精神定規
『性的描写及びグロくて気持ち悪くなったり、目眩を引き起こし、三日間下痢が止まらない描写が含まれています(作者も書いている間に風邪引きました)。サンタクロースをまだ信じているお子さんは読まないほうが懸命でしょう。
小さい部品が含まれていますので十八歳以下の方は親の監視下で読んでください』
僕は狂っている。
少なくともよくそう言われる。自分でも自分がおかしいのは分かっている。周りの人に迷惑をかけるだけで、僕は生まれてきたことを恥に思っている。父に死にたいと一度伝えたことがあるが、その日僕は彼に殴られ押入れに閉じ込められた。なんども父は天から授かった命を無駄にはするなと僕を怒鳴りつけたが、押入れの中でも彼の泣き声が聞えた。
その時僕は本当に死んだほうがいいと自覚した。だが僕は歩くのはなんとかできるが、食べる時やトイレに行く時でさえ、助けがないとできないのでロープを首に巻くことなど自分ではできなかった。
昔からそうだった。すくなくとも思い出せる限り、体に力が入らず一分以上立っていると、足の筋肉がふにゃふにゃになり、倒れてしまう。喋ることすらできない。と言ってもこれは僕の脳が変だからだ。だれもなぜ僕が話せないのか教えてくれなかったが、思うになんらかのショックで僕の言葉を扱う脳の一部が壊れたか、低下しているのだろう。
今日僕は縁側に座り、小さな庭を眺めていた。このごろ体に力がつき始め、簡単な作業をこなせるようになったが、ジッとしているのが両親にも自分にとっても一番いいのだ。庭は日本式に作られてあり、池がある。そこに昔は鯉が住んでいたのだが、今はもういない。芸術家の叔父が昨年鯉を全て捕まえて、自分のスタジオに持って行ってしまったのだ。
空に雨が降った後にかかる虹のように美しい鱗を持つ鯉が好きだった。だがその一方芸術家の叔父に憧れていたので、彼がなぜ鯉を池から釣り上げたのか疑問に思わなかった。
彼はいつも芸術は素晴らしいことだと僕に話してくれた。芸術とは未知の世界を開け放ち、人間のリミットを超越して自分の考えを表すのが芸術だと叔父は言った。叔父のスタジオで僕は今まで見たこともない、不思議なものを見た。例えば数多くの人間たちがひざまずき蛙の尿を飲む絵や僕より二つほど年上の女の子が骸骨と交わる仏像がスタジオに飾られていた。それに裸で縛り上げられた知らない女性も見たことがある。彼女は口にガムテープを張られ、僕と同じように口がきけなかった。
叔父の芸術を鑑賞していると縛られた女性は僕を深い緑色の目で見つめて泣き始めた。どうしていいか分からず叔父を見上げると、彼は彼女が芸術になれて嬉しいのだと教えてくれた。どうしても僕は裸の女性が喜んでいるとは思えなかったが、そう叔父に伝えると、お前は気が触れているのだから芸術が分かるはずがないと怒鳴られ、スタジオから追い出された。
その日僕はムッとして絵を描けるということを証明したかった。ペンを握ることはとうていできないので、僕は違う方法を考えなければならなかった。だが母がなにも使わせてくれないので、白い紙に自分の芸術を表すのは難しかった。長く悩んだあと、僕は母の目を盗み、キッチンから包丁を失敬した。そして震えながらお風呂場に立ち、僕は一気に包丁で腕を切った。一筋の赤いラインが現れ、次の瞬間血が傷口から溢れでていた。急いで指先を血で濡らし、紙に笑う人の顔を描いた。もちろん叔父のようにはいかないが、これで彼は僕を認めてくれるかもしれない。
そのあと僕は母に見つからないように血を洗い流そうと蛇口に手をやった。普通は渾身の力を込めれば僕でも蛇口を捻れるのに、今回は固く閉まっていて水が出てこなかった。
母が僕の名前を呼んだ。僕が答えられないのを知っているのになぜいつも大声で叫ぶのか分からなかったが、僕は慌て始めた。母に見つかったらまた怒られて殴られるだろう。もしかしたら顔を鼻から血が出るまで水に突っ込まれるかもしれない。一度電話というものを触ったときそうされた。
自分が痛みつけられるのも嫌だったが、それ以上に僕は母に迷惑をかけたくなかった。彼女は僕が食事をスプーンで口に運んでいると、なぜこんな出来の悪い息子が産まれたのかと泣き始める。いつもは僕の姉が私がいるじゃないと言い、僕を汚い言葉で罵ると母は泣き止むのだ。だが血まみれの洗面所を母が見つけたら、彼女はショックで死んでしまうだろう。
どうにかして血を消そうと僕はキョロキョロした。小さいトイレにガタガタと回る洗濯機。タオルを使おうか――いやだめだ、タオルは洗えない。絶体絶命のピンチだった。僕は汗が額からにじみ出るのを感じた。また母が僕を呼ぶ。
しかたなく僕は洗面台に舌を押しつけ、血を飲み始めた。血は鉛の臭がして、少し飲むだけで喉がヒリヒリ焼けてきた。なんとか唾と舌で洗面台を綺麗にして、僕は血が飛び散った地面にとりかかった。しかしタイルの間のセメントに染みこんでしまった血はもう茶色く変色していて、いくら舐めても白くならないので、僕はタオルを床に敷いてごまかした。あと最後に便器にも血液が飛んだため、少し舐めなければならなかった。鼻をつまむと、僕は便器を舐めることにもあまり抵抗を感じなかった。
