空へ墜ちる日

空へ墜ちる日

某少女小説の公募へ送る予定でした。
135枚。100枚まで削るべきでしたがそこまでやっていません。冗長かな、と自分でも思います。

プロローグ

 空へ、墜ちる。
 黒から紺碧、スカイブルー。まじりけのない空へ、風を切り、気圧は熱を帯び、腕も思うように伸ばせない、それでも、つないだ手だけは決して離さずに。
 声は届かない。顔も見えない。だから、この指の感触だけが、存在確認。
 自由落下に任せ、どんな体勢になっているかも分からないまま、風と、空の色と、手の感覚だけが今の全て。
 声が聞きたいと切に願う。思わず握る力を強めれば、しっかりと握りかえしてくれて、それだけで泣けるほど嬉しい。
 身体ごと向きを変えたかったけれど、間違っても手は離したくないから、諦める。そして、ゆっくりと首だけを巡らせる。
 斜め上には真白い雲海、影と光に波打つ様に、しばし見とれて動けなくなる。これからこの身が向かう先、墜ちてゆく先に。
 シイ。
 名を呼ばれる。風切る轟音に阻まれて声は聞こえない、それでもはっきりと感じ取って、咄嗟に呼び返す。
 アリス。
 つないでいない方の手がゆっくり伸ばされて、こちらの手を取り、指が絡まる。顔が目の前に来る。
 柔らかく、こんな中でとても穏やかに微笑んでいて、アリスは。だから、無理をして笑い返して、でも多分半泣きになっていて、涙も零れたけれど、風に飛ばされて流れもしない。
 離れてしまわないよう慎重に、手を引きよせて肩に触れ、唇を重ねる。
 墜ちていく風の中、キスの感触も乾いていて、全てが非現実感に包まれた中で、それだけが妙にリアルで、このあと何秒か先の未来を思う。
 抱き寄せる。抱きしめる。強く。強く。どうなろうと絶対離れまいと。
 加速度は増し、分厚い雲の波の中へ、

第一章

 散々だった。
 突然の大雨は、うんざりする間もくれずシイをずぶ濡れにした。下着も靴も等しく不快に貼りついて体温を奪う。顔を伝う水滴は鬱陶しく、銃把を握りしめた手はもう感覚がない。
 そりゃ雨だからって、索敵の精度は多分変わらないけどな。
 口の中で呟く。身体的なコンディションは、好いとはいえなかった。命中精度はガタ落ちだろう。冷たい雨はいよいよ強く、得物はおもちゃのようなポリマーフレームの小さいのが一挺、背の低い廃ビル屋上は半端な高さのある縁が邪魔で、下を狙うなら乗り出すように腕を伸ばさなければならない。ついでをいえば高いところは苦手な性質だったが、今さら誰に訴えられるものでもない。
 それでもシイは凪のように落ち着いていた。全くの無音、何も聞こえない。機能が正常に動作している証拠だった。だから焦る必要はない。意識は指先と視覚にだけに集中される。
 地上、照星の先には豆粒みたいな人影が二つ。アサルトライフルで武装している。シイの視力なら顔は夜目にもはっきり判別できる、見覚えはない、
 だから、敵だ。
 皆には連絡済み、二人だと言ったら詳細を説明するまでもなく「撃て」と言われて、無茶な、と思う。「撃て」ということは「どちらも戦闘不能にしろ」というのと同義だ。
 銃爪を引けば反動、鼻をつく硝煙の匂い、薬莢は下に消える。でも目標の人影は動揺を見せただけでどちらも立っている。外した!
 ああくそ、こんな仕事させるならもっとまともな武器くれればいいのに! 自身にも聞こえない悪態を吐いて、狙いもそこそこに撃つ。三発外してようやく一人が斃れる。
 直後、銃口が向けられ、シイのいるビルの少し下の壁が弾ける。
 気づかれた!
 息を呑む。足許からビルそのものが崩れ落ちる錯覚。ぞくりと悪寒が背筋を走り、平衡感覚が失調する。狙われたことより、この恐怖感は二十メートルほどの高さに起因するものだった。必死で気持ちを立て直す。この期に及んで高所恐怖など甘えに過ぎない。
 敵は怖くない。
 雨は泣けるほど冷たいし、弾に当たれば痛いはず。でも。
 静寂の中で、シイは思う。
 何回か経験した銃撃戦で、恐怖を感じたことは一度もない。
 更に六発、残ったもう一方がやっと崩れ落ちる。どこに当たったのか、即死させるのは無理だったらしい。標的はしばらく水たまりでのたうち回っていたが、それきり立ち上がりはしなかった。
 たっぷり三分ほど地上の二人を観察し、再び動き出す様子がないことを確認してから、シイは銃口を逸らす。腕を屋上の縁から引き寄せる。途端に力が抜け、首が勝手にがくりと垂れる。同時に周囲に「音」が戻ってきた。屋上のコンクリートを打つ激しい雨と、意外に荒い自身の呼吸、そして、どこか遠くから届く銃声。 視覚に神経を集中するあまり、聴覚が麻痺する。正常な機能、いつものことだった。乾いていない傷に触れる冷気みたいに、一斉に回復した音たちが、シイの神経を叩く。痛いくらいに。
 煩い。そしてとにかく寒かった。膝を抱えて丸まってみても、自分の体温が感じられる箇所は身体中のどこにもないようだった。また見張りを続けなきゃな、とは思ったが、姿勢を変えることすら億劫だった。
 まったく、散々だ。早く皆引き上げてきてくれればいいのに。

 * * *

 雨は降り続けていた。だが暖かく柔らかく、世界がまだ冷えていないころの感触だった。それでシイは夢だと理解する。いつものか、とまず思った。ということは眠ってしまったのか。やばいなリアルのあの冷たい雨の中じゃ凍死するかも、と少し焦る。だが、今感じているこの空気が、色彩が、再現される感情が、あまりに生々しく、どう目覚めていいものかシイには分からなかった。
 いつものように始まる。塵の吹き溜まり、雨水の溢れた路端、バンから降り立てば、視線の低さにまず違和感を覚える。身長がまだ十五センチは低かったころ、十四歳の記憶の再現だった。
 肩にライフルをかけた男が「どっちだ?」と問う。知っている人のはずだったが、思い出せない、顔も暗くてよく見えない。「あっちだよ」と指させば、同行の大人たちが一斉に首を巡らせる。銃器と暗視ゴーグルで物々しく武装した護衛たち。対してシイは、普段着のジーンズに大きすぎるモッズコート、徒手。ゴーグルすらしていない。なくても見えるからだ。可視光外でもほんのわずかな光があれば、肉眼で見通せる、そんな眼だった。
 昼の来なくなったこんな世界で生きるために進化した子供、などと勘違いなことを口にする年寄りもいたが、そんな理由ではないことをシイは知悉している。
 大人たちに周囲を護られながら、柔らかい霧雨の中、他に人気のない路地を歩く。
 穏やかなコロニーを出て、「調達」の現場である「街」へ踏み入れたのは、これが初めてだった。機能していたころは数百万の人々が溢れていたと聞いていた。だが打ち捨てられた今は、無数に塵の堆積する中、摩天楼の墓標が林立する、ただただ暗い迷宮だった。わずかに残った食料や物資を求め、調達隊が奪い合い、争い合う。遠い銃声と怒声、湿気にまみれた幽かな腐臭と錆の臭い。
「呼んだんだな? お前を。名指しで?」
「うん。助けてシイ、って言っていた。お母さんがもう動けないの、って」
 今日の明け方、六時間ほど前。はっきりと、耳許に口を寄せられたかのように、少女の声が、聞こえた。
 見つけた、と思った。
 自分以外に出会ったことはない。だが初めての名を呼び、遠くから声を届けた、そんなことをできるのは、自分と同様「パーツ」の一人であるに違いない。
 そう考えた途端、記憶の奥底から名前が浮かび上がってきた。――「アリス」。
『助けにいくよ。だから待っていて、アリス』
 そう返事をする。口で言葉を発するのと変わらず、ごく自然に心話はできた。
 そして、慌てて大人たちを叩き起こしたのだった。
 場所だけ教えれば必ず見つけて連れてくるから、という制止を聞かず、シイは同行を申し出た。呼ばれたのは自分だった。自分が直接迎えに行かなければ、アリスは動こうとしないだろう、とも思った。
 大人たちが先行し、危険がないか確認してくれる。手招きされて、一つのドアの傍に立つ。並ぶ他の廃ビル、無数のドアと目立った違いはない。だが分かる――ここに、いる。
 訪問は荒っぽい。銃を構えた同行者が予告なくドアを蹴破る。銃口を突っ込み、「動くな!」と野太い声を投げつける。だが、聞こえると思った少女の悲鳴はなかった。代わりに少しの間を置いて、はっきりとした声で、
「シイ! ……シイ、シイ、……シイ!」
 名が呼ばれる。
 止める大人たちの腕を振り切り、シイは中へ飛び込む。濁った空気、明かり一つなく、毛布にカップ、空瓶など生活用品が散らかる室内、その奥、角に縮こまるようにして、いた。
 迷わず駆け寄って、抱きしめた。
 子供の自分でもそうと感じる、身体の細さにシイは息を呑む。それでもしがみつくように、背に強く腕が回される。離すまいと、死んでも離すまいと、そんな意思が伝わってくる、力で。
「来たよ、アリス。もう大丈夫だから」
 囁くように、だがはっきりと言葉にすれば、返事は声にならず、少女は嗚咽を漏らす。泣きじゃくる。
 抱き合う二人の傍らで、床に倒れて動かない、アリスの母と思われる女性が、大人たちによって運び出される。

 * * *

 肩を揺さぶられ、名を呼ばれて、シイは弾かれるように顔を上げた。現実感を取り戻すのに数秒かかる。いつの間にか雨は小止みになっていた。
「ご苦労さん。すっかり濡れ鼠だな。立てるか?」
 集中が途切れ、夜目は利かなくなっていたが、声で誰が来たのか分かった。リーダー。「調達」を指揮し、ナヴァン・コロニー内の青年グループを束ねる男。歳は三十代後半だったか。本名は憶えていない。
 大丈夫です、と応じたが、声は掠れていた。手足は強ばってなかなか動かない。結局、リーダーに二の腕を支えられてようやく立ち上がった。
 湿気を大量に含んだ夜気に、煙。嫌いだったっけか? と差し出された手には、火のついた煙草が挟まれている。きつい臭いに辟易しながらも、礼を言って断る。そうか、とだけ応えてリーダーはそのまま自分で煙草をくわえた。シイが苦手なのは知っているはずだった。「調達」を終えての一服。煙草はもうほとんど見つからない貴重な嗜好品で、コロニー内では何年も前に禁制となっていた。こうして街まで出てきて、命がけの仕事を勤めた者だけの密かな楽しみだった。勧めないのも悪いと思ったのだろう、シイも、リーダーのそんな気遣いは理解できたから、不快には感じなかった。――流れてくる煙には少々閉口したが。
 促されて、瓦礫だらけの廃ビル屋上を歩く。ドアのない階段室に足を踏み入れる前に、ふと振り返る。遠くでまた銃声が響いた気がした。別の場所で、別のコロニー同士が争っているのだろう。
 あと何日もないのに。
 やりきれない思いを振りはらうように首を振り、シイはリーダーの後に続く。
「どうでした?」
 何が、とは言わなかったが、相手には十分に伝わったようだった。マグライトを片手に先に階段を下りるリーダーは、ああ、と応じた。
「アリスの言ったとおりの場所にあったさ、冷凍倉庫。なんと五十キロはありそうな肉の塊があったぜ。残念ながらもちろん合成だけどな。電源も死なずに今までカチンカチンに冷えてたなんて、信じられないな。とうの昔に見つかってたけど、意図的に隠されてた、としか思えない。……例えば、ラッシュ・コロニーの連中に」
 狭い階段に、リーダー淡々とした声音が響く。
「やはりラッシュ・コロニーと奪い合いに?」
 闇の中で、先を行く相手の頭が、うなだれるようにがくりと頷いた。
「奪い合い、なんてもんじゃない。がっちがちに防備を固めてやがった。準備万端のところに、うちが突っ込んでいったようなもんだ。一旦引いて様子を見るべきだった。俺のミスだ。……ケリーとレイ、アーチーがやられた」
 自分が息を呑む音の大きさに、シイは驚いてしまう。
「三人? その、全員が?」
「アーチーだけはまだ息があった。だが戻るまで持つかどうか。ドクターが処置はしてくれたはずだが」
 そうですか、と溜息をつく。死者が出てしまった。もっとも、ラッシュ・コロニーの被害は更に甚大だろう。シイ一人でも、見張りの男二人を斃している。
 ナヴァン・コロニーの調達隊は、少数精鋭で他のコロニーに知られている。住人の数に比例して小規模ながら、戦闘になれば他所の隊と決して引けを取らない。だからこそ、一度に三人ものメンバーを失うのは大きな痛手のはずだった。
「今の構成ではきついな。アタッカーが五人になっちまった。シイの能力なら、本来なら後衛ではなくアタッカーに入ってほしいところなんだが。スナイパーでもいい」
 シイは無言だった。それはシイ自身の意思で決められることではない。そもそも「調達」に参加すること自体、根強く反対する人々がいるのだ。曰く「スペアとはいえ大切な『パーツ』である身、なにかあったらどうするのだ」。
 廃墟となった街へ赴き、数少ない物資を他コロニーと争奪する「調達」に、参加しているのはシイ自身の意思だった。ナヴァン・コロニーで育った身として、大人たちが同様に「調達」してきた物資によって生かされてきた身として、最低限の義務だと思っていた。
 だが、より重大な使命を帯びた身で、えり好みした義務感に生死を託していい立場ではないことも、重々承知していた。
 一階の扉の前で、リーダーは振り返る。ライトを足許へ向けた薄明かりの中、その顔は随分とくたびれて老けて見えた。
 そして、すまんな、と呟くように言い、苦い笑いを浮かべてみせた。
「無能な指揮者の言ってはいけない愚痴だ。お前を死なせるわけにいかないことは、ちゃんと承知してる」
「いえ。……はい」
 応えようがなく、シイは短く返事だけする。
 それに、とリーダーは続ける。
「じきにこんな生活も終わりだ。『調達』に行くのも何度もないはずだ。なあ」
 一際大きく煙草の煙を吐き、吸いさしを足許に落とす。ブーツで踏みしめ、重そうな鉄の扉を押し開く。
 シイはまた返事できなかったが、リーダーも応えを期待していないようだった。
 一階はとうの昔に荒らされ破壊し尽くされている。正面入口だったであろう、通りに面したガラスも、跡形もなく失われている。外の冷えた新鮮な空気と共に、弱々しい男の呻き声が届く。先ほど言っていたアーチーか、あるいは別の負傷者か。迎えに来たらしい、埃まみれのバンから聞こえてくる。
 あれに乗ってナヴァン・コロニーへ帰る。到着までの間、断末魔の呻きをすぐ傍で聞き続けることになるのだろう。暗澹たる気分で、シイはリーダーのあとに続く。

