竜狩りの剣(かもめあき)

竜狩りの剣(かもめあき)

※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)

 竜が血に飢えていた。
 天を突いてそびえ立つララス山脈の裾野は、緑一つなく荒涼とした岩肌を晒すのみであった。砂を含んで吹きすさぶ突風の中、紅色に煌めく尾が苦もなく岩盤を抉り取る。跳ね飛ぶ巨岩が翼の一振りで吹き飛んで彼方の地平に落下した。グルルと唸る竜は岩をも焼く熱い息を吐きながら、ばっくりと開いたあぎとに冷たく光る牙を覗かせている。硬い鱗に覆われた顔の奥に黄色の眼が爛々と輝き、針で穿ったような黒い瞳が見据える先に、岩のつぶてをかいくぐって駆ける少年の姿があった。
 白い髪を振り乱して走る少年の名はヴァイス。背中に紅竜の殺意をひしひしと感じながらも《疾り屋》の任に就くだけあって振り返るという過ちは犯さなかった。振り返り立ち止まれば即ち死であることを重々承知しているのである。しかしそれでも、僅かに齢十五であるヴァイスにとって背後に迫る死は意識の埒外ではない。肌の粟立つような緊張と恐怖に心臓を波打たせながらヴァイスは懸命に荒野を駆けていく。
 風を切る音を耳に捉え、えいっと声を上げて跳躍すると、たった今踏み台にした地面に竜の爪が突き立った。轟音を上げて飛んでくるつぶてに背中を押されながらも滑らかに着地し再び走る。同じく飛んできた砂の粒に混じって血の匂いが鼻を掠めた。紅竜をおびき寄せるために使った餌、即ち街を焼け出されて死んだ人々の血である。
 手を引き抜く竜とは僅かに差が開くも依然振り切ることはできない。ごうっと音を立てて放たれた竜の息吹が飾り帯を焦がして吹き抜け、前方の足場を灼熱に染める。ヴァイスは煙を吸わないよう息を止めると躊躇なく焼けた岩場を駆け抜けた。靴の底がじゅっと音を立てたが所詮はその程度、いくら膨大なラグナを宿す竜の炎といえども武具を作る炉とはわけが違う。長い時間炙れば天然の石焼窯にもなろうが、表面が焼けたくらいでは大したことではないのをヴァイスはよく知っていた。何より愚かなのは怖気づいて立ち止まりその身に竜の攻撃を浴びることである。
 ヴァイスは袖や裾を切り詰めた服に飾り帯をたすき掛けにして、首や手足に厚手の布を巻き丈夫な革の長靴を履いている。見るからに軽装なのは無論竜から逃げるためであり、牙や爪、尻尾の一撃を受ければ死を意味する。その証拠に、《疾り屋》の仕事服であるヴァイスの身なりは革製の装具以外は真っ白で、竜に屠られた時に死に装束としての意味を持つのだった。竜に殺されれば葬式も出せない《疾り屋》の魂の、せめてもの慰めとするためである。
(あと……もうちょっと……)
 息を切らしながらヴァイスは心中で呟いた。竜の炎が命中しなかったことは餌に仕込んだ毒がまわり始めたことを示している。幼竜ならともかく目が毒で霞んでいなければ竜はよっぽど火炎を外さない。
 無限とも思える道のりはようやく終わりを迎えようとしている。ヴァイスの目には平らにならした即席の狩り場が映っていた。盲目の竜を導き狩り場へと誘き寄せるのが《疾り屋》たるヴァイスの役回りであって、即ちそこが逃走の終着点なのであった。
 しかしながら、最後まで決して気を緩めてはならない。竜狩りにおいて《疾り屋》が狩り場に辿りつく瞬間は大いに危険を伴う。視界を失った竜は怒りに燃え、狩り場に待ち伏せる人の汗を嗅ぎ取ることで興奮は最高潮に達する。竜は人肉を何より好むからだ。大部隊に囲まれる竜はさながら宴席に座るようなもので、本能を剥き出しにしよほど手がつけられない。実際、背に感じるラグナの波動はみるみる強くなり、紅い鱗からほとばしる熱が陽炎を成してその輪郭を朧にしている。《陽炎纏い》と呼ばれるその現象は紅竜が臨戦態勢にあることを示すものであり、勇猛果敢なギルドの精鋭すら畏怖させる禍々しい姿であった。
 天高く響き渡る竜の咆哮がララス山脈の山肌に跳ね返ってこだまする。くたくたになった足が地響きにもつれるのを制し、狩り場へと躍り出て加速した。差し渡しがきっかり八百ニルス――一ニルスがおおよそ成人男性の肩幅の大きさである――の真円の中央に竜が辿りつくまでが振り切るための猶予であり、間に合わねば味方の攻撃に巻き込まれることになる。音を上げる体に鞭打ってヴァイスは飛ぶように走った。
 ヴァイスが走り込んできたのと反対側に半円を描いて取り囲むギルドの面々が見えた。体の線も隠れるほどの重装備は照りつける陽光を浴びて色とりどりに輝いている。紅色、蒼色、翠色を中心にところどころ黄色や紫色、銀色などが混ざっているが、今回は対紅竜戦であるために青味が多い。兵のほとんどは弓兵で、自身の背丈ほどもある長弓を地面に突き刺して支え、これまた二ニルス程の長い矢をつがえて待機している。竜の鱗を削り出した矢じりにはラグナやリンド、セルスといった《シキ》がたっぷりと注ぎ込まれていて、鋼の矢でも難なく弾いてしまう竜の鱗を穿ち、《シキ》の力を体内に届かせるよう工夫されている。ヴァイスが狩り場の真ん中を通過した瞬間、ぐわーんと大銅鑼が響いて弓兵たちがゆっくりと矢を引き絞り始めた。
「うわっ!」
 突如、大槌に打たれたような衝撃がヴァイスを襲った。凄まじい風圧に体が浮き上がって空中に投げだされる。めまぐるしく回転する視界の端にようやく竜の姿を認めた時、遥か下方で翼を広げて羽ばたいているところだった。毒は翼の自由も奪うはずだったが既に回復してしまっているらしい。上空から炎で炙られる様子が脳裏に浮かんで、ヴァイスは背筋の凍る思いがした。
 しかし兵士たちも手をこまねいているばかりではない。大銅鑼が乱打されるのを合図に弦がピシッと音を立てて一斉に矢が飛び立った。ヴァイスのさらに上方で放物線を描いて、竜の真上から雨あられと降り注ぐ。流星のごとき光芒はあやまたず竜の背や翼に吸い込まれ、全身に突き立った。呻き声とともに巨体が落下して低い地響きが鳴り、砂煙が立ち込めた。
 対して、ヴァイスの命運も同じであった。木の葉のように吹き飛んだ体は灰色の地面へと真っ逆さまに落ちていく。竜をめがけた矢は幸運にも体をそれたが、部隊の前線の遥か上を飛んだヴァイスを待っているのは一面ごつごつとした岩肌である。受身は取れそうにないし、そもそも些細な悪あがきで助かる高さでもない。ヴァイスは固く目を閉じてその時が来るのを待った。
 不意に涼やかな風が頬を撫でた。混じりけの無い空気の流れが全身をくるんで受け止め、ヴァイスは落下の速度が弱まるのを感じた。驚いて目を開くと下方にリンドの輝きをかざす姿があった。丈の長い着物姿で立つ男の、翡翠色に照らしだされた顔を見間違えるはずもない。
「父上……」
 呟いたヴァイスはリンドが巻き起こした突風にあおられながらゆっくりと父の腕に吸い込まれていった。彫りの深く頑強な顔立ちの父はヴァイスを抱きとめても微動だにしない。そっと地面に降り立ったヴァイスは父の前にひざまずく。
「運が良かったなヴァイス。よくぞ命を拾った」
「助けていただきありがとうございます、父上。……死ぬかと思いました」
「気を緩めるでない」
 父、リユンの表情は厳しかった。
「確かにこの狩りにおいて《疾り屋》の任は終わった。しかし戦いは始まったばかりだ。ここが戦場だということを忘れるな」
「……はい」
 ヴァイスは立ち上がろうとしたが、脚に力が入らずにがくりと腰を落としてしまった。脚に巻く布にはセルスの豊富な蒼月草の粉を擦り込んであったのだが、ほのかな冷感は失せて太ももに焼けるような熱を帯びている。無我夢中で気がつかなかったが体中につぶてを浴びたらしく節々が痛んだ。死の恐怖が遅れてやってきて全身に玉のような汗をかき、顔を真っ青にして荒く息をしていた。
「飲め」
 目の前に小瓶が差し出された。リユンはヴァイスでなく竜の方を見ていたが、若葉色の薬液を渡したのは確かにリユンの手だった。ラルタ草の根を煎じた液にリンドをたっぷりと染み込ませ、リンドの治癒効果を高めた秘薬である。
「あ、ありがとうございます」
「一気に飲むんじゃないぞ。強い薬だから一滴ずつ口に含むようにして飲むのだ。効き始めるのが分かったら蓋をして懐に入れておけ」
「えっと……」
 父の言葉にヴァイスは動揺を覚えた。ラルタ草の薬はかなりの高級品で、その効果はちぎれた腕を繋ぐほどのものである。それを戦闘に参加しないヴァイスに持っていろと言うのだ。
「いえ、やはり僕の身には余ります。他の人に使ってあげてください」
 そう言ってヴァイスは何とか立ち上がり、父の胸のあたりに小瓶を押しつけた。
「そうか」
 リユンはヴァイスとそろいの飾り帯に瓶をしまった。長衣の上から隆々とした体つきが透けて見えるようだったが、その手の微かな震えに気がついて慌てて目をそらした。
(厳しい父上だけど、僕のことは人一倍心配してくれている)
 父が垣間見せた愛情は泣きそうなほど嬉しかったが、甘えるわけにはいかない。確かに《疾り屋》は危険な仕事だ。しかし常に無傷で帰るか死ぬかの二択であって、決して怪我の回復を必要とすることはない。《竜狩りギルド》を束ねる頭領たるリユンは常にギルド全体を思わねばならず、一人息子のヴァイスばかり贔屓することがあってはならない。
「よいか、その目にしっかりと焼きつけておけ。兵と竜の動きをともに視界に入れ、常に全体を見渡しておくのだ」
「はい、父上」
 ヴァイスは力強く頷いた。彼が《疾り屋》という危険な任務につくのはまさにこの時間のためである。即ち、父とともに戦地を見下ろし観察することで、ギルドを率いる指揮官に不可欠な大局観を養うのである。頭領の子は《疾り屋》となり、それで命を落とせばそれまで。生き残った者が頭領としてギルドを率いるというのが、代々受け継がれてきた習わしであった。
 息を整え見下ろしたヴァイスは心胆寒からしめる竜の力を思った。つい先刻まで走っていた狩り場は遥か下、屈強な兵士たちも小石のように見える。竜は翼の一振りで人一人ここまで吹き飛ばすのだ。運よく父上の元に飛ばされたから良かったものの、そうでなければあっけなく命を散らしていたところだった。
 矢の掃射は終わり、一枚布の長衣に身を包んだ《導き人》たちが狩り場に描かれた紋様に手をかざしているところだった。狩り場の中心に刻まれた溝には今朝刈ったばかりの長笛草がぎっしりと詰め込まれている。真夏によく茂る長笛草は強い生命力を持ち、土からこれでもかと水を吸い上げては周りの植物を枯らしてしまうのだが、水と性質の近いセルスもよく導く性質がある。つまりこの紋様はセルスによる攻撃の通り道であり、遠隔攻撃を減衰させずに届かせる装置なのだ。
 《導き人》たちの手から群青色のセルスがほとばしると、あっと言う間に紋様に吸い込まれ、紋様をなす緑色の線がセルスの色に置き換わっていく。地を這う光が収束し竜の足元で弾けた瞬間、竜の背を遥かに超える氷柱が屹立し紅蓮の両翼を貫いた。強靭な体躯を霜が這いあがって凍り、揺らめく陽炎がかき消える。竜はおぞましい悲鳴を上げるも、赤熱した鱗があっと言う間に氷を溶かし、地面を滅茶苦茶に引っ掻いて紋様を台無しにしてしまった。立ち込める湯気から姿を現した竜はところどころ鱗が剥げ翼には穴が空いていたが、憤怒を露わにした眼がぎらぎらと光っている。
 リユンは顔を曇らせると素早く手を動かした。間髪入れずに複雑なリズムの鼓動が戦場を覆い、《導き人》が下がって重装の剣士たちが竜を取り囲んだ。竜狩りもいよいよ本番、一番死人の出る《竜裂き》の時である。視界を取り戻した竜には弓兵や《導き人》は役に立たない。竜は聡い生き物だ。遠距離攻撃の主を優先的に排除する習性があるし、わざわざ狩り場から離れた場所に餌をまくのも、大部隊の待ち構える狩り場には警戒して近づかないからである。
(毒の抜けるのが、ずいぶん早いみたいだ)
 ヴァイスはいつになく厳しい顔つきで狩り場を見下ろしていた。ヴァイスが《疾り屋》の任に就くのはまだ三回目であったが、それでも今回の紅竜戦が過酷なものであることは分かった。竜があまり弱らないうちに視界を取り戻し《竜裂き》へ移ることを余儀なくされている。翼と鱗の熱は奪ったからいいものの、それができなければ撤退せざるを得ないところだった。
(そういえば、餌を全部は食べなかった。毒の存在に気がついたのかもしれない……)
 竜は鼻も利くから、餌に致死量の毒を混ぜればまず口をつけない。上手く毒を盛れてもせいぜい眼潰しと翼を鈍らせることくらいしかできないし、それも効き始めたと思ったらすぐに回復してしまう。体内を流れるリンドの癒しの力によって忽ち解毒してしまうのだそうだ。
 兵士たちは下手に近づくことはせず、尾や爪が届かない距離で待機している。竜の方も低く唸りながら油断なく周りを警戒していた。張り詰めた緊張の中、銅鑼の音が両者を煽るように響いていたが、ヴァイスの集中が削がれるだけで何も起こらなかった。しかしある瞬間、兵士たちは響き渡ったリズムに攻撃の合図を聞きとり、囲いを乱した。
 長剣を携えた重装兵はおおよそ二百、そのうち十ずつでひとまとまりになって竜に斬りかかり、反撃を受ける前に素早く下がる。竜がそちらに気をとられた瞬間、死角から兵が殺到した。兵を小出しにしてぶつける戦法は一網打尽にされるのを防ぐものの、重装備をものともしない敏捷な動きと視線を見切った的確な指示が不可欠である。リユンは口を真一文字に結んで狩り場を凝視し、素早く手を動かして指令をしていた。竜の動きは勿論、兵士の疲れや緊張も考慮して退却が鈍くなるのを防ぎ、かつ単調さを排した攻撃を心がけねばならない。熟練した頭領の慧眼を持ってしてもなお荷の重い、難しい仕事だった。
(僕に、指示を出せる日が来るのだろうか)
 ちらと父を見やるもその手の動きすら追えない。手の指令を読み取って奏でられる銅鑼の音にも高低があるが、長く尾を引いて混ざるのを聞き分けるのは至難の業だ。どうも父のようになるには程遠い。ヴァイスはため息をついて崖下を見下ろした。
 ちょうどその時、竜の血がぱっと散った。兵士たちは鱗の剥げた場所をあやまたず斬りつけ、徐々に傷を深めていく。一糸乱れぬ統率のもとで斬撃を繰り返すうちに血が滲み、鱗の熱で蒸発して黒煙が立ち上る。しかし竜は弱るどころかますます眼の輝きを増しているように見えた。
 くすぶる煙の帯が裂けた瞬間、ヴァイスは息を飲んだ。
 竜の背後から飛びかかる兵団が尾に薙ぎ払われた。やすりのような鱗に装甲を削り取られ、宙を舞った破片が星のように瞬く。兵士たちはほとんど水平に吹っ飛び地面を跳ねて、ぴくりとも動かなくなった。リユンが緊張した面持ちで手の動きを早め、銅鑼打ちが一際甲高い音を出すと、腰に治療用の装具を帯びた医療班が駆けよるが、ヴァイスにも助かる見込みなしと分かった。
 正念場だ。犠牲者が出ればどうしても足並みは乱れてしまう。銅鑼の音がせわしなくなり、指令はより複雑で細かいものへと変わった。兵団が抜けた分の隙間を補うようにして、兵士たちは少しずつ間隔を広げていく。
 その隙を竜は見逃さなかった。
 円周に空いた隙間に灼熱の炎が割り込んだ。両脇の兵たちが怯んだと見るや紅色の体躯が突進し、彼らを跳ね飛ばしながら一直線に医療班へと迫る。
(こいつは……《狩り帰り》なのか?)
 ヴァイスは真っ青になって身震いした。《狩り帰り》、即ち過去に竜狩りギルドと戦い生き延びた竜はギルドの戦法に通じ、医療班が戦闘の要であることを知っているのだ。一般に《狩り帰り》との戦闘は困難を極める。浮足立つ兵士たちを見て、リユンの表情も硬くなった。
 竜は体力を温存していたのだった。翼を畳んで走る巨体は重装兵を振り切って、泡を食って逃げる人々に真っ白な爪を振りかざした。ヴァイスは呼吸を早め、顔を覆うのを堪えて目を凝らしていた。

 突如、黒い疾風が吹き抜けた。
 竜の手首から先がすっぱりと斬り裂かれ、ぼとりと地に落ちた。グオォと唸って暴れまわる竜の足元をかいくぐり、背中に飛び乗った影が白銀の剣を閃かせる。鋼の矢を弾く鱗を薄紙を裂くように切り裂いて、深々と肉を抉る。激昂した竜は背後に逃げる姿を追って、医療班から離れていった。
(あれは……ネーラ?)
 リユンの仕切る竜狩りギルド、《サザラク》でその名を知らぬものはない。人智の及ぶ限り最も硬質の《竜狩りの剣》を帯びるのは並ぶものなき強者の証、唯一竜と対等に渡り合う黒装束の英雄を見誤るはずもなかった。
 鎧を脱ぎ捨てたネーラは疾風の異名に恥じない俊足で、灰色の岩肌の上、一つに束ねた黒い長髪をなびかせていた。怒り狂う竜を背に眉一つ動かさず駆ける姿は、数多く死線をくぐってきた経験をうかがわせる。背中に目があるかのように軽々と火炎を避けながら、再び狩り場の真ん中に辿りついたネーラは素早く向き直った。ヴァイスと同じく軽装のネーラだったが、彼女の紅い眼は燃えるように輝いているのだろう、細身に凄まじい闘気を纏ってそそり立ち、身の丈何倍もある紅竜と遜色ない猛々しさであった。
 銅鑼の音が止み、耳にこびりついた残響がようやくおさまった時、狩り場を支配するのは張り詰めた静寂であった。兵士たちもネーラと竜の対峙を遠巻きにし、固唾を飲んで見守っている。腕を組んだリユンは眉根に皺を寄せて、翡翠色の目を冷たく光らせている。即ち、全てはネーラの腕にゆだねられたということになる。
 ネーラの体がふっと霞んだ。稲妻のような速さで竜に飛びかかったネーラは、すれ違いざまに鋭く斬りつける。まるでネーラの体そのものが刃であるかのように、ネーラの通り過ぎた場所から血と煙が噴き出す。まさに疾風怒濤たる大立ち回りに援護を挟む余地はない。ヴァイスは頭の芯が冷めていくような感覚を覚えながら、奮闘するネーラの姿を見下ろしていた。
 