トイレに不自然な点は見当たらないのを確認してから包丁を戻しに行った。母は居間で寝そべっていて、僕が台所から出てくると僕に手招きした。彼女がタバコを吸っているのを見て、僕はすぐに検討がつき手をお椀の形にした。母がタバコを吸う時いつも僕は彼女の灰皿となっているのだ。手にまだ熱い灰が落ちて、肌を焦がすのはもう慣れた。しかしそれでも母がタバコを吸い終わって、手にたまった灰を飲み込むのは痛かった。多分血のせいだろう。
それでも母に包丁を持ち出したのはバレず、僕は僕の作品を叔父に見せることができた。同じ家にあるスタジオに行く途中僕は力尽きて、五分ほど廊下で休憩する必要があったが、胸は踊っていた。叔父は絵を見てなにを言うだろうか? もちろん僕は芸術家の叔父ではないからうまくもない、だが僕の努力を讃えてくれるだろうか? もしかしたらお前は才能があるとまで言ってくれるかもしれない。
しかし結局笑顔で叔父に絵を見せると大声で笑われ、才能は全然ないとはっきり言われた。僕は赤面して自分の肉を切ってまで描いた絵をくしゃくしゃに丸め、スタジオの隅に投げた。その時僕は縛られた彼女がいなくなっているのに気づいた。手振りで叔父に彼女が座っていた場所を指すと彼はただ首を振った。彼女はいい芸術品ではなかったから処分したのだろう。
すると叔父の顔はパッと晴れて、彼は僕の両手を握った。お前が芸術にならないか? と彼は尋ねた。僕は最初は乗る気ではなかったが、叔父は僕は狂っているけど、今まで見た子のなかで一番ハンサムで、芸術を作れなくても、芸術としては絶品だと約束してくれた。僕は彼がしつこく尋ねるのでしかたなく同意して、裸になり、叔父は僕の体を縛った。手足の自由がきかなくなり、性器の部分に激しい痛みを感じたが、叔父が僕の写真を取ると、今までただ頭がおかしくて存在する権利さえない僕が居場所を見つけたようだった。まるで大きい時計の小さな歯車になった感じだった。僕自身の存在は小さいけれど、なくては時計は動かない、大事な部分。
叔父はフィルムがなくなるまで僕の体をカメラに収め、やっと終わったと思ったら今度はゴムでできたロープみたいなもので僕を殴り始めた。ピシリと割れるような痛みが背中を貫き僕は涙がでてくるのを感じた。縄をといて欲しかった、鞭で背中を打つのをやめて欲しかった。しかし体は動かず、口がきけないので自分の気持ちを叔父に伝える術はなかった。
叔父は泣く僕を見ると顔を赤らめ興奮し始めた。さっきより激しい痛みが体中に落ちる。感覚が麻痺して、僕は失禁していた。悪臭が立ち込め、僕はあやまろうとしたが叔父は気にしていないらしく僕の腰を掴んだ。
次の瞬間尻になにか太いものが差し込まれるのを感じて僕は絶叫した。頭が真っ白になり、尻がこじ開けられる痛みしか残っていなかった。一秒は一分に感じられ、体を引き裂きそうな拷問は終わろうとしなかった。
やっと叔父は僕を離し、床に投げ出してくれた。後ろの穴が裂けて、ドロリと血が流れでてくるのを感じた。僕は叔父を非難することも、彼の行動について考える力もなかった。例えあったとしても僕の心に疑惑は生まれなかったと思う。僕の家族つまり、母、父、叔父と姉は絶対だった。彼らに逆らうなど狂った僕はしてはいけない。しかしそれでも今まで彼らが僕に与えた痛みの中でこれが一番応えた。
「クリスは今日よく頑張ったな。お前は神が作った芸術品だ」
彼はそう言い僕の額にキスをした。だが僕が動けないと分かると、彼は僕を掴みシャワーで血を洗い流してベッドに入れてくれた。シーツと掛け布団に包まれると僕は直ぐに気を失ってしまった。
次の日叔父はソワソワしながら僕の部屋に入ってきた。尻を少しでも触ると痛むので僕はうつ伏せに寝ていた。
彼は僕を芸術品として褒め、さらに時々モデルとしてスタジオにこないかとまで訊いてくれた。正直叔父からの申し出でも、気が進まなかった。あの痛みをまた感じたくない。だが叔父は僕の横に座り、芸術のことを話し始めた。彼の意見では芸術を作るためには苦しまなければならないらしい。そして今度はあまり痛くないと約束してくれた。
叔父が出ていってから僕はゆっくりと芸術のことを考えた。知恵遅れの僕が考えたところ、なんにも分からないのだが、一つ大きな疑問があった。それはなぜ叔父が苦しんでまで芸術を作らなければならないということだった。
人間が行動するさい、必ずその人間はなにかを得て同時に失うものだ。例えばソファーに寝そべっている母がチップスを台所に取りに行く場合、彼女は立ち上がりエネルギーを使う代わりにポテチというものを得る。反対にもし得るものがないか、失うものが得るものより大きければ人間は動かない。人間は必ず物事のバランスを見て、それに応じて自分に取って一番利益が大きい行動を取るのだ。
だったら叔父と芸術を説明できると僕は思った。彼は芸術のために苦しんでいるが、彼はなにか代わりに得ている。多分芸術を作る間が楽しいのだろう。そう考えれば僕も今は痛くてもいずれ、芸術を叔父のように好きになるだろう。
