ホール・ライフ・クレジット

 これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕より認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。

――ルネ・デカルト『方法序説』(谷川多佳子訳)



 ムクロの目は天使を捉えていた。彼の住む町は海に面していて、毎日乱痴気騒ぎをする人々の群れの向こう側にうっすらと水平線が見える。その水平線の上に、ギラギラと輝く天使の姿がムクロには見えた。ムクロは自分が酔っているからあんなものが見えるのだろうと考えた。このところ起きているときに酒が入っていないということがない。体が酒に浸りすぎると幻覚が見えるようになると聞いたことがある。実は彼は幻覚を心待ちにしているところがあったので、むしろ嬉しく思ったくらいだった。
 初めて見た天使の姿は、街の灯りを浴びて夜の闇に照り輝く水面を、さらに煌びやかに装飾していた。それは、それ自体で輝いていた。ムクロの眼球にはいささか刺激が強すぎると思われるほどだった。かなり遠くにいるはずなのに、天使の姿は細部までムクロの目で確認することができた。と言っても、天使があまりにギラギラ輝いているので、その細部も見ようとすればするほど眼球が痛んで、はっきりとはわからなかった。まず背中に羽根が生えている(天使なのだから当然だ)。その羽根はまるで鋭利な刃物のようにギラギラしていて、しかもそれ自体が発光していた。空を飛ぶ用に供し得るのかは謎である。あれでは羽ばたくことができない。顔は、まるで十三歳の少女のように幼く、しかし美しかった。彼女の目はどこを見るともなく開け放たれていて、彼女自身の意思というものが感じられない。天使と言えど裸ではなく、服を着ていたのだが、その服も天女の羽衣と言ったほうがふさわしいような、ヒラヒラとした半透明の大層華美な布切れだった。その羽衣から出ている四本の手足は、いずれも銀色に輝いていて、これ以上みているとムクロの網膜を焼き焦がしてしまう。

 ムクロは早速帰って天使のことを詩に書こうと思う。ムクロは自作の詩をばら撒くのが趣味なのだ。ネット上にも、路上にも、平等に彼はばら撒く。着想が消えないうちに急いで帰宅しようと、早歩きで坂道を登っていく。すれ違う人々はみなムクロと同じように始終酔っ払っている。常に片手に酒か食い物を持っている。坂道を登っていると、段々と息が切れてくる。酔いもあって、呼吸が激しくなってくる。まだ自分のアパートまで半分以上の道のりが残っているのに、ムクロは路上にへたり込んでしまった。やはり普段メシを食わないのがまずいのかも、と思う。数年前に酒の飲みすぎで胃腸を悪くしたときに、その後遺症で食が細くなり、それ以来ほとんどメシを食わず酒だけで栄養を摂取しているようなものである。それゆえムクロの肉体は餓鬼のように痩せていながら腹だけが酒で膨れていた。路傍に座って道行く人を眺めていると、また酒が飲みたくなってくる。酒だ、酒がないから元気が出ないのだ。彼は目の前のコンビニに入ることにした。
 コンビニには店員がいなかった。オートマチックだ。オートマチック店舗管理システムのことを、単にオートマチックと人々は呼んでいる。オートマチックでなければ店舗にいるのは外国人だ。それかボランティアだ。カゴに缶ビールを適当に放り込み、多分食わないであろう弁当を、念のため一緒に買った。
 缶ビールを飲みながら坂道をさらに登っていく。ムクロはアパートに着いた。彼の住んでいる場所の周辺は、似たようなワンルームのアパートがぎっちりと密集していて、言ってみれば独身者の団地という風情である。入居以来一度も掃除したことのない部屋のなかで、彼は早速詩を書き始めた。天使、天使、天使……必死に彼女のイメージを心に灯してみるが、うまくいかない。創作がうまくいかないとき、ムクロはいつも手癖にまかせることにしていた。無意識の書かせるままにしておくのだ。ノートに書き出されたのは、ひどく凡庸な詩であった。「…… ああ 少女のような可憐さ ああ 天女のような羽衣 ……」しかしこの腐臭漂う最低なゴミのような詩感は逆に新鮮だった。彼はこれをいたく気に入った。この調子で膨大な行数の一大詩篇が出来上がるころ、もう既に夜は明けていたのだが、これはムクロの日課でありいつものことだった。
「できたぞ!」
 彼は叫ぶと同時に、今度はこの詩をパソコンに入力し始めた。街中で詩をばら撒くとき、当然彼は詩を紙に印刷するのだが、そのときには自ら作った奇抜なフォントを使用しているのである。A4の紙一枚につき一篇の詩が焼き付けられていく。それを一〇部程度印刷し(一〇部と言えど一部につき三〇枚はある長大な詩である)、ムクロは分厚い紙束を脇に抱えて早朝の薄暗い街へ出かけた。彼が詩を配る場所は決まっていた。歩道橋と跨線橋である。高いところから風に乗せてばら撒くのが好きだったのだ。それによって詩がバラバラになってしまっても構わないと考えていた。むしろムクロの詩は断片的にこそ読まれるべきなのである。歩道橋の真ん中から、三〇枚づつ真上に投げる。あっという間に詩は散らばっていく。歩道橋の真下、二車線の境界線上、対向車がすれ違う場所で巻き起こる風に煽られて、詩篇は拡散していく。しかしそれもせいぜい数十メートルの範囲だった。それでもムクロは満足だった。次に跨線橋へ向かう。特急電車が通り過ぎる瞬間を狙って、車両へ向かって紙束を投げつける。電車の進行方向とは間逆のほうへと、紙束が渦を巻きながら散らばっていく。
「きれいだなぁ……」
 ムクロは呟いた。空が明けていく。

