鏡の向こうと僕の日常

 皆様、初めまして、うどん県民みさじゅんと申します。
 別にプロとか作家になろうとかいう野望は持っておりませんが、寝物語をまとめた話が仕上がりましたので、この場をお借りして発表させていただきました。
 最初に言っておきますが、長いです、自分でもひく程長いです、しかし完結しておりますのでご安心を。
 読むさいの注意事項としては、気づかないうちにキャラがネイティブのうどん弁をしゃべっているかも知れないこと。それと、書いたほうにそのつもりはありませんが、読む方によってはBLっ気を感じるかもしれません。そんなのは微塵も受け付けない、という御方はどうかまたいでお通り下さい。

 それでは、楽しんでいただければ幸いです。みさじゅんより。

序章~はじまりの国


 それは、実際僕だけに限った事じゃなかったような気がする。
 僕はまだ二十歳
 とりたてて何もなかったこれまでの日々
〝死〟なんて
 死ははるか雲の向こう、漠然と靄のように漂っている。
 それが、昨日までの僕のささやかな世界だった。



 その日、花散らしの雨の中、〝彼〟は本当に何の前触れもなくやってきた。
 呼び鈴が鳴らされ、ドアを開けると、傘も持たずにずぶ濡れの青ざめた顔がうつむいている。
「えーと、どちら様、ですか?」
「阿桜さん、ですか?」
「はい、そうですけど……」
「……兄さん?」
「え?」
 微かに震える声とともに上げられた顔、まるで鏡のごとくそっくり同じつくりの顔がそこにあった。偶然でも、故意でもない。明らかに同じ遺伝子で形作られている。
「君は、いったい?」
「本当に……本当だった、俺に、兄貴が……!」
 寒さのせいかどうなのか、少し鼻をすすり言葉が切れた。とにかく放っておいたら倒れてしまうのではと思わせるその顔色に、部屋の主…阿桜 唯人(あさくら ただと)は腕を伸ばすと相手を中に引き入れた。
 干してある中から乾いたタオルを持ってきて、濡れた上着を脱がせた肩に掛けてやり、そろそろしまおうかと思っていた暖房機を部屋のすみから押し戻してきて火を入れる。床に散乱している紙や画材、資料などは慌ただしく隣の部屋へ押しやられた。
「とにかくあがって、話があるならゆっくり聞くよ。何か温かいものでもいれるから」
 よく見たら、はいてるズボンもびしょ濡れだ、もうここまでになると……。
「もし良かったら、シャワーを使ってくれ。僕の部屋と君の体、両方にとって損は無いと思うけど」
 作りつけの狭い浴場から、流れ落ちる水音が響いてくる。それが止むのを待つ間に唯人は濡れ物を暖房機の上に吊るし、ポットを火にかけた。何となく奥をうかがおうとした己の顔が、壁に立てかけてあるかなり年季の入った姿見に映った。
「本当に、おなじだなぁ」
 まるで、鏡の中から出てきたみたいだ。
「そういえば、まだ名前も聞いてなかったな」
 生き別れの家族の再会って、もっとドラマチックでお涙頂戴なバラエティだと思ってた。驚きはすれども感動とか嬉しいとかの気持ちがいまいち湧いてこないのは、自分に兄弟がいたことを今の今、まさにこの時まで記憶の奥底に封じ込めていたせいだ。でも彼はそうじゃなかったみたいだった、僕の名前と僕が兄だって事を知っていた。
 僕の……弟。
「俺…俺の名前は、大饗 不二人(おおあえ ふじと)」
 ふんわりとした湿気に満たされた部屋で、貸してあげた乾いた服を着た彼は湯気の立っているカップを前に、やや掠れた声で呟いた。
「大饗……?」
「知らないんだ」
 不二人の声には、微かにとがめるような響きがあった。
「兄さんは、今父親って、いるんですか?」
「いいや、母さんは十年前、僕が十歳のとき事故で亡くなったよ、僕の肉親は今は祖母だけだ」
「父親の事は?」
 黙って首を横に振る、母はいずれ大きくなった時にと言い残し、祖母は何も語らない。何となく、彼の言おうとしている事が分かってきた。目の前に置かれた湯気の立つカップには目もくれず、やや上気してきた顔が立ち上がり、乾かし中の上着のポケットを探る。出てきたのはかなり昔のものらしい皺だらけの写真だった。幸せそうに笑っている、二人の幼児を抱いた若い夫婦が写っている。
「それが、俺達の両親。俺達は、別々に引き取られた双子の兄弟、なんだ」
 促されて裏を見ると、大饗の苗字で夫婦と子供二人の名がしっかりと記名してあった。
「親父の野郎も、最後まで俺にはお袋の事隠してた、部屋ほじくり返してやっとそれ一枚見つけたんだ。正直、涙が出た、もうこれで、ひとりっきりかと思ったから」
「ひとりきり……?父さん、どうしたんだ?」
「うん、いなくなってもうひと月になる。その後この写真と一緒に入ってた手紙で母さんの旧姓が分かって、結構珍しい苗字だったからネットで調べたら、ここの近所の絵画展で入賞してた兄さんが見つかったから」
 そしたらもう、到底我慢などできなくて。どうしても、ひと目だけでも会いたかった。その思いだけでここに来た。 そう呟く目の前にいる自分と同じその顔は他の何をも必要としない、絶対の説得力に満ちていて……だから信じてしまった。この世でたった一人の僕の半身を。
 そしてこの晩、僕は死んだ
 人生の状態なんて、結局は本人の主観しだいなものである。物心ついた時には父親なし、十歳の小学校時代に母が交通事故で亡くなった。それでも唯人は自分がそこまでどん底の人生を送っているという自覚は持たなかった。祖父母は十分すぎる愛情を自分に注いでくれたし、何もかも満足、とはいかなかったが母におりた保険金と補助で無事高校を卒業、在学中にバイトで貯めたお金と祖父母の援助でこうやって好きな美術系の大学に進学することもできた。
「まさに、愛すべき平凡な人生、ってやつだよ。まあデザイン系なんて手に職みたいな考えで選んだけど、やっぱり苦労はするんじゃないかな」
 二十年×二人分の人生は、語りあうとそれなりに量があった。不二人のほうは、父親の会社が倒産して居心地の悪い親戚の家に預けられたりと結構大変だったようだ。そんなときなぜ母親が迎えに来てくれないのか恨んだこともあったらしい。
「でも、死んじまってたのなら、しょうがないよな。それが分かって……少し、楽になった」
「ごめん、僕、本当に……今考えたら随分だなって思ったけど、本当に父親の事、あまり真剣に考えたことなかった。母さんが、僕が大きくなったら話してくれるって約束して、そのまま逝ってしまったから。もうどうしようもないって勝手に決め込んでたんだ、本当に、ごめん」
「そんなこといいよ、兄貴」
 冷めてしまった紅茶を啜り、低い声で不二人が笑う。同じ顔なのに、ちょっと違う暗い笑顔。よく見ると、顎の左側に微かに古傷の痕がある。
「幸せだったんだ、兄貴。それだけで俺は十分だ」
 ここに至って、ようやく気分のボルテージが上がってきておもむろに不二人に歩み寄ると、唯人はその肩をひしと抱きしめた。幾分おずおずと、上げられた相手の腕が背に回る。
「これからは、兄弟二人で頑張っていこう、不二人」
「兄貴」
「僕を頼って来てくれたんだろ?僕にできることなら何だって相談にのってやるよ、兄貴なんだから!」
「あ、ありがとう……」
「よし、とり急ぎ予定がないならしばらくここで暮らすといい、ルームシェアしてる同居人が一人いるんだけどいい奴だから分かってくれるよ。スリランカの留学生でイシャンっていうんだ、ほら、隣、ちょっとエスニックな雰囲気だろ?」
 襖を引き、さっき画材を押し込んだ隣の部屋を見せてやる。彼の家から届いて来る荷の箱の数々が、さりげないアジアンテイストを主張していた。
「今、彼、里帰りしてて、しばらく帰ってこないから今晩だけ布団貸してもらおうか。明日二人で布団買いに行こう、いや、大家さんに頼めば貸してもらえるかな」
「同居人、いたんだ。いや、そんなつもりで来たんじゃない。長く世話になるつもりはないからそんなことしてもらう訳には……」
「そんな事かどうかは僕が決めることだ、見たとおりの苦学生だから、お金の使い方にはうるさいんだよ。その点イシャンはいいルームメイトなんだ、紅茶は貰えるし作りおきしてくれるカレーだっておいしくて安上がりで日持ちする」
 雨音がやがて止んだ夜、鍋の底をさらえた夕食が終わる頃には不二人の服もぱりぱりに乾いた。さらにたわいもない話をとりとめもなく続けているうちに、不二人の口数が徐々に減ってきたことに気付き、疲れているんだなと唯人は布団を広げると勧めてやった。己もまだ少し早い時間だが同居人のそれを広げもぐりこむと、襖の向こうではもう微かな寝息が響いている。
 どうしようか、これから。
 どうしたらいいんだろうか、これから。
 自分以外の誰かのことをこんなに考えるなんて、久しぶりな気がする。母さんが亡くなって以来だろうか。
 ふと、何かを感じた。
「……?」
 閉じていた目を開き、傍らに向ける。暗がりの中にぼうっと何かが浮かんでいるように見え唯人は一瞬息を詰めた。ここに越してきてすぐ、姿見の鏡を頭の脇に置いて寝てしまい、夜中に鏡に映った自分の顔に死ぬほど驚いて飛び起きたことがあった。しかし、鏡の置いてあるのは隣の部屋で、位置と角度が全然合わない。半身を起こそうとした唯人に、滑るように〝それ〟がすうっと近づいてきた。
「不二人?びっくりさせるなよ!」
 頭では理解していたはずなのに、夜中に自分と同じ顔に見下ろされるというのはそうそう慣れる事ではないようだ。声が思わず裏返りそうになったのをなんとかごまかそうと一拍おく。
「寒いのか?それとも……トイレは教えたし、もしかして、寝ぼけてる?」
 返事がない、表情の全くない顔の両眼はひたと自分を見据えている。その目の片方から、ふいに光る何かがみるみる湧き上がってきた。
「え?どうした、何があったんだ?不二人」
 あわてて身を起こし、両肩をつかむとまるでできの悪い人形のように頭がぐらぐら揺れ、こぼれ出した幾つもの大粒の雫が腕に落ち滴った。
「こんなの、ないよ……」
「え?」
「兄貴……あんた、おかしいよ、変だ」
「何が、一体何のことだ」
 袖でぐい、と涙を拭いた、濡れてはいるが怖しいほど表情の落ちた暗い目で、不二人はさらに絞り出すように言葉を吐いた。
「なんで、今日初めて会ったばかりの人間を中に入れる?着替えさせて、飯まで食わせて……俺の今までの人生に、そんな奴いやしなかった。優しさを売りつけて、後で代償をふんだくろうって奴ばかりだった。そういう奴には俺は鼻が利く、だから分かる、兄貴が俺をどう思ってるかが」
 つかんでいる肩が、小刻みに震えている。この状況をどう理解したらいいのか分からずただ唯人は弟の言葉を聞き続けた。
「なんで、俺の事そんなに信じてるんだよ、俺なんか、家に入れちゃあダメだったんだ。そんなの知らない、関係ないって追い返したらそれで終わりだろ?そうされたほうが俺も理解できたんだ」
「不二人、とにかくちょっと落ち着いてくれ。お前が何を言いたいのかよく分からないけど、僕はお前が嘘を言う理由が思いつかないよ。たった一人の弟なら会えて嬉しいし面倒も見る、それの何がおかしいんだ?」
 言い終わるのと同じタイミングで、ぐらり、と両手でつかんでいた不二人の上体が傾いてき。押される形で唯人の体が仰向けになる、その時ふいにものすごい、肌を瞬時に粟立たせるような感じたことのない〝気〟のようなものが唯人の腕に流れ込んできた。
 不二人の手、冷え切った死人のような手が手首をつかみ、のろのろと肩の方へと這ってくる。身を起こそうと体に力を込めようとしたその途端、一気に喉が締め上げられた。何を、と叫ぼうとした声は力まかせに胸の中へと押し返された。
「やっぱり、この腐り果てた茶番が俺の人生、俺の当たり前なんだ、優しいものも、暖かいものもみんなただの覚めちまう夢だ。だからこの手で終わらせてやる、親父が押しつけた借金も、そのせいでやらされた麻薬稼業も、俺に全部不手際押しつけて始末しに来る奴らも全部!死んじまえ、大饗 不二人!俺がこの手で殺してやるから!」
 強いられた惨劇は、静寂をもってごくあっけなくその幕を引いた。うわ言のような繰り言を、ただ浴びせられるがままの仰向けの顔がことり、とかしぎほんの少し前まで相手の涙を受けていた腕が〝物〟となって放り出される。
 抑えきれない嗚咽混じりの吠え声を、周囲に漏らすまいと伏せた頭を動かない胸に押し当てている、暗闇の中のその姿は、獣が己が仕留めた獲物の最期の鼓動を飲みこもうとしている、その様のようにも見えた。
 辛くも、憎くも無かった、ただ少しだけ、泣いている弟の、どうしようもない塞がった思いが悲しかった。



 終わりという、始まり……。
 傍らで、誰かが囁いた。
「誰?」
 うっすらと目をあける、ぼんやりとした視界の中に、初めて見る顔があった。返事のないまま手が背に添えられ、起き上がって周囲に目を向ける。そこは見慣れたはずの、しかし奇妙な空間だった。正面にちょうど人一人が通れるくらいの長方形の枠があり、そこを境に向こうとこちらで対称の光景が広がっている。しかし枠から離れるほど部屋の景色は曖昧になり、その向こうは夜以上の闇となっていた。
 膝で這い、枠に近づくと向こうの部屋に黒い人影がふたつ見える。思わず上げた手は冷たく堅い感触に遮られた。
「これは、鏡、なのか?」
 確かに、大きさといい映っている部屋の角度といい、それは唯人がずっと愛用していた古い姿見だった。いつから家にあったのか、家を建てた祖父母も知らないいびつな六角形の金属板の鏡。デッサンに使おうと、それを貰ってこの下宿に持ってきてから唯人は日々、この鏡に向かって絵を描き続けた。その鏡のこちら側に、恐らく今自分はいるようだ。呆然となって振り返った唯人に、傍らで坐している、どこのものともつかない白い衣服をまとった人物は、表情の無い顔で静かに頷いて見せた。
「僕は、どうなったんだ……死んだってのか?」
「まだ、そうと言い切れる状態ではない」
 細い、銀の楽器のような声が暗闇に響く。
「なら、ここは一体?」
「唯人、あなたが考えているような場ではないだろう。あなたはまだ生と死の狭間の位置に踏みとどまっている。本当に死んでしまったらすぐに〝あれ〟がやってくるだろうから、見つかる前にこの〝双界鏡〟の内に取り込んだ」
「〝双界鏡〟?」
 思わずまじまじと見る唯人に、人物は暗い中でぼんやりと浮かび上がるほの白い顔に寂しげな笑みを浮かべて見せた。
「決められていた事とはいえ、やはりいざその時になると辛いものだ」
「決められていたって……何が?」
「あなたを、このまま終わらせない道がある。あなたがこの世界に存在する以前から、あなたと今一人の為に連綿と組み上げられてきた約束だ」
「約束?僕が生まれる前?」
 聞きたい事は山ほどあるのに、ありすぎるとどれから口にしていいか分からなくなって掛けられる言葉をおうむ返しするしかできない。
「もう一人って?不二人なのか?」
 違う、と細めた目が返した。
「ずっと、あなたを見ていた、あなたがこの世界に在る間。それがこの〝双界鏡 右〟の役目だったから」
「……?」
「あなたの命じたままに、私はその役を果たすだけ」
「え?え?僕が?」
「速やかにここを離れ、彼の地へと戻りなさい、〝あれ〟につかまらぬよう。すべて上手く事が成し得たなら、あの修羅に堕ちた者も救えるやもしれない」
「え、不二人も?」
 更に言葉を続けようとした瞬間、ふわ、と背後から光が射し周囲を明るく浮かび上がらせた。
「いけない、もう〝あれ〟がやってきた」
 唯人が鏡を振り返ると、向こう側に異様なものが現れていた。天井からぬっと下がってきたネオンそっくりに白く光る人の胴ほどの太さのもある何か。その先がさらに細く幾本にも分かれ、明らかに何かを探している様子で部屋中に伸びてゆく。その一本が、すーっとこちらに近づいてきた。伸べられた白い腕が肩を引き、奥の闇へと押しやる。
「行きなさい、そこで心の示すまま、望むように事を運びなさい、あなたの願いが彼の世界に届き、大きなものと小さなもの、どちらも満たされますように……」
 ゆらり、と両手を延べるように広がってきた奥の闇が唯人に迫り、視界を覆う。緩やかな浮遊感と共に意識は夜より濃い闇に閉ざされた。



 闇の底に〝それ〟はいる。
 蝋燭のように浮かび上がっているほの白いその身体、水中か、重力から解き放たれている場のごとくごく緩慢に降りてきた身を差し伸べた腕が受け止める。もし受け止められた本人に意識があったなら、もとの場所に帰って来たのかと思ったであろう。抱きとめた、腕の中の顔をじっと見つめる先程のそれと寸分たがわぬ白く光を放っているような顔は、懐かしそうに優しい笑みを浮かべて見せた。
〝お帰りなさい〟
 初めて会う、そして世界の始まりより共に在った存在。あらゆる対極を混ぜ成り立つ奇跡の具象、終わりゆく世界へ放たれ思うがままにその存在という輝きを撒き散らすものよ。大きな夢と小さな現、両の未来の種ならば、芽ぶき、根付いて必ずや、揺るぎなき大樹に成らんことを…。 
 ふいと頭を巡らせた、その闇の先に額縁にはめ込まれたような切り取られた景色がはめ込まれている。それは、光の無い鬱蒼とした夜の森だった。



 ふっ、と薄暗がりの中、ふたつの緑が灯された。しんと静まり返った空間の中、漂ってきた微かな香を追うようにほの白い顔がゆっくりと上がる。周囲で燐光を放つ雑然としたものらがさざ波のごとくざわめくのを気配のみで制すると、更にしっかりその感覚を確かめようとするように引き締まった半身がゆるりと起こされた。やがて何かを確信したように、緑光輝く瞳が薄く開いた扉の向こうを覗く子供のような怖れと期待を滲ませる。音も無く、するりとその身は暗がりの中へと踏み出した。 



 森の中、星も見えないうっそうとした木々の合間。昼だろうが夜だろうが人の訪れる事はまずないその場に、今宵は珍しく人影があった。暗い周囲に、金髪というほどではない褪せた藁の色の髪を浮かび上がらせて立っている、深緑の厚手の外套をまとったひとりの青年。極めて普通な、枝のひとつでも眺めているようなその視線の先にはしかし、とても普通とは言い難いものがいた。
「……」
 緑の瞳は、一片の心の揺らぎも表さず動かない。一方、対峙している相手はその様子を気死している、と取ったようであった。耳が痛くなるような威嚇音をたてつつ徐々に間合いをせばめてくる。鋼の殻に覆われた四対の脚をざわめかせ、丈も幅も青年の軽く五倍はあろうかと思われる、とりあえず外骨格生物としか言いようのない怪生物。もう既に相手を口の中に収めた気分になってしまっているのか、ざわざわと指状のものが蠢いている口とおぼしき部分から糸を引く粘液をだらだらと滴らせている。
 青年は、動かない。ただ一言、低い声が漏れた。
「つまらんな」
 外套の前が割れ、長い銀色の杖を握った手が現れる。
「わざわざこんなとこまでやってきて、出てきやがったのがこんな雑魚」
 声は、明らかに不機嫌そうだった。くるりと回した杖の先で地を叩く、その瞬間、青年の足元から光の線が四方に散り、地に円を基調とした複雑な模様を描いた。
「ニアン・ベルツ(背中の4)、お前にやる、残さず喰っちまえ」
 ばさり、と響いた羽音に青年の外套のすそが大きく揺れた。次の瞬間、何か堅い物を圧倒的な力で砕く凄まじい音が森の空気を震わせた。一瞬前まで相手の肉を味わう妄想に憑かれていた者の脚が引き抜かれ、体液を周囲に飛び散らせる。じたばたと残った脚で逃げようともがく怪生物の頭をあっさりもぎ取り動きを封じると、青年の足元から飛び出した猛禽の頭と鉤爪と獣の下半身を持った〝何か〟は曲った嘴を獲物に打ち込んで、中の身をえぐりついばみ始めた。
「こんなんじゃあなかったんだがな、俺がここに感じた〝異和感〟は」
 青年が、再度木々ばかりの周囲にゆっくりと視線を走らせる、今、目の前で繰り広げられている凄惨な光景は青年の心に毛ほどの何かをも与えていないようであった。そのまま何気なく杖を肩に乗せようとした、その動きが、ふと止まった。
「……?」
 闇の中で、何かが光った。それが何かの眼でさっきの繰り返しにならぬ事を祈りつつ、奥まった場所にある大樹の一本に歩みよる。青年のはるか頭上、深く折り重なった枝の合間からなにやら白い物が垂れていた。
「人の腕、か?」
 足元の小石を拾い、当たらないギリギリ脇に投げてみる。その時、ほんの微かだが指先が反応した。
「生きてるのか?」
 青年が、今度は杖で自分の左肩を打つ。
「クーロ・キイ(腕の8)そいつを下ろせ。壊さないように、慎重にな」
 今度は、地面から三本指のでかい真っ赤な腕が現れた。ぐんと伸び、白い腕の奥の枝葉に隠れた部分ごとつかんで戻ってくると、赤い腕はぐったりと動かない手の中のものを青年へと差し向けた。
「見たところ、人間だな」
 黒い髪に、淡い黄褐色の肌。手は一対、足も一対。でもこの辺では見ない形状の衣装を身に付けている。少しの思案の後、青年は振り返ると背後で獲物を喰らいつくし、満足そうに羽づくろいしている獣を呼んだ。
「おい、帰るぞ!こいつも連れて行くからそっと飛べよ」
 赤い腕が差し出した身体を鉤爪がつかみ、ばさりと羽ばたいた翼で周囲に風が巻き起こる。一度だけ、幹の合間に目をくれると青年は素早くもう片方の前足に飛び乗りそのまま夜空へと舞い上がって姿を消した。
 

