静かな樹と僕

出会いは常にある

 降ったりやんだり、夜の雨が落ちてくる。ぽつぽつと、時に激しく。台風の影響なんだってさ。そんな説明。
 僕はマンションの通路から街を眺める。幾何学的な住まいが連なっている。縦にも横にも奥にも。それは雨雲に覆われた、夜の空に飲み込まれ、霞んでいる。今はぱらついている雨。地面を叩く音が静寂を深めていた。眼下には街灯が点在して、行く交う車のヘッドライトを溶かしている。僕の知らない誰かが、確かに誰かが道を行っている。
 僕はここで眺め続けている。雨雲に覆われていても、途切れるその隙間から、月の明かりが鈍い色を雲を浮かび上がらせていた。ここからこの雨粒のように僕がふらっと落っこちたとして、その音は一体なにを運ぶのだろう。
 まるっきり暗いわけじゃあない。眼下の人工灯と、見え隠れの月明かり。それで景色はうっすら浮かんでいる。だから僕のメガネは水滴に埋まる。
 まるで能面だ。ここの景色は能面だ。どうせなら、厚い雲の暴雨が舞い乱れていれば救いようがあるのに。だから僕は狭い明かりの少ない路地を歩くことにした。雨は少し強まったが傘は持ってきていない。六月の雨は冷たい。そしてじれったい。
 特に行く場所はない。ただ黒い影の草木や街路樹に同化したかった。いや正確には、なにかおしゃべりを聴きたかった。さすがに深い夜の今は、眠っているようだ。だけど、大きい木は、声を奪う雨粒の傘になってくれた。それだけで嬉しく、黒い影が鮮やかに見えた。
 こういう路地は、タクシーが停まっている。赤いテールライトを光らせて。タクシーはゆっくりと進み、角を曲がる。それは何か虫のようだ。
 僕は思った。ナウシカのオウムだって。誰かにこの発見を言いたかったけど、聞く者はいない。そのかわり、自分の中で話が進んだ。オウムが赤い眼をしてるときは、怒っているときだった。この虫達は、なにに怒っているのだろう。おまけに信号も赤を放っている。依然、街路樹は黒い影で、街灯に少しばかり色を現していた。
 僕はそんな怒りの理由なんて知りたくもないな、とじれったい雨に曝されていた。
 なんて静かなんだと改めた。虫の鳴き声も風に乗せる樹々の囁きもなかった。それでも、人工灯より豊かだ。だから僕はより樹々に自然と注意が向いていた。黒い影の幹の真横に、僕と同じように傘もささずに佇む人がいた。白い服、ワンピースなんだろう、それが浮かんで見える。おかげで長髪の女性だとすぐに分かった。
 惹きつけられるように、僕はそちらへ足を向けた。恐怖心は全くなく、この予定があったから、夜の散歩にくり出したんだと思うほどに。僕はその街路樹の傘の中に入って、彼女の前でとまった。彼女は身動きもせずに、僕を直視していた。辺りの雨粒が、地面を鳴らし、BGMと化していた。長い間、僕らはそのままでいた。長過ぎる空白のなにかを埋めるように。彼女は静かに言った。
 「お久しぶりです」
 僕も返した。また静かな雨の音楽に浸った。そして続ける。
 「長い間、お目受けになりませんでしたけど、お元気でいらしました?」
 「はい。あなたこそ元気でしたか」
 彼女の瞳は雨粒のようにしっとりと輝いていた。けれどそよ風がゆるく吹き通り、街灯の明かりを枝葉が遮ったとき、その輝きは陰りを映した。
 「そうですね。私は健康でした」
 なら良かった、と言いかけたところだった。月の明かりも雲に遮られ、一層瞳が陰って、付け足した。
 「けれど、寂しかった」
 「どうして」
 そう言ったものの、なにか分かる気がした。それを感じ取ったのか、彼女は問いかけには直接こたえず、こう返した。
 「そう。あなたと理由は同じです」
 僕は、それを耳にしたことで胸を締め付けられるようだった。同時にすこし目頭が熱くなった気がした。僕は眼を伏せてしまった。まだ月も雲に隠れて、風もやんでいなかった。彼女は少しのあいだ黙っていた。眼を伏せた僕を見つめて。
 「依然、こうして会ったのはどれぐらいまえだったでしょう」
 彼女はゆったりと語りだした。
 「あなたと会って、私は嬉しかった。あなたは私にはじめて話しかけてくれた方だったから。あの時の悦びと言ったら、今でも忘れることはありません。けれど」
 僕はここで伏せるのをやめて、彼女を直視した。その表情に笑みは見て取れなかった。枝葉がそうであるように、彼女の長い髪もなびいていた。
 「けれど、あなたが去って以来、またそれまでと同じように、誰も私を見向きもしませんでした。私がどれほど囁いても、風に乗せて遠くに声を運んでも、だれも」
 「だけど、あなたの話し相手は、決してぼくだけじゃないはずなんじゃあ・・・」
 彼女の瞳の深さに、僕はついおかしなことを口走ってしまった。そういうことじゃないことはわかっているのに。それでも彼女は優しく囁いた。
 「そうですね。仰る通りです。けれど、私はご覧のように、ここにいます。この街に。それはあなた方とともにいるということになりますよね。・・・けれど、私はその誰からも見向きもされませんでした。まるでいないかのように横を通り過ぎる人ばかりでした。たまにあなたを見かけましたが、その時は他の人と同じように通り過ぎて・・・」
 彼女の長い髪はなびかなくなり、垂れ下がっていた。僕は耐えきれず小声で謝っていた。
 「謝らないでください。私は決してあなたを責めているわけじゃないのですから。確かに寂しかったけれど、こうやってまたあなたと話せて、嬉しいのです」
 「ごめん。僕が何かにつけて言い訳していただけなんだ。あなたと会って以来、仕事が忙しいとか、いるのが当たり前だとか思ってしまって」
 彼女はゆったり首を横に振り、あくまで労ってくれようとしていた。
 「それは致し方ないことです。私は、ここにいる私らは”街路樹”なのですから。毎回ゆっくり話せる時間は取れないことでしょう、あなた方お人ならば」
 「僕が愚かだったんだ。時間がとか何かとかこつけて、なにが一番大切か、忙しさで見えなくなりかけていたんだから。だけど僕は」
 彼女はその言葉を継いで代わりにいってくれた。追求もせずに。
 「こうやって気づいてくれて、また話せるようになりました。この街にいる私らにとって、話かけてくれる人がいることは、思いのほか嬉しいのです。毎回とは言いません。こうやってたまにでもお会いして、お話ができたら、幸いです」
 彼女ははじめて笑みを浮かべていた。雲も切れ月明かりは降り注ぎ、落ちてくる雨粒がきらきらと輝いていた。
 「僕からも、改めてよろしくと言わせて。また会いにくるよ」
 彼女はこれを聴くと、ふっと消え入った。そして真横の黒い影の樹は、雨に濡れているその長い枝葉を風になびかせながら、しっとりと輝きを放っていた。僕はその幹に手を当てて、また来るからと告げて、帰路にはいっていった。

