one day,one night
佐野元春氏による歌詞が、作中にそれと銘うって(作中5:00PM)引用されています。そのまま投稿いたしますが、著作権を侵害する意図はございません。ご指示があればいつでも、すみやかに掲示を取り下げることを固くお約束申し上げます。また佐野元春氏の許諾および音楽著作権上の処理なくして本作を商業的に利用することは権利の侵害になると思われます。
登場する人名、店名、商品名、ホテル名等は実在のものとは無関係です。
11:12AM
よし。と思った。眠りの底から浮上しながら、そう思った。強く思った。無意識の海から見上げる誰かの意識は明るくて、揺らぎの向こうに見える陽光は実に美しく、そして真新しかった。よし。と僕は目を覚ました。
カーテンの隙間から今日が差し込んでいる。地球は今回もちゃんと一回転したのだ。ごくろうさま、と僕は思った。
昨夜は、雨の音を聞きながら眠った。タオルケットのようにやわらかく、深夜の雨は響いた。そんなタオルケットにくるまれて、どうやらぐっすりと眠ったらしい。体の隅にも、また心の隅にも、疲れは一切残っていない。
カーテンを開けると、空は快晴だ。
サッシを開けて、トランクス一枚のままバルコニーに出る。いい香り。雨上がりの匂いだ。さわやかなオゾンとクロロフィルのハーモニーを、全細胞でもって呼吸する。音楽が聞こえてきそうな朝だ。朝、と呼ぶには、いささか太陽の位置は高いが、まあしかたない。昨夜もまた街の澱みで浮かれに浮かれて、ベッドに辿り着いたのは、草木の眠ったあとだったのだから。ともあれ、新しい太陽が輝いている。積み木の街に漂うチリも埃も、雨がさっぱり流したようで、初夏の太陽は介在するベールもなしにストレートに、力強く、そのメッセージを届けてくれている。
嬉しくなった。バルコニーを出て部屋に戻り、洗面所まで歩き、冷たい水で顔を洗った。トロピカルブルーのバスタオルに顔をうずめて、塩素の匂いにプールを連想したあと、鏡に向かってニッと笑った。
歯を磨きながらベッドルームに戻る。枕元のクレイドルから、エーゲブルーの携帯電話をピックする。そしてYouTubeに接続した。罪のない曲をかけた。ケータイを片手に、リズムに合わせて揺れながら、キッチンに向かう。ケトルに、カップ一杯分の水を注いで、コンロに据えた。洗面所に戻り、歯ブラシを洗って、うがいをした。がらがらっぺっ。
リビングに、やはり音楽を聴きながら移動し、冷蔵庫を開けてカスタードクリームを取り出し、ラックに置いた。ケトルが沸騰するまでの間、音楽に合わせて口笛を吹きながら、豆を挽いた。
キッチンラックの中から、クラッカーを取り出す。カスタードクリームを塗って、立ったまま口に運ぶ。ケトルをフィルターに傾け、ドリップを待つ間に、三枚を食べた。
二曲目をかけながら、ゆっくりとコーヒーを味わう。そして思った。捜しにゆこう。
今日こそ捜し出そう、と僕は思った。
11:55AM
シャワーを浴びながら考える。彼女はどこにいるだろうか?
耳の後ろを洗い、股間を洗う。
彼女のいそうな場所を、頭の中にリストアップする。
図書館、とまず思った。初夏の休日、まだ太陽は、天頂を目指して上昇中だ。そんな空の下にある、本の館。悪くない。
あるいは、と思う。博物館はどうだろう?
銀座線に乗って上野に向かう。科学博物館を訪ねるのだ。恐竜の骨格の、足下あたりに、彼女は隠れているかもしれない。カンブリア紀の化石のようにひっそりと、僕を待っているかもしれない。あるいは宇宙館で、百五十億年前の爆発あたりまで遡ってみようか。炭素や窒素や、水素や酸素に混じって彼女は、虚空を漂っているかもしれない。
それとも、とシャワーを止めて考える。プールはどうだろう?
区民プール。キャップにその耳を、きちんとしまった彼女が、イルカのように無欲にレーンを往復している、ということだって十分に考えられる。
防水ケータイが奏でる、ひび割れてはいるけれど、それでもちっとも構わない軽やかなリズムが、僕を応援してくれている。
12:12PM
決断の小箱に蓋をして、それを無意識の海にトプンと沈めてから、シャワールームをあとにした。
無意識がフル稼働しているその気配を遠くに感じながら、背中に南極大陸が刺繍されたサックスブルーのTシャツを被り、ビンテージジーンズに腰を通すと、ヘッセの文庫本をヒップポケットにさしこんで、車のキーを指に掛ける。
出掛けよう。
真っ黒ひつじの丘、そのてっぺんに、今こそ別れを告げるのだ。
エレベーターで下降しながらi-modeで、日本橋三越の電話番号を調べる。エレベーターを降りたところでその番号をダイヤルする。
電話でちょっとした買い物を済ませてから、ショップの店員に、品物への刻印を指示する。陽の沈む前に、刻印は仕上がるとのこと。満足して通話を終えた。
駐車パネルを操作して、マンションの地下に眠るプジョーを呼び出す。百八十秒ののち、エーゲブルーの206CCは、僕を迎えに現れる。彼も機嫌がよさそうだ。
さあいこうぜ、と無言でプジョーに声をかけ、ドライバーズシートにしずむ。カーステレオからのFM東京に耳を傾けながら、初夏の一日へと走り出す。
12:22PM
五分走ってプジョーを停めた。北の丸公園の駐車場で、陽光の中にダイブする。
なんという夏らしい夏だ、と嬉しく思った。盛夏よりも初夏のほうが、はるかによっぽど夏なのだ、と感じる。世界はまだ、苛烈な白さに飲み込まれてはいない。白くも、無論灰色でもなく、青くて、グリーンだ。やがて白くなる。哀しくもそんな予感に満ちた、けれどもだからこその、よりいっそうの鮮やかさの中に、世界はじっと息を潜めている。僕だってそうだ。白さに飲み込まれる一歩手前で、ともかく両目を見開いている、ことにしている。知らないふりをしている。闇を見ないように。ホントはとっくに白いのだけど。あっちはまったく白いのだけど。そう思うと芯まで凍える。あの男が見える。膝を立てて、大樹の根元に座っている。男の瞳が、僕に見えてしまうその前に、しっかり目を開ける。
空を見上げる。月は見えない。
その場を逃げるように、無心を見つめて歩き出す。鳥の声に耳を澄ませる。一歩行くたびに、初夏の公園に近づいてゆく。そうだ、ここは初夏なのだ。第三惑星の夏なのだ。雪原は遠ざかり、大樹の下の男は僕を忘れて、僕は彼を忘れる。
12:28PM
北の丸公園の芝生には、フリスビーが転がり、コリー犬が転がり、絵に描いたような平穏が転がっていた。
十六対九の画角で芝生をちょうどよく眺めることのできそうな、特等席のベンチを選んで腰を下ろす。
首筋に汗を感じる。ヒップポケットからヘッセを取り出す。空を開くほどイノセントに、その頁を開く。
三頁も進まないうちに、注意は初夏を漂う。すぐ足下で、かわいい鳴き声がしたからだ。見るとベンチのわきで、雀が砂浴びをしていた。雀の砂浴びは大好きだ。蟻地獄の穴を一万倍ほど大きくした擂り鉢の底で雀は、その茶色い羽を一層茶色く染めている。なぜそんなことをするのか、雀の気持ちはわからなかったけど、実に気持ちがいいのだ、ということは、雀の顔を見ればちゃんとわかった。温泉に浸かってるような気分なのかもしれない。初夏の地面はあたたかいのだ。あるいは、と思う。より茶色く装うための、けなげなおしゃれであるのかもしれない。雀は求めているのかもしれない。愛を、切なる存在を。雀社会において茶色いことは、極めて重要なセックスアピールであるのかもしれない。セックスアピール、と僕は思った。僕は僕の擦り切れたジーンズと、まるで子供っぽく見えないこともないTシャツに目を落として、それから傍らの雀を見た。雀に学ばなくてはいけない。一緒に砂浴びをしたかった。小さい頃に作った泥団子の仕上げにそうしたみたいに、体にサラサラの砂をまぶせるのだ。グッと男前になるだろうか。
愚かな算段が見透かされたのか、天然の茶色い宝石は、チチチと鳴いて首を振ると、僕の足下から飛び立ってしまった。
でも、そうではなかった。雀は時を告げたのだった。登場を告げたのだった。
道の向こうから彼女はやって来た。
1:07PM
遠目に見てもわかることには、まずは彼女はひとりだった。犬も男も、連れてなかった。手足をのびやかに振りながら、ストライドステップで行進していた。マーチが聞こえてきそうだった。ここから見える彼女の背丈は、わずかにマッチ棒に等しかったけれど、僕にはちゃんとわかった。彼女は彼女だった。きっとそうだ、と思って、心の中で砂を浴びた。
1:08PM
彼女はまさしく、夏の日の風だった。風のように軽く、風のように滑らかだった。そして自由に見えた。キミも自由なのかい? と僕は思った。僕も自由なんだ、と教えてやらなくてはいけない。
彼女の髪は短かかった。手足は長かった。二十五メートルプールの対岸くらいまでの距離に達して、それがわかった。なんだかドキドキしてしまった。
新しい風が吹いた。シャワーみたいに気持ちがよかった。風は教えてくれた。彼女は絶対に彼女なのだ。
さらに近づいた。
鼻は真っ直ぐに長かった。
風はよりいっそうリアルに薫った。
肌はシャンパンゴールドに焼けていた。
注意してよく見ると、当たり前のことだが、服を身に付けていた。テラコッタな色合いのTシャツにブルージーンズ、そして茶色いサンダルが、彼女に属していた。
さっきの雀に似ているな、と僕は思った。もしかしたらさっきの雀も、彼女の一部だったのかもしれない。だったらいいな、とまた思った。
そんなことを考えているうちに、ぷらぷら揺れてるその手足が、僕を通過してしまいそうになったので、慌てて呼び止めた。「こんにちは」
彼女は足を止めた。そして僕を見た。ピントを合わせるのに、コンマ何秒かの間があった。
彼女は応えた。「こんにちは」
こんにちは、のそのあとに、小さなクエスチョンマークがついていた。その抑揚は告げていた。こんにちは、と私を呼び止めたあなたの対象は、この私で間違いないの?
「間違いないよ」と僕は応えた。
彼女は、数ミリ程度首を傾げた。そこで用事を捏造しなくてはならなかった。時空を越えてカルプの街に飛び、ヘッセに協力を求めた。
「この漢字だけど」と僕は、手にした文庫本の一カ所を指して訊ねた。「なんて読むのかな?」
文庫本は、磁石になった。軽く眉を寄せたまま、彼女はベンチに、引きよせられた。
「どれ?」と呟いて砂鉄は、僕の横に腰を下ろした。
「これ」と言うと同時に僕は、漢字の海から比較的険しい起伏の島を見いだして、そこに指をすべらせた。
指の下を読んで、彼女は言った。「ああ、これはね」
そこには『韜晦』とあった。なかなかに悪くない島だった。僕は翻訳家に感謝した。ナイスジョブだぜ、高橋センセイ。
「とうかい、って読むのよ」
罪の意識を蹴り飛ばし、ピカチュウの目を作って重ねて訊ねた。「どんな意味?」
彼女は僕の目を見た。至近距離で見る彼女の目には力があった。ちょっと怖いくらいに鋭い瞳だった。雀というより、鷹みたいだ。
「ホントは知ってるくせに」と、葉っぱのような形の唇は、油断なく尖った。「知らないフリしてる、だけだったりして?」
ピカチュウの瞳をライチュウの瞳に進化させて、首を振った。
「韜晦っていうのはね」と彼女は、ライチュウに教えてくれた。「無邪気な瞳でバッくれたりすることよ、今のあんたみたいに」
なんと、と僕は思った。さすがは彼女だった。すべてお見通し、ってわけだ。罪が暴かれ、僕の気持ちは救われた。
「なんの本?」と彼女は、罰を下すこともなく、気さくに訊ねた。
文庫を見せた。ティファニーブルーの表紙に『荒野の狼』とタイトルがあった。
「ヘッセね」と彼女は頷いた。
僕も頷いた。
「誰でもの入場はお断り」と彼女は諳んじた。
「魔術劇場に掲示してあった言葉だ」と僕は応えた。
「不思議ね」と彼女は言って、髪を揺らせて僕を見た。
僕は小さく、クエスチョンマークを放った。小さな前ならえをするみたいに、ピクリと姿勢を正して。
「不思議な光景」と彼女は、風のように言った。独り言にしか聞こえなかった。でもその瞳は僕の目を、血が滲むほどにしっかりと把んでいた。「ベンチでヘッセを読む人間には、あなた、ちょっと見えないわよ?」
「少年ジャンプとか、読んでればよかったのかな?」と、僕は煙幕を張った。韜晦。
それには応えず、彼女は訊ねた。「用件は?」
意地悪だった。
「こんにちは、を言うために、ヘッセを読んでたわけじゃないんでしょう?」
知ってるくせに、と思った。韜晦しているのだ、と憎らしく思った。
「知ってるくせに」と、作戦を変更して、気持ちをそのままストレートに投げた。
彼女は、一球見逃すような戸惑いを見せた。
「キミを待ってたんだよ」と、胸元への直球を、すかさずに投げた。
彼女は、体を反らせるようにして、これを見送った。
その気になれば僕なんて、なんでもかんでも言えちゃうのだ。まるで悪魔のようだな、と自分をちょっとだけ哀しく思った。でも続けた。「ヘッセと一緒に待ってたんだ」
「いつから?」
「かれこれ、ずっと」
「待ち伏せしてたの?」
「そうではなくて」と応えた。「捜してたんだよ、かれこれ、ずっと」
彼女は黙った。計算している。パソコンみたいな沈黙。情報を処理しているのだ。
「あたしが誰だか、あんた、知ってるの?」と彼女は核心をついてきた。
「知ってるよ」と応えた。「たぶん」
首を大きく傾けて、斜め三十五度の角度からたっぷり三秒、彼女はビームを照射した。記憶を探っているのに違いない。
「あたしの名前は?」と彼女は、首を真っ直ぐに戻しながら尋ねた。まるで尋問みたいだな、と僕は思った。
「それは知らない」と、宿題を忘れた生徒のように力なく応えた。
「あたしの名前はね」と彼女は続けた。今やその右手には、好奇心という名の剣が燦然と輝いていた。「高鳥アキ」
「たかとり」と僕は復誦した。「アキ」
「そうよ、あなたは?」
「僕は」と応えかけて、不思議なことだが、少し戸惑った。一瞬思い出せなかったのだ、自分の名前が。彼女と会うのに名前が必要だなんて、これまで考えたこともなかったから。
「いいわよ」とアキは疑わしげに、しかし寛大に告げた。「ペンネームでも」
ペンネーム、と僕は思った。僕と彼女の物語、と続けて考えた。それをペンネームで綴るということ。それはなかなかに妥当なことであるように思われた。
そんなふうに考えていると、アキが言った。「もっさいわねー」
もっさい。これはどういう意味だっけ、と思考はノロノロとそこらを這った。
「あたしが名付けてあげる」とアキは剣を振りあげた。「あんたはヒロよ、それでいい?」
ヒロ、と僕は思った。「ヒロって誰さ?」
「むかし飼ってた猫の名前よ、嫌なの?」
つまりどうでもいいと、まあそういうことだ。僕の名前に興味がないのだ。僕も自分の名前に興味がなかった。なので文句は何もなかった。で、応えた。「ヒロでいいよ」
アキは笑った。初めて笑った。痛いほどに白い歯だな、とヒロは思った。
「牙みたいだ」と、気持ちが声に出てしまった。
ヒロのほっぺを、つねる真似をして、アキはまたその牙を剥き出した。
ヒロとアキの頭上を、白い雲が流れてゆくのを、僕は見た。
「いいもの、見せてあげようか」とヒロはアキに言った。
アキは首を傾げた。
ヒロは地面を指差した。
そこには擂り鉢があった。
「なるべく静かにしていよう」とヒロは小声で言った。
やがて招かれたかのように、雀が一羽、降りてきた。擂り鉢の、一メートル手前でホッピングしながら、あたりの様子をうかがった。チチチ? と雀は訊ねた。お邪魔かしら?
