理想
BLを少々含む。
「整列!」
低い天井に監視員の声が反響して、約五十メートル四方の部屋に響き渡る。
灰色の服を着た囚人たちは柱のように立ち、無表情にコンクリートの床を見つめていた。
「また新しい朝である。皆今日も頑張ってほしい」
「了解」
機関銃を腰に下げて、群青色の帽子を被った監視員の叫びに囚人たちは口々に叫んだ。一切感情を込めず、全て無表情、無関心に。
「解散!」
監視員の命令と共に囚人たちは綺麗に整列したまま部屋を一人ずつ出て行く。
「あっ、K! 待て新入りだ」
列の最後にいた囚人は監視員に呼び止められ、振り向いた。
「新入り……ですか。それで私に関係あるのですか?」
「K、新入りは珍しいのは知っているよな、彼に色々と説明してやれ」
「……了解」
Kと呼ばれた少年は先ほどと同じ様に全く感情が籠っていない声で答えた。
監視員は頷き、僕の両手を縛っていた手錠を取った。
「はじめまして」
僕は少しつっかえながらKに言った。
彼は目を細めて僕を見つめ、僕も彼を観察した。
顔は薄汚れていて直ぐには分からなかったが思春期に入り、体が変形し始めた光景があった。良く顔を洗っていないのだろうニキビが所々目立っている。髪の毛は剃ったらしく、頭の上に短い髪が所々顔を出していた。綺麗ではない。いや彼の顔は醜かった。一つの例外を除いて。
それは彼の目であった。まるで淡い青の炎が燃えている様に輝いていた。僕はその美しさに見とれ、ずっと眺めていたかった。だが少年は、僕に彼をさらに観察する余裕を与えずにくるりと振り向いて部屋を出て行った。挨拶もしない無愛想なやつと僕は思ったが、急いで少年の後を続いた。
「貴方の名前は?」
Kは監視員の目に入っていない事を確認した途端僕に聞いてきた。
「僕は――」
迷った。自分の名前が分からない。脳内を駆け巡り『名前』と言う情報を引き出そうとしたが、出てこなかった。
「僕の名前は?」
息が速くなる。拳を壁に叩き付けた。僕の名前は? 一体僕は誰だ?
「思い出せないのならそれで良い。私の名前はKだ。正式にはKIL?413だが皆ただKと呼ぶ。貴方のことはUで良いか?」
Kは僕の制服を指差して言った。僕は首を曲げて自分の灰色の制服に目をやると、UTP?878と言う番号が見えた。
「君は何歳? 若く見えるけど」
「ここに時間を計る器具は存在しない。だから分からない」
「じゃあ自分の誕生日も知らないの?」
僕は驚いて訪ねた。
「いや生年月日は知ってる。一月七日だ」
「だったら誕生日を使って自分の年を計算出来るだろう」
「私は今年が何年だか知らない。貴方は知っているのか?」
「ぼ、僕は……」
知っているはずだった。常識を知らないはずがない。しかしその一欠片の情報はまるで最初から僕の頭の中になかったように消え失せていた。
「分からないよな」
Kは少し間を置いて続けた。
「分かるはずがない。貴方は手術によって記憶喪失になっている」
「どう言う意味だ?」
「U、貴方はあいつらにとって余計な情報を持っていた。だから消された。それだけだ。額の横に手術の後もある」
僕は納得出来ずに額を触ってみた。彼が言うとおり斜めに薄い切り傷があった。しかし記憶はそんなに簡単に変えれるものなのだろうか? それでも僕が記憶喪失なのは間違いないだろう。現にあやふやの記憶が多い。
「理想と言う言葉を知っているか?」
突然Kは僕に聞いた。囚人たちが集まっていた広場で彼は無表情で無口だったのに突然彼は感情を込めて喋り始めた。いや、感情が入りすぎてると言った方が適切だろう。Kの嬉しいと言う感情が彼の言葉と共に僕に伝わってきた。不思議だった。彼の後ろを歩いているから顔も見えないのに、彼の感情が分かる。
「心に描き求め続ける、それ以上望むところのない完全な物が理想」
僕が答えるとKは笑った。声をあげずにただ顔の筋肉が痙攣して空気が歯の隙間を吹き抜ける微かな音だけだったが、僕にはKがとても嬉しがっているのと同時にまるである物に対して笑っている様な気がした。
「私の『理想』は違う。私の記憶はここが理想だと言っている。
確かにそれは私にとって適切だ。なぜなら私はここで生まれて育ったのだから、私がここを理想の世界と思うのは仕方がない。しかし貴方の定義は違う。
貴方は何らかの理由でここに連れてこられ、記憶も消されている。記憶を消す事によって奴らは貴方がこの世界の存在だけを認め、他の世界の存在を拒絶することを祈っているのだ。だが記憶を消しても言葉は修正しなかったのだろう。だから貴方の脳には正しい理想の意味が記憶されている」
僕は眉をつり上げた。
「……君は頭が可笑しいんじゃない? 君が言う事は意味不明だ」
僕は速くこのKと言う少年から離れたかった。なぜさっき彼の目が綺麗だと思ったのだろう? 今は彼の禿も奇妙な目も薄気味悪くて仕方がなかった。
「私が気が狂ってるって?」
Kは吹き出して笑い転げた。僕はなぜKが笑っているのか理解出来なかったが、それ以上に彼の反応が尋常に思えた。いくら可笑しくてもなぜこれほど笑えるのだろうか?
僕らは廊下の角に差し掛かり途端にKは笑うのを止め、さっきの無表情で背筋をピシリと延ばした姿勢になった。
「監視カメラがあります。完璧に振る舞ってください。無表情で喋らないで」
Kにひとまず従い僕らは監視カメラが付いた廊下をなんとかやり過ごした。緊張して少し冷や汗をかいたが、監視カメラには移らなかっただろう。
「K、教えてくれるか? なにが可笑しい? 本当に貴方は狂ってるんじゃないか?」
「ここにいる囚人の中で気が狂っていないのは貴方だけだろう。いやここにいるから気が狂うんじゃなくて、ここには最初から異常者しかいないんだ。
しかし貴方は特別だ。貴方はここで唯一犯罪を置かしたため連れてこられた者だ。ここは地獄だ。自分の目で確かめてみろ」
いつの間にか僕らは漆黒の扉の前にいた。Kは扉に手を掛ける。
「まて! Kはなぜここにいる? ただ精神異常者なのか?」
Kはクスリと笑らう。
「普通の異常者じゃない。私は大量殺人者でS級の犯罪者だ」
僕が困惑しているうちに、彼は漆黒の扉を開けた。
扉の後ろに広がっていたのは、普通の工場だった。ベルトコンベアが周りアルミニウムで出来た丸い缶に赤い塗装が塗られていた。
そこで灰色の服を着た囚人が塗装が剥がれた不良品を一つずつ取り分けていた。別に不思議な光景ではない。囚人たちの食事もただではないのだ。彼らの費用を少しでも払う為に囚人たちが働くのは当たり前の事だ。
「良いか、監視員が近くにいるときは喋るな、感情を隠せ。分かったな?」
Kの事を信用出来るか分からなかったが、彼の方がここでの経験が多いから今は少年の言う事を聞いた方が良さそうだ。
僕らは隣り合わせてベルトコンベアに立った。Kは手際よく欠陥品の缶を取り出して行くので僕の所まで欠陥品が届く事はなかった。仕事がないのは楽だったが、その変わりに僕は色々と考え様々な疑問点をリストアップした。
まず最初にこのKと名乗る少年。自分を異常な犯罪者と語り、意味不明な事を言う。良く分からないが、僕は彼と関わらない方が良いだろう。最低限の接触にすましておこう。
次に僕はなぜここにいて、一体僕は誰なのか? 分からない。さっぱり分からない。記憶をたどってみると、最後に思い出せるのは僕は収容所のベッドから起き上がり直接ここに連れてこられた事だけだ。三時間前までの記憶しかない。僕は一体誰なのだろう?
