バスケット、袖なし、公園と貴族の君

ニューヨーク・アメリカ 六月十五日2002年

 雨粒がまるで戦場に振り落ちる矢のように僕の部屋の窓に叩き付けていた。窓に当たりは弾け、バシッと音を立てる。ガラスが紙のように薄いので、ベッドに横になった僕は寝たいのに、雨の音で目がさえる。
 稲妻が黒い雲に覆われた町を包み、激しい光が一瞬僕の部屋を照らす。細長い物置のような僕の部屋。ベッドと机がなんとか押し込まれ、残された床は壁とベッドの間にある僅かな隙間だけだった。僕は別に友達を招待しないので、部屋の狭さをあまり気にしなかったが、胸を張って自慢できる部屋ではないし、自分だけの空間がこれほど少ないことに苦しんでいないと言えば嘘になる。
 まず自分の持ち物がほとんどない。机は読まない教科書とクシャクシャに丸められたテストで埋まっているし、お気に入りのバスケットボールは枕の横に置かれている。自分の財産と言ったらあと玄関にある靴とスケートボードぐらいだ。
 僕は欠伸をした。2DKのアパートは本当に狭い。居間では両親が寝ているのでうかつにトイレにもいけない。
 貧乏は嫌だなと僕は思い寝返りを打つ。それと同時に僕は深い眠りに落ちていた。

 次目を開ける時は現実ではなく、夢の世界だと僕は分かっていた。それ以外考えられないのだ。
 上品なシルクで編まれた布団に挟まれ、僕は目を覚ます。視界はどんよりしているが、可愛い女の子が僕の背中を押し、淡い臭いがする紅茶を唇まで持ってきてくれる。
 同時に他の女の子がカーテンを開け、僕は眩しさに目が眩む。でも目が太陽の光になれると、まるで王が住む宮殿のような部屋が浮かび上がる。
 目を擦りながらベッドから下りると、指に嵌ったルビーの指輪が輝き、服も本当の世界で着ていた袖無しではなく、絹の寝間着だった。
 紅茶を飲み終えたら、まだ眠い僕にこの部屋に似合った着物を女の子たちが僕に無言で着せてくれる。最初のころは少し恥ずかしかったが、今はもうなれた。
 実はこの夢を夏休みが始まってから毎日見ているのだ。宮殿のような部屋で起き上がり、まるでどこかの王子のように扱われる。そして僕が夢の中で住んでいる宮殿は部屋が数えきれないほどあって、外から眺めると城のようだった。
 夢の中で僕は門が殆ど見えないほど遥(はる)か彼方(かなた)にある広い庭園で散歩したり、迷路のような屋敷を徘徊する。
 新しい服さえ買えない僕に取って正に夢の世界だった。だが残念なことに、夢だから、視界はボンヤリとして、あまり頭が働かない。ただ夢から覚めたら微かに気持ちいい記憶が残るばかりだ。
「エリアスさま、どうかなさいましたか?」
 白い服を着た女の子が僕の顔を覗き込んで尋ねた。
 僕は疲れたように椅子に座り込んでいたのだ。ここでは体が重く、思うように動かない。
「いや、少し……眠い」
 僕は苦笑いした。夢の中で眠いのは少し可笑しい。
「エリアスさま、お手を」
 彼女は僕の手を取り、僕を支えるように寝室から僕を連れ出した。僕らは食堂に向かっているのだろう。それとも天気がいいから庭に?
 ちなみに彼女の名前はピアだ。よく知らないが、彼女はお手伝いで僕を担当してると言う設定らしい。ピアは女の子と言っても僕より少し年上で、誰とも比べられないほど綺麗だった。広い額に、細い眉毛。黒い化粧で輪郭をはっきりさせた目の中には灰色の瞳があり、彼女の美貌を引き立てていた。そしてふんわりと風になびく金髪は、僕の顔にかかり、甘い林檎の臭がする。
 そんな彼女に手を引かれるとやはり少し照れてしまう。僕のクラスの女の子全員を束ねてもかなわないぐらい綺麗で、こんな僕を相手をするよりは女優かモデルになった方がいいと思う。
 でも結局は僕の夢なのだ。ピアの前ではうろたえずに、自信をもってると言う印象を残したい。しかし彼女は仕事で僕の手を引いているのだから、多分僕に対してなにも感じてないのかもしれない。
「エリアスさま、お召にならないんですか?」
 僕は庭に座っていた。イギリス風の朝食が目の前に広がり、ピアが僕に笑いかけている。
「あっ、悪い。少しぼんやりしていた」
 クスリと彼女は幼稚な天使のような微笑みで笑った。
「エリアスさまは今日はボンヤリしすぎですよ」
「すみません」
 僕が頭を下げると、彼女はまたクスと笑った。しかし彼女は行こうとしない。経験から言うと『下がってよろしい』と言うまで僕が食べるのを見守っているのだ。
 食べるのを見られるのは恥ずかしいが(多分僕はマナーを知らないので酷い食べ方なのだろう)、彼女に『下がってもいい』と言うほど僕は勇気がなかった。
 仕方なく僕はピアに見守れたまま朝食を平らげた。
「エリアスさま、今日はどこに?」
 僕がナプキンで口を拭き終わると、ピアが訪ねてきた。今日はどこで過ごすかを知りたいのだろう。
「……ピアこの館にいるのは僕と召使いたちだけなのかい?」
「はい、貴方のお母上、ドラゴラン伯爵は今は旅行でいません」
 夢の中では僕の母は違う。それに僕は貴族の跡取りらしい。我ながら少しオーバーな夢だ。
「ふーん」
 と僕は頷いた。しかし例え母と一緒に住む屋敷でも異常にお手伝いが多い気がする。普通彼らはわざと僕の視線を逃れようとしているけれど。ピアに訪ねたら、召使いたちは屋敷がいっぱいに見えないようにできるだけ僕から離れているらしい。
「エリアスさま」ピアは笑った。「今日は乗馬はどうですか?」

