夜行堂奇譚

嗣人

夜行堂奇譚
  1. 獣の話
  2. 魚魂契過
  3. 山神蓮花
  4. 元旦祝神
  5. 骨喰朽歯
  6. 獄夜古市
  7. 幽黄昏迷
  8. 怨荒残仇
  9. 箱洩穢呪
  10. 這夜亡海
  11. 行李怪異
  12. 竜雷時雨
  13. 自殺団地
  14. 猫飢餓渇
  15. 仇暮討士
  16. 夜師葬送

久しぶりに更新をさせて頂きました。
相変わらずの遅筆で、ご迷惑をおかけしていますが、気が向いたら読んで頂ければと思います。
前書きの書き方は、相変わらずよくわかりませんね。
お楽しみください。

獣の話

 その骨董店は奇妙な店だった。
 路地裏のおよそ人気のない場所にひっそりと佇むようにして店を開いていて、看板を出すわけでもなく、店の名前を紙に墨で書きなぐった貼り紙がなければ、およそなんの店か分からない。
店内は薄暗く、土の冷たい香りで居心地が悪かった。およそよく判らぬものが乱雑に並び、値札もついていない。果たして本当に売るつもりがあったのか。
ともかく奇妙な店だった。

 学生時代、偶然雨宿りに入った私は、その店で気味の悪い木の面を預かることになった。
 購入したのではない。店主から預かったのだ。
 店内を見回っていた私を見つけ、店主は私にその話を持ちかけた。
『なにか気になる物があるのかな』
 私は桐の箱に入った木の面に何故か視線がいった。私は芸能に興味を抱いたこともないというのに。能面なんて産まれて初めて目にしたのだ。
『なにか縁があるのかも知れない』
 店主はそういうと、頼みがある、と言いだした。これもなにかの縁だから、と。
『十年後、君の所に私の知人がその面を受け取りに来る。その間、君はなにもせずにただ保管してくれればいい』
 無論ただでとは言わない、と店主はつけ加えた。
 私は店主から持ちかけられた話に頷き、その謝礼としてそれなりの額の金銭を手に入れた。十年間、桐の箱に納めておけばいい。ただそれだけの話だった。
 私は金銭を手に入れ、その面を箱ごと預かった。家に持ち帰ってからというもの、一度も蓋を開けたことはない。私は死後の世界や霊魂などの存在は信じていないが、それでもあの木の面が入った箱を開けるのは躊躇われた。
 店の名前はたしか『夜行堂』といった。
 今の今まで忘れていた。
 そう。あの女が訪ねてくるまでは。

  ○
 一人暮らしをしている私の家に訊ねてきた女は、自らを尾先と名乗った。
 着物を着た若い女で、俗な言い方をすれば美人といってよかった。眼元に黒子があり、憂いを帯びた表情が印象的な女だ。
「夜行堂の主人から御預かりになっている品を受け取りに参りました」
 仕事を終えて帰宅した私が、鍵を開けようとしている時だった。
 夜行堂、と言われても最初は心当たりが見つからなかったが、木の面の話が出てきてようやく、あの日の約束を思い出した。しかし、女の素情も判らないのに渡す訳にもいかず、とりあえず部屋へ上げて話を聞くことにした。
「上がっても宜しいでしょうか」
 女はそう言って扉の前で立ち止まり、そう聞いてきた。
 どうぞ、というと、女はようやく部屋へと上がった。
「汚い所ですいません」
 私は散らかった部屋を適当に片付けながら言った。
「こちらこそ夜分に失礼致します」
「尾先さんと仰いましたが、夜行堂の御主人から何か証のようなものを預かっていらっしゃいませんか? 私も確かめもせずに渡すというわけにはいきませんので」
「夜行堂の主人はもう亡くなりました。一月ほど前です」
 女の表情に変化はないものの、その声はどこか暗いように感じられた。
 この時、私は亡くなったという店主の顔を思い出そうとしたが、まるで思い浮かべることができなかった。それどころか、店主が男だったのか、女だったのかも覚えていない。これはどういうことだろうか。
「そうですか。それは御愁傷様でした」
「証になるようなものはございません。ですが、私がこうして此処へ伺うことが出来たのが何よりの証ではありませんか?」
「そうですね。いえ、もしもそうしたものがあればと思っただけです。少々お待ち下さい」
 私は襖の天戸から桐の箱を取り出し、彼女の前に持って来た。箱には赤い結い紐で封がされていて、これを解いたことは一度もなかった。
「念の為、中身を確認させて頂いても宜しいでしょうか」
 私はどうぞ、とだけ告げて彼女が紐を解くのを見ていた。
 女は丁寧に結び目を解き、紐を脇へどけると、恭しい手つきで箱の蓋を持ちあげた。そうして、息を呑んだ。
「これは、どういうことでしょうか」
 女の強張った声に釣られて桐箱の中を覗くと、どういうわけか、あの木の面は消えてなくなっていた。
「そんな馬鹿な」
「中身は何処へ?」
「いや、私にもなにがなんだか。これを預かってから一度も中身を見たことがないのです。蓋を開けたこともありません」
 女はまだ何か言いたげではあったが、取り乱す様子もなく、淡々と私に言った。
「事情が変わりました。今日はお暇させて頂きます」
「わかりました。中身は必ず探しておきます。申し訳ない」
 女は立ちあがって頭を下げた。
「ご迷惑をおかけ致します。時期がくれば、またお伺いさせて頂きます」
「いえ、ご迷惑をかけているのはこちらですから」
 女は去り際、奇妙なことを言い残していった。
「奇妙なものを視るかも知れませんが、くれぐれも御気になさらぬよう」
 女の言葉を、私はすぐに思い知ることとなった。

   ○
 家の中に何かがいる。
 あの夜以来、家の中に自分以外の何かがいることに気がついた。
 それは何か、としか言いようがないものだった。
 本棚の影、ベッドの下、ほんの少し開いた襖の闇。そうした何気ない場所にそれは蹲り、或いは伏せるようにして在った。
 しかし、不思議とそれについて私は気味が悪いとは思わなかった。不思議だな、と思いはしたが、恐ろしいとは感じないのだ。
 休日になると私は家中を探し回ったが、どれだけ懸命に探し回ってもあの木の面は見つからなかった。その捜索の中でも、何かは私を静かに視ていたようだったが、決して視界の中には現れようとはしなかった。いつも視界の片隅、見えるかどうかの境界にそれはいた。
 人間ではない、と思うのだが、では何かと訊かれると判らない。
 しかし、それと共に暮らす内に、それこそがあの面自身なのではないかと思うようになった。
 そんなある日、友人が家へやってきた。その友人は昔から霊感のようなものがあり、よく奇妙なものが視えると言っていた。こういうと語弊があるかも知れないが、どこか薄気味悪い雰囲気のある男だった。
 そして案の定、友人にはそれが視えた。
「あんなものをよくも拾って来たものだね」
 視えるのか、と訊くと、視えるさ、と可笑しそうに微笑う。
「少し奇妙なことに巻き込まれたらしい。できれば力を貸してくれ」
「君は学生の頃から危なっかしい所があったからな。よし、僕に出来ることなら手伝おう」
 私は友人にこれまでの経緯を話した。途中、何度か質問を受けたが、その内容は私にはよく意味の判らないものだった。
「能面を預かりに来た女性は尾先と名乗ったのかい」
「ははあ。成程。美人だったろう」
「たしかに美人だったな。着物の似合う美しい人だった。もしかして知り合いか?」
「いや、知り合いではないよ。会ったこともない。でも、そうか。それならおおよその話は視えてきた」
「意味が判らない。説明してくれ」
「説明は最後にするよ。あと一つ教えて欲しい。君は預かった面がなんの面だったか覚えているかい?」
 そう問われて、私は自分が能面の形をすっかり覚えていないことに気がついた。能に関する知識は少ないが、翁か女面かぐらいは判別がつくだろう。だが、まったく思い出せない。
「いや。奇妙な面だな、と感想を抱いたのは覚えているんだが。詳しい形は覚えていない。おかしいな」
「成程。そういうことか。ありがとう」
 友人は一人で納得しているようだが、私にはまるで理解できない。いったい何が視えているのか。
「今夜あたりがいいだろうね」
「なにがいいんだ?」
「能面を見つけるんだよ」
「何処にあるのか見当がついたのか」
 友人は答えず、外へ出ようと言いだした。問い質したいことは幾らでもあったが、私は黙って友人の後に続いて家を出た。
 家の前には小道を挟んで竹林があり、風に揺られて轟々と啼いていた。時刻は黄昏、群青の空の下、薄暗い竹林の中へと友人は真っ直ぐに入っていく。私はこんな不気味な場所になど足を踏み入れたくはなかったが、仕方なく後に続いて竹林に入った。
 竹林の枝葉の隙間から月の薄明かりが差す中、私たちは黙々と歩き続けた。途中、何度かどこまで行くんだ、と問うても、いいからついて来い、とにべもなかった。しかし、いい加減に私も限界だった。恐ろしくなったのだ。
「おい。どこまでいくんだ。いい加減にしてくれよ」
「もうこの辺りで良いだろう」
 竹林がほんの少し開けた場所まで来ると、ようやく友人は歩みを止めた。夕暮れの陽も届かない竹林の中は暗く、そして背筋が震えるほど寒かった。
「振り返ってごらん」
 私が振り向くと、そこには一匹の白い狐がこちらを視ていた。
 唖然とする私を余所に、白狐はこちらへと近づいてきて、私の足元でその姿を歪めた。溶けた、と表現した方が正しいかも知れない。
 足元に転がったもの。それを手にした瞬間、ようやく思い出した。あの店主から預かったのはこれだった。この狐を模した面だったのだ。
 手に取ると仄かに温かく、つい先ほどまで誰かが身につけていたようだった。
 いったい何が起きたのか。
「ありがとうございます」
 女の声のした方へ振り向くと、いつの間に現れたのか。あの尾先と名乗った女が立っていた。
「ようやく見つけることが出来ました。あの男に封じられ、一時はどうなることかと案じましたが、人に心を奪われていようとは。縁とは奇なるものです」
 女はそういうと私の手の中からそっと狐の面を受け取った。そうして妖しげに微笑し、その美しい顔立ちを隠すように面を被った。
「また時が来れば御礼に伺いましょう。それでは」
 そうして竹林の闇へと静かに消えていった。
 私は狐に化かされたような気持ちで、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。友人は、そんな私の様子を視てくすくすと微笑った。

   ○
「あの女性は狐の化身だよ。妖魔、妖、化け物、怪異、呼び方は色々あるだろうけれど、あの女性もあの狐の面も同じものだよ。人の世界のものじゃあない」
 友人は私の部屋で酒を呑みながら説明を続けた。そのまま帰ろうとする友人を私が引き留めたのだ。あんなことのあった後で、一人で部屋に戻れる筈がない。
「この部屋にいたのは小さな狐の怪異だった。おまけにあれは君を好いていた。あれは君を守護していたのさ。どういう理由があるのか知らないけれど、あのお面に封印されていたらしい」
「いくら探しても見つからない筈だ。あの美しい女性も狐なのか」
「そうだよ。古今東西、狐は美男美女に化けるという。あの面に封じられた妖狐の一族なのだろうね。あの女性の名前を覚えているかい?」
「ああ、尾先とかいったな」
「おそらくは尾裂だよ。尾が裂けている。尾の裂けた化け狐というわけだ」
 私は眼を白黒させる他なかった。
「なんと、そういうことだったか」
 私は話を聞きながら、怖いやら意味が判らぬやらで、誤魔化すしかないと思って酒を煽ったが、さっきから一向に酔えない。私は妖狐と同棲していたのだ。そう思うとなんとも不思議な気持ちになる。
「竹林に行ったのはどういうわけだ」
「君を好いているから、きっと憑いてくると思ったのさ。ああいう場所だと邪魔が入らないし、あの時間帯なら君のような人にでも怪異が視えやすくなるんだよ。ようく視えただろう?」
 そういってくすくすと微笑う。この友人もまさか狐ではあるまいな、そう一瞬思ったが、すぐにそんな考えを振り払った。そんなことは考えても無駄だ。
「つまり、俺は取り憑かれていたというのだな」
「違う。守護されていたのさ。御利益があったと思うけれど、何か心当たりはないかい?」
「わからん。確かに運がいいなと周囲に言われることはあったが」
「よかったじゃないか。狐は神の使いだよ」
「お稲荷様というわけか。しかし、そういうことなら今後は不運に見舞われるのだろうな」
「いや、そうはならないと思うよ」
「どうしてだ。俺は加護を失ったのだろう」
 友人は意地悪そうに笑った。
「なに。すぐに判るさ」
「どういうことだ」
「持ち主が道具を選ぶのじゃない。道具が持ち主を選ぶのさ」
「意味が判らん」
「そのうち判るさ。動物は恩義に篤いから」

 数日後、隣に引っ越してきたという人が律儀に挨拶にやってきた。
「隣に引っ越して参りました。尾先と申します」
 それは、とても美しい姉妹だった。
                            獣の話―完

魚魂契過

 木山さんの屋敷へあがったのは、去年の梅雨の頃だったように思う。
 当時、私は大学で民俗学を専攻していたというのもあって、とある骨董店でアルバイトをしていた。名前を蔓庵といって、主に民具や農具などを研究者や蒐集家相手に販売していた。
 私は卒業した先輩と入れ替わりでアルバイトに入ったのだが、骨董店でのバイトというのは意外にも力仕事が多い。とりわけウチは民具の扱いが多かったので、やれ石薄だの馬に引かせる農具だの大きなものが多かった。そのくせアルバイト代はそれほど高くないので、長続きする者は少ないらしい。私のように興味本位で続けているような若者は稀だ、と店主は笑った。
 蔓庵の店主は腰の曲がった老人で、いつも帳場で頬づえをついて眠り被っている。起きている時は商品の埃を落としたり、常連客と長話をするような好々爺だった。苦学生の私によく眼をかけてくれて、給料日前になると夕飯を御馳走してくれる。若い人と晩酌できるのは楽しい、と笑うのだ。
 私は店主に代わって商品を配送し、納品することが主だったので、自然とあちこちに知り合いが出来た。客の方からしても私のような学生がやってくるのは珍しいようで、よく菓子を御馳走になったりしていた。
 ある日、いつものように講義を終え、研究室にレポート用の資料を借りにいってから蔓庵へ向かうと、常連客の福部さんが軒先に立っていた。恰幅の良い老人でいつも明るい人なのだが、今日はどういうわけか顔色が悪いように視えた。
 福部さんは私に気づくと慌てて笑顔を浮かべ手を振った。
「やあ、御苦労さま。今から出勤かな?」
「はい。福部様こそどうされたんですか? 中へ入らないのですか?」
「いや、ちょっと困ったことになってね」
「はあ」
「知り合いからこんなものを貰ってしまってね。相談に来たんだが、どうにも気が乗らなくて」
 福部さんはそういうと風呂敷から、平らな漆塗りの箱を取り出した。艶やかな黒漆に精緻な螺鈿細工が掘られている。金魚のようだ。
「値が張りそうなものですね」
「そうなんだが、これを蔓庵さんで買い取ってくれないものかと思ってね。しかし、どうにも気が乗らなくて」
「どうしてですか」
「以前にも一度、こういうものが私の手元に行きついたことがあってね。桐の箱に入った狐の面だったんだが、どうにも不気味でこちらで買い取ってもらおうと持って来たんだよ。そうしたら、随分と怒られてしまってね」
「怒られる? うちの店長にですか」
「そうさ。あの人は若い頃、それこそ戦後間もない頃から骨董品を蒐集していたんだ。それはもう長いことこの世界にいる。そうするとね、やはり曰くつきというものが巡ってくるのだそうだ」
「曰くつき、ですか?」
「物には念というものが宿るというからね。そうしたものの中には不吉なものや、持っていてはいけないものというものも出てくるのだそうだ。あの人も昔は相当怖い思いをしたのだろうね。だから、今はそういうものは扱わないのだそうだよ」
「これも、曰くつきなんでしょうか?」
「私にはわからない。ただ、これは私の手元にあってよいものではない気がするんだ」
 家の中に置いておくと騒がしくていけない、と小声で囁くように溢した。
「以前の、その狐の面はどうしたんですか?」
「御主人が教えてくれた別の骨董店に売りに行ったんだ。そこはそういう曰くつきのものだけを扱う店というのでね」
「では、今回もそちらにお持ちした方がいいのではないでしょうか」
「そう思ったんだが、見つけられなかったのだよ。もう随分昔の話だから、移転してしまったのか、もう潰れてしまったのかも知れない」
「店長なら覚えているかも知れませんよ」
「そうだな。そうかも知れない。ひとりで悩んでいても仕方がないものな」
 そうですね、と私は福部さんを連れて店の中へ入った。
 店内には既に先客がいたらしく、帳場で主人と何か話しているようだった。着物を着流した背の高い初老の男性で、袖口から覗く手首が骸骨のように細かった。
いらっしゃいませ、と声をかけると男が振り向いた。痩せこけた頬、長く伸ばした白髪交じりの髪を頭の後ろで結わえ、唇は青白い。骸骨のような容姿のくせに、その双眸だけが生気に満ち充ちて炯々としている。
男は私の顔を見ると、口の端を引きつるように歪めた。
「はじめて見る顔だな」
「私の手助けをしてくれている。昼間は大学に通っているんだ」
 光の加減のせいか、店長の顔色がやけに悪そうに見えた。こんな表情は見たことがなかった。
「すまないが、店先を掃いておいておくれ。今日は風が強いからね」
 ここにいたら邪魔なのだろう、私はすぐに返事をして竹ぼうきを担いで店の外へ出た。落ち葉を掃きながらさりげなく店内を覗くと、福部さんと三人でなにやら話しているようだった。なにか揉めているようにも見える。
 一瞬、あの着流しの男が振り返って私を視た。骸骨のように細く白い指が紫色の唇に触れ、しぃ、と顔を歪める。私は慌てて視線を逸らし、落ち葉を掃くことに専念した。
 しばらくして、店内から福部さんだけが出てきた。手には風呂敷がない。店主が買い取ったのだろう。素人から見ても、あの商品は素晴らしいものだった。さぞ高価に違いない。
「いや、買い手がついてよかった」
「あの、福部様。一つ訊いてもいいでしょうか?」
 なんだい、と福部さんはいつものように笑う。よほどあの箱が気がかりだったらしい。
「さっきの話、曰くつきの骨董品ばかりを蒐集する骨董店の名前を教えてもらえませんか?」
 何故そんなことを聞いたのか。自分でもよく判らなかった。
「夜行堂だ。夜行堂という」
 福部さんはそういうと、顔から一切の笑みを消して立ち去っていった。

   ○
 大学から程近い場所にある小さなアパートに帰ると、妹が台所で夕飯を作っている最中だった。妹は高校生で、私と一緒に暮らしている。両親を早くに亡くした私たち兄弟は私が高校生まで伯父の家で育ったのだが、私が大学に進学するのを機に二人で家を出たのだった。家事は分担制にしているが、どうしても料理のできる妹の方が負担が大きい。
「おかえりなさい。今日は早いね」
「暇だったよ。ああ、それと店長から野菜のお裾わけ貰って来た」
「わあ。嬉しい。最近、野菜ってすごく高いからホント助かる」
「店長にもそう言っておくよ。また煮物とか持っていってもいいかな。こないだの南瓜の煮物、かなり気に入っていたみたいだから」
「うん。今日の筑前煮もおおめに作ってるから、明日持っていってね」
 ああ、と返事をしてから部屋着に着替える。ついでにレポートを片付けてしまおう、と思って鞄を開けると、そこには見覚えのないものが入っていた。
「なんだ、これ」
 それは小さな水晶だった。球体というよりは滴のような形をした透明な石。なんでこんなものが鞄の中にあるのか。
「なにそれ。私にも見せて」
 妹は水晶を光に翳して、きれい、と息を呑んだ。
「ねぇ、中に青いのが見えるよ」
「どこ?」
「ほら、ちょうど真ん中あたりにまっすぐ」
 確かによくよく見れば、水晶の中央あたりに奇妙な青い染みのようなものがある。複雑な模様のようにも見えた。
「すごく綺麗ね。お兄ちゃん、こういうの好きだったんだね。知らなかった。もしかして恋人でも出来た?」
「いや、こんなもの持ってないよ」
「?」
「でも、お兄ちゃんのなんでしょう?」
「鞄に入っていたんだ。俺のじゃない」
 もしかしたら。
 あの骨董店のものかも知れない。
 ―――夜行堂。

   ○
 それは本当に偶然だった。
 アルバイトを終えた私は本屋で参考書を買いに向かったのだが、臨時休業ということで開いていなかった。このまま帰るのもなにかと思い、裏道を適当に歩いていると、不意に一軒の骨董店の店の前に出た。
 もしや、と思って看板を捜すと、擦りガラスに《夜行堂》と書きなぐってある。思わず息を呑んだ。
 福部さんの話を思い出し、背筋が震えた。まさかこんな近くにあるだなんて。いや、そもそも裏路地にこんな店があっただろうか。
 入るべきか、立ち去るべきか。
 私はほんの少し迷ったが、結局入ってみることにした。どれだけ曰くつきの商品があろうとも、買わなければ問題ないだろう。見るだけ。本当に見るだけにしよう。そう決めて、私は店内へと脚を踏み入れた。
 店内は薄暗く、冷たい土の匂いがした。陳列された商品は統一性が無く、一目見て判らないものの方が多い。おまけに値札が一つもなく、およそ商売をしているようには見えなかった。
「いらっしゃい」
 店の奥、一番深い場所に帳場があり、そこで若い女性がこちらを見て手招きしていた。いや、女性か男性か区別がつかない。美青年と言われても通るだろう。
「こんにちは。あの、少し見て行ってもいいでしょうか」
「勿論。貴重なお客様だ。ゆっくりと見て回って」
 私は商品を眺めながら、これらが曰くつきであるということが脳裏から離れなかった。どれを見ても妖しく思えてならない。
「なにかお捜しで?」
「いえ。特には。あの、何故値札が張られていないのですか?」
「値札を貼っておくと、嫌がるんですよ」
「嫌がる? 誰がですか?」
「ここに並んでいる、これらが。うちで取り扱っているものはどれも一癖も二癖もあるものばかり。人が物を選ぶのじゃない。物が自身に相応しい主を選ぶ。私はその橋渡しをしているだけ」
 女主人はそういうと微笑んでみせた。冗談か本音なのか判らない。その笑みがなぜだか私には酷く恐ろしくて、私は叫びだしそうになった。まるで得体の知れない恐ろしいものと対峙している、そんな気持ちになったのだ。
「何か気に入るものがあった?」
「いえ。ありがとうございました」
 私は踵を返してすぐに店を後にした。
 店を出る間際、女主人が暗い店内の闇から私に何事か囁いた気がした。
 またのお越しを、そう言ったような気がしたのだ。

   ○
 翌日、私はあの水晶を返却に行く為に夜行堂へ向かった。だが、どういうわけかいくら捜しても見つけることが出来なかった。裏道を通り、同じように歩いたのに、どうしてもあの店に出くわさない。
 正直、あの気味の悪い店には二度と行きたくはないが、このままでは私は窃盗をしたことになる。万が一、訴えられでもしたら私は有罪になるし、奨学金も打ち切られてしまう。そうなれば大学を退学しなければならなくなる。それだけはなんとしても避けたかった。
 結局、夜行堂を見つけることが出来ないまま出勤の時間になり、私は気落ちしたまま蔓庵へと向かった。
 夕方から降り始めた雨は、蔓庵に着く頃にはとうとう本降りになり、店先に看板を立てることもできないような有様になった。こういう日は来客はほとんど望めない。
 しかし、今日は意外にも配達があった。
「こんな雨の中、済まないけど配達を御願い出来るかな」
 そういった店長の顔はいつになく強張っていた。この程度の雨のなかでの配達は前にもあった。
「わかりました。どちらまででしょうか」
「屋敷町の外れだから少し遠くなる。住所は書いておいたから、これを参考に行って来ておくれ」
 店長はそういって風呂敷を私に手渡した。昨日、福部さんが持ちこんだ漆塗りの箱だとすぐに気がついた。
「あの、これは福部様がお持ちになったものですか?」
 一瞬、店長は動揺したように見えたが、すぐに温和な笑みを浮かべて首を縦に振った。
「そうだよ。これは少し曰くつきでね。あの人が持っておくのはよくないから、家で買い取ったんだ。けれど、すぐに買い手がついた」
 君も昨日会ったろう、と店長は呟く。
「買い手は木山さんという。昨日、私と話していた御仁だよ。あの人は少し変わった趣味の持ち主でね。曰くつきの骨董品ばかりを蒐集している。こういう言い方は失礼だが、あまり関わり合いにはなりたくない人だよ」
 ほんの少し背筋が震えた。
「いいかい。屋敷に着いたなら、なるべく早く品物を渡して品物を確認してもらいなさい。料金を貰ったらまっすぐにここへ帰ってくること。長居はしてはいけない」
 それと、と店長は低い声音で続けた。その顔はどこか申し訳なさそうだった。
「彼とはどんな取引もしてはいけない」
「取引?」
「そうだ。彼が取引を持ち出してきても、決して首を縦に振ってはいけない。なにを言ってきても決して取引には応じるな。一度でも応じれば、いつまでも彼が欲しがるものを差し出さなければならなくなる」
 本当にすまない、そう店長は申し訳なさそうに漏らした。
 私にはまったく意味が判らなかった。

   ○
 木山さんの屋敷は高級住宅地のさらに奥、山間の麓にひっそりと蹲るようにしてあった。私は配達用のトラックを駐車場に止め、竹林を傘をさして歩いた。
 竹林に挟まれた小さな歩道は薄寒く、また気味が悪かった。風雨に煽られて竹が互いに揺れて奇妙な音を奏でる。薄暗い竹林の闇から、何かがこちらを見ているような気配がある。それらを無視して、私は歩き続けた。立ち止まってしまったら、もう前に進めないとわかっていた。
 竹林の私道をしばらく歩くと、大きな門があった。表札には崩し字で木山と彫られていて、その下に呼び鈴がある。
「こんにちは。蔓庵の使いのものです。商品の御届けに参りました」
 ややあって、どうぞ、とそっけない声が帰って来た。私は失礼します、と断ってから門を潜り、中庭を抜けて玄関に入った。
 屋敷の中は薄暗く、酷く静かだった。一際昏い廊下の先に、ひょろっとした男が立っていてこちらを見ている。距離があるのと、薄寒いのとでまるで骸骨が立っているようにしか見えなくて酷く動揺した。
「あがりなさい」
 そういって奥へと歩いていってしまう。仕方がないので私も靴を脱いで、その後に続くことにした。酷く嫌な予感がした。
 屋敷の中は不気味なほど静かで耳に痛いほどだった。聞こえてくるのは雨の音と、すこし先を歩く男が廊下を踏む音ばかりで息が詰まる。
 ややあって木山さんが障子を開いて、部屋の中へ入った。私もその後に続く。そこは十六畳ほどの和室で、座布団が二枚敷いてあるばかりで他には何もない。
「入りなさい」
 彼はそういって上座に座り、私は失礼します、と断ってから下座に正座した。さっそく風呂敷を解こうとする私を、彼が制止した。
「まぁ、待ちなさい。そう急くものじゃない」
 私は一刻でもここを立ち去りたくて仕方がなかったが、彼はそれを許さなかった。
「君は昨日、顔を合わせていたな。××大学の学生だろう」
「はい」
「大学生か。懐かしいな。私も同じ大学に通っていた。いわば私は君のOBというわけだ。尤も、私は途中で大学を辞めてしまったがね。何事も長続きしないのは私の悪い癖だよ」
「あの、商品を確認して頂けませんでしょうか」
「急くなよ。なんだい。君はそんなに早く帰りたいのか。それとも店主からなにか吹き込まれたのかね」
「いえ」
「なら、もう少し付き合い給えよ。君のような若者と話すような機会は珍しいんだ。なに、とって喰おうというわけじゃない。君も店で退屈な仕事をするよりもいいだろう。そうだ。こうしよう。君が私の話に付き合ってくれるのなら、謝礼を出そう。どうだね?」
「そういうわけにはいきません」
「頭の固い奴だな。こう見えて金なら茹だるほどあるんだ。気にすることはない」
「謝礼は必要ありません。それよりも、商品を確認してください」
「頑固な男だ。最近の若者らしくないな、君は。予想外だよ」
 そういうと歪んだような笑みを浮かべ、くっくっ、と咽喉を鳴らして笑う。袂からキセルとマッチを取り出し、煙をぷかぷかと吸い始めた。やたら甘い匂いのする煙だった。
「いいだろう。商品を見せてくれ」
 風呂敷を解き、私は黒漆の箱を木山氏の前へと差し出した。
「君、これが何かわかるかい」
「いえ」
「店主からは何も聞かされていないのか」
「はい」
「これは硯箱だよ。硯を納める為の化粧箱だ。作られたのは明治初期、腕の良い職人の手によるものだよ。見事だろう」
「ええ」
「特にこの金魚が良い。ようく見ていてごらん」
 言われた通り、じぃ、と螺鈿細工の金魚を見ていると、不意に金魚がその身を大きく翻し、すぅ、と漆の上を泳いだ。
 思わず息を呑んで飛び退いた私を見て、木山氏は咽喉を鳴らして嗤う。
「その螺鈿の金魚はね、この箱を手掛けた職人が、片恋した良家の御令嬢を閉じ込めたものなのだよ。今尚、その魂はこの箱から縛られている。この箱はね、人の魂を泳がせるための魚籠なんだ」
 震える私を前に、木山氏は楽しそうに箱を持ちあげ、それを裏に返した。すると、そこにはもう一回り小さな金魚が躊躇いがちに泳いでいる。
「君の妹は実に愛らしいな。本当に美しい。そうでなければ、これほど見事に美しく泳ぎ回ることは出来はしない。兄想いの、実に健気な娘だ」
 君の主から話を聞いて欲しくなったんだ、と木山氏は嗤う。
 私は愕然とした。妹の名を溢すように呟くと、金魚がはっとしたように泳ぎ回る。ああ、なんてことだ。
「どうして、そんな」
「どうしてだろうね。本当に、どうしてだろう」
「妹を、返してください」
「僕はね、幼い頃から人の魂を視ることが出来た。美しい魂というものは宝石よりも遥かに美しい輝きを持っている。僕はその輝きを蒐集するのが生き甲斐なんだ。だから、今回のような買い物は本当に僥倖だった」
「お願いします。妹を返して下さい。たった一人の家族なんです」
 木山氏は立ち上がって、身体を折るようにして、くっく、と嗤った。本当に楽しそうに、楽しくて仕方がないとでもいうように咽喉を鳴らして。
「君の主は私と取引をしたんだ。自分の延命の為に、その箱と君たち兄妹を私に売ったのだよ」
 木山氏が部屋を出て行くのを呆然と見送りながら、私は硯箱の金魚を掬いあげようと手を伸ばしては失敗し、泣き声を噛み殺しながら懸命に妹の名を呼んだ。
 不意に、背後で気配がした。何かがいる。
 振り向くと、黒い腕の長い靄のような何かがたくさん立っていた。ああ、妹もこうして攫われたのか。
 箱を抱いて立ち上がった瞬間、上着のポケットからあの水晶が零れ落ちて畳の上に転がった。すると、水晶が滲むように溶け、青い輝きが飛び出して靄の異形たちを引き裂いた。
――蓋を開け。
 聞き覚えのない男の声に命じられるまま、私は硯箱の蓋に手をかけた。蓋は恐ろしいほど固く閉じられていたが、私は必死に蓋に爪を食いこませ、渾身の力で引き剥がした。
 驚くべきことに蓋の中は恐ろしい程広く、底で立ちすくむ二人の女が見えた。私は妹の名を叫びながら妹の手を取り、引き上げた。入れ替わるように青い輝きが箱の中へ飛び込み、もう一人の女性を包み込むと、弾けるようにして外へ出た。
 私はぐったりとしている妹の身体を抱き抱え、呆然と眼の前に浮かぶ青い光を見ていた。硯箱には金魚の姿はもう見当たらなかった。のっぺりとした艶のない漆黒が浮かんでいてとても触れる気にはなれなかった。
 やがて、光は廊下へと飛び去り、次いで屋敷の何処かから凄まじい絶叫が聞こえた。それは木山氏の声によく似ていた。
 私は妹を背負い、すぐに屋敷を離れた。傘もささずに竹林を走り抜け、車の助手席に妹を乗せ、一度も振り返らぬまま車を発進させた。
 蔓庵には戻らなかった。