 ピー・エス・コンペンセイションズ株式会社、なる会社名を名乗る男がムクロのアパートに押しかけてきたのは、詩を配り終えてくたびれたムクロが一眠りしていた正午のことであった。
「石梨ムクロ様ですね?」
「そうだけど……」
「私こういう者でして」
 そういって男が差し出したのは一枚の名刺である。先ほどの社名と、その会社が<補償会社>であるということが説明されてはいたが、男自身の名前は記載されていなかった。ムクロは名刺と男の姿とを見比べてみた。日本語は流暢だが、どうも韓国人のようだ。男のファッションの傾向から、ムクロはそう推測した。日本人は会社で働いたりはしないので、少なくとも外国人であることだけは確かだ。
「それで、この度は大変残念なお知らせなのですが、石梨様は本日午前中の取引をもちましてご破産なさいました」
「は?」
 ムクロには男が何を言っているのかわからなかった。何しろムクロは今日の午前中は詩を配って寝ていたのだし、取引など何も行っていない。破産したなどと言われても、毎月振り込まれる分割金(ディヴ)はきちんと一定額ずつプールしている。家賃半年分くらいの貯金はあるはずだ。当然借金などもない。
「おっしゃりたいことはわかります。きっと破産などにはお心当たりがないとお思いでしょう。ですので、少しご説明をさせていただければと思いますが、よろしいですか?」
「はあ……」
 説明してくれるとはいえ、ムクロの部屋は物が散らかりすぎてとても人を上げられるような状況ではなく、このまま玄関で立ち話をすることになった。
「WLC――ホール・ライフ・クレジットのシステムについてはご存知ですね? ああ、そうですか。毎度ピー・エス・ホールディングスのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。ご承知の通り、WLCのシステムでは様々なタグを投資の対象としてお選びいただき、弊社親会社のピー・エス証券が投資信託業務を執り行わせて頂いております。ちなみに石梨様はどういったタグに投資を? ああ、<純日本人>ですね。大変結構なことでございます。普段、タグの購入に関してしか触れられることのないこのWLCというシステムの成り立ちから、お話させて頂きたいと思います。長くなりますが、今回の件と非常に密接に関わりのあることなので、何卒ご容赦ください」
 そこで男は一度呼吸を整えた。
「ホール・ライフ・クレジット、直訳すれば終身債権、ということになりますが、これではなんのことかよくわかりませんよね。実はこのWLCは、日本人の皆さんの人生そのものを投資の対象として取り扱う、一種の金融商品の名前なんです。皆さんは投資の対象なのです。街を歩くと、日本人の皆さんは誰も働いていないのに、私どものような外国人は皆働いていますよね? 実は世界には毎日働いている人のほうが多く、日本のように国民がほとんど誰も働いていない国は非常に珍しいのですよ。ご存知でしたか? 日本の皆さんが働かないで済む理由、それがWLCなのです。皆さんは皆さん自身の人生を投資の対象として市場に公開しています。そうしたリスクを取っているから、働かないでOKなのです。働いていないからといって何も後ろめたいことなんてありません。日本の皆さんが<タグ>として市場に流通してくれているからこそ、我々をはじめとする金融業界も非常に助かっていて、金融が力を持っていれば経済全体が活性化しますので、結局のところ日本の皆さんは毎日穏やかに過ごしていてくださるだけで、我々の世界の救世主なのです。具体的には、例えば、ここに一人の赤ちゃんが生まれたとします。仮にA君としますと、A君は生まれた直後に格付け会社の指示によって健康状態や両親の境遇などあらゆることを調査され市場における値札がつけられます。誤解のないように付け加えておきますが、あくまで格付け会社がつけた値札です。これがA君の命の値段というわけではもちろんありませんし、この値札自体市場の流動性の中で上がったり下がったりするのです。A君は、例えば両親ともに純日本人であれば<純日本人>というタグを与えられますし、富裕層出身であれば<富裕層>というタグを与えられます。東京都出身であれば<東京都>というタグを与えられます。これらのタグや健康状態などなどが総合的に評価され、A君の値段が決まるわけです。まあ、平均的な日本人ですと大体二億円前後ですね。ですがまだこれだと金融商品としては非常に扱いにくいです。二億円なんて、そうそうやり取りできる額じゃありませんし、いっぺんにそんな額を動かしたら利益が出るときはいいですが損失が出たときは大きなダメージになってしまいます。リスクが大きいのですね。ですから、以下のステップを踏みます。まず、他の赤ちゃんと組み合わせます。大体似たような特徴を持つ子供とセットにすることが多いですね。この組み合わせ方によって<純日本人>だとか<東京都>だとかいうタグを利用した金融商品名がつけられるわけです。石梨様の持っている<純日本人>も、こうした子供達の人生を商品化、銘柄化したものなんですね。組み合わせによって銘柄を作ったあとは、これを分割します。例えば二人の赤ちゃんの組み合わせで<純日本人>という銘柄を作ったとして――まあ通常は一〇人以上の赤ちゃんを組み合わせるのですが――二億円×二で四億円になりますので、これを四万口に分割します。そうすると、一口一万円のお手ごろな金融商品が生まれるわけです。ここでようやく石梨様も購入して頂いているWLCタグという商品の形をとるわけですね。これらのタグは購入した人のポリシーなどを表現するのにもお使いいただいておりまして、石梨様が普段お帽子につけていらっしゃる<純日本人>を象徴する太陽のバッジなどはその印ですね。タグの購入記念に、そのバッジと似たような品物を皆様にプレゼントさせて頂いております。タグはピー・エス証券の提案している購入プランですので、実際には一口一万円という値段は常に変動していて、激しい売買が日夜行われているわけなのですが、その実務は当然弊社グループの者が執り行っております。それゆえ、お客様がお気づきにならないうちに、お客様ご自身の市場価格が激しく下落している、ということもありえるのです――まあ、そうならない内にお早めの市場価格のチェックを我々はお勧めしておりまして、それによってとれる対策も無数にあるのですが、現実にはどのお客様もまずご自身が投資の対象になっているという事実すら認識されていらっしゃいません。WLCは、お客様の人生の未来全てを証券化するシステムですので、年金のような形で月々の分割金が支払われるわけですが、この分割金自体は何ら変化無く振り込まれるので、どなたも危機的な状況にお気づきにならないのです。ちなみに、石梨様の現在価格をごらんになりますか? 出生当初一億五九七二万円だった価格は、現在のところ八一円です。一〇〇円を切ると、どのような手段をもってしてもWLCタグとしての商品化が難しくなってまいりますので、格付け会社によってマネージ不可と判断され、今後のお振込みが停止されますとともに、商品の流通が突如止められてしまいますので、市場に莫大な損失が生じまして、その損失分の債務をお客様にご負担いただかねばなりません。このことは石梨様のご出生の時の契約書にも記載されております」
「本当に?」
「ええ、これです」
 男は、セピア色に焼けた契約書をカバンから取り出した。ムクロが生まれた時に作られたはずなのに、ムクロの名前が署名してあり、血判まで押されていた。該当する条項には既に下線が引いてあって、確かに男が口頭で述べた通りのことが書いてある。
「ちなみにですね、今後膨張する可能性もありますが、現在のところ判明している石梨ムクロ様の債務総額は、およそ一兆七〇〇〇億円です」
 何かを喋ろうという気も起きなかった。出来の悪い詐欺だ。目の前の韓国人を玄関から押し出そうとすると、逆に鳩尾を信じられない強さで殴られた。ムクロは床に倒れ臥す。
「皆さん、似たような反応をなさいます。ご安心ください。石梨様にピッタリの補償プランをご用意いたしております。弊社ピー・エス・コンペンセイションズ株式会社はそのための専門企業で、多種多様な方法をご提案できます……」
 薄れ行く意識のなか、ムクロは男の極めて紳士的な言葉に惚れ惚れと聞き入っていた。