 ハッと僕は目を覚ました。頭上に取り付けられた窓から朝日が差し込んでいる。驚きながら横を向くと使い古した茶色のバスケットボール。僕は現実に引き戻されていたのだ。
 ピアはいないし、紅茶から漂う淡いベルガモットの香りもしない。見えるのは壁紙が剥がれて、コンクリートが所々目立っている天井だけだった。
 ピアが乗馬はどうですかと訪ねた後、僕はなにをしたんだろう? こめかみを摩りながら僕はなんとか思い出そうとした。うっすら覚えているのはピアが馬を引いてくれたと言うことだけだった。多分そのあと僕は寝室で休んだんだろう。
 宮殿とピアが出てくる夢を見るのは今日で二週間目になる。夏休みが始まったころからピアの夢を見るようになった。
 その日からピアの夢は僕の心を麻薬のように掴んで行った。無理もないだろう。僕が望んでいる全てを夢の中では手に入れられるのだから。
 欠伸をしながら僕はバスケットボールを小脇に抱え立ち上がった。居間に行くと、両親たちはもういなかった??彼らに夏休みはないのだ。
 トースト二枚と牛乳を飲み、僕は簡単に空腹を沈め玄関に向かった。テレビでは今日はいい天気になると言っていたから、少し体を動かそうと思ったのだ。
 向かうのは僕のアパートからやく五百メートル離れた公園。そこにはバスケットボール場があるのだ。まだ朝早いので、僕はただ一人でボールを投げることになったが、別に気にしなかった。少し待てば友達がくると分かっていた。
 太陽が上がり、人工的に植えられた木々の陰が一番短くなったとき、友達のスコットとエリックが各々ボールやスケートボードを持ち公園にやってきた。
「よっ、エリアス。お前も暇だよな、毎日休まずにここにきている」とスコット。
「うん。貧乏暇なし」
「しかし昨日の夕立には参ったよな」
 僕はスコットに頷いてみせてエリックにボールをパスした。
「三人だからツウェンティーワンをやろうか?」
 ツウェンティーワンは名前どうり、最初に二十一点をスコアした者が勝ちである。ただしバスケットボール以外のルールも色々と交じり合い、結構複雑なゲームである。
 結局三人ではエリックが楽々と勝ってしまうので、僕らはゲームを変えることにした。丁度他のやつらもきたので、僕らは二対三に分かれて試合をすることにした。エリックと僕が一番強いので二人だけのチームになった。彼は遠くからボールをバスケットに入れるのが得意だが、チーム戦になると僕の方が断然ドリブルと守備が上手いので、エリックはボールにふれることはないだろう。だから彼は不満そうにしていた。
 しかしエリックは僕と違って学校でも優秀だし他の趣味もある。僕は夏にプールに行く金もないので自然にバスケットが上手くなるのだ。こうエリックが詰まらなそうにドリブルする僕の後ろを追ってくると、少し空しくなる。彼はバスケットは上手くなくても、ある程度の大学に入る金を持っている。それに比べて僕は大学なんて夢の彼方だし、多分、将来兵士にでもなるのだろう。同い年なのに、未来がこれほど違うのは少しずるい気がする。
 僕はボールをバスケットに向かって投げた。敵に囲まれていて、本当はエリックにパスするべきだったが、僕はわざとそれを拒んだ。もちろんボールはブロックされて相手に奪われた。そしてスコットたちは突然水を得た魚のように生き生きして、ドリブルとパスを繰り返しながら僕たちのバスケットに突進した。彼らを追えば止められたかもしれないが、僕は動くのさえ辛かった。
「エリック、悪い。僕少し休むわ。四人でやってくれ」
 そう言い残してバスケットフィールドから見えないピンポン台に座り、背伸びをした。なぜか全て霞んで見える。目が悪くなったのだろうか? もしそうなら自殺したい気分だ。勉強とは無縁だったのに、あのいい子ぶった成績がいいやつらみたいに眼鏡をかけるのはまっぴらだ。
 そう思い、僕は欠伸をした。やはり僕が運命を約束された優等生に自慢できるのは眼鏡をかけていないことだけだった。空しい。本当に本当に自分が小さく弱く思える。
「エリアスくんですか?」
 ふと、大人の声が聞こえた。振り向くと黒い背広を着て髪をショートカットにした男が立っていた。寂れた古い公園にピシッとスーツを着こなした男??ザ・マトリックスのエイジェントスミスを思い出さないではいられなかった。それに例え僕がマトリックスを知らないでも逃げ出していただろう。黒い背広は警察かマフィアだ。両方ともかかわり合いたくない。
「まっ、まて!」
 彼は叫び僕を追い掛けたが、僕はもう公園を出て横断歩道を渡ろうとしていた。息を吐きながら後ろを向くと黒背広は公園の柵を飛び越えて僕の直ぐ後ろに着地した。驚き、僕は彼の掴み掛かろうとする手を逃れ、クラクションを鳴らす車の間を駆け抜け近くのマンションに飛び込んだ。その建物の大家は金に苦しんでいるので正面玄関の壊れた鍵をまだ直してないのだ。
 僕は迷路のようなマンションを上がったり下がったりしながら黒背広を巻こうとしたが、いくら走っても彼の足音が聞こえてくる。恐くて僕は後ろを向く勇気はなかった。屋上まで上がり、僕はドアをそこにあった寂れた鉄棒で塞いだ。そして非常階段を使って下りた。
 これで黒背広は追い掛けてこないと思い、僕は満足げに屋上を見上げた。
 すると突然黒背広の顔がひょいと屋上から現れ、彼は屋上から飛び降りた。そして空中で非常階段の手すりを掴みながらまるで猿のような動きで地上に降り立った。
 尋常な動きに僕は恐怖にかられ走り出した。なぜ追われているのか知らないが、彼は普通ではない。ただ捕まりたくないと言う一心で僕は足が持つまで疾走した。路地を使い、マンションに入ったり出たりしながら、僕が産まれてから暮らした地形をできるだけ利用したが、どれだけ頑張っても黒背広は迷うことなく僕に付いてきた。それ以上にいきなり僕の前に現れることだってあった。
 そしてついに僕は行き止まりに走り込んでしまい、三面の壁と黒背広に囲まれてしまった。慌ててマンホールはないかと探したが、黒背広に悟られてしまい、彼は片足をマンホールに置いた。
