鹿の間

どうして僕の家族は君の父に甚振られたのに、君だけ家族の中でのうのうと暮らしているんだい?

 夏休み、よく家族で別荘に行くのが嫌いだった。神経質すぎる母と、寡黙で尊大な父が行きたくもない二人の実家に顔を出し、その実家に泊まるのが二人とも嫌で毎年別荘に泊まるのだが、ひたすら苦痛だった。祖母や祖父と一緒に居たほうがまだマシだった。あの人たちは父と母の親であるので多少問題があるのは知っていたけど、まだ僕の前ではいいおじいちゃんとおばあちゃんだったから。夏になるたび、ああ、また僕はあの重苦しい雰囲気の別荘に行かなきゃならないのかと思ってひたすら憂鬱だった。せめて僕に兄弟でもいれば変わったのかもしれないけど、まわりに言われたから子供を産んだだけで、それ以外子供は手がかかるから嫌だったらしい。それでも家にいるときはよかったんだ。母と父は義務的な会話しかしないし、それ以上もそれ以下でもなかったから。僕は部屋にこもって勉強をしたり本を読んだりすればよかったから。それだけよかったから。
 あの別荘が嫌な理由はうちの家族仲が冷え切っているのにむりやり「家族ごっこ」をするだけじゃなかった。別にそれ自体はどうでもよかったんだ。実際どうとでもなったんだ。僕はあの別荘の雰囲気が嫌だった。居るだけで緊張するような何かがあった。重苦しい赤色のふかふかの絨毯も、ところどころに貼ってある絵画も、ぴかぴかの階段の手すりもすべて重厚で、それでいて落ち着かなかった。中でも一番嫌いなのは狩猟が趣味の父が昔仕留めた鹿の親子の首の剥製を三つ飾ってある部屋で、本当に趣味が悪いとしか思えなかった。本当は父は入口のエントランスにその首を飾りたかったらしいのだけど、母が動物が嫌いだから、という理由でそれを拒んで、父の寝室に繋がるその部屋に三つの首をそれぞれ並べたのだった。母は確かに極度の動物嫌いで潔癖症だったが、それ以上に父の狩猟という趣味を嫌悪していた。残忍で汚く、下劣な趣味だと影でこぼしていたのを何度も聞いたことがある。たぶん、父の趣味が狩猟なのは普段寡黙な父が母の神経質さに耐えきれずにそのストレスを発散してた部分もあるのだと思う。実際狩猟から帰ってきた父は少し上機嫌になって僕にこっそりお菓子を買ってきてくれたりしていたから。それでも母はそんな父をみて、生き物を殺して上機嫌になるなんて気が知れない。いつか私たちも殺されちゃうんじゃないかと思って身の毛がよだつ、とそればかり言っていた。僕は祖母から小さい頃母が虫をいたずらに殺して遊んだり、野良犬に石をぶつけるような人だと聞いていたので何も言わなかった。
 僕の一番嫌いなその「鹿の間」は三つの首が並んだその部屋は部屋自体がそれほど広くないのもあって、威圧感が凄まじかった。元々ある別荘自体の緊張感を高めているようだった。ガラスのような真っ黒な目がこちらをずっと伺っているようで毎回嫌な気分になった。父のその部屋にある本を取りにいったり母に言われて父に飲み物を持っていくときも、父よりその剥製自体に緊張した。きまって鹿の間に居る父は上機嫌で、剥製について僕に話しはじめる。親子の鹿の三匹を追い詰めるようにして仕留めたこと、一匹小さい小鹿を逃がしたものの、そのあとすぐに大きな父親であったろう牡鹿を仕留めた事。父は最終的にいつも大きくなったであろう小鹿を早く仕留めたい、それで話を終える。その爛々とした目つきはどこか異常で恐ろしかった。父がいつか人を殺しそうだという母の意見に、父のこの話を聞く時だけはいつも賛同していた。
 その日はめずらしく夕立が降っていて、入道雲がもくもくと育っていた。すぐに雨はあがったけど蒸し暑くて、多分それも原因の一つになったんじゃないかと今では思う。盆地の気候は蒸し暑く、夕立が拍車をかけていて僕でもあまりの蒸し暑さに苛立ちを隠せなかったから、両親はその比ではなかったんだと思う。実際母親はめずらしく料理を作るのを休んで買ってきていた。母が父の嫌いな青魚を買っていたので忠告したが、母は「なによ、私に文句でもあるの」と冷たくそう言うだけであった。父は青魚がすこぶる嫌いだったが、母は大好物だった。同じ食卓につくのが最近あまりないので大丈夫かと思ったが、父は昔母が青魚を食べている、という理由だけで突っかかり喧嘩をしたことがある。それ以来二人は同じ食卓で食事をすることは二度となかった。どうして、二人には互いに譲り合うということや妥協ができないのだろう。そう、何度も思った。それができていたら、もしかしたら。昔のように仲が良いとは言い切れないかもしれないけど、それなりに温かい家庭でいることだってありえたかもしれない。僕はそんなことを考えていた。でも車に乗り込んで冷めた両親の顔を見ると、ああ、もう無理だな。そう思った。もう僕一人が泣いてもわめいても、もうこの人たちには届かないんだと思った。僕にできることと言えば両親の機嫌を保って、なるべくお互いに衝突しないよう気を配ることだけだった。
 別荘に着いてすぐ、父は狩猟に向かった。母はそれをみると神経質に父についての愚痴をぼろぼろこぼしながら部屋に向かっていき、気分が悪いから寝る、自分の荷物を置いたら水と薬をくれ、とだけ残して部屋に向かっていった。僕は自室に着いて荷物を置いた後10分ほど時間を置いて母のもとに向かった。母の神経の高ぶりを少し沈めるためである。こうしないとヒステリックな母に不条理な対応をされる可能性がある。たっぷり10分程度置いた後、水や薬を持って行った。母は偏頭痛持ちだったので、その薬だった。母は白い顔でありがとう、とだけ言うと自分の寝室にひきこもり、僕の目の前でがちゃりと鍵をかけてしまった。元々神経質な人だったし、頭痛もちだったから、一人でゆっくり休む為にいつもする事なのでそれはさして気にはしなかった。僕は多少冷たいであろう母の仕打ちを気にすることなく自分の部屋に戻って本を読んでいた。母は父が帰ってくる前に僕が声をかけて起こさなければならない。そうでなければヒステリックなまま帰ってきた父に辛く当たるに決まっている。なるべく眠たくならない本が良かったので、書店で買ったミステリーを読んでいたがあたらしい館を買った夫婦がだんだんと狂気に取りつかれていくという内容で、我ながら自分の趣味の悪さに辟易した。
 
