りを聞き終えるより前に、この男は脱兎の如く聖堂に向け駆け出して聖堂下の地下墓地の重い石扉を開けると、そこには長が語ってくれた事実があった。
「俺はよぉ、最期の一人になってもハルモニアの兵共を切り倒すぜぇ! 嘘だと思うなら、聖堂下にある地下墓地に行ってみなよ。俺達の家族がよぉ、まるで(ごみ)の様に捨てられてるぜぇ!」
 この男の話を聞いて、居ても立ってもおられぬ兵が、一人また一人と聖堂下に走り出した。あたかも何かに憑かれたかの如く、生気を失った眼付で蠢く様に地下墓地に向けて走り出した。あれ程に統率の執れていた衛兵団が、暗闇に吸い込まれる様に走り出している。この男の話は次々に伝播して、走り出す衛兵の数は黒い塊となって蠢き(ひし)めく。
 この様子をこの男はニタリを笑って見ている。この男――鎧こそ衛兵軍のものだが、実態はクレオーンに組する盗賊団の者共であり、衛兵達の家族の命を奪った者共である。そうとも知らず失意にある衛兵達は、この男の言を確かめようと、事実を知りたい、この目で確かめたい……その想いから動き出したのである。

 クレオーンの謀策は執拗にして巧妙だった。
 物資補給の利かぬ衛兵の軍が、ハルモニア常駐軍に一掃されるのは当然としても、余に常駐軍の圧勝で終われば、軍の影響力を削ぐ事ができない。可能な限り、互いに人容を消耗して疲弊して貰わなければ、これからクレオーンが支配しようとするハルモニアにとって不都合である。
 楽園を襲いし首謀者こそ常駐軍と衛兵団に思わせる為に、盗賊共に黒装束を纏わせて幾度となく楽園を襲撃させ、今回の常駐軍にも同様の出立(いでたち)を繕ろわせた上に、敢えて衛兵の大軍に少数の常駐軍を対峙させた。その死体を検分すれば黒装束の一団が常駐軍と分かるのは自然の流れで、そこに常駐軍を派兵すれば、その憶測は事実となって衛兵団の目に映るだろう。そして怒りに駆られて闘いに臨むだろう。が、怒りを持続させるのは困難で、やがて死に急ぐ衛兵団が早期に瓦解し始める。その前に、常駐軍への怒りを何度も植え付けて死ぬまで闘い続けて貰わなければならない。
 その為に、この“生き残り”の男を夜陰に乗じて忍び込ませていたのである。この手の男は一人にあらず、衛兵団のあちこちで思惑通り意気消沈し始めた衛兵達を焚き付けるべく、まさに間者として送り込まれていたのである。
 この謀策は功を奏し、衛兵団は再び怒りを身に纏う事となった。余に惨い地下墓地の惨状は、このまま黙って常駐軍に倒されてなるものかという異常な精神を植え付けさせるに充分であった。衛兵団は悪魔に見染められて、もはや人としての感情の欠片すら消え失せている。闇夜の中で蠢き合い黒い塊となって、次に来るであろう常駐軍への憎しみに燃え淡々と待ち構えている。刃毀(はこぼ)れを砥ぎ石で入念に手入れするその様子が、陰湿な殺人鬼を連想させる。(いたずら)に命を奪い合う虚しを知った理性は闇夜に呑み込まれ、今や遅しと常駐軍を待ち構えている。
 既に日も昇り始めた頃、探索の為に各楽園に残していた衛兵団三千名がトルーパに跨り息を切らせて中央聖堂に合流した時、そこで彼等が見た異様さは“一体ここで何が起こったのか?” と(いぶか)しさを禁じ得ないものであったと伝えられている。

 クレオーンは己の我欲をより確実に構築すべく、次の衛兵団討伐軍の編成も僅か五千程の軍で、当然の事ながら尊い常駐軍の命は露と消えて、多くの悲しみと憎しみをハルモニア聖都民に印象付けている。しかも、少数の手勢で衛兵団に臨ませる暴挙を幾度となく繰り返しては衛兵団への風評を巧みに操って、世上が事実の如何を問い正す術を押し殺している。
 彼は、ハルモニア常駐軍の無駄死を幾度続けさせたのであろうか、衛兵団憎しの潮流が頂点に達する頃合いに、愈々これ等を粛正すべくクレオーンを総大将とする二万の軍隊が動き出した。

 クレオーンが全軍を掌握した瞬間である。
 当初こそ四万もいたハルモニア正規軍は今や半減し、同時に、理性を喪失し生ける(しかばね)の如く剣を振るう衛兵団とて補給物資の欠乏や連戦の疲弊は甚だしく、無敵を思わせたその兵力も衰退し、今では僅か四千程の野党の如き集団に成り果てている。

第二二話 夢紡ぐ糸

第二二話 夢紡ぐ糸

 聖都近くで繰り広げられていた両軍の衝突は、いつしか残されし二つの楽園近隣にまで後退していた。
 この二つの楽園を戦場にして廃墟と成せば全ての目論見は成就する。この楽園に立て篭もる衛兵軍こそハルモニアの危機を招聘(しょうへい)した悪族で、クレオーンはこれ等に神の怒りを示しハルモニアの威光を取り戻した英雄として、永劫にその名を残す……筈だった。

 ハルモニア大聖堂内にある大司教ウパ七世の執務室に向かうクレオーンは、その入り口でネメシス司教と擦れ違った。
 ネメシスは、他の追随許さぬ教義理解に加え、若かりし頃の美貌は妖艶さを伴って人望少なからず、良家の出身を窺わせる品格 相俟(あいま)って、次期大司教候補の呼び声高い才女である。そしてクレオーンが尤も苦手な相手でもある。
「クレオーン、丁度良いところで出会えましたね」
「はぁ、ネメシス司教様におかれましてはご機嫌麗しく……」
「いえ、クレオーン。(わたくし)はこの度の事、訝しく思っているのですよ」
「ネメシス司教様を煩わすとは、如何なる事でございましょう。この私にできる事あらば……」
「そなたでなければ分からない事ですよ、クレオーン」
「はぁ、それは如何なる事で……」
「最初に威光を以って楽園を討伐せしおり、そなた其処の住人を安全な処へ移設したと云っていましたね。一体何処へ移設したのでしょう? それにこの度の悲しむべき争いに、その者達が係っていると聞き及んでいますよ。一体どうやって衛兵軍に合流し、加えて何故ここまで抵抗しているのでしょう?」
「そうでございましたか。それならば、このクレオーン全てを把握致しております。この度の衛兵共の謀反の対処に忙殺され、ご報告できませず誠に申し訳なく……」
「いえ、クレオーン。先程、大司教様にお尋ねし、“疑義あらば納得ゆくまで調べよ“ と詔書(しょうしょ)頂きましてよ。そなたの報告はまた後日承りましょう」
「いえネメシス司教様、その程度の事であればこの私が……」
「クレオーン、(わたくし)が立ち入ると何か不都合ですか?」
「いえ、滅相にございませぬ。ただ、お手を煩わせるまでもなく……」
「ならば、納得いくまで調べてみましょう。後日のそなたの報告と同じであれば何よりですね」
「はぁ、御意にございますが、そのような事に……」
「クレオーン、気遣いは無用ですよ。もしこの度の事、楽園の者達に何か不満が在っての事なれば、神に使える我等の不徳でもありますね。(わたくし)は、改めるべきは素直に改めるも教義に則ると考えます。故に、納得ゆくまで調べたいのですよ」
「はぁ、なれども楽園は今や戦場と化し、野党の類が多く……」
「クレオーン、重ねて言いますが気遣いは無用ですよ。では、後ほど」
「はぁ、お気を付け……」
 クレオーンの言葉は尽く途中で遮られ、最後の挨拶すら待たず、ネメシスはもう歩き出している。クレオーンは一方的に遣り込められた。加えて、相手の名を必ず付けて話し掛けるネメシスの口癖は、時には親し気に時には威圧的に相手を翻弄する。
 内心穏やかならないクレオーンに、執務室よりウパ七世が声を掛けた。
「如何したのじゃ、クレオーン? 入って参れ。ネメシス殿の事は気にせずとも良いぞよ。詮索好きはいつもの事じゃ」
“その詮索好きなのが厄介なんだ” と思いつつも、そうとは口にできぬクレオーンは、大司教への要件もそこそこに自分の館に籠って考えた。

 楽園の住人は盗賊団に始末させている。その亡骸のある家屋に火を放ち、焼け焦げた遺骸を地下墓地に廃棄して人眼に付かぬ様に偽装した。この戦に決着が付いてから、これ等の地下墓地を永遠に封鎖すべく、この上へ聖堂を改めて建立する目論見でいた。
 が、その前にこの地下墓地を調べられては都合が悪い。仮に、戦闘で失われし命をここで丁重に葬ったとしても兵士の遺骸がない不自然さは払拭できない。それに、今回の闘いで衛兵共や楽園の住人の内、幾人かは生き延びているだろうし、その者共の余計な証言をネメシスが拾い上げれば尚更に面倒である。
 ならば、選択枝は一つしかない、“ネメシス司教の暗殺”である。しかも、楽園の衛兵を装った者共に襲わせ、その証言を得るべくネメシス以外は生かしておかなければならない。
 クレオーンは出陣の前に、再び盗賊団の頭を館に呼んだ。

 一方の衛兵軍は、残った楽園に集結し最期の戦に備えていた。クレオーンは、間髪入れず一気呵成に攻め込んで残り二つの楽園を焦土と化す目論見だったが、ネメシス暗殺の段取りに手間取り、止むを得ず総攻撃の時期を延期していたのである。これが楽園に集結した衛兵達に微妙な心境の変化を起こさせ、延いてはクレオーンの謀略に綻びを生じさせているとも知らずに。
 楽園に集結している衛兵の手勢は延べ四千程で、その内の二千名には未だ守るべき家族がそこにいた。即ち、全てを失って鬼畜の如き形相で恨みと怒りに駆られる者と、未だ何も失っていない者が楽園に集っていたのである。
 その楽園には無邪気に走り回る子供達がいる。夫を或いは息子を気丈に激励する優しき妻や心温かき年老いた親達がいる。来るべき時を覚悟しながらも、今この時を精一杯に生きようとする者達がいるのである。その一方で、地下墓地で観た愛すべき者の変わり果てた姿に驚愕し涙する事も忘れて、ハルモニア兵士を殺傷し続ける覚悟の全てを失った者共もいる。
 全てを失った者共は、今ここに生きる者達の姿が在りし日の愛すべき者達を否応なしに彷彿とさせ、未だ何も失っていない者共に羨望の眼差しを向けている。同時に、失った者共の悲しみ苦しみをこの今まさに懸命に生きている者達に負わせる事になる最期の戦を懐疑し始めている。
 戦になれば二度と戻れぬ事を覚悟して、兵士は笑顔を絶やさず振る舞っている。戦になれば二度と戻らぬと承知して、その妻は涙を堪えて夫の身繕いを手伝っている。戦になる事も二度と会えぬ事も分からずに、両親に囲まれ素直に喜んで甘える子供の様子が痛々しい。
 親子三人でこれ迄の苦労話に華を咲かせて懐かしみ、これまで三人で培ってきた生涯を美しく振り返っている。一つ一つ生きてきた証拠を確かめる様に、涙を浮かべて笑顔で語り合っている。明るい未来を掴む為に懸命に耐えてここまで頑張って来た。そして、もうすぐ死んでいく。それでも今はまだ生きている!最期の時が来ても“私達は誰よりも幸せであった” と振り返る為に、今この時を精一杯に生き抜いている。
 優しき両親の暖かい眼差しに囲まれて喜びを抑え切れない子供が走り回って、一人の兵士にぶつかった。
「あっはっは、いやぁ、ボク元気だなぁ!」
「ああ、済みません。この子ったらはしゃぎ過ぎちゃって」
「いやぁ、子供はこうでなくっちゃ! そう、いつもこうでなくっちゃ!」
 兵士は子供を優しく抱き上げて、“怪我しなかったかい?”と慈愛に満ちた瞳で語り掛けて、その両親に恰も大事な宝物を手渡す様に預けている。その両親はその兵士が背負う悲しみを瞬時に理解した。微笑む瞳に光る涙が全てを教えてくれた。背負い続ける苦しみを刹那に分かり合った。その兵士は後ろ髪惹かれる想いを引き摺りながら、笑顔で涙を浮かべて立ち去っている。
 兵士は思った。逡巡しながら思いを馳せて考えた。
“自分と同じ悲しみ苦しみを、今ここで懸命に生きる人々に負わせて、果たしてそれにどれ程の意味があるのか?失った者の悲嘆や憎悪は止む方なし、而して失っていない者へ何を期待するのか? そう、何を期待するのか……できる事ならこれからも今と同じ様に懸命に生き抜いて欲しい。自分の妻や子が迎える事ができなかった将来を真っ直ぐに歩んで行って欲しい”
 兵士は穏やかな気持ちで軍幕の内に入ると、そこに居る衛兵軍の総大将を務める友人の兵士に語り掛けた。“俺達は果たして何をすべきなのか?” と。
 友人の総大将は、友人の兵士を前にしてジッと腕組みしたまま想いを巡らせた。そして、どれ程の時間が経っただろうか、陽も陰り始めた頃に一つの答えを導き出した。
“皆それぞれだったな、皆それぞれだ。この楽園に集って来た時から、そしてこれからも……自分の意思でここへ来て、自分の意思で未来を選ぶだろう”
 総大将は、野党同然とは云え、未だ辛うじて団結している衛兵軍各隊の指揮官を軍幕に呼んだ。そして、斯く語ったと伝えられている。

 緊張した面持ちで軍幕に集う各隊の指揮官を、総大将は決意に満ち溢れた表情で眺め回している。
「諸君、集まって貰ったのは他でもない、これからの事だ」
 ここに集う指揮官達が希望を抱いて住んでいた楽園は既に瓦解し、愛しき者の姿は地下聖堂で冷たく横たわっていた。故に彼等にはもう失うものがない。失うとしたら己の命だけである。各指揮官の顔が強張(こわば)り、愈々死ぬる時が来たかと覚悟を決めている。
「諸君らに問う、我々の命は我々だけのものか?
重ねて問う、我々は何故(なにゆえ)にこの楽園に集いしや?
更に問う、我々は何を成さんと欲するや?」
 総大将は、指揮官の一人ひとりの顔を見つめている。
“この楽園には誰しも……
希望を見出し夢を掴もうと、己の為のみにあらず愛しき者の為にも、幾多の艱難(かんなん)を共に凌いで必死になってやって来た。その愛しき者の命を無下に剥奪された者が、ただ項垂(うなだ)れるだけなら、武人の誉れに(もと)るだろう。だが、愛しい守るべき者がいる武人は……その者がいても尚、仲間の為に命を投げ打つが武人の矜持か、反対に守るべき者を命の限り守り通すが武人の誉れか。では、武人ではない愛しき者達――老人や子供達、そして武人の妻達は……共に死すべきか、生き抜くべきか。皆とここで死するを美徳とするなら、死ぬる為にこの楽園に遣って来たのか?
この楽園には誰しも……”
 各指揮官は、同じ回廊を廻り続けるかの如く、苦しみながら逡巡している。総大将は、苦しむ指揮官達を慈しむように眺めて、総大将に祭り上げられる前の普段着の口調で語り始めた。
「なぁ、俺達はさぁ、今まで自由に生きてきたよ。誰に強制された訳じゃない、自分達の意思でここに来たんだ。じゃぁ、これから何処に進むのか……それも自分自身で決めればいい。そう思わないか?」
 各指揮官達が迷い込んでいた回廊は、漸くその出口を開き始めた。
「ふふふ、確かにそうだった。そうさ、そうだった。ハルモニア憎しで、連中の思う壺に嵌る処だったよ」
 それぞれの指揮官の表情に暖かな人の血が戻っている。この楽園に辿り着いた頃の豊かな気持ちが、沸々と音を立てて沸き上がっている。
「しかし、前に進むも後ろに進むも、周りは敵ばかり……これをどうしたら?」
 総大将は即座に応えを出した。
「ファウナ自治領の首長は仁徳の人と聞く。みんな覚えているか? 嘗てバイア王国がこの世界の秩序を覆さんとして共和国と争った時の事を! 近々では、覇権を握る為に王国近辺の自由都市を侵略し始めた時の事を!」
「ああ、知っているよ総大将。結局は王国の夢はどっちも(つい)えたね」
「そう、王国の野望は全て崩れたな。そのいずれも幾千万の剣を構える者共の中へ、何も持たずに、たった一人で殴り込んだ人のお陰でな」
「ああ、そうだった。そうだよ、ハベスト公爵だろう? 知ってるさ。
でも……でも、今からお力に(すが)るにも、もう時間が……」
「俺は、聞いた事があるんだ。ファウナ首長テミスこそハベスト公の一番弟子だと。考えてみろよ、今の闘いでもファウナへ投降した衛兵は多いよな。でも、そのファウナからは矢一本すら飛んで来なかった。それどころか兵を受け入れていたじゃないか。俺は思うんだ、生き抜く為に投降しても卑怯じゃないと。そしてファウナは必ずこの想いを受け入れてくれると」
 一同を見渡しながら、総大将は意を決して皆に自分の考えを示した。
「この楽園を捨てて、最後の楽園へ全員で移動しよう! 家族の居る者はファウナへ投降させるんだ。無論、既に失くした者達も生き抜く事が供養ならファウナへ進めばいい。未だ安否の分からぬ者は隊を作って、納得いくまでこの領内を隈なく探索し続ければいい。その後で、ハルモニアの者共へ、武人の誇りを掛けて仕掛けるもよし、安住の地に赴くもよし。家族の眠るこのハルモニアの地で愛しい者の無念を晴らすのも無論よしとしたい。どうだ? どう思うか?」
「総大将、あんたはどうするんだい?」
「俺か? 俺は最後を選ぶ積りだよ。俺にはもう、ここしかないから……眠る処はここしかないからな」
「ふふふ、あんたならそう言うと思ってたよ。俺も付き合うぜ、あんたと同じ理由さ。皆は皆の思う処へ胸を張って歩めばいいさ。ふふふ、久しぶりだよ、こんな自由な気持ちになれたのは」
 各指揮官が陣幕を後にして暫らくすると、衛兵軍は一体となって後退を始めた。楽園の住人を取り囲む布陣で最期の楽園に向かって胸を張って一斉に退却を始めた。
 驚いたのはハルモニア正規軍である。ざわつく楽園の様子から総攻撃を仕掛けて来ると身構えていただけに、衛兵軍の退却は意外で、寧ろ何か企てがあるのではと訝しがり、クレオーンのもとへ伝令を出す以外は、距離を保ってゾロゾロと衛兵軍に追従するばかりである。
 衛兵軍は後ろに続くハルモニア正規軍を牽制しつつも、最後の楽園を目指して堂々と歩みを進め、月が煌々と昇る頃に悠然として楽園に入城した。ほぼ同じ時に、クレオーンのもとへ伝令が届くと、彼は烈火の如く怒りを示して総攻撃を指示すると、ネメシス暗殺の謀議に時間を費やし過ぎた事を後悔した。万一、最後の楽園が戦場となって自暴自棄になった衛兵軍がファウナ軍へ仕掛けたら、ファウナとハルモニアとの全面戦争となる。そうなればハルモニアの敗戦は自明の理で、己の野望はそこで(つい)える。ネメシスより先に自分が血祭にあげられる。
 クレオーンは、生れて初めて神に祈った。ファウナが死に絶える者共を淡々と見捨て、衛兵共がその家族 諸毎(もろごと)死に失せる事を強く祈った。
 だが、クレオーンが地獄と成れと祈りを捧げるその最後の楽園では……
 守るべき家族と共にファウナへ移り命を繋がんと心を固めた者達が、未だ安否の分からぬ者を探すべくこの地の全域に希望を繋ぐ者達が、そして武人の誇りを掛けて愛する者の仇を取るべく死に逝かんとする者達が、己の信じる処を己の意思で選んで、歩み出そうとしていた。

 最後の楽園に到着すると直様に衛兵団の総大将が、自らの命一つを盾にして、一人で敵陣ファウナへ乗り込んで行った。襲い来る死の恐怖を必死に乗り越えながら、嘗てバイア王国の大軍を前にたった一人で挑んだハベスト公爵を自らに(なぞら)えて、ファウナ砦の城門前に毅然として立った。
「ファウナ殿へ願いの儀、是あり! 開門されたし! 我、開門を願う者なり! 開門ー!」
 総大将は声の限りを尽くして、高く大きく(そび)え立つファウナの鉄の城門前で叫び続けている。その様子を最後の楽園の者達全員が固唾を呑んで見守っている。
「開門ー! 開門願う! 命を、命を繋ぐ者共がいる! 願わくば応えたし! 開門ー!」
 月明りの夜の中で、必死に総大将の声が響き渡って、虚しく木霊している。
「願わくば、願わくば応えてくれい! 明日に希望を繋ぐ者がおる! 開門ー! 開門を願う!」
 楽園の者達の頬に涙が伝わっている。思えば、(いたずら)に戦を仕掛けたのはこちら側。今更、何をか言わんや。虫の良過ぎる話じゃないか、矢張りここで死に絶える命運なのだよ。総大将、もういい、あなたは皆を守ろうと必死に叫んでくれた。もういい、覚悟を決めよう……
「開門ー! ファウナの仁徳は如何に! 開門ー! 開門を願う!」
 総大将の悲痛な叫び声は、鉄の門前で無情に砕け散り希望が闇夜に呑み込まれる。子を抱きしめた母親は、これからこの子に襲い来る恐怖を詫びて、年老いた夫婦は息子を何一つ助けてやれぬ事を嘆いている。既に全てを失いし者は、同じ悲しみを仲間に負わせる苦しみに耐えている。
「開門ー! 聞こえぬのかぁ! ファウナの仁徳はそんな程度かぁ! 開門ー! 届かぬのかぁ! これ程云うても聞こえぬのかぁ!
開門ー!かい……」
 総大将の(かす)れた叫び声が終るか終らぬかの時だった。天が割れ大地が裂けるかの如き大轟音が暗闇を激しく振るわせた。
 鉄の城門が、高く大きく(そび)え立つファウナの鉄の城門が、地の底から湧き上がる音を轟かせて重々しく(きし)みながら開き始めている。その開く鉄門からは篝火の眩い程の光が、目を開けて見つめるのも狂おしい程に真っ直ぐに楽園に届いている。
 ゆっくりとゆっくりと開く鉄門から零れる篝火の光を背に受けて、一人の人間が総大将の前に近づいて来る。誰一人護衛すら付けずに総大将の前に進んでいる。
「我が名は、タウ・キャンベル。アルティス共和国ファウナ自治領近衛少将を務むる者なり。
命を繋ぐ者がいると聞く、明日に希望を抱く者がいると聞く。
貴公に問う、その真意や如何に!」
 総大将の頬を涙が濡らしている。鉄門から届く光がその涙を綺羅々々(キラキラ)と照らしている。
「我は、我はハルモニア自治領衛兵団総大将ロハス・ケーツ。訳あってハルモニア自治領近衛軍と一戦 (まみ)える者なり。なれど、なれども……」
 ロハスは流れる涙を拭う事もせず、在りのままの心情を全て露呈した。タウはジッとその瞳を見つめて、清らかに微笑むとロハスに応えた。その爽やかな声は、楽園の者の耳にも明瞭に届いて来る。
「ロハス殿。ファウナは、希望が損ねるを許さず、夢が潰えるを惜しむ地なり! 訪れる者は是を拒まず、この城門を潜りて明日を掴まれよ!」
 このハルモニアで起こった惨劇を生き抜いて、今もファウナで夢と希望を追い続ける者は、この時の様子を斯く語り伝えている。
“夢を呑み込む暗闇に 希望の糸を光が(つむ)ぐ” と。