「エリアスくんですよね?」
「……いや違います。スコットです……スコットスミス」
 でたらめを言ったが、マトリックスと重なってしまった。
「別に私から逃げる必要はないんですよエリアスくん」僕の嘘を見抜いたように彼は言った。「あなたはある組織に追われています。そして彼らは危険です。絶対に彼らを信じてはいけません。いいですか……」
 鞭が空を切るような鋭い音が寂しいアパート街を貫くように轟いた。同時に黒背広の頭は右に飛ぶように吹き飛ばされ、彼の体もそれに応じてレンガの壁に叩き付けられた。頭から血が噴き出し、僕は叫び声を上げる。
 し、死んでいると僕は直ぐに思った。別に確認した訳でもないのに僕は直感的に分かった。そして次に脳裏を横切ったのは狙撃と言う言葉だった。僕は慌てて壁際によった。
 震えながら隅で縮み上がっていると、黒い車が僕の前に止まった。そこから出てきたのは警察でもヤバそうなスキンヘッドでもなかった。可愛らしい女の子だった。
 フワフワの金髪を風になびかせながら、彼女は迷うことなく僕の前に跪いた。
「エリアスさま」彼女は言った。そして僕の腕を掴み、手の甲にキスした。「お迎えに上がりました」
 どこかで彼女を見たような気がしたが、いくら思い出そうとしてもどうしても記憶の奥から彼女を引っ張り出せなかった。ただデジャヴに思えて、歯痒い。
「君は誰?」
「私はドラゴラン家の家来、ピアです」
 開いた口が塞がらなかった。僕の夢に出てきたピアが目の前にいるのだ。不思議で信じられなかったが、確かに言われてみると、彼女はピア以外の何者でもない。
「さっ、エリアスさま、ここは危険ですよ。車にお乗りください」
「か、彼は?」
 僕は震える指で地面に仰向けになっている黒背広をさした。
「彼は恐らく殺し屋でしょう。心配ありません彼の死体は我々が片付けます」
「彼を殺したのも……?」
 ピアはニッコリと微笑んだ。イエスと言う意味だろう。
 僕は黒背広が死ぬ前に発した警告を思い出し、ピアから逃げようとしたが、なぜか彼女の微笑はまるでキューピッドの矢のように僕の心を鷲掴みにして、僕はフラフラと彼女に付いて行った。
 ピアは僕の隣りに座り、運転手に合図をした。すると車はスーっと走りだした。空を滑っているようでほとんど振動がない。バスにしか乗ったことがない僕には魔法のようだった。
「エリアスさま、あなたは自分のアイデンティティを知っていますか?」
「ぼ、僕はエリアスシャンリー……」
 そう言うとピアは首を振った。
「あなたはエリアスドラゴラン。ドラゴラン伯爵の息子、つまり御曹司です」
「ぼ、僕は夢を見ているんだよね。つまり僕が言いたいのは君が言っていることは全て僕の夢と一致する」
「そうです。これは現実ではありません、これはあなたの夢です。あなたが夢だと思っているのが現実なんです」
 僕はピアと一緒に車の中にいるのさえ信じられないのに、彼女の口からはもっと信じがたい言葉がこぼれた。しかしある意味、これが現実ではないほうが理解するのが簡単だ。モデルのような子の体が僕に密着しているのは夢に違いない。
「でも君は、もしこれが僕の夢だとすると、僕の夢の中にいるの?」
 僕は少し迷いながら尋ねた。やはり彼女の物語が信じがたく、黒背広のこともあって、ねんにはねんを入れたかった。
「私は多分あなたの記憶が作りだした残像です」
 彼女はそう言い歯を出して笑った。
 残像ということは僕は彼女を知っていると言うことか??しかし、どこであったのか思い出せない。もしかしたら彼女の言っていることは全て嘘で彼女は僕を誘拐しようとしているのかもと僕の心に恐ろしい考えが浮かんだ。ピアは本当はマフィアの一員で人さらいなんだ。
 僕はそう思い、ピアの顔を探るように見つめたが、彼女は可愛いらしい笑顔を返すばかりだった。それにそれほど心配する必要はなかった。車はやがて僕のアパートの前で止まった。
「エリアスさま、あなたは夢から目覚める必要があります」
 ピアはさきに降りて僕の為にドアを開けてくれた。
「でもどうやって?」
「寝るんです。夢の中で寝ればあなたは起きられるかもしれません」
「寝るって今から? 真昼間じゃないか?」
「牛乳を飲めば楽に寝れます」ピアは肩を竦めた。「ではエリアスさま、よい夢を」彼女はそう言い残し車に乗り込んだ。
 僕は腕を振りながら彼女を見送ったが、黒い車が見えなくなった後少し悲しくなった。心に開いたような痛みだった。彼女が実物であれ、記憶の残像であれ、僕はピアは行ってしまったのだ。ピアの温もりが痛いほど左腕に感じた。彼女の体と触れ合っていた場所だ。
 落ち込んだ気持ちで僕はアパートの階段を登り、自分の部屋に入った。もし、ピアが言っていたことが本当なら、僕は本当の世界では金持ちの貴族らしい。それに何時も見ている夢が現実だとするとピアにもまた会える。僕は一秒でも速くピアの顔をまた見るために枕を頬に押し付けた。
 この世界で僕を引き止めるものは一つもない。両親には感謝しているが、彼らとはあまり顔を合わせないし、学校も友達も別に特別ではない。例え大事でもピアに一目惚れした僕を止めることはできない。そう考えながら僕は幾度も「寝ろ!」と自己暗示した。しかしそう唱えれば唱えるほど、目がさえてしまう。
 僕は枕を壁に投げつけ、起き上がった。そしたら僕はピアのアドヴァイスを思い出したので、キッチンに走って行った。牛乳はどこかと冷蔵庫を捜すと、普通は一番後ろにしまわれているか切らせているミルクが僕の目の前にあった。探す手間が省けたと僕は喜び、牛乳をグラスについだ。
 グラスを唇に付け、僕はノスタルジックに自分が一生を過ごした部屋を見つめた。そして左手の拳を握り締め、白い液体を口の中に流し込んだ。
 突然目眩に襲われ、僕はグラスを手から落とした。粉々に砕け散る破片が光に反射してきらめくのを僕は見つめながら床に倒れた。ピアの言うとおり、牛乳を飲めば直ぐに寝れると僕は苦笑いして気を失った。