  ○
 目を覚ました妹は何も覚えていなかった。
 私は蔓庵へもう二度と行くことはなかった。ただ、骨董店で老人が心臓麻痺で死んでいるのを近所の住民が発見したと新聞で読み、同じ紙面に都市郊外の屋敷で男性が全身を八つ裂きにされて殺されたという事件が載っていた。犯人は見つかっていないのだという。
 店長がなにを考えていたのか。私には判らない。判りたくもなかった。きっと店長にも事情があったのだろう。でも、今となってはもう知りようがない。
 私はすぐに違うアルバイトを見つけ、働き始めた。以前のように好奇心で選んだのではなく、まっとうなアルバイトだ。
 もう今ではあの出来ごとそのものが夢だったのじゃないか。悪い夢でも見ていたのではないか、そう思うようになった。
 しかし、そんなある日、私は偶然あの骨董店に行きあたった。

 夜行堂。
 件の店主は私の顔を見るなり、御苦労さま、といってほくそ笑んだ。
「悪いことをしたね。でも、あれは仕方なかったんだ。私が入れたのじゃない。あれが自分から君についていったんだ」
 私は店主にすべてを話した。信じてもらえる云々というよりも、きっと彼女はすべてを知っていると思ったからだ。もしも私の疑問に応えてくれるのなら、その答えが欲しかった。
 案の定、店主は何もかも知っているらしかった。
「あの水晶の中に入っていたのは、件の御令嬢の許嫁。その魂なんだ。彼は無念の内に死んでしまったけれど、愛した彼女の魂を救う為にあの水晶の中で時を待っていた」
 私は他にも聞きたかった。店長のこと、木山氏のこと。おそらくこの人なら知っているだろう。だが、それらについては何も語ってはくれなかった。
「君は運が悪かった。そういうことだよ。もうこの店にも来ない方がいい。まぁ、もう来ることはないと思うけれど」
 店主は最後にいった。
「あんまり闇を覗き見ないことだ。深く覗きこむと、向こうから掴まってしまうから。忘れてしまいなさい」
 
 それが最後だ。以来、いくら捜してもあの骨董店を見つけることは、どうしても出来なかった。

                            魚魂契過―完 

山神蓮花

今から三年ほど前のことだ。
当時、私は熊本県の某中学校の教師をしていた。
私が赴任したのは宮崎県にほど近い片田舎で、全校生徒の数が百人にも満たない小さな学校だった。
東京で生まれ育った私にとって九州に引っ越すことは不安に満ちたものだったが、村の人々は余所者の私にとてもよくしてくれた。炊事の不慣れな私に食事を差し入れてくれたり、近所での会合に誘ってくれるなど、細やかな心遣いが本当に嬉しかった。多少の不便さはあったけれど、東京よりもずっと過ごしやすかった。
二年目の夏にもなると、私もそれなりに適応していた。
娯楽らしい娯楽がなくとも、田舎には面白いことを幾らでも見つけることが出来た。そういう意味では、私に山での遊び方を教えてくれた先達は他ならぬ、私が担任したクラスの生徒たちだった。
彼らは殆ど一年中、山で遊んでいた。もちろん野球やサッカー、テレビゲームなども大好きだったが、山を駆け回ることの方が多かった。特に男の子は呆れるほど山に入る。
私は当初、生徒たちだけで山に行くのは危険だと思ったのだが、年配の先生はそんな心配はしたことがないという。保護者の方もそういう方ばかりで、山で危険な場所に近づくような素人はいないのだそうだ。
その点、私は都会育ちの素人なので、危険か安全か判断がつかない。生徒たちに連れられて山に行った時にも「先生。そっちは危ねぇ」「泳いでいいのはこっちだけ」などと指導を受けた。私には、その境界が皆目見当もつかなかった。
私が生徒たちに教わったものの中でも、特に素晴らしかったものは釣りだった。
子供たちは自分たちで竹を切って、自分たちで竿を自作する。男子生徒のほぼ全員が「肥後守(ヒゴノカミ)」という小刀を持っていて、すばらしく切れ味がよかった。この小刀には日本刀のように刃文があり、そんな代物を指先の延長のようにうまく使いこなす生徒たちに、私は度肝を抜かれたものだ。私も彼らに教わりながら竿を作り、四苦八苦しながらもなんとか自分の竿を完成させた。
渓流釣りは私の心を魅了した。ほとんど毎日学校が終わった後、山間の渓流で釣り糸を垂らす。最初の頃は餌をつけるのにも苦労したが、実際に魚を釣ってみると苦労などと思わなくなるから不思議だ。
私は生徒たちが呆れるほど渓流釣りにハマった。釣った魚はその場で捌き、頭を下にして焚き火で焼き上げる。鮎などは臭みもなく、とても美味しかった。
自分の釣った魚の味に魅せられた私は、ますます釣りに没頭した。

 夏休みも半ば過ぎた頃、ちょうど盆を終えたぐらいだと記憶している。
 私はいつものように渓流釣りに出掛け、今日はいつもより上流へ向かうことに決めた。生徒たちは上流には行こうとしなかったが、その頃の私は山歩き専用の靴や、そうした装備で身を包んでいたので躊躇しなかった。
 異変に気付いたのは、歩き出して一時間ほど経った頃だった。
 川に沿うようにして上流を目指していたのだが、いつの間にか霧が出ていた。私が経験したこともないほどの濃霧で、肘を伸ばした自分の手が見えないほどだった。
 引き返した方が良さそうだ。そう思い始めた頃には、もう陽が傾き始めていた。
 闇に包まれるまでは早かった。
 ものの十分もしないうちに山に挿し込む日差しは消え、空気が急に冷たくなった。山独特の冷たい空気が、さらに冷たくなっていくのを感じて私は動揺した。
 相変わらず霧は濃い。
 混乱しそうになる頭を冷まし、冷静になるよう自分に言い聞かせた。普段から生徒たちに言っていることだ。自分が実践できずにどうする。
 急いで引き返すという選択肢もあったが、私は霧の中を無闇に動くような真似はしなかった。九州には熊などの肉食獣はいない。たとえここで夜を越しても、獣に襲われるようなことはない。
 幸い、私は装備を整えていた。釣り道具だけでなく、電気式のランタン、ガスライター、発煙筒もあった。服装も保温性の高いものだし、ここで一泊しても凍え死ぬようなことはないだろう。
 私は覚悟を決め、近くから比較的乾いている枝を見つけ、新聞紙に種火を点けてから焚き火をした。山に行く時に新聞紙があると色々便利だと教えてくれたのは、もちろん生徒だ。
 そして、ブランデー。これは私の密かな楽しみだ。私はあまり酒が強い方ではないので量は飲めないが、その分、質の良いものしか飲まない。地味に洋酒や日本酒のコレクションがあり、最近はブランデーを飲むのが好きだった。
 焚き火で暖を取りながら、ブランデーを少しずつ飲む。
 これはこれで悪くないな、と思った。しかし、肝心の魚はさっぱり釣れなかった。
 私は携帯食(カロリーメイト)で空腹を紛らわせつつ、酒を飲んで良い気持ちになっていた。
 比較的柔らかい場所を見つけ、そこに横になった。湿気がひどかったが、濡れるほどではない。それに腐葉土は柔らかく心地良かった。帰ったら風呂に入れば良い。
 横になるとすぐに眠くなり、私は気を失うように眠りについた。

 不意に、眼が覚めた。
 焚き火の近くに誰かがいた。
 私は驚いて跳ね起きると、その人物は生れた手つきで枝を折って火の中に放り込んだ。
 老人だった。年齢は七十代ほどで、髭が生えている。麻でできた着物のようなものに身を包み、驚いている私をニコニコと温和な貌で見ていた。
「こ、こんばんは」
 私が恐る恐る挨拶すると、軽く会釈を返してくれた。そしてまた枝を折って火にくべる。どう見ても地元の人だった。幽霊には見えないし、ましてや妖怪でもないだろう。
「火を見ていてくれたんですか?」
 老人は頷いて、ニコニコと私の手にあるものを見ていた。
 ブランデーだった。
「あ、飲みますか?」
 老人は嬉しそうに頷いて、懐から変わった形の杯を差し出した。
「わあ、蓮の花弁ですか」
 風流だな、と私は少し感動した。きっとこの人は雅やかな趣のある人なのだろう。そうでなければ、こんな粋な真似はできない。
 大きな蓮の花弁に、私はブランデーを注いだ。
 老人はブランデーを見たことがないのか、とても珍しそうに眺めていた。
「お口にあうか分かりませんが、どうぞ一献」
 老人は嬉しそうに頷いて、きゅっ、と一口で杯をあおった。
 んーっ、と胸を通り過ぎる熱さに耐え、それから満面の笑みを浮かべた。
 それは本当に嬉しそうな顔で、酒を勧めた私まで嬉しくなってしまった。
「お気に召しましたか? 外国のブランデーというお酒なんです」
 こくこく、と老人は嬉しそうに頷き、懐からもう一つ杯を取り出して私にくれた。もちろん蓮の花弁だ。ふっくらと柔らかく、夜露に濡れていた。
 老人はニコニコと微笑みながら、私の杯にブランデーを注いでくれた。もちろん私も注ぎ返す。杯を額に掲げ、一緒に飲んだ。
 一杯、一杯、また一杯。
 蓮の花に注いだブランデーは驚くほど甘く、香り高かった。
 それから私と老人は意気投合し、酒を飲み交わした。

 翌日。眼が覚めると、老人の姿はいなくなっていた。代わりに枕元に香魚が数匹、榊の枝葉で結わえて置いてあった。おまけに手の中には、杯に使った蓮の花弁が残っていた。
「昨日のお礼かな」
 雅やかな人だ、と私は感心した。
 霧はすっかり晴れていて、帰り道で迷うことはなかった。
 
 その二日後、学校に遊びに来ていた生徒に老人の話をすると、その場にいた全員が食いついてきた。生徒ばかりか、近くで草むしりをしていた校長まで私に詰め寄ってきた。
 私は詳しく老人のことを話した。優しい老翁で、とても無口だったが、一緒に酒を飲み交わしたと。おまけに土産に魚をくれた、と。
 子供たちは大いに盛り上がり、校長は「いやあ、君は運がいい!」とバシバシと背中を叩いて笑った。
 不思議に思った私が「もしかして有名な方なのですか?」と聞くと、どうやらあの老人は山の神なのだという。
 山の神は色んな姿に転変する。老人、少女、若い娘、時には動物にもなるらしい。定まった形はなく、相手によって姿を選ぶのだという。
 後から知ったのだが、ほとんどの地域の山の神はひどい醜女らしいのだが、なぜか熊本の山神は美しい女の姿で現れるらしい。私が会ったのは残念ながら美女ではなかったが、とても優しかった。
 
 あれから私は一度も、あの老人には会えなかった。
 ただ、時々ブランデーをあの場所に置いて帰ると、翌日には必ずなくなっていた。酒のお礼かどうか知らないが、その時は決まって魚がよく釣れた。

 私は今、四国の学校で教鞭を握っているが、あの時の不思議な体験は忘れられない。
 結婚する時、今の妻に「山の神様と酒を飲んだことがある」話したら笑われたので、私は証拠の品を見せてやった。
 蓮の杯。
 不思議なことに、あの花弁は枯れることなく、今でも瑞々しく夜露に濡れている。

 いつか、またあの老人と楽しく酒を飲み交わしたいものだ。
 今度はどんな酒が良いだろう。
                                                 
                                                                                  山神蓮花ー完

元旦祝神

 九州は福岡県、太宰府市の象徴ともよべる太宰府天満宮を御存知だろうか。学問の神として有名な菅原道真を祭る由緒正しい神社である。正月にもなると全国から三が日に二百万人もの参拝客が訪れる。
 私が最初にこの太宰府天満宮へ参拝したのは、無謀にも国立大学受験を控えていた頃のことである。溺れる者は藁をもすがるというが、私の場合は多くの受験生がそうであるように神に縋ることにした。もはや私が頼れるのは神様をおいて他になく、私は新年早々、初詣に少ない貯金をはたいた。
 飛行機と電車を乗り継いで五時間弱。かの太宰府天満宮に着いたのは元旦、およそ信じられぬような数の人間に私は圧倒された。
 参道は並ぶ参拝客で埋め尽くされていて、そのほとんどが受験を控えた子を持つ家族連れであった。私はそうした幸せな受験生たちを心の中で罵った。私の両親などは正月三が日は家を出ないと固く決めており、受験を控えた子を持つ親とはおよそ思えぬスタンスを貫いていたからだ。
 私はそうした幸せそうな参拝客たちに背を向けた。事前に下準備はしてある。なにも真正面から参拝せずともよいだろう。観光案内所でもらった地図によれば裏からもお参りすることは出来る。わざわざ人の多い方へ回るのも馬鹿馬鹿しい。
 私は散策がてら地図に従って街並を見て回った。 なるほど、天満宮が近いということもあって飲食店や土産物屋が多い。しかし、参道を一本逸れると人気は急に少なくなる。やたらと駐車場が多いのは駐車代で設けようという魂胆なのだろう。事実、駐車代金は法外に高いように見えたが、どこも満車で出入りが激しい。
 敷地をぐるり、と遠回りして天満宮のちょうど裏口へとやってきた。やはりそれなりに数が多いが、それでも参道の比ではない。私はようやく一息ついた心持ちになってベンチに腰を降ろして、水筒の御茶を呑んだ。コンビニで買ってきた弁当もあったが、さすがにここで食べる気にはなれなかった。
 そうして一息ついていると、なにやら籠を抱えている若い人と眼があった。神社の関係者なのだろう。神職の格好をして、とても忙しそうである。
 私がペコリ、と会釈すると、相手はニヤリと笑って駆け寄ってきた。眼の細いなかなかのイケメンであった。
「やあ。あけましておめでとう」
 少々驚いたが、私も礼儀正しく、あけましておめでとうございます、と答えた。
「受験生だよね」
「はい。合格祈願に」
「そりゃあ都合がいい。君、新年からついてるよ。ねぇ、少し手伝ってくれないかな」
「はぁ」
 参拝客に手伝いをさせるのか、とも思ったが、別にいいか、と思い直した。新年早々善行を積んでおくのもいいかも知れない。
「ちょっと歩くんだけどさ、そこで宴会をしているんだよ。君みたいな若い子がいると大いに喜ばれる。御馳走もあるし、酒だって飲める」
 こちとら未成年である。さすがに飲酒はまずいが、ご馳走にありつけるのはありがたい。冷たいコンビニ弁当より、ご馳走の方が良いに決まっている。
「じゃあ、ちょっとだけ」
「そうこないと。これ半分持ってもらえる?」
 差し出された籠の中を覗くと、焼き栗がこれでもかと入っていた。いったいこれほどの量の栗をどうするのか。
「少し山を登るけど、がんばってね」
 これは訂正しておくべきだろう。彼のいう少し、とは私が想像していた少しとは全く違い、私はほとんど山登りのような道を延々と歩かされ、天満宮の雅楽の音色は遠退くばかりで、私は山の奥へと突き進むことになった。息も切れ、汗が顎から滴り落ちる。数歩先を歩く彼は慣れた足取りでひょいひょいと登っていく。ここまでくるともう意地である。私はひぃひぃ言いながら、ようやく最後の石段を登り終えた。
 そこは少し開けた空間になっており、小さな朱塗りの社があった。しかし、奇妙なことに狛犬がいない。いや、足場はあるのだが、肝心の狛犬が不在なのだ。天満宮の社にしては小さい。此処は別の神社なのだろう。
「おうい。こっちこっち」
 呼ばれて更に奥へ進むと、奇妙な光景が広がっていた。先程よりも少し小さな空間に古墳のような洞穴があり、その傍らには炬燵があった。なぜコタツがこんな所に?
 炬燵を囲んでいるのは厳つい顔をした老人、馬鹿みたいに綺麗な女性の二人組であった。炬燵の上には日本酒の瓶が立ち並び、中央には土鍋がぐつぐつと煮立っていて、なんとも良い匂いがした。
「先生、天津甘栗買い占めてきましたよ」
「おお、でかした。よしよし、これだけあれば三が日は出歩かんでもいいな」
 不意に老人が私を見つけた。
「おい。なんだ、そいつは」
 いきなり厳つい顔をした老人がそういったので、私はぎょっとなったが、こんな所まで汗だくになってやってきたこともあって、ぎろり、と睨み返した。
「まあまあ。いいじゃあないですか。一年に一度の御祝いなんだから。先生も今日は無礼講だと仰ったじゃないですか。紅白見損ねたからって機嫌を損ねないで下さいよ」
「お前に録画を任せたのが間違いじゃった」
「仕方ないじゃないですか。デジタル機器の操作なんて出来ませんて。うちのテレビなんかまだアナログですよ」
「ええい。黙れ黙れ。おい、小僧。さっさと炬燵に入れ。そんな所に突っ立っていられても眼障りだ」
 十八年生きてきて小僧呼ばわりされたのは初めてだ。いや、確かに小僧なのは間違いないが。嫌な爺である。
 私は爺の向かいに座った。こんな爺の隣に腰を降ろすのだけは御免である。しかし、炬燵の温もりは偉大である。偏屈爺への怒りも幾分か和らいだ。
 ふ、と隣に座る美女が微笑む。
「お若いのね。お幾つ?」
「十八になります」
 答えながら、私はこんな美人と口をきくのは初めてだったので酷く緊張した。芸能人みたいだ、と阿呆な感想を口の中で噛み殺した。
「十八! 聞きました? 生まれてまだ十八年ですって」
「ふん。ひよこのようなものだな」
「可愛いじゃないですか。私、羨ましい」
 そうして、つん、と私の頬を指先で軽く突く。私はもうそれだけで当初の目的を完全に見失った。今年は最高の一年になるだろう。
「しかし、余所者を招くのは久しいな。どれ、酒を注いでやろう。小僧」
 爺がそういって酒を薦めてくるので、私はそれを断った。
「いや。まだ未成年なので遠慮します」
「そんなものは知らん。呑め」
「呑めませんってば」
「判らん奴だな。儂が呑めというのだ。呑め」
 強引な爺だ。断るのは無理そうだし、うるさい親はいない。それに酒を飲んでみたいな、という好奇心が頭をもたげた。
「では、少しだけ」
「ようし。そら、ぐいといけ」
 御猪口になみなみと注がれた萌木色の液体を、えいや、と飲み干す。その味をなんと表現したらいいのか判らない。ともかく豊潤で甘い。酒、というよりは果実のようだ。それでいて、飲み干すと胸の奥に火が灯ったように温かくなる。なんとも楽しい心地になる。早速酔いが回ったのか、酒瓶から桃色や金色の吹き流しが溢れて虚空を舞う。
「どうだ。美味いか」
「美味い! すごく美味い! なんだこれ!」
 爺さんがニカっと欠けた歯を剥き出しにして笑い、若いのに見込みのある奴だ、と呵々大笑した。
「こいつは人の手による酒造ではない。福の神が趣味で造った桃の酒だ。京の都あたりじゃあ、天狗と人間で奪い合いになるような逸品よ。まぁ、儂ほどの者になれば、向こうから歳暮で贈ってくる」
 いまいち何を言っているのかよく判らないが、ともかく珍しいものらしい。
「先生。秘蔵の一本をもう出しちゃったんですか! 新年の寄りあいで出すって言ってたじゃあないですか」
「やかましい。あんな耄碌した連中に呑ませてもつまらんのじゃ。この小僧くらい表情がコロコロ変わらんと面白くない。そら、もっと呑め」
「どうも。俺も注ぎます」
「おお、そうかそうか。よしよし」
 そうして爺さんと酒を呑み交わすのが楽しくてしょうがない。一杯飲めば夢心地、二杯飲めば前後不覚、三杯飲めば足が浮きあし立ってぷかぷか浮かぶ。
 新年の空に飛んでいこうとする私を、若いお兄さんが必死に繋ぎとめる。
「駄目ですって! 降りれなくなっちゃいますよ!」
 もう何がなんだかわからない。私はもう完全に酔っ払っていた。
 爺さんも厳しい顔はどこへやら、私と同じようにぷかぷか浮かびながら胡坐をかいて、聞いてもいない昔話を始めた。
「儂が鎌倉の都よりここへやってきてからもう随分になる。鞍馬山で天狗と合戦をしていた頃が懐かしい。神通力も灯火同然、今は五条の安アパートで寝泊まりしておる。天狐と呼ばれたこの儂も寄る年波には勝てなんだ。その間にも人間は増えよって、いつの間にか菅原のハナタレの所にばかり足を運びおる。元々此処は儂の御陵ぞ。何が勉学の神か。勉学なんぞ本人の努力次第じゃ。やれば受かる。やらねば落ちる。例え受験に落ちても人生が終わるわけでもあるまい。何が神の差し挟む余地がある。それを神通力にすがりおって」
 ええい、忌々しい、と唸る爺さんの杯に酒を注ぐ。
「おかげで見てみろ。菅原のハナタレは年末になると過労死寸前じゃ。そのくせ根が真面目まもんじゃから仕事を投げ出しもせん。見とれよ、そのうち堪忍袋の緒が切れてどっかにデカい雷が落ちるぞ」
 さらにもう一杯。
「そういや、御爺さんの名前なんていうの?」
「ウカノミタマノカミじゃ。知らんのか」
「知らない」
 がっくりと肩を落とす爺さんを見て、美人な御姉さんがコロコロと笑う。
「さしもの天狐も型なしですねぇ」
「ええい。かつての力があれば、人間風情にこんな戯言は許さぬものを」
「そういえば、君は合格祈願に来たんだよね。それなら先生に祈るといいよ。あっちはもう忙しくて手一杯だけど、先生は暇で死にそうなくらいだから、きっと願いを叶えてくれ、あいて!」
「馬鹿者! 儂の話を聞いておらんかったのか! そんなもの儂の知ったことか! 管轄外! 知らんわ!」
「でも、先生? これも何かの御縁ですわよ。先生も若い方と呑めて楽しいでしょう。なにか御利益があっても宜しいかと」
「お前もそんなことをいうのか」
「あとで肩を揉んでさしあげますから」
「むぅ。足の裏も揉んでくれるか?」
「はい。もちろん」
 ならば致し方ない、と爺さんは咳払いをして、ふわふわと浮かんでいる私の脚を掴んで手繰り寄せた。
「いつまで浮きあし立っておる。小僧、何か一つ願いを叶えてやろう。何なりと申すがよい。無礼講じゃ」
 私はもう夢心地、極楽でスイムしているような心地だったので、大学合格がどうだのという考えは全くなかった。ただ、布団に入って寝たいな、と思った。
「あい判った。欲のない奴じゃ。ますます気に入った」
 いうなり、袂から妖しげな扇を出すと私に向かって強く振った。
「よいか。人事を尽くして天命を待て。――さらばじゃ」
 にわかに竜巻が巻き起こるや否や、それっきり私の記憶は途絶えている。

 気がつけば、私は自分の家の布団ですやすやと寝ていた。
 眼ざめた当初は極めて混乱したが、すぐに片道分の交通費が浮いたと喜んだ私は正真署名の阿呆である。
 夢を見ていたのかも知れぬ、とはまったく考えなかった。

   ○
 後日、インターネットで調べてみると、太宰府天満宮の裏山に天開稲荷社という稲荷神社があるのを見つけた。社伝によれば鎌倉末期に京都の伏見稲荷大社から御分霊して御遷して祀ったのが創建であるという。
 余談ではあるが、私は件の大学に合格した。
 断じて神頼みなどしていない。実力である。

 しかし、あの美酒を呑んで以来、私は一度も風邪をひくこともなく、頭痛に悩むこともなかった。健やかに勉学に励むことが出来た。
 あの爺さんの言うとおり、人事を尽くして天命を待った。

 春になる前に一度、お礼参りに行かねばなるまい。
 天津甘栗とお酒を持参して。
 
                            元旦祝神―完

骨喰朽歯

 私が生まれ育った町は炭坑の町として知られ、また大規模な炭鉱事故があったということで歴史に名を刻んでいる。ご存知の方も多いかもしれぬ。
 私が幼い頃には、既に炭坑は閉山し、炭坑夫だった人たちの殆どが町を離れてしまっていた。なので、私が事故のことを知ったたのは中学生にあがった頃だった。誰かに聞いたのではなく、私はたまたま他県の図書館でその資料を発見したのだ。
 今思えば、学校で勉強していたとしてもおかしくはなかったのだが、教師も親も事故に関することはなにも教えてはくれなかった。忌まわしい記憶として封印されていたのかも知れない。触れたくはない内容だったのだろう。
 忌まわしい記憶というのは、いつの時代も隠蔽されるものだ。

   ○
 あれはまだ私が小学校の高学年だった頃の話だ。
 炭坑に接した場所に小高い山がある。その山の頂には神社があり、祭殿の建てられている場所には遺跡が眠っていて、平安時代よりも以前から人々の信仰を集めていた。今でも山は信仰の対象として、多くの参拝客が足を伸ばしている。
 その夏、私たちは探検をして遊ぶのが楽しくて仕方がなかった。低学年だった頃には怖くていけなかったような場所にも、スリルを求めて潜り込むようになっていた。
 町中、あちこちいろんな場所に潜り込んだ。廃棄された工場や、取り壊される寸前の病院。およそ大人から入ってはいけないという場所にはほとんど潜り込んだといってよかった。たまには見つかってひどく怒られることもあったが、それでやめようとは思わなかった。
 ある日、友だちの高校生のお兄さんが面白いことを教えてくれた。山と海岸との間に森がある。その森の中にはお化けが出るというのだ。
 もちろん私たちはすぐに準備をして、そのお化けがでるという森へと向かうことにした。私とAとBの三人で、その森を探検しようということになったのである。
 しかし、お兄さんから教えてもらった場所にいってみると、そこは炭坑の敷地内ということで柵が作ってあり、「関係者以外立ち入り禁止」という看板がたっていた。おまけに鉄条網が広げてあるので乗り越えていくこともできない。
 自分たちの記憶が正しければ、その柵よりも向こうにはほんの少し森があるだけで、その向こうは海になっている筈だった。危険な場所なんてあるとは思えなかった。
 しかし、柵を越えるのは無理だ。そう思って帰ろうとしたところでAが柵がすこしだけ壊れている場所を見つけた。小さな隙間だったが、大人でなければ通ることが出来るだろう。
「ここまで来たんだから、お化けをみつけよう」
 私たちはそうして隙間から柵の中へと潜り込み、森の奥へと歩き出した。
 真夏ということもあって森の中は虫の鳴き声でうるさいほどだった。蝉があちこちで狂ったように泣き喚き、手入れのされていない獣道を拾った枝を振り回しながら歩いていった。
 息を切らしながら歩いていると、不意に奇妙なものを見つけた。それは神社などでよく見かける白い紙を切って連ねたようなもので、それがあちこちの枝から枝へとかかっている。
 私たちは構わず、その白い紙の下をくぐって奥へと進んだ。一瞬、なんだか気持ちが悪いと感じたけれど、すぐに気のせいだと思い直した。
 しばらく歩くと、Bがとつぜん立ち止まった。
「ねえ。なんだかすごく静かじゃない?」
 言われてみれば、さっきから蝉の音も聞こえない。私たちが草木を払ったり、かけ分ける音の他になにも聞こえて来ないのだ。
 耳に痛いほどの静けさだった。背筋を這うようにして、悪寒がやってきた。夏の暑さなど感じない。太陽も分厚い雲に翳っている。
 パキ、と枝が折れる音に私たちは振り向いた。
 数メートル離れた場所に、それは二本の足で立っていた。
 それは真っ白い裸で、人の形をしていた。細長い足と腕、しかし、その顔はまるで目のないウナギのように伸びていて、赤く裂けた大きな口が開くと、そこには人間のような黄色い歯が見えた。
 私たちは悲鳴をあげ、我先にと走り出した。振り返ることも出来ず、ただ懸命に森の中を駆け抜けた。
 私は三人のなかで二番目に足が早く、先頭を走るBを無我夢中で追いかけた。倒木を飛び越え、水たまりを踏みつけ、悲鳴をあげながら懸命に走り続けた。そして、Aが一番足が遅かった。
 いつのまにかBの姿を見失い、私はとにもかくにも走り続けた。もうどれくらい走ったのかもわからなくなる頃、私は茂みの中に頭から飛び込んで呼吸を整えた。息が聞こえてしまわないよう、口を手で押さえて、痛いほど早く脈を打つ心臓を押さえつけた。
 森の中は静まり返っていた。なんの音も聞こえない。
 私は自分だけはぐれてしまったのだと思った。きっとAもBも森を抜けて逃げたのだろうと思った。
 その時、遠くで何かが動いた。枝を踏み折る音が近づいてきたので、私はうずくまったまま息を殺した。
 木々の間から、さっきの白いものがやってきた。けれども、その白い体のあちこちが赤く黒く濡れている。大きく開いた口の周りが赤く濡れて、まるで口紅でもさしているみたいだった。
 私は悲鳴をあげそうになるのを懸命にこらえて、それが近づいてこないことを祈った。瞼を閉じたかったけれど、恐ろしくて目を背けることもできなかった。
 それは手に何かを引きずっていた。肌色でやわらかい、なんだか赤くまだらに染まってしまった何か。どうやら、それは子供のようだった。
 にわかにそれは蹲ると、手にしていたものを渾身の力で引っぱり始めた。血にそまった細い腕が見えて、ぶちぶちと音を立てて裂けていく。やがて、ぼきり、と音をたてて千切れた腕を、それはゴツリゴツリと齧った。
 あれは人を喰うんだ、そう思うと、股間が生暖かくなった。私は失禁していた。もう限界だった。目の前の光景が急に現実感がなくなって、私はその場に立ち上がりそうになった。
 その時、左側の木陰からすさまじい悲鳴が聞こえた。それはBだった。聞いた事のないような甲高い、恐怖におびえた悲鳴だった。Bは泣き喚きながら草木をかきわけて、逃げていった。
 逃げていくBの後ろ姿をみながら、それは白い顔に亀裂のような笑みを浮かべた。
 掴んでいたものを放り捨てて、それは四つん這いになってBを追いかけていった。私はその隙に立ち上がり、反対の方向へと全速力で逃げた。
 振り返ることも、悲鳴をあげることもせず、ただただ走り続けた。やがて、森を抜けると、そこは磯のような場所になっていて、防波堤がえんえんと遠くまで続いていた。
 けれど、そこには見渡す限りの墓が並んでいた。古びた、手入れのされていない墓石がまるで林のように立ち並んでいた。そのおびただしい数に私は恐ろしくなり、それらの間を駆け抜けて磯へと出た。干潮で潮はほとんどない。私は意を決してそこから飛び降りた。身長の三倍ほどの高さがあったけれど、まったく怖いとは思わなかった。
 下が潟だったということもあって、足首をほんの少し痛めただけで済んだ。私は息を殺したまま、干潟を歩いて逃げた。方向もなにも分からなかったけれど、とにかくその場を離れたいという一心だった。
 私は友だちを見捨てたのだ。