邪魔じゃないよ、キミを待っていたんだよ、と僕は思った。
チチチと、雀は擂り鉢に近づいた。右にチチチ、左にチチチ、でもってついには意を決して、擂り鉢の中に飛び込んだ。アキの肩口が、おお、と呟いているような様子を、満足げに見てヒロは笑った。
「まっ茶色?」とアキが歌った。雀は顔を上げてアキを見た。その様子をヒロは見た。そんな有り様を僕が眺めた。
「砂浴び、っていうんだよ」とヒロは、アキに教えた。「雀は砂浴びが大好きで、僕はそれを見るのが大好きなのさ」
「いいもの、見せてもらったわ」と言って振り向いたアキの髪から、土の香がした。お日様の匂いもした。ギュッとして、ほっぺやおでこにキスの雨を降らせたいくらいに、それは好ましかった。
「ねえ」と、芝生を駈ける土曜日の少年たちを、眩しげに見つめながらヒロは訊いた。「アキはどこに行こうとしてたの?」
「あたし?」と、ぼんやり応えながらアキは振り向いた。その輪郭を太陽が縁取った。「あたしはね、近衛美術館に行くとこだったのよ」
近衛美術館は、北の丸公園の南の果てに建っている。
「今日は無料観覧日なの」とアキ。「知ってた?」
首を振ってから、そしてヒロは訊ねた。「アキは絵が好きなの?」
「どうかしら?」とアキ。「でも今日はもう行かないの」
ヒロはアキの真似をして首を傾げた。
ヒロはアキに似ている、と僕は気づいた。
「だって絵なんかよりもずっと面白いの、見つけちゃったから」とアキも、少しだけ喋り方をヒロに似せてそう続けた。
ヒロは軽く眉を上げて、自分の鼻のアタマを指す。
アキは顎を上げるようにして、鷹揚に頷いた。
「そりゃ嬉しいね」と僕は言って、ヒロを立たせた。「興味を持ってくれたお礼に、秘密の滝を見せてあげよう」
北の丸公園の北の端、その鬱蒼とした林の奥には、都内なのになんとも信じられないことなのだが、小さな滝があるのだった。いつだったか公園を散歩していてその滝に出会った。滝があります、と表示されてるわけでもないから、知らない人はまずこの滝を見逃してしまう。道なき道に分け入って、やっと辿り着くことのできるその場所を、僕はこれまで、ずっと大事にしてきたのだった。
「あんたってバカね」と、なのにアキは言った。「あたしだってこんなカッコでプラプラしてんだから、地元の民に決まってんじゃないの。したら北の丸公園だって、そりゃ自分の庭みたいに知り尽くしてるわよ?」
なんと、と僕は思った。「滝も知ってる?」と、ヒロはおずおずと訊ねた。
アキはまた顎を上げて鷹揚に頷いた。
ショックだった。秘密の滝は、秘密でもなんでもなかったのだ。ヒロはすっかりガッカリしたようで、またベンチに腰を下ろしてしまった。誰もが知ってる滝ならば、もう秘密の滝ではなかった。秘密でなければそれは、ただの滝だった。世界からまたひとつ、大切な秘密が失われた。
「ねえ」と、がっくり肩を落とすヒロに、今度はアキが訊ねた。「あなたは、どこに行こうとしていたの?」
「僕?」とヒロは、アキに、そして半ば僕に訊ねた。僕はヒロに代わってアキに応えた。「僕はね、彼女の待つところに行こうとしてたんだ」
太陽はアキをシルエットに変えている。
「彼女?」と、眉をしかめるような声でアキは訊ねた。「その彼女ってのは誰で、どこにいるのよ?」
アキが混乱するのも無理はなかった。彼女について考えると、僕だってときには迷子になってしまう。
「わからないよ」と僕は応えた。「彼女が誰なのか、どこにいるのか、それはわからない」
我慢強いタチなのだろう、アキは沈黙で続きを促した。
「夜空の三日月にひっかかってる、かもしんないし、砂浴びした雀が帰り着く巣で、僕らを待っている、のかもしれない」
アキは至近距離から、マジマジとヒロの目を見つめた。ドングリの太いやつみたいな瞳だな、と僕は思った。そして、つくづく感心したかのように言った。「おっもしろいわねー」
それは肯定的な響きで、僕とヒロの耳に届いた。
「いいわよ」とアキは言った。「あたしも一緒に捜したげる」と、力強く頷いた。
頼もしい味方だな、と僕は思った。なのでアキを仲間にすることにした。で、告げた。「んじゃあ今日は、三人で仲良く力を合わせて、彼女を見つけることにしようじゃないか」
「三人?」とアキは、また眉を寄せた。そして自分とヒロとを、交互に二往復半ほど指差した。
「アキと、ヒロと」と僕はアキのために数えてやった。「それから僕の」とアキの瞳を覗きこみながら、解答を示した。「ほらね、三人だよ?」
アキは、ガーン! という描き文字を、その頭上に浮かべんばかりに驚いた。僕の正気をはかっているのだ。それがよくわかった。なので助けてやった。「世の中にはね、タチの悪い雀と、タチの良い雀とが、いるんだよ」と言葉でアキの肩を掴む。躊躇うなよ。こっちへ来いよ。音楽が聞こえたんだろう。だったら踊りゃあいいんだよ。僕の目が、アキの瞳に侵入する。それを僕は感じる。狼が羊を食らうのは、きっとこんなカンジなのだろう。「で、そのうちの、僕は、タチの良いほうの雀だ」
半ば開いた瞳孔を見つめながら、それを癒やすように混ぜ返す。「ほらね、ほっぺだってピンク色、でチュンよ?」
そして僕の笑いはアキの笑いを引きずり出すことに成功、アキとヒロとは、鏡に向かって声を揃えて笑う。一丁上がりだ。
「ヒロってのは」と僕は補足する。「キミが作った僕だ」
「あたしが名付けたあなたよ?」
「名前とともにヒロは生まれたんだよ。キミによく似てるみたいだ。つまり」と僕は応える。「ヒロは僕ではなくて、キミに属する僕なわけだ」
たっぷり五秒ほど、黙ってアキは僕の顔を見た。そして首を振りながら、ため息のような笑いを漏らした。それはギブアップの表現だった。これでアキは〈彼女〉捜索隊の一隊員として入隊したことになる。
「あなたのことは、なんて呼べばいいの?」とアキが訊ねた。
「ヒロでいいよ、勿論」と僕は応えた。「キミはキミのヒロを相手に踊ってくれ、そして願わくば」
「願わくば?」
「恋に落ちてくれ」
アキは笑いながら確認した。「恋?」
「そうだよ」と僕は真理のひとつを教えてやった。「恋とはなべて鍵なり。彼女に到達するための、ね?」と言って、ヒロは照れたのであろう、ペロリと舌を出した。
アキもおどけた表情を作って舌を出した。さすがだな、と僕は思った。確かにヒロはアキに属しているのだった。
2:08PM
世界は新たに着色された。よりビビッドにその濃度を増した。雀の声も直接脳に響いてくるかのようだ。掴めるほどに鮮やかな風が吹きはじめた。
世界は今や完全に僕にリンクしたのだ。
「さて」とヒロは言った。「まずはどうしよう?」
空は青く、太陽はその頂点にいる。
アキは、ヒロの肩に腕をまわすと、その耳に向かってこう囁いた。「まずは船を出しましょう」
「船?」
「漕ぎ出すのよ」とアキは言った。
「どこへ?」
「ここではない、どこかへ」と言ってアキは立ち上がった。
2:32PM
プジョーはわずかに、もう五分ばかり北上した。パーキングメーターにプジョーを待たせて、僕らはカナルカフェに入場した。カナルカフェは、お濠に面したオープンエアの店だ。パラソルの下でビールを飲むこともできるし、気が向いたらボートに乗って、お濠を遊覧することもできる。桜の季節には花見のボートでたいそう賑わう、そんな店だった。
「あたしはコロナを飲むけど」と嬉しそうに笑ってアキは言った。「車だから、ヒロはジュースね?」
「はい」とヒロは悲しそうに頷いて、ムーンスカッシュなる飲み物を注文した。
「何か食べようか?」とヒロが訊ねると、「朝が遅かったからいらない」とアキは首を振った。僕も何も食べたくなかった。ビールが飲みたかっただけだ。と、手にしたムーンスカッシュを恨めしく眺めた。
2:50PM
パラソルの下で、コロナビールをラッパ飲みしながらアキは訊ねた。「月の味ってどんな味?」
「単なるグレープフルーツの味だよ」と、アキの傾ける黄金色の瓶を睨みながら、ヒロは応える。「飲んでみる?」
「遠慮しとくわ」とアキが手を振る、まるでハエを追い払うみたいに。「コロナがまずくなるから」
2:58PM
アキがコロナを干すのを待ってから、グレープフルーツジュースを半分以上残してヒロは席を立つ。「じゃ、出航しようか」
3:12PM
昨夜の雨が残っていない乾いたボートを、慎重に選んだ。小さな羽虫のカーテンをくぐって、ヒロはアキの手をとり、ボートに乗せた。
ボートは、対面式の手漕ぎボートだった。
初夏の日差しを、遮るものは何もない。
「また黒くなる」とアキは空を睨んだ。
「僕らは、真っ黒羊どうしだ」と慰めた。
向かいでアキが、首を傾げる。
オールを握って漕ぎ出しながら、語り始めよう、真っ黒羊の物語。
163:19CM
牧場は、真っ白羊で、いっぱいでした。
「いっぱいって、どのくらい?」と、アキは訊ねる。
「小学校の、ひとクラスぶんくらい、かな?」と僕は応える。
そんな白羊の群れに、どこから迷い込んだのか、一頭の、真っ黒羊がおりました。白羊たちは、ニコニコ笑って手をつなぎ、「朝日に感謝だ、ほほほい、ほい!」なんてやってます。
「ほほほい、ほい?」とアキ。
こんな感じ、とヒロは漕ぐ手を休めて、両手を左右に開いてみせた。腰掛けたまま、さらに片足を上げる。ボートがガタガタと揺れた。
アキは頷いた。
生きる喜びを表現してるんだよ。真っ白羊は今日も素直で罪がないんだ。
アキはもう一度頷いた。
で、真っ黒羊も、一緒になって片足あげて、「ほい!」ってやりたいんだけど、でもできなくて、尻尾が「ぷい!」とか、なっちゃうんだ。
「どうして、できないの?」
どうしてだろうな、とにかくできないんだ。しかたないんで真っ黒羊は、ひとりぼっちで丘にのぼる。美味しい牧草を分け合ったり、そろって「ほほい!」 とかやってる群れを、遠くから静かに眺めてる。
「かわいそう!」とアキは鼻を鳴らした。「仲間外れにされてるのね?」
そうじゃない、白羊たちはみんな、いいヤツなんだ、仲間外れにするつもりなんて全然ない。真っ黒羊も一緒になって「ほい!」ってやれたらいいのにな、ってそう思ってるんだ。でも真っ黒羊は、
「できないのね?」
そう、できないんだ。
「黒いから?」
どうだろうね、そうかもしれない、生まれつきできないんだよ。
「みんなと違うのね?」
そうだね、違うみたいだ。で、そのうちにね、秋が来るのさ、当たり前だよね、夏が過ぎたら、物語世界にだって秋は来る。そしたら、
「そしたら?」
牧草がぜんぶ枯れちゃった。
「困るわね」
そうだろう? 群れは困ってしまった。「牧草なくなり、とほほ、ほほーい」ってなったわけだ。
真っ黒羊は言いました。「向こうに木の実があるんだぷい」
「木の実?」とアキは疑わしそうに言った。「羊って、木の実を食べるのかしら?」
どうだろうね、でもこの物語は自然科学の教科書じゃないから、そこんとこはまあ、どうでもいいんだ。
「わかったわ」とアキは頷いた。「木の実を食べる羊、ってことにしましょう」
ありがとう。でね、白羊たちはゾロゾロと列をなして、黒羊のあとを追って、森に向かうんだ、嬉しそうに歌なんて歌いながら。「木の実だ、木の実だ、ほほほい、ほいっ!」とかね。
お腹いっぱい木の実を食べて、真っ白羊は輪になって、感謝の踊りを踊ります。「夕日に感謝だ、ほほほい、ほい!」
「真っ黒羊のお陰ね?」
丘の上からは森が見えたんだ。
「で、真っ黒羊も仲間になれたのね?」
ところが、そうでもないんだ。「夕日に感謝だ、ほほほい、ほい!」ってやろうとしても、やっぱり尻尾は「ぷい!」ってなっちゃう。
「あらら!」
そう。あらら、なんだ。真っ黒羊は丘の上、ひとり見上げるお月さま、って、まあそういうわけさ。
「哀しいわね?」
かもしれないね。で、秋は去る。冬が来る。冬来たりなば、森も枯れる。木の実だって、やっぱりなくなっちゃうんだ。
「またピンチね?」
そうなんだ。「木の実なくなり、とほほ、ほほーい」ってわけさ。白羊たちは、やっぱりそろって困っちゃう。
「そこで真っ黒羊ね?」
そのとおり。
真っ黒羊は言いました。「向こうに民家があるんだぷい」
「民家?」
そう、民家。で、またゾロゾロと、ついていく、白羊たちは黒羊に、ね。で、おにぎりをもらう。
「おにぎりを?」とアキは声を尖らせる。「さすがに食べないでしょ? おにぎりは」
かもしれない。でもこの物語では、そうでもなくて、バクバク食べるんだ、ヤツらは、おにぎりを。
真っ白羊は、まあるくなって、輪になって、歌います、踊ります。「朝日に感謝だ、ほほほい、ほい!」
「真っ黒羊は、ぷい、なのね?
