テーブル


「さぁ、早くテーブルに着きなさい。」

真っ暗な世界で、彼は優しい声でそう命令した。
けれど、私の右目は潰されて、左目共に包帯でぐるぐるに捲かれて塞がれているのに、どうやってテーブルまで歩いていけるのだろう。
唇は上下を二つのピアスで留められているので、返事もまともに出来ないし、ましてや反論なんてしようがない。
無理に喋ろうとすると、あけたばかりのピアスホールが千切れてしまいそうで、とても怖い。

言う事に従う素振りを見せないで、このまま横たわったままでいると、また彼から新しい罰を与えられてしまう。私は必死で身体を起こそうとした。
手足だってまるで他人の器官の様に、感覚が遠くにある。
身体中の痛みがいちいち煩く響いて、頭の中でパチパチと静電気を作る。
特に一昨日、何度も踏みつけられた左足については、膝から下に痛み以外の感覚が殆ど無い。身体を起こすだけでも一苦労だ。
固いフローリングの床の上で、痛みに堪えながら漸く身体を半分起こしたものの、立ち上がるまでにはあと何倍もの苦労が必要になりそうだ。
既に息は上がっているけれど、唇はピアスで塞がれているので、口呼吸は隙間から僅かに出来る程度。
鼻息ばかりが荒くなる。

「どうした?足が痛いの?」

急がなきゃ。こういう時の彼の二言目は、黄色信号だ。
それが赤信号になる前に、向こう側まで渡りきれなければ、あっという間に轢き潰されてしまうから。

痛いのは足だけじゃなくて、身体中全部なのだけど、ピアスのせいでやっぱり何も言えないし、そんなことをもし言い返したら、今度こそ殺されちゃう。
…でも、そうした方が楽なのかも知れない。
そうすれば、もう痛くないし、苦しくないし、ボロボロになってしまった自分の姿を嘆く必要もないし…。

すると、諦め、緩みかけた私の意志に、彼は鋭く勘付いたらしい。プレッシャーをかける為に、彼がこちらに少し近づいて来た事が、フローリングが僅かに軋む音で分かる。
生きる事への執着は消えかけていたけれど、間近に迫る具体的な恐怖が本能に訴えて、思わず勢いづいて、反射的に身体が動いた。
かろうじて立ち上がる事は出来たけれど、テーブルがどちらの方向にあるのかなんて、やはり見当もつかない。

「さぁ、おいで。」

彼の声は私の右斜め前方向から聞こえてきた。
たぶん、目の見えない私をテーブルまで辿り着かせるこのゲームの中で、彼が意図的に出したヒントなのだろう。
見え透いたその意図を気にかける余裕もなく、彼の声が聞こえた右斜め前方向へ、もう使い物にならない左足を引きずって、まだ比較的無事な右足で弱々しく、小さなケンケンで近付いて行った。
数センチ動くだけで痛みに喘ぎ、それを堪えながらケンケンする私を見て、彼は独特の低い笑い声をあげながら、愉快そうに話す。

「やあ、随分と楽しそうだ。ピョンピョンと跳ねて、ねぇ。でも、あんまりぎこちなくて、ぜんまい仕掛けのブリキの玩具みたいだ、壊れかけの。さぁ、がんばれ、がんばれ。」

がんばれ、という余りに皮肉で残酷な言葉が私の耳にこびりついた。
すると、私の頭の中にふわっと温い風が吹いた。その瞬間に、私はよろめいてしまい、前方に倒れそうになった。
すると、思いがけず、何か固いものが私の下腹部に触れて、驚いた私はまた何とか右足を踏ん張り、自ずと両手を前方の台の上についた。
滑らかな木目の感触。どうやらテーブルが私のすぐ前にあるらしい。
私は不思議な達成感を感じていた。このボロボロの身体で、自ら起き上がり、盲のまま何とかテーブルまでたどり着いたのだから。
私はその場で手探りをして、すぐ近く、右手の触れる場所に椅子があることが分かった。

