ヴァイラス
『ヴァイラス』
フレイヤ マリアN
1
湿度が高く、霧が立ちこめた深夜にコツリ、コツリと僕の靴底が石畳の道に反響する。身を黒に包み、僕は街灯の光りを避けるように歩いていた。ちょうど大学のパソコンを使ってあるプログラムを書き終わり、自分の寮に戻る所だ。今まで一番重く、複雑なプログラムを完成させ、僕は嬉しさで破裂しそうなはずなのに、僕はうつむき、キューブ形に切られ地面に埋め込まれた灰色の石を眺めていた。
僕の書いたプログラムはウイルスだった。市販されているワクチンプログラムのほとんどを打ち破りことができ、高い破壊力をもったウイルスなのだから僕はプログラマーとして誇りを持っていいのだろうが、『発動』のボタンを押してから僕はうなだれて、落ち込んでしまった。べつにパソコンを使えなくするほど、破壊的なプログラムを書かなくてもよかったと僕は後悔した。
ふと気がつくと、僕の前に一人の男が立っていた。黒い帽子と黒いマフラーで素顔を固め、僕は彼がだれだか検討がつかなかった。
「事は九月三十一日の正午に始まる」
彼は不自然に声帯を歪めた声で意味不明な言葉を発し、呆気にとられ、佇んだ僕を残し建物の間に隠れてしまった。男が闇の中に消えてから僕はやっと我に返り、黒ずくめの男を追うとしたが、町の中心地に広がる路地の迷路に入った男を見つけることはできなかった。
「九月三十一日に始まる……どう言う意味だ?」
僕は拳を壁に叩き付け、奇妙な男の言葉を考えた。別に暗号のような文句ではないのだから、そのままの意味でとっていいのだろうが、三十一日とは明後日である。
多分詰まらない悪戯かこのごろ多い異常者に付き合わされたんだろうと僕は自分を納得させ、また破壊的なウイルスを作ったことを悔やんだ。
だが眠れぬずに寮の一室で寝返りを打つ僕は無意識的に黒ずくめの男を思い出し、彼のことを考えていた。
次の朝、僕が最初にしたことはベッドから起き上がり、パソコンのカレンダーに三十一日にチェクマークを入れることだった。あの男が言った短い台詞は僕の頭をグルグル回り、僕 を重い鎖で縛るように苦しめていた。
僕は昔から神経質な男で、恐いことや不思議な事件を嫌っていた。本当は知らないものに対しての恐怖だと分かっていたが、自分の、ある一種の病にまで発展した神経の細さはどうしても対処できなかった。
ホラー、SF、ファンタジーは全てダメと、自分でもバカバカしいほど情けない人間だった。だから昨日の出来事は例え意味がなさそうでも、僕にとっては大事件だった。
パソコンのカレンダーに記入した後、一応デスクトップ場にもノートを付けて、僕はやっと安心した気持でベッドに倒れ込むことができた。でも時計を見ると、八時ごろで僕はやがてまた大学に向かわなければならなかった。
八時二十分ごろ、僕は動いてもいないのに痛む足を摩りながら立ち上がり、容姿を整え、大学へ向かった。
できれば講義の前に留学してきたミヤザキと話したかった。彼は僕と同じでプログラマーを目指していた。ただ彼は自分の趣味で心理学や他の科目も勉強しているので、ミヤザキのスケジュールは結構つまっていた。
だが幸い僕はミヤザキを玄関ホールで捕まえることができた。
「おい、ミヤザキ抗議の前に少し話しがある」
「ウェル、どうしたんだ? もしかしてあのウイルスを書き終わったのを自慢したいのかい?」
「いや違う」
僕はミヤザキの腕を掴み、図書室に引っ張り込んだ。
「ウイルスの話しじゃないんだね? もう僕は君のエゴを聞き飽きたから」
ミヤザキは苦笑しながら図書室のすみに置かれたソファーに座った。正直、僕はカチンときた。彼はいつも僕の自慢話をエゴイズムの一言で片付けるので、エゴは成功するために必要だと信じている僕と喧嘩になる。しかし度を超した僕の自惚れを止めてくれるのも彼なので、僕はミヤザキの冷やかしを無視した。
「違うよ。昨日の夜大学から寮の帰り道で変な男にあったんだよ。彼は明後日、つまり明日なにかが始まると言ったんだよ」
「ホオ。実に面白い。本当に勉強で忙しいミヤザキを図書室まで拉致して話す意味がある物語だったね」
ミヤザキは驚いている表情を作って、皮肉を込めて答えた。
「いや、でももしかしたら明日は大事な日かもしれない」
「大事だよ」今度はミヤザキは真剣な顔で答えた。また彼の下手なジョークだと思ったが違った。「九月三十一日は僕の誕生日だよ」
「ホント? ごめん、僕忘れてた」
「うん、大丈夫。僕話してないから。あの昨日の男は気にしない方がいいよ。じゃあ僕は数学が始まるまで色々やらないと……」
そう言ってミヤザキは図書室を出て行ってしまった。彼を止める口実も見つからないので僕は勉強家のミヤザキの背中を眺めながら、彼が座っていたソファーに倒れ込んだ。
少しガッカリしたが、ミヤザキに打ち明けただけで、楽になった気がした。それでもその日の抗議ではいつもより気が散った。集中できないので、黒板に書かれる数式を完全には理解できなくて、イライラした。
やっと授業が終わり、僕はミヤザキとカフェテリアで合流した。僕が誕生日プレゼントなにがいいかと訊くと、ミヤザキは首を振りいらないと答えた。彼のライフスタイルは素朴で金儲けに興味もなければ欲しいものも特にないらしい。
僕はランチを食べた後、寮に帰ることにした。どんなにミヤザキが僕を安心させようとしても僕の心臓はドキドキして、僕は居ても立ってもいられなかった。どうせ先週はあのウイルスを徹夜で書き続けたのだから少し休んだ方がいいと思う。
だが僕の細い神経では簡単には眠れないと思い、帰りに薬局で睡眠薬を買った。薬局によることで僕が昨日黒ずくめの男にあった石畳の道をとらなくてすんだ。
僕は自分の部屋で寝間着に着替え、白いピルを指先にとった。かなり協力な薬品なので、明日の朝まで目が覚めないだろう。そして明日あることが始まるかもしれない。僕は薬を飲むのが恐かった。次気がつけば世界が変わっているかもしれない。
見知らぬ男が唱えた言葉が僕をこれほど困らせていた。足がゴムのようにグニャグニャになり、心臓の震えが左手を伝い、握られたグラスの水面に小さな波を立てる。
「飲めない」
僕は歯をガチガチ言わせながら呟いた。
その時、まるで未来を予知しているかのように雷が鳴った。夕立だと僕は思い、慌ててカーテンを閉める。しかしカーテンは薄く、地上に落ちる落雷の音を消してくれなかった。僕は雷も苦手なのだ。