 ネーラは未だ齢十五である。眼下で《竜狩りの剣》を振るうネーラが同い年の少女であることが、ヴァイスはどうしても信じられなかった。

一 竜狩りギルド《サザラク》

 1

 七日間の喪が過ぎると、ギルドはようやく戦勝の喜びに沸いた。それまでの弔いの儀から一転、華やいだ雰囲気のギルドでは、夜を徹しての大宴会が始まろうとしていた。ヴァイスはてんやわんやの調理場の脇をすり抜けて、まっすぐに父の部屋に向かった。
「只今戻りました」
 リユンの私室には、剣に貫かれる竜を模した《サザラク》の紋章が掲げられている。板張りの床はつやつやと光沢を放ち、壁にかかる武具は年季が入って柄が擦り切れているものの、刃先はぎらぎらと光っていて、この部屋の主の姿を彷彿とさせた。
「タキル様からです」
 ヴァイスはかしこまったまま書状を差し出した。リユンが受け取って口を開く。
「楽にしていい」
「はい」
 ヴァイスが座ると、リユンは書状を広げて子細に眺める。その間眉一つ動かさない父の姿にヴァイスは気が気でなかった。しばらくして読み終わると、元の通りに丁寧に畳んで机に置いた。
「色よい返事だ。引っかかるほどにな」
 考え込むように遠くを見ながら、リユンは硬い表情を崩さなかった。
「ヨクア国のタキルだけではない。シグ国お抱えの商人からも鱗の買い付けが殺到している。それも紅竜狩りの報告を送る前に伝令をよこす始末だ。お前はどう見る」
「ヨクアとシグはシガル川をめぐって小競り合いが絶えないと聞きます。互いに戦争の準備をしているのでしょうか」
 ヴァイスは自信なさそうに、ぽつりぽつり呟くように答える。
「本当にそうだと思うか?」
「えっと……」
 ヴァイスは黙り込んでしまった。リユンはヴァイスに向き直って、言い聞かせるように語り始める。
「竜の鱗は強力な武具や防具になるが、加工が難しく即戦力にはならない。そもそも騎馬戦が主流のシグとヨクアの戦では鉄器で充分、鱗製の重い装備は邪魔なだけだ」
「竜の装具は攻城戦に使われることが多い、でしたね。それでは、シグとヨクアが協力して他国を攻めようとしているとか……」
 そこで口をつぐんで、ヴァイスは首を振った。
「いえ、そもそも周辺に城砦を持つ国はありませんでしたね。あのあたりは牧草地帯ですから」
「その通り、戦のためとは考えにくい。となれば貿易が目的と見るのが自然だろう。つまり、ヨクアやシグは竜の鱗を売りつけるあてがあるということだ」
 リユンは口元を緩めて、老木を削り出して作った机の端をトントンと叩いた。昔からよく見てきた、機嫌のいい時の印だった。
「シグやヨクアの商人は我々の輸送技術を知っている。だから我々が取引先を知る前に鱗をせしめておいて、売買の仲介をする腹づもりなのだろう。逆に言えば、仲介貿易が成り立つほど大口の相手というわけだ。これを逃す手はない」
「直接取引ができるよう、シグやヨクアの商人を探って買い手を突き止めるのですね」
「そうだ。命を懸けて手に入れた竜の恵みを横取りされるわけにはいかん。それに、独自に取引をすることで、《サザラク》はどの国にも属さぬと天下に示す機会にもなる」
 彫りの深い、締まった顔つきのリユンは武人らしく褐色に焼けていたが、目は思慮に満ちた穏やかな光を宿している。文武両道を地で行くような父の姿はいつもヴァイスの憧れだった。
「では《疾り屋》ヴァイス、早速ヨクアに入り商人たちの周辺を探って参ります!」
 ヴァイスは立ちあがり、胸の前で拳を重ねるギルド式の敬礼をした。
「まあ待て」
 苦笑して、リユンは立ち去ろうとするヴァイスを制した。
「公式なやり取りとは違う。大きな利益が絡んでいる分、今までとは違って危険もあるだろう。相応の準備をして向かってもらう。それに、お前は顔が割れているからな」
「あっ……」
 ヴァイスは思わず顔を赤くした。そうだった。《疾り屋》のもう一つの任務として各地へ伝令に走るヴァイスは言わば《サザラク》の顔であり、きな臭い任務は適任と言い難い。
「それでは、今回僕の出番は無しですか……」
 目に見えてしょんぼりするヴァイスに、リユンはようやく柔らかな微笑みを浮かべた。ごくまれにしか見せない、父としての顔だった。
「案ずるな。警戒されにくい子供はこういう時に重宝するのだ。《疾り屋》の時とは装いを変えればそれでいい。詳細は追って話す」
「分かりました」
 ヴァイスは拗ねたように小さな声で言った。《疾り屋》として三年を過ごしてなお、子供扱いされるのが嫌だったのだ。それを知ってか知らずかリユンは続ける。
「もしもの時のために護衛をつける。そうだな、ネーラがいいだろう。あいつもお前と同い年だし、腕は達者だ」
「ネーラ……ですか」
「どうした、嫌そうだな」
 怪訝そうにリユンが訊く。
「ええとなんというか、ちょっと怖くて……」
 ほとんどを使者として過ごすヴァイスは、ギルドで鍛錬に励むネーラとは話したこともなかった。竜狩りでの鬼神のごとき姿を見て、親近感が湧くはずもない。
「それもそうだな、では、今日はお前も宴に出ろ」
「いいんですか!?」
 ぱっと顔を輝かせて訊き返す。リユンはもう一度苦笑してから、真面目な顔に戻った。
「まあ、そろそろ頃合いだろう。もう三度目だし、命を懸けてよく頑張った。一日くらいハメを外しても悪い顔はされないはずだ」
 半人前の武人は祝いの席に並ぶことを許されない。戦勝の報告に忙しいのもあって、ヴァイスはこれまで宴に出たことがなかった。一方のネーラは初陣でその実力を認められ、末席ながらも参加者に名を連ねていた。
「くれぐれも粗相の無いようにな」
「はい!」
 リユンに下がるように言われて、ヴァイスはいそいそと部屋を後にした。

 2

 初めて入る大広間にはうっすら湯気が立ち込めていた。部屋の壁には刺繍の入った垂れ幕がかかり、床は一面毛皮張りになっている。部屋の端まで伸びる机に男たちが並んで、思い思いの相手と酒を酌み交わし、愉快そうに笑いあっていた。強い酒の匂いに思わず顔をしかめながら、ヴァイスは料理の皿が運ばれてくるのを心待ちにしていた。
「よっ、待ってました!」
 威勢のいい掛け声と拍手に迎えられて大皿がやってきた。たっぷりの蜜と香草で煮詰めた骨付き肉をはじめ、南国ロランでとれる色鮮やかな果物、香辛料をふんだんに使った白身魚の揚げ物など、目の飛び出るような値段の料理が惜しげもなく置かれていく。
「宴は初めてかな、ヴァイス君?」
 見たこともない御馳走にうずうずしているところに、隣の若者が声をかけてきた。
「あ、はい、そうです。よろしくお願いします」
 武人らしくない、ほっそりとした体つきの男は手を振って笑う。
「いやいや、敬語なんていいんだよ。宴は無礼講だし、そもそも俺も末席だから」
「えっと……」
 ヴァイスは困った顔をして首をかしげた。同じ末席と言われても、男は見たところ十は歳が上だ。軽々しい口を利くのはなんとなく気持ち悪い。
「まあ、話しにくいなら敬語でも構わないけどね。俺も悪い気はしないし。はいどうぞ」
 そう言って、男は揚げ物を小皿にとって渡してくれた。
「ありがとうございます」
「早く食べたいよね。わかるよ、俺も最初はそうだったから」
 悪戯っぽく笑って、男は付け足した。
「ああ、遠慮せずにどんどん食べな。さもないとあっという間に無くなっちゃうよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 ヴァイスも笑って答え、料理に向かって手を合わせた。
 からりと揚がった白身魚はほんのり甘くて、酸味の効いたタレから、さっぱりした柑橘系の香りが漂って食欲をそそる。とり分けてもらった分をぺろりと平らげると、ヴァイスは次の料理に手を伸ばした。
 香ばしい焼き菓子は果実と木の実がたっぷり入って、パリパリとした食感としつこすぎない甘さが新鮮だった。出先でよく食べる携帯用のものより断然おいしい。同じ料理でこうも違うものなのかと、ヴァイスは思わず感心してしまった。他にも石窯で焼いたふわふわのパン、香辛料で真っ赤になった野菜炒め、牛乳を煮詰めたスープ、名前も知らないような料理の数々に手を伸ばしていく。
 しばし夢中になって食べ続けているうち、すっかり皿は空になってしまった。まだ物足りなそうに残った料理を探して席を立つ人もいたが、ヴァイスはとうに満腹になって、静かにお腹をさすっているところだった。
「旨かっただろう」
 さっきの男がもう一度話しかけてきた。
「ええ、とても。見たことない食材もいっぱいありましたけど、何処から集めてくるんでしょうね。ええと……」
「ミサラだ。そう言えばまだ名乗ってなかったね。一応これでも《導き人》をやってる」
「ミサラさん、《導き人》だったんですか。通りで……」
 ミサラは眉を上げて、抗議するような表情になった。
「体が細い、かい? やめてくれよ、気にしてるんだから」
「い、いえ!」
 ヴァイスは首を横に振った。
「あんまり食事に手をつけてないな、と思って……」
「へえ、食べ物に夢中かと思ったら、意外によく見てるじゃないか」
 感心したと言わんばかり、ミサラはうんうんと頷いている。
「俺はボルサを使うから、体内のボルサに妨げとなる食べ物は口にできないんだ」
「ボルサ……? そんな《シキ》は訊いたことがないんですけど……」
「そうだな、基本となる《シキ》は赤青緑、即ち、炎や熱をつかさどるラグナ、水や冷たきものをつかさどるセルス、風や癒しをつかさどるリンド、この三つだ。そこまではいいかな?」
「はい」
「《導き人》は、ほとんどがラグナかセルスかリンドの使い手だ。そもそも、この世の《シキ》はほとんどがその三つなんだが、実は他の《シキ》も存在する。持って生まれる人間は少ないけどね。俺のボルサの力は雷や通信をつかさどる。ボルサの《導き人》となら離れていても会話ができるんだ」
「そうなんですか! 知らなかった……」
「無理もないよ。珍しい能力だからね」
「大変ですね、折角の料理なのに……」
 同情して声を低めたヴァイスに、ミサラは諭すように語った。
「確かに食事の制約は厳しいし、体内の《シキ》をボルサに変えるために《触媒》を摂取しなくちゃならない。でもその分ギルドからは重宝されてるから、いいんだよ。実は生まれ持った《シキ》はラグナだったんだけど、どうも炎が苦手でね。いろいろ悩んだ末にボルサ使いに転向したんだ。今じゃ自分の《シキ》に誇りを持ってる」
「素敵ですね」
「ありがとう、なんか照れるな……」
 ミサラはそう言って目をそらし、指で頬を掻いた。視線の先では天井からつり下がる燭台に小さな炎が揺らめいている。
「でも、俺は君の方がよっぽど凄いと思うよ」
 ミサラは急に真面目な顔つきになった。
「君は《シキ無し》だろう?」
 ヴァイスもまた険しい顔つきになって、小さく頷いた。
 《シキ無し》、つまりラグナ、リンド、セルスをはじめとした《シキ》の力を持たずして生まれる人間は、前世の悪行の報いだとか、呪われた血の持ち主だとか、何かと差別を受けることが多かった。何故(シキ無し)が存在するのか、未だ謎に包まれたままなのだが、確かにまれにそういう人間が生まれてくるのだ。ヴァイスもその一人で、《シキ》の力は全く使えない。
「僕は……運が良かっただけです。父上がギルドの頭領だったから、《シキ無し》でもちゃんと役目をもらっている……」
 俯くヴァイスの背中を、ミサラはそっとさすった。
「そんなことない。君の評判はよく聞いているよ。《疾り屋》なんてせいぜい十八歳からやる仕事なのに、君は十二の時から始めている。あちこちの国の情勢にも通じているそうじゃないか。将来は素晴らしい頭領になるだろうと、みんながそう言っているよ」
「いえ、いいんです。全部……分かってますから」
 リユンがヴァイスを気遣ってギルドにふれを出しているのは察していた。それでも悪い噂が絶えない焦燥から、リユンは身に余る試練をヴァイスに課しているところがある。ギルドの将来について一番不安を感じているのは、ほかならぬヴァイス自身であった。
「ごめんな。宴の席でする話じゃなかった」
 ミサラはもの悲しい表情で、揺らめく炎をじっと見つめていた。
「でもさ、これだけは言わせてくれ。そうやって落ち込んでるところが、君の一番偉いところだ。《シキ無し》だからと侮蔑する人なんかより、よっぽど客観的な見方ができてる。それは誇りに思っていいと思うよ。何より頭領に必要なのは、大局観だからね」
「ありがとう……ございます……」
 ヴァイスも顔を上げて、揺らめく炎を眺め始めた。

 余興が終わると酒しか出なくなって、ヴァイスはむせ返るような匂いから逃げるように席を立っていた。ミサラのように面倒見のいい人は珍しいようで、ずらりと並ぶ男たちの合間を抜けていっても、誰にも何も言われない。もうすっかり夜も更け、だんだんまぶたの重くなる時間帯だった。部屋に戻るか迷ったが、交流の機会は他に無いからふいにするのも惜しい。かといってギルドにも《シキ無し》を嫌う人は少なくないので、ヴァイスは慎重に宴席の様子を窺いながら彷徨っていた。
 席の序列はごっちゃになったようで、先輩と後輩であろう集団が杯を手に語らっていた。ヴァイスが最初に目にした《導き人》と違い、いかにも筋骨隆々とした重装兵たちだ。酒をあおって赤らめた顔で陽気に笑い、互いに小突き合っているのはとても楽しそうだったが、ヴァイスには自分の入れない閉じた繋がりとして映った。
 酒気と眠気にくらくらしながら後ろを通り過ぎると、ふと、部屋の隅の人影に気がついた。集団に混じるのは難しいが、二人きりなら話しやすいかもしれないと思って近づいたところで、ヴァイスは仰天した。
 長い黒髪を一つに束ねた姿は、紛れもなくネーラだった。少女が周りに酒の器をずらりと並べ杯を傾ける様に、ヴァイスは目を疑う。近づくと強い酒の匂いにあてられて眩暈がした。
「ちょ、ちょっと、なにやってるの!?」
 声をかけてもいらえは無く、虚ろな紅い目は明後日の方向を向いていた。どうやら相当飲んでいるらしく、周りの器はほとんど全部空になっていた。
「放っとけ、そいつは毎回一人で酔いつぶれてるんだ。なに、そのうち泥のように眠りこけて、朝にはけろっとしてるさ」
 背後からの声に、そうだそうだと合いの手が入る。振り返ると声をかけてきた男は仲間との雑談に戻っていて、それっきりこちらを顧みることはなかった。
(そんなこと言われてもな……)
 心配なのは心配だ。それによく考えてみれば、今回ヴァイスが宴に出たのは仕事をともにするネーラを知るためでもある。できることなら話をしてみたい。
「大丈夫? 聞こえてる?」
 鼻を押さえて顔をしかめながら、ヴァイスはなおも語りかけ、ネーラの姿を眺めていた。
 ネーラは、思いのほか綺麗な顔立ちをしていた。傷一つない肌は抜けるように白く、細い眉、桜色の小さな口元は、およそ武人らしくない年頃の少女のものだった。あれだけ華々しい活躍にもかかわらず、質素な旅装から覗く腕は細く、剣を振るうどころか木登りすらできそうにない。狩り場での様子からどんな逞しい姿なのだろうかと思っていたので、ヴァイスは目の前の少女がネーラであることを疑い始めていたが、ネーラ以外の少女が宴に出るはずもない。
「ねぇってば。水持ってこようか?」
 酒を口に運ぶのを止めようと手を伸ばした瞬間、杯を持たない手で鋭く振り払われた。
「ご、ごめん……」
 その間も、ネーラは淀んだ目で遠くの方を見ていた。敏感な反応におやっと思って、改めてよく観察してから、もう一度口を開いた。
「あの……なんで酔った振りしてるの?」
 ネーラは黙っていた。
「顔赤くないし、手はひんやりしてるし、息も酒の匂いがない。本当は酔ってないんでしょ」
 ちらりと横目で睨まれた。しかし視線はヴァイスではなく、その後ろの重装兵たちに注がれている。二人のことなどお構いなしの彼らを見て酒を飲み干すと、空になった杯を床に置いた。
「面倒臭い奴」
 ため息をついて、紅い目が今度こそヴァイスを睨んだ。その眼光は鋭く、どこかリユンを思わせるものがあった。
「ぼ、僕のこと?」
「あんた以外に誰がいるの。まったく……」
 そう言って目を逸らし、口をつぐんでしまった。
「えっと、僕はヴァイス。はじめまして、だよね?」
「目障り」
「え?」
「鬱陶しいから、他所へ行ってくれない」
 露骨に棘を含んだ言葉にすっかり面食らって、怒るどころか後ろめたくなってしまった。
「ご、ごめん。僕、何か悪いことした?」
「つべこべ言わずに行って」
「でも……今度一緒に仕事するみたいだし……」
「ちっ、何も知らないで。早く失せろ」
 怒りを押し殺してネーラは唸る。その怒気に怯んで何も言えないまま、ヴァイスはすごすごと退散した。

(何だったんだろう……)
 結局、ヴァイスは自室へと続く廊下を歩いていた。もやもやしたままでは楽しむものも楽しめないし、宴の席はまだ早いと痛感したのだった。大広間の熱気は嘘のようで、しんしんと冷え切った廊下は深夜の帳に沈み、蝋燭の炎が頼りなく瞬いていた。反響する自分の足音に耳を傾けながら、不意に、ヴァイスは独り歩く心細さに震えた。
(僕は今まで、ほとんど父上としか話したことがなかった)
 ネーラとのやり取りで改めて思い知らされた気がした。齢十まではひたすら学を修め、それから二年は《疾り屋》のため鍛錬を積んだが、たった一人しかいない《疾り屋》に切磋琢磨する仲間も無い。
(確かに僕は、ギルドのことを何も知らないのかもしれない……)
 壁の燭台から火を移し、薄い垂れ幕を焦がさないように持ち上げて自室に入った。寝台と書き物机が備えられた部屋は、小さいながらもギルドには珍しい個室である。思えば、この部屋をあてがわれたのも他者との接触を避けるためなのだろう。《シキ無し》のヴァイスを気遣っているのか、それとも、敢えて隔離することで隠しておきたいことでもあるのか。
 部屋の燭台に火を灯すか迷ったが、手元の蝋燭を吹き消すと、ヴァイスは寝台に横になった。板張りの寝台は厚手の布がひいてあるものの、ぐったりとした体にはごつごつと響く。体は疲れているのに目が冴えてしまって、ヴァイスは仕方なしに物思いにふけり始めた。
(そういえば、ネーラの周りの雰囲気も妙だった)
 戦場であれだけの活躍をしているのだから、本当ならもてはやされて然るべきだ。いくら酔いつぶれていたとはいえ、介抱する人もなく捨て置かれているのはどういうことだろう。今まで酒の場に出たことはなかったから、自分が知らないだけでそういうものなのかもしれないが、なんとなくネーラは周りから疎まれているのだと分かった。
 ネーラの席次はかなり高位だった。当然だ。今回の狩りで紅竜を追い詰めたのはネーラなのだから。しかし、ぶっちぎりで最年少のネーラはひょっとして生意気だと思われているのではなかろうか。だから酔った振りをして自ら周りと距離をとっていたのかもしれない。あるいは、醜態を晒して周りの嫉妬を鎮めるために。
(もしかして、ネーラも《シキ無し》だったりして)
 ふとそんなことを思った。――君は《シキ無し》だろう? ――そう言った時のミサラの眼差しを思い出しながら。
 ちらりとよぎった思いつきは、お腹の底の方にゆっくり収まっていく気がした。そう考えて少し親近感が湧いたが、ネーラのことを自分と同じ境遇だと決めつけるのはあまりにおこがましく、申し訳ない気がした。
(まあ、いずれ分かる時が来るか……)
 ふうっと息を吐くと、吸い込まれるようにして体が沈みこんでいく。静かに目を閉じて息を整えると、ヴァイスは眠りへと誘われていった。