 
 何かが、自分を追ってくる。
 振り返っても誰もいない、それは、足に縫い付けられた己の影。走っても、走っても、血のように赤い夕日に向かって伸びている道の上、自分の背中でそれはどんどん長く膨らんで…やがてうなじの後ろから、細くて黒い指が伸びてくる。
「……っ!」
 激しく咳込んだ、その苦しさで目が覚めた。無意識のうちに息を詰めてしまっていたらしい、心臓の鼓動の音が頭に響いてがんがんする。喉の鳴る音に自分でびっくりしつつ、何とか息を宥めると唯人はぼんやりと薄目を開けた。眼に映ったのは薄暗い小さな部屋、その隅に積まれた干し藁の塊のようなものの上に自分は寝かされている。なぜか服が全部脱がされていて、毛皮を掛けられているのかと思ったが、腕を上げようとしてそれがちょっと違う事に気がついた。
「ええっ?」
 茶、白、ベージュ、グレー、黒…ぶちの模様に見えた一色一色が腕の両側にもそもそと割れ、腕の下でまたくっつき合う。よく見ると、一枚の毛皮に見えたそれはこぶしくらいの小さな生き物がそれは沢山寄り集まって体を覆っていたのだということが分かった。
「ななな、なんだこれ!」
 身を起こすと、胸のあたりにいたひと固まりがころころと転げ落ち、まるで示し合わせたようなタイミングで見える範囲全部の毛皮ダンゴが黒豆みたいな目を開けた。一斉に向けられた視線のせいでその場が数を頼みの威圧感に包まれる中、ふと唯人は少し離れた位置からこちらを見ている別の視線を感じ取った。
「……?」
 向こうも、唯人の視線に気づいたようだ、まだここは悪い夢の中なのか、唯人の膝のあたりにちょこんといるふたつの影。一方は大きさは片手に乗るくらい、例えるなら……赤い鳩の着ぐるみの頭を切って顔を出し、翼の付け根から腕、足から脚を出したような。もう一方は、長さ1メートル程、こちらも蛇の着ぐるみに人間を押し込んで、顔の上に蛇の頭が乗るよう配置し、その下部から手だけが生えている、そんな怪しすぎる姿の生き物?だった。
「???」
 目に映っているものが、これまでの人生で得た全ての知識にうまく照合しない。ただただ見続けるしかできない唯人の上で、鳥っぽいほうが立ち上がるとふいと飛び立った。後に残った蛇っぽいほうも金色の大きな眼を唯人から逸らさないまま、するりと足先の方へと逃げる。大量の毛皮ダンゴ+着ぐるみ蛇、対する唯人との間の無言の硬直状態がしばし過ぎ……ふと、どこからか足音が唯人の耳に響いてきた。さっき鳩人間が出て行ったアーチ型の出入口らしい穴、そこが淡い光に浮かび上がる。足音が近くなり、そこから灯りと共に人影が中に入ってきた。
「……〝    〟?」
 何を言ったかは分からないが、起きたのか?と聞いているのはなぜかはっきりと理解できた。
「〝お前は、まる一日眠っていた〟」
 青く光る蝶の形の灯りをそばの雑器の上に置き、そばに来てしゃがみこむ。その途端、だしぬけに体に取りついていた毛玉ダンゴが一斉に周囲に逃げ散ってしまい唯人は慌てて干し藁を体の上にかき寄せた。
「ああ、すまない、それは光が苦手なんだ。服は×××の汁が付いてしまい消毒中なのでまだ乾いていない、だからこれを着ておけ」
 渡されたのは、変に長い生成りの色の二枚の布。これをどうやって着ればいいのか、というか。
 なんで僕、この人の言ってる事が分かるんだ?
 振り返ると、相手の綺麗な瞳がじっとこちらを見つめている。ぼんやりとした明かりの中でも浮かび上がって見えるくらい、すごい緑色だ。外国の人の青い目は結構見慣れているが、こんな緑は見たことがない。
 髪は褪せた金色で唯人より少し長い、肩にかかるくらい、何の意味があるのか、うなじのあたりから小指の太さほどの三つ編みが一房背に垂れている。薄い顎の線がやや神経質そうに感じられるものの、男の唯人が見てもなかなか整った部類の顔立ちだが、正直、男性か女性か分からない。でも若干声が低いのと、暗がりでなんとなく見ただけでも胸の起伏が存在してないように見受けられたので、勝手に男と判断する事に決めた。
 その途端、彼の言葉使いが変化した。
「分からないんなら、着せてやろうか?」
 近くで聞くとはっきり分かる、彼は日本語を話してはいない。ただ、分かる。まるでずっと使わずに忘れていた故郷の方言を聞いているような感覚だ。でも、こちらが話すのは無理そうだが。
「あ、ありがとう……」
 一日ぶりだと言われたが、立つのにそう苦労する事はなかった。慣れた手つきで布の一枚が風呂上がりのタオル状に腰にまかれ、もう一枚が肩の後ろから斜交いに胸を通し胴に巻かれきっちり締められる。足は裸足だったな、と木の板に皮を張って紐を通したサンダル的な物が履かされた。
「で、お前、名前は?」
「阿桜 唯人っていいます」
「どこから来た」
「どこって……えーと、なんて言えばいいのかな」
「どうして、あんなところにいた」
「あんなところ?」
「前紀廃王国の森だぞ、歩いて入れる場所じゃないし用がある人間がいるとも思えない。蟲に喰われたかったっていうんなら話は別だが」
「あの……もしかして、あなたが助けてくれたんですか?」
 唯人の問いかけに、少しの沈黙があった。
「お前、すごいな」
「え?」
「俺は今、この回円主界で使われてる主要四言語でお前に話しかけてたんだが……どうやら、全部分かってるみたいじゃないか。だがお前の言葉は公用、汎用、地方、古代を合わせ俺の知るところに無い。正直、分からん」
 なんだか、怪しまれているようだ。とは言ってもこちらの言葉が伝わらないのでは説明のしようがない、それに唯人のほうこそ今の自分の状況について説明が欲しいくらいなのだが。沈黙が、二人の間を包み……。
 なんだか、弱々しい音が微かに響いた。
「腹が減ってるのか、まあ一日寝てたからな」
 ふっ、と青年が気を抜いた。
「上に来い、何か食わせてやる。話はそれからだ、〝あさくらただとていいます〟」
 緊張の直後で、真面目な顔で言われた分衝撃が大きかった。最初は必死で抑えようとした、笑いの衝動がどうしようもなくなり唯人はせめて顔を伏せ、干し草に向けて盛大に吹き出した。
「分からないと言っただろう、笑うな、失礼だぞ!」
 表情が出ると、急に二、三歳程顔が若く見えた。ちょっとむっとした顔で、それでもじっと唯人の発作が収まるのを傍らで待ってくれている。涙をふきふき立ち上がると、今までまったく気配を消していた着ぐるみ蛇がするりと青年の体を這い上り、服の襟から中にもぐり込んだ。
「俺の名は、アーリット、アーリット・クランだ。皆アーリットと呼ぶ、お前もそう呼べばいい」
 緑の眼の青年、アーリットの後について石の階段を上がると、上は結構広い、仕切りの無いいびつな筒状の部屋になっていた。それはそれで、年季の入った調度品ともども映画に出てくる魔法使いの家みたいで彼のイメージによく合っているのだが。
 その隙間隙間にうごめいている、さっきの着ぐるみ蛇の同類らしき生き物は一体なんなんだろうか。ざっと見ただけでも同じようなのはひとつとしていない。きょろきょろしていると、窓枠の上にいる着ぐるみ鳩と目が合った。唯人の世界と一緒に考えていいのなら、今はどうやら夕方らしい。半開きの窓から、蜜柑色の陽光が低く斜めに射し込んでいる。
「それで、お前は何を食うんだ、あさく……」
「た・だ・と!」
 ここで〝唯人です〟などと応えたら更なる混乱を招くのは目に見えている。幸いにも、かなり頭の切れそうな相手は瞬時に理解を示してくれた。
「タダト、でいいのか、じゃあそう呼ぶ。一応今あるのはこんなもんだが」
 多分、かなり大きな樹木の内部を削って、この居住空間は造られているのだろう。壁から継ぎ目なしに張り出しているテーブルに備わっている、床から生えたひとつきりの椅子に座るよう促される。何やらごそごそした後アーリットが差し出してきた盆の上の物を見た瞬間、唯人はアーリットがまだ何か自分を試そうとしているのか、それともさっき笑った事への意趣返しを企んでいるのかと絶句した。
「あ、逃げるな、こいつ」
 海牛をうんと引っぱって伸ばしたような、派手なブルーの生き物が伸ばされた手で引き戻される。どう見たって盆の上の一部分はまだ生きている。固まって動けなくなった唯人の前に液体の入ったカップを置くと、アーリットは一応これも、と呟き着ぐるみ生物の一匹まで卓に乗せた。
「む、無理……かな?」
 我知らず魂の叫びが口から洩れた、しかし、今後の事を考えれば食べないという選択はさらに無理がある。もう真っ白になってきた頭で唯人はあえて一番無理そうな着ぐるみ蟹?を手に取ってみた。しばし沈黙で見つめ合った後、おもむろに着ぐるみ蟹は唯人の指をごつい爪で押し開くと卓の下へと去って行った。
 やっぱり無理だ、嫌々視線を戻すとちょうど再度青い生き物が逃走し、その陰に黒くて丸い物があるのに気がついた。手のひら大のそれを手に取り怖々ふたつに割ってみると……。
 思わず、安堵の溜息が洩れた。見た感じで判断するしかないが、多分これはゆでた卵だ。
「あー、それ食うのか、やっぱ。じゃあ人間用のメシだすか、そっちはちょっと不得意なんだけどな」
 ぼそりと呟かれた台詞に、口の中の物を吹き出しそうになって唯人は呆然と金髪の後ろ姿に目をやった。この場において、まだ生物としての種類をはかられている!このアーリットの住む世界は、着ぐるみ生物の他にも人間そっくりな人間じゃないものが普通にいる世界らしい。
 じゃあ、このアーリットは?
 そこまで、と唯人は思考を止めた。良いも悪いも、この世界の事はまだ何も分からない。自分がやらなければいけないことは、闇雲に判断することではなくまずこの世界を知ることだ。
「うん」
 という心理状態に落ち着いて、唯人はアーリットに手渡された暖かい汁の中に臭いのきつい草と水まんじゅうそっくりな物が入っているのも、その水まんじゅうにごくささやかな手足と目が付いているのも思考に入れないよう遮断した。つるりと口に含むと食感も水まんじゅうそっくりだが、アーリットが向かいで音だけなら可愛らしい、ともとれる小骨を噛み砕く音を響かせている。とにかく、暖かいのだけは本当に嬉しい人生初体験の食事だった。
「それじゃあ、腹もふくれたって事で。話の続きを始めようか」
 簡単に片づけを終え、独特の香りの多分お茶を前にアーリットが唯人の前に座った時、既に日は落ちていたが室内はふわりと明るかった。部屋のいたるところにいる生き物が、みんなそれぞれ光を発している。特に大きなカブトムシの幼虫みたいなのが机の端に引っかかっているので卓上は本が読めるほど明るかった。よく見たらアーリットが腰かけているのも、大きくがっしりした甲虫だ。
 ここでまずアーリットは、唯人にはいといいえ、などの基本的な言葉とここの世界の地理について教えてくれた。大雑把に言うとまず回円主界という大陸があり、そこに知護国ユークレン、山砦国アシウント、沿海群島連合国、草海国テシキュル、砂上国ラバイアの五つの国がある。国同士は森や山脈等で仕切られてはいるが人々の行き来は自由だし、交易も盛んに行われている。
「とりあえず、お前の身元についてまず考えられそうなのは〝群島連合国の隠密大陸調査員〟か〝ユークレンの放浪学者〟それか大穴で〝禁呪使いの違法術式で操られて何かやらされてるどこかの奴〟てのもありなんだがな」
「ぜんぶ、ちがう、て、思う」
 今覚えたばかりのたどたどしい言葉で返す唯人に、アーリットはふん、と鼻を鳴らした。
「前のふたつについては、俺もそう思う。たとえどこの国の出の奴だろうが、この回円主界で俺の知らない言葉を話せる奴はいない。〝精霊獣〟が見えるのなら、この世界のちゃんとした旧い血筋だってことなんだが…術式の刻印や気配も特に感じられないな」
「精霊獣?」
「ああ、こいつらのことだ。見えててそれを知らないってんだからお前はやはり俺に会う前にかなり深刻で面倒な事態にあってしまったのか、じゃなきゃ……」
 部屋にいる謎の生き物らを見渡したアーリットの緑の眼が、ゆらりと唯人に戻される。
「ここじゃない、〝どこか〟から来たか?」
 それは、この世界ではありうる事なのか、と尋ねることは唯人にはまだ無理だった。が、アーリットはその心を見透かしたかのように、薄い笑みを浮かべて見せた。 
「明日、城に行くぞ」
 唐突に、アーリットが言った。
「俺が今いるここは知護国ユークレン領の南国境近く、千年樫の森だ。王都まで俺のニアン・ベルツならすぐに行ける。そうと決まったら今日はもう寝ろ、明日にはちゃんと動けるよう身体を休めておけ」
 一日寝ていたからもう寝られないと思ったが、唯人自身が思うより体と精神はまだ緊張で疲弊していたようだった。階下に戻り、干し藁の上でもそもそ集まってくる毛玉ダンゴの暖かな感触に包まれるとすぐに意識がぼうっと霞んでくる。わりと人懐こい気性らしい毛玉ダンゴを一匹つかまえ手のひらで包み、これが現実だと唱えると、唯人の意識が闇に沈むたび背後から手を伸ばしてくる夢魔を、今は非現実になっている自分の世界に押し込んで、蓋をしてしまえるような気になれた。
「僕は、良い方向に事を運べているのかな……?」
 とりあえず、アーリットは唯人の世界の人間とは色々と違うが頭の回転のいい人間で、自分に興味を持ち調べようと思ってくれている。このまま彼を通じてこの世界の事を知って、一人でも困らないようになれるのを最初の目標にしよう。そう考えると少し気分が楽になって、唯人はそのまま静かに眠りにおちた。
 翌朝、着ぐるみ鳩に顔を踏まれて目を覚ますとアーリットはもう身支度を済ませていた。昨日は暗い色調のゆったりした服を着ていたが、今日はいかにも正装、といった感の白い上衣と細めの下履きに革の靴、複雑な模様のついた貫頭衣を被り腰で締め、頭にも模様入りの布を巻き両端を背に流している。
 唯人が着ていたパジャマ代わりのTシャツとスエットの下は、嫌な茶と緑のまだらになってぱりぱりに乾いてはいたが、これで城とやらに行くのはどうか、と思ったら、アーリットがまた模様の入った淡い灰色の布を出してきて、上から上手に巻きつけすごく無難な感じに整えてくれた。
 窓の鎧戸を閉めさあ行くか、と一枚板でできた大きな扉に向かった、アーリットの体を薄暗くなった部屋の周囲から吸い寄せられてきた無数の光が星の輪のごとく取り巻いた。一瞬のうちに体に吸い込まれるように消え去った輝きと同時にあれほどいた部屋中の精霊獣らの姿もかき消える。何だ?と部屋を見渡した唯人を追い越しつつ極めて当たり前のことを当たり前に言う口調でアーリットはさらっと呟いた。
「俺は、回円主界第一級精霊獣師でここにいたのは全部俺が体の中に持ってる精霊獣だ、出かけるときは連れていくぞ?まあ唯人だって見えてるんだからその時点で精霊獣師の素養あり、って事だ。強いのを二、三体とっ捕まえりゃあすぐに六級ぐらいなれる。そしたらどこの国の国軍だって喜んで雇ってくれるだろうな」
「アーリットのは、いくつ……?」
「俺か?いつだったか、二百七十までは数えたが、その後は知らん。弱いのは中で勝手に増えたり喰われたりしてるからな」
 いやいや無理無理無理、壮絶に無理!外に出て、アーリットが出した唯人的には初対面になるニアン・ベルツの大きさと迫力に昨晩の〝アーリット人間なんでしょうか疑惑〟が一気に脳内に浮上する。
 そんなちょっと目が死んだ唯人と涼しい顔のアーリットを両の前足に乗せ、大きな翼が羽ばたき宙に舞い上がった。朝日を受ける外観はほとんど樹のままのアーリットの住まいが森に埋もれ、すぐに視界が暗緑の森とその向こうに広がる農地らしき平野に切りかわる。遥か後方には砂漠らしきもの、左斜め向こうにはそびえたつ山脈がある。
 朝日を受けて輝いている山肌に見とれていると、やがて農地の更に向こうに街並みに囲まれた大きな湖が現れた。湖を三日月状に取り囲むように建物が集まって、湖の中心には細い一本道でつながれた小島に堂々とした造りの城らしき建造物がそびえたっている。
「唯人、あそこがユークレンの王都テルアだ。中心にユークレン大湖があって、そこに浮かんでるのが今から行く国王ユークレン十五世の居城〝全知の城〟。一応手順ってものがあるからテルア南門のちょっと前で降りるからな」
 アーリットの言葉と共にぐん、と体が傾いた。ぐるんぐるんと円を描いて、眼下にまっすぐ伸びている石畳の広い道が近づいてくる。早朝の誰もいない道の木陰に降り立つと、アーリットは素早くニアン・ベルツを背中に戻し歩き出した。すぐに、目の前に結構大きな堀に架けられた石の橋が近づいてきて、その向こうの石積みで築きあげられた丸い筒状のテルア南門が目に入る。二人が近づくと、まばらな人相手に暇そうにしていた門番らしい二人がアーリットを目にして驚いた様子で姿勢を正した。
「一級精霊獣師様!恐れいります、このような早朝に一体何用でございますか?」
「いや、ちょっとした急用だ。両王はまだご帰国なさっておられないか?」
「は、ユークレン十五世様並びに添王レベン・フェッテ様、どちらもまだでございます。城には両殿下がおられますから行かれるのであれば先触れを通させて頂きますが」
「分かった、では頃合いを見て伺わせてもらう。行くぞ、唯人」
 ひらりと衣服の裾をひるがえして歩き出すアーリットに続く唯人を、二人の門番は無言の横目で見送った。会話の内容で察するに、やはりアーリットはここでは相当な地位の人物らしい。門をくぐると、足元の通路も周囲の建物も、見渡す限りの街並みは全部整然とした淡いグレーの石積みでできている。そこを見知った様子で歩いて行くと、アーリットは道端に並んでいる出店のひとつに立ち寄って、何かを手に持ってきた。肉厚の葉っぱを器用に折って作った器に、薄桃色のお粥っぽいものが入っている。道の先に見えている広場に入り、石をつるつるに磨いたベンチに腰掛けて熱い朝食に息を吹きかけていると、白く立ち上る湯気の向こうにゆるい下り坂になっている道路と、そこから湖にかかる道、そして城の正門までが一気に見通せた。
「きれいな、まち、だね」
「そうだな」
 それに、食べ物がおいしい。昨日が昨日だっただけに、この世界の食べ物全部が口に合わなかったらどうしよう、とひそかに怯えていた唯人にとって、これはとても嬉しい事だった。
「なんで、アーリット、ここに、住んで、ない?」
 ごく混じりっ気無しの唯人の問いに、器と同じ葉っぱ製の匙を持った手を止めるとアーリットはちょっと苦笑っぽい顔をした。
「まあ、なんていうか。俺はこの国じゃ有事の際の奥の手みたいなもんだから。そんなのは普段日常生活の中に転がしとかないだろう?それに正直言うとここの国の出でもないし、ま、一人暮らしが慣れてるってことだ」
 本当に、すごい事をさらりと言う。今更ながら、彼に拾われたのが偶然ではなく彼だから自分を見つけることができたのだという事実をひしと噛みしめると唯人はお粥の残りを一気に口に流し込んだ。
「城、行って、なに、する?」
「ああ、昨日言ったがこのユークレンは〝知護の国〟だ。回円主界が今の五国に分かれる前、今は廃王国と呼ばれている場所一国だった時代からの古文書や文献、資料がたんと城に収められている。そこで調べりゃこの世界の大抵の事が分かるから、お前の事が何か分かるかも知れない。実際、この世界にはあり得ない、見た事のない物を俺は幾度か拾ったことがある。それも城の宝物庫にしまってあるはずだから見に行ってみよう」
 大分陽が高くなってきたせいで、往来の人通りが多くなってきた。荷を担いでいる者やまん丸に太った鳥の群れを追って歩く者、子供に老人、皆形はそれほど変わらないチュニック風の上衣とすとんとしたパンツに上着を着て、足には唯人と同じ木と革紐のサンダル、もしくはごつい靴を履いている。髪や目の色はまちまちだが、アーリットと同じ唯人とは違う系統の顔立ちで背も高い。黒髪に黒い目を持つ者も普通にいるが、明らかに顔の造作が違うのになぜか行き交う人々はすれ違う唯人の顔をそんなに気にしている様子は無く、むしろアーリットのほうに関心がある様子でちらちら振り返ったりしているようであった。
「まあ、ユークレンとアシウントとテシキュルの人間は似てるな。若干北のアシウント人はでかくて色が薄い、南のテシキュルはその逆だ。ラバイア人は色が黒いし彫りが深いからすぐわかる。群島連合は、もう、群島だからな、いろんなのの見本市みたいなところだ。この街にも結構いるぞ、唯人はどう見ても群島人か、テシキュル南部の少数民族に見えなくもないが。でも、あそこの連中には精霊獣が見える系統は、ほとんどいないはずだからな」
 人々の注目を浴びつつ(やはり、アーリットらしい)色々な事を話しつつ歩いていると、やがて城の正門が近づいてきた。澄んだ水を湛えた湖の中に伸びる一本の道、正確にはそれは石造りの橋だったのだが。それが正門の少し前で一旦終わり、城がわからこちらに向かって倒れている大きな板でつながっている。門の両脇にいる南門のとは格段に雰囲気の違う門兵と、一人、やけに大きく見える人影が目に入った瞬間、アーリットが足を止めた。
「……」
「おーい、アーリット!」
 人影が、手を振っている。知り合い?と顔を向けたアーリットの背中から明らかに嫌そうなオーラが出ていた。
「遅かったな、待ってたんだぞ、早くこいよ!」
「今行く、サレ・エリタ・ナナイ小隊長!」
 だからバカでかい声で叫ぶんじゃない、との呟きは隣の唯人にしか聞かせなかった。門をくぐり、向かいあって立つと本当にでかい。唯人より若干高いアーリットよりまだ軽く頭ひとつ分超えている。体つきは軽装の鎧が映える、立派な胸板と四肢に無駄のない実戦向きの筋肉がしっかりついていて、思わずデッサンしたくなるような見事さだ。そのわりにこちらに向けられている艶のあるくせっ毛の栗毛に縁取られた浅黒い顔はとても優し気な雰囲気で、良く熟れた葡萄か瓶のコーラを覗いたような暗紅色の眼が満面の笑みで細められている。
 昨日アーリットから教えられた、相手が両手のひらを上にして差し出してきたらその指先に自分の指先を乗せてにぎにぎする〝群島連合国式握手〟をアーリットと交わし、もう隠すことなく嫌ですオーラを大放出しているその肩を遠慮なく抱くとサレと呼ばれた青年は、努めて冷淡に身を離そうとしたアーリットをもう一度ぎゅっとやり、そばの唯人にも手を差しだした。
「初めまして、珍しいな、アーリットが人間のお客を連れてくるなんて。俺はユークレン王立軍テルア守備隊小隊長のサレ、よろしく」
 握手、と見よう見まねで手を握り返す。唯人のより確実に一回りは大きくて硬い、骨太の指にまで筋肉が付いているような手だ。なぜかそのまま唯人の手を自分の胸元に引き寄せると、サレは更に顔をほころばせた。
「うわぁ、これは頭で働いてる人の手だな、アーリットのよりまだ華奢だ。お客人、名前は?仕事は何してる?どこに住んで……」
 ふいにがつ、と変な音がして言葉が止んだ。見ると、サレの頭の上にアーリットの杖の先端があった。
「半年ぶりに会った早々、なに人の連れ口説きにかかってんだてめえ、お前の役目は俺達を殿下がいる謁見の間まで連れて行く事だろうが!ぐだぐだ言ってないでさっさと仕事しろ仕事、日が暮れる!」
 あいたたた、と頭をさすりつつだって自己紹介は大事じゃないか、と言い訳するサレにもういい、謁見の間くらい自分で行けるとアーリットがぷいときびすを返し歩き出す。慌てて唯人はサレ共々その後を追いかけた。
「それが、アーリット、主王子は朝から市内の視察に出かけてて不在なんだ。午後には戻ってこられるが用事は添王子で大丈夫か?一応待って下さっておられるが」
「ああ、蔵書の間と宝物庫に入る許可をもらうだけだから大した事じゃない。なんなら別にわざわざ許可もらう必要もないんだがな、一応顔ぐらいは見せといたほうがいいんじゃないかと思って」
「おお、王族にそれだけの口きけるなんてさすが一級精霊獣師さま。まあ両殿下とも精霊獣師様は大のお気に入りだから喜ぶよ」
「それで、サレ、お前は?確か半年前は鷲獣乗りになりたいとかうわ言言ってたような気がしたが。その体じゃもう無理だな、いや、半年前から無理だとは思ってたが」
「ああ、あれは必須技能の槍術とか鞭術とか持ってたからちょっと言ってみただけだって。本当いうと高いとこあんまり好きじゃないし」
「高い所が苦手なのは、以前二十回くらい北堀の春ササギの木のてっぺんに乗せて直してやっただろうが、また乗って泣くか?」
「そんなの、何度やられたって降りるのがうまくなるだけじゃないか。今そんなことされたら木が折れそうだから勘弁してくれ」
「ほんと、十五の時にこの国に来て十年、でかさと馬鹿力はまだ増す一方だからな、お前は」
「馬鹿はないだろ、まあ、育ちざかりって事さ」
「もういいだろう、育つな」
 どうやら旧知らしい二人の話が続く中、唯人は通路の両側にずらりと並べて掛けられている絵に見とれていた。唯人の世界でいうならイタリアのルネサンス期のような、古典的な様式のしかし堂々とした肖像画だ。なにかの決まりごとがあるのか、男性ばかりで女性のものはひとつもない。というか、これがちゃんと写実的に描かれているというのなら、皆あまり性別のはっきりしない顔立ちだ。
 そのうち唯人は壁の高い位置に掛けられているひときわ大きな絵の前で足を止めた。獅子のごとき金髪を後ろにおさえて流したまさに一国の王、といった堂々とした風体の人物と、横に、金張りの椅子に腰かけた、少し線の細い柔和な顔の濃茶色の髪の人物が描かれている。背後に紋章のついた旗が描きこまれているし、二人ともかなり豪奢な衣装を身にまとっているからこれが国王の肖像画なのはなんとなく察しがついたが、男二人…兄弟?でも見た感じ年下に見える茶色の髪の人物のほうが、立派な宝石の飾り付きの肩帯を掛けている。
 思わず考え込んでしまい、足が止まってしまったのに気付かないでいると先に行っていたサレが引き返して来た。絵が好きなのか?と唯人が見とれていた絵に目を向ける。
「アーリットに聞いたけど、タダト、俺と同じ群島連合ぽい名前だな。あんまりユークレンの事知らないんだって?でもこれだけは知っておいてくれよ、このお二方はこの国の王、ユークレン十五世とその伴侶であられるレベン・フェッテ添王様だ。今からお会いになる添王子殿下はレベン様のご子息だから世継ぎじゃないせいで気さくな方だが、そそうの無いように振舞ってくれよ」
「……?」
 王様と伴侶?て、これどちらかが女の人?ていうか見るからに王様っぽい人と、金の椅子に座って肩帯を付けてる人とどっちが王様?と口にできない疑問の山を胸に抱えたまま、たどり着いた大きいが装飾はあくまで清廉、上品な雰囲気の扉の前でアーリットとサレの後ろに立つ。すぐに扉が開かれ中に入ると、一段高くしつらえてある部屋の奥に置かれている椅子に小柄な人物がこちらを向いて座っていた。毛足の長い絨毯の上を壇上の顔が見える程まで歩み寄って、アーリットが片膝をつき頭を垂れる。軽く跳ねあがった動悸をなだめながら唯人も後ろで同じように頭を下げた。
「幾久しくしております、添王子殿下。第一級精霊獣師アーリット・クラン、本日は小用により王城へと伺わせて頂きました。殿下にはご機嫌麗しく、ついては願わくば蔵書の間と宝物庫の閲覧をご許可頂けるようお願い存じ上げたく……」
「もう、いいよ、アーリット!」
 ふいに、よくとおる若い声が言葉を遮った。
「そんな堅苦しい言い方、なんだか年寄りの先生みたいで眠くなるよ……あ、でもアーリットはその先生より年上かぁ。けど、普段はそんな言葉使いしてないんでしょ?なんで僕にはそういう風に話すわけ?」
 椅子に腰かけたまま、ぐっと身を乗り出すと射し込む陽光にまばゆい金の髪が光を散らす。まるで今朝見た空のような、少し紫がかった青い瞳をくるくるさせて年の頃十四、五に見えるほっそりとした少年は、そのままあっさり立ちあがると唯人たちのいる下まで降りてきた。
「立ってよ、アーリット。久しぶりなんだからもっとよく顔を見せて」
「リュエ・ティエリ(添王子)殿下、我ら臣下においては、王族に礼を示す義務があり……」
「臣下じゃないでしょ、アーリットは、僕の生まれるはるか前からこの国にいる僕なんかよりずっと偉い精霊獣師様だ。そんな相手に膝つかせてふんぞり返ってるような物知らずじゃないよ?僕。後ろの君も、いいから立ちなよ!」
 いきなり声をかけられて、慌ててサレを振り返るとうん、と目で返事された。おそるおそる唯人が立つと青い目がじっと見つめてくる、質の良さそうな臙脂の胴着に袖や裾がひらひらした白い服が良く似合っている、人形みたいにきれいな顔の少年だ。
「彼と、一緒に調べ物?」
「宝物庫で、少し。後蔵書の間で〝廃王国の秘物〟について調べたい事があります、ついては許可を」
 あくまで事務的に言葉を続けようとするアーリットに、輝く金髪をぶん、と振ると少年はまるで王族らしからぬ、心の中がそのまま出てしまう表情でぷっと膨れてみせた。
「あーもうわかった、分かったから。逆にさ、僕もついていっていい?宝物庫って僕もまだ入った事ないんだよ。ま、他の国と違ってユークレンの宝物庫はガラクタ置き場だっていつかレベン様が言ってたけど、僕、一度くらい見てみたかったんだ」
「殿下、宝物庫に収められているのは知護国ユークレンが回円主界に誇る古き国の跡、もろもろの遺跡から集められた歴史学者垂涎の貴重な遺物です。ガラクタ呼ばわりされるいわれはございません、失礼ながらレベン様は、この国の価値感がまだご理解できておられぬようで」
「しょうがないよ、レベン様はアシウントからここに嫁いできた異国人で僕はその息子だもの。さ、行こう、アーリットがガラクタじゃないって言うんならますますこの目で見たくなった」
 言うだけ言って、すたすたと壇上の奥手左にある扉に向かう背中に心底楽しそうな笑顔でサレが続く。こんな立派なお城の王子というからどんな厳粛な雰囲気の中張りつめた謁見が行われるのかと思ったら……目を細め、ふぁ、と妙な溜息をついたアーリットがどうするのか隣で待っていると、一旦扉の前まで行った王子が足音も軽く駆け戻ってきた。もう、早く行こうよと後ろに回って手で背を押してくる。何だか、すごく可愛らしい。
「お前は、アーリットの弟子かなにか?名前、まだ聞いてないよね」
「その者の名は、阿桜 唯人といって廃王国の森で私が保護しました。言葉は分かるようですが喋ることが不得手らしいので質問はご容赦願います。ただの他国の迷い人かと思いましたが、精霊獣が見えるようなので」
「へえ、それは珍しいね、じゃ、これ見える?」
 王子が目の前で両手をぱん、と鳴らすと両手で輪を作ったくらいの大きな蝶がふわり、と現れた。ただし胴にあたる部位には蛾もかくや、のたっぷりした毛が生えている。ひらひらと周囲を舞う姿を唯人が目で追うと、わぁ、やっぱり見えてると王子は感嘆の声をあげた。
「じゃあ、じゃあ唯人、身の振り先がまだ決まってないんだったら精霊獣師としてこのテルアの……兄上の元に来てよ。兄上と僕は大歓迎するよ!」
 えぇちょっと、待って下さいと言いたいが言葉が出てこない。冷や汗を吹いた唯人の胸中を、ごくありのままにアーリットが口にしてくれた。 
「申し訳ありません殿下、この者はまだ素性がはっきりしておりませんし精霊獣を持ってもおりません。ところで、いつまでもこれを飛ばしておりますと私の精霊獣が餌にしてしまいますが?」
「え!そ、それは待って!」
 あくまで慇懃無礼に容赦なく呟かれた最後の一言に、慌てて王子がアーリットの肩の上あたりを飛んでいた毛長蝶に手を差し伸べる。後ろで一部始終を無言で見ているサレの顔が、笑いをこらえるのに必死で赤い。
 ともかく、謁見の間から扉をくぐると通路はずっと下りの石段であった。サレが長い杖の先に下げられた灯りを持っていて、それが石造りの壁に皆の影をゆらゆらと落としている。やがて石段が終わり、しんと空気の冷えたまっすぐな通路を行くと、突き当たりにまるで壁そのままのような石の戸が現れた。中心に縦の溝が一本走っているだけで、取っ手もなければ指を掛けられそうな凹みもない。一同が足を止めると、アーリットが何もない石の戸に歩み寄り杖でコンコンと軽く打った。何が起こるのかと唯人が黙して見守る前で、ふいに石にすーっと横線が浮かび、石の戸が直径1メートル程もある黄色い瞳のひとつ目をかっと見開いた。
「よ、ニアン・テイルーア(背中の17)久しぶり、変わりなさそうだな」
 アーリットの呼びかけに、喜んでいる、ともとれなくない感じで巨大目がくるくる回って見せる。ほら、開けろ、の一言と軽い蹴り一発で、とてつもなく重そうな石戸は音もなく縦溝からゆっくりと左右に開かれた。
「あーあ、なんでアーリットがいつもいてくれないんだろ。先月ここ開ける時、テルアの三級精霊獣師が数人がかりで半日かかったって言ってたよ」
「精霊獣師四級検定の試験にもなってますね、これまでの最短記録は八時間くらいだったかな。もうちょっと、簡単な精霊獣に変えてくれないもんですかね」
 王子とサレの呆れ口調の呟きが、すたすたと中に入っていく後ろ姿に向けられる。通りぎわにちょっと見ただけでも厚さ五十センチはありそうだった石戸を抜けると、中は更に続く細い通路とその両脇に、それぞれ個室になっているのだろう、整然と扉の並ぶ空間になっていた。
「由来不明品は……一番奥だな、王子、分かりやすい宝物は手前のここに入っておりますよ」
 個室の扉には特にしかけは無いらしく、アーリットが開けた扉を覗いた王子がわぁ、戴冠式の椅子だ、と歓声を上げる。傍らのサレに王子を見てろ、と目で合図するとアーリットは無言で唯人を呼び、奥の個室へと向かった。
「いいか唯人、お前は精霊獣が見えるから話は早い。精霊獣というのは、まあ一言でいえば〝もの〟の精だ。生き物でも道具でも、うんと長くこの世にある物の〝本質〟が形を成している、そういう存在だ。この部屋の中にある物は、皆とてつもなく古い。だからお前がお前の言葉で呼びかけたら、お前の世界の物は必ず応えるはずだ、分かったか?」
 言葉と共に、アーリットが左手の小指をぴん、と弾く。途端、青く輝く羽根を持った蝶がふわり、と手の上に現れた。
「よし、入るぞ」
 扉が開き、アーリットの手の灯が室内を青く照らしだす。中は、唯人の見た事もない物で埋め尽くされていた。大きな物、小さな物、いびつな物、壁一面に掛けられた長い物…目に映るかぎり、見たことのある物はない。すっと息をつめ、唯人は薄暗い室内に向かって呼びかけた。
「すいません、誰か……僕の言葉が分かる方はいませんか…?」
 返事はない、しんとしたままの室内に駄目かな、と傍らのアーリットを振り返る。もう一度前に向き直った、そのわずかの間にごちゃごちゃした物の山積みの一角に、〝何か〟が姿を現していた。唯人のよく知っている、しかしまず絶対この場にはいてはおかしいもの。
「え?」
 思わず、二度見してしまった。向こうもなにか、呆然とした表情でこちらを見返している。やがてゆっくりと物の山を乗り越えてこちらへとやってきた、かなりくたびれた様子のそれは、まぎれもない……着物姿の武士だった。
「今、懐かしい言葉が聞こえたような気がしたのですが、そこにおられるのは倭の国の御方ですか?」
「は、はい、阿桜といいます。阿蘇の阿に花の桜です」
 唯人の返事に、武士が大きく目を見開いた。そのまますいと目の前に正座され、慌てて唯人も向かいあって座り込む。見たところの感じは、若いようでいてすごく落ちついた感もあり、歳はよく分からない。髷を結わず、後ろでまとめただけの髪はぼさぼさ、顔もすすけて、落ちついた青灰色の着物も墨染めの羽織と袴もほこりまみれだが、印象的な黒目がちの静かな眼差しは、長い無聊が終わる期待に光を取り戻しつつあるようだった。
「私を、お召しに参られたのですか」
「いや、えーと……」
 ここは、仮にも王国の宝物庫である、そこの物を勝手に持ち出すことは唯人にはできない。でも、たった一声聞いただけで、唯人は彼が唯人の手でここから連れ出されるこの瞬間を、暗い宝物庫でただひたすら待ち続けていたのだという事を感じ取った。
「ついに、この日が来たのですね…長かった、この日が来るのを幾星霜待ったことか」
 あまり感情を感じさせない声が、微かに詰まる。
「信濃の戦で主を失って以後、気づいた時にはこの国に流れついてこの蔵に収められておりました。もう祖国に戻ることは叶わぬ夢と思うておりましたが…こうやって、同郷の方に再び会えようとは。我が身が朽ちる前に、よくぞ間にあいました」 
「は、はい……」
「見たところ、武道をたしなんでおられるようではなさそうですがかまいません。ここで会えたのも何かの縁、阿桜殿、よろしければどうか私をお連れ下さるよう願います」
 そこまで言って、深々と頭が下げられる。なんだか堪らなくなって顔を上げるとふと、一部始終を黙って見ていたアーリットと目が合った。
「アーリット……」
「そいつが、お前と同郷のやつなのか?」
「ぼくに、連れてって、ほしい、て」
「それで、何なんだ?こいつは」
 アーリットの言葉に、武士が顔を上げると唯人を見て、ついで壁の一角を振り仰ぐ。視線を追ってみた唯人の目に映ったのは、壁に溶けこむように目立たない位置にかけられている黒鞘のひと振りの刀。まさしく日本刀、しかも大刀であった。
「ああ、こいつか、覚えてるぞ、大分前に辺境の異端禁呪使いが違法に召喚してたのを俺がつきとめて回収した奴のひとつだ。切れ味がすごいんで当時の剣士が使おうとしたこともあったんだが、長過ぎて抜くにも手こずる次第でな。かなり特殊な剣技を身につけないと扱えないってんで結局ここに収められたんだ。唯人、こいつを使えるのか?」
 一言で、どうとは言えない。五才のときから中学の終わりまで、祖父に教えてもらったり部活動で剣道をやってはいたが、高校からはバイトで忙しくなったのと祖父が亡くなったりしてそれきりになっている。それに、どっちにしろ真剣など持った事はない、とりあえず無理と首を振る。
「そうか、でも持って行け、いいから」
 ええっ?あまりに簡単な一言に唯人の目が点になった、く、国の宝物庫なのに?
「ここは、〝由来不明品の間〟お前と同じにどこからかこの回円主界に流れつき、自分をあるべき世界に戻してくれる誰かを待つ〝物〟の間だ。こいつは城の宝じゃない、こいつがお前を望んでいるなら応えてやれ、唯人。ここにいる奴らが同郷の人間に巡り合えるなんて、まずあることじゃないんだぞ。それに一度何かに執着してしまった〝物〟は今後ほっとくと渇望をどんどん膨らませて、手に負えない奴になっちまうからな。どうせこれからここで暮らしていくんならどうしたって武器はいる、こいつをお前が持つことが、この場の一番いい選択じゃないか?」
 その言葉に納得させられ、唯人は手を伸ばすと壁の刀を手に取った。鍔と鞘の接する所にぐるぐると巻かれてある紐をほどき、そっと刃を抜いてみる。何年ここにあったのか分からないが、鈍く曇って光を失ってしまっている刃は思ったよりはずっと良い状態で、きちんと砥げばまだまだ立派に使えそうに見えた。
「じゃあ、文字通り宝の持ち腐れってやつだろうけど、僕が持たせてもらうことにするよ。よろしく」
 ぺこり、と頭を下げた唯人に武士も安心したように顔をほころばせ……ふと、その顔が急に物言いたげに表情を変えた。一旦迷い、いや、やっぱりと顔を上げる。どうかした?と尋ねた唯人に武士はすいと部屋の隅を指差した。
「あそこが、何?」
「阿桜殿、実は……」
「言うなっ!ヤパンソードっ!」
 突然、ひどくかすれた声が響き渡った。ちょうど、武士が今指し示したほう、もうごちゃごちゃに物が積み上げられている。声はその下からのようだった。
「あそこに、いまひとつ、私どもと同郷の物がおります。私は南蛮鉄砲(てつほう)殿とお呼びしておりましたが」
「黙ってろって言っただろうが!なんでバラすんだよこの魚刀野郎!」
 どなり声と共に暗がりでがたがた音がした、唯人が近づこうとすると来るんじゃねえ、と声が叫ぶ。おかまいなしに反対側から近づいたアーリットが山を崩すとその中からいまひとつ、唯人に馴染みのある物が姿を現した。
「これは……ライフル銃じゃないか!」
 え、これ武器なのかとアーリットが驚いた。分かりやすい日本刀と違い、この世界ではこれが何なのかよく分からなかったらしい。手を伸ばそうとした、唯人の体がふいに飛び出してきた長身に遮られた。
「わっ!」
「俺に触るな!」
「南蛮鉄砲殿、どうか乱暴はおやめください!」
 転びかけた唯人の前に、素早い身のこなしで武士が割って入った。その彼を、火を吹きそうな目で睨みつけている、これもくたびれてぼろぼろの、いつか映画で見たような緑褐色の丈の長いはるか昔の異国の軍服姿。赤に近い茶色の髪をがしがしと掻くと、南蛮鉄砲と呼ばれた男はふいと顔をそむけ、痛いような表情を浮かべて見せた。
「俺の事は、放っておけといっただろうが」
「しかし、よくお考えください。どのくらい待ち続けた事でしょう、もうこのような機会が二度あるとは、いえ、二度目があったとしてもそれまでその身がもつと思えません。長い無聊を共に過ごした仲、できれば私はあなたと共に生まれた地に帰りたい」
「……」
「いつか、私に申したではありませんか。もし国に帰れたならご年配の方と共に、ゆったりと鴨や鹿を相手にして暮らしたいと。素晴らしい願いだと思います」
「それはただの夢の話だ、叶えようと思って言ったことじゃない」
 このかたと共に行けば、きっと国に帰れます、と食い下がる。武士からわざと視線を逸らすと男はじっと唯人に目を向けた。
「お前は、銃を使ったことがあるのか」
「ごめん、ない」
 ふ、と微かな嘲いが漏らされる。
「さっきは、怒鳴ったりして悪かったな。ヤパンソードはああ言うが、俺はもう銃としては役に立たない、いや、今はただのガラクタ以下の存在なんだ。ここに来る前から機関部と銃身に泥が入っちまって、銃床も割れてる、更に最悪な事に中には弾が引っかかって残ったままだ。分かるだろ?俺はもう人にはかかわれない、ここで朽ちるまで動かない、それが今の俺の唯一の願いなんだ……てぇ、おいっ!」
 突然の大声に振り返ると、いつの間にかアーリットが銃を手に取って、こともあろうに銃口を覗き込んでいた。慌てる男には、と鼻で笑い返し手の物を唯人へと渡す。大丈夫だ、ここに入れられる前にさんざ振り回したが何ともなかったんだから、とうそぶくその表情は、実にこういう場合の対処法を熟知している顔だった。
「ほらな唯人、分かりやすいだろう?こいつは〝終わる〟事に執着しちまってるんだ。だがちょっと思い出せ、〝物〟の扱いを決めるのはあくまで、どんな場合でも人間だ。唯人、お前はこいつをどうしたい?」
 かけられた言葉に、渡された、ずっしりと重い手の中の物に目を向ける。確かにあちこち泥がついて、滑らかな木の部分には大きなひびが入っている。銃身の先の銃剣の刃はしっかりしているが、これはもう到底使える物ではない。でも……。
「僕は、これ、一緒に、もって、いきたいな」
 たとえ自分が使えずとも、同じ世界を知るものなら共にいたい。それにもしも一緒に帰れたら、どこかに直してくれる人がいるかも知れない。思いを視線に込めて灰色の瞳をぐっと見返すと、いままで全てをはねつけるような気を放っていた顔が、まるで叱られた子供のような頼りなげなものへと変わっていった。
「頼む、悪い事言わねぇからやめておけ。じっとしてるんならいいが、ヘタに動かすと、本当に、シャレでなく暴発する危険があるんだぞ?持ち主を護る為にある銃が持ち主をふっ飛ばすなんて、俺はそんなことにだけはなりたくないから……」
「おお、危険物か、そりゃ怖いな」
 けらけらと、軽い調子でアーリットが割り込んだ
「俺も、あちこちの禁呪やら永久封印やらざっと二十程抱えてるが、そいつらに気遣ってもらったことなんてただの一度もないぞ。お前、なかなかいい奴じゃないか。よし、唯人にひとつ箔を付けてもらう為にもお前は唯人のものになれ、決定だ」
「お前らは、俺の言ってることを聞く気がないの……うわっ!」
 くるり、と銀の杖が空を切った、と思ったらもう目の前の相手は床に転がされていた。起き上がろうとした背が素早く下ろされた杖に押さえつけられる。
「唯人、精霊獣を従わせる基本は〝名〟を支配することだ。名を持つ相手ならそれを知る、持ってないなら刻みつけてやる、こいつはどうだ?」
 言われて、慌てて唯人は手の中の銃をあちこちひっくり返してみた。唯人の世界では、ほとんどの武具は役目としての名前と共に人が与えた名前を持っている。泥が被った側面の金属部分に、翼を開いた鷲の刻印と共にその銘は刻まれていた。
「スプリング……フィールド……?」
 アーリットに押さえつけられたままの姿勢で男があぅ、と呻き声をあげた。
「また、随分と可愛い名前なんだ」
「うるさい、そんなの仕方ないだろう!俺が作られた場所の地名なんだから、悪いか!」
 声の威勢こそいいものの、アーリットが杖を緩めてももう彼は起き上がろうとしなかった。唯人の後ろにいた武士が一緒に、と傍らの太刀を指し示す。刀の銘の刻まれてる位置は知ってはいたが、どうやったら見られるのか首をひねると武士が身ぶりで教えてくれた。柄を外し、アーリットが寄せてくれた灯りで刀身の下に荒く彫られた文字を読む。
「美濃 吉門(よしかど)作、銘 鋭月……鋭月か。そういえば、鍔も黒鉄に銀で三日月とすすきの柄の象嵌細工になっている、綺麗だな」
 なんだか、これだけの事でも今は遠くになってしまった故郷が感じられるようで、少し心が和らいだ。手早く刀を元通りに組み立てて、銃と一緒にしっかり腕に捧げ持つと唯人は改めて目の前にいる二人と向かいあった。
「鋭月、スプリング……長いな、じゃスフィ、今日から両方とも〝僕のもの〟だ。改めて、よろしく」
「はい」
「略すんじゃねぇ!」
 一方は素直な、そしてもう一方は少しぶっきらぼうな表情が、薄暗い部屋の中でふわりと光に包まれる。驚いたことに唯人の腕の中の刀と銃も同様の光を放ったと思ったら、四つの輝きはこぶし程の珠となりすいと唯人の体に吸い込まれて消えた。先にアーリットのを見てなかったら失神ものだったなと思わず自分の胸を押さえた唯人によしよし、とアーリットも満足気にうなづいた。
「よかったな、唯人、これで精霊獣師検定八級合格決定だ。そんで危険物封印も負ったから軍に入った時申請すりゃ特別手当が付くぞ、忘れずに申請しろよ」
 特別手当はともかく、こうして体の中に持っていればなるほど少なくとも暴発の危険性はないだろう。それを考えてアーリットはこうなるべく事を運んでくれたのだろうか。しかし、この世界に来てからありとあらゆる現実離れした現実を見てきたが、ついに自分もその一部となってしまった。深く考える気にはとてもなれないが、この身体の中に、刀ひと振りとライフル一丁がある。あ、どうやって出すのか……分からない。
「あ、二人ともここにいた!」
 突然の背後からの声に、思わず心臓が飛び出しかけた。振り返るとすっかりすすけて黒くなった王子がこちらへとやってくる。部屋中にある由来不明品にはあまり興味がない面持ちで、ちらと一瞥すると王子はどうかした?と唯人に小首をかしげて見せた。
「もう、用事はすんだの?」
「はい、殿下」
「じゃあ、そろそろ戻ろうよ、少し寒くなってきちゃった。それにこんなに服が汚れるなんて思ってなかったから、教育係のアーテの小言の時間入れたらもう帰らなきゃ昼食に間にあわなくなっちゃう」
「それは大変ですね、では、戻りましょう」
「あ、それで言っとくけど右二つ目の部屋の標本の棚を倒したのはサレだからね、見た目はちゃんと直したけど僕は知らないよ」
 分かりました、後で直させておきますと渋い顔でアーリットがうなだれる。見ていると、何となくアーリットがサレに対して発する暗いオーラの理由が理解できるような気がしてきた。しんとした無数の物たちの思いが満ちる部屋を後にして、手前の部屋から何食わぬ顔で出てきたサレと合流し笑いをかみ殺しつつ分厚い石戸を抜ける。石の壁の上の黄色い巨眼が、別れを言うように唯人にくるり、と回って見せた。
「昼食には、兄上も来るよ。良かったらアーリットと一緒に唯人もどう?兄上に紹介したいな」
「殿下、何度も言いましたが彼はまだ身元不明です。とりあえず外で埃を落として、その後で改めて伺わせて頂きますので殿下はこのままお戻り下さい」
「はぁい、でもなんか、唯人って怪しい感じはしないんだよね。怪しいっていうんなら、この間来てたキント鉱山の鉱山主のほうがよっぽどさ……」
 ちょうど石段を登りきった、そこで、う、と王子が言葉を止めた。謁見の間に続く扉の向こうで背の低い、かなりな年齢らしい人物が一人腰に手を当ててこちらを睨んでいる。一目で彼女が先程王子の言っていた〝教育係のアーテ〟であることがうかがえた。
 その後、王子を連れ出した事、そのせいで午前の勉学の予定が全部駄目になった事、皆で探して人手を取った事、服を汚した事、この後どう考えても昼食に遅れてしまう事(その際、王子が彼女がお小言を切り上げれば間にあうことを提案したが、にべもなく却下された)についての説教をえんえん聞かされる羽目になってしまったが、なぜかあらゆることに関して我が道を行くアーリットが素直にこれを受け、やっと謁見の間を後にした頃には本当にもう、陽は正午の位置に登りつめていた。
「はーまいったまいった、久しぶりに聞くとこたえるな、教育長のお説教は」
 背が高い分、縮こまるのが辛かったのかサレが歩きながらううん、と背を伸ばす。
「そんなの真面目に聞いてるからだ、宝物庫での事についての考えをまとめるにはちょうどいい時間だった」
 しれっとした顔で呟いて、通路を歩くアーリットが上り石段と通路の分かれ道にさしかかった所で傍らのサレを振り仰いだ。
「サレ」
「ん?」
「俺は今から蔵書の間に行ってくる、すまないが唯人を浴場に連れてって、その後飯を食わせといてやってくれないか?」
「いいけど、アーリットは行かないのか?」
「俺はどこも汚れてないし、飯は続けて二回も食った。当分いらん」
 そう言われれば、同じ場所にいたはずなのにアーリットの服は朝と何も変わることなく白いままだ。それに比べて唯人は、正座したり長年動かされてなかった鋭月らを抱えたりしたせいで、多少埃っぽくなってしまった。まずい、とぱたぱたと服を払う唯人によし、まかせろと陽気にサレは胸を叩いて見せた。
「この時間なら兵舎の風呂が空いているからそっちに行こう。そうだな、いっそメシもそっちで済ませるか」
「頼む、あまり遅くなるなよ。それと唯人は武器精をふたつ持ったから、これからふいになにかしたら頭と身体が分かれる覚悟くらいはしておけよ、俺の見た限りじゃ一度に二・三人くらい軽く切れそうな長刀だったぞ」
「うわ、それじゃ俺と同じ八級にもうなったわけ?参ったなぁ」
 すごぉい、と感嘆の目を向けられああ、そういえばその武器精とやらを身体から出す方法を聞きそびれたことを思い出した時には……頼みの綱は、石段を上がってもう見えなくなってしまった。うーん、どうしてこう間が悪いんだろうと頭に手をやった、唯人の腹を、なぜかサレが突然手を伸ばしべろん、とまくりあげた。
「うわぁ!ち、ち、ちょっと、なにするんですかぁっ!」
 思わず日本語でわめいてしまったので、サレは笑顔のままきょとんとしている。アーリットに着せてもらったので、一度崩れてしまったら、この服というか布はもう唯人の手にはおえない。焦る唯人の必死の努力も空しくぐずぐずと緩んできた布をなんとか押さえこもうとした、その時、ふと唯人は自分の腹の左下あたりに見慣れない痣のようなものが付いているのに気が付いた。打ち身とはなんだか違う赤っぽい色で、太くて丸い三日月の形にも見える。さらに探すと、右肩の前がわにも形は違うが同じような痣ができていた。
「ほんとに精霊獣を手にいれたんだな、唯人。おめでとう、俺にもあるよ、それ、ほら」
 サレが肩当てをずらして見せてくれた、筋肉質の両肩にもひとつずつ痣が付いていた。
「これは、この国では精霊痕っていって身体の中に精霊獣がいるっていう印なんだ。俺のは右が戦用鞭のスーランシュイ、左が半月刀のタタルタン。落ちついたら、また唯人の武器も見せてくれよ。……あの、唯人、それもう諦めたら?」
 無理にあちこち引っ張ってみたが、結局、服は持ち直すことなくただの模様入りの布に戻ってしまった。たとえ緑と茶色のまだら模様でもTシャツとスエットを下に着ていて本当に助かった、と胸をなでおろした唯人に俺だってそれ着せるくらいできるぞ?とサレがごくあっさり言い放った。
「それ、アーリットが着せてくれたんだろ?精霊獣師正装十級の着方だったな。俺が後で八級式を教えてやるよ、唯人は頭良さそうだからすぐ覚えるって、俺と違って」
 この言葉は意外だった、精霊獣師といったらアーリットのようないかにも魔法使いなタイプかと思ったら、級が低ければサレのような戦士タイプもありらしい。そのうえ、昨日アーリットは精霊獣が見えるのは王族の血統だと言ってなかったか?兵舎の浴場とやらに向かう道すがら、唯人はサレにもできるだけ話を聞いておこうとつたない言葉で話しかけた。
「サレも、王様、の、子供?」
「あ、まあな。王様ってんじゃないけど群島北部のエリテア諸島てとこの皇族の出だ。どこの国でも後継ぎ以外はさっさと国を出て、そこそこの相手と結婚するか兵士になるのが普通だから。どうせなら回円主界随一の精霊獣師、〝翠眼鬼〟がいるユークレンに腕試しのつもりで来てみたんだ。若くて恐れ知らずでバカだったよ十五の俺は」
「翆眼鬼(すいがんき)?」
「分かるだろ?アーリットのことさ。俺の五代前の先祖の頃はまだ、群島連合はまだひとつの連合国家じゃなくてそれぞれが小競り合いに明け暮れてたんだ。その時ユークレン・アシウント両王が連合国家案を持って調停に来たんだけど、結構勢いがあった俺の先祖とその一派がゴネて北でたむろしてた海賊連中と手を組もうとした、その時……」
「その時?」
「俺は、今でも年寄りが話を大きくしたって思ってるんだけど、集まった海賊連中の船十二艘をユークレン国軍のアーリットがたった一人で追い返しちまったんだと。それでついた呼び名が翆眼鬼、その勢いであっという間に連合案をまとめられちまって。今じゃそうでもなくなったけど、じいさんの代くらいまでは群島で緑色の目の人間見かけたらみんな隠れてたって言ってたな」 
「それ、本当に、アーリット?」
「ちゃんと本人に聞いた、それにあんな奴、二人も三人もいると思うか?」
「アーリットて、とし、いくつ?」
「んー、まあその頃から考えたら最低でも百五十は超えてるはずだけど。唯人が聞いたら教えてくれるかもな」 
「それって、人間?」  
「それも聞いてみるといいよ、俺もずっと気になってる。けど〝アーリット・クラン〟って言葉自体が古い言語で〝私も知らない〟って意味らしいからな。その辺は察してやろうよ」
 くったくなく笑いつつ、城の外堀ぞいにぐるっと反対側まで歩いていたサレが、ふと足を止めると城と対岸を繋いでいる橋を渡ってくる数騎の騎士に目を止めた。馬に似ているが、山羊みたいに大きく渦巻いた角を持っている生き物に乗って先頭を行っているのは、暗い茶色の髪を風になびかせたサレや唯人と同じくらいに見える品の良さそうな青年だ。
「あ、主王子も帰りが遅れたみたいだ。添王子は昼食に間にあったな、良かった良かった」
「主王子(しゅおうじ)?」
「ああ、ユークレン十五世王の嫡子、未来のユークレン十六世様だ。絵で見ただろ?そっくりじゃないか」
 え、じゃあなんていうか、やっぱりあの絵の椅子に座ってたほうが王様?それで豪快なほうが添王レベン様とやらで金髪王子の親?なんだかわけが分からない。さらに膨れ上がった何とも言えない胸のつかえを抱えたまま、唯人はサレに連れられ城から張り出した形のこれも石積みの兵舎の脇にある小さめの建物へと入って行った。
「やっぱり、この時間じゃ誰もいないな。唯人、手早く済ませよう」
 建物の中は、中心に水の流れ込む槽のある滑らかな石張りの浴場になっていた。さっさと軽装の鎧、それと下に着ていた薄手の布の衣服を脱ぎそれを片手にサレが中に入る。今日は天気がいいからここで洗って干しておけば昼食が終わる頃には乾くから、と言われ唯人も慌てて模様入り布を抱えサレの後に続いた。
 天井が開いて陽が直接射し込んでいる浴槽の水は思ったよりぬるく、ひなた湯程度だったが訓練を終えた汗を流すぶんにはこれで十分なのだと豪快に洗い物に水をかける。適当に埃を洗い流し、最後に絞ると皺になるからと濡れたままぱん、と振って布の水を切る。そのサレの本当に見事な筋肉美の身体をつい画家の卵の目で唯人がじっと見ていると、視線に気づいたサレがじゃ、これは後で外に干すから、と布をひとまとめにして置いてざばんと水に飛び込んだ。あー、気持ちいい、と水を飛ばすその姿に誘われ、唯人も陽光できらきらしている水につかってみた。
「唯人は、手も華奢だったけど身体もそのまんまだな。俺はそういうの嫌いじゃないよ、頭良さそうなのって憧れだから」
「サレより、華奢、じゃない、人、いないよ」
「そうかな、じゃあ、唯人はどんな感じの人が好きなんだ?さっきから見てるけど、俺の事、気にしてる?」 
 気のせいか、何だか話がおかしな方へ行っているような。ふふ、と相変わらずの笑顔でサレは唯人を見つめている。あ、これはからかわれている、と唯人はとっさにそっぽを向いた。
「男同士、で、そんな、話、やめよう」
「男同士?」
 サレが、ふいにくるんと大きく暗紅色の眼を見開いた。
「唯人、男って言った?」
「それが?」
 少し、間が空いた、変な間だった。
「それ、おかしいな……」
「なにが?」
「俺、男じゃないぞ。精霊獣師っていうか、精霊獣が見える〝貴血〟はみんなそのはずなんだけど」
「え?」
 一瞬、視界が真っ白に塗り潰された。
「え、ええええええええーー……!?」
「それが、どうかしたのか?」
 唯人の叫びに、サレのほうがちょっとたじろいだ。きっと今、自分はものすごい顔をしているのだろう。アーリットの家で精霊獣を初めて見た時も結構脳に衝撃はあったが、今度はもう衝撃が全身に及んで身体が動かなくなった。だって、さっきからしっかり見てたはずなのに!今も見てるのに!どう見てもそんなはずないと頭が叫んでいるのに!なんで普通に裸で並んでるんだ?固まったままただただ相手の顔を見るしかなくなった唯人の頬を、おそるおそる伸ばされた浅黒い手が軽く打った。
「こんな当たり前のこと聞いて、ここまで驚いた奴初めてだ。アーリットが連れてきたし由来不明品の間で精霊獣連れてきたからただの身元不明者じゃないとは思ったけど……」
 ここじゃない、どこかから来たか?と昨日緑の瞳は薄暗がりの中で囁いた、しかし、陽光の下の暗紅の瞳はふっ、と目を細めただけで、その続きを口にはしなかった。
「それじゃ、唯人が困らないように一応説明しておいてあげないとな。この世界には基本男と女と〝両性〟がいる。自分達を偉いと思いたい連中は〝貴血〟貴い血、なんて言ってるけど俺は両性で十分だと思う。両性ってのは……まあ一言でいえば両方ありだ、基本、普段は大抵男性状態でいるんだが、伴侶に男を選んだり、相手が両性でも自分が子供欲しい、って思えば飯食って脂肪付けて女性になる、便利だろ。回円主界には三つの時代があって、まず初めが世界主がこの世界の基礎を創った大地の時代、次がこの世界にやってきた最初の人の時代、前紀王国時代だ。最後が今の五国時代なんだが、俺を含めて全ての両性は前紀王国時代の古い人種の末裔、特に王族はほぼこれだ、だから貴血なんて言う奴もいる。ユークレン王も、添王も、王子二人もみんなそう。群島国にはほとんど両性はいないけど、先祖の代に海賊の血が入ったせいで俺の一族にはごくたまに両性が出る。北方海賊はそもそも元をたどればアシウントの王族くずれだからな。そして精霊獣とかかわれるのは王族すなわち貴血だけ、単性の人間は絶対不可。唯人、もう一回聞くけど……本当に男?」
 そんなこと言われても、もうしょうがない。黙って唯人はうなずいた。
「そっか、ま、そんなのも出てきたか。じゃそういうことでそろそろ上がろうか」
 唯人の火を吹きそうな頭とは正反対に、実にあっさりそこで話を切ると水飛沫を散らせてサレが立ち上がった。顔が赤いけど、日差しのせい?と言われ、頭をざぶりと水に突っ込み唯人も立ち上がる。脱衣所にきちんと積まれている体を拭くための布で水気を拭くと、サレはそのまま布を腰に巻き唯人はシャツとスエットを身につけた。外の日当たりのいい場所にある物干しに服を掛け、じゃ、昼メシ行くかと煙突から湯気の立っている兵舎の一角へと歩き出す。外の風に吹かれても、唯人の顔の熱はなかなか引きそうになかった。
「唯人はびっくりしたみたいだけど、両性って得だと思うよ。だって好きになった相手誰とでも一緒になれるだろ。俺は兵士だからできれば子供生んでくれる相手が理想なんだけど、どうせなら自分の子も一人くらいは欲しいしな……唯人が男で、ちょっと残念だな」
 そこでまた、いつもの顔で笑う。とりあえず、これまではやや本気で口説かれていたらしいことがよく分かった。今後唯人が理想から外れていたということでこの見るからに男らしい相手は考えを改めてくれるだろうか……いや、別に嫌いというわけでは断じてないのだが。どうしよう、なんだかさっきまでと同じ気持ちで見られそうにない広い背中について歩いていると、建物に入るその寸前にふと足を止め振り返ったサレが、さっきまでと違う声音で唯人に話しかけてきた。
「それで唯人、唯人の武器はすぐ使える状態なのか?」
「いいや」
「手入れがいる?それとも壊れてる?」
「片方、手入れ。もう片方、壊れてる」
「壊れてる方は、直せるか?」
「直らない」
「じゃあ、手入れのいるほうをできるだけ早く使えるようにしておこう。唯人は、本当に生まれたばかりの赤ん坊みたいになんにも知らないから、これから先もしかしたら俺やアーリットのいないところで大変なことに引き込まれてしまうかもしれない。そんな時、最後に自分の命の盾になってくれるのは己の技量と手になじんだ武器だけだからな。今晩にでも、武器の手入れをする場所に連れて行ってやるよ。一緒に手入れしよう、それから……」
 サレの力強い、がっしりした腕が唯人の肩に回され品定めするかのようにぎゅっと力が込められる。
「男なら、もう少し身体に肉をつけないと。まずはしっかり食べようか」
 これは後で分かった事だが、ここテルアは唯人の世界の欧米方式で朝と晩は軽く、昼に沢山食べる様式をとっていて、サレに劣らない筋肉隆々の兵士連中に混じって豪快な食事を終えた後、(唯人の食事量を評して、サレは家鶏でももっと食べる、と呟いた)唯人は乾いた布を朝とはやや違う方式で身につけ、再び通された謁見の間で王の不在を預かる主王子と謁見した。
 唯人のいない間にいったいどんな話を交わしたのか、両脇に添王子とアーリットを控えさせた主王子は壇上からひととおり唯人を深い紫がかった眼で眺めると、穏やかで物静かな印象を与える顔で微笑み、半月ほど後には王であるユークレン十五世がアシウントでの会議を終えここに戻ること、それまでアーリットを庇護者としここで待つよう旨を告げた。そしてその間、せっかく精霊獣師の素養があるのだから、アーリットに師事し精霊獣師の育成機関のあるここテルアで技量を磨いておくのがいい、とも言ってくれた。
 謁見を終えると、上機嫌のサレがやってきて、これからしばらく暮らす兵舎のやや狭いがこざっぱりとした部屋に連れて行ってくれた。個室というのはなかなかの待遇らしく、サレの部屋からもけっこう近いそこで二人で簡単に掃除をしたり、持って来た寝具や替えの服を片付けていると、すぐに陽が暮れてきた。
「じゃあ唯人、約束通り武器の手入れをしに行こう。武器庫に手入れ専用の部屋があって、そこに道具は大抵そろってる。俺も半月に一度くらいはやってるが、俺の群島の武器とか由来不明品なんて絶対誰の手にも負えないからな。早めに自分でできるようになっておけよ」
 唯人をずっと地味に悩ませていた、武器を身体から出し入れする方法はそれこそサレが言った〝当たり前の事〟歩くとき足をどう出すか、というようなレベルの話のようだった。薄明るい灯明に照らし出された室内で、まるである種の舞のようにサレが肩の印に触れ、そのまま優雅に腕を指先までするりと撫でる。ふわりと腕に光が浮かび上がったと思ったら、もう手にはひと振りのしなやかに反った剣が握られていた。同時に姿を現した武器精は唯人の世界で言う豹に似た大きな牙を持った獣で、武器精は人型だろうと思い込んでいた唯人を金色の三つ目で睨みつけた。
「唯人、これが俺のタタルタン。右肩のスーランシュイ共々俺が故郷からここ、ユークレンに行くって決まったときうちに代々あった武器の中から幼馴染のこいつらが付いて来てくれたんだ。おかげで余計な苦労せずに精霊獣師の八級検定にも合格できて助かった」
 見せてくれたサレの愛剣タタルタンは、幅広で弓なりに反り曲がった文字通り半月型の剣だった。何でできているのか刃は淡い金色で、背のほうに装飾的な文字が豹をかたどって彫りこまれている。ここに汚れが入って困るんだよな、とでかい砥石を持ちだしてきたサレの横で、唯人はおっかなびっくり印のある自分の左下腹にそっと手を当ててみた。
『鋭月、出てきてくれるかい?』
 そっと心の中で呼びかけてみる、途端、手のひらの下が強く輝いた、と思ったら手がぐんと押され黒鞘の刀身が現れた。
「うわ、本当に出た!」
 おー長い、と背後でサレの感嘆の声があがる。光が集まり現れた武器精の鋭月は、見違えるようなどこもすすけていないなりで、きちんと櫛削ったまとめ髪を揺らし唯人に一礼した。
「御用ですか、唯人殿」
「鋭月、随分きれいになったね。あ、この人はサレだよ」
 鋭月は、ちらと唯人の示す方を見るふりだけして何も言わなかった。豹のタタルタンが長い尾でパン、と床を打つ。
「唯人、武器精は普通持ち主以外に興味なんて見せないよ。紹介なんてしなくていい」
 ところでなんで頭落とすんだ?唯人の国の風習か?と不思議そうにサレが聞く。群島連合式握手みたいなものだと答えると、笑いながらサレも唯人にお辞儀して見せた。
「あ、スフィはどうしてるかわかる?」
「はい、不平は申しておりますが落ちついておられる様子です。いずれ改めて呼んでやってくだされば」
「うん、分かった。それで、鋭月…僕、はっきりいって刀なんて触った事ないし、ましてや砥いだことなんて一度もないんだけど、どうしたらいい?」
「そうですか、ご安心ください、私が手ほどきして差し上げますから。たいして痛んでおりませんので少しづつゆっくりやればすぐに人の一人や二人、楽に斬れるようになりますよ」
 あ、今何げに笑顔ですごい事言った。冗談かと思ったが、考えてみたら、刀は純粋に人を斬るためだけにある武器だった。とにかく綺麗に砥ぎあげて、こっちもできるだけしまっておこう、と唯人は鋭月に指示された砥石と砥粉を取って床に置き、サレの隣で刀砥ぎに取りかかった。
「サレ」
「ん?」 
「サレは、兵士、だけど、戦うとき、あるの?」
「そりゃあな、ユークレンは回円主界の他の四国とはここ百年ばかり良好な関係なんだけど、南のアーリットが住んでる森の方からはけっこう凶暴な野生の猛獣が迷い出てくる事があるし、野心のある精霊獣使いがアシウントの辺境の領主そそのかしてユークレンの領地に侵攻してきた事もあったな。ここ数年は〝破界主〟なんて奴があちこちに現れるようになってさ。先週ユークレンの外れのトリミスって街の遺跡に現れた、って噂がたってレベン・フェッテ添王様が今確かめに行ってるところなんだ」
「はかいしゅ?」
「ああ、えーと、昼話した回円主界の創生神話に出てくるらしいんだが。俺の生まれた群島連合国は時代的には新しいほうだからよく分からないんだけど、時代の節目が来たらそれ以前の全てを壊しに地上に表れるんだと。大地の時代のことはもちろん記録も何も残ってないが、前紀王国はそいつのせいで廃王国になったって伝わってる。本当に破界主が現れたんなら今度は五国が終わる、って話になってしまうだろう?でも過去に反乱起こした一領主や変な奴が名を語ってたってのもあったからな。誰も本物を見た事がないから分からないんだ、あのアーリットでも。ユークレンは初代から数えて十五代、四百年の歴史がある。その点から言えば、とりあえずアーリットの歳は四百以下ってことになるか」
「すごい」
「そうだろ?何百年も生きててあの顔なんだから今後何年生きるんだか、だのに俺や唯人みたいなたかだかハタチそこそこの人間と普通に会話してるってなぁ」
 そんなことを話しているうちに、タタルタンは本物の月のように淡い金色に輝き鋭月は何とか刀らしい光を取り戻した。最後に油を塗って綺麗に布でふいて、さあちゃんとしまっておこうと鞘に手を伸ばした唯人の腕を、ふとサレが止めた。
「なに?」
「もう戻しちまうのか、切れ味とか確かめたりしないのか?」
 そんな事どうやって、というか、これっぽっちもしたくないし。ぽかんとなった唯人の表情は分かったはずなのに、あくまで楽しそうにサレはその肩に伸ばした腕をまわしてきた。
「唯人、寝るまでまだ時間あるから、ちょっとだけ手合わせしてみないか?」
 えぇ?
「手合わせ、て?」
「いや、軽く真剣勝負を」
 眼の前で、くるりと回った半月刀が空を切る鋭い音を響かせる。なにか言おうとする間を与えられず、唯人の体はさっさと外のちょっとした中庭へと引っ張り出された。
「いや、無理、無理だって!」
「分かる、唯人は剣を使ったことも何かを斬ったこともまだない。でもその剣を持ってさえいればなんとかなるよ。そのなんとかなり具合をちょっと見せてくれ」
「私は、別にかまいませんが」
 唯人の必死の目線に対し、傍らの鋭月は薄い笑顔でさらりと言い放った。
「今後は、多少汚れてもすぐ清めてもらえるでしょうから」
 だから、何で汚れる気なんでしょうかぁ!
「じゃ行くぞー、唯人、間違っても目は閉じるなよ」 
 月光に輝く刀身をかつぎ、サレがひらひらと手を振って見せる。大丈夫、殺し合いじゃないからと自分に言い聞かせ過去の知識を総動員しなんとか正眼に構えた唯人の両腕が、ふいに奇妙な感覚に包まれた。なんだか、腕と身体の鼓動が少しずつずれていくような……刀に吸いつけられ、同化していくような。その感覚に戸惑う間もなく、きらめく金の刃が頭上に振り下ろされてきた。
「……!」
 びっくりするくらい、体が素早く動いた。左にかわし、すかさず左下から右上へなぎ払う。金属同士のぶつかる鋭い音が響き渡った。
「うん、さすが長いな。後ろに跳んだんじゃ逃げ切れない」
 サレが、止めた刃を己の刃の曲線にそって流し今度は正面から突いてくる、数回打ちあい、斜めにぬけた刃を紙一重ですり抜け踏みとどまり、背中を上段から袈裟切りに…となろうとした流れを、振りかぶった位置で唯人は渾身の力で止めた。すぐに振り返ったサレが唯人の手から刀を弾き飛ばす。宙を舞った刃が金属音と共に地面を転がって、そこで手合わせは終わった。言葉もなくその場にへたりこんでしまった唯人に、呼吸を整えるとサレは鋭月を拾って持って来てくれた。
「なんで止めた?唯人」
「サレは、斬っちゃ、だめだ」
「そう思って、止めたのか」
 うん、と頷いて受け取った鋭月に傷が無いのを確認し、鞘に戻そうとしたが手が震えてどうしても刃先が鞘にかからない。これじゃまるで切腹だ、と思いながら唯人は半ばヤケクソで刀と鞘を並べて持ったまま、強引に脇腹に押し込んだ。そばにいるだろう鋭月の顔を見るのが、なんだか辛かった。  
「ちょっと無理させたな、ごめん、唯人」
 自らも剣をしまい、サレが唯人のそばに座り込む。気を使われるのが嫌で、唯人は大丈夫、と無理に変な笑顔を浮かべて見せた。
「でも、唯人が頑張ってくれたから俺にもよく分かったよ。それは、いい剣だ。本気の勝負をやったことのない唯人をちゃんと護って、我を出す事はせず主の心に従った。あれくらい技量のある剣だったら、普通はあそこで止まるもんじゃない。唯人の国には、いい鍛冶職人と使い手がいるんだな」
 その剣技は、正直この国には無いからちゃんと身につければ唯人はそれだけで強くなれる。俺みたいになるかアーリットみたいになるか、それは早めに決めておいたほうがいいぞ、と笑顔で締めくくられ、画学生という選択肢はもう自分には無しですか、と唯人は送ってもらった自室で毛布に頭からくるまりぐったりと力なく横たわった。
 掃除をした後窓を閉め忘れていたので、射し込む月光で布越しの視界が薄明るい。そうだ、鋭月に謝っておかないと。わざわざ呼び出して顔を合わすのはまだちょっと気まずかったので、唯人は目を閉じて声を出さずに心の中で呼びかけてみた。
『鋭月』
『はい』
 かなり無茶をしたから機嫌を損ねているかと思ったが、声はいつもの穏やかな彼のそれであった。
『ごめん』
『何がですか?』
『さっきのこと、僕が止めたから、君が飛ばされてしまった。あれが実戦だったら僕死んでたよな、せっかくサレが褒めてくれるくらいいい刀なのに僕は体が震えて拾いにも行けなかった、本当にごめん、情けなくて』
『でも、唯人殿は逃げも怯えも致しませんでした。身の内に基礎がありましたので、動くのには不自由しませんでしたし。それに飛ばされた事に関しては、相手に殺気がありませんでしたので私も納得した上での結果です。殺気のある相手に対して私を止めようとなさるのなら、今後いま少し鍛練をお積みください』
『うん』
『もしかしたら、唯人殿の得手は私ではなくスフィ殿なのかも知れません。それを思うとこれから更に唯人殿に無理強いをさせるのではないかと申し訳なく思います。しかしスフィ殿が不調であられる以上私が貴方を護ります。今の力量が足りぬとて自分をお責めにならぬよう』
『いや、それはないよ。僕は銃なんて使ったことないし、まだ剣道のほうが経験があった。それにもしスフィが完品だったとしても、銃って弾が尽きれば終わりだろ?鋭月がいてくれて僕は助かったって思うよ』
 言ってしまった後でつい口が滑ってしまったような気がしたが、案の定どこかからちくしょう、腹立つがそのとおりだから何も言えねぇ、と嫌そうな低い声がする。うわ、な、内緒話ができない……焦って思考がつまった唯人に、鋭月はうまく話を切りかえてきた。
『恐れ入ります、唯人殿。ところで、もしよろしければひとつお願いしたい事があるのですが』
『え、な、何?』
『私を戻されるときには、できれば鞘に収めて頂ければと思います。なにやら己が裸でいるようで落ちつけません』
 うわー、重ね重ねごめんなさいっ!と毛布を飛ばし跳ね起きる。スフィのかすれ声がげらげら大笑いしているのが聞こえ、大きな溜息がまたひとつ唯人の口から漏れた。
「やっぱり、アーリットってすごいよ。これが二百七十……」
 そもそも精霊獣とは、この世界では基本口をきかないものである、という事を、唯人はまだ知らない。