 * * *

「おかえりなさい、シイ!」
 肩にしがみつく細い腕の感触と、鼻先を掠めるジャスミンの香り、頬に触れる柔らかいブロンド。いつも通りの歓迎に、シイは気づかれないよう小さく安堵の息を吐く。暖かい。だが抱きしめ返すのはやめておく。
「ただいま。……冷たいだろ。濡れるよ」
 ううん、と首を振り、アリスが腕を解いた。触れそうなほど近い顔、零れそうに大きい蒼い眸が覗き込む。
「ごめんね。今日、ひどい雨が降る、って前から分かってた。シイが『調達』に出かけるって知っていれば、ちゃんと教えておいたんだけど」
 シイは微かに笑ってみせる。苦笑といった方が近かった。
「アリスが謝ることないよ。あらかじめ雨だと分かっていたとしたって、今日は俺が『調達』に参加する番だった。天気が悪いから行きたくない、なんて言えないだろ?」
「それでも、濡れないような恰好するくらいはできたでしょ? レインコート一枚上に着ていくだけで、全然違ったのに、こんなに濡れちゃって……」
「アリス」
 シイは頭を振って遮る。それだけで少女は、続きの言葉を呑み込んだ。
「ただいま。もう帰ってきたんだよ。雨もやんだ。終わったんだ」
「……うん!」
 そしてまた強く抱きついた。
 早く着替えて、と促され、シイはアリスと並んで歩き出す。右手に少女の左手が滑り込んできたので、軽く握り返す。
 出会ったころは十二歳。以来、アリスは過剰なほどに懐き、スキンシップを求めてきた。二歳上、当時十四だったシイは、人前でべたべたされることが照れくさくて仕方がなかったが、四年も経てばさすがに慣れてしまった。手を繋いで歩いていても、周りからは何も言われない。兄妹のようなもの、と見なされているのだろう。
 傍を歩く、同じ調達行に加わった男たちから口々に「ただいま」と声をかけられ、アリスは愛想よく笑顔をひらめかせる。それでも、誰にはばかることなく、手を離そうとはしない。
 密集したバラックの家々。窓から漏れる光はあまりに弱く、歩く足許は暗いままだった。だがシイの眼には十分だった。二人の間にある水溜まりを避け、繋いだ手を伸ばせば、楽しそうにアリスは笑う。
 機嫌が好くてよかった、と少し嬉しくなる。もっともこの人懐こい少女が、苛ついたりふさぎ込んだりすることはまずない。ただ心細くなることはあるようで、笑顔に無理が感じられたり、不自然に饒舌になったりすることは、時々あった。
 無理もない、けどな。
 口の中で呟く。何? とアリスが振り返り、首を振ってごまかす。
 夜ばかりになった世界の暗い路地で、子供たちが駆け回る。鶏を追い回す。甲高い歓声と鶏の悲鳴。今日はこの子たちも久しぶりにまともな食事にありつけるだろう、とシイは思う。痛手は大きかったものの、「調達」の成果はそれなりにあったと聞いていた。
 小さな集落の未舗装の路地はすぐに終わる。角を曲がると、長くまっすぐな石畳が現れる。夜闇を見上げれば、盛大に焚かれた篝火に、小山のような石造りの建造物の影が揺れている。
 それは単に「寺院」と呼ばれていた。華奢な塔が左右翼端にそびえ、中央には伽藍を思わせる屋根の高い、そして入口の狭い巨大な広間。繊細な彫刻の施された化粧石で表面を覆われている。古代の地球、東南アジア圏に現れた宗教建築のレプリカのようだったが、歴史に詳しくないシイには、具体的に何を模しているのか分からなかった。そういえば、何を祀っているのかも知らない。ただ、祈る場所だということだけ、幼いころから認識していた。
 近づくにつれ、すれ違う人が増えていく。そのほとんどが遠巻きに二人を見つめている。聞こえない声で何かを呟く人、背後で手を合わせる人すらいる。
 生まれてからずっとこのコロニーで育ったシイには、その多くが見知った人だった。だからこそ、人々が崇める対象が、自分ではなくアリスであることを知っている。――四年前、このナヴァン・コロニーを救いに来てくれた美しい少女。その役割を知ってなお、笑顔を振りまく健気な乙女。
「アリス」
 思わず声をかける。だが、屈託のない笑顔を向けられて、シイは何も言えなくなる。
「……寒くないか?」
 挙げ句、つまらないことを訊いてしまったが、アリスは素直に頷いた。
「ちょっと。シイに抱きついたら私の服も濡れちゃったし。早く部屋に戻って着替えよう」
 二人の部屋は寺院の奥にそれぞれある。数ヶ月前までは他の住人たちと同様に、コロニーの居住区域、集落で暮らしていた。寺院の周囲に、寄り添うように遠巻くように建っている、バラックの家並み。配給頼みの貧しい生活ではあったが、それは皆も一緒で、そのころは今のように手を合わせられることなどなかった。
 寺院の入り口には衛兵のように、物々しい銃器で武装した男たちが立っている。慇懃に頭を下げられ、居心地の悪い思いをしながら、開け放された扉をくぐる。
 香の匂いが鼻をつく。煙のたゆたう大広間。擦り切れた暗赤色の絨毯、弱々しい白熱灯。頼りないが、電力がとにかく貴重な現在では、電灯は破格の贅沢だった。薄暗く煙る向こうには、金鍍金の祭壇が見える。そして、その手前には幾人もの参拝者が拝跪していた。
 邪魔しないよう、足音を忍ばせて人々の背後をすり抜ける。それでも祭壇の手前にある、小さなドアを開いた軋みに、一斉に顔が向けられる。ざわめき。そして、アリス、巫女様、という密やかな会話。
 そして示し合わせたように、参拝者たちは頭を垂れ、手を合わせ、十六歳の少女を拝む。
 アリスは何も言わない。だが握る手が震え、シイはきつく握り返す。

 * * *

『……〈セント・ブレンダン〉号、〈セント・ブレンダン〉号、応答願う。〈セント・ブレンダン〉号、応答願う。こちらは連邦軍第十二艦隊所属、連絡艇〈アプサラ〉二六号、至急、救援を請う。〈セント・ブレンダン〉号、応答願う……』

 控えめなノックの音にシイは呻き声を漏らす。
 目は開けられない。起きあがれない。くるまった毛布の心地よさにまた意識を手放しそうになりながら、聞き耳を立てる。
 ドアの外に、人の気配は全く感じられなかった。ああそうか、と思う。ノックされたのは部屋の扉ではなく、頭の中、だ。
 それなら起きなくていい。寝返りを打ち、また夢の中に戻る心持ちで問いかける。
『アリス?』
 ためらいの感じられる数瞬ののち、やはり頭の中で小さい声。心話。
『……寝てた?』
 毛布の中で、シイは声に出さず笑う。
『寝てたかどうかなんて分かってて呼んだんだろ? ……寝てたよ、もちろん』
 ごめん、とか細い声で謝られ、それが逆に目を覚ますきっかけとなった。
 瞼を開いても当然室内は暗い。目を凝らせば枕元の時計は深夜の三時だった。
『どうしたの? こんな時間に』
『……ちょっと。気になることがあるの。会えないかな』
『今から?』
『無理……?』
 仕方ないなあ、と溜息をつけば、呼気が白い。
『待っていて。今そっちへ向かうから』
 手探りでセーターを掴み、袖を通す。それだけはまだ寒くて、もう小さくなりかけているモッズコートを羽織る。手櫛で寝癖だけ直し、スニーカーをつっかける。アリス相手に身なりを気にしていても仕方がない。
 誰もが眠っている時間帯、廊下は凍てつくように静まりかえっている。押さえようとしてもどうしても鳴る靴底に眉をひそめながら、アリスの部屋の方向へ足を進める。当然ながら照明は点っていない。意識を集中すれば夜目が利くようになるのだが、勝手の知った寺院内で、そこまでする必要もなかった。氷のような壁を、片手で伝っていく。
「シイ?」
 心話ではなく肉声で呼ばれ、そちらへ顔を向ける。視覚に意識を集中する。ふと耳鳴りに襲われ、治まる頃には、自室のドアの前で待っている少女の姿を眼が捉えている。
「中で待っていればよかったのに。寒いだろ?」
 アリスは室内着の上に毛織のショールを羽織ってはいるが、それでも寒そうに自分の肩を抱いていた。
「ううん。わざわざ寒い思いして来てくれたのに。入って」
 アリスは当たり前のように部屋へ招き入れる。さすがにシイは逡巡した。深夜、少女独りの部屋に訪れることの意味をどうしても考えてしまう。だがアリスの方に他意がないことも分かっているから、動揺を表に出さないよう気を遣う。
 自分とアリスはそういう関係ではないし、自分もそうなることを望んでいるわけではないのだ。
 頭を振って、余計な考えを払いのける。
 こんな深夜に呼ばれたことはなかったが、昼、人々が活動する時間帯には、アリスの部屋へ何度も入ったことがある。金髪碧眼の愛らしく華奢な外見からは想像もつかない、可愛らしさの欠片もない室内だった。
 部屋の一辺に簡素なベッド。足許に小さなワードローブ。
 そして残りのスペースには、無造作に積み上げられた無数のサーバ、音を立てて動作中を示す様々な機器。ファンの呻吟にオゾンの匂い。這い回るケーブル。やはり照明は点いていないが、その異様はいくつのモニタが青白く浮かび上がらせている。アリスの部屋、というより、サーバルームの片隅でアリスが起居している、といった有様だった。
 このコロニーで使用が許されている電力の、何割をここで消費しているのだろう、と来るたびにシイは思う。
 街の片隅から救い出され、間もなく母が死んで以来、アリスは我が儘など全く言わなかった。だが、ただ一点、この設備だけは整えてもらえるよう、真摯に頼み込んでいた。そして誰の手も借りずに全てを組み上げ、外へ出る必要のないときは、ここでネットワークのざわめきに聞き耳を立てている。
 こんなご時世にどれだけ情報が拾えるのか、ともシイは思うが、今日の調達で奪取した冷凍倉庫も、アリスがネット上から見つけて報告してくれなければ、ラッシュ・コロニーに隠されたまま終わっていたはずだから、お姫様の奇妙な道楽、というだけでもなかった。
「で、今度は何を見つけたの?」
 光るモニタを眺めやるが、どれを見ていいか分からない。
「見つけた、っていうか、声、なの。呼んでる」
 呼んでる? と反問するシイに、アリスは機器の山の中からヘッドホンを取り上げて差し出す。言われるままに耳に当てれば、まず聞こえるのはホワイトノイズ。ビーコンらしき信号音が時々混じる。黙って意識を集中する。シイの聴力は視力のように、一方を犠牲にして機能が上がるようにはなっていないが、それでもしばらくすると、幽かに声らしきものが聞き分けられるようになってきた。

『……まいったな、全くの無反応……救助要請すら聞き……くれない、……さか幽霊……ないだ……』

 無言のまま、アリスの顔を見やる。声は若い、二十代と思われる男のものだった。訛りが強く、ノイズの奥に紛れてしまうので、非常に聞き取りづらかったが、途切れることはなかった。
 ふとシイはその声に奇妙な感触を覚える。だがそれが何を意味するのか、すぐには分からなかった。
「……独り言みたいだね。男性。他に聞き取れる声はない。これが気になるの?」
 似たような音声通信が、ネットワークの海から漂い着くことは珍しくない。各コロニーに通信設備はあるし、わずかながら残る街の住人が、ネットの向こうに助けを求め、宛てもなく呟き続けていることもある。
 アリスは小さく頭を振った。シイの質問への答え、というより、自分に言い聞かせているような様子に見えた。
「これ、……私の耳には直接聞こえているの。ネットワークからの音声通信ではなくて」
 そしてシイの目を見つめ、頷く。
 人並み外れた視力を持つシイと同様、「パーツ」であるアリスにも、特化された機能があった。それは主にネットワークとの親和性、デバイスを使用しなくても情報の送受信ができる、といった形で発現する。だが、それだけではない、という。
「多分これ、外からの通信よ」
 外。
 その意味を正確に理解して、シイは頷き返した。

『……〈セント・ブレンダン〉号、〈セント・ブレンダン〉号、応答願う。こちらは連邦軍第十二艦隊所属、連絡艇〈アプサラ〉二六号、至急、救援を請う。〈セント・ブレンダン〉号、応答願う……』

 男の声は、先ほどよりははっきりと聞こえるようになった。繰り返されるメッセージに、先ほどの既視感めいた感覚の正体をようやくシイは理解する。
「眠っている間、聞こえたよ、そういえば。君のように通信を直接受けたんじゃなくて、多分、君が聞いているのに俺が感応しただけだと思うけど」
 そしてアリスの瞳を覗き込むと、安心させるよう、そっと頭を撫でた。
「信じる。これは『外』からの声だ」
 アリスは頷く。
「助けを求めてるわ」
「うん、だから、助けなきゃ。――やり方、分かる? 思い出せないなら俺が誘導するから」
 シイは目を閉じる。遠い日の思い出をたぐり寄せるように、自分の十八年の人生より遙か過去の記憶を掘り起こす。