 4

 ヨクアへと旅立つ朝、ヴァイスは厚手の布を纏ってギルドの大門の前に立ち、青々と茂る長笛草の隙間からうららかな陽光を臨んでいた。背にくくりつけた荷には道中の食料ともろもろの薬、帯には銀を挟み懐に蒼竜の短刀を忍ばせている。短刀はもちろん護身用だが、セルスを宿す刀身からは清い水が滴るから、荒野を行く旅路では重宝する代物だった。
「待たせたな、ヴァイス」
 いつもと同じ長衣姿のリユンがネーラを連れて現れた。ネーラはなめし皮の胸当てをつけ、ヴァイスと同じく厚手の布を朝露混じりの風に翻している。いつかの宴の時のように真っ白な素肌を晒していたものの、例によって紅い眼光は刃のようで。他人を寄せ付けない一種の闘気を発散していた。
「万事計画に変更はない。商人の周辺を探り、鱗の卸し先を突き止めてくれ。だが、決して命は粗末にするなよ」
「分かりました」
 ヴァイスは頷いた。
「ネーラ、ヴァイスを頼んだ」
 リユンに言われても返事さえせずに、ネーラは少し歩み出でただけだった。
「馬に変装用の衣と水を積んである。ヨクアに着いたら不要なものを乗せて放しておけ。こっちで回収するから、報告の文を持たせるのを忘れるなよ」
「ありがとうございます。きっと使命を果たして参ります」
 ヴァイスが胸の前で拳を重ねると、リユンはゆっくりと頷いた。
「よろしく、ネーラ」
 話しかけてもやはり黙ったまま、ネーラは遥か遠くの岩肌を眺めていた。大河シガルの恵みを受けるヨクアは肥沃な大地と穏やかな気候に恵まれ、農耕と畜産の盛んな国だ。対してララス山脈の裾野に位置する《サザラク》は、夏には長笛草が茂るものの、ほとんどが荒野と岩肌に囲まれていて、竜狩りで得られる莫大な資金がなければ生きていけないような地味の無い土地である。行く先の方角を見つめ、長い道程に思いを馳せているのだろうか。眉根を寄せたネーラの横顔を見ながら、ヴァイスはそんなことを思う。
 リユンと別れ、二人は厩に向かった。番をしている老人に声をかけて馬札を渡し、二頭の馬を引いてもらう。栗毛の馬には荷が括られ、よく手入れされた毛並みがつやつやと光っていた。
 老人に礼を言って、荷に脚をぶつけないように飛び乗る。ネーラもヴァイスの後に続いた。
「行ってきます」
 馬上から見下ろすと、老人はにっこりと笑った。
「気をつけて」
 微笑み返したヴァイスは後ろを振り返った。
「ほら、早く」
 しかし、ネーラは馬にまたがったまま微動だにしない。
「どうしたの」
 いぶかしんだヴァイスが訊くと、ネーラがようやく口を開いた。
「……これ、どうやったら動くの」
 ぽつりと漏れた声は、ヴァイスの度肝を抜いた。
「え? 馬に乗ったこと、無いの?」
「……無いけど、悪い?」
 完全に開き直っている。見れば確かに手綱すら握っていないし、鐙の存在も知らないようだ。いやしかしちょっと待て、どう考えてもおかしい。
「普段狩り場に行くときはどうしてるのさ?」
「走って行く。いい準備運動になるから」
「走っ……」
 ヴァイスは絶句した。ギルドから狩り場までは回によってまちまちだが馬でも半日はかかる距離だ。しかも狩り場は山の中腹のことが多いから、必然的にごつごつとした山道を登っていくことになる。そんな道のりを踏破するのが準備運動だと、十五の少女がさらりと言ってのけたのだ。唖然とするも、首を振って気を取り直し口を開く。
「えっと……どうしよう。両足で腹を挟んで手綱を緩めれば、歩いてくれるはずだけど」
「手綱? これね。で、腹を挟んで、緩める……」
 ネーラが言われた通りにすると、馬も素直に従った。どうやら飲みこみは早いらしい。胸を撫で下ろして付け加える。
「止まるときは腹を挟んで手綱を引っ張ればいいから。本当はちゃんと練習しないと馬にも負担だから、良くないんだけど……」
「面倒ね。足も遅いし。走った方が早そう」
 不機嫌そうに愚痴るネーラは、馬上で所在なく体をゆすっている。
「無茶言わないでよ。ここからヨクアまで三日はかかる。そんなことしたら疲労困憊だし、そもそも君の分の荷物はどうするの」
「……仕方ない、か」
 ネーラは苛立たしそうに吐き捨てた。ネーラの乗る馬も、騎手の思いが伝染したのか足取りが荒っぽい気がした。
「もう、心配になってきたよ」
 呆れ返ったヴァイスが小声でぼやくと、背後の足音が止んだ。
 眉をひそめて首を伸ばすと、後ろの馬の背にネーラの姿は無かった。驚くのと、手綱を握る手が引っ張られるのが、ほとんど同時だった。
「あんた、随分とおめでたいのね」
 突然目の前に現れたネーラは、あっという間にヴァイスの両腕を絡めとり、喉元に短刀を突き付けた。一っ跳びにヴァイスの馬上に降り立ったようだが、馬に暴れる気配も無いほど軽やかで、静かな身のこなしだった。両腕を極められて身動き一つ取れないヴァイスは、悲鳴も出せずに震えていた。
「リユンが私を野放しにする事態、つまりはそういうこと。生半可な覚悟なら今ここで斬って捨てる。分かった?」
 全身をびりびりと揺さぶるネーラの殺気を感じながら、ヴァイスは微かに頷いた。淡々とした言葉だったが、その冷ややかな響きはヴァイスを竦み上がらせるのに十分だった。
「分かったなら、短刀はすぐ抜けるようにしておくこと」
 ネーラは無表情のまま、短刀を背中に縫いつけた鞘に収めると、颯爽と飛び降りて自分の馬に戻る。動機が収まらず荒い息を続けるヴァイスは、冷や汗を噴き出しながら馬のたてがみに視線を落としていた。
「遅い。早く行くよ」
 ネーラは涼しい顔をして、馬上で束ねた黒髪をなびかせていた。その相貌は、相も変わらずいたいけな少女のものである。
 その姿を透かして、ヨクアの方角に鮮やかな朝焼けが映えていた。その毒々しい紅色に、ヴァイスは死の予兆を垣間見る思いがした。

 5

 半日も経つとネーラはすっかりコツを掴んだらしく、自在に馬を御するまでになっていた。少し出遅れたが予定通り宿舎まで辿りつけそうだ。肌を焦がすような日差しに汗をぬぐって、ヴァイスはほっと息をついた。
 それにしても、ネーラの上達ぶりはめざましいものがあった。明け方まで歩かせ方すら知らなかったはずなのに、早駆けは勿論、時折ちょっとした段差を飛び越えさせたりしてはヴァイスをはらはらさせていた。ギルドの通商隊のために整備されてはいるものの、硬い岩盤が続く道は大きな負担になる。蹄鉄の代わりに弾性と摩擦の強いルルシアンの木を使っているが、それでも限界はある。
「飛ばしすぎだよ」
 ネーラの背に声をかけたところ、体ごと後ろに向き直ったのを見てヴァイスは仰天した。
「ちょっと、なんで手綱放してるの!?」
「堅いこと言わない。大丈夫だから」
 微笑むネーラは早駆けする馬の上で腰を浮かせ、両腕だけで体を支えて見せた。ヴァイスが呆れているのを確かめて腰を下ろしたが、後ろ向きのまま速度を緩めようともしなかった。
「一体全体、なんでそんなに飲みこみが早いの」
「さあね、あんたの教え方が上手かったんじゃない」
 その口調はずいぶん呑気だ。最初こそ不機嫌だったが乗馬を会得してからというもの、ネーラは子供のようにはしゃいでいた。いや、実際子供なのだが、どうもヴァイスにはネーラを子供として見ることができないでいたのだった。
「そんなに飛ばすと馬が疲れちゃうよ。足を滑らせて骨折でもしたら大変だ」
「ふーん、つまんない」
 面白くなさそうな顔をして座り直すと、ネーラはようやく馬の速度を落とした。ネーラは我儘なのかと思っていたが、意外とそうでもないらしい。なんだかんだヴァイスの忠告には素直に従ってくれる。
「宿舎にはいつごろ着く?」
「この調子なら、夕暮れまでには間に合うかな」
 答えると、横並びになったネーラはため息をついた。
「夕暮れか。随分かかるのね」
「退屈だろうけど、仕方ないよ。ギルドの伝令しか使わないから最低限しかないんだ」
「通商隊は使わないのか」
「彼らは馬車の中で夜を明かすんだ。あんな掘立小屋に大人数は入れないから」
「小屋?」
「うん。二人か三人寝泊まりするのがやっとだね」
「それじゃあ、襲撃への備えはさほど難しくないか」
 そう言うネーラの声は真剣そのものだった。
「し、襲撃?」
 戸惑うヴァイスを、ネーラは横目で睨む。
「何、斬り殺されたいの」
「いやその、割とのんびりしているように見えたから……」
「当たり前じゃない。こんな開けた場所で待ち伏せがあるとでも?」
 呆れ果てたネーラの言葉に見回すと、確かに辺りは一面岩肌が続くばかりで、人っ子一人隠れられそうにない。
「敵が地面から生えてくるなら、話は別だけど」
「君が言うと、冗談に聞こえない」
「そりゃあ、勿論」
 ネーラは目をギラリとさせて、口元を歪めて見せた。茶化しているのか本気なのか、ヴァイスには判別付きかねていた。
 馬の世話を終えた頃にはすっかり暗くなっていて、初夏というのに虫の声もなく乾いた風が戸を叩くばかりであった。闇夜に白い髪を揺らすヴァイスが座り込むネーラを見下ろしている。
「お願いだからさ、中に入ろうよ」
ネーラはすました顔で星明かりを眺め、足元もおぼつかない暗闇に黒装束の輪郭を溶かしこんでいる。ヴァイスはその傍に立ち、頑なに小屋に入ろうとしないネーラの説得を試みていた。
「こんな荒野で寝ずの番は必要ないって。頼むからヨクア入りまで体力を温存しておいて」
「大丈夫。慣れてるから」
 ネーラはずっとその一点張りだ。
「寝ないわけじゃない。私は眠りが浅いから、異変があればすぐに分かる」
「風邪引いちゃうよ。このあたり、夜はぐっと冷えるんだから」
 ヴァイスの説教めいた言葉は鬱陶しいと一蹴された。仕方ないので、素直に本音に切り替えることにした。
「なんか申し訳ないんだよ。僕はゆっくり寝るのに君が外で番をするなんて……」
「じゃあ、あんたは」
 ネーラは急に立ち上がって真正面からヴァイスを睨んだ。その背丈が僅かばかり自分に勝っていたのに、ヴァイスは少し驚いた。
「商人から肉を買う時、申し訳ないと思うのね」
「え、えっと?」
 困惑気味のヴァイスに、ネーラはキリッと眉を上げて言い放った。
「あんたは伝令、私は護衛。それが役割で、仕事で、任務でしょう。負い目を感じる必要は全くない。私が半人前と侮辱する気なら話は別だけど」
「い、いや、そんなつもりは……」
 強い口調にヴァイスは何も言い返せなくなってしまった。目を逸らしたのを見届けて、ネーラは再び腰を下ろし星を眺め始める。
「しょうがないか」
 しばし逡巡した後、ヴァイスもネーラの隣に腰を下ろした。僅かに下草の生えた砂地はざらざらしていたが、小屋の壁に背を預けるとそれなりに楽だった。
「どういうつもり」
「僕も外で夜を明かすことにする」
 決然とした口調で言った。案の定、ネーラは怪訝そうな顔をした。
「何考えてるの。あんたが起きてても誰も得しないのに」
「僕がそうしたいからそうするの。まあ、途中で寝ちゃうかもしれないけど」
「呆れた。勝手にすれば」
 ため息をついて、ネーラは一言付け加えた。
「ただし、髪の毛は隠しておいて。この暗闇だとあんたの白髪は目立つ」
 ヴァイスは懐から布切れを取り出すと、言われた通り頭に巻いた。
「これでいいかな」
「何それ」
 ネーラに見せると、可笑しそうに笑われてしまった。
「コソ泥じゃないんだから」
「え、そんなに変?」
 確かに、頭の天辺に布を当てて顎の下で結んだのだが、自分ではどう見えるか良く分からない。
「やめて、こっち向かないで。集中できないから」
「ひ、酷い……」
 結び直そうかと思ったが、思いの外ネーラが楽しそうにしているのでそのままにしておいた。ネーラはひとしきり笑うと、静かになった。
 ネーラの視線につられて見上げると、降るような満天の星空がヴァイスを迎えた。灯りもなく、空気が澄んでいて、標高が高い。よくよく考えてみれば、ここらは星を見るには最高の条件だった。
「綺麗……」
 思わず口に出た。いつだったか、幼いころに学んだ星座がくっきりと見える。今はちょうど北の空にサザラク座が居座っていた。右手に剣を掲げ左手に竜の首を携える姿は、実りの女神ティオーラスを竜から助け出した場面そのものだ。人の身ながら武術を修め、神々にもその才覚を認められるようになったサザラクは、ティオーラスが竜に攫われた際に、大地をつかさどる大神ネロースから《竜狩りの剣》を授かり、見事竜を退治する。ティオーラスと結ばれて英雄となった彼は、その功績を讃えられ天にその姿を刻まれたという伝説がある。ヴァイス達の集う竜狩りギルド《サザラク》は創設者たる彼の名を冠し、《竜狩りの剣》も代々受け継がれている宝剣である、とされている。
「どう考えても後付けだけれど」
 ヴァイスの心中を察したのか、それともたまたま同じことを考えていたのか、ネーラはそう呟いた。ヴァイスはぎょっとなって、思わず訊き返した。
「え、疑ってるの?」
「疑ってなかったの?」
 ネーラはヴァイスよりも仰天した様子で、馬鹿馬鹿しいと唸った。
「いや、そりゃあ僕だって伝説だとは思っているよ。そうじゃなくて、ギルドの心の拠り所をよくもまあ堂々と否定できるな、って」
「士気に関わると? 知ったこっちゃない。そんなこと」
 ネーラはそう吐き捨てた。
「……そう言えば、君は《竜狩りの剣》を実際に使ってるんだったね」
 ひょっとして、伝説の宝剣とされる《竜狩りの剣》も、手に取ってみればそうではないと分かるものなのかもしれない。しかし、ネーラから返ってきたのは意外な答えだった。
「確かに古い剣だし、硬さは段違い。傷一つつかないから、千年前から同じ姿だって言われても否定はできない」
「本当に?」
「うん。柄の部分は代替わりごとに新調するから、尚更ね」
「そうだったんだ……でも、それならどうして?」
 ネーラはしばらく黙っていた。聞こえなかったのか、意味を分かってもらえなかったのかと心配してもう一度尋ねようとした時、ネーラが口を開いた。
「気味の悪い奴、とでも思っているのね」
 あながち的外れではなかったが、ヴァイスにも話を逸らそうとしているのは分かった。
「こら、はぐらかさない」
「……面倒臭い奴」
 少し紅くなって、ネーラはぼそっと言った。
「またそう言う。ごまかすなら無表情を覚えたら?」
 ヴァイスがなじると、ネーラの横顔に何故か警戒の色が現れた。
「私に言わせれば、あんたの方がよっぽど気味が悪いけど」
「どこが?」
「自分の気味の悪さを自覚していないところが、よけいに気味悪い」
 どういう意味と問い詰めても、結局ネーラは教えてくれなかったし、伝説を疑う理由についてもそうだった。仕舞には物音が聞こえないから、と見え見えの逃げ口上で黙らされてしまって、ヴァイスは仕方なく、寝ぼけまなこを擦りながら星空を臨む。
 二人の間を混じりけのない風が吹き抜けた。その冷たさに、ヴァイスは肩を縮めて口元を布に埋める。しかしそれっきり風は吹かず、夜の寒気は静かに積もっていくばかりだった。

 6

 木戸を叩く音に顔を上げると、ちょうど日付の節目を伝える鐘が鳴った。相変わらず時間にうるさい奴だ。そう思いながらもリユンは返事をしなかった。
「ミサラです」
 押し殺した声を聞くと、リユンはようやくいらえを返した。
「よし、入れ」
 腰掛けに座り直すと、音も立てずに戸が開いてほっそりとした人影が現れた。リユンは焦る様子もなく、静かに戸が閉められるまで黙っていた。
「状況は?」
「特に問題は無いとのことです。万事ぬかりなく準備を進めていると」
 リユンの問いにミサラは淀みなく答える。
「そうか」
 リユンは硬い表情を崩さないまま、机上の葉巻を一つ取って火をつけた。考え込むようにしながら青い煙を吐き出し、不機嫌そうに頬杖をついた。
「どうかしたのですか」
「悪い知らせだ。どうもネーラを見くびり過ぎていたらしい」
「と言いますと?」
 ミサラの方も緊張した面持ちで先を促す。
「ヴァイスが、ネーラはとことん酒に強いようだと驚いていた」
「あれだけ飲んで、酔っていなかったのですか!?」
 ミサラが素っ頓狂な声を上げたので、リユンは怒りの視線を飛ばした。
「おい、声が大きいぞ」
「すみません……」
 ミサラをたしなめ葉巻を吸いこんだリユンは、壁にかかる武具を眺めながら語った。
「ヴァイスが言うのだから間違いないだろう。全く酔っていなかったらしい。あれだけ飲めばラグナとヴィエロに侵されるだろうが、そうでないなら非常に強い耐性を持っているということになる」
「しかし、分かっていたことではありませんか? あの話が本当だとすれば……」
「耐性があるというのは確かにそうだ。しかし、ネーラの年齢と体格を考えて、あの量で酔わないのはそれでも異常と言えるだろう」
「まさか……《コクシキ》の持ち主だと?」
「あり得る。十二分にな」
 神妙な面持ちでリユンが頷くと、ミサラは顔を蒼白にして絶句し、しばしぎこちない静寂がのしかかった。
「お言葉ですが、今回の件、取りやめた方がよろしいのではないでしょうか」
 一つ一つ言葉を選ぶように、慎重に進言する。
「そうしたいのはやまやまだが、もう遅い。二人はもう出発してしまっている。今更引き返せというのもおかしい」
「しかし……」
「仕方あるまい。とりあえず、早急にヨクアの方へ連絡して貰いたい。あくまで可能性の段階だが、警戒するなら早い方がいいからな」
「……分かりました」
 ミサラの声はどうしようもないくらい掠れていた。意気消沈と肩を落とす姿に、リユンは明るい声で言った。
「案ずるな。これは同時に大きな好機でもある」
 リユンは葉巻を置いて、机の端をトントンと叩き始めた。
「今回の件が上手く運べば、我々は強大な武器を手に入れることになる。それこそ英雄サザラクの名に恥じないほどにな」
 笑って見せるリユンだったが、目は冷ややかだった。ミサラもまた強張った表情を緩められずに、小さく頷いただけだった。
「では、増員を指示するということでよろしいでしょうか」
「ああ。槍術に長けた者を中心にな。分かってると思うが理由は話すなよ」
「承知しました」
 ミサラは腹のあたりで手を組むと、深々と頭を下げた。

