白い残月冷やかに

幕末の、井上馨と君尾の話。
思いっきり創作です。

祇園のとある置き屋で、女は待っていた。
いとしいあの人は、今は京都にいると人づてに聞いたのである。
もちろん、きちんとした客商売の中で、である。
同郷の人であったから確かな筋のはずだが、聞いてからもう5日は経っていた。
女は心配になる。
(どうしてこう、女は待つことしかできないのかしら)
いくら気を紛らわそうとしても、愛しいあの人を待つ身の辛さに、変わるものはなかった。
そうして、やっと6日目。ようやく待ち人は来た。長身細身、それでいてがっしりとした男だ。
「志道はん……会いたかった!」
「君尾、遅くなってすまんかったの」
申し訳なさそうに、男は言う。男の名前は志道聞多(しじもんた)。長州藩士である。
女の名前は君尾(きみお)。今祇園でもなかなかに名を馳せる攘夷派びいきの芸妓であったため、勤王芸者と呼ばれた。
志道とは高杉晋作を通して知り合った仲で、志道の懐の深さや、ちょっとした優しさ、気遣いに心ひかれ、
今ではおなじみさんとしてこんなふうに会話する仲となった。
志道は一目ぼれだったという。
「もぅ、待ちくたびれたんですよっ?!どうして、はよう、きてくらはらへんかったんどす?」
君尾は志道にぎゅっと抱きつき言った。
志道はそんな君尾の頭をなでながら、すまんかったの、と苦笑しながら言うばかりだった。
君尾は少し不思議に思ったが、その不思議が何なのかよくわからず、
逆に不安になって、志道を抱きしめる力を少し強くした。

「でね、志道はん、彼女ったらおなじみさんを取られた言うて泣きさけんどったんどすえ……。志道はん?」
「ん?おお!聞いとるぞ?それで、彼女はどねぇしたんじゃ」
酒を注ぎながら君尾が話すのだが、どこか上の空である志道。確かに話は聞いているものの、
君尾にとってはあまり面白くはない。
いつもより酒を飲むスピードも遅く感じられる。
何か病に罹ったんやろか、と心配になって、志道の名を呼んで顔を向けさせ、
自分の額を志道の額にぴたりとくっつけた。いきなりだったので志道は慌てた。
「どっどどどどねぇしたんじゃ急に!」
「じっとして!」
ぴしゃりと君尾が言う。あまりの剣幕に志道も黙るしかなかった。大人しく君尾のするようにさせている。
君尾が額を離すと難しい顔をして志道を見た。志道は怪訝な顔をして君尾に問うた。
「なんじゃ、そねぇ難しい顔して。なんぞあったかの?」
君尾は難しい顔のまま
「熱は無いようやねぇ……。志道はん、お疲れどすか?お床用意させましょうか」
心配そうな顔になって、君尾は志道に寄り添った。
志道は一瞬驚いた顔をしたが、ニカっと笑うと
「まだええぞ!わしゃ、大丈夫じゃ。どれ、お前さんの踊りを見せてくれんかの?君尾」
肩を抱いて、君尾の額に接吻した。君尾は、ぽ、とほおを染めると扇子を持って舞い始めた。
志道は自分で酒を注ぎながら、君尾の舞を見ていた。
しかし、瞳は本当に君尾を見ているのかどうか分からなかった。

「志道はん、今日は……?」
君尾が頬を染めながら志道に聞いた。
「ん?何をいうちょるんかのう、この子は」
志道は笑いながら言うと、君尾をそっと押し倒す。
「や、待って!志道はん!こないなとこで……っ!今お床の準備させるし」
君尾が焦った。その様子がかわいく見えたようで、志道は破顔した。
君尾はこの笑顔で崩れた志道の顔が好きだった。もちろん普段のきりっとした顔も好きではあるし、
お茶らけた事をやっているときの顔も好きではあった。
しかし、本当に笑ったときの、自分の前だけに見せるこの顔が一等好きだった。
まだかいの、と君尾を押し倒したまま志道は聞く。
もうちょっとですよと答えれば、また笑う。
そうやってやり取りしているうちに準備が整った。
志道がひょいと君尾を抱き上げて向かう。昔は驚いたこの動作にも慣れ、
今では自分だけ特別な感じがして、抱き上げてくれるのを楽しみにしている。
そんな君尾の様子を見られるので、志道も抱き上げるのが楽しみだった。
「志道はん……」
「君尾……」
唇を重ね合わせ軽く接吻をする。次第に深く、強く互いを求め、二人は甘い夜に落ちる、はずだった。
しかし、
「志道はんのあほー!」
バシッベシッ
「ちょ、待て!君尾!痛い痛い!」
志道が待てと叫ぶが君尾はやめない。むしろもっと強くたたき始める。
志道は逃げるしかないが、狭い室内で逃げるのも難しいうえに、
君尾が上に乗っているので逃げようにも動けなかった。叩かれるがままになってしまった。
「~~っつううう!なんじゃ君尾!どねぇしたんじゃ!」
「どねぇしたも何もあらしまへん!志道はん!今日は当あてに会いに来てくらはったんと違うんどすか?!」
大粒の涙を流しながら、君尾は叫んだ。
志道は驚き焦り、しどろもどろに言い訳しようとした。
「いや、その、な、君尾。その……」
「言い訳なんてそんなんどうでもええの!ずっと上の空やったし、あてを見てるようで、どこか別のところを見てる!
 あてはずぅーっとずっとまっとったんえ!そんなあてに対してひどいやないの……ッ!」
涙を拭うが、とめどなく溢れてくる。涙で濡れながらも芯の強い、大きな目を志道に向けて、
君尾はまた何か言おうとした。しかし、続かなかった。
嗚咽をこらえなければならないほどになっていたのだ。
志道はそんな君尾を抱き寄せ、自分の胸にしまいこんだ。
君尾は志道の背中に手を回し、子供のように泣く。
すまん、すまんのぅ、君尾……。
そう何度も何度も志道は繰り返し、君尾の頭を何度も撫でた。