 その後、国王が戻ってくる日まで、唯人はサレについて城の兵舎でいろいろ教わりながら日々を過ごした。日のあるうちはサレの部隊の新人兵士に混ぜてもらって基礎体力作りに精を出し、夜の時間は居ればアーリットが言葉や作法、社会の仕組みなどを教えてくれた。言葉は聞きながら覚えるぶん日常会話ならすぐできるようになったし、服の着方も二回で覚えてサレを苦笑いさせた。鋭月を砥いだから、次にさんざん罵声を浴びせられながらスフィについた泥も目につく限り落としてやったが、その際何気ないおしゃべりでもう日本では特殊な職の人以外髷をゆっていない事を鋭月に話したら、その後、すぐにすっぱりと髪を短くして現れ唯人を驚かせた。
 アーリットはおおむね城の蔵書の間にこもったりどこかへ行ったりする毎日だったが、しょっちゅう様子を見に来てくれて自分が講師のときの精霊獣師の講義に入れてくれたり、精霊獣師八級認定の試験にも立ち会ってくれた。添王子はすごく唯人を気にいってくれて、暇を見つけてやって来ては教育係に追われて帰っていく。
やがて唯人が手に持った鋭月の重さを感じなくなり、Tシャツとスエットを着なくなった頃、城を活気づかせるその人物が遠方より帰ってくるとの知らせが早馬で届けられてきた。
「おーい、唯人!いいこと教えてあげる、ちょっと聞いてよ!」
「あ、添王子、なにがあったんだい?」
 いつものように元気いっぱいで、ぴょんぴょん跳ねるようにやってきた添王子をちょうど訓練の合間の休憩を取っていた唯人は笑顔で迎えてあげた。最初のうちは慣れない敬語で話すのにも苦労したが、本人が嫌がるのと城の外ではみんな結構ちょっと丁寧なくらいの言葉で話しかけているので唯人もそうさせてもらうことにした。相変わらずのきらきらの髪を揺らしふふん、と軽く胸をはる。唯人の近くにいた新兵らも何事、とこの可愛い弟分の重大発表に耳をかたむけた。
「あのね、今知らせが来たとこなんだけど、明後日国王陛下が戻られるって!もう北東のトリミスまで来てるからレベン・フェッテ様と合流して二人一緒に帰ってくるんだろ。明後日は両陛下の無事を祝ってちょっと賑やかになるよ、留守の間何もなくて良かったなぁ!」
 おー、それは何より、等周囲から口々に喜びの声が湧きおこる。お祝いの食事に干果の焼き菓子が出たら絶対持ってきてあげるからね、と皆を沸かせた後添王子はふと唯人を振り返った。
「あ、それで唯人。アーリットに頼まれたんだけど、蔵書の間から持ちだしてる本が数冊唯人の部屋にあるんでしょ?王にばれたらまずいから明日返しておいて欲しいって。棚に戻さなくてもいいから、机の上に置いといて、だって、分かった?」
「うん、分かった。今晩にでも戻しておくよ」
「それで、ねぇ、唯人は白蜜味とハバ茶味とどっちが好き?」
「え?なにが?」
「もう、お菓子の話!」
 そんな話をしているうちに、今日もやっぱり王子は年相応とは思えない勢いの老アーテに首筋つままれて城へと戻り、訓練をつつがなく終えた後軽い夕食を済ませると、唯人は本を抱えて蔵書の間へと向かった。分厚く重い数冊の書物は、アーリットが数日前に教材として持ってきて置いていった物でまだ簡単な文字しか分からない唯人には何が書いてあるのかさっぱり分からない。アーリットが言うには精霊獣の分類とか生息域とかが書いてあるということだったが、そんなものをいちいち覚えるなどめまいがしそうだったのでとりあえず王様はいいタイミングで帰ってきてくれた、と唯人は石段を登り普通は許可がないと入れない蔵書の間の扉の前に立った。
「えーと、一級精霊獣師アーリット・クランの指示で来ました。八級精霊獣師阿桜 唯人が入室を望みます、〝蔵書の間〟」
 唯人の世界では、あらゆる物の封印は主に鍵でなされているがここでは特に重要な場の封印は精霊獣によってされているのが一般的なようだった。唯人の呼びかけに応じぬうっと突き出してきた、二本の角がえらく後ろまで伸びている犬系の獣の頭が鼻を寄せて唯人と、手に持っている本の匂いを嗅ぐ。ここもアーリットがいたときはすぐに開いたが、唯人は三分ほどひたすら嗅ぎ続けられた後(これでも早いほうらしい)やっと扉が開かれた。
 中に入るとそこは古い本の紙と糊とややかび臭いような匂いの混ざった真っ暗な空間で、唯人は今度アーリットに会ったらあの青い蝶を手に入れられないか聞いてみよう、としばらくじっと闇に目が慣れるのを待った。    やがて視界にぼんやりと、中央に置かれている大きな机と、以前つまづいて恥をかいた末広の台に乗った巻物の山が浮かんでくる。アーリットに言われた通り机の上に本を置いて、やれやれ重かった、と引き返そうとした唯人の視界になにかごく微かな光が射し込んだ。
「……?」
 今はもうだいぶん慣れた眼に映る、壁一面の本棚と並ぶ本。かなり高い位置にある天井までびっしりと埋められているその真ん中の一画がなにやらごくわずかずれた様になって、その向こうの光がこちらに漏れている。なにも考えず、そばに寄ってみる。どうやらこの本棚だけまるで忍者屋敷のからくりのように回る構造になっていて、壁の向こうの部屋の主が自由に行き来できるようになっているらしい。これは、閉めておいたほうがいいのだろうか?と顔を寄せた、その唯人の耳に隣室の人間がなにやら話している声が聞こえてきた。うわ、立ち聞きなんて、と慌ててその場を去ろうとした、が、離れる寸前耳に飛び込んできた自分の名前に唯人は驚いてつい足を止めてしまった。
「あの男、阿桜 唯人が〝創界主〟なら、トリミスに現れた〝破界主〟は、あながち偽物とも言い切れないかも知れません」
 姿はこちら側からは見えないが、声ですぐ分かった。一人はアーリット。
「それでは、やはり世界の限界は迫っている、という事ですか」
 こちらは、数回しか耳にしたことはないが特徴のある言い回しで分かった、主王子だ。と言うことは、この向こうは、王族の自室?
「大変な事になりますね」
「まだ、全ては推測の域です。しかしひとつだけ確かに言える事は、あの男…男である事がそもそも不自然なのですが、あれはこの世界の人間ではない。私の師、かつて千年の君と言われたミストフェルが残した伝承に、このような一節がありました。…世界が移るその時に、二人の〝主〟現れん。一は破界、一は創界。其は全てを知りしもの、其は新しきを知りしもの」
「千年の君は……ユークレン四世の頃まで記録に残っていた、貴殿の師である伝説の精霊獣師。前紀王国時代からずっと生きていたとありますが、この大災厄がいずれ訪れる事を解っておられましたか」
「師の伝承の原文は、本人の杖に刻み込まれていてその杖は長年探しておりますがいまだ見つかっておりません。この一節はたまたま獣皮紙に写され私の元に残されていた物ですが、もう時代が経ち過ぎており全てを読み解く事は不可能となってしまいました。とりあえず私の推測があまり的を外れていないなら、彼を今後ここにおいておく訳にはゆかなくなるでしょう」
「そういう事になりますね」
「すべては、両陛下が戻られてからの話ですが」
 なんだか、鼓動の音が耳から飛び出して隣の部屋まで響きそうだった。さっきサレが言っていた、世界の節目にそれ以前の物を無に帰すという大災厄をもたらす破界主、それと対を成している何かが自分、すなわち異界から来た者だと言っている。このままでは大変な事になる、ここにおく訳にはいかない……どっ、と吹き出してきた汗に思わず額を押さえようとした、その手にふいにふーっ、と風が吹きつけてきた。
「……!」
 危うく声が出るところだったが、なんとか飲み下した。暗がりのなか、床から生えた大きな獣の首がじっと唯人を見つめている。蔵書の間の精霊獣が、あまりに出てくるのが遅い唯人の様子を見に来たのだ。ごめんなさいすぐ出ますときびすを返し、どうか、どうか気付かれていませんようにと全身全霊の忍び足で部屋を出ると唯人は足早に城の石段を駆け下りた。門を出て、兵舎に続く中庭の途中で立ち止まり抑えていた息を大きくつく、何もそれらしい事はしていないはずなのに、顔が汗でびっしょり濡れていた。
 今後、ここにおくわけにはいかなくなる……。
 いくら振り払おうとしても、その一言が焼きつけたかのように頭から離れない。ここに来てからずっと面倒を見てくれたアーリット、なにかとうるさいくらい世話をやいてくれたサレ、懐いてくれた添王子、突然入ってきた自分をすぐに受け入れてくれた城の人々……それら皆と、最悪あと二日で別れなくてはいけなくなった。混乱した頭でふらふらとただ足を進めていると、もう良く見知った場所であったはずなのに、いつの間にか唯人は外に出て、これまで来た事の無い城の裏手に迷い込んでいた。
「あれ?」
 気が付くと、目の前は湖に浮かぶ城の淵だった。なんでこんな所に来てしまったんだろう、淵をまわった遥か左手の向こうに帰るべき兵舎の灯りが見えている。ぐるっと行くと帰れそうにも思えるが、途中水路があったような気もして唯人はぼんやりと来た道を戻ろうと向き直った。その眼に、ふと城から飛び出している小さな石壁の小屋から漏れる光が映った。
「こんなところに、なんで厩舎が……?」
 このユークレンで馬として扱われているのは、大柄で山羊のような渦巻角を持った角馬という獣とアーリットのニアン・ベルツを小型にした感じの鷲獣の二種類で、それ以外も他の国ではいることはいるらしいがここでは唯人はまだ見た事はない。何気なく唯人が近寄ると、中から固い物を打ちあわすような音が響いてきた。
「中に、何かいるのかな……」
 そっと反対側に回り込み、中を覗くとやはりいた。ニアン・ベルツよりずっと小柄に見えるが、鷲獣としては普通サイズ。人を乗せるだけあって軽自動車くらいの大きさはある獣が一頭、なにやらしきりに嘴を床に打ちつけている。しばらく見ていると何かが嘴の奥に引っかかってしまっているようで、なんだか苦しそうに見えるその様子につい唯人は中に入ると鷲獣へと近づいた。唯人に気づいた鷲獣が金色の瞳をじっと向けた後、ひょい、と奥へ飛んで逃げる。あえて追わず、横木にもたれかかって辛抱強く唯人は鷲獣が自分に慣れるのを待った。
「なにか困ってるのなら、見せてみなよ。こんな時間じゃ誰も来てくれないよ?」
 唯人を気にしつつ、鷲獣はいらいらと嘴を振り続けている。やがてしばらくの後、なんだか鷲獣の顔が弱ってきたような気がしたので唯人は思い切ってそろりと横木を一本外すと鷲獣のいる中へと足を踏み入れてみた。
『唯人殿、危険です、私をお持ちに』
 鋭月が、囁きかけてくる。いや、警戒させるといけないからと唯人はそろそろとうずくまっている鷲獣へと近づいた。弱っているなりに、威嚇っぽく鷲獣が嘴を開けた。その瞬間、開いた喉の奥にある何かが唯人の目をかすめた。
「あれ、なにか白いのが……もしかして、骨?」
 確かに、鷲獣は普通肉を食べる。今も傍らにある餌桶にはまだ半分ほどなにかの肉が入っているようだ。これは辛いだろうな、と唯人は自分の右肩にそっと触れた。
「スフィ」
『おう、なんだ』
「こんな事言いにくいんだけど、スフィにしか頼めないからお願いするよ。今からこの鷲獣の口に手を入れるから、噛まれないようにスフィの銃床をはさんでいいかい?鋭月じゃ厚みが足らないし危ないから、かまわないかな?」
『なんだよそりゃ、ま、そう言われると仕方ねぇが……銃床割ったら承知しねぇからな、それと銃剣で怪我するなよ』
「うん、気をつける」
 出てきた重い銃身を小脇にはさみ、相手をできるだけゆっくりと角になっている部屋の隅へと追っていく。やはり一応野生の獣とは違って人に使われているぶんそう大暴れはせず、頭ふたつ分ほど上にある嘴が威嚇で開けられたのを見計らって唯人は素早くそこに前後逆に持った銃を突っ込んだ。そのままぐいと下に押し下げて、反撃がくる前に先程目星を付けていた場所に指をさし入れる。すぐに触れた固い感触を一気に引き出したのと鷲獣が唯人を突き飛ばそうと後ろ足で立ち上がったのはほぼ同時だった。
「うわあっ!」
 とっさにスフィを戻し、鋭い爪で上から押さえつけられるのを横にかわす。どんと体が鷲獣の足元にぶつかって唯人は反射的にそれにしがみついてしまった。鷲獣が猛禽らしい甲高い鳴き声を響かせ翼を開き、そして……。
まさかこんな事になるとは露とも思わず、うっかり半開きにしていた横木に思い切り唯人の体をぶつけて飛び出すと、鷲獣はそのまま厩舎の出入り口から駆け出し暗い夜空へと一気に飛び立った。
「わぁっ、ち、ち、ちょっと、お、降りろっ!」
 衣服を吹き飛ばさんばかりの風の勢いの中、必死で叫んでみるもののあっという間に城の光と街の灯りが遠ざかり下が湖なのか森なのか、飛んでいる方向さえも分からなくなる。ニアン・ベルツは大きかったので人が足にしがみついても普通に飛んでいたが、本来の鷲獣の乗り方としてはやはり背にまたがるのが一般的で後ろ足にしがみつかれるととても具合が悪いのか、鷲獣はひどい飛び方をした。急降下、急上昇を繰り返し、その次は斜めになって波状飛び…明らかに、邪魔な荷物を振り落とそうとしている。ここはなんとしても落とされるわけにはいかないと腕に力を込めた、その足にすごい勢いで何かがばしん、とぶつかった。
 今の、樹のてっぺんだ……。
 鷲獣というのはなかなかに頭のいい生き物なのか、振り落とすのが難しいと気付いたら今度は樹で叩き落とす作戦に変えてきた。自分も落ちてしまわないよう完全に樹の間には入らないが、樅のような棘状の葉に覆われた枝にばしばしぶつけられ、唯人はせめて地上までどのくらいの距離があるのか分かったら、と暗い眼下に目をこらした。樹が生えているのだからとりあえず下は湖ではない、つまり落ちたらただではすまないということだ。
 ざっと背に冷や汗を吹いた唯人の心中を見透かしたかのように、鷲獣がふいに速度を増した。何事か、と必死で顔を上げると、はるか前方にこの鷲獣を誘っているかのように真っ白な獣が飛んでいる。仲間を見つけて安心したのか、唯人をぶらさげた鷲獣はすぐに変な飛び方をやめ、真っすぐ白い鷲獣の後を追った。
「あの白いの、城の鷲獣なのかな……」
 正直、手はもう限界に近かったが、このままなんとしてでもこの鷲獣が城に戻るまで耐えきって…。と唯人が甘い考えを抱いたその瞬間、最後は、ごくあっさりとやってきた。
 木々の間を越え、ふいに開けた眼下が光に覆われる。テルアに戻ってきた……!と思わず身をひねって下を見ようとした、その瞬間なにか布のような物にばさり、と包まれて唯人の手はなすすべもなく鷲獣から引きはがされてしまった。布の裂ける音が響き、体が固い物の上に放り出される。そのままごろごろ転がりわずかの浮遊感の後、ああこれで人生終わったなと思う間もなく張った布らしき物に受け止められて大きくバウンドし、ようやく唯人の体は止まった。
 もう、死んだ方がましなくらいあちこちが痛いが、とりあえず死なずにすんだらしい。できればこのまましばらく動かずにいたかったが、なにやらざわざわと大勢の人の声らしきものが下から響いてきたので唯人はのろのろと身を起こし、店の入り口の上に張ってある日除けだった布から顔を出した。
 眼下は、ちょっとした太さの通りになっていて、たまたまそこで居合わせたひと握りの人々が目を丸くしてこちらを見上げている。どうやら唯人は偶然通りかかったこの観衆の前ではからずも大スタントを披露してしまったようだ。どうやったらこの場からさりげなく去る事ができようか、としばし観衆と見つめ合うなか、唯人から一番近い位置……覆いのすぐ下にいた一人が近づいてきた。背伸びをして、壁の灯火と同じ蜂蜜のような色の瞳で覗きこんでくる。
「やあ、生きてる?……みたいだね」
「うん、なんとか」
 唯人の返事にすぐ背後を振り返り、生きてるよ!と周囲に呼びかける。人々からそりゃ良かった、よく助かったな等口々に安堵の言葉が返ってきた。
「それで、なんで見張り塔の旗にひっかかって落っこちてくるなんて事になったの?」
「それは、鷲獣が……」
 唯人が話そうとした、その時遠くからカン高い笛の音が響いてきた。それと同時にその場に集まっていた人々がざわざわと騒ぎ出す。唯人のそばの人物もふいと周囲を見渡した。
「ああ、鉱山主の自警団の笛の音だ。皆さん、今日の話しはやめにしておきましょう。機会があればまた後日、では」 
 どうやら、この往来に集まっていた面々はこの人物の話を聞こうとここに集まってきたようだった。その言葉を合図に人々が一斉に周囲の路地や暗がりに消えてゆく。特に唯人をどうこうする気はないのかあっさり身を返すと相手は壁の向こうに消える前、抜けるような色白の顔でにっこりと微笑みかけた。
「すぐに、ここの有力者の使い走りどもがやってくるよ。僕はあいつらに目の敵にされてるからもう行くけど、とりあえずかかわってみてあいつらが好きになれないって思ったらまたここに帰っておいで、空から降ってきた精霊獣師様」
 まるで白い大きな蝶のように、長いマントと銀髪をひるがえした姿が消えた直後、入れ替わりにどやどやと数人の人影が広場になだれ込んできた。皆あまり良くない人相に似合わないそろいのつるんとした青っぽい服を着て、犬が地面を嗅ぎまわるように残っている人間がいないか周囲を見渡したり物をひっくり返したりしている。半月ほどテルアにいたがこんな連中は見た事がなかった、ということは、ここはテルアでは、ない……。
「おい、見つけたぞ!あんなところに隠れてやがる!」
 突然中の一人が怒鳴り声をあげた、と思ったらその場にいた全員が唯人のほうへと集まってきた。いきなり下から布に剣が突きたてられ、裂けた穴から体が下に落とされる。近くで見ると今まで王都の小綺麗な人々を見慣れていた分、余計うさん臭くみえる連中にとり囲まれ唯人はもうすでにこいつら好きになれない、と心の中で呟いた。
「お前、ここであいつのホラ話を聞いてたな?」
 サレほどではないが背の高い、不精髭の男がなにが面白いのかにやにや笑いで見下ろしてくる。隣の明らかに酒臭い息の男も唯人をつかまえられたのが楽しくてしょうがない様子だった。
「あいつ、って?」
「しらばっくれてんじゃねえよ!ここにいただろうが、〝白の伝道師様〟とやらが!ったく、鉱山主のエンプ様のおかげでこのキント鉱山都市はやっていけてるってのによう、坑道が潰れるだの破界主なんて伝説の化け物が来るだの世迷いごとばかり垂れ流して鉱夫どもをそそのかしやがって。あいつの話は聞いただけでしょっぴいてもいいってエンプ様から許可が下りてるんだ、さあ、来てもらうぜ?」
 伸ばされた手に乱暴に腕をつかまれそうになるのを軽くかわし立ち上がる、横にいた一人が脅すような唸り声をあげたが唯人は表情を変えずにそれを無視した。
「確かに、白の伝道師らしい人は見た。でも話は聞いてないし僕はそもそもここの鉱夫じゃない、ここの事は分からない」
「なんだと?ヨソ者だってぇのか、こんな時間にどこから来やがったってんだ?」
 この後の反応が手に取るように分かって心底嫌だったが、仕方なく唯人はしかめっ面で空を指差した。一拍の間を置きどっ、と下卑た笑いが浴びせかけられる。しかし一同が笑いこける中、少し離れた位置にいた一人だけ黒づくめな上長い黒髪に覆われ顔もよく分からない男が、唯人に背を向けたままぼそり、と声を響かせた。  
「しかし、確かにこいつが着ているのは精霊獣師の正装だ。もしかしたら王都からなにか探りが入ったのかもしれん、とにかく今は早めにこいつを館に連れて行ったほうがいい」
 王都から、という言葉を聞いた途端、男達の顔から笑いが消えた。誰かがそそくさと木製の手枷を取り出し唯人の腕にはめる。実は取り囲まれたあたりから、鋭月が全員手打ちを主張し今にも飛び出しかねない勢いだったのだが、手を拘束されてなんとか一息つくことができた。体はまだあちこち痛いが歩けないほどではない、手枷から伸びた紐に引かれ、ねちねちと静かに怒り狂っている鋭月をスフィとなだめながら唯人はほの明るい灯明の揺れる街並みを見回した。
 アーリットにいつか聞いた、王都テルアの北西、歩いて二日程の場所に位置する鉱山都市キント。アシウントほど規模の大きい鉱山はユークレンには無いが、キントからはテルアの街並みを造る灰色の雲石と質のいい砥石、そしてごくわずかだが空青石という宝石の原石が採れる。いい雲石は全て王都に送られるのか、ここの建物はごろごろした屑石を四角く削ってうまく積み上げ隙間を埋めた煉瓦造りのような外見をしている。
唯人を連行している連中は、ここの有力者の自警団と聞いたが街の住人からは快く思われてないらしい。すれ違う人々は明らかに目を逸らすかこっそり唯人に気の毒そうな視線を向け、中には彼らが通りかかると慌てて通りに面した窓を閉めてしまう者さえいた。
『なんか感じのいい街じゃねぇな、唯人』
鋭月にやらせるわけにはいかねぇが、このままこいつらに連れていかれてどうするんだ?とスフィが話しかけてきた。こういう見知らぬ場所で一人きりになったとき、相談できる相手がいる。武器精っていいもんだなと唯人はちょっと安堵した。
『さっき、後ろにいた奴が言ってた。王都から探りがはいったのかも、って』
『おう』
『なにか、探りが入っちゃ困る事があるのかな』
『まあ、こういううまい事やりゃあ儲けられる鉱山てとこにはそういう話のひとつやふたつあったっておかしくはねぇがな』
『じゃあ、どうせ帰る方法なんてすぐには思いつかないんだからとりあえずその怪しい部分をそれとなく探ってみようよ。街の人達がそんなにいい感じじゃないのはきっと鉱山主になにかあるんだ、会ってみたらわかるかも。それと……』
『それと?』
『さっきはあまり話せなかったから、あの白の伝道師って人にもう一度会いたい。破界主がここに来るって言ってるのなら、くわしく聞いてみたいんだ。アーリットはそれと僕が対になってるって言ってた、僕はそれがどんなものか知りたい』
 ふいと、頭の中に自分が心細かった時のアーリットの不思議な印象の顔が浮かんできた。明日になったら唯人がいなくなった事に皆が気付くだろう、そしたらアーリットはどう思うだろうか、王が帰ってくる前なのに面倒を、と怒るだろうか、それとも……いなくなって助かった、と胸をなでおろされるのだろうか。偶然でこんなところに来てしまったように思ったが、城であの話を立ち聞きして鷲獣を見かけたそのときから、自分は心のどこかごく一部分でこうなる事を望んでいたのではなかったと言い切れるのか……?
 そんなとりとめのない考えに沈んでいると、やがて道が上りになって山の裾を平地にならしたかなり広い敷地に建てられている大きな屋敷が近づいてきた。明らかに特別な感じで下の街並みとは違い王都のような大きなきちんとした石で築かれている。堂々とした入り口の門も庭の手入れもなかなかのもので、そこを行くこの一団がこの場で一番場違いに浮いて見えた。
「よし、こいつはいつもの場所に放りこんでおくぞ」
「おお、俺はエンプ様にこいつのことを伝えてくる」
 どうやら、つかまえた者の扱いは決められているようだった。手枷を付けられたまま庭の離れにある木造の納屋のような建物に連れて行かれ、中に追い込まれると外から鍵を掛けられた。壁の高い位置にある窓から月の光が射し込んでいるので中は薄明るい。が、いつからあるのか分からないずだ袋の山から出ている蒸れたような臭気がこもっていて、これはひどい、と空気の良い場所を探し唯人は窓に近い壁に積まれた木箱の上へとよじ登った。
『唯人殿、お身体はどこも辛くありませんか?』
『うん、鋭月。たぶんあちこちすごい痣になってるだろうけど大丈夫、どこも折れたりくじいたりはしてないよ』
『とにかく、早く私を出して下さい。このような見知らぬ地では帯刀しておくのが武士の常というものでしょう』
『まあ待て鋭月、まずはこの手枷をどうにかするのが先だろうよ』
 言葉と共に飛び出したスフィの銃剣が、見事に手枷の継ぎ目に突き立った。そのまま銃を脇で挟んで力を入れると、もともとあまりいい素材ではなかったのかあっけなく繋いである部分がはじけて割れる。待ちかねたように鋭月が出てきたので腰の帯に通すと、唯人はスフィも脇にかかえたまま横になってぼんやりと窓の外の夜空に目をやった。
「いつもなら、もう寝てる時間だな」
「眠てぇんなら寝ろ、俺達がちゃんと見張っててやるから」
 出入り口の扉を調べていたスフィが、俺が使えりゃこんな板、一発で粉砕してやれるのにと肩をすくめる。鋭月は、木箱の端に腰かけて唯人殿がここを出たいと思ったなら、いつなんなりとどこからでも出して差し上げますとすました顔で呟いた。
「なんだか、僕が持ち主っていうくらいだから二人の主でしっかりしてなきゃいけないのに、面倒みられてばっかだな。ごめん」
「分かっておられると思いますが、私どもは貴方よりずっと長くこの世に在りますよ」
 困った顔で身を起こそうとした唯人の頭を、鋭月がそっと押し戻す。あちこち探っていたスフィも気が済んだのか、戻って来て木箱の下に座り込んだ。
「そうだな、俺の前の持ち主は、まだ十六のガキだった。あいつに比べりゃあお前は落ちついてるさ、ま、あいつはあいつで嫌いじゃなかったけどな」
「私は、そのような事はいちいち覚える性分ではないのですが。この世界で、唯人殿と…持ち主と意志の疎通が図れるというこの経験はきっと生涯忘れえぬだろうと思います。あまりに不思議で、もと居た世界に戻るのが惜しいほどに……」
「んじゃ、ずっとここにいたいのか?」
「それは、唯人殿が決めることでしょう。私はただ従うのみ、です」
 ふいと顔をそむける鋭月に、面白くねぇやつ、とスフィが苦笑する。それからなぜか、スフィが前の持ち主が要領が悪く前線で夜の見張りの不利な割り振りばかりあてられていた話を始めてしまい(結構面白かった)結局、いつの間に寝たのか気付くと窓の外は明るくなっていた。とりあえずスフィは戻し昼頃まで音沙汰が無かったら勝手に出よう、と相談がまとまっていたところに外からの複数の足音が近づいてきた。
 扉の鍵が開けられる音が響き複数の人影が入ってくる。どういう内輪話があったのか、昨日唯人をここに連れてきた連中の数人が奥の高みにいる唯人を見つけ、床に放ってある壊れた手枷と腰の鋭月の間で数回視線を往復させた。
「お、おい!出て来い、エンプ様がお前に会うそうだ、グズグズするな!」
 言葉の威勢はいいものの、微妙に腰が引けている。ここも一応ユークレン国なのだから精霊獣師を見たことないわけでもないだろう、と唯人はわざと鋭月に手を添えて、ゆっくりと外に出た。山裾の地は陽が昇ると風が起こるのか、一枚布を巻いた上衣が踊る。一晩で染みついたであろう納屋の臭いも早く飛んでしまえばいいと顔を上げた唯人の前で、待っていた小柄だが貫禄のある体つきの男が軽く咳払いした。
「失礼、貴殿が昨晩うちの連中が捕えてきたという不審な輩、ですかな?」
 体格に合った丸顔の、小さな目が抜け目なく唯人を眺めまわしている。この若さならたいした相手ではないな、と思っているのがうっすらと感じられた。
「確かに、ここに来た経緯については多少不審と言われても仕方なかったとは思います。しかし事情を聞きもせず拘束されたのはいささかどうかと感じましたが」
「おお精霊獣師殿、私も今朝ここに戻ってきたばかりなのでして、なにやら誤解と不手際があったようですな。どうです?私、キント鉱山主エンプ・ジャロウの館で朝食など共にしつつ間違った認識について説明などさせて頂くというのは……」
かなり手慣れた感の言い回しと愛想笑いにどうやら機嫌を取っておいて、そのままうやむやにして帰ってもらおうという相手の作戦が見て取れた。まあ、あまり追及してこちらが本物の査察の者でない事がばれても困る。しかし、確実にごまかしたいこと自体はあるようだ。昨日とはうって変わった周囲の表情からもそれは読みとれた。
「いえ、まだ仕事がありますので、分かって頂けたのなら私は街に戻らせていただきます。ここでのお互いの不審はなかったことにいたしましょうか。お互いのために」
「おお、おお、そう言ってもらえると助かります!ところで、もしよろしければ一体何用でこのキントにおいでになられたので?」
「それは、あまり口外すべきことではないのですが、領主のあなたなら良いでしょうか。最近、国を騒がせている〝破界主〟についての事なのですが」
 最近もなにも、耳にしたのは昨日が初めてという新鮮ネタだが思わせぶりな唯人の口調にエンプは小さな目を見開くと面白いほど飛びついてきた。
「ああ、やはりそうでしたか!いや、申し訳ない…私の力不足がついに王都の手まで煩わせようとは!実は、破界主の事などもろもろの虚言を流している不届き者がこのキントの下町にもぐり込みましてな。人心をまどわし鉱夫を街から離れさせようとしておるのでほとほと困っておる次第です。見目が良くて口はうまいがとんでもない小悪党だ、重ね重ね申し訳ない、破界主などあ奴のただのたわ言です。いずれ捕えて厳しく罰しますのでどうか王都にはそのようにご報告下さい。こら、お前たち!」
 突然怒鳴りつけられ、回りにいた自警団の男達がびくりと身を固くした。
「まったくお前達はけしからん!悪党を調べに来たお方を悪党の仲間と勘違いするとは!さあ、お前達も謝っておけ」
 キーキーと怒る雇い主の姿にしょうがねえなといった表情を隠そうともせず一同が謝意を表す仕草の胸に片手を添える。その時、ふと昨晩きつい酒の臭いをさせていた男が明らかに目の覚めきっていないぼんやりとした顔をエンプに向けた。
「んーと、じゃあエンプ様、こいつは坑道に連れて行かなくていいんだなぁ?」
 ざっ、と瞬時にその場の空気が凍りついた。
「おおおおまえ、いったい何のことだ?それは。ま、まだ酔っているんだな?おい、誰か今すぐこいつを連れていけ!早く!」
 それこそあっという間に、両脇から抱えられた男の姿は手入れされた生垣の向こうへと消え去った。怪しまれずここを出るのは今しかない、と思った唯人があえて聞こえなかったふりをしたのでエンプは張りついた笑顔で門を出ていく唯人を見送った。一言だけ、護衛代わりに自警団の一人をお付けしましょうかと提案されたが唯人は鋭月があるからと丁重に断った。たとえ見えていようと隠そうと、監視をつけられるなどまっぴらだった。
「あー、やっと出られた。一時はどうなるかと思ったよ」
 下り道を歩きながら、あの薄暗い納屋の臭いはもう取れたかと袖に鼻を寄せてみる。隣を行く鋭月は唯人が自分に対する無礼に対して寛容が過ぎる、とまた不機嫌がぶり返したのか無口で、かわりにスフィが返事してくれた。
『ま、これで自由になったとは思わねぇことだな。あちらさんがなんか仕掛けてこねぇうちに、さっさと白のなんとかを探すとしようぜ』
 歩きながら入って行った街並みは、昨晩と違ってテルア程の規模はないが、それなりに地方都市らしいにぎわいに満ちていた。鉱山の町らしく一軒一軒の大きさはそれほどでもない食事をさせる店がずらりと並び、今から鉱山に行く男達でにぎわっている。とりあえず昨日の広場まで足を運ぼうとした唯人を、ふと背後からの声が呼びとめた。
「ねえ、そこの精霊獣師さま!ちょっと!」
「え?僕?」 
 振り返った唯人に、声のとおりの十代前半くらいの少女がなにやら大きな籠を抱えて駆け寄ってくる。木の蓋を開けると、ふわり、と白い湯気が朝の空気に広がった。
「朝ごはんまだ?ならうちの買ってってよ、キント名物卵と塩菜の入った蒸し饅頭。おいしいから」
 言われてみると、確かにお腹は空いている。ひとつ買おうか、と鋭月の紐に通してあった銀色の穴あき硬貨を一枚外し、差し出された少女の手に乗せる。身元引受人になってくれたアーリットがとりあえず、とくれたはいいがずっと兵舎住まいで使う機会がなかったそれを目にした途端、少女がひぁ、と通りに大声を響かせた。
「え?な、なに?どうかした?」
 行きかう人々の目が、一斉に唯人と少女に集中する。慌てて少女は唯人の手を取ると、身を返して自分が出てきた食事処に飛び込んだ。鉱夫でにぎわっている店内を奥まで突っ切るとかろうじて開いている椅子に唯人を放りこむ。厨房で饅頭を蒸している母親らしい女性が背中でカノ、何しているの?と呼びかけた。
「精霊獣師さま、子供だからってからかおうっての?私、忙しいんだから。朝からふざけないで!」
「は、はあ……」
 よく分からないが、また何かやらかしてしまったらしい。周囲の鉱夫達に笑われながらぽかんとなった唯人の前に勢いつけて先程の蒸し饅頭と熱いお茶を並べると、少女は他の客に見えないようにそっと硬貨を唯人の手に押し込んだ。
「本当に分かってない顔だね、それ、多分饅頭ひとつ買うお金じゃないよ?食べ物は、こういう石貨で買うの」
 少女が、腰に巻いているエプロン状の布のポケットからいろんな色のタイルのような物を取り出して見せる。今食事を終えたばかりの男も、同じ石貨を少女に渡して店を出て行った。
「それしか持ってないんならもういいよ、お釣りないから。それおごってあげるから、冷めないうちに食べて」
 そのかわり、ちょっと話があるから待っていて、と言い残し少女が仕事に戻る。どうやら、朝の混雑のピークはもう峠を越えているようだった。鉱夫達が次々に店から出て行きやがて小さな店内にひとけがなくなって、入り口の方で立っていた鋭月がそばにやってきた頃洗い物を嵐のごとく片付けた少女が再度唯人のもとへとやってきた。
「おいしかった?うちの饅頭」
「うん、とっても」
「良かったぁ、王都から来た精霊獣師さまの口にあうか心配だったんだ。こんな田舎のしょぼい名物なんて」
 いかにも鉱山っ子らしい活発さを溢れさせ、あたしカノ、よろしくと歯を見せて笑う。僕のことも唯人でいいよ、と笑って返したら物凄い剣幕で全否定された。精霊獣師さまを呼び捨てになんてできるわけないと。仕方なく、ここは唯人さまでお互いが譲歩した。
「それで、話って何なんだい?カノ」
「うん、あのね……唯人さま、昨日の晩、自警団の連中に連れて行かれてたでしょう?それで今朝帰ってきた」
「ああ、伝道師の話を聞いたからって言ってたけど、王都から来たって知ったらさっさと追い返された」
「実はうちの父さんも、先月あいつらに連れて行かれちゃったんだ。白の伝道師さまの話を聞いて、ユークレン湖の近くの親戚んちに引っ越そうって話してたら突然やってきてさ。唯人さま、父さんとか、連れていかれたここの人達を見なかった?もう二十人くらいになるんで母さんもみんなも何度もエンプさまに事情を聞きに行ったんだけど、いつも留守だって会ってくれないんだ。王都に訴えに行った人も全然音沙汰無くなっちゃってるしで、なんだか、不安になっちゃって……」
 おそらく母親の手前もあるのだろう、元気を装ってはいるが口にすると気が沈んでくるのか風船がすぅっとしぼむように肩を落とす。街を暗く覆っていた影はこれだったようだ。カノの頭にそっと伸ばした手を乗せると、唯人は安心させるように笑顔を向けてやった。
「きっと、大丈夫だよ。僕は誰にも会わなかったけど、それらしい話は聞いたから。今からその領主の怪しい部分を探るつもりで一旦戻ってきたんだ。それで、知ってたら教えて欲しいんだけど、カノは白の伝道師についてなにか知らない?どこに行ったら会えるとか」
「唯人さまも、あの人のこと調べに来たの?もしかしてつかまえに?」
「いいや、そんなんじゃないよ、今日会った感じとカノの話合わせたら僕はエンプの方が怪しいって思う。でも一応、彼にも会って話を聞いてみたいんだ。昨日連れて行かれる前に、領主が好きになれなかったらまたおいでって言われたから」
「そっかあ、うーん、あのね、実を言うと私も知ってるような知らないような……」
「え?」
「街の人達は知ってるんだけど、あの人、この街の下にある地下坑道にいるの。入り口はそこらじゅうにあるんだけど中のどこにいるかはちょっとね。だからエンプさまにつかまらないでいられるんだろうけど」
「彼って、どんな話してるんだい?」
「父さんが聞いたのは、鉱山主がここの山のヌシの居場所に手をつけたからヌシが怒ってるって。ヌシは破界主を呼ぶから鉱山は終わり、だから命が惜しかったら早くここから離れたほうがいい、って言ってるみたいなんだけど」
「エンプも言ってたよ、伝道師が鉱夫をたぶらかして街から追い出してるから困ってるって」 
「昔から鉱山で仕事してるおじさん達はみんな分かってるよ、エンプさまが今掘らせてる坑道の方向はまずいって。先代の鉱山主さまの頃は毎日雲石を切り出して、そこそこ暮らしていける賃金もらえてみんな満足してたんだけど。エンプさまに代が変わったら、いつの間にかほとんど出ない空青石のほうに入れ込むようになっちゃってさ。賃金下がるし山のヌシさまは怖いしで身軽な人は結構早くからここに見切りをつけて山向こうの別の雲石の採石場に行っちゃった。うちも父さんさえ帰ってきてくればなぁ……」
「山のヌシって、どんなの?」
「うーん、それは誰も見たことがないんだなぁ。でも一年に一度の山主さまのお祭りのときは、みんなでわざわざユークレン湖のほうまでいって綿毛葦刈って長―い渓谷ミミズのお化けみたいなの造るよ。いっぱいお供えして最後燃やしちゃうんだけど、その燃えがらで焼いた山甘芋がおいしいの」
「もしかして、精霊獣なのかな?」
 そのとき、ふと店の奥から朝の仕事を一段落させたカノの母親がやってきた。なにを話しているの、精霊獣師様の邪魔をしては駄目よと唯人に申し訳なさそうな顔を向ける。分かった、と返事はよろしくカノはそっと顔を唯人の耳に近づけた。
「唯人さま、それじゃあ今から地下坑道に連れてってあげる。母さんはこれから晩の仕込みの買い出しに行くから厨房の下のうちの地下倉庫から行こう。でも、中は迷路みたいになってて知らない人は迷っちゃうから伝道師さんが見つかるまで私がつきあってあげる。まかせて!」
「それは助かるよ、ありがとう」 
「いーのいーの、父さんや他の街の人のためなんだから」
 立ち上がり、母さんもう行ったかなと外へ目を向ける。年季の入った木で造られた暗い茶系の店の中、ふと白い何かが唯人の目に留まった。
「……?」
 動きの止まった唯人にカノもどうしたの?と唯人の視線を追う。色的に明らかに目立つはずなのに、今の今までまったく気配を感じさせなかった。
「え?あ、やだ、お客さん?ごっごめんなさいっ気付かなくて!」
 唯人さま、ちょっとだけ待っててねと慌ててきびすを返し、カノが座っている人物に走りよる。昨日会ったときそのままの、ゆるく束ねた腰までありそうな長い銀髪に縁取られた抜けるように白い顔。そして服と靴、ふわりとした長めのマントまで白一色なその姿……。
「あれ、えっと〝白の伝道師さま〟?」
「また会ったね、空から来た精霊獣師様」
 カノのびっくり声に静かに、と声を抑える仕草をする。唯人を見上げた瞳は店の壁と同じ暗い茶で、周囲をそのまま鏡のように写している不思議な眼だった。
「いつの間に……僕がここにいるのが分かってた?」
「そういうの、得意なんだ」
 声も姿も仕草さえも性別のない、どちらかというとこのキントではあまり見かけないタイプの綺麗な顔が優雅に笑う。なぜか鋭月が妙に緊張した面持ちで唯人に身を寄せた。
「えっえーと、もう饅頭終わっちゃったんだけどお茶でいいですか?白花茶」
 厨房に飛んで行ったカノのかなり焦った声が響く、食事処で申し訳ないんだけど注文はいいよ、少し話をするから二人だけにしてもらえるかなと返すと伝道師は唯人に座るよう促した。
「どうやら、鉱山主はお気に召さなかったようだね」
「ああ、会って数分でもう無理だった」
「もしかして、迎えにいったほうが良かったのかな?」
「あなたがそんな事できない立場なのは、この二日で十分分かったよ。それについて、よければここでみんなに話してる内容について聞かせて欲しいんだけど……」
 言葉の途中で、唯人の後ろを風のごとき勢いでカノが突っ切り店の外にすっとんでいった。道に出て、中の二人が見えないかそれとなく確かめている。その様子に大丈夫だよ、僕は誰かに見られたくないときは見えなくなれる特技を持っているから、と彼は不思議な言葉を呟いた。
「じゃあ精霊獣師様、改めて名乗らせて頂きます。僕は白の伝道師、ミラ」
「僕は、阿桜 唯人」
「変わった名前だね、それにこのあたりではあまり見かけない顔立ちだ。生まれはどこ?」
「今はテルアに住んでいる、その前は……ごめん、事情があって言えないんだ」
「そんな事言ったって、腰にそんな見たことないの下げてたら只者じゃありませんって言ってるようなものだよ?」
「分かるのかい?」
「うん、ほとんどの人は黒くて長いなにか、ぐらいにしか思わないだろうけど。君の隣にいる彼はもう明らかにここの世界の物じゃないな。僕は回円主界中をまわって大地の言葉を聞き、人に伝える伝道師だから分かる、君は僕達の言葉でいう〝流れ星〟なのかな」
「流れ星?」
 武器精の鋭月が見えている、という事実は鋭月が妙に緊張している様子と彼の雰囲気から薄々分かっていたので唯人は特に気にしなかった。
「少し前に、ここの山のヌシの声が僕に届いてきた、領主との盟約が破られたので人との関係を終わらせるって。それは人の力ではどうしようもない、陽が昇って沈むのと同じ不忌避の事柄だ。だから僕はせめてここに住まう人々が巻き添えにあわないようそれを告げにやってきた。それが僕、伝道師の役目だから。でもごく稀に、空の星々と同じように変わらないはずの運命を流れ星のように乱す者が現れることがある、それが文字通り空から落ちてきた流れ星、つまり君だ、阿桜 唯人」
「いや、あれは正直、そんな格好いいんじゃなかったんだけど」
「まあ、怪我しなかっただけでもたいしたものだよ。それで唯人、君はこれからこのキントで何をするつもり?君の動きによってここの結末が揺れる、伝道師としてはすごく興味をそそられるんだが」
「えっと、君の話を聞いてたらこれが偶然かそうでないのか分からなくなったんだけど……僕は、ある場所で破界主ってものの存在を知って、偶然ここで君がその話を広めてるって聞いて破界主って何なのか知ってたら教えて欲しいって思ったんだ。でも今はそれよりここで知り合ったカノとか、その他のエンプに連れて行かれた人をなんとか助けたいって思ってる、破界主ってのが来る前に」
「おや、気が合ったね」
 周囲の色を映していたミラの瞳が、くるりと唯人の衣服の薄い青灰に輝いた。
「僕もそろそろ話がみんなに行きわたったから、連れて行かれた人達を探しに行こうって思ってたんだ。君みたいに、腕のたちそうな人が付き合ってくれるなら大歓迎だよ、よろしく」
「それは買いかぶりだって、あまり期待はしないでくれ」
「それで、先に言っておくけど、伝道師の言う破界主ってのはあくまで〝圧倒的な破壊をもたらす災害〟の比喩だよ。ここの場合だとヌシが災害を起こすって言っちゃうとヌシを倒せばいいって誤解されてしまうだろう?だからヌシが破界主を呼んだ、って言ったほうがみんな素直に逃げ出してくれるのさ」
「なるほど、じゃあミラも破界主を実際に見たことあるとかじゃないんだ」
「普通の人じゃあり得ないよ、話に聞く一級精霊獣師ならどうか分からないけど」
「あ、アーリット?彼も見たことないって言ってたような……」
「え?会ったことあるの?そっちのほうがずっとすごいって、さすが流れ星。そうだ、ひとつお願いしたいんだけど」
「なに?」
「僕の仕事、伝道師ってのは基本的に非暴力であることを規律で定められてるんだ。けどこっちから鉱山に入るのならそれじゃいけない状況も出てくるだろう?こういう時は目的を同じにする同行者に、口頭で規律を一旦凍結する承認をもらうんだ。精霊獣師なら承認者として申し分ないよ、唯人、僕に許可をくれる?」
「いいけど、どうすればいい?」
 その時、突然机の下で誰かが唯人の足を蹴った。反射的に隣を振り返ると、珍しく黒目がちの眼を大きく見開いて鋭月が自分を見つめている。何か言いたそうだが何も言わないその様子に誰か来たのかな、と唯人は背を伸ばして外に目を向けた。特に怪しい感じの人物は見当たらない。
「鋭月、すまないけど後で聞くよ。ごめん、ミラ、話を続けて」
「うん、それじゃ僕の言うとおりの言葉を復唱して。我、精霊獣師たる阿桜 唯人、これなる左の鏡が回円主界の秩序の護り手として己が決め、動かんが為に戒律を一時免れしことをここに許す」 
「我……許す、これでいい?」
「完璧、ありがとう」
「あの、〝左の鏡〟って?」
「ああ、僕の名前。ミラヴァルトって言うんだけど、旧言語でそういう意味なんだ。まあ唯人ほどじゃないけどあまり無い名前かな」
 白い顔が、微笑んで見せる。ふと、なんだか視界のコントラストが強くて目が疲れたのか、唯人は軽く目をしばたたかせた。特に左に何か入ったのかとも思ったが、すぐに治ったので気にしない事にする。
「それじゃあしばらくお世話になるってことでこれあげる、たいした物じゃないけど失くさないでね」
 白い首筋から外された、虹色に輝く石の付いた紐が唯人の手に乗せられた。いいよ、と断ろうとしたが今後絶対必要になるからと推され、しかたなく首飾りを受け取ると自分の首に掛け石を服の下に入れる。それじゃ、と立ち上がった唯人とミラに黙って気配を消していたカノがおずおずと厨房を出て歩み寄ってきた。
「えと……話、終わったの?」
「うん、邪魔してごめん。もう行くから」
「行くって、エンプさまのところ?」
「僕、今朝自警団の一人がうっかり漏らした言葉を聞いたんだ。連れて行かれた人は、みんな山の坑道に送られてるらしい。だからこっそりそこに行って中の様子を見てくるよ。カノの父さんや他の人がいたらなんとか逃がしてあげるから、カノはできるだけ早く街を出られるよう準備をしてて」
「うん、それで唯人さま、道案内は?ここの地下道から山まで大丈夫だよ」
「あ、そうだった。じゃあ山の坑道の手前まで頼めるかな?そこからは危ないから彼と二人で行くから」
「わかった」
 あ、そういえばさっき鋭月が何か言いたそうだったと傍らを振り返ってみる。そこに着物の姿はなかった。いつの間に移動したのか随分離れた位置でわざとらしく視線を落としている、その表情は分かり過ぎるほど分かりやすい、〝あーあ〟であった。
『えーと、スフィ』 
『……』
『僕、なにかやらかした?』
『もう手遅れだ、気にすんな』
『ええっ?知ってるのかい?なら教えてくれよ!』
『言えねぇ事情ができた、んでも鋭月は怒ってねぇぞ、呆れてるだけだ。おまえもう少し、あの……もういいや』
『事情って、ミラのこと?』
『……』
『スプリングフィールドっ!』
『……』
 電源オフにされてしまった、あの時なにかまずかったのならスフィが言ってくれても良かったじゃないか、と責任をおっかぶせてやるぞ発言をしてみても返事がない。涙目になりつつカノに手招きされ厨房の奥に入り床の木の蓋を上げる。下には人一人ぶんが通れるくらいの穴が開いていてカノは身軽に穴の中に立ててある魚の背骨みたいなはしごを伝って下に降りて行った。 
「ちょっと待ってて、私が先に下りてこれ支えとくから。二人ともうちの母さんより細っこいから大丈夫だよ」
 その言葉通り、服をこする事もなく思ったより平らな、上と同じような踏み心地の地下に立つ。ここが廃坑になってその上を街が覆ってからずっと街の人は廃坑の一部を倉庫代わりに使ってきたんだ、と暗い中でカノの声がした。続いて下りてきたミラの白い姿が暗い中でほんのり浮かんで見える。慣れているのかミラの手が唯人を支えるように肩にそっと乗せられた。
「はい、手つないで唯人さま、少し行くとすぐ明るい場所に出るから」
 服を引っ張ってきたカノの手を、おもむろに握り返す。それに引かれ進んでいくと、カノが言ったとおり鼻をつままれても分からない暗闇はすぐに終わった。土の壁沿いに二回ほど道を曲がると行く手からほの青い光が射している。どうやらそこが坑道の主路らしくやがて唯人は青い不思議な光に満たされた広い通路へと出た。振り返ったカノがお芝居のように上衣の裾を引いて膝を折って見せる。
「ようこそ、キントの旧坑道へ。唯人さま」
「本当に、ここは街の真下なんだな」
「うん、ほんとは子供は入っちゃいけないってのが大前提になってるんだけど、誰も守ってなんかないよ。盛期(夏)の暑い時や眠期(冬)に大雪が降ってもここは変わらないから。私も小さい頃から親分に連れられてここ走り回ってさ、よくよその貯蔵庫の芋とか失敬したり……え、ええと……」
 い、今のなし、と真っ赤な顔で口ごもる。なんとか話を変えようと、歩き始めカノは結構高い坑道の天井を指差した。
「ここの中が明るいのはね、天井に夜光蝶がいっぱい住みついてるからなんだ。夜光蝶は昼間はここで休んでて、夜になると鉱山のほうの森に樹花の蜜を吸いに出て行くから夜になるとここも真っ暗になっちゃう。あと渓谷ミミズとか目なしネズミとか結構いろんなのがいるけど、子供でも安心して遊べるくらいで危ないのはいないから」
 上を見上げてみると、天井にとまってじっと動かないそれはまさしくアーリットが持っていた青光りの蝶だった。あー、あれ欲しかったんだ、でもアーリットが持ってたのは精霊獣でここのはちゃんと生きている。その辺の区別ってどうなっているんだろう、早く教えてもらっておけば良かったと視線を戻した唯人の手に、ふとカノが何かを乗せた。青みがかった光のせいで色は白っぽいくらいしか分からないが、雪だるまみたいな形でずっしり重い、王都テルアでも普通に食べられている、乳果という甘くて腹にたまる果物だ。
「お昼に何かないかって探してみたけどこれしかなかったの、伝道師さまも、はい」
「あ、ありがとう。じゃあまた後で頂くね」
 受け取ったそれを、ミラはさりげなくマントの下に入れた。そう言えば、以前サレから聞いたことがある。両性の人間は運動をしなかったり栄養を取って脂肪をつけると身体が徐々に女性化するから、子供が欲しくない間はサレのように鍛えるか、もしくはアーリットのように食事を抑えて身体を男性よりに維持しておくのだと。たとえ唯人自身が男性でも、この世界で精霊獣師をやっている人間は皆両性とみなされる。 
 まあ今後どこで食べ物が手に入るか分からないからな、と唯人も雪だるまをふたつに割って、大きい半分を帯の間に押し込んだ。小さい方を口にした瞬間テルア産の倍くらいありそうな甘味に後で喉が渇くかもしれない、と嫌な予感が脳裏を過ぎる。そんな唯人の反応に気づくわけもなく、極甘の実をあっという間に平らげるとカノは皮を無造作にぽいっと投げ捨てた。地に落ちてすぐに、ちょうど人の腕くらいの白くで平たいものが幾つもうようよとあたりの砂利の間から這い出してくる。それを見たカノが、渓谷ミミズってなんにも悪さはしないけどなんか好きにはなれないね、と呟いた。
「伝道師さまは、ここのどの辺に隠れてたの?まさかこんなとこで寝泊まりしてたんじゃないよね?」
「もちろんだよ、古い鉱夫の休憩所もあったし、みんなの家の地下倉庫だって結構広いのやきれいなとこもあったからね。色々お邪魔させてもらったな」
「伝道師さまって、見かけによらずそういうの慣れてるんだ。もっと吹けば折れちゃうような人かと思ったのに」
「それはひどいな、僕はこの身ひとつで回円主界じゅうをまわるのが仕事だよ?」
「んー、見えない。あえて言うならエンプさまみたいなお金持ちの家で歌とか歌ってる人みたいかな」
「あ、それは言えてる。僕も賛成」
「唯人まで、そういうことを言うかい?まあ歌は苦手じゃないけど」
 それも間違ってはいないんだけどね、普段の伝道師は伝説や他国の事を語ったり歌を歌ったりして稼いでるから、と楽器を爪弾くまねをして見せる。そんなことを話しながらカノの導くままに進んでゆくと、やがて天井の蝶がだんだん少なくなってきて代わりに坑道の隅に盛られた砂の山がぼんやりと輝いている景色に周囲が変わってきた。幾つもの分かれ道を通ってきたが、ここだけ木の格子でふさがれている側道の入り口の前でカノが足を止めた。
「ここから向こうが、山の坑道。この辺からもう堀った跡の土砂にくずの空青石が混じって光ってるでしょ?このまま主道をまっすぐ行くとキントさまのお屋敷のすぐ下の坑道の出入り口に出るけど、鉱夫の人も自警団の連中もいるからここから入って。大丈夫?私もう少し付いていこうか?」
「いや、ここでもういいよ、後は危険だから二人で行く。ありがとう、カノは一人で大丈夫?」
「うん、私はいざとなったらどこからでも出られるから」
「くれぐれも後なんかついてくるんじゃないよ、危ないから」
「はぁい、お父さんの事、よろしくお願いします。でも無理はしないで、絶対二人とも帰ってきてね」
「まかせといて」
 向けられたきらきらした眼の肩を抱いてやり、さ、行ってと元来た方へと押してやる。小走りで駆けだした足をなぜかすぐに止めるとカノはちょっと困ったような顔で唯人とミラを振り返った。
「えっと……今になって言うのも何だけど、こうやって見るとやっぱり目立つよ伝道師さま。その格好どうしようもないの?」
「それは心配いらないって、店の中にいた時も見ただろう?もう一度君が前を向いて、こっちを振り返ったらもう僕らは消えるから。誰からも見えないよ」
「本当?」
「本当さ」
 半信半疑の顔でカノが顔を伏せ、再度上げてこちらを見る。
「すごい、本当に消えちゃった!」
 その言葉に唯人のほうがえ、と驚いてミラを振り返った。どうなるかと思って見ていたがミラは指一本動かした様子はない。まるで精霊かなにかのありえないものを見てしまった顔になってしばらくこちらを見つめた後、黙ってきびすを返しカノは坑道の奥へと姿を消した。さて、この木の格子ぼろぼろだね、下に子供がくぐれるくらいの隙間もあるよと座り込んだミラを唯人は流石に要説明の顔で覗きこんだ。
「今のって、なに?」
「え?」
「君だけじゃなくて僕も消えた?一体何やったんだ」
「んー、君ならもう分かると思ったんだけどな」
「分からない、すまないけど」
「僕の名前は?」
「ミラヴァルト?」
「その意味」
「確か、左の……あ」
「そう、僕、鏡の精霊獣持ってるんだ。これさえあれば武器はなくても大抵のことから身を守れるからね、周囲の景色を写して隠れるとかさ」
「そんなの、最初に言ってくれよ」
「奥の手は、あまり言いふらす事じゃないの。分かった?ならさっさと行こう、カノの為にも父親を早く見つけてあげようよ」
 朽ちて弱っている木の格子は、最近の鈍器扱い続きですっかりやさぐれたスフィでこじ開けると、すぐに大人が一人通れるくらいの隙間ができた。中に入り、これからはどこに人がいるか分からないから、と話すのをやめて更に進む。宝石にできるほどではない空青石を含んだ石壁の青白い光がふんわりと周囲を照らしている山の坑道はとても幻想的な空間で、見ていて飽きない光景だったが鉱夫の人達がいる主道に近づくにつれ人の気配が強くなってきて、唯人はここでちょっと休もうかと傍らのミラに合図した。
「大丈夫?疲れてない?」
「うん、まだまだこれくらい平気だよ」
「結構広いんだなここ、かなり先まで掘ってるみたいだ」
「方針変えてからまだ間がないはずなのにね、随分みんなに無理させてるんだな…あ、唯人、水飲むかい?」
 光る砂山に腰かけてみた唯人の向かいで大きめの岩に腰かけたミラが、見た目そう厚手に見えないマントの下から水を持ち運ぶ用の皮の袋を取り出し唯人に渡す。君はあまり水に困った経験がないみたいだね、旅をしていたら分かる事は、食べる物よりきれいな水のほうがいつ手に入るか分からないんだよと言われ勉強になりました、と唯人は適度に冷たい水を有難く頂いた。その様子をにこにこしながら見ているだけのミラ自身は水を口にせず、水袋は再度マントの下に戻された。
「この先に、街から連れて行かれた人達がいる坑道があるのかな」
「多分ね、今ここは普通に働いてる人達でうるさいけど、夕方になってみんなが帰って静かになったらこの地下のどこかの人の気配が僕に聞こえるかもしれない。だからとりあえずこの主道の果てまでは行って確かめておこう、そこから公にできない通路が更に伸びている可能性が高いから」
「分かった」
 それじゃぎりぎりまでもうひと歩き、と立ち上がろうとした唯人の腰が、なぜか急にずしり、と重くなった。そんなに疲れたのかな?と思う眼に映ったミラがなにやら変な顔をしている。なんとなく腰にあてた手がぬるり、と滑った。
「え?な、何?……おわっ!」
 見ると、さっき見たばかりの白くて長い生き物が数匹唯人の腰にぶら下がっていた。どうやら座っているうちに帯にはさんでいた乳果の匂いに惹かれて食いついてきたらしい。瞬時に全身を覆ったであろう鳥肌と心の命じるままに帯の中の物を引きだすと、唯人はそれを思いっきり遠くへ投げ飛ばした。一拍おいてぼてぼてと微かな地響きをたて腰が軽くなる。
 かつての自分だったら女の子みたいな悲鳴を上げてたかもな、と妙に変生物に耐久のできてしまった自分に呆れつつ、唯人はなぜか一匹だけしぶとく帯に喰らいつき続けている奴を嫌々つかんで引っ張った。心底見たくはないのだが、近くで見ると眼も何もない端っこが鍋つかみのように割れて帯に噛みついている。
 この渓谷ミミズは他のと比べてぬるぬる感がなくやや細めなのだが、その分長さがハンパでなく終わりが砂山の向こうまで伸びて見えていない。鋭月でつついてやろうかとも思ったが、せっかく砥いだ後の最初の相手がこれではあんまりかと思ったので(いや、人ならいいという訳では断じてないが)唯人はとにかく相手がちぎれないことを祈りつつ、更に腕に力を入れようとした。
「ちょっと待って唯人、ほら、これ」
 最初は目を丸くしていたが、すぐに抑えきれない笑いをかみ殺した顔になったミラがさっき貰って中にしまっていた乳果を差し出してきた。受け取ってそばに突きつけてみたが、何がそんなに気に入ったのか帯を放そうとしない。じゃあ仕方ない、不便になるけどこの帯くれてやるしかないかと帯をほどこうとした、その唯人の右腕になぜか渓谷ミミズはすかさずくるくると紐状の体をからめてきた。
「うわ、気持ち悪い、何なんだこいつ!」
 もういい、鋭月の錆にしてくれると伸ばしかけた手が逆にぐい、と引き返される。思ったよりずっと強いその勢いに驚いたその時には唯人の体はまるで紐に引っぱられる犬のように砂山の向こうへと引き寄せられていた。
「え、唯人、どこに行くの?」
「知らない、こいつに聞いてくれ!」
 分かってやっているのか、と思いたくなるくらい足元が不確かなのと左手だけでは鋭月が抜けない。慌てて追ってきたミラが唯人の服の端を捕まえたのとほぼ同時に、唯人は砂山の向こうの石壁の奥にまるで隠れるように細い割れ目があるのに気が付いた。人一人がなんとか通れるくらいのそれに引き込もうというのか腕のミミズは勢いを緩めそうな気配はない。微かだが風が吹き出してくるのを肌に感じこれはもしかして、と唯人はミラを振り返った。
「ここに入ってみる、いいかい?」
「ああ、僕も行くよ。出口、気を付けて」
「うーん、こいつ次第なんだけど……」
 なんとなく、〝こっちに来い〟と言っている。そんな意思のようなものを唯人はこのミミズから感じ始めていた。ただむやみに引きずるのではなく、転ばない程度で、しかし振りほどかれたりしない絶妙の力加減で引いていく。
 ここも空青石の鉱脈なのか狭い分かなり明るい通路を小走りで進んでいくと、道の先が少し開けた空間になっていて奥にこちらはかなりしっかりした木製の扉があるのが見えた。ちょうど顔のあたりの位置に覗き穴があって、唯人の腕の渓谷ミミズの先がそこを通っている、ちょっと待て、いくらなんでも長すぎるだろとう思った瞬間ブレーキが遅れ、唯人は小走りの勢いのまま扉にぶつかった。
「わあっ!」
「唯人!」
 後ろでミラも引きとめようとしていたようだが、勢いが付いていたせいで無理だったのか低い衝撃音が周囲に響き渡る。もう勘弁ならない、ミラに鋭月を抜いてもらおうと振り返ったその時、腕の渓谷ミミズが瞬時にほどけ扉の穴の向こうにするりと消え去った。
「あ、逃げた!この野郎!」
 自由になった右手を鋭月に掛け、覗き窓に顔を近づけようとした、唯人をふいにミラの声が引きとめた。
「ちょっと待って、唯人。足音がする、誰か来た!」
 何かを背にしていれば僕の隠れ技が効くから、と素早く扉の横の壁に二人寄り添って立つ。確かに向こうからゆっくりと近づいてきた足音が、扉の向こう側で止まると耳障りな解錠の金属音を響かせた。扉が開き、ぬっと突き出された顔が左右に動く。そのまま少しこちらへ入ってきたので唯人はミラを信じ、開いた扉に素早く駆け込んだ。
「おっかしーな、誰もいねぇ。人の声が聞こえたような気がしたんだがな…また目なしネズミの野郎かぁ?」
 ぶつぶつとぼやく顔が、息を殺して壁に張り付く唯人の前をゆっくりと通り過ぎていった。その顔は確かに昨晩と今朝見たエンプの自警団の大柄で不精髭の男だった。姿が道の奥に消えるまで身動きせずに待って、はあっと大きく息をつくと少し離れた地面に伸びている白い紐みたいな姿に目を向ける。分かったよ、と鋭月の柄から手を放すとミミズはするりとまるで奥へ誘うかのように縮んでいった。
「あれって、分かっててやったのかな。扉に鍵がかかってるって」
「まさか、そんな頭のいい生き物じゃないはずなんだけど……偶然じゃない?」
「偶然、かなぁ?あ、さっきの、自警団にいた奴だったな。やっぱりここはあいつが秘密にしたがってる場所みたいだ。慎重に奥へ行ってみよう」
 先程の男が消えた辺りを指で示す。ずるずると遠ざかっていく白い姿がひょい、と頭を上げてこっちをうかがっているのを目にしたミラがくすりと笑った。
「唯人、ここからもミミ子ちゃんが連れてってくれるみたいだよ」
「ミミ子ちゃんって、何?」
「ミミズだからミミ子ちゃん、ミミ男くんでもいいけど」
「なにそれ、おかしいよ」
「じゃあ、唯人ならなんてつける?」
 なんだか妙なテンションのミラに、思わず唯人も彼方の変な生き物をまじまじと見た。
「えーと、……綱手」
 いやそれなめくじだろ、というツッコミは脳内セルフで済ませた。
「つなて?」
「いや、今のなし!こんなのになんで名前付けなきゃいけないんだ。ミミズでいいの、行くぞ、ミラ!」
「はーい」
 くすくす笑いを続けるミラに危うく乗せられるところだった、と溜息をつき奥へと進む。できるだけ足音を立てないように、壁に身を寄せて下りになった道を進んで行くと、ふいに目の前が大きく開けた。
「……!」
 背後のミラも、声が出せないぶん唯人の腕をぎゅっとつかんで心の内を伝えてきた。今までの坑道とは比べ物にならないほど広い空間、エンプの屋敷がすっぽり入りそうな空洞に、何十人かの人間が石を打つ音を響かせている。皆砂まみれで顔色は悪く、今にも倒れそうな表情だ。
 空洞の一番奥はこれまでと同じ空青石混じりの雲石の壁になっているが、そこには信じられないものがあった。そばにいる人の身長から見て大人が両手を広げたくらいは軽くありそうな巨大な空青石の結晶、それが石壁からせり出している。カノの言う街から連れられてきた鉱夫達は、この空青石を秘密裏に掘りだすためにここに連れてこられずっと働かされ続けているようだった。砕いた石を反対側の穴に捨てている鉱夫がふらついて足を止めると、自警団の青服の男がすぐにやってきて怒鳴りつけて棒で打つ。見ていて思わず頭が熱くなったが唯人はぐっと息をつめて辛抱した。
「こんなことを、地下でやってたなんて」
 とりあえず、声が届かない位置まで後退してミラと向かいあう。彼も目の前の事実にかなり動揺を隠せない様子であった。
「すごい大きさの空青石だったね、あれこそこの山の主だ。あんなの掘りだそうとするなんて正気の沙汰じゃない、この鉱山は終わるよ、確実に」
「石が、山の主?」
「唯人、知らないの?精霊獣師なのに」
「ごめん、教えてくれ」
「空青石って、貴重な石ですごく高価なんだけど、宝石としての価値っていうよりは中に精霊獣を入れられる、その特性で精霊獣師にとって特別な価値があるんだ。唯人は精霊獣師八級で身体の中に精霊獣を持てるけど、それ以下の級は精霊獣が見えるだけで身体に持てない、空青石に精霊獣を封じて持っているのが九級、持ってない、見えるだけなのが十級。この差は大きいからお金があったら皆手に入れようと必死になる、そういう石なんだ」
「じゃあ、もしかしたらあの無茶苦茶大きい石にも精霊獣が……?」
 周囲に染まった薄青の瞳で、ミラはこっくりとうなづいた。
「ここで作業を止めさせて、石を埋め直したら主はなんとか許してくれないかな」
「無理だよ、僕はここに来る前にもうこの山主の声を聞いてしまった。人があの石に触れてしまったことが、人が山に対する敬意を忘れてしまったってことなんだ。エンプには、あれが金の塊にでも見えてるんだろ。僕達のやることはあそこにいるみんなを早く逃がしてあげることだ、唯人」
「分かった、で、どうする?」
「今、数えたら自警団が五人いる。多分夜になったら誰かが食事を持ってきて、何人か帰るか交代するだろうから数が減ったらその隙に僕らで何とかしてそいつを取り押さえて鍵を奪おう。そして夜のうちに逃げてしまえばそれでいい、できるかい?唯人」
「ああ、あんまり数が多いと鋭月が手加減できない恐れがあるから、僕も相手は少ないほうがいい」
「唯人は、変なところで気を使うんだね」
「できれば、誰も怪我をして欲しくないだけだよ」
 それからしばらく、唯人はミラと洞窟が見渡せる位置で夜が来るのをじっと待った。昼も夜もない薄明るい洞窟の中で鉱夫達はもくもくと空青石のまわりの石を削り取り、出た屑石をむしろのような布に乗せ反対側の窪地まで運び捨てている。まるで永久に続くかと思われる時が過ぎ……唯人らの背後、扉の方から音がした。足音、そして何かを引きずるような音。ミラの予想通り、木製の引き車を引いた二人連れが洞窟へとやってきた。それが交代の合図でもあるらしくはーやれやれ、などと漏らしつつ先にいた五人が引き上げる。足音が聞こえなくなったのを確認して、よし、行こう、と唯人はミラに目で合図した。
「お前達、動くな!」
 急に飛び出してきて刀を構えた唯人に、二人の男は何が起きたのか分かっていないぽかんとした顔をした。ちょうど食べ物が配られていたところで、集まっていた鉱夫らも一斉に唯人に目を向ける。すかさずミラがよくとおる声を洞内に響かせた。
「皆さん、僕です、白の伝道師です。皆さんを助けにきました!」
 なにを、と青服の一人の注意が逸れた、瞬間、男は鋭月の峰で後ろ首を打ちのめされていた。どう、と倒れた仲間の姿にもう一人があわあわと腰から何かを取り外す。ひょい、と投げられたそれが石捨て場に微かな音を立て投げ込まれたのとそばの鉱夫が手の道具でそいつの頭に一撃くれたのとはほぼ同時だった。
「しまった、こいつ、鍵を捨てやがった!」
「えっ、今の、鍵だったのか?」
 慌てて皆で駆け寄って、石が積まれている窪地を覗きこんでみたが石と石の隙間に落ちてしまったのかそれらしき物は見当たらない。ちくしょう、とさっき青服を倒した男が悔しそうに伸びている二人を睨みつけた。
「あんたは精霊獣師だな、王都から来たのか?」
「ああ、偶然だけど昨日テルアから」
「俺はイシュカ、助かった、恩にきる、と言いたいところだがまずい事になったな。奴らの仲間の精霊獣使いがこいつらと入れ違いに出入り口の扉に精霊獣を付けに来る、そしたらもう朝まで俺達は絶対外に出られない。こうなりゃ力づくで扉を開けるようがんばってみるか、正直体力が残ってるやつなんぞいねぇと思うが」
 周囲を見渡し、やつれて見る影もない仲間の姿に溜息をつく。おまえら、ここが正念場だぞと大声をあげなんとか気力をあげようとしているその横で、ふと唯人はするすると足元に近づいてきた白くて細長い物に目を止めた。
「あれ?ミミズ、また来た」
 何を思ったのか、ちょいと鎌首をあげた白靴下みたいなのっぺらぼうの頭がじっと唯人に向けられる。つい藁にもすがる気持ちで唯人は腰を下ろすとミミズに声をかけてみた。
「なぁ、お前、鍵取って来てくれないか?お前ならできるだろ、お願いだから」
 動かない、しかし顔?はまだこちらを向いている。
「ミミ子」
「……」
「ミミ男?」
「……」
「綱手」
まさかそれはないだろう、と半ば諦めていたというかそれはあっちゃ駄目、と思っていた唯人の期待を裏切りまるで言葉を理解したかのように、渓谷ミミズはその長い体をくねらせ石ころの隙間に入っていった。微かな金属音が響き口になにかをくわえて這い出して来る。ふと気付くと、途中から一部始終を見ていたらしいイシュカがまるで魔法を見たような表情を唯人に向けていた。
「い、今の、なんだ?鍵が、勝手に……」
「え?い、いや。これはミミズが……って、なんでミミズが言うこと聞くのか僕にも分からないんだけど」
「はぁ?ミミズ?そんなものどこにいるんだ、俺には鍵が飛んできてお前の手に収まったように見えたんだが。それって、精霊獣師の技ってやつなのか?」
「え、ええと……?」
「唯人、そんな話後にして、早くここから出よう!」
 背後からかけられたミラの叫びにそうだ、と腰を上げる。イシュカの一声で洞内全ての鉱夫が集まり、体力が尽きかけている者、高齢の者はそれぞれまだ余力のある者で支えてやって一同は通路に入ると扉に向かって歩き出した。
「あの、この中に、カノって子の父親はいますか?」
「ああ、俺だが。カノがどうした?」
 後ろで仲間に肩を貸しているイシュカが、驚いた顔を唯人に向ける。手早く唯人は今朝のこと、そしてカノがここまで道案内してくれた事を説明した。
「イシュカさんも、できれば他のみんなもここを出たらできるだけ早くこの地を離れて下さい。僕も可能な限り急いで王都に戻ってここの状態を信頼できる人から王に訴えてもらいますから」
「それまで、ここが持つといいんだけど」
 隣から、ミラの暗い声がした。
「けどまあ、ここまではうまくいったんじゃない?」
流れ星、とすっかり忘れていた名で呼ばれうん、とたどりついた扉の前に立つ。鍵を開け、扉をくぐった……その向こうの光景が目に映った途端、唯人は一瞬の間の後、後ろ手で木の扉を叩き返した。
「何?どうしたの?唯人!」
 ミラが叫ぶ声が響く、その戸を背で押さえゆっくりと唯人は鋭月を抜いた。
「ミラ、こっちに来るな。待ち伏せされた」
「えっ?」
「やっぱり、そう簡単にはいかないみたいだ。ミラの鏡の精霊獣って、何人くらい隠せるんだ?」
「それは……ちょっと、この人数は無理だよ」
「じゃあ、できるだけ頑張ってみる。ミラはみんなを洞窟まで戻してくれ!」
 サレとの立ち会いのとき感じた鋭月との一体感が、まるで電撃のように肘まで駆け上ってきた。扉を抜けた向こう側、そう広くはない空間に数十人の男達が立っている。皆思い思いの武器を手に持って、目の前のひょろりとした若造一人など軽くしとめてやるという表情だ。ゆらりと背後から現れた武器精の鋭月の口元が、とてもこの状況にそぐわない笑みを形作った。
「ああ、久方ぶりの胸躍る眺めですね。唯人殿、今宵の宴は無礼講なのでしょうか?」
「申し訳ないんだけど、僕はできれば人死には避けてすませたいんだが」
「それは残念、では、これは私と貴方との勝負になりますよ」
 微笑のままの顔が振り返る、唯人もどうにか口の端を上げて見せた。
「分かった、負けないよ」
 言葉が終わる間もなく、五人ほどが一斉に襲いかかってきた。ぐん、と身を低くし一番近づいてきていた二人の足をなぎ払う。そのまま開いた隙間を抜け、身を返すと唯人は動きの悪い三人目の肩に刃を突きたてた、振り返った引きつった顔はよく見ると、例の酒臭い男だった。あっという間に三人が倒れ、吹き出した血が地面を染める。重く響く苦悶の声に周囲がわずかにひるんだ、その時ふと扉が開き、ふたつの人影がこちらへと飛び出してきた。
「誰だ、出てくるな!」
「冗談じゃない、一人で相手させられるわけねえだろう!加勢するぜ!」
出てきたのは、イシュカとミラだった。イシュカは手に岩を掘る用の柄の長いつるはしとハンマーが合体したような道具を持ち、ミラはその後ろにいる。こちらの方が組みしやすし、と思ったのか剣を振りかざしてきた敵を、イシュカはハンマーの二振りで叩き伏せた。
「おまえら、キントの鉱夫をなめんじゃねぇっ!」
「まったく、最後に連れてきただけあって威勢がいい奴だ」
 ふと、背後の細い通路から声がした。コツ、コツと固い靴音を響かせ小柄な姿が男達の奥からこちらへと歩いて来る。朝に見た時の嘘臭い笑顔とは程遠いしかめっ面のキント鉱山主、エンプは倒された青服の男達に心底呆れかえった視線をくれ、唯人へと目を向けた。
「またお会いしましたなぁ、精霊獣師殿」
「どうも、鉱山主様」
「せっかく見逃して差し上げたのに、こちらの秘め事など嗅ぎつけず帰ってくだされば良かったものを。実に残念だ」
「申し訳ありません、本当のことを言うと僕はここを査察しに来た訳ではないんです、でもここで見聞きした事は全て王都に持ち帰らせて頂きます。あなたも、伝道師の言葉を封じ込めようとするよりここから早く離れる事を考えたほうがいい。鉱山主として街の人の命を考えるなら」
「その通りだ、こうなった以上俺は白の伝道師の言葉を信じるぜ、あの空青石も見ちまったしな。金はあるに越したことはねぇが、それは家族と命があってこそだ。まだあれを掘り続けてぇんなら、お前とそのごたいそうな手下どもでやってくれ、俺はここを出させてもらう、仲間とな!」
 イシュカが、ハンマーをぴたりとエンプに向ける。エンプの禿げあがった額の色が、じんわりと赤黒く染まった。
「先代もそうだったが、これだから、山主などという迷信を信じている馬鹿者は困る!あれが、一体いくらになるか分かっているのか?この山から採れる雲石全てと比べてもまだ及ばぬ程の価値なのだぞ。細かくして秘密裏に取引すればいくらでも値は上がる、そういうわけでこのキントの今後の発展の為にも、あなたには口を閉じてもらおう、精霊獣師殿。鉱夫どもも大分くたびれてきたようだ、いっそここらで一度入れ替えるとするか、代わりはまだまだいくらでも街にいることだしな」
 その言葉が耳に入った途端、唯人の刀を持っている手に鈍く何かが響いた。思わず湧いた怒りに素早く鋭月が喰い込んでくる。心を持って行かれそうになるのをぐっと耐えようとした唯人の頭を、一瞬で覚まさせる何かが目の前に地響きをたて現れた。
「貴方の相手をするのは、うちの連中にはちと荷がかちそうだ。精霊獣師は精霊獣使いに任すとしよう」
 見えていないのか、動こうとしない青服の間に丸太のような手足を立てて巨大な姿が唯人へと迫ってくる。まるで唯人の世界の看板の単純化された人間図のような、真っ黒な球状の頭部から同じく黒い、棒状の胴と三対の手足が伸びている。ゆらりと前脚が上がり、飛びのいた唯人のいた場所を打つとその音と砂ぼこりに敵味方が一斉に振り返った。
「さあお前達、精霊獣師は精霊獣が相手をする、そこの奴らと奥に隠れている鉱夫どもを始末してしまえ!」
「イシュカ、ミラ!」
 わらわらと集まってきた青服の向こうに焦り顔のイシュカとミラの姿が消える、急いでそちらに行こうとしたが、さえぎってきた黒い脚に唯人は渾身の一撃を叩きこんだ。ざっくりと刃は食い込んだものの、まるで砂の塊を切ったように反応がない。再度飛びのいて偶然目に入ったエンプの隣に、初めてこの街に来た時見た黒づくめの男が立っているのが見えた。手にアーリットのような黒い杖を持ち、こちらへと向けている。彼が精霊獣使いと呼ばれた者のようであった。
 駄目だ、このままじゃ。誰も、護れない……。
 一瞬気が逸れた瞬間、唸りをあげてきた黒い脚に身体が弾き飛ばされた。転がった先ですかさず振り下ろされてきた小刀が、唯人の顔の上わずかの位置で見えない壁に当たったかのように弾き返される。すかさず返す刀でなぎ払い飛び起きるとすぐ後ろに敵をかいくぐったミラがいた。
「大丈夫、僕が唯人には傷ひとつ負わせない!」
「そんな事しなくていいから、ミラは早く扉の向こうに逃げていろ!」
 扉の前では、イシュカが必死になって数人相手にハンマーを振り回している。そちらへ一歩踏み出そうとして、唯人は、凄まじい圧迫感と共に自分の頭上を覆った黒い人型を振り仰いだ。
 僕には、何の力もない……。
 ゆらり、と視界がかすんだ。駄目だ、鋭月が意識に入ってくる。それでこの状況を打破できるとしても、血の海で全てを解決してしまうのは断じて嫌だ。
 じゃあ、どうするつもりなんです……?
 じゃあ、どうするんだ?
 じゃあ、どうする、と混濁する頭の中でなぜかこちらを見上げる白くて長い紐状の生き物が唯人に語りかけた。
 それでも、やらなきゃいけないんだ、僕自身が!
 ぐうっ、と視界が迫る黒で覆われる。ほとんど意識の無い状態で刀を構えようとした、その時……。
 轟音とともに、地が揺れた。
「なに?」
 エンプの背後の細い通路から、もの凄い勢いの……まるで、爆風のごとき砂煙が吹きこんできた。瞬時に白変した周囲の中、足音が近づきふいにがっしりした腕が背後から首に回され引き寄せられる。やられる、と身を固くした唯人の耳に馴染んだ声が響いてきた。
「さて、どれをやればいいんだ?」
 目の玉が飛び出しそうなほど見開いた眼で振り返った額に、くせのかかった髪の毛が触れる。
「サレ?」
「ほらほら、戦ってる最中、あの青いのか?」
 顎で示され、慌てて正面に向き直ると短い間に状況はすごい事になっていた。なぜか黒い精霊獣の巨大な身体が横倒しになって、姿なき何かの下敷きになった青服数人がなすすべもなくもがいている。その黒い丸太のような胴をがっぷりとくわえねじ伏せているのは、後ろに伸びた長い角を持つ灰色の獣。その背の人影が身軽に地に飛び降りると、砂煙の中で褪せた金の髪が舞った。
「アーリット、俺はそこらのをやる。そのデカいのは任せた!」
 言うが早いが、唯人の肩を軽く叩いてまだ煙の中で身動きが取れずにいる一群の中に躍り込む。ひゅん、と空を切る音が響き目で捕えられない程の速さで繰り出された鞭があっと言う間に数人を打ち倒した。その傍らで、今や胴を喰いちぎられるのも時間の問題、といった様子の黒い精霊獣の下を平然とくぐりアーリットがエンプと精霊獣使い、二人の立つ方へと歩み寄る。さっきまで二人の背後にあった人一人が通るのがやっとなくらいの通路は、大量の瓦礫と共に大人数人が横並びでも楽に通れる程に広さを変えていた。
「どうも、先月振りでしょうか、ユークレン領キント鉱山主エンプ・ジャロウ殿。テルア軍一級精霊獣師アーリット・クラン、まずは火急の事態とはいえ貴公の財産である鉱山に許可なく侵入し、一部壊してしまった事をここに詫びさせて頂きます」
 一分の乱れも感じさせない表情と、あくまで慇懃無礼な態度で軽く会釈して見せる。一瞬気を飲まれていたが、このアーリットの様子に言いくるめる余地あり、と踏んだのかエンプは汗とほこりにまみれた顔をぐいとぬぐうと声を張り上げた。
「ああ一級精霊獣師殿、まさかあなたほどの方がこんな場所に来られるなぞ。恐れおおいことですがそれが分かっておられるならどうかあの兵士の方を止めてください。あの者が倒しているのは私の屋敷や鉱山の警備を頼んでおる者です、鉱夫どもが暴れたので鎮めておったのですが……あの伝道師に皆そそのかされおって!」
 エンプの言葉が終わる頃には、もうサレはあらかたの敵を一人で片付けて終わっていた。地に転がった青服の集団に囲まれひょい、と肩をすくめて見せる。立っているのはたまたまエンプのそばにいた数人と、扉の前のイシュカのみとなっていた。
「嘘つくな、エンプ!てめぇ……」
「うるさい!鉱夫ふぜいが!」
「それで、その伝道師とやらは?」
 アーリットの言葉にふと、その場にいた全員が周囲を見渡した。さっきまでいたはずのミラの姿がない、どこかに隠れている?と頭を巡らせた唯人の前で黒い精霊獣の足がもがくようにゆっくりと空を切った。
「あ、あいつ、逃げおったか!」
「まあ、そんな人物がいようといまいと私にはどうでもいいことですが。それより私は先程街で得た情報のほうに興味がありまして」
「ま、街で?」
 さっきまで赤黒く膨らんでいたエンプの顔が、さあっと血の気が引いて白くなった。あくまで茶飲み話でもしているような声音を変えず、アーリットは凄みのある薄ら笑いを浮かべて見せた。
「先月、貴方は雲石の埋蔵量が残りわずかだと言って王都に支援の要請に伺われた。新しい鉱脈を探すからと資金援助も求めておられましたな。しかし先程私がこの目で確かめたところ、谷がわの採石場の様子は二十年前からさほど変わってはいない。街の者は最近のキントの現状を包み隠さず話してくれた上で、口をそろえて連れて行かれた者らを探して欲しいと私に懇願してきた、そして……」
 緑の眼が、ひたとエンプの隣の黒づくめの人物に据えられた。
「なんでお前がここにいる、〝黒の破界主〟」
 アーリットの言葉にくっ、と喉で笑いを噛み殺す音をたて顔を上げる。それまでも長くうねる髪に覆われよく分からなかったその顔は、真っ黒でのっぺらぼうの仮面に覆われていた。
「久しいな、翆眼鬼。エクナスの神殿以来か」
「ああ、あん時はてめぇの横っ腹に風穴開けてやったっけな」
「それは、貴様から頂いた禁呪の力でたやすく復元できた。感謝する」
 男の言葉に、無意識の動作でアーリットが自らの細く編んだ髪に触れる。もはや、エンプなどその場にいないも同然だった。
「エクナスの崩壊事件以降、お前には発見次第始末してもよし、の処分が下されている。あの智の国がそこまで思い切った悪党だ。さあ、再会を祝して一戦おっ始めるとしようじゃないか。今度は頭に穴くれてやるからよ」
「ここでか、相変わらず無粋なことだな」
「俺は、別にそんな事気にしない」
 今初めて目にしたが、アーリットの銀色の杖も彼が手のひらを上にして構えると光とともに手首から生えてきた。その杖に、袖の中から這い出てきた輝く蛇のようなものが絡みつく。黒の破界主と呼ばれた男もうっそりと己の漆黒の杖を前に構えた。
「だから無粋だと言っている、死と戯れるならそれなりの意匠と舞台が揃わねば気が乗らん。今宵の出会いは予期せぬ事ゆえお前を楽しませる用意が何もできていない。残念ではあるが、この場は引かせてもらう」
「お前の事情なんぞ知るか、俺がやるって言ってんだ!」
 言葉と共に振られた杖から飛んだ光の帯が、黒の破界主が飛びのいた地面を激しく打った。すぐ隣にいたエンプがその凄まじい勢いと音に頭を抱えてへたり込む。かなりの長身に見えて、まるで重さを感じさせない身のこなしでふわりと地に降り立つと、黒の破界主は突然まっすぐ唯人のほうへ向かってきた。二度、三度と次々放たれるアーリットの攻撃が地を穿つ。一瞬足を止め、漆黒の面を唯人に向けるとその姿は身軽に黒い塊のごとき精霊獣の頭部に跳び上がった。
「てめぇ、逃げるな!」
 アーリットがまるで何かを打ち返すようなフォームで振った杖から白熱の光球が飛び、精霊獣の頭部に当たって凄まじい火花が周囲に散る。もう一発、と構え直したその腕がふと止められた。黒い杖が、坑道の天井に届きそうに高々と差し上げられる。低く響く笑い声が聞こえたような気がした。
「闇よ、汝を解放せよ」
 めり、と嫌な音が周囲に響いた。胴に喰らいついていた獣がついにそれを噛み砕いた音かと思ったら、うずくまる黒い精霊獣の手、足、胴、頭…全てに裂け目が現れる。中から質感の異なる黒いどろりとした物が吹き出し獣が背後に飛びのいた。
「ノイ・タシク、(足の9)唯人を!」
 アーリットの声に、危うく黒い物体をかぶりそうになった唯人をすんでのところで灰色の獣がくわえて助け出す。よく見ると、その顔はあの長い角の〝蔵書の間〟の精霊獣であった。
「サレ、そこらへんの奴らを一か所に集めろ、上が崩れる!」
 黒い人型から流れ出した物体は、まるで吹きあがった煙のように爆発的に膨らみ始めた。もうあの黒の破壊主の姿も黒一色にまぎれて分からない。とめどなく膨張し続け、坑道の天井に達しても止まらない勢いに石がばらばらと降りそそぎ始めたのに慌ててサレとイシュカが周囲に伸びている青服連中と、そして腰を抜かして動けないでいるエンプを手早く岩壁の近くへと寄せ集める。アーリットの杖が地を打ち、光で描かれた紋章から浮かび上がった大きな虹色の貝のようなものがその上を覆うと灰色の獣は唯人を鼻づらでその中に押し込もうとしたが、唯人はそれを振り払い木の扉へと駆け寄った。
「こら、どこに行くつもりだ唯人、潰れるぞ!」
「奥に、まだ鉱夫の人達が隠れてるんだ。こっちに連れてこれないか見てくる!」
「それは俺の仕事だろうが!お前は行くな、戻ってこい!」
 叫びつつこちらに来ようとしたアーリットの前に、ひと抱えはありそうな岩が落下した。ついに山肌を押し破ったのか、もくもくと黒煙のように波打つ黒が上に吸い上げられていく。同時に石の落下というよりは天井と、その上の全てが崩れてくる勢いになってきた落石の合間をなんとかかいくぐり、唯人は奥の洞窟へと駆けこんだ。
「みんな、大丈夫か!」
「あ、唯人!」
 ひとかたまりになっている鉱夫達の中に、すっかり砂まみれになったミラがいた。どうやら崩れかけてるみたいだね、ここ、と周囲を見る。早くあっちに逃げよう、と指し示した通路からはどんどん砂煙が流れ込んでいて、かなり危険な状態であるのは間違いなさそうだった。
「もう駄目だよ、唯人、僕らだけならともかくこの状態のこの人数じゃ確実に誰かが犠牲になる」
「ごめん、僕が奥に行けなんて言わなかったら……」
「それは、言ってもしょうがないことじゃない。それより、僕が…えっと、僕の精霊獣があんまり出した事ない本気だしてここを支えてみるから、まあ壊れないよう祈ってて。問題は、多分その後のような気もするけど今はここを乗り切ることだけを考えるよ」
 さ、と招かれあの空青石がはり出した下の窪みに身を寄せた鉱夫らの一番外側に座り込むと、先程倒した青服二人も鉱夫らに運ばれてそこにいるのが見えた。大丈夫、向こうの広場に一級精霊獣師が来てるからたとえ埋まってもすぐ助けてくれるよと皆を励ましてやる、唯人の眼に、ふと地に引かれた白いラインが映った。
「あれ、ミミズ……?まだこんな所にいたのか、早く逃げるといいのに、埋まってしまうぞ」
 あ、ミミズだから埋まってもいいのか、うらやましいなと苦笑する。そうだな、こういうときは隙間の無い地中のほうが安全なのか、と変な納得をしているとなぜかミミズが紐状の身体を唯人に向けて伸ばしてきた。手を差し伸べると、くるりと巻きついて来る。なんだか最初見た時より気持ち悪くなくなってきた、慣れたかのかなと唯人は瓦礫が降りそそぐ洞窟上部を振り仰いだ。
「お前みたいに、ここから出られたらいいのにな」
 出たいのか、と誰かの声がどこかで囁いたような気がした。 
 うん、ここのみんなと向こうのみんな、青服もエンプも残さず助けたい。僕は今、願うことしかできない無力な存在でしかないのは分かっているけれど。
「さあ、本当にもう行けよ。〝綱手〟」
 声をかけてやったその次の瞬間、唯人の足元がぐらり、と揺れた。足元の岩にみるみる細かな亀裂が入り、瓦礫となって崩れ出す。必死でばらばらにならないよう隣のミラや鉱夫の誰かと肩を掴んで身を寄せ合った。その頭上で、大量の砂を降らせつつ巨大な空青石が動き出す。ゆっくりとせり出してくる、その後ろに続くありえない物が目に映り唯人は思わず息を飲んで絶句した。
「……!」
 降りそそぐ大岩が、人々の上を覆った青く透明な……まるで海がそのまま結晶化したような長い塊に弾かれて飛ぶ。額に巨大空青石を抱き、多分鼻面らしき部位からひとかたまり伸びている髭とおぼしきものの一本をするりと唯人の腕からほどくと、その龍やら鳥やら蛇やら計りかねる何かはぐいと頭を上げ、岩肌に埋まっていた身体を引きだした。物凄い地響きがあたりを揺らし青い身体に護られた以外の空洞が一気に崩れ落ちる。やがて砂ぼこりが風で薄れた後に、頭上にぽっかりと空いた大穴を前にもう何だかどうしようもない笑うしかないような気になって、唯人は笑いの発作に身をまかせながら自分に寄せられてきた小型バス並みの大きさの、幾何学模様を散りばめた青く綺麗な何かの多分頭部にありがとう、と抱えついた。君も、と背後にいる鋭月の肩を顔を伏せたまま引き寄せる。固い木綿の手触りが、なんだかやけに手に心地よかった。
「今日は、僕の勝ちかな」
「いいえ」
「どうして?僕は負けなかったと思うけど」
 そっと顔を上げてみたら、細い月を振り仰いでいた横顔もこちらを向いた。同じ名を持つ者どうし、似た印象の静かな表情が微かに綻ぶ。
「唯人殿が存命であられること、ただそれのみが、私にとっての勝利なのですから」