 そのあとムクロは【料亭花菱】として目を覚ました。【料亭花菱】はムクロの住んでいたアパートからさらに坂道を登っていった丘の上にある、花菱温泉旅館チェーンの一店舗内に設置されたレストランである。【料亭花菱】は改装工事が済んだばかりのようで、内装は極めて清潔だった。厨房にも調理機材や食材は十分にそろっているし、今からでも営業できそうだ。だが、ムクロにとってどうにもよくわからないのは、自らの視覚がカメラ設置箇所の視点を通してしか機能しないということである。また、自分が【料亭花菱】のマネージャーであるということはわかるのに、店内をうろつくことができないのである。妙だと思って考え込んでいると、ムクロは、自分のハードディスクの記憶領域の中に Readme.txt を見つけた。開いてみる。

「石梨ムクロ様

 いつも大変お世話になっております。
 ピー・エス・コンペンセイションズ株式会社でございます。

 株式会社ピー・エス証券から補償管理業務を委託しております弊社ピー・エス・コンペンセイションズ株式会社は、この度ピー・エス証券から譲渡されました石梨様への債権を、関連会社ピー・エス・ソリューションズ株式会社に再度譲渡致しました。以後は同社が、弊社作成の一三三ヵ年補償計画に基づいて、石梨様の補償活動支援を行うことになりました。詳細につきましては別紙をご覧ください」

 別紙.txt。

「石梨ムクロ様

 弊社ピー・エス・ソリューションズ株式会社は、社員一同全力であなたの補償活動を支援致します!

 現在あなたの身体となっているのは、弊社関連会社のピー・エス・フードビジネスサービス株式会社が運営しております、花菱温泉チェーンの一店舗、花菱温泉○○店内のレストラン、【料亭花菱】です。
 
 店舗が売り上げを伸ばした分だけ、あなたの補償も進展いたします。頑張りましょう! 
 