おっしゃるとおり。丘の上で、風と語らう今日もまた、ってそんなアンバイ。
「で、どうなるの?」とアキが、初夏の日差しの中で光った。
3:55PM
そうだ、ここは東京都千代田区なのだ。僕は、僕を定位する。皇居のお濠に、アキとヒロはいた。
水の匂いがする。ひきのばされた時の上に、ふたりは向かいあって浮かんでいた。
「ちょっとぉ」とアキが言う。「ちっとも進んでないじゃない」
確かにそうだ。話すことに夢中になって、ボートはいくらも、進んでなかった。
「これじゃあ日暮れまで漕いだって、どこにも辿り着けないわよ」と言うとアキは手を伸ばした。「あたしが漕ぐから、こっちに来なさい」
ヒロはオールを手放し、僕らは席を変わった。でも、それでもアキは、ヒロの向かいにいた。ふたりは向かい合っていた。北が南に変わっても、船の軸がぶれることはない。どこに向かおうとも、僕らの角度は等しいのだ。
「で、羊たちはどうなるの?」と、漕ぎながらアキが訊ねた。
「どうしよう?」と僕は応えた。
「考えてないの?」とアキは抗議した。「あたしってば、太陽ギラギラで真っ黒化してるってのに、無責任でしょ、あんた」
ヒロは肩をすくめた。
「いいわ、続きはあたしが」とアキは、オールを漕いだ。「考えたげる」
4:12PM
アキが話しはじめた。やがて、そうね、雪が降るのよ。
僕は想像した、牧場に降る雪を。
空を見上げて、真っ白羊は、さあ大変。「さむさむ、ぶるぶる、くちゃんくちゃん」
互いに身を寄せ、押し倉饅頭みたいになるの。皇帝ペンギンの越冬みたいなもんね。
「巨大な綿菓子みたいに見えるなり」と、ヒロは目を細める。
雪はずんずん降り積もっちゃうの。牧地にも、森にも、もちろん民家の屋根にもね。
「丘の上には?」とヒロが訊ねる。
丘の上にもよ、とアキは眉をつり上げる。
「真っ黒羊は?」とヒロがまた訊ねる。
真っ黒羊の背中にも、雪は積もって、積もって、
「大変だ」とヒロは呟く。「真っ黒羊、死んじゃうよ」
そのときよ、と声を潜めてアキは言う。そのとき、群れが歌うの。
「なんて?」
こっちにおいでよ、真っ黒羊、ひとりじゃ寒いよ、冷たいよ。
「おお」
風は凍って、山は震えた、月も砕けて、星は流れた、今はもう。
「むむ」
こっちにおいでよ、真っ黒羊。
ヒロは黙って、続きを待った。
真っ黒羊は、小さなくしゃみをひとつして、丘をくだって、やってきました。真っ白羊の輪の中に、しっぽを丸めて、近づきます。
僕は、黙って話を凝視した。
真っ白羊の群れの中。真っ黒羊は歌います。みんなでいっしょに歌います。「まんまるく、マル、まんまるく、マル」
白い荒野で男の膝が、ピクリと動くのを、僕は感じた。
牧地も、森も、民家も、丘も、真っ白け。真っ白羊の背中にも、真っ黒羊の背中にも、雪は積もって、真っ白け。みんながみんな、真っ白け。
4:32PM
白羊も黒羊も、区別なんてもうないのよ、とアキは言った。でね、とアキは笑った。冬来たりなば、春遠からじ。やがてお日様が、ほっこり笑ってこう言うの。「もおすぐ春っ! ほほほい!」
「ほほほい」とヒロは応えた。
「ほほほい」とアキも重ねた。
「そりゃいい話だね」と、でも僕は、斜めからのビームを放った。「だけど、だよ」
「だけど何よ?」
「だけど春が来て、雪がとけたら、そしたら魔法がとけるみたいに、真っ黒羊はまたまた真っ黒じゃないか。尻尾がぷい、となるじゃないか」
漕ぐ手が止まった。「じゃ、どうすんのよ?」
ヒロは悲観的に沈黙するが、僕はニュートラルに沈黙する。そして応える。「僕がもし、真っ黒羊だったら」
「だったら?」
「仲間を捜すね」
「仲間?」
「そう、仲間」と僕は繰り返す。「丘を捨てて、影ではない、実体を探し求める」
「実体?」
「そうだよ」と僕は、アキの目を見つめる。「例えば僕は今、キミの中に」
「あたしの中に?」
「その実体を探しているんだ」
水面を、風が揺らした。
ヒロの正面でアキが、なにか恐ろしいものを見るような目で、〈僕を〉見ている。
「この船が目指すのは」と僕は宣言する。「牧地ではない、どこかだ」
2454:535EM
真っ黒羊は“僕地”を捨てて、そして荒野を目指しました。
4:55PM
そして僕らは、東京都千代田区の初夏に上陸を果たした。出航した場所にとてもよく似ているけれど、でもどこかが違う、そんな対岸に辿り着いた。
あっち側で誰かが飲んだ、コロナとムーンスカッシュの代金を支払うと、ふたりはカフェを後にした。
灼熱のボンネットを持つ船に乗り換えて、僕らはまた僕らの旅を続ける。ここではないどこかへ。彼女を捜して。
5:00PM
「あなたの部屋に行くの?」とアキが訊ねた。
真っ黒羊の丘を僕は思った。
「行かないよ」とヒロは応えた。
ヒロには帰る部屋なんかないのだから、これは当然だった。僕としても、丘に戻る気は、さらさらなかった。
「前進あるのみ」と僕は付け加えた。
FM東京で、佐野元春の特集番組が始まった。
クーラーを消して、屋根を開けた。走りながら、二十秒でシートは露天になる。アキの短い髪は、オープンカーに向いている。初夏が駆け抜ける。風の中を行く。気持ちがいい。
「どこに行くの?」と、アキがまた訊ねた。
「日本橋三越」と、僕は応えた。
5:22PM
機械式の駐車場に車を託して、百貨店の扉をくぐった。一階、中ほどにあるカルティエまで歩く。
「刻印、できてますか?」と訊ねる。
刻印は終わっていた。
「試着してみますか?」と店員は、アキに訊ねた。
アキは眉を寄せたまま、無言で僕を見て、そして店員に、アキらしくもなく曖昧に頷いた。
その左手首に巻かれたのは、ホワイトゴールドのブレスレット。ラブブレスは、言ってしまえば定番中の定番だけど、見ようによっては無骨な、そのデザインを、無理なく受けとめるだけの腕を持つ女性は珍しい。従軍する兵士が出征前に、女にかませた貞操帯、それが元々のモチーフであるとかなんとか、聞いたことがあるような。付属のドライバーでネジを外さなければ、外れないタテマエになっている。つまり首輪みたいな腕輪だ。穏やかなタトゥーだ。
「よくお似合いです」と店員は笑顔で頷いた。似合わない、なんていうわけがない。
アキは僕の顔を見た。あまり嬉しそうには見えなかった。そりゃまあそうだろうな、と僕は思う。首輪は自由に馴染まない。
「彫っちゃったんだから、しょうがない」とアキをなだめて、カードを出して支払いを済ませた。
アキは、ブレスをつけたまま、テーブルに用意されたチョコをつまんで、天井を見ていた。
5:58PM
「どういうことなの?」と車の中で、左腕をパンチのごとく突き出して、アキは訊ねた。
「内側に書いてある」と、ハンドルに向かって僕は応えた。
アキは揺れる車内で、付属のドライバーを器用に使ってネジを解き、ラブブレスを外した。そして傾いた西日に翳すようにして、内側の刻印を読んだ。
Yes, we are crazy.
「クレイジー?」とアキが訊ねる。
「イエス、ウイアー」と僕が肯定した。
5:38PM
車は首都高速に上がった。「ねえ」とアキが言う。「彼女とやらを捜して、あたしたち、どこまで行くのかしら?」
「輝かしき明日まで」と僕は応える。
ヒュー、とアキは口笛で返した。「公園で、知らない男にナンパされ、高価なプレゼント、手錠のようにはめられて、連行されてるってわけね、あたしは、輝かしき明日、とやらまで?」
「イエス」
「まともじゃないわね」
「ウイアークレイジー!」
6:05PM
FMが、懐かしい音楽を流している。アニバーサリーの年を迎えたとかなんとかで、今夜はブチ抜きで、佐野元春の特集らしい。
〈タフでクールでそしてヒューマンタッチ♪まともな暮らしが苦手だと誰もに言われてる♪〉と歌詞は聴こえた。
「ねえヒロ」とアキが訊ねる。「あんた、なんの仕事、してる人?」
仕事? と僕は思う。「なんだっけ」とヒロは呟く。ヒロはさっき生まれたばかりなのだ。仕事なんてあるわけがない。
「いいわ」と、アキが質問を回収して応える。「あたしはね、雑誌の編集をしてるの」
「雑誌?」
「そう、ヤクザな仕事よ」〈仕事も適当にみんなが待ってる店までHarry up,harry up♪〉
「自由なんだね?」と訊ねる。
「まあね」とアキが応える。
〈夜のメリーゴーラウンド♪毎日が迷子のアクロバット♪〉
「僕も自由なんだ」と僕が応える。
〈ほんとうのモノよりキレイなウソに夢をみつけてるあの娘♪〉
6:28PM
首都高速から中央道に入った。タコメーターの針が落ち着く。
「でもね」とアキ。「あんたはちょっと、ぶっとび過ぎよ?」
〈そんなに見つめないで♪心を分け合えられないなら♪この街でまたひとつ誰かの愛を失いそうさ〉
「よろしくないかな?」とうそぶいたりして。我ながらいい気なもんだ。
突き上げるような伸びをして、アキは応えた。「どーう、かしらねえ」で、コキコキと首を鳴らして続けた。「でもまあ、興味深いわね」
「そりゃよかった」と僕は笑った。
〈気取ってばかりのrunaway♪夜を抱きしめてここにもひとり♪あそこにもひとり〉
「いつから?」とアキ。
「いつから?」とヒロ。
「いつから彼女を捜してるわけ?」
「さあ」とヒロに代わって僕が応えた。「かれこれずっと、かな」
〈boy friend,girl friend,大切なmy friend♪あの輝きはかえらない♪いつまでもおまえにキスしていたいのに〉
「なんダースくらいの女の子が、生贄になったの?」
「生贄はひどいな、それに」と笑ってみせる。「なんダースって、あのね、僕をなんだと思ってるんだ?」
「善良な、キチガイ」
〈crazy engine♪バラバラのlonelyをすり抜けてhere comes the night♪〉
「否定はできない」と応じてから、質問に答える。「ワンカートンくらい、かな?」と、控え目な申告をして様子をうかがう。
アキは笑った。「十人の内に〈彼女〉は、一人も見つからなかったの?」
「逃げ水、なんだよ」
「逃げ水?」
「消えちゃうんだ、近づくと」
ミラージュ、みたいなものなんだ、と僕は思う。彼女の影を見つけて、後を追う。今度こそ彼女だ、と僕は思う。いつも思う。でも角を曲がると、消えてしまう。いつだって、そこにはもう、影も形もないのだった。そしてまた、ひとりぼっちの自分に目覚める。雪原に残される。
「のっぴきならないんだ」と僕は呟く。
アキは黙っている。
「だからね」と僕は言う。「だから中に入れてください」
6:48PM
夜のとばりが訪れたころ、ETCのレーンを抜ける。
八王子を過ぎると、この先は大垂水峠、との表示が見えた。
僕らはどこまでゆくんだろう?
〈日の光を避けながら栄えてるこの街角で♪夜の天使たちはスターダムにのしあがる♪〉
「〈彼女〉が見つかったら、あなた、どうするの?」
「どうする?」
どうするのかな?
〈一歩踏み出せば誰もがヒーローさ♪もしそれが誰かの罠だとしても♪朝が来るまで君を捜している〉
「あたしの推理を言っても、いいかしら?」
「もちろん」
わかるなら、是非教えてもらいたいもんだ。彼女を見つけて僕は、いったいどうするつもりなんだろう?
「失楽園ね、つまりは」と乾いた声が言った。
峠の闇を、一対のヘッドライトが、音もなく切り裂いてゆく。
〈今searchlightの中で一人の男が鉄条網を潜り抜けようとしている♪〉
「なんだって?」
「死ぬ、つもりなんでしょ? 〈彼女〉と一緒に」
死ぬ? と僕は驚く。そんなこと、考えたこともなかったな。
「殺すつもりなのよ、あなたは、逃げ水みたいに〈彼女〉が消えちゃう、その前に」
「殺す?」
〈片手には宝石♪もう片一方の手の中では凶暴な情熱が吠えはじめている♪〉
「あなたと、彼女をね」
彼女と僕を、僕が殺す?
〈そして俺は♪朝が来るまで♪〉
カーブを抜けながらウィンドウを下ろす。窓の外には夏がある。その中を疾走する。ジェットコースターみたいだ。さて、どこに向かって?