(やれやれ、責任重大だな)
 リユンの私室を後にしたミサラは、丸薬を二粒取り出すと奥歯で噛んですり潰し、少しずつ飲み下した。首や腕をぐるぐる回して凝りをほぐしながら廊下の突き当たりに出て、誰もいないことを確かめてから壁の板をそっと外した。
 通信室に滑り込んだミサラが灯りを点けると、張り巡らされた針金が怪しく光る。細身の人間が入るのがやっとの窮屈な部屋で、ミサラは肩を落とし深呼吸を始めた。
 ボルサの《導き人》は至近距離であれば何もなしに意思の疎通ができるが、サザラクとヨクアのように離れた場所ではそうはいかない。ボルサの力を高める投薬と針金で作った増幅器が必要不可欠で、それでも簡単な信号しか伝えることができない。受信のための装置も必要になるから、こういう専用の部屋が必要になるのだ。
 パチンと指を弾くと黄色の火花が散った。その大きさを確認して薬が回っていることを確かめ、右手で送信用、左手で受信用の線をつまむ。ふうっと息を吐いて目を閉じ、指からボルサの力を放った。
 ミサラの手が素早く三回瞬き、僅かに針金が揺れる。音はしなかったが、ボルサの力が空気を震わせて四方八方に広がっていくのが分かる。同時に、その唸りを捉えて増幅する受信機から、肌を焦がすような強い刺激を感じて顔をしかめた。しかし、機器の点検として必要な過程である。
 しばらくして、受信用の線からパチパチと二回刺激があった。信号待機中の合図を受け取ってミサラは安堵する。信号の受信にはボルサの《導き人》が受信機を手にする必要があって、通信開始の合図もヨクア側に当番がいなければ見過ごされてしまう。そうなると無駄骨で、また時間を変えて合図を送らねばならない。薬も頻繁に使うのは体に悪いから、一度繋がらないだけでもかなりこたえるのだ。
 情報のやり取りも普通の会話とはわけが違う。送信側がボルサを流すと受信側にピリッと刺激がするという仕組みだから、短い刺激、長い刺激の二通りを組み合わせ、文字と対応させて意思の疎通をする。伝達は極端に遅くなるし、聞き直すのも骨が折れる。さらには、受信器が自分の送っている信号を拾ってしまうので、発信しているときは向こうの信号を受けることはできない。そういうわけで、信号と文字の対応を覚えたり簡潔な連絡に慣れたりと、意外に技量の要る役回りである。
 追加連絡はあっけなく終わり、通信室から這い出したミサラはううんと伸びをした。蝋燭を手に自室へと向かうが、薬の副作用で目が冴えてしまっている。しばらくは寝られなさそうだ。そうなると自然に思い起こされるのは、自分が今置かれている境遇である。
 自分の《シキ》に誇りを持っていると言ったのは嘘ではない。ボルサの《導き人》になったからこそ重宝され、狩りに参加しない身分でありながら、こっそり宴席に出ることを許されている。たとえそれがヴァイスに探りを入れるためであったとしても。
 しかしいつも思うのは、自分の代わりなどいくらでもいるのではないかということだ。通信士とはいえ若輩者に極秘の情報を握らせるリユンに、疑念を抱かずにはいられない。ネーラのことが知れてはまずい状況となれば、真っ先にミサラを斬って捨てるに決まっているのだ。ネーラの危険度が高まった今、その可能性は一段と高くなったと言える。
(ネーラが本当に《コクシキ》使いなら、ヴァイスに匹敵する脅威になり得る)
 ある意味、自分はあの二人と運命を共にしているのかもしれない。頭痛に顔をしかめながら、若き《導き人》はため息をついた。

 7

 薄雲の垂れる昼下がり、忌々しいララスの頂きが霞みに紛れるのを眺めながら、ネーラは旅路の長さに思いを馳せていた。《疾り屋》として伝令に走るヴァイスとは違い、一年のほとんどをギルドでの戦闘訓練に費やすネーラは、《サザラク》に入ってから遠出をしたことがなかったのだった。
 ――君は普段、どんな生活をしているの?
 昨晩訊いてきたヴァイスは、性懲りもなくネーラの徹夜に付き合っていた。
 ――一体どうやって強くなったの?
 昨日は空が陰っていたからか退屈を持て余しているようだった。さっさと寝ろと内心毒づいたのだが、無駄に生真面目なヴァイスが折れるはずもない。
 自分の身の上は話せないので黙っていた。俯いて口をつぐんでいたらヴァイスも諦めて、代わりに自分の話を始めた。
 取りとめもない話だったが、一つ驚いたのは、ヴァイスもまた戦闘訓練に携わっていることだった。リユンの息子として寵愛を受けるヴァイスは、部屋に籠もって座学にいそしんでいるものとばかり思っていた。《疾り屋》はそんなに危険な任だっただろうか。ネーラには聞き覚えがない。
 ちらりと後ろを振り返ると、ヴァイスはぴたりとついて来ていた。老人のように真っ白な髪、幼子のようにころんとした丸顔。伝令としての旅装に身を包み、帯にはサザラクの紋章が入っている。自分のことは棚に上げて、読めない奴だとネーラは評していた。流石に眠たげだが意外に体力はあるようで、二日間夜を明かした割にはぴんぴんしている。心のどこかでヴァイスを見下していたのだが、少し改めるべきかもしれない。
 ララスから離れるうちに辺りは草木が生い茂り、だんだんと森は深まっていった。名前も知らない小鳥のさえずり、やかましい蝉の声、小川のせせらぎは今までネーラに縁もゆかりもなかったが、殊更感慨深いものでもなかった。けれどヴァイスは森に入ってからというもの、せわしなく辺りを見回していた。
「そんなに面白いの」
 話しかけるとヴァイスと目が合った。いかにも不思議そうに、真っ黒などんぐりまなこをパチパチさせている。
「面白いも何も、ご飯を探さないと」
「はあ?」
 思わず声が上ずった。冗談と思ったがヴァイスは大真面目だ。
「ご飯って、食料は積んできたでしょう」
「もうほとんど空だよ。最初からここで調達することを見越してたから」
「そ、そう……」
 口には出さなかったが、ネーラにとっては死活問題だ。宴の料理は例外として、ギルドの食事はそれほど美味しいものでもなかったが、道中の携帯食は思いの外不味かった。ほとんど味が無いのを平然と口にするヴァイスの気が知れない。それに量が全然足りなくて、おかげでずっと腹をすかしている。
 そういうわけだから、現地調達と聞いてげんなりした。火もないのに美味しいものができるはずがないし、量もそんなに取れるとは思えない。
「あ、馬鹿にしてるでしょ」
 ヴァイスは口をへの字にして馬の速度を落とした。ネーラもそれに倣う。
「このあたりは食べられる植物や兎が多いから、よっぽど食べ物には困らないよ。ほら、近くに小川だってあるでしょ?」
「知らない。あんたと違って初めてなんだから」
 苦笑したネーラをよそに、ヴァイスは馬から飛び降りた。近くの木に馬をつないできょろきょろしている。ネーラも同じように紐を括りつけようとするのだが、いかんせん不慣れで上手くいかない。その間ヴァイスは手伝うでもなく、今度は匂いを嗅いでいるようだった。
「うん、兎があちこちにいるみたい」
 背に帯びた短刀を引き抜いて、ヴァイスは茂みの中に分け入っていった。
「そんなので捕まえられるの」
「竜狩りよりよっぽど楽だよ」
 ふっと笑って、ヴァイスは藪の向こうに姿を消した。
(全く、訳分かんない奴)
 太い幹に背をもたせかけると、ざらざらとした木肌から涼やかな香りが漂った。きっとセルスだかリンドだかを蓄えた霊樹なのだろう、通りで大きいわけだ。ヴァイスもこれくらい分かりやすいのならいいのだが。
 ネーラが気味悪がっていたのはヴァイスが異常に敏感なことだ。酒の席で酔っていないことを言い当てたり、一寸先も闇の夜に表情を読み取ったり、匂いで兎を探し当てたり。一体どういう訓練をすればあんなことができるのだろうか。唯一はっきりしているのは、本人には自覚が無いということだけだ。
(あの狸じじいのことだから、上手く隠しおおせているんだろうけど)
 だとしても何の為だろう。ネーラは訝った。何か企みがあるのだろうか。そうだとしても、何故わざわざ私とヴァイスを引き合わせたのだろう。双方の秘密が露呈する危険を冒してまで、必要なことだったのだろうか。
(きっと裏で何か大きなことが動いている)
 あるいは、私がこうやって警戒することも想定内かもしれない。
(気に入らない)
 ネーラは腕を組んで、無意識のうちに、踵で木の根元をガツガツと叩いていた。

 ガサガサと草をかき分ける音を聞いて、ネーラは顔を上げた。
「ほら、取ってきたよ」
 姿を現したヴァイスは兎を二羽抱えていた。どちらも首のあたりがすっぱりと切れて、まだ血が滴っている。ヴァイスは馬の荷から油紙を取り出して敷き、兎の亡骸を横たえた。短刀で頭を落とし、手際良く皮を剥いでいく。
「そんなもの、生じゃ食べられない」
 目を背けて、ネーラは嫌悪の表情を隠そうともしなかった。実際、動物の解体に遭遇するのは初めてだった。意外にヴァイスよりも自分の方が箱入りなのではと思えて、余計に苛立たしかった。
「生でなんか食べないよ。ほら、紅竜の短刀を貸して」
 血の気の引いた顔で後ずさり、素早く短刀を抜いて構えた。ほとんど反射的な動作で、ネーラは戦闘態勢に切り替わっている。
「今何て言った?」
 口をついた言葉は想いの外冷めていた。寧ろヴァイスの方が動揺しているように見える。
「え、何、どうしたの?」
「私から武器を取り上げて、どうするつもり」
 ヴァイスの顔色を窺いながらも、決して気を緩めなかった。武器を取られても遅れをとる相手ではない筈だが、いかんせんこの少年は得体が知れない。少しでも妙な動きをすれば、直ちに斬って捨てる覚悟はできていた。
「ど、どうするって、料理に使うんだけど。火が要るから」
「言ってる意味が分からない」
 突っぱねると、ヴァイスは困った顔をして固まっていた。無言の圧力を察したのか、ネーラの方には近づこうとしない。しばらくして、身じろぎひとつせずにヴァイスが震えた声を漏らした。
「あ、あの、僕の短刀と交換するのは駄目?」
「鞘に入れて、足元に置いて、五歩下がれ。ゆっくりと」
 抑揚の無い声で言うと、ヴァイスは言われた通りにした。ヴァイスの挙動を見逃さないように気をつけながら、蒼竜の短刀を拾って検分する。薄青の刀身は滑らかで、刃を軽く指に当てると血が滲んだ。紛れもなく業物だ。
「分かった」
 ネーラは自分の短刀を地面に置き、霊樹の梢まで戻った。ヴァイスはほっと胸を撫で下ろして、恐る恐るネーラの短刀を拾う。心底怯えた様子でチラチラとこちらを窺う姿を見て、ネーラは多少なり警戒を緩めたが、疑念は晴れなかった。
「知らないかもしれないけど、竜の短刀にはこういう使い方もあるんだ」
 ヴァイスはぶつ切りにした兎の肉を串に刺すと、ぎこちない手つきで短刀を抜いて地面に突き立てた。何をする気かと遠巻きに眺めていたネーラは、突然刃から炎がほとばしるのを見て驚愕した。
「ほらね、便利でしょ?」
 言いつつ、ヴァイスは串の持ち手を地面に刺して固定し、炙り始めた。円を描くように並べ終えた後も火の勢いは弱まることなく、寧ろ火力を増しているようにさえ見える。
(何なの……?)
 ネーラは事情を悟ったわけだが、ヴァイスへの警戒は一層深まった。確かに紅竜の鱗は熱を帯び、時に炎を発するが、それも竜が生きていればこそである。死んだ竜の鱗、ましてやそれを削って武器にした物が火を放つなど、ネーラには前代未聞であった。
(本当に《シキ無し》……?)
 ヴァイスがラグナの《導き人》であるなら、炎を扱えるのも納得がいく。しかし、《シキ》を使ったなら炎はヴァイスの体から放たれるはずだし、わざわざ短刀を借りる必要もないだろう。何が起こっているというのか。
「焼けたよ」
 ネーラの心中もいざ知らず、ヴァイスは無邪気に肉の串を差し出してきた。朗らかな表情は、ネーラの目とかち合って曇った。
「え、えっと、まだ許してくれないのかな」
 酷くいたたまれない様子でしゅんとしているのを見て、ネーラはため息をついた。
「何て言うか、馬鹿馬鹿しくなってきた」
「何が?」
「何でもない」
 ひったくるようにして串を奪うと、熱さも構わずに齧る。
「……美味しい」
 思わず口に出てしまった。何も味付けしていない筈なのに、ほんのり甘辛い。
「でしょ? 本当は道中の食料は持って行けって言われるんだけど、こっちの方が断然美味しいから」
「携帯食に比べれば、だけど」
 無性に悔しくなって付け加えたものの、ヴァイスの目は見られなかった。
「意地っ張り」
「うるさい」
 やはりヴァイスは目敏い。ヴァイスについては分からないことの方が多いわけだが、間違いなく最初から最後まで鬱陶しい奴だということを、ネーラは確信した。

 ヨクアへの旅路は、残り僅かである。

 8

『ようやくこの時が来たのね』
 ララスの頂きは一面銀の雪に覆われ、立ち込める霧を冷たい風が吹き散らしていく。イリアは雲海の広がる下界を見下ろしながら、傍らのバルストと共に感慨を分かち合っていた。
『ああ。待ち望んでいたよ』
 バルストもまた、妻と同じように柔らかく微笑んで水平線の彼方を眺めていた。二人はそっと寄り添い、互いに身を暖めている。
 しばらくそうして黙ったまま、時の経つのに任せていた。
『……行ってしまうんだね』
 寂しそうな声で、バルストが漏らした。
『何よ、未来の為じゃない』
『分かってるさ。でも、心細いんだよ』
 イリアはバルストの方を見上げて、それから拗ねたように視線を落とした。
『もう、いつもそうなんだから。私だって子供じゃないのよ』
『心配なんだ。愛おしいから』
『馬鹿にしてるの?』
 悪戯っぽく笑って、イリアはバルストに頭をもたせかけた。バルストの方もそれに倣うと、イリアがちょっと身じろぎした。
『やめてよ、くすぐったい』
『何だそれ』
 不機嫌そうに鼻を鳴らすと白髭が揺れて、イリアがきゃあと叫んだ。
『だから、その髭がくすぐったいんだってば』
『そんなこと言われてもなあ』
 しょんぼりするバルストを見て、イリアはもう一度笑う。
 ララスに降りしきる雪はさらりとして、ちょうど銀砂のようだった。ビュウッと一際強い風が吹くと、一斉に雪が舞い上がる。ひらひらと落ちてくるのはミルナの花弁のようで、懐かしい記憶がすぐそこにあるようだった。
『そろそろ行かないと』
 ぽつりと呟いたイリアの声も、寂しげだった。
『本当に、駄目かな』
『仕方ないわよ。そういう決まりだもの』
『けどおかしいじゃないか。君にだけ苦労を押しつけたまま、待つことしかできないなんて』
『苦労だなんて、そんなに大層なことじゃないってば』
『そうかもしれないが、観光ってわけでもないだろう』
『それはそうだけど……』
 見つめ合う二人は、いつしかほとんど抱き合うくらいに身を寄せ合っていた。
『……駄目、これ以上こうしていたら、覚悟が萎えちゃう』
『……そうか』
 名残惜しそうに身を引くと、雪混じりの冷たい風が二人を隔ててしまった。
『あのさ』
 言いにくそうに、バルストが口を開いた。
『何?』
『もしも……もしも身の危険を感じたら、ここに戻ってくることを一番に考えてくれ』
『ねぇ、怒るよ?』
 言いつつ、イリアは小さく微笑んだ。
『勿論新しい命だって大切だ。でも、お前は一人しかいない』
 イリアは、その言葉を噛みしめるようにたたずんでいた。霧を透かして朝日が差し始め、暗い藍色だった空が赤みがかってくる。行く道をちらりと見やって、イリアは口を開いた。
『分かったわ。ありがとう』
『ああ。行ってらっしゃい』
『行ってきます』
 絨毯のように広がる雲に日が差して、光の道のようになっていた。イリアは背を向けて東の空を臨み、ふうっと白い息を吐いた。
『心配いらないわ』
 首を伸ばしながら、イリアは自分に言い聞かせるように呟いた。
『たかが人間、恐れるに足らずよ』
 ばさっと翼を振るって一気に飛び立つ。蒼い鱗を煌めかせてヨクアへと飛んでいく姿を、バルストはいつまでも眺めていた。

二 ヨクアのミルナシア

 1

 ヴァイスの知る限りでは、ヨクアは単なる地名であって厳密な国の名前は無い。ここ百年ほどはミルナシア朝と呼ばれ、最多民族であるミルナ族の貴族官僚が統治しているが、法制度や税制は地方豪族に放任していて、シガル川流域の直轄地を除き、どこまでがミルナシア皇室の勢力域かは非常に曖昧である。度々サザラクがヨクアの竜狩りギルドであると誤解を招くのもそういった背景があって、今回のようにヨクアの貿易商を通じて発注が入ることもままあった。
 古来よりシガル川のもたらす肥沃な土砂に恵まれ、農耕牧畜が盛んで生活水準も高い。王朝の名を冠する首都ミルナシアの人口は五十万とも言われ、他に類の無い繁栄を誇っている。軍事面でも強国で、駿馬を集めた騎馬部隊は無敵の名を欲しいままにし、皇室が運営する導術院には各地から秀才が集まって《シキ》の研究、鍛錬に励んでいる。実はサザラクの馬や《導き人》たちにはヨクア出身の者が多い。
 しかしその栄華もここ十数年で大きく様変わりしている。ミルナシアのすぐそばを流れるシガル川、その向こうには遊牧民族のシグが迫っていた。建国直後の三十年は頻繁に遠征を行っていたものの、それ以来内乱もなく平和に過ごしてきたヨクアの民は剣の振り方なぞ忘れてしまって、兵力は水面下で衰退を極めていた。さらには、重税を必要とする城塞の建設は代替わりごとに提案されてきたが、なあなあに先延ばしになって今に至っている事情がある。一方、シグは部族間の闘争が終結し、経験豊富、血気盛んな騎馬兵たちが結託して首都を目指している。リユンなどは首都陥落が近いと見ていた。