 具体的な店舗運営についてですが……」

 そこからこまごまと店舗運営についてのマニュアルが約二〇万字程度記載されていた。ムクロの情報処理能力は驚くほど向上していて、マニュアル通りに店舗システムを駆動させるためのアルゴリズムサイバネティックスを独力で作成してアクセラレートさせる作業を完遂するまで、ほんの二時間程度もかからなかったが、ムクロにはそれを自分が行っているとはとても信じられなかった。一度それを行おうと意思するだけで、自分の主観意識とは切り離されたなにがしかの機関が自律的に【料亭花菱】を補償活動へ最適化し再編成していくのであった。
 店舗システムの自律駆動準備が整ったあと、実際の開店まではまだ時間があった。食材の仕込みがあるのだ。当然ムクロは意識的には何もしない。先程作ったアルゴリズムが早速肉を解凍し、白菜を刻み、小鉢を並べ始めていた。この分なら明日の朝から営業できそうだとムクロは思った。その間やることもないのでネットを閲覧することにした。先程の補償会社の関連会社が残したメモには、効率よく店舗を運営していくための解説は書いてあったが、肝心なこと、つまりムクロはいま一体どういう状態なのか、なぜ【料亭花菱】にさせられているのか、補償が一三三ヵ年計画の通りに無事終わったら一三三年後の自分はどうなるのか、ということについてまるで説明がなかったのだ。ムクロは計算してみた。一兆七〇〇〇億円の債務を一三三年で割ると、約一二八億円/年ということになる。つまりムクロはこの【料亭花菱】において年間で一二八億円も稼ぎ出さなければならないのだ。しかもムクロ自身の純粋な利得として、である。諸経費や上納金を考えたら、現代では従業員を雇用する必要がない分楽とはいえ、大雑把に言ってもこの三倍はかかるだろう。つまり四〇〇億円弱はかかるわけだ。年商四〇〇億。それをこのちっぽけな店舗一つで? 一三三ヵ年計画など、あまりに楽観的過ぎるというか、都合が良すぎるのではないか? この「計画」には金融企業によるさらなる極悪非道な思惑が潜んでいると考えておくべきだとムクロは覚悟した。そもそも、一三三年もこの料亭を動かしていたら、もはや自意識が料亭になってしまうだろう。自分のことを人間だと考える意識すら消滅するはずだ。いや、もはや半ば消滅しているのだ、既に人間の肉体を失ってしまったからには……。街中でよく見かけたオートマチックの店舗、あの中にはムクロのような境遇の人間が埋め込まれているのではないかと、このときムクロは初めて思い至った。
 ムクロが考えているのは、明らかに死への親近感だった。いまの自分はすでに死の国の住人だと考えていた。少しでもこの不安や恐怖を紛らわそうと思い、ネットを検索しまくった。意外なことに、同じくWLCタグの秩序から追放されて国家的規模の債務を抱えてオートマチック化した者達が書いたウェブログやウェブフォーラムのログは容易に見つかった。まず実感させられたのは予想もしなかったほどに多くの人がオートマチック化しているということだった。ファストフードは言うに及ばず、銀行、クリーニング屋、スーパー、コンビ二、ドラッグストア、居酒屋、ヘアサロン、アミューズメント、性風俗、カフェ、あらゆるものが現代の人身売買の結果として生み出されたものだった。消費者に直接仕える店舗サービスに限らない。モノを流通させるためのネット制御自動車のエリアマネージメントも「元人間」(というネットスラングがあるのだ)が行っている。エリアマネージメント、とは言ってもやることは信号機周辺の事故処理システムの管理らしい。簡単に言えば、事故が起きたら即座に治安システムに連結するための連絡を行うだけの連絡係だ。それだけのために交差点の様子を百年以上まんじりともせずに監視カメラとしてモニターさせられる。
 他にも数え出したら切りがないほどの「職業」に就いている人々がネット上には蠢いていたのだが、当然色々な「元人間」がいればろくでもないうわさ話も飛び交うことになる。ムクロにはどれが信じるに値する情報で、どれが聞くに値しない単なる噂に過ぎないのか、判断できなかったが、彼なりに情報をまとめたところによれば、恐らくムクロ達は補償会社の人間に気絶させられたあとどこかの施設で「吸い出し」をされている。何を吸い出されたのかと言うと、もちろん記憶をである。そんなことが現代の技術で可能なのかどうか、ムクロは大いに疑った。しかしその噂話が主張するところによれば、オートマチック化以後のムクロ達は、現在の自分の意識が過去の自分の意識と連続していることを立証できない。