突然、光りの前触れもなく、稲妻が轟いた。僕は雷から逃げたい一心で薬を噛み潰し、ベッドの中に潜り込んだ。
2
次の朝、九月三十一日、ミヤザキの誕生日、事はあの奇怪な男が告げたように始まった。最初は大したことではなかったが、魔の手は着々とこの町を反乱と狂気の嵐に包み込んで行った。
最初に異常が起こったのは丁度十二時ごろだった。そのとき僕はミヤザキの隣に座り、鉱山学を受けていた。僕は山に転がる石などに興味がないのだが、いつものミヤザキは楽しそうに教授が言うことを書き留めている。だが今日のミヤザキは詰まらなそうにシャーペンでアニメに出てくるヒロインを描いていた。僕は最初はミヤザキが描く、目が非常に大きくてアイディアリスティクな人物像を批判していたが、彼が長い論文で僕の考えは無知で偏見だと証明してから、僕はミヤザキの絵が好きになった。
そしてミヤザキが、書き終わった作品を駄作だと罵り、クシャクシャに丸め宙に放った瞬間、教室にいた生徒の三分の一が一斉に右手を上げた。彼らの腕は肩から腕先までピシリと伸ばされ、握りしめられた拳の間から人差し指と中指が突き出ていた。あまりにも突然な行動だったので僕はそれがピースサインだと分かるまで数秒かかった。
僕はこれはなにかの悪戯だと思い、教授の反応を確かめようとしたが、驚くことに彼まで右手を上げ、ピースサインを僕に見せつけていた。
「な、なんなんだよ?」
ヒステリックに前の方に座っていた青年が立ち上がり、困惑したように怒鳴った。
「座りなさい。なぜ怒鳴り散らしているのですか?」
教授はまるで生徒が腕を上げているのが見えないように答えた。
数秒クラスには沈黙が漂ったが、それは授業の終わりを告げる鐘によって破られ、僕とミヤザキはまだ右手を下ろそうとしない生徒たちを眺めながら教室を出た。
ランチの時間だったので僕たちは一応カフェテリアに向かったが、その間もずっと右手を上げる生徒のことを話し合った。
「ミヤザキなんなんだよ? なぜ彼らはあんな変な行動を?」
「知らないよ。もしかしたら本当に悪戯かも。だってそれいがい考えられないだろう?」とミヤザキ。
僕は地面を見つめながら考え込んだ。あの堅物の教授まで悪戯に参加するとは思えないし、悪戯だとしたらクラスの終わりにおこなう意味がない。だったら集団催眠と思ったが、それもまだ未知のものであり、催眠術もこれほど協力ではないはずだ。それ以外にも僕はいくつか仮定を考え出したが、すべて物理的に不可能だった。
「おい、これを見てみろよ……」
ミヤザキの声に釣られて僕は上を向いた。僕たちはカフェテリアの前に立っていて、そこで食事をしている二百人の生徒の内、大体七十人が右腕を上げ、ピースサインを掲げていた。
その光景は不気味であった。座った生徒たちの頭の畑からニョキと生え出した腕が悪魔の角のように思われた。他の生徒も僕たちと同じように困惑した表情で腕を上げる生徒たちを取り巻いていた。
「ミヤザキ……どう言う意味なんだ?」
「データが少なすぎる」
「教えてくれ僕はこんな状況を耐えきれなくて恐い」
「僕たちが今言えることはただ一つ。黒ずくめの男が予言した事が始まった」
僕はミヤザキの言葉に一つの違和感を感じた。まるでミヤザキが舞台の役者で、台本を読み間違えたような変な気持だった。
しかし同時にある恐怖を覚えた。一昨日黒ずくめの男が残したドロドロの黒で塗られた不安と言う卵がひび割れ、そこから火を吐く野獣が産まれたようだった。胃の中で獣は暴れ回り、僕の体を震わせる。
「ぼ、僕もう帰る。ミヤザキなら分かるだろう? 僕が耐えられないって」
僕はそう言いよろめきながら玄関ホールに向かった。受付に立ったおばさんまでが右腕を上げているのを見ると、僕は叫び声を上げ、吐きそうになった。なんとか持ちこたえ僕は大学を出て、走って寮に戻った。
その夜ミヤザキが僕の部屋にきた。僕のプライベートエリアに彼が侵入してきたのは久しぶりで、僕は少し驚いた。
ミヤザキは僕が示した椅子に座るなり、今日の夕刊を投げ出した。それはこの町に地方紙で右手を上げる人ごみの写真が大きく一枚目にプリントされていた。
「大学だけじゃなかったんだ。町中でこの現象が起こったんだ」
「嘘だろ……もう科学的な説明はあるのか?」
僕は身を乗り出して訪ねた。
「いや。そこで僕は思ったんだけど……」ミヤザキが言葉を切り、僕を見つめるので、僕はじれったくなり速く答えろと手で彼に伝えた。
「僕たちでこの事件を解決しよう」
一瞬僕はミヤザキの言葉が外国語のように思えて理解できなかった。だから黙っていたが、ミヤザキは僕の答えを待たずに立ち上がり、話し始めた。
「考えてみろよ、僕らは大学トップだろ? しかも得意分野は数学。こんな問題を前にして君は胸が踊らないのかい?」
「いやだ! 僕は……僕は……分からないものが恐いんだ! 説明できない現象が恐いんだ! ……だから僕は関わりたくない」
自然に僕も立ち上がり、ミヤザキと目線を合わせていた。
「この世界に説明できないものはない!」
ミヤザキは怒鳴った。彼も僕の女々しい姿にうんざりしているのかもしれない。
「この世界の全ては公理と定義に基づいている。君が怖がっている説明できない現象は存在しない!」
僕は彼がこれほど取り乱して怒っているのを今まで見たことがない。それに僕はミヤザキの説教に押され、ほとんど賛成してしまう所だった。
「しかし君はこの事件をどうやって説明しようとしているんだい?」
「それは調査してみないと分からないだろ。だがこの事件を解決すれば君も君の恐怖心と向き合って、克服することだってできるかもしれない」
ミヤザキは僕を睨みつけた。僕はコブラのように光る彼の瞳を逃れ、彼に背を向けてベッドに座った。
僕はこの事件に関わらないと心に決めた。どんなにミヤザキから軽蔑されて笑われても僕は立ち上がらない。さあミヤザキ僕を嘲笑ってバカにするがいい。僕は意地を張り、目を瞑った。
しかし彼はそれ以上言わなかった。黙って僕の部屋のドアを閉めて出て行った。バタンと大音を立てて扉を枠に叩き付けてくれたら僕の心も楽になったのだが、ミヤザキはドアノブをほとんど無音でシリンダーに滑り込ませた。