  ○
 それから私は港へと出て、もう歩けなくなって座り込んでいるところを通りがかった大人に助けられた。
 この時、私は口をきくことができなかったらしい。らしい、というのは自分では殆ど覚えていないのだ。心が鈍くなってなにも感じなくなっていたのだと思う。
 私はすぐに病院に運ばれ、両親がすぐにやってきた。両親は私がAとBと三人でお昼から遊びに行っていたのを知っていたので、すぐにAとBが行方不明になっていることが明らかになった。AとBは家に戻っていなかったのである。
 私はAとBのことについて話そうとしたけれど、うまく伝えることができなかった。なんとか場所のことを伝えることが出来たのだが、その途端に大人たちの顔色が変わった。
「お前、あの柵を越えて中に入ったんか」
 父が今までに見た事がないような顔でそういうので、私は恐ろしくて仕方がなかった。そして、他の大人たちもいる前で顔を何度も殴られた。母親が止めに入ったけれど、それでも鼻の骨にヒビが入るほど強く殴られたのだった。
「なんちことばしたとか! お前は!」
 怒鳴った後、父はAとBの両親に土下座していた。私にはもうなにも分からなかった。
 それからすぐに大人たちが捜索に山へ入り、念入りに捜索が行われた。Bは森の茂みのなかで震えているのを発見されて保護されたが、どうしてもAは見つからなかった。手がかりはなにもなかったという。
 保護されたBは何を聞かれても答えず、焦点のあわない目でぼんやりしているばかりで、よほど怖い目にあったのだろうと医師が診断した。
 私とBは同じ市民病院に入院したけれど、その日の夜のうちにBは死んだ。病室で自分の左手を噛み千切ったということだった。
 たった一日で友だちを二人失くした私の所に、その人はやってきた。
 その人は何も名乗らず、ただニコニコとしている中年の男の人だった。さえないスーツを着て、私の病室にやってきて、私に奇妙なことを言った。
「君はなにも見ていない。そうだね?」
 私は驚いて、自分の見たことをすべて話そうとした。けれど、その人は困ったような顔をして笑う。
「君はなにも見ていない。そうだね?」
 さっきと一言一句おなじことを口にした。
「君はなにも見ていない。あの柵を越えてもいない。君のお友達は他所へ転校した。それだけだよ」
 そんな奇妙なことを言って、病室を去って行った。
 退院すると、何事もなかったかのように私は扱われた。まるで風邪をこじらせて少し入院していただけといった様子だった。
 あれだけ怒鳴り散らしていた父も何事もないかのように接し、母親も普段と変わらないようだった。私はすぐにAとBの家に出かけたが、どういうわけか二軒とも空き家になっていた。慌てて他の友人に電話をしてみると、二人とも転校したのだと聞かされた。
 私はそら恐ろしくなり、父と母に問いただしたが、二人ともまったく相手にしてくれなかった。
「なに言うとるんだ、お前は」
「馬鹿いってないで勉強しなさい」
 まるで、私が一人で悪い夢でも見ていたみたいだった。でも、私は確かにこの目であれを見た。それは絶対に夢などではない。
 私は新聞やテレビでいろいろと調べてみたけれど、どこにもそんな事件は載っていなかった。
 私は意を決して、あの柵があった所に出かけることにした。
 すると、あの柵はなくなっていた。正確には、工事が始まっていて近づくことができなかった。工事をしている人に「なにを作っているんですか」と尋ねると、とても恐ろしい顔で「子供には関係ないことだ」と睨み返された。
 やがて、そこには二メートルをゆうに越える金属製の塀がぐるりと張り巡らされ、入るどころか、誰も中を覗けないようになった。
 私はそら恐ろしいものを感じて、それからずっとこのことを胸の奥にしまってきた。

  ○
 その翌年、私は親の都合で隣町へ引っ越した。
 そこで中学校に入学し、炭坑事故の記録を読んだ。私は自分の生まれ育った町について何一つ知らなかったのである。
 その年の夏、あたらしい友人と件の山頂にある神社の祭りに出かけた。その日はちょうど十年に一度の奇祭が行われるということで、私たちはそれを一目見ようと隣町からやってきたのだった。
 神事が執り行われる中、本殿の奥から仮面をつけて出て来た男を見て私は言葉を失った。背中を這うような恐怖に背筋が震え、瞬きさえできなくなった。
 男はおしろいで全身を白く塗り、ウナギのような被りものをしていたのである。そして人々の中を四つん這いで跳ねるようにして進み、敷地を寝る歩き、そうして、あの森の方へと向かって行ったのだ。
 見物人たちがカメラを持ってそちらに移動する中、私は微動だにできず、その場に立ち尽くしていた。自分がかつて見たもの。その意味を考えていた。
 不意に視線を感じ、振り向くと社務所の前に一人の男が立って私を見ていた。あの病院を尋ねて来た男だった。神職の格好をした男は私を見て、亀裂のような笑みを浮かべた。
 私はすぐに踵を返し、山を降りた。
 以来、もう二度とあの町へは帰っていない。

 私が何を見てしまったのか。
 それを確かめる術はないし、確かめたいとは思わない。

 しかし、もしかするとあれはあそこで祭られていたものではないのだろうか。今の神社が建つよりも前、遥か古代に信仰を集めていた何かではないのだろうか。
 いや、これも私の仮説だ。
 私はもうなにも知りたくない。

 目を閉じ、耳を塞ぎ、口をつぐんで生きていく。 
 もう闇を覗き込んだりしない。
 
 あれは、人が触れていいものではないのだ。

                           骨喰朽歯―完

獄夜古市

 屋敷町の片隅にある小さな古本屋で一年程、アルバイトとして働いたことがあった。
 店の名前は『獺祭堂』といって、獺祭魚という言葉からきている。獺祭魚というのは、カワウソが穫った魚を供えるようにして並べることから、転じて書物をよく好み、引用する人のことを指すという。なるほど、確かに店の創始者は本をこよなく愛する人だったのだろう。
 獺祭堂は小さな古本屋で、最近の漫画のような類いは一切なく、店内に陳列するすべての本が難解な書物で、およそ若い人間にはなんの価値もない。そういう店だった。
 私が獺祭堂にやってきたのは偶然、突然の天気雨に降られたからだった。天気がいいな、と出かけた矢先に激しい雨におそわれ、ほうほうのていで近場にあった小さな古本屋に跳びこんだのだ。
 店内は薄暗く、陰気でおよそ活気というものがない。客は私の他に誰ひとりもおらず、どうみても繁盛しているようには見えなかった。
 私は雨宿りをさせてもらった以上、なんでも良いから何か本を買って帰ろうと思ったが、本棚に並ぶものはすべて古い書物ばかりで、普段から漫画しか読まない私にはまったく価値のわからない世界だった。
「なにかお探しですか?」
 店の奥、薄暗い闇の奥から声が聞こえる。目を凝らすと、店の奥からエプロンをつけた若い女性がやってきた。その人はとても美しく、私は思わず言葉を失った。
「いえ、その、急に雨に降られたものですから」
「狐雨」
「え?」
「あら、こういう天気のことを狐雨といいませんか? 狐の嫁入りなんて言うでしょう?」
 そうして、にっこりと微笑む姿に私はすっかり心を奪われ、彼女のことを好きになった。そして、たまたま求人募集の張り紙を店を出る間際に見つけて、すぐにアルバイトとして働くことになったのだった。
「お給金はあまり多くありませんよ?」
 ばつが悪そうに言う彼女の言葉通り、時給は県の最低賃金よりもほんの少し多いくらいだったが、私はそんなことはまったく苦に思わなかった。
   
   ○
 彼女の名前はアヤメさんと言って、私よりも五つも年上だったが、小柄で華奢な体つきだったので年齢よりも幼く見えた。ただ外見とは裏腹に、大人の女性らしく物事に動じず、いつも静かに働いていた。中庭で虫干しをしている時に、膝の上で猫を撫でる姿をこっそり見るのが私は大好きだった。
 アヤメさんは時々、私の仕事が遅くなると夕飯を作ってくれた。
 アヤメさんの自宅は店の二階部分にあり、帳台の奥から階段を登ると六畳が二間、トイレとお風呂がある二階へと繋がる。そこが彼女の自宅であり、他には誰も暮らしていなかった。祖父がまだ存命だというが、何年も前から病院に入院しているという話だった。
 ひとり暮らしの女性の家でご飯をごちうそうになるというのは、なかなか緊張したものだったけれど、アヤメさんは私のことを異性としてでなく、弟のようにしか思っていなかった。
「私には兄弟というものがいませんでしたから、急に大きな弟ができたみたいでなんだか嬉しい」
 そうやって恥ずかしそうに笑って、オムレツをひっくり返すアヤメさんの姿を眺めながら、私はなんとも複雑な気持ちになった。
 私も自分の想いを告げて、彼女の傍にいられなくなるのがなによりも恐ろしかったので、彼女の良き理解者となるよう懸命に働いた。本当にわずかな希望だけれども、よく働く姿に好意を抱いてもらえないかと思ったのだ。
 アヤメさんのご飯をとびきり美味しく、ひとり暮らしでろくに栄養素も考えない食生活だった私は、アヤメさんのおかげで日に日に健康になっていくのを自覚し、こんなお嫁さんが欲しいと切に願った。

 獺祭堂の平均的な来客数は十人前後で、その殆どが何も買っていかない。しかし、週に一度ペースで本を買う客が誰かしらやってくる。その誰もがアヤメさんのことをよく見知っており、前店主のアヤメさんの祖父の代からの常連客だった。
 常連客が買う本はどれもとてつもなく高価だったが、よくよく並んでいる本の値札を見てみると、どれも驚くほど高価だった。私は古本がこれほど高いものだとは知らなかったので、アヤメさんにこんな本を何処から仕入れてくるのか尋ねてみた。
「古本市で仕入れてくるんです。月に一度くらいの頻度ですけど」
 私はぜひ連れてって下さい、と頼んだが、アヤメさんは急に困ったような顔になり、それはできない、と言った。
「少し特殊な場所なので、お連れする事は難しいのです」
 私は荷物持ちでも構わないのでどうか連れて行ってください、と食い下がったが、それでもアヤメさんは頑として聞き入れてはくれなかった。
「あなたは、夜が怖いと思ったことはありますか?」
 アヤメさんはそう呟いて、今までにない表情を私に向けた。
「濃厚な暗闇の中を覗いていると、あちらからもこちらを覗き込まれているような、そんな気分になるんです。でも、闇の中を覗き込まなければ、手に入らないものもあります」
 私はなんだかそら恐ろしいものを感じて、ただただ黙り込むほかになかった。

   ○
 その日は蜘蛛の糸を撒いたような細い雨が降っていた。
 アヤメさんが新屋敷にある病院へ出かけたので、私は一人で店番を任されていた。店番といっても特にやることはなく、帳場でぼんやりと外を眺めるくらいしかやることがない。
 薄暗い店を照らし出す電球をぼんやりと眺めていると、不意にガラス戸の向こうに人影が見えた。
 がらり、と戸を開いて店の中にやってきたのは着流しの中年男で、やたらと細くて骸骨のように不気味だった。頬のこけた白い顔のなかで、二つの瞳だけが炯々と輝いていた。
「いらっしゃいませ」
 男は店内を見渡すでもなく、まっすぐに帳場までやってくると、私の顔をじろじろと不躾に眺めた。
「見ない顔だな。君はアヤメくんの親類か何かか」
「アルバイトです。店主は留守にしております」
 そうか、と男は呟いてから袂から小さな何かを取り出して、台の上に静かに置いた。まるで爆弾でも扱っているような慎重な仕草で、私は思わずそれを凝視した。
 闇を塗り籠めたようなその帯留めは、なにを模しているのか、なんだか薄気味悪い形をしていた。強いて言えば、心臓に似ているような気がした。
「アヤメくんに渡しておいてくれ。かつての約束の品、といってくれればわかるだろう」
 男はそういうと踵を返して店を出ようとするので、私は慌てて男を呼び止めた。
「あの、お名前をお聞きしておいてもよいでしょうか?」
 男は振り返らないまま、ガラス戸を開いて立ち止まる。
「私は木山という。君の名は?」
 その時、私はなんだかこの男に自分の名を名乗るのが恐ろしくなり、思わず黙りこんだ。
 男はふらりと振り返ると、亀裂のような微笑いを白い顔に浮かべた。
「君は賢いな。残念だよ」
 悪寒が背筋を這い上がる。思わず台の上の帯留めに目をやると、蠢くように身をうねらせた。
「うわっ!」
 思わずのけぞったが、よく見るとなんの変化もない。目の錯覚だったようだ。
 気がつくと、男は煙のようにいなくなっていた。

 夕方、店仕舞いをしている所にアヤメさんは帰って来た。
 私はすぐにアヤメさんに木山という男が訪ねて来たことを伝え、男の置いていった帯留めを見せると、アヤメさんはすぐに表情を強張らせた。今にも悲鳴をあげそうな引きつった顔で帯留めを見つめ、それから意を決したように私の手を握りしめた。
「お願いします。ついてきて下さい」
 懇願するようにアヤメさんは言って、私の手の中から帯留めをハンカチでつかみ取った。それから素手で触らないように慎重に包み、帳台の下から取り出した小さな桐の箱に入れてしっかりと蓋をした。
 それから店に鍵をかけ、私はアヤメさんに引かれるままに店を出た。
「本当にごめんなさい。あなたには迷惑をかけてしまいました。こんなつもりではなかったんです」
 沈痛な面持ちでそんなことをいうアヤメさんを見て、私はなんだかとても悪いことをしているような気がしてならなかった。
「どこに向かっているんですか? そもそも、あの男はなんなんです」
「すべてを説明するのはとても難しいのです。あの人は一種の災厄のようなものです。関わってはいけない、そういう不吉な人なのです」
「そんな、人を化け物みたいに」
「化け物よりも、人間のほうがよほど恐ろしい。あの人はそういう人なのです」
「あの男はアヤメさんのことを見知っているようでした。あの人はあなたのなんなんですか」
「私の祖父を破滅させた人です。ですが、祖父にも落ち度はありましたから怨んではいません。祖父があの人に助けられたというのもまた事実ですが、あの人は必ず代償を求めるのです」
「よくわかりません。あの帯留めはなんなのですか」
「生前、祖父が偶然にも手に入れてしまったもので、とても危険なものなのです。祖父は木山氏とあの帯留めを巡ってなんらかの契約を交わしたと聞いていますが、私も詳しい話は知らないんです」
 ごめんなさい、と彼女は苦しげにいうので、私はもうあの男への質問をするのをやめた。
「アヤメさん。どこに向かっているのか教えてください」
「祖父の旧知の方に会いにいくのです。あの店でならどうにかなるかも知れませんから。本当はあなたをお連れしたくはないのです。でも、他に方法がなくて」
 私は歩き続けながら、私の手を引き続けるアヤメさんを見つめた。
「その店はなんというのですか」
 アヤメさんは白い顔で、私を振り返り、囁くようにいう。
「夜行堂。その店は、夜行堂といいます」

   ○
 
 その店は旧屋敷町の路地裏に息を潜めるようにして建っていた。薄暗い路地裏の中でただ一軒だけ軒先の裸電球が明滅していて、おそろしく気味が悪かった。
 看板らしきものは見当たらず、よく見ればガラス戸に張られた紙にえらく達筆な字で夜行堂と書かれていた。
「ごめんください」
 アヤメさんが戸を開いて中に入り、私はその後に続いた。店内は獺祭堂に負けず劣らず陰鬱としていて気味が悪い。裸電球が梁からぶら下がり、あちこちに暗い影が落ちていた。陳列されたものはどれも古く、また統一性がなかった。よく見れば一つも値札がついていない。
 店の奥、帳場にいる人物が私たちを見つけて手を挙げた。
「やあ。アヤメちゃんじゃないか。久しいね」
 店主らしき人物は男性のようにも女性のようにも見えて、どちらとも判断がつかない。薄暗い照明の下、すべてが曖昧にでよくわからなかった。
「ご無沙汰しています。申し訳ありませんが、引き取って頂きたいものがあるのです」
 そういうと、アヤメさんはハンカチに包んだ帯留めを店主に見せた。
「また古いものが流れてきたものだね。これは誰から流れて来たのかな」
「木山さんです。私が留守にしていたものですから、彼が受け取ってしまいました。お願いします。どうか縁を切ってあげてください」
 店主は帯留めを素手のまま摘まみあげると、目を細めて観察した。
「面倒な代物だ。そして、残念ながら彼と縁のある品はここにはないようだね。こればかりはどうしようもない」
 アヤメさんの顔色が真っ青になり、思わずよろめいた彼女を私は慌てて支えた。
「大丈夫ですか」
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
 私は彼女がなにをそんなに謝るのかが理解できなかった。
「しかし、まだ方法はある。市に買い付けにいけばいい。あそこなら、これを欲しがる者も多いだろうから。ただし、危険は憑き物だ。それを承知なら、扉をあけてあげよう」
「私が彼の代わりに行きます」
「それはできない。人間が品を選ぶのではない。品物が主を選ぶ。それは君もよく知っているだろう。彼が自ら赴かなければ意味がないんだ」
 私はまだ事情がよくわかっていなかったが、ともかくこの帯留めを市に持って行って売ってしまえばいいのだということは理解できた。
「アヤメさん。俺がいきますよ。これを市で売ってくればいいんですよね」
「あの市は、基本的に金銭でのやりとりはしないのです。物々交換でしか物のやりとりはしません」
「じゃあ、この帯留めと何を交換してくればいいんですか?」
「なんでも構いません。あなたの気に留ったものと交換してくればよいのです」
 ごめんなさい、と彼女がまた謝るので、私はいいんです、と彼女の肩を叩いた。私のことで心配してくれているというのが素直に嬉しかった。
「自分が行きます」
「そうかい。じゃあ、幾つか忠告をしておこう。まずは、これを被ってくれ。向こうでは決してそれを外してはいけない。それだけは守るように。いいね?」
 店主が手渡してきたそれは、木製の獣面だった。どことなく私の顔に似ていて、なんだか気味が悪い。
「それから、あまり奥には進んではいけない。欲を張って奥へ進みすぎると、そのまま帰ってこれなくなるからね。でも、目的の物を見つけるまでは引き返してもいけない」
 店主はそういうと、帳場の奥の戸を開いた。怖々と中を覗き込むと、階段が地下へと続いているのが見えた。明かりは天井にぶらさがる裸電球だけで、それが下までえんえんと続いている。
「さぁ、面をつけて。後戻りはできやしない」
 私は面をつけ、階段の一歩めを踏み出した。途端、背後で戸が勢いよく締まり、どれだけ開けようとしてもびくともしなかった。
 進むしかない。私は意を決して階段を降り始めた。

   ○
 この店はなにもかもがおかしかった。
 地下へ続く階段は終わったものの、たどり着いた地下は通路のようになっていて、よく見れば電車のレールがどこまでも薄暗い闇の奥へと続いているようだった。反対側には赤い文字で『終点』と書き殴ってあった。
 私はそら恐ろしくなり、思わず叫びだしそうになったが、ここまで来たら引き返せないと自分を奮い立たせ、さらに先へと進むことにした。
 レールに沿って歩きながら、私は色んなものを視た。
 裸電球の下で蹲る何か。
 壁の穴からこちらを覗く目。
 レールの枕木に頭をつぶされて、蠢いている人間のようなもの。
 私と同じように獣の面をつけた人間も見かけた。私は彼らにここは何処なのか、と話しかけたが、まるで私のことなど見えていないようで、ことごとく私を無視して立ち去った。そういう人間は必ずなんらかの荷物を持っていて、大急ぎでどこかへ帰ろうとしているようだった。
 私は最初こそ恐ろしかったけれど、いつの間にか感覚が麻痺してしまって、奥に進んでいくにつれ、闇がまとわりつくほど濃くなっていることにも気づかず、淡々と歩みを進めた。
 もうどれほど歩いたか分からなくなる頃、私はその市を見つけた。
 市には幾人かの獣面を被った人がいて、露天をしている「なにか」から壷やら絵やらを自分の持って来た何かと交換していた。
 露天を開いている「なにか」は人間の女や男の面を被ってはいるものの、体は人の形をしていなかった。かろうじて腕や足はあるものの、いやに長かったり、数が多かったりして気味が悪い。
 それらは人の声で客を寄せ、商品を披露した。闇の市に並ぶ商品はどれも希少なものばかりで、およそ何処から手に入れたのか分からないようなものばかりだった。
 古書も多く並んでいて、アヤメさんが仕入れに行っているという市はここのことではないのかと思った。
 私は様々なものを眺めながら、どんどん奥へと進んでいった。あの店主のいうように、奥へ進めば進むほどに商品は品揃えを増し、その価値も高くなっているようだった。しかし、奥へ進むほど人は少なくなっていき、やがて、近くにいるのは私だけになってしまっていた。
「兄さん。面白いものを持っていなすね」
 私を呼び止めたのは、手足が何対もある化け物で、顔には笑う女の面を被っていた。面の向こうから縮れた髪の毛が伸び、強い潮の香りがした。
 私は呆然としながら、手の中の帯留めを見せた。
「これはこれは。大変不吉なものをお持ちで。ちょいと見せてもらっても構いませんかね?」
 私はそれの大きな十本指の掌にそれを落としてやった。
「なるほど。こいつは業が深い。お兄さん。こいつが何か知っているかね」
 私が首を横に振ると、それは嬉しそうに体を揺らした。
「知らぬほうがええやね。どうだろう。兄さん。こいつを私に譲ってはくれないかね。ここにあるものなら、どれでも好きなものをあげよう」
 私は目の前に並ぶたくさんのものを眺めた。どれもこれもたいへんな価値のあるものだろうけれど、私はその中に埋もれるようにして転がる小さな瓶を見つけた。しっかりと封がしてあり、中には小さな光が浮いていた。
 これはなにか、と私が訪ねると、人間の魂だ、と言った。
「私らとの賭けに負けた人間のものさね。欲をかいて負けたのさ。おかげでそいつは孫娘を一人残して、今もその瓶の中で彷徨っているんだよ」
 私はもしかしたら、と思ってこれと交換することにした。
「欲がないねぇ。兄さん。そんなものよか価値のあるものは幾らでもあるんだ。そこの古書なんてどうだい。百人一首の原本だ。たいそう価値があるだろうよ。そんな欲をかいた爺の魂なんてどうするのさ。蓋をあけてやったところで幾ばくも生きられやしない」
 いいんだ、と私がいうと、それは肩をすくめて私に瓶を手渡した。そして、面をほんの少しずらして、大きな口を開いて帯留めを飲み込んでしまった。
 この先には何があるんだ、と私が訊くと、それは身を震わせてほくそ笑んだ。
「そう生き急ぎなさんな。嫌でもいつかここを通る羽目になる。さぁ、もう戻んな。店仕舞いだよ」
 そうして、三対の手で大きく柏手を打った瞬間、私の目の前が真っ暗になり、足下が消失した。私は闇の中をどこまでも落ちていく感覚の中、手の中にあった瓶の封を千切り、蓋をあけた。途端、光が弾けるようにして瓶を飛び出し、深い闇から抜け出そうと飛び去っていった。
 私はその光景を眺めながら、ぼんやりと目を閉じた。

   ○
 目が覚めると、私はあの夜行堂で横になっていた。あたりは相変わらず暗く、頭がぼんやりとして現実感がなかった。カチコチ、と壁にかかった時計の針の音がやけに大きく響いていた。
「ああ、目が覚めたようだね」
 店主はよかったよかった、と投げやりに呟いてから、私にコーヒーを持って来てくれた。私は全身が冷えきっていたので、コーヒーの暖かさに救われたような気がした。
 自分はどうやって戻って来たのか、まるで思い出せなかった。今となってはあの闇の中での出来事すべてが夢だったような気さえした。
「言っておくけど、夢じゃないよ。君はよくやった。いや、見事だったよ」
「あの、アヤメさんは?」
「君には悪いと思ったけれど、病院に向かわせたよ。アヤメちゃんのお爺さんの意識が回復したんだ。でも、そう長くは保たないだろうから、ここは任せて別れを告げてきなさい、と言ったんだ。大手柄だったね」
 私は、この人はあの市場での出来事のすべてを知っているのだと気がついた。
「あの瓶の中に入っていたのは、アヤメさんのお爺さんの魂だったんですね」
「そう。あの木山という男にたぶらかされて、自分の魂を担保にして賭けに負けたんだ。アヤメちゃんは店を継いで、あの市で仕入れをしながら、あの瓶を探していたというわけだね。でも、これであの子がここへ来る必要もなくなった。良いことだよ」
 店主はそういって、大きな欠伸をした。
「また退屈になるなあ。この店は誰でも何時でも来れるというわけじゃないからね。退屈でいけない」
 私はあの帯留めの招待を尋ねようかと思ったが、恐ろしくなって辞めた。
「アヤメちゃんによろしく伝えておいてくれ。それから、二度とうちの店を探してはいけないと厳しく言っておいて。あの市にあるものを世間で売るのは少々危ないことだからね。店も閉めた方がいい」
「一つ訊いてもいいですか」
「なんだい」
「あの木山という人のことは放っておくんですか」
 店主は妖しげに笑うと、棚から小さな水晶を持ち上げて電球の光に翳してみせた。
「私はなにもしない。けれども、終わりはそう遠くないだろうね。あの人は闇の中を覗き込みすぎて、身をこぼしてしまったのだよ」
 私はそれ以上、もうなにも聞かずに店を出た。
 これ以上、深く覗き込んではいけない。私はもう充分に闇を視た。
 
   ○
 こうして、私が一年あまりをアルバイトとして働いてきた獺祭堂はその歴史に幕を閉じることになった。
 あの日、アヤメさんは意識の戻った祖父と最後の会話を交わし、その遺言に従って店を閉めたのである。アヤメさんは私に勝手な真似をして申し訳ない、と謝ったが、私はむしろ安堵した。
「祖父があなたに感謝を伝えてくれ、と。本当にありがとうございました」
 アヤメさんはそういって泣きながら微笑んだが、私はとりわけ特別なことはしていない。たまたまそういう縁があった。そういうことなのだろう。
 しかし、雇用関係が終わったのを機に、私は彼女に正式に交際を申し込み、紆余曲折あった後に結婚した。
 ちょうどその頃、屋敷町で木山氏が八つ裂きになって死んでいるのをたまたまニュースをみて知ったが、なにも考えないことにした。
 なにがあったのか、そんなことは考える必要もないことだ。

 獺祭堂の所蔵していた曰く付きの古書たちは、すべて妻の実家の蔵で眠っている。あの市で蒐集した本を安易に処分するわけにも質屋に売って世間にばらまくわけにもいかず、蔵で眠らせる他になかったのだ。
 時折、蔵の中から大勢の話し声や笑い声やらが聞こえてくるが、きっと気のせいだろう。
 確かめずともよいことが、この世にはたくさんあるのだ。
 私はもう闇を視ない。

                          獄夜古市―了

幽黄昏迷

 私の家は経済的に裕福な方ではなく、大学は奨学金を利用してなんとか入ることが出来たが、生活費はすべてアルバイトで稼ぐしかなかった。
 バイトの掛け持ちは当たり前、大学にいない時間の殆どがバイトで費やされた。大学生というと遊んでばかりというイメージがあるだろうが、私はその例に漏れるという苦学生だった。
 アルバイトの中でも特に時給がよかったのが居酒屋のバイトで、厨房で準社員なみの働きをしていたのでそれなりの給金をもらっていた。ただ、そのぶん帰るのは閉店後、レジを閉めたりした後なのでいつも最終電車に乗って帰っていた。
 繁忙期の頃になると終電を逃して店の中で一晩過ごすというのも珍しくなかった。居酒屋のバイトというのは過酷なものだ。

   ◯
 その日、いつもどおり私は居酒屋のバイトを終えて、最終電車の最後尾の車両へと乗り込んだ。地方都市の最終電車となると、乗っている人間は数えるほどもいない。私はゆうゆうと座席に座ると、目を瞑ってしばらく眠ることにした。
 すぐに私は眠りについた。
 いったいどれほど寝ていたのか。
 がたん、と大きく揺れた音に目を覚まして、慌てて時計を見ると、いつの間にか三十分以上の時間が経っていた。
 乗り過ごした、そう思って窓の外へ目をやり、私はようやく異変に気がついた。
 真夜中だった筈なのに、どういうわけか窓の外の景色は夕暮れに染まり、どこまでも畑が広がっていた。
 一瞬、私は夢でも見ているのか、と思ったが、腕時計の時刻は既に日をまたいでしまっている。携帯電話を開くと、当然のように圏外になっていた。
「どうなっているんだ。これは」
 私は混乱し、とにもかくにも席を立ったが、私の他には誰も乗っていなかった。私は不安に背筋が震えながら先頭車両まで歩き続け、結局、一人の乗客も見つけられなかった。
 窓の外に目をやると、相変わらずの田園風景が延々と続いている。地平線の彼方に山岳が見え、景色はどんどん背後へと流れていった。
 私は車掌に話を聞こうと運転席を覗き込んだが、そこには車掌服を着た何かが立っているだけで、微動だにしない。私はそら恐ろしくなり、先頭車両から逃げ出すように、後部車両へと走った。
 私は車内の掲示板を探しまわり、ようやく路線図を見つけた。いったいここが何処なのか、それを確かめるにはこれが一番だと思ったのだ。
 だが、そこには私の知っている駅名は一つも載っていなかった。
 駅名は一番右手から『暁』『尼ノ原』『如月』『東雲』『沼の淵』『西野宮』『百日紅』『山王』『牡馬ヶ崎前』とある。いったいどこを走っているのか、まったく検討もつかない。ただ、この路線図が正しければ、『牝馬ヶ崎前』というのが終着駅なのだろう。
 とにもかくにも、どこかの駅で降りて事情を聞いてみるしかない。ここが何処か聞いてみればいいのだ。
 しばらくすると、電車が徐行を始めた。アナウンスが入りはしないかと期待したが、なんのアナウンスもなく、ついに電車は駅に停車した。
 開いたドアから私を顔を出し、ホームの様子を観察した。ホームには『牡馬ヶ崎前』とあり、私はここが終着駅であることを知った。仕方なく電車を降りると、遠くから何か音が聞こえてくる。
「太鼓の音か」
 夕暮れに染まる駅舎は木造で古めかしく、相当に古いもののように感じられた。電灯もどこか古めかしくて、よくみるとどうやらガス灯のようだった。
「まるで明治か大正時代みたいだな」
 私はホームの連絡橋を渡り、駅舎の中へと入っていった。構内は夕暮れに染まって眩しいのに、どこかもの寂しい空気が漂っていた。あちこちに彼岸花が咲き、骨董品のようなスピーカーからはひび割れた「ふるさと」のメロディが流れてくる。
 そういえば、私は切符を持っていなかった。もともと駅で買った筈の切符はある筈なのだが、どれだけ探しても切符は出てこなかった。
 私は駅員に事情を説明しよう、と思い、改札口へ急いだが、そこには駅員はおろか誰の姿もなかった。
 私は駅員室のドアを叩き、返事を待ったが、いくら返事を待っても応答がない。思い切ってドアを開けると、事務室然とした部屋には誰もいなかった。ただ、まるでついさっきまで仕事をしていたかのように、灰皿の煙草は煙を上げ、換気扇はくるくると回っている。ラジオからは濁ったような音が漏れ、帰り支度をしている誰かの鞄が机の上に出ていた。
「あの! 誰かいらっしゃいませんか!」
 大声をあげてみたけれど、返事はない。私は電話を借りようと電話を探した。それぞれの机の上には一様に同じ黒電話があり、私は一番手近な場所にある黒電話の受話器を取り、とにかく自宅へと電話をかけることにした。友人の携帯の番号も携帯電話には登録されているのだが、なぜか親に電話をしたくなったのだ。
 コール音がしばらく続き、ようやく電話が繋がった。
「あ、もしもし」
『はい。どちら様でしょうか』
 母の声だった。私は本当に繋がった、と思い、すっかり安心してその場に膝をついた。
「もしもし。母さん? 俺だよ ◯◯」
 一瞬、母が受話器の向こうで息を呑むのが聞こえた。
『……もしかして、◯◯?』
「ああ。なんか訳わかんない所に来ちゃっててさ」
『お父さん! お父さん! ◯◯よ! ◯◯から電話がかかってきたの! 急いで! ほら、早く!』
 気が動転したような母の口調に驚いた。私の記憶の中の母は厳しい人で、あまり感情を表に出すような人じゃなかった筈だ。
『◯◯! お願い! 電話を切らないで! すぐお父さんに替わるから! 切らないでね!』
 代われ、と父の怒声が近づいてくる。
『もしもし! ◯◯か!』
「う、うん。そうだけど、なに、どうしたの」
『お前こそどこで何をしてる! どれだけの人に迷惑をかけたか分かっているのか!』
 意味が分からない。話が見えない。いったい何を言っているのか。
「いや、なんか気がついたら違う電車に乗っててさ。今、終点の駅に着いたところなんだけど、わけわかんなくって」
『いいから、とにかく帰って来い。みんな、お前のことを』
 ぶつり、と音声が途切れる。
「親父? おい、親父!」
 ぶつっ、ぶつっ、ぶつっ、と途切れる音が続く。そして、にわかに『ふるさと』のメロディが受話器から響き始めた。
「うわっ」
 あまりの音量に顔を背ける。受話器のスピーカーが割れそうなほど響く『ふるさと』のメロディに恐ろしいものを感じ、叩き付けるようにして受話器を戻した。
「なんなんだ、いったい」
 私はもう一度、電話をかけようかと思ったが、そら恐ろしくなって辞めた。なんとなく、もう繋がらないのではないか、という予感があった。それに、もしもまったく知らない場所に繋がってしまったらと思うと恐ろしかった。
 駅員室を出て、無人の改札を通り過ぎる。無賃乗車をするというのも気まずいので、料金表を見上げると、なんだかよく分からない。円ではなく、単位が銭で表示してあるのだ。例えば『暁』から『西ノ宮』までが七十銭とある。
 いったいここは何処なのだろう。
 私は混乱する頭を必死に落ち着かせながら、ふらふらと頼りない足取りで駅舎を後にした。