〈朝が来るまで君を捜している♪〉
「怖いだろ?」とアキに訊ねてみる。「もしも、そうだと思うなら」
「怖くないわ」と、助手席のウィンドウを下ろしながらアキは応える。「だってあたしは、〈彼女〉じゃないもの」
ボリュームアップする、虫たちの叫び。「死ぬのは〈彼女〉で、あたしじゃないもの」
〈でも今夜はいつもの夜とは違う♪君に会えそうな気がするのさ♪朝が来るまで君を捜している〉
7:00PM
峠の中ほど、道の脇に炎が見えた。なので減速して、そこに向かった、誘われる昆虫のように。篝火は、そこが駐車場であることを示していた。飲食店に付属するスペースのようだった。
車を乗り入れる。『ごん助』という看板が出ている。囲炉裏料理の店らしい。
便利なもんだ、と僕は思った。夕飯の時間になれば、ちゃんと食事処が出現する。道も、世界も、僕らの物語では、どうやらそのようにできている。
車を降りて、門をくぐった。
不思議な店だった。店、というより村だった。峠の闇に、息を潜めるようにして、その村はあった。受付で聞いた話によれば、地方の廃村を、そのまま丸ごと移植したらしい。
二名ぶんの食事をと申し出ると、十二番と書かれた木札を手渡された。そして地図をもらった。村の地図だった。村には、お地蔵さんがあり、郵便局があり、池があった。池にはアヒルが泳いでいた。闇の中のアヒル。ガアガアと鳴かなければ、それがアヒルであることもわからない、そんな深い闇に、村全体がすっぽりと覆われていた。
点々と続く篝火が、行く手の小道を照らす。地図を頼りに、その小道を行く。
広大な敷地には、いくつもの離れが散在していた。僕らが目指すのは、そのうちの十二番の離れだった。
7:18PM
篝火に照らされた、十二番という表札が、まもなく現れた。
小さくて、古風で、温かくて、懐かしかった。そんな小屋。雀のお宿、のように僕には見えた。好ましかった。
引き戸を開けて、中を覗く。と、中央に囲炉裏が見えた。立派な囲炉裏だった。真っ黒に煤けていた。
囲炉裏を抱いているのは、四畳半ばかりの畳敷だった。玄関から部屋へは、小あがりになっている。
すでに炭が焼かれていた。パチパチと炎のはぜる音がする。
「おっもしろいわねえ」とアキが、感心したように言った。それは日中、僕の目を、しげしげと覗きこんだあのときと、そのまま同じ台詞だった。好奇心、それがアキの番地なのだろう。
確かにユニークだ、と僕は思った。この店も、アキも、そして今夜も。
「人生の旅はいつだって」と、だから応えた。「小さな驚きの、連続さ」
「それが、生きてるってことだと思うわ、新しいことの繰り返し」
僕らは部屋にあがった。囲炉裏を前に、向かい合って座る。
夜はまだ、始まったばかりだ。
7:28PM
「なーにを飲もっかなーっ」と、アキがいうのに被せてヒロが言う。「オイラ、ビール!」
瞬間訪れた、短い静寂の中、パチリと炭がはぜる。
「ダメでしょう?」と、根拠もなく高いところから、アキは言う。「オイラくんは、運転手でしょう?」と続けながら、メニューらしき紙を開く。
「アキさんは」と礼儀正しくヒロが訊く。「運転できないのですか?」
「できますよお」と、胡座に組んだジーンズの膝を、心持ち立てながらアキは応える。「ただね」と視線はメニューに向けられたままだ。「運転よりは、どちらかというとお酒を、よりいっそう好むタチです」
「同じです。オイラもお酒を」とヒロ。「好むタチです」
「ざっつ、とぅ、ばーっ」と、ちっとも気の毒そうにではなくアキは言い、視線を上げてヒロを見る。「同情するわ」と眉で八の字をを描く。
よい兆候だ、と僕は思う。性的な対面においては、何よりも極性こそが重要。アキがS極に座るなら、ヒロはM極に座る、これで正解。
「オイラ、アルコールが入っても、結構しゃんとしてるなりよ?」
「反社会的な発言ねえ」と言ってからアキは、ふと考えるように沈黙し、それから言い直した。「反・社会的、ではないわね、あんたの場合」
より厳しいレッテルに備えて、ヒロは少し身構える。
「あんたは、社会のことなんてちっとも眼中にないんだから、そんな社会に反抗するも何もないわよね」とアキ。「非・社会的、というのが正しいみたい」
「人でなし、って言われたみたい」と、小さな声で呟きながら、ヒロは隅っこの電話に向かう。そして受話器を取り上げ、「どうぞ」とアキに告げる。「ご注文を」
電話の、わきにある窓の、木枠を指で押し開けて、耳だけアキに向けたまま、僕は注意を外に向ける。闇を睨む。探し出してやる、と奥歯を噛み締めるように思う。深い闇に、チロチロと燃える灯を。見つけたら飛び込むのだ、勇ましき夏の虫のように。
「まずはウーロン茶」とアキが命じる。「これはヒロの、ね?」
「はい」と力なく、受話器を握りながらヒロが応える。
「わたしはね」とアキ。「あ、なにかしら、これ」
「どれ?」と気のなさそうにヒロは応じる。
「竹酒だって」とアキの声が弾む。「日本酒なのね、竹の筒に入ってるんだ。あたし、これにするわ、いきなりだけど」
「へいへい」とヒロは、厨房に繋ぐ。「あ、こちら十二番の小部屋ですけど、どーもども、はい、注文です、いいですか? はい、輝かしき竹酒と、はい、屈辱のウーロン茶、はい、いえ、普通のウーロン茶でいいんです」
「それとね!」と、タイミングを計ったようにアキは言う。「おまつりコースをふたつ」
「あ、もしもし、聞こえました?」と受話器に向かってヒロ。「そうです、おまつりってやつを、ふたつ」
「追加はできるのよね?」とアキ。
「あの、コースに追加で、単品も後から頼めるんですか、ってお姫様が」とヒロ。「はい、あ、プリンセス・アキです。え? いえ、芸能関係ではなくて、はい? あ、サインですか、サインはどうなんだろ、え? おまけがつくんですか、したら、頼んでみますね、はい、まあそうです、オイラなんて、マネージャーみたいなもんです、はい、お願いします」
電話をきってヒロはアキに言う。「アラカルトの追加オーケー、アキのサインで、デザートがおまけされます」
「ご苦労さま」とアキは笑う。「色紙にはあたしが、伝票にはヒロが、サインすることにいたしましょう」
「はいはい」と頷きながらヒロも、囲炉裏の前のM極に戻る。
静かだ、テレビもない、ふたりきり。部屋は狭い。会話が途切れると、ただただ対峙してしまう、アキとヒロ。そんな様子を、いくらか冷ややかに眺める、この僕。
7:44PM
向かいあったまま、言葉を休めてアキもヒロも、きょろきょろとあたりを見回す。藁なのだろうか、よくわからない。竹を百分の一の太さに小さくしたような、天然のストローが壁を覆っている。
「そっか」とヒロは呟く。「ジュースなんかを飲むときの、あのプラスチックの筒の語源は、そもそも藁なんだ」。
「なによ、藪から棒に」とアキが反応する。
「藁からストローだよ」とヒロ。「ストローハットっていったら、これは麦藁帽子のことじゃん」
アキは三秒ほど沈黙してから、クールに応えた。「大発見ね?」
藁の匂いがした。
そのとき、コトリと小さな音がしたかと思うと、続いて開き戸が叩かれた。「失礼します」
ヒロが立って戸を開けると、そこにはいくらかほっぺの赤い、若い女が立っていた。和装の、純朴そうな娘だ。
「ようこそ、我らが」と言って僕はふざけた。「雀のお宿へ」
つまらない冗談に娘は、竹製のワゴンに伸ばしていた手をふと止めて、少しぎこちないながらも、咄嗟にこう返してくれた。「大きな葛籠と、小さな葛籠の、どちらがいいですか?」
そして娘は恥ずかしそうに、いっそう赤くその頬を染めた。
雀みたいだ、と僕は思った。嬉しかった。やっぱり今夜はそういう夜なのだ。いたるところに、〈彼女〉の影が舞っている。
「小さな葛籠と、それから」と僕は応えた。「小さな秘密をひとつ、くださいな」
言ってしまってから、しまったと後悔した。少し無理があったように思う。雀は飛び去ってしまうかもしれない。でも、少女の顔に警戒の色は表れず、その頬が、いっそう赤みを帯びただけだった。地の果てで鈴が鳴った、微かに。
そんな夜なのだった。世界は僕に、完全にリンクしていた。
おまつりコースの入った葛籠をふたつと、アキの竹筒、そして悲しげなウーロン茶のセットを受け取った。
「やり方はわかりますか?」とピンクのほっぺは訊ねた。
「皆目わかりません」とヒロは応えて、ブンブンと首を振った。
「失礼します」と雀は、お宿にあがって、葛籠を開いた。
中から現れたのは、串に刺された、エビ、ホタテ、アユなどの魚介と、おそらくは鳥であろう肉類、そしてウズラの卵やネギだった。地コンニャクの皿、山菜の皿、そのほか見慣れないけれど、間違いなく滋味豊かでありそうな、そんな食材の皿も並んでいる。今朝僕は、本当に都内で目覚めたのであったか?
「こうして囲炉裏に」と少女は実演してくれた。「串を立ててください」
エビが、囲炉裏の上に設えられた金具に、折り紙の手つきで立てられた。パチリと火がはねて、海の匂いがした。
「コンニャクは、こちらの味噌につけてお召し上がりください」と少女は言い、ヒロは頷いた。
「それでは何かございましたらお電話で」と言いながら少女は立ち上がった。その振る舞いは、ひとつひとつが素敵な予感に満ちていた。昨夜の雨が残した水たまりを、今朝のノラ猫が覗き込むような、そんな優しさがあった。夜のフリーウェイを照らす、あのオレンジ色のライトに通じるような、切なさもあった。すべてがのっぴきならなかった。
ヒロは何を思ったのか、慌てたようにポケットに手をやり、ヘッセの文庫本を引っ張り出すと、「あの、もし、コレ、よかったら」と少女の背中に声をかけた。「あげます」
少女は、きょとんとした表情を浮かべて受け取った。その表情が、僕にはとても好ましく見えた。そして、でも、すぐさま少女は笑顔を作り、僕を見て、困惑の影は消し、はにかんだように呟いた。「ありがとう」
嬉しかった。少女は「ありがとう」って言ったのだ、「ありがとうございます」ではなくて。給仕係という属性ではなく、少女のままの素性で応えたのだ、正しい角度から。
「あ」と、外から開きを閉めようとして、少女は思い出したように付け加えた。「ウズラの卵は、串で穴を開けてから焼いてください」
「穴を?」とヒロが確認した。
「そうです」と少女は笑って言った。「そのまま火にくべると、バーンって爆発しちゃうから」
すっかりフレンドリーに染まったその語尾を、ビー玉のように転がして、〈彼女〉のカケラは屈託なく笑った。ウズラの卵みたいな笑顔だった。
「オーケー」と、だから僕も僕の素性で応えた。「いつの日か、魔術劇場で会おう」
小さなお辞儀ひとつを残して、娘は、小路の奥へと帰っていった。
おだやかな気持ちで囲炉裏に戻ると、ずっと沈黙していたダムが決壊していた。
「やーね、やーね」とアキは歌うように言った。「秘密をひとつくださいな、だって」
言い終えるとアキはその語尾に、クププとおかしな擬音を加えた。
ヒロは黙って腰を下ろす。
「気障な台詞をヌケヌケと」とアキの追及は続く。「いつか魔術劇場で会おうぜ! シュタッ! みたいな」
シュタッのところで、アキは敬礼のポーズをとってみせた。
「そんな、シュタッとか、やってないもん」とヒロは小さく抗議する。
「あんたってのはさ」とアキ。「親愛なる、ナルシストね?」
「親愛なる?」
「そうそう、こうよ、字で書くと」とアキは躊躇いもなく、ヒロの箸を囲炉裏に突っ込むと、灰の上にサラサラと文字を描いた。「親愛なるの〈なる〉は、カタカナのナル、ナルシストのナルなわけ」
囲炉裏の中に文字が並んだ。
親
愛
ナ
ル
「箸が」とヒロは呟く。
「大丈夫よ」とアキ。「ウーロン茶で洗って使いなさい」
見事な、と僕は嬉しく思う。
「オイラが親愛ナルなら」とヒロも言い返す。「アキは尊大ナルだよ」
「いいわねー」とアキ。「親愛ナルと尊大ナルのナルシストチームで、世界を征服でもしちゃう?」
その囀りは美しく響いた。
「いつかはね、でも今夜は」と笑って僕は応える。「征服するのは、ハニー、キミだけだよ、ハートマーク、なんちゃって」
「ほんっっと」と、ためてからアキは、「ダッさダさにナルよねえ」と笑う。
ナンピトたりとも、親愛ナル我らを、曇らすことはできない。
囲炉裏にエビを、アユを立てかけて、地コンニャクを味噌につける。
「うん、美味しい」とアキは気持ちよさそうに囀る。
8:08PM
「おや?」とヒロは、箸を止める。「おやおやおや?」
「何よ?」
「ちょいとお姉さん、そこなる竹のぐい飲みですが」とヒロは、アキの手元を指す。
「あら、すまないわね」 とアキは、竹のサーバーをヒロに手渡し、竹のぐい飲みを、これは突き出す。
「そうではなくて」と言いながらもヒロは、竹のサーバーを傾ける。そして続ける。「オイラの目ったら、片方ずつが2.0、ふたつ合わせて4.0、乱視も入っておりませぬが」
「何よ?」
「用意されましたところのぐい飲みが、ふたつに見えてしまうはこれいかに?」
「運転手のぶんはないわよ。これはあたしの右手用で、そっちはあたしの左手用なの、残念ね」
「弔いの酒もなくては、死んだエビ殿にもアユ殿にも、申し訳が立ちませぬ」
「呑みたいの?」
ヒロはコクコクと頷く。
「どうしても?」
ヒロはまたコクと頷く。「是が非でも」
アキは、首を傾げてヒロを見つめる。そして言った。「わかったわ」
「わかっていただけましたか?」
「あたしを上手に口説いてみせなさい、そしたら」
「そしたら?」
「左手用を進呈しちゃうわ」
アキは酒に弱いのだろうか、と僕は思う。すでにその目は、曖昧な光を帯びている。
「言われなくても、もちろん口説くし」と、ヒロに代わって僕は言う。「下手をうたない自信はあるから、だから」
「だから?」
「前払いで呑ませてくれ」
アキは、もう十度ほどその首に角度を足して、バターナイフの鋭さと、鈍さで笑う。
「酒が入ったほうがさ」と、言いかける、伸ばした僕の手に、竹のぐい飲みを握らせて、その先をアキが続ける。「より上手に口説けるのね?」
そしてアキは首の角度を戻し、竹筒に角度をつけて僕の竹を満たした。
準備完了。僕らは音のない乾杯を交わし、互いの瞳にダイブする。
8:32PM
下唇の日本酒を、チロリとなめてアキは言った。「彼女について、語って」
アキの瞳が、湖のように凪いでいる。
「君について語ろう」と僕は返した。
「そう?」とアキは、これは癖なのだろう、首をわずかに傾けた。鷹の目を、今は真昼の、 猫の瞳のように細めながら。
「〈彼女〉はキミの、向こうにいる、だから」と僕は応えた。「キミを追いかけているうちに僕らは、〈彼女〉にたどり着く、はずなんだ」
「そう」とアキは、クエスチョンマークを外して応えた。
「串焼きみたいに」と僕は、アユの串をクルリとまわして言う。「串刺しだ」
「何が?」
「僕が」と俯いたまま答える。
「そうなの?」
「そう」と応えて僕は、シシトウガラシの串を慎重にくべて、かわりにエビの串を、アキの小皿にとりわける。「キミの角度は深く刺さった、最初に会ったそのときから、なんちゃって」
「ねえ」とアキは笑う。「最初に会った、って、あのね、あたしたち、昼間に出会ったばかりなのよ?」と言いながら、エビの皮をむく。
「でももう陽は暮れた」と言って僕は、竹酒を呑む。「太陽は向こうに行ってしまった、だから」
「だから?」とアキは、おしぼりで指を拭う。
「だから、いっそう僕らは」と言ってアキを見る。「まんまの僕らになったんだ」
わはは、とアキはオトコらしく笑う。そして皮を剥いたエビの皿を、僕に手渡してくれる。
「剥いてくれたの?」
「そうよ、親切でしょ、だからお願い」とアキはもう一本のエビを皿にとる。「翻訳して話して、できれば日本語に」
「うーむ」とエビに塩をかけながらヒロが応える。「塩かけられた、ナメクジみたいにちぢんじゃうなりよ、そう言われると、オイラの言葉が」
「じゃあいいわ」と、剥き終えたエビにかじりつきながら、上目遣いでアキは言う。「尖らせたまま、口説いて」
間接照明が、斜めにアキを描いている。ぞっとするほど凄みのある、挑戦状を読んだ気がした。
「意味不明、かな?」
「全てが不明よ、理解不能、でもね」とアキは酒を、勇気を、僕に注ぎ足す。「でも大丈夫、感じることは、できるから」
「そりゃよかった」と竹を一口に干して、芯を尖らせる。「遠慮なく奥まで、お邪魔いたします」
壁で、アキの影が泳いだ。
8:41PM
「キミは、自由をまとって歩いていた」と、半ば影に向かって言葉を紡ぐ。
「気持ちのよい響きだわ」
「時間の外に、はみ出していた、少なくともそう見えた」
アキは黙って、僕を見ている。僕を見ていた、ヒロではなくて。懐かしそうに。懐かしそう?