 * * *

 抜け出すのは昼食時。僧たちが食堂に集まっている間は、他所で何かやっていても見咎められるおそれも少ない。
 アリスの手を引き、シイは石の廊下を早足で進む。迷いなく。幼いころから遊び場のように出入りし、やはり「パーツ」であった父親に隅々まで案内された寺院。隠し扉や地下構造は、管理する僧たちよりも知り尽くしている。
 図書室に入る。照明設備は一応あるが、点けないままアリスを導いていく。古びた紙の匂い。さして広くもない室内に書棚が並び、書籍や巻物が几帳面に並べてある。中央には寺院らしく、教典を収めた転経器すら設置されてあった。だが、今どき悠長に紙の資料など閲覧する人もいないのだろう、シイは何度もここに出入りしているが、他の人の姿を見たことは一度もなかった。
「もったいないね。こんなに沢山、誰も読まないなんて」
 転経器に施された細かい彫刻に触れ、中の教典を仰ぎ見て、アリスが言う。
「そうだね。でも人のいない方が、アリスは心おきなく読めるだろ?」
「うん、だから読みたいものはほとんど読んじゃったわ、もう」
 シイは苦笑する。自分も興味がないわけではないが、アリスの情報に対する貪欲さには舌を巻く。
「それに、紙の本って破りそうで怖いのよね。特にここにあるのは古いものばっかりだし」
 確かに、気軽に読むというよりは、骨董品の部類だ。
 これを破損せずに守りきれるだろうか。自分たちは。
 今、気にしても仕方がない。シイは頭を一つ振る。目的の棚に辿り着く。目の高さにある一冊、左右と比べても特に目立つ違いはない。背表紙の題は『The Songs of Distant Earth』。
 これも読んだわ、と小さい声でアリス。
 引き抜いて隙間に手を突っ込む。奥の壁に触れれば金属の冷たい把手。掴んで引く。ありがちな隠し扉のギミックだが、設置されてから数百年、これで無事だったのだから、有効なのだろう。それに、外部からの侵入を阻むのはこの絡繰だけでもない。
 部屋の隅にぽっかり空いた入口に、またアリスの手を引いて向かう。
 
 長い螺旋階段を降りる。
 中央の吹き抜けから、暗い階下を垣間見てしまい、シイは眩暈を覚えてしゃがみ込む。アリスは小さく笑った。
「壁際に沿っていった方がいいわよ。頑張って、私は初めてなんだから、連れていってもらわなきゃ」
 動けるようになるまで、アリスは寄り添って待っていてくれる。ごめん、と呟くように謝り、シイは動悸と冷や汗の治まるのを待った。
 本当に、なぜ自分に高所恐怖などあるのだろう。パーツの能力を阻害するだけだというのに。
 自分がパーツである以前に、人としての性質なのだろうか。
 以前? どちらが先?
「シイ」
 アリスにそっと頬を触れられ、シイは我に返る。放心して考え込んでしまっていたようだった。
 大丈夫、と掠れた声で応じ、そんな自分が情けなくて顔をしかめる。
「大丈夫。行こう」
 言い直して立ち上がる。アリスと再び手を繋ぎ、また段を降り始める。残りはまだ半分近くある。

 辿り着いた先には両開きの自動扉。しっかりと閉ざされており、手動で開けられそうな取っ手や凹凸はどこにもない。脇の壁には認証パネルがあり、赤いパイロットランプが点っている。シイは迷わず右手で触れる。パーツの遺伝子認証による鍵。自動扉は溜息のような音を立て、左右に開く。
「私がやっても通れるの?」
「そのはずだよ。やってみればよかったね。今後、アリス一人で来ることもあるかもしれない」
 ないわよ、とアリスは笑う。
「一人で来る理由なんてないわ。シイが一緒にいてくれれば十分」
 その返事にさして深い意味も感じず、シイは肩を竦めた。
 扉を入ると更にしばらく廊下が続く。地上階のように石の遺跡めいた造りではなく、青灰色のリノリウムが張られた機能的なものだった。歩くのに不自由はしない明るさもある。靴のこすれる二人分の足音と、空調の立てるかすかな響き。そういえば、地上よりここの方が空気は綺麗なように感じる。温度も快適だった。
 進む間、シイはアリスの手を離し、腰の銃を抜いて安全装置と残段数を確認する。必要なの? と訊かれ、分からない、と首を振る。
「相手がどういう人なのかまるで分からない。いきなり襲いかかってくることだって考えられるだろ」
「いきなり襲ってくるほど相手が怒っているんだとしたら、これだけ待たされたことじゃない? 昨夜のあれから九時間は経っているもの」
 それで怒ったりはしないだろう、とシイは思う。
「エアロックに徐々に空気を充填して、外から来た人が身体を気圧に慣らすのに、七、八時間は必要らしい。向こうだって承知はしているだろう」
 突き当たりにまた同じような自動扉が現れる。今度は認証パネルはなく、インターホンや開閉スイッチと思われるボタンがいくつかならんでいる。
 シイはアリスを後ろに下がらせる。一つ深呼吸すると、インターホンへ向かう。
「……中にいる人、聞こえますか? 待たせてすみません。迎えに来ました。今ここを開けます」
 数秒待つ。返事はない。アリスと頷きあい、ドアの開閉スイッチへ指をかける。
 開いていく扉、薄暗い内部、よく見えないままシイは銃を構える。通路側からの光を受け、まず足が見え、それが前に踏み出し、次第に上半身が顕わになる。
 敵は怖くない。調達の銃撃戦を怖いと思ったことはない。
 だが、全く未知の、外部からの訪問者は。
 シイは息を呑む。銃把を握る手の強張りを、嫌というほど意識する。 
 相手は両手を上げてそこで停まった。乱れた髪に無精髭の伸びた、くたびれた様子の、だが眼光の鋭い男。声の印象の通り二十代か。
「……救援要請に応じてくれたことに感謝する。それは降ろしてくれないか。俺も疲れていて、ずっと腕を上げているのはつらい」
 昨夜の通信と同様、訛りはきつかったが、はっきりと聴き取れる言葉でそう言った。
 身体中の緊張が一気に解けるのを感じる。だがすぐに気は抜けず、銃は降ろさないまま、シイは頷く。
「無事で何よりです。銃については申し訳ない、あなたの身体検査が終わるまでこうさせてもらいます」
 男は意外にも軽く鼻で笑った。ま、そりゃそうだわな、と応じた。

第二章

 男は連邦軍少尉、イタル・M・ロバートソンだと名乗る。
 暗い色の髪は癖が強く、手入れもできなかったのだろう、無精髭と一体となってひどく乱れていた。そのため顔立ちはよく分からないが、伸びた前髪の下に覗く眼は緑がかって見える。背はシイと同じくらいだが、体格は五割り増し、といったところだった。気密服は既に脱いでおり、暗緑色の軍服らしき上下を着ている。
「小さい連絡艇で移動中だったんだが、重巡のワープ渦にうっかり巻き込まれてな。無事脱出できただけ幸運なんだが、まあ、こんな僚艦もいない辺境で、遠距離通信機器も丸ごとイカれちまったし、燃料も切れるしで、途方に暮れてたところだ。助かった。改めて礼を言う。……で、君たちは? 見たところ、こんなでかい船のクルーとはとても思えないんだが」
 疲れている、という割には、イタルという男はそれだけのことを一息に説明した。何からどう返答してよいものか、シイは困惑する。そもそも当然のように、ワープ渦が云々、などと語られてもあまり理解できない。連邦軍? それはどこの話なのか。
「……ええと」
 口ごもると、ひとまず部屋の中へ入るよう促す。身体検査をし、武器の類は身につけていないことは確認したが、そのまま立ち話していても仕方がない。
 そこはエアロックの前室だった。外部に出るための気密服のロッカーや、作業機材が置かれている。疲れている、というイタルを簡素なベンチに座らせ、シイとアリスは手近な箱に腰かけた。
「頼りなくて申し訳ないけど、俺たちがこの船のクルーです。あいにく他にここに来られる人間はいません。できる限り助力はしたい。だが俺たちにも制約は多い。分かってほしい」
 クルー、と称するにはさすがに自分でも違和感があった。聞いたイタルは露骨に顔をしかめて見せた。
「見たかぎり未成年みたいだが、君たちが担当ってことなのか? 大人を呼べ、と言いたいところだがな」
 そして、大袈裟に溜息をついた。
「そもそもこのばかでかい船は何なんだ? 船体に『〈セント・ブレンダン〉号』とあるから呼びかけてみたが、最初は全くの無反応だ。船籍を確認してみても、連絡艇のデータベースには載ってない。ようやく誘導波を捉えてここまで入れたものの、半日放置されるし、本気で幽霊船にでも遭遇しちまったのかと思ったぜ」
 もっともな反応だ、とシイは思う。幽霊船と言われれば、確かにそれに近い。
「外の情勢がどうなっているか、俺たちには分かりません。この船の船籍が確認できなかった、とすれば、多分古すぎるからでしょう。――出航したのは六百年前、と聞いています」
 はあ? とイタルは声を裏返らせた。
「ちょっと待てよ、六百年? で『〈セント・ブレンダン〉号』って、あれか、火星発移民船団、ってやつか? 歴史の講義でやった」
 どういう歴史として伝えられているかは知りません、とシイは首を振った。
「火星から発ったのは確かなようです。人類が開拓し定住できる惑星に向けて、ここまで旅してきました、……六百年の間」
「六百年て……」
 イタルは唖然とした様子で絶句していたが、やがて乱暴に頭を掻くと、吐き捨てるように言った。
「冗談じゃない、幽霊船じゃなくて化石じゃねえか」

 うつむいて頭を振るイタルを黙って見やり、落ち着くのを待つ。
 こちらだって疑問は山のようにある、とシイは思う。疑問、どころの話ではない。六百年。それだけの間切り離されていた世界との接点が、この目の前の一人の男なのだ。外部からの訪問者に対する興奮は、アリスに呼び出された昨夜から、今に至るまでの間に落ち着いた。だがそれで、訊きたいことが霧散するわけでもない。
 わかった、とようやくイタルは頷いた。
「自分が遭遇するとは思っていなかったが、あり得ない話じゃないな。移民船、って要するに播種船だろう。何光年も彼方の可住惑星へ向けて、船の中の閉じた環境で世代交代しつつ、何百年もかけて通常航法でのろのろ進んでいく、ってやつだ。それなら六百年、飛び続けることを最初から想定していたっておかしくはない」
 一人何度も頷きつつ、しかしすげえな、などと呟いている。
「ねえ、私たちの方からも少し訊きたいわ。いい?」
 今まで黙っていたアリスが、身を乗り出して口を開く。イタルは驚いた様子で目を見開くと、ああ、と首肯した。
「悪いな、俺の方ばっかり」
「謝ることないわ。お互い知りたいことが沢山あるんだもの」
 もともと知的好奇心の塊のような娘だ。シイも質問するつもりだったが、この場はアリスに任せて口を噤む。
「この船が発った当時は、地球は人の住めない星になり、月面や火星の開発も行き詰まり、遠くの可住惑星に移民しなければ人類の未来はない、という判断だったのよね。でも、あなたの話では、私たちの移民船団は歴史の一部になっている。ここまではいいかしら?」
 イタルの相槌を待って、アリスは続ける。
「ということは、太陽系に残った人類は、無事生き残って発展を続け、私たちが六百年かけて辿り着いたこの辺りも、先回りして開拓してしまった、ということよね。――さっき、ワープだとか通常航法だとか、って話をしていたけれど、要するに、一足飛びに超長距離へ移動するような航法が、開発された、ってこと?」
「……ワープ航法だな。ワームホールを利用した。技術的なことは俺には説明できないが。
お嬢さんの言うとおり、この宙域は連邦の版図だ。もう二百年も前に開拓されている。まあ、辺境も辺境だがな。……って、そういや連邦の存在も知らないのか、ひょっとして」
「アリスよ」
 流れに反して、アリスは唐突に名乗る。
「お嬢さんじゃないわ。アリス。こっちはシイ」
「え? ああ、うん。ちゃんと挨拶してなかったな。よろしく」
 紹介され、イタルから会釈されたのを機に、シイは会話を引き取った。 
「すまないけど、今、長話をしているわけにもいかない。そろそろ俺たちの不在を不審に思う人も出てくるかもしれないしね。――少尉、またのちほど来ます。その際に、情報交換と今後の話をしたいと思います。さしあたって、今必要なことだけ手配します。入り用なものは?」
 シイの性急な話に、困惑したのか、イタルは顔をしかめた。
「その話だと、大人に黙ってこっそり来た、って感じだな。このまま任せておいていいのか不安で仕方がないんだが。……まあ、もういい。言っていても仕方がない。俺もくたくただしな。今はとにかく寝床を。あと汗を流したい。携帯口糧で腹は満たしたが、次来るまでに時間がかかるなら、その時何か食い物も持ってきてもらえれば助かる」
 分かりました、と応じ、シイは少し考える。この人物を、『地上』へ連れ出すわけにはいかない。コロニーの他の人々に姿を見られてはまずいし、防疫の面でもやってはいけない。
「アリス。『地下』で休んでもらえる部屋はある?」
 アリスは、待って、と応じて目を閉じる。艦内情報へアクセスしているのだろう。
「……あるわ。ちょっとここからは離れているけれど。空調と給水・給湯は生きているわ。使えるベッドがあるかどうかは行ってみないと分からないわね」
 シイはうなずく。
「では案内します。なにぶん六百年前の設備なので、快適さは保証できませんが」
 イタルは天を仰ぎ、溜息をついてみせた。
「……一通り設備の使い方を教えていってくれ」
「もちろんです」