彼の行動は僕に罪悪感を感じさせた。そして僕の心に残った貧弱の好奇心と混ざり合った。
「僕はなにしているんだ! なぜ僕は自分の恐怖をミヤザキを上に置いている?」
僕はベッドから転げ落ちるように立ち上がり、まだミヤザキに聞こえることを祈って大声で叫んだ。
「ミヤザキ、僕が悪かった。調査を手伝うから待ってくれ」
小さな廊下を駆け抜け玄関に行くとミヤザキがニヤニヤしながら壁に凭れていた。
「考えを変えてくれてありがとな」
ミヤザキが微笑みながらドアを開けた。今度は本当に行くつもりらしい。僕は彼に騙された気がして複雑な表情を作った。
「じゃあ明日の朝、詳しいことを伝えるから。あと大学に行く必要はない。僕が調査のために休学届けをもう出したから」
彼はそう言い残し扉を閉めた。
次の朝ミヤザキは大きな段ボール箱を抱えてやってきた。驚いた僕を押しのけて彼は居間に入るなり二台のパソコンをテーブルの上に設置した。
「その段ボールにはなにが入ってるんだよ?」
僕が訪ねると彼はニカリと笑った。
「僕が昨日の晩に集められるかぎりの電子的にセーブされてない資料。でも多分いらないだろう、警察の知り合いから必要なデータは全部貰ってきたから」
ミヤザキは色々な方面に手を伸ばしているので顔が広い。だが警察にまでコネがあるとは知らなかった。
僕らはそれから半日かけて警察の資料をまとめた。それによると町に住んでいるちょうど20%がこのおかしな『病気』にかかり、右腕を上げているらしい(ミヤザキと相談して、僕たちはこの現象を病気と呼ぶことにした)。やく90%の患者が九月三十一日の十二時に発祥し、そのほかの10%が三十一日の午後からこの病気にかかっている。さらに発祥したものたちの年齢そうがほとんど10代から30代である。
そしてこの病気にかかったものに共通する点としては右腕を上げる以外にも二つあった。それは発祥したものは他のものが右腕を上げていることに気づかず、自分も右腕を上げていることも認識していない。だから患者が右利きでなにかを書こうとするとノートを左手で持ち上げてピースサインを掲げたまま書こうとするか、左手にペンを持つらしい。
「やばいな、僕たちにも移ったらパソコンを片手でタイプしないと」
ミヤザキは患者がスープが入った皿を持ち上げて、なんとか具を右手のスプーンですくおうとする写真を見ながら言った。
「でも君は左利きだからまだましだろ? それよりどう思う? これからどうする?」
僕は震えながらフルーツ皿に乗ったリンゴを取った。昨日、僕は考えずにミヤザキに賛成してしまった。資料を読むだけで寒気がする。だがミヤザキに約束してしまった以上、僕はもう少し様子を見ることにした。
「データはそろった。これを使って患者の共通性を調べるんだ」
「分かった」
ミヤザキに頷いてみせて、僕はグラフィングプログラムを開いた。まずベーシックに年齢層と性別を使ってグラフを立てる。そのグラフを眺めながら僕は考え始めた。もしかしたら過去にかかった病気にヒントがあるかもしれないと、警察のデータベースを呼び出したが、患者の病気ログは乗ってなかった。溜息をついて僕は立ち上がりミヤザキの持ってきた段ボールを開いた。そこには患者一人一人の細かい資料が詰められてた。
長い時間をかけて僕は五十人の過去病気ログを読んだが、まさに様々でパソコンに入力するほど意味がある情報は見つからなかった。僕はイライラしてきた。二時間もかけて資料を読んだのに朝から進歩がない。
やりかたが間違ってるんだと僕は思った。まずなぜ人々が手を上げるのか考えて仮定を立てて研究して行った方が早いかもしれない。
患者は自分の意思に関係なく手を上げると言うことは脳に問題があるのかもしれない。集団催眠は無理なはずだが、未知な力が関係しているかもしれない。患者が見た番組に催眠の要素があったのかもしれない。僕はテレビ番組表を呼び出しこの町だけで放送されてその上に視聴率がが30%から40%までの番組を探した。
だがもちろんそんな番組は存在しないので僕は検索の枠をこの国で放送された番組に広げた。そしたらこの町でも放送された番組でヒットしたのは二件だった。僕はその番組をパソコンの画面で見てみたが別に催眠や暗示効果がありそうには思えなかった。一応画像処理プログラムを使って番組をバラバラにしてみたがまた収穫はなかった。
うんざりしてパソコンを投げ出そうとしたとき、ミヤザキが大声で叫んだ。僕は飛び上がり、彼のモニターを覗き込むとこの町の地図が表示されてあり、街区ごとに患者の数が書き込まれていた。
「君は九月三十日の夜停電があったのを覚えているよな」ミヤザキが訪ねると僕は首を振った。その日は恐怖で震えていて睡眠薬を飲んだのだ。「まぁいい。とにかく僕は患者が住んでいる所を調べたんだ。そしたら停電した街区の住人が発祥してないことが分かった。もちろん偶然かもしれないが確率的に信じられないと思わないか? この事件は電化製品と関係しているんだ」
3
「いいか、家を調べてもいいが、絶対変なことをするなよ。俺の首が危ない」
ミヤザキの知り合いで警官のボブが運転するパトカーに僕たちは乗っていた。ボブはももじゃもじゃの金髪のしたから虎のようにギラギラと目を持ち、警官のオーラを身にまとっていた。だが残念なことに彼は非常に太っていた。お腹は車のハンドルまでとどき、腕は大木のように大きかった。結構ハンサムなのに、彼の巨体が顔を台無しにしている。
「患者からは許可は出ているが、違法なことは絶対するなよ」
ボブはまた繰り返した。するとミヤザキが両耳に人差し指を突っ込んで訊いてない振りをした。
僕たちは患者の家を回ってそこにある電化製品を調べることにしたのだ。停電した街区に発祥してないのはいくらなんでも偶然だとは思えなかったし、今ある手がかりはそれだけだった。
「ところでウェル、僕たちはべつに全ての電子レンジや冷蔵庫みたいな電化製品はチェクしなくてもいい。メインはパソコン、テレビとラジオだ。とにかくコンセントがあって外から情報を得られるものを調べるんだ」
僕はコクリと頷いた。病気の原因がなにであれ、何万人もの患者が同じ時間に発祥したのだ。しかも同じ症状で。これは外から細かな情報を得たと言う証拠だ。
「でもそしたらパソコンなんて、中んび入っている情報を取り出さなきゃ……」