「よくがんばったねぇ。ほら、ゴールはもう、すぐそこだよ。」

痛んだ足で立っているのはとても辛いので、早く腰を下ろしたかった。
それでも、眼の見えない中で、おのずと私はその"ゴール"の着地点の感触を手探りで確かめた。
すると、彼の舌打ちが聴こえたのと同時に、右手が椅子の上で「あるもの」を探り当ててしまった。
その椅子の座る面にはどうやら釘が一本打ち込まれている。それが椅子の構造上、必要なものであるはずはない。
なぜなら釘は、私が素直にその椅子に座ったら、ちょうど右足の太ももに刺さる様に、鋭く尖った先端が上を向いていたのだ。
もしも躊躇いもせずに勢いよく身を投げていたら、この釘が私の右太ももに深く突き刺さっていただろう。
汗がじっとりと背中に滲んだ。
床が軋む音がする。ゆっくりと彼がこちらへ近付いてきた。

「どうした?さぁ、はやく椅子に座るんだ。」

今までとは一転して、声に明らかな苛立ちが込められていた。
このまま座らずにいれば、きっと彼からより厳しい罰が与えられてしまうだろう。
だからと言って、釘が太ももに刺さることが分かっていて、この椅子に腰かけるなんて、とても出来ない。
じゃあ、釘が刺さらないように、うまく避けて、釘の出ていないところだけに座ったら?
却って、彼を逆上させるに違いない。
あれこれ考え、どうすることも出来ないまま、私は暫く立ち尽くしていた。
すると、彼のいる方向からバンっと大きな物音がした。びくっとした後、全身に寒気が駆け抜けた。どうやら彼が、机の上を叩いたようだ。

「どうした、俺の声が聞こえないのか?その耳は、聞こえない耳なのか!?」

彼はそこまで言って、椅子の上から勢いよく立ち上る音がした。
目が見えない分、私は普段よりも想像力が敏感になっていた。
一瞬で描いた想像の中で、彼はナイフを持って私の両耳を切り落とそうとしている。それだけは厭だ。もし耳も無くなってしまったら…何も聞こえなくなってしまえば、いよいよ私は完全に孤独な闇に落とされてしまう。
彼が席を立ち、私が想像をめぐらせたたった一秒後に、私は咄嗟の反応で勢いよく椅子に腰を下ろした。
当然、右太ももには激痛が走った。
それでも、痛みに対して反射的に右足が空中で留まったので、釘は多分一センチも刺さらなかった。
それでも薄い生地のスカートと共に、私の皮膚は破れた。
痛みによって出た喘ぎ声が、ピアス留めの唇の隙間からこぼれた。
さすがにその後は、釘と太ももの間に隙間を作って、おかしな座り方で、その椅子に座りなおした。太ももから流れた血がしみ込んで、スカートの生地がべったりと太ももにへばりついた。
大きな足音を立ててこちらへ来ようとしていた足音が、私の手前で止んで、部屋の中は束の間静かになった。私の喘ぎ声と荒い息遣いだけが小さく鳴り続いていたいた。
やがて遂に涙があふれ出てきて、目隠しにされている包帯を濡らした。
私は痛みに苦しみながらも、必死で彼の反応を伺った。

「うーん、トモミちゃんは本当にいい子だね。」

また一転、彼は猫なで声になった。
緊張の反動からの安心で、私は少しだけ口元を緩ませた。
彼はそれを見逃さなかった。

「あはは。この部屋に来てから、トモミちゃんの笑顔をはじめて見たよ。褒められたのがよっぽど嬉しかったんだね。良かったねぇ。」

彼の満足げな言葉に、おかしな事に、私は変な安心感を覚えた。
幾らか、釘が刺さった傷の痛みが和らいだ。

「さぁ、食事にしよう。今日は特別な食事だよ。」

そう言うと、座っている私に近付く気配があった。
驚いたことに、彼は私の唇を留めているピアスを指先で確かめると、上唇に突き抜けている方を押さえながら、下唇側の留め具を外した。
最初に彼の指先が唇に触れた瞬間は恐怖で身を震わせたけれど、二つ目のピアスが外されてしまうと、私は口が自由に開く解放感から、自然と深呼吸をした。
その様子を見て、彼はまたクスクスと笑っていた様だ。
そして更に驚いたことに、両目に巻かれていた包帯にも手をかけはじめた。