それから僕は時々叔父のスタジオに行き、彼に裸の写真を取られ、色々な道具で体を傷めつけられた。だがどうしても彼の芸術は好きになれない。性器から白い液体が噴き出るようになってから少し気持ちよくなったが、それでも夜一人で自分のパンツに手を入れるほうが自然で例え性器を握る腕力さえなくとも気持よかった。
池の鯉がいなくなったのはそんなある日だった。叔父が取ったと聞くと、僕は彼が鯉からまた芸術品を作るのだと思い、自分が毎日眺めていた楽しみが減ったのは気にしなかった。数日後叔父のスタジオに呼ばれた時、僕は彼が鯉から作ったオブジェを鑑賞することができた。十二匹の鯉は綺麗に並べらて、目に針が刺さっていて死んでいた。
僕は鯉を色々な方向から眺めたが、綺麗には感じなかった。鱗の輝きがどこかに行ってしまい、それにただ傷めつけられながら死んだ鯉が可哀想だった。
池にいた鯉のほうがずっと美しかったと僕は叔父に訴えたかった。しかし彼は僕の手振りを理解しようとはせず、僕の肩を触った。服を脱げという合図だ。だが僕は彼の腕を払い、壁に寄った。初めて叔父の芸術が好きになれなかった。例え芸術のためでも美しかった鯉を殺すのは間違っていると思えた。
僕は振り向きスタジオを出ていこうとしたが、叔父はそれを許さなかった。太い腕で僕を掴むかと思うと、彼は僕の服を千切っていた。逃げようとしたが、体が弱く、僕は床に押しつけられた。叔父を憎んだ。彼に憎悪の眼差しで睨みつけたが、彼は止めなかった。
やっと解放されたのは翌日のことだった。それから僕は自分から叔父のスタジオに行かないことにした。もちろん叔父が力ずくで僕を彼のスタジオに連れて行くこともあったが、僕の心に産まれた彼と彼の芸術に対しての軽蔑感は成長するばかりだった。
ふとうっとりして、眠りかけているのに気づき、僕は首を振った。こう過去を考え返すといつも眠くなる。しかし僕は眠りたくなかった。なぜならこのごろ悪夢ばかり見るのだ。
その夢は広い部屋で両親と遊んでいる場面から始まる。と言っても夢で見る両親は父と母ではないのだ。彼より身なりがしっかりしていて綺麗な男女だ。起きていると彼らが両親ではないと分かるのに、夢の中ではいつも彼らを父と母と呼んでしまう。
とにかくその男女と遊んでいると突然彼らの額から血を噴いて死んでしまう。そして彼らの腹を突き破って本当の父と母が這い出るのだ。彼らも髪からつま先まで血を浴びていて、骸骨のように青白い指で僕を掴む。
それで夢は終わってしまい、僕は汗ビッショリになり起き上がるのだ。数えてみると僕はこの夢を少なくとも16回見ているので、なにか意味があるのかと考えてみたが広い部屋で遊ぶ男女には会ったことがないと断言できる。
僕は物心がついてからこの家を出たことがないのだ。庭にも大きな塀があり、たとえ人の話し声がチラリと聞こえても彼らの顔を見たことは絶対ない。客もこないので、僕が知っている人間は僕の家族だけなのだ。
だったらなぜ僕はあの男女を夢の中で見るのだろうか? どう考えても彼らをどこかで一度見たことがあるという結論に達した。それ以外考えられない。
その男女と会いたくて、昨日母に外に出てもいいかと尋ねた。今まで一回もしていない質問だった。外に出たいとは一度も思わなかった、両親に迷惑をかけたくなかったのだ。だが僕が知っている人間の素顔が二つ増え、どうしても彼らと会いたかった。
母は僕が玄関を指で示すと、激怒した。僕は固い床に頬り投げられ、尻をなんかいもまだ冷えてないフライパンで叩かれた。
その日は体中が痛くてなにもできなかったが、改めて考えてみると母はなぜ僕が外に出るのを嫌がっているのだろうか? 姉や父は毎日学校や仕事に行っている。僕が外に出てもいいのではないか? いや、やはり親の言うことは聞いておいたほうがいい。母が僕が玄関を指すだけであれだけ怒るのなら、それだけ恐ろしいものが外の世界で待っているのだろう。
だが一つだけ気に入らないことがあった。彼女は絶対になぜやってはいけないのか説明してくれないのだ。僕はやってはいいこととやってはいけないことを知りたくはなかった、その理由を両親に教えてもらいたかった。
バタンとドアが閉まる音がした。姉が帰ってきたのだ。僕は立ち上がり、玄関の前で待っていた。僕は玄関に入ってはいけないのだ。いつもその手前で待たなければ行けない。
姉は僕を見るなりスポーツバックを投げてよこした。彼女の荷物を部屋まで運ぶのは僕の役目だ。だがそれだけでも十分はかかる。スポーツバックは重くて、僕はそれを引きずりながら長い階段を登らなければならないのだ。
普通姉はそのあと居間へ行きポテトチップスを食べたり冷たいお茶を飲むのだが、今日は自分の部屋で待っていた。正確に言うと彼女は泣きながら部屋の隅にうずくまっていた。
息を切らせながら部屋に入ると、彼女はティッシュで鼻を拭き、僕にベッドに座れと言った。自分では勉強机の前に置かれた椅子に腰をかけ、彼女は話し始めた。