「どこかで、会ったかな?」と、思いがそのまま言葉になる。「今日ではないどこかで、今日のではない、太陽の下で」
「初対面よ、記憶によれば、でもね」とアキは地鳥を立てる。「あなたのポエムを聞いてると、感じるわ、確かにあたしは、知ってたんだって、あなたのことを、これまでも、ずっと」
「そう、かもしれない」と僕は目を閉じて、闇の奥をサーチする。彼女の番地を計算する。そう、そうなのだ。そこだ、そこにいる。そこにいた。ずっといた。そこは彼女の椅子だ。彼女の椅子にアキはいる。
「染み付いた影のように、ここにまた、キミはいた」と瞑った視界の中で呟く。「また見つけた」
「お久しぶりです」と、彼女の声がした。目を開けるとアキがいた。切ない痛みをどこかに感じた。オレンジ色に照明された、小さな地球のてっぺんで、影と影とは対峙していた。非常にはみ出していた。僕らはのっぴきならなく、はみ出していた。
「キミは、街で、日々を、自由に泳いでる、それを感じた。どこにも繋留されていない」
「迷子だったの」
「僕もだよ、僕も生まれてこのかた、ずっと迷子だったんだ」
「鉢合わせたのね? 迷子どうしが」
「うん、日の出ずる国の、真ん中で」
「初夏の風吹く公園でした、なんて」
「だね」
「できすぎね」
「ねえ」と、声は掠れている。「もう僕には、区別がつかないよ」
「区別?」
「そう」と、今や声は、内緒の話をするボリュームにまで落ちた。「どこまでが僕で、どこからがキミなのか?」
「嬉しいわ、あなたは〈彼女〉を」と、地の底から響いてくるように、声は言った。「今では〈キミ〉と呼んでいる」
5398:141GPM
すべてが静止した、すっとピントがあったみたいに。張り詰めた湖面の静寂。回復されたバランス。ピースは丸く復元された。完全性。ここはどこでもない場所で、時間は凍っていて、移ろうものは何もない。
「わかったわ、言葉には、意味なんてないって」と水面に落ちた言葉が告げた。「あなたは演奏してるのね、言葉を、音楽みたいに」
「嫌いかな?」
「嫌いじゃないわ」と言葉は、今度はすべらかに泳ぎ出す。「あなたが誰だか、わかったわ」
「僕は、誰かな?」
9:12PM
「教えて」と、妙に短く息継ぎをして、声は泳いだ。「あげません。でも、あなたの属性なら、教えてあげましょう」
「それはなんですか?」
「魔法使い、それもかなり強力な、ね?」
僕らの影はクロールのように笑った。
「知ってるかい?」と僕は訊ねる。「強力な魔法使いであることの、困った点を」アキは首を傾ける。
「強い魔法の不便な点は」と僕はアキに、そして僕自身に教える。「自分も魔法にかかっちゃう、ってことさ」
影はまたクロールで泳いだ。
8:2531MSC
そんなわけで僕らは、首尾よく魔法にくるまれて、遭難したってわけだ、世界から、牧地から。凍てつく荒野の真っ黒羊。でも、そこにはあるんだ、そこにしかない、ホントウのホンモノが。死のように完全な、揺らぎのない真実が。
9:57PM
「夜風がなんだか」と、駐車場でアキが、くるくると踊るようにして言った。「目に見えるみたい」
魔法の酔いが今宵を、無邪気に覚醒させている。酩酊ではなく、覚醒。警察に捕まることもない。恋こそ最強のドラッグだ。
「それは動かぬ証拠、ですなり」と、ステップせんばかりのリズムで、ヒロが言う。
「何の証拠よ?」
「まんまと恋に落ちた」と、ヒロは右足で地面を叩く。「って、その証拠ですなり」
「落とし穴みたいね、あんたが言うと」とアキは笑う。
僕は空を仰ぐ。月は見えない。
「平気?」と、ジーンズのポケットからキーを引っ張り出した僕に、アキは訊ねた。「酔ってない?」
「酒なら」と僕は応える。「平気だよ、でもダメかもしれない、キミに酔ってて、なんちゃって」
「なんちゃって、って、口癖ね?」
「そう?」
「あまり好きじゃないわ」
「そりゃ困ったな」
「なんちゃって、なんて」と、プジョーのボンネットを回り込み、アキはヒロに近づいた。そして言った。「言えなくしてあげようか?」
ヒロが少し、怯えたような目でアキを見るのを、穏やかに僕は眺めた。
アキの両手が、ヒロの頬をはさみ、唇が唇を捉えた。そのヌメリとした感触を、はるか遠くで僕は感じた。大気圏外から、地上の焚き火を見下ろすみたいに、それは僕から、奇跡のごとく隔たっていた。なんちゃって、と僕は、宇宙のどこかで呟いた。
10:22PM
ハイビームの双眸が、峠の闇を突き抜ける。その源であるヘッドライトを想像して、僕は思った。誰かの眼差しに似ていると、ずっと感じていたけれど、そうか、プジョーの瞳は、アキの瞳だ。切れ長で、鋭く輝き、いささか、つり上がりすぎている、そんな視点。
ラジオはニュースを読み上げている。レバーを操作して、黙らせた。
アキとヒロは、ウィンドウを下ろして、アルコールを洗っている。外に突き出したヒロの手に、虫が当たったのを、僕は感じた。それと同時にアキが言った。「あのね」
「何?」
「なんでもない」
沈黙が、車内を包んだ。それは満ち足りた沈黙のようでもあったけど、どこか緊張感の漂う沈黙でもあった。そのように僕は感じた。
そんなときのために、ヒロは生まれたのだけれど、アキに属するこの道化師も、さすがにしゃべり疲れたのか、今はおどける様子がない。
ヒロは僕にではなく、アキに属していて、アキに照らされることで顕在化する。アキが発光していなければ、ヒロはない。
なんて思いつつ、隣の光度を探ってみて、僕は気づいた。アキは、今この瞬間において消えていた。かわりにそこには、〈彼女〉が昇っていた。彼女の瞳が、近い距離から、僕を見ていた。温度のない眼差しだった。
かなり奥まで、と僕は納得した。来ちゃったって、そういうことだな。
でもまだ道は続いていた。
10:52PM
「ねえ」と、峠の出口で減速しながら、アキの真似をして、僕は言った。
「何?」と今度は、彼女が応えた。
「橋を」と、左手前方を指しながら訊ねる。「渡っても、いいかな?」
闇の中に黒く、橋がかかっている。橋の下には、おそらく湖なのであろう、これも黒々とした水面が見えた。
「いいわ」と彼女の声が応えた。
僕は左に九十度、プジョーの進行方向を変えた。その角度は決定的だった。
10:53PM
橋の中ほどで、お隣さんは呟いた。「なるほどね」
橋の前方、対岸にひしめくネオンサインの群れを見てそう言ったのだ。
声の調子がアキのそれだったせいか、これにはヒロが反応をした。「だってアキが言ったんじゃん、渡ってもいいって」
「言ってません」と、やはりこれはアキだ、声が応えた。
「言ったもんね!」とヒロは拗く繰り返す。
だけどヒロ、と僕は思う。アキの言ってることは本当だ。橋のたもとでは、アキは確かに眠っていたんだ。いいわ、と応えたのはアキじゃなくて、〈彼女〉だったんだ。
彼女が承諾したのだ。橋を渡ることを。
せっかくまた見つけ出したのだ、今夜こそは、と僕は思う。それは愛ではない。欲望でもない。そんな血の通った、温かな衝動ではない。凶暴なる決意だ。存在の孤独の底で、天に突き上げた下顎だ。不敵にして傲慢なる角度だ。一番短い言葉に要約すると、その思いはたぶんこうなる。郷愁。
91:1251LS
そして。
ピクリと男の肩が動いた。白い荒野で、二つの瞳がわずかに開いた。低く、唸りが、腹の底から、地鳴りのようにせりあがってくる。風を感じた。久しぶりに風を感じた。髪は生き物のように騒ぐ。
そして俺は見つめる。闇を凝視する。降りしきる雪の向こうの、絶対的な闇を。それから大儀そうに、そう、実際にそれは俺の身にはたいそう大儀に感じられたのだが、顎を上げ男は、天空に探した。〈彼女〉を。
11:01PM
「で?」と声がして、プジョーの車内に引き戻された。それはアキの声だった。「どのホテルに連れ込もうってわけ?」
渡り終えると、そこはホテル街だった。
「アキ様のお好きなお城に、遠慮なく突っ込ませていただきます」と、如才なくヒロが照り返す。
「んじゃあねえ」とアキは、プジョーの進行をコントロールするセリフ回しで、物色のための時間を短く稼いだあと、オトコらしく端的に言った。「あそこ!」
「あいあいさー」とヒロは、ハンドルを回す。
Waterhotelの電飾は、白地にブルーの、品よくナチュラルなものだった。エーゲブルーの車体は、夕陽に照らされたイルカのようにすべらかに、そのゲートをくぐった。
エンジンを切った瞬間に訪れた静寂が、駐車場を深海に思わせた。
「さて」と僕は言った。
「さて?」と声が応えた。
「捕まえた」と僕は続けて、それから助手席の女を見た。
「連行された」とアキは、手首に巻かれたブレスレットを振ってみせた。
「パンツを脱いだら」と僕が言い、でも恥ずかしくなってその続きはヒロが引き継いだ。「外してやるなりよ、その手錠」
「パンツは脱ぐわよ、でも手錠は外さなくていいわ」とアキの言葉も、深海ではいっそう自由に泳ぐ。エコーがかかったように、台詞は響いた。「返してほしけりゃ、手首ごと切り落として持って帰って」
「手首より先なんかに」と、返しながらヒロは車を降りる。「興味はないなり」
「あら、いいの?」と言いながら、アキも降りてドアを締める。「あたしの指って、とっても器用な指なんだけど?」
リモコンキーでロックしながら、プジョーのお尻を周り、アキに近づき、肩を掴む。目を覗きこむ。アキの目が、着替えを覗かれた女子高生のように泳ぐ。「そりゃいいや、是非ともその指で」と言いながら僕は、しかるべき言葉をその瞳の中に読み、続きをヒロに託した。「シャンプーしちくりよ!」
さすがはヒロだ。泡のような笑いが立ちのぼる。
てなわけで、これから拘束するわけだ、高鳥アキを。そして拷問にかけて口を割らせる。この女の中に隠された、〈彼女〉を呼び出すための秘密の言葉、それを聞き出すのだ。
朝が来るその前に、〈彼女〉を抱きしめる。そして、そしたらそのまま離さないぞ、と僕は思う。ミイラになるまで、いやミイラになったそのあとも、決して彼女を離さない。永久に離してなるものか!
11:12PM
Waterhotelのエントランスには、象徴的な彫刻が施されていた。アンモナイトだった。
さてさて、ただいま、と思いながら僕は、出会い頭の門をくぐる。決まった場所で眠らないこと、それが僕らの、そう、言ってしまえば習性だ。宿命と言ってもいい。「ほほほい」と異論を唱えるかい?
生まれつき黒かったんだ、見えないものが見えるなら、踊るしかないんだ、見えないものを相手に、ね。白羊が影を相手に、くるくる回るのと同じことさ、なんて僕は、内的に僕に弁解をする。
とか、考え事をしているうちに、僕らは505号室にいた。
11:18PM
505号室は、平たく形容するなら南国だった。壁は、パステルな具合に白かった。床も白木だった。床の一部には窓があって、そのガラス張りの正方形の向こうには、白砂のビーチがあった。見下ろすビーチには、青いヒトデと白いヒトデがいて、青いヒトデの右手は、白いヒトデのエッチなところを触っていた。壁にも窓があった。その向こうは海原で、木彫りのイルカが一対、自由な角度ではねていた。テレビモニタには、深海の映像が映し出されていて、イソギンチャクが妖しく優しく、手招きしていた、無数の触手で。BGMは、波の音をアレンジしていた。夏の香が、マイナスイオンと手をとりあって、爽やかに対流している。ベッドには淡いベージュのマット、その上にコーラルブルーのタオルケット、その配色は、遠浅の浜辺を思わせた。
室内は、島の温度を抱いていた。Tシャツを、はぎとるようにヒロは脱ぐ。ジーンズも脱いで、ダイブする、トロピカルなベッドへ。両手をカマキリのように尖らせて、クロールの真似なんてする。フパッ、なんて息継ぎのフリもする。
からからと、グラスの氷のように笑って、アキの背中は浴室に消えた。
11:30PM
さて、とまた僕は思う。今朝を思う。今朝方浮上したあの海を思う。無意識の海。なにもかもがあって、僕のいない場所。そうだ、ここはあの海だ。いつだって夜は、あの海なのだ。僕の溶ける場所。そこにはなんだってあって僕がいない。その海に、そうとも、その海に潜るのだ。潜りにきたのだ。海は彼女だ。彼女にダイブする。深いところまで潜り込む。そこにはいるのだ、ホントウのホンモノである、僕でしかない、僕が。属性と、関係性とをはぎとられた、剥き出しの僕が。そしてその僕が、この僕でないことも、僕は知っている。知っている? どの僕が知っている? わからない、でも。少なくともヤツは知っている。ヤツというのは、白い荒野で、大樹の根元にしゃがみこむ彼のことだ。ときにそれは俺だ。
なんて、潜行している水中に、声が響いた。「用意ができました」
目を開けるように意識を正すと、目の前に女がいた。白い歯を剥き出すようにして笑っている。誰だっけ?