 目を開けたら白い天井が見えた。毎朝見る壁紙が剥がれた天井ではなかったので、僕は驚き体を起こした。よく見ると、その部屋も広く僕の部屋とは似ても似つかないほど清潔で綺麗だった。もっと言うと病院の一室に見えた。それも高そうな部屋だ。
 僕は口に付けられた酸素用のチューブを外し困惑しながらキョロキョロするとナイトテーブルに置かれた花束が見えた。カードも添えてあって、『エリアスさま、速く元気になってください』と書かれていた。しかし僕はなぜ病院にいるのか全く記憶がなかった。怪我はしてないし、病気になった覚えもない。これはピアが言った現実の世界なのだろうか?
 突然病室のドアが開かれ、白いコートを着た女の子が新しい花束を片手に持ち、入ってきた。多分僕は彼女の灰色の目を見なくても、直ぐにピアだと分かっただろう。ピアと再開できて、僕の体は温かい気持ちで包まれた。
「ピア!」と僕が叫ぶと今までうつむいていたピアが顔を上げて、彼女は驚いたように目を見開いた。
「え、エリアスさま……!」
 彼女は口に手を当てて呟いき、花束をポロリと落とした。そしてヨロヨロとピアは膝まずき顔を赤くして泣き始めた。
「ぴ、ピア、なんで泣いてるんだよ?」
「え、エリアスさまが起き上がるだなんて……もう嬉しくて」
 興奮して、彼女は鼻を啜り上げたが、その光景も可愛くて僕の胸は少しキュンとなった。
「僕はどうしてたの?」
「エリアスさまは、じ、事故で植物人間になったんです、三ヶ月間も。今まで私と他の方にも心配かけて!」
 最後の方は僕を軽く叱り、事故のことを説明した。
 彼女の話しをまとめると僕は本当にドラゴランと言う貴族で、三ヶ月前の交通事故でコマに陥ったらしい。僕がなにも覚えてないのは事故のショックで記憶をなくしたからだそうだ。
 さらに僕は彼女に僕がニューヨークで住んでいて、バスケットをやり、夜には宮殿の夢を見ていたと言うと、彼女はそれは昏睡状態のとき見た夢だと説明した。
 その内に医者もやってきて、僕の診断したあと奇跡だと言って首を降っていた。少し得意になった気分だが、今までの記憶が全くないので、不思議な気分だった。
 医者が僕を非常に健康と診断した後、僕は退院することになった。もちろん医者はまだ僕の状わざが完全ではないと不服を唱えたが、ピアはドラゴラン伯爵に僕を会わせると言い張った。僕は別にだるさも目眩も感じないので、彼女の肩を持った。医者は直ぐに折れ、若いやつの考えることは分からんと病室を出て行った。
「ねぇ、ピア」
 僕らを迎えにきた車に乗り込み、僕は隣りに座る彼女に尋ねた。こうしてみると、夢の中でピアと一緒に車を乗ったときを思い出す。
「なんですか、エリアスさま」
「やっぱりそのさまは止めてくれないかな。少し恥ずかしい」
「分かりました、エリアス……」引きつった顔でピアは答えた。もう彼女は『さま』に慣れてしまって、呼び捨てるほうがキツイのかもしれない。
「敬語も」
「……分かった」
 ピアは顔の筋肉をさらに痙攣させて言い、僕らは顔を見合わせて笑った。
「まぁいいよ。僕が訊きたかったのは、ほら、君は僕の夢の中に出てきたんだ。そして夢の中で『起きなさい』って言ったんだよ。あれはやはり僕の頭が創りだしたものなのかな?」
「そうです……そうだ」
 素早く訂正して、ピアは僕をチラリと見た。そのシャイな感じな視線は僕の顔色を伺っているようで、僕はなんとも言えない複雑な気持ちになった。
「僕の母、ドラゴラン伯爵はどんな人だか教えてくれる?」
 話題を変えようと僕は早口で尋ねた。
「彼女は素晴らしい人です……だよ。会社を鉄の拳で経営していて、厳しい人だけど公平な人……だよ。ただ、少し足腰を痛めているのでいつも車椅子を使っているわ。あなたもきっとすきになるよ、エリアスさま……いや、エリアス」
 彼女はつっかえながら言った。まるで外国語を喋っているようで、一言一言言葉を探さないと声に出せないようだった。僕は気の毒になりピアに敬語使っていうと彼女は微笑み、スラスラと話しだした。
 やがて僕らを乗せた車は夢で見たうりふたつの宮殿の前に止まっていた。多分これも僕の記憶が夢の中で残像として使ったのだろう。木が植えられた場所、窓の位置、噴水の水の色、全てが同じだった。少々驚いたが、説明はすでに聞いていたので僕は心の中で頷いた。
 その後僕はピアに手を引かれて宮殿を案内されたが、僕は自分で寝室を見つけることができた。しかし十人は座れるベッドで僕は休むことはできなかった。ピアが僕の髭と髪の毛を指差しこれではいけないと言ったのだ。僕は男性ホルモンが急ぎすぎて生えたあご髭が自慢だったが、ピアに抑えつけられ、彼女の手に掴まれたカミソリで綺麗に切られてしまった。僕の顎はビリヤードボールみたいにツルリと滑々になった。
 しかし彼女はそれだけでは僕を許してくれなかった。せっかく伸ばした長髪をバッサリと切ってしまった。さらに鋏を振り回し、僕の野放図に伸ばされた髪の毛を爽やかなショートカットにした。ついでに彼女は僕の眉毛を少し剃り、今までマジックで書かれたように太かったのに、ピアの眉毛のように優雅に細い眉毛になった。
 さらに彼女は細かい道具が入った鞄を取り出し、愉快そうに笑いながらもう抵抗するのを諦めた僕の顔にクリームや他の薬品を塗りこんでいった。
 やっと解放されたのは三時間後だった。勝手に僕のルックスを変えたのは腹がたったが、鏡を渡されるとどうしてもピアを怒ることはできなかった。彼女は僕の顔を見事に掘られた一つの芸術品にしていた。僕は自分自身の姿に見とれるほど美しかった。男に美しい言葉は合わないかもしれないが、本当に僕はまるで王子に見えた。
 だが僕は新しく心のなかで芽生えたナルシストの面をそれ以上育てる暇はなく、ピアに風呂場に放りこまれた。少なくとも今度ばかりは彼女は僕を一人にさせてくれた。夢の中で寝ていた部屋より大きい浴槽に浸かりながら僕はゆっくりと時間を思考と懐かしい夢の記憶に当てることができた。
 僕はあの酷い毎日を思い出しながら、体が幸せさに満ちるのを感じた。こう言う人生を前から望んでいたのだ。例えあの世界が夢であっても、夢でなくとも、これが僕の現実だと思い、僕は顔を水の中に沈めた。
「エリアスさま! ちゃんと体を洗ってくださいよ!」
 顔を上げると、ピアが僕が怠けているのを見ているように叫んだ。ここで逆らったら彼女は多分浴室に入ってくるので僕は仕方なく水から出て大理石に置かれた石鹸を取った。
 体を手ぬぐいで拭きながら考えてみると、僕は今までお風呂になんて入ったことがなかった。アパートには風呂桶が付いていなかったので、毎朝軽くシャワーを浴びるだけだった。だからこうして座りながら体を洗うと、普通下半身、特につま先の間まで手が届かない所も綺麗にできる。
 その後、ピアが許すまで僕は浴槽の中でリラックスして、体が不焼け始めたころ、タオルを腰に巻いて出た。ピアはもういなかったが、その変わり僕が触ったことすらない上等な服がたたんで置いてあった。
 恐る恐る僕は服を広げて、身につけた。少々窮屈だったが、今まで着ていた服より柔らかに肌を包み込んでいた。
 僕は鏡でできるだけ服を伸ばしたつもりだったが、浴室を出て自分の部屋に戻るとピアがやってきて色々と僕の服を直してくれた。あと赤く輝くドラゴラン家の紋章が刻まれた指輪も僕にくれた。
「エリアスさま、あなたは食事のマナーを覚えていますか?」
 襟を直しながらピアは尋ねた。
「さぁ……」
「じゃあドラゴラン伯爵に会う前に復習しましょう」
 そう言ってピアはまたしても僕を食堂に連れていき、夜まで僕たちはみっちりと食事のマナーを練習した。どうやら僕は昏睡の間こんなことも忘れてしまったらしい。しかしピアが後ろに立ち、僕の腕をマリオネットのように操るのはずっとそのままでいたいほど嬉しい体験だった。もう僕の心臓はピアの前で高鳴らないわけにはいかない!
 だがそれよりも僕の気を引いたのは丁度長細いテーブルの向かい側にかけられた立派な彫像だった。その中に描かれた人物は僕にそっくりだった。しかし昏睡状態の僕ではなく、ピアが整形したあとの顔に似ていた。唯一の違いといえば彼女は髪を伸ばし、ドレスを着ていることだけだった。
「ピア、彼女は誰なの?」
「彼女はあなたの姉、エリアさまです。しかし八年前、十歳のころ、事故で亡くなっています」
 僕は一瞬体中の血が凍りつくのを感じた。例え記憶になくても、自分の肉親を失った悲しみがドスリと胃に落ちる石のようだった。
「……彼女は僕より二歳年上だったんだね。今僕は十六だから」
 ピアは微笑み、僕らは練習を続けた。