   ◯
 私は何処に迷い込んだのか。
 私は駅舎を離れてそこらを散策するしかなく、なにか手がかりになるものはないかと注意深く観察した。
 ここは私がいた世界とは何かが傾いでいるように思えてならなかった。特に時間は明らかに異常で、どれだけ時間が経っても夕暮れ時が終わらない。おかしいな、と思って太陽の位置を見ていたら、太陽はおろか雲ひとつ動いてはいなかった。
 そして、どういうわけか時計の針が前触れもなく止まってしまった。電池が切れたというよりは、動かなくなったとでもいうべき止まり方だった。
 道はまったく舗装されておらず、街灯の類も見当たらない。民家はおろか、駅舎の他には建物らしい建物はなになかった。見渡す限りの畑、そして深い森が遠くに見えるばかりだ。
 私はあぜ道を彷徨いながら、一向に沈む気配のない夕焼けを眺めた。ふ、と気がついて空を見上げると、ひときわ大きな夕月が出ている。遠くから響き続ける『ふるさと』のメロディに私は気がおかしくなりそうだった。
 あてもなく彷徨う、というのがどれだけ苦痛か、私は思い知らされた。
 やがて、私はとうとう歩けなくなり、畑の畦に腰を下ろして動けなくなった。時計も動かず、太陽も沈まない。ここにやってきてからいったいどれほどの時間が経ったのか、まるで想像もつかなかった。
 不思議と空腹は感じない。喉も乾きを覚えていない。ただ、まとわりつくような疲労感だけがあった。
 このまま目を閉じて、眠ってしまえばこの悪夢から覚めるのではないか。私はあの最終電車に乗っていて、自宅へ帰る途中ではないのか。これは悪い夢だ、そう思おうとしたが、目の前の光景は現実としか思えなかった。
「何処なんだよ、ここは」
 ふ、と背後でなにか気配を感じた。振り返った私は、思わず悲鳴をあげそうになった。そこには、いつの間にか二人の小さな子供が立っていた。麻の着物をいた女の子らしき二人の子供は、なぜか顔に狐のお面をつけていた。祭りの縁日で見かける、あの不気味な紙の面だ。おかっぱ頭に狐の面という異様な格好に思わず眉をひそめた。
「な、なんだ?」
 二人の子供は何も言わず、ただ私の顔を凝視している。近所の子供だろうか。
「ええと、君たちはこのへんの子かな?」
 二人は答えない。狐の面の内側でいったいどんな表情をしているのか、まるで分からなかった。
「教えて欲しいんだけど、ここはなんという土地なのかな。なんだか迷い込んでしまったみたいなんだ」
 すると、二人の少女は私の手を引いた。
 私は驚いたが、どうやら何処かへ案内してくれるようなので、このままここにいても仕方ないと思った私は、彼女たちに手を引かれるまま歩いた。
 彼女たちは私を森の方へと手を引いていく。そのうち、遠くで聞こえていた太鼓の音が次第に近づいて来た。おまけに笛の音や誰かの歌声まで聞こえる。
「祭りでもあっているの?」
 私がそう尋ねると、二人は頷いて、私をぐいぐいと音の聞こえる方向へと連れて行く。
 山の麓までやってきた私の目の前に、奇妙な鳥居が現れた。普通、鳥居というのは柱が横に二本、そして縦に二本という形の筈なのだが、この鳥居はなんだかおかしい。縦に二本の柱が建ち、その二本の柱を繋ぐようにして麻縄でがんじがらめに縛られているのだ。まるで蜘蛛の巣のような有様は、なんだか気味が悪かった。
 鳥居をくぐると、今度は延々と急勾配の石段が続いた。私は二人に手を引かれながら、ふぅふぅ、と息をつきながら登り続けた。これでも体力には自信があるほうだったが、あまりの急勾配に息が続かない。子供たちはそんな私を急かすでもなく、無言で私を視ていた。
「ごめん。少し休憩させてくれ」
 私はそういって石段に腰を下ろした。頂上付近から祭り囃子が聞こえてくる。
 石段からの光景はとても美しかった。相変わらずの夕焼けの景色の中に、田んぼがどこまでも続いている。水を張った田んぼは鏡のように夕焼け空を映して美しかった。木立からは西日が漏れ、ひぐらしが鳴いている。
 とんとん、と肩を叩かれたので振り向くと、少女の一人が私にお面を差し出していた。紙で作られた犬のお面で、被ってから紐で括るというものらしい。
「これをつけろっていうのか?」
 少女たちは頷き、それから私の顔に犬のお面をつけてくれた。私はお面というものを初めてつけてみたけれど、これはかなり視野が狭い。ほとんど正面しか見えず、自分の吐く息が顔にかかって気持ちが悪かった。
「ありがとう。でも、外させてもらうよ」
 そういって取り外そうとした私の手を、少女が掴んで止めた。
 だめ、と短く言う。
「どうして?」
 ここではお面をつけていないとダメだから、ともう一人が言う。私は奇妙に思ったが、ここは彼女たちの言う通りにしておくべきだと考え直した。
 私は再び立ち上がり、彼女たちに手を引かれて歩き出した。
 案内しているのか。迷わせようとしているのか。
 しかし、不思議と怖いとは思わなかった。それどころか、ここの景色はどこか懐かしいとさえ感じさせるのだった。
 やがて、長い石段が終わり、急に開けた場所に出た。そこには大勢の人間が集まっていて、中央の櫓を囲むようにして踊っている。櫓では太鼓が叩かれ、にぎやかに笛が奏でられる。これは夏祭りの光景だった。
 そして、この場にいる誰もが面を被っていた。男も女も、老いも若いも、誰もがなんらかの動物の面を被っていて、素顔を見せていない。
 私をここまで連れて来た二人が急に手を離し、祭りの喧噪のただ中へと駆けていって消えた。
 私はぼんやりとしながら、祭りの様子を遠巻きに眺めた。
 アンタ、どこから来たんかい、と急に背後から声をかけられた。振り返ると、着物をきた老齢の女性が私を見ていた。鳥のお面をかぶっている。
「電車に乗っていたら、いつのまにかこの町についていました。ここは何処なのですか」
 すると、女性はからからと笑った。そして、ここは何処でもありゃしない、と奇妙なことを言った。
「何処でもない、という場所なのですか」
 そうじゃない。ここは、何処でもないんだ、という。
「わかりません。ここは、何処なんです。日本の何県ですか?」
 頭の固い人だね、と笑う。
「……私は、死んだのでしょうか」
 私はずっと気がかりだったことを口にした。もしかすると、私はあの電車に乗っている間に事故に遭い、死んでしまったのではないか。ここは天国とかそういう場所じゃないのか。そういう考えがあったのだ。
「ここは、死後の世界なのでしょうか」
 老女はお面の奥で目を細めた。
 知らない方がええこともあるさね、と言って立ち上がり、彼女もまた祭りの喧噪の中へと消えて見えなくなってしまった。

   ◯
 どれほどそうしていただろう。
 私は座り込んだまま、祭りの光景を呆然と眺め続けていた。
 楽しげに踊るお面をつけた人々。提灯の明かり。揺らめく松明の炎。腹のそこに響くような太鼓の音。
 そうだ。これは夏祭り、盆踊りだ。
 そういえば、こんな話を聞いたことがある。本来、盆踊りというのはあの世から帰ってきた故人たちと踊るもので、生者か死者か区別がつかないように、お面をつけて踊るのだと。
 そうか。ここはそういう場所なのだ。
 やがて、お囃子のリズムに乗って踊るその様子に、私はなんだか誘われるようにして立ち上がり、その輪の中に加わった。
 輪の中に入った私を誰もが歓迎してくれた。手取り足取り、踊り方を丁寧に教えてくれ、私はなんだか楽しくなって踊り続けた。
 お面をつけた人々の輪。お面の形もそれぞれ、誰も彼もが人の顔をしていない。そして、それは私も同じだ。
 踊っているうちに、私は幾つかの発見をした。
 踊っている人々の格好はよく見ればまちまちで、殆どの人が古い着物のようなものを着ているのに、少数ではあるけれど洋服を着ている人もいるのだ。おまけに、踊っている人の中には明らかに人の形をしていない者も混じっていて、驚いたけれど、とりわけ何をするでもなく踊りに加わっているので気にしないことにした。
 しばらくそうして踊っていたけれど、疲れてしまったので踊りの輪から外れて荷物のところへ戻ったが、どういうわけか荷物が見当たらない。
「困ったことになったなあ」
 そう口にしてはみたものの、それほど困ったとは思っていなかった。なんだか酷く現実感がないのだ。
 もうどれだけここにいるのか判然としない。時間の流れ方がおかしい。
 荷物の中には財布や携帯電話が入ってある。しかし、この場所でそんなものが役に立つのか。ここには何もないじゃないか。
 私は鳥居から、山から見える光景を眺めた。
 水の張られた田んぼに反射して、世界は夕暮れに染まっている。それは言葉を呑むほど美しい光景だった。
 ここでは永遠に逢魔が時なのだ。黄昏。誰そ彼というわけである。
 私はあちらの世界のことを思い出そうとして、結局もうなにひとつ思い出せなかった。なんだかとても忙しくて、時間に追われていたような気がする。何もかもが雑多で騒々しく、美しさなんてこれっぽっちもありはしなかった。
 私はふいに、お面を外したくなり、顔の後ろの紐に手をかけた。
 ダメだよ。解いたら。
 そんな声が聞こえた瞬間、お面の紐が溶けるようにしてほどけた。犬の面が顔から落ちる。その瞬間、私の目の前は真っ暗になり、そうして意識が遠のいていった。

   ◯
「…………」
 気がつくと、私は駅のホームに一人で立ち尽くしていた。辺りはすっかり暗く、遠くから繁華街の喧噪が聞こえてくる。電灯が明滅し、掲示板にはどこかで見たような駅名が表示されていた。
 私は少し考えて、そこが私が出発した駅の名前であることを思い出した。
 どうやら戻って来てしまったらしい。
 どうして、と考えていると、不意に誰かが私を見つけて駆け寄ってきた。なんだか若い男だった。
「ちょっとお客さん! どこから入ったんですか! もうとっくに閉まっているんですよ!」
 どうやら駅員らしいので、私は事情を説明しようとしたが、口からこぼれたのは言葉とはほど遠い呻き声のようなものだった。私は言葉を忘れてしまったらしかった。
「困るなあ。早く出て行ってください。ほら、こっちですよ」
 駅員に連れられながら私は違和感に気がついた。なんだか私の知っている駅と少し違うような気がしたのだ。なんだか少し大きくなっているような気がした。
「どうした? なんかあったのか」
 そう聞いて来たのは年配の駅員で、若い駅員は、私がどこからか忍び込んだらしい、と説明した。しかし、年配の駅員が私の顔を見た瞬間、顔色が一変した。
「嘘だろう。そんな、まさか」
 飛び込むように駅員室へ飛び込むや、一枚の古めかしいポスターも持って駆け戻って来た。そこには私の顔写真が映っていた。
「やっぱり。間違いない。本人だ。いや、でもまさか、どうして歳をとっていないんだ?」
「坂崎さん。なんなんですか、それ」
「この人は、十二年前に神隠しに遭ったって噂になった人だよ。大城、急いで警察に電話しろ。大ごとだぞ、これは」
 私はなんだか事態が把握できず、この坂崎という人に案内されるがまま応接室に通された。お茶を出してもらったのだが、口にすると思わず吐き出しそうになった。お茶の味も思い出せない。酷く気分が悪かった。
「あなたは十二年前に電車のなかでいなくなったんです。映像が残っていました。現代の神隠しだのなんだのと随分と騒ぎになったんですよ。私も信じてはいませんでしたが、実際あなたは十二年前の写真とまったく変わっていない」
 私は驚いて、応接室の壁にかけられてあるカレンダーに目をやると、確かに十二年の年月が過ぎているらしかった。しかし、酷く現実感がない。
「警察がまもなく到着するでしょうが、お聞きしてもいいでしょうか。あなたはいったい何処にいたんですか?」
 私は答えようとして、言葉を忘れてしまったことを思い出した。どちらかというと、口が話すということを忘れてしまったようだった。私は筆談にしようとペンを借り、紙に文字を書こうとして途方にくれた。
「なんですか。それは?」
 私は日本語を書いたつもりなのだが、紙の上にはなんだかよくわからない模様の羅列が並んでいた。私は首を傾げ、再び書き始めたが、いっこうに文字にならない。
 そんな私の様子を見て、坂崎さんは顔を青くした。
「もう結構です。無理をいってしまって申し訳ない」
 それきり貝のように押し黙って俯いてしまった。時折、顔をあげて私を伺うようにして見て来たが、それは恐ろしいものでも見るような酷い目つきだった。

   ◯
 私がこちら側に戻って来てしまったことで、世間は大騒ぎになってしまったらしい。マスコミが騒ぎ立て、連日ニュースに私のことが報道され、自称霊能力者だのなんだのが好き勝手に仮説を唱えていたが、私のことを理解している人間は誰もいなかった。
 あの後、私自身はすぐに警察に保護され、精神状態が不安定だと一方的に決めつけられて大きな病院に入院させられた。私は自分が正常であることを証明する為に幾つかのテストに参加したが、どんなに注意しても文字が書けず、私は異常者のレッテルを貼り付けられてしまった。
 入院した私の元に最初にやってきたのは警察官だった。刑事だという二人の男から事情を聞かれたが、私は頷くか首を振るかしか出来ず、しばらくすると全く来なくなった。
 次にやってきたのは私の両親だったが、これにはさすがにショックを受けた。とうに祖母は亡くなり、父も母もめっきり老け込んでいた。十二年という年月がどれだけ重いものか、ようやく私は理解したのだった。
 私はもうここの人間ではなくなっていた。私はここにいるだけで異質なのだ。
 両親は私のことをずっと探していたといい、それから私に幾つかの質問をしたが、私はどれも答えられなかった。
 最期に、父が私を恨めしそうに見ながら告げた。
「なんで、お前は歳をとっとらんとや」
 その一言が、帰って来てしまった私への本音を物語っていた。
 以来、私は両親との面会を拒絶するようにした。
 友人たちの反応も似たようなものだった。

 病院の医師やカウンセラーたちも私の診断や、カウンセリングを行いながら怯えていた。もちろん私は暴れたりしない。いつもぼんやりとしているだけだ。それだけなのに、彼らは私を遠巻きにする。精神病と診断された人々でさえ、私が来ると怖がって遠ざかっていった。
 浦島太郎はこんな気持ちだったのだろうな、と思うとなんだか親近感が湧いた。あちらは玉手箱を開いて老人になったというが、一説には鶴になって飛び去ったともいう。私は鶴になった浦島太郎は、またあちらに帰っていったのではないかと思う。
 私も彼のように、あちらに帰りたかった。こちらはあまりにも騒がしくて落ち着かない。刺々しく、攻撃的で、拒絶的なのだ。
 若い医師の一人が、私に絵を書いてみたらどうか、と勧めて来たので、試しに挑戦してみたらイメージしていた通りに絵が描けた。これには私も驚いたが、なにより興味を示したのは医師たちだった。唯一のコミュニケーション手段といってもよかった。
 私は医師たちに尋ねられる内容について、絵を使って答えた。あまり絵が上手ではない私も、あの美しい光景だけは心に焼き付いていたので、私は毎日飽きる事なく、あちらの風景を描いた。
 私はキャンバスに想いを塗り籠めるようにしながら、あちら側へ戻ることを切望した。既に私はこちら側では異質でしかなく、帰る場所などないのだと痛感していたからだ。
 郷愁にも似た感情に私は苦しんだ。
 あちらに帰りたい。さもなくば、私にはもう居場所がないのだ。
 医師たちは私に社会復帰をしろ、というが、私はすでにこちら側の人間ではなかった。家族も友人も社会も、何もかもが私を奇異の目で見る。
 まるで、世界中で私ひとりだけが違う色をしているような、そんな感覚に襲われる。
 私はもうこちらの住人ではない。
 帰りたい。
 でも、どうやって?

   ◯
 マスコミは連日、現代の神隠しだと煽り続けた。飽きもせずに私の経歴からなにからを調べあげ、嘘も真も入り混ぜて、私という人間をおもしろおかしく演出した。
 当初、医師たちは私にテレビを見せるのを嫌がったが、私が治療に協力する条件としてテレビの視聴を提示すると、なんなく視聴が可能になった。
 マスコミの取材は当然ながら家族にも及び、しつこい取材に口が緩んだ両親は、私のことを「あちらで取り替えられた」と吐き捨てるように証言した。これには流石に涙が出た。真実そうであったなら、どれだけよかったか。
 そんなある日、マスコミが私に取材の依頼をしてきた。医師たちは反対したが、私は自分の意志でそれに応じることにした。ほんの少しでもいいから、マスコミの注意を私に向けたかった。
 病院にやってきたマスコミたちは私をまるで動物園の人気者のように扱った。許可も出していないのに容赦なく写真を撮られ、流行りのタレントだの芸人だのが私のことを面白おかしく馬鹿にした。彼らの目にあるのは怯えではなく、好奇心だった。
「十二年もどこにいたんですか」
「暇でしたよねー? なにしてたんですか?」
「記憶喪失ってホント? あ、話せないんだっけ」
「でも、歳をとらないのはラッキーじゃないっすかー」
 私には彼らが、まるで違う星の生き物のように思えた。
 私は取材の一環で誰もいない部屋に入り、そこをただ撮影するという実験につき合わされた。まったくの茶番だ。プロデューサーだという男の話によれば、後からそれらしい心霊映像を重ねて面白くするという。私は勝手にしてくれ、と思って部屋の中へ入った。
 そこは六畳程の小さな和室で、ロッカーと鏡くらいしか物がない殺風景な場所だった。私はここでぼんやりしていればいいらしい。カメラが私を撮っているので、なんとも落ち着かなかった。
 私はどうしてこんなことになったのか、ぼんやりと考えた。そして、どうすればあちらに戻れるのか考えたが、やはり答えは出なかった。
 もうこの世界に、私の居場所などないのだ。
「帰りたい」
 呟いた私自身が驚いた。言葉は自然と口をついて出たのだ。
 ふいに、畳の上になにかが落ちて来た。振り返ると、そこにはあの犬の面が転がっていた。
 どうして。こんな所に。
 私は震える手で面を取り、うやうやしく顔につけた。遠くであの太鼓の音が聞こえたような気がした。
 紐をしめ、私はふらふらと立ち上がる。なんだか懐かしい匂いがした。
 音はロッカーの方から聞こえてくる。次第に太鼓の音が大きくなる。ひぐらしの鳴き声が聞こえてきた。山の匂いがする。誰かが私を呼んでいる。
 私はロッカーを開けた。そこには闇を固めたような濃い夜が充ち満ちていた。微かに『ふるさと』のメロディが聞こえる。

 おかえり。

 ああ、聞き慣れた声だ。闇の奥から、浮かぶようにして小さな白い手が二つ、こちらへと伸びている。これはきっとあの二人の少女のものだろう。
 私は安堵の声を漏らした。遠くで部屋のドアを激しく叩く音が聞こえたが、私は振り向かなかった。
「ああ。もう帰るよ」
 最期に、私はカメラを見た。

 二人の手に引かれ、闇の中へと歩みを進める。
 
 背後で、ロッカーがひとりでに閉まる音を聞いた。

                          幽黄昏迷― 完

怨荒残仇

 気がつけば、見知らぬ天井を眺めていた。天井には黒い染みのようなものが斑に浮かんでいて、ひどく気味が悪い。頭がぼんやりとして、それ以上のことはなにも感じなかった。
 しばらくして、此処はどこだろうか、と思った。
 顔を横に動かすと、窓の外には殺風景な景色が広がっていて、なんだかとても寒々しかった。視線を動かすと、傍らには箱形の機械があって、俺の脈拍や血圧を測っているらしかった。
 ああ、ここは病院だ。
 しかし、どうして病院なんかにいるのか。
「そうだ。帰省する途中だったんだ」
 夏期休講を利用して帰省する予定だった。いや、帰省している途中だった。バイクで峠を越えようとしていた。でも、対向車が車線を越えて飛び出して来て……。
「もしかして、事故に遭ったのか」
 ぶつかる、そう思った瞬間以降の記憶がない。でも、こうして生きているのだから運が良かった。
 俺は改めて窓の外を見て、季節が変わってしまっていることを確認した。今が何月かは分からないが、もう冬になってしまっている。
 俺は窓を開けようと立ち上がろうとして、バランスを崩してベッドから転がり落ちた。体中に繋がっていた色んなものが千切れ、あるいは弾け飛ぶ。しかし、まだ頭がぼんやりとしていたおかげで不思議と痛くない。でも、どうして転んだのか。
 ベッドを掴んで立ち上がろうとして、俺は違和感を覚えた。右腕が現れない。いや、腕の感覚はある。しかし、視界の中に入ってこない。
 恐る恐る、自分の腕を見下ろす。
 そこには、あるはずの右腕がなかった。

   ◯
 結果から言ってしまえば、俺は交通事故に遭い、バイクごと崖から転落。通りがかった地元の猟師が事故を通報した。
 バイクは谷底へと落ちて木っ端みじんになったが、俺は運良く途中の枝に引っかかって助かった。ただ、鋭利な木の枝は俺の右腕を上腕筋から貫き、ほとんど引きちぎっていた。医者は人命を優先する為に右腕を切除したのだ。
「君は本当に運がよかった。崖下まで百メートル以上あったんだ。普通なら間違いなく死んでいたよ。それにたまたま通りがかった人にすぐ見つけてもらったのも運がよかった。今、こうして生きているのは奇跡的なことだよ」
 医者はそういって俺を励ましたけれど、四肢の欠損というのは精神的にもかなり辛かった。俺は未だかつてない喪失感に苦しんだ。
 腕の感覚は残っている。鮮明すぎる程に。ただ、俺にはすでに右腕はない。感覚だけが置いていかれてしまったようだった。実際、俺の右腕はまるで見えなくなってしまっただけかのように、肘を伸ばしたり、指を曲げたりすることができた。しかし、それは感覚だけの話で、幻の腕でものを掴もうとしても、どうすることもできなかった。
 かけつけた両親は俺の姿を見て、泣きそうになりながらもなんとか平静を装うとした。命があるだけでよかった、と口を揃えて言ったが、二人は一度も俺の失くなった右腕を見ようとはしなかった。
「大丈夫よ。今は優秀な義手もあるんだから」
 そう口では言っておきながら、現実には認めたくないのだろうな、と淡々とどこか冷めた心でそう思った。

 両親の次に見舞いにやってきたのは、どういうわけか二人組の刑事だった。一人は禿げ頭の中年、もう一人はやけに背が高い若い男だ。禿げ頭の方の刑事は近藤と名乗った。
 俺はベッドに横になったまま、提示された警察手帳を見てなんだかドラマみたいだな、と思ったりした。
「今回は大変痛ましいことになってしまいましたな。心中お察しします」
「警察が俺になんの用ですか」
「まぁまぁ。そう焦らずに。少し事故についての話をお伺いしたいんですよ。単独事故ではないことは鑑識が調べて分かっているんですが、問題の容疑者が見つかっておらんのですよ。それで、なにか覚えていらっしゃることはありませんかね。どんな些細なことでも構わんのです」
「犯人、捕まってないんですね」
 それもそうか。交通量の少ない峠道だ。俺が発見されたのだって奇跡に近いだろう。
「いや、お恥ずかしい限りです。ただ、容疑はあなたの事件だけではないんですなあ」
「どういうことですか」
「あの日、あなたの救出活動をしている中、現場からそう離れていない場所で地元の警官が若い女性の遺体を発見しましてね。どうやら暴行を受けた末に強姦され、殺されたようでして」
「……自分じゃあないですよ」
 もちろん、といって近藤は歯を見せて笑った。
「被害者の女性の膣の中には容疑者のものと思われる精液が残っていました。DNA鑑定は終わっています。あなたではない」
「そうですか。それはよかった。でも、俺はなにも見ていません。それに事故のときのこともよく覚えてないんです」
「運転手の顔はともかく、なんとか車種だけでも思い出してもらえんでしょうか」
「すいません。対向車線を越えてきた車を避けようとして、ガードレールに突っ込んだ所しか覚えてないんです」
 きっと顔も車も見ている筈なのだが、まったく思い出せない。
「本当に? 何かひとつくらい覚えているだろう」
 高圧的に言って来たのは、あの若い刑事の方だった。
「松浦。よさんか」
「しかし、」
「よせというんだ。いや、すいませんね。正直、期待しておったもので。他には目撃者もおらず、このままでは埒が明かない。そんな中で、被害者自身が目を覚ましたてくれた。これは運が回って来たと思ったんですわ」
「残念ですが、本当に思い出せないんです」
「事故のショックが大きかったのでしょうな。そんな中、無理をいって申し訳ない。もしも何か思い出したことがあったなら、近藤まで御一報ください。どんな些細なことでも構いません」
「わかりました」

 夜、微睡んでいた俺は不意に自分の右腕に誰かが触れるのを感じた。
 もちろん触れようにも、俺にはその右腕がないのだから気のせいだ。だが、今度はしっかりと手首を握られた。そういう生々しい感覚があった。
 慌てて体を起こし、腕を見るけれど、そこには初めから右腕なんてありはしない。ただ、感覚だけがまだ残っているだけだ。
 それなのに、幻の右腕は確かに誰かに握られている。細い指だ。感触からいって女の手だと思う。おもわず背筋が震えた。
「なんなんだよ、いったい」
 呟くと、応えるように女の手が離れていった。指がひとつずつ離れていくリアルな感触があった。
 結露した窓。そこに指で文字を書くように、なにかが描かれていく。もちろん誰もいない。この病室には俺しかいないのだから。
「み」
「つ」
「け」
「て」
 結露した窓には「みつけて」と書かれていた。
 恐怖に背筋が凍る。悪寒に鳥肌が立つ。
 俺には霊感なんてない。そもそも幽霊なんて信じたこともなかった。
「なんなんだよ。これ!」
 ナースコールを押そうと左手を伸ばす。しかし、ありもしない右腕を女の手が掴んできた。握り潰されるんじゃないかと思うほど強く。あまりの痛みに身を曲げる。
「いっ!」
 思わず呻くと、ぱっと右手が解放された。
 窓を睨みつける。
「み」
「つ」
「け」
「て」
 窓を文字がなぞる。水滴が滴り落ちていく。
「見つけるってなにを。そもそも、お前はなんなんだよ」
 幽霊だ。それ以外にない。
「あ」
「い」
 あい。アイってなんだ。人名か? でも、知り合いにアイなんていない。
 不意に脳裏を昼間の刑事たちのことがよぎった。山中での婦女暴行殺人事件。俺が見たかもしれないレイプ殺人犯。
 そうだ。被害者の女性は死んでいる。

   ◯
「あなたのように失った四肢の感覚を、依然として存在するかのように感じることを幻肢。また、その幻肢が痛むのを幻肢痛といいます」
 目覚めて三日目。朝の診察をした医者は俺にそう言った。
「その幻肢痛というのは治せないんですか」
「治療は可能です。『鏡の箱』を用いて行う治療法で、鏡に正常な左腕を映し出し、右腕があるかのように脳に錯覚させる。すると、脳が痛みを訴えるのを止めるというものです」
「でも、本当にまだここにあるみたいに感じるんです。指も、掌も、手首も、肘も、ぜんぶまだここにあるんだ」
「それは違います。そうあなたの脳が感じているだけで、実際にはもう腕はなくなっているのです。それを受け入れることが肝心です」
「感覚があるんだ。それに、昨日は誰かが俺の手を
掴んだんだ」
「幻肢痛の一種でしょう。そういう症例も少なくはないのです」
「先生。俺はもう退院できますか」
「しばらくは入院が必要ですね。リハビリもしないといけませんし。あなたは昏睡状態だった間に体力をずいぶんと失っています。出かけてもすぐに動けなくなってしまいますよ。それに片腕がなくなると、バランスも変わりますからね」
「出かけたいんです。気分転換がしたくて」
「中庭を散歩する分には構いませんよ。ただ、あまり体を冷やすのはよくありません。ロビーにはテレビもありますし、ゆっくり養生するほうがいいでしょう」
「わかりました。ありがとうございます」
「では、私はこれで。リハビリは明日から始めましょう。新学期までには復学しないといけませんからね」
 そういって病室を医師が病室を出て行ったのを確認してから、俺は鞄に携帯電話、財布と薬を入れ、父親が忘れていった上着を羽織って病室を出た。財布の中には二万円と少ししか入っていないけれど、充分足りるだろう。
 右腕を失って気づいたことだが、医師の言っていたように腕一本というものの重さは大きいもので、こうして歩いているだけでもバランスが取れなくなる。おまけに腕が振れないのでやたらと疲れる。
 体力も落ちている為、階段を降りるだけでも一苦労だ。だが、それでも俺はゆっくりでもいいから一歩ずつ足を動かし、ようやくロビーへと降りることが出来た。しかし、正面玄関から出ると看護婦に見つかってしまうので、こっそりと非常口へと回る。
 誰の目にも止まらず、病院を出ると、敷地内のタクシー乗り場を見つけた。コートを脱ぎ、失った右腕をあらわにする。すると、すぐに一台のタクシーがやってきてドアを開けた。
「お兄さん。大丈夫かい」
「はい。大丈夫です。あの、神谷町へ行きたいんですけど」
「また随分と遠くへ行くんだな。ほら、乗った乗った」
 俺は後部座席へと乗り込むと、しっかりとシートベルトをつけた。運転手の名前を確認すると『日比谷』とある。猿のような顔をした中年の男だった。
「なんだか具合が悪そうだけれど、大丈夫かい?」
「はい。まだ病み上がりなもので」
「そうかい。大変だなあ」
「いえ。あの、日比谷さん」
「? なんで俺の名前を?」
「いや、ここに書いてあるので」
「ああ、そうだった。そうだった。はいはい。なんだい?」
「この辺りの治安はどうですか?」
「田舎だからね。物騒なことはなんもありゃしないよ。やってくるのは観光客ぐらいのものさ」
「観光客。ああ、連山目当ての登山客だよ。昔は登山客といったら男ばっかりだったけど、最近は若い人も増えてきたからね。商売繁盛だよ」
「女性も増えましたよね」
「ああ。山ガールっていうのかね。若い人も登りに来るようになったなあ」
「山登りか。してみたいけど、しばらくは無理そうだなあ」
「その腕、最近の怪我かい?」
「峠道で事故にあってしまって。バランスが悪くて困ります。体力も減ってしまって。病室から出るだけでもうクタクタになりました」
「そんな時に、どうしてまた外出を?」
「警察に行かないといけないんです」
「警察? なに、財布でも失くしたの?」
「いえ。ただ、どうしてもしておかないといけないことがあって」
「そうか」
「はい。日比谷さん。少し寝ますから、到着したら起こしてもらってもいいですか」
「ああ」
「お願いしますね。それじゃあ」
 おやすみなさい、そういって座席に横になり、俺はすぐに眠りについた。