ぼんやりしていると女が近づき、力まかせのヘッドロックをかませた。乳房が頬に当たり、そのとき初めて気がついた。女は裸だった。
女の、若いリンゴのようなヒップに導かれて、浴室に向かった。
11:41PM
バスタブの水面が揺れていた。BGMはやはり波の音。
「あたしが先に洗うから」とアキは言った。「ヒロはあったまってなよ」
「わかった」とヒロは素直に応える。「オイラ、あったまってるなり」
女の背中の、イルカのカーブを眺めながら、湯に浸かり、ジャクジーのスイッチをオンにした。すると浴室の照明は落ち、バスタブ内のみが、青い光で照らされた。
「暗くなったなり」と、ヒロの真似をしてアキが言う。
「すまんなり」と、ヒロが調光しようとするのを、アキは止めた。「このままでいいわ、バックスタイルに自信がないから」
バスタブの灯りに照らされて、背中は青く、輝いて見えた。月明かりの夜のイルカみたいだ、と僕は思った。
11:51PM
顎を沈めながら思う。ホントに海みたいだな。僕は今、〈彼女〉に抱かれているのだ。
僕を包む青のように、〈彼女〉はこれまで、いろんなカタチをとってきた。バブルの振動に身をまかせ、揺られながら、ゆらゆらと僕は思い出す。
郵便局に勤めていた彼女の、椅子に座った僕の上で踊る、しなやかな裸身、例えばそんなカタチ。昼間は、しごく真面目な様子で切手を売ってくれたりする彼女の、夜の体が、砂漠の蛇のように逞しく、量感を湛えてうねるのを、僕は下から、不思議な気持ちで眺めた。それは秘密の景色だった。
別のとき、別の女の中で〈彼女〉は、クリスマス一週前の週末に、僕といた。その日、特大のモミの木を、女の部屋に持ち込んだ。車のトランクから慎重におろして、ふたりでそれを飾った、ステッキや、雪だるまなんかをぶらさげて。もちろん〈てっぺんの星〉も、忘れずにつけた。ツリーを飾りながら女は、悲しいだろうな、と呟いた。何が悲しいのだ? と僕は訊ねた。こんなに立派なツリーを飾っちゃって、と女は応えた。来週コレを、独りきりで眺める、なんてことになったりしたら、きっとさぞかし悲しいだろうな、と女は言うのだった。ツリーを眺めながら僕らは、フローリングの床で絡まった。日中は勝ち気だった女が、ウサギのように小刻みに、白く、固く、震えていた。それは素敵な秘密だった。彼女を温めた。力いっぱい抱きしめた。逃がさないぞ、と強く思った。でも一週間後のクリスマス、僕はその部屋を訪ねなかった。女は独りで眺めたのだろうか? てっぺんに飾られた、あの星を。
別の女の中にいる〈彼女〉を、明け方のアパートで捕まえた。火照った体が冷えて、小さなくしゃみを僕はして、女は押し入れの奥から、男物のパジャマを出してくれた。途端に〈彼女〉は消えてしまった。パジャマを断りパンツをはいて、女の部屋を出た。ひとりで見上げた、始発駅からの傷痕。切り裂かれた空から染み出した、痛々しい朝焼け。女のアパートで飲んだ赤ワインのように、苦くも甘くもそれは見えた。
女の街で短い間、一緒に暮らしたこともある。日中には蝉の声を、夕方には蜩の声を、夜には跳ねる虫たちの声を聞き、焼いたナスやホタテや、あるいはミョウガをたっぷりとぶっかけた、うどんなんかをご馳走になりながら、夏を過ごした。縁側では花火も楽しんだ。線香花火の、一本ずつが開き、散るのを、ふたりで大事に飽きずに眺めた。僕は繰り返し彼女を確かめた。山間部の夏に魔法がかかったのか、日中においても〈彼女〉は消えなかった。仄暗い昼間の林道を、僕は〈彼女〉と手を繋いで歩いた。それはまるで永遠みたいだった。細い肩紐の白いワンピースと、裸足に近い足で〈彼女〉は、森も歩いた。ときには麦わら帽子なんかも被っちゃったりして。でも夏が終わり、空気が冷たくなった頃、やはり〈彼女〉は消えてしまった。茶色くなった向日葵みたいに、世界はうなだれてしまった。常磐道を南下して、僕はひとり都心に戻った。後日、女から郵便が届いた。中身は僕宛ての誕生プレゼントと、置き忘れた、ままでいたジンベエだった。悲しい結果になってしまったけれど、すでに用意してしまっていたので、プレゼントを送ります、と手紙が短く告げていた。プレゼントは、僕の名前が焼きこまれた、肉厚のぐい飲みだった。丁寧にたたまれたジンベエからは、彼女の匂いがした。それは夏の間、毎日感じていた匂いだった。女の使用する洗剤の匂いだった。外国産の個性的な匂いの洗剤、あれはなんという名前の商品だっただろう。今でも電車の中や、エレベーターの中で、ごくまれにそれを感じることがある。その匂いはかつて永遠みたいだった。でもその匂いの向こうにもう、彼女の本体はなかった。ジンベエをクローゼットにしまった。ぐい飲みには、たまたま買い置きしていた紅寿の瓶を傾けた。焼きこまれた僕の名前は、引っ掻き傷のようにも見えた。投げつけて割ってしまいたいような衝動を、一方で感じつつ、手の中のそれを大事に、固く、握りしめた。これは、仕方ない、そう、僕の属性なのだ、とそう思った。名前が刻まれた存在。
12:00AM
「おっまたせー」と、声が響いた。無意識の底から、海上を見上げた。ジャクジーのタイマーは終了していて、浴室には太陽のようなライトが灯っていて、その光を浴びて女が、歯を剥き出して笑っていた。快活な白さを目にして、その牙が、アキのものであることにピントがあった。
「ああ、キミか」と僕は呟いてしまった。
「あら、なーんて言いぐさよ、コノヤロ!」とアキはバスタブに、飛び込むような勢いで乱入した。
「すみません、すみません」とヒロは小さくなって、アキのための場所を作った。
いいか、慎重にやれ、ゆっくり潜れ、水音を立てるな、キックは足首をしなやかに、ももから蹴り出すんだぜ、とかなんとか、僕は僕のために、呪文を唱える。今夜は、今夜こそは、うまくやれ。彼女に潜り、彼女に包まれ、そして彼女に留まるんだ、永遠に。還るのだ、僕は彼女に、そしてホントウの僕に、揺らぎのない鏡面に、僕自身を鋭く、固く、尖らせて。
12:01AM
「ジャクジーやってよ、もう一回」とアキが言った。
「そこだよ、ボタン」と、バスタブの縁を指す。
「あら?」と、ところがアキは、僕の指示を無視して、壁面にある別のボタンに注目したようで、そちらを訊ねる。「このボタンは、何かしら?」
見ると壁面に、上向きの矢印の入った、見慣れない種類のボタンがあった。
「R、O、O、F」とアキは、表示を読み上げながら中腰になる。大きくもなく小さくもないバストが現れる。僕はそれをぼんやりと見ている。クラゲを連想していることに気づいて、ひとりでこっそり、おかしく思う。
「O、P、E」と読み上げてから、「あっ」と短く叫ぶと、前を隠すこともしないでアキは立ち上がり、ボタンを一気に強く押し込む。そして天を見上げる。
短い機械音に続いて、意外なほどすべらかな動作で、天井が開いた。畳一畳ぶんくらいの面積が、プジョーのルーフのようにせり上がり、スライドして、屋根の向こうに格納されたようだった。
「これはこれは」とアキが嬉しそうな声を上げた。
「きもちいなり」とヒロも目を細める。そして僕は、夜風を感じた。
「露天風呂ってこのことだったのね?」とアキ。
「誰がそう言ったの?」
「フロントのパネルに表示してあったじゃないの、505号室は露天風呂だって」
「そう?」
「すごいわねえ」とアキは感心したように言った。「ホテルで初めてよ、こんなギミックに出会ったのは」
ギミック、と僕は思う。〈彼女〉の巣穴に施されている、様々な仕掛け。
虫の声がする。
「電気を消そう」と、ふと思いついて、僕は言った。ヒロが、前を気にして、不自然な角度で中腰になって、パネルを操作した。浴室の照明が落ちた。僕は続けて言った。「しばらくこのままでいよう」
12:22AM
湯船に沈んで、バスタブの縁に頭を預けて、空を仰ぐ。そのままじっとしていると、暗闇に目が慣れてくる。で、見え始めた。星空だった。
「たくさん見えるのね」と声がする。顎を上げていて、喉が圧迫されているからなのか、違う人の声みたいにそれは響いた。
「このくらい暗ければ」と僕は言った。「明け方にはオリオン座の中に、オリオン星雲だって、見えると思うよ」
夏の空にも、夜が更ければ、冬の星座がのぼるのだ。
「駄目だと思うな」と、けれどもアキは応えた。そして言った。「こっちに来てごらん」
よくわからないままにバスタブを、アキのサイドに移動する。
「で」と、肩を抱くようにしてアキは、ヒロの向きを変える。「あっちを見て」
バスタブの水面が、波のように揺れた。胸がそれを感じる。
背中にアキの胸を感じながら、空を仰いだ。「ありゃりゃ」と、そしてヒロは了解した。
「ね?」とアキ。
「だね」とヒロは頷く。「明るいや」
月だ。アキのいた角度からは、煌々と輝く月が見えた。
「まんまるだ」とヒロは呟いた。満月だった。
アキに背中を預けながら、しばらく月を眺めた。
腕はヒロを、ドーナッツのように抱いた。「なんだか、あんた」と、そして声は告げた。「ぬいぐるみ、みたいね?」
「なんですと?」
「オトコの匂いがしないわ」と歌うように、声は瞬いた。「無味無臭」
声は、〈彼女〉の響きを帯びて、夜に吸い込まれていった。
12:28AM
「不思議だな」と気持ちがポツンと声に出た。「月がポツンとただひとつ、あんなに明るく輝いている」
雲はなかった。大気の状態もいいのだろう、揺らぎのない、曖昧なところのない月が、真正面から僕を見つめている。「今、太陽は、僕の背後にいる」
背中を抱く腕に、力がこもったのを感じる。
「地球の背後に太陽があって」と僕は続ける。「太陽は世界を照らしている」
同時にイメージが、圧倒的な迫力で浮かぶ。広大無辺の空間に、燃えさかる球体。放たれた光は、風だ。風は、光は、宇宙を直進する、どこまでも。対面するものに出会うまで、永遠に近い旅を続けるのだ、全方位的に。
地球に出会い、今はその背中を、つまりは昼側の半球を、青く輝かせているであろう光。地球に出会わなかった圧倒的な量の光は、地球の前方にも一様に広がる、底なしの闇に向かって突き進む、文字通りの光速で。
白昼の輝き。白い荒野。
そのまま彼方に旅立つはずだった光を、小さな、宇宙のスケールに照らせば、針の先よりも小さな天体が、その一点で受け止めて、照り返す。それが月の輝きだ。僕は今、それを見ている。
「不思議なことだ」と思いがまた、言葉になる。「この空に月があるなんて、地球がそれを見つめているなんて」
「見つめてるのはあなたよ」と声が言う。「地球じゃないわ」
あなた、とは誰だろう? と僕は思う。
「視点の問題だよ」と応えてみる。「視点を僕に置くか、地球に置くか、あるいは太陽に置くか」
言いながらまたイメージする。太陽の視点。
「ねえ」と僕は、剥き出しの宇宙に向かって言う。「星がたくさん見えるね?」
「そうね」
「あれは」と星々を、心で示して僕は言う。「みんながみんな太陽で、銀河系みたいなもんの、きっと中心だね?」
「銀河系?」
「太陽系は、銀河系の中にある。そこから例えばお隣の、アンドロメダ銀河を見たりする」
「アンドロメダ銀河?」
「二百三十万光年ほど隣の銀河、だったかな」
二百三十万光年、と改めて僕は思う。光の速さで、二百三十万年の旅をして辿り着く、それがお隣さん。
「例えばあの星」と、小さく輝いている、名前も知らない恒星を指す。「あれなんかはアンドロメダより、遥かに深いところで輝く銀河だね?」誰に向かって問いかけているのだろう? なんて考えながら続ける。「おそらくは何百万年も、ひょっとしたら何千万年も前に、あそこを旅立った光、それを今、ここで見ている」
「太陽に照らされている、わけじゃないのね?」
「そう、自分で輝いてるんだ、あれは僕らの内にはない。太陽視点から見た、別の太陽さん、だね?」
「遠くにいるのね」
「そう」と、意識を僕に戻して、アキの起伏を背中に感じながら応える。「とんでもなく遠いんだ、お隣さんは」
途端に胸が寂しくなった。
12:35AM
僕は体の向きを変え、女を促し、入れ替わる。そして男の腕で、女の背中を抱く。
波が生じた。波を見る。揺れが静止すると、バスタブの空にも月がのぼった。この月を、と、それを見つめながら思う。抱きしめたいんだ。
「ねえ、あの星」と声が言う。暗闇の中で、誰がしゃべっているのだろう。水面の月を僕は眺める。「あの明るい星」
女の影が、天の一角を指している。その角度には、オレンジ色に輝く天体があった。
「あれは木星だよ」と僕は言う。「太陽視点の月だ」
「月?」
「太陽の周りをグルグルまわってるのさ、地球と同じように。光を受け止めることで、その存在を露わにしている」
「惑星ってことね?」
「そう」と太陽は言う。「あれは内にいる」
静寂が闇を満たした。そのコンマ何秒かののち、虫の声がまた、その存在を主張し始める。僕はいったい、どこにいるのだろうか。そもそも僕は、いるのだろうか?