 その夜、僕は母と長テーブルを挟んで座ることになった。夢の中では食事を両親と一緒にすることは殆どなかったし、あったら狭いキッチンテーブルを囲むことになった。
 やはり記憶にない母と最初の食事を共にするのは少し緊張した。しかし彼女五十代の柔らかな人でただただ僕に再開するのを喜んだ。ドラゴラン伯爵は企業のことを話し、僕がドラゴラン家を次ぐためには色々と新しいことを習わなければならないと言った。正直、勉強と言葉を聞くとドキリとしたが、口には出さなかった。
 僕らはデザートを平らげ、僕の胃は今までで一番美味しい夕食に満たされ、幼い赤ん坊のように笑っていた。その笑顔を見た母は微笑み、夕食で最後の会話として弟のことを話した。
「あなたの弟と一度会ってみてください」
「……分かりました母上」
 僕はピアに教えられたように答えた。
「彼は、名前はエイデンですけど、このごろ少し変でね。あなたに会えたら元気がつくかもしれません」
 母はワイングラスを目の高さまで持ってきて僕を真っ直ぐ見つめた。できるだけ僕は頼もしい表情で答えたつもりだったが、どれだけよくできたか分からない。

 次に一週間、僕はエイデンに顔を合わせるチャンスはなかった。ピアが朝から晩まで僕を勉強机に縛り付けて、経済学を僕に教え込んだからだ。別に僕は勉強家タイプではなかったが、勉強する意欲はあり、自分でも驚くほど速く進んだ。そして夜は母と一緒に食べると言う毎日が繰り返された。
 日が過ぎるにつれて僕は宮殿で働いている召使いたちの名前を覚え始めた。例えばピアの部下と言うか、ピアと一緒に僕お世話をしてくれるのが、キャサリン、ジルとアルブレヒト。
 コックも大勢いて、僕がたまたま会ったのはジョーゼフだった。彼はイタリア料理を専門にしているらしく、少しイタリア訛りの英語で喋った。
 あと面白いことに僕は夢のなかでアメリカに住んでいたのに、ここはイギリスだった。もっと言うとイギリスの西部、コーンワール地方だった。確かにピアの許しを得て勉強の合間に車に少し乗ると、果てしない海が広がっている海岸があった。この膨大な水が集まったオーシャンはまるで崖から青を見渡す僕をマイクロサイズに縮め、僕が無限の宇宙を漂っている幻覚を感じさせた。その日から僕はピアと共に時々海を見に行くようになった。
 そう言った毎日の中、僕は間違いなく上品な貴族へと変わっていった。言葉遣いもしなやかに綺麗になり、鏡を僕の前に置くと、箔が付いた瞳が僕を見つめ返していた。僕はこの変化を実に気に入っていた。今まで羨ましがっていたエリックなど問題ではないのだ。
 そんなある日、エイデンが僕の部屋にひょっこりとやってきた。普通ならピアは僕が昏睡状態から目覚めたのをお祝いにくる親戚をお繰り返していたが、僕はエイデンと話したかったので、なんとかピアの許しを得ることができた。
「よっ、兄さま!」
 エイデンは僕の部屋に入ってくるなり言った。
「君は?」
「俺のことも覚えてないのか? 俺だよ俺、エイデン!」
「……つまり君は僕の弟?」
 助け舟を求めるようにチラリとピアを見たら彼女は頷いた。
「まったく兄さまはなんにも覚えてないんだな。まぁ記憶喪失だからいいとしよう。ところで、君、僕は兄さまと二人きりで話したいんだ、下がってね」
 僕は彼がピアに命令するのが気に入らなくて、ピアはここにいると主張した。するとエイデンはやれやれと両手を上げて、話し始めた。
「なぁ、兄さん時には勉強を止めて庭に降りてこいよ。俺が銃を教えてあげるからさ」
「銃?」
「そう、今度二人でハンティングに行こう」
「……分かった。考えてみる」
 僕は口ごもった。ハンティングなんてやったこともないし、銃を持ったこともない。だけど弟が僕のことを気遣っているのは嬉しかった。
 エイデンはそして出て行こうとしたが、直ぐにまた戻ってきて僕の耳に囁いた。
「ピアって可愛いよな」
 僕は少し赤くなり、なぜ彼が僕の心を見透かしたように僕の気持ちを分かったのか知りたかった。しかも彼は二歳ほど僕より年下なのだ。喋り方といい、エイデンはなぜか僕を弄んでいるように感じられた。

 エイデンはいい弟だった。僕らは時々庭で猟銃をいじくったが、エイデンは銃が上手かった。空中に放り投げた直径約五センチの的を楽に撃ち抜けるほどだった。それに彼は僕より二歳下なのに僕より大人げだった。具体的な例はあげられないが、彼の喋り方と歩き方はエイデンが自分に自信を持っていると語っていた。
 それからは弟も夕食に出席した。今までは部屋で食べていたらしいが、気が変わったらしい。母の前では僕はまだ少し緊張するが、エイデンと一緒だとなぜか突っ張った雰囲気も和らぐ。
 彼は母との関係だけを楽にしたわけではない。僕がピアに直接聞きにくいことも、エイデンは教えてくれた。例えばピアは十八で、彼女両親は二人ともドラゴラン家に使えていた。父はエリートの執事だったが、僕の姉、エリアと同じ事故に巻き込まれて亡くなったらしい。彼女の母は引退して、ロンドンの近くに住んでいる。
 エイデンの話しを訊き、僕は八年前の事件に興味を持ち、尋ねた。
「八年前? あの事件は六年前だったよ」
 僕が聞くと、エイデンは首を傾げて言った。
「でも、母上が八年前だと……」
「あっ! そ、そうか。うん事件は八年前だった。倉庫が炎上してね。たまたまそこにいた姉と彼女の執事が死んでしまった。僕は小さかったからよく覚えてないけど、屋敷中悲しみにくれていたね。母上は確かそのときモスクワにいたんだ、企業をロシアに広めるためにね」
 僕は眉毛を合わせて頷いた。あの肖像画に描かれた、血を分けた姉には二度と会うことはないのだと。それと彼女の記憶が一つもない悲しみが心の底からこみ上げてきた。
 そのとき部屋のドアが開いてピアが入っていた。最初見たときのように白いコートを着て、旅行鞄を足の前に置いている。
「エリアスさま、すみません。私は少しお暇を取らせていただきます。伯爵にはすでに許可をもらいましたし、あなたの世話は私がいない間キャサリンに任します」
 あまりにも突然過ぎて、僕は面食らってしまった。そして直ぐに僕の態度が原因かと思った。
「で、でもなぜ?」
「エリアスさまが気に止めることではありません」
「だけど知りたい」
「……母が病気になって。電話で聞いたところによると死ぬか生きるかの堺なんだそうです。では私は行かなければなりません。母が回復次第戻りますから」
 彼女は鞄を手に取り、部屋を出て行った。かなり急いでいるのだろう。
 僕は僕も一緒に行くと叫びたかったが、直ぐにエイデンに止められた。
「君はドラゴラン家の者だ。君が付いて入ったら、彼女は君に気を使わなければいけないだろう?」
 悔しがったがエイデンの言うことは最もだったので僕は黙り、ピアの後ろ姿を窓から眺め、見送った。