軽い気持で訪ねたつもりだが、ボブの耳はピクリと動き、またミヤザキに説教し始めた。
「ミヤザキ、プライベートな情報は引き出したらだめだぞ! そんなことを許したら俺は首になる」
「分かった、分かった」
ミヤザキとボブは過去になんかいかもめ事があったらしい。ボブの方はミヤザキを尊敬しているが、彼がいつも無茶するので、信用はしてないようだ。一方ミヤザキは絶対ボブとの約束を破りパソコンを調べるだろう。
パトカーはそれから二分ほどしたら薄汚いアパートの前で止まった。よく町中で見かける家賃が安いが、外からは環境汚染で訴えたいほど醜い建物だった。
「三階の307号室だ」
ボブは運転席の窓から腕を出し、僕たちに鍵を渡した。
「彼はついてこないのか?」
僕はパトカーに背を向けて歩き出し、ボブに聞こえないようにミヤザキに囁いた。
「うん、ボブは本当は僕にパソコンを調べてほしいんだよ。だからついてこなかったんだよ」
まだミヤザキとボブの関係をよく理解することができなかった。もしかしたらボブはミヤザキのことを僕が思ったより信頼しているのかもしれない。
ボブがくれた鍵で僕らは307号室に入った。
部屋全体にビニールが敷かれていて、化学捜査が行われた形跡があった。警察側はこれを本物の『病気』として認識しているらしい。
「大丈夫かな? 僕らはまだこの病気の原因を突き止めてない。移るかもしれない……」
僕はミヤザキの後ろに隠れるようにして、鼻をシャツで覆うと、ミヤザキは僕を笑い飛ばした。
「君は宇宙服を取ってきてこの部屋を調べてもいいが、僕はそんなかっこ悪いことはしない。僕はパソコンを調べるから、ウェルはテレビと他に怪しい電化製品を」
顔を赤くして、僕はミヤザキの自信がどこから出てくるのか知りたかった。彼は猪突猛進で無鉄砲なところがあるが、ミヤザキはそれが周りの人間に迷惑をかけているのを理解していないのだろうが?
しかしここで喧嘩しても意味がないので、液晶テレビの前に腰掛けて、自分のパソコンを接続した。このテレビは結構新しそうなので、もしかしたら見た番組をセーブする機能があると根気よく探したが、DVDレコーダになにも録画されてない上に番組ヒストリーもなかった。
僕はそのあとテレビアンテナを調べに行った。しかしアンテナにも変な情報を送る器具もなにも付けられてなかった。
頭をかきむしり、僕は溜息をついた。ミヤザキとやっている調査は無意味に思える。電化製品が『病気』と関係しているのも信じがたい。もしかしたら僕らは科学では説明できない力と戦っているのかもしれない。そう考えると僕はブルリと震える。僕はまだこの得体の知れない恐怖心を克服してない。
そのときミヤザキが悲鳴を上げた。驚きが少し混ざっているが、絶叫というより、僕には彼が歓声を上げている感じもした。僕は急いでミヤザキがパソコンをいじっていた部屋にいくと彼はなんと右腕を上げていた。しかも拳からニョキと生えた二本の指。
ミヤザキは感染していた。
「動くな!」ミヤザキは左手でキーボードを叩きながら、僕に警告した。「僕は今、腕を上げているよな?」
患者は自分が腕を上げているのに気づかないことを思い出し、僕はドアの枠にしがみつき頷いた。
「だったら僕は病気の原因を見つけた。だが僕がオーケイと言うまで絶対に近づくな。今ウイルスを無害化している」
「ウイルス?」
僕は自分の恐怖も忘れて、聞き返した。
「そうだウイルス。パソコンからパソコンへと広まり人間に感染するコンピュータウイルスがくせ者だったんだ」
説明になってない、非科学的、意味不明。僕はミヤザキが嘘をついてるとしか思えなかった。今まで信じてた現実が一瞬で崩壊したのだ。取り乱さない方がおかしい。
その一方、僕はこの事件を調査すると決めたときから、真相は現在の科学力では説明できないと知っていたはずだ。だから無意識的に僕は心の準備ができていた。それに不思議に重い荷物を下ろした感じがした。体を縛っていた恐怖心がするりと僕から離れたのだ。例え信じられなくても、自分の周りの現象が理解できれば、僕は震えない。
ミヤザキはパソコンを木材の床に置き、僕の方にスライドさせた。
「ウイルスは無害化した。多分君が見ても大丈夫だろう。君の意見が訊きたい」
僕はゆっくりとパソコンを広げ、画面を覗き込んだ。そこには細かな文字と数列がならんでいた。これが人間に感染するプログラムなのだろう。
たが僕は読み続けるのに少し抵抗を感じた。ミヤザキは多分大丈夫だと言ったが、もし感染してしまったら、僕は他の患者と同じように病院に閉じ込められるのだろうか? しかも僕は右腕を上げていると自分では分からない。僕は初めてこの病気に感染した患者に哀れみを感じた。問題は右腕を上げるということではなく、世界があなたは感染してますよと言われても自分では健康だと思い込み、世界中の人間が自分に対して共謀していると考えるだろう。僕は今それが一番恐い。
「ウェル、大丈夫だよ。絶対感染しない。僕のスキルを疑っているのか?」
ミヤザキに言われると僕は反論することができなかった。彼はコンピュータの天才だ。ミヤザキができなかったらだれにもできない。
僕はマウスパッドを使ってスコロールしながら、斜めにプログラムを読んだ。以外に簡単にプログラムを理解することができた。ノートもいっぱい書き込まれていて、まるでこのプログラムを書いた人間が、自慢したいのかウイルスが絶対に見つからないと思っていたようだ。
さらに僕はある恐ろしいことに気づいた。このプログラムは感染した人間のメモリー、つまり記憶を自由自在に消したり、追加したり、変えることができた。その方法を使ってウイルスは感染した人間の脳に九月三十一日の十二時から右腕を上げてピースサインを示すと言う命令を書き込んでいた。
「これが病気の原因だね……」
僕は窓から見える空を眺めながら答えた。
部屋の真ん中に敷かれたビニールに座ったミヤザキも遠い目でタバコに火をつけた。彼は普通タバコもアルコールものまないやつだが、酷く動揺しているときにはヘビースモーカーにも負けないほどタバコを吸う。それだけ彼は今の状況を気に入らないと言うことだろう。
「さて」ミヤザキが長い沈黙の後、口を開いた。「さて、問題はこの病気をどうなおすかということだな」