彼女が学校のことや辛いことを僕に打ち明けるのは初めてではない。多分なにを話しても僕は答えないし、どうせ馬鹿だからちゃんと理解していないと思っているのだろう。僕はそれでも彼女の話を聞くのが好きだった。学校や部活のことを聞くと自分でも学校に通いたくなる、しかし親は精神病の僕を外に出してはくれない。
「ボーイフレンドにふられた」
と姉は言った。ボーイフレンドとは一人しかいない特別な男友達だということは僕は知っている。
彼女は二週間前からクラスで一番ハンサムな男子とつき合っていると話してくれた。彼の名前はユーリーだそうだ。ユーリは無口でだれも近づけないオーラーを持っていたが、姉はなんとかして彼に近づき告白した。彼女の思い切った告白はユーリーが自分の周りに作っていた高い塀を突き破り、彼の心を串刺しにした。
姉はそう言い、少し笑った。愛が始まったころのことを思い出しているのだろう。ユーリーは恥ずかしがりやの所があり、彼は二人がつき合っていることを公開しなかった。姉も彼と一緒にいられるのなら、それでもいいと同意した。
二人は二週間街をブラブラしたり、遊園地にも行ったりした。しかしユーリーは今日姉のことを捨ててしまったらしい。理由もなく。彼はただ気が合わないと言い残し、さよならと姉にいったらしい。
姉の目からまた大粒の涙がボロボロと溢れてきた。僕は慌てて彼女にティッシュを押しつけた。
ユーリーが私をふったのが問題ではないのよと姉は金切り声を上げた。耳まで真っ赤にして彼女は興奮している。多分このままだと血が頭に充血して、姉の頭が痛くなるだろう。僕は人差し指をピンと伸ばし、ちょっと待ってというサインを示してから急いで氷枕を冷蔵庫から取ってきた。
姉は礼を言い額を氷枕の上に転がした。彼女の顔は少しずつ白くなって行った。そして少し落ち着いてから彼女は続けた。姉は昨日友達にハンサムなやつとデートしていると自慢してしまったらしい。さらにハンサムなボーイフレンドを今日喫茶店で紹介するとまで約束してしまったのだ。ユーリーが彼女をふってしまった今、彼女は嘘つきと呼ばれるのが恐いのだ。
僕は呆れてしまった。ボーイフレンドの定義を理解しているつもりはないが、友達に自慢するために選ぶ人間ではないことは間違いない。さらにユーリーは二人の関係を秘密にしておきたいと言っていたではないか? 姉はなにを考えていたのだろう?
それでも僕は彼女の肩を叩いてやった。ボーイフレンドにふられたのだ、これ以上彼女を攻める必要はない。
「……クリスが明日私と一緒に喫茶店に行ってよ。あなたはユーリーよりハンサムだしさ」
歪んだ唇から歪んだ言葉が紡がれた。
僕は一瞬凍りつき、ベッドに倒れこんでしまった。僕が彼女のボーイフレンドとして喫茶店に行くのははたして正しいのだろうか? 多分兄弟が友達になっても問題はないはずだ。あったとしたら姉がそんなことを提案するわけがない。いや、待てよ、彼女はユーリーを使って自慢しようとした。それは明らかに間違っている。だったら僕は彼女を信用してはいけないのか? それに僕は外に出ていいのだろうか? 母が許すわけがない。だがもし出れるとしたら、夢に出てくるあの男女を探す絶好の機会だ……。
僕の脳みそは目まぐるしく情報をまとめ、するべき最善の行動を計算していた。
人差し指で階下を示した。母が許してくれないと姉に説明しようとした。だが彼女は明日は両親が昼から家にいないし、叔父はどうせスタジオにこもっていると言った。
僕は首を振ったが、姉は突然僕の両腕を掴み大きい灰色の目で僕を真っ直ぐ見つめた。輪郭がくっきりした瞳が潤い、灰色の霞になる。
「あなたが喫茶店に行かないと、私は大嘘つきって言われて虐められる」
彼女がそう言うと僕は同意しないわけにはいかなかった。姉の目から涙が漏れるのはもう見たくない。
次の朝僕は比較的速く起きた。
姉と一緒に外へ出られると思うとウキウキする。もちろん少し恐いが、新しい世界を探検する時はいつも不安になるものだろう。
姉は僕と簡単に計画を朝繰り返してから学校へ行った。彼女は今日早退して僕を迎えにくるそうだ。それから僕らは近くのカフェにバスで行く。母は午前からいないし、父は働いている。両親が帰ってくる前に戻ればだれにも分からないはずだ。
僕は一人で朝食のミルクを飲みながらムフフと笑った。こんなに興奮したのは初めてだ。食欲が減っていて、僕は母が作ったお粥を残した。力が弱いので僕は一人では肉やご飯を食べられないのだ。
突然後ろで足音がした。驚いて振り向いてみると、無精髭を生やした叔父が立っていた。彼は無言でトーストを焼き始めた。
彼が家族と食事を取るのはほとんどない。いつも夜中や三時頃にノソノソとスタジオから這い出して残り物を食べるのがほとんどだ。いつも芸術に没頭しているので、叔父には時間感覚というものがないらしい。
バターを冷蔵庫から取り出し、叔父はテーブルに座った。銀色のナイフでバターを焼けたトーストにつける。彼はなにを考えているのだろうか? 朝食を食べにきただけ? それとも彼は僕を連れにきたのだろうか?