 僕はそれからというもの、彼女に会えるという昔の楽しみを心に宿し、生活していた。彼女だけでなく、あらゆる身の回りの植物、動物、生き物に引き寄せられていた。ところで、”彼女”と言っても確かに樹であることには違いないのだが、僕にとって、言葉としてそう表しているだけで、友以上に友であった。異種は関係なく何ら同じだった。
 少しの間、彼女に会う時間がとれなかった。そして、約束通り会いにいった。はやる気持ちを抑えて。その日は晴れだった。
 しかし、そこにいくと、僕は頭が真っ白になった。ただただ立ちすくみ、現実を受け入れがたかった。彼女は、根元から伐採されていた。このあいだの枝葉を茂らせている姿は影もなく、ざらついた切り口が目に映るだけだった。夕方の家路を闊歩する人々。僕にとってそれらは、残像のように線を引いて無機質に流れていた。
 僕は、目の前にした切り株にふらふらと近寄り、呆然と見つめた。無意識に僕は話しかけていた。笑いを交えながら話しかけた。この間みたいに、昔みたいに、他の人には聞こえない声で。けれど、彼女からの返答はなかった。姿も現れもしなかった。
 僕はそれでも、笑いながら話しかけ続けた。笑っているのに、なぜか涙が次々とこぼれ落ちていっていた。その涙でいっそう僕は笑っていた。おかしいな、なんでだろうって。意志に反して溢れるその涙は、頬をつたって、ざらついた切り口に滴り落ちて、にじんだ。ゆっくりと、ゆっくりと広がって。その瞬間、僕は膝をつき、崩れていた。行き交う人々は、つかえることなく流れ続けている。
 分からなかった。何故切られなくちゃならないのか。彼女がなにをした。彼女がなにをした。ただただ涙が頬をつたい、彼女の切り口にしみていっていた。
 僕は、腫れぼったい眼を抱えて、伐採された彼女の脇の、路肩に腰を下ろしていた。夕日は空を引き連れていき、色を失った空がかぶさり、街灯がとうとうと燃えていた。