痛い、と感じる。右手の人差し指を、何かが噛んだ。慌てて腕を引こうとするが、触手のように絡んだ腕が、それを許さない。諦めて指を、痛みに任せた。
「痛い?」とアキの声がした。
「痛いなり」とヒロの声もする。
「ほらね」と言いながら僕の腕の中で体が反転した。「あなた、生きてるわよ?」
アキの歯が、月光を照り返して光った。ここにも小さな月がいる。と、僕はそう思った。抱きしめたくなる。
だけどヒロは、また馬鹿なことを言った。「ウツボみたいに鋭い牙なり」
「ウツボ?」と、牙を隠して口が笑う。
水面がまた波を作った。
「モルジブに住んでたことがあってね」と、波のような回想を始める。
「住んでた?」とアキがそれを遮る。
「半年ほど」
「インド洋に?」
「そう、小学校のグラウンドくらいの島に」
「なんで?」
「探し物をしてたんだ」
「何を探してたの?」
虫の声。
「いいんだ」と僕はまた水面を揺らす。「今はもう、見つかったから」
「見つかった?」
「目の前にいる」
明るければ見えたであろうアキの眉の、複雑なうねりを想像しながら、沈黙に耳を澄ませる。
「あんたって、ほんっっっとに!」と、沈黙のあと、アキはたっぷり溜めての診断を下した。「浮き世離れなキチガイだわ!」
「かもしれない」
そしてまた思う。僕はどこにいるんだろう。わからない。この広大な世界において、地球は地球を定位できない。だから例えば月を探す。月を見て、太陽を思い、自分を割り出す。そういうことだ。だからいつだって、白い荒野に捜すのだ、彼女の輝きを。僕は彼女を照らし、彼女は僕を照らす。位置の定位。
「で?」と声がする。「潜らないでよ」
「え?」
「モルジブがどうしたの?」と、声がしたかと思うと、今度は鼻が痛んだ。ウツボが、今度は正面から噛みついたのだ、ひどいもんだ。でもお陰で僕は、僕を定位する。
12:51AM
「ある日のこと」と、語り始める。回想の物語、モルジブ編。「シュノーケルを装着して、浅瀬の岩場を潜ってたんだ」
「モルに岩場なんてあるの?」
「ささやかだけど、岩場だってちゃんとある。珊瑚の森もあれば、白砂のビーチもある。モルジブの海には海のすべてがあるんだ」
吹き込む風が、島の息吹きで僕を包む。
潜っている。息をとめて、フィンをゆっくりキックする。陽光が海底を、波のように照らす。揺らいでいる。やわらかな揺らぎ。気持ちがいい。揺らぎの中で小さな魚が、身をくねらせていたりする。それをじっと見る。細長く、三毛猫のような色彩の縞を持っている。かわいい。海底の砂を元気に巻き上げる。水族館や、部屋の水槽なんかの魚とはぜんぜん違う。躍動的だ。自分で餌をとらなくてはいけない、その野生が、ヒレにも、目にも宿っている。ヤツらはジロリと、ときにキョロリと、僕を見る。生きた魚の目。死んだ魚のような目、というのは覇気のない様子の喩えだが、生きた魚のような目、という喩えもあってしかるべきだと、そう思う。じっと見てると、まるで自分が、その小さな魚になってしまったように思えてくる。水槽の魚を見ていても、そのようなことは決して起こらない。海の中で魚は自由だ。魚は魚を生きている。誰のためでもなく、本気で生きている。見られてることなんか、ちっとも気にせずに、魚は魚のペースで勝手に砂を巻き上げる。雀と同じだ。
息をつぐため、ゆっくりと浮上する。光の中へ。浮上しながら息をはく。シュノーケル内に空気を送る。海面に出ると同時に、独特のリズムで息をはき出す。フッフッフー、フフフッフー、と僕はそうやる。いつも決まってそのようにやる。一度強くはき出しただけでは、まだシュノーケルの中に海水が残ってることがある。それを吸い込みひどい目にあったことがあるのだ。それ以来、用心深く、フッフッフー、フフフッフーのリズムを守っている。哺乳類の体は魚類のそれじゃないから、面倒くさいけどしょうがない。
背中に太陽を感じながら、海面を漂う。背後に太陽、正面に地球。ゆっくりと泳ぎながら、見下ろす海中は美しく、そしてスリリングだ。ウェットスーツも、ラッシュガードも、僕は好まない。浅い海なら、たいていはパンツ一枚で潜る。マリンソックスは着用するが、グラブをつけることは少ない。手のひらに海水を掴む。胸が、腹が、脹ら脛が、海を感じる。そのつめたさやあたたかさが、僕の感覚を溶かす。僕は見る。あたりを見回す。コバルトブルーの魚の群れ。なまめかしくも、グロテスクにも映る海藻たち。波に洗われ、しかし負けじと尖る海底の岩。岩にしがみつく緑色の植物。立ちのぼる気泡。さまざまな種類の青。その中をたゆたう。シュノーケルを通して繰り返される、誰かの呼吸の音。なんの音だかわからない、ときどき腹に感じる海中の音。水圧。矢のように走る銀色は、ダーツのよう尖った魚の群れだ。V字テールでにこやかに、ピースサインをくれる魚もいる。エイが、空飛ぶ絨毯のように舞い、小ぶりのサメが、ユラリと視界を横切る。そのような景色を見つめる。水温を、呼吸の音を、陽光の揺らぎを感じながら。視線は僕になり、視線の届く範囲すべてにあるものが僕になる。岩のひとつひとつ、砂粒のひとつひとつ、そして気泡のひとつひとつまでが僕になる。
その感覚は、ふたたび潜水を開始することで、さらにいっそう増幅される。僕は海なのだ。地球なのだ。体を通して地球と、呼吸や、食物や、情報のやりとりをしている、そう、そんな僕は、まさに地球の細胞なんだ。ときには感じる、この細胞が体細胞ではなく、脳細胞であるような、そんな感覚を。地球の中枢神経みたいなもの、その明滅するリズム、その揺らぎに僕は同化する。そして体は、陽光の中に溶けてゆく。
僕はどこにいる?
僕はどこにでもいて、どこにもいない。僕はいる。でも特定できない。水中で手を伸ばす。何か、ないか? 何かにつかまらなくちゃ。
あの日、僕は手を伸ばし、海底の岩を掴んだ。月面のように白く、遠くから眺める程にはすべらかでない、ゴツゴツとしたその表面を、素の指でしっかりと掴んだ。
「で、岩につかまって、ほっとして、でもまだなんだかぼんやりと、熱帯魚のダンスとか眺めてたら、痛いんだ、指が」
「痛い?」とアキの声。
「ガブリと噛まれた」
「ウツボ?」とまたアキが訊ねる。
「そうだよ、ウツボ」と応えながら痛みを思い出す。「あわてて手を引いたら、親指から出てるわけさ、ガメラみたいな緑色の血が」
「緑色?」
「海中だと緑に見えるんだ、血液って」
「へえ」
「血の匂いに誘われて、大きなサメとか、やってきたら怖いじゃないか? だから慌てて引き返したよ」
「サメ?」
「あたりにゴロゴロいるのはちっちゃなサメ、頭の丸い、害のないサメなんだけど、ハリウッドからジョーズが泳いで、ね? こないとも限らないだろう?」
「そりゃそうね」とアキは、冗談を照り返して笑った。その拍子にまた、獰猛な牙が光った。「その凶暴なウツボに、気高く美しいこのワタクシが似ていると、この舌がそう言ったのね?」
言葉に続いて牙が、ヒロの舌を襲う。噛まれてなるものかと、舌を奥深くにひっこめる。でもやわらかく漂う女の舌が、優しく妖しく手招きするので、用心深くソロリソロリと、結局はその招きに応じてしまう。
やわらかい。ヒロの舌はアキに引き込まれ、中でひとつに溶けてゆく。
繋がっている、と僕は思う。ヒロとアキは繋がっていて、今は区別がつかなかった。
「あんたのウツボにだって」とアキの口は、ヒロを離れて言葉を放った。息つぎみたいな言葉だった。「牙はあるんでしょう?」
アキの手が、浴槽の中でヒロを掴んだ。
「岩場に隠れてないで、出てらっしゃい」と、それだけ呼吸すると、アキの口は再びヒロに潜った。まるで人口呼吸だ。
ヒロのウツボがピクリと動いた。
ひどいな、と思った。牙なんてはえてないよ。
「やっと起きたみたいね、でも」と、ふたたび離れて女の口は言った。「もうちょっとオトコらしく尖りなさい。でないと食いちぎるわよ?」
そう言って口は潜った。
痛みを感じた。
冗談じゃないぜ、と少し慌てた。そこは親指なんかより、ずっとデリケートな部分なんだ。
オトコにならざるを得なかった。
1:52AM
薄闇の中に浮かんで、波の音を聞くように、虫の声を聞いていた。ヒロとアキはもう離れていた。
見上げる空に、月はなかった。時が経ち、地球が回転したので、天窓からフレームアウトしてしまったのだ。
でも構わない。目の前に月がいた。夜空の満月は姿を変えて、正面にいた。ぼんやりしたところのひとつもない、ひどくしっかりとした輪郭で〈彼女〉はいた。第三惑星の片隅の、小さなホテルのバスタブに、煌々と輝く月がいた。僕の正面にいて、僕から放たれたすべてを浴びて、凜として美しく、澄みきって冴えわたり、超然としていた。
主体の視点は今、真っ直ぐにそれと向かい合っている。一対一の関係。百八十度の角度。後ろの正面だあれ?
懐かしい空間だ。ここにあるものはみな懐かしく、そしておそろしく完全だった。シャワーヘッドも、シャンプーのボトルも、使い捨てのスポンジまでもが完全だった。
水面は凪いでいた。鏡面のごとく静止していた。僕も静止していた。ここはてっぺんだ。世界の頂点。僕の中心。
手を伸ばす。と、影ではない彼女も、鏡のように手を伸ばす。手首には、鈍く光る銀の手錠。捕まえた。逃がさない。留まるぞ。ここに留まるんだ。
ビビッドだ、とすべてで感じる。すべてを感じる。僕はいて、彼女もいた。
指を絡める。確かにいる。彼女はここにいる。だから僕もいる。混沌としたところはひとつもない。覚醒したリアリティの中に、フルムーンの角度で彼女がいる。ひたすらその繰り返し。合わせ鏡のように。
「ねえ」と闇の中、顔を近づけて、彼女の瞳が僕を覗く。そしてアキの口調で言った。「合格発表の会場で、番号見つけた受験生みたいな顔、してるわよ?」
そりゃよかった、と僕は思った。そして言った。「それじゃ祝杯を」と、湯船から体をサルベージする。「あげなくちゃ、ね?」
僕と彼女は、身を寄せ合うようにして立ち上がり、そしてバスルームを出た。
1:59AM
「乾杯しましょ」と、冷蔵庫から取り出したビールを片手にアキは言った。素っ裸のままだ。
「しよう、しよう」と、イルカの栓抜きを振り回してヒロが応える。「何に乾杯する?」
こちらも何も身に付けていない。
ヒロは自分のビールと、アキのビールの栓を抜いた。泡があふれる。
瓶に口を寄せ、泡をすすって、口を拭き、「見つかったんでしょ?」とアキは言う。「捜してた彼女」と続けた。
それには応えず、目の前の女に属しているもの、と僕は考える。フランス製の手錠と、黄色いラベルの瓶ビール、以上、それだけ。
剥き出しの彼女が、アキをまとってそこにいた。
悪くない景色だった。正しい角度だった。
「正しい角度に」と、だから僕は言った。「乾杯」
「乾杯」と月が照り返した。
円い輝きを眺めながら、顎を天に、高く突き出した。魔法の満ちた瞬間だった。
「むう、これは」とヒロが唸った。寄せては返す波のように、ヒロはムードをぶち壊す。それがヒロの役割だった。
「何よ?」とアキが訊ねる。
「美味しいなり」と呟きながら、驚いたようにヒロはラベルを読む。「コナビール?」
黄色いラベルに、ゲッコーのシルエットが這っていた。
「流行ってるのよ、今」と、瓶を傾けながらアキが言う。「黄色いコナはファイヤーロックって名前のエールビールで、他に赤いラベルのラガーや、青いラベルのアロマエール、そうそう、今の時期は限定で、緑のラベルのフルーツフレーバーエールなんてのもあるんだっけ」
「ビールに詳しいなりね?」
「麦芽を主食に生きてるの」とアキは歌う。「ビアバーこそが毎日のダイニング、会議室でもあるけど」
「オイラも麦芽が大好きですなり」と言ってヒロは、瓶を傾けてから、また騒ぐ。「うー、この苦み、この甘み、この深みったら、うまいうまい、うまいうまい!」
ヒロはカエルのように跳ね回り、瓶を片手にベッドにダイブする。「ラブなり、コナビール!」
ひっくりかえって手足をバタつかせるヒロのもとに、アキがくるまで一瞬のタイムラグがあった。それを僕は感じた。雨の予感。
一呼吸あってのち、アキはやってきた。ヒロの隣に、静かに腰掛け、目を瞑り、深く味わうようにコナをすすった。そして囁いた。「さて」
「さて?」
「そろそろ本当に、出てらっしゃいよ、ウツボくん」
ヒロは、股関を指差し首を傾げる。
「ではなくて」と、アキは正面からヒロを見つめる。「あんたの影に隠れてる、彼にあたしは言ってるの」
「はて?」とヒロは韜晦する。「彼?」
アキはリモコンを手に取り、モニタに映る海と、波の音を消した。
「ヒロってのは、あんた、あたしに属する人物なんでしょ?」と、アキの声がアカペラで歌う。
「はいなり」
「じゃ、その着ぐるみ脱いで、ホントのあなたを見せなさい」
水面に落ちる言葉。それは鐘の音のように響いた。
ヒロの背後で僕は頷く。そのとおり。ヒロはアキに属する、アキの影だ。僕はいつだって、誰かに似てしまう、そばにいる誰かに。〈彼女〉を宿す様々な女に照らされて、様々な意識が生まれる、生まれてしまう。夜の浜辺を想像してほしい。闇夜に月がのぼる。すると、一面の砂浜だと思っていた浜辺に、例えば岩が現れる。最初からそれはあったのだ、その浜に。でも見えなかった。闇に沈んでいて。月光が照らすことで、それは僕に認知される。僕は浜辺で、岩は例えば、今夜はヒロだ。満月の夜、僕の浜には、その月の角度に応じた、様々な陰影が現れるのだ。
僕は回想する。ある夜の月は、南青山の空にのぼった。〈彼女〉は、その界隈に自社ビルを、三つも所有する敏腕経営者の中にいた。待ち合わせの携帯電話に、遅れて到着した影から連絡が入った。今どこにいますか、と影は訊ねた。僕はふざけて応えた。スパイラルホールの前に、真っ赤なフェラーリが停まってるでしょ? 見えますか? と僕は告げた。影の反応を、予想して仕掛けたトラップだった。ところが電話の声は、予想を外れて響いた。あ、フェラーリで来たの? と、当たり前のように応えたのだ。ちっとも驚かないのだな、と僕は軽く驚いた。フェラーリなんて、想像上の乗り物だと思ってた。僕にとってそれはペガサスと同義だ。その日、実際に僕が乗ってきたのは、フェラーリの向こうに隠れたようにうずくまっている、チンクチェントだった。黄色いフィアット500。真っ赤なフェラーリと、同郷ではあるが、ぜんぜん違う。僕には、ペガサスを愛するなんて度量はないのだ。フェイントが、三倍返しにフェイントされて、僕は震えた、この世のものではない景色を、目撃できそうなそんな予感に。子犬のように無邪気でいい子にしていると、夕食に誘われた。街を歩きながら、行きつけらしい店に電話を掛けて、僕らの個室を予約してくれた。某政治家と会っていた昼間のパーティーは、ホテルのケーキバイキングだったのだ、と影は語った。だからお腹がいっぱいなのだと言う。それでも個室で三回手をうち、鮑だの、伊勢海老だのを注文してくれた。七輪の上で踊る鮑と、そして目の前の女とを、僕は交互に眺めた。不思議な景色だった。興味深い世界をまとって〈彼女〉はそこにいた。僕らは意気投合し、僕の影は彼女の影を、次回のデートに誘った。今週末にでも、またお会いできませんか? とかなんとか言ったのだと思う。それに応えて彼女の影は、またまた面白いことを宣うた。今週末は香港にいるので香港で会いましょう、と言ったのだ。土曜の夜ならヘリが空いてるから、などとスケールの大きなことを、しごく当たり前のことのようにサラリと語る、その佇まいは新鮮で、そして美しかった。一緒にいるだけで自分が、五割り増しパワーアップするようだった。ふと気がつくと個室には、彼女に照らされて、ひどく紳士な人物が誕生していて、僕はびっくりしてしまった。それもまた彼女の影なのだった。
2:08AM
「他にはいくつ、名前を持ってるの?」と声が訊ねた。ここは南青山ではない。相模湖かどこかのホテル街だ。「ヒロの他には、どんな名前で活躍してるの?」と、アキが訊ねているのだった。
名前。と僕は思う。誕生プレゼントのぐい飲みの、ひっかき傷。みたいな、僕の属性。
「神戸じゃタロウと名乗ったような」
誰も笑わなかった。
ひどく心細くなった。いや、いつだってそうなのだ。水中を漂うみたいに方向感覚がない。重力を感じない。無重力。と僕は思う。自由。と僕は思う。大宇宙の広大な闇に、ぽっかりとそれはいた。それは僕だ。旅。とまた、思う。存在の、長い長い旅路。その果てに、いや、あるいはそこも途上であるのか、大樹の根元に、膝を立てて座る男がいる。白い世界。白銀の荒野。
5231:352A1LC
ドコダ?