いずれにせよ、今日は彼を避けたほうがいいと思い席を立った。叔父に呼び止められることなく、自分の部屋にいくことができた。姉が迎えにくるまでここでじっとしてよう。
僕はベッドに潜り込み、両腕を頭の下に置いた。掛け布団が半ズボンから出た足を冷やし、体にこもっていた熱を逃がす。
――外に出たらなにをしよう? もちろん喫茶店に行くとは姉と約束したが、その後時間が少し残っていれば僕の行きたいところへ連れていってくれるかもしれない。それに僕は夢に出てくるあの男女を見つけないといけない。なぜかそれが僕にとって一番大事な使命のような気がする。
突然なにものかが階段を登ってくる音がした。時計を見てみると、まだお昼。姉ではない。だったら叔父だろう――しかも僕を呼ばないということは彼ななにかよからぬことを企んでいる。
僕は毛布から這い出し、二センチほど開いたドアから様子を伺った。叔父の足が見え――近づいてくる。またスタジオに連れていこうとしているんだと僕は思い、慌てて毛布を丸めて布団の下に隠した。こうすると掛け布団が膨らんで、僕が寝ているように見える。
急いでドアの影に隠れるとすれ違いに叔父が入ってきた。彼はうずくまっている僕に気づかない。数秒叔父は仏像のように立っていた。息を殺して彼は振り向かないようにと願う。
ギラリと光る肉膨張が叔父のポケットから現れた。叔父はその柄を両手で握り、毛布で膨らんだ布団に切りかかった。あまりにも突然で僕は心臓が腰まで落ちたような感じがした。
……叔父は僕を殺そうとしている!
立ち上がった。叔父はまだグルグルと突き刺さった包丁を回していた。忍び足で部屋から逃げ出し、僕は階下に下りた。隠れなければ。トイレに無意識的に向かった。理論的にはいい隠れ場所ではないが、気が動転していて、頭が働かなかった。トイレのドアを閉めると叔父の唸り声が聞えた。毛布が僕の体ではないと分かったのだろう。ドタドタと階段を下りる音がする。どうしよう? このままでは見つかってしまう。
使えそうなものはないかと僕はお風呂場を見回した。刃物はカミソリとツメキリだけ。これではなんにもならない。戸棚を開けた。歯ブラシや髭を剃る時に使うクリームが並んでいる。あとはトイレットペーパーとタオルそして血の小瓶しかない。血は母のだ――毎日血を少し飲めば彼女は綺麗になると信じているらしい。だから時々姉と僕の腕に注射器を刺して血を補充している。しかしどう考えても血が彼女を綺麗にしているとは思えない、だがそれはしょせん気が触れた僕の意見だ。
「ク、リ、ス! 芸術のためにお前が必要なんだ! 出てこい!」
叔父が裏声で叫んだ。今日の彼は完全におかしい。熱で魘されているのだろうか?
彼の足音が近づいてきたので、僕は素早くトイレから風呂場へ行った。温い昨日の湯が残っている。ガラリと叔父がトイレのドアを開ける音がした。彼は風呂場に入ってくるだろうか?