「で、なんでそんな話を私にするわけ」
 はっきり鬱陶しそうなネーラは、髪を下ろし袖に花模様の入った衣を着て、すっかり街娘の出で立ちになっていた。方やヴァイスも頭巾で髪を隠し、薄青の衣を紐で締めている。銀と短刀を忍ばせている他は一切手ぶらで、残りの荷は馬に乗せて放してしまった。心許ないが、帰りはギルドの出張所で支度をする手はずになっていたから、心配は無用というものだ。
「勿論、ここに馴染むためだよ」
 市場へと出る近道、煤けた煉瓦造りの居住区を歩くヴァイスは、周りに誰もいないことを確かめて口を開いた。
「そんな話聞いても参考になると思えないんだけど」
「本当にそうかな? 例えば君は今、可愛い街っ子の格好をしているけど」
「死にたいの」
「落ち着いて」
 ヴァイスは顔をひきつらせて、剣呑なネーラをなだめる。慌てるヴァイスを見て「冗談」と零したが、無表情なのが恐ろしい。出発の日に短刀を突き付けられたことを忘れたわけではなかった。
「別に服だけが可愛いって言ってるんじゃなくって、その……」
「冗談って言ったの、訂正しようか」
 じりじりと近づいてくるネーラに、ヴァイスは冷や汗かいて黙ってしまった。
「全く、馬鹿にして」
 舌打ちしてそっぽを向いたので、ひとまず殺される恐れはないと安堵した。
「なんでそんなに怒るのさ……」
「逆に、どうして怒らないと思ったの」
 小さい声でぼやいたつもりだったが、しっかり聞かれてしまったらしい。呆れかえったネーラにこれ以上責める様子がないのが幸いだった。
「可愛いって褒め言葉じゃ……皮肉だとでも思ったの?」
 火に油を注ぐことだと思っていたが、聞かずにはいられなかった。案の定、ネーラの視線が鋭くなる。
「私は武人であることを誇りに思っている」
 勇ましいその声は、何故か微かな危うさが混じって響いた。
「生き抜くために、誰よりも強く在る。己の強さを軽んじる命知らずは、刃をもって迎えるのが武人としての礼儀」
 ぎらつく目は蛇の如く、牙を剥くように袖から刃を覗かせたネーラだったが、ヴァイスはきょとんと気の抜けた顔で立ち竦んでいた。
「僕は、君が弱いなんて言った覚えは無いよ。弱さと可愛さなんて別なものでしょ」
「ふざけてるの」
「全く」
 言葉通り大真面目な顔なので、ネーラは毒牙を抜かれた思いがした。仕方なしに短刀を収めて、形ばかり話を聞く素振りをする。
「君は間違いなく強いよ。丸腰でも敵う気がしないし、それを疑ったこともない。でも君の場合、見た目と強さは関係ないでしょ。運動能力のほとんどが《シキ》の力なんだから」
 人間は動くために筋肉を使うわけだが、それだけではない。体質や鍛錬によって体内の《シキ》が潤沢な場合、それを外部に放出するのが《導き人》の業だが、一方で体を動かす力とすることもできる。以前、ヴァイスはネーラが《シキ無し》と疑ったが、少し考えれば分かることで、華奢な体つきの彼女があれだけ奮闘できるのは《シキ》の力に他ならない。しかし、《シキ》の運動能力への影響はさほど大きくはないはずで、やはりネーラは逸材と言うべきなのだろう。
「それに、可愛さや美しさだって、強さになり得る」
「どういう意味」
 やや饒舌になってきたヴァイスに、ネーラは辟易していた。
「綺麗な花には虫を誘って花粉や種を運ばせる力がある。それは強さって言ってもいいんじゃないかな」
「自分で何もしないのに」
「そう? 植物には自分で動けるだけの養分が摂れない。その制約の中で子孫を増やすために美しさを磨いているとしたら、それは本当に怠けてるのかな」
 ネーラは黙った。
「僕が思うに、一番恐ろしいのは他人を従える権力だ。玉座で扇を振るうだけで屈強な兵士たちが領土を広げてくれるし、逆らえばどんなに武に長けた者でも死を免れない」
「それは、あんたがリユンの子供だから、そう言うんでしょう」
 面白くなさそうにもぞもぞと呟く。しかし、ちゃんと聞き入っていた。
「そうかもね。別に考えを押し付ける気はないけど」
 さらりと流すと、ネーラは顔を曇らせたが刃を抜く気はなさそうだった。
「話がそれた」
 そらしたのは君でしょと言いたかったが、これ以上怒らせるのも怖いので黙っていた。
「うん、えっとつまり、周りから見られて不自然でないような振る舞いをしなくちゃいけない」
 引きつった顔を平静に繕うために少し息をつく。
「その着物は一級品ではないけど、なかなかの上物だ。ちょっとした商人か、腕の立つ職人ぐらいでないと手が出ない。それも新品だからね、はしゃいで当然だよ」
「何て」
「な、何かまた変なこと言いましたか……」
「違うけど」
 額を拭ってヴァイスは肩を落とした。
「ミルナシアを出て北へ逃れる人もいるくらいだ。最近はみんな節制していて、商人も懐が寂しいんだって。だから、君には明るく振舞ってもらわないと。僕も同じだけど」
「明るく振舞う……私が……」
 不本意だと言わんばかりに着物の裾を握りしめて、そのまま引きちぎってしまうのではないかと心配になった。
「まあ、確かに苦手そうだね……」
 思えば、ネーラが笑っているところなど見たことが……いや、そういえば一度だけあった。
「それじゃあ、こうすればいいのかな」
 うなじの結び目をほどいて頭巾を取ると、顎の下で結び直した。この間、ネーラがコソ泥みたいと笑った姿だ。
「もう飽きた」
 ネーラは冷たい視線を返す。
「ええっ、何それ! あんなに笑ってたのに」
「今はそういう気分じゃないの」
 逆にあの夜はそういう気分だったのか。一体何の違いがあるんだ。ヴァイスはうんざりしながら頭巾を元に戻した。
「じゃあ、今ここで笑顔の練習しようか」
「調子に乗るな」
「でもそうしてくれないと仕事が捗らない。商人だって不景気の中、大口の取引先を見つけてピリピリしてるはずだ」
 恥辱なのか、唇をわななかせながら険しい表情をしているのは、笑顔とは程遠い。
「上手く丸め込もうとしてる」
 ぶっきらぼうに、口を尖らせる。
「そりゃそうだよ。必要だもん」
「本当に、鬱陶しい奴!」
 噛みつくように語気を荒げる姿も、満面の笑みと同じように新鮮だった。
(上手くいくといいけど)
 大いに不安を感じながら腕を組むヴァイスは、路地の向こうでこちらを覗く人影に気がつかないでいた。

 2

 ミルナシアの中央広場には民族の象徴たるミルナの花が咲き乱れ、柔らかい朝の陽を受けて微かに甘い匂いを振りまいている。花壇の奥には壮麗な塔がそびえ、市の始まりを告げる鐘が黄金に輝く。中央広場から伸びる街道には、半裸になった人夫たちが荷を下ろし、牛車がギイギイ音を立て、毬を追いかける子供らを散らしていく。一時はがらんどうになった大通りに続々と露店が立ち並び、忽ち売り子の声がひしめき合う廿日市に様変わりしていた。
「ヴァイス、待って」
 くらくらするような人ごみをするりと通り抜けていく、その背中をネーラはうんざりしながら追いかけていた。平地を踏破するのは断然ネーラの方が速いわけだが、いかんせん人ごみには不慣れだ。竜の尾を避けるのとはわけが違う。
「ヴァイス!」
大声で呼びかけて、ようやくヴァイスは振り返った。瞬間、刺すような視線がネーラを射抜いたが、蝋燭を吹き消すように、瞬きする間もなく凪いでいた。
「ごめん」
どちらともなくそう言って、ヴァイスが微笑んだ。俯いたネーラは笑い声に顔を上げ、拳を固めて睨む。
「何」
「いや、謝るなんて珍しいなって」
拳を開いて、目を逸らす。
「ついて行くのが仕事だし」
「それもそうか。もうちょっとゆっくり歩くよ」
ぼそりと呟くとヴァイスは笑う。内心ほっとしながらも、いけすかない奴だと呆れずにはいられない。
「あんた、いつも笑ってる」
「君はいつも怒ってるけどね」
言い返したい衝動に駆られて身じろぐも、後ろめたさに体が強張る。
「怒ってるなら」
 口をついた声は、思いのほか暗かった。
「怒ってるなら、ちゃんと怒って」
 ルルシアンの履物で一歩踏み出すと、まっすぐ覗いたヴァイスの目が小さく揺れる。
「え?」
「仕事に支障をきたすならちゃんと叱って。私を気遣っても得しないから」
「分かってるよ」
「どうだか」
 ヴァイスは甘い。普段の温室育ちが透けて見えるようだ。まずもって、人一人も手にかけたことが無いのだろう。
 俯くと、下ろした髪が肩を流れ落ちた。ヴァイスの甘さにも虫唾が走るが、それ以上にヴァイスに甘えている自分が心底ふがいない。歯ぎしりするほど自責の念に苛まれていた。
「仕事熱心なんだね」
 皮肉ではなく、すっかり感心した風だった。
「そんなに気を落とさないでよ。たっぷり時間はあるんだから、ゆっくり回ればいい」
 励ましているつもりなのだろうが、余計に自分が許せなくなるばかりだった。笑顔の練習も結局上手くいかなかった。どうしても、自分には辛気臭い顔しかできないのだと痛感したものだ。
「商人の動向を探るなら、早く回った方がいいに決まってる」
 強い口調で言い放つと、ヴァイスは困ったような顔をした。
「うーん、それなら」
 突然、ヴァイスはネーラの手を引いた。
 反射的に腕が震えたが、初めて触れた手の質感にはっとさせられた。
(武人の手だ……)
 ヴァイスの掌はざらりとしてマメだらけだった。剣を日常的に振るう手で、とても一朝一夕ででき上がるものではない。それもネーラの手と重なるのは左手、利き手でないということは、短刀でなく両手持ちの武具も使い慣れているということだ。
「これならはぐれない。じゃあ、行くよ」
「えっと」
 聞く暇も与えず、ヴァイスはえいやっと駆け出した。ネーラにしてみれば決して速くはないが、何分人の押し合い圧し合いする雑踏だ。人の間の僅かな隙間をかいくぐって、縫うように走り抜けていく。
「ちょ、ちょっと!」
「君は」
 少し息を切らしながらも、ヴァイスは笑顔だった。
「竜の攻撃を避けるとき、どうしてる?」
「どうって言われてもっ」
 めまぐるしく現れては消える人の波に目を回しそうなネーラは、ヴァイスの問いに答えるどころではない。
「止まろうか」
 ははっと笑ってヴァイスは足どりを緩め、街道の端っこ、露店の陰になっているところにネーラを連れてきた。
「驚かせちゃった?」
「色々ね」
 肩で息をするヴァイスに対しネーラは涼しい顔だったが、髪の乱れは隠せないでいた。
「君はきっと、竜の爪とか炎とか、危険な場所に的を絞って警戒しているんでしょ」
「まあ、そうね」
 何が言いたいのか、探るような目つきのまま、ネーラは応じた。
「人ごみを抜けるときは、一人一人に注目しちゃ駄目なんだ。全体を俯瞰して、人の群れ全体を一つの流れとして捉える。そうすれば、自ずと道が見えるはずだよ」
「そういうものなの」
「うん。君の方が運動能力は高いんだし、コツをつかめばすぐできるようになるよ。大局観が大事ってことだね」
「大局観……」
「それに、もし竜が岩を跳ね上げたりしたら、似たような状況になるはずだよ。爪や炎の方が怖いけど、当たったら重症だし」
 ヴァイスの言葉にぎくりとなったが、他意は無いらしいので安堵する。その微妙な表情の変化を読み取ったのか、ヴァイスは悪戯っぽい目で詰め寄った。
「そう言えば、さっき僕を投げようとしたよね」
「うん、つい……」
 さっき手を握られた時のことを言っているのだ。確かに、あとほんの少しで投げ飛ばしているところだった。
「ごめん」
「いいんだよ。頼もしいから」
 と、袖の中から丸いものを二つ取り出して、片方をネーラに放った。
「何これ」
「ホダンっていう果物だよ。これでも食べて元気出して」
「いつの間に、こんなもの」
「何、普段から散々竜の鱗で儲けさせてあげてるんだ。これくらい貰ったって、罰は当たらないさ」
 つまりは、さっき人ごみを走り抜けた時に出店から拝借してきたということだ。意外に手癖が悪いらしい。呆れるネーラをよそに、爪を立てて皮を剥き、一息に頬張った。
「酸っぱい……」
 ヴァイスはとびっきり渋い顔をした。
「罰は当たらないんじゃなかったの」
 思わず顔をほころばせて皮を剥くと、匂いを確かめながら齧りつく。
「こっちは甘いけど」
「やられた……」
「渡したのはあんたでしょ、ほら」
 あんまり辛そうな顔をしているので、半分残してヴァイスに放る。
「え、いいの?」
 慌てて取り落としそうになったヴァイスは、幽霊でも見たように目をぱちくりさせている。
「毒なんて入れてないから」
「やりかねない」
「うるさい!」
 言いつつヴァイスを小突く。力が入り過ぎてしまって、鈍い音とともにヴァイスはひっくり返ってしまった。
「ねえ、もうちょっとで落とすところだったじゃないか!」
「逆に、よく落とさなかった」
 手を差し出すと、ヴァイスは後ずさりして、自分で立ち上がった。投げようとしているのがバレたらしい。
「残念」
 呟いて髪をかきあげると、衣の袖からふわりと花の香が立ち上るのに気がついた。
(これ、香が焚き染めてある)
 きょとんとした表情で、藍染の布に踊る白い花模様を眺めていた。中央広場の花壇と同じ匂いだから、恐らくはミルナの花なのだろう。
(仕事が終わったら、髪飾りでも買って帰ろう)
 密かに決意したネーラは、自然と微笑んでいた。

 3

草木も眠る丑三つ時、ピリリとした暗闇と静寂に沈む路地の一角には橙色の灯火が怪しく浮かび、物言わぬ二匹の犬が湿った風を食んで、星明かりに目をぎらつかせていた。
犬を従える見張りは二人、殊更語らうでもなく灯りを手に佇んでいる。大小の刀を差し簡素な皮鎧を纏って、時折ひゅるりと掠れた口笛を吹いては気を紛らしていた。所在無さげな音色が通り過ぎる度、深夜の静謐さに磨きがかかるようだ。
鏡の面の如く滑らかな静けさに亀裂を走らせたのは、小さく犬が唸る声だった。二人は我に返って視線を交わし、片方が犬とともに持ち場を離れる。賢い犬はまっすぐに標的に向かうも決して吠えず、見張りも抜き足差し足でそれに従った。
 灯りをかざしてもなお仄暗い石畳の街路、煤けた煉瓦の壁に突き当たると、犬は鼻をひくつかせながら左に曲がった。商店の表に面した大通りへ抜ける道だ。見張りの男はゆっくりと刀を抜き、灯りと刀を両手に持って闇夜に分け入っていく。
 突如、手の痛みとともに灯りが掻き消えた。生温い血が滴るのに耐え、震える手で刀を握り直す。付き従う犬は低く唸りながら耳をそばだてて、主人の足元をぐるぐると回っていた。
「誰だ、何処にいる!」
 恐怖に上ずった声は暗闇に吸い込まれた。痛みに顔をしかめて膝をつくと、犬は心配そうに身を寄せ、手の甲の傷を舐め始めた。
「俺のことはいい。敵は何処だ?」
 緊迫した声で呟いて立ち上がると、犬は首を振って大通りの方へ歩き始めた。
「そっちなんだな」
 汗を噴き出しながら、息を潜めてついていく。血でぬめった左手を庇うように伸びる剣先は細かく震えていた。
 ほどなくして犬は歩みを止め、バウッと一声吠えた。大通りの少し手前、確か小さな質屋があった辺りで、隠れる場所は無かったはずだ。
(誰もいない……?)
 ぐるりと見回しても人の気配は無い。しかし、犬は確かにここだと告げているのだ。狐につままれたように立ち尽くしていると、犬が地面から何かくわえてよこした。
 目を凝らすと、それは一輪の白い花だった。五枚の花弁から微かに甘い匂いが漂ってくる。何のことはない、ごくごくありふれたミルナの花だ。
「なあ、お前はどうしてこんなものを拾ったんだ?」
 言いつつ、男は背筋の寒気を抑えきれずにいた。手の傷は思ったより深いらしく、脈打つ血潮はまだ止まない。燕が食いちぎったわけでもあるまいし、敵は間違いなく近くにいるはずなのだ。
 その時、見張りに立っていた裏口の方から犬の悲鳴が聞こえた。
「くそっ、あっちか!」
 花を打ち捨てて、急いで加勢に戻る。
角を曲がったところで、どさりと人の倒れる音がした。灯火はとうに消え、黒く塗りつぶされた視界に何かうずくまっているのがかろうじて映った。介抱するべきか、いや、そんなことをしていれば襲われる。或いは一旦引いて灯りを持ってくるべきだろうか。走りながら、男は焦りを隠せないでいた。
足元で断末魔が上がる。
「畜生、どこにいやがる!」
寡黙な犬も今際の声は激しい。耳をつんざく悲痛な叫びにすっかり怖気付いてしまって、背後に人の足音を聞いた時にはほとんど飛び上がりそうだった。
振り向きざまに薙いだ刀は難なく躱され、目の前に火花が散った。懐に鋭い蹴りが入って悶絶し、声も上げられずにもんどり打って倒れる。傍らに立つ誰かが自分の体を持ち上げるのを感じたが、訳も分からないまま息が詰まって、男は意識を失った。