 なんとなく嫌な予感がしたら、この世界ではそれはほぼ百パーセント的中してしまう。その記録をまたも更新してしまい唯人は溜息混じりで鉱夫の皆を連れてなんとか歩けそうな道を探し山を下りていた。その首には白い紐状の生き物がマフラーよろしくゆるく巻きつき揺られている。
 つい先程由来だけは判明したこの生き物の反対側は、今は唯人の衣服の襟から中に入り左の肩に浮き上がった綺麗な模様から始まっている。あの大きいにも程がある青い何かが光珠と化し、身の内に入ってきたとき唯人は心底自分の身体がどうにかなってしまうのではないかとさっきまでとは趣旨の違う恐怖にめまいを起こしかけた。
 明らかに原因は分かっているので追及してやろうと思ったら、ミラの姿がまた見えない。これはなにかの陰謀だろうか、嫌な予感だったらまた当たる。周りと同じくらいに思考がずぶずぶと暗くなっていくなか、周囲を舞う無数の夜光蝶に照らされた道はそれほど悪くなく、やがて眼下にキントの街の灯りが見えてきた。その手前の半壊してしまったエンプの屋敷から、誰かが大きな声で唯人の名を呼びながら駆けあがってくる。肩を貸していた鉱夫にもういいから、と促され唯人は顔が分かるまでに近づいてきたその人物に向かって駆け降りた。
「サレ!」
「唯人!大丈夫だったか?」
 まるで雄鹿の体当たりよろしくぶつかってきた鎧付きの胸板に、ふっ飛ばされかけた身体が思いきり抱きしめられる。更に後から追い付いてきた数人のユークレン兵が鉱夫らを引きうけて先導するなか、しばし唯人の足を宙に浮かせじたばたさせた後、サレは満面の笑顔で唯人を有無を言わさず肩にかついで歩きだした。
「ち、ちょっと、降ろしてくれサレ、僕歩けるよ!」
「だーめ、絶対逃がさないよう連れて来いって言われてるんだ。苦しかったら言えよ?前抱え(お姫様抱っこ)にしてやるから」
「逃げる?誰がそんなこと!……あ、」
「分かったか?覚悟しとけ」
 サレの勢いに驚いたのか、白ミミズは瞬時に中へと引っ込んでしまった。昨日までは綺麗だったが今はひどい有様の屋敷の前庭で、結構な数の兵達に囲まれ褪せた金髪の精霊獣師がきびきびと指示を飛ばしている。唯人を抱えたままその中を突っ切って、その人物の前に立つとサレはぴしり、と敬礼した。
「アーリット・クラン殿。阿桜 唯人殿を無事保護しました」
「ご苦労だった、ナナイ小隊長、後の事は地方軍兵に任せて小隊長は王都へ戻れ。ノイ・タシクを使ったら充分朝には間にあうだろう」
「では、阿桜殿も共に連れ帰らせて頂いてよろしいでしょうか」
「彼には多少話がある、後で私が連れて帰るから置いて行け」
「では、待たせて頂くことを許可願います」
 こちらに向けられたアーリットの緑の眼が、ふっ、と細められた。苛ついてますオーラが出かけている顔だ。
「ナナイ小隊長、お前、確かここに来る前、朝までに戻らないと除隊だと中隊長に言われてなかったか?」
「納得の上であります、除隊されたらまた一兵卒からやり直す覚悟であります」
「……」
 降ろしてくれ、サレ、僕は逃げたいんだが。
「うるせぇ馬鹿!いい加減にしないとニアン・ベルツでぶら下げて叩き返すぞ!俺が唯人を取って食うとでも思ってんのかこの野郎、帰れって言ってんだからとっとと帰りやがれってんだ!」
 ああ、ついにキレた。唯一高い所が弱点のサレがそうきたか、と舌打ちする周囲で一般兵らがあたふたと散る。渋々な表情で抱えていた唯人をほい、と立たせるとサレはその耳に背後からこそっと囁いた。
「唯人」
「え?」
「アーリットのな、弱点は脇腹とあの細っちい三つ編みの生え際だ。もし命の危険を感じたときには……」
 ふいに、鋭い音と共に銀色の輝線が唯人の頭上を横切った。さすがに杖を出してからの動作が早い、しかし俊敏さでは引けを取らないサレも瞬時に後ろへと飛んでそれを避け、背後から笑顔で唯人に手を振った。
「じゃあな、唯人、城で待ってるから。絶対生きて帰ってこいよ、健闘を祈ってる!」
 そのまま庭の門まで駆けて行き、屋敷の入り口の脇にうずくまっていた灰色の獣に身軽に飛び乗り街のほうへと姿を消す。それを手を振り返しつつ見送って、この後の空気どうしてくれるんだと唯人は心で涙ぐみつつアーリットへ向き直った。みんな逃げてしまって、もう周囲にはあまり人影はない。かろうじて無事な花壇の中の通路に立って、アーリットは唯人が先に話しかけてくるのを待っている顔で黙っている。怒りのオーラが治まったことを信じ、唯人はおそるおそる口を開いた。
「あの……アーリット、サレが除隊になるってどういうこと?」
「聞いたとおりだ、サレは、明日の朝までに戻らないとテルア軍をクビになる。本来なら地方軍の管轄である今回の件に、王都守備隊長のあいつが勝手について来たんだからな。お前の為だぞ唯人、今朝、トリミスから来ていた早馬がいなくなって、そのうえお前まで消えたんで探しに行くって聞かなくなっちまったんだ。しょうがないから、俺がお前の匂いを覚えてたノイ・タシクをわざわざ蔵書の間から解任して探してやったんだが……王が揃って帰城するこの大事に、自分の仕事をないがしろにして私用を優先させる奴なんぞ、たとえ俺でもクビにするぞ?まあ中隊長のファスンは甘いから、朝の起床時間までに戻れば良しと言ったがな」
「そうだったんだ、ありがとう、サレ。それにごめん、アーリット」
「俺に謝ることはない、主王子からお前の庇護者を任されてるからな。まあただの人探しのつもりだったのが、ここにつながるとは思ってなかったが」
「僕も、ここに来たのは偶然だったんだ。最初はここがどこかも分からなかったし」
「それで、ユークレン国軍の一参謀としてはここで協力感謝とかいうべきなんだろうが。正直公にはできないことを、お前、派手にやっちまったな」
「ごめん、色々あって……(ていうか、派手になったのはアーリットのせいじゃなかったか?)」
「エンプの事はいい、あいつが以前テルアに陳情に来た時からおかしいと思って内偵の者を入れていた。報告の内容からそろそろ本格的に査察を行おうと思っていつでも兵を出せるようにしていたんだ。あの〝黒の破界主〟がいたのは予想外だったが」
「そうだ、あの黒の破界主って……あれが、〝破界主〟なのか?」
 思わず叫んだ唯人に、アーリットが顔を上げた。
「お前、やっぱり聞いてたな」
「え?あ、え、ええと……」
「添王子に言伝を頼んだのが間違いだったな、翌日戻すよう言ったのに。とりあえず、その話は明日以降王の前でまとめて話す予定だ、心配しないでもお前に悪いようにはならないから変に勘ぐらないで待っていろ。それより今俺がお前に一番聞きたいのは、この街の調査報告にもあった〝白の伝道師〟って奴のことだ」
「ああ、ミラの事かい?彼にはここでいる間ずっと助けてもらったんだ。アーリットにも紹介したかったのに、鉱山から出たらまたいなくなってしまったよ、どこに行ってしまったのかな」
「まったく、見つかったら困ることでもあるみたいだな」
「それはないと思う、ちゃんとしたいい人だったから」
「唯人」
 急に、アーリットが声の調子を変えた。
「お前のその何も知らず、何も疑わないところが俺は一番恐ろしい」
「え?」
「もう既に伝道師協会に問い合わせてある、白づくめでミラという名の伝道師は、どこの国の協会にも存在していない」
「そんな、だって、彼がそう言ったのに」
「それを、今から確かめに行こうと思っている、もうこの街での用は終わったか?」
「あ、ちょっとだけ待って、最後に会っておきたい子がいるんだ」
「なら、さっさと行ってこい。言っておくが今このキントの地盤は非常に不安定な状態だ、鉱山が崩れた余波で街の地下の坑道全てが危うくなっている可能性がある、住民は兵が随時避難させているから邪魔になるなよ」
「分かった、すぐに戻るから!」
 エンプの屋敷から下り坂を駆け下りると、道は人でごった返していた。それでも暴れたり押しあったりする者はなく、落ち付いてぞろぞろと下の街の門へと流れてゆく。その道の端の人密度が薄い箇所を走り抜け、角を曲がると店にはまだ明かりがついていた。
「あ、唯人さま、やっぱり来てくれた!」
 唯人の姿を眼にした途端、勢いよく飛びついてきたカノを抱きしめてやる。奥で大きな荷をまとめていたイシュカもよう、と笑顔を向けた。
「唯人さま、ありがとう!絶対父さん助けてくれるって信じてた。きっと山の主様が街のみんなのために最後に唯人さまを呼んで下さったんだよね!」
「ああ、俺もそんな気がしたよ」
 今日の仕込みの分を弁当にして皆に配ってたんで、遅くなっちまったみたいだ、とイシュカが改めて感謝の意を表し唯人の肩を叩く。奥から出てきたカノの母親がよく入れ物に使われる葉で巻いた包みを唯人に差し出した。
「うちで作った弁当の最後の一個だ、こんなもんじゃとても礼にはなんねぇが、受け取ってくれ。うちはこれから湖のそばの親戚んちに行くんだが、また落ちついたらテルアにちゃんとしたお礼しに行くからな」
「そんなのいいよ、イシュカにはむしろ助けてもらったんだし」
「まーたまた、よく言うよ」
 唯人の言葉にお父さん、精霊獣師さまを助けたんだ、すごぉいとカノが目を輝かせる。嘘じゃない?私自慢しちゃうよとはしゃぐ娘をおいおい、ほどほどになとイシュカが真っ赤な顔でたしなめた。
「あ、カノ、それで、ミラを見かけなかったかい?」
「え?伝道師さま?唯人さまといっしょじゃないの?」 
「イシュカは?」
「うーん、ここに帰ってくるまでの間は見なかった気がするなぁ」
「もし後で見かけたら、僕が探してたって伝えてくれないか」
「おう、分かった。お安い御用だ」
「それじゃ、道中気を付けて」
「ありがとよ、落ちついたら一杯やりながら今日の事話そうな」
「私も、うんとおいしいお饅頭作って食べさせてあげる!」
 それで、私のこと気にいったら貰ってくれてもいいんだよ、とさりげなく付け加えられた一言にイシュカがうおい、と顔色を変える。そうだね、カノがおいしい饅頭を作れるようになった頃には、店にカノ目当ての男の子が沢山来て僕はきっと近寄れないよ、と笑いもう一度カノを抱きしめると唯人は三人に別れを告げ、店を出た。
「あ、アーリット、待たせてごめん」
「話は終わったのか?なら行くぞ」
 灯火が消された薄暗い路地の壁にもたれ、アーリットは唯人を待っていた。杖が石畳を打ち、輝く地の紋様から舞い上がる翼持つ獣に二人して飛び移る。冴えた夜の空気に髪を踊らせて、唯人は今一度これまでの怒涛のような出来事を思い返しながらみるみる小さくなるキントの灯りを見下ろした。
「アーリット、どこに行くんだ?」
「ここからそう遠くはない、俺がお前を拾った前紀廃王国の森だ。一般的には千年樫の森、とも呼ばれてる」
「僕を……?そこに何が?」
「行ってから話す」
 真っ暗な森の上空をしばらく飛んでいると、前方の彼方にテルアの街の灯りが見えた。もう夜半過ぎだというのに明日の準備に追われているのか、いつもより多い光が湖の水面に揺れている。眼下の漆黒を敷き詰めたような一面の森には目印らしきものはなにも無いというのに、ふいに高度を下げ始めるとニアン・ベルツはわずかに開いた木々の合間へ舞い降りた。
「ついてこい、唯人」
 下に降りるや否や、夜光蝶を放ちもう慣れた足取りで暗い森の中を歩きだしたアーリットの褪せた金髪を慌てて追いかける。しばらく無言で歩いた後、とても普通では目にかからない場所にひっそりと立つあの木のある場所にたどりついた。
「ここで、俺はお前を見つけた。あの木の枝にお前は引っかかってたんだ。お前は覚えていないようだが」
「あの木に?」
 堂々とした太さの幹に近づいて、そっと手で触れてみる。
「あの日、俺はどこかから響いてきた変な感覚に呼ばれてここにやってきた。そして数百年間この回円主界中を探しに探して見つけられなかったこいつをついに見つけたんだ」
「数百年?」
「もう少し、上を見てみろ」
 アーリットに顎で示され顔を上げると、暗がりの中輝くものがあった。まるで伸びた枝々の付け根に支えられているように何かがはまっている。夜光蝶がひらひらと近づいて、それが大きな金属板……というか、鏡らしい事が見て取れた。
「改めて言うが、俺には、この回円主界に親を含めて身内も、同種の人間と思える奴さえも一人もいない、だから自分がいつ生まれたのか、何者なのか、これからどうなるのか俺自身にも何ひとつ分からない。ただ、物心ついた時から俺には師匠(ミストフェル)と呼ぶ存在がいた。ここがまだそれなりにひらけていて廃王国の名残の神殿があった頃、師匠と俺はそこで暮らしていたんだが、俺が一人立ちして別の場所で暮らすようになったのをきっかけに師匠は突然姿を消してしまった。俺に何も言わず、何の痕跡も残すことなく。一体何があったのか、生きているのか、そうでないのか。それを唯一知っているのがこの鏡…名はミラヴァルト・イア・ミストフェロー、俺の師匠の……回円主界最古の精霊獣だ」
「ミラヴァルト!?え、いや、それは無いよ、伝道師の彼を精霊獣師じゃない街の人達みんなが見ていたし。鏡の精霊獣を持ってた、って言ってたからそれじゃないのか?」
「師匠以外に、あいつを従えられるやつなんているか。もしそいつが師匠本人だったっていうんなら、たとえテルアにいたって俺が気付く。長い銀髪に透けるような白い肌。身に付けている物も全て白……それは、俺が覚えている師匠の姿そのものだ。奴は鏡だからな、自分に写った者の姿を纏って実体化する力を持っている。俺はずっと、あいつを探し続けてきた。一人で暮らすようになってから気付いた、師匠やこの世界についてのさまざまな疑問をあいつをつかまえて聞き出すために。けどさすがは俺の師匠の精霊獣、見事に俺を出し抜きやがった」 
 ふいに素早い動作で伸ばされた手が、唯人の胸倉をつかむ。そのまま一気にアーリットは唯人と鼻が触れそうな距離まで顔を近づけてきた。
「ち、ちょっと、アーリット!」
「精霊痕を眼に隠して、それで俺に気づかれないとでも思ったか?あいにくと俺だってこの数百年の間、師匠の役目全部おっ被せられて少しは成長したんだからな、本体ぶち割られたくなかったらとっとと姿を現しやがれ、腐れ鏡!」
 え、一体何を言いだしたんだと動きの止まった唯人の上体が、アーリットに押し切られる感じで後ろに傾く。転びそうになりかけたその背がふと、後ろから伸ばされてきた腕にやんわりと支えられた。
「ちょっと、危ないじゃないか!唯人は昨日屋根から落っこちたんだからね、気を付けてやってよ」
「ミラ?」
 急に、背後に光が灯ったかのように見えた。ちっとも目が慣れない暗闇の中、ほの白い姿が浮かび上がる。唖然とした表情でそれを見つめ、我に返ると慌てて唯人の襟を放しアーリットがつかみかかろうとする。その手を軽くかわし、ひょいと幹の反対側に飛びのくとあーあ、見つかっちゃった、とミラは肩越しに二人を振り返った。
「やあ、おチビ、久しぶりだね、ほんのちょっと大きくなったかな?今はアーリットって名乗ってるんだ、開き直って」
「おチビって言うな!それは三百年よりまだ前の話じゃねぇか!」
「はいはい、その三百年よりまだ前にしょっちゅうお漏らししてたおチビが腐れ鏡だの僕をぶち割るだの言い放つなんてねぇ、口が悪くなったもんだ。言っておくが鏡の僕はこの廃王国の大地に呑まれた神殿に茂る千年樫全ての力で護られているよ、契約を紡いだのは君の師匠だ。どうしてもぶち割りたいって言うんなら止めはしないけど、その貴重な銀枝杖は無駄にしないほうがいいと思うけどな」
 ミラの言葉に、腹に据えかねるといった表情でアーリットが手の杖を握り締める。その言葉の説得力は充分だったのか、鏡に振り下ろされるかわりに杖の先はぴしりと唯人へと向けられた。
「てめぇ、なんでこいつの物になったりした。ずっと俺から逃げてたのに、今になって見つかるのが分かっててあえてお前が選んだこいつは一体何者なんだ?もしかして本当に創……」
「おチビ」
 ぴしゃり、とミラの静かな声がアーリットを遮った。
「お前には、この世界で今後大事な役目がある、この唯人もまたしかり、だ。僕はミストから託されたこの世界にかかわるある重大な計画に従って動いている。そのためにはお前の物になって、お前が望む僕の知識を全部見せることは今はまだできない、それはミストとの約束だから。この異界の人間は、僕という力を手にしてもこの世界もお前の命もけして脅かすことはない。おチビ……いや、アーリット、時が来たら全て話すことを約束する、だから今は黙って成行きを見守ってくれないか?」
「ふざけんな」
 もう正直、目に見えるんじゃないかと思えるくらい濃密な怒気がアーリットの身体から発されていた。ずっと向けられていた杖の先がこつん、と唯人の肩に当たる。それで何気なく指先が触れた腰の鋭月からもの凄い警告が伝わってきた。アーリットから、殺意が出てる……?
「唯人」
「え?」
「すまないが、ここで死んでくれ」
 ええええええーっ!?
「すぐ終わるし痛くしない、運が良ければ蘇生が間に合うかも知れないから!」
「そういう問題じゃないっ!」 
「主が死ねば、持っている精霊獣は解放される。もう手段なんか選んでられん、ここで力づくでも決着付けてやる!」
 あああ、なんでこうなった!アーリットの殺気に触れて、こちらも瞬時に殺る気モードになってしまった鋭月を慌てて押さえる唯人の傍らにミラが立つ。その瞬間、唯人の周囲の空気が揺らいだ。
「やる気かい?よしなよおチビ、忘れてるといけないから言うけど、僕の特性はあらゆる攻属性の反射だよ。それに精霊獣戦で手技がなかったみたいだから、今回彼にキントの瑠璃鉱竜も仕込ませてもらったから。ちょうどいい時に馬鹿な人間がつついて羽化させちゃったんでね」
「え、鉱竜って……あれ、渓谷ミミズの親玉じゃなかったのか?」
 若干おかしいとは思いながら、そう信じ込もうとしていた唯人の甘い考えはごくあっけなく粉砕された。
「あのさ唯人、渓谷ミミズに親玉も子分もないよ。唯人の中にいるのは空青石の精霊獣、瑠璃鉱竜っていうの。何百年に一度しか羽化しない貴重種だから、回円主界の精霊獣師でこれと同等の精霊獣を持ってる人はまずいないよ、そこのおチビをのぞいては」
「そりゃあたいしたもんだ、じゃあ俺も遠慮せず本気出すとするぞ」
 緑の瞳が、凄みのある笑みで細められる。今や一触即発の両者にはさまれて、ふぅ、と長い溜息をひとつつくと唯人はおもむろに腰の鋭月を手に取った。それに応じてアーリットがゆっくりと銀の杖を斜に構えなおす。黒一色の鞘を目の高さまで上げると、そのまま唯人は一動作で刀を内へと押し戻した。
「……!」
「あれ?」
「いい加減にしてくれないか、二人とも」
 正面のアーリットと背後のミラ、両方の顔をゆっくりと見比べる。
「僕は殺されるためにここに来たんじゃないけど、恩人と命のやり取りをするためでもない。それで何もかもが解決して丸くおさまると本当に思うのなら、抵抗しないから気の済むようにしていいよ、アーリット。君が見つけて助けてくれなかったら、ここに居ることもなかった僕だろうから」
「唯人、君、無茶な考えをする子だね」
「そうかな、よく分からないけど」
 しっかりと目を見て、一歩、前に出る。一瞬手の杖を振りかぶろうとしてそのまま硬直すると、目の前のアーリットは、初めて見せる背後からぶん殴られたような表情を浮かべて見せた。ゆっくりと、敵意を感じさせないよう歩み寄って、上げた両腕でそっとそう変わらない位置の肩を包みこむ。思ったより……というか、結構鍛えた唯人より、なんだか今は細く感じられる肩だった。
「少し、落ちつこうか」
「……」
「もうちょっと、呼吸をゆっくりにするといいよ。僕のと合わせるくらいで」
 まわした手が触れた、首筋が汗で濡れている。最初にこの世界に来た時から、なんでも知っていてなんでもできて、唯人にとっては世界そのものの具現化だった回円主界最強の一級精霊獣師。その彼がこんなに我を失うほど望んだ答えを、知らなかったとはいえミラを手に入れた自分が封じてしまったらしい。微かに震えている背をぽんぽんとやって宥めながら、頭をずらし唯人はそっと背後に声をかけた。
「ミラ」
「なに?唯人」
「僕がお願いしても無理なのかい?アーリットに聞きたい事教えてあげてくれって」
「残念だけど、それは無理〝お願い〟なんてしてるうちはね。ミストと居たときの僕の思考はほとんど彼と繋がっていた。命じられた、って感覚もないくらい」
「最初から、こうする為に僕に嘘ついて近づいたんだ」
「そうなるね、ごめん」
「アーリットは、僕が何も知らないのと何も疑わないのが一番怖いって忠告してくれた、そして彼は僕に嘘を言わない。僕はこれから君に不信感を持ったまま、一緒にいなきゃならないのかな」
「唯人、よく思い返して。僕は確かに君に嘘をついたけど、君を陥れたり不利にさせるような事はあったかな?信じてとしか言いようが無いけど、君のものになったから僕はもう君には嘘はつけないよ。それにこれだけは言っておく、おチビと一緒にいたって物事は何も進まない、進まないといずれ君はどうなってしまうか……分かるよね」
 そう、確かに、今でも首を押さえつけられるあの恐怖と諦めの混じった絶望感は心の深い部分に刻み込まれている。思わず息をつめて身を震わせた唯人の肩に、そっと上げられてきた手が触れた。
「アーリット?」
「それも、俺は知っちゃいけない事なのか?」
「その辺は、絶対にね」
「何故だ?」
「君が、四百年前にしでかした過ちから逃げる為に何もかも忘れちゃったからさ。自分の事も、僕達の事も、世界一大切だったあの娘の事も」
「四百年?」
「誰も間違ってはいなかった、だけど彼女は逝ってしまった。それを忘れてしまった人間が同じ事を繰り返そうとするのは止めなきゃならないんだよ、覚えている者の義務としてね」
「俺が……一体…何を?」
「分からなくていい、君は充分悲しんだんだから」
「そうやって、いつまでたっても俺は何も分からないまま……!」
 勢いのままミラに詰め寄ろうとして…ふいにぐ、と妙な声を漏らし、アーリットの言葉が止んだ。力を失い崩折れる上体を慌てて唯人が抱きとめる。何が起こった、と確認しようとしたアーリットの鳩尾あたりから重い塊が音もなく引かれた。その端、銃口のほうをミラが支えて持っている。
「スフィ?」
「いや、見事に決まったな。俺もう鈍器決定だぜ」
「なんで、お前まで僕を差し置いて勝手なことするんだ。これじゃ誰も信じられなくなるじゃないか!」
 叩きつけられた言葉に、スフィが困惑した時の癖で頭に手をやって唯人を見た。
「そんなこと言ったって、そいつたった今お前を殺るって言ったんだぜ?鋭月なら確実にぶった切ってただろうし、俺だって銃剣の方でやっちまいたかったくらいだ。お前にどう思われようが、俺達はお前を護るために在るんだからな」
「そうだよ唯人、うまく隙をつくってくれてありがとう、もういい加減このおチビの尋問と癇癪に付き合わなくてもいいよ。二人とも疲れてるんだ、そろそろテルアに戻ろう。ここには飢えた猛獣や蟲が沢山うろうろしてる、あまり長話する場所じゃない」
「スフィ、ごめん。僕…確かに疲れてるみたいだ」
 優しい顔のミラと渋面のスフィ、二人の顔を交互に見て、唯人は無言でぐったりとしているアーリットの身体に回した腕に力を込めた。
「ミラ」
「うん?」
「もしできるならこれだけは答えてくれ、君があの鏡なら、君も〝双界鏡〟なのか?」
 ふいとミラが唯人の腕の中のアーリットを覗き込む、起きそうにない?じゃいいかとそれでも小声の呟きが耳元で囁かれた。
「そうさ、唯人の世界にいるのは僕の片割れのラシュヴァルト(右の鏡)だ。君がこの世界を必要になって、この世界が誰かを必要としてたからラシュが送ってきた君を僕が受け取った。それをおチビに知らせて、僕を受け入れられるくらいにまで君をこの世界に慣らしてもらったんだ。誤解しないでもらいたいんだけど、回円主界を生んだ世界主に誓って僕はおチビにも君にも害意はないよ。君自身とこの世界両方がいい結末を得られるよう望んでいる、ただそれだけなんだ」
「分かったよ、ミラ。あの人は僕の命を助けようとしてくれた、それだけは何があっても僕は信じてる。それに君がキントで僕と皆を助けようとしてくれたことも」
「ありがとう、唯人」 
「んじゃ、お喋りはここまでってことで、とっとと帰って落ちつくとしようぜ。俺はこれから鋭月の八つ当たりに付き合わされなきゃならんが」
 げんなりした口調で、スフィが場を閉める。さっき押し込んだ鋭月が、怒りを唯人に悟られないようなんとか抑え込もうとしているのがなんとなく感じ取れたので容易にその状況が想像でき、唯人はちょっと気が抜けて微笑んだ。ゆっくり回り始めた頭にアーリット気絶→ニアン・ベルツがいない→どうしよう、の流れがぼんやり浮かぶ。そんな唯人の心を見透かしたかのように、ミラが今は漆黒に近い色の瞳で唯人を覗き込んできた。
「唯人、帰りたいんなら一言僕に帰りたい、って言ってくれればいいんだよ。回円主界最古にして一番便利な精霊獣を持ってるってことを早く自覚してね。えーと、渡りムカデにしようかな…」
 白い両腕が差し上げられると、その上に四角い板状の淡い光が現れた。光はゆっくりと下がりミラの身体が光を通り抜けて行く。しかし光を境にその上から現れたのは人間の姿ではなく、平べったくて長く、両脇にずらりと透明な翅を並べた見たことのない大きな蟲の姿だった。
「ミラ?」
「はい、どうぞ。速度はいまひとつだけど鷲獣よりこっちのほうがおチビ落とす心配が少ないと思うよ」
 ぬっと突き出された平たい頭部に、アーリットを抱えて怖々乗るとミラ?の言うとおり下は固い板のように安定していた。薄い翅が一斉に震え、ゆっくりと長く尾を引いた姿が空に伸びる。まるで幼い頃見た絵本の空飛ぶ絨毯のように滑らかに上昇すると青光りする体は進路をテルアの光へと向けた。
「すごいな……鏡の精霊獣って、みんなこういう事できるのかい?」
「んー、自分で言うのもなんだけど僕はちょっとやそっとじゃきかない年代物だからね、そこらの鏡にはここまでの力は無いよ。おチビは数百の精霊獣を持って数百の技を使うけど、僕はひとつで百くらいの精霊獣と人の姿を持っている。竜みたいにあんまり大きいのは無理だけど、大抵のことはできるから遠慮なく任せてよ」
「で、いつの間に僕のものになったんだ?綱手はなんとなく分かったけどミラは全然気付かなかった」
「ああ、それはキントの食事処で会った時に速やかにね。唯人に伝道者の規律の免責を承認してもらっただろ?あの文句、君の言葉で君と僕の名前と〝許す〟が必要で、それ以外はでまかせだったんだ。君の武器精がびっくりして何か言ってくるかなって思ったんだけど、そういう権限は精霊獣にはないし君はあんまり気にしなかったんで助かった」
「早く、もっとみんなに気を配る余裕を持てるようになりたいよ。僕の力不足で嫌な思いばかりさせてるから」
「それはそれでいいんだけどね、ひとつ教えといてあげる。物精って持ち主に頼られるのはすごく嬉しいんだよ、特に人の為に作られた物は」
 やがて、そう長くかかることなくユークレン湖を越え眼下に王城の建つ小島が近づいてきた。余計な騒ぎを避けるためには街の外のひと気のない所に降りるのが礼儀なのだが、夜中なので街や城の門がもう閉まっているのとアーリットを早く休ませてあげたい思いで唯人は城の敷地の中の水辺の洗濯場に強硬着陸した。いや、降り方自体はごく静かで優雅なものだったのだが。ミラが隠してくれていたから誰にも見られなかったとは思ったが、一応周囲を見回す唯人の傍らでミラがまた光をくぐる。今度はなんとアーリットの姿に転じると、本物のほうを唯人の腕から軽々と受け取りその顔を頭に巻いてあった布で覆い隠した。
「さて、それでどこへ行けばいいの?」
「とりあえず、兵舎の僕の部屋に行こう。ちょっと目を覚ますのが遅いような気がするからちゃんとした場所に寝かせて、それからサレを探して呼んでくるよ。近くにいてくれればいいんだけど……」
「ああ、あの大きな群島の子ね。じゃあ案内をお願いするよ、唯人」
 アーリットの顔が、柔らかな言葉使いで喋っているのはなかなかに不思議な眺めだった。明日に備え城内がごった返している中、誰とも顔を合わせずに兵舎の個室にたどり着くのはまず無理な話だったが、出くわした人達は皆アーリットだと分かると何も言わないか、お戻りですかと声をかける程度でどこに行ってるのか、とか抱えているのは誰などと詮索してくる者は皆無であった。むしろ昨日から行方をくらましていた唯人のほうが絡みやすいと思ったのだろう、兵舎に入った途端わらわらと集まってきた顔見知りの若い兵らを偽アーリットの鶴の一声で追い払ってもらうと唯人はなんとかやたら懐かしい気のする自分の部屋へと駆け込んで床の敷物にへたり込んだ。
「あー、帰ってきた。まだ昨日からのことなのに、もう何日も開けてたような気がするよ……」
 サレが来て唯人を探したのか、寝台の上の毛布はめくられなぜか作りつけの棚も開かれている。ミラがアーリットを寝台に寝かせ、唯人がずっと腰に下げていたカノのお弁当を台の上に置いた、その途端、鍵がないから綱手に番をさせてみた部屋の扉を思いきり叩く音がした。
「はい、誰?」
「唯人、俺だ、サレ!なんでこの扉開かないんだ?」
「あ、ごめん、今開けるよ!」
 唯人の返事と同時に、袖からずるーんと伸びて扉の取っ手に喰いついていた白ミミズ状態の綱手がぱかっと口を放す。ばん、と勢いよく開き、続いて大柄な身体が派手にひっくり返った音を響かせた後、つとめて何も起こっていない顔でサレが室内に入って来た。好奇心丸出しで外に集まっている数人に中を覗かれないよう素早く扉を閉める。いそいそと再度扉の封印についた綱手をこれなんだ?と眺めつつ寝台の上に視線が行った、サレの顔が凍りついた。
「おわ!ア、アーリ……?」
 思わず大声を上げそうになって、思い切り自分で自分の口を手でふさぐ。瞬時にミラは姿を消しており、床にへたっている唯人と寝台の上とでしばらく視線をさまよわせるとサレは極めてそうっと口から手を浮かせた。無理に小さくしようとして出した声が変だ。
「これ、お前が……やったのか?」
「う、ううん、ちょっと違うけど、そうなるのかな」
「俺、十年ここにいるけど眼閉じて動かないアーリット初めて見たぞ?脇腹と生え際、どっちが効いたんだ」
「ええと、脇腹に、近い……」
「あのな、冗談に決まってるだろ!精霊獣師の二級検定知ってるのか?アーリットと一対一で、五分持ちこたえたら合格なんだぞ?それも今現在二級の奴で応戦した奴なんて一人もいない、みんな五分逃げきれたってだけなんだ。これは、ひょっとしたらユークレンの国家機密並みの事態ってやつなのか?」
 たった今、アーリットが帰って来たって話を聞いたからすっ飛んで来たってのに秒殺じゃないか、と真剣な顔になったサレにいや違う、アーリットがこうなったのはかなり前だと慌てて説明する。全てを話すわけにも、さりとて黙っているわけにもいかずかなりざっくりとした内容で、唯人は自分が新たにふたつの精霊獣を手に入れたこと、その片方がアーリットと旧知でなにか話しているうちにアーリットが取り乱し始めたのでなんとか抑えて連れて帰った、と説明した。さっぱり分からんとサレの目が語っているがあえて見ないようにして、それよりアーリットの目が覚めないのが心配だと話を逸らしてみる。普通の人間の常識が通用するか分からんが、まあとりあえず一、二時間様子をみて、それでも起きなかったら本気で考えようというのがサレの意見であった。
「すまん、唯人、できれば一緒にいてやりたいんだけど、俺、独断行動の罰で明け方まで見張り台に上がってなきゃならないんだ。今だって本当は降りちゃいけないのを隙をついて来てるもんで……お前は、もうあんまり時間がないけど少しでも寝ておけよ。ここは絶対開けないようにしてな、なんなら俺の部屋使っててもいいから」
 いや、もうくたくただからこの床の敷物の上でも寝られるよ。今日一日、いろいろとありがとう、と後ろ髪引かれまくりの顔のサレを扉の外に送りだす。改めて今気付いた泥と若干の血痕も付いている衣服を脱いで、ふと思い立ち寝台の端に腰かけると唯人はきっちり巻かれて一分の隙もないアーリットの帯を緩めてやった。
 何度も折り曲げて胸元に斜めの折り模様を作っていた上布がゆるゆるとほどけ、胸がふうっ、と大きく息をつく。またえらく派手な模様の内着を着ているな、と思ったらおよそ着衣に隠れている部分ほとんどを埋め尽くしている模様はすべてが精霊痕であった。なんて綺麗なんだろう、この緻密さと配置の構成は最高級の芸術だなと感動してしばし見とれた後、我に返ってその身体を毛布で覆ってやる。 
 張りつめていた気分が急速に緩んできたのか、ぼんやりし始めた頭で予備の毛布を出して、床に敷いて小一時間程寝よう、ミラに起こしてもらってアーリットがまだ寝てたら……と考える身体がやがてゆっくりとかしぎ、ぱたり、と寝ている相手の隣に倒れ込んだ。薄明るい灯りに照らされた簡素な室内に、やがて静かな呼吸の音が響く。ふと、伸ばされた白い手が灯りを取り、ささやかな炎をそっと吹き消した。
「たーだと」
「……」
「そんな姿勢で寝ると落っこちるよ、下と上、どっちにするの」
「……」
「僕はまだ、君の寝相を知ってるほどの仲じゃないんだけどね」
「唯人殿は、大人しいですよ」
 暗がりから、別の声が囁いた。
「じゃあ、ちょっと窮屈そうだけど上に並べておこうか。と言うより、今日はもうここまでみたいだよ、諦めたら?おチビ」
「うるさいな、いい加減名前で呼べってんだ」
 抑えた声音と共に、身を起こす気配があった。月光が射す部屋の中、薄暗がりに灯った二つの緑光が傍らに向けられる。あれだけ言ってやったのに、まだこんな無防備な顔をして、と差し伸べられた手が眼下の頬に添えられた。
「いつから起きてたの?」
「すぐだし、お前らの内緒話は二百七十もいりゃあどいつかが聞いてるからな。俺に隠し事なんてできると思うなよ」
「はいはい、じゃあ今度からは大事な話は唯人の中でやりますから。この子はまだそういうところが慣れてないから難しいよ」
「今からでも、お前らの扱いを熟知してる楽なほうに乗り換えたいってんならこっちはいつでもいいんだぞ?」
「やだよ、そっちの過密っぷりもだけど銀枝杖とは僕、気が合わないんだ。こっちは空いてて、先の二人もなんか押しが弱そうでいい感じだ」
「さっきの話の続きってのは、聞いても答えないよな?」
「うん、無理強いする気なら戻るから、僕」
 無心に横になっている一名を挟み、向かいあう顔が表面だけは笑顔を交わす。ふっ、と軽く息をつくと緑の瞳は傍らへと伏せられた。
「さっき、あんな事があったばかりだってのに。ほんの少しでも、俺がこの手でその首ひねっちまうなんて思ってないんだな、この馬鹿は」
「もちろん、そうするつもりなら僕が止めさせてもらうけど。でも唯人は僕達精霊獣を信じて無防備なんじゃないと思うよ、君を信じてる心が揺るいでないんだ、おチビ」
「まったく、根本からゆるい奴だ。けど俺はそれに付き合ってやるほど青くはないからな、せいぜい逆手に取らせてもらうさ」
「何する気?」
「殺っちまうってのは無しだ、自分でもどうかしてたって思ってる。だったら垂らすって手があるぞ、時間かかるけどな」
「ふうん、それでさっきまであんなに隙だらけにしてたんだ。なんだか心配させちゃっただけみたいだったけどね。この坊やはせっかくの罠の餌の皮を剥いただけで寝ちゃったな、残念でした。その気になりそうな素振りがさっぱり伺えないよ、はたから見ててもそっちからどうにかしないと無理って気がするんだけど」
「その手には乗るか、今までのはとりあえず反応見てただけなんだからな。まだこの段階で無理強いなんかして、怯えさせたらそこで終わっちまうだろう。垂らすってのは、相手の懐に入って、相手がこっちになびいてきたらうんと焦らしてやってから絶対離れられなくなるくらいいい思いをさせてやって、後はその餌でこっちの言いなりにしてやるってのが極意なんだ。知識と身体総動員しなきゃできない、高等戦術なんだからな」
「偉そうに言うからには、やったことあるんだね」
「そりゃあな、三百年以上もこの国を安定させとくにはいろいろあるんだよ。誰も、教えてなんぞくれないんだ、独学でどうにかするしかない。こんなだらけきった寝顔さらしてるガキとは違うんだ……と、」
 ふと、顔に添えられていた手が何気なく首に触れた。途端、びくり、と横たわっている身体が大きく痙攣する。起こしたか、と一瞬室内が緊張する中、薄く開かれた眼がぼんやりと傍らの顔を映し、再度静かに伏せられた。
「何かを、怖がってるな」
「……」
 伸べられた白い手が、横たわる顔に添えられた手を無言で払う。ゆっくり寝かせてあげたいからもう出て行ってよ、と言い放つ暗い色の瞳は、向けられている緑のそれをちらと一瞥しただけだった。
「案外、お前から何かを引きだそうとするよりこいつの懐を開かせたほうが俺の望む答は得やすいのかも知れないな」
「さあ、どうだろうね」
「だが、さっきみたいにあっさりと自分の命をさし出して、首に突き付けられた剣の柄を笑いながら俺に握らせるような馬鹿な振舞いはもうさせないぞ。あれじゃ命がいくつあっても足らない、危なっかしいにも程がある」
「そこは、相手がおチビだからこそやったんだって気付いてあげようよ」
「どういう意味だ?」
「まあ、僕よりこの子自身から聞くべきかな」
 ふん、と不満そうな鼻息をつき、最後にもう一度、あまり見せない焦れたような表情で眼下の寝顔を見下ろすと、ゆるくほどけた布を引っかけ立ちあがった痩身が一動作で開いた窓を越え夜の闇に姿を消す。それを見送ってやれやれ、やっと静かになったと自分を巡るあれこれを露とも知らず寝息を立てている身体に毛布をかけてやり、ミラは僕に用?と暗がりからじっと見ている黒い瞳を振り返った。
「僕に言いたい事があったら、遠慮なく言ってよ?世界は違うけど同じ物精どうしなんだから、仲良くしようよ」
 目が合って、少し身を固くする。物精の道理では、より長く世にある物がやはり偉くて強い。明らかに見た目はか弱そうなミラに、ん?と促され鋭月はおそるおそる、といった感の声で話しかけた。
「先程の件について、一言申してよろしいでしょうか」
「うん、どうぞ」
「私が思うに、あの方のお話は根本的に若干の無理があります」
「どこが?」
「唯人殿と私は、生まれた地を共にしております。その上で言わせて頂くと、私どもの世界には両性の方はおられません。唯人殿も、頭では理解しようとなさっていますがあの方のことは男性として認識しています。私の時代ならまだそういう関係もそう珍しくはありませんでしたが、唯人殿にとってはあまり一般的ではないと言うか。大きな方に好意を示して頂いたときも、相当困惑なさっていたようでしたから」
「そうなの」
 一拍の間を置き軽く目をまたたかせて返された言葉には、若干の震えがあった。爆笑して寝ている主を起こさぬよう傍らの台に顔を埋め必死で耐える。何がそんなに可笑しいのだろうと困惑気味の視線に見守られ、苦しい息の下何とかミラは言葉を返した。
「それ、今後僕と君達だけの秘密にしておいていい?」
「別に口外する気はありませんが、何故です?」
「面白いから、すっごく」
「面白い……ですか」
「面白いの、おチビの性格を知ってたらね」
「唯人殿に、無理は及ばないのでしょうか」
「んー、無理かどうかは唯人に決めてもらおう。僕らは持ち主を護るけど、生き方にまで口は出さない。まあ見てようよ、何百歳だろうとどんなに突っ張ってようとおチビはあれですごく可愛いんだから。僕は彼が生まれた時から面倒見てたからね、よく知ってるんだ」
「貴方は、思ったより人が悪いんですね」
 そう言いながらも、不機嫌よりはまあいいか程度の顔で黒の和服姿が暗がりに霞んで消える。明日いつ起こせばいいのかなと呟いて、後を追うように白い影も消えた後、しばらくするとただひたすら取っ手にぶら下がっていた綱手が少々寂しくなったのか、するすると寝台のほうに戻ってきた。途中、台の上に置いてある貰い物のお弁当にちょっと寄り道して引っ張り出した乳果と饅頭を丸呑みにし、寝入っている唯人の首……はやめて、耳にかぶさるよう頭にくるりと絡みつく。遠くから、人が目覚め、活動を始めようとするざわめきが響いてくる。開いている窓の外は、もう薄明るくなり始めていた。



