思考遊び

認識

古くから扱われてるテーマだと思います。
哲学めいた「認識と存在」あたりで遊びます。
まぁ正直一人遊びみたいなもんですがw
軽いものです。もし読む方がいたら軽く読んでください。

Aそもそも今僕はここに確かに存在しているわけだ。
Bうん、そうだね君は確かにここにいるよ。
Aんじゃ、なにをもって僕はここに「いる」んだろう。
B人の言葉を借りるなら認識。僕が君を認識して、君自身が君自身を認識しているから君は存在するんじゃないかな
Aそれじゃあ仮に君が僕を認識できなくなったとしよう。僕のことを見ても人間だと思わずに、例えばマネキン、人体模型だとしか見えなくなる。
Bそうすると、僕は一人でこうして喋っているわけだね。気味が悪い。
A茶化すなよ真面目にふざけた話だ。
Bはいはい、わかったよ。それで君が人じゃなくなったとして、でもそれがどうしたっていうんだい。人間とういう形ではなくとも君は存在する。マネキン、人体模型という形でね。
Aなるほど僕はどうやら人間至上主義者だったらしい。これは謝らなければいけない。君にとって僕がマネキンに変わったところで何の変哲もなくしゃべり続けそうで僕は少し怖くなったよ。
Bいってろ。
Aそれじゃあ、僕が僕を認識できなくなることはあるんだろうか。
B自我が保てなくなる状態。発狂でもすればそうなるんじゃないか。
Aなげやりだなぁ…でも僕が発狂したところで他者からはそれを観測できる。
Bそれはそうだね、黄色い救急車の番号はあいにくしらないから今のうちに調べておくよ。
A君が僕を認識できなくなることは無い。僕はいかなる形でもそこに「存在する」から、
僕が僕を認識できなくなったとして、僕以外の君が僕を認識することで「存在する」。
なんだか自分のことなのに他者に頼らなければ僕は存在することもできないのかもしれない。
Bそれはそうかもね、意識あるモノは比較する。その比較の中の差で他者を認識し、自分を認識するのかもしれない。
Aそれじゃあ比較することができなかったらどうなるんだろう。
シュレディンガーの猫は外から観測するけど猫の立場からしたらどうなんだろうね。
箱に閉じ込められ、自分ひとりで生きる。生きることができるんだろうか。
B僕は……僕はできないと思うね。
A僕はできると思うんだ。
Bどうして?
A多重人格ってあるだろ?
B医学的に証明できてないアレのことかい?
Aまぁそれさ、きっと一人の人間は外に他者を求めずに一人で完結してしまうんだと思う。
それは存在してるっていえるのかな?
B………。


これは前に書いたものです。存在のほうに重きを置いてみてます。
結局Bが放課後の保健室なり、理科準備室で一人で話している。みたいなオチを考えながら作ってます。
こういう風に対話させるようにするとなぜか自分以外の意見も出てくる(往々にして迷子になるんですがw)ので面白いです。

途中山椒魚を例に出そうとしたりしましたしw結局あれも同居人がいなくなることで物語りが終わってしまうんですよね。
比較対象があるかっていうのも存在の大きなファクターなのかなぁとも思いました。


鏡ってあるじゃないですか、あれって自分が映りますよね。
動物なんかは鏡を見て最初は敵だと思うらしいんです。でも結局はすぐに興味をなくすんです。
人間は鏡を見てどうおもうんでしょうか。赤ちゃんなんかは割と鏡を見続けるそうです。

鏡の中に別の存在を認識した場合。世界にとってはそれは存在しないものですが、赤ちゃんにとっては確かに存在しています。

世界で存在するためには自己による認識と他者からの認識の2つが合わさって初めて存在するんだと。
何番煎じかわからないけど、そう思います。

思考遊び

思考遊び

軽い哲学めいた話です。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-05-19

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