 僕がピアの声を聞いたのはそれから五日後のことだった。毎日ピアに電話をかけたのだが、繋がらなかった。そしてやっとピアと話せたのだが、悲しいことに、僕らの会話は最悪のニュースから始まった。
 ピアの母が死んだのだ。彼女がそう僕に伝えた後、僕は数秒沈黙した。いくら僕がピアの母を知らなくても、僕は彼女の悲しみに共鳴して目が少し湿った。
 ピアもまだ母が死んだという事実から克服してないらしく、葬式が一週間後にあるからそのあと直ぐに帰ると言い残し電話を切った。
 僕はその日ベッドの中で過ごしたのを覚えている。キャサリンとエイデンがいくら僕を元気づけようとしても、僕の頭のなかで感情の嵐が荒れ狂うなか、体は抜け殻のように生気がなく石で作られた像みたいだった。
 次の一週間僕は殆ど外出せずに部屋に篭っていたが、少しずつ心が軽くになって行った。またピアの顔を見れるという嬉しさが体の中に開いた穴のような悲しみを埋めていたのかもしれない。しかしピアは一週間まっても二週間待っても戻ってこなかった。心配してなんどもなんども電話を掛けたが、彼女の携帯は切られていた。
 そしてピアがロンドンへ行った三週間後、エイデンが慌てて僕の部屋に入ってきた。
「ピアは誘拐された!」
 扉をしめるなりエイデンは小声で囁いた。
「誘拐?」
「そんな大きな声を出すな」
 僕はエイデンの忠告を聞いて、小声になった。
「でもどうして、誰が?」
「よく分からない。でも手紙には兄さまと僕が誰にも言わずに海辺の側にある塔にこいと書かれてあった」
 エイデンはそう言いながらタイプされた手紙を差し出した。確かにタイプライターのフォントでそのような文句が書かれていた。さらに手紙と一緒にピアが狭い部屋に押し込まれた写真が同封されてあった。
 僕は血が頭に上るのを感じた。なにもかがピアを捕まえて監禁しているだなんて許せなかった。
「エイデン、直ぐそこに行くぞ」
「う、うん。僕は一応猟銃を取ってくる……」
 彼は僕の迫力に圧倒され、少し後ずさりしたが、襟を伸ばしながら頷いた。エイデンが鉄砲を取りに行っている間、僕はコックのジョゼフに会いに行き、彼にキッチンを案内させた。怒りがありあまり、なにかをしてないと爆発する気分だったのだ。
 やっとエイデンは猟銃を担いで玄関にやってきた。僕も銃が欲しいと言ったが、エイデンは僕が銃の所持を許可する書類を持っていないので、警察とトラブルになると説明した。しかたなく僕は拳を摩りながら、素手で誘拐者を殴ることに決めた。
 僕らは車に乗り込み、エイデンは運転手に支持をだした。いくら手紙に二人だけでこいと書かれていても海辺まで行くのには車が必要だった。
「なぁその銃を少し見せてくれるか?」
「えっ? ダメだよ……」
 エイデンは銃を両手で握り首を振った。
「いやきれいな猟銃だからさ。少しだけ」
 僕が手を合わせて頼むと、エイデンはやれやれと肩をすくめ銃を僕に渡してくれた。
「この銃身は本当に綺麗だ。しなやかで綺麗な鉄」
「うんそうだろ。俺のお気に入りなんだ」
 エイデンは得意そうに言った。
 そのとき突然車が急ブレーキをして、シートベルトをしてなかったエイデンは頭を運転席の座席にぶつけた。
「すみません。子供が赤の信号を渡ったものですから……」
 エイデンは痛そうで涙ぐんでいたが、運転手に怒るすべもなくただ指で目をさするばかりだった。
「これ返すよ」
 僕は少しエイデンに同情して猟銃を返した。多分僕が銃をもっても諸刃の剣と言う物、百害あって一利なしだ。武器はプロに任せておこう。

 僕らはさらに二十分ほど車に揺られ海辺に付いた。エイデンは運転手に待っているようにと命令して、そして真っ直ぐ灯台へ向かった。
 エイデンはドアの前で銃を構え、僕はゆっくりとドアを開けた。
 中には誰もいなかった。犯人もピアも、ただ螺旋階段が続いているだけだった。僕はエイデンに目配せして、二人で足音を立てないようにゆっくりと薄暗い階段を登った。
 もし賊が最上階にいるのなら、狭い空間で彼を出し抜くこともできるかもしれない。それに彼の目的が金のなら、僕らは要求された分を持ってきたので、ピアは無事なはずだ。
 階段を登り切ったら上に向いた扉が合った。鍵がかかっていたが、僕は思いっきり肩をぶつけると割と簡単に開いた。どうやら鍵が錆び付いていたようだ。
 屋上に顔を出して見回すと、ピアが縛られて壁際にいた。僕は慌てて彼女に近寄り猿轡を外してやると彼女は息を吸い込み叫んだ。
「エリアスさま! これは罠です」
 僕は驚き振り向いたが、すでに遅かった。エイデンが猟銃を構え僕の心臓を狙っていた。
「……な、なんだよ! 悪い冗談は寄せ」
「悪いな兄さま、俺は貴ようがいるかぎり、会社の跡継ぎになれないんだよ。だから消えてくれ」
 エイデンは薄笑いを浮かべて猟銃のロックを解除した。彼はマジだと僕は後ずさりしたが、エイデンの銃もスーと僕を追い、僕がどこに行こうと、銃口は必ず僕に向けられていた。
「や、止めて」
 僕は頼むように叫んだ。
「心配ない。実はこの銃、俺のじゃないんだ。だから証拠もない。誘拐のことも、兄さまがここにきたことも誰も知らない。足は付かないよ」
 エイデンの手に握られた銃は僕の胸をつついた。
「運転手はこの銃のことを知ってるぞ!」
 僕はなんとか時間を稼ごうと言ったが、エイデンは微笑するばかりで引き金に指を当てた。大粒の汗が額から頬へ伝った。心臓の鼓動が一回ごと爆発音にみたいに聞こえる。僕はピアを見た。彼女の顔にも恐怖が張り付いていた。僕が死んだ後エイデンはピアのことをどうするのだろうか?
 僕がそう思った瞬間エイデンは引き金を引いていた。銃声が轟き、僕は後ろに倒れた。
「な、なんだ!」
 エイデンが仰天している叫びが聞えた。続いてカチリカチリと引き金の音。
「なんで撃たないんだ? 不発弾か?」
 僕はスクッと立ち上がった。銃は僕の胸を貫通してないし、僕は無傷だった。驚いているエイデンを殴る。彼は壁に激突して銃を落とした。その隙を僕は見逃さずに、エイデンをさらに蹴り彼の猟銃を取り上げた。
「なぜきさまは生きている?」
 エイデンは深呼吸しながら大人しくなった。子供のころから道端での喧嘩になれた僕にかなわないことを分かったらしい。
「僕を見下さないで欲しいね。最初会ったときから君の殺意は知っていたよ。さきほど銃から弾を失敬させていただいたよ」
 どうやら貴族としての生活が僕の言葉遣いも少し変えたようだ。
「あのとき!」
 エイデンは呻き声を上げた。そうだ彼の考えている通り、車が急ブレーキを掛けた瞬間僕は素早く弾を引き抜いていたのだ。あれは我ながら上手い手捌きだった。
「後ろ!」
 ピアが叫んだ。僕は新たな敵と思い振り向いたら、ナイフを持った運転手がいた。
 僕はエイデンが誰かと組んでいるのは知っていたが、運転手もエイデンの部下だとは驚いた。
 彼はナイフを握り、僕の胸目がけて突進してきた。僕はなんとか彼の腕を掴み、急所を逃れたが、銀色に光る刃が僕の顔を掠め、頬に一筋の切り傷を残した。しかし運転手の攻撃が空振りに終わったため、彼は少しひるみ、僕は彼の顔に拳を叩きつけることができた。
 彼は顔を真っ赤にして怒り、ナイフを上げた。今度は逃げ切れないだろうと僕は最後の手段として隠しておいた肉包丁を取り出し、天頼みで運転手に突き刺した。幸い包丁は彼の右肩に突き刺さり、彼が振り上げたナイフはポロリと落ちた。
 運転手は叫び声を上げて、後ろに倒れた。しかし部屋が狭すぎて、彼は倒れながら頭をコンクリートに打ちつけてしまい、気を失った。
「ピア、彼の応急手当をお願い」
 僕はヘトヘトと床に座り込んだ。正直ここまで上手く行くとは思っていなかった。エイデンの味方が登場することことさえ計算外だった。
「なぜ兄さまは包丁を持っていたんだ?」
「ジョゼフにキッチンを案内してもらったときに彼の目を盗んでちょうだいした」
「そこまで考えていたのか……」
 エイデンは参ったように頷いた。
 ピアの方を目をやると、彼女は運転手の肩をワイシャツで血を止めようと頑張っていた。多分運転手が死ぬことはないだろう。これで一件落着と僕は溜息を付いた。