 * * *

 少し迷った挙げ句、シイは寺院内の庫裡ではなく、集落の大きな倉庫へ足を運ぶ。こちらまで出向く機会も最近はほとんどないが、寺院からの遣いだと言えば、あまり怪しまれもしない。出庫記録もそう記しておけば、寺院まで確認されたりもしない。
 棚の間の狭い通路をすり抜ける。乱雑というほどではないが、大雑把に分類された中から、調理の不要なパック食品を見繕い、持ってきた袋へ入れる。アイリッシュ・シチューにチリ・ビーンズ、マトン・カレー、肉じゃが、酢豚。ライスとパン。
 六百年で食生活はどれだけ変わっているのか。宗教上などの理由で食べられないものはあるのか。――そもそも、宗教なんて残っているのか。
 あまり沢山は持ち出せない。コロニーの皆も、物資の乏しい中をかつかつで生活しているのだ。こんな食材を多用した料理も、普段はまず食べることはない。
 「地下」にも多少の食料は眠ってるはずだよな、と口の中で呟く。袋へ入れた数日分の食料がなくなる前に、探し出しておかなければ。
 そういえば、とシイは思う。
 簡単に入っていけるのに、どうして自分は「地下」――宇宙船〈セント・ブレンダン〉号の運用区画を細かく見て回ろうとしなかったのだろう、今まで。
 その必要も意味も見いだせなかったのかもしれない。調べて知ったところでどうなるというのか。自分の居場所は「地上」、居住区画だけで十分なのだと、パーツの責務も、地上と寺院だけで完結してしまうから、必要ないのだと、思い込んでいたのか。
 あるいは、知って、「何か」の可能性を見出すのが怖いのだと。
 無意識裡に避けていたのかもしれない。
 「パーツ」の務めを免れる、何らかの可能性を。
「あら、シイ? 珍しいわね」
 物思いに沈んでいたところに、不意に声をかけられ、シイはびくりと肩を震わせる。振り返れば、見知った女性の笑顔。ローラ、といったか。リーダーの、少し年上のパートナーだった。
 平静を装って会釈する。
「もうすぐね。ワタリの祭礼」
「ええ。……俺のやることはあまりありませんが」
「そうね。大丈夫よ。アリスちゃんがいるから」
 笑顔でそういう人に、どんな顔をしていいものか、シイはいつも迷う。とりあえず、曖昧にうなずいてごまかす。
 特に気にも留めなかったのか、ああそういえば、とローラはすぐに次の話題に切り換えた。
「そういえばね、近々もう一度調達に出なければならないかも、ってうちのが言ってたわ」
 うちの、というのはリーダーのことだろう。
「まだ出るんですか? あと何日もないんですから、危険を冒すより、耐えてその日を待った方が……」
 それがね、とローラは溜息をついた。
「昨日ので、負傷者が大勢出たでしょう。食料はともかく、医薬品が足りないんですって」
 シイはすぐに返事できず、無言で眉をしかめる。調達で負傷し、治療のための薬がないからまた調達に出る、とは、なんという悪循環か。とはいえ、薬剤はコロニー自前で賄えるようなものでもない。調達してくるほか入手する方法はないのだ。
「もう出ないで済めばよかったんだけどねえ。――ああ、シイは辞退していいのよ。うちのにも言っておくわ。とにかく手がほしい、なんてこと言っていたけど、シイには今、怪我でもされたら元も子もないものね」
「……俺にやれることをやります」
 応じれば、そうね、とローラは笑顔でうなずく。それを機に、では、と挨拶を残し、シイは出口へと踵を返す。
 憂鬱な思いで、独り首を振る。
 調達も、祭儀も、もう考えたくもなかった。淡々とその日を待って、全てを終わらせたかった。

 * * *

 アリスが歓声を上げる。
 モニタには、ハンガーに駐められている小さい連絡艇。少女は幼児のように画面に貼りつき、目を輝かせている。カメラの操作もすぐ習得し、手許の制御卓から遠隔で動かして、機体を隅から隅まで観察している。
 直径六メートルほどの球体に近いシンプルな形状だった。シイは流線型のフォルムを想像していたため、少し意外に感じた。だが連絡艇ということは、宇宙空間で船と船の間を往き来するような役割なのだろう、大気圏に入る必要がなければ、球体の方が効率はいい。
「飯な」
「はい?」
「助かった。感謝する。久々に料理されたものにありついた」
 前ぶれもなくイタルに言われ、シイは一呼吸ののち、何のことなのか理解する。
「パックの保存食ですけどね。六百年も文化的に隔たっていて、口に合うのか分かりませんでしたが」
「味覚は変わらないさ。料理の名前は分からなかったけどな」
 そんなものか、と思う。やはり料理の名前は分からないのか。
 イタルに提供した部屋は、クルーの居室として設えたもののようだった。小さいながら、ベッドやバスなどの設備が一通り揃っているが、誰かが使った形跡はなかった。壁の一面にあるモニタはアリスがかかりきりになっており、シイとイタルは簡素な椅子とベッドの端に、それぞれ腰かけていた。
 身なりを整えたイタルは別人のようだった。髭を剃り、髪に櫛を入れた顔は、いかにも軍人という厳めしい風情ではなかったが、意志と知力と冷静さのバランスが感じられた。
 「地上」ではあまり見られない顔だ。疲弊しきった、希望の少ない「地上」では。
「で、それはそれとして、だ」
 シイのさり気ない観察には気づいていない様子で、イタルは話を切り換えた。 
「飯は美味かったが、俺としては、大人に隠れてこっそり餌付けされている猫みたいな感覚がどうしても拭えない。そろそろ説明してもらえないか、そっちの事情を。窓口に君たち二人しかいない理由を」
 アリスが振り返る。心話は寄越さなかったが、目配せで「どう答える?」と訴えかけていた。
 シイは小さく溜息をつく。どう答えるも何も。
 ありのまま話してしまうしかないのだろう。外から来た人に隠し立てしたところで仕方がない。
「……少し込み入った話になります」
 気が進まないまま、そう前置きする。イタルがうなずくのを見届けて、シイは意を決して語り出した。
「この船には現在、おそらく八千人ほどの搭乗者がいます。先に言っていたとおり、六百年の間、世代交代を繰り返してきたので、時期によって人口は増減していたようですが、ピーク時には五万人に達したと聞いています。……今、ここまで人口が減った理由は、環境維持システムが正常に機能しなくなったからです。昼夜を制御できず常に夜の状態、気温も下がる一方、エネルギーの確保も難しくなりました。人々は都市を放棄し、いくつかのコロニーに分かれ、寄り集まってどうにか生きています。
「搭乗者は全て、ここより上層の居住区画で生活しています。その大半は非乗務員です。乗務員、クルーに該当する立場の者を、我々は『パーツ』と呼んでいますが、俺とこのアリスもその『パーツ』です。今いるこの場所は、運用区画になりますが、現在はおそらく、この三人しかいません。船そのものの運用は完全自動で行われており、平常時なら我々パーツの手は必要とされていません。
「パーツでない、非乗組員の人たちは、この運用区画へ降りてこられません。今の世代の人々は、運用区画の存在をそもそも知りません。上層の居住区画が生活の――世界の全てです」
 自分で再確認するように、シイは一つ一つ丁寧に説明していく。一旦言葉を切るが、訊いていたイタルは険しい表情で無言のままだった。
「……ここまではいいですか?」
 問いにイタルはいいとも悪いとも答えず、顔をしかめたまま、顎をしゃくって先を促す。シイは一つうなずき、この話の核となる部分を言葉にする。
「――パーツ以外の人々は、自分達が播種船の内部で生活していることを知りません。上層の居住区画が世界の全てであり、下層にこのような運用区画があることはおろか、外に宇宙が広がっていることも、六百年の間、航行していることも、記憶していません。……ここが、宇宙船〈セント・ブレンダン〉号であることを知っているのは、俺とアリスを含めた数人のパーツだけです」
 この船が播種船である、と聞いたときと同様、イタルはしばらく無言だった。今聴いた話の吟味をしているようだ。だが、前回は純粋に衝撃を受けている様子だったが、今回は、厄介事に巻き込まれた、とばかりに不快そうに眉をひそめていた。
「……君たちはこれが船であることを把握している、だが一般の搭乗者は知らない、ということは、その状況は意図してそう為されているんだな? パーツたちは敢えて、正しい情報を周知していない、ってことだな?」
「そうよ」
 返事をしたのはアリスだった。
「出航時からそう計画されていたそうよ。慎重に情報操作し、数世代の後にはほぼ忘れ去られていたらしいわ。その中でパーツの血筋の者たちだけは、『船』の情報を正確に伝えてきたの」
「なんでそんな厄介なことを?」
 アリスは答える代わりに肩を竦めた。厄介という点では同意だわ、と呟くように口にする。
「有り体に言ってしまえば、逃げないように、です」
 シイが引き取って答える。
「火星を出航したときから、目的の星まで六百年以上かかることは予定されていました。その間、数万の人々がおとなしく乗っているとは考えられませんでした。船の中で生まれて死んでいく世代がほとんどです。離脱を試みたり、六百年待てず、手近な星へ降りてしまおうとする人々も少なからず出てくると、当時の企画者は危惧したんです。――そこで、パーツ以外の全ての搭乗者の記憶を消すことにしました。居住区画が世界の全てであり、ここで生きていくしかない、となれば、外へ出て行こうとはしないだろう、と」
 険しい表情を崩さないまま、イタルは「酷いな」と呟くように言った。
「それは運営側が一方的にやったのか? それとも搭乗者の同意の上なのか?」
「同意の上だと聞いています。情報操作が行われたのは第一世代ではなく、第三世代以降だそうです。それを了承する者だけが、搭乗を許可されたのだと」
 イタルは、何も言う気が起こらない、とばかりに黙って頭を振った。
「……もういい。事情を聞かせろと言ったが、十分だ。この船が非常に特殊な状況下にあることは分かった。俺が何をどうこう言う権利もないしな」
 そして立ち上がると、制御卓の前、座っているアリスの傍らに歩み寄った。モニタ越しに、乗ってきた連絡艇を見つめる。
「世話になる一方で悪いが、燃料を分けてもらいたい。それと、いかれた通信機器を修理できそうなら、どうにか修理したい。それを見極めるのに、もうしばらく居させてもらいたい。目処がついたらできるだけ早く出発する」
「……分かりました」
「それから――」
 振り返り、アリスとシイを交互に見やった。
「帰投したら当然、この船のことは軍に報告する。この宙域は連合の統治下にあり、目指している星もおそらくそうだ。後日、改めて軍が接触し、然るべき対応をするだろう」
 シイは即答できず、息を呑む。
 外部勢力からの干渉を受ける、といった事態は想定していなかった。火星を出航した播種船は〈セント・ブレンダン〉号一隻ではないし、外界に人がいる可能性はゼロではないとは思っていたが、軍隊などというものが現れるとは。
「……わかりました。仕方がないですね」
 何が起こるか想像しきれないまま、曖昧にうなずく。
「それはそちらの事情です。俺たちには拒絶できない。その時が来たら対処します」
 ふと視線を感じて見やれば、アリスがまた目配せをし、今度は心話で問いかけてきた。
『後日、ってどのくらい先になるのかしら。ワタリの祭礼よりあと? それだったら……』
 わからない。シイは答える代わりに、黙って首を振る。

 * * *

 雨、そして明けない夜は続く。
 昼前に当たる時間帯、寺院の広間に祈りに来る人は少ない。代わりに、女たちが一角に集まり、布の山を囲んでいた。古着を繕ったり、解いて作り直している様子だった。
 電灯の点く場所は限られている。寺院の広間には毎日、何かしら作業をする人々が集まっていた。
 女たちの中にアリスも混じっている。針仕事はあまり得意でないことをシイは知っていたが、糸を解くくらいは手伝えるのだろう。
 少し離れてシイは、僧侶の一人に頼まれた、小型無線機の修理をしていた。むしろこういうことこそアリスは得意なはずだった。替わってやろうか、ともちらりと思ったが、自分はアリス以上に針仕事など苦手だったから、黙ってドライバを握っていた。
 筐体を開き、すぐに断線部分を発見する。繋ぎ直し、絶縁テープを巻く。
 多分、これで使えるようになっただろう。修理とも言えないほどの作業を、これで終えてしまうのも落ち着かなくて、シイは配線の他の部分を何とはなしに眺めやる。電源を入れ、適当にチューニングしてみる。ノイズの向こうに、遠くの誰かの囁くような声を拾う。うん、直ったようだ。――そして、繕い物をする集団へ視線を向ける。
 女たちはしきりにお喋りをし、笑いさざめいている。どれだけ日々が苦しくとも、まだ笑える。未来への希望がゼロではない、ということなのだろう。それを担っているのが、彼女らに混じっている一人の少女であることを、どれだけ意識しているのか。
 無駄に時間を潰していても仕方がない。無線機の筐体を閉じ、これを寄越した僧侶に返してこようと立ち上がる。
 そういえば。シイはふと思い出す。イタルの乗ってきた連絡艇の修理はできるのだろうか。通信機が故障したと言っていたが、自分が今やったような程度の話ではないのだろう。
 この船に流れる時とは全く異なる六百年を閲した外の世界、そこで発展した技術。
 自分の眼で見てみたい、と思う。羨ましい。悔しい、とすら感じる。なぜ自分が生まれたのはこの船の中で、しかも「パーツ」なのか。外の世界に生まれていれば。あるいは、この船の中であっても、皆と同じように何も知らないままであれば、こんな羨望や焦燥感とは無縁でいられたのに。
 ふと湧いた甲高い歓声に、物思いを中断させられ、シイは顔を上げる。女たちが座る輪の中に、アリスは一人立ち上がっていた。先ほど見たときとは異なる姿だった。真白く、細かい刺繍の施された華やかな衣装を羽織っている。裾は引きずるほど長く、それを打ち払ってみせては、笑顔を閃かせていた。
 そしてふと、視線が向けられる。
「シイ!」
 弾むような声、純白の装束をまとったまま、アリスは駆け寄ってきて、抱きついた。
「見て! ワタリの祭礼の衣装なの! みんなが黙って用意していてくれたの!」
 そして離れると、その場でくるりと回ってみせた。裾が鮮やかに翻る。
 急なことで咄嗟に反応できない。目を瞠ったまま、しばし見とれてしまう。
「……シイ?」
 アリスの怪訝そうな顔に、ようやく我に返る。
「ああ。……うん、似合ってる。いいと思う」
「それだけ?」
 反応が薄かったか、不満そうに口を尖らせている。シイは苦笑して、頭を撫でてやった。
「可愛いよ。よかったな」
 アリスは破顔し、また抱きついた。そして耳許で、囁くように。
「大丈夫だよね。ちゃんと務められるよね、私」
 シイに指向した心話ではなく、声に出して言った意味を思って、シイは強く抱きしめ返してやる。
「大丈夫。できる。ちゃんと俺もサポートするから。そのためにいる『スペア』なんだから」
 ありがとう。アリスはまた囁くが、首に絡めた腕を解こうとしなかった。これで少しでも安心するなら、とシイは背に回した手に力を込める。

