天使のゲーム
長編作の冒頭ですが、短編としては完結していると思います。
天使。神の使い、予言者、救世主ーー全て人間が天使に付けた名前である。
歴史の教科書を広げてみると、有名な天使の名前が所々現れている。リストは長く、ここ に記すのは骨が折れるので数人しか紹介しない。本当は天使はどの時代にもいて、歴史に膨大な影響を齎すことが多い。例えば黒人運動に障害を捧げたマーティンルーサーキングジュニアは僕が最も尊敬する天使の一人である。その他にもマザーテレサ、ガンディー、シュヴァイツァー先生など数多くの名前が上げられる。
さてなぜ僕が天使の事を延々と書くのは二つ理由がある。一つ目の理由は僕も天使であり、自分の種族と言ったらなんだけれど、彼らを尊敬しているからである。そして一番の理由は僕がこれから死ぬと思うから。死ぬと言っても、数秒後にころりと死ぬ訳ではない。ただ近い未来に僕が死ぬ事が決定したからである。その不安と迷いを冷静に見つめる為にもこの様に文章にする必要があると思う。今から言っておいた方が良いと思うが、僕の名前はシャーロンだ。
日記をポケットにしまい、僕は腕を天に向かって伸ばした。僕が今座っているのは何処かの都会に聳え立つビルの屋上だった。このビルは辺りで一番高い建物で、少し小さめなビルがその周りを取り巻いていた。ニューヨークや東京みたいに全面ガラス張りではなく、ネズミ色のコンクリートにそれより醜い緑に塗装された建造物はスモッグの影響か、霞んで見えた。
伸ばした腕を目で伝いながら上を向くと、羊雲が太陽の光を浴び、まるで魚の鱗みたいに煌めいていた。だが魚は魚でも、腐って捨てられた様な汚い感じに光は屈折されていた。
ビルの屋上には僕を始め十三人の天使が集まっていた。天使は女の腹から生まれる訳ではないので、『兄弟』と言う言葉は間違っているかもしれないが、僕は屋上に集まった天使たちをみな兄弟の様に愛していた。
彼らは(僕もそうだけれど)自分の姿を自由に変えられるので、各々バスケットボールプレイヤーみたいに背が高い女の黒人や、色々な国の血が混ざったハンサムなハーフ、それと黒いワイシャツに金色のネックレスとヤバそうな天使まで、みな共通点がないと言って良いほど違った。唯一僕らを一つに纏め、僕らがまさしく天使で、人間ではないと証明するのは、僕たちの翼だった。肩から生え雪の様に真っ白な羽が一本一本風に靡き、まるでルネサンスの芸術家が彫った様に完璧な美しさだった。そしてその二本の翼を天に向けて広げると、しなやかそうな翼は太陽の光を反射して輝く。
僕は天使の翼を見るのが好きだ。別に性的な感情ではないし、天使は生殖不能なのでこれ以上言う必要はないと思うが、僕は他の天使が広げた翼を見るとキュンとなる。そして足が棒になった様に突っ立て、その翼を付け根から天辺まで恥ずかしそうに眺める。一度誰かが言ってたが、僕は翼を見ていると赤面するらしい。だから僕はその事で他の天使から良くからかわれる。
ちなみに僕にも翼はある。ただ僕は自分の翼になにも魅力を感じない。小さくて醜く、白と言うより灰色に近いと思う。これを自己嫌悪と言うのだろうか? とにかく今まで僕の人生(それとも天使生?)は天使たちの翼を眺め、赤くなりながら微笑むのがほとんどだった。
しかしこれから全てが変わろうとしている。その変化を僕は恐れ、今までの生活で満足していた。
僕は胡座をかきながら待っていると、突然プツリと車の騒音は止み、風も一切噴かなくなった。驚いて屋上に付いた低い柵から身を乗り出して地上を眺めると、 豆粒の様な人々と車はそのまま静止していた。
「時間が止まった……」黒人の女、シェラが呟いた。
神は時間と空間の覇者である。時間が止まるのは神が現れる前兆。事は起ころうとしている。
ゆっくり天使たちは屋上の端に行き、もし神が実体化して現れる時の為に場所をあけた。ただ誰も神を見た事がないので、彼が本当に現れるのか、そして現れたとしたら人間なのか動物なのか、とにかく僕らは天使と言えども神の事をなにも知らなかった。
神は天使の頭に直接話しかけ、命令を与える。だが頭に響く声はモヤモヤしていて、良く聞き取れない。僕らは神の意思を直感的に理解出来るのだ。
だから僕は神が物理的な体で現れずに、僕らに一人ずつ直接話しかけても、それほど驚かなかった。
《シャーロン、ゲームを始める》
僕の名前を言ったが、他の天使もビクリとして瞑想する様に目をつぶっていると言う事は神は僕ら全員に話しかけているのだ。
《まずルールを説明する。
1 勝者は次の神として君臨し、地球を支配する者となる。
2 勝者は最後まで生き残った天使である。
3 天使は最後の一人が残るまで殺しあわなければならない。
これが基本的なルールだ。さらに天使に与えられる力を説明する。
4 天使は人間の願いを叶える事が出来る。
5 ただし、その願いは天使の頭の中で物理的に実体化させなければならない。
6 叶えられる願いは三回まで。人間の願いを叶えられなくなった天使は死ぬ。