第二三話 それぞれの矜持

第二三話 それぞれの矜持

 ファウナで生き抜く決意の人々が、領線の大河を跨ぐ石橋で幾度も幾度も振り返りつつ、二度と(まみ)えぬ人々に“想いを遂げよ!”と涙する。愛しき者はこの地にいると信じる人々が、ゆるりと流れる大河に沿って何度も何度も立ち止まり、楽園に留まる人々に“永遠(とわ)に忘れぬ!”と誓いを立てる。仇を打たんと楽園に留まり命を散らす人々が、越える事のない大河の前で只ただ静かに頬笑み零して、ここを去りて誇りを繋ぐ人々に“我が生様を語り継げ!”と送り出す。各々が己の意思で道を選び互いの想いを携えて、幾重の艱難(かんなん)あろうとも厭わずこれを受け止めて、ここに我ありと胸を張り己の命運を受け入れた。

 三十間幅の石橋の(たもと)(そび)えるファウナの砦は、先程まで敵対していた二千名を超える楽園の人々の救援に惜し気もなく勤しんで、(あまつさ)え楽園に物資を補給している。幾連もの幌馬車がファウナへ移住する人々の希望を乗せて馳せ始めている。このハルモニアの地に希望を繋ぐ人々の姿はもう見えない。
 その砦の前で、タウは静かにロハスは潔く佇んで、武人の矜持を認め合う。愈々ハルモニア正規軍との闘いの時が近づいている様だ。
「受け入れて貰えただけでも有難いのに、物資の補給とは……誠に痛み入ります。ファウナの仁徳、まこと噂に違わず。我等が目指した楽園は、この大河を超えた先にあったのですな」
 タウは悲しげに微笑んで、己の大剣をロハスに差し出した。
「これを」
「タ、タウ殿?」
不躾(ぶしつけ)ながら、ロハス殿の剣は刃毀(はこぼ)れておる。それでは貴公の想い遂げられますまい」
(かたじけ)ない。私は総大将とは云え所詮は田舎者ゆえ、タウ殿に応える物を持ち合せておりませぬ。なれど、これ程に生きている事が楽しいと感じた時は在りませぬ。我が想い成し遂げても尚この命あらば、貴公に一献差し上げたい」
「承知しました。ならば私はこの場でロハス殿を待っております」
 ロハスは屈託なく笑みを湛えて、二度と戻る事のない石橋を渡り始めた。タウはその後ろ姿を飽く事なく見送り続けている。やがてロハスの後姿が未練を断ち切る様に一度も振り返らず楽園の城門の内に消えて行くと、楽園に籠城し武人の意地を通し続ける覚悟を決めた衛兵達に向かってタウが渾身の想いを込めて透き通る声で叫んだ。
「ハルモニア衛兵軍のご武運を祈る!」
 ファウナ二十万の大軍は大河に沿って横隊すると、楽園衛兵の背後を守り通す意気を示さんと一斉に敬礼し、楽園から生き生きとした(とき)の声が上がりこれに応えている。

 クレオーンからの総攻撃の伝令が届いたのは、楽園衛兵軍が全ての意を決し終わった後の事であったと云う。クレオーンの邪なる祈祷虚しく、天は彼を突き離しここにクレオールの謀略は終焉を迎える時が遂に来た。

 ハルモニア常駐軍が、楽園に対峙しこれを取り囲んで火攻めで落そうと楽園の背後に回り込めば、ファウナ軍が矢を一斉掃射してこれを阻む。加えて、楽園城壁上部の回廊の衛兵軍より矢が打ち下されて、常駐軍は動き回る的と化している。常駐軍が魚鱗の陣で正面突破を図ろうにも、そもそもこの楽園は兵舎であり領線を警護する要塞であるから、その城壁は容易には壊れない。加えて十二分な物資と武具を備えた堅固な要塞は、頑として意地を張り続けている。
 しかし如何せん多勢に無勢、衛兵軍も意地だけでは常駐軍を駆逐するには至らない。楽園正面へ打ち込まれる火矢は否応なしに兵舎の所々を焼き払っている。嘗て衛兵軍が常駐軍に仕掛けた波状の攻撃を、今度は常駐軍が衛兵軍に仕掛けて確実に衛兵軍を追い詰めている。

 タウが歯軋(はぎし)りして、この様子を見守っている。
「少将、なりませぬぞ! 我軍がこの橋を渡れば、即ちファウナとハルモニアの全面戦争となります! 自重なされませい! 全面戦争となれば数多の命が失われます! 耐えて下されませい!」
 ファウナの将校達とてタウの心情を十二分に理解しながらも、一軍を預かる者なればこそ軽々には動けない。故にタウはその美しい唇が切れんばかりに歯軋りして、ロハスとの約束を果たすべく、その場でじっと待ち続けている。常駐軍の火矢を受け炎上する楽園の炎は、失われていく衛兵達の命の数だけ勢いを増している。それでもタウは、ロハスら楽園衛兵達の武運を頑なに信じて、我慢を重ねて懸命に耐えながらそこに佇み続けている。

 衛兵軍が城門より討ち出ている。
 彼等の愛しき家族は既にこのハルモニアの地で夢と希望を打ち砕かれ、衛兵達が満身の力を込めてその無念を晴らしているのだろうか、その剣技は益々鋭く見事な程に美しく、やがて幾重に連なる常駐軍の刃を受けて、一人また一人と愛しき家族の待つ地へ旅立っている。それでもロハスは、眼前に迫る死の恐怖に呑み込まれる衛兵達に向かって、“愛しき者達が味わったこの悲しみと苦しみを思い出せ!” “今この戦いに臨む我々はまだ幸せぞ!” と必死に叫び続けている。
 数に優る常駐軍は、やがて楽園北城門を落とし雪崩を打って楽園内に侵入して来るも、これを迎え撃つ衛兵の剣技は後世に語り伝えられる程に美しく、微塵の迷いもない切先(きっさき)は当に己の正義を確信して繰り出され、楽園は容易には崩れない。
 ロハスが先頭に立って剣を振るい、仲間を鼓舞せんと声の限り叫び続けている。
“我々には正義がある! 闘う理由がある! 引いてはならぬ!
どの面下げて散って逝った者達に詫びるのか! 我々こそが正義じゃ!”
 ロハスの仲間が常駐軍を前に次々と倒れている。その身体に無数の剣を受けて、己の誇りを携えたまま前のめりに倒れて逝く。
「ぬぉー、まだじゃ! まだ倒れてはならぬ!」
 仲間は満身創痍となって、血飛沫(ちしぶき)を上げながらも必死に立ち上がろうとしている。
「ぐっふ……ふっふっ、そうじゃまだまだじゃ! こ、この程度では、あの世に逝って息子に……あ、合わす顔が……な、ない……わい……」
 別の仲間が常駐兵の槍を受けて膝を付いている。
「そ、総大将! お、お主と共に……た、闘えて……良かった! さ、先に逝くぞ!」
「戯け者ー! 諦めるでない! まだ、お主は闘える! 諦めるでない!」
 ロハスの必死の叫びを受けながら、仲間は笑みを湛えて倒れて逝く。そのロハス目掛けて矢が飛んでくる。咄嗟に身を挺してこれを受ける仲間がいる。
「ぐっふ! あ、安心いたせい! ま、まだ倒れは……せぬ! そ、総大将を一人には……で、でき……ぬから……な」
 そう言葉を残して仁王立ちになって、常駐兵を睨みつけたまま絶命して逝く仲間もいる。
「ぬぉー、シッカリいたせい! まだ、逝くのは早い! シッカリいたせい!」
 ロハスの懸命の叫びも虚しく、勇猛なる仲間は次々とその尊い命を愛しき者が待つ地へと差し出して、砂塵が舞い狂う戦場の中に倒れて逝く。夢を語り合い希望を託し合った仲間達が、己の矜持を通し役目を勤めて、喧騒の中に音もなく崩れて逝く。それでもロハスは仲間の想いを受け継いで、最後の一人になっても闘う強靭な意志を携えて、前へ前へと討ち出している。声の限りを尽くして、一歩を踏み出し続けている。
「我々こそが正義である! 後世伝え継ぐべし! 正義は我々に在り!」

 ロハスの叫びは、大河を挟んで壮絶なる楽園の様子を見守るファウナ軍に伝わっている。タウは、身体の震えを抑え切れずにいる。怒りと悲しみが幾重にも重なって彼の感情を強く揺さぶっている。やがて、楽園での刃を重ねる音が弱く(まば)らに響く様になる頃、眩い程の光を伴い朝日が昇り始めると、タウは一人動き始めた。刹那、一人の将校がタウの前に立ちはだかる。
「そこをどけ! 退いてくれい!」
 タウの瞳は正気を保ったまま、武人の意地に満ち溢れている。将校は柔らかな笑みを零してタウに語り掛けた。
「少将殿。丸腰で敵陣へ向かわれるお積りか?」
 この将校はキャンベル家に永年仕える下士官で、タウの事を幼少より熟知している。
「ぬぅ!」
「少将殿、これを」
 将校は己の腰に携える剣をタウに手渡して語り掛けた。
「我、幼少の折りよりお仕えしタウ様のご気性知らぬ訳でなし。良くぞここまで耐えましたなぁ。いざ、お供仕りましょう!」
「ぬぅ! なれどこの橋を渡れば軍律違反ぞ! それをうぬは承知で……」
「後ろを見られよ、タウ少将!」
 今までタウは瞬きすら忘れて楽園の様子を睨み付けて、武人として軍律を守り通さんとする意識と武人として助太刀せんとする意地とに挟まれて、怒りと悲しみに身悶えしていた。それは、彼一人ではなかった。少将軍の誰しもが同じ瞳で楽園を見詰ていたのである。
「ぬぅ! どいつもこいつも愚かな……」
 下士官はタウの言葉を遮って応えている。
「ふっ、どこまでも愚か故に、ここまで少将に付いてきておりまするぞ!」

 タウは剣を抜いて自軍に向けて叫んだ。
「これより、我、一個人の想いにて助太刀に参る! 一武人の意地の為に友を助けに参る! だが、追随これを許さず! この橋を渡れば軍議に諮られると知れい! 皆の者はここに留まれい! 繰り返す、追随これを許さず! これからは我一個人の思恩にて動くのみである!」
 そう言い終ると、タウは一人で馬を駆け馳せて遂に橋を渡った。
 その瞬間、山が動いた。怒涛の軍声が地を揺らして、二十万の大軍が一斉にタウに従う。何一つ疑わず、タウの命令すら素知らぬ振りをして、轟き渡る声と共に大河を渡る。
“我等タウ軍! 少将一人を討ち死させてなるものか!”
“少将の向かうところ正義あり! 少将に続けぇ! 楽園の衛兵を助けよ!”
 軍議に諮問されようが出世の道が途絶えようが、そんな小事はお構いなしに、疑う事を知らずに一目散にタウに従っている。
タウの瞳に涙が浮かぶ。“どこまでも愚かな者共が……こんな俺に付いて来るのか……こんな俺に……” タウ軍の豪声は地響きになって、楽園を包み込んでいる。

 驚いたのはハルモニア常駐軍である。楽園に止めを刺さんと一気に攻め出す積りが、腰が砕けて散りじりになって楽園から撤退し始めている。タウ軍は一気に楽園を取り囲み、直ぐ様に救援兵を送り込むと、負傷者を次々に運び出しては(くすぶ)る炎を鎮火して廻っている。
 ハルモニア常駐軍は、遠巻きに陣を立て直して恐る恐る使者を出して来た。
「我等、謀反人を討伐せんとするハルモニア正規軍なり! ファウナ軍に申し伝える! 軍を引かれたし!」
 使者の口上を遮る様に、タウは毅然としてこれに応える。
「我は、タウ・キャンベル! 武人の矜持を蹂躙するを看過できぬ者なり! そもそも、謀反の証や如何に!」
 煌々と昇る朝日の中、タウ軍は楽園の誇りを信じてハルモニア正規軍に対峙した。ここに、同じハルモニア兵同士の虚しい戦に終焉が告げられ、同時にクレオーンの謀議は完全に瓦解するに至ったのである。

 両軍の睨み合いは長く続いた。ハルモニア軍は、ファウナ軍が大河を渡り始めるや否やクレオーンへ伝令を出し、タウ軍もまたファウナ本営への連絡を手落ちなく伝え、両軍共にその指示を待っている。睨み合いと云っても、襲い掛からん程の気概を伴うタウ軍の前にハルモニア正規軍は只管(ひたすら)怯え震えるばかりである。
 怯え震えるのは、単に前線の常駐軍のみではない。楽園総攻撃により陥落近いとの報を最初に聞いた時、クレオーンは己の神に心底感謝し館で一人祝杯を上げ高笑いに包まれていた。その興が醒めぬ内にファウナ軍の侵攻の続報を聞いたのである。しかもファウナ軍が、陥落寸前の楽園の護衛に入ったとの報であった。ファウナ軍との衝突――勝ち目のない戦こそ、クレオーンが尤も避けたかった惨事である。だが事実、動かぬと思い込んでいたファウナが動いた。
 クレオーンは、この惨事を避けるべく目紛(めまぐ)るしい程に考えを巡らせては、一人苛立っている。そこへ、自室をノックする音が響いた。
「誰だ!後にしろ!」
 声を荒げて扉に向かい直すと、そこへネメシスが現れた。
「クレオーン、案内も乞わず入って来てごめんなさい」
「あっ、ネメシス司教……失礼しました。少々込み入った事が起こりまして……」
「知っていますよ、クレオーン」
「えっ?」
「ファウナ軍が侵攻を始めたそうですね。噂通りこの聖都を攻める目論見でしょうか? あなたはどう思いますか、クレオーン」
「無論です。そもそもファウナはその積りで……」
「本当にそうでしょうか? そもそもファウナにはその意図は皆目なかったと思いませんか、クレオーン」
「こ、これは聡明なるネメシス様のお言葉とも思えませぬ。予てご報告致しております通り、邪なる物欲に駆られた楽園の者共が、ファウナの野心を利用して……」
「クレオーン、では何故ファウナは大河を前に今まで侵攻して来なかったのでしょう? ファウナの軍事力を持ってすれば、ハルモニアを呑み込む事など造作もない。私はそう思いますよ」
「ファ、ファウナは我々が疲弊するのを待っていたのでしょう。きっとそうです」
「きっと? “きっと”とは随分不確かな意見ですね。貴方らしからぬ言葉だわ、クレオーン」
「……申し訳ございません。しかしながら、こうして議論を重ねる時間も余りありません。ファウナの守銭奴共が、この神聖なる地を配下に収めんと侵攻し始めたのは、紛れもない事実なのですから」
「そうでしたね。その事で私もここへ来たのです。一緒に前線へ向かいましょう! そして直接ファウナ側へ真意を(ただ)しましょう! いいですね、クレオーン」
「いえ、とんでもない! そんな危険な処へネメシス様をお連れする訳には参りませぬ!」
「無用な心配ですよ、クレオーン。もし、私を殺すのであれば矢張り貴方が言う様にファウナは考えているのでしょうから。私の命が全てを白日のもとに曝け出してくれます。これも神の意志と思いますよ」
「し、しかし……」
「クレオーン、時間がないと貴方自身も言いましたね。そう、猶予はないのですよ。さぁ、参りましょう」
 ネメシスはそう話し終えると、一人クレオーンの館を後にした。ネメシスが部屋を出ると、クレオーンは拳を机に振り下ろして舌打ちした。
“く、くそぉ! あの(あま)生かしておけぬ! ファウナに会わせてなるものか! 泣いて命乞いするがいい! 生き地獄とは何かを教えてやる!”
 クレオーンの形相は最早(もはや)悪魔そのものと化して、前線へ向かう途上でのネメシス暗殺の手筈に思考を集中させている。

「へっ、一方的に遣り込められたもんだよなぁ。お前らしくもねぇ」
 何処から入って来て、何処に身を隠していたのか、忽然と(かしら)が現れた。
「うっ! 君かぁ。一体いつの間に? まぁいいさ丁度良かったよ」
「けっ、またお仲間を討とうってんだろう?」
「話が早いね。だが、今度は難儀だな……」
「なんだぁ? 珍しく弱気じゃねぇか。いつもの様に闇打ちすりゃいいんじゃねぇのか?」
「いや、ネメシスの背後にはね、伯爵が付いているのさ。奴がキッチリ護衛を付けて来るよ」
「伯爵だぁ? 公爵の甥っ子かぁ。って事は精鋭兵共がもれなく付いて来る訳だな」
「ふっふっ、そう言う事だな。まぁ、前線到着迄の凡そ十日間が勝負になるね。言わずもがなだけど、(かしら)……この俺が失脚したら君達だって芋蔓式に晒し首だぜ」
「けっ、威すんじゃねぇよ。随分前から百も承知だぜ」
「ふっふっふっ、いい仲間を持ったよ。後は、聖堂下の地下墓地の処理だな。早めに片付けないといけないなぁ」
「……じゃぁ、俺は手筈組んでくるぜぇ。墓地どうするか決めたら……まぁ、手伝わねぇ事もないな」
「ふっふっ、頼りにしてるよ」

 頭はクレオーンの館を裏口から後にすると、手下に耳打ちをしている。
「そろそろ潮時かもなぁ。この騒ぎで一稼ぎしたらふけるぜぇ! 準備しとけよ」
「へい、お頭。クレオーン様のお手伝いはどうしやす?」
「馬鹿野郎! 精鋭兵相手にどうしろってんだよ! もし、司教が一人でウロウロしたら別だがな。まぁ敵も阿呆じゃねぇだろうしな」
「へい、お頭。万事承知いたしやした」
「ああ、任せたぜぇ。けっ、大して儲けなかったなぁ!」
 一方、ネメシスがクレオーンの館を出ると直ぐ様、伯爵配下の精鋭兵が二重三重の警護線を張って彼女の館まで護衛すると、その館には伯爵――プルトス・ハルモニア本人が、葉巻を燻らせ葡萄酒を味わいながら、彼女の報告を泰然として待っていた。
「お待たせ致しました、プルトス殿下」
「いえ、司教殿もご苦労様でした。愈々、クレオーンの尻尾を掴めますね。まぁ、いつまでも悪が蔓延(はびこ)る世は続きませんねぇ。大司教も伯父上もとんだ奴に踊らされたもんだ、あっはっはっ。それはそうと奴の事だ、前線迄の道中で司教殿を亡き者にして来るでしょうねぇ」
「まぁ、物騒な事ですわね。お守り頂けるんでしょう? プルトス殿下」
「ふっふっふっ、無論ですよ。ご安心あれ。我が配下の者が昼夜を問わず護衛しますよ」
「頼りにしております、プルトス殿下」
「もしも、万一の事があればファウナ軍へお逃げなさい」
「えっ? 敵軍にですか? 逆に危ないのではないですか?」
「あっはっはっ、ファウナが本気でハルモニア支配を目論んでいると思いますか? 我が自治領には鉱脈は在りませんよ。あるのは葡萄畑ばかり、後は痩せた土地が広がるのみ、その割に人口も多いし、教会の運営資金も莫大だしね。支配したらお金がいくらあっても足りませんよ。そんな不採算な事をファウナがする訳がない。自明の理ですよ」
「でも、クレオーンはどうしてファウナに喧嘩を売ったりしたのでしょうか? 解せませんね、プルトス殿下」
「脅せばお金を出すとでも思ったのでしょう。心貧しい者が考えそうな事ですよ」
「まぁ、そんな酷い事を仰って、ハルモニア家に傷が付きましてよ」
「あっはっはっ、僕は傍流だしね。あっそうそう、ファウナがハベスト公爵殿下に仲裁を依頼した様ですが、本当に来たら厄介だしその前に片付けてしまいましょう。司教殿がファウナに会って軍幕会談した時点でクレオーンは……まぁ、そういう事ですね」
「はい、プルトス殿下。諸段取りは理解している積りですわ」
「ふっふっふっ、これは聡明なる司教殿に対して失礼しましたね。では、後はよしなに」

 クレオーンが最後の足掻きを企てている頃、そしてネメシスがプルトスとクレオーン失脚の策を弄している頃、タウ少将軍が領線を越えてハルモニア領に進攻したという報が、ファウナを騒がし、自治領副首長を務めるエリスが血相を変え首長に詰め寄っている。
「テミス首長、如何致しましょうか? あれ程に自重せよと申し伝えたのに! ハルモニア軍と正面衝突すれば、後々の幕引きが面倒となります」
「ふむ、少将には少将の考えが有っての事でしょうな。それに、既にこのファウナに投降して来た者の事情調書に依れば、我々ファウナ自治領がハルモニア衛兵軍と結託して、領地併合を企てていると流布されているそうですな。この虚言を少将は知っておりましょう。知っていて進攻したのであれば、相応の事情が生じたと考えるべき。ふむ……私が現地へ赴きましょう。少将からも先方の指揮官からも詳細を伺いて、もし我々側に落ち度あれば、正式にハルモニア殿へ謝罪し、そうでなければ主張すべきを主張して参りましょうぞ」
「ならば、このエリスが名代と成りましょう。前線は危のうございますれば」
「いや副首長、この度のハルモニアを震源とする事由では数多の犠牲者が出ている由、既に承知のとおりです。一刻も早く結論を出さねばなりますまい。なればこそ、このテミスが命に代えても納めねばならない。それが人の上に立つ者の責務と恩師よりご教示頂いた事があります。左様……今回このテミス、動くのが遅すぎた。それが無念でならない」
「しかしながら、実情を把握するにも、他国の事ですし」
「事実はそうかも知れませんな。だが、それでも責務を負う者は余所の事では済まされぬ。故にこのテミス、己の身を捨てても納めねばならぬのです」
「首長の想い……不肖ながらこのエリス、(しか)と承りました」
「良きかな。ではエリス殿、私が不在中はファウナを頼みましたぞ。さて、それでは直ぐにでも参りましょうかの」

 両軍が睨み合うこの戦場に、伯爵の威光を受けたネメシス司教がクレオーンを具してやって来る。加えてクレオーンの意では儘ならぬファウナ自治領首長までもやって来る。そうとは知らぬクレオーンはネメシス暗殺の機会を虎視眈々と窺いながら、己の終焉の地へと歩んでいる。一歩を踏み出す度に、謀議を重ね数多の命を消散させてまで掴もうとした彼の未来が、心細く閉じていく。
 ただ悲しむべきは、(いたずら)に死に失せた者達の未来は、もう再び開かれる事はない。そして惜しむべきは、徒に死に失せた者達の声なき声が、責務を負う者に届くのに余りにも長い時を取り返す事のできぬ命を重ね過ぎていた。