「Kここは何処なんだ? そして僕は誰だ?」
僕は恐る恐るKに訪ねた。彼に聞くのは少し癪だったが今は他に訪ねる人もいない。
「貴方が誰だか私は知らない。多分、外で大変な犯罪をして捕まったのだろう。それより大切な質問は我々は何処にいるのかと言う質問だ。
その質問の答える前に、貴方はこの建物の外にはなにがあると思う?」
「なにって……もちろん部屋がいっぱいあってその後はなにもないんじゃない?」
「ここにいる囚人は皆そう思っている。ここをただ一つの世界と信じている。しかし違う。ここの外には間違いなく違う世界が広がっている。そしてその世界は……」
Kは突然、監視員が来たので口をつぐんだ。
「おいUTP?878仕事だ」
「仕事って?」
僕は当惑して監視員の言葉を繰り返した。
「Uはまだ初日だから私が行く」
Kが少し慌てて言った。
監視員は面倒くさそうに頷きKと一緒に、工場を漆黒の扉から出て行った。
彼を見送った後、いきなり仕事が増えた。ただ欠陥品を探して捨てる作業なのに大変だった。目の前を通り過ぎる何個もの缶を瞬間的に目でチェクしなければならないそして素早く悪いものをはじき出す。Kは楽にやってのけていたが僕は汗だくになった。
「U! なにをしている?」
禿の監視員が怒ってやって来た。
「はぁ、なんでしょう?」
僕は機械を止めて振り返った。
「貴様は何個もの不良品を見逃している! 他の者を見たまえ。皆きちんとやっているではないか!」
確かに。二十もあるベルトコンベアに囚人が一人ずついて皆素早くそして的確に血管品を取り出していた。しかし僕は初日だ。何年も同じ作業をやっている人たちと比べてもらいたくない。
「すいません。工場で働くのがこれほど難しいとは思いませんでした」
普通はベルトコンベアでは二三人で働くのが普通と反論したかったが、今は監視員に従っていた方が良いだろう。
「駄目だ! 責任は取ってもらう」
彼は太い銀色のドーナッツ形の器具を取り出した。スイカほどの大きさで僕はこれはどう使うのかと迷っていたが監視員は器具を開けて僕の首に付けた。
「こ、これは?」
「こんど間違えたら首輪から電気ショックが行く。過ちは体で覚えてもらう」
「そ、そんな! それは拷問だ!」
僕が文句を言うと監視員はポケットに手を突っ込みその瞬間僕は全身に焼ける様な痛みを感じた。これが電気ショックと分かったときにはバランスを崩して倒れていた。
「速く立ち上がらないともっと不良品が増えるぞ」
監視員は薄笑いを上げながらベルトコンベアを再び作動した。
体が痛む、特に首が。もうこんな首輪なんて取って寝てしまいたい。だがベルトコンベアの銀色に光る缶は休む事なく機械から出て来た。僕は立ち上がり一生懸命に仕事に励んだ。しかしKの様には出来なかった。どんなに頑張っても監視員は塗装が剥げた缶を見つけ、首輪のリモコンを押した。
Kはどこにいるのかと僕は考えた。彼は何年もこの仕事をやっていて新米の僕を助けるべきなのに彼は『仕事』に行ってしまった。
もしかしたら逃げたのかもしれないふと僕に疑惑が浮かんだ。――そうだそうに違いない! Kがやりに行った『仕事』はこの缶を分けるより簡単な仕事なのだ。クソ! それを知っていたら僕が行ったのに。Kは僕がなにも知らない事を利用してここから逃げたのだ。
そう考えていたらまた電気ショックが僕の体を流れた。集中していなかったので普通より多くの欠陥品を見逃したらしい。監視員は連続で電気ショックのボタンを押した。
僕は叫んで倒れた。首からノンストップで電気が流れてくる。筋肉が痙攣して痺れが痛みになる。
泣き出した。痛くて痛くて溜まらなかった。それでも監視員はボタンを押すのを止めなかった。
冷たい水が肌にしみ込む感触で僕は目を覚ました。Kは疲れた目つきで僕をジッと見ている。憎しみと妬みそれに少し哀れみが混ぜ合った様な複雑な表情をKはしていた。工場の中にはもう誰もいなく、トラウマになった首輪も取れていた。
「……今度から仕事中は集中してくれよ」
Kは静かに言った。
そして僕は思い出した。こうなったのは全てKのせいだったんだ! 彼が楽な方の仕事に行ったから僕はこうなったんだ!
「K! 貴様のせいだ! 貴様が他の仕事に行ったから僕は拷問されたんだ! なんで僕がこんな事しなきゃいけないだよ? 貴様は何年も同じ仕事をやっているんだろう! 貴様がやれよ」
Kは表情を変えないで僕を見つめた。怒りも、言い訳もしなかった。
「K、聞いているのか! なんで僕の仕事を取って逃げたんだよ!」
「聞いている。ただこの感情をどう表していいのか分からない……私たちは感情の表し方を知らないからな」
「えっ? どう言う意味だ?」
考えてもいない答えだった。
「この感情は……多分『怒り』だな」
Kは灰色の囚人服をまくり上げた。その下から現れたのは黒く焼けただれた筋肉質の胸だった。肌が縮れ、所々血が出ていた。まだ新しい傷に違いない。
「何時間も酸で焼かれた後だ。実験台に縛られてゆっくりと酸が体に落とされる。私は酸が骨まで行って私の命が尽きれば良いと思ったよ。
私の頭が見えるか? 禿は生まれつきじゃない。放射線の影響だ。
それだけじゃない私の味覚、嗅覚は薬品により破壊されて私は何を食べても全て同じに感じる。足の指は麻痺していて、走ると血が出る。左手も真っ直ぐ上げると痛む。監視員が仕事と行って囚人を取りに行くと決して楽な仕事ではない。ほとんどが命を掛けた人間実験だ。
別にUの身代わりになったから怒っている訳ではない。私は貴方が必要だから今貴方が死んだら困る。だから貴方を助けた。
しかし私は貴方の事を恨んでいる。
前に外の世界の事を話したな? 貴方は外の世界の住人だ。我々とは違う。
ここにいるのは生まれつき精神的に異常な者を集め働かせている。そして囚人たちがまるで人権なんて持ってない様に実験に使っている。
なぜ私がここに入れられたか分かるか? 理由は私が将来、連続殺人者になる確率が高いと言う理由でだ。私は犯罪を犯していない! ただ生まれつきそう言う可能性があると診断されここに入れられた!