「まったく、とんだ素人だった」
 合図を受けてヴァイスが出ていくと、二人目の見張りを締め落としたネーラは呆れ顔で、気絶した二人を引きずっていた。手伝おうとしたら睨まれてしまったので、大人しく腕を組んでネーラの仕事ぶりを眺めていた。
「素人って、どの辺が?」
 声をひそめて尋ねる。深夜の裏通りに人目があるとは思えないが、念のため灯りには蝋燭を使い、極力物音は立てないようにしていた。
「聞いてどうするの」
 裏口の扉に寄りかかった見張りを押しのけながら、ネーラはぶっきらぼうに答えた。
「僕が素人だったら軽蔑するでしょ」
「まあそうね」
 犬の死体からはドクドクと血が流れ出していたが、狙いすましたかのように道の端で息絶えていたので、ネーラは何処からか小豆色の布を引っ張ってきて、血の跡もろとも覆ってしまった。
「まず、燭台を手に持っている時点で論外。戦闘の時に片手が塞がるし、自分の位置を教えることになる。灯りが欲しいなら篝火でも焚けばいい。持ち場を離れるのも愚策で、目的が侵入だと知っているなら素直に待ち伏せて、単独行動は避けるべき。ギャーギャー騒ぐのも戦い慣れしてない証拠。実際弱かったし。あと、こんな細い道で太刀を振り回そうとするとか、他にも色々」
「成程、でも犬は優秀だったよね」
「それは認める。どう考えても宝の持ち腐れだった」
 ネーラは男二人を壁際に並べて寝かせ、顎を上げて喉を詰まらせないようにしてやった。それから黒衣の懐を探って小さな巾着を取り出すと、紐を解いて中身を嗅がせた。
「それは?」
「睡眠薬。目を覚まさないとも限らないから、念のため」
「殺さないんだ」
 少し意外に思って訊く。
「殺すと後が面倒だから。別に、情が移ったわけじゃない」
 十分に嗅がせると紐をしっかり結んで、元の場所にしまった。
「一応言っとくけど、闇討ちでは基本殺さないから。卑怯だし」
「卑怯とか、そういうものなの?」
「勿論それが仕事なら殺すけど、できるなら決闘を申し込んで殺したい。誰よりも強く在るために」
「それは、竜狩りでも一緒?」
「……ちょっと、喋り過ぎたみたい」
「そうか、ごめん」
 これ以上突っ込んだことを聞いてはいけない気がして、ネーラから目を逸らした。しかし、まぶたの裏にはいかにも物憂げな赤い光がこびりついている。当のネーラは男二人が見えないように布を被せていた。
「それにしても、なんで犬なんか用意したんだろう」
 沈黙が怖くて何の気なしに振った話題に、ネーラは余計深刻そうな表情になった。
「まさかと思って試してみたけど、たぶん、ミルナの花だと思う」
「ミルナの花?」
「私が昼に着てた服、ミルナの花の香が焚き染めてあった」
「確かにそうだけど、それがどうかした?」
 ここに来る前に、露店で簡素な黒衣と靴を買って着替え、変装用の衣は布にくるんで家々の隙間に隠してきたのだった。
「あんたに花を置いて貰ったら犬が反応したから、間違いない。あの犬は、ミルナの匂いを見つけたら敵と思うように訓練されていた」
「ちょっと待って、それって、僕らのことが知れてたって事?」
「少なくとも、私があの服を着ていたことは」
「なんてことだ……」
 ヴァイスは頭を抱えてうずくまってしまった。きっと青い顔をしているに違いない。その傍らに屈み込んで、ネーラは一層声を落とした。
「話はまだ終わりじゃないの」
「なんだって?」
「おかしいと思わない? いくら変装用とはいえ、花の香までつける必要は無いでしょう。それにあんな優秀な犬、半日で用意できるものとは思えない」
「つまり、服も犬もギルドの人が用意したってこと?」
「その可能性が一番高い」
「そんな馬鹿な! なんでそんなことをする必要が……」
「多分、試されているんだと思う」
「試す?」
「罠にかけて殺す気なら、ちゃんと玄人を見張りに立てるはず。商人側も知らされていないのかも」
 ヴァイスは立ち上がり、服についた砂をはたき落とした。
「……状況は見えないけど、とりあえずは真面目に仕事すればいいのかな」
「多分。ところで、その扉は開きそう?」
 近づくまで暗くてよく見えなかったが、ちょっとした段差の上にそびえる扉は、ずっしりとした木材に黒金を格子状に張り巡らせた頑丈そうな造りをしていた。
「大丈夫。これくらいなら短刀で焼き切れる」
 懐から紅竜の短刀を取り出し、鞘から引き抜いて扉に当てる。燃えにくい木のようでぶすぶすと焦げるだけだったが、派手に炎が上がるよりは都合がいい。赤熱した刀身を扉を貫通するまで刺し込むと、今度はゆっくりと力を込めて短刀を押し下げる。焦げた木片がボロボロと崩れ落ち、黒金がどろりと融けて傷口が広がっていき、仕舞には扉を切り取って二人が通るのには十分な大きさの穴が開いた。
「中々乱暴なことを」
「君に言われたくないな」
「でしょうね」
 お互い小さく笑うと、もう一度周りに人影が無いか確かめた。待ち伏せの可能性を考え、ネーラが先に入って安全を確認してからヴァイスが後に続く。外を人が通りかかるかもしれないので、気休め程度に切り抜いた扉の板を穴にはめ込むと、中は真っ暗になってしまった。
(ここからが本番だ)
 ヴァイスは独り気を引き締めて、蝋燭を灯した。

 4

 ヨクアとシグの戦争の最中、武具やその素材となる金属類の取引に関しては、黒い噂が絶えなかった。
 戦争は商人にとって身を危うくする脅威であると同時に、軍需の高まるかき入れ時でもある。実際、戦乱が激化してからというもの、武具はもちろん兵士の糧食、衣服、野営用の生活用品をはじめとした品々を皇室が直々に買い取る事態となり、慢性的な価格高騰が続いていた。この過程で多くの商人が私腹を肥やし、一方で平民は不満を募らせていった。
 しかし、戦況が悪化し泥沼化してくるに従って、潤沢な皇室の財政も次第に圧迫されていく。皇室の提示する買い取り価格はじりじりと下がり、その分だけ商品は闇市に流れて皇室に集まらず、いつしか戦を続けられない切迫した状況に陥っていた。大敗に大敗を重ねて切羽詰まったミルナシア皇室は思い切った策を敢行する。
 それが三年前に始まった流通統制である。武具や金属類、穀物などの軍備にまつわる品目については、毎月一定量以上を皇室に販売し、皇帝の印を押した許可証を貰わない限り翌月の販売を認められず、許可証の偽造、許可証なしの販売は重罪とみなされ投獄となる。特に他国との貿易は監視が厳しく、毎回申請が必要な上に多額の税を支払わなければならなかった。勿論、武具の素材として重宝される竜の鱗も対象品目であり、取引の為に許可状が用意されている筈である。ヴァイスが露店の中から件の商人タキルの管轄を探し出し、店を畳むのを待って売り子を尾けたのも、こうして許可証を管理している倉庫に忍び込み、該当する書状に記載された取引先を突き止めるためである。
「でも珍しいね。君の方から訊いてくるなんて」
 片っ端から引き出しを開いて検分するヴァイスは、背中を向けたまま言った。
「手伝った方がいいかなと」
「いいよ。君は護衛なんだし。外の様子に気をつけてくれれば」
 倉庫は案外狭く、ちょうどギルドの納屋と同じくらいの広さだった。基本的には石造りだが、砂が舞わないように木の板が敷き詰められ、綺麗に磨いてある。底の浅い引き出しが並んだ戸棚が全部で六つ、どれもネーラの背の二倍ほどの高さがあった。引き出しにはミルナ語で何やら刻んであったが、ミルナ文字を知らないネーラには分からない。しかし潰れた文字は判読が難しいのか、或いは何かの暗号なのか、目的の書状を探す役には立たなかったようで、ヴァイスは虱潰しに調べているのだった。
「ところで、さっきは商人も懐が寂しいって言ってなかった」
 ヴァイスの背中に語りかけると、袖をまくって露わになった腕が止まった。
「へえ、いいところに気がついたね」
 ヴァイスは次の引き出しを開け、ガサガサと音を立てながら紙を捲っていく。
「流通統制は建国以来の悪政だと専らの評判なんだ。皇室が商品を安く買い叩くから商売あがったりで、しかも印を貰うためには膨大な品を皇室に売らないといけない。小さい商店は軒並み潰れて、タキルのような大商人もかなり損害を被っている。ふれが出た時はほとんどの商人は気にも留めなかったけれど、実際に投獄者が続出して無視するわけにはいかなくなった」
「それで商人も困窮していると」
「そういうこと。けど、困ってるのは商人だけじゃないんだ。闇市に回らなくなった分食糧不足も深刻だし、シガル川流域の穀倉地帯が戦地になっていることもそれに拍車をかけている。農民も農民で、困窮した商人が穀物を安く買おうとするからいい顔をしない。さらには、監視をする役人の方も大変で、特にこれまで税や政策のほとんどを放任されてきた地方豪族たちは余計な仕事を押し付けられて怒り心頭、いつ反乱を起こすかも分からない一触即発の状態にある」
「成程」
 手を顎に当ててネーラは黙り込んだ。ヨクアの行く末に思いを馳せているかに見えたが、実際は全然別な事を考えていた。
(一瞬手を止めたけれど、話自体は筋が通っている)
 ヴァイスが余程の切れ者でない限り話は本当だろうとネーラは判断した。あらかじめ用意した作り話の可能性が無いではないが、ヨクアの内情について隠すメリットもないだろう。そう言う意味では、ヴァイスへの疑念はまだ晴れていないと言える。
 見張りの連れていた犬の存在からギルドの関与を疑った時、ネーラはごく自然にヴァイスへの警戒も強めていた。ヴァイスと自分の両方が騙されているのか、或いはヴァイスもギルドの刺客なのか、定かではないからだ。
(ときどき鈍臭いけれど、中々侮れない明晰さがある。そんなヴァイスが銀と短刀だけで潜入任務が完遂できると、本気で思っていただろうか)
 そもそも《疾り屋》の責務は各地との伝令であって、戦闘や諜報には慣れていない筈だ。しかしヴァイスの身のこなしといい、観察眼といい、尾行時の振舞いといい、熟練した技量を感じさせるものがあった。特に武術の腕は未知数で、丸腰でも勝てる気がしないと言っていたが、対人戦の勘が鈍っている今、素手で立ち向かえる相手か大いに怪しい。ネーラの見立てでは受身や体捌きの技術は少なくとも並の武人を凌駕していて、ヴァイスの戦闘を目にしていないのもあって決して油断できる相手ではない。
(思えば、ここに来るまでにも怪しい行動はあった)
 寝ずの番に付き合ったり、料理の為に短刀を要求したり、もしあの時寝ていたら、もしあの時素直に武器を渡していたら、どうなっていたのだろうか。考えて、ネーラは思わず身震いをした。
(あの狸じじいの息子、気を許してはいけない)
 私は常に狙われる存在だ。ネーラは自分に言い聞かせた。

「あった、これだ」
 しばらくして、ヴァイスは一枚の書状を手に振り向いた。ちろちろと揺れる蝋燭の灯りにその文字が見え隠れする。
「何て書いてある」
 差し出された書状はところどころ銀箔の混ざった高級そうな紙で、整った綺麗な字が躍り、その下に三つの署名と印があった。
「あれ、字は読めないの?」
 不本意ながら頷くと、ヴァイスは書状を見せながら、その内容を読み上げた。
「ロルスカナ商会代表タキル=サッチエント、タツワラン教会ミルナシア支部に対し、紅竜の鱗千枚、目玉一対、心臓一つのいずれかを銀六千ジエロで販売することを承認する。ヒルジーア十七年仙菜月三日、ミルナシア皇室」
 読み終わったヴァイスは首を傾げて、自分の発した言葉を確かめるように口を開いた。
「タツワラン教会ミルナシア支部……なんで宗教団体が竜の素材なんて欲しがるんだろう? それに鱗か目玉か心臓のいずれかだなんて、全然用途も違うのに」
「……銀六千ジエロって、どれくらい」
「今僕らが持っている銀が五ジエロくらいだ。六千ジエロもあったら牧場が丸々一つ買えるだろうね。普段の取引価格の倍はある。好条件で取引を持ちかけてくるわけだ」
 しばらく俯いたままくるりと背中を向けて、ネーラは扉の方に向かった。
「用が済んだなら帰ろう」
 ほとんど呟くような言葉が微かに上ずっていたのを、ヴァイスは聞き逃さなかった。
「どうしたの?」
「何でもない」
「でも、そんなに汗かいて」
「帰ろう、早く」
「もしかして、何かを怖がってる?」
「何でもないったら!」
 ネーラはほとんど泣き出しそうになりながら、ダンッと一回床を踏みしめた。しかしその直後、体の奥底から震えが込み上げてきて、止まらなくなってしまった。
「タツワラン教会」
 普段の柔和な表情からは想像もつかない、ヴァイスの冷えきった声が響いた。
「知ってるなら、教えてくれないかな」
 黙ったまま、血の気の引いた真っ青な手をゆっくりと持ち上げた。
「訊きたい?」
 袖に入れた短刀の柄に触れると、恐怖は一遍に吹き飛んでいた。高鳴る鼓動は鎮まり、手に熱が戻ってくる。感覚が澄みわたり、相手の息遣いさえも感じられるようになる。
「勿論、訊きたい」
 答えたヴァイスは敵か、味方か。
 振り返ると、微かな灯を背に立つヴァイスの表情は陰になって、真っ白な髪が炎の色に染まるのと、真っ黒な目が冷たく瞬いているのがようやく分かる程度だった。
「どうしても?」
 ヴァイスに見えないよう、後ろ手に鞘から抜きとる。
「どうしても」
 ゆらり、と灯が揺らめいた。
「……すぐ済むから、外に出て」
 刃を収めて、ネーラは小さな声で言った。
「分かった」
 嵌めこんでおいた板を外すと、冷たい夜風が肌を撫でた。身を屈めてくぐり抜け、小豆色の布に変わりないことを確かめると、通りの真ん中まで降りていく。
「で、君とはどういう関わりがあるの?」
 扉の前の段差に立つヴァイスは、許可証を懐に収めながら訊く。星灯りの下でも、その表情は読めなかった。
「あんた」
 不敵に笑うくらいには、落ち着きを取り戻していた。
「私が刃を抜いたこと、気がついた」
 怪訝そうに鼻を鳴らすも、ヴァイスは黙っている。
「よっぽど焦ってたみたい。不意打ちなんて趣味じゃないのに」
「……何が言いたいの?」
 ようやくヴァイスは声を荒げた。
「訊きたいなら、力ずくで訊き出して」
 短刀を抜き放ち、素早く正中線に構えた。その切っ先は過たずヴァイスに向いている。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「問答無用」
 刺すような声で制し、一歩、また一歩と近づいていく。慌てる風だが、その目はしっかりと自分を見据えていることに、ネーラは気がついていた。
「武器を取って。死にたくないなら」
 何も言わずに、ヴァイスはゆっくりと腰に手を伸ばした。上着に隠れた革紐、そこに括りつけた短刀に触れる。
 不意にヴァイスは視線が泳がせて、短刀を引き抜いた。ネーラの背後、通りに面した建物の陰のあたりだ。ただの陽動か、それとも共通の敵か、迷った一瞬が命運を分けた。
 首筋にチクリと小さな痛みを感じた。瞬間、雷に打たれたかのように痺れが広がって、酷い吐き気に襲われた。白髪の少年はぼやけて見えなくなり、ごうごうと耳鳴りに襲われ、体が強張り、つんのめって全身をしたたかに打ちつけた。息が詰まり訳も分からないまま、取り落とした短刀へ手を伸ばそうとして、ネーラは意識を失った。

 5

「そう言えば最近、『姫』を見たか?」
 突然訊かれて、ミサラは柄杓ですくった井戸水を零しそうになった。
「なんのことです?」
「お前は知らないのか。ほら、『黒の疾風』のことだよ」
 回りくどい言い方に眉をひそめながら、適当に相槌を打つ。
「ネーラのことか。最近見ていませんが」
「やはりな。それじゃあ噂は本当なのか」
 セルスの導き人である同僚がさも愉快そうに言う。訳知りのミサラは身を硬くしたが、顔には出さずに尋ねた。
「噂? どんな?」
「こないだの紅竜戦、かなり酷かっただろう。重症で瀕死の状態だということだ」
「へえ、そうだったんですか」
 何処で流れているのか知らないが、宴の席で重装兵たちは元気な姿を目にしている筈だから、導き人たちの間でそう噂されているのだろう。確かに、導き人たちはあることないこと噂したり当てこすりを言ったりするのが好きな傾向にある。そもそも体内の《シキ》を無理に増幅させるのは心身ともに負担が強く、かくいうミサラもボルサ使いに転向したころは無性に苛々したり訳もなく落ち込んだりと精神的に不安定な状態が続いたものだ。さらには、導き人は竜狩りにおいて罠を張るのがほとんどで、大がかりな準備を必要とするにも関わらず手柄は大人数に分配されてしまい、死亡率が小さいのもあってギルド内での地位はさほど高いものではなかった。とどのつまり、日ごろ鬱憤を募らせている人が多いのが導き人の集団だった。
 同僚は竜狩りの花型たるネーラがよほど疎ましいのだろう、促すまでもなく嬉々として語った。黙って冷たい水を啜りながら話を聞くうち、ミサラは自分の推測に確信を深めていく。
「所詮は子供、流石に限界が来たんですかね」
 適当に話を合わせながら、柄杓を洗って金盥に突っ込み、井戸の釣瓶を落とした。代わりに話し終えた同僚の方が釣瓶を持ち上げて、旨そうに水をあおる。
「間違いなく上の連中、特に重装兵の部隊は慌てるはずだ。しばらくは竜狩りどころじゃなくなるだろう。なんせ最近はほとんどネーラに頼りっきりだったからな」
「そうですね」
 答えながら、ひょっとして頭領が流した噂かもしれないと思い始めていた。今回の一件の成り行き次第ではネーラは始末されることになる。竜の戦いならまだしも、ネーラが訓練中に命を落とすことは有り得ないから、竜狩りが終わってしばらく経ってからの失踪、死亡は少なからずギルド内に波紋を呼ぶだろう。ネーラが宴に出ていたことをどうごまかすのかは知らないが、不審を招く芽はあらかじめ摘んでおこうということだろうか。
 ならば、ヴァイスも同じように危篤の噂が流れているのだろうか。同僚に訊きかけたが、ミサラは口をつぐんだ。《疾り屋》のヴァイスが伝令に行くのはごくごく当然のことで、戦禍の最中であるミルナシアで不幸にも命を落とした、という筋書きはすんなり受け入れられるものだろう。むしろ、竜狩りで囮となっていることはごく一部の人間しか知らないのだから、竜狩りに出て死んだと言う方が不自然だ。
「なあミサラ、いい機会だと思わないか?」
「どういう意味です?」
「導き人の不当な冷遇に異を唱えるときが来た。実はな、既に頭領に抗議する署名がかなり集まっているんだ」
 初めてミサラは素で驚いた。
「本当ですか?」
「勿論だ。考えてもみろ、《シキ》の力で竜を屠れるなら一番死人が少なくて済むんだ。頭領は導術の研究をないがしろにして死人を増やしている。ネーラの活躍があるからなんとかやっているが、そう長く続くものではないと分かっていた」
「協力して欲しいと」
「ああ。お前はよく気の付く人間だからな。きっと、仲間集めも上手くやってくれるんじゃないかと期待しているんだよ」
 今度は適当にあしらうのではなく、自分の身の振り方を真剣に考え始めた。当然ながら、この同僚を含め周りの人間はミサラが頭領と直接通じていることは知らない。ミサラは立場上、頭領に反旗を翻すような行動は避けるべきだが、あまり露骨に突っぱねても同僚の不審を招き、ギルドの内情を報告するという本来の役回りが台無しになる。もともと数少ないボルサ使いであるミサラは、同色ごとの集団意識が強い導き人たちの間では比較的自由な身の振り方ができるが、一方で村八分に遭う危険も大きかった。ここは一旦協力の意思を示しておいて、頭領の指示を仰ぐのがいいだろうと判断して、ミサラはようやく口を開いた。
「いいでしょう、私にできることなら。ただし、ネーラの容体はまだはっきりしていない。事を起こすなら頭領の報告を受けてからの方がいいかと思います」
「それは有難い。まあ、すぐにどうしろとは言わないから、じっくり考えておいてくれ。あと、くれぐれもこの話は言いふらさないようにな」
「分かってます」
 とっておきの愛想笑いを振りまいて水飲み場を去ったミサラは、訓練もほどほどに真直ぐリユンの部屋へ向かった。