 夜の空は雲に隠れても、月明かりもあってか、透明感があった。けれど街中のここは、街灯があるにもかかわらず、空よりも黒かった。それはいつも感じてはいたことだが、今日はより深く黒かった。
 僕は夕方からずっと、同じ路肩に座り込んでいた。夜も更けるにつれて、その静かな黒さが僕を、鎮めてくれていた。もう涙はつたっていなかった。頬に流れた涙が、跡を残して張り付いているだけであった。肌は少しだけ、冷たくなっていた。
 色々と考えていた。彼女はどう思っていたのだろう。わけも知らされずに切られること、その瞬間。再会して間もなく、そうなったこと。痛みはあったのだろうか。もし、僕がそこにいたら、懇願したのだろうか。また切られる痛みで、悲鳴をあげたのだろうか。次から次へと想いが浮上しては、解けることなくこぼれていった。
 どれだけのことを僕は知っていたのだろう。聴けていたのだろう。そして、自然と切り株となった彼女の切り口に手を当てていた。冷たくなった僕の肌に比べて、意外にも手のひらに温もりが伝わってきた。まだ新しい断面。しっとりと水っけを保っていた。それなのに、この温もり。それは僕の腕を伝って、全身に広がっているのが感じられた。まるで今までの彼女が隣にいて、これまでのように話し合っているように。
 手のひらから伝わってくるそれは、なにも責めたり嘆いたり、そんなことは一切感じ取れなかった。正確に言えば、そのような感情も彼女の心の底にはあるのかもしれないが、それ以上に今でも悦んでいる、そう感じた。同時に透き通った白いベールが切り株全体を覆って輝いているように見えた。
 僕は、渦巻く胸中が次第におさまり、共に悦びを覚えるようになっていた。彼女は決して居なくなったわけではなかったのだ。確かに切られ、今までのような姿はみれなくとも、彼女はここにしっかりといるのだ。そして、僕を今まで以上に、包み込んでいてくれていた。
 夜も過ぎていき、うっすらと色が広がっていく頃には、僕はいつの間にか切り株に寄り添う形で眠りに落ちていた。朝の優しいライトアップのもとで、鳥達は穏やかに新しい歌をさえずる中で。


 ―と、ここでもう仕舞いだと思っていた。作者も終わりだと思っていた。けれど、そうしようとすると、何やらひょっこらとでてくるものがいた。彼が切り株に寄り添い、寝入っているところに。