 それから数日間ドラゴラン家では大騒動だった。母の力で誘拐事件や殺人未遂は全て揉み消され、エイデンはアイルランドの親戚に送られた。どうやら島流しと言うことらしい。
 その一方僕の頬の傷は治り、毎日平穏な生活をおくっている。ただ悲しいのはピアにこの気持を伝える勇気がないと言うことだけだった。
「エリアスさま、アールグレイです」
 ピアが僕の前に紅茶を置いた。アールグレイはすっかり僕のお気に入りになっていた。そしてアールグレイを庭で飲みながら噴水を眺めるのも僕の趣味だった。
「ピア、少しそこに座ってくれるか?」
「なんでしょう?」
 彼女は温かい表情で僕を見つめた。
「僕はこれからあることをやらなければならない。僕はその後自分の身に何が起こるのか分からない。多分僕は戻ってくるだろうが、戻ってこないかもしれない。だから最後の日を君と共に過ごしたい」
 ピアは少し赤くなってうついた。その横顔が非常に可愛い。
「私はなにをすればいいんでしょう?」
「なんにも。ただそこに座っていてくれ。ほんの少しの間だけ」
 僕は頬杖を付き、気まずそうに照れながら座るピアを見つめた。灰色の瞳は夜空に輝く月のようで、彼女の美貌は砂漠の中に埋まっている見事なダイアのようだった。ピアが僕の召使なのは間違っているようで、僕は彼女にふさわしくないのは分かっていた。
 なぜか目が濡れるので僕は瞬きをした。再び両目を開けると、ピアの顔がアップで僕を覗き込んでいた。彼女は僕の後ろに腕を回し、僕を軽く抱きしめた。
「エリアスさま、別にあなたがやる必要はない。あなたが命令すれば私が喜んでその仕事を引き受けます」
 やはりピアは僕の使命を分かっていたのかと僕は溜息を付いた。しかし彼女にやらせるわけにはいかなかった。
「ピア、ここで待っていてくれ。僕が行くから」
 僕は立ち上がり、ピアが僕の後を付けないのを確認しながら、庭に生い茂った森に入って行った。
 目指すのはこの小山の頂上。そこには小さな見晴台があり、ある人物がよくそこを訪れるのだ。
「よくきたわね、エリアス……」
「御機嫌よう、母上」
 やはり母は今日も小山の頂上にいた。そこからは眺めがいいので、母が好んでくる場所だった。彼女は車椅子の車輪をロックさせて、真っ赤に焼ける日差しを見つめていた。
「母上、少しあなたと話したい」
「いずれくることは分かっていたわ。ではエリアス、聞いてあげるわ」
「どこから始めればいいか分からないけど……このこんがらがった謎の糸を解く鍵はエリアと僕は双子だということでしょう?」
 僕はこの六年間作り上げた推理に一抹の不安もないほど自信を持っていた。これは好奇心で出した質問ではなかった。母に彼女の罪を分からせるために尋ねただけだった。
「そうよ」
 母は頷いた。
「エリアと僕はアメリカのニューヨークの近くで産まれた。そのとき病院で僕は他の赤ん坊と交換されたが、僕の代わりとなった赤ん坊はすでに死んでいたが、その後直ぐに死んだ。
 これは僕が出した結論だと、医者の仕業だと思う。彼はある貧乏な家族と友達だった。そして貧乏な家族はその医者のお情けで、お産のとき特別に彼の病院を使う許しが出た。しかし医者はしくじって貧乏な家族の赤ん坊を死なせてしまった。彼はとっさにその死んだ赤ん坊と僕を取り替えたのだろう。証拠に僕が産まれた年、他の医者がドラゴラン家から訴えられている。本当に過ちを犯した医者の罪を着てね。
 とにかく僕は貧乏の家族で育つことになり、エリアはドラゴラン家で大切にされた。
 でも運命は面白いものでね。僕らは再開することになるんだよ」
 僕はここで言葉を切った。この情報は実の母、ドラゴラン伯爵にとって新しいはずだから。しかし彼女はピクリとも動かなかった。多分知らなくても、全てを覚悟していたのだろう。
「最初会ったのは公園だったんだ。エリアは本当に本当に美しかった。無人の公園に僕は女神が降り立ったと思ったよ。そして僕らは友だちになった。彼女はいつもボディーガードが乗った車に付けられていたけど、僕らはそれでも毎日一緒に過ごすのが楽しかった。
 双子だから気が合ったのかな? まぁとにかく僕らの幸せは永遠ではなかった。なぜなら丁度六年前、彼女は死んでしまった」
 母はまだ無言で太陽を見つめていた。謝りも弁解もしなかった。彼女は僕の推理が続くのを知っているのだ。
「僕はその後あなたによって揉み消された事件をみっちりと調べたよ。ニューヨークの下町で暮らしていると色々と情報が入るのでね。
 実際はエリアは事故死ではなかった。殺人だった。もっと言うと誘拐された上殺されたんだ。僕が調べた所、あなたは身代金を払うのを拒み、ドラゴラン家のセキュリティーチームに任せたんだ。なぜならあなたは身代金の一千万ドルを払うことができなかった。いやできたけど、自分の娘を助けるよりロシアの政治家に賄賂を贈るほうが大事だったんだ。結局誘拐犯たちはエリアとピアの父を殺して、セキュリティーチームは証拠を消すために倉庫に火を付けた」
「そうよ。私がエリアを殺した。少なくとも私のせいでエリアと彼女の執事が死んでしまった。いくら弁解しても覆せない罪……」
 この六年間育った怒りは母がいくら誤っても消え去るほど小さいものではなかった。僕の身はすでに復習と言う野獣に食われ、その一心だけで動いていた。
「あなたはその後罪を償うためか僕を探した。どんな切っ掛けで産まれたときに死んだ赤ん坊があなたの実の子ではないと知ったのかは分からない。とにかくあなたは僕を探し、見つけた。