「人間だった過去から連続している」という意識を与えられているに過ぎないのかもしれないのだ。そして、今のムクロは、人間だったころのムクロから吸い出されたデータをもとに再構成された疑似人格かもしれない。そんな風に言われてみると、これを完全に否定しきることはできなかった。もちろん何のためにそんなことをするのかは謎である。しかしこの謎にもまことしやかかつかなりうさんくさい理屈でもって説明をつけようとする輩はいた。ムクロ達「元人間」の身体は、加工場に送られて解体されて殺菌消毒され、革製品やら食肉やら医薬品やらの材料として売りさばかれるか、さもなくば吸い出し後すぐに最先端医療の実験台として、先進各国がダミーとして設えた第三世界諸国に点在する小規模な医学研究機関に売られるのだ、というのである。そして売れた額の半分はムクロ達の補償額へ充当されるのだという。これにはムクロも眉に唾をした(もはや眉も唾も持たなかったが)。しかしこの説を唱える者が言うには、その証拠に、連行される前に通告された膨大な債務総額から、「元人間」化してから僅かではあるが債務の額が減っているはずだ、というのである。ムクロは半信半疑で金融会社のポータルサイトで確認してみたが、確かに債務の額は減っていた。しかも一〇億円ほども減っていた。もし本当に人体を売買しているとするならば、当然闇の取引ということになろうからこれだけの金額が動くことも不思議ではないが、とはいえムクロ達は金融企業や国家に比べれば藁にも満たない弱い存在であって、そんな者達にバカ正直に一〇億円もカネを支払うというのもかなり疑問の残る話ではあった。いずれにせよどの意見にも一致しているのは、恐らく元の身体と生活を取り返すなどということは不可能だろう、という点だった。よしんば元の身体が傷つけられずに保管されていたとしても、百数十年という年月を経た後なのである。現代の技術が如何に進んでいたとしても何らかの劣化は免れ得ないだろうし、人間社会も一気に様変わりしている筈で、そこにいきなり復活してもなじめるはずがない。もう親も兄弟も知り合いも、自分の子ですらも死んでいるのだ。
 ネット上のフォーラムには、誰も「補償活動」を終えた者がいなかった。それゆえ極めて正当な推測として、「補償活動」が終了したらネットにも接続できないような環境におかれるのではないか? という説が語られた。別言すれば、死、そのものである。百数十年という補償計画の期間は、実は売り上げなどから計算されているのではなく、「元人間」たちの耐用年数から計算されているのではないか? 例えば、人間の脳の記憶領域の代わりを務めるこのローカルハードディスクの耐用年数をもとに計算されているのではないか。ムクロが人間であった頃は、脳やその他の諸機関が破壊されれば死ぬ定めだったわけだが、いまはこのハードディスクやCPUがムクロの命そのものなのだ。それゆえに、ことはハードディスクを入れ替えれば解決する問題ではすでにないのだ。このハードディスクこそがムクロの身体であり、例え中身のデータが他のハードディスクに移されたとしても、このハードディスク内のムクロはいき続けるはずなのだ。そう考えると、ムクロはすでに一度死んでいる。生身の肉体に住んでいたはずのムクロはすでに死んでいるはずなのだ。思わずムクロは死んでしまった自分のために祈りを祈った。そして、どう転んでも自分には未来などなさそうだとようやくムクロが悟った頃、徐々に夜が明け始めてきた。【料亭花菱】の臨む景色は街と海とを擁している。茜色に染まり始める街。その向こう側に赤い海。赤い海の上に、またしてもムクロは天使を見た。昇る太陽を背中に、天使は空中を泳いでいた。ギラギラと輝く太陽と天使を直視するムクロのレンズは、即座にオートフィルター機能が働かせてカメラと主観内表象装置を保護し、一気に視界は薄暗くなってしまったが、それでもムクロはあの網膜が焼かれる感覚を突如思い出していた。メモワール・アンヴォロンテール、という言葉が思考の中に流れて来た。確か人間だった頃に詩の評論で読んだ言葉だ。メモワール・アンヴォロンテール。もはやムクロはその言葉の意味を憶えていなかった。ハードディスクにバックアップされただけの焼き付けられた静的な記憶なのに、思い出せないことがある、というのが不思議でならなかった。
 そしてムクロは、何としても間近であの天使を見てみたいと願った。