第二四話 市井の聖者

第二四話 市井の聖者

 ネメシス司教率いるハルモニア軍は存外小振りな編成で前線へ向かっている。ただ、彼女の周りを伯爵配下の近衛兵が常時幾重にも連なって油断なく警護し、ハルモニア軍の指揮権を掌握した筈のクレオーンですら彼女に容易には近づき難い。早めに決着を付けたいクレオーンの思惑とは裏腹に、彼女は行軍の先々で瓦解した楽園の様子を隈なく調査し十分な成果を得ている様子で、益々クレオーンを遠ざけているのが露骨に垣間見える。頼みにする盗賊団の動きも、聖都を発つ前に館で会って以来すっかり途絶えている。これまでは情報を操作する事で事実を隠匿してきたクレオーンであるが、事実そのものを隠滅するには未だ至っていない。この段階での調査は、クレオーンにとって心穏やかには居られぬ事情がある。即ち、クレオーンはこれまで数多(あまた)の事実を捏造しながら、(あまつさ)えハルモニア正規軍すら犠牲にして世情を扇動し、己の我欲をあと一歩の処まで実現してきた。勝者が歴史を形成してきた史実を顧みれば、クレオーンにとってこの戦を勝ち抜く事が急務であり、不都合な事実を隠滅するのは副次的な課題に過ぎなかった。だが、跡形なく消滅させるべき楽園がたった一つ生き残った。更に、動かぬと確信していたファウナ軍が動いた。これが為にネメシス司教を中心に教会も動き出した。司教が余計な折衝をファウナ側と誓約しては不都合だ……事を成就する為には、まず司教を暗殺しその後にクレオーン自身でファウナを撤退させる必要がある。
 そのネメシス司教は、嘗てクレオーンが報告した楽園に住んでいた衛兵共の家族の行方について、当初より(いぶか)しがっていた。安全な地に移住させた筈のその家族が、今回の正規軍との戦闘が始まると忽然と合流し、無残に命を絶って逝った事にも不自然さが拭えずにいた。加えて、何故それ程に抵抗する必要があるのか、そもそも論として衛兵団並びにその家族の謀反それ自体が事実なのかと懐疑していた。
 しかし、前線迄の途上で続々とハルモニア正規軍が集結する度にクレオーンは軍議を開催してネメシスの様子を探ってみたものの、彼女は粛々と軍議に参加するばかりで調査結果を以ってクレオーンを糾弾する様子も皆目窺えない。その事が逆に不気味でクレオーンの苛立ちは日増しに高まっている。何を掴んで何を把握していないのか……それ次第では事を急がねばならない。だが、そのクレオーンの苛立ちとは裏腹に、為す術もなく七日目の月が天を目指している。

 去る七日前のネメシス一行がハルモニアを発った頃、タウのもとへ衛兵団の老兵士が一人、肩を支えられながらも、その片手にはタウがロハスに授けた剣を携えてやって来た。それは即ち、ロハスの戦死を如実に物語っていた。
 タウは懸命に涙を呑み込んで言葉を繋いだ。
「……ロハス殿は……ロハス殿は、己の剣技を存分に振るわれたか?」
 老兵士は静かにロハスの最期を語ってくれた。
 ロハスは、衛兵の一人一人を鼓舞しながら前へ前へと討って出て、遂には右胸を貫く流れ矢に静かに倒れながら己の矜持を全うした。そして駆け寄る衛兵団に守られながら、薄れてゆく意識の中、この老兵士に清々しい顔で言葉を託したと云う。
“気高く誇り溢るる剣を携え、我が想いは此処に(つい)えるも一切の悔い無し。ただ願わくば、魂となりても貴殿と一献、注し交したい”と。
 ロハスは最後に何を想い、何を見たのだろう……愛しい家族か、振り返れば楽しかった日々か、共に散って逝った仲間の姿か……何れであれ、それを語る筈の友はもういない。やがて、タウは口を真一文字に結んだまま軍幕にあって座り込み、地に突き刺したロハスの剣を上座に据えて、静かに一人酒を酌み交わした。正面の剣をジッと見据えて、時折その身体を震わせるタウの姿を、生き残った衛兵団とタウ軍兵士は何も語らず遠巻きに見守り続けている。
 その後のタウは、武人の誇りを胸に秘め、前線正面で腕組みしたまま座してハルモニア軍を睨み付けていた。その堂々とした一人の姿に、ハルモニアの大軍は狼狽し怖れるばかりであったと云う。

 ロハスが散って十日目の朝日が眩しく昇る頃、ネメシス率いるハルモニア軍が神々しい徽章を掲げてこの地に辿り着くとほぼ同時に、漆黒の徽章を翻しながらテミス率いる(おびただ)しい数のファウナ正規軍がその全容を現した。
 クレオーンは、ネメシスを暗殺すること(あた)わずに、此の地へ悶々として到着した。こうなればファウナの一将校を論破して撤退させた後に、帰路ネメシスを葬って再び己の野心を復興する目論見でいた。が、眼前に棚引くファウナ徽章に一番 狼狽(うろた)えたのはクレオーンその人であった。ウパ七世の名代を勤めるネメシスの徽章紋の数は五つ。この徽章紋を前に一将校なぞ怖れ(おのの)く筈! そう確信していたクレオーンであったが、眼前に翻るファウナのそれは七つ、即ちファウナ本陣を目の当たりにしたのである。
“……俺は……俺は、なんて奴等と戦っていたんだ……”
 青褪めていくクレオーンに、ネメシスが緊張した面持ちで話し掛けて来た。彼女もまた圧倒的な相手を目にして動揺が隠せないでいる様子だ。
「さぁ、クレオーン。口上の者を出しましょう」
「はい、仰せの通り。それで、話し合いは私が仕ろうと存じますが……」
「いえ、クレオーン。同席は願いますが、私の言葉で相手方の真意を尋ねます」
 クレオーンは内心でこの強情な女が話し合いの席でファウナに討たれればと願うものの、そうなれば自分の命すら危うい。始末すべき相手を今は守らなければならない自分の立場を呪っていた。

 口上の者の返答に基づき、両者協議は対峙する両軍の丁度中央に当たる処で設けられた軍幕内で行われる事となり、程なく両者代表が僅かな手勢を従えて集って来た。ネメシスとクレオーンは、そこで再び驚愕した。よもやファウナ首長自らが最前線に出向いて来ていたとは想像すらしていなかった為である。成程、七つの徽章紋数は虚仮威(こけおど)しではない。
「アルティス共和国ファウナ自治領首長を務めるテミスです」
「大司教ウパ七世の名代を仕るネメシスと申します。この者は……」
「うむ、存じております。一別以来じゃのクレオーン殿。してネメシス殿、貴軍が我がファウナ領内に攻め込みし理由は如何に?」
 テミスは間髪置かずに核心を問い(ただ)して来た。論舌鋭いネメシスとクレオーンですら、一鉱夫から叩き上げて首長にまで上り詰めたテミスの迫力に押されて、一方的に問い詰められている。
 全ては楽園に移住させた者共の狂言で、ハルモニアですら騙された次第。共和国への反乱の意図は毛頭なく、天誅を与えんが為に楽園の者共を討伐している旨を申し立てるクレオーンの言葉を遮る様にネメシスが口を挟んだ。
「ファウナ首長に申し上げます。このハルモニアを併合する意図があるのですか?」
「ふむ、そんな事をしてどれ程の意義がありましょうや?」
「ではやはり、楽園の衛兵達が欲に駆られての所業なのでは?」
()に非ず!」
 テミスはファウナへ投降して来た者達が口を揃えて語ってくれた事実を(つまび)らかに説明した。即ち……
“楽園の衛兵達はファウナがハルモニアを蹂躙せんと攻めて来ると固く信じて疑わず、これを撃退して聖地を守り抜く覚悟で領線に陣取っていた。然るに、手薄になった聖地領内に跋扈(ばっこ)する盗賊団が、徒党を成して神聖なる楽園を襲い(あまつ)さえ女・子供・老人すら惨殺するに至り、これを守らんと大司教の命に従い帰還すれば、そこにはハルモニア正規軍がいた。共に手を携えて盗賊共を討伐する目論見が、楽園を襲うは当にその正規軍であった。愛しき家族を守る為、夢と希望を積み上げて来た楽園を守る為、衛兵団は立ち上がった。これを謀反と称するハルモニアの見解こそ道理に背く行為である”と。
 怒りを隠す事なく(まく)し立てるテミスにネメシスが割って入った。
「お、お待ち下さい、テミス首長」
 ネメシスもこれまでクレオーンから聞いている事実を以って反論し始めた。
“そもそも我欲に(まみ)れた楽園衛兵達こそがファウナ殿を扇動して、この聖地を汚し始めた。これを(いさ)めるべく楽園へ天誅を下したものの、無抵抗なる者達を(あや)めるなど聖職者がする筈もない。ファウナ殿への扇動が失敗と知るや、楽園衛兵達はその本性を表してこの聖都に牙を剥き、正規軍中将を惨殺して聖都に攻め上って来た。我々ハルモニア正規軍はこれを撃退して、秩序を取り戻そうとしているだけ。ファウナ領内に侵攻した事実は謝罪する積りでいる。しかし、楽園衛兵こそは事実として謀反を起こしている”と。
「ならば貴殿に問う! 聖堂地下墓地に無残に横たわる焼死体は何を物語るのか!」
 テミスの舌鋒は一層鋭さを増して、ネメシスを追い詰める。
“楽園衛兵が事実として反乱を企て、その過程の中で非力なる者達が死に失せたならまだしも、衛兵達は戦の中で、一方その愛しき家族の者達は焼き焦げて地下に放り込まれている。時を同じくして闘う者が斯くも異なる死に様を見せている。ハルモニアは見せしめの為に、手始めに無力なる者の命を数多(あまた)奪うのか、その必要はどこにあるのか”と。
 初めて聞く内容に愕然とするネメシスを余所に、クレオーンは蒼白になりながらも、それでも懸命に自説を展開しようとしている。
「謀反人の言に耳を傾けて、我等が行為を否認するのは如何に!」
 するとテミスは、それまでの剣幕がまるで嘘の様に穏やかにネメシスに問い掛けた。
「ならばネメシス殿、共にその地に赴いて双方で確かめましょうぞ」
 ネメシスを優しく凝視するテミスの横顔から、クレオーンはテミスの術中に嵌った事を咄嗟に感じた。テミスも地下墓地の焼死体が事実か否か掌握している訳ではなかった。これが事実であればこそテミスの説は論拠を持つ。故に、(あたか)も既知の事実として論舌して攻める事で、双方で事実確認する事を余儀なくさせたに過ぎないのである。
 然るに、この地下墓地の無残なる焼死体は(まが)う方なき事実であり、楽園衛兵の謀反説を根底から覆す証拠であり、クレオーンの謀議を白日のもとに晒すものである。遂にクレオーンは自身の敗北を悟り、肩を落として項垂(うなだ)れるその様子を見たネメシスは、自分の責務が終った事を確信した。
 この日、クレオーンが三十を数えた時の出来事であったと伝えられている。

 軍幕協議後に自軍に戻ったクレオーンは、ハルモニア軍の最高司令官用に設けられた豪奢な天幕の内にあって誰一人として近づける事もなく茫然自失の有様でいたと云う。

 聖堂地下墓地探索の為の編成は、ファウナ側からタウ少将とルトラ准将が、ハルモニア側からはネメシス司教とその配下の近衛少将が選ばれ、これ等四人に依り瓦解した三つの楽園が無作為に抽出された。加えて、彼等の護衛を名目に両軍各五百名の精鋭が取り囲んでの大々的な探索である。クレオーンが唯一頼みにする盗賊団とて、延一千名の軍隊相手に道中を急襲するには無理がある。従って、この探索は必要にして十分なる成果を掴んで戻ってくる事になるだろう。そして、クレオーンが操作して世情を煽っていた情報の欺瞞が暴かれる事になるだろう。
 そうであるならクレオーンに残された選択肢は二つしかない。一つは、夜陰に乗じて雲隠れする事。もう一つは、それでも自説を曲げずに論争し続ける事。
 幸いに、抽出された楽園全てを探索するには二十日を要すると思われるから、逃げ出すにせよ論破するにせよ、猶予は若干残されている。然るにクレオーンは、逃げ出さなかった。或る者は、この時既にクレオーンは諦めて覚悟を決めていた為に軍に留まらざるを得なかったのだと説く。また或る者は、地下墓地が暴かれても尚、自説の正しさを論証するだけの材料を内々に有していた為に軍に留まったのだと説く。その何れが正しいのか知らず、事実としてクレオーンは出奔(しゅっぽん)する事なく静かに其処に留まっていたのである。

 探索隊が最初に捜査した楽園では、ファウナ側が掴んでいた情報通りに聖堂地下墓地より(おびただ)しい焼死体が、無造作に折り重なって討ち捨てられていた。この様子を直視したネメシスが、いや軍人ですら身を震わせて嘔吐を繰り返す程に惨い有様であったと云う。ある遺体は喉を掻き切られ、また別の遺体は胸を一突きにされている。腐乱を重ねた黒焦げの遺体は、自らが受けた仕打ちを苦しみをそして悲しみを、無言を以って如実に語り掛けて来る。声なき声が地下墓地に響き渡り、其処で何が起きたのか、其処で何が失われたのか、その全てを静かに語り掛けて来る。
 ネメシスは、その有様を包み隠す事なく虚飾する事もなく、粛々と書簡に(したた)めて聖都に都度報告した。そして二十日が過ぎる頃には同じ事実が三つ揃って、テミスの主張を明確に裏付ける結果と成った。

 強行行程を乗り切ったネメシスの頬は痩け落ちて、その崇高なる精神は憔悴しきっていた。それもその筈で、ハルモニア公爵からの直々の書簡には斯く書かれていた。“只管(ひたすら)ファウナ殿へ謝罪し領内からの撤退を懇願せよ”また大司教ウパ七世からの書簡に記述されていたものは、“クレオーンも騙されているやも知れぬから首謀者の有無を調査せよ”とのみ。まさに、奪われし無力なる者の尊き命への哀悼すら感じ取れない、己に都合のいい注文ばかりが並べられている。司教の立場にありながらもネメシスは、二つの書簡を躊躇なく薪に()べて、青白く燃え上がるその様を寂しく眺めながら、最早テミスの主張を論破してハルモニアを擁護する気概すら消え失せていた。
“……あなた達には……あなた達には人の上に立つ資格などない……”
 ネメシスの頬を熱い涙が伝っている。取り返す事のできない数多(あまた)の命に対する懺悔(ざんげ)と、公爵と大司教を固く信じていた自身の愚かさと、神が何を望まれ斯くなる苦難を与え給うのかと震えながら、止め処なく涙が溢れ続けてくる。その彼女の瞳には、貧しさにも病の苦しさにも耐え抜いて懸命に生きる市井の人々が写っている。如何なる艱難(かんなん)あろうとも、夢と希望を胸に抱いて明るく前に進む市井の姿が写っている。数多(あまた)の聖者がそこにいる。教えを請うべき相手は経典の中にはいない。眼前の人々の中に宿っている。しかし、もう時は戻らない。失われたものの大きさに打ち(ひし)がれて、己の愚かさに身悶えしながら、止め処なく涙が溢れ続けてくる。

「案内も乞わず、失礼しますぞ」
 ネメシスの天幕を潜る二人の男の声に、我に返ったネメシスは振り向き様に咄嗟にロザリオを胸に抱き跪礼した。天幕入口から零れる陽の光を受けた二人の様子が恰も光背を受けた神使の様に見え、懺悔の念に堪えない彼女の心を無意識に揺さぶったのである。無数の蝋燭の柔らかい炎に包まれ、溢れる涙を隠さず膝を折る敬虔(けいけん)なる彼女の姿は、テミスをして女神の如く思わしめた。
(わたくし)共ハルモニア正教は、取り返しのつかない過ちを犯しました。如何なる天罰も甘んじて享受する覚悟でございます」
 その様子に寧ろ慌てたテミスは、ネメシスに近寄って肩に手を添えると微笑みながら語り掛けた。
「ネメシス殿、起きられよ。私達は神ではありませぬぞ」
「テミス首長、(わたくし)は己の愚かさに恥じ入るばかりです。何故、いつからこの聖都は、クレオーンの様な者が寵愛され蔓延(はびこる)る風土になってしまったのか……残念で無念でなりません」
「歴史は行きつ戻りつ、過ちに気付けば直ぐに改めれば良い。ただ改むるだけではまだ足りぬ。これからどう贖罪を償うのか、ネメシス殿の心持ち次第ですぞ。二度と同じ過ちを起こさぬ様にの。それはそうと、こうして二人来ましたのは、我等ファウナはこれより己のいるべき処へ戻ります。それを伝えに参ったのです」
「テミス首長! では、このハルモニアをお許し頂けるのですか?」
「ふぁふぁふぁ、ネメシス殿ならば気付いておられよう。そなた等が許しを乞うべきは、我等ではござらぬ」
「……仰せの通りです、テミス首長。聖堂地下に眠る聖者が愚かな(わたくし)に教えてくれました。幼き我が子を胸に抱き苦渋の表情で眠る者が、天にその(かいな)を伸ばして無念の内に眠る者が、手を握り合って互いを助けようと苦しみながら眠りに付いた者が……全ての聖者がそこで二度と揺り戻してはならぬ事は何かを教えてくれました。非力ながらこのネメシス、生涯を掛けて償い続けます」
「良きかな。何れの地に於いても人はいるものですな。事実の究明、(しか)と見届けさせて頂きますぞ」
 ファウナの大軍は漆黒の徽章を悠然と翻しながら、ハルモニアの地を去って行く。仁徳の軍は幾多の武人の誇りを胸に秘めて、ハルモニアの再興を信じて帰路に発つ。聖都の軍はその後ろ姿が見えなくなるまで、この地に佇んでいた。やがて、ネメシスはクレオーンの天幕を訪ねて、彼に斯く告げたと云う。
(わたくし)は聖者の声を聞きました。クレオーン、貴方を捕縛し神裁を聖都にて開きます。最早(もはや)無様な言い逃れなどなさらぬ様に」
 クレオーンは、ふんと鼻を鳴らして、“ネメシス司教……神や聖者などこの世にもあの世にも、何処にもおりませんよ……それが真実なのです” ただそれだけを語ると、クレオーンは静かに縄打たれたと伝えられている。
 傾く西日を背に受けて、ハルモニア軍もまた己のいるべき処へと進み始めた。

 ファウナ軍の足取りは軽やかに(ゆる)りとして、道中休みながら首都を目指している。帰路に付いて何日目の事であろうか、テミスが休む天幕をタウが一人訪れた。
「タウ少将、そろそろ来る頃と思っておったぞ」
「遅くなり誠に申し訳ございません。また、この度は御足労頂き、自分の未熟さに恥じ入るばかりです」
 タウは深々と首を垂れている。少将とはいえ、軽々に一国首長と対面する事はない。ましてや直接話しをする立場にもない。緊張しているタウの様子をテミスは鋭い瞳で見据えている。
「まずはそなたの要件から聞くとしようかの」
「テミス首長! この度、軍律に背きハルモニア領に進みたるは……このタウ一人でございます! 配下の兵士は……」
「この大馬鹿者がぁ!」
 タウの言葉を遮る様に、テミスの怒声が天幕を地響きの如く振るわせた。その天幕の周りには、タウに従う兵士達が幾重にも取り囲んでいた。その中にはルトラ准将がいた。彼は永年キャンベル家に仕える者で、タウが幼い頃より武人の在り様を教えていた老兵士である。タウに叱責あらば、老い腹を掻き切って首長に詫びる想いで此処に居るのである。他の兵士とてまた然りであった。テミスの地鳴の様な声は、天幕の外にも響き渡っている。
「己の信念を信じて歩むに、軍律もへったくれもあるものかぁ! そなた眼前で苦しむ者がおれば軍議に諮るからと見過ごしにする気かぁ!」
「な、なれど……もし、万一衝突すれば……」
(たわ)け者! 将来の惨事を案じて、眼前の惨事を見過ごしにできるものかぁ!」
「しゅ、首長……」
「のぉタウや、済まぬのはワシの方じゃ。動くのが遅すぎた……遅すぎたワシの手落ちじゃ。そうワシの手落ちじゃ。そなたには難儀を掛けたの。真っこと済まぬ」
 タウは律直したまま、テミスの言葉に涙を流して震えていた。
「ロハス殿に、ロハス殿に首長のお言葉……お聞かせしたかった……」
 ファウナの仁徳は確かにここにある。ロハスが命に代えて信じた仁徳は揺るぎなくここにいる。そう信じられる自分がいる事が嬉しかった。この気持ちは天幕を囲む兵士達にも同様で、ルトラ准将に至っては外分を気にせず声を立てて泣いている。
「のぉタウや、皆も疲れておろうぞ。ゆるりと休むように伝えい。皆の奮迅、このテミス見届けたぞ」
 そう語るとテミスは、ゴロリと横になって高 (いびき)を掻き始めた。深々と一礼し天幕を出ても、タウの涙は止まなかった。ロハスが託した夢や希望は、必ずやファウナの地で芽吹いて育まれるであろう。漸くロハスとの約束を果たす事ができたタウは武人である事をこれ程までに誇らしく思えた事はなかったと云う。

 一方のネメシス率いるハルモニア軍が聖都に辿り着くと、直ぐにクレオーンは己の館に幽閉された。その館を幾重にも正規軍が取り囲んで、神裁が始まるまで外部との接触が一切閉ざされ、その館の内にも教会配下の者が忙しく捜索して、実際にはクレオーンは自室一室に閉じ込められたのである。
 その配下の者が、バスチェス中将が携えていた金色の短剣を館の倉庫から見付けた様だ。嘗てクレオーンの仲間であった盗賊団の頭が、万一クレオーンが裏切った時の為に仕込んでいた代物である。この他にも、様々な物証が館から持ち出されている。
 だがクレオーンは何一つ知る事なく、彼の外堀は着実に埋められつつある。それでもクレオーンは自室の椅子に静かに座ったまま、瞑想を続けていた。恰もこれからの論争を想定して、再び権力の座に返り咲く目論見でいるかの様に……。
 彼がふと窓の外に眼をやると、眉月が冷々(さめざめ)と館を見下ろしている。そしてその心細い明りを彼は飽きる事なく見つめ続けていた。

第二五話 失ったもの

第二五話 失ったもの

 やがて満月を二度迎えた旭昇の時、大聖堂審判処で神裁を行う旨がハルモニア聖都内に告示された。その聖都内では、様々な噂が尾鰭(おひれ)を付けて徘徊しては領民の不安を増長させ、聖騎士を自認するハルモニア正規兵すらこれに踊らされ嘗ての威厳も見る影なく、その美しかった文化は明らかに荒廃しつつある。
 弾正クレオーンが査問機関の長を任官されていた事もあり、今回の審判では弾正台それ自体が裁きの対象となるが故に、大司教配下の司教・司祭に依る臨時の査問機関が各方面で非効率に展開されている。
 これは、クレオーンにとって不幸中の幸いであった。一度は萎え掛けた彼の腹黒き精神を癒し、自室にあって自説の弁論を組み立てるのに十分な猶予を与えてしまったのである。この時間的猶予は、クレオーンの仲間である盗賊団にとっても好都合であった。その(かしら)は、クレオーンの館で最後に会って以来、彼が強く願ったネメシス暗殺は初手より諦めて只管(ひたすら)盗賊団が果たすべき本来の務めに励んでいたのである。
 もともとこの聖都は旧時代の要塞であり、その地下は網目文様に壕堀が幾層にも張り巡らされている。永々の時を経て地下墓地として転用され、やがて時代の変遷の中でその史実すら忘却されていたが、ある日、大聖堂文書処から偶然その古面図を見付けたクレオーンが、己の謀議を実現すべく、仲間である盗賊団をして自在に聖都内に出這入り出来る様、この打ち捨てられた図面を彼等に与えていた。一千の数を超える頭の手下が昼夜を問わず熱心に図面を巻き直して、聖都内で盗みを繰り広げるに足る十二分な時間的猶予が彼等に与えられたのである。
 この壕堀の通路は敵の侵入を想定してか、落穴や落壁、槍を仕込んだ踏床など古典的な仕掛けが至る所に用意されていた様子で、これまで幾多の者がこの迷路に忍び込んだらしく、朽ち果てた白骨が所々に転がって、仕掛けの所在を是見よがしに示している。盗賊団の頭は、仕上がった壕堀古面図を広げて、久し振りの大仕事に興奮を隠す事なく番頭(ばんがしら)を見詰めた。
「見やがれ! まったく畏れ入ったぜぇ……」
 この世界に冠たるハルモニア正教会の大聖堂宝物庫、ハルモニア公爵邸内の財宝蔵、それにハルモニア自治領行政府内の主税処……如何なる意図があるのか、この三つは壕堀で迷路になって繋がり、その迷路の要所には幾つもの大間が散在している。
「けっ、よっぽど表に出したかねぇんだろうよ!」
 (じゃ)の道は蛇、手の込んだ仕掛けで大間に持ち込まれた代物が何か、頭の嗅覚は鋭くこれを嗅ぎ付けて、手筈が整うのに十分すぎる程の時間が盗賊団に与えられたのである。
 地上では、教会を筆頭に査問騒動している最中、地下では、盗賊団が迷路伝いに壕堀大間の宝財類を運び出している。文字通り上も下も汗水流して己の仕事に没頭している状況にあった。嘗てクレオーンの力添えで表向きの商売の許認状を得ていた事が幸いして、盗賊団は、堂々と聖都大門を数珠繋ぎの荷馬車に乗って潜り、盗み働きで得た宝財を荷馬車一杯に詰め込んで、同様に聖都大門を潜って隠処(かくれが)に戻っている。そして、剣や冠に(ちりば)められた宝石類を丁寧に取り出しては、即座に裏社会に流通させて換金し、やがて粗方の宝財を盗み取った盗賊団は、十分な報償を内々に分配して(ほとぼ)りを冷ます狙いで、領内各域に霧散して行った。斯くして、クレオーンの唯一の仲間とも云える盗賊団は、稀代の宝財と共に聖都より姿を消したのである。