 久しぶりに、またあの夢を見た。
 よほど疲れていて、心の奥に押し込めていたあの蓋が開いてしまったのだろうか。夕暮れのどこまでも続く一本道、影として引きずって歩いているはずなのに、いつの間にか起き上がって背後から首に手を伸ばしてくる黒い闇。走って逃げても駄目なのに、だって足がくっついている。それでも怖くて、ただ怖くて細い道をただひたすら走り続ける。真っ赤な夕焼けの一本道……。
 なぜか急に、そこで視点が変わった。ぐるんと細い道が回り、まるでCGの映画のように少し太くなった道の両脇に見る間に木が立ち並ぶ。唯人の心の中の映像を、突然誰かが切って別の映像をつなげてきた。そんなイメージで始まった森の中のような風景の中、こちらに背を向けて道の真ん中に立っている小さな人影があった。  歳はまだ十になるかならないかくらいの子で、すっぽりとマントをまとい道の向こうをひたと眺めている。彼が待っている者はすぐに姿を現した、道の向こうから砂煙をあげて走ってくる一人の男。その背後から、見た事も無いような牛くらいの大きさの足の沢山ある蟲が追いかけてくる。
 少年までもう少し、というところで男は足をもつらせ転んでしまった。背に負っていた荷物から野菜らしき物が転がって周囲に散る、追いついた蟲の前脚が男を捕えようとした瞬間、少年の足元に光の紋が浮かび上がった。そこから巻き起こる風にマントが開き、地の紋から飛び出した蛇に似た生き物の牙が蟲の頭部に突き刺さる。
 男を逸れて通り過ぎた先でどうと倒れ、絡まれてびくびくと痙攣している巨体から視線を外すと少年は無言で落ちているものを拾い集め、男に駆けより差し出した。だが、男の方にはとてもそれほどの余裕はなかった。完全にまだ取り乱していてなにやら言葉にならない言葉をわめき、飛び起きるとそのまま後も見ずに走り去ってゆく。この歳の子供が見せるとはとても思えない暗い顔で溜息をつくと、少年は背後で蟲を絞めつけ呑みこみにかかっている蛇をどうということもなさそうに振り返った。
「みんな、精霊獣が見えないから、最初はすごいね、強いねって褒めてくれるんだ」
 少年の言葉は、独り言のようでも、誰かに話しかけているようでもあった。
「けどすぐに、陰でこう言い始める。あんなすごい化け物を簡単にやっつけてしまうんだから、きっとあいつはもっとすごい化け物に違いない、騙されるな、って」
 すごく嫌な事を思い出した顔で、少年は少し言葉を切った。
「どうせなら、そのほうが良かったのに。こんな人の姿じゃなくて最初から恐い化け物の姿だったなら、蟲を喰ってもみんな気にしない。みんなよりうんとゆっくり歳をとっても、いくらでも精霊獣を身体に持てたとしても」
 そう、この人に見える身体はただの殻で、いつかこの内から出てくる異形に引き裂かれて終わるのかもしれない。
「師匠は、お前はそういう人間なんだって言う。けどそういう人間と〝化け物〟のなにが違うんだろう?」
 抱えている腕の中の物を道の脇に置き、もう星が見え始めた空をゆっくりと振り仰ぐ。少年のマントのフードが下にずれ、毛先から生えぎわに向かって色が薄くなっている黒髪が肩を滑り落ちた。
「もう少し大きくなったら、師匠は教えてくれるのかな、そういうことを全部」
 暗い色の瞳が、星か、それより遠くのなにかを追う。
「ああ、でもいつ大人になるんだろ。それだって分からない」
 夢の場面が切り替わる前、唯人の心に湧き続けていた声と少年の声が重なった。
「分からないから、怖いんだ」
 怖いのは、どこかから追いかけてくる自分自身……。
 ……怖いのは。どこかで待ちかまえている自分自身。

湖畔国から神殿へ


 穏やかな朝の陽光に包まれて目覚めた朝、真っ先に感じたのは全身の痛みだった。横になっているのを上に向こうとしてまず肩が痛い、背中が痛い、腰が痛い。起き上がろうとしたら首と腕が痛くて両ふくらはぎも痛い、唯一の救いは頭が痛くないことくらいだ。体を動かすたびに妙な悲鳴をあげる唯人に、背中に引っかかっている綱手がするりと寝台の上に降りた。
えーと、朝だ、おかしいな、兵舎の起床鐘はまだ鳴ってないのかな。ぼんやりした頭を巡らして、ふと目に映ったお弁当の包みにどっと昨日の記憶が甦ってくる。なんてことだ、朝じゃないか!慌てて周囲を見渡して、部屋に誰もいないのを知り愕然とする。一動作で立ち上がろうとしたらとっさに足がついてこず、唯人はみっともなく寝台から下に転げ落ちた。
「うわ!痛たたた……もうこれ以上は勘弁してくれよ……」
「ちょっと、起きた途端に何騒いでるんだい、唯人」
 柔らかな声と共に背後から伸ばされた手に身体が引き起こされ、寝台の上に座らされる。ちゃんと起きなきゃいけない時に起こしてあげたんだから慌てない、とまるで子供相手のように言い聞かされて唯人は上目づかいで白づくめの相手をじっと見た。
「えっと、ミラ」
「ん?」
「僕昨日一時間くらい寝たら起こしてくれって言わなかったかな……言わなかったな」
「うん、聞いてない」
「アーリットは?」
「唯人が寝ちゃって、しばらくしたら起きて窓から出ていったよ。さっきキントの調書書いとけって、戸の覗き穴から帳面放り込んできた」
「サレは来なかった?」
「群島の子は、明け方来たけど唯人が寝てるのが分かったら帰った、おチビが言ってたけど、今日は客人は王様出迎えなくていいから昼すぎからの帰還祝いの宴までに用意すませて大広間に来いってさ。まずは身体洗って食事してきなよ、まるで土鼠みたいに汚れてる、しばらくみんな時間が不規則だから食堂はずっと開いてるんだって」
 そうですか、としか言いようのない見事なマネージャーっぷりであった。お弁当を食べなきゃ、と中身を見てみようとすると日持ちのする物ばっかりだからいつでも大丈夫だよと返される。日持ちのしない物は綱手が食べちゃったからねと付け加えられ、唯人は物を食べる精霊獣と食べない精霊獣について考察しつつ、綱手をぶら下げ部屋を出た。
 兵舎の中はもうみんな出払って人の気配は無かったが、一歩外に出ると王を迎える準備に湧きたっている城内は賑やかで活気に満ち溢れている。すれ違った顔馴染みの下働きの女の子に籠一杯の花びらをひとつかみ投げつけられたりしながら浴場に行って水を浴びると、アーリットには及ばないが、身体じゅうが色とりどりの痣だらけになっていた。
 強張った足をゆっくり揉んでほぐしていると、綱手が後ろから見よう見まねで肩を甘噛みしてくれてなかなかに気持ちがいい。今まであえて見ないようにしていたが、改めて見てみた自分と綱手の接点部分は肩に指で作った輪くらいの空青石とそのまわりに模様があって、そこが押しあがって額に石と柄を抱く綱手の先っぽになっている。それがあまりにも自然で、鋭月が身体から出てきた時より何とも感じなくなっている自分がなんだかもう駄目になった気がしてきた。そのやるせない気分を、とりあえず元凶になすりつけてみる。
「綱手、お弁当勝手に食べたんだって?」
「……」
「何食べたんだよ、楽しみにしてたのに」
「……!」
 生ものは腐るから、(推定)とか一生懸命ぱくぱく言い訳してる感の首っ玉をつかんで、ぐいーんと伸ばしてやる。これ水につけたら溺れちゃうのかな?と唯人が思うより先に、綱手は自分から水に潜ると唯人めがけて水を吹きかけてきた。
「うわ、よせよ!分かった分かった、もう上がるって!」
 誰もいないからってちょっとはしゃぎすぎたかな?と反省しつつ水を拭き、湯上がりに今日だけ特別に置かれている薄荷の匂いのする油をちょっと身体に付けてみる。それが嫌だったのか綱手が引っ込んでしまったが、まあいいか、と持ってきた軽衣を身に付けて、唯人は隣の食堂に行き入り口から中を覗き込んだ。中に結構多く人がいたり、顔馴染みがいたりしたらつかまって質問攻めにされたりしてうっとおしい。
 幸いそこにはあまり知らない顔が数人いただけだったので、さっと入って大皿に作り置きされている目の粗いパンになにか挟んだ軽食と果物を取ると唯人はさっさときびすを返し部屋へと戻る事にした。急いで調書を仕上げないと、昼過ぎからの式典までに用意が間に合わなくなる。行儀が悪いと思いつつ歩きながら食べ、綱手の口にもテルアの上品な甘さの乳果を押し込んでやる。ふと、自分につながっている綱手が口にした物がどうなるのか気になったがそれは考えてもしょうがない、それよりもっと大事なことにさっき気がついた。
『ミラ』
『なに?』
『鋭月』
『はい』
『スフィ』
『なんだよ』
『みんな、もしかして何か食べないといけなかった?僕、そんな事考えてなくて……』
 しんと、一拍とは言わない間が開いた。
『んー、それはいいから』
『お気遣いなく』
『いらねぇ』
『だって、綱手は……』
『唯人、物精と霊獣の違いについてはまた今度説明してあげる。僕らは唯人がちゃんと食べて元気で、僕らをまめに手入れしてくれたり大事に思ってくれればそれで充分だから、だって物だよ?』
 そりゃあ物だよ、言われなくても分かってるけど……あまりにも人間と差異のない彼等と共にいると、時々その事を忘れそうになる。部屋に戻って取りかかった、まだ満足に字を書けないから手こずると思った調書も、ミラが差し向かいで唯人の言葉を全て書き起こしてくれたので、それを写したら何とか終わった。
 時間が余ったので寝台に腰かけて、お弁当の中にあった栗に似た炒った甘い豆の皮をむいて自分と綱手の口に交互に放りこんでやる。湖から吹いてくる風に乗って届いて来る音楽に耳をすましていると、どう頑張っても意識が遠ざかりそうになってきた。
「駄目だ、眠いや」
『まだ時間はあるのでしょう?なら休んでいてもよろしいのでは』
「昨日は色々と大変だったものね」
「んー、でも、じっとしているとまたあちこちの痛みがぶり返してくるような気がするんだ。王様の前でぎくしゃくするのも嫌だしなぁ」
『なら、いいって言われたけどみんなが王様出迎えてるの見に行かないか?俺そういう派手なの気になってよ』
「へぇ、スフィってにぎやかなの好きなんだ。じゃ行こうか」
『おう!』
 ゆっくり、あくまでも身体ならしの意味で出来たての調書を手に、まずは蔵書の間に行ってノイ・タシクにお礼を言う。調書を提出するので中に入りたいと告げると、精霊獣は唯人に鼻を寄せもせずに扉を開けてくれた。続いて城のみんなが集まっている正面の大門の方に行ってみようと思ったが、サレの事を思い出したので見張り台の方へ上がってみる。石積みの優雅な湖城を取り囲むように幾つかそびえ立っている尖塔の、そのひとつの頂点を目指したことはすぐに後悔に変わったが、なんとか石段を登りきると眼下の眺めは実に爽快そのものであった。
「あ、やっぱりサレはもう交代したんだ」
「おお、唯人。小隊長なら明け方近くに交代して降りてったぞ、今はあの大門の隊列の中にいるんじゃないか?」
 見張りの任に就いていた、サレの部下の兵士が人で埋め尽くされている門の辺りを指し示す。その時、眼下でひときわ大きくファンファーレが鳴り響いた。
「おっ、両陛下の部隊のご帰還だ。テルア大路をやってきてる。お前いい時に来たな、唯人」
 人々の歓声が、一度に爆発的に膨れ上がる。ここからだと豆粒のようだが、それでも輝く飾りに覆われた角馬に乗った二人が兵を引き連れ街の人達に花びらを振りかけられながら湖の一本道に差しかかるのが見えてきた。それを門の真下で待っているのは、あの白い正装姿のアーリットだ。やがて両者は向かいあい、アーリットが頭を垂れ音楽が止んだなか、ユークレン王が朗々とした言葉を周囲に投げかけるとまたも湧き起こった皆の歓声が城じゅうに響き渡った。
『うーん、いい眺めだなぁ、狙撃してぇ』
『なに馬鹿なこと言ってんだよ!』
『冗談だって、さすが一国の王様だな、ここで見た限りじゃ国民の受けもばっちりみたいだし。唯人、午後会う時はしっかり気ぃ入れて恥かかないようにしないとな』
『スフィは、言うだけだから気楽でいいよ』
『決まってらぁ』
「ほんと、昨日のことなんてみんな夢みたいだ」
 何気ない唯人の呟きに、襟からひょいと出てきた綱手がぺたりと頭にへばりつく。はいはい夢じゃありませんと中に押し戻しているうちに、まるで菓子くずに群れる蟻のように人々に取り巻かれながら、馬を降りた両王とアーリットは王子たちに迎えられ城の中へと入って見えなくなった。やがて群れていた人々が徐々に散ってそれぞれの場へと戻っていく。音楽はまだしばらく続けられるようだったが、青空に輝いている陽の高さを振り仰いでそろそろ自分も準備しなくちゃな、と唯人は兵舎と反対側の城の本殿に目をやった。
『スフィ、もういいかい?』
『ああ、充分だ。面白かったぜ』
 見張りの兵に邪魔を詫びて別れを言い、石段を駆け下りられるくらいには回復した筋肉痛にほっと安堵の息をつく。ちょうど城内に戻ってきた大量の人々と鉢合わせになってしまい、なす術もなく流されつつなんとか兵舎を目指そうともがく唯人の背がふと誰かに呼ばれた。
「阿桜殿!」
「あ、はい!」
 聞き覚えのあるその声に、姿が目に入る前にかしこまって背筋が伸びてしまう。背丈は唯人の胸の下程しかないが、あのサレさえもやりこめてしまうつわものだ。一度つかまったら最後、絶対相手を逆らわせない威厳と表情で唯人の行こうとしていた城の裏手とは逆方向の城の中へと呼び寄せられ、唯人は仕方なくそのお膝元へと馳せ参じた。
「あの、何かご用でしょうか、アーテ王属教育長。僕はそろそろ午後の式典の用意にかからなくてはいけないんですが……」
「そろそろ?」
 唯人がやってくるのを見るや、くるりと向きを変えて歩きだした老アーテの目がきらりと輝いた。
「そろそろ、そろそろですと?この時間にまだそのようなお召し物でこのような場所をうろついておられる!一体何を召されて御前に上がられるおつもりでしょうかな、阿桜殿!」
「えっと、一応支給された服の中でまだ袖を通していないのがあるので、それを……」
「冗談をおっしゃいますな!」
 まさに、キントの自警団連中でもこうはいかないほどの一刀両断に唯人はちょっとふらついた。だって、なにか用意がいるならアーリットが教えてくれると思うだろう。
『あ、もしかして意地悪された……かな?』
『おチビは、そういう性格じゃないと思うけど』
『いや、分かんねぇぞ。あいつ見るからに根に持ちそうなツラしてっからな』
『言えてます』
 ……アーリット、どうやら君、微妙に嫌われてるみたいだよ。
「阿桜殿、貴方は千年樫の森辺りで保護されたと聞き及んでおりますが、その時の衣装はどうなされました」
「は、はい、まだありますけど…」
「なら、自国の証であるそれを纏うのが礼儀と言うものではないのですかな?身の証を知らしめるという意味でも」
「残念ですが、それは無理なのです。僕が着ていたのは確かに僕の国の服ですが…内着で、蟲の血が付いて駄目になっています。あれはもう人前では着られません」
 その言葉が終わった時、丁度老アーテが足を止めた。目の前には城に幾つもある小部屋のひとつの扉がある。ここには来た事がない、一体何の部屋だろうと耳をすませると、なにやら奥で複数の人のざわめきが聞こえるような気がした。
「内着で、千年樫の森ですか。本当に貴方は奇妙な御方ですよ、どうしてあれほど添王子殿下が懐かれるのやら。まあ、仕方がありません、そんなことだろうと思っておりました、ならば王の御前に出られる為の最低限の装いをここでなさって頂きましょう」
 皺の刻まれた、しかししっかりとした手に押され開かれた扉の中に入り込み……その中の様子が目に映った途端、瞬時にその場から勢いよく後じさろうとして、唯人は閉じられた扉にしたたかに後頭部を打ち付けてしまった。
「何をしているのです、さっさとおいでなさい。ぐずぐずしていると本当に間に合わなくなりますよ!」
 いつものちょっとキンキンした声になって小柄な姿が奥へと進んで行くが、正直唯人はそれどころではなかった。そこそこ広い部屋いっぱいにいる、化粧をしたり髪を結ったり色とりどりの衣装を着ようとしている沢山の女性たち。唯人が大きな音をたてた時、皆一斉にこちらを向いたが肩の精霊痕に気づくと騒ぎもせずあっさり無視されてしまった。どうやら精霊獣師→両性→気にしない、という扱いになっているらしい。だからといってこっちも平気でいられるはずなどありはせず、思い思いに肌を晒している女性達の間を耳まで真っ赤になって通り抜けると、唯人は壁一面を覆っている作りつけの衣装箪笥の中から迷わず何かを取り出している老アーテに歩み寄った。
「これを着てもらいましょう、私の甥の子がここに預けてある礼装です。何かあったときすぐ使えるようにと作っておいた物ですが結局使わぬままになっておりました。寸法はいかようにもいたします、まずこの下履きからお付けなさい」
 傍らの台の上に積み上げられた服一式を目にして、唯人は老アーテがのんびりしていると間に合わなくなるというのが今回ばかりは分かるような気になった。軽衣を脱いでまず薄い内着を付けると久々な感の袖のある長いチュニックみたいな服を着る、その上から締めて前に垂らす幅広の帯は、領地の紋が入っているというので別のを巻いたがどうしても長さが余るので仕方なく地味めの女物に替えられた。膝下から足首までは深緑の細布で巻いて止め、内心これはいらないと思うひらひらさせるだけが目的のような薄いショールを肩にかけ、前に垂れた飾り紐を気が遠くなるような手順で編みあげる。最後に白地に淡い緑で刺繍をしてある背の割れた綺麗な上着を羽織ったが、これも明らかに袖が長かったので、袖口を折り上げて赤い石の付いたピンで留めた。
 すでにどっぷりと疲労を感じつついざ完成してみると、固い上着の下のひらひらっぷりに目まいがする。今までは精霊獣師の正装ばかりで布でぐるぐる巻きの生活だったが、それに慣れてしまうと今度はあちこちの風通しが良すぎて、綱手が変なところから出てきやしないか、と唯人は上着を首の方に引き寄せた。すかさずそれをぐいと直し、髪をちょっと整えてまわりからじろじろと眺めた後ふっと納得したように老アーテが息をつく、どうにか満足のいくできに仕上がったようであった。
「まあ、なんとか見られる程度にはなられましたな。これなら無作法にはなりますまいて。では、お行きなさい、阿桜殿。丁度良い時間になりました」
「ありがとうございます、アーテ王属教育長」
「貴方から礼を受けようとは思うておりません、智の国の全ての民は知らぬ者に教える義務があるのです。阿桜殿、貴方はそれを着るはずだった者に少しも似てはおらぬのに、夜毛(黒髪)が白によう映えておりますよ。後は作法をきちんとこなして大人しくしておりなさい、それと、添王子殿下にはあまり馴れ馴れしくせぬように」
「はい、分かりました」
 小柄な姿に向け、謝意を表す胸に手を添える姿勢を取って、なるべく周囲を見ないよう俯いて扉を目指す。すでに色とりどりの衣装をまとって仕上げに余念のない女性達は唯人を目で追ってまんざらでもなさそうな囁きを交わし、一番扉の近くにいた濃紫の長衣の女性は唯人を呼びとめると杏色の生花を胸の飾り紐に挿してくれた。すかさず服の下で綱手がごそりと動く気配を感じ、これは食べ物じゃない、と肩を押さえて部屋を出る。視界のすみでふわふわしているショールの事はなるべく考えないように、上着の刺繍の見事さに意識を集中して大広間に向かうと入り口に礼装用のきらびやかな鎧を付けたサレがいるのが見えた。
「サレ!ここにいたんだ!」
 走ってはいけない、と早足で近寄ると、向けられた暗紅の瞳が一瞬誰だ?と言いたげにまたたいた。
「唯人か?」
「ごめん、朝寝ちゃってて」
「うわ、誰かと思ったら、またえらくめかし込んだじゃないか。可愛いよ、すっごく可愛い、ものすごく似合ってる!」
 その褒め言葉は二十歳の男性として喜んでいいんだろうか、場所が場所じゃなきゃ、と抱きつきたくてうずうずしているオーラを発している笑顔に苦笑する。多分寝ていないはずなのに、それを微塵も感じさせない様子で広間に入ったらどうしたらいいか簡単に説明してくれると、サレは広間の一番奥の王座の端にちらりと見えているアーリットを指し示した。
「……それで、一通り式典が終わったらどうにかして奥に行ってアーリットに見つけてもらえ、そしたら頃合いを見計らってアーリットが両王に挨拶させてくれるから、それが終わったらもう居ようと帰ろうと好きにしていい。添王子はお前と話したがるだろうけど、今日はちゃんとした敬語使わないといけないからそこそこにしとけよ?」
「サレは、ずっとここにいる?」
「ああ、俺はここの警備だから。何かあったらいつでも来い」
 さ、行った、と肩を押しやられる。俺今から眠くなったら唯人のこと思い浮かべるよ、絶対眠気吹っ飛ぶからと最高の顔で言い放たれ、これ以上ここにいたら遠からず抱きつかれるな、と唯人はサレと別れ、広間の中に入った。精霊獣師八級の認定試験は受けたものの、正式にユークレン国の軍属にはなっていないので、今の唯人の立場はまだ一級精霊獣師の客人扱いである。王が座す上座から近い順に地方領主等の貴族、軍人、豪商などの一般人、と並んでいるので、唯人はそれぞれの顔を伺いながらサレに言われたとおり軍人と一般人の境目の端っこの方に分け入った。
『良かったね唯人、この服着せてもらえてなかったら相当悪目立ちしてたよ』
『まったくだよ、考えてみれば王様だものなぁ、今までそんな経験なかったから想像できなかった』
 上座に目をやると、王と王子の分、四脚の椅子が並び傍らで彫像のようにじっとアーリットが立っている。こちらも昨日の事など微塵も伺わせないいつもの顔だ。人ごみに埋もれている唯人は目にかからないのか、こちらに向く気配もない。後でどうやって気付いてもらうか思案しつつ優雅であって華美でない、きっちりしていて堅苦しさのない城の調度を眺めていると、広間に高らかに管楽器の音が響き渡った。
 ざわざわしていた周囲が静まり上座に注目が集まる中、くるりと背を向けたアーリットのいる側から王族四名が姿を見せる。初めて間近に見るユークレン十五世王とレベン・フェッテ添王はあの肖像画より幾分歳を重ねて見えるものの、受ける印象はそのままの堂々とした良君であった。少し線が細く男性的でない感のある、思慮深そうな印象のユークレン王が留守中何事も無かったこと、アシウントでの会議がつつがなく終わったこと、主王子が良く城を護ったことに謝辞を述べ、続いて添王が領主、軍、領民がまとまっていたからこそと一同に賛辞を述べる。それに対しての臣下の代表からの返礼が次々に述べられ、最後の一人が滞りなく言葉を終えると再び管楽器の音が響きそれからは賑やかな宴の始まりとなった。
 きちんと並んでいたそれぞれの身分の者達が一気に混じり合い、楽の調べが始まると共に料理が運び込まれてくる。領主級のとてつもなく偉そうな人物が結構来ているようなのでまあすぐは無理だろうな、と唯人はとりあえずアーリットの目に留まろうと人々の間を縫ってじわじわと王座のほうへと近づいていった。いい匂いがしているが、なんとか綱手は大人しくしてくれている。人の流れの関係でアーリットがいるのと反対側に寄ると先に添王子が唯人に気づき、小さく手を振ってくれた。というか、手招きして、こっちに来いと言っている。いや、それは無理。王の横でじっと座っていなければならない立場なのは分かってはいるのだろうが、添王子の年頃ではやはり退屈なのかそわそわして主王子に目でたしなめられている。
『こっちおいでよ、唯人』
『いや、無理』
『こそっと来たら分からないよ』
『無理だって!それよりアーリット……』
『?』
 以上、口パクでの会話なので大事な部分が伝わるはずもない。諦めて再度大回りして反対側から回り込もうとテーブルの横を通りすぎたその時、淡褐色の衣を纏った一団の声が唯人の耳に届いてきた。
「また、あのように添王子のお心を乱されて。あのような得体の知れぬ者を、このような場でも自由にさせておくなどテルアの護りはどうなっておるのやら」
 え?と振り返るとしっかりと目が合った、ここにいる間見かけたことが無いでもない、王城守備兵の精鋭四級精霊獣師達だ。なんだか嫌な目つきでこちらを睨んでいる。確かに添王子にはすまない事したなと軽く胸に手をやってその場を去ろうとした、唯人に一同は更に言葉を重ねてきた。
「仕方あるまい、あの一級精霊獣師が連れてきたものだ。同じように異国の傭兵や王子に取り入るのも上手かろう。この国がいずれ得体の知れぬ輩に乗っ取られぬよう我らが尽力せねばなぁ」
 どっ、と笑いが起こる。これはひどい、何百年も国を支えている守護者に対してこう思っている人がいるなんて。自分がここで何を言おうと何かが好転するとは思えなかったが、黙っている気には到底なれず唯人はきびすを返すと厳しい顔で四級精霊獣師達に歩み寄った。
「すいません、今の言葉はおかしいと思います」
「おお、身元不明の八級の分際で話しかけてきおったぞ」
「一級精霊獣師アーリット・クランはもう数百年もユークレンを守護していると聞いています、この国を手にする気があるならもうとっくに済ませているはずでしょう。そんな邪推は無意味だと思いますが?」
「この国に来てまだ半月足らずが言いおるわ。では見てみろ、己の素姓を何ひとつ明かさぬままああやってこの国の重要な戦力である精霊獣師の頂点の位に居座って、国王の懐で国の祭り事にあれやこれやと口をはさんでくる。それこそ国を乗っ取ろうとしていることの証ではないのか?護るだけなら大人しく獣らと共に森に引きこもっていれば良いのだ」
「お前も奴に加担するためにここに来たというのなら、けして一人で我々に近づかぬことだ。八級」
「八級ふぜいが」 
 なんだか、華やかな周囲の中相当嫌な気分になってきた。腹が立っているわけではない、結局彼等はただ強すぎるアーリットを妬んでいるに過ぎないのだ。強すぎて本人には何も言えないから陰口を叩き、格下の唯人にはあからさまに侮蔑の言葉をかけてくる。ここでしばらく共に学んだ六級以下の精霊獣師達はこんなではない気持ちのいい連中だったのに。どこでこうなってしまったんだろう、と黙り込んだ唯人のようすをやり込めた、と思ったのか、中の一人がずいと近づいてきた。
「見てみろ、こいつときたら精霊獣師の作法の基礎もまだ知らんようだぞ?何の為に精霊獣師正装が決められていると思っている、お前のようなつまらん者の実力と価値を一目で周囲に知らしめる為にあるのだ。おい、トルーリ」
「なんだ」
「お前の鋼刃蟲でこいつの服を切り刻んでやれ、そうすれば泣いて逃げ帰るだろう」
 それはいい、と一同の顔が下卑た笑みで歪められた。冗談ではない、この衣装は王族の教育長である、この城いち礼儀作法に精通した老アーテが唯人の立場を判断した上で着せてくれたものだ、こんな連中に文句を言われる筋合いはない。何か仕掛けてくる予感がするので、隙を見せないようにゆっくりその場から離れようとした、唯人の左手が突然下から弾かれたように跳ねあがった。
「えっ?」
 胸の前でしゃり、と何か薄くて硬い紙を握りつぶしたような微かな音が響く。気がつくと、袖口から伸びた綱手が目にもとまらない早業で捕えた何かを噛み砕いていた。
「こ、こら、綱手。何食べた!」
 慌てて引き寄せ口をこじ開けようとしたが、わずかの差で飲み込まれてしまった。そのままするりと唯人の肩を一周し、空色の貴石をはめ込んだ頭がぴたりと淡褐色の一団に向けられる。何が起こったのかようやく分かった、名を呼ばれた一人が絞り出すような声を上げた。
「貴様……鋼刃蟲を、喰った……だと?」
「おい、そいつは一体何なんだ!」
「瑠璃鉱竜、らしいです」
「は?なんだそれは、聞いたことがないぞ」
「いや待て、もしや……」
「失礼します、よろしいでしょうか」
 ふいに、聞きなれた声が背後から響いた。
「アーリット!」
 振り返った目に、懐かしい白い正装姿が映る。いつの間にやってきたのか、ごく自然にすいと唯人の前に入ると、気にいらない相手ほどレベルの上がるあの優雅な愛想笑いでアーリットは四級精霊獣師らを見回した。
「申し訳ありません、見たところ話がはずんでおられたようですが、王が客人を召されておいでです。ここは私に免じて彼が席を外すことを容赦願えませんでしょうか、ご一同」
 深々と腰を折り、さ、と唯人について来るよう目線で示しその場を後にしようとする。アーリットの彼らに対しての寛容さは、残念なことに上手く伝わらなかったようであった。
「お待ちください一級精霊獣師殿、その者を御前に伴う事、ご一考願いたい!」
「何でしょう」
「たった今、王城守備隊霊獣師トルーリ・イアナンの精霊獣がその客人の見たことのない霊獣に襲われ喰われてしまいました。そのような危険な者を王に近づけるなどとんでもない、いくら貴殿の客人でも認めるわけにはいけませんぞ、アーリット・クラン殿!」
 ああ、やっぱりうろうろしたのは間違いだった、大人しくサレの方にでも行ってじっとしていたほうがどんなに良かったか。自分だけなら何を言われてもしょうがないが、アーリットをいちいち巻き込んでしまうと本当に嫌になる。唇を噛んだ唯人の表情にやれやれ、と貼り付けた笑顔のまま何かのスイッチが入った輝きを眼に宿すと、アーリットはゆっくりと彼らの前に向き直った。
「この精霊獣を、存じておられませんか」
 唯人の袖の綱手に皆の視線が向けられると、嫌なのか白い姿はするりと中へ引っこんでしまった。それでも何か危険があればいつでも飛び出すぞと手の甲にじっと寄り添っている。しかたなく、唯人は左手をそっと後ろ手にした。
「おかしいですね、四級ともなればその程度の知識はあってしかるべき、なのですが。瑠璃鉱竜は、かつてアシウント五世が所持していた晶竜族の貴種ですよ。滅多に現れないし人の力ではまず従えられないから成竜を手に入れることは誰にもできない、ありえない奇跡でも起きて地中深くの羽化現場に立ち会えて、竜に認められ名を与える幸運に恵まれればやっと得られる精霊獣なのですから。多少の事は眼福とでも思って頂かなくては、それに……」
 なにやら含みのある表情で、アーリットが唯人を振り返る。
「皆様は、どうやら少々思い違いをなさっておられるようで。精霊獣師八級の者がこの場に居合わせる事にご不満がおありのようですが、これなる客人阿桜 唯人が精霊獣師八級であるのはひとえにこの国の知識が不十分なのと、八級を最低限の身分証明と理解しておられるから。実力と価値の点でいうなら瑠璃鉱竜と異界の武具二体、その上伝説級の双界鏡まで備えておりますし、私も恥ずかしながら、つい昨日出先のキントで彼に不意をつかれたとはいえ昏倒させられる事態がありました。この国を支える精霊獣師の一級資格者として、まだまだ精進が足らぬと自覚させられた次第です」
「一級精霊獣師を、倒した……だと?」
 立て板に水でアーリットの言葉が続けられるうち、段々顔色が落ちて青ざめてきた面々がさすがにこれは無いと思ったのか、なけなしの虚勢をかき集めてがなりたてた。
「何を言い出すかと思えば、回円主界にその名を響かせる一級精霊獣師殿がご冗談を」
「そのような事、嘘に決まっておろう」
「ありえん!」
「この嘘で、私に一体何の得があるというのでしょう」
 ふん、とアーリットが鼻で息をつく。もはや、一同が唯人を見る目は恐怖に近く、一番離れた位置にいた数人などはそそくさと背後の人混みにまぎれて姿を消してしまった。
「お分かりになって頂けましたか?私は先代よりこの国の平定と安寧を託され数百余年、この国を護る為の最善を考え常に行動しております。この偶然訪れた、たぐい稀なる力を持つ穏やかで少々物を知らない客人が、この国からいささかの敵意も受け取らぬよう、ユークレンが良き友となろう事を示すため、王が会われて話をすると申されているのです。今一度問いますが、異議はおありでしょうか?」
 権力を笠に着ようとする者は、更なる権力には可笑しくなるほど無力であった。もう言葉を発することも、伏せた顔を上げることさえもできなくなった四級精霊獣師達にでは、とアーリットが優雅に身を返す。先程まであんなに気分が悪かったのに、なんだか少々彼らが気の毒になってきて唯人はどうしても無理か、とさっき綱手が飲み込んでしまった何かが取り出せないか口の中をやや奥まで覗いて見た。やはりきれいさっぱり何も無い。
「客人、早くおいで下さい、王が待っておられます」
「は、はい、すいません、失礼します」
 ぎくしゃくと頭を下げ、慌てて離れていく背を追いかける。完璧な愛想笑いを瞬時にうちとけている証のむっつりした顔に戻すと、アーリットは改めて唯人を頭からつま先まで遠慮なくじろじろと眺めまわした。
「思ったより、いい感じに仕上がったな」
「ひどいよ、なにも教えてくれないんだから。精霊獣師の正装でいいならアーテ教育長にこの服はいいって断ったのに。時間かかって難癖つけられて……もう疲れた!」
「そういうな、老アーテはその衣装が箪笥の中で腐ってるのが残念で、以前から着せる相手を探してたんだ。お前泳がしときゃ絶対つかまると思ったんだが、上手くいったな」
「だから、一言教えてくれって言ってるんだ!……それで、どの辺りで見つけてくれたわけ?」
「サレのバカでかい声が、正面入り口から聞こえてきたときからだ」
「それじゃ、最初から全部見てたんじゃないか。もういい、アーリットってそういう性格だった!」
「あのな、俺だって上でただぼさっとしてたわけじゃないんだぞ。今やっと貴賓客をさばき終わったとこだ、せっかく添王子のそばまで来てたんだからそこでじっとしてりゃあすぐに呼んでやったのに、ふらふらと最悪の連中んとこへ吸い寄せられやがって。クーロ・キイでとっつかまえときゃ良かったのか?」
 その一言で、きゅっと唯人がまた唇を噛んだ。はいはい僕が悪いんです僕は最悪です、の顔に慌てたアーリットが卓上の菓子をひとつ取り唯人に握らせる、二十歳の男宥めるのにこれはない、とどう見てもねじった棒状の飴に見えるそれは右から左で綱手の口に投げ込んでやった。
「あいつらのことは気にするな、血筋がいいんで金で強い精霊獣持って四級になってるお貴族様どもだ。叩き上げの本物の四級は皆国内外の要所の護りで散ってて城にはいない、位に合った仕事をさせてもらえないからくだ巻くしかない哀れな連中さ。普段あんな事言ってるのに限って、いざ闘いの場で身が危うくなったら笑っちまうくらい頭下げてすり寄ってくるんだぞ、怒る気にもならん」
「それでも、他人の精霊獣を食べてしまったのは良くないよ。なんとかして戻せないのかな」
 素知らぬ顔?で飴をぼりぼり噛み砕いている綱手の滑らかな胴の、付け根のあたりをつかんで中の感触を確かめてみる。どこに行くのか考えたくないが、無いものは無い。
「そりゃ無理だな、唯人、瑠璃鉱竜は空青石の精霊獣だ。空青石ってのは、中に精霊獣を封じることができる石だってのは知ってるな?」
「うん、ミラに聞いた」
「アシウント五世の記述によると、王の瑠璃鉱竜は喰っちまった精霊獣を王のものにしちまう力があったらしい。瑠璃鉱竜自体が相当強い部類の精霊獣だから、その気になりゃお前もすぐに俺と同じ大所帯になっちまうぞ。一体どこまで行くつもりなんだお前」
「それは、僕がミラに聞きたいよ」
「そこまでやって備えなきゃならん今後が、この先お前を待ちうけてるって事だ。俺はやれるだけの助力はしてやるつもりだが、協力はしないからな」
「うん、殺気出されなくなっただけでも十分有難いよ」
「それはもう言うな」
「じゃあ、ミラが君を不意打ちで気絶させたのも言いっこなしだ。あれは僕がやったんじゃないし」
「やったようなもんだろ」
「違うって!」
 そこで一旦会話を切って、ふいと表情を引き締めると唯人はずらりと並んでいる順番待ちの列をアーリットについて追い越してゆき、その先頭で待っている人に軽く謝意の姿勢を取った。先に王の座に上がったアーリットが王に何か囁いて、唯人の名が呼ばれる。添王子が花を飛ばしそうな笑顔で迎えてくれているのを横目になんとか無表情を維持し、唯人はユークレン両王の正面で作法にのっとり膝をついた。
「王、彼の者が私が先日千年樫の森で保護しました客人でございます」
「うむ、阿桜殿、顔を上げてくつろがれよ。そうかた苦しくされることはありません」
 かけられた声に、ゆっくりと顔をあげるとユークレン十五世王は目を細めた笑顔を向けてくれた。隣のレベン・フェッテ添王は、多分地顔らしい、少し眉間に力の入った無表情でじっとこちらを見つめている。王と主王子はとても良く似通っているが、添王と添王子は……ちょっと言葉に詰まる印象の二人だった。
「どういう経緯で我が国に来られたのかは、いずれ聞かせてもらうということで。我がユークレン国は親愛の念を持って貴殿を迎え、貴殿に国の民と等しき全ての権利を認めます。望むだけの時をこの地で過ごし、身の振り方を決められると良いでしょう」
「ありがとうございます」
「なんだ、一級精霊獣師が拾ってきたというからどのような珍妙な輩かと思ったら。見たところは普通の人間ではないか、つまらん」
 顔の印象そのままに、低い声でぶっきらぼうに呟かれた添王の言葉にこれ、と王と添王子が困った顔になる。こんな時どういう顔したらいいのか分かりません、とちらとアーリットを見たら頭下げてもう帰れ、と顎で示してくれた。
「見た通りに取って頂いて結構です。それでは、両王に祝いの言葉を捧げる後の皆様方の御為にそろそろ下がらせて頂いてよろしいでしょうか」
「そうですか、ならば添王子、客人のご相手をして差し上げなさい、このような場に慣れておらぬと困るであろうから。すぐに帰られては勿体ない、ゆるりと宴を楽しまれよ」
 どうやら、ユークレン王はなかなかに機知に富む、周囲を良く見る人物のようであった。添王子が退屈しているのも、唯人が面倒事に巻き込まれたのも上からちゃんと見ていたらしい。ぱっと顔を輝かせてやってきた添王子に付き添われ、なんとかその場を後にする。あまり人のいない場所まで行って壁を背にはぁ、と一気に溜めていた息をついた唯人にごめんね、レベン様口が悪くて、と添王子は華奢な杯に入った飲み物を持ってきてくれた。
「唯人はお酒とお酒じゃないのとどっちが良かった?ひとつずつ持ってきたんだけど」
「あ、じゃお酒でいい……結構です」
「?」
「今日は、ちゃんと敬語を使うようサレ……ナナイ小隊長に言われましたもので……ええと」
「そんなの、無理しなくていいから。誰も聞いてないし僕が聞きづらくていらいらしないほうが礼にかなってるって事なんじゃないの?はい」
 添王子が両手に持っていた杯の、淡い金色のほうを手渡してくれる。一口含むと、甘酸っぱい果実酒の味が口に広がった。
「唯人、アーリットに怒られなかった?ごめんね、僕唯人が離れて行った時呼びとめたかったんだけど、声が出せなかったんだ」
 どうやら、先程の口パク会話で唯人が〝こっちにおいで〟ととった王子の身ぶりは〝そこにいて〟だったらしい。
「うん、こっちこそごめん、あれは完全に僕が悪かったから。みんな上から見てたんだね、恥ずかしいよ」
「アーリットも落ちつかない顔してたよ、王様が見かねて呼びに行かせたらすっ飛んで行ったもん。唯人にかかわってるとアーリットのあんまり見た事がない顔が見られて面白いな」
「そうなんだ(アーリット、ごめん)」
 王座では、何事もなく挨拶を述べる人達が整然と行ったり来たりを繰り返している。添王子ほどあからさまではないが、添王も幾分退屈しているのか、視線が賓客とこちらとでちらちら揺れているように見えた。
「レベン様はね、口が悪くて強面で愛想がないけど、ああ見えて気遣いもするし家族思いでとっても優しいんだ。回円主界にその名轟く軍事大国アシウントの直系だからね、見た目が強そうなのは当然さ。元々ユークレンはアシウントに農業と知識で伴侶みたいに寄り添ってる国だから、王族同士の婚姻もよく行われているんだけど……当代のアシウント王の第二主王子だったレベン様は、ユークレンとの国境近くの地方領主の反乱鎮圧に来た時軍師として参戦していた当時のユークレン十四世主王子を見染めちゃって戦をあっという間に片付けた後、そのまま引きとめて婚約者宣言しちゃったんだ、その時ユークレン主王子にはもう国内に許嫁がいたから大騒ぎになったんだけど、力づくで婚姻まで押しとおしちゃった。だからレベン・フェッテ(とんでもない盾)なんて名前授けられてさ。自由で情熱的で憧れるとこはあるけど、僕はあの名前だけはちょっと嫌だな、恥ずかしいもん」
「授けられるって……添王子は、もしかしてまだ名前無いのかい?」
「うん、王族には基本名前は無いんだよ、呪法に使われないようにね。ユークレン十五世添王子が今の僕の名前、兄様はいずれユークレン十六世になって生涯を終えたとき墓碑に名が刻まれる。剣勇王とか優治王とかね、僕は王が決めたどこかに嫁いで添王子でなくなったらその国で名前をもらうんだ。多分どこかの王族の傍流か地方領主のとこに行くんだろうけど」
 念入りに手入れされた金髪を揺らし、まるで他人事のようにふふ、と笑顔を向ける。ふと通りかかった同い年くらいの綺麗に着飾った少女に挨拶され、優雅に返礼するとふたことみこと言葉を交わし、王子はさっさと唯人に向き直ってしまった。
「可愛い子だね」
「そう?テシキュルとの国境そばにあるタリエティ領領主のご令嬢だよ、普通って感じ」
「普通って……添王子は家族がみんな綺麗だから、基準が高くなるのはしょうがないか」
唯人のお世辞抜きの本音の一言に、王子は軽く吹き出した。
「唯人、いい事教えてあげる、この先は内緒だよ」
「なに?」
「アシウントの親族に会いに行った時、みんなに言われたんだ、僕、小さい頃のレベン様に本当にそっくりなんだって」
「え?!あ、と……まあ、親子だからそうだろうな……(いやいやありえないって!)」
「唯人ぐらいの歳になる頃には、きっと兄上より大きくなるよ。サレくらいいけるんじゃないかな、なんたってアシウントの血だから」
「え?主王子よりも大きくなる?」
「もちろん!そうなったらいつかレベン様やっつけてこの国を出て、サレみたいに他国で修業するんだ。好きな人も自分で見つける」
「なんで、途中で下剋上入れるわけ?」
「王族が、王すなわち国の決めた事に対して我を通すってのはそういうことなの。レベン様だって王どころか四方八方を拳と言葉で収めて僕をこの世に生み出してくれたんだから、その結果がこうなりましたってのをちゃんと分かってもらわなきゃ」
「すごいな、添王子って。もっとなるようになるみたいな感じかと思ってたけど、自分の事、考えてるんだ」
「サレもそうだと思うんだけど、後取りじゃない王族って明らかに予備だからね。後継ぎの邪魔しないように生きてくのが役目っていうか」
 でも、最低限それさえ守ったら後は好きにする自由だってあっていいでしょ?と空の色の瞳はちょっといたずらっぽく輝いた。
「唯人、お腹空いてない?何か食べよう、今日の宴は王宮の料理長が腕によりをかけた御馳走揃いだよ」
 言うが早いがその手を引いて卓を巡り、あれはおいしい、これは珍しいと皿に料理を積み上げる。それを唯人が口にするのを添王子は嬉しそうに見守った。
「それで唯人、良かったら昨日の事教えてよ。どこに行って何してたの?みんなその噂でもちきりだったんだよ」
「うーん、それは調書に書いたんだけど、話していいのかな……実はキントに行ってたんだ」
「あ、やっぱり。サレの部下の人が、多分アーリットに命じられてどこかで極秘任務に就いてたんだろうって言ってたんだ。それが広がってなんで余所者の八級がって騒ぐ人が出るのはしょうがないんだけど、さらに飛躍して、ついにアーリットが自分の配下をテルアに入れてきたとか言いだしちゃってさ」
「は?」
「唯人がそういう風にアーリットの手まわしで国内のもめ事をばんばん片付けたら、すぐに地位が上がるだろ?そうやって力のある駒を増やしてユークレンを手に入れようとしてるんだって。ちょっと考えれば、その気にさえなれば一人ででもこの国を手にできるかもしれないアーリットがなんで今更そんな事始めなきゃいけないんだって思うんだろうけど、もう少し考えてみたら、なんでアーリットって何百年もこの国を護ってくれてるのか正直誰も知らないんだよね、そこがちょっとさ」
「それで、さっきあんなこと言われたのか。で、添王子はどう思ったんだ?」
「僕?僕は……最初は、ひょっとしてアーリットが後継者を連れてきたのかなって思ってた。テルアの歴史書に、三世の戴冠式に千年の君が初めてアーリットをテルアに連れてきて、その後姿を消したって記述があったから。だから後継者の唯人にいろいろ経験させようとしてるのかな、って」
「あー、今のところそれだけは無いよ。アーリットは自分の寿命がいつかなんて知らない、後継者なんて全然頭にないみたいだから。僕は一昨日本当に偶然キントに連れていかれて領主の企みに巻き込まれたんだけど、そこで僕をこの世界に連れて来た人に会うことができたんだ。これからの事は、その人に聞かないと分からないんだけど、多分ここを出ていくんだと思う。アーリットもそんなこと言ってたし、彼に変な疑いがかかっているのなら僕もそうするべきだと思うんだ」
「唯人、テルアを出て行くの?」
 添王子が、驚きに眼を見開いた。
「そんな、せっかく仲良くなったのに、精霊獣師検定試験受けてたから正式にユークレンの軍に入ってくれるんじゃなかったの?言いたい連中には言わせておいたらいいじゃない、そんなのほんの一握りだし、みんな唯人の事気に入ってるんだよ?」
「僕も、ここはいいところだって思う、できればずっといたい。でも僕は自分の世界を無かった事にして、ここでずっと暮らす為にここに来たんじゃないと思うんだ、それだけは分かってる」
 くるくるした瞳をひたと向けている王子の視線を避けるように、皿の上の料理をひとつつまんで左手の前にかざす。そろりと伸びてきた綱手がそれを取るのを王子は不思議そうに見守った。
「また何か手に入れたんだね、キントで?」
「うん、キントの鉱山で知らないうちに僕のものになってた綱手、瑠璃鉱竜なんだって」
「瑠璃鉱竜って……あのアシウント五世の?それをさらっと言っちゃうのが唯人のすごいところだよ。なんでそんなの手に入れられたの」
「さあ、僕に何かをさせたい誰かが、僕にこれが必要だって思ったみたいだ」
「その〝何か〟が、この国、そして世界に善きものであることを切に願うよ、……正直、もう僕の部下になってなんて言える相手じゃなくなっちゃったな」
「え?」
「ううん、なんでもない」
 空色の眼が、ふいとそらされ苦笑する。
「もし出て行くとしても、一昨日みたいに誰にも何も言わずってのは勘弁して欲しいんだ。アーリットにだけってのも無しだからね、でないと僕もみんなも探すから、見つかるまでずっと探すよ」
「分かった、誓ってそんな事しないから」
「約束したからね」
 さっき皿に取ったものの、いざ食べてみると辛くてとても無理だったラバイア風腸詰とやらを数本、置いてあった薄紙で上手にくるんでこれはサレの大好物だから、と唯人に渡す。それを合図にしたように、宮廷の中に軽やかな調べが流れ始めた。うわ、いけない、王族の退廷の合図だと王子が慌てて王座を振り返る。ごめんね唯人、もういかなきゃとじたばたする背を僕もサレのとこ寄ってもう帰るよ、今日はありがとう、両王にもよろしくと唯人は笑顔で見送った。
『それで、具体的にはいつ頃ここを出て行くのかな、ミラ』
『そうだね、もう準備はできあがったからいつでもいいんだけど、昨日の事があったからしばらく体を休めて調子を整えてから行こう。近いうちに王様に呼ばれて色々聞かれるだろうから、その前にはね』
『その前?アーリットが話してくれるって言ってたのも、もういいのかい?』
『そういうのを聞きたいのなら、なんでも僕が教えてあげるから。唯人みたいに危機感なしでうかうかそんな場に出たら、答えられない事までさんざ尋問されて下手すると拘束される恐れもあるよ。これに関しては、おチビも聞きたい側の人間だから助けてくれるとは思わないことだ』
『やっぱり、出て行く時には黙ってだよね、アーリットにも』
『それは、もう黙ってたって意味ないよ。僕と瑠璃鉱竜なんて連れてたら、言葉通りの意味じゃないんだけど匂い、みたいなもので彼には分かるから。ここでおチビがどう出てくるか…見送ってくれるか、引きとめてくるか。それともついてくるか、がミストの計画のひとつの大きな山場なんだけど』
『ついてくる……?そんなのもあり?』
『さっきの王子の話、おチビがこの国を護ってる理由。一応ユークレンには回円主界の歴史の遺物が沢山収められているから、それらが万が一にも失われたり壊されたりしないよう強い守護者が必要で、おチビがそれを担ってるってのはあるんだけど。それがなくてもおチビはここを離れられない。本人にも分からないんだ、大事な事をみんな忘れてしまったのに、一番忘れてもいい事の欠片が無意識の奥に埋め込まれている。それにとらわれたままここに残るか、それとも振り切って出てくるか……唯人、君って餌の魅力次第なんだよ』
『え?僕?』
『あのおチビは偉そうに、君を手に入れてやるなんて僕に宣言してみせたけど、その前に自分の方が惹かれてきてるってことにまだ気がついてない。まあ、何の説明も無く何百年もほっといたのは僕らだからその辺はこっちの責任なのかも知れないけど、いい具合に淋しがりをこじらせてるよ。もし、おチビが付いてきたらそれはもう君の勝ちってことだ、唯人。さんざん振り回してやったらいい、それが極意だって本人も言ってたし』
『極意?なんの?』
『偉そうにしてる二十倍年上の無敵属性を、言いなりにしてみちゃおう、みたいな』
『さっぱり分からないよ』
『唯人は、まだ若いから』
『そういう話なのかな』
 くすくす漏れる忍び笑いを聞きながら、もういい、と脳内会話を切り上げてふいと王座を今一度振り返ってみる。アーリットも含め、もうそこには誰もいない。周囲の賑わいはまだまだ宴もたけなわといった感であったが、胸に飾られた花はいつの間にかしおれてしまった。もうここにいる必要はない、やるべき事は全て終わった。また余計な面倒を起こす前にさっさと退散してしまおうと広間の出入りの扉に向かう。が、サレに包みを渡そうとした自分がこれで見納めということで無理やり前抱えされている状況が浮かんでしまい、ちょっぴり足が進まなくなってしまった。綱手に持たせて離れた場所から渡してやろうか、綱手が食べてしまわなければの話だが。
「駄目だな、食べる気満々って感じ」
 仕方なくそのまま歩いていき、サレと目が合った瞬間着替えてから持ってくれば良かったじゃないか、と完全に手遅れの最適案が頭にひらめいた。よく目立つ褐色の腕をぶんぶん振って、いつもの優しい顔が笑いかけている。
 結局、抱きつかれるしかなかった訳だったのだが。