貴方は私が望んできた何もかも持っていた。それなのに貴方は、正常だったのに、自分の意思で犯罪を犯して全てを投げ出してここに来た。
私はここから出られるなら何でもする。だからここに自らの過ちで入った人間を許さない。私は貴方を心の底から憎んでいる」
なんて答えれば良いか分からなかった。僕はなにも知らなかった。Kは僕を守ってくれたのに僕は彼を疑った。
「ぼ、僕が悪かった。すまない」
「別に謝ってほしいわけじゃない。私の、いやここの囚人全員の苦しみを分かってくれるだけで良い」
「そ、それにしてもこの傷は痛々しい。本来なら僕が受けるはずの傷だったのに」
僕はKの上半身に手を伸ばした。
「触るな。痛い」
Kが言ったので僕は手を引っ込めた。
「ま、まだ痛む?」
「痛むよ。でもこれぐらいの傷すぐ治る」
彼の声は震えていた。Kは嘘を付いている。酸で焼かれた肌は一生元には戻らないだろう。彼は死ぬまで変形した上半身で生きなければならない。
「薬は塗ったのか?」
Kはシャツを下げて笑い出した。
「色々と煩いな。それにここにある薬は全て劇薬なんだよ。U、早く行こう。昼食が始まっている。急がないと飯抜きになる」
さっさと出て行くKを僕は追いかけたくなかった。このまま工場で死にたい気分だった。
「K、僕はまだこの収容所の事を理解してない。もっと良く説明してくれ」
僕は皿の中の白くてネバネバした固まりをスプーンでかき混ぜながら言った。反省の気持ちでいっぱいで、少しでもKの事を知りたかった。
「それより食べない? 不味いかもしれないけど、明日はおかわりをせがむよ。もちろんないけど」
「いや、これは少し……さっき味見してみたけど吐きそうになった」
「だったら私がたべる」
Kは僕の皿を取り自分のに移した。
「それより教えてください! 僕たちは何処にいるんだ?」
「……分かった。全て始めから話そう。
何百日か前、私は貴方と同じ様にここは何処だ? と考え始めた。そして工場の上で機械を直していた時、監視員が上のプラットフォームで本を読んでいるのを見かけた。良いか? 本だよ本。それは監視員も囚人も持ってはいけない物で私もそれまで見た事なかった。つまりその監視員は規則を破っていたんだ。
僕は彼の本が欲しくて溜まらなかった。そこで僕は彼をスパナで殴り殺してその本を奪った」
「な、殴り殺した?」
「そう、でも大丈夫。死体と凶器は赤色の塗装を作る機械に放り投げた。証拠は残らない」
「いやそう言う意味じゃなくて! 人を殺したんだぞ!」
僕は無意識に立ち上がりKの胸ぐらを掴む。
「落ち着いて座れ。目につくよ」
相変わらず静かにKは言った。ムカつく。なぜ人殺した事を淡々に話せるのだろう?
「とにかく私はその本を手に入れた。聖書と言う本で色々と良く分からない言葉が出てきた。例えば『神』とか『希望』とか。それに一番頻繁に出てきたのは『女』と言う言葉だ。女はどこかの民族か?」
「お、女がなんだか知らない?」
爆笑してしまった。Kは女を見たことがないとは! しかし考えてみれば僕もこの収容所に来てから一人も見ていない。この収容所は性別で分けられているのだろうか?
「で、殿下の筋肉の振戦が終了いたしましたら『女』はなんだかご説明いただけますか?」
怒り気味にKが言った。馬鹿にされてると思ったのだろう。
「悪い。でも女を見た事がないとは不思議で。女はね、男の全てだ。何時か君にも運命の女に合えるよ」
「解釈不能」
ボソリとKが呟いた。
「……女は実物を見ないと分からないよ。君に説明出来ない」
「だったらそういう事にしておこう。とにかく私は聖書を読んだ後この収容所の外に必ず世界が存在すると確信した。だから私は情報を集める為に深夜、事務所に忍び入り色々と面白い書類を見つけた。その為に監視員を二人殺す事になったが、情報は手に入った」
「む、無理だ。ここは収容所だろ! 事務所に忍び込む事も監視員三人をバレる事なく殺すなんて!」
Kはニヤリと笑い犬歯を僕に見せつけた。
「私がS級の犯罪者だと言ったよね? それは性格だけではなく、僕が犯罪者に必要な強靭な精神とずばぬけた才能を持ち合わせているからだ。二人の監視員が喧嘩して一人がもう一人を殺した後、自殺したと偽装するのは簡単だった。それにここはそれほど監視が厳しくないんだ。だって囚人たちには逃げる事なんて考えた事もないからね。
さて私は事務所で私に関した書類を見つけて、生年月日などを知った。名前は最初からなかった様だ。さらに一番下に私が近い将来連続殺人者になる性格を持ち合わせているので収容すると書かれていた。
確かにそれは当たっていた。私はその書類を読む前に三人も殺している。しかし私は事務所でこの収容所が作られた理由を知った」
そこでKは言葉を切り、白い固まりを口に運んだ。
「ここは社会のカス、つまり精神異常者が収容されその者たちの命を『有効』に消費する所だ。囚人たちに死ぬまで働かせて、新しい薬や時には武器まで試している。確かに社会では普通に生けない我々に取ってはそれが一番『有効』に人生を消費する生き方なのかもしれない」
「う、嘘だろ! 本当にそう思っている訳じゃないよな!」
僕は激怒した。
「本当にKは異常者ならこんな所で殺されていいと思っているのか! 間違っている! 間違っている」
Kの淡い青の目が ズキリと僕を貫いた。
「貴方になにが分かる? 貴方にあの時私が味わった失望は理解出来ない。私は生まれてからずっとこの生活に耐えてきた。他の囚人もだ。それでも誰も文句を言わない。私たちはこの囚人生活が理想の生活だと思っているからだ。
そして僕は聖書を読んだ時、時々浮かび上がる『希望』と言う言葉を理解した様な気がした。新たな、夢にも見なかった世界を知ったんだ。あの時の喜び! あの時の嬉しさ! 胸が踊ったよ。
そして僕はこの収容所の目的を知った。貴方には理解出来ないだろう。私たちはただ違うと言う理由でここに閉じ込められている。
私はこれが外の人の善意だと思わないと耐えられないんだ。そう思わないと私の心は粉々に砕け散ってしまいそうだ」
「しかし貴方は外の人間を恨まないのか! あの人間実験を許せるのか!」
「……許せない」
Kが呟いた。
「善意であろうと悪意であろうと許せるはずがない――だから私はここから脱走して、外の人間を全員殺す。一人残らず。その為に私は貴方に力を貸してもらいたい」
殺す。Kはまた言った。僕の体にKの言葉が一言一言、感情の固まりとなってぶつかった。憎しみ、憎悪、妬み、迷い、そして悲しみ。全てが彼の『殺す』と言う言葉に詰まっていた。
「脱走には力を貸すが、人を殺さないのを約束してほしい」
「それは意味がない。外の人間を皆殺しするためだ。殺さないのなら出る必要もない」
「な、なに言ってるんだよ! もうその殺すって言うの止めろよ! 人を殺してどうなる! ここにいた時間が戻る訳でも、外の人が君に謝罪する事でもない! Kはただ人を殺したいだけだろ! やっぱり君がここにいるのは正しいよ、だって君はクレイジーな犯罪者に他ならない!」
ガタンとKは席を立った。僕は彼の額に浮き上がった血管の筋が見えた。Kは相当怒っていた。今にも僕を殺すと言う表情で彼は僕を見つめた。