に、つける主語がない。
ダレダ?
に、つける主語もない。
2:12AM
無重力の闇の中、そっと腕をかく。方向感覚がない。鈴の音に、耳を澄ませるような気分で浮上する。
水面に出て天空を仰ぐ。月だ。月明かり。
手を伸ばす。
柔らかな感触。
「おいで」と、〈彼女〉がそう言った。
〈彼女〉がいた。いてくれた。
アキを脱ぎ捨てた〈彼女〉に潜る、剥き出しの〈僕〉で。彼女の海へ。いや、彼女が海なのだ。月明かりの海。
2:22AM
海が呼吸している。リズム。と僕は思う。その呼吸に合わせて僕は、湿った息をする。絡み合う呼吸。ぬるりと溶けてゆくような。波の音。彼女が奏でる波の音。懐かしい調べ。肯定もなく否定もない。とてもとてもよく知っている場所。あらゆるセンサーが、くぼみや、ふくらみや、かげりや、ぬめりを探査する。そこには愁いもなく、猛りもなく。優しさに似ているが、どこか、もう少しだけ切ないような。繰り返す。波のように。潜る。浮上する。また潜る。深く深く。潮騒が聞こえるみたい。海の匂いがするよ。揺らぎ。僕の彼女の、光の揺らぎ。
84:52472ZXM
大樹の根元で、目を覚ます。孤独の、痛烈な渇き。月を睨む。掴む。食らいつく。痛みに似た歓喜。狂気を宿した凶器。とてつもなく根源的な、極性が尖る。
月もまた、その極性を露わにして、引っ張る。引っ張り込む。
2:52AM
ふたつの極性、その両岸をまたいで僕は、内部に潜航していった。二度と浮上したくない、そんな気持ちを抱きしめて。
抱きしめる。強く。絞り出すように。この腕が抱いているのは、月の振る舞い。ここが、僕の番地だ。
どのくらいの時間がたったのだろう?
3:32AM
ここはどこだろう?
女の腕からは、お日様の匂いがした。砂浜の匂い。女の腕から腋に、そして乳房に鼻をうずめる。
中和されたような、ぬくもり。
ここは天国かな?
「ねえ」と突然、声がした。「あたしのこと、好き?」
好き?
好きも嫌いも存在しない、そんな絶対点から、目覚める。目を開ける。
体の下に、女の体が凪いでいた。
好きだろうか?
と、自問する。極性に関わる問題。電磁気学の教科書を開いたような気分だ。
好きだよ。と僕は思う。とても好きだ。
なぜだろう?
と、また問う。
何が好きなのだろう。理由はない。ただ好きなのだ。たぶん、と僕は結論する。それは正面にいるからだ。のっぴきならなく満月は、ど正面にいるからだ。僕の存在を自覚させてくれるからだ。
「好きだよ」と、僕は応えて手を伸ばす。
女はただただ満ちていて、凪いでいた。
だから僕はもう一度、「好きだ」と応えて、ベッドをあとにした。
「好き」と背中に声が掛かった。
3:58AM
シャワーを浴びて戻ると、女の体はまだ、島のようなシルエットを描いてベッドにあった。それは美しい眺めだった。僕の島、と思った。この島に留まろう、と僕は思った。そしたらまた潜りたくなった、島を抱くその海に、彼女に。不安なのだ、彼女が消えてしまいそうで。消したくなかった。ずっとそこに留まりたかった。湖面のように凪いだ鏡に、僕を映したかった。
でも女は、枕元のパネルを操作した。部屋は突如として明るく、照らされた。
僕はクラクラとしてしまった。明るい。
女は手招きした。僕はそれに応じて、女の隣に滑り込んだ。
月の香を僕は探した。北の丸公園の滝。茂みの奥に隠された秘密。その地形が、明るい照明に照らされて露わになっている。
「こんなに若いのに」と声が言った。「あんなに大きな会社を経営してるだなんて」
女は、会社の名前を告げた。誰もが知ってる会社だった。僕の会社だった。
驚いて、茂みに分け入ろうとしていた鼻を、慌てて引き戻した。出鼻をくじかれるとはこのことだ。
「ヘッセのいた隣のポッケを漁ったのよ」と、女の指はソファの上のジーンズを指した。「カルティエでの支払いのとき、財布の中にチラリと見えたの」と、女は続けた。「顔写真入りのIDカードがあったわ」
ID、と僕は思った。アイデンティファイ、という動詞になぜだか吐き気を覚えた。
女はカードを、ヒラヒラと振ってみせた。
カードには僕の顔写真があった。名前と、社会的肩書きもあった。
「ヘッセを読むようなヒトにも見えなかったけど、大会社の経営者にも、あなた、ぜんぜん見えなかったわよ、だってあまりにも」と、半身を起こして女は笑った。「カジュアル」
見たこともない女がそこにいた。
「さてと」と言って女は立ち上がり、床のショーツを拾いあげ、それに足を通した。そして続けた。「いつ会いに来てくれる?」
「会いに?」
「パパとママに」
「なんだって?」と僕は驚く。
世界が揺れた。
「現行犯で逮捕する!」と言って女は、オーケーサインの指で、僕の手首を掴んだ。
手錠に拘束されたのは女ではなく、男のほうだったようだ。
「おとり捜査だったのかい?」と僕はふざけた。
「そうよ」と女は応えた。「前科ワンカートンのプレイボーイを追ってたの」
「プレイボーイ?」
「そうよ」と女は男に身を寄せる。「夏子を愛するために、春子や秋子、冬子なんかを必要とする、そんな男をプレイボーイっていうのよ、異論はある?」
胸のふくらみが、ピストルのように脇腹にあたるのを感じながら、「ないよ」と応える。「いかにもプレイボーイだ、でもね」
「何よ?」
「Pのあとは、Rで送検してくれないかな、Lではなくて」
女は少し考えた。そして、「一生祈ってなさい」と笑って応えた。「絵空事の、真実とやらを」
僕も立ち上がり、ブルージーンズに手を伸ばす。ブリーフショーツは丸めて、ゴミ箱に投げた。
4:10AM
「ねえ、女の子と遊ぶだけじゃなくて」と、取り調べは続く。「ちゃんと仕事、してんの?」
「してるよ」と背中で応えてジーンズをはく。「会社に行ったり行かなかったり、イエスと言ったりノーと言ったり、会議に顔出したり、パーティーに顔出したり」
「そんなんでよく、会社が潰れないわね?」
「人工衛星みたいなもんさ、組織も、事業も」と女に向き直り、説明をする。「打ち上げは大変だけど、軌道にのっちまえば、そうそう落ちたりしないもんだよ、操縦なんかしなくても」
女は胸を、世界に突き出したまま立っていた。
「要するに、あんた」と、女は訴状を読み上げる。「シッダールタ、なのね?」
「シッダールタ?」
「なあんの苦労もないはずの釈迦族の王子が、自由や贅沢に飽きちゃって、真理を求めて旅をする」
「お釈迦様との違いは」と言いながら僕はTシャツを被る。「片や苦行を重ねて何かを求め、」
「片や」と、女が引き取った。「快楽を重ねて何かを求める」
そうかもしれない。
「ゴルトムント、ってわけだ、シッダールタじゃなくって」と女は、ヘルマン・ヘッセの作った影を引用した。金の口を持つ放蕩児ゴルトムントは、『ナルチスとゴルトムント』の登場人物だ。確かに、禁欲的なナルチスより、僕はゴルトムントに近い極にいる。
「結婚しましょう」と女は言った。判決が下された、というわけだ。
「結婚だって?」と、驚いた。「それはいったい、なんのことかな?」
聞いたことのある言葉だけど、なんだっけ?
「なければ追加しなさい、あなたの辞書に」
結婚。と僕は思う。その言葉の意味するモノは、ホントにいったい、なんだろう?
腕時計をつけ、プジョーのキーをつまんだ。
「言うとおりにしたほうがいいわ」と女は言った、〈彼女〉によく似た声で。
「結婚」と僕は唱えた。
「ヒエロスガモス」と女は唱えた。
「ヒエロス?」
「ヒエロス、ガモスよ」と女は繰り返した。「わからなかったら調べなさい」
わからなかった。皆目わからなかった。何もかもが、わからなかった。僕はどこにいる? 彼女はどこにいる? 僕はどうしたらいい?
「かわいそう」と声がした。
4:15AM
凪いでいた海に時は満ち、ふたたび波が打ち寄せる。繰り返しだ。
「僕は消えるよ」と、プジョーのキーを渡して告げた。「これで帰ってくれ」
「なんですって?」
「北の丸公園の駐車場にでも、乗り捨ててくれたらいい」
わずかな沈黙のあと、「あなたは」と言葉が落ちた。「わたしの背後にあるものを見ていて」と、波紋は広がった。「わたしを見ていない」
地震のように震えた、何かが。あるいはそれは、僕の心だったのかもしれない。心。と僕は思った。
ひどく哀しげな顔が、正面にポツンと浮かんでいた。
深く目を閉じた。そして開くと、踵をかえして僕は、部屋を出た。
4:27AM
橋を渡る。ふたりで来た道を、ひとりで戻る。繰り返しだ。
月はもう見えない。真っ暗だ。〈彼女〉は消えてしまった。
誰かが闇に残された。いつだってそうだ。
かわいそう。と言葉が響く。私の背後にあるものを見ていて、私を見ていない。
いつだって、同じ台詞で物語は終わる。橋を引きかえしながら、こみあげてくるものがある。
わんわん泣いた。
泣きながら歩く。
いくら泣いたって、それはどこにも届かない。果てしない闇のかなたに、ただ消えてゆくだけだ。
と、思った。
だけど。
だけど、そのときその闇を、背後から照らす光があった。ハッとして立ち止まる。
プジョーのエンジン音。
振り返る。
車は停まった。ドアが開いた。中からアキが現れた。
懐かしい。と、おかしなことだけど、僕は思った。
橋の中ほどに標識のように立ち、影はしばらく動かなかった。
橋を渡る車は他にない。僕は黙ってアキの台詞を待った。
4:31AM
「涙をふきなさい」と、アキは言った。「そして始めるのよ」
僕は訊ねた。「始める?」
「そうよ」とアキは静かに告げた。「朝から夜まで、あなたはずっと、存在してなかった」
存在?
「でも、あなたの正体がわかったの」
正体?
「だからわたしが照らしてあげる」
〈彼女〉だった。そこにいるのは〈彼女〉だった。
「あなたがわたしを、照らしてくれたように」
照らす。
「だから始めなさい」と彼女は言った。正面から言った。凜と響いた。「まずは、存在することから」
見上げると月があった。雲は去り、月はふたたび輝いていた。
月光に照らされて、彼女は続けた。「あなたは、どこにでもない、ここにいるのよ」
ここにいる。と僕は思った。
彼女は近づいた。両手で僕の頬を挟んだ。
「あたしの正面に」
アキの瞳に僕が映っていた。そこで僕は涙をこぼしていた。
「乗りなさい」とアキは言った。
僕は助手席のドアを開けた。
4:35AM
プジョーは橋を渡った。
「どこまで行くの?」と、僕は訊ねた。
「輝かしき明日まで」とアキが応えた。
黒い月、痩せる月、太る月、満ちた月。月は形を変え、角度を変え、位置を変え、のぼり、そしてしずむ。けれども、しずんでも、またのぼるのだ。
ともにいたっていいじゃないか、と、ふと思った。アキの中の、様々な月とともに。満ち欠けを過ごしてもいいじゃないか、移ろう〈季節〉と〈時間〉の中で。
4:40AM
「あんたはまったく、素粒子みたいにふるまうんだもん」と、ドライバーズシートでアキが言った。
素粒子のふるまい。と僕は考えて、記憶を探る。聞いたことがあるな、なんだっけ、そうだ、量子だ。量子とは確か、素粒子のふるまいのことだった。だから僕は言ってみた。「量子」
「そう、量子」と、横顔が頷く。「位置を決めると素性がわからず、素性を定めると行方不明になってしまう、根源的過ぎるがゆえに個性がなく、ここにおいて生じた特性が、遠く離れた別の場所においても、同時に発現したりする」
「オバケみたいだな」
「ほとんどオバケよ、世界の素って」とアキは笑った。「そんな量子があんたの正体、違う?」
正体。で思い出す。アキはそう言えば、夕飯のときから言ってたっけ。あんたの正体がわかったわ、とかなんとか。
月を見たかった。
「開けてもいいかな?」と天を指す。
アキは速度を落とした。
プジョーの屋根が開き、底なしの宇宙に剥き出しになる。シートを傾けて、空を仰いだ。月がついてきてくれている。
「でもね」とアキは言った。「鏡に映る姿って、左右は反対になるのに、上下は反対にならないでしょ、なんでだと思う?」
ホントだ、なんでだろう。宇宙には、上下も左右もないはずなのに、光は全方位に対して平等なはずなのに。考えてみた、けどよくわからなかった。なので応えた。「わかりません」
「それは」と、ドライバーは語った。「あなたがいるからよ?」
よくわからない。
「あなたの左目はわたしの右目で、わたしの左目はあなたの右目だってこと」
さっぱりわからない。でも、感じることはできた。逆転、と僕は思う。今やオールは、アキの手に握られているのだ。僕は路面の振動に心を任せた。
「わたしたちはいつだって、向き合うことができるのよ?」
4:45AM
留まることなんて、確かにできない。と、僕は思った。地球がクルリとスピンして、朝がきたなら、おはようだ。太陽が秘密を照射する。陰りに息づく永遠も、地形を顕わにして、消滅する。
だけれども。と、僕は抗うように考える。そう、留まることはなく移ろうが、けれども繰り返すのだ、寄せては返す波のように、月は、時は、満ち欠けは、僕らは。
僕らの角度は常に一定なんだってこと。
「運転を変わろう」と、だから僕は言った。「交替で走ろう」
澱むことはできない、生きているなら。
4:49AM
いつの日か雪原でまどろむ彼が、太陽を消すとき、映し出されていた幻も、おそらくは消えるのだろう。雪原を青く照らすのは、そう、月明かりだ。
4:50AM
「海まで走りましょう」と彼女は言った。
「海へ」と僕は応えた。応えたそのとき、車は交差点にさしかかっていた。信号は黄色く点滅している。ブレーキに軽くつま先をのせながら、僕は言った。「どっちが海かな?」
「どちらでも」
「何だって?」
「バカね」と彼女は笑った。「日本は島国よ? 東西南北どちらに向かって走っても、ゆき着くところは海じゃないの」
そのとおりだった。
ブレーキをアクセルに踏み換えて、未明の交差点を通過した。
了
二年後アキのお腹から、〈ヒロ〉は生まれた。
one day,one night