 式典は、その後二日続けられた。とは言っても、最後の一日はまた地方に戻っていく領主達のお別れの挨拶の式みたいなものであったから、相変わらず退屈そうな添王子の姿を窓越しに見ただけで、唯人は散らかし放題の主通路の花びら屑を掃いたり大量の食器を運んだりと言われるままに雑用をしてその後数日を過ごしていた。老アーテにはやはりなんらかの礼ができないかと願い出てみたら、それなら乳製品を城に納めている牧場に行って乳製品の出来を見て来て欲しいとやっぱり雑用をおおせつかってしまった。
 ユークレンでは酪農があまり行われておらず、あくまで肉を生産する場の副産物なのでほとんどの乳製品は穀物と交換したテシキュルからの交易品でまかなわれている。だから搾ったままの家畜の乳はかなり身分の高い者が具合の悪い時や歳を取ってから滋養の為に摂るもので、そうでない者はいわゆる植物から作った豆乳のような物を飲むのが普通。唯人も、こちらの方があっさりしているので口に合う。
 今でも全然慣れないが、鷲獣に姿を変えたミラに乗せてもらい湖のはずれにある牧場へ行って用向きを告げると、色々な乳製品の見本品を籠いっぱい手渡された。それと少し離れた森にまた獣が現れたようだから兵士を頼む、とかこまごまとした言伝を頼まれる。帰る前によければ、と好意で振る舞ってくれた器一杯の嫌になるほど濃く生温かい肉用家畜の乳をほとんど綱手に横から助けてもらってなんとか干すと、荷物を足に下げたミラに乗り唯人は再度城へ向けて飛び立った。
 いつもほっそりとしたミラを見慣れているから、帰りは荷物を持って歩いて帰ろうかとつい提案したらまだよく分かって無いんだねと帰りの道すがらこんこんと説教されてしまった。鉱山で埋まりそうになったときも、耐えられる自信は充分あった、つまりはそれくらいの力はあるのだと。つくづく無力なのは自分一人かと、つい溜息が洩れてしまう。
 なんとなく、眼下を流れて行く豆粒ほどの人間が行き来しているテルアの街並みを眺めていると、城の式典はもう終わったというのに街のお祭り具合は片付くどころか湖のほうで足場を組んでなにやら縁台のようなものを作っているのが見て取れた。
「何やってんだろ、みんな、湖でなにかあるのかな」
「ああ、今回は本当にお祝い事がまとまって来たんだな。あれは年に一度のテルアの都市精への感謝祭の準備をしてるんだよ。夜になったら街の人みんなが蝋紙で折った船に火を灯して湖に流し、街を見守ってくれている都市精に感謝の意を捧げるんだ。今は風が吹かない時期だから湖面が夜空みたいになってそりゃあ綺麗だよ、夜になったら唯人も行ってみたらいい」
「都市精って……そんなのもいるのか?」
「何言ってるの、綱手だって羽化する前まではキント鉱山の山主だったんだよ?キントには精霊獣師がいないからあまり頼られてはなかったみたいだけど。都市精は日々街の事を余さず見守ってくれているから、迷子とか証言の食い違う揉め事とかが起こったらみんな精霊獣師に頼んで話を聞いてもらうんだ。年代にかかわらず一定の人数がいる町には大抵いるからね」
「へー、知らなかった……」
「土地には土地の、街には街の、物には物の心ありて、生ける者らを見守らん。世界主の穏やかなる世よ永久(とこしえ)なれ。古い祈り文句だよ」
「世界主って、神様みたいなのかな」
「カミサマって、どんなの?」
「僕の世界では国によって色々だけど、だいたい共通してるのは世界を創ったってこと。後は信じる人を時々助けてくれる」
「創った、ってことはもう創り終わってるの?」
「うん、世界ができてからそこに人を創ったから」
「ああ、だから人をかまってくれるのか。世界主は、この世界を生み今もずっと維持し続けてる。ただそれだけの存在だよ」
え、じゃあ、もしも世界主に何かあったら……?と思った言葉が口から出る前に、急にミラが降下を始めた。慌てて落ちないよう足に力を込め、身を低くする。話し込んでいるうちに、いつの間にか城の真上に着いていたようだ。鷲獣の発着場になっている城のはずれの円形広場に静かに舞い降りて、ふわりと光の珠に変じたミラが唯人の身体へと戻る。よいしょと籠をかついで歩きだした視界の向こうを、いつもの正装姿で歩くアーリットの姿が通りかかった。
「あ、おーい、アーリット!」
「おう、唯人」
「式の後始末は全て終わったのかい?」
「ああ、明日からは完璧に通常に戻る。俺は今からユークレン王との会議があるんだが…お前は今日突然どうこうってのは無いが、呼ばれたらすぐ来られるようにしておけよ。今度勝手にいなくなりやがったら……」
 ずおおお、と効果音が聞こえそうなオーラ付き笑顔で脅されはい、重々身に染みておりますと目を逸らす。今日どうこうは無し、を再度頭で確認すると唯人はちらりと視線を湖へ向けた。
「どうした?」
「街で、お祭りの準備してるの見たんだ、今晩行ってみようと思って。もし時間があるなら、アーリットも行かないかい?」
「はぁ?そんなヒマあるように見えるか?」
「やっぱり、なら、サレを誘おうかな」
「そりゃ無理だぞ、サレは今日は地方軍の偉いのに付いて城を出てるから夜半まで帰ってこない」
「そっか、しょうがないな、じゃミラ達とだけで行くよ。ごめんよアーリット、時間とらせて」
 ところでこの預かり物、どこへ持っていったらいい?厨房?アーテ教育長のいる教育棟?と首をかしげた唯人に貯蔵室横の保存棚に入れておけ、とまた知らない場所の名を出される。まあいいか、歩きながら会った人に聞いていけばそのうちたどり着けるだろうと歩き出そうとした、その肩が間髪いれず伸ばされた手に引きとめられた。
「……?」
「その方向は、既に間違ってるんだが……知らないならなんで俺に聞かない?」
「え?でも、アーリットは忙しいから……」
「嫌味か」
「そ、そんなつもりないって、迷惑かけたら悪いって思っただけで!」
 その言葉のどこがそんなにアーリットの癇に障ったのかどうしても分からなかったが、結局目的の場所まで有無を言わさず引きずられていった後の一日の終わりの自由時間、城から街へ続く一本橋手前に仏頂面の金髪は、無駄に周囲に圧迫感を放ちつつ立っていた。かかわるなと本能が告げたのでミラに隠してもらえないか頼んでみたが、絶対ばれるのとその後が怖いから諦めようとあっさり突き放されてしまう。瞬時に頭の中でシミュレートしてみた会話のやり取りのパターン全てを悲しい結果で終わらせた後、そうだ、僕に用があるとまだ決まったわけじゃないじゃないか、と自意識過剰を恥じるという現実逃避にたよって怯えた無表情でその場を通り過ぎることにした。
「おい、なに素通りしようとしてやがる」
 ああ、やっぱり駄目だった。
「あ、えーと、その、こんばんは、アーリット……」
「なんだってんだその顔は、俺がなにかお前脅すような事したか?」
 結構されたような気もしますが、忘れてるなら別にいいです。
「ちょうど時間が空いたから、今からお前に付き合ってやる。俺はお前の庇・護・者だからな、それによく考えたら、勝手にいなくなるのはお前のせいだけじゃない状況もあるかも知れないし」
「はあ……」
 頭の片隅を、ごく微かなミラの含み笑いがよぎったような気がした。唯人を追い越し先に立って歩き出した背を慌てて追いかける。そういえば初めてここに来た時もこんな感じだった、と今晩だけ灯りを消されている湖面に目をやると、ちらちら光る無数の炎が漂っているのがよく見えた。
「わぁ、綺麗だな」
「そうか?」
「うん、ミラは夜空みたいに見えるって言ってたけど、ここは近いから灯明がちゃんと見えて本当に船に火が灯ってるって分かるよ。これって最後は燃えてなくなるのかい?」
「ああ、大きいのが長く持っても西の水門あたりで全部燃えつきる」
「僕も、やっていいのかな」
「そりゃあ、止める理由はないからな。毎年東岸の縁台で紙を配ってるから好きに折って火付けて流せ。子供は願い事なんか書いたりするらしいが……俺は用がありゃ普通に話せるから、その辺は別にどうでもいい」
 うーん、やっぱり。大衆の未知に対するふんわりとした畏怖の念とか感謝の思いとか一切知った事かの表情に、浮かれて紙の船を水面に浮かべている背を見守られるのが正直痛い。なんでアーリット誘おうと思ったんだろ、と思い返してみて、そうだ、もうすぐこれきりになってしまうかもしれないからだと気が付いた。
 帰り道、湖沿いの道を歩きながら並んでいる屋台であの甘い炒り豆を見つけてひと包み買うと、(小銭の件は、キントの働きで謝礼が出たので一部細かくしてもらった)唯人はこれでもしかして最後になるとしたらちゃんと話でもできれば、と座れそうな場所がないか辺りを見回した。
「アーリット、時間はまだいいかい?」
「別にかまわないが、まだ何か用があるのか?」
「ううん、ただ楽しいときは充分楽しんでおきたいなって思って。いつ何が起こるか分からないから」
「そうだな、この世界のいい事や綺麗な物はまだまだいくらでもあるからな。なんなら、特等席に連れて行ってやろうか?」
 明らかにあの愛想笑いとは違う顔で、アーリットが笑った。しかしこの笑顔を見せていても、ちっとも油断させてくれないのが一級精霊獣師クオリティというか。城の敷地まで引き返すと、アーリットが杖を出して地面を打つ。広がった模様がぴかーで植物の蔓みたいなのがひょーんと伸びてきて巻きついて、物凄い風圧を感じ……気が付いたら、眼下に夜空が広がっていた。
「な、綺麗だろ?」
 本当に、楽しませようとしてくれている気持ちは痛いほど分かるんだが。そよ風程度だった湖のほとりと違って、音が聞こえる程吹きすぎる風に髪が踊る。先日上った見張りの塔が左斜め下に見えているから、そりゃあ景色も良かろう。昼だったら、もしかしてキントあたりまで見渡せたかも知れない。
「夜の鐘が鳴るまでには降りるぞ、耳やられるからな」
 湖畔に浮かぶ白鳥のような、優雅なたたずまいの全智の城。その一番高い鐘楼の鐘が吊られている枠のへりに座って下を見ると、昼間鷲獣で飛んでいた高さとそう差異がなさそうに感じられた。確かにこの高さからだと湖面の灯火が星のようだ、綺麗だなあとか思っていないと正直涙がこぼれてしまいそうだった。万が一にも落としたりしたらかなりの範囲に多大な被害を及ぼしそうな手の包みを、こんな時に無神経にも綱手が出てきてねだってくる。仕方なく震える指で包みの中で皮を取って、綱手にひとつ、アーリットにもひとつ……と差し出すと、なぜかちょっと驚いた顔になってアーリットはそれを受け取った。
「どうかした?」
「あ、そうか、知らないのか」
 何を?ともうひとつ手渡すと今度は珍しい困惑の表情になる。綱手が豆を噛み砕くいい音が響く中、唯人がこの世界の慣習に合わない事をしたらすぐ教えてくれるはずのアーリットが、なにやら非常に言葉を選んでいる様子の後ぼそり、と呟いた。
「お前、俺が両性だってのは分かってるか?」
「うん、それが?」
「一回しか言わんから、しっかり覚えておけよ。この世界じゃ男が気のおけない両性に甘い物とか精のつく物くれてやるのは、子供産める身体になって俺の子供産んでくれっていう意味になるんだ。お前、本当に分かってないって思っていいんだな?」
 おわ!!!
「そそそ、そんなの、知るわけないって!どうしよう、この前、サレに宴の料理のおすそ分けしちゃったよ!」
「それは、お前が自分で手に入れたわけじゃないからいいんだ!」
 乱暴に言い放つと、何を思ったのか手の物を口に放りこむ。言葉の途切れてしまった沈黙の中、にっちもさっちもいかなくなり仕方なくひたすら綱手に食べさせ続けていると、アーリットが横目でじっと睨んできた。
「な、何?」
「別に他意がないんなら、もう少し食ってやってもいい」
 あー、欲しいんだ。もうあまり眼下の光景が気にならなくなったのか、震えのおさまった手で剥いた豆を渡してやる。甘いって感覚久しぶりだ、としみじみ呟きつつ綱手より可愛い音を響かせると、アーリットはまだまだ賑わいの続いているであろうテルアの城下町を見下ろした。
「本当に、時々呆れるような事やらかすけど芯はどう取っても無害にできてるな、お前って」
「え?」
 すいと差し出された手に、またひとつ小さな粒を乗せる。
「それじゃあ、礼にお前がキントに行った夜の話でもしてやるよ。あの晩、俺と主王子はユークレンの最古の文献に記されている〝世界主の眠り〟について話し合っていた。ユークレン王がアシウントで行っていた会議もその事についてだったんだが、ここ数年、回円主界の人のいない場所、海や深い森や山地などが櫛の歯が落ちるように〝廃化〟し始めている」
「廃……化?」
「まるでそこだけ灰色の絵になってしまったみたいに、何もかも色とはっきりした形を無くしてしまうんだ。それとほぼ時を同じくして破壊主を名乗る輩が現れた。これまでにも金腕の破界主、マイベルスの破界主等破界主を名乗る奴はちょくちょくいたが、どいつもただの悪党か革命家気取りですぐにとっつかまって裁かれてる。だが、この黒の野郎は明らかに違ってた、力の格もだが、目的がさっぱり分からない。奴はここ数年の間になんの脈絡もなく次々と街や神殿や遺跡を襲いただ破壊して回っている、今回のキントはまだ軽くて済んだほうだ。そこで俺が思い浮かべたのがあの師匠の予言詩だった、〝世界の眠りが終わるとき、二人の主、訪れる〟世界の再生を詠んでいるのは明らかだが、口伝えの伝説も当てはめるなら多分お前は破壊主が全て壊し尽くした世界の上に新しい世界を築く〝創界主〟だ。今存在している俺達は、もう旧いものとして遠からず葬り去られるのが決まったらしい。ただ、俺にはお前が破壊主と同様に、この今の世界の幕引きの為にやってきたとはどうしても思えない。お前を呼んだミラヴァルトは、前紀王国が今の五国に移り変わった経緯を知っている貴重な生き字引なんだが俺に何も語る気はないと言いきりやがった」
「アーリット……」
「それでも、俺は考えるしかないんだ。与えられた情報の中で最善を。今のこの五国の世界を未来に繋ぐ、その術を」
 ふと、背後で何か重い物がきしむ鈍い音が響いてきた。ゆっくりとせり上がってきた背後の巨大な金属塊に、やばい、鐘が鳴る時間だとアーリットが慌てて唯人の肩をつかむ。微塵の迷いも見せず城で最も高い場から身を躍らせるとその背を爆発音並みの鐘の音が震わせた。兵舎でこれを聞いているときは、用が無ければ灯りを消して寝なくてはならない規則になっている、素早く真下から伸びてきた先程の蔓状の植物に巻き取られるように受け止められ、もっと穏便な方法は無いのだろうかと、ややふらつく気分と足で唯人は無事地上に生還させてもらった。
「き、今日はこの辺にしておくよ、アーリット。付き合ってくれてありがとう、忙しかったのにごめん」
「そんな事、気にするな。俺の方こそそれ、旨かった……から」
 離れて行く唯人の背に、なぜか足を止めアーリットが少しぎこちない感の声をかける。ああ、そういえばこれまだ残ってる。そんなに好きなら全部あげようか、と何気なく肩の綱手に目がいって……ぎくり、と唯人は表情を強張らせた。綱手のせいでどうしても緩むので、変則的に肩をゆったりと巻いてある服の下、肌の上に見た事の無い赤い物が張り付いている。なんだこれは、と思った瞬間矢のように光の珠が唯人から飛び出しふわりと白い人型に膨らんだ。
「唯人、これは罠だ!おチビにはめられた!」
 そのミラの声に唯人が反応するより先に、唯人の足元に光る輝線が現れた。目にも止まらない速さで複雑な紋様を描き、ぐるりと取り巻いた円周から外と内を遮断する青白い〝気〟が立ち昇る。それに突進しはね返されて、どうしようもできないと悟るといつもは優しいその顔を冷たい軽蔑に歪め、ミラはアーリットを振りかえった。
「結局、こうなるしかないんだね、お前って奴は」
「何を言われようと、知らないってのは存在しないってのと同じことだ。お前らが訳あり顔でちらつかせる俺を俺は知らないんでね。今の俺しか俺はいないってことにさせてくれ」
 ひゅん、と振られた杖から伸びた銀の輝線を間一髪でかわし、ゆらりとその白い姿が周囲に霞む。血を吐くような叫びだけがその場に残された。
「その今のお前の選択は、結局その子も世界も死なせてしまうよ。その後またお前がどんなに嘆こうと、二度と僕は憐れんだりはしないからね!」
「うるさい!知っているからってなにもかもお前が事を運んでいいと思ってるんじゃない!」
 空に向かって怒鳴りつけ、くるりと自分を振り返った緑の瞳と目が合った瞬間、唯人は青白い壁越しにいるこの相手がつい先程まで隣で笑い、食べ、他愛もない話をしていた人間と同一人物とはとても思えない、総毛立つような感覚に包まれた。おそらく力を集結して陣を張っていたのだろう、あちこちの物影から音もなく姿を現してきた数人のテルア軍精霊獣師を手を上げて制止する。黒の破壊主相手の時にも見せなかった一切の表情の無い顔で、アーリットは唯人の正面に歩み寄った。
「客人……いや、異界からの来訪者、阿桜 唯人」
「……」
「本日午後の緊急会議の結果、アシウントからの要請により、貴殿の身柄はアシウントに送られそこの管理下に置かれる事となった。今後はユークレンとの協力の上で予言、その他この回円主界の未来について全てを調べ、解析する為の素材として扱わせてもらう事となる。あくまで儀礼的なものだが、向こうに引き渡すまではこちらの管理責任となるので一応拘束させてもらう。抵抗しなければ乱暴はしない」
 こちらの返答を一切拒否した冷たい言葉が終わった後、唯人を包む青白い壁がゆっくりとせばまってきた。これに触れるのは危険な気がしてじりじりと中心へと引くと、唯人を護ろうと綱手が肩の赤い何かの下で荒れ狂っている圧力が感じられた。見る間に人一人程の太さまでになった円筒状の光に包みを持った指先が触れた途端、唯人の身体から吸い出されるように力が抜け落ちる。落とされた包みからばらばらと小さな粒が散り、円筒が一本の輝線になって消えた後、そこには倒れ伏した身体がひとつ残された。近づこうとした人影を、再度アーリットが素早く止める 
「動くな、双界鏡に逃げられた。何にでも姿を変えられる奴だ、万が一を避ける為、向こうに引き渡すまでこれは俺が管理する、一切誰も近づくな、命令だ」
 わりと細めに見える体つきからはうかがえない腕力で足元の身体を抱え上げ、そのままその場を後にする。暗闇の中、張りつけたように無表情だったその顔を激しい苦痛でも感じているかのようにしかめると、褪せた金髪の後ろ姿はもうほとんど小走りの勢いで城壁の奥へと入っていった。
「なんで、そんなことをあっけなく言われなくちゃならないんだ?」
 焦点の合ってない眼で揺られている腕の中の顔は、その問いともつかない呼びかけに何も応えようとはしない。
「お前はまだとてつもなく若くて、どこも壊れてもいないのに」
 俺が、死なせやしないから。
 何があろうと、誰がなんと言おうと絶対に。