同じことを僕も考えていた。このプログラムは僕たちが扱えるほどレヴェルが低いものではない。人間の脳をコントロールするプログラムは未知のものだ。このプログラムのソースコードがあったらなんとかなるかもしれないが、それでも僕たち二人だけでは無理だろう。
「まず一応ボブに報告しにいくか」
ミヤザキはそう言って立ち上がった。残念ながら僕たちの調査はここまでと言うことなんだろう。
「所で、ウェル、僕は君に近づいても感染しないよな。一応『心理的な病気』なんだから」
「多分大丈夫だと思う」
僕が答えると、ミヤザキは微笑み、僕らは肩を合わせて階段を下り、ボブが待つパトカーまで歩いて行った。
4
ボブは最初は僕たちの発見を信じなかったが、ミヤザキな真剣な顔で繰り返すと、ボブは僕らを警察署まで送ってくれた。そこで二人分の幅を取るボブに背中を押され、僕らは事情を検査官ピーラに話すことになった。
彼は丸めがねをしてエリートの感じがした。ボブと違ってかれは、冷静な顔で僕らの説明を訊いたが、警察のコンピュータのエキスパートがミヤザキのパソコンを調べるまで一言も喋らず彼は無言で人差し指を額にあてていた。
一時間ほどでミヤザキのパソコンは返され、隈が目立つ警官が検察官に頷いて見せた。
「そうか」検察官は目を閉じて答えた。「ミヤザキくん、ウェルくん、お手柄だ。だがこの事件はまだ終わってない。これから緊急会議を開くつもりだ。君たちも……」
ピーラの声は婦警の叫び声に掻き消された。
「検察官! ある男が警察署の前で倒れました。彼はそれまで警備員ともめ合っていたんですが、彼はこんな封筒を持っていました。多分ご覧になった方がいいと」
彼女は茶封筒をピーラにわたし、ピンと貼った空気に圧倒されて赤くなりながら戻って行った。ピーラは彼女から受け取った封筒を僕にわたした。不思議に思い、宛名を見てみると『ウイルスの謎をといたウェル&ミヤザキへ』と書かれていた。
「なんで君の名前が最初なんだ? ウイルスを見つけたのは僕だけど……」
ミヤザキは肩の後ろから封筒を眺めていた。彼は緊張した雰囲気が嫌いなので冗談を飛ばしてみたのだろうが、誰も笑わず、失敗に終わった。
僕は恐る恐る封筒を破ってみると中からは一枚のDVDが出てきた。ウイルスが乗っていては危ないので、僕らはまずもう感染しているミヤザキにDVDの中身をチェクさせた。だがミヤザキは直ぐにただの動画だと報告したので、そのDVDは警察の大きいモニターに映し出された。
DVDの中身はウイルスのプログラマーからのメッセージらしく黒いシルエットに身を隠した姿が移った。しかしそれでも僕は帽子のつばとマフラーからして僕は例の男に違いないと思った。
「これほど速く私のウイルスを見つけたウェルくんとミヤザキくん、おめでとう」
スピーカから漏れたのはコンピュータで合成された綺麗だがニュートラルで決して好きには成れない声だった。
「今あなた方はウイルスを見つけたがどう対処していいのか分からないので困惑している」
シルエットはまるで僕らを嘲笑うように言った。多分そのために一々声を音声プログラムで修正したのだろう。
「だが心配ない。私はウェルくんに挑戦する。もし君が勝てば、コンピュータウイルスに感染した人々を治す薬を前提する」
「おい、さっきからいつもウェルだけだが、ウイルスを見つけたのは俺だぞ!」
ミヤザキは壁に取り付けられたモニターに怒鳴りつけたが、もちろん動画なので黒幕は彼を無視して続けた。
「ところでミヤザキだが、君には消えてもらう。のこのこウイルスに感染する相手など必要ない」
今までミヤザキの後ろに座っていたボブは、守るようにミヤザキの前に立った。ミヤザキは恥ずかしそうに画面を見ようとボブの巨体から首を伸ばしていた。
部屋にいる全員の目がミヤザキに向けられていた。カチカチとピーラの腕時計がスロモーションで響き、一瞬僕らはなにも起こらないと思った。しかしその瞬間ミヤザキの顔は凍り付き、彼はばたりと後ろ向きに倒れた。
「さぁウェル、君がミヤザキを助けたいのなら私のサーバを見つけるんだな。そこにウイルスを治すプログラムがあるから」
シルエットはそう言い残し、DVDの生成は終わった。
僕は急いでミヤザキに駆け寄った。ボブに抱えられたミヤザキは息はあったが、眠っているようで、僕がいくら彼を揺さぶり、つねっても彼は反応を示さなかった。
ミヤザキの寝顔を見ていると僕はあることに気づき、ミヤザキが無害化したウイルスが入ったパソコンを開いた。彼が倒れたのはウイルスに感染していたからだ。だったらこのウイルスの中になにかヒントはないかと探してみると、確かに感染した人間を一瞬でノックアウトするコマンドがあった。だがなにがトリガーになってこの状態を呼び起こすのかはいくら調べても分からなかった。プログラマーがわざとその部分だけ複雑に書いたので、僕には解読できなかった。
「グループ3は住民にパソコンを使用しないように呼びかけろ、警官もパソコンの使用には十分に気をつけるように。グループ2はコンピュータが感染しているかどうか調べろ。そしてDVDを鑑識に回すんだ。もしかしたら証拠が残っているかもしれない。他のものは緊急会議だ」
ピーラ検察官はテキパキと指示を出した。ボブはグループ3に所属しているので、ミヤザキを三つならんだ椅子に寝かせ、小走りで出て行った。
「検察官!」さっきと同じ婦警がこんどはドアの前にある小さな段差に足を取られて転んで滑り込んで入ってきた。「検察官、町の住人が! まだ我々が発祥を確認してない大勢の人間が右手を上げています。その上、他の人間を捕まえては、パソコンを見させて、ウイルスを広めています」
僕はちらりとピーラを見ると、彼は顔を両手で覆っていた。
「全警官に告げろ。銃は絶対に使うなと。あとこの事件に関係してない警官をかき集めて署の入口を固めろ。感染したものは絶対にここに入らせるな。あとミヤザキも誰か見張ってろ。ウェル、会議だついてこい」
秋なのに会議室にはクーラが効いていた。多分二十度以下なのだろう。僕は身震いすると、ピンと延びた髪の先っぽから一粒の汗がテーブルの上に落ちた。冷汗をかいていると自覚した。これは会議室に座った二十人の警官全員が僕を見つめているからだろうか? それともミヤザキが倒れて、彼を助けることができるのは僕だけだからだろうか?