 ムクロは頑張った。補償会社が予想もしないほどの働きをした。一縷の望みに賭けることにしたのだ。つまり、債務を一刻も早く弁済して、自由の身になることである。その為には文字通り二十四時間働いた。何しろ「元人間」の彼には眠りが必要なかったのだ。【料亭花菱】と隣接している花菱温泉旅館のマネージャー(当然ながら彼女も「元人間」である)と連携して、新たなサービスやプランを考えて基礎的な収益構造を合理化した。取締役の顔ぶれがほぼ同じの、名前ばかり二〇も三〇もある補償会社グループの幹部には思いつきもしないようなイノベーティブな「ジャパン・エクスペリエンス」という海外観光客向けの宿泊プランを考案し、他の店舗から差別化し、その土地に独特の文化や料理を(捏造して)振るまい、それが軌道に乗って利益率が伸びてくると、他所の旅館の不動産一式を買収するという案をエリアマネージャーに提案し、許可された。ムクロは信頼されていたのだ。これにより花菱温泉は二号店を持つことになり必然的に【料亭花菱】も二号店を出すことになった。二号店には新しい「元人間」が送られてきたが、ムクロは模範的な先輩を演じ、後輩を指導した。しかしそれでもやはり一飲食店が年商四〇〇億円を出すのは不可能だった。ムクロが悩んでいたとき、深夜に一人の客が訪れた。人間だった頃のムクロを殴り倒した、あの韓国人社員である。
「やあ、頑張っていますね」
 韓国人はにこやかにカメラの方を向いて話しかけて来た。もちろん、ムクロは声を発することはない。厨房奥のマシンルームの端末から話しかけてもらわないと、コミュニケーションできないのだ。
「そろそろ売上の伸びが頭打ちになって来る頃でしょう。あなたは非常に優秀だが、それでも店舗運営には限界がある。このままではとてもじゃないが一三三年なんかじゃ終わらない、そうお思いでしょう?」
 男はどこか含みのある微笑を浮かべて言った。
「さて、どうしましょうかね? このまま店舗を増やしますか? しかしいくら店舗を増やした所で、ネズミ講ではないのだからあなたの利益が倍になるわけではありません。また新しいプランを考えますか? しかし基本の単価が大幅に変わるわけでもなければキャパシティが増えるわけでもないので、そうそう大きな売上上昇は見込めません。さあ、どうしますか?」
 ムクロは一分間ばかりのシンキング・タイムを与えられた。そして男は言った。
「そう、WLCタグを使うのですよ! もちろん石梨様は一度この商品で痛い目を見られていますが、しかしこのシステムは有効に使えばこれほど利殖に適した方法はないと断言できるほど優れたものなのです! それに、今回は補償がかかっていますから我々が全面的にバックアップさせて頂きます。以前のように放任主義でいつのまにか価値が減っていた、というようなことはあり得ませんのでご安心を。石梨様のように極めて真面目に補償活動に取り組んでおられる方には、特にスペシャルなプランをご用意しております。他のプランに比べて多少リスクはございますが、この程度でしたら現在の【料亭花菱】の売上から見ればさほどの痛手ではありません。ですから、この<元人間>タグを強くオススメ致します! このタグはご存知の通り石梨様のように一度破産された方々を投資の対象としていますので、通常のタグとは多少性質が違います。すなわち、今後どのくらい価額が快復するのか、を投資の対象とするのです。元は二億円前後あったのが一〇〇円以下、すなわち二〇〇万分の一以下にまで価値を下げているのですから、よっぽどのことが無い限り補償活動を頑張る中で値段が上昇していくのが普通なのです。そこにビジネスチャンスがあります。例えば石梨様は破産された日には八十一円にまで価額をお下げになりましたけれども、我々補償会社の関連会社であるピー・エス補償計画管理株式会社が将来の快復額を先物化して商品にするのです。一三三年後には二億円にまで快復している、ということにして、その未来で石梨様の人生を二億円で売ることのできる権利を、今現在の時点で二〇〇〇万円で買ってもらう、という風に。この魔法の手続きを踏むことによって、八十一円だった石梨様の市場価格が実質的には一挙に二〇〇〇万円まで快復するのです! あとは通常のWLCタグと同じように投資して頂くだけで、毎月の分割金(ディヴ)が支払われます。当然石梨様自身も<元人間>銘柄として市場に流通しますので、その分のディヴも上乗せされるのです。ただまあ、もちろん一度破産された方のお取引ですので、その分投資を渋る一般の方々もいらっしゃいまして、そこがリスクではあるのですが、まず間違いなく大きな利益を狙える唯一の商品だと言っていいと思います。そういえば石梨様、ここにこられてすぐのとき、債務総額が不自然に一〇億円ほど減ってしませんでしたか? あれは実は、皆様が<元人間>タグとして人生の再スタートを切ったことへの、私どもからのささやかな贈り物、というのは冗談で、皆様の人生が市場に復活することによっていくらかの債務請求が取り下げられるというシステムなのです。仮にここで石梨様がこの投資の話をお断りになれば、恐らく再び一〇億円分の債務が請求されることでしょう」
 そこまで話し終えると、男は名刺を客席のテーブル上に置いた。以前は補償会社の名刺だったのに、今回はピー・エス証券の名刺だった。
「失礼、わたくし、グループ会社の五つの部門に同時に席を持っておりまして」
 当然ムクロは、一も二もなくこの話に飛びついた。何しろこの投資がうまくいけば、ムクロの補償は五〇年足らずで終わるという試算が出ていたからだ。
 簡単な手続きを経て、翌日には早々と初回のディヴが振り込まれた。今迄の「労働」がバカらしく思えるような額であった。それ以後、ムクロは店舗運営は自作のサイバネティクスに任せ、投資に没頭した。金融商品を売っては買い、買っては売った。取引を繰り返すうちに、自分自身を含む銘柄が何度も手元に入ってきたり他人に買われたりしたが、もはやムクロにとってはどうでもいいことだった。