 その最中、遂に神裁が始まった。
 ハルモニア領民や正規軍人は云うに及ばず、とりわけこの闘いで愛しき人を失った者達は、固唾をのんでその行方を伺っている。ハルモニア公爵を上座に大司教他の教会重鎮が鎮座する中、クレオーンを糾弾せんとする査問機関の面々が、首座の威光を背に受けて、様々な書状を以って追求し始めた。
 クレオーンはその嘗ての職責上、様々な指示を勅書或いは書状で発令している。同様に彼のもとに報告される物も全て文書で残っている。その情報とクレオーンが発令した指示内容の矛盾が一つ一つ洗い出されては、厳しい詮議が続けられた。
 だが、クレオーンは容易には落ちない。孤立無援の中、正面切って反論した。
“前線衛兵団にファウナ軍牽制の名目で領線待機を命じた時、貴殿は『衛兵団がファウナと結託して聖都を攻めてくる』と教会に報告しているが、この矛盾は如何に?”と真摯に問い質せば、間髪置かずにクレオーンは応える。
「矛盾などない! 衛兵団とファウナの結託は確かな筋の情報として信憑性があったのだ。だが、それを最前線の衛兵団に感ずかれる懸念があるため、表向きに衛兵団に通常待機を指示したに過ぎない!」と。
“前線衛兵団に楽園を襲う盗賊団討伐の為に一時帰還を命じた時、貴殿は『正規軍に対して、衛兵団が攻撃を仕掛けてくる危険性』を連絡している。意図的に同じハルモニア兵同士を衝突させたのではないか?”と詰め寄れば、自信を持ってクレオーンが応酬する。
「前線衛兵団は何れファウナと手を結んで聖都を攻めてくるという確かな情報で、衛兵の戦力を削ぐ目的で帰還を命じた。謀反人と正規軍であり同じハルモニア兵ではない!」と。
“貴殿の館から、バスチェス中将所蔵の短剣が発見された。これは貴殿の指示で暗殺され、その暗殺の証拠として貴殿に提示されし物ではないのか?”と得意満面に攻め込めば、クレオーンは鼻で笑って受け流す。
「笑止! 仮に私の指示であったとしたら、そんな証拠品を館に保管する筈もない。それこそ捏造ではないのか!」と。
 悪びれる様子もなく、中々陥落しないクレオーンの様子に苛立ちを隠さずに査問官が追求する。
“そもそもその情報源は何処からのものなのか? 何故、貴殿だけが知りえたのか?”
 状況的に情報操作をしている嫌疑は濃厚であり、査問官は満を持して核心部分を突いて出た積りでいたが、クレオーンにとってはまさに想定通りの質問に過ぎない。
「衛兵団の中にも私の意に従う者もいた。悲しい事に戦死してしまったが……情報源は衛兵団内部からのものだ!」と。
 楽園衛兵謀反説を強く否定する状況証拠――クレオーンが最後まで隠し通そうとした事実に質疑が移る。
“各楽園にある聖堂地下墓地の焼死体は一体何なのか? 貴殿は『楽園住人は安全な地へ移住させた』と報告している。実際は殺戮を精鋭兵に指示したのではないか?”
 一瞬、クレオーンの表情から血の気が失せて、流石に動揺が隠せないらしく、言葉を選んで慎重に且つ神妙に、朗読するかの如く返答を始めた。
「移住は確実に指示したが、殺戮など指示する筈もない。あなた方が、私の指示と嫌疑するならその証拠を示すべきだ! 焼死体は私にも全く理解が出来ない……謹んで哀悼の意を表したい」
 神裁に集う者共からの激しい嫌悪感が空気を伝ってクレオーンを責め立てる。彼の精神はこれを必死に受け止めて、懸命に持ち堪え様としている。
“では、楽園の尊き命は一体誰に奪われたのか? 何の為に奪われたのか?”
 査問官は執拗にクレオーンを攻撃して、彼の精神を揺さぶり続ける。それでもクレオーンは同じ回答を毅然として繰り返すのみで、口先ばかりの哀悼表明は、もしこの神裁が一般民にも公開されて行われていたら、暴動すら誘発しかねないものであったと云う。
 神裁でのやり取りは、須らく核心に迫る事も能わずに闇雲に昼夜を重ねた。その神裁の中でクレオーンは、胸を張って斯く語っている。
「今回の事由で、私が誤りを指摘されるとしたら、それは“ファウナ自治領殿がハルモニア領地併合を目論んでいる”という著しい誤認があった点だけであります。衛兵団謀反も私が捏造したと査問員はお考えの様ですが、少なくともその計画は確かに存在していた! ただ、その首謀者が計画進行中に戦死し、結果的に頓挫したに過ぎない! これをして謀反が存在しないとは言えません。
更に申し上げます。査問官殿は、この私が楽園の住人を惨殺せし首謀者とお考えの様ですが、このクレオーン断じてその様な愚行は行っておりませぬ! この私の所業というのならば、証を以って示されたし」
 状況証拠はクレオーンに不利な物ばかりであるが、クレオーンとの結び付きを確実にする物証がない。余りにも多くの命が失われた以上、騒動の中枢にいたクレオーンの処断は免れないが、それは同時に大司教並びにハルモニア公爵にも波及する。クレオーン一人に全ての責任を持たせんとして、大司教配下の査問機関は寧ろ窮地に立たされ、神裁は長期戦の様相を見せ始めた。

 この閉塞感の最中、教会宝物庫他の宝財が見事な手捌きで盗まれている事実に、教会及び公爵家が漸く気が付いた。教会並びに公爵家ひいてはハルモニア行政府は、神裁と並行して宝財盗難の調査並びにハルモニア財政の危機に直面するに至ったのである。
 この神裁において大司教の横に座るネメシスは、始終沈黙を守った。クレオーン糾弾の急先鋒と思われていただけに、その沈黙は意外であったが、逆にネメシスにとってはクレオーン失脚など然したる問題ではなく、彼女は寧ろこのハルモニアの風土そのものを懸命に憂えていたに過ぎないのである。査問を担当する司教・司祭連中が、大司教や公爵に害が及ばぬ様、ただクレオーン一人を悪者に仕立て上げる腹積りで必死に論陣を展開する有様とて、このハルモニアの悪癖に思えて仕方がなかった。“二度と同じ過ちを起こさぬ様に……” テミスの言葉が彼女の思考の中心にあった。ここでクレオーンが失脚したとしても、次々とクレオーン(もど)きが湧いて出れば、同じ轍を踏み続けるだけ……ならば、この様な者を生み出さない土壌そのものを醸成しなければならない。ネメシスは、この使命感に燃えていたのである。
 それには、クレオーンが生まれ育ってきた境遇への理解が不可欠であった。ネメシスは、他の査問員が血眼になってクレオーンの落ち度を探っている間、配下の者を使って、クレオーンの過去――特に詳細不明な幼少時期を調べていたのである。そこへ、この盗難事件である。余りのていたらくに呆れ返りながらも、これは寧ろ彼女にとって好材料であった。ネメシスは、大司教並びにハルモニア公爵に対して、神裁も然る事ながら財政危機を乗り切る事も急務と進言した。神裁を継続審議としながらも、優先して財政再建並びにその原因である盗難事由の徹底調査をすべきと主張したのである。この彼女の意見は、苦しい立場にある大司教及び公爵にとって諸手を挙げて受諾され、この限られた時間を使って彼女は、クレオーンの人となりを徹底的に調査し始めたのである。
 やがてこの時間的猶予は、二つの成果を齎してくれた。一つは、地下壕堀で盗掘を実行した盗賊団の一人が捕縛された事、もう一つはクレオーンの意外な過去であった。
 
 そして、ネメシスは愈々クレオーンと対峙すべく大聖堂審判処に立ったのである。霧雨が止む事を知らずにサラサラと舞う中、まだ肌寒い早朝から神裁が開始された。
 連日の査問で青白く頬の痩けた様子のクレオーンだが、その瞳だけは頑として己の正当性を詭弁せんと爛々と光り、教会側の人々が憎々しくクレオーンを見降ろす中にあって、必死に己の精神の瓦解を防いでいる。物証のない審判では自白のみが非を認める手段となる。記憶の隅々を洗い直して自己弁護を用意しているクレオーンにとって、己の目論見を知る者は、盗賊団の頭をおいて他にいない。“こうして延々と審判を続けるのは、頭が捕縛されていないという事だろう。だとすれば、物証は何一つない筈だ” クレオーンの強弁は唯一この点を頼りに、頭の無事に寄生するばかりである。
 その彼の眼前にネメシスが凛として立っている。ハルモニア正教会において、論客を自認する二人の対決が愈々始まった。
「クレオーン弾正長、この度瓦解した楽園各所には学問処が併設されていましたね」
「ええ、ネメシス司教。ハルモニア正教の教えを中心に、楽園に住まう子供達への教育機関として、このクレオーンが設立したものです」
「その学問処では、貧しさ故に機会に恵まれなかった多くの子供達が、学ぶ喜びに満ち満ちていたのでしょうね、クレオーン弾正長」
「……ええ、そうであって欲しいですね」
「ところでクレオーン弾正長、この度の惨劇は一人貴方だけの責任ではありません!」
 審判処に集う面々がザワザワと動揺している。その様子に構う事なく、堂々とネメシスは言葉を続けている。
「この惨劇では数多(あまた)の命が失われました。最早(もはや)誤認であったでは済まされません! 畏れ多き事ながらハルモニア公爵殿下並びに大司教ウパ七世様への責任は避けて通れないでしょう。無論、(わたくし)を始めとして教会の者の全てがこの罪を償わなければなりません。そうは思いませんか? クレオーン弾正長」
「……そ、それは……」
 クレオーンがこの神裁において初めて口籠った。それを尤もだと追認すれば、後ろ盾を失う危険のあるクレオーンには無下に賛同もできない。その一方で、ネメシスの発言は至極尤もであり、抗弁こそしなかったが、クレオーンとて声を大にして主張したい処でもある。
 審判処に集う面々の動揺は更に大きくなり、特に公爵及び大司教の表情は極めて硬い。審判長が“静粛に! 静粛に願う!”と声を張り上げて混乱を避けようとしているが、それでもネメシスは尚も言葉を続ける。
「クレオーン弾正長、貴方は前線で私に云いましたね……“神も聖者もこの世にもあの世にも何処にもいない”と」
 審判処の動揺は、更に波がうねる様に激しい罵声と成って広がった。が、平然としてネメシスは論陣を張っている。
(わたくし)達ハルモニアの聖職者は、これから何を償い、何を拠り所にこの世界に仕えて行くべきでしょうか? クレオーン弾正長、あなたはどう思いますか?」
「……そ、それは……我々の教義や理想は……その……些かも遜色しておらず……」
「そうです、クレオーン弾正長。私達の理想は揺ぎ無いものです! 貴方が子供の頃に一人の少女に語っていた様に!」
「えっ!?  そ、それは一体……?」

 クレオーンの脳裏に、まだ幼かった頃の出来事が走馬灯の様に次々と蘇った。
 ルリ川の(もたら)す肥沃な平原は緑の絨毯と成って、際限なく何処までも続いている。この地で遊牧民の子として生まれたクレオーン・テシオネは、裕福ではないにせよ、羊を追って日々を過ごしながら充実した毎日を送っていた。
 その純朴な彼が九歳を数える頃の事であった。陽が暖かく遊牧の羊を照らす中で彼は、草原の木陰に佇み物想いに耽る一人の少女と知り合った。仕事柄、親しい友人もいない彼から彼女に話し掛けたのである。話してみると年齢も家庭環境も近い。唯一の違いと云えば、彼女が学問処に通っていた事であった。当時、学問処に通うのは主に富裕層の子供であったが、彼女の両親は昼夜を問わず懸命に働いて、一人娘の将来の為に其処へ通わせてくれているとの事であった。幼年期の異性への好奇心も然る事ながら、純粋に聡明なクレオーンにとって学問処への関心は一際高く、或る種の羨望もあったのだろう、彼女との会話は自ずと学問処の話題が中心になっていた。
 その学問処が終る時刻になると、初めて見掛けたその木陰で彼は彼女を待って、陽が傾くのも忘れて楽しく語り合う内に、彼は彼女からもう一人の友達の事を紹介された。友達と云う言葉の響きは、クレオーンにとって魅力的であった。のめり込む様に彼女の話に聞き入っていた。
 彼女に依ると、その友達もまた彼女同様に決して裕福ではない家庭環境にあって、それが親近感と成って二人は次第に仲良くなっていったとの事だ。彼女が、学問処の図書(ずしょ)処で調べ物をしている時に、その友達が話し掛けてくれたそうである。裕福な子達とは身形(みなり)も持ち物も異なり、何かと引け目を負っていた彼女は中々打ち解ける事ができず、勢い図書(ずしょ)処に籠って両親の期待に応えようと頑張っていたのだろうか、そこへ同じ境遇の友達が現れたのである。
 その友達の事を語る彼女の瞳はキラキラと輝いて、その暖かく優しい想いは真っ直ぐにクレオーンに響いてくる。やがて、その友達はいつしか、クレオーンに取っても彼女と同じ位に掛け替えのない友人の一人になっていった。(あたか)も、自分自身が学問処に通って三人で楽しく語り合うかの如くに、彼女のその友達の存在は日々大きくなっていったのである。

第二六話 惨劇の終焉

第二六話 惨劇の終焉

 クレオーンは、審判処の喧騒を余所に、一人物思いに耽っていた。大切な思い出であり、いつしか忘れてしまっていた思い出でもあった。
「クレオーン弾正長? どうしましたか?」
 ネメシスの問い掛けに我に戻ったクレオーンの表情は穏やかで、心做(こころなし)か彼の瞳が潤んで見える。
「いえ、ネメシス司教、失礼しました。そうです、我々ハルモニア正教の理想は些かも揺ぎございません!」
 このクレオーンの返答に審判処の収拾は益々つかなくなっている。罵声や怒声が鳴り響き審判長の声すら掻き消す有様に、大司教ウパ七世が言葉を発すると、流石に一瞬の静寂が保たれた。
「静粛にされよ! 我等は聖なる者ぞ! 静粛にされよ! クレオーン弾正長の様子も芳しくない様じゃ。故に、今日は休廷とする。明日、同時刻にて再開したいが、皆の考えや如何に?」
 大司教のお言葉に正面から反論する者などいよう筈もなく、ネメシスとクレオーンの論戦は実に中途半端な結末を迎えるに至った。憤りが収まらずに審判処を去る者達から、クレオーンに向けてばかりではない様々な不平の声が、これ見よがしにネメシスにも聞こえてくる。“次期大司教候補と持て囃され増長しているのではないのか?”“学問処の設立趣旨なんぞ聞いてどうする積りじゃ、笑わせる!”“今更、教義解釈の議論でもあるまいに!” 斯様な非難中傷を悲し気に聞き流しながら、議論こそ中途半端ではあったものの、ネメシスは確かな手応えと主張すべきを主張できた満足感があった。
 “クレオーン一人を糾弾したところで、ハルモニアの風土は変わらない。二度とこのような惨事を行ない為には、誰に責任があるのか明確にしなければならない” この思いからネメシスは、正教会内において禁断とも云える大司教並びにハルモニア公爵への批判を公然と行ったのである。もし、この神裁が結審して後に司教の立場を追われようとも、ネメシスに悔いはなかった。だが、何一つ前触れもなく批判した非礼は詫びる礼儀もあろうかと、ネメシスは大司教執務室に足を運んだ。
「ふぉふぉふぉ、待っておりましたぞ、ネメシス司教」
「畏れ多くも大司教様を名指ししました非礼をお詫びに参りました」
「何を申されるや、ネメシス司教。そなたの申され様、尤もじゃよ」
「誠に畏れ入ります」
「なんの良き事じゃ。それでじゃな、この度の惨事のあった聖堂跡にのぉ、この老体を引き摺って詣りたいのじゃよ。そこでのぉ、経典をあげて(いたづら)に失せし魂を鎮めて参りたいのじゃよ。無論、その様な事でこの老人の責任が免れるとは思ってはおらぬ。じゃが、せめてもの罪滅ぼしにもなろうて……どうじゃな? ネメシス司教」
 ウパ七世の言葉とは裏腹に、責任回避の政治的駆け引きが露骨に見え隠れしているが、ネメシスは恐縮してこの考えを受け入れた。
「それにのぉ、何やら皆が私に遠慮しておる様子も垣間見える。神裁は大司教職の出座は必須ではなかったのぉ、ネメシス司教」
「左様でございます。式典作法に依れば、開宣と結審の勅旨のみでございます」
「うむ、では神裁運営はよしなに頼みますぞ。それと巡礼差配もお願いしようかの?」
 大司教自ら鎮魂の為に惨事の各所を巡礼する事で、対外的にハルモニアの誠意を示す事が出来るだろう。そして、共和国内に向けて正式に謝罪してこのハルモニアの体質を改めこれを公示すれば……ネメシスですら今直ぐに何を為すべきか、途方に暮れるばかりで、その真意は兎も角も大司教の考えに追随するより代替案がなかったのも事実であった。
「はい、早速にご手配申し上げます、大司教様」
 斯くして、大司教ウパ七世による聖堂跡巡礼が即座に開始されるに至り、この準備の為に神裁は繰り延べられる運びとなった。

 そして巡礼初日、大司教率いる巡礼団は荘厳な様相で聖都を発った。未だ治安穏やかならざる状況から、正規軍聖騎士団を伴っての仰々しい巡礼団である。バスチェス中将が命を落とした楽園聖堂跡を最初の巡礼地に選び、式典の準備が慌ただしく整えられている中、敬虔(けいけん)な教徒が幾重にもなって式典を見守っている。
 愈々鎮魂の儀礼が厳かに始められ、大司教自らが経典を聖読し、粛々と儀礼に則って教徒達の眼前に降臨して神の加護を祈っているその時であった。
 膝を折って(かしず)く教徒達を掻き分けて、一人の黒い影が飛び出してきた。慌てて聖騎士が護衛に入り取り押さえられたその影は、全身を黒装束で包んでいる。
「貴様の祈祷なぞ要らぬわ! 天罰を知るがいい!」
 黒装束を剥ぎ取られた男の眼は怒りと悲しみに燃え、取り押さえられたその足元には、既に刃毀(はこぼれ)れ著しい剣が無念の色を強く残して落ちていた。聖騎士達が聖剣を抜いて、この黒装束に留めを刺さんとするも、大司教は無慈悲な殺生を戒めてこれを止め、怒りに全身を震わせて大司教を睨み付けるその者に、神々しく手を差し伸べ様とした。が、その刹那!その者は地に落ちし無念の剣を拾い上げるや、大司教に折り重なる様に(もた)れ掛かったのである。
 幾重にも連なる教徒達の悲鳴が天を突き、大司教付きの聖職者の顔色が青褪める。大司教護衛の聖騎士達がその者を大司教から剥ぎ取ると、立て続けに抜かれた幾つもの聖剣が、その者の身体に突き刺さっていった。
 大司教が自らの腹を押さえながら、既に息絶えた黒装束の者を見つめている。大司教を支えんと聖騎士が詰め寄っている。大司教はそれを撥退(はねの)けて、それでも何かを掴まんと己の血に(まみ)れた手を天に(かざ)している。震えるその手の先に何を見たのか、やがて、ウパ七世は苦痛に満ちた皺を顔に刻みながら静かに崩れていった。嘗てはハルモニア随一の聖者と謳われ、ハルモニア正教会の頂点にあって永らく安寧期を作り上げた老人の哀れな末路であった。
 大司教ウパ七世が巡礼中に暗殺された。治安穏やかならずと(いえど)も、多くの聖騎士、数多(あまた)の教徒達を具した大一団の眼前で、大司教が刺殺された。この悲報は全世界を震撼させ、とりわけ聖都内では、精神の支柱を失った領民が、狂乱し末世の有様を呈している。



 しかし己の強力な後ろ盾が一人、この世を去った事を知る手立てもなく、神裁休廷後のクレオーンは、館の自室に籠って腕組みしたまま一人静かに物思いに耽っていた。
 大切なしかし忘れてしまっていた思い出が、クレオーンの脳裏を再び駆け巡る。幼かった頃の純朴なだけの自分と懐かしい少女の笑顔が瞼に浮かんでいる。故郷の香りすら漂って、時間は瞬時に遡っていく。



 ある日、いつもの様に約束の木陰で彼女の話をしている時のことだった。彼女が悲し気な様子で、ふと打ち明けてくれた。
「ねぇクレオーン。あのね、あの子ね、みんなから意地悪されてるみたいなの。可哀そう……」
「えっ!? なんでだよ。 誰だよそんな事する奴は!」
「うん……でもね、やっぱりお食事会でもお誕生日会でも贈り物もできないしさ。そんなこと親にも頼めないしさ」
 彼女の瞳から涙が零れている。クレオーンも自分の境遇に置き換えて、グッと言葉を呑み込みながら、それでも強く彼女を励ましたくて居堪(いたたま)れなくなった。
「でもさ、でもそいつ等は、そんな事で意地悪するのか? ひでえ奴らだよ、そんなの! 俺がぶん殴ってやるよ! いいさ、無理に付き合って厭な想いなんかしなくたってさ!」
「ふふ、そうね、そうよね。お友達にも言ってみるわ。そうよね、あの子にはわたし達が付いてるし、一人ぼっちじゃないんだもの。でもクレオーンったら、殴っちゃ駄目よ。きっとその子達の親が出て来て、貴方のお父さんやお母さんが怒られるわ」
 彼女は涙を拭いながら笑って応えている。その様子が嬉しくて、クレオーンも一層元気に彼女とその友達を守ってやると、幼い男気を出していた。
 いつもの木陰でいつもの様に話す二人の話題の中心は、いつからか彼女の友達が中心になっていった。遠い先にある筈の明るい理想を二人で見つめながら、そこに新しい友人が加わって、二人の気持ちは一層強く繋がっていった。
 そして彼女は、その友達を懸命に励まし必死に支えた。それでも彼女の気持ちは会う度に折れそうになっているのが分かる。容姿を気にする年頃の少女にとって、露骨な厭みは身体を切り刻んでその傷跡を深く残していくのだろう。
「あのね、あの子、また一人で泣いてたの。今日なんか、親の事を馬鹿にされたって」
「な、何だって! 畜生め、金持ちだと思い上がりやがって! 弱い者いじめなんかする奴は、俺が許さない!」
「ううん、クレオーン! あの子は弱くなんかないわよ」
 彼女に依れば、その友達はそれでも気丈に振る舞って、厭事を言われても我を失わずに頑と言い返しているそうである。学業も優秀で加えて彼女ですら敵わない程に意思が強いそうだ。が、逆に裕福な子供達にとってはそれが面白くないのだろう。何かに付けて悪戯(いたずら)を働くものの、決してめげない彼女を一層腹立たしく思ってか、更に阿漕(あこぎ)を働く。
ただその悪循環は、彼女の友達を確実に追いこんで、その友達は一人になる程に心細く、期待に溢れる親を悲しませまいと耐えながらも涙が溢れてしまう。
「あのね、クレオーン。今度あの子に会ってくれない? わたし一人じゃ、もう……」
「ああ、もちろんさ! 連れておいでよ。大丈夫さ、俺達が付いてるじゃん!」
 彼女の顔が寂しく輝いた。“三人なら大丈夫よね!”そう話しながら、二人は彼女の友達も含めて、“いつまでも友達でいよう!”と清らかな誓いを立てて強く結び付いていった。
 クレオーンと彼女の瞳の先には、明るい理想と辛い現実とが交差して見えている。今でこそ懸け離れているその二つは、遠い先で必ず交わっている。きっと、今の現実はいつしか楽しい思い出となって、立派に成人した三人で今と同じ様に屈託なく想いを語り合っている筈と、クレオーンにはそう思えて仕方がなかった。