「さて、ウェルくん。犯人のサーバがどこにあるか突き止められるか?」
楕円形のテーブルの反対側からピーラ検察官が訪ねた。
僕はうつむいて膝の間から見える椅子の模様を眺めていた。考える時間が必要だった。ウイルスのことでも、サーバの位置でもなく、僕は自分の恐怖心と向き合いたかった。自分が現在の状況をどう認識しているのか分からなかった。今まで波に飲まれ、そのままドンドン事件に引き込まれて行った感じだった。感情を整理したかった。
「ウェルくん、ミヤザキが倒れて大変なのは分かる、だが我々は一刻も速くサーバを見つけなければ、町中の人間が感染してしまう」
僕は眉毛を合わせてピーラを見つめた。今は僕の恐怖心は関係ないのだ。彼が言うとおりにまずはサーバを見つけるのが先だ。
「僕が思うに……サーバはインターネットアクセスがないでしょう……サイバー攻撃を防ぐために。インターネットに繋がってなければ……ウップ!」
胃のなかに竜巻が起こり、僕は体をねじ曲げた。座っていた椅子を突き飛ばし、立ち上がった。
「どうしたんだい、ウェルくん?」
胃液が喉から吹き出した。それに続いてぐちょぐちょに消化されたリンゴが舌の上を滑り、僕は床に手をついて今日食べたものを吐き出した。絨毯の上に黄色く変色した食べ物の塊が転がり、まるで鼻を生ゴミにつっこんだような臭いがした。
視界が回り、僕は誰かに抱えられ、会議室を連れ出された。
目を開いたら白い天井が広がっていた。僕は腕を伸ばし、なんとか横を向いてみるとボブと白衣を着たおじさんが話していた。
「病気ではありません。ただ過労とストレスが原因ですね。少し休めばよくなるでしょう」
僕の目はまだ回っていた。横を向くと、ボブの太い足がダブって四本見えて、まるで宇宙人みたいに這ってくるのが見えた。
「ウェル大丈夫か?」
ボブの暖かくて低い声が聞こえた。それでも僕は顔を上げられることができなかった。なぜか体が火照っていた。かけられた布団が重く、僕はベッドから落ちて、冷たい床に体を擦り付けたかった。
「……ふ、布団を取って」
僕はなんとか喉を震わして、声を出すことができた。ボブは僕の願いを聞き入れ、白い布団を捲ってくれた。とたんに僕の体から熱が逃げ、僕は少し楽になった。
「外は大変だぞ。起き上げられるのなら窓から見てみな」
ボブに体を抱えられ、僕はベッドに座った。首を曲げ透明な窓を眺めた。霧が深く、朝日がほとんど見えない。それに日差しが弱く、夜だと錯覚してしまう。
僕はベッドから下りた。裸足が床に触れ、ヒンヤリした感触が僕の足を氷でできた靴下のように包み込んだ。ためらいながら僕は顔を窓ガラスに押しあてて、下を見た。
伸ばされたピースサインの森。警察署の前には何千人と言う人々が銅像のように立ち並び、人差し指と中指を掲げていた。
「まるでゾンビアポカリュプセみたいだな」
僕が外の風景に圧倒され、呟くとボブは首を振った。
「ゾンビとは全然違う。彼らは絶対人を傷つけないし、凄く頭がいい。町の住民を非難させようとしたときに私の同僚はみな彼らに捕まってしまった」
「そうだろうね。だって彼らは自分たちの意思で行動しているのだから」
「どう言う意味だ?」
僕は不思議そうに訪ねるボブに指先を透明なガラスにあてたまま振り返った。なにか冷たいものを触っているだけで僕は冷静になれる。
「このウイルスはアップデートされたんだ。最初のウイルスに感染した人間はただ右腕を上げるだけだった。そのウイルスは二十九日の夜からばらまかれた。ウイルスは丁度次ぎの日の十二時に発祥するように設定されていたんだ。しかし僕らがそのウイルスを見つけたので、黒幕はウイルスのバージョン2を町に出した。バージョン2はまだ患者ではない人間を感染させるのが人々の指名だと思い込ませるように作られている。その上暴力は使ってはいけないとも設定されているのだろう。だから彼らはゾンビじゃない。自分の意思で僕らを捕まえようとしている、ゾンビよりよっぽど恐いよ」
僕は目が濡れていることに気づいた。道路に溢れる人々たちを見ると、僕は無力に思える。黒幕のサーバーを見つけることなんて不可能だ。そして僕はミヤザキを助けられないんだ。
体から力が抜け、僕はマリオネットのように地面に倒れて泣き始めた。なぜ僕がアパートにあったパソコンを調べなかったのだろう? ミヤザキだったらサーバーを見つけられるはずだ。彼は本物の天才だ。なぜ僕が……。
「おい、おい」ボブの手を肩の皮膚で感じた。「君は本当にサーバーの位置が突き止められないのか? ミヤザキはいつも言ってたよ『ウェルはパソコンのエキスパートでウイルスのことをよく知ってる』と。ウェルはコンピュータウイルスをよく知っているんだろう?」
「ミヤザキが天才だよ、僕じゃない」僕は泣きじゃくった。「僕が書いたウイルスなんて、彼の研究に比べたら……」
涙が僕の頬を伝い唇に垂れた。涙は塩っぱい。その瞬間、まるで僕の頭の中でなにかが破裂した感じがした。パチ、パチとまるでパズルの破片が組合わさる音が何重にもこだまして、僕の鼓膜に響いた。
僕は稲妻のように立ち上がった。ある計画が僕の頭でできあがっていた。
5
僕は機動隊のジャケットを身につけてボブと一緒にヘリコプターに乗っていた。プロペラの轟音をブロックするヘッドフォンをしているので僕らは話し合うことなく、無言で一夜にして姿が変わってしまった町を見下ろしていた。