7 一人の人間に心から感謝される事によって、叶えられる願いが一つ増える。
8 最初の願いを一つ叶えた後、残された願いの数は右腕の甲に記される。
以上だ。質問は?》
まるで数学や物理の授業を受けているみたいだった。だが神の言葉はまるで生まれたときから知っていた様な事実の様にに僕の記憶に刻まれた。不思議に思えるかもしれないけど、一回聞いただけで二度と忘れない様な感じがした。
しかし暗記しても理解出来ない事はあるので、僕は何回か神に聞き直さなければならなかった。
(……五番のルールが少し難しい)
《『ただし、その願いは天使の頭の中で物理的に実体化させなければならない』
つまりある人間が『あの人間が死ねば良い』と願ったとしたら、天使はその人間の殺し方を具体的に考えなければならない。例えば心臓が止まる、脳が爆発するなど。故に『世界平和』と言う願いは叶えられない。具体的に世界が平和になる道など想像出来ないからだ》
(しかし七番のルール。今の人間はあまり感謝しません。例え彼らの願いを叶えたとしても彼らが心から感謝するかどうか)
《天使の力を使わずに感謝される事もある。確かに人間が心から感謝するのは少ないが、ない訳ではない。それにこの力は主に他の天使を抹殺する為に与えられる。懸命にこの力を使うが良い》
僕は無言で頷いた。難しいルールだが、理解した。要するに人間を一番良く理解し、助けた天使が強くなり、いずれは神となる。
他の天使もルールを聞いた後らしく、重々しく頷いたり、頬杖を付いて考え込んでいた。誰もこれから命をかけた戦いが始まる事を不安に思っていなかった。少なくともみな平常を装っていた。
この戦いの為に生まれてきたのだ、死ぬわけにはいかない、他の天使を出し抜いて自分が神として世界を定める、と自信に満ちた笑みが天使たちの顔に宿っていた。
誰もルールに疑問を持ってない事を確認してから、神は言った。
《では天使たちよ、行くが良い! 世界に散らばり、他の者を見つけ出し、抹殺せよ。手段は選ばず、ゲームに勝つ事だけに専念しろ。
屋上から飛び下りれば、君たちは世界の何処かに転送される。地上に下りた瞬間からゲームは始まる。グッドラック》
そう言い残して神の声は途絶えた。
天使たちは顔を見合わせ、屋上から飛び降りるのを戸惑っていたが、マフィアの一員に見える天使が迷う事なく、しかも屋上に残った僕たちにピースサインを見せつけながら、屋上の端に立ち、背中から後ろへ倒れた。
僕は息を飲んで駆け寄ると、ニコニコ笑いながら彼が空中で、まるで映画の特殊効果みたいに消えるのを目撃した。彼がジャンプしたので、他の天使も勇気が出たのか遅れを取りたくないのか踞った僕の体を飛び越えて下りて行った。
みな地面まで中間地点の所でまるで歪んだ空間の狭間に吸い込まれる様に消えた。ある天使が足をばたつかせながら落ちていくと思うと、次の瞬間彼はもういない。いくら僕が天使でも不思議な光景だった。
戦いたくはなかったが、ビルの屋上にいてもなにも始まらないので、ゆっくりと立ち上がり、両腕を横に伸ばした。そのまま前に倒れる様に落ちたかったが、突然僕は首を掴まれてコンクリートの床に投げ出された。
「さてお前をここで殺しておけば、あと十二人だ」
小石が頬に食い込み、血が滲み出してくるのを感じながら僕は片目を開いた。
太陽の光を遮りながら僕の前に立っていたのはシェラだった。彼女は僕の胸ぐらを掴み、まるで重力がない様に僕を片手で持ち上げた。なんて怪力なんだと思ったら彼女は僕を殴った。ジーンと鼻の奥が暖かくなり、生温い血が唇に流れて来るのを感じた。
「ま、まってよ!」僕は両腕をシェラを宥める様に突き出した。「僕は戦いたくないし神にもなりたくない」
しかし彼女は薄笑いをして僕を宙に放り投げた。勢いを付いた僕は背骨が後ろに回るのを感じ、激しく床に叩き付けられた。
《そこまでだ!》
シェラの声ではなかった。さっきルールを説明した神の声だった。しかしルールを説明した無感情的で冷静な口調ではなく、今回はかなり怒っているらしく、ほとんど叫んでいる様に聞こえた。
《シェラ、恥を知れ! ゲームが始まるのは、天使たちが転送された後だ》
神が言ったあと、シェラの体は他の天使たちの様に消えてしまった。強制的に飛ばされたのだろう。だがその御蔭で僕は一命を取り留めた。シェラなら素手で僕を殺せただろう。
《シャーロン、大丈夫か? 怪我は?》
(な、なんでもありません。大丈夫です)僕は少しつっかえながら答えた。神が直接僕に話しかけ、しかも『怪我は?』と訪ねるなんて、僕は凄く幸運だった。
《だったら地上に行くが良い。君が付いた瞬間、ゲームは始まる》
(……神様、僕にただ一つ質問を答えてくださいますか)
《良かろう。付け加えておくが、私と話すのは別に特別な事ではない。天使のうち誰かが私に話しかけさえすれば私は答えるだろう》
(なぜ今までのままじゃいけないんですか? なぜ僕たちは戦わなければいけない? なぜ神様が神様でいて僕たちが貴方の忠実なしもべでいられないんですか?)