 そして、もう一人の友達と会う約束の日が巡って来た。
 仕事を早々に切り上げて、約束の場所でクレオーンは落ち着きなく待ち続けた。この木陰に続く小道を二人の少女が歩いて来るその姿が待ち焦がれて、何度も来るべき小道を駆け上がってはその姿を確かめようとした。
 しかし、二人の少女の姿はその日遂に現れなかった。次の日もまたその次の日も。“きっと何か大切な事情があるのかも知れない” クレオーンはそう考えては、毎日の様に約束の地に赴いては、二人の少女の姿を陽が傾くのも忘れて待っていた。

 彼女と最後に会ってから、既に月は十回天に昇りそして沈んで行った。幼いクレオーンは、“嫌われたのかも” という不安と“きっと何か理由があるんだ” という期待に押し潰されそうな毎日を送って、遂に彼女に会いに出かける決心を付けた。
 彼女から聞いた村まではそう遠くない。彼女に会える! そう思うだけで不安は期待に代わり、足早になって前へ進む。きっと何か事情がある筈だ、それを手伝ってやれるかも知れない、そんな純粋な男気に駆られて、クレオーンは意気揚々と村に入った。彼女の名だけを頼りに村人に尋ね歩くクレオーンは、漸く探し当てたその家の前で身震いをして立ち止った。もう学問処は終わっている筈、もう帰ってきている筈……彼女に会える期待感が最高潮に達して、彼が意を決する様に扉を叩けば、父親らしき髭面の男が出て来た。
 クレオーンは緊張を隠せず挨拶をした。
「ク、クレオーン・テネシスと言います。あのぉ……」
「ん? 何だって、君の名は何と言った?」
「あっ、クレオーンと言いますが」
「君が、君がそうかぁ」
 そう言ったきり、父親らしき男はジッとクレオーンを眺めていた。暫く無言のまま扉を境に眼を見合せたまま佇むと、大きく息を吸い込んだその男の瞳は優しくクレオーンを包み込んでいった。
「そうか、君がクレオーン君かぁ。まぁ、良く来てくれた。入りなさい」
 漸く家中に入れて貰えたクレオーンの眼に飛び込んできたのは、真新しい祭壇であった。色彩々(いろとりどり)の花がどれ程の涙を吸ったのか褪める事なく美しく咲き乱れて、その脇には見慣れた彼女の赤い手提げ袋が一つ添えられている。
 クレオーンは、その状況が呑み込めずに呆然としてその様子を見詰めている。
「良く来てくれたなぁ、クレオーン君。あの子もきっと喜んでいるよ」
 父親らしき男がそう語り掛けながら、母親らしき女が椅子をクレオーンに勧めてくれる。
「本当に来てくれるなんて、嬉しいわ」
「ああ、やっぱりあの子はいい友達を持ってたんだよ。なっ俺の言った通りだろう?」
「本当ね、一人ぼっちじゃなかった。本当にいいお友達がいてくれたわ」
 二人の大人に慈しむ瞳で眺められる程に、少しずつ現実を受け入れるクレオーンの瞳から、悔しくて悲しくて、大粒の涙がボロボロと溢れている。 “約束したのに、三人なら大丈夫と約束したのに、いつまでも友達でいようって約束したのに、一体どうして、こんな事に、なんでこんな事に……” 後から後から感情が込み上げて、思いは何一つ纏まらない。
「これね、あの子が残してくれたの。あなた宛になってるのよ」
 彼女の両親は、宛名だけを頼りに方々探し廻ったが、誰もクレオーンを知らない。仕方なく祭壇の脇に大切に置かれて、いつかきっと尋ねて来てくれる娘の大切な友達を、娘のたった一人の友達を、彼女の両親とその手紙は待ち続けていた。
 クレオーンは、言葉に詰まりながら懸命に声を絞り出した。
「あのぉ、彼女は……」
「そうかぁ、何も知らなかったんだね。俺たちはね、あの子が学問所で一人苦しんでいた事に何も気付いて上げれなかったんだ。もう十日前だよ。あの子は自分でね、自分で命を絶ったんだ。自分で……」
 クレオーンは震える手で、彼女からの手紙を開いた。零れ出る涙が邪魔をして中々先に進めない。それでも涙を拭いながら、懸命に彼女の気持ちを探して手紙を読んだ。もう一人の友人に(なぞら)えた彼女の切羽詰まった訴えを何一つ汲んで上げる事ができなかった不甲斐ない自分自身を責め立てながら、彼女からの手紙にその応えを求めていた。



 幽閉された館にあって、忘れていた懐かしい想いに包まれたまま、クレオーンはいつの間にか深い眠りに就いていた様だ。ゆっくりと開く瞼から暖かな涙が零れ落ちている。彼は、己の流す暖かな涙に思わず自嘲して(おもむろ)に立ち上がると、机から一通の手紙を取り出した。油紙で大切に包まれたその手紙を暫く眺めていたクレオーンは、やがて看視衛兵の者を部屋に呼び入れると、その手紙を入れた書簡を手渡して言った。
「これをネメシス司教のもとへ届けて欲しい」
 館の外では大司教暗殺の騒動であったが、最早(もはや)外の様子すら知る気も無いかの様にクレオーンは椅子に深く腰掛けて、再び眠りに就いた。

 その晩遅くの事、大司教暗殺の対応に忙殺されるネメシスのもとに、追い打ちを掛ける様に連絡が入ってきた。
「クレオーン弾正長の館より出火! 既に火の手は早く鎮火に至りません!」
「それでクレオーンは! 彼の安否は!?」
「分かりません! 看視護衛の者すら命辛々に脱出できた次第です! 弾正長殿の部屋は外より施錠され、窓も開かぬ様になっておりました故……」
「早く! 早く鎮火させるのです! 急ぎなさい!」
 ネメシスの号令も空しく、クレオーンの館は天を突き刺さん程に煌々と一晩中燃え盛り、やがて全てを燃やし尽くしたかの様に静かに消え去ると、その焼け落ちた館から、まるで眠る様に真っ直ぐに横たわる焼死体が、一体だけ発見されている。

 何一つ究明できないまま、大司教ウパ七世と宿敵クレオーンを同時に失い、ネメシスが落胆して幾日も自室に閉じ籠っていた時、彼女のもとへクレオーンからの書簡が漸く届けられたそうである。
 ネメシスはただぼんやりとその書簡を眺め続け、悲し気に笑みを浮かべると、涙が一筋そっと流れ出て頬を濡らしていった。

第二七話 交差する思惑

第二七話 交差する思惑

 エリュマントス山麓に在する小さな森の小屋の一室で、深まる夜を通してセネルが語り聞かせた惨劇の概要を、彼女はただ静かに聞いていた。所々で相槌を打っていたジェノは、いつの間にか横になっている。語り終えたセネルが深く煙草を燻らすと、彼女は怪訝な顔をして訊ねて来た。
「でも、それではクレオーンって人が首謀者かどうか、本当の所は分からないわ」
「ふぅむ、確かに当初こそ衛兵団の謀反説は有力ではあったのぉ。じゃが……」
 セネルは、彼女の真っ直ぐな好奇心に誘われる様に言葉を繋いだ。

 ウパ七世が公然と刺殺されクレオーンと思しき者の焼死体が発見されて後、憔悴したネメシスは大司教の国葬こそ鞭打って踏ん張ったものの、暫くの間、表舞台に姿を現さなくなった。かかる状況で異彩を放ったのが、プルトス・ハルモニア伯爵であった。ネメシスの後ろ盾となってクレオーン失脚を画策した実力者であり、公爵の甥に当たる人物でもある。
 伯爵は、まずファウナの了解を得て、かの惨劇で生き延びた人々から直接話しを聞くべくファウナ各所で明日へ夢を紡ぐ一人一人を訪ね歩いて、彼等が知る処を有りの儘に聞いて廻ったのである。時には罵声を浴びる事もあった。時には門前で佇み続ける事もあった。それでも我慢を重ねて、遂に多くの証言を得たのである。その聖人然とした振る舞いの一方で、捕縛されし腐臭の者への容赦ない取調べを断行してこの者の自白から多数の盗賊団を芋蔓式に捕縛すると、常人であれば目を背ける程の過酷な尋問を繰り返し遂には楽園住人襲撃を自白に追い込み更には彼等の頭領まで着き止め、これ等の自白が齎す事実がクレオーン謀議を晒すに足る十分な証拠と成って、クレオーンの罪は史実として定着したのである。即ち、惨劇の真相こそ我欲に塗れたクレオーンの独善による所業であると。結果として、伯爵は実に二年の歳月を費やしてハルモニア自治領に巣食う膿を徹底的に絞り出し、立場を異にする者達の言葉をして惨劇の全容を知らしめた事になる。

 セネルは彼女の様子を窺った。彼女が何を感じ何を想ったのか――セネルが伝えたいのは単なる歴史講談ではない。
「そうなんだ。でも事実がそうだとしても、クレオーンが一人処罰されれば済む事だったのかしら?」
 二度と起こしてならない事は何か? 少なくとも一人を悪人に仕立てる事ではない筈だ。セネルは深く肯きながら、目尻を下げて彼女を見詰めている。

 その後の神裁で査問官達が大司教や公爵を(はばか)ってその責任を口籠る中にあって、公然と彼等の帰責性を言い放つ伯爵の姿勢は、アルティス共和国と云わず敵対するバイア王国でも共感を以って受け入れられ、ましてやハルモニア領民の伯爵への陶酔は何をか言わんやである。一方のハルモニアを支える正教会は、ウパ七世崩御後の大司教人選に紛糾し、最有力候補であったネメシス司教ですら“大司教暗殺の首謀者では?”との風評に踊らされて教会要職から遠ざける始末で、司教職合議の場として新たに枢密院を創設し人選と事件の究明に乗り出すも、結果として今日まで大空位期間を生じさせ、大司教暗殺事件の方は何一つ解明できないでいる。かかるハルモニア正教会の不甲斐なさと相俟って、今やプルトスの発言力は公爵を差し置いてハルモニア自治領の命運を左右する程に強い。
 果たして、クレオーンの時と何が変わったと言えるのか……二度と起こしてはならぬ惨劇を、二度と起こさぬと断言できるものが何もない。これが断言できぬ以上は、奇しくも彼女が応えた様に償う事も癒す事も(あた)わず、いつの日か歴史を繰り返す事となるだろう。

「さて夜も更けた。近々にはファウナへ向かおうかのぉ。そうじゃ、ファウナにはこの度の惨劇に係る様々なものが整然と保管され閲覧もできる仕組みがある様じゃ。そなたの満足ゆくまで調べてみるのも良かろうて」
「うん、そうしてみるわ」
「ふぅむ、それとじゃな、この名は覚えておいた方が良いかも知れぬのぉ。“イクシオン・コキュートス”じゃ! 知っておるかの?」
「イクシオン? わたし知らないわ」
「ふむ、クレオーンと結託せし盗賊団の頭目じゃよ。裏の世界ではのぉ、相当な顔との事じゃ。未だ行く方知れずじゃよ。然るにクレオーンが生きておるやも知れぬとなると……何やらキナ臭いのぉ」
「イクシオン、盗賊団の頭目かぁ。アレクトが落ちて行った腐臭の世界の住人、そのアレクトはクレオーンの生存を知っていた……」
 彼女の緑に澄んだ瞳が遠く霞に隠れる真実を見詰め様としている。その様子をセネルは慈しむ様に眺めている。小さな森の小屋を包み込む森の奥では、梟が鳴いている。やがてセネル達は、耳に馴染んだその響きに誘われる様に眠りに就いていった。

 東より眩い光が真っ直ぐにこの世界に注し込んで、天の主を夜から奪い取るより早く、小屋ではもうセネルが起き上がって、この清々しい陽の光を眺めている。彼女とジェノは未だに寝息を立てている。ガントスがドカドカと階段を上って来る音すら、二人の眠りを妨げる事がない程に深く寝入っている。
 セネルの部屋の扉を叩くか否か、ガントスが息を切らして入って来た。
「セネル先生、パラスより早鳩が着きました。スティナでしょうや?」
「ふむ、拝見しようかのぉ」
 セネルが伝書を開くと、差出人はイドモーンであった。発破の素性を調べに遣わせたスティナの後押しを頼んだセネル旧知の友人の一人である。
「ほぉ、スティナがイドモーンのもとに着いたそうじゃな。さて、上手く内情を調べられると良いがのぉ」
「先生、それだけでございますか?」
「ふぅむ、“万事心得た”とも書いてあるのぉ。それだけじゃ。奴は筆不精じゃからのぉ」
 セネルは伝書をガントスに手渡すと、煙草を燻らして考え事を始めた。一方のガントスは、スティナの安否を探る様に、何度も文を読み直している。が、そこにはたった一行の言葉が並べられているのみである。
 『若人来り 万事心得た』
 何度ガントスが読み返そうが、炙りの仕掛けがある様子もない。落胆した様子のガントスを慰める様にセネルが話し掛けた。
「ふぉふぉふぉ、そう落胆されるな、ガントス殿。奴がスティナを受け入れたのじゃよ、人嫌いな奴がのぉ。ふぉふぉふぉ、観る目は同じじゃて。あの若者の目は活きておる、そう思いませぬかな? ガントス殿」
「いやいや仰せの通り、スティナは必ずや先生方のご期待に添えましょうぞ!」
勢いよく語るガントスの声に彼女の眠りが覚めて、ジェノすら驚いて飛び起きた。その様子を恐縮して、ガントスは申し訳なさ気に一礼しながら部屋を後にした。
 一体何事ですか? とジェノが尋ねれば、セネルは机に置かれたイドモーンからの伝書を、晴れやかに二人に見せて応えた。
「これだけ? これだけなの?」
 彼女がガントスと同じ仕草をするのを見て、セネルは高らかに笑った。イドモーンを知るジェノも微笑んで彼女を見ている。
「あのイドモーン先生が受け入れてくれたんだよ! 快挙だね! うん、スティナならきっと受け入れて貰えると思ってたよ!」
 怪訝そうな彼女にジェノは、朝支度を整えながら、彼が初めてイドモーンと会った時の事を話してくれた。

「確か初めてイドモーン先生に会ったのは、僕が十五の時だったかなぁ」
 セネルの助手として研鑚を積むジェノの前に突然一人の老人が現れた。そして、手にした杖でジェノの頭をコツコツと小突きながらこう話し掛けて来た。
「セネルは生きておるか?」
 既に高名な自分の師匠を呼び捨てにし、その師匠のもとで助手ではあるが研究する自分に対して小僧扱いする素性の知れぬ老人に激昂した若いジェノは、杖を払い除けてこう応えたと云う。
「やい、じじい! お金ならないぞ!」
 そのジェノの瞳を食い入る様に見つめたその老人は、ふっと笑みを浮かべて勝手に研究場の中に入って行った。そこで古い書物を読み耽っていたセネルが(おもむろ)に顔を(もた)げると、いきなり一冊の古文書を取り出して、議論を始めたそうである。
 無礼な老人の侵入を許した上に、唐突に議論を始める二人の様子が呑み込めないジェノを観て、その老人は改めて話し掛けて来た。
「これ小僧や、茶くらい出さぬか!」
「ジェノや、こ奴がイドモーンじゃ。古い友人じゃよ」
「ふむ、セネルよ……中々に面白き若者を手に入れたものじゃ。このワシに寄こせ」
(たわ)けた事を。お主のもとなら余りある若者が集うであろうに」
「ふん、会って観て直ぐに判る者はそう居らぬわい。人嫌いのお主が手元に置くは、余程の小僧じゃろう。どうじゃ、ワシに託さぬか?」
「それはならぬ頼みじゃな」
 二人がジェノに付いて語り合ったのは、それで最後であった。その後は夜が耽るのも忘れて、古文書を真中に挟んで侃々諤々(かんかんがくがく)と終わりを知らず議論を重ねたそうである。

「イドモーン先生って、そんな方だよ」
 ジェノの言葉とは裏腹に、一向に要領が付かめない彼女だが、少なくともスティナはイドモーン卿のお眼鏡に適ったという事なのだろう。彼女は、注し込む朝日を受けながら嬉し気に朝支度を整え始めると、愈々ファウナへの道を進むその時が近づいている事を強く意識し始めた。



 薄く紫色の朝靄の中に静かに佇んでいたファウナの街も、少しずつ雑踏の息吹を奏で始めている。朝餉(あさげ)の支度に向かう彼女の後姿を見送りながら、セネルが己の日記に手を添えて来方行末(こしかたゆくすえ)に改めて想いを馳せている。いつの間に起き出したのか、ジェノがセネルに話し掛けて来た。
「思えばあの()とエリュマントス山腹で出会ってから、もう一年(ひととし)も経つのですねぇ」
「そうよのぉ、もう一年になるかのぉ。ふぅむ、のぉジェノや。今朝方(けさがた)不思議な夢を観てのぉ」
「不思議な夢、ですか?」
「ふむ、あのエリュマントス山麓で夜半に出食わした獣人共の事をのぉ。ふぉふぉふぉ、夢に(うな)されて飛び起きるとは久しぶりの感覚じゃわい」
「いえ先生、僕にとってもあの出来事は、瞼を閉じれば鮮やかな位に思い出されます」
「ふぉふぉふぉ、左様であろうな。それでのぉ、夢解きではないが、ふとこれまでの事をのぉ、何故か思い起しておったのじゃよ」
「これまでの事ですか?」
「ふむ、あの頃はのぉ、発破の出所を押さえれば、全容解明に繋がると思っておった。じゃがワシ等はあの時にはもう既に、この度の渦中の真っ只中におったのじゃなぁ。あの時はその事に気が付いておらなんだわい」
「はっはっはっ、僕に至っては尚更ですよ。それどころか、正直未だに暗中模索です」
「ふぉふぉふぉ、いや、そうかも知れぬ。真実は追い求めれば更に立ち消えて、常に追い続けるものかも知れぬのぉ」
 セネルは椅子に深く腰掛けて煙草を深く燻らせながら、この一年の事由から推測されるこれからの世界を瞼に描いて、ジェノは忙しなく朝支度を整え始めている。確かに今となって思えば、小さな森の小屋で彼女にハルモニアの惨劇を語り聞かせていた頃に、セネル達が追い求めようとしていた暗澹たる企ては、既に彼等を取り込み始め様としていた。図らずもセネル一行は獣人の襲撃を撃退し、これに絡む腐臭の者共の隠処(かくれが)を瓦解させた上に発破までも奪取した。因果は判らぬが何やら不穏な意図を感じた彼等に、その暗澹たる目論見は勘弁ならぬとばかりにジトジトと近づいていたのである。

 セネルの燻らす煙草の香りは紫色に立ち昇り、彼の記憶は駆け足で時を遡っている。


 
 セネルがハルモニアの惨劇を語り終えた小さな森の小屋では、ゆっくりと時間が漂い流れている。穏やかな一日、セネルとジェノが今回の事由から炙り出せ得る首謀者の目論見を始終考えている。彼女は、獣人との闘いを経て深く繋がった小屋の衛兵達と巡回警護に出立した様だ。職人達も同様に己の仕事に取り掛かっている。

 これとは裏腹に小さな森の小屋でゆるりと時間が流れる同じ頃、この小さな森の小屋から遥か遠く離れた豪奢な山荘の一室に、黙々と読書に(いそ)しむ紳士がいた。何時(なんどき)かを経て、美しい夕陽を窓一杯に採り込んで絨毯を朱色に染めているその一室の扉を叩く音が響くと、執事らしき男が物腰柔らかく入って来た。その執事を見る事もせずに読書に勤しむ紳士が話し出した。
「実に素晴らしい! 今度、君にも教えてあげよう」
 執事らしき男が恭々(うやうや)しくお辞儀をして、その紳士の耳元で(ささや)いている。
「遥か彼方に“エリュマントス山麓東駐屯地”なる施設がございます」
「ほぉ、かの威容を誇るエリュマントス山にすら人が住まうのかぁ。それで、どうしたのだね?」
「かの地で我等が目論見の一つ、失策したそうでございます」
「君、全ての事が思惑通りに進んでいる訳でもあるまい? そんな細事を逐一、私に報告する必要はないと思うよ」
「御意にございます。なれども、お耳に入れたき儀は、かの地の失策ではございません」
「おや? 何だろう? ふふ、面白い話かな?」
 執事らしき男は、二人以外には誰もいない部屋にも拘わらず紳士に耳打ちしている。やがて、紳士は書物をパタンと閉じて腰掛けていた椅子に深く座り直すと、眼を(つぶ)って深く何事かを考えている。その様子はとても楽し気で、漸く退屈な日々から解放されたかの如く、時折(ときおり)含み笑いすら浮かべて何事かを深く考えている。
「ふふふ、それは面白いね。楽しくなってきたんじゃないかな?」
「恐れ入ります。では、(わたくし)はこれにて」
 執事らしき男が恭々しく部屋を出ていくと、紳士は独り言のように呟きながら書物を開き直している。周囲を細い金細工が施されたその書籍には、やはり金で縁取られた刻文字が、蝋燭の明りに揺れながら(きらめ)いている。
「なんて素晴らしい内容なのだろう! あぁぁ、それなのにもうこの巻で絶筆と成ってしまうとはなぁ。ふふふ、本当に残念な事だよ、セネル先生」
 紳士は書物を大切に撫で廻しながら、再び静かに読書に耽っている。一方の一室から出て来た執事らしき男は、異形の者に言伝を指示している。
「お館様よりのお言葉じゃ。イクシオン殿へ繋いで貰いたい」
 異形の者は、聞いているのか否かすら判然としない無表情な素振りで、無愛想に山荘を発った。山荘を包む森は直ぐにこの異形の者を黒く包んで、その姿を闇の中に葬った。