「成程、もうお前の耳にも入っていたか。なら話が早い」
 葉巻の代わりに扇を手にしたリユンは相変わらずギラギラした目でミサラを見つめていた。リユンの前に立つたび、何もかも見透かされているような、いわば蛇に睨まれた鼠のような、いたたまれない気分がするのだった。
「既にご存じだったので?」
 手持無沙汰からか、煽ぐでもなく開いたり閉じたりしていた扇を机に置いて、顔の前で手を組んだ。すると翡翠色の視線は一層冷たくなった。
「そのことで呼んだのだ。ミサラよ、上手く立ち回って導き人たちの中心人物になるのだ」
「どういうことですか?」
 度肝を抜かれてしばし唖然とするミサラを、リユンはしばらく眺めるだけだった。
「……導き人たちの署名活動、種を蒔いたのはあなただったということですか。それにしても何故?」
 試されているのだとは分かったが、どう考えても納得のいく解答は見つけられなかった。リユンは残念そうに顎を撫でると、壁に掛けられた武具に視線を移して、もうしばらく黙っていた。
「私はもうすぐ死ぬ」
 らしくない、弱々しい声だった。
「……はい?」
「ふがいないが、もってあと二年、それもかなり希望的観測だ。私の心臓は竜のものほどできが良くないらしい」
「な、何をおっしゃる……」
「本当のことだ」
 すっぱりと言葉尻を叩き切るように言われて、ミサラは黙る他なかった。
「ギルドを継ぐのはお前だ、ミサラ。現在、他の誰よりもギルドの裏に精通している。特に、ヴァイスとネーラの二人について知っているのは、お前だけだ」
「そ、そんな、とても私なぞには……」
「いいか、私の目は節穴ではない。お前にここまでやらせたのは、お前に素質があったからだ。遍く全体を俯瞰し、微妙な均衡を保つ平衡感覚、いわば天の視点がお前にはある。ここまで言えば分かるだろう、私が導き人たちを焚き付けた意味が」
「……私は今まで影として動いてきました。例え頭領の後ろ盾があったとしても、一介の導き人に過ぎません。せめて導き人の中心となり人望を集めなければ、頭領としては認められないでしょう」
 一字一句確かめるように慎重な口ぶりで、ミサラは言葉をつなぐ。
「しかし、私はまだ若いですし、情報集めの為に腰を低めた態度をとってきました。同僚、いえ、導術院からの知り合いにも敬語を使う始末です。今更ギルド全体の指揮を執るような人望が得られるとも思いません。導き人以外にもたくさんの人がいますし」
「歳や体面は気にしなくていい。なにせ、もともとヴァイスを頭領に据える気でいたのだ。あいつに比べればどちらも随分とましだろう」
「それはそうですが……」
 ミサラは困り切った顔を隠そうともしないで、無意識に髪をかきむしっていた。対してリユンはすっかり落ち着いた表情で、パチンと音を立てて扇を閉じると、きっぱりと言い放った。
「いいか、他に選択肢は無いのだ。今、ヴァイスとネーラを制御することは頭領としての必要条件、それができるのは、私の外にお前だけだ。敢えてギルド内から切り離していたヴァイスと唯一接点を持つのがお前だからな」
「なんてことだ……」
 とうとうミサラは真っ青になって、骨ばった手は震えが止まらなかった。礼儀も忘れて床に座り込むと、つやつや光る板張りの床は思いの外硬かった。
「案ずるな。お前のお膳立ては上手くやってやる。そう難しいことじゃない、お前が低姿勢で通っているなら、私がより高圧的に振舞って反感を買えばいいだけの話だ。ギルドの存続の為なら、誰からも嫌われたままのわびしい死も甘んじて受け入れよう」
 言葉の勇ましさとは裏腹に、どこか切なさの漂う声は、確かに老いを感じさせるものだった。うずくまるミサラを見下ろしたリユンはようやく立ち上がって、柔和な微笑みを浮かべた。
「まあまだ時間はある。すまないな、一遍に話し過ぎてしまった。今日のところはゆっくり休んでくれ」
 差し出された手をはねのける訳もなく、ミサラはふらふらと立ち上がると、おざなりながらも礼を尽くして、ミサラはリユンの部屋を後にした。

(今までも危ない橋を渡ってきたと思ったが、今度は段違いだ)
 蒼い顔をしているところを誰にも見られないよう、気をつけて自室に戻ると、そのまま寝台に倒れ込んだ。しばらくすれば、同室の導き人が帰ってくる。それまでに気を落ちつけなければならなかった。
(そもそも、頭領の話は本当なのか……?)
 あまりにも唐突で、逆に信憑性はあった。しかしながら、導き人の中心にミサラを祭り上げながら、要求を突っぱねて殺すことも十分に考えられる。それほど、ミサラは知り過ぎていると自覚していた。
 小さな窓の外には長笛草が風に揺れ、深い緑のぎざぎざした葉が行ったり来たりしている。寝そべったミサラは、その向こうに抜けるような夏空が広がっているのに苛立ちしか覚えられずにいた。
(いや、その線は万に一つもないだろう。殺すなら、もっと穏便なやり方がいくらでもあるはずだ)
 そう考えると、次第に頭の中が冷めてくるのが分かった。頭領は自分を認め、頼ってくれている。未だ信じがたいことだが、ほんの少しずつ喉を通っていく気がした。
 しかし、どうもリユンに裏切られて殺される方がよっぽど楽なのではないかと、思わずにはいられない。単身で竜を屠るネーラ、さらにそれを上回る可能性を秘めたヴァイスを自分が御し切れるのか、今のミサラには分かるはずもなかった。

 6

 いつの間にやら昇った月が、薄墨を流したような雲から淡い光を覗かせている。その白磁のように滑らかな円は、不敵な笑みを張り付けた芸者の面を思わせる。赤茶けた石畳の上、丸太のように横たわったネーラも、ちょうどそんな顔色をしていた。
 全身をひきつらせた少女には目もくれず、ヴァイスは小さく両手を挙げて段差を下りる。これまた面のような表情で、暗闇から這い出した三人の人影を迎え入れているのだった。
「遅かったな」
 三人のうち、火を灯したのは無精髭を生やした長身の男だった。もう片方の手には何やら小さな筒を持ち、口にあてがっている。残りの二人は灯りを背に立ち、ヴァイスを挟み込むようにして小刀を構えていた。いずれも鋼の装具を纏い、胸元には皇室の紋章が刻まれている。
「何か御用ですか?」
 緊張の面持ちで尋ねるヴァイスは短刀を捨て、抵抗の意思がないことを示す。右側の男がそれを拾って背後の男に渡した。どうやら、灯りを持っている奴が残りの二人よりも立場が上らしい。剥き身の短刀を布でくるんで袖に入れ、再び口を開いたのも彼だった。
「他の武器も出せ。ゆっくりだ」
「それで全部です」
「嘘をつくな」
「本当です。何なら調べてみてください」
 身体検査の間、ヴァイスの短刀をしまった男は再び筒を取り出して、ヴァイスに狙いを定めていた。間違いなくネーラを倒した吹き矢だろう。ただの麻酔なのか、それとも致死毒なのか、定かではなかった。
「もう一度訊きますが、何の御用ですか?」
 銀と盗み出した許可証まで奪われ、後ろ手に縛られながら強気なヴァイスを、男らは嘲笑で迎えた。
「商人の倉庫に侵入して、出てきたところを捕まって、よくもぬけぬけとそんな口が利けるものだな。御託は牢屋に入ってからにしてもらおう」
「ですから、ヨクア軍ならいさ知らず、シグ国の諜報員が僕らに何の御用か訊いているのです」
 男らの動きが止まった。
「きっと、あなた方も許可証を燃やしてタキルの商売を邪魔したいだけでしょう? 用が済んだなら早く解放してください」
「……何故分かった」
 明らかに警戒の色が濃くなった。日に焼けた褐色の肌は、灯に照らされてやけに赤らんで見える。仕事柄、感情をひた隠しにするのに長けているのだろうが、ヴァイスの不意打ちは効いたとみえる。
「軍の連中が毒針を使うなんて有り得ないし、少女を先に片付けるのも僕らのことを知っているとしか思えない。それに、あなた方のミルナ語は長音と促音が不明瞭で、さしすせその発音が弱い。今はシグの占領下にある東方カシャダ地方の方言です。恐らく、彼らからミルナ語を学んだか、それともあなた方がカシャダ出身ですか?」
「なるほど、せいぜい綺麗なミルナ語を覚えるとするよ。しかし、お前を逃がすわけにはいかんな。竜の素材と引き換えの人質だ」
「僕一人の命と竜の素材の取引が可能だと、本当に思っているんですか?」
「できるさ。頭領の息子は大事だろう」
 今度はヴァイスが固まる番だった。
「すっかりやり込めたと勘違いして、道化を晒したのはそっちの方だったな。理由を聞きたいか? え?」
 反撃できたことに調子づいて男三人はげらげら笑った。ほとんど子供じみた反応だが、ヴァイスはそれを蔑む気力もなく、ただただ惨めでならなかった。
「普段偽名を騙っているから油断したな。ヴァイスというのは竜狩りの英雄サザラクの息子の名だ。ヨクアの人々は神話の人物の名前をつけるのは禁忌としている。朝方の見廻りで変な名前を聞いたと思ったら、案の定真っ白な髪をしているじゃないか。お前は見つけ次第捕えよとのお達しだったからな。全く、ヨクア軍としての仕事もたまには役に立つらしい」
 手札を失くして顔を青くしながら、何か逃れる術はないかヴァイスは必死に考えていた。その表情を見て自分の優位を確信した男は、もう一度にやりと笑って手下の二人をせっついて、移動しようとしていた。
「さあ、歩け」
 突然背後から突き飛ばされ、足がもつれて倒れてしまった。両手を縛られて受身もとれず、顔から石畳に突っ込んで焼けるような痛みが走った。
「早く立て!」
 容赦なく蹴られて、痛みに耐えながら立ち上がる。その拍子に、紐の弛んだ上着が脱げ落ちた。
(これから、どうなる?)
 いくらリユンの息子とはいえ、ヴァイスにあるのはそれだけだ。竜の素材との取引に、父上は応じるだろうか。応じなければ殺されるだろうし、父上が自分のことを思って取引に応じたとしても、やはり殺される可能性が高い。なんにせよ、荒っぽいシグの人々に捕虜をもてなす気の無いことは明らかだった。
「こいつはどうしますか、隊長」
 手下の一人がネーラを指して言った。
「放っておけ。そこにくたばってる見張りが起きたら適当に処分してくれるだろう」
(そうか、あれは毒薬だったのだ……)
 ヴァイスは振り返って、うつぶせに横たわったネーラの背中を眺めた。あのままネーラとやり合っていたら命がいくつあっても足りなかったろうから、ある意味こいつらのおかげで命を拾ったのかもしれない。しかし代わりにネーラは命を散らし、自分の命もまた風前の灯である。
 最後まで、ネーラの心象は分からなかった。しかし、華奢な双肩に余りある覚悟としがらみとを背負っていることは、獣のような紅い目の、どこか危うく儚げな光から察することができた。タツワラン協会、あれほどの猛者が身震いする言葉には何があるのか。尋ねる少年を殺めんとする程の秘密とは何だったのだろう。齢幾ばくにして人を殺めること限りなく、竜と相対すれば果敢に斬りかかる。死に急ぐようで、その実必死に生を繋ぎとめていた少女は、しかし呆気なく死んでしまった。考えれば考えるほど、自分に刃を向けたネーラへ同情が深まるのは不思議でならなかったが、確かに泣き出したい程、無性にもの悲しくなるのだった。
(……置いていけない)
 ヴァイスは自分の中で折れかかっていた芯が、再び根を張って立ち上がるのを感じた。
(考えろ。どうすれば、この窮地を脱することができるか)
 俯いて、ギラギラした視線を自分の足元に落とす。シグの諜報員たちはすっかり押し黙って淡々と歩を進め、背後のネーラはどんどん離れていく。その間中、ヴァイスは必死に考える。
(短刀は奪われた。今は隊長の男が持っている。こいつらの武器を奪うにしても、手が塞がってはどうにもならない。何か武器はないか……)
 そこまで考えたところで、遠くの方からガランガランと早鐘の音が聞こえてきた。火事を知らせる鐘だ。
「ちっ、こんな時に。早く行くぞ! 住民が起き出したら面倒だ」
「おいこら、急げ!」
 もう一度突き飛ばされて、今度はわざと倒れ込んだ。少しでも考える時間が欲しくて、蹴られる痛みを堪えながらできるだけゆっくり立ち上がろうと試みるも、隊長格の男に腹を鋭く蹴られ、悶絶したところを持ち上げられてしまった。しかしその瞬間、ヴァイスは遂に希望の光を見出した。
(そうだ……火だ! 紅竜の短刀だ!)
「いや、俺が担ぐ。お前らは周りを見張ってろ。特にヨクア軍のやつがいたら真っ先に知らせてくれ。バレると後々面倒だ」
「分かりました。俺が前を行きます」
「頼んだ」
 やり取りを聞きながら歯を食いしばって痛みに耐え、気絶した風を装って担ぎあげられるのを待つ。
(思い出せ……こいつは短刀を何処にしまった? 確か袖の中……)
 意を決すと、うおおおっと声をあげて、肩の上で必死に暴れ始めた。
「こいつ、何しやがる!」
 たまらず地面に倒れた男が放り投げようと掴みかかった瞬間を、ヴァイスは過たず捉えた。
 体をくねらせ、短刀のしまわれた袖に自身の両手を重ねる。ほうっと息を吸ってありったけの力を込めた瞬間、真っ赤な閃光とともに太い火柱が上がった。
「あああぁぁっつい!」
 激痛とともに、縄が焼き切れるのが分かった。急いで立ち上がり、火から飛び退く。あとは自分の服が燃えるのも構わずに走り出した。その背中に追手の影が無いことを祈りながら、いつかの竜狩りで走ったような、ごつごつした石畳の道を我武者羅に駆けていく。
 つまるところ、ネーラが不思議に思っていたことがヴァイスにも疑問だったのだ。どうしてネーラや諜報員が剥き身の短刀を握っても、刀身は熱を帯びないのか。ネーラが異常なのかと思っていたが、今のやり取りから異常なのは自分だと気がついた。本来紅竜の短刀にラグナの力は無いが、自分にはそれを引き出す力があるのだ。そしてその裏付けとして、諜報員の語った話がある。サザラクの息子が導き人の祖として崇められていたことは、ヴァイスも知っていた。
(こんなところで死んでたまるか)
 荒い息を吐き、足のもつれるのを制しながら、ヴァイスは懸命に駆ける。
(逃げるのは《疾り屋》の十八番だ。その誇りに懸けて、絶対に逃げ切ってみせる!)
 ああっと獣のような吠え声をあげて、ヴァイスは加速した。その背後の、短刀をぎらつかせて追いすがる影に気が付いているのは、雲を纏い面を被った、空の輝く月だけであった。

 7

 追い立てるような早鐘の音とともに、紅花色の火の粉が煙に混じって飛んでいる。建物のひしめく煉瓦道、ぜえぜえ息をして駆けるヴァイスは、何かを足にひっかけて転んでしまった。
 急いで立ち上がろうとして、手足に激痛が走った。見れば、肌は酷くただれていて、ほとんど皮がめくれんばかりになっていた。
(僕はここで死ぬのか)
 全身をぶるりと悪寒が走りぬけた。一旦そう考えてしまうと恐怖がどんどんと輪郭を露わにのしかかってきて、ますます体の力が抜けていくのだった。
(くそっ、馬鹿なことを考えるんじゃない。竜狩りだったら死んでるぞ)
 拳を握りしめ、体を起こそうとして、自分が何か柔らかいものの上に乗っかっていることに気がつく。手に絡まる黒髪を見て、ヴァイスははっとなった。
(ネーラ……!)
 どうやら元の道を引き返してきたらしい。目の前にあるのは紛れもなく横たわるネーラだった。引き裂かれるような痛みに耐えて体を起こすと、そっとネーラの手をとった。
(まだ……暖かい……?)
 驚いて口元に手をかざしてみると、微かに息を感じた。
(生きてる……)
 感慨よりも戸惑いが先に立った。訳が分からない。
(致死毒じゃなかった……? でも、生かしておく理由なんてあるのか……?)
 それにシグの諜報員達はネーラを殺したような口ぶりだった。では何故ネーラは生きているのか。毒の周りが遅いのか、急に倒れたのにそんなことがあるだろうか。
 ともかくも、生きているならそれに越したことはない。引きずってでも連れて行ってギルドの仲間に診て貰おう。立ち上がり、背負い上げようと振り返った時、短刀を持った男と目が合った。
 蹴り飛ばされ、満身創痍の体が宙を舞った。三ニルス程吹っ飛んで倒れ、骨の軋む音がした。もう立ち上がる力はなく、かろうじて視線を男の方に向けることができただけだった。
「よくもやってくれたな……」
 青筋立てて迫る男は取り巻きの一人だった。他の二人の姿はない。
「許さねぇぞ……」
 火の粉の色を映して、短刀が怪しく光る。舌舐めずりする猟犬のようだ。逃げよう、逃げようと頭では考えていても、体はピクリとも動かない。
 一歩、また一歩と近づいてくる。目はギラギラと光り、歯を剥き出しにして迫ってくる。心臓が早鐘のように鳴るも、体は芯から冷えていく。
 男が立ち止まって、刃を振り下ろす、その瞬間がまぶたの裏に焼き付いた。
 鈍い音がして、辺りは静まり返る。

 熱かった。
 体なぞとうに融けて無くなってしまったのに、なお身を焦がす炎があった。
 真っ暗で何も見えない。焦げ臭くて、息が苦しい。
 熱い。

 独り暗闇を彷徨う最中、熱さと息苦しさは増していくばかりだった。真っ黒な、見えない煙に締め上げられていくようだ。
 時折、轟音とともに地面が揺れる。いや、足元もおぼつかないのだから、自分の周りで空気の塊が上下しているとでも言うべきだろうか。ともかくも、竜が岩を穿つような、低く、重く、激しい響きだった。
 不意にぐっと寂しさがこみ上げて来て、たまらなくなった。おもむろに無い手を伸ばして光を探す。突然、その手を引かれた。