 彼は朝日が顔を出すころに、急に大きなくしゃみをした。のどかに歌っていた鳥達は驚いて飛び立ってしまった。鼻を指でむずむずしながら、彼は半開きの眼で、キョロキョロしていた。
 「一体なんだってんだ? このやろう」
 彼が発した言葉ではなかった。だから彼はよりきょろきょろしていた。彼の周りには人は見当たらない。
 「あぁ? あぁ、なんだよ。びっくらこいた」
彼の足下で小さな虫が身体を起こし頭をかきながら言った。それに彼はやっと気付き、まじまじとその小さな虫を見つめた。あまりにも見つめ過ぎていた為に、その虫はこう放った。
 「あー悪かった。謝るよ。間違ってあんたの鼻ん中に入ってしまったこと。だからそんなじろじろ変な面でみないでくれよ」
 彼は無意識に、鼻に手をあてて、脳裏でくしゃみのことを思いながら、それよりもこっちのことに興味があった。だから見つめたままかすかに笑みを浮かべてしまっていた。
 「おいおい、余計おかしな面になってるじゃないか。まったく、すまんって謝っとるのに」
 彼はようやっとここで、言葉を返した。
 「いえいえ、すみません。責めているわけではなくて、昆虫・・・さんとそのままの姿で、話が聴こえるなんてはじめてなので、つい」
 「おいおい、なんだよ、おい! あんたはこのお樹香さんと話していたじゃないかい。たった今だって。そんなあんたが不思議がることあるかい?」
 その小さな虫は、額を手打ちして応えた。その振る舞いはまるでどこかの落語家だ。姿は、てんで似ていなく、なんという昆虫かは分からないのだが。それを感じ取ってか、小さな虫は、
 「あー、俺は・・・」
と自己紹介をしようとしたが、手で振り払って、こうとだけいった。
 「俺の名前は、ラッシーだ。一応このお樹香さんに宿を借りている、住虫ですわい。まーご覧の通りの姿になったけれど、それでも十分にお樹香さんはワイを宿らせてくれとる。あんたもそのひとりだろう。まったく感謝がつきないつきない」
 結構、年配なのかなと彼は思った。年を取ると、話が少しばかり長くなるのは、人だけではないようだ。ぶんぶんとやや耳についてしまう。それを察して小さな虫、ラッシーは言い放った。
 「おい、今ぶんぶんやかましいと”言ったろ”。よくお樹香さんがあんたと話すことをしたもんだ。」
 「あ、すみません。悪気はないんですよ。それに僕もどうして話せるようになっているのかわからないのですけど・・・」
 口に出してないのになんで分かったのだろうと少し驚きはしたけれど、不思議だとは思わなかった。そしてこの正直な応えに、ラッシーは至って平然と口にした。
 「それが分かっていたら、たぶん噓だろうなぁ。ところであんたの名前はなんていうんだい? これも何かの縁だ、名前ぐらいは教えてくれや」
 「ジョンといいます。よろしくおねがいします」
 それを聴いているのかいないのか、もう俺は眠たいから、寝さしてくれ、そうそうそこを少しどいてくれ。と言って、僕の身体で覆っていた切り株の根元に、ラッシーは入って見えなくなった。じっとその小さな穴を見つめながら、僕はまとまらないままぼーっとしていた。けれど、幾分も続かずに我に返らされた。
 朝日も十分にのぼり、生活の息吹があちこちでリズムを取りはじめていた。かといって直接人々が僕に声をかけたわけじゃなかった。声をかけたのは、今度は風だった。姿はみえないから、始めは幽霊かと思って、緊迫してしまっていた。風はそれを見やり、そよそよと滑らかに言った。
 「見えることが全てではありませんよ。わかっているでしょうジョンさん、あなたなら。見えなくとも、肌で感じ、聞き取っている。それ以上になにが必要でしょう。さぁ陽も昇ったのだから、軽快に踊りましょう」
 僕はどこに目を向けて話せば良いか、判然としないままこう答えた。
 「誘ってくれて、そうしたいのはやまやまなんだけど、僕は風の君みたいに舞えないよ。もし鳥だったらワルツでも歌いながら、手をとって踊れたんだろうけれど」
 そういうと風さんは、さっそうと素早く走って、樹々を揺らせたかと思うと、鳥達を携えてきた。
 「季節の変わり目で、なかなか足がもつれてしまうのですが、どうです。それで私と踊るには調度いい具合じゃありませんか? それに上手い下手ではなく、楽しいかそれが大切ですから」
 スズメやカラスはそれに呼応するように、飛び跳ねながらさえずっていた。スズメはちょこちょこと跳ね、カラスはてってらてってらと足さばきは可笑しかった。けれどみなが、奏でていた。
 始めは調子を合わせるように、小さな素振りで踊っている振りをしていたけれど、どんどん楽しくなって、ヘタクソのまま風や鳥達とともに同じ空間を共有していた。スズメはダンスが上手で、その上歌声も心地よくリズミカルだったけれど、カラスは、なんともいえぬ様子で、足さばきが苦手なようで、羽を広げたり、と姿そのもので威風堂々として示していた。
 僕はそれら鳥達を腕や肩を差し出して、舞っていた。風はそんな僕らを包み込むようにして、取り巻きながら木の葉や香りや、囁きで場を盛り上げていた。