こめかみに人差し指を置いた。こうすると頭が数倍速く働く。
まず風呂桶のせんを抜いた。低い唸り声を上げて水面が下がっていく。石鹸を掴み、僕は風呂場の段差から少し離れたところに設置した。さらに換気扇のスイッチを入れ、紐を引けば動き出すおもちゃにシャンプーのボトルをつけて、換気扇に向けて投げた。いい具合におもちゃは換気扇に絡め上げられ、シャンプーのボトルは天井に固定された。さらに洗面器に水を汲み、大量の洗剤と混ぜた。その洗剤は強い酸性で、一時間触っていたら指がなくなってしまうほど強力である。
僕が最後に風呂桶をかき混ぜるための棒をなんとか両腕で抱えた瞬間、叔父が風呂場のドアを開けた。彼は僕が苦しい顔をして握り締める棒を見てニヤリと笑った。足掻くのはよせと叔父は言った。
僕はつま先を棒の下に挿し込んだ。叔父がこっちへこいと脅したが、首を振った。叔父が足を一歩前に出した。そして僕の計算通りに石鹸を踏み、後ろへ倒れた。僕はその瞬間を見逃さず、腕の間に抱えた棒を蹴り上げた。シャンプーのボトルがぺちゃんこになり、黄色い液体が叔父の顔に降りかかった。
驚きと痛みの悲鳴が風呂場のコンクリートに反響した。
「水!」
叔父は叫び、一番近くにあった洗面器に両目を見開いて顔をつっこんだ。しかしそれは僕が先ほど洗剤を入れた洗面器だった。哀れな叔父は目を引っかきながら転げ回った。僕は急いで、彼から離れ、水道を切るスイッチを押した。お風呂に残っていた湯も丁度なくなった。これで叔父は簡単に洗剤を洗い流すことはできない。
僕は叫び声を聞きながら姉が用意してくれた上等の服に着替えた。鏡の前で見てみると、僕の好みにしては少しワイルドすぎる服だった。革の首輪と腕輪はオーバーのような気がした。
「クリス! た、助けてくれ!」
叔父がまた叫んだ。なにを喚いているのだろう? 僕が彼を助けるわけないのに。上着を肩に羽織ると、またゴツンと鈍い音がして、そしたら静かになった。多分叔父は風呂場で転んで頭を打ったのだろう。僕は少し心配したが、彼は僕を殺そうとしたのだ。憐れむ必要はない。
玄関の前で姉が買ってくれた新品の靴を履いた。外に出たことがないので、僕の最初の靴だった。
その時丁度姉が帰ってきて、僕らは無言で玄関へ行った。玄関に入ることは今まで許されなかったが、それでも時々チラリと見たことがあった。
深呼吸して僕はドアノブを握った。外へ出たら後戻りができないような気がした。ノブを回して、この家の境界から抜けてしまえば、僕は……。
数秒石のように冷たいノブを掴んでいた。開けるのか開けないのか迷っていたが、姉はじれったそうに僕を押しのけてノブを回した。
一瞬目が眩んだ。爽やかな蜂蜜の臭いがする春風が僕の体を小さな竜巻に包み込んだ。ティシャツの間から吹き抜け、僕に無重力感を与えさせる。シャツを脱いで裸になりたい。全身でこの風を感じたい。
姉が僕の頬をつねって、バスに遅れると言った。彼女は額にしわを集めていた――姉も多分時間通りに帰れるか心配しているのだ。腕時計を確認してから彼女は僕の腕を掴み、走りだした。すぐに息が切れて、僕はよろめきながら彼女に続いた。姉のショートカットから蜂蜜の臭いが流れてきて、僕の鼻をくすぐった。さっき感じた風の臭いは姉のシャンプーだったのだ。しかし蜂蜜のシャンプーなんて彼女は使ったことがない、少なくとも今週はずっとアップルの香りだった。彼女は今日のためにシャンプーを変えたのだろうか? もしかして僕のため?
少しドキリとした。まだ完全には言い切れないが、もし姉が僕のことを気にかけているのなら、すごく嬉しい。
僕らは横断歩道を渡り、ぎりぎりにバスに間に合った。姉は切符を二枚買おうとしたが、ドライバーのおばさんがパートナーチケットのほうが安いと指摘してくれた。運転手は僕らが本当のカップルだと勘違いしたのだろう。姉にまだ腕を握られているので、無理もないが。
僕らは席が他に開いてなかったので隣同士に座った。二人の体が密着して、その間に熱がこもったラインができる。
「クリス」
彼女は呟くように口を開いた。久しぶりに姉が可愛らしい声を上げたので、僕は赤くなってしまった。
「喫茶店に行ったら話すのは私に任せてね。クリスはただ座っているだけでいいから」
それから僕らは十分ほどバスにゆられ、やっと目的地についた。喫茶店はバス停の直ぐ近くで、大勢の人たちで賑わっていた。僕はこれほど多くの人間が世界にいるとは思ってもみなかった。バスの中でたくさんの新しい顔を覚えたが、喫茶店には数えきれないほど人間が座っていた。
コーヒーを飲みながらパソコンをいじる青年、コーラをねだる子どもに、アクセサリーを自慢する主婦たち。その喫茶店はまるで一つの絵のようだった。そして同時に僕はこの世界の住人ではないと自覚した。喫茶店の絵を鑑賞していたら、そのなかに迷いこんでしまった。そういう感じがした。
どんな細かいことでも記憶に刻み込もうと僕は正確に人々を観察してたが、姉が僕の腕を掴み、奥のボックス席までグイグイと引っ張っていった。他の客から少し離れたボックス席には二人の女が座っていた。
禿鷹――僕は姉の友達を見ると、叔父のスタジオにある禿鷹の剥製を思い出した。顔が赤くて長細く、鼻はまるで魔女のように曲がっていた。目はギラリと光り、意地悪そうだった。この二人は邪悪だ。姉の友達としてふさわしくない。
「これが私の彼氏、クリス。クリス、彼女は私の友達ベリーとマーラー」
僕は無言でお辞儀した。
ベリーとマーラーは僕のことを見ると、最初は目を丸くして僕を見つめていた。そしてベリーは顔を赤らめなんとかこんにちはと言った。
姉と僕は隣同士に座り、彼女は僕のためにコーラーを注文してくれた。
「そ、それでクリスとジャンヌはどこで出会ったの?」
やっと喋れるようになったマーラーは僕に尋ねた。
「クリスの家でね最初に会ったんだ。彼は体が弱いからいつも家にいてね」
嘘ではない。現に僕はコーラが入ったガラスを持ち上げられずに、ストーロから黒い液体を飲んでいる。ベリーは姉が言ったことを確かめるように僕を見るので、僕は頷いた。
それから質問攻めが始まった。好きな食べ物は、好きな音楽は、好きな動物は、着ている服はどうだの、学校はどうしているのかなど、二人は必要以上に細かく僕に訪ね、全て姉が答えてくれた。
「なんでクリスはなにも言わないの?」
「……彼はね、喋れないの。私たちの言ってることは全て分かるけど……」
「でも私は彼と話したい。あなたの通訳はもう充分、ほらナプキンとペンを使えばクリスも喋れるよね?」
ベリーは姉には冷たく当たり、僕に喋りかける時はわざと声色を変えた。姉のことを嫉妬していると僕は分かったが、嫉妬の対象が僕なので少し驚いた。僕はそれほどハンサムなのだろうか、それともなにか他の理由があるのだろうか?