新聞が強風に煽られて、空を見上げる患者たちの間を飛び回っていた。レストランの前に立つ広告看板は倒れて、何十回も踏まれた後があった。
ヘリコプターはゆっくりと回りながらビルが建ち並ぶ交差点に向かって下りて行った。患者たちはプロペラの音を聞くと、交差点から離れ、ヘリコプターが着地できる場所をあけた。
しかしパイロットがエンジンを切り、プロペラが停止した瞬間彼らは僕らに走りより僕らを取り囲んだ。
ゴクリと僕はゴルフボールのように大きい唾が食堂を押し開け、胃に落ちるのを感じた。心臓が高鳴り、喉から飛び出そうだ。もし僕の計画が上手く行かなければミヤザキを助けられないだけではなく、僕まで感染してしまう。
手の平についた汗を握りしめ、僕はヘリコプターから下りた。僕を取り巻いた人々は一瞬驚いた表情をした。僕たちは右手を上げていたのだ。もちろん僕らはまだ感染していない。だがこうすればなんとか患者たちをごまかせると思ったのだ。
「警察署にまだ感染していないやつらが残っている。このヘリコプターを使えば上から警察署を攻撃できる」
僕が患者たちを見回しながら告げると、彼らはお互いの顔を見合わせたが、直ぐには行動しなかった。多分僕たちのことを信用してないらしい。
「あなたたちはどこからこの警察のヘリコプターを手に入れた? この町には二つしかヘリコプターがないはずだ。それも二つとも警察署の屋上だ。どうやってこのヘリコプターを手に入れた?」
打ち合わせたようにボブが進み出て、説明し始めた。
「私たちは警官だったんだ、そして……ウッ」
ボブは一瞬顔を歪め、そしてくしゃみをした。だが彼は無意識的に右手で鼻を押さえてしまった。
次の瞬間色々なことが同時に起こった。ボブが自分の過ちに気づき、患者を押し倒して逃げようとしたが、二十人もの患者たちが彼に多いかぶさり、ボブは地面に張り付けられてしまった。ヘリコプターに残ったパイロットも右手を上げるのを止め、ヘリコプターを発進させようとしたが、直ぐに彼は他の患者にヘリコプターから引きずり出された。
「さて、さて三人の内二人が感染していなかった。若造、お前も本当は感染していないんじゃないか?」
六十は超えているのに筋肉もりもりの禿に僕は胸ぐらを掴まれた。まだ右手は上がっていたが、僕の体が恐怖で震えていた。
「僕は……僕は本当に感染している。ほらまだ右腕を下ろしてないだろう?」
「そうか、お前は感染しているんだな。だったらもう一度感染してもバチは当たらないだろう」
禿は僕を地面に投げつけ、他の患者たちは倒れた僕の手足を掴み自由を奪った。僕の髪の毛をわしづかみにして、禿は僕の顔をパソコンに押し付けた。慌てて両目を瞑った。だが僕は瞼と頬に何本もの指が延びてきて僕の目を強引に開けた。
顔の前に置かれたパソコンに青いスクリーンが流れた。
胸が地面に押し付けられて息苦しい。ドクン、ドクンと血液が体を異常な速さで巡回するのを感じた。
アスファルトに置かれたノートパソコンは青いスクーリンを表示した後、黒くなった。どうやってウイルスが僕の脳に感染するのか分からないが、多分これから始まるのだろう。
「ミヤザキ、すまない。君を助けることはできなかった」
地面に押し付けられたあごをこじ開けて僕は絶叫した。悲しくて恐くて、罪悪感でいっぱいだった。この感情の渦が続けば僕はウイルスに感染する前に爆発してしまうだろう。
これから僕は黒幕に操られ他の人間を感染させようと自分の意思なく徘徊するのだろうか?僕はそれだけは耐えられなかった。他のものが自分の思考をいじくるのは断じて許せなかった。だが患者に押し付けられた体は動かず、自分の敗北を認める以外なにもできなかった。
数秒経ったがパソコンの画面は変わらず黒かった。その上いつの間にかハードディスクに情報を刻み込む針の音も途絶えていた。
「なんだ? パソコンが壊れているのか?」
禿が叫びパソコンを叩いた。それでも起動しないことに気づくと彼はパソコンをアスファルトに投げつけた。
「僕が壊したんだ……」体の自由が訊かないので、一言一言しか僕は歯の間から押し出せなかった。「僕もプログラマーで……事件が始まる前、かなり破壊力が高いウイルスを書いたんだ。そのウイルス……を少し書き換えて、町中のパソコンを壊した。もう君たちは僕を感染することはできない」
不適に高笑いしたかったが、肺が圧縮されているので、僕はクックッと喉を振動させた。
しかし喜ぶのにはまだ速かった。僕とボブは立たされ、大勢の患者に囲まれたまま歩かされた。彼らの会話を耳にしたが、どうやら僕らをインターネットに繋がってないコンピュータに連れて行くようだった。
僕はうなだれていた。恐くて僕はめそめそと泣き出した。
だが内心僕は計画どおりと喜んでいた。彼らが連れて行くのはインターネットアクセスがなく、それでもウイルスに感染しているコンピュータ。それは黒幕のサーバーに違いない。患者たちを油断させて、彼らを出し抜くのが僕が練った本当の計画だった。
僕たちはアパートの一室に連れ込まれた。部屋はカーテンが閉め切っていて、最初はなにも見えなかったが、禿が電気を付けると、殺風景な部屋の隅に置かれた小さなスーパーコンピューターが見えた。
「ボブ今だ」
僕は叫ぶと、ボブは囲まれた患者から振りほどき、彼らを部屋から押し出した。禿もボブの一撃に倒れてしまった。今までボブはわざと彼の怪力を隠していたが、彼は本当は巨体に似合わず素早くて格闘が上手かった。