「違う……、犯罪者は私ではない。貴方だ。今日の生体実験は可笑しかった。普通はあれほど酷くはない。あれは拷問に近かった。何時間も同じ事を繰り返したんだぞしかも酸が人間の肌をどう焼くかと言う馬鹿げた実験。なんのメリットがある? あれは誰かが貴方を苦しめようと裏工作して作った実験だ。つまり誰かが貴方を酷く憎み殺すよりここで拷問しながらゆっくり殺そうとしている証拠だ。私は確かに三人の人間を殺した。しかし貴方はもっと酷い事をやっているはずだ。クレジーなのは貴方の方だ」
昼食のトレイを片付けてKはさっさと食堂を出て行った。
僕は空ろの目で天井を向いた。白い壁紙に汚い電球が換気扇の影響で揺れている。壁紙と言ったが、天井に貼付けてあるのあ壁紙と言うのか? それとも天井紙? 余計な事しか頭に入らなかった。僕はなんて事をKに言ってしまったのだろう。
ああ! 出来る事なら食事用のナイフを掴んで自分の心臓を突き刺したい。しかしプラスチックのナイフではどうにもならない。舌を噛み切る度胸も死ぬまで自分の首を絞める力もない。僕はなんなんだろう? 助けてもらったKに大口を叩いて、自分ではなにも出来ない。
ブツンと機械音が轟、僕は飛び上がった。他の囚人たちは一斉に立ち上がる。そして彼らは朦朧な陽炎の様に食堂の扉に向かった。どうやらまた仕事に戻らなければならないらしい。
僕は立ち上がらなかった。Kと顔を合わせたくない。彼の青の目を僕はもう見つめられない。このまま座っていれば監視委員が来るだろう。そして監視員に反抗すれば撃ち殺してくれるかもしれない。もう僕は恥ずかしくて死んでしまいたい。
だが監視員は来なかった。僕はなにもせずに座っていた。
「なにやってるんだ?」
Kの声がした。驚いて顔を上げると、拳が飛んできて僕は椅子から放り出された。
「これで貴方の気が済んだか?」
指の間接を成らしながらKが言った。
僕は口をポカンと開けて彼を見上げる。
「足りないよね」
彼は僕の頬を蹴った。ジーンと鼻の奥から血が出てくる。
「良いか、勘違いするなよ。貴方が死んだら私はどうする? 私は逃げる為にに貴方が必要だ。だから死ぬんじゃない」
「し、しかし僕は酷いことを言った。もう貴方と顔を合わせられない」
Kは笑って僕の横に跪いた。そして彼の痩せこけた指が延びてきて僕の頬を掴んだ。
「顔を合わせるって言うのはな……こう言うことなんだよ!」
彼は思いっきり自分の額を僕の頭に叩き込んだ。星が見えて、僕は気絶しそうになった。
「じゃあ行くぞ。午後の仕事がまっている」
「血、K! 額から血が出ている」
「Uも出ている。気にするな」
少し前屈みになってKは僕に手を差し出してくれた。
僕らは笑って食堂を一緒に出た。
午後の作業はKがいたので楽だった。しかし彼は僕が缶の仕分けに慣れる様に態と少し欠陥品を残してくれた。
そして汗をかき始めてからちょっとして、また監視員が僕らのベルトコンベアを止めた。
「UTP、仕事だ」
「そんなはずはない。もうUの仕事は終わった。仕事は多くても十日に一回。一日に二回のはずがない」
静にKが反論した。
「口答えするな。UTP、付いて来い」
「だったら今回も私が行く」
「K! もう良いよ今度は僕が……」
「U、私が行く。工場の仕事頑張ってくれ」
ニコリとKが笑った。しかしこの表情も仕草も嘘なのだろう。僕を安心させるための仮面。
「いや、しかし僕が残ってもこの作業を正確に出来ない。役に立たない僕が行った方が」
「集中すれば大丈夫だよ。それに私に考えがある」
僕はドキリとした。彼にはもう脱走の計画があるのか? そしたら今Kを邪魔しない方が良い。
「分かった。ここで頑張るよ」
Kはまた微笑して監視員と仕事に行った。……また僕が受けるはずの拷問に。
僕はKが行ってから時計がないを悔やんだ。赤い塗装の缶を見つめながら僕はKの事を考えて、そしてハッと時計を見ようとする。これもKが言ってた外にいた時の習慣だろう。
時間はゆっくり進んだ。しかし僕には時間は止まり、永遠にKは帰ってこないと思えた。だんだんと眠くなり、気が薄れて来た。普通ならもう寝ている時間なのだろうか? それに空腹でお腹が鳴る。
僕の心はKの真っ青な瞳でいっぱいになった。もう他の事は考えられない。ただ、ただ心の中でKの目を見つめるだけだった。
「おい、Uまだ分からないのか? 欠陥品を残すな」
まるで白い霧の彼方から叫んだ声が聞こえた。
僕は半分瞼を閉めて、振り返った。
「おい、ここだよ! ここ!」
体が揺さぶられる。誰かが僕と話している。
突然頬が激しく痛みだした。
「寝てるのか? Uちゃんと仕事をしないと」
「はぁ……分かりました」
僕は薄っり浮かび上がった監視員に頭を下げた。
「もう貴様は駄目だ。まともに仕事出来る状態じゃない。だったら一回ずつ機械を止めて塗装の剥げたやつを取り出すんだぞ。そして今日の分が終わるまで夕食はなしだ」
もうどうでも良かった。全ては僕の脳が作り出した幻影に思えた。
マリオネットに操られた様に僕は監視員の指示に機械を止めては欠陥品を弾き出すと言う作業を繰り返した。もちろん他の囚人たちより何倍も遅かった。
いつしか他の囚人たちは夕食に出て行った。僕は一人、缶の仕分けを続けた。
一個ずつ、僕は数えた。一、二、三、……、百、千、万。時計がないのでなんとか時間を計ろうと僕のささやかな思いつきだった。しかしKは一万個の缶を別けても、五万個の缶を別けても来なかった。
「九万九千九百九十九、……十万」
Kはもう来ないのだ。彼は遅すぎる。
十万個の缶を数えた。それでもKはいない。彼は人間実験の間、死んでしまった。
僕が握っていた缶に一粒の涙が落ちた。
「くそ! K! 逃げるんじゃなかったのかよ! 逃げて外の人間を皆殺すんじゃなかったかよ!」
思いっきり握っていた十万個目の缶を投げた。
「もうなんでだよ! 計画があるんじゃなかったかよ! 死んだらどうする! 意味ないじゃねぇか!」
僕は崩れ落ちて泣き出した。
Kと出会ったのが今日の朝。あの時僕は彼の眼差しの虜となった。ある情熱に取り付かれた一方凄く寂しくて、闇が渦巻いているあの彼の目に。
そして僕は彼をあった日に殺してしまった。臆病だったから。僕が死ぬはずだったのに。僕が悪いのに。僕が……僕が……僕が……。
何時間たっただろうか? 分からない。僕の涙は頬に固まり、僕は拳を握りしめていた。たった今、Kの言葉が分かった気がした。
外の人間は皆死ななければならない。理由とか理屈では説明出来ない。ただ僕は殺したい。外の人間を皆殺したい。ナイフで心臓を抉り、銃で脳みそを打ち抜きたい。
僕は決めた。外の人間、Kを殺した者は皆死ななければならない。そして僕が全員殺す。
Kは最初から正しかった。
脱走してKの敵を取らなければ。そしてそのためには僕はここで死ぬ訳には行かない。
機械を付けて、僕は缶の仕分けを猛スピードで続けた。もう数える必要はなかったのだが、僕は習慣になってしまったので声をあげて数え続けた。
「十一万、十一万一、……」
モチベーションがあると普通より速く出来た。リズムカルに欠陥品を弾き出して行き、鼻歌を歌いたい気分だった。
「十二万九千九百九十八、十二万九千九百九十九」
「十三万」
ほっそりした手が塗装が剥げた缶を包んだ。
僕は恐る恐る白い腕を辿り、頭を上げた。
Kが少し疲れたように笑っていた。
「K! 生きてたのか!」
「私に死んでほしい?」
皮肉を込めてKが言った。時々彼は毒舌家だ。