《その質問は答えられない》
(……しかし、今答えてくれるとおっしゃいました。無礼な事は申し上げたくありませんが、貴方は神様です。どの質問も答えられるはずでしょう)
《私は神ではない。神とは私に与えられたいわゆる称号だ。確かに私は宇宙の王だ、だが全てを知っている訳ではない。それに全てを支配する訳でもない》
(……でも、貴方はゲームをやめることは出来ないんですか?)
《質問はひとつだけだっただろう?》
(僕は無力なんですか? このゲームを止める事も出来ず、戦う道しかないんですか?)
《だったら君に力を与えよう。少し痛むかもしれないが……》
僕は神の言葉を理解出来ず、空をほとんど睨め付ける様な目つきで立っていた。そしたら突然左目が燃える様に痛み出し、僕は両手で顔を押さえながら屋上を転げ回った。まるで真っ赤に焼けた鉄棒を目の穴に突っ込まれた様に目は蕩けて、ドロドロに融けた液体が顔を伝うかと思った。だが軈て痛みもおさまり、僕は恐る恐る顔に押さえつけた手を緩めた。
「み、見えない……」声に出して言ったーー右目を瞑り確認してみたーー左の瞼を何回も開けたり閉めたりした。だが左目の前に広がるのは闇ばかりだった。
《恐れる事はない。君の目は丁度十分後の未来を見る事が出来る。今時間が止まっているのでなにも見えないのだ。ゲームが始まり次第、視力は回復するだろう。
未来を見透かせば、天使たちの戦いも止められかもしれない》
なんて言って良いのか分からなかった。神に感謝するべきなのだろうが、彼自身が『神ではない』と断言したので僕は彼の事を百パーセントは信じられなかった。それに神は平等なはずなのに僕だけに特別な力を与えた。ずるしている感じだ。
《この眼帯を使うが良い。地上に降り立って、二つの目を同時に使うのは骨が折れるだろう》
神が言うと、何処からともなく眼帯が現れ、透明な腕が優しく眼帯を僕の左目に付けた。眼帯と言っても、病院で使われる包帯の様なやつではなく、上品な黒い皮で出来た美しい眼帯だった。貝殻の様なくぼみに僕の目がおさまり、それだけで左目の正常な視力を失った動揺は少し晴れた。
《ではシャーロン、地球に行きなさい。君が地上に付いた瞬間ゲームは始まる》
僕は不満そうに天を見上げたが、神に暴言を吐く勇気も良い台詞も思いつかないので、仕方なく目をつぶり、身を重力に委ねた。
目を開けると、黒い小石とひび割れて凹凸が目立つアスファルトが見えた。どうやら僕は道の真ん中に仰向けになっているらしい。
顔を上げ、キョロキョロしながら起き上がると、小石が食い込んだ頬が痛んだ。僕は爪先と親指で丁寧に小石を取り除きながら、僕を囲んでいる人ごみを眺めた。
みな、呆気にとられた様に僕を見つめていた。素早く自分の額とお腹と両肩を触り十字架のサインをする者までいた。
「……お、お前さんは誰なんじゃい? たった今天から落ちてきたじゃい! 天使、スパイ、それとも悪魔かね?」
まだ足を横に伸ばし、右手で体を支えている僕は驚いた。天使の翼が見えないのだろうか? コスプレしたスパイじゃあるまいし、悪魔と訪ねるのは無礼な気がする。
「だ、誰なんじゃい? もしかしたらエスパー?」
しわくちゃの舌を歯の間から出し、おじいさんはしゃがれ声で言った。
「僕の羽が見えないの? 天使……」
なかったーー翼が消え失せていた。自分の背中を見てみると、最初から翼なんてなかった様に平たい人間の肩があった。
僕は叫び声を上げ、立ち上がった。まるで足にナイフが刺さったかの様に僕は当てもなく走り出した。疾走しながら後ろを振り向いては叫び声を上げまた後ろを見る事を繰り返しながら僕は人差し指で僕の事をさす人間たちを無視して逃げた。
狂人に思えるかもしれないけど、人間がある朝起き上がって両腕がなかったら同じリアクションでしょう? 今思うと少し恥ずかしいけど、僕はその時必死だったんだ。叫びながらビルの路地に飛び込み着ていたワイシャツを契る様に脱いで、自分を抱きしめる様に腕を体に絡ませて肩を触ってみた。
手は滑る様にーー多分走って汗をかいたのでその油が摩擦を消しているのだろうーー首の横から肩へ動いた、そして背中を撫で回した。僕は本気でまだ翼はあり、一つ目しか使っていないので錯覚だと思っていた。無論、翼は見えないだけではなく、僕の体になんの形跡も残さず消えていた。