 ガタゴト、と激しい揺れに目が覚めた。体を起こすと、どうやら山道を走っているらしかった。それもすごいスピードで。
「日比谷さん。あの、ここ何処ですか?」
 日比谷さんは応えず、山道を蛇行しながら走り続けている。時計をみると一時間も寝ていたらしかった。
「ああ、また山ん中ですか。あなたも懲りない人だなあ。山ならバレないと思ってるんですか? でも、無理ですよ。レイプした時だってすぐにバレたじゃないですか」
 バックミラー越しに日比谷が俺の顔を睨みつける。血走った目、荒い息。その表情は、まさに殺人者のそれだった。
「お前が、お前が悪いんだ。クソガキ。お前があんなところで飛び出して事故ったりしなけりゃあ、あの女が見つかることだってなかったんだ。それなのに、てめぇが大人しく死んでねぇからこんなことになるんだ」
 やっぱりか。
「俺のせいじゃないですよ。俺はアンタに巻き添えにされただけ。でも、山登りに来た女の子を乗せて山でレイプした挙げ句、なにも殺さなくていいんじゃなかったんですか? 殺す必要なかったでしょ」
「顔を見られたんだよ。殺すしかねぇだろ」
「俺もアンタの顔を見てますけど」
「そうだよ。だから殺すんだよ。生かして返すわけねぇだろうが。その為に病院の前で張り込んでたんだよ。長いこと眠りかぶりやがって。あのまま死んでりゃよかったのによ」
「どうしてあの子だったんだよ。他にも女の子はいただろ」
 ヒヒ、と笑う。
「いい女だったんだよ。こう胸がデカくてよ、男を知らねぇって顔しやがって。泣きながら暴れるもんだからよ、思わず首を絞めちまったんだよ。なんだよ、俺のせいじゃねぇだろ。暴れるから悪ぃんだよ」
「アンタさ。警察から逃げ切れると思ってたのかよ」
「逃げ切れるさあ。なんとでもなる。それに捕まったところで十五年もすりゃあ出てこられるんだ。飯も食えて、暖かい布団で寝られる。上等じゃねぇか」
「アンタみたいなクズがやりなおせて、アイがやり直せないのはおかしいだろ。アイは俺と同い年だったんだ。親父さんと山登りに行く途中で、お前みたいなクソ野郎に殺されちまった」
「……なんだよ。あの女の知り合いだったのか」
「いや、生前の彼女は知らねぇ。俺は教えてもらっただけだ。昨日の夜、夜通しで話し合っただけだ。アイの怨みを晴らす為にはどうしたらいいかってな、お互い被害者だからな。すぐに意気投合したよ」
「意味がわからねぇ。何を言っていやがる」
「わからねぇんなら、こっち見てみろよ」
 バックミラーを覗き込んだ日比谷の顔色が一瞬で青白くなる。凄まじい悲鳴をあげて、急ブレーキを踏んだ。タイヤが悲鳴をあげて、ガードレールにぶつかって車が止まる。
 日比谷には、俺の隣に座る血まみれの女が見えているのだろう。俺には見えない。ただ、右腕をアイが掴んでいるのは分かる。
「俺の右腕は死んだ。でも、感覚だけが幽霊みたいにまだ残ってる。幻肢っていうんだけどさ、この幻肢なら幽霊に触れられるんだわ。存在しない感覚は、存在しないものを感覚できるらしい」
 俺の役割は、彼女をここへ連れてくること。
「ひぃいい! ひぃいいあああ!」
 日比谷が運転席から転がり落ちるように外へ出る。俺もアイの手を掴んで車外に出た。
「人ひとりを殺しておいて、たった十五年やそこらで出てくるなんて間違ってんだろう。アイはもう死んじまったんだ。償えよ、おっさん」
 混乱した日比谷がガードレールに腰をぶつけ、向こう側へと落ちた。
 近づいて崖下を覗き込んでみると、数メートル下の岩にぶらさがって顔を青白くしている日比谷の姿が見えた。崖底までゆうに百メートルはあるだろう。もちろん俺は日比谷を救えるようなものは何一つ持っていない。
 不意に、握っていたアイの手が離れた。まるで奴めがけて落ちるように。
 今際の際、俺は見た。
 日比谷の背中に後ろから抱きつく満面の笑顔を浮かべたアイの姿を。そこには何処までも清々しい笑顔があった。
 日比谷が重さに堪え兼ねたのように、指が岩から滑り落ちる。
 長い長い悲鳴が尾を引いて、やがて落ちて、潰れて消えた。
 俺は携帯電話を取り出し、淡々と警察に通報した。

   ◯
 警察に事情聴取を受け、俺はタクシーの運転手に攫われたこと。山中の道で事故を起こし、運転手は一人で逃げたと話した。
「目覚めて早々、こんな事件に巻き込まれるなんて運が悪いですなあ」
 禿げた頭を撫でながら、近藤はそう言った。
 俺は知らぬ存ぜぬと貫き通し、すぐに病院へと戻ることが出来た。
 医師や両親にはこっぴどく叱られたが、後悔はしていない。
 なぜなら、アイには日比谷を裁く権利があった。死者が加害者を殺すのだから、これ以上に公平な裁きはないだろう。
 問題は、未だに右腕の幻肢は消えず、稀に死者が手を掴んでくるようになったことだ。
 文字通り、俺は死者に手を貸している。
                          怨荒残仇―完

箱洩穢呪

 クラスメイトの虻川千尋が苛められていたことを知らない生徒はいない。いや、生徒だけでなく教師陣の中にも知らない者はいなかったろう。それほどまでに虻川千尋への苛めは一般的なものであり、もはやそれは日常の一部だったといっていいだろう。
 話を聞いた限り、苛めの度合いは加速度的に凄惨さを増し、躊躇が消え、苛烈を極めた。話を聞いているだけでも気が滅入るほどだ。私は思わず依頼人に対して「下衆が」と口汚く罵ってしまったが、これは仕方がないことだろう。この娘も、そのクラスメイトや教師もすべてが下衆だ。
 とにかく、それほどの苛めがあった。
 当然の結末というべきか、虻川千尋は精神的・肉体的に病んでしまい、追いつめられ、自宅である団地の屋上から身を投げた。早朝のことだったので大勢が彼女が落ちてくる様子を目撃してしまい、現場は騒然となった。とりわけ集団登校をしていた小学生の一団は気の毒としか言いようがない。きっと一生忘れられないだろう。
 学校側は苛めの事実があったかどうか確認するだの、冷静な判断が必要だのお茶を濁すばかりで責任逃れに余年がないが、ともかくもクラスから苛められっこは消えた。被害者は消え、加害者だけが残った。彼らは困惑した。
 クラスメイトが抱いた感想は「まずいことになった」だ。依頼人も含めて誰一人として虻川千尋の冥福を祈ったり、罪悪感に押し潰されるような者などいなかった。誰もが己の保身を考えた。
 クラスメイト四十数名は団結し、苛めの事実はないと証言を一致させることにした。進学を控えた自分たちにとって、苛め問題が顕在化することは非常に都合が悪い。ますます下衆である。
 テレビ局も当初こそ騒いでいたが、学生も教師も一丸となって苛めを隠蔽したこともあり、すぐに世間の関心は苛め問題から離れていった。結果、虻川千尋の自殺は苛め問題とは無関係であると保護者に発表された。
 しかし、事件はそれで終わりはしなかった。
 いつの頃からか、学校のあちこちで奇妙なものが目撃されるようになった。
 それは犬のような息づかいで薄暗い所で息を潜めていて、驚いて見つけようとすると掻き消えてしまうというものである。見えない犬の目撃例は教師の間でもひっそりと報告されていたという。
 しかし、体育館で行われた慣例の全校集会で事件は起きた。不意にクラスメイトの小野田美幸が火がついたように悲鳴をあげた。小野美幸は虻川千尋を苛めていた人間の中でも特に肉体的な苛めをしていた生徒だった。小野は全校生徒の目の前で悲鳴をあげながら全身を噛み千切られた。バツン、バツン、と肉と骨を叩き割るような音が響き、血飛沫が舞った。手首が転がったあたりから、生徒達はパニックになり、我先にと出口へ殺到した。転倒する者、押しのけ合う者、泣き出す者。体育館内は生徒達の悲鳴で阿鼻叫喚となった。
 教師たちも恐慌状態で体育館を出たという。中には生徒を押しのけて出て行った者も少なくなかったというのだから、ほとほと腐っている。
 ようやく全員が体育館から逃げ出し、平常心を取り戻した教師の一人が体育館へ戻ると、そこには押し倒され、踏みつけられて重傷を負った三名の生徒と、血の海にまばらに転がる肉片と、制服の一部が見つかった。
 警察が調べた結果、残骸は小野美幸その人のものに間違いないということだったが、どういうわけか体の大部分が消えてなくなっていたという。

  ◯
 それから十日間の間に二名が死亡、一名が重傷を負った。
 死亡した二名の一人、吾妻浩一郎は虻川千尋の隣の席で目立たない生徒だったが、中学校まで苛められていた経験もあり、苛められる側になりたくない気持ちから虻川を排斥していたという。虻川の荷物の中から弁当箱を盗みだし、トイレへ捨てるのが彼の日課だったというから、死んで当然といえるかもしれない。だが、彼の最期もなかなかに酷い。
 その日、吾妻浩一郎は最寄り駅のホームで電車を待っていた。通過の特急電車がやってきたその時、吾妻は引き込まれるようにして身を投げ、高速で通過した電車によって四分割され、胸より上の部分がホーム脇の自動販売機の上に落ちた。目撃者によれば、吾妻は腕を何かに噛まれようにして引っ張られていたという。
 ほぼ同時刻、もう一人の死者である長峰百合子が母親と車で買い物に出ていた。都市高速下のバイパスを走っている途中、急ブレーキを踏んでスピン、反対車線を走っていた大型トラックに衝突。助手席に座っていた長峰はフロントガラスを突き破り、ガードレールに顔面から突き刺さり、近代オブジェのような有様になって死んだ。奇跡的に軽傷で済んだ母親の証言によれば、黒い犬が突然車の前に現れ、ハンドルが勝手に曲がったという。
 依頼者によれば、長峰は虻川の頬に煙草の火を押し当てていたというから、これもまた自業自得という気もする。
 そして、重傷を負ったのは保健室勤務の中川祥子養護教諭である。彼女は虻川から苛めの相談を受けていた人物だったが、彼女を忌み嫌っていた。中川は「苛められる人間にも問題がある」という考え方の人間だったらしく、虻川の悲鳴はすべて黙殺された。苛められる人間が悪い、と遠回しに言っていたのだ。だが、彼女が保健室に引き蘢ることは黙認したという。
 彼女は放課後、資料を取ろうと机の引き出しに手を入れ、右手首から先を噛み千切られた。不思議と痛みは感じず、噴水のように血をふきだす右手首に小首を傾げ、引き出しの中を見やると、暗闇の中に血まみれの乱喰歯が並んでいた。悲鳴を聞いて駆けつけた他の男性教諭の証言によれば、保健室は鼻を覆いたくなるほど獣臭かったという。そして、どれだけ保健室を探してみても失くした右手は見つからなかった。
 生徒と教師達は恐怖に震え、誰というわけでもなく、自然とひとつの噂が流れ始めた。
「虻川千尋の祟りだ」
 次の犠牲者は自分かもしれない。それはクラスメイトの誰もが抱いた感情に違いない。中には墓参りをしたり、お守りを買ったり、お祓いをした者もいるというのだから身勝手な話だ。
 そして、依頼主はとある筋から紹介されて、私のもとへやってきた。
 依頼内容は単純明快。
『虻川千尋の祟りを鎮めて欲しい』
 依頼主の遠野里香はそう言って泣いた。
 私個人の意見でいえば、こういう手合いには大人しく祟られてしまえばいいと思うのだが、こちらもこれで生計を立てているので文句はいえない。例え下衆が相手でも、金銭を積まれたら請け負わないのは信条に反する。
「話はわかった。虻川千尋の祟りを鎮めればいいんだな。請け負おう。ちなみにさ、一つ聞いておきたいんだけど、君は虻川さんになにをしたわけ?」
 依頼主である遠野里香はその可愛らしい顔から涙を拭って、たいしたことじゃないんだけど、と前置きしてから。
「体操服を焼却炉で燃やしていました」
 前言撤回。下衆というより、こいつは屑と呼ぶべきだ。

   ◯
 本来、私はこういう手合いの相手はしないのだが、彼女はとある筋からの紹介でやってきたので無下にはできない。紹介してきた人物というのはとある骨董店の主で、私は彼女に多大な借りがあり、たまにこうして面倒な依頼人を押し付けられている。依頼人が彼女とどういう縁があったのかは謎だが、なんらかの縁があったのだろう。
 その日、私は依頼主のと遠野里香と共に学校へやってきていた。その日は学校が文化祭ということもあり、私は彼女の従兄というスタンスで学内に入ったのだが、あれだけのことがあって文化祭を強行するという学校側もどうかしている。
 しかし、文化祭というにはなんだか雰囲気が暗く、どこかびくびくしている印象を持った。生徒達の活気も少なく、並ぶ露天も少ない。
 遠野さんは私の隣を歩きながら、学校のどこでどういう苛めが行われていたのかを仔細に説明した。それだけ彼女が苛めの中心にいたということだろうが、今はそんなことはどうでもよかった。
「あの、その右腕はどうしたんですか?」
 中身のない右の袖が気になっていたのだろう。説明すると長いので彼女には話さないことにする。話しておく必要もないのだし。
「昔、交通事故で亡くしたんだよ」
「大変なんですね」
「不便だけど、大変じゃないさ。そんなことよりも体育館に案内して貰えないかな。最初の犠牲者が出たっていう」
 案内されて体育館へ行ってみると、男子グループがステージで下手糞な演奏をしていたので辟易した。
「随分と古い体育館だな」
「学校で一番古い建物なんです。でも、来年には立て替えるらしいです」
「へえ。最初の犠牲者になった子が、どのあたりで亡くなったか分かるかい?」
「あの辺りです。梯子がある所のそば」
 はいはい、ごめんね、と生徒達の脇を通ってしゃがみ込む。そして、とっくに失くした右腕で床に触れると、なんだか髪の毛のようなものが指先に触れた。指で細かく触ってみると、なんだかザラザラしていて固い毛であることがよく分かる。
 私のこれは幻肢といって、実際には失われてしまった四肢の神経が残っているように感じるという病気だ。ただ、私の場合は十代の終わりに事故で右腕を失ったのだが、どういうわけか右腕の感覚に触れるものがある。いや、この幻の腕でなければ触れられないものがある。それは、俗にいう幽霊とかいうものだ。どうして触ることが出来るのか、理由はわからない。
「あの、どうしたんですか?」
「いや、ちょっとね。学校の噂によれば、その祟りは視えない犬なんだよね?」
「はい。私も何度か、その、見かけたことがあります」
「どんな風に視えた?」
「普通に生活している時に、ちょっとした拍子に視界の端の方に見えるんです。赤黒い大きな犬なんです。驚いて視線を向けると、そこにはなにもいなくって。怖いんです」
「そう。成る程。そういうことか」
「あの、なにか分かったんでしょうか」
「まぁね。校内でなにか奇妙なものを見たりしなかった? そういう噂でもいいいのだけれど」
「いえ、これといって視えない犬の噂以外には特に」
「そうか。じゃあ、君たちの教室に連れて行ってくれ。なにか出し物でもしているのなら日を改めるけど」
「いえ。縁起が悪いので教室は使っていないんです」
「そいつは好都合だ。虻川さんが生前に使っていた机はまだ残っているの?」
「ええと、はい。あります」
 彼女がどうして言い淀んだのか、それは教室で虻川千尋の机を目の当たりにしてすぐに分かった。
 教室の一番後ろの列の窓側。ちょうど掃除道具いれのロッカーの前に位置する虻川千尋の机の上には花瓶があり、枯れた菊の花がうなだれている。机の上には眼を背けたくなるような罵倒の言葉が刻み込まれてあった。
「こいつは酷い」
 思わず声に出てしまった。想像以上だ。ここまで他人への嫌悪を顕著にぶつけるというのは大人には理解しがたい。
「なあ。どうして自殺に追い込むほど苛めたんだ?」
 素直な疑問なんだけど。
「私は、その、直接は関係ないから、よくわかりません」
「でも、体育服を焼却炉で燃やしたんだろう?」
「それは、その、そういう空気だったから」
 空気を読むにも程があるだろう。正直、仕事なんて放り出したくなったが、これも仕事だと割り切る。
「まあ、祟られるのを怖がる程度には関わってたわけだな」
 幻肢の掌で右目を覆う。すると、ぼんやりと靄のようなものが視える。この幻肢をかざして視ると、幽霊や怪異を視ることが出来るのだが、この靄はそういうものとは少し違う。これは人の思いの残り滓のようなもので、割とどこにでも視られるものだ。
「おかしいなあ。別に祟りなんて見当たらないけど」
「そんな。もっとちゃんと視てください」
「いや、でもホントに何にも残ってないんだよ。憎悪や怨みっていうのは穢れとして場所や人に憑くんだが、ここにはそういう類いのものはなにも残っていないよ」
 本当になにもないのだ。祟るほどの悪霊ならくっきりと視える筈だ。
「もしかして、この中かな?」
 机の引き出しに手を突っ込んでみるが、特になにも見つからなかったので私は小首を傾げるしかない。
「ないなあ」
「なにを探しているんですか?」
「いや、ちょっとね。あのさ、学校の中に綺麗な箱ってない?」
「箱?」
「そう。箱。大きさはよく分からないんだけどさ。たぶん持ち運びできる程度のものだと思う」
「いえ、そういうものは見たことがありません」
「そっか。仕方ない。なら、地道に校内を視て回るしかなさそうだ。学校の何処かにあるだろうからね」
 こういう時、幻肢は他人には一切見えないのでありがたい。さすがに片目に手を当てたまま校内を歩き回る男というのは不審者に近い。
 教室を離れ、幻肢を通した視線で辺りを見回ると、どういうわけか教室よりも廊下の方が酷い有様になっていた。真っ赤な血飛沫があちこちに飛び散り、廊下をなぞるようにして血痕が続いている。よくよく観察すると、大きな犬の足跡がいくつか見つかった。
「これはもう間違いないな。どこかに箱がある筈だ」
「あの、箱ってなんなんですか?」
 放っておくとうるさそうなので、とりあえず人気の少ない階段脇で立ち止まる。
「外道箱あるいはマガツバコなんて呼ぶらしいが、地域と継承する家で呼称は異なるからなんとも言えない。ただ、共通しているのはその家で祀る神様を箱の中にいれているという点だ。この神様は少し他の神様と違っていて、箱の持ち主の願いを叶えてくれる。それも物理的に相手を排除したりするという点のみにおいて。作物を育てるだの、子宝に恵まれるだのといった願いは一切きかない。ただ、どこぞの誰それを祟り殺せ、といった内容は確実に叶えてくれる。そういう類いの呪具は日本全国探せばそれなりに出てくるんだそうだ」
「それって、どういうことですか」
「だから。呪具だよ。人を呪う道具だ。聞いた話によると、曰く視えぬ獣に八つ裂きにされる、と。今の状況にそっくりだろう」
「ハエが、そんなの持ってたなんて……」
「ハエ?」
 しまった、という表情を一瞬浮かべ、長峰は女子高生らしく愛らしく誤摩化した。
「いや、そういうあだ名もあったなあって。でも、そんなものを持ってただなんて知りませんでした。そっか。そういう道具で私たちを呪っていたんだ」
「それは違う。この学校には彼女の霊や思いなんてものは一切残っちゃいない」
「嘘! でも、なら他に誰が祟るっていうんですか」
「知らんよ。心当たりはないか?」
「ありません。他に苛められている生徒なんていませんでした」
「そうか。だが、このまま放っておくわけにもいかない。外道箱を見つけないとあの女がうるさいからな」
「あの女って、あのボロい骨董店の?」
 この娘は簡単にいうけれど、残念ながらあの店は簡単に出逢える場所じゃない。まあ、尤もあんな店とはかかわり合いを持たない方がよいのだけれど。
「そうだよ。夜行堂の主人だ。彼女に外道箱を持って帰るよう頼まれていたんだ。きっと見つかるだろうからってね」
「そうだったんですね。それじゃあ、すぐその箱を見つけましょう」
「いや、きっと箱はここにはないな。私は最初、自殺した虻川千尋が箱の持ち主だったんだろうと思っていたんだがね。当てが外れた。自分を苛めた加害者に復讐する為に外道箱を使った。そう思っていた。最初から彼女は君たちを呪ってなんていなかったんだ」
「つまり、死んだ人たちは全然違う人から呪われて死んだっていうことですよね? 虻川さんの祟りじゃないんですから」
「そうなるな」
「よかったあ」
 安心したのか、その場にへたりこむ彼女に私は前金で貰った料金を返した。
「彼女の祟りではなかったからね。お金を返すよ」
「ありがとうございます。あの、ご迷惑をおかけしました」
「気にしなくていい。ただ、もう苛めには加担するなよ。どこで誰に呪われるか分からないからな」
 依頼主は、はい、と満面の笑みを浮かべて頷いた。
「あの、よかったらこの後の演劇を一緒に観ませんか? うちの学校の演劇部、すごくレベル高いんです」
「いや、遠慮しておくよ。まだ仕事があるからね」
 私はすぐに学校を後にした。

 ハッ、ハッ、ハッ

 荒い吐息。
 校門の所で振り返ると、そこには血膿色をした人面犬が立っていた。その顔を視て、思わず苦笑が漏れた。
「そういうことか」

   ◯
 足跡ははっきりと私には視えた。
 学校から続いている、この引きずったような血の跡を辿り、私はようやく血の跡の大本へと辿り着いた。
 そこは学校から一キロほど歩いた海沿いの工業団地で、どこか寂れた雰囲気のある場所だった。夥しい血の跡を辿り、そのうちの一棟へ入ると、階段を上っていく。
「ここか」
 表札には『虻川千佳・千尋』とある。母子家庭だったらしい。
 電子ブザーを鳴らすが、応答はない。しかし、このまま帰るわけにもいかず、ドアノブを引いてみると、難なく重たい金属の扉が開いた。
「お邪魔します」
 断ってから靴のまま上がると、リビングの方からブブブブと奇妙な音がする。曇りガラスの向こうの部屋は薄暗く、点けっぱなしのテレビの光と音だけが響いてきた。
 ドアを開けると、案の定、真っ黒い塊のようになったハエが部屋から出て行った。同時に凄まじい臭気に顔が歪む。
 リビングのテーブルに突っ伏すようにして絶命する中年の女性。その頸椎あたりから刃先の欠けた包丁が顔を覗かせている。あたりをぶんぶんとハエが八の字を描いて飛び回り、ラグや壁にまで飛び散った血飛沫は赤いというよりも黒い。あの犬と同じ血膿色だ。
 絶命している彼女はおそらく、自殺した虻川千尋の母親だろう。損傷が激しいので断言は出来ないが、まず間違いない筈だ。自殺したのはおそらく娘の葬儀のすぐ後だろう。
 棚に飾ってある写真立てを見ても、すべて母親と娘のツーショットばかりで他に親戚がいなかったのかも知れない。
 そして、案の定、彼女の目の前には小さな掌サイズの正方形の箱があり、その蓋が外れている。表面には古い和紙が何枚も何枚も張り重ねられ、あちこちに血がこびりついたような跡があった。
「これか」
 手に取ろうとした瞬間、不意に、テレビのチャンネルが切り替わった。当然、私はなにも操作していない。
 『速報 文化祭で大惨事!』との大きな文字が映し出され、朦々とたちこめる土煙の向こうに、倒壊した体育館の姿が映し出された。どこかで見たな、と思ってよくよく見てみると、ついさっきまでいた例の学校での出来事らしい。
 画面が切り替わり、真っ青な顔のキャスターが原稿を読み上げる。
『老朽化した体育館が倒壊したものと思われており、救助隊による必死の救助活動が続けられていますが、既に数十名の死者が出ていると確認されており、現場は大変凄惨な有様となっています。瓦礫の下敷きになっていると予想されるのは全校生徒と全教諭、また観覧に来ていた保護者です。倒壊当時、体育館では文化祭の演劇が行われていたようです』
 また画面が切り替わり、校門に殺到する人、救助隊や警察官でごった返すなか、悲痛な悲鳴が聞こえて来た。
「なるほど。間に合ったみたいだな」
 箱を手に取り、蓋を閉める。
「回収完了」
 ポケットに箱を入れて、私は虻川邸を後にした。

   ◯
 夜行堂は相変わらず薄暗く、薄ら寒い。とりわけ埃の匂いと、どこからともなく私の幻肢に触れてくるものがいるので落ち着かない。ここの店主と、モノたちにとって私はていのよい玩具だ。
 カーディガンを着た店主は帳台で薄い笑みを浮かべて、うっとりとした様子で回収した外道箱を眺めている。
「またひとつ、狗が増えた。見てくれ。輝きが増しただろう」
「分かんないですよ。そんなの」
 まぁ、でもこれで五十万の報酬を貰えるのだから悪くはない仕事だ。
「結局、外道箱を渡したのはあなただったんですね」
 そうだよ、と彼女は歪に微笑んで、手の中の外道箱をくるくると指で弄んだ。私は蓋が外れないかと気が気ではなかったが、彼女のことだ。自分でどうとでもするだろう。
「私が仕組んだことではないよ。千尋ちゃんがここへやってきたのは彼女の縁だ。私はその縁を結んだに過ぎない。それに、この外道箱は大戦前に彼女の祖母が喪失したものだったのだから、持ち主の下へ戻ったというのが正しい」
「それって、喪失したんじゃなくて捨てたんじゃないのですか」
「さて。ともかく、外道箱は千尋ちゃんの手に渡った。あれを使えば自分を排斥したモノたちに復讐ができる。けれど、千尋ちゃんはそうはしなかった。疲れ果てていたのだね。絶望から自殺したのではなく、疲れてしまったのだよ。彼女には復讐をするほどの魂の力は残っていなかった」
「それは同意します。実際、彼女の魂はどこにも見つけられなかった。自縛するでもなく、自ら命を絶って逝ってしまった」
「その点でいえば、彼女は誰も怨んでなどいなかった。そういう段階にはもうなかったんだな。なにもかもから解放される。その為に死んだ。それだけだ」
 しかし、復讐を願うのは何も当人だけではない。場合によれば、当人よりも強い怨みを持つ者も存在するのだ。
「虻川千佳。外道箱は母親が使ったんですね」
「そう。それも自ら咽喉を突いて、あの箱に憑いた。外道箱に自縛し、自らも狗神になった。かつての術者たちがそうしてきたように、彼女もそうしたのだよ。おかげでこの中には合計、八十八体の狗神が棲んでいる」
「頼みますから、そんなものを世の中にばらまくのは止めて下さいね」
「私は物と人の縁を結ぶことしかしていないよ。何度も言っているだろう。人が物を選ぶのではない。物が持ち主を選ぶのだと。君はそういう体質だからな。うちの品にも君を主にしたいと思っているものは多いのだよ?」
「遠慮します」
「そうかい? 例えば、これなんかどうだろう」
 そういって彼女が帳台の下から引っぱり出したのは、乾涸びた植物もとい、よく見ればそれは乾涸びた何かの右腕だった。やたらと手が大きく、爪がナイフのように鋭い。
「なんですか。それ」
「さぁ、なんだろうね。どうだろう? 試しに断面に付けてみないか? なに、ほんの少しでいい」
「遠慮します。そもそもなんの腕なんですか。人間のものでさえないでしょう」
 彼女は応えず、私に腕を差し出す。
「右腕がないのは不便だろう。この腕なら日常生活もできるし、他にもいろんなものに触れることが出来る。扱いが少し難しいが、慣れればどうということはない」
「これ、出所はどこですか?」
「木山氏の土蔵」
「絶対に嫌です。お断りします」
 故人とはいえ、あの人物の持ち主だったというだけで充分に不吉だ。絶対にろくなものではない。
「帰って寝ます」
「そうか。残念だ。ああ、そういえばあの娘はどうなった? 私の紹介した少女だ。少なからず外道箱に縁があるようだったが」
「さぁ、瓦礫の下ですから分かりません」
 立ち上がり、曇りガラスの戸を開ける。いつの間にか雨が降り始めていた。
「生きていると思うのかね?」
 彼女がそういって残酷に微笑むので、私は思わず顔を逸らした。
「遺体さえ出てこないと思いますよ」
 