「い、いやもう帰ってこないと思ってた。もう本当に本当に良かった」
僕は胸を撫で下ろし、座り込んだ。床がヒンヤリしていて気持ち良い。
「し、仕事は大丈夫だった?」
「うん。犬二十七匹、狼十二匹、鰐五匹、ライオン二匹と虎一匹と連続に戦わせられた」
「す、素手で? 信じられない!」
「私を誰だと思っている? 簡単だったよ。ただ首の骨を折れば良いだけだからね。とか目を潰すとか。でも量が量で……これほど用意されてたと言う事は裏工作したやつは君に死んでほしかったと言う事だね。じゃあこっちの仕事も早く終わらせよう」
Kは人差し指をこめかみに当ててよろめいた。
「どうしたの?」
「いや少し頭痛がしてね。この私でも少し疲れた」
僕は彼の肩を掴んだ。
「K、もうやめてくれ。もう良いよ。君の痩せ我慢を見ていると僕は……」
「痩せ我慢なんてしてない……!」
「だったら君が考えてたことを言ってみろよ。仕事に行く前に僕に考えがあると言っただろう? でも本当は作戦なんて無いんじゃないか? なぜ僕を助ける? 僕にそれほどの価値があるとは思えない」
ピリピリとKの感情が電波の様に伝わってくる。彼は迷っている、自分の気持ちが分からず混乱している。
「貴方の言うとおりだ。私に計画なんてない。はっきり言って、僕はここは脱走不可能だと考えている。ここから出るのは簡単だ。囚人の精神をコントロールしているから監視員や監視カメラは少ない。しかしここから出たとしても外の世界で捕まるのは眼に見えている。今まで知らなかった世界で逃げ切れると思うか? 私はそうは思わない。脱走して外の人間に復讐は夢の中の夢だ」
Kは大きなため息を付いた。僕には彼の失望感が手に取る様に分かる。
「だったら、なぜ僕を助けてくれた? 必要ないだろう?」
「……好奇心かな? もしかしたら私のささやかな反抗かもしれない。ここの囚人たちは考えない、感情がないロボットみたいでさ、うんざりするんだ。って言うより囚人たちは感情の表し方さえ知らない。私も聖書を読んで監視員を観察するまでは笑いも、怒りも、泣きもしなかった。
貴方は私に希望を与えた。だから私はその希望を守ろとした。
「うん。貴方が正しかった。私は外の人間を殺す前に外の世界を見てみたい。貴方は私のその気持ちが物体化した様な存在だ」
「K……」
僕は顔を顰めて呟いた。
「なんだ?」
「絶対、絶対二人で脱走して、良い物沢山食って、良い女沢山犯して、外の世界を見物して、それから、それから外の人間を全員殺そう」
「……女って誰なんだよ? それに私味覚がない。何食べても同じだ。でもそれ以外は今すぐやりたいな」
「うん! Kも女を見たら絶対やりたくなるよ」
僕らの笑い声が工場の天井に当たり、反響した。
「でもそのためにはまず今日の作業を終わらせないと。二人でやれば直ぐに終わるよ」
Kが言った。
「駄目だ。僕に任せろ。君は休んでいて」
「しかしまだまだかかるぞ。私がやったら……」
「K、横になれ。頭が痛いんだろう? それに怪我もあるだろう? 今日は僕に任せて」
「……分かった。私は少し休むことにする」
彼は相当疲れているのだろう。あまり反論せずに横になり、スヤスヤと眠り始めてしまった。
微笑しながらKの寝顔を見つめた。
そして機械を二倍のスピードに設定して、スタートボタンを押した。
沢山の缶が出てくる。
僕は素早く不要品を見極め、ドンド結果品をベルトコンベアから打ち出した。
さっきは普通のスピードでも出来なかったのに、今は二倍のスピードでも楽だ。
なぜかKの近くにいるとなんでも出来る気がした。
「整列!」
監視員が叫んだ。僕はKの背中を見つめながら、列に並んでいた。
「今日も新しい日である。皆今日も頑張ってほしい」
毎日同じ台詞。
「了解」
僕は他の囚人たちと一緒に呟いた。
「解散」
こんな短い演説を毎日毎日聞く意味があるのだろうか?
Kの後ろを続き、僕らは扉に向かった。
「U、待て仕事だ」
「分かりました。今日も私が行きます」
僕が反論出来る前に、Kが振り返って言った。
「いや今日は駄目だ。UTP?413が行かなければならない」
監視員が言った。彼がKの事を心配して言っているのかは分からない。
「了解。K、僕はもう大丈夫だよ」
態と笑って僕はKを安心させたかったが、彼は眉をつり上げて首を傾げた。
だがKも監視員に反抗する術もなく、ただ頷いて灰色の部屋を出て行った。
「今日はどんな仕事なんですか?」
僕は少しドキドキしながら聞いた。
「……知らん。俺がやるわけじゃない。だから知らないし、知りたくもない」
「だったら貴方はこの『仕事』に反対なんですか?」
「『仕事』は我々にとって必要――いや言い過ぎてしまった。Uただ黙ってろ」
監視員は僕を収容所の奥深くまで連れて行った。色々な廊下を曲がり、僕らはやっと白いドアの前に立った。
「入れ」
僕は監視員に従い、白いドアを開けて入った。
そこに外の世界があった。
太陽が輝き、白い雲が青とコントラストに広がっていた。豆粒の様な鳥があの大空を舞っていた。地上には多くの寂れた建物が聳え、人々が歩き回っていた。男、女、子供。
僕は外の世界の美しさに驚き、よろよろと前に進んだ。
手を伸ばして触れようとした。
しかし透明な壁にぶつかってしまった。
「ガラスだよ。君はここから出れない」
僕は我に返って自分のいる部屋を見回した。いっぺんの壁がガラス張りで外の世界をビルの頂上から見た様に移していた。ドアの横にはマシンガンを持った兵士が立っていた。そして部屋の真ん中には赤毛の男が足を組んで座っていた。
「ユト、俺を覚えているか」
彼は言った。ユトとは僕の事なのか?
「……なぜか懐かしい気がする」
僕は彼から目が離せなかった。大事な事を忘れている様な気がする。赤い七三分けの髪も整えられた髭も、僕にとってデジャヴュだった。
「ユト、思い出したか?」
「わ、分からない。もう少しで思いだそうなのに、分からない。君は誰だ?」
「俺はイノ。お前のライバルだった男だ」
彼は足を組見直して、少し間を置いた。
「二年前の選挙戦を覚えているか? お前はこの収容所を廃止しようと頑張っていたが、国民はお前に反対して俺を指示していた。だからお前は自分を押しとうす為に強行手段を使った」
「僕が選挙? 僕は大統領になろうとしていたのか?」
「そうだ。しかしお前は指示されなかった。だからお前は裏で繋がっていたマフィアを使って俺の息子を誘拐させて、俺が大統領戦を下りろと要求した。俺はマフィアに屈しなかった。だから俺の息子は殺された。お前の命令でな。
そして俺が大統領になったあとその件を捜査させたらお前が陰で操っていた事が分かった。お前は刑務所にぶち込まれて、裁判所の審判を待った。俺はもちろんお前が死刑になる様に頑張った。しかし裁判所は判決はお前をここに死ぬまで入れる事だった。
俺は許せなかった。息子を殺した犯人を生かして行く訳には行かなかった。ユト、まだ思い出さないのか? 手術で記憶をなくしたと言っても、完全に消えたわけではない。さぁ! ユト、自分がやった事を思い出せ!」
ユト、イノ。少しずつ、ぼんやりとしたくすみが実態化して行った。あの選挙の前の夜、僕はイノに脅しの電話を掛けた。しかし彼は選挙を下りなかった。そして僕はガタガタ震えている彼の子供を撃った。
なぜ僕は? 人を殺してまで大統領になりたかったのか? 違う。僕は……一体なぜ?