泣きやんだころ。それでも離れようとしない君尾を愛しく思いながら、志道は意を決したように言った。
「君尾、わしはエゲレスに行く」
君尾は動かない。志道は君尾を抱きしめる力を少し強くして、続けた。
「5年かけて、向こうの知識や技術を学んでくる。じゃけぇ、もう――」
「言わんとって!」
君尾が志道の胸に顔をうずめたまま、志道の言葉をさえぎって叫んだ。まるで空を切るように志道の胸に響いた。
「それいじょう、言わんとって……!志道はん」
「しかし、もう今度は……ん」
言いかけた志道の口を君尾がふさぐ。長く、長く、お互いの息が持たなくなるまで、君尾はふさいだ。
離した時には、しばらく話せないほど息切れしていた。
君尾の目は涙にぬれている。志道の目は、揺れていた。
「君尾、すまん……。わしは、もう、来れんかもしれん……。長い旅じゃ。すまん」
君尾の顔を見れなくなって、志道はうつむいた。
君尾はそんな志道の顔に手を当てて、悲しそうな顔をした。
「志道はん……」
しばらくふたりは無言だった。君尾が思い出したように、着物から手鏡を出した。
じっと見つめ、目を閉じて何か念じるようにしてから、志道の胸に押しつけた。
「君尾?」
「これ、持ってって!これに、あての思いがみーんなつまっとんのや!お守り代わりどす」
志道が受け取ると、君尾は嬉しそうに笑った。
笑ったように見えないほど、顔は泣きあとでひどかったが。

***

志道と君尾が支度をすると東の空が白んできた。
「それじゃあの、君尾」
「……お気をつけて……」
志道はうつむく君尾の額に接吻をして、歩き出した。
行く先の西の空には白い月が冷たく輝いている。
志道は泣くまいと決めていたが、こらえきれずに涙をこぼした。
君尾は志道の肩が震えているのを見て、駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られた。
しかし、今ここで駆けていけば、志道の決意が無駄になってしまう。
唇を固く結び、涙でぬれた目を白い月へと向けることによって、なんとか踏みとどまった。
やがて志道の背中が見えなくなる。
君尾はその場にうずくまり、声を押し殺して泣いた。
志道は月を見上げ、これで最後と一粒の涙を流し、拭った。
そして、まっすぐ前を向き、イギリス留学への一歩を踏み出した時には、もとの精悍な顔つきに戻り、
涙の跡を見せなかった。

***

それから、イギリスへ向かう船には志道家の養子縁組を自ら切り、井上姓に戻った井上聞多がいた。
甲板に座り、空を見上げていた。東の空は白んでいる。
壮大な夜明けが目の前に広がり始めた。
西の空には、前と同じ白い月が冷たく輝いている。
同船する伊藤俊輔が寝ぼけ眼で井上の隣にきた。
「聞多、寒くないんかぁ……?」
「俊輔、お前どねぇしたんじゃ」
会話中にも舟を漕いでいる伊藤に、井上は聞く。伊藤は、聞多がおらんかったから、と言うと、
井上の肩に頭を乗せて再び眠ってしまった。井上は小さくため息をついた。
シャツのポケットから、君尾からもらった小さな手鏡を取り出して見つめる。
白い月が鏡越しに見えた。
「……振り切ったつもりでも、やっぱりしばらくは無理じゃの……君尾」

ありあけの つれなくみえし 別れより 
  あかつきばかり うきものはなし
(君と別れた朝を思い出して、明け方は今でもせつないよ)

「……未練たっぷりじゃのぅ」
自嘲気味に笑って、井上は手鏡をポケットにしまった。
太陽が昇り始める。きらきらと輝く海を眺め、井上は目を閉じた。
ぽたり。
俊輔の頭にしずくが落ちる。気づいて目を開けて、上を見上げた。
「……聞多、辛かったんじゃな」
眠る彼の目じりがきらりと光っていた。


志道聞多は帰国後、新しい国家のために藩論転換をはかろうと奔走し、保守派に襲撃されたが、
君尾が渡した手鏡により致命傷を免れた。
名を井上馨と改め、外務大臣などを歴任する。

君尾は勤王芸妓として、京都で活躍する勤王志士たちを匿い、逃がし、新しい国家のために尽くした。
その間、品川弥二郎と出会い、一子を儲け大正まで生きた。
明治維新の際に官軍に歌われたという「トコトンヤレ節」の作曲は、彼女によるものだと言われている。


[ありあけの つれなくみえし 別れより
  あかつきばかり うきものはなし    壬生忠岑]
私的意訳:君と別れた朝を思い出すから、明け方の空は嫌いだ。

白い残月冷やかに


いかがでしたでしょうか…。
感想等お待ちしております。

白い残月冷やかに

日本の夜明けを目指して奔走した幕末の志士達。 そして、その男たちを陰日向に支える女たち。 そんな彼らがおりなす恋愛を、及ばずながら紡いでいこうと思います。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-04-24

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