 * * *

 やれるだけ修理してみる、というイタルは、乗ってきた連絡艇に詰めるようになった。燃料を補給したところで、最寄りの基地にも遠すぎて辿り着けない。長距離通信を復旧させ、現状を報告し、帰投の方法を探るしかない、ということだった。
 アリスは地下へ降りてくる度、エアロック前室に居座るようになった。アリスの「パーツ」の能力を駆使すれば、この部屋なら連絡艇の短距離通信で会話ができる。作業の合間に語られるイタルの話に、すっかり引き込まれた様子だった。イタルの話はあまり上手ではなかったが、六百年隔てられた外の世界の様子は、断片であっても十分に魅力的であるらしい。
『……じゃあ、植民する前の星は、しばらくロボットだけが人のように暮らしているの?』
『ああ。人のフリをしてな。人が降りていってすぐに社会が円滑に機能するよう、下地作りをするんだ。シミュレーションも兼ねている。この目で見たことがある訳じゃないが、記録映像は何度か目にしたことがある』
『面白い? それとも、気味悪かったりする?』
『そんなこと考えたこともなかったな。ロボットっていっても、一応人型、ってだけで、目鼻まできちんと作り込んである訳じゃない、針金細工みたいなもんだからな。声に出して会話するようなことはないから、その辺は気味が悪いかもしれないな』
『人が植民し出したら、そのロボットたちはどうなってしまうの?』
『引き継ぎを終えたら廃棄、だな』
『そうなの? 勿体ない』
 シイは溜息をつく。会話の内容は「パーツ」の機能で感応している。内容は興味深いのだが、あくまで傍受なので、一方的に聞いているだけだった。この部屋にも通信設備がないわけではないが、そこまでして積極的に会話に参加しようとも思わない。
 イタルを放っておくわけにもいかないので、日に一度は地下へ様子を見に来る。その都度アリスは話を聴きたがる。アリスの気質は分かっているから、できる限り付き合おうとは思うのだが、毎回、一時間以上費やされるとなると、苛立ちに近い疲れを覚えてしまう。
「……アリス、そろそろ」
 こうして声をかけるのも本当はしたくなかった。もっと話を聴きたいのは分かっている。言えば素直に応じるのは分かっているが、名残惜しそうな様子を見なくてはいけないのも嫌だった。
 エアロック隔壁の傍らにある通信機に歩み寄り、イタルに声をかける。
「少尉、俺たちはそろそろ戻ります。修理の目処は?」
『……まだ立たない。俺はメカニックじゃないからなあ。長居して悪いとは思っているが』
 そしてかすかに笑った気配が、スピーカー越しに伝わってきた。
『お嬢さんを独り占めしちまって悪いな。彼氏としては、気が気じゃないか?』
 その瞬間、シイは抑えようもなく、頭に血が上るのを感じる。
「あんたにそんな気を回してもらう筋合いはない!」
 後ろでアリスが息を呑むのを察して、シイは自分のやったことを理解する。
 何を感情的になっているのか。悪意のない軽口に。
 うんざりして息を吐き、再び通信機へ向き直る。
「……失礼。こちらにも日程に限界がある。あと十日で我々はここに来られなくなる。それまでに離脱の目処を立ててほしい」
 十日? と反問するイタルに、シイは、そうです、とだけ応じる。
 取り持つように、アリスが話を引き取った。
『あと十日で着くのよ』
『着く? 目的地にか?』
『そう。移民の目的の星に。エリュシオンに』

 * * *

 集落の外れ、枯れ朽ちた林に男たちが集まり、出立の準備をしている。
 おそらくはこれで最後となる「調達」の仕度だった。黒ずくめの装備に身を固め、武器の整備に余念がない。シイは参加するローテーションではなかったが、リーダーに呼び出された。
「スナイパーを、頼みたい。お前が参加する番じゃないことも、特殊な立場であることも全て承知の上でお願いする。これで最後だ。だからこそ、犠牲は最小にしたい。お前の伎倆と視力があれば、それが可能だと判断した。もちろん、お前の身の危険も最小に見積もった上でだ」
 そして、バンの後部に積んであるスナイパーライフルのケースを顎で示した。蓋は開いたまま、黒光りする銃身の一部が見える。
 触ったことがないわけではなかった。使い方は一通り身につけているし、「パーツ」の機能である視力と集中力を持ってすれば、誰にも負けないだろうとすら思う。
 だが今まで引き受けなかったのは、生命を勝手に粗末にできない自分の立場の特殊さに加えて、――スナイパーは高所のポジションを割り当てられることが大抵だからだった。
 そんなわがままも言っていられないのは分かっている。リーダーの言うとおり、自分の能力が今回の調達行に有用であろうことも。十分に。
「……聴かせてもらっていいですか」
 リーダーは頷く。
「目標はセント・ジュリアン病院跡。ヒース・コロニーが押さえている地下は無視し、上層階を捜索する。シイには隣接するローランド商会のビルから支援してもらいたい」
 無茶な、と胸中で呟く。セント・ジュリアン病院は完全にヒース・コロニーのテリトリーだ。無視するといってもどうするのか。自分のポジションを云々する以前に、この作戦自体に無理がありすぎる。
「玉砕でもする気ですか?」
 本気でそう訊けば、リーダーは苦笑する。
「まあ、難しい話なのは重々承知だ。だが手ぶらで帰るわけにもいかないしな。エチルアルコールの一瓶、点滴パックの一つでも持って帰れれば上等だと思っている。……それに、な」
 疲れた顔に浮かんだ笑み。何か言い淀んで、リーダーはまた口を開く。
「ローラに、子供が、できた」
「……」
 ああ、そういうことか。シイは口の中で呟く。腑に落ちた感覚は、脱力にも似て。
「だったら、尚更ローラの傍にいてあげた方がいいと思いますが。産まれるのは、ワタリの祭礼よりずっと先でしょう。リーダーこそ、生命を大事にした方が……」
「ワタリの祭礼を待って、過ぎて、そこから確実に状況は好転するか?」
「……っ、それは……」
「パーツであるお前にこんなことを言うのは、冒涜にも近いと思う。だが、ワタリの祭礼を経て来るという、『次の世界』とやらはどんな代物だ? この四六時中暗い空がばりばり捲れて、青く眩しい空が現れるのか? 足許の地面が裏返って、蜜と乳の流れる肥沃な大地でも出てくるのか? ワタリの祭礼を過ぎれば、ローラが安心して子供を産めるという保証がない限り、調達は続けて備えておくしかない。――それとも」
 黒い手袋に覆われた、握った拳で、リーダーはシイの胸を軽く小突いた。
「――お前が保証してくれるか?」
 シイは何も言えなかった。思わず小さく呻いてうつむく。
 保証なんて。できるならもっと強く止めるのに。
 何より自分が信じ切れていない。ワタリの祭礼などで、全てうまくいくなど。
 この人を死なせたくない、と切実に思う。自分がスナイパーとして参加すれば。それ以前に、「パーツ」として隠している諸々のことを全て明かし、イタルのことも、地下の運用区画のことも、そこにいくばくかの食糧や医薬品もあることも、教えてしまったなら。
 許されないのも分かっている。最悪の混乱を招くことも。
 自分に至るまで、代々のパーツが守り通してきたことを、この期に及んで台無しにしていいわけがない。
 黙ったまま、パーツの役目を果たすのが最善のはずなのだ。
 呼吸を整える。
 自暴自棄になる前に、やれることはあるのだ。
「……行きます」
 顔を上げる。リーダーの眼を正面から見据えれば、あからさまに安堵した様子で、これでいいのだ、とシイも自分の選択に納得する。
 が、その時、落ち葉を踏みしだく音が響く。走り寄り、右腕に勢いよく取りつく。アリスだった。
「絶対駄目!」
 呼吸も髪も乱れたまま、叫んでしがみついて離さない。
「駄目よ! もう調達なんて、シイは行っちゃ駄目! あとちょっとなのに、ワタリの祭礼まで、絶対危険なことしちゃ駄目!」
「……アリス。大丈夫だから」
「絶対、百パーセント、大丈夫なわけないでしょ? だったら駄目、シイが行かなきゃどうにもならないんだったら、調達なんて行かなきゃいいんだわ! あとちょっとなのに、本当に……」
 最後は涙声になる。小さく息を吐き、シイはアリスを抱き寄せた。どう言い聞かせようか、とも考えたが、激しく泣きじゃくる背を撫でるしかできなかった。ここまで動揺したアリスを見るのも珍しかった。
「アリス。大丈夫だから。俺が死ぬわけないだろ? パーツの能力もがあるんだから」
 耳許で囁くように。だが、背にしがみつく腕の力が強まり、返ってきた応えは。
「――置いていかないで」
 ああそうか、と思う。
 シイの身を案じているだけでなく、自分が取り残される恐怖とも闘っているのだ、アリスは。――独り残って、ワタリの祭礼を引き受けなければならない恐怖と。
「……分かった。もういい。アリス。シイ」
 リーダーの声に、二人で顔を上げる。
「アリスの言うとおりではあるんだ。やっぱりシイを危険に曝すわけにいかない。シイは残れ。今回の調達は、今いるメンバーで実行する」
「そんな……! だったら中止してください、無謀すぎる! あと少し堪えれば、ワタリの祭礼が来るんです。それまで待ってから、今後どうなるのか見極めても……」
 リーダーは笑う。くたびれた、皮肉な調子で。
「ずいぶんと自信があるんだな、シイ。無謀な作戦でも、自分が参加すればどうにかなると思ったのか?」
「……っ!」
 図星だった。思わず絶句すれば、リーダーはまた声を立てて笑った。
「ばかにするな。これでもナヴァン・コロニーを率いてきた身だ。お前がいないならいないなりの作戦行動をする。それだけの話だ」
 そして、軽く片手を上げると、踵を返した。
「もう行くぞ。……ローラを、頼む」
 服を掴むアリスの手が強まる。シイが返事をできないでいると、代わりにアリスが「分かったわ」と応えた。
 枯れ朽ちた林の、あちこちで準備をしていた男たちを集め、リーダーはいつもの埃まみれのバンへ乗り込む。シイはアリスと共に、黙って見送るしかなかった。