これで僕は人間になったのかと僕は思った。肉体的には僕は人間となんの変わりもないのだから。空は飛べないし、そう考えてみると腹も痛いーー多分僕も食べないと餓死するのだろう。
「嗚呼! やってられないよ!」
別に誰かが答えてくれるとは期待していなかった。ただ大声で叫べば、この空しさを体の中から取り出し、大都会のスモッグに捨ててしまえると思った。
もちろん僕はもっと落ち込み、心の穴はまるで蟻地獄の様に、足掻けば足掻くほど広がった。だが、空しさは消えなくとも、僕の遠吠えを答えてくれた人間はいた。ほっそりとした長い手を持ち、十六か十七にしては化粧がこい女の子だった。
「なに叫んでいるの? 人生嫌になった?」
「人生って言っても……まだ始まったばっかりだし……って言うか今の状況が気に入らないだけで、昔のままでいたかった……」
口ごもってしまった。付け加えておくけれど、それは女の子が綺麗だからではなかった。確かに睫毛は長くて上品にカールしていて、その下から除いている青い目は大きくて可愛かったけれど、僕は天使です。翼がなくても、心はまだ天使の様に清く正しくて美しい。人間の様に女の子のせいで狼狽える事は有りません。ただ僕は今まで平穏な生活をしていたのにそれが一瞬にして変わってしまったから、自分の新しい状況に対応するまで、心を整理するまで時間が必要だった。
「ホラ、何考えてるの? 私と遊ばない? 安くしてあげるからさ」
「遊ぶ? はぁ……遊ぶって? ゲーム?」
「嗚呼、私めんどくさい事は嫌いよ。それに貴方上脱いでるじゃない。やりたくて脱いだんじゃないの?」
「こ、これは……ただ」
「もうどうでも良いよ。やるのやらないの?」
「だから、なにを?」
「チッ、私の意味が分からない訳ないでしょ! ハンサムだから声をかけたのに、こんな世間知らずのぼっちゃんだとは思わなかったわ!」
僕は本当に混乱していた。神の命令で地上に降り立った事は何回が有るが、人間の裏社会に足を踏み入れる事はなかった。それは多分僕が若く、その様な仕事は全て年上の天使(特にあのヤバそうな天使)が受け持っていたので、僕は彼女が言う様に世間知らずだった。
だが僕は恥ずかしい事に自分が天使だと言う事に自惚れ、侮辱されたと思い彼女にやってやると答えた。そう言ったら彼女の顔はパッと輝き、彼女は両腕を僕の肩に起き、微笑んだ。
「本当はね、貴方は私のタイプ。黒髪でワイルドな感じだし……ねっ、分かるでしょ? 貴方は私の仕事より趣味に近いの」
そう言い、彼女はゆっくりと僕の眼帯を取った。途端に僕は右目を閉め、少しどんよりとした左目の視界に集中した。
彼女が地面に仰向けになり、服は首の方まで押し上げられていた。その一方僕はーーもちろん自分の胸とか下半身しか見えないがーーズボンを下し、完全に裸だった。
そして僕は、いや僕たちは『やっていた』。
この気持は例えるのなら純粋な小学生が誤ってSMサイトにアクセスし、ハードコアなポルノを見て驚くのに似ているだろう。
僕は飛び上がり、彼女を突き飛ばし、既に上がっているのに、ズボンを引き上げる様な動作をした。
「なにするのよ!」
「な、なにって! き、君は、……僕たちは、いや君は『やる』をああ言う意味で使っていたのかい?」
「面倒くせー、セックスって言えよ!」
ビクッとまるで稲妻が体を走った様に僕はほんの一瞬硬直したーー彼女が乱暴な口調になったからではない。セックスと言う言葉がなぜか凄く汚く悪い言葉に思えたのだ。
「せ、その『せ』で始まる言葉を使うな……なんか違う言葉はないのか?」
「だったらファックで良いか?」
「だ、ダメだ。なんで君は汚い言葉しか言えないんだ?」
「嗚呼、面倒くせー。オレもう行く。泥食ってくたばれ」
彼女は華奢な体に似合わず、僕を罵ってから大股で何処かへ行ってしまった。
まだ左目で見たシーンが頭から離れず、僕は溜息をつきながら路地を出た。問題は僕が女の裸を見た事ではなかった。僕は本当に性的にはなにも感じない。しかしなぜ十分後の未来で僕まで裸になって『やろう』としていたかが理解出来なかった。
生殖はーーやりたくないし、出来ないし、必要ない。そのはずだった。だが現に十分後、僕は彼女と……セックスしていた。それともこの左目は嘘をついているのだろうか? あの偽の神が僕をたぶらかせる為に作った物だろうか?