彼は部屋のドアを閉めて、自分の体で覆った。これで彼らは簡単には入ってこれないだろう。僕はお腹の間に隠したノートパソコンを取り出してスーパーコンピューターに接続した。パスワード解析プログラムを起動させて、パソコンを地面に放り出すと僕もボブに加勢した。
「どのぐらいでパスワードが分かる?」
ボブが喘ぎながら訪ねたが、僕は分からないと答えた。一分で終わるかもしれないし、何時間もかかるかもしれない。
突然ドアに大きな衝撃を感じた。今までとは違い、ドア全体を押さずに、一点に集中した力だった。
「破城槌を使ってる」
ボブが喘いだ。患者たちは太くて長い棒で扉を叩いているのだ。僕は額に滲み出た汗を噴きカリカリと働くパソコンを見るとパスワードの20%が解読されていた。
もう少しと僕はドアを拳を握りしめたが、バキンと薄いドアに亀裂が入るのを感じた。さらに窓からも石が投げつけられる音がした。モニターを見ると28%で止まっり、小さなポップアップウィンドウが表示されていた。なんらかの問題があるらしい。
「ボブ、ちょっと待ってて」
僕はパソコンまでスライドして、パソコンのマウスを叩いた。するとローディングバーはさらに上がり、35%と表示された。安心して僕は息をついたが、その途端、窓ガラスが割れる音がした。もしカーテンがなければ僕は粉々に砕けだガラスで怪我をしていただろう。僕は石が投げられているのだと思い、窓際から離れたが、カーテンの間から出てきたのは右手を掲げた患者だった。とっさに僕は彼の胸を押してたが、血から有り余って、患者は窓から落ちてしまった。
自分のしてしまったことに気づき、僕は慌てて下を見たが、幸運にも二階はあまり高くない上に地面が雨で湿っていたので、命には別状はないようだ。
「もうだめだ」
とボブがうなり、彼はドアを抱えたまま後ろに倒れた。よく見ると彼が抱えたドアに円形の穴が開いていた。ボブは破城槌を今まで自分の体で押さえていたのだ。僕はパソコンを見た。まだ83%。全然たりない。
「さて、さて、君たちを捕まえるのは大変だった、だが今度こそ感染させてやる」
禿が吠え、僕を押し倒し、肘で僕の背骨に体重かけた。僕は痛みで叫び、手足をばたつかせた。どうにか禿の手から逃れようと僕はキョロキョロとあたりを見回した。まるで奇跡を求めるように天を仰いだ。だが見えるのは患者たちの足と、気を失ったボブ。それに彼が倒れたときにボブのポケットから飛び出した小さなコイン、チョコレートに犬笛。今思い出したがボブは犬が好きだと話していた。そして確か犬笛は人間には聞こえない音を発して犬のトーレニングに使われる器具だった。
僕はまるで頭を金槌で殴られたように頭を上げた。
「人間には聞こえない音……!」
魔法の言葉が口から漏れた。僕はこれで全ての謎が解けたように思えた。
最後の力を振り絞り、僕は禿の肘を背中で押し上げ、口で犬笛を掴んだ。そして息を思いっきり吸い込んで、犬笛に吹き込んだ。
すると部屋にいた患者たちがみなへなへなと倒れ込み、眠り込んでしまった。
僕はミヤザキの病室にいた。
窓から見えるのはいつもの町だった。ただ少し汚く、住民たちが箒で道の泥を掃除していた。
僕はあの夜サーバーから病気を治すプログラムを盗み出した。それから一週間かけて警察はウイルスに感染した人々を治すことに専念した。
ミヤザキも起き上がって完全に治ったそうだ。だがやっと面会許可を貰ってお見舞いにきたと言うのに彼は寝ていた。
病室の花瓶に僕は花を入れて、出て行こうとした。
「君は事件を解決したのか」
ミヤザキは目を閉めたまま僕に問いかけた。彼が起きていることに僕は気づき、立ち止まって微笑んだ。
「うん、君がなぜ倒れたか最後まで考えていたんだ。患者はみな気を失う機能を持っていたのはすでにウイルスを調べたときに知っていた。だがなにがそのコマンドをトリガーするのが分からなかった。DVDを見ていただけで君は倒れたからね。そして犬笛を見たとき気がついたんだ。トリガーは人間の耳では聞こえない超音波だとね」
「で犯人は?」
ミヤザキはほとんど怒っているようなモノトーンで訪ねた。
「君だよ。ミヤザキ、君があのウイルスを書いた」
僕はニッコリ笑って答えた。
パズルの最後の破片、犯人??それはミヤザキだった。最初に公園で事件を予告したのも、ウイルスを見つけて倒れるのも全て彼の自作自演だった。ビデオを送りつけたのはミヤザキがウイルスで洗脳した人間だった。
最初僕が怪しいと思ったのは大学のカフェテリアでだった。彼は『黒ずくめの男が予言した事が始まった』と言ったが、僕は黒ずくめの男だとは一言も言ってなかった。
動機も少し調べたあとでかなり明白だった。劣等感、妬み、嫉妬。全て僕がミヤザキに感じている感情を彼も僕に対して感じていた。そしてミヤザキはどちらが上か知りたかった。ミヤザキにとってこれは彼と僕のゲームだったのだ。自分でウイルスを発見したのは、ゲームをフェアにするためだろう。そして彼は事実上僕に負けた。だからふくれているのだ。
「嗚呼、僕の負けだウェル。君には頭が下がる。君は本当に天才だ」
「違うよ」僕は首を振った。「君は人間を洗脳するウイルスを書いたんだ。君が本当の天才だよ」
僕はニッコリと笑った。なぜかミヤザキが遠くの存在に思える。まるで雲の上に住む神のような感じがした。
「君が本物の天才だよ」
僕は繰り返した。
ヴァイラス