 驚くべきことに、ムクロは僅か二〇年で補償を終わらせた。特殊な方法を使ったおかげである。それは、毎月の自分の収入を証券化するというテクニックだ。毎月振り込まれる【料亭花菱】の売上に毎月のディヴを足した一億円前後を、一定期間分証券化して二十億円で譲渡する。すると一挙に手元に二十億円が転がり込んでくるわけで、それを使って新たな金融商品を開拓する。するとその新しい金融商品のディヴが、今度は毎月二億円振り込まれる。さらに新しい金融商品のメドがつくと、早々とそれも証券化して売りさばく。まるで綱渡りのようだったが、幸運にもひどい破綻は一度も無く、計画の何倍ものスピードで債務を完済したのであった。その手際は見事というほかなく、完済の際にはムクロに二つの選択肢が与えられた。
 一つは精巧に人間を模した機械の身体を与えてもらうことで、これによって多少とも以前の生活を取り戻すことができる。大半の「元人間」はこうやって人間世界に戻っていくのだが、これには大きな制限がついていて、まず自分の財産を所持することができない。たとえ債務を弁済したところで、とてつもない多額の負債を抱えて破産した過去を持つ人間であることには変わらず、制度的には被後見人(つまり禁治産者)にカテゴライズされてしまう。それゆえ裁判所から後見人が派遣されるのだが、条例によって被後見人は後見人立会のもとでしかネット接続ができない。ネット上に補償活動を終えたものを見かけることができない理由がこれである。彼ら自身のディヴは後見人に管理されているので、ごくごく僅かな小遣いが手渡されるだけである。彼らは、与えられた疑似身体が故障その他の理由により停止(つまり死)するまでその生活を続ける。
 ムクロに与えられた特別な二つ目の選択肢は、ピー・エス・ホールディングス管理部門の社員になることであった。あまりにも優秀な手際が評価され、契約社員として、信じられないような高待遇でムクロの席が用意されたのだ。
 しかしムクロは別の選択肢を選んだ。完全な自由である。後見人も新たな労働もない、完全な自由。