 そこであなたは迷った。十六年も会ってない子供をどう扱えばいいか。どんなに金を使ってもあなたは愛を買えないと知っていた。だからあなたは大芝居を設けることにした。ニューヨークの郊外にこの屋敷とそっくりの建物を作り、両親と僕の友達と交渉した。夏休みの間僕は夜眠ると、家から連れだされて、次の一日をこの屋敷とそっくりな建物で過ごした。そしてそれを夢に見せるため、多分僕は一種の薬品を飲ませられたんだろう。そして次の日はまた今までと同じアパート僕は暮らした。
 つまり僕は交互にアパートと屋敷で夏休みの一ヶ月を過ごしたんだ。僕に日にちを悟られないため、あなたは多分僕の友達を買収したんだろう。ラジオだって少し細工すればどんな天気予報もニュースも流せる。
 そうやって僕に現実と夢の区別を曖昧にさせて、ピアを登場させた。あのときの牛乳には睡眠薬が入っていたんだろう。しかもかなり強力なやつ。僕をアメリカからイギリスに運ぶ必要があったからね。そしてあなたは僕は病院で起き上がり、全ては昏睡状わざの夢だと思わせたかった。本当に上手く考えられたシナリオだよ。
 だけど一つ、僕がアメリカに住んでいたのは夢ではないと証明するものがあったんだ??アクセントだよ。もし僕が昏睡状態だったのなら、どうしてもイギリス訛りの英語を喋らなければならない。喋っている間では自分のアクセントは分かりにくいのでテープに取ってみて聞いてみたけど、僕の英語は紛れもなくアメリカ人のものだ。つまり僕が貧乏でバスケットが上手かったのは夢ではなかったんだ。
 しかしあなたの完璧な計画で損するのはエイデンだった。僕がここにこなければ彼は遺産を全て独り占めにできるからね。だから彼はあの黒背広を雇い、僕に警告したんだ。彼はドラゴラン家のセキュリティーチームに殺されたけど。僕がここにきて、彼は焦り始めた。多分僕は書類上はもうあなたの息子なのだろう。だから彼は運転手にピアを誘拐させて僕をおびき出した。
 僕がもし全てが夢だったと信じていたら、僕がエイデンを疑うことはなかっただろう。エイデンはそしたら最初から僕と分け合うことになっていたからね、別に損をしないわけだ。だがエイデンの予想を裏切って僕は僕の登場で彼が損することを知っていた。だから彼を出し抜くことができた」
 僕はため息を付いた。推理を披露するのはかなり疲れる。
「そうよ。全てあなたが言うとおり」
 母は目を眩しそうに瞑った。そう彼女は次の太陽があがるのを見ないだろう。
「だったら僕はあなたを許すことはできない。あなたのせいでエリアが死んだ。僕はエリアの敵を打つためにここにやってきた」
 僕は母の車椅子のロックを解除して、アスファルトで平にされた小山から急に降りる坂道に母を押して行った。
「エリアス、わたしは弁解するつもりはない。毎日エリアの死は私の体を罪悪感でいっぱにする。毎日私はエリアに祈りを捧げ、彼女の許しを得ようとした。毎日私は自ら命を絶つことを考えた。しかしいくら会社の鬼と言われた私でも、刃を自分に向ける勇気はなかった」
 母の車椅子を坂道の前に置いた。僕が掴んでいるので車椅子は止まっていたが、離せば全速力で走りだすだろう。
「ただエリアス、私は自分の死を持って罪を償えると思っていない。それでも私はあなたに許して欲しい」
 僕は肺を酸素で膨らませた。やはり人間の本能が車椅子から手を放すことを阻止している。
「エリアスこれからあなたはまた両親のところに帰るの?」
「自分の息子を売った人間の元に戻りたくはない。僕はあなたの企業を引き継ぐつもりだ」
「なら私は安心だわ。ドラゴラン家が続く限り」
 母は夕日を見ながら微笑んだ。その顔は協会の石像みたいに神々しく、輝いていた。僕は歯を食いしばり思い切って車椅子を蹴った。良心の呵責で僕は腕を車椅子から取ることはできなかったのだ。だから一気に終わらせた。
 僕は振り向いた。母の終わりを見過ごしたくはなかった。例え僕の心の中に住む復讐と言う野獣を宥めるためでも、彼女は僕の肉親であったのである。それだけではない。母は最後までドラゴラン家のことだけを考え、彼女の全力を尽くしながら、厳しいが平等と言う信念を自分にも貫き通した立派な女性だった。
 やはり彼女を殺したのは間違っていたのかもしれない。
 一つの疑惑が罪悪感となり芽生え、そのツルは軈て心の野獣を抑えつけ、僕の怒りは消えていた。六年間抱えていたような爆弾をやっと吐き出したような感じだった。
 僕は沈む太陽を眺めながら屋敷に戻った。
 そこではピアが庭で出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、エリアスさま……いやドラゴラン伯爵」
 彼女はそう言い、今度は僕の腕の甲ではなく僕の唇にキスをした。

<hoc est initium>

バスケット、袖なし、公園と貴族の君

バスケット、袖なし、公園と貴族の君

貧乏な僕が公園でバスケットをやっていると、綺麗な女の子が現れ、僕が今いる現実は本当は夢だと言う。そして僕は自分が夢だと思っていたイギリスの貴族の世界に引きこまれる。貴族の生活になれるなか、僕は少しずつドラゴラン家の秘密を知り始める(53枚)。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-03

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著作権法内での利用のみを許可します。

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