 帰り際、校門の外から眺めたあの学校には、夥しい数の血膿色をした巨大な人面犬が闊歩していた。
 きっと、ただの一人も生き残れないだろう。
 
                          箱洩穢呪―完

這夜亡海

 男は夏という季節がやってくると、決まって夜釣りに出かける。
 なぜ夏なのか、といえば他の季節だと夜釣りは難しいからだ。冬は寒くて釣りどころではないし、春はいまいち魚が湧かない。夏は昼間は暑くてとても釣りをする気にはなれないが、夜となれば海風が心地よい。
 仕事を終え、車で近場の漁港へ向かい、適当な釣り場を見つけて竿を投げる。釣れる日もあれば、釣れない日もある。しかし、趣味でしていることなので、釣れないところでどうということはない。ただ、静かな海で釣りをするのが好きなのだ。
 港には火力発電所があるのだが、こういう工場という場所は夜景に映える。巨大な人工物が港にうずくまり、白煙をあげるという光景は悪くない。
 男は煙草を口に咥え、ネクタイを緩めて、竿を投げてはぼんやりと佇む。魚が釣れれば竿につけた鈴が鳴り、魚がかかっていることを教えてくれる。投げ釣りはもっぱら待っている時間の方が長い。
 携帯の電源も切ってあるので誰の邪魔も入らない。足下を波がちゃぷちゃぷちんぶつかっては砕け、白い泡となって岩壁に付着した。深く息を吸うと、生臭い磯の香りがする。
 しばらくぼんやりとしていると、なんだか今日はやけに釣り人が少ないな、と気がついた。今日は大潮で潮目もいい。いつもなら大勢の釣り人でにぎやかなくらいだ。特に対岸の船着き場には、昼間から釣りに来ている常連たちでびっしりと埋まっている筈なのだ。
 怪訝に思って携帯を開くと、その理由に気がついた。
「ああ、そうか。もう盆なのか」
 もうそんな季節になっていたのか。もう男は実家に何年も帰省していない。結婚して所帯でも持てばそういう行事にも近しいだろうが、独身の男に盆も何もない。おまけに仕事も盆休みなどないのだから、そんなことなどすっかり忘れていた。
 こんなに人の少ない夜も珍しいな、と男は思った。
 どうせ誰も来ないだろう、と思い、竿を五つほど新たに投げ込んだ。人が多いと、あんまりこういう数に頼むような真似はできないが、今日は誰も文句を言う者もいない。
 全ての竿を投げ終え、男はもう一本、と胸元のポケットから煙草を取り出そうとして、隣の電灯の下に誰かが立っているのに気がついた。
 思わず会釈すると、向こうもぼんやりと頭を下げた。
 釣り人かな、とも思ったが、なにも持っていない。海をこうして眺めにくる人も少なくはないから、男は気にせず煙草を咥えた。
 それからしばらく経ったが、魚が釣れる気配は一向にない。いつもなら雑魚の一匹でも釣れている頃合いなのだが、今日はどうにも調子が悪い。
 仕掛けの餌をつけなおそう、そう思って男が立ち上がると、電灯の下に立っていた男がほんの少しこちらに近づいていた。表情を伺おうとしたが、逆光で表情が読めない。作業服を着ている、ということだけは分かった。よくみれば、件の火力発電所の職員が着ている制服だ。
「お盆もお仕事ですか。大変ですね」
 男が気さくに声をかけると、相手はゆっくりと頷いてみせた。
「いえ。もう休みに入っています」
 初老の男性特有の、少しゆっくりとした落ち着いた口調だった。
「こちらには帰省で帰ってきていましてね」
「ああ、ご出身がこちらですか」
 ええ、と相手は頷いた。
 男は相づちを打ちながら、リールを巻いて仕掛けを回収した。餌はついていなかった。雑魚に喰われたのだろう。
「故郷の海です。いつも此処に帰って来てしまう。子供の時分には、もう飽きる程眺めていたというのに。不思議なものです」
「自分は他所の人間ですが、海はいいですね」
「そうですね。ですが、海は恐ろしくもありますよ」
「へえ。例えば?」
「私がまだ幼かった頃の話ですが、大きな炭鉱事故がありました。大勢の犠牲者が出たのですが、彼らは炎で咽喉を焼かれておったんですな。地上へ運び出された彼らは、水に飢えていました。しかし、とても全員には真水は行き渡らない。彼らは飲めないと分かりながらも、この海に次々と身を投げて海水を飲み、溺れて死にました」
 淡々とした声に、男はぞっとなった。
「今でもようく覚えていますよ。肌色というよりは、白いぶよぶよとした遺体が幾つもそこに浮かんでおりました。まるでブイのようにね。私はどうしてもその光景は忘れられず、それからしばらくは海に来るのが恐ろしかったものです」
 餌を釣り針に通しながら、男はなんだか寒々しいものを感じ、いつのまにか辺りが静まり返っていることに気がついた。さっきまで五月蝿いほどだった虫の音色もしん、としている。
「事故があって以来、この海では大勢の死人が出ました。俗にいう入水自殺ですな。年齢も性別も様々で、兎にも角にも人が死んだ。子供も大人も無関係に。あまりにも多くの人間が死ぬので、とうとう慰霊碑が建てられました。鎮魂の為にね。以来、ここで人が死ぬことはめっきり少なくなりました」
「じゃあ、もう大丈夫っていうことですね。いやあ、怖かった。お話をするのが、お上手ですね。肝が冷えました」
 ははは、と笑う男とは反対に、光を背にして立つ男は黙り込んだ。
 足下で波が押し寄せては砕け、その度に強い潮の香りを感じた。
「地元の人間は、この時期にこの港にはやってきません。お盆というのは、死んだ人間が帰ってくる季節ですから。海に近寄ってはならない、袖を引かれるぞ、そう親たちから習うのですな」
 ほうら、もう帰っていきますよ、そう男が指さした先、対岸の船着き場に誰かが立っているのが見えた。電灯の下、人影がぼんやりと立っている。
 男が見ている目の前で、人影が身を投げた。前のめりに倒れるように、水面に水しぶきがあがり、それきり浮かんでこない。
「人が! 落ちましたよ!」
 慌てて立ち上がろうとする男の視線の先、そこには対岸を埋め尽くすように並んだ黒い人影が立ち尽くしていた。そうして、後に続けとばかりに黒々とした海へと身を投じていく。
 呆然と男が立ち尽くす中、急に鈴がけたたましく鳴った。
 見てみれば、全ての竿が折れんばかりに曲がり、しゃんしゃんと鈴を鳴らしている。とても魚とは思えないような引きの強さに、男は青ざめた。
「悪いことは言わない。帰りなさい」
 ばしゃん、と目の前に彼が落ちた。大きな水しぶきが上がり、黒々とした水面の下、男の姿が深い場所へとゆっくりと沈降していった。
 仰向けに沈んでゆく男の口が、薄く微笑んだ。
 
 男は釣り糸を断ち切り、竿も回収しないまま、車に乗り込み、港を後にした。
 以来、彼は釣りを辞めたという。
 
                                這夜亡海――完

行李怪異

 大学の先輩からバイトを持ちかけられた。
 その先輩は大学でも問題児として名が知られていて、講義にもろくに出席せず、女漁りの為に在籍しているような学生とは名ばかりの人物だった。
「四時間で三万貰えるちょろい仕事だ。どうだ。手伝う気はねぇか」
 普段なら断っていただろうが、バイト先が閉店してしまって食べる金にも困っていた私はすぐに先輩の話に食いついた。
 しかし、四時間で三万円というのは明らかにおかしな話だ。まともな仕事だとは思えない。流石に犯罪ではないだろうが、万が一ということもある。私は慎重に仕事をしようと決めた。
 当日、日が暮れた頃に先輩が私を迎えにやってきた。
 先輩は愛車のスポーツカーではなく、借りて来たらしい軽トラックに乗ってやってきた。荷台にはなにも載っていない。
「先輩。どんな仕事をするんですか」
「別に大したことじゃねぇよ。やることはいつも違うんだが、前回はどこぞの骨董店に着物を売り払いに行っただけだったな。まぁ、金持ちの道楽につき合ってパシリをやっているだけだよ」
「それにしては随分、高額なんですね」
「口封じも含めてるんだろうよ。口外するな、と厳しく言われてるからな。屋敷に行くときも決まって陽が沈んでからだ」
「なんだか気味が悪いですね。ヤクザですか?」
「さぁな。別にどうでもいいことだ。乗れよ。今日は力仕事らしいからな」
 助手席に乗り込み、何事もなく帰ってこれるよう誰にでもなく祈った。

 雇用主は新屋敷の片隅にある大きな屋敷に住んでいた。
 どこか薄暗い印象のある大きな屋敷で、なんだか酷く気味が悪い。門の前に提灯を持った着物の男性が立っていて、私たちを値踏みするかのように鋭く見た。先輩は車を道の脇に停め、ぺこぺこと頭を下げて挨拶をするので、私もならって頭を下げた。黒く変色した木製の表札には『木山』とある。
「挨拶はいい。先にこれを荷台に積んでくれたまえ」
 骸骨のような男は厳しくそう言って、足下にある大きな行李を指さした。抱えようとすると、ギョッとするほど重たい。担ぎ上げるようにすると、中で何かが蠢いたような気がして背筋が震えた。
「あの、これって……」
「無駄口はいい。とにかく積め」
 すいません、そう謝ったものの、行李は重たく荷台にあげるのは一苦労だった。行李には封をするように荒縄でぐるぐる巻きにされていて、およそ解くことを考えていないようだった。先ほどの感触を思い出して、思わず指先が震えた。
 行李を積み終えると、男が懐から取り出した巻き煙草を差し出してきた。
「ご苦労。吸いたまえ」
 私は煙草を吸わなかったが、受け取らないのもばつが悪いので煙草を受け取った。咥えるとマッチを擦って火を灯してくれた。
「煙草は嗜まないようだが、こいつはそのへんの安物とは物が違う。肺に入れずに、ふかして味を楽しむものだ」
 私は頷いて煙を吸うと、口の中をなんだか甘いものが満たした。鼻腔から甘い芳香が抜け、舌先が酔ったように痺れた。頭の中がふわりと浮かぶような酩酊観に驚く。
 そんな私を見て、同じように煙草を咥える先輩が笑った。先輩は慣れた様子で煙を吐いて、どこか夢見心地といった風である。
「あの、これって麻薬か何かですか?」
 煙を燻らせながら男が骸骨のような笑みを浮かべた。
「野暮なこというな。君は若い癖に真面目なことをいう。不真面目な彼とは大違いだな」
 馬鹿にされたようで私は苛ついたが、男はそんな私の態度を嘲笑うように大きく煙を噴いた。提灯の明かりに照らされた紫煙がもうもうと男を包む。
「行李の中身が気になるかね」
「いいえ」
 男はくっくっ、と顔を歪めて笑った。骸骨が笑っているみたいだった。
「正直だな。だが、好奇心は猫も殺すという。まぁ、どうしても気になるというのなら行った先で開けてみるといい。こちらとしては、捨てて来て貰えればそれでよい」
 痺れるような甘い味に頭がすこしふらふらする。もう吸ってはいけない、そう思いながらも口から離せないのだ。
「この行李を指定する場所に捨てて来て欲しい。それだけだ」
「不法投棄をしてこいというんですか」
「そこは私の私有地だ。心配はいらない。君たちは指定する場所へ向かい、その行李を捨ててくればいい。報酬は前払いで払おう。文句はあるまい」
 男は封筒を出すと、まだ煙草を吸うのに夢中になっている先輩に手渡した。
「それと、友人や知人に今夜のことは話さない方がいい」
「それは警告ですか?」
「いや。忠告だ。私は口の軽い人間を信用しないことにしている。逆をいえば、口の固い人間は信用できるということだ」
「話しませんよ。これも仕事ですから」
「ならばいい。地図を書いておいた。少々入り組んではいるが、山に入ってしまえば一本道だ。迷うことはなかろう」
 車に乗り込み、エンジンをかける。
「縁があればまた仕事を頼むだろう。くれぐれも行李の中身を確かめようなどとは思わぬことだ」
 それと、と木山氏がつけ加える。
「煙草は止めた方がいい。健康に悪い」
 先輩はにへら、と笑って頭を下げた。
 車が発進する。バックミラーを覗き込むと、提灯を持った骸骨のような男が歪な笑みを浮かべながら私を視ていた。

   ◯
 指定された場所は車で一時間程の県境にある山奥で、私有地につき立ち入り禁止という立て札を幾つも見かけた。途中、一台の車ともすれ違わなかったから、ここら一帯が依頼主の私有する土地なのだろう。
 ハンドルを握る先輩は上機嫌に煙草をすぱすぱ吸うので、私は仕方なく自分のほうの窓を開けて山道の闇を眺めた。
 舗装されていない山道を軽トラックで跳ねるようにしながら走る。ヘッドライトの光が森の闇を裂くように前方を照らした。
「なぁ、チョロいバイトだろう。時給いくらって話だよ。金持ち相手の仕事が一番だよなあ。貧乏人相手の仕事なんざ馬鹿らしいぜ」
「あの行李の中身、なんなんでしょうか」
 私がそういうと、先輩に頭を小突かれた。
「おまえ、まだそんなこと言ってんのかよ。詮索すんなよ。大人しく従ってれば楽に金が手に入るんだからよ。機嫌損ねるようなこというなよな」
「でも、あの中身なんか動いてましたよ」
「知らねーよ。犬か猫でも入ってんじゃねーの?」
「それなら助けないと」
「だからさ、そういうのマジでやめろって。金貰ってるんだから文句いうんじゃねぇよ。犬猫でも俺たちには関係ねぇじゃん。馬鹿が。おまえ誘ったのは失敗だったわ。マジで」
 舌打ちする先輩に殴り掛かってやろうか、とも思ったが、車の運転中なので自重した。
「でも、もしもあの行李の中に入っているのが人間だったらどうするんですか」
「あ?」
「死体遺棄の手伝いをさせられてるのなら警察沙汰になりますよ」
「は? 俺たち関係ねぇじゃん」
「共犯扱いされますよ。金銭も受け取っているんですから。逮捕されます」
 逮捕、という言葉を聞いて先輩の顔色が青ざめる。
「おい、マジかよ。くそっ、ふざけんな」
「確認しましょう。先輩のいうように犬猫なら放してやれば良し、万が一にも人間だったなら通報しましょう」
「それなら捕まらないんだな?」
「共犯にされるよりはマシでしょう。ともかく現地に着いたなら、封を切って中身を確認してみましょう」
「そ、そうだな。中身を確認するだけだしな」
 先輩は自分を励ますようにいって、咥えていた煙草を灰皿でもみ消した。
 それからしばらくして、ようやく目的の場所に到着した。目印だという小さな鳥居の前に車を停め、すぐに行李を荷台から下ろす。
「な、なんだかすげぇ不気味な所だな」
 先輩の言うとおり、気味が悪い場所だった。こんな山奥にある小さな鳥居。その先には深い竹薮が続き、奥に小さな祠のようなものが見えた。こんな場所でいったい何を祀っているのか。
「こんな所になにを捨てるつもりなんでしょうか」
「知らねーよ。いいから早く開けようぜ」
「そうですね」
 作業用にと持って来ておいたナイフで行李を縛りつけている紐を断ち切る。何本もの紐で縛られており、すべて断ち切るのには相当な労力を要した。
 最後の一本を断ち切った、その瞬間、行李の内側から幾つもの指が生えるようにして現れた。
「うわっ!」
 思わず飛び退き、立ち上がろうとするが、目が行李から離れない。
 青白く、ぶよぶよした指が蠢くように行李の蓋を内側からこじ開けようとしている。少しずつ、開いてゆく蓋を前に、見てはいけないと直感した。
 しかし、瞼は硬直したように微動だにしない。悲鳴をあげようにも、胸が苦しくてうめき声のような悲鳴がこぼれるだけだ。
「うう、ううううう、ううううう!」
 歯の根が噛み合ない。
 閉じることも、逸らすこともできない視界のなかで、それはゆっくりと行李の中から這い出て、肩をふるわせて立ち上がる。
 それは、人の形をしたなにかだった。
 人間じゃない。それには性器もなければ、頭髪もなく、体毛という体毛が一切存在しなかった。指先が地面に触れるほど腕が長い。そして、それの目は瞼を十重二十重に縫い合わせてあるようで、まるで瞳が見えなかった。
 口を開くと、凄まじい血の臭いと、磯のような香りが鼻を突いた。
 それは視えない目の代わりに、鼻をくんくんとひくつかせた。そして、同じように腰を抜かして立てないでいる先輩のほうへ顔を向け、楽しくて仕方がないとばかりに口を歪めて笑った。
 どうして、と先輩は顔を引きつらせた。私はすぐにわかった。煙草の臭いだ。
 先輩の悲鳴が弾けた。言葉にならない悲鳴が、夜の山に寒々とこだました。
 腰の抜けた先輩は立ち上がることが出来ず、めちゃくちゃに手足を動かして逃げようとしたが、それはその場でのたうつだけで、ほんの少しも逃げることには繋がらなかった。
 先輩が私を見た。言葉にならない悲鳴で、懸命に私に助けを求めていたが、私は物音ひとつ出さないよう、懸命に息を殺すしかなかった。そうでなければ見つかってしまう。
 それは長く、大きな手を伸ばし、先輩の口に手を入れた。上顎を掴み、乱暴に肩にかつぐと先輩の体が一度大きく跳ねて、首が奇妙な方向へ曲がり、それからまったく動かなくなった。先輩の首はおそろしいほど長く伸びていた。目と鼻からおびただしい量の血がこぼれ出るのを、私は見た。
 それは、すっかり力の抜けた先輩を肩に担いだままゆっくりと歩みを進め、鳥居を潜り、森の奥深くへと姿を消した。
 やがて、森の深い深い闇の中から、骨を砕き、皮を剥ぎ、肉を租借する音が聞こえて来た。

 以降、私の記憶はない。
 気を失い、目が覚めたら朝になっていた。
 私はすぐに車に乗り込み、山を下りた。

   ◯
 それからしばらくして、警察が私のアパートへやってきた。
 先輩の家族が捜索願を出したらしかった。私は警察から事情聴取を受けたが、なにも知らないと嘘を突き通した。真実を話したところで信じてもらえないだろうし、先輩が見つかることもないからだ。
 普段から素行不良ということもあり、捜索はすぐに打ち切られた。私はしばらく大学を休んでいたが、復学して普通の生活に戻った。
 それから半年ほど経った頃、携帯電話に見知らぬ番号から電話がかかってきた。
『私のことを覚えているかね?』
 開口一番、その言葉に私は思わず目眩を覚えた。あの男だ、そういう確信があった。
「木山さん、ですか」
『覚えていてくれたのなら話は早い。仕事を頼みたい。日が沈んだ頃に屋敷に来たまえ』
「ど、どうして私なんですか」
『君の先輩が使えなくなったからだよ』
 私は心底おそろしくなり、膝が震えた。ようやく忘れかけていたのだ。あの夜の出来事は悪い夢だったんだ、とそう自分に言い聞かせて。
『私は時間にはうるさい。くれぐれも遅刻しないよう』
 気をつけなさい、そういって電話は一方的に切れた。
 私は呆然と立ち尽くし、逃げられないことを痛感した。

 陽が沈むのを待ってから屋敷町の外れにある木山氏の屋敷へと向かった。
 屋敷へ続く竹林を歩きながら、あちこちの闇からなにかがこちらを見ているような気がして背筋が冷たくて仕方がなかった。それらの視線を無視して、私は砂利を踏みしめて歩き続けた。
 屋敷につくと、門が開いていて中庭がぼんやりと明るい。恐る恐る覗き込んでみると、石灯籠に火が入っていて中庭を淡く照らしあげていた。
「時間通りだ。君は先輩よりも優秀な男だな」
 小さな池のふちに立つ木山氏はこちらに背を向けたまま、池になにかを撒いている。時折、池の水面が沸き立つのでなにか魚に餌をやっているらしかった。
「なんの御用でしょうか」
「そんなに遠くては話もできん。もっとこっちへ来なさい。なに、私は取って喰ったりはしない」
 くっくっ、と咽喉を鳴らして笑う。
 木山氏の隣に立って池を眺める。黒々とした水面が波打ち、なにかが激しく泳いでいるのが分かった。
 私は木山氏の方を見なかった。着流しの袖から覗く骸骨のように細く、白々とした腕が禍々しい。
「行李を開けたろう」
「……はい」
「君が罪悪感を覚える必要はない。どちらにせよ、あの鳥居の傍にくれば封は解けるようになっていた」
「どういうことですか」
「あれは私が拾い、飼っていたものなんだが、成長して少々手に余るようになってしまった。縊り殺してしまってもよかったが、あんな生き物でも飼っていると情が湧く」
「だから山に棄てたのですか」
「棄てたのではない。返したのだよ。元々、あれは山にいたものだ。私が欲しかったのはあれの眼球でね。摘出してしまえば、もう用はない」
「あれは、なんなのですか」
「さて、なんなのだろうな。私はただの蒐集家だ」
 わからんよ、そう冷たく言い放った。
「確かにあれは人を喰うが、好んで喰いはしない。人里に自ら降りてくることはないから安心していい」
 私はもうこれ以上、なにも知りたくはなかった。
「もういいです。仕事の話だけ聞かせてください。今度は何を棄てればいいんですか。今度こそ、私も喰わせてしまうつもりなのでしょう?」
 すると、木山氏は手を叩いて笑った。
「まさか。君を喰わせてしまう筈がないだろう。君にはやってもらわなければならないことがある。なに、今回のことは私にも責任がある。君の先輩があのような形で人生に幕を閉じたのは、私のせいだ」
「なにをしろというんですか」
「私が死んだら、そこの蔵を燃やして欲しい」
 指さした先を見ると、そこには立派な土蔵があった。
「前金で全額支払おう。その代わり、必ず仕事を成し遂げてくれ。そうでなくては困る」
 意味がわからず、私は困惑した。
「意味がわかりません。どういうことですか」
「簡単なことだ。私が死んだとき、あの蔵に火を放ってくれればいい。これは土蔵の鍵だ。君に預けておこう」
 受け取った鍵は、赤錆の浮いた古い鍵だった。
「病気なのですか」
「いいや」
 そうして、木山氏は懐から分厚い封筒を取り出し、私に押し付けるようにして渡した。そのあまりの大金に私は気が動転した。
「いつ死ぬか。それは私にもわからん。死ぬ予定もない。が、私は少しばかり深い闇を覗き込みすぎた。そう思わないかね?」
 私はそれには答えず、わかりました、とだけ伝えた。
「では、頼んだよ」
 そういって再び池に餌を撒き始めた木山氏に背を向けた。
 ぱしゃり、と背後で音がする。
 振り返って池を見ると、そこには人の口をした白い魚が群れになって、黄ばんだ歯を剥き出しにして餌を取り合っていた。

   ◯
 それから五年の月日が経ったある日、仕事から帰った私はテレビのニュース番組で木山氏が何者かに殺害されたのを知った。
 翌日、私は仕事を有給で休み、約束を果たしに出かけた。
 昼間にこの屋敷へやってくるのは初めてだった。屋敷の様子は五年前とそれほど変わっていなかったが、まるで墓所のような冷たい昏さがあった。
 私はまっすぐに土蔵へ向かい、預かった鍵で南京錠を外し、重い戸を苦労して開け、埃が落ち着くのを待ってから中へ入った。
 そして、言葉を失った。
 冷たい土の香りのする土蔵の中には、見覚えのある行李が、床を敷き詰めるようにびっしりと並び、それらは苦しげに蠢いていた。呻き声、爪の引っ掻く音、啜り鳴く声。それらが蠢いている。
 私は淡々と車へと戻り、持参したポリバケツの中身、ガソリンを土蔵の中に撒いた。苦しげに音を立てる行李が幾つかあったが、すべて見ないことにした。
 ライターに火を点け、床へ放ると、炎が舐めるようにして床と壁に燃え広がり、轟々と音をたてて燃え始めた。炎はあっという間に大火となり、行李を呑みこんでいった。
 鈍く、くぐもった断末魔の悲鳴があちこちから聞こえたが、やがて静かになっていった。
 私は土蔵を離れ、中庭を歩き、池の縁に立った。
 空を見上げると、黒煙が曇天の空に立ち昇っていくのが見えた。

 藻で覆い尽くされた池の水面がにわかに波打ち、白々しい魚の鱗が光ったような気がした。

                                  行李怪異――完

竜雷時雨

竜雷時雨

 通筋町を南北に流れる、近衛湖疎水を歩いていた時のことだ。
 その日は朝から針のように細い雨が降っていた。
私は雨の日は必ず午前中の講義を休む。そして、ぼんやりと疎水を沿って歩いて散歩を楽しむ。それが無趣味な私の数少ない楽しみだった。
そうしてぼんやりと傘をさして雨道を歩いていると、不意に疎水の中を泳ぐ何かが見えた。立ち止まり、目を凝らすと、水中を蛇のような銀色の鱗を光らせる細長い何かが泳いでいるのが見えた。
私は雨が降っているのも忘れて、降りられる場所を探した。そうして、なんとか疎水へと降りられる場所を見つけると、傘も放り出して疎水へと降りた。
雨で増水した疎水の水嵩は私の太ももほどもあり、気を抜くと足を取られて押し流されてしまいそうな勢いだったが、懸命に堪えて目を凝らした。
ああ、いた。
それは私が今まで見たこともない生き物で、蛇に似ていたが、蛇とは違うようだった。頭には枝分かれした角があり、体のあちこちから髭のようなものが揺らめいている。
私は泳いでくる生き物を見ながら、その神々しいまでの存在感に昂揚した。
恐ろしいとは全く思わなかった。
おいで、そう思いながら手を伸ばすと、それはこちらの意志を感じ取ったように、身をくねらせ、私の指先へと近づいた。
「おい! そんなところで何をしている!」
 頭上から怒声が飛んできた瞬間、それは驚いたように身を激しく揺らして、巣穴に逃げ込むように、私の指先に入り込んできた。
 生々しい痛みが指先、手首、腕、肩へと走り、私は呆然となった。
 あたりをいくら見渡しても、あの生き物の姿は見えなかった。
 声をかけてきたのは巡回中の警察官で、私は財布を落としてしまったのだと嘘をつき、今後は疎水に降りたりしないようにきつく言いつけられた。
 家路の途中、何気なく痛みの走った左手を見ると、肘の内側に奇妙な痣があるのを見つけた。それはなんだか蛇のような形で、あの生き物によく似ていた。
 すると、痣は身をくねらせて、私の視線から逃れるように皮膚の上を優雅に泳ぎ、肘の裏へと逃れた。驚いて肘の裏を見ると、するすると泳いで肩の方へと逃れていった。
私は呆然となりながらも、ようやく自分の置かれた状況を理解した。

どうやら、私は取り憑かれたらしかった。


   ○
あの不思議な生き物が私の体に棲みついて以来、身の回りに不思議なことが起きるようになった。
部屋で寝ていると、窓から差し込んだ月明かりに照らされた壁にあの生き物が泳ぐ影が映る。それは心地よさそうに部屋の壁や床を泳ぎまわるので、私はそれをいつもぼんやりと眺めた。それは私が声をかけると、嬉しげに身をくねらせ、くるくるとよく泳いだ。
風呂に入っているときなどはこうだ。湯船に浸かって一息ついていると、私自身は身動きひとつしていないのに、湯船のお湯が波立ち、お湯も足していないのに湯量が少しずつ増えていく。なにをしているわけでもないのに、滾々と水が湧いてくるのであっという間にお湯がぬるくなってしまって困る。
特に変わったことと言えば、私はすっかり雨男になってしまった。
どういうわけか。あれ以来、私の周囲には常に雨が降っていて、外出すれば必ず雨風が吹いて仕方がない。もう梅雨もとっくに明けていて、余所の町では日照り続きで水不足に喘いでいるのに、私の暮らす町はもう二週間近くずっと雨が降り続けていた。このままでは水害になり兼ねない勢いだった。
さすがに少し恐ろしくなり、実験も兼ねて大学を休み、電車に揺られて遠出することにした。一時間ほど離れた駅で降りてみると、やはり雨が降っていて、逆に私の暮らす町は久しぶりの快晴となっていた。なので、私は時折、家を離れて日照りの続く町で宿泊して、水不足の解消に人知れず働いた。
「お前、最近えらいあちこちに泊まりに行くけど、どうかしたの?」
 そう友人に聞かれたが、人助けだとも言えず、自分探しだと適当に答えた。
どうやら私に取り憑いたのは、雨風を呼ぶものらしかった。
 さりとて、私個人の暮らしが変化する訳でもなく、私は普段通りの生活を過ごしていた。自堕落な大学生らしい生活を送り、たまにアルバイトに出て生活費を稼ぐ。変わったことと言えば、ほんの少し身の回りに不思議なことが起きるくらいだ。
 私は自分の身に起きたことを友人知人には一切話さなかった。何故話さなかったのかと聞かれれば、訊かれなかったからだ、と答えるしかない。ともかく私は我が身に巣食う生き物について誰にも他言しなかった。
 しかし、どういうわけか。私を訪ねてくる者が現れた。
 その日、私はいつものようにアルバイトへ出かけた。ちなみに私のアルバイト先は高級日本料理店で、私はそこで雑用係として低賃金でこき使われていた。
 そしていつものようにバイトをしていると、店長が青い顔をして私を呼びに来た。
「お客様がお前を御呼びだ」
 私は意味がわからず、小首を傾げるしかなかった。私はあくまで裏方の雑用係であって、接客は一切していない。野菜の下処理や、洗い物をするくらいだ。
「相手はうちで一番の上客だ。くれぐれも粗相のないようにしろ」
「待ってください。何故、自分なのですか。意味がわからない」
「そんなことを俺が知るか。ともかくお前を名指して呼んでいらっしゃるんだ。つべこべ言わずに行け」
 私は皆目見当がつかないまま、その客が待つ個室へと向かった。
 個室は敷地内の外れに離れとして作ってある。店で一番高価なコースを注文する常連客しか借りることのできない特別な個室だった。事実、アルバイトの私はここへ近づいたことが一度もなかった。
 障子の前に座り、中へ声をかけると、中から澄んだ若い女性の声が返ってきた。
「どうぞ」
 私は障子を静かに開け、室内へ入った。個室は私が想像していたよりもずっと広く、そして高価な調度品で飾られていた。部屋の上座には藍色の浴衣を着た若く、美しい女性が肘掛けに体重を預けるようにして座っていた。年齢は私よりも幾分か上だろうか。
「まぁ、随分とお若いのね」
 彼女は微笑んで、螺鈿細工の長い煙管を咥えて、甘い煙をふぅっと吐いた。
「今日は蒸します。嫌になりますね」
「はあ」
「貴方、とても面白いものを飼っていらっしゃるのね。さぞかし雨続きで大変でしょう?」
 心臓が跳ね上がった。
 なにも答えられず、どうしていいか分からない。
「それは本来、雨雲を泳いでいるのだけれど、たまに雷と共に地上に落ちてきてしまうことがあるの。しかし、それは水気のない場所では生きていくことが出来ません。水の中でないところでは乾いて死んでしまうのです。近衛湖の疎水で拾ったとか。よほど貴方の体の中というのは居心地がよいのでしょうね」
 手を見せて頂けないかしら、と彼女は囁くように言った。
「手、ですか」
「ええ。右手よ。そこにいるのでしょう?」
 私は観念して、彼女の前に右手を伸ばした。するすると影が優雅に泳いで指先へ向かう。
「これは、竜なのではないでしょうか」
「ええ。でも、正確にはまだ成獣になっていないのです。まだ子供の竜ということになりますね」
「親がいるのですか?」
「面白いことを言うのね。親がなくてどうやって生まれてくるというのです?それにこの子の母親はずぅっとこの町の空に留まっていますよ」
「ああ、だから雨が降り続いているのか」
「竜は風と雨の化身ですから。しかし、いくら恵みの雨と言っても、限度というものがあります。このままにしておくわけにはいきません」
「どうしたらいいのでしょう」
「親の元へ帰すしかありません。いくら貴方の中が心地よいからといって、そのままにしておけばいずれ貴方にも害が及ぶ。水に酔って死んでしまうでしょう」
 どうやったら帰せるのですか、そう問うべきだったというのに、私の口からは違う言葉が出てきた。
「貴女は、いったい何者なのですか」
 彼女は答えず、微笑を浮かべたまま煙管を吸い、それから仙女のような妖しい瞳を私へ向けた。
「明日、近衛湖で落ち合いましょう。この子を返してあげないと」
 それで、その日の邂逅は終わった。