彼女はバッグからボールペンを取り出し、ナプキンにゴソゴソと書き始めた。
〔こんにちは〕
そうかかれたナプキンを彼女は僕に渡した。
〔やぁ〕
インクが自動的に出る万年筆だったので、力がない僕にでも書けた。
〔クリスはミステリアスだね。どうかしら、こんど一緒にどこかへいかない?〕
〔僕は聞くことはできる。君は一々ナプキンに書く必要はない〕
〔ジャンヌとは話したくないの。ねっ、来週の土曜日遊園地へ行こうよ〕
僕は薄々ベリーとの会話の方向が読めてきた。こういう会話は初めてだが、彼女が姉のボーイフレンドを盗もうとしているのは明確だった。それになんていびつで下品なやり方だろう。彼女は正々堂々声に出して言う勇気はない。
〔いやだ、行かない。それになにか言うことがあったら、声に出して言ったらどうだい?〕
僕がもうナプキンに書くなと言ったのにベリーは喋ろうとはせず、またナプキンを僕に差し出した。しかたなく読んでみると、僕は頭に唾を吐きかけられたような侮辱を感じ、胸糞悪くなった。
〔あなたはジャンヌにとってよすぎるよ。私とつき合わない? 私のほうが綺麗だし〕
彼女は性格が歪んだ哀れな女だけではなく、自分の醜く変形した顔を美人の姉と比べている。自惚れにもほどがある、どう脳みそにダメージを与えたらベリーを美しいと思えるのだろうか?
僕はガタリと立ち上がった。この二人と同じ空気を吸っていると思うだけで吐き気がする。姉の腕を掴み、喫茶店から僕の足が許すスピードで走りだした。バス停につくと息が切れたが、ちょうどバスがついたばかりで僕は嫌がる姉をバスに押し込んだ。
反対方向なので今度はバスにはだれもいなかった。そのせいか、姉は声を普通より荒らげ僕を叱った。
「なにをやっているのよ! いきなり喫茶店から飛び出して! あなたはやっぱり頭のネジが緩んでるわよ」
指の間に握り締められていたナプキンを彼女に渡した。いつもより筋肉を使ってしまったので、腕が痛かった。
「なにこれ……ベリーが書いたの?」
僕は頷いた。
「あ、ありがとうクリス。ご、ごめんね怒鳴っちゃって」
僕らは無言で席についた――どこにでも座れるのに、狭いボックス席に。
歯痒かった。僕はジャンヌに自分の気持ちを伝えたい。彼女に心の奥にしまった秘密を見せたかった。
ジャンヌのボーイフレンドとしての時間が終わり、僕は空しかった。胸に大きな穴が空き、内蔵が全てそのブラックホールに吸い込まれたようだった。
無言で僕らはバスにゆられていた。あと一駅で降りなければならない。そしたら僕らはまた姉と狂った弟だ。
ジャンヌの手を掴んだ――暖かい。彼女の心臓の音がする。胸の筋肉を操り、彼女と僕の心臓をシンクロさせた。僕の体にはジャンヌの血がながれている。僕らは一体化した。
僕らの心臓が速くなる。次の駅で僕らはまた二人となり、バスから降りる。時間が止まればいいと僕は思った。
「クリス……」バスのドアが開き、ジャンヌは呟いた。「もうちょっとだけ、私のボーイフレンドでいてくれる?」
ドアが閉まり、バスはまた走りだした。まだ僕らは分かれていない。まだ体を狭い席で摺りつけて、一緒に座っている。
「……ジャンヌ」
僕はジャンヌを抱きしめて、そう口走った気がした。
初めてラブホテルというところへ行った。もっと言うと初めて女と寝た。
受付で十八歳以下お断りと言われたが、ジャンヌが運転免許を見せると、受付のおばさんは不審そうに僕らを睨みつけていたが、渋々一部屋貸してくれた。あとでジャンヌが教えてくれたが、運転免許はディスコに行く時やお酒を買う時のために偽造したものらしい。
僕らはシャワーを浴びてからベッドに転がり、妖精に惑わされたような夜が始まった。僕は幸せだった。自分でやるのも、叔父にやられるのも間違っている。好きなジャンヌとだけ正しい気がした。
次の朝僕らは服を着て家に帰った。怒られるのは分かっていた。どれだけ酷い目にあうのかは想像できなかった。だがジャンヌの手を握りしめると、その瞬間だけが大事で、親など関係ないと思った。
しかし家についたら、緑色に塗装された警察の車が何台も止まっていた。
「これはどう言うことですか?」
ジャンヌは家の前に立った警官に尋ねた。
「捜査の邪魔にならないように立ち退いてくれ」
「でも私たちはここに住んでいるんですよ!」
すると家からブルドックのような警官が出てきた。彼は僕達をギロリと睨みつけたが、すぐに優しい顔になった。と言うより顔をしかめていた。
「ここに住んでいた長女か……しかし我々の情報では子どもはジャンヌ・フェルクトしかいないと思っていたが……君は誰だ?」
警官は僕を顎でしゃくり尋ねた。
「彼はクリス・フェルクトです! もう十五年以上この家に住んでいたんですよ!」
「しかし戸籍上子どもはジャンヌだけだ……なにかがおかしい」警官は独り言のように呟いた。「とにかくジャンヌ、残念なことを伝えなければならない。この家では三人の人間が死んだ。シャローン・フェルクト、ボブ・フェルクトそれにフィリップ・クンスト。二人のフェルクトは自殺だし、クンストはひっくり返って頭を打って死んでいる。今調べているところだ。ジャンヌ、非常に申し訳ない」
「死んだ?」
ジャンヌの唇から吐き出された言葉。僕にとってもショックだった。両親が死んだ? 叔父まで?