僕は自分の行いそうになった行為を許せなかった。その気は全然なかったのに、左目で見た光景が僕を苦しめた。だから全て神のせいにすれば気が楽になると思ったが、やはり心の奥ではさらに自分の事を卑怯だと思い、僕の機嫌は悪くなるばかりだった。
町をブラブラと歩いていると、みかんを加熱した様な赤い太陽が少しずつビルの間に隠れて行った。その時僕のお腹がグーと鳴った。無意識的にハンバーガー屋に入ったが、一応眼帯を外してみると、ハンバーガーに食いつきながら店員から逃げているシーンが見えたので、僕は大人しくまた店を出た。
人間の世界は難しかった。腹は減る、動くと疲れて眠くなる、しかし寝る場所がないので仕方なく賑わうファミリーレストランの前を涎を垂らしながら、歩き続ける。
結局食い逃げをする勇気もなく、ホテルはパスポートもお金もないので諦め、僕は公園のベンチに腰をかけた。
名も知らない町だが、夜も非常ににぎやかだった。幸い酔っぱらって公園を通る大学生に僕は見つかる事なく夜中まで過ごせる事が出来た。もっとも車やパーティーをする若者たちの声がうるさく、寝るどころではなかったが。
やっとうとうとし始めたころ、僕は思いもよらない人間に起こされた。彼はだぶだぶのコートを羽織り、ジーンズはすり切れ、傷ついた膝が顔を出していた。乱雑に切られた髭はアルコールの臭いがして、鳥打ち帽の下には闇の中でも光る灰色の目があった。言うまでもなく彼は警官ではなかったーー彼は浮浪者だった。
「おい、そこをどけ。俺の寝場所だ」
「……うーん、僕が最初にいたけど」半分寝たまま喋るなど僕にとって初めての経験だった。
「バカいちゃいけねぇ。俺は毎日そこで寝ているんだ! どけ小僧」
浮浪者は僕の腕を掴み乱暴に僕をベンチから引きずり下ろした。そして彼は僕が今まで寝ていた所にどっかりと座り込んでしまった。
これはいくらなんでも僕にとって多すぎた。ストレスに耐えきれなくなり、泣きたくないのに、水門を破ったかの様にポロリポロリと涙があふれてきた。
これでも僕は大人の男ですよ。普通ならホントに泣きません。でも人間の世界は僕みたいな天使には過酷すぎた。それともやっぱりあの栗色の髪をした女の子が言った様に僕は人間界を良く知らないからみんな僕に辛く当たるのだろう?
声に出して泣いていないのに浮浪者は僕が泣いている事に気づいたらしく、無言で立ち上がり公園から出て行こうとした。だが僕もそれでは後味が悪いので彼を引き止め、僕たちは二人で一緒にベンチで寝る事にした。といっても二人とも相手の気を使い(特に浮浪者さんの方は幼児暴行の罪で訴えられると呟くので、僕が何回も訴えないからと安心させないとベンチに座らなかった)ベンチの恥に寄りながら寝ると言う非常に窮屈な体制となった。
寝付けないので僕らは当然の様にお互いの身の上話をした。
「私はジューリーアンデルソンだ」彼は髭をかきながら言った。「もとビジネスソフトの大企業のアドヴァイザーだった。そして……色々あってね……。結局私は間違った選択を進めたせいで訴えられた。二億の借金を抱え、もちろん直ぐに破産したけどね、妻には逃げられ、全て取り上げられた。
それで君は? 家出かい? 若いのになぜ公園で野宿なんてするんだい?」
「僕は……」少し戸惑った。本当の事を言っても信じないだろうし、言って良いのかも分からない。「両親が死にました。今は天涯孤独です」
両親は最初からいないのだし、兄弟だって一人を除いて死ぬのだから、嘘をついていないはずだ。
「それはすまない」
彼はそう言って少しの間黙っていたが、直ぐに彼は僕の不幸と共感したかの様に自分の夢や金があった時やっていた趣味を話した。
「私は昔からガチガチのコンサーヴァティヴ(保守主義、よって共和主義)だった。家族全員がそうだったんだよ。アメリカの昔の輝きを取り戻そうとね」
「ふーん」僕は人間の政治にはあまり興味がなかったので良く分からなかったが、感心している様に頷いた。それでも自分が今いるのはアメリカだとはっきりした。考えてみればみな、アメリカのアクセントで英語を喋っているので考えれば当たり前の事だった。ちなみに天使はどの語源も完璧に喋る事が出来る。大体もし出来なかったら天使として役に立たないでしょう?
「あの頃、私は税金を下げろ、医療保険なんて社会主義だと喚いていた。でもホームレスになってから私は社会の醜さを知ったよ。風邪を引いても、怪我しても病院では金がないから見てくれない、再就職も頑張ったが、私もこの年だ。家もないし、多額の借金を背負った私を雇う所はどこにもない」
「働いていないんですか?」僕は少し驚いて訪ねた。
「嗚呼。働きたいけどね」
「だったらどう食べて行っているんです?」
「ゴミあさり。もちろんどこかのホームレス愛護協会みたいなやつからも時々食べ物を貰うけどそれは本当にたまにしかない」
ゴミあさりと言葉を聞いて僕は首をひねった。ゴミを食べて栄養が付くとは思わないし、大体ゴミを食べるのは汚い。この疑問を晴らそうともう一度ジューリーに訊きたかったが途中でお腹が鳴り、僕は少し高い声でお腹空いたと言った。
「私も腹が減った。ホームレスになってからの二年間、一度も食べてないが、私はイタリア料理が好きなんだ。私の一つの願いは死ぬ前にもう一度フルコースのイタリアンを食べる事だ」