   ○
 翌日も雨だった。
 朝からテレビ番組でどこそこで土砂崩れだの、河川の増水だのと物騒な話題が多く、私は朝から陰鬱な気分になった。
 シャワーを浴びていると、体中のあちこちを痣の姿をした竜が泳ぎ回る。そういえば少し痣が大きくなったような気がするけれど、気のせいかもしれない。
 今日でこれとも別れるのかと思うと、少し寂しい気持ちになったが、このままでは人死にが出かねない。直接的ではないにせよ、誰かの生き死にに干渉したくはない。
 朝食を食べながらぼんやりと窓の外を眺めると、雷が私を急かすように走る。遠くから響く雷の轟音に私は背中を叩かれているような気がしてならなかった。
 身支度を済ませ、お気に入りの傘をさして、私は部屋を後にした。
 電車でいけば近衛湖まではそう遠くはない。しかし、私は特に急いでいるわけでもなかったので、ぼんやりと雨に煙る町を歩いた。途中、疎水を通ったけれど、迷子の竜を見つけたりはしなかった。
 頭上には分厚い雲が覆いかぶさるようにして浮かんでいて、いつ雷が落ちてくるとも知れず、気が気ではない。竜が雷と共に地上へ来るというのなら、竜の親が子供を迎えに来たなら、私は間違いなく死ぬだろう。
 湖へ近づいていくにつれ、腕や足の表面をせわしくなく痣が泳ぎ回った。痛みはないが、むずむずと痒い。
 湖畔にたどり着くと、件の女性が波打ち際に立ち、小さな傘をさしていた。私を見つけると、彼女はこっちへいらっしゃいと手招いた。
「具合は如何?」
「なんだか体中がむず痒いです」
「興奮しているのです。大丈夫。すぐに終わります」
「死ぬのは御免ですが、手放すとなると惜しい気がします」
「本来、この子たちは人とは交わらないのです。忘れた方が互いの為なのですよ」
 彼女はどこか寂しげにそういうと、水の中へ一歩踏み出した。しかし、彼女の体は水に沈むことなく、水面の上を静かに歩いてゆく。私は驚いて息をするのも忘れた。
「さぁ、湖の中へ」
 彼女の後に続いた私は水の上を歩ける筈もなく、凍えるような水の中へとざぶざぶと突き進む。あまりの冷たさに思わず呻いた。
「どうして貴方だけが水の上を歩けるのですか。納得がいかない」
「さあ、どうしてでしょうね」
 答えをはぐらかす彼女に怒りを覚えながら、寒さを堪えて奥歯をかみしめた。
 不意に、頭上で腹に響くような雷鳴が唸り始めたので、思わず歩みが止まる。見上げると巨大な黒雲がもくもくと湧き上がるのが見えた。
「雷が落ちてきたら、自分は間違いなく死にます」
「落ちはしません。母親が我が子の帰りを待っているのです」
 さぁ、進んで、と彼女は容赦がない。
 そうして胸の辺りまで進むと、痣が右手の指先でぐるぐると回り始めた。指先が次第に燃えるように熱くなってゆく。
「手を空へ掲げてください」
「それだけですか?」
「それだけです。水の中からは空へ昇れません。さぁ、手を」
 一瞬、寂しさを感じたけれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。
 私が右手を空へ掲げた瞬間、目の前が真っ白になった。
 なにもかもが白い光に呑みこまれたようだった。
 雷が落ちたのではない。雷が、昇っていった。
 指先から、熱さが放たれるようにして消え、遅れてやってきた轟音が私の全身を叩きのめした。意識が遠のき、私は膝から水中へと没した。

   ○
 気が付くと、私は納涼床でだらしなく横になっていた。よほど長い時間が経ったのか、頬にはくっきりと畳の目がはりついている。空を仰ぐと、雲ひとつない青空が広がっていた。
 右手を見ると、手首から手の甲へかけて赤く蚯蚓腫れように、酷く腫れ上がっていた。不思議と痛みはなく、その巻きつくような姿が、あの楽しげに泳ぎ回る痣のことを思い出させて、少し胸が痛んだ。
「目が覚めましたか」
 振り返ると、湖面を歩いていた彼女が木柵に腰かけて涼んでいた。こんな時期に納涼床を出しているような店があるとは珍しい。
「ここは私の知り合いの店です。どこか痛む場所はありませんか?」
 私は彼女に腫れ上がった右手を見せた。
「痣になって残るでしょうね」
「構いません。良い置き土産になりました」
「美しい光景でした。あなたの指先から一筋の雷が、空へと疾っていく様はとても美しかった」
「おかげで死ぬような思いをしました」
 彼女はくすくすと微笑し、懐から実に高そうな葉巻を取り出した。
「お祝いです。味わいましょう」
「自分は未成年ですが」
「祝杯にしましょうか? あなたが私と競えるほど呑めるのなら」
 私は苦笑して、葉巻を受け取って口に咥え、火をつけてもらった。
「煙を肺に入れてはいけませんよ。咳き込んでしまいますからね」
 煙を吸い込むと、甘く痺れるような味がした。舌先が痺れる。
「美味しいでしょう?」
 私は正直に感想をいうことにした。
「雷のような味がします」
 彼女は吹き出しそうになり、それから声をあげて楽しげに笑った。

紺碧の空、遠く山々の彼方に遠のいていく雷雲が見えた。
低く、腹の底に響くような遠雷に耳を澄ませた。

              ー竜雷時雨ー完

自殺団地

 新年を迎えた私に押し付けられたのは、とある公営団地の後処理だった。
 美嚢の県営団地は高度経済成長期には二千五百世帯が暮らし、市の財政の殆どを担っていたが、石炭の需要が減り始めると住民の流出が始まり、世帯数は減少し続け、鉱山の閉山と共に殆どの住民が越していったのだ。
 しかし、中には引っ越す先のない人々もおり、現在もまだ二十世帯程度の入居者が残っている。取り壊すべきだという声もあったのだが、仮にもまだ入居者が残っていることが問題視された。しかし、それ以上に問題だったのは、それだけの規模を取り壊す費用の方だ。再開発の目処はたたず、おそらくはこれからも同じだろう。
 現在、美嚢団地は殆ど無人といっていい有様で、廃墟同然である。道路は罅割れ、公園の遊具は錆びて朽ち果てている。美嚢団地は人々の記憶からも忘れ去られつつあった。
 しかし、数年前から美嚢の県営団地の名は、人々によく知られるようになった。
 飛び降り自殺する者が続出したのだ。
 十年間に七名。
 自殺した七名のうち、二人はその部屋の入居者だったが、残りの自殺者は入居者ではなく、自殺の噂を聞いて肝試しにやってきた他県の若者たちだ。県は入居者が立て続けに飛び降り自殺をした直後、すぐに件の部屋に入居できないようにした。県営団地の抽選を行っても該当者はなし、ということだ。鍵もかけ、部屋は封鎖された。
 しかし、噂を聞きつけた者が部屋へやってきて、施錠されて誰も立ち入れないはずの部屋のベランダから飛び降りる。何度対策を講じてみても、一向に高価はなかった。すぐにこの物件は『曰くつき』という扱いとなった。
 不動産や住宅関係の業界ではこういうことは珍しくない。そうした話題の宝庫といってもよかった。首を吊った霊が視える、畳の下から爪でひっかく音がする、など枚挙に暇がない。私もそういう物件を何度も担当したが、慣れそうにない。
 今回の件は今までとは違う。
 上司から特別に『改修補正予算』という項目で大金を与えられた。その額はそれなりのもので流石に驚いた。
 要は、金なら積んでやるからどうにかしろ、ということらしかった。
 私は以前、とある物件で知り合った人間に連絡を取ることにした。
 予算がおりたのは非常に好都合だ。今回は自腹を切らずに済む。

   ○
 待ち合わせは、とある骨董店で行う。
 その骨董店もいわゆる曰くつきで、私はなるべく足を伸ばさないようにしているのだが、なんだかんだと言って何度もここへ足を運んでいる。そもそも彼と知り合ったのもこの店からの縁だ。蛇の道は蛇とはよく言ったものだ。 
 その日は曇天で今にも雨が降り出しそうな空模様だった。私は約束の時間より少し早く、件の骨董店へ向かった。路地裏を何度も迷いながら、私はようやく店の前に立った。
 店には看板のような類はなく、ただ曇りガラスの戸にえらく達筆な毛筆で『夜行堂』とある。一見してなんの店か判然としないが、ともかく戸をあけて中へ入る。もうすぐ雨が降り出しそうだ。
 店内は相も変わらず薄暗く、照明の類は天井から吊るされた裸電球だけ。酷く寒々しい店内には乱雑に物品が置かれている。どれもこれも怪しげで、皆目なんに使うのか分からないが、それらには値札らしきものはつけられていない。
 店の奥、帳場に腰かけて水煙草を吸っている女が私を見て目を細める。
「久しい顔じゃないか。また何か困りごとかな」
 女は楽しげに言って、肩にかけたカーディガンを揺らした。
 彼女がこの店の店主だが、一癖も二癖もある人間で私はあまり得意ではない。いつも人を食ったような顔をして、見透かしたように人を煙に巻くのだ。
「君のようにここへ何度も訪れる者も珍しい。どうだ。なにかひとつくらい見繕ってみないか? 御代はいらない。君は引く手数多だからな」
 彼女の言葉はあながち間違っていない。こうしている間にも、私の背後から服の裾や後ろ髪をついついと抓んでくる何かがいるのだ。無論、振り返ってもなにもいない。しん、と静まり返っている。
「彼の手助けが欲しいのですが、連絡を取ってくれませんか」
「本来、私は人と物の縁を繋ぐのが仕事なのだけどね。しかし、運がいい。彼ならもう間もなく来る頃合いだ。一仕事終わったという話だから都合もいいだろう」
 言うやいなや、ガラス戸が開いて若い男が入ってくる。短く髪を刈り上げた背の高い男で、長袖のセーターを着ているが、右腕がないので袖だけ頼りなく揺れている。
「なんだ。大野木さんも来てたのか」
 私に一瞥し、彼は夜行堂の主人になにかを手渡した。風呂敷に包まれた小さな箱のようなものだったが、私は詮索しない。
「仕事が早くて助かるよ。どうだったね?」
「しばらく魚は見たくもないな。危うく溺れかけた」
 疲労困憊といった様子で彼はため息をついて、それから私を胡乱気に見た。
「それで今日はなんの用? 俺に用事があるんだろ?」
 私は彼に事情を説明した。話が進んでいくにつれ、彼の顔色は芳しくなくなり、次第に唸るような顔になった。
「余所に頼んでくれ。俺はやらない」
「予算も潤沢です。言い値で構いません」
「そういう問題じゃない。そういうのは扱わないことにしているんだ。何度も言うけど、俺はお祓いの類は出来ないんだよ。口寄せ屋の出来損ないみたいなもんだ。そういうのは本職に頼ってくれ」
「しかし、君の仕事ぶりは我々の間でも有名です。腕に問題はない筈」
「大野木さん。勘違いされたままだと困るんだよ。俺は視たり、触れたりすることは出来る。確かにそのへんの連中よりも深く視ることは出来るけど、それだけだ。素人に毛が生えたようなものなんだよ。だから引き際だけは絶対に間違えられない。逃げだせないと気付いてからじゃ遅いんだ。あの団地はよくない。俺の手には負えないよ」
 悪いけど他を当たってくれ、と彼は言って、感覚だけが残っているという失った右腕の袖を振った。
「俺もあそこには何度か近くを通ったことがあるけど、あれは駄目だ。とてもじゃないけど手に負えない。火傷程度で済むのなら、俺も仕事だから文句は言わないけど、あの団地はそんな生易しいものじゃない」
 だから無理だよ、と彼は頑なだった。
 彼だけではない。私の知る誰もが美嚢団地に関わることを極端に嫌がった。霊感などない私にはまるで分からないが、彼らはあの団地に近づこうとさえしない。
「いいじゃないか。引き受けるべきだ」
「あんたは黙っていてくれ」
 夜行堂の女主人は楽しくて仕方がないといった様子で、ぷかぷかと水煙草の煙を虚空に噴いている。甘い香りが否応なしに肺の中に入っていて思わず顔をしかめた。
「なら、こうしよう。件の部屋で曰くつきの物が見つけられる筈だ。それを回収してくることに成功したら、前回の借りはなかったことにしようじゃないか」
 彼は唸るような顔をして、女主人を睨みつける。
「あんた、まさかそいつが元凶じゃないだろうな」
「まさか。あれは今回の件とは無関係だ。なにしろ、あれはまだあの部屋にはない。どうするね? 借りを返しておいた方がよくはないか? それとも違う機会に返してもらおうか」
「冗談じゃない。近い分だけまだマシだ。引き受けるよ。もちろん謝礼はもらうからな。大野木さん、さっそく出かけようか」
「これからですか」
「犠牲者が増えるのは困るだろう。それに夜の美嚢団地に行くのだけは避けたい」
 絶対に無理だ、と断言する。
「わかりました。すぐに車を回します。なにか必要なものはありますか?」
「何もいらないよ。いや、運動靴に履き替えてくれ」
「運動靴?」
 そうだよ、と彼は言いながら欠伸を噛み殺す。
「革靴じゃ逃げきれない。いざという時は置いていくぜ」
 そんなことを言った。

   ○
 美嚢団地は私が想像していた以上に荒れ果てていた。荒廃、という言葉はまさにこの状況を表すための言葉だった。
 道路のアスファルトは罅割れ、あちこちの亀裂から草が生えてしまっている。信号機は赤く点滅を繰り返し、街灯は折れて朽ち果てているものまである。道路を左右から押し潰すようにそびえたつ団地棟は長年の風雨によって変色し、無残な有様になっていた。ベランダの窓ガラスは悉く割れ、とても人が住める環境ではない。
 時折、塗り固めたような暗い部屋の奥から視線を感じたが、気にしてはいけない。
 私はゆっくりと車を走らせながら、件の部屋のある第三十七棟へ向かう。
 助手席に座る彼は目を閉じて、なにも言わない。車に乗り込むなり、眠ってしまった。よほど疲れているのか、まるで死んでいるような深い眠りだった。
 第三十七棟の駐車場へ車を止め、彼を起こす。
「着きました」
「ん、ああ、はい。さて、行きますかね」
 助手席を降りた彼にならい、私も後に続く。
「ついて来なくてもいいですよ」
「いえ、自分も行きます」
 責任感などではなく、こんな場所に一人で置いていかれる方が危険だ。実際、前にそれで私は死にかけたことがある。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
 彼はなにも持たず、片袖をぶらぶらさせながら入口へ向かう。その後に続きながら、なるべく周囲を見ないように専念した。余計なものは視ない。
 罅割れたコンクリートの階段を登る。エレベーターもあるが、こういう時には使用を避ける方が賢明だ。
「大野木さん」
「はい」
「前に組んでた綺麗な女の人はどうしたんですか? 柊さんでしたっけ」
「彼女は旅に出ています」
「旅ですか」
「はい。旅です。暫くは帰ってこないかと」
「それじゃあ、音信不通ですか」
「いえ。たまに絵葉書が届きます。先日は竜を宿した若者と酒を呑んだとか」
「なんですか、それ」
「そういう類の話ばかり届きます。楽しそうでなによりですが」
「俺も旅とかしてみたいですね。仕事とか抜きで。温泉とかいいな」
「温泉ですか。いいですね」
「どっか良いところあります?」
「大分県の別府温泉がいいですね。あと熊本県の黒川温泉など。草津もよいですね」
「さすが詳しいですね」
 無駄話のように聞こえるが、私は彼が無駄話をしない人間だと知っている。こういう話をするのは決まって、こういう状況の時ばかりだ。意識を話題に向けることで、私があれらを視なくともよいようにしているのだ。
 柊さんや、彼と仕事をするようになり、分かってきたことがある。
 霊や怪異というのは電磁波のような、そういうものに似た性質があるらしい。例えるのならラジオだ。誰にでも電磁波を捉えるチューナーを持っている。だが、それは個人によって受信できる範囲が異なっているのだが、彼らはそういう範囲が通常よりも広いのでそれらを捉えることが出来る。そして、こういう場所に来ると私のような者も受信できる範囲が広くなるのだ。
 そして、こちらが視えるということは、あちらからも視えている。
「ここだ」
不意に、彼の足が止まる。
「鍵がかかっています。少し待ってください。今、出しますから」
 ポケットから鍵を取り出そうとした瞬間、罅割れた音と共に重い金属の扉がひとりでに開いた。思わず背筋が震え、逃げ出したくなる。
「さぁ、行こうか」
 お邪魔します、と小さく告げて彼が中に入る。一瞬、躊躇したが私も彼に続いた。

 部屋は小さなワンルームの間取りの筈だが、薄暗い闇のなかでは部屋はもっと大きく見えた。
 壁紙も畳も真新しいが、室内は禍々しく、脂汗が止まらない。視られている、そう思った。
 襖の隙間、天袋の闇。そこかしこから視線を感じる。
 まるで、ここは誰かの腹のようだ。
 奥の部屋への襖を開ける。ベランダに面した小さな居間。
 不意に立ち止まる。強い潮の香り、いや、これは血の匂いだ。
 窓の向こう、ベランダに何かが立っている。
 ぼさぼさに伸びた髪を顔にかぶった女。骨のように白く乾いた肌が斑に血に染まっている。
 髪の毛の間から覗く、無数の闇が蠢く眼窩が私を視た。どろり、と血の涙が頬を伝う。
 全身が粟立つ。私は絶叫した。
 振り返った彼が瞬きひとつできずに叫び続けている私を、奥の部屋へ突き飛ばした。思わず尻餅をついた私の視界のなかで、あの女が居間に立っているのが視えた。蠢く髪が畳を埋め尽くし、壁を這って天井から垂れ下がっている。
 危険があればすぐに逃げ出すと言った彼は、どういうわけか逃げる素振りすら見せず、視えない右手を伸ばした。空っぽの袖が動いて不可視の腕がはっきりと視えた。
 天井の髪の毛が彼に覆いかぶさるように落ちる。蠢く髪の毛が彼を呑みこんだのを見て、私は恐ろしさのあまり襖を閉じた。部屋の端まで逃げて、ガチガチと噛みあわない歯の根が鳴った。
 悪夢だ。
 固く閉じた襖の隙間から、天井板や壁紙の間から髪の毛が蠢いて出てくる。それらはまるで意識を持ったように蠢き、私を探しているように見えた。
 不意に、右手に誰かが触れる。氷のような感触だった。
 見てはいけない、そう思うよりも早く、私の目がそれを捉える。
 それは首の折れ曲がった幼児だった。
 私は絶叫し、そのまま意識を失った。

 夢を見た。
 眉の付け根に黒子のある若い男。
 怒声。暴力。
 女の髪を掴み、乱暴に壁に叩きつける。
 茶碗が壁にあたり、砕け散った。
 火がついたような子供の泣き声。
 男が立ちあがる。
 子供を乱暴に持ち上げ、ベランダの鍵をあける。
 女の絶叫。気が狂いそうなほどに悲痛な叫び。
 ベランダの向こうに子供が消える。
 女がベランダへ駆け寄る。
 手を伸ばす。
 上下が反転する。
 落ちていく最中、髪の毛の間から男の顔が視える。
 薄い笑み。恐ろしさと愉悦が入り混じったような貌。
 肉がひしゃげる音を、闇のなかに聴いた。


  ○
「大野木さん!」
 気が付くと、私は絶叫していた。咽喉が切れてしまいそうなほど大声で叫び続けていた。
 ぱしん、と強く頬を叩かれて正気に戻る。
 正気に戻った瞬間、その場に嘔吐した。涙が止まらず、何度も胃の中身を吐き戻す。
「大野木さん。とにかく落ち着いて、息を整えるんだ。おかしくなるぞ。アンタはあの母親じゃない。思い出せ」
 そう声をかけてくれた彼は泣きはらした顔をしていた。周囲を見渡すと、芝生の上に横たわっていたらしい。まさかと思って見上げてみると、件のベランダの真下にいるようだった。
「わ、私はあそこから落ちたのですか?」
「飛び降りたんですよ。自分から。まぁ、なんとかなったけど、危うく死ぬところだ」
「夢を見ました。恐ろしい夢を」
「男が子供と女を殺す夢。俺も見ましたよ。たぶん、大野木さんよりも深く視ることができた。酷い気分だ。ああくそ、だから嫌なんだ」
 彼は立ち上がり、まだ膝が震えている私を立たせた。
「帰ろう。まずは準備をしないと」

 帰りの車の中、私は火を灯していない煙草を咥え、あのマンションでの出来事を自分なりに考えていた。
「私は今まであんな経験をしたことはありませんでした。ああしたものを視たことは何度かありましたが、あれほど深い部分まで視ることが出来たのは初めてでした」
「それは相手が見せたかったからだよ。死に際の感情、その瞬間の記憶が強すぎて未だに同じ瞬間を繰り返しているんだ。自縛霊とかいうのかな。だから、あの部屋に来た人間はあの女の感情に呑みこまれて、ベランダから飛ぶ」
「自殺ではなかった。我が子を助けたい一心で、自らバランスを崩してしまった。あれは事故だった。しかし、子供を殺したのはあの男です」
 あの瞬間のことを思い出し、思わず煙草のフィルターを噛み潰した。
「結果、死の間際の感情が強すぎて、あの母親は子供と共に自縛したままだ」
 次々にあのベランダから身を投げた人々は、私と同じように意識のないままベランダから飛んだのだろう。
「大野木さん。ひとつお願いがあるんだけど」
「わかっています。それはこちらで手配しておきますから、明日また同じ時間に迎えに来ます」
「話が早くて助かるよ。名前しか分からないけど大丈夫かな」
「問題ありません。市民課に問い合わせますよ」
 私は淡々と答えながら、アクセルを強く踏み込んだ。

   ○
 翌日、間もなく日も沈もうかという黄昏時に、私と彼は件の団地の一角に車を止め、ある人物がやってくるのを待っていた。
「簡単に身元を調べておきましたが、正真正銘の悪人ですね。あの事件から二十年以上経過していますが、その間に暴行、詐欺、恐喝など諸々な前科があります。現在は県境のアパートでひっそりと生活していますが、周辺住民からの評判は酷いものです」
「県職員って探偵みたいだな。そんなことまで分かるんだ」
「人脈を少し使いました。ここまで本腰を入れて人を探したのは初めてのことです」
「名前だけでも探せるもんだなあ。それで、どうやって呼び出したの?」
「特に何も。電話で『お前の過去を知っている。取引がしたいので妻と子供を殺した場所に来い』とだけ。それだけですよ。叩けば叩くほど埃のでてくる男です」
「そりゃあ、来ないわけにはいかないわな」
 彼は楽しげに笑い、それから遠くから響いてくる車のエンジン音に笑みをいっそう深くした。
 私たちの視線の先、罅割れた駐車場に荒々しく停車する一台のセダン。中から現れたのは白髪交じりの中年で、血走った両目であたりを見渡している。
「あいつ、懐に刃物持ってやがるな」
「よく分かりますね」
 まあね、と彼は告げてから、もしかして、と怪訝そうに呟いた。
 私は彼の携帯電話に電話をかけた。
『来たぞ。顔を見せろ。てめぇ、どういうつもりだ』
「そんな所で話す内容じゃないだろう。件の部屋へ来い。お前と話をつけたいという人がいる。用件は直接、本人から訊けばいい」
 一方的に通話を打ち切り、携帯の電源を落とす。
 男は口汚くなにか罵った後、しばらく辺りを見渡していたが、やがて非常階段へと向かった。頭上の非常灯が激しく明滅する中、男はかつて自分の暮らしていた階へと辿り着いた。
 男が廊下に立った瞬間、件の部屋の扉が勢いよく開いた。そうして、廊下を埋め尽くす波のように押し寄せた髪が男を呑みこみ、凄まじい悲鳴が響き渡った。その悲鳴ごと飲み下すように、男の姿が部屋の中へと消え、ゆっくりと扉が閉まる。不意に悲鳴が途絶え、耳に痛いほどの静寂があたりを包んだ。
 ようやく、家族が揃ったのだ。あの女性と子供も満足に違いない。
 私は煙草を取り出し、一本を彼に渡した。それから先端に火をつけ、煙をたっぷりと肺の中に吸い込んだ。長く細く吐いた紫煙が、たゆたうように夕暮れの空に漂う。
「終わりましたね」
「いや、まだだよ。俺の仕事が残っている」
 ついてくるか、と訊くので、私はもちろんついていくことにした。
 件の部屋はまるで別の部屋のように静かで、もうなにも感じなかった。ベランダの向こうから差し込む西日で部屋の中は眩しいほどだ。もちろんあの男の姿もない。おそらくは彼女たちが連れていったのだろう。
「あった。これだな」
 居間の畳の上、そこには白木の小刀が無造作に転がっていた。
 彼は小刀を取って腰に挟む。
「それはあの男が持っていたものですよね。そんなものをどうするのですか」
「夜行堂に持っていくんだよ。あの女が買い取るさ」
 どんなものかは知らないけどな、と彼は呟いて、踵を返した。
 彼の後に続きながら、なんとなく振り返った。
 あの男が何処に行ったのか、その行方を考えようとしてすぐにやめた。
 どうせ見つかりはしない。
 
 こうして、私の仕事は終わった。
 今のところ、件の部屋への入居希望者はいない。
                        自殺団地—完

猫飢餓渇

 今日一日、一度もキーを叩くことのできなかったパソコンを暗鬱な気分で閉じる。痛む目頭を押さえ、こぼす溜め息は自分でも嫌になるほど重かった。
 作家になるという夢を叶えて、三年。処女作でそれなりに知名度を得たが、それきり小説が書けなくなってしまった。期待に応えたい、そう思えば思うほどに頭の中は強張り、指先は動かなくなった。
 苛立と不安が日々、降り積もっていく。それは私の腹の中身を灼き、じりじりと焦がすようだった。頭を掻き乱しながら立ち上がり、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して煽るようにして飲む。きん、と冷たい喉越しの良い水が乾いた砂に浸透していくようだった。
 流し台に頭を突き出し、残った水を頭からかける。熱のこもったようになっていた頭が、急速に冷えていくのを感じた。
『あなたは人の気持ちがわからないのよ。だから、いつも独りよがりな話ばかり書くんだわ』
 以前交際していた彼女は、私をそういって責めた。夢を追いかけるよりも、堅実に働いて私と家庭を築いて、と。彼女のいい分は至極当たり前のことだ。問題があるとすれば、そうした彼女の言葉に耳を傾けることのできなかった自分にある。
 私が作家になっても、彼女から祝福の言葉はなかった。
 思い出すたびに苦笑してしまう。女性一人、繋ぎ止めておくことのできないなんて、なんて情けないのだろう。彼女が私を責めるたびに、私は彼女との心が離れていくのをどうしようもなく感じていた。
 私はタオルで乱暴に髪を拭くと、テレビをつけて外へ出かける支度を始めた。
『先月より続いている連続婦女暴行殺人事件についての続報です。痛ましいこの事件による被害者の共通点は、全員が若い女性であること。暴行を受けて殺害されているという点です。現場付近の小学校では集団下校を徹底しており、閑静な住宅街は今なお恐怖に苛まれています』
 ジャケットを羽織りながら、ぼんやりと怖いな、と思う。
 不意に携帯電話が鳴った。見ると、担当編集者の名前が点滅している。私はげっそりとした気分になり、電池の切れかけている携帯電話をベッドの上へ放り投げてから部屋を後にした。

  ○
 まだ九月も中旬だというのに、今年は随分と冷え込みが早い。
 私はアイディアに困ると、宛てもなく放浪する癖があった。とりあえず住んでいる場所を離れて、知らない場所を散策する。離れるとはいっても、県外に出るような遠出はせず、電車で一駅、二駅離れたところで降りて、気の向くままに歩き回るだけだ。
 今日は二つ隣の駅で降りて、案内板でなにかめぼしい場所はないか探すことにした。
 屋敷町、という古い武家屋敷が並ぶ町があるという。特にこれといって観光名所でもないようだが、私はそういう場所を散策するのが好きだった。駅からはやや遠いが、今日はそういう日だと割り切って歩いていくことにした。
 一時間程歩いただろうか。まるで眠っているような街だった。活気に満ちているわけでもなければ、寂れてしまっているという風でもない。ただ昔から何も変わっていないような、そういう穏やかな雰囲気をしていた。
 石畳の路地を歩きながら、私はカメラを持ってくるべきだったと後悔した。携帯電話も家に置いてきてしまったし、この町並みを記録に残すことができない。
 仕方ない。こうなったら記憶に残せるだけ残しておこう。そう思い直して、私は気の向くままに屋敷町という古い町並みを歩いた。
 漆喰の塀に囲まれた大きな武家屋敷、杉玉を軒先に吊るした造り酒屋、昭和の香りを思わせる古い駄菓子屋。京都の町並みを思わせる風情に、私はすっかり夢中になってしまった。
 不意に、目の前に黒猫が飛び出してきて、私は思わず凍りついた。
 鍵しっぽの黒い猫。その二つの瞳が、私の顔をじぃと見つめている。
 あの時の猫に、似ているような気がした。あの場所で、あの時の私を視ていた猫に。
 私は堪らなくなり、猫に背を向けて足早にその場を去った。
 私は振り返らなかった。振り返れば、あの猫はまだ私のことを視ている。そんな気がしたからだ。

 気がつくと、近衛湖疎水にまで来ていた。駅でもらった地図で確認してみると、随分と遠くまでやってきたらしい。陽も陰り始めていた。
 戻ろう、そう思った私の視界の先に、一人の若い女が映った。
 びきびき、と乾いた土がひび割れたような音がしたような気がした。なんだか無性に喉が渇く。
 私は静かに女へと近づいていった。カーディガンを羽織り、美しい顔立ちをした女だった。どこか中性的で、私はひび割れる音が頭のなかで大きくなっていくのを感じた。
「こんにちは」
 私が挨拶をすると、彼女は薄く微笑んで会釈した。頷いたようにも見える。
「こちらの方ですか?」
「ああ。君はこのあたりの人間じゃないな」
 まるで男のような話し方をするな、と思ったが、彼女にはそれが何故かひどく相応しいものに感じた。
「宜野座から来ました」
「微妙な距離だな。こんな所になにか用でも?」
「息抜きでふらふらしていました。どうにも行き詰まってしまって」
「君は勤め人じゃないな。自営業かい?」
「まあ、そんなところです」
「そうか。私と同じだな。私は店を開いている。小さな、客もよく来ないつまらない店だ」
 ご謙遜を、と返しながら私は訊ねた。
「なんのお店なんですか?」
「骨董店だ。曰く付きの代物専門のね。夜行堂という」
 夜行堂、と彼女は虚空に字を描いた。
「あの、お店を見せて頂いてもよろしいですか?」
「構わんよ。骨董の趣味があるのかい?」
「興味本位です。なにかネタになるかも知れませんから」
 案内しよう、そう言って歩き出した女の背中を眺めながら、私は乾いた喉を搔き毟った。