「思い出したか?」
イノが訊いた。
僕はゆっくりと頷いた。
「僕は本当にお前の息子、ホープを殺したのか? 信じられない」
「ああ、お前が殺した。俺はお前が収容所ですぐ死ぬ様に態とお前に無茶な生体実験をやらせた。しかしKと言う少年が君の身代わりとなってしまった。本当にKには悪い事をした、俺はお前だけを殺したかったのに。だがもう終わりだ、ユト。ここで死んでもらう。最後の言葉はあるかい?」
彼はポケットから黒く光る銃を取り出した。
「僕は……僕は間違っていない。イノ、君は国民にこの収容所を禁止しない事を約束した。しかしそれは間違っている。この収容所は存在しては行けない」
「ユトは理想主義者だからな現実が分かっていない。我々の世界は貧困で溢れ、人々は食い物もなく死んで行く。だったら世の中に必要ない一部を除外して他の者にある程度の生活保護を与えた方がよっぽど良いではないか。国民もそう思った。だから俺を選んだ」
「違う。どんな目的でもこの収容所みたいな非人的な物は許されない。目的は手段を正当化しない!」
僕はピシャリと言った。やっと思い出した。僕の考え方は二年前と同じだ。
「目的は手段を正当化させないと良く言えるな。お前が手段を選ばず、俺の息子を殺したんだぞ。まぁユトもこれくらいか」
イノは拳銃のロックを解除して僕の頭を狙った。
確かに彼が言うととおりに僕は間違っていた。彼の息子を殺すべきではなかった。例えそれで収容所がなくなったとしても。僕は……間違っていた。
目を瞑ぶった。彼が僕を殺したい気持ちは分かる。僕が悪かった。だから僕は言い逃れる事も、自分を罪を正当化もする事をやめた。
漆黒の銃口から銃声が轟いた。
次の瞬間、全てが速く起こって良く分からなかった。ドアが蹴り開けられ、二人の兵士が倒れた。そして銀色のスパナがブーメランの様に回りイノの銃をはじき飛ばした。
弾丸は僕の頬を逸れて、ガラス張りの窓を粉々にした。
「K!」
僕は部屋に飛び込んで来た人物を見て叫んだ。彼は両手にスパナを持ち、イノの事を見つめていた。
Kは僕の方を向いて聞いた。
「U、こいつは誰だ? ここで見た事がない」
「ぼ、僕はユトだよ。K、僕思い出したよ。君が言ったように僕は悪党だった。
あっ、この人はイノ。この国の大統領」
「大統領って誰だ?」
そうかKはまだ外の世界を知らないんだ。
「彼が外の世界で一番偉いんだ」
「分かった。だったら彼を人質に取る」
Kは倒れた兵士が死んだ事を確認してから彼の武器を取り、言った。
「な、なんだお前は!」
イノは崩れた髪型を直しながら叫んだ。
「おい、Uこいつ少しうるさいんだけど殴っても良い?」
「だ、駄目だよ! 大統領なんだよ! それに僕はユトだってば!」
「分かったよユト」
彼はめんどくさそうに僕に良い、イノの胸ぐらを掴んだ。
「おい大統領、貴様の机にあるマイクに喋ればこの建物全体に伝わるんだよな? だったらこう言ってくれ『私はテロリストに人質にされました。建物の全ての扉を開けて囚人たちを外へ誘導してください』」
「そ、そんな事したら! 囚人たちが外の世界を見てしまったら……」
「私たちがその混乱に紛れて逃げられる。分かったら大統領、早く電話をかけろ」
Kの迫力に押され、イノはそろそろと机の上マイクへ手を伸ばした。
「……収容所の皆さん、大統領のイノです。私は今、……人質に囚われました」
「テロリストに人質に取られたと言え」
Kが囁いた。
「――テロリストに人質に囚われました。彼の要求はこの収容所の門を開け、囚人を皆外へ出すことです。監視員の皆さん、速やかに彼の要求を実行してください。私の命がかかっています」
イノはマイクを消した。
「これで良いか?」
「ああ、上出来だ。でも大統領は冷静だな。囚人たちが皆外に出るというのに。それにユトと私にも逃げられてしまう。貴方が殺される可能性だってある。なぜそんなに冷静なんだ?」
口を三日月にして、Kはイノに聴いた。
「フン、囚人は直ぐにまた捕まえる。お前たちも絶対逃げ切れないと断言できる。だから俺はなにも心配することはない」
「私はS級の犯罪者だ。大統領に心配していただくなくとも結構。では少し眠ってもらう」
Kは指をピッと伸ばして、イノの首に手刀打ちを叩き込んだ。
「わーなにしてるんだよ! 殺す気か!」
僕はぐったりと倒れたイノに駆け寄った。腕の筋に人差し指を当ててみるとまだ脈はある。どうやら気絶しただけだ。
「私たちは大統領を……チェ言い難いなぁ。イノを人質として連れて行く。だから色々と喚いだら困るんだよ」
「でもイノを連れて言ったらすぐに僕らが目立って脱走が難しくなる」
しかしKは僕を無視してイノを部屋から引きずりだした。
「大丈夫これでこいつを隠す」
イノの部屋の外にあった車輪が付いたコンテナをKは指差した。
「……K、本気でこれで逃げ切れると思う?」
「思わない。さぁユト速く行こう。遅れる前に」
ため息を付いて僕はイノが入ったコンテナをゴロゴロと押すKに付いて行った。
廊下を曲がると、二人の兵士が走って来た。最初から建物にいた兵士たちだろう。
「き、君たち! テロリストは見たのか? 大統領は?」
太った方の兵士が尋ねたが、Kは兵士たちに感づかれない様にゆっくりとイノから奪った拳銃を取り出し、彼を撃ち殺した。そして二人目のコンテナを膝にぶつけて、ひるんだ兵士の首をゴリッと百八十度回した。
「さぁ行くぞ!」
Kは叫び、僕は死んだ二人の兵士を見ないように走りだした。
僕らは監視員に連れてこられた廊下をまた何回も曲がり、やっと監視員たちが囚人をゆっくり列に並ばせ下へと誘導していり廊下に出た。
「おい! お前たちなにをしている! 大統領と一緒ではなかったのか?」
一人の監視員に言われ、僕はドキリとした。これではテロリストが本当はいないとバレてしまう。
「はい。私たちはテロリストの支持を受けてこのコンテナを持ってきました。中には爆弾が入っているようです」
「爆弾!」
監視員は驚き壁に伏せた。
「う、嘘だろう! だったら速く爆弾処理班を呼ばなければ」
「無駄です。テロリストはコンテナを開けると爆発すると言ってました。さらに私たちがこの取っ手から手を離しても爆発します。さてどうします?」
僕の心臓はドキドキなり、落ち着かなかった。Kの子供だましな嘘で逃げ切れるのだろうか? 監視員がコンテナを開けたら直ぐアウトだ。
「ど、どうするもなにも……いやこうする」
監視員はベルトから手錠を取り出してKの腕とコンテナの取っ手に付けた。
「良いか、お前たちはコンテナと一緒にすぐにここから出て、できるだけ遠くへ逃げる。そしてコンテナを開ける。分かったな。人がいないところで開けるんだぞ」
Kは頭を下げて了解と言った。本当は彼は今、イノに見せたニヤニヤ顔をしているのだろう。
「だったら急げ。道を開けるから一刻も速く逃げるんだ」
監視員は一声叫び、囚人たちを廊下から出した。
そしてKと僕はコンテナを押しながら走りだした。イノが起きだしたり、監視員が以上に気づいたら一巻の終わりだ。僕は死ぬ思いで走ったがコンテナは重く、直ぐに息が足りなくなってきた。
「ユト、急ぐな。外へ出てから速く走る必要がある。まだ大丈夫だ」
頷いてスピードを落としたが、自然と急かされている気分になり、速くなる。僕らはなんども緩やかなスロープを曲がった。監視員の命令が行きまわっていたのだろう、囚人たちはみな壁際に立ち、道を開けた。