 * * *

 地下へ向かうのは夜中になった。
 頭痛と吐き気が治まらなかった。調達隊が未だ戻らない。誰一人。その事実がシイを苛んだ。――決めつけるには早すぎる。まだ丸一日しか経っていないのだ。撤収に手間取れば、二日三日とかかることがないわけではない。
 ベッドから出るのは辛かったが、眠れるわけでもなく、悶々として過ごすなら、地下にでも行った方が気晴らしにもなるかもしれない。今なら、イタルの世界の話も、現実逃避にはうってつけかもしれない。
 アリスは、と考えたが、こんな時間にわざわざ呼び出すこともない、と思いとどまった。そういえば、イタルも寝ていてもおかしくない。その時はその時だ。黙ってまた戻ってくればいい。
 図書室を抜け、螺旋階段を下る。遺伝子認証の扉をくぐり、いつも通り、エアロック前室へ向かう。照明が点いたままで、そのことにまず驚く。
「シイ!」
 弾むような声、立ちすくんだところに抱きつかれて、さらに目を瞠る。
「……アリス?」
 まさかいるとは。
「よかった。具合はどう? ずっとベッドから出てこなかったから……」
「なんで来ているんだ?」
 断ち切るような問いに、アリスは小さく息を呑んだ。
「もちろん、イタルの様子を見にきたのよ。シイの具合がずっと悪くて、来られないかと思ったから、とりあえず私一人でも、と思って」
「……」
 黙ってシイは頷く。小さく何度も。当たり前の、ごく普通の判断だろう。
 そのことで責めるべきではない。
「イタルとはもう話した?」
「ええ。もう作業は中断して、休むって言っていたわ」
「分かった。――アリス」
 呼びかけると、そのまま抱きしめた。
「もう一人で来ないで。あの人と二人っきりになったら駄目だ。お願いだから。……今日はもう、部屋へ戻って」
 耳許で囁くように言えば、苦しそうに身じろぎしたあと、ごめんなさい、と消え入るような声で、アリスは応えた。
「シイは?」
「俺は、……少しだけイタルと話していくから」
 分かったわ、とうなずき、アリスはシイと入れ違いにドアの外へ向かう。閉ざされる間際、向けられた視線が寂しげで、何か言いたそうで、それでもここでアリスと長く言葉を交わしたら、自分の方が感情をコントロールできなくなりそうで、シイは黙って見送った。
 この先どんなことになろうとも、アリスだけは。
 護らなくては。
 足を進め、隔壁の傍の通信機へ向かう。
「少尉。遅くなりました、シイです。今、お話ししても大丈夫ですか?」
 問いの応えは受信機からは聞こえず、注意を促す電子音と、気圧差に空気のこすれる音。隔壁がゆっくり左右に開かれていった。
「構わない。俺ももう今日は上がりだ、通信じゃなくてここでいいか?」
 まだ気密服を身につけたまま、ヘルメットだけ片腕に抱えた状態で、イタルが入ってきた。
「はい。ではここで」
「着替えながらで悪いが」
「構いません」
 イタルはロッカーへ向かった。ヘルメットを床へ転がすと、気密服の表面に並ぶ小さな機材やスイッチをいじり始めた。着脱も複雑な手順があるようだった。シイも初めて目にする。興味はあったが、人の着替えを凝視するのも妙な気がした。ベンチに腰かけ、相手が話せる状態になるのを待つ。
「……さっきな、アリス嬢から一通り聞いた。『地上』の事情をな。君たち『パーツ』の役割についても」
 だが、着替えながら先に語り始めたのは、イタルの方だった。
「『ワタリの祭礼』とやらについてもな」
 シイは無言で眉をひそめる。アリスが全て話した? なぜそんなことを? 自分が一緒にいたなら、必ず止めたのに。
「それで?」
 続きを促せば、イタルは振り返った。眉間に深くしわを寄せ、首を振った。
「酷いな。別に余所者の俺が、そっちのことにとやかく言うつもりはない、……なかった。だが、件の祭りは、酷いだろう」
 単純に「酷い」を繰り返すイタルの言葉に、シイはわずかに苛立ちを覚える。
「とやかく言うつもりがないなら、言わない方が賢明でしょうね」
「そう言うな。なかった、って言っただろ。俺だってできるだけ早く帰投したいんだ、六百年前の幽霊船のことなんざ知ったことか、で済ませたかったさ。だが、否応なしに巻き込まれちまった」
 そして、声を低め、言った。
「――アリスは、生け贄か?」
「……彼女がそう言っていたんですか?」
 質問に対して質問で返す。
 事情を知ったのなら、そう反応されるのは予想していた。まっすぐに向けられた強い視線を、正面から受けとめる。
「言ってないさ。自分の境遇を嘆くような言い方は、一切していない。だが、言葉の端々から推測できるさ。――そうなんだろ?」
「端的に言ってしまえば、そうなります。……アリスが駄目なら、俺が引き受ける。そういう立場です」
「なんだそりゃ。くっだらねえな」
 吐き捨てるようにイタルは言い放つ。
「『パーツ』だなんて勿体つけた呼び方しているから、何かと思えば、どうして行き着く先がそうなるんだ? 未開の古代人か、お前らは? それと、惑星エリュシオンに到着することと何が関係あるんだ?」
 シイは苛立ちを抑えきれず、顔を背けて唇を噛む。どうして部外者に、こんなことを逐一説明せねばならないのか。大体、なぜアリスは話してしまったのか。
 イタルはようやく気密服を脱ぎ、汗をかいたらしい髪をかき上げると大きく息を吐いた。
「アリスがな」
 そしてシイの返事を待たず、話を続ける。
「もし修理が終わっても、まだ出発しないでほしい、と。ワタリの祭礼が終わるまで待って、シイを連れていってほしい、とさ」
 顔を上げないまま、シイは目を見開く。
「惑星エリュシオンに到着するんじゃないのか? どうして逃げる必要がある?」
 すぐに返事できず、片手で顔を覆う。
 アリスがそんなことを。
 自分の役割だけで精一杯なのだと思っていたのに。その先のことまで、そしてシイの身を案じるまで、意識していただなんて。
 自分がいなくなった、あとのことまで。
「……パーツというのは」
 顔を伏せたまま、応える。声はくぐもってしまっていたが、聞こえないとは言われなかったから、そのまま話し続けた。
「文字通り、この船の部品の一部ということです。搭乗した六百年前の第一世代から、遺伝子操作された、言わばミュータント、クリーチャーの類です。実際、人間離れした機能を色々持っています。――俺も、アリスも。そして目的の星へ到着する際、初めて船に組み込まれ、本来の機能を果たす、と言われています。ワタリの祭礼は、この世界が船上であることを忘れられているため、多分に様式化されてしまっていますが、要はパーツを船へ嵌め込む作業なんです。そして初めて、この船は降下するフェーズに入ります」
 なんだかな、とぼやくようなイタルの声。
「もう今さら何を言われても驚かないな。信じる信じないは別としてだが」
 そして、ベンチの隣に腰を下ろす気配をシイは感じた。
「……で、それが確かなら、アリスはこの船に取り込まれちまう、と。お前は、アリスの予備ってことなのか? 彼女の哀れな犠牲で無事役目を果たせば、お前は余るわけだ。逃げる必要はないんじゃないか? 大手を振って、そのまま惑星エリュシオンへ降りちまえばいいんじゃないのか?」
 シイは首を振る。
「……うまくいく、とはとても保証できないんです。どれだけ遺伝子や記憶に刷り込みされていようと、とても信じ切れない」
 ゆっくりと顔を上げる。隣にイタルが座っているのは分かっていたが、あらぬ方へ視線を向けたままだった。
「六百年の間に、おそらくは結構な量のノイズが混じってしまっている。何が元から設定されていたことで、何が時間と共に紛れ込んだ都市伝説まがいの話なのか。ワタリの祭礼なんて、実は何の意味もないのかもしれない。船に組み込まれる、なんて実は大嘘なのかもしれない。全く別のことを、本来俺たちはしなければならないのかもしれない。……そうなったら、アリスは無駄死にし、この船もようやく辿り着いた星へ降りられない」
「……酷い仕様だな。六百年も先のことを完璧に想定しとけ、って方が無理な話だが。そういや、他のパーツとやらはどうなんだ? お前ら二人だけじゃないんだろ?」
 無理です、と疲れた声で、シイは応じる。
「いるとしたら、他のコロニーです。連絡を取ろうにもとれない。どこに何人くらいいるんだか、それも分からない」
 イタルは息を吐き、ベンチから立ち上がった。
「で、お前は、信じられない、と嘆いたまま、アリスを見殺しにするのか?」
 シイは何も言えない。腹も立たない。
 見殺し、と言われれば、確かに自分がしようとしていることは、見殺しだろう。
「……一つ、建設的な提案がある」
 そう言ってイタルは、シイの前に片膝をついた。一向にイタルの方を見ようとしない、シイの視線の前に出てくるような恰好になった。
「俺は一両日中にもここを出る。そしてこの船より先に、惑星エリュシオンに降下し、あそこに駐留している軍に状況を報告して、対処するよう働きかける。――あの連絡艇は複座だ。もう一人、連れていける。アリスを連れていってやる。それで少なくとも、前時代的な生贄ごっこで死なせることはなくなる。あとはお前がどうにか始末をつけろ。地上の連中に、真実を全て明かして、連邦軍の救助を待つよう言い聞かせろ。お前がアリスの代わりに犠牲になって、降下フェーズに移行させようとはするな、絶対にだ。軍が必ずどうにか対処してやる。不安だろうし難しい仕事だろうが、どうにかやり遂げろ。――それで、全員が助かる。全員だ」

第三章

 戻ってきた過程のことは憶えていなかった。気がつけば、寺院の地上階、石造りの廊下を歩いていた。
 地下の快適な空調が嘘のように、地上、居住区画は寒かった。普段通り、セーターやコートを着込んではいたが、それでも震えが止まらなかった。足許も覚束ず、壁にもたれる。今度は壁の冷たさに耐えられず、思わず呻く。
 無意識に向かったのは、自室ではなくアリスの部屋だった。この間来たのとほぼ同じくらいの時刻だろうか。
 ドアの前で立ち尽くす。
 もう眠ってしまっただろうか。ノックする気も起こらず、何もせず数分を費やす。
 どうするか。今なら、黙って部屋へ戻り、ベッドへ潜り込める。そうすれば、今まで通りの日々に戻れる。――あと十日足らずの、今まで通りの日々に。
「……いや違う」
 声に出して呟く。
 もう知ってしまったのだ。アリスを救う方法がある。どうあっても逃れられない、遺伝子レベルから刻み込まれたパーツの宿命から、解放される術があることを。
 それを意識したまま明日を迎えても、元の生活には戻れない。
 もう、戻れないのだ。
 だったら、先に進むしかない。
 一つ大きく深呼吸する。冷気が体内にも染みわたる。
『……アリス。もう寝てしまった?』
 そして、心話で呼びかける。
『シイ? 戻ってきたの? 今どこにいるの?』
 返事はすぐだった。起きていたのだろう。
『君の部屋の前。……話がある。聞いてくれないか』
 少しの間のあと、部屋のドアがそっと開かれた。ドアノブの幽かな音が、何倍にも増幅されて石の廊下へ響く。
 顔を覗かせたアリスは、シイを見るなり小さく息を呑んだ。
「酷い顔色よ。震えてる? 入って」
「いや……」
 促されたが、気が進まなかった。少しでも暖まってしまったら、それだけ決意が鈍ってしまう気がした。
「アリスが大丈夫なら、ここで話をさせてほしい。いい?」
「私はいいけど……」
 ちょっと待って、とアリス一旦室内へ戻り、ショールやコートを手早く羽織って戻ってくる。
「いいわ。聴かせて」
 うん、とシイは一つ頷く。自分にも言い聞かせるように。
「少尉が、近々出発するらしい。結局、元のところへ戻るのではなく、エリュシオンに降りてしまう、って」
「……そう。そうなんだ」
 アリスの表情が翳る。何か言いたそうにしているのを察して、シイは無理をして微笑んだ。
「少尉から聞いたよ。アリスが頼んだこと。俺のことも連れていけ、って」
 アリスはばつが悪そうに、上目遣いにシイを見上げる。そして、そのまま抱きついてきた。
「ワタリの祭礼での務めは、きちんと果たすわ。大丈夫。……シイはそのあと、独りになるでしょう? 無事、エリュシオンに降下できたらいいけれど、結局失敗に終わったら、きっとシイは辛い思いをすると思うの。だから、そうなる前に、少尉に保護してもらいたかったの」
 辛い思い、か。シイは胸中で呟く。そんな生易しいものではないだろう、と思う。
 人々の絶望が指向性を持ってしまったら。なぶり殺しに遭ってもおかしくないだろう。もしくは、スペアの務めを果たせ、とアリスの後を追うことを強要されるか。
 それならそれでいい。
 アリスがいなくなり、パーツの使命も存在意義も失われたあと、いつまでも生きていたいとも思わない。
 それでも、アリスの気持ちは嬉しかったから、ありがとう、と声に出して伝えておく。
 優しい娘だな、と改めて思う。優しくて心の強い娘。
 パーツとしてでなく、ごく普通の人として出会えたら、どれだけよかっただろう。この船の中でも、あるいはイタルたちの世界でも、どちらでもいいから。
 背に回された腕をそっと解く。両肩に手を置き、正面から蒼い眸を見つめる。
「アリス。君は少尉と一緒に行ってくれ。少尉には話が通っている。――先に、エリュシオンに降りて待っていて。俺は、皆に全てを説明して、落ち着いて救援を待つよう説得する。後のことは連邦軍がなんとかしてくれる、って少尉が確約してくれた」
 眼が見開かれる。これ以上ないくらい大きく。
「……何を言っているの? 行かないわ。私だけだなんて。それなら私も残って、シイと一緒に皆を説得するわ。でも、そもそも皆が信じてくれるとは思えない。少尉が姿を見せるのならともかく、私たちだけでいきなりそんなことを言い出したって、……パーツの務めを果たしたくないから、途方もない言い逃れを始めた、って思われるだけよ」
「分かってる。だから、アリスは少尉と一緒に先に行っていて」
 聞いてもらえないであろう事は、容易に想像がつく。しかもアリスを先に行かせた場合、彼女を救世主、救いの巫女と崇めていたコロニーの人々の怒りが、全てシイに向けられるだろう。――ワタリの祭礼に失敗した後の状況と、おそらくはさほど変わらない事態になる。
「ううん。やっぱり行けない。ナヴァン・コロニーだけでどうにかなる話じゃないもの。連絡の取れない他のコロニーでも、多分パーツは自分の義務を果たそうとして、その身を投げ出すわ。私一人、義務から逃れても駄目なの。それに、本当にワタリの祭礼には意味があるのかもしれない。パーツが全て、自分の役割を果たせば、本当にこの船はエリュシオンに降下できるのかもしれない。でも、私一人が逃げ出したせいで、駄目になってしまうかもしれない、って考えたら、絶対に逃げられないわ!」
 シイのコートの胸元を掴んで、アリスは言いつのる。上気した頬に軽く触れ、落ち着いて、とシイは小さい声でなだめた。
「大丈夫。そのときは、俺がスペアとして役目を果たすから」
「やめて!」
 シイの言葉を遮るように、アリスは声を上げる。
「違うの、私一人逃げるなんて嫌。シイに助かってほしいの。どうして私だけを逃がそうとするの? やめて!」
「アリス……っ!」
 石の廊下に声を響かせて、アリスが拒絶する。
 聞いてほしくて、どうにか落ち着いて聞き入れてほしくて。
 シイは掴んだ肩を抱き寄せ、唇を重ねた。
「……っ」
 ほんの数秒。アリスの方から振りはらい、それでもシイの腕から逃れようとはせず、うつむいて、嗚咽を漏らした。涙が石の床を濡らした。
「やめて! ……ここまでがんばってきたのに、私。ここで気持ちが崩れたら、今までは何だったの?」
 そして、ゆっくりとした動作で、肩に置かれたシイの手を外した。
「……キスなんて、やめて。辛くなるだけだから」
 その時、廊下の奥から細い光が差した。暗闇に慣れてしまった目を細め、シイとアリスは共に振り返った。
「――大きな声が聞こえましたが、そこでなにをしているのですか」
 声には聞き覚えがあった。僧侶の一人だ。手にランプを掲げ、不審そうに眼を眇めて、こちらを覗き込んでいた。
「シイ。……こんな時間に何をしているのですか? アリスの部屋の前で。……まさか……!」
 やめてくれ、と思う。下衆な勘ぐりは。そんな関係だったことなど、今まで一度もないのに。うんざりして顔をしかめ、シイは僧侶から視線を逸らす。
 だが、アリスは一歩下がると、畏まった声で、導師様、と声をかけた。
「シイを部屋に連れ戻して下さい。もう会いたくないです――ワタリの祭礼まで」
「っ、アリス?」
 振り返るが、アリスはシイの方を見ようとしなかった。
「シイに何かされたのですか?」
「……いいえ。何も。シイは悪くないわ。私が神経質になっているだけです」
 僧侶は、理解できる、と言いたげに何度も頷いてみせた。アリスは丁寧に頭を下げると、そのまま自室へ戻ろうとする。
「アリス! さっきの話は全部聞いていただろ? 頼むからその通りにしてくれ!」
 ドアが閉ざされる前に、と言いつのるシイの腕を、僧侶が乱暴に掴んで引いた。
「アリスは会いたくないと言っているのです。シイこそ聞いていたでしょう。部屋へ戻りなさい」
 振りはらう前にドアは閉まり、シイは呆然と立ち尽くす。
『……アリス』
 心話で呼びかけるが、反応は返ってこなかった。

 * * *

 軟禁状態。
 部屋を出られないわけではないが、ドアの外には僧侶が一人、必ず立ち、開ければ即座に用件を問われる。場合によってはついてくる。そのため、地下にも出向けなくなってしまった。
 あれから三日。
 もう出立すると言っていたイタルはどうしているのか。自分達がいなくても、おそらく一人で出ていけるだろうが、自室に籠もっていては確認のしようがない。――アリスならば、ハンガーに連絡艇がまだいるかどうか、ネットワーク経由で知ることはできるはず。そう思い至り、そのアリスにすら連絡が取れない現状に、シイは苛立ちにすら届かない虚脱感を覚える。
 この状況は、アリスが希望したのだろうか。
 違う、と思いたかった。自分もスペアとはいえパーツの身、ワタリの祭礼を前にして、扱いが変化するのはあり得る話だ。アリスの方は、七日前で既に潔斎に入っているはずだった。
『アリス。聞こえているんだろ? 何か返事をして』
 何度も心話を試みるが、応えが返ってきたことは一度もなかった。
 当日まで、このままなのだろうか……?