僕の耳がピクリと『一つの願いは』に反応した。これはチャンスかもしれないーー彼の願いを叶え、ついでに自分の食事も出現させ、ジューリーに感謝される。そしたら叶えられる願いは減らないで、食い物にもありつける。まさに一石二鳥! 僕は手を叩いて喜んだ。
さてどう彼の願いを叶えようか? 目を瞑り不適に笑いながら僕は考え込んだ。ただたんに料理が無から出現するのを想像すれば良いのかなと僕は思い、二人前の前菜、パスタ、主菜、デザートがパッと現れるのを思い浮かべた。
数秒待ったが、ジューリーが歓声を上げないので、恐る恐る目を開けてみると料理の陰も形もなかった。落ち込みそうになったが、僕は『5 ただし、その願いは天使の頭の中で物理的に実体化させなければならない』のルールを思い出した。つまり願いは物理的に可能でなければならない。無からなにかを作り出すのは不可能だ。だったら身の回りの空気を使い基本粒子を組み替える事で料理に変える事は出来るはず! そう思い、僕は空気をもとにして料理を作るのを想像した。すると僕たちの前に、見ているだけでほっぺたが落ちそうなイタリア料理のフルコースが現れた。
数本のワインの間に、エビと蚌貝が入ったサラダ、それにリゾット、トマトスープに魚介類のパスタ。セコンドピアットには豪快に裁かれた魚と細かく切られた牛肉があった。全て名前も知らない品だが、とてもとても美味しいそうだった。
「こ、これは……」
「僕からのプレゼント」
「た、食べても良いのか?」
震えながら指を伸ばすジューリーに僕は微笑みながら頷いた。
彼はまず色が薄いワインを掴み、グラスに注いだ。しかし酔っぱらいがグラスの首を掴んでいれる様ではなくて、上品に液体をまるで小さな滝の様に流し込んだ。
「君がどうやってこの食事を出したのか分からない。でも今はそんな事はどうでも良い」ジューリーは微かに葡萄の臭いがするグラスを差し出した。「君は二十一歳だよな(米国では法律で二十一歳まで飲酒を禁止している)?」
僕は迷った。正確には十七だが、天使はアルコールの影響を受けないのでなんて言っていいか分からなかった。
「まっ、良いか。ドイツでは十六から飲んでも良いって言うし、車を運転しないのなら酒を飲んでも大丈夫だろう」ジューリーは僕にグラスを渡し、少し罪悪感が有るのか、自分の行動をブツブツと正当化した。
そんな彼を僕は見つめながら、グラスを傾け舌先で液体を触れた。実はアルコールなんて飲んだ事ない。天使は飲食を必要としないので、今まで飲むチャンスがなかったのだ。
しかし心配する事はなかった。僕の口は淡い香りで包まれ、ワインは甘かった。美味しかったので僕はグラスに半分残った酒を一気に飲み干し、おかわりを注ごうとワインに手を伸ばすと、ジューリーに叱られた。
「これはアペリティヴォー、食前酒だ。これでお腹いっぱいにするなよ」
僕は少し機嫌を損ねたが、頷いてグラスを地面に置いた。
その時右手の甲に光る数字が目に入った。まるで白い蛇の様にその数字は闇の中浮かび上がっていた。驚いてゴシゴシと擦ったがその数字は入れ墨みたいに取れなかった。多分この数字は天使に残された願いの数を表しているのだろう。手の甲には2と書かれていた。
「ジューリー、君は僕に感謝してない?」
「えっ?」
「君は……この食事を作り出した僕に感謝してない?」
「もちろん感謝しているよ。本当に本当にありがたく思っている」
「だったらなぜ僕が叶えられる願いはあと二つしか残っていない?」
「なんの事を言っているんだい?」
あの時僕は酔っていたのだろうーーアルコールは天使に影響しないと言っても僕は肉体的には人間なのだ。そしてかなりアルコールに弱いらしい、頭に血が上り、ジューリーにゲームの事をすっかり話してしまった。
「信じるよ」
別に信じてほしくもないのにジューリーは素っ気に答えた。ワインを飲みながら彼はスモッグで覆われた空を見上げた。ちょっと頬を僕に向けて、チラチラと右目で僕の様子をうかがいながら。
「不思議だよね。君が信じられない話しをして、僕が信じるよと言うと君は僕が本当は信じてないと思っている、そうだよね?」
「……うん」彼はズバリと僕の考えている事を言って、僕は少し恥ずかしかった。
「私はどちらでも良い。君が天使だろうと、頭が可笑しかろうと、もし君が本物の天使なら私は君の戦いを見届けたい。そうでなくとも君は私に素晴らしい食事をくれた。だから君の生活が落ち着くまで私の出来る限り助けてやるよ」
「それより心から感謝された方がずっと良いんだがな」
髭を摩りながらジューリーは苦笑いをした。僕を哀れんでいると同時に馬鹿にしている様に聞こえた。そして少し彼が楽しんでいる事も彼の声から聞き取れた。
「人間は普通、食べ物でつれるもんではない。もちろん例外もある、例えば君が三週間なにも食ってないやつに不味くても良いから食べ物を渡せば、彼は君の事を心から感謝するだろう。しかしイタリア料理のフルコースだけでは考えが甘い。勘違いしないでくれ、僕は君に感謝している。しかしやっぱり心から感謝している訳ではないんだ」
「もう良いよ。忘れて」