 自由と一緒にムクロに与えられたのはバグの身体だった。あれほどの情報処理能力を持っていた【料亭花菱】の中枢は、長さ四センチほどのメモリースティックに過ぎず、その中にムクロの全精神が宿っていた。ムクロは哀れなほど小さなバグの身体に挿入され、【料亭花菱】を夜明けすぐに飛び立った。バグであれば後見人の立会は必要ないと、裁判所が特例的な措置をとったのだが、しかしこれは実は自分たちの厚意を踏みにじられたピー・エス・ホールディングスによる見せしめじみた嫌がらせでもあった。
 トンボのような小さな身体は、メモリースティックよりもさらに小さく、バグがムクロの身体であるというよりも、メモリースティックであるムクロをバグが一生懸命抱きかかえて飛んでいるようにしか見えなかった。
 羽の生えたメモリースティックが山道を下っていく。街と海の向こう側には、今日も天使が浮かんでいる。明らかにメモリースティックの重量はバグの膂力が想定している範囲を上回っていて、飛んでいくスピードは人間の歩行速度よりも遅いくらいだった。一〇分も飛んでいるとモーターが燃えるように熱を持ち始めるので、その度に着地して休憩せねばならなかった。電力は太陽光から充電しているので、バッテリーが切れて動けなくなるということは基本的になかったが、太陽が曇ったときの不安と恐怖は、人間だったときには味わったことのないものだった。街中を飛ぶと、人々から奇異な視線を向けられ、時にはたたき落とされかけた。重いメモリースティックを抱えているために本来の機動性はなく、街を抜けられたのは間違いなく異常な幸運だった。
 そしてムクロは、すっかり日が落ちる頃、ようやく海に着いた。天使は浮かんでいた。ムクロが考えていたよりも遥かに美しく、かつ巨大だった。巨大に見えるのは、もしかしたらムクロがバグになってしまったからかもしれない。しかしそれなら街中の人間達はなぜ巨大に見えなかったのか?
 ムクロは銀色の肢体をじっくりと見た。相変わらずそれ自身が輝いている。遠くからではよくわからなかったが、人形のような球体関節を、その天使は持っていた。天女の羽衣は非常に華美だが薄い繊細な生地でできており、その向こう側の陰毛や乳首まで透けて見えるほどだった。そして天使の顔を見た。天使はあまりに巨大で、こちらのことを認識すらしていないようだった。表情は全くないようだったが、強いて言うなら何か困ったような顔をしていた。二つの頬は、両側で燦々と輝いている巨大な羽に照らされて火照っていた。
 羽の輝きはやはりムクロの目を焼いた。今度のレンズにはオートフィルターも無く、バグのレンズの奥の内部構造は焼かれるがままになっている。もちろん、メモリースティックも焼けていく。焼かれながらムクロは不思議に思っていた。なぜ、このようなものが海の上に浮かんでいるのか? この天使にはなにか存在意義があるのか? そもそもこの天使のことを自分以外の人間が話しているところを見たことが無い。もしかしたらこの美しい天使は自分の幻覚なのかもしれない。しかし幻覚だとしたら、メモリースティックにコピーされたあとも見え続けているのはなぜなのか。この幻覚まで含めてデジタル化されてしまったのだろうか。しかしもしも完全に幻覚なのだとしたら、今レンズを通して焼かれている俺の身体はどうなるのだ。俺の体が燃えているということは、なにか強烈に発光するものが眼前にあるということには間違いない。すでに太陽は落ちたというのに。
 銀色の肢体は、何か機械のように見える。そうだとしたら、彼女は自分らと同じような「元人間」なのかもしれない。しかし、輝きながら海の上に浮かんでいるのは一体どういう「補償活動」なのか? 灯台か何かのかわりなのだろうか? しかし灯台の機能をこれが果たしているとは到底思えない。この天使は何かとてつもなく無駄なものなのではないか。誰がこんなところに置いているのか知らないが、置いた奴の趣味は立派なものだ。ムクロも無駄なものが好きだった。こんなにも不可解かつ美しいものは、無駄の中でも最上級に無駄で、しかも良いものだった。
 バグは燃えながら羽衣越しに天使の乳房にはり付いた。その瞬間、羽衣は燃え上がり始めたが、その中の天使の素肌は全く焦げもしなかったので、当然のことながら人間の肌とは違う材質でできているようだった。そして天使は全くの裸体になった。バグは羽衣とともに焼け落ちて、海に沈み、ジュッと音を立てた後はもう動かずに漂っている。

ホール・ライフ・クレジット

以前に同人誌に発表したものです。

ホール・ライフ・クレジット

未来の日本では、人々は自らの人生を金融商品化することにより、働かずに生きていくことができるようになっていた。 詩人であるムクロは、突如現れた男に自らが破産してしまったことを告げられ、生身の体を奪われ、機械として強制労働に従事させられることになってしまう。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-22

CC BY
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