「起きた?」
 目覚めると、黒髪の少女が立っていた。
「ネーラ……? 君、どうして……」
「私が毒に強いのは知ってるでしょ。早く立って」
「大丈夫なの?」
「全然。まだ頭痛い」
 そう言って、ネーラは顔をしかめた。手を引かれるままにヴァイスは立ち上がる。ネーラの手は返り血に塗れていた。
「三人とも……殺した?」
「勿論」
 ネーラは咎めるように眉をひそめた。
「あんた、甘過ぎるんじゃないの」
「いや、逃がしちゃったら後が怖いなって思っただけ。ありがとう」
 見回すと、月明かりも届かない細い路地だった。ひょっとして、家々の隙間かもしれない。ネーラが運んできてくれたのだろう。流石に皇室軍の制服を着た死体と一緒にいるわけにはいかない。
「あの、証書と銀を奪われたんだけど、見覚えはない?」
「銀は取り返した。証書は燃えたみたい」
「まあ、それなら何とかなるかな……」
「そうでもない」
 安堵するヴァイスに対して、ネーラはやけに深刻そうな顔つきだった。
「どうして? 後はギルドの出張所に戻るだけじゃ……」
「もぬけの空だった」
 ヴァイスは言葉を失った。
「行ってみたけど、人も物も一切合切無かった。夜逃げでもしたみたいに」
「ちょっと待って、なんで君が出張所の場所を知ってるの?」
「奴らが地図を持ってた」
「ああ、そういうことね……にしても、おかしいな」
 と、突然ネーラがふらついたので、慌てて支えて抱き起こした。ネーラは頭に手を当てて唸る。
「くそっ、強い毒を使いやがって……」
「本当に大丈夫なの? うわっ、凄い熱!」
「心配しないで。じきに抜けるから」
 苦しそうに喘ぎながら、ネーラは壁を背に座り込んだ。その様子を眺めながら、ヴァイスは不思議そうに首を傾げていた。
「それにしても、そんなに早く毒が抜けるなんて、まるで竜みたいだね」
 ネーラは、驚いたような顔をして、それから突然吹き出した。
「えっ、どうしたの?」
「何でもない」
 笑いを噛み殺して、少し涙を浮かべながら、ネーラはかぶりを振った。
「まあいいか」
(殺されそうになるのは、もう懲りたし……)
 タツワラン協会について聞いたことは、うやむやになったのをいいことに敢えて触れなかった。これ以上突っ込んだ質問をして、また刃を抜かれるのは怖かった。
 笑いの発作が収まったネーラは、暗い顔で言う。
「きっと、私たちは見捨てられたか、不安要素として抹殺されようとしているのか、二つに一つ」
「どういう意味?」
「そのままの意味。裏切りの危険から、大きな力を持つ人は必ず警戒される。あんたも、特別な力があるんでしょ」
「それは……分からないけど……」
 まさか、リユンの息子である自分がギルドを裏切るかもしれないと思われているのだろうか。もしそうだとすれば実に腹立たしいことだ。しかし、ここに来てこの冷遇とくれば、ネーラの話を信じる他ないのかもしれない。ため息をついて、ヴァイスは言った。
「今のところはここで休もう。僕も君もこの格好じゃ出歩けない。夜明けも近いし、体力の回復に努めた方が……」
 言葉尻を遮るようにして、一際低い、地響きのような銅鑼の音が響いた。
 ヴァイスは真っ青になった。
「どうしたの。この銅鑼の音、さっきから何度も聞こえるんだけど」
「ギルドの人たちは、逃げたんだ……」
「逃げたって何から」
 震える声で、ヴァイスは叫ぶ。
「さっきまでは火事を知らせる鐘だった。でも、銅鑼の音は……」
 その時、バリバリバリッと、天を突く吠え声がこだました。その響きは、雷のようで、それよりなお恐ろしかった。
「……竜の到来を知らせるものなんだ」
 ネーラもまた息を呑んで、身震いした。
「くそっ、何だってこんな時に……おしまいだ……」
 竜狩りは綿密な準備の上に成り立っている。しばしば街を襲う竜を退治するようギルドに要請があるが、とてもじゃないが無理な相談だ。唯一ネーラであれば竜と対等に渡り合えるのかもしれないが、それも竜狩りの剣があってのことである。竜は積極的に人を食らい、街を丸ごと焼きつくすまで帰ることはない。生存は絶望的だった。
「待ってたぞ」
 空耳かと思って顔を上げると、ネーラは壊れたように不気味に笑い、もう一度はっきりと言った。
「待ってたぞ、この時を!」
 目を血走らせて立ち上がり、一っ跳びに屋根によじ登る。そのまま、竜の叫びが聞こえた方向へ姿を消した。
「ま、待ってよ、ネーラ!」
 その叫びが届いたかも定かではない。唖然として立ち尽くすヴァイスは、逡巡ののち、ネーラの消えた方角へ走り出した。
 もう一度、竜の咆哮が空を覆った。

 8

 ごうごうと唸りを上げて、真っ赤な火柱が空を焦がしている。煤で黒ずんだ屋根によじ登ったヴァイスを待っていたのは、真っ白に凍りついた塔に降り立つ竜の影であった。
「ネーラ!」
 竜をめがけ真直ぐに駆けていく背中は、煙に紛れて見えなくなる。追いすがろうと身を乗り出したとき、熱風に煽られてたじろいだ。
(迂回しないと危ない)
 身をかがめて飛び降り、火の手を縫うようにして塔の上の蒼い光を目指す。その塔に見下ろされた街は惨憺たる有様だった。
 あちこちで黒い煙が上がり、建物は崩れ、煉瓦を掃き集めた小山のようになっている。押し潰された人々が瓦礫の隙間から手足を晒し、飛んできた煉瓦に打たれたのか、頭から血を流して倒れている人がいた。甲高い叫び声、すすり泣き、パチパチと火の粉の爆ぜる音。濁流のような風が絶望の旋律を運んでくる。
 大通りも昼の人通りが嘘のよう、露店が畳まれているのはもちろんのこと、両側の建物がぺしゃんこに潰れ、広々と開けていた。そこにたった一人立ち竦んだヴァイスは、思わず長い溜息を吐いた。
 煙の隙間から中央広場の塔が見える。もはや、ヴァイスを隔てるものは何もなかった。空気もぐんと冷え、さっきまで猛っていただろう火の手は僅かにくすぶる火種と化している。蒼竜の冷気の為せる技だ。見ると、塔を中心として真っ白な霜が広がっていくのが分かった。竜の襲来は最も恐ろしい天災の一つと言われるのが分かる気がした。
 怖かったが、近づく他にすべきことはないとヴァイスは思った。ギルドの後ろ盾が無くなり、逃げ遅れた自分が今更助かる術もない。だとすれば、不調をおしてまで竜を狩ろうとするネーラの真意を見届けるしかないのだ。
 走るうち、身も凍える寒さになった。吐く息は白く、手足はかじかんで感覚が遠のいていく。燃えるような痛みが薄らいでいくのは寧ろ有難かったが、体の震えは止まらなくなった。
 塔の真下には小さな人影があった。
 息を切らして近づくと、ネーラは竜を見上げて唸るような、喚くような、よく分からない声を上げていた。
「ねえ、一体どうし……うわっ!」
 肩に手を置こうとして、凍った地面に足を滑らせた。転んだヴァイスにネーラは気がつかない様子で、必死に叫び続けている。
 立ち上がろうとして、足が上がらないことに気がついた。恐る恐る見下ろすと、膝から足首にかけて、真っ白に凍りついて離れなくなっていた。
「ちょっと……冗談でしょ……」
 激しい衝撃とともに塔が半壊し、装飾を尽くした鐘が落下して四散した。竜が唸り声を上げ、尻尾を振り抜いたのだった。ネーラも負けじと声を張り上げ、威嚇するように身構えた。その響きはどこか竜の吠え声と似ている気がした。
 身動きできないヴァイスをよそに、一人と一匹は臨戦態勢に移った。竜は翼を広げて飛翔し、ネーラは飛び退って距離をとる。
「ネーラ! 武器もないのに無茶だよ!」
 叫ぶと、今度こそ気がついたようで、見下ろすネーラは目を丸くした。
「あんた、なんでここにいるの」
「それはこっちの台詞だよ! 独りで竜に近づくなんて……」
「あんたには関係ない。死にたくなかったらさっさと逃げて」
 ネーラが無造作に振るった手が、一瞬で真っ黒に変わった。胸の前で手を合わせそのまま左右に広げると、両手の間に黒光りする刃が現れた。
「い、今何を……」
「知りたかったら、生き残ることね」
 即席の長剣を振り下ろし、ヴァイスを縛る氷を砕くと、ネーラは冷たい声で付け加える。
「悪いけど、守る余裕なんてないから」
 ネーラは背を向け走り出し、一足飛びに塔の中ほど、物見の台へと降り立った。そこへ容赦なく竜の息吹が吹きつけ、一面真っ白になった。
 と、霜と霧を吹き飛ばして黒い破片が散った。その中心のネーラは全くの無傷で、周囲も凍りついてはいなかった。仰天したヴァイスが見守る中、振り払うネーラの手から放たれたつぶては竜の鱗を剥ぎ、翼を穿った。
(あれは何なんだ……竜の鱗を傷つけるなんて、相当の硬さだ……)
 遠距離戦は分が悪いと判断したのか、竜は急降下し、銀色の牙と爪を閃かせた。待ってましたと言わんばかり、ネーラは笑みを浮かべ、虚空から長剣を抜いて半身に構える。
 竜が塔に激突するまさにその瞬間、竜は空中で体を捻り、しなる尾で塔を薙ぎ払った。凄まじい音とともに塔は弾け飛び、土煙が立ちこめる。
(安易に爪や牙で攻撃しないのは、ネーラを警戒しているのか……?)
 不意を突かれた形となったネーラは、逃げる間もなく攻撃に巻き込まれたようで、飛び散る瓦礫には黒い影が混ざっていた。竜は身動きの取れないネーラめがけ、牙を剥いて突進する。
 刹那、黒い影が大きくなった。飛び散った破片に怯んで動きが鈍った竜に、瓦礫を蹴り飛ばしてネーラが迫る。
 悲鳴が地を揺るがし、竜の血が散った。
 目を突いたネーラはすかさず黒い塊を展開し、鋭角に背中へと飛び移る。剣を突き立て引きずりながら、鱗を切り裂いていった。
(たった一人で竜を圧倒している……。今までの竜狩りが本気じゃなかったなんて……)
 身悶えた竜はたまらず落下する。そのとき、叩き落とさんと振るった翼を鮮やかに避けて、ネーラは凍りついた花壇の真ん中に着地した。続けざま、全身を弓なりにして剣を投げつけ、丸腰で竜の方へ駆けだす、その速さは、空中でのそれを遥かに凌いでいた。
 地に落ち這いずる竜の唸りも治まらぬ間に、四方八方から矢のように突進し、そのたび新しい剣を手に斬りかかる。まさに《竜裂き》と呼ぶべき大立ち回りは、空が白み、焦土の地平から日が覗くまで続いた。

「まだいたの。てっきり、死んだかと思っていた」
 血まみれのネーラは紅の目でヴァイスを見下ろしていた。辺りの冷気はすっかり吹き飛んで、代わりにただれた腕の痛みがぶり返していた。一方、ネーラも無傷ではないようで、服はあちこち破れ、眉間がばっくり裂けて血が滴っている。
「……君が竜を倒してくれたおかげでね。君が、本気を出したから」
 悟ったような、穏やかな声でヴァイスは呟く。
「そうね。もうちょっと手加減するべきだった?」
 茶化す言葉は、鋼のようだった。
「あの竜が相手じゃ、隠したくても隠せなかったんでしょ」
 しばし静寂が立ちこめた。ヴァイスは俯き、その目の前でネーラは剣を地面に突き立てて、力を抜いて立っている。
「……最後に、訊きたいんだけどさ」
「察しがいいのね」
 覚悟はしていたものの、その返答に震えずにはいられなかった。ネーラが必死に隠そうとしていたことは、今まさに目の前で起こった出来事なのだ。それを見た自分は殺される他、ないだろう。
「……真面目に、訊きたいんだけど」
 ついだ言葉に、ネーラは頷いた。
「君は、竜と話をしていたんだよね」
「そう」
「一体何を?」
「話すと長くなるから、面倒」
「そんなに話しこんでるようには見えなかったけど」
「話の背景を補足するのに時間がかかる」
「じゃあさ、君はどうして竜の言葉が解るの」
「それも面倒な内容ね」
「……話す気ないじゃないか」
「そうとも言う」
 ネーラは剣を引き抜いた。ヴァイスは顔を上げて、力無く目を伏せる。
「……じゃあさ、最後の質問」
 呟くと、ネーラはため息をついた。
「何」
「竜の亡骸の下に赤ん坊が見えるんだけど、僕の見間違いかな」
 カランと音を立てて、剣が横たわった。
 ネーラがゆっくり歩み寄り、赤ん坊を抱き上げる様をヴァイスは身じろぎせずに見ていた。寝入ってしまった丸っこい体、それを抱える手が震えていることにも気がついた。
「その子って、どこから紛れ込んだの?」
 うずくまるネーラに近づいて、ヴァイスは声をかけた。
「……もしかして、もしかするとさ」
 唾を飲み込んで、ヴァイスは自分の途方もない思いつきが、しかし最も確からしいことを確かめた。
「……その竜の、子供、なの?」
 泣きながら、ネーラは頷いた。

 9

「私は竜の子」
 赤子を抱いてうずくまったまま、ネーラは語り始めた。
「私自身、これからどう成長するのかも分からない。けれどはっきり言えるのは、竜は生まれながらに竜の姿をしているわけではないこと。竜は人の姿で生まれ、人に育てられ、いずれ人を食らう存在になる。私もこの子も、その運命にある。
 竜の住処はララス山脈の向こう側。寿命が長く数は少ない。滅多に生息域を離れないけど、子を孕んだ雌竜は山を越え街を襲い、荒廃した街に自身の子を産み落とす。心ある人間がそれを竜の襲撃による孤児と勘違いして、いずれ食い物にされることを知らぬまま育てることになる。その子自身も人間だと思って育ち、体に異変をきたすまで自分の正体に気がつかない。
 けれど、街によっては竜の秘密を知る人々がいる。彼らはタツワラン教会と名乗り、孤児院を開いて竜の子を連れてくる。私も物心ついたときはタツワランにいた。酷い場所だった」
「……どうして急に話してくれる気になったの?」
 幽霊でも見るような目で、ヴァイスは問いかけた。
「なんでだろう。自分でもよく分からないけど、隠すのなんて無駄だって気がついたのかもしれない。あなたに分かるくらいだから、きっとあの狸じじいも知っているはず」
「……続けてくれるかな」
 答える代りに、ネーラは額の血を拭って見せた。
「傷が治ってるの、わかる?」
 確かに、血の下からは生々しい傷跡の代わりに薄桃色の筋が現れた。それも見る間に白色を取り戻していき、跡形もなく消えてしまった。
「これは……」
「竜の子の生命力は並じゃない。体内の《シキ》の力で傷なんて簡単に治ってしまう。当然よね、将来あんなに体が大きくなるんだから。でも、この力は生まれながらに持っているわけではない。あくまでも、素質があるってだけ」
「……というと?」
「生命力は生存本能そのもの、傷つけば傷つくほどに高まっていく。だから私は幼いころから拷問を受け、何度も死にかけた。あいつらは私を強い竜に育てたかったみたい。六歳の時から孤児院の子供と殺し合いを始めた。いや、私は深手を負っても死ななかったから、殺戮と言った方が正しいか。でも当時の私は、他の子供も手足くらい無くなっても生えてくるものだと思っていた。自分は人とは違う。自分が斬りつけた子供がとっくに死んでいるのだと知ったのは十歳のとき。自分が竜の子だと知ったのもそのときだった。私はタツワランの連中をみんな殺して、竜文字の資料から真相を知った後、教会を燃やして逃げた」
「……行くあてが無くなって、サザラクに拾われたってこと?」
「そういうこと」
「……そうか」
 かける言葉も分からずに、ヴァイスはただ黙ることしかできなかった。
「私、どうすればいいと思う」
 ネーラの腕の中で、赤子がぐずり始めた。
「いくら説得しても、この子の母親……イリアは聞き入れてくれなかった。人の街で子を産むのが竜の戒律、違えるわけにはいかないって。放っておけばこの子はタツワランに連れて行かれる。私と同じ目に遭わせるのは忍びないし、ギルドに戻っても利用されるだけ」
「利用されるだなんて、どうして決めつけるの?」
「逆に訊くけど、どうしてそうじゃないって決めつけるの。私がギルドで何やってるか、知らないわけじゃないでしょ」
「それは……」
 ヴァイスの脳裏に宴の光景がよぎった。酔った振りをするネーラに背を向け、放っておけと嘲笑う男たち、見張りが侍らせていた犬、迎えもよこさずに逃げ出したギルドの人々。その冷遇は、そのままヴァイスにも当てはまるのだった。
「僕を殺さないの?」
「殺して何になるの。お互い、何ができるわけでもないのに」
「それじゃあ、頼まれてくれないかな」
「待って」
 そっと赤子を置いて、ネーラは立ちあがった。獣のような鋭い視線をヴァイスの背後に飛ばす。
「あなたたち、こんなところでどうしたの?」
 振り返ると、いかにも善良そうな女性が瓦礫の陰から出てくるところだった。裾の焦げた煤まみれの衣に身を包み、憐れむような目でこちらを見ている。
『この子は渡さない』
 竜の言葉は唸り声にしか聞こえなかったが、ヴァイスにもおおよその意味は分かった。女性は動揺の表情を繕う前に、ネーラの放った黒片に胸を貫かれて絶命した。
 瞬間、四方八方で人影が現れ、一斉に矢を放った。雨のように注ぐ矢は、しかし地面からせり上がった黒壁に阻まれ、甲高い音を立てて弾け飛んだ。冷たい殺気を放つネーラとは裏腹に、驚愕に息を呑む声が三人を包んだ。
 次の瞬間、黒壁は鋭い棘となって四方に飛び散り、あちこちで呻き声が上がる。地を這う蛇のように滑り出たネーラは漆黒の刃を閃かせ、一人また一人と急所を切り裂いていく。ただ一人、稲妻のような斬撃にかろうじて刀を合わせたが、黒太刀はまるで稲穂でも刈り取るかのように金属の刀身を真っ二つにし、悲鳴を上げて倒れ伏した。青くなった兵士が弓を放り出して逃げだそうとしたが、背中を見せる前に血煙に変わり果てた。竜との戦いとはうって変わって、タツワランの追手との戦いは、文字通り瞬く間に終わったのだった。
「……流石だね、ありがとう」
 赤子をかばうようにうずくまっていたヴァイスは、顔を上げた。
「私怨なんだから、礼なんて言う必要ない」
 いわば復讐を果たしたことになるのだろうが、ネーラは物憂げだった。
「それ、もしかして《竜狩りの剣》なの?」
「さっきから質問が多いんじゃない」
 無造作に地面に突き立てた剣は、細かな塵となって風に流されていった。
「君は謎が多すぎるんだよ」
 呆れた声で、ヴァイスは言った。
「で、頼みって何なの」
 なにもかも面倒臭いというような顔つきで、ネーラはぶっきらぼうに訊く。
「どうせ行くあてが無いなら、僕も連れてってくれないかな」
「鬱陶しくなったら、殺すかもね」
「その時はその時さ」
「随分お気楽だけど、どうかした?」
「さあ、僕も何かどうでもよくなっちゃったのかもしれない。どうかな?」
「……まあいいか」
 そのとき、ネーラが少し笑ったように見えた。
「決めた」
 ヴァイスに背を向け黒髪を束ねたネーラは、長く伸びる影法師を見つめながら呟いた。
「あんた、何処へ行くにもついてくるつもりなんだろうね」
「目的地を決めたの?」
「迷っても仕方ない」
 いっそ清々しいはきはきした口ぶりで、ネーラは言い切った。
「こうなったら、自分のルーツをとことん突き詰める。付き合う気なら、死を覚悟して」
「仕方ないね」
 答えたヴァイスは、ネーラの目指す先を半ば予期していた。

「ララスを越える。いざ、竜の国へ」

竜狩りの剣(かもめあき)

しばらくお休みしますです。(かもめあき)

竜狩りの剣(かもめあき)

竜狩りを生業とする竜狩りギルド《サザラク》にて《疾り屋》を担う少年ヴァイスと、同じギルドで天下無双の戦士たる少女、ネーラ。竜の攻撃に身一つで臨む二人は、さらに危険な運命へと引きずり込まれていく。※連載中

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 一 竜狩りギルド《サザラク》
  3. 二 ヨクアのミルナシア