 ノックの音に、振り返りもせず、どうぞ、と応じる。
 食事は時間になれば部屋に運ばれてくる。あまり食欲もなかったから、積極的に迎え入れる気にもならなかった。ベッドに腰かけたまま、両手で額を押さえていた。
「久しぶりね、シイ。――少し痩せた?」
 だが、今日給仕に来てくれたのは。
「……ローラ、さん」
 集落の倉庫で会って以来だった。リーダーのパートナー。子を宿している、という話だったが、分厚い防寒着を着込んでいるため、腹部の様子はよく分からなかった。ローラは盆をサイドテーブルに載せると、シイの隣に腰を下ろした。
「ちゃんと食べている? 今まで通りでいられないのは分かるけど、当日を迎える前に身体を壊しちゃ仕方ないわよ」
「……。はい」
 ごく自然な振る舞いと、まず自分の心配をしてくれることへの戸惑いで、どう言葉を返していいのか、シイには分からなかった。
 だが、ずっと黙っているわけにもいかなかった。
「リーダーは?」
 ローラは寂しげに微笑むと、黙って首を振った。
「誰も帰ってこなかったわ。誰もね」
「……すみません」
 自分だけ行かなくて。行かなかった所為で生き残っていて。行けば誰かを助けられたかもしれないのに。色々な言葉が咽喉につかえて、息を詰まらせる。
 ローラは幼い子にやるように、シイの頭を撫でた。
「あなたは生きなさい。死んでほしくないから連れていかなかったのよ、うちのは。パーツの役目があるから、というのも勿論だけど、死ぬ必要がないのなら死なないでいいの。……アリスにだって、本当はあんな役目を負わせたくないわ。私には、どうしたら助けられるのか分からないけど」
 助けられる手段はあったんです。でももう間に合いません。アリス自ら拒絶してしまいました。多分もう、彼女を救える手だては、何もありません。
 洗いざらい喋ってしまいたかった。この船の真実も。イタルの来訪も。イタルの手を借りれば、アリスは助けられたかもしれないことも。――だが、咽喉まで出かかって、また言葉にはできなかった。
 そんなのはただの甘えだと、冷静に自覚する。これはパーツである自分が負うべき重みであって、他の誰にも押しつけてはいけないのだ。
「……大丈夫です」
 自分で思った以上にはっきりと言えて、そのことに少し安心する。顔を上げる。ローラの目をきちんと見る。
「アリスも俺も、きちんと役目は果たします。そのためのパーツの血筋です」
 もう手遅れなら、残ったのはパーツとしての役目であり矜持だけだ。

 * * *

 三日前にはシイも潔斎に入る。
 寺院の外には出ず、接触するのは僧侶のみ、食事は日に二回の薄い粥のみになった。もちろん、ナンセンスであることはシイ自身承知している。メインであるアリスが七日前から、スペアであるシイが三日前から、などというのも何の意味もない。それでも神妙に、全ての規定に従う。
 他に選択肢はない。

 衣装が用意されているのは、アリスだけかと思っていたが、当日になってみれば、シイにも着るよう指示された。といっても凝った装飾はなく、上下とも真白いだけの衣服だった。――だがそれだけに、死に装束、という言葉を嫌が応にも想起させられた。
 まとわりつくような霧雨。祭儀は屋外、寺院前の広場で始まる。
 鉦や太鼓、琴に鉄琴。寺院の時代設定に合わせたかのような、古色蒼然とした楽器類が持ち出され、演奏が始まる。無数に炊かれた篝火の、煙が夜空へ巻き上がる。火影が旋律と共に揺れ動く。
 そして中心には、白無垢の衣装をまとったアリスが立つ。
 長い袖を裾を打ち払い、ゆっくりと舞い始める。鈴の音を伴って。重そうなアクセサリをきらめかせ、ブロンドが雨に溶ける。
 隅に用意された椅子に、シイは控えている。両側には僧侶が侍していた。
 半ば放心して、アリスを眺めやる。綺麗だ、と思う。まるで現実感がない。幻想的な光景に、ただただ心を奪われる。
 そういえばこの舞の練習も、随分前からやっていたっけ。こんなの私に向いてないわ、と愚痴をこぼしながら。辛うじて残る思考力で、そんなことを思い出す。もう遙か昔のことのように思えた。パーツが受け継いできた記憶に混じり、何世代も前の誰かの思い出のようだった。
 アリスが足を踏み鳴らす。鈴が跳ねる。鉄琴が打ち鳴らされる。
 広場の外側には、コロニー住民たちが遠巻きに集まっている。視線を滑らせてみたが、煙と雨とに霞んで、一人一人の顔までは見分けられない。――もういい。どうでもいい。知己であろうがなかろうが、自分にとってはもう「生活を共にした人々」ではなく「船の搭乗員」でしかない。あとは自分が役割を果たして、皆を地上に降ろすだけだ。それが適わなければ、……自分の存在は終わる。どういう形であれ。
 舞は次第に速く、激しくなっていく。演奏も共に、大きく力強く。汗が飛び、着付けが崩れる。鈴のついたアンクレットが外れ、不協和音を響かせる。
 アリスの姿に見とれていたシイは、次第に現実感を取り戻してきた。舞が美しさから逸脱してきている。髪は乱れてもつれ、表情は恍惚として視点が定まらなくなってきている。衣装も崩れ、脱げ落ちないかと心配になるほどだった。――トランス状態になっている。
 こんなのは聞いていない、と口の中で呟く。祭儀の手順はもちろん知っていたが、舞など、形式だけのものだと思っていたのに。
 思わず立ち上がりそうになる。それを両脇の僧侶が無言で制する。
 何なのだこれは。踊りで忘我の境地に至ることがないわけではないだろう。最後の命懸けの舞に、アリス自らのめり込んでいるというのもあるかもしれないが、こんなに短時間で、初めての舞台で、ここまで入り込めるものなのか。――何か薬物でも盛られたのではないか。
 悲鳴。
 アリスは頽れる。倒れたまま肩で息をしている。と同時に演奏も途切れた。音もなく降りしきる霧雨の中、喘吸だけが幽かに伝わってくる。
 四方の袖から僧侶たちが寄って集まる。そしてアリスを担架様の台に載せ、担ぎ上げる。手際のよさは、一連の流れが、最初から祭儀の手順として組み込まれているのであろうことを思わせた。
 演奏は再開された。一転して地を這うような、緩やかな低音の旋律は、祭儀が次の段階へ移行したことを示していた。
 台の上で仰向けに横たわったまま、アリスは運ばれていく。呼吸は未だ荒いままだったが、目は閉じられているようだった。意識はあるのかないのか。
「……っ、アリスっ!」
 シイは思わず椅子を蹴倒し立ち上がる。両側の僧侶に押さえ込まれるように制される。
 ここからアリスがどうなるのか、シイは知らなかった。台はゆっくりと寺院の建物へ運ばれていく。――おそらくは、二度と外へは出てこない。
「離してくれ、俺もパーツなんだ、一緒に……っ」
 見えなくなるのが耐えられなくて、祭儀の進行などどうでもよくなって、思わず声を上げる。だが、その場で更に押さえ込まれるかと思いきや、シイは両側からしっかりと腕を掴まれたまま、歩かされた。――アリスの台の後を。
 行列は正面から寺院へと入っていく。
 広間に至れば、正面の派手な祭壇はいつの間にか撤去されている。今まで見えなかった奥の壁には、大きな両開きの扉が開け放たれていた。擦り切れた絨毯につまずきながら、引きずられるように連れていかれる。初めて見るドアをくぐる。
 外の演奏はもう聞こえない。石造りの部屋はさほど広くもなく、僧侶たちの足音に、衣擦れまでも反響する。アリスの載った台はすぐに降ろされた。部屋の四隅には石灯籠のような灯明、そして中央に大きな矩形の窪みがあり、そこからも蒼白な光が漏れ出て、天井に奇妙な影を揺らしていた。
 これから何が起こるかを理解し、シイは悪寒に捕らわれる。息を詰まらせる。
 やめてくれ。声にならない声で呟く。
 分かっていた。産まれる前から、物心着く前から、アリスに出会う前から、パーツとはこうなるものだということを。覚悟の上でここまで生きてきたのだし、アリスに寄り添ってきたのに。いざ、時が来ると、身体の芯から拒絶が溢れてくる。寒気と冷や汗が治まらず、四肢に力が入らない。
 横たわるアリスから、目が離せない。
 自分はいい。自分が犠牲にされるのは、全く怖くないのに。
 再び、アリスの台が持ち上げられ、穴の縁に合わせるように運ばれる。頭側、窪みに近い運び手の僧侶が下がり、足許の僧侶だけが残る。
「……やめてくれ。頼むから」
 出ないと思っていた声が出て、それに後押しされるように、全力で拒絶を吐き出す。押さえつけられた腕から逃れようと、無我夢中で暴れる。
「やめろ! 俺が代わる! スペアの俺だっていいはずだ! アリスはやめてくれ! 頼むから……っ!」
 僧侶たちは何も応えない。手の空いた者も加わり、手足に頭までもを床に押さえつけられる。それでも必死に首を巡らせ、アリスからは視線を逸らさない。
「パーツを、あるべきところへ」
 アリスの足許に残った一人が、静かに唱えた。
「我らを、次の世界へ」
 そしてその場にいる僧侶全員が唱和する。
 台の足許だけが、ゆっくりと持ち上げられる。アリスの身体が滑る。少しずつ。足首に残っているアンクレットの鈴が、小さく鳴る。
 そしてパーツの乙女は、

 シイはあらん限りの力で絶叫する。

 * * *

 気がつけば、石の床に倒れ伏していた。拘束していた僧侶たちはもう離れている。立ち上がろうにも力が入らず、その場に蹲る。咳き込む。
 僧侶たちは壁際に退き、聞き取れない言葉を詠唱している。どうにか上体を起こし、周囲の状況を確認してから、シイはアリスの姿が消えた穴に這い寄る。覗き込み、――その底知れなさに、眩暈を覚える。
 縦坑は井戸のように、縁の数メートル下まで澄んだ水が満ちている。水の中、壁面には照明が仕込まれているらしく、遙か底の方まで明るく見通せた。
 そして。遠く深みに霞んで、アリスと思われる白い衣装の影が見えた。
 何度目かの悪寒に背筋をわしづかみにされる。なぜ浮いてこないのか。あの重そうな装身具の所為か。これではパーツの役目以前に、溺れるだけだ。
 床に爪を立てる。呼吸が浅く速くなる。水は怖くない。あんな底まで潜水できるかどうかは分からないが、やらなければならないのだから、やる。――だが、水面までの数メートルに、怖じ気づく。
「……ばかか俺は」
 口の中で呟く。
 水は怖くない、死ぬのは怖くない、などと言いつつ、相変わらず高いところは怖がっている。現にアリスが、すぐそこで死にかけているというのに、まだ自分の方が大事なのか。
 肩越しに振り返り、傍らの僧侶を見上げる。相手は詠唱を続けていたが、視線だけはシイに向けていた。
「――行きます。メインのパーツが機能しなければ、後を追うのはスペアの役目です」
 返答は聞かない。上着を脱ぎ、部屋の隅の石灯籠へと歩み寄る。石の塊を抱え降ろして衣装でくるむ。僧侶は何も反応せず、それがかえって腹立たしい。縦坑まで戻り、重石を腹部に巻き付け、――肺が許す限りの空気を吸いこむ。
 今行くから、アリス。
 竦む足を叱咤し、シイは下方の水面へ、飛び込む。