この部屋に私が連れて来られてからというもの、殆どずっと私は視界を塞がれていた。
三週間前のあの日、大学からの帰り道だった。突然背後から襲われて、気絶させられたままここへ連れ込まれた。目覚めた時には既にアイマスクが付けられていた。
まだここからの脱走に希望を燃やしていた三日目のことだった。拘束されていた両手でなんとかしてアイマスクを取ろうとしたものの、すぐに彼に気付かれてしまい、罰としてアイマスクの上からそのままピアッシングニードルで右目を潰されてしまった。それからはまだ生きている左目もろとも、ずっと包帯でぐるぐる巻きだった。
彼によって少しずつ、でも着実に私の身体は壊されて、もう元へは戻れなくなってしまったけれど、目と口と言う二つの器官を久しぶりに解放された事は、感動的なことだった。

すっかり包帯が取り去られてからも、部屋の眩しさに慣れなくて、暫くは何も視覚出来なかったけど、その明るさの元が日光ではなくて、室内の蛍光灯である事はすぐに分かった。
目が慣れて少しずつ周りが見えてくると、部屋の様子を伺うと同時に、私は彼の姿を追った。
あの日から、私は彼の姿を一切見る事が出来なかった。以来、「彼」が一体誰なのかを幾度となく考えてみたけれど、全く見当もつかなかった。殆ど唯一のヒントである彼の声にも、聞き覚えは無かった。
そしていよいよ三週間目の今、彼にここへ閉じ込められてから初めて、彼の姿を見る機会が訪れたのだった。
テーブルの向こうに座っている男がいた。
先ほどまで彼は私の背後で包帯を取っていたはずだけど、私の目が周囲の明るさに慣れようとしている間に、このテーブルの向こう側に座ったようだ。

見覚えのある顔だった。
半年ほど前、少しの間だけ彼は同じバイト先の後輩だった。
大人しくて殆ど会話も弾まず、根暗な印象だけ受けたが、彼が勤め始めてから一ヶ月も経たないうちに、私は彼から突然の愛の告白を受けた。
その時の彼の台詞は忘れてしまったけど、まるで台本を読んでいる様なとにかくぎこちの無いものだった。同僚とは言え、殆ど親交の無い状態でそういった行動をとる彼の軽薄さに、驚きよりも苛立ちを真っ先に感じた私は「迷惑です」と、はっきりと断った。
すると翌日から、彼をあっさりとバイトを辞めてしまった。
名前も思い出せないし、顔もこうやって対面して漸く何とか思い出せた程度だった。

彼はとても不安そうに、こちらの機嫌を伺う様な表情をしていた。
年齢は私よりも少し下、二十歳位だろう。
全体的に小ぎれいな恰好をしている。モノトーンチェックのシャツを着ていて、美形ではないにしても端正な顔立ちをしている。髪型も整えられていて、一見すると爽やかなごくありふれた大学生といった感じだ。
ただ、ピアスだらけの両耳だけは、その爽やかな全体像にやや不釣り合いな印象を受けた。そう言えばこの過剰なピアス趣味だけは、バイト当時から不気味な印象として残っていた。
この三週間の間にイメージしていた加虐者の姿とは大きくかけ離れたその弱々しい姿に、何だか拍子抜けしたような気分だった。
部屋もきれいに整理されていて、割と新しいマンションの一室だった。大学生が住むにしては高級過ぎる感じがする。
カーテンがしっかりと閉じられていて、ここが何階なのかとか、周りの様子がどんなだとかは全く分からなかった。
机上には数種類の冷凍食品のものと思われるおかずが並んでいる。

「あ、ほら、さぁ、た、食べてよ。」

そう言った彼の声にはさっきまでの様な威圧的な印象が一切感じられなくて、一転して弱々しく震えていて、まるで別人のようだ。
私がまだ状況をうまく認識できず、呆然としていた。