その後僕らは朝までゆっくりと遅い夕食を楽しんだ。途中で彼は僕が酒に弱い事に気づき、僕からワインを取り上げ、炭酸が入った水を渡した。金魚じゃないんだから酒をよこせと僕は喚いたが彼はがんとしてワインを返してくれなかった。今思えば、それで正しかったと思う。次の朝頭が割れる様に痛んだから。
それにジューリーは結構天使たちのゲームの事を訪ね、色々と自分のアイディアを出した。職業がアドヴァイザーだったので、無理もないだろう。
「私が思うに、他の天使たちはみな少なくても一人の人間をそばに置くだろう。その人間と一緒に他の天使を抹殺するんだ。これはかくれんぼみたいだな。他のやつを見つければただ願うだけで殺せるんだから。もう一つ、私だったら計画的に人間に感謝されるシステムを作る。例えば人間を極限まで拷問して、自分はヒーローみたいに自分が拷問した人間を解放する。そうすればその人間は天使に感謝する。でもそんな事をする為には、ある程度の社会的地位が必要だ。私が考えるにこのゲームはたんなる頭脳戦争だ」
僕はジューリーが多く、『私が思うに……』、『私がだったら……』を使うと思ったが黙っていた。それにジューリーがゲームをまるで将棋をさすみたいに楽しんでいる事は直ぐに分かった。うんざりしてベンチに寝込むまで、ジューリーはゲームにかんする自分の考えを僕に細かく教えた。
彼が作戦を立てる天才だとは僕は分かったし、認めるーーだが僕は戦いなくなかった。出来れば他の天使も止めたかった。またみんなで神のもとで働きたかった。
なぜか唇が塗れ、舌でなめると少し塩っぱかった。僕は頬を伝った涙だと、目を瞑っていても分かった。
次の朝は、と言っても明け方で、もう若者たちのパーティは終わり、町は太陽が上がるまでの三十分間、小鳥のさえずりしか聞こえない、さっぱりとした空気が漂っていた。僕は酒の飲み過ぎでいびきをかきながら、寝ていた。多分昼頃まで寝ていただろう、もし誰かが僕を乱暴に起こさなければ。
夢の中、僕は兄弟たちと一緒にいる夢を見ていた。そしたら突然腹が痛くなり、僕は驚いて目を見開いた。
包丁が腹に刺さっていた。
あばら骨の下、丁度胸を貼るとくぼみが出来る所に包丁の枝が突き出ていた。血が刃と肉の間から吹き出し、白いワイシャツは赤く染まった。叫びたかったが、声は痛みに吸収され、喘ぎ声しか口から出せなかった。
ギクシャク痙攣する体をありったけの力で前に向けた。死ぬ前にどうしても暗殺者の顔を見ておきたかったのだ。
あの女の子だった。栗色の髪に青い炎が燃えてる様な瞳。昨日路地で売春していた、あの女の子だった。彼女は僕を見つめているもののヘタヘタと床に座り込み、泣きそうな顔をしていた。
「……ど、……うして」
歯を食いしばりながら、僕は立ち上がり、彼女に近づいた。
「……し、シェラが私に命令したの!」まるで自分の罪悪感を覆い隠すかの様に彼女は叫んだ。
「そ、そうか」
僕はばったりと仰向けに倒れた。包丁がさらに深く腹に入り込む。どうやら急所は外れたらしい。このまま出血多量で最初の敗北者として死ぬだろうか? もう少し生きたかった。あまりにも速すぎた……。
そう考えてるうちに朝日に焼ける天がくすんできた。体中が痺れる。特に右腕が痛む。刺された所は腹なのに、そこの痛みはあまり感じない。不思議だなと思うと、ジューリーが横たわった僕の顔に覗き込んだ。
「ど、どうしたんだ?」
「……そ、そこの……彼女が……僕を」
ジューリーは目を見開いて、彼女を掴んだ。
「このアマ!」
バチンとジューリーが彼女を殴る音がした。
悪いのはシェラなのに、彼女を打つなと僕は怒りたかったが、掠れた声しかでない。
「シャーロン、大丈夫だ。救急車を呼ぶ」
「……あ、い、良いよ。警察……が来たら……彼女が……危ない。ぼ、僕は……どうせ……戦いたくなかったんだ」
「ダメだ。君が死んだら私が君の敵を取って彼女を殺す。だから死ぬな」
彼は真剣だった。日々の苦労で筋肉の付いた腕はがっちりと女の子の腕を掴んでいた。
「そうはさせない」
公園に轟く様に、深くて思い声が響き回った。どこかで訊いた声だ。
「シャーロンの人間、そこを動くな。エイリーンに指一本でも触れたら貴様を殺す」
シェラだった。黒いキャップにピチッと巨体に付いた黒いボディスーツ。彼女は泥棒に見えた。
「それはどうかな? お前が一歩でも近づいたら私は彼女を殺す」
今度はジューリーがエイリーンを引き寄せ彼女の首に腕を絡ませた。何時でも首の骨を折れる体制だった。多分ジューリーは格闘技が出来るのだろう。少なくとも彼のパッとした対応は戦士並だった。
シェラは怯まなかったが、態とジューリーを挑発する様な事もしなかった。ただ右腕の手袋の先っぽを口で掴み、手の甲を僕らに見せつけた。
彼女はなんとあと七つの願いを叶える事が出来た。つまりあと一回しか叶えられない僕とはレヴェルが全然違うと言う事だ。
「エイリーンは何時でも私に貴様もシャーロンも殺す様に願う事が出来る。その一方シャーロンは一回しか願いを叶えられない。さてどうする? シャーロンに残された時間は僅かだぞ」
確かに僕の意識は朦朧としてきた。痛みもなぜか柔んでいる。
「私はシャーロンに彼の傷が治る様に願える」
「そしてその願いが終わった時点でエイリーンは私に二人を殺す様に願っている。諦めろ、今エイリーンを離したら、貴様だけは許してやる」