「K、少し変じゃないか? なぜ君の計画がこんなにも上手く行くんだ?」
「知らねぇよ。ただしいずれ機動隊があの部屋を突撃するだろう。そしたらテロリストがいないってバレてしまう。その前に速く逃げきらないと」
僕は頷き、コンテナをより強く握った。大粒の汗が額からダラダラと流れてくる。少し休みたい。だが今は逃げることに専念しなければ。
やっと出口らしい大門が見えてきた。僕は最後の力を振り絞り疾走した。Kも外の世界を見たい一心でスピードを上げた。
外は窓ガラスの向こうから見下ろしたより美しかった。たしかに路上にはホームレスがダンボール箱にくるまっていて全て寂れた様に見えたが、新鮮な空気が久しぶりに僕の肺をいっぱいにした。
後ろを見るとKが今までの人生を費やしてきた大きなビルが見えた。窓はなく、ただのコンクリートでできた長方形に見えた。その入口には軍のトラックや車があった。
「そのコンテナは爆弾かね?」
サングラスを掛けた男が僕らに向かって訊いた。
「はい。そうです。出来るだけ早く遠くに……」
「分かってる。今は一刻も争う時だ。君たち、あの森が見えるかね?」
男は僕らの後ろを指さした。そこにはちょっとした森林があった。しかしかなり汚れているようで、木が黒かった。
「はいそこでコンテナを開けるんですね」
Kが活き込んで言った時、ガタンとコンテナから音がした。イノが目を覚ましたのだ。僕はドキリとした。イノが騒いだらいっかんの終わりだ。
「なんだ今のは……」
「なんでもありません!」
僕は叫んだが声が裏返ってしまった。またイノがなんどもコンテナを蹴る。
「……本当に爆弾なのか? 一度ここで開けてみた方が」
「今は一刻も争います。速くしなければ爆発しますよ!」
真剣な声でKが言う。
「だったらまずエックス線で中身を確かめてみる」
男が不審そうに首を傾げボソボソとトランシーバーに囁いていく。だがKはすでに銃をサングラスを掛けた男の額に当てていた。
「駄目だ!」
僕は叫んだが、Kが引き金を引いた後だった。そして彼は素早くコンテナを開け、イノに拳銃を突きつけた。
「イノは我々の人質だ。我々を攻撃したらイノは死ぬ」
彼はイノに拳銃を突きつけ、一番近くにあったトラックの荷台に登った。
「ユト、運転できるか?」
「出来ないよ! やった事がない!」
「知るか! とにかく運転しろ!」
Kが吠えた。僕はオドオドしながら運転席に乗り込み、エンジンを付けた。
た、確かペダルを押すんだよな。そう思い少し足で押してみたら、トラックは前に転がった。そして僕はだんだんと車の運転の仕方を思い出した。これがブレーキでこれがクラッチか。……思い出したぞ。
「ユト速く!」
Kの声が荷台から聞えた。
僕はアクセルを思いっきり踏み、全速力で走りだした。何人かの兵士が両手を上げて車を止めようとしたが、僕が怯まない事を気づくと飛び退くので、僕は誰も轢き殺さずに森へ続く道路へ出ることが出来た。
「こ、これからどうするんだ?」
僕はハンドルを握りながらKに叫ぶ。
「この国から出ないと。国境は覚えているか?」
「……良く思い出せない。でも森林を超えた後に川があったら、それが国境だと思う」
僅かな記憶を辿りながら僕は答えた。
しかしそれまで持つかどうか分からなかった。道路は平らじゃないので、トラックは上下に揺れる。もう少しで舌を噛み切るほどだ。それに何時僕が運転を間違えて、気に衝突するか分からない。
「フッ、お前たちは逃げ切れると思っているのか?」
突然イノが口を開いた。
「私たちは絶対に逃げられる。これほど揺れる車に乗っている私たちを兵士たちが貴様を殺さずに撃てると思うか? 車に乗っている限り、私たちは安全だ」
「考えたものだな」
思いっきり皮肉を吐くイノ。
「ところで、Kだったかな? 君は才能がある。いや非常に優秀だ。あの収容所には勿体なすぎる。もし俺を助けてくれたら、君に死ぬまで金に困らない様にしてやる。それに君に高い地位を与えよう」
「で、もし私が貴方の提案に乗ったとしたら、ユトはどうなるんです?」
「君にはユトはいらないだろう? 彼は然るべき刑罰を受ける」
イノが静かに言った。
Kは黙った。顔は見えないが、考えているのだろう。
「……K、そうしなよ。本当は僕が悪いんだからさ。君はもう楽するべきだよ」
僕は目を擦った。
「いや、ユト私の最終目的はいまだに変わってない。それにイノの言葉に保証はない」
「フッ、K。君はあの収容所の真の目的を知っているか?」
イノ気味悪く薄笑いをした。
「ああ、精神異常者を閉じ込めておく場所だろう?」
「違う。君は本当に赤子を診断して精神が異常かどうか分かると思うか? もちろんそういうケースもある。しかしあの収容所は精神異常者とは関係ない……」
「どういう意味だ?」
「K、君はね、精神異常者だから収容所に入れられたわけじゃないんだ。違う、君は収容所に売られたんだ。それも君の親からね」
僕は息を飲んだ。そんなはずはない。イノが逃げるために考えた嘘だ。そうに違いがない。
「……信じてないね。でもこの国は貧しい。ホームレスの男が道端で売女とやっているところを俺は毎日見かける。そして運悪く身ごもった売女はその産まれた子を収容所に売るんだよ。収容所に売れば良い遊び金になるからね。K、君は多分その一人だろう」
「う、嘘だ……信じない」
Kの声は掠れていた。
「君は誰からも必要されていない。売女が商売の途中でやってしまった『不良品』だよ。収容所はそう言う社会に必要のない人間を効率よくリサイクルする所だ。エコだろ?」
突然、罵声と肉がぶつかる音がした。Kが切れたのだ。バックミラーに目をやると、彼はイノに馬乗りになり殴りかかっていた。イノの血が飛び散り、彼の鼻が折れる音がした。このままではイノが死んでしまう。
「K! 止めろ!」
僕は態と車を揺らしKを正気に戻そうとしたが、彼はイノを殴る事を止めなかった。これほど怒っているKを僕は見た事がない。拳を振り上げては、イノの顔に叩き込んでいた。
「止めろ! イノが死んじゃう!」
僕は大声で何回も叫んだ。そしてKはやっとイノを殴るのを止めてくれた。
「K、可笑しいよ。何時もなんか冷静って言うか、後先考えてるやつがこれほど怒るなんて」
「イノが悪いだろ。それに私は後先を考えているつもりはない。この脱走だって計画してない」
「自慢げに言うなよ」
「臨機応変で自由自在と呼んでくれ」
ため息をついて僕は敵の位置を確認した。後ろからこそこそと三台のトラックが僕らを追いかけていた。しかしこっちには人質がいるので彼らもあまり近寄れないらしい。
突然ダッシュボードに赤い光が点滅した。その下にはガソリンのサイン。車の燃料が少なくなって来ているのだ。
「K! ガソリンがすくない! ヤバいぞ」
「本当かよ! あと国境までどのぐらいある?」
「まだ森林だよ。でも記憶からして、あと車で三十分は掛かるんじゃない? どうするんだ! 車が止まったら、囲まれて狙撃されてしまうぞ」
「そんなこと分かってるよ! ちょっと考える時間をくれ」
Kは黙って考え始めた。しかしガソリンメータは下がる一方だった。僕は焦ってサイドミラーを見ると軍のトラックはまだ追いかけてくる。いやその上さっきより距離が縮まった様な気がする。
「オーケイ。ユト、スピードを少しずつ落として、奴らを接近させてくれ」