 場末な酒場の一室で、酒を静かに嗜む者がいる。その者の脇で肩を(すぼ)めて、ボソボソと話す男がいる。
「けっ、折角仕込んだ小屋の隠処が無駄になっちまったぜぇ」
「へいお頭、それに手下も発破も」
「ふん、兵隊なんぞどうにでもならぁな。だがよぉ、発破がなぁ」
「へい、パラスに仕込ませた手下に急ぎ働かせやす」
「ああ、頼んだぜぇ。お館様に知られる前に片付けとけよ。でもよぉ」
 お頭と呼ばれる男-イクシオン・コキュートスには合点がいかぬ様子だ。
「でもよぉ、小屋の雇われ兵にしちゃ、いい働きじゃねえか」
「へいお頭、ファウナから応援が来た様だと、繋ぎの者が言っておりやした」
「そこよぉ、おめえ変に思わねぇのかぁ?」
「へい、代金踏み倒した筈の小屋の連中に応援たぁ、尋常でねぇです」
「だろう? 獣人共に踏み潰されなかったのも、どうも合点がいかねぇな」
「へぇ、手練(てだれ)がいただけと思いやすが」
「けっ、その田舎の手練如きがよぉ、ファウナを丸め込んで応援まで(よこ)させてよぉ、おまけに隠処全部を潰して、俺達が永年隠し抜いてきた発破まで(かす)め取ったのかぁ?」
「へいお頭、そう言われてみりゃぁ、確かに切れすぎてやす」
「そう思うだろう? 臭せぇな……おめえ、探らせてみな」
「へい、承知しやした」
 肩を窄めて話していた男は消える様に部屋を出て行くと、イクシオンは一抹の不安を感じて、浴びる様に酒を(あお)った。
“田舎の小屋風情にしちゃ、出来過ぎてらぁ。こいつぁ、黒幕がいるぜぇ! 間違いねぇ”
 場末な酒場で思案に(あぐ)ねて夜明し酒を呷っていたイクシオンは、浮腫(むく)んだ赤ら顔のまま眠りに就いている。が、その手下共は蜘蛛の子を散らした様に方々に走り出している。

 小さな森の小屋で、遠く離れた山荘で、場末な酒場で、それぞれの思惑を抱く者達が動き出す。恰も一本の糸で手繰り寄せられる様に動き出している。穏やかな陽はやがて夜となり、夜がだんだん深まれば、月はこの三つの場所を同じ様に静かに照らしている。

第二八話 流れゆく時間

第二八話 流れゆく時間

 学術都市パラスの中心に広がるアウラの泉には、間欠泉を応用した一際目立つ噴水がある。その泉畔を歩くイドモーンとスティナの表情は冴えない。スティナが内偵調査の為に小屋を発って、この地でイドモーンを頼りに発破の原料採掘場から製造場、延いては流通の過程を隈なく調べても未だ特段怪しい動きは察知されていない。
「ふむ、スティナよ。視点を変えて考えてみようかの」
「そうですねぇ。なにせ腐臭の者共だけあって真っ当な遣り方じゃなさそうですね」
「どこぞで発破が無くなっておる筈じゃが、誰も気付いておらぬが不気味じゃな」
「ですねぇ。俺は夜中に動いてみます。発破とは関係ねぇ連中が蠢いている気がします。農民や商売人それに研究者……」
「ふむ、良きかな。満更的外れでもないかものぉスティナよ。時にそなた発破を爆発させたと言っておったの? パラス首長に今から頼んで何処ぞで試爆してもらおうかの?」
「試し撃ですか? でも何故?」
「ふむ、ただの好奇心じゃよ。ワシは原理こそ発明したものの実際に爆破した様子を見た事がのうて、一度観てみたいと思っておったのじゃ。さぞ爽快であろうのぉ。楽しみじゃ!」
「そ、そうですか……」
 イドモーンの足は既に首長官邸に向かっている。官邸に着くや否や、門兵の制止も聞かずにズカズカと官邸内に入り込み、公務に勤しむ首長を見付けると即座に試爆の申し入れを――正確には、否やを云わさず試爆を同意させたのである。
“ふふふ、俺達にはとんでもない爺さん達が味方に付いてるぜ。これは面白くなりそうだ。小屋へのいい土産話ができそうだな”
 スティナはニヤリと含み笑いをして、イドモーンの後ろに静かに付いて歩いた。
 やがて、試爆の日が巡って来た。敢えて晦日月の夜を選びパラスから遠く離れた山中にて、イドモーン公爵パラス首長他の重鎮が仰々しく列席する中、発破十五発が連続して試爆された。轟き渡る爆音は、地響きと成って天を揺るがし山中に木霊する。その凄まじい威力に国力高揚を感じた首長他の重鎮達の喜びとは逆に、イドモーンは自身の発明に恐怖した。同時にその閃光を見詰ていたスティナの顔色が変わった。試爆後の宴を早々に切り上げた二人は、帰路にあって互いの想いを語り合った。
「ふむ、あれは恐ろしき物じゃ! それが忌わしき者共の手に渡っておったとは……」
「それですが先生、俺が観た光とは随分違ってました。それに臭いも」
「何と! 何と申した! ふぅむ、そうであれば改良されておるのぉ」
「俺はこれから探索を進めます。何だかキナ臭くなってきました」
「うむ、頼むぞよ。ワシは種々試験してみようかの。そなたが観た光と臭いに則って」



 同じ頃、場末の酒場でも動きがあった。いつもの一室でいつもの様に酒を呷るイクシオンのもとへ、矢張りいつもの様に肩を(すぼ)めながら近づく男が方々に放った手下共の情報を報告している。
「何だと! けっ、あの(じじい)は五年も前にハルモニアでケリが付いたってのに……全くお節介な爺だぜぇ。とっととハベストに戻りやがれってんだ!」
 唐突に隠し扉がパタリと開いた。その刹那、肩を窄めた男が隠し扉に向けて幾筋もの苦無を放てばクルクルと回転する隠し扉に苦無だけが突き刺っている。
「おめえぇ! 入って来る時は入口から来やがれ!」
 過日、山荘を発ったあの異形の者がイクシオンの前に無愛想に座り、酒を瓶ごと(あお)っている。
「……ふぅぅ上等な酒だぁ。生き返ったぜぇ」
 肩を窄めながら男が扉の苦無を引き抜きながら尋ねている。
「お館様からのご伝言ですかい?」
「あぁ既にお察しの通りだぜ。上手く始末してくんなぁ」
 異形の者の伝言が言い終らぬ内にイクシオンは不貞腐れながら話に割り込んでいる。
「けっ! てめえぇいいご身分になったもんだ! でよぉ帰りのついでに伝えてくれねぇか?」
「発破だろ? まぁ伝えねぇ事もねぇさ」
「食えねぇ野郎だぁ。お館様にはよぉ開けた穴は埋めとくとでも云っておきな」
「うるせぇ! てめえの指図は受けねぇぜ。どう伝えるかは俺様次第だぜ!」
 イクシオンと異形の者は、(いが)み合っているのかいないのか大声で笑い出して酒を呷っていた。
 やがて宵も更けた頃、異形の者はイクシオンを見詰て語った。
「よぉイクシオン、下手打つんじゃねぇぜ! おめえを始末するのも気が乗らねぇ」
「けっ誰にもの言ってやがる! てめえこそ気を付けなぁ!」
 異形の者はイクシオンの返答には応えず、矢張り隠し扉から気怠(けだる)そうに出て行くと、イクシオンは独り言の様に呟いた。
「パラスへの仕掛けと爺の始末かぁ……忙しくなるぜぇ」
「なぁに、お頭。どうって事はねぇです。直ぐに片付けて参りやす」
 夜の闇に包まれながら、異形の者が山荘に向けて馬を馳せらせる一方で、繋ぎ役の手下と思しき集団が闇に吸い込まれる様に散って行く。



 小屋から遠く離れた山荘でも、新たな動きを始めている様だ。執事らしき男が、この山荘の主である紳士に向かって慇懃(いんぎん)に相談を持ち掛けている。
「如何でございましょうか?」
「そうだねぇ、少々大袈裟すぎやしないかな?」
「いえ万一の手筈でございます」
「まぁ君がそこまで言うのなら任せるよ」
「御意。では早速に客人へ指図致して参ります」
「ところでクレオーン君は……まぁいいか、好きにさせれば」
「……はぁ、仰せの通りに」
 執事らしき男は部屋を出ると、ふと主が言わんとした事を反芻して立ち止まった。
“さて、どうしたものか? だが、詰らぬ事をして御不興を買う訳にもいかぬし”
 暫らく考え込んだが殊更に妙案が浮かばず、取り急ぎ為すべき仕事――客人への依頼の為に山荘を出て山の中に分け行った。隅々まで手入れが行き届いている山道を歩けば程なくして客人に(あて)がった小屋が眼前に現れた。すると突然茂みから唸り声が聞こえて来た。
「客人よ、私だ。こ奴を鎮めて下さらぬか……」
「ふっ何の用かは知らぬが不用心に近寄らぬ事だ。命が幾つあっても足らぬぞ」
「う、うむ心得た。それでこの獣じゃが……」
「ふっふっふっ腹でも減っておるのだろう。して用向きは何だ?」
「そなたに始末して貰いたい者がいるのだ。その前にこの獣を……」
「案ずるな。我が指図もなく食い物に喰らい付いたりはせぬゆえ」
 執事らしき男は、唸り声に怖れて身動き一つ出来ずに事の次第を依頼した。客人は眉一つ動かさず聞き入ると深く溜息を付いた。
「ふぅ、も少し面白き趣向でもあるのかと思いきやそんな事か。俺も見縊(みくび)られたものよ。盗人(ぬすっと)がしくじった後始末とな」
「いや軽んずべからず。僻地の小屋の傭兵ながら獣人すら四体も倒しておる様子じゃ」
「執事殿よ、覚えておくがいい。俺一人が一師団と同じと云う事をな。館の主にも良しなに伝えてくれよ。分かったらさっさと戻るが宜しかろうな! こ奴は相当に腹が減っている様だ」
「う、うむ心得た。その際はまた頼みに来る事にしよう」
 執事らしき男は内心で憤慨しながらも主が招いた客人だけに無下に怒りを表す事が出来ずに、それでいてこの客人の凄みに関心を抱きながら館に戻って行った。
 この客人は獣を巧みに操る。俗に獣使いと呼ぶ者もいる。彼ら獣使いは、驚異的な身体能力と特徴的な身体構造を有し寿命は終わりを知らず人語すら解するらしき生物――即ち、神獣や霊獣すら操る事ができると云われている。実際にその様子を垣間見た者は皆無であり真意の程は分からぬが、一説には一軍隊を瞬時に滅殺する程の力量を持つと云われている。
 その客人は一人ニヤニヤと含み笑いしながら不気味に部屋に佇んでいる。



 アレクト護送のエリス一行は、昼夜を通して歩みを休めずファウナ首都に入城すると取調べを即座に実施した。その手法は、嘗てハルモニアでプルトス伯爵が行いしものと対極を成し、最早(もはや)腐臭の者特有の他責思想が滅消したアレクトは知る処を真摯に露呈し、その記録は過去に捕縛され事実究明された事由と相俟って“腐臭の者とは何か”を捉える手段となり脈々と今日受け継がれている。
 日々を重ねる程に視覚化されてゆくこの記録は、セネルの知見を以って全容が仮説されるその時を待っている。そのセネルはジェノと共にこの世界の僻地にある小さな森の小屋にあって、この世界に不穏の影を落とす事由の目論見を限りある事実に基き様々に組み立てている。ファウナにはテミスがいる。その彼が余りある程の事実を検証しているに違いない。無意識下に師弟は互いを意識して己の技量を尽くさんと研鑚を続ける内に、セネルが意を決してジェノに向かい直った。
「のぉジェノや、愈々ファウナへ参る時が来た様じゃ」
「ええ、テミスさんが何を掴んだか、とても楽しみです」
「ふむ、これからは命懸けになりそうじゃて」
 ジェノが和やかに笑みを湛えて、ガントスに出立の日取りを伝えに部屋を出た。
 彼女が巡警より戻ってきた。懐かしい東門櫓を潜り勢いよく大広間に飛び込むと、そこにはセネルとジェノが、パロメやタキトゥスを従えて待ち構えていた。
「愈々じゃよ。来てくれるのぉ?」
 彼女は屈託なく微笑み返し、パロメ達は待ち受ける未来にブルブルと身震いした。
 陽が西方に連なる山際を橙色に包み森が黒く染まり始める頃、今宵聞く梟の鳴き声をいつか懐かしく思い出すその時の為に、いま命運が巡り始めた。

 季節外れな程に肌寒い早朝、セネル一行は生涯忘れ得ぬ想いを刻み込んだこの“小さな森の小屋”を出立しようとしている。
 ガントスの他に殊更連絡しないでいたが、門前広場にはこの小屋で命を支え合った皆が集って来て、一行の無事を各々の言葉で懸命に伝えている。獣人との死闘前夜の時と同じ様に彼女の髪を梳き紅を惹いてくれた道具屋の女主人に至っては自分の娘に想いを重ねたのか、出立の間際まで涙ぐんだまま中々彼女の手を放そうとしない。
「さて、そろそろ参ろうかのぉ。ガントス殿、小屋の皆の衆よ、真っこと世話になった。皆々達者でのぉ」
「な、何を申されます。世話になったのは、なったのは……」
 ガントスは衆目を気にせず咽び泣き、その声が言葉にならない様子にパロメが機転を利かせて陽気な振りして話し掛けている。
「がっはっはっ、ガントス殿! 鼻水拭きなされ、涎も垂れておるぞ! 我等、死に行くのではないですぞい。生き貫く為に出立するんじゃい! ほんに、ほんに涙脆くて……か、かなわんわい……」
 うんうんと大きく頷くガントスは未だ泣き止まず、パロメとて団栗眼を真っ赤に濡らしている。セネル一行を乗せた褐色の幌を纏った三体牽きの馬車が、その時を知ってか緩りと動き始め、懐かしい東門櫓を潜って行った。小さな森の小屋の彼方此方で橙布の徽章旗が起ち昇り悠然と風に翻って、角笛が想いよ届けとばかりに小さな森に鳴り響き渡っている。
「あん? 何か出てきたぜぇ。あの馬車、ファウナの徽章付けてやがる」
「あぁ多分あれだろうな、繋ぎの者が言ってた爺ってのはよぉ」
「よし! 今晩寝込み時にさっさと片付けちまおうぜ」
「へっへっその前によぉ、小屋の奴等にお礼しとかねぇか?」
「ふっふっそいつぁいい思い付きだぁ。じゃぁ今晩は小屋を潰してから、爺はゆっくり始末するかぁ? どうでい?」
「くっくっくっ面白くなってきやがったぜぇ」
 この者達は、嘗ての小屋の討伐で瓦解した一団の残党であるが、怖々(おめおめ)と根城に戻れば詰め腹切らされるし、かと云って他に行く宛てもなし、ただ息を殺して森の深くで隠れ忍んでいたが、そこへ繋ぎの者が言伝を持ってきてくれたのである。この世界でもう一旗揚げる為には、我武者羅に外道働きするしかない連中である。

 一方の幌馬車の中では、パロメが手綱を牽きながら、タキトゥスと彼女にファウナ迄の護衛の段取りを付けている。話が一段落すると、彼女がふと言葉を漏らした。
「ねぇ腐臭の者だったアレクト。元は愛情溢れる人だったのにね」
「うむ、ハルモニアでの惨劇が道を歪ませたのだな。あれは本当に悲惨であった」
「タキトゥスさん詳しいの?」
「何じゃ知らなんだか? タキトゥスは元ハルモニアの兵士ぞい」
 パロメがタキトゥスをちらりと横目で見て言葉を促した。
「うむ、もう昔のことぞ。ワシはハルモニア聖騎士の一人じゃった」
「ほう! これは驚いたのぉ。済まぬがこの()に話してあげてくれぬかのぉ」
 かの惨劇の生き証人の言葉にセネル自身も頗る興味を抱いた。
「はぁ、先生……とは云えワシは大司教付の下っ端でしたので、ワシ一個人の心象としてお聞き下されたく」
 タキトゥスはハルモニア側から見た当時の状況を感傷を交えず淡々と話してくれた。その話は、セネルが彼女に語り聞かせた『ハルモニアの惨劇』と口承される史実と乖離する処は少なかった。ただ、一つを除いては……
「よってワシが現地に赴いたのは、ほんの只一度。大司教様の巡礼随伴の要員としてのみですな」
「えっ!? それじゃぁ大司教様が襲われた時、タキトゥスさんはそこにいたんだ!」
「うむ、商人姿に身を装った者が、いきなりじゃった……大司教様は、剣を腹に突き刺され後ろ向けに卒倒されたのじゃ。我ら聖騎士とて一瞬何が起こったのか、理解する事すら(あた)わなんだ。その者は隠し持ちし短剣で己の頸を割いて絶命しおった。衆人の悲鳴で始めてワシ等は我に返った。だが為す術はもう皆目なかったの……大司教様のご遺体を囲んで聖都に戻るのが精一杯じゃったよ……」
「何と申されたタキトゥス殿や! 正教会の公表ではウパ七世はそれでも手翳しされ、その者の免罪を神に請うたと記載されておったがのぉ」
「はぁ、先生。その事をワシはパラスで知りましたぞ」
「パラス? どうして聖騎士のタキトゥスさんがパラスに?」
 言い難そうなタキトゥスを察して、パロメが言葉を繋いでくれた。
「正教会の奴等は聖騎士に責を擦り付けおったんじゃ!」
「いやいや、パロメ殿。大司教様をお守り出来なかったのは事実じゃ」
「じゃがタキトゥスよ、殉死を勧めるなんざぁ、聖職者の風上にも置けんぞい!」
「待たれよ。そこをも少し詳しく話してくれぬかのぉ?」
「はぁ、先生……我等聖騎士は皆、聖都に戻ると蟄居を申し渡されましてな。長らく家に閉じ籠もっておりました。大司教様のご葬儀にも参列能わず、悶々と日々を過ごしていましたが……後日あらたに設立されし枢密院なる機関に招聘(しょうへい)され、連日の様に“この責をどうとるのか?” と詰め寄られましてなぁ……それに耐えられず、己の頸を掻き切って詫びを入れた仲間もおりましたぞ。いや、ワシとて同じ想いでおりました」
「それよぉ、タキトゥス! 命の尊さを教える者が一方で死ねと云う! 腐り切っとる!」
「はっはっはっ、パロメ殿よ。そなたが腹を掻いても詮無き事よ……ですが先生、ワシがこうして生きておるのはネメシス司教様のお陰ですな。司教様は枢密院から疎まれ、在らぬ事か大司教様を亡き者にした張本人とまで愚弄されましてな。それでも司教様は“死を以って償うはハルモニア正教の教えには非ず!” と仰られ……ワシは聖騎士の任を解かれ放逐されるだけで済んだのですじゃ……妻と二人、僅かな路銀と荷物を持って、聖都を追われる様に出て行きましたぞ。そして、流れ着いたのがパラスですなぁ」
「くそぉ!くそぉ! ワシらは虫けらかぁ? くそぉ!」
 パロメは高ぶる感情を隠さず、堪え切れずに泣いていた。
「えっ? それじゃ小屋にタキトゥスさんの奥様がいらしたの?」
「はっはっはっ、ワシの家内はのぉ長旅が祟ったのかパラスでのぉ……」
「ごめんなさい。立ち入った事聞いちゃって」
「はっはっはっ、良いのじゃ。そなたに見つめられると素直になれるぞ」
「ふぉふぉふぉ、じゃが編纂史が改竄されておったとはのぉ……情けなき事じゃて」
「それに先生、記録では黒装束を纏った者が襲ったと、聖騎士がその者を打ち取ったと記述されてましたね」
「そう! そこですぞい、若先生! 連中、己の都合の言い様に言いふらかしよる! ワシ等が命を賭しても見て見ぬ振りじゃ!」
「はっはっはっ、パロメ殿よ、そう腹を立てるでないぞ。正教会としては……まぁ、何としてもハルモニア衛兵達に帰責させたかったのじゃろう」
 セネルは深く肯きながら腕組みして、ジェノは頬杖付きながら熟考し始めた。彼女は、タキトゥスを覗き込んで尋ねている。
「奥様は、ご病気でいらしたの?」
「うむ、元々身体は丈夫ではなかったしパラス迄は徒歩で食うや食わずの生活じゃったしのぉ。じゃが、パラスは良き処じゃった。暫くはまた夢を持てる様にもなったのぉ。もう一度頑張ろうと思っておったのじゃが流行病(はやりやまい)で……薬を買う銭もなし、最期はあっけなかったぁ。眠る様に逝ったわい、ワシ一人残してのぉ」
「ああ、そうじゃ思い出したぞい。ちょうど小屋の仕事でパラスに行った時のことじゃ。酒場でチビチビ呑んどるこ奴を見つけたんじゃった」
「左様じゃパロメ殿。確かにパラスの酒場で貴殿に“からまれた” のぉ」
「馬鹿こけ! そういう時は“励まされた” と言うんじゃ!」
 幌馬車に笑顔が戻った。パロメは馬に鞭を入れながら爽快に走らせている。
「日が暮れる前に一度休んで腹拵えしましょうぞ」
 西日を右に受けながら、幌馬車はファウナへの道を直走っている。



 その頃、西日が造る森の影に、腐臭の者共がジタジタとこびり付く様に集まってきた。
「へっへっへっ、たっぷりお礼させて貰おうじゃねぇか」
「全くだぜぇ、俺のレイピアも血を欲しがってやがる」
「ああ、銭もたんまり頂くとしようぜぇ」
 纏わり付く様な口調で厭らしい息を吐きながら、腐臭の者共は悦に入っている。たが、小屋の城壁回廊に立つ物見の者は油断なく森の様子を窺い、そこに怪しく蠢く者共を確実に捉えていた。加えて、その報告がガントスの耳に入ると彼の対応は素早かった。災事に於いてまず必要な事――そこに居る者達の心を一つする事! そして次に必要な事――そこに居る者全員で事に当たる事! セネル達がこの小屋に蒔いた種はしっかりと根付いている。
 獣人との壮絶な闘いを生き貫いたこの小屋に集う者々は、己の役目を自覚して仲間を信じて疑わず希望を明日へ繋がんと満を持して夜が更けるのを待ち受けている。いつもは小屋の者を眠りに誘う梟は、時を待つ様に梢で鳴く時を待っている。それとは知らず、腐臭の者共が東門の(かんぬき)をこじ開けて侵入して来た。
 ゾロゾロと入り込む腐臭の者共が、それでも様子を窺いながら宿舎に近づかんとする時、ガントスの気合の籠った号令が掛かると、弓を携え城壁回廊に陣取っていた職人達が一斉に五月雨矢を放った。続け様に宿舎二階の大窓が開き毒矢が空を舞った。不意を付かれ東門に逃げ帰ろうとする腐臭の者共に追い討ちを掛ける様に、正面より兵士が手に得意の獲物を持って飛び出した。獣人との闘いの時は膝を折って神に祈るばかりであった道具屋の女主人は、ガントスの脇に立って負けじと戦士を鼓舞している。
 矢を受け剣に槍に打ち据えられ、腐臭の者共凡そ二十名が虚しく縛に付くのに然したる時を経る事はなかったと云う。思えば愚かしくも悲しき者共である。

 掛かる失態を知らず場末な酒場の一室で酒を呷りながらイクシオンが呑気に尋ねれば、彼に付き添う肩を窄めた男も己の手下を過信して応えている。
「もうそろそろだろうぜぇ。爺め出しゃばらなけりゃぁ長生きできたのによぉ」
「そうですなぁお頭。パラスの方もそろそろ繋ぎが入ってる頃合です」
「けっ! とんだ道草だぜぇ! これでまた安心して酒が呑めるぜ!」



 同時刻、遠く離れたパラスで方々を探るスティナの瞳が、怪しく話し込む人影を捉えた。ニヤリと笑いスティナは気配を隠してその者達に近づくと、人影は賑やかな酒場に入り込んでいく。“こんな処で堂々と繋いでいやがったのかぁ!全く畏れ入るぜ!” 酒場に陣取るその者達に気付かれぬ様、スティナは全神経を傾けて様子を窺った。