その方が良い。ジューリー諦めて、自分の人生に戻れと言いたかったがやはり舌が思う様に動かない。
「エイリーン、君は本当にシャーロンに死んでほしい?」
今まで人質だったエイリーンにジューリーが優しく訊いた。首を頑張って曲げると、ジューリーは微笑んでた。目が微妙に緊張のせいか歪んでいるが、彼はエイリーンを落ち着かせようと精一杯の笑顔で面していた。
「わ、私はシャーロンに私のせいでし、死んでほしくない……」彼女は可愛らしい細い眉毛を合わせ、額に皺を寄せていた。「しゃ、シャーロン、貴方の傷が直ってほしい。私は人殺しになりたくない」
その願いを僕は聞き入れた。しかし死にたくなくて彼女の願いを叶えた訳ではない。ただ意識が薄すぎて、ほとんど無意識的に願いを叶えたとしか説明のしようがない。とにかく手の甲の数字は1に代わり、包丁は飛び出し、肉はくっ付き、傷口は完全に塞がれた。指で触れると一筋の細い線が残されていた。
だが数秒後、安心感に包まれながら僕の気は遠くなった。
夕日が僕の頬をくすぐり、僕は目を覚ました。昨日寝付いた公園だったが、今回は明るかったので、木の枝がクッキリと見え、自動車のクラクションを除けば今朝より気持が良かった。
「やっと起きたか」ジューリーがタバコを加えながら言った。
「シェラとエイリーンはどうした?」
「エイリーンは私たちの味方だよ。シェラは逃げた。ひとまず一件落着だ」
僕はキョロキョロと当たりを見回した。昨日は暗くて良く見るチャンスがなかったが、計画的に植えられた木々の間には水飲み場が付いたトイレがあった。それにそこから十五メートル先には砂場と新品そうな象の滑り台が子供たちで賑わっていた。
「エイリーンは何処?」
「シゴト」暗い声でジューリーは答えてそっぽを向いた。子供たちを眺める目つきに、喋り方、僕は直ぐに彼がエイリーンの仕事を知ってると分かった。多分彼もこのテーマにそれ以上触れたくないんだろう。だが僕はそうは行かなかった。
「なんで彼女を止めなかったんだよ? 彼女の仕事知ってるんだろ?」
「それで? 彼女は個人で売春している訳ではない。その後ろには何時も『黒幕』と言う物が立っている。彼女もそんな生活から抜け出したいはずだ。だからシェラと手を組んだ。でも今は君に頼っている。だからシャーロン、君がエイリーンを助けないと」
僕は黙ってしまった。ジューリーは何時も考え、作戦を立てている。多分彼は優秀なアドヴァイザーだったのだろう。ホームレスになっても、全ての事態を把握して、相手を出し抜く。僕が今ここで生きているのは彼とエイリーンの御蔭だ。
そして今、二人は僕に頼っている。少し照れながら1と描かれた腕を見た。あと一つしか願いは残されていない。だがこれは使えない、なぜなら最後の願いを使えば僕は死んでしまうからだ。僕はなんとか願いを使わずに人間から感謝される方法を思いつかなければ。
「エイリーンが言ってたんだけどさ」ジューリーは煙を吐き出し、呟いた。「シェラは燃えている建物に飛び込んで赤ちゃんとその赤ちゃんを助けようとして足を柱に砕かれた消防士を助けたんだってさ。しかも天使の力なしで。ただ水が入ったバケツを頭からぶっかけて燃えてる建物に突進したんだって。そして赤ちゃんの両親とおばあさん、消防士とそいつのガールフレンドに感謝された。だから叶えられる願いが七つもあったんだよ。私が思うに、彼女は正義感いっぱいな女だな」
「うん」
「だったら彼女はなぜエイリーンを使って君を殺そうとしたか分かるか? だって、彼女自身が君を殺した方が成功率が高いし、エイリーンは恐い思いをしなくても良い」
僕は無言でジューリーを見つめ返した。たしかに彼の言うとうりだ。例えエイリーンがシェラの味方になったとしても、シェラが直接僕を殺した方が手っ取り早くて簡単だ。
「彼女はエイリーンが君の事を好きなのを見破っていたんだな」
カッと顔が赤くなった。ジューリーったら、なにを言ってるんだ?
「だからシェラはエイリーンを試した。君を選ぶか、シェラを選ぶか。シェラは本当に頭が良い女だ。彼女は強敵になるかもしれない」
数分の沈黙が続いた。僕はジューリーの事を考え、次どうするかと迷っていた。しかし何時もエイリーンの顔がチラチラと脳裏を横切り、僕は考えにふける事が出来なかった。
まったくジューリーが変な事を言うから! 彼女は僕の事を好きな訳でもないし、僕も彼女の事は全然好きじゃない。僕らは関係ない。関係ない!
しかしどうしてもエイリーンの事を考えてしまうので、僕はジューリーに言った。
「僕は君が必要だ。君は頭が良いし、状況を計算するのが上手い。僕は本当にゲームに勝つつもりはない。でも他の天使たちにも戦ってほしくないから君にゲームを止めるために手伝ってほしい」
「俺がお前の軍師って事か」
突然彼は自称を『俺』に変えた。サングラスをかければジューリーは凄くかっこ良く見えるだろう。
「だったらやろうじゃないか! 俺は君を神にしてやる」
「だから僕は神になりたくない!」
ジューリーはフッフッと笑い、僕も釣られてニコリとした。そして僕はお互い顔を見合わせ、大声で笑った。
<hoc est initium>
天使のゲーム