 また、あの夢にやってきた。
 だんだん何となく分かって来た、夢というよりは、多分これは誰かの記憶の風景だ。景色は夕暮れ、淡い暖色のグラデーション、風と音の無い世界。目の前にはかなり大きな石造りの彫刻があり、その前に一人の人物がこちらに背を向け立っている。夕日のせいで少し赤味が増した感の重い色調の金髪をゆるくたばねて背に流している、十代後半程に見えるアーリットだ。伸ばされた手が彫刻の正面に据えられている石板に触れ、一番末尾に刻まれた真新しい文字をそっとなぞった。
「ユークレン九世〝愚生王〟偉大なる先代らの住まう永遠の園に迎えられん……ひでぇ名前つけられたもんだな、タッシ(9の愛称)」
 彫刻は、どうやらユークレン王族の王墓であるようだった。アーリットの目的の人物ももう埋葬されて大分たっているのか、周囲の空気は静まり返っている。
「なにも心配する事はねぇからな、弟の添王子は立派に十世を継いだ。お前のご乱行は、ちゃんとあいつと俺とで黒歴史として埋めといてやるから」
 くっ、と喉の奥で笑いをかみ殺す音をたて、ふと何かを思い出した顔で遠い眼をする。夕陽と反対側の空の低い位置に、綺麗に丸い月が姿を見せていた。
「そういや、お前の髪が……まるで月みたいだって言ったこともあったっけ。お前は馬鹿みたいに浮かれてたけどそれ、お前の親にもその先代にも言ったんだぞ、俺」
 お前だけが特別なわけないだろうが、とまるで自分に言い聞かせているように付け加える。
「お前が馬鹿なせいで、二百年続いた〝銀のユークレン〟が失われちまったじゃないか、この馬鹿、大馬鹿が!」
 ふいに振り上げられた拳が、音も無く石板を打った。
「なんで、俺しか伴侶にする気が無いなんてわけの分からん事言いだしちまいやがったんだ。化け物の伴侶を国に置く覚悟はあったのか?それとも化け物の血が入ったいつ死ぬか分からない後継ぎが欲しかったのか!あげくにそのまんまあっさり下らねえ戦で逝っちまいやがって、まだ三十年も生きてなかったくせに!」
 ちゃんとどこかの血統のいいの貰って、適当にガキこしらえてああ若い頃はバカだったなあって、笑い話にしてくれりゃあそれで良かったんだよ、俺は……。
「もう、何もかもが面倒臭ぇ。最初から、自分をちょっとでも人間かも知れないって思ってたのが間違いだったんだ。それを教えてくれた事くらいはお前に感謝してやるよ、よく懐いた動物相手くらいで付き合っていけばお互いそれでいいのかもな。人間が勘違いしないように、これからはせいぜい俺も化け物らしく振る舞うことにするさ」
 おもむろに取り出した、小さな花の塊を思い切り彫刻に向かって投げつけて、くるりと向きを変え歩きだす。唯人の事は見えていない感で横を通り過ぎる瞬間、伏せた顔から夕陽にきらめく数滴の雫が散るのが見えた。
『……だと……の……』
遠くで、誰かの声がする。
『……おい、唯……』
 離れて行く背を追いかけたいのに、体はそれを許そうとはしない。
『唯人殿!』
 まだ夢の中の重苦しい気分そのままで、唯人はなんとか薄目を開けた。開けたと思うが、閉じている時と変わらない闇に周囲は閉ざされている。鉛を流し込まれたような身体が、どんな状態なのかも分からない。そのまま、なす術もなく再度意識が沈もうとするのを、暗闇にきらめく白刃のごとき声音がとらえ、引きとめた。
『唯人殿、お気を確かに!』
「鋭……月……」
『しっかりしろ、ぼさっとしてんじゃねぇ!』
「スフィ?」
 声を出すと、自分が横たわっているのがなんとなく分かった。まず頭だけでもしっかりさせようと、見えなくても眼をしっかり見開いて、自分の発した声の反響に耳をすます。この感じでは、自分は屋外ではなく広さのある室内に閉じ込められているようだ。
「ここは、どこ……?」
『俺達にもよく分からないんだが、まあ、一般的には牢屋って言われるやつみたいな気がするぜ』
 その言葉に、肩に張り付いているあの赤い物体の内でまだもがいているのか、綱手が動く感触がする。ごく微かだが水音が聞こえるのと空気の湿気の加減で、ここはもしかしたら城の地下、湖のごく近くではないかと唯人は闇に塗りつぶされた上を振り仰いだ。
「アーリットが、僕をここに入れたのか」
『そうです、鏡殿が逃げたので自分が管理すると言ってここに運ばれました。ここはかなり厳重に隠されている場のようですね』
「あ、そういえば、ミラはどうなって……」
「僕なら、ここにいるよ」
 ごくあっさりと、聞きなれた声が背後から響いて来た。
「気が付いた?唯人、良かった」
 ちょうど視界の中に駆けこんできた、ほの白く闇に浮かぶ小さな獣の姿が光の板をくぐり人の姿を形作る。そばにやってきたミラに照らされて、石壁で覆われた周囲の様子がぼんやりと浮かび上がった。
「身体はどう、動ける?」
「ごめん、まだ少し……重い」
「無理もないよ、普通人間相手には使わない対竜族用の拘束術式かけられたんだから。でもちょっとだけ頑張って、その肩の精霊痕封印だけ取ってみて。唯人の手でしか剥がせないようになってるはずだから」
「え、どういうこと?」
「それがあったから、綱手が直接あの障壁に触れて、唯人みたいになってしまうのが防げたんだよ」
 それだけで全身の力をつぎ込まなくてはならない気がしたが、なんとか右腕を動かし左の肩に張り付いている物に爪をかけむしり取ろうとする。わずかに端がはがれた瞬間、弾けるように飛び出てきた綱手は迷うことなく赤い札に食いつくと、一気にはぎ取り飲み込んでしまった。それを待ちかねていたように光が舞い、鋭月とスフィも現れる。あまりはっきりと表情を出さない眼を辛そうに細め、鋭月は唯人の傍らに平服した。
「申し訳ございません、唯人殿。あの輩から一時でも気を逸らしてはならぬと肝に命じていたはずでしたのに。唯人殿をこのような事態に陥らせてしまい、詫びの言葉も浮かびませぬ」
「俺も、うまくは言えねぇがすまなかった。役立たずなりにできる事もあったってのによ」
「仕方ないよ、今回は完全におチビにしてやられた。なんか凄まじいものを感じたよ、もうおチビって呼べないかな」
「そういや、どうやってここに?ミラ」
 頭を起こそうとして、精一杯の喜びを表そうと大口開けて甘噛みしてきた綱手をわかったから、と宥めてやる。封印が無くなった途端、まるで砂時計の砂が溜まるように、重い身体に力が徐々に戻ってくるのが感じられた。
「それがね、なんとおチビの後をつけただけさ。多分、おチビはわざと僕を逃がしたんだ」
「え?」
「ここを確認した後、姿を隠して精霊獣師達の内緒話を聞いてみたんだけど、アシウントが唯人の身柄を要求してるってのはどうやら本当らしい。ユークレン両王の帰還の式典の騒ぎの時、近くにアシウントの駐在大使がいたようなんだ。ユークレンはアシウントに寄り添ってる国だから、向こうから来る要求はよほど理不尽でない限り従わざるを得ない。だからおチビはことさら大袈裟に君を拘束してここに閉じ込めた、ユークレン最堅と言われる〝全智の城の湖水下牢〟にね」
 改めて、冷たくはあるが湿ってはいない、きっちりと組み合わされた石積みでできている円筒形の牢内を見渡してみる。ふと気付くと、身体の下には直接石に寝て身体が痛かったり冷えたりしないよう、ちゃんと厚手の織物が敷かれてあった。
「この地下への入り口におチビの術式なり精霊獣なりが仕込まれてたら、僕もまだおチビにのせられたままだっただろうけど。僕と合流して、肩の封印を取って綱手が使えたら君はここを出られる、唯人。おチビはユークレンの立場は護ったままで、君を逃がそうとしてくれてるんだ。双界鏡はいない、竜は専用術式で抑えて国で一番の牢に入れた、これだけやって逃げられたんじゃもうこっちの手には負えないってね」
「それで、どうやって出られるってんだ?この穴ひとつ見当たらねぇ石壁からよ」
「うん、ここは珍しく、精霊獣とかの封印のたぐいが一切されてない、あるのは純粋な仕掛けだけだ。今ちょっと調べてきたんだけど、内側からそこの出入口の石蓋になにかしようとしたら、一瞬で天井と一緒にユークレン湖の水が落ちてきますって記されてるよ」
「うわ、ひでぇなそりゃ」
「まあ、牢屋だから。でもありがたい事に石壁だ、ねえ唯人」
「なに?」
「もう、動けるかな」
「うん、大分ましになったみたいだ」
 ゆっくりと起き上がり、膝をついて座ってみる。多少ふらつく感じはあるが、目覚めた直後とは比べ物にならないほど体調は回復したように思えた。
「それじゃあ、綱手に命令して。今すぐここから出たいって」
「綱手に?」
 これも愛情表現だと思いたい、肩から首、そして頭までぐるぐるに巻きついている先端部を引き寄せて、顔を見合わせてみる。
「綱手、ここから出たいんだけど……」
 その言葉を口にした瞬間、なぜか今まで忘れていたキント鉱山でのあの大惨事が頭に甦ってちょっと待て、と思ったがもう遅かった。ぐいと巻きつかれた左腕が引かれ、手のひらが壁の石に押し当てられる。するりと白い身体が這い込んだ、そこから瞬時に青く光る輝線が壁を走り、牢の壁一面に光で描かれた大きな円状の紋様が浮かび上がった。
「唯人―、取り乱しちゃだめだよ、全部綱手に任せて大人しくしてて」
 あまり視界のきかない牢内に、あの時見たのと同じ、夏の海みたいな透明な青で出来ている巨大な頭がぬうっ、と紋様から突き出してくる。ぱっくりと開いた口の内へとごく丁重に収められると、水のように不確かにも、石のようにしっかりとも感じられる瑠璃鉱竜の身体はそれ越しでも外の様子がよく解った。綱手があまりに大きいのと牢がそう広くないせいで、頭と前脚の一方がようやく出てきた時点で触れてはいけないあの石蓋を押さえてしまい……。
「うわ!」
 がし、と嫌な音と共にいきなり天井の一枚石がぐらりと傾いてきた。もの凄い勢いで、瞬時に周りが水に満たされる。それをものともせず、石を押し上げ湖につながった隙間から青い巨体はゆらりと上へ這い出て行った。そのまま泳ぐ事はせず、湖底を滑るように進んで行く。途中で沈没した大きな船の残骸を見つけ、そこに上がるとざばりと水面から頭が出た。
「わぁ、ほんとにユークレン湖だ、城があんな方向に見える」
「ちょっとまずい位置だね、このまま陸を目指すとテルアの市街地に近すぎる。もっと離れた北部のあまり人のいない岸から上がろう。唯人、綱手に少し口開けてって言って、空気の入れ替えしながら行くから」
 言われたとおりにすると、薄く開かれた綱手の口の隙間から青のフィルターのかからない、濃い紫がかった空が見えた。どうやら時刻は夜明け前ぐらいのようだ、まだ街は動きだすには早いのか、人の姿はあまりなく……。
「あれ、なんだ?あの煙」
 ゆっくりと閉じようとした上顎を、肩をはさんで押しとどめる。遠すぎて距離感が分からないが、湖と反対の田畑地帯側の街から灰色の煙が幾筋か立ち昇っていた。生活的なそれではない、明らかに街の何かが燃えている。もっとよく見ようと身を乗り出した唯人の頭上を、ふいに紅く輝く羽のある竜が一体、もの凄い勢いで飛び過ぎて行った。
「紅輝炎竜(こうきえんりゅう)じゃないか、おチビ、一体何があったんだ?」
「それだけじゃないよ、遠くにちらっと見えただけだけどニアン・ベルツも出てる。何か、大変な事が街に起こってるんだ。綱手、街に引き返して……」
「冗談じゃないよ唯人!僕ら、逃げてる最中なんだよ?戻ってどうするの、おチビがくれた機会を無駄にしてしまうのかい?」
 珍しく大声を上げたミラの言葉が終わるか終らないかのタイミングで、腹に響く爆発音が水面を震わせた。さっきの煙より大分こちらに近づいている。ざわざわと人の声が起こり、複数の人影が湖のほとりへと出てきた。
「ちょっと、ちょっとだけ……街で何が起こってるのか確かめたらすぐ戻るよ。それでいいだろ?ミラ」
 必死で頼み込むと、やれやれと言いたげな顔で夜明け間際の暗い蒼の眼が伏せられる。
「仕方ないな、僕は君の持ち物だから、君がそうしたいんなら従うしかないじゃないか」
「ごめん、でもここで起こってる事を知らないで先に進んだら、なんだかそれでいつまでも後悔するような気がするんだ。ミラがそばにいてくれるからちょっと無理してもいけるんじゃないかって、分かってくれるかな」
「言うようになったね、唯人。それって責任を僕に押しつけようとしてるのかい?」
 そんなことないって、とごまかしつつ綱手に頼んで再度湖に潜り、一番近い岸へと上げてもらう。そこにいた数人の街の人にもの凄く不思議そうな目で見られたが、かまわず爆発音のした方へ進路を取ると腕の中に刀の鋭月が飛び出してきた。それを足を止めずに帯に通していると、横から出てきた人影と危うくぶつかりそうになってしまった。
「うわっ!」
「きゃあ!」
 転びかけた身体を、危ういところで引きとめてやる。まだ若い、十代半ばくらいのテルア軍の十級精霊獣師だ。あんまり末端まで事情が行きわたっていないのか、唯人を見ても恐縮してぺこぺこと頭を下げるだけで、彼はそのままその場を去ろうとした。
「ちょっと待って、今一体街で何が起こってるのか知ってたら教えてくれないか?」
「え?えーと、街の外から夜襲がかかったみたいなんですけど、もしかしたら先日キントに現れた破壊主じゃないかって。僕は市民を避難させる任にありますが、八級以上の方は各門で兵士と共に敵を討つよう指示されているはずです。城は王族と一級精霊獣師様が護っておられますから」
「分かった、ありがとう!」
 去っていく背を見送ると、またどこかで爆発音が響く。わらわらと駆けてきた人々が、向こうに何か来た気配がする、と口々に唯人に訴え湖のほうへと逃げていった。
「じゃあ、事情も分かったことだしもう行こうか、なんて気分じゃなさそうだねぇ、唯人」
 明らかに嫌味たっぷりで、ミラが唯人に笑顔をくれる。こういう場合、私共の国の男児たるものは去るわけにはいかないのですよ、と珍しく鋭月がしてくれた援護に背を押され、唯人は人々が逃げるのと反対方向、街の中心部へと進んでいった。見上げると、遠くから目にしたことのある立派な街の聖堂の塔が、空から何かを投げつけられたかのように派手に崩れ落ちている。
 そこに〝あれ〟がいた。
「間違いない、〝あいつ〟が来たんだ」
 瓦礫の山を乗り越えて、ぬうっと姿を現した、真っ黒でシンプルなその造形。あの時全然歯が立たなかった記憶に一瞬押されそうになった、唯人の足元に青い影が差した。
「綱手?」
 一体どこを通ってきたのか、動作はゆっくりに見えて、一歩が大きいのでわりと速い速度で唯人のいる大きく開けている聖堂前に青い巨体が現れる。傍らで足を止めたその途端、四足歩行していた巨体がぐい、と起き上がった。今までつるんとした印象で石と口しかなかった頭部の複雑な模様の側面が微かな音と共にみるみる裂け、三対の金色の眼が現れる。同時に更に深くまで裂けた口には水晶のごとき凄まじい牙、前脚は細く人のそれのようになり、手首のあたりから肘までひとつひとつが槍ほどの尖った石柱に覆われた。
 今までの姿からは想像もつかなかった、瑠璃鉱竜の臨戦状態。この場は任せろと言わんばかりに頭を寄せ、髭の一本で唯人に触れると綱手は道の方へと出てきた黒い人型とじっと向き合った。おもむろに姿勢を低く取り、唯人が驚くほど素早い動きで突進するとその頭部に爪と腕の石柱を叩き込む。音として聞こえるぎりぎりの高さの耳をつんざく悲鳴をあげた人型の頭部から、どろりとした体液がぼたぼたと地に垂れた。そのまま押さえ込まれ、ノイ・タシクでさえ噛み砕くのにしばらくかかった丸太のような胴は、密にそろった鋭利な牙にたいした音も立てず一口で噛み切られてしまった。
「す、凄い……な」
 ほぼ抵抗することなく真っ二つに折れてしまった黒い姿が、力なくゆっくりともがきながらぐずぐずと泥のように崩れ、あげく煙と化して消えてしまう。頭を上げ、空気の匂いを嗅ぐような仕草をすると、綱手は今度は城の正門のほうへ向かって進みだした。
「わ、ちょっと待て綱手、いくらなんでもそっちはまずい!」
 慌てて追おうとした背に飛びかかって来た、人程の大きさの蜘蛛に似た黒い生き物を振りかえりざまに一刀両断にする。それを追ってきたらしい数人の精霊獣師らが、唖然とした顔で唯人の前で足を止めた。
「君は、軍の者ではないな、西国人か?」
「違いますが、戦う事はできます」
「あ、あれはなんだ?」
 中の一人が発した叫びに背後を振り返ると、空を飛んできた黒い怪物を綱手が腕の石柱で撃ち落とし、皮膜状の部分に喰らいついて噛み裂いているところだった。厚手の皮を引き裂くような、凄まじい音が周囲に響く。
「あの強さは、多分一級精霊獣師様の精霊獣だ。ここは任せていいんだろう!」
「すまないが、協力を頼めるなら君は南門の方へ行ってもらえないだろうか、住民の避難が遅れているんだ」
「はい、分かりました」
 うまい事誤解してもらったままその場を去ろうとしたら、空気の読めない綱手が二匹目もしとめたのか、のしのしとこちらへ戻って来るのが見えた。なんらかの関係を披露してしまう前に、全力でその場を後にする。南門に向かうためテルア大路に入ろうとした、その瞬間、突然身体を見えない手に鷲づかみされたような奇妙な感覚にとらわれて、唯人は足を止め、誰もいない石造りの町並みを見渡した。誰かが、自分を見つめている……。
「居たのか」
 背筋に、氷の楔を打ち込まれた、そんな感覚を呼び起こすような声だった。声のしたほうを振り仰ぐと建物の上に、まるで影のように黒い姿が浮かび上がっている。キントで見た時そのままの、〝黒の破壊主〟その人であった。
「やはりまみえる運命のようだな、〝創界主〟」
「なんで、それを……」
「疑問に思う事はあるまい、我らは同じ大業のもと役割を分かつ者どうし」
 ふわり、と黒い翼のように、かなりな長身のわりに重さを感じさせず漆黒の姿が唯人の前に舞い降りる。思わず間合いを取ろうと後じさった唯人の背後に、綱手が追い付いてきた。
「ほう、キントの瑠璃鉱竜は、お前が手に入れたのか」
 あれも闇を吹き込んで、世界を潰す為の力にしてやるはずだったのだが。まあいい、翆眼鬼に渡るよりはましだと呟いた破壊主の前で、綱手は向かってきた人の倍ほどの黒い獣を足でぐしゃり、と踏み潰した。
「何をした」
「僕は、この街を護る」
 表情がうかがえない黒の仮面が動きを止め、沈黙が二人の間を過ぎる。
「お前は〝創界主〟なのだろう?なぜ我の邪魔をしようとしている。世界主の元に行き新たな世界を生みだすのがお前の役目、それ以外でこの世界に干渉してはならぬ」
「そんなこと、知らない。僕は僕の全力でここを護る、お前が今後他の街も襲うと言うのなら、そこも護りに行く。それが創界主の行動じゃないなら僕はきっと創界主じゃないんだ、お前がどう思おうと」
 何か大物が近づいてきたのか、綱手が背後を離れる気配がした。ゆっくりと、破壊主の手が懐に入り黒い杖が取り出される。最初から一切感情の無かった声に、わずかに力が込められた。
「運命というものは、ときに取るに足らぬ戯れをする。お前は、少々早すぎたのだな」
 鋭月に告げてもらわずとも、唯人も素早く抜刀し身構えた。暗い殺気が膨れ上がってくる、正直、勝てる相手とは微塵も思えそうになかった。
「ならば、速やかに消えてもらうとしようか。世界が静けさを取り戻した後、真の創界主を迎えても遅くはないのだから」
 破壊主の黒い杖の先端から、死神の鎌のような黒い刃が伸びる。ゆっくりと振り上げられた、と思った瞬間、それはもう唯人の寸前にあった。動きなど全然見えなかった、転がるように避けた、一瞬前まで自分が立っていた石畳に鎌がざっくりと突き立てられる。この速度では起き上がるのが間にあわない、背後に現れたミラの張りつめた表情を見るに、彼の防御も文字通りの無敵という訳ではないようだ。やはりこちらが体勢を立て直す前にあっけなく鎌が引き抜かれ、黒い仮面がこちらに向き直る。来る、ととにかく唯人が刀を構えた途端、二人の間で突然地面が弾けて散った。
「……!」
 少し後方で、これも巨大な翼を持った漆黒の怪物が上から綱手を押しつぶそうとのしかかっている。その怪物の尾が建物を弾いて石の塊が偶然こちらへと飛んできたのだ。すかさず立ち上がると、唯人は振り回す鎌に少しでも有利だろう、とそばの建物の中へ飛び込んだ。
「はぁ……で、でも、どっちにしろ時間かせぎ程度だな」
 あまりにも圧倒的過ぎる力の差、近接武器の鋭月では、近づく前に身体をふたつにされてしまう。ミラに相手の攻撃を止めてもらって捨て身の一撃というのも、リスクの大きすぎる賭けだ。
「考えろ、どうすればいい……?」
 入り口が見える部屋と廊下の境目の壁の影に隠れ、鋭く響く靴の音に身を固くする。外で巨大な獣同士が戦っている振動を感じつつ、だんだん息がおかしくなってきた、唯人の頭にふと、無骨な手が乗せられた。
「スフィ?」
「仕方ねぇな、ここは俺の出番かよ」
 唯人の右肩にある、精霊痕から出てきた重い銃身を慌てて両手で受け止める。俺は鋭月と違って小難しい型なんてねぇ、ちゃんと構えてちゃんと向けて、引金引きゃあそれでいい、と灰色の眼が笑った。
「だってスフィ、弾は詰まってるって……」
「詰まってるかもしれねぇ、ってことだ。こっちが撃つ前に持ち主が撃たれて泥の中に放り出された、それだけだ、確実に一発は中にある。ちょっと先を持って振ってみろ、音がするか?」
「しない」
「ならいい、お前に掃除してもらったから機関も銃筒も問題無しだ。俺の意地と存在意義をかけて何としてでも撃って見せる、まずここの撃鉄を上げろ」
 震える手で金具を押し上げた唯人に、ここの世界の奴等が何度となく引金に指を掛けたがここだけは開かせなかったんだぞ、と跳ね上げ式の弾が入っている部分の上蓋を開け、中の銃弾を確認する。反動は未経験者にはこたえるから、あまり身体を固くしないでおけと構え方を教えられ、唯人は徐々に近づいて来る足音に息を詰めた。
「幸いなことに、ここじゃ俺が何なのか誰も知らないみたいじゃないか。うんと引きつけてぶっ放せば、一発で頭が飛ぶ。お前みたいな一般人は、後でそれ見ちまったら確実に吐くから見るんじゃねぇぞ、みっともないからな」
 正直、そこまで考えてはいなかったがどっちにしろもう人死には嫌だなどと言える相手ではない。そうっと壁から頭を出して、正面と背面の区別の付きにくい姿がこちらを向いていないのだけは確認する。その時、外のどちらかが倒れ伏したのか相当な振動が室内を震わせて、一瞬仮面の気が逸れた。
「今だ、唯人!」
 背中から押し包むように回された軍服の両腕が、唯人のそれと重なり合う。引金にかけられた人差し指に力が込められた瞬間、スフィのかすれた叫び声が唯人の耳を打った。
「鏡、ちゃんと護れよ。唯人に俺の破片のひとつでも当てたら許さねぇからな!」
「えっ!?」
 轟音が、部屋の空気をつんざいた。まるでスローモーションのようにゆっくりと、唯人の腕から飛んだ銃が床に落ち、跳ね返って銃床のひび沿いにまっぷたつに折れる。撃ちだされた銃弾はこちらを振り返った仮面のど真ん中に吸い込まれ、長身の身体を建物の外へと吹き飛ばした。
「スフィ!」
 肩越しに、満面の笑顔をちょっと困ったような苦笑に変え、赤毛の兵士が親指を立てて見せたその姿が静かに淡く霞んで消える。嘘だろ、嘘に決まってる、そんなはずないと床に散った木の破片を集めようとして……唯人の背を、冷たい汗が流れおちた。袖がずれて右肩の地肌が覗いている、さっきまでそこにあった精霊痕が、消えてしまった……。
「鋭月っ!」
「はい、唯人殿」
「スフィは?いるんだろ?!」
「……」
「鋭月……?」
「唯人殿、一刻も早くこの場を離れましょう、スフィ殿が身を賭して開いて下さった活路です。あれは、まだ……」
 大まかな銃の破片をかき集め、脱いだ上衣で包み夢中で外に飛び出すと、道の向こうで綱手が口に大きな片翼をぶら下げ黒い塊を組み伏せているのが見えた。その背に穿たれている、いくつもの穴の様子が痛々しい。 急いでそちらに駆け寄ろうとして、見てはいけないと心に言い聞かせていたはずなのに、つい唯人は地に仰向けに倒れた黒づくめの姿に目を向けてしまった。のっぺらぼうの仮面に大きく亀裂が入り、隙間から下の顔が覗いている。一瞬、その頭がごくわずかだが動いたように見えた。
「そんな……馬鹿、な……」
 我知らず、足が止まってしまった。
「銃弾、それもライフル銃の弾が、当たったのに……」
「つまらぬ事をしたな、対の者よ」
 仮面の下に覗く口が動き、抑揚のない声が漏れる。
「この〝枷〟を打ち砕いたからには、楽に死ねるという、人にとって最も喜ばしき末期はもうお前にはないぞ」
はらり、と思ったより薄手だった仮面の欠片を落としながら、破壊主がゆっくりと身を起こした。仮面と共に長くうねって顔を隠していた髪も自らのものではなかったのか、ばさりと落ちるに任せるとくるりとその顔が唯人を振り仰ぐ。
「……!」
「この顔には、見る者の内なる暗闇が宿る」
「嘘だ……」
「お前は、暗間の奥底の逃れられない存在の手によって闇へと帰るのだ」
「唯人殿!」
「唯人、しっかりしてよ、逃げるんだ!」
まるで空気が抜けたかのように、瞬時に足が力を失った。目の前にいるのは、血のように紅い眼をした自分と同じ顔……あの日自分を無の暗闇へと押し込んだ、己の半身の顔だった。
「嘘だ、そんなのって……」
 まるで何かの意匠のように、眉間から引かれた紅い曲線が一筋、鼻で分かれて下に伸びている。口の端まで届いたそれを、覗いた艶のある舌がゆっくりと舐めた。
 ……兄貴。
 すうっと近づいてきた紅い眼が、ゆっくりと細められ冷ややかに笑う。
 いい夢を、見てたんだな。
 差し伸べられた手の指が、がっ、と首をつかまえた。柔らかな喉に、微塵の容赦なく食い込んでくる。
 死ぬ瞬間に観る夢としちゃあ、随分長くて豪華だったじゃないか。でも、もうここまでだ。ほら、〝現実〟が帰ってきた……息も鼓動ももう止まる、苦しい瞬間は終わったんだ……。
 冷たい笑顔、違う、これは、違う。
 あの夜、彼は泣いていた。どうしようもない運命を、誰かと取り換えるしか成す術を知らなかったから。彼が本当に消してしまいたかったのは僕じゃない、だから僕は……。
 朦朧とした頭で、薄赤く染まった視界の中、向けられている腕に手をかけようともがく。
 それに、この世界のみんな、頑張ってる綱手もこの国の全ての人達も、アーリットの数百年も僕一人の夢なんかじゃない、僕と一緒に終わるはずなんて、ないんだ。
 ぐぅ、と籠った音が喉から漏れた、これ以上は無理だと肺が悲鳴を上げている。急速に暗くなってきた視界の奥で、必死に呼びかけているミラの声が感じられた。うん、僕も最後の瞬間までけして諦めたりはしない。
 ああ、でも。夜明けはまだやってこない、空は未だ暗いままだ。五感までが、静かに身体を離れ遠ざかってゆく。
 なんだかとても静かだ、さっきまで頭ががんがんするほど響いていた鼓動の音も、もう感じられなくなってしまった。
 静かだ。
 みんな、終わってしまったのか。
 やっぱり、もうここまでなのか。
 僕は、何の為にこれまで……。
「……」
 ふーっと、暖かな風が吹いてきた。
「……?」
 少しの間をおいて、もう一度、柔らかな圧力が動きを止めた体内に押し入ってくる。引き潮の波のように緩やかに、寄せては引きを数回繰り返した後……胸に一発、衝撃がきた。
「……ぐは!」
 意識より先に身体が反応し、瞬時にあらゆる器官が再動を始めた。開いた喉がひゅう、と音を立てて空気を吸い込み、心の臓が勢いよく流れを全身に行き渡らせようと痙攣を起こす。派手にむせ込んだ背がそっと支えられるのに涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭き、眼を開けるとちかちかしている薄青の空を背景に、視界いっぱいに一番見たかった顔があった。
「アー……ット?」
「なんでだよ」
「え?」
 どうして、瀕死の相手への第一声が大丈夫とかじゃなく、こういう事言ってくるんだろう。
「なんで、死なないようにあれだけ考えてやったってのに、こんなとこであっさり死にかけてんだお前。ひょっとして俺のせいなのか?」
「ちが……」
 なんだか少し印象が違うと思ったら、眼がいつもの光を含んでいるような緑でなく、ほぼ色が無いに等しい薄い金色になっている。でも、それ以外はどこも変わらない、褪せた金髪も、ぶっきらぼうな口調も今はかなり不機嫌そうなその顔も。
「死んだのかと思ったぞ」
「ごめ……ん」
「なんでも謝ったらいいって思ってんじゃない、まあ、死んじまったら謝るのもできないがな」
 必死で息を宥めていると、さっきまで自分の血流の音であまり聞こえなかった周囲の音が戻って来た。なんだか風が渦を巻いているような、鋭い音がどこかから響いてくる。抱えていた唯人の上体をそっとミラに預け、アーリットが立ち上がった。
「お前がもしあの牢から脱走しそこねてたら、アシウントに連れていく道中で破壊主に襲われました、って事にして放り出しちまう予定だったんだが、まさかここに来やがるとはな……じゃ、今からさっとあいつを仕留めてくるから。唯人、しばらくここで大人しく待っていろ」
 あちこちに瓦礫の山ができてしまった道の中心あたりで、一筋のつむじ風が吹き荒れていた。その中心あたりに、黒い人影のような物が揺らめいている。地に斜めに突き刺さっている銀の杖を抜き、アーリットは渦巻く風へ歩み寄った。
「ユーク・レシィ(右眼)、ユーク・ミリア(左眼)、戻ってこい」
 ふわ、と風が勢いを緩め、現れた飛び魚のような翼とひらひらしたひれを引いた二匹の長い生き物が緑の軌跡を引きアーリットへと戻る。現れた黒の破壊主のその顔を目にしても、アーリットは眉ひとつ動かしはしなかった。
「そんなつまんねぇ顔してたのか、黒の、隠してて正解だったな」
 特に仕掛けてくるでもなく、紅い瞳がふ、と笑う。傍目にみると、旧知の二人が会話を楽しんでいるくらいにしか見えなかった。
「どうやら、小魚を餌にしたら大物がかかったようだ。やはり生き餌は食い付きが良い」
「うるせぇな、お前とぐだぐだお茶話するのも、もうこっちはうんざりしちまってるんだよ。この数年でお前殺ろうって思わせた借りをみっつ積み上げてるってのに、今日一日だけでふたつ上乗せだぞ?テルア壊しやがったのと、俺が見つけた珍しい花を、勝手にむしり取ろうとした」
「花か、お前にしては優雅に例えたな。そうだ、あれは呆れるほど脆い、それに散ってもまたいずれ次が生えてくる。そんなものに執着しない生を、お前は過ごしてきたのではなかったのか」
「脆いから、壊すのか?」
「そのほうが、無駄に苦しませずに済む」
「言っておくが、お前の勝手は俺のものには押し付けるな。俺は、その脆い連中の苦しんだりもがいたりが無駄にならない一部始終を見てるのが嫌いじゃないんでね。それじゃあ、今からお前自身の脆さを思い知ってもらうとするか!」
 言葉が終わるより先に、銀の杖が相手に向けくり出された。傍目には動いたのが分からない程の最低限の動きでそれをかわし、振り上げられた鋭い刃がその首を狙う。一見華奢に見える杖で見事にそれを受け止めると、アーリットの左眼に緑光が輝いた。
「ユーク・ミリア、〝風刃〟!」
 ひゅう、と鋭い音が響き襲いかかるつむじ風に黒い衣服の脇がざっくりと裂ける。と、まるで生き物で出来ているかのようにざわざわと波打つと布はみるみる元通りに治ってしまった。
「そんなもの、どうやって生成しやがったんだよ。気持ち悪ぃな」
 すかさず返す刃が振り下ろされるのを身軽に避け、二度、三度と杖と鎌が火花を散らす。一旦間を取り、アーリットがおもむろに持ち方を変えた杖の先にまばゆい金色の光が灯ると、花火のように滴り落ちた。
「クーロ・アッソ(腕の5)、〝雷軌〟」
 それは、見た事のない奇妙な様式の武器だった。まるで釣竿から伸びる糸のように、杖の先の光がその動きに合わせ軌跡を残す。ぶんと振って身体の前に半円の輝線を引くと、それを突き破ろうと鎌がかかった瞬間、高圧線を断ち切ったかのごとく物凄い火花が周囲に散った。
「そら、次はその癇にさわる顔をちょっとはましにしてやるよ!」
 杖の先が、破壊主の顔めがけて突きだされ弧を描く。それを受け止めようと鎌の柄を上げるとまたも激しく火花が弾け飛んだ。
「やるな、翆眼鬼、やはりお前と踊るのが最も興に乗る」
「馬鹿言うな、俺はそんな趣味はない。とっとと死ね、骨は魔除けに一個ずつてめえが潰した街に埋めてやる!」
「我がお前を屠ったとしても、この世界の者はきっと同じ事を行うだろうよ」
「あいにくだな」
ついに、鎌が相手の腕から弾き飛ばされた。
「俺が死んだら、骨どころか塵一つ残りゃしないんだよ」
 やはり、回円主界最強と謳われるその力は揺るぎない本物であった。まるで獲物に狙いを定めた鷺のごとく、優雅に捧げ持たれた銀の杖がぴたり、と正面の顔に据えられる。それでも、紅の線を引いたその顔はまだ今この時が楽しくて堪らないといった子供じみた明るさを見せ続けていた。
「もういいか?黒の」
「……」
「じゃあ、これで終いだ。伝説の威を借ろうとする奴は伝説へ還れ、破壊主の名とともに」
「笑えるな」
「なに?」
「一国に等しき時を生きてなお、まだこのように詰めの甘い部分を見せる……お前という堅き蛹は、いつになれば成熟するというのか」
 その言葉と気配に振り返ろうとしたアーリットの背後で、まるで生き物のごとく破壊主の鎌が跳ね起きた。瞬時にもの凄い勢いで回転を始め、うなりを上げて二人の闘いを見守っていた二つの人影に迫る。素早く立ち上がった白い姿が両拳を握り締め覚悟の表情でそれに向き合ったのと、一瞬完全に無防備になった背を差し向けられた黒い〝気〟の刃がすらりと貫いたのはほぼ同時であった。
「うわっ!」
 がっ、と明らかに何らかの異変を起こした音をたてミラが吹き飛ばされる。こちらに呆然となった顔を向け動きを止めたアーリットの白い衣装の胸にはじわりと紅い班が浮かびあがり、みるみる大きく拡がっていった。
「ミラ、アーリット!」
 恐ろしいまでに、ただの一瞬で全てがひっくり返されてしまった。顔だけはこちらに向けたまま、まるで糸の切れた操り人形のようにアーリットの痩身が地に崩折れる。すーっと頭から血の引いていく感覚があり……。
「うわぁぁっっ!」
 意識が、飛んだ、。鋭月を振りかざし、一気に黒い姿へと飛びかかる。何も考えられなかった、目の前のこれか、これを含めた全てがなかった事になればいい。大きく振り回した刃が鎌に易々と弾き飛ばされ、ぐいと胸倉がつかまれると紅い瞳が寄せられた。
「血迷うな、創界主」
「うる……さい!」
「先程までとは事情が違うのだぞ、お前は、既に一度死んだ、その命はもう黄泉の入り口から引き戻した翆眼鬼のものだ。双界鏡もお前を護る為身を挺しているというのに、そうあっさりお前のみの一存で捨ててしまって良いものなのか?」
「……」
「今しばらく、我を楽しませるがよい」
 まるで大人が子供をあしらうようにぽいと唯人を放り出し、鎌を元の杖へと戻す。天から重い羽音が近づき、舞い降りてきた漆黒の猛禽の背に軽く飛び乗ると黒の破壊主はじっと唯人を見下ろした。
「翆眼鬼は、お前達脆き者の苦しみに慈悲を与えるのは我の勝手で押しつけるなと言ってきた。今回だけは、その言葉を尊重してやろう。もしあれが生きのびたなら、次を楽しみにしていると伝えておけ」 
 ばさり、と翼が風を起こし飛び立った姿がすぐに煙で霞む空の一画へと消える。気がつくと、ずたずたにされた石の通りにまばゆい朝日が射してきた。
「アーリッ…ト……?」
 空っぽの頭で、倒れている血に染まった背に歩み寄る。どうしたらいいのか分からず、傍らにぺたりと座りこむとその身体が微かに上下しているのが分かった。
「まだ、生きてる、そうだ、血、血を止めないと……」
「ちかづく…な」
 ほとんど吐息のような微かな声が、アーリットの口から洩れた。
「アーリット、だ、大丈夫なのか?」
 思わず肩に添えようとした手が、弱々しく、しかし断固として払われる。何か言おうとして息を吸ったのか、ごぼ、と重い音が喉から漏れた。
「…れの……つえ……」
 慌てて周囲を見渡して、落ちている杖を拾うと手渡してやる。杖がアーリットの手首に戻って消えるのと同時に、銀色の葉が茂る蔓状の植物が入れ違いに袖口から伸びてきて、みるみるうちに服ごと身体を覆ってしまった。
「唯人、少し離れて」
「ミラ?」
 左の脇を押さえながら、泥だらけのミラが近づいてきた。どこか怪我した?と聞くとちょっと凹んだかもね、と辛そうに笑う。後ろから肩を引かれ、倒れているアーリットと少し間を取ると、アーリットを中心に石畳に丸く光の線で紋様が浮かび上がった。
「何が、起こるんだ?」
「おチビは、まだ死ぬって決まったわけじゃないんだけど死ぬんならそれなりの準備と手順があるんだ。それは銀枝杖がちゃんと請け負ってるから状況を見て最適の処置をしてくれる、そっちに任せておくしかない」
「え、だって、手当とかは?もう死ぬって決めつけられてるのか?そんな馬鹿な!」
 ミラの手を振り払い、再度駆け寄ろうとした唯人の前で紋様からニアン・ベルツが舞い上がる。アーリットをつかんで一気に空に向かうとその姿もまた彼方へと見えなくなった。
「ミラ……」
「気持ちは分かるけど、追わないよ、彼もそれを望まない。万が一もう駄目なほうに傾いてるなら近づかないほうがいい、持ちこたえられたって確証が持てるまで我慢して待とう。まずは気持ちをしっかりさせて、唯人」
「しっかりって……こんな状況で、しっかりって!」
 また、何一つできなかった。そして、呆れるくらいまだなにもできない。のろのろとスフィの破片の包みと鋭月を拾い集め、走り回っているテルアの精霊獣師の姿にああ、逃亡中だったと崩れた聖堂の内へと身を隠す。瓦礫の窪みにすっぽりと身を収めると、左腕の触れた箇所にふわりと印が浮かび、綱手が身体に帰ってきた。
「お帰り、綱手」
 よく頑張ったね、ありがとうと左肩に浮かんだ石と紋様を撫でてやる。こんなに凄い力たちに恵まれて、まだ大事な人ひとりの足枷にしかなれなかった自分。外に出たくないと言っていたのを無理に連れだして、結局スフィも壊してしまった。これでアーリットが死んでしまうような事になったら、やはり破壊主の言うとおり自分がどう思おうと自分はこの世界を終わらせる存在の片翼としてここに在ると言うのだろうか。
「鋭月」
『はい』
「もう充分分かったよ、自分の力の限界ってものが。もしアーリットが駄目だったら君も城に戻す、僕が持ってたらいずれ確実に壊してしまうだろう。そうなったら辛いから」
「おかしな事を、おっしゃるのですね」
 すいと、傍らに墨色の着物姿が現れた。
「闘うための武具を、壊すのが嫌だから蔵に戻されると。それでは、私は唯人殿にとって何だったのでしょうか」
「だから、刀なんて満足に使えない素人の僕には、やっぱり無理だったんだって」
「物に、主を選ぶ権利があるとでも?」
 時々見せる、少しも笑える状況でないときの綺麗な笑みが鋭月の顔に浮かんだ。
「少々、慣れ合いが過ぎてしまったようですね。スフィ殿の事をそこまで気に病む事こそがそもそもの間違いなのです。物は壊れる、それは当り前で最期の瞬間まで役目を果たせた事をあの方はきっと満足しています。それに感謝したら後は良き思い出として心に置き、使えない残骸はきっぱりと処分しておしまいなさい。私やスフィ殿がこのような姿を取ったのは、持ち主である貴方の不安を和らげ少しでも心穏やかであれと気遣っただけの事。そのように苦しみの種になるのであれば、いっそ、この姿は蛇蠍にでも変えたほうがよろしいのでしょうか?」
 すうっと寄せられた、眼の中の黒い瞳がきゅっと蛇のそれのごとく細く締まる。言葉も無くそれを見守って、おもむろにその袖をつかむと唯人はしばらくそのまま、いつも心を落ち着かせてくれる木綿の手触りを確かめるように握りしめた。
「もし鋭月が今みたいじゃなかったとしても、真面目で一途で、不甲斐ない持ち主に気を使ってくれるところはきっと変わらないんだろう。なら、見てくれが鷲獣でも渓谷ミミズでも僕はどうだっていいよ、今の姿が好きだけど」
 そうですか、ではミミズをやらせて頂きますと眼を閉じて、冗談ですと元通りの暗くて深い黒目がちの眼差しを唯人に向ける。この世の中には著しく冗談に向いていない人種が確かにいるが、鋭月はレベン・フェッテ添王の次くらいにどうか、といった印象であった。
「今後、あの暗い蔵の内でただ一人、貴方の生死を案じながら朽ちてゆくことになれば、遠からず私は正気な心の物ではなくなるでしょう。たとえ先程のように貴方が失われる痛みにまた晒される時がこようとも、私にはその覚悟がありますから。唯人殿も私がきちんと唯人殿の敵とまみえ、正しき武具の最期を迎えられるようこれからも私をお持ち下さい。貴方はただの素人より、私をふるっても己を傷つけぬ程度の技量は身につけておられる。その手の温かみと護るべき命さえあれば、後は私には別にどうでもよいことなのですから」
 ふと鋭月が顔を上げた、視線を追うと板戸が飛んでしまった窓枠の向こうに黒くて長い何かがいる。あの黒い化け物?と身を起こそうとしたこちらより早く、するりとその姿は瓦礫の陰に消えてしまった。
「逃げた?」
 陽光のせいか、あの吸い込まれるような黒よりは金属的な紫に輝いて見えた、ということはただの蟲か誰かの精霊獣なのか。綱手がぴくりとも反応しなかったので、とりあえず敵ではなさそうだ。外を見てくると出て行ったミラが帰ってきたら場所を変えよう、と身を起こすと、ちょうど瓦礫を越え、羽音ひとつたてず優雅に舞う白い蝶のようにミラが帰ってきた。こんな物があったよ、と唯人の懐に聖堂で配られるかちかちの乾パン状の食物の袋を放り投げる。欲しくなくても食べる、綱手にもやっちゃ駄目とじっと見守られながら、心の底から食べるという意欲が湧いてこないまま、ただもそもそと顎と喉を動かし続けていると窓から差し込む光が大分高くなってきた。
「街にいた、黒い化け物はどうなったのかな」
「大丈夫、小さいのは精霊獣師たちが、大きいのは綱手やアーリットの精霊獣が退治して城までは被害は及ばなかったから。もうあちこちで後片付けが始まってるよ、幸いなことに街の人への被害はほとんどなかったって」
 アーリット、と言葉が出ただけで唯人の身体がびくん、と反応した。それを全く見ぬふりではい最後のひとくち、水で流し込んじゃえとミラが強引に水を含ませようとする。軽くむせていると、崩れかけた聖堂の入り口に人が来た気配がした。
「片付けの人が来たのかな」
「いいや、主通りからって言ってたからここはまだだよ。唯人、僕が隠してあげるから動かないでいて」
「唯人!」
 瓦礫だらけの堂内に、声が響いた。あまりにも耳に馴染んだその声音につい反射的に身を起こしてしまう、すかさずぐいと押し返され、ミラが身体に入り込んできた。
『唯人、声出さないで話して』
『ミラ、あれはサレだよ。彼は大丈夫』 
『駄目だよ、テルア軍兵士で小隊長級なら唯人がアシウントに送られる経緯も多分説明されてる。もうつかまるわけにはいかない』
『サレは、僕をつかまえたりしないって!』
『唯人、もし彼が君よりわずかでも多くこの国の事を思っていたら、今度は彼を斬らないといけなくなるんだよ。君はそれに耐えられるの?』
 きゅっ、と心が締められたような気分になった。近づいてきた足音に、息を殺して縮こまる。唯人がいる瓦礫の窪みの縁に褐色の指がかかり、ひょいと懐かしい顔が覗きこんできた。
「いるのか?唯人」
 見えていないはずなのに、ふいと表情が穏やかにほころぶ。ほんの少し手を伸ばしてくれば触れられてしまうのにそうしようとはしない、それが彼の優しさだ。
「見つかりたくないなら、あんまり緊張しちゃ駄目だぞ、汗とかの生きてる匂いが強くなってしまうから。でも分かったよ、今は話したくないんだな、なら、ここには誰もいないんだ。ああ、脱獄の件は怖がらなくても大丈夫だから、アーリットの采配で唯人は逃げた時点で消息不明扱いになっていて、見つかりませんってことで口裏あわせるよう指示が出てるから。それでなくてもテルアは今大変な状態だ、それどころじゃないよ。それにアシウントから要請が来た時、王は喜んで差し出そうとは言わなかったらしい。唯人はユークレンの客人なんだから、ってさ」
 おっと、と視線を外したサレの腕に先程見かけた濃紫の蛇がするりと這いあがってきた。スーラン、唯人見つけてくれてありがとな、と精霊獣を身体に戻すとサレはひょいと瓦礫から身を引いた。
「じゃあ、俺に会う気になれたらまたこっそり顔見せてくれよ、俺は当分街の片付け要員やってるから」
 あ、それと、と歩きだした背がふと止まる。
「アーリットなんだけどさ、見なかったか?大分前に城を飛び出して行って、それきりみたいなんだ。もしかして本当に破壊主が来てたのなら追いかけて行ったのかの知れないが…ま、唯人は知らないか」
「……」
「外に血の痕があったけど、あれ、関係ないんだよな?」
 もう、どうにもできはしなかった。ぐっとこみあげてきた涙で視界が歪む。ぱたぱたと大粒の雫が床に落ちる音がやけに大きく響き、振り返ったサレの前に無言で唯人は身を乗り出した。
「やあ、唯人」
 腕を顔にあてがったままの頭が、がっしりした腕に抱き寄せられる。子供のように息をつめ、しゃくりあげるのを止められない唯人の肩をサレの広い胸はただしっかり支え、そのまま包み込んでくれた。
「随分、怖い思いをしたんだな」
「アーリットが……」
「うん?」
「黒の破壊主に刺されて……あいつは、僕を探しに来て、僕を殺すはずだったのに!アーリットが、僕を助けて代わりにやられてしまったんだ。ミラは、僕に嘘が言えないから死ぬと決まったわけじゃない、なんて言い方するけど僕の聞きたいのはそんなんじゃない、僕は……」
「死なない、絶対に。だろ?アーリットは」
 どっ、と涙の勢いが増した。うん、泣いてる感じも可愛いからいいよ、と言われ流石に呆れるがどうしても止まらない。耳に染み込んでくるような囁きで、サレはもう一度唯人に望んでいる言葉をくれた。
「アーリットは、死なないよ。前にも一度破壊主とやりあって、片腕取れかけたって言ってしばらく姿を消していた時があったんだ。でもある日、なんでもない顔して帰ってきたから。だから大丈夫、ちゃんと戻ってくる。そんなに泣かないで、信じて待っていればいい……俺だって、五年かけて無理だったとき、本気で死なないんじゃないかって思った事あったからな」
「え?」
「今、二人きりだな。じゃ唯人の気がまぎれるように、ちょっと昔の話をしてやろうか」
 顔は上げなくていいから、と薄日の射している瓦礫に並んで腰を下ろす。いいか、二人だけの秘密だぞとまず念を押され、サレはいつもの屈託のない声のまま語り始めた。
「まだ会って間のない頃、俺、唯人に腕試しのつもりでこのテルアに来たって言ったな」
「うん」
「あれ、世間一般向きの身の上ってやつでさ、本当は……」
「?」
「翆眼鬼を、殺りにきたんだよ」
「えっ?」
 思わずしゃっくりみたいな変な声が出てしまい、背を軽くぽんぽんと叩かれる。
「俺が生まれたのは、回円主界の西、群島連合国北部のエリテア諸島。そこの頂点の位にいる陽皇帝には二人の妻がいた。エリテアは陽皇帝を芯とした月、星、雲、雷、虹の五つの部族で成り立っていて、皇帝の妃は各部族から二人、そのつど占で選ばれるしきたりになっている。現皇帝の妃は雷妃と俺のお袋の虹妃、どちらが先に世継ぎを生むかで競わされた二人は数か月違いで二人とも男児を産んだ。辛うじて先に生まれた俺は、五才くらいまでは世継ぎとして何不自由なく育てられてたんだが、少し年の割に体が大きかったんで北方海賊の血を疑われ、両性である事が発覚してしまった」
「してしまった?」
「〝翆眼鬼〟の件以来、群島じゃ両性は凶兆なんだ、特に皇族の血筋じゃ致命的だ。元をたどれば親父の流れかも知れなかったのに、お袋は勢いづいた雷妃に糾弾されて幽閉の後すぐに死に、俺はご大層な名前を〝カーサ・レピ〟に変えられある場所へ追放された」
「カーサ・レピ……?(鬼の子)」
「そこは、二十七指の会っていってエリテアに古くからある暗殺者養成機関だった。そこで十年間人殺しの技だけを身体に叩きこまれて、特別できが良かったのかそこの存在意義であるテルアで翆眼鬼の首を取る任を命じられた。もちろん頭の中もばっちり仕込まれててお前の不幸は全て翆眼鬼から発した、母の敵を取れ、復讐してやれって見事に乗せられてたよ。そして仕上げに精霊獣を二体、武器としてもだけど、タタルは俺が逃げ出さない為の見張り役、スーランは首尾よく目的を果たした時の自死用の毒蛇だったんだ」
 いつの間にか、唯人は顔を上げていた。よどみなく語られ続けるこの穏やかな暗紅の眼の青年の生い立ちが、あまりに今の雰囲気と違い過ぎる。しかし作り話とは思わせないその語り口でサレは話を続けた。
「他に何ひとつ世間の事を教えてもらえなかったから、俺はこの暗殺が失敗するなんて考えてもみなかった。異国から来た傭兵志願者として正規の手続きでテルア軍に入り、初めてアーリットを見たときは身体が震えたよ、ああ、やっと本物を殺れるんだ、って。で、はやる心を抑えて頃合いを見て仕掛けたら、こっちを見もしないであっさりとあしらわれた。それが理解できなくてしつこく食い下がってたら、なんて言ったと思う?」
「多分、ひどいこと、かな?」
「向こうも、ちょっとうっとおしかったんだと思う。まず殺気が出過ぎだって、それじゃ話にもならないからまずそこを直してこい、五年は付き合ってやるがそれで駄目なら俺がお前を始末するからな、って。今考えるとおかしいだろ?」
「けど、アーリットなら言いそうかも」
「でも、その時の俺は物知らずの十五才だったから、どうしたらいいか悩んだ挙句軍の教官に平常心の取り方を教わって、また挑んだら今度はそれは良くなったが仕掛ける間合いが悪いと言ってくる。どこで漏れたのか高い場所が苦手だってばれたら暇さえあれば木の上に乗せられたりさんざ好き放題されて。そんな事の繰り返しを四年も続けてたら、何だか奇妙な気分になってきたんだ。俺がこれまで教わってきた世界は、できなければ殴られるかもしくは死ぬ。周りにいる人間は殺るか殺られるか、ただそれだけだったんだが、ここではひとつ課題をこなしたら標的のアーリットは褒めてくるし、教官も色々聞いてたら訓練に熱心だといって可愛がってくれた。同期の連中はお育ちがいいのか異国人の俺を苛めにかかってくるかと思ったらみんなして気にかけたり成績がいいと能天気に頼ってきたりしたもんで、現状が心地よくなってきてしまったんだ。それで肩のタタルにびくつくようになってきたら、ちょうど八十八回目の挑戦のときアーリットに少々こっぴどくやられて、のびてる隙に精霊獣に植え込まれてる指示を初期化されちまった。〝武器精は、ただ己をふるう者のみに従うべし〟ってな」
「そんな事もできるんだ」
「それで、そっちに怯える心配はなくなったんだが、その時はっきり悟ったんだ、俺、来年死ぬな、って。ちょっと頭が回るようになって、アーリットが五年って言ったのは、この事に俺が自力で気付く為の時間だったんだって」
「僕らの五年と、アーリットのは全然違うんだよ」
「そこで初めて、何もかもがふっ切れた気分になって休みをもらって一度エリテア本島に帰った、最初で最後のお袋の墓参りに行く為に。久しぶりの故郷は色々と面倒くさくなっていて……二十七指の連中は俺を粛清しに来たが呆れるくらい弱っちいし、腹違いの弟は病弱な上母親の言いなりでとても皇帝の器で無いとかで、昔お袋派だった旧臣連中が俺をかつぎ上げようともちかけてきたんで早々に俺はテルアにとんぼ返りしてやった。やっぱり鬼の子は騒動しか起こさないな、って。で、最後にちゃんと一族の墓に帰してもらうため名前もカーサ・レピからお袋の族名の今のに変えてすっきりした俺を待ちうけてたのは、なぜか軍の小隊長昇格試験だったわけだ」
「え、なんで?」
「そのときは、俺だってそう思った。テルア軍の昇格試験は、基本、他国の人間は受けられないしユークレンの人間でも早くても三十歳を過ぎたくらいで受けるものだ。その時俺は十九だったからそんな事全然頭に無かったんだが。実力は充分だしエリテアのそれなりの一族なら、ってなぜだか頼んでもない許可が出て、どたばたと全部済ませたらあっけなく合格しちまった。免状を一級精霊獣師に貰ってこいって言われたんで覚悟して行ったらアーリットは知らん顔で書状くれるだけだ。もうやけくそでやるならさっさと済ませてくれ、って詰め寄ったらさ」
 今でもその時の気分が鮮明に蘇るのか、もう我慢の限界、といった感でサレは肩を揺らして笑いだした。
「なんで国が長年面倒みて育てあげた貴重な戦力を、俺が潰さなきゃならんのだ?って逆に聞かれたよ。だって俺は貴方をずっと狙い続けた暗殺者で、って言ったら本当に、ここに来た当時の殺意思い出すくらいわざとらしいびっくりした顔して〝そうだったのか?〟って返しやがった!なんか痩せこけてガラの悪そうなのがやんちゃしてくるから軽くびびらして、後は適当に鍛えてただけなんだとさ!始末するって言ったのはものにならなかったら軍を追いだすって意味だった、ってしれっと駄目押しされて……あの後俺の怒りの全てをぶち込んで、全力かけて挑んだ九十七回目の最終戦が人生で最高に燃えた瞬間だったなぁ。肋骨やられたけど、その程度はアーリットに本気出させたって実感がもらえたから」
「本当に、なにかにつけて一番意地の悪いやり方とってくるんだね」
「でも、それも後で考えたら全てにおいてひとつの無駄もないんだ。分かったか?唯人、あんなひねくれたのが素直に死んでしまう訳ないって」
「う、うーん、何となく……」
 まあ、涙が止まったみたいで何よりだ。こんな俺のつまらない半生が初めて役に立ったよ、と肩にまわされた手でを頭をくしゃっとやられる。それで、アーリットはどこに行ったんだ?と一番最初に話を戻されちょっと待って、と唯人はミラに呼びかけた。
『ミラ、アーリットがどこに行ったか知ってる?』
『……うん』
『教えてくれ』
『一応、僕がもの凄く言いたくないってのは察してよね。千年樫の森の神殿跡だよ』
『分かった、神殿跡だね』
『行く気?』
『うん』
『最初に僕が言ったこと、覚えてる?』
『もしアーリットがもう駄目なら、近づかない方がいいって?』
『そうだよ、君の命にかかわる事だから、そこは僕も譲れないんだけど』
『なら、ちょっと考えを変えてみるよ。アーリットを死なせないために、僕が今できる範囲で間にあうことってなにかあるのかな』
 ぐっと、ミラが言葉に詰まったのが感じられた。
『……』
『言ってくれ、ミラ』
『……えーっと』
『あるんだね』
『無い事は……ないよ』
『なんだか、すごく言いたくないんだな、多分僕にはあまりいい事じゃないんだ。でも聞かせて欲しい、どうしたらいい?』
『おチビは、多分ほっといても自力でなんとかするよ。行くことなんかないって』
『ミラヴァルト・イア・ミストフェロー、君の持ち主の僕が聞いてるんだ』
『分かりました、我が双界鏡〝左〟の主、阿桜 唯人』
 できればこんな言い方はしたくはなかったが、どうしても聞かなければならなかったので背に腹は代えられなかった。はあ、と深呼吸なみの溜息をつき、ミラがわざとらしい返事をかえす。
『唯人、僕と君が初めて会って、僕がこっそり契約した時君に石の首飾りを渡しただろ、あれ持ってる?』
『ああ、あれならずっと外してないからここにあるよ。これが?』
『唯人が、以前僕ら物精に聞いてたよね、物は食べないのかって。あの時、僕らは綱手みたいに食べたりはしないって言ったけど、全然何も食べないってわけじゃないんだ。世界主がこの世界にあまねく満たしてくれてる、あらゆる物質の素材〝霊素〟を主たる人を通して取り込むことで僕らはこの姿を作りだしてる。霊素はたえず巡って、何もしなくても人の体に入ってくるから物精一・二体くらいならなんとかぼーっとしてても養えるんだけど、数が増えたり強い霊獣を持つとどうしてもそれだけじゃ足りなくなる。そこで足りないぶんを集めて身体に取り入れてくれるのが、ちょっと力のある精霊獣師なら基本持っている〝杖〟だ。ちなみにおチビの銀枝杖はこの回円主界の三大霊樹、金果、銀枝、銅葉樹のうちのひとつ、銀枝樹でまるまる出来ている、並みの人間じゃまず維持できない数の精霊獣を支える最強級の逸品だよ。ところで、僕と瑠璃鉱竜なんてすごいの連れてて唯人はその大事な物を持ってないねぇ、どうなってるんだろ』
『え、それが、これ?』
 衣服の下から引っ張り出した、紐の先の虹色の石を手に乗せてみる。射しこむ陽光によく輝いて、ミラに貰ったあの時から寸分変わった様子は無い。
『そうだよ、僕がミストの元を離れる事になった時、君に会える日まで僕一人でやっていけるよう、ミストが集めた霊素を結晶化させて僕に持たせてくれたんだ。今君は、無意識にその石の霊素を必要なだけ取り込んで僕たちへと供給してる、そしてそれは今のアーリットにもあればとても助けになるんだ。彼の身体は刺されたくらいのことは修復が効くし使えなくなる心配は薄いんだけど、それより危険なのは気力が落ちて、封じこめてる体内の禁呪や不服従の精霊獣が一斉に彼を内から蝕み始めるってことなんだ。それを抑え込んでくれる服従側の精霊獣の為に、霊素はいくらあってもいい。多分今ちょうど、双方の力が拮抗しててごくわずかづつ右肩上がりに持ち込んでる駆け引き中なんだろうけど。不安なのは、銀枝杖が完全に服従してる物精なのかちょっと確信が持てないってことだ。あれは何考えてるのか僕にもよく分からない、もし今手抜かれたりしたら、かなりまずい事になる』
 見た目、ただの綺麗な石にしか見えない首飾りをじっと見る唯人に傍らでサレは辛抱強く待っている。やる事は、決まった。
『もう言ってもしょうがないと思うけど、それを手放しちゃったら僕と綱手は口出しと肩の荷くらいしかできなくなっちゃうよ。よほどいい杖を手に入れるまでは、もう今日みたいには働けないって思っておいて』
『分かった、ありがとう、ミラ』
 会話を終え、とりあえず首飾りを戻すとおもむろに立ち上がる。
「サレ、アーリットのいる場所が分かったよ。彼の住んでる千年樫の森の奥の神殿跡なんだけど、今からそこに行く事に決めたから。たとえごくわずかでも、彼の力になる物を僕が持ってるから届けてくる」
「そうか、じゃ、俺も行くよ。唯人を一人になんかさせられないからな」
 当然、といった口調で言い切ってサレもすっくと立ち上がった。大丈夫?また除隊になったりしない?と心配する唯人に一級精霊獣師の様子見だからちゃんとした任務になるって、と笑う。とりあえず最低限の支度をしてくるからちょっとだけ待っててくれと言われ、じゃあついでにこれを包んで持ち運ぶ用の大きめの布が欲しい、と唯人は抱えていた上衣の包みを開いて見せた。
「これも、僕の武器だったんだけど、さっきの闘いで折れてしまって。捨てなきゃいけないのは分かってるんだけど、まだそんな気になれそうにないからしばらく持っていたいんだ」
 その唯人の言葉にどれ、見せて、とサレが受け取った銃の前身と銃床の折れた部分を見比べる。ちょっと合わせてみたりして、ふむ、と暗紅の眼が興味深そうに細められた。
「俺はこんな武器は見たことないから、断言はできないんだが。木の部分が折れただけだよな、ならそこだけ作りなおして組み直すわけにはいかないのか?ここ、テルアにだって腕のいい木工職人は何人かいる。武器の小難しい部品も手がけている奴はいるから、ただ持ってるくらいなら任せてみたらどうだ?」
「え、スフィ、直るのかい……?」
「そりゃ、職人に聞いてみなきゃ分からないけどな」
 瞬時に、崩れた聖堂の中が明るさを増したような気がした。そのまま一旦城に戻るサレと別れ、教えてもらった職人通りへと向かってみる、しかし……。
「うわ、これは……」
 通りは、惨憺たる有様になっていた。運悪く大型怪物の襲撃を受けてしまったのか、何件もの店が崩れ、中の様子もひどい事になっている。なんとか被害を免れた店の主人は、事情を告げた唯人に申し訳なさそうに首を振った。
「すまんが、これから家や道具の修理の依頼が山のように来ると思うんだ。そっちを優先させなきゃならんから正直いつになるか約束できん、急ぐなら、まだキントにでも行ったほうが手の空いてる奴はいると思うんだが…キントもああだしなぁ」
 そうですね、すいませんと少し浮上した気分をまた下げて、サレと待ち合わせしたテルアの南門へと向かう。初めての旅になるから簡単な物でもそろえておこうかとミラに相談したら、僕も持ってるし、どうせ途中でおチビの住み家に寄るからそこで足りないものは借りちゃえば、と提案された。激しい戦いの後のせいか兵の数は物々しく、出入りする人達で南門はごった返している。すぐにサレがやってきて、やっぱり駄目だったか、と持って来てくれた布をくれた。それに銃を移してくるんで背に縛り、その上からこれも貰った少し厚手の外套を掛けた。
「じゃ、行くか。千年樫の森までは一日半くらいで行けるが、それからその神殿とやらまでがどのくらいなのかよく分からないからな。一応、食料は十日分入れといた、ほい、唯人のぶん」
「行きだけは、僕の精霊獣がまとめて乗せてくれるって。途中、アーリットの家に寄るみたいだけどいいかな」
「そりゃ助かるよ、願ってもないことだ」
 渡された、サレの半分くらいの荷物の中を覗いてみると日持ちのする食べ物と一緒に小刀や綱、換えの履物まで入っている。重けりゃなんかこっちに入れていいぞ、と大きな荷を示され平気だよ、と唯人は自分の荷物を肩にかけた。任務に出るサレのお供のふりで門を抜け、(門番は俯いた唯人のほうをちらっと見たが、何も言いはしなかった)テルアに入る為、外に集まっている人々の間を通っていく。その中から、ふと唯人を呼びとめる声がした。
「唯人?おい、唯人じゃねぇか!」
「え?」
 振り返った目に、わさわさと人混みをかき分けて出てきた懐かしい顔が映る。思わず駆け寄ってがっしりと手を取り合うと会えてよかった、と相手はよく日に焼けた腕で肩を抱いてきた。
「イシュカ、どうしてテルアに?」
「どうしてって、今朝早くニーミェ……あ、俺の今いる湖北の村な、そっからテルアが尋常じゃねぇ様子なのが見えたんで、いてもたってもいられなくなって街とお前の様子見に飛んで来たんだ。なんかあったんなら戦うのも石工の用もどっちも必要だろ?唯人は見たところ怪我はしてないようだな、さすがだぜ!」
「あ、うん、僕はそんなに」
 無心に笑いかけてくるその表情に、言葉を濁して顔を逸らす。
「ありがとう、せっかく来てくれたのに申し訳ないんだけど僕、今からしばらく出かけないといけないんだ。ごめん」
「おう、見りゃ分かるって、気にすんな」
「あ、そうだ、できればちょっと教えて欲しいことがあるんだけど」
「なんだ?俺に分かることならなんでも聞いてくれよ」
「今キントに、腕が良くて手の空いてる木の職人さんっているかな。僕の大事な武器が壊れて、直してもらえたらって思ってるんだけど。テルアはこんな状況だからちょっと無理で」
「木か?木で腕のいいのは南東六番通りのホスのとこだが、あそこは避難区域じゃなかったっけ。そうだな、あそこのバセイ爺さんなら店はもう息子に任してるが、腕はまだまだ息子以上だしそういう面倒くさそうなのはきっと飛びつくぞ。よし、俺が責任持って紹介状書いて届けてやる。他ならぬ唯人の頼みだ、無下にしちゃあカノに怒られちまうからな!」
 やった、と喜びを抑えきれず思い切り頭を下げようとしたらよしてくれ、とすかさず押しとどめられた。この程度で恩の貸し借りが終わっちまって縁が切れたらつまんねぇからな、と銃の包みを受け取りまかせろ、としっかと胸に抱く。次こそは饅頭でうまい酒飲もうな、と笑顔で見送られ、唯人は何度も何度も振り返りながら王都の南門を後にした。
「うまくいったじゃないか、唯人。やっぱ一人でも余所の知り合いがいると、意外なところで役立つようになってるんだな」
 少し先の方で待っていてくれたサレにうん、こうなるとは自分も思わなかった、と最後にもう一度背後の人混みを振り返る。それじゃ少し歩いて、人が少なくなったらミラに乗せてもらおう、と太くてちゃんと石の敷かれたユークレン南部大路を進んで行く。テルアを出たらそう時間を置くことなく、一面の青々とした大陸麦の畑になってしまった周囲の景色を見ながら、唯人は何となくまた背後を振り返った。
「……」
 気のせいならいいのだが、テルアを出てからずっと一定の距離をとって付いてくる人影がある。少し前に履物の中の石を出すふりで足を止めたとき、同方向に歩いていた人達はみんな追い越していったのに、その人物だけだなぜか歩く速度を急に緩め前に出てこなかった。少し小柄に見える身体は、フード付きの外套ですっぽり隠され怪しい事この上ないのだが、なぜかサレは何も言わない。そろそろミラに乗せてもらいたいのもあるので無関係ならさっさと行ってもらおう、とちょうど大きな木が見えてきた所で唯人はサレに声をかけた。
「サレ、そろそろ精霊獣に乗るよ、あの木の陰あたりでいいかな」
「ん、分かった」
 ちょっと早すぎるが一休みのふりで、道からは見えない幹の反対側へと回り込む。こっそり見ているとフード姿がじわじわと近づいてきて……なんだか、すごく物言いたそうに足をとめた。
「あの人、こっち見てるんじゃないか?」
「気のせいだろ」
 言葉にするとそっけないが、サレの口調にはあれが誰だか分かっていて、なおかつかかわるなという響きが感じられた。ふわりと唯人の身体から白光が抜けだして、人の姿をとばしてあの渡りムカデだったかの実体を取る。やっぱりどう見てもこっち見てる、なにか用なら聞いてみたほうがいいんじゃ?と思いつつ堅い蟲の背に手をかけた、その唯人に人影は突然小走りに駆け寄ってきた。
「あれ?」
 勢いでフードが外れ、綺麗な金の髪が覗く。澄みきった空の青の瞳が哀しげに細められている、人形のように綺麗なその顔は……。
「添王子?なんで!」
「唯人……」
「行くぞ、唯人」
「ち、ちょっと待ってくれよサレ、添王子じゃないか、置いていっちゃいけないって言うか、なんでここに?」
 乗りかけたミラの背から慌てて手を放し、やってきた添王子に向かい合う。サレは溜息をひとつついたが、無理に唯人をひっぱって行こうとはしなかった。
「唯人、ちょっとだけ、待ってよ」
「王子、なんで一人で……」
「僕、どうしても言わなきゃならないことがあって。でも言えないまま、こんな所までついて来ちゃった」
「言うって、何を?」
 何気なく王子の肩に手を乗せると、びくり、と身を硬くする。どうしたの、とかがんで目線を合わそうとすると必死に何かを奮い起こそうとしている顔で王子は唯人に向き直った。
「ごめん、唯人。ユークレンの王族を代表して今回の事謝るよ、唯人はユークレンにとってとてもいい客人として振舞い、時には力を貸してくれたのに。僕たちはアシウントに逆らえないでこんな消極的な解決法しかとれなかった。だのに瑠璃鉱竜でテルアを護ってくれて、今はアーリットを助けに行こうとしてる、どうして?怒ってないの?」
 震える腕を胸にあて、謝意を表しうなだれる様子になんだ、それ?と昨日の夜からの経緯を思い出す。正直、破壊主に会う前にあったあれやこれやは頭からどこかへ飛んでしまっていた。
「怒ってないよ、ていうか怒る理由なんてない。ユークレンの事情は分かるしアーリットが考えて、王がそれを許してくれたから僕はここにいるんだ。アーリットの所へ行くのは……僕のせいで彼が危険な状態だからで、添王子はなにも気に病む事はないんだよ」
「唯人……」
「ん?」
 王子が、すいと顔を上げる。
「僕も、行っちゃだめ?」
「駄目です王子」
 間髪いれず、打てば響くのタイミングでサレから却下がかかった。
「城から門までの間で、その事についての話し合いは終わったはずです。王子は非常時における王族分散法にのっとり明日北のトリミスへ疎開される事が決まっているんでしょう、ご自分の思いつきで客人に王族誘拐の嫌疑まで押しつけるおつもりですか?そうなると、軍としては否が応でも客人の捜索を再開しなくてはならなくなるんですよ」
「サレ、そんな言い方って!」
「分かってるよ、それくらい。だから書き置きは残してきた、王族がひとところに集まってなきゃいいんなら、辺境領土を見回ってきますって。千年樫の森は北ラバイア砂漠と国境を接するユークレンの古くからの領土、それを見知っておくのは王族の大事な責務だからね。最年少で小隊長の位に付いたサレと瑠璃鉱竜持ちの唯人、多分個人でこの二人より強い護衛は今テルアにはいない。ならその二人と一緒にいるのが今の時点で最も安全、ってことでしょう?だいいち国の心臓って言われてる一級精霊獣師の安否を、他国と身元不明の人だけが確かめに行くってさ。それを王族は見てるだけっていうのなら、そんなのただの壁の絵みたいなものじゃないか」
「添王子……」
 ちらと背後を振り返ると、サレは無言で木にもたれ、じっと唯人を見つめている。
「王子、申し訳ないけど僕の力をあてにしてくれているのならそれは駄目なんだ。僕は今からアーリットの元へ行って彼が助かるよう僕の力の元を彼に譲るから、瑠璃鉱竜を自由に使う事はもうできなくなる。だから自信を持って添王子を護れるとは言い切れない、それじゃ困るんだろう?」
「勘違いしないでよ、唯人」
「え?」
「僕はなにも、二人の後ろで女の子みたいに護ってもらおうなんて思っちゃいない。もう十五だから出来る限り自分の身は自分で護るし、その為の力は王族なりに持っている。もし唯人が危なくなったときは僕が助けてあげるから、それくらいのつもりでいて」
 えーと、説き伏せられてしまいました。真剣な面持ちの王子から再度視線をサレへと向ける、やれやれといった表情で目を逸らし、サレは傍らで所在無げに宙に浮いている蟲のミラをちらと見た。
「これ、三人も乗れますかね」
「うん、そのくらい大丈夫だと思うよ」
 やった、と王子が笑顔になった。