震えた――叔父を殺したのは僕だ。身を守るためであっても、彼の命を奪ったのが僕だということに違いはない。
視界が揺れ、僕は倒れた。土の臭いがする。ジャンヌが駆け寄り、僕の体を起こしたが、僕はすでに闇の中に放りこまれていた。
起きたら白い世界だった。薬品の臭いもする。ベッドの横にはさっきの警官とジャンヌ。僕は目を擦りながら、欠伸をした。
「具合はどうだ?」
「まだ少し眠い……」
僕は答えた。
驚いて口に手をやる。今喋った。ジャンヌも驚いている。
「な、なんで僕は喋れる?」
「もう喋らない必要はないからさ」と警官が言った。「君のことを調べたら大変なことを発見してね。君の本当の名前はクリス・クロザキだ。思い出せるかい?」
「思い出せるってなにを?」
「君が心の中に閉まった秘密をだよ」
秘密。ジャンヌのことではない。なにか過去にあった重大な事件。
ふとあの夢の中に出てくる二人の男女のことを思い出した。多分この二人となにか関係がある。もしかして彼らが本当に僕の両親だったのではないか? だとしたらなにが起こったのだろう。
突然目の前が真っ暗になり、僕は違う世界に引きこまれた。障子の間から僕は居間の光景を見ている。夢の男女がソファに座りワインを飲んでいる――そして向かい側にはジャンヌ以外のフェルクト家族と叔父。彼らは小さかったころの話をしていた。
いきなりボブはワインボトルを掴み、ソファに座った男を殴り殺した。次にシャーロンもテーブルナイフを女の額に突き刺した。大量の血が吹出し、彼らは血まみれになる。
僕は立ち上がり逃げ出していた。しかし直ぐにボブに足音を聞かれ、捕まってしまった。
『お願い殺さないで』
僕は両手を合わせて能面みたいな顔で僕を見下ろすボブにせがんだ。
『なんでもするから殺さないで』
『彼は殺せないよ、まだ子どもですもの』
シャーロンが女の首を口に咥えながらやってきた。僕はおぞましさにブルブル震えた。
『だったら小僧、お前を殺さないが、その変わり誰にもこのことを話すなよ』
ボブの言葉が脳裏に反響して、視界が暗くなっていた。僕はまた病室にいた。
「思い出したか」
「う、うん」
「シャーロン、ボブとフィリップはみな気が狂った異常者だったんだ。なぜ彼らが君の両親を殺したのかはよく分かっていないが、ボブの日記からすると、君の父親が幼稚園のころ砂場のシャベルをボブから取り上げたのをいつまでも恨んでいたらしい。君の両親の事件は迷宮入りになったが、改めてフェルクトの家を調べてみると日記などの証拠が見つかった。
彼らは昨日クンストが死んでいるのを見て、動揺したんだろう。君がクンストを殺して逃げてたとね。多分クンストはただ頭を打ったのだろう。フェルクトたちはそのまま首をつって自殺した。
とにかくそういうことだ。ジャンヌは君の姉ではない」
不思議に僕は冷静で、少し嬉しかった。今まで肩に背負った重荷を下ろしたようだった。体中が力で漲っていた。僕は薬の横に置かれたガラスを取り、指の筋肉を張り詰めた。バリンとガラスが割れる。
「ところで君の両親の親戚が君を引き取りたいと言っている。もちろん今すぐに決めなくてもいいが……」
「ジャンヌも引きとってくれるなら僕はどこへでも行きます」
そう言うと警官が笑った。多分彼は僕らの関係をすでに知っているのだろう。人を見破るのが仕事なのだから。
「あとジャンヌから聞いたが、君はあの家に監禁され、その上気が狂ってると思い込まされたらしいが、それは間違っている。狂っていたのはあの家に住んでいた連中たちだ。両親が死ぬ前、君はそのとき三歳だったがアイ・キュー・テストを受けている。そして君のアイ・キューは198、天才と診断された」
「天才? 結局僕が異常なんだ」
「異常というのは天の恵みなんだよ」
警官はまた笑った。
<sic incipit>
精神定規