次に気が付いたのは夕方だった。寝てしまっていたという事実に焦る。しくじった。このままでは両親が喧嘩をするかもしれない。嫌な予想通り、部屋を激しくノックする音と怒号がした。両親が喧嘩をしているのだ。いそいでどうするか必死に考える。ノックはここまで響いていた。母の部屋からだ。多分狩猟から帰ってきた父に母がなにか気に障ることでも言ったのだろう。普段寡黙な父だが温厚なわけではない。母はそこを偶に履き違える。馬鹿だから。何回も繰り返しては失敗する様はパブロフの犬よりも愚かである。僕は仲裁に入るべく母の部屋に向かおうとしたが、様子のおかしさに気付いた。父が、わらっている。ここまで聞き取れるような声で。高らかに、わらっている。そして銃声、あああああ、という母の悲鳴。ああ、これは。いけない。いけない。もうその喧嘩は僕には止められないようだった。続いて銃声が二発、三発と続く。僕は冷や汗をかきながら、どうするかを必死で考える。とりあえず時間を置いて父の頭を冷やさなくては。これは僕の経験則だった。あの人は癇癪を起しても30分ほどで頭が冷えるはずだったから、でもその考えが甘いことに僕はまだ気づいていなかった。いや、気づきたくなかったんだ。誰だってそうだ。自分の実の父親が母親を殺すなんて、そんな事認めたくなかった。
 