 パロメが牽く幌馬車は、下限の月明かりを受けて森の中を直走(ひたはし)っている。深々と夜は更けて、時は何事もなかった様子で流れを止めないでいる。

第二九話 等しき想い

第二九話 等しき想い

 底抜けに賑やかな酒場では、パラス特有の楽器に合わせて陽気な歌声が満ち溢れている。その片隅に座る怪しき者二人の会話は、途切れながらスティナの耳に届いている。
「……でよ、その……なんだよなぁ」
「……随分とな、落ちる……だぜ」
 酒場の陽気さが、スティナの神経を逆撫でる。それでも懸命に耳を(そばだ)てていると、ふと背後から強い視線を感じた。気付かぬ素振りで振り向けば、その視線も咄嗟に気配を消している。どれ程の時間が経ったのか、怪しき者二人は泥酔気味に酒場を後にした。その後を付け様とするスティナに再び強い視線が向けられる。その視線は、この二人の後に出て行くスティナの背中に纏わり付いて離れない。この二人は地元民らしく、慣れた足取りでフラフラと路地を曲がって、やがて二手に分かれて行った。その一人を負うスティナには依然として視線が向けられた儘である。
“こいつぁ、相当な手練(てだれ)だ……迂闊に先生の館に戻る訳にはいかないな”
 スティナは追尾を止めて、途中の安宿に足を踏み入れ、用心深く自室で相手の出方を探った。視線は宿屋では感じられないが、自分に狙いを付ける者がいる事は確実だ。スティナは自室にあってイドモーンへの繋ぎの手法をあれこれ考えながら、一方で今夜掴んだ怪しき者の正体を突き止める段取りを立てた。
 その後、この安宿を根城にしたスティナは、街の方々をぶらぶらと徘徊しては怪しき者の足取りを探し、同時に自分に向けられる視線と闘い続けた。

 一方のイドモーンは、館にあってスティナより聞いた発破の光臭に考え馳せて、幾日も研究場に立て篭もり、取憑(とりつか)れた様に実験を繰り返している。多くの弟子達がイドモーンに指図される儘に、パラス各所より様々な薬品類を調達して来ては、訳も分らず実験に扱き使われている。
 イドモーンが不意に弟子達に尋ねた。
「うん? そなた達この薬品類はどうなっておるのじゃ?」
「えっ? いや、先生が購って来いと仰せられたので」
(たわ)け者! そうではない! 購入の仕方を聞いておる!」
「えっ? いや、街の道具屋でお金を払って」
「この阿呆! 道具屋で欲すれば、薬品が誰でも買えるのかと聞いておるのじゃ!」
 最初からそう聞けばいいものを、イドモーンの言葉はいつも足らない。しかし弟子達の話に拠れば、本来なら購入するには様々に煩雑な手続きが必要なのだが、氏素性さえ分かっていればこれを省略して道具屋で卸してくれるそうである。
「ふぅむ、決まりが形骸化しておるのじゃな。嘆かわしいのぉ」
 既にイドモーンは、スティナが力一杯吹き飛ばした発破の内容物を確信していた。イドモーンの確信では、その発破は模造品――だが、パラス正規品より威力を増している一方で破烈は不安定――何者かが製法を模して粗悪品を製造している事になる。
“おや? そう言えば、最近スティナを見掛けぬのぉ?”
 イドモーンは漸くスティナがいない事に気が付いて、彼の身を案じ始めた。

 そのスティナは根城の安宿を足場に、日中は怪しき者の素性を探り、夜ともなれば賑やかな酒場に足繁く通い、手掛かりを求めるも埒が明かない。だが、相変わらず強い視線はスティナを捉えて離さない。
“一か八か仕掛けてみるかぁ! 釣られてくれよ!”
 スティナは酒場の主に仰山に装って話し掛けた。
「なぁ、親父さん。ここら当たりでなんか一山当てる遊びはないかい?」
「あん? 兄さんお若けぇんだ、馬鹿考えてねぇで、真っ当に働きな!」
「ふん、説教なら真っ平だよ。なぁ、この辺りで遊べる処はねぇの?」
「ねえ事もねぇが……兄さん、泣き見るだけだぜ。やめときな!」
「おいおい、こう見えてもファウナじゃならしたんだぜ。指差、目株、銭札……」
「あん? 兄さん銭札やるのかい?」
「ああ、ファウナではよぉ……」
 スティナは、嘗て小屋でパロメに無理やり参加させられ、基本的な遣り方を知る程度の賭博経験しかないが、殊更大袈裟に大声で吹聴してみた。
「なんでぇ、どうしたんだってぇ? 面白そうな話しじゃねぇか!」
 この数日の探りでこの怪しき者が少なからず繁盛した道具屋を営み、毎夜酒場で盛り上がっているその仕草から“銭札”を好むと踏んでのスティナの“大博打”であった。そして見事に餌に喰らいついて来た。
「ふん、どうだか怪しいもんだぜ。ところで兄さん、誰に手解きして貰ったんだい?」
“うっ、拙いな……えぇい! やけくそだ!”
「まぁ、知らねぇだろうけど……団栗眼の親分さんだよ!」
「な、何だって! あんた団栗の親分に手解き受けたのかい? そいつぁ凄げぇ!」
“なっ、なんだぁ? 本当にそんな奴がいるわけ? もう成る様にしかならないな”
「まぁね。手持ちさへありゃ、面白い札を打って見せるぜ!」
「へっ、銭なんざよぉ……どうだい稼いでみて札屋に行こうぜ」
 話はとんとん拍子に決まった。明日にはこの者が仕事を紹介してくれる。随分と稼ぎのいい仕事の様だ。強い視線は変わらずスティナの背中を衝いている。
 明朝、怪しき者が斡旋する仕事とは、店で商う紙を別の雑貨屋に卸すだけだった。
「何だい? 本当に稼ぎになるのかい? こんな紙……」
「それがよぉ、結構いい値踏みしてくれるんだよ。まぁ駄賃は弾むぜ! 頼んだよ」
 この紙――その感触をスティナは覚えている。物書きにも包みにも適さない乾いたザラリとしたこの手触りこそ、発破を巻いていた紙に相違あるまい。その雑貨屋に紙を届けて話し込めば、糊を武具屋に持って行ってくれと頼まれる。
“何てこったぁ! そういう事だったのかぁ! 道理で尻尾が掴めねぇ筈だよ”
 スティナは一人 北叟笑(ほくそえ)んで、イドモーンとの繋ぎの手筈に想いを馳せた。



 危険と背中合わせで力を振るうのは、スティナ一人ではない。ファウナへ急ぐセネル一行にも新たな手練(てだれ)が放たれていた。小さな森に隠れ潜んでいた手下共が、一網打尽で捕縛された繋ぎは程なくしてイクシオンの耳に届き、激昂した彼が自ら人選した手下共五十名を即座に放ったのである。唯一の救いは、方々に散らばった配下がバラバラに現地へ向かっている事くらいだろう。
 この森の彼方此方に小屋管轄の伐採場が設けられている。セネル一行はその施設を巧み利用して、最大限に安全を確保しながらファウナへの道を急いでいたが、小屋を出て数日を経た朝靄煙る頃、幾つか目の伐採場を出立して直ぐに最初の追手が姿を現した。
 トルーパに跨って脱兎の如くこちらに向かって来る!
「漸くお出ましじゃ! やはりワシ等をファウナへ行かせたくない様子じゃぞい!」
 手綱を引くパロメが勢いよく鞭を入れると、タキトゥスと彼女も臨戦態勢に入った。
「嘗められたの! たったの五人組ぞい!」
「油断するでない! 性根を入れておるやも知れぬぞ!」
 砂塵を撒き散らして幌馬車と五体のトルーパが擦れ違う。その刹那、パロメが左右に手綱を振って馬車毎トルーパ一体を弾き飛ばした。仲間の四体はそれに構わず、直ぐ様に踵を返して後方より襲い掛かってくる。彼女が得物を弓に持ち替えて、幌馬車後方の小窓より追って来る腐臭の者を捉えている。その一方で、腐臭の者が弓を警戒して左右に揺れながら、一挙に間合いを詰めて来る。激しく揺れる幌内で彼女は続け様に矢を放った。弓鳴りの小気味良い響きを奏で、打ち果たさずと(いえど)も、この為か腐臭の者は容易に近づけないでいる。
 一体のトルーパが脇に逸れて幌を追い続け、重量の馬車との距離を詰めると苦無を打って来た。が、ファウナ製の馬車は俗に鉄馬車と異名を取る如く、幌にも鉄鎖が帷子に織り込まれており、苦無は愚か槍すらも寄せ付けない。舌打ちする腐臭の者の油断をタキトゥスは見逃さなかった。幌馬車の扉をスルリと抜けると、猛烈な速度で並走するトルーパに飛び掛り、馬上の腐臭の者を蹴り落として叫んだ。
「残り三人はワシが引き付ける! 先を急げ! 振り切るのじゃ!」
 パロメが激しく鞭を入れて、タキトゥスが追って来る三体へ突入して行く。
「聖騎士を嘗めるでないぞぉ!」
 白銀の大剣が朝日を受けて、聖騎士の誇りに満ち溢れてタキトゥスが一人、腐臭の者の前に立ちはだかった。
「ぬぅ! 貴様ハルモニアの堕落騎士かぁ! 積年の恨みを知れい!」
 激しく火花を散らして両者は擦れ違う。擦れ違い様に(よこしま)に朽ち果てた眼と嘗ての自尊心を取り戻した眼とが搗合(かちあ)った。
 タキトゥスには迷いがない。何一つ全うせず、誰一人助ける事もなく、放逐され路頭に迷い、(あまつ)さえ愛する妻すら守り通せなかった不甲斐無さに、目を背けて無難に生きて来たタキトゥスの姿はそこにはない。(きびす)を返して躊躇なく三人の手連(てだれ)に死闘を挑み掛っている。
 道中、己の事を素直に曝け出せた。生き恥を意識して心に沈めていた己の姿を有りの儘に語る事ができた。何かがプツンと切れて気が楽になった。自分の周りにはいつも仲間がいたではないか! 支え合い助け合う仲間がいたではないか! 今は心底守り抜きたい御人すらいるではないか!
「やかましいぞ腐臭の者ども! 我は聖騎士、恥ずべき事は何もない! 神は魔道を許しはせぬぞぉ!」
 タキトゥスの切先は鋭く大剣は軽やかに、(よこしま)なる者を一人打ち据えた。静かな森にけたたましく刃を重ねる音が鳴り渡る。
 その音を遥か後ろに聞きながら、パロメは激しく鞭を打ち続けている。振り返る事なく、前へ前へと馬車を進めている。セネルは眼を固く瞑った儘、頑として動かない。ジェノは握り拳を振るわせて一点を凝視している。彼女はいつまでも遥か後方を見続けていた。



 死闘を繰り広げる馬道より遠く離れた豪奢な山荘で、館の主が執事らしき男に穏やかに詰問している。
「ほう、中々上手くいかないものだね」
「面目次第もありません。イクシオン殿に手違いがあった様です」
「君……本当にセネル先生がファウナへ行って、あれこれ嗅ぎ廻られたら面倒だよ」
「はぁ、今度こそは必ずやと思います」
「君……本当に分かってるのかなぁ? で、お客人はどうされてる?」
「はぁ、未だ別邸で寛いでおられます。急いで動いて頂こうと思います」
「まぁ、中々上手くいかないものだよ、世の中と云うのはね」
 紳士は憮然として香り高いお茶を口にすると、黙って本を開いた。執事らしき男は、恐縮しながら部屋を出ると、小走りになって客人が寛ぐ小屋に急いでいる。
「どうですかな? そろそろ動いて頂かないと」
「ふん、まだ盗賊共がしくじったと決った訳ではあるまい」
「ですが、お客人……」
「執事殿よ、そなたの依頼は盗賊共が失敗したらその時は、というものであったな」
「それは、そうですが。相当に手強き相手の様ですし」
「契約は契約じゃ! 我等獣使いは契約で動くと知れ!」
「うぐっ……」
「まぁ、そうは言っても一宿一飯の義理は果たせねばな、ふっふっふっ」
「お、お客人、何卒宜しくお願いしたい」
「ふっふっふっ、悪い様にはせぬ。安心致せと主に伝えるがいい」
 小屋を追い出された執事らしき男は、歯軋りして山荘へと繋ぐ小道で佇むだけしかできなかった。この男には、遥か遠くで懸命に輝く命の存在など気付き様もないのだろう。
それでも陽は天を目指し、如何なる場所のどの様な命であれ等しく照らし付けている。



 一心不乱に鞭を振るって幌馬車を走らせるセネル一行の眼前に、小規模ながら伐採場が見えて来た。伐採場側でも凄まじい勢いで掛けて来る馬車を既に目視している。入城と同時にパロメは馬を変えて、脱兎の如くタキトゥスのもとへ逆戻りしている。彼女は伐採場の衛兵に指示して城門を固く閉ざすと、セネル達を一番奥の部屋に追いやって物見櫓に掛け登り烽火(のろし)を上げた。烽火は各所に散らばる伐採場に伝播して、小さな森の異変を確実に“小さな森の小屋”に伝えていく。異変の烽火は街道筋の衛兵詰所にも次々と伝わって、やがてファウナ南望楼がこれを捉えた。望楼最上部より緊急を促す赤い癇癪玉が立て続けに打ち上げられている。
 主すら振り落とさん程に駆けるトルーパに、パロメが必死にしがみ付いている。団栗眼をカッと見開いて、無心に前へ前へと駆け急いでいる。

「へっへっ、仲間に置いてけぼりたぁ、気の毒だぜぇ」
「ふっふっ、直ぐに楽にさせてやるぜぇ」
 幾度剣を交えても疲れを知らぬタキトゥスに、腐臭の者共が不安を煽らせる様に語り掛けるも、その粘り付く声など最早(もはや)皆目役に立たない。
「ぐっおぉぉぉ! 逃しはせぬぞ! 馬上で騎士と(まみ)える愚か者共が!」
「く、くそぉ! この腐れ騎士がぁ!」
 躊躇なく突進してくるタキトゥスに二人の腐臭の者が押され、加えて、馬上に在りながらも巧みに大剣を操り回す剣技を、レイピアで受け流すには限界がある。ガツッという鈍い音と共に腐臭の者のレイピアが圧し折れ、思わず手で大剣を受け止めようとするその手すら軽鎧毎ベシリと叩き割った。
「ぬおぉぉぉ! 観念いたせぇ!」
 掛け声と共にタキトゥスは残りの一人と切り結ぶ。腐臭の者は、縦横無尽に襲い来る大剣を避けるのが精一杯で、逃げ出すその手立てばかりを気にしている。
「く、くおぉ! この化け者がぁ!」
 一人残されやがて倒された腐臭の者の辞世の言葉には、己の生き様を顧みて恥じ入る様子も窺えない。
 漸く一息を付くタキトゥスは、凍り付く様な視線を森の中に感じ取った。
「ほほう、ぬけぬけと集まりおるとは、愚かしや!」
「くっくっ、中々楽しませてくれるじゃねぇか、落ちぶれ騎士さんよぉ」
「ふっふっふっ、うぬ等見ておるだけでは足らぬ様じゃな。さぁて、次はど奴から葬ってくれようか!」
「へっへっ、粋がるのもそこまでだぜぇ。息が上がってるんじゃねぇか」
 ねっとりと笑いながら、ベタベタと腐臭の者共がその姿を表している。その数四名……。
“ふっ、一気に攻め入れば勝機も見えたろうに、腐臭の者とは何と愚かな。パロメ殿は駆け抜けてくれたかの……ふっふっ、年は取りたくないものじゃ。これ程に大剣が重たかったとは、(つい)ぞ知らなんだわい”
肉体の衰えは止む方なし、なれど瞳はどこまでも澄んで生気を蓄えている。
「ぬおぉぉぉ!」
タキトゥスは気合一発、腐臭の者共を(おのの)かせると相手に背を向けて一目散に街道を逆走する。
「て、てめぇ! 逃げるのかぁ!」
 慌ててタキトゥスを追う腐臭の者を背後に引き付けながら、タキトゥスは間合いを計って相手の懐に飛び込む機会を狙っている。
“もうそろそろじゃな。先生方は走り(おほ)せたかのぉ”
 タキトゥスは突如として(きびす)を返し、縦列になって迫りくる腐臭の者共を睨むと、今度は(あぶみ)を外して四名の相手に再突入し始めた。タキトゥスは、聖騎士が得意とする馬術中でも至高の馬技を繰り出す目論見で、縦列になって迫る腐臭の者共のその三番手に狙いを付けた。
 向かい来る腐臭の者一番手が、鋭い突きを繰り返し、二番手は水平に切り掛かる。タキトゥスは、大剣の背で一の太刀を受け流すと低身になって二の太刀を(かわ)し、手綱を片手に固く握りしめ鞍に足を掛けて空に舞った。
舞って大剣を下段から掬い上げれば、三番手の腐臭の者は勢いに耐え切れず後方に弾き飛ばされ、四番手の馬に絡まって二人の腐臭の者が落馬し翻筋斗(もんどり)打って息絶えている。激しく舞い狂う砂塵の中、直様にタキトゥスは三番手の馬鞍を蹴って再び空を渡って、手綱を手繰り寄せながら元の馬鞍に安座している。間髪入れず即座に馬を(いなな)かせて態勢を整え直すと、息つく暇すら与えず残りの二人に切り掛かる。
「ちっ、洒落臭せぇ真似しやがって!」
 腐臭の者共は馬技では不利と見たのか、苦無を打って間合いを掴むと、露骨に挟み打ちを狙ってきた。前後から投物を打たれれば、流石のタキトゥスも難儀する。止むを得ず、大剣を振るうには不向きな障害物の多い森の中に馬を走らせ相手を誘き寄せている。
 やがて深く森を進んで馬を捨てると、木陰に潜んで腐臭の者共を待ち受けた。タキトゥスは既に肩で息をしながら只管(ひたすら)精神を集中させて、己の剣技優らん事を神に念じている。
「くっくっくっ、どうしたよぉ、腐れ騎士さんよぉ」
「へっへっ、愈々、観念したのかよぉ。お楽しみはこれからだぜぇ」
 下手に動き回れば疲弊して、やがて打ち取られる。次に繰り出す剣技で確実に仕留めなければならぬ。タキトゥスは口を真一文字に結んで、太刀を浴びせる時を待った。

 パロメがもと来た街道を遡る。懸命に馬にしがみ付いて直走(ひたはし)る。そこで耐え抜いている仲間がいればこそ、迷わず突き進んでいる。やがて、その団栗眼に朽ち果てた腐臭の者共の姿が飛び込んできた。その躯を追って、パロメは入念に辺りの気配を探っている。
“ここで気張らねば生きて来た甲斐はないぞい! どこじゃ! どこで剣を交えておる!”
 馬蹄を辿って行けば、森の中から凄まじい殺気が伝わってきた。

 森を渡る風の音や遠くの小鳥の囀りの中、忍び寄る腐臭の者共の微かな足音を落ち葉がタキトゥスの耳に伝えている。木々に隠れて苦無を打ち込む機会を狙って、ジリジリと近づいて来るのが分かる。タキトゥスは大木を背に正眼に低く構え微動だにしない。
 静寂に耐えられず無造作に苦無を放つも、大剣の腹は盾と成ってこれを弾き返す。もう一人の腐臭の者が廻り込んでいる。側面から揺さ振りを掛ける積りらしい。ならば、剣技を繰り出す時が決まった!
 側面から苦無が打たれると、タキトゥスは反転して正面に潜む腐臭の者に背を向けた。その刹那、機会を捉えて勇んで突進してくる腐臭の者を、再び翻ったタキトゥスが上段から打ち据える。辛うじて上段の太刀を(かわ)すものの、返す二の太刀は下段から鋭く突き上げられ、胸から顎を割られた腐臭の者がグシャリと地に伏して逝く。仲間がやられたその瞬間、残る腐臭の者の気配が途絶えた。手に負えずと逃げ出した様だ。が、この腐臭の者が息を切らせ森を駆け抜けこの世で最後に見た物は、刃先が陽に煌くパロメの大斧であった。腐臭の者の後を追って来たタキトゥスは“ふん!”と不貞腐れて、己の剣を収めている。
「なんじゃい、タキトゥス! 普通は感謝する処ぞい!」
 急に腹の底から笑いが込み上げて来た。笑いが止まらず笑い続けていると、何故だか涙も零れて来た。

 一方のセネル達を堅固する伐採場では、城壁回廊で職人達が弓矢を(つが)えて来るべき者共を待ち構えれば、案の定、森の中に蠢く者共が思案に(あぐ)ねて伐採場の様子をジットリと窺っている。白昼城壁を登れば百舌蛙の如し、正面を襲えば針鼠の如し、何れにせよ死に失せるばかりと察したのか、豈図(あにはか)らんや森の暗闇に三々五々と消え失せている。
“今夜、襲う積りね……タキトゥスさん達、大丈夫かしら?” 彼女は遠く街道筋を不安気に見つめて一人呟いていると、伐採場の物見櫓からパロメとタキトゥスの姿が見えた。用心深く城内に誘えば、タキトゥスに疲れこそ見受けられるが、然したる怪我も負っていない。一礼するタキトゥスにセネルは微笑みながら応えたと云う。
「苦労を掛けて済まんのぉ」
「いや、苦労を楽しんでおりますれば、お気遣いなく」
「ぬぅ、タキトゥス! お主にしては気が利く台詞ぞい」
 一同に笑いと喜びが溢れて来た。そしてタキトゥスの体力回復を一晩掛けて図った後、早朝に次の伐採場へ向かう事が決まった。腐臭の者達は、別働隊の仲間が打ち取られた事を悟ったのか、瞬時にこの地を去って行った様だ。
「次の道中、かの者達は本腰を入れて襲ってくるでしょうなぁ。次が峠ですぞ」
「ふぅむ、心得た。矢張り“職は人なり”じゃのぉ、ジェノや」
「ええ、心強いです。遂にファウナ領へ入りますね」
 ジェノが彼女をチラリと観て微笑むと、彼女も満足気に頬笑み返した。