 そうするうちに、雲が出てきてポツリポツリと雨が降り出してきた。今朝の晴れ模様がうそのように一転して、黒雲が覆っていた。通り雨では済まなさそうで、次第に強く地面に叩き付けるようになり、大雨がそれから数日間はつづいた。僕が傘をさして、お樹香さんの切り株にじっくり立ち寄ることもできないほどの大雨だった。その間、当然ラッシーや鳥達にもあえることは無かった。
 唯一聴こえるのは、風さんだった。けれどこの間の囁く穏やかな様子とは異なり、とても会話ができる状態ではなかった。まるで、僕にはお樹香さんが不条理に切られたことに、抑えていた感情が爆発しているかのようであった。
 そして二週間以上経った頃に、やっと暴風雨は止み、外にゆっくり出られるようになった。この時期の雨の後もあり、空気はむっとして、蒸し暑くなっていた。僕がお樹香さんの方へと歩いている途中で、この間のスズメが挨拶をしてきた。
 「こんにちわ。荒れた天気でしたけど大丈夫でしたか?」
 少し難儀だったけれど、気に病むことではないよと返ってきた。そして前々から疑問に思っていたことを、訊ねてみた。
 「ああいった天気の時、あなた方はどこに身を潜めているんです?」
 スズメは、そしていつのまにか加わっていたカラスも、口を揃えてこういった。
 「そりゃ、いくらジョンさんでも答えることはできません。先祖代々の秘密の一つなので」
 僕は頷き、ともかく無事で良かったですと告げて、歩を進めた。
 例のお樹香さんの切り株につくと、僕は驚いた。切り株の周りから新緑に眩しい細く小さな芽が、いくつ伸びていたからだ。よくよく観ようと腰を曲げて見つめると、その新芽から見覚えのある姿が、たくさん現れてきた。背丈は十センチにも満たさないけれど、どれも白いワンピースをまとっていた。髪の毛はやや短めで、どうやらその新芽の数だけ、その姿が現れているようだった。
 「こんにちわ」
 まるで合掌だった。あっけにとられながらも、挨拶を返した僕に、そのワンピースの幼女達は、同時にこう切り出した。
 「私たちは、あなたが会っていた大きな姉の分身です。といっても、やはり多少なり違いますけれど、”記憶”は残っていますよ」
 僕がまだ飲み込めずにいると、切り株の下層からひょいとラッシーが顔を出した。
 「相変わらず鈍いやっちゃ。よく観てみんさい。少女達はみな、お樹香さんの切り株そのもの自体から生えているじゃあないかい。つまり彼女は死んでいなかったのさ。多少の変化はあってもなぁ」
 頭の中で整理している間、いやラッシーとそのたくさんの幼女達の戯れを黙って眺めていた。虫のラッシーよりやや大きいくらいで、なんだかおかしな光景だった。
 それからというもの、日に日に小さな彼女たちはぐんぐん大きくなっていった。多くになるにつれ、切り株の周囲を覆わんばかりに伸びていた新芽は、次第に数を減らしていき太く大きく伸びる者は数本に絞られていった。少し前までたくさんいた幼女たちは、消えるというより、その残って伸びていくそれに、同化していっているように思えた。
 そして当然に、ラッシーのように小さかった姿も、目を見張る早さで大きくなり、以前のお樹香さんの面影をより強く繁栄して背丈も六七割に伸び、髪の毛も長くなっていった。
 この頃になると、雨の頻度も収まり、青々とした葉が眩しいように、彼女もまた潤いに輝いていた。
 ある日、昼間ではなく気温も少しおさまった夕過ぎに、お樹香さんを受け継いだ彼女の元へと向かった。ついた頃には辺りはうっすら暗くなって、雨も降り出して街灯がついていた。
 待っていたかのように、今はもう一人の女性になった彼女は静かに佇んでいた。僕は彼女の枝葉の傘の中に入って、目を見つめた。彼女もまた身動きもせずに、僕を直視していた。辺りの雨粒が、地面を鳴らし、BGMと化していた。
 「お久しぶりです。またこうして話せることが嬉しいです」
 僕もです。と笑みを浮かべて答えた。「まさかこうやってまた話せるとはあの時は思いもしていなかったので、より感慨深いです」
 彼女は長い髪の毛をなびかせ、潤った瞳を輝かせてこういった。
 「私が切られて、その時も、そしてそれからも私の元に訪れて見守ってくれたことに心から感謝します。ありがとう」
 「皆がいたから、僕もくじけずにいられたんです。おかげで、貴女とまたこうして話せることを疑わないでこれたんです。だから僕からも、ありがとう」
 彼女はにっこり微笑んで、
 「これから、またよろしくね」
 と改めて挨拶をした。僕はあらん限りの笑みを浮かべて、宜しくと挨拶をした。
 雨はざざーっ、ざざっと降っている。風も次第に出てきていた。けれどこの雨や風は、荒れ狂うこと無く、まるで歌っているように軽快に踊っていた。
 僕は傘も持たずに、その中を共に歩いていた。その雨風は六月のそれと違い、温かかった。

静かな樹と僕

静かな樹と僕

住んでる街のある樹があった。それが前触れもなく切られた。梅雨の時期は雨雲で空はどんよりして、そこに、彼女は立っていた。しかし、切られ、なくなった。しかし、、、彼女は、いつまでもいるということ。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-24

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