「それで、ここに何の用があるんだ?ミラ」
 薄暗い森のただ中に、埋もれるようにある樹そのもので造られたアーリットの住処。唯人が王都で暮らすようになってからも家の主は度々帰っていたようではあったが、今は当然のことながら扉は閉ざされ中は静まり返っている。そういえばミラは旅に足りない物を借りるとか言っていたが、大抵の物はサレが用意してくれた荷物に入っていたのでこれ以上は必要ないのでは?と唯人は地下水牢で見た小動物の姿をとってひょいと肩に乗ったミラを振り返った。
「別に、中に用はないよ。前に来た時は外にあって……まさかとは思うけど、おチビが捨ててなきゃいいんだけど」
「何を?」
「ちょっと、見に行ってもらっていい?家の裏の窓」
「うん、いいよ。王子、サレ、ここで待っててくれる?」
「あ、うん、僕はここの薬草畑見てるよ」
「分かった……」
 サレの声が少々こもり気味なのは、空を移動している間、ずっと周囲を見ないよう顔を伏せていたからだ。さすがにみっともなく騒ぐ事はしなかったが、知っていたのだからもう少しどうにかしてあげればよかったと思いつつ、せめて唯人と王子はここまで見ないふりをとおしてあげていた。 
「あ、あった、あれあれ」
 安堵の声でミラが示したのは、窓の鎧戸が錆びて閉まりが悪くなったのを、外から押して閉じる為に掛けられている一本の棒だった。金属の戸にごりごりやられたせいで先は傷だらけになっていて、雨ざらしにされているせいか色もすっかり黒ずんでいる。物を大切にしないから今回みたいな天罰が下ったんだ、とさりげなく毒を吐くミラに苦笑しつつ、唯人はなんとか爪先立ってそれを手に取った。
「これが何?」
 手に持って下の端を地に付けると、ちょうど上側が唯人の脇の位置程になる。太さは太すぎず細すぎず、手のひらに馴染むほぼ真っすぐな棒だ。これは、ひょっとして。
「爺さん、樫の爺さん、起きてよ、僕だよ」
「おぉ?」
 ミラの呼びかけに、微かな声と共に家になっている樹の枝の陰の中にうっすらと人の姿が浮かび上がった。もしゃもしゃとした灰の濃淡の髪と髭に頭を覆われた、かなり年寄りらしい雰囲気の人物だ。
「鏡、か?これはまた、随分とひさかたぶりじゃなぁ……」
 そう?と返したミラにどうやらかなりの旧知らしい様子で老人が顔を綻ばせる。おぬしの主、そんな風体じゃったかのう、と遠い目をされそれはいいから、とミラは慌てて唯人の耳を引っぱった。
「唯人、これ、こう見えて千年樫製の精霊獣師の杖なんだ。おチビが小さい頃一番最初に持った杖なんだけど、銀枝杖を手に入れてからはこんな扱いしちゃってさ、誰かに譲っても良かったのに」
 こう見えては余計じゃ、と深く皺の刻まれた顔がくしゃくしゃと笑う。
「いんや、ワシが道具でええからここに置いといてくれて言うたんじゃ。この森にいるほうが安心するでな……ところで、おチビって誰じゃ?」
「え?アーリットだけど」
「はて?」
「あ、そうだ、アーリットじゃないんだ。〝アリュート〟、廃神殿の子!」
 ああ、あのひねくれ坊主、最近あまり帰ってこんのう、と傍らの樹の家を振り仰ぐ。その事でなんだけど、とミラは杖精の前に唯人を向かいあわせた。
「今ちょっと、そのアリュートが大変なことになってて、ここにいる唯人が様子見に行こうとしてるんだけど。彼、杖の持ち合わせが無くってさ。ものすごく久しぶりだと思うんだけど、良かったら力になってあげてくれないかな?」
「この爺がか?」
「そこそこ力がある新しい杖を探して、一から相性見てる時間が無いんだ。この子、大人しくて素直で優しくて(無防備な上無茶するし落ち込みやすいけど)いい子だよ?少なくともアリュートよりはずっと」
「ふむ」
 ふさふさした眉の下の輝く眼が、じっと唯人に向けられる。杖って相性あるんだ、とこっそり囁いた唯人に一応杖ってみんな木製で、素材の樹は生き物だからね、物精と霊獣の中間的な存在なんだとミラが説明し……。
「別にええぞ、ワシでよけりゃ」
 ごくあっさりと、許しが出た。
「良かったぁ、そう言ってくれると思った。じゃ唯人に名前教えてあげてよ」
「名前?はて……?」
「え?忘れちゃった?アリュートが付けてたはずじゃない、あの子がちゃんとした名前付けたたった五体の精霊獣のうちのひとつだろ」
「うーむ、それもかれこれ二百年以上も前の話じゃからなぁ、もうよい、お主が好きに呼ぶがええ」
「だってさ、唯人、好きにどうぞ」
 えーとちょっと待ってよ二百年って、確か鋭月は以前話してたら内容から、大体三百歳弱くらいな感じがしなかったか?それにそもそもこのミラこそが、最古の精霊獣という肩書だし。難しい世界だなぁ、と一瞬考えを巡らせる。
「じゃあ、小野坂さん」
「よっしゃ、では世話になるぞ」
「こちらこそ」
 ごく自然に会話を流され、無い物ねだりでもこの世界に足らないのはいいツッコミだとひとり思う。小野坂さんは、亡くなった夫が絵描きを目指していた頃もあったというだけで、画学生の唯人に自分の下宿を格安で貸してくれた大家さんの老婦人だ。彼女の夫の写真等を見た事はないが、目の前の人の良さそうな顔を見ていると、きっとこんなだろうなとふと思えた。出てきたとき手にしやすい位置になるのか、精霊痕は右腕の手首の少し上くらいに浮かび上がった。
「良かった、これで霊素の石を手放しても全然役立たずになっちゃうのは免れるよ。じゃ、後は一気に神殿跡まで行こう。ここからはそんなに遠くないから、群島の子も、後少しの辛抱だからね」
 その言葉のとおり、再度飛び立ってそうたたずに遠くの地平線に淡い黄色の砂の帯が見え始めた頃。樹々の間に、テルアの雲石とは違う石英のようなきらきらした白い巨石があちこちから覗いている場所が迫ってきた。石の埋もれ具合から百年ではきかない年月を感じさせるが、そこに何らかの巨大な史跡があった事はまだはっきりと見て取れる。大きく数回旋回し、そこだけ丸く開けているちょっとした広さの石を敷き詰めた広場にふわりと降り立つと、ミラは全員が下りた後光の珠に戻って唯人の内へと収まった。
『ようこそ、久方ぶりの人間の訪問者の皆様、前紀王国最古の世界主の神殿〝アリュート〟へ』
『え?さっきも聞いたな、その名前。アリュートって……アーリット、ここから名前取ったのかい?』
 唯人の問いに、ミラの言葉が微かに郷愁を感じている響きを帯びた。
『取った、っていうんじゃないね。アリュートは、ここがちゃんとあった頃の時代の言語で〝最初〟の意。最初は何も分からない、アーリットと由来は同じの彼の本当の名だよ。彼はかつてここで暮らし、今は忘れてるけどその前はこの神殿自体が彼だった。たとえ見た目がどんなに荒れ果てていようとも、ここは前紀王国の古式術式で構築されている神殿であり彼自身の昔の身体。今の身体が駄目になる可能性が起きれば、彼は無意識にどうやってでもここに帰ってきて術式全てを封印に書き換え何もかもこの地に封じ込める。そうしないと彼を中心に予想の付かない広さのユークレンの地が人の寄れない呪法の無法地帯になってしまうからね。さ、そうならない前に行くとしようか』
「唯人、これからどうするの?」
 物珍しいのか、樹の茂った周囲をきょろきょろ見渡しつつ王子がたずねてくる。サレの調子がいいなら下に降りるけど、と唯人が顔色を伺おうとすると、若干暗い顔でサレは笑顔を浮かべて見せた。
「俺のことは気にしなくても全然大丈夫だぞ?急いだ方がいいんだろ」
「じゃ、入り口を探すからサレはそこで見てて。杖がいるんだけど、王子は持ってる?」
「もちろん、王家に代々伝わっている銅葉樹付きの槍式杖だよ、先に輝海晶も入ってる」
「なら、それでここの広場の敷石を順につついてみて。反応するのがいくつかあるから、それを決まった順に押すと下へ降りる扉が開くんだって。僕はあっちの端からやっていくから」 
 王子と二人で両端に別れ、こつこつ石をひとつずつつついて行く。何個目かに杖が触れるとぼんやりと文字のような光を浮かび上がらせたので、サレに目印に小枝を置いてもらった。
「サレ、こっちも!」
 反対側から王子にも呼ばれ、サレが慌てて小枝を集めに広場から出る。陽がやがて森の木々に沈み始め、暗くなる前に済まそう、と王子はくるくる駆けまわって石の文字を全て地面に引いた枠のほうにに写し取った。
「これは、何かの文章を一字ずつばらばらにしてあるんだね。ちょっと待って、考えるから」
 残念ながら、ユークレン古語が分からないサレと、それ以前に文字をよく知らない唯人は王子が眉間に皺を寄せているのをただ横で静かに見守るしかできない。多分唯人が一人だったら、この時点でミラに首根っこつかまれて連れ帰られただろう。
「同じ文字がふたつは無い……ああ、やっぱりそうか、これ、〝誰も知らないというのは存在しないことではない〟っていう精霊獣師育成機関の統一理念だよ、こんな所に語源があったんだ。多分合ってると思うから押していくよ」
 はたして、王子の読みは間違ってはいなかった。最後のひと文字の石を押すと地下で何かの仕掛けが動いたような音が響いたが、石庭は特に変化を起こさない。あれ?と周囲を見渡した唯人と王子に、サレが奥にある大きな石塊のほうで音がした、と教えてくれた。
「うわ、本当だよ、ここが入り口なんだ。入っていって大丈夫かなぁ」
 よく動いたものだと思う、多分健在だったころはちゃんと立っていたのであろう複雑に傾いた石の塊にぽっかりと穴が開き、中に下へと降りる石段が続いている。もし危険そうなら外で待ってくれてていいよ、と気を使ったつもりで言った唯人の言葉に、誰のおかげで入れたっていうの?と若干不機嫌口調で返し王子はさっさと先に降りようとした。
「王子ー、何が起こるか分からないから固まって行動しませんかー?」
 サレが自分の荷物から灯りを出して火を入れる間に、王子の杖の先の淡緑青色の石に術式の光が灯り、唯人の杖の先には夜光蝶に化けたミラがとまってくれた。ついでに、鋭月も出して帯刀しておく。
「入っていいんだよね、ミラ」
「やめたほうがいい、って言い続けてるような気もするんだけどねぇ」
 外の荒れっぷりほどは、中の様子はそう酷いものではないように思えた。乾いた空気はしんと冷え、三人の足音以外物音ひとつ聞こえない。ただ、石段を下りきりゆるい下り勾配の通路に入った途端、壁の様子が少し変わった。先程見た石庭の仕掛けのように、延々と続く壁一面にぼんやりと光る線やら文字やら記号やらが浮かんでは消え、また別の形をとる……を続けている。なんだかこれはちょっと近未来っぽい、と杖を寄せてよく見ようとした、唯人の前で王子が突然声をあげた。
「わ!今、何か通らなかった?」
 え?と振り返った顔の横を、すごい速さの何かが過ぎた風が撫でる。慌てて確かめようとするより先に、ひらひらした緑が視界に飛び込んできた。
「あれ?泳風連魚じゃない、なんでこんなところにいるんだろ、つむじ風の精霊獣なのに」
「これ、多分アーリットの眼に居るやつだよ……うわ、なんだ!?」
 見た目はいかにも華奢でひらひらしているが、破壊主の足止めをしていたくらいだから力はそれなりにあるのだろう。二匹がかりで問答無用でびしばし体当たりを始められ、その結構効く衝撃に思わず顔を伏せる。
「これって、攻撃されてるのか?」
「違う、多分僕達にこれ以上行くな、戻れって言ってるんだよ!」
 くるりと宙を舞い、風のごとく目にも留まらない勢いで自分にも迫ってきたそれから数回身をかわし、さっと手を伸ばすとサレはごく自然に精霊獣の片方を手づかみしてしまった。じたばたする片割れの様子に慌ててすっ飛んできたもう一方もほい、と開いた手で捕えてしまう。ものすごくまずいタイミングで肩で綱手が身じろぎするのが感じられたので、ええと出てくるなじっとしてろ絶対食べちゃ駄目と渾身の精神力で封じ込めつつ、唯人はサレから精霊獣の片方を受け取った。
「お前、アーリットの精霊獣なんだろう?」
「……」
「僕達、少しでもアーリットの手助けになろうと思ってここに来たんだ。アーリットはこの先に居るのかい?」
 ひれのうんと長い飛び魚に似てなくもない精霊獣は、ただ手の中でぴちぴちともがき続けるのみだ。多分これが本気を見せれば、みんな揃って風に巻かれて外へと放り出されてしかるべき、のはずなのだが……お前も迷ってるのか?と考えた唯人の手がほんのわずか緩んだ隙をついて、魚は空に逃げだしてしまった。それでもまだ、空中で身をひる返して突進してくる素振りを見せている。どうしたものかと見上げた唯人の耳に、なにやら低い獣の唸り声のような音が響いて来た。
「奥からだ、また何か来たのかな」
 サレも、手を放して唯人の視線を追う。三人分の灯りの中に浮かび上がったのは、長い角を持った犬系の獣の顔だった。
「あ、ノイ・タシクじゃないか。なんだか、ここってアーリットの精霊獣がみんな野放しにされてるみたいだな」
 この獣は、もう自分を認めてくれているはずだ。何も考えずそちらへと近づこうとした……唯人の肩に、またも激しく緑の影がぶつかってきた。少しよろけたその顔の正面があった位置に、飛びかかってきた大きく開かれた口が迫る。とっさにかばった左腕に、がっぷりと鋭い牙が食い込んだ。
「うわっ!」
「唯人!」
 ざっ、と抜かれた金の刃が獣の胴を薙ぎ、凄まじい声をあげ奥へと逃げようとした獣が魚達のつむじ風につかまり粉々に散る。慌てて駆け寄ってきた王子が唯人の袖をたくしあげると、とっさに綱手が割り込んでくれたおかげで骨にこそ届かなかったものの、上下に四つ穿たれた穴からは血が溢れだしていた。
「ごめん、油断したな。あれ、よく見たらノイ・タシクじゃなかった、角が青いし体つきも違う」
「ああ、考えてみたらあいつはもうアーリットから出て蔵書の間の封印になってるからな。すまん、俺も気づくべきだった」
 サレが荷物から布を出そうとする、その間、綱手が唯人の腕の傷口にぴったりと巻きつき血を止めようとしてくれた。いいよ、しばらくそのままにしておいてと言いつつ王子が自分の懐からひょい、とまったく毒気のなさそうな、花びらみたいな白にピンクと黄緑の濃淡柄のこぶし大の蜘蛛似の蟲を出す。
 絶対食べさせないでよとまず念を押され、ちょっと緊張した唯人にはっきりと〝この際だから伝えておきます、こっちにも見境いはあります味方は食べませんからいちいち気にしないでください腹立ちます〟(超意訳 食べねーよ!)オーラを出した綱手が上げた頭部を正面から突きつけてきた。そうだよねごめん、と痛みでしかめた顔をなんとか苦笑にして見せた唯人の手に移り、さわさわと腕を這うと蟲は綱手がどいた傷口のひとつの上に被さって、血を滲ませている穴を糸で器用にせっせとふさぎ始めた。
「これ、僕が以前生まれ日のお祝いに王様からもらった花様蜘蛛の精霊獣なんだ。僕が怪我したときの為にくれたんだろうけど、僕自身はまだ一回しか使ってない、サレのほうが多いんだよね」
「恥ずかしながら、でもこの糸でふさいでもらうといいんだぞ、痕が残らなくてさ」
「すごいよ王子、こんな風に助けてもらえるなんて全然思ってなかった。さっきは偉そうな事言ってごめん、ついて来てくれて本当にありがとう」
 やだな唯人、こんなのって僕がまだ弱いからこういうほうばかり気がまわっちゃうんだよ、と照れ笑いする王子の前で蟲が四つめの傷を塞ぎ終わった。やはり綱手に怯えていたのか、そそくさと王子の懐に戻ってしまう。唯人が腕を動かしてみるあいだ、気がつくと二匹の魚も頭上からその様子を見下ろしていた。
「どうだ、いけそうか?唯人」
「うん、ちょっと痛いけど。利き手じゃなくて良かったよ」
 綱手には、いつ闘ってもらうか分からないから、と腕から離れてもらいサレがくれた布を巻く。鋭月は両手でふるう刀なので、不安はあるがしょうがない。これからはもっと緊張しなくちゃ、と立ち上がった唯人に、だから早く引き返せって言ってるのに、と言いたげに魚達はもと来た通路と唯人の上をひらひらと往復している。ふと、杖の先にいたミラが唯人の内へと戻った。
『唯人』
『なに?ミラ』
『どうやら、状況はあまり良くないみたいだ。不服従の精霊獣がこんな出入り口近くまで来てるし、おチビが仕切れてるなら絶対君に怪我なんてさせないだろうから。こうなったら早く様子を見に行こう、ここまで来てしまった以上、僕らの為にも彼には速やかに持ち直してもらわないと』
『ミラって、時々そういう言い方するけど僕はあまり好きじゃないな』
『そう?僕は、他人の不幸までみんな自分のせいだって思っちゃう唯人の性格、時々うんざりするけど嫌いじゃないよ』
『それはどうも、』
 いつまた別の獣が襲ってくるか分からなかったので、武器はすぐに使えるよう身構えつつ、唯人達は通路を更に奥へと進んで行った。魚達は付かず離れずの位置で追ってくるが、もうぶつかってはこない。そう歩くことなく行く手に通路の終りが見えてきて、一同はその手前で一旦足を止めた。なんというか、通路はぽっかりと空いた地下にしては広い空間に繋がってばっさりと終わり、眼下は漆黒のとろりとした濃密な〝気〟に満たされている。全くの虚無にも数えきれない何かが混じり合っているようにも感じるその闇をそっと上から覗いてみると、一番深い部分に何かが微かにぼうっと浮かび上がって見えた。
『あそこにいるのかな、アーリット』
『多分ね、そしてこの黒いのは今まさに彼の存続を賭けて互いを屠り、喰らい合っている実体化していない精霊獣達だ。もうここまで来たら、僕には誰がどうしたからこうなったのかおおむね分かったよ。唯人、綱手を出して、ここを突っ切って下まで連れて行ってもらうから。それから後の二人はここから先は行かないでもらいたい、アーリットの事で見て欲しくない秘密がこの先にあるからね。良ければ、他にさまよい出てる不服従の精霊獣がいないか探して退治してくれれば助かるんだけど』
 ミラの指示を二人に伝えると、王子は少々不満そうだったがサレはすぐに納得してくれた。二人に見送られ、呼びだした綱手の口にまた入れてもらって黒い気の底へと入り込む。そこは、彼の言ったとおり目に見えないもの達の凄まじい戦場であった。上から見た時の静けさとは裏腹に、嵐のごとく〝気〟が荒れ狂い、ぶつかり合って火花を飛ばし唸りをあげている。こちらも幾度もぶつかられ、突然大きく揺れるのに耐えているとさっきぼんやりと見えていた光がだんだん近づいて来た。傍らに現れた人型のミラが、ほのかな白光で唯人を照らす。何かに耳を傾けている表情で外を眺めつつ、眼下の光に向け開いた手をゆっくりと振ると光がふわっと大きく拡がった。
「あいつ、分からない奴だと思ってたけど、まさかこの事態を狙っていたとはね。ここがアーリットにとってどんな場所か知らないくせに。まず違うとは思うけど、もし、これからどうなるかが分かってるっていうんなら……」
 ひやり、とミラの言葉が見せた事のない冷気を帯びる。
「僕が、ちゃんと責任持って始末をつけなきゃな、最古の物精を名乗る存在の義務として」
 やがて、綱手が深海の底の泡のごとき光の塊にたどり着いた。ふっくらとした弧を描き、周囲と内とを曖昧に分けているほんのり明るい空間にずいと頭が差し入れられる。開かれた口から外を伺うと、同じ石を敷いてあるのにさっき磨いたばかりのように艶やかな床の中心に、何かが置かれてあるのが見えた。
「出ても大丈夫だよ、ここは僕が周囲と遮断した空間だから」
「ようこそ、別に招いてないお客様」
 促されて出ようとすると、かなり高めの、まだ小さな子供みたいな声が響いて来た。中心にある何かから、動く気配がする。先に飛び出したミラが素早く唯人の前に出た。
「やはり貴方が来られたんですか、古いのだけが取り柄の〝鋼板〟様」
「僕は、この場所を教えただけだ。あとはみんな本人達の力でここまで来たよ、そこにいる君の主に会うためにね。似なくていいとこだけ主に似ちゃった〝銀竿〟杖」
 もうここまでの会話だけで、両者がお互いをどう思っているのかが分かりすぎるほど分かってしまった。唯人にはまず見せない、わざと愛想笑いをしくじってますみたいな冷淡な笑顔を浮かべるミラに、九割程人型なのだが、後の一割のせいで明らかに非人間的になっている全身銀色の人影が近づいて来る。
 ミラの銀髪は金を薄めた印象だが、相手の長い髪は緑を帯び、何かを着ているのかそうでないのか分からない小柄な身体は銀色の葉にさわさわと覆われている。木が少女の姿をとったように見えるその姿は、正直、ミラがそこまで大人げない対応をする相手には見えなかった。
「その前に唯人、綱手をこの周囲で戦ってるアーリット側の精霊獣に加勢させてあげて。敵味方の区別はさっきの魚達に教えてもらえば大丈夫だから」
「分かった、綱手!」
 背後でじっとしている綱手の頭にはもう、ちょんと小さな緑の光が二つ張り付いている。唯人の合図でゆっくりと後退する青い塊が闇にまぎれて消え……途端、ごうと物凄い圧力が周囲に加わった音が空気を震わせた。
「手助けに来てくれたってわけですか、それはどうも」
 聞いた瞬間分かる、これっぽっちも有難いなど思っていない口調だ。ミラの細い眉が、ちょっと寄せられた。
「まさか気付いてないとは思ってないだろうね、〝銀枝杖〟お前がちゃんと役目を果たしてたら、僕の主がこんなとこまで来る必要は無かったんだよ。とりあえず、彼の怪我の落とし前だけはきっちりつけてもらおうと思って来たんだけど」
「言いがかりはやめてくださいな、それは、そもそも来なくていいのにこんなとこまで押しかけて来たそっちのヘタレ主が弱いせいじゃないですか。そいつ護ろうとしたからアルもこんなになっちゃったんですよ、それについて申し開きはできますか?」
 この言葉は、まるで本当の物理的圧力のごとく唯人に効いた。弱いから、その一言が腕の傷よりはるかに強い痛みで心に突き刺さる。どうだ、と言わんばかりの笑みで銀色の眼を細めた銀枝杖にミラは声の調子を変えず呟いた。
「銀枝、やはりお前、物として重大な思い違いをしているみたいだね」
「何がです、ちょっと長生きしてるからって上からもの言わないでくださいな」
「ちょっと長生きしてるからこそ言うんだよ、物は、主がこう思ってるんだろうって自身で勝手に思い込んでは断じてならない。アリュートの今の状況は唯人が弱いせいじゃなくて、アリュートが唯人を助けたい、そう思った結果だ。彼は長年の経験と知識であらゆる事態を想定して動く事ができる、破壊主に自分が少なからず手傷を負わされる場合もちゃんと考えていたはずだ。ならお前がやることは全力で彼の蘇生に力を注ぎ、速やかに回復させることだろう?満足に力を送らず獣達をいたずらに消耗させて、一体何をしようとしてる?」
 一瞬も揺らがず向けられた、今は淡い緑に染まった眼に少女がふいと視線を逸らす。つかつかと歩み寄り、ほぼ真上から見下ろす体勢で更に言葉を続けようとしたミラに、突然弾かれたように背後に飛びすさると銀枝杖は身軽に床の中心の何か……盛り上がった銀色の枝の塊のようなものの上へと飛び乗った。
「援軍が来てしまったのなら、ゆっくりしてられないですね。〝これ〟意外としぶといな……もういいや、私が壊しちゃいましょう」
 ざわり、とあちこちに付いた小さな葉を震わせ塊が蠢く。そのほんのわずかな隙間から、細い金の編んだ髪が垂れているのが見えた瞬間、唯人は手の杖を振り上げ床を打っていた。
「綱手!」
 叫んだ声に、間髪いれずに最短位置から突っ込んできた巨大な口が、一気に枝の塊をくわえて持ち上げた。転げ落ちるように飛び退いた少女の頭上で、綱手が塊を口から両の手へと持ち替える。素早くそちらへと駆け寄ると、綱手を背に唯人は眼をまん丸にしている少女に厳しい顔で向き合った。
「ちょっとでも何かしようとしたら、先に綱手がこれを引き裂くから!銀枝杖、今、何をしようとした……?」
「……」
「この中にいるの、アーリット、だよね」
「……」
「まさか……殺そうと、したのか?」
「……」
「だって、君、アーリットのものなのに?」
 そんな事、考えたこともなかった。人に使われるはずの物が、持ち主の命を絶とうとするなんて。信頼で結ばれた皆に護られてきた自分の今は、当たり前ではなく、ひょっとしてただ運が良かっただけというのだろうか。
「馬鹿みたい、なにそんなにびっくりしてるんですか。おかしいの、普通の、ましてやたかだか二十年程度しかたってない人間が何も分かって無いくせに。無駄に力があるからって邪魔しないでくださいな」
 あまりの事に呆然となって視線が定まらない唯人より、ある意味強い眼差しを銀の瞳が向けてくる。何と言っていいのか言葉が出ない唯人に代わって、ミラが言葉を継いでくれた。
「銀枝、その言葉、僕もお前に言ってあげる。二百年程度で何が分かったの、物が主の命を取っていいのは、死を望んでいる主の手の内に在る時だけだよ。もしそうじゃないんなら……僕はお前について、重大な判断をしないといけなくなるんだが」
「双界鏡様なら、分かってくれると思いましたが。私、別にアルを死なせようとなんて考えていません、私はただ、アルにこの神殿に戻ってもらいたいだけなんです。破壊主とやりあうようになってから、しょっちゅう折れたりもげたり動かなくなってしまう出来の悪いこのアルの身体……こんなのをその度直すより、前紀王国時代みたいにこの神殿でいればその方がずっといいじゃないですか。前紀王国が廃王国になってもここは残った、ということは破壊主がまた世界を壊してもここだけは安全ってことなんでしょう?無駄に頑張らずに人間の国なんてほっておいてここで精霊獣達といてくれれば私も助かるんです、いくらお願いしてもやめてくれない打撃武器扱いもされなくていいし、うっとおしくて自分勝手で、馬鹿な人間と関わらなくてもいい。アルが大人しくしてくれるこの機会にやってしまわないと、それが一番良かったんだと最後にはきっと分かってくれるんですから!」
「ばかもんがぁ!」
 突然、耳をぶん殴られたような怒鳴り声が周囲に響き渡った。現れた、もしゃもしゃの毛に覆われた肩をぶるぶると震わせながら老いた姿が少女に詰め寄ろうとする。怒りのあまりうまく言葉が出てこない顔で老小野坂は髭の被さった唇を震わせた。
「何と、なんという恐ろしい事を言う奴じゃ!持ち主の為と言うて弱った隙に己の勝手な欲求を押しつけてしまうじゃと?物が、主の意思をねじ伏せて最後には己が正しいのだとほざくとは、呆れるを通り越して怖気がするわ!」
「同感です、物が主を死なせないと思ったとき、閉じ込めてしまってはそれは思考停止であり怠慢です。主の欲求を汲み、それを受け入れた上で起こりうるあらゆる危険から御身を護る。困難な場合もありますが、成し遂げれば物冥利に尽きる最高の悦び……この上もない一体感を得ることができる。それをまだお知りでないのなら、むしろ物として憐れと言うべきですか」
 静かな声音と共に、暗い色調の和服姿も唯人の傍らに立つ。
「もうみんなうるさいです!誰も分かってくれなんて言ってません、私はアルが死なないならそれでいい、他はどうだっていいんです!」
 大きく見開いた目を吊り上げて、銀枝杖が上げた両手を耳に押し当てる。一動作で歩み寄り、ぐいと腕を引いてそれを外すといっそ恐ろしいほどの何かを抑えた顔をミラが寄せた。
「どうだっていい、か。で、その話……アリュートが昔この神殿だったってのは、どこから知ったの。本人も忘れてる事なのに」
「この神殿の名がアルと同じだというのは、銀枝樹だった頃から知ってましたし、壊れるたびにここにきて直してる様を見ていたら分かりました。アル本人は気付いてませんが、ここに残されているほうの彼の気配は常に感じられますから」
「それでも、なんで彼がこの神殿からあの身体になったのかは知らないんだろう?やっぱり、思ったとおりだった、知ってたらこんなこと絶対できない。だったら教えてやるしかないか、本当は口にするだけで気分が悪くなるんだけど」
 は、と嫌そうに息をつきミラが一瞬唯人を見る。君も覚悟して、という顔に見えた。
「あの身体が死んで、彼がこの神殿に還ったら確かにある意味では死なない、けどその時点で彼は正気を捨ててしまうんだ。ここには彼の心を押しつぶした前紀王国最期の悲劇の記憶がそのまま保存されている、それを強制的に戻されて、回円主界最凶の狂気の存在……それこそ禁忌呪系術式、すなわち禁呪となり共に封じられた体内の全てを喰らい尽くして最後には存在の続く限りここでひとり身喰いし続ける、それがこの世界が彼に課した強制禁呪総滅の術式だ。改めて聞くよ〝死なないなら、他はどうだっていい〟の?本当に?」
 ミラと向き合う銀色の眼の、表情が凍った。何を言われたのか分からない、と言いたげな顔がゆらりと唯人、そして綱手の持つ塊へと向けられる。
「嘘……」
 ぽつりと漏らされた声が、静かな周囲に響いた。
「嘘です、そんなの信じられるわけないじゃないですか……」
「この会話は、僕の主の唯人も聞いている。彼に誓ったから僕は彼には嘘は言わない、絶対に」
「ここは、世界主を祭る前紀王国最古の神殿でアル自身なんでしょう?なんでそんな事……」
「世界は、良い事ばかりでできているんじゃない。見えている部分が穏やかな程、同じだけの暗部を負える者が抱えているんだ。この世界は、いくら解いても散らしても尽きる事無く禁呪を生みだし続ける。それを処理し続ける器官のひとつとして〝アリュート〟はこの世界に組み込まれているんだ」
「……」
「こうやってお前に時間を割いている間にも、封印の術式は着実に進行し続けている。もういい、時間がもったいない。銀枝、ここにいる物精全て……外の連中の意思もすべてまとめた判断のもと、お前の主に代わり僕が言い渡す、お前は封印されるがわに身を置くんだ。己の役目を誤解しているうえ、服従してるつもりの不服従の杖は危険過ぎる、霊素の補給は唯人がミストの結晶を譲ってくれるからそれで今回は持つ。その間にアリュートには新しい杖を手に入れてもらおう、軍の支給品でも今のお前よりはましだろうから」
 ミラに皮肉たっぷりの言葉を浴びせられ、表情の戻らないままの少女の顔は、元が白いうえみるみる先程までの勢いを失いしぼんでしまったように見えた。小刻みに身体を震わせながら立ち上がり、つかまれた手を振りほどこうとして再度引き戻される。発作的に最悪の行動にでないかと緊張する唯人を見もせずに、銀枝杖は抱えあげられている枝の塊を振り仰ぐと虚ろな声で呼びかけた。
「アル!アル……何か言って!みんなが私をおかしいって、アルから引きはがして封じ込めるって言ってます。大丈夫だって、そんな事ないっていつもみたいに笑ってください。お願いです、私が無いと困るって言ってくれたでしょう……?」 
「今更何言ってるの、返事できないようにしたお前自身が。僕がもう少し頑固で、強く唯人を引き止めてたら遠からず真っ先に喰い潰されてただろうこの事態の元凶が」
 ミラの口調には、いくばくかの自責の念も含まれているようであった。だって、知らなかったんですと繰り返し漏らされる震える囁きを無視し断固とした表情が唯人に向けられる。
「唯人、やって」
 上げられた視線が、まっすぐ綱手の手にある銀枝杖の変化した繭状の塊を指している。
「綱手ならできるから、枝だけ噛み砕いて取りはらってしまってよ」
 一分の容赦も見せないその言葉を受け、唯人は力なく崩折れ肩を震わせている小さな姿をじっと見下ろした。 本当に、知らなかっただけだった。
「銀枝杖……」
「……」
「銀枝杖!」
「……」
「泣いてる場合なのか?」
 手を延べて、触れただけでびくりとわなないた肩をつかんでそっと顔を上げさせる。
「本当に、もう泣くしかやる事がないのかって聞いてるんだ!」
 視線が、頭上に吸い寄せられて動かない顔をゆすって無理やりこちらに意識を戻させる。小さな身体全体に響かせる勢いで唯人は言葉を続けた。
「僕はいつかアーリットから聞いた、どんな時でも物の扱いを決めるのは、決めていいのは人なんだって。アーリットからの言葉を聞くまでは、君がおかしいかどうかは決められないんじゃないか。なら今からでも全力を振り絞ってアーリットを助けてやろうよ、できるんだろ、それが」
「唯人、何言ってるの。勝手は無しだよ、これは人に重大な危害を及ぼした物への同族からの断罪なんだ。不服従のままほっといて増長したらアーリットの中の毒がまた一個増える、頼むから手間は増やさないで」
「だから、知らなかったって言ってるじゃないか、確かにひどい事しようとしたけど〝死〟の概念がちょっと違ってただけでアーリットを死なせたくなかったのは間違ってない。この子はアーリットの事をちゃんと想ってるんだ、それにもう一度言うけど物の扱いを決めるのは人だろう?この子はアーリットの物、ならどうするかは彼が決めないと。だからこの子の力も借りてアーリットに一刻も早く治ってもらうんだ!」
 唯人と視線を交わした綱手が、手の塊をゆっくりと降ろす。その上に、少女を抱き上げてそっと乗せてやる。
「封印されるのが嫌なだけなら、綱手に食べてもらって僕の物になればいいんだ。武器扱いもしないし他人にも関わらせない、でもそれも絶対に嫌なんだろう?」
「唯人、僕も嫌だよ、それはもう」
 すかさず口をはさんできたミラをちょっと、と眼で黙らせる。無言でうなづいた小さな頭に手を添え、唯人は言葉を続けた。
「そう、君には世界一の精霊獣師の所有物だっていう強烈な誇りと自負があるんだ。だからこそ無敵の主には傷ついて欲しくない、弱い所をさらして欲しくないっていう思いをちょっと間違ってやってしまった、今回は、君の言う通り僕のせいでこうなった、でも、もうこうはならないよ、彼は全ての経験をけして無駄にしないから」
 大きく見開いた眼を涙で一杯にした顔を唯人に向けたまま、少女は銀色の光になって繭状の塊の中へ溶け込んで消えた。やがてゆっくりと全体が光を帯びてきた枝の繭の隙間におもむろに首から外した霊素の石を差し入れる。
「アーリットを、負けで終わらせちゃいけないんだ。次はきっと勝たせてあげようよ」
 そんなの、言われなくても分かってます……と微かな声が耳をかすめた。中の様子は見えないが、出来るだけ奥にと手を伸ばすと、偶然指が袖だろう布に触れる。それをたぐってなんとか引き寄せた手に首飾りの紐を絡ませようとすると、微かに指が動いて唯人の手首にそっと触れた。
「……!」
 狭い隙間を縫っている腕の傷が枝に押し付けられ、傷の痛みに唯人が少し指を強張らせる。一瞬止まり、労わるように再度柔らかく触れてくる感触にうん、大丈夫、こんなの全然平気だからと囁いて、紐の部分を指に絡めて素早く手を抜くことでなんとか石を渡すのに成功し、ほっと胸をなでおろす。頭上の綱手の巨大な頭部がゆっくりと床に沈んで消え、杖が触れている石の床に小さな紋が浮かぶと白い姿が這いあがって来て唯人の左袖に潜りこんだ。
 結局、大甘の唯人に仕切られちゃったよ、物ってやるせない存在だ、と渋い表情をそれでも多少緩めてミラがそばにやってくる。小野坂老と鋭月も唯人に戻り、二人と枝の繭だけの場になって、ほの白い顔はふいと暗い頭上を振り仰いだ。
「さて、ここからしばらくは様子見って形の持久戦だよ。もう綱手は使えないから周囲が落ちつくまで上には戻れない、唯人、食べ物は何日分持ってきたって言ってたっけ?」
「えっと、十日分だけど、結構かかるのかな」
「さあ、どうだろう。まだ、最悪の状況を完全に回避できたって確証もないからね、そうなったらどうするか今考えてるんだ。でも本当にここまで来たら逃げ場なんてどこにもない、唯人みたいに何も知らないのでなきゃ、絶対こんなとこには来られなかったよ、怖くて」
「じゃあ、何も知らないのが良かったのかな」
「本人が平気でも、事情を知ってるまわりはその分数倍怖いの」
「ミラ、ごめん、怖い思いさせてるのかい?」
「僕自身が怖い事なんて何もない、唯人がどうなるか考えたら怖くなるんだ。今ちょっとびっくりしてる、ミストといた時はこんな気持ちになったことなんてなかったから」
 明らかに、ミラは唯人の行為の結果を心から納得はしていない様子だった。それも当然だとは思う、もしも読み違えたとしたならば、緻密に組まれている彼のこの世界のための今後の采配が土台から崩れてしまうのだ。なんだかよく分からないなりに口数の減ったミラの隣に居るのがいたたまれない気分になってきて、唯人は立ち上がるとささやかな空間を仕切っている真珠色の仕切りのそばまで近づいて、外の闇を眺めてみた。ひょいと出てきた綱手も同じように、眼のない頭を外へと向ける。
「ここじゃ、全然時間が分からないな。もう少ししたら何か食べて眠っておこうか、サレ達と連絡がとれたらいいんだけど」
 何気なく呟いた言葉に、ふと綱手が唯人のほうを向いた。そのままするすると伸びて仕切りを突きぬけて、少しの間の後緑の光を連れて戻ってくる。ひらひらした魚の片割れが唯人の頭上にふわりと乗っかり、何?と視線を上げると上から微かに人の声が響いてきた。
『……んで一匹なんだろこの子、もしかして食べられちゃったのかな』
『まだ、敵がいるんですかね』
「王子、サレ!」
『え?今どこかで唯人の声がしなかった?』
『王子、それ、そいつですよ!』
 しばらく、ばたばたと喧騒の間があった。
『唯人!唯人なの?』
『唯人、無事だったか?』
「二人とも、僕は大丈夫、こっちはなんとか収めて様子見になってるから。そっちはどうなった?」
『あれから通路に戻って三回くらい襲われたけど全部やっつけたよ。もういない感じがする』
『唯人、アーリットには、会えたのか?』
「うん……顔は見てないけど、今そばにいる。彼に頑張って周囲を鎮めてもらわないと僕出られないみたいなんだ。いつまでかかるか分からないから二人は先に帰ってくれていいよ、それを伝えたかったんだ」
『それはまずいよ、唯人、それじゃ僕達帰るわけにはいかない』
「え?」
『前に、アーリットが腕取れかけたって言ってたときは半年くらい顔出さなかったんだぞ。今回はそれより重傷なんだろう?ってことは……』
「それ以上、の可能性があるのかな?」
 とりあえず、帰路と再度鷲獣なりで来る日取りを数えて二人は三日は待つといってくれた。ここで半年、深く考えてはちょっと鬱になりそうなので、荷物を探って出した適当な食べ物を口にしてみるがあまり欲しくない。いつもの流れで綱手にもひと欠片差し出してやると、それは固く結んだ口で拒まれた。あまり何かを考えていない生き物だと思っていたがそうではなさそうかも、と思った途端、脇で銀の葉をもしゃもしゃとやり始め慌てて手元に引き戻す。
「ミラ」
「なに?」
「僕、ちょっと休んでおくから、何かあったら起こしてくれ」
「うん、なにかあったら、ね」
 本当に何かあったとしたら、もう起こさない方がいいのかも、と思っているような顔だった。淡い銀色に光を放っている枝の繭の傍らに寄って、荷物を枕に横たわる。気が昂ってる間は無理に寝ようとしてもだめだ、まずは落ちつこう、と少しまぶしい周囲に綱手を光除けにしようとしたら、上からミラが覗きこんできた。
「……?」
「そっちに、戻っていい?」
「もちろん、どうして?そんなの断ったことないのに」
 ゆらり、と白い姿が霞み流れる水のように身体に降りそそいで消える。目を閉じて、その上に綱手を渡して唯人はいつもの脳内会話モードに意識を持っていった。
『ミラ、どうしたんだ?』
『駄目なんだ、考えれば考えるほど、分からなくなってきちゃった』
「何が?」
『唯人が、銀枝杖は知らなかっただけで間違ってはいないって言った事。確かにここの意味を知らないなら、死なないって点のみではここはアーリットにとって回円主界上最も安全な場だ。で、僕は……偉そうな事言ったけど、破壊主に唯人を獲られかけたり、今また必然性のない危険の只中に成すすべなく放りっぱなし。いくら物は人に従うべし、って言ったって、死ぬつもりがないなら無理にでも死なせないようにするのが当然だよね。じゃあ、間違ってるのは僕……なのかな?』
『そんなわけないよ、人はなんでも何かのせいにしたがるものだけど、本当は全部自分のせいだって分かってるんだ。僕はアーリットの為にここに来た事を少しも後悔していないし、絶対帰れるって思ってる。ミラが嫌々でも連れてきてくれたおかげじゃないか、何も間違ってなんかないよ、感謝してる、ありがとう』
『その最後の一言は、ここを出てから聞かせてもらうことにしていい?』
『いいよ、そうしたいんなら』
 話していると、幾分気分が落ちついてきて、なんとなく顔の綱手を持ち上げてみた。周囲はミラが調節したのか真珠色の光の壁がほとんど分からない程暗く光を落とし、外の濃淡のある闇が透けて見えている。嵐の日の海の底のイメージだ、と唯人は久しぶりに頭の中で眺めを切り取ってキャンバスの中にはめ込んでみた。
『精霊獣になって、人の中にいるのってこんな感じなのかな?ミラ』
『うん……僕はおチビのものになった事ないから、あっちの事情は分からないんだけど。唯人といる時は、唯人が見たり聞いたり感じたりしてるのにそのまま同調してるよ。こんな広い空間に居るわけじゃない』
『そうなんだ』
 とろり、と意識に睡魔がやってくる。どうせはぐらかされるだろうが一応、と薄目で唯人は心にあった思いを口に出してみた。
『この神殿だった頃の辛い何かを忘れる為に、アーリットは今何も覚えてないのかい?』
『それもあるけど、それだけでもないよ』
 意外にも、ミラは話を逸らしてこなかった。
『この地下に入ってきたとき、崩れちゃってたけど左右に伸びる通路の跡があっただろう。ここがまだちゃんとした神殿だった頃、左の突き当たりの部屋に鏡の僕は据えられてた。その僕のもとに四百年ほど昔、ラシュが客人を一人送りこんできたんだ。ずぶ濡れで、意識がないまま僕から出てきた女の人。唯人の世界とはまた別の世界……今の五国の素となっている水気星って世界から来た創界主、名前はマーリャって言ったっけ』
『創界主?僕の前の?』
『そう、その時ちょうど居合わせた、僕とアリュートは現れた彼女をどうしたらいいか分からなかった。前紀王国時代のこの世界の民は今と全然違ってて、みんなしっかりした形を持たない精霊獣みたいな存在だったから。そこで来てもらったミストの意見を聞いて、みんなで出来る限り彼女に似せた姿をとって意思の疎通を図る事にしたんだ。目を覚ました彼女はまずびっくりして、僕達とすぐに通じ合った後自分でちゃんと必要なものを探し集めて神殿の一画に落ちついた。お日様みたいな笑顔の、なんでも受け入れられる心の強い娘だったな』
『ふうん、女の子ってそんな感じだよな』
『その後、ミストと僕が付き添って、彼女を世界主の元へと導いたんだけど。その間に彼女はミストと結ばれて、新しい命を授かったんだ。だけどその一方で、廃化を抑える任を預かっていたアリュート自身が廃化を起こし、強制術式を発動しかける事態となった。なんとかこれを避けるべくアリュートが提示した案のひとつがマーリャの新しい命と同化する事で、彼女は喜んでそれを受け入れたんだけど……それが、後になって悲しい誤解を生みだしてしまったんだ』
『悲しい?』
『創界主は、世界主に会って新しい世界の素を与える代わりにひとつだけ願いを叶えてもらえる、それは己の死の回避、もう決まりかけている運命を覆す最後の機会。彼女は、自分の世界で待ちうけている死を避けることを願わなくてはならなかった、だのに間違えてしまったんだ。お腹の子が、自分が元の世界に戻ったらどうなるのか分からない、だからもう戻らない、ここで子供を産む事を望んでしまった。その願いは受け取られ、子供が生まれたその後あっけなく彼女は死んでしまった、もとの世界の運命に連れて行かれてしまったんだろう。ミストも悔やんだけど、アリュートもそれ以上に悲しんだ。自分がもうちゃんと食べたり色々しないと生き続けられないっていうのを実感できる前にそんな事になってしまったから、すぐに弱ってしまって、結局彼女からもらった大切な身体を失わない為に、代わりに記憶を手放してしまったんだ。全てを忘れ、そして忘れているということを自覚している不安定な心を抱えたまま、あの子はこれからも生き続ける。けして自らを許さない、罪の意識と引き換えにね』
『……』
『君が気に病む事じゃないよ、唯人、あの子の運命なんだから』
『可哀想、なんて言えるもんじゃない、重すぎる』
『うん、だから僕もミストもおチビが忘れちゃった事に関しては責める気なんて全然ないよ。今のちょっと底意地が悪くて世話好きで、寂しがりな孤高の一級精霊獣師が彼には似合ってる。でも、記憶とは別に彼の心には消えない痛みが残ってて、無意識のうちに大切なもの……この国や世界の秩序、そして今は君、を護ろう、もう失いたくないって思いが強く出てしまうんだ、自分を見失ってしまうくらいにね。彼がいずれ君を望んで、もし君がそれを受け入れるのなら、その時は一旦今日の話を思い出して。僕とラシュは、この世界に捧げる贄を呼んだつもりはないんだから』
『うん』
 それからもうしばらくたって、ようやく唯人の意識は浅い眠りの縁に落ちつく事ができた。なんとなく自覚できるおかしな夢がひっきりなしに浮かんでは過ぎ去っていく。こんなことなら起きていた方がいくらかはましだったかも、と思いつつ不条理の只中で翻弄されていると、ふと、誰かに足蹴にされたような感覚があった。
「……?」
 よいしょ、とかけ声入りの勢いで重い瞼を開いて、周囲の薄ぼんやりした暗がりを写す。銀枝の繭はまだ傍らでほのかな輝きを放っているままで何も変わった様子は無い、足元のほうに目を向けようとした、それより先に、何かが視界に入り込んできた。
「……!」
「なんだ、生きてやがるのか」
 瞬時に、覚醒ゲージが振りきれてしまった。ぼそりと漏らされた呟きと共に緑の眼が覗きこんでくる、何で、と唯人は背後と正面の間でひたすら視線を往復させた。
「運がいいな、お前。でもこれ以上は本当に命の保証はねぇぞ、とっとと起きろ、そして出てけ、今すぐにだ」
 よく見ると、背ほどの髪を編んで流し顔が今より少し若い、これは……。
『良かった……本当に良かったよ、やっとアリュートの保守機能が回復したんだ。これは、過去にいろんな理由でここに入ってきた人間を追いだす為の固定術式なんだ、大人しくついていこう、出口まで連れて行ってくれるから』
 ミラに促され、でも、と傍らの繭に気を向けているとぐいと腕が引かれた。そのまま真っすぐ壁を突き抜けて、闇の只中へと入りこむ。瞬時に荒れ狂う気に包まれ息を詰めた唯人の耳を、よくとおるアーリットの声が打った。
「やかましいぞお前ら!何はしゃいでやがる、静かにしやがれってんだ、まるごとシメられてぇってのか!」
 ぴたり、と、本当に驚くしかないほど一瞬で闇が固まった。おそるおそる、といった感で、周囲が凝縮する漆黒とそれ以外の色とりどりの靄に分離する。どんどん縮む一方の闇をそそくさと丸めてどこかに片付けてしまうと、靄はさまざまな獣の姿へと転じ二人を取り巻いた。
「すごいなぁ、さすがアーリットだ」
 ふん、と鼻で息をつき垂直にそびえている石の壁まで歩み寄った二人の足元に光る円盤が浮かび上がる。そのまま垂直上昇が始まると、腕を放さないまま、アーリットは少しふらついた唯人をそれとなく支えようとした。
「で、お前は何を漁りに来たんだ?」
「え?」
 このアーリットは、保安の為の映像のようなもので唯人自身を認識しているわけではない。それでも何事もなさそうに話している姿を見ていると、胸の奥が熱くなる。そんな心の内を抑えきれずに、唯人は横からじっとアーリットの無表情を盗み見た。
「ここに何かお宝があるって放言に釣られてきたんだろうが、言っておくがここには人間が持って帰ってどうこうできるようなもんは一切何もねえからな。獣や蟲に喰われたくなきゃ二度と来るな、ただの度胸試しなら尚更だ」
「そうはいかないよ、いずれまた来るから、あの場所にいる君を迎えに何度だって。だから僕の事は覚えておいてくれ」
「はぁ?」
 眉を寄せた緑の眼が、じっと唯人を見据えた。
「なんだよそれ、まだ他にも何か居やがるってのか?」
「あー、うん、まあ」
「なんてこった、俺の走査機能調子悪いのか…?」
 視線を外し、何かに意識を飛ばす顔になって黙り込む、これで間違ってアーリットが放り出されたりしたら目も当てられない、と慌てて唯人は頭の中で言い訳を組み立てた。
「ごめん、言い間違えた。まだ誰もいないって、あそこで待ち合わせる約束してたからいずれ来るんだ」
「何言ってんだ、お前」
 こいつおかしい、の表情が徐々に怪しい、に代わってゆく。その時、ふいとアーリットの視線がずれた。
「確かに、通路にまだ何かいるな。お前の仲間か」
「あ、うん。そうだよ」
「お前だけ、随分と迷っちまったみたいだな、下調べでもやらされてたのか?まあどうだっていい、まとめて追いだしてやる。いや、その前にもう絶対来る気なんぞ起こさないようちょっと怖い思いさせといてやるべきか?」
 たとえ術式だろうがやはりアーリットだ、としか言いようのない例の笑顔ですごまれいや、遠慮しますと唯人が手を上げる。その腕の朱の滲んだ布に彼の眼がとめられた。
「それ、ここの奴にやられたのか?」
「そうだけど、これは……」
「どんな奴だ、俺の指示に従ってない奴は処理しておかないと」
「もういないよ、君がちゃんと退治してくれたから」
「は?」
 やはり本物とそう違う事のない、不思議そうな顔を向けられたところで上昇が終わった。現れた通路へ戻るよう促され、ぽっかり空いている穴の端になんとか飛び移る。怖い目は面倒くさいから免除してやる、仲間とさっさと消えろと言い渡されて、たとえただの術式でも動いている姿が名残惜しくて振り返ったまま動かないでいると、アーリットは行け、の仕草で手をひらひらさせた。
「お前の事、記録したからな。映像と音声と質量で」
「そう、ありがとう」
「次からは、敷地の段階で追い返してやる」
「……」
 こうなったら意地でも来てやるから、と鼻息を吹いた唯人にすげー蟲けしかけるぞ、と喧嘩上等の顔で凄んで返す。そのアーリットの声がふいに若干トーンを変えた。
「分かれって、本当に、ここは人間が来ていい場所じゃないんだ、今の俺にとっちゃこの世界中の誰よりお前がな。二度と来るな、約束しろ。その代わり俺もお前に約束してやるから、もし目覚めたら真っ先に俺はお前のもとに行く、たとえどこにいようとだ。だからその時まで大人しく外で待っていろ」
 ふっ、と唇の端が上がり、今の顔でもあまり変わっていない素の笑顔を形作る。
「じゃあな〝唯人〟」
 すいと背後の暗がりに溶け、その姿は音もなく消え去った。瞬時に我を失い駆け寄ろうとして、下に落ちそうになった唯人の背を素早くミラが引き止める。
「行こう、唯人」
「うん……」
「もう大丈夫だよ、後は時間に任せるだけだ、ここは元通りの誰も知る事のない森の中の廃神殿に戻る。僕達はあの子がどんな顔して現れるか想像しながら知らん顔で待ってよう、そうはかからないよ、おチビも唯人のためにきっと急いでくれるさ」
「無理させちゃ悪いよ、半年かかるのならそれもいたしかたないってことだと思う」
「唯人は意外と淡白だね、心の中はどうか知らないけど。かえっておチビの方がそんなに我慢できないって僕は思うな、早く来てくれないかな、淋しいよって唯人がちゃんと口に出したらびっくりするくらいすぐに復活したりして。絶対笑うよ、僕」
「なんだよそれ、僕は女の子じゃないんだし」
「唯人の世界では、女の子しか言わないの?」
「僕の世界と僕の国、ではまた話が違う事もあるだろうけどね」
「ふうん」
 一本道の通路を来た時とは逆に、上り調子で進んで行くと昨日は夜だから分からなかったが、天井の敷石が沈んで隙間から床に光が射している。その一角でサレと王子は唯人を待ってくれていた。二人とも大喜びで駆けてきて、まず王子、そして二人まとめてサレに抱きしめられる。僕、本当に唯人が出られないままなら国軍に頼んででもどうにかしてもらおうと思ってたんだよ、とぐしゃぐしゃの顔で無茶を言い放たれ、ごめん、僕も本当にどうなるか分からなかったんだとさらさらと軽い金の髪を撫でてやる。ひとしきりの興奮が治まると、お互いの今までをかいつまんで話しあいながら、残りを気がねせずに食事を取ろうとサレが笑顔で提案してきた。
「あ、その前に、先にここから出ておいたほうがいいみたい。ここの護りみたいなのに、くどいくらいすぐ出て行けって言い含められたから。やっぱりよほどの事態じゃない限り、人がここに入るのは駄目みたいだ、危険だって」
「そうなの?まあそう言われれば、ユークレン国でもここだけは人跡未踏の場所でアーリット任せの領域だったからなぁ。ラバイア側も、砂漠で水場が無いからわざわざやってくる人もいないし」
「では、溢れる日差しのもと、優雅に屋外で食事と洒落こみますか。見たところ、天気も良さそうですし」
「そうしよう」
 行きと違って、そばに寄っただけで開いた石の門から光に満ちた外へ出る。新鮮な緑の香に満たされた風を胸一杯に吸い込んで、ちょうどいい具合になっている木陰の大きな石の上に陣取ると、サレが落ちている柴を積んですぐに湯を沸かしてくれた。そこに、王子が持っていた乾燥した香草を入れて鼻がすーっとなる香りのお茶をたてる。一口飲むと、暖かさが身体中に染みわたる気がした。
「さて、まずはこの干し肉をあぶって柔らかくして……」
「あ、そういやサレ」
「ん?」
「食料十日分ってサレ基準だったんだな、僕だと軽く倍は持つよ、今度からは半分でいいから」
 唯人の言葉に、王子がどれ、と唯人の荷を覗きこむ。当然サレに呆れてくれるかと思ったら、王子は複雑な表情を唯人へと向けてきた。
「唯人、これで二十日分って……霞でも食べられるの?」
「でしょ?王子、それで何がびっくりするって〝男〟なんだから!鍛えようにも肉が足りなくて無理させられないっていうか」
「なんだよ二人して、これでも随分腕なんか太くなったって!」
 衣を上げて腕を見せようとして、ふた回りほど筋肉の盛り上がっているサレのそれに肉をはさんだ堅焼きを渡され黙して引き下がる。さすがに王子と比べて恐ろしい結果になるのは嫌だったので、そのまま手の物にかじりついた唯人に王子はつとめて明るく場を取り繕ってくれた。
「まあ、アーリットを目指してるんならそれでもいいんじゃないの?」
「あ、そうか、それがあった」
 笑って、サレももりもりと食べ始める。それを見ながら、唯人は奇妙な違和感にとらわれていた。心身ともにくつろいでいるはずなのに、どうも食事がおいしくない。昨日は気を張っていたのと不安があったからだと思って納得していたが……味がどうというのではなく、どんなに噛んでも喉に入ろうとしない。口の中に溜まる脂っ気に、だんだんじっとりと変な汗が出てきた。それでも額を抑えながら笑顔で話を合わせていたが、ついに我慢できなくなって石から飛び降りると二人から離れ、唯人は草むらにうずくまって嘔吐した。 
「唯人?」
「唯人、どうしたの!」
 二人が駆け寄ってくる気配を背中に感じながら、苦い胃液を絞り出してしまうと急に、貧血みたいにくらりと身体のバランスがおかしくなる。一体何が起こったというのだろう、サレが差し出してくれた水で口をすすいで座りこむと、額に当てられた大きな手がやけに冷たく感じられた。 
「熱があるみたいだな、さっき身体に触れた時から少し熱い気がしてたんだが。病の蟲に取りつかれたか、それとも身体が参ってるのか。どっちにしてもちゃんとした屋根のある場所でゆっくり休ませないと、こんなところじゃどうしようもない」
「もう、限界まで自分が気付かないなんて、唯人らしいな」
 王子の声が遠くに霞む、なぜだか徐々に身体を満たしてゆく熱は、腕に巻かれた布の下から広がっているような気がした。

鏡の向こうと僕の日常

 ご苦労様でした、著者は平均寿命の折り返しの歳になってやっとパソコンを買った人間なので、まだSNSのたぐいが怖くてできません。もし閲覧のかたが増えたそのときは、なんとかがんばってみようと思います。

 一応、筆者のイメージで
 OP曲 薔薇とNon-fiction
 ED曲 Harmony       (共にPsy’s)
 
 次回もよろしくお願いします。

鏡の向こうと僕の日常

その日、あまりにもあっけなく、僕の人生は終わってしまった。 ごく平凡な大学生活を送っていた阿桜 唯人、彼の時間が止まった瞬間、約束の歯車が動き出す。 未知の世界、未知の人間、迷い込んだ唯人を拾ってくれたのは、緑の眼の青年だった。 自分の世界に戻るため、僕は何を成すべきなのか。 唯人は、異界人としてこの世界を巡る旅に出る。 主な成分は、精霊獣と両性人と異界であたふたです。興味のある方はどうぞ遠慮なく。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-06-03

Copyrighted
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  1. 序章~はじまりの国
  2. 湖畔国から神殿へ