 女に導かれるまま、すっかり暗くなった屋敷町を歩いた。
 何かの行事なのか。斜めに切った竹にロウソクを灯したものが、石畳の左右にずらりと並べてある。古い町並みをさらに幻想的に照らし上げていた。
「私の役目は、人と物の縁を繋ぐことだ」
「縁結びの神様のようですね」
「それは当たらずとも、遠からずというところだな。言い得て妙だ。君は文才がある」
「いや、それはどうでしょうか」
「仕事の悩みでもあるのかね」
「ないといえば嘘になりますね。期待をかけられるのは嬉しいのですが、それに応えられるだけのものを私は持ち合せていないのです」
「それはどうだろうか。応えられないのなら、はじめからそういう世界に足を踏み入れたりはしないだろう。君は、ただそれと向き合うことが恐ろしいのだよ」
「それ、とは?」
「本当の自分だ」
 どきり、とした。あたりを見渡しても人影はない。ここはちょうど表通りの裏手に位置する。今、この場には私と彼女しかいない。
「私はね、人と物の縁を視ることができる。人と人の出逢いに縁があるように、人と物の間にもそういう縁がある。しかし、人は大きな勘違いをしている。人が品物を選ぶというが、その実、品物が主を選んでいるんだ」
 やがて、私たちは件の店についた。
 夜行堂という骨董店は私の想像していたものとは、だいぶ違っていた。小洒落た洋風の店を想像していたのだが、実際には古びて寂れた小さな店だった。磨りガラスには紙に炭で『夜行堂』とある。
「さあ、入ってくれ」
 店内は薄暗く、土間の中央に裸電球がひとつ吊るされて、あたりをぼんやりと照らしていた。あちこちに何の用途があるのか、価値があるのかないのか、判然としないものばかりが乱雑に並んでいる。そして、そのどれにも値札が貼られていなかった。
「好きに見て回ってくれて構わない。気に入ったものがあれば言いなさい」
 生憎、私はほとんど現金を持ち合せていなかった。それに、ここへ買い物に来たわけではない。
 女の方を見ると、帳場に座り、俯いた拍子に顔にかかった髪を指で耳にかけている所だった。私はその仕草を見て、交際していた彼女のことを思い出した。耳元で、ばきばきとひび割れていく音が大きくなったような気がした。
 不意に、肩が棚にあたり、何かが足下に落ちた。
 私は慌てて落ちたものを拾おうと手を伸ばそうとして、手が止まった。目を見開く。口の中が乾涸びて、言葉が漏れでてこない。
 それは、私がかつて交際していた彼女にプレゼントした根付だった。着物教室に通い始めた彼女に、私はアンティーク店で購入した、可愛らしい猫をあしらった根付をあげたのだ。
 丸まった猫の根付。これはあの時のものによく似ている。だが、似ているだけだ。あれがここにある筈がない。それに、この根付の猫はあのときのものとは違う。彼女にあげた根付の猫は、目を閉じて眠っていたからだ。
「気に入ったかい?」
 私は慌てて寝付を棚に戻し、首を横に振った。
「いえ。特にこれといったものはありませんでした」
 動悸が激しい。胸の奥に、どろりとした灼けるような痛みを感じた。あの時もこんな気持ちになった。大地が乾いてひび割れていく音が、もうどうしようもなく頭の中で響いていた。
 私は女のもとへ近づいていった。もう限界だった。罅割れていく音はもう、私の体全身を覆わんばかりに大きくなり、目の前がひび割れていくようだった。私は棚に飾られた鉄の火掻き棒を掴んだ。
 無言のまま女の背後に近づき、私は火掻き棒を振り上げた。
 私は、喉が乾いて死にそうだった。

   ○
 女の死体は、店の近くの柔らかい土を掘って埋めた。
 彼女を殺して埋めたときよりも、ずっと上手くできた。
 あの名前も知らない女たちのように、道端に放置していてもよかったのだが、この女は彼女のようにきちんと土の中で眠らせてあげたかった。なぜなら、彼女たちは私の乾きを癒してくれた。
 土を被せ終わると、私は手を洗ってから店を出た。
 電車に乗り、自宅へ戻ると泥のようになって眠った。
 もう耳元で、あの罅割れていく音はしなくなっていた。

 真夜中、目を覚まして机に向かう。PCを開いてキーボードを叩くと、今朝までの不調が嘘のようにアイディアが浮かんだ。今回はサスペンスにしよう。男と女の愛憎劇だ。心の乾きに苛まれる男が、女を殺すことで潤いを取り戻す。そういう話にしよう。
 面白いように執筆は進む。まるで、今まで停滞していたものが、一度に流れ出ていくように。
 突然、耳元で電話の着信音が鳴り響いた。
 驚いて身を起こすと、携帯電話がけたたましく鳴り響いている。
 画面には、最初に殺して埋めた彼女の名前が表示されていた。背筋が凍り付く。
 ボタンも押していないのに、通話が始まる。
 恐る恐る、電話を耳にあてると、電話の向こうで女がくっくっと笑っていた。聞き覚えのある声だった。
『何も言わずに帰るものだから、驚いたよ』
 あの骨董店の、夜行堂の女主人の声だった。私が殺し、土に埋めた女の声だ。
『君の右ポケットに入っているものを、よく見てみたまえ』
 右のポケットの中に、何かがある。取り出してみると、それはあの猫の根付だった。あの時、私は確かに棚の上に戻した筈だ。
「あ、あなたは美樹の知り合いですか」
『そうか。美樹というのか。その根付けの主だった女性の名は。私は彼女のことは何も知らない。名前も、顔も、どうやって殺されたのかも。ただ、一つだけ言えるのは、その猫はこの日の為にうちの店にやってきたということだ』
 言ったろう、と女は囁くように言った。
『人が物を選ぶのではない。物が己の主を選ぶのだ、と』
 ぶつり、と電話が切れる。慌ててリダイヤルしようとして、そもそも携帯電話の電池が切れていることに気がついた。
「は、はは、ははは! あははは!」
 思わず笑いがこみ上げて来た。いつからだ。私はいつから、この迷路のような闇に囚われてしまったのだろう。
 暗闇の中、ごそり、と背後で大きな物音がした。獣のうなり声が、私の背筋を凍り付かせる。
 自分の手さえ見えない闇の中で、巨大な異形が頭を起こすのが視えたような気がした。
 ああ、あの猫だ。
 あの雨の夜、美樹を殺し、埋めるところを視ていた黒猫だ。そうか。あの猫は、あの根付の猫だったのか。あの猫は、自分の主人が殺され、埋められるところを視ていたのだ。
 どうして気づかなかったのだろう。
 闇に浮かぶ、黄色い二つの眼。その細い細い瞳が、私を視ていた。
 闇が口を開いた。
 もう、罅割れる音は聞こえない。

   ○
 物音がして、玄関の戸をあけて誰かが男の部屋へやってきた。
 靴も脱がず、フリーリングの床を踏む足音。
 リビングの戸を開けると、やってきた彼は目の前の惨状に眉を潜めた。
 彼の目の前には、首から上のない男の死体が無造作に転がっている。ベッドの上は勿論、壁から天井に至るまで、あちこちに飛び散った血飛沫。
 彼はあたりを見渡し、それから足下に落ちているものを見つけて溜め息をついた。
 右腕がないので、左手で器用に床に落ちている根付を拾い上げると、無造作にポケットにしまった。
 満足げに目を閉じた猫の根付け。
 彼はそれからあたりを見渡して何かを探そうとしたが、すぐにやめて部屋を後にした。

 その後、通報を受けてやってきた警察が、いくら現場を探してもそれを見つけることは出来なかった。
 被害者の遺体には、首から上がついていなかったのだ。 

                                        猫飢餓渇ー完                                 

仇暮討士

 姉のいる座敷に近づく時には、必ず白い狗の面をつけなければいけない。
 それは私が物心ついた時から、亡き母に厳しく言い付けられていたことだ。
 面は紙製の鼻の尖った狗で、どことなく狐のようにも見えなくもない。口の部分が僅かに開いていて、そこから鋭い犬歯が覗く。古く、もう十年以上この面を使ってきた。
 面を被ると、視界が急に狭く、息苦しくなる。自分の息が顔に当たって不快だ。
 薄暗く長い廊下を照らす裸電球が揺れて、障子に映った影が上下に伸びる。古い日本家屋は隙間風が酷くて、まるで外にいるみたいに寒かった。今日はストーブを焚いたまま寝たほうがよさそうだ。
 盆の上には姉の夕食が並んでいる。麦飯、アジの干物、納豆、ほうれん草のおひたし、大根と椎茸の味噌汁。和食ばかりで申し訳ないが、弟ばかりを炊事場に立たせるほうが悪い。母が生きていた頃は、もっと華やかだったような気もする。
 姉の座敷は廊下の一番奥にある。以前は離れで寝起きしていたが、母も亡くなったので、私は姉を母屋へと呼び寄せた。姉が不憫だったからというのもあるが、それ以上に食事のたびに中庭を抜けて離れへ向かうのが面倒だった。
「姉ちゃん。入るよ」
 障子越しに声をかけても返事はない。
 少し間をおいて、私は片手で障子を開いた。八畳の和室。床の間には気味の悪い日本人形が並び、桐の箪笥と火鉢の他には布団しかない。
 布団がこんもりと盛り上がり、姉はその中で膝を抱えているらしい。
「姉さん。夕飯、持ってきたよ」
 一瞬の間。
「ありがとう」
「具合はどう? 熱は?」
「だいじょうぶ。平気」
「灯りくらいつけろよ。気分まで暗くなるぞ」
「そうね。ごめんなさい」
「じゃあ、部屋に戻るから。なにかあったら教えてな」
「ありがとう。いつもごめんね、藤四郎」
「夕飯、残すなよ。たくさん食べないといつまで経っても元気になれないぞ」
 盆を置いて、立ち上がろうとした時、姉の手が服の裾を掴んだ。
 真っ白い、まるで骸骨のように細く白い腕。思いきり掴んだら、折り砕いてしまいそうだ。
「今日、誰かきた?」
「いいや。誰も来ないよ。ずっと人なんか来てない」
 そう、と姉は消え入るようにつぶやいて、服の裾を手放した。
 姉が来客を気にするなんて今までなかったことだ。そもそも姉宛に人がやってきたことなど覚えていられないくらい昔の話だ。
「お面、もう取っていいのよ」
 わかっているよ、と答えて私は座敷を後にした。
 中庭へ目をやると、曇天の下、雪片がはらはらと舞い始めている。今日はとりわけ寒い夜になりそうだ。
 不意に、玄関で呼び鈴が鳴り、思わず飛び上がりそうになった。来客なんて母の通夜のとき以来じゃないだろうか。
 慌てて玄関へ向かいながら面を戸棚の上に置く。玄関の磨りガラスの向こうに長身の人影が見えた。
「はい。どちら様?」

   ⚪︎
 その屋敷は驚くほど深い山の中にあった。
 あちらこちらで人に道を訪ね歩いて、ようやくたどり着いた屋敷は想像していたよりも遥かに大きく、思わず狐に抓まれたんじゃなかろうかと疑うほどだった。
「驚いたな。本当にあった」
 古い武家屋敷といった風情の屋敷を囲うように、椿の生垣がぐるりと立ち、庭には厩戸と土蔵まである。流石に馬はもういないようだが、こんな山奥にあるには不自然な屋敷だ。
 表札には「帯刀」とある。
 門を潜り、玄関の呼び鈴を鳴らすと、磨りガラスの向こうで勢い良くやってくる足音がした。
「はい。どちら様?」
 鍵を開けないままで尋ねる声の主は若い。いや、まだ幼いといってもいいような声だった。
「ええと、こちらに帯刀咲耶さんはいらっしゃいますか?」
 声の主はしばらく無言だったが、鍵を外して戸を開けた。
 迎え入れてくれた少年はまだ十代の半ばぐらい。精悍な顔つきをした少年だった。歳の割に背が高く、自分とあまり変わらないくらいだ。
「どなたですか?」
 挑むように言うので、思わず苦笑した。
 とりあえず名乗り、それから一枚の葉書を取り出す。消印どころか切手も貼られていないのに、どういうわけか自宅の机に置かれていた葉書。
「君の姉上から手紙が届いた。それで遠路はるばる来たんだよ。とりあえず中に入れてくれない? 寒さと空腹で死にそうだ」
 少年は葉書の裏を食い入るように見てから、本当に渋々といった様子で「あがってください」と言った。
 屋敷の中は恐ろしく広く、およそ一家族で住まうには大きい。築年数は百年をゆうに超えているだろう。少年は私を先導しながら、私に注意を向けた。
「ご両親は出かけているのかい?」
「父は生まれつきいません。母は半年前に死にました。今は姉と二人で暮らしています」
「こんな山奥で? たった二人で生活しているのか」
「ええ」
 憤慨させてしまったようなので、素直に謝る。
「いや、気分を悪くさせたのならすまない。不便だろうと思ってね」
「不便ですよ。買い物するのも里まで降りていかなきゃいけないし。面倒だから野菜は畑で作ってますし、知り合いの猟師の人が肉を分けてくれたりして凌いでます」
「すごいな」
 話している内にひときわ大きな座敷に通された。座布団が二つ、無造作に転がっているのを少年が拾い集め、どうぞと差し出す。
「帯刀藤四郎です。俺、大人の人の対応とかよくわからないんで、無礼なところは許してください。あの、お茶とかいりますか?」
「いや、お気遣いなく。藤四郎くんは幾つ?」
「呼び捨てでいいです。それよりも、姉の手紙の件で話がしたいんですが」
「咲耶さんに会わせて欲しい。この葉書は俺の家の机のうえで見つけたものだ。消印も切手もない。ここの住所と君を連れ出して欲しいという旨の内容だけで、電話番号も何もない。ここまで来るのに随分苦労した」
「姉ちゃんがなにを思ってそういう葉書を出したのか分からないですけど、俺はこの家を出るつもりはないです。そもそも姉ちゃんを置いていける筈がないし、ここは俺の生まれ育った家です」
「ああ。だから、咲耶さんにこの手紙の意図を聞きたい」
「姉ちゃんには会えませんよ。家の者以外の人間とは会いません」
「それはどうして?」
「病気なんだと思います。昔からずっと座敷から出られないんです。だから食事も俺が作ってます。でも、どうやって手紙なんか出したんだろう。ポストなんか里まで降りないとないのに」
「なんとか話だけでもできないかな。俺も仕事だと思ったからここまで来たんだ。このままだと無駄骨になっちまうよ」
「仕事?」
「ああ。そのなんて言えばいいのかな。俺はその困った人を助ける仕事をしていて。そういう仕事の依頼なのかと思ったんだよ。手紙で依頼を受けること」
「なんだかよく分からないですけど、とりあえず姉ちゃんに話を聞いてきます」
「そうしてくれると助かる」
「寛いでてください。あ、上着かけますよ。コートください」
「ありがとう」
 片手で服を脱いだ私を見て、藤四郎が目を丸くした。
「右腕がない」
「ん? ああ、驚かせたかな。事故で亡くしたんだ」
「痛くないですか?」
「ああ。痛くないよ。まあ、これのおかげでこういう仕事をする羽目になったんだけどな」
 藤四郎は不思議そうな顔をして、それから座敷を出て行った。
 座敷には殆ど調度品と呼べるものがない。小さな桐箪笥の上に写真立てがある。家族で撮ったものらしい。
 不意に、電球が明滅を繰り返す。
 右手を掴まれた。
 肘から先のない右腕。その腕に触れる感覚がある。人間の手が手首をしっかりと握っている。
 五年前、事故で右腕を失ってから私は視えないものを、この右腕で知覚できるようになった。
 今は、そういうものを深く視ることができる。
 あの骨董店の女主人は、私のことを「末期患者」と呼んだ。
 振り返ると、そこには写真立てに写っていた母親らしき女性と、その一人娘らしい少女が悲しそうに立ち尽くしていた。
「そういうことか」

  ⚪︎
「おかしいな。どこ置いたっけ?」
 白い狗の面が見つからない。あの男が来た時、戸棚の上に置いた筈なのに。
 あの右腕のない人は、初対面だが嘘をついているようには見えなかった。そういう匂いはしなかった。
 それよりも不思議なのは、姉がどうやってあの人に葉書を送ったのかということだ。姉はあの座敷から出られないし、そもそも俺は葉書の出し方さえ知らない。
「きゃああああああああああああああ!」
 廊下の先で、姉の悲鳴が響きわたった。
 面のことなど忘れて駆け出す。思えば、母の言いつけを破ったのは、これが初めてのことだ。いや、母はそんなことを私に命じただろうか。そもそも、あの面は誰がくれたのだろう。
「姉ちゃん!」
 障子を開けた瞬間、絶句した。
 荒れ果てた座敷。壁から天井まで飛び散った赤黒い血の跡。四本の爪が壁も畳も切り裂いて、座敷の中は血の匂いに充ち満ちていた。
「あ、あああ」
 布団。姉がいつも寝息を立てていた布団が、血の海に沈んでいる。でも、肝心の姉の姿はどこにもない。まるで獣に食い尽くされてしまったみたいに。
「うああああ、うわあああああああ!」
 一瞬、目の前が暗転する。
 目を開けると、そこには荒れ果てた座敷。先ほどとは違うのは、血は赤黒く変色して、埃だらけになっていて、あちこちに蜘蛛が巣を作っている。
 まるで、もう何年も経ったみたいに。
 背後、廊下に何かがいる。
 ヒヒヒヒ、と嗤うなにか。
 振り返る。
 透けた障子の向こうを埋め尽くすような巨躯。巨大な狒々。その瞳が嗤っている。
 見つけた、とでもいうように。それは嫌らしく嗤ったのだ。
 その瞬間、俺は全てを思い出し、牙を剥いて狒々へと襲いかかった。

 あの日、姉を食った化け物。
 その喉元に、今度こそ喰らいつく為に。 

   ⚪︎
 とつもない物音に思わず身を竦ませる。
 廊下に飛び出すと、巨大な狒々が障子も雨戸も吹き飛ばしながら暴れ狂っていた。その喉元に食らいつく大きな白い犬。雷鳴のような唸り声をあげ、狒々の首を噛み千切ろうとしている。
 狒々も犬を引き離そうとするが、喉元に深く喰らいついた牙は緩まない。
 まるで熊のように巨大な狒々が手足を振り回して暴れている。毛並みは針金のように硬く黒い。あれがこの家を滅ぼした化け物。
 二匹は絡み合うように転がり、中庭へ飛び出した。
 靴も履かずに中庭へ飛び出した時、深々と刺さった牙が狒々の首を噛み折った。
 巨大な狒々の体が痙攣し、やがてそれは動かなくなった。血の塊を吐き、首が捻れるようにぶら下がる。
 立派な体躯をした白い犬が、まっすぐに狒々の頭を見ていた。
 目の前の光景に、言葉が出てこない。
 狒々の首が、落ちて転がる。
「藤四郎」
 名を呼んでやると、白い犬は思い出しようにこちらを見た。
 写真立てに写っていたのは母親と娘。二人に寄り添う一匹の犬の姿だった。
「お前、自分が死んだことも忘れてずっとこの家を護ってたのか。律儀な奴だな。さっさと成仏すればよかったのに」
 私がここへ呼ばれたのは、あの狒々への餌だったのだろう。あの狒々を討つまで、この忠義者はこの屋敷から離れられなかったのだ。
 藤四郎は狒々から離れ、私の目の前で止まった。
「お前、あの娘さんと本当の姉弟みたいに育ったんだな。だから死んでも姉の仇を討ちたかったのか。ありがとうな。おかげで俺も助かったよ」
 藤四郎の姿が溶けるようにして歪む。
 からん、と足元に転がる白い狗の面。拾い上げ、屋敷を見ると、屋敷の姿は無残なものに変わり果てていた。ここにあるのは朽ち果て、今にも崩れ落ちそうな廃屋だ。まるで止まっていた時間が急に流れ始めたみたいに。
 面を拾い上げ、空を見上げると、群青色の空から降りしきる雪が強くなったような気がした。
「はあ。いいように利用されたな。せめて一泊したかった」
 立ち上がり、白い息をひとつ吐いて、私は山を降りることにした。
 
 
                                        ––完––

夜師葬送

 山の稜線に陽が沈む頃、ようやく私は目的の駅へと辿り着いた。
 木製の古い駅舎は無人駅らしく、改札はおろか駅前にすら人影ひとつ見当たらなかった。
 バス停の時刻表を見てみると、一日にたった二便しか運行していないらしく、すでに運行時間を終えてしまっている。どうやら目的地まで徒歩で向かうしかないらしい。
 ここで立ち止まっていても仕方がない。
 私は鞄を手に取り、電灯を灯し始めた駅舎をひとり後にした。
 未舗装の畦道。左右には棚田が広がり、水の張られた稲田が緋色の空を写している。鈴虫や蛙の鳴き声に背中を押され、私は畦道を歩き続けた。畑の縁にはまだ七月の初めだというのに、色鮮やかな彼岸花が狂い咲いている。
 彼岸花の季節は、秋口。本来なら彼岸の季節に咲く花だ。田んぼの傍に植えてあるのは、彼岸花の毒がモグラを退けるからだろう。毒があり、かつては土葬する際に墓の側に植えられた。
 彼岸花に彩られた畦道をひとり歩きながら、故人に想いを寄せる。

 帯刀老、と呼ばれた彼は県北部の山岳地帯に広大な土地を持つ資産家で、高利貸し、骨董蒐集家、歌人としても知られていた。所有する山の幾つかに歴史的価値のある史跡があり、私はその対応をする上で彼と縁を得た。
 はじめて出会った時、帯刀老は既に米寿を超えていたが、恐ろしい人だと思った。
『君は県庁に勤める役人でありながら、随分ときな臭い仕事をさせられているそうですね』
 大野木くん、と私が名乗る前に名前を言い当てた。
 帯刀老はいかにも好々爺といった風で笑顔を浮かべてはいたが、私には彼の心中を推し量ることができなかった。白髪に着物を着込んだ、眼鏡をかけた老紳士はこちらの胸の内を見透かすように私を見た。
『年寄りの妄言だと受け取ってもらっても構いませんが、あの骨董店の主人とはあまり付き合いをしない方がいい。あれは好んで人に害をもたらすものではないが、不吉なものであることに変わりはない』
 私は仕事の関係上、少し特殊な人物と知り合う機会が多い。そして、そうした人物の力を借りなければ解決できない事案が非常に多いのだ。
『闇を覗き見ないことです。君が思っているよりも遥かに、君はこちら側に立っている』

 それから幾度となく彼には助けられた。共に酒を酌み交わしたこともある。極度の人間嫌いだというが、私のような堅物にとても良くして下さった。彼の心中を推し量ることはできないが、少なくとも私は彼のことを敬愛していた。
 訃報を受けた時、流石に動揺した。もとより高齢だということは重々承知していたし、肺を患っているということも知らされていた。それでもやはり、訃報を聞いた時には言葉を失わずにはいられなかった。
 訃報を報せてくれた柊さんは、必ず通夜に参加するようにと厳命した。
 帯刀老を『先生』と呼び親しんでいた柊さんも当然出席するのだろう、と思っていたが、柊さんはきっぱりと出席しないのだと言った。
『私は招かれていないので、足を運ぶことは出来ません。変わりに貴方が先生を弔ってあげて下さい。正直、あの先生が人を葬儀に招くとは思っていませんでした。貴方は余程、先生に好かれていたのですね』
 口惜しい、と柊さんは私のことをからかった。

   ◯
 山の稜線に陽が沈むと、群青色の空は瞬く間に漆黒の闇に変わった。
 緩やかな畦道を登りきると、小高い山の麓に裾を伸ばすように広大な屋敷が見えた。軒先に吊るされた提灯の明かりが、夜の闇の中に滲むように浮かび上がっている。
 私は小走りで畦道を駆け下りながら、門の前に一人の女性が立っていることに気がついた。黒紋付に身を包んだその女性を私はよく知っている。
「葛葉さん。この度はご愁傷様でした」
「遠路遥々、有り難うございます。旦那様も草葉の陰で泣いて喜んでいらっしゃるでしょう」
 ハンカチで目元を拭う彼女は長年、帯刀さんの身の回りの世話をしていた女性で、歳は私とそれほど変わらないというのにとても聡明で美しかった。他の奉公人たちと違い、彼女は来客の対応を役目としていたので親交がある。
「大野木様。今宵はこちらを決して外さぬよう、お願い致します」
 彼女が差し出してきたのは、口の部分が開いた鴉の面だった。
「旦那様の御遺言です。弔問客は必ず面をつけるように、と」
 そう言って、彼女は白い狐の面を顔につけた。口の部分が開いているのは、面をつけたまま食事をする為だろう。
「帯刀さんらしい趣向ですね」
「旦那様は殊更、大野木様のことを気にかけていらっしゃいました。くれぐれも粗相のないようにと言付かっております。これから屋敷へ入りますが、決して面を外されませんよう、お約束ください」
「わかりました。必ず守ります」
 そうして、私も兎の面をつけた。その面はまるで私の為に誂えたようだった。
 木製の太い扉を開けると、中庭を埋め尽くすように彼岸花が狂い咲いていた。石灯籠の明かりがそれらを鮮やかに照らし、鮮やかな紅の色が目に焼きつく。
 飛び石を超えて玄関へ上がる。既に弔問客は大勢来ているようで、なんだかやけに騒がしい。まるで宴会のようだ。私は靴を脇へ寄せ、他の方の草履から離しておいた。
「大野木様。もしも宜しければ、お召し物を替えませんか?」
「礼服ではおかしかったでしょうか」
「いえ、そのようなことはありません。旦那様より大野木様の袴を誂えるよう言われておりましたので」
 そういえば以前、紋付袴くらい買いなさい、と言われたことがあった。帯刀さんは自邸にいる時も必ず長着に羽織という着方を好んだ。
「既にご用意しております。僭越ながら、わたくしが着付けさせて頂きます」
 断ろうか、とも思ったが、折角の行為を無碍にするのも気が引ける。なにより、私の為に誂えてくれた紋付袴を、ここで使わずにどうするというのか。
「有り難うございます。宜しくお願い致します」
「ささ、こちらへどうぞ」
 廊下を通る際、障子の向こうで騒ぐ声が聞こえてきた。とても通夜とは思えないが、田舎の葬儀とはこういうものかもしれない。
 通された座敷には、なるほど立派な袴が衣桁にかけられていた。家紋は丸に橘、まさしく私の為に誂えてある。
「なんだか、申し訳ない気持ちになります」
「旦那様は裏表のない大野木様のことを好いておられましたから。さあ、どうぞ上着をこちらへ」
 私は葛葉さんに言われるがまま、服を脱いだ。恥ずかしさなどないが、申し訳ないなと思う。葛葉さんの手つきは手馴れていて、私はあっという間に紋付袴に身を包むことができた。
「しつらえが間に合って本当によかった。きっとお越し下さると信じておりました」
「葛葉さん。大変無礼なことをお聞きしても宜しいでしょうか」
「はい。なんなりと」
「帯刀さんは苦しみましたか?」
 葛葉さんは首を横に振って、薄く微笑った。
「眠るように逝去なさいました」
「そうですか。それはよかった。心残りはないようですね」
「いえ、最後にひとつやり残したことがあると仰っていました」
「やり残したこと?」
「はい」
 それは何なのですか、そう尋ねようとして玄関で呼び鈴が鳴った。
「お話はまた後ほど。さあ、こちらへ」
 廊下へ出ると、ちょうど他の弔問客たちが大座敷へと移動している最中だった。誰も彼もが顔に獣面をつけていて、なんだか奇妙な光景だ。
 大座敷には十一人の弔問客がいた。もっと大勢いたように感じたが、こうして見るとやけに少ない。
 そして、座敷の中央にあるものを見て思わず絶句した。
 舟。木製の舟が中央にあり、祭壇らしきものはない。まさかと思って舟の中を覗き込むと、白装束に身を包み、顔に翁の面をつけた帯刀老の姿があった。御遺体の周りを彼岸花が埋め尽くしていた。
 私の知る葬儀とはあまりにも違う。
 そうこうしていると、梟の面をつけた住職らしき人物がやってきた。
 呆然とする中、奇妙な通夜が始まった。

 滞りなく通夜が終わると、弔問客たち数人が舟の傍に木棒を通して担ぎ上げた。
 何をしているのだろう、と疑問に思っていると傍に葛葉さんがやってきた。
「これから埋葬に行くのです」
「え? 明日、葬儀なのでは?」
「いえ。葬儀は行いません。元より通夜の報せも限られた方にしか伝わっていないのです」
「これから火葬場に行くのですか? こんな時間では火葬場も開いていませんよ」
「火葬場にも行きません。これから裏山へ向かいます」
 どうか、と葛葉さんは小声で囁いた。
 私は頷いて立ち上がり、彼らの後に従って屋敷を出た。そうして、他の弔問客がしているように行燈に火を灯し、一列になって歩き始めた。男も女もめいめいに行燈を持って畦道を歩いていく。狂い咲く彼岸花が、裏山の古道へと続いていた。他の弔問客は互いになにか話しているようだが、私の場所からは内容までは聞き取れない。
 苔生した石段を照らすように、石灯籠の火が揺らめく。
 虫の音色で、山は騒がしいほどだ。赤い鳥居をくぐり、また赤い鳥居をくぐる。もうさっきから何度も鳥居をくぐっている気がした。
 不意に、最後尾を歩く私の隣に、狐の面をつけた葛葉さんが並んだ。
「彼らは皆、わたくしと同じ奉公人でございます。旦那様と交わした契りに従い、今日までこうして仕えて参りました。旦那様が亡くなれば、もうここに残る理由はございません」
「そうでしたか。あの方々も、奉公人の方だったのですね。あれだけの人脈を築いてきた方だ。もっと大勢の人が弔問に訪れると思っていましたが、最期は身近な方々に見送って欲しかったのですね」
 石段を登りきると、開けた場所に出た。そこには巨大な一枚岩が地面から生えていて、大きな注連縄がぐるりとその周辺を囲っている。その中央に舟は下ろされた。
 これからなにをするというのだろう。
 近づこうとして、葛葉さんが私の手を握って止めた。
「旦那様と我々が交わした約束は、あの方の霊力と引き換えに、あの方に仕えることでした。身の回りの世話をし、この土地を守り、仕えよと」
 闇の奥、行燈の灯りに淡く照らされた彼らが舟のなか、横たわる遺体へと手を伸ばす。
「死後、旦那様の血肉を喰らうことで、我々の契約は終わるのです」
 ごきり、と。
 闇の奥で音がした。その音を皮切りに、それらが手を伸ばし、顔を突っ込み、骨を砕き、肉を咀嚼する音が闇に響いた。帯刀さんの体は目の前で引き裂かれ、無残に喰われていく。
 思わず後ずさった足元で小枝が折れた。微かな音。しかし、その音にまだかろうじて人の姿を保っているそれらが振り返る。十一もの異形の双眸が、闇の中からまっすぐに私を視ていた。
 獣の面をつけた理由。それは、私が人だということを隠すためだ。
 悲鳴をあげようとした私の手を、葛葉さんが引いた。
 気がつくと、屋敷の門の前に戻ってきていた。あの道程をどうやって戻ってきたのか、まるで思い出せない。
 狐面をつけた彼女の瞳が、金色に輝いていた。
「旦那様は本当に貴方のことを好いてらっしゃいました。本来なら、貴方をここへ呼ぶべきではなかったのです。それでも旦那様は貴方に見送って欲しかったのでしょう。そのためにわたくしに最期のお役目をお与えになった」
 呆然としている私の前で、彼女は懐から小さな袋を取り出し、愛おしそうに頬ずりした。
「わたくしが一番欲しいものはもう頂きました。さあ、これでお別れでございます。決して後ろを振り向かぬよう。まっすぐにこの道を戻ってくださいまし」
 私は何か言おうとしたが、結局なにも言うことができなかった。ただ彼女に向かって頭を下げ、それから踵を返して道を戻った。

 行燈を手に畦道を歩きながら、闇夜に淡く光る彼岸花を見やる。
 不意に、気がついた。
「ああ、そういうことか」
 葛葉さんのつけていた狐の面。
 彼岸花、又の名を狐花。
 この時期に、彼岸花が咲くはずがない。

 狐花、それは別名を狐火という。
 これは彼女からの手向けなのだろう。

夜行堂奇譚

これらの話は、以前私が投稿しておりましたホラーテラー及び怖話というサイトで書いたものです。
夜行堂奇譚はそれらの話を集めた怪異潭になっています。
らいとさん始め、多くの方々に支持を頂いた作品をこちらでも投稿させて頂きました。
楽しんで頂ければ光栄です。

夜行堂奇譚

短編の怪異譚になります。 愉しんで頂ければ幸いです。 所詮は素人、温かい目でご覧下さい。

  • 小説
  • 長編
  • ホラー
  • 成人向け
更新日
登録日

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

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