無言で頷いて、アクセルから足を少し下ろした。サイドミラーに見える敵はゆっくりとスピードをあげてますます僕らとの距離を縮めた。どうやら敵はこちらの燃料を把握しているらしい。
「どうするんだよ! 大丈夫なのかこれで?」
僕はKに叫んだ。すると二発の銃声が荷台から轟いた。
「今のはなんだ?」
Kが撃たれたと思い僕は振り向き、運転席から荷台へ続く小さな窓に顔を突っ込んだ。
イノが両足から血を吹き出していた。Kはまだ拳銃を構えたまま呻くイノを転がし、荷台から落とした。
「ユト! フルスピード! 木にぶつかってもかまわないからとにかく速く!」
僕は良く事態が理解出来なかったが、とにかくKの言うとおりにアクセルを限界まで踏んだ。
「ど、どうしたんだよ! イノをなぜ落とした!」
「奴らはまず急ブレーキを掛けて慌ててイノを助けようとするだろう。だから彼を少し傷つけた。もしイノが死んでいたら、奴らはすぐ私たちを追うだろう。これで僅かだが時間を稼げる。どうせ車が止まってしまったら人質は関係なく私たちは射殺されるだろう。ユト、とにかく出来るだけ国境近くまで走ってくれ」
「了解」
しかしこの森林の道をフルスピードで走るのは容易いことではなかった。車はがたがたと揺れ、前も見るのも難しかった。Kが行った様に兵隊が追ってこないのが僕の唯一の気休めだった。
十五分ほどしたらやっと森林の終わりが見えて来た。だがその一歩手前で僕は急カーブでスピードを出しすぎてしまった。道を逸れて、車輪が浮いく。トラックは横に倒れてしまった。エアーバックが僕の視界をいっぱいにした。頭がくらくらしたがなんとか持ちこたえた。
「大丈夫か?」
上に向いた運転席のドアを開けてKが僕の腕を掴んだ。どうやら彼は車体の下を上ってドアを開けたのだろう。
「どうして……」
僕はかすり傷しか付いていないKに不思議そうに訊いた。
「私はトラックが倒れる前に飛び降りたんだ。少し擦ったけど落ち葉がショックを吸収してくれた」
Kは僕を運転席から引き出し僕らは飛び降りた。Kは綺麗に着地したが、僕は尻餅を付いてしまった。彼は路面に荷台から地面に放り出されたマシンガンを背負った。いざと言うときのための武器だろう。
僕らは走り出す。いくら時間を稼いだと言っても、イノの兵士たちはすぐ追いかけてくるだろう。
「ヘリコプター!」
Kは空を指差して叫んだ。森林から川まで広がっている草原に横からガトリング砲備えたヘリコプターが浮上していた。あともう少しなのにと僕は泣きそうになった。
「K! どうするんだよ!」
「森林から撃ち落とす」
Kは森の端により、機関銃を撃った。空気が割れる様な銃声が轟く。Kは反動で吹き飛ばされた、だがヘリコプターには銃弾は一つも当たらなかった。
そしてKが銃を撃ったせいで、ヘリコプターは騒音を立てて、林の上に来た。まだガトリングガンを使わないのはKと僕の位置が良く分かっていないからだろう。Kは猿の様に木を登り始めた。僕は僕で木の陰に隠れた。なぜKが自分からヘリコプターの近くに行くのか分からなかったが、彼にも考えはあるのだろう。
ヘリコプターは探る様に森林の上を周ったがKは木々を跳ねり回り、なんとか見つかる事を防いだ。そして彼は恐るべき事をやった。ヘリコプターに飛びついたのだ。
乗組員たちは機体にぶら下がったKにまだ気づいていない。 彼は少しずつ上り、ガトリングガンを操縦している男の足を引っ張った。男は頓狂な叫びをあげて、僕の横に落ちた。頭から落ちたらしく、首が不自然に捻られていた。
一方Kは機内に乗り込み、イノから奪ったナイフで一人の心臓を突き刺し、もう一人を蹴り落としていた。
慌てて逃げようとしたパイロットもKに頭を捕まれ、窓ガラスに叩き割られてしまった。
返り血を浴び、血塗れになったKはヘリコプターから飛び降り、木の枝で落下するスピードを落として僕の前に着地した。
「行くぞ」
額にこびり付いた血を拭きながらKが言う。僕は彼のがやった事を信じられなくて目を丸くしていた。その時操縦士がいなくなったヘリコプターは草原に激突して燃え始めた。
「K、凄い……強すぎる」
「運が良かっただけだ。それに私はイノの言葉が本当でも信じない。私は生まれつき天才の犯罪者だ。これぐらい出来なくて私はどうする?」
「そ、そうだよね」
僕は笑った。Kが生きていて嬉しかった。ヘリコプターに飛び込んだ時は本当に恐かった。
突然背後で車のエンジンがなる音がした。イノの兵隊が追いついたのだ!
Kは僕の手を取って滑る様に走り出した。ほとんど体を地面に垂直にして草原を疾走するK。僕は地面をバウンドしながらKに引きずられた。
兵隊たちも草原に出た。マシンガンで撃ってくる。広い草原を響く轟音と火薬の臭い。何発もの弾丸が僕らをかすめた。
流れが速い川に飛び込めば、もう大丈夫だと思い、死ぬ思いで走る。
「もう少しだ!」
Kの声が銃声にかき消される。あと二十メートル、あと十メートル!
肩に激しい痛みを感じる。撃たれたのだ。弾が貫通して血が溢れ出てくる。
「ユト! 持ちこたえろ!」
そして僕らは手を固く握りしめて川に飛び込んだ。
兵隊たちは諦めずに川に我武者らに撃ち込んだが、潜ってしまった僕らには当たらなかった。
意識が朦朧としてきた。血が少なくなってきた。咳き込んで水が肺に入ってくる。
Kが握りしめた手を引き上げて、僕の顔を水面を出してくれた。イノの兵隊はもう豆粒みたいに小さくなっていた。
「もう十分離れた。岸に上がるぞ」
「僕もう無理。僕をこのまま世界のはてまで流してくれ」
「もうスタミナがないのなら少しの間息を止めて私に捕まっていろ」
「えっ」
Kはめんどくさそうに僕に背を向け僕の腕を自分のお腹の前に回した。
「しっかり捕まってろ!」
叫んで泳ぎだすK。
彼の泳ぎ方はクロールに似ているがそれより何倍も激しい。大体彼はなぜ泳げるのだろう? これほどの水は見た事がないはずなのに。多分ずば抜けた運動神経も生まれつきなのか。
Kは僕を川の岸に下ろした。
「これは……」
彼が息を飲む。
「肝臓と肩が……打ち抜かれている。その上……胃の横にも弾が……」
「……私の楯となったのか?」
顔を顰めてKが言った。
「そんな……つもりは……なかった。でも君に当たらなくて良かった……」
「喋るな。傷を塞ぐ」
「もう……無理だ。僕は……あと数分で死ぬ。
それよりK、僕の、僕の最後の願いを訊いてくれ」
少しKは躊躇ってから頷いた。
「僕は……君の事が好きだったと思う……だから……最後にキスしてくれないか?」
Kは後ずさって目を瞑った。やはり駄目かと僕は思った。
「あっ、良いよ。それに君のファーストキスだしね……僕に使っちゃうのはもったいない。ガールフレンドが出来たら……彼女に……」
僕は出来るだけKに笑ってみせた。最後になにを馬鹿なこと言ってるんだろう僕は?
そしたらKは僕に多いかぶさり僕の耳元で囁いた。
「私は女は知らないし、見た事もない」
Kは僕の口にそっと自分の唇を当てた。
彼の唇は冷たくて、荒れていた。しかしそんなことはどうでも良かった。握りしめた手からKの心臓の鼓動が聞こえてくる。彼の体が僕の胸に乗っている。
そして、そしてあの青くて淡い目が真っ直ぐ僕を見つめていた。あの燃え尽きる事はない様な情熱が宿るKの目が僕を最後まで見透かしていた。
<hoc est initium>
理想