「うおおおおおい、築、いるんだろおおお?」
父の声が響いてきた。あの部屋からここへ来るまでは若干時間がある、だけど僕の部屋には鍵がついていない。ここから一番近い鍵付の部屋は皮肉にも僕が大嫌いなあの「鹿の間」だった。なるべく足音を殺して、なおかつ小走りで鹿の間へ急ぐ。本当は固定電話がついている母の部屋かリビングに行きたかったけど、そこへ行くには一旦玄関前のホールに出なくてはならない。そうすれば父と鉢合わせになることは確実だった。仮にさっきの銃声が空砲や脅しではなかったとして、父の猟銃にあと何発弾丸が入っているかは定かではなかった。鹿の間に一旦逃げて、そこで窓から逃げるなり様子を伺ったりする方がよかった気がした。
「築ううううう、俺、母さん殺しちゃったあああああああ!!」
 なるべく足音を立てないようにゆっくり扉を閉め、足音に気を使いながら急いで鹿の間に向かう。聞きたくもない父の怒号が響く。手が恐怖で震える。過去にもこうやって父が怒号を飛ばしたことはあるが、そんなときと比べ物にならないくらい怖かった。まさか、そんな、父が。冷や汗で背中のシャツがべったりくっついているのが自分でもわかる。ガシャーン、ガシャーンという物音がする。多分父がガラスか何かを壊しているのだろう。足音がかき消されるから、ありがたかった。
「聞いてくれよお、今日父さん鹿を逃がしちゃってさあああ、おまけに崖から落ちちゃってさあああ!!」
鹿の間に入る。首だけの鹿が相変わらずこちらを見ている。不気味さに拍車がかかっている。電気がついていない鹿の間はほぼ真っ暗だった。夕立は止んだものの、まだ分厚く雲が広がっていた。蒸し暑いはずなのに、鳥肌と冷や汗がとまらない。
「絶対あのときの鹿なんだよおおお、あいつ、崖から落ちた俺を馬鹿にするようにこっちを見てさああ、父さん足が痛いから追いかけられなくて帰ってきたんだよ、そしたら母さんが俺の心配するわけでもなく何て言ったと思う?」
やめろ、やめろ、聞きたくない。
「汚い、だってさ!!」
そういった父の怒号と一緒にまたガラスの割れるような音が響く。多分廊下にある母が活けた花瓶をすべてひっくり返しているのだと、気づいた。それにしてもこんな状況まで追い込んだ母は馬鹿としか言いようがない。舌打ちすらしたくなった。多分頭痛がおさまらなくてイラついたんだろう。容易に想像がつく。
「だからさあ、撃っちゃった!いいよな!父さん頑張ったよな!いままで!」
父のそれは完璧に狂った声というよりは少し哀愁が感じられるような気がした。というか、泣きながら叫んでいた。今までずっとあの神経質な母と僕より長い時間を過ごしてきたのだから、いつ爆発してもおかしくなかったのかもしれない。
「築、撃たないから出ておいで、父さんと話をしよう」
でも、まだだ。まだ出ては行けない。相手は銃を持っているし、なによりこの騒ぎで母が全く反応を示さないということは死んではいないとしても、声をあげることすらできない状況なんだろう。はやく助けを呼びにいかなくては。
「お前だけが心の拠り所だったんだよ。小さいとき一緒に魚釣りをしたよな、懐かしいなあ…あの時に戻れたらいいんだけどなあ」
窓から一旦逃げようとして、窓枠の木が突っかかっているのに気づく。急がなければならない。何か、何か道具は。机の上に飾られている父のコレクションのナイフが目に着く。そっとコレクションケースの金具を開け、手に収まる程度のナイフで少しずつ窓枠を削る。枠の木同士が膨張して、固定用の釘が微妙に突っかかっていた。急いでけずる。手が汗ですべって焦りで泣きそうになる。
「なあ、築、おねがいだ、どこにいるんだ」
そういう父の声は哀愁を含んでいたものの、狂人のそれに変わりはなかった。やっと窓が開いた、これで逃げれる。

そう思った矢先、なぜか突拍子もなく、鹿の首が落ちた。ゴトン、と大きな音が響く。背筋が凍る。
「そっちかああああああ!!!!」
 父が物音に気付いた。急いで窓を開けそのまま外に出る。父は足を怪我しているらしいのでそんなに早くは来れないだろう。降りた瞬間、土がぬかるんでいて足跡がついてしまった。このままだと足跡で追われる。一旦父を撒くために、父が狩猟をする森の茂みの方へ向かって逃げる。幸い父の声はそれほど近くはない。それでも、振り返ったらすぐ父が居そうで怖かった。泣いた。泣きながら走った。どうしてこうなったんだろう。少なくとも昔は、それなりに思い出もある、普通の家庭だったのに、どうして、こんな。泣きながら走る。涙で潤んだ視界で、僕は目の前がよく見えていなかった。草と泥で足が滑って、そのまま崖をなすすべも無く落ちて行った。

 …雨が降っている。嫌な雨だ。僕の家族が死んだときを思い出す。あの日もこんな夕立の日だった。
 あれからしばらくして、僕は崖の下で衰弱しているところを助けられた。銃声と物音を聞いた付近の住人が通報して屋敷の惨状に気付いたらしく、しばらくして子供が行方不明ということで辺りを捜索されたらしい。その時僕は至る所を骨折していて気を失っていて、気が付いたら病院のベットの上だった。駆けつけてきた僕の祖父母だという人に事情を説明された。僕はその猟銃を持った自分の父だった人がなぜか死んでいたという話を聞いて、思わず吹き出しそうになってしまった。馬鹿な人だと思った。馬鹿で、哀れな人間。この少年もまた、哀れだと思った。
 僕は20歳になる。結局あの別荘は何回か売りに出したそうだが曰く付きということで祖父母が死んだ今、僕の物になった。そうなってからは夏が来るたびここに来ることにしている。僕の家族の思い出を見に、そして癒される為に。玄関を入ってまっすぐ、広めの書斎に入る。何度来ても落ち着く。優しい母と、父の面影と、僕を身を挺して救ってくれた姉を思い出す。みんな壁に飾りつけられたままなにも言わないが、優しい目をして僕を迎えてくれるように思う。
「ただいま、父さん、母さん、姉さん」
そう言うと、壁に飾られている鹿の首は満足そうに笑いかけてくれた気がした。

鹿の間

鹿の間

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-30

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