第三十話 解けゆく糸口

第三十話 解けゆく糸口

“パロメさん達、上手く先生方を護衛してっかなぁ? 大丈夫かぁ?” 遠く離れたパラスでスティナがそう呟きながら一抹の不安を覚えている。
 粗方の取引は想像に難くない。市井の商店の彼方此方で発破の部材を幾段階にも流通させて、恐らくはこれらを運ばせて方々に購わせるのも一般の商人若しくは流れ者……だが、何処かで一つに集約して発破に仕上げなければならない。それが何処か……スティナの狙いは一つに絞られている。
“イドモーン先生が製法を特定してる頃だろうな。製法を知る人間が集まる処が臭いな。いや待てよ、製法だけなら習えば済む。って事は製法が盗まれてるって事だな。だが、そう簡単に真似できる代物でなし。もし本当に改造品なら、やっぱ細かく指導してる奴がいるな。間違いないぜ!物を集める奴と造り方を教える奴か! どっちにしても、早く先生と繋ぎを取らなくっちゃな……となると、愈々ケリを付けてみるか!”
スティナの意は決った。ただ、街中で苦無を打ち合う訳にもいかない。
“よし! 一か八か! ふっふっ、二度目の大博打だな”
 ニヤリと笑うと、いきなりスティナは猛然と走り出した。路地裏に入り、人気(ひとけ)を避けて駆け抜けて行く。だが、距離を保ってその速さに付いて来る者が確かにいる。眼前に繋がれた馬が草を食んでいるのが見える。スティナは咄嗟に道具屋から貰った前金の袋を丸々家中に放り込んで、馬に跨ると外れにある小高い墓地に向けて、街道を疾走して行った。
 流石に馬と並走する脚力は持ち合わせていない様で、刺す様な視線はもう感じられなくなっている。しかし、スティナの行く先々で待ち受けるこの者ならば、何れ小高い墓地に姿を表すだろう。スティナはそこで決着を付ける積りで静かに瞑想を続けている。今この場で打たれる訳にはいかない。自分が生き貫いて来た理由が見え掛けている。これから生き貫いて行く理由が分かり始めている。だから、今この場で朽ち果てる訳にはいかない。静かな闘志をスティナの身体は鎧の如く纏って、やがて来る者と死闘を交える用意が整った。
“ふん、やっと辿り着いたとみえる。随分と待たせやがって”
 スティナの銀色の瞳がカッと見開いた瞬間、何処からともなく苦無が空を切って来た。虚しく梢に突き刺さる苦無を余所に、墓地は一際深く静まり返っている。
 墓石に身を潜めれば正面より、繁みに伏せれば頭上より、巧みに苦無が飛んで来る。が、その軌跡の先には誰も居ない。ただ鋭い視線がスティナに激しく向けられるばかりである。スティナが天蚕糸(てぐす)を巡らして結界を張るも、相手は軽々とこれを避けて苦無を打って来る。
「くっくっ、お若いの。逃げてばかりじゃ詰らぬのぉ」
「ふっふっ、苦無の持ち合せが少なくてねぇ」
「くっくっ、お若いの。ならば好都合。遠慮なくいかせて貰うぞ!」
「ふっふっ、少しは手加減して貰ってもいいんだぜ」
木々が揺れ墓石が弾ける音だけが小高い墓地に鳴り響く。地を這い木々を渡る音だけが、激しく闘っている様子を伝えている。
「くっくっ、ワシにこれ程の苦無を打たせたのは、お主が初めてだな」
「ふん! 俺だって、こんなに一方的に打たれたのも初めてさ」
 スティナは眼を見開いて相手の動きを追っている。投げ込まれる苦無の癖から、辛うじて相手の黒い影を捉える事ができる様になったものの、反撃する暇がない。走り流しながら勢いのある苦無を放つのは、相当な技量と見受けられる。とは言え、無尽蔵に投げ続けられる訳もなし、決着を付けるは剣技の優劣か。
“これ程の投げ技なら、剣技も相当だろうな。拙いぞ”
「くっくっ、お若いの。ワシが疲れるのを待っておるのか? 無駄じゃよ!」
「ふん、あんただって、俺の息が上がるのを待ってるんだろ? それこそ無駄だよ!」
「くっくっ、お若いの。口は達者な様じゃの」
「ああ、お蔭さんでね!」
 鋭い視線の者とて、スティナを侮っている訳ではない。寧ろ、スティナの技量を本人同様に警戒している。鋭い視線の者も逡巡しているのだ。
“ワシの方が剣技が優っておればよし……そろそろ仕掛け時かの”
 何気にスティナが天を観れば、小高い墓地の外れに大木が一本聳(そび)えている。暫らくこれを見詰めていたスティナは、この閉塞感を打開する手立てを大木に託した。
 彼は、背後より襲い来る鋭い視線の者を(かわ)しながら螺旋に走って、やがて大木に辿り着くと巧みに繁枝を伝って最頂部へ登り詰める。そして緩やかに(しな)る幹に(もた)れて、鋭い視線の者の出方を窺っている。スティナの立位置は全方位より丸見えだ。が、鋭い視線の者が仕掛け様にも上に向けて苦無を放つ訳にもいかぬ。
「くっくっ、お若いの。“釣瓶(つるべ)”でも仕掛ける積りかい?」
「ふっふっ、やっぱ分かる? まぁ、埒が明かないからねぇ」
「くっくっ、面白い。受けてみようぞ!」
 その言葉が終らぬ内に鋭い視線の者は、繁枝より姿を現して満身の気合を込めて苦無を放つ。同時にスティナは体を後方に逸らして……頭から真っ逆様に大木から飛び降りた!
“なっ! 頭から!”
 通常“釣瓶(つるべ)”と呼ばれる技は、頭頂で己の姿を晒して敵を誘き寄せ、充分に近寄らせた時点で頭頂から飛び降りつつ相手に向けて投物を放つ。加速度を伴う落下物に投物を当てるのは至難の業、逆に仕掛ける側は相手を狙い易い。まさに己自身を敢えて的に見立てて、相手の不意を突く技である。が、着地を想定して普通は足より落ちる。にも拘らずスティナは頭から落下した。この一瞬の驚きが鋭い視線の者の動きを留め、これを逃さずスティナは苦無を放った。
「ぐっわっ!」
 鋭い視線の者が苦痛に声を上げている。苦無が右内腿と右膝に深く打ち込まれている。
 スティナは咄嗟に投げ縄を放って落下速度を緩め様とするも、投げ縄を握る手に己の体重がズシリと掛り到底支え切らない。手を離して繁枝に着地を試みれば、圧し潰れる程の重力を全身に受けて、堪らず更に落下を続ける。己の身体を丸くして枝葉の(しな)りを頼りにそのまま落ち続けている。漸く地面に辿り着くも、ドサリと落ちる様は凡そ投物使いらしからぬ不格好である。
「うぐっ!」
 今度はスティナが血反吐を吐いた。が、鍛錬した肉体は辛うじてその衝撃に耐え切って、ヨロヨロと立ち上がると鋭い視線の者を見詰ていた。その者ですら利かぬ右足の所為で、ドサリと無様に地に落ち着いた。
「ふっふっ、互いに不格好な落ち方だな」
「くっくっ、お若いの……だが、お主の勝ちだ。あんな“釣瓶(つるべ)”初めて見たぜ」
「俺だって初めて使ったよ。ふっふっふっ」
「くっくっくっ、さぁ、一思いに殺ってくんな」
「…………」
「くっくっくっ、お若いの。俺はもう使い者にならねぇ。いずれ組織に消される。んで、お前はこれからも追われる。さぁ、殺ってくんな」
「百も承知さ。だが生憎、苦無切らしちまったよ」
「くっくっくっ、お若いの。何を青臭い事を言ってやがる」
「……俺にはやる事がある。追いたくば追えばいいさ、払い除けてやらぁ!」
「くっくっくっ、青臭せぇ! 青臭せぇぜ、お若いの」
「ふん! じゃぁな、オッサン!」
「……青臭せぇ……青臭せぇぜ、お若いの」
 鋭い視線の者の消え入る様な声を聞く間もなく、既にスティナは姿を消している。
“やる事があるかぁ……そんな言葉は疾うの昔に枯れちまったぜ……青臭せぇ……”

 スティナは疼く身体に鞭打って、それでも用心深く気配を探りながら、イドモーンの館に立ち戻って来た。駆け寄ってくるイドモーンを見て、スティナはニヤリと笑った。
「先生……お久しぶりで…す……やっと尻尾…掴みま…したよ……ふっふっ……」
 イドモーンは何も聞かず、崩れ落ちるスティナをただガッシリと抱き留めた。

 場末な酒場ではイクシオンが不安気に爪を噛んで落ち着かない。肩を窄めた男も、やる方無く、チビチビ酒を飲んでいる。
「よぉ、(じじい)もだがパラスの方は抜かりねぇだろうな!」
「へい、お頭。怪しげな繋ぎは入っていやせん」
「けっ、(じじい)だと思って嘗めちゃ痛い目に合うぜぇ」
「へぇ、あの爺さんパラスにも素破(すっぱ)入れてやすかねぇ?」
「それよぉ、あの(じじい)場数踏んでやがるからな。寝首刈られねぇ様にしとけや」
「へい、お頭。承知しやした。早速、手筈入れやす」

 一方の伐採場では、城壁回廊に職人達すら立ち望んで、セネル一行を何が何でもファウナへ送り届ける意気込みを見せている。その場内では、セネル達一行が深く眠りに就いて、明日に備えている。獣人との闘い前夜では、中々就寝できなかったセネルとジェノだが、度重なる争いの中で戦士同様に気を張りながらも身体を休める術を学んだ様だ。

 腐臭の者共は、ファウナ領手前の森に集結して、襲撃の段取りに余念が無い。幌馬車を留める丸木や落し穴、接近線では不利と悟ったか火矢に毒矢まで用意万端整えている。彼等から、いつもの厭らしい笑みが消えて、死ぬるやも知れぬ恐怖が少しずつ募っている。矢鱈と酒を呷っても、陽気には居られない様子である。



 そして、夜が明けた。



 パラスのイドモーンの館では、スティナがまだ深い眠りに就いている。そのパラスに向かうイクシオン配下の腐臭の者が、懸命に街道を走っている。道を遠く隔てた街道筋の伐採場では、セネル一行が出立の準備を整えている。
「さぁて、皆の衆。愈々ファウナじゃて。頼みますぞ」
 パロメもタキトゥスも彼女ですら、緊張を隠せない面持ちでセネルの言葉を受けている。城門が開いた。ファウナへの道が真っ直ぐに続いている。一行に迷いは無い。
 パロメが馬に鞭を入れた。万一に備えて、伐採場に詰める傭兵二名も護衛に入り、馬も二頭繋ぎ増している。希望を載せて幌馬車は街道を直走(ひたはし)る。その中で彼女がパロメに声を掛けている。
「ねぇパロメさん。腐臭の者達、どうしてなのかしら?」
「ああん? どうしてぇ? そうよのぉ、何処で道を違えたのか」
「アレクトの様に、あんな悲惨な目にさえ合わなければ」
「いんや、それは違うぞい。誰でもああなる切欠(きっかけ)があるんぞい」
「えっ!? 誰でも?」
「ああ、ワシだって生まれも育ちもロクなもんじゃねぇ。ワシの親父は呑んだ暮れで、気が付けば母親は逃げ出しておったわい。喧嘩に博打、掻っ払いなんざぁ日課代わりじゃった。での、十を数えた位に金欲しさに嘘こきまくって傭兵に応募したら、採用されちまったんじゃ! がっはっはっ。剣すら抜いた事のねぇ餓鬼がいきなり前線送りよぉ。怖くて逃げたくてよぉ。でも、帰る処もねえ。気が付けば、いつの間にか半人前の傭兵になってらぁ。給金は、酒に博打に女に……おっとっと、こいつぁお嬢ちゃんにゃ云えねぇ話よ、がっはっはっ」
「んもう!子供扱いして! そんなこと別に聞きたくなんかないわ!」
「がっはっはっ、そう(むく)れるでないわい。まぁ、ワシとて傭兵に採用されておらなんだら、今頃どうしておったか知れぬぞい。腐臭の者が迷い込んだ道とて、ワシ等のすぐ脇にいつでもあるのかも知れぬ。どうじゃ、タキトゥス?そうは思わんか?」
「ふっ、誰しも道を誤り得るかぁ。かも知れぬの。じゃが、誰しもが道を踏み損ねる訳でもないの」
「うむ、それじゃタキトゥス。肝心なのはそこで誰と出合うかぞい!」
「成程のぉ。そこで不運な者と出合ってしまった奴等が……ほれ目の前に愈々出て来た様じゃな!」
 トルーパに跨った腐臭の者共が、幌馬車に併走して間合いを詰めながら、用意した仕掛けに馬車を誘って来た。
「がっはっは、かなりの数ぞい!振り切れそうにないのぉ!」
 パロメの遥か前に丸木が転がっている。咄嗟に手綱を捌いて右に旋回しながら、パロメは見晴らしの利く平野に馬車を留めるとタキトゥスと彼女に目配せる。二人は並走させてきた馬に飛び移ると、馬車を基点に旋回して守衛を張る。同じく応援の衛兵もタキトゥス達とは逆向きに旋回しながら、腐臭の者共を牽制している。
「内鍵をシッカリ施錠して小窓を閉じてて下せぇ。なぁに、時期戻りますぞい」
「うむ、パロメ殿よ、武運を祈る!」
 パロメは大斧をガツンと拳で叩いて笑って見せた。セネルは馬車内で腕組みをして、運を仲間に預けている。ジェノは鉄の棒を右手にセネルを守り通す気概に満ちている。
 幌馬車を二重に旋回する布陣に腐臭の者共は近づく術を断たれて、折角の火矢・毒矢も遠距離からでは効果もなく、腐臭の者共は数を頼りに魚鱗に構え始めた。これを受けタキトゥス達が鶴翼に布陣すると、パロメが皆に策を伝えている。タキトゥスや応援の衛兵が驚き、ジェノと彼女は呆れ顔で笑い、セネルが穏やかに同調している。
「ふぉふぉふぉ、“職は人なり”じゃて。命運を預けましょうぞ!」
「よっしゃぁ! 皆々ゆくぞい! 必ず上手くゆくわい、がっはっは!」
 パロメ号令のもと、一行は一斉に馬を(いなな)かせると、唐突に(きびす)を返して逃げの一手を打った。堅固な布陣を取ると思い込んでいた腐臭の者共は、呆気に取られ追撃を始めるのが僅かに遅れた。腐臭の者共が慌てて追撃し始めるも、猛然と引き返すパロメ達との距離が中々埋まらない。勢いこれでもかと云わん程に馬に鞭を入れて追撃し始めている。すると再び馬車が(きびす)を返して、今度は懸命に襲い掛かってくる腐臭の者共の一団目掛けて猛然と突っ込んで来る。追撃に夢中で鞭を入れた馬は容易には方向転換し難い。まして止まるも(あた)わず、必然的に正面衝突を余儀なくされる。
 パロメは手綱を左右に捌いて、幌馬車ごと体当たりを打噛(ぶちかま)した。懸命に避け様とする腐臭の者共が空に弾き飛ばされている。馬すら大地に()けて、濛々と砂塵が舞い上がる。
 辛うじて馬車を避けた腐臭の者共にタキトゥス達が襲い掛かる。手綱捌きに気を取られる腐臭の者共は、最早(もはや)襲い来る大剣や槍を避け切る事も出来ずに、虚しく打ち据えられては落馬しグシャリと大地に転げ回り、結果的にたった一度の擦れ違いで相当数の腐臭の者共を仕留め得た。
 そもそも命を賭して守るべき要人が乗る馬車毎、敵陣に突っ込んで体当たりを仕掛ける戦術なぞある筈もない。馬車は危険回避こそ最優先で、先陣を切るなぞあろう筈もないという先入観が、数に勝る腐臭の者共の痛手となった。数に劣るパロメ達にとって持久戦は歩が悪いと考えての、一か八かの大博打、同じ手は二度と通じぬ奇策であった。

 しかし、未だに腐臭の者共は二十を下らぬ数を残している。

 腐臭の者共は、馬車の体当たりを警戒して、四人一組の編成でタキトゥス以下の騎馬兵を先に潰す策に出てくる様だ。それを分からぬパロメではない。
「若先生、手綱は捌けますかい?」
「大丈夫、パロメさん! 捌いて見せますよ!」
「がっはっは、心強い! そいで二の策ですがじゃ!」
「へぇ、結構組立てがあるんですね、パロメさん」
「がっはっは、皆目ありませんぞい、若先生。ワシはいつも出たとこ勝負ですじゃ!」
「そ、そうですか。それはそれで、あれですね……」
「ふぉふぉふぉ“職は人なり”じゃて、ジェノや。勝負運を委ねようぞ!」
「がっはっは! そいで二の策ですが、先程と同じ手筈ですぞい」
「えっ? 同じ手が通じますか?」
「いやいや、先程と同じ様に後ろに駆け出して下せぇ。んで、先程 (きびす)を返した処で反転して留って下せぇ。なぁに、奴等は体当たりを警戒して、今度は突っ込んで来やしませぬ。そこで、充分に奴等を引き付けて下せぇ」
「待て待てパロメ殿。それでは奴等の思う壺ぞ」
「それよぉ、タキトゥス! ワシとお主は旋回して奴等の側面を衝くぞい!」
「わたし達は、馬車の前で腐臭の者共を迎撃しとけばいいのね?」
「おぉ! 別嬪しゃんの言う通りじゃい!」
「もう! 馬鹿にして! そういう処が嫌いよ!」
「がっはっは、また振られたわい! そいじゃ、失恋の痛手を闘いで癒すとするかぁ! 皆、抜かるでないぞ!」
 ジェノが手綱を器用に捌いて、馬に鞭打つと一斉に街道を逆走し始めるが、案の定、腐臭の者共に慌てる様子はなく、距離を保って出方を窺っている。パロメとタキトゥスが左右に展開すると、腐臭の者共は挟み打ちを警戒して、円陣に馬建てして中々突撃して来ない。こちら側の思惑と異なり、腐臭の者共は持久戦を仕掛けて来る目論見だ。
 咄嗟に彼女は長弓に得物を持ち替えると、円陣の中央に居る腐臭の者――三百間(約354m)程先にいる狙いを睨んで、斜横に流れる風を読んでいる。長弓がキリキリと歯軋りして(しな)り始めると、矢先は静かに天を向いて空を舞う時を待っている。
 風が凪んだ。長弓はピンッと空気を裂いて矢を放つ。矢は、音もなく高い放物線を描いて、あらぬ方角を緩りと舞って行く。緩り緩りと高く高く舞い続ける矢は風に誘われて、己が収まる的を見付けると、突如、牙を剥いて襲い掛かった。
 ヘラヘラを嘲笑って見ていた腐臭の者共が、血色変えて避け様とするも既に遅し。キュリュリュと空気を裂いて押し砕く様な鈍い音を立てた時には、円陣の中央で構える腐臭の者の眉間深く矢羽が突き刺さっていた。
「こ、小賢しい真似しやがってぇ!」
 腐臭の者共が、髪を逆立てて突入しようとすると、彼等の耳に空を裂く音が響いて来る。空を見上げれば、陽の光を背に受けた矢羽が己の的に嬉々として舞い下りる。ドサッ、ドサッと馬上より崩れ落ちる腐臭の者共――その様子を知っているのか、彼女は無心に天に向かって矢を放っている。
 腐臭の者共の円陣が崩れた。そこへ右手よりパロメが大斧を振り翳して、左手よりタキトゥスが大剣を突き上げて、敵陣の直中へ仕掛けていく。激しく刃を重ねて敵陣を駆け抜ければ、次いで空を裂きながら矢が降り注いで来る。阿吽の呼吸が三百間の距離を縮めている。
 腐臭の者共が止むを得ず、散り散りに攻撃を仕掛け始めてきた。馬車目掛けて突入して来る者もいる。だが、彼女にとって単に的が近づいて来るのと同じ事で、小気味良く弾かれる弓は確実に的を射落していく。後には馬のみが、馬車脇を駆け抜けるばかりである。馬技に長けたタキトゥスは、腐臭の者を引き付けては打ちのめし、出たとこ勝負のパロメは力任せに斧を振るう。連携を保てぬ腐臭の者は、数に優ると(いえど)も、二人に押され離され、手柄欲しさに馬車を目指せば、的に串刺しの有様となる。弓を放とうとする腐臭の者もいる。が、単弓では距離があり過ぎて、勢いを失った矢は、虚しく路上に散らばるだけである。
 腐臭の者の中から声を響かせるものが出て来た。
「陣を建て直せぇ! 徒に仕掛けるなぁ! 陣を建て直すんだぁ!」
 如何なる組織ではあれ人は居るもので、浮足立った腐臭の者共が魚鱗に陣を組んで態勢を組み直し始めた。
「奴等の中に長弓を操る者がいるぜぇ。一所に留まるんじゃねぇ!」

 旋回していたパロメ達が戻ってきた。腐臭の者共は、十名程に減っている。百間程を保って、両者は睨み合いとなった。
「がっはっは、さぁてと三の策じゃが。三の策じゃがの……」
「皆目考えておらぬのだろう? パロメ殿」
「やかましいわい、タキトゥス! いま思案中じゃ!」
「ねぇ、パロメさん。三の策なら要らないかもよ」

 一様に大地を踏み均して、ズン! ズン!! と近づいて来る者達がいる。遥を見やれば、漆黒の布地に金色の鶴嘴が二対――ファウナの徽章旗が悠然と翻りながら近づいて来る。その足音は地響きに代わって、翻る徽章旗は数えるも虚しい程の(おびただ)しさとなっている。
 高らかに鉄笛が吹き鳴らされ、地面を這って拭き上がって来る鉄笛の重低音に、腐臭の者共は天を仰いだ。二度と見る事がない陽をジッと見上げると、やがて項垂れて悲嘆にくれている。ズシンズシンと踏み均す行進は、小さく固まる腐臭の者共をあっさりと呑み込んで、幌馬車に重々しく近づいて来る。
 馬を駆け馳せ砂塵を起こして希望を胸に走り抜けた平原は、一面を漆黒の一団に埋め尽くされて身動きさえ難しい。爽やかな笑みを湛えて一人の将校が駆け寄って来た。
「パロメ殿、お久しぶりです。小屋ではお世話になりました」
「おぉ、タウ殿、お久しゅうござる」
「まだ、腐臭の者共が残っていたとは、驚きました」
「いやいや、こ奴等は何処にでもおりますぞい」
 懐かしい声にセネルが馬車より顔を覘かせると、タウは颯爽と下馬して膝を折って敬意を示す。即座に、“敬礼!”と轟き渡る程の号令が掛かれば、ファウナの大軍が一糸乱れぬ呼吸でセネル一行に敬を表した。
「ふぉふぉふぉ、タウ殿や、これはまた仰山な」
「参上遅くなりて、誠に申し訳なく。万一、公爵殿下に事あらば……」
「ふぉふぉふぉ、よいよい、堅苦しい挨拶は苦手じゃて」

 伐採場の衛兵に手を振って見送れば、あの死闘は夢か現か、何事も無かった様にセネル一行を漆黒の大軍が包み込んで、ファウナへの道が再び開かれた。

孤高の絆約 第一章 ファウナ

孤高の絆約 第一章 ファウナ

絆・成長・葛藤・利己vs利他・宿命などなどをテーマに、一人の等身大の人間を描くダーク&シリアスなファンタジーです。 最初の出会いは、険しい山中の山道にて……物語は、ただの通りすがりに挨拶を交わした事から始まります。 一人世界を旅する女傭兵が出会ったのは、老学者とその弟子。 三人は何の因果の糸の所為か、やがてクルクルと絡め取られながらこの異世界で蠢く悪意に呑み込まれていきます。 女傭兵-彼女は何の目的で世界を巡るのか、老学者とその弟子はこの世界の悪意にどう立ち向かうのか…… その展開は、この物語の中にて!

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-04

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著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一話 紫烟る過去への誘い
  2. 第二話 小さな森の始まり
  3. 第三話 小さな森の小屋
  4. 第四話 巡り始める命運
  5. 第五話 襲撃の前夜
  6. 第六話 舞い狂う砂塵
  7. 第七話 静かな攻防
  8. 第八話 涙のあと
  9. 第九話 小屋の仕掛け
  10. 第十話 術中に嵌る輩
  11. 第十一話 追い続ける苦無
  12. 第十二話 土中の火柱
  13. 第十三話 それぞれの道
  14. 第十四話 背負ってきた想い
  15. 第十五話 暗闇の希望
  16. 第十六話 縺れる糸
  17. 第十七話 狂い始める目論見
  18. 第十八話 アレクトの妻
  19. 第十九話 二つの正規軍
  20. 第二十話 純金の剣
  21. 第二一話 潰れゆく良識
  22. 第二二話 夢紡ぐ糸
  23. 第二三話 それぞれの矜持
  24. 第二四話 市井の聖者
  25. 第二五話 失ったもの
  26. 第二六話 惨劇の終焉
  27. 第二七話 交差する思惑
  28. 第二八話 流れゆく時間
  29. 第二九話 等しき想い
  30. 第三十話 解けゆく糸口