 水音と静寂。温度は予想外にも人肌に近い。真っ直ぐに下へ。呼吸はすぐに苦しくなる。もちろん耐えるしかない。等間隔に灯りの点る、エレベータシャフトのような水中は、すぐに距離感を失う。重石にしがみつき、ひたすら下を、アリスを目指す。
 白い衣装と眩いブロンドが、散り落ちた華のようにたゆたっている。
 片腕を伸ばし、抱き寄せる。重石を外そうとしたが、片手だけではうまくいかず、焦りを誘う。そのまま二人で沈み続ける。遙か水面を見上げたが、水中より暗いせいか何も見えなかった。――いずれにせよ、僧侶たちのいる中へ浮上したところで、助かるとは思えない。
 ここからどうするか。
 肺が苦痛を訴え始めている。できればアリスに息を分けてあげたかったが、そうしたら最後、自分が動けなくなる。
 光の加減がここまでと違うことに気づき、下方へと首を巡らせる。壁面に点々と仕込まれている照明とは別に、一際強い光が、横穴から溢れていることに気づく。
 重石がようやく外れる。身体が一気に浮き上がる感覚に、必死で体勢を整える。アリスを抱えたまま、どうにかその横穴へ滑り込む。
 通路のようなそれは、数メートルですぐに突き当たり、上への縦穴に切り替わっている。
 間違いないだろう。地上の別の部屋へ通じる路だ。
 後はもう、生存本能と身体の悲鳴に従うだけだった。無我夢中で水を掻く、蹴る。アリスが重くて思うように浮いていかず、焦りは恐慌を呼ぶ。重い金属製の装身具を外せばいいのだ、と頭の隅では分かっていたが、今の状況でそんな細かいことができるとは思えなかった。
 唐突に、頭が水面に上がる。貪るように空気を吸う。安堵で力が抜け、再び水中に沈みかける。どうにか身体を支え、頭上を仰げば、そこは天井の高い、広々とした室内だった。プール状になっており、床は少し先、水面と同じ高さに見えた。
 アリスを引っぱって縁まで連れていく。自分の身体が重く、床に上がるのも一苦労だったが、アリスを引き上げるのはもっと難しかった。なりふり構わず、呻き声を上げながら、どうにかやる遂げる。
 休む間もなく、蘇生処置にかかる。人工呼吸と心臓マッサージ。まだ自分も呼吸が落ち着いていない。眩暈を覚えるが、倒れ込むわけにいかない。
『アリス、目を覚まして。アリス』
 声に出して呼びかけるより、効果があるような気がして、心話で呼びかけ続ける。――ここ何日も、心話に反応はなかったけれど。
 腕は水から上がるだけで既に疲れている。痺れてくる。拒もうとしない唇を重ねて、息を吹き込む。頼むから。アリス。他の全てはどうでもいいから。君だけが助かってくれれば。
 何度目かの人工呼吸で、不意にアリスは咳き込み、水を吐く。大きく息を吸い、また咳き込む。
「アリス……っ」
 安堵のあまり、シイはその場に崩れ落ちる。

 * * *

 ほんの短い間、意識を失っていたのか。頬に触れてくる優しい指に、シイは目を開く。正面には横たわったまま、力なく微笑むアリスの顔。
 ありがとう、と声にならない声で言われて、シイもようやく少しだけ笑い返した。
「アリス、聞いて」
 そのままの姿勢で、掠れた声で。
「身体、辛いと思うけど、いつまでもこうしていられない。今できることをしなくちゃ」
 うん、とアリスははっきり頷いた。
「君の能力で現在位置を確認して。それから、……ここからブリッジへ行けるか、調べてくれる?」
「ブリッジ?」
「ああ。俺たちがこれからなにかできるとしたら、艦橋へ行くしかないと思う。行ってみなければ、どうなるか分からないけど」
「……待って」
 アリスは辛そうだがゆっくりと上体を起こす。そして目を閉じる。イタルに提供する部屋を探したときのように、艦内情報を走査して、ブリッジへの道のりを調べているのだろう。
「行ける。歩くと少しかかるけど、道は通じているわ」
「なら、行こう。俺が背負っていってあげるから」
 アリスは首を振ったが、立ち上がろうとして二度失敗し、結局は同意した。少しでもシイの負担を軽くしようと、自ら重い装身具を全て外し、水を吸った衣装を脱いで、肌着一枚の姿になった。――今は気にしている場合ではなかった。シイも重石を括るために、上衣を脱いでしまったため、上半身に何も着ていない。
「助かろう。二人で」
「うん。二人で」
 頷き合い、部屋の扉へと足を進める。

 石造りの廊下から、長い階段へ。

 遺伝子認証のドア。リノリウムの廊下。

 果てしない通路。未だ問題なく動いているのが意外なエレベータ。そして、また通路。

 人気のない、他に動くもののない船内を、シイは歩き続ける。アリスはシイを気遣いながらも、子供のように、背中で話を続けた。二人でこっそり世話をした仔猫のこと。図書室で一緒に読んだ本の話。亡くなった母の思い出。リーダー、ローラ、他、コロニーで一緒に暮らした人々の記憶。そして、二人で交わした他愛のない会話の再現。徒然。

「私もエリュシオンへ降りれるかな」
「地上へ?」
「そう。だって、私には絶対、どうやっても無理だと思っていたもの。イタルの言うように、あそこにはもう沢山の人が生活しているんでしょう? 広い大地と広い海と、青く晴れた空の下で。昼間の晴れた空を見たいわ。それから人々が暮らしている街。私が産まれ育った、廃墟と闇の街じゃなくて、明るくて活気に満ちている街……」

「ここよ」
 アリスが指し示したそこには、大きな両開きのドア。何も操作しなくても、正面に立っただけで静かに開く。
 前方に傾斜した、広大な部屋だということは分かった。だが照明が薄暗く、すぐには全容が掴めなかった。と、足を踏み入れると同時に、一気に明度が上がる。――まるで二人が来るのを待っていたかのように。
 緩やかな階段状のフロア。無数の座席と制御卓。そして、前面から頭上を覆う、四半球状の巨大な画面。二人は思わず声を上げる。その中央には、眩いばかりの青い惑星が、星空の中、静かに浮かんでいた。
 惑星エリュシオン。
 六百年の悲願の果て、ようやく辿り着いた約束の地。
 立っていられず、シイはその場にしゃがみ込んだ。背中のアリスもそのまま降り、そっとシイの手を取った。
 青い星の姿に魅せられたまま。
 パーツとして受け継いだ、遙か何世代も前の記憶、掠れて滲んでぼんやりとした、地球の姿によく似ていた。
 突然、頭上から合成音が響いた。
『乗員ナンバー一〇〇〇四五八六六、二十四代目パーツの存在を確認。配置に着きなさい』
『乗員ナンバー一〇〇〇五〇二三九、二十二代目パーツの存在を確認。配置に着きなさい』
 そして、前方二カ所で同時に何かが立ち上がる。不意のことで緊張したが、よく見れば、半球型の蓋のようなものが、開いただけのようだった。
 アリスの手を握ったまま、シイは立ち上がる。周囲に目を配りつつ、ゆっくりと歩み寄る。
 近づいてみれば、それはコクーン型の座席のようだった。他がシンプルな椅子と制御卓であるのに対して、ここだけに巨大な卵のような機械が何基か並んでいるのは、異様にも思えた。
「……入れ、ということか?」
 誰にともなく疑問の言葉を漏らすが、どこからも返事はなく、コクーンは口のように蓋を開いたままだった。内部には、座ったら埋もれてしまいそうなほど、厚く柔らかそうな座席があるだけで、手で操作する制御卓やパネルの類は見られなかった。
「ちょっと待ってくれ。ここに入って本当に大丈夫なのか? 『パーツ』のための席なんだろう? 中に収まったが最後、取り込まれてしまうなんてことは……」
「シイ」
 焦りを口にするシイの腕に、アリスがそっと手を添える。
「これでいいのよ。これがパーツの本来の役割なのよ。……水に投げ込まれて溺れ死ぬより、遙かに納得がいくわ」
 そして、アリスの方から手を伸ばし、シイの頬に触れ、唇を重ねた。
「愛してるわ。……大丈夫。また逢える、必ず」
 シイが何も言えないうちに、アリスは離れ、自らコクーンの内部に収まった。閉ざされていく蓋に隔てられる直前、アリスは微笑み、小さく手を振ってみせた。
 音を立てて蓋が閉まる。黒光りする巨大な繭は音もなく、中を窺い知ることはできなかった。
「……分かった。また逢おう、絶対」
 聞こえていないことは承知の上で、声に出して応える。一つ深呼吸をし、自分も開いているコクーンの中へ、身体を収める。

エピローグ

 星空。
 全ての星明かりに満ちた闇の深淵、かつて居住区画で投影されていた虚構の映像ではなく、大気のベールによって遮られてもいない。
 文字通り吸いこまれそうな感覚、身を支えるものが何もないことに気づき、シイは思わず声を上げる。手を伸ばしたけれど、身体を預けたはずのコクーンの座席にも、硬い筐体にも指は触れなかった。――墜ちている。
 恐慌を来たし、さらに悲鳴を上げる。
 落ち続けたまま視界は回り、上下の感覚が失われたころ、唐突に円い惑星が眼に入ってくる。目標となるものがはっきりとし、どうにか身体をそちらに向ける。冷静に、惑星エリュシオンの重力に引かれていることを感じる。
 自分の声は聞こえる。だが、目の前に手を持ち上げても見えない。呼吸はできている。墜落感は続く。肌の感覚は、今までと変わらない。
 分かった、と呟く。船に五感がリンクされている。パーツとして組み込まれている。
 自分の肉体はどうなったのか。
「……アリス?」
 声に出して問いかける。身体ごとぐるりと巡らせるが、アリスの姿は見えない。そもそも船の姿も見えていない。
「アリス! 聞こえているなら返事をしてくれ。アリス?」
 だが応えが返ってくる前に、目の前に矩形の窓が開き、シイは驚いて目を瞠る。わずかな混乱ののち、それが通信画面で、映っているのがイタルであることに気づいた。
『シイか? お前は無事なんだな? アリスは?』
 十日ほど前に別れたばかりなのに、その外の世界の人はあまりに懐かしく、頼もしく感じられて。思わず溢れそうになる涙を堪え、無事です、と応えようとして、少し躊躇う。
 同じようにコクーンに収まったのだから、アリスは無事なのだと思いたいけれど。
「……多分、無事です。ついさっきまで一緒でした。今現在、連絡が取れませんが」
『計画通りにできたのか?』
 首を左右に振るが、相手にそれが見えているのかは分からなかった。
「真実を皆に知らせることはできませんでした。祭儀が終わっても、おそらく『地上』には何も変化が起きてないでしょう。今ごろはパニックになっているかもしれません」
『……仕方ねえな。現時点での最善を尽くすしかないか』
「状況を教えてもらえますか。こちらの船の状況を」
 イタルは画面の向こうで頷く。軍帽を被り、硬い表情を見せるその姿は、歴とした軍人だった。
『航宙船〈セント・ブレンダン〉号は惑星エリュシオンからイプシロン星系の方角、距離約九六万キロメートルに位置している。惑星方向に秒速三〇キロメートルで航行中』
 シイは思わず唇を噛む。距離、速度の数値は漠然とイメージできるが、それが船の状態に対して何を意味するかは自分には理解できない。
 と、不意に視界にグリッドラインが現れる。いくつものウィンドウ、一つは惑星と船の位置関係を模した立体図、一つは何かのログらしき文字列が淀みなく流れ続ける。そして、低く穏やかな女性の声が、どこからともなく響く。
『乗員ナンバー一〇〇〇四五八六六。当船はただ今より惑星エリュシオンへの降下フェーズに移行する。コントロールを預けてよろしいか?』
「……な……っ」
 無茶を言わないでくれ、と思う。自分は遺伝情報を受け継いできたパーツという容れ物のようなもの、知識はある程度受け継いではいるものの、操船などできるはずもない。
 ここまで来て、不安がまた首をもたげる。本来、パーツはそこまで担わなければいけなかったのではないか。六百年の間に失われてしまったのか。――ブリッジへ辿り着いたはいいものの、結局は何もできず、みすみす失敗するのか。
 その時、ふわりと腕に触れる手。慣れ親しんだいつもの感触に、シイは力の抜けるような安堵を覚える。
 アリス。
 同じように宙に浮いた状態で、唐突に現れた。
「〈セント・ブレンダン〉号。こちらは乗員ナンバー一〇〇〇五〇二三九。コントロールは受け取れないわ。惑星から送られてくる情報は、私が中継してそちらへ流します。惑星への降下は、あなたがそのまま行って」
『了解。引き続きコントロールを維持する』
 アリスの宣言に、「船」を名乗る女性の声は、意外にもあっさり引き下がった。
「大丈夫よ。ここまで独りで飛んできた船だもの、十分な情報さえ渡せば、無事降りられるわ。シイは、視て、聴いて、惑星からの全ての情報を受け取って。私が感応して、それを船へ流すわ」
 傍らのアリスを見やる。いつもの顔。いつも傍にいた顔。変わらない。
「分かった。……少尉、情報と指示を下さい」
 目の前に開くウィンドウで、イタルは頷いた。
『了解した。俺は引き続き窓口としてここはにいるが、以降は専門の管制官に引き継ぐ。具体的な指示はそちらから受けてくれ』
 はい、と二人で頷く。新たにウィンドウが開き、管制官らしき人物が映る。
 アリスが頭上を振り仰ぐ。
「〈セント・ブレンダン〉号。余分な情報表示は極力減らして。……私たちには要らないものが多すぎるわ」
 了解、と音声。途端に、周囲のグリッド表示や、見ても分からないウィンドウの数々が一斉に消えた。残ったのは、連邦軍との通信用の画面と、――中央に眩く輝く青い惑星。
 宙に浮いていることを改めて感じる。惑星へ墜ちていく感覚。
 青い星へ。大気と光に満ちた、青い空へ。墜ちていく。
「やっぱり、怖い?」
 アリスの問いには戯けるような響きが混じり、シイは苦笑して首を振る。
「ここまで来てしまえば、もう、高いところが怖い、って以前の問題かな。大丈夫、アリスが傍にいてくれれば」
 そして、そっと抱き寄せる。
「降りよう、一緒に。あの惑星に」
 返事は、背中に回されたアリスの腕。

空へ墜ちる日

最後まで読んでくださってありがとうございました。
設定が古臭いことは承知だったりします。
普段あまりやらないことを色々やってみた代物でした。おかげで枚数の割に難産でした。
書いた当人はそれなりに勉強になったと思います。
読んでくれた方にも何かしら残ってくれれば。

空へ墜ちる日

昼の来なくなった世界。エネルギーの確保が困難になり、都市を放棄した世界。 シイとアリスは、小さなコロニーで兄妹のように育った。「パーツ」として、世界の行末を担う存在として。 「ワタリの祭礼」を経れば、世界は「次の世界」へと移行すると人々に信じられていた。だが、シイとアリスだけは、真実を知っていた。「パーツ」の自分たちが何を意味する存在なのか。この世界が今後どうなっていくのか――。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2010-08-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 第一章
  3. 第二章
  4. 第三章
  5. エピローグ