「…えっと、どうしたの?食べないの?お、お腹痛い?大丈夫?」

焦ったように彼は訊いた。
なんとなく彼の人格に偏りや歪みがあることは察していたが、その要素の一つに、彼の根本に深刻な「人見知り」だとか「対人恐怖」があるのではないかと考えた。
なぜなら彼は、私が視界を回復してから、決して目を合わそうとはしないし、ずっと不自然にうつむいたままでいた。
思い返せば、半年前に告白を受けた際も、まるで私の眼を見ず、視線を散らかしながら喋っていたのも不快な印象として残っている。
だからきっと、私の視線を塞いでいる間だけは、この対人性の欠如が隠されて、あのような加虐的な性格になってしまえるのだろう。

私は、この性質は利用出来ると思った。
身体中が痛んでうまく四肢を動かせない今は、隙を盗んだとしてもここから力づくで逃げ出すことはかなり難しいだろう。けれど、彼が弱気になっている今なら、きっと彼より精神的に優位に立てると思った。
すぐに具体的な方法まで描けた訳では無いけれど、ここを抜け出す糸口を見出したように感じた。

私はこの部屋に来てから、初めてちゃんと言葉を発しようとしていた。
あまりに久しぶりで、うまく声が出せるか不安だったけれど、ここではっきりとものを言わないと、チャンスを逃してしまう。思い切って、はっきりと、無理に少し強い口調で声を出した。

「お腹だけじゃなくて、身体中が痛いんです!早く私を病院へ連れて行って!逃げたり、助けを求めたり、絶対しない!大人しくしているから、とにかく何でも、どこでもいいから、病院へ連れて行って!」

言葉は考えもまとまらないまま、自然と口から毀れた。
案の定、彼は私の勢いのある口調に圧されて、先ほどにも増して怯えているようだった。
それに、今の彼からは、私の身体を心配するだけの人並みのモラルも垣間見える。本当に私の症状を心配している様だ。
その瞬間、私は自分が彼よりも優位に立った事がわかった。

「あっ…え、あ…ん、うん、わかった…わかったよ。と、とにかく病院へ連れて行けばいいんだね?その…ぜ、絶対に逃げないよね?」

そして彼のこの言葉を聞いて、私は完全に勝利を確信した。
病院まで行ってしまえば、あとは何とでも出来るはずだ。
大体、もし黙っていたって、これらの不自然な傷にどんな医者でも異変に気が付くはずだ。
このままいけば、すぐにこの部屋を出られる。
私は追い打ちをかける様に、強い口調で命令した。

「今すぐ、早く連れて行って!なんだか身体中がだるくて、早くしないと手遅れになるかも!」

明らかに焦った様子の彼は、ガタガタと席を立った。

「あ、あぁ、わ、わかった、い、い、今すぐ、ね、病院、行こう。」

そして彼はおずおずと私の後方へ視線を向けると、弱々しい声で続けた。

「…ねぇ、パパ?トモミちゃん、病院へ連れて行ってあげても、大丈夫だよねぇ?」

身体中が急に硬直して、後ろを振り返ることが出来なかった。
三秒間、空気が透明のまま、固まった。

「ヤスくん。残念だけど、トモミちゃんはもう直らないみたいだから、病院に連れて行ってもだめだ。」

この三週間で聞きなれた、威圧感のある声が後ろから聞こえた。
穏やかな口調だったが、そのゆったりとした口調に含まれる底なしの狂気が私の心に圧し掛かった。

「トモミちゃんも、まただめだったけど、次こそパパがヤスくんにぴったりな良い子を探してくるからね。」

目の前の「ヤスくん」は、はじめ少し残念そうな顔をしていたけれど、やがてすぐに照れた様に笑って頷いた。
まるで小さな子供みたいな笑顔だった。
次の瞬間、鈍く、重く、激しい衝撃が私の後頭部にぶつけられた。
勢いで突っ伏した私の額はテーブルの上に叩きつけられて、とても大きな音が私の頭蓋骨に直接響いた。

そして、私の全ての感覚は、そこで途切れた。

テーブル

すこしグロテスクなものを書いてみたい、特に痛みが想像しやすいようなものを。
それだけです。

テーブル

痛みをどうぞ

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
更新日
登録日
2013-05-17

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